告知でヤンス
2013年より続けてまいりました「yabuniramiJAPAN for Tumblr」は2020年10月をもって終了しました。
しかし当ブログの執筆者である藪似は他で駄文を発表しておりますので、ご興味のある方は下記リンクからどうぞ。
・本サイト
・やぶにらこぼれ(note)
・Twitter
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さらば!Tumblrでヤンス
昨日散々書いたんで、もう特別書くこともないんだけど、最後の挨拶ってことで。
ただでさえyabuniramiJAPANってサイトは誰も読んでいないし、というか読んでもらいたいという意思さえなかったわけで、Tumblrだけ読んでくれている人など片手もあれば足りるはずです。
それでもリアクションをしてくださる方がおられたりもしたんでね、礼儀としてこういうことを書いておくのも大事だと。
えと、昨日も書いたように、アタシがTumblrを始めたのは2013年です。アタシの感覚からすれば「たった」7年前なんだけど、移り変わりの激しいウェブ界では「7年にも渡る長期の間」ってことになるんじゃないでしょうか。
実際、この7年の間にVineやUstreamはサービス停止になったし、はてなDiaryもなくなった。mixiはもう存在感が消えている。
そう考えるとね、あの時点で、つまり7年前の時点で「7年後もちゃんとサービスを継続していた」Tumblrを選んだのは正解だった。
だからといってTumblrが大いなる発展をしたわけではないってのは昨日書いた通りなんだけど、それでも消滅する可能性が大いにあるウェブ界で消滅しないのを選んだってことだけでも正解だと。
今後Tumblrがどうなるかはまったくわかりませんが、もし、Tumblrがサービス停止になったら、かなり悲しいと思う。それは今もTumblrを利用されている方も同様でしょう。
とにかくアタシは今日をもってTumblrを<卒業>します。本当に、Tumblrにも、Tumblrで書いた駄文を読んで頂いたすべての方にありがとうと言いたい。
また会う日まで。さらばじゃ!!
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サンキューTumblrでヤンス
いよいよTumblrでの更新も今日と明日を残すのみになりましたので、ま、7年間の感謝の意味を込めてこんなエントリを書こうと。
最初に言っておきますが、アタシは何もTumblrが不満で止めるわけではないのです。
そりゃあね、完璧なサービスかと言われるとそんなことはない。純正アプリの出来の悪さ(iOS、Androidともに)は弁護しようがないレベルですし、ここにきての仕様変更はアタマにきた。エントリ画面とかHTMLタグの扱いを簡単に変えちゃダメだよマジで。
しかし完璧なサービスなんて絶対この世にないわけですよ。
アタシはいろいろあるTumblrの不満点を飲み込んだ上で使ってたんだからそれでいい。つか飲み込めないレベルの不満があるなら7年も使ってませんから。
Tumblrの最大の長所は「何でもアリ」なところでしょう。
はっきり言って、何でもアリが長所ってのはSNSとしては失敗もいいところで、つまり層を上手く絞り切れていない。ブログなのか、Twitterのロングテキスト版なのか、画像を貼り付けるためのサービスなのか、どれも中途半端というか「Tumblrでないとダメ」ってのが何もないんです。
唯一ウェブクリップとしては独自性があるし、実際ウェブクリップサービスとして使われているケースが大半らしい。
だったら完全にウェブクリップサービスに特化してしまった方がいいような気がするのですが、ブログとしても使って使えんことがないのでイメージがブレてしまってるんじゃないかと。
つかね、正直、いまだにTumblrがSNSかどうかがわからない。
InstagramやTwitterよろしく一応フォロー機能もあるんだけど、SNSで必須とも言える「誰かとつながることでより面白さが増していく」というのが皆無に近いんです。
だからアタシのようにまったくフォローもフォロワーもいなくても関係ないし、そもそもTumblrをやってる人自体が(少なくとも我が国では)少ないので、どのみちたいして広がらない。
ならばアタシのようにTwitterなどに更新リンクを貼り付けて、Twitter上でフォローなりをしてもらう方が絶対に広がります。
これは前も書いたけど、SNSってのはどれだけ完璧な機能を備えていても「人がいない」ってだけで全部の長所を打ち消してしまうのです。
Tumblrは良く言えば何でも出来る。つまり機能としては満遍なく揃えてきているのですよ。でも人がいないSNSはもはやSNSではない。
ところが「満遍なく機能が揃っている」おかげで「SNSとしては使えないけど、ブログとしては使えてしまう」わけで。
もちろんブログとしては多機能でも高機能でもない。ただしその分シンプルで、広告も付かない。広告収入はないけど、趣味で軽く書きたいとなればシンプルイズベストなTumblrでブログを、と少ないながらもそうなる人が出てくるのも当然だったと。
アタシはね、TumblrはSNSとは見做さない、というのはむしろTumblrの個性なんじゃないかと。
つまり「ブログとしても使えるSNS」ではなく「SNSっぽい機能もあるブログサービス」として見た方がTumblrという存在が際立つんじゃないかと思うわけで。
どのみち「人のいない」TumblrではSNS的活用は無理なわけで、そこはTwitterあたりと連携させることを前提にしてね、かと言ってnoteほどカッチリ書くってほどでもない、書き捨てレベルだけど、Twitterよりは長く書きたい、なんて人にはうってつけのはずなんです。
もちろんそんなの、ニッチな需要でしかないわけで、これでは知名度も登録者数もTwitterやInstagramと(あとライブドアブログやはてなブログといったブログサービスやnoteとも)月とスッポンになるのも当然だった、と。
さて、yabuniramiJAPANは長く続けてる、いわば老舗と言ってもいいサイトですが、やっぱり特殊すぎるサイトでして、ほぼテキストのみ、という黎明期のウェブサイトのままやってきた。
もうそんな、オールドスタイルのウェブサイトなんかない。閉鎖するかスタイルを変えるかして、とにかく2020年の今も「ただただテキストだけを書き連ねるサイト」なんてほとんど消滅してしまいました。
しかも「誰も読んでなければ読んでないほど良し」と考えるサイトも、ほとんど見たことがない。
これはもう、時流に乗ってないどころの話じゃない。ただの鬼っ子です。
もうただの偶然だけど、ニッチな層にしかマッチしないTumblrとyabuniramiJAPANの相性が恐ろしく良かった。
これも偶然だけど、何故かGoogle検索には引っかかりにくいっていうTumblrの仕様も「誰にも読んでもらわなくて結構」というアタシの志向とマッチしていたんです。
そこまでの相性の良さを自覚しておきながら何故Tumblrから離れるのか。何かまるで女性を見捨てるジゴロみたいな話になるけど「次のステージに行くと決めたから」としか言いようがない。いわばヒューマンステージを上げるために多目的トイレに入るようなものです。ってぜんぜん違うけどさ。
昨年10月の「ぶちゃむくれ大変革」の裏テーマに「ノウハウの結集」ってのがありました。
今まで、17年間もサイトをやってきて、もちろん同時にYouTubeを含むいろんなサイトを見てきてね、YouTubeやSNSを含むウェブサイトというのはこういうものだ、という自分なりのノウハウは溜まってきました。
それは数々の失敗があったからこそなのですが、一度、ノウハウを全部結集させて、他人さんを愉しませる<実践>をやりたくなった。
Tumblrはいわば手遊びです。本サイトに上げる長文はそれなりに本気で書いてるけど、ことTumblrにかんしては遊び半分で書いていました。だからどうでもいい個人的にハマってるモノ(○○ブームでヤンス)みたいなことも書いてきたのです。
そうした、ある種の肩の力を抜いたような内容もノウハウに入ってるわけで、けしてTumblrで書いてたことは無駄じゃなかった。これからも本サイトアップ分の長文やnote、そしてYouTubeにもそうした「肩の力の抜き方」は活かされるはずです。
Tumblrにずいぶんそういう話を書いてきたけど、中学生の頃まで、アタシは熱烈レベルの藤子不二雄ファンでした。しかし心理的抵抗から、どうしてもマニアにまでステップアップ出来なかった。
かと言って藤子不二雄作品が嫌いになったわけじゃないし、今も両先生を尊敬している。何よりも「藤子不二雄マニアになれなかった」というある種のトラウマが「マニアになるというのはこういうことだ」というのを教えてくれた。だからクレージーキャッツや戦前モダニズムは藤子不二雄ではなれなかったマニアになろうとしたのです。
Tumblrも同じで、Tumblrがあったからこそ、いろんな方法論を見つけることが出来た。
これは過去に活用してきたJUGEMやBloggerとはまったく違う。正直JUGEMやBloggerが今のアタシに与えた影響は皆無だけど、Tumblrはそうではない。Tumblrの更新は止めてもTumblrをやったことで得たノウハウは確実にアタシの中で残存し続けるものだ、と確信しています。
つかさ、アタシもニッチからの脱却を図ろうとしてるんだから、Tumblrもニッチじゃなくなって欲しいわ。
どうすればいいのかなんて具体策は何もないけど、ポテンシャルはあるんだから。何とか有力ブログ(≠有力SNS)になれないかね。
もしそうなったら、もう一回タッグを組もう!ってTumblr側からしたら「知らんがな」って話だけど。
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現時点での新型コロナまとめでヤンス
新型コロナパンデミックの世間の空気を書き留めたくて、4月から5月の、いわゆる緊急事態宣言期間限定で「令和2年○月第△週の空気を書いておくでヤンス」ってのを書いてたのですが。
すべての制限が解かれてね、完全に新型コロナが過去のものになった暁には、本サイトにこの騒動についてちゃんと書くつもりなのですが、そんなのまだまだ先の話だし、本当に2019年までの生活様式に戻るのかというとかなり疑問です。
つか「もう二度と戻れない、これからは新型コロナありきの新しい生活様式を模索すべきだ」なんて声があるのも事実だし、こればっかりは今後、いったい、どんなふうになるのかまるで予測が出来ません。
ただね、じゃあ、たしかに新型コロナが全世界で蔓延している。んで、ある程度収まったとしても、そして特効薬のようなものが開発→市販されたとしても、潜伏はし続ける、となれば外出時には永久にマスクをしておけ、会食などご法度の世の中に変わっていくのか?というと、アタシはそうは思わないんです。
これは前にも書いたんだけど、とにかく人間ってのは形状記憶合金なみに「元に戻ろうとする力が強いんだな」とあ��ためて思い知らされた。
ここで突然戦時中の話になります。
当時、厳密に言えば1940年だから太平洋戦争の前にはなるんだけど、新体制運動なんていう政治運動がありました。ま、政治運動ではありますが新型コロナパンデミックにおける「新しい生活様式」に近いものがある。
そして「バスに乗り遅れるな」というスローガンが使われた。このスローガンは広く浸透し、というか早い話が流行語になり、極端に言えば「日本国民として軍事体制に協力する=バスに乗る」ってことです。
では当時の国民、いや一般庶民か、がこの風潮に抵抗したのかというと、ほとんど抵抗した形跡がない。何しろ流行語にもなったくらいだから「そうか、これからは<そういう時代>なんだ」とわりとあっさり受け入れた。
ところが戦局が悪化し、生活ががんじがらめになりだすと、人々は<そういう時代>というのを忘れだす。冗談じゃない。日本が勝つと思ってたから協力してきたのに、何で敵機が日本上空を飛んでんだよ!と。
ここはわりとはっきりさせておかなきゃいけないと思うのですが、何だか勝手な見識で「本当はみな戦争なんか嫌だったけど、当局からの命令で無理矢理協力させられた」と思ってる人もいると思うけど、実際はそんな感じじゃなかった。
当時の日本国民も、結局は流行に乗ってただけなのです。流行に乗って、それ!とバスに乗り込み、ところがいざバスに乗ってはみたものの、着いた先は荒れ果てた世界だった。
もちろん文句を言える空気ではなかったからみな黙っていたけど、次にバスが来ても誰も乗ろうとはしなかった。つまりは嫌戦気分が出てしまったのです。
もう、うんざりだ。抵抗はしないけど協力などしたくない。つかもう、協力する余力もない、というふうになったというか。
ここまで書けばわかるように、新型コロナパンデミックの「新しい生活様式」なんて「バスに乗り遅れるな」と同じで、ただの流行なんですよ。
今はいい。新しい生活様式にたいして、ある意味新鮮な気持ちでね、心持ち次第では楽しむことも不可能ではありません。
しかしこれが何年も続くことになって、マスクもずっとしなきゃいけなくなってね、その程度ならまだしも、身内に犠牲者が出たりして、店がバンバン潰れて、自分は失業して、家族にまで(たとえ経済的であっても)被害が及んでね、それでも能天気に「新しい生活様式」なんて言ってられる人がどれだけいるのか。
もう嫌だ。オレは抜けるよ。これ以上我慢を強いられるなら死んだ方がマシだ。仮にオレひとりでも前の生活様式に戻らさせてもらうわ。
正直この騒動で一番ウンザリしたのが、したり顔で「気の緩み」なんて言っちゃう人が多いことで、ウンザリして元の生活様式に戻ろうとする、これは気の緩みとは真逆の「人間のパワー」なんです。
むしろアタシは「気の緩み」なんて言う人の方が「流行に乗ってるだけの能天気な人」に思えてならない。
いやそれでも、バスに乗り遅れるなを考えるなら、5年はギリギリ流行に乗っかったまま我慢出来るのかもしれない。しかしそれ以上は無理です。
もちろんね、生活がラクになる、便利になる、などのポジティブ方面での生活様式の変化なら、なんのかんの言っても最終的にみな受け入れる。
スマホやパソコンはもちろん、エアコンとかだっていつの間にか当たり前になったわけだし。
しかしネガティブ方面のね、我慢を強いられる類いの生活様式の変化、いや変化じゃない、劣悪化ですね、はそんな長期間耐えられるわけがない。戦時中でさえ耐えられなかったのに。
本当に元通りに戻るかは、それはわからない。それでも確実��言えるのは「たとえどんな状況になろうとも、それがどんなに困難な道程でも、人間は劣悪化前の生活様式に戻ろうと必死になる」ってことはわかる。
でもその一方で、未来永劫マスクを着用しろ!なるべく家から出るな!なんていう、バスに乗り込もうとする人も、というかバスに乗り込めと強要してくる人も一定数いると思う。
でもさ、そんなの、いつまでも軍服を着てるようなもんだと思うし、つかそもそも<これからの時代>、つまり流行なんてコロコロ変わるんだから、そこがわかってないだけです。
まァね、新型コロナがどうなるかの予測は最先端の研究をしている人でも読めないと思うけど、たぶん今後数年のうちにこうした「不毛な議論」が勃発するのは目に見えている。それはアタシのような人間でもわかるんですがね。
何だか<現時点での>ってエントリタイトルに入れたわりにはぜんぜんそういう内容じゃなくなったけど、まァいいでしょ。
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ブームまとめでヤンス
えと、昨年から今年にかけてずっと短文を書いててね、まァシリーズじゃあ、ないんだけど、個人的に今流行ってる、みうらじゅん的に言えば<マイブーム>のことを19回も書いてきました。
んで今回は、そのマイブームがその後どうなったかを書いていこうかと。
・戸川純ブーム(2019年3月1日)
さすがに今はブームではないけど「実は当時の戸川純はエロかった」とはいまだに思っています。
・アイスコーヒーブーム(2019年4月10日)
これじゃわかりづらいけど、要するにセブンイレブンのアイスコーヒーのことです。
うん、これも完全に定着したな。京都に出張中はほぼ毎日飲んでたし。
・ピーナッツバターブーム(2019年4月24日)
あ、コイツは完全に忘れてた。つーことはつまり、今はぜんぜん食べてません。
別にブームが終わったとかというよりは、消費してしまって、新しいのを買うことをずっと忘れてたって感じですか。
復活させるのはまったく嫌じゃないんだけど、今はまた出張中なんでね。帰ってから、とか言ってたらまた忘れそうなんだよなぁ。
・発熱女子ブーム(2019年7月11日)
これは実に継続が難しい。内容的には「高熱の女性は普段の状態より色気が増す」ってことなんだけど、高熱の女性を見るチャンスなんてそうそうないし、そもそも今は例のアレのせいで高熱が出たら絶対出勤禁止だから。
・赤軸ブーム(2019年10月25日)
使ってますよ、赤軸キーボード。うん、相変わらず素晴らしい。というか1年ほど使って「これが当たり前」になったことが素晴らしい。
でもモバイルでも赤軸、はちょっとペンディングかなぁ。そこに重量をかけてどうするとか思っちゃうし。
・王将の唐揚げブーム(2019年10月29日)
これは後日書いたように「家庭で王将の唐揚げ完全再現」に成功したので、店舗では食べなくなりました。
その代わり再現版はかなりの頻度で作っている。つかもう、唐揚げ?だったらむね肉だよね、となってるレベルで。
・ほのぼのブーム(2019年11月14日)
これは本当に、中途半端にチラチラ書くんじゃなくて、もっと大々的に「カズチャンネル愛」を書きたいんですよ。
直近もあの<ほのぼの>でどれだけ癒やされたか。
・サバの水煮ブーム(2019年12月5日)
うん、食べてない。理由ははっきりしてて、アタシが美味いと思ったパック包装(つまり缶じゃない)サバの水煮を近所のスーパーが仕入れなくなったから食べようがない。
・めんツナブーム(2019年12月21日)
ああ、これも食べてないなぁ。いや食ったら美味いんだけどね、ちょっと買いに行くのが面倒なのよ、場所的にさ。
・釜めしブームというブーム(2020年1月12日)
これは番外編というか、過去にそんなブームがあったよってな話なのでね。
しかも釜飯自体にハマったわけじゃなくて、釜飯ネタの笑い話のブームなので、当然今現在どうこういう話じゃないわけで。
・ラムレーズンブーム(2020年1月22日)
廃れたというよりも、結局ラムレーズンってのは「たまに食うから美味い」んだとわかった。
飽きたってよりは月イチで定着したって感じですかね。
・水ブーム(2020年2月18日)
季節的にこれからでしょ。
当たり前だけど、夏の間は生ぬるい水道水なんて飲めたモンじゃなわけで、キンキンに冷えた水道水は冬だからこそ。
・低脂肪乳ブーム(2020年3月11日)
コイツはアタシのブームじゃなくて愛猫のぽんぽこのブームなんですよね。
ただぽんぽこが低脂肪乳しか飲まないので、結果としてはアタシもずっと低脂肪乳を飲んでるのですが、今では何だか普通の牛乳では濃すぎるような気さえしています。
・ゴムハンマーブーム(2020年4月15日)
「ゴムハンマーを正規の用途ではなく腰叩き器として使ったらすこぶる良かった」ってことなんだけど、アタシが腰が死ぬほどレベルで痛くなるのは冬場だけで、これも季節的に違う。
ただ今は出張が多いのでね。さすがに旅先にゴムハンマーを持っていくのはなぁ。
・納豆スナックブーム(2020年8月14日)
美味いんだけどね。全部の味を制覇したら、ちょっとブームが終わってしまった。
・アパホテルブーム(2020年8月25日)
もう言うまでもないけど「アパホテルに滞在していたからこそ」のアパホテルブームなのでありまして、しかし何の偶然か、今またアパホテルに滞在してるっていう。
そう考えれば(近々に終わるのはわかってるとはいえ)ブームは続いてる、と言えるはずです。
・FM802ブーム(2020年9月8日)
最近ぜんぜんクルマに乗ってないんですよ。アタシは家ではラジオは聴かない人間なんで、ここひと月くらい聴いてないかなぁ。
・揚げ鶏ブーム(2020年9月20日)
揚げ鶏ってのはセブンイレブンの、ななチキでないヤツのことだけど、正確には「ブームを超えた存在」って書いてた通り、もちろん今も定番です。
・都こんぶブームでヤンス(2020年10月9日)
さすがにさ、だってこれエントリしたの先週だよ?これで「もうブームは終わりました」なんて書いたら失笑モノだわ。
つかもう、それはブームでさえないよねって話で。
もう今後はブームについて書くチャンスもないと思うし、それでもたまにTwitterでやるかもしれないけど、Twitterだったら写真載っけて「これにハマってる」で終わりですからね。
まァ「短文でしか意味がない」ってのを活かして、こうしたくだらないことを何度も書いてきたんだけど、これって読み手には何が面白いかさっぱりだったとは自覚しています。
とにかくこんな感じで、ブームについて書くブーム、おしまい!!
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もうひとつ、改行が少ないとウェブ上(つまりブラウザ上)では文章が「ひとかたまり」に見えて読みづらい、という意見もあきらかにおかしい。
じゃあ、書籍など紙に印刷された文章なら「ひとかたまり」に見えないのか、というと、正直そんなに変わるとは思えないんです。
この話、今から15年くらい前ならまだ理解出来た。
アタシがyabuniramiJAPANを始めた2003年当時、まだスマホなんてもんはなかった。いやあるにはあったしアタシはPDAなんていうスマホの前身と言えるモバイル機器を使ってウェブサイトを見てたけど、これは特殊すぎるケースだと思う。
となるとインターネットでウェブサイトを<ちゃんと>見ると���れば、パソコンしかなかったんです。
その頃のパソコンというかパソコン用ディスプレイはいわば過渡期で、ちょうど液晶モニタとブラウン管モニタの入れ替え時期くらいだったと思う。
宇多田ヒカルの「Automatic」じゃないけど、ブラウン管というのはその方式上、どうしてもチラつき(フリッカー)を抑えられない。だからある程度改行を多用しないと文字が二重に見えやすかったんです。
ところが今は、というと、ブラウン管モニタを使ってる人なんかまずいないんだから、そこを考慮する必要はない。ほとんどの人は液晶か有機ELのどちらかです。
液晶や有機ELのディスプレイはブラウン管と違ってチラつきは発生しづらい。電子ペーパーほどではないけど、バックライトの有無以外で「紙」との違いというと、実はほとんどないんです。
では何故、現今においても改行多用文体がデファクトスタンダードとして君臨しているか、アタシは「ただの慣例にすぎない」と思っています。
読者側の閲覧環境は時代によって変化していくものです。というか今現在、完全無欠の表示デバイスは存在しない。液晶も有機ELも電子ペーパーもすべて一長一短があり、失われたテクノロジーとなりつつあるブラウン管でさえ、液晶などと比べて応答速度が速い、という長所が残ったままです。
完全無欠でない以上、そしてこれからも不可欠なものである以上、表示デバイスはまだまだ発展すると思う。
表示デバイスの最終到達地点のひとつに「応答速度の速い、ほぼ<紙>」ってのが必ずあるはずで、となるとこれからは「ウェブ上で読ませるから」とか「紙媒体で読ませるから」を峻別する理由がどんどん希薄になるはずです。
もしそれでも、いや、やっぱり、改行多用の方が読みやすい、とのたまう御仁がいるとするなら、それはもう、紙だからとか表示デバイスがどうとか関係なく、文章を読むのが苦手なだけです。
以前、自己啓発本は文章を読むのが苦手で、かつ文章を読むのが苦手ということにコンプレックスをもつ層をターゲットにしたものだ、と書いたことがあります。
自己啓発本は紙媒体であっても、ポエムほどではないにしろ改行が多いし、段落を多用して「パッと見、文字の塊に見えない」工夫をしていますから。
アタシはね、文章を読むのが苦手という人にたいして馬鹿にする気持ちは一切ない。ただ自分が苦手というのを差し置いて、改行が少ない文章=ダメな文章、と烙印を押そうとするのは滑稽でしかないと思っている。
というか、正直、文章を読むのが苦手な人をターゲットにしてたら書けることが限られてしまう。だったらもう、そんな人には読んでもらわなくて結構です。
それよりも、文章を読むのが得意、までいかなくていいから、普通に読める人たち以上に向けて書いた方が精神衛生上良い。
こう言ってはナンだけど、これは自分の書いた文章を読み返して本気で思ってることですが、面白い面白くないはともかく、長さのわりにはものすごく読みやすく書いてあると思っています。
もちろん不親切だってことは自覚している。肝心な箇所の説明をすっ飛ばしたりは日常茶飯事だし、知識の開陳の度が過ぎるところも多々見受けられる。それは否定しない。
それでも、最初の方に書いたように、アタシの意識として「文章を記している」というよりも「独り言を文字起こししている」感覚なわけで、多少専門用語を散りばめたところで難解になり辛いはずです。
正直に言えば「独り言の文字起こし」というのはアタシ独自の、画期的な発想だと思っていたんです。
ところがそうではなかった。偶然にも戦前モダニズム文化に淫することで、それがあきらかになった。
徳川夢声の数ある著作や、サトウハチローの「僕の東京地図」は完全なまでの「独り言の文字起こし」であり、実際これらの書籍は「読む」というよりも「トークを聴いている感覚」に酷似しているんです。
そう考えれば、アタシが「独り言の文字起こし」にたどり着いたのは必然、もしくは運命だったと思う。
ま、オリジナルではなかったとはいえ戦前モダニズムが色濃く反映されたこの文体こそ、本当に望むものだったと。
ただね、それで満足してちゃ進歩がない。
今回、noteを始めるにあたって、今までやってきたすべての能力とノウハウを結集させる、ということを決めた。
文体で言えば、ここまで書いてきたように改行の少ない文体を変える必要はないんだけど、さらに「リーダブルになるにはどうしたらいいのか」を極限まで突き詰めてみたいと思った。
もちろんさっきから書いてるように、ウェブ上だろうが紙媒体であろうが(ま、ウェブ上は横書きに限定されるけど)、どうしたらリーダブルになるのか、という方法論は変わらないと思っている。
とにかくすべてのノウハウを結集して、本当の意味で読みやすいってのをやってみたい。
だけれども、それは「文章を読むのが苦手な人でも読める」ってことじゃないから。そういうのは自己啓発本でやってください。
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決定版!ヤブニラミ文体のすべて、でヤンス
さて、いよいよTumblrでの更新もあとわずかになったわけで、今回からTumblrでの更新終了までの間は800文字以内という制限を取っ払っていこうと。
その中でも今回のはかなり長めになってるので覚悟の上で、どうぞ。
今回の主題である「文体」の話って、とっくにやってそうで実はやってなかった。
いやチラチラとは書いてたんだけど、完全に文体だけに絞ったエントリは17年間で一度も書いたことがありませんでした。
何故今回、それをやろうと思ったかというと、noteを始めるにあたってね、本気でいろいろ文体について考えてみた結果、やっと答えらしきものが見つかったのでね、ああ、だからアタシはこういう感じの文体で長年駄文を書いてきたんだってのに気づいたっつーか。
何から片付けたらいいのかわかりませんが、とりあえず一人称の話から始めます。
2003年、アタシは待望のマイサイトを始めるにあたって、まず悩んだのが「一人称をどうするか」でした。
<オレ>ではエラソーだし<ぼく>ではいい子ちゃんすぎる。かと言って<妾は>とか<余は>、はたまた<小生>じゃあ狙いすぎでイタい。<オイラ>だとビートたけしとかひろゆきになっちゃうし。
かと言って<私>では如何にも硬いので、ちょっとひねってね、最初の時点で有力候補だったのが<私>のカタカナ表記、つまり<ワタシ>だったんです。
ただどうも、文字で書くとオカマっぽいニュアンスが出てしまう。それこそ金本知憲が監督時代の発言「○○だわね」と一緒でね、<���>で聴いてたら別にオカマっぽさなんか皆無なのに、文字にすると女性言葉っぽくなってしまうんです。
そこで<アタシ>ってのが急浮上してきた。
たしかに<アタシ>も、どちらかというと女性的な一人称なのですが、江戸落語の噺家さんなんかは一人称として<アタシ>を使ったりするし、つかちょっと東京っぽい感じになるんですよ。
ああ、これは、アリかもしれないな、と。
ここでちょっと話がズレます。
自分の書いた文章について、ちょっとへりくだる場合<駄文>とか<拙文>なんて言ったりしますが、ま、アタシもそのように書いてきたんだけど、本心は違うんです。
と言っても「名文」と思ってるってことじゃなくて、何というか、これは文章というよりも「独り言の文字起こし」だなぁと。
だから駄文や拙文というよりは<駄弁>や<拙弁>といった方がしっくりくるんです。
そもそもアタシはものすごく独り言が多い。部屋でひとりでいる時とかずっとブツクサ独り言を言ってるレベルでして、ブツクサなんて書くと文句ばっかりってイメージになっちゃうけど、くだらないことだったり、鼻唄だったりね、とにかくすべての感情を口にしないと気持ち悪いんです。
むしろ文句とか罵声、あと愚痴のようなね、いわゆるネガティブ方面の独り言はほとんどない。野球を見てる時でさえ、んで我が贔屓である阪神の監督(今なら矢野)の采配を疑問に思った時でさえ、せいぜい「それは止めた方がいいんじゃないかなぁ・・・」レベルのことしか言わないんです。
その代わり、屁理屈みたいなことは良く考えているので、あれは、つまり、こうじゃないかな、みたいなね、ひとり合点の独り言は、それこそ小学生の時からやっていたのです。
今までアタシは「yabuniramiJAPANを始めるにあたって、泉麻人のコラムや色川武大のエッセイを念頭に置いていた」と書いてきました。
もちろんこれは嘘じゃない。ただね、それはもう、文章として完成させる最終段階での話で、もし、自分がウェブ上に何か書くのなら、もう「独り言の文字起こし」しかないと思っていたんです。
一応、不特定多数の人に読んでもらうことになるんだから、横柄ではない「言葉遣い」をしなければ、というのがあったし、だからといって妙にバカ丁寧っつーかへりくだるみたいになるのもダメだと思ったんで、半丁寧語、とでも言えばいいのか、とにかく基本は「ですます調」なんだけど、全部のセンテンツがそうではなく、話が佳境に入ったりしたら「ですます」を後退させる、というふうにした。
いやこれは、イメージとしては完全に落語なのです。
噺だってマクラやト書きのような<地>の箇所は半丁寧語で喋るし、つかマクラを付けたがるのも落語の発想。サゲ、とまではいかないにしろ、最後に段落を変えて短くまとめるのも落語の構成に近い。
「独り言の文字起こし」というスタイルを突き詰めるほどに「落語の文字起こし」に接近していった。もちろん独り言と落語はまったく違うんだけど、結局「ひとりで話を語り始め、ひとりで話を進め、ひとりで話を語り終わる」究極の形が落語だったってことです。
だったら一人称も、落語っぽい、というか噺家っぽい<アタシ>が最適なのではないか、と。
余談だけど、このスタイルをさらに落語に近づけたのが一人二役で独り言を言う「さかい親子の大阪噺」です。
yabuniramiJAPANを始めてもう17年になるけど、あれって落語の影響が濃厚ですよね、と看破されたことは一度もない。
別に落語(噺家を含む)そのものの話はほとんど書いてないし、普段は戦前モダニズムがドータラとかが多いので、いわば時代劇の世界とも言える落語とアタシが結びつかないんでしょう。
それでも鋭い人から、アンタが書いてるアレはコラムでも分析サイトでもない。というかアレは<文章>ではなく<独り喋り>だ、という指摘ならされたことはあります。
まったくその通りでして、ま、独り言って言うから逆にややこしいんだけど、もっとわかりやすく言うなら、インターネットという媒体を 使った、んで本当に喋るわけではなく文字起こしした一種の「スタンダップコミック」なんです。
ま、スタンダップコミックって言い切っちゃうと「笑わせるのに特化した」っぽくなってしまうんでアレだけど、随所にジョークめいたことを挟み込みたがるのは、落語にしろスタンダップコミックにしろ「笑いの芸能」がベースになってるからなんです。
ここまで書けば、アタシが「改行がやたらに多い」もしくは「一行飛ばし」が嫌いなのを、察してもらえるかもしれません。
かなりそもそもの話ですが、「改行がやたらに多い」「一行飛ばし」の方が「ことウェブ上(というかブラウザ上)では読みやすい」という説は嘘だと思っています。
これね、アタシは「RG現象」と読んでいる。って何のことだかわからないと思いますが、この手の改行多用文体って、結果的に「意味もなく引っ張ってる」ことになると思うんです。
これがね、スマホであれPCであれ、1画面で全文が見渡せる程度の長さであれば、まァ、改行多用でもかまわないと思う。
だけれども、それ以上の長さの場合、スクロールさせなきゃいけないわけです。つまり全部が見えない状態で読み進めなければいけない。
無駄にスクロールさせると、無駄に期待値を上げてしまう。
これはつまりRG風に言えば
あるある
いいたい
あるあるが
いいたい
yabuniramiJAPANのあるあるを
いいたいよ~
yabuniramiJAPANのあるあるは
たとえば
いろいろあるけど
それがいいたいんだよ~
じゃあいうよ
yabuniramiJAPANの~
あるあるを~
これからいうよ~
yabuniramiJAPANのあるある
「たとえ話がたとえになってない」
まァね、RGがあるあるネタをやる時は必ずガヤから「早よ言えや!」ってツッコミが入るし、今では「なかなか言わない」ってのが浸透してきてるので本気でイラつく人はいないはずです。
それでもやっぱり、ツッコミなしのあるあるネタは難しすぎるんですよ。
この、無駄に引っ張った感をウェブ上で再現すると、つまりは「改行多用」になるのではないかと。
もう一度言います。yabuniramiJAPANのベースは独り言です。
んで、それを文章として起こすために「もっとも練り上げられてきた独り喋り」である落語をベースに文体を組み上げた。
落語がベースであるからには何より重要なのは「間」です。「間」はリズムと言い換えてもかまいませんが、つまり、極端に言えば内容よりも「間=リズム」が出来不出来を支配すると言ってもいい。
改行多用は良く言えば「リズムが等間隔」、悪く言えば「リズムのコントロールがほぼ無理」ってことに他ならない。しかもウェブ上の場合は引っ張っれば引っ張るほどスクロールを強要することになるし、スクロールさせればさせるほど無意味な期待値を上げてしまう。
さっきの例として書いた「あるあるネタ」もね、ほとんどの人には散々引っ張っておいて、何だそのオチは、としかならないと思うんです。
フィクションであろうが実録(って書いちゃうと任侠モノみたいだけど、ノンフィクションというかドキュメンタリーというか「事実を元に」書かれたもの)であろうが、文章というものは「語り始められた時点で、語り終わることが前提」なのです。当然読者は「文末には語り終えられている」ことを前提に読み進める。
別にたいしたオチじゃなくてもいいんです。とにかく筆者に「語り終えようという意思」がある、と感じることが出来れば読者は満足な読後感を得られる。
ところが改行多用文体は「語り終えようという意思」が極端に見えづらい。となると改行多用に本当に向くのは書籍だろうがウェブ上であろうがマジでポエムくらいなんです。
さっき、どんな文章でも語り終えることが前提と書いたけど、ポエムは例外で、徹底的にムード重視、筆者がどこで書き終わっても、読者がどこで読み終わっても成立する。
アタシ的に言えば「日記に近いようなものをポエムふうの文体にする」なんて自殺行為なんですよ。
もうひとつ、改行が少ないとウェブ上(つまりブラウザ上)では文章が「ひとかたまり」に見えて読みづらい、という意見もあきらかにおかしい。
じゃあ、書
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勇者たちと勇者たちのその後を書いたンゴ
えと、ArchivesContentsの追加分なのですが、ネタ自体は「阪急への熱き思い」と多少被っています。が、十二分に別エントリに出来るだけの材料は揃えたつもりでして。
・嗚呼、勇者!
前後編になっており、後編は主に「オリックスを『何とか』する方法」(2017年2月更新)からアダプデーションしたのですが、前編は完全に書き下ろしです。今まで触れたことがない、アタシ的にはかなり衝撃的なことが書いてあります。
本当は前編だけをさらに膨らませて完全新規エントリにしても良かったんだけど、この構成を思いついちゃったんだからしょうがない。
いやね、むしろ、こういう構成こそ「元阪急ファン」という複雑な心情の吐露になると思ったから。
阪急ブレーブスOBの福本豊が「熱血!タイガース党」という番組で<党首>をやってることに批判される向きもあると思うけど、そういうことへのね、アタシなりのアンサーになったと思います。
<あの頃>の阪急ブレーブスは大好きだし、宝物だけど、かといってその末裔のオリックスバファローズに思いを寄せるかどうかはまったく別問題です。
だからアタシは自分が「元阪急贔屓、現阪神贔屓」ってのに矛盾を感じないし、むしろ<あの頃>の阪急の試合を観に行ったことを誇りに思っている。
同時に完全に断絶したオリックスに何の思い入れを持てないのも、誰に責められることではないはずです。
だって<断絶>を望んだのはオリックスなんだから。
こんな感じでいろいろ過去エントリをまとめてまいりましたが、Tumblrに<マクラ>を書くのは今回が最後です。つまりTumblr経由で本サイトのアップ通知をするのも最後ってことになります。
今後は本サイトアップの通知はTwitterでやりますので、是非そちらから。
一応アカウントは
@yabuniramijp
です!
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ヤオコーの歌に胸が締め付けられるでヤンス
もうホントに偶然なんだけど、滞在しているホテルからもっとも近いスーパーがヤオコーだったんですよ。
って、これじゃあ何にもわかんないだろうけど、アタシが一昨年まで在住していた神奈川県の某所の近所にね、ヤオコーってスーパーがあったんです。
ヤオコーは間違っても高級スーパーじゃないんだけど、通路が広くてゆったりしている。しかも惣菜もパンも美味しい。(もちろんスーパーのパンにしては、ですが、ちゃんと店内で焼いてますから)
だからヤオコーにはものすごく良いイメージが残ったんです。
でね、関東に出張になって、ホテルの傍にヤオコーがあってさ、ホテル暮らしだから弁当とかを買いに行ったのですが、最初は変なっつーか、ある意味アタシ好みなんだけど店内音楽がスウィングジャズで。あれ?ここ、そういう雰囲気じゃなかったのに、と。
しかし例の、と言ってもヤオコーに行ったことがある人にしかわからないけど「♪ タラッタラ タラッタラ なッか押しのいィちッ~」っていうのが流れた瞬間、呼吸が苦しくなった。
PTSDではないけど、神奈川在住時代の楽しかったこと、苦しかったこと、すべての記憶が一気に甦ってきたのです。ま、いわゆる「記憶の蓋を開ける」ことになってしまったと。
もちろんヤオコーには何の罪もないし、好きなスーパーには違いないんで、その後もヤオコーに行ったりして慣れたんだけど、初日はうずくまるレベルだった。
しかしまさか、ヤオコーの歌がトリガーだったとは。
あきばおーの台湾語の悟空が好き好き(←これもあきばおーに行ったことがないとわかんないと思うけどさ)とかはぜんぜん大丈夫なのに。
やっぱスーパーっつー生活に密着した存在だったのが大きいんだろうな。
それにしても同じスーパーでもさ、オーケーでもエスポットでもクリエイト(は薬局だけど)でもなく、ヤオコー、か。
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しばらく関東に滞在するでヤンス
一応Twitterでは報告したのですが、現在関東の某所にいます。 これだけ長期間関東にいるのは2018年に居住して以来なので、ガラにもなくワクワクしているわけで。
ま、これもTwitterに書いたけど、早い話が出張です。そりゃそうだよ。遊びでこれだけ長期間ホテル住まいが出来るわけがないもん。
てことは平日はほぼ仕事なのでどこかに出掛けるってのは無理なんだけど、初日はね、せっかくこっちに来たんだから、と東京駅から<まっつぐ>(←場所柄下町弁で)秋葉原に向かった。
秋葉原っつーか、山手線に乗った時からっつーか、東京駅のホームに立った時から、いや新大阪から新幹線に乗った時からか。とにかく人がメチャクチャ少ない。秋葉原なんかやってない店も多いし、何だか異様な光景に思えたってのが実際のところです。
長年神奈川県に在住していたアタシにとって、東京なんて年がら年中、朝から晩まで、人が異様に多いのが当たり前だった。
パンデミック後の東京は今回が初めてだったんだけど、こんなに違うのか、と。
たしかにね、大阪も神戸もあきらかに人は減ってるんです。しかし元々東京レベルで「人が溢れかえっている」ってイメージがないせいか、そんなに極端に減った感じもなかった。
つまり元のイメージが違いすぎて、現在の東京に違和感をおぼえてしまったと。
正直に言うと、やっぱ、ちょっと悲しかった。こんな閑散とした東京なんて東京じゃない、とさえ、思ってしまった。
人混みがあって初めて成立するものがあるんです。つかこれは前にも書いたけど、ガラガラの映画館とかガラガラのテーマパークなんて絶対に面白さが水割りされるもん。
空いてるからいい、なんて発想はアタシにはない。いやぁ、こんなに混んじゃって、まいったなぁ、とか言いながら、心の底ではその状況を楽しんでいる。それが都会人じゃないのかね。
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都こんぶブームでヤンス
えと、おそらくこれが最後の「ブームでヤンス」になると思うのですが。
てなわけで今回は靴下のニオイ、じゃない、都こんぶの話を。
何度か書いてきたのですが、アタシは週に一回、海外に住む姪っ子とFaceTimeでビデオ通話をしているのですが、ま、さすがに毎週となるとハナシのネタが切れるものでして、そうなっては姪っ子が可哀想だからいろいろネタを仕込んでいるのです。
何しろ姪っ子は生まれてこの方、ずっと海外暮らし。つまりは日本の文化のことをそこまで知らない。ってのを活かしてね、だったら「日本にしかないもの」を買ってきてそれを見せるってのをやってるんです。
こないだ、駄菓子とかいいんじゃないか、と思ってね、いろいろ駄菓子を買い込んできたんだけど、その時、レジ横をふと見たら都こんぶが置いてあった。
正直、都こんぶってあんまり好きじゃなかったんです。だってさ靴下(←の話はもういい)もとい、あの酸味がね、嫌だなぁと。
ところが久しぶりに都こんぶを食べたら、これが予想をはるかに超えて美味い。酸味も思ったほど気にならず、いやこれは酒のアテに最高なんじゃないかと。
んで、何よりありがたいの安いってことでして、意外と量が入っているのでお得感がハンパじゃない。何しろ駄菓子と一緒に買ったから「100円を超えるの?高いなぁ」と思ったけど、それは駄菓子が安すぎるだけだから。
つか駄菓子って意外と酒のアテにはならないのです。味が濃いからなりそうなんだけど、実はならない。しかも駄菓子って量が少ないから。
え?で、姪っ子に都こんぶはウケたのかって?
うん、イマイチだった。つか都こんぶなんてまったくピンとこない味だもん。
あと「これは絶対ウケるぞ!」と思っていがた「ねるねるねるね」は「あ!それ知ってる!食べたことある!!」と来たもんだ。はは。そんなもんさ。
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イーアルカンフーの価値でヤンス
えと、ちょっとだけコナミのMSXの話なぞを。
MSX用のコナミのゲームは発売から30年以上経った今でも称賛されるほどどれも良く出来ていたのですが、初期は必ずしもそうではありませんでした。
初期ソフトは前にも書いた「I LOVE ○○」という副題が付いた教育シリーズ(わんぱくアスレチックやけっきょく南極大冒険など)とアーケードからの移植作(タイムパイロットやハイパーオリンピックなど)、スポーツやテーブルゲームのビデオゲーム化したもの(麻雀道場やコナミのテニスなど)しかなかったんです。
だからその頃までのコナミには特別な印象はなかった。手堅い作りだったのはたしかだけど、それほど突出したメーカーには思ってなかったんです。
そんな空気の中で登場したのが「イーアルカンフー」だった。
アーケード版の同名作品があるのでややこしいんだけど、これはアーケードからの移植ではなかったはずです。アーケードの稼働開始時期とMSX版の発売はほぼ同時で、むしろMSX版が先にあって、グラフィックをリッチにしたアーケード版が後から開発されたんじゃないかと。
つまりこれはMSX完全オリジナルと言っていいと思う。
たしかにボリュームは足りないし、いわゆる対人戦は出来ないとはいえ、まだ格闘ゲームがほとんどなかったこの時代にこの完���度は圧倒的だったんです。
だからアタシはイーアルカンフーでコナミの「マイコン用ソフトの開発」に火がついたと思ってる。つまりイーアルカンフーがなければ驚異の移植「グラディウス」も、アーケードの続編の体を取りながら完全オリジナルだった「グラディウス2」もなかったんじゃないかと。
もちろん「格闘ゲームの面白さをユーザーに気づかせた」っていう功績もあるわけで、イーアルカンフーの価値は相当高い。
顧みられることがないソフトだけど、天の邪鬼的に思ってみたんで。
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嗚呼憧れェの、ハードウェアスクロール~でヤンス
もちろん「憧れのハワイ航路」の節で歌ってもらいたいのですが、今の人にハードウェアスクロールなんて言ってもピンとこないだけならまだしも「物理的に移動することか?」と思われそうで。
「もし、このマイコンに、ハードウェアスクロールさえあれば、アーケードゲームと
変わらない(は言い過ぎ)レベルのゲームが作れるのに」と当時のマイコン少年はみな夢見たはずです。
それくらいハードウェアスクロールは、逆説的ではありますが、マイコンに搭載される可能性はほぼゼロと感じていたわけで。
しかしですな。検索していろいろ見てみると、実に古い書き込み(1990年代後半)に「実は各種マイコンにもハードウェアスクロールが搭載されたものがあった」と書いてあって。
具体的には富士通のFM-7だとかカシオのFP-1100あたりには(おそらく縦方向のみでしょうが)ハードウェアスクロールが搭載されていた、というのです。
理屈を聞けば納得モノで、たとえばFM-7には文字プレーンが存在せず、テキストもすべてグラフィックプレーンに書き込んでいた。当時のマイコンは「プログラミングのためのもの」という要素が大きかったので、グラフィックプレーンにテキスト表示をしてたら遅くてかなわない。とくに長大なプログラムは当然スクロールが発生しますが、とてもじゃないけどまともに表示出来ない、といった理由でハードウェアスクロールが搭載されていたらしい。
ただしハードウェアスクロールをゲームに使用したという例は知らない。I/O誌に「NOBO」というスムーズスクロールを実現したゼビウスモドキのゲームが掲載されたことはありますが、何しろ実機で遊んだことがないので、ハードウェアスクロールを利用しているかは知りません。
しかし当時のマイコン事情は奥が深いわ。当時の開発者の話を聴いてみたくなったよ。
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とうとう炊飯器に手を出してしまったでヤンス
え?つーことはつまり、今まで一切自炊とやらをしてなかったのかよ、と思われそうですが、そうではなくて。
2011年、というと東日本大震災があった年ですが、その頃アタシは横浜に在住していました。
もちろん、揺れは東北地方とは比べものにならない。だけれども「グワングワン!」くらいになったのは事実で、テレビは倒れるし、トースターは床にガチャン!と落ちて扉が取れてしまった。
その時炊飯器も落ちたんだけど、外傷はほとんどないのに動かなくなってしまったんです。
ちょうど、震災の寸前くらいから、アタシは「土鍋焚きご飯」に興味を惹かれていた。炊飯器が壊れた、これ幸いとばかりに炊飯器の買い替えはせずにAmazonで炊飯用の土鍋を購入したんです。
3,000円くらいだったし、もし失敗だなと思ったらその時また炊飯器を買えばいい、という軽い気持ちだった。
ところがこの土鍋で炊いたご飯がメチャクチャ美味い。米のランクを2から3段階引き上げたレベルになるのには心底驚きました。
手間でいっても、炊く前に米を30分ほど浸水させておけば後は中火で10分ちょいほっておくだけ。正直手間というほどではない。
ああ、もうこれだ。いやこれしか嫌だと思ってね、最近まで愛用してたんだけど、ついにこの土鍋が割れたんです。
じゃあ次も当然土鍋、となりそうなものだけど、土鍋の最大の欠点は「タイマー炊飯が出来ない」のですよ。これはひとり暮らしでは不便きわまりない。
てことで、結構迷ったんだけど、最終的に炊飯器を購入したと。
久しぶりに炊飯器を使ってみてね、タイマー炊飯は便利この上ない。もちろん味は土鍋よりもだいぶ劣るけど、ま、許容範囲です。
しかし土鍋の味も捨てがたい。やっぱ、二台体制が、つまり普段は炊飯器で、本当に美味い飯を食いたい時は土鍋でって感じがベストなんだろうな。
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来年は本当の意味で競争が始まるンゴ
いやぁ、それにしても、コロナってヤツも役に立つこともあるもんで、木浪の代役でしかなかったはずの小幡がショートのレギュラーを掴みつつあります。
正直ドラフト生の中では地味な存在だったし、正直一軍では守備固めレベル、それもそうなれたら上等くらいに考えていたので、小幡のここまでの頑張りはすでに「元が取れた」と言っても過言じゃない。
もちろんここまでこれたんだから、さらなる高みを目指して欲しい。とはいえ今年飛躍的に守備が伸びた木浪も黙ってないはずで、来年の春季キャンプはマジでバチバチになるはずです。
でもこれが本当の意味での競争だと思う。同世代の木浪と北條で争うのはどちらかというと消去法に近い。
ともに若いとはいえ木浪の方がだいぶ年上のドラフト同期生でひとつのポジションを争う、これが本当の競争になるはずだから。
さて、これで本文は終わり。エラく短いけど、ここからは余談です。
先週、というか今月に入ってから何度か書いてきたように、10月17日をもってTumblrの更新を停止することにしました。
そうなると野球のことはどうするのかってことなんですが、ま、基本はTwitterでいいし、長々書きたい時は本サイトにアップします。そこは従来通り。
ただ野球ネタって、今までやってきた800文字程度がちょうどいい、というのがかなりあるんですよ。
だからこそ、ここ2年ほどやってなかった「毎週月曜日は野球ネタ」ってのを復活させた。んでアタシの野球について書きたい欲と一週間800文字ってのがバッチリとマッチしてたんです。
まァその分の埋め合わせはTwitterでってことになるんだろうけど、あまりにもTwitterで野球ネタってのがマッチしてなかったら、もしかしたら野球ネタ限定でTumblrを復活・・・はさせないか。
もうちょい考えます。
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今のところInstagramは活用しない方向でヤンス
アタシは昨年のぶちゃむくれ大変革を実行するにあたって<間口を広げるために>という理由で、具体的な時期は未定としながらも「今後YouTubeとInstagramをはじめる」としていました。
YouTubeにかんしては遅々として進んでいないとはいえ、それでもずっと準備はしている。仮収録もおこなったし、編集の実験もいろいろやってはいるんです。
一方、Instagramはとりあえずアカウントは開設した。んで何枚か画像をアップしているのは事実です。
現在Instagramにアップしているのは愛猫のぽんぽこの写真のみ。つかそれ以外アップするものがないので、そうするしかなかっただけの話で。
しかしね、よくよく考えてみると、というかマジメに向き不向きを考えると、InstagramというSNS「だからこそ価値がある」というような活用方法がまったくないのです。
かなり前に書いたように、InstagramはInstagram特有とはいえ従来の写真の延長線上にある「写真としての美しさ」が求められている。ただ、どう考えてもそういう展開は今後の方向性と著しく食い違います。
画像をアップしたければ「写真としての美しさよりも対象物が<何>なのか」が重要なTwitterの方がどう考えても向いてるのです。
つかInstagramはTwitterのような気軽さがまったくない。正直<気軽でない遊び>はテキストと(まだはじめてないとはいえ)動画で手一杯で、いくら間口を広げたいとしても活用出来ないんじゃ広げるもクソもないんですよね。
てなわけでInstagramは今後一切アップしない、とかじゃないけど、本格的な活用は見送ります。
ま、画像はTwitterで十分だし。別にInstagramの方が圧倒的に見栄えが良くなるとかじゃないんだしさ。
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マクラをどうするか問題でヤンス
さてさて、Tumblrでの更新を停止するにあたって、一番悩ましいのは「本サイトにアップした更新の通知」です。
いや、更新の通知そのものはTwitterでやればいいのですが、そういうことではなくて。
そもそも何故、今までTwitterに直接更新情報を通知してなかったというと、つまりわざわざTumblr経由にしていたかというとですね、Tumblrにマクラを書きたかったからなんです。
本サイトの長文は「いつ読んでもらってもかまわない」ようにするため、たとえば「○年前」みたいな表現を一切使ってないし、アップトゥデイトが必要になる文言は極力使わないように気を配って書いてます。
でもね、長文本文が落語でいうところの「噺」だとするなら、導入部、つまりはマクラですね、をどうしても書きたかった。
これは落語の場合も同様なんだけど、マクラってのは基本時事ネタを入れたりして「今」を感じさせる工夫をしている。逆に言えばマクラは定期的に変更するのが普通であり、何年もマクラを使い回すなんてことはないわけです。
アタシが駄文で同じことをやろうと思うなら、Tumblrにマクラを書いて、そこに本文へのリンクを貼り付ける。もうそれしかなかった。
ところがTumblrを止めてしまうとマクラを書く場所がなくなる。
まァね、Twitterにマクラを書いてもいいんだけど、140文字ってのは如何にも短い。となると連続ツイートするしかないってことになるんだけど、それもなぁ、と。
これにかんして、いろいろ策を練っています。
もちろん更新通知自体はTwitterでやるけど、何とかマクラを書く<やり方>を検討中です。
それにしてもそーゆーの好きだな。もしアタシが噺家だったら「マクラが異様に長い」って悪評が立ってたわ。
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