Tumgik
#若宮神社
brownie-pics · 7 months
Text
Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media
'23.9.24 春日大社、若宮神社にて
境内を歩くと沢山並ぶ燈籠の向こう側が、ちょっと気になったりします。
136 notes · View notes
ellie-lili · 2 years
Text
Tumblr media Tumblr media Tumblr media
秋の奈良遠足。春日大社へ。
摂社の若宮神社では、20年に一度の神様のお引越しがあったそう。前日には修復を終えた本殿にご神体を戻す神事があり、訪れた日には神楽と舞楽の奉納祭が行われていました。
そんなの知らなかったのでラッキーでした。
太鼓と笛の音色に導かれて、吸い寄せられるように、生ではじめて神楽を観ることができました。太陽の光が真っ直ぐ降り注ぎ、きらきら輝いて神々しい舞でした。
7 notes · View notes
telmo2112 · 25 days
Text
若宮神社
新潟県新潟市
Tumblr media
0 notes
roundtripjp · 7 months
Text
參拜御神木赤榕、若宮神社後沿著子寶路一走與一泡指宿溫泉就能祈求生子,是為能祈福多子多孫與安產御神德的「若宮神社」!
1 note · View note
nairegosyuincom · 2 years
Photo
Tumblr media
今回は福岡県、天神の中心地 繁華街の中にひっそりと佇む #若宮神社 に伺いました! オシャレな路面店や、ファッションビルなどの間にあります。 とても、人通りが多い場所ですが、 境内に入ると、不思議と落ち着いた空間が流れています。 ご神徳は、商売繁盛と安産や子供の守り神、火難水難除けの神様としても祀られているそうです。 手水舎には、安産のお守り、子安貝のオブジェもありました。 御朱印は近くの、警固神社でいただけました。 買い物や遊びに行った際、訪れてみてはいかがでしょう。 @naire_gosyuin.com_i #福岡県 #中央区 #若宮神社 #警固神社 #天神 #子安貝 #都会のオアシス #商売繁盛 #安産 #パワースポット #福岡観光 #神社巡り #オリジナル御朱印帳 #名入れ御朱印帳 #御朱印 #御朱印ホルダー #御朱印帳ホルダー #御朱印巡り #御朱印スタグラム #御朱印好きな人と繋がりたい #御朱印帳のある生活 #名入れ御朱印.com https://www.instagram.com/p/Ci9yrBbvP6O/?igshid=NGJjMDIxMWI=
0 notes
amiens2014 · 2 years
Text
藤井寺/徳島県吉野川市【四国八十八箇所霊場第11番札所】壇の大クスに立ち寄ってから参拝
藤井寺とは 金剛山一乗院藤井寺(こんごうざん いちじょういん ふじいでら)は、徳島県吉野川市鴨島町飯尾(とくしまけんよしのがわしかもじまちょういのお)にある臨済宗妙心寺派の寺だ。 四国八十八箇所霊場第11番札所で、本尊は薬師如来(やくしにょらい) 寺号の「寺」を「じ」でなく「てら」と読むのは、四国八十八箇所霊場のうちここだけだ。 大師は42歳の厄年に当たり、自らの厄難を祓い、衆生の安寧を願って薬師如来像を彫造して、堂宇を建立した。その地からおよそ200メートル上の8畳岩に、金剛不壊といわれる堅固な護摩壇を築いて、一七日間の修法をされた。その堂宇の前に5色の藤を植えたという由緒から、金剛山藤井寺と称されるようになった。 金剛山 一乗院 藤井寺 – (一社)四国八十八ヶ所霊場会 から引用 藤���寺 徳島県吉野川市鴨島町飯尾1525 0883-24-2384 (more…)
Tumblr media
View On WordPress
0 notes
ken-df · 2 years
Text
Tumblr media
0 notes
pix4japan · 1 year
Photo
Tumblr media
Three Subordinate Shrines (Hiratsuka Hachimangu Shrine, Kanagawa Pref., Japan)
Shinmeisha Shrine (神明社)
The small shrine on the left enshrines three deities of success and prosperity in business.
Wakamiya Shrine (若宮社)
The slightly larger shrine in the center enshrines a guardian deity for parenting and children.
Suwa Shrine (諏訪社)
The small shrine on the right enshrines a deity of good luck and traffic safety.
All three shrines have an ancient style of Shinto shrine architecture with forked finials called chigi (千木) that extend out and above the roofline.
An old document from the year 804 references the prescribed dimensions of the finials, which have both a structural and decorative purpose.
Open-ended slots at the ends of the finials indicate that a female deity is enshrined, where a vertical slot indicates a male deity being enshrined.
Pentax K-1 II + DFA 28-105mm F3.5-5.6 28 mm ISO 100 for 8 sec. at ƒ/10
70 notes · View notes
yoooko-o · 1 year
Text
09/01/2023 part3
Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media
45 notes · View notes
yamada50 · 2 years
Photo
Tumblr media
長宗我部元親公初陣祈願の社 若宮八幡宮 豊臣秀吉軍先鋒隊として九州征伐も島津軍に惨敗しここの鳥居を海上彼方に流しやったと伝わります #神社巡拝家 #若宮八幡宮 ┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈୨୧┈┈┈┈┈┈┈┈┈ 若宮八幡宮(わかみやはちまんぐう) 鎮座地:高知県高知市長浜6600 主祭神:誉田別命,息長帯比売命,宗像三女神 社格:県社 ┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈୨୧┈┈┈┈┈┈┈┈┈ #shrine#神社#神社巡り#神社好きな人と繋がりたい#神社好き #japan_vacations#japantrip#Travelgram#recotrip #御朱印#御朱印巡り#御朱印帳#御朱印集め#御朱印好きな人と繋がりたい#御朱印集めてる人と繋がりたい #鳥居 #神社仏閣#パワースポット#高知市 #長宗我部元親 (若宮八幡宮 (高知市)) https://www.instagram.com/p/CeTq1KUPBN3/?igshid=NGJjMDIxMWI=
58 notes · View notes
brownie-pics · 1 year
Photo
Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media
‘22.11.23 若宮神社・春日大社・水谷茶屋・手向山八幡宮にて
本当ならTumblr繋がりの方々と奈良公園の散策を企てていた日。
ピンポイントで当日のみ雨予報ということで、泣く泣く延期。前日から撮影モードに入ってた僕は地元の強みもあって、とりあえず出かけました。
やはり雨がしんしんと降っていて、若宮さん、春日さんと屋根あるとこ伝いに移動。こんな日にわざわざ撮りに来てるの僕ぐらいだろうなぁと思ってたらインスタ繋がりの写友さん登場w。お互いもの好きだなぁww。
そんな訳で2人で傘差して撮りつつ北へ移動。ぐるっと公園内周って南大門辺りで別れました。
機材や服に気を使いますが、これはこれで楽しいですw。
344 notes · View notes
baaly-k · 7 months
Text
Tumblr media Tumblr media Tumblr media
2023年10月11日(水)
三経塚~若草神社~米川カトリック教会~後藤壽庵~不老仙館~せん荷神社
・・・・・後藤壽庵の墓がなかなか見つからず参ったWW
4 notes · View notes
poddyshobbies · 2 years
Text
博多の厄除神社 ~ 若八幡宮
Tumblr media
福岡・博多で厄払いと言えばこちらです。時期によっては会社関係や個人の方々で多い時もありますが、何もない平日でもお祓いを受ける方が訪れるので常時受け付けを行ってます。(当日の現地受付のみです。)
Tumblr media
博多駅から徒歩10分、地下鉄やバスの祇園から数分です。ちょっとだけ歩いたところに提携の立体駐車場があります。(無料になります。)
Tumblr media
受付用紙(基本は白い用紙)に氏名、住所、年齢(かぞえ)を書いて初穂料と一緒に社務所で受け付けてもらいます。個人は3千~1万円、企業は1万円~くらいでしょうか。
Tumblr media
お祓いの終了後に祈願章とお供え物を社務所と受け取ります。初穂料によって内容が違います。ちなみに5千円になるとお神酒が付きますし、1万円だと博多織の敷布が付いてたりしてました。(数年前)
Tumblr media
↑ 写真の左手に待合室があります。
Tumblr media
本殿裏の力石
Tumblr media
↓ 写真右手がお祓いを受ける場所
Tumblr media
お宮さんの前は福岡市水道局(コインパーキング)
Tumblr media Tumblr media
コロナ渦で人も少なく、若干簡略化してる(?)ようで、お祓いは椅子に座って10分ほどでした。(途中短時間、立つ場面もあり。)
Tumblr media
縁起物のお箸、御守りにお供え物の落雁。
2 notes · View notes
shirasuphoto · 2 years
Photo
Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media
東京八景 玉電301
3 notes · View notes
tenshitsukinuke · 4 days
Text
てん し つき ぬけ
👼 「 天 使 突 抜 」
にまつわる話し… 📝
youtube
📝「 天 使 突 抜 」 の由来 -----
「天使」と言えば、羽根の生えたかわいい神の使いのエンジェル を想像してしまいますが、︎ この「天使突抜」の 天使 はそんなロマンチックな話しではなく、日本の歴史的な話しになりますーーー それは、牛若丸(源義経)と武蔵坊弁慶が、平安時代末期 1176(安元2)年に出会った京都のとある神社 → 平安遷都 の 794(延暦13)年に創社の 『 天使の宮 』 = 『 五條天神宮(ごじょうてんしんぐう) 』の 由緒ある歴史的な名前から きています〜!?
▼ ▼ ▼ ▼ ▼ ▼
✍️端的に『天使突抜(てんしつきぬけ)』を説明す���と、次の① ② ③ になりますーーー
① 『 天 使 』 →
「天使の宮(五條天神宮)」を指す。
その「天使」とは、主祭神:「少彦名命(すくなひこなのみこと、すくなびこなのみこと) 」 の 別名・通称名。
〒600-8459 京都市下京区松原通西洞院西入ル天神前町351番地 に鎮座する、794年 平安遷都時に創社した洛中古参の神社。なお、当時の「五條通」は、現在の「松原通」。
また 中世以来、度々火災に遭い規模の縮小を余儀なくされ、現在の社殿は近時の再建で、1888(明治21)年に今の 幣殿 を再建、 1933(昭和8)年10月に本殿をはじめとした各建造物を改築し、現在に到ります。
② 『 突 抜 』 →
近世(安土桃山〜江戸時代)の京都市中の道路形態の一種。大路や小路の間に新しく通した南北の道路で、あいだに寺社や邸宅などがあって分断されるものを言う。
③ 『 天 使 突 抜 』 ▶︎▶︎▶︎
時は、16世紀末 安土桃山時代…豊臣秀吉が実施した 京都都市大改造事業の一環で、正方形街区を南北縦割りの短冊形=長方形街区に分断して、新たに通りを増やす「天正の地割(てんしょうのじわり)」政策により、「天使の宮」の当時 広大な境内の真ん中を分断して、南北を通る道「天使突抜通(現:東中筋通)」を新しく建設し、その辺りの町名を「天使突抜○町目」としたことによる。
Tumblr media
◤◢◤◢◤◢◤◢◤◢◤◢◤◢
✍️ もう少し詳しく知りたい方や興味のある方は、少々長くなりますが、以下の説明をご覧くださいーーー
⏱️ 時はさかのぼり〜平安遷都の西暦794年に始まり、16世紀末 豊臣秀吉の安土桃山時代の頃になります。
Tumblr media
「五條天神宮」は、794(延暦13)年の平安京遷都の際に桓武天皇の命により、弘法大師・空海によってこの地に 大和国宇陀郡(奈良県)から 天神(あまつかみ)を勧請(かんじょう)されたと伝わる洛中最古社。創建当初から「天使の宮」や「天使社」とよばれ、鎌倉時代初期に「五條天神宮」に改められました。
「五條天神宮」のご祭神は、次の3柱です。
①主祭神:「少彦名命(すくなひこなのみこと、すくなびこなのみこと)」
②配祀神(はいししん):「大己貴命(おおなむちのみこと)」=「大国主命(おおくにぬしのみこと)」
③配祀神:「天照大神(あまてらすおおみかみ)」
農耕、病気退散の神、疫神、厄除け、医道の祖神、医薬、禁厭(きんようorきんえん、まじないの意)の神様として、古くから広く崇敬されてきました。
ちなみに、神話をもとにして、我が国の「薬祖神」として崇められているのは、「少彦名命(すくなひこなのみこと、少名毘古那など11通りの書き方がある) 」と 「大己貴命(おおなむちのみこと、大国主命など合わせて6つぐらいの異名がある)」である。二神が力を合わせて国を治め、人々や家畜の病気の治療法を定め、獣や昆虫の害をはらうまじないを教えたと言われています。
👉 3柱あるご祭神の内の主祭神である「少彦名命」の異名である「天子」の呼称は、当時は 神の子孫であるとした天皇 を示す言葉で 混同しないようにと配慮されて、神の使いを表す『天使』に呼び名を言い換え、創建当初から「天子の宮」ではなく「天使の宮」または「天使社」と呼ばれ、その近辺の住人達からは「お天使さま」とも呼ばれていたようです。
👉 ちなみに、794年「天使の宮」創建のほぼ半世紀後に生誕された「菅原道真(845〜903)」 の霊を祀った天神(てんじん)とは別モノですが、本殿の背後にある境内社の中に 菅原道真 を祀る「筑紫天満宮」(洛陽天満宮二十五社順拝 第3番)と、菅原道真と縁の深い ご祭神:十川能福(そごうのうふく)の「福部(ふくべ)」神社 及び ご祭神:渡会春彦(わたらい はるひこ)の「白太夫(しらだゆう)」神社が鎮座しています。
それは、北東方角100m強程の離れた 西洞院通仏光寺 菅大臣町に位置する、菅原道真 の生誕地「菅大臣神社」(洛陽天満宮二十五社順拝 第1番、菅公御霊地三社)が鎮座していることと、関係しているのかも知れません。
平安時代後期の 久寿年間(1154-1156)には「祇園社(現在の京都市東山区にある 八坂神社の旧称)」の末社でしたが、その後 平安から鎌倉時代初期に天皇家の支配下になり、少なくとも南北朝時代の1390年に再び「祇園社」の末社に戻ったといわれています。
👉 鎌倉時代初期の第82代・後鳥羽天皇(在位: 1183-1198)の支配下にあった「天使の宮」は、「五條天神宮」と改められました。
Tumblr media
👉 なお、清水寺への参詣道としてもにぎわった「五條大路(五條通)」は、豊臣秀吉の京都大改造までの呼称で、以降は「松原通」と呼ばれるようになり 今に至ります。
源義経(1159-1189)とその主従を中心に書いた作者不詳の軍記物語『義経記(ぎ���いき)』によると、平安時代末期の 1176(安元2)年6月に 源義経(牛若丸)が 武蔵坊弁慶(?-1189)と出会った場所として描かれています。
それに取材した 謡曲「橋弁慶」でも弁慶は五條天神に丑の刻参りに訪れた際に五條大橋に現れる牛若丸の存在を聞いて橋へと向かったとされ、また その様子は京都では有名な「祇園祭・後祭」の「くじ取らず」の山鉾巡行 一基目の「橋弁慶山」でも描かれ、おなじみの光景となっています。
👉 当時「天使の宮」の東側を通る 西洞院通(旧:西洞院大路)には「西洞院川」が流れていました。牛若丸と弁慶の立合いがあったのは、天使の宮から約1.2km離れた五條大橋(現:松原橋)ではなく、この西洞院川に架かっていた橋という伝承もあり、確証はありませんが、この説の方が自然なのではと思われます……
👀…………………………………👀
✍️ それから 時は16世紀末の 豊臣秀吉 の安土桃山時代にワープしますーーー
1582(天正10)年に 明智光秀 が謀反を起こし、京都 本能寺に滞在する主君・織田信長を襲撃した「本能寺の変」後、羽柴秀吉はいち早く行動をおこし、戦国の騒乱に終止符を打ちました。
秀吉は、1585(天正13)年に関白職を 受け、1586(天正14)年に豊臣の氏を賜り太政大臣に就任し、政権を確立すると同時に、戦国時代からの荒廃した京都の町の復興のため、かつての平安京の「条坊制」の特長を残しつつ、京都の地形並びに治水対策、商業を含めた街の活性化・繁栄のための街区の町割区画整備 等を考えた綿密な計画のもとに、下記の主な①から⑤の京都大改造の事業に取りかかり敢行しました。
👉 これにより 現在の京都の基盤を築きあげ、今日の京都を形づくったのは、天下人となった 豊臣秀吉 だったのてす。
① 「聚楽第(じゅらくだい、じゅらくてい)」の造営を 1586(天正14)年 に開始し、その周辺に「大名屋敷町」を建設しました。
② 「御所の修築」を 1589(天正17)年 から行い、その周辺に「公家屋敷町」を配置しました。
③ 「寺町・寺之内」の「寺院街」を 1590(天正18)年 に造成して、主に「寺町通」沿いおよび「寺之内通」沿いに寺院を「京中屋敷替え」と呼ばれた強制移転を強行し 集中させました。
④ 「天正の地割(てんしょうのじわり)」を1590(天正18)年から翌年にかけて敢行。平安京からの「条坊制」による 正方形街区=碁盤の目の区画を、要所要所で 縦=南北 に短冊形に割って 長方形街区にして 区画及び通りを増やし、街区の町割区画を整備・再編成。
この時の町割の変更に伴う新たな通りの建設事業が、「天使突抜」という地名ができるきっかけとなります。詳しくは、後述します。
⑤ 「御土居(おどい)」を 1591(天正19)年に、外敵の襲来に備える 防塁 と 川の氾濫から街を守る 堤防 として、京都の周囲を丸ごと取り囲む土塀を、防御施設=総構として張り巡らせました。その範囲は、北は上賀茂から鷹ヶ峰、西は紙屋川から東寺の西辺、南は東寺南側の九条通、東は鴨川西側の河原町通まで、南北約8.5km、東西約3.5km、総延長は 約22.5kmにも及びます。
この御土居によって、京都市中を意味する「洛中」と、外部である「洛外」が明確化されました。そして 御土居には「京の七口」と呼ばれる関所となる出入り口がつくられ、これによって京都に入ってくる人間をチェックするようになりました。
---関白になった豊臣秀吉は、京都を実質的に支配し、応仁の乱等で大半が焼失し荒廃した京都を大規模な都市改造政策をもって復興させ、①から⑤等の多くの都市改造の大事業を敢行し、聚楽第の建造や街区の町割区画整備 等の施策を中心に 洛中の周囲を土塁で囲まれ、容易に攻略できない巨大な城郭(城塞)都市に生まれ変わったのです。
👀…………………………………👀
✍️ 「天使突抜」の名前由来の話しに到達する前に、もう少し関連する歴史的な話しが続きます--- それでは、1590 (天正18)年 の ④「天正の地割(てんしょうのじわり)」 の話しになりますーーー
室町時代後期から力を付けてきた京都の商人は、「通りに面した向かい合わせた両側」のコミュニティを1つの町(ちょう)と考える「両側町」と呼ばれるグループを構成し、一体感を背景としたにぎわいをみせるようになっていました。
それまでの平安京からの「条坊制」による 正方形街区の場合、1区画が約120m四方の正方形のブロックの四辺に住居や商店が建てられ、中央部分が空き地になることが多く、農地として利用されたり 空き地になったりして、無駄な土地が多いという欠点がありました。そして、当時は「間口税」という 間口の幅=道路に面した建物の正面の幅 の広さによって税金の額が決められていたので、碁盤の目のような正方形街区を2つに分けて長方形にして面を増やせば、税収とは無関係だった中央の空き地部分にも商店や住宅が建てられ、より多くの間口税を徴収することができるようになります。
そこに秀吉は着目し、京都の復興には「商業の発展」が不可欠との確信から、町割と通りを増やして 街や商業の活性化 及び それに伴う「間口税」の税収増を目指し、平安京からの「条坊制」による 正方形街区=碁盤の目の区画を、要所要所で 縦=南北 に短冊形に割って 長方形街区にして 区画 及び 通り を増やし、町割を大きく変更する「天正の地割」を敢行しました。これにより、京の街路は南北120m、東西60m間隔で長方形状に区画されることとなり、現在に至っています。
新設された南北の通りの 東は 寺町通 から西は 大宮通 にかけてで、北端は 丸太町通 から南端は 五条通 付近となっているものが多く、後に延長されたものも多いとされています。
新設された南北の通り名を 東から順に次に記しますが、「 --- 」で続けて記した通り名は、道の途中で一旦中断して 数町(丁)進んだところで 南北の道が再び始まる同一直線上にある通りのことになります。
① 御幸町通(ごこまちどおり)、② 富小路通(とみのこうじどおり) ………平安京の 富小路通 は現在の 麸屋町通(ふやちょうどおり) にあたる、③ 堺町通(さかいまちどおり)、④ 間之町通(あいのまちどおり)、⑤ 車屋町通(くるまやちょうどおり) --- 不明門通(あけずどおり)、⑥ 両替町通(りょうがえまちどおり) --- 諏訪町通(すわんちょうどおり)、⑦ 衣棚通(ころものたなどおり) --- 小田原町通(おだわらまちどおり)、⑧ 釜座通(かまんざどおり) --- 若宮通(わかみやどおり)、⑨ 小川通(おがわどおり) --- 東中筋通(天使突抜通)、⑩ 醒ヶ井通(さめがいどおり)、 ……… 他
また、四条烏丸 を中心とする一帯(下京の中心部)は、天正地割以前から十分に市街地が発達していたため、通りの新設は行なわれなかったので、この地域では平安京以来の正方形の区画が残っています。
👉 そのうちの一つとして、五條通(現在の 松原通)にある 天使の宮・天使社 とも呼ばれた「五條天神宮(ごじょうてんしんぐう)」の 広大な鎮守の森= 「天使の杜(もり)」を、南北に貫通するかたちで街路を分断し、その「天使の宮を突き抜けて作られた道」を「天使突抜通(てんしつきぬけどおり、現在の 東中筋通)」、その道に沿った 両側町 の町名(ちょうめい)を「天使突抜○町目」と呼ぶようになりました。その後、太平洋戦争終戦以降は「天使突抜○丁目」に変わったようです。
Tumblr media
ちなみに、「突抜(つきぬけ)」 とは、近世(安土桃山〜江戸時代)の京都市中の道路の一種。大路や小路の間に新しく通した南北の道路で、あいだに寺社や邸宅などがあって分断されるものを言います。
かつての 「天使突抜通」は、現在では名称が変わり「東中筋通(ひがしなかすじどおり)」と呼ばれ、西洞院通(旧:西洞院大路)と 油小路通(あぶらのこうじどおり、旧:油小路)の間に位置します。
北は 仏光寺通(ぶっこうじどおり、旧:五条坊門小路)から、南は 木津屋橋通(きづやばしどおり、旧:塩小路)までの下京区を南北に貫通する細い小路(こうじ、しょうじ)です。
👉 東中筋通(旧:天使突抜通)に沿っての両側町で 天使突抜の町名 として名付けられ、
①松原通(まつばらどおり)の少し南から 万寿寺通(まんじゅじどおり)までの 天使突抜一町目、
②五条通までの 天使突抜二町目 があり、
③五条通より南へ楊梅通(ようばいどおり)までの 天使突抜三町目、
④六条通(ろくじょうどおり)までの 天使突抜四町目 があります。
余談ですが、京都市のほとんどの 町名 は 末字(まつじ)に「町」がついて「○○町」と呼びますが、「天使突抜○丁目」は末字に「町」がつかない町名になります。ただ、その町内住人は 例えば 「天使突抜二丁目」と呼ぶには少々長いので普段は略して「天二町」と呼んだり書いたりしています。
Tumblr media
( 注📝 現在の「堀川通」や「五条通」や「高辻通」は、太平洋戦争時の空襲被害に備えるための 防空空地や消防空地 設営の「建物強制疎開」により、終戦年の1945(昭和20)年前半に道路幅がそれぞれ拡張されています。また、その時の「堀川通」の道路幅拡張により、五条通以南の「醒ヶ井通(さめがいどおり)」は消失し、オマケに「京の三名水」の一つの「左女牛井、醒ヶ井(さめがい)」の円井戸の源泉が消滅してしまいました。)
Tumblr media
👀…………………………………👀
✍️ 【 天正地割 の副産物 「路 地」 】
西暦794年の平安遷都では、中国の都:長安をモチーフに、街区の町割りを「条坊制」が採用されました。大内裏(平安宮)と羅城門を結ぶ朱雀大路を南北に通し、そこを境として左京・右京を配置。東西南北に、大路(おおじ)・小路(しょうじ、こうじ)と呼ばれる通りを張り巡らせることで、碁盤の目のように 縦横の一辺が一丁・一町(約109m、道路幅含まず)の 大きなほぼ正方形街区に区分けされた町並みが生まれ、通りに囲まれた区画の中心部に入るために作られた道が、「辻(つじ)」や「辻子・図子(ずし)」や「路地(ろーじ、ろうじ、ろじ)」=「露地・露路」です。
更に、1590 (天正18)年 から翌年にかけての「天正地割」によって南北を通る小路が増え、そして 建物と建物の間を通る「辻」や「辻子(図子)」や「路地」=「露地・露路」と言われる 普通の小路より更に細い=狭い 道幅の通り道が たくさん増えました。
Tumblr media
通り(大路、小路)をつないで家(建物)と家(建物)の間を通り抜けられる=突き抜けられる 狭い道を「辻」や「辻子(図子)」と呼び、袋小路(行き止まり)になった通りの道を「路地」と呼んで区別することがあるようですが、辻・辻子(図子)も含めて 路地 と総称するため、明確な区別はないともいわれています。
もともと「辻」は、十字状の道を表す「十字」という言葉に由来して作られた字で、次第に細い通りを「辻子」「図子」と表すようになったとのことです。
「路地(ろーじ)」には、「コ」の字型や「L」字型になっていて、入り口とは違うところに通じているものや、路地の入口に面した通りとは反対側の通りへ出る通り抜けられる路地もあります。
1949(昭和24)年生まれの私の幼少時に住んでいた京都市下京区有隣学区内では、当時の大人の人達や私も含めて、コの字型やL字型等の曲がって通り抜けられる路地のことを「抜け路地(ぬけろーじ)」と呼んだりしていましたが、辻子(図子)という言葉は 最近まで聞いたことがなく、古稀過ぎてから 京都通 などのサイトに出てくるネット検索で知った言葉です。今住んでいる天使突抜町でも 誰もその言葉は使わないし、耳にしたことはありません。その類いの道は、「路地(ろーじ) 」や「抜け路地(ぬけろーじ)」とか「 辻 」と呼んでいます。ただ それは、私が住んできた限定的な地域的な特徴かも知れませんが……
Tumblr media
 「路地」というのは、その路地の中にある家に訪れるために通る道としての通路のようなものなので、一般の小路を通る場合とは少し異なり、閉鎖的で私道的な雰囲気もあることから、無用の者が立ち入るのはちょっと躊躇もしくは気が引ける感じになりがちです。なかには、路地の入口にそこの住人の「集合表札」が掲げられていたり、「無用の者の立ち入りはお断り」というような注意書きが路地の入口に張られている場合もあったりします。
ところで、私の個人的見解での 小路と路地の違いは、端から端までの全ての道路が、 車(自動車)が通れる幅があるかないのか、及び 車が通れるように地面が整備されているかいないかの差ではと、勝手に解釈して区別していますけど……
👀…………………………………👀
📝①参考までに--- 建 物 疎 開
今は 五条通や堀川通や御池通など京都市の 大幹線道路として広い道幅になっていますが、これは「太平洋戦争」時の米軍の無差別爆撃の空襲による火災の延焼防止 の対応策として 防火地帯(空地) 等を設けるため、それまでは他の道路と同じような細い道幅だった通りの道路沿いに佇んでいる家屋を、戦争の名の下に 有無を言わさず「取り壊し=建物疎開=家屋等の強制撤去」が無惨にも遂行され、道路幅を拡張させられたことによります。
京都府 約2万戸、京都市 で1万世帯以上が 1944(昭和19)年から翌年の1945(昭和20)年 終戦時までに、建物疎開が 第1次~第4次まで���分けて 以下の内容で強行され、無惨にも建物強制疎開で拡張されたことを、特に京都市民は 決して忘れないようにしたいものです🙏
 1、『 防空空地帯 』・・・防火帯、緊急避難路、防空活動道路としての利用を目的に、50〜100メートル幅で指定。京都駅周辺、堀川通、御池通、五条通。
 2、『 防空空地 』
イ、「 交通疎開空地 」……交通要地の防護が目的。京阪三条駅周辺、四条大宮交差点、梅小路駅周辺など。
ロ、「 消防空地 」……消防活動用の道路拡幅。智恵光院通、七本松通、高辻通など。
ハ、「 疎開小空地 」……軍需工場、役所、変電所、病院等の周辺を空地にしてそれらの施設を防護。
Tumblr media
📝②参考までに--- 京都の空襲
京都は、太平洋戦争時の 米軍による 当初原爆投下候補地の第3の原爆投下予定地だったようで、威力を分かりやすくするために、京都市内の空襲を5回程度の散発的に爆撃を控えた…とされています。その空襲は、終戦年の1945年1月から6月にわたって5回の空襲(馬町空襲、西陣出水空襲 他)を受けて 約100名程の死者が出ています🙏
Tumblr media
ーー ーー ーー ーー ーー
0 notes
duhduhduhdadada · 1 year
Text
Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media
通称 厄八幡
福岡市のメジャー厄除けスポット
相方と揃って厄祓い
1 note · View note