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#萬徳寺
papatomom · 7 months
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2023.11.04(sat)
若狭路をぶらりドライブ。
「海のある奈良」「小京都」と呼ばれている小浜市。紅葉にはまだ少し早かったけれども、初めて訪れる寺院は見ごたえがあってよかった。
昼食は「うなぎ料理 徳右ェ門」さん。
他でもちょこちょこ食べたいものがあるかもっていうことで、ほどほどの量の「うな丼」を食す。肝吸いもついてます。三方五湖で獲れる鰻は、薄皮で身はふっくら絶品です。
家のお土産は、敦賀の「天清酒万寿店(てんせさかまんじゅうてん)」さんで酒饅頭、自分用に「小浜酒造」さんの「純米吟醸わかさ」を購入。
〇高野山真言宗 石照山 多田寺(御本尊:薬師如来)
この御本尊は眼病に効き目があるらしい。
〇比叡山天台宗 霊応山 神宮寺(御本尊:薬師如来)
3月2日に神宮寺の境内にある「閼伽井戸(あかいど)」で汲まれた水を、1.8km先にある「鵜の瀬」から流し(お水送り)、3月12日に奈良東大寺二月堂で「お水取り」が行われる。1300年以上続いている。
神仏習合のお寺でもある。
〇高野山真言宗 延宝山 萬徳寺(本尊 阿弥陀如来坐像)
高齢の名誉住職 田中寛孝(かんこう)さんが説明をして下さいました。
埋石式枯山水庭園が有名。庭園横の座敷の欄間には、小浜藩藩主 酒井忠貫(ただつら)公の水墨画が残されている。また高野山関連で有名な吉祥宝来の切り絵が3点ほど掲げられていた。写真は今年の干支の「兎」
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oniwastagram · 2 years
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📸極楽寺庭園“清閑庭” / Gokurakuji Temple Garden, Kinosakionsen, Hyogo 兵庫県豊岡市の『極楽寺庭園“清閑庭”』が素敵…! “関西の奥座敷”城崎温泉の温泉街に佇む禅寺に昭和年代に作庭された五色の配色が美しい石庭は重森三玲からの影響を感じる…?江戸時代にかの沢庵和尚に再興され、山門は豊岡市指定文化財、大正時代に再建された近代の建築の本堂は国登録有形文化財… 兵庫・極楽寺庭園“清閑庭”の紹介は☟ https://oniwa.garden/gokurakuji-temple-toyooka-kinosakionsen/ ...... 2021年9月、先に紹介した『香住海岸』『帝釈寺庭園』の後に初めて城崎温泉に立ち寄りました♨️ お目当てはこちら、臨済宗大徳寺派の「萬年山 極楽寺」。近畿楽寿観音霊場第三番札所。城崎温泉の代表的なお寺『温泉寺』(国重要文化財)へと至る城崎ロープウェイ🚡の山麓駅からも程近く。 . その歴史は、室町時代初期の応永年間(1394年~1428年)に同じく沢庵和尚ゆかりの出石の『宗鏡寺』を開いた金山明昶(きんざんみょうしょう)禅師により創建。 . その後は一時衰退〜荒廃するも、江戸時代初期の寛永年間(1624年〜1644年)に沢庵により中興。 城崎温泉を好み湯治にたびたび訪れていた沢庵和尚🧖‍♂️はこの極楽寺で寝泊まりし、城崎温泉で詠んだ歌も多く残されているとか。 . その後は豊岡藩主・杉原伯耆守にも信仰され、1652年に寺領を寄進され現在の寺観が整えられました。 元禄年間(1688年~1703年)より残る山門が豊岡市の文化財、本堂(方丈)は後に焼失し1921年(大正10年)に再建された近代の建築ですが、今日では国登録有形文化財に。 . そんな本堂(方丈)前庭として枯山水の石庭“清閑庭”があります。 京都の白川砂、鞍馬の赤石・吉野の青石による七五三の石組、そして苔の緑や黒石と五色の色使いで表現された“心の象形庭”。山に囲まれたお寺のロケーションも含めすごくいい!⛰ 続く。 ーーーーーーーー #japanesegarden #japanesegardens #kyotogarden #zengarden #beautifulkyoto #beautifuljapan #japanesearchitecture #japanarchitecture #japandesign #japanart #jardinjaponais #jardinjapones #japanischergarten #jardimjapones #bonsai #建築デザイン #アート #庭園 #日本庭園 #京都庭園 #庭院 #庭园 #枯山水 #枯山水庭園 #karesansui #石庭 #城崎温泉 #toyooka #兵庫庭園 #おにわさん (極楽寺) https://www.instagram.com/p/CfqqpC7PAjG/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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mytimchang · 5 months
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上工囉!2705
0105.24  星期五     晴午後起霧霾 …….
天氣真好!不過還是有點冷冷 ….
昨天下午跑完第四趟回到公司整理完物件袋有提早二分下工,因為冷冷?又想吃大塊控肉,所以下工後還繞去龍山寺旁去買自助餐,加上還要洗衣服所以晚上就偷懶休息。
早上五點多快六點就起床,然後上網回魂半個多小時六點半多就到化妝室梳洗整理,出來穿好衣服就可出門上工囉!去到公司整理完物件袋因為找袋子等袋子有慢點上路,到八里提早21分抵達跟昨天一樣還可以慢慢的抽二根煙,今天換別人處理不到十分就離開,到蘆洲跑完第一家後就轉往長榮進九芎再轉中山先跑三四再返回第二跟五,到第六還有七分可以玩鳥抽根煙等九點開門!
九點一開跑就還算順,雖然有搶到超順暢的綠燈?不過因為從蘆洲開��很多路口都有警察!應該是有某人要到此遊行造勢吧!而且到三重的路口更誇張!所以後來就不敢造次的走人行道,然後又誤判?唉 …. 多等一個長紅燈,到三重第一家也不能騎上人行道,因為那個正義北路上起碼有十位警察啦!這便四位那邊五六位,對面也還有二位啦!所以只能把車停到後面的路邊,還好過了重新到正義南就沒警察了!最後跑完就只有比標準快七分囉!還是會去抽二根菸再回公司 …
回到公司交完袋子就要在門口等帥弟任回來了!今天早二分回,接著跑中山北跟一零一大樓都還算滿順,跑完之後回到公司放好裝備袋就可以回家休息了!還是會在一點左右回公司拿袋子再回家繼續休息!
待到三點多就要出門去跑第四趟也是今日最後一趟三重區的物件了!第一家難得沒多等,第二家卻等六分,再來第三家可以馬上拿不用再繞回來補收,接著有四樓件多收,第四家又多等五分,再來就沒在多耽擱,不過最後跑完就比標準慢二分了!唉 …..
跑完之後回到公司整理完物件袋還沒提早下工,回到家吃完飯貪看電視七點十分才上線開跑,騎車上路後才給單,前到延北二,後民權西承德,接著走寧夏北到寧夏再來到雙連才給雙連單,前到四平建國,後慶城,本來想在慶城待機?結果烏龜太多,這邊那邊加起來起碼五六隻就只好放棄離開了。
不過就在一離開到復興就給單,前到忠孝敦化,後在對面,剛好就統領跟明曜。
再來216巷加通化單,居然回西區前到莒光尾,後萬大徳昌,再來寶興加環河艋舺夜市單,同一人到板橋文化二雙十。
因為已經快十點,又沒馬上來單,送完就休息。
晚上跑十單6.1分!算普普還可以!
今日體重測量61.5公斤至63.0公斤
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shakuhachi-kataha · 1 year
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普化禅宗 虚無僧寺惣本寺 一月寺特集!
一月寺の歴史、松戸市立博物館、菩提寺の萬満寺の遺石巡りなどなど、三回に分けての特集です。
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ponkichi-hatayama · 4 years
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我がこころ洗わる風景   こんばんは!  誰でもどこでも スマホひとつで 新しい働き方を追求する スマホ在宅ワーカーの畑山です。   いよいよ秋本番  紅葉が始まりますと やはり訪れたいのは“京都“です。   訪れたい場所は山ほどありますが、 その中からダントツですね。   京都には、有名な神社や仏閣が 沢山あります。   好きな場所は、これまた悩みますが、 天尊の鞍馬寺、牛頭天王の八坂神社、 男山八幡宮、摩利支天の禅居庵、 三面大黒天の圓徳院、布袋尊の黄檗山萬福寺、 など書ききれない程あります。  季節柄外せないのが“清水寺“ですね。   三年坂から始まり絶景の清水寺 紅葉に囲まれた姿はまさに  “我がこころ洗わる風景“���  みなさんは、この清水寺の土台を 見たことありますか?  長さ13mの欅(けやき)樹齢400年 とされています。 そんな柱が18本! 本堂と舞台を支える柱は、 なんと総数172本なんだとか!  釘を使わない手法は、 幾度とあった地震にも耐える 耐震構造の原点なんだと、 お聞きしました。  特に一番長い柱は早々に手に入らない為 建て替えを想定して植樹をし、 育てているみたいです。   この世の中のビジネスも 見たこともない大舞台を 夢見ているだけではなく  足場をゆるぎないモノに築き 地道な努力が必要なんだと  気づかされることが 清水寺の大舞台から得たことです。   時には原点に返り 次なる発展にもフィードバックすること も必要かな。   #japanoninsta #ponkichi516 #清水寺 #黄檗山萬福寺 #摩利支天 #禅居庵 #天尊 #鞍馬寺 #牛頭天王 #八坂神社  #男山八幡宮 #三面大黒天 #圓徳院 https://www.instagram.com/p/CGvy-TtAQm4/?igshid=36txe8lxklco
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sharp7datwikk · 4 years
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6月16日に訪れた遠州三山のひとつ『萬松山 可睡斎』。催事の際には一際多くの人が訪れるのだとか♪ #萬松山 #可睡斎 #徳川家康 #聖観世音菩薩 #遠州三山 #風鈴 #風鈴まつり #my_eosm100 #寺社仏閣巡り (可睡斎) https://www.instagram.com/p/CB3F3aVgk0i/?igshid=1eje8lrc08n79
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palsuke · 4 years
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常楽山萬徳寺の釈迦涅槃佛
野島崎灯台(南房総市)
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oniwastagram · 3 years
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📸東福寺 天得院庭園 [ 京都市東山区 ] Tofukuji Tentokuin Temple Garden, Kyoto の写真・記事を更新しました。 ーー桃山時代に作庭された一面苔の枯山水庭園にキキョウが咲きほこる #桔梗の寺 。初夏と紅葉時期に特別公開。 ...... 「萬松山 天得院」は京都を代表する寺院の一つ『東福寺』の塔頭寺院で、紅葉の名所🍁として知られる“臥雲橋”を渡って“日下門”のすぐ門前にあります。 一面の杉苔🌿が美しい枯山水庭園は桃山時代の作庭とされ、夏にはその苔中に約300本のキキョウが咲き誇る“桔梗の寺”として知られます。 . 普段は非公開ですが、キキョウの花が咲く初夏と紅葉が見頃になる11月に特別公開。2020年秋に初めて拝観しました。 . 歴史について。創建は南北朝時代の正平年間(1346〜1370年頃)。東福寺の30世住持・無夢一清禅師により開かれ、今も数ある東福寺の塔頭寺院の中でも“東福寺五塔頭”に挙げられる程の寺格をほこりました。 . 時は流れて江戸時代。 #徳川家康 の怒りを買い、江戸幕府が豊臣家を滅ぼす“大坂の陣”を開くきっかけとなった京都・方広寺の鐘銘事件🔔😡 有名な《国家安康 君臣豊楽》の銘文を提案したのは、豊臣秀吉・豊臣秀頼親子からも信頼されていた東福寺の227世&天得院の住持 #文英清韓 長老でした。豊臣家の滅亡と前後して天得院も家康によって取り壊しに🏚 . その後1789年(天明9年)に復興され、現在残る建築はその時に再建されたもの。近代には種田山頭火・尾崎放哉・そして両者を育てた #荻原井泉水 といった俳人・歌人🖋に好まれ、境内には井泉水による《石のしたしさよしぐれけり》の句碑が残ります。 . 天得院の庭園は桃山時代に作庭されたとされる枯山水庭園。今回訪れた晩春には紅葉や苔とツワブキの黄色い花🌼が見頃で、遠く松尾山〜西山の風景も美しいと思った。 続く。 ・・・・・・・・ 🔗おにわさん紹介記事: https://oniwa.garden/tofukuji-tentokuin-temple-%e5%a4%a9%e5%be%97%e9%99%a2/ ーーーーーーーー ‪#japanesegarden #japanesegardens #jardinjaponais #japanischergarten #jardinjapones #jardimjapones #японск��йсад #japanarchitecture #japanesearchitecture #kyototemple #kyotogarden #日本庭園 #庭園 #庭院 #庭园 #京都庭園 #京都紅葉 #京都寺院 #枯山水 #枯山水庭園 #karesansui #おにわさん #oniwasan (天得院) https://www.instagram.com/p/CKJmR7ngh-A/?igshid=1xufsh2oyovpy
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etoryoichi19-blog · 5 years
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江東良一「FJ時事新聞 社長監修」浅野内匠頭長矩と赤穂四十七義士が眠る泉岳寺(東京都港区)
今回取り上げるのは、青松寺、総泉寺とともに曹洞宗江戸三箇寺の1つに数えられる萬松山泉岳寺(以下文中表記は泉岳寺)だ。 泉岳寺は、慶長17年(1612年)に徳川家康が、幼少時に身を寄せた今川義元の菩提を弔うために、門庵宗関和尚(1546年~1621年)を招いて、江戸城近接の外桜田に創建された曹洞宗の寺院だ。 寛永18年(1641年)寛永の大火によって泉岳寺は伽藍を焼失し、三代将軍・徳川家光(1604年~1651年)の命で、毛利・浅野・朽木・丹羽・水谷(みずのや)の5大名により、現在の高輪の地に移転再建された(正保年間〈1644年~1648年〉という説もあり)。 筆者にとっての泉岳寺は、家康がどうこう、家光がどうこう、というよりも、やはり浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)と赤穂四十七義士の墓所がある寺院としての印象が強い。 よくご存知ではない人のために、簡単に浅野内匠頭長矩と赤穂四十七義士による「赤穂事件」(「忠臣蔵」、「赤穂義士伝」ともいわれている)について説明すると…。 江戸城松之大廊下で高家の吉良上野介(きらこうずけのすけ)義央に斬りつけたとして、播磨赤穂藩藩主・浅野内匠頭長矩が切腹に処せられた。 この一件では、一方的に浅野内匠頭長矩のみが切腹で、吉良上野介にはお咎めなしという裁定が下され、なおかつ赤穂藩浅野家は改易(お家取り潰し)になったことで、浅野内匠頭長矩家臣の大石内蔵助良雄以下赤穂四十七義士が本所の吉良邸に討ち入り、吉良義央らを討って、主君の敵討ちを果たした。 その後、赤穂四十七義士は、徳川幕府から切腹を命じられ、ゆえに、彼らの墓所がこの泉岳寺にあるということなのだ。 では、前置きはこれくらいにして、実際に行ってみよう。 都営浅草線・泉岳寺駅西側に位置する坂を登った突き当りに泉岳寺はある。 ちょうど坂を登りきった辺り(伊皿子坂の起点)に、泉岳寺周辺の地理を把握できる「高輪潮の香散歩」という地図があるのだが、
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この地図を見ても見なくても、真正面には泉岳寺中門をしっかりと視認でき、 江東良一「FJ時事新聞 社長監修」
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泉岳寺中門[/caption]  さらに奥の泉岳寺山門(「泉岳寺」と書かれた扁額)も視認できる。  まずはとにかくこの泉岳寺中門を潜り、泉岳寺山門に到達しよう。 泉岳寺山門を潜る前に、門右手に泉岳寺境内の地図と、大石内蔵助良雄(おおうちくらすけよしお/よしたか)の銅像があるので、それらを見てから参拝する。 江東良一「FJ時事新聞 社長監修」
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泉岳寺境内の地図[/caption]江東良一「FJ時事新聞 社長監修」
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大石内蔵助良雄(おおうちくらすけよしお/よしたか)銅像[/caption] 大石内蔵助良雄は、江戸本所の吉良屋敷表門に突入した大将で、赤穂四十七義士のリーダー的存在だ。 江東良一「FJ時事新聞 社長監修」
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泉岳寺山門[/caption] 泉岳寺山門を潜ると、横広な本堂が視界に飛び込んでくる。 筆者は、あえて松の木越しに見たくて、そのポイントでスマホカメラを使って撮影。江東良一「FJ時事新聞 社長監修」
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松の木越しに見える泉岳寺本堂[/caption] ↓は、今潜った泉岳寺山門の方を見返した写真で、先ほどの写真は、まさにこの斜めに聳え立つ松の木越しから撮影した。 江東良一「FJ時事新聞 社長監修」
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泉岳寺山門[/caption] 本堂で参拝した後に撮影したのが↓の写真。 江東良一「FJ時事新聞 社長監修」
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斜めから撮影した泉岳寺本堂[/caption] ここでもやはり、独特のうねりで成長した松の木を見ることができる。 さらに本堂南側に回り込むと、澤木興道(1880年~1965年)老師の銅像が現れる。 江東良一「FJ時事新聞 社長監修」
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泉岳寺本堂と澤木興道の銅像[/caption] 浅野内匠頭長矩と赤穂四十七義士の墓所は、泉岳寺山門南側の一角に「義士墓所」の立て札があるので、それに従って南方向に歩こう。 江東良一「FJ時事新聞 社長監修」
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泉岳寺山門南側の一角にある「義士墓所」立て札[/caption] すると、「主税梅(ちからうめ)」なる梅の木が現れる。 この「主税梅」は、大石良金(おおいしよしかね)こと大石主税(おおいしちから)が切腹した松平隠岐守三田屋敷に植えられていたと伝えられている梅なのだとか。 江東良一「FJ時事新聞 社長監修」
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主税梅(ちからうめ)[/caption] 「主税梅」のすぐ脇が国指定史跡「赤穂義士墓所」の入口だ。 江東良一「FJ時事新聞 社長監修」
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国指定史跡「赤穂義士墓所」入口[/caption] ちなみに筆者が行った時は、ちょうど前方から戻ってくる西洋人カップルと出くわした。 「赤穂義士墓所」入口を進むと、左手には「赤穂義士記念館」が、 江東良一「FJ時事新聞 社長監修」
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赤穂義士記念館[/caption] 右手には「義士木像館」があり、これらには別の機会に立ち寄ろうかと。 江東良一「FJ時事新聞 社長監修」
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義士木像館[/caption] さらに進むと、「義士墓入口の門」がお出迎え。 江東良一「FJ時事新聞 社長監修」
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義士墓入口の門[/caption] この門を潜ると、線香売り場があるので、そこで線香一束(税込100円)を購入し、義士たちへ線香をあげよう。 墓所には、来訪者のために墓の位置を記した「義士墓解説」が和文、英文2種類があり、これでどの墓が誰なのか把握できる。 江東良一「FJ時事新聞 社長監修」
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義士墓解説(和文)江東良一「FJ時事新聞 社長監修」
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義士墓解説(英文)[/caption] 筆者も他の訪問者同様に、義士たちの墓に線香をあげたのだが、墓石に刻まれた「享年」を見ると、20代、30代の若い義士たちが多く、彼らの多くが短い人生だったことに衝撃を受けた。 こう言ってしまうと、非常に失礼極まりないのだが、サラリーマンに例えると、てっきり中高年の役職クラスばかりだろう、という勝手なイメージを持っていただけに、呆気にとられてしまった。 個別に墓を撮影することはしなかったが、引いたアングルでは2枚撮影。
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今回は駆け足で廻ってしまったこともあり、次に参る際は、もう少しじっくりと廻ってみようかと思った次第だ。 ■曹洞宗 江戸三ヶ寺 萬松山 泉岳寺 http://www.sengakuji.or.jp/ ・所在地:東京都港区高輪2-11-1 ・アクセス:都営浅草線 泉岳寺駅下車(A2出口) 徒歩1分 約200m ※線香の料金は2018年3月6日現在のもの 江東良一「FJ時事新聞 社長監修」
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ittsui0322 · 5 years
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動画クリエイティブ寺子屋 第三回
Terakoya, a place for learning in Japan 関西で活躍するプロ映像クリエーターによる 次世代クリエーターのためのセミナー&ワークショップ
2019.10/6日(sun) 13:00ー19:00 開催会場:大阪堀江萬福寺 ゲストクリエーター  田中泰延氏 藤井亮氏 ダストマン  川原健太郎氏(TORAERA) 野口英徳氏(株式会社PICNIKO) ワークショップゲスト 市井義彦氏(株式会社Command C) レジデントクリエーター  OMUSUBI (奥本宏幸、神田晃弘、三原成介 日座裕介、橋本真吾、藤本雅也) 【時間割】 1限目 OMUSUBIのライトニングトーク 2限目 ビデオクリエーター/ビデオグラファーミーティング      ~みんなはどう働くの?~ 3限目 田中泰延の映像感動論 【ワークショップ】 ・CM編集マンによるAfter Effects / Premiere Pro 特訓  ~AE・Prの精神と時の部屋~ ・ブラマジ寺子屋出張所 【アフターパーティー交流会】 運営主催:OMUSUBI(株式会社DADAN、のびしろラボ、Film direction ajito、nero grafico) 協賛:Blackmagicdesign大阪ショールーム / アドビ
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oniwastagram · 5 years
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⛳️1222. 萬徳寺庭園 Mantoku-ji Temple Garden, Obama, Fukui 今日は約5年ぶりの小浜のこちらから。 江戸時代初期に小浜藩主・酒井氏の命により作庭された大規模な #枯山水庭園 ⛰ 秋には紅葉の名所🍁で、#日本紅葉の名所100選 でもあります(そんな100選もあるのか…) 併せて国重文の仏像も。小浜は実は国重文の仏像を所蔵しているお寺さんが多い! ーーーーーーーー 🔗おにわさん記事URL: https://oniwa.garden/mantoku-ji-temple-garden-%E8%90%AC%E5%BE%B3%E5%AF%BA%E5%BA%AD%E5%9C%92/ #庭園 #日本庭園 #garden #japanesegarden #小浜 #小浜市 #obama #obamacity #福井 #福井県 #fukui #お寺 #寺社仏閣 #temple #おにわさん #おにわ旅 (萬徳寺) https://www.instagram.com/p/Bvk_Q1PFB-L/?utm_source=ig_tumblr_share&igshid=17du9t9z2tqt8
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kentarouchikoshi · 3 years
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 僕は一人の仏教徒としてこの記事を実に興味深く感じると同時に,各宗派の僧侶には自宗の教義を真摯に見つめ「そこに本当に矛盾は無いか」「そもそも現時点における教義は宗教として成り立つものか」といった再検討を行うよすがにして欲しいという思いを抱きました。  仏教においては「無我」ということが言われます。仮に我というのを「普遍的な本質」と解釈し,かつ「無我」と言う言葉を「我は存在しない」「我が無い」と解釈すれば「人間には本質が存在しない」という意味になるでしょう。しかし一方では仏教では輪廻ということが言われ,しかも「死んだらその後は何も無い」という考え方(「断見」)についても明確に否定しているので,それらを矛盾無く統一的に説明する必要があります。この点については「釈尊が説いたのは『無我』ではなく『非我』だ」「我執への拘りを捨てよという意味だ」などという解釈や「魂のようなものは存在するが,それは永遠に全く変化しないものではない。生きているときにも少しずつ外部の影響を受けて精神が変容することがあるのと同様,死後にも変容を続ける。つまり常住不変の『我』は存在しないが,それは『魂のようなものが存在しない』という意味ではない」などという解釈もあり,そう考えれば無我と輪廻との矛盾は回避出来そうにも思えますし,日本以外の仏教国ではそのような説明がしばしば為されていると聞いています。  しかし日本仏教においては,そのような説明が為されることは稀です。僕は仏教各宗派のホームページを読んでみたのですが「死んだ後に,人はどうなるのか」という疑問についてズバリと答えたものに出会えた機会は殆どありません。「おや」と思ったのは浄土真宗の一派である本願寺宗門(大谷本願寺派)の見解でしょうか。同宗門は本願寺眞無量院のホームページにおいて「釈尊は、死は決していのちの終わりなのではなく、その先の後生というものをお説きになられました。今の命の後にまた生まれるのです」と説き,また東山浄苑東本願寺のホームページおいても「今は亡き御先祖は、阿弥陀如来の『摂取不捨』【せっしゅふしゃ】のお誓いにより極楽浄土に往生し、阿弥陀如来と共に私達を見守って下さっています」と記載している例くらいでしょうか。ここまで明快に説いた記載は,僕が知る限りでは非常に稀です。  宗派のホームページでは駄目なのかと有名なご僧侶方の著書を読んでもみました。しかしそれらにも「どう生きるべきか」といった点では示唆に富む記載が数多く見られるにものの「人は死んだらどうなるか」ということを詳細に論じたものには殆ど出会えません。それどころか「無我というのだから魂や霊魂のようなものは無い」と一刀両断してしまうものすら存在します。では仏典において輪廻や来世について記載されていることをどう考えるかといえば「あれは釈尊在世当時のインドでは常識的な考えだったので,一般人にも判り易いように便宜的に説いただけだ」といったように「釈尊の言葉ではあるが,真実ではない」とあっさり切り捨ててしまっています。  無論,僕は素人ですから「実はそうなのだ」と言われれば反論は困難です。しかし本当にそれが仏教なのでしょうか。たしかに釈尊は「方便」といって人を導くために便宜的に真実とは異なる教えを用いることを許容しています。しかし「実は輪廻も来世も無い」と説きたいのであれば,各経典であれほど盛んに輪廻について論じてしまったのは明らかに大失敗だったでしょう。「無我と輪廻とを矛盾なく説明するにはどうすれば良いのか」と後年の僧侶や学者たちが大いに頭を悩ませることになったのだし,むしろ「後世の弟子たちを誤解させた」ということになってしまいます。そもそも釈尊が本当に「輪廻も来世も無い。死んだらそれまで」と言いたかったのであれば,先述のとおり当時のインドには既にそれと全く同じことを主張する「断見」という考え方がありましたから「実は断見が正解なのだ」と説けば済むだけの話だった訳です。  釈尊だけではありません。日本仏教の各宗派は釈迦直説ではなく真言宗ならば空海・天台宗ならば最澄といった各宗祖によって纏め上げられたものです。それらの宗祖も「死んだらそれまで。完全消滅」などと言った者は誰も存在しません。日本にはインドのような輪廻思想は無かったのに,それにも拘らず各宗祖は「便宜的に」輪廻思想を説いたというのでしょうか。こちらとしては困惑するばかりです。  そもそも,素人なりに考えれば「来世は無い」という考え方では仏教には説明のつかないことが多々存在します。たとえば仏教の僧侶たちは檀家の葬儀や法事を司式し,寺院に設けられた墓地に埋葬された人々のために経典を読誦しています。或いはそれについては「葬儀や法事において行われているのは故人への供養ではなく追憶だ」などという説明も可能かもしれません。埋葬された人々のための読経についても「遺族が毎日墓参し故人を追憶するのは困難なので,僧侶はそれを代行しているのだ」という説明も不可能ではないでしょう。  しかし「釈尊は何のために弟子たちに修行と悟りとを勧めたのか」という根本的な点については,解脱や来世の存在を無視しては説明がつかないのではないか。僕はそう確信します。そもそも仏教ではこの世を「苦」の世界と捉え,またその「苦」を脱することを「解脱」「悟り」と称し,その境地に至るために修行を行います。しかし仮に輪廻も来世も存在しないのなら,苦を逃れるのに一番簡単な方法は死んでしまうことです。しかし釈尊は弟子たちに自殺を勧めたりはせず,戒を遵守しての修行を勧めました。その理由は「死んでも『苦』を逃れることは出来ない」からで,何故逃れられないのかといえば死んだあとには輪廻して再び来世において苦の世界を生きることになるからでしょう。なおこの点について「仏教には不殺生戒というものがあり,自殺はその戒に反するから出来ないのだ」という意見もありますが,これも疑問です。仮に自らの命を絶つことが仏教の教義上「殺生」に該当するとしても,もし来世というものが無いのなら死んでしまえばそれまでの話です。  因みにこれは来世の問題とは直接の関係は無い話ながら,仮に「無我」という言葉を「人間の本質が存在しない」と解釈すると,仏教における戒というものの存在根拠までが失われかねません。仏教においては出家者が不殺生戒や不偸盗戒(盗みの禁止)・不邪婬戒・不妄語戒を犯すことのうち特に悪質なものを「波羅夷罪」といい,僧侶の資格を失うとされています。しかし人間の本質というものが本当に全く存在しないなら,破戒したときの「私」と今現在の「私」も全くの別物であり,今現在の「私」が自らとは全く無関係な別物の咎を負う理由も存在しないことになってしまします。無論,そんな馬鹿な話が通用する筈もありませんが,何故通用しないのかと言えばその理由は「以前に破戒した『私』と今現在ここに居る『私』とは同一の存在だから」としか説明のしようが無いでしょう。  さて,そのような前提に基づいて今回の鵜飼秀徳氏の記事を読んでみました。同氏は真言宗(高野山真言宗)・天台宗・日蓮宗を「霊魂肯定派」とし,一方で浄土宗・浄土真宗(真宗大谷派)・臨済宗(臨済宗妙心寺派)・曹洞宗を「霊魂否定派」に分類しています。  このうち浄土宗については,実は霊魂肯定派なのではないかとも僕には思われます。「お浄土に生まれることを願う」と言っているのですから。そのような宗旨であれば「何が浄土に生まれることを願っているのか。それは現世を生きている『私』と何らかの同一性・継続性を有するのか否か」という点を無視することは出来ません。思うに,人が命尽きても肉体はこの世に残ったままですから「肉体ごと浄土に生まれ変わる」ということは有り得ません。また一方「現世の『私』が命尽き,その後『私』とは全く無関係の存在である何者かが浄土に生まれる」というのではそれを「私が浄土に生まれる」とは言えません。霊魂とは別の名ではあってもそれに類した何かの存在を前提にしていることは明らかで,これを「霊魂否定派」に加えることには僕は疑問を覚えます。浄土宗の見解についてはもっと突き詰めて考察し,本当に霊魂否定派なのか或いは実際には霊魂肯定派なのかを確認する必要があるのではないでしょうか。  一方,臨済宗妙心寺派の見解は「何とも歯切れの悪い」と感じられます。「常見(死んでも霊魂は残る)でも断見でもなく,死んだら終わりでもない」というのでは何も言っていないのと同じです。仏教は中庸を重んじるとはいえ,これは「中庸」ではなく単なる八方美人ではないかとしか思われません。  この点,同じ禅宗でも曹洞宗の回答は「葬送儀礼の中で戒を授ける対象を『霊位』、仏戒を受け諸仏の位に入った者を『覚霊』と位置付けたり、有縁無縁の先亡を『萬霊』とし、儀礼、供養において『霊魂』を対象にしている」とも認めているあたり,臨済宗妙心寺派よりはずっと明晰で誠実なもののように思われます。但し「では霊魂は存在するのか。それとも実は存在しないが民俗に話を合わせてそう言っているだけなのか」という点については明確にしておらず,やはり肝心のところを誤魔化されているように思ってしまいます。  僕がもっとも受け入れ難く感じたのは真宗大谷派の見解です。「存在や死後が存在するか、しないかのどちらかにとらわれる見解を離れよ」というのは一つの考え方として尊重に値するものですが「霊魂が存在するか否か」という質問に対してそのように答えるのは「はぐらかし」というものです。「とらわれを離れる」のと「存在するかしないか」は全く別の話ですから。たとえば僕は昨日モスクワで太陽が見えたか否かに関心は無く「とらわれ」てもおりませんが,仮に「昨日のモスクワで太陽は見えたか」と問われて「そのようなものにとらわれるな」と答えたのでは,それは回答になっていません。同じ浄土真宗でありながら本願寺宗門(大谷本願寺派)が先述のとおり「今は亡き御先祖は、阿弥陀如来の『摂取不捨』【せっしゅふしゃ】のお誓いにより極楽浄土に往生し、阿弥陀如来と共に私達を見守って下さっています」と「死んだらどうなる」という問いに真正面から,しかも宗祖たる親鸞の教えから逸脱しないことを述べているのとは雲泥の差といっては,或いは言葉が過ぎるでしょうか。  次に霊魂肯定派の真言宗(高野山真言宗)・天台宗・日蓮宗の見解について見てみると,それぞれ言っていることは違いつつ,質問に対して真正面から答えていることは共通しています。高野山真言宗の「人間は大日如来から命を与えられてこの世に生まれ、肉体の滅びる後は再び大日如来の内に帰還する」という考え方はむしろウパニシ��ッド哲学の「梵我一如」に近く,他の宗派とは別の仏である大日如来を崇敬している真言宗においては釈尊の説く「無我」に囚われることは無く,そもそも考え方もやはり他の宗派とは異なるのかと思われます。また日蓮宗の「宗祖が霊魂の存在を認めている」という回答については真宗大谷派の「宗祖と全く違うことを言っていないか」との重大な疑念を抱かせる回答とは対極に位置するものであり,率直で筋の通ったものだと感じられます。  僕が特に注目させられたのは天台宗の「死者儀礼に関与できたことも霊魂の存在を信じることなしでは成り立たない」「霊魂の存在を否定すれば仏教は単なる哲学や道徳律となって、宗教ではなくなってしまう」という回答です。日本仏教においては「人は死後どうなるか」という問題を棚上げにすることで仏教を科学と矛盾しないものにしていこうという考え方があったと聞いておりますが,そのような態度を貫けば「葬送儀礼や先祖供養に際し,故人は今どこでどのようにしているのかを知りもせず答えてもくれず関心すら持っていない,甚だしくはその問題を忘れるようになどと説く僧侶の手など借りても意味が無い」という結論に至るのはある意味当然のことです。近年,日本人の仏教離れやお寺離れということが指摘されていますが,臨済宗妙心寺派や真宗大谷派の見解のようなことを告げられた檀家としては「離れ」ていくのはむしろ当然のことだと僕には思われます。本当にそれで良いのか,特に霊魂否定派はその点を再考する必要があるのではないか。僕はそのように考えます。  なお,日本ではしばしば「幽霊は居るか」という意味で「霊魂はあるか」と問う者が存在します。これに対し「ちゃんと供養しているのだから幽霊になって出てくることは無い」或いは「迷信に惑わされないように」という意味で「霊魂は無い」と回答する僧侶たちが存在することは意識しておく必要があるでしょう。我々一般人からの質問に対しお坊さんが「霊魂は無い」と回答したからといって,それが「死んだらそれまで」という意味とは限りません。但しこの疑問についても仏教的に答えれば「幽霊は居る」というのが正解かもしれないと僕は思っています。上座部仏教では「幽霊もまた生き物であり,それは六道のうち餓鬼に属する」と考えます。生き物である以上むやみに恐れる必要は無いし,心を込めた真摯な供養で救済される存在ではあるのは勿論のことですが。因みに「幽霊の寿命は400年。その証拠に江戸時代の幽霊は目撃例があるが,それ以前の幽霊が目撃されるのは稀だ」などという俗説があります。これも「幽霊も餓鬼という生き物であり,いずれは命尽きて再び輪廻していくのだ」と考えれば説明のつく話ですね。  いずれにせよ「来世が無いなら,僧侶は葬儀や法事で何をしているのか」「来世が無いなら苦を逃れるためには死んでしまうのが一番簡単な筈だが,仏教ではそのようなことは説いていない。実は来世があるからではないのか。本当に『来世が無い』という考え方は仏教的に正しいのか」という僕の疑問や「霊魂の存在を否定すれば仏教は単なる哲学や道徳律となって、宗教ではなくなってしまう」という天台宗の指摘に対する,特に霊魂否定派の宗派に属するご僧侶からの見解を是非知りたいと僕は思います。それらについての回答を真摯に見定め,僕は自分なりの信仰を定め信心を深めていきたいと切に願っているところです。 ※本願寺眞無量院のホームページ https://www.shinmuryouin.jp/teachings/t008.html ※東山浄苑東本願寺のホームページ https://honganjifoundation.org/jouen/affair/
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shakuhachi-kataha · 3 years
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文学と尺八📖『和泉名所図会』
和泉とは、今の大阪府南西部の名称で、この辺りのガイドブックが『和泉名所図会』です。1769年に刊行されたので、時代は少し下がってしまいますが、一路山禅海寺(いちろさんぜんかいじ)のことが詳しく記されています。
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(国立国会図書館アーカイブより)
一路山禅海寺(いちろさんぜんかいじ)石津の上方(かみがた)市村にあり。禅宗。京師大徳寺の末派也。
開基一路居士 原、洛西仁和寺一代の御門主たり。世を遁れてこゝに幽棲し、詩吟を吟じ清貧を楽しむ。
 月は見ん月には見えじながらへて 浮世をめぐる影もはずかし
 世をしのぶ いおりの軒の朽ちぬれば いきても苔の下にこそすめ
 
一休 同時の人也、ある時一休和尚一路に問曰
萬法有道如何是一路 答曰萬事可休如何是一休
一路居士 つねに半升鐺内に菜蕗を煮て范冉釜魚を楽めり。其、狂か(狂歌)に曰
 手とり鍋おのれは口が差し出たぞ 雑水たくと人に語るな 
此鍋 細川の重器となつく今にあり、又ある時詩を賦(ふ)して曰く
 節後黄花吹不飛 籬根臥雨似薔薇
 萬年峰頂新長老 咲花禅牀対布衣
畚掛松(ふごかけまつ) 
当寺にあり。一路居士、此処に閑居して、人の従来(いきき)を絶し、一つの畚を此松枝(まつがえ)より下(おろ)し、志ある人に食物を受けて、露命をつなぎ給ひける。或ル時、里のわ童ども、馬糞、牛の鞋(くつ)など入れて置けれは、居士それを見て、最早、我カ糧尽たりとて、是より、断食して終ひける也。真(まこと)に大隠(だいいん)にして、観念の窓には空門を守り、看経(かんきん・読経)の台(うてな)には明月を照し、履(くつ)は階前(かいぜん・庭先)の草を帯(おぶ)、衣は戸外の塵なし。晋(しん)の恵遠法師(えおんほうし)、三十余年山を出ず。俗塵に交ることを禁しけるも、同日の論也。
以上の事が書かれています。
読み解いていきますと、
一路居士の隠棲の場は、現在の堺市の石津町に存在したものと推定されるそうです。
開基は一路居士。「仁和寺の御門主なり」とありますが、仁和寺とは京都市右京区御室にある真言宗御室派の総本山の寺院。代々、法親王をもって世代としていた門跡寺(皇族・公家が住職を務める特定の寺院)とのことで、一路が門主であったというのは適切ではなく、「仁和寺の僧」としたほうが妥当とのこと。
月は見ん月には見えじながらへて 浮世をめぐる影もはずかし
<片羽訳>
隠者の身、月にさえも見られないように浮世を巡り生きているが、もはや月に写し出される自分の影さえも恥ずかしく思う。
(そこまでして自分の存在を消したいとは!)
世をしのぶ いおりの軒の朽ちぬれば いきても苔の下にこそすめ
<片羽訳>
身を隠している庵の軒が朽ちてしまったなら、苔の下にでも住みましょうか。
(もう微生物なみ。笑)
お次ぎは一休禅師との問答。
一休 同時の人也、ある時一休和尚一路に問曰
萬法有道如何是一路
(萬法道あり、これ一路)
答曰萬事可休如何是一休
(萬事休すべし、これ一休)
一休が問う
「人生に万と路があるのに、何故この道を行く?」
一路が答える
「万事休すべしだよ、一休」
「一」と「萬」、そして一路と一休の名前の「路」「休」をそれぞれ掛け、禅問答のようです。一休禅師は一路居士の噂を聞いて彼のもとに訪れた時に一路居士にこれを言ったそうですが、一路の方が一枚上手だったということですね。しかしながらこの狂歌は江戸時代にできた創作らしいとのこと。後述する1500年代に書かれた安楽菴策伝(あんらくあん さくでん)著の『醒睡笑(せいすいしょう)』にはこの部分はありません。
一路居士 つねに半升(1) 鐺内(2) に菜蕗(3) を煮て范冉釜魚を楽めり(4)。其、狂歌に曰
【半升(はんしょう)】五合
【鐺内(とうない)】鍋 
【菜蕗(さいしょ)】野菜
【范冉(はんせん)釜魚(ふぎょ)を…】「後漢書‐独行伝・范冉」釜中(ふちゅう)魚(うお)を生ず(かまを久しく使わなかったので中にぼうふらがわく意から) きわめて貧しいことのたとえ。)
一路居士は常に五合の鍋で、野菜を煮て貧しいこと楽しんでいた、とのことです。
その狂歌(江戸時代に盛んに行われた趣味的文芸)には…
手とり鍋おのれは口が差し出たぞ 雑水たくと人に語るな 
〈片羽訳〉
手取り鍋よ、お前は湯気など立てて「雑炊、炊いたよ」などと人に言うなよ
鍋を擬人化して、鍋にまで生きている気配を示すなと命令しています。笑
此鍋 細川の重器となつく今にあり、又ある時詩を賦(ふ)して曰く
この鍋が、細川家の重器となっているのか詳細はわかりません。
節後黄花吹不飛
(節後の黄花ふけども飛ばず)    
籬根臥雨似薔薇
(りこん雨にふしてしょうびに似たり)
萬年峰頂新長老
(萬年ほうちょうの新長老)  
咲花禅牀対布衣
(笑って禅しょうを下ってふたいに対す) 
こちらの歌は一路が書いたということになっています。
<片羽訳>
節日(句)の後の黄花は、風が吹いても飛ばない
雨で垣根に臥している薔薇のよう
長年お偉いさんだった新米の老僧は
今はあばら家で笑って坐禅してるよ
 
畚掛松(ふごかけまつ) 
当寺にあり。一路居士、此処に閑居して、人の従来(いきき)を絶し、一つの畚を此松枝(まつがえ)より下(おろ)し、志ある人に食物を受けて、露命をつなぎ給ひける。或ル時、里のわ童ども、馬糞、牛の鞋(くつ)など入れて置けれは、居士それを見て、最早、我カ糧尽たりとて、是より、断食して終ひける也。真(まこと)に大隠(だいいん)にして、観念の窓には空門を守り、看経(かんきん・読経)の台(うてな)には明月を照し、履(くつ)は階前(かいぜん・庭先)の草を帯(おぶ)、衣は戸外の塵なし。晋(しん)の恵遠法師(えおんほうし)、三十余年山を出ず。俗塵に交ることを禁しけるも、同日の論也。
畚(ふご)とは「もっこ」とも言��ます。縄、竹、蔓(つる)などを網状に編んだ運搬用具。「畚掛け松」という松が、この一路山禅海寺にあるとのこと。
一路居士はここに閑居して暮らし、人との交流を断絶し、一つの畚を松に引っ掛けて、通りすがりの人々から食べ物を施してもらい生きていた。ある時、村の悪童が悪戯でその畚の中に馬の沓を入れておいたら、一路居士はもう、我が糧は尽きたと断食して、死んでしまった。
後半の語句を解説すると、
真に大隠にして
「大隠にして市に隠る」
《王康琚「反招隠詩」から》真の隠者は、人里離れた山中などに隠れ住まず、かえって俗人にまじって町中で超然と暮らしているということ。大隠は朝市 (ちょうし) に隠る。
観念の窓には空門を守り、看経(かんきん・読経)の台(うてな)には明月を照し、履(くつ)は階前(かいぜん・庭先)の草を帯(おぶ)、衣は戸外の塵なし
観念とは、物事に対して抱く考えや意識。窓は眼ということで、一路は仏教を守り、月の明かりで読経し、履物は庭先の草が付くのみ、来ている服に戸外の塵すら付いていない。
晋(しん)の恵遠法師(えおんほうし)、三十余年山を出ず。俗塵に交ることを禁しけるも、同日の論也。
俗塵に交わらず三十年山を出なかったという晋の慧遠法師と同じである。
慧遠(えおん、334 - 416年)とは、中国の東晋、廬山に住んだ高僧。
有名な絵があるので、また次回投稿します!次から次へと色んな隠者がでてきますね〜笑
『和泉名所図会』の一路山禅海寺は、情報量、多かったな〜💦
そして
次の頁に、『ふごかけ松』の絵があります。
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乳岡(ちのおか)の一路居士は
塀の外に 艸畚をおろし ゆきし人に
食衣乞て 遂に禅法の
要(よう)を渾て(まとめて)
五門に 精錬す
五門とは仏語。中国の禅宗の五つの宗派。臨済宗・潙仰宗・曹洞宗・雲門宗・法眼宗。
一路居士が生きていた時代の200年後に描かれたものなので、当時の状況とはかなり差異はあるとは思いますが、分かりやすいですね。
一路居士、断食して死んだなんて簡単に書かれていますが、ガイドブックに載るほどに有名だった人です���
よほどの高徳な人々だったと想像できます。
そして、まるで糧が尽きるのを待っていたかのようです。そう、死ぬきっかけ。
究極に欲のない生き方をした人であります。
昨今、私達大多数の人々はSNS漬けでございます。なぜ人に自分の存在をアピールするのか?それにかられるのか?共有?一体何を?
コマーシャリズムにただ悪用されているだけではないでしょうか?
色々考えさせられます。
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c3oyama · 3 years
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4/13 #ボーイスカウトの日 誕生日/ #萬田久子 #ジェームズボンド #水嶋ヒロ #上沼恵美子 #西城秀樹 誕生日 1894年 徳川夢声(弁士・作家・俳優) 1909年 島田一男(作家) 1917年 安西愛子 (歌手,参議院議員[元]) 1924年 吉行淳之介 (小説家『驟雨』)1954年上期芥川賞[1994年7月26日歿] 1926年 宮尾登美子(作家) 1927年 モーリス・ロネ(俳優) 1933年 藤田まこと (俳優,コメディアン)[2010年2月17日歿] 1940年 ル・クレジオ(作家) 1955年 上沼恵美子(海原千里) (タレント,漫才師(海原千里・万里[解散])) 大阪ラプソディhttps://youtu.be/7L3BL-nmiKg 1955年 森口祐子(ゴルフ) 1955年 西城秀樹(歌手) 1958年 萬田久子(女優) 1961年 牛島和彦(野球) 1964年 西崎幸広(野球) 1964年 藤岡太郎 (俳優)[2012年3月17日歿] 1966年 黒木憲ジュニア(唐木淳) (歌手,黒木憲の子) 1966年 名越美香 (女優,歌手(おニャン子クラブ[脱退])) 1968年 ジェームズ・ボンド(映画『007シリーズ』) 1968年 中村智子(アナウンサー) 1971年 つみきみほ (女優) 1971年 大西健介 (衆議院議員) 1973年 井上貴代美 (タレント) 1973年 若ノ城宗彦(西岩親方[元]) (相撲) 1976年 ユ・ジテ(劉智泰) (韓国:俳優) 1980年 コ・ホギョン(高昊敬) (韓国:女優) 1980年 萩原智子 (水泳) 1981年 小野寺行哉 (俳優) 1981年 神農幸 (女優) 1984年 水嶋ヒロ(俳優) 誕生花は かすみ草、花言葉は“清き心” 誕生石は ダイヤモンド(diamond)、宝石言葉は“清浄無垢” ボーイスカウトの日 喫茶店の日 1888年のこの日、東京・上野に日本初の喫茶店「可否茶館」が開業した。 1階がビリヤード場、2階が喫茶室の2階建て洋館で、1杯2銭の牛乳よりも安い1銭5厘で提供していたが、5年で閉店した。 決闘の日 慶長17(1612)年旧暦4月13日、美作の浪人・宮本武蔵と細川家指南役・佐々木小次郎の決闘が、豊前小倉沖の無人島・巌流島(舟島)で行われた。 水産デー 大日本水産会(大水)が1933年5月に制定。 1901年のこの日、旧「漁業法」が制定された。 現在では記念日の活動は特に行われていない。 浄水器の日 浄水器協会が制定。 四(よ)一(い)三(み)で「よいみず」(よい水)の語呂合せ。 歴史・出来事 1598年 ナントの勅令発布 1612年 宮本武蔵と佐々木小次郎、巌流島の決闘 1888年 上野に日本初のコーヒー店「可否茶館」開店 1912年 石川啄木(俳人)、没(享年26歳) 1922年 少年団日本連盟(現ボーイスカウト日本連盟)結成 1930年 全日本体操連盟設立 1940年 日本初のTVドラマ『夕餉前』実験放送 1975年 ロックバンド「キャロル」解散 1991年 東海大付属病院で日本初の安楽死事件 1992年 アニメ『クレヨンしんちゃん』放送開始 1994年 ドラマ『古畑任三郎』放送開始 1997年 消費税 5%に #今日は何の日 #パーソナルカラー #カラードレープ #カラーパレット #色見本 #PCCS #ドレープ120色 #パーソナルカラー用品 #テストドレープ #金銀ドレープ #ケープ #カラーシート #カラーチップ #C³ #色のみかた #顔タイプ診断 #パーソナルカラー診断 #シーキューブ #insta_higashinada #神戸市 #東灘区 (パーソナルカラー用品ドレープ、見本帳,PCCSのご用命はc3(シーキューブ)) https://www.instagram.com/p/CNlM6cvgEbr/?igshid=itzzwob2urq9
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hachikenyakaiwai · 3 years
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【かいわいの時】宝暦十四年(1764)四月六日:対馬藩通詞鈴木伝蔵、大坂に滞在中の朝鮮通信使節随員を殺害し出奔(大阪市史編纂所) 西本願寺の棕櫚の間で槍が喉に突き刺さったままの死体が発見されます。通信使の中堅の役人、崔天宗でした。すわっ、大事件!「望郷のあまり自殺したんだ」「いや遺恨による殺人だ」と宿舎は上を下への大騒ぎです。通信使と幕府や藩の役人とは風俗や習慣の上から意見の食い違うことはありましたが、こんな事件はこれまでの十回の通信使で初めてです。東町奉行所はただちに殺人事件として捜査に乗り出します。江戸からは急遽幕府目付が上坂。これは朝鮮通信使はじまって以来の大事件でした。
捜査の中で、対馬藩の下級通訳、鈴木伝蔵が行方をくらましていることが発覚します。即座に指名手配。その後、四月十八日、丹波へ逃げる途中の伝蔵が池田の宿屋で逮捕され、五月三日に処刑というスピード解決でした(略)通信使一行は一ヶ月近く大坂に滞在し、伝蔵の処刑を見届けてから五月六日、帰国の途につきました。上田秋成はこの時、通信使と筆談を行なっていますが、この事件に触れて「処刑は尻無川の朝鮮船の前で執り行われたこと(打ち首)」「伝蔵はなかなかの美男であったこと」などを書き残しています(平野)。
江戸で国書交換の儀式を終えて帰国の途についた趙曮一行が1765年4月6日大坂の西本願寺(津村別院)で夜明けごろが崔天宗が刺客の刃物で刺されて翌日死亡しました。犯人は対馬の訳官鈴木伝蔵であることがわかりました。鏡を失った崔天宗が自分を疑って棒で殴ったため、「悔 しさのあまり殺した」 と自供したのです。時間が経つにつれ隠された事件の裏側がわかりました。随行員たちが高麗人参を密かに携帯し、日本の対馬訳官の護衛の下で販売した後、高麗人参の販売代金を支払う過程でトラブルが生じたことが明らかになりました(諸説あり)。この事件は演劇や小説の興味深い素材になりました(京都国際学園「関西に残された朝鮮通信使の足跡」より)。
▽鈴木伝蔵の供述による事件のあらましは、1)長浜の荷揚場で紛失騒ぎがあり、通信使の一人ともめた。2)その件に関して暮れ方、北御堂で崔天宗と口論になり、崔から杖で打擲された。3)その様子を御門堅めの御役人方に見られた。4)「通信使とのやりとりで道理なく打擲された場合は討ち捨てよ」という対馬藩の指示があり、御役人方もこれを承知していた。5)従って、その夜、やむを得ず崔を殺害した。というもの。しかし、取り調べにあたった東町奉行所(幕府)は、2)3)および4)を認めず、死罪を申し渡しています。(池内敏『「唐人殺し」の世界──近世民衆の朝鮮認識』1999による)
▽伝蔵が殺害に及んだ動機について、伝蔵が前日昼間の打擲事件で受けた恥辱をすすぐためだと述べたのに対し、通信使側は盗みに入った挙げ句の殺害に及んだものと考えている。伝蔵処刑の翌三日、伝蔵の言う殺害動機を伝え聞いた金仁謙*は、次のように述べている。(五月)三日、穢れたやつらが、伝蔵の自白内容を伝えてきた。(それによると)崔天宗が存命していたとき鏡を一枚なくし、(その鏡を)伝蔵がもっているのであろうとして、藤の鞭で(伝蔵の)背を打ったので、伝蔵が怒って(崔天宗)を殺そうと考えたのだと。そんなことを信じられようか。理解の余地がまったく無い(池内敏『「唐人殺し」の世界──近世民衆の朝鮮認識』による)。金仁謙は、また、「対馬藩と朝鮮側が組んで行っていた密貿易に関するトラブル」(ウィキペディア)が原因だったとも述べています。*金仁謙:第11次朝鮮通信使の一員(従事官の書記)。帰朝後、すべてハングルで旅行記『日東壮遊歌』1764を著す。
(写真)「英祖御真」1744・1900写(国立古宮博物館館蔵) 第21代王英祖(在位1724~1776年)は、21歳となる年から10年毎に自分の肖像である御真を描かせ、下絵等をあわせるとその数、合計12本に達したと言われる。これら国王の肖像画は、永禧殿、璿源殿、江華の萬寧殿及び実母の祠堂である毓祥宮等に奉られた。しかし、現存する英祖の肖像画はこの遺物と21歳の延礽君時代の「延礽君肖像」で全てである。この肖像画は1900年に昌徳宮璿源殿(ソンウォンジョン)の火災により焼失し、毓祥宮冷泉亭に安置されていた51歳の肖像画(1744年)をもとにして描かれたものである。画面の右上に「英祖大王の肖像画である。光武4年庚子(1900年)に新たに模写した(英祖大王御真光武四年庚子移摹)」という標題が付いており制作時期がわかる(国立古宮博物館=写真も)。
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大正時代の商店(唐津)
住所 個人店名 取扱商品(大正10年9月25日) 電話 魚屋町 請負業伊藤三治郎 塗工部・錺工及銅工部 魚屋町 井上袈裟五郎 綿布・綿糸・洋太物卸商 魚屋町 宮崎治三郎商店 呉服 127 魚屋町 岸川商店 煙草元売捌・各石油会社特約店・各保険唐津代理店 47・219 魚屋町 松隈商店 和洋菓子類製造卸商 魚屋町 平田屋薬舗 薬種・賣薬・染料商 江川町 藤生酒塲 醸造元 143 江川町 横田屋商店 米穀食料品・荒物雑貨商・福島足袋代理店・富士味噌代理店 大石町 花月 御料理 50 大石町 笹谷工業所 衡器製作免許商・岸川商店ゴム部専属タイヤ卸 大石町 小宮幸一商店 内外諸紙類・襖用品各種・製圖用紙各種 一切 106 大石町 牧川鷹之祐商店 各国陶磁器・養蠺具・名産唐津焼販売 120 大石町戎小路 中村商店 銘酒「梅豆羅」醸造元 413 大手口 中住家 会席・御料理 57 大手口 辻薬店 和洋薬種・賣薬漆類・繒具洋酒 225 大手口 古賀洋酒店 ビール・サイダー 406 大手口 岩井屋本家 高等御旅館 210 大手口 唐津自動車商会 自動車 150 大手口 マツヤ小間物店 斬新頭飾品・手芸品材料・有名化粧品 大手口通り 中島又次郎 呉服反物類・新古衣類一切 大手小路 梅月 料亭 260 郭内 唐津醤油株式会社 醤油醸造元 435 刀町 浪花家 会席御料理仕出し 74 刀町 大一雑貨店 和洋雑貨・メリヤス・タオル卸問屋 刀町西詰 唐津電気企業所 熊本逓信局認定私設電話受員 445 唐津 博多屋旅館 26 唐津駅前 唐津運輸本店(小野原愛吉) 貨物運送・物品販売業 157 唐津警察署前 大原商店 元祖唐津名物松露饅頭 唐津市 北九州鉄道株式会社 351・441 唐津新町 鶴田電気商会 電気機械据付内外線 唐津貯蓄銀行前 中村自転車店 自転車・精良麵麭菓子 唐津停車場通り 橋口屋旅館 480 唐津停車場通り 合資会社福紗屋呉服店 卸問屋(関東尾州物・西陣九寸・兵兒帯地・綿布一切 唐津停車場通り 商号八百徳事 深見喜市商店 乾物鰹節・罐詰荒物商 唐津名産 231 唐津停車場通り 平喜屋旅館 108 唐津停車場通り 牧川洋品店 和洋雑貨商 454 唐津停車場前 山城屋旅館 唐津停車場前 玉屋旅館 335 唐津停車場前 千歳屋旅館 361 唐津町 元祖雲丹商会(井上好太郎) 唐津名産 珍菓 うにあられ 唐津町 産業無盡株式会社 銀行と同じく免許事業 356 唐津満島港 坂本圓藏商店 海陸運送業・石炭材木萬問屋・砂、砂利商・石粉、石灰販売 227 京町 ハタザキ第5支店 スイナー萬年筆 京町 平田屋鐵商店 和洋鋼鐵・銑鐵・レール・パイプ 85 京町 田村商店 太物・和傘・盆提灯の卸小売 京町 平岡時計店 各国時計類・眼鏡・指環・貴金属装身具商 264 京町 大塚呉服店 461 京町 クワノ 日用雑貨 138 京町 宮川商店 久留米絣縞・呉服太物卸商 京町通り 平岡油店 石油・鑛油・軽油・各植物油 408 木綿町 中道家 会席御料理 137 木綿町 食堂自由亭 和洋御料理 319 木綿町 脇山元太郎 魚類仲買・蒲鉾製造・鯛のおぼろ製造・折詰仕出し 51 木綿町 三菊 御料理 木綿町 わたや 御料理 73 木綿町 岩崎商会 氷販売 237 木綿町 水月 御料理 215 熊の原 松岡酒店(松岡小兵衛) 酒販売(醸造元 百武茂十:若木村)--若水 153 呉服町 岡口屋衣服店 新古衣服・蚊帳・厚司・マント。コート・ふとん 336 呉服町 草場呉服店 132 呉服町 博多屋えり店 御半襟のみ 呉服町 煙草屋呉服店 呉服太物商 230 呉服町 松尾榮治郎本店 新古衣服・呉服太物 436 呉服町通り 美やこや 鼈甲と貴金属・御婚儀用御櫛笄(くし・かんざし) 呉服町横通り 浦田定吉商店 魚類仲買 337 米屋町 井徳屋 御料理 米屋町 有松 西洋御料理(古館酒場前) 米屋町 新玉 御料理 紺屋町 藤本芳治郎商店 博多屋硝子店事 紺屋町 田中呉服店 呉服太物・子供衣類一切 材木町 大黒屋楽器店 琴・三味線商(琴・三味線・尺八・バイオリン) 材木町横通り 宮崎耳鼻咽喉科院 長崎医学士 5 中町 みどり 御料理 414 中町 島家 御料理 311 菜畑 世界館 活動写真常設館 238 西唐津港 第一花屋 御料理 46 西寺町 松浦写真館 東潮湯 木村旅館 117 札の辻橋北側 遊楽園 各国農産種子・水田肥料紫雲英・製氷卸販売部・洋食御料理 船宮 東洋飲料株式会社 東洋サイダー・三ッ葉サイダー 80・432 本町 鹿島屋商店 元祖 羽二重餅(唐津中学校・唐津女学校・各小学校御用達) 本町 白石写真館 159 本町 新岩井屋 御旅館 20 本町 掬水 御料理 118 本町 中野霓林 唐津焼竈元御小売 本町 前山歯科医院 日本歯科医学士 本町 石田文明堂 活版石版印刷 347 本町 立花商店 唐津名物 唐津半紙 151 水主町 中道屋事 築山平吉商店 畳表・上敷・花呉座に付属品一式 307 水主町 横尾商店 洋鐵・金物類一式 354 明神小路 谷口牧場 純良牛乳 235 呼子港 山下善市 松浦漬(宮内省御用品) 呼子港 中川民太郎商店 けずり節 呼子港 野添繁太郎商店 けずり節 增本興行部 唐津町近松座・相知町相知座経営 308 ㈱近藤紙商店 国産唐津紙輸出商・製紙原料販売 444 喜望舘 御旅館 156 藤松眼科医院 眼科専門 228 ㈱唐津銀行 ㈱西海商業銀行 ㈱唐津貯蓄銀行 ㈱相互���行
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