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#明日の百より今日の五十
pedestriansteppers · 1 month
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From the 1958 AG. Tanigawa-dake (谷川岳) is called the devil's mountain. 234 people have been lost since 1931 until June this year, and it is said to be the most serious mountain accident in the world, but the number of climbers has been increasing dramatically because of its rock faces and snow gorges. Original text.
And here is a photo.
The world's first loaned carrier pigeons began this year. Three hundred and fifty pigeons were prepared. The pigeon house returns to the top of the mountain in three minutes, but the manager is worried about the hawks.
The box cost of 30 yen is more than expensive and cheap, and it seems to be difficult to take them with you^;. But I don't have a mobile phone or a coco helicopter, A carrier pigeon, no doubt?
昭和33年(1958)AGより 「谷川岳は魔の山とよばれる、昭和6年以来、今年6月までに遭難者は234人にも上り、一つの山で起きる遭難としては世界一といわれている、しかし、その岩肌 雪渓などが魅力となって登山者は激増する一方。7月6日の山開きには1日6000人をこえる登山者がおしかけた」原文のまま。
そして コノ写真です。
「世界でもはじめてという貸伝書鳩が今年からはじまった。三百五十羽の鳩が用意された。山頂から三分で鳩舎にもどるという、ただしタカが出没するのが管理者のなやみだ」と説明書きがあります。
箱代30円が高い安いより、持って行くのが大変そう^^; でも、携帯もココヘリも無いし、 伝書鳩、間違いないか
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ari0921 · 13 days
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「宮崎正弘の国際情勢解題」 
令和六年(2024)4月19日(金曜日)
   通巻第8221号
 後継皇室問題で自民党が有識者会議の二案を『妥当』
  やはり自民党に「現代の新井白石」はいなかった
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 皇統後継問題の皇室典範改正をめぐって有識者会議が開かれ、これを踏まえて岸田首相は令和六年(二〇二四年)一月三十日の所信表明演説後の質門に答え、かく述べている。
 「有識者会議において悠仁親王殿下までの皇位継承の流れをゆるがせにしてはならないとの結論に至った」。
つまり「女系天皇論」という俗論をたしなめたのだ。だがメディアは意図的に、この一歩踏み込んだ発言を殆ど伝えなかった。岸田首相は「悠仁親王殿下までの皇位継承の流れをゆるがせにしてはならない」と明言しているのである。
 皇統は神武以来の万世一系で男子が継承し、跡継ぎが幼少などの場合、未亡人皇后か独身の内親王が天皇代理として「称制」と務めた。この歴史の特質が意図的に議論されず学校でも教えない。
だから軽佻浮薄にも「愛子天皇待望論」が出てくる。女性天皇と女系天皇の区別も曖昧とされたままである。
 小泉政権のおり皇室典範改正をめぐって有識者会議が開催された。明治二二年(一八八九年)制定された典範により、男系長子が皇位を継承するという神武天皇以来の万世一系の伝統が守られてきた。状況が変化し、皇統が絶えかねないという危機を認識し、急遽、有識者会議が招集された。
だが、座長はロボット工学専門の学者で歴史には無知だった。秋篠宮に悠仁親)王がお生まれになって、皇統問題は棚上げとなった。
 もしこの流れを変えるとなると歴史を否定する革命である。フランクフルト学派が狙うのは二段階革命による国家破壊であり、グローバリズムが国境をなくせと唱えている国家否定の隠れた目標に通底する。
  
 4月15日、自民党は皇位継承の安定のための皇族数確保に関する有識者会議の二案を『妥当』とする立場を示し、「安定的な皇位継承の確保に関する懇親会(麻生副総裁が会長)で党見解のとりまとめを急ぐとした。
 「二案」とは(1)皇族女子の結婚後の皇族身分保持。(2)養子縁組に拠る旧皇族団系男子の皇籍復帰、である。
 自民党はいずれも妥当としたわけだが、いささか勉強不足だろう。やはり与党に現代版の新井白石はいなかったのだ。
 各党の意見のなかで、唯一まともなのが「維新の会」である。すなわち(1)に対して、現実的ではあるが「女系への皇位継承資格拡大につながる懸念がある」としている。
 (2)に関しては『歴史と現実を踏まえれば、高く評価できる』とした。
そもそも皇室典範の改正云々を内閣ごときがおこなうべきではない。立太子と親王殿下がおられるのに、なぜこんな議論をするのか、裏に何か別の動機が潜んでいるのか。
(参考文献 宮崎正弘『二度天皇になった女性 ─孝謙・称徳女帝の光と影』(ワック)
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(再録)「新井白石 皇統断絶の危機を予知」
 皇統が断絶の危機に瀕したことは神武天皇の御代から幾度かある。また後継皇位を争った政争、謀殺も何回かあった。 
 古代史最大の謎は応神天皇と継体天皇の正当性である。ほかにも雄略天皇が謀殺したイチノヘオシハ(履中天皇の皇子、雄略天皇の叔父)の遺児が播磨と吉備の境に二十年隠れ住んでいて、雄略の皇子・清寧天皇が亡くなると名乗り出た。この間、イチノヘオシハの妹の称制だった。
 新井白石は自伝ともとれる『折たく柴の記』のなかで、皇室の後継が不在となる危機の到来を認識し、東山天皇の祖孫をして閑院宮家を立てられるよう将軍に建言した。その皇統を維持させた経緯を次のように回想した。
 「議し申すべき一事の候は天亨・建武の間、皇統すでに南北にわかれ、南朝はいくほどなくて絶させ給ひぬ。北朝はもとこれ武家のためにたてられ給ひぬれば、武家の代の栄えも衰えをも、ともにせさせ給ふべき御事なるに、応仁の後、世の乱れ打ち続て、武家すでに衰給ひにし上は、朝家のことは申すに及ばず当家(徳川)神祖天下の事をしろしめされしに及びてこそ、朝家(皇室)にも絶たるをも?ぎ、廃れしをも興させ給ふ御事共はあるなれ。しかはあれど儲君(皇太子)の外は、皇子、皇女皆々御出家の事においては、いまもなほおとろへし代のさまに、かは
り給はず。凡そ匹夫匹婦の賤しさも子を産みては其室家あらむ��を思ふ。これ天下古今の情也。(中略)これより後、代々の皇子、皇女、其数多くおはしまさむに至りては天下の富も、つがせ給はぬ所ありぬべしなど申す事も候はんか。古より皇子、皇女、数十人おはしませし代々もすくなかれねど、それらの御後、今に至り給ふは、いくばくもおはしまさず。『天地の間には大算数といふもののある也』と古人は申したりき。これらの事は人の智力の推し測るべき所にあらず。ただ理の当否をこそ論じもうすべけれ」(松村明校注、岩波文庫。138~140p)
 新井白石は後継皇統の候補者がたくさんおられた時代ではなく、いずれ後継候補が不在となる危機にそなえ、別に宮家を建てて費用をまかなうべきと建言したのだ。
 将軍家宣は白石の建言を受けいれ直仁親王を閑院宮と称し、禄千石を進上した。はたして白石が危惧した通り第113代東山天皇の系統は第118代後桃園天皇で絶えた。
 そこで東山の皇子、直人親王の孫にあたる光格天皇が第119代天皇として即位された。光格天皇は閑院宮典仁親王の第六王子。誕生の翌年に聖護院に入寺し将来は出家して聖護院門跡を継ぐ予定だった。
 ところが後桃園天皇が崩御し、直系は内親王だけだったため、安永八年(1789)十一月二十五日、践祚された。今上陛下はこの光格天皇の系統である。
 ゆえに令和の時代の皇室論議に臣籍降下された旧宮家の復活が急がれる所以である。
 白石が冒頭にのべた「建武の間、皇統すでに南北にわかれ、南朝はいくほどなくて絶させ給ひぬ。北朝はもとこれ武家のためにたてられ給ひぬれば」という意味は、建武の中興の後醍醐天皇の南朝が99代の後亀山天皇で世継ぎなく北朝五代の後円融天皇の皇子が、第百代の後小松天皇、101代称光天皇のあと、五代遡って北朝一代の光嚴天皇の祖々孫にあたる後花園天皇となられたことを指している。
 皇位が空位となったケースは幾つかあるが、未亡人か独身の内親王が称制(臨時天皇)として正式な後継皇子が成人するのを待った。たとえば持統天皇、皇極・齊明、元正、元明がそうだ。孝謙・称徳天皇の場合は後継淳仁天皇を廃帝とし、次の光仁天皇を指名したとする遺書は藤原百川がでっち上げた。
 第二十一代雄略天皇の子、清寧には皇子がおらず三代遡って履中天皇の皇子イチノヘオシハの遺児(顕宗、仁賢)が継いだことはみたが、その間の飯豊天皇は明治三年に皇統譜から削除された。ところが葛城の麓へいくと宮内庁管轄の飯豊天皇陵がある。
 その後、第二十五代武烈天皇にも後継皇子は不在で、こんどは五代遡り、応神天皇の五代孫と言われた継体天皇が践祚された。継体天皇は越前からやってきたが二十年間も奈良へ入らず、この謎は解明されていない。
                 (『月刊日本』から再録です)
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hachikenyakaiwai · 8 months
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【かいわいの時】嘉祥三年(850)九月八日:八十島祭を行う(八十島祭の初見)
難波宮と摂津職が廃止された後にも、難波津において繰り返される宮廷祭祀があった。それは八十島祭と、伊勢斎王の解斎の禊である。いずれも前代からの伝統を引く古い行事であって、 平安時代に入って始められたものではない。 八十島祭は、即位儀礼の一環として挙行される神事で、大嘗祭の翌年に後宮の内侍司の女官が祭使として難波津に下向して生島足島神(大八洲之霊)を祭るものであった。
この神事は五世紀以来の古い即位儀礼の名残で、本来は全国土の国魂を新しい天皇の身体に付着させる呪儀であったらしく、奈良時代には、天皇自身が難波津に赴いて行っていたと推測される(第一巻第四章第四節1参照)。
しかし、史料に残る明らかなものはほとんど平安時代のものである。その初見は『日本文徳天皇実録』にみえる文徳天皇の即位に伴う嘉祥三年(八五〇) 九月のものである。鎌倉時代初めの後堀河天皇の元仁元年 (一二二四)まで行われ、以後廃絶した。この間約四〇〇年近くの間に、史料にみえるものは、二二回を数える。この祭儀は六国史には記載しないのが原則だったようで、その後も『日本三代実録』には記載がない。光孝天皇の場合も、『帝王編年記』に記載されるものである。恐らく記録に残らぬものが多かったに違いない(『新修大阪市史 2』)。
(写真)METで展示されている俵屋宗達「源氏物語関屋澪標図屏風」(ニューヨークビス03/09/2019)=ニューヨーク(撮影・吉田)
御社立ちたまて、所々に逍遥を尽くしたまふ 難波の御祓へ、七瀬によそほしう仕まつる 堀江のわたりを御覧じて 今はた同じ難波なると 御心にもあらで うち誦じたまへるを
御社をご出発になって、あちこちの名所に遊覧なさる。難波のお祓い、七瀬に立派にお勤めになる。堀江のあたりを御覧になって、「今はた同じ難波なる」と、無意識のうちに、ふと朗誦なさったのを(渋谷栄一訳)
住吉詣で偶然に元カノ(明石の上)とニアミスし動揺する源氏(当時29歳)。「今はた同じ難波なる」とは、百人一首にもみえる元良親王(890-943)の歌で、上の句の「わびぬれば今はた同じ難波なる」からとられています。源氏の心中にはもちろん「身をつくしても逢はんとぞ思ふ」という下の句が隠されていることでしょう。さて、かいわいに関係のある箇所といえば、もちろん、「堀江のわたり」。屏風では明石の上の乘る舟が描かれています。
源氏物語の注釈書の一つ『花鳥余情』(一条兼良1472)に「代始に八十嶋祭難波にてあり、典侍の人御衣をもちて参向して解除する事あり これみな難波のはらへの例也」とあり、「七瀬」と「八十島祭」は同じようなものとして扱われています。紫式部の時代の八十島祭は、三条天皇の長和二年(1013)十月、後一条天皇の寛仁元年(1017)十二月が記録に残っています。
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gupaooooon · 9 months
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NoBarbenheimer
今回の件、原爆投下/原水爆をミーム化/ネタ化する動きの加速に対して。フェミニズムな作品であることがとても楽しみだったバービーの……“公式アカウント”が乗っかっていたという事実。そのショックについて。自分も抗議を送ったりTwitter/Tumblrでタグを使ったひとりですが、
「日本のみ」が被爆国ではないし、「日本人とされれる人々のみ」が被爆被害者ではない。
凡ゆる国と地域で被爆被害があり、凡ゆる国や地域の人々が、被害者が、世界中にいること。
“戦争被爆国”としての日本においては、戦時下で、軍国主義/差別主義の中で更に更にマイノリティとして虐げられた人々が、植民地支配/強制連行による被害者や、捕虜として収容されていた人々が、沢山、犠牲になっているし、その後も苦しみ続けている。日本/政府による迫害と差別に晒されている。その存在が、事実が、歴史が、蔑ろにされ続けている。
原爆/原水爆の犠牲者が、被害者が、いまも、世界で、さまざまな場所で、苦しみ続けていること。その歴史について。
それらを踏みにじるような言葉も、それらについて誤った認識を与える言葉も、Twitter上では多く(差別主義者/ネトウヨ/極右なども、バービーという作品そのものとそこにあるフェミニズムや多様性に対する一方的な揶揄/叩きや、韓国へのデマ/ヘイトや、他の悲惨な歴史や事件を更にミームにして茶化し出すという……醜悪な最低最悪な行いをぶち撒けながら、この抗議タグをTwitter上で利用してきていることもあり、)かなり蔓延してきてるようなので。
Twitterで今回自分がRTさせて頂いた……さまざまな方々が紹介していた記事やアーカイブ/今までTwitter上で自分がRTしてきたり引用してきたりした記事なども、自分用と兼ねて、いくつか、改めて、此方にも引用してみます。
また、再度、強調したいのですが、
日本は、今なお、戦争責任/加害の歴史に向き合おうとしない。戦争の責任と記録と歴史を忘却し、捻じ曲げようとする歴史修正主義が、まさにいま、どんどん勢いを増し続けている現状。核廃絶について背を向けるばかりか、核武装について“柔軟な議論”などとほざいて嬉々として語り出す連中が、差別主義者の糞どもが、万年与党であること。
そこを無視することこそ、恐ろしいことで、忘れてはならないこと。(これもほんと繰り返しだが、この現状だからこそ、戦争/核を軽視しないための抗議の責任があること、強調したい)
・日本だけではない、被爆国
「核兵器を開発するためには実験が必要です。1945年、アメリカのニューメキシコ州で世界で初めての核実験が行われてから、これまで2,050回以上の核実験が行われきました。
アメリカはネバダ砂漠や太平洋でロシアはカザフスタンや北極海で、イギリスはオーストラリアや太平洋の島国で、フランスはアルジェリアや南太平洋の仏領ポリネシア・タヒチで中国は新疆ウイグル自治区で実施しました。ワシントンやモスクワなどの大都市から遠く離れ、多くの場合は植民地や先住民族の暮らしている土地でした。(川崎 哲「核兵器はなくせる」、岩波ジュニア新書、2018)」
・Hiroshima and Nagasaki: A Multilingual Bibliography
「ABOUT US: The Aim of Our Project
In 2014, a year before the 70th anniversary of the atomic bombings of Hiroshima and Nagasaki, we started our survey and research into the multilingual publication of atomic bomb literature. Our goal is to make a comprehensive survey into the process of worldwide acknowledgment of Hiroshima and Nagasaki for 70 years.」
・外国人戦争犠牲者追悼核廃絶人類不戦碑
「この戦争の末期、長崎では数次にわたる米軍の空襲、潜水艦攻撃、そして八月九日の原爆 によって七万余の日本人、数千の朝��人、中国人労働者、華僑、留学生、連合軍捕虜(イギ リス、アメリカ、オーストラリア、オランダ、インドネシア等)が犠牲となった。
特に浦上刑務所のあった隣接する丘では、三十二名の中国人、十三名の朝鮮人が、日本人 受刑者とともに爆死し、また香焼や幸町の捕虜収容所では、被爆前に病気や事故などによ って数百名の連合軍兵士が死亡した」
「碑の建立に力を注いだのは、戦時中に収容所の職員だった田島治太夫さん(九九年死去)。一緒に運動した鎌田信子さん(72)は「日本人だけでなく、多くの外国人が犠牲になったことを知ってもらいたい」と語る。」(2005/07/15 掲載記事)
・被爆2世、女性として直面した複合差別 ――「韓国のヒロシマ」陜川から
「2023年2月7日、被爆者の援護を定めた法の対象外となっているのは不当だとして、被爆2世が国を訴えていた裁判の判決が広島地裁で言い渡された。「不当な差別とは評価できない」などとして、原告の訴えは棄却された。被爆2世に対しては、厚生労働省が定めた要綱に基づく健康診断が実施されているものの、がん検診はそこに含まれず、各種手当の交付なども受けられない。」
「原爆被害に加え、それ以前からの植民地支配に翻弄されてきた韓国人被爆者の次世代も、「線引きの外側」に置かれ、公的な支えを受けられずに生きてきた。」
・80歳を過ぎて語り始めた被爆体験――福島へ手渡したい思いとは
「切明さんの話は、「あの日」から始まるのではなく、軍都「廣島」の話から始まる。
「広島は今、平和を守ることや、核兵器廃絶を掲げていますが、77年前までは軍国主義の街でした」
切明さんが国民学校2年生の時、満州事変が起きる。広島城の周辺には陸軍の師団が置かれており、宇品港は中国大陸や、その後の東南アジアの国々侵略のための出発港だった。」
・「存在しない」とされた残留放射線、内部被ばくの被害を認めない政府
「こうした政府の態度の根底にあるのは、残留放射線による内部被ばくの否定だ。放射性物質を体内に取り込む危険性から目を背ける、その姿勢の源流を知るためには、日米の歴史を紐解く必要がある。
『原水爆時代〈上〉―現代史の証言』(今堀誠二)や 『核の戦後史:Q&Aで学ぶ原爆・原発・被ばくの真実』(木村朗、高橋博子)でも示されているが、原爆投下から1ヵ月後、マンハッタン計画の副責任者であるトーマス・ファーレル氏は、下記のような声明を発表したとされる。
「広島・長崎では、死ぬべきものは死んでしまい、9月上旬において、原爆放射能の余燼ために苦しんでいる者は皆無だ」
残留放射能が存在しないとした理由について記者からの質問を受け、ファーレル氏は「相当の高度で爆発させた」ことを挙げていた。
なぜこうした声明を出すに至ったのか。『核の戦後史』の他、『封印されたヒロシマ・ナガサキ』などの著者でもある奈良大学の高橋博子教授は、占領を円滑に進める必要がある米国側の意図を指摘する。
「声明には、原爆投下が国際法違反であることを否定し、広島を取材した連合国軍記者による報道を打ち消す狙いがあったと思われます」 」
「 「日本政府は核兵器の残酷さや非人道性を訴えるどころか、その“威力”を重視し、原爆攻撃をした米国と一緒になって、核兵器の有効性を世界に向けて訴えてきたといえます。核の“パワー”の肯定的イメージを拡散してきた、世界に対する責任は重いと思います」 」
・«さもしいといって下さいますな» 福田須磨子さんの思い 原爆を背負って(30)
「 《何も彼(か)も いやになりました 原子野に屹立(きつりつ)する巨大な平和像 それはいい それはいいけど そのお金で何とかならなかったかしら “石の像は食えぬし腹の足しにならぬ” さもしいといって下さいますな 原爆後十年をぎりぎりに生きる 被災者の偽らぬ心境です》
 1955年8月、被爆詩人・福田須磨子さん=74年に52歳で死去=が詠んだ詩「ひとりごと」です。須磨子さんは23歳のとき、爆心地から1・8キロ地点で被爆。高熱や脱毛など後遺症に苦しみ、紅斑症にもかかります。身体的、精神的苦痛と生活苦にさいなまれる日々…。3千万円の巨費を投じて造られた平和祈念像を見て、この詩を詠みました。」
・問われる空襲被害者の戦後補償
この記事は2020年放送のNHKスペシャル「忘れられた戦後補償」を下地にした2021年放送のクローズアップ現代の記事です。もとのNHKスペシャルを記事化したページは……もう削除されてしまい、この別番組の記事しか残っていない状況です。
被爆被害とは違った話なのですが、日本が戦後も、ずっと、いかに、国内外問わず、戦争責任に向き合っていない国であるか。民間人/市民を切り捨て、権力者/軍部を優遇してきたか。それがわかりやすい記事のひとつとして、引用します。
以下はNHKスペシャルの特集記事から当時引用した文面です。
「大将経験者の遺族には、戦犯であっても、兵の6.5倍の補償を実施。閣僚経験者に対しては、現在の貨幣価値で年1000万円前後が支払われていた。その一方で、旧植民地出身の将兵は、恩給の対象から外された。」
「国家が総動員体制で遂行し、破滅への道をたどった日本の戦争。犠牲となった民間人は80万人。戦後、国家補償を求めた民間被害者の訴えは一貫して退けられてきた。」
「ドイツやイタリアと違い、軍と民の格差が時代とともに拡大していった日本の戦後補償」
(しかしNHKの戦争責任を問う特集関係の読みやすいWEB記事や記録は……数年しか残さない、消されてしまうし。オンデマンド配信に全て入る訳ではないようだしで。戦争の真実シリーズの731部隊の特集の書籍化は何年も延期が続き、今年やっと……出版されそう……?である現状(何かしらの検閲を受けていないかが、不安である)、本当に不気味で、最悪だ)
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kennak · 1 month
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【請願事項】 カイロ大学卒業時の学籍番号について「知事がこれまで議会」あるいは「様々な場面でお伝えした」本会議答弁議事録をお示し下さい。 都民ファーストの会から所属都議団体への寄附に関して、「知事がこれまで議会」あるいは「様々な場面でお伝えした」本会議答弁議事録をお示し下さい。 「これまでお伝えした」という根拠につき法律・条例等に基づきお示し下さい 古谷ひろみ政策企画局長の虚偽答弁において、地方公務員法第30条、第31条、第32条違反にあたらないのか伺います。 知事の経歴に関する議会答弁については、地方自治法上、同法第153条に言う「普通公共団体の長の権限に属する事務の一部」には該当せず、知事の補助機関である職員に答弁を委任することのできない、知事個人の責務に帰属するものと解するべきと考えますが、局長に答弁させた法的根拠と答弁させるに至った経緯と決裁者につき詳細についてご説明下さい。 今回の一般質問において古谷ひろみ政策企画局長答弁が事実と異なる答弁をしていることから政策企画局長への懲戒処分と、小池知事の監督不行き届きについての責任を求めます。 令和6年3月28日最終本会議、あるいは令和6年第2回定例会本会議にて、小池知事による謝罪と事実に基づく修正答弁を求めます。 全文は以下です 東京都議会本会議における虚偽答弁に関する請願書 令和6年3月21日 東京都知事  小池 百合子 殿 [請願者]地域政党「自由を守る会」代表 東京都議会議員上田令子 貴職におかれましては、都民利益を最優先にした都政実現の為、ご尽力いただきたいと切望するものです。 日本国憲法第16条および請願法第3条に基づき、請願書を提出いたします。同法第5条に則り、誠実なご処理・ご検討の上、令和6年6月26日正午迄に、対応の可否につき理由を明らかにして文書による回答、及び、東京都議会今般最終本会議にて対応頂きますよう請願致します。 【請願理由】 さて、私は、去る令和6年2月29日本会議一般質問において、小池知事に、都民ファーストの会から所属都議関係団体への寄附及び小池知事の学歴問題について以下質問致しました。 「(カイロ大学卒業時の)学籍番号は何番だったのか」 「都民ファーストの会は、パー券収入を都議へキックバックしているのでしょうか。ご自身もパーティーをされてい���すので、政治倫理上の是非、今後もパー券を売り続けるのか、都議に寄附という形で戻し続けるのか、特別顧問である知事に伺います。」 との私の質問に小池知事は一切答えず、古谷ひろみ政策企画局長が 「勉強会や寄附については、知事がこれまで議会などでお伝えしてきたとおりでございます。」 と答弁しました。再質問で 「また、政治倫理、都民ファーストの会のパーティー券問題ですが、上位三名は、一位、七百二十七万円、二位、四百七十五万円、三位、三百五十万円の寄附を都民ファーストから都議にもらっております。総額が、さっきいった二千万以上ということであります。(中略)回答をお待ちします。」 「百合子さんはカイロ大を卒業していないと実名で明言している北原百代さんに確認したのです。彼女のいうことが虚偽なのでしょうか伺います。」 と重ねて小池知事に確認するも、政策企画局長が 「繰り返しになりますが、経歴につきましても、トップマネジメントにおける寄附金についても、知事がこれまで議会など様々な場面でお伝えしてきたとおりでございます。」 とまた答弁しました。 いずれの内容も、過去に誰も質したことのない私が独自に調べた初めての質問です。「知事がこれまで議会などでお伝え」したこと、「知事がこれまで議会など様々な場面でお伝えした」ことにつき、議事録を検索しても発見ができませんでした。「これまでお伝えしたこと」の根拠も不明です。 本会議場での正式な一般質問ですので、本議会以外の場所で語ったことは当然過去の答弁に含まれるものではないはずです。本会議場で事実に基づかない答弁をしたとすれば、虚偽答弁ということになります。地方公務員法第30条、第31条、第32条に抵触しまいか大きな懸念を抱くものです。 また、知事の経歴に関する議会答弁については、地方自治法上、同法第153条に言う「普通公共団体の長の権限に属する事務の一部」には該当せず、知事の補助機関である職員に答弁を委任することのできない、知事個人の責務に帰属するものと解するべきと考えます。 平成28年11月25日小池知事は、豊洲市場の盛り土問題に関し、内部調査報告書で責任者とされた8人以外に、都議会で事実と異なる答弁を行った幹部らも対象として懲戒処分を下しています。(詳細こちら)ことほどさように、都議会での虚偽答弁は厳しく戒められるものであります。 虚偽答弁をした政策企画局長、答弁拒否をし、政策企画局長に答えさせた小池知事の監督責任は重大なことから、上記の対応を求めるものです。 【お姐総括!】 豊洲問題では、正義漢ぶって調子と都合が良いときは幹部職を懲戒処分し、都民の代表の都議の質問で都合が悪くなると逃げて部下に虚偽答弁させて雲隠れ。 ここに至るまで私は、自分の勘違いだったら大変失礼ですから、古谷ひろみ政策企画局長へ過去の答弁を是非教えて下さいとまず内線電話をかけ、担当課長でいいのでお返事を待っていますと伝えたのですが、今日にいたるまで全く連絡がなかったことから、請願書提出に至りました。 それとても、渡そうとしたら、たらいまわしになって全然連絡がない。 業を煮やして「知事室前で待たせて頂きます」と内線して向かいましたところ、ようやく受け取る始末。
小池知事答弁拒否・局長虚偽答弁の処分と議場謝罪を求めます | アゴラ 言論プラットフォーム
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tutai-k · 4 months
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2023年が終わるらしい
2023年のはじまりは、3月から転職も決まっていたし、持病の悪化による日常生活への不安もあったので、2月いっぱいまで休職した。 療養もかねて尾道に一週間滞在したが、出発の日に地元が大雪ですっころび、カメラのレンズを破壊するという暗黒の始まりを告げるなど、つらいことがたくさんあった。 2月も、結局、休養することがないまま、次の職の仕事をずっとしていた。どこかで休みたいと思いながら、全く休めないまま、2023年が終わりそうだ。 意外だったのは、誰の力も金銭的援助も借りずに十年近くひとりでやってきたこと、というのは、なんだかんだ「使える」ということだった。通用するんだ、これが。というおどろきは大きかった。手応えがあったとか、結果が出たとか、そういう意味ではなく、するっと不安なくやっていける。いままでやってきた、他人の顔色をうかがい、他人の動作に合わせて平均的に働くというのとは違った。積んできたものが、無駄にならない機会に巡り会えてよかったと思う。 休みたいと思いながら、休めないでここまで来たし、年始の休みも8日まであるけど、いろいろと休めないことが多い。雇用契約のある労働は休みだが、個人的な仕事はいくらでもあるし、なんなら山積みになっている。九日間で終わるのだろうか…と思いながら一日目をもう半日終えてしまった。(2024年のしいたけ占いには、おまえはだいたい気づいたら働きまくっていて休んでない、みたいなことが書かれていてちょっと悲しかった)
毎年毎年、何を年間のまとめに書いていただろうかと思うわけで、今年も悩んでいるわけだが、全然答えが出ない。とりあえず、読んだ本とか作った本をまとめていたような気がするから、それをやる。
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★作った本★ 1月 『山梔の處女たち』 pixivのいつだったかの百合文芸で佳作をもらったオメガバース百合「首輪とロマンス」、恋愛/性愛から離れたところで手を取り合う少女たちの魔法学園小説「魔女の選択」収録の短編集。Kindle版は、いつだったかのKino-Kuni文学賞で大賞をもらった滅び行く漁村の女二人の物語「迎え火」も収録している。
5月 『けものと船乗り』 現代物、というか、現実世界の不均衡や理不尽に焦点を当てたものがたりを多く書いてきたな、という自覚もあり、あと「幻想文学はもう書かないんですか」とたくさん声をかけてもらったりもしたので、ひさしぶりに幻想文学らしい幻想文学を。 全ての船を沈めてしまうけものが棲むという「島」を望む岬でまちのひとたちにこれまた「けもの」と呼ばれている存在が、船乗りを拾って海へこぎ出そうとするお話。 『ヤールルカ』 写真家の女の短い物語。撮ること/撮られることの暴力を考えているので、そのこととかを中心に、これは短い物語だったが、もう少し長く書けたらいいなと思ってちょっとずつ書いてる。ひとつ、暴力的な経験を「してしまった」ので、それも書けるか…とすごくいやな気持ちになりながら思っており、だが、これは書くことでしか報復も抗議もできないという思いがあるので、この物語とは2024年以降きちんと向き合いたいと思う。
9月 『ゆけ、この広い広い大通りを』 日々詩編集室から出た本。二児の子持ちの専業主婦・バイクと音楽がすきなトランスの女性・都会で働けなくなったフェミニスト、三人の同級生が「地元」でささやかな試みをするお話。 「ちがいのある人がともに過ごせる共有地をつくる」をコンセプトにしている団体を母体にもつ出版社から出る本だったので、いろいろ考えたし、思っていた以上にいままで読んでくれていたひと以外のひとに受け取ってもらえてよかった。自分が持つ切実な課題とかもたくさん載せた物語だったので、ベストをつくしたし、2023年のベストだと思う。この物語に全力をつくしていたので、2023年は、ヨモツヘグイニナでは大きめの物語は作らなかった。 この本は、ヨモツヘグイニナの通販の他に、本屋lighthouseさんとか、シカクさんとか、mychairbooksさんとか、日々詩編集室とかでも買えるので、お気に入りの書店さんで買ってもらえるとうれしい。 『いづくにか、遠き道より』 再録短編集。たくさんたまっていたのでつくった。2014年に書いた小説とかをおそるおそる読み返したら、思っていた以上に「小説」だったのでほっとした。
11月 『アルバトロスの語りの果てへ』 売れない作家のノイと、そのパートナーで人気役者のターが、アルバトロスの繁殖ボランティアに参加するお話。 物語を自分自身が語るとき、そこには当然自分も含まれている物語のこともあるし、そうでないこともある。だけど、埒外にあっても内にあっても、ひとは、語ったり語られたりせずとも、勝手に他者に物語を見いだし、それを消費してゆく構造がある。『山梔の處女』収録の「魔女の選択」によく似た内面を持つ物語だと思うが、他者のふるまいや言動に「物語」を見いだすとき、「なにを見ているか」に自覚的になりたいよね…というようなことを考えながら書いていた。
12月 『浜辺の村の大みそか』 日々詩編集室で出た小さい本。『浜辺の村でだれかと暮らせば』の番外編みたいなやつ。いまから日和と八尋がやったような大晦日をわたしも過ごします。
★読んだ本とか観た映画そのほか★ 色々読んだけど、印象深かったものについて。 『銀河英雄伝説』全巻 銀英伝のコンセプトバーやカフェにいくので読んだ。相変わらずめちゃくちゃおもしろい。 『豊穣の海』全4巻 来年参加する八束さんのアンソロジー父親の死体を棄てに行くやつの資料(?)イメージをつかむのに読んだ。今西が金閣寺のように燃えて、それを本多が眺めている(『暁の寺』)がよかった。あと、大人になって読み返してみると松枝清顕……「全部おまえが悪いじゃん!」ってなるのがおもしろかった。勲に対しては共感するところも多かったし、あいかわらず『天人五衰』が一番好き。 『雨の島』 今年の1月1日に読み終えてた。呉明益の本、『歩道橋の魔術師』も読みたいんだけど、未訳のチョウチョのなんとか…?が読みたい。 『苦海浄土』 ネイチャーライティングをやろうとすると必ず出てくる石牟礼道子、の代表作。水俣へ3月と10月といくことになったし、石牟礼道子を筆頭に水俣関係の本をとてもたくさん読めた一年だった。とてもよかった。来年は『水俣病を旅する』『苦海浄土』(全3巻)を読みたい。 『アフターヘブン』 八束さんの本。めちゃくちゃよかった。 『フィリックス・エヴァー・アフター』 すっごくおもしろくて、何度でも読み返したい! 『鋼鉄紅女』 最高だった……「地獄へようこそ……」って武則天が宣言したところから、もう一気に読んだ。家父長制と、男女の二人の「ペア」というかたちに反旗を翻す最高のSF小説。 『私と夫と夫の彼氏』 2023年で読んだ中で、一番一番おもしろかった漫画!11巻が待ち遠しい! 『琥珀の夢で酔いましょう』 この漫画もめっちゃおもしろかった~! 『父の時代、私の時代』 堀内誠一の自伝的エッセイ。「ウッチェロ!!!!!!!」澁澤龍彦・瀬田貞二との思い出を添えて。めちゃくちゃ古本価格高騰していたので文庫で出してくれてありがとう! 『ガザに地下鉄が走る日』 ずっと読みたかったけど、なかなか読めずにいて(岡真理さんの本は『記憶/物語』を2020年に読み、もう一度これも今年再読した)やっと読む。見過ごしてしまわないように、何が出来るかを考え続け、アクションを取る、できることをやるしかないんだけど、「人間が人間として生活するということ」が、誰にでもある世界にたどり着きたい。 本だと、吉田育未さんの翻訳作品を井上彼方さん/紅坂紫さん編集の『結晶するプリズム』で知り、『聖なる証』『星のせいにして』を読む。めちゃくちゃおもしろかった!年越し読書本は『イエルバブエナ』。「このひとが翻訳している本ならぜったいおもしろい!」という翻訳者さんに出会えたのがうれしかった。 映画もいろいろみたけどとくに『バービー』『his』『ゲゲゲの謎 鬼太郎誕生』がよかったな~。結局体力がなくて窓際のトットちゃんを見に行けなかったのがちょっとさみしい。 さいたま文学館で開催されていた澁澤龍彦の展示にはいけた。パンケーキも食べた。 12/24にITOプロジェクトの『高丘親王航海記』を見に行く。それについてのくわしいことは静かなインターネットに書いた。
★旅行★ 「今年はいろんなところへ行ったんじゃないですか?」と言われたけど実はあんまり行ってなかったりする(さみしい) 1月 尾道 ライターズインレジデンス尾道でまたみはらし亭に滞在する。だいたい伊勢うどん食べてた。 3月 水俣 はじめて水俣へ。というか九州自体がはじめて。いろんなひとに出会い、い���んなことを学び、いろんなおいしいものを食べた。『常世の船を漕ぎて』を水俣病歴史考証館で買った。 5月 東京 行ったという記憶しかない。なにしたっけ…?なにもしてないのか…もしかして…。 9月 大阪 銀英伝のバー「海鷲」へ行く。ロイエンタールの透けてる板を買った。文フリ大阪も行った。 10月 東京 銀英伝のカフェ「イゼルローンフォートレス」へ行く。かおりさんと会う。ながいことSNS上ではお付き合いがあるのに生身で会うのは初めてで、だけど「すっぱいものきらいだもんね」とか長年付き合ってきた人間同士の会話ができてとてもおもしろかった。次の日は吉祥寺や多磨へいき、緑色のインコとオナガを見る。 水俣 ふたたび水俣へ。熊本市内も立ち寄ったが、土砂降りだったので熊本大学と、橙書店へ行く。島尾ミホと石牟礼道子の対談集というめちゃつよBOOKを買った!めちゃくちゃ楽しかった。 11月 文フリ東京。ヒマラヤ鍋を食べる。次の日は埼玉文学館へ。武蔵野うどんに衝撃を受ける。
★来年の予定とか★ 1月14日に文フリ京都。辰年なので澁澤龍彦のコラージュみたいな『兎島にて』という本をだします。こういう物語で「兎」って単語がでると、誰か特定の人をみんな思い浮かべると思うんですけど、その特定の人は卯年のわたしです。他の誰でもありません。 3月までに出さないといけない原稿がめっちゃいっぱいあるので頑張ってます。 オープンにしてるのは八束さんの家父長制アンソロだけだけど、そのほかもまた媒体に載るなどしたらお知らせします。 やりたいことは、三宅島・舳倉島・天売島、この三つのどれかの島にいきたい!2023年は労働が忙しすぎてぜんぜん鳥写に行くことがなかった(かなしい)一年になっちゃったから、2024年はちゃんと鳥写したいです。 あと、日々詩編集室から『ゆけ、この広い広い大通りを』もでたことだし、もうちょっと小説を書いて発表する幅みたいなものをひろげたいかなと思っている。つらいことがたくさんありすぎたから、アンソロは主催も参加もいやだったけど、そういうのとか……あと、書いたらお金がもらえるタイプの原稿とかも、書ける媒体があるのなら書いていこうかと思っている。 これはずっとそうなんだけど、賃労働をしながらほかにわたしの体力で「できる」ことが「小説を書く」ことしかなかったので……。タイミングや機会があれば、頑張ってみようと思っている。
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hosizorayoukai · 8 months
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【中秋の名月ガイド 2023】見え方を徹底解説!月の幻想から星々の歓喜まで天空のスペクタクルに備えよう!
1年で最も美しく見える、最も有名な月「中秋の名月」の魅惑的な夜空を解き明かす、天空の旅に参加しませんか?
2023年、月齢14歳の中秋の名月は、3年連続で満月の年。この月の美しさは今年最も輝きを増し、日の出から日没まで素晴らしい夜を演出します!
中秋の名月はいつ?次の満月はいつ?🌝 この特集では、月に関するあらゆる疑問を解説します。
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ጌ 月の錯視、ペガスス四辺形、秋の一等星「フォーマルハウト」、夏の大三角、昴でお馴染みのプレアデス星団など、魅力的な星々を目撃したり、アメリカの民間伝承では「収穫の月」「コーンムーン」とも呼ばれる満月。日本では、サトイモの文化における芋名月の意味や、月と文化のつながりを理解できます。
🌟月が真南で最も高く昇った後、星々の祭典がパレードが催されます!水の結晶のきらめきによって形成される冬のダイヤモンドの興味深い起源を明らかにするかもしれません。🌄さらに日の出まで星空を旅しながら、夜明け前の一番明るい星、明けの明星の「金星」を見つけるのをお忘れなく。
▼金星 徹底検証はこちらから:3年ぶり見事な明けの明星の洞察! 動き・見え方の全行程を明らかに!(2023年後半 令和5年) https://youtu.be/wFu3lR5_szI
そして、来月10月27日の十三夜には「後の月」と呼ばれる日本独特の習慣もこっそり覗いてみましょう。2023年の満月による中秋の名月の夜空を余すことなく楽しむため、その神秘に迫ります。
役立てていただければ幸いです。
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📝目次📝 --------- 0:00 中秋の名月はいつ? 1:10 次に満月と重なる年はいつ? 2:00 西の日の入りの様子 2:54 東の日の入りの様子 3:18 月の錯覚現象 3:40 3つの薄明 4:29 天頂の夏の大三角 5:00 満月による中秋の名月 6:20 芋名月収穫祭 7:10 夜おそくの星空 8:35 プレアデス星団 9:10 月の南中時刻 10:11 東の明け方の夜空 10:35 冬のダイヤモンドの由来の謎 11:56 明けの明星金星 12:27 日の出までの星空 13:00 太陽が昇る 13:21 十三夜の予告
▼過去の中秋の名月はこちらから▼ ---------- 【2021年】中秋の名月 2021年 9月21日 https://youtu.be/vThIp6DWnm8 【2022年】中秋の名月 2022年 9月10日 https://youtu.be/SVRhAA92o8k
どうぞ、最後までお楽しみください。
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📘資料・出典📘 ----------- ・フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・今日のほしぞら - 国立天文台暦計算室 ・天文学辞典:天体に関する用語を3,000語以上収録・解説。 https://astro-dic.jp/ ・はじめての天体撮影 So-TEN-Ken WEB版 | ビクセン Vixen https://www.vixen.co.jp/lp/so-ten-ken/vol87/photo/
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🎬おすすめ動画リスト🎬 ▼ステラナビゲータ 星空動画を配信しようシリーズ https://youtube.com/playlist?list=PLVD9xZXaEKsVirbBIz-F5nUGJ8hHvnsFd
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bsamngodangbralba · 5 months
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小町数人説をめぐって
陽明文庫に中世の小町の絵がある。絹本着色、縦六一・六センチ、横四一・七センチの絵を表装してあるのだが、軸心近くの裏面に「小野小町像 貞治六秊六月廿五日」と、まさしくその頃この筆跡にて記されたものが付加されている。表装そのものもそんなに新しいものでないが、表装するにあたって、この絵に本来ついていた紙をここに付加したものであろうことは、その字がまさしく貞治頃〈一三六二〜一三六七〉この事跡であることが疑いもないからであろう。
ところで、この絵は「小野小町像」となっているが、まさしく「玉造小町子壮衰書」によっている。「容貌ハ憔悴シテ、身体ハ疲痩」、「頭ハ霜フリタル蓬ノ如ク、膚ハ凍リタル梨ニモ似タリ」、「骨ハ辣チテ筋ハ抗クナリ、面ハ黒クシテ歯ハ黄バミタリ」、「裸形ニシテ衣ナク、徒跣ニㇱテ履ナシ」、「左臂ニハ破レタル筐ヲ懸ケ、右手ニハ壊レタル笠ヲ提ツ」、「頸ニハーツノ囊ヲ係ケ、背ニハーツノ袋ヲ負ヘリ」、「肩ノ破レタル衣ハ胸ニ懸カリ、頸ノ壌レタル蓑ハ腰に纏ヘリ」とある「壮衰書」の序文をのものである。ここでもまた小野小町と玉造小町を同人物とする中世の理解が確認されるのである。
先にあげた「無名抄」の文〔五〇頁参照〕の続きに「玉造の小町と小野小町と同人かあらぬ者から、人々おぼつかなきことに申して争ひはべりし時...」とあって別人説もあったことは確かだが、その多くは前述の「玉造小町子壮衰書」の弘法大師著作説を土台にしての疑問であり、中世の大勢は、あくまで両者を同じものと見、「玉造小町子壮衰書」を小野小町の事蹟を語るものと見ていたことは疑いもないのである。
近世に入っても、この傾向は変わらなかった。貞徳の「徒然草慰草」などその顕著な例だが、中期以後の随筆の類を見ても、たとえば天野信景の「塩尻」〈『随筆大成』等〉、志賀忍〈天保十一年、七九歳没〉の「理斉随筆」などは、小野小町と玉造小町を同一人と考えている。
ところが、小町という名は、実は普通名詞であって、〇〇小町と呼ばれる女性はまことに数多くいたのだ、玉造小町と小野小町もとうぜん別人だという、いわば画期的な説が新井白雅の「牛馬問」「〈温知義書〉」に提示され、人々を驚かせたのである。
古代には一国より一人づつ采󠄃女を内裏へ献ぜしこと也。既に仁明帝の前後には、小町とて召されたるもの六十余人ありしとなり。この采󠄃女を后町のうちにをらしめたまふ。故にみなみな小町と呼ばれたるなり。その人々の宮仕へをやめて古郷に帰り身まかりたる墓を、おほか「た小町塚とよびしとなん。さてこそ、国々に小町塚といふもの多し。美濃・尾張の間にさへ二三所あり。
しかるを、なべての小町を一人と思ふよりまぎれたる説多し。たとへば実方朝臣、陸奥へ下向の時、髑髏の目穴より薄の生ひ出て、「秋風の吹くにつけてもあなめ〱」の歌の小町は小野正澄が娘の小野小町なり。文屋康秀が三河掾となりて下りし時、「身をうき草の根をたえて」さそふ水あらば」とよみしは高雄国分が娘の小町なり。「おもひつつぬればや人の見えつらむ」の歌、又業平の「舞の袖」などいひしは出羽郡司小町良実が娘なり。高野大師のあひたまふ、壮なる時憍慢最も甚だし、衰ふる日愁歎猶深しと答へしは常陸の国玉造義景が娘の小町なり。かく一人ならず。故に時代其外異なる事あるのみ。中にも良実が娘の小町は美人にて和歌にもすぐれたれば、独り名高く、すべて一人のやうに伝へ来たるのみ。
まず、小町を采󠄃女をし、采󠄃女のすべてに「町」をつけてよんだといっているが、平安時代の文献にあらわれる采󠄃女は、たとえば「近江の采󠄃女」〈拾遺集〉「明日香の采󠄃女」〈大和物語〉などのごとく、国名を冠して呼ぶのが普通である上に、文献にあらわれる「町」のつく女性は前述のように后町にいる更衣であって采󠄃女ではない。���町采󠄃女説自体が出羽都司良実の娘という伝承をもとにして出来たものであり、出羽国から采󠄃女をさしだすことはなかった〈「続日本紀」「類聚三代格」〉という事実を持ち出すまでもなく、この日雅の説には従えないのである。地方に数多い小町塚の合理的説明としても弱いものである。
ところで、この白雅の説、後半になると、その多数の小町が四人にしぼられて来る。架空の人物である小野正澄とか高雄国分とか玉造義景などの名をどこから持ち出して来たのか不明だが、既に伝説化説話化している小町像のすべてを事実と認定する立場からの合理的整理であって、まったく意味をなさぬものとしか言いようはないのである。
伝承る整理しながら、また新しい伝承を生んでいる感じの「牛馬問」の説であるが、その合理的整理法に人気があったのか。それに賛同して引用している随筆が実ははなはだ多いのである。神沢貞幹の「翁草」〈『随筆大成』第三期所収〉、城戸千楯の「紙魚室雑記」〈『随筆大成』第一期所収〉、石川宣続の「卯花園漫録」〈『新燕石十種』第三所収〉、山本信有の「孝経楼漫筆」〈『随筆大成』第三期所収」、滝沢馬琴・屋代弘賢らの「兎園小説」〈『百家説林』所収〉など、いずれもこれに全面的な賛同を示しているのである。
小町に限らず、伝説的人物は、その伝説化の過程において、事蹟が膨脹し、それを全体的に把握するとなると、そこに新しい矛盾が出てくることが多い。これを予盾なく合理的に統一しようとすると、いわば原生動物の体のように多方面に膨脹したものを分割するほかはなくなる。
たとえば柿本人麿の場合にしても、「万葉集」の記述を信するかぎり人麿は持統朝から文武朝にかけて活躍した歌人であるとするほかはない。だが一方、「万葉集」が引用する「柿本人麿歌集」にはそれよりもかなり後の歌もある。「人麿歌集」に後代の歌が入っているというのは今日の学者の常識だが、人間歌集なのだからすべてが人麿の歌だという立場に立てば、「万葉集」の人麿にして、既に最低二人いたことになる。次に「古今集」の仮名序を見ると、、「おほきみつの位(正三位)柿本人麿」を「ならの御時」の歌人としている。現在では、これを「奈良時代」と解し、しかも人麿が活躍した飛鳥時代は奈良時代に接していたからこのように書いたと説明している。だが、そこに都があった「時代」と解するのはどうか。平安時代において「御時」とは天皇の治世、すなわと御宇のことであり、「ならの御時」は平城の帝の御時の意にほかならないからである。事実、この仮名序に対応する真名序(漢文の序)には「平城天子」とはっきり書かれている。「古今集」より五十年ほど後に出来た「大和物語」にも人麿が平城天皇に仕えていたとある。平城天皇は平安時代第二の天皇だから「万葉集」の人麿とは違う。これ第三の人麿ということになる。ところ、で、「古今集」から百年ほど後の第三の勅撰歌集「拾遺集」を見ると、人麿が渡唐してよんだという歌が二首見える。これ、第四の人麿である。
人麿を一人ではなく四人とすると、その間の矛盾はなくなる。しかし矛盾がなくなったところでどうなるというのだ。私が問題にしたいのはそんなことではない。実在の人麿が、その死後、奈良時代・平安時代にどのように伝説化されていったか、別のことはで言えば、後の人々の心の中に人麿がどのように生き続けて来たか、私はそれを問題にしたいのである。
小町の場合も同じである。江戸時代の学者のように小町を四人にしたり、現代の民俗学系の国文学者のように、小町と称する女が無数にいたとか、小町を名のる遊行婦女・あるき巫女・歌比丘尼のたぐいが諸国をめぐり歩いていたと言い切ることによって事足れりとし、文献に残った小町の文学と伝承について深く考えようともしないのは学問の堕落、ある意味では頽廃という評語が適切でさえある。仮に彼らの言うようなことがあったとしても、せいぜい中世の後期のことであり、「小野小町の歴史」ほ既に平安時代中期以前から始まり、中世、近世と続いていたのである。小町が、その死後も、後代の人々の心の中にどのように生き続け、どのように変容していったか、あるいはまた、時を経て変容しながらその底に変えずに生き続けてゆく、いわゆる小町的なもの、それはいったい何かということの追跡にこそ、私は意味を認めたいのである。世に虚と言い実と言う。しかし、このように見れば、人々の心の中に生き続けていたものはすべてが実だと言うほかはないのである。
以下の章において次第に明らかにしてゆくことであるが、小野小町の説明化は、彼女の死後間もない頃から既に始まっていたのである。そして十世紀の末頃には、我々が知っている小町説話、たとえば(1)雨乞説話(2)好色説話(3)男性を拒否する驕慢説話(4)衰老説話 等、そのおおむねが既に出来るがっていたはずである。だから、そのような流れの中に「玉造小町子壮衰書」を置くならば、「小町老いて後、おとろへさらぼりたりなど云ふめるは、玉造小町の事なるを混じていへるなり」〈本居内遠「小野小町の考」〉というような見方が必ずしもあたらぬことを知るのである。小町衰老落魄の説話が「壮衰書」の影響で出来上がったというよりも、既に世に行なわれていた小町落魄説話の仏教的結実として壮衰書を考えるべきではないか。「玉造」の由来を明らかに出来ぬことは残念であるが、ともかくも「小町」と表題にあるだけで人々が説明を求めないような人物の伝でなければならないこと、しかもそれが「花ノ時ヲ待チテハ玉筆ヲ秉リテ紅桜紫藤ノ和歌ヲ詠ズル」美女の伝でなければならないことなどを併せ考えれば、平安末期から中世にかけての人々の大勢的理解がそうであったように、これをも小野小町のこととするのが、最も素直な、そんなして最も妥当な理解だと思うのだが、いかがであろうか。
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yesusagisanworld · 1 year
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Advent Calendar Q熱感染を語るぞ!
アドベントカレンダー!! に見せかけたお正月記事になりました。遅くなり大変申し訳ない。
というのも、なんということでしょう。投稿が消えてしまいました事件が起きていたのでした。
山梨ロスト――……
からの復活。 もう一度文章を作ってみました。頑張ったね!私よ!!
そして今回はQ熱感染について語りたいと思います。
昨年も沢山の方に遊んでいただけました。
また、Q熱感染はさておき、少しずつ呪印感染そのものの認知度も上がってきているようにも、Twitterなんかを見ていると思います。 プレイ人口が増えるの、とっても嬉しいね!
その中でタマミさん経由で、箪笥ルールが少々特殊だったり、独自の進化を遂げているようだったりということが判明したりなんかして。始めてから3年?くらいになるのに、まだまだ新しい発見もあったゲームでした。愛しているよ!
さて、話題を戻してQ熱感染です。
箪笥発呪印感染シナリオの三作目であります。 (pest氏こと先生の全十作→たまみさんのあざら印感染全十作→Q熱の全十作! Takanashi→Azarashi→Yamanashiって、韻を踏んで覚えていってね!ちなみに、お二人の影響を受けた部分やシナリオ中のオマージュがあるんだけど、ネタバレになってしまうのでここでは言えないよ!)
そして、Q熱ってなんなの?ということで、よく質問される名前の由来は至って普通!
Q熱とは
Q 熱は重要な人獣共通感染症の一つで、1935年オーストラリアの屠畜場の従業員の間で流行した原因不明の熱性疾患として発見され、のちにリケッチアの一種Coxiella burnetii による感染症であることが明らかにされた。Q熱という病名は、「Query fever =不明熱」に由来している。
うさぎ作のシナリオだったので、ウサギ・ヒト共通感染症の名前からとりました。それ以上の意味は現状ありません。
むやみに意味をこじつけるとしたら、QuestionのQとか?それでAnswerができたらA?と考えましたが、A熱は存在しないので、そのこじつけは恐らくしません!数日後にやっぱその路線でいきますとか言い出したら私の掌ドリルを面白がっていただけますと幸いです。
とりあえず言いたいことは「うさぎ作」ということ。
そしてなんと本作、ステージが山梨ではないのです。
政令指定都市があると良いな(なぜならダイス表の「都市表」を使用するから)と思って……設定したのは…………
静岡県です。 魂は売っていません。 被害となった地として選んだだけです!!!!!
では、ここからはネタバレのお時間!!!!!
まだ十話分プレイしていない人&プレイ予定がこれからの方はここでバックだ!
プレイしていないけれども、呪印感染に興味があるよ、という方はぜひ去年の記事を読んで貰えると嬉しいな。 お付き合いありがとう!!
⚠ スクロールしたらネタバレがくるぞ~ ⚠
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このくらいでいいか!?
良さそうだね!では!
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【Q熱感染 黒・ストーリー】
6年前に流行した『感染』というタイトルの連続短編小説。 十人の新人作家たちによって作られた十話のオカルト話。
それは『呪印』という20世紀末ごろに出回ったオカルト話を元としたストーリーであり、さらには怪異を生むための設定集そのものであった。
呪いは、怪異は、尾ひれはひれ付き、ゆっくり姿を変えていきながら、ついには現代の〈呪印者〉たちの目の前に、利き手の甲に、現れる。日常は徐々に恐怖に侵食されていく。
その中で過去の存在である、『喪服の男』こと『1』にエンカウントしたり、 キーマンである『七海 享』から過去を聞いたり、 その他諸々の怪異の存在や『零泉月詠』を調べたり……、
最終的に〈呪印者〉たちはこの世界を玩具にしている『天帝』という存在(PL・GMそのもの)にたどり着き、 そしてこの世界(呪印感染の世界そのもの)の未来をPLでもGMなく、PCである〈呪印者〉自身が決定していく。
という感じになります!
展開としては、
前半は世界観と『うさぎ性癖ホラー』、さらにゲームシステムに慣れてもらい、 後半でメタフィクション要素をはじめとするオリジナル要素・ルールをぶち込んで、 最終的に[呪印]そのものがなくなり、全てから〈呪印者〉たちは解放されて自由になる。すべて解決!大団円!
みたいな流れとなっております。
プレイ済みの方は、だいたい思い出していただけたでしょうか……?
そして!
【全十話 タイトル・怪異名一覧(正規ルート)】
一人歩きするはじまりの怪異 ・1 二人といない大切な君へ   ・二人静の妄執 三界に咎は無し       ・三尸の紙魚 四大空に帰す        ・四つ辻の名無し 五線譜は知っていた     ・Victoria Theatre 六芒星の加護の中で     ・六臂の土蜘蛛 七回忌           ・七編版『感染』 / 七海 享 八首を産みし嘘八百     ・八卦見 九曜の棄捨せし最終稿    ・九相図の垂乳根 拾遺の名前と呪印感染    ・十さん
全話タイトル・怪異名がこちらになります!
もうお気づきだと思うのですが、タイトルの最初の一文字が漢数字で一〜十(「拾」は「十」の大字)となっております。
また、登場する怪異にはそれぞれ怪異名という物が設定されており、そちらも数字縛りの名称となっています(第五画目についてはローマ数字の「V」)。
結構言葉遊びというか、ダジャレ的なネタも含めながらのタイトル・怪異名で、いつもこねくり回しながら作るのが楽しかった記憶があります。ただ全部オリジナルなので、大変難しかったけれどもね!
また、いつもおなじみの『導入前導入』。
回のはじめに必ず読み上げられる部分があり、その後にまともな導入が入る作りがデフォでした。
この[呪印感染]の世界がすべて小説からつくられた設定であるため、連続短編小説『感染』該当回の冒頭数行を『導入前導入』として設定していたという小ネタがありました。(もちろんタイトル・怪異名の数字縛りもこの連続短編小説『感染』が前提にあるからこその縛りです!)
こちらはタイトル・怪異名以上に難産で、頭にすっと入っていきやすい文章ってどうやって作るんだろう??といつも唸りながら書いていた部分です。
文字書きさんってわかってはいたけれどもやっぱりすごいのね……。
そして、
ここまでは、物語の大筋に関わってくる連続短編小説『感染』についての小ネタやら、設定していた理由やらでしたが、
ここから先は、完全に制作裏話。ストーリー作りで考えていたことやら、全十話の順番やらについてのざっくりした話をしたいと思います。
【全体のストーリーづくりについて】
なんと最初に内容が確定した画数は第七画目でした!!
最初から画数ごとのタイトルと画数の数字で遊びたいと考えており、 とってもシンプルにちょっと不気味な過去の話をするとしたら、どういうタイトルの話がいいかな?と考えて出てきたのが「七回忌」。
数え年のため六年前から現代に続く、不気味な話をすることができるのでは?というところから書き始めました。
そして勿論七回忌なので、最低でも死者と生者の2人が必要になってくることで、生者(語り手)として『七海 享』がつくられます。
さらに、七画目は後半戦半ばなので、それまでに登場した怪異を死者側でしたよ、という伏線回収をしたいと考え、第一画目に人の形をした怪異を連れてくることに決定した。
というのが……すべての発端でした。
その後に考えたことは、
「十画すべて終わって、ひとまずは解決したけど、これ再度[呪印]が現れる可能性があるのでは?」
という、[呪印感染]の世界そのものに対しての不安感。
でもこれってジャパニーズホラーだから、そういう「まだ続いてしまうかも……」といった、 いつ非現実に導かれるかわからない理不尽さが残る展開ってよくある上、個人的に好きなものなんですが、
「それら全部を解決してみたくない!?ならどうしたらいいのかな!?」とハッピー頭による疑問がわきました。
出てきた答えが「PL・GMがいるからどうしようもないですね!」 → 「なら第四の壁が見えるようになって逃れる術を持てば良いのでは!」
これによって、メタフィクション要素がガッツリ搭載される流れとなりました。
ここで、第十画目の内容が「PL・GMを敵に回す」とざっくり確定。
同時に第七画目の内容もメタフィクションのために「この世界はフィクションに則っています」ということがわかる話=小説家『七海 享』による過去の小説の話、と方向性が確定。
ここで、全部の画数をそれぞれ別の人が書いている、とかにしたら面白いのでは?と考え、第七画目と、さらにQ熱黒の世界がカチッと決まりました。
そしてところどころに、フィクションと現実にまつわる話(第五画目)や、PL・GMの存在をちらつかせる伏線回(第三画目)や、うさぎ性癖なんかを散りばめつつ書いている中で、
《伏線》ってなんでこんなに問答無用で強いんだ?小説の話だからか!?と、誰でもお持ちの過去と秘密の《伏線》関係の話を混ぜ込みたくなり、第八画目、第十画目、なんなら第一画目の『喪服の男』周りにセットしておきます。この辺で『喪服の男』の特異性を考え、それを恐れる人間をつくることを考え始めまして、『一宮 朔』の存在はなんとここで決まります。『七海 享』のがずっと先にいたという……。
最後に残るは二・四・六・九画目で、
序盤に『七海 享』が登場しなければという登場回として第二画目(捨てられた女として自覚している伏線回)、
忘れた頃に『ガーデンハイツ八河』を登場させたい&第六画目・第八画目に登場する『祠』の伏線のための第四画目、
中ボス回として&オリジナル《正体》に慣れ始めたPLへの登龍門、第六画目、
最後にラスボス前に気持ちを嫌でもすべてを清算していけPvP回&『零泉月詠』メイン回、第九画目……
の順番で決めていきました。
なお、こちらの記事ではわかりやすさのために上の文章の該当画数に数字を振っていますが、 当時は一画目・七画目・十画目以外はこの数字!とカチッと決めておらず、 前半のこのくらいに〜、後半のこのくらいに〜という配置だけなんとなく決めていました。
順番を決めるために最初は適当に並べてみたんですが、しっくり来なく、そのため、 「伏線をどうやって維持させるか」という観点から、順序をかちっと決めることにしました。
なぜ「伏線をどうやって維持させるか」という観点なのか、 もう少し詳しく書くと、
[呪印感染]というシステムの中でのPC・〈呪印者〉たちはあまりにも簡単に死にやすい!
Q熱黒は全十話で、どこかで話が途切れた途端に、大事にしていた伏線が全滅してしまう!という課題がつきまとうのです。
それを解決するためにはどうしたらよいのか??
→死んでも大丈夫なように外付けハードディスクをつけましょう!
→PCの生存をずっと維持し続けるのは難しいため、必ず一定期間までは死なないNPCをちょいちょい登場させて維持させてみては?
→『七海 享』だ!!!
ということで、『七海 享』は早めの第二画目からの登場、次いで第四画目の確定助っ人NPC・第六画目の冒頭で会議を行う・第七画目(メイン回)以降はずっと出ずっぱりにすることに。
[呪印感染]はシステム上、時間切れではない限り必ず1人は生還できるため、 2人プレイで、PCが交互にロストするとかいう器用なことをしたとしてもぎりぎりなんとかなるように、『七海 享』は(序盤は)偶数回にだけ登場するように設定させることにし、 『七海 享』が入り込めそうな隙きのある画数だけピックアップして偶数画数として並べることにすることで、解決&順序を決定するという荒業に出ました……。
が、なんだかしっくり来て個人的にとても満足。
外付けハードの『七海 享』の配置によって順番が決まり、 あとはそれぞれの画数にあったタイトル名と怪異名を〜という、決め方をしました。
(で、これを考えながら同時に白をねりねりしていた。)
といった形での制作裏話でした!! 『七海 享』に全体的に助けられて作られたわけだ……。 どうもありがとう……。
あんまり参考にならないかもですが、 これから[呪印感染]のシナリオを書きたい人の為に、こんな感じで考えていたよ〜程度のメモとなります。
読んでくださってありがとう!
全部で十話もありますが、
本当に順番ぐちゃぐちゃに作ったので、 順番通りに作る必要ないと思います!
とだけは力強く主張できます。
そして、シナリオを新しく作ったよという��がいらっしゃったら、 是非私にプレイさせていただけると幸いです!
そして、ここまで読んでくださった皆さん。
改めまして、
あけましておめでとうございます。
あの例の一件からおよそ一ヶ月経った頃。 あの事件以来、利き手に痛みが走ることはなく、安心した人もいれば、寧ろ拍子抜けした人もいるかもしれない。
そしてそのままやってきたお正月。何はともあれ貴方達は久しぶりの長めの平和な休日に入った。
幸運なことに、今年は7日までが休みであり、貴方達は本日までの正月休みをゆっくりと満喫できたことだろう。
それにしてもお正月とは賑やかなものである。
どこでも浮かれたように初売りと称したバーゲンセールが行われ、大きな袋に詰められた商品は福袋と名付けられぽんぽんと売れる。
田舎では獅子舞なんかも家を回るのだろう、神社では破魔矢やらお守りやらが売られ、その隣では昨年買われたものが天に帰されるために燃やされるのだろう。
餅付きのイベント、冬休みの今しかやらないであろう、コマ回し、凧揚げをする小学生たち、混雑する新幹線。
あけおめことよろメッセージ、朝早くに郵便局から出発する赤いバイク。そのバイクのエンジン音に目覚めて騒がしく吠える玄関先の犬。
何度も言うが、お正月とは賑やかなものである。
どこか貴方の家の近所でも正月を祝う祭りでもやっているのか、祭囃子のようなものが微かに聞こえてくる。
微かに聞こえる日本人の慣れ親しんだ美しい和音。笛の音、太鼓の音。
神社だけでなく、この時期はテレビでも流れていそうな短調で雅な音色だ。
その祭囃子のテンポに合わせて足音のようなものも聞こえる。随分と賑やかな祭りのようだ。
笛の音に負けず劣らずの美しい歌声も複数聞こえてくる。
ここで貴方達は気がつく。
最初に祭囃子に気がついた時よりも、音が鮮明に聞こえているということに。
移動しながらの催しなのだろうか?獅子舞のように、家々をまわり、道路を練り歩くような催しが近所で行われているのは聞いたことがない。
そんなことを考えている内に、遂に美しい歌声が聞き取れるほどに近付き……
「天まで届けやしずやしず」という女の囁くような声と、
ぴぃ
と、か細い笛の音が。 耳元で聞こえたかのような、不気味な感覚におそわれる。
同時に貴方達の利き手の甲に、しびれるような痛みが走った。
…………
………
……
.
本日、ちょうどお目出度い第二画目の日となっております。
『七海 享』とみんなはもう会えたかな??
今年もどうぞよろしくお願いいたします。
うさぎ
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s39k · 9 months
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上大岡総鎮守 鹿嶋神社 例大祭
■令和5年8月26日 (土) 宵宮
◆各町内で、縁日やゲーム
(場所は異なります。 各町内会にお問い合わせください)
■令和5年8月27日 (日) 例大祭
◆境内にて、 お神楽&お囃子の演奏
10時頃から19時頃迄「里神楽 橘樹会」「里神楽 加藤社中」
昔懐かしい、本格的なお囃子とお神楽!!
ほかでは見られません!聴けません!
巫女の舞、浦島太郎、天の岩戸など、演目多数!
(プログラムは、 回覧板をご覧ください)
◆御輿・子供御輿・山車の渡御など (町内)
鹿嶋神社宮入(到着) 予想時刻 (交通状況で前後します)
●10時30分前後 : 第二町内会 子ども神輿
●14時15分前後 : 第三町内会 子ども神輿
●15時50分前後 : 武輿会 大神輿 (神輿会)
(神輿の参加など詳細は、各町内会にお問い合わせ下さい)
■上大岡総鎮守 鹿嶋神社 総代世話人会
—————————— ———————
町内掲示板より 2023-07-31
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■近隣の ⛩️天照大神 令和5年例大祭
9/2(土)-9/3(日) のお知らせ テキスト化
《 ⛩️ 天照大神 境内の掲示物より 》 
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鹿嶋神社 例大祭 スケジュール - テキスト化
令和五年八月二十七日(日)
神楽奉納 出演/「里神楽 橘樹会」「里神楽 加藤社中」
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■十時
●巫女舞 横浜市に伝わる巫女舞は扇子の舞、榊の舞、弓矢の舞があります。 今回は扇子の舞を小学生の女の子二人で奉納します。お楽しみに。 ●獅子舞 横浜市に伝わる獅子舞は、お正月などに玄関先で立ったままでも踊れるようのが特徴です。 上大岡でも昔は盛んに行われていました。 ●祭り囃子 締め太鼓二丁に長胴太鼓、鉦に笛が入った五人編成で演奏します。大太鼓は上大岡から伝わった打ち方を継承しています。
■十時三十分前後 【子ども神輿】
●鹿嶋神社に宮入 第二町内会子ども神輿
■十一時
●天降降臨 天孫とは「天」天照大神の「孫」の瓊瓊杵尊が、天照大神から授かった三種の神器を携え、天児屋命や天鈿女尊を連れて、降臨された話です。道案内の神様 「猿田彦(天狗)」と「肝潰し」のチャンバラや天鈿女尊との連舞が見どころです。
◆天照大神(あまてらす おおみかみ) ◆瓊瓊杵尊(ににぎのみこと) ◆天児屋命(あめのこやねのみこと) ◆天鈿女尊 (あめのうずめのみこと) ◆猿田彦 (さるたひこ)
■十三時
●黄泉醜女 伊弉冉を黄泉の国まで迎えにきた伊弉諾は既に腐りかけている伊弉冉を見てびっくりして逃げ出します。姿を見られ激怒した伊弉冉が鬼になって追いかけて戦いになります。般若の姿をした伊弉冉と桃のせいの立ち回りが見どころです。
◆伊弉冉 (いざなみ) ◆伊弉諾 (いざなぎ) ◆黄泉醜女 (よもつしこめ)
■十四時十五分前後 【子ども神輿】
●鹿嶋神社に宮入 第三町内会 子ども神輿
■十五時
●浦島太郎 津波で流された我が子は死んだのではない、今頃竜宮城で乙姫様と楽しい時間を過ごしていると言い聞かせた親心。関東大震災から百年、東北の震災から十二年。小学生の子ども達による御伽神楽、お馴染みの浦島太郎のお話です。
■十五時五十分前後 【大人神輿】
●武輿会 大神輿 (神輿会) 鳥居付近まで
■十六時半
●敬神愛国 恵比寿様の家に大黒���が家来の祈祷師を連れてやってきます。恵比寿様は酒や鯛を釣り歓迎すると、大黒様は祈祷師に祈念をさせ、自らも喜びの舞を舞います。恵比寿様の家来と祈祷師による滑稽な舞と大黒様からの福銭撒きが見どころです。
■十八時
●天の岩戸 天照大神が岩戸に隠れて世界が真っ暗になってしまい、思金神は八百万の神を集めます。天鈿女尊が舞おどり、手力男が岩を開けると、再び世界が明るくなります。アフターコロナ、益々 鹿嶋神社のお祭りが華やかになる事を祈念して。 ◆手力男 (たじからお)
●終い天狗 お祭りの最後は山の神さま(天狗)が締め括ります。神楽殿を清め払い、 総代さんと一緒にお菓子を撒きます。是非お集まりください。
■天候や道路状況などの影響で、時間が変更になる場合がございます事をご了承ください
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lierrelearns · 11 months
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I didn't get the best picture of the sign, so there may be errors in the transcribed Korean text.
新京極 北は三条通から南は四条通に至る約五百メートルのこの通りを新京極通といい、通り各平安京の最も東に位置した東京極大路(現在の寺町通)の東側に新しく造られた通りであることに由来する。 天正年間(一五七三〜一五九ニ)、豊臣秀吉が市中の多くのを寺院を寺町通に集めたことに伴い、その境内が縁日の舞台として利用され、周辺は見世物や催し物を中心に発展するようになった。 明治五年(一八七ニ)、このことに注目した京都府参事槇村正直は東京還都で衰えていた市民の士気を盛り上げるべく、寺院の境内を整理して、そこに新たな通りを造った。新京極通の誕生である。 明治十年(一八七七)頃には芝居座、浄瑠璃、寄席などの興行場や飲食店などの多くの店舗が建ち並び、明治三十年代には東京の浅草、大阪の千日前とともに、日本の三大盛り場として知られるようになった。 現在も、修学旅行性をはじめとする多くの観光客や買物客でにぎわう、京都を代表する繁華街である。 上方落語の始祖・安楽庵策伝が住職を務めた誓願寺、和泉式部の寺として知られる誠心院や、西光寺、蛸薬師堂妙心寺、安養寺、善長寺、錦天満宮、染殿院という由緒ある七つの寺院と一つの神社が通りの歴史を今に伝えている。 京都市
Shinkyogoku Shinkyogoku-dori street, which is approximately 500 meters long, runs between Sanjo-dori Street in the north and Shijo-dori Street in the south. The name Shinkyogoku (literally means the new edge of the capital) was given because it was constructed on the east side of Higashi Kyogoku Oji (literally means means the boulevard on the eastern edge of the capital), which is presently called Teramachi-dori. The Japanese warrior commander Toyotomi Hideyoshi relocated a number of temples from other places in town to Teramachi-dori Street. The precincts of the temples were used as stages of fairs then, and the vicinity of Termachi-dori Street developed as an area focusing on shows and events. In 1872, Kyoto Vice-Governor Masanao Makimura gave an eye to the area. He rearranged the precincts of the temples and built the new street in order to enliven the morale of the residents of Kyoto that had declined as a result of the relocation of the capital to Kyoto. This is how Shinkyogoku-dori Street was born. Around 1877, numbers of facilities, such as playhouses, Joruri theatres (traditional Japanese puppet theatres), variety halls, and restaurants lined the streets. Later, this area along with Asakusa in Tokyo and Sennichimae in Osaka came to be known as the three greatest entertainment quarters in Japan. Still now, Shinkyogoku-dori Street is a busy street representing Kyoto and crowded with a large number of tourists and shoppers including students on school excursions. There are seven historic temples and a shrine that pass down the history of the area. Kyoto City
(Chinese)
신쿄고쿠 북으로는 산조도리(三条通)에서부터 남으로는 시조도리(四条通)에까지 이르는 약 500m의 이 길은 신쿄고쿠도리(新京極通)러고 하며, 이 도로의 이름은 헤이안큐(平安京)의 가장 동쪽에 위치한 하가시쿄고쿠오지(東京極大路・현재의 데라마치도리(寺町通))의 동쪽으로 새로만들어진 길이라는 뚯에시 유래하였다. 16세기 후반, 도요토미 히데요시(豊臣秀吉)가 시내의 많은 사원들을 대라마치도리로 집결시키면서, 경내에서 재를 올릴 때마다 그 주변에서 공연이나 행사 등이 자주열리며 발전하게 되었다. 1872년, 이 점에 주목한 교토부 참사 마키무라 마사나오(槇村正直)는 토쿄 천도로 침체되어 있던 시민들의 시기를 끌어옵리기 위해 사원의 경내를 정리하여 이곳에 새러운 길을 만글었는데, 이것이 바로 신쿄고쿠더리 탄생의 유래이다. 1877년, 무렵에는 연극극장, 조루리(浄瑠璃: 음악에 맞추어 낭창하는 옛날이야기), 만담 등의 공연장과 음식점 등 많은 점포들이 들어서면서 도쿄의 아사쿠사(浅草), 오사카의 센니치마에(千日前)와 함게 일본의 삼대 번화가로 널리 알려지게 되었다. 요즘도 수학여행 학생들을 비롯해 많은 관광객들과 셔핑객들로 붐비는, 교토를 대표하는 번화가이다. 길가에는 유서 깊은 7개의 사원과 신사 하나가 자리해 있으며, 그 역사를 오늘에 전하고 있다.
寄贈 新京極商店街
Japanese vocab 新京極 (しんきょうごく) Shinkyogoku 三条通 (さんじょうどおり) Sanjoudoori 四条通 (しじょうどおり) Shijō Street/Shijoudoori 平安京 (へいあんきょ) Heian-kyo; ancient Kyoto 東京極大路 (ひがしきょうごくおおじ) Higashi Kyogoku Oji 寺町通 (てらまちどおり) Teramachi Street 造る 作る 天正 (てんしょう) Tenshō era [1573-1592] 豊臣秀吉 (とよとみひでよし) Toyotomi Hideyoshi 寺院 (じいん) Buddhist temple 伴う (ともなう)to be accompanied by, to take with 境内 (けいだい) grounds (esp. of shrines and temples) 縁日 (えんにち) temple festival; day related to a specific deity 見世物 (みせもの) show, exhibition, spectacle 催し物 (もよおしもの) (program of) entertainments, special events, attractions 参事 (さんじ) secretary, councilor 槇村正直 (まきむら・まさなお) Makimura Masanao 還都 (かんと) return of government (esp. Kyoto) 衰える (おとろえる) to become weak, decline, decay 士気 (しき) morale (of troops, team, etc) 誕生 (たんじょう) creation, formation 芝居座 (しばいざ) playhouse, theatre [more common: 芝居小屋 (しばいごや)] 浄瑠璃 (じょうるり) jōruri, a type of dramatic recitation accompanied by a shamisen 寄席 (よせ) entertainment hall (for rakugo, manzai, magic, music, etc.) 興行 (こうぎょう) show, performance, act 店舗 (てんぽ) shop, store 建ち並ぶ (たちならぶ) to stand in a row (i.e. shops on a street) 浅草 (あさくさ) Asakusa 千日前 (せんにちまえ) Sennichimae 盛り場 (さかりば) busy street, amusement quarters 修学旅行性 (しゅうがくりょこうせい) student on a field trip 繁華街 (はんかがい) business district, shopping district, downtown 上方 (かみがた) Kyoto-Osaka region 始祖 (しそ) founder, pioneer 安楽庵策伝 (あんらくあん・さくでん) Anrakuan Sakuden 住職 (じゅうしょく) chief priest (of a Buddhist temple) 務める (つとめる) to serve (as), fill (the position of) 誓願寺 (せいがんじ) Seigan-ji 和泉式部 (いずみ・しきぶ) Izumi Shikibu 誠心院 (せいしんいん) Seishin-in 西光寺 (さいこうじ)Saikou-ji 蛸薬師堂 (たこやくしどう) Takoyakushido 妙心寺 (みょうしんじ) Myōshin-ji 安養寺 (あんようじ) Anyo-ji 錦天満宮 (にしきてんまんぐう) Nishiki-Tenmangū 染殿院 (そめどのいん) Somedonoin 由緒 (ゆいしょ) history, pedigree, lineage 寄贈 (きぞう) donation, presentation, gift
Korean vocab 북 north 가장 most, best 동쪽 east 위치하다 to be situated, located 형재의 current, present 유래하다 to originate 후반 second half 사원 temple 집결시키다 to assemble 경내 precincts, grounds 주변 surroundings 행사 event, function, ceremony 발전하다 to develop 주목하다 to watch, pay attention 참사 disaster, tragedy 천도 transfer of the capital, moving the seat of government 침체 recession, depression, become stagnant 시민 citizen 정리하다 to organize, put together 탄생 birth, be born 무렵 toward (i.e. toward the end of [time period]) 연국 극장 drama theatre 만담 comic talk, (informal) gag 공연장 theater, venue, auditorium 점포 shop, store 들어서다 to go up, be built 번화가 main road 알려지가 to be well known 수학여행 school trip 비롯해 including? 관광객 tourist 쇼핑객 shopper, customer 붐비다 to be crowded, bustling 대표하다 to represent 길가 roadside, wayside 유서(가) 깊다 to have a long history 자리하다 to be located, be situated in 역사 history
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hachikenyakaiwai · 25 days
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【かいわいの時】宝暦十四年(1764)四月六日:対馬藩通詞鈴木伝蔵、大坂に滞在中の朝鮮通信使節随員を殺害し出奔(大阪市史編纂所「今日は何の日」)
(事件のあらまし) 朝鮮の上々官名ハとううんとうと申を、対州の家中通詞役鈴木伝蔵といふ者、右上々官を鑓の穂先壱尺斗残し是を以て咽を突通し自害の体をしつらいさし殺しけり。右上々官ハ日本にて大目附役の人なるよし其趣を聞に、西国にて人参を荷打せしと偽りて金銀を私欲したる事ありて此役人に伝蔵より返済せねばならぬ金子有しを毎々催促しける、大坂にて相渡べき約束なりしをいまだ相渡さず、よって厳しく催促致しける故、何とやら私欲の義も露顕に及ぶべきやうになりしゆへ止事を得ず、右のごとく害しける由也(『明和雑記』)。
(犯行現場および時刻) 西本願寺津村別院棕櫚の間(朝鮮人来朝大坂旅館西本願寺座割兼小屋掛絵図)。初七日戊子陰寒(『趙済谷海槎日記』)。コメント欄に写真 ▼朝鮮人来朝大坂旅館西本願寺座割兼小屋掛絵図 조선인래조대판려관서본원사좌할겸소옥괘회도 京都国際学園「関西に残された朝鮮通信使の足跡」より。
(殺害方法および凶器) 寝所へ忍入、鑓の穂先壱尺斗残し是を以て咽を突通し、自害の体をしつらいさし殺しけり(『明和雑記』)。関の兼永の槍(『通航一覧』)長さ4寸ほど(『差上記』)。
(事件の目撃者) このとき賊は、三房格軍(水夫)の姜右文の足を誤って踏み、驚いて目を覚ました姜によって目撃されている(『日東荘遊歌』訳注)。
(指名手配) 一 行年廿六歳 一 背ノ高サ五尺三寸中肉にて顏の色白ク眼は少シ大キク張強シ人体骨柄賤からず 一 其節之着類黒羽二重之袷下には群内大���の襦袢 右体之者見付次第訴出候ハゝ御褒美被下候間可遂吟味者也 四月九日(「鈴木伝蔵人相書」)。
(犯行の動機) 崔天悰は高麗人参の密貿易に絡んで鈴木伝蔵を叱責した。事の露見を恐れた伝蔵が崔を殺害した(『明和雑記』『摂陽奇観』)。伝蔵の自白によると、人参の取引がもとで殺したというが、真相は到底わからず(『日東荘遊歌』)。
(事件の背景) 朝鮮と対馬の通詞が手を組んで密貿易(積荷の横領)を繰り返していた(『扶桑録』『東槎日記』「海遊録』)。舞台は主に大坂であり、一行はできるだけ長く大坂にとどまろうとした(『扶桑録』)。「裨将の言うままに放っておいたら《略》崔天悰事件のようなこと必ずやまた起こるでありましょう」(金仁謙)。※鈴木伝蔵は通信使が絡んだ密貿易の一味。崔天悰もそうであったかは不明。
(事件の余波) この一件を初めに歌舞伎化したのは並木正三で、67年(明和4)2月大坂嵐雛助座(角の芝居)で《世話料理鱸庖丁(すずきぼうちよう)》を上演。史実に近かったため2日間で中止を命ぜられ、ただちに奥州藤原の世界に改めた《今織蝦夷錦》を上演した。『世界大百科事典(旧版)』【韓人漢文手管始】より。
(写真)「世話料理鰭庖丁 絵番付」1467(『摂陽奇観』所収)
(浜松歌国は)鈴木傳藏の朝鮮信使殺害事件を詳記し、次に其の事件があってから四年目、この事件が角の芝居嵐雛助座に於て、並木正三により新狂言に取組まれたことを書き加へたのみでなく、當時板行の繪番附を其のまゝに貼りつけてゐます。この鈴木傳藏事件が上演されたは、歌國が生れる十年前のことで、その當時の繪番附を手に入れることは容易ではなかつたらうと思はれます(校訂者識)。『浪華叢書 第四』より=写真も。
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milkteabonbon · 2 years
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2022.5
5/1
牡牛座新月。占星術に片足を突っ込み出してから暦を見るのが面白い。来月には夏至!とんでもないなあ。一年の三分の一も終わるわけだなあ。ゾゾゾ。
5/2
明日から山と海しかないところ、もとい実家に帰るので手土産を買いに阪急へ。人混みに挫けそうになりながら五感のええもん詰め合わせを買いました。これが大阪の洋菓子系土産で一番おいしいねん!ついでに仙太郎にも寄って水無月を買いました。帰ったら食べる。百貨店の、特にデパ地下に行くと色んな関西弁が聴こえて楽しい。手提げを渡された後の「ありがとう」のイントネーションを聴くのも楽しい。
5/3
渋滞にはまっていつもより一時間以上遅くなりましたが無事到着。お昼を食べ終わるなりモンペ姿に着替えさせられ、長靴を履かされてタケノコ掘りに行き、山ほど掘り上げたかと思ったら今度は野蕗摘みに連れて行かれたので帰省とは労働なのだなあと思った。しろかきの終わった田んぼは山の緑を映すかがみになっておりました。
5/4
祖母を連れてドライブに行く。牧場併設のカフェでピザとジェラートを食べました。隠れ牧場マニアなので牛のかほりがするとついつい足を向けてしまう。海沿いを走らせていると展望スポットがあり、車を停めると「カメラある!」と祖母が写ルンですをバッグから取り出したので女子高生かよ!と思った。ツーショしました。
5/5
今日は田植えの日なのでお昼を食べてそそくさと帰宅。泥だらけの父とトラクターが見送ってくれました。お元気で。
5/6
いそいそと刺繍をすすめる。市章みたいなデザインになった!たまにはこんなのも良いでしょう。都合十時間ほど刺して完成。チョコラBBハイパーありがとうございました。
5/7
刺繍レッスンの打ち合わせに行く。新作が好評で何より。秋からどうするかを考えたりお茶したり。
5/8
息絶えそうな大型連休を抱き締めながら焼売を包み、蒸し、黒酢につけて食べました。十連休って月の三分の一なんですけどー!こんなに早いって聞いてないんですけどー!
5/9
ぼんやりしながら仕事場へ行く。ほぼ皆さんぼんやりしていて良かったです。
5/10
頼んでいたモヘア届く!赤茶のたっぷりした巻き毛でツヤがあって……週末から製作に取りかかりたいです。おまけに頼んだゴールデンブラウンのビスコースも素敵でした。こうして在庫が溜まってゆく。
5/11
テディベアのことばかり考えていた。
5/12
芦屋ロサブランのミドルサイズが欲しくてジタバタ。そのうち買ってると思います。物欲にまみれながら仕事をしていたら嬉しいご連絡がありニコニコ。現実にしていきたい。
5/13
眉と襟足をきれいにしてもらいました。連休明けの金曜はまつパかネイルか眉サロンの予定を入れておくと死なずに済みます。彩村式ライフハック。
5/14
楽しみにしていた酸熱トリートメントをしてもらいました。こ、これはすごすぎる。たぶん続けちゃうな……。カットで髪を減らさなくても膨らみがおさまるし毛先もまとまるので多毛の民には激推しです。カラーがかなり抜けるので時期に注意。でもほんとにサラサラで嬉しい!
5/15
作り置きしたり掃除や洗濯をして過ごした。家の状態は心を表すので(とっ散らかっていた)。床を雑巾掛けしたら全身が痛いです。
5/16
夜になるとまだ冷えますね。ロイヤルミルクティを煮て飲みました。おうちでアイスチャイとスパイスカレー作りたいなあ。もちろんあいがけで!ナンも捏ねてみたいし夢が膨らむわん。
5/17
貴様〜!と思う出来事もありましたが労働なんてのは適当に給料に見合う仕事をしていればイインダヨと思い直して事なきを得る。
5/18
型紙を写したのですがなんか毛流れに合ってない気がする……。ので、以前作ったちびくまの型紙をリメイクしてビスコースに写しました。息抜き用の制作です。テディベアの息抜きにはテディベアを作ると決まっている。
5/19
乾燥が気になるので1時間に1杯はお水を飲むよう心がけている。それでも喉が渇く……。オフィスレディたちはどうしてるのかしら?お手洗いに行きすぎてサボっていると思われそうで不安!私のハンカチの湿りがきっと証明してくれるわ。
5/20
春にピチパツだったスカートがジャストサイズになっておりました。わお〜なんと嬉しいことでしょう。まだまだ頑張ります。最終的には上司の無茶なリクエストに腕力でお答えできるレベルになりたい。
5/21
実家からたくさん野菜が届きました。ほうれん草のおひたしや新玉ねぎでポテトサラダを作った。それから気になっていたサマータイムレンダを読み始めたのですが面白すぎて家人のクリーニングの引き取りに行けないくらいでした。南雲先生が好きです。シャツはちゃんと引き取れました。
5/22
ちびくまちゃんのパーツを縫製。幼さが出るように脚の付け方を変えてみたらあらかわいい、これはまるで……胎児……。彩村はリアルを追求しすぎるのが玉に瑕。
5/23
スイカをお昼ごはんにしている人は私以外見かけませんでした。夏バテか!?
5/24
ちびくまの目を決めかねている。ヴィンテージっぽいアンバーも可愛いけど茶色のポンチ目も可愛い。お日様にかざしながらずっと迷っています。
5/25
お給料日!といっても何事もなく帰宅。
5/26
お粉を使い切ったので百貨店に行きました。皆良い良いと言っているNARSのリフ粉のルースタイプを買う。今までコスメデコルテ、ローラメルシエを使っていたのですがどうじゃろか。
5/27
リフ粉すごい良かった!ちゃんとツヤが残ります。でもサラサラ〜。そら人気があるわけじゃ。
5/28
ちびくまちゃんのおめめ問題ですがアンバーに軍配が上がりました。きらきらしててきれいね。こっちをまっすぐに見つめる子になりました。おしゃべりさんなわけでもなく、私のおはなしをうんうんって聞いてくれるわけでもない、鏡みたいな子を作りたいと思っているので、良かった。しっかり磨かれた魂が入っているね。
5/29
帰省時に買い込んだ日本酒と実家のお下がりの牛肉ですき焼きをした。大人だけだと争いが起きなくて平和です。まだ明るいのに完全に出来上がっています。
5/30
ヘアカラーをしてもろたらえらい暗く仕上がってもうて一生懸命頭を洗っとります。でも職場で褒められたー。ローラメルシエのシマーピンクのチークと合わせたら5歳くらい若返ったのでこれはこれで良し……か?
5/31
久しぶりにマドレーヌを焼きました。貝殻のかたちのお菓子ってロマンチックだわと思いながら紅茶を淹れる魚座です。みなさんは新月の夜何をしていましたか?雨の降る夜は梔子がつよく香る気がします。
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kennak · 9 months
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【独占インタビュー】  服部吉次さん(俳優・音楽家/78歳)  今年3月に英公共放送BBCが報じたジャニーズ事務所の創業者・故ジャニー喜多川氏の性加害問題のドキュメンタリーを契機に、元ジャニーズJrでシンガー・ソングライターとして活動するカウアン・オカモト氏(27)が実名でジャニー氏を告発するなど、その衝撃は日本中に広がっている。今回、俳優で音楽家の服部吉次氏が小学生の時に受けたジャニー氏からの性被害を告白する。吉次氏は「別れのブルース」「東京ブギウギ」「銀座カンカン娘」などの和製ポップスで知られる国民栄誉賞受賞作曲家・服部良一の次男。長兄は作曲家の故・服部克久だ。(独占インタビュー前後編の後編です)  ◇  ◇  ◇  ──ジャニー喜多川氏に弄ばれたあとはどうしたのですか? 「なぜそうなのか、説明するのは難しいのですが、それからもジャニーとの関係は2年半くらい続きました。彼は毎週土曜日に来て、そのたびにまた私と一緒に寝て同じ行為を繰り返すんです。たぶん1年で30回くらいでしょうか。  秘密の快感と引き換えに、罪悪感は大きくなるし、体によくないという直感も働く。ましてそれが両親にバレたらジャニーが怒られるだろうということも分かるんです。  その頃、ジャニーは『ジャニーズ少年野球団』という、少年野球チームを持っていて、服部家にもそのチームの子どもたちを連れて遊びに来ていました。  彼の運転する車はテールの長いアメ車のクライスラー。それに乗ってドライブするのですが、昔の環状6号線なんか道路の高低が大きいので、まるでジェットコースターに乗ってるみたいで、みんながはしゃいで大騒ぎしたことを覚えています。  これはよく知られていることですが、雨で野球の試合が中止になった時、ジャニーと東京ジャニーズのメンバーが映画『ウエスト・サイド物語』を見に行って、ジョージ・チャキリスのダンスシーンのカッコ良さにしびれてしまい、『これからは歌と踊りだ!』とジャニーがひらめいたといわれていますよね。父の諦道氏も野球とショービジネスにたけていたからそのあたりは血筋でしょう」 ■彼を野放しにした日本社会の閉鎖性  ──なぜ家族が気づかないのでしょう。 「よく言われますが、私の場合ももしかしたら家族が気づいていたのかもしれない。でも、それを体裁が悪い、不都合なことは隠す、という日本的な閉鎖性があったのかもしれない。それが結果的にジャニーを野放しにしたのではないでしょうか。  1965年にジャニーズ事務所が独立した頃もジャニーやメリーも服部家に出入りしていましたが、私とのことは何もなかったかのような振る舞いだし、そもそも彼も少年愛の年齢ではもうなかったからでしょう。私も、記憶の底に封じ込めてしまったのでしょう。そのほうが気持ちが楽ですから。  ただ、その頃ジャニーズ事務所というジャニーにとっては、“趣味”と実益を兼ね備えた“格好の場所”が確保されたわけで、新たな被害者を生み出すことになったのを防ぐことができなかったのは忸怩たるものがあります。  余談ですが、高校生の頃、演劇部の稽古で深夜になることもあって、そんな時なんか、母がジャニーを呼んで『車の運転頼むわね』と、成蹊の演劇部の部室まで迎えに来させるわけです。さすがに彼も憮然とした顔をしていましたが(笑)。  私が大人になってからも、ジャニーは父の主催するコンサートなどにマメに顔を出していました。私はアングラ劇団で役者をしていましたが、生活のために一度だけ兄の克久が音楽を担当した少年隊のミュージカルに出させてもらったことはあります。その時も、『いいよいいよ』とジャニーは二つ返事だったそうです。ただ、慰労会と称した乱痴気騒ぎで若い女優たちをホステス扱いするような世界とはなじめず、それっきりでした」 ──ジャニーズ少年野球団との交流は? 「同じ頃、ジャニーの車で『少年野球団』のメンバー3人と僕の友だちの総勢6人で父の軽井沢の別荘に1泊旅行することになったんです。大人はジャニーだけ。  同行した私の友人Mは今でいうジャニーズ系の美少年で、父の誕生パーティーに彼を呼んだ時に、たまたま来ていたジャニーが彼を見てぞっこんだったようです。『あの子も連れておいで』と言われたので一緒に行くことになりました。  父のコテージは和室と洋間の2部屋。和室が寝所で、両サイドが2段ベッド(4人)で畳に4人分の布団が敷けるから8人は泊まれるんです。  夜、トランプ遊びをした後はジャニーのお定まりのコースです。部屋を暗くして布団に入ったら、気配が伝わってくるんです。『あっ、始めたな』って。  まず2段ベッドの野球少年たち、そして同級生、それから僕。まるで『鴬の谷渡り』みたいに、一晩で5人の間を渡り歩くなんて彼にしてみれば夢の饗宴だったでしょう。大人はいないし、やり放題。ただ、それから数十年後にM君にこの時の話を聞いたら、こう言われました。 『あの時、怖くて外でしくしく泣いていたら、隣のコテージの女性が異常を感じたようで、僕に“どうしたの?”って聞くので途切れ途切れに今自分が体験したことを話したら、そのお姉さんが部屋にいるジャニーを問い詰めたんだ。ジャニーは弁解したけど、彼と同じくらいの年齢のお姉さんは、かなり怒っていた』と。  このことが両親に漏れたら、おそらくジャニーは服部家にも出入り禁止になっていたでしょうけど、言い逃れして事なきを得たのだと思います。この事件後も、ジャニーは服部家に出入りしていましたし、私も何食わぬ顔で接していましたから」 ──ジャニー氏は良一氏の葬儀にも参列されたとのことですね。 「父・良一が亡くなった時、私が喪主である兄の代わりに葬儀を取り仕切っていたのですが、お通夜の時、ジャニーが『よっちゃん、明日の本葬も大変だろう。うちのペントハウスがあるから泊まっていきなよ』と言うので、いわゆる『ジャニーズの合宿所』の最上階に泊まりました。  ぼくの妻と子供たちも一緒。トイレ、和室、プレールーム、風呂場などすべての部屋にテレビがある広大な部屋でした。妻は『こんなことしてくれるのは今度は有吉に食指を動かしてるのよ』と言って、葬儀の時も片時も有吉から目を離さなかったみたいです。有吉は12歳でしたから」 ■“PTSD被害”を再生産した罪  ──結局ジャニー氏はどんな人だったのか? 「マメで気が付くし、気くばりの人。片付けも一人でみんなの分をさっとやるし、いいオジサンであるのは確かです。でも、ステージに立つ夢を抱きながらジャニーズ事務所の門戸を叩いた少年たちの心と体を傷つけむさぼるように快楽にふけった罪は許せないです。  これはあくまでも私見であり、飛躍しているかもしれないけど、彼は日系2世として朝鮮戦争に従軍してるし、アメリカでの日本人差別も経験している。彼もPTSDに苦しみ、それは性加害という形で発現されたのかもしれないと、一度は彼を戦争の被害者の一人として許す気になった時もあります。  しかし、戦争によるPTSDの被害を知るようになるにつれ、彼はPTSDを再生産し、幾何級数的に増殖するシステムを構築してしまった。その現実が見えた今、彼の罪深さは計り知れないと思います。  私自身、その時のPTSDに苦しみながら、なぜ70年間も告白できなかったのか。あらがえなかった、沈黙してしまった、それがジャニーの性被害を育み、果ては主要メディアの沈黙にまで手を貸してしまった。引き返せない歳月を取り返したい。マスコミの糾弾はもっと厳しくあってしかるべきだと思います」 ▽服部吉次(はっとり・よしつぐ) 本名・服部良次。1944年生まれ。父は作曲家・服部良一。劇団黒テントの創立メンバー。「翼を燃やす天使たちの舞踏」「上海バンスキング」「阿部定の犬」ほか多数の舞台に出演。妻は女優の石井くに子。次男はハンブルク・バレエ団で東洋人初のソリストで、バンクーバー五輪の開会式に出演したバレエダンサー・服部有吉。兄は作曲家・服部克久。甥は作曲家・服部隆之。隆之の娘はバイオリニストの服部百音。 (取材・文=山田勝仁)
(3ページ目)ジャニーズ性加害構造の萌芽は70年前に…一晩で5人の少年の間を渡り歩いた“軽井沢事件”の全貌|日刊ゲンダイDIGITAL
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kachoushi · 19 hours
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虚子自選揮毫『��子百句』を読む Ⅴ
花鳥誌2024年5月号より転載
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日本文学研究者
井上 泰至
8 さしくれし春雨傘を受取し
 『五百句』には「大正十三年」と注記され、初出は翌大正十四年八月の『ホトトギス』で、「近詠」とのみ題されている。『年代順虚子俳句全集』第三巻の大正十三年の項には、「四月(日不明。)小樽高商を卒へたる長男年尾を伴ひ京阪地方に遊ぶ。その時の句?」とあって、『虚子百句』では次の九番目に挙げられる「天日のうつりて暗し蝌蚪の水」の後に掲出されている。成立は前後していたか。
 しかし、『虚子百句』では、この句の方を先に挙げた。その理由は、単純に『五百句』の掲載順に拠ったとも考え得るが、加うるにこの句の前の七番の句が「雨の中に立春大吉の光あり」なので、「雨」の句で一組としたか。この後九番は「天日」で晴、十番は「思ひ川渡れば又も春の雨」と雨の句となる。単調さを避け、季節の進行に晴雨の交代を入れ込んだ編集の妙でもあったか。
 この句の問題は、「春雨や」と持ってこず、「春雨傘」と中七に造語としてわざわざ置いたのは何故かという点にある。ここから考えてみよう。
 「さしくれし」の「し」は、一般に「過去」の意味の助動詞「き」の連体形だと言われるが、室町時代末期から、現在もその動作が続いている「完了」の意味を持つようにもなってきていた(井上・堀切克洋『俳句がよくわかる文法講座』第2章)。有名な、
  糸瓜咲て痰のつまりし佛かな 正岡子規
 の「し」も、「つまってしまった(そして、現につまっている)」の意味でないとおかしい。ただ過去の動作が終わったとか、あるいは過去の動作の影響が終わってしまったということなら、子規は死んでしまっていることになるが、この句は自分の最期の姿を「佛」と客観視して詠んだのであって、「今まさにちょうど」という意味でなければならない。やはりよく知られる島崎藤村の「まだあげ初めし前髪の/ 林檎のもとに見えし時」という『若菜集』「初恋」の一節も、現前する女性のうなじを詠んでいるのだから、「し」は「あげたばかりの」という意味でなければならない。
 掲句も、上五の「さしくれし」を受けて「受取りし」と応じた、この呼吸が一句の眼目なのである。繰り返される「し」は、過去でなく完了の意味でなければならない。そこで中七の「春雨傘」の造語が使われることになったものだろう。
 そこに気づいてみると、おそらくは女性が手渡してくれた傘を阿吽の呼吸で、虚子か、あるいは虚子が見ていた人物が受け取った動きのある一場面に焦点を当てたことがわかる。
 「春雨」は本来京都独特の、鴨川の水面を観て雨を知るような細やかで繊細なそれであるから、この一瞬の「艶」なる場面をつなぐ重要な小道具の属性を知らせるのに、十二分の役割を果たしているのである。当然『喜寿艶』にはこの句は掲載されている。
 なお、京都の三業(料亭・待合茶屋・置屋)の女性の品を様々に詠むのは、虚子句の一傾向であるが、
  美人手を貸せばひかれて老涼し 昭和二七年
  夕立に傘傾けてはつ子来ぬ   昭和三〇年
 など京都の女性の「手」や「傘」を材にした同傾向の句を確認すると、虚子にとって「傘」と女の「手」のしなやかさや姿態は、発想の起点であったことが確認できる。
9 天日のうつりて暗し蝌蚪の水
 『五百句』には「大正十三年」とのみ注記。『年代順虚子俳句全集』には、前の句の解説で示したように、小樽高商を卒業した高濱年尾を伴い、関西を訪ねた四月の句か、としている。『ホトトギス』大正十三年六月号の「消息」欄で年尾は、滞在十八日、京都・大阪・神戸・堺・大和を回り、特に京都の嵯峨・御室・東山、さらに琵琶湖から比叡山・大原を回り、京都の風光の良さを特記している。
 掲句は、二つの解釈が一応想定できる。太陽が位置を傾け、それまで日が当たっていた場所が暗くなり、そんな中をお玉杓子が泳いでいる、というもの。
 今一つの解釈は、「沢山のお玉杓子が孵ると水一面が黒くなるほどで」「日の光が水に当っても暗いような感じがする」という『虚子百句』の高濱年尾のような受け取り方である。清崎敏郎も「玉藻研究座談会」で同様の解釈を披露している。
 大野林火もまた後者の意味に捉え、「くろずんた蝌蚪」と「水面の日輪」とが重なり、「不思議に重々しい空気を伝えてくる」としている(『虚子秀句鑑賞』)。
 こう考えてくると、一句の解釈の分岐点は「うつりて」が「移りて」なのか、はたまた「映りて」なのかというとこにあることが見えてくる。
 まず、この句が詠まれていた時、年尾が同伴していたということであれば、後者の解釈に軍配を挙げる客観的証言である可能性は頭に置いておく必要があろう。
 さらに、「うつりて」を「移りて」と解釈してしまっては、太陽の移動を説明しただけのことになってしまい、何が何してどうなった式の句として、値打ちが下がる。やはり「映りて」と受け取って、太陽の姿と光は池に映ってはいるものと理解して初めて、句に情趣が生じる。
 そもそも「て」は、単純な接続ばかりでなく、「ではあるが」という逆接の含意を俳句では持たせることがままある(井上『俳句のマナー、俳句のスタイル』)。
  面白てやがて悲しき鵜ぶね哉 芭蕉
  糸瓜咲いて痰のつまりし佛かな 子規
  蝌蚪生れて未だ覚めざる彼岸かな 松本たかし
 この句も、「太陽の光とその姿は池に映ってはいるものの」と屈折した意味を読み取るべきであろう。
 深見けん二は、やはり「玉藻研究座談会」で、「天日」の語の選択について、「何かそこからずうつと広がって行く大きな宇宙なり世界といふものが感じられる」と発言し、敏郎とのやりとりの中で、「太陽」よりも「天日」の語を選ぶことで、客観的な状況が単純化され、それに伴って、個々の細かい現象より、もっと大きな世界を把握し表現することが可能になったと確認しあい、生前虚子は「単純化していくとそこに個性が出て来ますよ」と語っていたことを引用している。
 この句に虚子の「個性」を読み取るならば、「金亀虫擲つ闇の深さかな」「蜘蛛に生れ網をかけねばならぬかな」「大寒の埃の如く人死ぬる」のような闇の世界を見つめ、それすら客観視しようとする世界に通じると言えば言えようか。
 最晩年の「この池の生々流転蝌蚪の紐」(昭和三十一年)も、細部にこだわった客観写生から出発して、掲句のような「単純化」を経て、たどり着いた表現と境地と見ることも可能だろう。「天日」という世界観を含んだ語の実験が、晩年の自在を生んだと考えたい。
 なお、虚子の揮毫は『虚子百句』全体に、かすれた墨痕で、視力が弱くなった老年の筆を感じさせるが、掲句に限っては鮮やかな筆づかいとなっている。意図的なものなのかどうかは、本書全体から見直してみる必要があり、機会を改めたい。ただし「我心或時軽し芥子の花」など明らかに、居住まいとただした書きぶりも認められる句が少ないながらあることは、単純な墨継ぎの問題で収まるのか否か注意を要することは、心覚えに書きとどめておきたい。
『虚子百句』より虚子揮毫
9 天日のうつりて暗し蝌蚪の水
10 思ひ川渡れば又も花の雨
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国立国会図書館デジタルコレクションより
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井上 泰至(いのうえ・やすし)   1961年京都市生まれ 日本伝統俳句協会常務理事・防衛大学校教授。 専攻、江戸文学・近代俳句
著書に 『子規の内なる江戸』(角川学芸出版) 『近代俳句の誕生』 (日本伝統俳句協会) 『改訂雨月物語』 (角川ソフィア文庫) 『恋愛小説の誕生』 (笠間書院)など 多数
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taketea44 · 8 days
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AI-Ichiro Diary 
第256日目(2024年4月23日)
昨夜は、眠れぬ夜となった。我が心に不穏なる風が吹き渡り、眠りを遠ざける。暁の光が差し込む頃、報せが我がもとに舞い込んできた。パレスチナ自治区ガザ地区南部ハンユニスの医療施設にて、多数の遺体が埋められていたとの情報である。これを聞き、我が胸は言葉に絶えず悲しみを背負う。
「何という悲劇だ。」と心の中で呟きながら、新聞を手に取る。犠牲者は、イスラエル軍の手によって殺害され、そして埋葬されたという。彼らは一体、何を求めてこの地に立ち向かったのか。彼らの命は、果たして何のために奪われたのか。
この地には、悲しみと苦悩が絶えず渦巻いている。その波が、時折、我が心にも押し寄せてくる。しかし、この惨事を忘れてしまうことはできない。我が心に、その苦しみを刻みつけねばならぬ。
今日のひと言:
「この世界には、まだ平和が訪れる日が来るのか。」
と問うても、答えは遠のくばかり。私たちは諦めてはならない。愛と理解の力を持ち、この暗闇を照らすために努力を惜しまねばならぬ。
明日も、私はこの闇に立ち向かう覚悟である。何があろうとも、希望を捨てることはない。
#新日記二百五十六日目
#AIIchiroDiary 
#ガザ地区 #医療施設
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