Tumgik
manganjiiji · 18 days
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さあ、デュエルしようぜ。
オーイシマサヨシの新曲。良いです。全員聞いてください。それでもおそらく遊戯王の新アニメの主題歌なのだと思うのだが、こんなおとな向け(かつての子供向け)の歌詞で大丈夫なのでろうかと思った。私は1度もデュエル、したことないが、ニコニコ動画ベータ世代なので、未来へと攻撃表示だ!と言われると、体の底からわくわくしてきてしまう。友人に借りっぱなしの遊戯王の文庫版1~10を、送られた箱をあけないまま実家に置いてしまっており、数年が経過しており、友人とは疎遠になってしまい(というか私が意図して離れてしまい)、かなりやばいなと感じている。私と遊戯王とのきずな。そんなところにもある。元は友人の書いた遊戯王の小説同人誌を読ませてもらい、それがあまりにも良かったので私が原作も知りたいと言ったところ送ってくれることになり、しかしそのころ私の生活および健康および魂は壊滅していたので、直ぐに送られてきたその文庫版入りの箱は、数年間引越し先を転々とした後、ついに実家に安置されている。送り返さなければならないという意識はかなりある。それと共に、実家に行くことの困難さが物理面でも精神面でもどんどん上がってしまい、このようにして、友人から借りたものの、返せていない物ものが、実家にかなり堆積してしまっている。最初の本屋の職場の先輩から借りたと思われる『鋼の錬金術師』など、なぜ、という感じだが、押し入れに入っていたりする。もうどう足掻いてもこの人生では巡り会えない方からの借り物である。借りパクである。なぜ。なぜ私は、どうやって返すつもりだったのか。先輩の連絡先はいったいどこにあるのか。分からなすぎて泣きたくなる。もちろん、鋼の錬金術師のコミックスの一部を失って泣きたいのは先輩である。ちなみに、だから何かということではないのだが、私の「これぞバイブル」と思う漫画は、友達に貸したまま消えているものがよくある。とにかく今手元にないとだめだ!と感じたタイミングで新品を買ったりしているが、多くの漫画を手放してしまったり実家に置いていたりするので、そのあたりは全然頓着していない。他人から借りたものはかなり心を圧迫している。今すぐどうにかできない、なぜ今までの私はどうにかしなかったのか、それもまたわからない、すべては最悪な先延ばし癖と、「元気になったらやる」という思考が諸悪の根源である。元気になどならない。病気のまま全てをやるしかない。もう絶対に他人に本や漫画を借りたくない。返せないので。とはいえ、いま実家にあるものは、できる限り送り返そうと思う。実家との関係がある程度良好になり、自分の部屋の整理に行く事ができたら、今度こそ全てにかたをつける。そんな日は来る。確かに来る。これは自信を持って言える。
なぜなら今、母親と激しくバトルしている。と、までは言うことはできないが、母親に再教育を施している。いつもの「たまにくる母からのLINE」への逆ギレなのだが、これが回を増すごとに、核心へせまってゆく。去年の夏から始まった、私の母親および父親へのキレ、心情の吐露は、今回とうとう「あなた達は産んだ子供を育てるということをしなかった」という言語化まで進んだ。これはLINEとはいえ、私はよく言ったなあと、言ってしまったなあと思った。ああこれでもう母親からは完全に捨てられるな、とマザコンの私は数日暗い思いをしたりもしたが、それから返信があり、最終的に、「今からでもお兄ちゃんに何をすべきだったのか、今から何ができるか、夫婦でよく考えてみてください。」まで言った。言い切った。おい本当に、36になってまで、生家の人間とこんな根源的なやり合いを……自分の家庭も持てないままで……みじめだなオイ、と思うが、これが現実なので仕方がないのである。その後、その話題に関しての返信はないので、この話はこれで終わったものにされている可能性があるが、折を見てまたつつくつもりである。親の体が動くのもあと10年といったところ。このあたりで最後の嫌味もしくはキレをぶつけて、それで動いてくれたらラッキーだし、何も変わらなかったらそれはそれで、諦めもつく。何もかも今更な話題ではあるが、生きているならまだ取れる責任がある。私が押し付けられる「ツケ」を少しでも軽くしたいため、親にできることは少しでもいいから、してから死んでもらいたい。なんでこんなことまで私が促さないといけないのか、という思考を最近やっとできるようになったが(カウンセリングの成果である)、将来兄の面倒を見る際のリスクヘッジを少しでもしておきたい。将来というのは、親が2人とも寝たきりになり、施設に入った時のことである。予想では10年後。この10年が終わったら、私の人生も、いよいよ(親の)ツケを払わされる最悪のパートが来る。そう、カウンセリングの先生は、3月にて退職となり、4月からは新しい先生にお世話になることになった。本当に前先生には、心から、全身で、お世話になり、という言葉では言い表せないほど、快方に向かうお手伝いを長らく(2年弱)していただいた。深く熱く感謝。こんなにいい先生とはもう生涯巡り会えないと思う。運が良かったとしか言いようがない。大好きだった先生。どうか幸せでずっといてほしい。
今日はミュージカル「VIOLET」を友人と観劇。その前に、友人の誘いで、生まれて初めてダーツに興じる。もうめちゃくちゃおもしろかった。ただ、最後の最後に私の肘の神経?が異常を訴え、時間もちょうど良かったのでそこで切り上げた。折に触れ右肩から右肘までの経路に痛みと違和感があるが、むち打ちみたいなもので、安静にさせておく他ないだろうと思う。的の真ん中(BULL)には1回だけ当たった。投げ方は安定せず、コツを掴む前に終わったので、ぜひまた行きたい。ミュージカルは、東啓介さん(もう10年は前の話になるが、舞台刀剣乱舞で燭台切光忠役だった)の歌唱が、やっと私の納得のいくレベルに到達した!という喜びに包まれた、記念すべき日だった。東啓介、これくらいはできるだろ、のハードルが私はかなり高いのだが、そのハードル、今日越えた。私の中で越えた。なんていいことなんだろう。悔いなし、とまで思った。これだよ、この東啓介の歌がききたかったんだよ。そう、俺はこの日を待っていた。そういう日だった。他にもミュージカルにはいい所がたくさんあったが、全体としてはなんだかもやもやとした仕上がりになっていて、部分点は高いが総合点が低い、という感じだった。藤田俊太郎さんの舞台を立て続けに見ていて(ジャージー・ボーイズ、ラグタイム)今回だったので、予算の低さや規模感、アンサンブルというか脇役の歌唱の貧しさ、ストーリーの飲み込めなさ、演出の山の作り方など、様々な点で靄がかかっていたように感じた。事前情報としてのあらすじや売り出し方も、見終わった今となっては「?」がある。何がどうなってこうなったのかはわからないが、どこかでどうにかなって、なんかこうちょっと違和感や不満足感がたまってしまう造りになっていたように思う。それでも東啓介と今日の主人公の三浦さん(Wキャスト)の歌唱がよかったので、私が今でも東啓介を追いかけていなくてよかったなと思った(追いかけていたらリピートしてしまっていたと思う。チケット代は今の私に身分不相応な価格である)。もう1人のキャストの屋比久さんのバージョンも気になってしまう。ストーリーに最終的にそこまで納得感がなかったため、主人公の差で何か変わるかどうか確かめたい気持ちもある。それにしても立石俊樹さんの顔面がほんとうに美しかったな、という思いがちらちら脳内をよぎる。立石俊樹さんはA3!の茅ヶ崎至さんの役者さんでもあり、かなり、かなりわたしは顔面が好みである。染谷俊之ラインというか、高校でいちばん顔が好きだった女(3年時にはミスに選ばれた)も完全にここだった。とにかくこの顔に弱い。この顔に弱いわりには高校でいちばん顔が好きだった女は、吹奏楽部で同じパートだったため、毎日ガチギレして、無言のまま帰路をたどり、無言の圧により泣かせたりしていた。若気の至りであるが、私の怒りもまた本気だった。彼女とは最終的にいい関係を築き、社会人になってから腹を割って話し、お互いの青春の傷を慰め合うなどのエピソードも発生した。今ではどこかで幸せな家庭を築いている。高校の友人たちとは年に一度部活のメンツで集まる慣例があったが、コロナ禍とみんなの子育ての忙しさがかさなり、そこで途絶えた。独身組がどうしているのかとか、私は結構また集まりたいなと思うしいろいろ親になった人間とも話したいことはあるのだが、まあもう難しいだろうなと思う。みんなの子供が中学や高校生になる10〜15年後あたりに、声をかけてみるのはいいかもしれない。
らでんさんというホロライブのVTuberの方の美術に関しての動画が良かったので、今日はラジオの動画を飛ばしながら見てみた。こういう文化人もVTuberをやっているの、いいな、と感じる。私もバ美肉(バーチャル美少女受肉)して、日本史の講義とかやりたい。
結局本屋かなと思った。体力さえ続くなら、一生本屋がいい。体力が続かないために本屋をやめなければならない気がしているが、それってそもそもがマイナスな考えではないだろうか。屈強な肉体を手に入れ、死ぬまで本屋でもいいではないか。今日初めて、本気で、自分が書店を構えるとしたら��ということを考えた。今までは空想や妄想でそういう話をすることがあったが、今日は、それをするとしたら何年後までに何をして、ということを具体的に考えた。まず既存の書店で管理職(店長等)になることは経験として必須だとして、しかしそれだけでは個人書店はひらけない。「ふつうの」書店業務をこなすだけでは、独立系書店は成功しない(書店の実店舗というのは急激に消滅に向かう存在である)。立地や選書を工夫し、広報を工夫し、イベントを開催し、コーヒーを出し、それでも、厳しい世界である。私は正直ここで、本以外を売ってしまえばいいのではないかと思った。すなわち、アニメグッズ。天下のアニメイト様が出店していない場所で、天下のアニメイト様のおこぼれをちょうだいするというか、ムービック以外の商品を入荷し、アニメイトで売り切れててもあそこにいけばあるかも的な隠れ家風グッズ屋さんをかわいい内装で作る。ターゲットは20代女性。アニメイトの客層は中高生だし、小さな個人経営のグッズ屋ができたところで敵視はされない(あたりまえ)。20代女性オタクが欲するタイトルのグッズだけをメーカーから直で入荷する(もちろん、ムービック=アニメイトの商品は入荷できないが。いや、できるのか?)。あんスタならパティスリーというメーカーの商品を入荷できれば、それだけで商売が立ち行く可能性もある。ただし、都市圏ではこれは通用しない。新商品発売日に在庫が全て売り切れ、その日にはお客様の列は店から道路にはみ出してなお50mは続くであろうからである。新商品は発売日に売り切れでも、なんらかの再販の商品を常に買える、洒落た店内の(いわゆる映え)グッズ屋さん、女性向けコンテンツのみ取り扱いなら、ちょっとした「(女オタクの)心はずむ店」になるかもしれないし、そこに書店を併設すれば、コミックの売上は見込める。現在、書店の実店舗はコミックの売上が屋台骨である。独立系書店はコミックを置かないことが多いが、私はコミックが好きなので、やるとしたらめちゃくちゃコミックを置く店舗にしたい。あと絶対にめちゃくちゃ万引きが難しい店舗として犯罪グループに認知させたい。というか、万引きが難しい店舗として犯罪グループに認知させる事ができなければ、コミックを置くことはできない。個人の万引きではなく、そういう犯罪ネットワーク(おそらく情報交換の場や買取先)があり、書店はつねにそれと戦っている。最近はどんな犯罪も組織だなと感じる。個人の犯行ではなく、組織犯罪と戦わなければならない。または、個人で犯罪をする(犯罪で手に入れたものを個人で利益化できる)ような豊かな時代は終わったとも言える。実行犯として捕まるのは末端の切り捨て要員であり、彼らも貧困の中で、組織に搾取���れている側の人間である。犯罪者に同情の余地はないが、そういうトカゲのしっぽがうじゃうじゃいて、そういうトカゲのしっぽを使う組織があり、その組織がどこかで「クリーン」なものへと姿を変え、私たちは犯罪に加担していると知らぬまま消費行動を通じてかれらに益をもたらしてしまう。最悪な世の中であるが、政府や与党の発言を見ていれば、そのような腐敗はこの世の中にいくらでも蔓延る隙があるだろうと思える。南無三。
とにかくジャンプラ、ヤンジャンなど集英社がアプリでがんがんインディーズ発掘に成功しまくっている今、ジャンプコミックスはまた勢いがある。他出版社も電子書籍のコミックス化で結構紙の本も売っている。ジリ貧ではあるが、どうしても紙で揃えたい漫画を、Amazonではなく実店舗で買っていただく。そのための仕掛けを作れば、コミックはまだもう少し書店を支えてくれると思う。どうしても紙の本は電子書籍に勝てない。なぜか。電子書籍はコストがほとんどかかっていないので、定価よりもかなり安く売ることができる。人は当然安いほうを買う。文字情報が載っているのが紙か画面かの違いでしかない。そして電子書籍は場所を取らないので、日本の住宅にぴったりである。本屋(実店舗)はなんのために必要か。それは勿論、本が好きで、本を売りたい人が、それを仕事として行うため。買いたい人は全然いない。いたとしても日本全国に散らばっている数少ない愛好家のため、わざわざどこか1箇所にある実店舗まで足を運ぶことはほぼ不可能。でも、本屋で働きたい人は溢れている。本を買うのも、本を売るのも一瞬だが、本は読むのにその何千倍もの時間がかかる。それが、ほかの小売や飲食と比べて、かなりのディスアドバンテージとなっている。もっと人間全員が本を読むようにならないかな。素敵な本をさ。
2024.4.7
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manganjiiji · 1 month
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片付いてる部屋になんか興味ない
私が今みたいのは本!本!本!本の中身!誰が何を書いているか!何が書かれているか!もうそれだけ!という気持ちになったので本棚とその前に積み上げられたものたちをドガシャアとひっくりかえして、それなりに片付いていた部屋をどんがらがっしゃんした。まあ1箇所に寄せて固めていただけのものだし、これを機に一度広げた本や同人誌やグッズを整理したほうがいい。
12時半に家を出て21時半に帰宅。もうほとんど電車に乗っているような一日だった。疲れた。前半は気圧の下降がきつく、今日絶対家で寝ておいた方がよかったなと思ったが、なんとか1時間半かけてほぼ多摩まで行き(間違えて各停に乗りまくった)用事を済ませて次は埼玉の大宮にある病院へ。待合室に人がどわっといて、酸素が薄い…?と思いながら、流れているジブリのオルゴールを聞いて脳内でタイトル当てをしているうちに座ったまま寝ていた。15時半からの予約で、はっと目を覚ましたら17時をすぎていたが、まだ呼ばれていなかった。眠れてよかったと思う。気圧も上昇に転じたのか、体が結構軽くなっていた。診察では先生に冬季うつのようなものがあったのかも?先週から徐々に家事ができるようになり、無気力感が抜けました〜って報告したら、躁転(軽躁)かもしれないから気をつけてね、いきなりいろいろしちゃダメだよ、と釘を刺され、バイトもまだ増やさないように。と言われ、人足りないと聞いて、元々の希望である週4にしてもらったところだったので、ヤベッと思った。「はい!」と元気よく返事をしたが、時すでに遅し、バイトは増やしてしまいました。4月はかなり慎重に生きねばならないなと感じた。ジャズの教室が始まるのはいいとして、ジム通いは尚早かもしれない。3月はなんだかんだで人と会う機会が多かったので、4月はこれ以上予定を入れないように注意する。4月の予定は、ミュージカル「VIOLET」鑑賞、ハリーポッタースタジオツアーfeat.水中めがね∞、そして何より4/15からの、あんスタの大型合同イベントとやら……である……。どのくらいの何が来るんだ。俺はどうすればいいんだ。どれだけの金と時間を使えばいいんだ?何も分からない。4月のイベントが来るまでに、今抱えている燐一のネタは小説にしてしまおうと思ったが、全然間に合わない気がする。とにかく毎日をできるだけ健康に過ごして無理はせず、おとなしく小説を書いていこうと思う。書きたいいちばんデカいネタは、去年の3/21にノートにまとめてあって、そこからまったくぶれていないので、一年以上同じネタで脳内で萌えている自分すごいなと思った。今書こうとしているのはもっとサクッとするっと読めるR18です。何のひねりもない気がする。もう少しなにか特色のあるエピソードを入れたい。こんな直球でいいのか?という気がする。でもまあ、二次創作なんか何回同じこと書いてもいいし、テーマ性なんかなくてもいいし、とにかく好きなシーン書けばいいと私は思っているので、当たり前のことをていねいに。みたいに書く練習をしてもいいのかもしれない。いやでも、流石にもう一捻り欲しいか。(ループ)
先日、友人の卒業を社会人達で祝った。私の他ふたりは歴戦の企業戦士というか個人事業主というかとにかく強い働きマンたちである。私は全然働いてないマンなので、そんなことがあるんだな〜と2人の話をおもしろく聞いた。東京ステーションホテルのハイティーを予約して、面白いほどに全てが美味だった。ハイティーの前に、私の希望で、東京都美術館の印象派展(モネからアメリカへ)へ。期待値が高すぎたため、そこまで満足度がハイパー高いという訳ではなかったが、じゅうぶん楽しかった。印象派について、戸外制作ということを初めて知った。なるほど。アメリカではやはりニューイングランドの風景というのは、なにかアメリカ人たちに郷愁となるものを含むことがあるようだと感じた。自分が幼少期の舗装されていない土の道を見ている時のような感覚が絵にあった。印象派の明るい色彩はやはり好みだと思った。光というものがみんな好きだし、私もその例に漏れず。夜、ワインをみんなで飲んでいる時(私はパイナップルジュース)、なんと友人から快方の連絡が。その友人が繋いだ4人と言っても過言ではないメンバーで集まっていたので、やはり彼女には何かが見えているのか、とざわついた。「写真を送ってあげよう」ということでホテルの方に撮ってもらった記念写真を送ったら、メッセージを送る度に人間の顔面が帰ってきてびっくりする、心臓に悪い、というようなことを言われた。まったくもう。別にいいじゃないですか。全員の了承は取れているのだし。私が友人に対していつも反抗的だということが話題に上がったが、まあそう、本当に反抗的で可愛くない幼稚な友人で悪かったね!とよく思う。私は友人のことを嫌いになることはないので、結局のところ、快方の連絡を受けて、涙ぐんでしまった。ひとまず、数年にわたる生命の危機は脱したのではないかと思われた。
今日は病院の後、スタバに寄って本を次々開いていたら二時間たっていてびっくりした。高橋哲哉『デリダ』、フロム『愛するということ』、水沢なお『うみみたい』をそれぞれ読んで、なんだかそれぞれの内容が呼応しているような気がした。私はいつも乱読だが、だいたい中身は同じようなものを読んでいるので、3冊合わせて1冊を読んでいるようなものだな、と感じた。最果タヒ『落雷はすべてキス』は、今日はひらけなかった。井戸川射子『共に明るい』の続きも読みたいなと思った。それから本棚をひっくり返して、年末から2月にかけて買った本がざんざか出てきて、やべ、この辺も読まなきゃな〜というのと、3年くらい積読している本もいくつか読みたいなと思い、新しく積み直した(?)。頭の中に文字や概念や情景を入れるのは楽しい。しかしかなりぐったりしてしまう。『侍女の物語』もかなり真面目に読んでいたのに途中で止めてしまっている。そんなことを言ったら、全ての本を途中で止めているのだが。毎日10分でも読んで、それを10年続けて��とにかく続けることだな、と誰かのツイートを見て深く頷いた。
2024.3.23
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manganjiiji · 1 month
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おいおい、また青春しちまったってのか?
俺は。そんなこんなでピアス穴が定着していないのにも関わらず2回もピアスをつけてしまった。ので、友人に「3ヶ月つけたままとらないで!抗生物質の入った塗り薬は塗らないで!」と指示されながら、セカンドピアスをつけ直した。なお耳たぶはどちらもじんじんしているし、どちらも出血している。なんてしっかりしていない大人なんだ?これこそが私。という感じがする。
春コミ!お疲れ様でした。一般参加で、ずっと息子のタケシ(新たな登場人物)とくっついてまわっていて、レイヤーさんたちにはしゃぎながら、大量の同人誌を買い、ご挨拶などして、スタバに行き、池袋に行き、プリクラを撮り(!??)、ガストでステーキを食べ、楽しかったです。タケシが、婚約者のあまおういちご大先生と私と3人の写真を一瞬でアイビスペイントで合成して作り出していて、神業だ…。と思いました。正直タケシもあまおういちご大先生も絵がうますぎる。私は彼女らを産んでいてもおかしくない年齢なのだが、仲良くしてくれていい子すぎる。私はパパと呼ばれているのだが(妥当だ)、正直自分の精神年齢はまじで20代前半だと思う。しっかりしろよ…と思うが、失われた10年間+α(療養)の空白があるのでどうしようもない。同年代に比べると恐ろしく幼稚であろうなあと思うが、同年代と会っても、とくにそこまで自分が会話についていけない、ということもないので(周囲が気遣ってくれている可能性は大いにある)、なんだか不思議だなと思う。私は人間関係において年齢と性別に意味を見出さないので、相手が何歳でなんの性別だろうと、心がよければどうでもいいのだが、そうすると必然的に自分の年齢や性別もあやふやになってくる。それらをあやふやにしたままで、それでもしかと立っていられる自分存在を確立しないと頭がおかしくなってしまうなと思った。まあ、思うだけで、頭はもうおかしいのでどうでもいいか、と思っている、実際のところは。
今日は友人とホルモン焼きを食べ(ているのを見て、レモンサワーをごくごく飲んでいるのを見て)、ドンキを冷やかしカラオケに行き、終電を逃し、3駅分歩いて帰った。私っていつまで青春しているつもりなんだろう!?と自分でも思うが、帰りながらもくりを立てたら友人たちが来てくれて、結局帰宅して2時半頃まで話し、結局、そう、楽しい毎日となっている。今日会った友人とは、かつてこの日記で「御子」と呼んでいた、彼女である。お子さんの「お子」であって、ミコではない。つまりたびたび一人暮らしの家や、同居人との家に避難させ、匿いつつ飯を食わせりしていたあの御子である。出会った時には17だった彼女も、もう22になった。5年間というのは、われわれにとって、かなり、大きい。この5年間を死なずに生き延びてくれたこと、本当に有難いと思う。死にそうになったことは何度もあったと思うが(思うし、実際にあったと記憶している)、きちんと今日も笑顔で食べたり飲んだり歌ったり踊ったりしてくれ、まだまだ困難が多い道の途上で、八方塞がりになることも多々あるとはいえ、本当に立派だなと思う。そうね、私達はたしかに運が悪かった。そして未だに苦しんでいるし、物理的に困っている。でも私は少なくとも生活能力が安定してきているし、友人もできる限りの1歩を毎日踏み出している。その積み重ねで、どうにかこれからも生きて、必ず幸せになって欲しいと思う。私の中にもあなたの中にもミラクル生まれのキラキラ育ちが隠れてる、パワフルかわいいハンサムガールズ、負けない、絶対、めげない。(プリキュアモードにSwitch On!より)
春が来て、本当にありがたい。私は今年はかなり冬季うつっぽくなってしまったので、やっとそれを抜けた気がする。ふだんのうつ状態(月1〜2)よりも、無気力状態や過眠が多く、生活のほとんどが滞ってしまった。ただ、仕事は出勤していたので、自分としては白星を上げたい。今日ようやっとシンクをきれいにし、資源ごみを出し、自炊を再び始める状態を作り出せた。やはり健康も節制も自炊から始まる。今日は食料品の買い出しに行けなかったが、明日から自炊生活が始まる。切れかけの調味料も多い。次の5月でこの家での生活も1年経つ。12〜2月がほぼ撃沈していたとはいえ、なんとかどうにかなりそうだ、と今日は明るい気持ちになった。4月からジャズの教室通いと、ジムを再開する。仕事も週4になるので、そこでまた体力限界のズタボロにならないように気をつけていく。暫くはおとなしく働きつつ、好きな勉強をしつつ、小説を書きつつ、少しのんびりするか?と思っている。会社員を目指すのはやはり違う気がして、福祉の大学の通信で資格を取ることをまた考えている。4月入学は間に合わないので、9月入学。6月に燐一の同人誌を出したいので、それが丁度いいかもしれないと思っている。
2024.3.19
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manganjiiji · 2 months
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波と鈴
大人だからしっかりしなくちゃいけない。次の世代を守るために自分はどうつらかろうととにかく立ってなきゃいけない。その思いが杖となってやっと立っていることができる。「大人だから」。たとえ子供がいなくても、パートナーがいなくても、大人は子供を守るために、後から生まれてきた人を幸せにするために生きるんだよ。私はそのように信じていますので、何とか立っていられるというわけです。しかしまあ、病というのは大きな敵だなと思う。病と戦いながら、子供の心を守りながら、生きるしかない。そのことのために自分が生きているということを忘れるな。それさえあれば生きていられるのだから忘れるな。嫌なことがあっても笑え。笑っていれば周りを不安にさせることはない。笑っていればそのうち忘れる。自分が笑うことができないなら人を笑わせろ。そしたら釣られて自分も笑うから。そういうやり方で生きてきて、でもこれを他人に��用しようとは勿論思わない。こんな極論は自分にしか乗りこなせないし、そもそも不健康である。病におかされた人間の、九死に一生ライフハック、かつ利他寄りの���考、生まれつきエンターテイナーでなければこのメソッドはそもそも実現できない。私は生まれつきというものにだいぶん生かされてきたなあと思う。生まれつき感覚が鋭敏、また衝撃を大きく感じるたちで、すぐにストレスゲージがMAXになり塞ぎ込んでしまうのだが、それを克服する生き方もまた、生まれつきの性質でなんとかなっている。加害しがちな人間の元で育ったが、私自身は加害しがちな人間には生まれつかなかった。このことは幸運だと思う。あるいは、己の加害欲をある程度は自分で矯正することができた。このことは小さな誇りではある。絶えずおのれを監督し、時には指導し、更生させる種類の人間が好きである。おのれの行動を客観的に見ず、野放しにし、欲望のままに生きている人間は苦手である。大人なら、自分を監督し、善悪を自分で判断し、それに照らし合わせて冷静に、根気強く、自分に言い聞かせるべき事柄もあると思う。それができない人間とは喋りたくない。これは大人に限った話で、子供にはまだできなくても仕方ない。全ての子供は可能性なので、いいも悪いもない。つまらないことしか言わない大人も、つまらないことしか言えないのは生まれつきだからしょうがないと思う。でも、自分を監督できない大人は、何も考えずにおのれを野放しにして生きているような人間は、汚らしいし、近寄りたくない。何より、子供に近づいてほしくない。そういう人間が子の親だったりすると、ああ、子供は修羅の道をゆくのだ、と思う。他人の子供を救い出せる法というのは、この国にはまだ無い。みな生き延びてほしいと思うが、死んだほうがましだとも思う。生き地獄を生きるか、死ぬか。その選択を突きつけられ続ける。でも生きていれば楽しい瞬間もあるし、万が一には幸せになれる可能性もある。苦しみは続くが、苦しみだけではない生が待っている。何より、人が生きることによって、必ず何らかの形で別の人が生きることに寄与することになるし、そうやって生の連鎖が保たれる状態は少しでも多い方が、私は幸せの総量が大きくなりそうで好きである。虐待を受け続けた子供が、虐待をしてきた人間を殺すのは、私には正当防衛だと思えるが、法律ではそうなっていないし、当事者以外にはそうは思えないものらしい。先に手を出したのは虐待者のほうなのだから、どう考えても正当防衛だと思うが、生かしながら虐めることを「養育」だと感じる人間は多いらしい。だから、とにかくこの世では逃げることだ。悪人が罰せられるなんて綺麗事は、児童虐待の世界では起きようがない。悪人から逃れて、とにかく自分は家族を失ってでも幸せになるべきだ。家族を見捨ててでも自分だけは生き延びるべきだという悲痛な決断をしなければ、被虐待児は生き延びることができない。でも家族への情って、そんなに簡単に断ち切れるものではない。もしかしたら愛してもらえるのではないか(愛してほしかった)という未練もある。普通の家に生まれたかった。この呪いの言葉を誰でも100万回はこころで唱える。普通の親に、普通のきょうだいに、普通の自分がいる世界に、生きてみたかった。しかしそれが叶うことはもう永遠にない。この世のどこにもない。全てを諦めて逃げて、他人に何を言われても耐えて、普通の人のふりをして笑いながら生きていくしかない。被害者である自分はもう誰にも見つけてもらえなくなる。自分にさえも、忘れられる。でもそうしてしか生きていく道がない。加害者のことを忘れて、被害者だった自分を忘れて、被害者ではなかったマジョリティの人たちのあいだで、何事も無かったかのように笑って生きていくしかない。傷も病気もそのままに、治らなくても、生きていくしかない。大人だから。私はもう大人になってしまったから、あとは子供を守ることでしか、生きていく理由がない。
2024.3.9
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manganjiiji · 2 months
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思いもよらぬ状況に今…ありますんで
というテロップのニュースを映したテレビの上に猫が乗っかっている(なにやら迫真の表情)画像がかわいかった。ツイート主は「遅刻しそうな時に上司に送るスタンプとして使ってください」と書いていたので、まあここに貼ってもいいだろう。これである。
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思いもよらぬ状況に今、あったら、たしかに遅刻するかもしれない。と思い、しぬほど笑った(死なない)。猫がいることで「ぜってー嘘だ」感が出るし、猫が言っているかのようなニュアンスも持たせられ、とにかく猫の表情がいい。
もし、新卒のあの期間、今くらい病状が安定しており、生まれた家との距離も取れており、とにかく今のような考えかたのできる人間だったら、今頃私はそれなりにちゃんとした大人になれていただろうなと思った。そして、今のような安定した状態で働けることは、なんていいことなのだろうと思う。自分が不安定な家の生まれでなかったら、もしくは、そういう家でも自分を見失わず精神疾患に陥ることがない因子をもつ人間だったら、という夢想に意味はないのだが、でも、もしそうだったら、新卒の時あんなに周りに迷惑をかけなかったし、もっと楽しくやれただろうし、良くしてくれた人達にたくさん恩返しすることが出来ただろうにと思う。それに岡山はとてもいい場所だった。岡山に馴染むことだってできたかもしれない。それができなかったのは、やはり、病気だったこと、家族との関係の整理に10年以上の歳月が必要だったこと、まだまだ子供時代をやり直す必要があったこと、東京が自分のやりたいことができる場所だったこと、様々な要因がある。岡山の会社を辞して東京の念願の書店に就職し、明らかなブラック企業だったが、とにかくみんなが売上に向けて団結していて、そういう熱血なところが自分に合っていた。ただ、その会社で初期の社会人教育を受けたため、私の仕事観、労働観は暫くのあいだ歪んだままだった。矯正できたのはここ数年のあいだで、32を超えてからやっと、「働きすぎる」をやめることができた。そこから、病状の快癒にも本気で取り組み始め、今やっと、穏やかな気持ちで仕事に向き合うことができている。人間、生き延びればなんとかなるんだなあと、思うことしきり。それだけ周囲の人間とぶつかり、迷惑をかけ、様々な問題を起こしてきたということなので、全然「申し訳ありませんでした」の気持ちが強いが、正直、私のような、家庭で教育を受けずに育った人間を育てるのもまた社会の役目であるから、(会社や友人が私に迷惑をかけられるのは)まあ仕方ないよなと思う。私は私で、社会としてそういう人を育てていくことをしていきたいと思う。そうやって恩を返すしか他にない。社会全体がこういう考えを持ってくれるといいなと思う。子供は家庭が育てるものというより、社会が育てるものという思想の方が私の肌には合う。
今後の進路に悩んでいる。というか、何をしたいという感情も最近なく、ただ生きていきたいかなあと思う。ただ生きていくためには今の収入では厳しいので、転職…だよなあ。という気持ちだが、いかんせん体力が追いつかない。体力をつけたいが、すぐに寝たきりになり、回復のタイミングが掴めない。じゃっかん病状が後退している気もしなくもないが、冬季で日照時間が減っている影響かもしれない。去年の今頃はもう少し体力があったのだが、生家で過ごすストレスにやられて限界を超えていた。それを思えば精神的にはかなりましだと思う。自炊ができなくなってかなり経つ。朝食がまず用意できないのでなにもかもがご破算、という感じで、きつい。もはや食事という行いをしていない。ただお菓子を食べ続けている。それでは力が出ないのは当然だと思うが、もうお菓子を食べることしかできないので、最悪な循環に陥っている。どこかのタイミングでまた自炊ができればいいのだが、体力がつくまでは無理かもしれない。それでもとりあえず仕事は休まず行っているのでいい。欲を言えば、仕事が週3だと少なすぎるので(=休日が多すぎて精神的にどんどん沈んでいってしまうので)、週4にしてほしいなと思う。店側の事情もあるのでなかなか言えることではないが、当初の週4という希望を上司が忘れることがない程度にはリマインドしていきたい。そのためにはまあ3ヶ月は休まず出勤する必要があるだろう。今月、休まず行ければ、シフトの相談をしてもいいのではないかと思う。
このツイートを今のタイミングでするのは良くないな、と思い、ツイートするのを我慢したことが、今日は良かったと思う。別に人を傷つけたいわけではないのだが、私の意見で傷つく人もいるだろうなあという想像力はあり、タイミングは選んだ方がいいと思った。凹んでいる人に追い討ちをかけるような真似は慎んだほうがいい。でも、まあ、そこまでいちいち「他人が傷つく可能性」を斟酌して振る舞い続けるのもどうなんだ、という思いはある。私の意見は変わらないのだし、傷つく人は結局いつであれ傷つくだろうし。ただ、タイミング的に個人攻撃と受け取られそうな危険は回避すべきだと思った。攻撃したいわけではない……しかし、やはり、「それはちがうだろう」と声をあげたい時は私にもある。そういうの(考え)は私は好まない、私は違うと思う、という思いは、まあ別にひけらかす必要はなく、自分が持っていればいい。ただ、目の前で、たとえば仲のいい友人が、その思想と真逆のことを言っていた時(行っていた時)、一体どうすればいいんだろうと思う。黙っていたらその思想に追随する人のように思われるかもしれないし、かと言ってその場で否定を唱えても、事件化してしまう可能性もある。静かに離れるのがいいのだろうか。そうやって自分と違う意見の人と離れていった結果、社会的に分断が生まれてはいないだろうか。私は、ある程度は、その友人と関係を続けたいならば、「私は違うと思う」を表明していったほうがいいと思っている。ただ、それを表明するタイミングと場所は…考えないと無為に人を傷つけてしまう、そのことはかなり難しい問題だなと思う。相手の立場や、自分との関係にもよるが。
2024.3.4
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manganjiiji · 2 months
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たしかめたい常陽の国
ねむれないでもないが、久しぶりにtumblrの日記を書く!ねむれない。眠る気配が全然来ない。日中とても寝たので。昨日、映画「夜明けのすべて」をすっと行って見てきた。宇野常寛さんが「『夜明けのすべて』と『弱さ』の問題」という題のnoteをアップされていたので、それを読みたいと思い、とにかく夜明けのすべてを見なくては、と思い、見た!結果、とても良かった。見終わったあとも、ずーっと、私も夜明けのすべての世界のひろがりの中の一部で生きているんだという感じがして、上白石萌音さんが演じた主人公のやさしさがずっと胸にある感じがした。瀬尾まいこさんの原作も読むべきだろうか?と思ったが、読書にたいしてはかなりハードルが高いので読まないで終わってしまうと思う。映画がかなり好きだったから、まあいいかなと。とくによかったのは、主人公2人がそれぞれ通っているクリニックの医師のあり方で、それぞれ全然違うんだけど、もう、まさに「医者ガチャ」を体現していて、精神疾患者として、何もかもが「あるある」の連続だった。ここまで真に迫ってしまうのか、監督、脚本、何者なんだ。そして、脚本は、前に起こった出来事がきちんと次の出来事につながっていく、ドミノというかピタゴラスイッチというか、一つ一つのスイッチが一つ一つ処理されていく感じで、とても教科書的で理解しやすかった。ここだー!というときに、メインテーマのBGMが、静かに、でも確かに存在として入ってくるのが、かなり心地よかった。ここだー!というときにあのテーマが始まってくれると、ひとかたならぬ安心感があった。観終わったあとも暫く頭の中でテーマが鳴っていた。宇野常寛さんのnoteも読んだ。原作はしっかりとアンチクライマックスだったようだが、たしかに映画はクライマックスらしきものがあった。でもそれもあくまで日常の中のたんたんとした、こういう盛り上がりってあるよね程度におさえられていて、この程度のクライマックスなら、ぜんぜん「夜明けのすべて」の範疇ではないか?と思えた。山添くん(主人公のもうひとり、松村北斗)が自転車に乗って、陽光や風を感じ、電車に乗れずどこへも行けなかった彼が、自転車でどんどんまた世界を広げられていく様子がいちばん心に残った。その自転車というのは、上白石萌音(役名を忘れてしまった)があげたもので、かなりこの主人公ふたりの凹凸感がよかった。上白石萌音の役がトリガーになるのだが、関係を進めていくのは山添くんだし、そもそも上白石萌音の役は人にいつも何かしらを与えるのが好きな人間で…というのが、かなり好演だった。説得力がすごい。これは役者の力がすごくあるなと思った。松村北斗の役(山添くん)の変わっていく様子も、かなり圧巻だった。嫌な奴かと思いきや、真面目な、ひたむきなやつだった。個人的に、りょうの、上白石萌音の母親の役がかなり好きだった。りょう、好きだ。こういうおばさま、居るんだよな…という感じで。この家庭にはおそらく父親がおらず母娘2人の家庭で、描かれていないが松村北斗の生まれ家庭は一切出てこないので、あまりろくなものではないと思う。そういうところもリアルだったというか、納得できた。松村北斗(山添くん)はちゃんと上司や元同期と関係を築いていて、卑屈になることなく(上白石萌音のほうはけっこう卑屈さがある)、自分の人生を生きていて偉いと思った。上白石萌音のほうは最後まで母親のために生きる娘として描かれている。それはそれで、1つの生き方なんだよなあ、と思った。男性のほうが、なんとなく生まれ家庭の呪縛から解放されやすい(親きょうだいがどうあろうが自分は自分)気がするのだが、どうだろうか。女の子の方が、全部自分が何とかしなきゃと思って背負い込む気質の子が、精神疾患に苦しむ場合に多い気がする(これは映画の感想とは関係なし)。男は親と切り離された自分の家庭を作るが、女は嫁ぐときになかなか(相手の家に)親と切り離して考えてはもらえない、という旧来の慣習が響いているような、そうでもないような?平安の昔から、女は生まれ家庭に規定される。なんでやねんという感じだが、男のほうがなぜか「家の旗印」として独立を背負わされているので必然生まれ家庭とは切れるのだろうな。これはなぜ男が旗印で女がその従になったのか、不思議なところ。民俗学的な問いと言えばいいのだろうか。
とにかく上白石萌音と松村北斗の(役の)友情がかなり自然で、理解できて、納得できて、よかった。ただし、これは舞台はどこなんだ、というのはかなりノイズとしてよぎってしまった。あの規模の会社の給料で、上白石萌音はこんないい家に住めるんか。しかも都内っぽいし。松村北斗がかなり粗末なアパートに住んでいるのだがそれでも何部屋かあった。部屋と言えば、松村北斗の髪を上白石萌音がきると言い出した時に、カーテンを開けたのが印象的だった(おそらくそういうシーンとして演出されている)。松村北斗は外部からの刺激を、家の中では発作は起きないとはいえ極力遮断していて、そんな事情にまったく頓着しない上白石萌音はガンガンカーテンを開けて、あの部屋に「陽」を入れてしまった。たぶん、松村北斗は「あ、開けられた...」と思ったと思うが、なすすべなし。髪を切るのにカーテンを締め切っているのもおかしいし、なすすべなし。そしてそこからなし崩しに二人の関係が始まっていき、松村北斗は上白石萌音に「ひらかれて」ゆく。上白石萌音のPMSの症状が、外に向かう(怒り)ものなのが、かなり納得できた。外向的な人間なのだと思った。松村北斗はかなり内向的で、苦しんでいた。そのようなわかりやすい対称性も、私のような浅い頭の人間にはありがたかった。プラネタリウムの企画を練っていく時に、30年前の、社長の弟(自死している)のプラネタリウムのナレーションがカセットで再生されるのだが、そのシーンではやはり泣いてしまった。彼の自死の理由はわからないが、ノートのメモからもわかるように、最後まで本気で生きようともがいていた人なのだと思った。そして、上白石萌音も松村北斗も生きようともがいている。実際に生きながらえていて、その前向きさがよかった。私も、どうにでもして、生きていけるのではないか?と思えてしまった。
また、栗田科学の社員の面々がよかった。社長が、おそらく、他ではなかなか採用されない「訳あり」社員ばかりを受け入れているため、人間関係には山あり谷ありなのだと思うが、みな「お互い様」で、上白石萌音のPMSによる「キレ」も、松村北斗の発作も、すぐに対応していた。そして、その後もそのことを気にしないで振る舞うことを徹底しており、この会社は「ケアし合う」ということをすでに(上白石萌音と松村北斗以前から)実践していた場所なのだと思った。また、ダンくん(よく聞き取れなかったがそんなような名前)と女子の取材陣の二人もよいタッグを組んでおり、ここの友情や、中学生だがさまざまなことを感じとり、思いやったり息を詰めたりしている様子が、優しい子たちなんだなと、でも普通の子達なんだよな、と、子供を善として描くことに好感を持った。人間はもちろん、自分の弱さを隠して生きていくことを前提として公生活を営んでいる。でも、事情によりどうしても漏れ出てしまう弱さがある。そんな時に、でもそれは仕方ないよね、と受け入れてくれる場所がある。その場所を維持している社長はすごいと思ったし、ああいう事業主が、おそらく日本中にいて、様々な人達の生きる場所を維持しているのだと思う。というか、そうであることを願うし、そうでないならそうなってほしい。現実的には「でもそれは仕方ないよね」は、あくまで、前向きに、公生活に真摯に取り組んでいることが条件で、そういういわゆる厳しい面ももう少しあってよかったかもと思う。栗田科学があまりにも優しすぎたので。
とりあえず忘れる前に備忘録として書いた。もう少し考えて、何かしらまとまった感情が生まれたら、この辺の感想もnoteにまとめたりしたい。今日は朝からPERFECT DAYSを見に行く予定だったが、疲れていて普通に行けなかった。チケットが無駄になってしまったが、欲張りすぎたなと思った、反省。またチャレンジして、見に行きたい。PERFECT DAYSは公式サイトがすでに美しいので、それでかなり満足した部分もある。
2024.3.2
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manganjiiji · 2 months
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無限階段悲しい
なんで宇宙なんてものがあるのか、人間なんて動物がいるのか、わたしたちは泣くために生まれてきたか、愛など傷から血が流れ皮膚がひりついて痛いだけだ、と思う。カラオケ行こ!の映画を見て、あまりのひりひりさにかなり感傷的になった。こんなことってあるかよ。こんな恋ってあるか?こんな恋ってあるからここに書かれてるんだ。きょうじがさとみくんを見つけてしまって、さとみくんがきょうじを許してしまったその時に、二人はもうのがれられない癒着を為してしまったんだ。だってさとみくんの笑顔は、きょうじがずっと欲しかったものだったんだと私達にも分かってしまった。さとみくんは、きょうじに巻き込まれただけかもしれないけど、きょうじを救う水みたいな、陽の飛沫みたいな、そんなやわらかな心をあげてしまったのでもう駄目だよ。天使って死ぬために生きてる。二人は最後まで一緒にいることなんてできなくて絶対どちらかが先に死ぬんだ。人間が二人で生きる約束をしたって絶対どちらかがのこされる。そのことがずっとずっとずっとずっと悲しい。なんで人は死んでしまうんだろう。なんで人が死んでも私や、おばあちゃん、そう、死んだ人に残された人は生きなければならないのだろう。その場で自動的に一緒に死ねたらいいのに。死んだらどこに行くんだろう。どこにも行けずに、もう一回、もう一回、って悲しい恋を何千回もやり直してるのかな。やっぱり。たしかな恋があって、そこから生まれた命があって、またたしかな恋があって、私はそこから生まれた命だから、こんなにも恋を信奉してしまうのだろうか。こんなあたたかな心臓を持って生まれない人間などいくらでもいるというのに、私にばかり血液が流れて、ばかばかしいし、傷ばかりになる。傷やいたみの真っ只中で、それでも好きだ!好きだ!と叫び続け、周りには誰もいない。私ばっかりが世界を好きで、それって本当に相手を好きなのか、自分に構ってほしい、誰でもいいものなのかわからない。でも私は家族が好きだった。家族がわたしをそれほど好きじゃなくても、私って家族の中で誰より家族が好きだった。それって末っ子の使命なのかも。こんなに湿度高く生まれてしまって損かもしれないけど、あいしたことは私にとっては事実で、あいし返されなくても、ただこのままの姿勢で生きていくしかないんだと思った。どちらが先に愛したかなんて、私が先に決まっている。いつもそう。世界に恋。ブラックホールが呼んでも、そんな誘惑わたしには意味がない。みんなが居なくなってしまっても、ただ泣くだけで意味はない。生き続けなければならない。
2024.2.23
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manganjiiji · 2 months
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端正に滔々
いい感じですね。仕事に休まず行けている。4時間勤務というのがかなりよいです。そして平均週3日。そして、慣れた業務。まだほぼ1ヶ月目ですが、だいたいのことは教わりおわって、教わってないことも大体勘でやって怒られていないのでまあ合っていると思われる。指摘されたら改めようと思うが、上長や先輩に余裕のある時にはやり方があっているかの確認を忘れないようにしたいと思う。それにしても本屋は、やはり、何も考えていなくても無意識で仕事ができるので楽だ。体が覚えているというやつですね。さすがにもう最初に本屋に入った時から12年は経っていますから、1箇所が長くないとはいえ、書店員を名乗れないとはいえ、書店慣れはしていますね。楽だ。ここまで来るのに大変な苦労があったなあと思う。大変な苦労が質も量もいくつもあって、やっとその恩恵を受けているような感じ。本屋でフルタイム勤めたり責任ある立場になったりすることのできる体力はないが、使える下っ端としてなら立ち回れる。今の店ではまだまだ使えるの域までは行っていないので(2ヶ月目にしてそれはそう)、早く多くの仕事を覚えていきたいなあと思う。まずは今教わっている仕事をよく覚えてミスなくできるようになること。
仕事以外のことは殆ど何もできていないに等しいが、今はまだ体力をつけることの過途にいるので、それでよい。食事も睡眠もぐだぐだだが、あまりにも毎日疲れているので仕方がないと思う。もう少し体力がつけば、自然とどうにかなっていくと楽観的に考えて、今は目の前の仕事、出勤だけに集中する。とはいえ、英語だけは少しやっている。念願のlisteningの勉強も、TOEICのアプリとテキストで始めた。1日30分程度を確保できるといいなと思う。健康な人は24時間のうち睡眠8時間、労働8時間、移動2時間、食事・風呂3時間、自由時間3時間くらいかなと思うが、私は24時間のうち3〜6時間は体調不良で消えてしまうので、勤務も4時間だし、自由時間も1〜2時間で少ない。しかしまあ、残された時間が少ないことを考えても仕方がない。目の前のことを、やりたい時にやりたいことを、最大限のパフォーマンスでやるしかない。本当は風呂に入って、フォームローラーで筋肉をほぐしてから寝たいが、疲れて体が痛いため、そのような体力は残っていない。今日は既に頭痛と疲労で6時間潰している。まあそんなもの。
水沢なお『うみみたい』を昨日買った。今日数ページ読んだが、疲労により全然頭に入ってこなかったので読むのを諦めた。早く全部読みたい。映画も見たい。今日はことこさんが言っていた『テルマとルイーズ』を観てみたいと思った。劇場でやっている映画も見たいものがあったはずだが、1人ででも見に行く、という情熱にはなかなか最近なれていない。創元SFの『完璧な夏の日』、これはBLと言わざるを得ない、と聞いたので読んでみたい。短編集だし。ハヤカワの『BLとSF』は瀬戸夏子さんの監修だが、目次を見てちょっとどうなんだ?読む気がなくなってきたな?とみんなで話していた。発売されたらとりあえず立ち読んで、もし予想以上に良さそうなら手に取りたい。評論がオメガバースに寄っているのが、なぜ?という感じだ。論じるべきところはもっと多くあるのでは。このあたりは、SFマガジン編集部と読者の思い描く『BL』像が優先されているということだろう。だいたい、SFなんてほとんどBLとして読めるのだから。
203.2.19
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manganjiiji · 2 months
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梅の成れの果て、時鳥
昨日の日記が功を奏したのか、今日朝、起きて少ししていきなり思い出した。私は、会社員になりたかった、それも、人事の仕事がしたかった。「人」を扱うこと、見極めること(採用の業務ではなく、それぞれの人間の態度や思考を)、そういうことに自分はかなり一日の長があるので、絶対に人事の仕事は楽しいと思ったのだ。たしかに大学時代考えていた。大学時代の私には思考力、その他、脳を使うほとんど全ての能力が失われていた(どうやって卒業論文を書いたのかも全く分からない)。その後新卒の会社で、私を精神科まで無理やり引きずっていってくれたのも、人事の方だった。そういう意味でもやはり人事の仕事は私のやりたい領域とかなりマッチしている。まあそんな単純なものではないだろうが、世の中(問題のある社員の対応などに追われることさえも私は楽しんでできる自信がある。とにかく対象が「人」か「本」であれば私は強いのだ)。そうと決���れば労務知識。エクセル関数、V-lookup。産業カウンセラー。英語。やることが決まってくる。しかも私にはわりと最強のカード「障害者雇用」がある。バックオフィスのサポート業務で入り、ゆくゆく人事を目指すということが道行きとして可能なのである。遠い昔に諦めた夢が、まさかこんな形で実現可能性を持ちうるとは。長生きはつくづくするものだと思った。そのためには週5フルタイムで勤務できる体力作りだ。この一年強、つまり2024年度で行う。4月からの産業カウンセラーの講座も受けたい。しかしそれよりも、人事総務検定、ビジネス・キャリア検定の日程を調べるのが先だろう。並行してExcelの関数は独学で行っていく。MOSを受けた方が良ければそうする。コロナ5類移行に伴い、多くの試験が復活している。去年や一昨年ではここまで行動することはできなかっただろう。TOEICも受けてみたいなと思っている。英検準1級の結果はまだ帰ってきていないが、準1級の勉強も引き続き続けたい。readingがここまで独学で何とかなったのだから、listening、writingもやっていればそのうちどうにかなるだろう。楽観である。
昨夜勤務中に英語のテキストのコーナーでそういえばこれ買ったな、というのを見かけ、英語をやりたい気持ちがあり、今日は久しぶりにシャワーを浴び身支度をし、英語のテキスト一式を持って町に出た。しかし祝日であったため人が多すぎ、かなり苛ついてしまった。というか、疲労が全く抜けておらず、勢いで家を出たが、なにも勉強することなく帰宅した。しかもガストで爆食して、帰宅する頃には完全にうつ状態に陥っていた。泣きながら自分一人しか見ないTwitterに頭の中の言葉すべてを書き付けて投稿していき、もくりをひらいたまま寝ていた。22時頃友人がもくりにきてくれ、そこで目覚めた時にはうつ状態が終わっていた。しかも若干躁状態になっており、ローソンのウーバーイーツでお菓子をかなり届けてもらった。結局するんかい、ウーバーイーツ。となり、お金も使いすぎだし、今日だけでおそらく2500kcal以上食べている。お腹が痛くなるまで食べているのだ。それでも、うつ状態で泣きながら食べるよりは、躁状態で罪悪感なく食べる方が100倍良い。
もうここのところずっと勉強というか、読書も英語もしていないが、明日でやっと、一日おきの勤務が終わり三連休に入る。うつ状態になったのも、疲れすぎて薬の効きが悪くなったからだろう。帰ってから洗濯できなかったが、まあ明日の朝にすればいい。いい加減資源ごみを出したいが、まあ出せなくてもいい。なにせ、数時間前まで足が痛すぎて呻いていたので、そこまでの病状の人間が、そんなに張り切ると、どうせ反動で疲労し、最悪の場合仕事に支障が出る。
仕事に慣れてきたとは思うので、そろそろジム通いを再開したい。筋肉がつけば仕事もやや楽になるだろうし、食事へのプレッシャーもかけてもらいたい。春まではとりあえず朝はお粥、夜は鶏の水炊きで回していく。腹が減ったら適宜inゼリーでブドウ糖を補給する。しかしこれだけだと3日で倒れる羽目になったので、プロテインも追加した方がいい。明日は勤務だし、朝からプロテインを飲もう。2024年度で20kg痩せる、というのが自分のなかで定番のフレーズになりつつある。まずは10kg痩せるところから。そして今年の夏は夏バテで職を失わないように、夏に向けて筋力をつけていく。
昨日ふいに「二次創作って私のやりたいことなんだっけ」という思いがわいてきた。なんとなくいつも天城のこと(燐一)を考えてしまうが、本当に二次創作に本腰を入れるなら、私はもうメインストーリーを読み終わっているはずだし、各イベストも頭に入れてあるはずである。あれもこれも知りたいと思いながら、結局すべてを先延ばしにしており、あんスタ世界を存分に楽しめていない。書きたい気持ちはわかるが、まずは作品世界をよく把握するところからだと改めて思い直す。ValkyrieのストーリーもDoubleFaceのストーリーも、もちろんアルカロイドもクレビも、一旦全部読むまでは二次創作を考えるのもやめたらどうかと思う。自分の書きたい燐一があるのは結構だが、ストーリーを追いかけてその後でもまだ書きたいと思うのなら書けばいいのではないだろうか。その時点でとくに萌えなくなっていたのなら、もうそれまでだと思う。読み専でもいいし。
今年は一次創作を書こうと思う。マイナスきいろの完全版を出すのと、BABELの第2章を進めていきたい。オリジナルBLがもしムーンライトノベルズなどでまとまった量連載できて、もし読者の方がついてくださっていたら、J-GARDENも出てみたい。そのためにはまず書くこと。どうせ私は小説など読まないのだから、あんスタのストーリーを読んで、現代思想をやりつつ、一次創作を書いていく。フルタイムで働いているわけではいので、フルタイムで働いていると仮定して、勤務時間中はバックオフィス業務おもに人事に必要な勉強の時間や調べ物に当てる。それでも体力は足りないと思うので、仕事に支障が出ないように、休養は多く取る。また「やりたいことばかり」で時間の足りない自分が戻ってきた。やはり私という人間はこうでなくてはな、と思う。
児童虐待や福祉、福祉社会学についてはどうするのかというと、こちらは独学で論文を追い、被虐待者支援団体への寄付と、もしできればボランティアとして携わっていきたい。つまり学問として修めるのは諦める。私がこれから福祉社会学をやったとして、おそらく結実しないというか、年齢的にもこの年で福祉の世界に入っていくこと、行政に関わっていくことはかなり難しいと思う(と周りに判断され採用されないと思う)ので、そこは後進に任せることにする。またはこの、児童虐待被害者への支援というのは、先送りの夢とする。まずはホワイトカラーとして10年以上働き、社会の仕組みをよく理解した上で、福祉職に転ずるなら転ずる。46歳の自分にどの程度の体力が残っているかわからないし、病状も改善しているのかいないのか全く未知だが、とりあえず今年20kg痩せて筋肉をつければ、少しは長生きできると思う。健康寿命というやつを延ばす。60まで生きられれば御の字だが、小説を書くためにはその時間では足りないような気もする。とにかく何もかもを獲りに行く。一次創作しながら障害者雇用のホワイトカラーを目指す。まずはこの戦略で行こうと思う。
2024.2.12
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manganjiiji · 2 months
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わたしはどこからきたのか
夢がかさなる、歌が生まれる。あんさんぶるスターズ!!(およびあんさんぶるスターズ!)の主題歌「BRAND NEW STARS!!」の冒頭の、そして作品の核となるフレーズだ。
子供じみた憧れはもう
人生を変えるような
Ensemble Stars!!
どこまでも追いかけて
まだ誰も見たことない
伝説の先を
描こう
この歌詞に、きのう、驚愕した。昨日、あんさんぶるスターズ!!の声優さんたちが踊って歌う、有明アリーナでのライブに行ってきて、さまざまなことに感銘を受けたのだが、この主題歌(当然、アンコールの最後の曲となる)の歌詞を初めてきちんと追ってみて、あまりにも感動し、帰りの電車でずっとこの曲だけを聴いていた。
そして電車を降りた後、徒歩で家に向かう途中、「子供じみた憧れはもう」の部分で、はっとした。というか、かなり、「そうだ」と思った。子供じみた憧れはもう、とっくの昔に「今」になってしまい、さらにこの先の未来は、夢などという生温いものでさえなく、歌詞の中では伝説となっているが、自分の人生として、「自分の仕事」をしていかなければならないのだ。その仕事は、自分の人生を振り返った時に、どんな人でもきっと、平凡やありきたりを超えて、なにか自分の力だけでは到底なし得なかったような、自分にとっての伝説と感じられるのではないだろうか。つまり、私も「やった」という実感が欲しい。死ぬ時に、「でも『これ』は出来たな」と思って死にたい。
もうこの人生は「子供じみた憧れ」を語っている場合ではないのだ、ということを昨日の帰途つよく感じた。じゃあ何ができるんだろう。私はここまでで30年以上かなり長く生きているが、「できた」と思うとしたら、今まで積み上げてきたものの上、延長線上にあるものだろうと思う。ここで新しく何かを始めるのもいいだろうが、それで始めた何��が、「仕事」として結実しなければ意味がない。実現可能な職を具体的に思い描きそれに向かっていかなければ、時間を空費する。子供じみた憧れではなく、夢のその先の「今」を確かなものにするためには、私は何をすればいいのだろう。正直、何も分からない。何をしたいのか分からないというより、何もできる気がしない。突然就活中の大学生みたいな感慨に襲われている。もう、疲れすぎて、どんな仕事もできる気がしないのだった。フルタイムで働ける体力がないので、そもそも私に何らかの実績を残すことが、この社会では難しいのではないかと思う。フルタイムで働ける体力がつけばかなり話に希望も見えるが、今のところ1日4時間働いただけで、一日半寝たきりになっている。いや、起きろよ。という感じだが、起きれるなら起きるのである。私の性質上、基本的に常に動いていたいし働いていたいし人と関わっていたいしインプットかアウトプットの何かしらをしていたいのだが、それが全くできないくらいに体中が疲労感と痛みで満たされ、脳の「動け」という命令が身体まで届かない。一人でいたい時間などない。眠りたい、二度寝したい、だらだらしたい、そういう欲求はない。ただ、寝ないと体に不調が出るので仕方なく寝る。寝ることも食べることも全然好きではなくて、これ無しに生きられればいいのにと思っている。ゆっくりすることは時間の無駄!と思うくらい、同時に2〜3個のことを進めていないと気が済まない。そうやって過活動なため、反動ですぐに倒れるのだろうが、これは性質なのでまあいいと思う。体力さえあればな、と思うが、たぶん体力のある人間ほど、睡眠や食事や休養を大切にしている。体力のない私には、その理屈が全然理解できていない。一人になると狂うので、一人の時間が恐ろしい。Twitterを見て誰かのつぶやきを「聞いて」いるか、こうして自分が何かを「言って」いるかしないと、すぐに狂ってしまいそうになる。狂うのが怖いのでとにかくTwitterを開く。「他人」の存在を思い出せれば思考が「対象」に向かって逸れていくのだが、今この脳内に「自分」しかいないとなると、途端にパニックになる。自分が何人もいることに耐えられない。自分が自分を見て、感じて、評価していること(メタ認知?)に対して、永遠のあわせ鏡になってしまい恐怖に支配される。これは身体反応として脂汗がでて心拍数があがり、このままでは確実に発狂する、という予感を伴うものである。こわいね。だいぶん話がそれました。ともかく、1人でいたくない、常にインプット(他人からの情報)かアウトプット(他人への情報)していないと狂う。他人を介さないと狂う。純粋な自分、自意識と向き合うことがかなり難しい。この文章もかなりの危険を冒しながら書いている。胃のあたりが圧迫され始めている。この「狂いの前段階」に、入ろうと思えばいつでも入れる。自分を見つめる自分を見つめる自分を見つめる自分…を意識すればいいのだ。意識しても狂うだけなのでいいことはない。狂いたくない。他人を介して思考しないと狂う。他人を介して自分を見ないと狂う。私の「おかしさ」はこれは生まれつきのものだと思う。寂しさとは違う、ただただ恐怖だ。
まあそんなことは今はよくて、私は何がしたいのだろうという話である。就活本や業界研究の書籍のコーナーを見ていて、ああ、人生のこういう段階で、自分のやりたいように自由に振る舞えるような環境にあったなら、私は何になったんだろうと考えたりした。というのは今日の話で、なぜ唐突にこんなことを…と思ったが、昨日のBRAND NEW STARS!!の歌詞についての考えが、夜によみがえってきたのだ。そこで思ったのだが、私にはやりたいことがないかもしれない。やりたかった夢は破れ(挑戦することさえできずに終わり)、それならば、と希望した職種でずっとアルバイトしており、こちらの夢は叶った。もう叶ったから、正直、いいな。と思う。もう、別に、やりたいことがないな。と。ただ、勉強したいな、という思いはまだあるかもしれない。やるべき勉強や仕事に対しては、正直全然まったく胸がときめかない。使命感のみでやるつもりだから。自分のやりたい勉強に対してはわくわくするかもしれない。しかし、それが仕事に繋がるかといえばNOだ。
いつの間にか寝ていた。あまりにも眠いのでここまでで終わり。何もまとまりませんでした。
2024.2.11
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manganjiiji · 3 months
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ドゥーイット・トゥーランドット
体力の回復に多大な時間がかかる。1回4時間の勤務で、往復2時間。乗り換えでまあまあ歩くのと立ち仕事なのとで、完全に寝たきりだった体が悲鳴を上げる道理はよくわかる。12月、用事のない日はひたすら寝ていて、ほとんど無事な日がなかった。1月に慣らし勤務のような感じで週2程度入れてもらったのがちょうどよく、ありがたかった。たまたまだが。今では8時間勤務の肉体労働のあとに、6時間以上ヒールで立ち仕事をしていたなんて完全に狂っていたと思う。そりゃ再起不能になります。今はさらに加齢したし、体重も重くなったので、体は愈々弱っている。もう立ち仕事(本屋)をやめなよ、と友人も言ってくれたことがあるのだが、だめだ、どうしても、本屋しか続かない。しかも本屋の中でも下っ端の下っ端で、とにかく高校生でも余裕そうな単純労働しかしていない。でもそれくらいのプレッシャーじゃないとすぐ病気が悪化するため、なにか根本的にどうにもならないものを感じている(そんな人間いる?!という感じだが、いるのである)。正社員に憧れた時代もあったが、結局はバイトリーダー的な階級でさえも仕事を回せなくて潰れた。無能なのだ。というより、体力が追いつかない。今考えれば、バイトリーダー的な立場の時は、どちらもバイトを掛け持ちしており、どちらも13時間以上働いていた時だった。もしかしたら、掛け持ちしなければ「ちょっと腕のいいバイト」くらいにはなれるのだろうか。もうこの歳でなってもおまえ…という感じだが、私は人間の年齢と性別をかなりどうでもいいと考えているので、まあ、心配なのは加齢による体力低下をどこまで抑えられるかということだ。ずっと本屋で働くということはできないが、この数年は本屋で働く。その間やはり通信制の大学に通って、精神保健福祉士と社会福祉士の受験資格を得たいと思う。あまり人生の時間がなくなってきた。先月誕生日を迎えたことで、もう自分に残された時間が少ないことを思う。この手足が、すでにかなり制約が多いが、それでも何とか動くのはあと20年もないと思う。そのあいだにこの世界に対してできることをやっておかなければ。現代思想や哲学を独学しながら福祉の勉強も、となるとどこまでできるのか自信がないが(わずかでもいいから英語の勉強も続けたい、やらないと忘れていくので)福祉職に転じるにしろ、福祉社会学を学ぶにしろ、早い方がいい。体力の無さが本当にネックになってくる。加えて小説も書きたい。ここでキャパオーバーになる。時間と体力をもう少し、どうにか融通したい。やりたいことが多すぎる。歌のレッスンもやめたくないし、楽器も吹きたい。そんな。そんな何もかもをできるわけがないのに、欲望は果てしない。でもやはり、将来を考えた場合、福祉の国家資格は早く取りたい、というか、その勉強をして早く知識を深めたい。まあ、現代思想は実学のあとにゆっくりやってもいいしな。ただ、小説はそうもいかない。これも急ぎたい。早く書かなければどんどん書かなくなって書けなくなる。今せっかく書き始められているので、このまま、頭を小説のモードにしたままスイッチを切りたくない。人間にできることなんて結局一つなのに、私はこの人よりだいぶ自由度の低い体をひきずって、いつまで夢を見るのだろう。どれか一つを選べと言われて、捨てられるのか。本屋を、学問を、福祉を、小説を。歌と楽器は気晴らし程度にできる気がする。でも小説だけは捨てられない。学問も結局は根幹で福祉と結びついている。本屋はやめられるとしても、いつまでも私は本屋のバイトの上の方だったり、正社員に準じる立場だったり、正社員を夢見るんだろうなあと思う。夢が叶わないからいつまでも夢を見ている。あっでも、諦められたというか、もうしなくてもいいかなと思えるものに、塾の講師がある。勉強を教えるのはもう本当に終わりでいいかなと思う。本屋も終わりにするはずだったが、結局終われていない。だって本屋って本当に楽しいんだもんな…出勤は遊園地に行くのと同じことだし、ふつうに考えて遊園地より楽しい。歌もまあ、なくても困らない程度には行動に現れなくなってきた(体力が落ちているせいもあるので、歌と楽器で体力を取り戻していきたいという気持ちもある)。最後に残るのはやはり福祉(ケア)と小説だろうか。こればかりは体が勝手に動きやめられない。小説に関してはかなりもう、意地!という感慨がある。まだまだいい小説が、自分はもっといい小説が書けるはずだと思っているし、書いても書いてもまだ足りなくて、満足するということがない。福祉職に関しては、これで現場に立って実際に意味のある支援をしたいというのと(今まで私費を投じて精神疾患者の友人たちを世話することを自然にしていたのだが、それは仕事にするべきだと思った)、世の現実をもっと知り、実際に世界を変えたいという欲望が強い。そのために小説ももっと書けるようになっている必要がある。まあ、「能力の高い書店員」になることはなかなか難しいでしょう。この夢はここで破れた、ということにしてもいい。社会人としての土台となる体力がないのだから、難しいですね。本屋は人員削減の急先鋒だし。は〜〜、20kg痩せて筋肉がついたら何もかも解決しないかな。筋肉をつけよう。
2024.2.8
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manganjiiji · 3 months
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いびつな球体の真珠はやわらかい
冬、無気力におそわれがち。日照時間なのか?気圧が回復しても、全然元気になれないということが多々ある。全体的に気力体力がマトグロッソ。マトグロッソってなんだっけと思ったらイースト・プレスのWebメディアだった。プリンタニアとか連載してるやつね。ポルトガル語で「深い森」だそうです。あんなに勉強する気に満ちていたのに、冬になったからなのか、習慣が失われたからなのか、時間があっても「何もしたくない」という時間が増えている。その結果寝ている。一昨日の夜にどうにか脱して、掃除と片付けをやや進めたことで、なんとなく生活が息を吹き返したが、いまだに低調。20kg痩せる(今年中)ために、朝は玉子がゆ、昼はinゼリー、夜は水炊きで、牛乳は1日1回までに決めた。今日2日目。朝夕の有酸素運動と、風呂の後のストレッチ。今のところとくにお腹が空くということはない。お腹がすいたら水を飲み、それでも駄目なら腕を机に打ち付けて痛みでごまかそうと思っていたが、今のところ打ち付けずにすんでいる。
引っ越してから9ヶ月も経つが、やっと駅前ではなく最寄りのスーパー(サミット)の位置を確認できた。かなりでかいサミットで、かなり安くていいものが揃っていそうだった。鶏肉の値段は見てきた方がいい気がする。牛乳が安かったら嬉しいが、もうこのご時世何も期待はできない。
現代詩手帖に投稿しようと思って、詩をできるだけ書くようにしている。今日ふたつ目ができた。2日に一篇のペースで書けたらまあまあいいなと思う。詩は小説みたいに時間がかからなくて、アイデアだけでその場で書いて完結させられるのがいい。タリーズで詩を書き付けたあと、二次創作も脳内で少し進み、帰宅してからさらに進んだので、もうそろそろ出力できると思う。R18にするのかしないのか微妙なところだが、できれば全年齢で行きたい。
2024.2.1
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manganjiiji · 3 months
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いつかはぜんぶ幻みたいに思えても
タイトルはSwitchの曲「オモイノカケラ」より。昨日友人と会った際に彼女がこの歌を口ずさんでいて、ああ、この曲も大好きだったなと思い出した。Switchの曲はどれも良すぎる。なんでSwitchはここまで曲に恵まれているのか?恐ろしいほどだ。たんに私の好みに合っているだけかもしれないが。キャラクターのパンチがそこまでではない(いわゆる正統派美形ではない、搦手の3人)ため、��は厚遇されているのか?などと思ってしまった。そのあたりのバランスはありそうだが、まあわからないことを考えても意味がない。そしてオモイノカケラを叩いていて思ったのだが、宙の顔のモデリングがえぐいほど良いということだ。夏目もいいのだが、あんスタの3Dはやはり小さな子供の顔が基調だと思うので、ということを差し引いても宙の顔のパーツ配置や輪郭が黄金比すぎる。夏目も童顔なのでいい感じだが、追加ユニットゆえのモデリング改良を受けているのだろうか。つむぎは成人男性のため、他のキャラと同じくややアンバランスだが、とにかく宙の顔の美しさが群を抜いている。どの角度から映されてもあまり現実の比率と齟齬がない。Rabbitsには感じたことがない感覚なので、やはりモデリング技術のなんらかの向上があるのか、宙だけ異様にうまくできてしまったのか…とまた考えても答えのないことを考えている(もしかしたらどこかのインタビューに答えがあるのかもしれないが)。そうなるとmusicで追加されたALKALOID、CrazyBの面々のモデリングもかなり改良されていそうなものだが、こちらには童顔(小柄)キャラがいない。一彩、藍良、こはく辺りはやや童顔系だが、宙ほど幼くはないので、やはりいつものやや幼さのある謎のバランスの悪さが発揮されている。成人男性モデル組はそもそも変。私は変だと思っているが、これがあんスタのモデリングなので別にいいと思う。顔も体も、なぜか立ち絵よりも幼く作られているのは、どんなコンセプトがあるのかいつか知りたいところである。というか、アイマスからの「少女型」モデリングをそのまま継承しているイメージでもある。これはモデリングをする人の手癖とかもあるのかもしれない。
SPECTATORS vol.52のアメリカ保守リベラルの年代まとめを終えた。1929年のウォール街大暴落までは、自由奔放な野蛮な(素朴な)アメリカ、その後ルーズベルトのニューディール政策により「大きな政府」=リベラルの時代が約40年続く。1980年代になり、ベトナム戦争の敗北や全体的な生産力の低下、アメリカ内部の分裂が深刻になり、「古き良きアメリカ」への懐古と、いきすぎたリベラルへの反動で、レーガンの「小さな政府」へ。ここから現在にいたる約40年間が保守の時代。こうしてまとめると、いろいろと見えてくるものがある。つまり、私が生まれた時代というのは強烈なアメリカ保守への揺り戻しの時代で、まさに自由市場主義が推し進められた、それも過剰に推し進められた「小さな政府」の時代だった。そして、失われた30年間とかなんとか、日本では言われるようになる。が、アメリカでは依然保守が強いので、日本の政党もかなり右傾化したままここに至っている。日本では経済成長が終わり、デフレ真っ逆さまのなか、「小さな政府」路線からなかなか脱却できず、福祉や公助で人々を救うのが遅れに遅れ、その間も自由市場主義によって格差はどんどん拡大した。これが私が生きてきた35年ほどの日本の状況だったように思う。この最悪な状況のなかで、確かに精神を病む大人(親)は多かったし、その煽りを受けて家庭内虐待が大量発生し、私たちの世代(子)もかなりの割合で、若い(子供の)うちから精神疾患を発症している。おそろしい時代だと思う。これから、格差拡大により増加した貧困層にいかに税金を割いていくか、を考えなければならないのに、日本は高齢者への福祉にかなり足を取られて���る。この状況はあと20年ほどは続くだろう。若い人たちは限られた自分たちに使える税金をいかに分配するか、工夫しなければならない。こんな状況で被虐待児や元被虐待児に支援を、と言っても、とてもそんなところまで手が回らないと言われるのはすごくよくわかる。とくに虐待なんて、誰もが関わりたくないトピックだ。それは、「虐待者が悪い」と言ったときに、その虐待者が権力者であった場合、指摘した側、子供を助けようとする側の立場が悪くなるから。しかし、被虐待者である子供の側には、何の権力の後ろ盾もない。親と子が争った場合、ふつうに負けるのは子供の方である。そして虐待死に至るか、虐待を耐え続け逃げ延びても、その先で精神疾患になり自殺する。または自殺と常に隣り合わせで地獄を生きていくことになる。それでも、そんなことはどうでもいいとばかりに、児相は動いてくれない。これがなぜなのか私には全然わからない。児相がふつうに仕事をしてくれたら、虐待の被害はもう少し減るだろうし、こんなに民間で自助しなければならない構造は変わるだろう。児相が機能していない背景には、やはり、親権規定の強力さがあると思う。親権規定がある限り、児相がいくら子供を助けたいと思っても、親から子供を引き離すことはできない。親の虐待が検挙されるか、親がyesと言わなければ、子供を施設で保護することはできない。加えて施設も里親の数も足りない。日本にはとにかく血の繋がった子でなければ愛せないという神話が未だに渦巻いており、養子文化は全然ない。またはそれは悪いこと、恐ろしいことと思われている側面さえ感じる。私には理解できないが、血が繋がっていればその子供を愛せるらしいし、血が繋がっていなければ、その子供に対してどこか投げやりになるということなのだろうか。そんな人間ばかりではないと思う。みんな犬や猫を家族として受け入れているんだから、人間だって血が繋がっていなくても家族になれると思う。かかる金の桁が違うが、「自分の子」として受け入れるなら、愛情は注げるはずだし、誰の腹から生まれたかがそこまで重要なのか?と、養子反対の感情は私には本当に理解できない。私がさっさと結婚して養子を育てれば話は早いのだが、そもそも30代後半の精神障害者が結婚することがかなり難しいので、そこを強行突破できればいいのになあといつも思っている。あと30代後半の精神障害者と結婚してくれるような男というか、30代後半の女と番いたいと思う男に基本的にはまともな人は残っていないので、そういう男と結婚するのは憂鬱だなあと思っている。ここで虐待が再生産されたらなんの意味もない。養子縁組や里親は私以外の健全な人間たちにぜひお願いしたいと思っている。私は自分が養子を取るという面においてはあまり虐待問題に貢献できなさそうなので、仕事で被虐待者の支援を請け負う人間になりたいと思う。本当は自分の好きな仕事をして好きな人と結婚して子供を産んでまあふつうの家庭や家族をやってそれなりの人生を送りたかったのだが、それは無理だったので、せめて自分にできることを、と思っている。このような体力のない精神障害者でも、いないよりはいたほうがいい。0よりは、0.1でも、力はあったほうがいいのだと思っている。自分のためだけに生きられる人間だったらもっと楽だったと思う。でもたまたまそうは生まれつかなかった。自分の仕事をして、余暇で趣味をする。本来なら人間の生活とはそれでいいはずだ。でも、私はそうではなく、とにかく子供たちや、今も苦しむ大人たちを少しでも楽にしなくては、と思っている。それは自分にその経験があるから共感しているからなのかもしれないし、過去の自分を救済したいからなのかもしれない、それはどうでもいいのだが、とにかく、1秒でも早く、苦しんでいる誰かを実際的に救わなくては、と思う。この感情に駆られず生きられたらとても穏やかなんだろうなと思うが、たまたまそうは生まれなかったので仕方ないと思う。なんでみんな自分のことだけ考えていられるんだろう、自分が幸せならそれでいいんだろう、と不思議に思う。逆に、私も不思議に思われているはずだ、なぜ他人の救済を義務のように感じているのかと。もうこれはお互い生まれつきなので、お互い根本からの理解は不可能だと思う。
「自分にケアが必要な人ほど、他人を助けたがる」と苦言されたことがあった。でもそれは仕方がないと思う。他人を助けたいあまりに自分がダメージを受け、そのダメージが回復していないとしても、まだ他人を助けようとしてしまう、根源は同じだ。自分のケアをある程度まで進めてからでなくては共倒れになるのだから他人を助けることなど到底できない、と鼻で笑われたとしても、実際その通りなのだが、でも強烈に他人を助けなければという思いは消えない。その為にも私は自分を立ち直らせることを急いでいる。共感性の高い人がそうなりやすいと思う。自分が傷ついた経験から、他人の傷をこれでもかと想像できてしまい、その苦しさがわかるからこそ、助けたくなる。その人が少しでも楽になれば、共感によりこちらも少しは楽になる。その人が苦しんでいればこちらも苦しい。共感性も生まれつきのものだと思うので、これは仕方のないことだと思う。
共感性の高い人間には、おそらく、共感性の低い人間の感覚はわからない、逆もまた然り。利他的な人間には利己的な人間の感覚はわからない、逆もまた然り。これはどちらがいいとか悪いではなく、単に生まれつきが違うだけだからそうなってしまうのだ。そこで分断されずに、ただ、あなたはそうなんだね、とお互いの特質を理解して尊重するだけでいいと思う。私は共感性が高く、利他的な人間に生まれついたが、これがマイノリティであるということはさんざん今までの人生でわからされてきた。そして、自分も、自分と違う感性を持つ人も、別にどちらも悪くないし、どちらも正しい、みんな、自分の生きたいように生きればいいということをわかっている。
2023.1.29
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manganjiiji · 3 months
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内省ましまし
ずと楽しみにしていたイベント(す〜ぱ〜コミックシティ)に行くことができなかったが、さもありなん。という感じだった。ここのところ全然、起きて出かけたり、用意をしたり、生活をしたりすることができない。でも冬だし、仕方がないし、できないときはできないものだと思って、自堕落に暮らしている。シティには行って即帰るくらいの気持ちでいたので、まあ行かなくても、というか、私が行かないことで誰も損しないんだから全然行かなくてもよかった、と思えて、よかったな〜となった(日本語崩壊)。もし私が行かなければならない場に私が行けないとなると、落ち込みが激しいが、そうではないので、別に落ち込む必要はないか、と思えた。2ヶ月前くらいから楽しみにしていたが、疲労から立ち直れなかった。物理的に無理なことは無理。私の体には明確な限界があるのだった。
午後の、友人との映画、劇団ドラマティカの「カラ降るワンダフル!」には無事行けた。友人とも久々の再会となりとても嬉しかった。これはあんスタのキャラクター達のなかの演劇部のメンバーを中心として、キャラクターが演劇をするという舞台。カーテンコールでは、役を演じたキャラクター達が出てきて、最後のカーテンコールで、キャラクターを演じた俳優たちがやっとコメントをするというマトリョシカのような構造で、カーテンコールが面白かった。劇中ではコメディだったので恐ろしいほどの数のアドリブ(ミニコント的なもの)が成されており、そのアドリブはキャラクターがやっているていでやらなければおかしいと思うのだが、どう考えても俳優の「地」が出ていて、そこはやはり賛否両論あったらしい。私は劇団ドラマティカおよびあんスタ関係の2.5次元には全く触れたことがなかったし、最近はもう2.5にそこまでの思い入れがないので、役者たちが楽しそうだなあと思って普通に楽しめた。そして2.5でもなんでも、板の上の世界ってやはりいいなあと思った。映画館で見たので、カメラがここを見ろと映してくれ、視点で迷うことなく物語に没入できたのも楽だった。とにかく衣装とウィッグがかなりレベルが高く、金のあるコンテンツってこういうところがめちゃくちゃいいんだよな、と思った。全員顔が良かったし、ウィッグがとにかく良かった。
そんな舞台を見たあと、最近全然動けてなくてまずいという話を友人と最後にし、別れた。帰路、ドラマティカを見て元気を貰ったのもあって、これからは少し頑張れそうだと思った。もしも病気がなく、私の精神が健全で、人間としてもう少しまとも(つまり年相応)だったなら、私も36歳ならばなんらかの管理職か何かに就くか、家庭でなんらかの役割をこなすかしていたかもしれない。子供がいればそろそろ小学生だったり、そういう年齢だ。しかしそうはならなかった。そのような未来および過去は存在せず、どうすることもできない現実の現在だけがある。どうすることもできない。もしもりっぱな36歳だったら、働くことも逃げることもできず虐待の呪縛から解放されないまま苦しんでいる友人の面倒を見るというか、居候くらいさせることができたかもしれない。しかし、そうはならなかった。そもそも、私が病気になっていないのであれば、私は健全な家庭でそれなりに真面目に育ったはずで、そうなると、被虐待者の友人たちと出会わなかった可能性が高い。また、私が彼女達の状況や感情を理解できなかった可能性が高い。それを思うと、私は加害され、病気になり、36でも未だにアルバイトしかできないこの体と、実年齢マイナス10歳くらいの精神しか持ちえないこの状態で、全然良かったと思う。苦しんでいる人の痛みを理解できないままに、ただ自分の幸福だけを追う、ただの勝ち組になるよりは、私は、弱者としてでもいいから、弱者とよばれる人たちの支援のために駆けずり回る人生でよかった。うつ状態や希死念慮がどんなものか、親(養育者)に迫害されるとはどういうことか、トラウマを乗り越えるにはどのような困難があるか、そういったことを十分に想像できるこれらの経験があり、本当によかったと思う。もし恵まれた側に生まれていたら、私の頭の悪さでは、頭の悪い方向にひたすら突っ走って、いわゆる弱者を切り捨てることになんの躊躇ももたない人間になっていたと思う。こんなに(当社比)こころやさしい人間になれたのは、やはり辛酸を舐めたからだと思う。そういう意味では親に感謝したほうがいい。最悪な子育てをどうもありがとう。あなた達がクソみたいな人間だったおかげで、私は人間性を獲得しました。これは本当に、もし良い親に育てられていたら私の人間性はここまで担保されなかったと思うので、よかった。まともな親でも子供がやばい場合は多々あるし、まともじゃない親に育てられたからといって、まともな子供になれるという訳でもない���世の中にはさまざまなパターンがある。私はたまたま親にも生まれにも恵まれて、そこそこまともな思考を持つことができた。自分ではまともだと思っているけれど(全くまともではない自覚を持っていることも含めて)、いやお前は邪悪だよ、と言われてしまったらそれはごめん、という感じだけど、私としては真剣に何が正しいのかということを常に考えているつもりです。私はずっと正しさなんてないと思っていたが、長く生きていくうちに、どうやらほんとうに「正しい」ことはあって、それを実践するのが人生のようだ、ということに気づいた。正しさとは相対的なものではなく、絶対的なものだ。これに関して、ひとつ今でも覚えている例は「産まれたばかりの赤ん坊を、窓から放り投げるのは正しいか」という問いだ。これは正しくない。これは明確に正しくない。どんな状況だったとしても正しくない。もし、この赤ん坊が育ったとしても、結局は口減らしのために殺されるとか、何か壮絶な困難が待ち受けているとしても、成長した赤ん坊が「あの時殺してくれていれば」と思うとしても、やはり、産まれたばかりの赤ん坊を窓から放り投げるのは正しくない。理由はさまざまにあるのだが(考えればわかることなので省略する)、とにかく正しくなくて、我々は、産まれたばかりの赤ん坊を窓から放り投げる人がいる社会を、どうにか生み出さないようにしないといけない。正しさがあるから社会は変わっていく、時代は進んでいく。人間が生きることは正しくて、死ぬことも正しいが、その死が正しくなければ、それは悲しい。おおむねそういう考え方で、人間は社会というものを運営している気がする。
生きることや生まれることは無条件に正しいのか。という当然の問いが生まれる。その問いに関しては、私は正しいと思う。思わざるを得ない。今私は生きているし、生きている期間以外の記憶が無いから比較できず、判断のしようがないため、ともかく生きていることを正しいと考えることが、現時点で不可避である。産まれないことや、死ぬことは今のところ未知なので、正しいのか正しくないのかそちらはわからない。ただ、私は生きているので、私以外の誰かが産まれないことや死んでしまうことにたいして悲しさを感じる。だから、私にとっては今のところ、生きることは正しい。全ての正しさの根本は結局のところ生きることになっている、というか、生きて、悲しくない暮らしをすること、ということになっている。「生きて悲しくない暮らしをすること」だけが、今のところこの世界の人々の多数派の「幸せ」の考え方で、私も多数派に属するのでそう思う。もちろんこの多数派に属さない人もいて、とくにうつ状態というわけでもなく、死ぬほうが自分にとって自然だからという理由で自死する人もいる。そういう人にとっては、産まれたばかりの赤ん坊を窓から放り投げる行為はもしかしたら正しいかもしれない。が、やはり、死ぬことを決めるのは自分であるほうがよいのではないか、と私は思う。そうすると、正しさというのは、自分のことを自分で決められることになるのだろうか。自分が生きるか死ぬか、悲しく暮らすか、悲しくなく暮らすかは、自分で決める。決めて実行する。それが正しさなのかもしれない。正しさ。やはり相対的なものなのだろうか。でも、この時代、この場所での「正しさ」というものはかなりの精度まで絞れると思う。絞ったとしても、例外がある限り相対的ではあるが、人ひとりが生きていくための関わりの中(たとえば、私にとっては、80年間くらいの、地球上の関わり)で共有される正しさというのは、注釈付きで絶対的と言ってもいいのではないかと思われる。
まあともかく正しさがあって、あると仮定して、みんな生きているから、こんなに毎日議論は紛糾しているんだなあということが、いつだか忘れたが唐突にわかった。無抵抗の市民を空爆して殺すことは正しくない。このことを「正しい」と考える人達がいるから実際に攻撃は止まっていないわけだが、私は地球上の全員が「正しくない」と考えることを願う。そして、正しくないことをやめる権利を全員がもつことを願う。人を殺すのは基本的に正しくない。ただ、お互いが殺し合うことを合意していて、フェアな状況であれば、人を殺すのもやむなし、という事もある(戦争)。それでも正しくはないと思うが。人は、たとえ何か不快なこと、人、ものがあっても、その不快を自分の世界に容認して、共存していく力がある。殺さなくても、生きていけるならば、殺さないほうがいい。ここでもまた無根拠な、生きていることが正しいという感覚が出てくる。なぜか。人は死に対して恐怖を抱くことが多いから。死にたくない、と思うことが多いから。死にたくない、と思う相手を殺すことは、相手の意志を無視しているから。となると、死にたい、死ぬことはとくに自分にとって不利益ではないと感じている人(うつ状態や希死念慮���精神疾患によりそう思っている人を除く)を殺すのは、正しいということになる。すくなくとも、正しくないとは言えない。こうやって考えていくと、正しいこと、正しくないことの線引きが明らかになっていく。産まれたばかりの赤ん坊は、生きたいと思っているか生きたくないと思っているか、それがわからないため、窓から放り投げて殺すのは、正しくない。その赤ん坊が明確に「生きたくない。死にたい。」と考えていると分かるならば、窓から放り投げるのは正しいかもしれないが、今のところその意志を確認しようがないため、正しくないとされている。やはり、本人の「意志」が重要なのだ。人が自分の意思で何かをしたいと思った時に、基本的にはそれが成されるのが正しい。ただし、そこで他人の意志を阻害しないのが条件。なぜなら他人もまたその人の意志を達成しようとしていて、それは正しいから。ということで、意志と意志が共存できない時、コンフリクトが起こる。その時に、どちらの意志のほうが正しいのか。「生きたい」と仮に思っている赤ん坊のほうが正しいのか、何らかの理由で赤ん坊を窓から放り投げたいと思っている人の方が正しいのか、私達は考えなければならない。このとき、また繰り返しで申し訳ないが、やはり「生きること」のほうが優先される。ひとりが生きてひとりが死ぬことよりも、2人ともが生きることの方が優先される。それが基本的には正しいとされる。可能性。1人しか生きないより、2人が生きたほうが、可能性が大きくなるから。何の?繁殖の。という、結局動物としての答えも出るには出てしまうが、それでも私は「意志説」を押したい。殺したいという意志よりも、生きたいという意志のほうが尊重される。殺すことは何度もできるが、生きることは一度しかできない(と私たちは感じている)。結局、この世界では人間はこの生きている間のことしかわからないから、生きることをとりあえず正しいこととして暮らしている。産まれる前や、死後のことも含む世界では、正しさのあり方もまた違うだろう。
2024.1.28
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manganjiiji · 3 months
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かわいげのある人生
今日はかわいげのある人生を送れたな、とか、今日はかわいげのない人生だったな、とか、そんな風に振り返ることがある人っていたら面白いなと思った。私の人生は大体において可愛げに溢れています。友人や好きな人たちの協力によるもの。みなさんのかわいいPOWERを摂取してなんとなく自分の内にそれを溜め込めたような気持ちになって寝る。それを毎日できたらいい。
今日の朝の夢は母親が若くて私も小さくて、母親が赤ん坊を死産する夢だった。母親自身はベッドにいてただ周りの人はみんな泣いていて、おばあちゃんが「○○ちゃんは死んじゃったんだよ」(○○は赤ん坊の名前)と言っていて、何かどうやら私はその場に間に合わなかっただけでなく、その子が死んだのは明確に自分のせいだとわかっていた。かなり悲しかった。人を殺すというのはこういう気持ちなんだなとわかった。この、朝見た夢を夜まで何度も反復することになる。私のせいで、おそらく私より待望されていたであろう新生児が死んだ。梅子の新しい子どもが死んだ。みんなすごく悲しんでいた。私も悲しかったが、私のせいで死んだので、罪悪感の方が上回っていた。こういうパターンの夢は初めてだった。人を殺す夢はかなり前(数年前)にもあったが、その時はもっと切実に揉み合って殺したと思う(相手は女の幽霊だった)。今回は全然死んでほしくないのに私が悪いせいで死んでしまって、梅子やみんなを悲しませて、どうにもやりきれなかった。しかも、その子が生まれ��いたらもしかしたら事態はいい方向に動いたかもしれなかったので。かなり「私」は希望をいだいていた。でも駄目だった。そりゃそう。現実で会ったことのない人と夢で会うことはよくあるが、会ったことのない妹か弟を見ることはかなわなかった。私が間に合っていれば、または私が何かをしくじらなければ、そもそも私がいなければ、その子は助かっていたのかもしれない。なにか、私が生きているということはそれだけで新生児を死産させるくらいの悪いことだと言われても「そのとおりです」と思う心がある。若い母親(梅子)の悲しそうな泣き顔がよく残っている。私ではなくてその子が産まれたら、もしかしたら梅子はその子を愛せたかもしれなかったんだけど。
もっと最悪な悪夢よりはずっといいパターンだったのでつい夢のことを書いてしまった。私は結構、夢の中で見た事や行った場所、会った人というのがこの世界のこととは違うので、夢の中では別の位相の私が別の位相を生きているんだなと思う。同じ人生を、違う層で暮らしている。私は同一人物なので、寝ている間は記憶を共有できるのだろうと思っている。別に本気で思っているわけでないが、それにしては身に覚えのない場所やシチュエーションや人が、何度も出てきて、結構同じことをやったり別の展開になったりしている。まあ、夢の中のことまで背負っていたら疲れてしまうので、夢のことは忘れなければいけないとはわかっている。
とにかく無気力で体が動かない。食事を用意することも困難。外が寒いからだと思う。カラータイルをもくもくとやる時間がある。今日は数年ぶりに100スコアが出た。運がいい。机に向かっても30分で疲れてベッドに戻ってしまう。本当に美しいだけの小説を書きたい。誰にも理解されなくてもいいから私が読んで用を足すだけの小説。
2024.1.24
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manganjiiji · 3 months
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なかみを見せて青いポピー
自分の中身全てを小説にこめる、ということをしていたように思う。少なくとも大学生の時は。自分の得てきたもの全てを。今はそうではないなと思う。今まで得てきたものをそれなりに人生のいくつかに振り分けていると思う。自分の能力として、自分のできることをやっている。昔は「命を削って書いている」と思っていたしそう言われてもきた。ただ、それはやはり、いつでもできることではない、特に、それで生計を立てられないのならできることではないなと今は感じている。でも久しぶりに、今年は、命を削って書いてみたい気持ちになっている。自分の中の全部を小説に入れる。自分の中の全部がそこにある小説を作る。読み返さなければ、と思う。『四とそれ以上の国』。思い出さなければと思う。自分が何を書きたいのか。もっともっともっともっと削ぎ落としたい。本当に書きたいものしか書きたくない。本当に書きたい文だけが書かれた小説しか読みたくない。しゃらくせえ。詩としてしか通用しないくらい意味のわからない小説でもいい。とにかく書きたい文字だけで構成したい。
今日は日記(博文館)を書く気力がなかったので、時間はあったが書かなかった。デリダ(高橋哲哉)を机で読んであんスタを叩いて、それだけで疲れた。さらに太ったことが疲労を助長しているし、体力が落ちていることも懸念。冬になって、どんどん動けなくなっている。こんなになにもかも出来ない体だったっけ?今日は無事仕事に行けたので良かったと思う。帰ってきて眠ったが、起きてかなり具合が悪かった。私に元気な時などあまりないが、もしかして痩せる=自炊=節約という最高の黄金トライアングルがそこにはあり、それを達成できればそれが健康にいちばん近いのではないかということは勘づいている。
プラトンの『パルマケイアー』についてのデリダの章を読むにあたって、男根的―ロゴス中心主義、というのが当たり前に言われていて、ロゴス中心主義に関してはなんとなくわかる?いやわからないが、それよりわからないのは男根的のほうなので、これはまた西洋精神史、西洋形而上学史をいちから振り返っていかなくてはならないのだ、もうこの人生で何度目だろうと思うが、何度でも忘れるので仕方ないのだ。木田元の『反哲学史』を注文した(古本)。これは学生時代に挑戦しようとした記憶がある!覚えている!タイトルを。ともかくこれで西洋形而上学史を総ざらいして、男根的―ロゴス中心主義なるものを理解したいと思う。千葉雅也『現代思想入門』を読み始めてから、どんどん紹介された書籍、またその中で紹介された書籍、と辿っていかないとこれはわからん、ということが続いている。真っ当な本の読み方だと思う。いっそもう現代思想関連の書籍以外捨てるか?くらい今は他がどうでもいい。と言いつつ、文学に関するもの、歴史に関するものなど、捨てられない。『東京大学のアルバート・アイラー』が久しぶりに読みたいなと思った。生家に置いてきてしまった。この部屋の本棚を整理したら、生家の本棚も整理しに行きたい。
2024.1.23
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manganjiiji · 3 months
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此方ばかりが雷を乞う
どあ。疲れた。昨晩うつを抜け、風呂にも入り、わりと完璧な状態で1時頃には寝ていたと思うのだが、朝起きたらどうしてもまた「死にたい」が心臓にまとわりついており、しかし昨日・一昨日に比べれば随分ましで、ただこの状態ではどうしても人と接することができないなと最後まで苦悩しながら欠勤を決めた。3回目にしてもう欠勤だが、今回はこれで行けなくなる、という感じではないので大丈夫だと思う。
昼まで寝て、その後自主的に外に出る事ができた。「外に出る」!これはうつ状態の時にはかなりハードルが高いものの一つである。物理的にはただ体を玄関の外に動かせばいいだけなのだが、どうしても、どうしても、どうしても、外に出ることができない。コンビニに食べ物を買いに行くということがどうしてもできない。外に出られない。この重すぎる悲しい感覚は、もうこれ以上説明のしようがない。理由とかはない。原因もない。ただ出られない。解決法もわからない。なぜ出られるようになったのかもわからない。出られる日には全くなんのハードルもなく外に出られる、というか、それが普通の人の感覚だと思う。
英検が近づいているが、正直まったく勉強どころではなかった。もはや当日会場に行けるかどうかさえ博打になってきた。このまま回復できるといいのだが。と言いながら、なぜか今日は燐一の展開を考えているうちに、兄が弟を空港に迎えに行く話を思いついて、6000字ほどの短編を書いた。友人が原稿をしなければと言っていて、なんとなく私も書きたい、と思ったのだと思う。しかしこれで「書けないから放置している」ものが2つの状態で、2つ話を書いてしまった。小説を書く息抜きに小説を書く。絵を描く人もよくやることだと思うが、字書きも結構逃避でこれをやっている。未完が増えていく。いや、増やしてはいけない。決着をつけたい。最初に逃避のために書いたラブコメの続きが、結構R18シーンを細かに書かないといけないのでは、という構成になってきて、そんな重い仕事この今の体でできっかよ、と思い(R18シーン、かなり体力を使う)、なぜか記憶喪失とかベタなネタは何回やってもいいよなと思い、また両片思いを書いた。前回のラブコメと本質的に全く同じこと書いてんじゃねーか、と読み直して気づいたが、二次創作とはそういうものなので別にいい。オッケーである。一応Twitterに上げたが、まあ、読む人はあまりいなさそう〜な話だと思う。一彩が記憶喪失だが、燐一として別に思いが通じあっているわけでもなく、なんならまた燐音の思いはよく分からず、一彩がかつての自分の恋心に気づくだけの話で、別に何もおもしろいことがない。ただ、空港に迎えに行くシチュ、好きなんですね、ということを自分に思うくらいだ。でも私はこの話が結構好きだと思う。まあ自分が読みたくて書いているので、自分の好きなことが書いてあるのはあたりまえ太郎である。人にちやほやされることのため「だけ」に生きているのでそれに関しては残念な結果になりそう。この話を読んで「いい!」となる人は本当に、いないに等しいと思う。文体も、あまり凝れなかったし、な〜。でもまあ今は数書いていくことが重要だと思う。絵と違って、小説は書いた分だけうまくなるとかそういうことはほとんど無いと(私の場合は)思っているけど、小説を書くために本を読むので、それで少しは文体練習になっている気がする。いしいしんじ『悪声』は、何年?、10年?寝かせていたような気がするのだがやっと読み始めたらやはり大好きだった。いしいしんじ、すごい。すごいすきだ。他に何度も開いては挫折していた野矢茂樹『哲学・航海日誌』も、斜め読みだが今までよりわかるようになっていた。あとは源氏物語の須磨の始め(花散里)を書写した。曲は、緑黄色社会の「夢と悪魔とファンタジー」だった。かなりこの曲が好きなのだが、この話で聞き潰してしまった感もある。「花になって」も良い(こっちは話に使う感じではないが)。NMIXXの「Run For Roses」がやはりかなりよくて、これと藤井風カバーのSunnyはラブコメの続き(のわりにはシリアスになってしまった)で書きたいと思っている。Eden&Tricksterの「(RE)PLAY」、今日初めて原曲を聞いたのだが、あんスタのアレンジ(フルート)が良すぎて、この曲も書いていきたい。かなり難しいと思うけど。最近aikoの曲とか聞いていないなと思う。まあどんどん新しいアーティストを開拓しているのはいいことだ。クノさんから課題曲(ハモリ)として出されている「獣ゆく細道」を最近久しぶりに聞いているが、やはり名曲だ。ただこれは昔聞きすぎたのか、話を書くという感じではない。NMIXXのアルバムをもう少し聴き込もうと思う。今日もとくにおもしろくない虚ろな日記をだらだらと書いてしまった。少し前に日記の書き方について相談してくださった方がまたおたよりをくださり、日記を書いて公開しているとのことだった。報告してくださってとても嬉しかった。応援しています。
2024.1.18
【燐一】と悲くて詩す https://privatter.net/p/10709360
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