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#武蔵梵天
asami-blackeyes · 1 year
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#胸割り #龍 #sleevetattoo #backpiecetattoo LINE: @ blackeyes #武蔵梵天 #彫浅 #高津区 #溝ノ口 #横須賀 #刺青 #横須賀タトゥー #和彫り #入墨 #tattoo #blackeyes #japanesetattoo #tattooart #yokosuka #yokosukatattoo #川崎 (Black Eyes Tattoo 1st) https://www.instagram.com/p/Ck-bbG1rpVN/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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kachoushi · 3 months
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各地句会報
花鳥誌 令和6年2月号
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坊城俊樹選
栗林圭魚選 岡田順子選
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令和5年11月1日 立待花鳥俳句会 坊城俊樹選 特選句
星の出るいつも見る山鳥渡る 世詩明 人の世や女に生まれて木の葉髪 同 九頭竜の風のひらめき秋桜 ただし 太陽をのせて冬木の眠りけり 同 生死また十一月の風の音 同 朝湯して菊の香に上ぐ正信偈 清女 懸崖の赤き菊花の流れ落つ 誠
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年11月2日 うづら三日の月花鳥句会 坊城俊樹選 特選句
秋空の深き水色限りなし 喜代子 故里は豊作とやら草紅葉 由季子 菊花展我等夫婦は無口なり 同 しぐれ来る老舗ののれん擦り切れて 都 狛犬の阿吽語らず冬に入る 同 謎々のすつきり解けた小春の日 同 杣山の織火となりぬ紅葉山 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年11月4日 零の会 坊城俊樹選 特選句
綿虫と彼女が指せばそれらしく 瑠璃 梵鐘のはらわたに闇暮の秋 緋路 逝く秋をくづれゝば積み古書店主 順子 綿虫や浄土の風が抜けるとき はるか 太き棘許してをりぬ秋薔薇 和子 弥陀仏の慈顔半眼草の花 昌文 綿虫のうすむらさきや九品仏 小鳥 参道で拾ふ木の実を投げ捨てる 久 綿虫は仏の日溜りにいつも 順子 香煙はとほく菩提樹の実は土に 小鳥
岡田順子選 特選句
腰かける丸太と秋を惜しみけり 光子 九品の印契結ぶや冬近し 眞理子 古に大根洗ひし九品仏 風頭 綿虫や浄土の風が抜けるとき はるか 奪衣婆の知る猿酒の在り処 光子 神無月ならば阿弥陀も金ぴかに 俊樹 蚤の市に売る秋風と鳥籠と 和子 下品仏とて金秋の色溢れ 俊樹 綿虫と彼女が指せばそれらしく 瑠璃 梵鐘のはらわたに闇暮の秋 緋路
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年11月4日 色鳥句会 坊城俊樹選 特選句
ありきたりの秋思の襞を畳みをり かおり 秋日入む落剝しるき四郎像 たかし 返り花ままよと棄つる文の束 美穂 凩や客のまばらな湖西線 久美子 凩のやうな漢とすれ違ふ 睦子 小鳥来る小さなことには目をつむり 光子 流れ星キトラの星は朽ちてゆき 修二 凩に雲や斜めにほどかれて かおり 人肌を知らぬ男のぬくめ酒 たかし 老人が老人負うて秋の暮 朝子 冬の日や吾が影長く汝に触れて 同 身に入むや妣の財布の一セント 久美子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年11月10日 鳥取花鳥会 岡田順子選 特選句
秋思消ゆ「亀山蠟燭」点せば 悦子 この町へ一途に滾り冬夕焼 都 新蕎麦を打つ店主にも代替はり 佐代子 添ふ風に方位はあらず狂ひ花 悦子 HCU記号音満つ夜の長し 宇太郎
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年11月11日 枡形句会 栗林圭魚選 特選句
トランペット響く多摩川冬に入る 美枝子 竹林の風音乾き神の留守 秋尚 公園の隣りに棲みて落葉掃く 亜栄子 句碑の辺の風弄ぶ式部の実 同 新のりの茶漬に香る酒の締め 同 歩を伸ばす小春日和や夫の癒え 百合子 朔風や見下ろす街の鈍色に 秋尚 ぽつぽつと咲き茶の花の垣低き 同 リハビリの靴新調し落葉ふむ 多美女 濡れそぼつ桜落葉の華やぎぬ 文英 露凝りて句碑に雫の朝かな 幸風 大寺の庭きりもなや木の葉散る 美枝子 山寺の風の落葉を坐して聞き 三無
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年11月13日 なかみち句会 栗林圭魚選 特選句
風除の日だまりちよっと立ち話 和魚 風除の分厚き樹林影高き 秋尚 揚げと煮し切り干やさし里の味 あき子 薄日さす暗闇坂に帰り花 史空 渦状の切干甘き桜島 貴薫 切干や日の甘さ溜め縮みたる 三無 風除けをせねばと今日も一日過ぎ 怜 切干や少し甘めに味継がれ 秋尚
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年11月13日 武生花鳥俳句会 坊城俊樹選 特選句
確かむる一点一画秋灯下 昭子 幽玄な美女の小面紅葉映ゆ 時江 釣り糸の浮きは沈みし日向ぼこ 三四郎 六地蔵一体づつにある秋思 英美子 赤い靴なかに団栗二つ三つ 三四郎 着飾りて姉妹三人千歳飴 ただし 正装で背中に眠る七五三 みす枝 雪吊の神の恐れぬ高さまで 世詩明 七五三五人姉妹の薄化粧 ただし トランペット音を休めば息白し 世詩明
(順不同特選句のみ掲載) …………………………………………………���…………
令和5年11月14日 萩花鳥会
夜鴨鳴く門川住居六十年 祐子 捨てられて案山子初めて天を知る 健雄 ゴルフ玉直ぐも曲るも秋日向 俊文 山茶花や現役もまた楽しかり ゆかり 舟一艘ただぼんやりと霧の中 恒雄 献茶式津和野城下や朝時雨 美惠子
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令和5年11月14日 さくら花鳥会 岡田順子選 特選句
秋の暮百均で買ふ髪飾 令子 虫食ひの跡そのままに紅葉かな 紀子 背の丸き鏡の我やうそ寒し 同 小春日や杖つく母を見んとする 令子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年11月15日 福井花鳥会 坊城俊樹選 特選句
小春日や日々好日と思ひたり 世詩明 禅林を通り来る風秋深し 啓子 何事も無き一日や神の旅 同 炉開きの一花一輪定位置に 泰俊 一本の池に煌めく櫨紅葉 同 三猿を掲ぐ日光冬日濃し 同 立冬こそ自己を晒せと橋の上 数幸 小六月笏谷石は饒舌に 同 如何にせん蟷螂は枯れ僧恙 雪 猫じやらしもて驚かしてみたき人 同 一匹の枯蟷螂に法の庭 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年11月17日 鯖江花鳥句会 坊城俊樹選 特選句
小鳥来る赤き実に又白き実に 雪 幽霊の出るトンネルを抜け花野 同 おばあちやん子で育ちしと生身魂 同 見に入みぬ八卦見くれし一瞥に やす香 時雨るるやのつぺらぼうの石仏 同 近松忌逝きし句友の幾人ぞ 同 季は移り美しき言葉白秋忌 一涓 菅公の一首の如く山紅葉 同 落葉踏み歩幅小さくなる二人 同 冬ざれや真紅の句帳持ちて立つ 昭子 今日の朝寒む寒む小僧来たりけり やすえ
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年11月17日 さきたま花鳥句会
からつぽの空に熟柿は朱を灯し 月惑 白壁の色変へてゆく初時雨 八草 六切の白菜余すひとり鍋 裕章 一切の雲を掃き出し冬立ちぬ 紀花 小春日や草履寄せある躙口 孝江 柿を剥く母似の叔母のうしろ影 ふゆ子 いわし雲よせ来る波の鹿島灘 ふじ穂 鵙たける庵に細き煙たつ 康子 雲切れて稜線きりり冬日和 恵美子 水鳥の羽音に湖の明けにけり 良江
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令和5年11月18日 伊藤柏翠記念館句会 坊城俊樹選 特選句
紫のさしも衰へ実紫 雪 蟷螂の静かに枯��る法の庭 同 二人居て又一人言時雨の夜 清女 母と子の唄の聞こゆる柚子湯かな みす枝 還りゆく地をねんごろに冬耕す 真栄 帰省子を見送る兄は窓叩く 世詩明 人に無く芒にありし帰り花 同 香水の口よりとどめさす言葉 かづを 時雨をり故山の景を暗めつつ 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年11月19日 風月句会 坊城俊樹選 特選句
浮寝鳥日陰に夢の深からむ 久子 呪術にも使へさうなる冬木かな 久 無敵なる尻振り進む鴨の陣 軽象 冬日和弥生も今も児ら走る 同 冬蝶の古代植物へと消えぬ 慶月 谿の日を薄く集める花八手 斉 冬天へ白樫動かざる晴れ間 慶月 青空へ枝先細き大枯木 秋尚 旋回す鳶の瞳に冬の海 久 冬の蜂おのが影這ふばかりなり 千種 水かげろうふ木陰に遊ぶ小春かな 斉
栗林圭魚選 特選句
竹藪の一画伐られ烏瓜 千種 遠富士をくっきり嵌めて冬の晴 秋尚 白樫の落葉急かせる風のこゑ 幸風 切り株に鋸の香遺る冬日和 久子 四阿にそそぐ光りや枯れ芙蓉 幸風 白樫の木洩れ日吸ひて石蕗咲けり 三無 小春の日熊鈴つけしリュック負ひ 同 青空へ枝先細き大枯木 秋尚 寒禽の忙しく鳴ける雑木林 貴薫 草の葉を休み休みの冬の蝶 秋尚 逞しく子等のサッカー石蕗咲けり 亜栄子 甘やかな香放ち桂紅葉散る 貴薫 あづまやの天井揺らぐ池の秋 れい
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年11月26日 月例会 坊城俊樹選 特選句
薄き日を余さず纏ふ花八手 昌文 耳たぶに冬の真珠のあたたかく 和子 黒松の肌の亀甲冬ざるる 要 雪吊をおくるみとして老松は 緋路 冬空を縫ふジェットコースターの弧 月惑 ペチカ燃ゆフランス人形ほほそめる て津子 上手に嘘つかれてしまふ裘 政江 嘘つつむやうに小さく手に咳を 和子 手袋に言葉のかたち作りけり 順子
岡田順子選 特選句
池一枚裁ち切つてゆく鴨の水尾 緋路 黒松の肌の亀甲冬ざるる 要 自惚の冬の紅葉は水境へ 光子 玄冬の塒を巻きぬジェットコースター 同 光圀の松は過保護に菰巻きぬ 同 ペチカ燃ゆフランス人形ほほそめる て津子 雪吊を一の松より仕上げをり 佑天 不老水涸れをり茶屋に売る団子 要 遊園地もの食ふ匂ひある時雨 俊樹
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
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hachikenyakaiwai · 9 months
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【かいわいの時】天平八年(736)八月八日:インド僧菩提僊那・林邑僧仏徹ら摂津に至る(大阪市史編纂所「今日は何の日」)。
インド人が最初に日本を訪れたのは何時であるかについては、様々な伝承があります。 BC3世紀からAD7世紀までのベンガル湾はインドの内海で、タイやインドネシアなど東南アジアに沢山のインド人が移民するとともに仏教、ヒンドゥー教が伝播されました。この海洋ルートを辿って黒潮にのってインド人が日本にたどり着いていたとしても不思議ではありません。646年(孝徳天皇、大化元年)に日本に到着し、播州に祇園社*を創ったと伝えられる法道上人もその一人です。 但し、歴史的事実として裏付けられているインド人来日となると、東大寺大仏開眼供養の導師を司ったバラモン僧正・菩提僊那を嚆矢とすると言ってよいでしょう。菩提僊那はヒマラヤを越えて入唐し、中国五台山に滞在していましたが、日本で本格的に仏教をひろめるべく授律伝戒の僧を求める聖武天皇の招きにより、第9次遣唐使一行と共に渡日することとなり、736年太宰府に到着しました。彼は704年生まれと伝えられていますので、当時32才の青年僧侶であったわけです。菩提僊那は弟子のヴェトナム人僧侶・仏哲等とともに日本で仏典を伝授するとともに、梵語を伝え、また、舞楽、伎楽などインドを始めとするシルクロードの文物を伝えました。但し、菩提僊那の名前を歴史に刻んだのは、752年、聖武天皇の命により東大寺大仏開眼供養の導師を勤めたことです。こうした功績から菩提僊那は、聖武天皇、行基、良弁とともに東大寺「四聖」としてその功を称えられている(榎泰邦「日印を結ぶ文化・地下水脈」2006)。 *ママ。祇園社(広峰神社)の創始は、法道と共にわたってきた「牛頭天王」とされています。
「菩提僧正」と称され、その名が後世に遺されるに至ったのは、僧正がまさに大仏の開眼供養の導師を勤めたとされることによる。この時、僧正が執った開眼の筆は、法会ゆかりの品々とともに、今なお国宝として正倉院に納められている。
(写真)「天平宝物筆」8世紀(正倉院蔵) 大仏開眼の儀式において用いられたとされる長大な筆。墨書や刻銘によれば、文治元年(1185)の開眼儀においても後白河法皇によって使用された遺品である(宮内庁=写真も)。
用途 : 儀式具 技法 : 木竹工 倉番 : 中倉 35 寸法 : 管長56.6 管径4.3 材質・技法 : 管はハチクの仮斑竹 毫は鹿毛・馬毛・鳥羽根
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aizumin · 10 months
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ムー旅 平将門巡り「胴と首をつなぐ」崇敬の旅 ・その1
6月18日(日)参加して参りました。ローソントラベルと月刊ムー編集部のコラボツアー第2段です。実は昨年の第1段も気になってはいたのですが、コロナ下ということと1泊ツアーだったこともあって断念😢
今回は元々が大好きな平将門さんなのと、パンフレットに作家の加門七海女史が寄稿されているということで、読んでみたい意欲も重なりまして。6月過ぎているというのに申し込みをポチってしまいました💦
集合場所は新宿センタービル。Twitter等の情報を見てなかったんですが、何か集合時間ギリギリになって最後に現れた方が松原タニシ氏のコスプレ?すごい似てるけどまさかな~😅
……そのまさかで、ご本人様でした💦💦
※後から松原タニシ氏の参加が、公式Twitterで告知されてるのを確認して脱力しました。何だよー、ちゃんと把握しとけよ😂>自分
さて、1時過ぎに定刻通り出発した🚍が向かった先は、茨城県の國王神社でした。
将門さんが討ち死にされた跡地?に創建された神社です。ここがめっちゃ居心地がいい😊💕空気が違うと言うか、清々しいんですね。糺の森クラス。
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駐車場から境内に入ったのですが、ちょうど狛犬さん辺りからになるので、改めて⛩️をくぐって入ろうと思い、⛩️は何処だと見渡したら遥か彼方!!
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参道長っ😳
急いで⛩️まで行って、改めて参道を歩いてから本殿に二礼二拍一礼しましたが、端から見たら多分変な人でしかなかったと思うの😰
ここから、郷土史家の方の簡単な将門さんの生涯と神社の縁起の説明がありまして、将門さんの三女の如蔵尼-ー歌舞伎の滝夜叉姫のモデルになった方ですねーーによる建立とのこと。御神体は如蔵尼自らが将門さんの三十三回忌に彫られた坐像だそうですが、盗難にあった関係で現在は本体は蔵に安置してあり写真のみパネルで公開。
余談ではありますが、私の家の氏神様というか守護神様?が谷保天神(ウチは神道なんで、祭礼関係をお願いしています)なんですが、由来がほぼ同じ💦💦
あちらも菅原道真さんの三男にあたる道武公が、配流先で薨去の知らせを聞いて刻んだ道真さんの坐像を鎮座したのが縁起なんですよねー。3番目の子供と坐像……ちなみに、将門さんが新皇と名乗るきっかけになった神託は道真さんが下したものなので、これも深い因縁があるように思えます。
境内には数々の石碑や、建立当時から植わっていた樹木があり、歴史が感じられました。
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こちらの拝殿の屋根は茅葺きなんですが、所々傷みが……💦💦本来だと茅は数十年おきに葺き替えるのが常識です。京都のみやまのかやぶきの里でも岐阜の白川郷や五箇山でも、保存会の方々が総出で葺き替えている映像を見かけたことがあります。傷みがあれば、茅を継ぎ足します。こちらもそろそろ葺き替えの時期が来てると思うのですが、資金不足だそうで😰お詣りしたご縁もあるからと、些少ではありますが授与所で寄付をさせて頂きました。もっと早くに知っていれば、💴を下ろしていったのにーー😩
参拝を済ませ境内を散策した後、再び🚍に乗り込み次の目的地の神田山延命院へ。こちらには将門さんの胴塚があります。大体15分くらいで到着。🚍の前には畑と竹林が拡がり、こちらも落ち着いた雰囲気の場所。
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でもってですね。☝️を見て仰天。こちらの宗派は真言宗智山派ですと!?
何を隠そう、将門さんの調伏をしたとされる成田山新勝寺が同門なんですよ!!そういうこともあって、将門さんを信仰される方は新勝寺には行かないそうなんですが、よりによって何で同じ宗派に葬った!!
朝廷は調伏を全国の仏門に命じたそうなので、新勝寺がしたということはその��派全体に命令が下っている筈なんですね。にも拘らず、胴塚が築かれている。何じゃそれ。
ともかく、境内に入ります。
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将門さんの胴は、最初このカヤの巨木の根元に埋葬されたそうです。かなり存在感がある。胴塚にはペットボトルがたくさん置かれておりまして、信仰の篤さが伺えます。
神田明神もそうですが、神田山は元々はからだ山がなまってかど山⇒かんだ山となり、現在の山号になったそうです。将門山とも称するそうなので、かど山=将門さんの「かど」から来てるのかと思ってた😅その身体は何かと言えば、当然のことながら胴塚の胴ですね。
ちなみにこちらの石碑。
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右の「南無阿弥陀仏」と書かれたものは、元々大手町の将門塚(首塚)にあったもので、それが盗難に遭い将門塚の方は新しく造り直して設置した後に戻ってきたそうで。既に設置し直したものを破棄する訳にもいかず、それならこちらの胴塚に奉納しようということで、将門塚保存会から寄贈されたとのこと。それはいいとして、何で浄土宗もしくは浄土真宗なんだろう🤔(南無阿弥陀仏は“阿弥陀仏に帰依する”ということで、浄土宗&浄土真宗の所謂「念仏」なんですよ)
旗の上にある九曜紋は、毘沙門天(多聞天)=大日如来を表すそうで……そういや、境内にちゃんと毘沙門天を祀ったお堂があったじゃん😭(画像撮らんかったんです)
この左の石碑、ん?と思う方もあるんじゃないかと。「大威徳将門明王」なのに、梵字がキリークではなく不動明王を表すカーンなんですよ(その辺りの考察は、高田崇史氏がQ.E.Dシリーズの御霊将門で書かれています😊)
ちなみにこちらの金堂は1964年(東京オリンピックの年ですね)に不審火で焼失してそのままだとか。胴塚のすぐ横の↓がその跡地になります。
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こちらも信仰を集めている割にちょっと荒れているというか。國王神社と延命院、どちらも常駐の神主さん&住職さんが居られない😥正直うちの近所の村社とあまり変わりがなくて驚きました。
取りあえず前半戦はこの辺までで。
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0430ml · 2 years
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行った温泉・スパ MeMO
スパラクーア
大久保|万年湯
スパロイヤル川口
秩父川端温泉梵の湯
群馬|黄金の湯
さやの湯
戸田市|七福の湯
稲城市|季乃彩
南柏天然温泉すみれ
さいたま清河寺温泉
武蔵野うどん
杉並区|なごみの湯
スパジャポ
山羊島ホテル
静岡県|阿南かじかの湯
ホテル三日月|龍宮城スパ
熱海|オーシャンスパFuua
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oniwastagram · 4 years
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\おにわさん更新情報📸/ ‪[ 長野県下諏訪町 ] 慈雲寺庭園 Jiunji Temple Garden, Shimosuwa, Nagano の写真・記事を更新しました。 ーータイプの異なる3つの名園。武田信玄作庭説もある池泉庭園に京都 #植音 が手掛けた石庭、小口基實作庭の枯山水庭園。 ・・・・・・・・ 白華山 慈雲寺は諏訪大社下社春宮⛩から程近くにある、戦国時代には武田信玄により中興開基された寺院。本堂裏の池泉庭園は #武田信玄 作庭によるとも伝わり、また本堂・書院前にはそれぞれ京都の造園会社・植音さん、長野の作庭家・小口基實さんにより手掛けられた #枯山水庭園 “帰錫庭”や書院庭園が広がります。 2019年夏、松本アウェーからの信州庭園巡り。以前からここはオススメされていたのですが想像以上に素晴らしかった…! 参道のアプローチの杉林🌲🌲から雰囲気が幽玄でとても良くって――アジア系のカップルが写真撮影してて。この日泊まってた上諏訪のゲストハウスも殆どがアジア系の若者だったんだけど、訪日客にも既に有名なんだと感じた。 慈雲寺の創建は1300年(正安2年)。鎌倉の大寺院『建長寺』の住職も務められた #一山一寧 国師👨‍🦲により、諏訪大社下社の神官の最高位“大祝”を務めた #金刺満貞 を開基として創建。 一山一寧国師は地元の中国にならって日本初の八景 #諏訪八景 を選定。この慈雲寺も“慈雲晩鐘”として選定されています。 その後、京都『建仁寺』の住職も務めた鎌倉〜室町の著名な禅僧のひとり #雪村友梅 禅師も慈雲寺に入るなど信州を代表する寺院の一つとして発展。 戦国時代には甲斐『恵林寺』の住職も務めた天桂玄長禅師が入り、その縁で武田信玄の援助により境内が整備。現在でも寺紋には武田菱が用いられています。 ただし武田信玄により整備された伽藍はその後焼失、現在残る本堂や山門は江戸時代中期〜後期に再建されたもの( #下諏訪町指定有形文化財 )。 その他、天桂禅師お手植えとされる樹齢400年以上のアカマツ🌴は下諏訪町指定天然記念物で高島城🏯を築いた日根野織部正高の供養塔も町文化財、また室町時代の梵鐘が長野県宝となっています。 本堂に掲げられている扁額は一山禅師に帰依していた #後宇多法皇 による筆…などなど、所蔵されている仏像や前述の町指定文化財の本堂や山門の棟梁まで判明してリーフレットに紹介されている(=クリエイターを尊重している?)のがこのお寺のユニークなところの一つ。 本堂は立川流工匠・初代立川和四郎富棟の弟の子・上原市蔵正房。山門は大隅流工匠・村田長左衛門矩重。そして庭園の作庭者についてもやはり説明があります。 . ■帰錫庭 本堂正面の石庭“帰錫庭”(きしゃくてい)の作庭は神戸・祥福寺僧堂師家の #河野太通 老師の作庭で、築庭の施工は京都の植音によるもの。 高野���金剛峯寺の『蟠龍庭』🐉を思い出す広大な #回遊式枯山水庭園 は別名を“釈迦十大弟子の庭”と言われ、修行のための地方伝道から帰るお釈迦様の弟子たちの様子を、四国・四万十川源流域🌊の巨石・銘石を用いて表現したもの。 で、京都の植音さん。名前を書くのが初めてなのですが、明治〜大正期には七代目小川治兵衛(植治)とも共同で作庭に携わり「東の植治、西の植音」とも称されたとか。 おにわさんで紹介済みの庭園で言うと、妙心寺塔頭の『春光院庭園』も担当。京都府の長安寺というのは福知山の『長安寺庭園』(重森完途作庭)のことかなあ? (あと以前安価を理由に泊まった京都の旅館のお庭が良くて気になっていたのだけど…そこも実績にあったので後日紹介することにする) 小口基實さんの枯山水庭園も一枚目に載せたいので、その2へ続く。 〜〜〜〜〜〜〜〜 ‪🔗おにわさん記事URL:‬ https://oniwa.garden/jiunji-temple-%e6%85%88%e9%9b%b2%e5%af%ba%e5%ba%ad%e5%9c%92/ ーーーーーーーー ‪#庭園 #日本庭園‬ ‪#garden #japanesegarden #japanesegardens #zengarden #諏訪 #下諏訪 #下諏訪町 #suwa #shimosuwa #信州 #長野 #長野県 #nagano #枯山水 #karesansui #おにわさん #oniwasan (慈雲禪寺) https://www.instagram.com/p/B_MMLwghMv9/?igshid=130nzpc7x9ze7
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hi-highmt · 3 years
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カモシカ駆ける、日の出山
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明日の雨予報で予定していた宿泊山行が中止になったので、代わりにJR青梅線の日向和田駅から、日の出山を経由してJR五日市線の武蔵五日市駅へ下りるロングコースを歩いてきました。
駅から歩いて10分ほどで、鳥居の有る登山口に到着。
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このルートは、何本もの杉の木に白ペンキで地名が書かれているのが印象的でした。
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左は琴平神社を経由するコース、右(下の矢印)はしないコース。 しないコースを行くことにしました。
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少し登ると、琴平神社コースと合流。 折角なので、社の方へ行ってみることに。
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琴平神社ということは、本宮は四国の琴平神社でしょうか。 琴平神社には5年前に行きましたが、確か、漁師の安全を祈る神様だった記憶が…。 何故こんな東京の山奥にあるのか、ちょっと不思議。
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神社の社前から見える景色。
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そしてこのルート、沢山のコアジサイ(小紫陽花)咲いていました。
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道も割となだらかで歩きやすい。
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三室山、646.7m。特に何もない山頂です。
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向こう見えるのは麻生山?
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標識はこまめに立っているので安心です。
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マルバウツギ(丸葉空木)も綺麗。
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日の出山の山頂手前に咲いていたヤマツツジ(山躑躅)。 もうだいぶ前に咲いたものなのか、乾燥して縮みかけています。
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11:00頃、日の出山の山頂に到着!標高902m。 御岳神社の境内から何度か眺めてはいましたが、ようやく来られた〜! 今日はここのベンチでランチにしました。
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麻生山に向かう前に、トイレに寄ろうと御岳山方面に少し下ると、山荘が! こちらは「東雲山荘」さんだそうです。 こんなところに山荘があるなんて、知らなかったな〜。
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トイレを済ませ、麻生山へ向かいます。 ここの分岐は間違えないように気をつけないといけませんね。
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ググッと下って少しだけ登り返すと、麻生山に到着。標高794m。
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麻生山の山頂からは、所沢の西武ドームも(割とあちこちから見える)。
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次は樽窪林道方面に向かいます。
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その途中、とある動物が杉の向こうからこちらを覗いていました。 手前から3本目の杉の根元に、顔を出しているのが分かるでしょうか?
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何と、カモシカさんでした! キョトン顔で、こちらをジッと見つめています。 うぅ、可愛い!!!
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人慣れしているのか、逃げることなくその辺の葉を食べ始め…
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こちらをチラ見しつつも、お食事は続きます。 どうやら我々に道を譲ってくれる気はないようです。 どうしよう。この細い一本道を行くしかないのに…。
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ふと、お食事をやめたカモシカさん。 「どいて欲しいの?」とでも言いたげです。
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そしてクルッと振り返り、トコトコと元来た方へ歩き始めました。 ホッ、良かった。これで進める〜!
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人間が後を付いてくるのが分かったのか、観念して斜面へ移動してくれたものの、まだ何か言いたげな表情でこちらをじっと見つめていました。 人間のことは、特に危険とも思っていないようです。 道を譲ってくれてありがとね!食事の邪魔してゴメンナサイ。
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しばらく行くと、金比羅尾根方面との分岐に到着。 今回は幸神方面へ進みます。
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写真では見づらいですが、道標の支柱に手書きで「左 勝峰山へ」と書かれていて、そちらへ進んで行きます(基本的にはYAMAPアプリを頼ってますが)。
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途中で見つけたキノコ。 この厚みのある樹皮はクヌギ?アベマキ?ちょっとよく分かりません。
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ほどなく白岩山へ到着。681.7m。 これ、山頂って言うんですか?という感じの狭い山頂。
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ちょこっと急な道を登り返すと、梵天山。607m。 アップダウンを繰り返しつつも、徐々に高度を下げているのが分かります。
この梵天山の手前で、またもやカモシカに遭遇! しかも今度は2頭が斜面を追いかけっこしていました。 兄弟なのか、番(つがい)なのか、速すぎてよく分かりませんでしたが、先ほどの個体よりは少し小さめで色も明るいグレーだったので、別の子達のようでした(あまりの速さに呆気に取られて写真は撮れず…)。
駆け回ってるカモシカ、初めて見た〜!感動! ここも東京なのだと思うと、何だか不思議…。
改めて、登山は野生動物たちの住み処にお邪魔させていただくレジャーなのだなと実感したのでした。
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さらに5分ほどで真藤の峰。 こういうアップダウンが続く場合、名もなき山頂が多いものですが、このルートはちょっとした峰にも名前がついています。
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綺麗な杉並木。
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特に名前も無いけど標高が書かれていました。
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分岐を左へ曲がって、深沢山。460m。
この山頂に着いたら水をボトルに補給するぞ〜!と思っていたのに、あまりも何もない狭い山頂でうっかり通過しそうになりました。
しかも疲れていたせいか、周りから「蓋、蓋!」と言われるまで「水出ないな〜」と思いながらも蓋の付いたままのプラティパスをボトルに傾けておりました…。
そして次は噂の「ためぐそ山」だ〜!と思っていたのに標識を見落として通過してしまったようでした…。 特にこれと言った特徴はない小山だったように記憶しています。 一体どんな由来でこんな酷い名前を付けられたんだろう?とかなり楽しみにしていたんですけどね〜。残念!
ちなみに深沢山〜ためぐそ山は虎ロープもある結構急な下り坂でした。
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そして最後のポイント、地蔵山。 このお地蔵様の写真を撮るために前に回り込んだせいでお地蔵様の前にあった急な荒れた道を少し下りてしまい、また戻る羽目に。
でも、少し行くと明らかに登山道はない感じになったので滝子山の反省を生かしてすぐに地蔵山に戻りました。 正規のルートはお地蔵様の斜め後ろにありました〜。危ない危ない!
そんな感じで、登山道を出て武蔵五日市の駅に到着!17.1kmの道のりでした。 疲れたけど、アップダウンで良いトレーニングになったし何よりカモシカにも会えて楽しかった〜!
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shakuhachi-kataha · 4 years
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暮露と「七十一番職人歌合」
久々のミニ講座です!!!
 
 
 
自称暮露ガールといたしましては、この儚く短く、情報も多くはない暮露の実体はじっくりと勉強させていただきます。
   
 
 
虚無僧の前身といわれる「ぼろぼろ」とはどのような人々であったのか。
 
 
 
 
名称は以下に記録がある。
 
 
 
十四世紀初め『徒然草』では「ぼろぼろ」「ぼろ」(始原として「ぼろんじ・梵字・漢字」)
十四世紀頃の『暮露々々のさうし』では「暮露々々」「暮露」
十六世紀初めの『七十一番職人歌合』では「暮露」
 
 
 
 
「ぼろぼろ」の特質
★形姿は小刀所持、高下駄履き、白衣と黒袴着用。その様態は、集団をなし、あるいは単独で、河原、野など寺社の外で仏教修行するものであった。
★社会的地位は、一般に恐れられ厭われる存在であった。既成教団との直接的関係は見いだせない。存在形態や殺生行為から中世非人と見る事が可能。
★仏教史上の本質的性格は当時の既成教団を離れた古代仏教系の”行”的僧侶であるとしたい。
(保坂浩興「十七世紀における虚無僧の生成」より参照)
 
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「七十一番職人歌合」は、明応九年(1500)頃成立されました。
 
 
 
 
歌合(うたあわせ)とは、歌人を左右二組にわけ、その詠んだ歌を一番ごとに比べて優劣を争う遊び及び文芸批評の会。
 
 
「七十一番職人歌合」とは、 
71番、142職種の職人姿絵と画中詞 (1)、および詠者 (3) が職人に仮託し月と恋を題材とした左右284首の和歌とその判詞 (4)が収められている。
職人歌合類は中世前期に製作された『東北院職人歌合』をはじめ『鶴岡放生会歌合』、『三十二番職人歌合』などの存在が知られ、時代を経るごとに登場する職人の数が増加していることから、七十一番職人歌合は中世期の社会的変遷に伴う職人の分化を反映させ、これらの職人歌合類を受け継ぎ発展させたものと考えられている。(世界大百科事典より)
【画中詞】絵の中の詞書(2)(ことばがき) 
【詞書】1和歌や俳句の前書きとして、その作品の動機・主題・成立事情などを記したもの。2 絵巻物の絵に添えられた説明文。
【詠者】(よみて・えいしゃ)歌・詩を作った人。作者。
【判詞】判者が優劣・可否を判定して述べる言葉
 
 
 
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七十一番職人歌合(明暦三年・1657年版)
 
 
 
四十六番
法(のり)の月ひろくすましてむさし野に  おきゐる暮露の草の床かな
すみよしのいり江の月やふるさとの 姑燕城外のあきのおも影
 
 
  暮露の心月、いかはかりの法の光をか ひろめ侍べき。
  信仰もなく覚ゆ
  右、住の江の月に対して、名たかき楓橋のわたりをも、
  わか故郷といひ出たる所、他人のよはさる風躰、
  彼中麿か三笠の山の月にもすみまさりてこそ侍らめ
 
 
おとふなよ かよふ こゝろの むまひしり 人のきくへき あのをともなし
から やまと しるへする身のかひそなき おもふ中には ことかよはさて
  
 
  右は、たゝよのつねのことはりきこえたるのみ也。
  左の馬ひしりは、あのをとせすゆかむ駒もか、
  といへる万葉の古風もりきたりて、神妙に侍り。
  尤可為勝。
 
 
 
 解説!
 
 
◎法の月ひろくすまして 「法の月」は、煩悩を照らす仏法を、夜を照らす月に例えた言葉。「広く」は、次の「武蔵野」の縁語。 法の月の清らかな光を広く世間に行き渡らせて。
【縁語】(えんご)とは、一首の中に意味上関連する語を連想的に2つ以上用いることで歌に情趣を持たせる、和歌の修辞技法のひとつ。
◎むさし野におきゐる暮露 「武蔵野」は歌枕であるが、諸国を行脚していたらしい暮露が、京都から遠い武蔵野で野宿することは、ありそうなことと思われたであろう。「起きゐる」は、夜寝ないで起きていること。「暮露」の「露」字から、草葉に置く露を連想し、それと同じく、秋の武蔵野に起きいる暮露、といったのである。
◎草の床 草を床とする、つまり、野宿することをいうのであろう
◎すみよしのいり江 「住吉」は、もと「すみのえ」と称したが、平安初期以降、「すみよし」とも称されるようになった。判詞には「住の江」とある。現大阪市住吉区一帯。古くは、住吉神社のすぐ近くまで海であった。「住吉」は古来の歌枕であるとともに、応仁乱後、遣明船の発着地となっていた堺に近く、通事の歌に詠み込むのにふさわしい地である。
◎ふるさとの姑燕城外のあきのおも影「姑燕城」は、今の蘇州。春秋時代、呉王夫差の宮殿、姑蘇台(春秋時代の呉王夫差が姑蘇山上に築いた台の名)があった。「故郷」は、生まれ育った地の意に取るのが自然であろう。すなわち、この通事は中国人という設定で、住吉の入江の月が、姑燕城外の秋の風情を思い起こさせる、というのであろう。
◎暮露の心月、いかはかりの法の光をかひろめ侍へき 「心月」は、仏教語で、月のように澄みきった心。歌に「法の月」と言ったことに対応する。「法の光」は、仏法を光に警え(例え)た言葉。暮露風情の心月など、どれほどの法の 光を広めることができようか、というのである。暮露がまっとうな宗教者と考えられていなかったから、こう言うのであろう。
◎住の江の月に対して名たかき楓橋のわたりをも、わか故郷といひ出たる所 「対して」は、向かって。「楓橋」は、張継(中国唐の詩人・官僚・政治家)の詩で有名な、蘇州の西のはずれにある橋。
◎風躰 「ふうてい」または「ふうたい」と読む。
◎彼中麿か三笠の山の月にもすみまさりてこそ侍らめ 「仲麿か三笠の山の月」は、遣唐使阿倍仲麿が、帰国に際して、「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも」という歌を詠んだという故事(古今集、巻九 羇旅歌)による。同様の説話が『今昔物語集』二十四などにも見える。「澄みまさり」は、月が澄み増さることに掛 けて、通事の歌が仲麿の歌より勝っていることをいう。【羇旅歌】(きりょか)旅に関する思いを詠んだ歌
◎かよふこゝろのむまひしり 「通ふ心」から「心の馬」、「馬聖」と続く。「心の馬」は、仏語「意馬」の訓読。 煩悩欲情の抑えがたいことを、馬が暴れるさまに警え(例え)ていう。「馬聖」は暮露の蔑称か。
◎人のきくへきあのをともなし「足の音」は足音。馬ならぬ馬聖みずからが、足音をさせずに歩いて通う、というのである。本物の馬ではないのだから、派手な足音のしないのは当然である。(私は馬聖なんて妙な名前で呼ばれているけれど、)人の聞き答めるような派手な音は立てない(から、厭うてくれるな)。
◎からやまとしるへする身のかひそなき 唐と大和、つまり、中国と日本との手引きをする身でありながら、その甲斐のないことだ、というのである。
◎おもふ中にはことかよはさて 「言(を)通はす」は、言葉を通わすこと。また、そうすることによって思い通じさせること。ただし「通ふ(自動詞)」は、万葉集に見え、平安朝以降の歌にもまま用いられるのに対して、「言(を)・通はす(他動詞)」は、もっぱら散文でしか用いられない。にもかかわらず、ここで「言通はす」を用いたのは、ひとえに、 通事という職能に強引に言い寄せるためである。(唐大和の間さえ言葉を通じさせる身でありながら)恋人との間は話す機会もない、または、話しても心が通じないで。
◎たゝよのつねのことはりきこえたるのみ也 「世の常」は、世にありふれた平凡なこと。通り一遍の理屈に合っているだけだ、というのである
◎万葉の古風 「古風」は、歌論用語で、表現や素材が古風なこと。いい意味で使うことが多い。
◎神妙に侍り 「神妙」は、「しんべう」または「しんめう」。非常に優れているさまで、歌合判詞にまま用いられる。伝統的な歌合判詞をまねた表現。  
 
参考・注解「七十一番職人歌合」下総俊一
  
  
  
  
<暮露ガールの勝手な現代語訳>
 
法(のり)の月ひろくすましてむさし野に  おきゐる暮露の草の床かな
  
煩悩を照らす仏の教えのような月の清らかな光が、武蔵野の地に広く照らされている。暮露の身である私は、遠く京都からこの地にて、その法の月の光に照らされながら冴え渡り、草の露に濡れる秋の武蔵野の草の床にいるのであった。
 
 
おとふなよ かよふ こゝろの むまひしり 人のきくへき あのをともなし
 
世間からは心の落ち着きがない馬聖などと呼ばれているけれど、人にとがめられるほどにうるさく足音をたてずに、あなたのところに通いますよ。そんなに嫌わないでください。 
 
 
いいですね〜、暮露の歌。
「月」と「恋」を詠んでいるわけですが、この奥深さ。
惚れてしまうではないですか!!!
 
 
 
 
さて、判定結果ですが、
一つ目の歌は、暮露負けですね。。。なんだか信仰も無いなんて言われちゃって悲しいんですけど。
二つ目の歌は、「左の馬ひしりは....神妙に侍り」とあるので、暮露の勝ちなのかなとは思うのですが、暮露の歌は右側なんだけと、これはどういうことなんだらう。。。。
 
どなたか教えてくださいませ💦
 
 
 
 
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gendaikabuki · 4 years
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第一場  大津三井寺
 湖を望む舞台付の広間
 湖畔の高台にある三井寺の一坊、板張りの大広間。奥一面の欄干の向こうには琵琶湖の眺望。上手側は湖を借景とした広い舞台になっており、芝居道具の大釣鐘が一つ、その中央に置かれている。  下手側、簡素な床の間に掛かった鬼の大津絵でここが近江の三井寺であることを示す。床の間の前には無人の円座が数枚、舞台の観覧席の様に並んでいる。床の間の裏手に伸びる欄干は庫裡へと続く出入口。
  猿楽一座の頭・��阿弥と僧円了、語り合う様子で中央に板付きにて幕開く。やや下がって桐夜叉と梅夜叉、背筋を伸ばして控えている。
 円了 なれば方々は紀伊紀三井寺道成寺より吉野を抜け、この大津三井寺園城寺にまで遥々と、猿楽舞の奉納のみならず、寺の鐘に伝わる物語を聞きに参られたと、そういう事にござりまするか。
松阿弥 はい、左様にござります。我ら女猿楽の一座。他の猿楽、能楽一座の方々と違い、常々、女性〈にょしょう〉ならではの情や念、美を舞って御覧じようと考えてございます。中でも、我ら一番の得意といたしまする猿楽舞の『道成寺』。蛇に成った清姫が安珍を焼き殺したというその物語の御寺の鐘、せめて一度は拝まねばならぬ──との思いから、紀三井寺道成寺に参りましたるところ「鐘と蛇、女人の情念の物語は道成寺だけのものにはあらじ。三井寺の梵鐘の物語も是非学ばれてはいかが」との御住持のお言葉。故にこちら、近江三井の御寺に参ったと、かような次第でございます。
円了 ウム。たしかにその御坊の仰せの通り、この三井寺の梵鐘にも蛇と女人の情念にまつわる話はござりまするが……。
桐夜叉 (少し身を乗り出して)……その情念とは、一体どんなものなのでございましょう? 嫉妬でございます? それとも執着? 
円了 ホウ。何ゆえ左様に思われまするか?
桐夜叉 何故……と仰言いましても、女は嫉妬深いもの、蛇は執念深いもの ── それは現在後醍醐帝の御代になるよりもずっと昔、神武以来の決まり事。(隣の梅夜叉に) ……そうであろうノウ?
梅夜叉 神武以来かどうかは知りませんけれど、我らが猿楽で舞って御覧に入れる女人の相は、たしかに左様なものが多うございますわね。……和尚様。こちらの御寺の梵鐘には、サテ、どんな物語が伝わっているのでございますか?
円了 (笑いながら)残念ながら、方々が思われている情念とは、ちと種類が違いましょうな。
梅夜叉 違うのですか?
円了 左様。三井の梵鐘にまつわる女人の情念とは、コレすなわち捨身の誠。
桐夜叉 しゃしん?
円了 「身を捨つる」と書いて「捨身」。……大切なる者のため、自らの眼を刳り抜いた蛇の女房の物語が、当寺の梵鐘の響きには籠っているのでござります。
   女たち、不思議そうに顔を見合わせる。
 円了は立ち上がって上手舞台、芝居用の釣鐘の前まで進む。しばらくじっと鐘を眺め、そして語り出す。
 円了 その昔、琵琶湖々底の龍宮、龍神の眷属の末に連なる一匹の蛇が、地上の世界、近江源氏の棟梁に恋をしました。美しい女人の姿に変成した蛇は、殿に見初められて奥方となり、玉の様に美しい若君を産みました。……なれど、その襁褓も取れぬうち、蛇は龍神のお召しにて、龍宮へ戻らねばならなくなったのでございます。別れ際、泣き止まぬ我が子に、母は形見と、地上に在っては宝珠となる己の片目を刳り抜いて与えました。その珠を握りしめた若君はようやく泣き止み、そして、蛇は水底、龍宮に帰ったと申します……。
         しばしの間を置いて
 円了 しかしその噂、鎌倉にまで届き、蛇の三つ鱗が紋所、龍神崇める北条殿より宝珠献上のご下命。鎌倉の将軍家はもとより、京の帝の御心さえも脅かす執権殿の御威勢、否と言えるはずもなく……。殿は珠を握りしめる若君の掌を解き、宝珠を六波羅に差し出したのでございます。
松阿弥 サテ、和尚様。鎌倉の将軍様、執権の北条殿、近江源氏の殿様……と申さるるからには、それはさほど昔ではない、当代の物語なのでございましょうか?
円了 左様。その殿というは先代の佐々木の殿様、佐々木宗氏様の事。
松阿弥 ならば、その若君と申さるるは?
円了 現在佐々木のご当主、佐々木高氏道誉様。
松阿弥 なんと。ご当地のお殿様の不思議の物語、この様に気安く話して、サテ、お咎めの恐れはないのでございましょうか?
円了 (穏やかに頷いて)方々もお噂はご存知あるやもしれませぬが、道誉様は少々風変わりなご気性のお方ゆえ、むしろその物語をご自慢なさってございまする。……事実、その出来事がきっかけで佐々木の御家は北条得宗家のご昵懇となり、道誉様は執権高時殿のお小姓として永の寵愛。そして昨年、高時殿ご出家の折には供にご出家。それ故の法号『道誉』をお名乗りなのでございます。
梅夜叉 マァ。近江の国のお殿さまは、お坊様なのでございますか?
  円了、元の位置に戻って座る。
 円了 仏法への深い帰依、得度をなさった ── という意味のご出家。坊主頭に墨衣 ── という訳ではござりませぬよ。……それどころかそのお姿は、まるでそなた方、猿楽舞の役者衆にも負けぬくらいの華やかさ。
梅夜叉 エ?
円了 目の醒める様な緋色の襦袢、その上に半身違いの金襴の直垂付けて、舞う様な軽やかな足取りで、西へ東へ、南へ北へ、遊戯神通〈ゆげじんつう〉、神出鬼没の立ち居振る舞い。近頃流行りの婆娑羅とか言う、型にはまらぬその生きざま。
桐夜叉 ばさら……にございますか?
円了 左様。真っ当真っ直ぐではなく、この様にこう(身を傾けて見せ)……傾〈かぶ〉いた生きざま。
松阿弥 ウム。女どもは存じぬやもしれませぬが、確かに、道誉様は当代きっての風流にして聡明な殿様と、我ら猿楽座頭の仲間内にも噂は聞こえておりまする。……しかし、その様な聡いお方が何ゆえ、風変わりな婆娑羅の道に生きられるのか? 円了 サテ。それは拙僧にも判りませぬ。直接お目に掛かり、みずからお尋ねなさるがよろしかろう。 松阿弥 お目にかかれましょうや?
円了 道誉様は連歌、猿楽、能、狂言……風雅な芸能に目のない殿様。方々の三井寺逗留の報告にも、きっとご関心をお持ちのはず。きっと、ほどなく……
   松阿弥と女たち、密かに視線を交わして頷き合う。
 円了が見ている事に気付き、桐夜叉は誤魔化す様に口を開く。
 桐夜叉 ところで和尚様。その片目を失った蛇の女性の物語と御寺の梵鐘には、一体どんな関係があるのでございましょう?
円了  ああ、そうでござった。途中で逸れてしまった話の、続きに戻るといたしましょうか。
桐夜叉 ええ、どうぞお願いいたします。
円了 ウム。エヘン。母の形見、握った宝珠を北条殿に奪われた若君は再び泣き出し、どうあやしても泣き止まぬ日々が続いたそうにございます。ある夜、困り果てた父君は御自ら、せめて母親の近くへと、琵琶湖の湖畔へ若君を抱いてお連れになりました。すると、白い晒を目元に巻いた盲〈めし〉いの女人 ──  再び人の姿に変身した蛇の母君が現れ、あらためて若君に宝珠を授け、それにてようやく、若君は泣き止まれたと申します。
梅夜叉 じゃあ、母君様はもう片方の目も?
円了 左様。愛しい我が子のため、蛇の奥方は自らの両眼を捨てた ── それが、三井の梵鐘にまつわる女人と蛇の物語。
桐夜叉 けど和尚様、そのお話と梵鐘に、一体何の関係があるのでしょう?
円了 サテ、それはここからの物語。
 湖底に戻る前、母君は言い遺したそうでございます。
「盲目の身となった上からは、水底の我はこれから、三井寺の鐘の音のみを導〈しるべ〉に生きてゆかねばならぬ。それゆえ日々 ── 自らの位置を知るため、忘れる事なく時の鐘を鳴らして欲しい。そして年々 ── 我が子の成長を知るため、大晦日に我が子の年と同じ数だけ除夜の鐘を撞いて欲しい。そしてもし、佐々木の御家、天下国家に一大事が起きたなら、夜中〈やちゅう〉続けさまに鐘を叩いて撞き鳴らせば、きっと龍宮の眷属率いて、加護に参上いたすであろう」 ── と。
松阿弥 ホウ。龍神眷属の加護とは心強い。その様な加護があるならこの世に道誉様の敵はなし。北条様の平氏から、佐々木様の源氏の手に、天下経営の権を取り戻すのも思いのまま……ではござりませぬか?
円了 道誉様は執権殿第一のご昵懇。その様な事をせずともご安泰の御身の上。むしろ夜中に鐘を響かせ、謀反叛逆疑われる事をご用心なされ、三井の晩鐘を撞く事を固く禁じておられまする。とりわけ近頃は、先年露見した帝の倒幕の御企てなど、なにやら不穏な世の中ゆえに……。
松阿弥  ホウ。
梅夜叉 もし禁を破って晩鐘を撞いたなら、その者は一体、どんな罰を受けるのでございましょう?
円了 撞いた鐘の数だけなますに斬られ、その上で琵琶湖に沈めらるるが掟。
梅夜叉 マァ……恐ろしい。
  ト、花道に取次の僧登場。七三にひざまづいて
 取次の僧 本坊書院に京極貞満様、御入来になられてござりまする。
円了 左様であるか。……では、そちらに参るといたそう。
取次の僧 いえ、御坊様。京極様は猿楽一座の方々が居られる、こちら舞台の間にお越しになられたいと、その様に仰せでございます。
円了 ホウ、左様か。(一座に微笑み)道誉様は早速方々にご興味を示されたご様子。……では、こちらにご案内を。
取次の僧 はっ。
        取次ぎの僧、元に退場。
 松阿弥 京極貞満様……と申さるるは、サテ、いずれのお方にござりましょう?
円了 佐々木のご分家、道誉様の弟君にございます。
  ト、揚幕開いて足音響く。舞台の全員、花道に向き直って頭を垂れる。  花道より京極貞満登場。落ち着いた色の直垂に折烏帽子、一般的な鎌倉武士の姿。舞台へ進んで円了の隣、床の間近くの円座に腰を下ろす。
円了 これはこれは京極様、ようこそお越し下さいました。
貞満 イヤサ御坊、しばらくぶりにござりまするな。お変わりなき様で、何より。
円了 京極様におかれましても、ご機嫌よろしゅう何よりにござりまする。……サテ、本日は何御用ゆえのお出ましにござりましょう?
貞満 ウム。(松阿弥たちを見て)三井寺に逗留し、猿楽舞を奉納する女猿楽一座というのはその方らであるか?
松阿弥 はい。我らがその女猿楽一座、座頭と役者どもにござります。
貞満 左様か。……(円了に向き直り)御坊にはお察しあろう。彼らの来訪が兄上の耳に入り、その珍しき女人の芸能をご覧になられたいとの御仰せ。ご準備あった連歌の会をひとまず置いて、只今すぐ、こちらに参られたいとの事。先駆けて伝えて参れと、マァ、いつもながらの��性分。
円了 (松阿弥に)ソレ、思った通り。
松阿弥 御慧眼畏れ入りましてござりまする……。( 女たちを見遣り)殿様お見えの上からは、サァ、庫裏の楽屋に控える楽人どもに声を掛け、舞台の準備始めねば。
  下手、床の間の裏手に続く欄干(楽屋の方向)に視線を向ける。
 ト、揚幕の内より声。
 声 道誉様、お出でになられてございます。
松阿弥 (驚き)コリャ、こうも早速。
  舞台の全員居住まいを正し、道誉を待って花道に向き直る。
 しばしの沈黙。
 ややあって道誉、花道ではなく下手欄干奥、楽屋側から大きな足音を立てて登場。半身違いの奇異な直垂姿。片手に銀の鱗柄装束(道成寺衣装)を掴み、舞台中央にて堂々たる立ち姿。
  続いて猿楽一座の男二人、道誉を追って登場。道誉の背後に立ち並んで芝居用の竹光握って身構える。
 男一 どこのどいつかは知らねども、我ら一座の大事の衣裳、かっぱらうとは悪い了見。サァ、返せ、返せ。
男二 派手な姿に切れある身ごなし、真っ白顔の色男。こやつ、きっとどこぞの役者に相違ない。(顔を覗き込み)サテ、この顔どこかで見た様な……。わかった! 坂東にて評判の、〇〇一座の△太夫に相違ない!(※実演者に合わせて)そうであろう!
二人  そうであろう!
道誉 (ややあって機嫌良く)ハハハ、これは愉快なる人違い。
  正体を察している松阿弥と女たち、両手を挙げて男たちを制する。円了と貞満、顔を見合わせて苦笑、道誉に向き直って頭を下げる。
 円了 これはこれは道誉様、
貞満 兄上、
円了 ご尊顔を拝し奉り、恐悦至極に存じまする。
男たち え?
  男たち事情を察し、慌てて畏まってうずくまる。
 男一 これはこれはとんだご無礼、
男二 つかまつりましてござりまする。
  道誉、堂々と一座を見渡し
 道誉 いやなに、庫裏の軒先に、この装束が掛かっているのが見えたのだ。……蛇の鱗柄は俺の産着と同じ柄。つい懐かしく思うてな。暫時羽織ってみたくなった……ただそれだけの事。
  ト、装束を肩に掛けて扇を取り出し、上手舞台に進む。鐘の周囲を舞う様にして一周。元に戻って装束を脱ぎ、一座の男にポンと投げ渡す。
 道誉 もう気は済んだ。返して遣わす。
男たち ハハッ。
  男たち装束を持って退場。
 道誉、中央に腰を下ろして松阿弥たち一座と向き合う。
 道誉 サテ、当代めずらしき女猿楽一座というのは、その方らか?
松阿弥 (頭を下げて)左様にござりまする。身どもは座頭の松阿弥、それに控えまするは当一座の二枚看板、桐夜叉と梅夜叉と申す役者どもにござりまする。
  一層深々と頭を下げ
 松阿弥 京と鎌倉を結ぶ要衝、近江の国をご支配なさる佐々木源氏の棟梁、その名も高き道誉様。ご尊顔を拝し奉り、身にとりまして、いかほどか……。
 ト、徐々に言葉に熱がこもって顔を上げる。道誉と松阿弥、じっと視線を交わす。
 道誉 サテ、浮かれ稼業に似合わぬ眼光。いつかどこかで、見た事のある様な……。
  松阿弥、ハッとして頭を下げる。
 桐夜叉 (繕う様に引き受けて)オホホホ。お殿様と同じ様に、我らが殿さま……座頭も、よくどこぞの役者と間違われましてございます。
梅夜叉 ホホホ。何と申す役者でしたでしょう。たしか……
松阿弥 (とぼける)サテ、よく間違えられる何とやら……と申す者とは別人なれど、我ら猿楽舞の楽人の流儀、もし殿様のお許しあらば、ご挨拶代わりの舞を一指 ── 。
道誉 ウム、それは良い。許して使わす。
松阿弥 ハハッ。
  松阿弥、立ち上がって上手舞台に進み、即興風の謡曲を舞う。
 松阿弥 〽︎ 役者とは 是れ皆人なり
人も是れ 皆役者なり
折々の時々の
己が役を
舞いにけり
舞いにけり
  舞い納め、腰を下ろして一礼。円了と貞満、穏やかに拍手。
 道誉は満足げに頷き、立ち上がって返しの舞
 道誉 〽︎ 舞いにけり 舞いにけり
今世一生捨て置いて
只ひたすらに舞いにけり
一生は嘘 舞こそ真〈まこと〉
一生は嘘 舞こそ真
  舞い終わって着座。満座の拍手。
 道誉 (女たちに)美しき白拍子を差し置いての余興の一指し、許してくれよ。
松阿弥 (頭下げて)かようにお見事なる身のこなし、本職の猿楽師でもなかなか出来るものではござりませぬ。それに比べて我が身のつたなさ……。まことに、恐れ入りましてござりまする。
道誉 つたなくはあるまいが、その方、どうやら本職の猿楽師ではない様子……。
  なかば独白の様に言い、道誉はじっと松阿弥を見つめる。 松阿弥、恐れ入る様に一層頭を下げる。
 松阿弥 身どもは表舞台の役者ではなく、一座を率いる座頭に過ぎませぬゆえ。 
道誉 マァ、そう言うのならそれでよい……。
(明るく仕切り直し)シテ、その方ら何方より参ったのだ?
  白拍子たち、揃って指着き
 桐夜叉 我ら京の女猿楽一座、紀伊紀三井寺道成寺の鐘を拝みに参り、
梅夜叉 こちら三井寺の鐘の御噂承り、
桐夜叉 紀ノ川沿いに吉野へ上がって、
梅夜叉 千本桜の名勝と、尊皇の心篤き蔵王権現、修験者の方々にご挨拶、
桐夜叉 大和の道を北に上り、
梅夜叉 この近江三井寺園城寺へと、
二人 着きにけり。着きにけり ── 。
桐夜叉 という次第でござりまする。
道誉 左様か。(貞満に)そういえば先頃、帝倒幕御企ての折、吉野の修験者に化けて諸国遍歴、各地の武士に勅使して捕らえられた公卿がいたが、ハテ、その名を何と申されたかのう?
貞満 日野権中納言資朝〈ひののごんちゅうなごんすけとも〉卿とその従兄弟、日野蔵人俊基〈ひののくらんどとしもと〉卿であったかと。
道誉 シテ、その方々のご処分は?
貞満 確か権中納言殿は佐渡に配流、蔵人殿は帝のたってのご希望あってお咎めなし ── との決着のはず。
道誉 貞満、御坊、その方たちのお顔、存じ上げておるか?
円了  いいえ、
貞満 存じませぬ。……が、何故?
道誉 いいや。修験者と聞いてふと思い出したまで。
  ト、思い入れ
 道誉 ……この道誉の元も、訪ねて下されば良かったものを。
  貞満驚き
 貞満 これは兄上、異な事を申される。我ら佐々木と京極、鎌倉の将軍様にも執権殿にも、御高恩筆頭賜る源氏の一家。兄上には、まさかの叛意……。
  ト、人々に聞かれた用心、皆殺しの覚悟で密かに刀に手を掛ける。
 道誉 ハハハハハ、そうではないのだ弟よ。俺はただ、見てみたいと思ったのだ ──
  ト、思い入れ
 道誉 帝、将軍、公卿、大名……我らは各々、自らの役を勤めて生きている。その普段の役とは別の役を演じ、この世の仕組みを変えようと企む者たち……その命を懸けた芝居とは、一体どの様なものだったのか、俺はただ、見てみたいと思ったのだ。
         しばしの沈黙。
 貞満 ハハ、ハハハハハ。兄上の物好きは筋金入り。酔狂、酔狂。ハハハハハ。
  貞満、ホッとした様子で密かに刀から手を離す。
道誉 (冗談めかして女たちに)……よもやその方ら、猿楽一座に化けた帝の使い ── ではあるまいよな?
  しばしの間あって
 桐夜叉 ホホホホホ。殿様が左様な芝居をご所望なれば、我ら芝居が本分の役者ども。即興にて演じてご覧に入れましょう。ネ(背筋を正して松阿弥に)……日野蔵人、俊基さま。
  松阿弥ハッと呑み込んで
 松阿弥 ウム。左様なれば。……勅定である。
  ト、一座の者姿勢を正す。松阿弥立ち上がって取り出した懐紙を綸旨に見立て、高く目の前に掲げる。道誉は居住まいを正し、懐紙に向かって頭を下げる。貞満と円了、呆然と様子を眺める。
 柝、一打ち。
 松阿弥、懐紙を広げて勅命を読み上げる心。
 松阿弥 臣下たる執権北条一門が将軍家の実を握る逆さま事、そのまま鎌倉が朝廷を軽んずる逆さま事と相成りて、世の秩序、大いに乱る。その乱れ糺さんと、先年兵を募りしが、口惜しきかな、下臈の口より漏洩頓挫、時宜を得ず事成らず。なれどこの逆さま事、このまま続くを糺さざれば、天下太平程遠く、人心の荒廃せしをえとどめず。しからばこの度、朕と志ともにする有意の臣を再び募り、誤りの世を真の世に、天命を革むるの号令を、我が直臣、日野蔵人俊基をして各地各国の大名諸卿に、ここに勅定、申し伝えるべきものなり。
  松阿弥、読み上げた体の懐紙の内側を道誉に差し向ける。道誉、畏まる様に頭を下げる。
 ややあって道誉、肩を揺すって笑い出す。
 道誉 ハハハハハハ。(松阿弥を見上げ)俊基卿、そなたは芝居の俊基卿か?  それとも真の俊基卿か?
松阿弥 (元の猿楽師の様子に戻ってひざまづき)ハハッ。芝居の俊基卿……と申し上げますれば、道誉様にはいかな御言葉下さりましょう。
道誉 ウム。上使の役は、マァまずまずの出来。なれど、勧進帳の空読み、弁慶の様な役には、まだまだ勉強が必要だな。
松阿弥 (頭下げ)畏れ多きご指導、誠にありがとうございます。なれば……
         すっくと立ち上がり、上臈の見得
 松阿弥 猿楽師とは世を忍ぶかりそめの姿、麿こそは真の日野蔵人俊基……と申さば、道誉殿、そなたは如何いたしまするか。
  ト、柝打って引っ張りの見得。
 道誉 しからば俊基卿、その勅定に従えば、身どもには如何なる得がありましょう?
松阿弥 本領の安堵と加増、官位栄達。義に従って行動せば恩賞褒美は思いのまま。
道誉 我が本領、我が地位は今で充分。その様なもの、殊更欲しいとは思いませぬ。
松阿弥 ならば大義に従った忠臣 ── との、末代、未来の家名の誉れ。
道誉 そんなものは尚更要らぬ。むしろ北条殿の世が続けば、その未来の忠臣とやらはただの未来の謀反人。
松阿弥 なれば道誉殿、そなたは何をもって得と考え、何をもって進む道を決められまするか?
道誉 面白くもなきこの浮き世、ただひと時でも面白く、思いのままに楽しむ事 ── それこそが身どもにとって何よりの喜び。それこそが、身どもが進む婆娑羅の道。 松阿弥 面白くもなきこの浮き世を、ただひと時でも面白く、思いのままに楽しむ事……。
  しばしの間。
 ややあって梅夜叉おもむろに
 梅夜叉 それは、我ら役者が生きる芝居の世界……まさにそうではございませんか?
  道誉、対勅使の芝居を終える。
 道誉 ハハハハ。そうかもしれぬ。所詮は嘘に過ぎぬものを真〈まこと〉と崇める浮き世より、嘘こそ真の芝居の方が、俺にとってはよっぽど真。
  ト、立ち上がって上手舞台に進む。
 道誉  なれど、たかだか三間四方、この小さな舞台の上だけでは、俺はもう満足はできぬのだ。浮き世すべてを舞台にして、己が命を賭けた芝居 ── その一生を生きる事こそ俺の望み。それこそが近江源氏の棟梁、この道誉が進む婆娑羅の道。
  ト、揚幕開いて再び取次の僧登場。早足で七三まで進んで注進。
 取次の僧 御坊様に申し上げまする。六波羅探題詮議方、長崎高教様、糟屋二郎様。佐々木道誉様をお尋ねあって、書院の方にお見えになってござりまする。
  取次の僧、舞台に進んで下手に控える。
 円了 ハテ、六波羅の侍衆が、何の御用?(道誉に向かって)道誉様、六波羅の方々がお見えとの事でござりまするが……。
  猿楽一座の者ども、用心する様に顔を見合わせ、道誉を見上げる。
 道誉 連歌の会の約束を放り出して、俺は役者たちに会いに来た。さだめし、館で待つのにしびれを切らして俺を追って来たのであろう……。皆で出迎えこちらに案内、彼らも共に芝居を見物すると致そうか。
  貞満と視線交わして頷き合い、松阿弥に顔向けて微笑む。
 道誉 客を出迎えに参る間、ご準備のほど頼みまするぞ。俊基、卿。
  道誉花道より退場。貞満、円了、取次の僧、後に従う。
 揚幕が閉じるのを見計らい、女たち松阿弥のもとに駆け寄る。
 桐夜叉 殿さま、
梅夜叉 俊基さま。
俊基(松阿弥) せっかく道誉殿に近づけたというのに、厄介な事になってしまった。
桐夜叉 その六波羅の者どもは、殿さまのお顔を存じ上げているのでしょうか?
俊基 ああ、宮中出入りの目付衆、もとより顔は見知った仲。
         女たち、うろたえた様子で顔を見合わせ
 梅夜叉 なれば我ら二人が舞いまする間、殿さまはひとまず先に、次なる目当ての越前へ。
俊基 なれど、さすればそなたたちは……。
桐夜叉 舞い納めれば、我らも急ぎ後を追い……。大津の浜の葦原にでも、隠れてお待ち下さいませ。
  女たち頷き合って俊基を立たせ、下手欄干奥へと導いて退場。  裏方たちと楽人たち替わって登場。裏方たちは舞台の準備、楽人たちは舞台上手に並んで着座、囃子の準備を整える。円了、道誉、長崎、糟屋、貞満、花道より列を成して登場。下手の円座にそれぞれの座を占める。
 ややあって楽人たち前奏を始める。
 衣裳を整えた桐夜叉と梅夜叉、欄干を橋掛かりの様にして登場。舞台中央に座して一礼。
 桐夜叉 これに控えまするは女猿楽の二人、桐夜叉と梅夜叉。
梅夜叉 お目に掛けまするは我らが十八番〈おはこ〉、二人勤めの道成寺。
桐夜叉 ご覧なされて、
梅夜叉 下さりませ。
糟屋 ……待て。猿楽の口上は座頭が勤める慣例。どうしたのだ、その方らの座頭は?                                    
桐夜叉 畏れながら、これが我が一座の流儀なれば……。
長崎 (糟屋をなだめて)マァ待て、糟屋。それなる女役者がこの一座の座頭 ── と、そういう事ではないのかの?
  桐夜叉、思わぬ助け舟 ── と、ホッとして頭を下げる。
 ト、道誉おもむろに声を上げる。
 道誉 サテ、俊基卿はどこへ行かれたのかのう?
糟屋 ナニ?
長崎 道誉殿、俊基卿とは、サテ、それはどちらの俊基卿にござりましょうかの?
道誉 俊基卿と申せば、ソレ、日野蔵人俊基卿にござりましょう。
糟屋 何と? 無罪放免を良い事に、まさか、再び帝の密使を?
長崎 道誉殿、それは一体、どういう事にござりまするかな?
道誉 ナニ、この一座が吉野から来たという話から、先ごろ修験者に身をやつしての諸国遍歴、かの密使の公家になぞらえた座頭の芝居、最前まで楽しんでいただけの事。
長崎 ほう。芝居、にござりまするか?
道誉 左様、芝居にござります。 長崎 ハハハハハ。道誉殿の相変わらずのご酔狂、げに面白き婆娑羅なお人よ。
糟屋 (なお承服しかねる様子で女に)ではその座頭は、一体どこに?
  答えられずうつむき続ける女たち。ややあって道誉
 道誉 オオ、そう言えば、次なる舞の奉納先に一足先の出立とやら、オオ、確かその様に申しておった。……ノウ、そうではなかったか?
梅夜叉 (咄嗟に辞儀し)ハイ、左様にございます。
  道誉ひそかに思い入れる(梅夜叉の反応に、松阿弥の正体を確信する)。元に戻って長崎たちに向き直り
 道誉 見逃してとりたてて惜しい役者 ── という訳でもござらぬ。ご両所もそう気になさらず、女どもの猿楽舞を楽しまれるがよろしゅうこざろう。……サァ、始めるが良い、女ども。
  女たち頷き合い、あらためて頭を下げる。
 楽人たち演奏を始める。女たち立ち上がり、鐘の前で舞を始める。しばしの舞。ほど良くして盆回る。
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(1)如来グループ
 大仏が属す。最も位が高い。  企業の役職に例えると、社長、会長、名誉会長。  如来は真理に目覚め悟りを開いたもの。如来以外は全て修行中。
 世界最初の仏像は釈迦如来。1世紀に作られた如来の一種。作られたのは釈迦の死後およそ500年後。それまで仏像はこの世には存在しなかった。
 しかし仏教の布教には仏像が必要だった。釈迦の姿を拝みたいという信者たちのラブコールに応え、釈迦は仏像となり釈迦如来となった。つまりお釈迦様の仏像が作られたのだ。  歴史が下ってくるとだんだん仏教を信じる人の裾野が広がっていく。それによって、こういう仏がいたらいいなという庶民のニーズに応える形で様々な仏像が出てきた。
 その後、庶民の細かなニーズに応える形でも仏像が作られた。  医療を中心にした薬師如来。極楽浄土の案内人として阿弥陀如来。阿弥陀如来は「南無阿弥陀仏」と唱えれば成仏できるという手軽さが受け、日本の寺院で最も多く祀られている。  さらには太陽を神格化した大日如来など、経典に記された数々の如来が仏像となっていった。  奈良の大仏は毘盧遮那(びるしゃな)如来を仏像にしたもの。鎌倉の大仏は阿弥陀如来。  如来は釈迦が悟りを開いた姿を表したもので、その多くが座っていて、衣をまとっただけの質素な形。
 これらは仏像界の頂点に立つグループなのだ。
(2)菩薩グループ
 弥勒菩薩、観世��菩薩、地蔵菩薩(お地蔵様)。  庶民から圧倒的支持を受ける。  企業の役職でいうと部長など中間管理職。  菩薩は悟りをめざし修行中。上を目指して修行しながら苦しむ人々を救う仏。
 菩薩とは、修行僧という意味の、古代インド語(サンスクリット語)のボーディ・サットヴァが元になっている。  ちなみに、釈迦の次に悟りを開くとされているのは弥勒菩薩だが、悟りを開くのは56億年7千万年後。  如来は難しい語り口で教えてくれるため理解しがたい。菩薩はそれを優しく説いてくれる。なので、菩薩の方がより身近。
 全ての人を救うには如来だけでは手が足りない。そのため、菩薩は如来の脇に立ち、如来とユニットで作られることが多かった。  釈迦如来の脇には文殊菩薩と普賢菩薩。文殊菩薩は知恵を司り、普賢菩薩は修行を司る。「三人寄れば文殊の知恵」は、この文殊菩薩から来ている。
 如来が座っているのに対し、菩薩は動物に乗っていたり立っていたりしている像が多い。その理由は、菩薩は少しでも早く人々を救えるように。腰を捻ったり片足を踏み出してる像もある。  他にも、菩薩は美しい布をまとい、多彩なアクセサリーを身に付けた姿。これは釈迦の出家前の王族時代の姿を現したもの。
 菩薩は俗人に近いため人気が出た。特に鎌倉時代以降、庶民信仰の中で人気に。  それを象徴するのが観世音菩薩。優しそうな外見で人気を集めた。観音様はもともと男性でも女性でもないが、優しいイメージのため、いつしか仏像の姿も女性のイメージになり爆発的人気に。
 あまりの人気に、如来を差しおき単独で活躍することになり、さらに人々の欲望のままに変身を遂げ、二本の手だけでは救えないだろうと手を増やした結果、千手観音が生まれ、また、世界中をもっと見渡せるようにという十一面観音も。  さらに、大船観音、高崎観音のように巨大化したものまで。
 寺まで行かなくてももっと親切な菩薩もある。アンパンマン顔負けに助けに来てくれる、それが地蔵菩薩。  人々を助けるため自ら出向き、救いの手を差し延べ、ダメな人ほど救ってくれるという。
 なぜ親しみのある愛らしい顔をしているのか?  地蔵菩薩は地獄に堕ちた人までも救ってくれるという。親より先に死んだ子は賽の河原で親不孝の責め苦を受ける。それを救うのが地蔵菩薩。そこで賽の河原から連想される石で作り、顔も子供たちそっくりの丸い形で作られるようになったのだという。  上流階級がきらびやかな観音様に傾倒していく中、お地蔵様は身近さから庶民のアイドルに。
 地蔵菩薩というのは庶民のささやかな願いも聞いてくれる、身代わりになってくれるという信仰が強い。身代わり地蔵、とげ抜き地蔵、子育て地蔵などなど、全国さまざまなバリエーションを生んでいった。
(3)明王グループ
 歌舞伎の市川海老蔵が結婚を報告した成田山新勝寺のご本尊は不動明王。  が、不動明王はなぜ怒っているのか?
 京都の東寺の講堂には、不動明王を中心とした四体の明王が。東に降三世明王、南に軍荼利明王、西に大威徳明王、北に金剛夜叉明王。不動明王とあわせて五大明王。  しかしこの仏像、他と違いみんな怒っている。なぜか。
 明王は密教で大日如来の化身・分身。特に明王が救うのは難解の衆生(なんげのしゅじょう)、すなわち、いくら言っても聞かない人。
 大日如来が変身して悪を懲らしめる、これが明王。  明王は激しい煩悩を背後の炎と剣で焼き尽くし、左手の縄で縛ってでも救うという。慈悲の心ではなく怒りで仏教界を守る、いうなれば闇の仕事人、裏のガードマン。
 平安時代に弘法大師が中国に留学して密教を学び、不動明王を持ち帰った。当時の人々は非常に衝撃を受けたと伝えられている。武力でもって力尽くで人を救う。   (4)天グループ
 明王グループと同じく武道派集団。  「天」とは耳慣れない言葉と思われるかもしれないが、「寅さん」で有名な葛飾柴又の帝釈天、戦の神様の毘沙門天、東大寺の金剛力士も天の一員。
 同じ武道派集団の明王との違いは?  天は元々インドの神話に出てくる神様で、仏教界の一員ではない。  天とは、神という意味の、古代インド語(サンスクリット語)のテーヴァが元になっている。天は当て字。
 仏教が広まる前のインドでは、ヒンドゥー教という多神教が信仰されていた。その中には最強の戦士インドラという神や、ブラフマンという宇宙を作った創造神など多彩な神様がいた。インドラは帝釈天、ブラフマンは梵天として仏教に取り入れられていった。
 元々いたインドの神様たちを、仏教を守るガードマンとして取り入れたのが天。いわば正規軍ではないが、外から助けてくれる助っ人外国人のようなもの。
 天はインドの神話に出てくるということで様々な姿をしている。菩薩や如来より、より身近なものがあった。  たとえば、天の最高位の四天王と呼ばれる多聞天、広目天、増長天、持国天は東西南北に分かれ、如来・菩薩を守ると言われる。足の速さを形容する韋駄天、地獄の王の閻魔様も天の一員。
 そして天はしばしば、御利益によりユニットのように複数で組む。例えば、多聞天が武将の間で人気があるとなると、多聞天はソロデビュー。  多聞天は戦国時代に名前を変えて活躍した。それが上杉謙信の守り神で有名な毘沙門天。毘沙門天はさらに弁財天、大黒天とともに日本の神様ともユニットを組み、七福神として日本にすっかり定着した。
 以上4グループ以外に、空海、鑑真などの高僧も仏像となっている。
 その年、その時代に合わせ、救いの形を進化させ、日本の民衆に愛されてきた仏像。願いの数だけいろんな仏像がほしい、そんな人間の御利益主義が多種多様な仏像を生んだのかもしれない。
” -
ぼやきくっくり | 「たけしの教科書に載らない日本人の謎」仏教特集 (via vampir)
2012-01-01
(via gkojax-text)
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asami-blackeyes · 1 year
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筋彫りは10年前 #五分袖 #龍虎 #sleevetattoo LINE: @ blackeyes #武蔵梵天 #彫浅 #川崎 #溝ノ口 #横須賀 #刺青 #横須賀タトゥー #和彫り #入墨 #tattoo #blackeyes #japanesetattoo #tattooart #yokosuka #tattooartist #yokosukatattoo #tokyotattoo #kawasakitattoo #世田谷 #池尻大橋 #246tokyo #刺青 #どぶ板通り (Black Eyes Tattoo 1st) https://www.instagram.com/p/Co2IV7OLwGu/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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kachoushi · 8 months
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各地句会報
花鳥誌 令和5年9月号
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坊城俊樹選
栗林圭魚選 岡田順子選
………………………………………………………………
令和5年6月1日 うづら三日の月花鳥句会 坊城俊樹選 特選句
草取れば天と地しばし離される さとみ 沙羅咲きて山辺の寺の祈りかな 都 神官の白から白へ更衣 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年6月2日 鳥取花鳥会 岡田順子選 特選句
読み辛き崩し字祖父の夏見舞 宇太郎 滝飛沫祈りて石を積む人へ 栄子 担当医替る緊張なめくぢり 悦子 青葉木菟声を聞きしは一ト夜のみ 史子 黒を着て山法師てふ花の下 すみ子 砂丘拍動遅滞なく卯浪立つ 都
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年6月3日 零の会 坊城俊樹選 特選句
病院の跡へ南風の吹き抜ける 季凜 梅雨の石積むもののふの墓暗く はるか 十薬とは屍を小さく包む花 和子 もののふの山が鳴るなり青葉風 はるか いとけなき蜘蛛も浄土を知りつくし 順子 菩提寺は城を見上ぐや男梅雨 慶月 ナースらの谺を追うて枇杷熟るる 順子 階段をのぼるつま先街出水 小鳥 青梅雨のしづくすべてが弥陀のもの 光子 罠であり結界であり蜘蛛の糸 同
岡田順子選 特選句
墓守のアパート三棟蕗の雨 風頭 眼をうすく瞑る菩薩の単衣とも 俊樹 アトリエへ傾るる大樹枇杷たわわ 眞理子 真夜中の泰山木の花は鳥 いづみ 青梅雨のしづくすべてが弥陀のもの 光子 昼顔は雨の列車にゆらされて きみよ 行き先を告げよ泰山木咲けば 和子 夏菊や南無遍照と一家臣 慶月 梅雨出水過ぎて正気を歩きをり いづみ 青梅雨の真黒き句碑が街映す 小鳥
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年6月3日 色鳥句会 坊城俊樹選 特選句
点ほどの人の生涯芝青し 朝子 青芝にまろぶフレンチブルドッグ たかし 海亀の孵化高精細の大画面 勝利 水郷の蛍のなかに嫁ぎゆく 孝子 子供の日クレーンは空へ置き去りに 久美子 特攻の話し聞く夜の蛍かな たかし 日輪は地球の裏に蛍の夜 睦子 青芝を犯す少年のスパイク 同 黴の中遺されしもの錆てゆく 美穂 舞ふものゝ影をも流し梅雨の川 かおり 袋ごと枇杷をもげよと檀太郎 睦子 亡き父のジャズ沁み込みし籐寝椅子 たかし  ハーレムの少年 青芝にいのちの次のスニーカー 修二
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年6月5日 花鳥さざれ会
少年の少女の昔あめんぼう 雪 ふる里の水の匂ひにあめんぼう 同 風みどり故山の空を吹きわたる かづを あめんぼう映れる雲に乗りゐたり 同 水馬水のゑくぼに乗り遊ぶ 泰 俊 名刹に雨を誘ふや水馬 同 売家札とれて漏るる灯蚊喰鳥 清 女 強かに生きて卒寿の髪洗ふ 同 緑陰に栄華の茶室古りしまま 希 落武者の子孫が育て花菖蒲 千代子
………………………………………………………………
令和5年6月7日 立待俳句会 坊城俊樹選 特選句
紅薔薇や三國廓址の思案橋 世詩明 更衣恋に破れて捨てがたし 同 水芭蕉分水嶺の聖なる地 同 夏帽子振つて道草してゐる子 清女 鳴く顔が見たくて覗く蛙の田 同 読み終へし一書皐月の朝まだき 同 鋏手に赤き手袋バラ真赤 ただし 浦人の少年継げる仏舞 同 欲捨てて今日も元気蜆汁 輝一 紫の色をしまずや花蘇枋 同 一番星遠ち近ち蛙鳴きはじむ 洋子 手折りたる酸葉噛みつつ歌ひつつ 同 自転車を押してつつじの坂上る 誠 飛魚の羽ばたき飛べる船の旅 同 風薫る慶讃法要京の厨子 幸只
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年6月10日 枡形句会 栗林圭魚選 特選句
富士見えて多摩横山に風薫る 白陶 朽ちし色残し泰山木咲ける 秋尚 風薫るポニーテールの娘の声に 幸子 日々育つ杏とエール送り合ふ 恭子 夜も更けてたれが来たかと梅実落つ 幸子 余白には梅雨空映す年尾句碑 三無 記念樹の落ちし実梅も大切に 百合子 観音の指の先より風薫る 幸子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年6月12日 武生花鳥俳句会 坊城俊樹選 特選句
浴衣着て父似母似の姉妹 清女 香水のひそかな滴人悼む 昭子 髪洗ふ心のしこり解くやうに みす枝 白鷺の孤高に凛と夏の川 清女 梅雨じめりしたる座敷に香を焚き 英美子 知らぬ間に仲直りして冷奴 昭子 夏場所や砂つかぶりに令婦人 清女 明易や只管打坐してより朝餉 同 蟇が啼く月夜の山に谺して 三四郎 白足袋の静かな運び仏舞 ただし 梅雨しとど鐘の音色も湿りたる みす枝 答へたくなきこともあり紫蘇をもむ 昭子 本題に触れず香水帰りゆく 同 水面にゑくぼ次次梅雨に入る みす枝
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年6月12日 なかみち句会 栗林圭魚選 特選句
ためらはずどくだみ束ねバルコニー 和魚 釣堀の揺るる空見てゐるひと日 秋尚 何も手に付かぬひと日や五月雨るる 秋尚 どくだみの清潔な白映す句碑 三無 十薬の匂ひの勝る生家門 聰 どくだみの苞白々と闇に浮く 和魚 五月雨にふくらんでゐる山の湖 怜
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年6月13日 さくら花鳥会 岡田順子選 特選句
目を染めて麦の秋へとなりにけり 光子 短夜の夢も短き目覚めかな 文子 子の植うる早苗の列の右曲がり 登美子 バースデーソングと夏至の雨響く 実加 羅の受付嬢はちよと年増 みえこ 色街の女を照らす梅雨の月 登美子 五月雨真青な傘を買ひにけり あけみ
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年6月13日 萩花鳥会
車椅子頼りの暮し梅雨籠り 祐子 革ジャンに沁みた青春黴生ふる 健雄 玉ねぎの丸々太る五月晴 俊文 亡き夫の捨てられきれぬ黴ごろも ゆかり 雨蛙降り出す庭で鳴き交はす 恒雄 星々に瞬きかへし舞ふ螢 美惠子
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令和5年6月16日 さきたま花鳥句会
大胆に愚痴を透かして青暖簾 月惑 紫陽花や小走りに行く深帽子 八草 まな板も這ふらし夜のなめくじら 裕章 夕まぐれ菖蒲田の白消し忘れ 紀花 屋敷林青葉闇なる母屋かな 孝江 鐘供養梵鐘の文字踊りけり ふゆ子 漣の葉裏に返る新樹光 とし江 花手水薄暑の息をととのへり 康子 風薫るいまだ目覚めぬ眠り猫 みのり 花菖蒲雨に花びら少し垂れ 彩香 短夜や二日続けて妣の夢 静子 耳かきの小さな鈴の音初夏の夜 良江
………………………………………………………………
令和5年6月17日 伊藤柏翠記念館句会 坊城俊樹選 特選句
登山者が供華に挿し行く地蔵尊 やす香 蟬一つ鳴かぬ光秀忌を修す ただし 桃色の若き日の夢籐寝椅子 みす枝 村百戸梅雨のしとどに濡れそぼつ 同 空き箱に色褪せし文梅雨湿り やす香 西瓜買ふ水の重さの確かなり 同 薫風や見上ぐるだけの勅使門 真喜栄 そよぐには重たき鞠や濃紫陽花 同 花菖蒲咲かせ半農半漁村 千代子 日の暮れて障子明りに女影 世詩明 香水の女に勝てぬ男かな 同 早苗饗や上座に座る村の長 同 春深し遊び心の雲一つ 雪
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年6月18日 風月句会 坊城俊樹選 特選句
蜻蛉生る山影ふかきむじな池 芙佐子 むじな池梅雨闇の棲むところかな 要 朝まだき甘き匂ひの蛍川 千種 田の隅の捨苗萎れゆく日差し 芙佐子 大方は夏草となる畑かな 秋尚 過疎村に農大生の田植笠 経彦 行き止る道に誘ふ夏の蝶 久 蚯蚓死すむじな池への岐れ道 千種 捩花の螺旋階段傾ぎをり 斉 道をしへ夜は蛍の思ひのまま 炳子 故郷の水田へ草矢打つやうに 要
栗林圭魚選 特選句
蜻蛉生る山影ふかきむじな池 芙佐子 六月の谷戸のすみずみ水の音 三無 蚯蚓死すむじな池への岐れ道 千種 虎尾草より風生まれをり流れをり 久 どんよりと新樹映して濁り池 要 源五郎さ走る田水光らせて 久子 桑の実や落ちては甘く土を染め 三無 万緑の中の水音澄みてをり ます江
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年6月21日 福井花鳥会 坊城俊樹選 特選句
故里の百年の家花石榴 啓子 巣作りの青鷺歌ふ高らかに 千加江 母に詫び言はねばならぬ梅雨の入り 昭子 幹太くなりたる樹々の夏の午後 雪子 衣替へして胸に白すがすがし 同 梅雨の灯に猫の遺影と娘の遺影 清女 寝返りを打ちても一人梅雨の月 同 枇杷啜るこつんころりと種二つ 希子 女子高生混じる一人に黒日傘 数幸 観世音御ンみそなはす蛇の衣 雪 観音に六百年の山清水 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年6月22日 鯖江花鳥句会 坊城俊樹選 特選句
あめんぼうてふ名に滑る他は無し 雪 九十二の更衣とはこんなもの 同 白鷺のいよいよ白き青田かな 同 蛇の衣こんな綺麗に脱がずとも 同 落椿描ける女人曼荼羅図 同 殉国の遺影と父の日を終へり 一涓 青春に戻りて妻と茱萸を捥ぐ 同 門川の闇を動かす蛍舞ふ みす枝 母の日の花は枯れても捨てきれず やすえ 一番星あちこち蛙鳴きはじむ 洋子 草矢打つ程の親しき仲でなし 世詩明
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年6月25日 花鳥月例会 坊城俊樹選 特選句
紫陽花や伐らねば夜の重くなる 要 打水はイン��料理の香をのせて はるか 炎帝の満を持したる神の池 要 炎天へ柏手打てば蹌踉ひし 順子 靖国は蒼くなりけりサングラス 緋路 雨蛙虫呑みてすぐ元の顔 裕章 サングラス胸にひつかけ登場す 光子 魂となる裸電球祭待つ はるか
岡田順子選 特選句
押し寄せる蓮のひとつに蓮の花 俊樹 紫陽花や伐らねば夜の重くなる 要 凡人てふ自由たふとし半夏生草 昌文 蓮原の沖に宮城あるといふ 光子 内堀の夏草刈られ街宣車 要 混ざり合ふ手水と汗の掌 緋路 祭の準備指揮をとる大鳥居 みもざ 水馬ふたつの天のあはひゆく 裕章
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年5月22日 鯖江花鳥句会 坊城俊樹選 特選句
蛍狩り娘の掌のがれて星となる 世詩明 更衣恋の火種を残しけり 同 少年を仰いでをりぬ青蛙 昭子 うまいとも言つてくれぬが菜飯炊く 同 子よりまづ泳ぎ出したり鯉幟 一涓 夏暖簾廊下に作る風の道 紀代美 喉鳴らし母乳呑む児や若葉風 みす枝 目に見えぬものを脱ぎたり更衣 洋子 青鷺が抜き足差し足田を進む やすえ 一院のかつて尼寺白牡丹 雪 蝸牛角を突いてゐる女 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
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hachikenyakaiwai · 3 years
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【かいわいの時】天平八年(736)八月八日:インド僧菩提僊那・林邑僧仏徹ら摂津に至る(大阪市史編纂所「今日は何の日」) インド人が最初に日本を訪れたのは何時であるかについては、様々な伝承があります。 BC3世紀からAD7世紀までのベンガル湾はインドの内海で、タイやインドネシアなど東南アジアに沢山のインド人が移民するとともに仏教、ヒンドゥー教が伝播されました。この海洋ルートを辿って黒潮にのってインド人が日本にたどり着いていたとしても不思議ではありません。646年(孝徳天皇、大化元年)に日本に到着し、播州に祇園社を創ったと伝えられる法道上人もその一人です。 但し、歴史的事実として裏付けられているインド人来日となると、東大寺大仏開眼供養の導師を司ったバラモン僧正・菩提僊那を嚆矢とすると言ってよいでしょう。菩提僊那はヒマラヤを越えて入唐し、中国五台山に滞在していましたが、日本で本格的に仏教をひろめるべく授律伝戒の僧を求める聖武天皇の招きにより、第9次遣唐使一行と共に渡日することとなり、736年太宰府に到着しました。彼は704年生まれと伝えられていますので、当時32才の青年僧侶であったわけです。菩提僊那は弟子のヴェトナム人僧侶・仏哲等とともに日本で仏典を伝授するとともに、梵語を伝え、また、舞楽、伎楽などインドを始めとするシルクロードの文物を伝えました。但し、菩提僊那の名前を歴史に刻んだのは、752年、聖武天皇の命により東大寺大仏開眼供養の導師を勤めたことです。こうした功績から菩提僊那は、聖武天皇、行基、良弁とともに東大寺「四聖」としてその功を称えられている(榎泰邦「日印を結ぶ文化・地下水脈」2006)。
(写真)上牛甘「木造伎楽面」700代(京都国立博物館) 迦楼羅はガルダというインドの聖なる鳥で、かの地ではヴィシュヌ神の乗り物とされる。それが仏教に取り入れられ守護神となった。本来は毒蛇を食べて退治するのだが、伎楽の中ではみみずをついばむ、やや滑稽な役を演じる。本面は面裏に「上牛甘」か、とよめる墨書がある。正倉院伝来の面袋にも、同人の名前が記されており、本面も東大寺の大仏開眼会で用いられた仮面とみられる。上牛甘は上牛養とも書き、奈良時代中ごろに活躍した画工。東大寺大仏殿の天井の彩色にもたずさわったことでしられる。なお、大仏開眼会は仏誕会の四月八日ではなく、なぜかその翌日の九日に行われているが、巷説では雨天のため順延したと伝える。本面裏には「綱封蔵/華厳□」という墨書もあり、大仏開眼会に用いられたあとは綱封蔵に移され、華厳会のための仮面として転用されたことがわかる。奈良時代の彩色彫刻は、彩色を施したあとに荏胡麻などの油を塗ったものがあることが、近年の科学調査の成果で指摘されている。本面も科学調査の結果、その可能性があることがわかっている(e国宝=画像も)。
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shibaracu · 4 years
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◆えど【江戸】◆えど【穢土】
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◆えど【江戸】◆えど【穢土】  江戸という言葉にはワクワクさせる響きがある。  時代劇と言えば江戸 江戸と言えば時代劇を思い出す。  この時代がチャンバラもお茶 お花なども俳句 小説 脚本 絵画など  日本のあらゆる文化の集大成と完成があった時代。  村社会などのシステムも完成していたのではないだろうか。  イロイロと批判する人もいる。  封建政治は良く無いとか 吉原などの女衒(人身売買する人)他にもあるだろう。  ある人が慣習としてのルールが有り過ぎて生活しにくい時代だと。  堅苦しい面は有っただろうけどその中で自由奔放に暮らしていた。  今は自由だといって何でもアリの時代。  前の日記で選択肢が有り過ぎて選択する力が無くてその方法を  教えて欲しいとあがく人が多い。  共通するものといえば自分勝手で権利だけの主張。  義務の話は何処かへ飛んでいる。  物事発すればソコには大きな責任というものが付いて来る。  ソレが義務ではなかろうか。  だから物事をしっぱなし。  だれが責任取るのか。  政治でも経済でも世界規模でされている。  ビートたけしの言葉で「赤信号 皆で渡れば怖くない」  有名で時勢を表し 一世を風靡した。  今も時々出てくるけれども当たり前になっているために殊更取り上げられない。  カレは才能もあり私などは足元にも及ばない。  今は時事番組���ども取り上げて自分の意見発進している。  人は総てが正しいものを発するわけではない。  1つだけ取り上げるのは良く無いけれども  この言葉は発せられた時から今でも私の中では疑問を持っている。  海老蔵が一時取り上げられて責められていた。  人は変わるものという。  でも本当かと疑問をもつ。
 DVを一度すると簡単には普通に戻れないという。 【ジェンダーバイオレンス(和製英語、ラテン文字表記:gender violence)とは夫婦や恋人など、親しい関係にある男女のカップル内において、男性から女性にあるいは女性から男性に対して行われる暴力の事。DV(ドメスティック・バイオレンス)の語が GV(ジェンダー・バイオレンス)の語に変わりつつ有る。http://bit.ly/Axwr7j 】
 間違いを犯したからと一定期間を置いて復帰させる。  その期間は曖昧に人物との接触で決めているのが現状。  死刑反対と言っている人もこの辺りの意見に帰結するのではなかろうか。  厳罰が良いという意見もある。  私も犯すことがあるかも知れない。  自制心は持ち合わせるのは至難の技。  人が持って生まれた業(ごう)かも知れない。 【業(ごう)とは、仏教の基本的概念である梵: कर्मन् (karman) を意訳したもの。 サンスクリットの動詞の「クリ」(kR)の現在分詞である「カルマット」(karmat)より転じカルマンとなった名詞で、「行為」を意味する。  業はその善悪に応じて果報を生じ、死によっても失われず、輪廻転生に伴って、アートマンに代々伝えられると考えられた。アートマンを認めない無我の立場をとる思想では、心の流れ(心相続)に付随するものとされた。中国、日本の思想にも影響を与える。「ウパニシャッド」にもその思想は現れ、のちに一種の運命論となった。http://bit.ly/xXklc3 】 ・難しい問題。  これだけ社会が入り組むと解決するのにも大量のエネルギーが必要。  社会的規範は大事。  江戸時代の規範をモイチド取り戻すのも一つの考えではないかな。  原罪には厳罰を。
 何が正しいのかは人それぞれだけど基準はやはり必要ではないかな。  人が人として生きる最低のルールは。   ●その誇りと高潔さは‥誰にも奪えない!世界がマネ出来ない「日本人の民度」を‥今こそ再確認して欲しい!温故知新『聖徳太子の十七条憲法と冠位十二階』《永久保存版》28,530 回視聴 2020/04/10  https://youtu.be/In-4TEB0fbM ゆきのん日和【NEWS】 ※【関連動画】 ・世界からの‥賛美と拍手が止まらない!日本の「武士道精神」『2020年‥今の時代だからこそ知って欲しい「日本人としての誇り」』《永久保存版》 https://youtu.be/pVclvzBgsUQ ・世界の‥「度肝」を抜く!桁違いの民度の日本人『全国巡幸をした昭和天皇』あの時代の‥天皇陛下と日本人の関係が日本を復興させた‥《永久保存版》 https://youtu.be/O6_UM0hsHfI ・その言葉に‥米国が膝から崩れ落ちた!『俺達は天皇陛下というものを‥誤解していた!』世界が感動する「日本の天皇陛下」という存在とは?いったい?《永久保存版》 https://youtu.be/Mapc4o9x8SA ※【新チャンネルの紹介】 ・『ゆきのん日和【NEWS】』 https://www.youtube.com/channel/UCTkhxITYatmAMN2nl3FayEg ・『ゆきのん日和【課外活動】』 https://www.youtube.com/channel/UCf4MUxyux1mw-DX4O36nPZw   ◆えど【江戸】 https://ja.wikipedia.org/wiki/江戸 江戸(えど) 東京の旧称であり、1603年から1867年まで江戸幕府が置かれていた都市である。 現在の東京都区部の中央部に位置し、その前身及び原型に当たる。   ◆えど【江戸】国語辞書:大辞泉 1.現在の東京都千代田区を中心とする地域。 古くは武蔵(むさし)国豊島郡の一部であったが、平安末期、秩父(ちちぶ)平氏の一族江戸氏が今の皇居の地に居館を造り、室町時代、上杉氏の将 太田道灌(おおたどうかん)が江戸城を築いてから城下町として発達、さらに天正18年(1590)徳川家康が入城して以来、幕府の所在地として繁栄した。 18世紀ころの地域は、おおよそ東は亀戸(かめいど)、西は新宿、南は大崎・南品川、北は千住・尾久(おぐ)辺りの範囲内。 幕末の総町数は2770余、推定人口100万に上った。 慶応4年(1868)7月東京と改称、翌年には首都となった。 2.新吉原から見て、遊郭外の江戸市内、特に神田・日本橋辺りをさしていった語。 「今日はえどへ参りました」〈洒・遊子方言〉 3.新吉原遊郭の5町の中の江戸町。 「えどから京(=京町)まで残らず素見(すけん)なり」〈柳多留・一四〉   ◆えど【江戸】国語辞書:大辞泉 〔補説〕川が海に臨む江の門(と)(=出入リ口)、または���り江のある所の意 1.東京の旧名。   古くは江戸氏の根拠地で、武蔵国豊島郡江戸郷。1457年太田道灌が江戸城を築き、城下町として開けた。   1590年徳川家康が入城し、1603年に幕府を開くに至って、日本の政治・経済の中心となった。享保(1716-1736)の頃一〇〇万人を超え、パリ・ロンドンをしのぐ人口を擁した。   1868年(慶応4)7月東京と改称。 2.新吉原やその他の遊里である深川・品川・新宿などからみて、江戸市中(内神田・日本橋の辺りなど)をさして呼んだ称。 →(句)江戸(えど)の敵(かたき)を長崎で討つ →(句)江戸(えど)は諸国の入(い)り込み   ◆江戸【エド】デジタル大辞泉 1.現在の東京都千代田区を中心とする地域。   古くは武蔵(むさし)国豊島郡の一部であったが、平安末期、秩父(ちちぶ)平氏の一族江戸氏が今の皇居の地に居館を造り、室町時代、上杉氏の将太田道灌(おおたどうかん)が江戸城を築いてから城下町として発達、さらに天正18年(1590)徳川家康が入城して以来、幕府の所在地として繁栄した。   18世紀ころの地域は、おおよそ東は亀戸(かめいど)、西は新宿、南は大崎・南品川、北は千住・尾久(おぐ)辺りの範囲内。幕末の総町数は2770余、推定人口100万に上った。   慶応4年(1868)7月東京と改称、翌年には首都となった。 2.新吉原から見て、遊郭外の江戸市内、特に神田・日本橋辺りをさしていった語。 3.新吉原遊郭の5町の中の江戸町。   ◆穢土【エド】デジタル大辞泉 1.仏教用語。けがれた国土。迷いから抜けられない衆生(しゅじょう)の住むこの世。   現世。娑婆(しゃば)。穢国。「厭離(えんり)―、欣求(ごんぐ)浄土」⇔浄土。 2.大便。糞(くそ)。   ◆穢土【エド】 https://ja.wikipedia.org/wiki/浄土#穢土 ・『維摩経』仏国品では、「丘陵、坑坎、荊棘、沙礫、土石、諸山ありて、穢悪充満せり」といい、砂漠地帯や開拓されていない荒野などを穢国といっている。 ・『往生論註』巻上では、「三界を見るに、これは虚偽の相であり、これは輪転の相であり、これは無窮の相であり、尺蠖の循環するが如く、蚕繭の自縛するが如し」といい、虚偽の世界、流転の世界、尺取虫が丸くなって丸いものを廻るように流転し、蚕の繭の如く自らを縛りつけ苦しむ世界が穢土だという。   ここでは人間が自縄自縛して、虚妄なるものを虚妄としらず、それにとらわれ苦しんでいる煩悩の世界をいう。
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kamizake · 4 years
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2020
世界遺産、奈良・薬師寺。 穏やかな年の瀬を迎えました。 本尊は薬師三尊像。体や心の病気を癒やす仏様です。 1300年間人々の祈りを受け止めてきました。 薬師寺で、奈良時代から 変わらない姿を残している建物が東塔です。 柱や瓦などをすべて解体して修理を行い 先月、8年ぶりにその姿を現しました。 (除夜の鐘) 奈良時代の姿を取り戻そうと これまで復興の取り組みを進めてきた薬師寺。 人々の静かな祈りが復興を支えてきました。 新年を写経で迎えようという人々が大勢集まっています。 写経とともに納められたお金は建物の復興に充てられてきました。 つづられた写経は50年で870万巻に上ります。 (除夜の鐘) 奈良時代から令和の世へ。 祈りをつなぐ鐘の音です。 (除夜の鐘)
千葉県成田市にある成田山新勝寺です。 ことし、千葉県は大型の台風に 相次いで見舞われました。 新勝寺でも、本堂の屋根が剥がれるなどの被害が出ましたが なんとか修復を終えました。
こんばんは。 2019年は皆さんにとって どんな年だったでしょうか。 ことしの「ゆく年くる年」はここ新勝寺から全国各地を中継でつないでお伝えします。
こちらは東京・渋谷に先月開業した、地上47階建て 渋谷スクランブルスクエアの屋上です。
大みそかのきょうはカウントダウンイベントが行われています。
そして見えてきたのが先月、完成した国立競技場。 東京オリンピックパラリンピックのメインスタジアムです。
次は平成から令和になったことし 一躍、話題となったあの場所です。
こんばんは。 新元号・令和ゆかりの地として注目された坂本八幡宮です。 10時を過ぎてから参拝する人の姿が 多くなってきました。 新元号が発表されてから1000人以上が訪れる日もありましたが多くの人が 記念撮影をする場所が、こちら。 令和の石碑です。 元号・令和のもとになった「万葉集」に出てくる、うたげが この近くで開かれたとされ10月には、こうして記念碑も作られたんです。
令和初めての年越しに向けてにぎわいが増しています。 ことし自然災害が相次いだ日本。 ここ千葉県館山市の布良(めら)地区では9月の台風15号で記録的な暴風に見舞われおよそ8割の家屋が損壊しました。
地区にある布良崎神社では屋根が崩れ 傾いた拝殿を柱などで支えています。
倒れてしまったご神木。
そうした中でも地区の人たちはここで新年を迎えようと集まってきています。 拝殿に置かれているのは人々が100年にわたって担ぎ続けてきた神輿です。
倒壊した倉の下敷きになり壊れてしまいました。 ほとんど無傷で残ったのが子どものために新調したばかりの小さな神輿でした。
大きな神輿がわが子をかばうように小神輿を守ったのです。
「なんとか未来を守ってくれた」。 そう考えた布良の人たち。
倒れたご神木で札を作り寄付を募ることにしました。人々の決意が木札に刻まれています。
境内には新しいご神木を植えました。 復興を誓い、新年を迎えます。
山口県下関市です。 古くから韓国のプサンとを結ぶ玄関口にもなってきました。 日韓関係の悪化によりフェリーでやって来る韓国からの団体客がほぼいない状況が続いています。
下関には、およそ3000人の 在日韓国・朝鮮人の人たちが住んでいます。 その信仰を集めている韓国仏教寺院の光明寺です。 天井からつるされたはすの花を模した飾り。 信仰心を表す韓国の伝統様式です。 祈りをささげる本尊は日本でも、なじみ深い阿弥陀仏像です。 地域の人たちと親しい関係を築いてきた皆さん。 日本人と韓国人どちらの気持ちも分かる。 日韓の交流が細くなるほど心が痛むと言います。 (除夜の鐘) 平和の大梵鐘(だいぼんしょう)
ソウルオリンピックが開かれた31年前に韓国で造られました。 ハングルの「ピョンドゥン ピョンファ」。 意味は「平等と平和」。 願いを込めた鐘の音が下関の街に響きます。 (除夜の鐘)
年越しを待つ各地の様子を見てきました。
この1年、本当にさまざまなことがありましたが なんとか、穏やかな新年を迎えたいと願う 皆さんの姿が印象的でしたね。 成田山新勝寺ではこのあと寺の本尊にちなんだ歌舞伎の技が披露されます。
本尊の不動明王は厄よけの御利益があるとされ 1000年以上前から 信仰の対象となってきました。 左右の目はそれぞれ天と地を見つめ すべての人を救うとされています。
この表��を表したのが歌舞伎で演じられる、にらみ。 このにらみを見ると、1年間健康でいられるといわれています。 披露するのは歌舞伎俳優十一代目・市川海老蔵さんです。 先祖の衣鉢を力草に型ばかりではござりまするが ひとつ、にらんでご覧に入れまする。(つけ打ちの音) 市川海老蔵さんによる にらみでした。続いては、京都・知恩院です。
えーい、ひとーつ。えーい、ひとーつ。 そーれ。 (除夜の鐘)
京都は時折、小雨の降る除夜となりました。 浄土宗総本山、知恩院です。 重さ70トン、直径2.8m。
日本最大級の鐘を17人の僧侶がつきます。
この1年の人々の悩みや苦しみを打ち払おうと 心を一つにします。えーい、ひとーつ。えーい、ひとーつ。 そーれ。 (除夜の鐘)
浄土宗を開いたのは法然上人です。 南無阿弥陀仏と唱えれば 誰でも救われる。 その教えは800年間 人々の心のよりどころになってきました。
ことしも数万の人々が鐘がつかれるのを一目見ようと 長い列を成しています。
2020年が希望に満ちた年になりますよう ことし最後の鐘です。
えーい、ひとーつ。 えーい、ひとーつ。 そーれ。 (除夜の鐘) あけましておめでとうございます。 2020年の幕開けです。 新勝寺では年越しの瞬間に歓声が上がりました。 カウントダウンで盛り上がりましたよ。 そして、皆さん一斉に本堂に向かって 進んでいます。初詣が始まりました。 この三が日だけで300万人以上の参拝者が訪れるということです。皆さん、どんな思いで新年を迎えたんでしょうか。 それでは全国各地の新年の様子を見ていきましょう。
北海道上富良野町です。 ラベンダーの町、農業の町として全国的に知られています。 現在の気温はマイナス8度。 スキー場のゲレンデを赤く彩るのは、北の大文字です。 町を盛り上げようと 商工会青年部が33年前に始めました。 大文字を見ないと1年が始まらない。 そう話す人たちも増え今では新春の風物詩です。
(太鼓の音) 祭りを盛り上げるのは太鼓の響き。 高校や大学進学を機に町を出る人も少なくありませんが その一方で豊かな自然に憧れ町に移り住む人も多くいます。 その一人、札幌から移住してきた西尾奈緒さんです。 夫と有機野菜を作っています。 地元の農家に一から農業を教わった西尾さん。 今では、町の未来を担う一員になっています。 新しく町に来た人と 地元で生まれ育った人たちをつなぐ、大文字の炎です。 300本のたいまつに火がつきました。 (花火の音)
豊作になりますように。 町が、にぎわいますように。
炎に希望を託し新しい年が始まりました。
再び令和ゆかりの地にある坂本八幡宮です。
年が明けてからも参拝者が 続々と訪れています。ここは宮司の常駐していない 小さな神社です。急増する参拝者の対応に 奮闘してきたのが地元の氏子会の皆さんです。 こちらの社務所も急ごしらえで建てました。 御朱印や、お守りも去年、初めて準備しました。
多くの方は60代以上です。 せっかく来られた方々に少しでも満足して帰ってほしいと 精いっぱいもてなしを続けてきました。 氏子会会長の木原一臣さんです。こんばんは。 ことしはどのような1年にしたいですか。
氏子会といたしましても 今後、若い人に引き継ぎまして 末永く、このお宮を 守っていきたいと思っております。
ありがとうございます。
徳島県中部。 四国山地に抱かれた吉野川市山川町の 山崎忌部(いんべ)神社です。 例年よりにぎやかな年越しを迎えました。
去年、地域を挙げての大事業が30年ぶりに行われたからです。 去年11月 天皇陛下即位のあとに行われた大嘗祭に 麁服と呼ばれる麻の織物を献上しました。
かつて麻植郡と呼ばれ 平安時代から麻を生産し献上してきた、この地域。
改元のときだけ特別に麻を栽培し麁服を織り上げてきました。 神社の社紋には麻の葉が描かれています。
麻は地域でとても大切にされています。
これは地元の高校の校旗。 昭和の大嘗祭に合わせて 麻で手織りされました。今も、学校の宝として 受け継がれています。
今回、麁服の織り子に名乗りをあげたのは この校旗を見て育った若い女性たちです。 その一人、白山晴菜さんです。 年配の人たちと一緒に 地域の輪の中で 作業を続けていくにつれ ふるさとの大切さを実感しました。
多くの人に町の宝を知ってもらいたい。 麁服に携わった人たちは 地元の学校で報告会を開こうとしています。 地域の絆を確かめ合う特別な新年です。
名古屋市中心部にある東別院です。 初詣に訪れた参拝者で境内はにぎわっています。
本堂に映し出されている光の模様はデジタル掛け軸。 仏教の教えにもつながる 一期一会の世界を表現しています。 模様の組み合わせはコンピューターで 無作為に選ばれます。
そのため、同じ模様を見ることは二度とないんです。 このイベントお寺に、なじみのない方にも 来てもらいたいと 7年前から始まりました。 そして、こんな場所もあるんです。 こちらにもあるんです。こちらの室内です。
室内にもデジタル掛け軸が映し出されています。 ここは、この日のために特別に用意されたバーなんです。 中ではホットワインですとかオリジナルカクテルが 提供されています。お話を伺いましょう。
お寺のバーで迎えた新年です。どんなお気持ちですか?
歴史のあるお寺の中に こんなにすてきなバーがあって 楽しくお酒飲みながら 年が越せて、新鮮な気持ちです。
お寺にいることを忘れてしまいそうですが 一方で昔から変わらない風景もあります。 (鐘の音)
新年を感謝とともに迎える初鐘です。 イベントを始めてからは 多くの若い人たちも鐘をつきに来るようになりました。 (鐘の音)
江戸時代から続くこのお寺。 新しい文化を取り入れながら古きよきものを 次の世代に手渡そうとしています。
全国各地の新年の様子をお伝えしました。
いよいよ、ことしの夏には 東京オリンピックパラリンピックが開幕します。
その選手たちの 活躍を願って多くの人が 集まっている場所があります。
東京・江東区にある亀戸香取神社です。 おたき上げの火の周りに人が集まっています ここは、もともと戦の勝利を祈願する神社でしたが 今は、スポーツの神社として親しまれています。 ふだんから、試合に勝ちたい全国大会に出たいと 多くの人が祈願に訪れますが早くも、東京オリンピック パラリンピックへの期待も高まっているんです。 絵馬にはさまざまな願いが書き込まれていますが こちら「いくぞ!!2020東京パラへ」。 そして、そのお隣。 「パパがとうきょうおりんぴっく きまりますように」。こちらは近代五種の 岩元勝平選手の娘さんが書いた絵馬なんです。
2週間後、代表権を獲得しました。 参道脇に並ぶのはスポーツ灯籠。 アスリートたちに心の支えになったことばを聞いて 50基を手作りしました。
体操・内村航平選手が寄せたことばは「無心 無欲」。 その隣は東京パラリンピック出場が 内定している競泳・木村敬一選手のことば 「人生一度きり」。 2020年にかけるアスリートたち。 活躍を願う灯籠の光です。
福島県南相馬市相馬太田神社です。 3月26日から国内で始まる東京オリンピックの聖火リレー。 福島は、その出発の地です。 初日、走ってきた聖火を迎えるのは 陣羽織の、この人たち。 相馬野馬追の騎馬武者です。
毎年、年明けとともに 安全と安寧を祈ってほら貝を吹き鳴らします。 (ほら貝の音)
相馬野馬追は、この地で 1000年にわたって続く神事です。
夏には、400の騎馬武者が馬にまたがり駆け回ります。 9年前の東日本大震災と原発事故。 南相馬の人たちは避難を余儀なくされ 今も5000人以上が町を離れたままです。
かつて500騎いた騎馬武者の数も 一時、5分の1にまで激減。 それでも、この9年間欠かすことなく続けてきました。 野馬追でほら貝を吹く人たちをまとめる 木幡守さん。 3月、オリンピックの聖火も この、ほら貝で迎えたいと考えています。
避難を続ける人たちが町に戻るきっかけにしたいと 木幡さんは野馬追を支え続けてきました。 復興五輪を掲げる東京オリンピック パラリンピック。 福島の復興はまだ道半ばです。 ふるさとを取り戻す。 その思いを乗せて 聖火は福島から全国へとつながれていきます。
人と人とがつながっているからこそ 地域の今、そしてこれからがあると感じました。 さまざまな思いがあることを忘れずにオリンピックパラリンピックを 迎えたいと思います。
2020年。
日本にとって節目となる、この年が…。
皆さんにとって…
素晴らしい年となりまうように。
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oniwastagram · 4 years
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\おにわさん更新情報📸/ ‪[ 滋賀県湖南市 ] 善水寺庭園 Zensuiji Temple Garden, Konan, Shiga の写真・記事を更新しました。 ーー #国宝 の本堂と #旧国宝 の仏像が多数見られる寺院に残る、最澄が桓武天皇を治癒した霊水💧による池泉回遊式庭園。 ・・・・・・・・ 岩根山 善水寺は南北朝時代に建てられた本堂が国宝となっている寺院。同じ湖南市の国宝寺院『長寿寺』、『常楽寺』とともに #湖南三山 と呼ばれます。 2019年夏に『西應寺庭園』で初めて湖南市へ訪れた流れで初めて訪れました。 国宝の本堂の袖にある“百伝の池”(ももつてのいけ)が #池泉回遊式庭園 となっています。現在の姿は近年、地元・湖南市の造園会社 #花芳 さんにより改修が手掛けられたものですが、池泉の歴史は平安時代初めまで遡ります。 創建は奈良時代はじめの和銅年間(708~714年)という古刹。平安時代はじめ #最澄 👨‍🦲が比叡山建立の木材を用意するためこの地を訪れた際にこの“百伝池”を発見。 元々山から流れ込む水によって生まれたこの池泉、最澄は池中から金の薬師仏を見つけるなどこの池の水は霊水だと気づく。その後、病の #桓武天皇 に献上し治癒を祈願したところ🙏一週間程度で回復したことから、現在まで続く“善水寺”という寺名を賜ったそう。 現在の百伝池は晩春〜初夏にかけてはサツキツツジやショウブの花🌷が見られるそうなので、紹介してるこれからの時期が見頃を迎えます。 見どころはお庭というよりは南北朝時代の1366年に建てられた国宝の本堂と、何体も所蔵されている #国指定重要文化財 (旧国宝)の平安時代〜鎌倉時代の仏像! 993年作の秘仏のご本尊・薬師如来坐像をはじめ、梵天・帝釈天立像、毘沙門天立像、持国天・増長天立像、四天王立像、不動明王坐像、僧形文殊坐像、金銅誕生釈迦仏立像、金剛二力士立像…が #国重文 。他にも県や市の文化財の鎌倉〜室町期の仏像も。 自分はあまり仏像には明るくないのですが、国重文クラスの仏像がこれだけ間近で見られる寺院、あまり体験したことない…いや、思い返すと滋賀では何度かあるんだよな…滋賀県にはしれっと格式高い仏像を公開しているお寺が多い。近江国としての歴史を考えてもマジで宝庫。 本堂の“百伝池”の逆側にはサルスベリ🌸が見頃を迎えていた枯山水のお庭も。そして今回は本堂と同じ標高にある駐車場に原付🛵で訪れる…という感じだったけど、山の麓から表参道から訪れると途中にも江戸時代に建立された観音堂なども残ります(そこにも池泉があるっぽい)。次回は参道を登りたいなあ。 この善水寺と、“湖南三山”の他の2箇所、長寿寺と常楽寺はいずれも紅葉の名所🍁として知られ、訪れたのは真夏だったのにもう紅葉の三山巡りのポスターが貼られていた。いつか秋の三山巡りしたい! 〜〜〜〜〜〜〜〜 ‪🔗おにわさん記事URL:‬ https://oniwa.garden/zensuiji-temple-%e5%96%84%e6%b0%b4%e5%af%ba%e5%ba%ad%e5%9c%92/ ーーーーーーーー ‪#庭園 #日本庭園 ‪#garden #japanesegarden #japanesegardens #jardinjaponais #jardinjapones #japanischergarten #jardimjapones #японскийсад #japanarchitecture #湖南 #湖南市 #konan #滋賀 #滋賀県 #shiga #滋賀寺院 #shigatemple #おにわさん #oniwasan (国宝 善水寺) https://www.instagram.com/p/CAVD8F-AD55/?igshid=dd4nrgv5liz5
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