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#常滑やきもの散歩道
kyotomoyou · 2 years
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【愛知県】焼き物の街 . (2022/09/28撮影) . #焼き物散歩道 #焼き物の街 #焼き物の町 #やきもの散歩道 #やきものさんぽ道 #常滑 #常滑やきもの散歩道 #常滑観光 #常滑市 #愛知県 #旅行 #日本旅行 #国内旅行 #旅行好き #日本の旅 #日本の風景 #広がり同盟 (やきもの散歩道) https://www.instagram.com/p/CjFQRM9L1yN/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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shiyuanjq · 1 year
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20220902 Aichi Triennale Tokoname 7
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20220902 Aichi Triennale Tokoname 7 by Bong Grit Via Flickr: 尾花賢一さんのいちじく男。ここまで見に来る人は少なかった。 @Yakimono walk, Tokoname city, Aichi pref. (愛知県常滑市 やきもの散歩道 国際芸術祭あいち2022)
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kennak · 1 month
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私の祖父は今年亡くなりましたが、あなたはそれを知らないでしょう。   実際、彼はあなたがそうしないことを望んでいたのです。   レイ・ハレルは 1930 年代にカタルーチー渓谷で 8 人兄弟の末っ子として生まれ、ピューマを追い抜き、牛を山から追い落とし、借りたジープを衝突させました。そして 90 年後の 1 月 20 日、彼は音もなくこの世を去りました。   それが彼が望んでいた方法です。   墓石は見つからないでしょう。   葬儀には誰も集まりませんでした。   彼はここにいて、70年近く連れ添った妻と共有していたポーチに座っていましたが、その後、彼はいませんでした。   塵から塵へ。 一日の授業を終えて車で家に帰る途中、おばあちゃんから電話がありました。  過去 1 年間、ガンのせいで徐々に命を奪われ、その朝彼��ベッドに横たわり、残りの人生はそこに留まり続けるのではないかと思われた。 「あなたのパパの死亡記事を書いてくれませんか?」  彼女は、最愛の人を失ったにもかかわらず、常に現実的な質問をした。 伝えたいことはたくさんありました。  彼は10代の頃にスクールバスを盗み、教師の車の上でバックさせたことがあった。  彼は 1950 年に陸軍とともにドイツに派遣され、そこで空家から誤って大砲を発砲したにもかかわらず、階級を上げていった。  彼は人生のほとんどをそこで働いた繊維工場で労働組合を率いていた。  しかし、彼はそのことについては決して多くを語らなかった。  彼がやろうとしたのは、ノースカロライナ州フルーツランドで小さな生活を築き、娘たちを育て、皿洗いをし、壊れたガレージのドアを直すことでした。  彼は静かに暮らすことを目指したが、その後、同じように亡くなった。 座って執筆していると、テンプレートに詳細を落とし込んでいる自分に気づきまし た 。   死亡届は、何が重要で、何が記憶され、称賛されるべきかについて特別なプレッシャーを与えるが、新聞紙に載る名前や新聞での賞には何の興味も持たず、陰で生き続けることを目指した人生について人は何を語るだろうか。マントルピース?   ジムとコーラの息子であるレイ・ハレルは、じっと座って風が葉を散らすのを眺めて満足していたでしょうか?   レイ・ハレル一等軍曹は、財布の中のお札を金額の高い順に並べましたか?   グレースによって生き残ったレイ・ハレルは、小屋の中で正しい釘を探しながら、毎年同じ発明曲を口笛で吹き続けていました。   私は予想通りの詳細を記入して訃報を新聞社に送りましたが、それが正しくないことはわかっていました。   それは彼の生きた人生を何も捉えていませんでした。   彼が亡くなった数日後、教会の女性たちがキャセロールでテーブルを覆い、おばあちゃんが19歳以来初めて一人でベッドで寝たとき、私が戻ってきたのは、静かな生活のまったくの大胆さでした。 洗濯トラックを運転して一日を終えたレイ・ハレル。  彼の花嫁グレースは、最初の家の外で写真を撮りました。 私たちの時代の著名な人物が亡くなると、私たちのスクリーンに彼らの功績を記録した短いクリップが流れ、彼らの影響について議論するトーキングヘッドが登場します。  しかし、静かな生活は背後で音もなく流れていきます。  しかし、それらは私たちの皮膚の中にある命であり、朝食から就寝まで私たちを導いてくれます。  彼らの命が私たちを作り、世界を動かし続けているのです。 彼らは私たちが気づく前にゴミを出したり、郵便物が来ているかどうかを確認するために道路を歩いたりしています。  ビスケット生地を適切な厚さに並べる方法を教えてくれます。  春の午後、彼らは私たちの息子たちをトラクターに乗せました。  彼らは壊れたシンクを隣の人に手伝ってもらいました。  彼らは18か月の赤ちゃんを引きずり出すために川に飛び込みました。  彼らはフォークリフトに挟まれて腰を折った男性を捕まえ、そのまま抱きかかえて死亡した。  彼らは甥が自分の名前に一銭も持っていなかったとき、彼らのポケットにお金を滑り込ませましたが、���ずかしくてそれを認めませんでした。  彼らは洗濯をしました。  彼らは床を掃除した。  彼らは子供のように庭で遊びました。  彼らは塩味のパックを食べて、夜がなくなるまで毎晩ベッドに潜り込みました。フルーツランド・ロードから離れた土地で小さな生活を営むことは最も神聖なことだから、残されたのは生き続ける人々だけです私たちは考えることができます。 私たちの周りには、派手なアメリカの個人主義、明るい照明、そして表舞台のサイレンの呼びかけを無視して、頭を下げて両手を広げた生活があります。   私は大丈夫、ここに 部屋の端からの反応があり、その満足感はまったく破壊的です。   どうしてそれだけを望むことができますか?   世界が求めています。   持つべきものは常にもっとあります。   ノースカロライナ州フルーツランドにあるグレースが幼少期を過ごした家の外でポーズをとる新婚夫婦。  その家は、レイとグレースが一緒に家を建て、住んでいる場所の道路を挟んだ向かいに建っていました。 レイ・ハレルが持っていたのは、頼もしいトラクターと、燃えるような女性だった。   彼は正午の夕食時にコーンブレッドを一口食べ、毎晩寝る前にRCコーラを飲んでいました。   彼には子供、孫、曾孫がいて、毎年クリスマスになると家がいっぱいになりました。   それで十分でした。   「私たちは良い人生を送れました」と、最後の年に私が訪問するたびに、彼はほぼ毎回私に言いました。たとえ遠くから見ると奇妙に見えたとしても、私はそれが真実であると確信していました。 やもしものことを後悔する長いリストを残したはずだ   理論的には、クリアクリークの上空にあるこの小さな生命は、もしものこと 。   しかし、この人生こそが人生そのものであり 、  1954年に彼と私の祖母グレースが道の先にある小さな教会で結婚したときに目指したものそのものでした。 それらの訪問では、私はコーンブレッドを食べて落ち着いて話を聞きました。  時間が経つにつれて、私はこれまで知らなかった歴史を収集しました。  スクールバスが盗まれ、ジープが墜落し、牛が泥にはまってしまったことを知りました。  私は、朝鮮戦争中にドイツに駐留していたパポーが高額のトランプを獲得し、その収益を持ってヨーロッパ中を旅したことを知りました。  私は彼が繊維工場から何度も何度も解雇されたことを知りました。 "どうして?"  私は尋ねた。 「そうですね、私がイライラしていたからだと思います。」 ほとんどその通りでした。  彼は誰も聞きたくないときはノーと言い、上司たちが聞きたくないときは労働組合を結集させた。  ハーネスなしで10フィート登って自分でローラーを交換するように言われたときのように。  「私は彼らに、そんなつもりはないと言いました。」  彼らは彼を解雇し、労働組合の弁護士が介入し、彼は仕事に戻った。 「頑固なおじいちゃんだよ」とおばあちゃんは言った。 おそらくそれも正しかったのですが、世界を見て不正義と闘う物語をつなぎ合わせてみると、静かな生活は受動的な生活ではないことに気づきました。  ポーチにじっと座っていることは、世間をやり過ごすことを意味するものではありません。  彼とおばあちゃんはキャンピングカーに乗って国中を旅しました。  彼は組合の会長を務めた。  満足しているということは、盲目であるという意味ではありません。  それは、善良な戦いと利己的な戦いの違いを知ることを意味します。 「私は正しいことのために立ち上がることを信じています」と彼はトウモロコシを一口食べながら言った。  「こんなこと言うべきじゃないけど、みんな私のことが好きでした。」 "なぜ?"  おばあちゃんは尋ねました。 「あなたがそんなことを聞かないといけないとは思っていませんでした。  私は良い歳をした少年だよ。」
静かな生活のための訃報 — THE BITTER SOUTHERNER
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chibiutsubo · 1 year
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#おでかけ #常滑
やきもの散歩道の景色色々。ここにも煉瓦の煙突が残っています。
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家と家の隙間を縫うように、抜け道のようなこんな細い道もあるので本当に迷路のよう。歩き回るだけで楽しい街です。
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常滑の街を歩いていると、建物の入口前にこんなものが置かれていて、それが1軒だけではなくいくつもある。
一体これは……?と暫し考えて、思い当たりました。傘立て!
恐らく焼き物で作られた傘立てなんでしょう。青色だけではなく、黄色とかもありました。
めちゃくちゃ存在感を出してくるこの傘立て、面白いなぁと思います。
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crydayz · 1 year
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230209 木
ホームを捨てよう。 ホームを捨てよう。 ホームを捨てよう。
【どうしてホームを棄てるのか?】
■行事だから 2年に一回くらい手続きでやるやつ。期間は半年~1年半。 定例行事みたいなもん。終えて戻ってきたらより「強く」なってるやつ。 まあ山籠りの修行と一緒。実はそれ以上でも以下でもなし。
■DVしない為 小さな世界で特権を持ちすぎると優しくて弱い人々を理不尽に責め立てたいという悪意が加速してしまうから。
■不安と飢餓を失わない為 味方がいない、許してくれる人がいない方がキャリアの積み上げと労働に集中できる。 帰る場所がない、話を聞いてくれる人がいない方が表WEBで居場所築く欲求湧いてくるから。
■謙虚でいる為 ホーム、巣が大きくなればなるほど人のエゴもまたでかくなる。 無駄にデカい自尊感情を抱える事になる。 職人と労働者と雄(オス)は自尊感情をゴミクズにしてこそ社会の潤滑剤になれる。 プレイヤー(主人公 / 消費者)ではなく、デザイナー・クリエイター(裏方建設者)である事を常にリマインドし立場をわきまえる。建設者は常に「透明な底辺」であるべきだ。
■厳しく残酷で強い人々の後を追う為 強者を追う為には「帰る場所」や「温(ぬく)い思い出」は邪魔になる。 追いかけたところで自分が何かになれるとかではないが、ホームに甘えた時点で前進と建設は必ず止まるのだ。今だって「なーにシリアスになっちゃってんの?」と肩パンする半笑いの自分がすぐ隣にいる。3ヶ月、半年ムスっとし続ければさすがにこいつの不透明度も薄くなる。温みのない残酷な世界の方が「リアル」になる。そうしたいからそうする。
■棄てると決めたものを自ら棄てられると気分が良い 断捨離といっしょ。理性が本能に打ち勝ったという実感が湧いてくる。 富士樹海の洞穴ん中で40日間籠もって荒行した僧侶の心が0.5%くらいは手に入る。 不足と飢餓を自ら大量摂取しその苦しみから逃げずに当初の目標成し遂げた者だけが手にする「強さ」と「身軽さ」がある。目標を途中で投げ出す人間は「弱くて足が重い」。 そう「強くて軽く」なる為、捨てて捨てて捨てまくるのだ。軽量化アンド強靭化だ。
■痛みのキャパと幸せのバッファを増やす為 痛みと孤��と栄養不足に耐えられる精神の獲得。より低カロリーに「幸せ」を得る為の思考法の確立、その資料探しをする為のモチベーションの獲得。 もう既に強く意識しはじめてしまっているが、この道を進めば「仏教的な視点」にシフトしてゆく事になるだろう。あえてそれを回避する意義は今のところ見いだせない。 強いて回避のメリット上げるなら「胡散臭さの回避」か。しかし回避した所できっと「新興宗教の立ち上げ」にしかたどり着かん。ならば僕はまだ社会的認知度が高く、枯れたシステムである「仏教」の方法論を模倣するわ。俗世との関わりに厳格なディスタンスを持ち、日々の生産性を意地でも下げない。理性の力で即座に自分をマシーン化する「スイッチ」を獲得するのだ。
■ぬるゲーよりもマゾゲーを 温みに肥えるな。許さず、許されるな。強くなる為に常に心を冷水に打たせろ。 面倒臭くてかったるくって悦びが少ない「絵描きの道」をストレスフリーで歩む為には、自分の存在を絵よりも更に「面倒くさい存在」に変えてしまえばよい。そうすりゃ飢餓と苦痛の塊である自分を癒す為に「絵」という「程よい苦痛」の中に逃げ込まざるを得なくなる。「しんどいもの」と逃げずに向き合う為には、自分の身の回りを倍しんどくすればいい。なあに、どのみちただのゲームだ。退屈に勝る地獄はないのだから、好きなだけ滅茶苦茶なシナリオ選んだらいい。
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endekashi · 2 years
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夏山ナメたらいかんぜよ。
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こんちゃーす。先日、健診を受けたら去年に比べて体重は2キロ減っていたにも関わらず、腹囲が2センチ太くなっていたえんでかしでふ〜。どいこと?内臓脂肪蓄えったってこと?
今回の夏山チャレンジはなかなか酷い目に合いましたよ。まあ、ちょっと聞いて下さいな。そんなこと言わずにさ〜。ねえ、いいじゃん!ねえ!ねえってば!
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えんでかし夏山チャレンジ第二弾。今回は秋田県の南部、東成瀬村の奥の奥、岩手と宮城の県境に位置する栗駒山へ行ってまいりました。行き先は基本的に冬滑りに行きたい山の下見に行くような感じで選んでます。
この山は紅葉時期が人気みたいなんですけどね、夏真っ盛りな八月七日に行ってまいりました。
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俺っち、基本的に行った道と同じ道から帰るの嫌いなんすよ。どうせなら多くの景色見たいんです。てな訳でピストンではなく周遊コースで登ることにしました。
須川高原温泉に車を停めて、舗装路を歩き須川湖のほとりをウォーミングアップがてらお散歩。早朝の湖、天気も良くてとても清々しい気分。こいつはいい一日になりそうだぞ。
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うわ!でっけえナメクジ!自然の豊かさを物語っています。
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小一時間ほど歩き、秣(まぐさ)岳天馬尾根登山口へ。
まぐさとはなんぞやと気になったのでちとググってみると、『窓・出入り口などの上に渡した横木』とあります。
ん?どいこと?建築用語?なんでそんな名前なん?と思いながらもうちょっと見たら他にも意味があって『牛や馬の飼料とする草(馬草)』だそうです。絶対こっちやろ。天馬尾根だしね。
まあ図らずしも建築用語も覚えられてラッキーだぜ。
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そこまでの急登ではないものの、いきなり標高差400mの登り。早速汗だくです。まあ、今回はこれ登っちまえば、あとは稜線移動して降るだけですから。楽勝楽勝。
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一時間ほど登り視界も開けてきていよいよ稜線が近づいてまいりました。
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さっき歩いた須川湖を見下ろし絶景タイム。う〜ん綺麗な雲海!!気持ちいい〜〜〜〜!!
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なーんつって、絶景を味わっていると何やら西の方から黒い雲が。しかもなんかゴロゴロいってやがる。おやおやおやおや。ちょ待てよ。昨日の晩みたテンクラじゃ午前中はもつ予報だったよな。焦ってテンクラをチェックし直すと、午前中からバンバン崩れる予報に変わってやがる〜。うっそ〜。
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とにかく、あの雲が来る前にさっさと稜線移動してさっさと降りなくては。景色を楽しむ間も無く、ろくに休憩する間も無く、小走りで稜線を移動します。
え?この花の名前?いや、今、急いでるんで後にして下さい!し、知らない訳じゃないですよ!一刻を争ってるんですから!
なんせこちとら4キロ強の稜線を雨雲から逃げなきゃならんのですよ!
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ポツポツと雨が当たってきて、雷の音も次第に大きく、音の間隔も短くなってきました。やべえやべえ。こんな稜線、周りは低木しかなくて全然身を隠すとこもね〜。
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目指す栗駒山はまだまだ遠い〜。
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後ろを振り返るとどんどん近づいてくる黒い雲。雨も強くなってきて雷も三秒くらいになってきてだいぶ近いっす。おっかね〜!
誰だ!!いい一日になりそうなんて呑気な事ぬかしてたやつはー!
むちゃくちゃスリリングな一日だぞボケェ!!
もはやこの辺から本降りになってきてカメラで撮影する余裕もない状態。カッパは持ってたけど、すでに汗でビショビショで今更着る気にもならず、無我夢中で走って下り道を目指しました。
ちょうど最後の栗駒山のピークの手前に差し掛かった時に、茂みの中で待機してる登山者の方と出会い、話を聞くと怖くて動けないと。むう〜後もう少しだけど確かに今、雷は一番近くにいる雰囲気。ちょっと待つべきか〜。ということで、カッパを羽織り、俺も待機することに。二人で待機してると雨の勢いが物凄いことになってきて土砂降りに。滝のような雨を世間話しながら凌いでると、ようやく雷もちょっと遠くになり、雨もいくらかマシになってきました。
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よし、このくらいなら行けるかなと、意を決して再び栗駒山へ向かいます。弱くなってきたとはいえまだまだ雨足も強く無論、写真なんか撮る余裕はございませんでした。それでもと思い、挨拶だけでもとピークにあった祠に参拝した瞬間、またゴロゴロピカーン!と近くで雷がなり、やべえやべえとさっさと降りました。
しばらく降るとちょっと青空も見えてきて天候は回復してきました。
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しかし、短時間にザブっと降ったので登山道は川のようになっていました。
まあ、もうすでにパンツの中までビッチャビチャなんで気にしませんが。
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麓で横切る沢地形の小川にはこんな看板が。三途の川っておい、またおあつらえ向きなネーミングしてやがるな。
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こちらがその三途の川。もう普通に膝下くらいの水量でちょっとナメてたらもってかれそうでした。クワバラクワバラ。
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やっとの思いで終点の須川温泉に到着。
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エメラルドグリーンな露天風呂でビショビショになった身体を温めながら、天気予報は常に最新をチェックしないといけないんだな〜っていう当たり前のことを身にしみて感じるヘッポコガイドでした。
みなさん、こんなガイドと夏山行っちゃダメですよ。てな訳で、
冬も夏も山をなめたらいかんぜよ!!
あ、ご存知でしたか。そいつは失礼いたしました。
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P.S 帰り道にちょうど秋田名物の稲庭うどんの中心地を通ったのでいっときました。ちゅるちゅると喉越しのいいお上品な味でございました。
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niyuuhdf · 1 month
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トキ/灯彦:『証言』
俺は先祖代々の故郷からは幾分離れた込み入った住宅街の一軒家で生まれ育った。 俺が産まれるって時に、俺の父の実父…つまり行屋のじいさんが単身故郷を離れて近場に越してきた。その理由を「可愛い孫のためだ」とかなんとか嘯いてたが。 じいさんには随分と可愛がってもらったもんだ。 そのじいさんがある時口にした 「俺たちは行灯の火を潜り抜けて現し世に偶然姿を晒しちまった。現し世の人々の目に、俺たちのこの姿が分け隔てなくうつるとは、ゆめにも思わずに。」 歌舞伎は東海道四谷怪談の提灯抜けに掛けたらしい言葉。 それは相変わらずの食えねえ薄ら笑みに紛れ溶け込ませるように、諧謔に包み隠しながらも深い悲哀と悔恨の織り混ざったような述懐であったことを覚えている。 その言葉は、まだ年若い俺の心のもっとも深部にある原風景をそのまま写し出したかのようであったから。
ある画家の手記 Part : 行屋虚彦 
『疾彦の証言』
海辺に故郷の土地があるなんてえのは、一つのもののたとえだと、じいさんは言った。 行屋の人間ーーーー随分と大雑把にして大袈裟で選民的な言い回しだと幼い俺は思ったが、他に言いようがなかったもんかねーーーーは、長く住み着いたそこに多少の愛着こそあれ、土地そのものを故郷だと強く体感してなどねえと。
ここからは俺のじいさんの語ったことだ。語るにも聞くにも死ぬほど退屈極まりねえんで適当に端折りながらじいさんの言葉を復唱する。 じいさんが俺に語ったことは、口伝とも言えねえ、じいさんも朧に伝え聞いただけの昔話 どれだけ眉唾か知れたもんじゃねえ そういう類の話だ
蔵を引っ掻きまわしゃ出てくる家系図では、行屋家は平安の武家まで遡る。かのエリート様、文武両道の色男にして若くに妻と幼児を捨てて旅の歌人の人生を選んだ、あの男だ。さもあらん。 そいつが真実どんな様相で生きていたかは知る由もない。ただ、「なにごとの おはしますかは しらねども かたじけなさに なみだこぼるる」なんて詠むからには、己の心に馬鹿正直ではあったかもしれねえ。 かろうじて行屋の血筋の生き様…様相を伺えるのは江戸から。 記録が片手落ちすぎて話にならねえが、その時代にはもう漠然と血縁同士で助け合い、どうにかこうにか支えあって普通に人里の中で生きていた、らしい。
行屋の血筋の者は見えるはずのないものをよく見た。 見えたものを人里でそのまま口にすれば何が起るかは自明の理ってんで、血縁同士で教え伝え合って戒めあった。見えるものを口にしすぎないようにと。 ごく稀に幼な子がうっかり口を滑らせちまって、ひどい仕置きも暴力も迫害も公然とあったらしいが、 行屋の血筋は遺伝的にそのほとんどが誕生からの発達と発育が異様に早く早熟…これは俺もナナも虚も例外じゃねえ。 だから幼い時分から言い聞かせ、親族の中での教育で悪しき事態を防いで沈黙することで、表向きには何事もなく暮らしていくことが可能だった。 それにも勿論個人差はあったろう、いずれ綱渡りには違いねえ気はするが。
まさに当時から、すべてを沈黙し隠蔽し尽くして生きることには限界があったらしい。なにごとにつけ全てが嘘ってのは具合が悪いもんだ。故に、何かしらが時折りふと見える程度の仄めかしを村の中で敢えて情報開示として行ってきた。 不運にも露呈するような形で知られるんじゃあ、周囲に不安と警戒心を与えて排斥されるってんで。そうじゃなくごく穏当に村の利益に繋がる形にして受け入れさせようと。 結果、この海辺の村では運良く受け入れられつづけたらしい。 村民にしてみりゃあ「ありがたい不思議な力、うまくご利益にあやかろう」てふうに…脅威として認識されることはうまく避けてたらしい。 まだ人知の及ばねえものがそこらを跋扈した時代でもあったろうし、…行屋の人間の立ち振る舞いや言動、人間としての気質もその印象に落ち着かせるのに一役買っただろうと。じいさんは言ってた、若い頃の俺が良い例だとな。 産まれてすぐにしっかりと大きく目が開き、よく笑い、人に懐く、すぐに立って歩き走りまわる、幼児に似つかわしくなく流暢によく喋る、運動神経がやたら良くて、口が達者な笑い上戸、周りを冗談や話術や手遊びで沸かせ賑わわせ、躊躇いなく道化にもなる、華やかにしてごく自然に人の輪の中心となり他者を牽引する、が、すべてを絶妙に抑制し、決して逸脱しすぎず飛躍しすぎず常軌を逸さず、己に人間としての分を弁えさせつづける。行屋の人間の若年期ってのは、代々こんなもんだったそうだ。まったく辟易するぜ、じいさんは学生の頃の俺しか知らねえからな、今の俺のざまを確と見ろと言いたくもなる。
昔の話に戻る。 この目は重宝がられさえしたらしい。村人に失せ物さがしなんかを気楽に頼まれたりな、都度その場で解決、不思議な力に村の皆で感謝しつつ宴会でもひらく、ってなふうに…楽観的で素朴なものとして受容されてたらしい。当然の如く例外はあったろうがな。 当時は30代よりかは多少長く生きてもいたらしい、当時はそれくらいの齢でくたばるのはそこまで異例でもなかったかもしれねえし、海が近いことも有利に働いたそうだ。
時代が進めば、怪奇も不思議も人地を超えた力も身幅が狭くなってくる。 里にも医者が それも西洋医学を軸に学んだ医療が及んだ。 行屋の人間の目と苦痛と短命が、放置されなくなった。 仁と医を尽くしてすべての人間に懸命に長寿を達成させようってえ向きだ。 しかし医者が手を尽くせば尽くすほど、行屋の人間だけは医学じゃどうにもできないことだけが只管に浮き彫りになってくる。
もっと時代が進むと、遠方まで容易に情報が行き交うようになった。 行屋の人間の一部は「霊能者」あるいは「エセ霊能者気取りの不気味で不謹慎な血筋」だってんで、一時期は強烈な迫害と少数の誤った信仰を招いて、非科学的なものを否定する世間の流行の猛威を浴びたらしい。
歳を負うごとに身体の苦痛が増し、自制を欠いた狂躁のような激しい気質を帯び、昂って暴走し、性的快楽に耽り、目には激痛が襲う、瞼を閉じ、家からふらふらと海へ向かって外へ出る、ふっつりと茫然自失になる、そういうさまから、行屋家の人間が遠方へ嫁いでいった先では、家に座敷牢なんて豪勢極まる代物も用意されたとか。
行屋の人間は、自分たちの目にも苦痛にも短命にも、名前をつけなかった。 苦痛は耐え忍ぶ。憐れむならそれを上回る快楽を。故郷の慣わしなんぞ何も知らねえ俺でさえ奇しくも似たような手段を取った。 目の激痛は光を遮断することで少しは和らげられる。暗く閉ざした部屋に行灯一つあれば充分。あとは多くの時間を瞼を閉じて生きるだけ。 今でも里じゃ親戚の中を見渡せば、ずっと瞼を閉じた者や、目隠しをした者がちらほら見受けられる。 今のように「病」だと呼ぶことも定義づけることもなかった。当事者間ではそのような認識ではなかったとよ。血族で似た者同士が群をなすと異質さはかき消える。道理だ。 あとは血族以外との折り合い、順応と適応の世界。 どれほどの苦しみであっても、家内で分かち合える以上それは体質に過ぎねえと。 しかし医学に割って入られると事情は変わる。そこから行屋の人間は「精神病者」と定義づけられて、積極的に私宅監置に置かれることになった。定義づけと命名が必要だったのは、医療を施すためだ。行屋の人間を捉える主体が当人らからそっちへ移ったわけだ。 即刻入院治療とならず私宅監置…座敷牢になったのは、もっと手に負えねえ精神を患った患者が病床を占めてたから。そいつらに比べりゃあ行屋の人間は意思疎通が可能で聞き分けがよく大人しい。
その後、また時代が変わって、医師の側の意識改革と医療の是正が始まった。 外部から調査にきた医師団が、親族の私宅監置の現状を調べて、あまりに杜撰で酷いものが多いことから、病院への入院治療を推し進める流れになった。 杜撰で酷い座敷牢ってえと目を覆うような惨状を思い浮かべそうなもんだが、それは東京って都会のど真ん中からカメラやら取材道具担いでやってきた人間の感覚で、その感覚は間違っちゃあいないが、当事者との齟齬は大いにあったとかなんとか。 おりしも行屋家の住む土地は人の少ない辺境の海辺、危険行為を繰り返す精神病者を完全に病院に隔離することなく開放的な入院治療と静養がかなうとして、里からほど近い静かな海辺に精神病院が建てられた。勿論行屋の人間のみのための病院じゃなかったろうが。
その後、この国の人口が増加したためか知れねえが、そんな海辺の田舎にも一般住宅が押し寄せひしめき合うようになり始めた。「海が綺麗だ」ってのがよそから好んで移り住みたがる人間の主な理由。 そいつらはいうにことかいて、古くから住む行屋を含めた住人も、そこに建つ不吉な精神病院も忌み嫌い、病院側に立ち退きを要求してきた。まあ海沿いのリゾート感覚で住み始めたんだ、そんなもんだろうな。 病院側は、「患者を院外に出さない」ことを条件に立ち退きを免れた。 これは行屋の人間にとって痛手だった。他の多くの患者にとっても自由と尊厳を踏み躙られる大きな痛手だったろうが。行屋の人間にとっては、思いのままに海へ出られない、これこそが痛手だった。 その後の大きな戦争と災害の度に、打撃を受けた精神病院から、一部の行屋家の連中が焼け出されて、そのまま身を隠した。 他の多くの患者は医師との信頼関係によって病院におとなしく留まったらしいが。 身を隠した連中が、海沿いの各地に散って、或いは村にひっそりと戻り、留まったのが、今のお里の実態なんだとよ。
他の地域の海辺で暮らす奴もいるら��い。面識はねえが。望みもしねえが。 海外に飛んだ奴もいるが、皆決して海から離れようとしない、離れ難いんだそうだ。 じいさん曰く、苦痛に耐えられなくなったとき、或いは茫然自失と化した状態で、招かれるように自ら海へ入っていく。そうして自らの火を、もといたあちらへ帰そうとする。火だるまになった身体の炎は海が消火し尽くしてくれる。 幼い頃から、耐え難い苦痛の際には海へ浸かるのがひとつの慣わしであり、自然な行動だったんだと。慣習と衝動のどちらが先だったかは判然としない。 はたから見れば判断能力をなくした入水自殺じみてうつるその行動も、案外現実的らしい。海へ浸かることで身体の苦痛が安らぎ、死に至るまでもなく平然と浜から自宅まで自分の足で戻ってくる場合のほうが多いらしい。 じいさんも七を知ってるが、七が月夜に招かれるように外へ出たがったのは、月より潮と呼応してたように見えたそうだ。
"死の先に帰る場所がある  我々はそこからやってきた  そこにしか我々のよるべはない  死の先に故郷がある  死そのものをのぞむのではない  死後になにかを期待しているのではない  死の先に明瞭な故郷の景色や幻想を抱いているのではない  ただ帰ろうとするときの帰路に偶然死が横たわっている  我々はただ帰りたい  我々は己らの生命、出生、誕生、人生を捉えられない  捉えられないものを無思慮に否定するものでもない  しかし  こちらにきたことは偶然だった  隔てなく人間の身に己がおさまることを知らぬ無知、隔てなく人間の目に我々がうつることを知らぬ無知故にここへきてしまった  その過ちは我々の目を焼き、腑を犯した  我々はただ帰りたい  この由来なき形容し難い感覚を、閉鎖的に、つい近年まで血族とだけ共有してきた  ただ帰りたいだけなのだ  ただ帰してやりたいだけなのだ  どうか行かせてほしい"
じいさんのそのまた祖父さんが遺してった走り書き。遺書か。 「行屋」の姓の字の由来がそんな詩的なもんかは置いといて、 幼い俺にじいさんが零した戯言は、そんなような代々脈々と、連綿と続いた根深い感傷と言いしれぬ衝動に端を発していた。 走り書きの「我々」ってのが何を指してんだか知ったこっちゃねえんで検証にも足らねえが。 俺はそれらを言葉になった上っ面だけで聞き知ったとき、なんの異質さもねえ誰の内にも在るごくありふれた回帰願望の類だと思った。貶めようってんじゃねえ、ただ大袈裟に身内の中だけで秘める必要などなかったものを、ってな。 そういう意味じゃご先祖さんが一等賢い選択をしてる。家族を捨て、出家して、従者もなく一人、諸国をさすらい歌でも詠む、それで結構じゃねえか。 この回帰願望めいたなにか…理論立てれば幾らでも容易く突き崩せる穴だらけのなにか…が代々受け継げるほどに強靭に仕立てられていったのは、身体性…目と身体の苦痛に大きく依拠するだろう。身体の苦痛…身体的な経験の共有は同じ思想や信仰に染めるにもってこいの洗礼だ。おそらくなにより先立ってその身体性があった。 …ただ、「帰りたい」という情緒の言語化…、そこは解せねえ。積極的にそこを言語化して親族間で整えた環境と教育によって伝え刷り込んだという印象は薄かった。 共有したのは具体的な生き延びるすべのほうで、まあ生活様式に規範を揃えりゃそれだけで充分一つの具体的な信仰にはなっちまうが、情緒や思想にはなんの強要もなかったようだ。それよりかは、生来の生まれ持った形容し難い感覚に呑まれて苦しむ者を、血族がなんとかあとから帳尻合わせにそういう戯言を例外的に用いて掬い上げることもあった、程度。 そんな印象を抱いたのは、遠方の親族のことなんざ露知らず育った俺の中にも過去に似たような萌芽があったことを認めざるを得ねえからか、否か。
俺の実父は、俺が産まれる直前になって、抑制の効かない状態に陥ったらしい。意気揚々と里から離れた新天地に移ると言いはり、親族の反対を押しきって実行した。それをその父、つまりじいさんは、淡々と見ていた。 じいさんは、それに賭けた。 じいさんは息子を見張るような建前を身内には示しつつ、息子の移り住んだ土地に自分も移った。 奇矯を装いつつも、俺の父は薄々気付いていただろうとな。親族だけで寄り集まって閉鎖的に同じ場所に留まり続ける、その弊害と欺瞞に。 俺はそこから解き放たれて生まれ育った。虚も。 それは賭けだ。じいさんはその人生の行く末を見届けたかった。 七は大学入学まで里で生まれ育ったが、そこから七を連れ去ったのは俺だ。 その俺が、中学の頃、生家に火を放ち父母もろとも焼き滅ぼした。そのことにじいさんだけが目敏く気付いた、血は争えねえな。 尋ねられたわけでもねえのに、その時俺は動機めいた一言を口走った。嘘偽りない本心だった。「そろそろ帰してやらねえと」…と。
…………
虚の性的快楽への拒絶っぷりは血筋で言うなら異端中の異端だ。
ーーーーーーーーー
曽祖父:
海辺に故郷の土地があるなんてえのは、我々にとっては一つのもののたとえ。 行屋の人間はこの土地そのものを故郷だと強く体感してはいません。 勿論この土地に愛着はあります。何せ長く住み着きましたからな。
これから語ることは口伝とさえ言えない、伝え聞いただけの昔話で どれだけ眉唾か知れたもんじゃねえが…
辿れば平安の武家まで家系図はありますが、今のような様相で生きていたかは知る由もない。 かろうじて様相を遡れるのは江戸までです。 家業は本来なんだったか、記録が片手落ちなもので定かでないが、その時代にはもう漠然と血縁同士であることを感じ取って助け合い、なんとか支えあって普通に人里の中で生きていたようです。
行屋の血筋の者は、およそ見えるはずのないものをよくその目で見た。 見えたものを人里でそのまま口にすれば何が起るかは自明の理。 だから血縁同士で教え伝えました。見えるものを他者に口にしすぎないようにと。 ごく稀に、幼な子がうっかり口にしてしまい村の秘密を暴き、ひどい仕置きも暴力も迫害も公然とあったようですが。 しかし我々の血筋は遺伝的にそのほとんどが誕生からの発達と発育が異様に早く早熟です。 言い聞かせ、親族の中での教育でそのような事態を防いで沈黙し、表向きには何事もなく暮らしていくことが可能だった。 それにも勿論個人差はある。いずれ綱渡りには違いなかったろうが…。
当時から、すべてを沈黙し隠蔽し尽くして生きることにも限界があったとみえます。故に、何かしらが時折りふと見える程度の仄めかしを村の中で敢えて情報開示として行ってきた。 不運にも露呈するような形で知られるのでは、周囲に不安と警戒心を与え、排斥されます。そうではなく、受け入れさせるのです。 結果、この海辺の村では運良く受け入れられつづけた。 さしずめ村民にすれば「ありがたい不思議な力、うまくご利益にあやかろう」てなもんで…脅威として認識されることなく、ごく自然に受け入れられていた。 まだ人知の及ばぬものが許された時代でもあったろうし、我々の立ち振る舞いや言動、人間としての気質もその印象に落ち着かせるのに一役買ったでしょうな。若い頃の疾彦などが良い例です。 あの子はここで生まれ育ったわけでもないのに …否、だからこそだったのか、行屋家の人間の典型そのものでしたよ。幼い頃から見てきましたが。 産まれてすぐにしっかりと大きく目が開き、よく笑い、人に懐き、すぐに立って歩き走りまわり、流暢によく喋る。運動神経が良く、聡明で、口が達者な笑い上戸、周りを冗談や話術や手遊びで沸かせ、賑わわせ、躊躇いなく愛嬌ある道化にもなる、同時に泰然として威風堂々、自然に他者を牽引する人気者、…がしかし、すべての有能さを絶妙に抑制し、決して逸脱しすぎず飛躍しすぎず常軌を逸さず、己に人間としての分を弁えさせる。 行屋の人間の若年期とは、代々このような気質が多かった。
昔の話に戻りましょう。 この目は重宝がられさえした。村人に失せ物さがしなど気楽に頼まれたり、都度その場で解決してみせ、不思議な力に村のみなで感謝しつつ宴会でもひらく、というような…楽観的で素朴なものとして受容されていたそうです。当然ながら例外もありましたが。 我々も、当時は30代より少し長く生きたし、当時はそれくらいの年齢で亡くなることはそこまで異例でもなかった。海辺が我々に環境として合っていたのもある。
時代が進めば、怪奇も不思議も人地を超えた力も身幅が狭くなります。 ここにも西洋医学を軸とした医療が及びました。 我々の目と苦痛と短命が、放置されなくなった。 …そのことを、我々は沈鬱な内心を抱え、それでも静かに時代に従った。 仁と医を尽くしてすべての人間に懸命に長寿を達成させようとする向きです。 しかし医者が手を尽くせば尽くすほど、行屋の人間だけは医学ではどうにもできないことだけが浮き彫りになってくる。
もっと時代が進むと、遠方まで容易に情報が行き交うようになった。我々は「霊能者」あるいは「エセ霊能者気取りの不気味な血筋」として、一時期は強烈な迫害と少数の誤った信仰を招き、非科学的なものを否定する世間の流行の猛威を浴びたようです。 歳を負うごとに身体の苦痛が増し、自制を欠いた狂躁のような激しい気質を帯び、それが昂って暴走し、目には激痛が襲い、家からふらふらと外へ出る、そしてふっつりと茫然自失になるさまから、行屋家の人間が遠方へ嫁いでいった先では、家に座敷牢が用意された。
我々は、この目にも苦痛にも短命にも、名前をつけなかった。 苦痛は耐え忍ぶのみ。憐れむならそれを上回る快楽を。 目の激痛は光を遮断することで少しは和らげることができる。暗く閉ざした部屋に行灯一つあれば充分。あとは瞼を閉じて生きるだけ。 ここに住む親戚の中にも、見渡せばずっと瞼を閉じた者や、目隠しをした者がちらほら見受けられるはずです。 今のように「病」だと呼ぶことも定義づけることもなかった。当事者間ではそのような認識ではなかった。血族で似た者たちが群をなすと、異質さはかき消えます。 あとは血族以外との折り合い、順応と適応の世界になります。我々のうちではどれほどの苦しみであっても、それは体質に過ぎません。 しかし医学に割って入られると事情は変わります。そこから行屋の人間は「精神病者」と定義づけられ、積極的に私宅監置に置かれることとなった。定義づけと命名が必要だったのは、医療を施すため。我々を捉える主体が我々自身からそちらへ移ったわけですな。 我々はそれを静かに受け入れた。
その後、また時代が過ぎて、医師の側の意識改革と医療の是正が始まった。 外部から調査にきた医師団が、我々の親族の私宅監置の現状を調べ、あまりに杜撰で酷いものが多いことから、病院への入院治療を推し進める流れになった。 杜撰で酷い座敷牢と聞くと目を覆うような惨状を思い浮かべられるかもしれない。が、それは東京という都会のど真ん中からやってきた者の感覚です。その感覚は間違ってはいないが、当事者との齟齬は大いにありました。 おりしも行屋家の住む土地は人の少ない海辺であったので、危険行為を繰り返す精神病者を完全に病院に隔離することなく開放的な入院治療と静養がかなうとして、ここからほど近い静かな海辺に精神病院が建てられた。勿論我々のみのための病院ではなかったはずですが。
その後、全国で人口が増加したためか、こんな田舎にも住宅が押し寄せひしめき合うようになり始めました。「海が綺麗だ」というだけの理由で好んで住みたがる人間たちが、各地から集い出した。 その人間たちは、古くからここに住む我々も、そこに建つ精神病院も忌み嫌い、病院側に立ち退きを要求してきたそうです。 病院側は、「患者を院外に出さない」ことを条件に立ち退きを逃れた。 これは我々にとって痛手だった。他の多くの患者にとっても自由と尊厳を踏み躙られる大きな痛手であったでしょうが。我々にとっては、思いのままに海へ出られない、これこそが痛手だった。 その後の大きな戦争で打撃を受けた精神病院から、一部の行屋家の者が焼け出され、そのまま身を隠した。 多くの患者は医師との信頼関係によって病院におとなしく留まったそうですが。 身を隠した者たちが、海沿いの各地に散り、或いはここにひっそりと戻り、留まったのが、今の我々の実態です。
ここだけではなく、他の地域の海辺で暮らす者もいますよ。 海外に飛んだものもあるが、皆決して海から離れようとしない。離れ難いんでしょうな。 苦痛に耐えられなくなったとき、或いは茫然自失と化した状態で、我々は招かれるように自ら海へ入っていく。 そうして自らの命の火を、もといたあちらへ還すのです。火だるまになった身体の炎は海が消火し尽くしてくれる。 幼い頃から、耐え難い苦痛の際には海へ浸かるのがひとつの慣わしであり、自然な行動���した。慣習と衝動のどちらが先だったかは判然としない。 はたから見れば、判断能力をなくした入水自殺じみてうつるその行動も、案外、現実的なのです。海へ浸かることで身体の苦痛が安らぎ、死に至ることなどなく平然と浜へ自分の足で戻ってくる場合のほうが多い。 七が月夜に招かれるように外へ出たのは、潮と呼応していたように見えた。
我々の故郷はここに無い。 死の先に、帰る場所があるように感じている。 我々はそこからやってきた。 そこにしか我々の帰る場所はない、とも。 …この由来なき感覚を、閉鎖的に、つい近年まで血族とだけ共有してきた。 死の先に 故郷がある。 幼い疾彦に私が零した戯言は、そんなような根深い感傷に端を発していたのです。
私の息子…疾彦の実父は、疾彦が産まれる直前になって、抑制の効かない状態に陥りました。意気揚々とここから離れた新天地に移るのだと言いはり、親族の反対を押しきって実行した。 私は それに賭けた。 だから私は息子を見張るような建前を身内には示しつつ、息子の移り住んだ土地に私も一度は移った。 奇矯を装いつつ、息子も薄々気付いていたのでしょう。親族だけで寄り集まって閉鎖的に同じ場所に留まり続ける弊害と欺瞞に。 疾彦はそこから解き放たれて生まれ育った。…虚彦も。 行く末を見届けたかった。 七は大学入学までここで生まれ育ちました。ここから七を連れ去ったのは疾彦です。 その疾彦が、生家に火を放ち父母もろとも焼き滅ぼした。その動機を疾彦は呟くように私にこう一言語った、「そろそろ帰してやらねえと」…と。
それらすべてが間違っていたのかどうかは …………
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空飛ぶクルマが 流行らない理由,ヘリコプターとの違いは?コスト面や実用化に向けた課題
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空飛ぶクルマとは?
 国土交通省の資料によると、空飛ぶクルマとは「電動化、自動化といった航空技術や垂直離着陸などの運行形態による空の移動手段」を指します。つまり、モーターとバッテリーで推進する都市交通に適した小型航空機です。諸外国ではAAM(Advanced Air Mobility)とも呼ばれ、日本もふくめ世界各国で機体開発や地上設備、飛行ルールづくりが進んでいます。
 「クルマ」といえば道路を走るイメージですが、空飛ぶクルマは道路を走行する機能はありません。高く遠く大量輸送を目指す既存航空機とは違い、日常的に利用する印象を広く認知してもらうために「空飛ぶクルマ」と愛称されています。
ヘリコプターとの違いは?機能面でのメリットとは?
 空飛ぶクルマは、狭い場所でも離発着できることが特徴です。狭い場所での離発着といえばヘリコプターを思い浮かべる方も多いでしょう。両者の違いは、主に以下の4点だといわれています。
多様な機体デザイン
電動分散推進による安全性の向上
都市部で運用可能な低騒音
環境に優しい交通機関
■多様な機体デザイン
 従来の航空機では、固定翼機と回転翼機(ヘリコプター)という2種類の設計デザインしかありませんでした。そのため航空機の安全性を政府が審査する耐空/型式証明の手法もその2種類に限られてきました。
 近年、モーターとバッテリーによる電動推進技術の進歩により、固定翼機とも回転翼機とも違う自由な航空機の設計が可能になったのです。
 この電動垂直離着陸機や電動短距離離着陸機などにより、長い滑走路や広い空港に依存しない運航形態も可能になりました。
 ビル屋上の離発着など、都市上空の再開発が可能になる一方、多様なデザインに対応する新しい耐空/型式証明の制度整備も大きな課題となっています。
■電動分散推進による安全性の向上
 ヘリコプターは、ギアーボックスと呼ぶ装置でブレード(回転翼)を機械的に制御して操縦します。ギアーボックスの故障は致命的で、このように1ヶ所が故障すると制御を失う設計をシングル・フェーリュア・デザイン(単一故障設計)と呼びます。
 航空機メーカーは、こうした設計にならないように工夫します。たとえば、空飛ぶクルマでは、複数のプロペラとモーターを使うことで、ひとつの推進系が故障しても安全に不時着できるように設計されています。
■都市部で運用可能な低騒音
 長いヘリコプターのブレード(回転翼)は、先端部分が音速を超え激しい騒音を発生させます。また、ブレードの角度を変えるためパタパタという独特の音響パターンも嫌われる要因です。
 一方、空飛ぶクルマでは、多数の短いプロペラを低速で回すことでプロペラ・ノイズが低くすることができます。また、複数のプロペラ・ノイズを打ち消し合う工夫などもあります。これにより市街地での離発着が可能な低騒音を実現しています。
■環境に優しい交通機関
 空飛ぶクルマは、電力(バッテリー)を使って飛びます。これにより、CO2を排出せず環境に優しい交通機関として注目されています。また、近い将来、水素を燃料とする空飛ぶクルマも開発中です。
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3103dayo0201 · 4 months
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2024/02/14 13:54 免許更新の日   お休みだから行って来た。結局、家と警察署を2往復してて、というのも、オンライン講習っていうのが出来上がってて、それをやるために家に戻ったら、マイナンバーカード(電子証明)ないとできないから、また警察署に戻って、更新させて後から講習うける。   2020年に一時停止違反で捕まったから、ゴールド更新とはならず。
  2021年はタイヤパンク(光ケーブル工事車両かなんかの鍵が家まで20メートルってとこでぶっ刺さってた)で2022年は富良野でエンジンおかしくなったり(下部に小石がつまってた)いろいろだったなぁと思いだす。
 
私、市のために働いてる人たち好きで、なんかいい印象しかないんだよね。ごみ収集の人も除雪やってくれる人もコミュニティセンターの人も警察の人も、なんか好きなの。あと、あの市の建物の古い感じがすっごい好き。   今日だって、警察の隣の写真撮るとこの、中は入った時の古い感じはサイコー。   あと、教育委員会の建物に常駐してたときのあの庁舎の古さがサイコー。なんか、冬とか石油ストーブとか焚かないと暖が追い付かないところとか。それで、市長がある日きて、私のとなりにいたCさんなんか、「おーーー」とか言ってて、笑った。Cさんはなんと都賀に住んでたことあって、四街道の隣だから、なんか凄いと思った。
 
そういえば、サンフランシスコで働いてた場所の常連のおじさんも都賀出身。イギリスにも住んでたことあって、セックスピストルズのライブをしょっちゅう観てたっていう。
 
実家が金持ちなのか、働いてなかった。けど、うちにはツケで毎日軽く飲んで帰る。廻すのは大変になってきてたのかな。
マスターも千葉県なの。  
なんか、自分の人生のシナリオに現れてくる人たちっていうのは、なんかかんか、私の肉体が動かそうとせずとも、決まったシナリオがあって、現れるようになってるもんなんだねって思う。
 
昨日しゃべったWさんと何をしゃべったかっていうと、幼いころに山とか川で遊んだ話してた。Wさんの子供たちは山とか川とか禁止区域で入れないから結局、モールとか行くぐらいなんだって。  
あと、山梨県だからスキー教室の話してた。   あたしはスケート区域だからスケート。なんか、昔のミッシェル動画みてたときに、なんか、クハラさんがローラースケートで、「それって、ホッケー滑りだよね」みたいな感じでストップをしていて、チバちゃんが横で観ているという絵面をあたしは観てなんか、笑えた。   わたしはスケート好きで、夜に町内会の人が水を蒔いた後に犬の散歩をするといいながら、スケートを持っていって、スケートを夜の9時にするっていうのが好きすぎでよくやってた。白鳥も夜空に飛んでた。あの遊びはサイコー。   あと、一昨日にしゃべったおじさんは、自分の残数値が「7777」だから見てくれと言ってて、わたしは「すごいですねーー」とか言い、おじさんは「東京に住んでた時の2月2日に宝くじを10まいかって当たりくじと1違いだった。宝くじあたればなぁ」とか言ってて、本当に世間話して終わりってのもあった。また2月2日って言ってた。こういうことたまにあるからね、本当に面白いよね。  
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kyotomoyou · 2 years
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【愛知県】土管坂 . (2022/09/28撮影) . #土管坂 #常滑 #常滑やきもの散歩道 #常滑市 #常滑観光 #焼き物の町 #焼き物の街 #知多半島 #とこなめ #旅行 #日本旅行 #国内旅行 #旅行好き #日本の旅 #earthfocus #広がり同盟 #日本の風景 (土管坂) https://www.instagram.com/p/CjDd21TrkiZ/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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bonguri · 2 years
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20220902 Aichi Triennale Tokoname 11 by Bong Grit 最後はINAXライブミュージアムへ移動。「止まれ」の看板が親子のステンドグラスで可愛かった。 @Yakimono walk, Tokoname city, Aichi pref. (愛知県常滑市 やきもの散歩道 国際芸術祭あいち2022) https://flic.kr/p/2nR9Aq6
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lion7line · 5 months
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お前のせいだよHO2
天才教授の助手
【HO2 助手】 あなたは天才教授の助手だ、年齢制限はない。好きな探索者を作るといい。
あなたへの秘匿は『秘匿がないこと』だ。 いかにも秘匿 HO らしき設定をつけて、それに則った RP をすることを推奨する。 ただ、シナリオの最中は何が起きてもいいように心の準備をしておくこと。
_______________
学歴コンプ人間。 第一志望の大学に落ちて、滑り止めでつまんない大学生活を送った。仮面浪人も考えたけど見栄を気にする親が許さなかった。 女に頭は要らない、家のことをすればいい、お前が大学に落ちたのだってその証左だろう。 ストレートで勝ち組ルートを進む兄、早くに結婚した妹がいるからこそ家では出来の悪い子、欠陥のある子として見られてきた。 普通でいいのよ、と両親は口をそろえて言う。 うるさい。これがあたしの普通だ。そんな曖昧な”普通”の定義であたしの人生を左右するな。
第一志望だった大学の大学院を受験したのは半ば意地。諦めきれなかった。 単位互換制度を利用して大学棟で講義を受けたこともある。多分その時に町田教授の講義に潜ってたんじゃないかな~ 内心「こども教授」って呼んでそう。あの見た目で天才なの、胸の中引っかかれる感覚が強い。ので履修はしてない 院まで行ったけど別に勉強が好きだったわけじゃない。多分入学した時点で割と燃え尽きてる。結局未練は未練のままだし。 現役であの大学に入りたかったって、きっとこの先も呪いみたいに未練がへばりつくんだろうな。と思ってたしそうなった
色んなしがらみから抜けたくて、ストレス発散したくて、その需要と供給が合ったのがコンカフェバイトやコスプレだった。「自分じゃなくていい」というのは思ったより大きい。基本男装。 おかげで自分のガワに関してのコンプはない。見られるのは好きだし、手入れするのも好き。 ただ、その反動で自分の内側が好きじゃなさ過ぎる。空っぽで、結局何もできてないなと思うから。 そういう意味では見られることに忌避感がある、何もないことを見抜かれそうで恥ずかしい。 年齢に見合ったものをもっていない、ガワはやがて老いるのに。 綺麗と言われるのが嬉しくて怖い。何も言われなくなるのも怖い。そういうのひっくるめて全部見たくない。 人のいいところをみて、好きと言えて、笑顔でいられて、褒め言葉を素直に受け取れる、そんな可愛げを持つには遅かったみたいだ。
結局就活は失敗した、院卒っていうのは扱いづらい。研究職に進むには知識も足りない。 両親は「だから言ったのに」と鬼の首を取ったような態度で、早く結婚しなさいよだとか義弟にいい人紹介してもらったら?とか、なんだかもう、煩わしくなって。卒業と同時に家を出た。といっても趣味仲間の家に転がり込んだ、が正しい。まあ、院時代からもともと人の家を転々と泊り歩いてたし。家族と連絡を絶っただけ。 生活は関係に左右される。そのまま趣味に流れた、このガワのおかげで被写体としてなら食い繋いでいくのはそう難しいことじゃなかった。
何もかもを無条件に受け入れられたい、他者の肯定を得て自分を肯定したい、甘やかして肯定して満たされたい。 それは本来親に求めるべきもので、他人に求めてはいけないものとわかってる。依存したい訳でもされたい訳でもない。 冬にどうしようもなく物悲しくなるように、誰かを抱きしめていないと胸のすく寒さに寂しくなるような情緒を持ってる。 厄介だし、救えない。 それで行きつく先がヒモなんだから、中途半端に親の言葉っていうのは大きいらしい。 人に触れてるのがすき、抱きしめるのも抱きしめられるのも好き。じゃれるのが好きなだけで性的な接触は別に好きじゃない。 が、家でくっついてたらそう流れていくのも理解してるから「まあそうだよね」で拒まない。でも気分じゃなかったらしない 恋人とも言えないけどセフレでもない、みたいな 妙な距離感によくなりがち。
院を卒業してからモデル業、のようなもの。を2年くらい。 段々趣味仲間の趣味は「仕事の傍ら」になって、「育児の合間」になって、集まっても生々しい生活の話が主になって。 一方でモデルの後輩は増えていって、若さ、というものは何よりも強いと眩しさを見せつけられて。 この仕事いつまで続けていられるんだ?身体はどうしたって老いるのに? そう考えたらカメラの前に立てなくなった。 26歳。社会経験もないに等しい。今更一般企業に受かるはずもなく。 あーーまずいな。いっそ大学受験のリベンジでもしてやろうか。卒業するころには30?あはは、詰みが見えてる。 それでもいいか。どうにでもなれ、若いうちに死んで終わりにすればいい。そんなことを考えながら大学に願書を取りに行って、その時に助手公募を見つけて。 こっちの方がまだましかもな、言い訳できるな。一体何に? 朧気な記憶を引っ張り出しながらESを書いたり面接をしたり。したら、受かった。どうやら助手になれるらしい。
町田教授が変わってないことに驚きと安心半々。昔飼ってたパピヨンに似てるなーと最近は思ってる。 あれだけ行きたかった大学に助手として通えて嬉しいと、今更と、学生が羨ましい、と。 それでも助手さんって呼ばれるのは嬉しいし、町田教授は面白いし。…楽しい、充実している、と思う度にコンプも刺激される
そんなこんなで、教授の元で働いて1年。任期まであと2年。相変わらず、未来のことを考えるのは鬱だ。
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▽対教授 尊敬とかわいいな~と羨ましいな~と天才ってなんだよ意味わかんね~と モロモロ それでもやっぱりいちばんは「”普通”であってくれるな」という祈り。願い、理想。 ”天才”だもんね、って言える逃げ道であってほしい。劣等感が刺激されるから。 変人であってくれ。常識なんてなくていい。ずっと無垢なままでいい。人間じゃなく教授であってくれ。 あなたがただの人間でないことが、自分にとっての救いだ。
_______________
▽大学教授の助手について(参考) 教授や助教授が抱える職務をサポートし、研究などを補助する役割。 実験を始めるにあたってその説明などをするのも助手に与えられた業務の一部 さらには講義に使うために資料を��刷する、教授の講演やイベントなどにおいて幹事を務めるなど、業務の範囲は幅広い 期限付きで契約するケースがほとんどで、将来の安定はまったく見込めない。 一般的には数年間の契約。延長・再任を認められないことも珍しくない (任期2年。審査により再任可(3年)。但し、1回を限度とする。等/https://www.qse.tohoku.ac.jp/news-archive/news231002.html) 新卒で契約社員になるようなもので、夢や希望を追うよりも長く安定して働きたいと思う人にはあまり向いていない (https://digmee.jp/article/310471?utm_medium=article&utm_source=kijinai&utm_term=310288&creative_id=310288&utm_content=html)
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chibiutsubo · 1 year
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#おでかけ #INAXライブミュージアム
やきもの散歩道から車で少し移動して、INAXライブミュージアムにやってきました。ここにも国際芸術祭の作品が展示されていたので、まずその作品を鑑賞に向かいます。
時間に余裕があったらタイル博物館も見てみたかったんですが、残念ながらもう閉館時間ギリギリ……。また次に常滑に遊びに来た時におあずけです。
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資料館の中には、両面焚倒焔式角窯が保存されていて、プロジェクションマッピングのようなリアルな映像で、窯で焼き物が焼かれる様子を見ることができます。窯の内部に回る炎が結構リアルに表現されているので、一瞬中に入るのを躊躇うほど。この写真は、上映が終わって明るくなった時に撮ったもので、上映中は真っ暗の状態です。
窯の中の壁が妙にツヤツヤしているのは、焼き物の釉薬が付着したものなんでしょうか?光に当たると独特のぬめりを見せて、不気味でもあり綺麗でもあり……。
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資料館の中に残���、保存された窯跡。
そして煉瓦の補強として使われている鉄骨が独特の形をしていて、よくよく見てみるとやっぱり古レールですね。
刻印されている文字は「SCRANTON」と読めます。恐らく社名だろうな、と調べてみたところ、当たりでした。スクラントン・スチール。アメリカの製鉄会社だそうです。
調べたサイトでは、このスクラントン・スチール社製の古レールは名鉄の本揖斐駅で見つかったと書かれていたので、やっぱりこの古レールも初期の名鉄、もしくは名鉄に買収されていった会社のどこかで使われていた可能性はありそうです。
こうやって推測していくのは楽しい……けれど、傍から見たら錆びかけた鉄骨にかじりついて写真を撮っている変人なので、あまり人目に付くところ(駅とか)ではやりにくいのが悲しいところです。
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INAXライブミュージアムの中には、タイルで作品を作ったり、陶器に絵を描いたりできるような体験工房のエリアもあります。
で、その体験工房、所謂衛生陶器メーカーでもあるINAX(LIXIL)ならではの、トイレ型陶器に絵付けができるコースもあるのです。
で、工房の窓際に作品の見本が飾ってあるのですが、その中に明らかにぴよりんらしきものが……。
実は10年くらい前に私もこのトイレに絵付けを体験していて、その時に嬉々としてイコを描いてイコ型トイレを作り上げた私が言えることは何もないんですが……しかし……何でトイレにぴよりん描いた?
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disolucion · 10 months
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20 帰国そしてシースー
携帯のアラームで起きて身支度を整える。 部屋の掃除は土曜に済ませた。お世話になった部屋だから。 持ち帰る荷物は、財布、携帯、西和辞書、それだけ。 こちらで買った洋服は大使館に預けた。いらなきゃ捨ててと。
出発の時間になり大使館前に帰国組が集合する。 サクラちゃんも待ちきれない様子で出発を待っている。 フジワラ教授とサトウくんは昨日の便で帰国した。今頃は空の上だ。
シバタ大使にお礼を言って、職員の皆さんへ頭を深々と下げる。 日の丸の旗のついた車に乗り込むと、 車は一路、カラスコ国際空港を目指して走り出す。 あれだけ日本に帰りたかったのに、車窓から見えるモンテビデオの街に 名残惜しさを感じる。出会った人たちのせいだろう。
東の海沿いへ出て三十分ほどでカラスコ国際空港に着く。 マツモトさんに先導してもらって後をついていく。 出国のゲートを出たら車に乗り込み飛行機のところまで運んでもらう。 タラップを上がって機内に乗り込む。
一生乗ることはないと思っていた夢のファーストクラス。 足元の広さが尋常じゃない。ビバ!チャーター便!
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映画を何本が見て、機内食を食べ、何度かうたた寝をして イギリスのヒースロー空港に到着。ここで給油をする。 二時間近く待った後、再び飛行機は離陸した。
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いくらファーストクラスといえども、腰や足がだるい。 暇潰しの手段も尽きて、寝るしかなかったが熟睡はできない。 機内食にも感動がなくなっている。酒が飲めればまた違うのか。 地球の反対側ってほんとうに遠い。行きは一瞬だったのに。 思っても仕方のないことだけど、飛行機飽きた。
アナウンスが入り、うたた寝から目覚める。そして着陸態勢に入る。 無事に成田国際空港に辿り着くことができた。 ようやく日本に帰って来ることができた。
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飛行機を降りて滑走路を車で移動してターミナルへ。 空港から出る際に報道陣に囲まれたりするのかと思っていたが 記者団は不在で、誰もおれたちに関心を寄せてなかった。
空港の外に出ると、黒いワンボックスの脇に 秘書っぽい男性とガチっとした黒服がおれたちを待ち構えていた。 サクラちゃんも一緒に乗り込み、車は都内へ向かった。
車内で今後のスケジュールの説明を受けた。 秘書のような人は防衛省のハヤセさんという。今後のお世話係。 最低1ケ月間は都内で検査を受ける日々らしい。日曜は休み。 支度金が入った銀行口座のカードと通帳、印鑑を渡される。 それから、再発行された免許証を渡された。仕事が早くて助かる。
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ホテルに到着。サクラちゃんも今夜はここに泊まるそうだ。 ハヤセさんと明朝の集合時間を確認をして、部屋に入った。
備え付けの電話で家に連絡する。 無事に東京に移動したことをひとまず伝えた。 携帯電話が手に入ったらまた連絡すると言って通話を終えた。 気のせいか、どこか安心したような声だった。 おれの声がそうだったからなのかもしれない。
家への連絡を終えてしばらくしたら、内線コールが鳴った。
「ハナダさん、私、お寿司食べたいなー」
サクラちゃんだった。さっき通帳渡されたの見てたんだな。 それにしても若者の体力はすごいな。おれ腰がバキバキなんだけど… 二人で外に出て、まずATMで現金を引き出した。 手持ちのペソを空港で両替できなかったから日本円が必要だった。
銀座通りまで歩いて、冬服を何着か買った。 昨日はまではTシャツだったのに、今はダウンが必要だ。 携帯の本体を買って、SIMカードの再発行の手続きをした。 その後、ザギンでチャンネーとシースーした。
「あっちのお寿司は独特だから、すごくおいしかった。ごちそうさま」
「どういたしまして。これはサクラちゃんの手柄だから」
二人で銀座を散歩しながらホテルまで戻った。 明日からどうするのか聞くと、実家に帰って友達と会ったりするらしい。
ホテルの部屋で目を瞑り、穴に落ちる前のことを思い出してみる。 家族のことぐらいしか思い出せなかった。 この二週間ちょっとで、すっかり人生が変わったような気がした。 ひとまず日本に帰って来られてよかった。
飛行機であんなに寝るの飽きてたのに、すっと眠りに落ちた。
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raccoon-pizza · 8 months
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973 底名無し沼さん (テテンテンテン MM4f-JHER) 2023/09/17(日) 14:15:25.41 ID:16CrWLcxM
久しぶりに槍行こうとYouTube見たら皆ヘルメットしてるけど、昨今の槍はヘルメット必須になったの?
ガキの時と、高校の山岳部と、大学の時登ったがヘルメットなんて無かったべ
ストックもさ、20年前高校山岳部の時は誰も持ってないし、使ってるのいたら脚怪我したのかな?つて感じだったわ 脚強いからストックは邪魔なだけだわ
ストックは買ってもいいがヘルメットは買いたくねー視野狭くなるの怖いねん
でもこの前ツイでストック無しが、山舐めてる登山者って晒されてたし、晒されるのもこえー
今の槍ってヘルメット無しだと注意されたり晒されるムードなの? 

974 底名無し沼さん (ワッチョイ 0fbd-XAuC) 2023/09/17(日) 14:35:27.27 ID:XEoNzxPn0
ねえ、おじいちゃん。
今は2023年よ? 

975 底名無し沼さん (アウアウウー Sa53-zevZ) 2023/09/17(日) 14:37:10.19 ID:QM1bHBTLa
>>973
槍も剱もそうだよ
剱は7~8年前から急にそんな感じになった
大行列が出来るのもその頃から 

976 底名無し沼さん (ワッチョイ 0fbd-XAuC) 2023/09/17(日) 14:44:07.22 ID:XEoNzxPn0
まぁ別に自己責任だから着けたくなければ良いと想うけどね。
滑落した時の生存率はメットつけてる方が確実に高いよ。 

977 底名無し沼さん (ワッチョイ ffad-HOsl) 2023/09/17(日) 14:55:15.88 ID:1FUatNQi0
7~8年前はそんな事なかったよ
メットなんてほぼ居なかったような
ストックはオレも゙30代の時はいらなかったけど
40代になるともう手放せない状態だった 

978 底名無し沼さん (ワッチョイ 8fbd-iL2I) 2023/09/17(日) 14:59:10.88 ID:FftRMEIM0
スキースノボもヘルメット率高くなってきてる
安全性は勿論良いものは快適だし 

979 底名無し沼さん (ワッチョイ 0fbd-XAuC) 2023/09/17(日) 15:04:33.16 ID:XEoNzxPn0
メットはさ、シートベルトみたいなもんだと思うよ。
運転慣れてて事故を起こさない自信あっても何が起こるか分からんし
むしろ慣れてるからこそ安全管理に気を配るべきだろ。
家族を乗せてる時は念のためシートベルト着けてって言うでしょ?
ま、どうでもいい他人は自己責任だしどうぞご勝手にってなもんだけどね。
シートベルトと違って法的な義務もないし。 

980 底名無し沼さん (テテンテンテン MM4f-JHER) 2023/09/17(日) 15:04:34.39 ID:hrrXdhyyM
>>975
20年前、高校の時に剣登ろうとしたら渋滞で先生に中止言われたから剣&槍の渋滞は高度成長期からずっとだと思うわ
ええわ、ストックだけ買ってニット帽持ってく
就職後は海外登山専門なってたが本場の海外の方が緩くて合うわ
今年の夏は北欧の王の散歩道行ってきたが、中心部以外は自由に設営可能だし、サンダルで縦走してるのも見るし、自由に自然と向き合うって感じで好きやわ 

981 底名無し沼さん (アウアウウー Sa53-seuY) 2023/09/17(日) 15:09:18.08 ID:8wpZi+n5a
初心者が増えて落石落とされる頻度が増えたからヘルメット着けるんだよ 

982 底名無し沼さん (ワッチョイ 8f7d-s+Pw) 2023/09/17(日) 15:12:40.67 ID:jgG4aH8f0
爺さんには防災頭巾で十分やろ。 

983 底名無し沼さん (ワッチョイ 3fb0-3FLC) 2023/09/17(日) 15:16:54.24 ID:9OWxYJUf0
穂先だけだから小屋でレンタルメット借りたら済むだろ
北鎌尾根なら知らん 

984 底名無し沼さん (スプッッ Sddf-NfV8) 2023/09/17(日) 15:28:44.42 ID:DAPsQ5Wgd
ヘルメットはどれだけ自己管理が出来ているかどうかの物差しになってる感じがする
おれは社会生活において立派な人ほどヘルメット被っていると思ってる 

986 底名無し沼さん (アウアウウー Sa53-cwoO) 2023/09/17(日) 15:43:18.41 ID:zFaS/2Q7a
樹林帯とかでも思考停止でヘルメット被ってる人はワクチンも打ってそうw 

987 底名無し沼さん (アウアウウー Sa53-zevZ) 2023/09/17(日) 15:48:25.02 ID:QM1bHBTLa
>>984
逆だと思う
何も考えず同調したい人がかぶってるイメージ 

989 底名無し沼さん (ワッチョイ 3fbb-9C00) 2023/09/17(日) 16:01:37.42 ID:d3zu4TjF0
時と場所も考えずに、常に熊鈴鳴らしてるのも同類 

991 底名無し沼さん (スプッッ Sddf-NfV8) 2023/09/17(日) 16:04:58.88 ID:DAPsQ5Wgd
>>986
ヘルメットは落石に備える物というよりも転倒に備えるもんだと思ってる 

992 底名無し沼さん (ワンミングク MM9f-zKnx) 2023/09/17(日) 16:06:16.77 ID:fXfx+yZFM
お兄ちゃんヘルメットしないと危ないよとお節介言ってくるおじさんを避けるためのグッズがヘルメット 

993 底名無し沼さん (ワッチョイ 8fef-9C00) 2023/09/17(日) 16:22:53.90 ID:99G4XIY30
ヘルメット被ってるほうが涼しい 

996 底名無し沼さん (ワッチョイ 3f11-upnQ) 2023/09/17(日) 16:38:17.23 ID:8C4xVs3A0
>>987
なんでその結論至るの?
ヘルメット被るデメリット答えてよ 

997 底名無し沼さん (ワッチョイ 8f7d-s+Pw) 2023/09/17(日) 16:47:05.89 ID:jgG4aH8f0
俺は頭に何か付けてると気になって集中出来ない。
特に岩場ではバランンスが悪くなる。 

998 底名無し沼さん (アウアウウー Sa53-zevZ) 2023/09/17(日) 16:53:33.29 ID:QM1bHBTLa
>>996
暑い、面倒くさい、荷物が増える重い
ヘルメット被りなさいと言われてるから、他の人も被ってるからというのが大半で、ちゃんと意義を理解して他の岩場の作法も身につけてる人は少ないと思う
コロナ禍のマスクみたいな
もちろん、それが無意味だなんて思わない 

999 底名無し沼さん (ワッチョイ 8f74-xd1r) 2023/09/17(日) 17:07:08.19 ID:+X+IuFLV0
>>973
ヘルメット推奨地域(義務ではない)てのかできた
https://www.pref.nag.../sangaku/helmet.html
槍や奥穂だけなら対象外だが、そこから外れたら多くは推奨
木曽駒も外れてるけど宝剣は入ってる
宝剣は要らんと思うけどな、落ちたら死ぬだけだし
むしろ頭が大きくなる分ぶつけてバランス崩しやすくなり
逆に危ないだろと思う
仕事で仕方なくつける時も、逆効果だろこれ、と
思いながらも労災出ないと困るからかぶってる
タ◯ザワのおかげでだいぶラクにはなった
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turkey-trip · 11 months
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#6 カッパドキアガイド
こんにちは、カサダニアンです。
 
今回の旅、カッパドキアは2泊と丸2日間観光ができる場所です。
カッパドキアを観光する際のガイドとしてもらえると幸いです。
 
この記事では、カッパドキアの見どころについて紹介します。
 
〇カッパドキアどこにある?
カッパドキアは、トルコの首都アンカラから約250㎞離れて、アクサライ~ニーデ~ネヴシェヒル~カイセリ地方に挟まれて中央アナトリアに位置しています。
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〇なぜ洞窟?
2世紀にキリスト教が知られるようになったころ、カッパドキアはさまざまな思想、哲学、東方諸宗教の入り乱れるるつぼでした。
初期のキリスト教徒はおそらく、ローマの宗教的迫害から逃れてきた人々で、キリスト教徒の大部分は、タウロス山脈全域を占領したアラブ人の支配からカッパドキアヘ避難してきた人々でした。
これらの新しい住人たちは、丘の斜面を掘り、岩を刻んで教会を造り、内部をフレスコ画で飾ります。
こうしてカッパドキアの岩石地帯は修道院や修道士の祈り、教会などの大展示場の様相を呈するようになりました。
11世紀後半にセルジュク族がやってきたときには、カッパドキアには1000を越える宗数的施設があったそうです。
カッパドキアのキリスト教社会と、イスラムのセルジュクトルコの関係は友好的でしたが、14世紀に入るとオスマン帝国に吸収されてしまいました。
キリスト教信者のギリシャ人たちは、後世のトルコとギリシャの人民交換政策により、1920年代にカッパドキアを離れることになってしまいました。
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〇カッパドキアの地形が作り出す芸術
カッパドキアの地層は地上に見られる自然の奇跡の一つであり、中央アナトリアの火山が盛んに活動し、溶岩や火山灰に覆われた「堆積期」、そして火山活動の停止と共に始まった「侵食期」に於いて、自然が持っている二つの相反する作用が作り上げた作品と言えます。
ヨーロッパのアルプス山脈同様、南アナトリアのトロス山脈も地質年代上、新生代の第三紀(6500万~200万年前)に形成されました。
この時期、中央アナトリアでは活発な地殻の変動で深い亀裂や地盤の沈下が見られ、亀裂を這って地表に噴出しだしたマグマは、エルジェス、デヴェリ、メレンディス、ケチボイドゥラン火山を作り上げたのです。
そして、度重なる激しい噴火の後、中央アナトリアでトロス山脈に並行して走る火山連ができあがったのです。
火山の吐き出した噴出物は既に形成されていた丘や谷の上に長い時間をかけてゆっくりと降り積もり、周辺一帯は巨大な台地と化しました。
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〇地下都市
石灰岩を掘って地下8階から10階の深さにまで達している巨大な地下都市です。
完全に地下部分に作られていることとその規模の大きさから、他のカッパドキアの岩窟住居とは一線を画しています。
内部は、狭い通路から生活の場、換気孔までと様々な空間がまるで迷路をも想わせます。
地下都市での生活はキリスト教時代以前からすで営まれていましたが、一時は頻繁に利用されたのはアラブ人から逃れるキリスト教徒の避難所にもなりました。
アラブ人の脅威に様々な対策が練られるもどれも効を奏せず、キリスト教徒であった地元の人々はここに隠れて敵の撤退までの仮住まいとしていました。敵の侵入の危険に備え各階ごとに、石うすのような大きな丸い石板で扉を閉じられるようになっていました。
石板の直径は1.5m、いざという時はすぐに転がすことのできる場所に置かれていました。
他にも通気孔はもちろん、非難用のトンネルも備えるなど、この地下都市は完璧な防御の役割を果たしていました。
ここを訪れた人は壁を堀った箱型ベッドにも気を取られるかと思います。
その他にも内部には教会や学校、食料や物品の貯蔵庫、ワイナリーも作られていました。
通気孔は各階を突き抜けていてその幾つかは地下水まで達しているものもあり、井戸として水を供給する役割もありました。
見学可能なのは一部のみですが、観光ルートにはそれぞれ表示があるので是非足を止めてみてください。
カイマクルの地下都市では一番多い時期では合わせて約2万人、常時でも約4千~8千人もの人々が隠れ住んでいたと言われています。
地下都市が観光客の注目を浴びるようになったのはわずか50年前くらいからのことで、その前までは村人の貯蔵室や納屋として使われていました。
地下都市の内部を観光する際はガイドについて歩くか、矢印にそって注意深く進まないとすぐに道に迷ってしまいます。
長短さまざまな狭いトンネルが四方八方に延びていたり、通路を急カーブでえぐって窪みを利用した大きな部屋があったりもします。
頭上がとても低い場所や階段を使う場所もあるので頭上だけでなく足元にも十分に注意をして下さい。
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〇ウフララ渓谷
ウフララ渓谷(Ihlara Vadisi)は、カッパドキア南方のアクサライにある、自然的・歴史的に重要な価値を持つ谷です。
ウフララ村からセリメ村まで湾曲しながら続く、全長約18km、幅約200m、深さ約150mという雄大な谷は、この地にそびえたつハサン火山から流れ込んでいたメレンディス川によって削り取られて形成されました。
現在は小川となったメレンディス川は、生命の源となって谷底の豊かな緑を育んでいます。
自然の生み出した芸術に加えて、ウフララ渓谷でもう一つ特筆すべきは、切り立った高い崖の岩を掘って作られた5000もの住居と105の教会群です。
渓谷沿いには、カッパドキアを象徴する奇岩「妖精の煙突」が並ぶヤプラク・ヒサルやセリメ村もあり、まさに大自然の美しさと歴史的遺産の両方を楽しめる、知られざる観光名所といえます。
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〇セリメ修道院
カッパドキアで最も予想外の驚きの 1 つは、アクサライから 28 km のウフララ渓谷の端にあるセリメにある素晴らしい岩窟修道院です。
セリメには、ヒッタイト、アッシリア、ペルシャ、ローマ、ビザンチン、ダニシュメント、セルジューク、オスマンの各文明がありました。
セリメ要塞修道院の最も重要な側面の 1 つは、多くの主要な聖職者がそこで教育を受けたことです。 地域の軍事本部もそこにありました。
修道院は 8 世紀から 9 世紀に建てられたものですが、建物のフレスコ画は 10 世紀後半から 11 世紀初頭のものです。
描写には、昇天、受胎告知、聖母マリアが含まれます。
セリメ修道院はカッパドキア最大の宗教建築で、大聖堂サイズの教会があります。 大聖堂の内部には 2 列の岩柱があります。
これらの柱は、大聖堂を 3 つのセクションに分割します。
教会の大きさは驚くべきものです。 セリメ修道院内の凝灰岩から直接切り出された教会の柱とアーチには、かつてそこを占めていたさまざまな世代の痕跡が今も残っています。
初期の初期のイコンはよりはっきりと見ることができますが、後に描かれた詳細なフレスコ画は、トルコ人が部屋を料理に使用したときに表面を覆う煤の年月の下でほとんど見えません。
修道院には、修道士の宿舎、大きなキッチン、さらにはラバ用の厩舎もあります。
部屋の壁はかつてフレスコ画で飾られていましたが、ほとんど残っていません。
道路から修道院まで、急で滑りやすい丘を登る短いが挑戦的な道があります。
修道院までの道のりは、まずラクダが歩くキャラバン道の一部であるトンネルのような回廊を通ります。
セリメには大きなバザールがあったので、ラクダの隊商は途中下車と保護のためにやって来ました。 、ラクダは修道院の中央部に導かれました
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〇ギョレメ・パナロマ
カッパドキアの奇岩は6000年前、火山の灰と溶岩でできた柔らかい地層が侵食されて作られました。
旧石器時代にはヒッタイト人が住んでいましたが、その後クリスチャンがローマ帝国の支配から逃れるためにこの地を利用しました。
この時移住してきたクリスチャンがギョレメの奇岩の中に教会や家を建てます。
この地の地名である「ギョレメ」とは、「見てはいけないもの」「隠された場所」という意味を持つそうです。
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〇ギョレメ野外博物館
・入場料45トルコリラ
ギョレメの谷では遠い昔、信仰を共にした共同体の生活が営まれていました。
今日、野外博物館として管理されているこの谷の一帯には、独特の形の岩山を掘って造られたキリスト教の修道院が残されています。
共同体を提唱したのはカエサリア(カイセリ)司教の聖バシルでした。
彼は時代の浮薄な風潮を逃れて、人里離れたところで広域に分散して修行する小さな宗教共同体を提唱したのでした。
凝灰岩の一本岩を掘り抜いて建てられた教会の数は多く、365の教会が造られたという伝承もありますが、その中で現在も30ほどの教会が公開されています。
むき出しの荒廃した岩山を飾るのは、僅かに換気や採光のための窓や入口の開口部だけです。
これは人を避けて信仰生活に専念するためであり、また11世紀頃、ビザンチン帝国領内で熾烈を極めたトルコ人による迫害を逃れるためでもありました。
ギョレメに教会が建てられたのは850年以降で、11世紀頃には内部のフレスコ画が完成しました。都のビザンチン芸術の直接の影響を受けているとはいえ極めて素朴な絵です。
地元の後援者の資金提供で、専門の画家が壁画を描いていることもあり、時には肖像画入りで画家や後援者の名が残されていることもあります。
綿密な学術調査によれば、この後援者は地元の有力者達だったことが判明しています。
彼らは時折ここに集まり、大切な商談を行ったそうです。
これらの絵は8世紀中頃から9世紀にかけてビザンチン一帯で行われた偶像禁止が解かれた直後に描かれたものが大半です。
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「トカル・キリセ(ブローチの教会)」
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「円柱教会」
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「エルマル・キリセ(リンゴの教会)」
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「 カランルク・キリセ(暗闇の教会) 」
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「 サンダル・キリセ (サンダルの教会) 」
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「バルバラ・キリセ」
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「ユランル・キリセ」
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〇ウチヒサール城
・入場料10トルコリラ
ウチヒサル(Uçhisar)」とは、ギョレメとネヴシェヒルの中間にある町です。ウチヒサルとはトルコ語で「尖った砦」を意味し、巨大な岩山を掘って造られた「ウチヒサル城塞」を中心に巨岩要塞の麓に町が広がっています。
ウチヒサル城塞は3つの塔のような形をしており、カッパドキアの入口の一連の「要塞」のひとつでもあります。
ウチヒサルを遠くから見ると、無数の窓の付いた険しい岩山がそびえて見えます。これは岩壁をくり抜いて造られた部屋の窓です。
一部には、浸食作用で地滑りを起こして内部が露出してしまった部屋もあります。
そして、住宅地の下には数百メートルに渡って凝灰岩盤を掘り連ねた坑道があります。
この坑道は古代に掘られたもので、敵に包囲された際に外部と連絡を取って、水の供給を確保するために掘られたと言われています。
現在は浸食により脆くなって危険なことからここで暮らしていた人々は立ち退いてしまっていますが、数十年前まで人々が暮らしていた古い住居群も見られます。
また、ウチヒサルの岩の表面には「鳩の家」と呼ばれる無数の穴が開いていて、住民は昔からブドウ畑の肥料として使うために鳩の糞を集めていました。
鳩は赤色を好むため、巣の入口は赤色でペイントもされています。火山性で土地がやせているカッパドキアならではの生活の知恵です。
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〇パシャバー(妖精の煙突)
・入場料無料
パシャバー地区にある妖精の煙突をはじめ、カッパドキアの奇岩群は、長い長い時の中で自然の奇跡が生み出した芸術です。
中央アナトリアの火山活動によって溶岩や火山灰がこの土地に堆積し、それが風雨によって侵食されたことで、無数の表情を見せてくれるユニークな景観が形成されました。
こうして形成された凝灰岩のうち、下層の軟らかい部分が早く侵食されて細くなり、上層の硬い部分が残ると、妖精の煙突のような帽子を被った不思議な岩ができるそうです。
こうした奇岩は高さ40mに達することもありますが、自然による侵食はなお進行しており、下部の軟らかい部分がどんどん削り取られて最後には姿を消してしまうケースもあります。
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以上、日本語ガイドがいないので、この記事をガイド替わりにしてもらえると幸いです。
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