【小説】The day I say good-bye (1/4) 【再録】
今日は朝から雨だった。
確か去年も雨だったよな、と僕は窓ガラスに反射している自分の顔を見つめて思った。僕を乗せたバスは、小雨の降る日曜の午後を北へ向かって走る。乗客は少ない。
予定より五分遅れて、予定通りバス停「船頭町三丁目」で降りた。灰色に濁った水が流れる大きな樫岸川を横切る橋を渡り、広げた傘に雨音が当たる雑音を聞きながら、柳の並木道を歩く。
小さな古本屋の角を右へ、古い木造家屋の住宅ばかりが建ち並ぶ細い路地を抜けたら左へ。途中、不機嫌そうな面構えの三毛猫が行く手を横切った。長い長い緩やかな坂を上り、苔生した石段を踏み締めて、赤い郵便ポストがあるところを左へ。突然広くなった道を行き、椿だか山茶花だかの生け垣のある家の角をまた左へ。
そうすると、大きなお寺の屋根が見えてくる。囲われた塀の中、門の向こうには、静かな墓地が広がっている。
そこの一角に、あーちゃんは眠っている。
砂利道を歩きながら、結構な数の墓の中から、あーちゃんの墓へ辿り着く。もう既に誰かが来たのだろう。墓には真っ白な百合と、あーちゃんの好物であった焼きそばパンが供えてあった。あーちゃんのご両親だろうか。
手ぶらで来てしまった僕は、ただ墓石を見上げる。周りの墓石に比べてまだ新しいその石は、手入れが行き届いていることもあって、朝から雨の今日であっても穏やかに光を反射している。
そっと墓石に触れてみた。無機質な冷たさと硬さだけが僕の指先に応えてくれる。
あーちゃんは墓石になった。僕にはそんな感覚がある。
あーちゃんは死んだ。死んで、燃やされて、灰になり、この石の下に閉じ込められている。埋められているのは、ただの灰だ。あーちゃんの灰。
ああ。あーちゃんは、どこに行ってしまったんだろう。
目を閉じた。指先は墓石に触れたまま。このままじっとしていたら、僕まで石になれそうだ。深く息をした。深く、深く。息を吐く時、わずかに震えた。まだ石じゃない。まだ僕は、石になれない。
ここに来ると、僕はいつも泣きたくなる。
ここに来ると、僕はいつも死にたくなる。
一体どれくらい、そうしていたのだろう。やがて後ろから、砂利を踏んで歩いてくる音が聞こえてきたので、僕は目を開き、手を引っ込めて振り向いた。
「よぉ、少年」
その人は僕の顔を見て、にっこり笑っていた。
総白髪かと疑うような灰色の頭髪。自己主張の激しい目元。頭の上の帽子から足元の厚底ブーツまで塗り潰したように真っ黒な恰好の人。
「やっほー」
蝙蝠傘を差す左手と、僕に向けてひらひらと振るその右手の手袋さえも黒く、ちらりと見えた中指の指輪の石の色さえも黒い。
「……どうも」
僕はそんな彼女に対し、顔の筋肉が引きつっているのを無理矢理に動かして、なんとか笑顔で応えて見せたりする。
彼女はすぐ側までやってきて、馴れ馴れしくも僕の頭を二、三度柔らかく叩く。
「こんなところで奇遇だねぇ。少年も墓参りに来たのかい」
「先生も、墓参りですか」
「せんせーって呼ぶなしぃ。あたしゃ、あんたにせんせー呼ばわりされるようなもんじゃございませんって」
彼女――日褄小雨先生はそう言って、だけど笑った。それから日褄先生は僕が先程までそうしていたのと同じように、あーちゃんの墓石を見上げた。彼女も手ぶらだった。
「直正が死んで、一年か」
先生は上着のポケットから煙草の箱とライターを取り出す。黒いその箱から取り出された煙草も、同じように黒い。
「あたしゃ、ここに来ると後悔ばかりするね」
ライターのかちっという音、吐き出される白い煙、どこか甘ったるい、ココナッツに似たにおいが漂う。
「あいつは、厄介なガキだったよ。つらいなら、『つらい』って言えばいい、それだけのことなんだ。あいつだって、つらいなら『つらい』って言ったんだろうさ。だけどあいつは、可哀想なことに、最後の最後まで自分がつらいってことに気付かなかったんだな」
煙草の煙を揺らしながら、そう言う先生の表情には、苦痛と後悔が入り混じった色が見える。口に煙草を咥えたまま、墓前で手を合わせ、彼女はただ目を閉じていた。瞼にしつこいほど塗られた濃い黒い化粧に、雨の滴が垂れる。
先生はしばらくして瞼を開き、煙草を一度口元から離すと、ヤニ臭いような甘ったるいような煙を吐き出して、それから僕を見て、優しく笑いかけた。それから先生は背を向け、歩き出してしまう。僕は黙ってそれを追った。
何も言わなくてもわかっていた。ここに立っていたって、悲しみとも虚しさとも呼ぶことのできない、吐き気がするような、叫び出したくなるような、暴れ出したくなるような、そんな感情が繰り返し繰り返し、波のようにやってきては僕の心の中を掻き回していくだけだ。先生は僕に、帰ろう、と言ったのだ。唇の端で、瞳の奥で。
先生の、まるで影法師が歩いているかのような黒い後ろ姿を見つめて、僕はかつてたった一度だけ見た、あーちゃんの黒いランドセルを思い出す。
彼がこっちに引っ越してきてからの三年間、一度も使われることのなかった傷だらけのランドセル。物置きの中で埃を被っていたそれには、あーちゃんの苦しみがどれだけ詰まっていたのだろう。
道の途中で振り返る。先程までと同じように、墓石はただそこにあった。墓前でかけるべき言葉も、抱くべき感情も、するべき行為も、何ひとつ僕は持ち合わせていない。
あーちゃんはもう死んだ。
わかりきっていたことだ。死んでから何かしてあげても無駄だ。生きているうちにしてあげないと、意味がない。だから、僕がこうしてここに立っている意味も、僕は見出すことができない。僕がここで、こうして呼吸をしていて、もうとっくに死んでしまったあーちゃんのお墓の前で、墓石を見つめている、その意味すら。
もう一度、あーちゃんの墓に背中を向けて、僕は今度こそ歩き始めた。
「最近調子はどう?」
墓地を出て、長い長い坂を下りながら、先生は僕にそう尋ねた。
「一ヶ月間、全くカウンセリング来なかったけど、何か変化があったりした?」
黙っていると先生はさらにそう訊いてきたので、僕は仕方なく口を開く。
「別に、何も」
「ちゃんと飯食ってる? また少し痩せたんじゃない?」
「食べてますよ」
「飯食わないから、いつまでも身長伸びないんだよ」
先生は僕の頭を、目覚まし時計を止める時のような動作で乱雑に叩く。
「ちょ……やめて下さいよ」
「あーっはっはっはっはー」
嫌がって身をよじろうとするが、先生はそれでもなお、僕に攻撃してくる。
「ちゃんと食わないと。摂食障害になるとつらいよ」
「食べますよ、ちゃんと……」
「あと、ちゃんと寝た方がいい。夜九時に寝ろ。身長伸びねぇぞ」
「九時に寝られる訳ないでしょう、小学生じゃあるまいし……」
「勉強なんかしてるから、身長伸びねぇんだよ」
「そんな訳ないでしょう」
あはは、と朗らかに彼女は笑う。そして最後に優しく、僕の頭を撫でた。
「負けるな、少年」
負けるなと言われても、一体何に――そう問いかけようとして、僕は口をつぐむ。僕が何と戦っているのか、先生はわかっているのだ。
「最近、市野谷はどうしてる?」
先生は何気ない声で、表情で、タイミングで、あっさりとその名前を口にした。
「さぁ……。最近会ってないし、電話もないし、わからないですね」
「ふうん。あ、そう」
先生はそれ以上、追及してくることはなかった。ただ独り言のように、「やっぱり、まだ駄目か」と言っただけだった。
郵便ポストのところまで歩いてきた時、先生は、「あたしはあっちだから」と僕の帰り道とは違う方向を指差した。
「駐車場で、葵が待ってるからさ」
「ああ、葵さん。一緒だったんですか」
「そ。少年は、バスで来たんだろ? 家まで車で送ろうか?」
運転するのは葵だけど、と彼女は付け足して言ったが、僕は首を横に振った。
「ひとりで帰りたいんです」
「あっそ。気を付けて帰れよ」
先生はそう言って、出会った時と同じように、ひらひらと手を振って別れた。
路地を右に曲がった時、僕は片手をパーカーのポケットに入れて初めて、とっくに音楽が止まったままになっているイヤホンを、両耳に突っ込んだままだということに気が付いた。
僕が小学校を卒業した、一年前の今日。
あーちゃんは人生を中退した。
自殺したのだ。十四歳だった。
遺書の最後にはこう書かれていた。
「僕は透明人間なんです」
あーちゃんは僕と同じ団地に住んでいて、僕より二つお兄さんだった。
僕が小学一年生の夏に、あーちゃんは家族四人で引っ越してきた。冬は雪に閉ざされる、北の方からやって来たのだという話を聞いたことがあった。
僕はあーちゃんの、団地で唯一の友達だった。学年の違う彼と、どんなきっかけで親しくなったのか正確には覚えていない。
あーちゃんは物静かな人だった。小学生の時から、年齢と不釣り合いなほど彼は大人びていた。
彼は人付き合いがあまり得意ではなく、友達がいなかった。口数は少なく、話す時もぼそぼそとした、抑揚のない平坦な喋り方で、どこか他人と距離を取りたがっていた。
部屋にこもりがちだった彼の肌は雪みたいに白くて、青い静脈が皮膚にうっすら透けて見えた。髪が少し長くて、色も薄かった。彼の父方の祖母が外国人だったと知ったのは、ずっと後のことだ。銀縁の眼鏡をかけていて、何か困ったことがあるとそれをかけ直す癖があった。
あーちゃんは器用だった。今まで何度も彼の部屋へ遊びに行ったことがあるけれど、そこには彼が組み立てたプラモデルがいくつも置かれていた。
僕が加減を知らないままにそれを乱暴に扱い、壊してしまったこともあった。とんでもないことをしてしまったと、僕はひどく後悔してうつむいていた。ごめんなさい、と謝った。年上の友人の大切な物を壊してしまって、どうしたらよいのかわからなかった。鼻の奥がつんとした。泣きたいのは壊されたあーちゃんの方だっただろうに、僕は泣き出しそうだった。
あーちゃんは、何も言わなかった。彼は立ち尽くす僕の前でしゃがみ込んだかと思うと、足下に散らばったいびつに欠けたパーツを拾い、引き出しの中からピンセットやら接着剤やらを取り出して、僕が壊した部分をあっという間に直してしまった。
それらの作業がすっかり終わってから彼は僕を呼んで、「ほら見てごらん」と言った。
恐る恐る近付くと、彼は直ったばかりの戦車のキャタピラ部分を指差して、
「ほら、もう大丈夫だよ。ちゃんと元通りになった。心配しなくてもいい。でもあと1時間は触っては駄目だ。まだ接着剤が乾かないからね」
と静かに言った。あーちゃんは僕を叱ったりしなかった。
僕は最後まで、あーちゃんが大声を出すところを一度も見なかった。彼が泣いている姿も、声を出して笑っているのも。
一度だけ、あーちゃんの満面の笑みを見たことがある。
夏のある日、僕とあーちゃんは団地の屋上に忍び込んだ。
僕らは子供向けの雑誌に載っていた、よく飛ぶ紙飛行機の作り方を見て、それぞれ違うモデルの紙飛行機を作り、どちらがより遠くへ飛ぶのかを競走していた。
屋上から飛ばしてみよう、と提案したのは僕だった。普段から悪戯などしない大人しいあーちゃんが、その提案に首を縦に振ったのは今思い返せば珍しいことだった。そんなことはそれ以前も以降も二度となかった。
よく晴れた日だった。屋上から僕が飛ばした紙飛行機は、青い空を横切って、団地の駐車場の上を飛び、道路を挟んだ向かいの棟の四階、空き部屋のベランダへ不時着した。それは今まで飛ばしたどんな紙飛行機にも負けない、驚くべき距離だった。僕はすっかり嬉しくなって、得意げに叫んだ。
「僕が一番だ!」
興奮した僕を見て、あーちゃんは肩をすくめるような動作をした。そして言った。
「まだわからないよ」
あーちゃんの細い指が、紙飛行機を宙に放つ。丁寧に折られた白い紙飛行機は、ちょうどその時吹いてきた風に背中を押されるように屋上のフェンスを飛び越え、僕の紙飛行機と同じように駐車場の上を通り、向かいの棟の屋根を越え、それでもまだまだ飛び続け、青い空の中、最後は粒のようになって、ついには見えなくなってしまった。
僕は自分の紙飛行機が負けた悔しさと、魔法のような素晴らしい出来事を目にした嬉しさとが半分ずつ混じった目であーちゃんを見た。その時、僕は見たのだ。
あーちゃんは声を立てることはなかったが、満足そうな笑顔だった。
「僕は透明人間なんです」
それがあーちゃんの残した最後の言葉だ。
あーちゃんは、僕のことを怒ればよかったのだ。地団太を踏んで泣いてもよかったのだ。大声で笑ってもよかったのだ。彼との思い出を振り返ると、いつもそんなことばかり思う。彼はもう永遠に泣いたり笑ったりすることはない。彼は死んだのだから。
ねぇ、あーちゃん。今のきみに、僕はどんな風に見えているんだろう。
僕の横で静かに笑っていたきみは、決して透明なんかじゃなかったのに。
またいつものように春が来て、僕は中学二年生になった。
張り出されていたクラス替えの表を見て、そこに馴染みのある名前を二つ見つけた。今年は、二人とも僕と同じクラスのようだ。
教室へ向かってみたけれど、始業の時間になっても、その二つの名前が用意された席には、誰も座ることはなかった。
「やっぱり、まだ駄目か」
誰かと同じ言葉を口にしてみる。
本当は少しだけ、期待していた。何かが良くなったんじゃないかと。
だけど教室の中は新しいクラスメイトたちの喧騒でいっぱいで、新年度一発目、始業式の今日、二つの席が空白になっていることに誰も触れやしない。何も変わってなんかない。
何も変わらないまま、僕は中学二年生になった。
あーちゃんが死んだ時の学年と同じ、中学二年生になった。
あの日、あーちゃんの背中を押したのであろう風を、僕はずっと探してる。
青い空の果てに、小さく消えて行ってしまったあーちゃんを、僕と「ひーちゃん」に返してほしくて。
鉛筆を紙の上に走らせる音が、止むことなく続いていた。
「何を描いてるの?」
「絵」
「なんの絵?」
「なんでもいいでしょ」
「今年は、同じクラスみたいだね」
「そう」
「その、よろしく」
表情を覆い隠すほど長い前髪の下、三白眼が一瞬僕を見た。
「よろしくって、何を?」
「クラスメイトとして、いろいろ……」
「意味ない。クラスなんて、関係ない」
抑揚のない声でそう言って、双眸は再び紙の上へと向けられてしまった。
「あ、そう……」
昼休みの保健室。
そこにいるのは二人の人間。
ひとりはカーテンの開かれたベッドに腰掛け、胸にはスケッチブック、右手には鉛筆を握り締めている。
もうひとりはベッドの脇のパイプ椅子に座り、特にすることもなく片膝を抱えている。こっちが僕だ。
この部屋の主であるはずの鬼怒田先生は、何か用があると言って席を外している。一体なんの仕事があるのかは知らないが、この学校の養護教諭はいつも忙しそうだ���
僕はすることもないので、ベッドに座っているそいつを少しばかり観察する。忙しそうに鉛筆を動かしている様子を見ると、今はこちらに注意を払ってはいなそうだから、好都合だ。
伸びてきて邪魔になったから切った、と言わんばかりのショートカットの髪。正反対に長く伸ばされた前髪は、栄養状態の悪そうな青白い顔を半分近く隠している。中学二年生としては小柄で華奢な体躯。制服のスカートから伸びる足の細さが痛々しく見える。
彼女の名前は、河野ミナモ。僕と同じクラス、出席番号は七番。
一言で表現するならば、彼女は保健室登校児だ。
鉛筆の音が、止んだ。
「なに?」
ミナモの瞬きに合わせて、彼女の前髪が微かに動く。少しばかり長く見つめ続けてしまったみたいだ。「いや、なんでもない」と言って、僕は天井を仰ぐ。
ミナモは少しの間、何も言わずに僕の方を見ていたようだが、また鉛筆を動かす作業を再開した。
鉛筆を走らせる音だけが聞こえる保健室。廊下の向こうからは、楽しそうに駆ける生徒たちの声が聞こえてくるが、それもどこか遠くの世界の出来事のようだ。この空間は、世界から切り離されている。
「何をしに来たの」
「何をって?」
「用が済んだなら、帰れば」
新年度が始まったばかりだからだろうか、ミナモは機嫌が悪いみたいだ。否、機嫌が悪いのではなく、具合が悪いのかもしれない。今日の彼女はいつもより顔色が悪いように見える。
「いない方がいいなら、出て行くよ」
「ここにいてほしい人なんて、いない」
平坦な声。他人を拒絶する声。憎しみも悲しみも全て隠された無機質な声。
「出て行きたいなら、出て行けば?」
そう言うミナモの目が、何かを試すように僕を一瞥した。僕はまだ、椅子から立ち上がらない。彼女は「あっそ」とつぶやくように言った。
「市野谷さんは、来たの?」
ミナモの三白眼がまだ僕を見ている。
「市野谷さんも同じクラスなんでしょ」
「なんだ、河野も知ってたのか」
「質問に答えて」
「……来てないよ」
「そう」
ミナモの前髪が揺れる。瞬きが一回。
「不登校児二人を同じクラスにするなんて、学校側の考えてることってわからない」
彼女の言葉通り、僕のクラスには二人の不登校児がいる。
ひとりはこの河野ミナモ。
そしてもうひとりは、市野谷比比子。僕は彼女のことを昔から、「ひーちゃん」と呼んでいた。
二人とも、中学に入学してきてから一度も教室へ登校してきていない。二人の机と椅子は、一度も本人に使われることなく、今日も僕の教室にある。
といっても、保健室登校児であるミナモはまだましな方で、彼女は一年生の頃から保健室には登校してきている。その点ひーちゃんは、中学校の門をくぐったこともなければ、制服に袖を通したことさえない。
そんな二人が今年から僕と同じクラスに所属になったことには、正直驚いた。二人とも僕と接点があるから、なおさらだ。
「――くんも、」
ミナモが僕の名を呼んだような気がしたが、上手く聞き取れなかった。
「大変ね、不登校児二人の面倒を見させられて」
「そんな自嘲的にならなくても……」
「だって、本当のことでしょ」
スケッチブックを抱えるミナモの左腕、ぶかぶかのセーラー服の袖口から、包帯の巻かれた手首が見える。僕は自分の左手首を見やる。腕時計をしているその下に、隠した傷のことを思う。
「市野谷さんはともかく、教室へ行く気なんかない私の面倒まで、見なくてもいいのに」
「面倒なんて、見てるつもりないけど」
「私を訪ねに保健室に来るの、――くんくらいだよ」
僕の名前が耳障りに響く。ミナモが僕の顔を見た。僕は妙な表情をしていないだろうか。平然を装っているつもりなのだけれど。
「まだ、気にしているの?」
「気にしてるって、何を?」
「あの日のこと」
あの日。
あの春の日。雨の降る屋上で、僕とミナモは初めて出会った。
「死にたがり屋と死に損ない」
日褄先生は僕たちのことをそう呼んだ。どっちがどっちのことを指すのかは、未だに訊けていないままだ。
「……気にしてないよ」
「そう」
あっさりとした声だった。ミナモは壁の時計をちらりと見上げ、「昼休み終わるよ、帰れば」と言った。
今度は、僕も立ち上がった。「それじゃあ」と口にしたけれど、ミナモは既に僕への興味を失ったのか、スケッチブックに目線を落とし、返事のひとつもしなかった。
休みなく動き続ける鉛筆。
立ち上がった時にちらりと見えたスケッチブックは、ただただ黒く塗り潰されているだけで、何も描かれてなどいなかった。
ふと気付くと、僕は自分自身が誰なのかわからなくなっている。
自分が何者なのか、わからない。
目の前で展開されていく風景が虚構なのか、それとも現実なのか、そんなことさえわからなくなる。
だがそれはほんの一瞬のことで、本当はわかっている。
けれど感じるのだ。自分の身体が透けていくような感覚を。「自分」という存在だけが、ぽっかりと穴を空けて突っ立っているような。常に自分だけが透明な膜で覆われて、周囲から隔離されているかのような疎外感と、なんの手応えも得られない虚無感と。
あーちゃんがいなくなってから、僕は頻繁にこの感覚に襲われるようになった。
最初は、授業が終わった後の短い休み時間。次は登校中と下校中。その次は授業中にも、というように、僕が僕をわからなくなる感覚は、学校にいる間じゅうずっと続くようになった。しまいには、家にいても、外にいても、どこにいてもずっとそうだ。
周りに人がいればいるほど、その感覚は強かった。たくさんの人の中、埋もれて、紛れて、見失う。自分がさっきまで立っていた場所は、今はもう他の人が踏み荒らしていて。僕の居場所はそれぐらい危ういところにあって。人混みの中ぼうっとしていると、僕なんて消えてしまいそうで。
頭の奥がいつも痛かった。手足は冷え切ったみたいに血の気がなくて。酸素が薄い訳でもないのにちゃんと息ができなくて。周りの人の声がやたら大きく聞こえてきて。耳の中で何度もこだまする、誰かの声。ああ、どうして。こんなにも人が溢れているのに、ここにあーちゃんはいないんだろう。
僕はどうして、ここにいるんだろう。
「よぉ、少年」
旧校舎、屋上へ続く扉を開けると、そこには先客がいた。
ペンキがところどころ剥げた緑色のフェンスにもたれるようにして、床に足を投げ出しているのは日褄先生だった。今日も真っ黒な恰好で、ココナッツのにおいがする不思議な煙草を咥えている。
「田島先生が、先生のことを昼休みに探してましたよ」
「へへっ。そりゃ参ったね」
煙をゆらゆらと立ち昇らせて、先生は笑う。それからいつものように、「せんせーって呼ぶなよ」と付け加えた。彼女はさらに続けて言う。
「それで? 少年は何をし、こんなところに来たのかな?」
「ちょっと外の空気を吸いに」
「おお、奇遇だねぇ。あたしも外の空気を吸いに……」
「吸いにきたのはニコチンでしょう」
僕がそう言うと、先生は、「あっはっはっはー」と高らかに笑った。よく笑う人だ。
「残念だが少年、もう午後の授業は始まっている時間だし、ここは立ち入り禁止だよ」
「お言葉ですが先生、学校の敷地内は禁煙ですよ」
「しょうがない、今からカウンセリングするってことにしておいてあげるから、あたしの喫煙を見逃しておくれ。その代わり、あたしもきみの授業放棄を許してあげよう」
先生は右手でぽんぽんと、自分の隣、雨上がりでまだ湿気っているであろう床を叩いた。座れと言っているようだ。僕はそれに従わなかった。
先客がいたことは予想外だったが、僕は本当に、ただ、外の空気を吸いたくなってここに来ただけだ。授業を途中で抜けてきたこともあって、長居をするつもりはない。
ふと、視界の隅に「それ」が目に入った。
フェンスの一角に穴が空いている。ビニールテープでぐるぐる巻きになっているそこは、テープさえなければ屋上の崖っぷちに立つことを許している。そう。一年前、あそこから、あーちゃんは――。
(ねぇ、どうしてあーちゃんは、そらをとんだの?)
僕の脳裏を、いつかのひーちゃんの言葉がよぎる。
(あーちゃん、かえってくるよね? また、あえるよね?)
ひーちゃんの言葉がいくつもいくつも、風に飛ばされていく桜の花びらと同じように、僕の目の前を通り過ぎていく。
「こんなところで、何をしていたんですか」
そう質問したのは僕の方だった。「んー?」と先生は煙草の煙を吐きながら言う。
「言っただろ、外の空気を吸いに来たんだよ」
「あーちゃんが死んだ、この場所の空気を、ですか」
先生の目が、僕を見た。その鋭さに、一瞬ひるみそうになる。彼女は強い。彼女の意思は、強い。
「同じ景色を見たいと思っただけだよ」
先生はそう言って、また煙草をふかす。
「先生、」
「せんせーって呼ぶな」
「質問があるんですけど」
「なにかね」
「嘘って、何回つけばホントになるんですか」
「……んー?」
淡い桜色の小さな断片が、いくつもいくつも風に流されていく。僕は黙って、それを見ている。手を伸ばすこともしないで。
「嘘は何回ついたって、嘘だろ」
「ですよね」
「嘘つきは怪人二十面相の始まりだ」
「言っている意味がわかりません」
「少年、」
「はい」
「市野谷に嘘つくの、しんどいのか?」
先生の煙草の煙も、みるみるうちに風に流されていく。手を伸ばしたところで、掴むことなどできないまま。
「市野谷に、直正は死んでないって、嘘をつき続けるの、しんどいか?」
ひーちゃんは知らない。あーちゃんが去年ここから死んだことを知らない。いや、知らない訳じゃない。認めていないのだ。あーちゃんの死を認めていない。彼がこの世界に僕らを置き去りにしたことを、許していない。
ひーちゃんはずっと信じている。あーちゃんは生きていると。いつか帰ってくると。今は遠くにいるけれど、きっとまた会える日が来ると。
だからひーちゃんは知らない。彼の墓石の冷たさも、彼が飛び降りたこの屋上の景色が、僕の目にどう映っているのかも。
屋上。フェンス。穴。空。桜。あーちゃん。自殺。墓石。遺書。透明人間。無。なんにもない。ない。空っぽ。いない。いないいないいないいない。ここにもいない。どこにもいない。探したっていない。消えた。消えちゃった。消滅。消失。消去。消しゴム。弾んで。飛んで。落ちて。転がって。その先に拾ってくれるきみがいて。笑顔。笑って。笑ってくれて。だけどそれも消えて。全部消えて。消えて消えて消えて。ただ昨日を越えて今日が過ぎ明日が来る。それを繰り返して。きみがいない世界で。ただ繰り返して。ひーちゃん。ひーちゃんが笑わなくなって。泣いてばかりで。だけどもうきみがいない。だから僕が。僕がひーちゃんを慰めて。嘘を。嘘をついて。ついてはいけない嘘を。ついてはいけない嘘ばかりを。それでもひーちゃんはまた笑うようになって。笑顔がたくさん戻って。だけどどうしてあんなにも、ひーちゃんの笑顔は空っぽなんだろう。
「しんどくなんか、ないですよ」
僕はそう答えた。
先生は何も言わなかった。
僕は明日にでも、怪人二十面相になっているかもしれなかった。
いつの間にか梅雨が終わり、実力テストも期末テストもクリアして、夏休みまであと一週間を切っていた。
ひと夏の解放までカウントダウンをしている今、僕のクラスの連中は完璧な気だるさに支配されていた。自主性や積極性などという言葉とは無縁の、慣性で流されているような脱力感。
先週に教室の天井四ヶ所に取り付けられている扇風機が全て故障したこともあいまって、クラスメイトたちの授業に対する意欲はほぼゼロだ。授業がひとつ終わる度に、皆溶け出すように机に上半身を投げ出しており、次の授業が始まったところで、その姿勢から僅かに起き上がる程度の差しかない。
そういう僕も、怠惰な中学二年生のひとりに過ぎない。さっきの英語の授業でノートに書き記したことと言えば、英語教師の松田が何回額の汗を脱ぐったのかを表す「正」の字だけだ。
休み時間に突入し、がやがやと騒がしい教室で、ひとりだけ仲間外れのように沈黙を守っていると、肘辺りから空気中に溶け出して、透明になっていくようなそんな気分になる。保健室には来るものの、自分の教室へは絶対に足を運ばないミナモの気持ちがわかるような気がする。
一学期がもうすぐ終わるこの時期になっても、相変わらず僕のクラスには常に二つの空席があった。ミナモも、ひーちゃんも、一度だって教室に登校してきていない。
「――くん、」
なんだか控えめに名前を呼ばれた気はしたが、クラスの喧騒に紛れて聞き取れなかった。
ふと机から顔を上げると、ひとりの女子が僕の机の脇に立っていた。見たことがあるような顔。もしかして、クラスメイトのひとりだろうか。彼女は廊下を指差して、「先生、呼んでる」とだけ言って立ち去った。
あまりにも唐突な出来事でその女子にお礼を言うのも忘れたが、廊下には担任の姿が見える。僕のクラス担任の担当科目は数学だが、次の授業は国語だ。なんの用かはわからないが、呼んでいるのなら行かなくてはならない。
「おー、悪いな、呼び出して」
去年大学を卒業したばかりの、どう見ても体育会系な容姿をしている担任は、僕を見てそう言った。
「ほい、これ」
突然差し出されたのはプリントの束だった。三十枚くらいありそうなプリントが穴を空けられ紐を通して結んである。
「悪いがこれを、市野谷さんに届けてくれないか」
担任がひーちゃんの名を口にしたのを聞いたのは、久しぶりのような気がした。もう朝の出欠確認の時でさえ、彼女の名前は呼ばれない。ミナモの名前だってそうだ。このクラスでは、ひーちゃんも、ミナモも、いないことが自然なのだ。
「……先生が、届けなくていいんですか」
「そうしたいのは山々なんだが、なかなか時間が取れなくてな。夏休みに入ったら家庭訪問に行こうとは思ってるんだ。このプリントは、それまでにやっておいてほしい宿題。中学に入ってから二年の一学期までに習う数学の問題を簡単にまとめたものなんだ」
「わかりました、届けます」
受け取ったプリントの束は、思っていたよりもずっとずっしりと重かった。
「すまんな。市野谷さんと小学生の頃一番仲が良かったのは、きみだと聞いたものだから」
「いえ……」
一年生の時から、ひーちゃんにプリントを届けてほしいと教師に頼まれることはよくあった。去年は彼女と僕は違うクラスだったけれど、同じ小学校出身の誰かに僕らが幼馴染みであると聞いたのだろう。
僕は学校に来なくなったひーちゃんのことを毛嫌いしている訳ではない。だから、何か届け物を頼まれてもそんなに嫌な気持ちにはならない。でも、と僕は思った。
でも僕は、ひーちゃんと一番仲が良かった訳じゃないんだ。
「じゃあ、よろしく頼むな」
次の授業の始業のチャイムが鳴り響く。
教室に戻り、出したままだった英語の教科書と「正」の字だけ記したノートと一緒に、ひーちゃんへのプリントの束を鞄に仕舞いながら、なんだか僕は泣きたくなった。
三角形が壊れるのは簡単だった。
三角形というのは、三辺と三つの角でできていて、当然のことだけれど一辺とひとつの角が消失したら、それはもう三角形ではない。
まだ小学校に上がったばかりの頃、僕はどうして「さんかっけい」や「しかっけい」があるのに「にかっけい」がないのか、と考えていたけれど、どうやら僕の脳味噌は、その頃から数学的思考というものが不得手だったようだ。
「にかっけい」なんてあるはずがない。
僕と、あーちゃんと、ひーちゃん。
僕ら三人は、三角形だった。バランスの取りやすい形。
始まりは悲劇だった。
あの悪夢のような交通事故。ひーちゃんの弟の死。
真っ白なワンピースが汚れることにも気付かないまま、真っ赤になった弟の身体を抱いて泣き叫ぶひーちゃんに手を伸ばしたのは、僕と一緒に下校する途中のあーちゃんだった。
お互いの家が近かったこともあって、それから僕らは一緒にいるようになった。
溺愛していた最愛の弟を、目の前で信号無視したダンプカーに撥ねられて亡くしたひーちゃんは、三人で一緒にいてもときどき何かを思い出したかのように暴れては泣いていたけれど、あーちゃんはいつもそれをなだめ、泣き止むまでずっと待っていた。
口下手な彼は、ひーちゃんに上手く言葉をかけることがいつもできずにいたけれど、僕が彼の言葉を補って彼女に伝えてあげていた。
優しくて思いやりのあるひーちゃんは、感情を表すことが苦手なあーちゃんのことをよく気遣ってくれていた。
僕らは嘘みたいにバランスの取れた三角形だった。
あーちゃんが、この世界からいなくなるまでは。
「夏は嫌い」
昔、あーちゃんはそんなことを口にしていたような気がする。
「どうして?」
僕はそう訊いた。
夏休み、花火、虫捕り、お祭り、向日葵、朝顔、風鈴、西瓜、プール、海。
水の中の金魚の世界と、バニラアイスの木べらの湿り気。
その頃の僕は今よりもずっと幼くて、四季の中で夏が一番好きだった。
あーちゃんは部屋の窓を網戸にしていて、小さな扇風機を回していた。
彼は夏休みも相変わらず外に出ないで、部屋の中で静かに過ごしていた。彼の傍らにはいつも、星座の本と分厚い昆虫図鑑が置いてあった。
「夏、暑いから嫌いなの?」
僕が尋ねるとあーちゃんは抱えていた分厚い本からちょっとだけ顔を上げて、小さく首を横に振った。それから困ったように笑って、
「夏は、皆死んでいるから」
とだけ、つぶやくように言った。あーちゃんは、時々魔法の呪文のような、不思議なことを言って��を困惑させることがあった。この時もそうだった。
「どういう意味?」
僕は理解できずに、ただ訊き返した。
あーちゃんはさっきよりも大きく首を横に振ると、何を思ったのか、唐突に、
「ああ、でも、海に行ってみたいな」
なんて言った。
「海?」
「そう、海」
「どうして、海?」
「海は、色褪せてないかもしれない。死んでないかもしれない」
その言葉の意味がわからず、僕が首を傾げていると、あーちゃんはぱたんと本を閉じて机に置いた。
「台所へ行こうか。確か、母さんが西瓜を切ってくれていたから。一緒に食べよう」
「うん!」
僕は西瓜に釣られて、わからなかった言葉のことも、すっかり忘れてしまった。
でも今の僕にはわかる。
夏の日射しは、世界を色褪せさせて僕の目に映す。
あーちゃんはそのことを、「死んでいる」と言ったのだ。今はもう確かめられないけれど。
結局、僕とあーちゃんが海へ行くことはなかった。彼から海へ出掛けた話を聞いたこともないから、恐らく、海へ行くことなく死んだのだろう。
あーちゃんが見ることのなかった海。
海は日射しを浴びても青々としたまま、「生きて」いるんだろうか。
彼が死んでから、僕も海へ足を運んでいない。たぶん、死んでしまいたくなるだろうから。
あーちゃん。
彼のことを「あーちゃん」と名付けたのは僕だった。
そういえば、どうして僕は「あーちゃん」と呼び始めたんだっけか。
彼の名前は、鈴木直正。
どこにも「あーちゃん」になる要素はないのに。
うなじを焼くようなじりじりとした太陽光を浴びながら、ペダルを漕いだ。
鼻の頭からぷつぷつと汗が噴き出すのを感じ、手の甲で汗を拭おうとしたら手は既に汗で湿っていた。雑音のように蝉の声が響いている。道路の脇には背の高い向日葵は、大きな花を咲かせているのに風がないので微動だにしない。
赤信号に止められて、僕は自転車のブレーキをかける。
夏がくる度、思い出す。
僕とあーちゃんが初めてひーちゃんに出会い、そして彼女の最愛の弟「ろーくん」が死んだ、あの事故のことを。
あの日も、世界が真っ白に焼き切れそうな、暑い日だった。
��ーちゃんは白い木綿のワンピースを着ていて、それがとても涼しげに見えた。ろーくんの血で汚れてしまったあのワンピースを、彼女はもうとっくに捨ててしまったのだろうけれど。
そういえば、ひーちゃんはあの事故の後、しばらくの間、弟の形見の黒いランドセルを使っていたっけ。黒い服ばかり着るようになって。周りの子はそんな彼女を気味悪がったんだ。
でもあーちゃんは、そんなひーちゃんを気味悪がったりしなかった。
信号が赤から青に変わる。再び漕ぎ出そうとペダルに足を乗せた時、僕の両目は横断歩道の向こうから歩いて来るその人を捉えて凍りついてしまった。
胸の奥の方が疼く。急に、聞こえてくる蝉の声が大きくなったような気がした。喉が渇いた。頬を撫でるように滴る汗が気持ち悪い。
信号は青になったというのに、僕は動き出すことができない。向こうから歩いて来る彼は、横断歩道を半分まで渡ったところで僕に気付いたようだった。片眉を持ち上げ、ほんの少し唇の端を歪める。それが笑みだとわかったのは、それとよく似た笑顔をずいぶん昔から知っているからだ。
「うー兄じゃないですか」
うー兄。彼は僕をそう呼んだ。
声変わりの途中みたいな声なのに、妙に大人びた口調。ぼそぼそとした喋り方。
色素の薄い頭髪。切れ長の一重瞼。ひょろりと伸びた背。かけているのは銀縁眼鏡。
何もかもが似ているけれど、日に焼けた真っ黒な肌と筋肉のついた足や腕だけは、記憶の中のあーちゃんとは違う。
道路を渡り終えてすぐ側まで来た彼は、親しげに僕に言う。
「久しぶりですね」
「……久しぶり」
僕がやっとの思いでそう声を絞り出すと、彼は「ははっ」と笑った。きっとあーちゃんも、声を上げて笑うならそういう風に笑ったんだろうなぁ、と思う。
「どうしたんですか。驚きすぎですよ」
困ったような笑顔で、眼鏡をかけ直す。その手つきすらも、そっくり同じ。
「嫌だなぁ。うー兄は僕のことを見る度、まるで幽霊でも見たような顔するんだから」
「ごめんごめん」
「ははは、まぁいいですよ」
僕が謝ると、「あっくん」はまた笑った。
彼、「あっくん」こと鈴木篤人くんは、僕の一個下、中学一年生。私立の学校に通っているので僕とは学校が違う。野球部のエースで、勉強の成績もクラストップ。僕の団地でその中学に進学できた子供は彼だけだから、団地の中で知らない人はいない優等生だ。
年下とは思えないほど大人びた少年で、あーちゃんにそっくりな、あーちゃんの弟。
「中学は、どう? もう慣れた?」
「慣れましたね。今は部活が忙しくて」
「運動部は大変そうだもんね」
「うー兄は、帰宅部でしたっけ」
「そう。なんにもしてないよ」
「今から、どこへ行くんですか?」
「ああ、えっと、ひーちゃんに届け物」
「ひー姉のところですか」
あっくんはほんの一瞬、愛想笑いみたいな顔をした。
「ひー姉、まだ学校に行けてないんですか?」
「うん」
「行けるようになるといいですね」
「そうだね」
「うー兄は、元気にしてましたか?」
「僕? 元気だけど……」
「そうですか。いえ、なんだかうー兄、兄貴に似てきたなぁって思ったものですから」
「僕が?」
僕があーちゃんに似てきている?
「顔のつくりとかは、もちろん違いますけど、なんていうか、表情とか雰囲気が、兄貴に似てるなぁって」
「そうかな……」
僕にそんな自覚はないのだけれど。
「うー兄も死んじゃいそうで、心配です」
あっくんは柔らかい笑みを浮かべたままそう言った。
「……そう」
僕はそう返すので精いっぱいだった。
「それじゃ、ひー姉によろしくお伝え下さい」
「じゃあ、また……」
あーちゃんと同じ声で話し、あーちゃんと同じように笑う彼は、夏の日射しの中を歩いて行く。
(兄貴は、弱いから駄目なんだ)
いつか彼が、あーちゃんに向けて言った言葉。
あーちゃんは自分の弟にそう言われた時でさえ、怒ったりしなかった。ただ「そうだね」とだけ返して、少しだけ困ったような顔をしてみせた。
あっくんは、強い。
姿や雰囲気は似ているけれど、性格というか、芯の強さは全く違う。
あーちゃんの死を自分なりに受け止めて、乗り越えて。部活も勉強も努力して。あっくんを見ているといつも思う。兄弟でもこんなに違うものなのだろうか、と。ひとりっ子の僕にはわからないのだけれど。
僕は、どうだろうか。
あーちゃんの死を受け入れて、乗り越えていけているだろうか。
「……死相でも出てるのかな」
僕があーちゃんに似てきている、なんて。
笑えない冗談だった。
ふと見れば、信号はとっくに赤になっていた。青になるまで待つ間、僕の心から言い表せない不安が拭えなかった。
遺書を思い出した。
あーちゃんの書いた遺書。
「僕の分まで生きて。僕は透明人間なんです」
日褄先生はそれを、「ばっかじゃねーの」って笑った。
「透明人間は見えねぇから、透明人間なんだっつーの」
そんな風に言って、たぶん、泣いてた。
「僕の分まで生きて」
僕は自分の鼓動を聞く度に、その言葉を繰り返し、頭の奥で聞いていたような気がする。
その度に自分に問う。
どうして生きているのだろうか、と。
部屋に一歩踏み入れると、足下でガラスの破片が砕ける音がした。この部屋でスリッパを脱ぐことは自傷行為に等しい。
「あー、うーくんだー」
閉められたカーテン。閉ざされたままの雨戸。
散乱した物。叩き壊された物。落下したままの物。破り捨てられた物。物の残骸。
その中心に、彼女はいる。
「久しぶりだね、ひーちゃん」
「そうだねぇ、久しぶりだねぇ」
壁から落下して割れた時計は止まったまま。かろうじて壁にかかっているカレンダーはあの日のまま。
「あれれー、うーくん、背伸びた?」
「かもね」
「昔はこーんな小さかったのにねー」
「ひーちゃんに初めて会った時だって、そんなに小さくなかったと思うよ」
「あははははー」
空っぽの笑い声。聞いているこっちが空しくなる。
「はい、これ」
「なに? これ」
「滝澤先生に頼まれたプリント」
「たきざわって?」
「今度のクラスの担任だよ」
「ふーん」
「あ、そうだ、今度は僕の同じクラスに……」
彼女の手から投げ捨てられたプリントの束が、ろくに掃除されていない床に落ちて埃を巻き上げた。
「そういえば、あいつは?」
「あいつって?」
「黒尽くめの」
「黒尽くめって……日褄先生のこと?」
「まだいる?」
「日褄先生なら、今年度も学校にいるよ」
「なら、学校には行かなーい」
「どうして?」
「だってあいつ、怖いことばっかり言うんだもん」
「怖いこと?」
「あーちゃんはもう、死んだんだって」
「…………」
「ねぇ、うーくん」
「……なに?」
「うーくんはどうして、学校に行けるの? まだあーちゃんが帰って来ないのに」
どうして僕は、生きているんだろう。
「『僕』はね、怖いんだよ、うーくん。あーちゃんがいない毎日が。『僕』の毎日の中に、あーちゃんがいないんだよ。『僕』は怖い。毎日が怖い。あーちゃんのこと、忘れそうで怖い。あーちゃんが『僕』のこと、忘れそうで怖い……」
どうしてひーちゃんは、生きているんだろう。
「あーちゃんは今、誰の毎日の中にいるの?」
ひーちゃんの言葉はいつだって真っ直ぐだ。僕の心を突き刺すぐらい鋭利だ。僕の心を掻き回すぐらい乱暴だ。僕の心をこてんぱんに叩きのめすぐらい凶暴だ。
「ねぇ、うーくん」
いつだって思い知らされる。僕が駄目だってこと。
「うーくんは、どこにも行かないよね?」
いつだって思い知らせてくれる。僕じゃ駄目だってこと。
「どこにも、行かないよ」
僕はどこにも行けない。きみもどこにも行けない。この部屋のように時が止まったまま。あーちゃんが死んでから、何もかもが停止したまま。
「ふーん」
どこか興味なさそうな、ひーちゃんの声。
「よかった」
その後、他愛のない話を少しだけして、僕はひーちゃんの家を後にした。
死にたくなるほどの夏の熱気に包まれて、一気に現実に引き戻された気分になる。
こんな現実は嫌なんだ。あーちゃんが欠けて、ひーちゃんが壊れて、僕は嘘つきになって、こんな世界は、大嫌いだ。
僕は自分に問う。
どうして僕は、生きているんだろう。
もうあーちゃんは死んだのに。
「ひーちゃん」こと市野谷比比子は、小学生の頃からいつも奇異の目で見られていた。
「市野谷さんは、まるで死体みたいね」
そんなことを彼女に言ったのは、僕とひーちゃんが小学四年生の時の担任だった。
校舎の裏庭にはクラスごとの畑があって、そこで育てている作物の世話を、毎日クラスの誰かが当番制でしなくてはいけなかった。それは夏休み期間中も同じだった。
僕とひーちゃんが当番だった夏休みのある日、黙々と草を抜いていると、担任が様子を見にやって来た。
「頑張ってるわね」とかなんとか、最初はそんな風に声をかけてきた気がする。僕はそれに、「はい」とかなんとか、適当に返事をしていた。ひーちゃんは何も言わず、手元の草を引っこ抜くことに没頭していた。
担任は何度かひーちゃんにも声をかけたが、彼女は一度もそれに答えなかった。
ひーちゃんはいつもそうだった。彼女が学校で口を利くのは、同じクラスの僕と、二つ上の学年のあーちゃんにだけ。他は、クラスメイトだろうと教師だろうと、一言も言葉を発さなかった。
この当番を決める時も、そのことで揉めた。
くじ引きでひーちゃんと同じ当番に割り当てられた意地の悪い女子が、「せんせー、市野谷さんは喋らないから、当番の仕事が一緒にやりにくいでーす」と皆の前で言ったのだ。
それと同時に、僕と一緒の当番に割り当てられた出っ歯の野郎が、「市野谷さんと仲の良い――くんが市野谷さんと一緒にやればいいと思いまーす」と、僕の名前を指名した。
担任は困ったような笑顔で、
「でも、その二人だけを仲の良い者同士にしたら、不公平じゃないかな? 皆だって、仲の良い人同士で一緒の当番になりたいでしょう? 先生は普段あまり仲が良くない人とも仲良くなってもらうために、当番の割り振りをくじ引きにしたのよ。市野谷さんが皆ともっと仲良くなったら、皆も嬉しいでしょう?」
と言った。意地悪ガールは間髪入れずに、
「喋らない人とどうやって仲良くなればいいんですかー?」
と返した。
ためらいのない発言だった。それはただただ純粋で、悪意を含んだ発言だった。
「市野谷さんは私たちが仲良くしようとしてもいっつも無視してきまーす。それって、市野谷さんが私たちと仲良くしたくないからだと思いまーす。それなのに、無理やり仲良くさせるのは良くないと思いまーす」
「うーん、そんなことはないわよね、市野谷さん」
ひーちゃんは何も言わなかった。まるで教室内での出来事が何も耳に入っていないかのような表情で、窓の外を眺めていた。
「市野谷さん? 聞いているの?」
「なんか言えよ市野谷」
男子がひーちゃんの机を蹴る。その振動でひーちゃんの筆箱が机から滑り落ち、がちゃんと音を立てて中身をぶちまけたが、それでもひーちゃんには変化は訪れない。
クラスじゅうにざわざわとした小さな悪意が満ちる。
「あの子ちょっとおかしいんじゃない?」
そんな囁きが満ちる。担任の困惑した顔。意地悪いクラスメイトたちの汚らわしい視線。
僕は知っている。まるでここにいないかのような顔をして、窓の外を見ているひーちゃんの、その視線の先を。窓から見える新校舎には、彼女の弟、ろーくんがいた一年生の教室と、六年生のあーちゃんがいる教室がある。
ひーちゃんはいつも、ぼんやりとそっちばかりを見ている。教室の中を見渡すことはほとんどない。彼女がここにいないのではない。彼女にとって、こっちの世界が意味を成していないのだ。
「市野谷さんは、死体みたいね」
夏休み、校舎裏の畑。
その担任の一言に、僕は思わずぎょっとした。担任はしゃがみ込み、ひーちゃんに目線を合わせようとしながら、言う。
「市野谷さんは、どうしてなんにも言わないの? なんにも思わないの? あんな風に言われて、反論したいなって思わないの?」
ひーちゃんは黙って草を抜き続けている。
「市野谷さんは、皆と仲良くなりたいって思わない? 皆は、市野谷さんと仲良くなりたいって思ってるわよ」
ひーちゃんは黙っている。
「市野谷さんは、ずっとこのままでいるつもりなの? このままでいいの? お友達がいないままでいいの?」
ひーちゃんは。
「市野谷さん?」
「うるさい」
どこかで蝉が鳴き止んだ。
彼女が僕とあーちゃん以外の人間に言葉を発したところを、僕は初めて見た。彼女は担任を睨み付けるように見つめていた。真っ黒な瞳が、鋭い眼光を放っている。
「黙れ。うるさい。耳障り」
ひーちゃんが、僕の知らない表情をした。それはクラスメイトたちがひーちゃんに向けたような、玩具のような悪意ではなかった。それは本当の、なんの混じり気もない、殺意に満ちた顔だった。
「あんたなんか、死んじゃえ」
振り上げたひーちゃんの右手には、草抜きのために職員室から貸し出された鎌があって――。
「ひーちゃん!」
間一髪だった。担任は真っ青な顔で、息も絶え絶えで、しかし、その鎌の一撃をかろうじてかわした。担任は震えながら、何かを叫びながら校舎の方へと逃げるように走り去って行く。
「ひーちゃん、大丈夫?」
僕は地面に突き刺した鎌を固く握りしめたまま、動かなくなっている彼女に声をかけた。
「友達なら、いるもん」
うつむいたままの彼女が、そうぽつりと言う。
「あーちゃんと、うーくんがいるもん」
僕はただ、「そうだね」と言って、そっと彼女の頭を撫でた。
小学生の頃からどこか危うかったひーちゃんは、あーちゃんの自殺によって完全に壊れてしまった。
彼女にとってあーちゃんがどれだけ大切な存在だったかは、説明するのが難しい。あーちゃんは彼女にとって絶対唯一の存在だった。失ってはならない存在だった。彼女にとっては、あーちゃん以外のものは全てどうでもいいと思えるくらい、それくらい、あーちゃんは特別だった。
ひーちゃんが溺愛していた最愛の弟、ろーくんを失ったあの日。
あの日から、ひーちゃんの心にぽっかりと空いた穴を、あーちゃんの存在が埋めてきたからだ。
あーちゃんはひーちゃんの支えだった。
あーちゃんはひーちゃんの全部だった。
あーちゃんはひーちゃんの世界だった。
そして、彼女はあーちゃんを失った。
彼女は入学することになっていた中学校にいつまで経っても来なかった。来るはずがなかった。来れるはずがなかった。そこはあーちゃんが通っていたのと同じ学校であり、あーちゃんが死んだ場所でもある。
ひーちゃんは、まるで死んだみたいだった。
一日中部屋に閉じこもって、食事を摂ることも眠ることも彼女は拒否した。
誰とも口を利かなかった。実の親でさえも彼女は無視した。教室で誰とも言葉を交わさなかった時のように。まるで彼女の前からありとあらゆるものが消滅してしまったかのように。泣くことも笑うこともしなかった。ただ虚空を見つめているだけだった。
そんな生活が一週間もしないうちに彼女は強制的に入院させられた。
僕が中学に入学して、桜が全部散ってしまった頃、僕は彼女の病室を初めて訪れた。
「ひーちゃん」
彼女は身体に管を付けられ、生かされていた。
屍のように寝台に横たわる、変わり果てた彼女の姿。
(市野谷さんは死体みたいね)
そんなことを言った、担任の言葉が脳裏をよぎった。
「ひーちゃんっ」
僕はひーちゃんの手を取って、そう呼びかけた。彼女は何も言わなかった。
「そっち」へ行ってほしくなかった。置いていかれたくなかった。僕だって、あーちゃんの突然の死を受け止めきれていなかった。その上、ひーちゃんまで失うことになったら。そう考えるだけで嫌だった。
僕はここにいたかった。
「ひーちゃん、返事してよ。いなくならないでよ。いなくなるのは、あーちゃんだけで十分なんだよっ!」
僕が大声でそう言うと、初めてひーちゃんの瞳が、生き返った。
「……え?」
僕を見つめる彼女の瞳は、さっきまでのがらんどうではなかった。あの時のひーちゃんの瞳を、僕は一生忘れることができないだろう。
「あーちゃん、いなくなったの?」
ひーちゃんの声は僕の耳にこびりついた。
何言ってるんだよ、あーちゃんは死んだだろ。そう言おうとした。言おうとしたけれど、何かが僕を引き留めた。何かが僕の口を塞いだ。頭がおかしくなりそうだった。狂っている。僕はそう思った。壊れている。破綻している。もう何もかもが終わってしまっている。
それを言ってしまったら、ひーちゃんは死んでしまう。僕がひーちゃんを殺してしまう。ひーちゃんもあーちゃんみたいに、空を飛んでしまうのだ。
僕はそう直感していた。だから声が出なかった。
「それで、あーちゃん、いつかえってくるの?」
そして、僕は嘘をついた。ついてはいけない嘘だった。
あーちゃんは生きている。今は遠くにいるけれど、そのうち必ず帰ってくる、と。
その一週間後、ひーちゃんは無事に病院を退院した。人が変わったように元気になっていた。
僕の嘘を信じて、ひーちゃんは生きる道を選んだ。
それが、ひーちゃんの身体をいじくり回して管を繋いで病室で寝かせておくことよりもずっと残酷なことだということを僕は後で知った。彼女のこの上ない不幸と苦しみの中に永遠に留めておくことになってしまった。彼女にとってはもうとっくに終わってしまったこの世界で、彼女は二度と始まることのない始まりをずっと待っている。
もう二度と帰ってこない人を、ひーちゃんは待ち続けなければいけなくなった。
全ては僕のついた幼稚な嘘のせいで。
「学校は行かないよ」
「どうして?」
「だって、あーちゃん、いないんでしょ?」
学校にはいつから来るの? と問いかけた僕にひーちゃんは笑顔でそう答えた。まるで、さも当たり前かのように言った。
「『僕』は、あーちゃんが帰って来るのを待つよ」
「あれ、ひーちゃん、自分のこと『僕』って呼んでたっけ?」
「ふふふ」
ひーちゃんは笑った。幸せそうに笑った。恥ずかしそうに笑った。まるで恋をしているみたいだった。本当に何も知らないみたいに。本当に、僕の嘘を信じているみたいに。
「あーちゃんの真似、してるの。こうしてると自分のことを言う度、あーちゃんのことを思い出せるから」
僕は笑わなかった。
僕は、笑えなかった。
笑おうとしたら、顔が歪んだ。
醜い嘘に、歪んだ。
それからひーちゃんは、部屋に閉じこもって、あーちゃんの帰りをずっと待っているのだ。
今日も明日も明後日も、もう二度と帰ってこない人を。
※(2/4) へ続く→ https://kurihara-yumeko.tumblr.com/post/647000556094849024/
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[平砂アートムーヴメント]作品の感想
全作品の感想を駆け足ながら書いた
中には文章になってないのも沢山ある
1階
120 技術がかっこいいので、草とかあまりいらないかな 表現に数字を選ぶっていうのはカッコいい 宮島達男 神はサイコロをふらないだから数字6までにしたりすると意図的すぎるか?狭い空間に対してでかい
122
こわいのと時間ないのとでできなかった まいにちスマートロックで施錠かいじょうしてるのだけどすごい
123
服を作ったんだと思うけど説明がないからわからない 芳名帳は個室には置かないでほしかった 芳名帳おいてもいい空間ならコンセプトの説明ボードとかのほうがほしいかも
頑張ってきたない宿舎を女の子の部屋にしたと思う もっと物量あってもよかったのかな
125
こはるは無機質のもので有機的なものを表現するのはこわいといっていた メディアアートが怖いと
もともと貼ってた寝具とりかえの表、はがしていいよ……!
大森くんちゃらいかんじなのに作品かわいいな
127,128
もろみさんの作品はわりと美術史的な文脈に沿っていたりする
行為そのもの 記録
129
家電を殺したいというきもち 物量がすごい 普通の家になってる すごいな 絨毯を敷くといっきに普通の家
一階トイレ
ちゅんさんの展示めちゃかっこいい
線を選ぶ天才
天井彫ってドローイングになってるのめちゃカッコ良
一階ラウンジ
実際の映像をもちいててめちゃ意味がわかりやすくなった感じがする!なくても十分かっこよかったけど
ウィキペディアより引用 はどうかとおもう 大辞林とかのほうがかっこいいよ
131,132
えざきさん正直きゅうにフェイスブックで絡んできてこわかった わたしはいんきゃなので
上手だと思う 映像もクオリティが高くてすごい
ただQRコードを貼りまくるのは意味がわからない 作品と分けるべきだし、混在させて良いものではない
134
合評会でみたときえっ全然はやみずさんっぽくないな、と思った 格好いい でも全体を捉えられない人が観るとわからないのかも 速水さんぽさとか 本人も気にし��るらしいくて、木材じゃない素材でもみてみたい けどわざと雑な素材感なんだろうから
135
こはる
合評会のときは影とかいってて、あまりうまくいってなかった こはるが元気にやってくれて良かった これからこはるは専攻分野とこういうのをどうやってつなげていくんだろう
137
においがきつい けどアンケートではわりと人気作品
なぞメッセージがいつのまにかついてたけどなくてもいいのでは…
138
蛍の発光現象の実験ができる
サイエンティストが自分で表現しなければいけないと思う まさにそういうことだと思う
壁に残ったフックとかは、外したほうがいいと思う
139
コンセプトをよめばああなるほどね、となる なんでもないものが���いとこわかったりする
そのコンセプトを伝えたいなら洋服の形が、暗くするともっと具体的にお化けみたいな形に見えるとか、影がお化けに見えるようにするとか、やってもいいかなと思う 物語的すぎるかもしれないけど
あとまっくら、どきどき、なら窓はもっとしっかり養生してまっくらにするべき
140
上手な展示だと思う
服にプリントされた肌とか、どきどきしてしまう
写真がただのコピー用紙なのがちと残念かも でもお金かかってしまうもんな 物量優先した方がいいもんね
142
詰めが甘いと思う
パソコンとかレーザー使ってカッコ良くやりたいならそれに揃えていくべきでは 意図的なものだとしても鑑賞者は混乱する
143
字が上手いの良い
ボーカロイドの曲っていうのがちょっと気にくわない くにやすせんせいもいってたけどインスタレーションぽくやりすぎていて、もっと魅せ方がある 壁に書くっていってたけどそれすごいいいと思う
144
まお
まおちゃんは、技術があるのにむりにコンセプチュアルにしようとしすぎているといつも思う 考えるのが得意じゃないのに考えてると思う 宿舎に住んでた時の鬱屈としたきもちとか
ドアを閉めて鑑賞してほしいらしいけどドア閉めてほしいなら作品はもっと部屋の奥の方に置いて空間を作らないといけないと思う
145
私
ここでおわったら、途中でおわったんだな、とか、運営が大変だったんだな、って思われるんだろうなってわかっていた そんなことは見る人にもつくる側としてのわたしには関係がないことだ でもここでおわってしまった 詰めが甘いと思う 壁をつくるのに1週間かかってしまった わたしに壁をつくる技術があればな
制作期間初日に隣の部屋のまおちゃんに「え、えいちゃんもやるの?」と言われたことがずっとカチンときている
わたしは「運営の人」になるつもりはないし、わたしがここでやりたいから企画したのだ じゃあわたしは100パーセントの力で制作しないといけない うまくやらないといけない わたしのための企画なんだから
147
あべ
つくってるとこずっと見てたけど、家族が手伝いに来てくれたり全然孤独じゃなくてうらやましかった わたしは孤独なので…
壁をまじで作ったのすごい 物理
人の出会いと別れ
別れのときのチャイム?別れる時にチャイム鳴らさないし とは思った
まるさんが恋人という解釈をしてたけどそりゃ口紅使ったらそう解釈される
最初油絵の具で絵って言ってたから全然意図が違ってくる
2階
玄関上
こういう部屋以外の作品がもっときてくれればよかった 苔は毎日お世話してるらしい いいね
2階トイレ
やることがずっとフワフワしてるかんじがあって信用できなかった 昆虫のやつだすみたいなことちょっというからやめて、っていったり、途中で生きてる亀を置いたりとか、全然意味がわからない 最初裸足で、みたいなことも、床が汚いからだれもはいりたくないし配慮が足りない
2階ラウンジ
いなだとたくとくん
なんかいもみているけど
村上先生の講評後、すぐにデザインを直したり、3Dもめちゃ見やすくなったり、ずーーっと改善していてすごい
パネルの切り方だけどうにかして…
デザインパターン
6/1日中ずっと作業してて最終日展示している すごい ずっと向上していくいなだすごい
かんぜんに池田亮司か響き渡ってるぞ
画面カーソルでてるぞ
227,228
物量がすごい さすが舞台の方
人がいるということめちゃくちゃインパクトある 根性がすごい
美術としてやってるのか?エンターテインメントとしてなのか?
ずっと在中していてすごい 演技もすごい
230
アクセサリー
これを売るってなるとまたちがうことになる
ここでやる意味はそこまでないのかも
繊細でかわいい モチーフがあるのもよくて 美術のお勉強になる
231
網戸がこんなエロくなるなんてしらなかった
まいにち花を手向けている
塀は墓なのか死んだ建物そのものなのか
233
コラージュ作品 おしゃれでいい 手帳生きてたそのものの証てきな
作品があるところだけグレーに塗ってあるのかわいい
展示は綺麗だが
234
なんでタイトルは1Sなんだろ
コミカルで楽しいかわいい
(6/4追記)1S=shareか!!!!それで写真撮ってSNSにあげてほしいってことか スッキリ!わー
236
きれいに作られておる綺麗な空間 無機質な標本
238
ほんとうは影を落としたかったらしい
生活の感じとかと空間はあっているかなぁ かなぁ
絵があんまり上手じゃないからもうすこし抽象てきなモチーフのほうがいいのかも
240
しんじゃった自転車…
意味深なキャプション…
めちゃくちゃ自転車に愛があったのか…
241
発泡スチロールのおつかいにいきました!
ねこちゃんもっとじょうずにつくれるといいなっておもった なみなみはおもしろいからいいと思う 途中で増えてってたけど増やして正解
242
かのこ
上手 針金のひとでやっていけもう
一見何もない部屋 ちゃんとみるとちゃんといる
ぱっと見 空間に対して密度低いかなっておもったけどそんなことない
244
ダンス
6/2みた
居室ということもあって、とても個人的なもの、みちゃいけないものを見た気持ちになった
ぼろぼろと泣いてしまった
やってよかった
本当に
246
こうち
侵入してくるのを魚群にあらわすのはめちゃセンスが良い 水もいい 音、ちゃんとドアしめないと聞こえないくらいちいさい 隣からきこえてくる生活音とするとこれくらいだよね ドアしめないとわからないのすこし残念だけどこれ以上でかくすると雰囲気がなくなるか
248
フィルム写真の色合い 写真が上手
ヒッチハイクの話と宿舎の写真はかんけいあるのかな
ひらきょうまえポストの写真
合評会のとき、このポストつかってるひとみたことないっていってたけどわたしガンガン使っててわろた 待つ、っていうのはポストが待つのと、ヒッチハイクでひろってくれるひとを待つっていうことか
249
ちしゅりさんのへや げんきになる はじめてはいったとき思わずクスりとわらっちゃった かわいい いいな働いてても作品つくりたいな そんなことわたしにできるかな
2〜3階踊り場
ここに注目してほしい!っていうコンセプトはいい そういう作品がもっと増えてほしい コンセプトが作品に表象してない感じがするのはちと残念か
もっと数がたくさんあるといいのかな 大きいといいのかな 綺麗なのでシリーズ化してほしい
3階
3階ラウンジ
てるきさん
てるきさんのビデオテープのインスタレーションシリーズ
パフォーマンスでもビデオテープを使っていたし何かあるんだろう
記録された物体 もう記録が読まれることはなくて 集合していく 記憶の蓄積
307
ここに住んでた、というのは凄く良い そういう人きてほしかった (でもいなだの作品と場所かぶってしまったし、会場保安が大変なので今後なしかも
)ゴーストだから半透明の写真 もっとちゃんと壁にはりつくようにしないとちょいちょい落ちてる
3階物置
ハタチ
みんなハタチになったらハタチの作品作りたいよね
絵が独特な味
それぞれのハタチは実際に知っているハタチなのかな?妄想の人物なのかなぁ 実際の人物であってほしい
326
めちゃくちゃセンスがいい
そっち向いてるのすごいいい
みんな空間を埋めようとする中、これはめっちゃいい
彫刻も上手
匂いは、うちのお母さんはベビーパウダーかなって言ってた
327
りほちゃん
ずっといいにおいだなーとかおもってたけど最終日さすがに厳しくなってきたな
雰囲気がいい
女の子という感じ 私にはできない
いちごとミルクはセックスの暗喩でよく使われるよね
329
たくとくん
めちゃよ 毎日爆音で流れている
21-21かとおもった…コーネリアス感
設置音楽ってこういうこと
もっとチャンネルが増えたのみてみたい いろんなとこからいろんな向きで音が聞こえたい 圧倒されたい
ピアノがめちゃ好き
てか楽譜読めないってどういうことなん まじの天才なのか
332,333
タイトルの付け方がめそうっぽくてよい
332あんまりコンセプトわからないからちょっと、「ぽさ」みたいなので終わっている感はある
333はいい感じ 木炭でヒビを描いてる でも線が、描く人の線じゃないってわかっちゃう
写真もモノクロでかっこいい 写っているものはすごく生きてるもの でも部屋は死んでる
335
村上先生の講評の時説明がへたっぴすぎてちょっと引いた
ユーザーインターフェースがゼロだったし 説明の紙を置いたらあんがいみんな遊んでいるようで良かった
生物の方向に興味があるんだ わたしたちはプレイヤーじゃなくてただのセル 世界を構成するちっちゃいセル
338,339
黒いやつの方が人気らしいけどわたしは断然赤すき
いままでのしちみのやつでいちばんすき
机の上に置いてあるフック一体何だろう…
木材が曲がったりしてるのちょっと残念かも 写真補正たいへんだったし
どんどん密度をあげていって、物量がおおくなったのをみてみたい
341
女の子っぽいから、説明のパネルとかももっと女の子っぽくまとめたほうがいいのかなとおもった
作品的にデザイン専攻の子かと思ったらそうじゃなかった
ご自由にメイクをしてください、って普通に鑑賞者が自身の顔にするんだと思ってたら、なんか作品のシリコン製の顔にされているけど、いいのかこれで
鏡ひとつひとつにキャプションがついてて、鑑賞者自身の顔が作品ってことだとおもってた
あと作品がぽろぽろ落ちがち…強力な両面テープがこの世にはあるから使ってほしい
343
のぐちゃん
首吊りなのか 花嫁のヴェールみたいにもみえる
空間がまとまってていい 抜け感
能面とかそういうのにもみえる 表情がわからないかんじ
344
コンセプチュアル 良い
村上先生に「めそうっぽくないね、ちなみにめそうっぽいってどういうことだとおもう?」
ときかれてて、技術が先か、表現したいことが先か、という話をおぬきさんがされてた そうだと思う
鑑賞者が箱を元の場所にもどさないことに苦労していた
箱、なにがはいっているかわからない 本当はハイテクノロジーで加速度センサをつかってる
箱がもっと丁寧だといい 切りっぱなしじゃなくて ほんとに箱になってほしい
346
ちばさん
はくやき
かっこいい どうやってるんだろう 日本画の技法がこんなふうに落とし込まれているのかっこいい 現代風
あんまりここで展示する意味はないのか 窓とかから光が入って綺麗ではある
347
たまきさん
たまきさんってこういう作品作るんだ!かわいい
養生がたまに見えてるのがちと残念
くるくるでかわいい もっと物量おおいのもみてみたいかも
かわいい作品だけどタイトルが意味深で部屋の中で考えた
349
パンフレット部屋番号記載間違えてすみません…
よくみていた夢
綺麗な空間でまとまっていて、ここにずっといたい
白い石もすだれも夏っぽくてすき ドアあけてすぐそこだからもうすこし余裕あってもいいかも
壁面
いなだ
カリヨン、こんなん泣いてしまう みてると結構みんな立ち止まって見ていく
もう2度とあかりの灯ることがなかったはずの建物にあかりを灯して、それに気づいた人たちが立ち止まって見ていくの、めちゃくちゃ美しいことじゃないですか
住人たち 「居住者」として参加させていただいた コンセプトもめちゃ良だし良 配布物が全て整えられていて、もう全てひとりでできるのか…?なんだ…???
サザ
えざきさん
作品の上にQRコード貼らないでほしい
(6/3追記)めちゃファインの人みたいなこと言ってしまうんだけど、額縁の中の空間はやはり、神聖な空間ていうか、作品以外は存在してはいけないと思う
そう思うと9号棟はドアが額縁みたいなものと捉えうるかもしれない
ふるやまさん
正直いちばん不安だった 芸能人を勝手にモデルとして描いた絵は本当は展示できない(見ただけじゃ誰なのかわからないからOKとした
おかつ
コーヒーで絵 めちゃサザコーヒー店内に合わせているしありがとうという感じ こういうの技術がないと難しいな
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底抜け、底抜け、豚平ぺい⑥
【愛に、愛に、愛に落ちたんだよ、豚平】
※強い暴力、性暴力、差別的な表現を含みます。
乾いた地面にポツリと空いたBB弾ほどの大きさの穴から、途切れることなく這い出してくる蟻のように、耕平の口から同じ言葉が繰り返し溢れていく。
「嘘だ」
首を左右にフリフリ。
「嘘だ」
左足を後ろに下げてフリフリ。
「嘘だ」
右足を後ろに下げてフリフリ。
「嘘だ」
目線はヒロ君から離せずにフリフリ。
「嘘だ」
後ろに下がってフリフリ。
「嘘だ」
耕平が幾らフリフリ後退しても、公園は全く遠ざからない。耕平が後ろに一歩下がれば、公園は一歩耕平に近付く。まるで動作の噛み合わないVR映像。耕平の三半規管はへべれけに酔いどれる。スポンジの上を歩いているかのように耕平はよろめく。倒れないようにするので精一杯だ。
ヒロ君は耕平お気に入りのあのブランコを漕いでいる。
彼の顔はトッピング具材オール乗せ乗せ増し増しピザに似ていたが、肉片が脂や血の糸を伸ばしながらゆっくりと肩や胸に落ちる様も、溶けたチーズに絡まったコーンが落ちる様によく似ていた。
ヒロ君は煩わしそうにそれを手で払う。その所作には「この子はいいとこの子だな」と感じさせる優雅さがあった。生まれてからずっと両親や兄弟姉妹やその他周囲の人々に気にかけられ、愛を受けてきた子供だけが持つ気品だ。ここがイギリスなら彼はイートン校生。ニュー&リングウッドが地を打つ音はスノッブ、スノッブ。
「お前なんか、いるわけがないんだ!」
叫んだ後で耕平はしまったと思ったが、取り返しはつかない。彼は、彼には見えていることをヒロ君に明かしてしまったのだ。
ヒロ君は首をゆっくりと右に傾ける。
「いるわけないなら、いるわけないと言わないだろ? いるから、いるわけないって言うんだよ」
ヒロ君はブランコからピョンと飛び降りる。カチョカバロチーズみたいに巾着型に膨らんで目を覆っていた瞼の肉が千切れて落ち、ヒロ君の目が現れる。耕平を見つめる。その目はフラッシュを焚き間違えた失敗写真のように、黒目の部分が赤く光っている。ヒロ君はものすごく怒っているのだと、耕平は悟る。
「いないんだ! いないんだ! 俺は頭がおかしい! 全部幻覚なんだ!」
耕平は痛むへこみを抑えながら、ヒロ君に背中を向けて走り出す。だが、すぐにまた悲鳴をあげて足を止める。
背を向けたはずの公園が目の前に広がっている。ヒロ君は耕平に向かって歩いてきている。
「存在しないものは、殺されたりしないんだよ、耕平君」
ひっひっひー! と耕平は叫び、また性懲りも無く振り返って逃げようとするが、やはり振り返った先��も公園が広がっていて、ヒロ君はまた近づいてきているのだ。
「僕が死んだのなら、僕はいたってことになる。僕がいないのなら、僕は死んでないってことになる。君、そろそろどっちか選んでくれなきゃ。僕、いつまでもこうやって、いるかいないかの境界にいる気はないんだよ。飽きてきちゃったんだ。どっちかだよ、耕平君。君がこっちに来るか、僕らが行くかだ」
耕平は泣きながら叫ぶ。
「なんなんだ! お前はなんなんだ! 誰なんだ! どうしてなんだよ!」
「僕は君の友達のヒロ君だよ」
「そんな奴はいないんだ!」
「僕がいない世界がいいのかい?」
ヒロ君は右手の指を気取った仕草でパチンと鳴らす。
するとたちまち、日が昇り、夜の公園は昼の公園になり、突然に、子供達が姿を表す。
砂場で遊んでいる子供が、シーソーで遊んでいる子供が、噴水の周りで縄跳びをしている子供が、ベンチに座っている母親たちが、耕平を見つめている。
ここは今の公園だ。
あの殺人事件が起きた後、行政のお力によってクリーンに作り上げられた新生公園。もはや公衆便所の臭いのしない公園。
母親の1人がスマートフォンを取り出して、こそこそとしゃべっているのが聞こえる。
「はい、はい、そうなんです。さっきから挙動不審な男の人が公園に。はい。そうなんです。いますぐパトカーで」云々。
「ほら、耕平君。逃げなくちゃ」
ヒロ君は「駆け足、駆け足!」と耕平を急かした。それでもなお耕平が立ち尽くしていると、「わっ!」と叫んで耕平に向かって走り出した。耕平は絶叫し、走り出す。耕平の声に驚いた子供達が何人か悲鳴をあげ、母親たちが「みんな! こっちに集まって! すぐに警察がくるから!」と怒鳴る。
耕平は走る。走る。
真昼の住宅街を走る。
シャツもジーンズもすぐに汗を吸って皮膚に張り付く。
時折すれ違う通行人が「なんだあれ」という顔で耕平をチラ見する。
「恥ずかしいなぁ、耕平君。君、恥ずかしいよ。すっごい恥ずかしい。こんな状態でずっといるつもりなのかい?」
電柱の側、路地の端、塀の横、垣根の裏に、ヒロ君は現れる。
「こんな状態で生きていくのかい? ヒロ君、もうおじさんなんだよ。もう十分わかってるだろう。自分がどういう人間なのか。もうわかってるんだろう。環境をどんなに変えても、君はどうにもならないって。もう君の頭にある膿は限界を迎えてるんだ。外に出すか、君の頭の中で破裂させるかのどっちかなんだよ。僕、外に出たいなぁ。外に出たいんだよ、耕平君」
前方の郵便ポストの上にヒロ君が立っている。
「それが耕平君のためにもなるんだ。君の望みでもあるんだから」
耕平が郵便ポストから精一杯距離をとって横を走り抜けた時、ヒロ君はまたパチンと指を鳴らした。
急に昼が夜になる。
耕平が走る長い直線の道から人々は消え、家からも灯りが消え、道を照らすのは消えかかっている街灯だけになる。ジジジジと音を立てて、街灯は点滅する。
「ほら、耕平君。止まってないで走って」
すぐ真後ろから声がした。耕平は道を走り出す。声は真後ろに張り付いたまま離れない。
「これは一体なんなんだよ、なんなんだ! お前はなんなんだ!」
耕平は息切れしながら走る。脇腹が引きちぎれそうに痛い。今にも足を止めそうになるが、すぐ後ろにヒロ君がいる。
「僕は、祈りがいのある神だよ」とヒロ君が言う。
「聞く耳を持つ神だ。君のことが大好きな神だ。君を愛している神だよ。祈る者の元に必ず訪れる神だ。ほら、他の神はみんな、大体いつも出かけているか、あるいは君のことがそもそもあんまり好きじゃないんだ。僕は君が好きだし、愛しているから、こうやってあちら側からきたんだよ」
一番側にあった街灯の灯りが消え、耕平は闇に包まれる。闇の中でヒロ君の手が耕平の頭のへこみを突いた。ヒロ君の身長ではどうやっ���も届くはずがないのに。
「君はいつも祈ってた。『こんな世界いらない。誰かが壊してくれればいいのに』って。百貨店にレモン爆弾を置いて立ち去るように、黒柳徹子に破壊神になってもらいたがるように、いつもゴジラの降臨を願ってる。君の祈りはいつもあまりに一途で、あまりに熱っぽいから、僕は応えてあげることにしたんだよ。ほら、僕ってね、他のと違ってとても善良だし、ロマンチストなんだ。君みたいな子の祈りを聞くと、助けてあげたくなっちゃうんだよ」
「俺はこんなこと望んでない!」
耕平は脇腹を抑えて走り出す。まだ前方に見えている灯りに向かって。
「何言ってるんだい。いつも望んでたじゃないか。何もしないで済むいいわけを。ご都合通りに動く世界を。ブランコを漕ぎながら、君はいつも祈ったろう。素晴らしい世界に行きたいって」
「祈りじゃない! 思っただけだ!」
「耕平君。君は何もわかっちゃないね。なにも十字を切って教会で膝をつくことだけが祈りじゃない。五円玉を木箱に投げ入れて手を叩くことだけが祈りじゃない。ブランコを毎日決まった時間に決まった時間で漕ぎながら、同じことを願うのは、それは立派なウェルメイドの魔法なんだよ。ねぇ、ロマンチックじゃないか? たった1人の願いが、祈りが、世界をぐちゃぐちゃにするんだ。なんて夢のある話だろうね」
「くるなよ! 来ないでくれ!」
「もう来ちゃってるんだよ、耕平君。ねぇ、君のお母さんが言った通りだってことにもうなってるんだよ。君には見えていないだけで、真実はいっぱいあるんだ。僕はブランコで君をレイプして、君は狂気を妊娠した。堕胎なんて絶対に許さない。僕の子だ。ものすごい子だよ。君からでてきて世界をぐちゃぐちゃにするんだ。ねぇ、そういうことにもうなってる。君がそれを望んでる」
「望んでない! 望んでない! 助けて! 誰か!」
「君は悪いものに執着されてズタズタにされて手遅れになりたい。君はゲームオーバーになりたい。君は大きなものに握りつぶされたい。君はものすごく悪くて怖くて強いものに破壊されたい。『あんなに悪くて怖くて強いもの相手じゃ、どうしょうもなかったよね』ってことにしたいんだよ。君はとってもエッチな子だね」
「助けてー! 助けて! 誰か! 誰でもいい! 助けて!」
暗闇でヒロ君が指を鳴らす。全ての灯りが消える。
何も見えなくなる。耕平は黒に塗りつぶされた世界を走る。残念なことに、彼は他に祈る相手を知らない。だっていつも、耕平は今はヒロ君と呼ばれている相手にしか祈ってこなかったから。
他の祈りを知らない。他に神はいない。
「知ってるんだよ、耕平君。会社をクビになった時、君は、本当は最高に気持ちよかったんだ」
闇の中で踏み出した耕平の足は、何も踏まなかった。
「ひっ!」
闇の底が抜けたのだ。耕平は落下する。闇の中の、そのまた深い闇の中へと。
「願いを叶えてあげる。耕平君。何度でも叶えてあげるよ。君の祈りは僕を大きくする。強くする。怖くする。無敵にする。祈って、耕平君。『ああ、こんなに強くて、怖くて、悪いもの相手じゃ、世界が滅んでも仕方ないよね』って。祈ってよ。耕平君。だってもう、わかってるんだから。君、もうぐちゃぐちゃになるしかないんだからさ。そうしたいんだ。君は、そうしたくて、されたくて、たまらないんだよ」
耕平は、ついに、その通りにする。
闇の中を落下しながら、へこみの肉が破れ、そこから何かドロドロしたジャムのようなものが溢れ出してくるのを耕平は感じる。
赤ん坊の泣き声が闇に響く。
「ほら、耕平君。僕らの強くて、怖くて、悪いものがたくさん生まれたよ。これからもたくさん、君は生み続けるよ。あとは強くて、怖くて、悪いものにまかせて、世界がスクランブルエッグみたいにぐちゃぐちゃになるのを、君はそこで見ていてよ。僕はちょっと外に出て、君の願いを叶えてくるよ。とてもロマンチックだろう? だって僕は、神のように君を愛してるから」
耕平は落下し続ける。
もうどうしょうもないということに、彼は泣きながら歓喜している。
ありがとう! ありがとう! 俺はずっと、ずっと、こんな風になりたかったんだ! めちゃくちゃに、ぐちゃぐちゃになりたかったんだよ!
どうやら、彼は狂ったのだ。
パトカーが公園に到着した時にはすでに全て手遅れだった。
後頭部から黒い血を流しながら公園に戻って来た耕平は、「変な人がいるから今日はみんなで帰りましょうね、集まって」と声をかけていた母親たちに向かって猛突進した。
母親たちは悲鳴をあげて耕平を避け、耕平は地面にうつ伏せに倒れた。
母親たちの何人かは自分の子供や、顔みしりの子供の名前を呼び、「走って人がいるところまで逃げなさい!」と命じ、何人かは自分の子供の手を引いて走り出した。そして残った何人かは(飛び抜けて責任感が強く、また、飛び抜けて危機管理能力が低い者たち)、倒れた耕平にじりじりと近寄り、「そのまま動かないで!」「少しでも立ち上がろうとしたり、逃げようとしたりしたら殴るからな!」と怒鳴った。
「スクランブルエッグみたいにぐちゃぐちゃにするんだ」
母親たちは倒れた男の声に顔を強張らせた。
声は耕平の後頭部にできた裂け目から聞こえてきたからだ。しかもその声は、小さな男の子の声だったのだ。
彼女たちは無言のまま顔を見合わせた。その目は「今のは聞き間違いよね?」とお互いに確認する目だった。
裂け目から流れる血がコポコポと泡立ち始める。最初はゆっくりと、やがて沸騰した湯のように激しく。
母親たちは悲鳴をあげ、「もういいよ! 行きましょう! 警察がくるから!」と言って走り出した。
誰か1人でもそこに残っていたのなら、耕平の裂け目から声の主人の小さな指が出てくるのを見れただろう。
その10本の指が内側から裂け目を掴み、押し拡げるのも見れただろう。耕平の頭蓋骨がバキバキと割れていく音も聞こえたはずだ。
十分に広がった裂け目から、子供の両腕がぬるりと肘まで出てくる。続いて頭が。子供は両手を地面につき、「よいしょ」と言って自分で自分の体を引っ張る。胸から腰まで一気に裂け目から抜け出す。腰まで外に出てしまえば、足を出すのは容易だった。
その子供は、男の子は、ヒロ君は、足元に転がる耕平を見下ろす。ヒロ君のお臍から伸びた臍の緒は耕平の裂け目の中へと続いている。
耕平はまだ生きている。これからも生きるだろう。少なくともヒロ君が耕平の願いを叶えるまでは。
パトカーが到着し、警察官が2人、公園に駆け込んで来た。
2人は血だらけで倒れている耕平と、耕平を見下ろしているやはり血だらけで全裸の男の子の後ろ姿を見て「君! 大丈夫かい!?」と叫んだ。
ヒロ君が振り返り、そのピザった顔を見せると、警察官はより甲高い声で「おい、嘘だろ!」と叫んだ。
ヒロ君は例のスノッブな仕草で首を傾げたあと、「嘘じゃなくなったんだよ」と言い、両手で指を鳴らした。
「もう、現実は全部、僕のものだ」
そして、耕平の裂け目から、強くて、怖くて、悪いものが、闇の全てが、外側へと溢れ出した。
よかったね、耕平。
前話
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