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#熱中症なのか火照ってるのか躁なのか分からない
naotam1 · 2 years
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#おはよ #イマソラ 08/02(火) 晴 #日光浴 #日向ぼっこ #玄関前 #セロトニン #30分 #治療 #朝食前 #朝散歩 早朝覚醒 気が散漫、下書き書いて投稿忘れ🤣🤣🤣 まぁよき 今日は酷暑だった 2階建2階南西角部屋は、西日と瓦焼けで 熱中症気味 足攣ったり、トイレ多かったり 水分、塩分補給、忘れずに〜 家で勉強してた #双極 #双極性障害1型 #ラピッド #浜松 #睡眠記録 #fitbit #良い1日を #4日連続軽躁 #医学的には軽躁を抜けた #7日連続すると躁に入る診断も #躁 #躁の診断方法 #頭ぐるぐる #熱中症なのか火照ってるのか躁なのか分からない #ひどい便秘 #便秘薬の頓服漢方少し効いた #気が散漫 #気が散る #でも冴える #根拠がない https://www.instagram.com/p/CgwK46AvAJf/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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toubi-zekkai · 3 years
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 江戸期から明治期へと、日本が西洋に倣って近代化していくその過程で喪われたもの、それは暗い夜だったのではないだろうか。暗い夜とは小さな灯火の一つさえ垣間見られない貧しい村を包み込む闇の深淵であり、日本画に於いて描かれることのなかった陰影と対蹠的に重んじられた余白のことであり、歌舞伎役者のセリフとセリフの間に空いている隙間であって、紅色艶やかな金魚の丸い瞳に浮かぶ膨大な虚無の面影、文明開化の名の下に切り捨てられた不合理なもの全てのことである。後世に遺された光の欠片、つまりは記録文献や芸術作品によって暗い夜に対する人々の見解や態度は朧気に想像することが出来る。しかしそれが如何なる夜であったかの実相は完全な暗闇に閉ざされている。なぜなら、言うに言われぬもの、つまり表現や解釈が絶対に不可能な不合理ものこそ暗い夜と呼ぶからである。
 では、暗い夜を選択的に破棄喪失した近代更には現代の日本人がその代替として明るい昼を獲得したのかと言えばそうではない。暗い夜の代わりに我々の世界を覆っているのは明るい夜である。  精神分析学を例に考察すれば解り易いだろう。精神分析学はそれまで我々の自意識の周辺を広漠と覆っていた暗い夜の海の領域を無意識と命名した。そこから少しずつ分析の光を拡大させて、無意識の内にも種々の法則と秩序があることを突き止めた。心の状態を客観的に分類することも可能になり、以前は憑りついた悪霊の仕業だと考えられていた人間精神の状態に種々の病名が名付けられることとなった。鬱病、躁鬱病、強迫性障害、統合失調症、無意識の暗海を悠々航海するフロイト提督とその艦隊はそうして次々と新しい島々を発見したが、それは単なる発見に留まることなく、鉄鋼の艦船に装備していた幾重もの巨砲はその圧倒的な炎の光で未開の島々を次々に征服、其の支配下に置いていった。精神的な病気とそれに対する治療法が発見されたのである。  我々の身体内部には心臓や肺腑、胃腸に腎臓、静脈動脈、更には骨や神経と様々な器官が内臓されているのだが、各器官が正常に働いている限りに於いて身体の内部を感知することは出来ない、その不可知である身体内の領域もまた暗い夜の海なのである。しかしながら或る器官、例えば胃という器官の機能に異常が発生すると苦痛を通して今まで意識していなかった胃という器官が突如として意識に浮上してくる。今まで全く見えなかった対象が朧気にだが見えてくるのだ。そのような意味で苦痛は夜の闇を照らす熱を伴った光だと言えるだろう。  生まれた瞬間の赤ん坊が盛大に産声をあげるのは彼が非常な苦痛を感じているからである。母親の胎内という温かで完全に平穏で充溢したしかし完全に暗く閉ざされた空間から不意に切り離され、一個の独立した存在として胎外へと放り出された彼の全身に宇宙全体の圧力が衝撃的に圧し掛かる。さむく、まぶしく、いたい。しかし彼が生まれて初めて知るその苦痛そのものによって彼は初めて世界というものの姿を認識するのであり、それは永久に続くかに思われた暗い夜の地平線に原初の太陽が輝き始める瞬間なのだ。  苦痛とは認識である。こんな一つの真理に達した経緯には一つの経験があった。それは特別な経験などではなくてごく有り触れた何でもない経験である。  仕事の作業が終わり、私は仄か暗い流し場で汚れた雑巾を洗っていた。季節が二月の初旬である為に蛇口から流れ落ちる水は非常に冷たく、暫くの間その水に触れているとその冷たさは火に触れているかのような熱さへと変わった。と間もなく鋭く強烈な衝撃が胸の辺りに走った。私は思わず小さな呻き声を上げて雑巾を下に落とす。それは心臓が止まってしまうような危険を予感させる痛みだった。  軽い溜め息を何度か吐いて、私は再度雑巾を洗い始める。冷たさを感じる段階は省かれ、今度は熱さを感じる段階から始まる。その熱さに私は違和感を覚える。なぜこれ程冷たい水に触れていながら熱いと感じるのか。この熱さとは一体何の熱さなのか。  それは私の肉体の熱さだった。手の表面の感覚は水に冷やされて著しく低温となっているが、手の内部にあるその血や肉は未だに恒常の体温を保っている。冷水の低温と一体化した手の表面が身体内部の体温を感知するから熱いと感じるのだ。  もし仮に冷水自体が感覚を持っていたとしたならばこの熱さは冷水が感じている私の肉体の熱さだと言えるだろう。しかし冷水は意志を持たず認識もしない。だからそれは鏡のように私の冷えた両手に私の肉体の熱を映し出すのだ。  手と併せて冷え切った血液は腕や肩の内側にある血管を流れて心臓に達する。脈打つ温かい心臓は流入してきた血液の冷たさを感知し、意識の中に心臓の形が浮かび上がる。しかしその姿形はまだ外廓だけでその中身は未だ朧気だ。やがて心臓の表面が冷たくなる。すると冷たくなった心臓の表面が心臓の内部の熱さを感知し始める。意識の中に心臓の内部が浮かび上がり、それは同時に鋭い衝撃、苦痛を齎し、私は雑巾を下に落としてしまう。  しかしながらこのまま怯まずに冷水に手を晒し続けたら、延々と心臓を冷やし続けたらどうなるだろうか。確実に心臓は凍り付き壊死していくだろう。しかしそうして心臓が冷たく凍り付いていく過程でその心臓はもっと深奥で未だに燃えている炎の熱さを感知する。それは生命の炎の本源だ。その炎に触れる感覚は想像を絶する熱さであり死の苦痛であるのに違いない。極限状態に到達した認識は飽和して喪われるであろう。しかしその過程で私は私を焼き滅ぼす私自身の生命の炎を完全に認識するのに違いない。  冷たさは心臓の表面を明らかにする。しかしそれは認識として不完全だ。心臓そのものの内実を認識するには熱さ、つまり苦痛が必要となる。知性の怜悧な光は存在の表面を解き明かすが、存在そのものを認識することは出来ない。存在を認識する為には自らを焼き滅ぼす苦痛の炎の中へ飛び込んでいかなくてはならない。  記憶に刻まれる、という言葉は認識という行為の本質を的確に表現している。記憶というものが脳の中にあるのであれ精神の中にあるのであれ、どちらにせよ自分の中にあるものならば記憶が刻まれるときは当然自分自身が刻まれるのであって、苦痛はその証拠の傷跡である。私自身の記憶を過去に遡ってみても、強く鮮明に残っている記憶の裏には必ず強い苦痛や苦悩が存在していることに気が付かされる。楽しかった嬉しかったという思い出といえども忘れているだけでその前後にはそれ相応の苦しみが存在していたはずである。でなければ記憶には残らないだろう。  少年時代の思い出というものは誰しも鮮明に覚えている。黄金時代とも比喩されるその時代の記憶は長い時を経ても尚色褪せることがない。それは少年という受容体が精神的にも肉体的にも薄弱で未発達で免疫力も抵抗力もなく、外部からの圧力や刺激に対して深い傷を負いやすい存在だからである。大人から見れば何でもない些細な出来事にも少年は深く傷付く。深く傷付いた少年はそれだけ深い苦痛を感じ、同時にそれは認識として魂の深い所に刻まれる。
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