Tumgik
yrkhang · 2 years
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「無題」
「え?最近どうかって?」
「うーん、仕事は順調だよ。最近は対外的な話に呼ばれることが多くて社内のことはあんまり出来ていないけどね。でも成果はきちんと出してるし評価もされてる。満足してるかな」
「ん?うーん、最近サイクリングマシンを買って、暇さえあれば漕いでる。無心で身体を動かすのはいいよね。ストレス発散にもなる。動画も見てるよ?最近は色々あって面白いよね」
「え?…お前楽しいのかって?」
「…うーん」
<少しの間、考え込む仕草>
作品を、例えば、或る映画なりを観るときに、実のところその評価を、観る前に決めてしまっているところがある。
「僕が敢えて選んで観る作品が、つまらない筈なんてない」
そういう確信を抱いているから、映画は開封日に観に行くことが圧倒的に多い。
世間での評価なんて知らない。僕が選んだ。面白いに決まっている。
結果的にそれは、僕の作品に対する評価にも現れていると思う。
初日、期待して観に行った劇場がガラッガラだったことも珍しくはない。
でも、僕はやっぱりそれが「良かった」と思う事の方が多い。もしかしたら甘いのかも知れない。でも、それで良いと思っている。
僕が映画観に行くときの感じ、完全に↓なのでな…ほんとうにすまんな…
https://www.youtube.com/watch?v=E4sq2rBnmpE
俺が観に行くのにつまんないわけないに決まってんだろ。そりゃ面白いがな。
がっかりすることも勿論ある。そういうときは、帰宅して即お酒を飲んで風呂に入って寝ている。
良かったと感じた気持ちを大事にしたいから、だから、僕は作品に対して「その作品のどこがどう良かったか」ということを血眼になって探しているようなところがあるのかも知れない。
先日、久しぶりに劇場で映画を観た。
『アイの歌声を聴かせて』
ウルトラクソ良かったですね…
本作に関してはハッキリ言って予告でほぼ枠組みを語っているところがあるし、そのシナリオについては「ベタ」と言い切ってしまってもいい。なのであんまりネタバレとか気にする必要はないので一切語るのはやめますね。
いい作品は、そのストーリーが完全に見え見えで読めるものであったとしても、絶対に面白い。
これは僕が長年何某かの作品に触れるにあたって抱き続けている、「信念」とかに近いものなんですけど、これを体現する作品っていうのは実はそんなに多いわけではなくて。
この作品は、その数少ない作品に挙げて良いと思いました。本当に素晴らしい。
吉浦監督と言えば『イヴの時間』で人間とロボットとの関係性を見事に描き切った手腕が僕の中ではあまりに鮮烈で。
SFってものすごく難しいんです。科学的見地に立とうとすればどうしても説明的になり過ぎてしまうし、物語性を優先しすぎればその地平から完全に浮き上がったものになってしまって。そのバランス感覚で言えば例えば瀬名秀明先生の作品なんかが僕は大好きなんですが、吉浦監督の作品はなんというか、その辺りの見方が少し違っていて、例えばイヴで言えば、人間は人間、ロボットはロボット、それぞれの立ち位置と立ち方が素直で、その両者がまっすぐだからこそ、その関係性の中にその違いがみえる。そういう違いを見てゆく中で、観客は「じゃあ自分はどうなんだろう」と考える。そんな作品作りが印象的でした。説明すべき部分をその両者のそれぞれの根っこの部分において、それはそのままに、その違う人々が交わる中に物語性を持たせることで、ともすれば背反しそうになる両者をとても丁寧にひとつの作品の中で描き切る手腕には、当時から刮目すべきものが在りました。
あれからもう13年ですか。
幾つかの劇場作品を経て、吉浦監督は「アニメーション監督」としての立場を確かなものにした、と僕は思っていて、でも僕はやっぱり吉浦監督の描くSFが大好きだったので、本当にこの作品は心待ちにしていたんです。
https://www.youtube.com/watch?v=FK2adjlVAcc&list=PLkQM-7_8lXlncjAFhFJrE55x_2kV4RAqp&index=31
これが最初に見た予告編だったんですが、うーん、ポップ!
びっくりしたなあ
https://www.youtube.com/watch?v=VJmN_gK-xSQ&list=PLkQM-7_8lXlncjAFhFJrE55x_2kV4RAqp&index=5
これが2つめ。
ウーン、シオン、俺は心配だよ
結論から言えば、本当に良い作品を観ました。
こんなにこころ洗われたような気持ちになったのはいつ以来かな
根幹は変わってないんですよね。それぞれが、それぞれの在り様をまっすぐに描き切られることによって、その違いが明らかになり、その関係性を以て作品そのものを成す。まったく変わっていないんですよね。
なのに、その描かれ方はまるっきり違う。あの穏やかに静かに時の流れる『イヴ』とは。ポップで、華やかに愉快で、めちゃくちゃな勢いのままにまっすぐに、観る人の心を首根っこから揺さぶってくる。
めちゃくちゃな勢いだからといって、それが雑なわけではなく、そこに置かれた舞台装置ひとつひとつ、その全てに(それは突き詰めれば本作が「SF作品であること」にまで)意味を持たせつつ、その最後へと物語を収斂させていく力。
正直いえば、半々くらいかなって思ってたんです。
初日に勇んで劇場来てみたもののなんかガラッガラだし。人数言えるもんな。僕入れて5人。
そんなことある?都心やで?
なので、「半々くらいかなあ」って思ってました。
見事に裏切られたな。やっぱり作品は人間が創るものだから、つくる人のことをもっと信じないといけないなと思った。
本当にいい作品でした。
こういうのがあるからオタクはやめられねえんだ、ホントに。
たまらねえな
「え?…お前楽しいのかって?」
「…うーん」
<少しの間、考え込む仕草>
「最近いい映画観たし、けっこう楽しいかな」
いこうぜ映画館。
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yrkhang · 3 years
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「VARKレポート」について
VARKみてきて最高だったので多少なり感想とかを書いておきたいと思う。
VARKというのについて補足しておくと、所謂VRライブアプリというやつで、VR空間で演者がライブしたり色々出来る。ぼくらオタクはそれを見れる。そういうすごいアプリだ。
たぶんこの凄さというのがきちんと伝わることはなくて。
今回のライブは 「Cinderella Switch」 というやつで、単純に言ってしまえばソロライブ2部制のライブ。
めずらしくはないライブだ。
めちゃめちゃ楽しくってですね。
たぶんこの凄さというのがきちんと伝わることはなくて。
というのはVARKはアーカイブがないので実質的にライブで見るしかないんですけど、勿体ないですよね。
めちゃめちゃ楽しくってですね。
というのは、このライブって「Switch」という名の通り、演者が舞台と客席とを行ったり来たりするんですね。
ソロ2部制のライブの、1部の演者が2部では客席に、2部の演者は1部の客席に来て、それぞれライブを見るという形式になっているんです。
これがすごくってね。
んー、オタクのひとなら一度は考えたことがあると思うのだけど、
「自分の推しはライブの間どんなふうにしているのだろう?」
という、この単純にして深刻な問いに、VARKはひとつの回答を与えてくれる。
自分の隣でライブを見ている推しの姿を通して、そのひとつの答えをくれるんですね。
自分のアーカイブは非常に深刻なことになっているので詳しくは適当にぐぐるなり何なりで見てもらえたらと思うのだけど。
「Cinderella Switch」の肝は舞台上の演者では、実は(と言ってしまうと失礼だけど)なくて、
それを見る、隣にいる演者だ。
ライブを見るとき、恐らくながら多くの人が考えたことがあるだろう、
「自分の推しがここに居たらどんなふうにしているのだろう」
という疑問。
その答えのひとつがここにある。
舞台の上と下、2つの場所は共に「芝居すべき場所」として共通しているのだけれど、
所謂「リアルライブ」では体験しようのない、「客席から舞台を見る推し」の姿をここでは見ることができる。
「見ている」という立場だからなのかな、この視点は結構人によって違っていて、
例えば今回で言えば、一部のすいちゃんはかなり真剣にステージを見上げていて、それは彼女の「ライブをやりたい」という意識(彼女はホロの中では少し特殊な立ち位置に居て、元々ホロのライブ部門みたいなところから移籍してきたという経緯がある)を感じさせたし、二部のみこちはステージより寧ろこちら側へのアプローチが強くて、話しかけてきたり手を振ったり、その辺を走り回ったりと、正直ステージを見るより忙しかった。んー、詳しいわけではないのであんまり言いたくはないのだけど、みこちは普段の配信でもリスナーとの喧嘩じみたやりとりがある種印象的な配信者だ。「リスナーと会話する」という彼女の魅力が、客席という立場からとてもよく見えたと感じたのがこのVARKでのライブだった。すごく良かった。
35Pなのでみこちの話を延々としてしまいそうになるのだけれども、
うーん、そうだな
所謂「VTUBER」というカテゴリに置かれる人々について少し思うところはあって。
というのは、彼らはある種、声優に近い仕事をしているように見えるのだけど、その実それはかなり彼らとは違う仕事をしているのではないか、ということで。
うーん
説明が難しいのだけれども。
例えば、声優というのは色んなキャラクターの声を「演じる」お仕事だ。こういう声で、こういう抑揚で、こういう、「既にあるキャラクター」がここではどういう声を出すだろう、という問いを常に立てそれを演じる「役者」である。
最近はそういう声優をさして「中の人」といったりもする。これは「声優」という仕事の一端をとてもよく表していると個人的には思っている。
一方で、Vtuber、或いは「Youtuber」というお仕事がある。
彼らのお仕事は「既にあるもの」ではなく、「その人だからこそ」のキャラクター性を「演じる」お仕事だ。例えばゲーム、例えば料理、例えば映画、例えば音楽、例えば、
例えば。これまでに無かった様々なもの。
彼らのお仕事は常に、「既にあるもの」ではなく、「これまでに無かった新しいもの」が求められている。そしてそれは、「その人ならでは」というキャラクター性の内側にあるものであるように感じられる。
この両者は仕事としては似たようなことをしているけれど、中身として求められていることはまるでちがう、と僕は思っていて、
それを例えれば、声優の仕事を「中の人」と言うのであれば、Vtuberの仕事は「外の人」とでも言うようなものなんじゃないかと思っていて。
それは、Vtuberには「ガワ」と呼ばれる外見や様々な設定というものがあって、彼らはそれに基づいて、ある種、そういうキャラクターを「演じて」いる。そのはずなのだけれども、一方でVtuberというものは、中の人が「演じ」る以上に、その外側たるガワや設定こそが、それを演じる中の人を活かす設定として「演じ」させられている、みたいなふうにぼくが感じるからなんですね。
この辺うまく説明はできないのだけれども。
コンテンツの総量として、作品に求められて成立しているある人物の外側としての「キャラクター」と、既にそこに在る、例えばそれを演じる「人」。そのどちらに重みがあるかと言えば、後者であると僕は思っていて。
例えば、アイマスとかが(オタクなのですぐ好きな作品の話をする)面白かったのは、そういう表面的なキャラクターに、その内側に居る「中の人」を重ねることで、コンテンツとしての厚みを持たせようとしていた(のかどうかまでは分からないけど)ところで。間違いなくそうしたことでコンテンツとしてのボリュームは嵩を増したはずなんですよね。なぜならキャラクターという表層に、その内側に居る人物そのものを重ねたから。そうされることで、表層たるキャラクターにはその内側に居る演者の、考えや価値観、経験、そういった様々なものが反映されて、それによってこのキャラクターそのものもまた、重みを増す。
アイマスに限らず最近の映像作品って、そうやって演者とキャラクターを重ねようとしますよね。それはこういう演者のストーリーを重ねる方法論がある程度理論化してきているんだろうなと個人的には思います。
全然関係ない話になってるな…
一方で、じゃあVtuberってなんだろう。そういうことを随分とぼくは考えてきました。
うーん、何なんだろう…
未だによくわからないんですが。
ただ、はっきりしていると思うのは、Vtuberは声優とやっているお仕事上はよく似ているけれども、やっていること自体はまるっきり異なるということで。
Vtuberって極論すると、VのYoutuberなんです。当たり前なんだけど。
つまり、そこで求められていることって、「Vtuber」というキャラクターの枠組みを演じること、では全然なくて、むしろその逆、
Vというガワの内側で、その人自身のキャラクター性でどういうことをやっていくか、ということだと思うんですね。
これは勿論Youtuberにも同じことが言えて、つまり、外側のキャラクターではなくその「内側のひと」がどれだけ面白いかが全て、みたいな世界観。
だから僕はVtuberのことを「外の人」とか茶化して呼んだりしてるんですけど。
色んな人がいるけれど、結局そういうことだと思うんですね。誰が演るにせよ、「その人自身が面白いかどうか」というのがVtuberの評価軸で、見た目や設定はあくまでもその人自身を飾るためのオプション、みたいな感じなんじゃないのかな。詳しいわけじゃないけど、これは間違いないと僕は思っている。
うーんと、えらい遠い話になったけれど、VARKのライブはすごく、そういう意味で「Vtuberのライブ」の延長線上にあるなと感じていて。
つまり、例えばステージ上で歌って踊ることが求められて演じる「キャラクター性」の一部なのだとしたら、その外側で、客席で飛んだり跳ねたり、こっち向いて手を振ったり、その辺走り回ったり、みたいな部分に、
そういった部分にこそ、僕の思う「外の人」たるVtuberの人の在り様が見えるような、そういう気がするんですね。
それは何というか、芝居と芝居でないところとの合間みたいな部分で、例えば声優としては職業外の部分であって、けれども、ファンとしては恐らく、見たい一面、芝居でない、その人なりの一面が良く見える部分だと思う。Vtuberというのはこの「その人なり」の持つ部分が(恐らく)声優よりもとても大きくて、だからこそ Cinderella Switch のようなコンテンツが成立し得るのかなとも思う。
うーん、上手く言えないな
Vtuberというお仕事はすごく、何というか立ち位置が曖昧で、既存の声優というお仕事に比したとき似た部分もあるし異なる部分もある。
ただ、「ライブ」という表現形式においては同じ方法論が通じる部分もあり、だからこそVtuberが声優の方法論を引用している場面も見かけるし、であれば、その逆もまた成立するんじゃないかと僕は思っている。
より良いコンテンツを見たいし、それに触れることができれば僕も嬉しい。
そういう意味で、VRライブには可能性があり、例えば声優現場において、僕が見たことのない景色もある。
僕としてはいつか、それを見れたらいいのになと思っている。
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yrkhang · 3 years
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「割とうんざりしていること」について
やっとこ週末じゃい!やったぜ。
たまんねえなあ。
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このとこあんまりきちんと寝れてなくて、なんか3時くらいに目が覚めてぼんやりとしているような暮らしをしている。
どうしたもんかなあと思っている。
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そうなあ。
「たまんねえなあ」と思うことが、この数年は本当にたくさんあって。
うんざりしてしまっている。
歳は取りたくないもんだ。
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ちょっと前に書いたかな、「カラオケ」について思う事、みたいなのが最近の自分の中にはほんのりと存在しているのだけれど、
それは「カラオケ」に限らない様々なことについてそういう感じで。
なんというのかな、
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なんというのかな。
ふと脇目を振ってみると、自分がまるっきり知らなかった世界が遠くまで広がっていて、そのことにまず僕はびっくりしてしまって。
そうして、その広大なぼくの知らない世界を当たり前の中に生きてきた人々がその景色の中に佇んでいることに、二度びっくりしてしまう。
時代、みたいな言葉は大雑把すぎて用いるべきではないと思うのだけど、ぼくが、そういうぼくの知らない世界を見ていて思う事というのは、大雑把であるのだけれど、「時代が違うんだ」みたいなことであったりしている。
時代、というか、時間がずれていて、共に流れている、というのかな。
最近の僕はなにもかも感じることを拒絶してしまっているのだけれど、その、「ずれていて」、「共に流れている」、みたいな感じはほんのり心地よかったりもしている。
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悲しかったり、嬉しかったり、みたいな自身の感情の波にうんざりしている。
なんというのかな。
もうそういうものを、ぼくは自分のものとして見ていたくなくて、楽になろうとしている。
ずるいかなあ。
ずるいだろうな。
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ずるい僕はだいぶ前に逃げることにしたみたいなんですけど。
穏やかな景色を求めて逃げ込んだような場所でも、やっぱりというか時間は流れていて、
時間が流れる以上、例えば出会いであったり、例えば別れであったり、
例えば、なんだろうな……、
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例えば。
変わらないものは無いから、自分の立場からはずれていても、やっぱりその場所なり、人なりの中でも並行して時間が進んでいて、立ち止まってはいられないのだなと思わされてしまう。
それをみていてぼくは、いつかぼくが感じたことを追憶させられているような気持ちになる。
つらいなあ
けど、だけれども。
ぼくはそこで立ち止まってしまったのだけど、ぼくが今みている、ぼくの立場とは違う人、時間がずれているひとたちは、それぞれの場所で、それぞれの形で、そこから前に進もうとしていて。
すごいなあと思う。
こういうのがさ、若さだよなあ。
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このとこあんまりきちんと寝れてなくて、なんか3時くらいに目が覚めてぼんやりとしているような暮らしをしている。
どうしたもんかなあと思っている。
そんなときにふとPCの画面を眺めてみると、ぼくがぼんやりしている間も先へ進もうとしているひとたちが中継をつないでいる。
すごいな、と思いながら、ぼくはどうしたもんかなと画面を眺めている。
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yrkhang · 3 years
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「言語は言葉ではない」と思うことについて
前提。言葉は言語である。
今日はお昼くらいまで延々とマイクラをしていて(ウーパールーパーかわいすぎ笑う)、午後は映画を観に行こうと思っていました。
結果、なんだか無限にため息が出て今はお酒を飲んでいます。
少し前から、音楽について少し考えることがあって。
というのは嘘で、より正確に言えば「カラオケ」というものについてけっこう考える時間があって。
んー。ご存じの方はご存知と思うんですが、ぼくはカラオケあんまり好きじゃないんですね。
歌うのは好きだし歌うと気持ちいいんですけど、それでもあんまり好きじゃないんです。
なんでかと言うと、何処まで行ってもそれが原曲足りうることはできない、というのがひとつ、
そして自分の気持ちの中ではもっと大きいもうひとつとして、「結局は"ウケる歌を歌っておけばいい"みたいになりがちなんじゃないか」と感じてしまうこと、というのがひとつ。
そのどちらも、何といったらいいのかな……なんだかずるい気がして、あんまり好きになれないんです。
カラオケってそもそものものとして、歌を介したコミュニケーションであるにもかかわらず「上手く歌う事」が望まれていないという不思議なメディアで。
たぶん、友達内でカラオケ行ったりするとそういう空気を感じることがあると思うんですけど。
なんというんだろう。その曲をきちんと解釈して表現する、みたいな部分には、少なくとも重きが置かれていないなと思ってしまうんですね。
真面目にきちんと歌うと逆に白けてしまう、みたいなあの側面。ぼくは空気を読んでちゃんと歌わずにウケるよう意識して唄った経験が何度かあります。
そうした方が盛り上がるし、だったらそうすべきとも思う。きちんと歌うなんてのは所詮自己満足に過ぎない。その場が楽しいのがいちばんじゃないですか。
でも、ぼく自身はそれが嫌で嫌で仕方がなかったみたいなんですね。「歌に対する敬意がない」みたいにどうしても思ってしまうというか。キーやリズムがずれるのも自分で腹が立ってしまうし、歌う以上はきちんと歌いたい。
そして、これはぼくがカラオケあんまり好きじゃない理由の2つ目とも繋がっているんですけど、そういうふうに、面白く歌おうとすればするほど、歌いたい自分が歌っている曲より手前に来てしまって、なんていうんだろうな、「その曲を自分が歌う理由」みたいなものがどんどん薄れてしまう感じがして、それがすごく嫌なんです。
ライブフェスみたいなのでよくある"カバー"みたいなのもほんとうにほんとうに嫌でねえ。
というのは、ぼくはどうしても「その曲をその人が歌う理由」みたいなものを探してしまうんです。
嫌ですねえ
音楽って、自由であるべきですよね。
原曲原理主義ってあるじゃないですか。「原曲以外はみとめません!ムキー!!!!、!」みたいなの。
ああいうの良くはないじゃないですか。
音楽は自由であるべきで、歌いたい人が歌いたいように歌うべき。
だのに、振り返るとどうもぼくは「その人にとって理由がないのであればその曲を歌うべきではない」みたいに思ってしまっていた節があって。
原理主義者なのかもしれない。
原理主義はよくない。
よくないです。
音楽は、自由であるべき。
このとこ完全にやる気をなくしてyoutube辺りを延々と眺めたりしてるんですが、その中で意外な発見とかもけっこうあって。
ぼくの中でかなり意外な、そのひとつが「カラオケは好きに歌っていい」みたいな話で。
あんまり具体的な話をすべきじゃないんだけど、例えばぼくは(本意かどうかは置いておいて)ハニワの曲には詳しいんですけど。
んー。
若い人の配信をたまたま眺めてたら「歌枠!」とかいって、今日はハニワの曲だけやります、みたいな感じで。
その中ですごく印象的だったんですけど、歌う前かな、歌ってる途中かな、すごく若いんだろうなみたいな子なんですけど、その子が言ったのが「ハニワの曲は私の青春で」みたいな話で。
ぼくにとっては全然青春でも何でもないんです。よく知ってるし、その子が歌ってる曲も全部わかるんだけど、んーなんていうのかな、その知識はぼくの中心にはなくて、その音楽も「自分の中にある音楽」ではなくて。だから聴いてても「知ってるけど全然識らない」みたいな感じで。
なんだけど、その子はハニワの歌を唄いながら「私の青春の曲で」みたいな話をしていて。
なんかそれを「若いなあ」みたいに感じてしまうくらいにぼくはお年寄りで。
そこで唄われる歌は、ぼくにとっては知っているけれど識らない歌で、けれども何故か、そこで歌われるひとつひとつ、それを聴いていて、なんというのかな、「言いたいことが分かる」みたいな気がして。
勿論そ���な筈はないんですけど。
けれど、聴いていて、その屈託なく歌う姿とか、ひとつひとつ歌を選ぶ順番とか、聴いていてその理由が分かる気がしたんです。
うーん、文章がへたくそすぎて禿げ上がる。
なんていうのかな、ぼくが思っていた拘りって、「そこに"ぼくの知る"理由があること」みたいな感じだったんだな、ってそのとき分かった感じがして。
ぼくがその子の歌をちゃんと聴いたのってそのときが初めてだったんですよ。「ハニワしばりでやりまーす」っていうから、ああなら知ってる曲もあるかな、みたいな感じで覗きに行ったくらいで。
なんだけど、うーん。
不思議と、聴いているとなんか、感じられる気がして。
知らなくても、その人がその歌を歌う理由。選ぶ理由。わかる気がして。
勿論それは"気のせい"に過ぎないのだけど。ぼくがよく知らない人が歌うその曲の中に、結果的に"ぼくのよく知る"その曲の、んーなんだろう・・・・・・、在り方、みたいなものがみえた気がして。それを通して、ぼくは知らない人のことを「ああこの曲を、こういう順番で歌う人なんだな」みたいな感じにちょっと理解できたというか。
そうそう。面白かったのが、その子は(勿論)カラオケで歌ってたんだけど、途中で間違えて「良音」を流してしまって、途中で「あれ、なんか違う」みたいな感じに気付いたその子は「良音」じゃないカラオケ版?で歌いなおしたんですね。
もう面白すぎて。
「良音」っていうのは所謂CD原譜のオケを配した音源で、原曲を聴きなれた人(ex:ワシ)にとっては寧ろ「こっちが本家!」みたいな音源なんですね。こっちの方が全然馴染みあるんですよ。オケ音源なんてパチもんだろってくらいで。
なんだけど、この子にとってはそうじゃなかったんですね。この子にとっての「本家」って原曲寄りも寧ろ、友達とカラオケボックスで朝まで歌ったこの「オケ音源」であって、原曲のオケではなかったんです。
なんか、その話を聴いてて(歌ってた人はそういうつもりはなかったと思うんだけど)、「はえー……」みたいになってしまって。
勿論それは原曲の音源とはかけ離れていて、ぼくみたいな人にとっては全然別モノなのだけれど、この人にとってはこっちの方が「生きた曲」なんだな、みたいなのがものすごく大きな発見で。
んー、それでなんというか、
ぼくにとっては別物なのだけど、この人にとってのこれは、「それこそ」が"生きた歌"であって、つまり、カラオケで誰かと沢山歌った記憶と結びついた歌で、それこそがこの人にとっての「青春」なのだなって思って。
やっぱりそれはぼくにとってのそれとはまるきり別物なのだけど、別ものの別モノを通して、その歌を通してぼくは、その人の言いたいことみたいなものが、なんだか分かる気がしたんですね。
それがすごく不思議で、今年いちばんの大発見でした。
んー。
ぼくにとって、音楽って「藝術」であり「作品」なんだろうなと思うんです。きちんと、それを演る以上はきちんと歌うべき、歌いたい、と思うし、歌う上できちんと自分の中にあるその曲の姿を理解して、自分にとってこういう曲なんだという表現をすべき、みたいに思ってしまっている。
そういうことにぼく自身が気づいたのがちょうどこの時で。
ぼくにとって、「藝術」でも「作品」でもなく、んー、聴いていて滅茶苦茶うまいわけでもない(こういうことを言うとウルトラの怒られおじさんになってしまいそうなのだけど)、その子の歌をまるきり知らないままに理解できないまま聴いて、でもその歌を通して「言いたいこと」だけは分かる気がして。
そういうことがすごいな、と思って。
前提。言葉は言語である。
が。それは逆説を得ない。
言葉は言語である。が、言語は「言葉」のみによらない。
人の何かを伝えるうえで、言語は欠かすことができない。
けれど、それは即ち「言葉が必要」ということにはならないのではないか。
最近のぼくは、そんなふうに考えている。
音楽の不思議な、いや違うのか。コミュニケーションの不思議なところは、ほんとうにこういうところだと思って。
ぼくは上手い歌がきっと好きなんです。へろへろの歌なんて歌うべきではない。
だのに、知らない人の、へろへろの歌を聴いて、その歌の向こうにそのひとが言いたかったことが分かる気がする時が、ときとして在って。
それは、うまくはないし、ぼくにとってはとてもよくわからないものに過ぎないのだけれど、その歌声が、ぼくの心をひどく揺さぶることが、ぼくにとってはとても不思議なことなんです。
言語とはなんなのか。より良く誰かに伝えるためにぼくはそういうことを延々と考えてしまうのだけど、実のところそれは、あんまり意味のないことなのかなと思っている。
自分にとっての「音楽において大切な部分」というのは、振り返ってみればそれを通じて「誰かに何かを伝える」という上でそれをより良くなし得る手段でしかなくて、改めて考えるとすごく小さなことに拘ってしまっていた、と思う。
それでもそういう小さな拘りがぼくの音楽観の重要な場所と視点を形作っていることも間違いなくて。なんだけど、なんていうのかな。「それはぼくだけの大事なものに過ぎない」ということを、気づかないうちに忘れてしまっていたように思う。
音楽は自由でいい。
そこにその人にとって大切なものが内包されているのなら、それを負ってその人がその歌を唄うのなら、「それ」の重さと比してぼくの小さな拘りなんてものはほんとうに、ほんとうにちっぽけなものでしかなかった。
そういうことが童の狸たるぼくにはまるっきり見えていなかったのだなと思う。
ちいさな拘りだ。
歌う人が幸せでありますように。
今日はお昼くらいまで延々とマイクラをしていて(ウーパールーパーかわいすぎ笑う)、午後は映画を観に行こうと思っていました。
結果、なんだか無限にため息が出て今日はお酒を飲んでいました。
つらいなあ
劇場版は週末くらいに観に行けたらいいなと思っています。
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yrkhang · 3 years
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「めぐる」について
3月も終わりますね。こんばんは。
あ、今アメリカにいる?そうかあ
それはすまんかった。おはようとかこんにちはやで。
ぽかぽかしてきましてね。ぼんやりと色んなことを考えている。
そうだなあ
ぽけーっと暮らしてると、目の前にぱっと出てきたり、またその逆に、目の前からぱっと居なくなっちゃったり、みたいなこともままある訳で。
そうだなあ
んー、色々考えてるけど。
そやな
狸はわりかしインターネットと一緒に育って暮らしてきた、みたいなところがありまして。
今や想像することも難しそうではあるけれど、昔のインターネットの命題って「永続性」だった筈なんですね。
形あるものってどうやっても何かしら劣化して失われてゆくもの。
だけれど、デジタル化され多重化されたコンピューターネットワークにおいて、それは可能だとされていた。
少なくともあの頃は、そうだったと思う。
まあインターネットの前身たるARPANETの開発目的そのものがそういうものであったというのもあるしね。
なにもかも懐かしいという気持ちがある。
2021年にお住まいの皆さまにとって、それが幻想に過ぎなかったということは既にある事実に基づいて自明のことと思われます。
そうだね。叶わなかったなあ。
"技術的には"永続化と再利用が可能とされたそれが、悲しいかなそうではなかった、
というのは、うーんそうだな。
例えば、あるサーバーに置かれていたデータは、そのサーバーが失われても技術上はキャッシュの存在によって生存するわけだけれど、そこに、その置かれたデータ、つまりコンテンツの保持者の意志が介在されねばならない、というロジックによって「技術的には可能であってもそうすべきではない」とされた。
いろいろ見たことはありますか。僕は見た。
例えば、せっせと趣味を注ぎ込んでつくった"ほめぱげ"であれ、或いは淡々と、或いは切々と書き綴ってきた日記なりログなりといったものは、それが置かれたサービスが永続するという素朴な想像によって永続化が担保されていた。或いは、サービスが終わるにせよデータを移転なりすれば永続化が可能であると考えられてきた。
けれどもそれらもまた、そうではないことが示されてきた。
あらゆるサービスは終わるし、データをメンテナンスする人間が居なければ、そうしたときにそれらのデータもまた、全て失われるしかないのだった。
そうだね。確かにそうだ。
あの頃の僕らは、あまり��素朴過ぎたのだと思う。
あらゆるものが「失われる」、或いはサービス提供者の意思において、或いはコンテンツ保持者の意志において、結局はどのようなものも永続化されることはなく、或いは、永続化を望まれず、失われてゆくというのが、2021年におけるパブリックなデータの在り方だと僕は捉えている。
良しあしはないけれど。
それを「寂しいなあ」と僕はどうやら思ってしまっているようだった。
なんか、こうね。
「いいなあ」って思ったり、「面白いなあ」って思ったりしたものとか、人とか、まあなんでもいいですけれど。
やっぱり居なくなるものなんですよね。
それをこう、なんだろな。
「悲しいなあ」と思っている感じは自分の中にも何故か全くなくて。
その人が納得してそうするのなら、仕方ないなって感じなんですよね。
なんだろう。
笑って終わってゆく、みたいなそういうもの達を、観すぎてしまったのかもしれない。
んー。そうだな。
僕は技術の人間なので、「永続化が技術的に可能ならそれはずっと残るものなんだ」っていうことを、子供の頃からかなり素朴に信じ込んで生きてきたんですけど。
でも、実際はそうじゃないなあ、みたいなのを目にして。
そうして今あれこれと考えるのは、記憶、みたいなもののことなんですよね。
長くなるのが目に見えてるしほぼ間違いなくぐしゃっとなるのであんま書きたくないんですけど、なんだろな。
結局はなにも残らないのだとしたら、そこに最後に在るものって、自分自身の記憶でしかないのかも知れないな、みたいなことを思っているらしくて。
それはつまり、んー。
昼間にRTしておいたウマの女の子の話とかもそうなんですけど。
それが悲しいのか嬉しいのか良いのか悪いのかという話ではなくて、
或いは、例えばゲームのように、
僕らは僕らの記憶だけを担保として、その記憶野にある何かに、目の前のあらゆることを投影しながら理解しているということで、
んー。例えばだけれども、
「別の誰かになりたい」というか、そうなったらどうなるんだろうか、みたいなことを、子供の頃の僕は知的好奇心からあれこれ考えたりすることがけっこうあって。
けれども、そういうことには何の意味もないんだなあ、みたいな。そういう話なんですね、これは。
生きているのはあなただけ。
そう。
あなただけなのだから。
3月も終わりますね。こんばんは。
あ、今アメリカにいる?そうかあ
それはすまんかった。おはようとかこんにちはやで。
知らんもんは知らんからすまんやで。
僕らは、知らないものを知れない。目の前に居る誰かのことを知れないし、何処かに居る誰かのことを知れない。
自分のことしか知らない。
だから、そういう自分ではない誰かのことを、よく目を凝らしてみてゆかなければならない。
そういう話なんじゃないかと、僕は思うんですね。
ぽかぽかしてきましてね。ぼんやりと色んなことを考えている。
何度目かの春が、始まって終わってゆく。
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yrkhang · 3 years
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「時間の話」について
んあー
んあーじゃあないんだよ。
ちょっと前に観た映画の話を、なんとなく多分、したいんだけど、あんまうまくなくて、ずっと宙ぶらりんのまんまお仕事などをしている。
https://www.youtube.com/watch?v=fGLZhM6K4EI
お茶を濁すでもないんだけど。
たぶんこれもスパっと消えちゃうんだろうなあ。
良かったら聴いてね。
pf好きだからってのもあるんだけど、まらしぃさんの演奏すごい好きなんですよね。youtubeにchもってらっしゃるなんて全然知らなくて、このところはライブの通知がポップアップすると覗きに行ったりしています。いいよね。
たぶん随分むかしから知ってるはずなんだけど、いつから知ってたのかは自分でも判然としない。
演奏好きだから観に行くんだけど、正直に言ってしまうと僕は、まらしぃさんの演奏してる曲のこと殆ど分かんなかったりするんです。
元々東方系の演奏動画で名前が挙がってたのかな。聴いててもすごい好きなんだなっていうのが感じられていいなと思うんだけど、僕は東方を履修してこなかった人間で(たぶん同世代だとFate、というか月姫とかを熱心に追っていたタイプ)、だから東方に関しては曲聴いて「あ、東方だな」というのは分かるんだけど、その分かるというのも演奏してみたとかで間接的に知っているみたいな距離感で。
けっこうそういうのいっぱいあるんですよね。例えば所謂ニコニコ文脈みたいなのにも僕は全然触れてなくて。ボカロも自分で遊んだりはあっても曲としてあんまりちゃんと聴いてた人ではなくて。文脈としてわかるのはそれ以前、色んなアレンジをしていた人たちが名前変えてニコニコに曲アップしてて(その中には今やそっちのほうが有名な方もたくさんいる)、「あれ、これあのひとなんだ」みたいな感じでびっくりしたりしたみたいな部分だけだったりとか。いい曲沢山あるのは知ってるけど、その辺をきちんと追ってはいないから、なんというのか、その辺りの空気感とか、例えばお約束みたいなこととかも分かんないし、チャットでわっと盛り上がったりしてるのもちょっと遠い目で見てる感じというか。
なんというのかな、世代と言えば恐らく世代の人間なんだけど、ちゃんとその中を生きてこなかったからわかんないんですよね。何でここでこの曲でこんな盛り上がってるんだろうとか、ここからこういう繋ぎが"アツい"みたいなこととか、分からないまま観ていて。
後からその空気というか、世界観の中には、自分は入っていけないし、だから観ているだけ、みたいな。
んーなんだろう…聴いててすごく楽しいんだけど、その楽しさそのものが、恐らく周回遅れのトラックを走っている感じなんだろうなみたい感じがするというか。
これは何でもそうだけど、いい物って後から追ってもやっぱりいい物だとは思っていて。だって何かが残ることにはそういう部分でこそ価値が生まれるじゃないですか。
「いいな」と思うものに、誰でもいつでも、入ってきていい。
そういうことは、そう思える相手がそう思うときまで残っていてくれないとそもそもあり得ないことだから。
けれども同時に、それは結局逆回しに過ぎないのかなとも思ってしまうことがあって。
オーディエンスの盛り上がりがよくわかんなくてぽーっとしてるときとか、なんかちょっと話したときに「それってアレのソレだよね」みたいな話が出来たりとか。
そういうことって結局、目の前にある現在までの過程を知っていないと出来ないことだから、後追いでそこに立つことはとても難しい。というか原理的には恐らく不可能なことで。
わかんないとこもいっぱいあるけど、この方の弾く曲の中には僕のよく知ってる曲もたまに出てきたりして。例えば今流れてるのだとアンテだとか、アイマスだとか、あとこれはアーカイブにも上がってるからよかったら聴いてもらえたらと思うけどウマ娘とか。
「あ!これは知ってる!」っていうのが流れるとなんか、変に嬉しいんですよね。
その「嬉しい」っていう感覚は、なんていうのかなあ。勿論ひととひとだから、当然同じ人生を歩んでるなんてことはあり得ないんだけど、その中で一瞬、こう、交わる感じがするというのかな。
自分が自分なりに大事にしてきたものと、自分が見ている誰かが、その誰かなりに大事にしてきたもの。
全然異なるそれが、その瞬間だけそっと触れる感じがして、
うーん、なんだろうなあ。嬉しいんだよな。
なんかこう、簡単に言うような話ではないんだろうけども、例えば何かの演奏であったりとか、何かの形になった作品であったりとか、もっと言えばその中にある他愛ないおしゃべりであったりとか、
そういうものに触れていると、僕はその人の、今いるその在り方の中に、それまでのその人の何等かが色濃く出ているように思えてしまって(勿論その何等かは良くわかる気がすることもあるしすごく曖昧に「わかんないけど何か」みたいな輪郭だけを纏うこともあるのだけど)、そういうものがたまに、自分なりにだけど「わかる」と思える瞬間だけ、その人と自分の、大切にしてきたものが触れ合えている気がして、なんかこう、じんわーりと嬉しいんですよね。
勿論それは勘違いに過ぎない物なんだろうなとも思うのだけど。
人生って一方的に流れていくだけのものだから、今触れていて分かんないもののことが未来において分かるとも思わない(その「分かる」そのものが周回遅れでしかないので)し、主観的に捉えた上でのIFが無い以上、たらればみたいなことも勿論なくて、そういうことも含めて、なんというのかな。
自分が歩めなかった道を歩んできたひとの今出しているもの、今ある姿みたいなものが、部分的にでも、その人とは違う道を歩んできた自分にとって「いいな」と思えることが、すごく嬉しい。かな。
のほほんと聴きながら、このところ考えていることを少し書き留めてみた。
どうなんだろうな、わかんないけどな。
ちょっと前に観た映画の話を、なんとなく多分、したいんだけど、あんまうまくなくて、ずっと宙ぶらりんのまんま彼是考えたりしている。
んー。たぶん好きなはずなんだけどな。
その話はまたそのうちするかも知れないし、しないかも。
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yrkhang · 3 years
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「日記」を書けた試しがない
書けたことないんですよね。
そもそも書く気がないのかも知れない。
日記、書ける人すごいよなあ
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最近みた映画の話を書けたら書こうかな、と思って3か月が経つ。
んー。
書きたい気はするんだけどな。
なんか、書けないまま宙ぶらりんになっている。
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ちなみにいやー、いい映画でしたね!
まじで!!
みなさん観るべきですよ。
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んー
そもそも書く気がないのかも知れない。
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そもそも論として、文章なんてものは、というか、文章に限らずあらゆる表出は、ではあるけれども、
出したいから出している、以上のものがないし、以下のものもない。
恐らくそういうもんだとは、以前から思っている。
だから僕は、僕が提出するものに関して自信を持てたことが一度もないのだけれど。
(まあそれ自体については良し悪しではというのもある)
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「はえーそういうもんか」と思って、自分が昔書いた文章を読み返してみたら、めちゃめちゃ仔細に渡ってぐちゃぐちゃと気持ち悪い話をしていて、
んー。引いてしまった。笑
オタクくんが気持ち悪いの、一生経っても変わらないしほんとうに救いがない。
ただ、ああいうのはもう二度と書けないだろうな、みたいな気持ちもある。
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一番きちんと書けたライブレポートは09年の12月だから、だいたい10年くらい前に書いたもので、ほんとうに今でも目の前のことみたいに思い出す。
友達のいきつけの焼き物やが近所にあって、タップが恵比寿で「うおー恵比寿!!!」とか言いながら牡蠣のバター焼き食った話とか。いや牡蠣のバター焼きうますぎませんか。あとねぎやき。友達の推しのピアニストの方のサインが残されてる店で、「これが~」「あ~」とか延々言ってた記憶がある。
それとか後は、翌朝ホテルで髭を剃ろうとしていれたシェーバーの電源が落ちなくて、友達と2人ゲラゲラ笑い転げていたこととか。
結局どうやっても落ちなくて、「ビーン」って鳴りっぱなしのシェーバーをホテルに置き去りにしたんだよな。
(本当に申し訳ございませんでした)(ほんとうに今でも反省している)
いやライブの話をしろよ。
いや反省はしてんだよ
---
すいませんね、狸、どうでもいいことばかり憶えてしまっている生き物なので…。
けれど、そういうどうでもいいことさえも、今でも鮮明にそこにあるんですよね。不思議なことに。
ぼくの場合はどうでもいい事ばかりよくよく覚えてしまっているのだけれど、けれど人間の記憶って不思議なんですけど、
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例えば、あの椅子がふかふかで感動したこととか(どうでもいい)、なんか変に調子よくて「ん?」って感じたこととか、ぶわーっとスモークが上がって、イントロでわーわー声が上がって、ぼくらだけ「ん?」みたいになっていた(狸は物語未履修勢でした)こととか、
まあ、色々あるよね。
あれ12年も前なのか。嘘みたいだな。
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だから、例えば「そんな鮮明に憶えていられるものなの?」と訊かれたりする機会があったとしたら、意地悪な狸たる私は「逆に君はそんな鮮明に憶えていられることが人生の中になかったんじゃろか」と問い返してしまったりするのかもしれない。
いやわからんけども。
別になくとも幸せな人生はあるだろうし。
けれどもぼくは、変にいろんなことばかり憶えてしまっているんだよな。
冬なのに変に晴れてて、夜明け前にホテルを飛び出して海岸沿いの砂浜をレンタチャリで爆走しながら朝日を拝んだりしたこととか。
打ち上げでつついた烏賊がうまくて、幹事だったのにその後長崎に行きたかった(フェリーをとっていた)から最後までいられなくて今でも悔やんでいることとか。
そのフェリーで食べたカップ麺(いまどきカップ麺の自販機とか貴重すぎへん?)がうますぎたこととか。
まあ書いたらきりがないけれども。
でも、そういう、どうでもいいこと、憶えていたりしないもんなんじゃろか。
んー。
そうか。
それは不幸なことだね、と、僕は言ってしまうかもしれないな。
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全霊を注いだこと、何故かはわかんないけど不思議と憶えていたりするもんなんですよね。
何故かは狸にはわからん。
わからんけども、そういう機会がこれまで無かったのだとしたら、それは恐らく、不幸としか言いようがないです。
狸はわるいおじさんなのだ。ガハハw
人生長いので、頑張ったらいいと思います。
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んー、そういう話じゃなかったはずなんだけどいいや。
歳をとるとめんどうくさがりでいけないね。
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最近分かってきたんだけど、ぼくが変に憶えてしまっているどうでもいいこと、ぼくにとって楽しかったり嬉しかったりしたことだったぽいんですよね。
主題じゃないにしても、多分自分にとって大事だったことなんだろうなあ。
なので、そういうことが沢山、「どうでもいいこと」というくらいの自分の場所にあるというのは、恵まれたことなんだろなと思う。
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所謂「日記」というものを書けた試しが一度もない。
そもそも書く気がないのかも知れない。
好きなものの話しかしたくないし、できない。
それで充分だと思っている。
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yrkhang · 3 years
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「日記とはとても言えないけれど」について
そうだな。
このところ全然文章を書いていなくて、そういう意味では僕は全然、日記を書いていないなと自覚している。
先日の、豊崎さんのオンラインライブを観た。
楽しかったな。いいライブだったと思う。
んー、そうだな。
最初に思ったのは「けっこうキーが下がったな」ということだったりした。
というか、最初、MCみたいなのが入るとは思ってなくて、「うわこういうの入るんだ」みたいなのが最初だったかもしれない。
ライブと思っていたので、これはけっこう面食らったところがあって、意外な感じだったかな。
バラエティっぽかった。この辺はテレビっぽかったと思う。
照明が落ちて、最初が『letter writer』だった。
何というのか、懐かしくて。自分が印象的なのは代々木のセンターで踊っていたあの景色なのかなあ。
すごく好きな曲だったので嬉しかった。
ちょっとトーンが低くて、「あの頃とは違うな」と感じた。けれど同時に、「その姿勢は変わらないな」とも感じて。
歌声は違うはずなのだけどそう感じたことが自分でもちょっと不思議で。
うーん、なんというのか、カメラ越しに見える彼女の姿が、ぼくの知っているライブの景色の中の彼女の姿とあまりにもよく似ていた、とでも言うのか。
オンラインライブだから、当然ながら客席には人はいないという環境がある訳で。
けれど、いや、だからと言うべきなのかな、豊崎さんの姿勢は常に、カメラの方を向いていたように感じられて。
何というのかな、ぼくらはそこには居なくてカメラ越しに見ているに過ぎないのだけれど、だからこそというのか、カメラを通して、その向こうにいる人たちに届くように、というような姿がとても印象的だった。
うーんと、僕が豊崎さんのライブで好きなところって、彼女自身がライブをすごく楽しんでいるってことがハタから見ていても伝わってくるところで、
その一方で、それは彼女自身が自分だけで楽しんでいるという事ではなくて、彼女のライブは、その、彼女が感じている音楽の楽しさを、見ているぼくらにも伝わるように届けようとしてくれているところだと思っていて。
そういう意味で、この『letter writer』はすごく良かった。カメラに視線を振ったり手を振ったりしながら唄う彼女の姿はぼくの見知った「ライブ」の彼女の姿そのもので、そういう姿を彼女はカメラ越しの「キミ」に伝わるようにきちんと演じてくれていて(大サビの「ラララ」で誰も居ない客席にマイクを向ける景色が創造できますか)、かつ、それを自分自身が楽しく唄っているんだということも垣間見られて、良かった。
『猫になる』なんですけど、ぼくは狸なのであんまりわんわん狸語を語ることはやめようと思います。
ただ、この辺で「あれ」って思ったのは、彼女のバックに控えるバンドメンバーがいつもの面々であったことで(この辺で気づくあたりが鈍い)、このあたりでぼくは「あれ、なんだいつものライブなんじゃん」と感じたりしたのかな。なんというのかなあ、ちょっとホッとした感じというか。
所謂スフィアの四人の中で、こういう形で外に向けたチャレンジをするのは(いつもそうではあるけれど)彼女が最初のことで、それでなんか、緊張とかないかなとかどうでもいい変な心配をぼくはしてしまっていたのだけれど、「ああ何だこの人たちが後ろに居るなら安心じゃん」と素直にほっとできて、
そのことが自分の中でけっこうおおきな新発見だったりもしたのかな。当たり前みたいに居るひとたちの存在って、そのままだと気づけなかったりもするのかも知れない。
猫を挟んで『ぼくを探して』というのが印象的でもあったのだけど。
んー、でも、ぼく個人としては『猫』のカメラワークも含めた動きみたいなところがすごくすきだったかな。猫ってポップな曲で、バックバンドも楽しげだし豊崎さん自身もすごく、そうなんですよね。それがとても良くて。
なんというのかな、豊崎さんって賢い人だから、逆にというか、「お客さんのことを考えて振る舞ってしまっているんじゃないか」と心配になってしまうことがぼくは多々あって。まあ傲慢な客なんですけど。
でも、なんというのかなあ。この曲の彼女の振る舞い、カメラワークとか、色々見ていると、そういう観客のどうでもいい感想を無視して、彼女自身がちゃんと、この音楽を楽しんでくれているんだなということが感じられて、すごく良かったんですよね。キャットパンチをカメラに向けてやるところとか、とてもよかった。
カメラも足元に寄ってて、彼女の軽快なステップが見て取れて。
「どうなんだろう」って思いながら見ていても、それはやっぱり楽しくなかったら踏めないステップだったんですよね。それが良かった。
傲慢太郎だけど、やっぱり演者自身がステージを楽しんでくれるの��いちばんだと思う。そういう意味で、ああいうステップを刻んでもらえることはすごく嬉しいことだなと思いました。
で、『探して』なんですけど、
どうしようか。
みたいな感じで。
ぼくがすごく豊崎さんの音楽で好きなのは、彼女が楽しくそれを演っていることがハタからも窺えることと同時に、そういう姿をみせつつも彼女の音楽が、彼女の描きたい世界というのか、音楽という「作品」の世界をきちんと描き切ろうとしているところで。
その両者は、うーん、目的地としては似たようなところに在るのかも知れないけれど、表現技法としては全く異なるところにある両者であって。
ぜったい崩しそうなその両方を、どういうわけだか同時に成立させている姿を観ることができるから、ぼくは彼女のステージがすごく好きなんですね。
己の好きなものが、「好き」という自分のきもち一つでは表現できない何かであるとき、ひとはどうしたらいいんだろう。
そういう疑問に接したとき、ぼくは「とよんさんはすごく嘘つきな人だ」と思っていて(とか言ったらまたファンの方たちに叱られるんだよ)、それは、
うーん、
そうだな、
例えば、この後に来たのがフリップフロップで、歌声が全然違ったんですけど、なんか変に懐かしいねえと思って、歌声は全然違うんだけど世界観は繋がっているなと、例えばぼくは思ったりしたことがあって。
とよんさんはpひょうんぴょん跳ねたりしてリズムをとりながら、バンドメンバーとコミュニケーションをとりつつ、カメラ(つまりはぼくらの視点)にもきちんと会話を送ってくれていて。
それが「何も考えず」にできることかといったら、そんなことはないはずだと僕は思っていて。
つまり、きちんと「演者」としての算数をしながら、けれどもその算数に陥ることなく、彼女は彼女自身の「楽しい」音楽をやっていて、
それがつまり、ぼくが彼女を「嘘つき」だと表現するひとつの理由なのだけど、けれど、
だから、ぼくは彼女の歌が好きなのかもしれないのかな、と改めて感じたりもした。
うまく表現できなくてウンポコなのだけど。困ったなあ
けれど、ある程度ここまでは言いたかったことが書けたのかなと思っている。
『dill』が来てですね。どうしたもんかなと思って。
ぼくの中では最初の武道館の景色なんですよね。みんなめちゃめちゃ緊張していたであろうあの舞台の光景が今でも真っ先によみがえってきてしまって。だから個人的には「聴いていて緊張する曲最右翼」だったりもするのだけれど。
この日は、なんかみてて、そいういうことは全然感じずにシンプルに「いい曲だな」って思いながら聴けた。なんでなんだろな、不思議でもあるんだけれど、もう一面で考えればあの武道館からもう10年以上が経って、いつまでも立ち止まっているみたいなぼくの感想とは全然別のところで
時間を重ねた音楽を聴かされている、みたいな。そういう間奏もあったりしたのかな。
いずれにしても、この日のdillはすごく堂々としたパフォーマンスでとても良かったと思う。
ぼくが豊崎さんについて印象的なのは、んー、例えば、4人というある単位の中で言えば、豊崎さんはある種、外に向けて切り開く人だったなと思っていて。
例えば、ぼくはすごく平日朝のテレビ東京をみているひとだったのでこれにはたいへんお世話になったりしたのだけれど、テレ東の朝の番組にお天気お姉さんとして登場してくれたりしていたことだとか。
んー。例えば、4人というある単位の中で言えば、「突撃隊長」みたいな立ち位置に居る人は他にも沢山いると思うのだけれど、
豊崎さんはそうではなくて、うーん、なんというのかな、
自分の居る場所とか在り方とか、そういう彼女自身の「姿」みたいなところから、一見「全然違うじゃん」みたいなフィールドへ向けて飛び込んでゆけるような、そういう、強い接点みたいなものを持ったひとだと個人的には長年思っていて。
それで、だから、
例えばの話だけれど、オンラインのライブ、みたいなものって、これまで4人のなかではだれもやってこなかったことで、ある種の挑戦みたいなものであったはずなのだけど、
なんといったらいいのかな、
彼女がそういうことに先陣切って挑戦してゆくことは、すごく、ある種「自然なこと」だな、とぼくは思ったりしていたのでした。
実際のところは勿論分からないのだけれども。
でも、4人を4人という内側に留めるのではなくて、その外側へと開いてゆける人がいるとしたら、とよんさんみたいなひとなのかな、とは思っていたりしたかもしれない。
挑戦にこわいことなんて、誰にとってもないはずないと思うんだよな。
でも、逆にだけれど、だからこそ、そういう場所に飛び込んでゆける人って居て、そういう人って決まって、気取ってなくて、いつも変にニコニコしてる人だったりするんだ。
そういう人、みたことあるなあ、って思いながら、このライブを眺めたりしていました。
そだな、セットリストを改めて見返してみると、言いたいこと色々あるのかな、と思ったりもするのだけれど、それを表に出さないところが、見ていてこの人のかっこういいところなのかな、と思ったりして、
とか言うとまたお叱りを受けたりするんだけど(仕方ない)、仕方ないんだけど、そうだな、
『ポートレイト』の「伝わるように」っていう歌詞がぼくはとても好きで。豊崎さんは、分からないけど、色んなことを、日々、ラジオなんかで離したりしてきた中で、そのことをとても大事にしてきたひとだと思うので。
だから、
何言いたいのかまったく要領を得なくなってきたのでこのへんで終わってもいいのかなと思っているのだけれど、
そうだな、
とよんさんのライブは、良かった。
良かったというか、すごく、とよんさんのライブだなと感じることができて、
それが、無観客ライブという、経験上もなかなかないことで、演じる人が表現するうえで、とても難しい、というのかな。
んー、
前にちょろっと書いたことあった気がするけど、例えば、お笑い番組でスタッフの人が「ガハハ!w」って合いの手を入れたりすることあるじゃないですか。
あれが、子供の頃の僕は大っ嫌いで。寒すぎるじゃん。あんなんありえへん。って思っていたんだけど、最近、なんだろな、無観客のライブとか配信とか見ていて、
かっこよくはない(個人の感想です)けど、めちゃめちゃ大事���ことでもある、のかもしれないな、と思いつつあったりもして。
そう思う理由は、例えば、こういう配信ライブでとよんさんがニコニコ笑ってカメラに手を振ったりしていることと同じことだったりしたんですけど。
だから、とよんさんはすごいなあって改めて感じたりしたところもあって。そういうのと自分の楽しさとを両立するのってたいへんだと思うので。それが出来るのは一つの才能と努力の賜物なんじゃないかなと、こういう環境でみてみて改めて思ったりしたのでした。
なんだっけ、書こうとしたことがなんかいっこ書けてない気がする。
そうだな。
このところ全然文章を書いていなくて、そういう意味では僕は全然、日記を書いていないなと自覚している。
とよんさんが昔、「私にとって音楽というのは生活することと同じようなものだ」みたいなことを話していたことをふと思い出したりしている。
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yrkhang · 3 years
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「書きかけ」
書きかけで「どうしようかな」と思ってしまって、そのまま置きっぱなしになってしまっている文章がいくつもある。
すごくどうでもいい話をする。
個人的な記録だから、誰も読む必要がない。
明け方、実家から電話があって、ウチの自慢の番犬が目を閉じたという話を聞いた。
ぼくは久々の出勤で、「朝の電車混んでるなあ」とか考えていて。ニュースを眺めたり、本を読んだり、「今日はあれやらなきゃなこれやらなきゃな」、みたいな、僕の日常の、当たり前のルーチンの中にそういうお知らせが来た。
んーと。
こういう話をあんまりここで書くつもりは僕にはなくて、別のところで書いてる個人的な日記に寧ろ記すべきことだとおもうのだけど。
ウチの犬は今年で概ね16とか17とかになる。
もういい歳のかわいい子だ。
ラブラドールのミックスで、貰ってきたころは真っ黒だったけど、最近は鼻先が真っ白になって、「君ミックスやねえ」という感じになっていた。
僕が大学に入った頃に両親が貰ってきた子で、ウチに初めて来たときはビビってぶるぶるふるえていたという。
そのときのことを、ぼくは知らない。
人にも犬にも、様々な事情がある。
ウチの犬は、分かりやすく言えば僕の弟のために両親が貰ってきた犬で、当時問題になっていた地元のブリーダーうんちゃらから市が引き取って分譲していた子だった。
まあビビるだろうなとも思ったし、僕が大学から帰省したころには既に居間の日当たりの良いど真ん中に転がっている犬だった。
いやなんやねん。
犬にも人にも、様々な事情があるけれど、結局はそんなもんでしかないのだな、と思ったことをよく憶えている。
帰省するときは今も、新幹線の駅から父の運転する車に乗って家まで帰る。
新幹線の駅前はまだ明るくて、実家はたいへんド田舎のド田舎なので、道を進めば進むほどに周りが真っ暗になってゆく。
途切れがちな車中の話がとうとう尽きるころに、家に着く。
父に礼を言い、荷物を持ち出す。田舎特有の重い引き戸を引く。
そうすると、いつも彼女が出迎えてくれた。
外様の悲しさなのか有難さなのか、実家に居るとぼくはやることがない。なので、向こうにいる間はいつも、犬や猫の相手をしていた。
だからなのか、ぼくは実家において、犬猫に関してだけは憶えが良かった。
犬は感情がとても分かりやすい。嬉しいときはしっぽがぴんと立つ。
散歩にいくときは、いつもしっぽを振っていた気がする。
田舎の家というのは意外とやることが多々あるもので、両親も兄弟も常に忙しい。
なので、帰省すると散歩の当番はいつも僕の仕事の一つだった。
兄と最後に歩いたときも、彼女のリードを引いて砂利道を歩いたことをよく憶えている。
あの日は珍しく、兄の父が「一緒に行こうか」と声をかけてきたのだった。
ぼくにとって叔父にあたる従妹の父は、横浜の司法関係のお仕事をしているそうで、真っ白な頭髪をオールバックにしていて、んー。
司法というよりヤ〇ザというか。おっかなくて声をかけづらい人だった。(たぶんご本人にはそういうつもりはなかったのだと思う)
「ひえー」と思いながら、でも、20年近く連れ添ってもそんなことは初めてだったから、ちょっと嬉しかったことを憶えている。
兄が亡くなったときは何も感じなかった(ぼくは冷たい人間なのだ)けれど、そんなおっかない叔父がぼろぼろと涙をこぼしながら「ありがとうございました」と言っていたことだけはよく憶えていて、
そのとき、こ三人と一匹で歩いたときのことを思い出した。
僕の兄は諸事情でいつぽっくり逝ってもおかしくなかったひとなので、正直、20を超えて生きられただけでも御の字ではある。
叔父もそのことは大前提として知っていたはずで。けれど、そういうそぶりは一度もみせたことがなかった。
「みんな分かっている大前提」を兄は生き、死んだのだと思う。分かり切ってた。いつ死んだっておかしくない身で、20歳超えられただけでもほぼ奇跡に近い。
いつ死んだっておかしくなかった。兄は先天性の心臓の病だった。
それでもやっぱり、親は泣くんだなと思った。両親が都心に来るのは実に数十年ぶりで、電車の乗り継ぎすら覚束ない様子で、スーツケース片手に僕が案内する羽目になった。
職場から東京駅、東海道線で斎場のある横浜に向かい、着替え、煙となってのぼる兄を見送っても、やはりぼくは泣かなかった。
最後に兄と歩いたとき、「とても夕日が綺麗だな」と思たことだけ、よく憶えている。叔父もてっきりあの夕日を眺めたかったのかなとあのとき思っていた。
実際に叔父が何を思っていたのかは分からない。
ウチの優秀な番犬は、おとなしくその辺をウロウロしながらいつもどおりに歩き回っていた。
本来、こういうときには悲しかったり、なんだろうな、辛かったり、みたいな気持ちを抱くべきなのだと思うのだけど、僕の中にそういうきもちは全くなくて。
16だか17だかなら、よく生きてくれたな、という当たり前にしては当たり前すぎるみたいな気持ちだけが横たわっている。
もう居ないのに。
あれだけ好きで、作文に書いて学校中に自慢するような兄が居なくなったときも、あれだけ可愛くて、いつも実家の居間のいちばんあったかいところをぶんどって寝転がっている、
あの、リードを手に取れば尻尾が千切れるんじゃないかと思う程ぶんぶん振って駆け寄ってきて、いざ家から出ればリードの持ち主なんて知ったこっちゃなく、自分のゆきたいところをあっちこっち駆けまわるだけの、
もう居ないのに。
ぼくは料理が好きというか得意ではあるので、実家ではいつも料理まわりは任されていて。煮物や炒め物をしていて、肉を調理しているといつも狭い台所に彼女は鼻先からねじ人の足元で「その肉をよこせ」と駆けずり回って、それはハッキリ言って体操迷惑で、
大型犬だから、そこから追い返すにも身を回すのが一苦労で、
もう居ないのに。
じゃあご飯にしようと皆が卓につくと、その周りを延々と走り回って、家族の腕の下から顔を出して人様の飯を横取りするような、
そもそもオデブなので、そういうのはダメだと散々言って聞かせているのに、
もう居ないのに。
父のことがどうも好きらしくて、父が畑仕事に出るたびに、すごく静かに出てもヌクッと起き上がって人の顔を前足でげしげしと蹴っ飛ばして、「わしも行く」みたいな主張ばかりして、
もう居ないのに。
しっぽばかり振って。
もう居ないのに。
どうなのだろうか。彼女は幸せだったのかな、と微かに思う。
ブリーダーの元に居た頃は本当に大変だったらしくて、ウチに来たばかりの頃の写真を見ると、どれも眉根が「これでもか!」というくらいに下がり切っている。
人と犬とは会話をできるわけではないけれど。
あのころと比べたら、ウチでふんぞり返っていた彼女の表情は、あのころとは随分と変わった。
それが、幸せであったのかどうかは、分からないけれど。
そうだな。
分からないけれど。
そうだね。
幸せであってくれたなら、嬉しい、と思うのかな。
分からないけれど。
ひとの、その、なんだろうな。
互いに何か、こうしようという前提とは違うところで生まれる何かのことがぼくはよく分からないのだけど、
既にそれがあって、そのことで、それに触れるお互いが、それを理由として変わってゆく、ということは確かに言えると思っていて。
それが結果として有るのなら���その過程も無駄じゃあなかったと思う。
だから、その過程の中に居る自分もまた、頑張らなきゃいけないなと思った。
うーん、わからないんだけど。
でも、くれたものがあるから、それには報いなきゃいけないなと思うし、そう思う仕組みも含めて、そういうことなんじゃないかと思う。
後のことは実家の家族にすべて任せることにした。16歳だか17歳。よく生きてくれた方だと思っている。
ほんとは今年は、もう先の長くはないことも分かっていたし、たくさん会いに行ってあげたかった。
でもそれは仕方がないよね。
仕方がない分、頑張らなければならない。
書きかけで「どうしようかな」と思ってしまって、そのまま置きっぱなしになってしまっている文章がいくつもある。
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yrkhang · 4 years
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「割とどうでもいい話」
割とどうでもいい話です。
なんか知らんうちにANOVAがコンベクションオーブンを出してたらしい。コレ。
https://anovaculinary.com/anova-precision-oven/?avad=160597_a1d4ce605
コンベクションオーブンというのは所謂熱対流型のオーブンというのかな、分かりやすく言うと電子レンジじゃなくてトースターの延長線上にある「熱で焼く」タイプのオーブンで、つまりは昔ながらの火入れオーブンっぽい仕上がりになる機械だ。
個人的には長年愛用している機械で、
https://kaden.watch.impress.co.jp/docs/column_review/kdnreview/427941.html
今はこれを10年くらい使っている。
コンベクションオーブンのいいとこはとにかく「焼く」という機能が優れていることで、それは原理を考えれば当然と言えば当然なんだけど、電子オーブンって「焼き物」には全然向いてないんですよね。使ったことある人には伝わると思うけど、結局マイクロ波で水分を発熱するという原理上、表面から熱を当てたみたいな仕上がりにするのが難しくて、電子オーブンは「オーブン」と銘打たれてはいるけれどオーブンではないと個人的には思ってしまう。
そういう部分がコンベクションオーブンはとても良くて、シンプルに熱で表面から焼くタイプの機械だから、「焼く」という目的にとても適している。グリルみたいな焼き物もやろうとすれば電子オーブンよりいい感じの仕上がりでやることができる。
メジャーな機械ではないと思うんだけど、そういうところが良くて長年愛用している。火の使い方が分かる人にはおススメできる機械だと思う。
特に一人暮らしだと「火元」の確保は料理をするうえですごく重要になる。グリルでなんか焼きながらフライパンで炒め物をして、汁物に火を入れて、プラスもういっこ、みたいなときにコンベクションオーブンはめちゃめちゃ役に立つ。グラタン焼いたり、あとは単純にパンを焼くのがいい。電子オーブンでパン焼くと、なんというかどうしようもない感じになるじゃないですか。コンベクションオーブンはその辺り基礎原理がトースターだからきっちり焼けてふんわり焼ける(この辺が熱対流型の長所)のですごくいいんですよね。
まあトースターでも出来なくはないけど、その上位互換であるコンベクションオーブンであれば、トースターでやりたいことは全部できるしその延長線上のプラスアルファが得られる。これはとても大きいです。電子オーブンは原理が違うからこういう方向性はやっぱり得られない。
かつスチーム機能も持ってるから蒸し物とかもできるのばとても便利で。芋の下ごしらえとかね。芋の下ごしらえを鍋でやろうとするとすごく面倒なので、僕はここ何十年かは全部これで下ごしらえをしています。ただこれは電子レンジでも似たようなことはできるから好みによるのかな。
一人暮らしで場所をコンパクトに納めるんだったらどうしても電子スチームオーブン一台とかになると思うんだけど、個人的にはスチームコンベクションオーブン+電子レンジがいちばんいいと思っていて、電子レンジは電子レンジじゃないとできないことってやっぱりあるんですよ。生ものの解凍とか、あとはパスタ茹でたりとか。レンジで茹でる系の器具は持っておくと時短だし楽だしで絶対良いと思うけど、これをトースターやコンベクションオーブンで調理は出来ないから、そういう目的でマイクロ波調理器具を持っておくのはすごくいいと思うんですよね。でも、火を使う調理ならマイクロ波調理器具よりも電熱器具の方が数段優れた成果を発揮します。この組み合わせはそういう意味で、「熱する」という目的について異なる2つの方式をどちらもうまく取り入れることができる組み合わせだと思っていて、すごく気に入っています。
しかし最近のコンベクションオーブンがこんなに進んでるとは知らなかったな。ANOVAらしく表面と内部の温度管理に注力してるのはいいんじゃないかとも思う。今使ってるのが壊れたらコレ買おうかなあ
全然関係ないけど、取引先からぶどうを頂戴しまして。
何だっけ、なんとかメロン
違うわ。シャインマスカット?とかそういう感じのやつ。なんかでかい。
ぶどうあんまり好きじゃないんだよな……
皮があるし種もあるじゃん……
昔から面倒な食べ物が好きじゃなくて。なんか剥いたりしなきゃいけないやつとか、種ださなきゃいけないやつとか。だからスイカは嫌いでメロンが好き。
地元で作ってるぶどうに、なんだっけな、ナガノパープルだったかな、皮が薄くてそのまま食べられて、かつ種もない、っていう神みたいなぶどうがあって、あれはすごい好きなんだけど、逆にあれに慣れちゃうとふつうのぶどうってすごく面倒くさいいんです。
なのでなんとかメロンは放置して一緒に入ってたプルーンばっかり齧っている。
プルーンも食べすぎるとよくないんですけどね。消化がよくなくて食べすぎるとお腹こわしてしまうので。
といってもそんな壊すほど食べる機会って都会に住んでるとあんま無い気がするけど。
子供の頃、同級生がプルーン農家をやっていて、このくらいの時期には毎年はぶきのプルーンを貰ってクラスみんなでもりもり齧ったりしていたな。プルーン自体は好きなのでもりもり齧っていたんだけど、そういえばよくお腹を壊していた気がする。
秋といえば地元の学校には春と秋に長い休みがあって、その分夏冬の休みは都会より全然短かったんだけど。
その休みが何の休みかって、「田植え休み」と「稲刈り休み」で、休みといいつつ結局みんな家の農作業に駆り出されていたというな。
それでその分夏冬短いってどういうことなんだ……
とはいえ、子どものことだからやってるつもりで遊んでばかりいたような気もする。そういう意味では確かに「休み」だったのかも知れない。
子供の頃のことを、憶えているようでもあるし、あまりよく憶えていない。
田んぼの真ん中のあぜ道に座り込んで、日が暮れるまで石並べをしていたこと。
ゲーム好きの友達の家に集まって、親に怒られるまで延々とゲームで遊んでいたこと。
息の白い朝、ブレードを背負って、ずぶずぶの雪道を駆けながら田んぼに水を貼ったスケートリンクを目指したこと。
田んぼで滑りすぎて一元に遅刻してめちゃめちゃ怒られたこと。
夏のプールは寧ろ雨の日の方があったかくて、放課後に誰もいないプールに忍び込んでぷかぷか浮かんでいたこと。
やっぱり見つかってめちゃめちゃ怒られたこと。
こいつ怒られるようなことしかしてないな……
あと、なんだっけな。
なんか、いろいろあった気がするけれど。
こども。
おとな。
なんなんだろうなあ
ひとつきが経とうとしている。
未だに僕はよくわかっていない気がする。
おとなのこと。
こどものこと。
時間のこと。
何もわかっていない気がしている。
それでも町は廻っている。
どうでもいいことばかりが流れてゆく。
結局ぶどうはそのまま冷蔵庫に戻した。
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yrkhang · 4 years
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「それでも」について
「それでも」、という想いは、いったい何処へゆくのか。
『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』の話を散々してしまっているような気がする。
それでも、
「それでも」、と、ずっと思っているような気がする。
長い時間を経て、永い距離を経て、人の想いは何処から何処へと向かうのか。
それは、未だによくわかっていない。
それでも、
映画、とても良かったのは、徹頭徹尾「前進する」彼女の姿を描いていたということで。
TV版のストーリーを追っても、そのCMに際してさえも、彼女はずっと、前進し続けているんですよね。
その象徴が、映画の最初と最後に挟まれた「道」の描写だと思っていて。
たくさん謎もあって。例えば、逓信と電信のどちらが、「人の想いを伝える」上で優れているんだろうか、とか、
そこに携わる人の、職業人としての信念と、個人としての溢れるような想いとのどちらが尊重され得るべきなのか、とか、
いろいろ、考えてしまうのだけど。
それでも、本作を観ていると、疑いようもなく、少なくとも本作を描いてきた人たちが「こう在ってほしい」と願う、人から人への想いの伝わり方、
また、伝わった先でその想いがどんなふうになっていて欲しいのか、みたいなことが、
ありありと見えるようで。
前に一度書こうとして挫折した話があって。
それは、「技能と感性は関係としてどうあるべきか」みたいな話で。
うーん
この映画を観ていてすごく思ったのは、「これは、卓越した技能を持ったひと達が描いて初めて伝わる物語だ」ということで。
凄まじいじゃないですか。映像上の表現が。
こんなに描き切れるものなのか、と思ってしまう。
けれど、それこそが本作の在るひとつのテーマなのかもしれない、と、個人的には同時に思ってしまってもいて。
つまりそれは、「卓越した技能でそこに描かれるべきものを描き切ればそれが伝わるのか」みたいなことで。
うーん
あんまりうまく書けないのだけれど、例えば、日本映画の凄いところは「間」の描写だ、みたいなことが長いこと洋画の人たちからは言われていて、
それは、限りなく静止画に近い、長い間合いの描写において、そこにある息遣いをどう表現するか、みたいなことで。
邦画って動きが少なくて、洋画ってめちゃめちゃアクションが派手なんですよね。
だから、動きが少なくて間の長い邦画的な表現って彼ら的には技能上難しいらしいんですよ。
そういう話。
うーん
でも、じゃあ洋画に持ちえない間合いの描写を邦画が描いていたとして、じゃあそれが何処に至るのか、それが何になるのかといったら、よくわからない。
表現技法としてそういうものが在る、ということは分かっても、それが何処へゆくのかということはよくわからないんですよね。
うーんと
『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』の物語を全体として捉えてゆくと、「表現の技法と本質」みたいな話になってゆくのかな、と思っていて。
主人公たるヴァイオレットは、色々と失っているけれども、その一方で「技法」を学ぶことで、また、その学んだ技法を通して様々な物事を捉えてゆくことで、
人として、沢山の大切なものを得てゆく。
けれど、その一方で、学んできた技法を彼女が駆使すればするほど、「技術」だけでは足りないものがある、ということが見えてくる。
その、足りないものというのは、彼女が生きてくる上でそぎ落とされてきたもので、その先にあるものが、彼女の求める「あいしてる」にも繋がっているものでもあるはずで。
うーん、
本作の物語を通して、彼女自身は「誰かの想いを汲み上げ、伝達する」という優れた技能を習得してゆくわけだけれど、それは、単に優れた技術を習得するという事ではなくて、
その技術があるからこそ、初めて彼女に見える景色があって、初めて彼女が感じる想いがある、みたいな話で。
うーんと、
だから、本作の描こうとしている一つの主題は、「技術はそれだけでは意味を持ちえない」ということであるのではないか、と個人的には思っていて。
それは、作中の彼女の姿を観ていてそう思ったということに過ぎないのだけれど、
何というのか、
そういう物語を描く上で重要なのは、その物語を描く人々自身の技能だ、と思って。
だって、説得力ないじゃないですか、「技術があるだけじゃダメだ」という話を描くのが、技術を持っていない人たちだったら。
ひどい話をしているな。
でも、間違いなくそれはそうだと僕は、この映画を観ていて思って。
「誰かの想いを汲み上げ、伝達する」というのは、間違いなく複数の優れた技能が合わさって初めてできることで、
でも、「誰かに何かを伝える」ということについて、これだけでは足りないんだな、という個人的な実感は、そういう物語である本作を描いた人たち自身が、
「誰かの想いを汲み上げ、伝達する」ということについて、それをアニメーション動画で伝えるということについて、この上なく卓越した技術を育んできたひと達なんだなということが、
その表現、それを例えるなら、手紙の表現を通して、感じられたからなんじゃないか、と思った。
それを、「伝える」という観点において、これ以上ない、と思える程の表現を通して初めて、「それだけじゃ足りない」という主張が意味を持つように思えた。
ひどい話をしている。
しているけれど、けれど、僕が思う、技術と表現との関係性というのは、恐らくそうなのだと思う。
僕は、単純に優れた表現であることを、あんまり評価していない。
「すごいなあ」位に思って、それで終わってしまう。
勿論それは「すごいこと」であることに疑いはないのだけれど、独立した技術としては、あんまりすごいとは思っていないのかも知れない。
けれど。
そういう「すごい表現」を通してしか、描けないものがある。それは例えば、本作の中に描かれている様々なものだと思う。
本作の主題は、卓越した技能を持って、それでも、ということだと思っている。
それでも。
「それでも」、と言えるのは、少なくともそう言えるに足るだけのものを積み重ねてきたひとだけだ。
人の生き死にも。
同じ役割を果たす様々な技術も。
そして、それを携える、それを体得してきた人自身の心の在り様も。
そこに描かれることが、「それでも」、と言えるのは、そう言うに足るだけのものを積み重ねてきたひと達だけだと思う。
だから、僕は本作をすごいと思うし、
うーん、
本作を尊敬もできるし、そうだなとも思えるし、分からないけれど、本作の中に描かれている、「表現すること」、「その表現で誰かに何かを伝えること」、「その表現の中に、願いを込めること」みたいなこと達に対して、
ほんとうに「そうだなあ」と思えるのだと思う。
「それでも」、というひとの想いは、いったい何処へゆくのか。
それは僕にもわからないけれど、
少なくともそれは、「それでも」、という想いと共に積み重ねてきたひとの願いの先にしか、存在しないものであるように、ぼくは思う。
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yrkhang · 4 years
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「とてもとても短い話」
最近は、懐かしい音楽ばかり聴いている。
所謂「音楽同人」というジャンルが隆盛を極めた2000年前後というのは、なんというのかな、
とても自由な時代だったな、と振り返ると思うことが多い。
今にしてみれば牧歌的ともいえる環境のもと、良い原曲に感化されたアレンジメントが多く生まれ、
その中でも切磋琢磨されているような感じがあった。
当時ぼくが聴いていたアレンジャーのひとたちの多くは、今はゲームなりアニメなりといった商業ベースの舞台でオリジナル作品を沢山リリースしている。
とても良いことだと思うし嬉しくも思う。
それでも、あの頃の、あの、アレンジャーたちが切磋琢磨しながらもわいわいと賑やかしくやっていたあの空気そのものが、
僕はとても好きだったのだな、と、今にして振り返ると思ってしまう。
「ノスタルジー」という概念を紐解くと、「異郷から故郷を懐かしむこと」と真っ先に出てくる。郷愁、望郷。
何故なのかな、僕らの中ではそれは「過去」と強く結びつくものであるように思われる。
何故なのか。異郷というものは古く、遠い土地を指す言葉であり、旅に長い時間がかかった古い時代、それは「もう帰れない場所」と認識されていたからであるように個人的には思われる。
つまり、それは距離というよりはその距離が持つ時間の不可逆性で以て、「もう帰れない場所」と認識されていることが前提として置かれていたように理解される。
これは、「ノスタルジー」という言葉が持つもう一つの意味、「過ぎ去った時代を懐かしむこと」とも共通項として括ることができる。
人の生の中で最も遠いものは何か。それは過去である。
何故なら、人の生において、時間だけが遡行を許さない非可逆なものだからである。
かつて、「ノスタルジー」をその音楽性のテーマに置いて活動するアイドルたちが居た。
僕はそれをみたとき、それをいいな、と思う以上に、その刹那性みたいなものを真っ先に感じてしまった。
「ノスタルジー」というのは、戻れないからこそ「ノスタルジー」なのであり、もうあの頃には戻れないひと(時間の非遡行性に置いていえば子どもに対する大人)がそれを描くからこそ、ノスタルジーとして成立する。
そういうノスタルジー性を、その「戻れない時間」そのものの中にいるこ達が歌うというのは、なんというのか、因果が逆転しているみたいな感じに見えて。
ずるいなと思った。
そう思ったから、その歌を歌うこ達がその歌のことを「よくわからない」と称することは、個人的にはよくわかる気がした。
ノスタルジーを唄った歌が、ノスタルジーそのものの中にいる人たちに分かる筈がないと思った。
何故なら、ノスタルジーの大前提は「戻れない」という非遡行性をもった喪失にこそある筈で、それはその場所から遠く離れた場所から顧みて初めて分かることだと思ったからだ。
外から見て初めて分かることが、その内側に居て分かることは原理上在り得ないことだと僕は思う。
例えば、学生時代を遠く離れた自分があの頃を振り返る想いと、その振り返る時間そのもののただ中に居る彼女たちとでは、その時間の捉え方そのものが全く異なっていると思う。
だから、そういう歌のことを「よくわからない」と表現する彼女たちのことを、僕はとても素直だと思った。
そういう歌を歌う彼女たちの歌の、その完成形はもしかしたら、彼女たちがこの歌を終えたずっと先、彼女たち自身がこの歌を歌っていた頃のことを「想い出」として振り返る頃にこそあるんじゃないか、とずっと思っていた。
だから、どれだけ表現性という観点で見たその楽曲の完成度が高まっていっても、僕はどこかもどかしくて。
でも、そういう考え方そのものが、若しかしたら違っていたのかな、と、終わって2週間が経つ最近は思うことが増えた。
あの日、「完成してしまった」と確かに思ってしまった。その理由をずっと考えている。
2週間が経って、眺めていてもpostそのものがずいぶん減った。
観ているものも、自分のそれも。
まるで時間が止まってしまっているみたいに見える。
ファン層の殆どが大人だったし、恐らく、いつかはこういう日が来るんじゃないかとは思っていたように、個人的には思っている。
「ノスタルジー」の完成形は、「ノスタルジーそのものが、ノスタルジーになること」なのかな、と、見ながら思っていた。
懐かしさを唄った歌、それそのものが、それを聴いてきた人たちの中で思い出になってゆくこと。
それまで思っていたものとは全然違う違うけれど、
それこそが、「ノスタルジー」として描かれたアーティストとしての在り方の、ひとつのあるもうひとつの完成形なのかなと思った。
そう思うと、インスト盤の照井さんの言葉の指すところも少し分かる気がした。
結局、あの歌のことを彼女たち自身がどう思っていたのかは分からない。
この先も分かることはない気がするし、それでいいとも思っている。
ただ、あの「おわり」の瞬間に見せてくれた彼女たちの輝きそのものが、それを「分からない」と称しつつ、それを「好きだ」と言ってくれていた彼女たちの、
なんというのか、音楽性というよりは、その在り方そのものとしての、これ以上を想像することさえ難しい完成形なのだな、みたいなことはやっぱり思うし、
そういう、知らないことを前提として描かれていた歌の、その内側に居たこ達の、この上なく眩しい瞬間だったな、とも思うし、
それを受け取った自分自身の中で、あの景色そのものが思い出という、その音楽の中で描かれた景色そのものに滲んでいってしまう気も少ししていて、
なんだろうな、
嬉しい気もするし、
でもやっぱり、とても寂しい。
最近は懐かしい音楽ばかり聴いている。
いちばん聴きたい歌は、こわくてずっと聴けていない。
懐かしさが描かれたはずのない音楽の中に懐かしさを感じながら、懐かしさが描かれた音楽のことをずっと考えている。
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yrkhang · 4 years
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「形になって残ること」について
映画を観てきた。とてもいい映画だったと思う。
これはごく個人的に、ということでしかないのだけれど、所謂「泣ける」作品について、それが「泣ける」という話をしたくないと思ってしまっている。
それは恐らく僕の天邪鬼な精神性の一端でもあるのだと思うし、けれども同時に、そう言ってしまう事によって、それを観る人がそれをどう捉えるかということに影響を与えたくない、という気持ちみたいなものも、恐らくあるのではないかと思っている。
良いものは、出来るだけそれをそのままに受け取ってもらいたい。僕の本心の一部だと思う。
だから、僕はこの作品のことを「泣ける」とは称さない。
僕がこの作品を観ていて流れた涙と、これからこの作品に触れる人がそれをどう捉えるかということには関係がない。
それでいいと思っている。
映画『劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン』を観ていて、私が最も強く思ったことは、これを描いた人たちの、強く、強く抱いたその信念だった。
「それでも、作品は形となり残る」
そういう強い信念を、フィルムの端から端まで通して感じていたように思う。
あまり内容に触れるべきではないのだろうけれど、本作は、大きく分けて2つの(或いは三つの)流れを汲みながら描かれている。
物語というのはバランスであり、つまりは強弱であり、本作で言うならば、そのいくつかの流れのどれを汲み、どれを流すかという事であったと思うのだけど、
本作は、その総てをくみ上げたという点において、京都アニメーションの劇場作品群における最高峰であるのではないか、と個人的には感じた。
野暮と承知しつつ、本作を未見の方にはTV版と先の外伝を含めたこれまでの作品群に一度触れておくことを、強くお薦めしておきたい。
本作は、劇場作品として、その作品単体として十全に観客を魅了する力を持っている。
けれど、その作品は同時に、これまで重ねられてきた、彼女自身の物語に基づいて描かれている。
だから、僕はその、彼女のこれまでの物語に触れておくことを強くお薦めしたい。
プロローグの後に開いたあの光景を見ただけではっとする、
「それ」が「そう」と分かる、あの感覚を共有してもらえたらと思う。
ヴァイオレット・エヴァーガーデンは、手紙の物語であり、つまりは人間の物語であると思う。
手紙というのは、人から人へと手渡されるもの、つまり人と人の間にあるものだ。
だから、僕はそれを「人間の物語」だと思った。
人と人との間にあるもの、記憶、感情、希望、そのいずれもが実は不定形である。
自分の中にあるものが、誰かの中にあるものが、どういうものであるのかということを人は知らない。
人は、何かを形にしようとする。形にして、描き出そうとする。
本作の中には、沢山のそういう不確かな形が描かれている。
人が、そうせずに居られないのは何故か。私は、本作を観ていてそう問われているような気がした。
私の中の不確かなものを、私との間にある不確かなものを、形にしようとするのは何故か。
逆に言ってしまえば、形にされたものは、確かな輪郭をもってそこに存在することができる。
伝わる、伝わらないという事とは別の次元において、そこにそれは存在する。
以前、少し寝言を書いたことがあった気がする。
それは、「作品と作者は切り離されるべきだとは思うけれど、僕はそう思いたく��ない」というようなことであったような気がする。
つまり、そこで言いたかったことは、こういうことだったのかも知れない。
人の中にはわからないものが常にある。わからないものは、分からないから形をとることがない。
けれども、だからこそ、人はそれを形にしようとする。分からないから、わからないものを分かるために、形にしようとする。
そうして形になったものは、したかったものと全く同じ形であるとは限らない。恐らくながら、願ったものとは違う形になっていることの方が多いのではないかと僕は思う。
けれど、それでも。
それでも、そこに確かに思ったことの一部が、少しでも願ったことの断片が、その描かれたものの形、その輪郭を確かに縁取っていることは間違いない。
だからそれは、違うでもなく、合っているでもなく、それを「そうしたい」と願った人たちの心の景色の、その断片を切り取ることができているのだと思う。
形になったものは、それを形にした人たちが居なくなった後もずっと残る。
だから、「形になる」ということはとても尊いことだと僕は思う。
それが、例え思ったものとは違っていても。思ったものとは違った形でも。違った手段でも。違った受け取られ方でも。
それでも、何かを、誰かを、何処かを想うことは、とても強い力を持っていて、その力でもって形にされた何かは、私たちが居なくなった後も、ずっと残り、そこに在り、それに新たに触れる人の心を震わせるに違いない。
「だから」というわけではないけれど、と、いうよりは、それは、いつかそうなる未来ではなく、ただ単に今在る時間を生きる誰かにとって誠実ではない、と思ってもしまうのだけれど、
けれど、それでも私は、だからこそ、今、誰かの想いを形にし、ただそれを最善届けようとする仕事に、そこに在る誠意に、胸打たれたのだと思いました。
時間が、「生きている」と感じることがたまにある。
それを、その瞬間に捉えることはとても難しい。人は持っているものの価値を知らない生き物で、失った後でやっとその価値に気づくことがとても多い。過ぎた後にこそ景色が輝くのなら、これほど残酷なことはないと僕は思う。
それでも、私たちは生きていて、時間は前へと進んでいる。その時々で生まれた何かが、形となり、輝きを湛えた作品へと昇華されてゆく。
例え、居なくなったとしても、それは残る。
照井さんは「それでも、」と書いたけれど、僕は、それでも、これからその「作品」に出逢う人たちが、楽しんだり、喜んだり、笑ってくれたらいいなあと、強く思います。
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yrkhang · 4 years
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「おわってしまいました」について
「おわってしまいました」
僕にとってこの言葉はとても大事で特別な意味を持っていて、
だから、この言葉をここに掲げておきます。
sora tob sakanaの最後となるライブ『untie』がおわりました。
いいライブだったなあ
素晴らしかった。
https://sehaku.hatenablog.com/entry/2020/09/07/001209
前にライブに誘った友達が配信でみてくれてたみたいで。まさかみてくれるとは思ってなかったなあ。
いいこと書いてくれてて嬉しい。「合わない」って言ってたから無理にいうのは悪いなって思ってた。
ありがとね。
あと『ア"ル"ファルド』ね。(突然の警察)
実はオサカナの大きなワンマンというのは僕は初めてで。というのも、これ前書いたかな、まあいいか
僕は去年のツアーファイナル当日にそのそのやってきた唐変木で、だから、定期とかフェスとかはけっこう拝見できたけど、大きなワンマンライブに行ける機会というのがこれまで無くて。
「次のワンマンは行きたいなあ」
と思っていたらあのお知らせで。
いやほんと、参りましたね。
お知らせからここまでも、なんか全然実感なくて。
今思い起こしてて感じるのは、なんかこう、この日もそうだったけど、3人から「解散!つらい!」みたいな印象を全く感じなかったんだよな。たぶん、だからなんじゃないかと思う。
こういう色々大変な環境下でもけっこうオンラインのライブとか配信とかもしてくれていたから、それをみていてやっぱり楽しくて。楽しいなあって思っていたら当日になってしまっていた。
ライブ、楽しかったんです。
普通に考えて、解散!最後のライブ!とかなると、もっとこうウッシクシクみたいなのがあるんじゃないかと思うんだけど、ほんとうにただただ楽しくて。
あのー、ステージ上の3人がすごい楽しくやってるのが、なんかハタからみてても分かるんですよね。あれなんでだろ。でもわかるんだ、なぜか。
すごいなーって思ったのは、というか基本的に全編すごかったんだけど、最初の紗幕の映像から入って影越しのribbon、あれ光の関係で角度によってはちょっと向こうが透けて見えるんですけど、それが凛々しくて。
凛々しい?ほんとうか…?いや、でもたぶんそう。
オサカナはかっこいいんです。
MCとかヘロヘロってよく言われてるけど、ヘロヘロのMCの直後にめちゃめちゃ重たい曲持ってきて、歌が始まる瞬間にばしっと空気が変わるの。
で、キリリとやってるんだけど、真ん中で向き合う形になった瞬間なんかお互い見合わせてクスクスしたりしてて、でもそこから前を向くともうきりっとした顔に戻ってたりとか。
いろんな方の話にもあがってたけど、舞台に出ていくときももうステージ袖で今からいきますって瞬間までわいわいやってるその辺の(その辺のではないが)女の子、みたいな感じで、ああそうこないだの横浜のライブではその様子が配信で見れたんだけどアレめっちゃありがたかったな、で、なんならステージ出てもまだなんかやってたりする、みたいな感じらしくて。
MCと歌の行き来もなんかそんな感じなんですよね。
オサカナのステージは、観たことある方なら分かると思うけど「おー!」っていう勢いで押す感じでは全くなくて、がっちり世界観が創りこまれたその上に立つ、という感じのステージだから、元々パフォーマンスとしてもすごく難しいんじゃないかなと思っていて、
それをやるなら、例えば自分なら、ライブの会場入りする前から気持ちを作りこんだりしないと無理だろうなと思う。
それが、あの刹那みたいな景色の中を自在に行ったり来たりしている様は、なんというかすごく不思議な感じで、いやわかんないけどあれが普通だったりするんかな?アイドルの方ってけっこう日常的にライブをしてたりするじゃないですか。そうするとあれが普通になったりするもんなんじゃろか…
勿論そんな訳はなくて、パフォーマンスをみていれば普段どれだけ練習してきたかが伺えるんですよね。その積み重ねてきた時間があるから、ヘロヘロのMCとか、おいお前ヘロヘロって言うのやめろよあれがいいんじゃないか。
だから、ヘロヘロのMCとか直前までわいのわいのやってる舞台袖とか、別に気負ったりしない自然体な彼女たちの姿からそのまま、あのごってり全部入りみたいな音楽の世界の上に立てる。
そういうことなんじゃないかと、個人的には思っている。
それってすごいことだよ。かっこいいなと思う。
ライブの話が全くされてないけどどういう事なんですか?
いやーライブねえ。楽しかったなあ。
オサカナの曲の中に「暇」っていうガチの名曲(原理主義過激派)があるんですが、この曲は名曲過ぎてそもそもライブでやることを想定してない、歌えんみたいにずっと言われていたんですね。
いやー、あなたそんな、まさかねえ。まさかこのためにわざわざ別で音声収録してパッドに仕込んでMCと繋いでDJみたいにやるとはまさかそんなことある訳ないじゃないですか。
ないこたないんだよなあ。ガチで笑ってしまった。あれはもう新曲です。素晴らしい。天才。
お前ツイッターでもその話しかしてないのにここでも全く同じ話繰り返すのかよ……
でも仕方ないんじゃよ。聴きた���ったんじゃ。
ライブの話をしろ。はい。
演奏がすごかったなあ。特に印象的だったのはぱれぱれで、初めてにゅーすと聴いたときも「これ弾けるわけないでしょ打ち込みかな」と思ってたんだけど(弾いてたびびった)、ぱれぱれこそこれは弾けないだろって思ってたらああいう形でやっててすごかった。
あとは個人的には信号かな。ボイスサンプリングのとこどうするんだろ素材で流すのかなと思ったらボコーダー使ってきたのはびっくりした。たぶんmicroKOLGの新しい方のやつかな?もっとピロピロした使い方はよく見るけどああいう鳴らし方もできるんだなあ。
アコースティックパートのアコギがよかったなあ。ギター二本あってシンメトリーになるのがいいって照井さんいってたけど、やっぱり音の上でも2本あると全然違う。こたろうさんのエモまるリード演奏の感じはなんか別のバンドのひと(こないだ共演してるの観れてうれしかったな)思い出してちょっと笑ってしまうところがあって、逆にてるいさんのは職人に徹してるみたいな印象もあったりしたのかな、
あとドラムがやっぱり変態的で、ribbonとかもそうなんだけどひとりであの拍がぜんぜんちがうの叩けるのどうなってるの?ってなる。踊り子たちなんかもついみちゃう。あのスネアがたたんたたんいってるの、なんか電車のみたいに聴こえてすごくすき。
パーカスがドラムと別で居るっていうのは大きいなあと思って。あの波の音?みたいなカラカラいうやつが良かった。あとは前にアコースティックでちょっとやったときのチャカポコいう椅子みたいなのがすきだったのであれ聴きたかった。贅沢です。
ピアノがねえ。ピアノはさいご照井さんが弾くのかなとちょっと思ったりもしたけど、そこを任される絶対の信頼だったなあ。やっぱりピアノって最高ですよね。
VJがねえ。ほんとTONTONさんは天才なんだな。あっちこっちすごかったんだけど、やっぱり最初のあの演出から入って、全部良かったけど印象的なのはどうしても広告とWALKとuntieということになってしまう。
広告はここにきて映像全部変えてくるとは思わなかったなあ…衝撃で思わずちょっと視線が上向いてしまった。
あとねえ、どうしてもWALKだよねえ……
ここ読んでくれる方は知らない方が殆どだと思うから説明しておくと、あの、後ろのポラロイドかな?の枠に映像映ってたやつ、あれ全部オサカナの過去のライブで使ってきたVJの映像なんだ。
ずるいなあ。
おわりのほうはもう全部ずるい。ずるいなあ
細かいとこ上げだすときりがないんだけど、それぞれの曲のこととかはちょっとあやしい部分も出てきてて。
一日たって、ぼんやりと鮮明だった景色がゆっくりと身体から離れていくみたいで。
まあ元々記憶がいいほうじゃないのがわるいんだけど。すいませんね…歳でねえ……
それでも鮮明なのは、3人の楽しそうなかんじなのかな。
オサカナの3人はちょっとスロースターターな印象を僕はもってて。普段の定期とかすごいローテンションじゃないですか。フェスとか出てきても「うちら陰キャだしねえ」みたいな感じだし。
それがけっこう僕は嫌いじゃなくて、なんというかこう、先にも書いた"自然体"ってことなんじゃないかと思っていて。
こないだの音楽会の映像なんかも見てると(まだ売ってるからよかったら買ってね)すっごい楽しそうじゃないですか。こないだアフタートークでいろんなひとが言ってたけどあんな楽しそうなやまさんみたことない。
それは、あのステージが楽しかった一日の最後の時間だったからなんじゃないかなと僕は思ってて。
普段もステージ前に円陣組んで「いくぞー!」とか特にやってない彼女たちのステージは、はじめその特別な舞台であっても、どこか日常の、普段のこの子たちはこんな感じなのかな、みたいな空気を纏っている感じがして。
うーん、あんまりうまく言えないけど。
気負わず出てきて、やってるうちにそのステージ自身の楽しさを纏っていく、みたいな感じにみえたのかな。
自然体だからこそ、ああ演ってて楽しいんだっ、ていうのが感じられるから、それが良かったし、嬉しかった。
そういう意味では定期の1時間はエンジンあがりきる前に終わっちゃうからちょっと勿体ない気もしたりしてたのかな。でもあのペースで2時間とかしょっちゅうやってたらそれはそれで大変だもの。
この日も最初の方はMCとかちょっと緊張というかぎこちないというか、いやぎこちなくはないけど、普段のビジネスMCっぽさみたいな感じもちょっとあって、なんだけど、
あのー、演奏してるとき後ろ向く場面があるじゃないですか。
みんなニコニコしてるの。
ヤバくない?
いや勿論後ろ向いてるから3人の顔は全然見えてないんだけど、バンドのひとたちのニッコニコしてる顔見たら誰でも分かるよそんなの。そんで客席側に振り戻ったとき一瞬だけパフォーマーになる前の、向こうと顔見合わせてた笑顔がほんとに一瞬だけ見えるの。
ずるーい
いやずるいずるいって言ってるけど別にずるくはないんだけど。
でもずるいよ。
そういう、やってて楽しいパフォーマーとしての気持ちのあがり方と、それが逆流してくるみたいにオフショットとかメイキングとかから垣間見える、"彼女たち"としての普段の様子みたいなところ、年頃の子たちの他愛ないことでキャッッキャしてる感じみたいなのが両方の色で混ざり合って、それがもう一度パフォーマンスへと還元されてく。
だから、みててどんどん良くなる。
みてたら楽しくって、なんかほんとに最後までずっと笑ってた気がするな。
なんか、ずっと変で。もう終わるって分かってるはずなのに、たのしいなあ綺麗だなあって思うばっかりで、もっとこう寂しいとか悲しいとかあった筈なのに、どこいっちゃったんだろう。
もっとこう、泣いたりとかするのかなあって思ってたけどぜんっぜん泣かなかったな。ほんとにさいごの最後までニコニコしてた気がする。
おじさんなのでニコニコっていうよりはニチャア…って感じだったんだろうな。すいませんね。
解散のお知らせのコメントを読んで、もうさんざん考えてさんざん話し合いもして、もうこれは全部決めたことなんだろうな、って思った。
こうこれが揺らぐことはないんだろうなって。
だから、なんだろう、寂しかったのかな、わからないけど、そのあとの彼女たちの様子はすごいさっぱりとしていて。
いや文句を言う訳じゃなくて、なんだろうな。正直解散してほしい気持ちはこれっぽっちもなかったけど、
でもそんな彼女たちを見てると「これで良かったんだな」って思えた。
解散が決まってから、もっと消化試合っぽくなっていってしまうのかなとも思ったのだけど、そんなことは全然なくて。
時節柄どうしてもライブは配信になってしまっていたりしたけれど、そのクオリティも回を追うごとにどんどん良くなって。
オサカナのステージって照明含めてかなり世界つくってるから、ぜったいカメラ乗りはよくないじゃないですか。プラス映像のコントラストが入るし。あの振れ幅の景色をカメラで納めるの相当難しいだろうなって思ってたんですよね。事実はじめのほうは結構ノイズでがしゃがしゃになってしまったりもしていたし。
でもそれがホントに、あの演出できちんと画に納まるようになっていった。
それだけでもすごいことなのに、逆に映像じゃないとできないような表現まで取り入れてきたりして、ツアーの東京公演はえらいびびってしまったなあ。
それはやっぱりバンド演奏の面でもそうで、4時間という長丁場、演奏するだけでも大変だと思うのに、これまでやってこなかった(バンドにとっての)新曲とか、アレンジとか、色んなものをこれでもかと詰め込んできて。
えっ、そんなに演って大丈夫?
大丈夫な訳ないんだよなあ
終わる、と決まって尚努力することって難しいですよね。
うちの会社とかでも、もう定年っていうご年配の方とかが「もう引退だし」って言っていろいろなおざりになっていくのを見かけたりすることがあって、なんだかとても寂しくなる。でもそれは仕方がないというのも分かる気がする。
それを、やるっていうのは、並大抵のことじゃないと思う。
それまでの時間を、楽しく、思い切りやりきる、というのは、全然楽じゃないと思う。
どうやってそうやってるのか全然わかんなかった。
でも、そうやっているひとたち自身も、自分の受け持った領域で、自分にできることをやりながら、それを楽しんでいることが、なんというのかな、窺えて。
だから、嬉しかったし、楽しかったな。
さいごさ、ずっと拍手がおわんなくて、このまま終わんなかったらどうしようって思っちゃったな。
おわんなくていいんだよなあ
正直、「このままずっと手を叩いてたら次にはいかないし実質勝ちなのでは?」みたいなアホなこと考えながら両手を叩いてた。
みんなきっとそう思っていたんだと思う。
煙がぶわーっと出てきて、「あ、終わるな」と思って。もうここからどうなるかはたぶん、誰にでも分かったんじゃないかと思う。
さいご、3人とも笑ってて、よかったな。
結局最後まで泣くことはなかった。
ただ、綺麗だなって思った。
確か、曲を聴いたときもMVを観たときも、全く同じことを思った気がする。
ただただ、綺麗な景色だけがそこに在った。
朝までちびちびお酒をのんでたら(朝までお酒をのむな)ほんとうに素晴らしいぶろぐがきたので置いておきますね。
https://ameblo.jp/soratobsakana/entry-12623088378.html
ずるいなあ。
全然泣かないでヘラヘラ帰ってきて、意外とこのまま泣かずに済みそうだな、って思ってて、
読んでたら急になんか、知らんけど、急にぽろぽろ来てしまって。
ずるいなあ
ずるい
一生勝てる気がしないです。
(推しに勝負を挑むな)(推し)(便宜的表現)
前にオサカナの話をしたときに、確か3人のことを「いちごのショートケーキに乗ってるイチゴ」に例えたことがあったと思うんだけど、
オサカナの音楽は確かに難しいところがあって、ガチガチに創り上げた硬質な作品世界の上で、でもそれとはどこか関係なく、どこか関係あるような、知らんけど、みたいな感じで、知らん顔して好きなように3人が演っていた印象があって。
なんか、なんだっけな家に帰ってきてから色々考えてたんだけど、それぞれの好きなものも多分入ってたんですよね。
音楽なら照井さんの音楽的世界観という、彼自身の好きなかたち。VJだったらTONTONさんの考える格好良さ、好きなかたち。それぞれの人が持ち寄ったそれを、たくさん重ねて創り上げられた綺麗な世界が広がっていて、
でもそれは、たぶん元々のそれともちょっと違うんだろうなと思って。
それはどこまでも、主役である彼女たちがどうその上に居られるか、ということがまずあったような気がしていて。
勿論それは、ある種彼女たち自身の為というよりは、それでもってどう音楽世界を構築するのがいちばん良いのかということでもあったんだと思うのだけど、
なんていうのかなあ
大人と、便宜的な言い方だけど、子どもが一緒に仕事をするってぜったい難しいじゃないですか。なんというか、生きてる時間そのものが違うというか。子どもって、ほんとうにその瞬間瞬間を生きてて、すごいなって思ってしまう。
大人になるともっと連続性の中を生きることになるから、あの瞬間性をどこかうらやましくも思うし、「これが若さか…」という気持ちにもなったりする。
だから、大人のひと達が創った頑丈な世界観というのは、この子たちの為のものなんだな、と思ったというか。まだ若い人たちがちゃんとそこに立てるように。たくさんのすきなもの、いいと思うもの、技術、創造性。そうい���たものをを注ぎ込んで、
あのひとつの世界を創り上げたのかな、みたいなことを少し考えた。
ぜんぜんうまく言えないんだけど、
だから、あの子たちはああいう難しそうな舞台の上に、あの自然な感じの魅力を湛えて立つことができていたんじゃないか、と、そんなふうなことを多分おもっているのかな。
それは、
うーん、いろんな言葉を探してみたけど、どうも他に適切な言葉が見つからない。
それは、すごく大きな愛情だったなって、そう思う。
いろんなひとにたくさん愛されて sora tob sakana がそこに立っていて。
そう居られるように、自然に立っていて。
それが、とてもすごいことだって思った。その子たちが自然に立っているから、まわりの大人たちも嬉しいのかなって思って。それは、愛だなっておもう。
綺麗だなって思った。
ずっとずっと楽しかった。
大変なことも沢山あったと思うけど、僕はお客さんだから、楽しいばかりをたくさん受け取ってしまったんですよね。
申し訳ないですね
でも、ありがとう。
今はそういう気持ちです。
知らんけど
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yrkhang · 4 years
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「無題」
なんか、時間が見えてる。
https://ameblo.jp/soratobsakana/entry-12621410669.html?timestamp=1598795240
ぶろぐを読んでくださいというだけの日記です。
今週はもうきっと何も書かないからこれがたぶん8月最後の日記になると思う。
たぶんだけど、アイドルというお仕事は、ずっと長く続けていけるお仕事ではないんだろうな、みたいなことを漠然とだけど思っていた。
オサカナの歌を聴いていると、何故だかそれは、彼女たちが大人になった時に来るんだろう、と確信できていた気がする。
だから、うーん。
やっぱり寂しいのだけど、ふわふわとどこか嬉しいような気持ちもあって、傍からみているよりもずっとずっと先に、大人になっていくんだなあ。みたいな気持ちで、過ぎてゆく日々をずっと眺めている。
https://ototoy.jp/feature/20200821111
定期とか、客席もゆるゆるな感じの中で、前に行くよりいちばん後ろで観ているのがすきだった。
いちばん後ろがいちばん全部みえるんですよ。ステージはほとんどみえないんだけど(何しに来た?)、その後ろでワイワイしてるお客さんの様子とか、すぐ後ろで手を忙しなく動かしながら笑いあってるスタッフのひととか、いちばんその場所全部がよくみえるんです。だから、いちばん後ろのPA卓前がいちばんのお気に入りの場所でした。
歌が、音楽がすきだけれど、歌を、音楽だけを純粋に愛することができなくて。
やだなって思いながらやっててほしくはないし、作品と人は別というけれど、どうしたってそういうのって垣間見えてしまう以上は分けることができない気がしていて、だから、僕にとっては音楽「だけ」がいい、というのは何かが不足していて。
だから、その不足している何かが全部あるこの場所が、すごく好きだったのだと思う。
どうしたって垣間見えてしまうそれがずっとやさしくて、ピリオドを置く場所が明確に見えている今も、それぞれがそれぞれの場所でいちばんいい仕事をしようとしている。傍から見ていてもそれが垣間見えてしまうくらい、いろんな人たちに愛された何か、こう、ひとつの形だったんだなと思う。
時間がどんどんと進んでゆきながら、ゆっくりとフレームアウトしてゆく。
いつでもどこでも自然体の彼女たちが、軽やかにゆっくりと見切れながらその先へ進んでゆく、そんな感じの時間がみえてる。
エンジンの音がどんどん大きくなって、蝉の声も、風鈴がからから廻る音も、なにもかもをかき消すみたいに、大きくなって、
世の中はわからないもので溢れていて、わからないものをわからないなりに眺めているけれど、何というのかなあ。不思議なんだよな。
未来のことなんてそれこそ誰にもわからないけど、いつか、またお互いに出逢うことがあったなら、そのとき笑って表情を交わせるみたいな未来があってくれたら素敵だなと思う。
綺麗なものをみているみたいで、綺麗なものが綺麗なまま、その蓋を閉じることができるというのは、実はすごく恵まれたことなんだよな。
それでもやっぱり寂しくて、ふわふわとどこか嬉しいような気持ちのまま、ゆっくりとフレームアウトしてゆく時間を眺めている。
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yrkhang · 4 years
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「懐かしさ」について
そうだなあ
映画『君の名は』を初めて観たとき、いちばん強く感じたことは「懐かしい」という感覚だったような気がする。
新海誠監督は小海あたりの出身だそうで(もちょっと上の方な気もしてる)、僕は概ねその辺の盆地の反対側で生まれ育った。
子どもの頃は空ばかり眺めていた気がする。
他に見るものがなかったからだ。
長野県の佐久盆地といえば、天体観測家にとってはお馴染みの土地だったりする。臼田の通信所や野辺山の観測所、大小様々のパラボラが天を仰ぐこの土地は、近現代のこの国の天体観測の最前線を担ってきた。僕も子供のころ、何度も野辺山に見学にいったことをよく覚えている。今もそうなのかは知らないけれど、電波望遠鏡のペーパークラフトを貰えたりして、大事に抱えて帰った家で真剣な顔でハサミやノリと格闘していたことを思い出す。
初めて東京に出てきたとき、一番最初に思ったことは「空が淡いなあ」ということだった。種々の産業ガス故なのか、はたまた標高の低さ故なのかはわからないけれど、東京の空はやたらと色が薄い。幾重ものヴェールに覆い隠されてしまっているみたいだと思った。長野の空はあれとは全く違っていて、うーん何だろうな、色がくっきりとしている。その��っきりさというのは例えば南方の光の強さ故のビビッドな色合いではなくて、ただ、青が青いとでも言うような、透明で深い色をしている、みたいな感じだったと思う。
『君の名は』は、そこに描かれた空を見ている限りにおいて、ひどく懐かしい作品だった。うまく言い表せないけれど、僕のよく知る青の色をしていた。初めて観たとき、その物語も舞台設定も知らず、なぜか「これ地元の空だな」と感じてしまったことを思い出す。あれは、間違いなく長野の空の色と形をしていたと思う。
初めて観たとき、その青さに、懐かしい色に、それだけのことにちょっと泣きそうになってしまった。
何故なのかは、自分でも分からない。
「"懐かしい"と人間が思うのは何故なのか」みたいなことを考えている。人間の"懐かしい"という感覚の根底にあるのは、間違いなくその人自身の経験であるはずだと思う。けれども同時に、それだけでは足りない何らかの色を、"懐かしさ"という言葉の中に僕は覚えることがある。
人は、知らないもののことを実はよく知っている。その多くは、人の持つ想像力に根差している。
想像下で見たものを、僕らは恐らく憶えている。
けれど一方で、それと知らなくとも僕らはそれと相対したとき、直感的に「これを知っている」と思ってしまうことがある。
その多くは、僕らの身体的な経験、つまり、実際に見たり聞いたりしてきたことに根差しているのではないかと自分では考えている。
身体的な経験というものは、その多くが自身で記憶していないものだと思う。ふとした時に聞こえる音、見えた色、咄嗟に動いた自身の身体、そういう部分に宿っているものなんじゃないかと思う。何故なら僕らはそれを事前に知覚することができないからだ。事前に知覚しないことを"知っている"、それは、理性よりも身体に近い部分がいつかのそれを記憶しているからなんじゃないかと僕は思う。
一方で、明らかに自身の経験ではないことを、僕らは自分のことのように捉えることができる。それこそは僕らの理性、想像力に基づくものであるはずで、僕らが身体的なものを通すことなく"経験"してきた記憶が見せてくれるもう一つの景色なのではないかと思う。
個人的な考えではあるけれど、本作が多くの人々に観られ、興行的にも大きな成功を収めたのは、身体と想像、その2つの「経験」に訴えかけた部分が大きかったんじゃないかと思う。映像を通して身体的な記憶を、物語を通して想像上の記憶を、それぞれ揺さぶるのが本作であって、だから、これを見た人はこれを「自分の物語だ」と思うことができたんじゃないかと僕は想像する。
「懐かしさ」とは何なのだろうか。
僕らは、知っている景色を観たとき、それを憶えていなくとも「懐かしい」と思うことがある。一方で、絶対に知らないことであっても、想像上の体験を通してそれを「懐かしい」と思うことがある。人間の記憶は極めて曖昧だ。時として知らないものをその景色の中に映してしまうこともあるだろうと思う。
けれど、それでも僕は「知っている」という自分の感覚を大事にしたい。知らない筈なのに知っているという、あの懐かしい感覚を。
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yrkhang · 4 years
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「可愛いがわかんない話」について
そういえば先日えらい漫画家の先生にめちゃめちゃ怒られた話を書いたんだけど、こう見えて狸は割と近しい皆さまからお叱りを頂戴しがちで。
その中でもいちばん多くもらってるのが多分、「可愛い」に関する話なんじゃないかな。
昔からびっくりするほどかわいいかわいくないというのが分からない。
なので、概ね表現においてもそういう表記を避けるよう心掛けている。何故ならよくわかんないからだ。
この「わかんない」は、自分にとっては正直正味の話でしかなくて、僕はなんか知らんけど昔から「可愛い」が認知できない。
視覚障害かもしれない。
ちょっと語弊があった気がする。
「可愛い」が分かんないわけではなくて、所謂「美人」さんをみれば「美人さんだなあ」と思うし、「可愛い人」をみれば「可愛い人だなあ」と思うことはできている。
出来ているのだけど、僕にとってのそれはあくまで括弧つきの認識でしかなくて。
うーん。
「かわいい」って何なのかしら。(哲学)
突然哲学を始めるのをやめろ。
自分の体感的な理解で言ってしまうと、かわいさって見た目と直結しない感じなんですよね。
例えば、ひとが誰かを好きになる理由のひとつに「見た目」みたいなものがあると思うのだけど、自分の中ではあんまりそこって重要じゃなくて。
どちらかといえば、それ以外の、例えば言動とか、例えばちょっとしたときの仕草だとか、なんだろうな、静止画としての見え方よりも、その人が動いている姿の中に僕は自分の「好き」を見出すひとらしいんだよな。
例えば、や さんの、5thで言えば冒頭のりぼんの頭でカットアウトする一瞬だけ「ニッ」って歯を見せて笑うんですけど、あそこはみてて「いいなあ」って思うシーンの一つで。これ書くのは何度目かになる気がするけど、や さん、「ポーカーフェイス」って言われてることが多いけど個人的には「うっそでえー!」って感じで、漫画並みに表情の動く人だなと思ってて。5thで言えば衣装の話でなんか昔ばなしになってるくだりで「んー…?」みたいに眉根を寄せて遠い目をしてる感じとか、あとどこだっけ祝祭かな、水のみながら後ろのバンドの人たちとイエイエーイみたいにしてるところがあって、そこから振り返った時の表情なんかがすごく良かったりするんですよね。
あと、これは全然別だけど、4thのアンコールだったかで、「みんなどうでしたー?」っていう話にわたわたしながら、「いや、えーと、っていうか皆さんはどうでした?」みたいに聞いてくるシーンが僕はすごく好きで。や さん、ああ見えて(「ああ見えて」って何なんですか!)意外と客席のひと達がどう思ってるかをすごく気にしてくれてるところがあって、そういうところは単純に嬉しいというか有難いなあって自分の両目を目つぶししてしまったりする。
てらさんは感情の扉フルオープンみたいになってるときがたまにあって、分かりやすいのは同じく4thのアンコールなのかな、銀テープがパーンと飛んで、なんだけど流石に2階席までは飛ばなくて、そりゃそうなんだけどすまんねえ…みたいな話の展開の中で、あれみててホントびっくりしたんだけど、「みててどうでしたか?」みたいに訊くんですよね。それが、たぶん普通だったらちょっと、何というか嫌な響きを帯びてしまうんじゃないかと思ってしまうのだけど、てらさんのそれには全くそういう響きがないんですよね。てらさん、たまにインスタとかでもキレ散らかしたりしてるときがあるんだけど、なんでか(ご本人に言ったらマジで怒られそうだけど)それが嫌な感じにみえたことが一度もなくて。アレほんとになんでなんだろう。想像でしかないけど、たぶん「思ったまんまでしかない」から、その発露をそのまま受け入れられるのかな、みたいな感じなんじゃないかと思う。そこに出てきたものを、変にこねくり回したりしないから逆にそれをそのまま「あーそうなんだ」って思えるというか。うーんてらさん個人的には一番難しくて、あんまりうまく言葉にできないな。でもそういうところもありつつ、よく見てるとまわりのひとに気遣っていたりしてるような場面も垣間見えたりするところはすごくお姉さんチックで、そういうところも含めて彼女の愛らしさなのかなあと思う。
ふかさんは、個人的な感覚ではいちばんちゃんと(ちゃんとって何?)してるひとで、かっこいい人、かなと思う。三人の中ではいちばん、普段の感じで言えば大人っぽい人に見える。トークもよく考えて話してるなあと思うし。なんだけど、ふかさんの面白いところはそういう大人っぽい一面と同時に、めちゃめちゃ子供っぽい一面が同居しているところがあって、先日のバーチャルで言えば突然映像に合わせてステージバックに走り出してみたりするところとか、謎のイカの踊りをしてみるところとか、あとなんだっけな、ふかさんが「イエーイ!」みたいにする時って割と右手と左足、左手と右足が出がちなんですけど、そういう、突然思い立ったみたいな動きはすごくコミカルで意外な感じだなって思う。あとこれはいよいよ関係ない話だけど、ふかさんのアニメ趣味がすごい僕の趣味と似てて、ふかさんが「面白かったー!」って言ってる作品は自分でみてみても面白かったりしたし、その逆もあったりして、僕は星座占いとか血液型占いとかあんまり信じない方なんだけど、こういう趣味の近さみたいなのを眺めてると「意外とそういうのもホントにあったりするのかな」と思ったりする。プラネテス絶対面白いはずなのでいつか見てほしい…
何の話してたのか忘れちゃった。
ああそう。
自分にとっての所謂「可愛さ」みたいなものって、そういう部分にあるのかなと思っていて。
可愛い人って世の中いっぱいいるじゃないですか。ポンコツだから「かわいいかかわいくないか」って訊かれたら大体可愛くみえてるところがあるし、やっぱり世の中見た目も大事だからそういう部分で頑張ってるひともいっぱい居る訳で、んーそうだな、「可愛く見えない」から可愛いが分からないというよりは、「みんな可愛く見えるから逆にわからない、といった方が近いのかもしれない。美人なひとほんとに世の中溢れすぎててどうかしてると思うじゃないですか。
でも、正か逆かは分からないけど、だから、僕は「可愛さ」そのものにはあんまり魅力を見出せないのかも知れなくて。可愛い人をみれば「可愛いなって思うけれど、そこで終わってしまう。「可愛い」と「好き」があんまりうまく繋がってない感じなのかな、なんかのバグなのかも。
なんだけど、例えば、上に挙げたようなことを通じると、自分の中でその「可愛さ」と「好き」な感覚がうまくつながるように思���。
書いてて思ったけど、これ多分主語が違うんだな。「可愛い」→から→「好き」っていう回路が世の中にはあるっぽいんだけど、僕にはそれがなくて。代わりに「好き」→だから→「可愛い」みたいな回路になってるっぽいんだと思う。主従の逆転というか。
恋は盲目と昔の偉い人は言ったものだけど、僕にとっての「可愛い」って、恐らくそれ自身が一義なのではなくて、すきな人のこういうところが、或いは、だから、可愛く見える、みたいな感じなんじゃないかと思う。人間、すきな相手のことはよく見ようとするものだし、見えたものを良く見たいと思う生き物なんじゃないかと思っている。僕も恐らく御多分に漏れずそういう生き物で、だから、可愛い、よりは、好き、のほうが前提にある。すきな人のいいところを見つけられたら、なんかそれだけでめちゃめちゃ嬉しいじゃないですか。その、みつけられたすきな人のいいところが、僕にとっての「可愛い」なんじゃないのかなと漠然と思ったりしている。
「可愛い」を知らない。「可愛い」と辞書に書けるような普遍的な価値観を、恐らくこの先も僕は知ることがない。けれど、すきな人の「可愛い」は見つけられる気がするし、逆に言えば「可愛い」を見つけられる相手のことが僕はすきなのだと思う。僕にとってはそれだけで充分で、だからこの先も「可愛い」がわかんないし、わかんなくても特に困んないなと思っている。
という説明文を書いてみたんだけど、結局またなんか怒られそうな気がするんだよな…
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