Tumgik
#綴る習慣
jujumin-translates · 3 months
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Lyrics | Aisubeki Bungo - Lovable Literary Master (Kanji/Romaji/English)
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I've had this done for a while now but decided to go back and make some edits to it today and figured why not post it. TL'ing lyrics isn't my strong suit, so please do let me know if there are any errors or anything!
Kanji
鶴松 & 知久
着物に袖を通し
キツく帯を締め上げる
背筋が伸びる感覚
小さな世界の習慣
鶴松
古きを知って
ロマンを語る
丁寧な暮らしの中に
人間の正しさを夢見てた
知久
時に光は屈折し
鶴松
言葉は迷子 彷徨う情緒
知久
でも成し遂げられない
はずはない
鶴松
書き綴った己の答えは
鶴松 & 知久
文学の世界にある
生まれながらに
手にしてきたもの
指先から
筆先に伝う
一筋の光 気持ちを
走らせ 言葉が踊る
故きを温ねて
新しきを知る
以って師と為る可し
文学に生きて
生かされている
愛すべき文豪
鶴松
夢路に袖を通し
知久
焦がれた世界に
身を置けば
鶴松
背筋が凍る感覚
期待という鬼が
見つめていた
知久
時に光は屈折し
鶴松
なぞらう文章
遺伝子の暴挙
知久
でも成し遂げられない
はずはない
鶴松
愛を知った己の答えは
鶴松 & 知久
文学の世界にある
ただ生きるという
学びの中で
見つけたのは
認め合う覚悟
誰かの言葉に耳を
傾けて己に語りかける
故きを温ねて
新しきを知る
以って師と為る可し
文学に生きて
生かされている
愛すべき文豪
鶴松 & 知久
信念と拘り
(信念と拘り)
苦しさと希望
(苦しさと希望)
光と影
(光と影)
言葉と言葉
(言葉)
鶴松
書き綴った全ての答えは
鶴松 & 知久
文学の世界にある
生まれながらに
手にしてきたもの
指先から
筆先に伝う
一筋の光 気持ちを
走らせ 言葉が踊る
故きを温ねて新しきを知る
以って師と為る可し
文学に生きて
生かされている
愛すべき文豪
愛すべき文豪
Romaji
Tsurumatsu & Tomohisa
Kimono ni sode o tooshi
Kitsuku obi o shimeageru
Sesuji ga nobiru kankaku
Chiisa na sekai no shuukan
Tsurumatsu
Furuki o shitte
ROMAN o kataru
Teinei na kurashi no naka ni
Ningen no tadashisa o yume miteta 
Tomohisa
Toki ni hikari wa kussetsu shi
Tsurumatsu
Kotoba wa maigo, samayou joucho
Tomohisa
Demo nashitogerarenai
Hazu wa nai
Tsurumatsu
Kakitsuzutta onore no kotae wa
Tsurumatsu & Tomohisa
Bungaku no sekai ni aru
Umare nagara ni
Te ni shite kita mono
Yubisaki kara
Fudesaki ni tsutau
Hitosuji no hikari, kimochi o
Hashirase, kotoba ga odoru
Furuki o tazunete
Atarashiki o shiru
Motteshi to narubeshi
Bungaku ni ikite
Ikasareteiru
Aisubeki bungou
Tsurumatsu
Yumeji ni sode o tooshi
Tomohisa
Kogareta sekai ni
Mi o tokeba
Tsurumatsu
Sesuji ga kooru kankaku
Kitai toiu oni ga
Mitsumeteita
Tomohisa
Toki ni hikari wa kussetsu shi
Tsurumatsu
Nazorau bunshou
Idenshi no boukyo
Tomohisa
Demo nashitogerarenai
Hazu wa nai
Tsurumatsu
Ai o shitte onore no kotae wa
Tsurumatsu & Tomohisa
Bungaku no sekai ni aru
Tada ikiru toiu
Manabi no naka de
Mitsuketa no wa
Mitome au kakugo
Dareka no kotoba ni mimi o
Katamukete, onore ni katarikakeru
Furuki o tazunete
Atarashiki o shiru
Motteshi to narubeshi
Bungaku ni ikite
Ikasereteiru
Aisubeki bungou
Tsurumatsu & Tomohisa
Shinnen to kodawari
(Shinnen to kodawari)
Kurushisa to kibou
(Kurushisa to kibou)
Hikari to kage
(Hikari to kage)
Kotoba to kotoba
(Kotoba)
Tsurumatsu
Kakitsuzutta subete no kotae wa
Tsurumatsu & Tomohisa
Bungaku no sekai ni aru
Umare nagara ni
Te ni shite kita mono
Yubisaki kara
Fudesaki ni tsutau
Hitosuji no hikari, kimochi o
Hashirase kotoba ga odoru
Furuki o tazunete
Atarashiki o shiru
Motteshi to narubeshi
Bungaku ni ikite
Ikasareteiru
Aisubeki bungou
Aisubeki bungou
English
Tsurumatsu & Tomohisa
I slide into the sleeves of my kimono
And fasten the obi tightly
I feel my back straighten
It’s a custom in this small world
Tsurumatsu
I speak romantically of the past
In my careful life I’ve seen humanity’s truth within my dreams
Tomohisa
On occasions, the light refracts
Tsurumatsu
Words lost, emotions wandering
Tomohisa
But it can’t be left unfinished
Tsurumatsu
The answers that I’ve chronicled myself
Tsurumatsu & Tomohisa
Can be found in the world of literature
It’s something that I naturally possess
From my fingertips to the tip of my brush
A single ray of light flows, letting the words dance
As my feelings run free
Acquire new knowledge whilst thinking over the old
And you may become a teacher of others (1)
I live and breathe literature
Lovable literary master
Tsurumatsu
Enveloped in a state of dreaming
Tomohisa
If I put myself into the world I’ve longed for
Tsurumatsu
A chill runs down my spine
The demon of expectation was staring at me
Tomohisa
On occasions, the light refracts
Tsurumatsu
Imitating writing styles, genetic recklessness
Tomohisa
But it can’t be left unfinished
Tsurumatsu
My own answer to the question of love
Tsurumatsu & Tomohisa
Can be found in the world of literature
In learning to just live
What we found was a readiness to admit
Listen to the words of someone else
And recite them to yourself
Acquire new knowledge whilst thinking over the old
And you may become a teacher of others
I live and breath literature
Lovable literary master
Tsurumatsu & Tomohisa
Beliefs and obsessions
(Beliefs and obsessions)
Suffering and hope
(Suffering and hope)
Light and shadows
(Light and shadows)
Words and words
(Words)
Tsurumatsu
All the answers that I’ve chronicled myself
Tsurumatsu & Tomohisa
Can be found in the world of literature
It’s something that I naturally possess
From my fingertips to the tip of my brush
A single ray of light flows, letting the words dance
As my feelings run free
Acquire new knowledge whilst thinking over the old
And you may become a teacher of others
I live and breathe literature
Lovable literary master
Lovable literary master
• • •
T/N:
(1) “故きを温ねて新しきを知る、以って師と為る可し”/“Acquire new knowledge whilst thinking over the old, and you may become a teacher of others” is a quote from the Analects of Confucius.
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shinayakani · 4 months
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240111 状況と言葉(断層のただ中で)
 さて何から書いていこうか、などと書き出せるのならまだいいものの、書きたいことが全く見当たらない。年末年始にまで至る数ヶ月の間は雑事に追われていたこともあるが、持ち前の怠惰が遺憾なく発揮されていた(能動的な怠惰って何?)と、弁明せずに言えばそれに尽きる。しかしそれとは別に、私が言葉を綴ったところで、その言葉たちがどんなものであっても、現実と対峙するにはおそろしく安直で愚劣なものにしか映らなくなってしまうような出来事が、現在進行形で起こっている。いや、そもそも何十年もの間ずっと起こり続けていた。
《教えてください。/非暴力で訴えても世界が耳を貸さないのだとしたら、銃を取る以外に、ガザの人たちに他にどのような方法があったでしょうか。反語疑問ではありません。純粋な疑問です。教えてください。》――岡真理『ガザとは何か』
 国際法は機能していない。「暴力が支配するところ、暴力だけが助けとなる」。おそらく。私はそんな世界で生きていたくないし、人間は生き続けることができない。しかしまた、あからさまな暴力や不正が行われ続けているにもかかわらず、あたかも何事もないかのように隠蔽され取り繕われた日常を生きることが、どこまでできるだろうか。一つの固有名、パレスチナ――これまでの「歴史」が一気に凝縮されたかのような土地の、名――を避けるようにして、それどころかあたかも存在すらしていない/いなかったかのように書かれる言葉の欺瞞。私もその欺瞞を共有している。遠く離れた土地での出来事だって? いまでは訳知り顔で「恥辱」という言葉を使うことも、自身を省みて「ヒューマニティー」を易々と鼓舞することすらも耐え難い。だがそれでいて、沈黙することは許されていない。苦境を生きる者(当事者、マイノリティ…)や傍観者(非当事者、マジョリティ…)というお馴染みになった区別は、出来事を語る際にただ自身の安全を担保して距離をとるための手段になってしまうのなら、適切なものとは言えない。そして長く続くこの惨状に関して、外地への収奪によって駆動し続けた末に現在まで至った「近代」の歴史を少しでも顧みれば、発言する者の複数の立場などというものは、もはや存在しえるのだろうか。現在��虐殺を、いまに至る占領を止めさせること以外に。
(240104)
《ツィフェル「ちょっといっておきたいことがある。民衆が権力を奪取するのは、ぎりぎりの窮地に追いつめられたときだけだよ。このことは、概して人間はぎりぎりの窮地に追いつめられたときにだけ思考する、ということと関連がある。首筋まで水に漬かったときだけなんだ。ひとびとはカオスを、革命を恐怖する」
カレ「それを恐怖するばっかりに、とどのつまりは地下壕のなかに、頭上には爆撃の音を聞き、背後にはSS隊員の拳銃を感じながら、うずくまることになるんだ」
ツィフェル「そして腹のなかはからっぽになり、子どもの埋葬に外へ出ることもできなくなるんだな。しかし秩序は厳然と支配していて、ひとびとにはほとんど、ものを考える必要がなくなるだろう」
〔…〕
ツィフェル「きみに誤解されないように付け加えておくと、ぼくはひとびとを批判してはいない。批判するどころか、その逆だ。尖鋭な思考は苦しいもので、それをできる限り避けるほうが、理性的なんだ。ぼくが知っている国々のように、異常なまでの思考を余儀なくさせる国々では、ほんとの話し、とても生活は不可能だよ。不可能だよ、ぼくが生活と名づけるものは」》
 ――ブレヒト『亡命者の対話』ⅩⅣ章
 戦時中に異国の地を転々としていたブレヒトによって書き継がれていた本のなかで、上に掲げた対話は「革命と思考とにたいする恐怖について」と題された章で交わされる。私が住んでいる国においてはとりわけ、誰もその内実を知らない「革命」というものを、何も性急にぶち上げたい訳ではない(念のため。政治に関して言えば、その言葉が特に空疎なものに響くというよりは、私たちにはもっと最低限な認識すら欠けているのが現状だろう)。ここで気になるのは、「革命」と「思考」と呼ばれるものが、互いに密接に関係するものとして言われていることだ――《概して人間はぎりぎりの窮地に追いつめられたときにだけ思考する、ということと関連がある》。
 人が何事かを思考しはじるのは、それを不可能にする事態に直面した時だけだとするならば、普段の生活において行っているものは、どこまで思考と呼べるものなのか。文中《厳然と支配していて》と言わるほど圧制的なものではないにしても、秩序は存在している。その中でそれなりの生活を享受している私たちは、一時的に「カオス」から守られもするだろうが、はっきりと目に見えてやって来る外部からの衝撃、またはそれまで(確実に存在していながら)眼前に一瞬だけ過るものにすぎなかった内部の破れ目から漏れ出したものによって、いつの間にか、これまでの自動的な習慣を取り繕いながら維持し続けることは不可能なものになって行く。そこにおいてこそ思考が発生する余地があると言うこと――だが、それ自体も「カオス」の領野に属するものを、受動性においてもなお引き受けなければならないというのは、困難な要請ではないか。何よりも身体が直接的な暴力(戦争、窮乏、災害、病い…)に曝されている状況にあっては、なおさら「思考」などと安穏に言ってはいられない。
 なるほど、人は自分自身が耐え難い災厄に遭遇してみないかぎりは、他者の苦痛を、よくても「想像を絶するもの」と片付けるだけで、それについての思慮を能動的に働かせるには及ばないのかもしれない。現在の生が、自分たちの安全が、維持されているかぎりは……。そんな風に呟きながら行き着く先が、偽装された政治的言説にお決まりの賢しらなニヒリズムに陥るか、道徳教師よろしく訓戒を垂れるだけならば、もっと救いがない。西欧流のヒューマニズムの復権なんてもうとっくに擦り切れていて、場合によってはそれが発言する者の利害に関わっているものにすぎないようにも思われる。しかし、そういった気分もまた、ともすれば単にシニカルな認識をもたらすだけならば、共犯的な愚かさだ。
 たとえ自身の罪悪感や無力さから出発したもの(ヒューマニズム?)であったとしても、人々を、どんな形であれ現状に抗する行動と思考に駆り立てる動機となるならば。狂気一歩手前で、「われらの正気を生き延びる道を教えよ」。兆候となる自発的な行動と、やって来るはずの未だ形を成していない思考が、これまでのヒューマニティとは異質の次元を切り開くものとなるならば……。
(240109)
 政治的な発言をする時、曖昧な言葉を繰り返し口に出すだけならば、それは有効な力を一切持たない。私の言葉は優柔不断なものに見えるのと同時に、読み返す気がまったく湧かないほどに、ひどく固まって動きのないもののように思えて、息苦しい。ここでいつも似たような言葉を書き綴っていたことにも言えるが、その度に経験と知識が足りないことを痛感させられる。言葉は、その意味が了解可能なものになり、さらに手垢に塗れた使用に慣れたものとなった時、すでにその役目を終えてしまう(言うまでもなく、政治的な性質を帯びた言葉に限った話ではない)。それに比べると、上に引いたブレヒトの言葉からは何度読み返しても不思議な魅力を感じる。事態は切迫していて、現実に彼の政治的な立場は明確なものであったと思うが、彼が書く言葉にはいつも奇妙な揺れがある。曖昧さとも異なる、この距離感と軽やかな(?)動きは、いったい何なのだろう。
 この本を読んでいたのは昨年の九月だったようだが、そもそもブレヒトを読みたくなったのは、同じ頃に久しぶりに手に取った『彼自身によるロラン・バルト』で度々言及されていたのがきっかけだった。
〈R・Bはいつも政治を《限定し》たがっているように見える。彼は知らないのだろうか? ブレヒトがわざわざ彼のために書いてくれたと思われる考えかたを。/「私は、たとえば、ほんの少量の政治とともに生きたいのだ。その意味は、私は政治の主体でありたいとはのぞまない、ということだ。ただし、多量の政治の客体ないし対象でありたいという意味ではない。ところが、政治の客体であるか主体であるか、そのどちらかでないわけにはいかない。ほかの選択法はない。そのどちらでもないとか、あるいは両者まとめてどちらでもあるなどというのは、問題外だ。それゆえ私が政治にかかわるということは避けられないらしいのだが、しかも、どこまでかかわるかというその量を決める権利すら、私にはない。そうだとすれば、私の生活全体が政治に捧げられなければならないという可能性も十分にある。それどころか、政治のいけにえにされるべきだという可能性さえ、十分にあるのだ。」(『政治・社会論集』)〉――「ブレヒトからR・Bへの非難」
 バルトが上に引いている警句にも、どこか奇異な言葉の揺れ動きがある。そしてバルトは同断章の末に、政治的な言葉が反復されずにすむ(手垢に塗れ固定したものにならずにすむ)、まれな条件を三つ上げている。その中の二つ目はブレヒトに関わる場合(それも「控えめな場合」)として、こう言及する――〈著述者が、ことばづかいというものについて単に《知的理解》さえもっているなら――みずからの生む効果についての知識によって――厳密でありながら同時に自由な政治的テクストを生みだせばいい。そういうテクストは、すでに言われていることをあらためて発明し変容させるかのように働き、自身の美的な特異性のしるしについて責任をもつことになる〉。さらにまた、以下は別の断章で詳述されているもの。
〈ブレヒトの場合、イデオロギー批判は、《直接的に》おこなわれているのではない(さもなければ、それはまたしても、しつこい、同義語反復的な、戦闘主義の言述を生み出す結果となっていただろう)。それは、美的な中継を経ておこなわれる。反イデオロギーが、ある虚構の下に身をひそめるわけだ。リアリズムの虚構ではなく、《適正な》虚構にたよるのだ。たぶん、ここにこそ私たちの社会において《美的なもの、美学》の演ずる役わりがあるのだろう。《間接的でしかも他動詞的な〔現実に働きかける〕》言述のための規則を提供する、という役わりである(そういう言述は言語活動を変形することはあるけれども、みずからの支配力、みずからの善意を掲示したりはしない)。〉――「イデオロギーと美学」
 《美的なもの、美学》? 危機が切迫している現状において、それは慎ましいもの、どころか全く呑気で欺瞞的なものに響くだろうか? たしかに、あたかも外部の喧騒から逃れることができるかのように自律性を誇示するだけの言葉を書くだけならば、そうだろう。しかし、言葉を読む/書くという思考の次元というものがあるとするならば、それは、実際に身体が生きている現実から影響をつねに被り続けながらも、現実の生に対して謎めいたずれや断層を幾重にも孕んでいるものだ。言葉は現実そのもの(出来事やそれぞれの生)に対して、直ちに結び付くことはない――「早すぎる、遅すぎる」。ましてやそれが、当然のように久しく繰り返されてきた愚劣を打ち破るために、現在に介入しようと試みる言葉であるならば。もちろん、短絡的に大多数の人々に動員を促すことは、つねに心許ない。その意味で思考、言葉にできることは、あまりに慎ましいものだ。
(240110)
 ブレヒト=バルトの教え。リアリズムではない《適正な》虚構が、具体的にどのようなものであるかは、引用したバルトの文章からはそれ以上詳述されていないが、彼によれば《間接的でしかも他動詞的な》言葉は、読む者の言語活動を変形させる。さらにまた、その言葉によって語られる物事は、反復され自明視されたものとしてではなく、つねに奇異なものとして示し出される(再発見される)。出来事は、つまり、変容可能性に開かれたもの(変化の兆し)として見出される。
 おそらく、美的なものは、あらかじめ自律的なものとして創造されるのではなく、まず第一に外との折衝がなければ生み出されえない。どこまでも「政治的な」現実に対峙しながらも、現状を掻い潜るように揺れ動き、読む者の言語活動(思考の動き)を変形すべく働く言葉――現実に働きかける「問い」となる言葉を、いかにして書くことができるか。
 ここでふたたび、書く身体と読む身体の問題に帰ってくる。
《僕は一体的な作品群〔body of work〕を作り上げたいと考えたことは一度もない。ただ、僕らの体〔body〕――息をする、説明の付かない存在――を作品の中に保存したいとは思う。》
《偉大な本は政治的なものから自らを“解き放ち”、差異という障壁を“乗り越えて”、普遍的真理に向けて人々を一つにする、と人は言うだろう。それはとりわけ、技巧を通して成し遂げられる、と。では、その方法を具体的に見てみましょう、と人は言う――まるで、そうして組み立てられるものが、それを作った衝動とは切り離されるかのように。まるで人間の姿形を考慮することなしに、最初の椅子がこの世に現われたかのように。》
 ――オーシャン・���オン『地上で僕らはつかの間きらめく』
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naotodays · 6 months
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2023年10月27日(金)「とんかつ」
1. 生まれてしまった哀しさと逞しさついて
いろいろどうでもよくなる手前。それは死をちゃんと飼い慣らせる様になってきた証拠。
最近は、とにかく少しテキトーであることになれたのでまた少しずつテキトーじゃない方に歩み寄ってみようと思っている。我ながら根が真面目なので。(一回テキトーになって、また歩み寄る=努力、するのが大事)
話は変わって昨日の夜、坂本龍一の昔の音楽を聴いていた。自分と同じ歳くらいの頃かな。
寝る前の数分間。
随分彼の奏でる「音楽」というものが変わっていったのだなと思う。
何かを彼は音楽で伝えている、というよりこの手の人は只々表現した、わけなんだけども。
随分悲壮感に包まれている様な気もしなくもないけど、それでもやっぱり前を向かないといけないことだけは知っていた様な。
彼の昔の音楽を聴いて、やはり少し安心したのと、彼の最後のアルバムを聴いて覚悟を持って変わっていった人だったのだなと自己解釈している。
最近思うことは、やっぱり会いたい人には会っておきたい。
直接目を見て、直接話を聞いて、自分でその人の言葉について考えて、その人が発することがなかった言葉についても考えたい。
色々どうでも良くなったら、どうでも良くないことにとことん向き合って生きたい。
少しずつ少しずつ、時間が経って振り返るたびに明確になる自分の言葉。
その変化を度々振り返っては再確認する。
2. 本質的な嘘と本質的な本物について
写真は嘘を作れるが、言葉や文章って嘘を作れないよなと思った。
それは本質的な部分で写真は表情でさえ、構図でさえ計算されていたものだとしてもシャッターを切った瞬間が全てで、それそのものが写真の本質。(本質的な嘘を作ろうと思って作った)
だから、写真にとって嘘も本質だし写真は嘘を作ることができる。(最近では写真によってただの嘘になっている人も多いが)
一方で、言葉や文章は嘘をつくることができないと思った��由は、言葉そのものが話者から放たれるもので表面的な嘘をつくことができてもその話者が魂を持つ限り本来の答えがそこにあってそこに嘘をつくことはできない。
所謂、自分に嘘は付けない。とかっていうやつ。
だから、こうやってタンブラーで言葉を綴り続けること、ラジオであーだこうだ言うこと。
それって何の意味があるんだろうと思っていた一方、いや何か意味があるはずなんだけど何だっけみたいな状況だったわけだけども。
言葉を紡ぐこと。
それは善良な人間であることへの練習みたいなものだと思う。
感じる。
自分の言葉を自分で喋ること。だんだんと自分の身体と脳みそは、ちゃんと自分のものになる。
ホルモンや何とかの方則に操られるようなものではない。
自分の思うことを口から話すこと。だから何って話なんだけど。
つまり、だからそうなんだ���。
っていうだけです。
ここで今日はタメになる画像を
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findareading · 5 months
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ともあれ、本を読み終えたことで、ようやく眠気がやってきた。もう午前三時を回っている。今から寝ても四時間しか眠れない。 それでも綴喜はこの習慣をやめない。
— 斜線堂有紀著『ゴールデンタイムの消費期限』(2021年1月Kindle版、祥伝社)
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ryotarox · 1 year
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(発見!不思議の国のアリス 鉄とガラスのヴィクトリア時代 - ヴィクトリア朝のあれこれが、アリスに反映されている?/ちょっとだけホームズも加味 - シミルボンから)
ヴィクトリア朝のあれこれが、アリスに反映されている?/ちょっとだけホームズも加味  『不思議の国のアリス』が出版されたのはヴィクトリア朝(1837~1901)のど真ん中である1865年でした。  そのため、物語のあちこちに、ヴィクトリア朝の面影があれこれと登場しているという視点で綴られたのが本書です。  それは具体的にはどういう物なのでしょうか?  いくつかご紹介しましょう。 ●電気機関車と地下鉄  高速交通機関が発達したため、人々の時間と空間認識に変化が生じたのがヴィクトリア朝時代だと言います。  確かにアリスの物語は歩いて行ったのでは叶わない様な全く違う場所に一瞬で移動する場面が多々登場しますよね。  地下鉄の登場もこの時代なのですが、これは同じ時代を描いて一世を風靡したホームズ物にも地下鉄が登場することからもよく分かります。  『電気機関車』と本書には書いてありますが、この時代はまだ蒸気機関車です。  初めてロンドンに開通した地下鉄だって蒸気機関車が牽引していたので、路線内は煤煙で濛々としていたそうですよ(だから換気のために必ず地上を走行する区間が必要となり、そこでホームズ物の『ブルース・パティントン設計図』のトリックが生まれるわけですね)。  アリスで言えば、『不思議の国のアリス』のもともとのタイトルが『地下の国のアリス』だったという点にその影響が見られるとか。 ●時計  時計が大量生産され、一般庶民の間にも広まったのもこの時代。  で、アリスと時計と言えば、もちろん三月うさぎの重要アイテムが時計ですよね。 ●アフタヌーンティー  アフタヌーンティーの習慣が根付いたのもヴィクトリア朝時代だったのだそうです。  これは知らなかった。  アリスでは、もちろんお茶会です。 ●狂気の感覚  これも面白い着眼点です。  ヴィクトリア朝にコレラが大流行し、その患者に対してアヘンや水銀が処方されたんだそうです。  で、もちろんアヘンなど常用すると精神に異常を来してしまうわけですが、アリスの中では三月うさぎがまさに狂気であり、あるいはチェシャ猫のにやにや笑いもそうだという指摘です。  なるほど!  ホームズ物にも阿片窟が登場しますし(『唇のねじれた男』ですね)、大体ホームズ自身、モルヒネやコカインの常用者であり、これもそういう影響なんですかね? ●ガラス製品  ガラスが広く作られ、価格も安くなったのがこの時代だとか。  ヴィクトリア朝真っただ中の1851年に開催された第一回ロンドン万博の目玉だったクリスタル・パレスもガラスの殿堂でしたしね~。  アリスが飲むおかしな薬もガラス瓶に入っていましたっけ。 ●カメラ  ガラスの普及とも関係があるのかもしれませんが、カメラが生まれたのもこの時代。  著者の指摘では、アリスが伸びたり縮んだり、チェシャ猫が消えていったりするのもまさにカメラのピント、写真の現像のイメージだということです。  なるほどね。  まぁ、作者のルイス・キャロル自身、カメラ大好きで、リデルの写真なんかかなり撮影していたそうですし(キャロルって、結構なロリコンだったと思うよ。時代が時代ならかなり危ない人とされていた可能性大ですよ。)  本書にはその他の色々な指摘もありますが、中にはそうかな?と思うものも。  このレビューでご紹介した点は、私もそうだねと概ね同意できるものです。  アリスとの関連でヴィクトリア朝を見るという視点はなかなか面白いものがありました。
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発見! 不思議の国のアリス;鉄とガラスのヴィクトリア時代 | 寺嶋 さなえ |本 | 通販 | Amazon
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manganjiiji · 11 months
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水溶液回す
私はもしかして…なにか、こう、外界からの刺激を、大きく受けとりすぎている…!?そもそも肉体疲労が…!?といういつもの暗黒思想を経て、なんというか、それに加えて今回は自律神経が変調をきたしているのではないかと思いました。寒暖差。そして部屋の温度調節にいまだ慣れていないこと。引っ越して20日は経ちました。
外界からの刺激をたくさん受け取ることが私の健康維持のためにはかかせないのだが、それが許容量を超えるとおそらく、ばた…。と受容のための神経が死んで、急激なうつ状態がやってくる。そこに肉体疲労が加わっていると薬の効きが悪くなるので、とにかく疲れすぎないこと、あまり大きな「(肉体疲労を伴う)体験」をしないことでうつ状態を回避できるのだと思うが、社会的にそうもいかない場合というのがあり、もうどうにもこうにも。ここ何日かうつ状態が寄せては引いてを繰り返しているし軽度の希死念慮も来たし、とくにストレス要因と思われるものもないのに、ご苦労なこった。ほんとによ。はあ。対抗策として、体力を徐々にでいいから増強していくこと。かすかに、少しでも、運動量を増やしていくこと。まず朝、ラジオ体操とフォームローラーをやろうと思うのだが、夜風呂に入ってから寝るというのも大切だと思う。風呂に入るとかなり疲れるし発汗するので。また風呂に入った時にシャワーを浴びながらストレッチするのが習慣なので、風呂に入らないと肩が凝ってしまう。まあ頭を洗うのは1日置きでいいとしても、運動量のために風呂は毎日入った方がいい。ということに今気づいた。
今日何か日記に書こうかなと思ったことがあったが、忘れた。その程度のことだったのだろう。増田(はてな匿名ダイアリー)の「子供を産まなくて本当に良かった」というエントリを見て(非常に頭が良く冷静な書き口でおもしろい)、なんとなく、まあこういう考えの人は多くいるよなあと思う。みんな自分の好きなように生きる選択をして、それでも社会が成り立っていくようにするにはどうしたらいいんだろう。私は人間1人あたりが新しい人間1人を生み出さないと、次の世代の負担が爆増してもっともっと厳しい貧しさが到来するぞと思ってすぐ悲しい気持ちになってしまうのだけど(既に私たちの世代が厳しい貧しさを体験している)、次の世代の痛みなど知らぬ、という人もそりゃいるか。とは思った。確かに。でもそれってあんまり大人らしい態度じゃないなと思った。自分が属するグループ、組織、社会の将来を良くする=人類を良くするために生きるのが、人間ってもんじゃないのか。もちろん、次の世代の苦しみが少なくなるように政治でなんとかしようという動きが今後出てくるかもしれないし、団塊、そしてその次に団塊Jrの世代が死に絶えてやっと人口分布がまともになり、若い世代が苦しまなくなる、という、その時代到来までの半世紀くらいで、日本人の貧しさによる精神ズタボロ度はすごいことになってしまうんじゃないか。心配である。私は人口が漸減していくことには概ね賛成だが(そんなに多くの子供をかかえる余地はもはやこの国にはないし、実際的に仕事に必要な人間の数はこれからどんどん減っていく)、ドデカい退役世代を、細々とした現役世代が養うというのは、無理��あるし、つらい。今の退役世代はまだ貯蓄があるからいいが、団塊Jrが退職し非労働人口になった時に、彼らの生活を金銭面でも身体面でも、現役世代が支え切れるのかは本当にわからない。年金制度の崩壊と言われる2025年は2年後に迫っていて、そこから本当の地獄が始まると思う。すごく極端で非倫理的な話をすれば、老人達が長生きしすぎで、これは現行の年金制度を作った時には想定されていなかったと思う。そして、老人というのは家や車を新しく買うことはないので、まとまったお金があってもそれを経済に返還できない。子世代の建てる家や土地にどんどん老人たちがお金を出してやればいいと思うのだが、それはそれでしがらみになりそうで、難しい問題だと思う。そうして遺産相続の時が来る頃には、子世代ももはや退役している。長生きしすぎである。頼むから70くらいで死んでくれ。私も70くらいで死にたい。70くらいなら子世代もまだ40とか50のはずで、孫世代の教育費に遺産を宛てたり、新たに家を建てたりできる。ただ、孫の世話をまかされている祖父母を考えた時に、70は早すぎる。かもしれない。私の祖父は80で死んだ。祖母は認知症を発症し、施設でまだ生きているが90を過ぎ、これは生きすぎだと思う。ただ、戦前生まれの体が頑丈なのであって、敗戦後に生まれた人々はもっと軟弱で、そんなに長生きはしないと思うし、生活習慣が変わったことによる病気も多いと思うので、平均寿命は現実的には80弱くらいになって欲しいと思う。介護現場の人手不足は国の縮図で、少ない現役世代が、自分たちの数倍の人数の入居者の世話をしている。
下の世代が苦しみながら、「もうじゅうぶん生きた、早く死にたい」と言っている世代を支え続ける構図は続く。ただでさえ老人の数が多いところに、出生率1.3というのは、「1.3人の人間の働きで(金銭的にも身体的にも)2人の老人を養う」ことであるから、国が必死になって子供を産ませようとしているのは確かに理論としてはスタンダードだ。しかし、子供を産み育てる土壌があまりにも貧しくなってしまったために、子供を持つことはかなり難しく、私にはもはや特権化しているように見える。経済面、また、身体面および精神面で一定の条件をクリアし、他人(異性)と生計を一にすることができる人、というのが、現在この国で子供を持つ権利がある人々である。ここがもうかなり狭き門のように思える。異性愛者または子供のために異性と性交することができる人、かつ、健康で共働き+家事+育児ができ、子供の教育費を過不足なく捻出できる人。で、できねェ〜〜〜〜〜。こんな…ハードモードすぎるってばよ。加えて出産(初産)は30までに済ませておいた方が体の負担が少ないので(と私は思っている)、20代で仕事をしながら、人生のパートナーが誰なのかを見極め、その人と着実な関係を構築しなければならない。ウワーーー!難しいよ。私は友人からもきつく「お前は子供を持ってはならない」と言い含められているとおり、そもそも治療薬の関係で妊娠ができないし、おそらくこの病状では育児にも耐ええないだろう。その前にパートナーがいないことも大きな問題だ。私のような「外れ物」が子供を持てないのはまあ当然として(本当は「家族」���いうものが欲しかったが…)、それなりに普通の生き方をしている多くの人が、上述のなんらかの条件をクリアしていないために、30年前なら結婚出産をしていたであろう結構なボリューム層が、非婚のままである。ただ、30年前のように誰でも彼でも結婚出産しましょう、という風潮だと、本来その能力のない人が親になり、私のようなアダルトチルドレンおよび精神障害者が大量発生してしまう。正直、親世代の雑な育児のツケが回って「結婚できない」という人もかなり多いと思う。それを言い出したらキリが無いかもしれないが、ちょうど戦後に生まれた人達というのは、目まぐるしく変わった価値観を土台にする社会を生きながら、親は戦前の四角四面な道徳観念をもっており、それによって躾けられるという、かなり不安定な人達なのである。既にこの世代からして。大人の「未成熟」というのは、敗戦後生まれた人達から始まる問題だと思う。「未成熟」という言い方はよくないかもしれないが、大人としての役割のひとつだと私が思っている、「子供が1人で生きていけるように育てる能力」を有していない人が、この辺りから大量に出てくる。または、戦前はそこまで個人の責によらず、社会全体でなんとか、どんな子も生きられるようにしよう、という、厳しさ前提の優しさがあったのかもしれない。たとえば子供がだめでも、孫が優秀かもしれない。そうやって、とにかく世代を繋いでいくことが優先されていたのは、日本の古来よりの習慣(家制度)である。敗戦により、新自由主義、個人主義が「日本人なりに」受け入れられた結果、家制度は解体され、本人の希望によってパートナーを見つける形に変わった。それが時代の進歩というもので、これが「自由」である。どんなに下の世代が辛い思いをしようと、私たちは「自由」を手放してはならない。破れ鍋に綴じ蓋だったり、不均衡だったり、時には大きな問題のある相手を宛てがわれてする結婚は終わり、自分にとっての最上の相手を探す時代が訪れた。そこで、今まで「宛てがわれて」結婚していた層の「問題のある人達」は結婚できなくなり、子供の数は減っている。これは、その人たちの遺伝子が淘汰されるならいいのでは?と一瞬思うが、遺伝というのはそう単純なものではなく、最悪な親からでもまともな子供が生まれたりするので、とりあえず宛てがって産ませよう作戦は、生物の生存戦略としては優秀賞だと思う。ただし私たちは人間なので、やはり「自由」を捨ててはならない。子供を持たない人間たちは、その仕事によって次世代になんらかのものを残すしか手がない。私たちは「自由」だと体を張って証明すること、そして、自分より後に生まれる命のために、少しでも貧困の構造や社会制度をよりよいものに作り替えておくこと。これは子供を持っている人ももちろんやっていると思うが。私は結局子供は社会で育てるものだと思っているので(親個人の責任はそこまで重くするべきではない)、実際に子を持たない人でも、その働きはひいては次世代のためのものなのだから、誰が子供を持っているとか持っていないとかで揉めるべきではないと思う。
さて、寝ましょう。
2023.6.5
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hiraharu · 1 year
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わざわざ店長オカダが選ぶ 『今年買ってよかったものベスト5』!
毎月ご紹介している、わざわざオンラインストアで人気の商品ランキング。今月は、パンと日用品の店わざわざ @wazawazastore  店長オカダが選ぶ「今年買ってよかったものランキングベスト5」をご紹介いたします。わざわざ勤続年数4年、わざわざアイテムを熟知している店長オカダが実生活で愛用しているアイテムとは?使用者目線で綴られた各アイテムへのオカダのおすすめコメントもぜひ合わせてお楽しみください。
👑第5位  クラシックインスレート20oz 以前は違うタイプのクリーンカンティーンのボトルを使っていたのですが、10年の寿命を迎え新たに探していた時に新規取り扱いが始まり購入しました。いいところはなんと言ってもシンプルな作りなので洗ったりする毎日のお手入れが簡単!ボトルによっては飲み口(蓋)部分の構造が複雑でパッキンが沢山あり分解して洗うのも一苦労…な物もありますがこれは面倒くさがりの私にはぴったりです。保温も保冷もどちらもあり、今の寒い季節は月ヶ瀬健康茶園の有機ほうじ番茶のティーバッグや、ひしわのティーバッグ(生姜紅茶、農薬を使わず育てた紅茶)をホットで入れて職場に持って行っています。 https://wazawaza.shop-pro.jp/?pid=170004467
👑第4位  さつまいもチップス (紫芋ブラックペッパー&ソルト) 薄くてパリパリ。お芋の自然な甘さとブラックペッパー&ソルトの味付けがくせになり手が止まりません。何度もリピート買いしています。家族や友人への手土産にもとても喜ばれました。 https://wazawaza.shop-pro.jp/?pid=165443231
👑第3位 びわ葉水 以前にも使っていた事があったのですが、気分が変わり違う化粧水を使い、びわ葉水はしばらく使っていませんでした。しかし数ヶ月前お肌の調子が悪く「どうしたもんか…」と悩んでいたところびわ葉水を思い出し再び使い始めました。すこ~しお肌の調子が戻ってきました。ありがとう!!びわ葉水!!あとは生活習慣も改善します…。 https://wazawaza.shop-pro.jp/?pid=122918372
👑第2位  SOMALI洗濯用液体石けん 今まで洗濯は合成洗剤を使っていました。石けんで洗濯するとどう違うのか気になり試しで購入。タオル類をSOMALIで洗濯してみました。乾いて畳む時にいつもよりふんわり洗い上がっている事に感動しました。洗濯機を回している時のオレンジ精油の香りにも癒されます。余裕がある時はコインランドリーで乾燥をかけると、よりふっわふわになるのでタオルに頬ずりする瞬間が幸せです。 https://wazawaza.shop-pro.jp/?pid=156178902
👑第1位  オーガニックエアープレミアムタオルケット もっと早くから買っておけばよかった…と思うくらいお気に入りです。中々いいお値段なのですぐには決断できずずっと憧れていました。でも1日の中で睡眠に占める時間は多いし、毎日使うもの、そして何年も使うものだからと色々考えた末に今年の夏購入しました。もう、幸せです。元々寝ることは大好きなのですが、このタオルケットを使い始めてさらに好きになりました。寒くなってきた今の季節もタオルケット→羽毛布団の順で掛けて寝ています。 https://wazawaza.shop-pro.jp/?pid=145639130
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#パンと日用品の店わざわざ #わざわざ #今年買って良かったもの
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cocolog2 · 2 days
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最近のアレコレ
書きたいことはいっぱいあるのに書くことが習慣化されていないから中々tumblerを更新することが出来ない。そして、気が付けば4月も終わる。tumblerにいる人達の綴る文章ってセンスが溢れていて、まるでエッセイを読んでるようで心地よい。私もそんなふうになりたいと憧れる今日この頃です。
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tentr · 9 days
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最近全然文字を綴ることができていなかったから睡眠から目覚めた今の俺はなんか無性に文字を綴りたいと思ってるから今ここに、書き留めますわ。最近体調不良だったりありがたいことに忙しく、宣伝ツイートだとか全然できていなくて、でも俺の1日のルーティンの中にみんなのツイートを見ることは習慣化していて、今日はみんなこんなことがあったんだな、あれ、今日この人浮上してないな、だとか、思いながらみんなのツイート見てますよ。しばらく浮上してない人を見掛けると何かあったのかな、とか勝手に心配してます。みんなが思ってる以上に、俺はみんなのことが好きですよ。みんなが、幸せに生きてくれたらいいなって思ってるし、なにか悩んでることあれば俺が解決できるという確証は無いけど、話すだけでも少しは楽になるから話して欲しいななんて思うし。悩み事は1人で抱えていい事ないっすわ、正直。まあ、こんなことを言ってる俺も割とひとりで抱えちゃうタイプだから気持ちはわからんことないです。でも、やっぱり誰かに話を聞いて貰うだけでだいぶ気持ち楽になりますよ。なんか、暗くね?安心してください、明るい話になりますんで、と言ってもこれといって話せる内容は特にないんですけど、夏が近づいてきて、日々の太陽からの光がジリジリし始めちゃいましたね、あまり好きでは無い時期が始まってしまいますよ、でも、夏ってなんかなんでもやっちゃえ!みたいな季節じゃないですか?なんか、リミッター外れる気がします、外さないように気をつけますが、夏ってほんとに暑いから苦手だな。でもその前に梅雨か。梅雨ってジメジメするし洗濯物は外に干せないしで苦手。外に出たら絶対に濡れるし。なんなら前雨降ったら絶対に車に水をかけられるっていう呪いにかけられてたんですけど、最近はそういった事ないです。ありがたい。楽しいことしたいな、ってよく思うんですよね、でもその前に自分に余裕を作らないとなーって思ってます。自分に余裕が無いのが分かりきってるんでねー。余裕のある大人になりたいっすね。頑張りますわ。なんかねー、話次々変わって読みにくかったと思うんですけど、最近の俺はこんな感じですよ。まあ、わりと元気です。体調は崩してますが。みんなと話す時間凄い好きで、みんなとまたたくさん話したいなーって思ってますので、みんなたくさん俺に会いに来てね。
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mori-mori-chan · 30 days
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読書感想文39
絶対貧困 世界リアル貧困学講義/石井光太
更新頻度低下の案内の次の投稿がこれですよ皆さん。舌の根も乾かぬうちに
余談ですが、実は以前の職場が倒産し職業訓練校に通っていた時に、キャリ今野先生から「あなたの履歴書や職業経歴書が一番読みごたえがある」と言われ、本を読んだら感想文を書くようにしていると答えたところそれはいい習慣なので出来れば継続するように、と言われたことがあり、もうお会いする機会もないでしょうがそのキャリコンの先生のことが好きだったので(恋愛感情とかではなく)個人的にこのルーティンは生涯続けていきたいのです。また、文章は書かないことには上手くならないと思っておりますので……。
で。本作、THE・名ルポです。内容の衝撃度もさることながら緩急のつけ具合が絶妙でして……お涙頂戴にしたりちゃかしたりにすることくなく事実ベースで綴り、時には筆者の現地での体験談を盛り込んだ圧巻の内容となっております。結構淡々と描かれてはいるのですが、内容だけ見ると悲惨かつ凄絶で、同じアジアでもピンキリ過ぎィ!と感じました。親ガチャならぬ出生国ガチャですよ最早……2024年現在では、ですが。構成力の高さが素晴らしいです。終盤まで内容に心を痛めつつどこかよその国の話だと傍観者の立ち位置になってしまっていたのですが、最後の最後でこれは決して我々も無関係ではなく、いつこうなってもーストリートチルドレンが巷に溢れ、社会からの支援も得られないままに犯罪者達に利用され、或いは自身が犯罪者に転落する貧困者となり果てる者が増え続けてもーおかしくはないなと戦慄させられました。
"一つ忘れないでいただきたいのは、このグローバル化の波は日本にも押し寄せてきているということです""このような時代の中で、途上国で起きている出来事を他人事と捉えるのは容易です。たとえば、日本のエイズ発症者の十二・六パーセントが外国人というデータがあるのをご存知ですか?""ここからいえるのは、いまはもう途上国の貧困問題を「遠い国の出来事」として片づけられる時代ではないということです。良い意味でも悪い意味でも、途上国で起きていることは、そのまま私たちの安全や経済や政治に影響を与えるのですそれがグローバリゼーションということなのです"……はい(震え声)。
梁石日の『闇の子供たち』を読んだ時に、序盤でもうかなり気が滅入ったというか現実の残酷さと世界で起きていることに無知すぎる自分に落ち込んだのですが、ルポとサスペンス、ベクトルこそ異なるものの臓器売買・児童買春内容的にはかなり論くしております。あ、"アジア、中東からアフリカまで~"と裏表紙にあるように、本作で触れられているのは基本黄色人種・黒色人種です。ルーマニア等東欧辺りも結構アレらしいのですが……いつか世界全体版も読んでみたいものです。また、意外にも貧富の差が激しいと言われている中国は全く出てきませんでした。スラムがあったり物乞い(※文中の表現)がいたりするわけではないんでしょうかね。
↓内容(Amazonのスクショですいません)
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まぁ何か全体的に地獄でしたよね、はい。
この中では割と軽めの『第二講 人々の暮らしと性』で触れられている貧しいのに人っている人とか、これは世界共通なんだな……と思いました。ヘルシーな食事って結局お金がかかるので、手軽に買えて、かつ高カロリーのお菓子からジャンクフードやらそういうものばかり食べてしまいますよね……。『第八講 物売り』では想像の遥か上をいく、誰も損することのない綿密な商品の流通・回収ルートが存在しており謎の感動がありました。『第十講 ストリートチルドレン』から流れが変わってきて、一気に読むのが辛くなります。シンナー中毒になる子供、自発的に少年兵となる子供……いやー、きついです。でも事実なんだよなぁ……。『第十一講 路上の犯罪』もメンタルやられます。インドの物乞いビジネス(原文まま)の無慈悲さに。
"さて、こうした物乞いビジネスの中で、インドのそれはすこぶる残酷なのです。
物乞い世界には、健常者より障害者の方が稼げるという原則があります。さらに言えば、障害者は障害者でも重い障害のある人の方が稼ぎます。そこで、インドの犯罪組織は誘拐してきた子供に障害を負わせることで大金を稼がせようとするのです。
私がチェンナイという町で取材した例をご紹介しましょう。
この町の犯罪組織はインド各地から赤子を誘拐していました。そして子供が六歳になるまではレンタルチャイルドとして物乞いたちに一日当たり数十円から数百円で貸し与えるのです。前に述べたように、ここではほとんど利益は得られません。
やがて、彼らが小学生くらいの年齢に達します。すると組織は彼らに体に障害を負わせて物乞いをさせるのです。そのパターンとしては次のようなものがあります。
・目を潰す。
・唇、耳、鼻を切り落とす。
・顔に火傷を負わせる。
・手足を切断する。
一番簡単なのは目を潰すことです。"
……。
………。
上記内容が記載されているページをめくると実際に食い物にされている子供の言葉が載っているのですが、もうあまりにも救いがなくて長い溜息が出てしまいましたよね。
次は第三部・売春編なんですが蟻が精液を食べる事実に驚きました(オエー鳥のAAを貼りたかったのですがずれてしまうため挫折)。こちらも中々パンチのある内容なので、是非ご購読いただきたいものです。非情な現実を直視することが、といっても自分の場合は筆者の文章を通じてですが、それですらこんなに辛いことなのかと愕然としました。疲弊しますし、絶望もします。「石井光太」でググれば筆者の様々なインタビュー記事が沢山ヒットしますので、気になった方はそちらをご覧いただくのもありかもしれません。
明るく楽しい内容ではありませんが、一読の価値はあります。
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shinayakani · 9 months
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230809 「日記らしきもの」の効用
 先月からここ最近、web上で日記を書く人がまた増えてきたように思う。Twitterの様子がおかしくなったらしいことが原因なのかどうかは分からない。何人かの方の日記を週に一度読むことが習慣になってきた。それにしても、皆ほとんど毎日とか毎週書いているし、内容もちゃんと面白いからすごい。自分のために書くのが第一としても、webで公開する以上はどんなにクローズドな媒体であっても他人に読まれることがいくらか前提とされている。だからこそと言ったらいいのか、書き手がどんなモチベーションであっても書き続けていること、そしてどこかの他人が読んでも面白いものになっていることに、素直に感嘆してしまう。私に日記を書く習慣がないからそう思うだけかもしれない。どんな形式であれ大したものを書いてはいないだろうに、私はまだ誰かに読まれることを意識しすぎている。
 本を読んでいると書かずにはいられなくなってしまい、書かないでただ読んでいるだけだと落ち着かなくなってしまう、というようなことを、すこし前に知人とお互いに話していた。その逆もあって、もう下手に何かを書こうなんてあさましい(?)思いを一切捨ててしまって、ただ読んでいるだけでいいのでは、という時期も頻繁にあるよね、とも。ただ、彼が書かずにはいられなくなるのは、その本に関すること(読書メモや感想、大袈裟に言えば批評)とは限らなくて、何でもいいからただただ書きたくなることの方が多いと言う。そんな落ち着かない気持ちを抑えるために、二年くらい前から「日記らしきもの」をできるだけ書くようになったらしい。
 はじめはその日にあったことの身辺雑記のようなものを書いたり、読んだ本や見た映画についての雑感を書いていた。だんだんそれにも飽きてくると、その日交わした他人との会話や読んでいた本の一節から思い出した過去の出来事について書くことが中心になる。それからしばらくすると、その日にあったことから想起される、ありもしない過去の「思い出」を書くようになった。今では、仕事に行ったり休日を無為に過ごすありきたりな日々を書くのが面倒になったようで、ありもしないその日の出来事を書いている、と言う。ところどころには読んでいる本からの引用があったり、その日の出来事を淡々と綴っている日も、あるにはある。しかし最近の日記には、圧倒的に「うその」出来事ばかりで占められている……。ブログと大学ノートに書かれた長短様々な文章を少しだけ読ませてもらったけれど、ここでもまた私は感心してしまうだけで、ある意味では書くことのハードルがさらに上がってしまった。ただし書いた日の日付だけはつねに忠実に書かれている――日記って本来そういうものなんだと思う、とも彼は言っていた。
 日記について考えていると、ベアトリス・ディディエという人が書いた『日記論』の言葉をよく思い出す。《一般的に日記は監獄的状況から生まれやすい》。実際にはある文章に引用されていたこの一節を読んだだけで、この本にどんなことが書かれているか詳しくは分からない。しかし、監獄的状況なんて言葉で大袈裟に考えなくても、たえず過ぎ去ってしまう時間のなかで、原因は何であれ日常に閉塞が感じられたとき、人は「日記らしきもの」を書きはじめる。後から自分で読み返してみると妙に白々しくも感じられる、そのとき書かれた言葉たちは、ほんとうは備忘のための記録として書かれたものではないのかもしれない。事実だけが慎ましく書き続けられたものであれ、出来事に伴って生まれる印象や思考の萌芽が書かれているものであれ、そしてもちろん「うその」記述に溢れたものでさえ、どんなものであっても。ある具体的な日付の下に書かれた言葉たちは、流れ去っていく時間と一体になるべくして書かれている。そのとき効用があるとすれば、閉塞を突き破るほどのものではないが、流れることなく留まっていた時間の澱のようなものがいくらかとり除かれることではないか。そして書かれた言葉は、ただ時間の痕跡のようなものとしてだけ手元に残る。
(230808)
《約束することのできる動物を育成すること――これこそが、自然が人間についてみずからに課した逆説的な課題そのものではないだろうか。これこそがほんらいの問題ではないだろうか?……この問題がすでにかなりの程度まで解決されているということは、忘れっぽさという反対の力の大きさを重くみている者には、きわめて驚くべきことに違いない。忘れっぽさとは、浅薄な人々が考えているような、たんなる習慣の力ではない。これはむしろ能動的で、厳密な意味で積極的な抑止能力である。この能力のおかげで、わたしたちがこれまで体験し、経験し、自分のうちに取りいれたものが熟れるまでは(「精神に同化」されるまでは、と言い換えることもできるだろう)、意識にのぼらないですむのである。それはわたしたちの身体にとって栄養となるものが「身体に同化」される無数のプロセスが、意識にのぼらないのと同じことである。  この能動的な忘れっぽさというものの効用とは、意識の戸口と窓を一時的に閉ざすことであり、われわれの神経にしたがって機能するさまざまな器官が意識下においてたがいに協力し、競争しながら働いている騒ぎと闘いに煩わされずにいることであり、意識のしばしの静寂、しばしの白紙状態を確保して、新しいものをうけいれるべき場所を作りだすこと、とくに高尚な機能と器官が働く余地を作りだして、統制し、予測し、予定を立てられるようにすることである(…)――それがすでに述べたように、能動的な忘れっぽさの効用であり、精神的な秩序、平穏、礼儀作法の門番であり、維持者であるこの忘れっぽさの効用である。そのことから直ちに洞察できるのは、この忘れっぽさなしでは、いかなる幸福も、明朗さも、希望も、誇りももてないし、いかなる現在もありえないということである。》
 ――ニーチェ『道徳の系譜学』(中山元訳)
 かりに日記が監獄的状況から生まれるものだとして、その逆に、むしろ書くこと(そして、読むこと)こそが、時間の停滞や閉塞を作り出す原因にもなりうる。内面の牢獄……。しかし、そもそも書く行為それ自体は、内的な動機がどんなものであっても、まず第一に身体的な要因なしには駆動されえないもののはずだ。ここでニーチェによって能動的な(つまりは身体の?)力だと言われている《忘れっぽさ》を、日記を書く行為に重ね合わせてみたくなる。忘れるために日記を書くこと。一般的に言えばそれは、全く矛盾した言い方だろう。言うまでもなく、意識を閉ざして日記を書くことなどできない。だが、具体的な日付を記すことで時間をどこかで意識しながら書くこと、その行為自体は、流れ去る時間の影響なしには行われえない身体的な実践である。つまり日記とは第一に、書き手がその時間(書いているまさにその時)に身を任せるようにして綴られた文章であり、そして流れ去る時間は忘却の作用を持ち合わせている。
 ニーチェは引用した文章に続けて、一方で人間は《忘れっぽさ》に対抗する正反対な能動的な力である《記憶》をも育てあげた、と述べている。具体的な日付の下で日記を書く���とはまた、忘却をもたらす時間の流れのなかで、積極的に記憶の防波堤を作ろうとすることだ。忘れることと記憶すること――閉塞した状況のなかで身体的な要請によって、「日記らしきもの」が書かれるその場においては、二つの正反対の能動的な力が、それと見分けられない形で働いている。書かれた内容が実際にあった出来事の集積であれ、作り出された偽りの記憶であるにしろ、それら二つの力の痕跡が、残された言葉たちにおいて如実に示されることはあるのだろうか。そして、その力の痕跡とは、きのう唐突に書いていた「時間の痕跡のようなもの」と同じものなのだろうか。……今日の日付が刻まれた言葉たちもまた、こうして曖昧なまま唐突に途切れる。
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murmur-tea · 3 months
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□ また空と暮らしている
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ここ2、3年くらいもう大人なので(?)、空を見なくなっていました。でも、少し気にしてみるようにしたら習慣になってまた空と暮らすようになってました。はー、習慣すご。
先日、時間がないときのお弁当用に冷凍の唐揚げを買ったんですが、冷凍庫に入れ忘れて翌日になってしまい解凍されちゃったので一気に食べることになり、めっちゃずっと唐揚げを食べてました。もう唐揚げはいいです。うしをたべろ。
年が明けて、FANBOXをはじめました!なんかもう、入って下さる方いて本当にこんなことあるんだ~とびっくりしています。愛をもらっている...
このブログはSNSを少しずつ畳んでいきたいということで始まったのにまた増えてしまい、どんだけ話すねんと、なんかもう収拾つかないくらい増えてしまいました。
このブログもなくそうかと思ったけどやっぱり居心地いいし、一生懸命テンプレート設定とかしたのでまだしばらく使いたいな、と思います。
映画や展示、購入品の感想を綴る場にしていこうと思います。今後ともよろしくお願いします。
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ichinichi-okure · 3 months
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2024.1.23tue_tokyo
日記というと、鍵垢に食べたものの写真とその日の浮き沈みをただ書き綴るということが、ここ5年ほどの習慣になっている。ごろっと出た文章はきっとガタガタで、後から読み返して薄目になるけど、その時は気持ち良いからやめられない。
朝、テレビで流行っていると見たケランチムという茶碗蒸しを家出る寸前に作り出す。角がなく歯を使わなくて食べられるもの、つまり、いくら忙しくてもまろやかで今日という1日に問題がないように思える。
順調だと思っていた仕事が転覆した。全てパァーになりかけている。でもいたって冷静にポジティブに捉えている。ハプニング、好き。ズレが目に見えたらチャンスで、すり合わせるのを億劫がらなければ、やっと他人とコミュニケーションができる。0に戻った仕事でも話しながら活路を見出す作業は楽しい。 楽しそうに働く人、それを身体から発している人いいよな〜。やりがいとかではなく、ただ仕事が楽しいって話をみんなあまり口に出さないのはなんでだろうとよく思う。
なんとなくで先輩にぼやいた言葉、なんでそう思うのか、と返された。具体を見過ごさない人との会話は背筋が伸びて嬉しい。いざ聞き返されてみて答えを探りつつ、何故そう思ったのか考え直す。
お昼、メルカリで昨日買ったものがもう配達完了に。絶対郵便箱に入らないと思っていたし、再配達と相性が悪すぎるのでこれは急なご褒美。
20時、終わらないものは終わらなかったし、終わったものは終わった。日々リフレイン。 あっ写真、と思いカメラロールを見たら、最近の項目はスクショで埋まっていた。よくないなー。
夜、こないだ友人宅でササっと作ってくれたカブの梅和えを真似して作る。カブの薄さに感動した記憶から、特別なものではなく技術で得られる豊かさってあるよなーと思う。あとカツオ刺は、ポン酢を運ぶ船だと再認識。
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寝る寸前、遠くに住む友達からの電話。離れてからの方がずっと距離が近い人。明日早いからって切りたくないなと直感的に思った。切らないでよかった。元気が出る電話は嬉しい。あのとき、元気が出たなあという電話もついでに思い出した。
-プロフィール- 小林花 24歳 東京 zayca / 印刷設計 @___prfm3 @zayca.jp
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aozoratokamome · 4 months
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仕事或いは趣味で行く先々でスマホのカメラで撮った、正直「映え」とかそういうのと無縁な写真、要するにInstaglamだとかに置けないような写真達をただ置くために作ったTumblrだったが気が付けば今年でもう10年になる事に、今更ながら気が付いた。
映えがどうとか以前にそもそも写真を撮るのが苦手だし、何なら昨今のSNS時代にあらゆる写真や動画を撮る習慣すら殆ど根付いていない。そんな私が気まぐれで撮った写真をいつもいつもここに置いてきた。
Tumblrって別に写真専用のSNSとかではないから、正直写真以外にも適当な何かを置いたりしてみようかと思ってはいる。いや思い続けている。今まさにこういう投稿なんかがそうなんだけどさ。それこそ他のSNSとかブログとかに置くには躊躇いそうな、すごく中途半端な何かを只管置いていきたいなあ。
このアカウントを消そうか消すまいか薄々迷ったりすることはありながらも、ごく最近に限って言えば全然そんな事は思わなくなってしまった。これからもそうだという保証はないしある日突然消したりするかもしれないけど。そのぐらいいい加減な気持ちでこれからもTumblrに何かを投げていく。
後書
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Instagramの綴りについて「g」の次が「l」だと勘違いしてたぐらいにはInstagramというものを知らない。
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entaku9 · 5 months
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 言語には二つの装置がある。第一は、新しい語彙を、自己のシステムを温存しつつ貪欲に取り込む装置である。もう一つは、他言語の圧力に抗して自己を防衛し、生き残るための装置である。
 言語の難易度はほぼ一定であると多言語使用者は感じている。他方、どのような密林の奥に孤立している部族を調べても、片言だけから成る言語は発見できていないそうである。無言語から言語に移行する中間段階のいわゆる「ミッシング・リンク」は現存しないのだ。これは一見不思議なことだ。
 言葉はわかりやすいほどよいというのは、たいていの人の固定観念かもしれない。しかし、片言のような未熟言語がないのはそのような言語は生き残れなかったということではないか。一般にやさしいばかりの言語は生き残れないのではなかろうか。エスペラント語は第二言語として有用であるが、言語間闘争の対象にはならない。もともと、それが目標ではなかったと思う。
 難しさも単純にマイナスか?私見によれば、言語には公共性、開放性も必要であるが、難しさ、複雑さ、取りつきにくさも必要不可欠である。前者は新しいものを取り込んで自己を豊かにするため、後者は他言語の影響に耐えて生き残るためである。
 言語世界は一種のジャングルであり、個々の言語はそこに生きる生き物であるとみることもできる。生物が一方で捕食法を発達させつつ、他方���は針や刺や毒物や何やかやで武装しているように、英語の複雑な綴り字もわかりにくいイディオムも、ハングルの「パッチム」の難しさも武装である。日本語の漢語が音訓慣用読みを併せ持つことも、成年習得者が屈折語の「性」よりも難しいという、(書籍関連に限っても)「一葉」「一頁」「一帖」「一冊」「一部」などの助数詞も、「簡単にわかってたまるか」という防壁でもある。その他のどの言語にもあるあらゆるとっつきにくさも、文化防衛的バリヤーでもある。これがあってはじめて、外来の言語文化を安心して採り入れることができる。
中井久夫.“生き残る言語”.『私の日本語雑記』.岩波現代文庫,2022年,p.110-112
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