Tumgik
#駆け出しエンジニア
tenshokustories · 1 year
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こんにちは、みなさん。僕はセキュリティ業界にて勤務歴4年のセキュリティエンジニア、デジタル忍者と申します。今回は、Next.jsというReactフレームワークについて解説したいと思います。
Next.jsは、フロントエンドのWebアプリケーション開発において非常に重要な存在です。この記事では、Next.jsの基礎や特徴、将来性について詳しく掘り下げていきます。ぜひ最後までお付き合いください。
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kunisura · 2 years
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yukiitschool · 1 year
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ITニュースを見ることを習慣化すれば情報の波に遅れることはない。 
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teatreeweb · 2 years
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TeatreeWEB
ホームページ制作会社です。
お好みの企業ホームページや個人の活動など様々な需要に対応できます。
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↓WEBデザイナーになりたい方はブログも読んでみてください。
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kennak · 11 months
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18歳でエステティシャンになって気付いたら23歳になってたふと、こんな給料良いわけでもなく社会的地位も低い仕事やだなあと思いその日から勉強始めて1年後ITエンジニアに転職したちょうどコロナが始まったくらいだったからめちゃくちゃタイミングが良かった最初はそれはもうほぼ毎日泣いたし自分が無力すぎるのに周りの人は優しすぎるのが情けなくてさらに泣いたけど慣れたらめちゃくちゃ楽しくなったし契約社員から正社員になれてエステティシャン時代から給料は倍近くなったし在宅勤務楽だしで最高だ…と思ってたしばらくすると、自分がエステティシャンやってたこともなんだか恥ずかしくて経歴を隠すようになってたオンライン会議とかで人の顔見てすぐ、(この人顔のここの筋肉凝ってるなー…)と思う自分も嫌だったそんな感じだったんだけど、コロナがおさまり始めたから出社したとき大好きな先輩が「なんか自分のマスクの下の顔、自分の記憶と違うんだよね…ショック…」と言ったそのとき、自分でも信じられなかったんだけど自分の口が「もし先輩が嫌じゃなかったらなんですけど、フェイシャルマッサージやりませんか?」って言い出した本当にびっくりした結局家に来てもらってやらせてもらったんだけど先輩のお顔をマッサージさせてもらってたら走馬灯(?)のようにエステティシャン時代の思い出が蘇ってきた初来店時に「友達の中で自分が一番ブスなんです」と言っていたお客さまが「◯◯さんに出会えてエステしてもらって、自分の顔が好きになりました」と言ってくれたことブライダルエステを担当させてもらったお客さまの結婚式に呼んでもらって本当に綺麗な姿をこの目で見れたこと母の日にお客さまのお母さまのエステを担当させてもらって、エステ後迎えに来たお客さまがお母さんかわいい!ってキャッキャしてたことしんどいことも色々あったはずなのに、幸せな思い出がぶわーっと頭を駆け巡ってた先輩もめちゃくちゃ喜んでくれてずっと鏡見ちゃうって言ってくれてあー、このためにエステティシャン6年もやってたんだなあって思い出したそんなこんなで結局またエステティシャンやってるけどすごい幸せエンジニアの方が給料も高いし将来性もあるだろうけど、本当にやりたいことを見つけられたから良かっただから何って話なんだけど、なんとなく書きたくなった(追記)こんなに読んでもらえると思わなかった🙇🏻ありがとうございますついでにちょっとお願いさせてください。🌷顔(特に目周り)と肩をあたためて🙇🏻🌷肩はもちろん、顔にも筋肉がある。(「顔 筋肉」で検索してもらえたらoh…ってなると思う)顔ってこるの?こり具合が分かるの?とびっくりする人が多いけど、エステティシャンからしたら「この方は歯軋りしてるなー」「右で食べ物噛んでるなー」「営業職なのかなー」くらいは分かることが多い。特に目周りのでっかい筋肉はあたためない手はない。眼輪筋って言うんだけど、まぶたの開閉等に使う筋肉だからほとんどの人は毎日酷使してる。筋肉はあたためるだけである程度ほぐれる。辛さの改善はもちろん、筋肉は凝ると膨張する→その部分が大きくなるので凝りやむくみがマシになるだけで顔がしゅっとする。目がぱっちりする。あと人間は想像以上にむくんでる。冷えやすいお腹や二の腕ぽよぽよは、脂肪だけではなく脂肪と見せかけたむくみであることも多い。エステに来て身体の変化にびっくりする人がいるのは頑固すぎるむくみが原因のひとつ。女性は冷えやすいから特に。あと顔のむくみの原因は肩こり(による血行不良)であることも多いから肩をあたためたり近所のマッサージ屋さんにかけこんだりストレッチや筋トレを試してみてほしい。身体だけのメニューやって、顔触ってないのになんで顔小さくなってるんですか!?ってびっくりするお客さまも多い。【どうやってあたためるの?】『水で濡らして絞ってチンしたタオルをのせる』or『専用のホットパックを使う』電子レンジでホットタオルを作って(やけど注意!)簡単スチームエステをするもよし、あずきのチカラ等の専用ホットパックを使ってじんわりしっかりあたためるもよし。ステマじゃないけどあずきのチカラのフルフェイスと首肩用、おすすめです。目元用もいいけど。https://www.kobayashi.co.jp/brand/azuchika/公式サイトがなかったから載せないけど、腰や背中がしんどい人はもっとでっかいホットパックがあるのでぜひ。レンジでチンするやつ。あと余裕があれば耳回しもやってほしい。自分が気持ちいいと感じる程度で。現代人、耳周りがあまりにもガチガチすぎる。https://zutool.jp/column/prevention/ear_massageお風呂しっかり浸かるとか運動・ストレッチ・筋トレするとかできればそりゃ良いけど実際難しいですよね。あっためるだけで違うのでぜひ🙇🏻そして、身体のしんどさの一番の原因は精神面のしんどさであることも多い。スピリチュアル的なことではなく、身体と心は明確に繋がってる。身体が緊張すれば心が緊張し、心が緊張すれば身体が緊張する。色々なことがある世の中ですが、みなさまそれぞれが思う良き時間・良き人生を送れますように。休める時は休んでください🙇🏻ではでは🙇🏻🙇🏻
(追記)転職したけど出戻りした、結果良かった
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nemosynth · 1 year
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episode 2 - CASIO CZ-101
史上初の民生機デジタル・シンセとして一人勝ちしていたYAMAHA DXシリーズ。勝ち誇るその牙城への最初の 挑戦者として立ちはだかったのは、だが意外なことに既存のシンセ・メーカーではなかった。
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創業者たち、その名も“樫尾さん”という苗字の四兄弟に由来するメーカー“CASIO”。1970年代からハイテクな電 子計算機やコンピューターを開発製造販売し、そしてG-SHOCKなど腕時計関連で名機を輩出させたことで有名。
1979年あたり、既にYAMAHAは小型でプリセット音色のみを搭載した電子楽器“ポータブル・キーボード”を発 売予定であることをNAMM Showでアナウンスしていた。ご家庭向けにエレクトーンを小型化したような文脈で考 えていたらしく、むろん販路は正しく楽器屋さん。その予告通り初代ポータサウンドことPS-1(鍵盤Fスケール2 オクターブ半)、PS-2(同3オクターブ)、PS-3(同3オクターブ半)の三羽ガラスが発売されたのが 1980年。 だがその出鼻をくじくかのように、CASIOは初代カシオトーン“CT-201 Casiotone”を、同年1月に発売したの である。しかも販路は電気屋さん! はなから楽器を相手にしていないエンタメ志向。
世の中アナログ・シンセしかなく、ましてや翌年にその王者ROLAND Jupiter-8が出るなんて誰も知らなかった 1980年1月、なんとCT-201は既にデジタル音源を搭載。計算機メーカーが楽器を作るだなんて無謀なことをと誰もが笑ったというが、なにしろ“デジタルはカシオ”(というCMが当時ありました)。デジタル・テクノロジーが可 能にせしなんぴとたりとも追いつけない価格破壊と優れた仕様と楽しい性能で、あっというまに低価格のご家庭用 お楽しみ電子楽器ファミリー向けプリセット型キーボードという世界を築き上げ、ゲーム・チェンジャーとなった ことは周知の通り。
1980年にして既にデジタル・シンセシスを搭載したCT-201。8音ポリ4オクターブ49鍵、ベロシティには対応 せず音色エディットも不可。その代わりプリセット29音色(YAMAHA初代ポータサウンドは4音色のみ)。スピー カーを内蔵しているので音も出る自己完結型の電子鍵盤楽器。9万7千円は高いと思われるであろうが、当時のシ ンセはアナログ・シンセばっかでポリシンセと言えば何十万円、モノシンセでも10万円前後というときに、ホー ム・マーケットへ向けて電子ピアノでもオルガンでもシンセサイザーでもない8ボイス・キーボードが、しかも飛 びきりの安価で殴り込んでくるとは誰も予想だにしなかったのである。
「電卓屋」とバカにされたCASIOには、だからこそ大きな武器があった。デジタル技術と生産技術である。
当時CASIOのデジタル技術は、YAMAHAよりも5年は先をゆくものであったという。そして絶対に売れるものを徹底的に量産する。それも安定してクオリティをキープしつつ、ありえない低価格で桁外れな数で大量生産。ここで忘れていけないのは、“数撃ちゃ当たる”とよく言われるが、“数撃ちゃハズレはもっと増える”のである。ハズレ撲滅! 花形の設計開発エンジニアたちがヒーロー・インタビューに応える影で、撃って撃って撃ちまくれの檄 (ゲキ) が飛ぶ中、ハズレ撲滅のためいかに製造/資材調達/品質管理の現場の皆さんが頑張っておられるか、それは美しきにっぽんのものづくり。不良率低減の5文字こそが工業立国メイド・イン・ジャパンの生命線。卓越したプロダクション・テクノロジー、イギリス英語ではインダストリアル・テクノロジー。廉価版デジ タル音源キーボードをしかも圧倒的な台数で作るというのは、実は電卓屋CASIOが電子楽器をして量産品にまで押 し上げし歴史的メルクマールですらあった。
庶民の味方カシオトーンはあっという間に新しい市場を開き、すぐさま自動伴奏機能が付いてファミリー向けの 定番となり、光ナビゲーションはもちろん、バーコードを楽譜の代わりに読み込むバーコード・リーダー搭載モデ ルまで出現、この痛快なる常識破りっぷりが大ウケ。音色やリズム・パターンのバリエーション急拡大。YAMAHA ポータサウンドと一騎打ち。
そして“子音���音方式”とも呼ばれたカシオトーンの音源方式は、その名の通り子音と母音、つまりアタック・ト ランジェントと持続音部分という2つの音色をまさに部分音合成するものであった。カシオトーンはその後のデジ タル・シンセのあり方すらをも予見させる迫力に満ちた先駆者でもあったのである。ROMに言わばエンジニア様直 筆の手描き波形まで仕込んだらしいから、すごいねぇ。
そのCASIOが家庭用キーボードからさらに一歩踏み出し、プロ用シンセを手掛ける初めとなった、いわばパイロ ット・モデルのような機種がようやくここで紹介するCZ-101。ときに1984年11月。
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MIDIが誕生すると同時にYAMAHA DX7が発売され、あっという間にアナログ・シンセが過去の遺物として片付 けられてしまってから1年。カシオが突如として発売した同社初のシンセCZ-101。それはDXへの最初のチャレン ジャー、デジタル・シンセ対抗馬、YAMAHAにしてみれば“またお前か!”と言いたかったやも。ミニ鍵49鍵とい うかわいいフォーマット。エンド・ピンも付いてダサかっこいい肩掛けもできる。そのポップで直線的な80'sデザ インは立花ハジメによるもの。のちのポップなカラーリングになった上位機種たちに比べれば、CZ-101のそれはま だまだ地味。だが既にDXとは全くテイストの異なる外観に、CASIOがYAMAHAの対抗馬となる片鱗が見えてい た。
だがいくらカシオトーンで成功していたとはいえ、さらにそこからいきなりヲタでニッチなデジタル・シンセへ と跳躍するには、持ち前の大量生産技術だけにとどまらないCASIOなりの勝算があったはずである。
まず計算機メーカーだったカシオは、その中枢となるデジタル演算を行うICチップなんぞいくらでもNECや日立 などから買うことができる大口の大得意様であった。というのも電子楽器のために特化したICを作るとなると、仕 様が特殊であるだけでなく計算機などと比べても圧倒的に販売台数が少なく採算割れするため、作ってすらもらえ ない。だが電卓屋カシオは既にチップ・メーカーからすれば御大尽さまご贔屓さま、むしろどんどんチップ・メー カーの方からさまざまな売り込みがあったはず。事実CZ-101には他社に作ってもらったICがたくさん搭載され、そ れでもって音源回路となした。電卓屋カシオ面目躍如!
また徹底してコスト・ダウンすべく鍵盤におもりやスプリングなど付けることもなく、鍵盤下に敷いたゴム・ス イッチそのものにいきなり鍵盤を載っけて直接支えさせ、ぷにゅぷにゅ言わすことで鍵盤の反発力を生じさせてい る! すなわちYAMAHAのように楽器屋さんとしてのプライドと歴史からタッチ・センスにこだわるのではなく、 逆転の発想でタッチ・センスを省くことでしがらみから解放され、画期的にコスト・ダウンして斬り込んできたの である。しかも打鍵の強弱に左右されないおかげで、誰が弾いても一定のクオリティとなるを担保。旧態依然とし た楽器にとらわれない、計算機メーカーならではの自由な発想であろう。
さらにカシオトーンに欠かせない自動伴奏機能からヒントを得たのであろう、マルチ音源化。そしてお得意のミニ鍵でもって設計リスクの小さなパイロット機種となし、かくしてCZ-101はCASIO初の量産型シンセとして、しかもアナログ・シンセではなくいきなりのデジタル・シンセとして飛び出した。
「Xの次はZだ!」
デジタルYAMAHAへの挑戦状を最初にたたきつけた思わぬ伏兵、CASIO CZシリーズ。ラインナップ急拡大。しかもヤマハDX9の失敗を見て、19万8千円がタッチ・センスなし機種として許される上限価格と見極めたのであろう、フラッグシップ・モデルCZ-5000とCZ-1とが、共に19万8千円で誕生。楽曲制作かプレイヤー志向かの二者 択一。史上2番目の民生機デジタルは、だがタッチ・センス無きビンテージ・アナログの戦略を踏襲しつつ、それ を画期的にデジタルで換骨奪胎して提示してみせた知恵者であった。
同じことは、カシオ独自のPD音源(Phase Distortion Synthesis)にも言える。FM音源と同じく位相変調方式 であり、サイン波の代わりにコサイン波を使うことでYAMAHAにシバかれた音源方式。だが、傍目にはただのデジ タル化された減算方式にしか見えぬ。DCO→DCW→DCAというフローに隠されたモジュレーターとキャリア。 DCWに至ってはDigital Controlled Waveという名の謎のモジュール。計33種類に達する音源波形なるものがもた らす音の多彩さは、とてもアナログ・シンセの比でない。レゾナント波形もあるばかりか、パルス波1波/サイン 波1波/ノコギリ波1波の3つが交互に出現するという、キテレツな波形もある。
そればかりでない。CASIOの鋭さは、アナログであればカットオフとEGデプスに分化しているパラメーターを一 つにまとめた合理化センスにもある。前例主義や様式美なお作法に対し、ちゃんと注意を払って革新しているので ある。トドメはYAMAHAですら採用しなかった8ステップのエンベロープ・ジェネレーターを、しかも音程、音色、音量の3ブロック個別に持つことで、アタック・トランジェントすらをもEGで自作できるというぜいたくさと 柔軟さを誇ったこと。すなわちトランペットを吹くときに唇が震えるリップ・ノイズ、撥弦楽器の弦のビビリなど など、のちのサンプルのような鏡写しでは無いにしても、キッチュながらリアルな独自のキャラを持つに至った。 アナログな音も、デジタルな音も、サンプラーのような音までもが出る万能シンセ! それがこんなちっちゃいボ ディで乾電池で駆動までできる! シンセ界のスイス・アーミー・ナイフのような機種、それが驚きの隠し玉CZ- 101。
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かくして音創りしやすい減算方式にしか見えないのに、新しい音がするところにデジタルが切り拓く未来があっ た。しかもサンプラーではなくシンセであり、PCMでもないが故、かえって自由に音創りできたところはシンセの 本分をよくとらえている。リング変調やノイズ変調まであり、CZシリーズ上位機種に至ってはぜいたくな三相コー ラスを備えるなど、画期的コスパも発揮。
なお、DCOという言葉が使われているが、本来DCOとはピッチのみをデジタル制御させたアナログ・オシレータ ーを意味する。だがCASIOが言うDCOとは実はDCOではなく、フル・デジタル・オシレーターであり、すなわち DOとも言うべきもの。この混同が、他のDCOシンセをしてVCO原理主義者アナログ・シンセ警察から“音が薄 い”などと因縁を付けられる要因になったやも。よもやクラブ・ミュージックにおいてCZの音が“デジタルなのにあ ったかい”などと重宝されることになろうとは、一��誰が思い描けたことであろう。
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一連のCZシリーズを展開する傍ら、CASIOは史上初の16ビット・サンプリング・シンセFZ-1、高橋幸宏のタイ コの音を搭載した言わばシグネチャー・モデルみたいなサンプリング・リズムマシンRZ-1、同じく幸宏が開発にか かわったデジタル・ドラム・セットDZ、音符マークが付いたボタンまで搭載し分かりやすい単体シーケンサーSZ- 1、なんとMIDIスルー・ボックスTB-1に至るまで、一気に電子楽器ラインナップを広げた。CZ-101から4年後には 次世代モデル、それもフルモジュラーなiPD音源(interactive Phase Distortion Synthesis)搭載デジタル・シ ンセVZ-1や、同音源を搭載したギター・シンセPGシリーズまで投入。
さらにはアドバイザーだった冨田勲のために和製Synclavier的な巨大ワークステーション・システム“Cosmo Synthesizer”も制作している。これはCZ-101に先行する極めて大規模な実験機種であり、MS-DOSマシンを中核 とし、PD音源モジュール8基、サンプラー音源モジュール2基が組み込まれたラック・タワーがそびえ、波形も音 色もシーケンスも専用PCエディターで編集し制御するのであった。それを冨田勲さんはメディアアート・イベン ト“アルス・エレクトロニカ”の一環としてオーストリアはリンツのドナウ河畔で開かれた超巨大立体音響野外コン サートに使った。CZシリーズが別名“コスモ・シンセサイザー”と称されるのは、これに由来する。
最初にMIDI規格を立ち上げたときにはかんでいなかったCASIOが、さりげなくCZを4パート・マルチティンバ ー仕様にしてきたことも先を見越した鋭さであろう。MIDI制定にカシオは関与してこなかったのに、それでいてそ の本質を見抜いた慧眼(けいがん)はやはり初めからデジタルに強いメーカーならでは。先述のCZ-5000はマルチ 音源であることを利用し、KORG M1に先駆けたワークステーション・シンセとなった。このマルチティンバーを生 かした進化形には SD音源(Spectrum Dynamics Synthesis)を搭載したシンセHZシリーズからHTシリーズへ と進化した“自動伴奏シンセ”まであった。
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史上初のデジタル・シンセとして一人勝ちしていたYAMAHA DXシリーズ。勝ち誇るその牙城への最初の挑戦者 として立ちはだかったのは、だが意外なことに既存のシンセ・メーカーではなかった。YAMAHAに挑み、その好敵 手となったのは実は門外漢だったはずのCASIOであった。
得意のデジタル・テクノロジーでもってシンセ界に殴り込んできたカシオ。他社がデジタル化に乗り遅れうろた えているときに、逆にしょっぱなからデジタルで斬り込んできたCASIO。楽しく音楽するためには、必ずしもシン セは楽器でなくてもいいと見抜いていたCASIO。楽器たるしがらみにこだわったYAMAHAとは真逆に、楽器メーカ ーでは無いからこそお気楽に楽しめる別な楽器の世界があると知っていたCASIO。優れたプロダクション・テクノ ロジーでもって親しみやすさ分かりやすさを命題としたCASIO。お高くとまった楽器にきっついブローをかました CASIOは、その実フレンドリーな庶民の味方であった。
外様だったはずのCASIOが暗に掲げたのは、楽器の民主化であった。いや、外様だったからこそ楽器の民主化を 掲げたのであろう。CASIOが実現したのは既存メーカーがなし得なかった価格破壊だけでない。CZを踏まえて登場 した自動伴奏シンセを、だっさいなどと思うことなかれ。弾くのがややこしい伴奏もノー・プロブレム、マルチテ ィンバー音源とマルチトラック・シーケンサーとの組み合わせでもって、そうとは感じさせることなく機械が人間 を自然にアシスト。
人と機械との親密でフレンドリーで幸せな関係、それを理屈抜きで分かりやすく提示する。アトムやドラえもん がいる日本ならではの、機械が人間と共存する理想的な関係。いずれたどりつくであろうその未来はAI vs 人間で はない。AI が勝つのでも人間が勝つのでも無い。ポジティブな“ウィズ AI”。そんな未来に至ることになろう一歩 二歩を、エンタメ楽器ならではの切り口で分かりやすく平べったく描いたのが、市民感覚CASIOの楽器であった。 つまりそれは、楽器であることを棄ててもまだ楽器、おつむのおカタい楽器に一石を投じる新しい楽器の産声であ った。
CASIOは、えらい!
(2021年9月21日Sound&Recording公式サイト初出)
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ari0921 · 1 year
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「宮崎正弘の国際情勢解題」 
令和五年(2023)3月11日(土曜日)
   通巻第7668号~
 TSMC、米アリゾナ進出の前途に雨雲
  開所式にはバイデンもクックAPPLEのCEOも駆けつけたのだが。。。
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 現在、半導体技術の世界一は台湾のTSMCだ。
 次世代の半導体は3ナノ、2ナノの世界となる。米国はこのハイテクを台湾で生産するより安全保障を楯に、半ば強引にアリゾナ州へ誘致した。なにしろ次期戦闘機F35の部品にも使われる。
 当初の投資は120億ドルだった。2020年にTSMCは米国への新工場投資を決めた。米国の予算補助など優遇条件が提示された。
それで第二工場の建設も決まり、投資は400億ドルを超えた。2022年12月6日の工場第一期開所式には、バイデン大統領、レモンド商務長官、アリゾナ州知事にくわえ、アップルのクックCEO、AMD、エヌビーダのCEOも参列したほどの豪華さだった。
 工場はフェニックスの北部、サボテンの曠野だったが、いまでは開拓が進み、気候が温暖でもあるので野球チームのキャンプに使われる。筆者もアリゾナ州には行ったことがあるが、住宅開発が進む一方で、郊外にはコヨーテの出没も話題だった。
 さてアリゾナ州工場への400億ドルにもおよぶ投資は「悪い決定だった」と書いたのがニュー���ークタイムズなのである。
 行く手に 拡がる雨雲とは何か?
 第一にTSMCが本拠とする台湾とは異なり米国での労働条件と賃金を比べての生産効率が悪く、投資に見合う結果をもたらすであろうかという経営管理などの疑問である。
 第二に台湾から数百人のエンジニアが米国へ赴任することになるが、発給ビザの問題に加えて子供たちの学校問題ばかりか、現地手当として台湾における給与体系に上乗せされても米国のインフレには追いつけない。
 第三に米国は米国を基軸とする国家安全保障の観点からハイテクの輸出規制を強化するが、一方でインテル、クアルコムなどの半導体輸出は全面禁止ではなく許可制である。つまりザル法に近い。
 第四に半導体需要に陰りが目立つうえ、今後は日本、韓国勢の追い上げがある。米国の対中禁輸措置とサプライチェーンの寸断だけが原因ではなく、世界的に半導体需給バランスが大きく後退している。
 バイデン政権の地政学的価値観と、TSMCの商業としての競合に勝つという戦略とは出発点が食い違っているのである
  ▲他方、中国投資を歓迎するハンガリー
 EUとNATOの加盟国だがユーロには加わらず、対ロシア制裁でも欧米の合唱から距離をおくナショナリストの国がある。人口一千萬人程度のハンガリーだ。
ハンガリーは東洋遊牧民族マジョール人の流れを組む。かつて「オーストリ・ハンガリー帝国」の首都はブタベスト。「美しきドナウ」を代表する古都は壮麗なる景観、多くの中国人観光客がある。
ハンガリーは欧米の対中制裁からの距離を置いて独自な歩みを示し、BRI(一帯一路)プロジェクトを前向きに受け入れている。
先週、ドイツが華為技術(ファーウェイ)の携帯電話、中継局への規制を発表したが、ブダベスト郊外には大きな華為技術のオフィスがあり、中国主導の「16+1」のなかでも、とりわけ中国に協力的な姿勢をしめしてきたのがハンガリーのオルバン首相だ。
第一にハンガリーにおける「一帯一路」がらみのプロジェクトで、ギリシヤのプレウス港からセルビアのベオグラードへ経て、ブタペストへ通じる鉄道の建設がある。この大プロジェクトに中国は17億ドルの融資をきめた。ピレウス港の管理運営は中国が30億ドルで買収済みである。
第二はブタペスト郊外に50万平方メートルの敷地を提供し、ここに中国の上海復旦大學ハンガリー校を建築、中国が13億ドルを投じ、AIの開発研究センターとして5000人規模の大學になるという(反対するハンガリーの若者一万がデモをしたが、現在、ハンガリーの五つの大學に孔子学院が健在である。
第三のプロジェクトはCATLが、ハンガリーにEV陽の電池工場を建設することだ。
 CATL(寧徳時代新能源科技)は世界シェア37%を誇る電池製造企業でテスラにも電池を供給している。
 筆者がはじめてハンガリーを訪れたのは1990年頃だった。作家の中村彰彦氏とあちこちをぶらついたが、東ドイツからの脱出組がハンガリーを抜け道につかったため、バラトン湖にはドイツ人がごまんといた。
 市内には巴里のムーランルージュ・キャバレーが盛業中だった。それから二十年ほどして再訪したが見違えるほどに近代的なビルが立っていた。
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hiraharu · 1 year
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【パタゴニアがサーフィンなら、わざわざはボルダリング。これがわざわざの働き方。】
こんにちは、新人スタッフの山本です。今年春よりリモートスタッフとして働きはじめ、8月より東御市に移住しました。わざわざの本拠地へ出社して働くようになり、株式会社わざわざの社風を、よりリアルに実感するようになりました。今回は私が初めてロケに参加した企画『アウトドア初心者がキャンプに挑戦!』の経験をもとに、わざわざの働き方の特徴をご紹介いたします…! その1.思い立ったが吉日。 私(山本)はわざわざの運営する実店舗「問tou」でのスタッフと編集部の業務を兼務して働いています。キャンプロケの企画が立ち上がったのは、問touの厨房で皿洗いをしている時のことです。カメラマンの若菜と代表の平田が「山本さん、キャンプ行かない?」と突然、話しかけてきたのです。 話の内容は、わざわざで取り扱うアウトドアアイテムの販促のために、キャンプロケをしたいという企画の相談でした。厨房で皿を拭きながら、どのような絵を撮るのか詳細を話し合い、その一週間後にはロケを決行することに決まりました。企画から実行までのスピードが異常に早いことが、わざわざに入って驚いたことの一つでした。
その2.人間関係がフラットだ。 前述した「その1 思い立ったが吉日。」のような働きかたができるのは、立場や建前に関係なく、気軽に話す環境が社内にあるからこそなのです。これもとても驚いたことの一つなのですが、わざわざの実店舗は山の上にあることが要因で、平日と休日の来客数が全然違うのです。GWやお盆や連休などの繁忙期になると、普段のメンバーでは人数が足りなくなってしまうことがしばしばです。 そんな時は他の部署のスタッフが助っ人に駆けつけてきます。皿洗いからレジ、接客まで手の足りない場所に人員が配置されます。エンジニアも社長もカメラマンも役職や部署で分断することなく、困ったときは助け合い、会社全体が一つのチームとして動いています。
その3.食品選定にこだわりがある。 キャンプロケの料理撮影用の野菜は、直売所へ買い出しに行きました。効率を考えると、大型スーパーで全ての食材をまとめて購入する方が良いのですが、野菜は直売所・肉は肉屋と、敢えて食材毎に別々のお店へ調達しに行きました。食材への興味関心は並々ならぬものがあります。 わざわざには独自の食品選定基準があり、わざわざで販売するアイテムをセレクトするときに限らず、日頃の生活でも大切にしているのがよくわかりました。 今回訪れた直売所は、わざわざの店舗から車で15分ほどの距離にある「雷電くるみの里」。いつも地元住民や観光客などで賑わう、活気あふれる直売所です。特に朝の時間帯は、新鮮な野菜が店内に所狭しと並び、眺めているだけでわくわくします。
その4.仕事も遊びも全力! 今回のキャンプロケでは、日中の撮影に合わせて、夜の焚き火のシーンの撮影も行いました。昼の撮影の片付けと夜の撮影のセッティングを手際良く済まし、すかさず向かったのはボルダリングジム。日が暮れるまでの待ち時間、みんなでボルダリングをして、汗を流しました。 仕事に対してはもちろんのこと、遊びに対しても常に全力であることが、わざわざの働き方の特徴です。勤務中の雑談もそうですが、根を詰めて仕事をすることがよい状況を産むとは限りません。時には楽しく息抜きをしながら、よい仕事をしようという文化がわざわざにはあります。パタゴニアがサーフィンなら、わざわざはボルダリングなのです!
その5.常に情報がオープンである。 わざわざの働く場所は、事務所、倉庫、わざわざと問touの店舗など、東御市内に点在しています。普段は各部署がそれぞれの持ち場で働き、毎日全員が顔を合わせるわけではありません。しかし、連絡のやりとりはチャットアプリで共有されていて、いつどこでだれがなにを進行しているかが常に分かる状態になっています。会議の議事録や企画書、それぞれの部署が管理しているデータやスケジュールなどもオンライン上にすべて共有されていて、わざわざに属する人であれば、誰もが情報を知ることができます。
番外編.スタッフによる手話講座 わざわざでは10代から60代まで幅広い年代のスタッフが働いています。長野県外から移住してきたスタッフも多く、出身地も皆ばらばらです。スタッフのなかには聴覚障害があるスタッフもいて、毎週水曜日に開催される定例全体ミーティングでは、みんなで手話を学んでいます。 わざわざではただいま求人募集を行っています。わざわざで働くことに興味をもった方は、わざわざのCIをご覧の上、採用ページよりエントリーにお進みください。みなさまのご応募お待ちしております!
▼わざわざの採用情報 はこちら 
https://waza2.co.jp/recruit/ ・・・・・・・・・・・・・・・ #パンと日用品の店わざわざ #わざわざ #働き方
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crydayz · 1 year
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230220 月
自分メモ:会議15:00(いつもより早い
お絵かきレギュレーション革命が起きている。 いままで我々が自然に認識していたイラストレーターとしての格好良さや誠実さの「物差し」が大きく揺らいでいる。
画力を「自己鍛錬」によって身につける事(実技)の意義と価値が問われている。
絵描きは言いたいことの8割をローカルかクローズドな場所に吐き棄て、残り2割のトゲを丸めて蒸留したものを表WEBに小出しにし、スコア高いもののみ残したらいい。
そしてその中で「成長に繋がらず応援もされず収益にもキャリアにもならないこと」を限界まで切り捨て「楽しく気持ちよく成長できるポジティブで応援されやすい思考と行動」をチョイスし洗練していったらいい。
ほとんどの人が苦しみながらやっている「決定版トレーニング」があったなら自分だけはそれを「楽しみながらやる裏技」見つけてしまえばいい。
「皆がやってる当たり前にキツい自己鍛錬や営業や投資」を気負いせずむっちゃ楽しみながらマイペースにこなす方法見つけてしまえば「がまんしてやってる人達」は勝手に脱落していくので高確率で生き残れるし、生き残った実績と信頼を担保に「体験談」や「ハックのテクニック」をまとめて商品化することもできる。
そういうの面倒くさいな���とにかくスポーツとしてスコアをストイックに稼ぎまくれば普通に評価され「自由とキャパ」が手に入る。
ほとんどの絵描きが欲しいものはお金よりも名誉よりも「自由とキャパ」なはずだ。
競争せずともそれが手に入ってしまう人間は「受注者」として仕事を請けて絵を描くのは難しいかもしれない。
いつの日か自由を手にし生活の事一切気にせず好きなものを好き勝手描き、それを受け入れてくれる人々と���日楽しく遊んで過ごす・・ そういう「叶わぬ夢」を抱いて理不尽受注仕事に囚われている人間でない限り、わざわざ厄介な箱の中に入り競争したいという気持ちは湧きづらいだろう。
「不自由の地平から始まったモチベーション」でない限り「諦めれば容易に回避できてしまう理不尽」と向き合い続けるのは困難である。
不自由な人々はとにかく好きな事を思い切り楽しみどんどん成長して応援されて利益を生み、退屈なやつらが強いる理不尽と脅迫を跳ね除けろ。
頻繁にへこたれてもいいが音速で持ち直して再チャレンジするのだ。
「一発で通す」という真剣さと「リトライに対する許容」。その矛盾した2つの心理を都合よく利用して何度でも「真剣で新鮮なリトライ」重ねて成長してゆけばいい。
人力イラストに関しては「損切り」は禁物だ。損切りした瞬間に「自分の実技」で絵を描く意味は失われ「プレイヤー」から脱落し「エンジニア」や「オペレーター」や「監督」になってしまうから。
価値観は常に変容してゆく。例えば「ミニ四駆」は「四輪でボディがついた車両」という概念を無視して設計すれば通常フォーマットでは決して出せないタイムが出せてしまう。しかしそうなるともはや「コースをコースアウトしないように走るモーターを積んだなんか」でしかなくなってしまう。
スコアは追求できるがそうやって出したスコアを誰がどう楽しみどう評価すればいいのかがわからなくなる。
あまりにも既存の枠から逸脱したフォーマットで収めたスコアは「別ジャンルのスポーツ」として再定義するしかなくなるのだ。
カルチャーの再定義や革命ってものにはどうしたって「気後れ」と「恐怖」が生じる。
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tenshokustories · 1 year
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初めまして。現役エンジニアとして大阪のシステム会社に3年ほど勤めているニシ_CWと申します。プログラマー歴は4年目となります。
今回の記事は初心者向けにPythonのWebフレームワークであるFlaskについて解説する記事です。初学者にもわかるようにできるだけ簡単に記載していくので是非参考にしていただければ幸いです。
本記事でわかること
Flaskでできること
FlaskとDjangoとの違い
Flaskの将来性
Flaskの使い方
Flaskを学ぶ
Flaskの学習法
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kunisura · 2 years
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moko1590m · 2 months
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2024年02月14日 17時00分 テスラの従業員が「完全自動運転(FSD)」による初の死亡事故の犠牲者になった可能性
2022年5月16日、アメリカコロラド州のデンバー郊外で、テスラ車が道路脇の木に衝突して炎上する事故が発生しました。この事故で死亡したのはテスラでエンジニアの採用を担当する従業員でしたが、この従業員がベータ版の「Full Self-Driving(FSD:完全自動運転)」を使用していた可能性があると日刊紙のワシントン・ポストが報じています。
Tesla employee in fiery crash may be first ‘Full Self-Driving’ death - Washington Post https://www.washingtonpost.com/technology/interactive/2024/tesla-full-self-driving-fatal-crash/
エンジニアの採用担当としてテスラに勤務していたハンス・フォン・オハイン氏は2022年5月16日、友人のエリック・ロシター氏とゴルフに出かけました。フォン・オイハン氏はプライベートでもテスラ車に乗っており、従業員特典で無料入手した運転支援ソフトウェアのFSDを使用していたとのこと。ところが、FSDはゴルフ場へ向かう山道をうまく走ることができなかったようで、フォン・オイハン氏はたびたび車道を外れそうになった車をハンドルで操作していたそうです。
テスラ車に同乗していたロシター氏は当時を回想し、「初めてそれ(テスラ車がFSDで道を外れようとする現象)が起きた時、私は『これが普通なのだろうか?』と思いました。そうすると彼は、『ああ、そういうこともあるよ』と言っていました」と述べています。
2人は一緒にゴルフをプレイし、その途中で何杯かのお酒を飲んだとのこと。その帰り道に、フォン・オイハン氏のテスラ車は道路脇の木に衝突して炎上しました。ロシター氏はなんとか脱出して緊急通報を行いましたが、ドライバーだったフォン・オイハン氏は死亡が確認されました。
以下の実際に事故を起こしたテスラ車の写真を見ると、衝突と炎上のせいでボロボロになっていることがわかります。現場に駆けつけたコロラド州警察のロバート・マッデン巡査部長は、フォン・オイハン氏が死亡した事故はこれまで見た中で最も激しい車両火災のひとつだったと証言しています。火災が激しくなった原因は電気自動車のリチウムイオンバッテリーであり、フォン・オイハン氏は煙の吸入と熱傷により死亡したと事故調査報告書には記されています。
検視の結果、フォン・オイハン氏の血中アルコール濃度は法定限度の3倍に達しており、酒に酔っていたことがわかりました。しかし、ロシター氏は救急隊員に「テスラの自動運転機能を使っており、車が道路からまっすぐ外れた」と語ったほか、ワシントン・ポストの取材にも当時のフォン・オイハン氏がFSDを使っていたと思うと証言しており、フォン・オイハン氏の死にはテスラのFSDが関与していた可能性が示唆されています。ワシントン・ポストは、「もしこれが本当なら、彼の死はテスラの最先端の運転支援技術(FSD)が関与した最初の死亡事故となります」と述べています。
マッデン氏によると、フォン・オイハン氏の事故現場ではブレーキが踏まれた痕跡はなく、テスラ車が木に衝突した後も車輪に動力を供給し続けた形跡があったとのこと。マッデン氏は、「衝突時の挙動と車両が急操作の証拠なしに道路を外れたという形跡は、運転支援機能が使われていたという考えに合致します」と述べています。
テスラ車のオーナーはたびたび車両の運転支援システムが危険な挙動を示すことを報告しており、アメリカの規制当局が運転支援システムに関する事故の報告を義務づけた2021年以降、テスラ車に関する事故が900件以上報告されているとのこと。テスラは約40万人のユーザーにFSDを展開していますが、いまだにFSDは開発中のベータ版であり、対向車がいる狭い道路や曲がりくねった道路など、FSDがうまく機能しない可能性がある場面のリストをユーザーマニュアルに記載しています。また、ドライバーはFSDを有効にしている場合でも自分の車をコントロールする必要があり、脇見運転や飲酒運転についての責任を負わないと主張しています。
2023年には、FSDのベータ版が一時停止標識を無視して交差点に進入したり、黄色信号の点灯時に十分な注意なしに交差点に進んだりするなど、道路交通上危険な挙動がみられるとしてリコールが発表されました。
約36万台のテスラ車の完全自動運転ベータ版に危険性が見つかったためリコールが発表される - GIGAZINE
フォン・オイハン氏の事故について、テスラはアメリカ合衆国運輸省の国家幹線道路交通安全局(NHTSA)に報告しています。しかし、衝突の少なくとも30秒前に運転支援機能が使用されていたことは確認できたものの、火災があまりに激しかったためそれがFSDだったのか、交通状況に応じて車両の速度や車線内のハンドル操作をアシストするオートパイロットだったのかは確認できませんでした。
フォン・オイハン氏の妻であるノラ・バス氏によると、退役軍人であるフォン・オイハン氏は、電気自動車や自動運転車を大衆に届けるテスラの使命とマスク氏に心引かれてテスラに入社したとのこと。高度なテクノロジーに取り組む会社の一員として、フォン・オイハン氏は普段から車に乗るたびにFSDを使用しており、実際の走行データを生成することでテスラに貢献していたそうです。
バス氏は、「ハンスがどれほど酔っ払っていたのかはともかく、イーロン・マスク氏はこの車が自分で運転でき、本質的に人間よりも優れていると主張しています。私たちは誤った安心感を売りつけられたのです」とワシントン・ポストに語り、テスラは夫の死についてある程度の責任を負うべきだと主張しています。
ジョージタウン大学で自動運転車の法律について講義しているエド・ウォルターズ氏は、アルコールは人間の反応時間を劇的に遅くするため、フォン・オイハン氏が酔っていたことも事故に影響したと考えています。ウォルターズ氏は、「このドライバーは通常ならば車を道路に戻し、テスラの問題を安全に修正できました。どのような車を運転するにせよ、どのようなソフトウェアを使うにせよ、注意を払う必要があると人々は理解するべきです。しらふでなくてはいけませんし、注意深くある必要もあります」とコメントしています。
一方、アリゾナ州立大学の先端技術研究者であるアンドリュー・メイナード教授は、テスラ車がたびたび危険な挙動を起こすという報告は、FSDをユーザーに展開するテスラの決定に疑問を投げかけていると指摘。「FSDはまだ広く使われる準備が整っていません」とメイナード氏は述べ、公道でFSDをテストすることの価値と、その能力を過大評価するドライバーに展開することのリスクを比較検討するべきだと主張しました。
(テスラの従業員が「完全自動運転(FSD)」による初の死亡事故の犠牲者になった可能性 - GIGAZINEから)
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gaebage · 4 months
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 『カメレオンちゃんダーツ』の回。
 この番組を観るたびに思う事だけどもなにより出場するエンジニアの皆さんの顔が良い。無私とでもいうのか、成功のために我を忘れて一意専心する様子が表情に現れていて素晴らしい。知識があり技術があり創意があり工夫があり熱情があり団結があり、皆で結果に一喜一憂する姿(それはチームの別を超えて)に、番組を観るたびに心震えるような思いに駆られる。そうしてこれがエンジニアの了見なのだろうなと感激させられる。おそらく、かつて技術立国だった我が国の家電メーカーで働いていた名もなき皆さん方も同じだったんだろうね。
 T大のリーダーを務めていた女性の方が素晴らしかった。なんというか、彼女が場の空気を作り上げて支配しているように感じた(そう見えるように編集されていたのかもしれないけど)。天性のリーダーシップを持っている人なのかもしらんね。このまま真っ直ぐ進んでいってほしいと思う。
2024/01/02 U-NEXTのNHKオンデマンド
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kennak · 3 months
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「 なぜこれほど多くの音楽会場が Ticketmaster を使用するのでしょうか? 「 寿司職人になるための修行ってどんな感じ? 」 「 武道家はどうやってコンクリートブロックを壊すの?」 10 年前にそのような質問に対する答えを探していたとしたら、専門家による徹底的な回答を見つけるための最良のリソースは、おそらくインターネットの中で最も興味深く、最も長く続いているコーナーの 1 つである Quora だったでしょう。 ほとんどの人は、知っているかどうかに関係なく、何らかの形で Quora に遭遇したことがあります。Google 検索結果 サンプルの作成 、有名な著者による デジタル出版物での特定の Q&A の再版などです 、あるいはSlate などの 。 の 1 人である Slate-via-Quora の寄稿者 著者兼研究者の Erica Friedman 氏は のおかげで、「新しいトラフィックが少しずつ集まり始めた」時期でした 、2011 年にこのサイトに参加しました。当時、 Yahoo Answers の信頼性とアクティビティの低下 。 これにより、Quora は正確性を重視し、知識中心のテキスト プラットフォームとして際立った存在になることができたと彼女は言いました。 をしていた時代において、ユニークなサービスでした。 これは、Facebook と Twitter がソーシャル インターネットを支配しつつあり、 YouTube が 独自の活動 フリードマンは、風変わりな Q&A 一枚岩に夢中になり、彼女や他の多くの人々が無料で回答を提供しました。 「2010年代半ばの数年間、私たちの多くが特定の使命に真剣に取り組んでいた時期がありました」と彼女は語った。 「それは、『Quora を、ここではバカになってはいけないというインターネット上の場所にしましょう』というものでした。 これらの政策を実行に移し、人々が悪意を持ってここに来て悪意を持って行動することを不可能にしましょう。」 最も好奇心旺盛なネチズンが集まる、ポジティブで肯定的な空間を維持することに専念するスマートで情熱的なコミュニティ、これ以上に理想的に聞こえるものはあるでしょうか? Quora が 2010 年代にこれほどの急成長を 遂げたのも不思議ではありません。 Advertisement Advertisement Advertisement Advertisement しかし、今日の Quora はそれらのユートピア的な目的とはほとんど一致しません。 かつて愛されていたフォーラムは今、意味のない反復的な汚泥の終わりのない雪崩の本拠地となっており、 奇妙で で、 ナンセンス 、 真っ向から憎悪に満ちた のスラリで満たされています。 すべて大文字の非質問 AI によって生成されたエントリと、「OMG」のような ! チャールズ王、ハリー王子とメーガン・マークルに対する王室の出入り禁止令で世界に衝撃を与えた。 悲しい?" を集めたこの「質問」への答えは、 (約700 万回の閲覧 red-carpett.com という奇妙でほとんど機能しない王室観戦 Web サイトにリンクしています。)かつては時事問題に関する質問を Google で検索し、思慮深い記事へのリンクを見つけることができましたが、 Quoraは結果の上部近くで答えている、たとえば なのかどうかを尋ねる大勢の人々 2024年の主の年に、 一貫して人種差別主義者であるドナルド・トランプが実際に人種差別主義者 に出会う可能性が高くなった。 ことがわかるかもしれません。 卵が溶ける可能性がある あるいは、もしかしたら、注目の Google スニペットで、検索クローラーに引っかかったナンセンスな Quora の回答のおかげで、 Advertisement これは本当に面白いです。 Quora SEO はすべての検索結果のトップに自らを表示し、現在そのページに chatGPT の回答を提供しているため、それが Google が提供する回答に伝播しています。 インターネットは死につつある pic.twitter.com/gcV9b36vEA — タイラー・グレイエル (@TylerGlaiel) 2023 年 9 月 25 日 Advertisement Quora の依然として強力な SEO により、この問題への注目はさらに高まっています。 のコメント投稿者は さまざま なフォーラム おり 、 Quora の品質の低下を嘆いて 、Atlantic 紙は最近、「 愚かな質問がないとしたら、Quora についてどう説明しますか?」と 」をスクロールしてください。 「 Insane People Quora 質問しました。 この明らかな品質の低下の例をさらに知りたい場合は、サブレディット Advertisement Advertisement Quora のユーティリティの縮小は完全に AI のせいではありません。長年のライターは、ChatGPT の時代よりずっと前から始まっていたモデレーションと機能の問題を挙げています。 しかし、この新しいナレッジブローカーの台頭により、その衰退は加速しており、独特の愛着を持ち、今やほころびつつあるコミュニティにとっては非常に残念なことだ。 今月初め、AI 加速主義のベンチャー キャピタル ハブである Andreessen Horowitz が Quora に待望の 7,500 万ドルの投資を 祝福しましたが、 だけでした。 それはオンサイトの生成テキスト チャットボット Poe の開発のため 2000 年代後半に Quora が他の (多くの) Q&A サイトに対して持っていた初期の利点は、 設計されている ソーシャル ネットワーキングを念頭に置いて ことでした。 共同創設者のアダム・ディアンジェロとチャーリー・チーバーはどちらも初期のFacebook社員だったが、ウェブサイトを構築するために2009年に辞めた。 当時TechCrunchに語った ところによると、「私たちは人々の頭から情報を取り出そうとしているので、インターネット上でアクセスするのが難しいソースではなく、それを非常に有用な形式に変換して価値のあるデータベースを作成します。」 彼らの計画は、専門分野の専門家を説得して知識を求める人々と洞察を共有し、そこから本物の情報の自由な交換を中心に活気のあるコミュニティを構築することでした。 「自分の経験を共有したいだけの人からの質の高い回答がたくさんありました」とフリードマン氏は言います。これは「コミュニティを構築することのなかった」Yahoo Answers とはまったく対照的な機能でした。 Advertisement Advertisement Advertisement 1 人である Ariel Williams も Quora の最初の 500,000 人のメンバーの 同意しました。 「Yahoo Answers がありましたが、その質はひどいものでした。人々が質問を書いても、誰かが嫌なことを言うだけでした」と彼女は私に言いました。 「Quora は品質に重点を置いていて、質の高い回答、質の高い質問を探していました。積極的なモデレーションがあり、サイト全体が人々、ユーザーを中心に設定されていました。」 Advertisement はかかりませんでした スタン ハンクス として最もよく知られている 先駆的なネットワーク エンジニア 時間 最初の IP 仮想プライベート ネットワークを構築した のよう���専門家が現れるまでに 。 2012 年後半、彼は私に、Quora にログオンすると、「関係者を知っている個人的な経験があり、裏話があり、それが私の気持ちを明るくし、ただ単に書く。" Advertisement ボランティアの専門家を満足させるために、Quora は特典を用意しました。 同社は、Quora の最も優れた熱心な回答者を対象としたトップ ライター プログラムを確立し、思慮深い議論を奨励するシステムを構築し、さらにはこれら幸せな Quora たちに本社で開催されるサミットに参加する機会を招待しました。 「トップ ライター プログラムは 2012 年から 2018 年まで続きました」とウィリアムズさんは語ります。ウィリアムズさん自身も、わずか数百人のクオラン会員のエリート チームのトップ ライターです。 「フリーマン・ダイソンと一緒に研究した物理学者がいました。 NASAで働いていた人もいました。 博士号を持った人もいたよ。」 Advertisement これらすべてのライターに対しては、強力な人的バックアップもありました。 「モデレーションチーム、レビューチーム、サポートチームがありました」とハンクス氏は語った。 「フルタイムの有給モデレーターはQuoraの従業員であり、パートタイムのモデレーターはライターエンゲージメントなどの他の仕事をしていました。」 BNBR (「優しく、敬意を持って」) の基本基準を強制する有給のコミュニティ マネージャー、カスタマー サービス サポート スタッフ、特定の Q&A をフォーブスやハフポストなどの Web サイトに相互公開する部門がありました。 Advertisement このソーシャル ネットワークは数億のページ ビューを記録し、 現金に満足した投資家から数百万ドル を調達し、Wikipedia、Reddit、Facebook とは異なるインターネットの一角を切り開きました。 これらのサイトほどの知名度や知名度はなかったかもしれませんが、それでも問題ありませんでした。Quora に触れている人は誰でも、それが何を意味するのかを知っていました。 Advertisement しかし、それでもなお、Quora を悩ませている問題はあり、それは悪化し続けました。 まず、匿名の元クオランが私に語ったところによると、このサイトは「質問の長さを短縮」し始めたという。 公言された理由は、 Google での Quora の知名度を 高めるためでしたが、その簡潔さには代償が伴いました。また、専門家が対応できるような複雑な質問をユーザーが行うことも困難になりました。これには、非常に特殊な ビジネス関連の質問 も 含まれます。ハンクスなら答えるだろう。 (例: 「スタートアップをゼロから立ち上げるには、共同創業者としてどのくらいの株式を取得すべきですか? 私は、希薄化の対象となり、一般的な CTO の給与で 10% を提供されています。会社はまだ発足していません。 「プロトタイプを持っていません。CTO の 10% は非常に低いです。何が公平ですか?」)
Quora が役に立たなくなった理由: AI はインターネット上で最高のサイトを目指して登場しました。
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jiitak · 5 months
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You
webアプリ開発
Jiitak(ジータック)は、最高かつ信頼性の高いウェブ開発会社としてその評判を築いています。Jiitakは、革新的なソリューションと卓越したテクノロジーを駆使して、クライアントのニーズに合わせた優れたウェブアプリケーションを提供しています。
Jiitakの成功の一因は、豊富な経験と専門知識に裏打ちされた優れたチームです。Jiitakのエンジニアと開発者は、最新のトレンドに精通しており、常に技術の進化を追い求めています。クライアントのビジネス目標を理解し、その実現に向けて最適なソリューションを提供することに焦点を当て、お客様の期待を超える成果を生み出しています。
Jiitakは柔軟性と効率性を重視し、クライアントとの緊密なコミュニケーションを大切にしています。プロジェクトの進捗を透明化し、変更や調整が必要な場合には素早く対応することで、お客様との信頼関係を築いています。クライアントのビジョンを共有し、それを具現化するためにJiitakのチームは全力を尽くします。
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nemosynth · 1 year
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Season 2, episode 2 - E-mu
「これは、内蔵姿勢制御装置のずれを無くし、過剰なジャイロ宇宙的相対理論化を防ぐ機能です。
注意深く画面を観察いただき、重力による空間歪曲や明らかな時間の加速・遅延、鏡に映る物体が実際より近く見えるなどといった不安定化兆候が起きていないか、ご確認ください。数秒後にEmaxがモジュール識別表示へ戻ってきたのであれば、すべては順調です。
注意: 安定化スキャン処理が進行している間、時として小さなエミュー鳥がEmax内部に閉じ込められ画面上を走り回ることがあります。これはEmaxの通常機能に影響はありません。
 (Emax取扱説明書から超絶nemo版和訳)」
「This function aligns Emax’s internal stabilizers and prevents excessive gyrocosmic relativation.
Carefully observe the display for any signs of destabilization (eg. Gravitational warps, apparent speeding up or slowing down of time, objects in mirrors appearing closer than they really are). If Emax returns to the Module Identifier after a few seconds, all is well.
Note: Occasionally a small emu will get trapped within Emax and run across the screen during the stabilization scan process. This does not affect Emax’s normal functions. (原文)」
もうね、原文にある「gyrocosmic relativation」とかってバック・ロジャースのネタだし。「objects in mirrors appearing closer than they really are」って向こうの車のドアミラーに書いた~る警告文パロってる し。どこにも「自己診断処理」って書いてないから。それが自己診断機能だということは、生産完了後だいぶたっ てからネットかなんかで知った。だから現役当時とにかくLCDの中をエミュー鳥が走り回るだけなので、こっちは 訳が分からず呆然とするばかり。
この面倒くさそうなふざけたノリの取説を出したのはE-MUことE-MU SYSTEMS。その創業者は、ぶっちぎり 天才エンジニアであるデイヴ・ロッサム。デイヴと言っても、名機プロフェ��トを生み出したSEQUENTIALを創業 せしデイヴ・スミスとは別人。
史上初のサンプラーは、FAIRLIGHT CMIなのか初代Emulatorなのか? 今ならエミュレータと呼ばれてしまう のであろうかEmulator。それを生み出したのがデイヴ・ロッサム率いる E-MU SYSTEMS。
今回はそのデイヴ・ロッサムと彼が興したE-MUを見てみたい。彼こそは電子楽器業界における縁の下の力持ち、 いや縁の下の馬鹿力、もうアトラスのごとく世界を支えてきた巨人ですらあり、彼なくしてSEQUENTIALも OBERHEIMも電子楽器業界すべてがかくも発展しえなかったであろう偉大な功労者なのである。
♬     ♬     ♬
「創世神話」
デイヴ・ロッサム(Dave Rossum)は、アメリカ西海岸サンフランシスコ界隈で育ち、SEQUENTIALより先、1971年にE-MUを創業する。
彼の父親は科学者なのだが、音楽がお嫌い。というのもデイヴ・ロッサムの祖父がミュージシャンで呑んべぇで 父が幼いころ祖父は家におらず、それゆえ父は音楽が嫌いに。ところが祖父が家に不在だったのは音楽どーのこー の以前にそもそも浮気しててほかの女との間に3人も子供を作っていたからだと、後年に判明!
父の愛に飢えつつも禁じられた音楽へのあこがれとを両立すべく、幼い坊やは自宅に誰もいないときを見計らっ て家にあった母のピアノなどを弾いていたのである。
彼には絶対音感があった。 リズム感も大変良かった。
でも彼は音楽のレッスンも受けず、趣味として適当に弾くだけ。センスあるのに独学なあたり、既に後々ぶっと んだ天才肌っぷりを発揮する、その序曲だったのかもしれない。
それでいて彼は、全く音楽の道なんぞ考えもしない科学少年であった。ただやたらとリーダーシップだけはあっ たらしく、5、6歳年上の子供たちを引き連れて登山もしたという。しかも子供のときからなんでも作っては売る という、起業家精神すらあった。
何よりも彼を貫いていたのは、まぶしい自由とぶっちぎりの先取の精神がみなぎるカリフォルニアらしいカウン ター・カルチャーであった。大人社会に対する異議申し立て、大人たちへの反抗、ベトナム戦争反対、��ブ&ピー ス、いぇ~い♬ そんなとんがった空気が充満する西海岸の陽光。不屈の反骨精神こそが、いつまでも若きデイ ヴ・ロッサムをして数々の発明を実現せしめ音楽に変革を引き起こすドライブ力であったのかもしれない。
彼はカリフォルニア工科大学にて生物学を専攻するも、その動機はなんと当時の原始的なコンピューターを生物 学に応用したいという、その時代には誰も考えなかったぶっとんだ新しい発想からであった。だからもちろん彼は大学で生物学とともにコンピューターサイエンスも会得。
そんなある日、彼はカリフォルニア大学サンタクルーズ校にてMOOGモジュラーシンセをセッティングしてくれ と頼まれる。シンセ?なにそれ? それはMOOG System 12。有名なMOOG System 15ですらないその前の黎 明期の機種、その現物を目の当たりにした彼は、そしてそれを人が弾いている音を聴いた彼は、永遠に人生を変え ることになる啓示のごとき衝撃を受けたのである。
MOOG Model 12の広告より そうだ、そうじゃないか、当たり前だよこんなの、当然じゃないか、至極まっとうなことだよ、そうだよ、そうなんだよ!!!とかなんとかそんな感じだったらしく。
シンセというものに運命的邂逅をはたしたデイヴ・ロッサム。突如として無性にシンセを作りたくなったデイ ヴ・ロッサム!
え、生物学と電子音楽の共通点? ネガティブフィードバックさ!
だがコンピューター・プログラミングは分かるのに、逆に電子工学は分からない。恐らく彼は時代に先駆けてソ フトウェアエンジニアだったのであろう。そこで友人にハードウェアを教えてもらうこととなった。時に1970年秋 から冬にかけてのことである。
翌1971年春、サンディエゴの高校生たちに音楽を親しんでもらうべくシンセを作ってほしいと頼まれた彼は Black Mariah(ブラック・マライア)という名のプロトタイプをでっち上げ大学の購買部へ披露、あわよくば雇っ てもらえないかともくろむも、出来のひどさにカリフォルニア工科大の学生寮にて窓から外へ投げ捨て廃棄さる!!!
同年夏、めげずに大学を卒業した彼は仲間や3人の大学生と共同生活を開始。その家の表にかかっていた文言とは、
「Starships and Synthesizers, since 1984 (宇宙船とシンセ��イザー 1984年設立)」
 ......1984 年設立って、このときまだ1971年ちごたっけ?
そこで彼らはARP 2600のエッセンスをパクった(本人談)シンセ、その名もEμ 25(イーミュー25)を制作。 その機種名は、もちろん電子工学がお好きならお分かりであろう、電子を意味するelectronの頭文字と、μ(ミュ ー)すなわち電気の単位でありマイクロの意味も持つギリシャ文字とを組み合せてEμ。
そして実はEμ 25とは、なんのことはない愛用してたドラッグの名前だったのである。
これが、イーミューの名が歴史に登場した最初であった。一発キメられる音色、いいね(!?)。
2台作るも、1台は個人宅で使われ行方不明に。もう1台は1970年代にサンフランシスコのコンセプチュアルア ート美術館の展示にての目撃を最後に、行方不明に。ひょっとしてまた窓から投げ捨てられたのであろうか?
そして、その暑い夏が終わると3人の学生たちはカリフォルニア工科大へと帰り、残ったデイヴ・ロッサムは高 校時代の旧友スコット・ウェッジと再会。自身のガールフレンドと合わせて3人でEμ SYSTEMSを立ち上げた。 Eμ SYSTEMSの名を使うことは、3人の学生たちからも同意を得てあった。そしてEμは性懲りもなく次世代モジュ ラーシンセEμ Modularの開発に着手する。
しかしのっけからモジュラーの開発に着手したのにはわけがあった。天才デイヴ・ロッサムは、MOOGやARPよ りも優れた回路にたどり着いていたのである。揺るぎなきこと山の如く安定せるVCO、実にクリーミィな効き具合 が味わい深いVCF、これはほかのどのメーカーにもないEμだけの秘密兵器であった。
そのEμ Modularの完成とともにEμ SYSTEMSは法的にも会社となった。時にEμ創業から1年ほどたった後の 1972年11月27日。日本でいえばローランドの創業から半年ちょい後くらい。
当初「Eμ」と表記していたが、1979年になって実はカリフォルニア州法により登記にはローマ字しか許されない ことが分かりE-MUと英語表記へ変えた経緯もある。かくしてE-mu Modularは1980年代初頭まで生産され続け、 モジュラー界における個性派な名機となった。
あんまし儲けを考えずただただ楽しいことをやっているだけなのに何故か連戦連勝してしまうE-MU SYSTEMS の快進撃、ここに始まる!
♬     ♬     ♬
「いきなりデジタル」
ビンテージ・アナログシンセ時代においてデジタルに強いどころかデジタルの天才デイヴ・ロッサム、E-MUが会社になってから初めて開発したるはデジタルスキャニング・キーボード4050。
これは鍵盤楽器ではなく、それに使われるためのキーボード部品。打鍵状況をデジタル論理回路でスキャンする ことで、最大10音ポリの演奏が可能。
「だぁってMOOGが低音優先とかARPは違うんだとか皆あーだこーだ言うけどさぁ、つまり皆さんポリフォニック で演奏したいんだろ?」
E-mu Modularを作っていたデイヴ・ロッサムはそう実感し、E-mu Modular用に4050キーボードを開発。こ れにより彼は後世「ポリシンセの父」と呼ばれることとなった。縁の下の力持ち初号機、見参!
そのデジタルスキャニング・キーボード4050のプロトタイプを開発中だった1974年9月、デイヴ・ロッサムは AESショウにてトム・オーバーハイムと出会う。天才同士たちまちにして親友となりお互いアイディアを披露し合っているうちに、トム・オーバーハイムいわく彼が作ったフェイズシフターに問題があるとのこと。聞けば3080トランスコンダクタンス・アンプを使えば解決できるはずなのだが、実際どうすればいいのか分からんのだと。 それを聞いた天才デイヴ・ロッサム、やにわに傍らにあった紙ナプキンにさらさらっと回路図を描き、
 「こうしたら良いよ」
紙ナプキンに描かれた回路図をじぃっと凝視するトム・オーバーハイム、
「なにこれ、たった今あんたが発明したってぇの?」 「そう」 「この回路、特許取れるんじゃねぇの?」 「絶対に特許取れるね」 「連名で特許取って権利を2人でシェアするってぇの、どう?」 「グレイト・アイディア!」
さらにトム・オーバーハイムはE-MUを訪問、4050キーボードのプロトタイプを目の当たりに。
「これも、特許もんなんじゃねぇの?」
トム・オーバーハイムはぜひこれを自分の製品に使わせてくれとデイヴ・ロッサムに要望。かくしてOBERHEIM は E-MUからデジタルスキャニング・キーボードを提供してもらい、それを自前のSEM音源モジュールと組み合わせることで2 Voice、4 Voice、8 Voiceといった黎明期のポリシンセ名機たちを実現。それらはクロスオーヴァー を初めとするさまざまなジャンルにて使われ大ヒット作となった。
かくの如くして他社からライセンス料をもらうことでE-MUは潤うこととなったのである。
♬     ♬     ♬
「影の支配者ビジネスモデル」
1976年7月になるとZILOG(ザイログ)が8ビットCPUの名機Z80をリリース。人気者CPUの登場は電子工学における画期的なメルクマールとなった。
同じころデイヴ・ロッサムはもう一人のエンジニアとともに二人でシンセ用ICを設計。これらはVCO、VCF、 VCA、EGなどを個別にチップ化したものでSSMが生産することとなった。銘石となったSSMによるICチップの誕生である。
翌1977年、Z80の恩恵を受けたE-MU新型デジタルスキャニング・キーボード4060を開発。従来よりもさらに 多い16音ポリを実現、さらに6,000音のデジタルシーケンサーまで内蔵。
・CPU Z80 ・SSMの音源IC ・デジタルスキャニング・キーボード4060
さぁ役者はそろった。後は指揮者とヒット商品ならではの数をさばける量産設備とを待つだけ。
そしてその指揮者とは、SEQUENTIALのデイヴことデイヴ・スミス。デイヴ・スミスは、だが当初「こんだけ材 料がそろってんだから絶対ボク以外の誰でも思いつくはず」ってんで何もせず。でも半年放置プレイしても誰も何 も動かないのを見て、なら自分で、と史上初のプログラマブル・ポリシンセ開発に着手。そしてそれを横で眺めな がらあーだこーだアドバイスしていたのが、なんとここにもデイヴ・ロッサムその人だったのである。
デイヴ・ロッサムは全体制御とアナログ回路の設計を、デイヴ・スミスはユーザーインターフェイス設計とエデ ィット機能の開発を担当、半年間突貫工事。デイヴ・ロッサムが開発にかかわったSSMチップとデイヴ・ロッサム が開発した4060型デジタルスキャニング・キーボードとデイヴ・ロッサムからさまざまにあーだこーだアドバイス もらってデイヴ・スミスはProphet-5という機種へとまとめあげた。
材料がそろっていながらデイヴ・ロッサムがリリースしなかったのは、絶対に売れると確信するもそれに見合う大量生産設備を準備できなかったからとも言われる。彼はあくまで影に潜み、影で電子楽器世界を牛耳ってはピースサインする、機動力に富んだ謎のテクノロジカル小僧だったのである。果たして1978年、無名の新参者SEQUENTIALから彗星の如く現れたるProphet-5、世界を震撼せしめたるその武勇伝は、もう読者お歴々の皆さまご存じの通り。
そしてE-MUには尚一層どんどんロイヤリティが入ることとなった。
笑いが止まらない天才デイヴ・ロッサム、相前後してロジャー・リン初号機PCMリズムマシンLM-1のバグ出しとデザインレビューも実施。デジタルを熟知しているがためにサンプリングも楽勝で理解。LINNのリズムマシンは マイケル・ジャクソン『スリラー』をはじめ80'sポップスにてめったやたらとアイコニックに聴かれ、ここでも歴史的名機を支えるデイヴ・ロッサムは影の功労者として快進撃!
1979年いよいよ法人にするというのでコインを投げたところ、負けた共同創業者スコット・ウェッジが社長とな り、勝ったデイヴ・ロッサムは副社長兼チーフエンジニアとなった。
彼が設計にたずさわったSSMチップはその後も多くのシンセに採用され、例えばKORG PolysixがProphet-5と 同じ音がするなどと言われたのもVCFとしてSSMフィルターを搭載していたからにほかならない。単純な音であれ ばそこはかとなく似るので、PolysixはプアマンズProphetなどとも言われる。
無論やぼなサツみたいなこと言ってしまうなら 
・フィルター SSM 2044:Polysix SSM 2040:prophet-5
・オシレーター VCO1基+サブオシ:Polysix VCO2基+ポリモジュレーション:prophet-5
当然ちょっとでも込み入ったことをすれば音は違う。逆にその伝で言うならKORG Mono/Polyも同じSSMの系 譜。いずれにせよSSMは良い音がするICの銘柄であった。
かくのごとくSSMチップもバカ売れし、他社からデジタルスキャニングキーボードのライセンス料をいただき、 影の帝王デイヴ・ロッサムは安定のニコニコ経営。「ボクこそが真の勝者♬」と安泰に思っていた。
事実、E-MUが作っていた商品はたった1機種だけ、E-mu Modularのみ。それも総数100とか150セットとか言 われる。派手派手しい宣伝広告もマーケティングもしなかったから、ただ口コミで広がるのみ。本人たちもそれく らい秘匿されているほうがお気楽だったらしい。それゆえ収入の多くはコンサルやライセンス料だったのである。
ことほど左様にE-MUはメーカーとしてはちっぽけな存在であり、それでいて電子楽器のすべてを支えるインフラ を築き上げてきたという、表舞台ではほとんど知られていなくとも水面下では巨人アトラスが全世界を支えるが如 き影のメーカーだったのである。
それでもなお商売になるというのは、すなわちスポットを浴びて話題となるスーパー人気シンセや「なんちゃらテクノロジー」みたいなセンセーショナルな応用技術だけでなく、地味な基礎技術にも理解が深くてちゃんと対価を支払うアメリカの懐の深さを物語るものであろう。
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「ビジネスモデル破綻」
ところで1980年代に入ると軽薄短小デジタル時代になり、唯一の商品たる重厚長大アナログモジュラー売れず。 さりとてデジタルシンセシスを開発するも、いまいち良い音せず。さすがに唯一の商品の売れ行きが傾くのはゆゆしき問題。ならばアナログシンセをデジタルで制御しよう!と思いついて開発をはじめたのが、幻の名機Audity。
既にProphet-5の開発を経験済み、それは言わばAudityの赤ちゃん版。Audityはその3倍から4倍も大規模かつ 複雑なアーキテクチャーであり、CPUも高度に進化したものを採用。なんせ今までE-mu Modularは、天才がこだ わりまくって凝り倒して作ったわけで。それに取って代わる次世代の看板商品にふさわしく、これまたこだわりま くりの単体アナログシンセとしてAudityを作らんとしていた。して、その莫大な開発費用にはデジタルスキャニン グ・キーボードのロイヤリティを当て込んでいた。
しかしSSMの歩留まりの悪さにSEQUENTIALはProphet-5の設計を全面改訂。すべて音源チップをCURTISの ICへと置き換えた。ほかCURTISのICを採用していたメーカーにはOBERHEIMやROLANDなどがあり、 SEQUENTIALと言えどさすがに音色も以前とはまるで違うものとなった。これがProphet-5 Rev3の誕生である。 そしてそれでもってSEQUENTIALはもはやRev3を別機種とみなし、デジタルスキャニング・キーボードのライセ ンス料を支払停止してしまったのである。
E-MUにしてみれば看板商品の売上に日影がさしてきたところへ、虎の子の収入源が強制終了、そのせいで次の看 板商品も作れない。思わぬ八方塞がりに慌てたデイヴ・ロッサム、対SEQUENTIAL訴訟のことは社長スコット・ウ ェッジに託し、ぱぱっと作れてなおかつ革命的なネタを求めて1980年5月AESショウへ。そこでFAIRLIGHT CMI を見て天才ひらめく。デジタルシンセを作るのは時期尚早だが、デジタルサンプラーを作るのは簡単! CMIみた いな音楽コンピューターでなく単体サンプリングキーボードを作ればいい! なんせ先述の通りロジャー・リンの LM-1も手伝っていたからサンプリングも楽勝理解済。
CMIは1,200万円もしたのだが、サンプラーというよりコンピューター・ベースの統合ワークステーションだった のだから無理もない。このため当然ながらマルチパート音源を搭載し、それゆえボイスごとにCPUからメモリーか らDAコンバーターに至るまで一切合切を装備するも、そんなものデイヴ・ロッサムに言わせれば「ばかじゃねー の、マルチティンバーなんかよりもシンプルにポリフォニックで鳴るサンプリングキーボードのほうが絶対に売れ るに決まってる。冗長性を排し、CPUはZ80を1つだけ、メモリーも1つだけにして全ボイスで共有させたら安価 にできる」
果たしてコストダウン成功。Audity用に開発したディスクOSベースの楽器とする仕様も流用。最初に彼がサンプ リングしたのはエジソンが蓄音機を発明したときの故事にならって自分の妻が歌った「メリーさんのひつじ」(Mary had a little lamb)、しかも途中で1単語だけルー プさせてみたら「Mary had a little, little, little lamb」となってミクロ羊が誕生。その次は妻が居ないときを見計らって開発室の隣にあるトイレでサンプリング、再生してみたら人類最大の膀胱を持った男のような音。
して、その仮称「サンプラー」を開発中、メンバーの一人が「いい機種名を思いついた」ってんで「Emulator」。当時で言うイーミュレーター。今で言うエミュレータ。すなわち模倣者、競合者、ライバル、そんな感じで名付けることに。
かくして史上初のサンプリングキーボード1万ドルにてEmulator、E-MUからついに爆誕! そしてもはやE- MUは影の功労者ではなく、やにわに表舞台に躍り出て売れっ子メーカーとなったのである!
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「インフラからインフラへ飛び移るとき」
初代 Emulator は大ヒット作となった。1981年発売、8ビット/27kHzサンプリング、RAM 128KB、8音ポリ版と4音ポリ版とがあり、ループはできるがエンベロープすらない。
それでもまだYAMAHA DX7が出る前だった当時、一足先にデジタルを標榜したのはサンプラーたちであった。サ ンプラーという名称すら普及せず、サンプリングキーボードとかサンプリングマシンとか言われた。そしてまだデ ジタルシンセが無いままに、デジタルサンプラーとアナログシンセが入り乱れて織りなすのが当時のテクノポップ の特徴。YMOですらデジタルシンセ以前だったのであり、ついぞDX7を使うこともなければMIDIも無い代わりにで かいアナログモジュラーをライブに使っている���メージまで演出していた古典芸能なわけですよ。
しかもサンプラーは「模倣する楽器」という、それまでに存在しえなかった異次元楽器、ミュータントであっ た。それゆえ、著作権を侵害しているのか否かというぎりぎりきわきわの議論やモロどんぴしゃな裁判すらをも踏 み越え、あらゆる森羅万象サウンドをもとの文脈から切り離しあらたな文脈の中にコラージュするという、脱構築 と再構築のための社会学的記号学的なツールという意味合いすら帯び、コピーとオリジナルへの哲学的考察すらはらむ、ソシュールも天を仰ぐが如きスリリングな知的玩具としてポップカルチャーはもちろんシリアスなアカデミ ズムにおいても話題となり、あまたの論文に登場した。
サンプルライブラリー市場もまた人類が初めて経験するマーケット。今で言うコンテンツビジネスの誕生である。ただ、本当に電子楽器業界へコンテンツビジネスが広範囲に到来するのは、これもまた民生機レベルで実現し たDX7の出現まで待たねばならない。そして評判だったEmulator用サンプルライブラリーのみならず、DX7用の坂本龍一ROMや向谷実ROM、生福ROMといったシグネチャーパッチに夢中になった人たちは、言ってみれば今日の Spliceユーザーの先駆者みたいなもの。
すなわち音色を作るセンスから選ぶセンスへと時代は変わったわけで、どっちも個性を出す創造性であるに違い はなく、プロがキュレートしたネタを目利きなアーティストが選ぶことで作品となす点ではAIが提案するものを選択する未来人類の先駆けなのであろう。
長らく土木工事屋さんの如くインフラを作り続けてきたE-MU。それを支えた次なるインフラこそが、これら良質 なサンプルライブラリーによる多種多様な未来コンテンツビジネスなのであった。コンテンツが楽器の次世代イン フラとなり、コンテンツが経営を支えることを、デイヴ・ロッサムは発見したのである。
しかし同時にデイヴ・ロッサムは自分たちがもはや小さなやんちゃ坊主ではなくなったことを思い知る。かつて 工科大の寮の部屋がE-MUだった時代以来、カウンターカルチャーによってドライブされ遊撃活動を繰り広げる愉快 なパルチザンみたいなもののはずが、いつのまにやら成功して大きな企業となり、ついには弁護士まで雇って SEQUENTIALとロイヤリティめぐって争う。
何よりも世の中が進化し、作るものも難解になった。Emulatorは、画期的なサンプリングデバイスでありさえす ればよかった。Emulator IIは、画期的なサンプリング楽器でなければならなかった。それゆえ Emulator II の開発は難航し、先にEmulatorが生産完了になってしまったあともEmulator IIは難産で発売できず、売れるものを失った E-MUは従業員をレイオフせねばならず、会社は今までの天真爛漫さを失うことになった。
音源モジュール版も無かった。MIDI以前からの古い設計思想がアダになり、あくまで楽器を作ることが開発の前 提になっていた。デイヴ・ロッサムにとって音源モジュールは楽器ではない。E-mu Modularと言えどデジタルスキャニング・キーボードを添えて楽器としていたE-MU。よってEmulator IIから鍵盤を省いても、大してコストダ ウンできない。音源モジュールを作るためには別途それに合わせた回路なりを設計しなければならない。そこまで 開発にコストをかけてまでしてモジュール版が売れるという自信もない。痛快だったはずのE-MU、だがいつのまに やら大人になっていたのだ。
悪戦苦闘の末ようやく1984年に生まれたEmulator IIは再びのE-MUヒット商品となり、もはや「イーミュレー ター」の名はサンプラーの代名詞にすらなった。特徴的なその音はFAIRLIGHTとともにひとたび分かればそこらじ ゅうで聴けてびっくりする。エンベロープはもちろん、マルチサンプリングというアイディアもこのときに初めて考案され、E-MUはサンプラーの標準機どころかメルセデスみたいに業界に君臨することとなった。だいたいマルチサンプリングなんて今では当たり前過ぎて誰も問わないけど、当たり前のものが無かったところから思いついたなんて、やっぱゼロから1を生み出す、独創性あふれる天才ですね。
さらにE-MUから出たのはPCMリズムマシンDrumulator。翌年その後継機種としてサンプリング機能も追加し たSP-12、そして3年後サンプリングメモリーを拡大したSP-1200は、AKAI PROFESSIONAL MPC60に先立ち 新しいジャンルたるヒップホップを切り拓いたレジェンドとなった。短かったサンプリングタイムを稼ぐべくヒッ プホッププロデューサーたちが33回転バイナルを45回転にして再生、それをサンプリング後にピッチを下げることで元の音程と長さに戻すと音質が荒れるのだが、それがかえってローファイな味となったことはあまりにも有名。 そのダーティなサウンドがグルーブ界の記号となったため、あとからMPC が出たときなぞ音質が良すぎて線が細い というのでわざわざ汚して太くするテクが流行したこともまた有名。
だが翌1985年、同じアメリカのENSONIQから出たるは、価格破壊サンプラーMirage。1万ドルもした Emulatorに比べ、たった1,600ドルでMirageはローンチ。61鍵版のほかに音源モジュール版まである。しかも価格破壊のみならず凶悪なまでにひどい音質こそ驚愕であったが、それでもミュージシャンにとっては全く問題なかった。ここまで音が変わってしまうと元がなんだったのかわからんとか、もはやこれは音を加工するシンセであるなどとギャグ・ネタにされようが、もろともせずにパンキッシュに売れまくるMirage。こだわりのE-MUは、だがそれゆえオーバークオリティだったのであり、どん底スペックのはずが軽快に営業成績かっとばして赤丸急上昇する番 狂わせチャレンジャーENSONIQは、だがそれゆえ正統派のAKAI PROFESSIONALなんかよりもずっと深くE-MU にとって考えさせられる商売敵となった。自由な発想が売りのアメリカ人のライバルは、同じく自由なアメリカ人であった。
影の功労者から一転、表舞台に立つ大手電子楽器メーカーとなったE-MU、その看板商品を育て守る戦いがここに 始まる。
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「私が愛したノンリアルタイム演算、皆が愛したEmax」
ダークホースとして姿を現した中型高速打撃空母ENSONIQ Mirage。これを迎撃し、最初から音源モジュールも考えて対決する。その回答として出したのがE-MU初の「廉価版」サンプラーEmax(イーマックス)。お値段は2,995ドルということはDX7 とかと同じ感覚、メルセデスのA Class みたいなもん? 1つしか売るものが無かったガリバー商品依存型モノカ ルチャーとも言うのであろうかE-MUにとって、2つめの柱となった名機シリーズの始まりである。
Emaxを設計するにあたり、かつてのSSMチップ開発の経験をもとにデイヴ・ロッサムは初めて独自チップを開 発。結果できあがったE-ChipはデジタルオシレーターにProphet-5のSSMのフィルターとアンプとを加えて全部ひ とまとめにしたようなものであった。またストレージをEmulator IIの5インチ・フロッピーディスクからEmaxでは 3.5インチへと変えるにあたり、Emulator IIを開発しているときに編み出していた12ビットデータを8ビットにまで 圧縮保存するメソッドを移植。3.5インチ・フロッピー720KBの中に鬼のようにサンプルを保存できるようになっ た。
ポップなカラーリングとテンキーすらもが斜めってるおちゃめな外観はMax Yoshimotoなるデザイナーの手にな るもの。もちろん音源モジュール版も最初からあり、しかもそいつまで同じデザイン、テンキーも斜めの音源モジ ュールなんてEmaxくらいなもの♬
E-MU 謹製ライブラリーに支えられた「廉価版」ともなるとやはり魅力。圧縮保存して多少音がローファイに荒 れようが、アナログのVCF/VCAの効き具合はやはりSSMゆずりっぽさもあって独特なキャラが楽しい。宣伝で「2 音色レイヤーしても発音数が減りません!」とかって魔法みたいに言ってたがなんのことはない、1ボイスあたり オシレーターが2基あるだけのこと(笑)。そして前編冒頭にかかげたみょーな説明がついているBird Runという 機能。文字通り LCD の中をエミューが走り回るだけなのだが、実は自己診断機能であった。
Emaxには後追いでEmax SEという機能追加版があった。SEとはSynthesis Enhanced、フロッピーでバージョ ンアップ。これには24サイン波倍音加算合成による24ステップ・ウェーブテーブル自作機能ことSpectrum Synthesisと、もう一つTransform Multiplication Synthesis、とらんすふぉーむまるちぷりけいしょんしんせし す、あまりにも名前が難解すぎてアメリカ人ですら噛み噛み、こっちから発音してさしあげたら早口で復唱してき たのちに「thank you」と言われてしまう壮絶なシンセシス機能が追加搭載された。後者は恐らく2つのサンプル をフーリエ解析し、共通の周波数を持った倍音を抽出し、それらの振幅を乗算させたのちリシンセシスしているも のと思われる。結果例えばバイオリンが言葉をしゃべったりするが、多くの場合予測不可能。強烈な金属倍音が激 しく流出したりして、たいへんな結果に陥ることも多い。
しかも演算��ノンリアルタイムであるばかりか、しばしば演算に半時間以上もかかる! 最大40分くらいかかるらしい。なんでもスパコンに相当する演算を32ビットCPUと8ビットコプロとちーちゃなメモリーでやりくりしな がら実行しているかららしいが、とにかく「Synthesize!」とノーテンキなメッセージに促されるままに実行キー を押すやいなや「○○分お待ちください」などとLCDに出てきた日には失神しそうになる。既になりふりかまわず Emax SEは演算に没頭。どえらい波形レンダリングをしている間なんぴとたりとも止められない。英文取説では 「ま、ちょっと休憩でもどうぞ」なんてぐあいに開き直っている! おまけに最低 32KBのRAM領域が必要とか で、これを割り込むと「足りん! サンプル減らせ!」と怒られる。キロバイトでも貴重なリソース。
これら強力シンセシスを駆使して作成した音は、サンプル同様2基のオシレーターにアサインすることでレイヤ ーできる。サンプルとのレイヤーも可能。そしてこれらは実は現場のエンジニアが仕事の合間に自主的にちゃちゃ っと開発したスカンクワークであった。だから結局おちゃめで楽しい!
EmaxにはSE版のほかに40MBのハードディスクを搭載したEmax HDなどがあり、当時のデペッシュ・モードが メンバーのうち3人がおのおのEmax HDのみ1台ずつをセッティングして弾き、さらにカスタムメイドのパーカッ ションパッドでEmax HDを鳴らし、あとは何にも無いという、いかに80'sテクノにふさわしくすっきりシンプルで ハイテクなステージを披露。ライブ映像作品『101』で勇姿が拝める。
天才デイヴ・ロッサムにとってはどうもEmaxは物足りないらしいのだが、それでもこの価格帯はEmax II、ESI- 32、ESI-4000、ESI-2000、E64、E6400というふうにずーっと引き継がれて最後まで新製品が投入されること となった。
このうちEmax IIは、実は中身ほとんど三IIIことEIIIことEmulator IIIなのだが、Emaxのハコに入ってしまったが ために過小評価されてしまったちょっとかわいそうな機種でもあった。にもかかわらずEmax初代と2代目とで合わ せて9年間も売れ続けたというのは電子楽器の世界ではロングセラー。思い出深く振り返るユーザーも実は全地球的に多い。またESI-32からは2U音源モジュールのみとなり、時代にもマッチしたばかりでなく2Uは運びやすいサ イズでもあったので合理的であった。3Uって重くてでかくて現場へ運ぶのつらいよね。4U以上はもう無理。
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「黄金時代」
この後、1990年代にかけてE-MUは数世代にわたり独自チップを開発、それらをもとに数々の名機を送り出す。 今なおアナログフィルターが懐古的人気を呼ぶEIII(Emulator III)、それをデジタル化した新世代EIIIXP、最後の 巨星EIV(Emulator IV)に至るまで、E-MUはAKAI PROFESSIONALと双璧をなす大規模ハードウェアサンプラ ーの名門となった。そのあとはソフトウェアサンプラーEmulator Xを出すことで、当時台頭していたNEMESYS Giga Samplerの好敵手にもなっている。
またコンテンツビジネスを応用、潤沢なサウンドライブラリーからエッセンスを凝縮させた比較的に安価かつコ ンパクトな1Uラックサイズ廉価版シンセ音源モジュールをたくさん出した。具体的にはProteusシリーズ、 VintageKeyシリーズ、Morpheusなる変態フィルター搭載シンセ音源モジュール、OrbitやMo’Phattなどとい ったジャンル別シリーズなどなど。これが同じPCMシンセかと思うくらい太くて明るい舶来サウンドに魅了された 日本のユーザーも多い。さらにはそれらをベースにしたグルーブボックスのXL-7、MP-7、PK-7なるコマンドステ ーション・シリーズもあり、E-MUはかつてなく多くの機種かつ多彩なラインナップを売り出す人気楽器メーカーと なった。これらはすべて、名だたるE-MUサウンドが欲しい少年少女たちへの福音だったのであり、みなぎるコンテ ンツパワーに立脚した1990年代こだわりのステータスシンボルたちでもあった。やはり、楽器は音である。
EIVはE-MU最後の名機かつ集大成と言ってよく、1990年代から2000年代にかけてAKAI PROFESSIONALへの オルタナとしてプロの定番であった。シリーズ大半が3Uラック・モジュール。128音ポリ。後から76鍵のキーボー ド版も出たなんて覚えてる? 鍵盤のそばにさりげなく“EMULATOR”って書いてあったよね? EOS(Emulator OS)なる独自OSで駆動されアイコンを多用したユーザーインターフェースは、もはやサンプリング専用コンピュ ーターのよう。前述のMorpheusでお披露目された変態フィルターことZ-Planeフィルターも搭載。これはZ平面 の名の通りスペアナ上で3次元的に周波数特性が変化する多彩なデジタルフィルターであり、これを知ってしまう と普通のLPF/BPF/BRF/HPFといったものが凡庸に思えて仕方がない。
最後の大物にふさわしくEIVには派生機種もあり、プリセット音色を充実させたE-Synthや、もはや外観だけが同 じで中身は派生とは言えないハードディスクレコーダーDarwinなどある。また前述のE64、そしてE6400は同時発 音数を半分の64音にとどめた廉価版であった。
そして時はAKAI PROFESSIOANL S6000やYAMAHA A5000といった末期的な巨大恐竜のように肥大化したハ ードウェア・サンプラーのファイナルステージでもあった。そして時代の要請により、それらはすべて音源モジュ ールであった。それら最終進化型サンプラーの世において、その最後に登場した哺乳類型爬虫類の如きミュータン トが新時代の朝を告げる6音ポリ・マシンROLAND VP-9000でありVarPhrase技術だったとも言えよう。
ラインナップの大半が音源モジュールという珍しい楽器メーカーE-MU。豊かなコンテンツパワーの果実たち。そ れでもデイヴ・ロッサムは「楽器」を作りたいという思いからキーボードへの夢が忘れられず、かつて SEQUENTIAL Prophet-T8などの鍵盤も製造したPRATT READから鍵盤製造マシンを手に入れたり、今ではスマ ホやタブレットに使われている静電容量センサーをキーボードに応用し、厳密にベロシティや鍵盤の沈み込み位置 を計測しつつも安い価格で鍵盤楽器を商品化できないか追究。しかし極上のキータッチを備えた絶品かつ安価なキ ーボード・コントローラーという彼の夢は、1990年代のうちに消えたのであった。
そして八面六臂の活躍をした彼の会社もまた SoundBlasterを作ったシンガポールのCREATIVEに吸収され、E- MUの名は今はなぜかヘッドフォン2機種に付与されているのみ。だが実は買収後のデイヴ・ロッサムはCREATIVE 自身の機種開発に忙殺されていたらしい。そしてその後、彼は表舞台から姿を消した。
MIDIは電子楽器を役割別に要素分解し、おのおのの目的に特化したコンポーネントへと分化せしめた。結果、キ ーボードやドラムパッドのようなコントローラーも出れば、音源モジュールも誕生。そしてEIVのような音源モジュ ールは、DAWプラグインとなってパソコンに吸収される時が来た。
それでもなお楽器が生き残るためには、精緻なDAWとは違う道を、つまりソフトウェアに最適なハードウェアを身にまとう道を、フィジカルな躍動感と人間の出番の多さとを楽器に求めることになった。AKAI PROFESSIONAL MPCはそうやって成功を積み重ねた今日的なサンプラーであり、ENSONIQ ASR-Xはあまりにも惜しい対抗馬、 BOSS SP-202 Dr. Sampleはうまく下をくぐって庶民の味方SP-404シリーズに至る血統の開祖となる。
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「総括と旅立ち」
E-MUとは、なんだったのであろう。
世界の創造神MOOGとARP。 それら創造神を倒した英雄OBERHEIMとSEQUENTIAL。
ポリシンセの盟主であるとともにネットワークの先駆者だったOBERHEIMとSEQUENTIAL。パラレルかシリア ルかの違いこそあれ、この2社は楽器をネットワークでつなげたのであり、そのノードにわくわくするポリシンセ の名機たちを置いた。
そのポリシンセを支える技術インフラを構築したE-MU。OBERHEIMとSEQUENTIALが安価な日本勢とのハー ドウェア競争に破れて倒産したときも、E-MUだけはコンテンツパワーでもって生き延びたのであった。ハードウェ アによるインフラからソフトウェアによるインフラへと時代に合わせて飛び移ったアタマの柔らかい天才E-MU。か くしてE-MUは価格競争に巻き込まれること無く、高いプロファイルでもって付加価値をつけ長く電子楽器業界のプ ロフェッショナルとして君臨。してその最後は日本勢に敗北するのではなく、コンピューターという究極のコンテンツ端末によって静かに吸収されることとなった。楽器であることにこだわったデイヴ・ロッサムの姿がステージから消えたとき、それは楽器の難しさを示すものとなった。
すっかりDAW時代になった2016年、突如としてデイヴ・ロッサムはE-MUとは違うところからカムバック宣言。 ROSSUM ELECTRO-MUSICを名乗り、以来、今日に至るまで強烈にヲタな仕様のユーロラックモジュールをたくさん送り出している。
やり過ぎ感たまらん3次元Z-Plane FilterモジュールことMorpheusは、前述のEIVなどに搭載されたものをさら にやり過ぎにした満腹フィルター。やり過ぎ感たまらん8chサンプラーモジュールAssimili8or。複雑怪奇なCVジ ェネレーターControl Forgeなどなど、もはや鬼才とも言えるデジタルモジュールたちが綺羅星のごとく舞い踊る はさすがデイヴ・ロッサム。
一方で自身が発明した最愛まろやかアナログフィルターことE-mu Modularから2100 LPF Module、それを元に 開発したラダー型VCFモジュールEvolution、0.1Hz~25kHzまで安定したレゾナンスが得られるのだというこれも また鬼っぷり。これらはさしずめ21世紀版E-mu Modularとも言うべきものであろう。
同社からはサンプリング・リズムマシンの名機SP-1200もリバイバル、なんとプレミアム価格4,000ドルにて再 登場。さらに2020年からはSP-1200 35th Anniversary Renovationとして驚天動地7,500ドルで販売中。
どうがんばっても75万円以上するサンプリング・リズムマシンをポチりたい勇者は、こちら。
https://shop.rossum-electro.com/products/sp-1200-35th-anniversary-renovation
そして実は新生SEQUENTIALのサンプリングシンセProphet-Xにも、デイヴ・ロッサムが設計したVCFが搭載 される。かつてVCFの銘機とうたわれKORG Polysix に採用された SSM 2044、その復刻改良版SSI 2144。どち らのIC開発にも噛んでいるはここにもやはりデイヴ・ロッサム。二人のデイヴの合作Prophet Xでは、そのSSI 2144でサンプルを加工できるので試していただきたい。同じフィルターICはUDO Super-6にも搭載され、やはり天才デイヴ・ロッサムは再びの影の功労者として、影に潜み、影で暗躍する謎のテクノロジカル小僧に戻った部分 もあるのかもしれない。
デイヴ・ロッサムには電子楽器の基礎技術開発に軸足を置いた前半と、コンテンツでもってビジネスをけん引するモデルとなった後半とがあった。そして両者に共通するのはインフラへの理解。 昨今、とかくコスト重視、大学ですら経済効率、科学誌『Nature』ですらセンセーショナルな話題性を求められすぎて、功に焦ってしまったのがちょっと前にあったほにゃらら細胞事件の深層。それくらいちょっち前の話だけどオバマも言ってたよね、 「不景気な今だからこそ将来への先行投資として、応用研究ではなく基礎研究への予算を倍増する」 って。何でもかんでも分かりやすくてセンセーショナルな話題ばっか探し求めない、地道な基礎技術への理解、さすがです。山というものは裾野が広いからこそ高く成長できるわけで、厚い基礎技術の底力、これ大事。
そしてその影の革命家として天才遊撃隊長デイヴ・ロッサムが夢想するもの。それはツウな逸品やツウなテクノ ロジーを音の宇宙に送り出すこと、電子楽器のツウなる仕出し屋さんとなることなのか。 次回はその彼をして驚かしめたもう一つのメーカー、そう、E-MUとくりゃもう一つのEについても語らないとね。
(2022年8月1日Sound&Recording公式サイト初出)
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