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#鎌倉名所記
xx86 · 11 months
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起きる機会を見失ったものたち
5年前ぐらいからTumblrの下書きを溜めるようになり、気づいたら下書きだけで200を超えそうになったので、今更出せない記事をごちゃまぜにしてみた。ある意味総集編。
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このあと何しようとなった時、美術館を提案してくれる人って素敵だなと思う。その時コンラッドにいたというのもあると思うけれど。あの辺りは美術館が多い。
傷ついているのはわたしで、痛いのはわたしだとずっと思ってきた。だけれど、あなたの反応を見てああわたしが傷つけたのだ、と思った。恐らくわたしが大切な人にされたら1番傷つくやり方でわたしは線を引いた。
この前名駅に行ったら袴姿の女の子達がたくさんいて、ああ卒業式の季節かと思った。金箔も水引も出てきた当時誰がやるんだこれと思ったけど、見慣れるとカワイイし尖っててクールでいい。私たちの卒業式の頃の流行りはドライで、ドライってやわ過ぎてぽろぽろしてフケみたいになるの、なんか嫌だったから。
卒業式、受付が始まった頃ヘアセットが崩れて、慌てて着付け会場だった近くのホテル電話して、小走りで駅を逆走していたら、丁度卒業式会場に向かうところだった友人にそっちじゃないよと手を取られたの、懐かしくて愛しい思い出だ。あとは宗教に洗脳された同じ学年の子が校長先生の話の後急に壇上に上がって話はじめたのが怖かったのが強烈に残っているぐらい。
全然食べたくないどん兵衛のニンニクバター味噌にお湯を入れる。全然食べたくない味がした。お湯を入れすぎたのか、若干味が薄い。最後スープを流したら容器の底から信じられないほどみじん切りにしたニンニクが現れてゾッとする。すぐさま水切りネットを変える。
段ボールを開けたらすべておなじにおいがした。洋服もスタンドライトも山吹色の土鍋も。私の部屋は、私はこんなにおいだったのだな、と思う。
お酒を飲んで、帰りたくなくて、近くの公園でアイス食べて花火してブランコを漕いですぐ気持ち悪くなって笑った。夏。ブランコを勢いよく漕いでヒールを飛ばして笑いながら拾ってくれるところまで含めて夏。ブランコ漕いだのなんて何年前だろう、と思いながら去年もそういえばブランコを漕いだ事を思い出した。夏だった。高台にある、動物のいる細長い公園。
深夜の公園は酔っ払った若者か、犬の散歩をしてる人か、ダンスをしてる人しかいない。気づいたら2時を過ぎていて、それぞれタクシーを呼んで帰る。今日もタクシーの運転手に近くてごめんなさいね、って言うんでしょと言われてよく分かってるなあと嬉しくなった。まだわたし達出会って1ヶ月ぐらいしか経ってないのにね。
やめられた先輩や上司達がずらりと並ぶ飲み会で、黙々と枝豆を食べなが周りのペースに合わせてビールを飲んでいたら、現先輩方から怪訝な顔をされた。やだしおらしいの変だよ、え?松田さんっていつも違うの?、全然違いますよーわたし達のこと先輩って絶対思ってないですもん、そうなんだ意外〜。ガヤガヤした店内に甲高い先輩の声が響く。まん丸にした目を向ける上司に言える言葉もなく、ただ苦笑いを返した。自分のつまらなさに苛立つ。
ちなみにいつものわたしと言うのは、先輩方にほぼタメ口で話し、名前にちゃん付けで呼び、飲み会では先輩に取り分けてもらい、みんなの制止を振り払って日本酒を煽るような女である。こんな後輩を可愛がってくださる先輩達の心の広さたるや。平伏してしまう。大好き。
もちろん先輩方にも最初からこんな態度を取っていたわけではない。2年目までわたしは趣味は裁縫とおかし作りで、ピンクのフリフリのワンピースを着て、淑やかでおとなしい子だと本気で信じられていた。そんな事は一言も言った事はないけれど。
わたしは所謂猫かぶりというやつだ。猫かぶりというか、初対面で慎重にいくタイプだと言って欲しい気もする。23年間生きてきて、わたしの性格というのが個性として簡単に受け入れてもらえないことを痛いほど学んできたから。わたしはどの学校でも1年生の10月ぐらいまではろくな思い出がない。どれだけ己を押し殺してひっそり生きているつもりでも、強烈すぎて受け入れられなかったと言われたりする。
わたしはWikipediaにつらつらと肩書きが沢山連なって結局何をやってる人なのかよく分からないって思われたいの、とあなたに言ったら君らしいねと穏やかに笑ってくれた。わたしらしいってなんなんだろう。
運命の恋なんて転がっていないし、運命の人なんて待っていたところで迎えにきてくれやしないのだ。
あなたが第2の故郷が軽井沢だというので、わたしの第2の故郷はどこにしようかなと言ったらお前は鎌倉やろ、と返してきた。よく覚えてますねと驚き半分であなたの顔を見たら、あたりまえやん何年の付き合いやと思っとるねんと得意げに言われたので、強めに叩いておいた。本当にそういうどうでもいいことばっかり覚えているのだ、この人は。たいせつなことは全部わすれてしまったくせに。
怖い夢か過去に大好きだった人と幸せになる夢ばかり見るから寝るのをやめた。頭が重たい。布団はちっともあったまらない。高速道路がすぐ近くにあるこの家は、深夜になるとよくトラックの走る音がする。朝5時をすぎるとスズメが鳴きだす。朝8時半になるとびっくりするような声をあげる子供達が外で遊ぶようになる。9時を過ぎると1時間おきにお寺の鐘が鳴る。この3週間で全部覚えた。
隔離されていた間に季節は確実に春に向かっていて、私はそれが悲しかった。片付けても片付けてもすぐ散らかる部屋の片隅に座り込んで春ってろくなことないから春なんだよなあと思う。ほんっとにろくなことない。部屋のファンを回す。すぐに夏が来るのだろう。きっと今年のゴールデンウィークは暑い。菜の花をダメにしてしまったのでひどいにおいがする。夏になるし気をつけなければ。
本当はもうあの時死んでしまいたかった、いや消えてしまいたかったよとあなたに言うと、そんなの俺が許さないと真っ直ぐ目を見て言ってくれた。ばかみたい。あなたはわたしが消えてしまっても別に何にも失わないのにね。わたしはあなたが死んでしまったら失うから死なないで欲しい。二度と会えなくなってしまっても、あなたがこの世界のどこかで息をしてると思えればわたしも生きていける。
新しい仕事何にしようとDODAをスクロールしていた時、どうしようもなく泣けて泣けて仕方なかった去年の夏。15の時から夢見て20で叶えて、たったの4年で諦めなければいけなかった夢。音が鳴らない黒のぺたんこ靴。オレンジ色のスカーフ。資生堂のルージュルージュを引いて無理やり鏡の前で笑顔を作る瞬間。しょっちゅうボリュームを調整しなければいけないインカム。もう二度とあの仕事は出来ないような気がするし、あの仕事をしたいのかと言われると分からないけれど、懐かしくて思い出す度胸が締め付けられる。
精神が安定している時は自分の精神が弱っていることなんてひとつも思い出さないのに、まるでアドレナリンが切れたスポーツ選手よろしく一定期間精神が落ち着いたらきちんと一定期間精神をおかしくする。まあでもだいぶ冷静になってきたんじゃないだろうか。冷静なふりが出来るようになったの間違いかもしれない。
世界が混沌としている今、こんなことでだめになっている私は贅沢なんだろうか。先生に言われた通りとんぷくを飲んだせいで今日は1日だめにした。だからあの薬は嫌い。嫌い嫌い嫌い。薬なんて大嫌い。大嫌いなのに一向に私の飲む薬は減らない。やんわり拒絶されているような気持ちになってへこむ。
お金で買えない幸せがある、と言われる度鼻の奥がツンとなる。知ってるよ、それが欲しくて欲しくて欲しくて欲しくて、でも無理だったからお金で買える幸せを片っ端から手に入れていたのだ。
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hachikenyakaiwai · 8 months
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【かいわいの時】嘉祥三年(850)九月八日:八十島祭を行う(八十島祭の初見)
難波宮と摂津職が廃止された後にも、難波津において繰り返される宮廷祭祀があった。それは八十島祭と、伊勢斎王の解斎の禊である。いずれも前代からの伝統を引く古い行事であって、 平安時代に入って始められたものではない。 八十島祭は、即位儀礼の一環として挙行される神事で、大嘗祭の翌年に後宮の内侍司の女官が祭使として難波津に下向して生島足島神(大八洲之霊)を祭るものであった。
この神事は五世紀以来の古い即位儀礼の名残で、本来は全国土の国魂を新しい天皇の身体に付着させる呪儀であったらしく、奈良時代には、天皇自身が難波津に赴いて行っていたと推測される(第一巻第四章第四節1参照)。
しかし、史料に残る明らかなものはほとんど平安時代のものである。その初見は『日本文徳天皇実録』にみえる文徳天皇の即位に伴う嘉祥三年(八五〇) 九月のものである。鎌倉時代初めの後堀河天皇の元仁元年 (一二二四)まで行われ、以後廃絶した。この間約四〇〇年近くの間に、史料にみえるものは、二二回を数える。この祭儀は六国史には記載しないのが原則だったようで、その後も『日本三代実録』には記載がない。光孝天皇の場合も、『帝王編年記』に記載されるものである。恐らく記録に残らぬものが多かったに違いない(『新修大阪市史 2』)。
(写真)METで展示されている俵屋宗達「源氏物語関屋澪標図屏風」(ニューヨークビス03/09/2019)=ニューヨーク(撮影・吉田)
御社立ちたまて、所々に逍遥を尽くしたまふ 難波の御祓へ、七瀬によそほしう仕まつる 堀江のわたりを御覧じて 今はた同じ難波なると 御心にもあらで うち誦じたまへるを
御社をご出発になって、あちこちの名所に遊覧なさる。難波のお祓い、七瀬に立派にお勤めになる。堀江のあたりを御覧になって、「今はた同じ難波なる」と、無意識のうちに、ふと朗誦なさったのを(渋谷栄一訳)
住吉詣で偶然に元カノ(明石の上)とニアミスし動揺する源氏(当時29歳)。「今はた同じ難波なる」とは、百人一首にもみえる元良親王(890-943)の歌で、上の句の「わびぬれば今はた同じ難波なる」からとられています。源氏の心中にはもちろん「身をつくしても逢はんとぞ思ふ」という下の句が隠されていることでしょう。さて、かいわいに関係のある箇所といえば、もちろん、「堀江のわたり」。屏風では明石の上の乘る舟が描かれています。
源氏物語の注釈書の一つ『花鳥余情』(一条兼良1472)に「代始に八十嶋祭難波にてあり、典侍の人御衣をもちて参向して解除する事あり これみな難波のはらへの例也」とあり、「七瀬」と「八十島祭」は同じようなものとして扱われています。紫式部の時代の八十島祭は、三条天皇の長和二年(1013)十月、後一条天皇の寛仁元年(1017)十二月が記録に残っています。
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tokyomariegold · 5 months
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2023/9/29〜
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9月29日 朝の通勤で、隣の席の方が、明日からの大阪旅行の時刻を調べてメモしているのをぼーっと眺めていた。朝6時台の電車で玉川上水(!)から東京駅まで出て、そこから新幹線で新大阪へ。目的地は芦屋だった。
いま私が計画している大阪旅行の目的地と同じだったり、わりと実家近くの駅から出発する旅行に、少し親近感。
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今日は午前中出勤するけれど、大好きな服を着て、つらくなること(現場に出たりすること)はしないぞ!デスクワークだけする心意気で出勤すると、廊下から水が流れる音がしていて、?と給湯コーナーを見るとポットに水を溜めるために水栓が開けっぱなしになっていた。 もうすっかりポットから水が溢れて時間が経っていた様で、床が海。 でも今日の私はとても吸水作業ができる仕様ではなかったので、水を止めて、近くを通りかかった上司たちを引き止める様にして、みなさんに雑巾やモップで片づけをさせてしまった。 人力でこの海を処理するのは難しいのでは…と思っていたけれど、みなさんが雑巾で水を吸っては絞るのを繰り返してくれて、あっという間に片付いた。 私はあわあわと見ているだけだった。
午前中だけの業務時間だと、いつもの3倍速のスピード感で仕事をしようとしてしまう。
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午後のチャイムが鳴って走って退勤して、上野へ向かった。 国立科学博物館の企画展“海”を鑑賞。 一期下の方がいただいた招待チケットに便乗させてもらって、海にまつわる展示を見てきた。 平日だけれどひとがとてもおおかった。 子供より大人が多くて、展示の内容も、宇宙から縄文遺跡まで海というか地球と宇宙にまつわるあらゆることが網羅されている展示で色んなことを知れて賢くなった気分。
前回、恐竜展に一緒に行った友人が科博の出口で「鯨好きなんだよね〜」と言っていたのを思い出して撮った展示の鯨の標本(本物って書いてあったから剥製?)の写真を後で送りたい。
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展示を見ながら、そこから思い出されたエピソードをしたり、油壺マリンパークに行ったことがあった話や冬に広島と下関に行く話を聞かせてもらった。 下関はかつて毎年言っていた場所なのでなぜか嬉しくなってしまった。
展示を観て、かっぱ橋方面まで歩いて、いつも帰り一緒にお話ししているけれど、それでも今日もお付き合いしてもらえて嬉しいし助かってしまう。
来週までが締め切りの個人調書に異動希望を示そうかどうか悩んでいる。
今日は中秋の名月。月みてね。
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9月30日 昨日は月がずっと雲に隠れていた気がする。 六本木と表参道へ遊びに出て、帰る電車に乗る時はまだ外が明るかったのにずっと地下鉄を走る電車に乗っていて、地上に出たら真っ暗でしばらくまだ地下なのかと思っていた。
今日も暑かったけれど、日がどんどん短くなって秋になっている。
ネイルをとってもらい、また新しく施してもらってしまった。一回やってもらうと嬉しいけれど、生活の不都合の方が優ってしまったり、一週間くらいで飽きてしまったりするので、帰りの電車でオフだけの予約をした。
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六本木のギャラリーは13時オープンで、着いた時はまだ閉まっていて入り口の扉の前に宅配便が置き配されていた。 残念だな〜と、表参道まで歩く途中、昔好きだった人がとつめていると言っていた出版社の建物の前を通って、そういえば乃木坂で勤めていて青山霊園とか散歩するのが良いです、みたいなことを言っていた。
さらに少し歩いたら、カメヤマキャンドルのお店を見つけ、ふらっと入ってみる。 インターネット見たことがあるワンカップ大関やココアシガレットの面白キャンドルの実物を見て、思わずあずきバーキャンドルを買ってしまった。 あとパチパチ音が鳴るキャンドルも買えた! ネイリストさんに、帰り際にあずきバーキャンドルを見せたら失笑されてしまい少し戸惑っていた気もしたので「なんか最後にごめんなさい」と気づいたら誤っていた。
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友人と待ち合わせして岡本太郎記念館へ。 先週鎌倉で「岡本太郎好きですか?」と誘ってもらっていた。(私はその時、片岡八幡宮や鎌倉の古美術店を眺めながらその質問を聞いていたので、勝手に片岡鶴太郎に変換していた。)
岡本太郎のアトリエ兼住宅を美術館にした建物。 食虫植物や南国系の草が生えるお庭に、所狭しと作品がざわざわと展示されていておどろおどろしかった。 太���の塔の中はかなり良いらしい。マンスーンさんも楽しいって言ってたね。
最近の写真の活動の報告をしながら表参道をふらふらしていたら、先日写真展にも来てくださった先輩とぱったりすれ違う。カメラ好きでとてもおしゃれ(世の中のおしゃれ軸では計れない感じ)。 今日はF値のTシャツを着ていた。
先週カメラのファインダーがとてつもなく汚い(私の手ではどうにもできない範囲)ことを指摘されたこと、忘れていたけれど、今日も改めて友人から言われてちゃんとショックになり、そうだカメラを買おうかなと思っている。
良いフィルムカメラを探す、というタスク(?)に少しわくわくする。
ありがたいことに1冊写真集を買ってくださった方がいたので、梱包材や納品書の準備をしなくては!で、少し忙しい気持ち(写真がガビガビでごめんなさい!)。
現像したかったフィルムを持ってくるのを忘れてしまったので、明日は、何としてでも、現像出したい。気をつけたい。
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yamada50 · 2 years
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戸畑祇園山笠で有名な飛幡八幡宮です 元は戸畑八幡神社でしたが平成7年に戸畑の由来である万葉集に記される飛幡にちなみ現社名に改称しています 後に麻生太郎を輩出する麻生氏の祖、宇都宮重業が鎌倉幕府成立の頃に宇都宮の氏神(多分二荒山神社)を勧請して創建しています なぜ八幡宮なのかは謎です 宇都宮氏といえば宇都宮社(二荒山神社)の社家から武家になった一門です 社務所が閉まるギリギリに参拝に上がりましたが、猫と遊んでたら閉まってしまい御朱印を授かり損ねました まぁ猫がかわいかったからよしとしましょう🐈 #飛幡八幡宮 ⛩┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈⛩ 飛幡八幡宮(とびはたはちまんぐう) 鎮座地:福岡県北九州市戸畑区浅生2丁目2-2 主祭神:神功皇后、応神天皇、須佐之男命、比売大神、道祖神 社格:県社 別表神社 ⛩┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈⛩ #神社 #神社巡り #神社好きな人と繋がりたい #recotrip #御朱印 #御朱印巡り #神社仏閣 #パワースポット #北九州市 #神社巡拝家 (飛幡八幡宮) https://www.instagram.com/p/Ci76oAdPu34/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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tutai-k · 1 year
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旅の記録
12月3日~4日、友人と鎌倉・江ノ島旅行をする。
鎌倉文学館で没後35年特別展、澁澤龍���・高丘親王航海記の展示があったので、鎌倉へ行こうと計画をしていたところ、友人が声をかけてくれて、ひとり旅でなくなった。
ひとり旅だと、どうしても鳥を探したくなって重いカメラを担いで、ワークマンの服を着て出かけることになる。鳥を撮影するようになってから、文化財を巡るような「旅」とは疎遠になっていた。
旅のルートは、 一日目 北鎌倉・浄智寺(澁澤龍彦の菩提寺)―鎌倉・鶴岡八幡宮/大河ドラマ館/鳩サブレーで有名な豊島屋のカフェ「置石」/クルミッコ/桜貝アクセサリー店/鎌倉文学館 二日目 江ノ島(特にどこという予定は決めずに江ノ島とだけ決めていた)
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・北鎌倉 浄智寺 北鎌倉で待ち合わせをした。そのまま浄智寺へ。地図を見なくても、なんとなく歩いて行けばたどり着けた。 人生で一番通っている寺というのは、どう考えても地元の檀家になっている寺だが、そのつぎがたぶん、東大寺だろう。地元の友人とよく奈良へ行くし、奈良は鳥がたくさんいるので、バードウォッチングを始めてからも何かにつけて出かけている。だがその次は?となるとおそらく浄智寺ではないかと思う。 そんなに通っているのに、じつは一度も澁澤龍彦の墓にたどり着いたことがない。浄智寺は、拝観料が必要な文化財としての寺だけれど、檀家もいて、お墓があるのだ。それはつまり、地元のひとびとの暮らしと地続きの場所で、そこを、ただ澁澤龍彦のファンであるというだけの自分が「墓参りに来ました」と言っていいものか、というのをずっと迷っていて、聞けずにいて、見つけることができなかったのだ。 だが今回、どうしても澁澤に報告したいことができたので、澁澤の墓前に立ちたかった。寺の受付のひとに聞くと、わかりづらい場所にある、と言いながら親切に教えてくれた。いままでたどり着くことのできなかった墓前にたどりついて、いろんな報告をした。 澁澤にしてみれば赤の他人が急に墓にやってきて、あなたのファンです、やっとここまで私の人生がたどり着きました、なんて報告をされても知ったことではないだろうと思ったが、人生の一つの区切りとして訪れることができてよかった。矢川澄子は岩波の校正員時代に、龍子さんは芸術新潮の編集者のときに、澁澤と出会っている。 御朱印をもらって帰るとき、そのふたつ前のページが、以前訪れたときの浄智寺のものだった。文化財から足が遠のいている自分を発見してすこし苦々しく思う。
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・鶴岡八幡宮/大河ドラマ館 カモメが群れになって飛んでいた。七五三の子供がたくさんあるいていて、成人式の前撮りの人たちもいた。 今期の大河ドラマを見ていないのでついていけるかどうか不安だったが、楽しそうにする友人を見ているだけで楽しかった。映像資料やジオラマ、体験コーナーなど、ドラマを見ていない人間でも楽しめた。舞台セットの時代考証の映像がとてもよかった。 ハトがたくさん歩いている。
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・クルミッコ/置石/桜貝のアクセサリー店 前回鎌倉旅行をするときに、地元の友人に「クルミッコ」というお菓子がおいしいと教えてもらった。そのときはお昼過ぎに店舗に立ち寄ったのだが、行列ができていてなかなかお店に入れなかった。「並ぶんだよ~」と言いながらお店にいくと、列ができていない…。もうクルミッコブームは終わったのか? とお店に入ると……クルミッコ、売り切れていた。まだおひるすぎだというのに。 置石へむかう。エクレアサンドとチョコレートパフェをたのむ。紅茶がとてもおいしいと友人が教えてくれたのでそれも注文する。紅茶はとてもおいしかった。そして……チョコレートパフェ、800円という金額なのにとても巨大だった。エクレアサンドを食べたあとに食べるサイズではなかった。ふつう、コーンフレークがいるところにおそらくは粉砕されたハトサブレが陣取っていて、それがとてもおいしかった。巨大だったが、おいしかったのでつるっと食べられた。 その後、桜貝のアクセサリー店へ行くまでに、鳩サブレー本店にたちよる。鳩サブレーグッズを買う。ここも行列。宿で食べるおやつに矢口餅を買う。大河ドラマに登場した餅らしい。何も知らずに求肥に釣られて買った。 桜貝のアクセサリー店も長蛇の列だった。列に並んでいるあいだ、「桜貝ってわれわれでも拾えるのかな」「由比ヶ浜にいくから打ち上げられてないかな」などと話をしていたら、前に並んでいた人が、「六時半くらいに行くと拾えますよ」と拾った桜貝の写真を見せてくれる。早起きして桜貝探しをすることを誓い合う。 どれもかわいくて迷いに迷って、桜貝のヘアピンを買う。
・鎌倉文学館 鶴岡八幡宮の門前町を楽しみすぎて、文学館が16:30閉館なのにたどり着いたのは16:00だった。高丘親王航海記の展示を見る。こぢんまりとした展示だったし、見たかったのは創作メモだけだったので、そこだけ重点的にみる。三島の影響を感じる部分などある。 リスが木を歩いていた。鎌倉にはたくさんリスがいると警備員さんに教えてもらう。宿までの道すじでもリスがいて、うんこされる。
二泊目
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・由比ヶ浜 約束通り6時に起きられたので、6時半に由比ヶ浜に到着する。もうサーファーが海にたくさん入っていておどろく。 桜貝を探す。海で貝を探すときは、一点を見ない方がいい。とはいえ、タカラガイを探すことは得意でも、桜貝用の「目」ではない。一つ目を探すのに苦労する。それでも一つ見つけると目が慣れてぽつ、ぽつと見つけられる。メダカラを一つだけみつけるが、擦れていたので拾わずおいてゆく。桜貝に孔をあけるツメタガイも打ち上げられている。 「朝日曇っているから見えないのかなあ」と言っていたら、背後の山のほうから日が昇る。朝日はいつでも海からのぼると思っていたが、そうでもないらしい。
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・江ノ島 江ノ島へ行く前に、クルミッコへもう一度。開店直後にお店に到着したのに、お店のかげまで行列ができていておどろく。ほしかったカンカン入りのクルミッコが買えたので満足する。 江ノ電に載り江ノ島へ。 江ノ島までの道にたくさんお店が並んでいる。家族には「わざわざ江ノ島まで行ってしらすを食べなくても地元で食べればいいじゃないか」と言われながら出かけたのだが、しらすピザは地元にはない。絶対しらすピザをたべたいと言い続ける。 弁天橋から鳥を見る。見たことのない鳥だったのでコンデヂだったが撮影する。帰ってから調べるとカツオドリで、どうして重いからという理由でミラーレス×超望遠を置いてきたのかと後悔する。 江ノ島神社への参道には、貝を売る店がおおくある。夜光貝やナンヨウダカラを見てはほしいほしいと騒ぐ。 江島神社へ到着する。弁財天をまつる神社もある。わたしは弁財天を見つけると必ずお参りするようにしている。弁財天は芸能の神様なので、小説の上達を必ず祈ることにしているのだ。弁財天のお守りももらう。新しい仕事の鞄につけようと思っている。 山頂まではエスカーにのる。エスカー、ケーブルカーのようなものだと思っていたらエスカレーターだった。だからエスカーか……。 参道で行列ができていたタコせんべいのお店が山頂にもある。そこも行列ができていたが、参道ほどではない。生のタコをまるまる一匹、プレスして作るせんべいは、タコをおしつぶすとき、悲鳴が聞こえる。あつあつのを、トンビに狙われながらたべる。 シーキャンドルという展望塔に向かう途中、鳥のような鳥じゃないような鳴き声が聞こえる。近づいていくとリスだった。至近距離でも逃げない。奈良の鹿のように、鎌倉にはリスが多い。クルミッコにリスが描かれていることに納得する。 シーキャンドルにのぼる。眺めがよく、ずっと見ていられそう。富士山がとても近い。わたしたちの住んでいるところでは、富士山は条件のいい冬にしか見られないが、関東では天気がよければそうめずらしくないらしい。 念願のしらすピザをたべる。めちゃくちゃ大きい。鎌倉野菜としらすのピザだった。とにかく大きい。おなかがいっぱいになりながらそれでもおいしいので完食する。はじめてクリームソーダを食べる。おいしかった。窓からは湘南の海だろうか、海と富士山が見える。SUPのひとたちがときどき通り過ぎてゆく。
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電車に乗り、友人と別れる。 先週の横浜行きでは売り切れていた崎陽軒のシウマイ弁当を食べる気満々でいたものの、しらすピザが大きすぎて全然おなかがすいていなかった。崎陽軒のチャーハン弁当(シウマイが2コ入っている)と、真空パックじゃない方のシウマイを買う。新幹線で食べるつもりだったが全然おなかがすかなくて、帰りの近鉄電車で食べた。おいしかった。
コロナ禍に入ってからバードウォッチングをはじめ、神社仏閣をまわったり、博物館へ行ったり、素敵なカフェやお土産を探したり、観光地をぶらぶら歩く旅から遠ざかっていたので、今回の旅ではそれができたことがとてもうれしかった。 いつのまにか、旅=探鳥になっていたけれど、こういう旅を好んでしていたなあ……旅といえば、博物館や美術館を探し、神社仏閣を巡っていたのは、つい二、三年まえのこと。それなのに、なんだかはじめての旅をしたような心地だった。
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kennak · 11 months
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実は昔とは変わっている教科書の内容や表記をまとめました。詳しくは... 西暦1192年⇒西暦1185年 これは何をもって鎌倉幕府成立とするかの議論があるためです。時系列で見てみると、 1180年 源頼朝が鎌倉に侍所を設置。 1183年 朝廷が頼朝による東国支配権を公認。 1185年 壇ノ浦の戦いで平氏を滅亡し、全国に守護と地頭を設置。 1192年 頼朝が征夷大将軍に任命。 こう見ると解釈次第でどこでも鎌倉幕府成立と見なすことができます。実際、1180年説や1183年説もあります。現在は実質的な支配権を得て、朝廷から頼朝に権力が移行した1185年が学者の中で最有力であるため、1185年となっています。しかし、これもまた今後変わる可能性はあります。 聖徳太子⇒厩戸王 厩戸王が実名であり、聖徳太子は死後100年以上経ってから後世の人がつけた名前とされるためです。また、教科書からは肖像画も消え、聖徳太子が行ったとされる内容の扱いも薄くなっています。 元寇⇒蒙古襲来 元寇という表現は江戸時代末期に定着したものであるそうで、当時はモンゴルのことを蒙古と呼んでいたためそれを踏襲する形となっています。 踏絵⇒絵踏 表現方法が昔のままだとおかしくないかと議題に挙がり変更となりました。踏ませる行為は「絵踏」であり、踏まれる絵が「踏絵」であるとするもので、確かにその方がスッキリしますよね。現在はそれぞれを区別して掲載されています。 和同開珎⇒富本銭 1999年に奈良・飛鳥京跡で日本最古とみられる貨幣が発見されたためです。和同開珎は708年に発行されたもので、富本銭は683年頃に発行されたものとされています。 鎖国⇒いわゆる鎖国 現在では断定的な表現は避けられています。なぜなら当時は長崎・薩摩・対馬・松前で海外と通じていたからです。 リンカーン⇒リンカン マゼラン⇒マガリャンイス 現在ではどちらもよりネイティブの発音に近い表記に統一されています。 アウストラロピテクス⇒サヘラントロプス・チャデンシス アウストラロピテクスは約250万年前 アルディピテクス・ラミダスは約440万年前 サヘラントロプス・チャデンシスは約700万年前 考古学の進歩により人類の歴史は450万年も実は遡っているのです。今後もまたしかり。 リアス式海岸⇒リアス海岸 リアスとは元々スペイン語で「入り江」を意味する"ria"の複数形です。��の意味なら「式」の1文字必要ないのでは?となり削除されました。 四大工業地帯⇒三大工業地帯 かつては工業の盛んなエリアは京浜、中京、阪神、北九州の4つを指していましたが、1980年代以降北九州の生産高が現象したため、北九州は外されました。 9個⇒8個 太陽系の惑星は以前は、水星、金星、地球、火星、木星、土星、天王星、海王星、冥王星でしたが、2006年に惑星の新定義が決まり冥王星が外されました。その定義は、 ①太陽の周りを回っていること ②十分重く、重力が強いため丸い形であること ③まわりに同じような大きさの天体が存在しないこと 冥王星は③に引っかかり、準惑星となりました。 l⇒L エルの小文字「l」が数字の「1」と紛らわしいため、大文字に変更となりました。 『奥の細道』⇒『おくのほそ道』 原文の表紙には松尾芭蕉の自筆で「おくのほそ道」と書かれているため、これを正式な表記としました。 My name is...⇒ I am ... 「I am...」の方がカジュアルな場面でよく使われるためです。「My name is...」は仕事のプレゼンや明説、スピーチなどフォーマルな場面でよく使用されます。 こんな多くの人が知らない言葉の知識なども日々Twitterで発信しています。フォローで応援してもらえると励みになります。今の固定ツイも是非チェックしてみてください。
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minatokucarpet · 1 year
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emurim · 1 year
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ここまでのドラマがある曲はそうそうないだろうな。
渡邊はま子/宇都美清 - あゝモンテンルパの夜は更けて(1952)
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あゝモンテンルパの夜は更けて - Wikipedia
"1952年(昭和27年)1月、歌手の渡辺はま子は、来日したフィリピンの国会議員ピオ・デュランから衝撃的な事実を知らされた。同国モンテンルパ市のニュー・ビリビッド刑務所には、多数の元日本軍兵士が収監されており、すでに14人が処刑されたと聞かされた。第二次世界大戦後7年も経つのに、なお刑を受刑し続け、中には死刑を待つだけの人達も居ると聞いた彼女は、銀座の鳩居堂から香を同刑務所宛に送った[1]。
1952年6月、神奈川県鎌倉市にあった渡辺はま子の自宅に、一通の封書が届けられた。その封書の中には、楽譜と短い手紙が入っており、その楽譜の題名には「モンテンルパの歌」作詞代田銀太郎、作曲伊藤正康と書いてあった。代田は、元フィリピン憲兵隊少尉。伊藤は、元大日本帝国陸軍将校。二人はニュー・ビリビッド刑務所で、戦争犯罪者としてマニラ軍事裁判で死刑判決を受けていた人物であった。「モンテンルパの歌」は、刑務所で収容されていた日本人111名の、日本への望郷の念を込めた曲であった[2]。
封書を受け取った渡辺は、早速歌をビクターレコードに持ち込み、ほとんど修正無しで吹き込んだ。題名には色を付けられ『あゝモンテンルパの夜は更けて』と名付けられた[3]。
渡辺と宇都美が歌った『あゝモンテンルパの夜は更けて』のレコードは、20万枚を売り上げたヒット曲となった[4]。
『あゝモンテンルパの夜は更けて』が大ヒットしていた1952年(昭和27年)12月25日、渡辺はニュー・ビリビッド刑務所を訪れた。吹き込み以来、刑務所慰問の決意を固めていた渡辺が、国交が無いフィリピン政府に対し、戦犯慰問の渡航を嘆願し続けて半年後の事だった[5]。渡辺来訪時、代田銀太郎と伊藤正康は開演前に対面し、歌を作ってもらった事に対し礼を述べた。
慰問のステージは、ドレス姿の渡辺が「蘇州夜曲」などの往年のヒット曲を歌い、ステージ終盤に『あゝモンテンルパの夜は更けて』は披露された。この曲を聞いた108名の収容者は、死刑が執行された戦犯たちの事を想い、またある者は日本への望郷の想いを胸に、皆感極まって涙し、最後には全員起立しての大合唱となった。作詞者の代田も、作曲者の伊藤も涙を流していた[6]。
その後、この歌のヒットや渡辺はま子を始め、加賀尾秀忍ら関係者の努力が、当時のフィリピン政府当局を動かし、1953年(昭和28年)7月、すでに同曲をおさめたオルゴールを加賀尾から贈られていたフィリピン共和国大統領エルピディオ・キリノの独立記念日特赦によって、戦争犯罪者108名全員の日本への帰国が計られ、実現した。"
考えてみるとヒットした成り行き以外のドラマがある曲自体そんなに思いつかない。相当ヒットしても中々社会に影響及ぼすレベルまではいかない。
50年代くらいになると時代が持つ感性も随分違うように思える。
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tenshitsukinuke · 18 days
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てん し つき ぬけ
👼 「 天 使 突 抜 」 ⛩️
にまつわる話し… 📝
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📝「 天 使 突 抜 」 の由来 -----
「天使」と言えば、羽根の生えたかわいい神の使いのエンジェル を想像してしまいますが、︎ この「天使突抜」の 天使 はそんなロマンチックな話しではなく、日本の歴史的な話しになりますーーー それは、牛若丸(源義経)と武蔵坊弁慶が、平安時代末期 1176(安元2)年に出会った京都のとある神社 → 平安遷都 の 794(延暦13)年に創社の 『 天使の宮 』 = 『 五條天神宮(ごじょうてんしんぐう) 』の 由緒ある歴史的な名前から きています〜!?
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--- 目 次 ---
(1)端的に 「天使突抜」の 要 約
(2)詳しい 「天使突抜」の 解 説
2-1)五條天神宮 と 少彦名命(すくなひこなのみこと)
2-2)豊臣秀吉 の 京都都市大改造
2-3) 天正の地割 の 町割変更 による 縦割り通りの新設
2-4) 天正の地割 による 「天使突抜」 の誕生
(3) ✍️オマケ📝【天正地割の副産物「路地」】
(4)📝参考までに--- 建物疎開、京都の空襲
4-1)建物疎開 の犠牲による 道路幅拡張 の歴史
4-2)京都の空襲 と 原爆投下候補地
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(1)端的に 「天使突抜」の 要 約
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✍️端的に『天使突抜(てんしつきぬけ)』を説明すると、次の① ② ③ になりますーーー
① 『 天 使 』 →
「天使の宮(五條天神宮)」を指す。
その「天使」とは、主祭神:「少彦名命(すくなひこなのみこと、すくなびこなのみこと) 」 の 別名・通称名。
〒600-8459 京都市下京区松原通西洞院西入ル天神前町351番地 に鎮座する、794年 平安遷都時に創社した洛中古参の神社。なお、当時の「五條通」は、現在の「松原通」。
また 中世以来、度々火災に遭い規模の縮小を余儀なくされ、現在の社���は近時の再建で、1888(明治21)年に今の 幣殿 を再建、 1933(昭和8)年10月に本殿をはじめとした各建造物を改築し、現在に到ります。
② 『 突 抜 』 →
近世(安土桃山〜江戸時代)の京都市中の道路形態の一種。大路や小路の間に新しく通した南北の道路で、あいだに寺社や邸宅などがあって分断されるものを言う。
③ 『 天 使 突 抜 』 ▶︎▶︎▶︎
時は、16世紀末 安土桃山時代…豊臣秀吉が実施した 京都都市大改造事業の一環で、正方形街区を南北縦割りの短冊形=長方形街区に分断して、新たに通りを増やす「��正の地割(てんしょうのじわり)」政策により、「天使の宮」の当時 広大な境内の真ん中を分断して、南北を通る道「天使突抜通(現:東中筋通)」を新しく建設し、その辺りの町名を「天使突抜○町目」としたことによる。
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(2)詳しい 「天使突抜」の 解 説
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✍️ もう少し詳しく知りたい方や興味のある方は、少々長くなりますが、以下の説明をご覧くださいーーー
⏱️ 時はさかのぼり〜平安遷都の西暦794年に始まり、16世紀末 豊臣秀吉の安土桃山時代の頃になります。
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2-1) 五條天神宮 と 少彦名命(すくなひこなのみこと)
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「五條天神宮」は、794(延暦13)年の平安京遷都の際に桓武天皇の命により、弘法大師・空海によってこの地に 大和国宇陀郡(奈良県)から 天神(あまつかみ)を勧請(かんじょう)されたと伝わる洛中最古社。創建当初から「天使の宮」や「天使社」とよばれ、鎌倉時代初期に「五條天神宮」に改められました。
「五條天神宮」のご祭神は、次の3柱です。
①主祭神:「少彦名命(すくなひこなのみこと、すくなびこなのみこと)」
②配祀神(はいししん):「大己貴命(おおなむちのみこと)」 = 「大国主命(おおくにぬしのみこと)」
③配祀神:「天照皇大神(あまてらすすめおおみかみ)」 = 「天照大御神(あまてらすおおみかみ)」
農耕、病気退散の神、疫神、厄除け、医道の祖神、医薬、禁厭(きんようorきんえん、まじないの意)の神様として、古くから広く崇敬されてきました。
ちなみに、神話をもとにして、我が国の「薬祖神」として崇められているのは、「少彦名命(すくなひこなのみこと、少名毘古那など11通りの書き方がある) 」と 「大己貴命(おおなむちのみこと、大国主命など合わせて6つぐらいの異名がある)」である。二神が力を合わせて国を治め、人々や家畜の病気の治療法を定め、獣や昆虫の害をはらうまじないを教えたと言われています。
👉 3柱あるご祭神の内の主祭神である「少彦名命」の異名である「天子」の呼称は、当時は 神の子孫であるとした天皇 を示す言葉で 混同しないようにと配慮されて、神の使いを表す『天使』に呼び名を言い換え、創建当初から「天子の宮」ではなく「天使の宮」または「天使社」と呼ばれ、その近辺の住人達からは「お天使さま」とも呼ばれていたようです。
👉 ちなみに、794年「天使の宮」創建のほぼ半世紀後に生誕された「菅原道真(845〜903)」 の霊を祀った天神(てんじん)とは別モノですが、本殿の背後にある境内社の中に 菅原道真 を祀る「筑紫天満宮」(洛陽天満宮二十五社順拝 第3番)と、菅原道真と縁の深い ご祭神:十川能福(そごうのうふく)の「福部(ふくべ)」神社 及び ご祭神:渡会春彦(わたらい はるひこ)の「白太夫(しらだゆう)」神社が鎮座しています。
それは、北東方角100m強程の離れた 西洞院通仏光寺 菅大臣町に位置する、菅原道真 の生誕地「菅大臣神社」(洛陽天満宮二十五社順拝 第1番、菅公御霊地三社)が鎮座していることと、関係しているのかも知れません。
平安時代後期の 久寿年間(1154-1156)には「祇園社(現在の京都市東山区にある 八坂神社の旧称)」の末社でしたが、その後 平安から鎌倉時代初期に天皇家の支配下になり、少なくとも南北朝時代の1390年に再び「祇園社」の末社に戻ったといわれています。
👉 鎌倉時代初期の第82代・後鳥羽天皇(在位: 1183-1198)の支配下にあった「天使の宮」は、「五條天神宮」と改められました。
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👉 なお、清水寺への参詣道としてもにぎわった「五條大路(五條通)」は、豊臣秀吉の京都大改造までの呼称で、以降は「松原通」と呼ばれるようになり 今に至ります。
源義経(1159-1189)とその主従を中心に書いた作者不詳の軍記物語『義経記(ぎけいき)』によると、平安時代末期の 1176(安元2)年6月に 源義経(牛若丸)が 武蔵坊弁慶(?-1189)と出会った場所として描かれています。
それに取材した 謡曲「橋弁慶」でも弁慶は五條天神に丑の刻参りに訪れた際に五條大橋に現れる牛若丸の存在を聞いて橋へと向かったとされ、また その様子は京都では有名な「祇園祭・後祭」の「くじ取らず」の山鉾巡行 一基目の「橋弁慶山」でも描かれ、おなじみの光景となっています。
👉 当時「天使の宮」の東側を通る 西洞院通(旧:西洞院大路)には「西洞院川」が流れていました。牛若丸と弁慶の立合いがあったのは、天使の宮から約1.2km離れた五條大橋(現:松原橋)ではなく、この西洞院川に架かっていた橋という伝承もあり、確証はありませんが、この説の方が自然なのではと思われます……
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2-2) 豊臣秀吉 の 京都都市大改造
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✍️ それから 時は16世紀末の 豊臣秀吉 の安土桃山時代にワープしますーーー
1582(天正10)年に 明智光秀 が謀反を起こし、京都 本能寺に滞在する主君・織田信長を襲撃した「本能寺の変」後、羽柴秀吉はいち早く行動をおこし、戦国の騒乱に終止符を打ちました。
秀吉は、1585(天正13)年に関白職を 受け、1586(天正14)年に豊臣の氏を賜り太政大臣に就任し、政権を確立すると同時に、戦国時代からの荒廃した京都の町の復興のため、かつての平安京の「条坊制」の特長を残しつつ、京都の地形並びに治水対策、商業を含めた街の活性化・繁栄のための街区の町割区画整備 等を考えた綿密な計画のもとに、下記の主な①から⑤の京都大改造の事業に取りかかり敢行しました。
👉 これにより 現在の京都の基盤を築きあげ、今日の京都を形づくったのは、天下人となった 豊臣秀吉 だったのてす。
① 「聚楽第(じゅらくだい、じゅらくてい)」の造営を 1586(天正14)年 に開始し、その周辺に「大名屋敷町」を建設しました。
② 「御所の修築」を 1589(天正17)年 から行い、その周辺に「公家屋敷町」を配置しました。
③ 「寺町・寺之内」の「寺院街」を 1590(天正18)年 に造成して、主に「寺町通」沿いおよび「寺之内通」沿いに寺院を「京中屋敷替え」と呼ばれた強制移転を強行し 集中させました。
④ 「天正の地割(てんしょうのじわり)」を1590(天正18)年から翌年にかけて敢行。平安京からの「条坊制」による 正方形街区=碁盤の目の区画を、要所要所で 縦=南北 に短冊形に割って 長方形街区にして 区画及び通りを増やし、街区の町割区画を整備・再編成。
この時の町割の変更に伴う新たな通りの建設事業が、「天使突抜」という地名ができるきっかけとなります。詳しくは、後述します。
⑤ 「御土居(おどい)」を 1591(天正19)年に、外敵の襲来に備える 防塁 と 川の氾濫から街を守る 堤防 として、京都の周囲を丸ごと取り囲む土塀を、防御施設=総構として張り巡らせました。その範囲は、北は上賀茂から鷹ヶ峰、西は紙屋川から東寺の西辺、南は東寺南側の九条通、東は鴨川西側の河原町通まで、南北約8.5km、東西約3.5km、総延長は 約22.5kmにも及びます。
この御土居によって、京都市中を意味する「洛中」と、外部である「洛外」が明確化されました。そして 御土居には「京の七口」と呼ばれる関所となる出入り口がつくられ、これによって京都に入ってくる人間をチェックするようになりました。
---関白になった豊臣秀吉は、京都を実質的に支配し、応仁の乱等で大半が焼失し荒廃した京都を大規模な都市改造政策をもって復興させ、①から⑤等の多くの都市改造の大事業を敢行し、聚楽第の建造や街区の町割区画整備 等の施策を中心に 洛中の周囲を土塁で囲まれ、容易に攻略できない巨大な城郭(城塞)都市に生まれ変わったのです。
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2-3) 天正の地割 の 町割変更 による 縦割り通りの新設
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✍️ 「天使突抜」の名前由来の話しに到達する前に、もう少し関連する歴史的な話しが続きます--- それでは、1590 (天正18)年 の ④「天正の地割(てんしょうのじわり)」 の話しになりますーーー
室町時代後期から力を付けてきた京都の商人は、「通りに面した向かい合わせた両側」のコミュニティを1つの町(ちょう)と考える「両側町」と呼ばれるグループを構成し、一体感を背景としたにぎわいをみせるようになっていました。
それまでの平安京からの「条坊制」による 正方形街区の場合、1区画が約120m四方の正方形のブロックの四辺に住居や商店が建てられ、中央部分が空き地になることが多く、農地として利用されたり 空き地になったりして、無駄な土地が多いという欠点がありました。そして、当時は「間口税」という 間口の幅=道路に面した建物の正面の幅 の広さによって税金の額が決められていたので、碁盤の目のような正方形街区を2つに分けて長方形にして面を増やせば、税収とは無関係だった中央の空き地部分にも商店や住宅が建てられ、より多くの間口税を徴収することができるようになります。
そこに秀吉は着目し、京都の復興には「商業の発展」が不可欠との確信から、町割と通りを増やして 街や商業の活性化 及び それに伴う「間口税」の税収増を目指し、平安京からの「条坊制」による 正方形街区=碁盤の目の区画を、要所要所で 縦=南北 に短冊形に割って 長方形街区にして 区画 及び 通り を増やし、町割を大きく変更する「天正の地割」を敢行しました。これにより、京の街路は南北120m、東西60m間隔で長方形状に区画されることとなり、現在に至っています。
新設された南北の通りの 東は 寺町通 から西は 大宮通 にかけてで、北端は 丸太町通 から南端は 五条通 付近となっているものが多く、後に延長されたものも多いとされています。
新設された南北の通り名を 東から順に次に記しますが、「 --- 」で続けて記した通り名は、道の途中で一旦中断して 数町(丁)進んだところで 南北の道が再び始まる同一直線上にある通りのことになります。
① 御幸町通(ごこまちどおり)、② 富小路通(とみのこうじどおり) ………平安京の 富小路通 は現在の 麸屋町通(ふやちょうどおり) にあたる、③ 堺町通(さかいまちどおり)、④ 間之町通(あいのまちどおり)、⑤ 車屋町通(くるまやちょうどおり) --- 不明門通(あけずどおり)、⑥ 両替町通(りょうがえまちどおり) --- 諏訪町通(すわんちょうどおり)、⑦ 衣棚通(ころものたなどおり) --- 小田原町通(おだわらまちどおり)、⑧ 釜座通(かまんざどおり) --- 若宮通(わかみやどおり)、⑨ 小川通(おがわどおり) --- 東中筋通(天使突抜通)、⑩ 醒ヶ井通(さめがいどおり)、 ……… 他、合計: 12 通りで、現在も京都市の市街地を支える重要な通りとなっています。
また、四条烏丸 を中心とする一帯(下京の中心部)は、天正地割以前から十分に市街地が発達していたため、通りの新設は行なわれなかったので、この地域では平安京以来の正方形の区画が残っています。
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2-4) 天正の地割 による 天使突抜 の誕生
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👉 そのうちの一つとして、五條通(現在の 松原通)にある 天使の宮・天使社 とも呼ばれた「五條天神宮(ごじょうてんしんぐう)」の 広大な鎮守の森= 「天使の杜(もり)」を、南北に貫通するかたちで街路を分断し、その「天使の宮を突き抜けて作られた道」を「天使突抜通(てんしつきぬけどおり、現在の 東中筋通)」、その道に沿った 両側町 の町名(ちょうめい)を「天使突抜○町目」と呼ぶようになりました。その後、太平洋戦争終戦以降は「天使突抜○丁目」に変わったようです。
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ちなみに、「突抜(つきぬけ)」 とは、近世(安土桃山〜江戸時代)の京都市中の道路の一種。大路や小路の間に新しく通した南北の道路で、あいだに寺社や邸宅などがあって分断されるものを言います。
かつての 「天使突抜通」は、現在では名称が変わり「東中筋通(ひがしなかすじどおり)」と呼ばれ、西洞院通(旧:西洞院大路)と 油小路通(あぶらのこうじどおり、旧:油小路)の間に位置します。
北は 仏光寺通(ぶっこうじどおり、旧:五条坊門小路)から、南は 木津屋橋通(きづやばしどおり、旧:塩小路)までの下京区を南北に貫通する細い小路(こうじ、しょうじ)です。
👉 東中筋通(旧:天使突抜通)に沿っての両側町で 天使突抜の町名 として名付けられ、
①松原通(まつばらどおり)の少し南から 万寿寺通(まんじゅじどおり)までの 天使突抜一町目、
②五条通までの 天使突抜二町目 があり、
③五条通より南へ楊梅通(ようばいどおり)までの 天使突抜三町目、
④六条通(ろくじょうどおり)までの 天使突抜四町目 があります。
京都市のほとんどの 町名 は 末字(まつじ)に「町」がついて「○○町」と呼びますが、「天使突抜○丁目」は末字に「町」がつかない町名になります。ただ、その町内住人は 例えば 私の住んでいる「天使突抜二丁目」では、そのままでは少々長いので 普段は略して「天二町」と呼んだり書いたりしています。
🤟これは表に出てこない裏話ですがーーー天二町内の 今は亡き 昭和1桁生まれの長老のT氏から以前に聞いた話し ー→ 「昔は、五條天神宮= 天使の宮 =天使社 の坊さん達 が、南方面にある遊郭へ 買春しに行く時に 通り抜けていった=天使社の坊主が突き抜けていった から、天使突抜 と呼ぶんや〜」…とその辺りの住民達が揶揄して、天使突抜 の名前が 親しまれてきた経由があったと、その長老T氏 も 同じように町内の長老からそのように聞かされてきたとのことでした…🤭💁‍♂️🤦‍♂️👻
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( 注📝 現在の「堀川通」や「五条通」や「高辻通」は、太平洋戦争時の空襲被害に備えるための 防空空地や消防空地 設営の「建物強制疎開」により、終戦年の1945(昭和20)年前半に道路幅がそれぞれ拡張されています。また、その時の「堀川通」の道路幅拡張により、五条通以南の「醒ヶ井通(さめがいどおり)」は消失し、オマケに「京の三名水」の一つの「左女牛井、醒ヶ井(さめがい)」の円井戸も消失してしまいました。)
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(3) ✍️オマケ📝【天正地割の副産物「路地」】
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✍️ 【 天正地割 の副産物 「路 地」 】
西暦794年の平安遷都では、中国の都:長安をモチーフに、街区の町割りを「条坊制」が採用されました。大内裏(平安宮)と羅城門を結ぶ朱雀大路を南北に通し、そこを境として左京・右京を配置。東西南北に、大路(おおじ)・小路(しょうじ、こうじ)と呼ばれる通りを張り巡らせることで、碁盤の目のように 縦横の一辺が一丁・一町(約109m、道路幅含まず)の 大きなほぼ正方形街区に区分けされた町並みが生まれ、通りに囲まれた区画の中心部に入るために作られた道が、「辻(つじ)」や「辻子・図子(ずし)」や「路地(ろーじ、ろうじ、ろじ)」=「露地・露路」です。
更に、1590 (天正18)年 から翌年にかけての「天正地割」によって南北を通る小路が増え、そして 建物と建物の間を通る「辻」や「辻子(図子)」や「路地」=「露地・露路」と言われる 普通の小路より更に細い=狭い 道幅の通り道が たくさん増えました。
通り(大路、小路)をつないで家(建物)と家(建物)の間を通り抜けられる=突き抜けられる 狭い道を「辻」や「辻子(図子)」と呼び、袋小路(行き止まり)になった通りの道を「路地」と呼んで区別することがあるようですが、辻・辻子(図子)も含めて 路地 と総称するため、明確な区別はないともいわれています。
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もともと「辻」は、十字状の道を表す「十字」という言葉に由来して作られた字で、次第に細い通りを「辻子」「図子」と表すようになったとのことです。
「路地(ろーじ)」には、「コ」の字型や「L」字型になっていて、入り口とは違うところに通じているものや、路地の入口に面した通りとは反対側の通りへ出る通り抜けられる路地もあります。
1949(昭和24)年生まれの私の幼少時に住んでいた京都市下京区有隣学区内では、当時の大人の人達や私も含めて、コの字型やL字型等の曲がって通り抜けられる路地のことを「抜け路地(ぬけろーじ)」と呼んだりしていましたが、辻子(図子)という言葉は 最近まで聞いたことがなく、古稀過ぎてから 京都通 などのサイトに出てくるネット検索で知った言葉です。今住んでいる天使突抜町でも 誰もその言葉は使わないし、耳にしたことはありません。その類いの道は、「路地(ろーじ) 」や「抜け路地(ぬけろーじ)」とか「 辻 」と呼んでいます。ただ それは、私が住んできた限定的な地域的な特徴かも知れませんが……
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 「路地」というのは、その路地の中にある家に訪れるために通る道としての通路のようなものなので、一般の小路を通る場合とは少し異なり、閉鎖的で私道的な雰囲気もあることから、無用の者が立ち入るのはちょっと躊躇もしくは気が引ける感じになりがちです。なかには、路地の入口にそこの住人の「集合表札」が掲げられていたり、「無用の者の立ち入りはお断り」というような注意書きが路地の入口に張られている場合もあったりします。
ところで、私の個人的見解での 小路と路地の違いは、端から端までの全ての道路が、 車(自動車)が通れる幅があるかないのか、及び 車が通れるように地面が整備されているかいないかの差ではと、勝手に解釈して区別していますけど……
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(4) 📝参考までに--- 建物疎開、京都の空襲
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4-1)建物疎開 の犠牲による 道路幅拡張 の歴史
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今は 五条通や堀川通や御池通など京都市の 大幹線道路として広い道幅になっていますが、これは「太平洋戦争」時の米軍の無差別爆撃の空襲による火災の延焼防止 の対応策として 防火地帯(空地) 等を設けるため、それまでは他の道路と同じような細い道幅だった通りの道路沿いに佇んでいる家屋を、戦争の名の下に 有無を言わさず「取り壊し=建物疎開=家屋等の強制撤去」が無惨にも遂行され、道路幅を拡張させられたことによります。
京都府 約2万戸、京都市 で1万世帯以上が 1944(昭和19)年から翌年の1945(昭和20)年 終戦時までに、建物疎開が 第1次~第4次までに分けて 以下の内容で強行され、無惨にも建物強制疎開で拡張されたことを、特に京都市民は 決して忘れないようにしたいものです🙏
 1、『 防空空地帯 』・・・防火帯、緊急避難路、防空活動道路としての利用を目的に、50〜100メートル幅で指定。京都駅周辺、堀川通、御池通、五条通。
 2、『 防空空地 』
イ、「 交通疎開空地 」……交通要地の防護が目的。京阪三条駅周辺、四条大宮交差点、梅小路駅周辺など。
ロ、「 消防空地 」……消防活動用の道路拡幅。智恵光院通、七本松通、高辻通など。
ハ、「 疎開小空地 」……軍需工場、役所、変電所、病院等の周辺を空地にしてそれらの施設を防護。
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4-2)京都の空襲 と 原爆投下候補地
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京都は、太平洋戦争時の 米軍による 当初原爆投下候補地の第3の原爆投下予定地だったようで、威力を分かりやすくするために、京都市内の空襲を5回程度の散発的に爆撃を控えた…とされています。その空襲は、終戦年の1945年1月から6月にわたって5回の空襲(馬町空襲、西陣出水空襲 他)を受けて 約100名程の死者が出ています🙏
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shokobekki · 1 month
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【日記】
車窓から不二見。久々。 やや日が過ぎたけども先週末、神奈川県立近代美術館の水沢勉館長が退任されると知り、最終講義を聴きに行った。気になっていた企画展「芥川龍之介と美の世界」(〜4/7)に併せて。ご在職46年中、私が交流��ただいたのは最後のほんの数年。でも、作品に真剣に向き合ってくださり、時にさりげなく楔のような言葉を頂き、とてもお世話に(は変だな)励みに、刺激になったから。やや急で、とんぼ返りしかできないけども、Tさんが、快く車を出してくれた。よき一日だった。
講演テーマは「三角世界へのいざない」 漱石の『草枕』の一節 “してみると四角な世界から常識と名のつく、一角を磨滅して、三角のうちに住むのを芸術家と呼んでよかろう”(英題 The three-cornered worldの元となった文)に拠る。 美術館の歩み、お仕事のエピソード、美術人達との熱い交流が、(多分ほんのピックアップで)語られ、最後は、同館の旧鎌倉館で大きな個展が開催された、木口木版画家柄澤齊さんの小説作品『ロンド』のこと。締めに、その作中音楽に絡めて、グールドの弾くバッハのピアコンから一曲流した。目の醒めるような、イ長調アレグロのメロディを、目をつぶって聴く。途中ちょっと薄目を開けたら、少し下を向いて瞑想するような表情の水沢さんが見えた。同時代の、また時代を超えた、音楽家たちや美術人たちの交歓が、伝わってくるような4分間。曲が終わると自然と拍手が起こり、その中を笑顔で退場された。
イサム・ノグチのこけしと、石人のいる中庭には旧知の方々や、美術館ゆかりの方々が続々集まってきていた。それぞれに、三角な世界をもつ人たちが、引き寄せられるように。そこに立つ自分も、いつしか、一角を磨滅させつつあるんだろうか。どこか惰性で四角に戻ろうとする力と、日々葛藤しながらも。水沢さんにせめて対面でご挨拶し、退散する。ここにいた人たちにはきっとまた会えると思った。三角のうちに住めたなら。
Tさんの車に足早に乗り込み、Youtubeで拾ったグールドをかけて、無駄なことをゆるゆる喋りながら帰った。 「めちゃくちゃ天気良かったし」「混んでたね美術館も」「情報量多すぎたけど面白かった」「漱石は字より絵がうまい」「芥川のは友達の字に似てた」「"歯車"タイトル変えすぎ」「河童グッズ貰えるやつやるの忘れた」「ともかく猫がかわいい」「凹んでもまだ死にたいとは思わない」「いい雰囲気だったー穏やかで」「こんな公立美術館ほかにあるのかな」... 不二山が見え始めてからは、無言で帰った。
思えば、神奈川には縁が浅くはない。親しい友人が何人か住んでいたり、初めて木口木版とビュランに触れたのが藤沢のリン版画工房さんだったり、私自身、幼少期(小学校入学以前)は横浜に住んでいた。緑区(いまは青葉区らしい)の父の社宅。私の関西弁が薄いのは、一つにはそのためだ。でも、それ抜きにしても、改めて、たいせつな場所ができた感じがして嬉しい。(画像の冊子とプリントは、当日資料ではありません。)
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tokyomariegold · 2 years
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2022/9/23〜
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9月23日 今日はとにかくいろんなものを見過ぎて、 いろんな表情をつくり過ぎて、 いろんなことを喋り過ぎて、相槌を打ち過ぎて、 目と顔の筋肉と喉が痛い。
初めての逗子の町の、観光地と絶えないほどの、リゾートまで華やかではないけれど、海の町特有の小さいお店がある感じの町のつくりを中途半端に体験して、浜辺で波を見ても全然怖くなくて、気がついたら鎌倉で八幡宮のお参りをしれっとしてしていて、ばちが当たりそう。 人とお話して時間を過ごすことと、自分が街やその空間を楽しむことを両立できる日はくるのかしら。
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アレック・ソスの展示は、思っていたのと違ったけれど楽しめた。 フライヤーの写真とデザインが、あまり今回の作品展と合っていない気がして、予告編だけ好きな映画ってあるかも、と思った。 山間部にハンガーかけやミラーボールをセットして生活している人のインタビュー記事の写真シリーズが好きだった。
とにかく長い時間だった気がする。 我に帰ったのは、行きも帰りも、日暮里駅の2階のサイゼリアの窓際のボックス席を車窓から見た時で「こんな時間(と、いうほどおかしな時間ではない)にサイゼリア…」と、思った時だった。 昔、雷雨で中断した花火大会の帰りに、びしょ濡れで入ったファミレスは、このサイゼリアな気がする!
一緒に展示を見た友人は、子供の話と動物の話をいつもしていて、今日も友達が子供を産んだ話をしたので、彼女自身がそろそろ子供を持つのかな〜、と思っていた。それと、動物が可愛いうんぬん、と言っていて、犬でも飼うんだろうか〜、とも思った(今日は子豚の話をしていたけれど)。
私は出産がどんなものなのか経験してみたいけれど、子育てはしたくないので、他人の子を産めば良いのかな、と考えて、でも倫理的にアウト?
帰り、旦那さんと合流して帰る友人と横浜駅で別れる。いつも私と遊ぶ時、私たちが遊んでいる場所の近くまで旦那さんが来ていたり、待ち合わせのラインを仕切りにしていたり、常に影が見え隠れする感じで、彼女との時間を過ごしている。私はいつか、彼女と2人で遊ぶ待ち合わせの場に、しれっと旦那さんもいて、今日は3人で……みたいなことになったりしないかドキドキしている。
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9月24日 人付き合いがだめなターンなので、1時間くらいキュッとおしゃべりするだけでよかった。 今日は、クラシカルなメイド喫茶で本格紅茶を飲んで、人の物件探しに付き添った。
メイド喫茶は、電子ケトルで沸かしたお湯を、高い位置からティーポットへ注いでいて、やかんでなくてケトルで可愛い。
物件探しは、楽しそうなので付き添っちゃお!と思っていたのに、結果、不動産屋ってこの世の嫌い空間わりと上位に入るのでは!と気が付いたのと、人の生活に関わっている暇はない!と、自分の生活のタスクをいろいろ思い出して、先に帰ってきてしまった。
駅の広場でちいかわとサンリオのコラボグッズが売られていた。たくさんの女の子達が本当にちいかわを愛でている!と驚き、友人に報告のメッセージを送る。
メイド喫茶から不動産屋までの移動中、マンスーンさんとすれ違ったのかもしれない…でも人違いかもしれない…ちいかわグッズを見にきていたのかもしれない…テンションが上がっている、と久しぶりに実感した。
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9月25日 このところの人間関係の悪態を反省して一日を過ごした。 昨日の雨で、川の水が増大していて、いつも野球やサッカーをしているところまで川が拡幅していた。ボートで何かを捜索している様子もあり、土手からたくさんの人が見ていた。
昨日投稿した日記を読み返すと、毎度のことながら誤字だらけ!最近はiPhoneで文字起こしをしているのだけれど、変換の精度が高すぎる(?)。 「うそみたい」→「朝みたい」、「かるいんで」→「辛いんで」、「ぶしょ」→「場所」、「きえないと」→「変えないと」。 読みと異なる変換を一番上に持ってくるのをやめてほしい。でもこれがiPhone的正解ワード。 30歳で変えないと!
9月26日 「落とし物が届いています」と、朝一で内線に電話が届く。ありがとうございます。まるっと落としたパスケース全部が手元に戻ってきた。
文化庁メディア芸術祭の展覧会が今日までだった!毎年、情報収集のために会場へ行っていたけれど、今年はネットで眺めよう、と、マンガ部門の大賞を確認する。北極百貨店?という素敵なタイトルの漫画をKindleでダウンロードしてみた。
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9月27日 2日分の洗濯物を溜めて洗濯機を回してみた…!ドキドキ。確かにこちらの方が回し甲斐がありそう。
隣の席の上司から、アメリカのチョコレートをもらう。お姉さんが、アメリカ在住とのことで、日本に一時帰国されているらしい。最近のアメリカは、グルテンフリー 、パレオ、ケト、と健康志向の食事がブーム。マックにはあまり行かない(そもそもマックの値段が高い。ハッピーセットで1000円弱するとか。)とのこと。コーラもみんな飲んでないんだって! プレッツェルのお菓子のパッケージには“BIG TIME FLAVOR”とあり、大きい時間風味…? 大味ってこと?となった。
日本で言う、ハワイアンとかミラノ風とか清涼感とか、味覚以外で食べ物を感じる感覚の表現なのかな。
明日は出張(研修)で、乗ったことのない電車に乗って、行ったことのないところへ行くのでへとへとになってしまうと思う。
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9月28日 研修のため、いつもより2時間遅い出勤。 朝にいろいろお掃除ができて精神衛生も良くなる。 空港へつながる路線、違う駅名だけど乗り換えできる駅間の30秒くらい歩く町、目印のデイリーヤマザキ、4匹の猫の親子、多分もう全部見ることはないんだと思うものばかりを通過して研修先へ行く。 (帰りに、オンライン研修でしか顔を合わせたことのなかった同期にこのことを話したら、めっちゃわかる、と言ってた。)
幼稚園や小学校の施設のにおいが苦手なので、気持ち悪くなりながら2時間歩き回った。 黒板に、前の授業の板書が残されていて“ゆでる→ものをやわらかくする。ゆで汁は捨てる。 煮る→味をしみこませる”とあり、思わずメモに書き写す。研修の報告レポートには使えない。
“BIG TIME”とは“すげーまじうまい!”的な意味らしい。
乗車駅でメロンくらいの巨大梨が売られていた。下車駅では行方不明の女の子を探すチラシを配っている人がいた。
9月29日 エドワード・レルフの場所性の本を冒頭から読み直し中。目次を見て、興味のある章から読んでいたけれど、ばかみたいに頭から読むと、ちゃんと点と点が繋がるように理解できるところが増えた。 ①物理的なもの②人々の動き③感覚 が、場所を構成していた、①と②は定量的なもので捉えやすいが、③は一概に言えるものがなく捉えにくい。そもそも①②③の相関関係を探ることが重要。 自分を中心とした同心円を描きながら人は移動をし、その円の内にいれるものに人は愛着を持つ。愛着の持てる場所には配慮があり“つつましさ”が、ある。……などなど。
研修のレポートを3枚提出した。 1から自分で文章を作り上げるのは、始めるまで気力がかかるけれど、始まってしまえば添削までずっと楽しいし、良い疲れかたができる。
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9月30日 研修のレポートを上司に褒めてもらう。 内容というより、レポートの構成や読みやすさ、伝わりやすさ、独自の視点の効果的な入れどころなど。こういう場の書き物には正解がある気がしていて、それを叩き出してしまった複雑な気持ち。でも褒められるのは嬉しい。
一期下の方とロッカールーム前でおしゃべりした花金の終業後。やっぱり私はこの方がすごく好きなのだと思う。写真を撮りたい!とも思えて、その発見に嬉しくなり帰り道はなんだか明るい気分。
社会の人をみんな嫌いなわけではなくて、その人個人をみてしまって、それでもっと関わりたい!と思ってしまうこともある。
そして、昔からの友人達を撮りたいと思わなくなったのは、新鮮さがなくなってしまったこともあると思う。 たぶん、今日ラインを交換して、「一緒に遊びましょう!」と言い合った時が、一番楽しい時だったかもしれない。 人と関わるときの新鮮さが好きなので、なるべく頻度や距離を、高めず詰め過ぎずにしたい。
やっと粗大ゴミセンターに電話を繋げ予約をした!えらい!
帰り道の遠くの茂みと、私が立っている道の間で、猫が何かを捕食していた。
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y1nmnblue · 2 months
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記錄一下2
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左至右上至下
都道府縣明信片:神奈川
一直超想要但很難單收的東西⋯⋯同系列凜好像有4張嗎?自己是只對神奈川這張有興趣(因為那個鎌倉,對),最後是跟其他凜的週邊明信片同set一起買
底下特設官網上公開的圖,對鎌倉出身懷抱驕傲真的超萌,正反兩面都想看心情擺出來所以買了T型壓克力框(餐廳酒水單那種)來展示
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via:https://bluelock-kc.com/selection/
れとぽぷ第四彈證件照立牌
這系列看過很多次一直覺得就是滿常見的Q版,直到我被這一彈制服的實拍無預警燒到⋯⋯
下面官推的實拍,證件照跟人可以互換變成像是畢冊之類小朋友的自我介紹真的太過可愛⋯⋯很喜歡春雷制服の女無法抗拒小凜自介自己是春雷高校一年生⋯⋯
不過這個真的很難收,購入的小款跟一張U20凜潔透卡同set,算頗盤子價但真的沒看到其他人在賣所以還是買了,大款的至今還在等待緣份⋯⋯
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吃冰圖壓克力板
吃冰圖是⋯⋯我最愛的原畫⋯⋯沒搞錯的話應該也是目前春雷夏季制服唯一出現過的一個scene吧,我就拿夏日主題沒輒
同柄出過的拍立得跟另外一款尺寸滿大的壓克力板下邊都有被裁到不是滿版圖,因為是最愛的柄任何細節都不想放過,再加上雖然我買的這款尺寸真的有點偏小(A7)但壓克力板材滿厚實的,擺出來算是有小巧精緻到,可以榮登這一波買的東西裡面我個人的top1⋯⋯
不過相較於尺寸它的購入價格也是真的盤⋯⋯甚至比旁邊那尊U20球衣立牌還貴,雖說抽賞物本來就都這樣就是了
浴衣立牌
這次最擔心是否被詐騙了的一件……光是這一尊的購入價就佔了這批總額的2/3吧,原本就是原畫周邊裡有名的稀有物,加上平台折扣還有匯率總總,自己購入的價位算是不虧
但就是賣家出貨之後又上架了一件一模一樣的害我焦慮到不行,以為遇到那種專騙海外買家的,畢竟這種高價稀有物可以自有複數還都全新未拆的機率應該是滿小的吧……結果還真的是有複數(抱歉是貧窮限制了我的想像,看賣家賣的東西也不像職業黃牛還什麼),拆箱第一刻馬上確認那袋A4尺寸明顯比其他件大的,剪開外包看到那尊傳說中的浴衣立真的有躺在裡面我都快哭ㄌ
起初對這件還擔心過包裝問題,因為他真的滿大一尊超怕運回來時已經斷成兩截那我會非常想死,下單前還特地確認過賣家評價裡有被數次誇過丁寧捆包,沒想到送來時原廠自黏袋外面只有捆一層泡泡紙就直接裝A4牛皮紙袋(難怪秤重輕得要命比前述紙片set還輕!!),更沒想到這樣還能毫髮無傷,怎麼會這樣
雖然他現在就擺設在我面前書桌一角但還是好沒有實感我竟然真的擁有the.浴衣立了……喜歡的原畫柄現在只差還在等原畫展通販的那尊白西裝立牌就全數到齊了……
原畫展拍立得
也是看過很多次都覺得普卻無預警被燒到,會被燒到主要是本來感興趣的其他東西,同賣家的拍立得售價很划,想說也不貴乾脆一起帶?去查了實拍發現原來角色名字是燙色燙上去的(我拿到實體才知道圖面還有上局部光),燙藍箔的光澤跟凜U20衣裝&袖標螢光色印在一起真的美……越看越想得到
這套拍立得凜有三款,不過黑白的兩張我只收了我買的這款,因為黑色滿版看起來圖面平衡感比較好(非常只有畫圖的人在意都跌某以的理由),另外一張出自夜雪分鏡的我就覺得畫面略單薄
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tutai-k · 1 year
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旅人同士はすれ違い続けている
労働を退職した翌日、新幹線に飛びのるようにして、尾道へ向かった。 三年前も参加した「ライターズレジデンスイン尾道」に参加を決めていた。 本当は労働は12月で終わって、1月には療養期間が始まっている予定だったのが、結局なんだかんだ1月もめいっぱい働いてしまった。それでも、こんな長期の休暇を得られることなんてこのさきあるかないかわからないから、尾道へは行っておきたかった。 三年前、官製ワーキングプアの仕事から逃げるように参加を決めたときの幸福な時間――つまり、小説を書き、本を読み、ただそれだけのことを要求され……いや、それだけのことすら要求されずに生きていればいいだけだった記憶は、その職場を去り、次の過酷な労働に身を投じてもわたしを支える光だった。 尾道へ帰りたい。「行きたい」ではなく「帰りたい」とまるでもうそこがふるさとのように思える場所だった。 そうして、わたしは尾道へ帰った。
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旅の途中、いくつかブログを書いたから、旅を終えてしまったあと、語ることはそんなにないのだけれど。 書いたブログ↓
だけど、これだけは書いておきたいことがひとつ。 三年前、この「ライターズレジデンスイン尾道」に参加したとき、最初の一行を書き出した小説『浜辺の村でだれかと暮らせば』を、鞄のなかにしのばせていた。 「ライターズレジデンスイン尾道」には、一週間同居することになる他のライターさんたちとの交流パーティがあり、そこで自己紹介がある。自分がどんな「物書き」なのか、どんなものを作っているか……そんなことを紹介する。 それに使おうと思って持ってきて、結局、自分の本を紹介するのが下手くそなわたしは、その本を使わずにパーティの自己紹介を終えた。
そして最後の日。前日のシトラスサポーター体験でご一緒した漫画家さん(タイミングをおなじくして、尾道では「尾道漫画家残酷物語」という漫画家さん対象の企画があった。町歩きや交流会も一緒に行動した)が、「漫画家の家に滞在しているひとが、宿の壁に絵を描いている」と話してくれた。 同居している人もそうだが、「作っているもの/描いているもの」の話はしても、実際その作品を見せるということは一度もなかったし、わたしは、「旅先で何かを表現する人」の作品を見たかった。 尾道に滞在し、インプットとアウトプットだけをし続けている幸福な時間に生み出され、表現されるものを見たかった。 お邪魔してもいいと言うことだったから、わたしは漫画家さんたちの家にお邪魔して、壁の作品を見せてもらうことにした。
床に敷かれた新聞紙。漆喰に描きかけの絵。 まだ全貌はできあがっていないと言うことだったが、旅で得たものを表現し、そして、旅の記録を、ここに残して行く――そんな行いのまさに「いま」を見せてもらっている! それは叫び出したいくらいに幸福な瞬間で……。 「ポートフォリオも見せてもらいなよ」と声をかけられて、よろこんで見せてもらうことにした。 手製本でつくられたそのポートフォリオは、イラストや絵画表現だけでなく、刺繍や工芸、彫刻などさまざまな表現技法の作品がならんでいる。ひとつずつの作品を、作者の声を直接聞きながら受け止めていく贅沢な時間。一人の作家の、無数の作品にとびこんでゆく快感! 近頃視覚的な芸術に触れることから離れていたから、より新鮮に、より強烈に感じ取ることができた。
「人の意思が感じられるものがこわいから、自分で生活のための道具もつくる」 「人と違うことをしようと思ってしているのではなく、したいからしている」
丁寧な言葉を重ねて、表現をしていく上での繊細な観察眼であったり、周囲とのもどかしい軋轢であったりを話してくれる。わたしには鈍磨されている感覚もあったし、わたしもひとしく悔しいと思っていることもあった。 創作するということの根源に触れるような体験だった。
ポートフォリオには、ライブペイントの写真や、作品が多く収録されていた。 いろんなところで、即興で作品を仕上げていく。一ヶ月間、あるひとの家に滞在してその壁に絵を描いたという話もしてくれた。 旅をして……、どこかへ出かけて、「その場で感じたもの・あふれてくるもの」を表現し、完成させておいてくる。 それはなんてなんて素敵なことだろうと思った。 わたしは旅が好きだ。不思議なことに旅先では、本は読まないくせに、物語の構想はよく練れる。この尾道旅行でも、驚くくらい筆が進んだ。 ああ、そうだ、そうなのだ。旅をすることは、それだけで物語のかけらに触れることなのだ。 こんな長い長い旅をしたら、物語のかけらはいくつも拾い集められて、両手いっぱいになってこぼれてしまう。 小説という技法は、物語のかけらたちを編んでも、すぐに製本をしたり、だれかに見せられる物理にすることがむずかしい。 でも、旅先で、旅で得たものをおいてゆく……そんなことができればいいなあと思った。
出立の日、鞄の中に、ずっと取り出さずにしまっておいた『浜辺の村でだれかと暮らせば』を、取り出した。 「三年前、この宿で書き出したお話を本にしました。この宿のカフェにおいていただくことはできませんか」 宿の人に、おそるおそる話しかけたら、「作品ができたんですね。もちろんです、置きます」と快諾していただけた。 そんなことばが聞かれるとは思わなかったので、戸惑いながら本を手渡したとき、三年前の尾道の旅がようやく「完成した」と思った。
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本を置いてくれたことを、宿のSNSで紹介をしてもらえて、すこしこそばゆいような……。
三年前の思い出を、宿の人に話した。物語を書き始めたことだけじゃなく、体験したことを、いくつも、いくつも。 三年前、尾道で出会った旅する整体師さんの名刺を、去年の12月の鎌倉旅行の折りに滞在したゲストハウスで見かけたことを、話しそびれたなと思ったのは宿のある山を下りきったときだった。 あの整体師さんその人とは再開しなくても、旅をする人間同士はすれ違いを続けている。
旅の最後、漫画家の家にもう一度立ち寄った。 ポートフォリオを見せてもらったときに、アンケート用紙をもらったのだった。旅のあいだに、回答が完成したので渡しに行ったのだ。 「きっとあなたの名を聞く日がくる」そう言って別れたが、連絡先は聞かなかった。旅を続けていれば、いつかそのひとの表現の痕跡に、たどり着くだろうと思ったので。
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kennak · 1 year
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三菱電機は17日、電波法に基づく業務停止命令や業務改善命令を総務省関東総合通信局から受けたと発表した。業務停止命令の期間は18日から30日間。製品開発に使う無線機器(無線局)について、事前に定めた名簿にない人が点検したり、結果を示す書類に事実とは異なる内容を記載したりするなど手続きの不備があった。電波法の違反行為があったのはコミュニケーション・ネットワーク製作所(兵庫県尼崎市)と鎌倉製作所(神奈川県鎌倉市)の2工場。無線局の登録点検業務が対象だが、対象となった機器はすでに運用しておらず、期間中に同業務も予定していないことから影響は軽微という。
三菱電機に業務停止命令 無線機器点検で電波法違反 - 日本経済新聞
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bearbench-tokaido · 2 months
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初篇 その十
それを聞いていた、弥次郎兵衛、 「ほう、お前さんがたは、藤沢なのか。あの宿場もずいぶん綺麗になったな。 問屋の太郎左衛門どのは達者かな。」 と、言う。 かごかきの先のほうの棒担ぎが、 「ほう、よく旦那は知っている。ええ、達者でいられますよ。」 「孫七どのは、まだ勤めているのかの。」 と、弥次郎兵衛が続けると、 「ええ、その通り。ほんとに、旦那はなんでも知っているな。」 と、かごかきの後ろのほうの棒担ぎが、 「当たり前だ。知っているんじゃない。かごの中の道中記を見ているんじゃ。ハハハ。」 と、この間に早くも馬入川の渡しに着く。
ここで、弥次郎兵衛は、かごをおりた。 北八が、ここはなんという川かと近くの人に問うと、ただ渡し場とばかり答えたのを、弥次郎兵衛が聞いて一首詠む。
川の名を 問へばただの 渡しとて ただの馬入の ただのあいさつ
この川は、甲斐の国の猿橋から流れ落ちるとのこと。 やがて向こう岸に渡って、道をたどり行くほどに、ここに白籏村と言う村がある。 その昔、源義経の首が飛んできたのを祭り込めた白籏宮という社が今もあるという。 弥次郎がその話を聞いて、
首だけが 飛んだはなしの 残りけり ほんとのことかは しらはたの宮
それより大磯にいたると、虎が石を見て今度は喜多八が一首詠む。
愛しい 死んだ男を 悲しんで 石となりて 貞節を守る
弥次郎兵衛もとりあえず一首、
蓮の乗る 気持ちあれど 無分別 石になっては 乗るに乗られぬ
このように楽しくやりながら、大磯の町を行きすぎて、西行法師の歌 「心なき身にも哀れは知られけり鴫立沢の秋の夕暮れ」 の名所の鴫立沢にいたる。
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<籠かき> ここには鎌倉時代の文覚上人が刀造りで刻んだという、名高い西行法師の木像をまつる西行堂がある。 二人は堂に参って一首手向ける。
われわれも 天窓を破りて 歌詠まん  刀づくりなる 御影拝みて
春の日の旅は、とてものどかで、そのうち、あごが外れてしまうのではなかと思うば���りに、あくびばかりがでる。 北八は、あくびをしながら、 「退屈だな、弥次さん。ただ歩いているだけってのも、脳がない。 道々、なぞなぞでもしようじゃないか。どうだい。」 と、北八。それを聞いた弥次郎兵衛は、 「なぞなぞだぁ。あんまり面白くはないが、確かに、ただ歩いてるのも面白くない。いいぞ。出してみろ。」 北八、ちょっと考えて、 「外は白壁、中はどんどん、それなぁに。」 「お前、ばかか。それは、白紙のなかで火がどんどん燃える行灯だろう。 そんな使い古されたなぞなぞなんかだすな。」 と、弥次郎兵衛、得意げに喋りだす。 「なぞなぞとは、こういうもんだ。 お前と俺が連れだって行くと掛けて、それ、なんと解く。」 北八、すぐに答える。 「そりゃ簡単だ。伊勢へ参ると解く」 「いいや、違う。これを馬二匹と解く」 と、北八、ちょっとムッとして、 「なぜだ。」 「どぅどぅ(同道)だから」 これは、馬を追うどぅどぅの掛け声と、二人が同道の語呂合わせである。 なるほどと、北八笑う。 「ハハハ。それなら、今度は俺だ。 おいら二人の国と掛けてなんと解く。」 弥次郎兵衛、考えて、 「そうだな、神田は八丁堀の家主、与次郎兵衛と解くか。」 それを聞いた北八、大きく首を振って、 「だめだだめだ。これを、豚が二匹と犬ころが十匹と解くんだ。」 「で、その心は。」 「ぶた二は、キャン十もの」 これは、二人は、関東者の語呂合わせである。 それを聞いて、弥次郎兵衛。 「面白くもなんともない。ようし、今度は難しいやつを言うぞ。 で、お前がこれを解かねえと酒を買わせるがいいか。」 「って、ことは、解いたらお前が買うのか。」 と、北八。 「当たり前だ。」 「こいつは、いい。ほら、早くいいな。」
弥次郎兵衛、腕を組んでちょっと考えてから、 「ちょっと長いぜ。ええと、俺ら二人が国と掛けて、 これを豚が二匹、犬ころが十匹と解く、その心は、ぶた二ながらキャン十もの、 と、掛けてなんと解く。」 北八、ポカンとして、 「ハハハ、そんな謎があるものか。」 「うるせえ、いいから、酒がかかってるんだ。解いて見ろ。」 と、弥次郎兵衛ニヤニヤしている。 「どうしてそれが解けるんだ。」 北八、じっと考えている。 「どうだ。判らないか。そんなら教えてやろう。 これを色男が自分の帯をとって、しかも女にも帯をとらせると解くんだ。」 「なんだか、よくわからないな。で、その心は。」 「その心は。」 と、弥次郎兵衛早口で喋りだす。 「解いたのに、また解かせるだ。 どうだ。まいったか。さあさあ、酒を買え、酒を買え。」
つづく。
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room-n-blog · 3 months
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音聞山
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※画像引用元 中日新聞公式Web Site <あいちの民話を訪ねて> (103)きよの坂(名古屋市天白区) https://www.chunichi.co.jp/article/677305?rct=aichi
ルーム南からほど近い八事地区。地下鉄鶴舞線と名城線の八事駅があり、中京大学、八事山興正寺などがある界隈ですが、ここに、「きよの坂」と呼ばれる古来の坂があります。
この、きよの坂を下っていくと、音聞山(おとききやま)というエリアにたどり着くのですが、これは、その昔その名のとおり、音聞山という山があった場所です。現在は住宅地になっていて想像しにくいのですが、下の画像が示唆するとおり、江戸時代の音聞山は大変見晴らしのよい山だったようです。
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※画像引用元 中日新聞公式Web Site <あいちの民話を訪ねて> (103)きよの坂(名古屋市天白区) https://www.chunichi.co.jp/article/677305?rct=aichi
この音聞山に関して、室町時代中期の禅僧、正徹(しょうてつ)が編纂したとされる和歌集「草根集(そうこんしゅう)」に、次のような歌があります。
音に聞く 音聞山の峰高み ひびく鳴海の沖つ白浪
また、それより更に遡り平安時代前期、当時の歌人であり官人であった凡河内 躬恒(おおしこうち の みつね)の歌枕とされる、次のような歌もあります。
いつくなる 山にかあらむ 雁かねの おときき高く聞こゆるかな
前者の歌は、海(後述する「鳴海潟」)��ら届く潮騒の音が響く山が詠われています。一方で後者の歌は、雁(かり/がん)という水鳥の鳴き声が高らかに響く山が詠われています。そして、どちらも広く水辺を臨む情景が浮かんでくる歌となっていることがわかると思います。
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現代では、天白区は海とは接していないのですが、平安時代には、現在の天白区島田の辺りまで海が達していたとされています。ルーム南の近くの天白警察署前に、名古屋市営バスのバス停「西浦」がありますが、そもそもこの西浦という名称は、年魚市潟(あゆちがた)という干潟の入り江につけられた名称なのだそうです。
西浦 年魚市潟(あゆちがた)の入り江につけられた名称で、八事村の西にあたる。大字植田にも西浦がある。 ※引用元 名古屋市公式 Web Site 過去から学ぶ防災マップ(天白区) 旧地名付き 天白区標高データマップ https://www.city.nagoya.jp/bosaikikikanri/cmsfiles/contents/0000093/93310/65-72_16tenpaku.pdf
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年魚市潟(あゆちがた)とは、現在の鳴海から熱田の領域に広がっていたとされる海や干潟の名称です。南区の白毫寺(びゃくごうじ)境内には、「年魚市潟勝景」という石碑が建てられており、古くからの景勝地だったことがうかがえます。年魚市潟は、縄文海進という約7000年前の温暖化に伴う海面上昇により形成されたとされます。この干潟には、越冬のためであろう鶴も数多く訪れていたと推測されており、この情景は万葉集に歌として収録されると共に、現代においては「鶴里」という地名の由来にもなっているとされます
万葉集に「年魚市潟 潮干にけらし 知多の浦に 朝漕ぐ舟も 沖に寄る見ゆ」とある(7巻-1163の歌)。他にも、高市連黒人(たけちのむらじくろひと)の「桜田へ 鶴鳴き渡る 年魚市潟 潮干にけらし 鶴鳴き渡る」という歌があり、現在の南区桜本町あたりの年魚市潟で詠んだとされる。近辺には『鶴里駅』という名古屋市営地下鉄桜通線の駅名にも残る。 ※引用元 年魚市潟 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B4%E9%AD%9A%E5%B8%82%E6%BD%9F
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※引用元 更級日記紀行 平安時代東海道、走って渡る鳴海潟(尾張国) https://sarasina.jp/products/detail/109
上の画像は、平安時代の東海道と推測されるルートを示した図になるのですが、図の上側に、音聞山という表記があります。島田橋の近くには、現代にも残る神社「島田神社」がありますが、神社の建立時期は、現在残されている資料や記録からは、室町時代前期とされており、平安時代に存在していたのかは不明です。しかし、平安時代の島田に存在していたであろう集落を守る拠り所として、神社の前身となる何かがあった可能性も・・・と想像してしまいます。
なお、上の画像で示されている干潟は「鳴海潟」と表記されていますが、これは、潮騒が聞こえる(海が”鳴る”)が転じたものと推測されています。また、そもそも年魚市潟が広範囲に渡るため、鳴海潟など地域ごとに呼び名があるともされています。
それはともかく、こうしてみると、現代の天白区島田の辺りまで海だったと考えられていることがわかります。もし音聞山の頂上に立ったならば、南の方向へ向かって広がる広大な年魚市潟を見渡すことが出来たと推測されます。当時の東海道を行く旅行者は、熱田神宮との行き来を最短で繋ごうとするなら、年魚市潟を歩いて渡るのが最速ルートになります。しかしそれが可能なのは干潮時で、満潮時には年魚市潟沿いを歩き、島田橋と音聞山を経由して迂回するしかなかったことでしょう。
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※画像引用元 一般社団法人 日本電気協会 中部支部 プロジェクト紀行 なごやの鎌倉古道をさがす 【8】鳴海潟を渡る(上)・・・広い河原を行く https://www.chubudenkikyokai.com/archive/syswp/wp-content/uploads/2015/09/ca75d3549ec97cf7c68fcc48e7d4e9d0.pdf
一方で、年魚市潟に関わる東海道のルートに関して、平安時代から時が下った鎌倉の中頃から南北朝の時代においては、干潟を渡る複数のルートの存在を示唆する歌が詠まれています。
天白川は、精進川より後の時代まで海が入り込んでいたようです。そこは鳴海浦とか鳴海潟という名前で呼ばれ、古くは街道の難所とされたところでした。 ここは多くの紀行文に登場します。有名なのは、中世より前、菅原孝標の娘が書いた『更級日記』です。その旅日記の中では、 「尾張の国、鳴海の浦を過ぐるに、夕汐ただ満ちに満ちて、今宵宿らむも、中間に汐満ち来なば、ここをも過ぎじと、あるかぎり走りまどひ過ぎぬ」 と、苦労して渡ったことが記されています。鳴海は中世には有名な歌枕になっており、残されただけでも百数十首にのぼると言われます。その中で、街道の情景を歌っているものとして、次のような歌があります。 「なるみ潟 潮干に浦やなりぬらん上野の道を行く人もなし」 藤原景綱 「なるみ潟 汐満ち時になりぬれば野並の里に人伝うなり」 藤原景綱 「なるみ潟 汐の満ち干のたびごとに道ふみかうる浦の旅人」 宗良親王 これらが詠われた時代は鎌倉の中頃から南北朝の時代になりますが、潮の状況によって道を選びつつ渡っていたことが分かります。この鳴海潟を渡る道は、上・中・下の3つのルートに分けて考えることができそうです(図1)。 ※引用元 一般社団法人 日本電気協会 中部支部 プロジェクト紀行 なごやの鎌倉古道をさがす 【8】鳴海潟を渡る(上)・・・広い河原を行く https://www.chubudenkikyokai.com/archive/syswp/wp-content/uploads/2015/09/ca75d3549ec97cf7c68fcc48e7d4e9d0.pdf
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上の画像は、現代の音聞山付近から南南西寄りの方面を臨むグーグルマップの画像です。画像の真ん中の下あたりが音聞山になります。ちなみにルーム南は、画像の左側に位置しています。平安時代にこのアングルから眺めたとするならば、広大な年魚市潟(鳴海潟)を見渡すことができたはずで、歌に詠まれるのも頷ける風光明媚な眺めだったのかもしれません。普段住んでいて身近なエリアですが、掘り下げてみると興味深い歴史がある、と改めて感じた次第でした。
(野村)
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