Tumgik
yoml · 2 years
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まだ知らない
「ヴィクトルって結婚しないのかな」
 勇利の急な質問に、西郡は仕事の手を止めた。
「お前そんなこと気にすんだな」
 ちょうどスタッフのシフトを組み終えたところで、印刷ボタンを押すと席を立って伸びをした。古い複合機が鈍い音を立てる。西郡は印刷されたばかりのシフト表を事務所の連絡ボードに貼ると、別のデスクでせっせとサインペンを走らせる勇利の隣にどかっと座った。
「書けた?」
「あと……あ、2枚だ。もうすぐ終わる。ほんっとサインって苦手なんだよなー、さっきのちょっと失敗したし」
「わからんだろ」
「こんなポスターで効果あるのかな、ヴィクトルにすればいいじゃん」
「異国の英雄より地元のスターがいいんもんなんだよ、人は」
 勇利の知らない間に、先日のエキシビジョンイベントで滑る自分の姿がポスターになっていた。地元の印刷屋が作ったであろうそのポスターには、さえないフォントで「新しい自分を見つけよう! 入会随時受付中」と書かれている。
「この文句誰がかんがえたの」
「わからん。優子かも」
「人増えそう?」
「わからん」
「書けた」
「サンキュー」
 久しぶりに自分の名前を書いた気がする。新しい自分、かあ。と勇利は思う。サインペンのキュッとした音が耳に残っていて、今さら勇利は鳥肌が立った。
「プロのスポーツ選手って早く結婚するじゃん。そういうもんだと思ってた。プロ野球とかさ、高校出てドラフト指名されたら数年後にはアナウンサーと結婚、みたいな。お決まりなのかな、早く身を固めろ的な」
「圧力もあんだろーな」
「ヴィクトルなんで結婚してないんだろ」
「本人に聞けよ」
「聞けるわけないじゃん……」
 西郡はポスターを一枚抜き取ると、それだけくるくると丸めて「これはうち用」とパチンと輪ゴムをかけた。
「てゆーかヴィクトルって彼女とかいんの」
「知らない。いるでしょ、どっかに」
「どっかって。まあでも、結婚しなさそうな男ではあるな」
「そうかな」
「似合わんだろ、あれで俺のワイフが〜〜とか言われても。ていうか何、お前結婚願望でもあんの」
「考えたこともない」
「人の結婚より自分の心配しろ」
「西郡たちが早すぎるんだよ……」
 実際勇利は考えたくもないのだ。そんなこと。ヴィクトルの結婚。自分の結婚。その前に、ヴィクトルの恋愛。自分の恋愛。めんどくさくて嫌になる。確かに前者は知りたくもあるけれど、下世話な興味を抱く自分にうんざりしてしまう。そもそもヴィクトルの結婚を気にしながら、なんで自分の恋愛を考えなくちゃいけないんだ。
 サインを入れたばかりのポスターを眺める。「エロス」と呼ばれるプログラムを滑っている。「エロスって」と勇利は思う。新しい自分。新しい魅力。まだ自分で気付いていないもの。ふいにヴィクトルの声が蘇る。まだ練習し始めて間もない頃、至近距離で言われたことがある。顎に手をやり、唇をなぞって、囁くように。
 Can you show me what it is?
「あああーーーーーーー!!」と勇利は声を上げて手で顔を覆った。西郡は「うるさっ」とだけ言うと、それ以上勇利には構わずさっさと事務所の片付けを始めた。
 もやもやする。ずっともやもやし続けている。スケートリンクを出て、走りながら勇利はまた考える。ヴィクトルの結婚。は、本当はどうでもいい。結婚しようと思えるような、そんな相手に出会ったことがあるのだろうか。そんなふうに誰かを愛するのは、一体どういう感覚なのだろうか。知りたいのはそこだった。教えてほしいのは自分だった。わかっているのだ。自分に一番足りないもの。自分に一番必要なもの。誰かを愛する、その感覚。誰かを愛していると自覚する、その実感。
 勇利にとって恋愛は、確かなコンプレックスの一つだった。しようと思えば、できなくないものかもしれない。大袈裟に考えるからいけない。好きだと思う。恋人になる。たったそれだけ。でも、誰と? 誰となら、そうした関係を築こうと思える?
 帰り道、ランニングの足を早める。ヴィクトルと一緒にいることで、新しいフィギュアスケーターとしての勝生勇利は着実に生まれつつある、その実感があった。新鮮で、少し歯がゆくて、だいぶこわい。うれしかった。だけどそれでは、それだけでは、勇利は満足できないのだ。
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yoml · 3 years
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からだの声
 同じことをあまりに何度も聞かれるので、ついに勇利は相手の言葉を遮った。気を遣われる悔しさと興奮からくる焦り、それと言葉への鬱陶しさが、短い台詞の口調を強める。いま自分が体験していることを、言語化する余裕はなかった。ヴィクトルは一瞬考えたような間を取ると、湿った相手の額にキスをして、「じゃあ」と今度は耳を噛んだ。甘噛みと呼ぶには、少し力が強かった。
「代わりに勇利が聞いて、自分自身に」
 声より息に近いささやきが、耳の奥に滑り込んで鳥肌を立てる。触れられた手の熱さに、勇利は思わず喘ぎを漏らした。
どう感じる?
***
 2度目のシャワーを浴びてもなお、ヴィクトルからはいつもの香水が匂うように勇利には思えた。ベッドに入ってすっぽりと肩を抱かれると、自分の小ささが感じられて、だけどそれがむしろ心地よい。それから、人の隣で眠る違和感も。一番落ち着く姿勢を探しながら、ふいにヴィクトルが話し出す。
「勇利はいつもわかってるって知ってるよ。潜在的にはね。だから聞くんだ。敢えて。それに……あ、やっぱり向こうむいて。寝づらくない? ね、こっちが落ち着く」
「それに?」
「それに、俺もわからないから」
「嫌なら言うよ」
「うん、そうじゃなくて」
「腕おもい」
「それは我慢して。答えるのはさほど大事じゃないよ」
「なにそれ」
 小さな笑い声に混じって首筋にかかる息がくすぐったかった。背中からヴィクトルの呼吸が伝わる。そのリズム、と肺の動き。話はもう続かなかった。わずかな沈黙に、睡魔が遠慮なく割り込んでくる。目を閉じて、背中の呼吸に意識を集中させた。同じ抑揚で二人ゆっくり、ベッドに沈んでいく。その感覚を、その時の感情を、表す言葉を勇利はまだ持っていない。頭の中でヴィクトルの声がもう一度聞いた。
 どう感じる?
* 
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yoml · 3 years
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yoml · 3 years
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17/27
Finally he looked back.
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yoml · 4 years
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ひとこと
 (修正・再掲)
 ウォッカはもういらなかった。違う味が欲しかった。
 踏み込む一言が、彼にはいつもわからない。
  *      *  *
  ヴィクトルの部屋で、二人だらだらと過ご���夜。食事のあと、外で飲むのに疲れて家に戻る。勇利は自分の部屋に帰るのが面倒で、そのままなんとなくここで時間を過ごす。スケートの話しかしない日もあれば、スケートの話が出ない日もある。アルコールでわずかに充血した目。英語に疲れて口数が減る。グラスに中途半端に残ったウォッカ���見ながら、ふと、どちらともなく、こんな時間に男二人で何をしているのだと思ったりもする。そんなに若いわけでもないのに。そんなに無邪気なわけでもないのに。
 テーブルの上に、二本の指をすっと滑らす。なめらかにカーブを描きながら、シュッと指先をテーブルから離す。トン、と再びテーブルに指をつき、くるくるとまた滑らせる。勇利がときどき見せる仕草。ピアニストが無意識に見えない鍵盤を叩くように、見えない氷の上を踊っているのだ。
 しばらく続けていると、向かい側からもう一本の手が伸びて、長く整った人差し指と中指が、勇利の滑る後を追う。次第に四本の指は美しい平行線を描き、なめらかなカーブが気持ちよく続く。
「俺たちはリズムが合うから」
 指先を見つめたまま、ヴィクトルは口を開く。
「セックスしたらきっとすごくいい」
 指が止まる。
 ヴィクトルがちらりと勇利の目を見る。彼の視線は指先に落ちたまま。もう一歩。中指で、相手の指の間に踏み込む。
「する?」
 ほんのわずかに指先が動いた。
「からかってる?」
「真面目だよ」
 しばらく間が空く。指はそのまま動かない。
「じゃあ無理。真面目になったら絶対に無理」
 そう言って、笑いもせずに再び勇利の指先が滑り出した。離れた途端に指先がひんやりして、ヴィクトルはそこで相手の熱に気づく。
「なるほど」
 その通りなのだ。
「真面目には、無理だね」
  パン! とテーブルを軽く叩いて投げやりなフィニッシュを決めると、ヴィクトルは残りのウォッカを一気に飲み干した。ノーミスで滑り切れるほど、勇利の氷は優しくないのだ。
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yoml · 4 years
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終わりの先で
 うつむいて覗き込む際に落ちる前髪を、鬱陶しく思うのはヴィクトルの方だった。顔にかかる細い髪のくすぐったさを、勇利はむしろ歓迎していた。
「キスしたい」
「なんで聞くの」
 銀髪の隙間に手を入れてその頭を引き寄せようとする勇利に、ヴィクトルは頭を振って抵抗する。
「だめ、答えて。ちゃんと」
「いいよ。僕もしたい。して」
 勇利は相手を引き寄せる代わりに、今度は彼の前髪を遠慮なくかき分けた。ふっと、小さい笑いが溢れる。それでゆっくり、二人はキスをする。唇から顎を伝って首筋へ、そのラインにすがるように顔を埋めるヴィクトルを、勇利は愛していると確かに思った。指先から爪先まで、体と体の隙間がなくなる。熱と、滲み始めるぬるい汗、肌に染み込むコロンの匂い。バンケットのあとの放たれたこの時間を、もうあと何回繰り返せるのか、二人はいつも気にしていた。
「終わりたくないね」
 終わってもまた次があるから。そう言いかけて、ヴィクトルは言葉を飲み込んだ。そんなことを言ったところで、意味なんて別になかった。終わりのその先で二人がまた一緒いる保証なんて、どこにもないのだ。
 昔の勇利は不安定だった。今の彼にその弱さはない。怖いものがなくなった分、強さを手に入れた分、人はともすればあっさりとした残酷さを持ち得ることを、ヴィクトルは経験上知っている。それは勇利よりも四年間だけ多く生きてきたヴィクトルが、唯一確信を持って言えることでもあった。
 自分がずっとそうだった。たくさんのものを置き去りにして、たくさんのものを掴みに行った。省みたくないわけではなく、愛がないわけでもなく、ただそれが、人生だったのだ。彼という一人の、一人だけの。
「終わるのは怖い?」
「わかんない。でもたぶん、わくわくしてる自分もいる」
 その感覚を、ヴィクトルは痛いほどに理解した。抱く力をひときわ強める。シャツの下に滑り込んだ勇利の指が、応えるようにヴィクトルの背中を掴んだ。肌に淡い跡を残す。もっと深く、鋭く、いっそ傷跡が残ればいいとヴィクトルは思う。信じるに値するこの情熱が、だけどいかに頼りないものかを、誰よりも深く知りながら。
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yoml · 4 years
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自分じゃない
 女ならよかったのに。
  その手が触れたのが、引き連れたのが、女ならなんの悔しさもなかったのに。
   - - -
 小さな運河沿いをヴィクトルと二人で歩いている。ポケットに突っ込まれた彼の右手のことを考えている。マリインスキー劇場からリンクの方へ、決して近い距離ではない。疲れたらタクシーでも拾えばいいと、ついさっき見た公演の、あそこが良かったとかあれは違うとか話しながら歩いている。二幕目に出てきたあの、四人のうちで一人だけ金髪だった、そうそう彼、セクシーだったね、力強かった。そう話すヴィクトルの、かつての恋人の話を聞いたことがある。「“彼”とは、」とその時彼は言った。「もう会っていないけどね、悪い関係ではないと思う。応援しているよ、今でもお互いに」
 他人であれ知り合いであれ、ヴィクトルが男のことを話すと僕は小さく反応する。そこにはいつだって可能性がある。その手がかつて握っただろう手。その手がこれから握るだろう手。知りもしない何人もの男たちに、バカみたいな嫉妬を覚える。それから、痛み。バカみたいな。
 「香水」
「え?」
「香水をさ、欲しいなと思って」
「ワォいいね! めずらしい、どうしたの」
「別に、なんかちょっと、デオドラントだけなのもどうかなって、年齢的に。海外にいると特に」
「じゃあこれから買いに行く? 一緒に選ぼう、どんなのが欲しいとかある?」
「めちゃくちゃ男っぽいやつ」
 そうはっきり答えた僕の顔を、やや驚いた表情で彼が見返した。
「意外?」
「意外。でもいいね、イメージの逆をいかなきゃ」
「逆なんだ」
 ヴィクトルの腕を遠慮なく掴んで、その手首を乱暴に自分の鼻へ近づけた。匂いを吸い込む。冷えた空気に混ざって、生温かい肌と、化粧品っぽいにおい。香りを嗅ぎ分けられるほど、僕には香水がわからない。途端に苛立ちに感傷が降りかかる。どさくさに紛れたふりをして、その手首に顔を押し付けた。
「いたいいたい、こら。なに、こういう香り好き?」
 ぱっと手を離す。悩んでいるふりをして、僕はそのまま質問を無視した。
「勇利?」
  握った関節の太さ、その感触が指に残っている。僕ではその「男」になれないだろうか。自分に似合う匂いなんてどうでもいい。ヴィクトルの好きな匂いが知りたい。
 それを僕は、ずっと聞けないままでいる。
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yoml · 4 years
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搭乗前
 夜の空港はいつもどこか少し気だるい。日本での用事を終えて、勇利はヴィクトルに便乗して入ったラウンジの窓からぼんやりと、夜空へひっきりなしに飛び立つ飛行機を眺めていた。スマートフォンの画面を見るのにはすっかり飽きて、かといってほかのことをする気にもならない。グレーのカーペット、黒いレザーのソファ、目線を下げ無言でドリンクを運ぶ給仕、控えめなゴールドの照明。わかりやすく、モダンで、味気ない、ある意味で日本らしい設えの中、小さなパソコンの液晶に照らされたビジネスマンたちの顔が点在している。誰もが漏れなく疲れている。その画面に映し出される文字や数字を追うような仕事がどんなものか、勇利にはまるで想像がつかない。
「ラクだけどあんまり落ち着かない、ここ」
「なにが?」
「わかんないけど、なんとなく。ざわざわしてる方が落ち着くことあるでしょ」
 ヴィクトルは声を出さずに頷くと、読んでいた本を閉じて時計を見た。勇利が隣でぐるりと首を回す。搭乗前からすでに肩が凝り固まっている。
「10時間くらいだっけ、しんど……」
「すぐだよ、寝ていれば着く」
「うまく寝られないんだよ機内じゃ」
「かわいそうに。俺に抱かれたらぐっすりなのにねえ」
「すぐそういうこと言う……」
 ヴィクトルは眠気で力の入っていないふにゃっとした笑いを見せたけれど、こうした彼のからかいに、勇利はまだうまく反応できなかった。恋愛の話が苦手だとわかってもなお、ヴィクトルはときどきこの手のジョークを飛ばす。勇利にはまるでわからなかった。彼はあまりに普通に「もし俺たちが一緒に寝たら」の仮定を出す。そのあり得なさからすぐにジョークだとわかる一方、あまりに自然な口ぶりなので、どうしても一瞬、勇利は戸惑うのだ。
「いや、でも本当に。そういう人たちだっているんじゃない? プライベートジェットとかさ、好き放題やってるんだろ」
「悪趣味」
「まあね」
 今の関係でヴィクトルが勇利と寝るのは冗談だとしても、二人の間にセックスが生じること自体は、ともすれば「起こり得ないことではない」かもしれない。つまりヴィクトルは、男と寝られる人なのかもしれない。
「……飛行機の中でしてみたいとか思うの、ヴィクトルは」
「さぁ……でも悪くないんじゃない? べつに大して揺れるわけでもないし、明け方に朝日でも見えたら素敵かもね。どこにも逃げ場がないのもいい。ロマンチックですらあるよ」
「うそでしょ」
「海の上とか、なんにもない草原のど真ん中とか、あとは砂漠のテントの中とか? そういうのは案外いいと思うんだよね。この世界にぽつんと二人だけ、だだっ広い中に取り残されて抱き合うなんて、ちょっとした映画になりそうじゃないか。ああ、北極とか? 流石にさむいか。凍え死んだら笑っちゃうよねぇ、スケーターが氷の上で果てるとかさ。まあ、リンクで見つかるよりはマシだろうけど」
「もういいよ……って、え。え! ねえもしかしてヴィクトル氷の上でしたこと……」
 ヴィクトルは一瞬きょとんと勇利を見ると、すぐににやりと笑った。「それ聞く?」
 バン、と勇利は相手の太腿あたりを平手で叩いた。確かにくだらないことを聞いたものだ。みんなそんなことを考えるのだろうか。掌からヴィクトルの体温が地味に伝わり、勇利は無性に恥ずかしくなった。同じタイミングで、コホン、と、後ろのソファからわざとらしい咳払いがひとつ。
「行く? そろそろ」
「行く……」
 思ったよりも時間がギリギリで、少し足早に搭乗口へ向かう。優先搭乗が始まっていて、さっきまでの気怠い空気から打って変わりゲートは慌ただしくなっていた。バックパックからボーディングパスを取り出していると、突然ヴィクトルが「ないよ」と言った。「まだ、ね」
 機内に乗り込む途中、もう一度ヴィクトルが振り向いた。
「試す?」
 若干眠気が残る言い方だった。妙に色気がある。それでここからの10時間、勇利はますます眠れなくなる。
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yoml · 4 years
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いつでも、どこへでも
(「そういう人」の、後日談)
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   玄関を入ってエントランスを抜けると、すぐ右手にバスルームの扉がある。洗面台とトイレ、シャワー、小さなバスタブがあって、特に広くもなければ、かといって狭くもない。バスルームの扉の反対側には小さなキッチン。カウンターの上には必要最低限の機能だけ備わった電子レンジと電子ケトルが置かれていて、小さな冷蔵庫がカウンターの下にビルトインされている。その横に半ば無理やり、新品の洗濯機が鎮座していて、場違いな最新家電が放つ違和感を通り過ぎると真四角のワンルームがある。部屋の左側にはIKEAっぽい簡素な二人掛けのダイニングセットが置かれ、右側にはセミダブルのベッド。大きな二重窓が一つあって、小さなクローゼットがついている。世界中のどこにでもありそうな、単身者用の小さなアパート。壁には何も飾られていない。住人の個性を物語るものも特にない。クローゼットの中に、普通の人よりも多めのスポーツウェアと、やたら派手な衣装がしまわれていること以外は。部屋の隅に置かれたスーツケースの中には、いまだに荷解きされていないものさえ入っている。それがなんだったかは本人も覚えていない。
   テーブルの上に、青いフレームの眼鏡が置かれている。シャワーの音が聞こえている。ベッドのシーツが乱雑によれて、デュベがほとんど落ちかけている。四角い部屋に男がいる。この部屋にはどうも似つかわしくない、小ぎれいな銀髪のロシア人。椅子に座って、惰性でスマートフォンをスクロールしている。やがてシャワーの音が止み、バスルームから黒髪の青年が出てくる。冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出して、小さなダイニングに腰かける。「相変わらず水しかないね」とロシア人は口を開く。うーん、と答えながら青年は眼鏡をかける。
「なんていうか、いつでもどこへでも行けそうな部屋」
「実際に今だけだしね」
「でもまだしばらくは先の話だろ、契約はいつまでだっけ」
「とりあえず1年で借りたけど、どうにでもなるみたい」
「短い間でも居場所はちゃんとしたいけどなあ、俺は」
「知ってる。長谷津の部屋はすごかった」
「ここ居心地は?」
「普通。不便はないよ」
「愛着は?」
   眼鏡の青年は水を一口のむと、ベッドを見遣った。
「考えたこともないけど、案外あるかも。でもちょっと恥ずかしい、思い出すと」
「あの日?」
「あの日……」
「俺もね、実はわりと好きなんだよねこの部屋。よく眠れる」
「小さいからじゃない? 籠った感じが逆にいいのかも。ヴィクトルの部屋は広すぎるよ」
「どうかなあ」
 ヴィクトルはスマートフォンをテーブルに置くと、頬杖をして青年のほうをじっと見た。
「そこは“一緒だから”って言おうよ」
   そう言って微笑むと、青年からペットボトルを奪った。青年はまた思い出してしまう。初めてこの部屋でセックスした時のこと。不器用な自分と、堪えられなさ。解放感と、涙。歓喜。それでまた少し、恥ずかしくなる。
   さっき「今だけだし」と答えたのは、少し心に来るものがあった。お互いに。
   二人一緒の、夜がふける。
   部屋は東を向いている。朝になれば窓からの光が四角い部屋を通り抜けて、狭いキッチンまでをギリギリ照らす。昨日のペットボトルはテーブルに置かれたままで、横には充電ケーブルにつながれたスマートフォンが一台。もう一台は、ベッドサイドテーブル上の定位置に置かれている。デュベがもぞもぞと動いて、同じくサイドテーブルの上にある眼鏡に手が伸びた。その手を、もう一人の手が乱雑に邪魔をする。
「まだ」
「ちょっと、何時か見させて」
「まだ早いよ」
「もーー離して、眼鏡割れちゃう」
   ヴィクトルは覆いかぶさるように青年の、勇利の身体に抱きついた。勇利は眼鏡を諦めて、抱かれた状態のまま窮屈そうに体の向きを変えると、相手の腕の中で最大限快適でいられる位置へと体勢をフィットさせる。結局二人同じ方向を向いてヴィクトルが後ろから抱きかかえ、いつものスプーン型に落ち着く。途中で黒髪がヴィクトルの鼻先に触れて、ん、とくすぐったそうな声が出た。眠りの温度がベッドの中を満たしている。一番心地良くて、永遠に抜け出したくない、朝の温度。
「でも寝すぎじゃない?」
「だから、ここはよく眠れるんだってば」
   勇利はヴィクトルの腕を持ち上げようとするけれど、相手も力を込めるからじゃれ合うみたいなかたちになった。それで結局、ヴィクトルが勝ってまたその腕に勇利はすっぽり収まるのだ。
「ねぇ今気づいたんだけど、コーヒー切らしてる。なんにもない、水しかない」
「んー……」
「だからやっぱり起きて外出ようよ。僕おなかすいた」
「ん……」
「まだ寝てるなら僕ひとりでなんか買ってくる���ど」
   返事はない。
「寝たの?」
   そのまましばらく間を置いて、ひと呼吸すると返事の代わりにヴィクトルはぼそっとつぶやいた。
「“いつでもどこへでも行ける部屋”」
「え?」
「ねえ勇利、どこかへ行くならたぶん今だよ」
  相手の中に自分の顔をうずめるように、ヴィクトルがぎゅっと力を入れた。それから勇利の首元に、キスをした。
「一緒に住もう、ね」
   身体をひっくり返して、勇利は恋人と向き合った。朝日が部屋に溢れる感傷を照らす。いつでもどこへでも行けそうな部屋は、住人を引き留めたりはしない。平凡さと引き換えに、そこにあるのは無期限の自由。部屋はむしろ、出ていくためにそこにある。本当は二人一緒なら、どこにいようと構わない。だけどそれなら、帰りたくなる場所のほうがずっといい。どうせいやでも、二人は進み続けなくてはならないのだから。まだしばらくは。
  曖昧な視界の中で、勇利が見た笑顔は予想したほど自信ありげなものではなくて、思わずその頬に手を添えた。そのまま少しだけ考える。
「そしたら毎日寝過ぎちゃうよ」
「最高だね」
   最高だね。
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yoml · 5 years
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リマインダー
新しい本を作りました。サンクトペテルブルクと唐津で撮影した写真と、そこから連なる文章の本です。じきにBOOTHのカートが空くと思うので、ご興味ありましたら。
https://yoml.booth.pm/items/1565352
通販を待つ間、よろしければお読みください。本の中の内容と、少しだけつながっています。
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「ねぇこれ、見て」
 シャワーから戻ったヴィクトルが、そう言って分厚い封筒を勇利のいるベッドの上にぽんと投げた。
「なに? 開けていいの?」と身体を起こして封筒を拾うと、ずっしり重たい。中を見ると、プリントされた大量の写真が入っている。
「わ、スマホで撮ったやつ? どうしたの?」
「ネットで注文した」
「へぇーー、めずらしい」
「iPhoneに保存していてもめったに見返さないし、もったいないだろ。ちょうど昨日届いたから勇利と一緒に見ようと思って」
 そっと丁寧に写真を取り出す勇利から封筒を奪うと、ヴィクトルは写真をベッドの上にばさっと広げた。何十枚どころではない、何百枚とありそうだ。
「雑! ぐちゃぐちゃになっちゃうじゃん!」
「いいんだよ、適当にがさっと注文しただけだし」
 写真が散らかったシーツの上に、ヴィクトルがごろんと寝そべる。カードゲームの最初の一枚でも引くような顔で、適当な一枚を手に取った。
「ほらどうでもいいのも混ざってる。なんだこれ、どこ?」
「どこだっけ、控室? あ、あれだ、メイクチュートリアルとか言ってYouTuberのマネしたときの」
 前髪をクリップで留めたヴィクトルが、ファンデーションをカメラに向けてわざとらしくウィンクしている。撮ったのはたしかクリスだ。
「くだらないねぇ」
 試合でたまに会う選手仲間、遠征先で食べた料理、観光したときの記念写真、練習中に戯れるリンクメイト、ファンサービスとして定期的に撮られるヴィクトルのセルフィー。そうした普段インスタに上げている写真に混ざって、なんてことのないものも大量にプリントされている。どこで見たか覚えていないきれいな空、どれも同じような(そしてどれも最高にかわいい)マッカチンの写真、なぜか机に置かれているだけの勇利の眼鏡。勇利自身の写真も何枚か、いや、たくさんあった。本人が覚えているものもあれば、知らない間に撮られていた食事中の一枚や、ここに泊まった日の寝顔まである。
「見返さないのに、ヴィクトル相変わらずいっぱい撮るよね」
 寝っ転がったまま写真を一枚一枚見ていたヴィクトルが、少し体勢を変えて勇利の太ももの上に頭を置いた。髪がまだ少しだけ湿っている。ふいに無表情になった青い目が青年を見上げる。
「俺ね、前にも勇利にそれ言われたの覚えてるよ」
「え、言った?」
「写真に撮らないと忘れちゃうからかなって答えたら、それは嘘って言われた」
「そうだっけ?」
「ひどいなあ! 勇利のほうがよっぽど忘れるのに!」
「なんか言ったような気もするけど……」
「面倒だって。ヴィクトルは思い出すのが面倒なだけだよって、そう言った」
 記憶をたどる勇利の頬に、ヴィクトルは手を伸ばす。なるほど自分なら言いそうなことだと、勇利は思った。今だって同じように考えているからだ。
「それで確かに、そうかもなって思ったよ」
 優しいとも悲しいとも言える独特の笑顔をつくって、ヴィクトルは勇利の頬をぎゅっとつねった。
「ねぇ、完全に忘れちゃうのと、忘れていないけど思い出さないのは、どっちがひどいと思う?」
「それ……僕いま責められてる?」
「まさか!」
 ヴィクトルはそう言ってぱっと手を離すと、また違う写真の束を手に取った。一枚一枚眺めながら、ときどき勇利の脚に頭をぐいぐいと擦り付ける。落ち着くポジションを探しているのか、甘えの仕草なのか、勇利にはよくわからない。
「でも思い出すのなんて、結局は部分的な記憶だよね。そもそも自分じゃ出来事の一部分しか覚えられないし、それだって記憶の中で都合よく書き換えられているかもしれないし。初めから覚える気がないこともたくさんあって、だからといって事実がなかったことにはならない。いい加減なものだよ、記憶や思い出なんて」
「ヴィクトルが言うと説得力があるね。僕だって人のことは言えないけど」
「それならさ、二人で見たらいいかと思って。どっちかが忘れても、どっちかが覚えていればそれでいいだろ」
「たしかに」
乾き始めた銀色の細い髪を、勇利が右手で軽く梳いた。反射的にヴィクトルが目を閉じる。
「だからね勇利、俺はお前がBe My Coach発言を覚えていなくても、本当に全然構わないんだ……」
「やっぱり責めてる!!」
 自分の太ももに置かれた銀髪を、勇利は思い切りぐしゃぐしゃにしてやった。ヴィクトルは声を立てて笑いながら、軽々と勇利の手を制する。それから首もとに手を回すと、自分のほうへぐっと引き寄せて、窮屈そうに前屈みになった勇利にキスをした。「ほんとに責めてないってば。それに――」ゆっくり口元を勇利の耳に寄せる。「実際にはそんな台詞、勇利は言わなかったかもしれないしね?」
「えっ」と聞き返す勇利の口を塞ぐようにもう一度キスをすると、ヴィクトルは急に身体を起こした。
「ほら勇利も選んで!」
「は? 何を?」
「飾るやつ! これね、なんか写真飾りたいと思ってプリントしたんだよね」
「もういっぱい飾ってあるじゃん、自分の写真」
「スケートや仕事で撮ったやつはいいんだよ、もっとこう……ほら、冷蔵庫にマグネットで留めとくような、日常っぽい写真が欲しいの」
「えーー……なにそれ……」
「あ、でもその一枚を選んだらさ、他の写真は結局しまい込んで見なくなるかな?」
「だめじゃん」
「だめかな?」
「わかんない、そしたらまた見たらいいか」
「一緒にね」
「一緒にね」
 大量の写真を二人で次々に手にとる。記憶が断片的によみがえる。ときどき勇利には分からない場所や、知らない顔が現れる。次第に二人とも集中して無言になって、ヴィクトルは小さなあくびを漏らした。あと数分もすれば、写真を見るのにも飽きてしまうだろう。飾る一枚は選べないし、アルバムにまとめられることもなく、この写真たちはきっと引き出しの中で眠る運命だ。だけどこれだけの写真が、記憶が、目に見える物質となって今ここにあることに、ヴィクトルは妙に満足していた。バタンと再び横になると、ちょうど彼の視界には、いつか長谷津の海岸で撮った踊る勇利の写真があった。
  その夜、勇利は写真に埋もれて寝落ちした恋人を起こさないようスマートフォンのスピーカー部分にぴったり指をあてると、無防備な寝顔にシャッターを切った。
 数ヶ月後にヴィクトルは、マッカチンの写真と並ぶこの一枚を見つけることになる。二人で暮らし始めたばかりの家の、真新しい冷蔵庫の前で。
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yoml · 5 years
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宴のあと
 トン、と唇が触れた後、二回、三回とそれが続く。初めは軽く、次第に強く小刻みになって、吸い付く力が高まっていく。リズムの悪いリップ音が、ホテルの部屋にはっきりと響く。わずかなアルコールが入っているせいか、なんとなく遊んでいるような気分になる。そのうち勇利は、触れた相手の唇を吸い返そうとする。けれどすぐに離れてしまって、唇を捕まえられない。ゲームのようなキスを繰り返す。
「ん、待って、ふふ、ストップ! 笑えてきた」
 ヴィクトルの肩を押して離そうとしても力はかえって強まるばかりで、ベッドに寝ころんだまま勇利は体をしっかりと抱きかかえられている。中途半端にほどけたタイが首もとに絡まって、ヴィクトルの唇は今、首もとから鎖骨のあたりを容赦なくついばんでいる。その動きに合わせて首を反り返らせ、勇利は降参するように大きく笑った。
「あははは! やめてよ、ヴィクトル鳥みたい」
 勇利の首もとにうずめていた銀髪の頭をパッと上げて、満足気な青い目が勇利を見た。摩擦で唇が少し赤くなっていて、前髪はすっかり乱れていて、それが勇利にはたまらなく愛おしかった。
「くちばしはもっと痛いんじゃない?」
「わかんない。アヒルのくちばしは柔らかそう」
「アヒル! 失礼な」
「カモメは?」
「あれはダメ。カモメって意外と凶暴だよ? 空から狙って、一瞬で食べ物とか奪ってく」
「白鳥もやわらかそう」
「ああ、そのほうがロマンチックだね」
「でも優しくないからブラックスワン」
「うそでしょ、こんなに優しくしているのに」
 そう話しながら、いつの間にかヴィクトルの手は勇利のシャツの下にもぐっている。掌から伝わる体温は、勇利の背中のそれより少しだけ高くて、いつも不思議な安心感を覚える。その温度に、体をゆだねる。
「して? 優しいやつ」
 ご所望なら、と言わんばかりの笑みを見せて、ヴィクトルは再び顔を近づける。わざと少し鼻をぶつけて、動物みたいに擦り付けた後、そっと、ゆっくり、唇を重ねる。隙間を徐々に埋めていくような、じんわりとしたキス。どちらともなく口を開いて、舌が触れる。と、思わず勇利は吹き出してしまう。
「ふっ、あはは、ごめんだめ、なんか今日は笑っちゃう」
「ひどいなー」
「なんだろうね、あるよねこういうの。スイッチ入っちゃうの」
「ベッドではないけどね」
「ヴィクトルがそうさせたんだろ」
「ねぇ、やっぱりキスでもすればよかったんじゃない?」
「なに?」
「なんでもないよ、昔の話」
 そう言って勇利の顔がよく見えるように、ヴィクトルは黒い髪を後ろになでつけた。
「最後だね」
「選手としては、最後だね」
「バンケットのあとにホテルでするの、俺好きだったけどな。なんか悪いことしてるみたいで」
「ちょっと!」
 勇利の言葉を遮るように、ヴィクトルはもう一度キスをした。ついばむでもなく、ゆっくりでもなく、ただまっすぐと、キスをした。さっきまでの雰囲気が、一瞬にして切り替わった。勇利は、今回は笑わなかった。唇を重ねたまま、お互いの体に腕を絡める。切なさがこみあげて、笑い声をあげる代わりに、勇利の目には涙がにじむ。そのまま泣いてしまわないように、隙を作ってしまわないように、勇利はヴィクトルの唇を離さなかった。こんなに優しくされているのだ。こんなに近くで、片時も離れずに。
 シャツのボタンが全部外れて、二人の肌があらわになった。そこに触れる唇の感触を、この先勇利は何度だって思い出すだろう。
 宴のあとの、長く賑やかな宴のあとの、さらに長く続く日々の中で。
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yoml · 5 years
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祈り
 その建物が聖堂であることは知っていた。リンクのあるスタジアムから通りを挟んだ反対側、小さな公園のような敷地の少し奥にそれはある。何もかもが壮大すぎるサンクトペテルブルクの街においては、取り立てて注目する点もない、どこにでもありそうな街の聖堂。淡いクリーム色ののっぺりとした外観は、どこかキッチュな印象さえ与えている。天気の良い日にその公園のベンチでランチを食べたこともあったけれど、勇利は、今までそこに特別な興味を持つことはなかった。
 だからその日彼が聖堂に足を踏み入れたのも、きっかけは些細なものだった。
 トレーニングの帰り、ヴィクトルと今日は外で食べようかという話になり、終わり時間がバラバラだったので少し離れた街の中心部で落ち合うことになっていた。リンクの目の前のバス停から、十番のバスでネヴァ川を越えて中心部へ向かう。先にトレーニングを終えたヴィクトルに合流しようとバスを待っていると、ふと、勇利の視界に見覚えのある女の子の姿が写った。
 女の子といってもたぶん十八か二十歳くらいで、名前はすぐに思い出せないが、同じリンクの女子選手だ。信号のない通りを足早に渡ると、公園を抜けてまっすぐに聖堂のほうへと進んでいく。
 その時、ひらりと一枚のスカーフが見えた。練習用のショルダーバッグから、おそらくスマートフォンでも取り出したのだろう、その拍子に鞄から深紅のスカーフが落ちたのだ。女の子は気づいていない。幸い風は弱く、飛ばされることなく道端に落ちたそれを、勇利は慌てて拾いに行った。通りを渡って公園へ、ベンチの横に落ちたスカーフを拾い、彼女のあとを追う。
「教会って勝手に入っていいんだっけ」
 一瞬ためらって、だけど閑散とした入口には人がいる気配もない。ちょっとした興味も手伝いそっと中に入ると、ふわっと、嗅いだことのあるにおいがした。ああこれ、外国の教会のにおいだ。途端に勇利は、ここが異文化の中であることを実感する。聖堂の中では彼女が一人、ごそごそと鞄の中をあさっていた。
「これ?」
「え? あ」
「落としたのが見えて、バス停から」
「ああ、よかった。ありがとうユーリ」
 相手は当然のように名を呼んだ。そして勇利を一瞥してにっこり笑うと、慣れた手つきで受け取ったスカーフをサッと頭にかぶった。
 あ、なるほど、と勇利は思った。
   聖堂の中は案外明るかった。いかにもロシアらしい、エルミタージュ美術館の外壁と似ているブルーグリーンの壁。真っ白の柱は太く、聖堂内の両サイドには派手すぎるゴールドの額縁が並んでいる。描かれているのは聖人だろうか。
 さっきの彼女はくるりと勇利に背を向けると、聖堂の右側、一番手前の絵へと進んだ。軽く頭を下げて、胸で十字を切る。それからさらに一歩近づき、そっと、聖像画にキスをした。もう一度軽くお辞儀をして、たぶんそれでワンセット。ひとつ終わると次の聖像画へ進み、そこでもまた、十字を切ってはキスをする。十枚か、あるいはそれ以上あっただろうか。一枚一枚の聖像画に、彼女は同じ十字とキスを繰り返した。それを勇利は、どうしてだか食い入るように、ただじっと眺めていた。
 キスを、するのだ。
  ロシア正教の聖堂に入ったのは初めてではなくて、ずいぶん前にヴィクトルが聖イサアク大聖堂に連れて行ってくれたことがある。だけどその時は、すぐに上の展望台へ上がってしまったのだ。観光客の多い聖堂の中を、あの時二人はあまりしっかり見なかった。
 もし一人で教会に来たら、ヴィクトルも同じような祈り方をするのだろうか。
 彼女が聖像画に口をつけるとき、何度かに一度、微かなリップ音がドーム型の天井に響いた。繰り返されるささやかな祈り。沈黙の中で知らない宗教の祈りを眺めながら、勇利はそれを、きれいだと思った。
   コツ、と後ろで足音が鳴って、振り向くと別の人が入ってきた。入れ違うように、さっきの彼女はすべての祈りを終えたようだ。被っていたスカーフを取りながら入口のほうへ歩いてきて、そこに立ったままの勇利を見ると、まだ居たのと言いたげな表情を一瞬見せてから、さよならを言う代わりにもう一度微笑んだ。
 そこでようやく勇利はハッとして、ポケットからスマートフォンを取り出した。待ち合わせの時間が迫っている。そのまま出るのはなんとなく忍びなくて、勇利は聖堂に一礼だけすると、そそくさとバス停に戻った。
  通りにはちょうどバスが来たところで、慌てて飛び乗る。窓際の席に座ると、汚れで視界が霞むガラス窓から外を見た。
 バスは発車すると、ほどなく最初の橋に差し掛かる。小さな運河を一つ越え、道なりに曲がるとすぐにエルミタージュにつながるもう一本の橋に入る。それを渡って、ネヴァ川を越える。その広すぎる川幅の、水面にうつる太陽の光を眺めながら、勇利はまだ、さっきの彼女の祈りを思い出していた。
  キスを、したのだ。
 ヴィクトルは。
 指輪に。スケートシューズに。そして自身のゴールドメダルに。
 もしかしたらそれは、よくあるパフォーマンスの一つに過ぎなかったかもしれない。喜びの表れ、愛情表現、単なる見栄えのいいポーズ。だけど今、勇利は知ってしまったのだ。それがまた、あるいは祈りの仕草であることを。
 バスのエンジンと振動音に交じって、耳元で小さなリップ音がよみがえる。思い出す。ヴィクトルの唇が触れるあの感触を。皮膚の弾力、生ぬるい温度、押し付けられる力の強さ。同じように、あの白い首筋に触れたときの、自分の唇に伝わる感触。それからゴールドの、一度嵌めてしまったきり手放せなくなってしまったこの小さな、リングのひんやりとした冷たさを。
 ネヴァ川が平然とした美しさで輝いている。だだっ広い水面は、同じようにだだっ広いサンクトペテルブルクの空と同じ色をしている。その上を、猛スピードでバスは駆け抜ける。揺れなんて気にも留めず、こちらがぼんやりしている隙に、あっという間にネフスキー通りの喧騒に突っ込んでいくのだ。
 右手に握ったままのスマートフォンが、メッセージの通知に軽く震えた。勇利はそれを確認する代わりに、片方の手で右の薬指に触れる。硬い金属の、確かな存在感。途端に苦しさが胸を襲う。
 すがっている。
 僕は、僕たちは、小さな何かにいつもすがって走っている。
   しばらくすると、スマートフォンがもう一度振動した。漠然と、だけど強く、キスをしたいと勇利は思った。霞の中で淡々と輝くネヴァ川は、今はもう勇利の背後にある。
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yoml · 5 years
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待ちくたびれて
 唇に触れた髪の感触に驚いて、ヴィクトルは目を覚ました。薄暗いホテルの部屋に静かな寝息が響いている。寝転んだ右肩でもぞもぞと動く勇利の頭が、もう一度彼の唇のあたりを撫でた。ふと重みを感じて胸元に視線を落とすと、だらりと脱力した彼の腕が被さっている。数秒間考える。これは、この滅多にない状況は、このまま放置されるべきだろうか。とはいえ重たい。そもそも何時なんだ。そっと腕を持ち上げ体を起こそうとすると、抵抗するかのように勇利はその頭をヴィクトルの首元にぐいぐいと埋めた。ワーオ、と小さく声に出しても、眠れる王子は反応しない。時計は22時を回っている。ヴィクトルは諦めると、顎を引いて勇利の額にキスをした。くっそー、と、思いながら。
 荷物を置いたら夕食を食べにいく予定だった。ヴィクトルがホテルに着いたのは18時を過ぎた頃で、部屋に入るとちょうど勇利からも到着を告げるメッセージが届いていた。揃って出演する日本でのアイスショー。勇利は拠点を移したロシアから一足先に帰国し、国内での用事をあれこれ片付け、開催地であるこの街でようやく合流したのだ。それぞれのスタッフが手配を行なった関係で、二人は別々の部屋を充てがわれている。ヴィクトルは部屋番号を勇利に送ると、フライト疲れの体をぐいっと伸ばして欠伸をした。先にシャワーを済ませようかなんて考えているうちに、思ったよりも早いドアのノック音。
「うわっ 広っ。ていうかでかっ」
「部屋タイプ違う?」
「全然違う……なにこのベッド……キングじゃん」
 そう言いながら、勇利は遠慮なく、パリッと整えられたキングサイズベッドに寝転んだ。
「こら、すぐご飯行くよ」
「わ! すごい、いい感じに沈む! 普通の低反発と違うね、ヴィクトルも来てよ」
 はしゃぐ勇利に呆れながら、ヴィクトルはベッドの反対側にごろんと寝転んだ。
「あ、たしかに」
「でしょ? 枕もなんかふかふかしてて気持ちいい」
 キングサイズのベッドは大人の男二人が寝転んでも十分な広さで、ヴィクトルは長距離移動で凝り固まった体が途端に脱力するのを感じた。だけどこのまま寛いでいるわけにはいかない。勇利のほうに寝返りを打つ。
「だからって、一週間ぶりに会ったというのに俺よりベッドに感動するんだ?」
「え、ごめん」
 ヴィクトルは勇利の耳元に手を伸ばすと、指先で髪を摘んだ。
「そんなに気に入ったなら今日はここで寝る?」
 ぱちりと、勇利の目が大きく開いた。そもそもそのつもりだったのだ、ヴィクトルは。コンデションがあまり良くないからと言って、スタッフにわざとベッドの広い部屋をリクエストした。なんてことはない、二人で寝るためだ。近場で適当に夕食を済ませたら、二人でこの部屋に戻るのだ。だっていいだろう、今日くらいは。今日こそは。
「勇利なに食べたい?」
「さっきフロントで聞いたらこれくれた」
 外国人観光客向けにホテル内と周辺の飲食店の説明が書かれた紙を勇利がポケットから取り出す。と、同時にスマートフォン���鳴った。
「あ、あーー……ヴィクトルごめん長くなるかも」
「いいよ出て」
 断りを入れるなり「もしもし」と電話をとった勇利は、ベッドから立ち上がるとヴィクトルに気を遣ったのかバスルームの方へ消えていった。
「モシモシ、モシモシ……」
 ヴィクトルは寝っ転がったまま、ほとんど無意識にその可笑しな響きの挨拶を真似した。別にここで話せばいいのに。上向きになってレストランのリストを眺めても、あまり頭が働かない。そういえば機内でよく寝られなかったのだ。ベッドのせいか細かい文字を見たせいか、途端に瞼が重たくなった。再びゴロンと寝返りを打つと、シーツの片側に、さっきまでいた青年の名残が皺になって残っている。それと自分との間に、まっさらな皺のないわずかな隙間。なるほど男二人が普通に寝転んだところで、キングサイズはそれなりの意志を持って中央に身を寄せないと身体はくっつかないなと、ぼんやりとヴィクトルは考えた。シーツに手を滑らせて、腕を伸ばす。指先を軽く曲げる。思い出す。黒髪に指をからませたときの、その手触り。首元から弱々しく香る、草のにおい。肌の温度。湿り気。それから――
……
……
 目覚めたものの動けないままのヴィクトルは、完全に自分に抱きついた状態の勇利の腕を、詮無く何度か撫でてみた。この距離感で感じる勇利は、記憶にあるよりサラサラと、そして石鹸のようなにおいがした。
 石鹸?  
 ハッとして、ヴィクトルは思わず体を起こす。と、あきらかに意志を持った勇利の腕がすかさずヴィクトルの胴を押さえつける。「ゆっ……」と名前を呼ぼうとした瞬間、バッと急に起き上がった勇利はそのままヴィクトルの上に覆いかぶさり、ほとんど馬乗り状態のような格好になった。あっけにとられるヴィクトルを拗ねた目で見降ろす勇利から、小さなため息と一緒に不満げな声がこぼれた。
「やっと起きた」
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yoml · 5 years
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ピアノ・レッスン
 「勝生勇利をびっくりさせる天才」であるところのヴィクトル・ニキフォロフがこの日その才能を最も発揮させたのは、空港のピアノを前にしてのことだった。
 乗り換えを待つ三時間、浮腫んだ足をならそうと空港内をぶらぶらと歩いていたら、勇利の目に一台のピアノが留まった。
「ああいうの最近増えたよね」
「ピアノ? ああ、誰でも弾いていいやつ?」
「うん。“もしもピアノが弾けたなら”って歌う古い歌があるんだけど、僕あれを弾いてる人を見るといつもそれを思い出す」
「もしも弾けたらどうなの」
「え、わかんない。その歌そこしか知らない」
 古く小ぶりなアップライトピアノ。パネルや脚は木がところどころ剥げていて、音楽室や教会の片隅で使われなくなったような佇まいをしている。ピアノの横には「Play Me!」と書かれた小さな看板。こうしたストリートピアノが流行っているわりには地味な装飾で、目立たないのか今は誰も弾いていない。
「勇利は弾けないの」
「むりむり! 習ったことないもん」
「弾きたい?」
「そりゃ弾けたらかっこいいとは思うけど……え、まさかヴィクトル、ピアノもできるの?」
 んー、と曖昧な返事をしながら、ヴィクトルはおもむろにピアノのほうに向かった。フライトで浮腫んだ手をグーパーさせて、ニヤッと勇利のほうを見る。まさか、と勇利が思うと案の定、ヴィクトルはためらいもなく椅子に座り、鍵盤に指をあてた。「覚えてるかな」と言って一瞬だけ笑うと、すっと、小さく音を奏で始めた。
「!!」
 柔らかな和音。繊細に続くピアニッシモ。開始3秒で誰もがわかる、ドビュッシーの代表曲だ。勇利は思わずぽかんと口を開いた。「覚えてるかな」なんて言いながら、まるで昔から何度となく弾いてきたように、淀みない旋律が続く。流れるような静かな情緒。ピアノに向かうその姿すら普通に様になっている。驚きすぎて、勇利は声も出なければスマホで貴重なシーンを残そうとすら思いつかなかった。それで十数小節が過ぎ、曲調が変わり始めたあたりでふっと、フィギュアスケート王者のピアノ演奏が突然止んだ。
「この先は忘れちゃった」
 勇利はきょとんとヴィクトルを見つめたまま、そういえば、この人はフィギュアだけでなくサプライズだけでなく “何においても” 天才だったことを今更ながら思い出す。当のヴィクトルは使い終えた両の手をぶらぶらと振りながらピアノから立ち上がると、たいしたことは何もしていないような顔で「さ、そろそろ搭乗口のほうに行こう」と促して歩き出した。
「ちょっと待ってうそでしょ。全然知らなかった。なに今の!!」
「あはは、驚いた?」
「驚くよ! ていうかヴィクトルがピアノ習っていても不思議じゃないけど、いきなりあんなふうに弾きだすとか……! しかもすごくうまいし!」
「いや、習ったことはないよ。弾けるのもあれ一曲だけ。上手いのかな、それはちょっとわかんない。人前ではじめて弾いた。しかも何年ぶりだろ、体ってやっぱり覚えてるもんだねぇ」
「……??」
「あ、ごめん嘘。人に教えてもらったから独学っていうわけではないし、その人の前では弾いていたね。なんかこれが、俺っぽいとか言って」
「ドビュッシーが?」と聞こうとして、“Debussy”の正しい発音がわからなくて勇利は別の質問をした。「誰に?」
 ヴィクトルは五、六歩分の間をおいてから、一人何かを思い出したかのような笑顔を作って、勇利のほうは見ずに答えた。
「それも、忘れちゃった」
* * *
 飛行機はまもなく目的地に到着する。帰路。窓から見える我が街の夜景。夜の暗闇から見下ろせばそこそこ過剰にも思える、無数の光がきらめいている。めずらしく眠らなかったヴィクトルは、ぼんやりと考える。この明るく輝く街の一体どこに、月の光が届く余地などあったのだろうかと。
* * *
「……ちょっとベタ過ぎ」
「そう?」
「それにスケートじゃわりと定番なんだよね。このプロなら掃いて捨てるほどある」
「そこに新しい解釈を見出してこそ天下のヴィクトル・ニキフォロフなんじゃないの」
「曲が有名すぎてイメージが先行しすぎる」
「ふうん」
「そもそもこんなロマンチックなイメージを持たれていたとは思わなかった!」
「怒らないでよ。ヴェルレーヌは読んだ?」
「読んでない」
「読んだら。この曲のもとになった詩がある。なんで君っぽいって言ったかわかると思うよ」
 そう言って、男は息をするように自然な手つきで曲の一部を弾いてみせた。その謎かけのような、いかにも年上らしいすかした態度が、ヴィクトルはどうにも悔しかった。
「この曲では滑らない。代わりに弾く! 教えてよ」
「君がピアノを?」
「できないことをしてみれば “新しい解釈” とやらが見えるかもしれないだろ」
「あはは! でも滑らないくせに。いいけど、プロのレッスンは高いよ?」
 ヴィクトルは男の座るピアノスツールに無理やりまたがると、体をぐっと寄せてにじり寄った。かき上げていた今よりも長いシルバーの前髪が、わずかに落ちて相手の顔をくすぐった。
「対価なら払うよ」
***
 ヴィクトルがシャワーを浴びている間、勇利はスマートフォンで例の曲を検索した。空港で彼が話した「俺っぽいとか言って」の部分を、そしてその後の小さな沈黙を、あの場では聞き流しつつもやはり気にしていたのだ。曲は何度も聞いたことがあるし、情緒的美しさという点ではヴィクトルらしいというのも理解できた。でもたぶん、「誰か」が言わんとしたのはそういうことではない。その程度の勘なら彼にも働く。
 検索をたどっていくと、曲のもとになったという一編の詩にたどり着いた。読み始めようとしたところでヴィクトルが寝室に戻ってきたので、別にうしろめたさはないけれど、なんとなく勇利はスマートフォンをシーツに伏せた。
「なんであの曲だけなの」
「え? ああドビュッシー? うーん、なんだろ。なんか一通り弾けたら満足しちゃったのかな。別に他に弾きたいと思う曲もないし」
「でも普通に弾けてたから、他の曲も練習したら引退後の趣味になるじゃん。スケート以外のこと見つけないとあっという間に腐るよ僕たち」
「きついことを言うね勇利は」
 ベッドに入ろうとするヴィクトルの、まだ少し濡れたままの毛先をなんとなく眺めながら、勇利はほんの少しだけ試す気持ちを含ませてこう聞いた。
「……Yuri on Iceとか」
 バッと勢いよく、突然ヴィクトルは勇利に覆いかぶさった。急な反応に驚いた勇利の顔を挟むようにシーツに両手をつくと、目を輝かせながらにやっと笑う。
「絶対に弾かない」
「なんで!」と返す勇利の口に、ヴィクトルは容赦なく唇を押し付けた。抵抗する体をねじ伏せ、やけに嬉しそうにキスをしまくる。
「ちょっともう! なになになに!」
「あはは! だって勇利が変なこと言うから!」
 そう笑いながらヴィクトルはごろんと勇利の隣に身を転がすと、それからぎゅうっと恋人を抱き締めた。弾いてと言ったのだ。この男は。自分が弾くのではなく、ヴィクトルに弾いてと。あの曲を。
「勇利、あのね、わかってると思うけど一応言うね」と、今度は優しく、相手の��に口づける。
「YURI on Iceだよ。二人でつくったプログラムだけど、あの曲は俺のものじゃない」
「僕はヴィクトルの曲だって滑りたい」
「かわいいね。だけど勇利を知る方法なら他にもあるから」
 指がゆっくり腹筋をなぞる。滑るだけならヴィクトルには容易いだろう。弾こうと思えば形にもなるだろ��。だけどそこから見える景色は、もう彼には必要ない。その中にたしかにいる自分を、ヴィクトルはもう十分にわかっている。納得のいかない悔しげな顔を見せる年下の男を、ヴィクトルは裏表のない幸福感をもって抱きしめ続けた。
 あの曲は、勇利が奏でなければ意味がないのだ。
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yoml · 5 years
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海岸にて
  その日は朝から穏やかに晴れていて、水色の空を鳶が静かに泳いでいた。上昇気流に乗って羽ばたくことなく上へ上へと昇るその様は淡々と優雅で、かつ無力でもあり、朝に見たその光景は昼を過ぎてスケートリンクを出たときも相変わらずこの街の日常だった。
  ほとんど祭りのようなシーズン最後の国際大会が終わって、その足で俺たちは長谷津に戻った。取材だのイベントだのと次から次へと入る依頼を片っ端からこなしたのは、身勝手な熱意を許容してくれた街の人へのお礼でもある。桜というのはこんなにも咲き乱れるものなのかと思ってからちょうど一年。名前すら知らなかった遠い東の小さな町が、自分のこれからを決定づけた。適度に湿った晩春の空気が、もはや肌に心地良い。
「家に荷物置いたら、少し出かけたい。用事ないよね」
 手ぶらでいいよと彼が言うから、スマートフォンと紙幣だけをポケットに入れて外に出た。車のない俺たちの行ける範囲は限られていて、ここにいる間の行動範囲は極めて狭い。駅のほうへと歩く彼についていく。乗り慣れた電車を待つ。
「二駅……や、三駅だ。すぐ降りるよ」
 いつも通り過ぎるだけの数駅先の隣町で下車。グーグル・マップで道を確かめてから「十分くらいかな」と歩きだす。閑散とした町。低い家々。コンビニが一軒、あとは取り立てて何もない。平日の夕方。海のほうに夕日が見える。「あそこから行ける」と、小さな防風林の合間を縫って海岸に出た。
「前に人に連れてってもらったんだけど、ここなら知り合いやお客さんとも会わないから」
   人って誰? そう聞き返しそうになって、だけどなんとなく聞かなかった。二人以外には誰もいない。波の音すら静かに響いている。
   遠くのほうに人影が見えた。たぶん向こうが海水浴場になっているのだ。足元に転がる砂まみれの松ぼっくり。広がる景色は、だけど彼の実家近くの海岸とそんなに変わらない。淡い夕焼けだった。昼間の青の彩度をそのまま落としたような空にぼんやりと小さな夕日が浮かび、その色が素直に波を照らしている。癖のようにスマートフォンを取り出して、写真を撮った。
「勇利」
 名前を呼ぶと、数十メートル離れたところで彼が振り向く。腕がなめらかに弧を描いている。ふとした瞬間、無意識の動き。今シーズン、何度も滑ったあのプログラムが彼の体に染みついているのだろう。画面をタップしてピントを合わせようとすると、「いいよこんなの」と踊りが止む。代わりにやたらと大きなシャッター音が、タイミング悪く海に響いた。
「ブレた」
「僕の写真はいいよ。夕日撮れた?」
「うん」
「見せて」
 横並びになって画面を向ける。腕に勇利の体がぶつかる。慣れてしまった、この距離感。
「インスタに上げるなら位置情報外してね」
 ぼんやり写真を眺めたまま、頭をこちらにゆだねてくる。温泉のにおい。家を出る前に湯を浴びたのだ。腕の位置を少しずらして、彼の腰元を軽く抱く。
「勇利の秘密の場所なんだ?」
「僕のっていうか、内緒にしたい」
 そう言うとぱっと体を離すから、正面から抱きしめ直そうとした俺の体がむなしくバランスを崩した。
「ヴィクトルそろそろお腹空かない?」
「福岡まで行っちゃう?」
「うーん、どうだろ……帰りが面倒」
「じゃあべつのところ」
「なにもないよこのあたり」
「帰る?」
「うん。でももう少し、あれが沈むまで一緒にいたい」
 いよいよ堪えられず、勇利の腕を掴んで引き寄せた。片方の手でその顔を包み、親指で頬骨を何度かなぞる。それからおとがいへ。軽く押すと唇がかすかに開く。わかりやすいこの仕草。眼鏡越しの目は、だけど驚いてはいなかった。じっとこちらを見つめている。その視線を無視するように、ゆっくりとキスをした。海風に少しだけ冷やされた皮膚。湿り気を帯びている。
「内緒がいい?」
 囁くようにそう聞いて、答えがないのをいいことに、もう数回口づけた。隙間で感じる春の潮、その匂い。あたりはすっかり暗くなっている。寂しさの帳が引かれたようだった。
「帰ろう、勇利」
 来た方向をそのまま戻る。海岸を出る直前、勇利の細い脚が俺の膝裏あたりを軽く蹴った。振り返っても目を合わせようとしない。途端に得体の知れない満足感がわきあがる。誰も知らない二人のこれからが、沈む世界をきっと飲み込んでしまうだろう。これでもかと羽を広げ、春の上昇気流を掴むのだ。
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yoml · 5 years
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融点
(文庫の最終章Seasonから、冬の話。tumblrでは未公開でしたが、唐津で海の写真を撮ったので、思い出してこちらにもUPします。)
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    ヴィクトルの寝室には一枚の大きな写真が飾られている。サンクト・ペテルブルクからは随分離れた、深く真っ青な異国の海。競技人生を放棄したあの年、勢いに任せて渡った日本の片田舎。若くもない選手のコーチになるという捨て身の決断は、天才にだけ許される冒険であり、くだらないゴシップの恰好のネタでもあった。それを面白がったロシアのメディアが、あるとき長谷津まで取材にやってきたことがある。取材自体は予定調和で終わったけれど、そのときカメラマンがサブカット用に押さえていた風景写真がそれでもヴィクトルは妙に気に入って、撮影後、スタッフに頼んでデータを送ってもらったのだ。帰国すると引き伸ばせるだけ引き伸ばしてプリントし、寝室の壁は海になった。
 その写真を見るのが好きだった。  カーテンの隙間からさす朝日が写真に注がれている様が好きだった。暗闇の訪れない白夜の夜、部屋で静かに写真を眺める時間が好きだった。腰のあたりに恋人の重みを感じながら、肩越しに覗くその海が好きだった。冬が来ると、寝室の写真はいささか滑稽さを感じるほどに存在感を放った。外が氷点下になろうと、ネヴァ川が氷で覆われようと、写真の中の海だけはいつも穏やかに夏だった。   この海を見ながら育った元教え子がなぜ氷上の競技を選んだのか、ときどきヴィクトルは不思議に思う。  そして彼が今、なぜこの国にいるのかも。
 うんざりするほど厳しく美しい真冬のサンクト・ペテルブルクを歩きながら、あるとき勇利はヴィクトルにこう言った。 「やっぱりあなたにはこの街が似合うね」  その台詞を、長谷津の海を見るたびになぜかヴィクトルは思い出す。自分を作り上げたのは、紛れもなくロシアの氷だった。それでもなお、彼には確信があるのだ。  俺の中に、この海がある。  それはちょうど、勇利のしたたかな野心の奥に、白銀のペテルブルクが眩しいほど輝いているように。
***
 形の変わった足をなぞって、そのまま真っすぐラインを上に。膝裏を掴んで勇利の脚を、何よりも大切なその脚を持ち上げ、肩にかける。上体を寄せる。理性が飛びきれば楽なのに、飛びきらないから疑問符が浮かぶ。こんなことは正しいのだろうか。自分たちを突き動かす熱の正体が、分かるようで分からない。効きすぎたセントラルヒーティング。途端に湿り気を帯びるシーツ。嗅ぎ慣れた汗と性のにおいが強まる。相手の肌にほとんど口をつけた状態で、堪えきれない息をはっと漏らすと、その熱に勇利が「ぬっか」と笑った。どこかまるい、日本語の響き。次第に二人の頭が火照って、思考と感情がどろどろに溶けさえすれば、あとはもう愛おしさしか残らない。だからそれまで、早く。  体勢を変えると、ヴィクトルは視界の隅で、間接照明に照らされた壁の海を見た。二重窓に閉ざされた寝室の中、貪るようなキスを交わして、冬が溶けていく。
***
 肌を重ねた直後の熱を放出しながら、二人は今、互いの体温を静かに感じ合っている。抱きかかえた腕の中、湿った黒髪が唇に触れては、くすぐったさに顎を揺らす。そうした小さな歯がゆさが、二人にはいつも付きまとう。今の状況をとりまくすべて、立場だとか体力だとか、情熱、情愛、それらがいつまで続くのかわからない。圧倒的な現実の中にある、救いようのない現実味のなさ。確かめたいのだ。何度でも、何度でも。セックスを神聖視するつもりなんてさらさらなくても、それでもヴィクトルはこう思わずにいられない。求め、明け渡し、分け入って、互いの奥にある自分を痛いほどに実感する。混じり合い、ひとつになるような錯覚の中で、根拠のない自信が湧き上がる。二人なら、どこへでもいける。二人なら、すべての季節を超えられる。凍てつく極寒の冬さえも、つまりは自分自身さえも。
 深夜のペテルブルク。寝室の確信。勇利が小さな欠伸をもらす。彼らなりの、彼らにしかできない、世界にむけた優雅な挑戦。
 冬が過ぎても季節は続く。絶え間なく打ち付ける波を乗り越え、かたい氷を熱で溶かし、やってくる新たな季節を飽きることなく祝福しよう。
   もうこの先、二人の足が止まることなどないのだから。
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yoml · 5 years
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小さな牙
 必要以上にかけられた力に、勇利は小さな怒りを感じ取った。手首を抑えられている。解けないほどではない。だけど腕に力が入らないのは相手の口を追うのに必死だからで、噛みつくようなキスに抵抗、いや、対抗するように、唇に齧り付く。唾液が口の端から頬を伝った。苦しさに一瞬顎を引くと、すかさず相手は勇利の首元に口を移す。「いっ……た!」 思わず日本語で声を上げた。
 ヴィクトルはそんな声には一切構わず、勇利を、四つ年下の華奢で勝気なこの男を組み敷いたまま、剥き出した牙を少しずつ下へと降ろしていく。その体の移動に合わせ、手首を抑え込んでいた彼の手は勇利の腕の動脈をなぞり、肘裏を通過し、上腕の筋肉を滑って、脇のくぼみに触れたかと思うと、一気に背中とシーツの間に滑り込み、胸をぐっと引き寄せた。熱い舌が勇利の乳首を弄ぶ。自由になったはずの手を使う間も無く、勇利から変に高い声が漏れる。痛みと快感の判断がつかないまま、勇利は行き場のない両腕をヴィクトルの首に回して抱きついた。ふっ、と、一瞬牙から息が抜ける音。必死なようでも、笑っているようでもあった。いずれにせよ、愛撫というには乱暴すぎる。
 ベッドに入って裸になってから、それなりに時間は経っていた。言い様のない苛立ちともどかしさが、すべての動きから見て取れる。ベッドサイドに灯るキャンドルの香に混ざる汗のにおい。シーツはひどく依れ、二人分の脚の動きでほとんどベッドから剥がれていた。
       「そのあとはどうするの」
   言葉がないまま次の動きを探り合っている。ヴィクトルの腕が勇利の腰から腿へと流れ、その脚を掴み、とっくに立ち上がった硬いペニスにもう一方の手が触れようとしたその段階で、だけど勇利は確かな拒絶を見せた。体を起こし、ヴィクトルの脇に腕を入れると体を無理矢理上へと引き上げる。「こっち」 ヴィクトルはしぶしぶ体勢を起こす。「されたくない?」「僕が先にする」「子豚ちゃんは口寂しいんだ?」キャンドルの揺れる灯りの影から、勇利が下げかけていた頭を起こしてきっと睨む。「はは、噛みつきでもするの」 ヴィクトルは笑みを保ったまま、勇利の黒髪に優しく手を差し込むと、自分のそこへぐっと寄せた。
「噛んでよ」
  それは半分くらいは本心だった。噛まれてもいいとヴィクトルは思った。あるいは噛んでやりたかった。どっちでもいい。
 受ける側になるのはさておき、自分が口でするなんて勇利とセックスをする前のヴィクトルにはあり得ないことで、相手を気持ちよくさせたい気持ちはあっても咥えること自体はヴィクトルにとって本質的に苦痛だった。それが勇利には、当てはまらなかったのだ。理由はわからない。怯える腰を掴んで初めて彼のペニスに口付けた時、勇利以上に震えたのはヴィクトルだった。嫌悪なんてどこにもなかった。なんでもできる、そう思った。なんでも。
       「もし俺が違うことを望んだら――」
   だけどもちろん、そんなところをお互い噛みも噛まれもしない。口に溜めた唾液をペニスの先端にまっすぐ垂らし、人差し指で全体に塗りたくる。手で数回しごいた後、先から裏筋まで、舌で執拗に舐め回す。吸い上げては深く咥え、飲み込み、不器用ながらもそれを何度か繰り返すと、勇利は喉の奥に苦い味が広がるのを感じた。ヴィクトルが声を漏らすとたまらない。荒くなる息。呼吸が苦しい。小刻みに動いていた腰がひときわ高く持ち上げられると、勇利の喉にぐっとペニスが押しつけられた。くらっとする、した、と思った瞬間、だけどヴィクトルはもう一度黒髪を掴むと、勇利の口を自分のそこから引き離した。「だめ、いく」「いってよ」「やだよ」「なんで」ヴィクトルの手を振りほどいて、勇利は唾液でぐしょぐしょになったペニスを再び遠慮なく握った。「勇利!」「一回出したら後ろもしようよ、ね?」
 とはいえ体格差には勝てないのだ。ヴィクトルが完全に力任せに勇利の体を押し退けると、あっさりと立場は逆転した。両手首をまたしても掴んで押し倒す。「はなして」という台詞を聞かないふりをして、ヴィクトルは顔をぐっと近づける。口が触れるぎりぎりの距離。唇から声の振動が伝わる。「ねえ俺いやって言ったよね?」いつもより声が低い。「噛んでもくれなかったし」ねっとりと、ヴィクトルの舌が勇利の唇をなぞる。その遅すぎる動きがいけない。かろうじて保っていた正気の抵抗心を、ゆっくりと閉じられていくような感覚になるのだ。ひとしきり唇を舐め切ると、今度は吸い付くようなキスが来る。舌と舌の、唇と唇の、冗談と本気の境界がわからなくなる。一気に脳に熱が回って、勇利は背筋がぞくぞくした。人の生っぽい、体の奥の方の味がする。ヴィクトルの、熱を持った男の、味。
       「勇利はどうする?」
   ちゅ、とは程遠い不恰好で卑猥な音を立てて、ヴィクトルは執拗なキスからようやく唇を離した。それから無言でベッドサイドの引き出しを開けてコンドームを取り出すと、ベッドの上に放り投げる。ジェルのポンプを乱暴に押す音。ぞんざいな動作が続く。コンドームを手に取った勇利の肩をトンと押して再び寝転ばすと、その上に跨がった。左手で勇利の腹のあたりを抑えつけ、右手でコンドームを奪う。口で封を切る。自分のじゃないペニスに被せる。過剰なローションはすでに溢れて腿を伝っている。勇利はもう完全に無抵抗だった。お互い何も聞かないし、確認しない。狭いその入り口を感じたと思った直後、圧倒的な快感が下半身を駆け抜ける。ほとんど同時に声をあげた。オレンジの光。肌を伝う汗。堪え切れない声が続く。たぶんまだ痛いはずだと勇利には分かった。その痛みに、だけど勇利は遠慮しない。ヴィクトルの動きを全身で受け止め、両手でその締まった腰を掴む。汗で束になった髪がはらりと落ちてヴィクトルの顔を隠してしまうと、興奮と愛おしさで気が遠くなりそうだった。はっ、はっと重たい喘ぎを漏らしながら、ヴィクトルがその美しい体をひときわ激しく弓なりに反らせた。合図はいらない。言葉も出さない。本能のリズム、の一瞬のずれ。熱。とぶ。同時に、白く――
       「日本に帰る?」
    馬鹿みたいなキスを繰り返しすっかり腫れあがった唇を、それでもまだ二人は求めた。重ねるだけの力ないキス。湿り気を帯びている。脱力する体の重さを相手に預けて、ベッドに倒れたままいつもの恋人のように抱き合った。愛の言葉のようなものを口にしそうになって、��時間前の会話をふと思い出し、二人はそれをだまって飲み込む。代わりに勇利はヴィクトルの肩に、静かに、だけど強く歯を当てた。剥き出し切れない小さな牙。勇利を抱き締める腕に一瞬だけ力が入る。爆発しそうな愛おしさと離しがたさを苛立ちに変えてぶつけ合い、一通り終わればだけどそれで十分だった。
 これ以上大事なものなどないような手つきで、勇利は銀髪を丁寧に撫でる。汗で湿った襟足のあたりを指でくすぐり、そのままフェイスラインをなぞって、ほてった頬を右手で包む。顎骨の下、ちょうど薬指が当たるあたりを軽く押す。そこにヴィクトルの動脈がある。
「ヴィクトル、さっきの」
 指先から伝わる血流。青く濡れた目が勇利を見た。
「今度言ったらほんとに噛むよ」
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