「週刊少年ジャンプ」(集英社)にて2018年14号から連載中の『呪術廻戦』が面白い。人間の負の感情から生まれる化け物・呪霊を呪術を使って祓う呪術師の闘いを描いたダークファンタジー。読者の予想を裏切りまくる展開で、数多の考察系YouTuberを幾度となく地獄に叩きつける作者のイヤラシイ才能に惚れ惚れする。ストーリー、人物造形、魅力的な術式の数々、どこをとっても見どころ満載で語り始めたらそのまま夜を駆けて呪いに転じてしまいそうなんだけど、特筆すべき点をひとつ挙げるとすれば、主要なキャラクターのひとりである羂索という呪詛師の存在。他人の身体を乗っ取り、永い時を越え自らの野望を叶えるために存在する人物。この羂索が物語を牽引するから本作は特別なものになっている。どこまでも純粋に面白いことを追求する奴が真に面白いと思ったことだけを次々に実践していく訳だから、その内容が面白くならない筈がない。
彼が目指すのは「呪力の最適化」である。 呪霊のいない世界でも牧歌的な平和でもなく、自らの生み出すもの以上の可能性を見つけること、つまりは呪術の力で新たな世界を創造しようとしている。 呪術師・呪霊・非術師、これらは彼曰く「人間という“呪力の形”の可能性の一つ」に過ぎないらしく、さらなる呪力の可能性の探求の為に、1000年もの間、様々な術師の身体を渡り歩いて暗躍を続けていた。 そして最終目標は日本全土を対象に人類への強制進化を成すため、人類と天元を同化させることである。 おまけに乗っ取った人物の身体能力、特徴だけでなく術式等の能力をもそのまま引き継ぐことができるのだが、本人の年齢及び本来の顔、性別も未だに不詳。ここまで書けば勘の鋭い方なら既にお気づきだろう。そう、これは完全にドゥルーズの生成変化である。生成変化とは他なる物事への複数の「外在的」な「関係」の付置それ自体としての、言うなれば「関係束」としての「自他」が組み変わることである。それは万象の渾然一体ではなく、互いに区別される関係束の多様な組み変わりである。ドゥルーズの動物論は、スピノザ的「生態学的倫理」として解釈されることが多い。要するに自己の「身体の能力」を開発し、他者のそれと絡み合わせ、自他が一緒に活力を増していく「強度の共同性」を拡大することである。まさに「闘争領域の拡大」というやつだ。そしてそれは数々の漫画作品からの場面引用と構図、展開等の組み合わせで『呪術廻戦』を構築する作者の意図としても汲み取ることが可能である。
つまりは羂索≒芥見下々であると、わざわざ声を大にして僕は言いたい訳だが、これは世界とは、断片的な物事のあらわれを「想像」に於いて「連合」した「結果=効果」であり、そして世界のいたるところに、互いに分離した想像する「精神」があるというヒューム主義を独自に咀嚼した庵野秀明原作・監督によるオリジナルアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』の概念を字義どおりに渡り歩いた芥見下々の巧みな筆捌きからも察することは容易い。『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』で作中人物の碇ゲンドウが目論んだ「アディショナルインパクト」をゲンドウ自身の言葉で要約すると「セカンドインパクトによる海の浄化。サードによる大地の浄化。そしてフォースによる魂の浄化。エヴァインフィニティを形作るコアとは魂の物質化。人類という種の器を捨てその集合知をけがれなき楽園へといざなう最後の儀式だ」ということであるが、これは羂索の最終目標である日本全土を対象に人類への強制進化を成す為、人類と天元を同化させようとする「超重複同化」と思想的にもかなり近しいものがある。『新世紀エヴァンゲリオン』は言わずもがな、他作品へのオマージュをふんだんに散りばめる『呪術廻戦』そのものが芥見下々なりの「アディショナルインパクト」であり「超重複同化」であり「生成変化」の一端であると言い切ってしまうのは、いささか暴論に過ぎるだろうか?
『呪術廻戦』と同じく「週刊少年ジャンプ」で連載中のギャグ漫画『僕とロボコ』の第156話「オマージュとロボコ」と題された一話にはオマージュを最大の武器としている作者・宮��周平の意図を盛り込んだ内容で、そのあまりにも大胆かつバカバカしい試みに失笑を超えて思わず仰け反った。「パクりはもう卒業しました!」と切り出す主人公ロボコは「複数の作品の良いトコロを参考にすれば、それはオリジナルになりうる!」と豪語する。そして数え切れないほどの他作品の「良いトコロ」をつまみ食いしてオリジナル漫画を描き上げては周囲を唖然とさせるも、本人は至って冷静に「オマージュの範囲内ですね」と嘯く。そしてキャリア2年目の編集者が編集長の目を盗んで本誌掲載に踏み切り、結果、見事に大炎上するという極めてメタメタで知的な内容だった。オマージュについては『リズム・サイエンス』(青土社)という書籍にも深い洞察が垣間見える。本書はヒップホップやジャズなどのブラック・ミュージックから現代音楽、果てはメタルまでを往還する境域のミュージシャンDJスプーキーが本名ポール・D・ミラー名義で上梓した渾身の音楽論である。前述のロボコが描いたオリジナル漫画のタイトルが『ドキ♡孫・D・炭太郎の青春‼︎大秘宝‼︎』であったことを鑑みれば、宮崎周平の目論見は明確である。ミドルネームの「D」それは単なる偶然にしては出来すぎた話ではないか。近/現代思想を核に、音楽、映画、小説、詩をサンプリングしながらも、「他人の思考を自分のものにするのは発明するのと同じくらい難しい」と天を仰いだその真意とは。彼の試みは確実にイギリスの批評家マーク・フィッシャーに受け継がれ、氏の没後は言うまでもなく……。
東京を拠点に活動するラッパー、J.COLUMBUSが長野県松本市のトラックメーカーMASS-HOLEをプロデューサーに迎え、制作したアルバム『On The Groove, In The City』は、幾つもの言葉の断片が虚実の被膜ではなく、自己/他者の被膜をねっとりと愛撫するように言葉が置かれる。しかもそれらは決して打点を刻むことなく、じわじわと地中に溶解する。もはやJ.COLUMBUSの言葉とPAUL AUSTERの言葉に差異はない、否、具体的には決して交わらない他者と自己の言葉が混ざり合うことも溶け合うことも拒絶して地表に吐き捨てられる。これはストリートの詩情などという陳腐な戯れではなく、現前する意志を喪った風景を浮かび上がらせようとする稀有なる試みだ。因みに芥見下々は「パロディやオマージュの線引きは、自分の中では明確な基準がある」と明言している(コミックス16巻を参照)。ここまで記してきた僕の文章自体もWikipedia、ピクシブ百科事典、千葉雅也の論文「ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学」を渡り歩いたものに過ぎず、無論、オリジナリティは皆無である。
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超時空要塞マクロス
マクロスシリーズの記念すべき第1作目。宇宙から飛来した異星人の超巨大戦艦を人間用に改修した「マクロス」を舞台に、異星人との戦いとラブストーリーが展開される。SFやアニメのファンであった若いクリエイターたちが多数制作に関わり、当時の水準にしては作品世界やメカの設定が十分になされた「リアルロボットもの」の走りとなっている。またバトルだけでなく、三角関係の恋愛模様や歌姫リン・ミンメイのシンデレラストーリーなど、従来のロボットアニメと一線を画す唯一無二の要素が多く盛り込まれた。また「オタク」という言葉はこの作品が発祥となっている。原作・スタジオぬえ。音楽・羽田健太郎。原画には庵野秀明や貞本義行が参加している。1982年。全36話。
観ました〜〜!まぁ脈々と続くマクロス一作目という目で観れば興味深く楽しい作品だったけど、けっこうツッコミどころは多いし、作画も崩壊しがちだったので星で言えば2.5くらいか。けど「文化を知らない戦うだけの種族に歌で対抗する」っていうのはほんとマクロスにしか無いアイデアだし、ミンメイ可愛いし(わがままだけど)、早瀬中尉はもっと可愛い。あとたまに出る神作画が見どころ。1番感動したのは赤ちゃんを敵に見せて「お前らにプロトカルチャーが撃てるか!!!!」って掲げるとこ。最終回前は三角関係にケリつけるためにストーリーがちょっと失速するけど、概ねよかった。音楽がハネケンなのが1番良かった。以上です。
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映画『シン・ウルトラマン』
『シン・ウルトラマン』(2022年、日本)
twitterより転載
率直な感想は"普通"です😓
コンセプトや各種設定は原作を踏襲しつつ、新たにアップデートした点はとても面白かったです👍
ただ全体に展開も画もフワフワしてるんですよね😅起伏になる場面や見せ場でそんなに盛り上げないし、戦闘シーンは原作と比べて動きのキレが乏しい💦
個人の感覚かもしれませんが、怪獣との戦闘シーン、着ぐるみ&ミニチュアの怪獣ファイトに比べて写実的に描いたつもりなのかもしれないけど、動きのキレや重量感が不足してると感じました😅
パシフィック・リムではそれができてたので、CGだから悪いと言うわけでもなく動かし方の問題な気がします💦
山本耕史のメフィラスが見事‼️あの奇妙で知性を感じる演技はメフィラス星人のニュアンスとして納得👌
ウルトラシリーズの、人間の想像を超える別文明が絡んでくる不思議なSF感を現代に落とし込んだ全体のデザインも良かったです👍
やっぱり映画じゃなくて毎話解決型のTVシリーズ向けな気がしました💦
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twitterより転載
観てて最もテンション上がったのは、冒頭🌟過去の事件と禍特対の成り立ちをダイジェストで示す部分です‼️
想定してなかった映像が観られて、まさかそこも作ってるのかー⁉️と愛を感じ、驚きと共にワクワクが一気に高まり爆アゲでしたよ🙌
てか、あれ作品化して欲しいよー🤩
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twitterより転載
冷静にウルトラマンバイアス抜きで考えると、つまらないことはないが、やっぱ映画そのものの出来はイマイチだなと思います💦
ウルトラマン好きな気持ちは忘れ、もし全く同じ内容だけどウルトラマン設定やデザインを排して『スペシャルマン』という映画だったとしたら・・・😑
スペシャルマンだとキン肉マンバイアスがあるか😅
細かいこと以前に、ウルトラマンという歴史あるヒーロー、庵野秀明・樋口真嗣という作り手の作家性などを前提にして考えるんじゃなくて、ピュアにSF映画一本として俯瞰して観ると、つまらないとは言わなくとも、よく出来ているとは思わないです💦
ドラマパート、画面の質が悪くないです❓特に時々引くほど画質が違う映像が挟まれるのは何なんだろうか😓
唐突な展開が目立つし、見上げるようなカットを矢継ぎ早に繋ぎまくったような場面が何回も続くのは流石にくどいし、結構雑に撮ったような画も多い💦
楽しめたけど、ここは素直に良くなかった😥
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twitterより転載
少し記事を読んで知りましたが、シン・ゴジラ同様、iPhoneでの撮影を活用しているんですね💨
iPhone動画を繋げたりトリミングしてるから画質が悪かったのかな💦
iPhoneやハンディカムで撮影する必然性がある場面は良いけど、そうでなければかなり工夫しないと絶対ノイズになるのとは思うんですが😓
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twitterより転載
振り返って考えると巨大怪獣バトルの表現という観点では『パシフィック・リム』の出来栄えはピカイチです🌟
怪獣やメカの動き方はリアリティを感じるけど、ほどほどに特撮っぽい嘘臭い味わいを残してるし、カメラの微妙な揺れ方や緩急のある振り方がツボを押さえまくってて、よく分かってる、最&高🤩
まあこの規模のハリウッド映画で、怪獣好きな作り手が全力で作ったら高いクオリティになるに決まってるし、これと日本の特撮怪獣をぶつけて考えても比較にならないのは仕方ないですけどね😮💨
とにかく自分にとっては画期的で、この作品でギレルモ・デル・トロを一気に好きになりました‼️
『シン・ウルトラマン』はこの手のハリウッド映画に比べたら圧倒的に低予算だろうし、予算的・時間的な制約や、その他いろんな束縛もあって作ったのだろうし、不憫だったのかもしれません💦本当は上手くできてない、もっと改善すべきだということは作った人たちも自覚的なのではと思ったりはします😔
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無題
メルヴィル、ドストエフスキー、トルストイ、すなわち19世紀の文学傾向において見られるのは、プラトン的な観念論もしくはモーツァルトにおけるような古典派的な様式主義への軽視と無神経である。これは「パリ万博」に見られるような生産力の発展と人文主義的多民族間の調和という理想と目標とは大きく趣を異にする。そこにおいて、西洋的理想なるものと、雑多な現実が混ざりあっている。「あれもこれも」といった具合に、すなわちヘーゲルが思弁的にみずからの哲学を基礎づけるのとは「違うしかたで」、ふと喩えを思いつくのに近い偏在がある(*1)。これはひとつの「白人の病」と呼ぶべきものであり、モーツァルトの「リンツ」がたった4日で書き上げられたにもかかわらず、圧倒的な洗練と様式美を誇っていることとは対極に位置付けられるだろう。すなわち、モーツァルトのような才能に対して19世紀の文学作品とその特徴はある一定の限界を有しているし、「子ども」であると喩えられる。
19世紀の謎を解き明かす上でフーコーの「臨床医学の誕生」は実に優れた構造(主義)を有しているといえる。第1章のタイトルが「空間と分類」であり名辞イスラエルは空間と分類が存在する記号‐シーニュとして認識されよう。そして第2章のタイトルは「政治的意識」になっており、空間と分類に対し政治的意識を投入するというパラドキシカルなジレンマを投影する。「カインド・オブ・ブルー」あるいは「アクエリアスの時代」。ジャズ。ロック。これはイスラエル人の生命を象徴化しなおかつ宙吊りにする「カス」の手口である。「臨床構造を出現させろ」と言っているのである、彼らに対し。これはダビデとソロモンの関係に似ている。ダビデ‐ソロモンを記号バーで結ぶことはひとつの学術的かつ論理的意味を形成する。それが先ほど説明したことである。いわばそのようなものは「文系の発想」であり世界史の神秘化である。医学との差異であり強度の条件である。「歴史を楽しもう」とのことだ。これはドイツ・ロマン派に代表されるヨーロッパ的憂いと熱狂に通底する。すなわちロマン主義は知的な冒険であるというヒューマニティーのことである。そのようなヨーロッパの伝統と呼ぶべき知的営為と想像力に接続されているのがイスラエルであるいえる。良くも悪くも。
これは柄本佑‐柄本時生という結びつきで考えてもよいだろう。柄本佑は父である柄本明の子として日本の芸能界デビューしているが、必ずしもそのような記号‐シーニュを示しているのではなく、彼の現在の地位が芸能界において最上のものであるという「トリッキー」な見立てが庵野秀明の「シン・仮面ライダー」には含まれている。そして彼は同時に柄本時生の「兄弟である」(強烈なエクスキューズが必要!!!これはアメリカ的なユーモアである)。
アメリカにおけるようなプラグマティズムに関して、戦争のような人為的なるものだけではなく、天災であっても、単なる科学的偶然であり、一神教における神や天使や幽霊のようなものを含む超越的なるものの審級に破産宣告を行うこと。災害等によって生じた人的・物的被害を喜び、賛美することもいまや我々にはできる。これは坂口安吾の戦争である。愛知県民ならそう判断するであろう。彼らは特に陰湿で「あいつが嫌な思いをした��らそれでいい」というように経過次第的かつ遂行論的にプラグマティズムを活用する。それはひとつの厭世観だが同時にもろもろのホーリアーな「生の欲動」への絶賛と畏敬が込められている。いわばそれは「民族主義の裏側」とでも呼ぶべきものであり、かつてのスーパーナショナリズムを踏まえた「東海道本線の結果」のようなものである。これは静岡県のことであり、しかしたしかに静岡県のことではない。いわば列車は流れ‐切断(ドゥルーズ、ガタリ)である。すなわち大阪(流れ)であり、大阪は「現代哲学」の名をはく奪されることになるであろう。「そうではない」と。そのようなライン(東海道本線)においては、赤子が死んでいても、何かの被害に遭い利用されても、誰も気に留めないであろうと直観によりまなざされる(メラニー・クライン)。よって大量生(東浩紀)と呼ぶべき事態では新聞報道に見られるような悲惨な出来事こそが賛美されるべき喜びである、と考えられることになる。いわばこれは認識論的エアーポケットであり、目の前に突然零式艦上戦闘機が現れるようなものである。「自分は兵士である。否、ギリシャの軍隊である」と。なおこの言及は「21世紀の哲学」と呼ぶにふさわしい洗練さを備えている。そもそもそのような美辞麗句を用意するまでもなく、ランドが「暗黒啓蒙」と銘打ちリバタリアニズムの可能性を極限化してみせ、マラブーが近年の書物でクリトリスにアナーキズムの様式を見出したことはアナーキズムのより一層の台頭を示すと同時に「思いやりとやさしさ」といった古めかしい規範の失効を裏付けてもいる。私の話をたんなる模様と断ずることはかまわないが、過剰なサイケデリックへの傾倒はより一層の不摂生を招くゆえご注意を。
(*1) 晩年のドゥルーズがそして近年のアップルとスティーブ・ジョブズが露悪的なまでにそして、嘘くさくインディ・ジョーンズやそれからハムナプトラを提示してみせた、という類型もしくは定型であり、逆説的にはあの日本の英語教育課程においてたびたび登場する「ミスター・ブラウンの誘惑」がそれに該当する。
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取り急ぎ、Evernoteからサルベージしてきたもの。我ながら熱量の高すぎる感想書いててこの頃の私、すごいなと思った(笑)
風立ちぬ 感想
公開二日目にレイトショーで見てきました。
日曜の夜なのにけっこうな人手があった。時間帯もあって、年齢層は高め。20代、30代を中心に、50〜60代くらい?と思われる観客も居た。これまでのジブリ作品では見られなかった現象。番宣効果かな。大人向け、零戦設計者がモデル、という認識が浸透しているのかな、という客層。
映画公開前、原案はモデルグラフィックスという雑誌の連載漫画、と聞いた瞬間に思い浮かんだのは、今回は紅の豚のような、趣味全開の映画なのかな?という事。
公開直前に番宣番組を見て、どうやら本当にそのような映画だな、と確信したので安心して見に行けるな、と思った。安心して、っていうのは、前作の崖の上のポニョの衝撃を未だに引きずっていたから。
別にポニョが面白くなかったわけじゃない。ストーリーがまったく理解出来ないにも関わらず、謎の感動に包まれて涙してしまったシーンもあったし。ただものすごく毒気が強い作品だった。表向きは幼児向けの皮を被った可愛らしい画面作りなのに、その実、老いと死の匂いが濃厚に漂う内容は、私にはまだ早すぎたみたいだ。もしくは遅すぎた。
アレは固定観念で凝り固まっていない幼児か、逆に人生経験豊富でどんな表現にも感情移入できる老人か、もしくはそのようにピュアな心を保ちながらある程度達観している大人じゃないと平静に見られないものなんじゃないかと。
宮崎作品の転換期は今までに何度かあったが、監督本人が今までの総括と言っていたもののけ姫が傍目に一番わかりやすい変化ではないかと思う。
事実、もののけ姫に見られたモチーフはほとんどそれまでの作品(シュナの旅など、映像作品以外のものを含む)に出てきたものばかりだったし、私のように物心ついた頃から宮崎作品を見てきた人にとってはどこかで見た事がある、お馴染みの、安心して見ていられる映画だったんじゃないかと思う。ただ、この映画が大ヒットして社会現象にまで発展していったところを見ると、生粋の宮崎駿ファン以外にとってはとても斬新なものだったようだ。
公開当時、私はこの映画が最後の宮崎駿監督作品になるんじゃないかと思った。それ以前にも、一本撮り終わるごとに引退引退と言っていたけれど、ここまで過去作品を凝縮したようなものを作ってしまってはもういよいよ次はないだろうなと思ったのだ。
その認識は、次回作品の千と千尋の神隠しで大きく覆されたわけだけど。この作品には、本当に久しぶりに度肝を抜かれた。それこそ、ナウシカ以来の衝撃だった。まだこんな引き出しがあったなんて、と驚愕した。
続くハウルの動く城では、この新しい引き出しを広げる幅をもっと増やして、ポニョでとうとう引き出しを全部引っ張りだしてしまったように思えた。
引き出しというのは、要は無意識への扉を開くという事。これは意図してやったというよりは、年齢的なものもあって、自然とそういう方向に向かっていったのかもしれない。もののけ姫は、意識側に留まって物語を構築した最後の作品なんじゃないかと。
だから、ポニョを見終わった時は、ああ、いよいよこれが最後の作品になるのかなぁとまた思った。これが遺作になるのかな、と。
だったら、この難解で不気味で理由もわからず不安にかられるこの作品を、何年かかってでも良いから理解出来るようになりたい、と思って、公開直後から他人の感想を聞いたり読んだり、
ネットの考察サイトを巡ったり、何度も繰り返して見たりして、なんとかしてこの作品への自分なりの感想を言葉で表せるようになりたい、と今現在も努力を続けている。
そんな事をしていたら、また新作やりますよ、とある日ネットで情報が流れてきたわけである。目を疑ったよ。一瞬呼吸が止まったよリアルに!!
もちろん嬉しいですけど!!!当然映画館に見に行くけどな!!!!
ただ、ポニョ以上にぶっ飛んだ内容だったらどうしよう…さすがに物心ついた頃からの妄信的パヤオ信者にして生粋のジブリストの私でも着いていけんくなるかもしれん……という一抹の不安を感じたんだ。
そういう意味の「安心して見に行ける映画みたいだな、楽しみだな」という意味でした。前置き長過ぎィ!!!
実はもう三回も見に行っている。初回では買いそびれたパンフレットも二回目の鑑賞時に無事に買えました。
パンフレットによると、鈴木プロデューサーが「これは宮さんの遺言なんですか?」と訪ねたら、監督は「そうかもしれない」と答えたとの事。失礼だが、年齢的に考えても、今度こそそうなる可能性は高いだろう。
そうだとしたら、ずいぶんと親切な作品を作ってくださったものだ。この映画はたいへんわかりやすい。親切で丁寧な構成で、たぶん初めてジブリ作品、宮崎駿作品を見る方にもお勧め出来る映画だ。実際のところ、人にどんな映画だった?と聞かれて、こんなに説明に苦労しなかった宮崎作品って初めてです。
パンフレットには宮崎監督が初めて地に足の着いた作品を作った(庵野秀明氏談)とも書かれている。確かに、今回の主人公空を飛ばないよね。でももののけ姫のアシタカもサンも厳密には飛んでないと思うけどな、跳びはするけどな。とか、まぁそういう事ではないんだろうけど。
ポニョでピークに達した、あのなんとも説明出来ない得体の知れない不気味さがないなと感じた。人声SEは良い意味で不気味だったが、あれは心象風景の表現としてピッタリハマっていたと思う。
ともかく私のような凡人にも安心して見られる映画ってのはやはり良いものです。
今回の目新しいところとしては、けっこう露骨なラブシーンがある、というところ。あくまで宮崎作品にしては、という括りなんでその他の作品と比べたら全然なんですが。こないだ放映した平成狸合戦ぽんぽこの方が全然エロエロしかったですが、それでも宮崎監督作にしたらこれだけの描写を入れるってのは相当革新的な事だと思った。
それは元ネタの小説のヒロインのキャラがそうだからなのかもしれないけど、元ネタを見てないのでわかんない。それでも、今までの宮崎さんなら、意図してそういう部分は描かなかっただろうと思うんです。
未来少年コナンの時、宮崎さんは意図してラナのキャラクターを原作から変えていた。カリオストロの城のクラリスについても、おしっこもうんこもしなさそうな女の子だと同業者に言われて、そんなその辺に居そうな女の子を描いても楽しくないから、と答えている。
そういう意味では菜穂子もその辺に居そうな女の子ではないが。菜穂子のキャラクター造形としては、良い家のお嬢さんで、上品で、清楚で、芯が強くて、と宮崎ヒロインのテンプレみたいなキャラクターではある。しかし、実はこういう完璧美少女って宮崎作品には久々に登場したキャラクターだったりする。
宮崎作品のヒロイン像は、一見するとどの作品も同じようなキャラクターに見えるけど、ちょっとずつ変化している。
おしっこもうんこもしなそうと言われたラナ、クラリスをピークとして、段々と「完璧な美少女」のイメージを崩していって、千と千尋でついに見た目も美少女とは言い難い少女をヒロインに据えてきた。ハウルのヒロインは少女と老婆の両面を持つという点で宮崎アニメのヒロインの集大成ともいえるが、それ故に少女とは呼べない存在になった。その後のポニョに至っては、もう少女っていうか人間という括りですらない。
それがここにきて、ヒロインの造形が昔の完璧美少女に戻ったわけだ。菜穂子の完璧さは声優さんによるところも大きい。瀧本美織さんの演技はとても良かった。島本須美さんのような透明感、上品さ、清楚さを感じました。
しかし、菜穂子が昔の宮崎アニメに出てきた完全無欠なヒロインかというと、そういうわけでもない。
菜穂子の存在は、この物語に置けるミューズだ。創造者にインスピレーションを与え、モチベーションをアップさせる女神のような女性。元型像でいうと、妖精的なアニマだ。男性を誘惑して、官能の世界に導き、果ては破滅へ向かわせる事もある、美しいけども危険な存在。しかしそれは言い換えれば、男性に性の悦びを通して生きる力を目覚めさせる存在にもなる。傷心の二郎は菜穂子との交流を経て創作意欲を取り戻して立ち直っていく。
そして二郎の夢が叶えられた瞬間、菜穂子は去っていく。それは、菜穂子が美しいままで二郎のそばにいられる時間の終わりであり、同時に二郎に与えられた「創造者に与えられた10年」の終わりを表しているのだと思った。
宮崎監督の求める完全無欠なヒロインとは、少女であると同時に母親でもあるが、母性と官能性は相反する要素だ。菜穂子はその意味で完全無欠ではない。
しかし、菜穂子は二郎が創造者としての命をかけて愛するに値する美少女でなくてはならなかった。菜穂子の官能性はそのために敢えて付随した要素ではないかと思いました。
初めて官能と死の世界を描いたことによって、新たなステージに旅立って行かれたんだと思った。
宮崎さんが完璧な美少女を、初めて出会った瞬間にこの女の子のためならなんだって死ぬ気でやれると思う完璧なヒロインを描き出すことに情熱を燃やした期間もちょうど10年くらいだという事を重ねて見ると、ラストシーンはより味わい深いものに感じる。
朽ち果てた戦闘機の残骸や、儚く去っていく零戦。その後に現れる菜穂子は相変わらず美しいままで、二郎に呼びかける。生きて、と。
これまでインタビューや書籍の中で色々と難しい言葉を発してきた宮崎監督だけど、作品世界で訴え続けた事はかなりシンプルな事だと思う。もののけ姫のおトキさんの台詞、「生きてりゃなんとかなる」これに尽きるんじゃないかなと。
創造者としての命は尽きても人生が続く限り生きるのだ。生きてりゃなんとかなるんだから。
・2015年の地上波初放映後の感想補足
最近になって、このラストの菜穂子の呼びかけは当初の構想では「来て」だったという事を知った。が、これに答える二郎の声を当てたのは、庵野秀明氏である。
庵野氏と宮崎監督のエピソードで印象深いのは、旧劇場版エヴァを制作中に、テレビ版エヴァですべてを出し切り燃え尽きて、これ以上何も出せないのに新しく映画を作らなきゃいけない状況で追い詰められた庵野氏が、もう死にたい、と宮崎監督に相談した話だ。
宮崎監督は、死んでもいいじゃないか、エヴァ作って39歳で死ぬなんてカッコいいよお前、という旨の言葉をかけたとの事。これは宮崎監督の本音なんだろうなと思った。与えられた10年を使い��り、社会現象を巻き起こすほどの作品を遺せたならばもういつ死んだって構わないのだろうな、と。だから一本作り終わるごとに引退する引退すると言い続けたんだろう。
しかし実際は宮崎監督はずっと生き続けて、それこそ棺桶に足を突っ込みながらも何度も世の中に爪痕を残し続けた。その最後のメッセージが「生きて」とは…感無量の表情で空を仰ぎながら発する庵野秀明氏演じる主人公の「ありがとう」が染み入るように心に滑り込んできた。
私は、物心ついた頃から宮崎アニメをずっと見てきた。
最後の長編作品のラストメッセージが「生きて」で本当に良かった。私は宮崎監督が映画を作らなくなってもまだ生きなくてはならないので。人生の大半どころかほとんど全部を占めてきた大きな存在を失う覚悟を決めかねていて、今までずっと「ありがとう」とか「今までお疲れ様でした」と言い兼ねていたが、今なら言える気がします。
今までずっと、美しい夢を見せてくださってありがとうございます。本当にお疲れ様でした。
・2016年 終わらない人宮崎駿 視聴後、その後の新作長編映画制作発表を受けての感想補足
クッソまた騙されたァァァクソがァァァァァァァァ!!!
はい!と、いうわけでね!!またいつもの辞める辞める詐欺でしたね!!よかったねーまた安心して生きていけるわー公開楽しみだなぁ♪…ってなるかぁ今度こそは!!!本気だと信じちゃったでしょうが!!!!
いや、パヤオはいつでも本気で言ってるとは思う。失礼だが年齢的に見ても次回作は予定通りに進行するとは思えないし、最悪の事態も覚悟しなくてはならないでしょう。
しかしこれ、鈴木Pの手のひらの上って事なんでしょうなぁ。正直高畑宮崎コンビだけではジブリはこんなにポンポン映画作れなかったと思うよ。鈴木Pありがとうございます。そしてドワンゴは犠牲になったのだ…
宮さんはパクさん見習って死ぬまで映画作ると言って欲しいよいい加減。何度ファンの心を弄べば気が済むのか。あーもう本当に、こんな人を物心ついた頃から神推ししている己が不憫。でもこれからも推す、神だから。神が天に昇られた後も推す、この命尽きるまで。
でも正直なところちょっと言っていいかな?
神だけど!逆に◯ね!!新作がんばってください応援してます!!!!
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