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psalm80-lilies-iii · 2 days
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エロマンガ先生 第6話
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psalm80-lilies-iii · 5 days
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エロマンガ先生 第3話
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psalm80-lilies-iii · 1 month
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境界の彼方 第6話
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psalm80-lilies-iii · 1 month
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境界の彼方 第4話
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psalm80-lilies-iii · 1 month
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境界の彼方 第4話
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psalm80-lilies-iii · 2 months
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だれも働くことのできない夜
公刊された『自由祈祷入門』を読んで教役者が抱くであろう反発のもっとも醜悪なものは「一般信徒は余計なことを言わずに教役者の話に大人しく『アーメン』と答えて黙って献金していればいいのだ」というものである。
だが少なくともぼくが実際に面識を持った教役者でこんなひどいことを言う人間はいないように思う。信徒が自分の信仰上の問題の解決を願って、教役者を頼る以上に自分で本を読んだりお祈りをしたりするようになる、そのことに対しあまり好意的ではない教役者は思い浮かばないではないが、「信徒の信仰が成長する」ことそれ自体に軽蔑的な態度を取るほど性根の腐った教役者はさすがにいないと思う。それは、「成長させてくださったのは神です」(Iコリ3:6)という聖句を否む教役者はいないということである。少なくともぼくの知る限りはそうである。
だが考えてみよう。寺の住職や神社の神主で、檀家や氏子の「信仰が成長する」ことに関心を持っている人間が見つかるだろうか?そもそも檀家や氏子の「信仰が成長する」とは具体的にどういうことなのか、説明できる住職や神主が見つかるだろうか?そう考えると、住職や神主は「檀家/氏子は余計なことを言わずに住職/神主をありがたがって黙ってお布施/玉串料を出せばいいのだ」と思っているとしか言いようがないのではないだろうか?実際日本人の宗教生活では、そういう認識のもとに一回につき数十万・数百万のお金が動いてきたのである。
そして、「宗教とはそういうものだ」という固定観念に意識的に立ち向かう気がなければ、キリスト教会の教役者も同じようになってしまう恐れはあるのである。祝詞は神主があげるものと決まっているし、お経は檀家が自分であげても意味を完全に理解することは期待されていない。お経に関しては明治以降その内容を一般信徒にも分かるよう説き明かす試みがかなりなされてきたと思うけれど、住職の読経のあとその内容を檀家が住職に説明するよう求めるのは決して一般的ではない。よくわからないけれどとにかくありがたいもの、「宗教とはそういうものだ」という固定観念の中でお金がやりとりされることに慣れてしまったら、キリスト教の教役者であっても「信徒の信仰が成長する」ことに正当な関心が払えなくなってしまうおそれはあるのである。「だれも働くことのできない夜」(ヨハ9:4)である。
で、「一般信徒が信仰の本を書く」というのは「だれも働くことのできない夜」ではないからできることである。「だれも働くことのできない夜」に対抗することは教役者にしかできない。そういう権威と力は一般信徒にはない、そうとしか言いようがない(聖職におけるいわば「下剋上」を一般信徒がやっても教会にもたらされるのは混乱だけだろう)。ぼくは、自分の作品が受け容れられることが教会の健全さの指標になるとまでは言わないが、自分の作品があからさまな反発しか招かなければ、キリスト教会の未来は暗いだろうなあと思うしかない。そうでないことを、望むばかりである。
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psalm80-lilies-iii · 2 months
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ヘブ10:22
『自由祈祷入門・第5版』で1箇所だけ後悔している点がある。
私たちはイエスさまによって私たち自身の罪(いわば「良心がきよくないこと」cf.ヘブ9:14)からは解放されていますが、(第六章「願いの祈り」より「お助け下さい/お救い下さい」)
ぼくは今年の聖書日課を『新改訳2017』で読んでいるのだが、ヘブ10:22に「邪悪な良心をきよめられ」と書いてあるのを見て驚いた。「私たち自身の罪」を言い表した個所として、ここが最適だったのではないか。
でもどうして今までこの箇所に気づかなかったのだろう?そう思って手持ちの参照聖書を見比べて驚いた。訳語にかなり差があるのだ。
りやうしんのとがめ(ヘブ10:22、文)
良心のとがめ(同上、共)
邪悪な良心(同上、改2017)
やましい良心(同上、フラ)
an evil conscience (ibid. KJV)
a guilty conscience (ibid. NIV)
問題は良心が「客観的に」悪なのか「主観的に」悪なのかということだと思う。ぼくが言いたいのは良心が「客観的に」というか「神の目に」悪だということなのだが、この箇所の原文がほんとうにそういう意味なのかぼくには分からない。『ヘブル=グリーク・キースタディバイブル』にはこの箇所の言語(ポネーロス)について説明があるが、「害意」「邪悪」などという説明がある一方、「痛み・悲しみを表す『ポノス』の派生語」という説明もある。いま見比べた参照聖書では『新改訳2017』・KJV・NIV が「客観的に」悪という訳語で『フランシスコ会訳』が「主観的に」悪という訳語、『文語訳』と『新共同訳』の「とがめ」という訳はふつうは主観的な意味だろうけれど「おとがめなし」などと言う時は客観的な意味もある。
ここは、修正するかな……と迷ったがそのままにした。『自由祈祷入門・第5版』の聖書は基本的に『新共同訳』であり、その訳語が「客観的に」悪だと言い切っているふうに見えないところであえてその聖句を指摘するべきではないかな……とも思ったからだ。もちろん「主観的なとがめ」からの解放は「義と平和と喜び」(ロマ14:17)にとっては小さいことではないのである。だが「死からの解放」は客観的なことであり、「主観的なとがめ」からの解放とは別のことである。主観的な問題が客観的な解決につながるというのは話がねじれている気がする(だから『新改訳2017』は「邪悪な良心」と客観的に言い切ったのだろう)。問題は「そこは原語でどうなっているか」ぼくには判断がつかないことだ。キリストの救いの核心を指摘した箇所で厳密さを欠くのは『自由祈祷入門・第5版』という作品にとって画竜点睛を欠く気がするが、これはぼくの力量不足とあきらめるしかない。
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psalm80-lilies-iii · 2 months
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信仰生活の回顧
『自由祈祷入門』の成り立ちはぼくの信仰生活と密接不可分なのだが、タンブラーを始めてしばらく経った頃、ぼくはそれまでの信仰生活をまとまった形で回顧したことがある。この機会にそれをここにまとめて一覧にしてみる。
クレイジー・ドクター 2015.06.17(母教会を出た経緯を中心に2001-2003の話)
教会 2016.09.19(2002年にビジターとして通っていた教会での話)
聖なる公同の教会 1 2016.05.04(2003年に福音派の教会に転籍しようとした話)
聖なる公同の教会 3 2016.05.04(2004年にいまの所属教団に転籍した話)
群れの模範 2015.08.24(2004年にいまの所属教団に転籍した時に起こった話)
群れの模範 2 2015.08.24(いまの所属教団でのその後、2001年に母教会ではない教会の礼拝に出席したこと、『自由祈祷入門』の最初期の構想から第2版を出版社に持ち込むまで)
群れの模範 3 2015.08.24(2003年に訪れた別の教会の話、執筆時点での現在の話)
ついでながら、これらの話には前史がある。
エフェメリスを聖書に持ち替えて VI 2017.08.05(占い師になろうとしていたぼくが2000年12月にクリスチャンになろうと決心する話)
エフェメリスを聖書に持ち替えて VII 2017.08.05(占いの勉強が自分のキリスト教信仰に対して持った影響について)
エフェメリスを聖書に持ち替えて おまけii 2017.08.05(占いの勉強以前にキリスト教の伝道を受けていた話)
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psalm80-lilies-iii · 2 months
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自由祈祷入門・第5版
『自由祈祷入門・第5版』を書いた。
今回はアマゾンでの書籍化を念頭に書いたのだが、HTMLデータをローカル以外に保存する意味でネットに上げておく必要を感じたのである。ところが、タンブラーは最近受けつけるHTMLの仕様をぐっと限定することにした(「複雑な構造を持つHTML文書を載せるな、書くな、引用するな」という意味だろう)ため、ヘッダー要素とかリスト要素とかスタイル属性とかに関するマークアップが全部「溶けて」しまい、元のHTMLデータを保存するためにネットにアップする場所として、タンブラーはまったくふさわしくなくなってしまった。
で、HTMLマークアップをちゃんと保持できるFC2ブログに全文(約63,000字)をアップすることにした。1記事おおむね1万字以内を目安にすると全10章の作品をおおむね1記事1章でアップすることになる。FC2ブログに1作品を分割してアップするという方法を採りたくなかったのだが、考えてみればFC2ブログは「HTML作品集」として運用しているので、元データをタンブラーにアップしてそこからリンクでFC2ブログに引っ張ってくるという方法こそふさわしくない。
で、10もの記事を一度にアップすることもあり、代わりにシギサワカヤのレビューをタンブラーに「下ろす」ことにしたのである。
書籍化にあたって、「とび」というHNではないペンネームをと思い「まつやまひろかず」と名乗ることにした。「まつやま」というのは使い慣れた偽名(飲み屋でボトルキープする時などに使ってきた)なのでこの作品をきっかけにひとから「まつやまさん」などと呼ばれてもあまり違和感を抱かずに済む。ユーチューバーのようにネットがホームで書籍がアウェイな人はネット上のHNで書籍も通すのかもしれないが、ぼくは別にネットも書籍もどっちもホームということはなく、単に「勝手に本を書いたことが所属教会にバレないように」偽名を使うに過ぎない。
*
この機会に改めて考えてみる、「オレはどうして『自由祈祷入門』という作品を世に出すことにこんなにこだわってきたのか」と。
その理由というか動機は、おそらくふたつある。
ひとつは、母教会を受洗後1年半で離れていまの所属教団にたどり着くまで自分の祈りと聖書の学びだけで「自活」した、あの体験に何らかの逢着点を与えたかったからである。母教会で祈るY先生の背中を見て育ち、ふとしたきっかけで導かれたO先生の教会ではじめて御言葉を説き明かし祈りを教える説教を聞き、その後ある事情から母教会を離れることになった時ぼくのために祈って下さった母教会のM先生がいて、それから2年間ぼくは信仰の「荒野」をさまよったけれど、Y先生・O先生・M先生がいて下さったからこそぼくはクリスチャンとして生き延びることができたのだと、その感謝を何らかの形にしたかったのだ。もう亡くなったY先生、その教会の信徒ではなかったから面識はほぼなかったO先生(一度お会いしてお話ししたことがあるが)、そして今はもう戻れない母教会のM先生、どなたも直接謝意を伝えることは叶わないけれど、「先生方のおかげでいまの私があるのです」というその「いまの私」の逢着点を、自分の手で形にしたかったのである。
もうひとつは、ぼくが「マニュアルを書くのが好きだった」ということである。自分のやっていることをメソッドとして客観化する、それをひとに伝えて、その人がぼくと同じようにできるようになる、そういうプロセスが好きだったのだが、それをキリスト教自由祈祷においてやってみたいという気持ちがとても強くあった。もちろん自由祈祷を導かれるのは聖霊だろう。けれど、その聖霊の働き・導き・促しをどう受けとめてどう「言葉にする」かについてはある種のガイダンスが可能ではないか。ぼくは自分が自由に祈れるようになったかなり早い時期から、そう思うようになっていた。それを形にすることが、Y先生・O先生・M先生から自分が受けたものを形にすることなのではないかと、思うようになったのである。
そういうことを着想し始めた頃、ぼくはそれを「教会の中で実現する」ことを考えた。自分の書いた自由祈祷入門のマニュアルをもとに教会のいわば「弟・妹」が自ら祈れるようになる、そういう日が来ることを思い���いたのである。結果として、それは実現しなかった。新たに導かれた教会でぼくは「群れの模範」になれなかった。かりに「それはそれとして」おくとしても、その当時ぼくが構想できた「自由祈祷のマニュアル」では「祈りをメソッドとして客観化する」という目標にはあまりに及ばなかった。その後ぼくは、活動の軸足を教会の中からネット(ココログ)に移して、『自由祈祷入門』を形にすることにこだわり続けた。「群れの模範」になれない人間がネット上でキリスト教を語る、それが許されるのか、という疑念を抱え続けながら、他方で考え続けたのは、「祈りのメソッド」とは何なのか、というテーマは、ぼくが何者であるかとは関係なく存在するのではないかということだった。
では、今回書いた『自由祈祷入門・第5版』において、このふたつの理由というか動機は満たされただろうか。
ぼくとしては「満たされた」と思っている。まず「祈りのメソッド」。
クリスチャンの祈りは「人の願いを神へと届ける」ことではなく「神の願いを人が受け入れること」だという話もしました。私たちの祈りは「自分たちの願いを言葉にする」ことから始まりますが、それが神の「御心」に適っているかどうかを、私たちは聖霊とともに「吟味」してゆくことになります。こうした神の「御心」を、私たちは聖書を通して学ぶことができます。そこでここからは、聖書をひもときながら、「神が私たちに願っておられること」をいわば祈りの「キーワード」としてピックアップし、それらを使ってコンパクトな祈りを告白する練習をしてみたいと思います。(第四章「はじめに」)
「キーワードを使って祈りの練習をする、そのキーワードは聖書からピックアップする」、それは最初期から揺るがない構想だったけれど、そうすることの意味を「クリスチャンの祈りは『人の願いを神へと届ける』ことではなく『神の願いを人が受け入れること』であるから」と定式化できたのは、ぼくが22年間「聞かれない祈り」に釘づけになったあと突如として「ロシアのための祈り」が開かれた、その体験あってのこと、つまり神の恵みあってのことである。「自分の願いが神の御心に適っているかどうか聖霊とともに吟味する」、そうすることによって祈りそのものだけでなく祈る自分自身も「練り清め」られていく、そういう信仰生活の本質的な一部として自由祈祷を位置づけることは、ぼく自身にとっては以前からそうだったかもしれないが、それを定式化することは今回この作品を書く中ではじめて可能になったことである。
では、Y先生・O先生・M先生に対する、ひとことで言えば「恩返し」はどうか。「祈りのメソッド」の定式化によって『自由祈祷入門』という作品がひとつの形を取ったことで、Y先生・O先生・M先生への「恩返し」は叶ったと言える。だが、ぼく自身の「逢着点」という言い方をするなら、それは「祈りのメソッド」の定式化それ自体より、そのことの持つ意義の方にある。
自由祈祷とは「自分の信仰の『実存的』な側面を自覚すること」でもあります。教会で教役者の説教や信徒代表の代表祈祷(代祷)にただ「アーメン」と答えるだけではない、神さまは信じる私たちひとりひとりをいま・ここで導いて下さるはずだという確信を持つことでもあるのです。(第一章「クリスチャンの祈り その構造」)
信徒における「自分の祈りを持つことによるクリスチャンとしての主体性あるいはアイデンティティの確立」、それこそが、ぼくが母教会を離れて信仰の「荒野」をさまよった体験で得たものだったはずである。だから、「祈りのメソッド」の定式化に当たってそれが「クリスチャンとしての主体性あるいはアイデンティティの確立」につながるのだと宣言することは、自分の個人的な体験の逢着点としてこの作品を書くに当たっては必須だっただろう。そして、ぼくがこうした「成長」を遂げたことについて、Y先生・O先生・M先生は喜んで下さると思うのである。
だが、この話はここで終わらない。信徒における「自分の祈りを持つことによるクリスチャンとしての主体性あるいはアイデンティティの確立」は、神における「私たちの悩み苦しみに耳を傾けて下さる受動的な『牧会的存在』からご自分の御心をもって聖徒・教会そして世界に臨まれる『歴史の主権者』としての神の復権」へとつながっていく。世界史的に言えば「二度の世界大戦と国際共産主義の跳梁」、日本の教会史について言えば「戦争責任と左傾化」、それは現代の教会史に重い桎梏となり続けているが、それを振り払うスタートラインは「救われた私たちが御前にどう歩みたいか、自らの志を立てること」であり、そのためのツールこそが自由祈祷なのだ、話はそこまで広がっていくのである。
「祈りのメソッドの定式化」がぼく自身のずっと考え続けてきた「教会史の解放」というテーマとリンクすることに気づいたのは、『自由祈祷入門』という作品を書き上げた後である。気づいて、「そのことを明確に視野に入れた文章をどこかに盛り込むべきだったろうか」とも考えたが、「入門」をうたった作品に「教会史の解放・歴史の主権者としての神の復権」などと書いてしまったら読み手は引くだろう、と思い直し、FC2ブログ版に「解説」としてくっつけるにとどめた。
だがそのことによって、『自由祈祷入門』という作品は、ぼくにとってひとつの「おれたたエンド」(「俺たちの戦いはこれからだ!」という、打ち切られた少年マンガの最後のコマで常用される決めゼリフ)になったのである。ぼくがこのあと実際に「教会史の解放」についてどう考え何ができるのか、現時点では未知数である。だが、ひとつの逢着点として考える時、それはY先生・O先生・M先生がいて下さったことによってぼくがたどり着いた、逢着点であると同時に出発点なのである。
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psalm80-lilies-iii · 2 months
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青い花
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psalm80-lilies-iii · 2 months
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青い花
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psalm80-lilies-iii · 2 months
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青い花
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psalm80-lilies-iii · 2 months
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ぼくが描いた「しばらくおまちください」からpixivで人気の高いものを選んでスライドにしてみた。
"Just a moment please," what we can see when tv program is troubled.
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psalm80-lilies-iii · 2 months
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シギサワカヤ
シギサワカヤのレビューをFC2ブログから「下げる」ことにした。
ファム・ファタル(2008年9月)
つめたく、あまい。(2010年4月)
さよならさよなら、また あした(2011年12月)
未必の恋(2012年02月)
ヴァーチャル・レッド(2012年9月)
ヴァーチャル・レッド2(2013年5月)
ヴァーチャル・レッド3(2013年10月)
シギサワカヤのマンガを読むことは、ぼくにとって「男としてどんな女とどう生きていくかを考える」ことであると同時に「シギサワカヤという人と一緒に生きていく」ことでもあった(いやもちろん面識はない。そういう意味ではない)。だから、「ここに描かれているものは『男としてどんな女とどう生きていくかを考える』ことにおける『正解』ではあり得ないのだろう」ということが明らかになるにつれ「オレはシギサワカヤという人と一緒には生き続けることはできないのだろう」ということも明らかになっていって、それはぼくにとってはつらいことだった。ぼくがブログをココログからFC2に移転するにあたってシギサワカヤのレビューをまるまる引っ越したのは、それが「読まれている記事」だったからでもあるけれど、「オレはシギサワカヤと訣別できるのか、訣別していいのか、訣別したとして、結局また同じような女性あるいは同じような作品を書く誰かを必要としてしまうだけなのではないか」という問いに答を出し切れなくてぐずぐずしていたからでもある。
あれから5年経った。その5年間、ぼくはシギサワカヤなしで生きてきた。いまシギサワカヤがどんな作品を書いているのか、あるいは書いていないのか、ぼくは知らない。訣別という言い方をするなら、訣別はとうの昔になされていたのだろうと思う。それをあえて口にしたくなかっただけだ。
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psalm80-lilies-iii · 2 months
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ヴァーチャル・レッド 3
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シギサワカヤの長編(中編?)マンガ『ヴァーチャル・レッド』の最終巻である。
この巻を読むと明らかになることは3つある。
律夏とは結局どういう女だったのか。
「藤井」と「由野」と律夏の出てくる物語は結局何だったのか。
���のお話は結局どのように終わるのか。
この3点に興味のある方、そしてとりあえず第1巻と第2巻を読んで「面白い」と思った方は、ぜひとも第3巻を読まれたい。
*
第3巻を読んで、上記の3点にいちおう解答を得たところで、改めて第1巻と第2巻を読み返す。
そして慄然とするのだ、律夏に対する「由野」の憎しみは、なんて深いんだろう、と。
第2巻だけ読んでいたときにはそうも思わなかったのである。だから第2巻のレビューで、ぼくはこう書いている。
藤井は律夏を失ったことで自分を責め続けている。あるいは、自分を責めずにはいられないほど苦しんでいる。
ざっくり言えば、そうなのである。律夏に対する「由野」の憎しみと「藤井」が抱える焦点の合わない愛しさそして悲しみはほんとうはひとつのものである。だがそれはそれとして、逐語的に言えば、「藤井」と「由野」と律夏のドラマの中で「由野」が責めているのは「藤井」ではなくて律夏である。上に引いた箇所の直後でぼくは「『そうしなければ …生きられない』と彼は思っている」と書いているが、第2巻に出てくるこの「そうしなければ …生きられない」というセリフの前後を台本風に書き直してみると、それがはっきりする。
由野:まだ わかんねぇか ――てめエがそんな簡単に死んだら それこそあいつが無駄死にだっつってんだよ!     てめぇの都合であの女犠牲にしたんだろうが 自業自得の結果で勝手に苦しんで勝手に楽になりたいってのか ざけんじゃねえ!!
藤井:――でも 悲しい
由野:…だから 悲しまなければ問題ない …それだけのことだ     あの女は嘘吐きで誰とでも寝る 最低の裏切り者 何をしても構わない …だから。
藤井:…そうか …じゃあ 俺 何も悲しむ必要なんて 無いんだな
由野:…ああ。その通り、――だ。
(由野、メガネを外して藤井になる。)
由野=藤井:そうしなければ …生きられない。 ――だってまだ、……生き続けなければならないのだから。
メガネを外した「由野」は「藤井」になって、律夏に対する愛しさと悲しみと憎しみとはひとつのものなのだ、ということが明らかにされる。いや、セリフの内容の推移からすれば「由野が藤井になる」というよりは「藤井が由野になる」と言う方が正しいだろう。ここは暗転、すなわち「藤井」が「由野」といういわばダークサイドに堕ちるシーンなのだ、「だってまだ、生き続けなければならないのだから。」
そしてこれが、同人誌版『ヴァーチャル・レッド』の実は結末だったのである。
第3巻まで続く作品である、ということを前提としても、通して読み返すならば、この作品の白眉は第1巻から第2巻にかけて描かれる「由野」の律夏に対するはげしい憎悪・嫌悪・侮蔑なのだ、とぼくは思う。女に棄てられた男、女を失った男、そしてそれでもまだ生きていかなければならない男の、その女に対するはげしい憎悪・嫌悪・侮蔑。第1巻だけ読んだとき、ぼくはこの作品を「女」を描いた作品だと思っていたが、第1巻で造形されていた「女」というか律夏という女を第3巻できれいさっぱり説明し尽くしてしまったあとこの作品に残るのは、実は「男」の怨念と執念の物語だったのである。
律夏と「藤井」と「由野」の登場するこの「ヴァーチャル」な心理劇こそがこの作品の本編である。作品の中ではこのドラマは「夢」として語られているが、それはあくまでこのドラマが「藤井由野の内面にあるもの」であるという以上の意味ではないだろう。藤井はこの「夢」について、「夢」の中では律夏のことだけでなく「自分」のことも殺してしまうと語っている(夢の中で藤井は「由野」なのだろう)。だが「ヴァーチャル・レッド」という心理劇の中では、「由野」は「藤井」を殺さない。なぜか。単に「死ねない」からだ。藤井が死ねない以上、「由野」は「藤井」を殺せない。それで、残るものはただ、律夏にかきたてられた何か、律夏に注ぎ込んだ何か、の記憶と、そのすべての裏返しとしての、とどめようもない憎悪・嫌悪・侮蔑だけである。
*
凄まじい作品である。だが、これでは救いがない。
「救いがない」というだけであれば、『さよならさよなら、また あした』にだって『未必の恋』にだって救いはない。だが、シギサワカヤが『ヴァーチャル・レッド』の続きを描くにあたっては、そこに「救い」を描こうとしているんじゃないか、という気が、ぼくは前々からしていた。
もう一度言うが、『未必の恋』の結末には救いはない。「ああいうことに救いはないものだ」と言うと何か説教じみて聞こえるが、そもそも倉田さんだって笹原だって救いが欲しくてああいうことを始めたわけでも続けたわけでもないだろう。それは、そういうものだ。だから「ああいうことに救いはないものだ」という言い方はしていいのだと思う。
『ヴァーチャル・レッド』はそうではない。律夏のことは分からないけれど、藤井は救われたいだろう。
ぼくが男だから、そう思うのだろうか。
*
じゃあ何が救いなのか。これは「そもそも何が苦しみなのか」という問いの裏返しである。
かつて『ファムファタル』のレビューで、ぼくはこんなことを書いた。
信じられる相手を「ファム・ファタル」とは呼ばない。そして「何があっても私は私に責任を取ることができる」と決めている男にとって「ファム・ファタル」は存在しない。
「滅びを目指しているわけではないのに滅びしか目指せなくなる、それが『ファム・ファタル』なのである。」出会わなければ滅びなかったであろう二人が出会ってしまうときに、そういう出会いを成立させた女のことを「ファム・ファタル」と呼ぶのだろう、と考えると、藤井にとって律夏は厳密には「ファム・ファタル」ではなかったのだろう。藤井に出会わなくても律夏は滅びたろうし、律夏と出会っても藤井は滅びはしなかったからだ。だが「あの女はあなたを裏切った末に勝手に死んだの」と母親に言われて「そうですね」と返せない程度には、藤井は律夏を背負ってしまったのだ。
そう、藤井はいちど、自分の意志で律夏を背負ったのだ。だが結局、藤井は律夏のことを完全には信じ切れなかったし、自分と律夏に何があってもそれを自分の責任として引き受け切ることができなかった、「裏切ったのは律夏の方だから」。そして藤井の内面が「藤井」と「由野」に分裂する。「由野」は律夏をきっぱりと憎み、蔑み、貶める。では一方の「藤井」はどうだろうか。
確かに 触れていた 毎日のように 当たり前の様に、 …異常なほどに、
何が、と問う暇さえ与えられず消え失せた
―――彼女は どんな女だった?
第2巻のレビューでぼくはこの藤井のことを「言ってみれば、迂闊だったのだ」と書いた上で、この迂闊さが結局何に起因するのかについて、シギサワカヤ自身が第2巻のあとがきで書いていることばを引いてみた。
皮膚で明確に隔てられた個体に対しての限界。相手に対して、そして自分に対して、透明度のひどく低い視界の中でぼんやりと形を成すもの、が恋愛という現象に思えてしまうのは、多分「ほんとうは」よろしくない事、適切ではない事、なのでしょうね。
ここで語られているのは端的にセックスのことだろう。相手を見据えて自分の心を決める前に相手に何かをかきたてられ何かを注ぎ込んでしまうのは、そこにセックスがあるからである。そして藤井は、結果だけ見ればセックスによって滅びと婚(まぐわ)ってしまったのだ。
「だがそうじゃないだろう」、そこまで藤井は愚かで迂闊な男だったのか、というところから、物語は記憶の糸をたぐり出す。藤井が律夏の何かを信じたのでなければ、藤井が律夏を信じることについて自分で自分に責任を取ることに決めたのでなければ、このドラマに救いはないからだ。
*
そして第3巻で導入されるものがふたつある。ひとつは律夏の過去(と予定されていた未来)。もうひとつは藤井が律夏を引き受け自分の決心に責任を取る契機。またこういう言い方もできる、ひとつは藤井が律夏の話を聞くこと、もうひとつは藤井が大塚さんに自分の話を語ること。
大塚さんの登場は唐突だし、登場以上にやること(ヤること)が唐突なので、彼女の登場に違和感を覚える人もいるだろうなあとは思うのだ。だがこういう形で律夏の運命に自分としての責任を感じる人物が現れ、彼女に対して律夏の運命の何たるかを語ってみせるというきっかけがあって、はじめて藤井は救われるのである。
そう、「藤井は救われなければならない」という大前提のものに、第3巻は始まって終わる。律夏が自分の過去と未来に関する「お伽噺」を語ったとき、藤井はその「お伽噺」を「書き換え」させるのである。その時のことを、藤井は大塚さんにこう語る。
無明の道の如き現実を受け入れ 彼女を支える事が俺に出来るか 不安で 苛立ち、焦り、 その一方で
…やっと 彼女の抱えた荷物を 俺も一緒に持つ事が出来ると…
(第12章 If Then)
「いやいや、こんな大事な決心を10年以上自分で忘れていたはずがないだろう」と思う。その上で、「俺も一緒に持つ事が出来る」と藤井の思った「荷物」を、律夏は実際には藤井に預けなかったのである(「藤井の知らない男の無理心中に巻き込まれた」というのはそういうことだろう)。だから、だから「由野」はあんなに律夏を憎み、蔑み、貶めてきた���、「藤井」は結局律夏を理解することができなかった無力さに打ちひしがれてきたのだ。そうじゃないのか?
だが一方で思うのだ、「そんな10年以上の葛藤をひとことで片づけてしまおう、『この子のためなら』、と思えるぐらい、藤井にとって大塚さんは特別な存在だったのかもしれない」と。
「あいつはひどく要領が悪いけど」 …「けど」の後はすぐには思い付きはしなかった
(第8章 Critical Error)
律夏について「けど」の後は「これから考えればいいと思っていた」のに、大塚さんとは出会って2度目にヤッちゃうのだ、藤井は。だがそれを「ああ、シギサワカヤのお話に出てくる女はいつでも簡単にヤッちゃうよなあ」とかで片づけるべきではない。これはもちろん特別なこと、律夏について「けど」の後を続けられないでいる藤井が生きて抱えているすべてを一瞬にして飲み込んでしまえるくらい(飲み込むことを彼女に許すぐらい)、藤井にとって大塚さんが特別な女だったということなのだ。一方、その飲み込んだもの(モノ)の責任は、藤井ではなくて大塚さんが自分で背負ってきたのである。だから大塚さんは、律夏の運命についても自分の責任なんじゃないかと思い続けてきたのである。
「いや、もしそうだとしたら、藤井は律夏のことを、実際には大塚さんの何分の一にも思ってなかったの?! そうだとしたら、律夏のことを『彼女の抱えた荷物を俺も一緒に持つ事が出来る』なんて言ってみせる藤井は、実際には律夏に対して誠実さのひとかけらもないっていうことなの!?」というツッコミもありそうである。そしてそれは、そうなのだろう。「藤井」と「由野」の「ヴァーチャル・レッド」の中で「藤井」があれだけ律夏を見失って彷徨い続けるのは、結局のところ「藤井」が、つまり藤井由野が、律夏のことを愛し切れなかったからである。愛し切れなかったのに引き受けてしまった、その迂闊さの耐え難さゆえに、「由野」は「藤井」を律夏に対する呪詛へと引きずり込もうとし続けるのである。
そんな藤井にどんな「救い」があるというのか、どんな「救い」があっていいというのか、と思うだろうか。
だが逆に考えてみよう。藤井が命ある限り律夏のことを心の奥底で憎み呪い蔑み貶め続けることが、誰の、何のためになるというのか。呪われているのが藤井自身であるなら、それは「罰」なのだろう。だが「ヴァーチャル・レッド」のドラマは「律夏を呪う『由野』の憎悪・嫌悪・侮蔑・呪詛に『藤井』が食いつぶされていく」というものなのである。それは、間違いだろう。律夏にとって間違いであるように、藤井にとっても間違いだろう。
そこに、この物語の「救い」、解放、出口、何と呼んでもいいが、が見出されるのである。そしてそれをもたらすのが、藤井が律夏のことを語ってみせることのできる、大塚さんという相手なのである。
…だからさ、アレは本当に「不運な事故」で 且つ 「起こるべくして起こった事件」だったんだ
(第12章 If Then)
「そんな言い方ってない」と思うだろうか。でもこういう言い方で律夏のことを「昔話」にしてしまうのと、律夏のことを記憶の中で愛し直そうとしつつそうすればするほど律夏のことを憎み呪い蔑み貶め続けることと、どちらがマシなのか。
藤井は前者を取ったのだ、相手が大塚さんだったから。そして言うのだ、
……行っといで もう 大丈夫だから
「誰が」大丈夫なんだろう? 「君が」大丈夫なのか、「俺が」大丈夫なのか、と思うのはぼくだけだろうか。それは結局、律夏の運命について自分の責任じゃないかと思い続けてきた大塚さんが心配していたのは「誰」のことだと思うか、「私」のことだと思うか、それとも「藤井さん」のことだと思うか、ということである。そしてぼくは、第8章に描かれた一夜の出来事を読む限り、後者だと思うのである(ドライなように見えて実はすっごく情の濃い女というのが、シギサワカヤの作品にはときどき登場する。『箱舟の行方』所収「ワールズエンド・サテライト#2」に出てくる女の子とか)。
*
こうして藤井は救われた、自分の話を大塚さんに聞いてもらうことによって。では律夏は?
「律夏が藤井に『お伽噺』を聞いてもらった」ということが、律夏にとっての救いになったのだ、という話になる。
彼女が一瞬 息を呑んだのがわかった ややあってから彼女は 確かにこう言ったんだ
「…大丈夫 です 私には 今 話す人が 居るんです!」
「彼女」はあの時 ……笑ってたんだ 嬉しそうに 「話す人」が居るという事を…
(第13章 End If)
「彼女はすべてを話したわけじゃない」と言ってみせることに、もはや意味はない。自分自身のたぎらせてきた呪詛から解き放たれた藤井の心の中で律夏が笑う。「全ては仮想かもしれない」。だがいま藤井は、自分の心の中で笑う律夏の、実在を信じようとする。
決して見えない 触れない 残せない そんな大事な 何かはあるのだ
*
自分一人だけの力で描き続ける自信が無くなり
(第1巻 あとがき)
このレビューを書くにあたって、このことばの前にしばらく思いをめぐらす。
最初に書いたように、分かってみるとこの作品は、同人誌版のラストまでですでに、女を失った男の怨念・執念についてはあますところなく描き切っている。ぼく自身は最終巻を読むまでそのことにきちんと気がつかなかった。だが、それはぼくの読解力が足りなかったせいなのかもしれない。
律夏が「リアル」の世界でどういう運命を生き、そこに関わった藤井の「ヴァーチャル」で何が起こったか、について、この作品は最初から完全に構成されていたのだろうとぼくは思う。ではなぜ、最初から完全に構成されていたはずの作品を、シギサワカヤは「描き続ける自信が無くな」ったのだろうか?
思うのは、シギサワカヤは、この作品に描いてしまった女に対する男の呪詛、嫌悪・憎悪・侮蔑、怨念・執念というものに、少なからず苦しめられたのではなかったろうか、ということである。
ひとことで言ってしまえば、この作品は「男が女をその弱さゆえに憎む」という話である。「救いのない」話だ。シギサワカヤにとって「描いていて楽しくない話」だったろう。いや、「楽しくない」という次元では済まなかったかもしれない。
それでぼくは、「この作品の最終巻では救いが描かれるだろう」と思った。「救いが描かれなければならない」と思った。誰のために? おそらく、この作品を描き始めてしまった、シギサワカヤ自身のためにだ。
ぼくは、そう思う。「そう願う」と言ってもいい。読者としては、おそらく男でも女でも、女を失った男の怨念・執念・憎悪・呪詛というものがあますところなく描き切れてさえいれば「これはそういう作品なのだ」ということでいいのだと思う。だが作者が、女性である作者がそれをそのまま放置することに耐え難い思いを抱いたと言われたら、それは察するに余りある。
だからこの作品が「救いを描いたせいで作品としての価値や完全さをそこなった」ということはあってはならないと思った。「そう願った」と言ってもいい。
このレビューは、そういう願いのもとに書いた。ぼくはもともと「ある作品が現にそういう姿であることそれ自体に異議をさしはさむ」ようなレビューは書かない主義(どうしても異議のある作品についてはレビュー自体書かない)なのだが、今回は特に「この作品に描かれた救いの姿を受け入れる」ことを強く意識した。「そうしたいと願った」と言ってもいい。
思うのだ、シギサワカヤに対して。描き続けて欲しい、という以上に、「もう苦しまないで下さい」と。
そう願っている。そしてこれは、そんなレビューである。
おまけ。もひとつおまけ。
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psalm80-lilies-iii · 2 months
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ヴァーチャル・レッド 2
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分からん。これではレビューが書けん。
そう思って、発売日に買って読んだ『ヴァーチャル・レッド』の第2巻をそのまま本棚に突っ込んで、まる4ヶ月が経ったのだが、ふと今日になって、「そうか、『分からん、これではレビューが書けん』と書くこともレビューのうちなんだ」と思いつく。「第3巻が出てから改めて読み返してまとめてレビューを書けばいい」、そういうもんじゃないんだと。
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この巻を読んで分かること。女の名前は「律夏(りつか)」というのだということ。律夏はかつて藤井の妻だったことがあるということ。そして、律夏は実はすでに死んでこの世にいない人だということ。
ここで、読者は基本的な疑問に直面する。じゃあ、ここまで読んだお話に登場してきた律夏は、いったい何なんだ?
藤井の幻に過ぎないのか?いや、その赤い家に行けば彼女に会えると言ったのは由野で、そこで藤井が律夏に会うと由野自身もはっきり分かっていたじゃないか……などと思いながら読み進めると、読者は、というか少なくともぼくは、もうひとつの疑問に突き当たる。由野って、誰なんだ?
第7章に藤井の家の「大ばぁば」の葬式のシーンがあって、そこで藤井の家は兄弟が2人いて、上が由野、下が航野という名前だ(変わった名前だ)ということが分かる。では、第1巻から出てきた藤井はこの兄弟のどっちなんだ?ということだが、葬式のあとメールチェックのために会社に戻ってきた兄貴の藤井は部下から「部長」と呼ばれている。第1巻に登場する藤井は「主任」だったはず(っていうか、この巻に出てくる社内表彰のシーンでも「主任」と呼ばれている)なので、兄貴の由野は第1巻から登場する藤井とは別人の気もするのだが、第7章の葬式のシーンからすると弟の航野は明らかに脇役で第1巻の主人公には見えない。
もしかしたら、この物語の本当の現在時は「藤井由野」が部長である時点のことで、主任である「藤井」が派遣の「由野」にそそのかされて律夏と逢うのは過去の記憶それ自体か、過去の記憶をベースにしたひとつの幻想、「夢」、なのかもしれない。そうだとすればこの物語は、過去と現在、現実と幻想がないまぜになった、とても複雑なドラマだということになる。そして登場人物も、本来はひとりの人間であるところの「藤井由野」が「藤井」と「由野」に分裂して登場しているということになる。
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そういうこと自体のたねあかしだけであれば、第3巻を読めばおそらく解決するだろう。
それはそれとして、この作品は何を描こうとしているのだろうか。この巻の終わりの、8ページにわたるモノローグをひとつに書き出してみる。
…問題は ないのだ ”死んだ者は 空へゆく” 質量保存の法則に拠れば 何も失われはしない現象 大地の一部に 大気の一部に成るだけの だから思想として 強(あなが)ち 間違ってはいない
――――…なのに
穏やかに消散していく彼女の記憶を 留め置いて崩し続ける内に 何も感じなくなった 温度も 時間の感覚も 全てあの女に あの夏の記憶に持っていかれた 自分が 彼女をどう思っていたかも もう よくわからない 
思い出せる事はもう とても少なくて、 「俺を裏切り 挙句死んだ女」 2年間だけ 「俺の妻」だった女
確かに 触れていた 毎日のように 当たり前の様に、 …異常なほどに、
何が、と問う暇さえ与えられず消え失せた
――――彼女は どんな女だった?
藤井は律夏を失ったことで自分を責め続けている。あるいは、自分を責めずにはいられないほど苦しんでいる。「そうしなければ …生きられない」と彼は思っている。そして、その中で、何度も何度も戻っていくのは、「――――彼女は どんな女だった?」という問いなのだ。
あの女は嘘吐きで 誰とでも寝る 最低の裏切り者 何をしても構わない …だから。
…違う、違うだろう? …違うんだろ? 俺は 俺だけは 信じてる …ああ、それなのに、 声も 顔も 仕草も
自分が惹かれも求めもしたものを自分は信じることができなかった、あるいは自分にとって信じることのできなかったものをそれでも自分は失うことに耐えられなかった、ということ。そのせいで、藤井は自分を責めている。彼女がどんな女だったのか、信じるに値しない女だったのか、失って悲しむに値しない女だったのか、そんなことにさえ今でも答えることのできない自分を、藤井は責めている。言ってみれば、迂闊だったのだ。だがもう遅い。
皮膚で明確に隔てられた個体に対しての限界。相手に対して、そして自分に対して、透明度のひどく低い視界の中でぼんやりと形を成すもの、が恋愛という現象に思えてしまうのは、多分「ほんとうは」よろしくない事、適切ではない事、なのでしょうね。
(あとがき)
ここにあるのは、人生がそういうものであり得るということに対する、悔恨というより非難である。一度始めてしまったら自分では決してやめることのできない自責というか自分自身に対する拷問の中に藤井を置いて、この物語が第2巻で見せた展開の中で描かれるのは、人生というものに対するひとつの非難なのだと思う。
なぁ 教えてくれ ここに居る 我々の反復運動(ルーティンワーク)は どこまで どこまで続けたら 許されるのか 期限がはっきりしなくて …苛々するんだ
で、どうなるんだ、このお話?
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psalm80-lilies-iii · 2 months
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ヴァーチャル・レッド
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この作品は2004~2007年にかけては同人誌にて発表、また、その続きを現在『楽園』Web増刊において連載中の作品です。
とはいえ、実はこの1巻には同人誌分のまだ半分強しか収録できていないのですが…
(あとがき)
『箱舟の行方』が2005~2006年にかけての作品(いちばん古いのが「つまりは病のような。」で2005年11月)、『つめたく、あまい。』が2006~2009年にかけての作品、ついでに言えば『溺れるようにできている。』が2007~2008年にかけての作品、『ファムファタル』が2007~2010年にかけての作品である。に対して、『ヴァーチャル・レッド』の第1章は2004年8月の作品、第2・3章が2005年8月の作品。つまりこの本に収録された作品は、これまで商業ベースで発表されたシギサワカヤのどの作品よりも古い作品だということになる(……あ、『九月病』と『誰にも言えない』が手元になくて確認できない)。
それを指してこういう言い方をすると作家さんにとっては心外だとは思うのだが、読んで、
「迷いがなかった頃のシギサワカヤがいる。」
直感的に言えば、そう思う。
*
あらすじ。とあるソフト会社の開発部門に代休が128日たまっている藤井という独身の主任がいた。ある徹夜明けの朝、品質調査室にアルバイト入社した由野(ヨシノ)という男から「通勤経路を少し入ったところに戸締りが一切されていない赤い屋根の古い木造家屋があってタダで幾らでもヤらせてくれる女がひとりで住んでいる」と聞かされ、別にヤりたかったわけでもなかったのだが帰り際ふと好奇心から立ち寄ってみたところ……。
彼は結局、128日ある代休を全部突っ込んで彼女のところに居つく破目に陥ってしまうのである。
*
とりあえずこの第1巻を読む限り、物語は始まりはしたものの、そこからどこへ行こうとしているのかはまったく分からない。登場人物は3人で、ひとりが何かを握っているっぽいが、それが何なのかは明らかではない。あとのふたりは何をしているのかというとナニをしているばかりである。風呂に入ったり素麺を食べたり浴室で花火をしようとしたり(よい子はマネしないでね)する以外は、まあ、そういうことばかりしている。
最初読み始めると、この物語は、あのハイフンと由佳里さんの物語『ファムファタル』とは別の設定で、男にとってある女が「運命の女(ファムファタル)」になっていくプロセスを描こうとしているのか、と思う。だが半分も読まないうちに、そうじゃない、と気づく。
この作品に出てくる女には個性(キャラクター)がない。藤井くんも「仕事以外ダメ人間」であまり個性的なキャラクターではないのだが、女の方はもっと根本的な意味でキャラクターがない。なぜひとりで住んでいるのかも、どうして誰とでも関係を持つのかも、そしてどうして藤井に向かって「あなただけ」と言うのかも、分からないし、物語の進展の中で明らかになっていくような気配もない。
それを「ミステリアス」と呼べばそうなのかもしれない。だが藤井くんが彼女に惹かれる理由は彼女が「ミステリアス」だからではない。彼女は、読者にとってそうであるように、藤井くんにとってもさっぱりわけの分からない女なのだが、彼が彼女に惹かれる理由は、名状しがたいのかもしれないが、実はいたって単純明快なのである。
――離したくない と 思った
由野に導かれて藤井くんと一緒に読者が出会うのは、男が惹かれる「女」という存在の、ほとんどアーキタイプ(元型)とでも言うべき存在である。そしてこれ以降、この作品は、時間軸の中で物語が進行するという形を取りながら、このアーキタイプとしての女の姿をためつすがめつ眺めることになる。
ぼくには、この作品は、そうとしか見えない。ぼくは以前別稿で、シギサワカヤの作品の登場人物とストーリーの関係について概観したことがあったが、そのとき示した「突っ走る/引きずられる」「悩む/何も考えない」といったパターンに、この作品はまったくあてはまらない。この作品は物語の流れが緩慢である。途中で由野が思わせぶりなセリフを吐いたりするので、「ああこの作品は、もともと長編として構想されていて、話がじっくりゆっくり進んでいくんだろうなあ」と思うこともできる。だが、この女の造形が進んでいくにつれ、「この作品はもともとストーリーテリングを目指していないんじゃないか」という気がしてくる。女の姿が、あまりにも普遍的過ぎる。そして、女の姿があまりに普遍的過ぎるため、藤井くんのなけなしの個性さえ遠くにかすんでしまう。この作品は、「女」とは何かを描き出すために構想された幻想(ファンタジー)である、と理解するのがふさわしく思える。さっき不用意に「アーキタイプ」などという言葉を使ったが、考えれば考えるほど、この作品が描いているものの表現として、ほかに何て言ったらいいだろう、と思う。
*
読者が作品を読んでそこに見出すものと、作家が自分で作品に込めたもの、目指したことは同じではない。だから第1巻だけ読んで「赤い屋根の一軒家、それはアーキタイプとしての『女』を描き出すために構想されたファンタジーですね」といって読者が納得するからといって、それが作家自身の本意かどうかは分からない。この作品は、ある種の見た目どおり、由野が藤井に対して罠を張った、あるいは藤井をおとりにして女に対して罠を張った、サスペンスの類なのかもしれないし、最初はそういうふうに構成されながら、女の造形が進展していくにつれて作品の様相が変わってきたのかもしれない。
ただぼくは、シギサワカヤという人を、男と女の深い部分を何のエクスキューズもなしにいきなりわしづかみにしてしまえる人だと思ってきて、最近作を読んであまりそういう感じがなくて残念に思っていたところにこの作品を読んで、「やっぱりシギサワカヤはこうでないとなあ」と思うのである。この「何のエクスキューズもなしに」というところが大事である。「『箱舟の行方』を読んで脳裏に疑問符の飛び交うような人は『未必の恋』を読んでも疑問符を払拭できる以上に何かを感じることはないだろう」とぼくは思う。そして、もしこの『ヴァーチャル・レッド』の第1巻を読んで脳裏に疑問符の飛び交うような人(いると思う)の疑問符をはたき落とすためにこの作品の続きがいま描かれているとしたら、それは不幸なことだとぼくは思う。ぼくはこの第1巻を読んで、「ああそうか、すべての女は化け物なんだ」と、今さらのようにつくづくと感じる。そして、とりあえずこの作品をそういうふうに読むことに安住できず、たとえばサスペンスとしての進展を期待したりする人がいるなら、それを少し残念なことだと思う。シギサワカヤにそういうことができるとしたら、それはそれで歓迎すべきことなのだろうけれど、ぼ��自身はそういう見たことも聞いたこともないシギサワカヤが好きなわけではない。それこそ思うのだ、『箱舟の行方』のあとがきのエピソード、コミティアに来た白泉社の担当さんが手に取って「やーこの本いいですよ」と言ったのがこの作品だったのであれば(『九月病』だったのかもしれないが)、この作品にいますでに現れている面白さこそシギサワカヤの面白さなのだ、ということでいいのではないか、と。
*
この作品はシギサワカヤのどの作品と比べても性描写てんこもりなのだが、この作品を読むとシギサワカヤにとっての性描写が何なのかがよく分かる。この作品が描こうとしているものはひとことで言えば「女」なのだが、女を女として描くために、性描写が必要なのである。もうエロマンガですかというくらい性描写を描きながら、ここには「性」や「愛」が描かれているわけではない。実存としての「女」を描く、ただそれだけのために、性描写がある。性描写らしい性描写のあるほかの作品を思い浮かべてみても、これは変わらない。「空の記憶」「つめたく、あまい。」「あなたさえいなければ。」シギサワカヤが描いてきたものはほとんどの場合、始まったり終わったりする「恋」や「愛」ではなく、別の意味で始めがあって終わりがある「性」(セックス)でもなく、その「恋」やら「愛」やら「性」やらを生きる「女」だったろう。
『未必の恋』は少し違う。『未必の恋』はシギサワカヤが恋やら愛やらをはじめて「始めと終わりのあるもの」として描いた作品だが、そのせいであの作品は、シギサワカヤの作品について散見する「レディコミみたい」という指摘がなんとなく当たってしまう作品になっている。咲ちゃんという「女」のすさまじさが炸裂したのは、あくまでもあのエレベータの中の15分間だけだった、というところが、「箱舟の行方」のファンタジーであると同時にリアリティだった。あの場所に咲ちゃんを閉じ込め追いつめたことに比べれば、成り行きで持った関係とその終わり自体にさほどの面白みがあったわけでもなかったのである。
ぼくはシギサワカヤの作品が「レディコミみたい」と言われるのは不本意なのである。そういうところを面白いと思って読んでいるわけでは、ぼくはないからである。だから、『ヴァーチャル・レッド』が明らかに「レディコミみたい」ではない(とぼくは思う)ことにぼくは満足しているのだが、描き進められるうちにこの作品も「レディコミみたい」になってしまったら残念だなあ、と思う。
*
ファンというのは作家なら作家の「いま」を応援してなんぼだと思うので、作家の「いま」にダメ出しするみたいなこういうレビューを公表することには正直言って抵抗もあるのだが、たとえむかしの作品でも「買って読みましたよ、面白かったですよ」という嘘偽りのないメッセージを発信するのはファンの最低限の義務だと思い、真意はあくまでそういうメッセージとして、書いてみるのである。
※2012.11.28追記 白泉社から第2巻の予告が出ているのでコメントしてみました。
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