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#苅宿俊文
matayoshishigeto · 2 years
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子どもたちは、正解のある知識を獲得してはいないが、子どもたち同士がアイディアを出し合い、自分たちで作品づくりの共同体に参加して、それぞれが役割を果たしていくことで「自分たちが考え、協働して作った作品」という成果とそのプロセスに込められた意味を生成したことが学習なのだといえる。つまり、知識の獲得が目的ではなく、他者と知識を「分かち合っている」状況、プロセスを学習としてとらえるのである。 以前から社会構成主義の学習については、佐藤学の「学びの共同体論」や佐伯胖の「状況論的学習観」が指摘しているように、知識獲得とは異なる学習としての重要な位置づけは確立されている。しかし、学校現場での浸透は…十分とは言えない。…知識を伝達することが学習の目的ととらえている教師から見たら、「遊んでいるように」見られるという話は、もっともである。 では、何が重要なのか。それは、「協働」の実態である。協働は単なる話し合いや仲よくなることではない。何のために、なぜやるのかという目的とそのプロセスを共有し、多様なズレや行き違いが生まれていくことを重要な結節点としてとらえ、それらの問題を解決していくことを通して、合意を形成し、より納得できる取組が生まれていくことなのだ。そして、何よりこの「協働」が重要な学習であるという意識なのだ。
苅宿俊文,佐伯胖,高木光太郎(編)『ワークショップと学び1 まなびを学ぶ』東京大学出版会,2012,pp.79-80
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konnoayaka0 · 6 years
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about
今野綾花 編集者、ライター/フィルムアート社編集部 東京芸術大学美術学部芸術学科卒業 鳥取市在住
連絡先:konnoayaka0(a)gmail.com
[企画・編集]
『視覚文化「超」講義』 石岡良治=著 フィルムアート社 2014/6/26
『キュレーションの現在 アートが「世界」を問い直す』 椹木野衣、五十嵐太郎、蔵屋美香、黒瀬陽平、新藤淳、松井茂、荒川医、石崎尚、遠藤水城、大森俊克、金井直、川西由里、菊池宏子、櫛野展正、窪田研二、芹沢高志、竹久侑、土屋誠一、筒井宏樹、中村史子、成相肇、橋本梓、服部浩之、藤川哲、保坂健二朗、星野太、桝田倫広=著 フィルムアート社編集部=編 フィルムアート社 2015/2/27
『ソーシャリー・エンゲイジド・アート入門 アートが社会と深く関わるための10のポイント』 パブロ・エルゲラ=著 アート&ソサイエティ研究センター SEA研究会=訳 フィルムアート社 2015/3/23
『漫画家、映画を語る。 9人の鬼才が明かす創作の秘密』 島田一志=編 松本零士、上條淳士、楠本まき、浅田弘幸、五十嵐大介、松本次郎、武富健治、山本美希、諫山創=インタビュー フィルムアート社 2015/5/25
『アーティストの目』 『ドローイング・テクニック』 『人間を描く』 『学ばないドローイング』 (HOW TO SEEシリーズ) ピーター・ジェニー=著 石田友里=訳 フィルムアート社 2015/7/25-2015/8/25
『マンガの現在地! 生態系から考える「新しい」マンガの形』 浅野智哉、天野昌直、粟岳高弘、飯田一史、太田克史、樹崎聖、木村仁、桐木憲一、さそうあきら、さやわか、スタンザーニ・ピーニ詩文奈、高狩高志、中野晴行、仲俣暁生、西島大介、ばるぼら、三上信一、吉田アミ=著 島田一志=著、編集 フィルムアート社編集部=編 フィルムアート社 2015/10/9
『感情類語辞典』 アンジェラ・アッカーマン、ベッカ・パグリッシ=著 滝本杏奈=訳 フィルムアート社 2015/12/25
『めくるめく現代アート イラストで楽しむ世界の作家とキーワード』 筧菜奈子=著 フィルムアート社 2016/2/18
『人工地獄 現代アートと観客の政治学』 クレア・ビショップ=著 大森俊克=訳 フィルムアート社 2016/5/24
『アートプロジェクトがつむぐ縁のはなし 絵物語・声・評価でひもとく 大巻伸嗣「Memorial Rebirth 千住」の11年』 「アートアクセスあだち 音まち千住の縁」 事務局、東京藝術大学熊倉純子研究室=企画・制作 熊倉純子、藤枝怜、佐野直哉、槇原彩、篠原美奈=著 公益財団法人東京都歴史文化財団 アーツカウンシル東京 2022/3/17
[編集(共同編集)]
『現代アートの本当の学び方』 会田誠、荒木慎也、大野左紀子、苅宿俊文、暮沢剛巳、谷口幹也、土屋誠一、筒井宏樹、成相肇、橋本誠、日比野克彦、福住廉、三脇康生、村田真、山木朝彦、川崎昌平=著 フィルムアート社編集部=編 フィルムアート社 2014/3/26
『第8回恵比寿映像祭』公式パンフレット 東京都写真美術館 2016/1/31
『美術手帖』2018年8月号増刊「藤田嗣治」 美術出版社 2018/7/30
『美術手帖』2018年10月号増刊「エドヴァルド・ムンク」 美術出版社 2018/10/15
『これからの美術がわかるキーワード100』 美術手帖編集部=編 美術出版社 2019/4/8 「永遠の都ローマ展」公式図録 東京都美術館、福岡市美術館 毎日新聞社、NHK、NHKプロモーション 2023/9/16
[記事の構成・執筆など]
『美術手帖』2016年8月号 特集:キャラクター生成論 美術出版社 2016/7/16
『美術手帖』2016年10月号 特集:サルバドール・ダリ 美術出版社 2016/9/17
『美術手帖』2017年2月号 特集:アウトサイダー・アート 美術出版社 2017/1/17
『美術手帖』2017年4月号 特集:池田学 美術出版社 2017/3/17
『美術手帖』2017年12月号 特集:これからの美術がわかるキーワード100 美術出版社 2017/11/17
『美術手帖』2018年4・5月合併号 特集:ART COLLECTIVE 美術出版社 2018/3/17
『美術手帖』2018年10月号 特集:上海アートシーン 美術出版社 2018/9/7
『美術手帖』2019年2月号 特集:みんなの美術教育 美術出版社 2019/1/7
『美術手帖』2019年6月号 特集:80年代★日本のアート 美術出版社 2019/5/7
『美術手帖』2019年10月号 特集:アーティストのための宇宙論 美術出版社 2019/9/6
『美術手帖』2019年12月号 特集:「移民」の美術 美術出版社 2019/11/7
『美術手帖』2020年2月号 特集:アニメーションの創造力 美術出版社 2020/1/7 『美術手帖』2020年4月号 特集:「表現の自由」とは何か? 美術出版社 2020/3/6 『美術手帖』2020年10月号 特集:ポスト資本主義とアート 美術出版社 2020/9/7 『ビジ��ス教養としてのアート』 造事務所=著 岡田温司=監修 KADOKAWA 2020/10/16 『美術手帖』2020年12月号 特集:絵画の見かた 美術出版社 2020/11/7 『美術手帖』2021年4月号 特集:アーカイヴの創造性 美術出版社 2021/3/5 『美術手帖』2021年6月号 特集:松山智一 美術出版社 2021/5/7 『美術手帖』2021年10月号 特集:アートの価値の解剖学 美術出版社 2021/9/7 『美術手帖』2021年12月号 特集:「NFTアート」ってなんなんだ?! 美術出版社 2021/11/7 『美術手帖』2022年2月号 特集:ケアの思想とアート 美術出版社 2022/1/7 『美術手帖』2022年10月号 特集:五木田智央 美術出版社 2022/9/7 『美術手帖』2023年4月号 特集:ブラック・アート 美術出版社 2023/3/7 『美術手帖』2023年7月号 特集:日本のストリートとアート 美術出版社 2023/6/7 『美術手帖』2024年1月号 特集:目[mé] 美術出版社 2023/12/7 『美術手帖』2024年3月号 特集:世界のアーティスト2024 美術出版社 2024/3/7 日本の写真史をなぞる存在。写真家・安井仲治の魅力とは?「生誕120年 安井仲治」展を企画した3館のキュレーターが語り合う 今野綾花=聞き手 Tokyo Art Beat 2023/10/17 金沢21世紀美術館のキュレーター4名が語る「DXP(デジタル・トランスフォーメーション・プラネット) ―次のインターフェースへ」展。AI、データ、衣食住──「DXP」という新たな惑星へようこそ 野路千晶=聞き手 Tokyo Art Beat 2023/11/18 横尾忠則インタビュー「アートとデザインの境界線はこの先20年のうちになくなるんじゃないかという気がする」。87歳の作家が語る描くこと、身体と病、ジャンルの壁 成相肇=聞き手 Tokyo Art Beat 2023/11/27 【AIとアート入門】前編:「コンピュータは創造的か」の問いに私たちはどう答えるか? レフィーク・アナドールから近年の研究事例まで(講師:久保田晃弘) 編集部=聞き手 Tokyo Art Beat 2024/1/18 【AIとアート 入門】後編:「AI画家」のつくり方。ハロルド・コーエンの歴史的挑戦に見るAIのこれからの可能性(講師:久保田晃弘) 編集部=聞き手 Tokyo Art Beat 2024/1/19 「MOTアニュアル2023 シナジー、創造と生成のあいだ」(東京都現代美術館)を、いとうせいこうはどう見たか? 担当学芸員・森山朋絵とともに会場を見て歩く 野路千晶=聞き手 Tokyo Art Beat 2024/1/30
[編集協力]
『ソーシャリー・エンゲイジド・アートの系譜・理論・実践 芸術の社会的転回をめぐって』 アート&ソサイエティ研究センター SEA研究会=著、編集 トム・フィンケルパール、グラント・ケスター、星野太、高山明、藤井光、カリィ・コンテ、ジャスティン・ジェスティ=著 フィルムアート社 2018/7/26
『ART SINCE 1900 図鑑 1900年以後の芸術』 ハル・フォスター、ロザリンド・E・クラウス、イヴ-アラン・ボワ、べンジャミン・H・D・ブークロー、デイヴィッド・ジョーズリット=著 尾崎信一郎、金井直、小西信之、近藤学=日本語版編集委員 東京書籍 2019/6/5
『フィンセント・ファン・ゴッホの思い出(Artist by Artist)』 ヨー・ファン・ゴッホ=ボンゲル=著 林卓行=監訳 東京書籍 2020/1/25 『エドゥアール・マネを見つめて(Artist by Artist)』 エミール・ゾラ=著 林卓行=監訳 東京書籍 2020/3/14
『ミケランジェロ・ブオナローティの生涯(Artist by Artist)』 ジョルジョ・ヴァザーリ=著 林卓行=監訳 東京書籍 2020/7/17 『レオナルド・ダ・ヴィンチを探して(Artist by Artist)』 ジョルジョ・ヴァザーリ=著 林卓行=監訳 東京書籍 2020/8/31
『彫刻の歴史 先史時代から現代まで』 アントニー・ゴームリー、マーティン・ゲイフォード=著 石崎尚、林卓行=翻訳 東京書籍 2021/10/22
『ダムタイプ|2022』 ダムタイプ=著 美術出版社 2023/2/25 『六本木アートナイト事業評価報告書 2022』 佐野直哉、中谷美南子、三浦宏樹=著 六本木アートナイト実行委員会事務局 2023/3 「ここは未来のアーティストたちが眠る部屋となりえてきたか?──国立西洋美術館65年目の自問|現代美術家たちへの問いかけ」公式図録 国立西洋美術館 美術出版社 2024/3/12
*アートポータルサイト「ウェブ版美術手帖」編集協力(BT ARCHIVES) *有楽町アートアーバニズム[YAU]「YAU SALON」レポート執筆
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matayoshishigeto · 2 years
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学習観には、行動主義学習観と認知主義学習観という個人に注目した学習観と、社会構成主義学習観という共同体の中にいる個人に注目した学習観のおもに三つがある。この個人に注目した学習観である行動主義学習観と認知主義学習観は、これまでの学校教育を支えてきた学習観であり、これからも学習の大きな分野を占めることは確かである。それに比べると、社会構成主義学習観は、実社会の学習で主流となるものである。
苅宿俊文,佐伯胖,高木光太郎(編)『ワークショップと学び1 まなびを学ぶ』東京大学出版会,2012,pp.76-77
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matayoshishigeto · 2 years
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現在、ワークショップは、社会構成主義学習観に基づく学習方法だとされている。その社会構成主義には、デューイ的なアプローチと発達心理学から生まれたヴィゴツキー的アプローチがある。… デューイは、アメリカ社会を民主主義によって改革することを志向し、その基盤となる共同体性を学ぶ場として学校を考えていた。佐藤学によれば、デューイは、「「民主主義」を「共同体」を基盤として「共生」と定義するところに、デューイの「民主的社会主義」の真髄を見ることができる」としている。 ワークショップの活動をデューイ的なアプローチで考えてみると、その定義として、ワークショップは「コミュニティ形成(仲間づくり)のための他者理解と合意形成のエクササイズ」であるといえる。ワークショップは、エクササイズ、つまり、練習であり、まなびなのである。ワークショップは目的ではなく、コミュニティ形成のための方法なのである。
苅宿俊文,佐伯胖,高木光太郎(編)『ワークショップと学び1 まなびを学ぶ』東京大学出版会,2012,p.18
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matayoshishigeto · 2 years
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たとえば、知識は「与えられて」得るものだと思いこまされてはいないだろうか。あるいは、勉強は「遊び」の反対語だとみなしていないだろうか。人が何をどう学ぶべきかについてはどこかで「きまっている」ことだとしてはいないだろうか。
苅宿俊文,佐伯胖,高木光太郎(編)『ワークショップと学び1 まなびを学ぶ』東京大学出版会,2012,pp.ⅰ-ⅱ
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kariyado-lab · 5 years
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第11回 この講義に意味付けをすること
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第11回 この講義に意味付けをすること
2019年7月4日。ついにWD+MCの講義も最終章へと突入してきた。
今回の講義は今までの10回分の講義を振り返り、それぞれが何をしてきたか、そのイベント毎に自分たちが何を感じそこで何に気付き、この一連の講義の流れは一体どういうものだったのか。全てが総合的にデザインされているということを前提に、その意味を考えてもらうという省察の授業だ。
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「この講義はデザインされている」
そう。この講義内では再三言われている。なかなか気付かないことなのだけど、この講義はデザインされている。そしてデザインされているということに気付かなければ気付かない程、このような講義は成功していると言える。そしてこのようなデザインをすることは誰にでも可能で、受講している学生たちにもできるんだ、と苅宿教授は説く。
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前回の講義までに学生側からはこの様な意見があった。
「授業のデザインなんて本当にできるのか」
それでも講義を通して自分たちが体感して行く様を俯瞰して見ると、意図的に盛り上げられているところがあると気付き、そこにはどのような心理学と教育学のアプローチがあるのか。そのようなことを自身の感覚をもって体験して行く。それがこの苅宿教授のワークショップデザイン+メディアコミュニケーションの講義だ。
「人間は善なることが好きだと埋め込まれている」
ここで苅宿教授は、とある実験を紹介する。子どもが大人たちのどのようなことを見て何を真似するか。ボボ人形実験というものがある。どういうものか?
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読んでいただければすぐにお分かりかと思うが、子どもは大人の行動を見てそれを模倣する可能性が高まる、というものだ。ということは、誰か善い行いをしている人間が多数いる場所にいれば、自然と善い行いだと思われていることをしようとする人間が増えるということだ。人間は社会的、環境的要因によって自然とそういう行いをするように埋め込まれている。だからこの講義内で誰もがその環境を過ごしやすいように雰囲気を作れば、結果的に自然と周りもそうなって行くということだ。
そしてこの講義内の学生はほとんどがお互いが学び合えるようにそのようにしていた。
話は教育学へと進んで行く、、、
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フーコーはこの本の前に『狂気の歴史』というものを出していて、18世紀までにどんなに人間というのが狂っていて、人を処刑してきた歴史をあぶり出している。それに代わって今度は18-19世紀にかけては「監獄」という考え方が出てくる。それは処刑ではなく、人間の意志や多様性をいかに統御し、国家の機構のなかに組み込んで行くか。テクノロジーとエコノミーの導入によって、「殺さずに安価に飼育する」国家の管理哲学を問うたのがこの『監獄の誕生』だ。
その中で上記の学校モデルが示されている。
学校は監視、賞罰、試験の3つのメカニズ��によって、人々を抑圧するだけでなく、その力を上手く引き出し、進んで自らを律する主体的な人間を形成しようというものだ。
ここで大事になってくるのが「主体的」という言葉だ。
これから社会を生きる上で必要になってくる能力といっても良いであろうその言葉。何か与えられるのを待つだけの期間は終わった。これからは主体的に自分が進みたいように進める生き方をして行ければ良いよね、というもの。これがなかなか難しいのだけど。
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その主体性を持てるかどうか、というのは上の写真の中に出てくる言葉に集約できるかもしれないということで講義内で苅宿教授はこれを示す。
主体性をはらむと、今までの学習観による、答えがある前提で「正解を探す」ことに時間をかけるのではなく、今ここにある本当の問題とは何か、そしてその解決策はどのように作って行くか。
ではその思考法を身につけるという学びはどう、実現可能なのか。
この「学び」というのは「憶える」ことと「気づく」ということのバランスで成立する。それは例えば、この受講生の言葉の中からあふれている。
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この2つ、憶えていることと気づくこと。
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この気づきは自分だけの、その人固有のものとなる。
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憶えることと気づくこと、とは「考える」ことになる。 じゃあその考えるために出来ることは何か?
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そう、「振り返る」ことなのだ。 だからこそ、受講する学生たちのリフレクションシートを見るし、それを元に省察を行う。すると、自分たちが何を考えていたか。そしてその考えの中にどういった「憶える」や「気づく」があったのかを再考できる。そしてその振り返りをするということは、グループ活動を前提としていることを考えると、他者の意見や他者から与えられた影響で、言い換えれば他者を通して、自明性に気づいて行く、ということだ。それが結果、今を楽しむことに繋がる。
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そこで、今回は今までの10回の講義で一体何を学んできたのか、を考えていただいた。
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ということで今までの学びを絵巻にしてもらった。
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そして出来たものを今度は各々が違う班に発表する。
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お互いに違う班の発表を見たり聞いたり、あるいは発表し合うことは各々の人間がどのようにこの講義を受けてきたかを理解するだけでなく、この講義を受講するとどのような感覚に人間、なるのかという、多様性をお互いに許容するための時間となる。一つのことを皆で経験してきていてもそのそれぞれがそれに対して何をどう感じたか、それは各々全く違うのだ。そしてその違いにこそ面白さがある。
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そして受講生による発表が終わったところで、この講義を通して学んだことはどんなことなのか、それを研究員、そしてゼミ生の視点からも受講生に聞いてもらった。
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特別研究員の望月。
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そして現在3年生の苅宿研究室ゼミ生たち。
彼女彼らの発表した内容をここで詳しく書くことは省くが、この講義の1回目で苅宿教授が言っていたように、この講義は多層的なレイヤーで出来上がっている。それはつまり、教授(=先生)がいて、その下に研究員、大学院生、そして大学4年生のゼミ生、3年生のゼミ生、そして受講生たち。研究員の中に表現者として活動している人間もいる。その結果あらゆる視点がこの授業という空間に注がれているということで、それだけ学び合える、教え合えるということだ。
このワークショップデザイン+メディアコミュニケーションの講義の凄みがここにある。そしてそれを如何に俯瞰的に捉え、気付きと学びを提供できるかが苅宿教授のデザイン的思考にかかっている。
ではまた、次回の講義で。
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kariyado-lab · 5 years
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第6回 気付けば”踊っている”藤田善宏のダンスワークショップ
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第6回 気付けば”踊っている”藤田善宏のダンスワークショップ
五月病も慣れたところで、次はじめじめとした長い東京の梅雨がやってくるのか、と鬱々とした気持ちになりかけていた。
それを振り払ってくれたのは藤田善宏さんのダンスワークショップだったのは言うまでもない。2019年5月30日、ワークショップデザイン+コミュニティマネジメントの講義は第6回を迎えた。
藤田善宏さんは、パフォーマンスユニットCAT-A-TAC(キャットアタック)主宰されている。ダンスカンパニー・コンドルズのメンバーでもあり、2017年文化庁芸術祭舞踊部門新人賞を受賞されている。その他では福井国体開会式典演技振付総合監修、群馬大学非常勤講師、小栗旬や加藤シゲアキ主演舞台、山田洋次監督演出舞台やNODA・MAP他、舞台MVなど振付ステージング出演など多数。身体表現を駆使した台詞のない物語(無声劇)、柔軟な発想を生かした異ジャンルとのコラボが得意。子供から大人まで幅広く楽しめるダンスや公演を三世代間のコミュニケーションツールとして活用実施。幼児教育教材監修や健全な心と身体を育む活動にも力を入れる。愛猫家。プロレス・仏像愛好家。メガネ・アンティーク収集家。ヘヴィメタル好き。というのがCAT-A-TACさんからいただいてきたプロフィールには書かれている。
このように苅宿俊文教授の授業では毎度毎度多彩な方々に登場していただいている。
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さて、まず行われたアイスブレイク。前回の勝部さんと鹿島さんのワークショップでも行われたことだが身体を動かす前の基本、柔軟体操だ。だけど今回はまた違った面白い柔軟からだった。
”オノマトペ”という言葉を皆さんはどれほどご存知だろうか。 これはフランス語で、日本語に直すと擬声語という言葉になる。 どういうものかというと、モノや自然や動物などが発する音を人間が音にして出すその音のことを言う。
例えばだらーっとしたいときに「ふえ〜〜〜」っと言いながら脱力するとリラックス効果まで上がると言う。ということで藤田さんはこれをまず行い、学生たちの持っていた最初の緊張を解き放って行った。だらーとか、ふぇーとかを口で言いながら自分の思うだらしない格好をしてみる。この瞬間に恥ずかしいとか人に見られるのが嫌、という感覚を少しでも解いて行こうことされていたのだと思う。
次は床を触るように前屈をしてもらい、自分の柔軟性がどの程度かを知る。
それから次はパートナーと組み、相手に自分の肩どちらかに相手の手を置いてもらう。今度は相手の手が乗っている肩の腕と逆の腕の手で肩に乗っている相手に自分の手を添える。そして前屈を行う。するとどうだろう。
うぉーーー!
会場からは驚嘆の声が漏れた。
そう、先ほどより床に手がつくのだ。不思議なことだけど。(※個人差あり)
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藤田さんいわく、身体をひねることで普段意識しない箇所が伸び、柔軟効果があるのではないかという説があるということを紹介されていた。果たしてどうなのだろう。グーグルに検索をかけてみたけれどキーワードが違うのか、この柔軟に関しては出てこなかった。誰かわかるひとがいれば教えて欲しい。青学の相模原キャンパス苅宿研究室にてお待ちしており��す。
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その後も続々と柔軟体操は続いた。
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次に行われたのは手と手を触れ合わせながら移動するというもの。
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前に。
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後ろに。
自分の手と相手の手を常に触れ合わせていなければならない。
その状態で移動するとき、進行方向を向いている側の人間は他の2人組とぶつからないようにパートナーをうまく”操縦”しなければならない。
とても楽しそうなワークだった。だけどこれもただ楽しいだけじゃない。このワークにはこの社会で生きるための多様な気付きや学びの要素がふんだんに含まれている気がする。他者に触れ、その他者のことを思いやりながら誰ともぶつからないように先に考えを巡らせ身体を動かすという行為がそれだけで、自分や他者のことを受け入れてこの社会を共に生きて行くという発想を軸にしているように感じる。大げさ過ぎるだろうか。いや、藤田さんならあり得るのではないか、そう感じる。
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今度は他のグループの作ったアーチの中をくぐる。
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次のワークでは腕と腕をくっつける。 そしてそれを軸に身体をスライドさせて行く。 まるで歯車が回るように身体に沿って。
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2人ひと組で始めたものを今度は他の組の人たちとそのままパートナーを交換する要領でスライドして行く。
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くるりん!!という感じに。
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パートナーをくるりんと交換したら今度は別の方とまたくるりん。
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そしてそれを終えたら次のワークに入る。
と、ここまで文章よりも写真が多くなってしまっているのだけど、これは決して楽をして記事を書いている、わけではない。むしろ、これらの写真からあらゆることを感じとっていただき、「写真を読む」という行為をゆっくりとしていただきたい、という思いもある、、、ついこの間も天安門事件の写真として有名な「無名の反逆者」というものがあるが、これがかなりの数、6月4日のあたりにSNS上でシェアされていた。確かにこの戦車の前に立ちはだかる男の写真を見ると、非言語としての視覚で訴えることは言語で語りかけることより時に雄弁だと感じる。この瞬間に戦車に乗っている兵士は何を思ったのか。そして兵士から見た光景としてのその反逆者と呼ばれる男はどのように見えたのだろうか。とても気になる。など、気付くことが出来るのであれば、写真一枚で考えを巡らせられる事柄は無限にあったりする。そしてそれこそがこの高速な瞬間を生きている僕らに取っては小休止の時間になったりする。
現代社会で生きていると、新聞はおろか、文字をじっくりと読む時間というのは持てないと思う。SNSを頼ってしまう自分もつい、自分の見たい知りたい情報だけに終始してしまうこともしばしばあり、友人に知らない話題を出された時に「あれ、自分のウォールやフィードには出てきていない話だな」なんて思うこともある。そういう時にこそ、自分のいつも見る世界と一歩離れて、外で起きていることを理解しようと他の情報に手を伸ばしてみる。例えば普段買わない雑誌を手にしてみたり。そんなことの繰り返しで様々な知識は蓄積されてはまた出て行く。
話はそれてしまったけど、次のワークは身体の様々な部位を使って、自分の名前を書く、というもの。そしてそれをグループに分かれてお互いに披露し合う。
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そして段々と身体が動くことに慣れて行ったら、今度は、円になり、「青山学院大学」の文字列を自分の体の部位、どこでも良いから駆使して、ひと文字ずつその体の部位を変えながら文字を円の中心に向かって描いてくるというもの。
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円の中心に辿り着いたら青学のイメージを、身体を使って体現する。それがこの動画だ。
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皆、思い思いに「青学」を体を使って表現していた。
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次に行われたのは「A4」の紙一枚で楽しむというもの。
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何をしているかというと、紙を落とさないようにとにかく部屋中を走り回るということだ。
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そして紙を扱うことに慣れてきたところで、次は紙を手でひらひらと扱う。
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その時には紙を落とさぬようにはもちろんのこと、あらゆる動きを入れてやってみようとうことで、皆工夫していた。
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次に紙を横に置き、今度は紙をあたかも持っているかのように、想像して先ほどまでと同じように落とさないようにする。これは自分の想像力次第で自由に色々な紙のコントロールの仕方があり、それを皆がまた、思い思いにやられていた。
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遊んでいるようにしか見えないかもしれない。いやむしろ遊んでいる。けれどもこれは今こそ必要な遊びなのだ。
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次に行われたのは今度はまた紙を持って、その紙をパートナーとパスをするというもの。もちろん、これも落とさないようにだ。
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紙も2枚使ったりなんかして。
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この時にはグループも4人にして。 協働的な要素も含まれている。
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これは私の主観なのだけど、今まででは見られなかったぐらいにここまでで皆本気で楽しんでいる様子だった。やはり体を使ってワークをするということは、映像作品を作る過程や座学とは違い、頭の中での思考よりも、より感覚的なものなのかもしれない。そして感覚的であればある程、身体を通しての学びが多い。ある意味でそれはより、生き物としての普遍的な何かなのかもしれない。
そのためか、リフレクションシートにも「今までで一番楽しかった」ということを書かれていた学生が多かった。おそらく、苅宿教授としては毎回毎回手を替え品を替え、必ず回を重ねる毎に面白みを感じるように工夫してデザインされているはずだが、それが実際に功を奏する場面というのをこのような瞬間に私自身も感じている。
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さて、最後のワークの時間がやってきた。
藤田さんはここで、「皆でダンスをつくろう」と言う。 8ビートに合せて、学生たちが青学と聞いてイメージするキーワードをもとにダンスを作って行く。そしてそれを皆で踊ろう!というようなラストダンスだ。
様々なキーワードがあがった。
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そして完成したダンスがこちらだ!
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いかがだったろう。 あまりに文字が少なく、写真が多くなってしまったのは大変申し訳ないのだけどそれほどまにこちらも感覚的にブログを上げてきてしまった。それは藤田さんのWSのおかげなのか、どうか、果たして、、、。
前回の勝部さんと鹿島さんのコンタクト・インプロビゼーション同様、今回の藤田さんのダンスワークショップでもやはり、踊ろうという意識を持つより前に、身体表現を通してダンスを踊ってしまっている。無意識のうちに体を動かしていたら、端から見たらダンスに見える。決して今までの価値観に囚われたダンスという概念ではなく、より自由を求めた上でのダンスとはなんなのか。本当に身体を通した表現というものはこの社会でどのような定義や意義を持つのか。そしてこれがこの2回のダンスワークショップから学んで欲しかったことなのだろう、と思う。
なかなか言語化するのは難しいことだけど、何度もこのワークショップ内で体験することができれば、皆、少しずつ自分のものにして行ってるはずだ。その感覚を。そしてそれを社会に出た時に使う日もそう遠くはないと思う。
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そしてワーク後はここのところ恒例のTEA PARTY。
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そしてこの講義であの流れでワークショップを用いたのはどういう理由があったのか、どういうデザインがされていたのか、を藤田さんご本人からご説明いただき、この講義は終わった。
これが今回の講義の流れだった。 ほとんど写真だけでここまで来てしまったのだけど、その中にはとても大切な学びが含まれていた。それにあえてここでは触れはしないが、この後の座学の講義内で出てくるかもしれない。何かそれについて書くのも、その講義を待ってからでも良いと思う。
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kariyado-lab · 5 years
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第2回 ”演じ合い、助け合い、伝え合う” 田上豊による芸術表現体験ワークショップ
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第2回 ”演じ合い、助け合い、伝え合う” 田上豊による芸術表現体験ワークショップ
暖かい春の陽気を肌に感じながら、学生たちは体育館へと向かった。 そう、今回の講義は体育館からスタートする。
2019年4月25日の”ワークショップデザイン・メディアコミュニケーション”の講義、第3限目は、青山学院大学相模原キャンパス内体育館での身体表現ワークショップを実践するところから始まった。
講師は「田上パル」主宰、劇作家・演出家の田上豊さんだ。田上さんは自身の演劇表現活動の他、教育現場を中心に創作型・体験型のワークショップを全国各地で行っている(詳しい活動はWikiにも掲載されている)。今回も昨年に続き田上氏を特別講師にお招きして、演劇による芸術表現体験活動を学生たちに実践してもらった。
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このワークショップでは
1.”演じ合う” 2.”助け合う” 3.”伝え合う”
という3点をお互いに共有してもらい、「それらに想像力というキーワードを与えて作業をしてもらうことを前提とする」と田上さんはまず宣言する。
そこから学生たちに自らの身体を動かさせ、いわゆるアイスブレイクという準備体操のようなものからスタートする。一つ目は座った状態で右腿を右手でさすり、左腿を左手でトントンと叩く。この記事を読まれている方は実際に今やっていただけていることでしょう。いかがだろう。
できる。これはできる。 次にこれを手を脚から離し、空中でやってみる。 さぁどうか。
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これがなかなか難しい、、、
身体が自らの意志にどう反応するか、または反応できないかを確認させる単純だが秀逸な運動だった。しかしあえてそれを田上さんは口で説明することはない。その辺がワークショップのデザインが効いているところだろう。
その後も握手をした状態でじゃんけんをしながら負けた方がじゃんけんをした手を握る、勝った方が手を逃げるように引っ込めるというような遊びなどを通して身体をさらに自然とほぐして行く。
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次に行われたのは頭と身体を同時に使わせる「椅子取りゲーム」や「ゾンビ鬼ごっこ」だ。これをただの子ども遊びだろ?と思われるかもしれない。しかし、これは数々の劇を創作してこられた演出家によるワークショップ。そう単純なはずがなかった。
「椅子取りゲーム」では鬼役の田上さんが一つの椅子に座ろうとするのを、学生全員で協力して防ぐというもの。空いている椅子の近くにいる学生が、その空いた椅子に座ろうとしたらその学生が座っていた椅子が空く。そしたら当然、鬼の田上氏はそこに座ろうとする。それを防ぐためには何を考えなければならないか。
単純な遊びなのに、それだけではない普段使うことのない思考回路を刺激する要素が組み込まれている。体の緊張をほぐしながら、実はこれは個人戦のゲームではなくコレクティブな遊びであると気付いて行く。一人の鬼に対し鬼以外の全員が協働して鬼が座わろうとするのを防がなくてはならない。しかしこれがまた難しい。一人として傍観してしまってはゲーム自体がすぐに終わってしまう、そんな”他者への信頼”を問うようなゲームに思えてならなかった。
そして次に「ゾンビ鬼ごっこ」。
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「ゾンビ鬼ごっこ」では”ゾンビ鬼”になった人は足と手を床に着き、その状態で”人間”たちを捕まえて行く、ただそれだけのこと。
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それでもこの遊びネタにも学生たちは顔を生き生きとさせて行った。これを各会社の人事部が見ていたならなんと思うだろう。「こんなに清々しい表情で遊ぶ人間なら我が社が取りたい!ノドから手が出る程欲しい人材だ!!」と思うに違いない。
おそらく田上さんはこの手の”遊び”ネタの数をおそらくはいくつも持っているのだろうと感じさせる。そして私自身、写真を撮影し講義内容を観察しながらも「一緒にそのゲーム、やりたいっす」とノドから手が出る程に参加したかったが、それを必死でこらえていたのは当然のことだ。
これが芸術表現体験活動の前座なのだ。
触りの部分でこれほど盛り上がってこのあとからの本題、演劇表現ワークショップはいったいこの学生たち、疲れないのか。アラサーになるとそのようなことを考えてしまう。そんなこと普段意識しないにもかかわらず、あらためて自分が年齢を重ねてきていることに驚嘆する。どうでも良いのだが。
”演じる、助ける、伝える”
そしてここからはグループに分かれての活動だ。 これまた巧妙に設計・デザインされた内容となっている。
まずはグループで、とある脚本に対し◯◯◯と空欄になっている箇所に自分たちで考えた台詞を入れ込んで行く。ここから頭の回転をふんだんに使うこととなる。ただ面白いフレーズを空欄に入れれば良いというわけではない。協働していかに人を惹き付ける面白いストーリー性のある台詞を考えられるかが鍵となる。論理的整合性か、爆発したいびつさか。ここからはまさにそれぞれの学生の想像力の域だ。
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緊張した面持ちも自然と笑顔が多くなって行く。 これが田上さんによってデザインされたワークショップだ。
そして5分程考える時間と共に紙は回収される。
そしてそれを演じる。
と思っていたところ、その脚本は他のグループのものと交換させられ、田上さんによってランダムに手渡された脚本を演じて行くこととなる。空欄の箇所は考えたものの、最終的に演じるのは他のグループが構想した脚本なのだ。これには思わず「やられた!」と心の中で叫んだ。私がだ。 そしてこの”即興性”こそが、学生たちが今後、様々な場面と対峙した時に生きて行く上での重要なひとつのキーワードとなる。即興性についてはまたこれからもやってくるこの講義の中のどこかで触れることになるだろうからあえてここで止めておく。
また観察していると、グループに分かれたとき、誰もが自分の立ち位置や役回りを察して自発的に動いて行く様が見て取れた。これは察しの文化である”忖度”などとは違う。行動原理を誰かに怒られるからやらない、と言ったような消極的な自主性ではない。誰かに遠慮するのではなくそのコミュニティ内でひとつの目標のために自分はグループ内で何をすればその目標に皆で辿り着けるのか。自らが前向きに考えるプロセスを経てその目標を達成して行くことが、彼らの自発的な態度を誘発する。それ故、学生たちには必然的に今までの当たり前を難なく乗り越えて行くモチベーションが生まれている。
それが今回、与えられた脚本を作品化して行き、演じるということを体験して味わえるという、とても贅沢な講義なのだ。
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そして最終的にグループで構成した作品を人前で演じて行く。
授業後のリフレクションシート(これは毎授業毎に配り、その日の自分の心のドキドキ、あるいはトキメキ具合をグラフにしてもらい、アンケートにそれぞれがその日の講義での感想を書いてもらっている)では、結構な数の学生たちが「演劇と聞いて自分に出来るか不安だった」と書かれていた。これは、上手にできるかどうか、という様な自分の中で何かをやるからには上手にできていないと評価されない、というような意識が身に付いてしまっているからこそ来る不安なのか、と考えてしまったが果たして、、、。しかしそれは仕方のないことなのだ。日本の義務教育はほとんどの場合、その評価を大前提としてしまっているからだ。
とは言っても、そう書いて来られている全ての学生が「その不安もどこかに飛び、楽しみながらできた」ということを感想として述べていた。つまりはこのワークショップから彼らが自分にとって何か有意義な体験を得た、と言えるということなのではないか。
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ここでは恥であったり失敗したらどうしようという不安は存在しなくなっている。いや、存在していたのかもしれないが、皆それが見えいないように上手く自分たちを表現することができるようになっていた。そしてそれこそがこの講義で考えるワークショップデザインなのだ。
上手く演じよう、などということが問題なのではなく、知性を使って何かを楽しく皆とやり遂げること。そしてそのプロセスの中で気付かぬようにデザインされた要素によって自らがその何かを前向きに周囲と協働で”体験する”ことに主題を置いている。受講側という言葉が合っているかはわからないが、参加している側は自ずと経験してしまっている。
つまり、この演劇ワークショップを通して学生たちは今までに見たことのない自分に知らず知らずのうちに気付かされて行く。
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学生たちが考えてきた脚本のテーマは幅広く、自分たちの周りにごくありふれた日常を意識したひとコマから現代社会に問いかけることのできる風刺をきかせた様なもの、そしてジェンダー論にまで繋がり得る豊富なラインナップとなっていた。そして彼らのライブの演劇には観ている私たちを飽きさせない特別な”何か”不思議なものを孕んでいた。
上手く演じようとしているわけではない。もちろんそういう学生もいたのかもしれない。でいて普段からそのようなキャラクターを演じているのかもしれない。それでも学生たちはあたかも、あれ、その道のプロですか?と聞きたくなる程自然体だった。
何度も言って大げさだなと思われるかもしれないが、こう言った細かなところに無意識に新たな自分に”気付く”ための何か特別なスイッチがデザインされているのだろうと思った。
そして講義は4限へと続いていく、、、
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通常講義が行われる青山学院大学相模原キャンパスO棟に戻り、3限のワークショップの振返り、そして自分たちのグループ名を考え、その名に決めた理由を発表してもらう。そしてそれをiPhoneで撮影し映像化する。
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自分を俯瞰的に見させてそれぞれのグループ内での自分や他人の役割や立場をもとに、その融合がどのような言葉としてまとめられるのかを考えるというワークだが、これもまた単純そうで実は頭の中ではめまぐるしく思考を巡らせている、はずだ。
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その後は毎授業後のポートフォリオ作成だ。
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皆、自分のことがわかってきたのか、ポートフォリオ制作に夢中になっていたのは印象的だった。これが14回の講義後にどうなっているのか。今から楽しみである。
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そして第1回の講義の最後に撮影したそれぞれの写真はこうなった。 モノクロに変換されて見るこ自分自身の写真に、学生たちはどのようなことを思うのか。これだけ見れば写真家のアウグスト・ザンダー、いやはやリチャード・アヴェドンか。あるいは鬼海弘雄か。このまなざしの全ては一点だけを向いているわけではない。ここに私がいるということを証明し、それはつまりはこの写真を見ているあなたが必ずここにいるという、存在そのものを問うところまで昇華されてはいないだろうか。ここからこの講義が始まったのだと。そのことへの刻印として、、、あるいはこれはただの語り過ぎか。ただ写真を眺めてるだけではその意義は理解できないかもしれない。それほど写真は能動的な見る側の態度を必要とする。そしてその態度に求められるのは問いを立てることであったり。写真そのものに付随することも今後このブログでアップして行くのもいいかもしれない。
それではまた次回、このブログで。
この記事内の写真は髙橋健太郎と大学院生の青木均之が撮影している。 各々のポートレートは上記2名と苅宿俊文、そして現役の大学3年生・赤尾一樹が撮影したものを髙橋健太郎が編集しモノクロに変換した。
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kariyado-lab · 5 years
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NPO 法人鳥の劇場 ×青山学院大学社会情報学部LCD研究ユニット 2019/5/27-28
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NPO 法人鳥の劇場 ×青山学院大学社会情報学部LCD研究���ニット 2019/5/27-28
鳥取県と青山学院大学社会情報学部は面白い試みをしている。
平成30年度(2018年)から開校された、義務教育学校鹿野学園。
その学校の一つの目玉科目が「表鷲科」という授業だ。鳥の劇場(NPO法人お鳥の劇場)という鳥取市鹿野町を拠点に置く、劇団名鳥の劇場さんが演劇ワークショップ事業を進めていくために実施している教育プログラムで、青山学院大学社会情報学部学習コミュニティデザイン(LCD)研究ユニットは鳥の劇場の教育アドバイザーとして、演劇ワークショップ後の省察活動の実施を重としてサポートを行なっている。劇場も備えていて、その名も同じく「鳥の劇場」。
なお、「表鷲科」は子どもたちが21世紀を力強く生き抜くために、表現力とコミュニケーション力をつけることを目的とした鹿野地域の独自科目で、最終的には、子どもたちの自己効力感を高め、国語や算数、理科、社会の学力向上にもつなげていくことを目指している。このプロジェクトの先駆けとして、2017(平成29)年度では小学校4年生に7回、中学校1年生に6回、芸術表現体験活動+省察活動のプログラムを実施している。こちらにその辺の詳細が載っているのでぜひ見に行っていただきたい。
NPO 法人鳥の劇場 ×青山学院大学社会情報学部LCD研究ユニット共同プログラム→ http://lcd-aoyama.net/10.html
そして今年度、2019年もこれから複数回、鳥取県へと飛び、様々な場面でともに活動して行く予定となっている。その最初の調査として、まず苅宿研究室の特別研究員である私、髙橋健太郎と大学院生の青木均之は5月27日、28日に鳥取に向かった。
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調査目的は何か
中山間地域の教育に芸術家などの表現者がどのように関わりを見せ、その活動でどのような効果をもたらせるか。また、子どもたちがどのようにワークショップのファシリテーターに反応し、それぞれのワークや時間帯によってどのような心理状態にあったかを確認する。また、このワークショップ中は映像で様々な場面を記録し、ファシリテーターに至っては音声を個別で録るためにボイスレコーダーをワーク中は付けてもらう。これらは全て質的にも量的にも大量のデータとなる。それら児童・生徒たちの言葉や音声、映像記録などから得られたデータを全て持ち帰り、子どもたちの自己効力感やワークショップの効果を測って行く。
生産性で何もかも語りがちな世の中でどのようにして、その評価軸以外の自分を保つ軸を持てるか。生徒たちにいかにして自分は自分のまま、ありのままで当たり前に生きていて良い、ということに気付いてもらえるか。このワークショップを行うことの目的はそこにある。
繰り返しになるが、それを実証するための調査ということで私たちは様々なメディアを駆使して記録してデータを出してファクトとしてこのワークの効果を示そうとしている。
そしてそのデータは今後、青木くんの修士論文や苅宿先生の今後の活動やプレゼンなどで、自分たちの活動の裏付けデータとして見せることが可能になる。
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5月27日、28日は 両日とも鳥の劇場さんによる鹿野学園7年生(この鹿野学園の面白いところは小学校中学校を一貫校にしたために通常、中学校1年、2年、3年生と呼ぶところを、7年、8年、9年生と呼んでいる)の生徒へのワークショップで、27日にメインのワークショップ、そして28日は省察を兼ねてからのワークショップという予定で行われた。その活動を僕らLCDユニットは記録していた。
今回のテーマは「色んなセリフについて考えよう!」というものだった。
だけれども、実際のワークに入る前に鳥の劇場さんはあらゆるアイスブレイクをしていた。中に��コミュニケーション促進ゲームである��タルタを使ったものもあった(※カタルタの遊び方はこちらに)。
そこから「うん。」という一言で色々と意味を考えるというもの。 言い方次第で色々な受け取り方がある。コミュニケーションの方法や解釈は言葉の伝え方、表情、身体を使ったり、その場の状況や雰囲気で決まってくるというもの。
その思考から今度は生徒自身に「え。」という一言で色々なシチュエーションを考えてもらい、それぞれのグループで発表してもらう。この辺りから色々なセリフについて考えるとっかかりを作っている。
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そして、次のステップ。
メインのグループワークで、演劇ワークショップ。
今回の演劇ワークショップは3人グループを作り、配られた「ところどころに穴の空いた台本」を自分たちでその空欄になっている箇所を、想像力を働かせて勝手に埋めて完成させる。そしてそれを実際に演技するというもの。
下にあるようなセリフでひとつの短い演劇を作ってもらう。学校の休み時間に3人の生徒たちが話し合ってると言うもの。
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A : 「次の時間、理科だね。」
B : 「植物の宿題やった?」
C : 「うん。」
A : 「◯◯◯」
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ここでポイントなのはCさんの「うん」の言い方。先ほどのワークで色々と考えていたものがここの実践で生きてくる。
自信満々で「うん」と答えるのか。あるいは全く自信なさそうに「うん...」と答えるのか。
そしてその後に続く◯◯◯でどうやって、この演劇を終わらせるのか。 短い文章だけに、生徒たちの器量が試されている。
<ワークショップのグランドデザイン>
このグループ分けは、担任の先生に行ってもらっている。
そして実はそこからデザインされていることなのだが、普段の生徒たちを見ている担任の先生が、この生徒とこの生徒を組み合わせてみたらどのような協働性を見せてもらえるか、を期待しながら普段仲良い友達同士ではないグループで組んでもらっている。
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それは何故か。
グループワークを通して何かを上手く遂行するという目的ならば普段仲の良い人間同士が組めば良いのだけど、この芸術表現体験活動のワークショップはそのようなことを目的としていない。
一番はじめにも書いたがこの「表鷲科」という科目では、子どもたちがこれからこの時代の社会で「力強く生き抜くために、表現力とコミュニケーション力をつけることを目的としている」のだ。そのためにはこのグループを組む時点から普段、仲が良くない子(あまり話しているのを見かけない)と組ませるということを試みた方が生徒たちにとっては良い。
社会に出て、初対面であったりあらゆる人(この授業の場合はクラスメイトだから「誰か」ということは知っている)と何か一つの目的を達成するという経験を今の段階から感覚的に掴んでもらうことを実践しようとしている。この場合の目的というのも、決して企業が何かのプロジェクトを進める、という場合だけでなく、そこかしこのコミュニケーションの遂行と言っても差し支えない。例えばお店の店員とたわいない挨拶程度のコミュニケーションだって立派な目的になる。その意味でこのワークショップで培ってもらいたいのは、他者と自分がコミュニケーションを如何に円滑にできるようになるか、ということだ。
さて、表鷲科の中で別けられたグループも当然、最初からそのグループ活動が上手く行くと思っていない。だからあらゆる齟齬がお互いの間で生まれる。
しかも、今回の鹿野学園7年生の生徒たちは2ヶ月前まで小学校6年生で、ふたクラスずつに別れていたのだ。学年があがり、今年4月から7年生となった途端、クラスもひとつになった。クラスの中で自分のポジションをどう取るか等色々と考えないといけないことが生徒たちには多々あり、なかなか難しい時期なのだそうだ。
それもそのはずで、データから見てもこの多感な時期には人間関係や自我や進路の悩みなど様々なことが絡み合って障壁を感じることとなる。(日本の児童・生徒の自殺、過去30年で最多に BBCより、2018年11月の記事)
いじめや家庭内の関係など。理由は様々だが、学校の中ではなかなか当事者でないと見えない問題が多く存在し、その解決を図ることは並大抵のことではない。学校でも、いじめが起きているという事実を把握したくない現状がある。
話は飛ぶが、この様な状況を作ってしまっている原因は社会にある。 ここで無理に問題は社会ではなくあなた個人だ、自分でなんとかできる、といったことをついつい言ってしまいたくなる世の中ではあるけれどもそうじゃない。年間2万人もの自殺者数がいる国、これが日本の姿だ。年々下がっている、ということを言う人もいるが、365日の間に2万人もの個人の人間が自ら命を絶つ選択をしている現状はもはや他人事ではない。
さて話を戻すと、そのような社会の状況を鑑みても演劇創作などの身体と頭(論理的思考)を使って、自分の考えていることを作品発表といったカタチで他者に向けて表現するというワークショップを行うことは、生徒たちにとって、数学や国語、体育などの普段の教科ではなかなか見つけられなかった新たな自分のチャンネルを見つける場所としても機能してくれることを期待している。
主体的な学びという言葉を作って掲げるのは良いが、それを現場でどう生かすかは現場に任せられている。その一つの答えがこのワークショップのように、生徒たちにとにかく色んなことを身をもって経験してもらうということにあるのかもしれない。一種の強制性によって小学校から中学校までは決められたカリキュラムの中を生き抜くしかないところに、このような新しいものに触れる機会を作るということは、子どもたちにとっても新しい自分に気付くチャンスを作ると言うことに他ならない。
だから今はまだ慣れていないかもしれないこの環境が例えば、半年後のワークショップではどうなっているか。生徒たち同士の関係性が微妙に変化しているだろうしそれがプラスに向かっているのではないだろうか、と苅宿先生は言う。
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生徒たちが発表してくれた内容についてはここでは割愛させていただく。
照れながらもそれぞれに発表をしていて、これから生徒たちがどう変わって行くのかとても楽しみである。おそらく、このような芸術表現体験活動を授業の中で組み込んでいるという学校はそう多くない。いわゆる「アクティブラーニング」や「コミュニケーション教育」といった言葉が文科省で使われるようにはなっていてもそれが実際の現場に定着して行くには相当の時間を要する。決められたカリキュラムの中にこの様な専門性が必要な授業を組み込むということ自体がとても労力のかかることで、そこに時間を割けるだけの余力が今の学校教育の中にあるかと問われれば、都内で教師をやっている数人の友人の現状を見ていても、なかなかそのような時間は持てないと思われる。
だからこそ、鳥取の鹿野学園、新潟の中里中学校などで実際にこの芸術表現体験活動を行えるということ自体が、とても貴重な体験となる。その土地固有の教育としても、その学校に通う生徒や教師たちにとっても、周りの地域にとってもプラスに働くのではないだろうか。
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と、これが27日のワークショップの一連の流れだった。
その後は当日のワークショップの振り返りとして、リフレクションシートを記入してもらう。今、苅宿先生が大学生の授業でも使っているあのリフレクションシートだ。どの活動の時にどの程度生徒たちがそれぞれに関心やモチベーションが高まったか、などのデータ取りだ。
で、再三言っているようにこれらのデータを実際に大学院生の青木くんや現役4年ゼミ生たちが研究目的で活用することになる。
鹿野学園3・4年生の授業分析
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そしてワークショップも無事終わり、僕ら苅宿研究室のLCDユニットは鹿野学園3・4年生の授業分析を行うために、映像記録と音声記録を録らせに行かせていただいた。
映像は俯瞰の映像を教室の前と後ろから。そして音声は先生にピンマイクと児童の机の上、一つ一つに小さなマイクを置かせていただいた。
この一つの目的は初めにも書いたように、中山間地域でどのような教育が行われているか探り、そして教師の方々がどのようなことに心を配りながら子どもたちと勉強をしているのかということの研究で、先生、児童それぞれの発話からどのような教育が行われているのかというのをデータで抽出して行く。音声マイクで録音して行くことで、先生がどのような発話をすると児童たちはどのように反応するのかということが見えてくる。例えばキーワードとしてプラスに働くような言葉をデータの基準にして、それに付随する言葉を幾度、先生が発話したか。そしてそこに対する児童たちの応答はどのようなものだったのか。
その後、これらのデータが意味するところを公に提示する時に、その場面を映像で撮影で確認できるようにまでしておくことで、ファクトの重要性が叫ばれる昨今の時代の流れに対する証拠としての機能を果たす。
そしてこれがそのまま、大学院生の青木くんの研究へと繋がる。
と、このようなことをこれからも鳥取に青木くんと来る度に行う予定だ。
翌日、鹿野学園7年生、ワークショップの省察、5月28日
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省察
まずは鳥の劇場さんが記録として映像や写真で残していたものを通して振り返る。このスタイルは、監修している苅宿研究室でのスタイルをそのままに使っている。苅宿先生によるワークショップデザイン+メディアコミュニケーションの授業の中でもこのように、ワークショップをやったら省察の時間を設けていて、ワークショップに参加している生徒たちはこの時間を通して自分たちが一体何を学んで、実際に何が自分の力となっているのかというのを可視化して見せようとしている。
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だからこそ、生徒たちもこれをただの座学としてではなく、自分たち自身のこととして捉えられる。そこに、これも青木くんの研究と同じように、生徒たちがその瞬間どのような表情をしていたかを見て理解できるように写真や映像をデータ、証拠品として提示しながら「昨日の君たちは◯◯だったよね、だから◯◯な力があるんだね君たちには」という風な振り返りの語りかけを行い、生徒たちにもそれをある程度、証拠力を持って実感させられるように進めて行く。
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自分自身を俯瞰的に認知する力(=メタ認知能力)をここでは身につけさせようとしている。強制的にではなく、無意識にそれを捉えられるように仕向けている。
このメタ認知という言葉は2020年度から実施される学習指導要領の「アクティブラーニング」を実践する上でもとても重要な能力と規定されている。客観的に自分の行いを理解するということは自分の学びに新しい気付きを得たり、これからどのような姿勢で自分が学んで行けば良いのかということを理解しようとする力を促すことにも繋がる。
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ワークショップ後に振り返りのリフレクションシートを書いてもらう時に、その作業を行っていた時に、自分の心理状態を自己評価してもらうというものがある。例えばワークショップ中の演技を行っている時、自分は前向きにそのワークショップに入り込んでいたか、あるいはあまりやりたくなかった、等の選択肢をいくつか用意し、それに回答してもらう。これはワークショップを行うこちらへの評価を理解するだけでなく、参加している生徒たちがどれほど主体的にそのワークに参加していたかということを数値として把握できるようなパラメーターみたいなもので視覚化されて見ることで、自分にはどのような特性があるのかということを客観的に認識することが出来る。
それは結果的に自分を俯瞰的(メタ認知)に眺める意識を生徒たちに植え付けて行くことへと繋がる。「植え付ける」という言葉を使うことには洗脳的な意味合いがあるが、少なからず教育にはそのような側面があることは否めない。それが間違っている方向か正しい方向なのかという議論は常にあってしかるべきだがどちらにも断定し辛く、多くはその正しさと過ちの間のグラデーションで成立している。
さて、生徒たちは省察を行ったあと、実際に演劇ワークへと入って行った。
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前日と同じグループのまま、前に披露した演劇よりもより良いものを作り直す時間を与えられたのち、新たに作った演劇をクラスの前で発表する。
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すると面白いことに、生徒たちも主体的に昨日の演技の何が悪くて、何を直し、何をしたらより良くなるのかを考えていた。省察を通して見た自分たちの喜ぶ姿などの感情のわかる映像や写真、そして昨日披露した演劇の映像を見て自分たちの中で話合いをして、どこを直してどう面白く披露するかを自律的に考えて発表していたように見受けられる。
そして各グループがお披露目をする際、他の班の生徒たちは演技をしている班を評価して、どこが良かったのか良い点だけを書き出してもらう。それはただただ演技を見ている生徒たちの集中力を上げるだけでなく、他者を自分はどう評価し、どんな場面に他者の良いところを見つけようとするのかという、これから人間として成長して行った時に、頭の中で常に行っている思考をこの様な場面で体験してもらう。人は意図せずして誰かと出会えばその他者を「評価」している。それが良い評価のときもあれば悪い評価のときもある。だがこの講義を通して生徒たちに目を向けてもらいたいのは、相手の良い点を探してもらうという作業だ。他者の嫌なところだけをピックアップしてそれをもとに相手を評価し、その他全ての相手の良いところまでマイナスイメージを作ると言うことを人間は往々にしてやっている。しかし、それではコミュニケーションを円滑に進めることは困難になる。だからこそ、ここでは生徒たちにひとまず、相手の良いところを抽出してもらう。
結果的にそれは、相手のことを褒めるだけでなく、自分を見つめることにも繋がる。そのようにして自己肯定感や自己効力感を培って行く、そのような教育をこのワークショップで実践しようとしている。
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そしてワークショップ後は、苅宿先生による鳥の劇場さんへの振り返り、今日のワークショップがどうして成功したのか、というもの。でもこの内容はここでは書けません。
でも苅宿先生が持っているMacBookのこの画面内で指摘されている「自分たちで確認した自分たちの<いいところ>をふりかえったことを確認する活動で確かめてみよう」と書いてあるように、生徒たち自身が自分たちの良いところに気付ければ、結果的にその良いところを伸ばそうとして、それがまた生徒たちの自己肯定感や自己効力感を伸ばす原因となる、ということだ。
だからこそこのワークショップの活動は現在の日本の学校教育の中でやる必然性がある。これだけ日本の児童生徒学生たちが自分のことを肯定的に捉えられないような社会・教育の状況の中で、少しでも、「いやいや、君たちはまだまだやれる力を持っているよ」ということを語りかけて行くような、そんな活動なのではないだろうかと、今回の鳥取でのワークショップの実践を拝見し思った。
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kariyado-lab · 5 years
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第12回 この授業を通して学んだこととはなんだろう?
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第12回 この授業を通して学んだこととはなんだろう?
2019年7月11日、快晴。7月も半ばに差し掛かろうとするところ、夏本番はこれからだけども、この講義はこの回含めて残り3回...
今回も省察回。 話はまず「なぜ世界のエリートは『美意識』を鍛えるのか」というところから始まる。それはこの講義の前日、青山キャンパスで苅宿教授がシンポジウムを主催し、山口周さんという方と対談をしたからだった。
いま、美大あたりを中心に社会人向けに様々な学びのコースが用意されている。既に社会人になられた方々が今、実際の社会で直面している問題として、今、必要とされるものを身につけるためにこぞって美意識を鍛えているという。
この著書の本文から以下の文章をお借りした。
「グローバル企業が世界的に著名なアートスクールに幹部候補を送り込む、あるいはニューヨークやロンドンの知的専門職が、早朝のギャラリートークに参加するのは、こけおどしの教養を身につけるためではありません。彼らは極めて功利的な目的で「美意識」を鍛えているのです。
なぜなら、これまでのような「分析」「論理」「理性」に軸足をおいた経営、いわば「サイエンス重視の意思決定」では、今日のように複雑で不安定な世界においてビジネスの舵取りをすることはできない、ということをよくわかっているからです。
では、そのように考える具体的な理由はなんなのでしょうか?(本文より)」
会社の役員たちも含め、今、世の中で起きている出来事、日々めまぐるしく変化している日常へ対応しようとしているということだ。
アメリカが関わらせた朝鮮戦争、そして朝鮮特需という異例な状況による経済的恩恵を受けた日本。そこから高度経済成長によって一億層中流社会が煽られた。「三種の神器」といって白黒テレビ、洗濯機、冷蔵庫を持っていることがひとつのステータスとされた。そんなモノを持つことが幸せだった時代から、今の大学生が生まれ育ってきた環境はどういう状況か。モノを持っていることが大事とはされず、それ以上に自分の世界観、とか自分だけのストーリーという唯一のものを
ITや金融業を筆頭に富める側はより富んでいき、貧しい者はより貧しくされていく。経済格差は拡大している。物価は上がって行くのに、それが給料に反映されておらず、法人税が下がる一方、消費税は上がり、さらに貧しい側の人間は消費も貯蓄もし辛くされて行く...
2018年の段階で、国民生活基礎調査(厚生労働省)では57.7%が「生活が苦しい」と答えている。
そんな社会を生きているとおそらく大学生の感覚として、今より社会が良くなるということは想定できないかもしれない。その結果が日本財団による、「18歳の社会や国に対する意識調査」でこういう結果が出る原因だろう。ほとんどの設問で日本の18歳は他国の18歳の方々よりも低い数値を統計的に出している。
これが表すことは何か。日本の若者が政治離れ、無関心を決め込んでいるのではなく、日本社会側が若者を社会から遠ざけ、政治離れさせている結果ではないかと疑う必要がある。そこからこの現実を直視して、”自己効力感”を身につけるにはどうすれば良いのか...
ということを、この授業で”体験”してもらっている。
前回の講義で「この授業で何を学んだのか」ということをグループワークで考えてもらった。そして講義後のリフレクションシートではこの様な答えが戻ってきた。
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この、「改めて」ということを重要視していると苅宿先生はいう。授業をデザインする苅宿先生にとって、re-designという言葉を例に、「もう一度学び直せる」という経験を得てもらうことが苅宿先生の仕事として価値があるのだという。
そしてあなたにとってグループワークとはどういうものなのか。
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グループワークが上手く行く時、それは自分たち以上の力を発揮しているということを実感してもらっている。
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グループ、あるいは組織として何かを運営して遂行する時、個人の力を上げるためには他者とどういう協働を必要とするのか。そこにいることで自分も他者も排除されず、まず何よりもあなたはそこにいて良いのだと認められている空間の場作りは一つの鍵となる。その結果、1+1+1=4の力となって、グループとしての方が1人で何かをやる時よりも力を発揮する可能性を持つのだと。
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この”ひらめき”という言葉もさらに鍵となる。そしてそのひらめきを発揮させてくれるのが、グループとして活動している時に感じられる”楽しい”、”安心できる”という感覚なのだと苅宿先生はいう。ここからいくつか羅列する。
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結果的にこれはデザイン思考が必要とされているということだ。自分の能力を素直に認め、グループでどう運営して行けばいいのかということを考えさせる。
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この、”楽しむことから始まるんだ”ということをこの講義から体感してくれた上で、活動してもらったらもう既にデザイン的思考になっているという。
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このように、その場を「◯◯な場」であると定義付けられる時点でこれは”学習環境デザイン”という学習科学と学習工学という両分野を横断する様な学際的な学問領域に入るということをいう。以下のスライドを見て行こう。
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これらを参考に自分がこの講義でやってきたことは学問的に語れるようになるんです、という紹介だ。
実はこの「語れる」ということがとても重要なことで、今の大学生が就職活動で自分のことを語ろうとしたとき、例えば「大学で何を学んできましたか」と面接官ですら大学の時に何やっていたんですか?と問えば答えられなそうな気もする質問をされた時、私は大学で学習環境デザインという手法を学んで、コミュニティがどのように運営され得るか、ということを学びました、などと答えられるようになるということだ。
そしてまだまだ少ないものの、今までのスタイル、会社のカタチにハマることを求められていたものから段々と、あなたの主体に合せて働くことを進められるように環境を整備しようとする職場も増えつつある、という。
次に、こちら。
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実はこれは苅宿先生が小学校の先生をしていた時の学習環境、空間のデザインを施した図工室だ。黒板を全て排し、先生が児童たちと同じ目線で教え、学び、椅子や机の配置もデザインされている。
これは実は苅宿先生がNHKに特集で出演していたときのテレビで放映されたものだ。その中でナレーションされた箇所を抜粋する。
「モノを作ることを通して、”自分らしさ”に出会って欲しい。名付けて「らしさ工房」。そしてこのらしさ工房は、花と同じで水を与えて手入れしないと枯れてしまいます。水は、皆の「作ることが楽しい」という気持ちです。このらしさ工房で作ることを楽しんでくれたり、他の人が楽しいと感じたことを楽しいと感じてくれたら、このらしさ工房は枯れません。それからこのらしさ工房には色んな人が心を休めに来るかもしれません。そんな時は、工房のゆったりとした時間と、花がたくさんあるところに鳥が飛んでくる、そのような空間を楽しんで行ってもらいましょう」
このナレーションにもあるように、苅宿先生はこの時から、外からも人が行き来する、そのような環境をデザインして、かつ、児童や外からやってくる方々もこの環境を作って行く側として参加してもらう意識で、このらしさ工房をサロン的なものとしてコミュニティを作っていた。
この場所で行われていた営みは、人間がこの社会で生きる上で根源的なことと言えるかもしれないと僕は個人的に感じている。それはこのナレーションの中でも言われている通り、この場所、この環境を運営して行くにあたっては、皆がそれぞれの「作ることが楽しい」という気持ちを持続できなければその環境は喪われて行くということだ。そこには不断の努力が必要だ。何かこれは楽しくないと感じた時に、どうしたらその場所がまたお互いにとって”楽しい”と感じる場所になるのか。それを常に問いながらこの環境は成立していた。
そしてこれは、日本国憲法の中で謳われている文言と似ていることに気づかされる。
日本国憲法第十二条、
「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。」
つまり、苅宿先生は小学校の図工室を使って、民主主義とはどういうものかをそこに集う全ての人々に概念だけで教えるのではなく、身体でもって体感してもらっていたということなのではないだろか。
さて、リフレクションシートに戻ろう。
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と、この辺に書かれていること、リフレクションシートを通して「振り返り」学ぶ、ということ。
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このあたりは、ドナルド・アラン・ショーンの省察的実践とは何かに書かれてあることで、
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振り返ることによって、自分に気付いて行く。
すなわち、苅宿先生が得意としている「入れ子構造」というもので、繰り返しやっていくことで、自分の多面性を気づいて行くという過程でもある。
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これは青山学院大学の高木教授の心理研究の分野でもある。状況によって自分を変えているということ。
そう、ここまでの講義でもう受講されている学生たちも気付いているが、自分でこの授業の仕組み、構造を語ることができるようになっている。つまり、「作品の作品化」というこの下のスライドの中で語られていることをもう、出来るようになっている。
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『これからのメディアをつくる編集デザイン』
そして、
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苅宿研究室の卒業生の佐々木まゆさんの紹介。彼女は今も空間デザインを自分の仕事にしている。この様に、苅宿先生のもとで学んで、今現在も空間デザイン、コミュニティを作ることをやられている方もいる。
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しかし、この講義は答えがあるわけではない。だから
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のように悩む。
でも実は生きることはそのような回答のない問いを答えようともがき、これが正解なのかと確信しそうになるところで手の上からこぼれる砂のように、掴んだと思ったその瞬間には答えもまた違うと思い始めてはまた問いを振り返る。そのようなサイクルを生きるということが、生きるということなのではないか、みたいな哲学的な考えが、このワークショップデザインを通して学ぶことかもしれない。
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それはソクラテスの「無知の知」に通じるものだ。
自分は知らないということを知っているということが一番強いのだ。このワークショップの講義を通して無知の知を体験している。
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そこでソクラテスは問う、なぜ、問うのか。
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よりよく生きるため、なんだと。
漫画家の山下和美さんの『不思議な少年(第2巻)』で「ソクラテス」を描いている。これがまた秀逸なので未読の方はぜひとも読んでいただきたい。この中でソクラテスは当時、雄弁だった弁士たちに「それはなぜですか?」と問い続ける。すると答えらないでいる弁士たちはソクラテスを悪者だとレッテルを貼り、コミュニティから異端視させる。牢獄に入れられ、そこで、、、という話だが、この漫画によって僕は生きるということ、人間とは何か、というような根源的な問いが心から浮かんできた。この漫画に出会ったのも、実は僕が大学4年生の時、苅宿研究室のゼミ生だった頃だ。
ゼミの講義で次のゼミの授業までに1人ひとつ、映画を鑑賞してそれを発表する、というもの。そこで苅宿研究室の中にあったDVDを選んでいた時、ふとめに止まった「横浜メリー」という文字。これはなんだろうと思い、ふと手にした。すると、戦後の横浜の町を、1人、ご高齢ながら白塗りをしてワンピースで歩いていた娼婦がいた、というとても興���深い話だった。結局、その時に選んだDVDは想田和弘さんの『精神』という映画で、これもまた僕の考え方、生き方を揺さぶったものとなったが、それでもずっとその後まで「横浜メリー」の��とが気になって仕方がなかった。DVDを見ろという話だが、何故かそうすることがなかった。その理由はわからないし、もしかしたらその姿を見ることが少し怖かったのかもしれない。その後、メリーさんのことをさらに知って行くのは結果的にgoogleで検索した時だった。山下和美さんの『不思議な少年(第7巻)』という漫画で”ヨコハマ・リリィ”として題材にされているという。ならばその漫画を読んでみようと買ったのが初めて山下和美さんの作品と出会った瞬間だった。
と、この話をすると、一日が暮れてしまうので、あとは皆さんに山下和美さんの『不思議な少年』を検索していただくことにして...。
授業に戻ります。
絵巻を作る
前回の授業では以下のような絵巻物を作ってもらった。
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抜粋で大変恐縮だが、様々なレイヤーワークを施した上でそれぞれの班が自分たちの想像力を生かし、その班特有のやり方でこの授業で学んだことをとても面白く作っていた。
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この受講生たちが凄いところのひとつは、既に彼らはこの授業を受けたことで、様々なことを理論的に学んでいるだけでなく、身体的に経験、体験できているということだ。大方の大学の講義では様々な制約からなかなか「体験」をするということが出来ない中、この苅宿研究室のやり方はまずはやってみる、体験してみるということから「学び」は始まると考えているため、どんな状況だろうと、経験をしてもらえる場を提供できるように試みている。
で、これらにはどんなリフレクションがあったのか。
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つまりどういうことか。
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この代替不可能性という考え方。
10班がそれぞれ、自分たちの特色で作られていた。決して被らなかったことは、皆で被らないように作って、と言われているわけではないのにも関わらず作れちゃう。
それはつまり、こういうことでもある。 この下の問い、「好きな色は何ですか?」という苅宿先生がうんと昔から使っている質問。これは本当にシンプルで良く出来ているから、高知県佐川町にてワークショップデザイナーとして活動をしている大道剛さんも使っていると言っていた。
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さぁ、あなたの答えは?
ちなみに僕は青です。
あなたは緑?赤?黄色?それとも紫?
では、
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どうですか?
そう、そんな人は、いないんです。
つまり、
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この絵巻を作ったことで、何がわかるか。
あなたはあなたのままで既にそれでオッケーなんだということを再認識するワークがこのような絵巻作りワークだったのだ。
それが代替不可能性を肌で体感するという授業だった。
取り扱い説明書をつくろう!
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ということで、この授業の次のフェーズ、自分とはどういう人間なのか、それを理解するためにもこういうものを作ってみるワークに入った。
自己紹介、ではなく、
「自分には◯◯な特性があって、◯◯な時は◯◯になります。なのでそう言うときには◯◯してもらえると、◯◯になります。」
というような、◯◯が多過ぎて全く理解が進む書き方ではないので大変申し訳ないが、、、
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さて、今度はそれを皆で発表する時間だ。 これは人に伝えることで完結する。
自分を客観的に認識する作業、そしてそれを踏まえた上で他者に自分はこういう特徴がある、ということを伝える。
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ちなみにここで前に出て段取りを説明するのがモッチーだ。3人班になってもらってお互いに説明書を伝え合う。その班分け後、この講義の行く末を見届けるモッチー。敏腕ワークショッパーだ。
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そしてもうひとつ重要なこととして、この写真からもわかるかもしれないが、実は皆が作業していた机を移動させている。ここも、環境を変える、<場面転換>という手法を用いて、学生たちがその環境に飽きさせないように苅宿先生はデザインをしている。
ひと工夫もふた工夫もするのがこの苅宿研究室だ。
この講義でやっていることはそれぞれの学生が、自分とは何か、他者とは何か、他者を通して自分の多面性に気付き、そこにはどういう意味があるのか、それらを自分で語れるようになってもらったりと社会人になるまでには知っておきたいこと、気付いておきたいことを実践的に学んで経験してもらうことを重要視している。
そこで重要になってくるのが、
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ということで、この後に今回はナンジャモンジャゲームというのをやってもらった。
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これは、
ロシア生まれの爆笑カードゲーム『ナンジャモンジャ』は、頭と手足だけの謎生物“ナンジャモンジ��”族が描かれたカードが中央の場に次々とめくられるたびに、その人のセンスで特徴を捉えた名前を付け、全員で共有し、以降もし同じものがめくられたらその名前をいち早く叫んで、溜まったカードを獲得し、集めた枚数を競うゲームです。(ナンジャモンジャ日本版公式サイトから拝借。)
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遊びには4種類がある。
競争、運、モノマネ、ぐるぐるまわるもの(エンドレス)。
実はこのナンジャモンジャゲームをやってもらって遊んでもらったことも実はデザインされているのだ。ゲームを通して、勝ち負けだけじゃない、盛り上がるデザイン。そこに意味を乗せるということは実はとても難しい。そうなると、意味がないことに価値はないのか。いや、そうではないのだ。
そういうものにこそ今、価値を見出して行かなければどんどん人間の価値基準、判断が狭まって行き、何事も競争思考になりかねない。そんな風になったら果たして、、、競争に乗り遅れる人はどうすればいいのか。
書いている僕自身なんて真っ先に乗り遅れると思う。 とにかく人のペースに合わせるのが不得手な自分は自分のペースでなければそのうち息苦しくなり、圧死しかねない。だからこそそうならないためにも、自分に色々なチャンネルを用意して、様々な評価基準を自分の中に持ち、多面的な自分のこの面を今発動しよう、等と使い分けられれば、少しかもしれないが、生きやすくなるはずだし、この社会、少なくともこの講義を通った学生たちにはそうあってもらいたい。勝つ必要が有るわけじゃない。負けなければ良いのだ、という発想に近いのかもしれない。
と、大いに盛り上がったところで、今回もポートフォリオ作りに...
しかし、今回はまた新たな道具を、残りこの講義入れて3回しかない中で、この新しい道具を投入して、学生たちのポートフォリオ作りのモチベーションを再度上げさせてもらう。これも苅宿先生の手法だ。
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ではまた、次回の講義で。 残すところ、あと2回!!
※そして今回の写真は全て現在大学4年の苅宿研究室ゼミ生、シメジくんとシュンくんがiPhone Xを駆使して撮影している。
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kariyado-lab · 5 years
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第14回 君はこれからどう生きるか
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第14回 君たちはこれからどう生きるか
2019年7月25日に最終日を迎えました。
この講義を受けてこられた受講生、そしてそれを支えてきたゼミ生を含むスタッフと講義を実施されたアーティストの皆さま、そして苅宿先生、半年間大変お疲れさまでした。
何よりも、この講義が多くの学生にとって、実りあるものであったならば、苅宿研究室のいちスタッフとして幸せです。そしてそれを経て今後の皆さまがどのように生きていかれるか、とても楽しみです。
皆さまのご多幸とご健勝を祈りながら、 ささやかながらその祝福の意味も込めて。
髙橋健太郎
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kariyado-lab · 5 years
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第13回 これから社会で生きて行くために
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第13回 これから社会で生きて行くために
2019年7月18日、最終講義まであと1回。 ついにここまでやってきたか、という感想を抱きながら講義は始まった(と、抱いているのはこのブログを書いている高橋の主観...)。
さて、本日はまず「苅宿さんやっちまった!」というところから始まった。
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それは何故か、、、
本来20分の座学のところを、60分も使ってしまったのだ。 その結果、、、
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これには苅宿先生も良いのか、悪いのか、と前置きをしながら、正直な感想にとても嬉しく思ったようだ。でいて自分がしなければいけない反省をしたようで、、、
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なるほど、、、 ということはである。
僕が書いた前回のブログも長いものになった、、、 こっちは書き終わった後、ものすごい達成感を感じた。
にもかかわらず、内容が果たして皆に響く程伝わるのか、いや、どうだろう、、、
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そうだ、「答えは自分の中にある」!
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本当にその通りで、、、答えは自分の中にある。ということだろう。
実体験を通っているからこそ、座学の中で言われている概念がしっくりと理解できる。すでにこの座学の内容を実体験で自分の皮膚感覚に混ぜ込んでいる、その分、座学を聞いていても「それ知ってるよ」となる、ということだ。
というわけで、
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そして
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苅宿さんでも失敗する。だけどそんなときは失敗をも教材にしちゃうことで、学生たちにはまた違う角度からこの講義というものを見せる。そして失敗した時にどうしたら良いかわかる。開き直るのだ。
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とは言っても学生たちもそれを理解し始めている。
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そう、だからこそ学生たちには、とにかくやってみてから後悔するなりしないなり悩めば良いのではないだろうか、ということを苅宿先生は常に言い続けている。
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そして先週!どっきりしました!というお話。
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どういうことか。 ナンジャモンジャゲーム。
ほとんどの人が楽しんでくれた。
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しかし、、、
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本来、20分で終わらすべきところを、60分に伸ばしてしまったものだからほとんどのワークを出来ずに終えてしまい、無理矢理「ナンジャモンジャゲーム」を入れたのでした。
実際に僕も前回のブログを書きながら、あれ、どうしてこの脈絡からこれに(突然始まった感じが拭えなかった)、、、と思っていたり、、、
で、その時間に一体、何を見せたかったかというと、ワークショップデザインとゲームデザインには様々な種類がある、ということ。色んなゲームをやるこことで「面白い」と感じさせるデザインの多様さを見せたかったのだと。
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ロジェ・カイヨワの遊びの定義。
「『遊びと人間』が有名で、カイヨワはその中で「遊び」を〈アゴーン(競争:文字通り徒競走など)〉、〈アレア(偶然:ルーレットなど)〉、〈ミミクリー(模倣:演劇やRPGなど)〉、〈イリンクス(眩暈:絶叫マシーンなど)〉の4種類に分類して考察している。(wikipediaより抜粋)」
「遊び」というのを上の4要素で分類したのがこのロジェ・カイヨワだった。
ロジェ・カイヨワの定義の中でのナンジャモンジャゲームはとても面白い分類に入る、ということを説明した上でゲームをやってもらう予定だったのが時間の都合上それを省いてしまったので突然感が増してしまっていた、というものだった。
ではワークショップデザインとは何か
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ワークショップというのは仲間作りのための他者理解、合意形成のエクササイズという定義付けがされている。それをコンセプトワークというのがあって、それを比較してもらいたい。そのコンセプトワークというものを体験してもらう。ということで、、、
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で、このコンセプトワークをベースにしたゲームは単純に「遊び」を目的としてきているわけではない。互恵性と排他性を含ませている。ゲームを通して「身につける」という言い方ではしっくり来ないと感じるけども例えば、物事を考える力というようなことを体感してもらえる、それがコンセプトワークのゲームだ。
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では早速、ゲーム開始!!
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この様にほっぺあるいはおでこに貼って行く。
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で、貼られた丸いシールをもとに仲間を作ってグループを組む。誰も一言も話さずに組んで行く。そう、喋らずに組むというところがみそ。
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そしてグループを組むことが出来たら、お互いに自分の顔も名前ももう知っているだろうけども、あえてここで自己紹介。
そしてこれが終わったらもう一度、違う経験として違うタイプのシールを混ぜながら同じようにグループを組んでもらう。組んでもらったら、今度はそのグループ分けを行ったのは、どうしてなのかを語り合ってもらう。
互恵のワークと排他のワーク
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このワークは互恵と排他という相互にかかわり合う概念が表裏一体となって両立する。
互いに見合って、あなたはこの人と一緒、そっちと一緒、とくくっていくことは出来るのだけど、結局シールを貼られた側は誰もが助けを必要とする。どれだけ他者を分類できても自分自身のことはわからない。だから誰かに助けてもらう必要がある。そういう意味で、このワークには互恵の概念が入れられている。
実に素晴らしいことなんだ。だけれども、、、
排他のワークとも呼べるものになっている。
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実はこれは同じものを求めるという気持ちは、違うものを排除している、ということと同義なのだ。だから最初、このワークを行う時に起きることはまず何よりも排他なのだ。
例えばボスニア紛争、ボスニア人やセルビア人がお互いをある日から敵視し始めるという現実の問題を念頭に、このようなワークを考える。
そこを、円環のワークという発想で転換する。 排他にするのではなく、これは円環、つまりはどこかに共通する観点を見つけて行く。わずかな共通点を見つけてグループ、仲良くなるという、これは考え方の違い、違うというところ、相違点を見つめ続けて排他性を強めて行くのか。そうではない。どこかで共通する箇所を互いに積極的に探していこうじゃないか、というところに着目する。それがこの円環のワークの狙いだ。
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これは国際紛争を解決するものの考え方と同じ試行錯誤の方法を実行しようとしている。自分が信じる宗教、性別などあらゆる属性をもとに私たちは分断を進めている。現代は”批判すること”に重きが置かれ、超えられるトレーニングをこのコンセプトワークを通して学生たちに学んでもらった。
例えば色が同じというグループ。かたや別の色のマルの中に同じ色のマル。あるいはマルが2つあるグループなど、見方によって同じ仲間に慣なれるよね、という考え方。
このワークを進めて行けば、自ずと自分と違うところ、ではなく、同じところはどこなのか、共通点はどこなのかを必死に探そうとする。
そしてマルというカタチを共通にすれば最終的には全員が一緒になれる。そういう風に円が作れるように出来ていて、これがコンセプトワークという。ある目的のために効率的にどのようなコンセプトを作って行くか、デザインして行くのか。お互いに助け合う、互恵を意識する、そしてさらにそこの裏には排他という意味も有りますよね。実はこれを無意識に我々はやっていますね。ということを考えさせられる。
そこで排他を円環にして行くのは自分たちの意志で決められるのだ、ということを活動として私は念頭に置いてやっている、と苅宿先生はいう。
会社の部署間のズレや齟齬もそれを補正して行く、それがこういう概念やワークを知っていることで出来るのだ。
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ということで今度は自分で「円環」する仕組みのシールを作ってみよう!
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ということで学生たちにやってもらった。
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これは対立するものを、どう共通項を探し、解決して行くかというもの。
国家間の問題、紛争解決にもし共通する項を見つけられれば、そこで一致できるのではないか。現状があまりにもお互いの違うところに着目しすぎているのではないかという発想を着想のスタートにしている。
これは大いにあり得ることだと思う。 ネット、twitterやyahooニュースを見ると必ずと言って良い程、匿名での批判、あるいは顔が見えないことを良いことに差別的な発言が現実の問題としてそこに現われる。そしてそのネットの中での言説はあたかも真実かのように拡散され、多くの人々が勘違いを起こしやすい。かくいう、このブログも、ファクトを示していないと全く同意できるものとはならないのだけど、、、
かたや、現在の教育現場で行われている、対立を探すのではなく、妥協点やあるいは共通点を探す前向きな教育に、とても難しさを感じる部分もある。それを端的にこの記事が捉えているので紹介したい。
「コミュ力重視」の若者世代はこうして「野党ぎらい」になっていく (現代ビジネス 野口雅弘氏による記事)
21世紀も四半世紀が目前に狭り、アジア太平洋戦争を経験したあの時代から75年が経とうとしている。にもかかわらず世界では未だ紛争が絶えず、国家を主導する為政者たちは大きな声とその力を行使して、それに対抗する術を持たない、あるいは持てる状況にない民衆を煽り、分断し、自らに都合のよい事実を報じている、ように感じる。
このブログを書いている2019年7月19日現在、日本では今週末に参議院選挙を21日に控えている。安倍政権になってどうしてか、「野党は批判ばかりしている」という言説が日本社会で出来上がっているようだ。それはもしかしたらこの政権が6年も続いて来たことと起因するのかもしれないし、投票率を見ても野党に投票している人々の数はこの6年ほとんど変わっていない。個人的にはそれは日本社会全体が現状を黙認しているような状況といっても良い気がしている。
その中でこの上のリンクの記事ではとても良いなと思う部分に言及している。詳細はぜひこの記事に飛んでいただきたいのだけど、概略としては、今の「アクティブラーニング」にスポットを当てた教育を推し進めすぎると、同調過剰という現象に陥り、「批判」を拒絶しかねないということだ。
程度にもよることは前提とした上で、批判を批判として受け入れる努力を、批判される側も一旦自己の中にその問題意識を共有できなければ、ことは改善できないのではないか、というものだ。それが現状、「批判をする」ということは、コミュニケーション能力や空気を読むということを謳われる世代にとっては自然と拒否反応を起こしやすい。だからこそ、若者世代は野党嫌いになってしまいかねない。ということだ。
と、脱線しすぎたかもしれないので戻します...
では次に、こちら。
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カードゲーム系のワークは様々なコミュニケーション系のワークショップで使われている。まずはこの動画を見ていただきたい。
はぁって言うゲーム
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幻冬舎エデュケーションのサイトより
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「今言った「はぁ」は、怒ってる? とぼけてる? それとも、感心してる? 与えられたお題を“声”と“表情”だけで演じて、みんなで当て合うパーティーゲーム!
例えばお題カードが「はぁ」だった場合、【怒りの「はぁ」】【とぼけの「はぁ」】【感心の「はぁ」】など各プレイヤーに異なるシチュエーションが割り当てられるので、身振り手振りを使わずに“声”と“表情”だけでお題を表現し、お互いにどの「はぁ」を演じているか当て合います。
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このゲームにとりかかってもらった。これもコンセプトワークのひとつだ。
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ではでは、これらのワークはどのように外で活用されているか。それがこの下に続くスライドだ。
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今、苅宿研究室は主にこのALE学習活動の考え方のもとあらゆる教育機会を様々な場で提供しようとしている。
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苅宿先生は常々、アートを「使う」ことに重きを置いて来た。それはアートを使えるようになることが個人にとってもこの社会で生きて行く上でとても重要な位置を示すのではないかと考えているからだ。
自己表現をできるようになる主体/個人が増えることで、それぞれがより良い生き方を自身の中で持てるようになる。自己効力感という言葉で集約できるかもしれないが、それを自分の中で培うことが出来れば、それなりに社会の荒波に揉まれようとも、自分を保つ力が高ければ傷付く可能性を限りなく減らして行くことが出来るのではないかと考えている。
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読んでいただければだいたいのことはご理解いただけると思うが、
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そしてこれらの研究やファクトを元に、鳥取市立鹿野学園義務教育学校で「表鷲科」という科目名で実際に学校教育の中に組み込まれている。あるいは新潟でも表現ワークショップの授業を実践として提供している。
この研究の難しいところは、客観的数値を研究の成果としてどう表して提示するかということだったが、それを苅宿先生と苅宿ゼミの学生たちは量的・質的研究両方をワークショップの中で上手に掬い上げ、成果として提示している。それはワークショップに参加した生徒たちの、ワークショップ後の感想、振り返りシート(リフレクションシート)というカタチでデータ化したり、あるいはそのファシリテーターたちの発話分析を行って、キーワード毎にその都度、授業を受けている側の児童・生徒たちは何を感じたかを映像などを用いて客観的に提示できるような研究のスタイルから成立している。
これは僕が学生の頃にはまだ見られなかった研究・分析方法に思う。
残念ながら更なる詳細は授業を受けられた学生にしか見せられないのだけれども、、、
さて!!来週は!!!!!
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ということで、、、
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お題は、、、
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そのためにも、、、
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ということで、次回の授業で使う背景用のポートレートを撮影しに行った。
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さて、今回の講義はここまで! 残すは最終回!!
乞うご期待!
今回も写真は全て現在大学4年の苅宿研究室ゼミ生、シメジくんとシュンくんがiPhone Xを駆使して撮影している。良い写真をありがとう!!
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kariyado-lab · 5 years
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第9回 メディア表現を”楽しむ”
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第9回 メディア表現を”楽しむ”
梅雨時期のじめじめ感が本番に差し掛かってきた。このブログを書いている現在も、O棟の119号室は妙な臭いが漂い始める。今年の3月まで苅宿研究室に在籍し、研究員だった大道剛(おおみち ごう)も常々ぼやいていた。この部屋は臭うときがある、と。部屋に常設されている除湿器のおかげで多少は消せているものの、何故かそれでも立ち上がってくるこの妙な香り。梅雨の時期ならではと信じたい、と思いながらブログを書き始める。
2019年6月20日の講義は2回目のメディアワークショップということで逆転時間、コマドリ、そして今回はそれらをプレゼンワークスというもう一つのアプリを駆使して、動画と動画を繋げて物語を紡ぎ出す。しかしその前に座学、苅宿先生のお話から始まった。リフレクションペーパーを見返すところから始める。
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「良い作品を作ろうとすると、完全に楽しむということが出来ない」というような感覚を覚えた学生がいたようだが、とても良い気付きでこれが答えだと苅宿先生も講義中に取り上げた。というのも、再三このブログ内でも書いてきたが、日本の義務教育過程の中で「評価」を受ける軸というのがどのように形成されてしまっているかと言うと、やはり何かを「上手く出来ているか」どうかなのだ。それが例えば「楽しめているかどうか」を評価するとはならない。日本の現行の点数の付け方だとどうしてもそうなってしまう。だから学生たちもほとんどが何かをやろうとなると、それをうまくやろうとしてしまうし、上手くやって褒めてもらうという行動原理になってしまう。もちろん、上手くやるに越したことはない。だけれども、それをうまくやるよりも楽しんでやるという感覚がないと、この後の人生、いつまでも生き辛くならないか、という一種の問題提起がこの苅宿先生の講義・ワークショップなのである。と勝手に私は思っている。
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そして話は教育学へと向かい、ミッシェル・フーコーによる『監獄の誕生』が紹介された。市民革命以降の囚人の監視体制だ。フーコーはこの著作の中でジェレミー・ベンサムによるパノプティコンを紹介している。これは刑務所のひとつの形態で、どういうものかというと監視塔が中心にあって、その周りに牢獄が監視塔から常に監視できるような設計となっている。それを近代の学校の中に見ると、単に人々を抑圧するのではなく、むしろ人々の力を上手く引き出すことで成り立っている。学校は監視、賞罰、試験の3つのメカニズムによって、少しでも良い点数を取りたいと望み、そのため自ら進んで律する主体的な人間へと形成されて行くという考察だ。
そしてそれは同時に今ある秩序を支えるために進んで自分の自由を手放し、今ある秩序に「主体的」に服従することでもある。このようなプロセスをフーコーは、<主体化=服従化>と呼んだ。つまり、社会学ではこの体制を批判し近代学校が果たしてこうあるべきか、と指摘した。
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それらも加味し、この講義では、現在の日本の教育から脱却することを目的にしていることを話す。目標の階層性という概念で、受講されている学生たちがこの授業を通してコミュニティづくりを学ぶ、その活動目標と学習目標を経て、最終的な目標として、その結果、多元的・多面的な自己に気付いて行く。という流れの講義になっていて、そしてこのような経験を経るということが実はデザインされていて、そしてそれは皆さんにもデザインが可能ということを受講されている学生の皆さんに知っていて欲しいと繰り返し強調する。
何かを成し遂げるためにそれをデザインできるんですよ、ということを苅宿先生は常に繰り返す。ここらで学生たちは自分が無理なくその行動を環境的要因によって、デザインによって自然と自分たちがこの講義で面白いと感じ、やらされている、という感覚ではなく、自分たちが主体的に動いてやっている、という感覚に気付かせようとしている。そしてそのような資質は人間が本来生まれながらにして持っている感覚なのだと言う。ただそれが引き出せるかどうかだけで。そして引き出すためにも環境がデザインできるかがとても重要なのだ。
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そのようなことを実は赤ちゃんがとある実験で証明してくれている、と言ってある番組を少し流す。
こちら、「ケアエコノミー~慈悲の経済 “子どもたちは利他的に生まれてくる”ルソーの性善説とボッブスの性悪説」のサイトにその実験が要約されていたので引用させていただく。
「大きな目を付けた木製の人形が、急坂を���るのに苦労していると、別の人形が入ってきて、後ろからそれを押すことで助ける。次に、これとは簡単に区別できる また別の人形が登場し、斜面を登ろうとしている最初の人形の邪魔をして、それを底に落とす。乳児に、二つの人形を手渡すと、ほとんどが親切な方の人形に手 を伸ばす(3p210)。この実験から、子どもたちはいずれも助けるキャラクターを好むことがわかった(4p175)。」
つまり赤ん坊の段階でそれなりに人は協力して何かをすることに好意的な価値観を感覚レベルで持っているのではないかと言うこと。そしてこの講義を体感して、受講生たちも一人でやるよりも皆でやっていることで自分一人では得られない何かを体得しているということがリフレクションからも把握できている。
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そして改めて記すが、イェール大学のカレン・ウィン教授が仰っているように、赤ちゃんは「他者を助けて協力した方がよいという感覚を理解してい」る、みたいだ。
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そしてその結果としてどのような作品を皆さんが生み出してきたか、例として流した。これを流すことで自分たちの作ったものを客観的に観察できるということもこの一連のデザインのひとつだろう。
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そして今回はこのあとまた卓球場に移動して、映像作品作りに取り組んでもらった。ただし、今回は前回とは違って、最後にプレゼンワークスというアプリを使い、一連のストーリーを作ってもらうこととなる。なので楽しみつつ、それを完成させるという異なる軸をもとに作品作りに取り組む。
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先週の回で、上手く作ろうとしてしまうと上手く行かなくて、とにかく楽しんでいる自分がいると上手く行っているということに気付いていたとリフレクションであったが、果たして今回、学生たちもそのようにできるのか。
写真でぜひ、お読みいただきたい。
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ちなみに大学院生の青木均之くんはこの様に写真を撮影し、頑張っている。そんな彼は来年からとあるウェディングの会社に入社し、多くの方々に幸せを提供し、その会場をデザインする側として働き始める。その彼がこの様に、紹介されていたので、お時間ございます方はどうぞ、下のリンクをクリックしてお読みくださいまし。
”金の卵”
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いったい何が起きているのか、あとで動画で確認してみよう。
にしても大学生が授業中に何をやっているのか、と思われるかもしれない。 しかし、この写真だけ見て、本当に中に写っているものを読もうとすれば、実はどの瞬間も彼女ら彼らが何かに気付いて、学んでいる瞬間なのだ。そうするとこの写真たちがどうだろう、さっきまでと少し違って見えないだろうか。
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そして教室へと戻り、各グループが作った映像作品の視聴会に。
ここからいくつか紹介させていただく。
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まずはこの班。 なるほど、こういう使い方があったか。某カードゲームアニメのシーンを彷彿とさせる、とても物語性の高い作品だ。ここにアフレコを実況がいるかのように見せることで見てる側が常にこの映像の展開に目を釘付けにされる。また、攻撃力のアンバランスさも不可思議でくすっと笑いを誘う。
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次はこの班。 こちらもアニメ作品からの一品だがその中の小道具や映像の場面切り替え、また「逆転時間」というアプリそのものを秘密の道具にしてしまうあたりもとても良く出来ている。
そして最後にこの班。
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ご覧いただければわかると思うが、ここは他の班とは全く別の使い方をしてきた。これがモノクロであったなら一昔、いや100年前ぐらいの無声映画に見える。とても秀逸な作品だった。動きと時折入る字幕だけで何が起きているかを見ている側に届かせ、その後からはなぜ?なぜ?とこちらの笑いは止まらなくなる。
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というように、グループやメンバーによって様々な発想のもと、映像作品作りが行われた。今回が実質的に最後のワークショップの授業だったが、学生たちはこれでもかというくらいに笑い、楽しめていたように思う。
そして何よりこれを学生たちがデザインされた中で実際に彼ら自身がやり遂げて、自分たちで当初見知らぬもの同士だったひとたちが、ここまでに愉快に一つの作品作りを何度もやり通すことで文字通り仲良く、そして互いに協働しながら作る過程の経験をしてしまったのだ。この体感は今後の学生たちに取って、一つの指針になり得るだろうと考える。
社会に出た時には知らぬもの立ち同士が何か課題を解決するために協働で作業を行うことがほとんどだ。それに立ち向かえる準備をここで、この講義で軽くかどうかはわからないが、やり遂げてしまった。
そのおかげか、リフレクションの中でも「誰とでも話せばなんとかなる気がしてきた」といった趣旨の言葉を書いてくれる学生が多かった。そしてそれは苅宿先生が意図した学生たちに自分の身を以て得てもらいたいことのひとつだった。
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ポートフォリオタイムでは各々感じたことを改めて書き留めていた。
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そしてさすがはデジタルネイティブ。Airdropで撮影した作品をお互いに送り合っている。
と最後は写真と映像だけで見せてきてしまったが、この講義のみそがここにった。集大成と言っても過言ではないかもしれない。
まさに苅宿先生のやりたかったことはここで一段落つく。 2回の演劇ワークショップ、2回のダンスワークショップ、そして2回のメディアワークショップ。この間にそれぞれ省察の回を入れてここまでやってきたがそれはもう先日のブログで書かせていただいた通り。その繰り返しを経て学生たちは自分とは何か、自分の多元性、他者、自己と他者の違い、といった言葉の中に哲学的なものも相まり、この社会のことを学んで行く、そして今までのテストのために勉強さえすれば良い、という教育だけでは得られなかった価値観、気付きを得て行く。
もちろん、ここで考えなければならないのは、全ての人が等しく同じ感覚を得るわけではない。つまり、誰もがグループワークを得意としているわけではないし、また誰もがこの過程を経てグループワークが得意にな���て行くわけではないということだろう。これはとても難題なのでこれ以上は書けないが、これはこの社会を生きる上で誰もが考えなければ、知っていた方が良い考え方かもしれない。私もこれは考え続けている。
さて、既に9回の講義を終えてきたわけだが、あとの4回は教室内での座学を中心とした手と頭を働かせるワークが中心を占めてくる。どのような講義を迎えて行くのか、今からとても楽しみだ。そして学生たちがこの全講義を終えた後、どうなっているか...。
ではまた次回。
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kariyado-lab · 5 years
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第10回 ”楽しむ”とは何なのか
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第10回 ”楽しむ”とは何なのか
2019年6月27日の講義は前回のメディア表現ワークショプの講義を振り返り、「省察」を行った。2019年も6月が終わる、ということはもう半分しか今年が残っていないのだ。といっても大学生が感じている半年と29歳の自分、そのさらに上の苅宿教授などが感じている半年はもっと早いのかもしれない。
まずは受講生たちから毎度、講義後に回収するリフレクションシートからの振り返り。
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まさにWANIMAの『やってみよう』。とりあえずやってみることで、なんとか結果は生まれるものだと気付いた学生がいた。
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「楽しむ」ことであらゆる可能性を広げるというようなこと。この楽しさの中に苅宿教授は「没入感」っていうものを感じられる、という。自分のやっていることに楽しさを感じ、それに没入することができる。その環境やその個人の資質はどういうところから来るのか。それを��が自分自身に問えるようになってきている。
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問題解決の弱点。それはネガティブな方に、欠点ばかりに目が行ってしまい、それだけで全てが回ってしまうように思考が陥ってしまうことにある。ここから深められるならば、どうしてあるできごとが上手く行ったのか、を考えることなのだと苅宿教授はいう。つまりは良かった点はなんだったのか、を起点に考え、それを伸ばすという方法に近い。そしてとある成果を再現することができるのかどうか、というさらなる問いかけ、研究へと結びつく。
そして講義は次のフェーズへ。苅宿研究室に所属するゼミ生から���た、受講生たちの様相の振り返り。
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ここで受講生たちが自分たちを映像で振り返ることであの時、自分はこういうことを発していた、そしてその言葉がその場でどのような役割を果たしたか。それを感覚的にだけでなく、頭で理解することで今後、同じ様な場面に出くわした時に自分が取るべき行動、あるいは発する言葉にまた違う側面をもたらせる。
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普段私たちは何気なく会話をしている。意識的にその時に発した言葉がその場でどのように周りに反応されたかということはあまりにも感覚的で後から振り返えらない。こうやって映像で自分を客観的な視点で見つめること意義はとても深い。
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また、映像化されると言葉でわかること以外にもわかることが多い。これは重要な点だ。ビジュアルランゲージと呼ばれるもの、非言語的な内容だ。これを元に、苅宿教授がやろうとしている教育:目標に向かって頑張る力、他の人とうまく関わる力、など、テストの点数や既存の成績の付け方では人間は測れないという立脚点から、人として生きて行く力、すなわち非認知的能力を高めるためには何が必要なのかを理解することに役立てようとしている。
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次はギャップモニタリングだ。同じグループ内のメンバーにそれぞれがお互いに向けて「◯◯さんはこういう特徴があるよね」ということを、「◯◯さん」の部分を書かずに付箋に書いて行く。最後にその言葉が書かれた付箋を相手にギフトするのだけど、それを誰に向けて書いたのか、受け取る側はこれは自分かな?と予測しなければならない。
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一種のゲームみたいなものだ。
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そして書き終えたらお互いにそのメッセージ、あるいはギフトが、誰に宛てて書かれたものなのか、を当てて行きます。
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お互いに「答え合わせ」の様な時間を作り終えたら今度はそれを今度は自分が思ったこと、感じたことを紙にまとめて行く。
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このような作業をやることで、本人も気付かなかった「自分」に気付いて行く。なるほど、自分はこういう風に見られているのか、というように。と、この辺りは実は半年間の講義でこのような自分の中にあるものをあぶり出す作業を繰り返し行っている。
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じゃあなんでこういった作業を、苅宿教授の講義では行うのか。先ほどの非認知的能力を高める、ということに尽きるのだけれども、それだけではない。
それを理解して行くためには苅宿教授の「場のデザイン」の視点からを学ぶ必要がある。そしてこの講義は「君たちに役に立つということが大事だと思っていて、講義内で身につけられるものとして、自分がひとに自分とは何者なのかを話す時のエピソードを提供できれば良いなと思っている」と苅宿教授は伝える。
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そこでこの講義のミソとして、知識などを頭の中にインプットするよりも、自分たちの中に既にあるものを引き出す、アウトプットをメインに身につけられるようにデザインされている。
「このアウトプットには必ずと言っていい程、他者を必要とする。」
そこで苅宿教授は自分の実践を説明する。
教師はそのような場作りをデザインする側の人間で、この講義を受ける方々はそれを存分に生かして自分というものを探す、見つけることを思いっきりやってくれれば良い、という。
例えば前の講義のリフレクションで「授業内に中だるみが生じてしまったらどうするか」という質問を受け、そこには実はとてつもない微調整をしたりしているのだという種明かしをする。裏でスライドを取り除いたり新たに加えたり、と。時間によってその内容を省くかどうか、学生が今、こっちに熱を持っていそうだったら違うスライドを加えよう、などしている。
そこで講義を面白くできるかどうかも実は受講生が提出するリフレクションシートに懸かっていることを告げる。
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そして「私は入れ子構造というものを重視して授業をしている」という。 例えば表現活動をしたらそのあとに省察の時間を設けて、何度も何度も何度も同じ様な作業を繰り返していることに言及する。
これはなぜか。
それは、何度も繰り返しやって行くことで”自分”というものに気付いて行くきっかけを作って行くことに繋がる、ということを苅宿教授は経験的に知っているからこれを好んで取り入れているようだ。
このように、自分の得意技を知って行くことができれば、自分の生き方やものの考え方も変わってくるのだと伝える。
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大学の教授になる前、まだ小学校の教師だったとき、NHKに追われていてた時の映像を見せ、あえてここで軽い笑いを取りに行く。というデザインをここで見せる。
つまり、「デザイン」するということはなんなのか。それは、デザイナーと呼ばれるひとたちだけがやるものではない、知らず知らず皆さんもやっているはずで、だけどそれを自覚的に自分自身のものとして扱えるようにして欲しいのだ、と。「場のデザイン」あるいは「学習環境デザイン」というようなことをここで伝える。
「デザインに基礎も応用もなく、私は皆がデザインが好きだ、と、デザインしたいと思ったらもう既に始められるものだと思っている」
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苅宿先生も色々なことを試してきたのだ、と。 その成果として書かれている内容がこの紙に少し書かれている。 またこの写真の苅宿先生の後ろのスライドに書かれている、「語れる△」も苅宿先生自身で培ってきた経験に基づくツールだ。
人間が、理解をするということはどういうことか。
そこに没入して行くことに学習が生まれる。この学習観にこそひとつのヒントがあり、これはそれを先ほどの小学校の教員時代の映像に出てくる当時の苅宿先生の時から考え、試行錯誤してきたのだという。
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人間、「知りたいと思うことは知りたい」という知的好奇心をどう、さらにその先の知の探求へと結びつけられるのか。学習観と認知科学、非認知的能力を結んだ概要がこの紙に書かれている。
そこでとても重要になってくるものがある。何かというと、受講生から返ってくる「リフレクションシートがこの授業は命で」、「来ているひとたちがどれぐらい満足しているのか、そのリフレクションシートを元に測って」次はこうしようあぁしようと変えている。
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これは苅宿教授が小学校の先生だった頃に実践していた時間割だ。学校の授業を通して「自分らしさ」をどうやって獲得して行くのか、ということが苅宿先生のテーマなのかもしれない。
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そして「語れる△」の登場だ。 受講学生一人ひとりに語れる△を持ってもらってこれを元に自分を語ってもらう時間だ。
この語れる△は上位概念と下位概念で成り立っている。
例えば上位概念に好きな食べ物「オムライス」を当てはめてみて、下位概念に理由を3つ持ってきてそれがなぜなのか、を語る。単純化した例だが、オムライスが好きな理由は3つあって、ひとつには卵が好き、ふたつ目にはお米が炒められているものが好き、そしてみっつ目にはケチャップが好きで、これらを合せたものは実は和食と洋食の融合でだからオムライスが好き。という帰納法的な答え方だけどもそういった使い方が出来る。
これはロジカルシンキングを図形化して俯瞰してみる、という作業だ。(さらに、何か物事を考える時にモノをいじって考えるということをやってみると以外と思い浮かばなかったことが考えられるかもよ、というきっかけ作りという仕掛けが内包されている。)
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そしてそれぞれ、自分のことを語れる△を使って発表して終えたら、今度は今各々が別けられていたグループのキャッチコピーをこの上位概念と下位概念という発想を元に考えてみよう!ということをやる。
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その班ごとにキャッチコピーを作ったら今度はそれを違う班の学生たちに発表してもらう。
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これも今までの省察でも行ってきたことだけれども、これは今回のブログ内でも取り上げたように、苅宿先生の大好きな入れ子構造の考えのもとたびたび行われている。芸術体験活動をする、省察、その活動はなんだったのか、自分は何をしたのか考える、プレゼンする、そしてそれをまた、芸術体験活動をする、省察、その活動はなんだったのか、自分は何をしたのか考える、、、と繰り返すことで体得して行き、学生たちの既に持っている内発的な発想力や表現力を存分に引き出そうとしている。
そして今日も各自のポートフォリオを完成させて講義終了。
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ではまた、次回の講義で。
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kariyado-lab · 5 years
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第8回 アプリを駆使して映像メディア表現を考える
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第8回 アプリを駆使して映像メディア表現を考える
6月半ばになりかけてようやく夏の陽気が漂う、と思いたいのに、実際には梅雨まっしぐらのような気配がする。そんな中でも今日は快晴だ。
2019年6月13日、8回目の講義。今日はメディアをテーマにワークショップを行う。前回、省察のワークを入れたことで体がワークショップを欲していたのだと思う。省察込みでのワークショップだけれども、やっぱり体を動かして何かを作るというのはとても有意義な時間だ。
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と言っても今回も省察回のように座学から始まる。
自己紹介をしてもらう。 ただやってもらうだけでもつまらないので、ここでカタルタというツールを駆使して新たに自己紹介をやってもらう。これは先週の回でやってもらおうとしていたことだが、時間がそれを許さなかったため、今週に持ち越された。
このカタルタというのは54枚のトランプのようになっていて、オモテ面には「そもそも」「偶然にも」や「もし」など54種類の接続詞、副詞等がプリントされている。
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そのカタルタを各自が5枚取り、出てきた接続詞などに合せて即興で自己紹介をする、ということをして行く。このワークは結構インパクトがあったようでリフレクションペーパーにも多くの方が書かれていた。
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例としては、「私の名前は髙橋健太郎です。」
一枚引いて「もし」が出たとする。
それに合せ「もし、私がチョコレートを嫌いだったら、、、」
そしてもう一枚引いて「そもそも」が出たとする。
「そもそも、なぜ私がチョコレートを嫌いになったか、なんてことを言い出したかと言いますと、、、」
というように続けて行く。常に即興性を求められる。この様に素早く反応することは、自分を見知らぬひとたちの前で表現するグループディスカッションの場であったりとアドリブを求められる様々な場所で役に立つ訓練にもなる。そして出てきた接続詞に対応して行く中で、あ、こんなことも言えるな、あんなこと考えられるかも、などと色々な制約を設けられることで逆に様々なアイディアが浮かんでくる可能性があるみたいだ。(NAVERまとめ カタルタ より)
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実はこのカタルタをやる時、苅宿先生が例として話をしていたのだけど、長年のパートナーさんのことを話題にされた。ここで少し、その中身を紹介したい。
「せっかくだから」私が一番好きなものを紹介しますね。
「残念ながら」時間が限られているので長いこと話すことは出来ないのだけど、
「結局」かみさんの話をすると、盛り上がるんだけど、そういう印象しか残らないのはわかっている。
「だからこそ」一番大好きなかみさんの話をしようなと思う。
「だから」君たちも話したいのだけど話せなかったことをぜひこれを使って話して欲しいのだけど。私としては大学一年生の時に出会って、もう40年ぐらい一緒にいて、結婚式を上げるまでお金なくて大変だったけど。彼女がいなかったら私はひとのことを受け入れられるような人間にはなれなかったんじゃないかな。なんで私がワークショップデザインとか人と人が出会うことをやっているのか、というと、もしかしたらその原点は彼女に受け入れられたということがあるかもしれない。
というようなエピソードを紹介されていた。
余談だが、いつも私は誰かの「妻」である方のことを人にどう紹介すると良いのかとても迷う。例えば私の友人Aとその妻のBがいるとする。そこにCが現れ、そのCはAもBのことも知らない。私はそこで「こちら、僕の友人のAとその妻のBさん」とCに紹介したら具合が悪い。人様のパートナーを「妻」と呼ぶわけにもいかない。「女房」も違うだろう。ならば「奥さん」?いや、奥さんだと「家の奥にいる方」という印象が強過ぎて、男女平等が求められる今の時代にそぐわない。「家内」も同じ意味な上、これも人様のパートナーの呼称には適していない。「かみさん」はどうか?そう、苅宿先生は自分のパートナーのことをかみさんと呼ばれていた。
ここで気になったので調べてみた。
こんなサイトを見つけた。 妻?嫁?女房?奥さん?家内?かみさん? (日本語教師の広場)
なるほど、「かみさん」には「目上の人」のような意味が含まれているのだ。 ならばどうも正解はかみさんっぽいな、と思えてきた。決して相手を下げず、むしろ上げてしまう。平等と言いながら上げていいものか、と悩まないわけでもないが、下げるよりはよっぽど良い。自分のパートナーのことを「こちら私のかみさんの◯◯」という紹介が最もベターなのだろうと思う。
と中身から逸れた話をしてきたが、実際にはパートナーという言葉の方がもしかしたらしっくり来るかもしれない、と思うほどパートナーを何度も使ってきていましたね...
とは言え、これももう少しちゃんと辞書を当たって調べる必要がありそうだ。時間がある時にぜひともしてみようと思う。
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いずれにしても苅宿先生の「かみさん」のお話はなかなか良い話で、学生たちもしっかりと聞き込んでいたようだった。
その後のお題としては「10年後にこのクラスで同窓会をやることになったとします。その時、あなたは周りのひとたちと何を話すか。」ということをお題にしてカタルタを続けた。彼らの10年後というと、私の今の年齢と同じくらいだ。私も10年前にはこの大学で同じように学んでいたと思うととても不思議な気持ちになる。当時、苅宿先生はまだこのような講義はしてなかった。だからこそ、この講義を学生の時に受けていたらまた何か違ったかもしれない。たらればだけれども。
この後にリフレクションペーパーを皆で見直す時間を設けて、この講義を受講している学生がどのように感じていたかを客観的に振り返って行った。
前回の座学に対するリフレクションの中で、「座学のため眠くなってしまった」「眠気に負けました。ごめんなさい」など、正直に語るものから見せていたが、ここで苅宿先生は言う。「眠気を感じさせてしまっているのはこちらの責任もあるのでもう少し頑張らないとだめだなと感じた」と。
昔、私が大学に在学していた時には苅宿先生はこれを”自己原因性”と言って、自分に原因があることをまず考えるという視点から捉えた考え方を実践していた。つまり、この講義で眠くなってしまったのは、授業をやっている先生側に原因があるのだ、と。社会に出るとわかるが、これは中々持てる視点ではない。なぜなら自分に非があることを認めるのを嫌がる性質を人間は持つみたいだからだ、私含め。
そこをいかに、自分の非を認めるか。写真家でもある私はよく考える。なぜ、instagramのフォロワー(6月13日現在、1780人...)が伸びないか。決して伸ばすことが全てではないが、少なくとも写真の道を歩んでいる以上、10Kフォロワーぐらいは欲しいと思うもの。でも内実、そこまで増えてはいない。それは私に非があるのか、それとも私の外に非があるのか。それを考えると、例えばアイドルの人間がinstagramをやっていたら、そこには何万とフォロワーが集まって行く。もちろん、表現の手法も、載る媒体も人間も何もかも違いすぎるが、やはりそこにはその人間をフォローしたいと思わせる魅力とは何かを考えなければならない。それを理解するためにもまずは自己原因性を捉えるということは一つのキーになる。
もちろん、この自己原因性も全てに当てはまるわけではないからその時々になると思う。例えば、自分の生活に余裕を持てていないのは自己原因性で行けば自分に非があることになるが、実際には社会構造上、生活に余裕を持てるような設計が既にされていなかったりする。その場合どうするか。とにかく必死に耐えて制度を変えるしかないのだ。あえて深くは触れないが、3.11以後の原発、避難されている方々の声を私は直接聴く機会を得た。それらは私にとっても初めて、実態を持つ無力感を感じさせることとなった。それらは果たして自己原因性に求めることが出来るかと言えば、当然ながらそんなわけがない。何故なら、人間は生まれる場所を選べないからだ。つまり、生まれた瞬間から人間はその社会的要因や環境に依存してある程度暮らさざるを得ないのだ。
と、話を講義に戻す。
このワークショップを経て、多くの方々が見知らぬ人たち同士から、顔見知り、そして親しみを感じて例えば校内を歩いていたら挨拶をする程の仲になっていたりする。そしてその関係性を自分たちで作って行っていることに苅宿先生は大きな喜びを感じているという。そしてそのような経験を体感的に作って行く延長で、とても大切な「人間は働くために生まれてきたんじゃない。幸せになるために生まれてきた」という基本的な考えを体に染み込ませることができる、のかもしれない。
苅宿先生「私は入れ子構造が好きなのだ。このポルコ・ロッソはひねり込みが得意。そこで皆にも自分の得意技を持ってやって行ってもらいたい。」という話をする。何故ならそれが今後社会に出た時に、自分の背骨になるからだ。(「苅宿俊文の作り方」というお題を東京大学BeDesignという講義内で行われた)
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それを生かしているのがこのメディアコミュニケーションとワークショップデザインの授業なのだ。ここでこの講義がどのようなグランドデザインのもと行われているか、入れ子構造のネタバらしをして行く。
この講義の構成は以下のようになっている。
 演劇(2回)     ↓ (省察) ダンス(2回)     ↓ (省察) メディア表現(2回)
各ワークショップを行う合間には、必ず省察の時間を設けている。
夢中になって没入している間は良いのだけど、2回やって3回目をやる前にやめる。というのも3回目は必ずプラトー現象が起きかねない、という。その成長を止めかねない現象をあえて避けるために3回目には必ず違うことを行う。だから毎度演劇なりダンスなりも2回で済ませてきた。「慣れてきたな〜」という感覚になったところで止める。そして省察の時間に入る。
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演劇もダンスも身体性を伴ったワークだ。そしてそれらが疲れ切る前に省察を取り入れ、体を休め、今度は頭を使って自分たちの行いを振り返ってもらう。それがあることで一つのワークがスパッと行われ、感覚を得たところで頭を使って振り返ってまた次のワークをやって行く。その流れの中に学生たちが入り込むことでワークショップとは何か、どのような知的生産の場なのか、を学生たちが自身で考えられるようにその構成を持って行く。
ここで大切なのは出来ることなのではなく、できそう、なれてきた、という感覚を得るという体験なのだ、と苅宿先生はいう。やってみればなんとかなる、というような感覚を得るということなのだ。
という座学を終え、ついにメディアワークショップだ。
このアプ��を使ったワークショップはグループワークなので、ここでさらに協働性が求められる。学生にとっても、共に何かを作って行く経験というのが圧倒的に少ないこの日本の教育を受けてきた中では、こういったワークはとても楽しいものに感じられるのではないだろうか。
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各自HACOBOを持参し体育館の卓球場へと向かう。
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今回使うのは苅宿先生が開発してきたアプリ、
「逆転時間」と「コマドリ」
という既に苅宿先生と関わってきた人間なら誰もが知っているアプリ。というのもこれは私が大学にいた時から使われてきた。そして今回のワークショップで改めて確認したが、全く古びていない。
さすがとしか言いようがない。
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「逆転時間」とは、動画を録画したものが逆再生される動画アプリ。
例えばこのようにフラフープを投げた映像を撮った場合、それを再生したらフラフープが自然と手元に戻ってくるように見えるという映像になる。
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今回、各班に分かれ、それぞれが面白い映像をとにかく撮るようにチャレンジしていた。
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撮影したら確認し、お互いに話し合い、今のはこうだったよね、次はこうしてみようか、などと話し合って行く。これが協働だ。
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時には苅宿先生も参加したり、、、
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そして次は「コマドリ」。
これは写真を一枚一枚撮影し、それをあとにコマ送りすることで映像化するというアプリ。
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映像をふんだんに上げたいところなのだがあまり見せすぎてもというところもあり、この辺りでご勘弁いただければと思うのだが、どうだろうか。
こう言った作品を班で協働で制作して行く。そしてその過程がどれほど学びと気付きになるか、ご理解いただけるだろうか。いや、写真と映像だけだと限界がありますよね、わかります...
そしてその素晴らしさを完全にお伝えできないのを大変申し訳なく思うのですが、ぜひともこれは一度、苅宿俊文のワークショップというものを体感していただくしかありません。もしご興味ありましたら、苅宿先生はこのようなこともやっているのでどうぞよろしくお願い致します。
青山学院大学社会情報学部による
ワークショップデザイナー育成プログラム Workshop Designer Training Program
さて、今回の講義のワークショップ部分はこれでおしまいだ。 というのも、今回はアプリに慣れてもらい、とにかく多くの可能性を感じてもらうことが目的だったからだ。
この後はまた教室に戻り、ポートフォリオ制作の時間となる。
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今日は座学からのメディアワークショップ、そしてまた部屋に戻ってきてのポートフォリオ制作と2コマだけで盛りだくさんの内容だった。
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座学ではカタルタをやり、そののち、このワークショップの講義がどのような構成になっているかを体感的に理解させようとしてた。
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そして身体を使える限り使ったメディアワークショップ。
これらのワークを通して学生たちが何を感じたか、リフレクションペーパーが楽しみである。
ではまた次回。
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kariyado-lab · 5 years
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第7回 ちょっと一旦止まって、今までを少し考えてみよ。そしてまた、やってみよう。
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第7回 ちょっと一旦止まって、今までを少し考えてみよ。そしてまた、やってみよう。
時折じわーっと汗をかくようになってきた。 6月になり徐々に夏本番の暑さがやってきたなと、外を歩いていると感じるようになった。まだ後を引く爽やかな春の風が後ろ髪を引かれるように吹いてくる。とても心地のいい季節がやってきたな、そう思う。
2019年6月6日、もう今年も半分を過ぎてしまう、そんなことを考えながら第7回目のワークショップデザイン+メディアコミュニケーションの講義が始まった。今回は2時限まるまる「省察」の時間だった。前回の省察だけの振り返りは第4回目の講義、演劇ワークショップを2つ行った後であったが、今回は2つのダンスワークショップ後に一度振り返ってみようと始まった。
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ではどうして、振り返るという時間が必要なのか。
それはメタ的な視点で過去の自分の行いを確認して、その当時の自分を振り返ったときに、どのような認知行動をしていたのか、自分でその時の自分の行為を定義付けて行く。同時にそれに対して意味付けを行い、あの時に自分はこう感じていたな、その時あなたはこう見えていたよ、などとお互いに自分たちが感じていたことを意見として交換し合い、新たな自己を探って行くという趣旨のもとに行われる。
それが、自己を客体化する視点を得るために必要なのだ。自己の認知行動を把握して自分の状態を外在化された自分が見る。そのような視点に立てると自分の今まで見えていた自分、とは全く別の自分が立ち上がってくる。しかしその自分も、言ってしまえば自分が言語化して意識的に気付いていなかっただけで、それが存在しなかったわけではない。
そしてそのような客観化された自己を見つめる視点を得ることが、ただ漠然と良い就職先を探すこと以上に大切なのではないかという仮説のもと、この講義の「運営」全てがデザインされている。自分の幸せとは何かを問わずに社会の要請で新幹線に乗っているかのようなスピードで日々を過ごさざるを得ない今の世の中と向き合う前に、まずは自分ととことん向き合おう、そのような思想なのだと思う。
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今回の講義はまずは苅宿教授の座学的なモノから始まる。今までのWSや講義を振り返って、受講されている学生たちのリフレクションシートをもとに、苅宿教授がそこにどのような視点、デザイン、学びが含まれているか。またどのようなことを学生たちに気付いて欲しかったか、という狙いを様々なキーワードをもとに解説して行く。それはまさに苅宿教授自身がこの講義を「客観的に捉えて語る」という手法を学生たちに見せている、というものになる。
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ある学生のリフレクションシートにはこう書かれていた。
「私は普段人見知りで一人でいることが多い。たしかに一人でいると気が楽である。しかし、自分の軸でしか物事を考えたりしないため、いつも同じ考えがぐるぐるしているように思う。その反面、友達を作ると気を遣ったりして、窮屈に感じることもあるが、色々な考えに触れることができ、新しい考えが浮かぶことがある。友達という制限が新しい考えの幅を広げたと感じる。
中略...
人と交わりコンタクトすることは可能性を広げる、とても重要なことだとダンスのワークショップで学んだ。」
苅宿教授は言う。学生の皆さんが正直にリフレクションしてくれるからこそこの講義は成り立つ。学生たちも能動的な態度で講義に向かってくれるからこの講義は成り立つのだと繰り返しいつも言われている。
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そしてこの授業の中で一番大切なことを学生の皆さんが学ばれていることに触れ、こちらの音楽動画を紹介する。
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「やってみよう」 フルver   WANIMA(YouTubeより)
これをなぜ紹介するかと言えば、このとにかく「やってみよう」という考えを学生たちが持てているからだと言う。そしてこの「やってみよう」と考えられることが何より大切なのだと。
ここに歌詞を転載させていただく。
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アーティスト:WANIMA
作詞:篠原誠
作曲:TRADITIONAL(PD)「ピクニック」をアレンジ
編曲:WANIMA
正しいより 楽しい 正しいより 面白い
やりたかったこと やってみよう|失敗も思い出     はじめよう やってみよう誰でも最初は 初心者なんだから やったことないことも やってみよう 苦手な相手とも 話してみよう 知らなかったこと 見たことないもの あたらしい 楽しい 悲しいときは 笑って 寂しいときは 声出して 雨はいつまでも 続かない 土砂降りも楽しもう 踏み出そう よじ登ろう 高い山ほど 絶景が待ってるから
遠回りの道を 選んでみよう 険しい峠には 何かがあるさ ありえなかったこと 出会わなかった人 あぶなっかしい 楽しい 振り返るより 振り向いて 掘り返すより 掘り出して 過ぎた話は ほどほどに 今の話をしよう
恐れず 迷わず
同じ今日という日は 二度とないんだから
明日よりも今日に はじめよう 知らなかった自分と 一緒に走ろう 思い立った日が 思いついた日が そこが スタートだ 青いより 青い 空もそうさ
同じに見えて いつも違う どんな人だって同じじゃないさ 空気なんて読まない やってみよう
正しいより 楽しい やってみようか 倒れるなら 前に倒れよう やって後悔などすることないさ 理由なんていらない
やってみよう やってみよう やってみよう やってみよう やってみよう
(au youtubeより引用)ーーーーーーーーーーー
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ただのCMソングだと侮ってはいけない。今、この世の中で必要なんじゃないかと思われる要素がこの歌詞の中にふんだんに含まれている。そしてこの「やってみよう」の精神がこのワークショップデザイン+コミュニティマネジメントの講義でそれなりに学生たち自身の中に培ったものとして体感できているのではないかということをリフレクションシートから、苅宿教授は感じている。
「あまり気の進まなかったダンスも、やっているとダンスなのかどうかはわからないけれど、とにかくやっている中で楽しく感じていた。何事もやってみることから始めないと感じた。」
というような学生たちからの反応がかなりの数、この4つのワークショップの後に確認できた。
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そして次は苅宿研究室ゼミ生から、受講学生への感想と振り返りだ。 授業中やワークショップ中、実は彼らは「グループ追い」と言ってiPhoneを駆使してそのグループを映像で記録している。もっというと、「デキゴトカメラ」という苅宿研究室特性の映像記録アプリを使って、日々研究のための映像記録を行っている。録画をしている中で気になる瞬間があれば映像内にその瞬間のその箇所に印を埋め込むことが出来る仕様になっていて、研究用にはとても重宝する。
そしてこの振り返りの時間では、その撮影された記録映像と共に、外から「研究する立場」で見ていたゼミ生が、「あの時、◯◯さんはこういうことをしていましたね。その案はグループの活性化に寄与したとても良い創造的な瞬間だったなと思います」などなど、外から見ている立場だからこそ、そのグループ内で何か発展を生んだ瞬間を指摘する。それに対し受講している学生たちも新たな気付きを与えられる可能性がある。そこにさらにゼミ生たちは受講学生たちのグループのそのような活動を研究者的かつファシリーテーターの目線で見ることで、組織がどのようなことをしていくと円滑に物事を前進させることが出来るか、ということを学んでいる。これこそが苅宿研究室とこの授業を受けられている学生たちとで作る、多層的な学びの場となっていて、これを苅宿教授は自らのデザインで提供されている。そしてこれこそがこの授業の醍醐味とも言える。
ちなみに彼ら、ゼミ生の日常の断片を載せているinstagramアカウントがこちら。
@kariyadolab
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もしinstagramをやっているという方がこのブログを見ていたらぜひフォローをしていただきたい。この講義の裏ではゼミの学生や研究生たちがどのような活動をしているかが垣間見れる。
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ここで研究生の望月さんがこの後にやるワークを説明する。望月さんはいつも説明が上手なのだ。順序立てて考えることがもとから得意なのだと思うがいつもいつもすぱすぱと緊張もせずやり遂げてしまう。その能力はおそらく前職の東京ガールズコレクション統括で培われたものなのではないかと想像する。
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それはおいておいて、次にやるワークはこのようなものだ。この講義内では各々学生たちは10グループ分けられて活動をしている。そして今回、そのグループでの活動を振り返り、自分たちのがグループにキャッチコピーを付けて行く、と言うもの。そのためにも今回は、各々が自分のグループに対して感じたことを言語化してそれをポストイットに貼付けて行く。これはKJ法というやり方を真似ている。つまり、物事の本質を捉えるために思いつくままに小さなものでも良いからアイディアを並べて行き、それをもとにカテゴライズして行く。そして大きく類型してその言葉を別けた後に、その目的にもよるのだが、何がその目的遂行のために大切なのかを抽出して行くブレインストーミングの方法だ。
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今回の場合はグループの特徴を考えて最終的にグループのキャッチコピーを考えて行くと言うものだが、このような思考活動を通して、メンバー間の関係性もそのアイディアにも現われてくる。そういう意味で自己と他者を考える上でとても面白い活動だ。
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またご覧のように、このワークは今までの机ではなく、コミュニケーションをさらに親密な状態でやってもらうためのツールとして「えんたくん」を使っている。円卓型の段ボールに模造紙を貼り、上になんでも書けるようになっている。これがまた会話を活性化させる、シンプルでいてとてもよく考えられた机なのだ。そしてこのえんたくん、大学院生の青木くんが授業前に手作りしている。
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そしてキャッチコピーも完成したら、次はそれを他のグループの学生たちにプレゼンをしてもらう。「自分たちのグループは◯◯というコピーになりました。これはメンバーが◯◯だからです」といったものだ。
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自己紹介ではなく、グループ紹介、というものをやってもらう。これもただグループ紹介をやる、というものに見えるが、教育的観点で見ると、自分たちグループのやっていることを客観的に見て、そこに意味付け定義付けをして、それを他者に紹介するというカタチをとることで言語化して行く作業が入り、
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そしてそれが終わったら各自グループに戻り、自分たちのグループの紹介を一分間、ゼミ生が撮っているiPhoneに向かってプレゼンしてもらう。
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そしてやり終えたグループから休憩に入る。ここで私も、ブログを書く休憩を取らせてもらう、、、
皆さんもぜひ水でもお茶でも飲みながらゆっくりとゆるりとこのブログを読んでいただけると助かります。
(そしてすみません、本当にここで睡眠取りました)
さて、休憩空けは座学から始まる。
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どうしてこのワークショップ的な考え方が今のこの日本社会、世界の中で必要とされるのかを苅宿教授の考え方をもとに、映像資料やグラフを見ながらたどって行く。ここではNHKで放送された『欲望の資本主義2018』をもとにこれからの社会がいかに経済格差を広げるか、またその中でどのような分断がこの世の中で蔓延していくかを問う番組を紹介した。
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例えば番組内のこの表。 世界のたった8人の総資産が世界の人口の半分の人間の総資産と同じだったりする。これはまさに今の世界の状況で、持つものと持たざるものの差をテクノロジーの発展がさらに押し進めているのではないかと言う問いだ。そのテクノロジーとはAIなどの人工知能を搭載した機械だ。
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そして別の番組の中から働き蟻がどのような特性を持っているかを研究した学者の話が紹介される。とりわけ興味深かったのは働き蟻は巣の中の全80%程に過ぎず、その他の20%の蟻は働いていないのだと。ちなみにその80%の中でも20%はよく働き、その他の 60%は普通に働くレベルだそうだ。
そしてさらに、今度はその働いている80%の蟻を別の巣に移した場合、どうなるか。
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なんと、働いていた蟻も、別の巣に移された瞬間、元いた巣と同じ割合の2:6:2の良く働く、普通に働く、全く働かないという具合に調整されるのだ。これがもし、人間社会だったらどうなるか。特に今の資本主義経済をもとに考えた日本社会で起きていたらどうなるか。ニートの方やご病気を煩われた方を、障害を負われてる方、最近ではLGBTの方。そのような方々が今、日本では「生産性がない」と言われているのが現実だ。働けないから生産性がない。子どもを産めないから生産性がない。
とても信じられない悲しい言葉だが、それが日本の中でも出てしまうのだ。生産性で人間の価値が決められてしまったらこの世界はどうなってしまうのか、、、
しかし、蟻の社会では決して働かない蟻は、排除されない。 排除されないどころかそれが許容されている。その蟻たちは何をしているのか。それは働かけない蟻が出てしまった場合に備えているというのだ。
2割の良く働く蟻たちが疲れてばててしまった。まずい。巣の中の安寧が保てなくなる。となった時、ついに重い腰を上げて働いていなかった蟻たちが働き始めるというのだ。
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この「働きアリの法則」こそが蟻の社会の存続に深く関わっていたというのだ(しかし、中には本当に働かない蟻もいる可能性があるらしいがこれはまだ仮説の段階で、証明はされていないと言う)。つまりは、持続可能な長期的な社会を考える上でこの蟻の生活はとても意味があるというのだ。人間社会のいわゆるブラック企業と呼ばれる存在の会社(ちなみにこの「ブラック」という言い方にもとても差別的な表現があるとして昨今では問題になっている。そのためこの後にはこの言い方をしない)。
高度プロフェッショナル制度導入後の「働き方改革」の一環で、日本の労働環境は大きな転換を迫れた。先に述べたような人間を会社のコマのように働かせる企業をなくすために、労働時間をしっかりと会社側が管理し、残業をなくす努力をしないと会社としての評価が得られない状況を作られた。良いことのように思われる。がしかし、一方でその弊害として、例えば今までと同じ仕事量なのに時間を短縮させられている職場環境もあり、さらには残業し残業手当を自分の賃金として宛てにしていた労働者からすると、それを得られず、かつ仕事量だけ時間内に納めないといけない状況というのも出てきている。これは私の知り合いの職場での実情だ。
話は逸れてしまったが、人が働くとはどういうことなのか、人は何のために働くのか。それを大学生は一度考えてみてから就職活動に入ってみるのも手かもしれない。現に私はそうした結果、写真家という道を歩んでしまったのだけど。
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そして話は変わって、ケネディが暗殺された日に、最後に身につけていた、演説で語ろうとしていた言葉が紹介された(『映像の世紀』 プレミアム 第8集「アメリカ 自由の国の秘密と嘘」)。1963年11月22日に起きたその出来事はアメリカ社会、ならびに世界を震撼させたのは言うまでもない。
その読まれることのなかった言葉がこれだ。
「この困難に満ち溢れた複雑な世界を 物事の真理を学ぼうとする光によって 導いていかなくてはなりません さもないと嘘と現実を混同する者達が 一見すると素晴らしく思える解決策を振りかざし 人々の心を支配するでしょう この国、この時代に生きる私たちは 世界の自由を守っていかなくてはならない」
確かにこの言葉は強い。21世紀の1/5が過ぎようとする中でもとても意味がある言葉だ。まさか60年近く前に読まれようとしていた言葉とは思えないほど人を惹き付けるものがある。
しかし、これを読もうとしていたのはケネディなのだ。他でもない、ベトナム戦争を始めたアメリカのケネディなのだ。アイルランド移民としての背景を持つケネディ。アイルランドはその昔、大英帝国からとても虐げられた歴史を持つ。そのアイルランドを背景に持つケネディがどうやってアジアの小国を虐げて行くのか、その歴史を学ばなかればならない、とは思う。
また話が逸れてしまった。
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要は(どこからの要はなのか、もはや脈絡ない、、、)コミュニケーションの場作りとなるワークショップデザイン+メディアコミュニケーションを通して、この個人が自己責任で選ぶことを求められて行く社会に対して抵抗して行く、そのような営みがこのワークショップなのだと思う。
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ここからはまたモッチータイム。 研究員のモッチーが「能力仮説」という考え方を紹介し、「自分」という存在をどのように考えて行くかという話をして行った。
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多少KJ法とも被る考え方だが、このように自分の定義を広げて行って、自分の中に多層的な考え方が存在するということを視覚化して行くのだ。
そして今回もいよいよ、ポートフォリオ制作の時間へと入って行く。
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これが今回の講義の流れだった。
座学としての省察の時間で思考し、体験活動してのワークショップで身体的にも新たな学びを築いて行く。その結果、新たな自己に気付いて行くという複合的な学びがここに来てようやく見えてきたのではないかと思う。
さぁ次回は”逆転時間”と言うもう、苅宿ゼミ一期生である私からしたらとても懐かしいアプリケーションを使ってのワークショップ。どうなるか、今から楽しみである。
ではまた次回。
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