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#インヘリタンス
sika0728 · 28 days
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備忘なのだが、インヘリタンスの「生きて」は河合隼雄さんのいうところの「たくさんの選択肢の中から選ばれた」、「生きて」なんだな。
あと、小説の登場人物の秘密はぜんぶ明かされるとフォースター(『小説の諸相』)、小説では人間の垣間見えないはずのものがみれる的なことをオースター(『冬の日記』)、それを人間が演劇では演じるのでマジビビる。そこにありえない形で人間が生きてるので。
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2gsahoko-intermission · 3 months
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『インヘリタンス~継承~』感想
マシュー・ロペス作『インヘリタンス〜継承〜』二部作を見てきた。2018年にロンドンのヤング・ヴィックで世界初演を迎えたのち、同年にウェストエンドのノエル・カワード劇場へ、2019年にブロードウェイのエセル・バリモア劇場へトランスファーし、トニー賞4部門受賞した。日本上演は今回が初めてである。演出は熊林弘高である。
『エンジェルス・イン・アメリカ』を想起させる長大な構成だが、今回の日本プロダクションは頭から終わりまで引き締まっていた。映像もうまく使って情報の奔流と頻繁な視点の切り替えをのりこなし、キャラクターたちの錯綜とした人間関係を万華鏡のように魅力的に提示できていたように思った。他方、人名・作品名・地名の言及が矢継ぎ早になされる中で、時々、日本ローカルのネタが差し挟まれるのは気が散った。
ロペス自身が述べている通り、本作はE・M・フォースターの『ハワーズ・エンド』を踏まえており、フォースターはキャラクターたち、特にレオの精神的支柱として第一幕に登場する。
しかしそれ以外にも、種々のゲイ演劇やエイズ演劇の欠片が本作を支えていたように思われた。『真夜中のパーティー』の悲哀、『ノーマル・ハート』の怒り、『ファルセットス』のニューヨーク的諧謔、『エンジェルス・イン・アメリカ』のスケールとイマジネーション、『RENT』の刹那的な生き方、『ファン・ホーム』の不器用さとジェネレーション・ギャップ…。あからさまな引用ではない、けれども面影が見えてきた。
中でも驚きだったのが、スティーヴン・ソンドハイムがジェームズ・ラパインと初めて組んだ『日曜に公園でジョージと』がかなり濃厚に立ち上ってきたことだった。 ソンドハイムの手がけた作品は、1970年代後半から徐々に、1980年代に入るとはっきりと「過去をいかに省察できるか、次世代に何を伝継承できるか」というテーマが現れ始める。『日曜に公園でジョージと』は、ジョルジュ・スーラ作『グラン・ジャット島の日曜の午後』をテーマにしたミュージカルである。第一幕はスーラが主人公だが、第二幕は100年後まで時間が飛んでおり、スーラの架空のひ孫でメディア・アーティストのジョージがスランプに陥っている。ひ孫のジョージの背中を押すのは、祖母マリーの「芸術と子供は残すべきだ」という忠告、曽祖母ドットが英語文法書に書き残したスーラの芸術観、そして描かれることで幽霊として生き残った100年前の人びとである。 芸術作品に支えられ、何かしらを残し、さらに先へ進んでいこうとキャラクターが決断する点で、『日曜に公園でジョージと』と『インヘリタンス〜継承〜』は驚くほど重なり合う。『日曜に公園でジョージと』はゲイ演劇とは言えない。しかし、1970年というかなり早い段階でカミングアウトし、後進の教育に非常に熱心だったソンドハイムと、彼の残した作品も、『インヘリタンス〜継承〜』の土壌を作った要素であったように思われる。
このように書くと『インヘリタンス〜継承〜』は本歌取りでオリジナリティがないと思われるかもしれないが、そういうことを書きたいわけではない。むしろ演劇史との接続は、本作の重要なキーワードである「継承」の射程の広さを指し示すものとなっている。
本作の劇中で、ゲイとしての生き方が社会的承認を獲得し、ゲイであることが死と結び付けられなくなった後の時代で、隠微であったがゆえに豊かだったゲイの文化はどのように継承できるのか?と議論する場面があった。抑圧ゆえにオープンにできないことは論外であるが、全てをオープンアクセスにして掠め取られることも許容できないとキャラクターたちは述べる。では落とし所はどこなのか?言葉を尽くすスタイルと、明言することなくサインを読みとられるのを待つスタイルとが両立している本作のあり方自体が、ひとつの答えを示しているように思われる。本作における過去の演劇作品の面影は、「継承」の隠微な側面を担っているように感じられた。
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theatrum-wl · 2 months
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【投稿企画】先月の1本・来月の1本(2024年3月)
読者の方々からお寄せいただいた3月の「先月の1本・来月の1本」をご紹介します。先月の観劇の記憶を思い起こしながら、来月の観劇のご予定にお役立ていただければと思います。
・谷岡健彦 教員(1~5本) 【先月の1本】 東京芸術劇場「インヘリタンス」(東京芸術劇場 プレイハウス) いくつか演出に首をかしげるところがあったものの、とにかく戯曲が力強かった。E・М・フォースターの『ハワーズ・エンド』のみごな変奏。前後編合わせて6時間半の長さが少しも気にならない。 【来月の1本】 フジテレビジョン/サンライズプロモーション東京 「『GOOD』ー善き人ー」(世田谷パブリックシアター) 善良な知識人がナチスに加担してゆくさまを描いた秀作。最近、NTライブで上映された舞台があまりに完成度が高かったので、長塚圭史がどのようなアプローチをするのか、期待が半分、不安が半分。
・さわら 会社員(11本以上) 【先月の1本】 二兎社「パートタイマー・秋子」(東京芸術劇場 シアターウエスト) 寂れ始めた中小企業のスーパーが舞台の作品。それが犯罪行為と言われるものであっても、ミニマムな環境下でこの行為が「日常」である場合に、人は正しくいれるのか。社会生活上の多くの縮図をコメディ的に描く手腕の見事さに感嘆とした。 【来月の1本】 本多企画「ULSTER AMERICAN」(「劇」小劇場) 本多劇場グループ×海外戯曲シリーズ。 俳優と演出家と作家の3人芝居。ブラック・コメディとのことだけど、イギリスの脚本なので皮肉も風刺も露悪的かもしれない(偏見) 人間が本質的に抱える問題を真正面から捉えることになりそうで今からドキドキです。
・かちとも 会社員(11本以上) 【先月の1本】 東京芸術劇場「インヘリタンス」(東京芸術劇場 プレイハウス) 前後篇合わせて6時間半という長丁場。キャスト皆さん素晴らしかったが、中でもトビー役の田中俊介さんが放つ激しいエネルギーに圧倒された。後篇のみ登場する麻実れいさんの、快活な南部の女性が素敵な彩りを見せた。 【来月の1本】 シス・カンパニー「カラカラ天気と五人の紳士」(シアタートラム) 加藤拓也さんが別役実作品を演出。この時点で漂う不穏な空気。既に、観終わった瞬間の後味の悪さが想像出来てワクワクする。砂をかじるような観劇体験ができそうで、期待している。
・小泉うめ 観劇人・観客発信メディアWL(6~10本) 【先月の1本】 守口市立図書館「Mの航跡」(守口市立図書館 円形ホール) 地域の歴史から世界の未来を考える。筒井加寿子さんとこの町の距離感が成功の要因。 【来月の1本】 青年団「銀河鉄道の夜」(こまばアゴラ劇場) 青年団第100回公演。サヨナラこまばアゴラ劇場。
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yzkr · 5 months
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3世代のゲイコミュニティを描く6時間半。舞台「インヘリタンス-継承-」日本初公演!
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phpmentors · 7 years
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「現場で役立つシステム設計の原則」批判 (2) ~ポリモーフィズムは何のために?~
増田亨氏の「現場で役立つシステム設計の原則]」批判の第2編です。
(2)ポリモーフィズムは何のために?
オブジェクト指向の要件
本書には「変更を楽で安全にするオブジェクト指向の実践技法」というサブタイトルが付与されています。オブジェクト指向が何かという点については、論者によって違いはあるものの、以下の3つが要件とされることには、多くの人が合意するでしょう。
カプセル化
インヘリタンス(継承)
ポリモーフィズム(多態)
前回で明らかになったように、カプセル化は、オブジェクト指向とは独立にモジュール分割の指導原理としてデイビッド・パーナスにより提唱された「情報隠蔽」を敷衍したものです。オブジェクト指向の要件ではありますが、オブジェクト指向固有のアイデアではありません。
インヘリタンスは便利な機能ですが、コンポジションや移譲により代替できるので、オブジェクト指向の本質的な要件とは見做されなくなってきたかと思います。
となれば、プログラミングの歴史にオブジェクト指向が付け加えたものは、ポリモーフィズムであるということになります。オブジェクト指向のもっとも偉大な貢献は、イヌがワンと鳴き、ネコがニャーと鳴くことです!
さて、こうした視点から本書を通読すると、まず、カプセル化については、その手段に過ぎない「データと処理を一体にする」という点に囚われ過ぎて、目的である「情報隠蔽」を取り逃がしているということが言えるかと思います。これが前回の指摘でした。
本書でのポリモーフィズム
では、本書ではポリモーフィズムはどのように扱われているでしょうか。
本書でポリモーフィズムを明示的に扱っているのは、「Chapter2 場合分けのロジックを整理する」だけです。この章でのポリモーフィズムの用途は、区分値に関する条件分岐(if文/switch文)を排除することです。
ポリモーフィズムのこうした利用方法は、マーティン・ファウラーのリファクタリング本で紹介され知られるようになったかと思いますが、便利でもあり、広く使われているものでもあると思います。
ただ、こうした「区分値ポリモーフィズム」は、ポリモーフィズムを適用可能なユースケース全体の中で、かなり周辺的なものであるように私には感じられます。その理由について以下ご説明します。
ポリモーフィズム ― 典型的な用法
その前にまず、ポリモーフィズムの典型的な用法とはどのようなものでしょうか。前回ご提示した、受注(SalesOrder)における値引き計算を例にご説明しましょう:
class SalesOrder { Money unitPrice; Quantity quantity; // ... Money amount() { if (isDiscountable()) return discount(unitPrice, quantity); return unitPrice.multiply(quantity); } // ... boolean isDiscountable() { return quantity.compareTo(discountCriteria) >= 0; } }
このコードでは、開示してよい知識と隠蔽したい知識を以下のように切り分け、前者をisDiscountable()に閉じ込めました:
開示してよい知識
受注ごとにその内容に応じて値引き可否が決まるという知識。
隠蔽したい知識
注文数量・金額等にもとづく具体的な値引き決定ルール。
ここで、「隠蔽したい知識」をなぜ隠蔽したいかというと、それが変わりやすいと考えるからです。ならば、一歩進んで、変わりやすい部分は差し替え可能にしておこうという発想が生まれます:
class SalesOrder { Money unitPrice; Quantity quantity; DiscountPolicy discountPolicy; // ... boolean isDiscountable() { return discountPolicy.isDiscountable(this); } }
ここで、DiscountPolicyは、以下のようなインターフェースです:
interface DiscountPolicy { boolean isDiscountable(SalesOrder salesOrder); }
DiscountPolicyの実装のひとつとして、QuantityBasedDiscountPolicyがあります:
class QuantityBasedDiscountPolicy implements DiscountPolicy { Quantity discountCriteria = Quantity.valueof(100); boolean isDiscountable(SalesOrder salesOrder) { return salesOrder.getQuantity().compareTo(discountCriteria) >= 0; } }
QuantityBasedDiscountPolicyは、たぶん、DIコンテナなどにより、SalesOrderのdiscountPolicyに注入されるでしょう。
この例で、ポリモーフィズムは、SalesOrderに関する様々な関心事から値引き計算に関する関心事を分離するのに用いられています。 例えば、テストという局面をとっても、QuantityBasedDiscountPolicyはSalesOrderに関する他のテストから切り離しでテストできますし、SalesOrderの方は(スタブを用いて)値引き計算の詳細を考慮せずにテストすることができます。 さらに、このソフトウェアが成功し、他社でも使われるようになれば、値引き計算ルールをこのように簡単にカスタマイズできることは、さらなるメリットをもたらすでしょう。
DiscountPolicyのように、特定の計算/判定条件をカプセル化し差替可能にするというポリモーフィズムの利用法は、GoFのデザインパターン本で「ストラテジー(別名:ポリシー)」として知られており、エリック・エバンスのドメイン駆動設計本でも、ごく最初の方で、オーバーブッキングポリシーという例が紹介されています(p.19/位置No.1068)。高度な利用法ではなく、極めて普通な用いられ方かと思います。
前回お話しした「情報隠蔽(=カプセル化)」では、隠蔽したい知識と開示してよい知識を区分して両者を別のモジュール(クラスもモジュールです)に割り振りました。 ポリモーフィズムは、そこから一歩進んで、それら2つのモジュールを切り離し、「疎結合化」するのに役立ちます。「疎結合」というと大げさに響きますが、要するに処理の依頼側と引受側2つのモジュールがあって、依頼側が引受側を知らずとも処理を依頼できるということです。この例で、値引き可否判定を依頼する側であるSalesOrderクラスはQuantityBasedDiscountPolicyクラスを知りません。
こういった意味における疎結合化は、オブジェクト指向以前も行われていましたが(*1)、気軽に、広範に適用できるようになったのは、やはりポリモーフィズムが生み出されてからのことです。
区分値ポリモーフィズムと本書に対する評価
さて、ポリモーフィズムの典型的なユースケースをおさらいした頭で、「区分値ポリモーフィズム」を見直してみましょう。
本書が説明する通り、区分値ポリモーフィズムには、if文やswitch文を排除することで、ソースコードの読みやすさを改善する機会を提供する、という役立ちがあります。
しかし、区分値オブジェクトのメソッド(本書の例では、yen()など)を呼び出す側のプログラムは、区分値オブジェクトのクラスを「知って」いるのが通常ですから、処理の依頼側と引受側は結合したままです(*2)。 ですから、前述したように「疎結合化」をポリモーフィズムの大きな意義と捉える立場からすれば、区分値ポリモーフィズムはやや傍流的な用法に見えることがお分かり頂けるでしょう。
公平に見て、本書は、ポリモーフィズムの他のユースケースについて触れていないだけであり、それらを否定しているわけではありません。ですから、本件は、本書の問題というより、読む側が注意すべき点である、ということなのかもしれません。
ただ、「多態は、区分ごとのロジックをクラス単位に分離してコードを読みやすくするオブジェクト指向らしいしくみです(p.58/位置No.1040)」といった説明を読む読者、とりわけオブジェクト指向の経験が浅い読者が、ポリモーフィズムの主な用途は区分ごとの場合分けロジックを整理することなのだと受け止めるのは自然なことでしょう。しかし、その道の先は行き止まりなのです。
むしろ、初級者には、疎結合化というビジョンのもとで、できるだけ簡単な入り口を示してあげるのが親切というものでしょう。上述したポリシーあるいはストラテジーパターンはそのような入り口として好適な例のひとつと思います。
「現場で役立つシステム設計の原則」という格調高いタイトルと「変更を楽で安全にするオブジェクト指向の実践技法」という具体的な副題を持つ300ページ超の本の中で、オブジェクト指向の業績の中心にあるポリモーフィズムについてこのように周辺的なユースケースのみ解説されている事態は、少なくとも私には驚異的なことです。
ポリモーフィズム ― さらなる展開
今回の批判はこれで終わりですが、例として取り上げた値引き計算のケースは、ポリモーフィズムの可能性を検討する上で興味深いので、もう少し深堀りしてみましょう。 前回以来の例では値引き可否判定ロジックの扱いが焦点でしたが、実際には可否を判定するだけでなく値引き額の計算が重要でしょう。業種にもよりますが、値引きの計算は複雑で、特定品目限定の値引き、過去の取引履歴に基づく値引き、一回の総発注額に基づく値引き、キャンペーンでの値引きなど多岐にわたるかもしれません。また、そうした値引きルールは、時の経過に応じて追加され、また廃止されていきます。システムは、そうした諸々の値引きについて、理由と金額をお客様に提示する必要があるでしょう。
こうした状況にどう対応すればよいでしょうか。SalesOrderクラスは、isDiscountable()メソッドで値引き可否だけを返せばよいのではなく、値引きの詳細を返さなければなりません。例えば、以下のようなメソッドを備えることになるでしょう:
List<Discount> getDiscounts();
Discountは、値引き理由の説明と値引き額を保持するオブジェクトです:
class Discount { String description; Money discount; // ... }
ここでの焦点は、値引きルールの詳細を隠蔽することに加えて、その時々に応じて値引きルールを追加し、あるいは廃止出来るようにすることです。それを踏まえれば、getDiscounts()の詳細は以下のようになるでしょう:
class SalesOrder { // DIコンテナなどから値引きポリシーのリストを設定 List<DiscountPolicy> discountPolicies; // ... List<Discount> getDiscounts() { List<Discount> discounts = new ArrayList<Discount>(); // 値引きポリシーを適用 for (DiscountPolicy discountPolicy : discountPolicies) { Discount discount = discountPolicy.getDiscountFor(this); if (discount != null) { discounts.add(discount); } } return discounts; } }
インターフェースDiscountPolicyは以下のようになります。
interface DiscountPolicy { /** * 与えられた salesOrder に対する値引きを計算し、その結果を Discount として返す。 * 当ポリシーでの値引きが salesOrder に適用されない場合は null を返す。 */ Discount getDiscountFor(SalesOrder salesOrder); }
このようにしておけば、新しい値引き制度が出来たときには、それに対応するDiscountPolicyを作成してシステムに登録するだけで対応が完了します(*3)。
値引き計算以外に、請求/回収条件、在庫引当、配送方法などにも同じような仕組みが適用可能かもしれません。こうした手法を常に適用すべきということではありませんが、適用しようと思えば出来る、ということを理解していると、設計における選択肢の幅が顕著に広がります。
��うした例をお示ししたのは、ポリモーフィズムというものが過度に技術的なものと受け止められているのではないかと私が危惧しているからです。
イヌがワンワン、ネコがニャーニャーという説明ばかりでポリモーフィズムはわからん、という方が多いですが、一方でその方もDIコンテナは使っていたりします。DIコンテナは、技術的環境に依存するオブジェクトに関して、アプリケーションにはインターフェースだけ提示し、その実装はポリモーフィズムによって実行時に結合することで、アプリケーションと技術的環境を疎結合に保つための仕掛けです。ポリモーフィズムのメカニズムが本当にわからないのであればDIコンテナを使うことさえ出来ないはずです。
ですから、多くの人にとってわからないのは、ポリモーフィズムのメカニズムではなく、「使いどころ」なのだろうと思うのです。フレームワークなどがポリモーフィズムを使っているのはわかっている。ただ、自分たちが書いている「アプリケーション」のコードにおいてどういう局面���ポリモーフィズムを使えばよいのか、わからない。結果として、ポリモーフィズムは自分たちに関係ない「技術的」な概念だと感じてしまう。そういうことではないでしょうか。
実際には、それは誤解で、アプリケーション開発においてもポリモーフィズムはカジュアルに利用できます。値引き計算の例ではそれをご理解頂きたかったわけです。ポリシー(ストラテジー)パターンは、ポリモーフィズムのユースケースのごく一部に過ぎませんが、疎結合化というポリモーフィズムの本旨に沿っており、かつ、利用価値も高いものだと思います。
杉本 啓 @sugimoto_kei 経営管理基盤ソフトウェア fusion_place の、プログラマ兼設計者 http://www.fusions.co.jp
[脚注]
[1] 昔からある「ユーザ出口ルーチン」などはこの例でしょう。 [2] 料金計算など区分値に依存するメソッドを区分値クラスに移すことと、その計算にポリモーフィズムを適用することは別問題です。例えば本書p.60/位置No.1062のFeeTypeクラスは以下のように記述することもできます(label()に関する実装は省略)。
enum FeeType { ADULT, CHILD, SENIOR; Yen yen() { switch (this){ case ADULT: return adultFee(); case CHILD: return childFee(); case SENIOR: return seniorFee(); default: throw new UnsupportedOperationException("Fee for fee type [" + this + "] not defined."); } } private Yen adultFee() { return new Yen(100); } private Yen childFee() { return new Yen(50); } private Yen seniorFee() { return new Yen(80); } }
p.60/位置No.1062のコードとこのコードを比べてみると、料金計算方法という知識がFeeTypeクラスに隠蔽されている点は同じで、大人・子供・シニアの料金計算がそれぞれ別のメソッドに分離されている点も同じです。違いは、条件分岐に switch文を使うかポリモーフィズムを使うかという点だけです。 こうしたメソッドが複数あるならば、それぞれの実装でswitchを書くより、ポリモーフィズムを用いるべきでしょう。上記の例のようにswitchが1箇所だけであれば、いずれにするかは、設計の良否というより多分に好みの問題と、私は思います。
なお、このケースではそもそもポリモーフィズムを使うほどのこともなく、以下のコードで十分です。
enum FeeType { ADULT(100), CHILD(50), SENIOR(80); private final Yen yen; private FeeType(int yenAsInt) { this.yen = new Yen(yenAsInt); } Yen yen() { return yen; } }
ただ、これは、単にサンプルコードの選択に関する趣味の問題であって、区分値ポリモーフィズムの妥当性という論点には影響しません。
[3] ここで示したコード例は、値引き制度の間に相互依存関係がないという想定にもとづいています。依存関係があり得る場合(例えば上得意先向け値引きを適用したときにはキャンペーン値引きは適用しないといった条件に対応する場合)、DiscountPolicyにDiscountのリストを渡し、各ポリシーがそのリストに対してDiscountを除去したり追加したりできるようにする方がよいかもしれません。
interface DiscountPolicy { /** * 与えられた salesOrder に対する値引きを計算し、その結果を DiscountのListに追加する。 * リストから既存のDiscountを除去しても構わない。 */ void updateDiscounts(SalesOrder salesOrder, List<Discount> discounts); }
この場合、Discountに、値引き制度を識別するためのDiscountTypeなどを保持させることも必要でしょう。
値引き計算といった機能をこのように疎結合化するにあたり、疎結合化されたモジュール間の役割分担をどのように設計するかは極めて重要です。あるいはそれこそがオブジェクト指向にもとづくアプリケーション設計の核心部分かもしれません。 「オブジェクト指向」という言葉を作ったアラン・ケイは「オブジェクトよりもメッセージング」と強調したメールの中で、以下のように言っています:
The key in making great and growable systems is much more to design how its modules communicate rather than what their internal properties and behaviors should be.
(拙訳)偉大で成長可能なシステムを作る上でのカギは、個々のモジュールの内部特性や振る舞いがどうあるべきかということにではなく、むしろ、モジュールたちがどのようにコミュニケ―トするかをデザインすることにこそある。
また、「マルチパラダイムデザイン」で、ジム・コプリエンが提示した「共通性/可変性分析��も、こういった相互作用に重点を置いた設計手法です。
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hontokayo · 6 years
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インビュード・インヘリタンス
自殺した同僚には、独身寮の誰も知らなかったが、大量の人形コレクションがあった。どういう法的な手続きがあったのか良く分かってないのだが、天涯孤独だったとかで、彼の遺品の人形は独身寮の皆で分け合う事になった。しかし死んだ同僚の、しかも人形など薄気味悪がって欲しがる者も少なく、半分近くはこうして自分が引き取った。とは言え私も善意ではなく、ネットを駆使して売るのが目的である。一部の特に高価な人形は予め抜かれていたということで期待はしていなかったが、中には高く売れる人形もあり合わせて10万以上の稼ぎになった。その中に、どうしても売れない人形が一つだけあった。素人の見立てだが、数十年くらい前に作られた大量生産品で作りも安っぽく、今の時代のセンスで見るとどうしても不細工と評価せざるを得ない人形だ。大きさも赤ん坊くらいあってかさばるので早めにハケたかったが、やはりというか、どのサイトで売りに出しても全く売れなかった。
その頃から仕事が上手く行かなくなった。些細なことでミスをする。いや、些細なミスは以前からあったが、ミスをした時に無意味に誤魔化したり、人のせいにしたり、怒鳴り散らしたりするようになっていた。後から冷静になるとそんな事をするのは全く自分らしくない、非合理的な行動だと思うが、そのせいで同僚たちからは疎まれ、それが更に自分をいらいらさせ、更なるミスを誘うのだ。仕事も職場の人間関係も噛み合わない自分の姿が、ふと自殺した同僚の死ぬ直前の姿と重なった。あいつも初めは優秀だったが、だんだんと荒くなり、最後には皆から疎まれ自殺に追い込まれた。今の自分は死ぬ前のあいつをそのままなぞっているではないかと思うとゾッとした。独身寮に帰ると、あの人形が人を小馬鹿にしたような薄ら笑いで私を迎えた。
その時私の中で何かが切れた。この人形だ、この人形が悪いのだ。私はとっさにハサミを掴むとその人形を突き刺した。返り血が私の頬を濡らした。それでも薄ら笑いを浮かべる人形に腹が立ってまた刺した。だんだんと私は気持ちが良くなって人形をめった刺しにした。これまで私を苦悩させた人形への征服感だろうか興奮して何度も刺した。刺して刺して刺しまくった。私の上半身は返り血で真っ赤に染まった。
そこで同僚に止められた。自覚していなかったが、私は人形を刺しながら奇声を発していたらしい。異常を感じた独身寮の同僚がドア越しに声をかけても反応がなかったため、隣の部屋からベランダ越しに見ると半狂乱で人形を刺している私の姿が見えたので、窓を割って侵入したと言う。私はその時同僚が窓を割って侵入してきたことすら気づかないほど興奮しており状況が飲み込めていなかったが、同僚に止められたことで冷静になってくると救急車のサイレンが聞こえてきた。私が刺していたのは人形だけでなかった。当然だ。人形を刺しても返り血は出ない。私が刺していたのは私自身の腕だった。人形を掴むその腕を、人形ごとハサミで何度も突き刺していたのだ。そのまま病院へ運ばれ緊急手術を受けたが、神経が傷ついており後遺症が残る可能性が高いそうだ。
見舞いの同僚が帰り、一人病室に残されると、ふつふつと恐怖心が強くなっていた。だがいつまでも気を張ってはいられない。手術による肉体的な疲れに人形による精神的な疲れが重なり、ウトウトとしだすとゴト、と何か固いものが落ちた音がした。ぼんやりした目で音の主を探すと、それはナースコールのボタンだった。拾おうとして伸ばした手が止まった。気づいたのだ。ナースコールのケーブルが切断されている。
見舞いに来た同僚と交わした会話を思い出す。私が救急車で運ばれてから、私の部屋に残された同僚が人形を探すとどこにも見つからなかったという。人形はどこへ消えたのか。背後から物音が聞こえる。金属同士が擦れ合うような音が。ナースコールは届かない。
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『異人たち』感想
後ろ向きに前へ進む物語が好きだ。
取り返しがつかなくなってしまった過去へ惹かれつつ、弔いながら、それでもそろそろとした足取りで前進していこうとする物語が好きだ。
今年冬に見た『インヘリタンス — 継承 — 』も、最近見た『異人たち』も、そうした喪に服す歩み方をしていた、とても好ましかった。
ロンドンに一人暮らす40歳の脚本家アダムは、12歳の頃に事故で両親を喪っている。脚本のアイディアを練りに生家を訪ねると、生前の姿をした両親の幽霊と再会を果たし、親子として時間を過ごすようになる。また、同じマンションに暮らす青年ハリーと出会ったアダムは、久方ぶりに親密な関係をハリーと結んでいく。思春期の手前、ゲイとしてのセクシュアリティを告白する前に両親と別れてしまったアダムは、1990年代初頭の知識のままの両親の知識と感覚にショックを受けながらも、自らのゲイとしての生き方を受け入れてもらいたいと切に願い、両親も戸惑いながら折り合いをつけようとする。しかし、アダムがいつまでも生家に通うのはよくないと判断した両親は、アダムとの再びの別れを決める。去り際の両親にハリーとの関係を後押ししてもらったアダムは、初めてハリーの家を訪ねる。そこは空の酒瓶だらけで荒れており、寝室には変わり果てたハリーの姿があった。ハリーも幽霊だったのである。しかしアダムはハリーの手をとり、自らの部屋へと招き入れる。
『異人たち』は生者と死者が同じ座標の中にいて、消えかかる時を除いて、質量を伴った具体的な存在として死者たちはアダムの前に現れる。アンドルー・スコットにポール・メスカル、クレア・フォイにジェイミー・ベルの演技巧者たちの競演が、生者と死者の共在する世界としての説得力を十分に支えていた。特に、両親との生活を中途で断たれてしまったアダム演じるアンドルー・スコットの、ベソベソに泣いて寂しさと切なさを訴える姿の寄る方なさには胸が締め付けられて仕方がなかった。
思えば、生者がルーツに関わる場所へと旅をし、死者と邂逅し、束の間のモラトリアムに濃厚な時を過ごすという設定は、セリーヌ・シアマの『秘密の森の、その向こう』を想起させられる。『秘密の森の、その向こう』も『異人たち』も、突然手の届かない場所へ隔たってしまった親しい人との関係を創造的に再構築して、自他区を異なる視角から受け止めようとする。喪失の寂しさと慈愛が同居しており、どちらも個人的にはかなり好みだ。
分たれてしまった人との関係の再構築とはいわば、後ろ向きに前を進むのと同義である。アダムは生家への二度目の来訪で、母にゲイであることをカミングアウトをする。異性愛がデフォルトである母には大層ショックを受け、せっかく入れた紅茶をすぐにシンクに捨てて、アダムに帰るよう暗に促しさせする。三度目の来訪では、息子がゲイであることに薄々気づきつつケアまで至らなかった父は、アダムに謝罪し、かつてのアダムが最も欲していたハグをやり直す。この二度目と三度目の帰省で、アダムは母や父の反応に生々しく傷つきながらも、あの人だったらこう言うであろう���あの時代に生きた人だったらこのように振る舞うであろう、やっぱりそうか、と答え合わせをしているようでもある。しかし決して理解されないだろうとハナから決めつけて当たり障りない関係に徹するのではなく、事故によって時が止まってしまった両親と、約30年分時を経た場所からアダムは丸ごと存在を受け止めるよう呼びかける。両親に呼びかけることを通して、アダムは自身のあり方も内省し、ハリーとの関係をより真剣に捉えていく。後ろを向きながら歩く足元は不安定かもしれないが、だからこそ、その足運びには決然たる力を込める必要がある。
アダムの決然たる力を最も感じさせるのは、ハリーが幽霊だったことが明かされるクライマックスだろう。「ゲイ」と「クィア」どちらがフィットするか議論し、規範的な家族の枠組から逸脱することの寂しさを語らい、隣り合わせで地下鉄に乗り、クラブで踊り、体調不良時はケアをし、セックスし…と、あんなに親密に付き合っていたはずのハリーが死者であったことが分かるのは、かなりのどんでん返しでショッキングな展開とも言える。だが、アダムは必要以上に動揺しない。むしろ、ハリーとの関係を継続していくことを決める。これは、幽霊の両親と関係を結び直したからこそなせる決断であると言える。ハリーが生きている間に起こり得なかった親密さも、後ろ向きに歩を進めることでアダムは改めて育てていこうとするのだ。
前だけを向いて、前進し続けられるのなら、それに越したことはないのかもしれない。
けれども、後ろ向きに歩いて過去に思いを馳せる時間が、人生のちょっとした跳躍板となることを、私たちはおそらく経験的にわかっている。ゲイの孤独と恋愛、世代間の認識の差を丁寧に描いた『異人たち』に、クィアでありつつ同性愛者ではない私が(そしておそらくマジョリティの観客層も)エンパシーを覚えたのは、誰かの喪に服す瞬間が遅かれ早かれ否応なく訪れるからだろう。 本作は、密着して眠るアダムとハリーが夜空に瞬く星となるイメージで締め括られる。ひとりで構成されたこじんまりとした世界の物語が、世界を覆う夜空にまで拡大していく。この射程の広さ・懐の深さが、『異人たち』の大きな魅力である。
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theatrum-wl · 3 months
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【投稿企画】先月の1本・来月の1本(2024年2月)
読者の方々からお寄せいただいた2月の「先月の1本・来月の1本」をご紹介します。先月の観劇の記憶を思い起こしながら、来月の観劇のご予定にお役立ていただければと思います。
・かちとも 会社員(6~10本) 【先月の1本】 ホリプロステージ「オデッサ」(東京芸術劇場 プレイハウス) 字幕を演出に使った2ヶ国語での展開と、それを利用した言語のトリックが見事! 【来月の1本】 ホリプロステージ「カム フロム アウェイ」(日生劇場) 豪華キャストによる日本初演。もう今後このキャストでの再演は不可能ではないかと思う。貴重な体験ができるはず!
・谷岡健彦 教員(1~5本) 【先月の1本】 劇団新派「東京物語」(三越劇場) 小津安二郎の名作映画を山田洋次が巧みに舞台化。長男夫婦の家の居間だけで展開する物語に仕立てたのが見事だ。父親役の田口守は、映画の笠智衆ほど枯れていないため、人のよさだけでなく昭和の家長の嫌らしさもにじみ出ていたのがよい。 【来月の1本】 劇団フライングステージ 「こころ、心、ココロ 日本のゲイシーンをめぐる100年と少しの物語」(座・高円寺1) 30年以上前からゲイであることを公表して活動している劇団。夏目漱石の『こころ』を出発点に、そこから現在までの日本のゲイシーンを描くという。まさに日本版『インヘリタンス』だ。見逃すわけにはいかない。
・小泉うめ 観劇人・観客発信メディアWL(11本以上) 【先月の1本】 Co.SCOoPP「境界」(関西エアリアル 沓掛スタジオ) 圧倒的なリアリティーを備えた身体で織り成すファンタジー。演じる理由は演じ手にあれば良いし、観る理由はそれとは異なったとしても観客に有れば良い。パフォーマーと観客の関係性をあらためて考えさせられた。 【来月の1本】 コトリ会議「雨降りのヌエ」(扇町ミュージアムキューブ05) この作品を「来月の1本」に選んでよいのかどうか主催者としても現場よくわかっていないのですが、1か月公演で観客側には何が見えるのかも楽しみにしています。
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sika0728 · 3 months
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日記
脳がまだまだインヘリタンスに浸っている。そういうことってあるんだな。
そのうえ、昨日もほんとによい日だった。最高にカッコいいバンドを観て、ラブリーマイリトルシスターとその嬉しさを分かち合いつつ、おいしいハンバーガーを食べた。こんなにいい日はない。
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theatrum-wl · 4 months
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【投稿企画】先月の1本・来月の1本(2024年1月)
読者の方々からお寄せいただいた1月の「先月の1本・来月の1本」をご紹介します。先月の観劇の記憶を思い起こしながら、来月の観劇のご予定にお役立ていただければと思います。
・谷岡健彦 教員(1~5本) 【先月の1本】 東京乾電池「小さな家と五人の紳士」(アトリエ乾電池) 東京乾電池にとっては財産演目と言ってもよい作品。これまで、いろいろなキャストで何度も上演されているが、特筆すべきは毎回少しずつ演出が変わっていること。今回も女1と女2の造型が新鮮だった。型をなぞるのではなく、つねに模索している姿勢がいい。 【来月の1本】 東京芸術劇場「インヘリタンス-継承-」(東京芸術劇場 プレイハウス) 前後編合わせて6時間半という大作。何度も舞台にかかることはなさそうな作品だから、この機会に観ておきたい。
・kiki 地方公務員(11本以上) 【先月の1本】 パルコ・プロデュース「海をゆく者」(PARCO劇場) 序盤に感じた苛立ちや閉塞感から想像できなかったラスト。主人公が生きてきたのは一見どうしようもない人生かもしれないけど、でも神様には愛されているのだ、と思った。キャストの顔ぶれと演出家に惹かれて観に行ったけど、脚本も相当好みだった。 【来月の1本】 風姿花伝プロデュース「夜は昼の母」(シアター風姿花伝) 同じ作家・同じ演出家で観た『終夜』での濃密な時間を思いだす。質の高い作品を上演し続ける風姿花伝プロデュースが、今度はどんな作品を見せてもらえるのか、本当に楽しみ。
・小泉うめ 観劇人・観客発信メディアWL(11本以上) 【先月の1本】 ミクニヤナイハラプロジェクト「船を待つ」(扇町ミュージアムキューブ03) 会場も贅沢な空間で魅力的な照明の中で白木原一仁、佐々木ヤス子、沢栁優大の身体が素晴らしく雄弁だった。 【来月の1本】 座・高円寺 CTAラボ「東京トワイライト ー強盗団と新しい家ー」(座・高円寺1) 松田正隆の書下ろし新作。オーディションで選ばれた劇場創造アカデミーの修了生がマレビトの会に迫るのか全く異なるものを見せるのか楽しみにしています。
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yzkr · 8 months
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3世代のゲイの人々描く6時間半、熊林弘高演出「インヘリタンス-継承-」に福士誠治ら
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sika0728 · 3 months
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『インヘリタンス-継承-』
を観た。池袋の東京芸術劇場のプレイハウス(という大きいホール)。
ぼくは感動して涙が出た。生きることはつらく、あまりにも難しく、でも、生きて。「生きて」という言葉は、かんたんに発音できるけど、それが心を打つ、誰かに響く言葉として発せられる瞬間を観た。演劇は、普段の暮らしにたしかにいつもあるのに、しかしその存在を直に観ることはなかなか叶わない人間の持つ物語と、人間の持つたましいを、目の前で人間が言葉をともなって表象するから、演劇を見慣れていないわたしなどは、このようなよいお芝居を観ると、演劇ってヤバすぎる。と思う。
6時間半(6時間半⁉︎)あるお芝居なのだが、6時間半が必要なのだ。すべてのよい作品はそうなのだが、そりゃそうなのだ。長くなどないのだ。
自分に価値がない、自分の存在は悪である。そうであれば、自分自身を燃やすか、自分自身を癒し自分の傷付けたひとを癒さなければならない。癒すのは、それは難しすぎる。無理だ。でも。「癒すか、燃やすか」。
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