Tumgik
zehimonashi8 · 20 days
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二日前、宝塚の最後の贔屓が退団しました
ずっと劇団のやり方には疑念を持ち続けてきたけれど、今回のことでもう完全に縁を切りたいという気持ちになっていたところでの彼女の退団 正直今までずっと劇団に贔屓を人質に取られているような気持ちだったので、あまり人には言えないけれど私はそんなに寂しくなかったし、むしろありがとうとすら思った
それは贔屓が歌も踊りも演技もとびきり上手で外に出てもひときわ輝く姿を見せてくれると信じさせてくれたからだけれど、彼女がたとえ舞台を降りたとしても彼女のことをずっとずっと応援したいと思うし彼女がずっとずっと幸せであることを願ってやまない
3年間私と一緒に駆け抜けてくれて本当にありがとうございました これからもあなたがずっとずっと幸せでありますように ここでいつも応援しています
そしてヴィオレトピアという唯一無二の美しいショーで彼女が退団してくれたこと 本当に感謝しかなくて ヴィオレトピアは「舞台は必ず終わる、王は必ず死ぬ、けれど劇場の記憶は永遠に消えない、王座、そして客席に座るものが現れるとともに舞台は必ずよみがえる」そういう真の舞台讃歌だった いずれは廃墟になってしまうことが既にわかっているヴィオレトピア(=宝塚)に対して最後の最後、退団者がみんな「宝塚が永遠に続きますように」と願い、「フォーエバー宝塚フォーエバー永遠の願い永遠の祈り」と全員で歌うこと 
また宝塚が美しいかたちで再生することを私は祈っている、ヴィオレトピアで私はそれを信じることができた だから私は今宝塚を見捨てる
ありがとう星組、ありがとう天華えま、愛しています 永遠に、永遠に
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zehimonashi8 · 1 month
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仕事と宝塚で気が狂っています
この間メギドのジョイサウンドコラボに行きました
ジョイサウンドさんいつもありがとう
tumblerどうにかなっちゃうらしいのでまたどこかへ移動するかもしれないです
もう逃げ回るのに疲れてきてしまったけれど
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zehimonashi8 · 3 months
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新潮で復刊した『源氏物語 九つの変奏』
松浦理英子と日和聡子の源氏物語は読まないわけにいかないと思って目次を開いたら、あまりに作家と各帖の組み合わせが納得すぎて面白かったので
金原ひとみの「葵」島田雅彦の「須磨」、完璧に「わかる」 松浦理英子が「帚木」なのは少し意外だった(個人的には「胡蝶」や宇治十帖あたりかと思っていた)けど松浦理英子の文体だ〜と思って嬉しかった
「蛍」がこんなに似合う作家、日和聡子以外にいるかなと思うくらい日和聡子の「蛍」はぴったり
江國香織と島田雅彦を避けたい気持ちよりも他の面子への期待が上回ったので買ってしまいました
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zehimonashi8 · 4 months
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沸騰する海 ほか
11月下旬「みそひともじのかりのつかい参」において二階堂の頒布物を印刷くださったみなさま、まことにありがとうございました
・沸騰する海
堀川国広、ルンバのことめちゃくちゃ嫌いそうというところから始まった
もう色々諦めていつつも時々意図しない苛烈さが自らを置いて迸っていってしまう刀であってほしい
なお堀川国広が洗濯機を好きかといえば別に全然好きじゃない そもそも堀川国広のなかに好きという感情に割けるリソースはもうあんまり残っていない
・ウミウシ同盟
にっかり青江に近づけなくて困った でもそういうところが好きだなと
理解されることは奪われることだから 意味づけされることで存在していた自分を意味をもたないものとして、ただ在るものとして定義しなおす それを志向しながら同時に人間の道具として生きることを模索しているにっかり青江であってほしい という
「いずれにせよ、石は重々しく不変で極端である何か、滅びることがないかすでに滅びてしまった何かを含んでいる。石は無謬の、無媒介の、誰かに弁明する必要のない、固有の美によって人を引きつける。」
/ロジェ・カイヨワ『石が書く』創元社 2022.8
・人形の家
長めの連作になる予定だった
鯰尾もべつにおままごとをするつもりだったわけではなかった でたらめの番地は鯰尾がつけたのではなくみずからあらわれてきたものでしかなかったのに 鯰尾の引けめがあったんだと思います ふたりは対等になるために分かれるために人形の家に暮らした
「腐敗するものと人の形をしたものを、家に近づけてはならない。《人形の家》に人形を近づけてはならない。」
/金井美恵子『花火』書肆山田 1983.4
・熱帯警報
植物園が好きだ というだけの
骨喰は熱帯の植物が似合ってうらやましい というのは鯰尾の談
熱帯植物は豪雨のなかで育つのに植物園のなかは静かで外が大雨なことに気がつかない そのひとはどういうつもりで雨雲を
COCCOの「あなたへの月」Aメロが好きすぎてできた短歌ともいえる Aメロ以外全部蛇足というレベルで歌詞がガンギマリのため
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zehimonashi8 · 4 months
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村正双騎 行ってました
とても刺激的であっという間
かなり概念に寄せた服装だったので記録
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zehimonashi8 · 5 months
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禺伝の蔵出し映像集が届き、あやな宗の単品OP・EDがあまりに良すぎたためそれだけでまた禺伝から離れられなくなってしまった
全員並んでるとやっぱりあやなちゃんしか見れないのですが単品で見るとみなさま当然踊りに癖があってそれがまた絶妙に役と合っていたりそこから新しくキャラクターの細部を見つけたりしてとても楽しい
今年の6月に出した禺伝則宗のネプリを再推敲のうえ配信する予定です
来年春までにできたらいいなと 自分用に一部製本もしたい
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zehimonashi8 · 6 months
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牧野植物園に行って以来、植物園の温室にばかり固執している
そうこうしてるうちにXの自分のアカウントに入れなくなりましたので移動しました
よければこれからもよろしくお願いいたします
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zehimonashi8 · 6 months
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夢の島熱帯植物館。
にっかり青江の短歌がさっぱり詠めなくなりました。
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zehimonashi8 · 6 months
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第25回友枝昭世厳島観月能「鬼界島」覚書
厳島観月能行ってきました
・厳島のロケーションが良すぎる
厳島、どこ見ても夢みたいに美しい 能舞台もあの年季の入り方もさることながら海あり月あり鳥居ありで最高なんですが ロケーション最高!と思いつつ能舞台としては少し多弁すぎるなと思いました 演者が良ければ月も海もただの稽古場でだって見える この観月能のシテは友枝昭世さんですから 昭世さんの真骨頂がこの多弁さでやや霞んでいるような気もしました これは孤島を舞台にした演目のせいもありましたね 演目の舞台が能舞台のロケーションに近ければ近いほど能としてはやや面白くなくなっていくのかもしれないです
・昭世さん!
昭世さん!もう圧巻です
最初詞章を読んだときいまいち俊寛がどういう人間なのかが把握できず、これは物語が劇的なだけに逆に人物像がぼんやりするタイプの……と思っていましたが、昭世さんの俊寛がものすごく人として生きていたので昭世さんが演じたかったであろう俊寛像が物語にガチっとハマってきてカッコよかったです 一声のややいじけた風の(?)諦念から都を偲ぶ情緒、船が着いたときの小者感から一転怒りと絶望 結局昭世さんの俊寛、怠惰で軽薄で器が小さくて個人的には近くに居たくないんですが、こういう俊寛の人間くさい部分が能で明確に分かるのも技術だと思います 鬼界島は舞がほぼなく演技で見せる部分がとても多いある意味特殊な能だそうなので、こういうリアルさが出るし、出てもいいのかなと思いました そして俊寛が舞がなくて人間臭い役というところで、現実に存在する男性であるがゆえの面の必要性が出てきますね 舞台から遠い席だったので細かく見れているわけではないのですが、今回の俊寛の面は最初悲しんでいるようで実は小賢しくにやけているような顔に見えて、またいろんな表情が出て面白い面だなあと どの感情を昭世さんが表現しても、それにきちんと着いてくるんですよね 遠目にぱっと見ると狡賢くて軽薄な顔に見えたけれど、後半の怒りや嘆きや寂しさも含み込んでいて、とてもよい面でした でも喜多流が演じる男ってどんな奴でも結局カッコいいんですよね そこが喜多流の好きなところのひとつです
・厳島能舞台が与える演目への影響を考える
まず景観が美しいことは本当に大きな美点だと思います もう居るだけで満足しちゃうくらい あと大きいのは水面の反射 おそらく水面に向かって照明が当てられていて、水影が舞台全体に照り返してずっときらきらしている 今回の鬼界島ではその揺らめきは俊寛の怒りと絶望をやや滑稽に・寂しく映し出すようないい味を出していたけれど、これは夢幻能はもちろん、砧とか葵上などの鬼女物も面白く演出できそうだなと思いました 俊寛もそうなんですが相反する感情の合間で激しく揺れ動く人間をこの能舞台に乗せたとき、この水影がとても効果的に働きそうなんですよね その心の痙攣、炎のような燃え上がる感情をぜひこの能舞台で何度でも見たいと思いました 回想其5「悲しみの剣たち」を能でやるなら絶対ここで演ってほしい よろしくお願いします
・客席と舞台が海で隔てられているのはどっちもどっちだなと思いました 萬斎さんが『狂言サイボーグ』で書いていたけれど能は舞台より客席が下にあるので、役者は飛ぶことよりも着地することを重視する 高く飛ばない代わりに着地の重さを深く響かせる その重さが役の格だったり感情の深さだったりを効果的に表現してくれるなと常々私も思っていたのですが、厳島の能舞台は海を挟んでしまっているのでそこの重みが存分にはこちらへ伝わってこないんですよね 半年前に昭世さんの「殺生石」を見て彼の着地の素晴らしさを知っていたので少し寂しい気もしました でもやっぱり海が周りを囲むことで面白い能舞台になっていることは間違い無いので どっちもどっちだなあ
・あとは単純に客席から舞台が遠くて細かい部分までよく見れなかったかもという後悔が残った 居グセは近くで見せて欲しいよ…… あとは今回ワキ柱の方から舞台を見たのですが、柱がただ邪魔なだけではなく効果的に働くものなのかもしれないと思えました 柱の影に見え隠れするシテの姿、能面は全部あっぴろげに見せるよりもよほど情緒にあふれ感情の幅を効果的に見せてくれるんですよね 今回だけではないけど柱の良さについても気付かされることがありよかったです
とりあえずこんなところで
来年もまた楽しみに、絶対行きたいと思います
ちなみに康頼灯籠、まさかの工事に巻き込まれてました
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zehimonashi8 · 7 months
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すえひろ現地楽しかったです
次の日遊んだ地獄穴。
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zehimonashi8 · 8 months
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8/26 友枝雄人さんの「清経」「黒塚」見てまいりました 
あまりに素晴らしかったので備忘���として感想をば
「清経」
やっぱり「清経」は本当に音取が好き 能には小書という特殊演出があるのですが、今回の音取の小書は清経が笛の名手だったことに因んで、笛方の音色に誘われて清経の亡霊が登場するという演出です 今回は音取だけでもうお腹いっぱいという感じでした
妻の「枕や恋を知らすらん」彼女が夢に出てきてくれればと願ったときにどこからともなく笛の音、そして清経がぼんやりとあらわれる 一噌さんの笛の音はあまりに静かで 優しいようで冷たく仄かに光って、夜の砂浜へ降る月光をひどくリアルに浮かび上がらせる あの笛は妻の想い出の中で響く清経の笛の音なのでしょうか 彼女の夢に���び寄せられて、清経は最初足元だけをあらわし、そしてぼんやりと橋掛りを歩いてくる ���びたび迷うように止まりながら、ときにじっと妻の方を見つめながら笛の音とともに歩いてくる清経は寂しく(しかしそれが少し可愛らしくもあり)絶望の中で砂浜をとぼとぼ歩いただろう彼の哀しさが痛いほど伝わってきた 笛が途切れたときの静寂、痛いほどに静かであんなに意味のこもった静寂もないような、観客も演者もみんなが息をつめて月夜を想っていたと思います こんなに情景がリアルに、一瞬で塗り替えられるようなものは見たことがなかった、笛もシテもあまりに素晴らしくて忘れられない
音取のときは「聖人に夢なし」がなくそのまま「うたたねに」の歌に入るのも良いのですよね 清経も夢うつつのまま彼女の夢で鳴る笛の音に呼ばれてきたような感じだったので
清経のクセは本当に詞章が美しく哀しく、雄人さんの清経は力強さと優美さのバランスがとてもちょうどよかった 私は彼の舞が大好きなのですが、彼の何をしても一切ぶれない強靭な体幹をもって舞われる清経のクセはなんだかこの世のものではないような気がしました 「腰より横笛抜き出し」で一瞬静かになり、厳かだけれどもやさしさ(あきらめ)も感じるような不思議な音色で笛がゆっくりと始まる 「帰らぬはいにしへ 止まらぬは心尽しよ」「西に傾く月を見れば いざ我も連れんと」月を仰いで飛び込む清経、そして海の底へと沈みゆく 竹のような強さとしなやかさを併せ持つ澱みのない舞、武士の哀しみを舞う雄人さんは完璧でした その後の力強い修羅道の場面も格好良かったけれど私はやっぱりクセ舞の雄人さんが忘れられない 中将の面も哀しみを湛えながら自嘲的、どこかほほえんでいるようで何かをひどく憎んでもいるような不思議なお顔 雄人さんほど清経が似合う方もいないのではと思うぐらい洗練された完璧なお能でした 観られて本当によかった
「黒塚」 
黒塚の話が大好きでずっと見たかったところ、他でもない雄人さんの黒塚に出会えたこと本当に幸せでした
黒塚の解釈の大きな分かれどころとして、里女がすでに鬼であったか、というところがあります このあたりは後にリンクを貼る粟谷さんのノートが詳しく参考になりますが、雄人さんの里女は、まさしく心優しき里女、鬼では決してなかったように思われます
雄人さんの里女は、ただ人間を信頼したかっただけなのだと思います 何らかの事情で都を追われ、昔の流行歌を口ずさみながら糸を繰る侘しい暮らし 彼女は獲物として祐慶ら旅の者を招き入れたのではなく、自分を人間でいさせてくれる存在として、信頼をかけて家へ入れた 彼女との約束を誰かが一度でも守れたなら、彼女は鬼ではないほんものの里女に戻れる気がしました 彼女は人を信じたくて、でも何度も何度も裏切られて、その怒りととてつもない羞恥のためにますます鬼にならざるをえなかった 彼女を鬼にしたのは彼女自身の罪咎ではなく、彼女を幾度も幾度も裏切った旅人たちなのだと思います だから祐慶さんたちよ お前らにはその鬼を「調伏する」資格なんて何もないのですよ 過剰なほど世を儚む里女の苦しみは彼女自身が罪悪を重ねてしまう苦しみだけではない そもそも他人が女を信頼しないこと、そして世界と完全に隔てられてしまっていることの苦しみでもある
般若の面というのは本当に色々な表情を見せるもので、彼女が僧侶たちを甚振るときの表情には哀しみしかなかったように思えました これは怒りではない、もはや他人に救うことはできない深い深い哀しみ 怒りと哀しみは同時に加速して彼女を引き裂いていく、その苛烈さは我々の胸を焼いてずっと遠くまで到達してしまっている
中入前の山へ柴刈りに行くところ、鬼らしさというよりは旅人のために早く戻ってこよう、という意気込みに見えた やや不気味な印象はあって、これから起こる不幸を予感させはしたけれど なんて可愛いんだ… そして般若となって戻ってきた時、白頭の小書のため柴を小脇に抱えて戻ってきた姿、あまりに可愛すぎる 抱き柴と負い柴は大分印象が違って、抱き柴は寒さに震える旅人を暖めようと急いで柴を取ってきたいじらしさが表されている気がする 抱いている柴を落とした時、彼女は本当に鬼になってしまったのだと思う
鬼というのは鱗摺箔の上に最初唐織を巻いて、あとで鱗落としとして唐織を捨てる、というのが一般的だと思っていたのですが、今回は後シテはずっと片脱ぎで唐織を着たままでした 彼女の人間でありたいという切実な思いが般若になってもなお唐織を着ている姿に表れているようで哀しかったです 柴を落とすのは鱗落としみたいなものなのかもしれません
ふたりの異形に愛を込めて
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zehimonashi8 · 9 months
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ぐんまちゃん梅酒が美味しい
そして青江単騎のBlu-rayが何故か2つ届いた
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zehimonashi8 · 9 months
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最近はテニミュを配信で観ています
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zehimonashi8 · 10 months
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源氏供養のすすめ②③
前回の①に引き続き、個人的な源氏物語についてのお話をば
②源氏物語にまつわる能の話など
みなさまお能はご覧になりますでしょうか
私は学生時代にちょっとだけ勉強して以来お能とは離れてしまっていたのですが、禺伝を見た今なぜかまた夢中になっています
ここでは少しだけ源氏物語を元にしたお能の話と、拙作短歌の中に引いたお能のお話を少ししたいと思います
・「夕顔」「半蔀」
この2つは両方とも光源氏と夕顔の恋を描いた能です 両方ともストーリー的には一般的な夢幻能で夕顔の霊が過去の思い出を語るのですが、「半蔀」が2人の恋の幸せを回想する場面が多いのに対し、「夕顔」は仏教色が強く六条御息所の霊に殺された悲しみや光源氏への愛執のせいで成仏できない苦しさなどが濃く描かれます
半蔀は人気曲で上演も多いので、秋にご覧になってみてはいかがでしょうか
・「葵上」
「葵上」という題ですが葵上は出演せず、舞台の前のところに華やかな小袖を一枚出して葵上と見立てます これは第9帖葵を元にした六条御息所の生霊のお話です なぜ葵上が出演しないかといえば(能だとよくあることですが)ある感情や物事にフォーカスしたいとき、能は他の邪魔になる要素を極力省略します この能は六条御息所の感情に光を当てるために、葵上も光源氏も役としては登場しないのです
この能では照日の巫女という人物が出て来て、葵上に憑いているもののけが六条御息所であると見破ります そこから横川の小聖という力の強い修験者が呼ばれ、般若となった御息所の霊と対決し、最後は霊を成仏させることに成功するというお話です
展開に波があり、分かりやすく面白いので大変おすすめですが、個人的な好きポイントとしては般若になった六条御息所の横でずっと小面の照日の巫女がいることです 尊敬する馬場あき子先生のおことばで「小面はつねに般若を含んでいる」というものがありますが(『鬼の研究』参照)、その女の両面性、女にしかわからぬ共感性のようなところがその照日の巫女がずっといることで表されている気がするのです(これはあくまで自分の一意見ですが)
御息所は怒りや憎しみで鬼になるのではない、御息所の魂を真に苦しめたのは羞恥の心だとも馬場先生は仰っています 私もその通りだと思います その辺りの表現もぜひ注目してご覧いただきたいです 人気曲なのでかなりの頻度でご覧いただけると思います
・「野宮」
第10帖賢木帖を元にした六条御息所のお能です
この話も一般的な夢幻能で妄執により成仏できない御息所が僧侶に回向を頼むのですが、何と言っても舞台に鳥居の作り物が出されるのが特徴的です 野宮という聖なる土地で、光源氏に対する執着や愛による苦しみなどの俗の感情を捨てられずにいる六条御息所のやるせなさがこの鳥居を使って表現されるのがとても良いです
これは大曲ですがやはり人気のある曲なので、見かける機会も多いと思います
・「源氏供養」
言うまでもなく禺伝で大きくテーマとして採用されていたお能です これも一般的な夢幻能のストーリーなのですが、特徴はやはりクセ(能のサビみたいなもの)の「源氏物語表白」をそのまま舞いあげる部分でしょう 禺伝のカーテンコール曲の歌詞はそのままこの部分から採られていましたね 源氏物語各帖の名前を入れて作られた詞章はなんとも美しいものでうっとりしますね 最後のキリ部分は禺伝ではOPに使われておりました このキリは結構トンデモな着地点なので賛否両論ありますが、それも愛ということなのでしょうね
他にも源氏物語の能は色々あるのですが好きなところだけ みなさまもよろしければご覧になってみてください
おまけで拙作「禺伝 矛盾源氏物語供養」に引いたお能のご紹介を
・「花宴」は「班女」という能からとりました 朧月夜と光源氏が扇を交換する場面が「班女」のモチーフになっているため
・「賢木」は「葵上」「野宮」より 能だと「破れ車」といえば六条御息所なのですね 火宅の門ともよく結び付けられている印象
・「澪標」は「黒塚(安達原)」より借りました 糸車を回すシーンは黒澤明監督の蜘蛛巣城にも使われておりました
・「初音」は「翁」より 「とうとうたらりたらりら」は「翁」の最初の文句 正月やおめでたい時に舞われる格式の高いお能です
・「幻」は言うまでもなく「源氏供養」です パッションで詠んだらパンパカパンの短歌になってしまいました
禺伝がそもそもお能を存分に取り入れた構成でしたので、それをリスペクトする気持ちで色々引いてみました そのせいでごちゃついている感もありますが満足はしています
以上蛇足でした
③左右社『ウェイリー版源氏物語』はすばらしい
①で引用した「源氏物語」はすべてこの左右社の『ウェイリー版源氏物語』でした ウェイリー版がそもそも何かと申しますと、イギリスの東洋学者であったアーサー・ウェイリーが英訳した「源氏物語」のことです そしてそれをさらに日本語訳したもの、これが『ウェイリー版源氏物語』です そして2017年〜2019年にかけて左右社から刊行された森山恵・毬矢まりえ共訳『ウェイリー版源氏物語』全4巻、これがいかに素晴らしく面白いかという話を少しだけさせてください
ウェイリーが一度訳した「源氏物語」はすでに世界のさまざまな文学と混じり合い共鳴しあった世界文学といえます どういうことか、蓬生帖を例にしてみます
蓬生帖は①の記事でも話題にしたように末摘花が光源氏の帰りを幾年も待ち続けるお話です
末摘花は光源氏を待つ間様々なものを失っていきます 大切な侍女たち、使用人棟の屋根、唯一の友ジジュウを失い、家の周りは蓬が伸び放題、家の入り口もわからないほど深く草が生い茂ってしまっても、彼女は光源氏を待ち続けます そうして待ち続けたのち、とうとう光源氏が現れます そして光源氏が蓬生の庭をかき分けかき分けたどり着いた末摘花の部屋は、以前光源氏が部屋に来たときとほとんど変わらず、時など経っていないように思われたのでした
ウェイリーはこの蓬生の姫に、「眠りの森の美女」のイメージを重ねています(訳者注より) 訳は「眠りの森の美女」を意識して書かれていると言えます
森の中で眠り続けた姫君、そして王子様に見つけてもらったことで目覚めて時を取り戻す、まさに末摘花にぴったりのイメージです
つまり「眠りの森の美女」に出会った蓬生帖を読むことができるのは、ウェイリー版源氏物語だけなのです 世界が持つ物語のイメージと共鳴し、源氏物語は新たな意味を得て輝いていく 普通の現代語訳源氏物語と、世界に出会った源氏物語はまったくの別物なのです
ちなみに「眠りの森の美女」はこの『ウェイリー版源氏物語』のエピグラフとして各巻冒頭に引かれています
「ーあなたでしたの、王子さま、と彼女は言いました。ずいぶんお待ちしましたわ。」
私はこの一文が源氏物語の冒頭に置かれている意味を非常に重く受け止めています これは個人の考えですが、この一文を置くことによって、【源氏物語は女の物語である】という転換が行われているのではないかと思うのです 光源氏が中心人物ではあるものの、これは光源氏の物語ではなく女たちの物語なのだと そう思うのは自分があまりに禺伝に影響されすぎているせいでしょうか 目醒めた女たちは時を駆けてゆく、たとえどんな結末になろうとも一生懸命生きてゆく 源氏物語にはこの一文がまさしく必要なのではないでしょうか
左右社『ウェイリー版源氏物語』1巻の表紙はクリムトの「接吻」です この絵は女性だけが顔が見え、男性は匿名の人間に見える これもそういう意味で読める気がしていますし、そうであったら嬉しいなと期待をかけています
私の駄文で左右社『ウェイリー版源氏物語』の魅力が伝わるのかどうか分かりませんが、興味を抱いてくださった方はぜひまず図書館などで借りてみる、もしくは書店でちょっと立ち読みしてみてください(金額が高いので、即購入は危険です)
気に入ったら、是非購入して読んでみてくださいね 心からお勧めします
最後まで読んでくださりありがとうございました
素敵な源氏物語ライフを!
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zehimonashi8 · 10 months
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源氏供養のすすめ①
6/24から7/1まで配信しているネットプリント「禺伝 矛盾源氏物語供養」の奥付に「源氏供養のすすめ」なるプリントを作ろうとしていた形跡があるのですが、自分が力尽きてしまい配信できませんでした
混乱させてしまい申し訳ありませんでした
久しぶりの二連休を得て時間ができたので、僭越ながらこちらにて「源氏供養のすすめ」で書こうとしていたことを少し書かせて頂こうと思います
なお拙作短歌の解説にはなっておりませんのでご了承ください
内容は以下の通りです
①源氏物語のこの帖が好きだぞ
②源氏物語の能とか拙作短歌に出てきた能とかの話がしたいぞ
③左右社刊『ウェイリー版源氏物語』はいいぞ
長いので、①と②③で記事を分けております
ーーーーーーーーーーーーーー
①源氏物語の好きな帖のはなし
禺伝を観て、源氏物語を一から読み直しました
読んだのは左右社『ウェイリー版源氏物語』1-4 巻 大昔に「あさきゆめみし」と円地文子版を読んだきりだったのですが、このウェイリー版があまりに素晴らしかったのでみなさまにも是非ご紹介したく思います
手始めにまず源氏物語のなかで自分なりの好きポイントや読みどころをよりぬきで紹介しながら、ウェイリー版の魅力を少しだけ見て頂こうと思います
どうでも良いですが禺伝の54帖を只管言い続ける歌を聴いていたら54帖言えるようになりました
あと自分の推しは六条御息所と柏木です
以降「」で括った引用はすべて左右社『ウェイリー版源氏物語』より
・第2帖 帚木
「帚木」をテーマに光源氏と空蝉が歌を詠み交わすところが好きです 帚木とは「遠くからは豊かな木陰を作るように見えるが、近づくと貧相な灌木にすぎない」という伝説の木のことで、「近づくと見えなくなると言い、逢えそうで逢えない恋人の喩えに使われた」のですが、これをそれぞれの意味で2人が詠むのですね このシチュエーションに「帚木」の意味がバチッとハマっていてカッコいいです
・第4帖 夕顔
夕顔の初登場シーンは印象深いですよね
六条御息所のところへ行こうとして通った裏町で、夕顔の花がいっぱいに咲き乱れている家を見つけた光源氏はその夕顔を家来に摘ませます そのとき少女がその家から出てきて、「なにか花を載せるものがご入り用ではございませんか」と花を載せるために扇を差しだすのですが、その扇によく見てみると夕顔の歌が書いてある、というところです 素敵
・第9帖 葵
がばっととばして六条御息所 禺伝にもあった「なげきわび」のシーンですが、この歌は別にホラー調では全くなくて、ただただ必死で切実な御息所の心が胸を打つのです その前から見ていくと、「この祈祷をしばらくやめて」までは葵が話しているのですが、光源氏がそばに来ると突然態度が「優しく、もの思わしげ」になるのですね ここからおそらく葵の体を借りて御息所が話しています 「あなたが来てくれるなんて。恋焦がれ、魂が燃え尽きるほど、待ち続けていました」 そして和歌の訳をウェイリー版で見てみますと「スカートの縫い目を縫い合わせるように、どうかあなた、絶望と孤独に千切れたわたしの魂の端切れを、継ぎ合わせて」 人を呪って取り憑いて、さあ言う言葉は恨み言ではなく魂からの切実な願い、めいっぱいのSOSなのですよね 素晴らしい、和歌の訳もなんと叙情的、大好きなシーンです 六条御息所については②の葵上でも書きますので一旦割愛 賢木帖の野宮の別れのシーンも大変素敵ですね
・第15帖 蓬生
ここは末摘花のお話です 右大臣の目論みで光源氏が都を追われ須磨・明石に滞在していた間、多くの女が光源氏への愛を捨てて右大臣へ媚びていました ではその頃末摘花は、というお話ですが、ここは本当にウェイリー版が素晴らしく正直54帖の中で一番感動したところかもしれません(今まで何の感情もなかったことにもよりますが)
末摘花は、大事なものや大切な侍女を手放してもずっとずっと光源氏を待っているのですね 末摘花の頑なな強さと気高さ、彼女の心の美しさがありのまま描かれる素晴らしい帖です
「これほど内気で不器用で、変わったひとには会ったことがありません。それでも彼女の物腰、身のこなしには、誰にもまねできない気品が溢れているのでした。妙に彼女に惹かれます。いえ、実はずっとそうだったのです。だからこそ、彼女を見失いたくなかったのです」
この帖でウェイリー版ではある仕掛けが発動する仕組みになっているのですがそれは一旦後におき③でご紹介したいと思います
・玉鬘十帖より 乙女・胡蝶・蛍・野分
玉鬘十帖は特に源氏が最悪なのですが、その中でも女たちはまばゆく輝いています
乙女帖・胡蝶帖では源氏のお家に一緒に住んでいる紫の上と源氏が預かっている六条御息所の娘秋好中宮の交流が描かれます 彼女たちはそれぞれ春の庭、秋の庭を部屋に持っているのですが、そのお裾分けをしあうのですね 少女らしさのあるふたりが心を通わせるシーンは見どころの一つです 春、紫の上から秋好への歌「〈秋を好む方〉、枯れ草に鳴く松虫を好まれる方、わたしの花園から迷い込んだ蝶の罪を、どうぞお許しくださいませね」
蛍帖は玉鬘のお婿さん選びの話です 布を隔てて玉鬘と蛍兵部卿宮が夜に会うのですが、そこで源氏が悪戯をして蛍兵部卿宮に玉鬘の顔を一瞬見せてしまう 紙の袋に蛍を入れてランタンを作り、それで彼女の顔が照らし出されるようにしたのですね やっていることは最悪なのですが、蛍をランタンにするという発想は美しくて良いなあと思います 蛍帖には有名な紫式部の物語論の場面もありますね
野分帖は嵐の混乱のさなかで夕霧が紫の上を垣間見てしまうシーンが印象的です 嵐が来たという情景と夕霧が紫の上を見てしまって彼女に夢中になる展開が上手に組み合わされ読んでいて楽しいです
・第33帖 藤裏葉
頭中将と光源氏の息子夕霧の交流が藤の花を通して描かれる場面が印象的です 頭中将は娘の雲居の雁と夕霧が愛し合っていることを知っていながら長年仲を割いてきたのですが、とうとうここで雲居の雁を夕霧にやる気になります 途絶えていた交流が藤の花をもって徐々に回復していく姿は見事に美しく思われます
「もし日の光を透かすあの藤の葉のごとく、わたしに心を寄せてくれるなら、もうあなたを疑ったりしないのに」
・第34帖 若菜
若菜帖は確かに上下に分けたほうがいいと思うほど色んなことが起こりますが、何と言っても光源氏の妻となった女三の宮と頭中将の息子柏木の不義の密通があります つまりここでは藤壺の女御と光源氏の密通がリフレインされ、光源氏は自分で冒した罪の罰をここで受けるのですね そして光源氏は藤壺との密通をずっと桐壺帝が知っていたのではないかと閃くのです
今まで大人しい好青年だった柏木が突然転がり落ちるように恋に夢中になっていくさまはある種非常なる美しさを感じさせます 一瞬で恋は燃え、やがて破滅へと一気に加速する それに対して女三の宮が柏木への愛云々よりも光源氏に怒られることを恐れているのがなんともアンバランスで、物語として魅力的なのですね
「驚いたことに、彼女はとても華奢で、威張ったり高慢な様子もありません。ひたすら愛らしく、はにかんだ問い掛けるような、頼りきった目で彼を見上げているのです。彼の良き決意はもろくも崩れ去りました。世のなかも、世の人も、どうでもいい。今誰か危機に瀕しているひとがいても、手を差し伸べようとも思わない」
一人で破滅していく柏木は、光源氏に密通がばれて蔑まれていることを悟りその苦しさから床に臥せってしまいます
「どうしても、このたった一つの行いのせいで、生きる権利をすっかり失ったのだ、という思いが頭にこびりついて離れないのでした」
女三の宮・柏木の間にずっと猫の暗喩があるのも面白いですね
・第35帖 柏木
柏木の病は良くならず、女三の宮のお産も難航するうえ、紫の上が原因不明の病で一時危篤状態になってしまいます 紫の上と女三の宮の苦しみの原因は、またしても六条御息所の霊でした
ここで身がちぎれるほどの柏木の想いは、六条御息所の切実さに重ねられています だからこその御息所の霊再登場でもあるのです 柏木にも何某かの女の霊がついているということでお祓いをしてもらうのですが、その時の言葉を引いてみます
「ある意味、彼(引用者注 光源氏のこと)の魅力、彼の眩しい輝きのせいで、あんなことがあって以来、ぼくはもう生きてはいけないと思ったんだよ。音楽のリハーサルの晩、あの方に睨まれた瞬間にぼくの魂が裂け、光ある部分はぼくを離れ、はるか遠く彼女のもとへと漂っていき、残ったのは暗い残りかすだけ。だからコジジュウ、ニューパレスでさ迷う魂を見つけたら、あなたの帯にしっかりくくりつけてぼくのもとへ届けておくれ」
ここでは葵帖の六条御息所の歌「なげきわび空に乱るゝわが魂をむすびとゞめよしたがへのつま」が完璧に踏襲されています 柏木の女三の宮への激情は御息所の切実なSOSに繋がる ここで動けなくなるほど自分は感動してしまったのですが皆さんはいかがでしょうか
そしてここで六条御息所が出てくるのは、やはり若菜帖から光源氏の罪が罰として返ってきているからだと思うのです 六条御息所は光源氏の業に振り回され、光源氏に今までも多くの罰を与えてきました ここでもう一度彼女が出てくるということ自体に、この源氏物語に通底する仏教の観念を感じます
そして柏木はそのまま亡くなってしまい、女三の宮も子を産んだ後出家してしまいます 亡くなった柏木の奥さん落葉の宮を柏木の親友であった夕霧が訪ねる場面も叙情的で魅力的です
「オチバが応対してくれるかどうか待つあいだ、ユウギリは庭の木立ちを見つめ、木々だけはこの邸の人びとを襲った悲しみも知らず、なんの躊躇いもなく夏の陽気な色を誇らしげに見せているものだ、と思います」
・第37帖 横笛
柏木の形見である横笛が夕霧から光源氏に渡る(そして柏木の遺児薫へと渡される)お話ですが、そこと関係なく印象的なシーンがあるのでご紹介します
月の綺麗な晩、落葉の宮の家から自宅へ帰ってきた夕霧が、雲居の雁と自分の沢山の子どもたちが床で雑魚寝しているのを見るシーンです
「部屋は子どもたちでごたごたといっぱいでした。ぐっすりと寝入ったあどせない幼な子の顔と、侍女やら乳母やらの一団がどちらを向いても縺れ合って寝ています。またしても彼は、今後にして来たばかりの死んだように静かな御殿と、この混み合った光景とを比べずにはいられません」
夕霧は雲居の雁と落葉の宮も比べ、雲居の雁は��んとわがままで怒りっぽくなってしまったことか、と嘆きます 月を見ながら横笛を吹きうとうとしていると、突然子供の一人が泣き出してしまい、雲居の雁は起きてお世話をします
「お乳を飲もうとしないので乳母たちはひどく心配し、慌てふためいていました。やがてクモイがその子を腕に抱き上げ、ランプのそばに一緒に腰掛けると、髪を耳の後ろにかきあげて、ドレスの前を開きます。彼女の胸の美しい膨らみが照らし出されました。お乳を飲ませようとはせずに、ただ口に乳房をふくませてやります。そしてどうあやしたのか、すぐにその子は泣き止んだのでした」
この場面が私は個人的にとても好きです 夕霧と雲居の雁はこの後言葉を交わし、夕霧は雲居の雁のチャーミングさに感動するのですが、落葉の宮の陰の感と雲居の雁と子どもたちの陽の感の対比がとても美しいと思います
・第40帖 幻
幻帖は紫の上の死後光源氏が出家のために一年を通してさまざまな準備をするお話です 大切な人々へ挨拶にゆき、紫の上との思い出の手紙を泣きながら破り捨てる 執着を消すため、今までの業を清算するため、いわば地獄めぐりといったところでしょうか この幻帖の様相はさながら能「源氏供養」のクセにも似ていて、幻帖自体が光源氏の一生に対するセルフ供養であるような気もするのです 紫の上の手紙を焼く場面は涙なしには読めない場面となっています
このあと空白の物語雲隠帖があり、9年のブランクを経て匂宮帖が始まります 宇治十帖もとても面白いのですがここでは割愛します
ここでは自分なりの読みポイントをご紹介してみましたが、源氏物語(現代語訳)を通読されたことがない方はぜひ一度チャレンジしてみてください 現代に生きる我々でも十分に楽しむことができます
次の記事では②③をまとめてサクッと書きます
長い記事を読んでいただきありがとうございました
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zehimonashi8 · 1 year
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・いち綾凰華ファンとしての禺伝感想
今回禺伝であやなちゃんを見て、彼女は外に出てほんとうに自由になったんだと思いました 本当にうれしかった、ほんとうに
一文字則宗、あやなちゃんを自由にしてくれてありがとう
宝塚にいたときの彼女もとても美しく可憐だったけれど、どこか自信なさげで苦しそうだった 彼女はとても難しい立場に立たされてしまっていたようだから、いろんな重圧が彼女を縮こめていたのかもしれない 彼女は正直多分そこまで何もかもが器用にできるというタイプではなくて だからこそものすごく努力家だし周りの方々への感謝なども人一倍強いのだけど、宝塚という特殊環境で求められる様々なことに溺れかけているような印象がずっとあった 退団が決まってものすごく悲しかったけれど同時に安心もしました 彼女はもうたくさんの重圧や悲しみに耐える必要はなくなるんだって、彼女らしく好きに生きることができるんだって嬉しかった 私は正直あやなちゃんが退団後に舞台とかに出ることはないと思っていたのだけれど、彼女は一文字則宗になって唐突にわたしたちの前に戻ってきた
スープ屋で絶叫しながら思ったのは一文字則宗という期待値も高く非常に難しい役をどのように演るのだろうということで ほんとうに観るまでずっと心配の気持ちが大きかった あやなちゃんのことは信じていたけれど、もしあやなちゃんが刀剣のファンに傷つけられるようなことがあったらどうしようとずっと思っていた
あやなちゃんの一文字則宗は完璧だった
あやなちゃんの唯一無二の身のこなし、唯一無二の佇まい、唯一無二のことば すべてが完璧に一文字則宗でここにきて一番のはまり役を見つけてしまったあやなちゃんにただただ圧倒されて見惚れて、あんなにしあわせなことはなかった 大きく足を振り上げてほんとうに楽しそうに踊るあやなちゃんの姿に彼女が自由になったことを知った 演技して喋って踊って、していることは変わらないのにあなたはなぜそんなに自由にみえるのでしょう あなたを束縛していたものは何だったのでしょうか
もっともっと自由にすきなだけ踊ってみせてほしい、わたしに世界のうつくしさを証明してみせてほしい
ありがとうあやなちゃん
これからも微力ながらずっとずっと応援しています
・宝塚という歪みへのアンチテーゼとしての禺伝?
宝塚好きな方々がどう思われるか分からないので小声で正直な感想を喋る
本公演で光源氏が「これは私の物語だ」と言ったとき、宝塚と同じだなと思った 宝塚で演じられる物語はすべてトップスターのための物語、彼女1人のために他のすべては配置され翻弄される 宝塚のトップスター至上主義およびスターシステムのことを私は歪みだと認識している スターシステムによってあやなちゃん含む多くの組子たちが傷つけられてきたから
今回のヅカOBキャストはだれもトップスターにならずに退団している もちろんバランスの問題もあるのかもしれないけれど、かいちゃんやあやなちゃんのようなトップスターになることを期待されながらトップスターにはなれなかった、スターシステムの犠牲者とも呼べるような方々が刀剣男士として改めて宝塚という歪みに立ち向かっているような、何だかそういうふうにも見えました
あやなちゃんを苦しめていたものが何かわたしには分からないけれど、やっぱりスターシステムは彼女に大きな圧をかけていたと思う 退団することでやっとその歪みから解放されたスターたちと、みずから物語で構成されながら心を持つことでその物語から脱し、あらたな残酷物語に立ち向かっていく刀剣男士たちと 私はそこに共通点があると思う
そしてまた光源氏を演じるあきらさんも、トップスターにはなれなかった 彼がただの名もなき読者であり、ほんとうの光源氏ではなかったことを考えると、トップスター経験者ではなくあきらさんが光源氏を演ることにまた意味を感じました 光源氏の「この物語を哀しんでくれるのだね」という台詞にもそのあたりの含みを感じたりなど
禺伝はまさしくオールフィメールであることに非常に意味があった作品だと思うけれども、同時に宝塚OGたちが「トップスターの物語」と向き合う話でもあったのではないでしょうか 物語の外側からその残酷さと哀しみに向き合う そういう話でもあったのではないでしょうか
なお宝塚の歪みへのアンチテーゼというところを更にやろうとすると、女御たちを全員宝塚娘役OGにするなどでしょうか 今回は男役OGしか居ませんが、男役と娘役の間の格差にもやはり大きい歪みがあるので でもそこまでやると宝塚OGのための舞台になってしまうからね
禺伝たいへん面白く刺激的な舞台でした
ありがとうございました
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