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lambofgodministries · 8 months
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三位一体の神がエゼキエルとともにいた
ーエゼキエル1,2章より
エゼキエル1~3章ではエゼキエルをイスラエルの民に主の言葉を伝えるように召命する場面が描かれています。たくさんの真理が詰まっている章でもありますが、改めて読み返した時不思議なことに気がつきました。それは、次の御言葉を読んだ時です。
エゼキエル書 2:6
人の子よ。彼らや、彼らのことばを恐れるな。たとい、あざみといばらがあなたといっしょにあっても、またあなたがさそりの中に住んでも、恐れるな。彼らは反逆の家だから、そのことばを恐れるな。彼らの顔にひるむな。
エゼキエル書  3:9
「わたしはあなたの額を、火打石よりも堅い金剛石のようにする。彼らは反逆の家だから、彼らを恐れるな。彼らの顔にひるむな。」
旧約聖書では神様が預言者に直接語り掛けるシーンがたくさん出てきますが、その時必ずと言っていいほど「恐れるな」の後には「わたしがともにいる」という言葉が伴うものです。
ヨシュア記 1:9
わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。
しかし、エゼキエル書2,3章には「恐れるな」という言葉が2度出てきますが、「わたしがともにいる」とはどちらにも書いてありません。神様はエゼキエルとともにはいなかったのでしょうか?
神様はかつて、モーセやヨシュアには勇気を奮い立たせるために、何度も「わたしがともにいる」と言っていました。モーセは元王族の一員として育ちましたが、その後1人のユダヤ人として生きることを選びました。それから、イスラエルの民を率いるリーダーになりましたが、祭司ではありませんでした。ヨシュアはモーセの従者であったけれど、同じく祭司ではありませんでした。だからこそ、より一層神様からの励ましの言葉が必要でした。 
一方すでに祭司であったエゼキエルに対しては、三位一体の神としてはっきりと現わされました。神様は存在そのものをエゼキエルの前に現し、ことばを語り、御霊として彼の中に入ったとあるからです。
エゼキエル書  1:3
カルデヤ人の地のケバル川のほとりで、ブジの子、祭司エゼキエルにはっきりと主のことばがあり、主の御手が彼の上にあった。
エゼキエル2:1-2
その方は私に仰せられた。「人の子よ。立ち上がれ。わたしがあなたに語るから。」その方が私に語りかけられると、すぐ霊が私のうちに入り、私を立ち上がらせた。そのとき、私は私に語りかけることばを聞いた。
また、神様はエゼキエルに巻物を食べるように命じました。旧約時代聖書は巻物に記されていました。ここでの「巻物」は神様の御言葉を意味しています。宣教に向かう前に、エゼキエルの中に御霊が入り、聖霊様に満たされた状態で巻物(御言葉)を食べさせ、準備させたのだと思います。
旧約聖書の時代、神様は直接民に語らず、預言者を通して御言葉を伝えていました。預言者は忠実に神様の言葉を民に語る義務がありました。神様の言葉は両刃の剣で、御言葉を守る者にとっては麗しいものですが、逆らうものにとっては耳を塞ぎたくなる苦いものになります。
エゼキエル書1,2章では、「反逆の家だから」と、繰り返し神様はエゼキエルに言っています。エゼキエルを遣わそうとしているイスラエルの民が言うことを聞かないのは、神様もよく分かっていたのです。彼らはエゼキエルの命を狙うことさえしかねなかったのです。それでも、「恐れるな」と神様はエゼキエルに命じました。エゼキエルは民を悔い改めさせるよう説得することを求められたのではなく、ただ神様の言葉を正確に伝えることを要求されました。
「神様はエゼキエルとともにいなかったのか? 」という最初の問いの答えは、ノーです。エゼキエルと神様は一体となって、まさにともにいたのです。
今私たちも同じ状態にあります。
聖霊に満たされ、御言葉をよく吸収した状態で、宣教に出て行かなければならないのです。あなたは準備ができていますか? 宣教命令はクリスチャン全員に出されています。一人のように思えても、決して一人ではありません。イエス様がともにおられるので、恐れず勇気をもって神様の言葉を伝えにいきましょう。
マタイによる福音書  28:20
また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。
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新改訳聖書より引用
Yumi
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lambofgodministries · 9 months
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最高のものをささげよう
マタイによる福音書 16:26
人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。
※「代価」は広辞苑で以下のように定義しています。
(1)商品の値段。代金。(2)ある事柄を成し遂げるために生じた犠牲や損害。
この御言葉が真実であることに否定する人はいないでしょう。私たちは、命こそが最も大切で貴いものだと知っています。
人の命は貴いものであり、殺してしまったら犯罪になることも知っています。殺人を犯してしまったら、いくら刑務所で服役しても、死人をよみがえらせることもできないし、関係者の生活までも変えてしまうことも想像に難くありません。
次の御言葉を読んでみましょう。
マタイによる福音書 20:28
人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」
ここでの「人の子」とは、イエス様のことです。イエス様は神であるのに、命ある人間として地上に降られました。イエス様にも父がいて、父なる神様にとって御子イエス様も愛する貴い存在でした。しかし、神様はご自分に逆らってばかりの人間を愛するばかりに、御子イエス様の命を「贖いの代価」として、いけにえにささげることを決意されました。旧約聖書に「目には目を」、「歯には歯を」、「命には命を」とある通りです。
申命記 19:21
あなたは憐れみをかけてはならない。命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足を報いなければならない。
詩篇 8:4
人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。
ここでも「人の子」が出てきましたが、こちらは人間です。神様の憐れみや愛の深さに触れて、神様を賛美している時の言葉です。
私たちの存在は、私たちが思っているよりもはるかに貴く、イエス様の命に値するものなのです。神様はそれほどに私たちを愛してくださっているのです。だから、自分のことはもちろんのこと、他人を傷つけてはいけないし、愛さなければならないのです。
聖書の究極の教えがそのことを物語っています。
マタイによる福音書22:37-39
イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』 これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』
では、イエス様の命をもって贖われた私たちは、どのように生きていくべきだと聖書には書かれているでしょうか?
コリント人への手紙 第1 6:20
あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。
コリント人への手紙 第1 7:23
あなたがたは、代価をもって買われたのです。人間の奴隷となってはいけません。
この2つの御言葉によれば、私たちは「神の栄光」を現すために「人間の奴隷」となってはいけないのです。
神様の素晴らしい御業が感じられる時、私たちの心は感謝と賛美で満たされます。それは、麗しいものです。
私たちは、かつて平凡でちっぽけな存在でした。もしかしたら、中にはものすごく悪いことをした人もいるかもしれませんし、世界レベルで功績を残した人もいるもしれません。それでも、イエス様を十字架にかけた神様の偉大さに比べれば、詩編8:4で言われているとおり、「何者」でもなかったのです。
神様の赦しを得た時点をスタート地点ととらえてみましょう。自分がすることすべてが神様との共同作業です。どんなに頑張って成し遂げたことであっても、自分だけの力では成しえなかったと謙虚に振り返りましょう。必ず、神様の導きや助けがあったことに気づかされるはずです。小さな器を通して、神様の御業がなされていくのです。
人間の奴隷とは、罪につながる欲に振り回されることを言います。私たちが肉的に弱いことはイエス様が一番ご存知です。それでも、聖霊様の助けを受けながら、私たちは聖なる生き方を選んでいかなければなりません。その生き方そのものが、神の栄光なのです。
神様は私たちが死ぬ代わりに、イエス様の命を差し出してくださいました。イエス様は私たちに日���十字架を背負って従いなさいと命じています。
イエス様の命に値する生き方をするために、みなさんはイエス様のために何を差し出しますか? 最高のものをささげる生き方を貫きましょう。
ルカによる福音書 9:23
イエスは、みなの者に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。
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新改訳聖書より引用
Yumi
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lambofgodministries · 2 years
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ぶどう酒は心の痛んでいる者に与えよ。-箴言31:47より
箴言31:4-7
4レムエルよ。酒を飲むことは王のすることではない。王のすることではない。「強い酒はどこだ」とは、君子の言うことではない。
5 酒を飲んで勅令を忘れ、すべて悩む者のさばきを曲げるといけないから。
6 強い酒は滅びようとしている者に与え、ぶどう酒は心の痛んでいる者に与えよ。
7 彼はそれを飲んで自分の貧しさを忘れ、自分の苦しみをもう思い出さないだろう。
  1コリントの手紙6:9-10
9 あなたがたは、正しくない者は神の国を相続できないことを、知らないのですか。だまされてはいけません。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、
10 盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者はみな、神の国を相続することができません。
 これまでいくつか飲酒に関するブログを書いてきましたが、箴言31:6に書かれている酒についてお話したいと思います。上記の御言葉を読んでみると、「強い酒は滅びようとしている者に与え、ぶどう酒は心の痛んでいる者に与えよ」と母がレムエルに諭しています。一方同じ聖書の中でも、第1コリントの手紙6:9では、酒に酔うものは天国に行けないとも断言しています。「一体全体飲酒はいいことなの? 悪いことなの?」と混乱した方もいらっしゃるかと思います。
聖書に出てくる「ぶどう酒」(wine)は、アルコール飲料としてのぶどう酒とぶどう汁を煮詰めて造ったぶどうジュース(カルピスのように薄めて飲む)があるようです。前者は酔うために飲まれるもので、後者は楽しみのために万人が飲めるものでした。6節に出てくる「強い酒」とは、アルコールの含まれるぶどう酒だったに違いありません。そして、後者の方はぶどうジュースであろうと私は信じています。
まず、「滅びようとしている者」について述べたいと思います。滅びようとしている者とは、何度も罪を指摘しても悔い改めようとしない救いようのない言われるような人が当てはまると思います。当然こちらから差し出すまでもなく、酒飲みで素行の悪い人だったと想像できます。言動が横柄で神様に対して逆らって生きているような人たちです。そのような人から酒を無理やり取り上げるのは困難だと想像に難くありません。
一方、「心の痛んでいる者」に必要なのは何でしょうか? 慰めや励ましの言葉であり、心が癒されるような温かい愛です。そのような人たちに、聖書は酒に酔うことで現実逃避をするように勧めることはしません。
エペソ人への手紙5:18
また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。
 私たちの心の傷や重荷は酒で完全に解決されることはありません。御霊に満たされるとき、私たちは真の幸福や愛を感じることができるのです。御霊に満たされるために必要なことは、イエス様と出会い、罪を告白し、罪の赦しを受け取り、イエス様を主として生きていくことです。
マタイの福音書26:28
これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。
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これは、イエス様が十字架にかかる前の晩に、ぶどう酒(ジュース)の入った盃を持って、弟子たちに宣言された御言葉です。ぶどう酒はイエス様が十字架で私たちと神様との和解のために流された契約の血を象徴しています。箴言が書かれた時代にはイエス様の十字架について民は誰も知りませんでした。箴言の著者も知らなかったことでしょう。しかし、神様は霊を通して人々に聖書を書かせました。そして、知らない間にイエス様について預言していたのです。
 つまり、「ぶどう酒は心の痛んでいる者に与えよ。」とは、イエス様にしか与えることができない真の平和と愛を受け取ることができるように、イエス様の霊に包まれて心の痛みが癒されるように、私たちが愛をもって仕えることなのです。まだイエス様を知らない人であるなら、御言葉を伝えましょう。イエス様を受け入れられるように、悔い改めに導きましょう。
 マタイの福音書11:28
すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
  この御言葉にあるように、イエス様は痛みを負っている人を放っておかないのです。私たちも同じように心を痛めている隣人を愛し、イエス様の元に連れて行ってあげましょう。
レムエルの母は王である息子に助言しました。私たちは「王である祭司」とも呼ばれている存在です。ですから、自分のこととして受け取り、救い主イエス様を伝えていきましょう。
 ペテロの手紙第一2:9
しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。
新改訳聖書より引用
Evangelist Yumi
Acts 29 Japan
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lambofgodministries · 2 years
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あざける者をあざけるとはー箴言3章34節より
箴言 3:34
あざける者を主はあざけり、へりくだる者には恵みを授ける。
 私はこの御言葉を読んだ時、私たちの主イエス様は本当にあざけるのだろうかと疑問に思いました。なぜなら、神は愛であると聖書に書いてあるからです。
 1ヨハネの手紙 4:16
私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。
 あざけることは愛することと対極的に異なるものと思われます。一体箴言3:34は何を示しているのでしょうか? 今回はこの箴言3:34の御言葉の意味を探ってみたいと思います。
 あざけりと謙遜の態度が対照的に表されているのが十字架です。
イエス様はご自分を神の子と主張したことから、ファリサイ人や祭司たちから憎まれ、捕らえられ、十字架刑に処されました。彼が捕まってからは、兵士たちはイエス様に目隠しをして殴ったり、蹴ったりしましたし、罵詈雑言を浴びせ、唾も顔に吐きつけました。民衆も自分たちをローマ帝国の支配から救い出してくださる救い主と信じていたことが、逮捕という形で裏切られ、兵士たちと同様にあざけりとののしりの言葉をイエス様に吐きつけました。これらのことは、あざけりの最たるものと言っても過言ではないでしょう。
さて、嘲りと罵りと暴力を理不尽に受けていたイエス様の態度はどうだったのでしょうか? 
聖書を読みますと、イエス様は誰に対しても一切あざけりの言葉を言い返したり、暴力に対して暴力でやり返したりするようなことはなかったということが分かります。
その代わり、イエス様が十字架上でご自分を侮る者のために祈った言葉はこのようでした。
 ルカの福音書23:34
そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」
 イエス様は「あざける者をあざける」ことはしませんでした。かえって、彼らを憐れみ、愛し、赦したのです。イエス様は父なる神の命令から反れることなく、忠実に受け入れたのです。イエス様は傷のない神の子羊としていけにえに捧げられなければならなかったからです。
詩編119章51節はまさにイエス様の生き方そのものを表していると思います。
 詩編 119:51
高ぶる者どもは、ひどく私をあざけりました。しかし私は、あなたのみおしえからそれませんでした。
 イエス様は人間を罪から解放するため、傷が全くないいけにえとしてささげられるために、この世に人として降ってきました。
神としてではなく、人として、しかも最もへりくだった者として生まれ、死にました。イエス様が地上にいた間、一度も罪を犯さなかったのです。もちろん人をあざけることもしませんでした。
 では、「あざける者をあざける」とはどういうことなのでしょうか?
 私たちはとかく「あざける」という行為に注目してしまいがちですが、なぜあざけるのか、というあざけりの本質に注目すべきです。
新約聖書に繰り返し出てくる教えがあります。それは、「人を裁いてはならない」というものです。あざけりを別の言葉で表現するならば、上から目線で他者を裁き、馬鹿にしている行為と言えるでしょう。しかも、ただ単に馬鹿にしているのではなく、その人の人格を否定し、心を残酷なまでに傷つける行為です。
英語聖書King James Versionでは箴言3章34節をscornという動詞を使って以下のように訳しています。scornとは「軽蔑する」いう意味を表す単語の中でも非常に強い表現ですが、ケンブリッジ英語辞典より英語での意味も抜粋します。
 Proverbs 3:34 (King James Version)
Surely he scorneth the scorners: but he giveth grace unto the lowly.
scorn:a very strong feeling of no respect for someone or something that you think is stupid or has no value -Cambridge dictionary
(scorn私訳:人やものに対して全く敬意のない著しく強い感情で、愚かまたは価値のないものと思うこと)
 神様の本質は愛です。イエス様はご自分をあざける者をあざけり返したのではなく、忍耐し、命をかけて愛し、父なる神にあざける者のために赦しを乞いました。神様はイエス様と同じ心で神様と隣人を愛する者、へりくだる者に恵みを授けると言っているのです。
高慢で人を裁く人については、神様が裁いてくださると聖書に書かれています。
 ローマ人への手紙 1:29~2:2
彼らは、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。
彼らは、そのようなことを行なえば、死罪に当たるという神の定めを知っていながら、それを行なっているだけでなく、それを行なう者に心から同意しているのです。
ですから、すべて他人をさばく人よ。あなたに弁解の余地はありません。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。さばくあなたが、それと同じことを行なっているからです。私たちは、そのようなことを行なっている人々に下る神のさばきが正しいことを知っています。
 
私たちはいつでも主イエス様を見上げ、どんなに苦しい状況に陥っても、忍耐し、愛することを続けようではありませんか。神様が私たちの心を見て、報いてくださいます。ハレルヤ!
この記事を読んでくださっている方の祝福をお祈りします。
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 新改訳聖書より引用
Evangelist Yumi
Acts 29 Japan
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lambofgodministries · 3 years
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先祖はあなたを救うことができるのか? ー金持ちとラザロの話(ルカ16章)より
申命記 18:11
呪文を唱える者、霊媒をする者、口寄せ、死人に伺いを立てる者があってはならない。
 「死人に伺いを立てる者」とは少し怖い表現ですが、実際多くの日本人は違和感を持たずにこのような行為をしています。仏教行事のほとんどが死人との交流だからです。たとえば、お盆一つをとってみても、死んだ霊魂を迎え入れたり送り出したりするために、さまざまな風習が残っています。さらに、その風習を尊ぶことを良しとするのが日本文化です。また、死んだ祖先が子孫たちを守ってくれている、祖先を大事にしなければならない、といった先祖崇拝も日本では盛んです。
しかし、これらの行為はすべて偶像礼拝であり、神様から固く禁じられています。
 家族で唯一のクリスチャンである方にとっては、盆正月などに帰省するのはもしかしたら憂鬱かもしれません。家族親戚の中で自分だけが仏壇に手を合わせず、線香もあげず、りんも鳴らさない。周囲からすると変わり者と思われたり、非難されたりするかもしれません。
 今回は金持ちの男とラザロの話を通して、仏教など異教の神々に屈しないよう励ましたいと思います。
では、少し長いですがルカによる福音書16章から抜粋します。
 ルカによる福音書 16:19-31
ある金持ちがいた。いつも紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。
ところが、その門前にラザロという全身おできの貧しい人が寝ていて、金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた。犬もやって来ては、彼のおできをなめていた。
 さて、この貧しい人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。
その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた。
 彼は叫んで言った。
『父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。』
 アブラハムは言った。
『子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。そればかりでなく、私たちとおまえたちの間には、大きな淵があります。ここからそちらへ渡ろうとしても���渡れないし、そこからこちらへ越えて来ることもできないのです。』
 彼は言った。
『父よ。ではお願いです。ラザロを私の父の家に送ってください。
私には兄弟が五人ありますが、彼らまでこんな苦しみの場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』
 しかしアブラハムは言った。
『彼らには、モーセと預言者があります。その言うことを聞くべきです。』
 彼は言った。
『いいえ、父アブラハム。もし、だれかが死んだ者の中から彼らのところに行ってやったら、彼らは悔い改めるに違いありません。』
 アブラハムは彼に言った。
『もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』」
  金持ちの男には特定の名前が記録されていません。目の前にいる「金の好きなパリサイ人たち」(ルカ16:14)に話しかけているので���彼らを指していると読み取れます。
もう一人の登場人物であるラザロも、マリアとマルタの兄で死から生き返ったラザロとは違う人物ですので、ご注意願います。
 金持ちの男は裕福だったから地獄(ハデス)に行ったわけではありません。神様の目に義と映らなかったから地獄に行ったのです。紫の衣は王などの最高位の身分の者しか買うことのできない高価な衣類でした。それを「いつも」着て、毎日贅沢に暮らしていました。自分中心で、いつまでも尽きない欲を満たそうとした生活だったと思います。
 アブラハムが「彼らにはモーセと預言者があります」と言ったのは、律法を守りなさいということです。逆に言うと、金持ちの男もその家族もみな律法からかけ離れた生活を送っていたことを示唆しています。イエス様がパリサイ人に対して辛辣な言葉を言っています。  
 ルカによる福音書 16:15-16
イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、人の前で自分を正しいとする者です。しかし神は、あなたがたの心をご存じです。人間の間であがめられるものは、神の前で憎まれ、きらわれます。
律法と預言者はヨハネまでです。それ以来、神の国の福音は宣べ伝えられ、だれもかれも、無理にでも、これに入ろうとしています。」
 他方ラザロは貧しく、金持ちの男の家の前で暮らすホームレスでした。犬がラザロのおできをなめていたとありますが、ユダヤ人にとって犬は汚らわしい動物でした。ラザロは汚らわしい犬になめられるほど、貧しく汚れていると烙印を押されていたのです。律法には隣人を愛し、貧しい人を救済するよう書かれていますが、この金持ちの男は施しをするような人間ではなかったようです。
ラザロとは、「神は私の助け」という意味です。毎日の食事にあずかるのも苦しいほど貧しかったけれど、神様に助けを求めながら生きていました。そしてラザロは天国に行けました。次の御言葉はまさに金持ちの男に向けての言葉のようにも聞こえます。
 1ヨハネの手紙 3:17-18
世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょう。
子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか。
  金持ちの男は火の池(地獄)の中で、苦しみ悶えています。兄弟も彼と同じように、貧しい者を軽蔑し、決して助けようとせず、ただ自分の欲望を満たすために贅沢な暮らしをしていました。男は兄弟たちには地獄の苦しみを味わわせたくないと願いました。彼はラザロを生き返らせてでも、その痛切なメッセージを兄弟たちに届けたかったのですが、その願いはかないませんでした。つまり、死者から福音は届けられないということです。また、死者が生きている家族や親せきを救うことはできないということも示されています。
 私たちの祖先に関しても同じことが言えます。彼ら自身も先祖崇拝をしてきましたが、それは全く意味がないということを、地獄の火の中で身をもって理解したことでしょう。「自分たちを崇拝するのはよしてくれ。木や石で造られたものに命はないのだ。すべての偶像礼拝から手を清めてくれ。」と、どんなに叫んでも地上の子孫に届かないのです。彼らは金持ちの男と同じように、燃える火の池の中で今も悶え苦しんでいます。
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また、先祖を適切に供養しなければ、祟り(たたり)がおこると信じている人も多くいます。しかし宣言しますが、死者に力はありません。地上の家族にメッセージを伝えることさえできないのです。考えてもみてください。あなた自身が死んだからと言って、破滅に追いやるような呪いを愛する家族にするでしょうか? 
 先祖崇拝は偶像礼拝です。霊魂と交信しているように見えるのは、悪霊と交流しているのです。悪霊とは悪魔の手下です。悪魔と悪霊が人間に悪さを働くのです。だから、死人に伺いを立ててはいけないのです。
 イエス様はご自分の死と復活についても示唆しています。
 ルカによる福音書16:31
『もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』」
 パリサイ人は律法を守っているという自覚がありました。しかし、彼らの心は神様に向いておらず、自分の利益や誉れのための形式的な行為に過ぎませんでした。そんな彼らがイエス様を死に追いやるのですが、イエス様が復活した後も福音を受け入れませんでした。
 ラザロを金持ちの兄弟のところに遣わすことはありませんでしたが、事実としてイエス様が死んで3日後によみがえり、福音を伝えました。私たちはその福音を聞いて救われたのです。だから、生きている私たちが、家族や大事な人に福音を伝えるべきなのです。
死んでからでは遅いのです。生きているうちに福音を家族や大事な人に伝えましょう。
エペソ人への手紙 5: 5-8
あなたがたがよく見て知っているとおり、不品行な者や、汚れた者や、むさぼる者――これが偶像礼拝者です、――こういう人はだれも、キリストと神との御国を相続することができません。
むなしいことばに、だまされてはいけません。こういう行ないのゆえに、神の怒りは不従順な子らに下るのです。
ですから、彼らの仲間になってはいけません。
あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。
新改訳聖書より引用
Evangelist Yumi
Acts 29 Japan
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lambofgodministries · 3 years
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家族の救い―ノアとロトの話より
前回のブログでは、アブラハムの必死の祈りを最後まで聞いてくださる寛大な神様について書きました。今回はアブラハムの祈りの応答についてです。
 ※前回のブログはこちら「祈りを最後まで聞いてくださる父なる神様」https://bit.ly/2Vs3WQU
使徒 16:30-34
そして、ふたりを外に連れ出して
「先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか」
と言った。ふたりは、
「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」
と言った。そして、彼とその家の者全部に主のことばを語った。
看守は、その夜、時を移さず、ふたりを引き取り、その打ち傷を洗った。
そして、そのあとですぐ、彼とその家の者全部がバプテスマを受けた。
それから、ふたりをその家に案内して、食事のもてなしをし、全家族そろって神を信じたことを心から喜んだ。
 日本人の多くはこの御言葉に慰めを受けていると思います。初穂として自分が家族で初めてクリスチャンになったことには意味がある、家族全員が救われてほしい、と日々祈っているのではないでしょうか? 
そのように願っているのは私たちクリスチャンだけではありません。私たちを造り、救いに導いてくださった父なる神様ご自身も同じように願っているのです。
聖書から2つ例を挙げてみたいと思います。1つは、ノアの箱舟の話です。もう1つは、アブラハムの甥っ子のロトの救いの話です。
 ノアの時代になって地上に悪がはびこり、創造主である神様は地上に人を創造されたことを悔やみ、すべて滅ぼそうと考えました。ただ、ノアという神の御心にかなう人物がいたので、ノアとその家族だけは救おうと考えました。
ノアは妻と3人の息子と嫁たちとともに箱舟に乗り、救われました。
  創世記 6: 5-, 17-18
主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。
そして主は仰せられた。
「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜やはうもの、空の鳥に至るまで。わたしは、これらを造ったことを残念に思うからだ。」
しかし、ノアは、主の心にかなっていた。
これはノアの歴史である。ノアは、正しい人であって、その時代にあっても、全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。
「わたしは今、いのちの息あるすべての肉なるものを、天の下から滅ぼすために、地上の大水、大洪水を起こそうとしている。地上のすべてのものは死に絶えなければならない。
しかし、わたしは、あなたと契約を結ぼう。
あなたは、あなたの息子たち、あなたの妻、それにあなたの息子たちの妻といっしょに箱舟に入りなさい。」
  同じく創世記に神様が邪悪な人間を見てソドムとそこに住む人々を滅ぼしたという記事があります。神様によって義と認められたアブラハムが甥っ子ロトの住む街を滅ぼさないでほしいと、直接神様に訴えました。そして神様もロトとその家族を救う計画を立てられました。神様は御遣い(天使)をロトの家に遣わし、彼の身内全員とともに町の外に逃げるように助言しました。以下に、この場面の様子を描いた御言葉を引用します。
 創世記19:12-16
ふたりはロトに言った。
「ほかにあなたの身内の者がここにいますか。
あなたの婿やあなたの息子、娘、あるいはこの町にいるあなたの身内の者をみな、この場所から連れ出しなさい。
わたしたちはこの場所を滅ぼそうとしているからです。
彼らに対する叫びが主の前で大きくなったので、主はこの町を滅ぼすために、わたしたちを遣わされたのです。」
そこでロトは出て行き、娘たちをめとった婿たちに告げて言った。
「立ってこの場所から出て行きなさい。主がこの町を滅ぼそうとしておられるから。」
しかし、彼の婿たちには、それは冗談のように思われた。
夜が明けるころ、御使いたちはロトを促して言った。
「さあ立って、あなたの妻と、ここにいるふたりの娘たちを連れて行きなさい。
さもないと、あなたはこの町の咎のために滅ぼし尽くされてしまおう。」
しかし彼はためらっていた。すると、その人たちは彼の手と彼の妻の手と、ふたりの娘の手をつかんだ。――主の彼に対するあわれみによる。そして彼らを連れ出し、町の外に置いた。
  この2つの話には共通点と相違点があります。
①共通点
神様は邪悪なものを滅ぼす。
正しいものを救おうとする。
1人の正しい人を通して、その家族を救おうとする。
前もって正しい人に神様の計画を伝える。
 ②相違点
ノアの家族はノアの話を信じた。⇔ロトの家族(婿)はロトの話を信じなかった。
ノアとその家族は迷わず箱舟に乗った。⇔ロト自身に迷いがあり、御使いがロトと娘たちを連れだした。
ノアの家族は全員救われた。⇔ロトと2人の娘だけが救われた。
ロトの妻は御使いの命令に背き、塩の柱になった。
 ノアの時代もロトの時代も、悪のはびこる邪悪な世の中でした。現代もその時代と変わりません。使徒の書の書かれた時代もそうです。
どのような世の中であっても、神様は正しい人を救い、その人を通して家族をも救おうと考えておられます。これは、神様の恵みと憐れみだと思います。ただし、その救いに授かるには「信仰」が必要です。
 私たちが学ぶべきことは、ロトのように信仰に迷いを混ぜてはいけないということです。御言葉に固く立ち、常にイエス様を見上げて生きていきましょう。私たちの信仰が家族を救いへと導くことになるからです。また、アブラハムがロトのために執念深く神様に嘆願したように、私たちも家族の救いのために根気よく祈り続けていきましょう。何がきっかけで救いの道が開かれるか私たちには分かりません。また、いつ世の終わりの時が来るかも分からないからです。
 エペソ人への手紙2: 8
あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。
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 新改訳聖書より引用
 Evangelist Yumi
Acts 29 Japan
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lambofgodministries · 3 years
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祈りを最後まで聞いてくださる父なる神
今回は創世記18章から読み取れる父なる神の寛大さついてお話したいと思います。
 創世記18:20-22
そこで主は仰せられた。
「ソドムとゴモラの叫びは非常に大きく、また彼らの罪はきわめて重い。わたしは下って行って、わたしに届いた叫びどおりに、彼らが実際に行なっているかどうかを見よう。わたしは知りたいのだ。」
その人たちはそこからソドムのほうへと進んで行った。アブラハムはまだ、主の前に立っていた。
 ソドムとゴモラとは地名で、神様の御心とは反対のことばかりする、悪に満ちた町でした。神様はそのようなソドムとゴモラを滅ぼすつもりで、地に降りてきたのです。
アブラハムにそのように話すと、アブラハムはロトやロトの家族を心配し、神様に正しい人が50人いたら滅ぼさないでほしいと懇願し始めました。
 創世記 18:23-25
アブラハムは近づいて申し上げた。
「あなたはほんとうに、正しい者を、悪い者といっしょに滅ぼし尽くされるのですか。
もしや、その町の中に五十人の正しい者がいるかもしれません。
ほんとうに滅ぼしてしまわれるのですか。
その中にいる五十人の正しい者のために、その町をお赦しにはならないのですか。
正しい者を悪い者といっしょに殺し、そのため、正しい者と悪い者とが同じようになるというようなことを、あなたがなさるはずがありません。
とてもありえないことです。
全世界をさばくお方は、公義を行なうべきではありませんか。」
 アブラハムの訴えは、神様にとってどのように映ったのでしょうか? 
まず、神様の思いを御言葉から探ってみましょう。
 
創世記18:17-19
主はこう考えられた。「わたしがしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。アブラハムは必ず大いなる強い国民となり、地のすべての国々は、彼によって祝福される。わたしが彼を選び出したのは、彼がその子らと、彼の後の家族とに命じて主の道を守らせ、正義と公正とを行なわせるため、主が、アブラハムについて約束したことを、彼の上に成就するためである。」
 神様が抱いていたアブラハムに対する計画は壮大なものでした。それは、正義と公正をアブラハム自身が行い、その家族たちにも信仰を継承させること、アブラハムによって民が祝福を受けるというものです。神様はアブラハムを愛していました。それはアブラハムが神様を信じていたからです。
 創世記 15: 6
彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。
 自分のことを信じてくれる我が子が、まさに義にふさわしい発言をし始めました。父なる神様は愛おしく感じながら懸命なアブラハムの訴えを聞いていたと思います。
だから、アブラハムがだんだん自信をなくしてきて、正しい人が50人、40人、30人、20人、10人と減ってきたとしても、辛抱強くアブラハムの訴えを聞いていたのです。
しかも、ただ聞いていただけでなく、「滅ぼすまい。○○人のために」と毎度肯定的な返事をしています。
そして、私が今回最も感銘を受けたのが、18章の最後の節です。日本語で読むとその深さに気がつきにくいので、KJV訳を一緒に記したいと思います。
 創世記 18:33
主はアブラハムと語り終えられると、去って行かれた。アブラハムは自分の家へ帰って行った。
 Genesis 18:33 (King James Version)(日本語:私訳)
And the Lord went his way, as soon as he had left communing with Abraham: and Abraham returned unto his place. (そして主は、アブラハムとの親しい交流を終えるやいなや、ご自分の道を進まれた。アブラハムも彼の場所に戻っていった。)
 commune とは、語るという意味のほか、感じていることや思いを互いに伝え合う心からの交流という意味があります。だから、単に語るというtalkとは異なります。神様はアブラハムの気持ちを受け取り、ご自分の意思も伝えました。
 33節において、聖霊様が私に教えてくださったことは、神様は私たちのたどたどしく、いつまで続くか分からないような祈りだったとしても、最後まで聞いてくださるということです。最後まで忍耐強く私たちの話を聞いてくださるのです。
 神様は親子として心からの交流をしたいと思って、人を創造されたのではないでしょうか? それは現在でも変わらず、私たちからの祈りを待っておられます。私たちはつい人の話をさえぎったり、せかしたりしてしまいがちです。しかし、神様は寛大で、私たちを愛し、私たちの人生に壮大な計画を抱いている真実の父です。だから私たちもアブラハムのように神様を信じて心の中にある思いをすべて語り、私たちが義の道を歩めるように導いていただきましょう。
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  エレミヤ書 29:11-13
わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。――主の御告げ――それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。
あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。
もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。
新改訳聖書より引用
Evangelist Yumi
Acts 29 Japan
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lambofgodministries · 3 years
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おすすめの本『ユダヤ人の裏切り!』
およそ10年前に訳者の前田様より頂いた本です。
久しぶりに本棚から取り出して読んでみましたが、当時と同じように強い感動を覚えました。
「裏切り」という言葉は胸を突き刺すような強い響きを持っています。この強い気持ちを、著者は最初実の娘に対して抱きました。そしてその強い感情の赴くままに聖書にのめりこんでいく証の本です。これ以上内容を言ってしまうとつまらなくなってしまうので、本題とは少し離れて特に心に残っていることをここに記したいと思います。
1. 聖書には「異邦人」という言葉が出てきます。異邦人とは外国人という意味で、ユダヤ人以外の人を指す言葉です。私のまわりにユダヤ人がいなかったこともあり、自動的にクリスチャン=元異邦人という意識でいました。しかし、この本の著者はれっきとしたユダヤ人であり、その他の民族を異邦人と呼んでいます。そのことにも衝撃を覚えました。
2.  著者はユダヤ人から見てKJVの英語とヘブル語の訳が一致していたことを証しています。 私はたびたびKing James Version(KJV)の英訳を引用させていただいていますが、この本を読んでKJVに対してさらなる確信・信用を持つようになりました。
みなさんにとってこの本が祝福となりますように。
Evangelist Yumi
Acts 29 Japan
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lambofgodministries · 3 years
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復活―なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか?
ルカの福音書 24: 1-9
週の初めの日の明け方早く、女たちは、準備しておいた香料を持って墓に着いた。
見ると、石が墓からわきにころがしてあった。
入って見ると、主イエスのからだはなかった。
そのため女たちが途方にくれていると、見よ、まばゆいばかりの衣を着たふたりの人が、女たちの近くに来た。
恐ろしくなって、地面に顔を伏せていると、その人たちはこう言った。「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず罪人らの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえらなければならない、と言われたでしょう。」
女たちはイエスのみことばを思い出した。
そして、墓から戻って、十一弟子とそのほかの人たち全部に、一部始終を報告した。
 以前にもこのシーンについてブログを書いたことがあります。その時は、復活したイエス様が最初に出会ったマグダラのマリヤについてでした。
「マグダラのマリヤ」
https://lambofgodministries.tumblr.com/post/115557818193
今回は、マリヤではなく御使い(天使)の言葉に注目してお話したいと思います。
 イエス様が十字架で亡くなった後、ヨセフが遺体を引き取り墓に葬りました。安息日が明けてからイエス様に従っていた女性たちが墓場に来て、弔いのための香料を遺体に塗るためにやってきたときの出来事です。
たとえ、女たちの力では動きようのない岩で封印されていたとしても、彼女たちはそこに向かわずにはいられなかったのです。彼女たちだけでなく、私たちでも、きっと墓場にはイエス様が眠っておられると信じて墓場に向かったことでしょう。ところが、重たい岩はどかされ、中に収められているはずの遺体はなかったのです。
彼女たちは相当なパニックに陥ったに違いありません。
そのような状況で御使いが彼女たちに伝えたのが、
 「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。」
 という言葉です。
 私はこの言葉に強く揺さぶられました。ああ、そうだったのかと。
御使いはこの時イエス様の復活について話したのです。この言葉の後には、イエス様が3日後に復活するとイエス様がすでに語られていたことを女たちに振り返らせました。
復活したイエス様は、いつまでも死人の居場所である墓の中にはいません。
 このことは、クリスチャンにも言えることだと気が付きました。
クリスチャンになってからそれまで仲良く遊んでいた友達との関係が変わってしまったことがあります。高校生の時お互い親友と呼んでいた友達からは絶交宣言を出されたほどです。
 2コリント人の手紙 5:15-17
また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。
ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。
だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。
 イエス様が一度死んで、聖霊によって復活したのと同じように、私たちも古い自分に死に、新しい命を与えられて生きているのです。だから、これまで仲良かった友達から古い生き方を期待されることに違和感、もしくは拒絶反応が出てしまうのです。
 新しい命を生きている私たちは、もう罪人達がいる墓場にはいません。暗闇ではなく、光の子として歩んでいるからです。復活の子として、堂々と生きていきましょう。イエス様の光を輝かせる器として、聖なる生き方をしてきましょう。
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新改訳聖書より引用
Evangelist Yumi
Acts 29 Japan
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lambofgodministries · 3 years
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ルカ17章 ツァラアトが癒された10人の話より
今回は信仰についてお話したいと思います。まずは、聖書を引用してみましょう。
 ルカの福音書17:11-19
そのころイエスはエルサレムに上られる途中、サマリヤとガリラヤの境を通られた。
ある村に入ると、十人のツァラアトに冒された人がイエスに出会った。彼らは遠く離れた所に立って、声を張り上げて、「イエスさま、先生。どうぞあわれんでください」と言った。
イエスはこれを見て言われた。「行きなさい。そして自分を祭司に見せなさい。」彼らは行く途中できよめられた。
そのうちのひとりは、自分のいやされたことがわかると、大声で神をほめたたえながら引き返して来て、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。彼はサマリヤ人であった。
そこでイエスは言われた。「十人きよめられたのではないか。九人はどこにいるのか。
神をあがめるために戻って来た者は、この外国人のほかには、だれもいないのか。」
それからその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰が、あなたを直したのです。」
  1.    彼らは遠く離れた所に立って、声を張り上げて、「イエスさま、先生。どうぞあわれんでください」と言った。
 当時ツァラアトの患者は汚れた者とみなされ、家族や友人たちとも隔離されて暮らしていました。病気で苦しんでいるうえ、人格さえ否定され、誰からも見放されという孤独の中にあったのです。聖書で癒しを求めた人たちは、イエス様の衣に触れることができるところまで近寄って嘆願しているシーンが多く描かれています。しかし、この10人は自分たちの身をわきまえて、謙遜な態度で癒しを求めました。遠くからでも聞こえるように声を張り上げましたが、それは彼らの強い願いが込められていたからです。イエス様に気づいてほしかったのです。盲人や身体が不自由な人たちを癒されたように、自分たちの不治の病も癒してほしいと懇願しました。「主よ、私たちを見捨てないでほしい」と強く願ったことでしょう。
 2.    イエスはこれを見て言われた。「行きなさい。そして自分を祭司に見せなさい。」彼らは行く途中できよめられた。
 汚れが清められた者は祭司に示すことになっていました。詳しくはレビ記14章に書かれていますが、癒されたことを認め、清めの儀式を祭司が行うことになっています。
レビ記 14: 2
ツァラアトに冒された者がきよめられるときのおしえは次のとおりでなければならない。彼を祭司のところに連れて来る。 
イエス様はもちろんご自分のことですから、彼らは癒されたという確信がありました。私が感動するのは、癒しを求めていた側の信仰です。イエス様が「祭司に見せなさい」と命じたとき、表面的にはまだ癒しが見えない状態でした。「彼らは行く途中できよめられた」とある通り、彼らが最初の1歩踏み出した時も、2歩3歩と進んでいた時も、まだ皮膚は治っていなかったのです。たとえ癒しが見えなくても、イエス様の言葉と力を信じて癒されたと確信して歩み出したのです。
 3.    そのうちのひとりは、自分のいやされたことがわかると、大声で神をほめたたえながら引き返して来て、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。彼はサマリヤ人であった。
 癒されたことが分かるとは、なんと素敵な瞬間でしょう。皆さんも癒しの奇跡のほかに、御言葉の意味が分かった瞬間、祈りがかなえられたと分かった瞬間、神様のはたらきを肌で感じた瞬間などを経験したことがあるかと思います。その瞬間、皆さんは両手を上げて大きな声で神様の御名をほめたたえないでいられるでしょうか? ましてや、この癒されたサマリア人は何年もの間、病と孤独に苦しんでいたのです。そこから解放してくださった神様を讃えずにはいられなかったと理解できます。
 4.    そこでイエスは言われた。「十人きよめられたのではないか。九人はどこにいるのか。
神をあがめるために戻って来た者は、この外国人のほかには、だれもいないのか。」
それからその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰が、あなたを直したのです。」
 10人中10人が癒されました。この見事な癒しの御業にほかの9人は気づかなかったのでしょうか? そんなはずはないはずです。癒される前に癒されたと確信して歩み出した10人です。癒しも受け取ったはずです。しかし、癒されたことだけに心を奪われ、もともと自分はどんな存在であったのか忘れてしまい、その結果助けを求めていた時の謙遜な態度が消え失せてしまったのです。
 5.      現代の私たちと10人のツァラアトの癒し
 ツァラアトに冒されていた人が癒しを求めて叫んだ声は、まさにクリスチャンの祈りです。人の力ではどうしようもできないことであっても、イエス様なら道を拓いてくださる、解決の道に導いてくださる、癒してくださると強く信じる信仰をもって祈るのです。
それは、次の御言葉にも示されているとおりです。
 へブル人の手紙 11: 1
信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。
 ヤコブの手紙 1: 6-9
ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。
そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。
そういうのは、二心のある人で、その歩む道のすべてに安定を欠いた人です。
 祈りはかなえられたと信じ、信仰を貫きましょう。
今、みなさんが抱えている問題は途方もなく難しいものかもしれません。現代医療では解決できない病にかかっているかもしれません。しかし、私たちにはイエス様がいらっしゃいます。信じぬきましょう。まだ見えない未来を信じて一歩踏み出しましょう。そして、祈りがかなえられたと分かったなら、素直に喜び、賛美の祈りを捧げましょう。惨めで一人で立っていられないほどの悲しみと苦しみから解放してくださった方を忘れないでいましょう。 
私たちとイエス様の関係がさらに深まり、喜びの人生となりますように。皆さんの祝福をお祈りします。ハレルヤ!
  新改訳聖書より引用
Evangelist Yumi
Acts 29 Japan
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lambofgodministries · 4 years
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世に勝つー日常の出来事から
あなたが大切にしているもの、あるいは高価でなかなか手に入らないものを、誰かに誤って壊されてしまったとしたらどんな気持ちになるでしょうか?
 私はかつて相手を非難し、自分の行き場のない怒りや嘆きを思う存分ぶつけていました。そうする権利が自分にはあると信じていました。
たとえ相手を赦すにしても、一言二言言わずにはいられませんでした。
また、積極的に赦すのではなく、まだ使えるからとか、どうせいつかは壊れるものだったからといった言い訳のようなものをつけていました。
  ルカの福音書 6:37
さばいてはいけません。そうすれば、自分もさばかれません。人を罪に定めてはいけません。そうすれば、自分も罪に定められません。赦しなさい。そうすれば、自分も赦されます。
 マタイの福音書18:21‐22
そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」
イエスは言われた。「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。
 御言葉を学び信仰が深まるにつれて、私の対応に変化が起きました。つまり、相手だけが悪いのではなく、自分にも何らかの非があったのではないかと考えるようになりました。また、御言葉が私の心に訴え、ただ相手を赦そうという気持ちになり、相手にそれ以上心を痛めないでほしいという言葉を添えて赦せるようになりました。
 私も小さいものから大きなものまで、いつまでたっても間違いを犯してしまいます。そのたびに、神様に赦され、周囲の人にも赦され、励まされ、助けられてきました。私がここで怒りを露わにする権利はないように思えてきました。むしろ、その人が罪責の念にかられて苦しまないようにして��げることこそ愛なのではと思い始めました。
 1テサロニケ人への手紙5:14-15
兄弟たち。あなたがたに勧告します。気ままな者を戒め、小心な者を励まし、弱い者を助け、すべての人に対して寛容でありなさい。
だれも悪をもって悪に報いないように気をつけ、お互いの間で、またすべての人に対して、いつも善を行なうよう務めなさい。
 1ペテロの手紙 3: 8-9
最後に申します。あなたがたはみな、心を一つにし、同情し合い、兄弟愛を示し、あわれみ深く、謙遜でありなさい。
悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。
 また、神様は私たちのために必要を満たしてくださる方です。目の前のものを失ってしまったとしても、神様は備えてくださいます。それを信じることも大切だと思います。私はよくお金の計算をしてしまいがちなのですが、神様こそが富を築かせてくださる方であり、祝福の源なのですから、心配したり落ち込んだりする必要はないということを悟りました。
創世記 22: 7‐9
イサクは父アブラハムに話しかけて言った。「お父さん。」すると彼は、「何だ。イサク」と答えた。イサクは尋ねた。「火とたきぎはありますが、全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか。」
アブラハムは答えた。「イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」こうしてふたりはいっしょに歩き続けた。
ふたりは神がアブラハムに告げられた場所に着き、アブラハムはその所に祭壇を築いた。そうしてたきぎを並べ、自分の子イサクを縛り、祭壇の上のたきぎの上に置いた。
創世記22:12-13
御使いは仰せられた。「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」
アブラハムが目を上げて見ると、見よ、角をやぶにひっかけている一頭の雄羊がいた。アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の子の代わりに、全焼のいけにえとしてささげた。
 アブラハムは神様がいけにえを備えてくださると信じて、愛する息子イサクを祭壇の上の薪の上に置きました。そして、その信仰を神様が認め、雄羊を用意してくださったのです。
備えてくださる主の御名をほめたたえましょう。
 この世的な生き方をしていた頃は、ちょっとのことで動揺してしまい、平安を求める祈りをよくしていました。しかし、少しずつ信仰が深まるにつれて、御言葉に支えられて、すべての出来事は神様の御手の中で起こっていること、どのような事態にあってもその中で自分は霊的に成長できること、神様は祝福へ導いてくださっていると信じられるようになりました。ハレルヤ!
 クリスチャンにも災いは起こります。しかし、私たちの内に住まわれる聖霊様が私たちを導いてくださいます。イエス様が示してくださった人としての生き方を自分のものとしていきましょう。それが、世に打ち勝つということなのだと思います。
 1ヨハネの手紙 5: 4-5
なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。
世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。
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新改訳聖書より引用
Evangelist Yumi,
Acts 29 Japan
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lambofgodministries · 4 years
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神様に愛されたダビデ ー 第1サムエル記30章より
ダビデは神様に愛され、後の代に渡って「わたしのしもべダビデ」と神様に呼ばれていました。それは、神様の御心に沿って生きていたからです。それが顕著にみられるエピソードを第1サムエル記30章から紹介したいと思います。
 まずは、背景をお話したいと思います。
ダビデはサウル王に仕えていましたが、神様を心から慕うダビデを神様は祝福したので、部下であるダビデの方が強くなり、民衆からの人気も絶大なものとなっていきました。人々は「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った」と踊りながら歌っていたのを聞いて以来、サウルはダビデを憎むようになっていきました。もともとサウルはダビデをかわいがり、自分の娘の婿にしたほどですが、嫉妬のあまり命を狙うようになりました。
ダビデはサウルの手から逃げるため、わざわざイスラエル人の敵であるペリシテ人の領土に住むことにしました。敵国の中でも誠実に働いたダビデはペリシテ人の王アキシュに気に入られ、ツィケラグという土地に住むことを許されました。ペリシテ人たちはイスラエル人と戦うことになりました。しかし、ペリシテ人の領主たちはイスラエル人ダビデが自分たちとともにイスラエル人に戦争を仕掛けることはできないと判断しました。裏切るかもしれないと考えていたのでしょう。領主たちはアキシュに抗議し、アキシュはやりきれない気持ちでダビデに戦争には参加できないことを宣言し、ツィケラグに帰るように命じました。
 ダビデと部下が3日かけて帰宅すると、そこはアマレク人によって攻撃された後でした。町は火で焼き払われ、妻も子どもも財産もすべて略奪されてしまったのです。もちろん、ダビデの妻たちも例外ではありません。人々はダビデのせいだと言って、ダビデを石で打って殺そうとまでしました。
ダビデは非常に打ちひしがれてしまいましたが、神様にあって力づけられました。そして、神様にどうすればいいのか聞きました。神様は略奪隊に追いつける、追って取り返せと命じました。ダビデには600人の部下がいましたが、途中で疲れて留まった者も多く、最後まで戦い続けたのは200人でした。ダビデと200人の戦士たちは無事略奪されたものをすべて取り返し、また多くのものを分捕ってきました。
 さて、ここからがダビデの神様への忠誠心が表されている場面です。
 1サムエル記30:21-24
ダビデが、疲れてダビデについて来ることができずにベソル川のほとりにとどまっていた二百人の者のところに来たとき、彼らはダビデと彼に従った者たちを迎えに出て来た。ダビデはこの人たちに近づいて彼らの安否を尋ねた。
そのとき、ダビデといっしょに行った者たちのうち、意地の悪い、よこしまな者たちがみな、口々に言った。「彼らはいっしょに行かなかったのだから、われわれが取り戻した分捕り物を、彼らに分けてやるわけにはいかない。ただ、めいめい自分の妻と子どもを連れて行くがよい。」
ダビデは言った。「兄弟たちよ。主が私たちに賜わった物を、そのようにしてはならない。主が私たちを守り、私たちを襲った略奪隊を私たちの手に渡されたのだ。だれが、このことについて、あなたがたの言うことを聞くだろうか。戦いに下って行った者への分け前も、荷物のそばにとどまっていた者への分け前も同じだ。共に同じく分け合わなければならない。」
 ダビデは、疲れて戦うことができなかった兵士たちにも心配りを忘れませんでした。川のほとりで待っている間誰にも襲われなかったか、体の具合は大丈夫か、ほかに何か心配なことはないかなど、それを聞いた人の心はどれだけ救われたことでしょう。
また、労りの声を掛けただけでなく、分捕りものを等しく分かち合おうとしました。
 私たちの心には、「意地の悪い、よこしまな者たち」と同じ思いが見え隠れすることがあります。「何もしなかったのだから、あなたにはもらう権利はないよ。」 これが、この世の価値観です。しかし、ダビデは基準を神様にフォーカスしています。
 「主が私たちを守り、私たちを襲った略奪隊を私たちの手に渡されたのだ」
 ダビデは主に勇気づけられ、略奪隊に立ち向かったのでした。主が守ってくださったのはダビデと200人の兵士だけではないのです。捕虜にされた妻や子どもたちのことも、川のほとりや町でとどまっていた兵士たちのことも守っていてくださったのです。川のほとりで荷物の番をすることも、兵士と同じように働いたのだとダビデは認識していました。すべて神様の指揮下で神様の力によって成し遂げられたことなのです。
 新約聖書に関連する御言葉があります。少し長いですが引用します。
 1コリント人の手紙12:18-27
しかしこのとおり、神はみこころに従って、からだの中にそれぞれの器官を備えてくださったのです。
もし、全部がただ一つの器官であったら、からだはいったいどこにあるのでしょう。しかしこういうわけで、器官は多くありますが、からだは一つなのです。
そこで、目が手に向かって、「私はあなたを必要としない」と言うことはできないし、頭が足に向かって、「私はあなたを必要としない」と言うこともできません。それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。
また、私たちは、からだの中で比較的に尊くないとみなす器官を、ことさらに尊びます。こうして、私たちの見ばえのしない器官は、ことさらに良いかっこうになりますが、かっこうの良い器官にはその必要がありません。しかし神は、劣ったところをことさらに尊んで、からだをこのように調和させてくださったのです。それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。
もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。
あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。
 神様が私たちに命じている2つの戒めを思い出しましょう。
 マタイの福音書22:37-39
そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』 これがたいせつな第一の戒めです。
『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。
 ダビデの生き方は、まさにこの通りでした。ダビデにできて私たちにできないはずはありません。なぜなら私たちにはイエス様がいらっしゃるからです。イエス様が私たちに生き方を教えてくださいます。
私たちは、ある時は強い立場になり、ある時は弱い立場に立たされます。しかし、どんな状況であっても神様に焦点を当て、愛のある言葉と行動を表していきたいですね。
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 新改訳聖書より引用
 Evangelist Yumi
Acts 29 Japan
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lambofgodministries · 4 years
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持っているものを感謝して用いなさい
受験生の皆さんへ
1学期はなんとなく過ぎてしまったけれど、夏休みには挽回するぞ、と意気込んでテキストなどを用意された方も多いのではないでしょうか? その後調子はいかがですか?
「順調!」と元気に返事をしてくれる人よりも少し心が暗くなっている人の方が多いかもしれません。夏休みも中盤に入ったのに、目標から遠く離れたところにいる人はいませんか?計画倒れになりどこから手をつけていいのか分からない状態になっている人も多いのではないでしょうか? パニック状態のまま、何もしないで時間を過ごすのはもうやめたいですよね?
 聖書にはイエス様が行われた素晴らしい奇跡の数々が描かれています。その中で5千人(実際はその2,3倍と言われています)にパンを分け与えた奇跡についてお話したいと思います。
 ある日、イエス様に一目会いたくて、そしてイエス様の話を聞きたくて、大勢の人が歩いてイエス様とその弟子たちのまわりに集まりました。その時イエス様は彼らを外側から見ただけではなく、彼らの心がどのような状態であるかも見���取りました。
 マルコの福音書6:34
イエスは、舟から上がられると、多くの群衆をご覧になった。そして彼らが羊飼いのいない羊のようであるのを深くあわれみ、いろいろと教え始められた。
イエス様は真理を彼らに聞かせました。彼らは喜んでその話に聞き入っていました。
 夕暮れ時だったのでしょうか。弟子たちはもう遅いから早く切り上げましょうとイエス様に話を持ち掛けました。すると、イエス様は弟子たちに群衆のために食事を用意するように命じました。
男性だけで5千人いました。夫婦や子連れできた人も多かったと思われます。1万人以上の食料を貧しい彼らがどうやって調達すればいいのか、弟子たちは一瞬のうちにパニックに陥りました。
 「そんなのムリです! 一体全体そんなお金がどこにあるというんですか? 先生が彼らを引き留めていた張本人なのですから、先生の責任でなんとかしてくださいよ!」
 こんな言葉が聞こえてきそうです。ちょうど皆さんが二進(にっち)も三進(さっち)もいかなくて困っているのと同じです。
イエス様は弟子たちに聞きました。
 マルコの福音書6:38
するとイエスは彼らに言われた。「パンはどれぐらいありますか。行って見て来なさい。」彼らは確かめて言った。「五つです。それと魚が二匹です。」
 イエス様が弟子たちに命じたことは、今あるものを確認しなさいということでした。
彼らは群衆の中で5つのパンと2匹の魚を持っていた少年と出会いました。この少年は貴重な食料を弟子達に提供しました。仮に1万人いたとしましょう。たった5つのパンが一体何の役に立つのかと弟子たちは心配といら立ちがあったと想像できます。
 次にイエス様が行ったことは、民をグループごとに座らせ、パンと魚の感謝と祝福の祈りをしてから、群衆に分け与えたことでした。
 マルコの福音書6:41
するとイエスは、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて祝福を求め、パンを裂き、人々に配るように弟子たちに与えられた。また、二匹の魚もみなに分けられた。
 ヨハネの福音書6:11
そこで、イエスはパンを取り、感謝をささげてから、すわっている人々に分けてやられた。また、小さい魚も同じようにして、彼らにほしいだけ分けられた。
 イエス様は群衆に向かって、列に並んで取りに来なさいとは言いませんでした。(学校とは違いますね。)彼らは座って待っていなければなりませんでした。疲れている民を立って待たせるのは心苦しいですし、順番を待ちきれず、横入りするのもこれで防げました。自分にもパンがまわってくるだろうかと心配したり、先ほど聞いた真理の話を思い出したり、民はいろいろな思いの中で自分の番を待っていました。
 結局全員に食料が行き渡りました。しかも、ほしい分だけ与えることができたのです。
 ヨハネの福音書6:12-13
そして、彼らが十分食べたとき、弟子たちに言われた。「余ったパン切れを、一つもむだに捨てないように集めなさい。」彼らは集めてみた。すると、大麦のパン五つから出て来たパン切れを、人々が食べたうえ、なお余ったもので十二のかごがいっぱいになった。
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  イエス様は余ったものも無駄にしないように命じました。すると、もともとあったものよりも多く残っていたのです。
この話からたくさんのことが学べると思います。私が皆さんに伝えたいことは、まず今持っているものを大事にしてほしいということです。何もないはずはありません。今の焦った気持ちでさえ「持っているもの」なのです。今の苦しい気持ちも大事にしてください。あなたの焦り方や途方に暮れている様子は5千人分の食料を集めることよりも大きいものかもしれません。それでも、イエス様にあってできないことは何一つありません。落ち着いて、持っているものを数え上げ、それを感謝しましょう。あなたの置かれている環境がどうであれ、それも感謝しましょう。そして祝福を求める祈りをしましょう。イエス様の知恵を求めましょう。時間や気持ちのコントロールができるようイエス様にサポートを求めましょう。
 イエス様は群衆の心を見て、「羊飼いのいない羊のようであるのを深くあわれみ、いろいろと教え始められ」ました。あなたの心を見ないはずがありません。イエス様はあなたを支えたいのです。教えたいのです。
 もし、まだイエス様や神様のことがよく分からないという人がいらっしゃったら、勇気を出して聖書を開いて読んでみてください。新約聖書だけでも結構です。そこには、あなたへの愛のメッセージが詰め込まれています。なぜなら、神様は愛のお方だからです。
 1ヨハネの手紙 4:16
私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。
2コリント人への手紙12: 9
しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」
皆さんの祝福をお祈りしています。
 新改訳聖書より引用
 Evangelist Yumi
Acts 29 Japan
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lambofgodministries · 4 years
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父ダビデの嘆き
 偉大な王と呼ばれたダビデについて、皆さんはどのようなイメージをお持ちですか? 詩編を読むと「私の神、王よ。私はあなたをあがめます。」(詩編145:1)とあり、両手を高く上げて賛美している様子が目に浮かびます。不条理な戦いを多く経験し、目の前にいる敵サウル王を神様から油注がれた者のゆえ、彼の命を取る絶好のチャンスを自ら手放す場面に心打たれた方も多いことでしょう。神様とともに歩むダビデに、神様は多くの祝福を与え、名実ともに偉大な王となったのです。
 しかしながら、その優れた王に失敗がなかったわけではありません。聖書を読み進めると、ダビデは大きな罪を犯したことが分かります。自分の部下ウリヤの妻バテ・シェバの入浴姿をたまたま見かけてしまい、その美しさに惚れこみ、彼女と肉体関係をもつに至りました。そして彼女が身ごもったことを知ると、自分の罪を隠すためウリヤに帰宅するよう呼びかけましたが、まじめな彼は戦いの一大事の時に自分だけ楽しむことはできないと拒否しました。ダビデはそんな誠実な夫を戦いの最前線にわざと送り、殺してしまったのです。
大きな罪を犯したダビデは、すぐに悔い改めました。それゆえ神様から「わたしのしもべダビデ」と呼ばれ、聖書全般において義人として語り継がれています。
 1列王記 11:38
もし、わたしが命じるすべてのことにあなたが聞き従い、わたしの道に歩み、わたしのしもべダビデが行なったように、わたしのおきてと命令とを守って、わたしの見る目にかなうことを行なうなら、わたしはあなたとともにおり、わたしがダビデのために建てたように、長く続く家をあなたのために建て、イスラエルをあなたに与えよう。
 新約聖書の時代でも、イエス様のことを「ダビデの子」と呼びかける人々も多くいたほどです。したがって、神様から愛されたダビデは、平安のうちに天に召されたと多くの方が思っているかもしれません。
ダビデは心から神様を信頼し、また神様からも深く愛されていました。しかし、私は彼の悲しみを無視することができません。
彼は姦淫の罪を犯し、さらに間接的に殺人の罪も犯しました。悔い改めたとはいえ、彼が犯した罪の影響は子孫にまで広がりました。
 彼はたくさんの子どもを授かりました。それは神様からの祝福です。神様はアダムとエバを創造された時以来、人に子どもを授けて祝福してきました。
 創世記 1:28
神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」
 ダビデの子は第1歴代誌3章に19人の息子と娘1人、ほかにたくさんの側目の子がいたと記録されています。
 1歴代誌 3:1‐9
ヘブロンで生まれたダビデの子は次のとおりである。長子はイズレエル人アヒノアムによるアムノン。次男はカルメル人アビガイルによるダニエル。三男はゲシュルの王タルマイの娘マアカの子アブシャロム。四男はハギテの子アドニヤ。五男はアビタルによるシェファテヤ。六男は彼の妻エグラによるイテレアム。六人の子がヘブロンで彼に生まれた。ダビデはそこで七年六か月治め、エルサレムで三十三年治めた。
エルサレムで彼に生まれた者は次のとおりである。シムア、ショバブ、ナタン、ソロモン。この四人はアミエルの娘バテ・シュアによる子である。イブハル、エリシャマ、エリフェレテ、ノガハ、ネフェグ、ヤフィア、エリシャマ、エルヤダ、エリフェレテの九人。みなダビデの子であるが、別にそばめたちの子もあり、タマルは彼らの姉妹であった。
*バテ・シェバとバテ・シュアは同一人物
 姦淫と殺人の罪を犯したダビデに対し、神様はすぐに預言者ナタンを遣わし、犯した罪の報酬を宣告しました。まず一つ目の罪の報酬は、ダビデが姦淫して身ごもった子どもは必ず死ぬというものでした。二つ目はダビデの妻たちが公然と寝取られるというものでした。
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  2サムエル記12:11-14
主はこう仰せられる。『聞け。わたしはあなたの家の中から、あなたの上にわざわいを引き起こす。あなたの妻たちをあなたの目の前で取り上げ、あなたの友に与えよう。その人は、白昼公然と、あなたの妻たちと寝るようになる。あなたは隠れて、それをしたが、わたしはイスラエル全部の前で、太陽の前で、このことを行なおう。』」
ダビデはナタンに言った。「私は主に対して罪を犯した。」ナタンはダビデに言った。「主もまた、あなたの罪を見過ごしてくださった。あなたは死なない。しかし、あなたはこのことによって、主の敵に大いに侮りの心を起こさせたので、あなたに生まれる子は必ず死ぬ。」
  バテ・シェバによって生まれた赤ちゃんは重い病気にかかり、ダビデが断食をして祈っていたにも関わらず亡くなってしまいました。ダビデはウリヤの妻バテ・シェバとの間に授かった赤ちゃんが死ぬまでは、断食をして祈り続けていたのですが、死んだことを知ると食事をとり始めたので、周囲の者は戸惑いを隠せませんでした。ダビデはもしかしたら神様が憐れんでくださるかもしれないと、一抹の希望を持っていたので必死に祈っていたのでした。しかし赤ちゃんの死によって、神様はダビデの罪の裁きを軽くすることはないのだと悟ったのです。
  この後、ダビデの家に不幸が連続して起こります。まず、ダビデの長男アムノンが異母兄弟アブシャロムの妹のタマルに恋し、無理やり彼女を犯しました。しかも、事を遂げたとたん愛情は激しい憎しみに変わり、彼女を追い出してしまったのです。ダビデはこの事実を聞いたのですが、自分も姦淫の罪を犯した経緯があり、息子を聖書の教えにしたがって指導することができないまま時が過ぎ去ってしまいました。ダビデが目と口を閉ざしている間に、タマルの兄アブシャロムはアムノンを赦すことができずついに殺してしまいました。
 アムノンが亡くなった時、ダビデはいつまでも嘆き悲しんでいたと聖書に記録されています。早すぎる息子の死だけを悲しんでいたのではありません。ダビデには神様の裁きによって自分の子どもたちに不幸が起こっていることを知っていました。アムノンを自分の口でたしなめることもできず、兄弟間での裁きになってしまい、死に至ったのです。
  アブシャロムは悪に悪を重ね、父ダビデ王の側女たちとも関係をもちました。さらに、アブシャロムは父ダビデに敵意を抱き、王位だけでなく父の命さえも狙い始めました。このことにいち早く気づいたのは、名将ウジヤです。もちろん、ダビデもアブシャロムが自分を殺そうとしていたのを知っていました。しかし、ダビデは息子アブシャロムを愛していました。その愛は親にしか分からないものなのかもしれません。
 2サムエル記18: 5
王はヨアブ、アビシャイ、イタイに命じて言った。「私に免じて、若者アブシャロムをゆるやかに扱ってくれ。」民はみな、王が隊長たち全部にアブシャロムのことについて命じているのを聞いていた。
 2サムエル記18:33
すると王は身震いして、門の屋上に上り、そこで泣いた。彼は泣きながら、こう言い続けた。「わが子アブシャロム。わが子よ。わが子アブシャロム。ああ、私がおまえに代わって死ねばよかったのに。アブシャロム。わが子よ。わが子よ。」
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ウジヤはダビデに忠実で腕の立つ部下でしたが、ダビデの願いのこもった命令を破り、アブシャロムの心臓に槍を3本突き刺しました。こうして、ダビデはウリヤの妻との間に授かった赤ちゃんを失い、側女達を息子に寝取られ、娘も息子に犯され、息子たちも次々と殺されていきました。このような不幸をダビデは経験したのです。ダビデは自分が死に値するのであって、息子たちではないと確信していたと思います。
  ダビデは人知れず苦しんでいたのです。自分の子ども達に襲い掛かる不幸の原因が、自分の罪にあったことを深く知っていたからです。ダビデはそれでも神様を崇めました。息子ソロモンに神様の掟と戒めを守ることの大切さを説きました。ソロモンに語ったことは、そのまま私たちへのメッセージです。今はキリスト・イエス様の血潮により悔い改めの祈りをすることで、すべての罪と呪いから解放されます。それでも神様が望むことは、私たちが罪と知りながら罪深い生活を送り、形ばかりの悔い改めの祈りをすることではなく、神様に祈り、力を得ながら罪を避けて生活することなのです。それを聖潔(Holiness)と言います。
 「ダビデだって赦されて天国に行ったのだから、私たちも姦淫したっていいじゃないか? いずれ時が来れば悔い改めるし。そうすれば、赦されるのだから…」
 もし、このように罪を軽く見ているのなら、神様の御心をまだ知らないのと同じです。
神様はひとり子イエス様を十字架で一度失ったのです。子を失うことの悲しみと苦しみを味わっているのです。私たちがその悲しみを経験しなくてもいいように。
 神様の御心をいつも求めていきましょう。神様の御教えに忠実に生きていきましょう。
 1サムエル記15:22
するとサムエルは言った。「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。
 1列王記2: 3-4
あなたの神、主の戒めを守り、モーセの律法に書かれているとおりに、主のおきてと、命令と、定めと、さとしとを守って主の道を歩まなければならない。あなたが何をしても、どこへ行っても、栄えるためである。そうすれば、主は私について語られた約束を果たしてくださろう。すなわち『もし、あなたの息子たちが彼らの道を守り、心を尽くし、精神を尽くして、誠実をもってわたしの前を歩むなら、あなたには、イスラエルの王座から人が断たれない。』
 新改訳聖書より引用
Acts 29 Japan
Evangelist Yumi
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lambofgodministries · 4 years
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クレネ人シモン
 クリスチャンであってもそうでなくても、到底自分一人だけでは背負いきれないような試練に会うことが、人生の中ではたびたび起こります。現在新型コロナウィルスのため、世界中の人々が疫病に苦しんでいます。健康だけではなく経済も悪化し、なんで私がこんな目に合わなくちゃならないの? と多くの人々が嘆いています。試練は本当に突然やってくるものです。聖書でも突然まさに「重荷」を背負うはめにあった男の話が描かれています。その名は、クレネ人シモンです。新約聖書には4つの福音書がありますが、マタイ、マルコ、ルカの福音書でクレネ人シモンについて記録されています。今回は、このクレネ人シモンに注目したいと思います。
 ヨハネの福音書 19:17
彼らはイエスを受け取った。そして、イエスはご自分で十字架を負って、「どくろの地」という場所(ヘブル語でゴルゴタと言われる)に出て行かれた。
 マタイの福音書27:32
そして、彼らが出て行くと、シモンというクレネ人を見つけたので、彼らは、この人にイエスの十字架を、むりやりに背負わせた。
 マルコの福音書15:21
そこへ、アレキサンデルとルポスとの父で、シモンというクレネ人が、いなかから出て来て通りかかったので、彼らはイエスの十字架を、むりやりに彼に背負わせた。
 ルカの福音書23:26
彼らは、イエスを引いて行く途中、いなかから出て来たシモンというクレネ人をつかまえ、この人に十字架を負わせてイエスのうしろから運ばせた。
  捕らえられたイエス様は平手打ちされたり、目隠し状態で殴られたり蹴られたり、また鞭で何度も背中を打たれ、皮膚がえぐられ、血まみれになった状態でした。まっすぐに立つのも困難な状態で、イエス様は自分の十字架を背負って歩かなければなりませんでした。あぜ道を歩く途中、イエス様は重過ぎる十字架を背負いながら何度も倒れたことでしょう。そのような時、道中たまたまそこに居合わせたクレネ人シモンが役人の目に留まり、重い十字架を背負うよう命じられました。なお、「どくろ」と呼ばれた処刑場は、英語ではCalvaryと訳されています。そのためカルバリーの丘とも言われています。
 十字架を運ぶイエス様の周りには大勢の人が押し寄せていたと思われます。その人だかりは何のためなのか、田舎から出てきたシモンは好奇心があって、覗きに来ただけだったかもしれません。あるいは、イエス様の噂を聞き、彼も興味があって群集の一人に加わったのかもしれません。いずれにしても、十字架を背負わされる羽目になるとはつゆにも思っていなかったことでしょう。
 私たちが知っておかなければならないのは、十字架を背負わせたのは役人または兵士ですが、全てのできごとは神様の御手の中にあるということです。神様がシモンを選んで、十字架を背負わせたのです。田舎から出てきたシモンには、イエス様も十字架もよその土地での出来事であり、自分とは関係のないことととらえていたと思います。傍観者の立場で群衆の中に紛れ込んでいました。しかし、突然の命令に彼も慌てふためいて、何が何だか分からないうちに十字架をむりやり背負わされたのです。シモンは理不尽なことだとわめき散らした可能性もあります。しかし、わめけば兵士に殴られるかもしれないと考えたことでしょう。目の前には罪人として傷だらけになったイエス様がいたのですから。私の想像では、重すぎる十字架を背負うことで精いっぱいで、不平を言うこともなくなり、最後には歯を食いしばって運んだと思います。しかし、心の中ではシモンはたくさんの疑問や思いがあったに違いありません。
 「あの男は、一体どんな罪を犯してあんなに傷だらけにされたのだろう。自分も十字架にかけられるなんてことはないだろうな? なんで自分はこんなところに立ち寄ってしまったのだろう。まっすぐ用事を済ませ、早く宿屋に入ればよかったのに。この群衆はこの罪人に何を叫んでいるのだろう? 憐れんでいる人もいれば、怒っている人もいる。一体全体、この男は誰なんだ?」
  ゴルゴタという処刑場に着いてようやく十字架を降ろすことができた時、シモンはさっさとその場を去ったでしょうか? 私は、シモンはそこに残ってこれから何が起こるのかを自分の目で確認しようとしたと思います。彼は太い釘で両手両足を自分が背負った十字架に打たれ、顔をしかめるイエス様の顔も見たかもしれません。他の2人の罪人と並んで立てられた十字架を見上げたことでしょう。イエス様が十字架上でもののしられているのも聞いたことでしょう。一体この男はどんな罪を犯したのだろうと周りの人に聞いたかもしれません。
 シモンはイエス様と直接会話をしなかったと思います。それでも、イエス様はシモンの顔を見たはずです。シモンもイエス様を見ました。シモンはイエス様と出会ったのです。
  聖書によれば、イエス様が十字架につけられたのは午前9時で、12時から午後3時まで全地が暗くなりました。そして午後3時にイエス様が息を引き取り、大きな地震があり神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けたと書いてあります。百人隊長及び見張りをしていた人たちは、これらすべてを目撃した後イエス様を神の子と認めました。その声をシモンは聞いたことでしょう。
 マタイの福音書 27:54
百人隊長および彼といっしょにイエスの見張りをしていた人々は、地震やいろいろの出来事を見て、非常な恐れを感じ、「この方はまことに神の子であった」と言った。
  シモンの立場は傍観者から当事者へと、十字架を通して関わりを持つことになりました。突然十字架をむりやり背負わされ、ゴルゴタの丘で十字架上の出来事を一部始終見て、彼の人生観は大きく変えられたと私は信じます。田舎に帰る途上もたくさんのことを振り返りながら、イエス様への関心が高まったことでしょう。おそらく、その後の人生で福音を聞いたと思われます。
  シモンが苦労して背負った十字架の先に見たものは、イエス様が神様の御子だったという真実です。イエス様は私たちの罪のため、私たちが本来十字架にかけられるはずだったのを、身代わりとなって十字架につけられて死にました。死んだだけではなく、死を克服し、生きてよみがえられました。もしイエス様が自分の罪のために心で救い主であること、復活したこと、人生の主であると信じて告白するなら、私たちの罪は赦されます。そのような重大な意味を持つ十字架を運ぶという使命を、神様はシモンを選んで授けたのでした。
  私たちは、突然背負いきれないような試練に会うことがあります。なんて理不尽なんだろう。なんで私がこんな目に合わなければならないのだろうと嘆きたくなる時があります。それらの重荷を神様は知っておられます。神様はあなたが憎くてその重荷をあなたに背負わせたのではありません。イエス様と出会うため、イエス様に頼る人生を学ぶため、そのことによって主の栄光が表されるように、あなたを特別に選んで背負わせたのです。イエス様のことを知る前は、十字架の話を聞いても自分には関係のないことだと誰もが思っています。しかし、その試練には意味があるのです。シモンに意味があったように、あなたにも意味があるのです。
 今試練の渦中にある方も、気落ちせずイエス様に頼る人生を選んでください。イエス様はあなたを見つめています。そのイエス様と出会えますように。
  1コリント人への手紙10:13
あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。
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 新改訳聖書より引用
Acts 29 Japan
Evangelist Yumi
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高き所を取り除け
 異教の神を拝むことを偶像礼拝と言いますが、モーセの時代に神様が神の民に命じた十戒の最初に出てきます。
 出エジプト記 20: 2-6
「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。
あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。
あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。
それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、
わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。
  イスラエルを囲む国々では、偶像礼拝が盛んに行われていました。バアル、アシェラ、ダゴンなど聖書の中でも異教の神のことが記述されています。神とは言っても、真実の神はお一人です。私たちに命を与え、育て、導き、救うのはイエス様お一人です。それ以外は、人間が造り出したものに過ぎません。人間の想像で作った像や被造物を神のように祀り、拝むことは、自分を生み、育て、導き、救い出してくださった真実の神様を否定し、拒絶し、反抗していることになります。しかも、これらの異教の神(宗教)が人間に要求したのは、我が子を生きたまま火あぶりにさせ、殺すことでした。何度も言いますが、人の命は神様が与えるものであり、祝福なのです。罪のない乳児を大人の快楽や欲望のために、人が想像して造り上げた獣の像にささげるのは、何と忌まわしいことでしょう。
 出エジプト記にもあるように、これら偶像礼拝の罪の報いは非常に大きく、幸せとか平和とは程遠い暮らしぶりに陥ることになり、ついには地獄に投げ入れられます。一方、神様は哀れみ深いお方なので、過去に偶像礼拝の罪を犯していても悔い改めて、きっぱり断絶したなら祝福が子々孫々にまで約束してくださいます。
 ユダ王国のアサも人生の途中までは主に忠実に仕えていました。困ったことがあれば、真の神に叫び、拠り頼みました。彼の祈りの言葉とそれに応答する神様の御業は、私たちに勇気と励ましを与えてくれます。
2歴代誌 14:11
アサはその神、主に叫び求めて言った。「主よ。力の強い者を助けるのも、力のない者を助けるのも、あなたにあっては変わりはありません。私たちの神、主よ。私たちを助けてください。私たちはあなたに拠り頼み、御名によってこの大軍に当たります。主よ。あなたは私たちの神です。人間にすぎない者に、あなたに並ぶようなことはできないようにしてください。」
 2歴代誌 15: 7
しかし、あなたがたこそ強くあってほしいのです。力を落としてはなりません。あなたがたの働きには報いが伴っているからです。
  さらに、アサは自分の母が偶像礼拝をしたとき、その偶像を粉々に砕き、王母としての位さえ取り上げてしまうほどの信仰を持っていました。しかしそんなアサでさも、「高き所はイスラエルから取り除けなかった」(2歴代誌15:17)と記されてあります。「高き所」とは、異教の神を礼拝する場所です。祭壇と言ってもいいかもしれません。
高き所を残しておくということは、アサにとって真実から1%だけ目をつぶるという行為だったのかもしれません。しかし、その1%の甘さが彼の人生とユダの運命を大きく変えてしまうのです。
アサの治世35年間は平和でしたが、36年目にイスラエル王バシャがアサの平和を邪魔するためにラマという町を築きました。この時、アサは致命的なミスを犯します。これまで通り神様に拠り頼めばよかったものの、イスラエル国が同盟を結んでいたアラム王ベン・ハダテに金銀を携えてすがったのです。イスラエルとの同盟を反故にし、自分の国ユダを守るようにお願いしました。アラム王はアサに同意し、同盟を結びました。しかし、神様は見逃しませんでした。これは、神様との契約を反故にし、敵(サタン)と契約を交わしたことになるからです。予見者ハナニをアサのもとに遣わしました。
 2歴代誌16:8-10
そのとき、予見者ハナニがユダの王アサのもとに来て、彼に言った。「あなたはアラムの王に拠り頼み、あなたの神、主に拠り頼みませんでした。それゆえ、アラム王の軍勢はあなたの手からのがれ出たのです。
 あのクシュ人とルブ人は大軍勢ではなかったでしょうか。戦車と騎兵は非常におびただしかったではありませんか。しかし、あなたが主に拠り頼んだとき、主は彼らをあなたの手に渡されたのです。
 主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。あなたは、このことについて愚かなことをしました。今から、あなたは数々の戦いに巻き込まれます。」
 すると、アサはこの予見者に対して怒りを発し、彼に足かせをかけた。このことで、彼に対し激しい怒りをいだいたからである。アサはこのとき、民のうちのある者を踏みにじった。
  アサの2つ目のミスは、神様のメッセンジャーである予見者ハナニの言葉を否定し、拒絶し、足枷をはめました。イザヤ書にあるように、神様の御言葉を伝える人の足を神様は美しいと表現しているのです。真実が自分にとって不都合だったので、彼は祝福された足に呪いをかけたのです。
 イザヤ書 52: 7
良い知らせを伝える者の足は山々の上にあって、なんと美しいことよ。平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、「あなたの神が王となる」とシオンに言う者の足は。
 彼がハナニにかけた呪いは、自分に返ってきました。彼は両足に思い病気を患いました。そして、3つ目のミスを犯しました。彼は、主に癒しを求めることをせず、医師に救いを求めました。主なる神様を否定しながら癒しは得られません。彼は2年間病に苦しみ、亡くなりました。
 申命記 32:37-39
主は言われる。「彼らの神々は、どこにいるのか。彼らが頼みとした岩はどこにあるのか。
 彼らのいけにえの脂肪を食らい、彼らの注ぎのぶどう酒を飲んだ者はどこにいるのか。彼らを立たせて、あなたがたを助けさせ、あなたがたの盾とならせよ。
今、見よ。わたしこそ、それなのだ。わたしのほかに神はいない。わたしは殺し、また生かす。わたしは傷つけ、またいやす。わたしの手から救い出せる者はいない。
 なお、高き所でいけにえを捧げ、自分で作った神を礼拝していた王に、イスラエル国王ヤロブアムがいます。彼もアサ同様罪を犯しました。神の人を捕えるよう部下に命じ、腕を伸ばした瞬間、その手がしなび戻らなくなってしまったのです。少し異なる点は、アサは医者に癒しを求めましたが、ヤロブアムは神の人に神様に祈るようにお願いしたことです。神様はヤロブアムの手をすぐに癒されました。
1列王記 13: 2-6
すると、この人は、主の命令によって祭壇に向かい、これに呼ばわって言った。「祭壇よ。祭壇よ。主はこう仰せられる。『見よ。ひとりの男の子がダビデの家に生まれる。その名はヨシヤ。彼は、おまえの上で香をたく高き所の祭司たちをいけにえとしておまえの上にささげ、人の骨がおまえの上で焼かれる。』」
その日、彼は次のように言って一つのしるしを与えた。「これが、主の告げられたしるしである。見よ。祭壇は裂け、その上の灰はこぼれ出る。」
ヤロブアム王は、ベテルの祭壇に向かって叫んでいる神の人のことばを聞いたとき、祭壇から手を伸ばして、「彼を捕らえよ」と言った。すると、彼に向けて伸ばした手はしなび、戻すことができなくなった。
神の人が主のことばによって与えたしるしのとおり、祭壇は裂け、灰は祭壇からこぼれ出た。
そこで、王はこの神の人に向かって言った。「どうか、あなたの神、主にお願いをして、私のために祈ってください。そうすれば、私の手はもとに戻るでしょう。」神の人が主に願ったので、王の手はもとに戻り、前と同じようになった。
  さて、このアサが取り除かなかった「高き所」は、現代のクリスチャンにも通じる話なのです。罪を悔い改めて新たな人生を生きようと決意しても、これくらいなら大丈夫、もう罪は犯さないから大丈夫と、どこか妥協していることはありませんか。自分にとっては1%未満の妥協かもしれません。でも、それが元で誘惑に会い、罪に陥ることがあまりにも多いのです。真実は耳に痛いことです。聖書の言葉を心のどこかで飛ばし読みしていませんか。もし、堂々と神様の御前に出ていけない理由があるなら、今すぐ神様に祈り赦しを求めてください。アサのように、真実から目を背け、反抗したりしないようにしてください。あなたの永遠の命の問題なのですから。そして何よりも神様はあなたを愛してやまないからです。愛に包まれて生きる道を選んでください。あなたが今握りしめているたった1%のものを手放すことを不安に感じているかもしれません。しかし「高き所」を手放すとき、あなたは一人ではありません。神様が深くて大きな愛であなたを包んでくだることでしょう。
 2歴代誌20:17
この戦いではあなたがたが戦うのではない。しっかり立って動かずにいよ。あなたがたとともにいる主の救いを見��。ユダおよびエルサレムよ。恐れてはならない。気落ちしてはならない。あす、彼らに向かって出陣せよ。主はあなたがたとともにいる。
  新改訳聖書より引用
Evangelist Yumi,
Acts 29 Japan
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lambofgodministries · 5 years
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アブラムの契約の儀式と十字架
 今回は創世記15章を中心に、契約の儀式と神様の愛についてお話したいと思います。
 神様は創世記15章の初めでアブラムに祝福の約束をしましたが、その前段階が14章の最後にありました。
 創世記15: 1-5
これらの出来事の後、主のことばが幻のうちにアブラムに臨み、こう仰せられた。「アブラムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。」
 そこでアブラムは申し上げた。「神、主よ。私に何をお与えになるのですか。私には子がありません。私の家の相続人は、あのダマスコのエリエゼルになるのでしょうか。」
 さらに、アブラムは、「ご覧ください。あなたが子孫を私に下さらないので、私の家の奴隷が、私の跡取りになるでしょう」と申し上げた。
 すると、主のことばが彼に臨み、こう仰せられた。「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない。」
 そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。
アブラムが祝福はすべて神様から来ると信じていたので、ソドム王に言い放ちました。
創世記14:22-23
しかし、アブラムはソドムの王に言った。「私は天と地を造られた方、いと高き神、主に誓う。
糸一本でも、くつひも一本でも、あなたの所有物から私は何一つ取らない。それは、あなたが、『アブラムを富ませたのは私だ』と言わないためだ。
 これを聞いた神様はアブラムの信仰を喜ばれたに違いありません。そして、アブラムに祝福と守りを約束しました。奴隷ハガルとの間に授かったイシュマエルではなく、アブラムとサライとの間に子供が授かると約束しました。さらに、星の数だけ子孫を増やすと神様は約束されたのでした。
アブラムとサライは自分たち人間的な目線でいろいろな失敗をしてきました。しかし、神様はアブラムの信仰を見て、それらの失敗を赦し、さらに祝福を約束されたのです。
信仰をもって義と認められたアブラムでしたが、彼はしるしを求めました。確信を持ちたい気持ちは、弱い人間なら当然でしょう。その弱さも神様は受け入れてくれました。それが、契約の儀式に現れています。
古代中東近辺では、契約の儀式において動物を用いていました。どのように動物を用いたかが、創世記15章9-10節にも書かれてあります。
 創世記15: 9-10
すると彼に仰せられた。「わたしのところに、三歳の雌牛と、三歳の雌やぎと、三歳の雄羊と、山鳩とそのひなを持って来なさい。
彼はそれら全部を持って来て、それらを真っ二つに切り裂き、その半分を互いに向かい合わせにした。しかし、鳥は切り裂かなかった。
 つまり、動物を半分に切り裂き、それらを向かい合わせになるように離して置きました。切り裂かれた動物の間は、人が通れるほど離れていました。
通常この動物の血を用いた契約を交わす時、両者が動物の間を通ります。「もし私が契約を破ったなら、これらの動物と同じように私の命をささげよう。」と呪縛の言葉を唱えながら歩くのです。まさにこれら命をかけた契約の儀式でありました。そのような契約の儀式を神様自らがアブラムに持ちかけたのです。しかも、切り裂かれた動物の間を通ったのは、神様だけでした。
 創世記15:17
さて、日は沈み、暗やみになったとき、そのとき、煙の立つかまどと、燃えているたいまつが、あの切り裂かれたものの間を通り過ぎた。
 煙の立つかまど、燃えているたいまつとは、神様を表しています。出エジプト記に記されているように、モーセの時代神様は火として民の前に現れました。
 出エジプト記 19:18
シナイ山は全山が煙っていた。それは主が火の中にあって、山の上に降りて来られたからである。その煙は、かまどの煙のように立ち上り、全山が激しく震えた。
 出エジプト記13:21
主は、昼は、途上の彼らを導くため、雲の柱の中に、夜は、彼らを照らすため、火の柱の中にいて、彼らの前を進まれた。彼らが昼も夜も進んで行くためであった。
 契約の儀式の話に戻ります。引き裂かれた動物の間をアブラムは通り過ぎませんでした。神様だけが「煙が立つかまど」と「燃えるたいまつ」の姿で通り過ぎたのです。これは、どういうことなのでしょうか?
私は、アブラムの分も神様が通り過ぎていたのだと信じます。神様はアブラムをとても愛しておられました。彼はこれまで幾多の失敗をしてきました。これからも失敗するだろうと神様は知っていたはずです。それでも、神様の言葉を純朴に信じたアブラムを「義(良い)」と認めたのです。どんなことがあろうとも、アブラムの命を命がけで守り、アブラムとアブラムの子孫を祝福していきたかったのです。
 アブラムはこの契約の儀式で動物の間を歩いていません。万が一アブラムやその子孫が契約を破ったとしても、神様がその責任を取るつもりだったからです。実際アブラムも奴隷ハガルと男女の関係を結び、ハガルはイシュマエルを産みました。人間的な目線で祝福をつかもうとしたからです。それ以外にも、アブラム、サライ、その子孫、子孫に加わった私たちも数えきれないほどの罪を犯してきました。それらの罪一つ一つを、神様は御子イエス様の命をもって、責任をとったのです。つまり、切り裂かれた動物のように、イエス様も人類の罪の呪いとなって十字架で死んでくださったのです。神様は契約を不履行にすることは決してありません。罪を犯さないからです。一方、人間であるアブラムや私たちは不履行になる確率が非常に高いのです。それでも、私たちの命を取るようなことはせず、かえってイエス様を救い主として受け入れたなら赦してくださるという新しい契約を残してくれたのです。そこまでして、神様は私たちを愛し、祝福することを願っているのです。
  第一ヨハネの手紙4:10
私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
 神様が私たちに要求している契約の条件は以下の通りです。罪から離れ、神様の前に堂々と立つことができるよう聖なる者となりましょう。
 創世記 17: 1
アブラムが九十九歳になったとき主はアブラムに現われ、こう仰せられた。「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。」
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  新改訳聖書より引用
Evangelist Yumi,
Acts 29 Japan
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