Tumgik
setochitose0830 · 10 months
Text
ちょっと前に『文明交錯』を読んだ
日記と銘打っているが最後に更新したのは1年前である。
ひと月くらい前に読んだ『文明交錯』(著:ローラン・ビネ、訳:橘明美、出版:東京創元社)のことを、まだよく思い出している。その間に「古代メキシコ展」へいったからかもしれない。フランシスコ・ピサロたちコンキスタドールに滅ぼされたインカ帝国が、逆にスペイン、ひいては西欧を征服してゆく架空の歴史小説。ページをめくる手がずっととめられず、溺れるように読んだなあという歓びがあって、前にそういう読み方をしたのは『テスカトリポカ』『プロジェクト・ヘイル・メアリー』あたり。2023年の上半期でいちばんよかった作品としてまっさきに挙げるし、たぶん下半期でこれを超える作品に出会わないだろうという予感もある。
まさしくそのテーマについて書いていた本を思い出して、大学生の頃に一読した『銃・病原菌・鉄』(著:ジャレド・ダイアモンド、訳:倉骨彰、出版:草思社)を読み直した。1部3章「スペイン人とインカ帝国の激突」で、コンキスタドールがインカ帝国に比べて少数にも関わらず滅亡に追い込めた直接的要因に銃器・鉄製の武器、騎馬などにもとづく軍事技術、ユーラシアの風土病・伝染病に対する免疫、航海技術、集権的な政治機構、文字を持っていたことを挙げている。『文明交錯』はどの地点での歯車がずれたらそれらの要因が排除されて史実の結末が変わってゆくか、そしてその結果がどうなってゆくかを4幕構成で描く。バタフライ効果の鍵は10世紀のアイスランド。
ヨーロッパで初めてグリーンランドに入植した赤毛のエイリーク、その息子の幸運なるレイフがアメリカ大陸に到達したとされる「グリーンランド人のサガ」をもとにして、レイフの妹であるフレイディースを中心に据えた1幕が始まる。富と名誉を求めてヴィンランド(かつて存在した北アメリカの土地)を目指したフレイディースは「グリーンランド人のサガ」によれば旅のあとでグリーンランドに戻ってくるが、作品内ではアメリカ大陸を陸沿いに役畜を伴ってどんどん南下する。ニューイングランドあたりから出発し、後年インカ帝国が勃興するペルーまで多くのスクレリングたちと交流しては製鉄技術や有輪鋤についての知識を与えたり、トウモロコシの知識やココアを与えられたりするが、彼らは必ず伝染病によって亡くなってゆく。そのたびルーン文字で墓標を刻み、置き土産として何頭かのつがいの家畜を各地で残す。それが結果的に、スクレリングの子孫たちが馬にまたがり鉄の武器をたずさえ疫病に免疫を持つこととなり、その約500年後の2幕でキューバへやってきたコロンブス撃退につながる。捕虜としたコロンブスからカスティーリャ語や「外の世界」への航海地図、そして胸で十字を切る〈磔にされた神〉のことが伝わり、そうやって舞台が整備されたところで(史実では)インカ帝国最後の皇帝アタワルパが登場する3幕がはじまる。ここまでのところで全体の5分の1くらい。
全4幕は順に、サガ、コロンブス航海記、年代記、セルバンテス風の小説と書きざまも登場人物も視点も変わっているのでぜんぜん飽きない。史実との絡め方も非常に巧みで、16世紀ヨーロッパといえばルターの起こした宗教改革の時期。アタワルパたちの信仰は太陽教と呼ばれるようになるが、ヘンリー8世がアン・ブーリンと結婚するためにイングランド国教会ではなく太陽教への改宗を進めたり、ドイツ農民戦争で掲げられた農民の12ヶ条要求を太陽教はどう呑んだかなどおもしろかった。
恥ずかしながら国際情勢に疎い。職場ではずっとラジオが流れているのでそのたぐいのニュースを耳にしない日はないのだが、なんらかが話題に挙がればその場でちょっと調べ、なんとなくわかった気になりすぐに忘れるをくり返している。あるとき、これじゃよくないよなと衝動的に思って、西欧を中心に歴史とか文化や技術の流れについての書籍を読むようになった。去年の今ぐらいの時期から始めたのでもう1年くらいになる。知識をどかどか詰め込みたいタイプの性格なので、どうやらけっこう向いているっぽい。こちらの視点ではああだし逆側からだとこうだしとか、ぜんぜん関係ないと思っていた事柄が、とある地点で急につながると昂ぶったりする。ほとんど電子書籍で買っているので、いざ開いてみて難しいから今じゃないというタイトルもたくさんあり、いろいろ回り道をしてから戻るとすんなり文章が入ってくることもある。その瞬間がいちばん楽しいかもしれない。そういうようにして、ここ1年で読んできた諸々の、現時点で出された中間テスト的な作品が『文明交錯』だったんだと思って嬉しくなったりもする。でもなー、電子書籍のよくないところってページ数と行数がわからないんだよな、仕方ないんだけどそこだけが難点だ。
「ある人々は雷神トールの娘で太陽神によって遣わされたという〈赤毛の女王〉の古い伝説を思い出し、思わず太陽に向かって礼拝した。」 「タイノもインカも、数多の神々の一人としてトール神を崇めていて、しかもどちらもこの神の起源を知らなかった。」
4 notes · View notes
setochitose0830 · 2 years
Text
BLコミックプレゼン作品たち
先日、BL漫画のプレゼン大会が催され、私も参加した。
BLコミックに関して私はズブの素人である。開催までのわずかな間にいくつか読んだとて歴戦の戦士たちとは並ぶべくもないだろうから、いっそ開き直って当日に書店へ向かい「この装幀は力(リキ)が入ってんね!」と思った作品を選ぶことにした。
仕事でTLコミックを担当する際BLコミックの雰囲気や方向性のデザインを求められることも多かったし、なによりデザインでおまんまを食べているので、これなら自分なりのプレゼンができるだろうと思ったからだ。もちろん見た目の派手さだけがすべてではないし、内容に即したデザインかどうかは買った上で中身を吟味しないとそのものの良さを語れないし、そもそもイロハや作法もわかっていない状態で面だけで選ぶというのはあまりにも浅はかであったと完全に反省してます。みなさん許してくださり本当にありがとうございます……。
ということで「この装幀は力(リキ)が入ってんね!」と思って書店で買った3作。どの作品もちゃんと読んだがひとまず当初のコンセプト通り装幀に触れる。解説というより自分用のメモ代わりです。
『春懸けて、鶯』那梧なゆた
NUUDE COMICS/東京漫画社 Art Direction/Design 楠目 智宏(arconic)
Tumblr media
CMYK+蛍光イエロー+UVインクの6C 加工はグロスPP。共刷りっぽいので帯もグロスPPでテカテカ。蛍光イエローと黒い筆跡部分はUV鬼盛り。シュリンクが掛かった状態でも(ちゃんと盛り上がってるな〜)がわかる。UVはよく使う加工方法だがたいてい表1と背で、袖側まで使うのはあんまり見ない気がする(担当した作品だとヲタ恋はそうだったがこんなに鬼盛りじゃなかった)し、折り部分にくるとUVが割れるかもと避ける傾向にあるが強気に背渡し。なによりバーコード横の定価部分もUVが乗ってるのは本当に初めて見た。こんなことできるんだ。 特徴的な筆文字のロゴタイプはモリサワの【うたよみ】がベース。「懸けて、」はフォントママで「春」と「鶯」は筆のかすれや勢いが付け足されている。重版版しかなかったので帯は重版の文言だが、(ネットで検索した)初版の方がコピーとカバーイラストが合致している感じがしてかっこいい。重版は帯にUV加工は為されていないが初版だと違うんだろうか。ネットで書影を見るとくっきりしたイエローでたしかに目を引くが、やっぱり本領は鬼盛りUVだよな〜という感じ。ブツで欲しいやつだ。
『2ndバージンのじょうずな育て方』ずんだ餅粉
DEAR+ COMICS/新書館 Design 記載なし
Tumblr media
CMYK+蛍光イエロー+特色金(DIC620系の青金)の6C 加工はマットPP。蛍光イエローの英字をオーバーレイとかでノセにして、絵柄の色差が黄色に浮く感じ。その上に金。よーーーく見たら版ズレしているのでちょっと悲しい気持ちになる。私も金色を使うとき気をつけよう。でもやっぱり蛍光イエローと金は豪華に見えるね。金色の発色はどうしても液晶で見ると茶色に見えるので、実際に手にして角度を変えてその繊細さがわかる。ブツで欲しいやつだ。
ロゴはモリサワ【A1明朝】をパスのオフセットで細くした、TLコミックスのロゴでも非常に参考にしたタイプ。読めない前提でガンガンロゴを断ち落としにして飾り的に見せつつ、読めるタイトルを小さくサラっと入れる流行りのやつ。あと、いつのまにか帯を紛失していてショックだ。加工や紙質はちょっとわからないけど、ネットで見る感じ、マゼンダがちょっと入ったイエロー(特色で2C刷りかも)のカラーはカバーの繊細な感じと真逆の力強いイメージでかっこいい。傾向イエロー、青金、マゼンタ混色のイエローが黄色系、帯の黒地とタイトルに使われている座布団の黒が統一感をある。なくしたのショックだ〜!デザインが記載されてなくて残念。
『ボーイミーツマリア』PEYO
Conna Comics/フランタン出版 Design YASUHISA KAWATANI(kasatanidesign)
Tumblr media
CMYK+蛍光ピンク+緑系特色の6C プレゼンの際は意気揚々と緑は特色じゃないなど言ってましたが完全に緑が特色です。私の目は節穴……。加工はマットニス。風合いのある用紙なのでニス加工でもちょっと手触りが残っている。さすが少女漫画メチャつよの川谷デザイン、帯にカバーのイラストを使うのではなく、トレーシングペーパーを使って文字を載せつつ、透明感を物理的に解決しつつ、表1の時点で物語が浮き上がってくる見せ方。表4も花瓶を隔ててわずかに色のトーンが違っているのもいい。PEYOさんと川谷さんの互いの領分がどこまでだったかはわからないが、本当にこういう仕事をしたいものである。 ロゴタイプのフォントはゴシック系で、尖ったウロコが特徴的だがちょっと普段使うフォントではないのでよくわからない。方向としては先ほどの『2ndバージン』と似た感じ。全体的にポップな色使いなので色が外に広がりすぎそうなところをタイトルの「ボーイミーツマリア」「PEYO」「Boy meets Maria」、帯の「演劇部のマドンナ。彼女は、男でした」のゴシック体に使われている黒が引き締めている。少女漫画雑誌でもよく言われる“墨単色は誌面で強すぎるが使わないと散らばってしまうので要所を抑えて”が反映されていて勉強になる。帯は重版用。ピンク系の特色でさらっと入れていて、そもそも読める必要はないので(特にこの作品だと表1に付帯情報を入れてしまうと雰囲気そのものが崩れると思う)、これでいきましょうで通せるデザイナーも理解のある編集者もこの作品の方向性を本当にわかってる……と感動してしまう。
あと、作品を選ぶ際、もしかしたら顎が尖っていて気怠そうに笑う顔のいい男が好きなのではという気づきがあった。もちろん「この装幀は力(リキ)が入ってんね!」で選んだのだが、無意識にそういう作品の方が長いあいだ吟味していたような気もする。今回のプレゼンで紹介いただいた作品はひとまず電子で(電子ですみません……)購入したので読んでゆくぞ〜です。 学生の頃はこの作品おもしろい!や読んで!を紹介したりされたりがごく当たり前だったのが、そういうやりとりからずいぶん遠ざかってしまって、久しぶりに熱量のある作品紹介を聞いてひとりでグッときてました。これが好き!って会話をするのが好きだったんだよ〜。なのでみんな好きな作品をどんどん教えてくれ。ひとまず対戦ありがとうございました〜!
2 notes · View notes
setochitose0830 · 2 years
Text
『咒 Incantation』観た
台湾のホラー映画『咒 Incantation』を観た。とてもよかった。 最近は台湾をはじめ、韓国やタイのホラーも活気付いており、ゴースト系のホラーといえばジャパニーズ!みたいなイメージはもうずいぶん昔のように思える。『女優霊』や『リング』『呪怨』も四半世紀近く前のことになり、もはやクラシックと呼ぶべき作品になってしまった。『回路』『仄暗い水の底から』もあったあの頃の栄華はいずこへ。
『咒 Incantation』を観ていたら、とある新しめの邦ホラーが頭に浮かび、最終的に構造は似ていたがアプローチの方法がまったく違っていて個人的に興味深かった。邦ホラーの方は、呪いという概念を擬人化させて(『リング』のようにルールを理解させた上で)こちら側に見せることによって「呪われたらこれがやってくる」を提示する、ある意味で見せ場が出来やすい造り。今や大名跡となった貞子や伽椰子をはじめ、古くは四谷怪談のお岩さんやら番町皿屋敷のお菊さんやら牡丹灯籠のお露さんたちが築き上げてきた、作品を象徴するキャラクターであれ!の流れを汲んでいるのかもしれない。一方で『咒 Incantation』は呪いそのものにフォーカスして「呪われたらこういう悲惨な目に遭う」を懇切丁寧にやるので(その座を整えるために精神的にグロテスクな状況は多々あり、かなり観ていてキツかったところはあれど)情緒がジェットコースターになるというよりもずっと暗い水底を最大出力で走り続けている感じ。まあどちらも最終的には死ぬんだけど。
こりゃ褒めの嵐やろな〜などと思ってFilmarksを眺めにいったら「まったく共感できず、音でびっくりさせるいつものパターンでした」をいくつか目にして、いよいよここまできたか共感の怪物!と身構える思いだった。共感って、誰にだ。母親? 母親にやむをえない理由があって、しかたなく土着文化へ突っ込んでゆくさまが見られたら「感動!わかる!」になるのか……? むしろ母親の子に対する眼差しは(決して褒められたものではないけれど)不誠実ではなかったように思えるが……。でもたしかにホラーにおいて日常の延長上に感じられるか、自分ごとにできるかは最重要のファクターだと思う。なので悪魔系に帰結する洋ホラーは、作り手が想像している恐ろしさの真髄にまでたどり着けていないんだろうな、なんて落ち込んでしまうのだが、『咒 Incantation』はずいぶんわかりやすい形で明示してくれたのになあ、と映画とは関係ないところで沈んだ気持ちになってしまった。
ホラー作品が好きな理由のひとつに、日常との線引きが曖昧になるから、がある。ホラーではないが、小川洋子といい川上弘美といい、日常と地続きのまま異界につれてゆかれる作品自体が好きなのだ。わずかに開いたカーテンの隙間や磨りガラスの向こう、点滅する夜の街灯、髪を洗うときに自分ではない指の感触、家にあるラベルの貼られていないビデオテープ……日常のあらゆるところに向こう側の入り口があって、それがぞくぞくする。『咒 Incantation』はそういう意味で底意地の悪い作品ではあった。べつに観てほしいと懇願するわけじゃない。でももし観るかどうか迷っている!という人がいれば、私も観たから大丈夫です。私も観たから。
0 notes
setochitose0830 · 2 years
Text
野良の占い師/改
飲み屋で一緒になった人が占い師だというので、手相を見てもらうことになった。年が明ける前、だいたい半年前くらいのことである。占いにかかったことがなかったので占い師という生業について純粋に興味があり、よくよく聞いてみたところ、彼女は占いの館などで働いていないどころか、そういう類の商売で生計を立てているわけでもなく、いまは修行として色々な人の手相を見て回っているらしい。要するに占いが好きな自称占い師であった。「近いうちに売れっ子になる」と豪語していたので、本当にそうなったら「いまをときめく占い師に手相を見てもらった!」と触れ回るつもりだ。見た目はハリーポッターに出てくるシビル・トレローニー(ホグワーツの占い学の教授)によく似ていたので、見た目の才覚はありそうだった。
とにかく、手相を見てもらう段になったので左右のどちらがいいのか尋ねてみたら「そんなのどっちでもいいよ」とのことだった。生まれ持った云々やらこれから掴む未来云々など、聞きかじった知識を頼りに口を挟もうとしたら、もういちど「そんなのどっちでもいいよ」と言われたので、しぶしぶ右手を出した。右手が生来か将来かは知らない。決して明るくない照明の下で、野良占い師はほんのひととき眺めては「とにかく自分のことをもっと認めて、もっと褒めてあげてください。上を見ても果てがないよ」と諭すように言われて、結局それで占いはおしまいだった。占い師がどこかへいってしまっても、無料だからそんなもんかと納得はしたが、でもそれって誰にだって当てはまるよな〜〜なんて思いながら私はへらへら笑っていた。まあたしかに言われてみたらあんまり自分を褒めていないのかもしれない。それからしばらくは、よくやってるよ〜〜〜なんて、とにかく手放しで甘やかしてみたのだけれど、本当にちっともしっくりこないのでやめた。
去年あたりから、デザインの依頼をされることが増えた。どういう経緯であれ声をかけていただけるのは嬉しい。作ったあれやこれを見てもらって、認められ、欲され、そうやって次に・その次につながってゆけば、自分で自分を褒める必要なんてないよなあ、と思い、でもそれって結局は他の人がいないとひとりで軸さえ決められないということでもあって、そもそも運がよくてそうやって恩恵に与れているのに、いやそれどころか、声をかけてもらわないと私がやっていることに意味なんてはたして……など考えてしまって、あーこのことか、と思った。そうやって見上げている果ては、どういうところを想像してるんだろう。たぶん考えてるふりをしてなにも考えてないんだろうな。 上の文章は4月のはじめあたりに書き、そのまま下書きにいれていたのが、あらためて読むと自分の感情を書くのがヘタすぎる。去年あたりで〜の文章が根幹になるはずのに、こんだけぐずぐずだったらそりゃ次はないって。『BALM』というアンソロジーに参加した際、2000字のエッセイを書く機会があり、大叔母の家で暮らした頃のことを書いた。先日、主催のオカワダアキナさんから丁寧な感想をいただいたのだが「アンソロでいろんな人のエッセイを読んでいますが、瀬戸さんは素を見せないですね。そこに風景はあっても人物はいない感じ。描写するところと隠すところの手さばきが興味深く、おもろかった」とのことで、それはエッセイとしてどうなんだろう……と思ったのと同じく、なるほどなあと納得してしまった。自分を文章上で出すのがつくづくヘタなのだ。たぶん自分自身をまるっと出して、否定されたり失望されたり離れていかれるのが怖く、かっこよく見せようとしすぎ、そうやってこねくりまわして、結局ふだん使い慣れた小説のような言葉遣いで距離感をつくってしまう。反映させるのはまるっとではなく段階を踏めばいい気もするが、たぶんその塩梅もうまくいかない。下書きに入れていた野良占い師のエピソードなんて、たぶん書き手によって色がすごく変わる題材だろうし、いくらだっておもしろおかしくできるはずなのだ。その上、肝心なところになると急にごちゃごちゃ言って要領を得ないし。「決して明るくない照明の下で〜」なんてしゃらくさい表現なんて使わずに、みんなみたいにウィットに富んだ文章が書きたい!あーそうやって書き足しているこの文章さえも!
0 notes
setochitose0830 · 2 years
Text
減ってしまったこと
曲がりなりにも書籍の装幀の仕事をしている身からすればまったく褒められた話ではないが、この仕事をはじめてから本屋へ足を運ぶことがずいぶん少なくなった。コロナ禍のため機会自体が減ったこともそうだし、それゆえに本格的に電子書籍を導入したことも本屋離れに拍車をかける理由だったけれど、べつにコロナ云々になる前から徐々に減ってはいた。本屋、ことさら漫画のコーナー、あるいはフロアは情報があまりに多くて気疲れしてしまう。そんないっぱしの口なんか効いて!しゃらくさい!自虐ふう自慢だ!と怒られそうだが、本当に疲れるのだから仕方ない。仕事のことを説明すると、目に留まった装幀やらよかったデザインを尋ねられることもあって、それ自体はぜんぜんいやではないのだけれど、たまに困ってしまう。尋ねてくれる人も目が肥えているので期待に応えられないかもしれないし、なにより、近々で出たばかりの本を挙げられることが少ないからだ(いまなら「少女☆歌劇 レヴュースタァライト」舞台版のコミカライズ『青嵐 上』です)。
働きはじめはそんなこともなかったし、本屋を訪れる回数は学生の頃よりもむしろ増えていたと思う。よかった装幀やロゴは、いくつも、すらすら挙げられた。それでも、いつか自分がここに並ぶものを作るようになったとき、すこしでもジタバタしないよう躍起になっていた。変わったのは、本当に単行本を担当するようになってからだ。
本屋に入って目当ての本を買い物カゴにいれると、せっかくだから最近のデザインをざっと見ておくかと気持ちが大きくなり、はじめのうちは、このデザインは素敵だなとかロゴの置き方がかっこいいな、などと思うのだが、だんだん自分の至らなさを突きつけられるようになる。もちろん、自分の手がけた作品のデザインがよくないとは思わない。そんな考え自体がそもそも作者に失礼だし、私自身もそのとき出来うるすべてを注いでいるつもりだ。無闇な卑下などまったく意味をなさないこともわかっている。それでも面出しされた書籍を眺めていると、もっといいデザインがあったのではないか、ふさわしい見せ方ができたのではないか、と不安になってくる。細々とではあるが小説を書いているから、デザインを任された原稿がどれほどの時間と労力で満ちているか想像してしまう。値するほどの仕事ができたのか、どうしても考えて、疲れる。「これ以上に最高のものなんてありえない」と自信を持って言えるのがプロフェッショナルなのかもしれないが、性格的に無理だと思う。たぶん。
こういうふうにつらつら書きながら、もしかしたら数年前はシュリンク(透明なビニールのパッキングのこと)が掛かけられた漫画が少なかったからかもしれないな、とも思った。時勢もあって仕方のないことではあるが、いまではほぼすべてにシュリンクが掛かり、意図していた演出効果や紙質、帯下の遊びなんかも見えなくなってしまった。シュリンクがあることを念頭にしながら作ってゆくと、どんどん要素を盛ってしまう。電子書籍みたいだと思う。紙の本は物質的な重量もあるし、裏を見ることも容易い。けれど、触れてはじめてわかる手触りのおもしろさみたいなものは、本当に減ってしまったし、それゆえに「いかにして目立つか」に重きが置かれていて(もちろん昔からいかに目立つかは命題であって、決して悪などではないが)、ニュアンスや趣向は二の次になっているものが多いように思う。思った。
こないだ本屋へいったとき、担当した画集が面出しされていた。かなりの時間をかけ、予算の都合上で妥協しなければならない点を除けば、あらゆる面で気合をいれて作った1冊だった。どうか売れてくれることを祈る。私の仕事が、作家が作家を続けるための手助けになっていることを祈る。
4 notes · View notes
setochitose0830 · 2 years
Text
黄色の家
かつて実家ではないところで3年ほど暮らした。大叔母が住んでいた家だ。大叔母は商店街の端っこでパン屋を営んでいて、2階建ての家は店舗と住居を兼ねていた。土間は作業がこなせるように広々とした造りで、天井が高く、夏場でも底には冷気が溜まっていた。1階の東側、道路に面したスペースが売り場だったようで、しっかりした造りのシャッターが付いていた。土埃で薄汚れていたが床にはかわいらしい模様なんかも入っていた。そこそこ人気のパン屋だったらしい。もっとも、私が暮らしていた頃、売り場は物置として使われていたし、覚えているかぎりシャッターを開けたところも見たことがなかった。大叔母の家は2階の、西日がさしこむ仏間以外すべて薄暗かったが、売り場は家のなかでもことさら暗かった。電球を灯しても光は隅まで届かず、むしろ、にじんだような暗がりが強調されるようでおそろしく、あまり近づかなかった。大叔母がその家で孤独に亡くなったと知っていたからかもしれない。
商店街には半円状の天蓋も付いていた。念入りに手入れをされていた頃はさぞ美しかったのだろうが、町から忘れ去られてからはただ雨風をしのぐためだけの屋根でしかなく、長い間ずっと太陽にさらされたせいで全体的に黄ばんでいた。大叔母の家も恩恵に預かっていたので雨風に困ることはなかったが、アーケードに踏み入れた途端に色が褪せたようにも思えた。白いはずの壁は淡い黄色を帯びて沈んでいる。そのせいもあって記憶のなかにある大叔母の家はずっと薄暗い。
商店街は当時でさえすでにシャッター街であって、大叔母の家を含め、隆盛の気配はまるで残っていなかった。商店街はそれなりの長さがあるのに、お隣の文房具屋、当時通っていた床屋、酒屋、書道教室、あとはブティックくらいしか営業していなかったように思う。あとはシャッターが降りたままか雨戸が閉められていた。もちろん人は住んでいたし、小さいながら駅も近くあったので人通りがないわけではなかったが、決して多いとはいえなかった。その頃はちょうど『千と千尋の神隠し』が公開されたばかりで、色褪せたアーケードは千尋のくぐったトンネルを思わせた。丸い形をした黄色い街灯はよく言えばレトロ、悪く言うなら古臭く、明け方までずっと商店街をぼんやり照らしていた。家の二階の外壁にも付いていた。丈の短いカーテンの裾から黄色い光が漏れていて、開けはなつと部屋中にくすんだ黄色が染みた。 商店街について調べる機会があり、久しぶりに大叔母の家のことを思い出したので、Googleマップで見てみた。越してからというもの、商店街のそばを通りがかった記憶もほとんどなかったが、かつて、かすかに残っていた商店街の面影さえきれいさっぱり消え失せていた。あまりにも見事だった。天蓋は撤去されて生のままの日差しが降りそそぎ、レトロな街灯はひとつを残すばかりで、あとはすべて現代風のものへ変わっていた。閉まっていた店々は取り壊され、代わりに立派な洋風の家が道の両脇にずらっと並んでいた。かつて商店街があったと言っても誰も信じないだろう。二軒隣の貸衣装屋と隣の文房具屋がまだあって、すこしだけホッとした。当然どちらも営業している様子はなく、ただ壊されいないだけだったが、それでも思い出のよすがとしては充分だった。今度、この商店街を思い出すときにはきっとどちらもなくなっているだろう。 大叔母の家は更地になっていた。いつだったか、叔父に権利を譲ったと聞かされてはいたのだが、叔父はまだ何も手をつけていないようだった。そのおかげでなんとなくの坪数がわかった。記憶の中よりも、ずっとずっと小さかった。あんなに広いと思っていたはずなのに、画面越しの敷地は狭く、ちっぽけだった。些細な暗がりに怯えていた私が大きくなっただけかもしれないし、天蓋が取り払われて黄色でなくなったからかもしれない。
2 notes · View notes