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#オーストラリアの田舎で暮らせば
nanaimari · 1 year
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【オーストラリアの田舎で暮らせば⑤家庭菜園のガーデン・ベッドで育てる夏野菜】
南半球の冬の終わりから始めた家庭菜園の準備と、初夏(12月)からの収穫の記録。シドニーなどの都市部と比べて、地方部では日中と朝晩の気温の寒暖差が激しいため、なかなか思った通りには成長しなかった野菜も。 https://nichigopress.jp/topics-item/57685/
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xf-2 · 4 years
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イタリアにおける新型コロナウイルス感染状況は、凄まじいばかりだ。「全土崩壊前夜」といった類の煽り気味で絶望的なニュースが飛び交う。
だが、なぜイタリアでこれほど感染が拡大したのか、といった視点が決定的に欠落しているように思える。
そこで、鄧小平が断行した対外開放、つまり「中国人の移動」という観点からイタリアを襲っている惨状の背景を考えてみたい。
おそらくイタリア社会における中国人――その大部分は対外開放以後に海外に「走出去」して飛び出して行った新華僑世代――の振る舞いを捉えることで、ヨーロッパ全体を覆いつつあるパンデミック危機の背景を知ることが出来るはずだ。
中国人がいないと米作りが成り立たない 今から7、8年ほど前になるが、香港の中国系書店で『“不死的中国人”――他們干活、掙銭、改変着意大利、因此令当地人害怕』(社会科学文献出版社 2011年)なる書籍を購入した。
地下にしっかりと根を張りながら咲き誇るタンポポの表紙に魅かれたと同時に、日本語に訳すと『“不死身の中国人”――彼らは働いて、カネを稼いで、イタリアを変えている。だから土地の人に怖がられる』となる書名が醸し出す反中・嫌中の雰囲気が気になったからだ。
それにしても不思議に思ったのは、この本が北京の出版社から刊行され、しかも香港の中国系書店に置かれている点だった。
じつは、この本は中国人が著したものではなく、2人の若いイタリア人ジャーナリストがイタリア全土を駆け巡り、イタリア社会で生きる中国人の姿を克明に綴った
『I CINESI NON MUOIONO MAI:LAVORANO,GUADAGNANO,CAMBIANO L’ITALIA E PER QUESTO CI FANNO PAURA』(R.Oriani&R.Stagliano Chiarelettere 2008)
の翻訳である。
筆者にはイタリア語が分からないので、翻訳の出来不出来は判断のしようがない。が、なにはともあれページを追ってみた。
すると、中国人のイタリア社会への逞しくも凄まじいばかりの浸透ぶりが、溢れんばかりに綴られていた。
たとえば西北部の穀倉地帯として知られるピエモンテでのこと。
1980年代末に「紅稲」と呼ばれる雑稲が突然変異のように発生し、増殖をはじめ、稲の生産を急激に低下させた。ところが紅稲は除草剤や除草機では駆除できない。やはり1本1本を人の手で丁寧に抜き取るしかない。だが、肝心の単純労働力は不足するばかり。
そこへ、農家の苦境をどこで聞きつけたのか、大量の中国人がやって来た。イタリアで半世紀以上も昔に忘れ去られてしまった田の草取りの方法のままに、彼らは横一列に並んで前進し、紅稲を抜き取っていく。
<7、8月の灼熱の太陽を受け泥に足をとられながら、手足を虫に咬まれ、腰を曲げ、全神経を紅稲に集中する。想像を超える体力と集中力、それに一定の植物学の知識が必要だ。紅稲は一本残らず抜き取らなければ正常な稲に害が及ぶ。抜くべきか残すべきかを知っておく必要がある>(同書より抜粋)
過酷な作業ながら収入は少ない。だが喜んで中国人は請け負う。
ある日、田圃で中国人が脱水症状で倒れた。彼らに「健康を考慮し、明日からは10時間以上の作業を禁ずる」と告げた翌日、雇い主が田圃に行ってみたが、誰もいない。慌てて宿舎に駆けつけると、彼らは荷物をまとめて立ち去るところだった。
「毎日10時間しか働けないなんて、時間のムダだ」と、口々に言う。雇い主は、「中国人は疲れることを知らない。気が狂っている」と呆れ返る。
かくして同書は、「中国人がいないとイタリアの米作りは成り立たなくなってしまった」と嘆く。
「中国人って1カ所には留まらない」 農業に次いで、大理石の石工、ゴミ処理工場労働者、ソファー・皮革・衣料職人、バー、レストラン、床屋、中国産品の雑貨商などが中国人に依存するようになり、中国人はミラノを「イタリアにおける中国人の首都」にして、ありとあらゆる産業を蚕食していった。
その大部分は浙江省や福建省の出身者で、多くは非合法でイタリア入りしている。教育程度は他国からの移民に比較して低く、それゆえイタリア社会に同化し難い。
苦労をものともせず、倹約に努めるという「美徳」を備えてはいるものの、それ以外に目立つことといえば博打、脱税、密輸、黒社会との繋がりなど……。どれもこれも、胸を張って誇れるビジネスではない。文化程度の低さは、勢い生きるためには手段を選ばないことに繋がる。
これがイタリアで増加一途の中国人の現実である。
イタリア人は彼らを通じて中国を知る。だが中国人は、そんなことはお構いナシだ。
子供をイタリアの学校に通わせ、イタリア人として育てようとしている両親もいることはいるが、カネ儲けに邁進しているので、学校や地域社会で偏見に晒されている子供の苦衷なんぞを推し量る余裕も意識も持ち合わせてはいない。
同書の著者が、アンナと呼ばれる20歳の美しい中国娘に「夢は?」と尋ねる。すると彼女はこう答える。
<夢! そんなもの知らないわ。中国人って1カ所には留まらないものなの。あっちがよければ、あっちに行くわ。おカネの儲かり次第ってとこね。この地に未練なんてないの。もう14年は暮らしたけど、とどのつまりは行きずりのヒトなのネ……>
この印象的なシーンで、同書は終わっている。
アンナも他の中国人と同様に「とどのつまりは行きずりのヒト」なのだろう。
だが、新型コロナウイルスが「行きずりのヒト」と共に世界中を動き回ったとするなら、イタリアのみならず人類にとっては、やはり危険過ぎるというものだ。
対外開放でカネ・ヒト・モノが流入 1975年の時点で、イタリアでは400人前後の中国系住民(旧華僑世代)が報告されているが、鄧小平が対外開放に踏み切った1978年末から7年ほどが過ぎた1986年には、1824人になっている。
以後9880人(1987年)、1万9237人(1990年)、2万2875人(1993年)へと急増していったが、彼らは新華僑世代である。1990年代半ば、新華僑はイタリア在住外国人としては6番目の人口を擁していた。
1986年から1987年の間の1年間に見られた5倍以上の増加の主な要因は、1985年1月にイタリア・中国の両国間で締結(同年3月発効)された条約によって、イタリアへの中国資本の進出が促された点にある。
人民元(カネ)と共にヒト、つまり中国人労働者が大量にイタリアに送り込まれるようになった。また中国料理・食品(モノ)への嗜好が高まったことも、中国人労働者(ヒト)の流入に拍車を掛けたはずだ。カネ・ヒト・モノが中国からイタリアに向かって流れだしたのだ。
新華僑世代も旧華僑世代と同じように、同郷・同姓・同業などの関係をテコにして「会館」と呼ばれる相互扶助組織を持つようになる。1980年代半ばから1990年代末までの10年ほどで十数個の相互扶助組織が生まれた。これこそ新華僑世代増加の明らかな証拠だろう。
商品の発送元は温州市 彼らは強固な団結力をテコに、自らの生活空間の拡大を目指す。
たとえば、2010年前後のローマの商業地区「エスクィリーノ地区」には、衣料品、靴、皮革製品などを中心に2000軒を超える店舗がひしめいていたが、その半数は中国人業者が占めていた。
現在はそれから10年ほどが過ぎているから、その数はさらに増したと考えて間違いないだろう。
彼らが扱う商品の発送元は、浙江省温州市である。温州は、遥か昔の元代(1271~1368年)から中国における日用雑貨の一大拠点として知られる。新型コロナウイルスを巡っては、2月初旬に湖北省武漢市に続いて封鎖措置を受けた。
ローマの商業地区と新型コロナウイルスによって危機的レベルにまで汚染された中国の都市がモノとヒトで日常的に結ばれていたことを考えれば、イタリアの惨状が納得できるはずだ。
友人のイギリス人は、感染拡大の背景にはイタリア人の生活様式もあると指摘する。
イタリア人はオリーブやトマトといった健康的な食生活によって、肥満の多い欧州先進国においては珍しいほどに長寿国で、高齢者が多い。周辺先進国に比べて核家族化が進んでおらず、3世代同居も珍しくない。特に高齢者には敬虔なカトリック信者が多く、教会でお椀を共有してワインを飲む習慣があるという。
であるとするなら、中国人の「移動」という極めて今日的要因がイタリアの社会的・文化的伝統という“宿主”を得たことで、被害の拡大に繋がったとも考えられる。
中国人の数は40万人超 いま手元にある『海外僑情観察 2014-2015』(《海外僑情観察》編委会編 曁南大學出版社 2015年)を参考にし、近年のイタリアにおける中国人の状況を素描しておきたい。
中国人の人口は全人口の0.49%で30万4768人(2013年1月1日現在)。これに非合法入国者を加えると、実際は40万人超ではないか。
中国系企業が集中している地方は西北部のロンバルディア(1400社)、中部のトスカーナ(1万1800社)、東北部のヴェネト(8000社)、北部から中部に広がるエミリア・ロマーニャ(6800社)であり、貿易を主にして2万5000社前後。他にアパレルや製靴関係が1万8200社、レストラン・バー・ホテルなどが1万3700社を数える。
「イタリアにおける中国人の首都」であるミラノを見ると、イタリアが2008年のリーマンショック以後、経済危機に陥ったにもかかわらず、中国系企業、殊に食品関連は急増。同市で外国からの移住者が経営する600社のうち、中国人移住者のそれは17%を占めている。
アパレル産業の中心でもある中部のプラトでは、人口20万人余のうちの3万4000人を中国人が占めている。じつに7人弱に1人だから、一大勢力だ。彼らは有名ブランドの下請けから始まり、いまや伝統的な家内工業的システムを駆逐し、新たなビジネス・モデルを構築しつつあるという。
2014年4月、東北部のパドヴァには中国人経営のアパレル・チェーン店「CVG」が創業し、有名なファストファッションブランドの「H&M」や「ZARA」のライバルとして急成長を見せる。イタリアにおける中国系企業の小売り最大手は「欧売集団」で、イタリア全土で34軒のスーパーマーケットを経営しているという。
――以上は飽くまでも『海外僑情観察 2014-2015』に基づいたものであるが、ここからもイタリア社会への中国人の浸透度がある程度は理解できるだろう。
AC AFP via Getty Images AC Milanのイメージ写真 「ACミラン」の経営にも中国の影 「イタリアにおける中国人の首都」ミラノの象徴といえば名門サッカーチームの「ACミラン」だが、ここの経営にも中国人が大きく関係していた。
2014-15年シーズン終了後、ACミランのオーナーだったシルヴィオ・ベルルスコーニ元首相は、タイの青年実業家「Mr.Bee」ことビー・テチャウボンとの間で売却交渉を始め、2015年5月にACミラン株の48%売却で合意した。
Mr.Beeは、タイの「康蒂集団」と『星暹日報』の両社を傘下に置くサダウット・テチャブーン氏の長男である。
サダウット・テチャブーンは華人2代目で、華字名は鄭芷蓀。父親の鄭継烈が起こした建設業を引き継ぎ、1990年代初頭から積極経営に転じ、タイ国内のみならず中国やオーストラリアでの不動産開発やホテル経営にも乗り出した。
その後、タイの老舗華字紙『星暹日報』を買収し、2013年11月には広東省政府系の「南方報業伝媒集団」からの資本参加を得て、紙面も一新。それまでの繁体字からタイの華字紙としては初の簡体字横組みとし、電子版の配信、中国版Twitter「微博」の活用なども始めた。
当然のように論調にも南方報業伝媒集団の強い影響が感じられる。『星暹日報』は、タイにおける中国メディアの“別動隊”とでも言えそうだ。
さて、アブダビの資産管理会社「ADS Securities」と中国政府幹部が資金源と伝えられていたMr.Beeだが、ACミラン買収資金に苦慮していた。そこで彼が資金援助を申し入れた相手が、「阿巴里里集団」を率いる馬雲(ジャック・マー)であった。
2016年8月、ACミランは中国企業のコンソーシアム(共同事業体)に約832億円(株式の99.93%)で売却され、2017年4月にベルルスコーニ元首相はACミラン経営から撤退した。その後、2017-18年シーズン途中で中国系オーナーの債務不履行が原因で、最終的にはアメリカのヘッジ・ファンドが新オーナーに就任した。
華僑・華人の本質は移動 こう見てくると、「アンナと呼ばれる20歳の美しい中国娘」から現在の中国を代表する企業家・資産家の馬雲まで、じつに多くの中国人がイタリアと関わりを持っていることが分かるだろう。
同時に対外開放以後に顕著になった中国人の「移動」という現象が、合法・非合法に限らず世界各地の社会に様々な影響を与えていることも確かだ。武漢から感染が始まった新型コロナウイルスもまた、その一環と考えるべきではないか。
華僑・華人研究の第一人者である陳碧笙は、中国が開放政策に踏み切った直後に『世界華僑華人簡史』(厦門大学出版社 1991年)を出版しているが、同書で彼は、帝国主義勢力が植民地開発のために奴隷以下の条件で中国人労働者を連れ出した、つまり華僑・華人は帝国主義の犠牲者だという従来からの見解を否定した。
そして、華僑・華人の本質は、
「歴史的にも現状からみても、中華民族の海外への大移動にある。北から南へ、大陸から海洋へ、経済水準の低いところから高いところへと、南宋から現代まで移動が停止することはなかった。時代を重ねるごとに数を増し、今後はさらに止むことなく移動は続く」
との考えを提示した。
この主張をイタリアのみならず今や危険水域に達しつつあるヨーロッパ、アメリカ、日本、韓国、東南アジア、さらには感染報告が比較的少ないアフリカ、南米、そしてウズベキスタン、タジクスタン、キルギスタンなど中央アジアの国々にまで重ねてみるなら、新型コロナウイルスはもちろんのこと、中国発の“未知の危機”を今後も想定する必要があるだろう。
極めて逆説的な表現ながら、いまこそ国境を閉じて富強を目指した毛沢東の“叡智”を見返す必要を痛感する。新型コロナウイルスを「毛沢東の怨念」と見做すのは、筆者の偏見だろうか。
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gunosy-news · 3 years
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旅先から修羅場まで...みんなの野宿エピソードが面白すぎた
集計期間:2020年12月20日~12月22日 回答数:17115
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突然ですが、皆さんは「野宿」をしたことがありますか?
筆者は遠い昔、家族が寝静まった深夜に帰宅するも鍵を紛失しており、実家の敷地内で野宿をしたことがあります…
そこで今回は「やむを得ず野宿をした経験はある?」というテーマで調査してみました。
やむを得ず野宿をした経験はある?
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回答者17115名のうち、やむを得ず野宿をした経験が「ある」人は全体の約14.8%、「ない」人は約85.2%という結果でした。
ここからは、やむを得ず野宿をした皆さんから寄せられた貴重なエピソードを見ていきましょう。
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<旅先で>
・北海道でのツーリング中でガス欠して。
・夏の北海道で。その日は、夜の宿を予約しておらず、まぁ、銭湯にでも行こうと思っていたのですが、とても暖かく、夜風にあたりながら、そのまま。
・野宿と言ってよいかどうかわかりませんが、50年近く前の学生時代に北海道旅行した時、金がないので札幌駅前の芝生(?)で寝たことがあります。今はどうかわかりませんが、当時は問題なく過ごせました。ただ、熱くて寝苦しかったのを覚えています。
・高校卒業旅行で弾丸で和歌山へ車で出かけて宿をとっていなく、浜辺で寝た
・学生の頃、四国へ青春18切符を利用した旅行した際、予定の目的地に間に合わず、野宿する
・学生の頃、東北三大祭りの一つ「ねぶた祭り」を見に行ったら宿に空きがまったくなく、仕方なしに公園にたまたまあった土管の中で一晩過ごしたことがある。
・高尾山付近で山小屋で新聞紙を体に巻いて一夜を過ごしました。下山後駅前での食事が美味しかった事この上ありませんでした。
・1人旅の途中に散歩がてら徒歩で山の景色を楽しんだら迷子になり宿泊先に戻れず1晩と野宿するはめになった。
・山を越えて日本海へ!と友人と車で出掛けてみたが、道に迷い途中でガス欠寸前に。ガソリンスタンドが開くまで動かずにいようと朝まで待ちました。
・無計画な旅行で、夏場だったので、公園で朝を迎えた事がありましたよ!朝陽を浴びて、とても清々しい気持ちになりました。
・宿がなければ駅に止まればいいと思い旅行に出たが駅を24時に締め出され野宿した
<グローバル野宿>
・東南アジア旅行した時に、タイやインドで駅の中で野宿した
・グアムで初日ホテルとってなくて、しょうがなく
・海外にて予約していたはずのホテルに業者のミスで予約が入っておらず、���悪く周辺ホテルも満室で止むなく教会の敷地内に野宿した。今思いだしても、あれはないわ。。。
・イギリス旅行した時に、公園のベンチで一晩過ごしました。今よりズッと治安も良かった気がします。
・オーストラリアでメルボルンからエアーズロックまで車で行こうと思ったが日本の距離感が全く会わずに砂漠で野宿しました。満点の星空に感激しました。
・フィリピンでパナツボ火山に登った時に日が暮れてしまって火山灰の上に野宿
<天災や事故で大変でした>
・大震災の次の夜、知り合いも避難であてにならず、車移動の途中で道路脇で一夜を明かした
・東日本大震災のとき、避難先の小学校の屋上で一晩過ごしました。近くのコンビナートで火災があったため、迫りくる炎の中での野宿は翌日ヘリで救助されるまで生きた心地がしませんでした。
・昔、東北の峠越えの最中に雪で脱輪落下。明るくなるまで、車内で野宿。
・大雪ので道路が通行止めになって、コンビニの駐車場で野宿した。食べ物とトイレはコンビニで済ませて助かった。
・ドカ雪が降り家まで帰るに帰れず車中ですが野宿しました寒さと恐怖で寝るに寝れなかった
・台風で道路が通行止めになり仕方なく駅で寝たことがある
・真夏の海沿いで、渋滞にハマり、帰宅までの時間が見通しつかずに、仕方なく翌日の朝に帰るようにと思い、海沿いにあった灯台の駐車場で野宿。が、真夏、海ということもあったせいか、ヤブ蚊の餌食になった。車に入ってきた、数、21匹。主人ともども、無数、刺されまくった、、、最悪だった。
<家出>
・学生時代に家出して一晩野宿しました。冬ではなかったのでなんとか……。
・高校生の頃家出をして…田舎なので国道沿いの山奥で朝まで隠れてたことがある。
・中学生の頃家出して、泊まる所がなくトラックの荷台で野宿した事がある。
・野宿と言うか、車中泊だったんだけど。社会人になって間もない若かりしある日、仕事から帰って母親の作ったご飯を食べようとした瞬間、母親が「さっさと家を出ていけ」と言ったことに対し、仕事も上手くいっていなかったせいもあってカッとなり「今すぐ出ていったるよ!」とカバンだけ持って自家用車で行く宛もなく出ていき車中泊した。
・ガキの頃親と喧嘩して、うちを飛び出したのだが行くあてもなく河原の土手で一晩過ごした!
・両親と喧嘩して、お互い頭に血が上ってて、出てけって言われたから荷物とか大量に詰めて出ていったが、携帯は持っていくなと言われ誰にも連絡つかなくてしょうがないから近所の公園で一晩過ごした。
・10代の秋頃に友達と2人で家出中、行く所が無くなり寒くて風を凌ぐためにマンションのエントランスに入って野宿した事がある
・中学生の頃に家出をして、祖父の山に野宿した。夏場だったが寒く枯れ草を集めて暖を取り、火を焚いて蚊を追い払い、夜空の星を見上げていたらこの世界で自分は何でも出来るのだと思った。2日も経たないうちに、お腹が空いて帰り怒られた。
<ライブで興奮>
・ライブ終わり興奮しすぎて高速バス乗り過ごした
・つま恋の拓郎&かぐや姫のライブに前日から行き友人とここで寝るしか無いと暗闇の中寝た。朝起きたらすぐ横を走るトラックの音で起きびっくりした。道の端で寝ていた!
・19歳で好きなバンドのツアーで初めて千葉から名古屋まで行き、金銭面でもそうだけどホテルさえ手配していなくてバンドの人達の出待ちをして、電車も終電なくなり当時は改札からホームは閉鎖していたけど改札入る前の駅自体は閉鎖されていなかったから駅構内で野宿をしました
・他県のライブに行った際、終電を逃して友達とずっと公園で話していた。
<終電よ行かないで>
・電車で最終で寝込んで終点まで行きお金なく公園で野宿した
・終電を逃した時に限ってホテル満室のため、駅の待合室で1泊した。
・列車の旅をして終電乗る過ごして野宿した
・田舎のローカル線で21時頃の終電を逃して駅前の公園のベンチで朝6時頃の始発まで野宿
・終電で寝過ごして帰れなくなったときに横浜のランドマークタワーの下でダンボールにくるまって寝た
・残業で終電がなくなったが、職場からは追い出された。始発まで公園のベンチにいた。
・終電で寝過ごし、知らない駅で降ろされ、二人先の方でタクシーが出払い、待っていてもタクシーが来ず、駅から歩き出すも方向が判らず結局、駅から1時間強くらい歩いた河川に掛かる大きな橋の下に泊まることに・・・。翌朝起きると地元ではなく、隣の新潟県でした・・・。
<酔���払い>
・酔っていて外で寝てしまった
・若い頃結果的に酔っ払って数回した事がある。
・野宿とは意味合いが違うけど酔って建物の軒下で寝たことが何回かある
・呑みに行き、終電で帰路に就いたが開発中の終着駅にて…ショッピングモールもホテルも建造中でタクシーすら通らずで
・飲みすぎて路上で寝てしまい荷物を全てなくしてしまい一晩屋外で過ごしたことがあります。翌朝知人に会うことができ、電車賃を借り帰ることが出来ました。
・大学生の時にお酒を飲んで終電を逃した。翌日1限からだったので大学の実験棟外階段で野宿をした。朝7時に部室棟が空き部室で寝たが2限も寝坊した。
・酔っ払って財布を見たら1000円しか無く周りに何も無くしばらく歩いて会社の最寄駅まで行き(定期が使えるので)風を凌げる所のベンチで始発まで寝た酷い二日酔いだった
・ありがちなのですが、飲み会で飲みすぎて、終電逃しタクシーで最寄り駅まで着いたのは、いいのですが、歩いて5分の自宅の方へは、なぜか行かず、駅のバス亭の、ベンチへ、気がつけば朝日が昇っております。結果、一晩ベンチで野宿しました。因みに、私は、おんなです。
・飲み過ぎて今どこにいるのか分からなくなり、財布と眼鏡も盗られたのか落としたのか何処かで失くし、仕方がないので公園のベンチで朝まで寝ました。(8月で良かった)
・友達のアパートへ3人程で一晩お世話になるつもりが、酒を飲んだ後酒を飲まない自分の車でコンビニに買い物に出かけた後、締め出しにあった。本人曰く眠ってしまったらしいが…。仕方なく車の中で3人で一晩過ごした。今思うと夏だったから良かったけど、冬なら無理と思う環境だった。
<お金がない>
・大学生の時。金がなくて。仕方なく。夏だからできたし、若かったからね。おかげさまでお金のありがたみがよく分かりました。
・日雇いの仕事で一日の予定が、明日も予定が入って電車の金がないから仕方なく。
・乗り過ごし真冬に山梨県大月駅で終電で降りてホテルに泊まる金も無く、始発迄、寝たら凍死するかもと思うくらい寒い中で野宿した事が有る
・長距離バイクツーリング時に、昼食後うっかり財布を鞄ではなくポケットに入れてしまい、給油の時に財布を落としていることに気づき、やむを得ず野宿しました。
・コロナがはじまって仕事が無くなり職も住まいも無くして知人のお宅にお世話になるまでこの寒空に1週間野宿をした。こんなに困ってる国民がいるのに国は助けてくれない!もう一度給付金が出れば助かるのに…生まれ変わったら必ず国会議員になる!とつくづく思う。
・コロナで、家賃が払えなくなり、ミニミニに追い出されて野宿しました。
<鍵がない>
・帰るのが遅くなり鍵を持ってなかったので家の前で寝る羽目になった。
・家の鍵を会社のロッカーに忘れてしまった。
・家の鍵を無くし、携帯の電源が切れ、朝まで家近くをウロウロしたり、べんちに座ったり、夜が明けて実家に行きました。
・夜遅くまで飲んでいてタクシーで帰ったのですが、玄関前で鍵を家に忘れていることに気づき一緒に住んでいた彼女は寝てて起きなかった
<ガチ勢>
・寝袋はかならず持っていて何処でも寝られる体制にしている
・子供の頃はしょっちゅう。それこそ公園のベンチ、お寺の境内、コインランドーリ、夏場は、公園の噴水で体を洗ったこともある。
・しょっちゅうしてる
・昔ホームレスやったし
・寝るのは学校の階段下がいいよ
<修羅場>
・小さい頃、家のカギが閉まったままで中に入れず一晩犬小屋にいる犬にくっついて寝たことがある。父は出張、母親は違う男の人と一緒にいたみたいだった。シロがそばに居てくれた事を今も忘れない。
・母親が酒乱だった。夜中に酒を飲んで帰ってきて、寝ていた私を起こして「今すぐこの家から出ていけ」と着の身着のまま追い出された。その日は2月の氷点下まで気温が下がった午前1時半。追い出されたけど行くあてもなく(当時16才)仕方が無いから公園で夜を明かした。
・中学生のころ、父が自宅で酔っていた夜に日付が変わっても乱暴な音や暴力的な独り言が止まず怖かったので、勝手口から抜け出して明け方まで近所の公園の東屋にいました。屋根のある「家」があるありがたみをひしひしと感じました。
・家から締め出されて近くの公園で野宿しました。女です。まだ10代でした。信じられない。
・東京に上京した時に渋谷駅のハチ公前で寝ていたら寝ている間に財布を盗まれました。
・当時付き合ってた彼女に知らない場所に捨てられて真冬の中公園で野宿して死にかけた
・明け方に職務質問されました
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benediktine · 4 years
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【自転車はスマホ並みに世界を変えた発明だった 1890年代の「破壊的」な熱狂を振り返る、コロナ禍でも需要急増】 - ナショナルジオグラフィック日本版サイト : https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/20/061900366/ 2020.07.26
 {{ 図版 1 : 1890年代、自転車は、自立して進歩的で政治的発言力を求める女性、いわゆる「新しい女」の象徴になった。当時の女性月刊誌「Godey's」には、こう書かれている。「自転車の所有は、19世紀の娘にとって、独立宣言を公布するようなものだ」(PHOTOGRAPH BY UNIVERSAL HISTORY ARCHIVE, UNIVERSAL IMAGES GROUP/GETTY) }}
 歴史は繰り返す。まったく同じではなくとも、確かに繰り返す。コロナ禍で自転車の需要が急増し、サイクリングとウォーキングに新たに焦点を当てた都市の再開発に各国が数十億ドルをかけようとしている今、19世紀後半の自転車の登場がいかに世界を変えたかは、振り返る価値があるだろう。
 自転車は、極めて破壊的な技術だった。少なくとも今日のスマートフォンと同じ程度には。価格も手頃で、速くてスタイリッシュな交通手段であり、好きなときに好きな所へ無料で行ける自転車は、1890年代の数年間において究極のマストアイテムだった。
 {{ 図版 2 : 1903年7月に開催された第1回ツール・ド・フランス。参加した60人のうち、過酷な2400キロのコースを完走したのは、21人だけだった。主催者のアンリ・デグランジュがこう語った話は有名だ。「理想的なツール・ド・フランスとは、あまりに過酷なため、1人しか完走できないものだろう」(PHOTOGRAPH BY THE PICTURE ART COLLECTION, ALAMY) }}
 ほぼ誰でも乗り方を覚えられ、そして、ほとんど誰もが乗った。アフリカ、ザンジバルの君主やロシアの皇帝はサイクリングを始め、アフガニスタン、カブールの国王はハーレムの全員に自転車を買い与えた。
 しかし、真に自転車をものにしたのは、世界中の中産労働階級だ。歴史上初めて大衆が移動手段を手に入れ、好きに行き来できるようになったのだ。高価な馬や馬車はもはや必要ない。「庶民の足」として知られた自転車は、軽量、手頃な価格、維持が容易なだけでなく、最速の乗り物でもあった。
 {{ 図版 3 : 1940年代、英バーミンガムにあるHercules Cycle社の工場で、自転車のホイールを製造する女性労働者。1910年に設立されたHercules社は、1930年代までに世界最大の自転車メーカーの1つになり、1日当たり1000台を超える自転車を生産していた。(PHOTOGRAPH BY HULTON-DEUTSCH COLLECTION, CORBIS/CORBIS) }}
 社会は一変した。女性は特に熱狂した。面倒なビクトリア調のスカートを脱ぎ捨て、ブルマーや「合理的」な服を着て、大挙して道にこぎ出した。
「自転車は、世界中の他の何よりも、女性解放に多大な影響を与えたと思います」とスーザン・B・アンソニーは1896年に米New York Sunday World紙のインタビューで答えた。「自転車に乗る女性を見るたびに立ち止まり、歓喜しています。それは、自由で制約のない女性の姿なのです」
 1898年までには、サイクリングが米国で大人気のアクティビティーとなり、米「New York Journal of Commerce」誌によれば、レストランや劇場の損失は年間1億ドルを超えたという。自転車の製造は、米国で最も大きく、かつ最も革新的な産業の1つになった。全特許出願の3分の1が自転車関連で、そのあまりの多さに、米特許庁は別館を立てなければならなかった。
≫――――――≪
■《珍品のち熱狂へ》
 現代の自転車を発明した人物として、一般に名が挙がるのは、英国人ジョン・ケンプ・スターリーだ。
 1870年代に、ジョンの叔父のジェームズ・スターリーが「ペニー・ファージング」と呼ばれる前輪が大きくて後輪が小さい自転車を開発していた。ジョンは、ペニー・ファージングほど乗るのが怖くも危険でもなければ、自転車の需要が高まるのではないかと考えた。1885年、30歳になった彼は、英コベントリーの作業場で従来よりはるかに小さな車輪を2つもつチェーン駆動の自転車を開発し始める。
 いくつかのプロトタイプを試作した後、彼は「ローバー安全型自転車」を考案した。重量は20キロで、今日我々が自転車と聞いて思い浮かべるものにおおむね似ている。(参考記事: {{ 「写真で見る自転車の100年 」 : https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/15/071000179/ }} )
 1886年、初めて自転車ショーに出展した時には、スターリーの発明品は珍品と見なされた。だが2年後、新たに発明された空気タイヤと組み合わせると、衝撃が緩和されただけでなく、速度が約30%も向上した。まるで魔法のようだった。
 {{ 図版 4 : 自転車競技のスーパースター第1号、米国のマーシャル・ウォルター・テイラー「少佐」。1896年に10代でプロに転向し、自転車競技で7個の世界記録を樹立した。スタンディングスタートの1.6キロの世界記録(1分41秒)は、28年間破られなかった。(PHOTOGRAPH BY GL ARCHIVE, ALAMY) }}
 世界中の自転車メーカーが先を争って独自の製品をつくり、需要を満たすために何百もの会社ができた。1895年に英ロンドンで開催されたスタンリー自転車ショーでは、およそ200社の自転車メーカーが3000車種を展示した。
 最大手の1つはColumbia Bicycles社で、米コネティカット州ハートフォードにある工場では、自動組立ラインのおかげで1分で1台のペースで自転車を生産できた。これは後に、自動車産業の大きな特徴となる革新的な技術だった。また、Columbia社は先進的な雇用主として、従業員に駐輪場、個人ロッカー、社員食堂での食事補助、図書館を提供した。
 飽くなき自転車への需要は、ボールベアリング、スポーク用ワイヤー、鋼管、精密工具の製造など、製造業にも活気をもたらした。
 広告市場も潤った。アーティストは美しいポスターの制作を受注し、ポスターは鮮やかな新技術リトグラフで印刷された。製品の寿命を意図的に短くする「計画的陳腐化」や、毎年新モデルを発売するといったマーケティング戦略は、1890年代の自転車業界から始まったものだ。
 {{ 図版 5 : 道路を利用する自転車乗りの法的権利を定めた最初の本『The Road Rights of Wheelmen(自転車乗りの道路の権利)』。1895年、弁護士のジョージ・B・クレメントソンによって書かれた。(ILLUSTRATION BY E. NADALL, COURTESY THE MET) }}
■《村をまたいだ結婚が増えた》
 自転車があれば何でもできるように思え、普通の人が異例の旅に出た。たとえば1890年の夏、ロシア軍の若い中尉は、サンクトペテルブルクからロンドンまで1日平均110キロもペダルをこいだ。1894年9月、24歳のアニー・ロンドンデリーは、自転車で世界一周を成し遂げた初の女性となるべく、真珠の象嵌を施した拳銃と着替えを持って米シカゴを出発した。それから1年弱の後、彼女はシカゴに帰り着き、賞金1万ドルを手に入れた。
≫――――――≪
 オーストラリアでは、羊の毛刈りの巡回労働者が、仕事を求めて水のない奥地を何百キロも自転車で走った。「彼らは公園で自転車に乗るかのようにこの旅に出る」と、新聞記者C.E.W.ビーンは著作『On The Wool Track(羊毛を追って)』に書いている。「彼は道を尋ね、パイプに火をつけ、自転車に乗ってこぎ出した。彼が多くの羊の毛刈り職人のように都会育ちだったなら、まるで叔母の所へお茶をしに行くかのように、黒いコートと山高帽を身につけていただろう」
 そして米国西部では、1897年の夏、バッファロー・ソルジャーと呼ばれたアフリカ系米国人部隊である米陸軍第25連隊が、モンタナ州フォートミズーラからミズーリ州セントルイスまで、異例の3000キロ行軍を行い、軍における自転車の有用性を実証した。フル装備でカービン銃を持ち、荒れてぬかるむ道を自転車で1日平均80キロ近くを走破した。騎兵隊の2倍の速さで、コストは3分の1だった。
 自転車は、芸術、音楽、文学、ファッション、さらには人の遺伝子に至るまで、事実上生活のあらゆる面を変えた。英イングランドの教区の記録は、1890年代の自転車の大ブレイクで、村をまたいでの結婚が著しく増えたことを示している。新たな自由を得た若者が、意のままに田舎を動き回り、道で交流し、遠くの村で出会った。そして、顔をしかめた当時のモラル活動家が指摘したように、多くの場合、年配のお目付役を出し抜いたのだ。
 英国のヘンリー・ダクレが作詞作曲した『デイジー・ベル』は、1892年に欧米で大ヒットを記録し、「2人乗りの自転車」というリフレインが有名になった。熱烈な自転車愛好家で鋭い社会観察者だった作家のH.G.ウェルズは、いくつかの「サイクリング小説」を書いた。この素晴らしい新たな交通手段のロマンチックで、人々を解放し、階級を消失させる可能性にまつわる優しい物語だ。
 {{ 図版 6 : 1942年、米ニューヨークのセントラルパークでサイクリングする若い自転車乗りたち。自転車は1890年代に世界を席巻した後、自動車が道路を占有するようになると、主に子どもの乗り物になった。(PHOTOGRAPH COURTESY THE LIBRARY OF CONGRESS) }}
 自転車が未来を形づくる役割を見抜いた慧眼の持ち主は、ウェルズだけではなかった。1892年の米国の社会学の雑誌には、「都市の発展における自転車の影響は、まさに革命的になるだろう」とある。「自転車の経済的・社会的影響」というタイトルの記事で、より幸せで、より健康的で、より外向的な住民が暮らす、より清潔で、より環境に優しく、より穏やかな都市を著者は予見した。
 若者は自転車のおかげで、「より多くの世界を見ることができ、それに触れることでさらに世界が広がる。自転車なしでは、家から歩ける距離を超えて出かけることはめったにないが、自転車があれば、多くの周辺の町をコンスタントに動き回り、郡全体に詳しくなり、休みにはいくつかの州をまたいで旅することも珍しくはなくなる。そのような経験が、活力の増進、自立、個性の獲得を促す」
 数百万人の自転車愛好家と国内最大規模の産業の政治的影響力が、都市の通りや田舎道の急速な改善につながった。自転車乗りが、まだ予期せぬ自動車の時代へと続く道を文字通り切り開いたのだ。
 1895年��米ニューヨークのブルックリンでは、プロスペクトパークとコニーアイランドを結ぶ道路として、米国初の自転車専用道の1つが開通した。初日には、1万人ほどの自転車乗りが利用した。その2年後、ニューヨーク市は、スピード狂の自転車乗り、いわゆる「飛ばし屋」の増加に対応して、米国初の交通条例を制定した。当時、ニューヨーク市公安委員長だったセオドア・ルーズベルトは、スピード狂を逮捕できる自転車警官隊を導入した。庶民の足は、依然として道で最速の乗り物だった。
 だが、スピードスターの地位は長くは続かなかった。10年と経たずに、欧米の自転車産業は、スポークを張ったホイール、チェーン駆動、ボールベアリングとエンジンを組み合わせて試行錯誤し、さらに速い乗り物を作り上げた。自転車ほど静かではなく、運用も安くないが、運転する楽しみがあり、利益を生んだ。米オハイオ州デイトンでは、2人の自転車工、ウィルバーとオービルのライト兄弟が、空飛ぶ機械のアイデアを模索していた。自転車に翼を取り付けて空力的可能性をテストし、自転車店の利益を研究に注ぎ込んだ。
 これらすべての基となったローバー安全型自転車を1880年代に開発したジョン・ケンプ・スターリーは、英イングランド北部の町コベントリーに戻り、1901年に46歳で急逝した。それまでに彼の会社は、自転車からバイクの生産に移行し、最終的には自動車を製造した。それはあたかも未来への道のようだった。米国では、別の元自転車工であるヘンリー・フォードが、その道で大成功を収めることになる。
 {{ 図版 7: 1891年、2人の若い米国の学生トーマス・ガスケル・アレンとウィリアム・ルイス・ザハトレーベンは、コンスタンチノープルから北京まで、2万4000キロを2年で走破する自転車の旅に出た。一般大衆が自転車の自由の可能性を見い出した1890年代に普通の人が成し遂げた多くの異例の旅の1つだった。(ILLUSTRATION BY A.W.B.LINCOLN, COURTESY THE MET) }}  {{ 図版 8 : 米国最初期のスポーツ雑誌の1つ「Outing」。そのページの多くをサイクリングに割いた。1890年代のサイクリングの熱狂が、サイクリング雑誌、ツアーガイド、地図、ハウツー本の巨大需要を生み、全印刷広告の10%がサイクリング関連のものだったという報告がある。(ULLUNTRATION BY O.C.MALCOM, COURTESY THE LIBRARY OF CONGRESS) }}
文=ROFF SMITH/訳=牧野建志
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dontleavestan · 4 years
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父は脳腫瘍という病気を患い、手術を終えたあと50代にして視覚障がい者になった。
今は障がい者一級の認定を受け、基本的には何も見えない生活をしている。
最初は家族も私も戸惑ったし、ショックだったけど離れて住んでいたので病院にもいられなかったし、実感もわかず涙も出なかった。そうなんだ、これから大変になるね、とくらいしか言わなかったと思う。
そして、この件についてあまり人に積極的に話してこなかった。本当に気持ち的に距離の近い親友や、文脈として話さないと意味が通らない時しか発信しなかった情報である。※この件について知らなかった友人や近しい皆さん、デリケートな話題で話すにも気力が必要なので、話すかどうかはその時々の気分で決めていることがほとんどです。知らなかった=私があなたのことを大事と思っていないとは思わないでください。
父が手術を受ける直前に一度、出張ついでに私の住む横浜に遊びに来てくれたことがある。予約していた駅近の居酒屋に現地集合でいいだろうと思い、ラインでその連絡だけ入れてお店で待っていたが一向に現れない。
心配になり電話すると、「一人ではお店に行けない。横浜駅まで来てほしい」と言われて急いで駅まで戻った。
そこで再度電話をかけると、「改札口がわからない」と言っている。JRなのか京急なのか、どこにいるのか聞いても全然わからない様子だった。
短気な私は事態が飲み込めなさすぎて少しイラつき、「え?なにか上の看板に書いてない?」と聞いても上の看板って何?わからない。。というような返答でいやいやまいったなと思った。
とりあえずJRの改札にいるから駅員さんに聞いてそこまで来てほしいと伝えた。電話は切らずにつないでいると、改札のすぐ向こう側に父の姿が見えた。
電話越しに「パパいるの見えるよ、パパが今立ってるところからまっすぐのところにいるよ」と言い、普通ならすぐに気づくような距離だったが、全く気づかないでボーっとしている。
この時点で、なんかおかしいなと思った。注意力があまりにもないというか、視野がものすごく狭い。
周りの目は気になったが仕方ないので改札のそばにあった鉄の仕切りのようなものを拳で叩いて音を立て、「パパ!」と大きな声で呼んだ。
すると「おお、エミ」とか言ってた。すぐそばの改札を通ろうとすると、引っかかっている。マジかーと思いつつ、まずみどりの窓口で駅員に通れないって話してみて、と言ったがすぐそこに見えるみどりの窓口が、どこにあるのかわからないと言う。このエスカレーター超えたところにあるよと伝えて、すぐ出てくるだろうと思い電話を切って窓口の出口で父が出てくるのを待っていたら、またまた全然出てこない。というか姿が消えている。
焦った私は窓口にいる駅員さんに、たった今スーツケース引いてメガネをかけてる男性が改札通れないって聞いたと思うんですけど、どっちに出ましたか?と聞いた。すると「え、さすがにわかんないです」と言われ、正直「は?たった今のことも覚えてねーのかよ!」とキレそうになったがぐっと堪えてわかりました、いきなりすみませんと言って窓口を出た。
電話をかけても全然出ないので焦ったが、とりあえず私はあまり動かない方がいいかなと思いその場に留まることにした。
すると父が突然現れたので、目の前まで駆け寄って「パパどこにいたの?心配したんだよ」と言うとまだ遠くの方をキョロキョロ見渡している。目の前の私に気付いていないのだ。驚きながらも肩をトントンしてもう一度声をかけると、「ごめんごめん、京急に乗ってきたのにJRの改札から出ようとしちゃったのさ」と言っていた。
そういや羽田からはそりゃ京急だよな。。と自分がめちゃくちゃ焦っていたことにもここで気づいた。そして、父が前と同じようには行動できなくなっていることを確信した。
予約時間をかなり過ぎてから、ゆっくりゆっくり歩いてお店まで向かった。その途中、何度も電柱にぶつかりそうになっている。また、後ろから追い抜かしてくる人にも気付けず、さっと避けることもできないのでぶつかってしまっている(いや、ぶつかられている?)。
スーツケースは私が引いた。話を聞くと、空港の切符売り場でスーツケースを忘れて置いてきてしまうところだったらしい。ここでさらに、やばい、これはただごとじゃないと気づかされる。居酒屋で美味しい料理を食べながら2人で話していると、いつものパパだと思った。なんでも好きなもの頼みなさい、横浜でちゃんと頑張ってるんだねえ安心したよ、はなはボールを空中キャッチするようになったんだよ、と前と同じように話している。混乱したし、戸惑った。そしてまたゆっくりゆっくり歩いて電車に乗って、やっと家に着いた時には正直クタクタだった。脳腫瘍ってやばい病気だな、と実感した。
父は昔から仕事人間で、子どもの私たちと話す時もロジカルで、ただ「あれやりたい」「もうやめたい」だけじゃ通じない人だった。なんでそれをしたいのか、それをして何になるのか、今やめることがほんとに自分のためなのか?色々深く問いただされる。そして大体の場合、途中でこちらが折れることになるのだ。その結果犬や携帯電話、めちゃくちゃ厳しい部活をやめることなど、色んな物事を諦めた。
そんな中、私がどうしても諦めなかったのが海外留学だ。父は基本的に、私を自分の手元に置いておきたがった。高校生の間はずっと、「お前には弟と妹がいて、2人にもお金がかかるから大学は道内の国公立しか行かせない」と言われていた。私は生徒全員が必ず海外留学をする必要があるという秋田国際教養大に興味があったが、先述した内容や「そんな田舎に耐えられるのか」など色々言われ、確かにそもそも結構難しい大学だし、私田舎とか自然興味ないしなあと思い諦めた。
でも、国際教養大に行くつもりで数学Bの授業ではなく英語の授業を選択していた私は、進路の選択肢のほとんどが私大という状況だった。唯一の国立大の選択肢は数学2までとっていれば受験できる小樽商科大学、父の母校だ。父は浪人して入学した、当時、英語以外の教科は先生への愛想やキャラクターで成績をよくしていたと言っても過言ではない私にとってはそこそこチャレンジングな大学(国際教養大より下なんじゃ?と思うけど)。
そして私はセンター1ヶ月前というギリギリになってやっと1日12時間の猛勉強に取り組み、なんとか推薦で同大学に合格する。それを誰よりも喜んだのも父だった。「エミが俺の母校に入るのか〜」とよく言っていた。こっそり母から「自分の母校に入るのも嬉しいんだろうけど、札幌を離れず実家から大学に通ってくれることを一番喜んでるのさ」と聞かされる。そういうことかよとやっと気づく。私はいつも気づくのが遅い。
大学に入り、往復5時間かけて通学する日々が始まった。めちゃくちゃ遠い。朝めちゃくちゃ早い。めちゃくちゃ眠い。行き帰りだけで本当にクタクタで、なんでこんな大学に入ったんだろうと、通学中に関しては4年間ずっと思っていた。
ただ、それでも私は在学中勉学についてはそこそこ頑張った。英語のクラスを担当する教授に色々と機会をいただき、在札幌米国領事館が主催する英語のエッセイコンテストでジェンダーについて書き、特別賞でiPodと日本女性会議に出席(という名目の見学)する権利をもらった。
日本女性会議ではニューヨークの裁判官の女性と話し、女性から男性に対してのDVについてはどう対策すればよいと思うかを質問した。ただ、当時の私の英語力ではせっかくもらった回答の内容を理解できなかった。いい質問だと言われたことしか覚えていない。これは私の人生の中の最大の後悔の一つだ。
他にもオーストラリアの元衆議院議員の方との会食に同行させてもらったり、米国領事館のパーティーに参加したり、なんか色々やってた。単位は落とさずにいられた。サークルにも入らず固定のグループにも属さず、なんかよくわかんない子だったと思うが、友達にかなり恵まれ、みんなのおかげですごく楽しい大学生活を過ごせた。
大学2年の前期、私は最初の留学のチャンスを見送った。理由は元々父に言われたとおり、弟と妹にもお金がかかると思ったからだった。当時弟は受験生になっていた。それでなおさら、自分にだけお金をかけさせるわけにはいかないと思ったのだ。ただ両親は弟には道内国公立という条件を出さなかった。理由は弟が男だからだ。私はこれにマジギレした。多分人生で一番親にムカついたのはあの時だった。私の方が高校時代の成績も良かったのだ。私は絵に描いたような男尊女卑だと、親にめちゃくちゃキレた。
それで、私も留学する!!と勝手に決めたのだ。実は私は自分が見送ったtermで留学した他の子たちをめちゃくちゃうらやましく思っていたのだ。私の方が英語できる気がする、私の方が海外生活への挑戦意欲は絶対強いと思う、これまで頑張ってきた自分の力を試したい、と毎日毎日思っていた。そして親に留学を反対・阻止されないよう、TOEICやTOEFLの勉強をめちゃくちゃして、どちらも本番で過去最高得点を取った。そしてほとんど誰にも言わずに留学の学内選考に申し込み、勝手に合格してしまった。当時私にものすごく期待してくれていたアメリカ人の教授が親身に相談に乗ってくれて、志望理由の添削なども快く引き受けてくれた。そのおかげもあり、学内推薦の枠をとれた。
母には選考が始まった時点で留学のことも話しており、「そんなにやりたいならお金はなんとかするからやりなさい。きちんと努力する子には私は投資するよ」と言ってくれた。母は、いつも私の英語の勉強意欲や海外への憧れを認め、後押ししてくれた。そして、この言葉は今でも励みになっている。
問題は父である。昔から日本のものより海外のものに惹かれていた私を海外かぶれと呼び、アメリカをホワイトアングロサクソンが牛耳る国と表現し、なぜそんなところに憧れる!?と言われて育った。今思えば結構なレイシストだった。
絶対嫌がるだろうな、と思ったが、私にはあまり反対意見を言ってこず、受かってしまったものは仕方ないという感じで、銀行に通い教育ローンを組んで私をニュージーランドに送り出してくれた。アメリカは私の申し込んだtermの選択肢にはなかったので、消去法で唯一の英語圏だったニュージーランドを選んだのだ。
ニュージーランドでの2学期が私にとってどれほど楽しかったかは私を知る人はもう知っているだろうから話さない。とにかく人生最高の時間だった。初めて親元を離れたが、シェアハウスに住んでいたからかあんまり寂しくなかったし、親の目につかないところでちょっと悪いことをするのは最高に楽しかった。ただ、とにかく高い生活費や家賃を嫌な顔一つせず振り込んでくれる親への感謝は絶対忘れないよう決めていた。
後になって知ったことだが、父がすんなり承諾してくれたのは母の説得のおかげだった。父が「エミがボブサップみたいな黒人でも連れて帰ってきたらどうすんのよ!」と母に怒ると、母は「え〜。。ハーワーユーって言う。」と答え、さらに怒らせていたらしい。めちゃくちゃうちの母らしい。でも、やりたいことはやらせようよと頑張って説得してくれたんだと思う。そのおかげで、私はとにかく充実した時間を過ごして、自信をつけて家に帰ってこられた。ちなみに行きも帰りも母は空港で普通に結構泣いていた。行きは当時の彼氏も涙を必死で堪えていた。私だけが全く泣なず、これから始まる新生活への覚悟と期待ばかりが頭にあった。帰りの空港に彼は来なかった。当時は色々思ったが今思えば当たり前である。
帰国後足りない分の単位をとりながらバイトも再開して忙しくしていると、さらに就活も始まった。今思うと、新卒の就活はマジでクソみたいな行事だった。私は正直留学で燃え尽きていて、みんなと同じ格好をして綺麗事を並べる就活というものに疲れ切り、適当に受かった地元の会社に決めてしまった。
そこで働く間、両親は小学校高学年から英語の個人レッスンを受けさせてもらい、高校大学とずっと私の英語の勉強に投資し、応援してくれたのに、なんでそこで培ったスキルを活かす仕事につけるよう必死で頑張れなかったんだろうと、ずっとずっと後悔していた。あと当時の上司と先輩がめちゃくちゃ意地悪だったので、普通にやめたかった。
そして、父の病気はその会社に入って2年目の半ば頃に発覚した。当時福岡で単身赴任していた父は、なんとなく様子が変わっていた。まずあんなに大好きだった仕事が、全然楽しくなさそうだった。私は子供の頃から父から仕事の話を聞くのが好きで、よくわかんなくても色々聞いていた。福岡の前にいた島根では色々功績を残していたようで、その過程の話を聞くのはとてもワクワクしたし、娘として誇らしかった。でも福岡に行ってからは愚痴が増えた。というかあんまり楽しくない、としか言わない。それ以上は話したがらなかった。
また、なんか運転荒くなったな〜と思うようになった。いや元々荒い方なのだが、それにしても危なっかしい。注意散漫な感じだった。私は免許がないので運転のことがよくわからなかったが、毎日運転する母はめちゃくちゃびびっていて、危ない!と叫んだりするほどだった。あまりにも運転が荒すぎて、車酔いしやすい妹は父が運転するなら出かけないようにすらなった。
あんまり詳しく覚えてないけど、なんか他にも物忘れが激しくなったり、前は帰省の間毎日札幌ドームに野球観戦に行ってたのにぱたりと行かなくなったりと、色々おかしいなと思うことが増えていた。母がかなり心配するのを、私たち子供3人は元々危なっかしいところはあるよとか、天然だからねとか言って流していた。
しばらくしてから本人が病院に行くと言い出した。赤信号を無意識に無視しようとしてしまったらしい。病院で色々検査した結果、脳に拳大くらいのものすごく大きい腫瘍が見つかった。
それを最初聞いた時は、なんて思ったか正直覚えていない。多分ショックだったとは思うけど泣いた記憶はない。でも、何回目かの精密検査のあと、印刷された結果の紙に手術によって起こりうることみたいなのが一覧にして書いてあった。そこには脳梗塞とかなんか難しい漢字がたくさん並んでいて、失明というのもあった。それを見た瞬間、こんなにリスクがある病気なの?と母の前で泣いたのは覚えてる。それでも、父の病気のことであんまり泣いた記憶がない。私は普段かなり泣き虫なので、本当に泣けないほどショックだったのかもしれないな、と今となっては思う。
父の病気が発覚してから、色々考えることが増えた。父の病院の付き添いやお見舞いのため、会社を休むことも増えた。そのうち何回かは自分のためだった。色々気持ち的に疲れ、遊びに行くとかいう気持ちにもなれず、とりあえず犬と家にいたりした。でも会社や当時の上司はその辺はすごく理解してくれて、深く聞かずに協力してくださった。そこには本当に感謝している。
ちょいちょい会社も休みつつ、毎日色々ぐるぐる考えた結果、「私、結構親に恩返ししたいと思ってるんだな。その一番の方法って、ちゃんと英語のスキルを生かして楽しく働いて、親が私に投資した分を回収できるほど稼ぐことだ!」と気づいた(今思えばちょっと突っ込みどころもある)。
そして職場でも男尊女卑とか古い思考が蔓延しているのを感じ、基本不満しかないような状態になっていたので、本格的に転職活動を始めた。
転職活動は、新卒の就活よりチャンスは限られていた。有名な企業の求人にもとりあえず色々申し込んだが、新卒の時は当たり前のように通った書類審査でほとんど落ちた。でも、2年の経験で多少のスキルやマナーも身についていたおかげか、はたまたこの場から抜け出せれば人生やり直せるぞという強い希望からか、かなり高いモチベーションを保って行動できていた。平日の夜と土日はTOEICの勉強や企業研究、面接準備をしていて遊ぶ暇はなかった。けど、当時はそれを負担にすら感じないほどそれらに打ち込めていた。ある意味、こういう行動が辛い現実から目をそらす一つの方法だったのかもしれない。そんなときも自分の会社で面接官を担当したこともある父には、色々相談に乗ってもらった。
その結果、今働いている大きな会社から内定をもらえた。それまでわりと傍観していた、というかどの会社を受けているのかとかも多分よくわかっていなかった両親も、いざ転職が決定したとなると色々態度が変わった。当時私は色々あって両親(特に母)とあまり良好な関係を築けていなかったため、物件探しなどは全部一人で行った。というか23歳にもなり、これから一人暮らしするとなるとそれくらい一人でできないとダメだろうと思ってもいた。ただ、母は気まずそうに家具の買い出しや引っ越し手配などの手伝いを申し出てくれた。実際、そのおかげでかなり助かった。費用もかなり浮き、結局親の助けって大きいんだなと実感し始めた。父からはそういう類の協力は特になく、ただただ何回も「本当に横浜に行くの?」と聞いてきたり、「そうかあ、行っちゃうのかあ」とぼやいたりしていた。仕事中に「エミが横浜に行っちゃうのが寂しくて仕事にならない」とラインしてきたりもした。この人は本当に私のことを手放したくないんだなと思った。
子どものときから私はパパっ子だったし、父は実際私たち兄弟3人をめちゃくちゃ可愛がってくれたので、ここまで寂しがるのも仕方ないことなんだろうと思った。
それまでなんだこいつらと思っていた両親に対して、少しずつまた感謝の気持ちが湧くようになっていた。
そしてなんとか横浜や新しい会社での生活に少しずつ慣れてきた秋頃、ずっと保留にされていた父の手術が決行されることになった。いつ行われるのか、手術日直前までずっと計画が流動的だったので、飛行機を取るにも取れず、私は付き添うことはできずに当日も横浜で働いていた。まだ試用期間だったので本当はダメだったが、上司が在宅勤務にしてくれた。
手術は24時間以上かかり、母はずっと手術室の前で待っていた。普段父の愚痴ばかり言っていたのに、こういうことになると24時間とかでもあの固そうなベンチで待てるんだな、夫婦って謎だなと思った。
手術が終わった後、まだ腫瘍が残っているので来週また手術すると聞いた。どんだけ腫瘍あるんだよと思った。そりゃ運転なんかまともにできないよとか、その状態でずっと働いてくれてたんだなとか、色々思った。普段の私なら泣きそうな考え事だが、その時も泣けなかった。
そして2回目の手術も終わった後、母から顔がパンパンに腫れて管が繋がれた状態で、病院のベッドで寝ている父の写真が送られてきた。
正直、なんとも言えない気持ちだった。運動神経が悪く運動会を地獄と思っていた私だったが、運命走では父が毎年私を1位にしてくれた。仕事がめちゃくちゃ出来て、休日でも電話が鳴ると仕事モードになってテキパキ応答していた。友人関係で悩み学校にいけなくなった中学時代、忙しい中母と学校に出向いて先生に直接相談に行ってくれた。そんな父の姿が変わり果てた状態で札幌にある、とあんまり信じられなかった。
とりあえず親と妹に付き添いありがとうとだけは言ったと思うけど、なんか詳しいことはあんまり覚えてない。
その次の月に札幌に帰り、2週間ほど実家から在宅勤務させてもらうことにした。父が視覚障がい者になったことで、母の生活はとにかく大変になった。札幌を出るときにも感じたことだが、遠くから何もできない自分に対し自己嫌悪の気持ちを感じていた。一人だけ、大���な状況から逃げてきたような気持ちだった。それで今後後悔しないように上司やチームのメンバーに相談して快く受け入れてもらい、在宅勤務をさせてもらったのだ。
当時の父はほとんど何も自分ではできなかった。コップに水を入れることも、薬を包装のプラスチックから出すことも。何せ手術がおわり目を覚ましたら何も見えないのである。仕方ないと思い、みんな全部やってあげていた。
これがなかなか大変だった。普段通り続く仕事や父が障がい者になったことによる諸手続き、家事でも忙しいうえに、ずっと父のそばにいて余裕がなくなってきていた母と妹は、少しは自分で何かできるようにチャレンジだけでもしてほしいという気持ちでストレスを感じていた。また、それで父に優しくできない自分たちにも嫌悪感を感じてしまう。その時、本当にこのタイミングで札幌に帰ってきてよかったと思った。私はまだ気持ち的に余裕があったし、父のことをかわいそうに思う気持ちの方が強かったので、代わって父の相手や手伝いをしてあげられた。母が何度もお礼を言ってコーチのバッグとポーチまでプレゼントしてくれたが、私としては何もせずに傍観することで今後後悔したくないと思う、自分のための行動でもあったので、お礼を言われるようなことではないと思っていた。実際、終盤は私も疲れてきて、母と妹と3人でラーメン屋さんで父の横柄さや自己中さを愚痴りまくったりもしてしまったし。たしかにこれが日常なのはキツいと思った。
札幌から横浜に戻った後もしばらく、自分だけ逃げてきたような気持ちに苦しんでいた。特に、大好きでかわいい、しかも4つも年下の妹をあの大変な日常に置いてきてしまったことが辛かった。
それまで私は当時、彼氏にこの話をあんまりしたくなかった。しても楽しくないからだ。また、正直付き合って半年ほどの彼氏に話すには色々と重かった。だからずっと黙っていたが、なぜか横浜に帰ってきてから1ヶ月ほど経ったあとのクリスマスデートの準備中、とうとうこの罪悪感を打ち明けた(理由は、なんとなく今なら言えそうだなと思ったからである)。
すると「でも、エミちゃんは家族と離れているおかげで多少余裕を持って家族に接してあげられてると思うよ。全員が同じ場所にいたら、誰も家族の話を冷静に聞いてあげられる余裕がなかったと思うから、お母さんもみーちゃんも、エミちゃんに話聞いてもらってるだけで助かってると思うし、ここにいてよかったんだよ」と言ってくれた。正直、この時初めて結構泣きそうな気持ちになった。けどただでさえ変な空気にせざるを得ない話をし、その上泣いたらなんかマジで変な空気になるしなと思って、化粧をしながら平然を装ってありがとうと、今まで自分の殻に閉じこもってて本音を言わなくてごめん、と言った。一言だけ「俺はエミちゃんの話聞くくらいしかしてあげられへんから」と言ってくれたが、彼のいう通り、ただ話を聞いてくれるだけの人って、本当に助かるのだ。それを身をもって実感したことで、私も家族にとってのそういう存在になれてるのかもな、と思えた。それにより、やっと家族と離れていることへの罪悪感を消すことができた。慎重な私からすると、正直大丈夫なの!?と思うこともあるくらいいつも楽天的な彼だが、こういうことを偽りなくスラスラ言える優しさや前向きな気持ちを持つ人と一緒にいることが、私にとってどんなエリートや大富豪といるよりも最良の選択肢に感じた。そして今もそう思っている。
その間も、父の手助けをしたり一日中話し相手になる大変さを何度も二人からは聞いた。そう言われると辛いよね、ママやみー(妹)の立場だとそう思っちゃうよね、とか、なるべく相手の気持ちを汲んでいるような言葉遣いを意識した。前のわがまま女王の私には到底できなかったことである。
そして、父が函館の視覚障がい者向けの訓練センターに入ることになった。本当に少数の視覚障がい者と、色々と教えてくれるメンターの方しかいない施設だそうだ。
父は行きたがらなかった。施設どころか、自分の実家にも帰りたがらなかった。母が諸々の手続きを済ませるために家をあける間、また妹も仕事などでいない間、一人にしておけないので実家にいて、ついでに(少し休みたいのでとは言わないがそういう意味も込めて)今夜は泊まってきて、と頼んでも嫌がっていた。無理矢理行かせてもいつ迎えに来るんだと電話が来る始末だった。これはまじでキツいだろうなと思った。
父は仕事ももちろんまだ行けないので、一日中リビングの一人がけソファからトイレ以外は一歩も立たず、ずっとそこにいて話しかけてくるのだ。目が見えるとある程度読める空気も、読めないので仕方ない(元々かなりのkyおじさんなのもあるが)。本当に何もしようとしなかった。実際父もストレスはかなりあっただろうから、無意識に嫌な言い方をされることも多く、色々書類を書いたり細かい手続きを済ませたりしないといけない母はクタクタだったし、妹も精神的にかなり疲れていた。父の無意識のきつい言葉に傷つき泣いたりもして、一緒にご飯食べたくないとも話していた。
そのため、母も妹も父の函館行きをある意味心待ちにしていた。ひどいように聞こえるかもしれないが、そうでもしないと二人とも身を入れて休めなかった。
父が函館に行ってから、母は生き生きしだした。自分の好きなことを好きなペースでできるようになったからだ。我が家の愛犬のはーちゃんも散歩嫌いを克服し、毎朝長い距離母を連れ回すようになった。それによって他の飼い主さんと仲良くなったり、友達とのランチやピラティスの時間もとれたり、母の生活が目に見えて充実し始めた。ずっと辛い話を聞いていた私はかなり安心できた。妹の電話口の声色もかなり明るくなり、みんな父のことが嫌いになったとかではなく、単にこれまでどうしても疲弊してしまう日々だったんだろうなと思った。
そんな中、突然父からラインが来た。え、ライン?と思った。なんせ前実家に手伝いに帰った時はiPhoneのロックを解除することもできなかったのだ。視覚障がい者用のモードに変更して、音声を頼りにパスコードを打つのがどうしてもうまくできず、イライラしてすぐ途中でやめていたし、基本的に携帯を触ろうともしなかった。そんな父から誤字脱字がほぼないラインを受け取り、本当に驚いた。と同時に訓練を一生懸命頑張ってることがわかり、とても嬉しかった。実は施設に入る直前に父と電話で大喧嘩したこともあったので、なんか色々安心した。
その頃、ニュージーランドでの1学期目の間、とても仲良くしてくれた香港人の友人と久々に連絡を取った。彼女は去年お父さまを突然亡くしたと話していた。とても賢く明るく、私と同じように男の子みたいにわんぱくな彼女だったが、ストレスで毎日浴びるようにお酒を飲み、円形脱毛症にもなったという。私も友人には積極的に話さなかった父の病気の経緯を初めてその子に打ち明けた。余談だが日本語だと言いにくいことも英語だと言いやすいことって結構ある。そして、「大変だったね。お父さんも家族もストレス溜まるよね。でも、エミがお父さんのことをちゃんと気にかけてあげていることは本人がわかるようにしてあげてね。じゃないと後悔するから」と言ってくれた。
それから私は毎週末、なるべく施設で訓練を受ける父にラインで連絡を入れるようになった。YouTubeの使い方を練習しているので、面白いラジオやいい音楽を教えてと頼まれて、私の大好きなオードリーのトークまとめと、父のために作ったプレイリストを送った。父もお気に入りの音楽を教えてくれたが、どれも命や周りの支えに感謝する歌だった。今の自分の気持ちにピッタリなんだと書いてあるのを見て、なんとなく父の内面的な変化も感じた。そして、やっぱり父は努力の人、やればなんでもできる人なんだと思い、誇らしかった。それは母も同じなようだった(ちなみに母にはラインに慣れてない頃、訳の分からない文章をたくさん送っていたらしい)。
しかしコロナウイルスの影響で父の訓練は中断され、一度札幌に帰ることになった。そしてこの後の訓練は札幌でやることになると言う。正直私たち3人はエッと思った。思っていたより二人が休める時間が縮むことを意味するからだ。ここからまた大変だな。。と思っていた。
それでもいざ訓練から戻ると、父はできることがだいぶ増えており、郵便屋さんからの荷物を自分で受け取り支払いも済ませたり、歩いて近所のスーパーに行ったりまでできるようになっていた。また、一人で部屋で過ごす時間も前より自然と取るようになり、妹は父のそういう進歩や変化について嬉しそうに話してくれた。
結局父はみずからやっぱり落ち着いたら函館にまた戻って訓練を受けると言い出した。実際、後続の訓練は札幌で、というのは父だけでなくセンターの方の意見でもあったので、なぜ函館に戻ると言い出したのかはわからない。でも、訓練を頑張りたいという意志は伝わってきて、手術後はあんなに色々と後ろ向きだった父が積極的に訓練に向き合ってくれたことがとても嬉しかった。
そして、函館での訓練を終えて帰ってきた父は、どうも色々性格的にも変化しているようである。元々理論派な仕事人間ながら天然でウケる部分もあった父だが、特に明るいタイプではなかった。失明してからは尚更で、無神経な物言いをしたりもしていたが、今はそういうことがかなり減ったらしい。なんとなく明るくなったと言う。この前は父から母に「今日は実家に泊まる。少し休めるしょ?」と言い出してくれたらしい。父も、自分の存在が負担ということではなく、単に母の疲れ���感じ取って休みが必要だと配慮することができるようになったのだと思う。
夫婦生活を何十年としていると、最初にあった思いやりや配慮が薄れていくだけだと思っていたが、夫婦というものはいつになっても悪い方向だけでなく、いい方向に形を変えることも可能なのだと親を見ていて知ることができた。
はっきり言って、去年から今年にかけて私はかなり辛かった。涙こそ思っていたより出なかったけど、悲しみや精神的な疲れがいろんな形で出ていたと思う。それに、仕事の変化についていくのも大変だった。
そういう時、一緒にバカなことをして騒いだり、美味しいものを食べながら恋愛や仕事の話をしたりしてそういう悩みから気を逸らさせてくれた友達や、私の精神的疲労の弊害を受けながらも見捨てず、常に優しくそばにいてくれた彼氏にとても助けられた。
そして突然視覚障がい者になったことを、多少時間を要しても最終的に受け入れ、その生活に順応する努力をする父、そしてそれを献身的にサポートする母や妹を心から尊敬する。あと、いつもみんなのストレスを無意識のうちに緩和し癒してくれる、犬のはなみちくんにもとっても感謝している。
こういう言い方をしてはなんだが、この事を通さないと分からなかった各人の良いところを知れた、いい機会でもあったとすら思えるようになってきた。
障がい者になること=マイナスではない。障がいを通じて、得られるプラスだってあるのだ。
せっかく色々書いたので、最後に一言。
話は少しずれるが、人種、セクシュアルオリエンテーション、宗教など、各分野でマジョリティ、マイノリティが存在し、その間での格差や差別、抗争が日々生まれている。こういった問題について、個人としてマジョリティ、マイノリティどちらも万人に受け入れられるべきであるとハッキリ言える人間になれたのは、ティーンの頃からこのような問題について国内外の同世代の友人とのディスカッションを通じて熟考したり、当事者とコミュニケーションを取ったりする機会の基盤にある、高度な教育を受けさせてくれた両親のおかげだと考え、心から感謝している。黒人、女性、同性愛者、トランスジェンダー、ムスリム、そして身体障がい者、またその他のすべてのマイノリティに属する人も、決して理不尽な迫害を受けるべきではない。すべての人間が人間として尊重されるべきである。この信念だけは決して曲げずに生きていく。
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nyantria · 7 years
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1930年代のスウエーデン北部山岳地帯で暮らすサーミ族の女の子が、当時の厳しい差別に直面しながらスウエーデン社会に入り込もうとする様子を通して、自己の民族的なアイデンティティを捨てなければならなかった時代を生きた女性の哀しみを浮き彫りにしてゆく“女性奮闘&北欧差別文化史”映画の良作であります。
私的に始めてサーミ人を意識したのは、アンデルセン童話“雪の女王”でヒロインのゲルダを助ける勇敢で気の良い娘なので、今でも純朴な自然児のイメージが強いサーミ族の20世紀初頭のお話で、
父親を失ってスウエーデン王立の寄宿学校に入らなければならなくなったサーミ族の姉妹の姉が、スウエーデン社会への憧れを絶ちがたく、当時の差別社会では推薦を受けられないと知ると単身でウプサラまで出向いて大学に潜り込み奮闘するが、その過程で妹を始めとした仲間達&民族のアイデンティティを否定することになって…という時代の悲劇に、「裸足の1500マイル」や「ソウルガールズ」のオーストラリアのアボリジニ差別や、日本の部落差別を描いた「橋のない川」と同様の、因習や似非科学による優生学的人種差別が流行していた20世紀の文化的暗部が浮かび上がってきます。
また、同じサーミ族でもフィンランド―ロシア海岸地方で孤立して生活しているヒロインを描いた「ククーシュカ ラップランドの妖精」と異なって、トナカイ放牧を生業にして集団で助け合っている山岳部族の生活風俗も興味深く提示されていますし、ヘリコプターやバイクを用いて近代的になった現在の状況も活写されています。
サーミ人は、(手足の長いスウェーデン人と比べて)ずんぐりとしていて色も浅黒いアジア的風貌(DNAはモンゴロイド系)、
アイヌ風の衣装、
日本の御詠歌に似た音階の“ヨイク”など、
エスキモーや北米インディアンと同様に日本人との近縁性を感じさせるのも興味深く、ヒロインの女の子も親しみを感じさせる風貌をしていますので、差別と偏見に苦しめられるヒロインの孤軍奮闘に胸が痛くなる真面目な作品ですが、スウエーデン社会に溶け込むことが果たして幸福だったのか?―を含めて色々考えさせられる良作であります。
ねたばれ?
銀のベルトってどこから材料を手に入れたのかな?
おまけーレビュー項目に無い、現代のサーミの娘が出てくる映画の紹介を…(小学校5年クラスの番長?で、2人の白人の部下を率いる女王様振りが激可愛い♡)
スウエーデンの氷の穴で釣れる獲物は…
「アイスドラゴン(Isdraken)」(2012年 スウェーデン 73分)監督:マッティン・ヘーグダール、出演:フィリップ・オルソン、Feline Andersson♡
保護者不在の為に、スウェーデンの都心から叔母の住むラップランドの田舎町に強制移住させられた少年が、奇矯だけれども純朴な現地の人々とふれ合い、厳しくも壮大な大自然と親しむ中で成長してゆく様子を、幻想と現実が入り混じった少年の視点とスウエーデンの極地方の自然の中に活写した“少年成長物語”の愛すべき佳作であります。
名作「マイライフ・アズ・ア・ドッグ」を彷彿とさせる、ジュブナイル成長譚の爽快作で、
飲んだくれのロックドラマーの父親&不良青年の兄と都会に住んでいる少年が、父親はアル中のリハビリ、兄は強盗で収監されてしまった為に、父の妹の住むラップランドに引き取られて過酷な自然と変な村人、元気一杯の子供達の中で成長してゆく過程を、北スウエーデンの自然&村人のトンデモ描写&悪ガキ仲間の友情と冒険&そして里子に出された意地悪家庭での危機と脱出…といった様々な体験を通して活写して行きます。
「ククーシュカ ラップランドの妖精」や「サーミの血」でも描かれたラップランドの過酷で特異な自然が舞台となっていて、
凍土の上を手押しの橇で移動する様子や、
凍った湖に穴を開けて1m近いカワカマス(ノーザンパイク)を釣り上げる&直ぐに叩き殺す(そうしないと指や足に噛みつかれる)ワイルドなフィッシング、
雪解けの河の濁流や湖の氷の割れるサスペンス、
うっそうとした常緑針葉樹の森、
オーロラや月明かりで夜中でも薄明るい情景…
そして、北国の猫s&犬sも大挙出演していますし、特別出演に鯨も重要な役どころで出てくる作品となっています。
そして “小さく、可愛く、強く、頭が良く、編み物も出来る”ツインテールのサーミ人の美少女ヒロインのPi(Feline Andersson)がとても魅力的で、「マイライフ・アズ・ア・ドッグ」の男の子の様な少女:サガ に匹敵する“少年期の甘酸っぱい想い”をスクリーンに弾けさせています。
73分と短いながら、北極圏の自然と人間によって成長してゆく少年を生き々と描いた清々しい作品ですので、是非一般公開しましょうよ業者さん!
ねたばれ?
1、 北国の猫は大きいなあ♡
2、 エンドクレジットの後にもおまけ映像がありますので席を立たないように!
「八つ当たりはやめてくれ~(byトナカイ)」サーミの血
https://movies.yahoo.co.jp/movie/
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cinemastylenews · 5 years
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「アナと世界の終わり」予告編解禁!
イギリス発の青春ゾンビミュージカル『アナと世界の終わり』が、 5月31日(金)より、新宿武蔵野館ほかで全国順次公開!!
混ぜるな危険!? 「ゾンビ」×「ミュージカル」という大胆な試みを見よ!!
世界各国のファンタスティック映画祭で上映され、映画ファンの心を鷲 掴みにした映画『アナと世界の終わり』。スペインのシッチェス・カタロニア 国際映画祭では、ミッドナイト・エクストレム部門で最優秀作品賞を受賞す るほか、海外の批評家から“『ショーン・オブ・ザ・デッド』と『ラ・ラ・ランド』の出会い!”と評された。そんな「ゾンビ」×「ミュージカル」の斬新なジャンルの掛け合わせが話題沸騰中の本作から、この度、パニックでハッピーな 衝撃の予告編が解禁となります!
主人公は田舎町に暮らす平凡な女子高生アナ。冴えないクラスメイトた ちとのパッとしない毎日の繰り返しに飽き飽きしていた彼女は、この町から 出ることをずっと願っていた。そんなある日、町にゾンビが大量発生して・・・。はたしてアナは、この町で人生を終えてしまうのか、はたまたゾンビを倒して町を脱出することができるのか!?
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予告編では本作が「ゾンビ映画」であり「ミュージカル映画」であるところがしっかりと収められている。アナが歌って踊って 通学するシーンでは、「やっと目が覚めた!ずっと死んでいた」と彼女の気持ちを軽快なメロディーにのせて歌っており、ミュ ージカル映画の王道を行く造りだ。と思いきや、その背後ではゾンビが徘徊するなど、日常と終末のギャップを巧みに表現し ている。まさに、エドガー・ライト監督『ショーン・オブ・ザ・デッド』で主人公がゾンビに気づかず毎朝のルーティンをこなすシーンを彷彿とさせる。 さらに、父を助けようとするアナを励ますクラスメイトたち、彼らの想いに答えようとするアナのやり取りが胸アツな青春ストーリーも注目のひとつ。そんな本作のパニック&ハッピーのギャップは、とにかく新鮮! また、スマホが絡んだ数々の描写も今風だ。スマホのカメラ機能を駆使して外の様子をうかがったり、緊急事態にも関わらずスマホにしがみつく姿はとても現代的。極めつけはSNSで世界的人気ミュージシャンのジャスティン・ビーバーがゾンビになったとシェアされる始末。アナが暮らす町だけでなく世界中がウイルス感染でパニックになっている様子が伺えるが、こういったコミカルな描写にも超絶期待が高まる!前代未聞の<青春ゾンビミュージカル♪>は、必見だ!
  アナと世界の終わり予告映像はこちら
【STORY】 イギリスの田舎町リトル・ヘブン。高校生のアナは、幼い頃に母を亡くし父トニーと二人暮らし。この生活を抜け出したいアナは、オーストラリアへ進学するため、トニーに内緒でバイトに励んでいた。 幼馴染のジョンは、アナの願いを応援しながら密かに思いを寄 せている。クリスマスイヴ、進学の計画がバレてしまいアナとトニーは大ケンガをする。夢も希望もないこの町に、アナはウンサリしていた ―。翌日、アナとジョンはいつも通り学校へ向かう。 その途中、スノーマンの着ぐるみを着た血だらけの男が突如現れジョンに襲いかか ってくる。その瞬間、アナはシーソーを使って男の頭を吹き飛ばす!なんと、男の正体はゾンビだったのだ!その後、クラスメイトたちと合流したアナとジョンは、クリスマスの学芸会の準備のため取り残された学生たちを救出するため学校へと向かうが...... ゾンビに侵食されたこの町を脱出するため、“負け組”高校生集団が力をあわせてゾンビに立ち向かうー!!
【作品情報】 『アナと世界の終わり』
■監督:ジョン・マクフェール ■脚本:アラン・マクドナルド、ライアン・マクヘンリー ■音楽:ロディ・ハート、トミー・ライリー ■出演:エラ・ハント、マルコム・カミング、サラ・スワイヤー、クリストファー・レヴォー、ベン・ウィギンズ他 ■配給:ポニーキャニオン 情報提供:スキップ © 2017 ANNA AND THE APOCALYPSE LTD. 5月31日(金)より、新宿武蔵野館ほか全国ロードショー
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yu-katsumata · 5 years
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新年あけましておめでとうございます(かなり今更) 写真は、夕暮れの我が足柄の街。 2018年は カメラの構造にはまりいろんなカメラを買い研究に研究を重ねたり、 アメリカの編集技術を勉強したり、 初めて舞台を演出したりと、 新しいものに対する挑戦の一年でした。 頭パンクするくらい詰め込んだインプットの日々。 俺はまだまだ甘い。勉強の余地がある。 なかなかスリリングで刺激的な一年だったので 2019年は更に刺激的な一年にしたいと思いやす。 今年もいろいろ作ります。頑張ります。大切に作ります。
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大晦日〜元旦。 毎年恒例、ホジと南足柄の最勝寺道了尊へ。 極寒のなか、長い階段を登る修行のような時間。 たくさんの参拝客を見て、足柄という町が活気付く瞬間を見て、とても嬉しい。 おみくじをひいたら去年と同じく大吉! 二年連続大吉だぜ、今年もついている一年にする。 静寂に包まれた夜の小田原ー足柄の街を走り、一年の幕開け。 藍坊主も調子が良さそうだし負けてられん。 2019!勝負するぜ。
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そして、、、元旦と言えば! 野蛮な漢たちが正月の小田原の治安と平和を守る、毎年恒例の「小田原会」。 青春時代の悪友たちと過ごす酒と血と涙の宴であります。 今年もいつものメンツが大集合。 昨年、職業「幹事」になったUSA近江さんが今年も一生懸命幹事をしていました。 おっさんだらけのLINEグループにやたらと業務的な文章で集合時間や場所が書いてありました。しかし既読スルーの嵐。USA。 そんなUSA近江さんはさすがの仕事ぶりで、完全に飲み会をプロデュースしていました。 幹事で飯を食うとはこういう事なのかと、胸が熱くなりました。 しかしそんなUSA近江さんは会うなり開口一番「会社の忘年会でUSAを10回は歌った」とか 「DA PUMPの再ブレイクで俺も忙しいんだよ」 「俺の職業は幹事だぞ」 と言っていましたが一体何の事だかわかりませんでした。 そもそもUSA近江さんはDA PUMPではなく、ただDA PUMPにいそうな顔をしているだけです。 つまり、顔が濃いだけです。 会話の節々から推測すると自分の事をDA PUMPと思っているようでした。
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まるで持ち歌のようにUSAを歌うUSA近江さん。 このマイクの持ち方を見てください。まぎれもないプロです。 一次会、二次会と久しぶりの再会に酔いしれ急ピッチで酒を飲み、 一部の方々が脱いだり、頭が燃えたり、離婚の危機が迫ったりと相変わらずの宴。 毎日のように会っていた無敵の青春が蘇る。 校舎という狭苦しい空間で、あーでもないこーでもないと過ごした日々。 何もなかったようで、毎日何かがあったスクールデイズ。 随分とおっさんになったけれど、このメンツといると 高校時代に戻れる気がする。貴重な存在。とても感謝しています。
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三次会はタクシーで平塚へ。 ここで俺たちのボスUENOさんが大ブレイク! 「俺は本気だから」という熱いメッセージを残し、 夜の繁華街を突き進み、ラグジュアリーなお店に堂々入店! 黒服たちに深く挨拶されるボス。まさに貫禄。どっかのUSAとは大違いです。
散々飲んで、結構いったお会計を「ここは俺が」となんと全額出すという男気を見せてくれました。 さすがボスです。本当に感謝です。マジな話、次は僕とUSAで接待します。 場所はもちろん平塚で。 その後、中華料理屋に入った我々はおかしなフランス人にからまれたり、 なぜか序盤から半ギレの中華料理屋の人に困惑しながらも反省会。 USA近江さんも幹事続きでぐったりでした。 僕の記憶が確かなら、この日だけで6回くらいUSAを歌っていたような気がします。 しかも、なぜかダンスまで完コピしていたような気がします。 あと気のせいか頭が年々薄くなっているような気もします。 加えて、会話の節々から現在いい感じの女性がいるような雰囲気を匂わせていましたが、なんやかんや失敗と終わると思いました。理由は頭髪です。 宴が終われば朝。エネルギーをフル充電。 永遠のようで、確実に終わっていく、 まるであの日の青春のような時間を噛み締めながら正月を過ごすのだ。
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USA近江幹事お疲れ様でした。
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そして正月の風物詩、高校サッカー。 正月はこれがあるから楽しみであります。 神奈川県からはインターハイの準優勝校、桐光学園が出場。 今年は西川潤という代表のアンダー世代でも中心選手がいることで、 優勝を狙えると確信していましたが、まさかの初戦敗退。 しかも0−5というフルボッコ。ほんと高校サッカーは難しい。 桐光学園が姿を消した事で、 青森県代表のスター軍団青森山田高校の独走状態かと予想しましたが 準決勝で福島県代表の尚志高校が立ちふさがる。 この試合は選手権に残る好ゲーム。 札幌内定の檀崎竜孔やいわきFC内定のバスケスバイロン、福岡内定の三國ケネディエブスを擁する青森山田を大いに焦らせたのは尚志高校のエース染野唯月。まだ二年生。 ハットトリックの大活躍でPK戦までもつれこむも、無念の敗退。 本当に素晴らしい試合だった。 そして、なんとかPK戦を制した青森山田。 決勝の相手は昨年の選手権準優勝校である流通経済柏。 流通経済柏と言えば、鹿島内定の関川郁万。 去年から注目している選手で、何より面構えがいい。 気の強さを前面に出したような風貌と、規格外のフィジカル。 荒々しさと冷静さを兼ね揃えた、鹿島の植田直通タイプのDFだ。 インタビューでも普通に話しているはずなのに、なぜか喧嘩腰に聞こえてしまうガラの悪さ。 個人的に大好きな選手。 その関川郁万のヘディングで流通経済柏が先制するも 徐々に、圧倒的な個の力を持つ青森山田のペースに。 結果的には3-1のスコアで青森山田が優勝。 泣き崩れるイレブンを横目に、強く前を向く関川郁万の姿が勇ましかった。 近い将来、日本代表で見たい選手。 まずはJで頑張ってほしい。鹿島まで試合を見に行くから。
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そしてフル代表は絶賛アジアカップを勝ち抜いている。 初戦から今までいまいちパッとしない試合が続くけれど、 もはや群雄割拠と化したアジア。 伏兵だとかダークホースとかそんなのはない。 まぎれもなくどこの国も優勝を狙えるくらい実力は拮抗している。 次の対戦はベトナム。 一昔前なら圧勝が予想された組み合わせだけれど、何が起こるかわからない。 それがアジアカップである。 半端ない大迫を温存できている点は安心だけど ここまでくると大迫より半端ない総力戦が始まる。 韓国やカタールも勝負強さを見せているし、 前回王者のオーストラリアも苦戦続きのなか、しぶとく勝ち上がっている。 そして何より紛れもなくアジアトップの実力を誇るイランもいる。 ここから益々楽しみであります。 ベトナムに勝てば次はおそらくイラン。事実上の決勝戦。しびれるぜ。 そして、ボランチの遠藤航、CBの富安、DFの酒井宏樹は日本の星。 いや、アジアの星 中島や鹿島のチンピラ鈴木優磨がいないのが残念だけど 優勝を期待している。
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そんなわけで連日連夜アジアカップを楽しみにしながら 年明けからすぐ打ち合わせラッシュ。次回作の準備をしています。 知恵を振り絞り、アイディアを沸き立たせる。 今年も熱い夏になりそう。
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今日の一曲はSTUTSのChanges feat. JJJ 年末からずっと聞いている。 そして、飽きるくらいに見ても飽きないMV。 解釈は見ている側に任せるといった、潔い構成で組み立てられた感情のパズル。 Banri Kobayashiさんの作る映像がとても好きだ。感覚に訴える映像を作る方。 Febbも見てるかな。JJJ今すげーかっこいいよ。 交差する思い出だらけだった2018。 歳をとるごとに増えていく経験と愛しい思い出たち。 その引き換えに、手放したのは体温だ。 記憶の中で美しく疼く温度を、解いて、解いて、歩いていく。 辛かったり、涙が溢れそうになったりもするけれど、 だけれど、絶対に忘れない。 繋いだ手の温かさは、いつまでも色褪せることなんてない。 風抜けてく手 乗せたはずの絵 散って砂になってさっき舞った天 PEN持ったRapper in the damn このストーリーと息をして 千の感情と意味を超え また交差する思い出 解いて 二度と戻らない今日 刻み込む
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nanaimari · 9 months
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【オーストラリアの田舎で暮らせば⑪移住後の生活コストの変化】
当地でも続く物価高の中、地方部に移り住んでから変わった「お金の使い方」。街までの距離、隣人との人付き合い、家庭菜園など、日々の生活コストの変化に影響する田舎ならではの暮らし方を切り取ってみた。 https://nichigopress.jp/topics-item/74239/
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le9juin · 7 years
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公演終了しました
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『あなたが出会わなかったひと Someone you may never meet』は無事終了致しました。本当にありがとうございました。
*公演台本の公開*……こちらに公演台本を公開しました。下の「さらに読む」(またはkeep reading)を押してご覧頂けます。
あなたが出会わなかったひと Someone you may never meet
作 藤井治香
妹 
姉 
  キスをした話
 妹
 私はこれまでの人生で、好きな人一人とキスをしたことがあり、好きでない人二人とキスをしたことがあり、すごく好きだった人にキスしてもらえなかったことがある。
 初めて好きでない人とキスをした時のことは、よく覚えている。
 それはフランスにホームステイしている時のことだった。パリに着いてから手違いがあって、私は現地の語学学校に通うまでに二週間暇ができた。その二週間に私は何をしていたのか、なぜかよく覚えていない。それで滞在三週目から四週目にかけてフランス語を勉強した。学校では先生が話すのはほとんどフランス語で、ほんの少しだけ英語を交ぜながら授業を進めるスタイルで攻めてきた。よくわからなかったけど、動詞の活用もちょっとだけ覚えた。うっすら日本でも勉強しておいたからかもしれない。だけど、それでもやっぱり難しくて、勉強できたことに満足しただけで、学校は終わった。次の週から、私はそこで学んだことと、日本で買っておいた、その単語さえ指し示せば意思疎通できる、という有能な『言葉の指差し単語帳』から学んだ「ボンジュールムシューサヴァ?ウィ、ジュヴァビアンメルシーエヴ?」と「エクスキュゼモア、パハレーヴーオングレ?」と「ジュブドレアレイシ」という言葉だけを頼りに、南フランスまで旅行することにした。ちなみに今のは「こんにちは、ご機嫌はいかがですか?はい、私は元気です。あなたは?」と「すみません、英語話せますか?」と「ここに行きたいんですけど」だ。あと、私は英語もズタボロだった。それでもとりあえず旅行することにした。
 アヴィニヨンで演劇祭やアルルで写真祭を見たりしたが、特に次にどこに行くか決めていなかったから、現地の人にどこが良いか聞いたら、カリーが良いと言われた。ところが元来のゆっくりした性格が災いしたのとアルルがすごく素敵だったから、カリーが想像したよりリゾート地っぽくて私のお金じゃ楽しめそうにないと判断して、とりあえずマティーグという田舎町に着いたらもう夜の七時を回っていた。恐ろしいことに電車もその日の分はもうなく、バスも終わっていて、その町外れにある駅で私は途方に暮れた。全然車も通らない。
 そこに、1台の車が通った。
 それは一人の若者が運転している軽自動車だった。彼は私が困っていることを察すると、自分の車に乗るように言い、そして本当に一ミリの誤差もなく明るい調子でドントビーアフレイド!と言った。私はこの時ほどドントビーアフレイドがすがすがしく聞こえたことはない。彼のその言葉は私になんの安心感ももたらさなかった。でも、私にはこの人の車に乗る以外の選択肢がないことも事実だった。幸い彼は本当に良い人だったけど、この時、どのような間違いが起きても自分に責任がある、と私は自分に強く言い聞かせた。
 彼は、オーストラリアに留学したとかで英語が堪能だった。堪能すぎて、彼の職業を聞き間違えていた。私ははじめ、彼はプログラマーだと思っていた。あとで、水道工技師だとわかった。私は、彼にこの町の中心地に連れて行ってほしいと頼んだ。とりあえず人気(ひとけ)の多いところに行きたかった。確かに彼は街の中心地に向かってくれたけど、これから仕事先の人と少し会うから、その後一緒にご飯を食べようと言った。私は断った。だけど、彼はまったく考えを改めるそぶりを見せず、挙げ句の果てに楽しそうだった。町にアジア人は私だけのようだった。仕事先の人は大柄なおじさんで、自分はロシア系だとか、この町にはもう長いとか、君一人でこんなとこまで来て、勇敢だけど賢くはないね、等と言った。おじさんも彼も陽気だった。おじさんと彼はビールを飲んだ。私はコーラをもらった。彼がビールを飲むので、運転するのに大丈夫か聞いた。彼は全く問題ないと言ったので、私はかすかに震えたがどうしようもなかった。それは本当に短時間で終わりを迎えた。彼はこれから家に行って着替えると言った。私は彼の家に行きたくなくて、即座に着替えなくていいよ!と言ったが、彼は帰ると言った。良かったことに、行ってみると、家は彼の実家だった。実家は中庭を挟んで二つの建物で構成されていた。彼は、家に入った途端、飾ってあるインテリアの仏像を私に披露し「きれいでしょう」と言った。私は仏像をきれいだと思ったことはないけど、あ、そうだね、みたいな笑顔で大人の対応をしておいた。家には彼のお父さんとお母さんがいた。彼は二人にかなり簡単に私を紹介した。二人は、彼が突然人を家に呼ぶ��とには慣れているようだったけど、こんな田舎町にアジア人がいること、しかも突然家に来たことに驚いていた。私もさっき知り合った人のお父さんとお母さんに会ったところで、どういう態度を示すのが適切かわからなかったし、いろいろ急すぎて、もうなんだかわからないけど、「ちょっとした友達」みたいな雰囲気をかもそうと努めることでなんとかその場をしのごうとした。だけどどうしても私はアジア人だった。片田舎の日常に突然現れるには存在感がありすぎた。彼は着替えると言って二階に上がっていった。私は、会ったばかりのその老夫婦と残されて気が遠くなりかけた。それでも、人って素晴らしいもので、そんな状況でも私達は三十分ほどの会話に成功した。お母さんと私は片言の英語しか話せなかったし、お父さんはフランス語しか話せなかった。そういうわけで、会話は難航した。私とお母さん、そして、お母さんとお父さん、そしてまたお母さんと私、みたいな感じ。会話はとっちらかった。それでも、親身になって会話してくれた。多分、これは一生懸命英語やフランス語を話してくれたからじゃなくて、この人たちはもともと親切な人たちなんだろう。私は、今後一生話すことはないであろう、この人たちとの会話を楽しんだ。そして、この人たちにとっても今後一生会うことのないであろう、異国の娘との会話を楽しんでくれたように思った。とりあえず、全員必死で話していた。出してくれたコーラにはレモンが入っていて、「フランスではコーラにシトロンを入れるの」と教えてくれた。レモンがシトロンだとこのとき私は覚えて、今も覚えている。それで、コーラにレモンを入れるときに、めったにないけど、この人たちのことを少しだけ思い出す。彼が二階から下りてきて、出かけようと言った。それで、私はお父さんとお母さんに別れを告げた。
 彼は、家から出てすぐのところにいるヤモリを見つけて「見て!ヤモリだよ!写真撮りなよ!」と言った。私は、日本にもヤモリいるよ、と言いたかったが、言えなかったので、その代わりに写真を撮った。彼はお寿司をごちそうしてくれると言って、お寿司ショップに行った。そこのお寿司の詰め合わせはサーモンのみで構成されていた。彼は良いところがあるからテイクアウトしてそこで食べよう!と言い、ずんずん山奥に車を走らせた。私は、あぁ、もう自力でパリに戻れないや、とまた気が遠くなった。少しすると、山が終わって海に出た。彼は、なんだかわからない川縁(かわべり)のような海岸に車を止めると、何の躊躇もなくその岩の集まったところに腰をおろしてピクニックを始めた。もう夜の9時前だった。ヨーロッパは部屋の明かりが控えめで、だから歩道の明かりも控えめなのか、辺りはまぁまぁ暗かった。大丈夫かなと思っていたら、時折、足音がざっざっと聞こえてきて、結構な人が散歩していて驚いた。彼は食べさせ合いっこしたいということで、互いにお寿司を食べさせ合った。それは全く滑稽だった。私は明るいところに戻りたかったし、早く帰りたかった。それでさっさと食べたのは良かったけど、遠くに移動式遊園地が見えて、あ、遊園地だね、と言ったら、彼がそこに行こうと言いだした。私はしまったと思い、即座に断った。だが彼は行くことに決めた。移動式遊園地をさっと見て回り、なにかの景品のぬいぐるみとライターを私はもらった。帰る道の車の中で、彼は私に彼氏がいるか聞いた。私はいると答えた。そして次に、今の会話がまるでなかったかのように、僕と結婚してこの町に住むと楽しいよ!と言った。会話の雲行きが怪しくなるのを避けつつ、彼がお勧めする良い好い感じのホテルを彼の説得で押さえてもらい、なんとか私は町の中心地に今晩の宿を得た。ホテルとはいえ、そこはなんだかマンションみたいに見えた。
 彼は別れ際にキスがしたいと言った。私は、今日彼が私のために払ってくれたお金についてさっと思い浮かべた。コーラ代、お寿司代、遊園地の出し物代、ガソリン代など。私は、彼に感謝の気持ちもあったし、まぁ、キスくらいいいか、と思った。それで、いいよ、と言った。キスは数分続いた。舌が入ってきて、そのあと首筋にも及んだ。私は不思議と動揺しなかったので、それで、自分はなぜ動揺しないのか自問自答した。私は、彼に対して申し訳ないなという気持ちが湧いた。何が申し訳ないかはわからないけど。多分彼はその後のことも進めたいと思っていることはよくよくわかった。でも多分、彼はそうしないだろうなともわかった。彼のお父さんとお母さんを見れば彼がどんな育ちかわかる気がした。私はその後を進める気持ちはなかったし、彼もそれを汲んでくれることはわかっていた。そこで彼とは別れた。
 彼はいったん別れた後、もう一度戻ってきて、明日の朝はタクシーに乗って駅まで行くんだよ!フロントに言えば呼んでくれるから絶対頼むんだよ!と言った。私は翌朝実際にそうした。駅に着いて、これからどこに行こうか迷っていたら、そこにいたおじさんが話しかけてくれた。どこが良いか聞いたら、おじさんは地図上のかなり多くの場所を指差しながら、しきりにトレマニフィークと言った。私はその言葉の意味を知らなかったので、適当に相づちを返し、駅員さんのお勧めしてくれたエクサンプロバンスに行って、一泊してパリに戻った。そのあと、トレマニフィークはすごく美しい、とか、最高という意味だと知った。
 キスしてくれた彼は、私に名刺をくれていた。私はそれを、パリを発つ日にホームステイ先の家に置いて帰ってきた。だからもう、その彼にも、彼のお父さんお母さんにも、仕事先のおじさんにも会うことはないだろうし、しかももうマティーグという町にも一生行かない気がする。ちなみに後で調べたら日本語ではマルティーグとあった。でも私は彼ら現地の人の言葉でマティーグと聞こえたから、私の中では今でもマティーグにしてある。もしかしたら、私はパリにさえ、もう一生行かないかもしれない。そのキスの話を、当時の彼氏に話して、なんとなく謝ったら、彼はただ一言「つけいられたね」と言っただけだった。その彼とも、別れてもう5年になる。
 最近、私は新しくセパマルというフランス語を覚えた。「悪くない」という意味だ。私はこの思い出も「悪くない」と思った。この言葉を、最近会社にやってきたフランス人上司の口から私は毎日何度も聞く。セパマル、セパマル、セパマル…。彼女は決してトレマニフィークとは言わない。それでも、悪くない、というのは、確かに悪くない。良いとは言えないけど、でも悪いわけでもない。私は、良い、と、悪くない、または悪くない、と、悪いの違いについて考える。そこの決定的な差について。例えば、私のペットの大好きなピンクのウーパールーパーとそれほどでもない亀。亀を大好きになることは難しい。この差。
 そういうどうでも良いことを考えながら昼寝していたら、変な夢を見た。職場の同僚と話している夢で、その夢の中では、なぜか同僚の顔は姉にそっくりになっていた。内容はよく覚えていないけど、目覚めはあまり良くなかった。私の姉は私より3つ上で、ばりばりのキャリアウーマンで、いつ会っても生き生きとしているところが本当にうざい。
   妹の夢
同僚(以下、同)、椅子に座って弁当を食べている。そこへ、妹がコーヒーカップを持ってお菓子を食べながらやってくる。 
同 いつも、何飲んでるんですか?
妹 え、あ、麦茶です。いつもここで、お昼とってるんですか?
同 あぁ、たまに。
妹 ここ、良いですよね、あんまり人来ないし。
同 お昼食べました?
妹 はい、さっき。
同 早いですね。
妹 そうですか?
同 あ、私2つめか。
妹 え?
同 あ、私、これ、お弁当、今日2つめなんです。
妹 そうか、そうか、いつも二つ食べてますよね。
同 いつもは3つ食べてるじゃないですか。
妹 あ、そっかそっか、大体みんな三つ食べますよね。
同 そうそう。
妹 そうそう。
同 そうそう。昨日の夜十一時にあなたが家の前の道路で轢かれてたじゃない
  ですか?そのことが気になって。大丈夫ですか?
妹 昨日?
同 あなたが轢き逃げにあって。
妹 え?
同 あれ、轢き逃げかなぁ。
妹 え?私が自分で轢かれに行ったってこと?
同 そうなんですか?!
妹 私事故にあいましたっけ?
同 事故?
妹 私の家ご存知でしたっけ?
同 え、何言ってるんですか、一緒に住んでるじゃないですか。
妹 あっ、そうかそうか。え、自分で轢かれにいったっけ、私。
同 いつも死にたいって言ってるじゃないですか。毎月、家の角(すみ)で
  泣いてるの知ってるんですよ。
妹 大体そうなんじゃないですか。みんな。
同 大体ね。
妹 大体。大体泣いてるんですよね。
同 ほら、やっぱり私が一番泣くから。
妹 え、私じゃないですか?
同 あ、でもほら、あの時が一番ひどかったじゃないですか。あなたが、お母
  さんに怒られて、三キロ程の道のりを、お母さんの自転車を追いかけてス
  ーパー「ファミリー」まで走った時。
妹 え?
同 館内放送でお母さんを呼び出し、驚いたお母さんに怒られながら、自転車
  に乗せてもらって帰ったやつ。
妹 そんなことありました?いつの話?
同 三歳位じゃないかな。
妹 そうだったね。
同 そうそう。
妹 私、お母さんにかなり怒られたからなぁ。
同 おもしろいくらいに怒られてましたよね。お姉ちゃんに比べて。
妹 あいつ要領良いから。
同 あなたは不器用なんですよね。
妹 案外姉もそう思ってるんですよ、私のこと。
同 でもお母さんはおばあちゃんにそんなに怒られてないですよね?
妹 そうそう、お母さん、自分のお母さんに全然怒られてないのに。
同 そうそう、おばあちゃん、早くに亡くなってしまって。
妹 お母さんが二十歳になるまでの間、入退院を繰り返して、亡くなった。
陰 あなた、このお正月お母さんともめたでしょう?
妹 はい。なんか、お母さん、ちょっと病気してて、それはまぁ、だいぶ大丈
  夫になってきてるんだけど、それを、一応礼儀的にその後どうって聞いた
  んですよね。でも、その話の最中に、私こたつに入ってたんだけど、多分
  寝ちゃったんです。それでお母さん、怒ったんだと思うんですけど。でも
  それならなんで怒ってるのか言ってくれても良くないですか?なんで黙る
  ?察してくれってこと?なんで怒ってるのか気付いてってことなんでしょ
  うか?嫌だわ、そういう甘え。
同 わかる〜(うっとうしい感じで)。
妹 多分、お母さんが小さい頃から、うまく甘えられなかったこととか、そう
  いうのか、なんか、最近、ようやく最近ね、お母さんと距離をとれるよう
  になったんですよね。小さい頃は、なんで怒ってるのか全然分からなかっ
  た。お姉ちゃんも多分、なんか思ってたと思う。でも、最近分かるように
  なったんですよ〜。
同 嘘〜。そしたら、やっぱりおばあちゃんに会いたいですよね〜。
妹 ほんとそれ〜。
同 ねぇ〜。
妹 ねぇ、一つ聞いていいですか?
同 何ですか?
妹 どうして私はおばあちゃんに会えなかったんでしょうね?
同 それは 
暗転
  妹の日記
妹が部屋に入ってくる。日記が落ちている。
妹 なんだ、あったじゃん…。 
妹、日記を読む。 
六月二日 フェリシダの調子が良くない。最近名前を変えたからかもしれない。名前を変えるのはこれで三回目だ。はじめは犬が欲しかったけど飼えなかったから、犬に似せてジョン、その次に、友達が遊びに来てくれるというので、ジョンだとおかしいかなと思い、はなみにした。はなみ。はなみ、は結構良い感じだと思っていて、結構長く続いた。でも、最近、ウーパールーパーはメキシコサラマンダーなのだから、つまりメキシコ生まれなのだから、はなみはどうだろう?あと、ジョンは男の子なのに、はなみは女の子で、この子は女の子だったから、性別は一致したけど、ジョンの方が、はなみよりはメキシコに近い気がする。それではメキシコの言語はスペイン語なので、スペイン語で良い感じのやつを探そう。探した。探して、フェリシダにすることにした。それで、この子の名前は三日前からフェリシダになった。どうしよう?この調子が続くようだったら。ペットショップに行こうか。
 ところで、初めてフェリシダに会った時のことを記しておこう。それは半年前のことだ。私はドトールの外の席で紅茶を飲んでいた。確か日曜で、行くところもないけど家から出たい気分だったので、家からバスで最寄り駅まで行って、その駅から少し行ったところにあるドトールに入った。ぼけっとしていたら、道を挟んで反対側の小川の前にトレンチコートを着たバリバリキャリアウーマンみたいな、女子力というか女性力高めの、さらさらロングヘアの女性が水槽を持って立っていた。彼女は川を調べているような感じで、その辺りを見回していた。私はぼけっとしていたつもりだったが、凝視していたらしく、その彼女がさっと私の方を見た。般若のような顔で私を睨み付けていた。怖かった。彼女はその時、水槽の中身を川に捨てようとしていた。しかし、私を見て、さっと水槽をその場に置いてくるっと向き直り、足早に立ち去って行った。私は水槽を見に行った。彼女と水槽も似つかわしくなかったけど、中身を見て、それがウーパールーパーだったから、私は余計に混乱した。私はそのウーパールーパーを持ち帰った。なんでかはわからない。その時は別にウーパールーパーは好きではなかった。私はその彼女について考えてみたことがある。私の中では、あの時彼女は別れた彼氏が残していったペットを捨てに来ていたことになっている。
七月十六日 フランスの語学学校でできた友人の名前でメールが来た。スペイン語で「便利なもの」という題名で。それでも、学校に行ったのももう五年も前のことだし、その子とはメールのやりとりはなかったから、ウイルスメールだと怖くて開けていない。
 フランスでの出来事を少し思い出した。ユーロスターに乗っている時のことだった。私の予約していた席に五人家族が座っていた。家族はボックス席の二席を私に譲り、私の向かいには赤ちゃんをだっこしたお母さんが座った。私はお母さんと少し話す。彼女も私も英語が片言だった。彼女はアルジェリア出身だと言ったと思う。彼女はイスラム教徒で頭にあの布を巻いていた。お姉ちゃんが来年からその布を巻き始める年齢になるが、お姉ちゃん自身は巻きたがらない、私は巻いてほしいと思っていると言った。私は、ふと、アメリカのあのジャーナリストのことを思い出した。
 それは、アメリカの女性ジャーナリストがエジプトでアラブの春と呼ばれていた動乱を取材中に、現地で集団レイプに遭ったというニュースだ。彼女はそのままアメリカに戻り、数年後にはCNNか何かのテレビで、取材にも応えていた。彼女には夫も子供もいた。その報道の中に、この事件には、資本主義の国アメリカから来た白人女性を、現地の男性が征服するという政治的意図があった、という内容があった。
 私はお母さんに、その事件を知っているか尋ねた。彼女は知らなかった。私は、そういう政治的な意図を持ってそういう事件が起きることってあるのか尋ねた。彼女は、エジプトに行ったことがあるが、普段はそんな国ではない、その事件は知らないが、ただ本当の暴徒が犯した事件に過ぎないと思う、と言った。
 それで、私はこの事件に何を恐怖として見ていたのか?
 私が恐れていることの根幹には、多分、性と人格の一致がある。例えば、身体だけの関係になることが恐怖だと考える根底にあるものは、一緒であるはずの人格と性が分離していることを私が受け入れたくないと思っているからで、それは、つまり、実際は性と人格なんて一緒のものではなくて、全ては刷り込みであり、でもその刷り込みを私が信じていることによって、あらゆる恐怖が生まれて、その恐怖を自分で一生懸命せっせと生み出して生み出して生み出して、しているのだろうと、一致させておきたいのだろうと思う。でも、おもしろいのは、ではなぜ、自分の性と人格を一致させておかないとこれが恐怖になるのか?ということ。そもそもこれが恐怖になるということ、私は一方では暴力的にいつでも振りかざしている気がする。一つには性と人格を切り離せている女性に対して、もう一方は切り離していない男性に対して。
 こういうことばかり考えていると良くない。
八月三日 私は最近、ゆりあちゃんという子と仲良くなった。ゆりあちゃんは私の会社に付属している保育所によく預けられている。私はゆりあちゃんと仲良くなってから、よくその保育所を覗く。ゆりあちゃんは人見知りするけど、素直でとっても良い子だ。同じく預けられているゆうくんのことが好きで、でも上手く表せなくてときどきいじわるしてしまうところがある。子どもたちは風邪の予防に手洗いうがいをさせられている。うがいと言えば、私は何かにつけて出す音が大きいようだ。例えば歯磨きの後のうがい。会社ではみんな「しゅっ」「ぺっ」って感じだけど、私は「がーっ」とか「ゔぇっ」とかになっていた。いけない。あと、鼻をかむときに、力一杯かんでしまう。よく、人に注意してもらう。いけない。小さい頃から私は、いろいろなことに力が入りすぎる時がある。「親の敵みたい」と言われたことがある。親の敵、ということは、つまり親、の敵を打つ、というわけで、だから死ぬほど相手を恨んでいるとか、めちゃくちゃに倒すとか、そういうことなのだと思うけど、ってことは、やっぱり親に対してなみなみならぬ思いを人は抱いているわけだ。なみなみならぬ、の部分は、説明が難しいけど、私も親に対して良くも悪くもなみなみならぬ思いを抱いていると言えよう。あと、お姉ちゃんにも。そう言えばこの間見た夢、あれかな、お姉ちゃんと話をしましょうって暗示かな?でもそれはあんまり気の進むことではない。なぜならお姉ちゃんとは話が全く合わないから。お母さんとよりも。私は心配していることがある。両親が亡くなって、お姉ちゃんと葬式とか今後の話とかする時のことだ。結構前から怖いと思っている。お姉ちゃんとその話、スムーズにできるのかなって。話し合いって二人でできるのかなって。できなくない?あの人と。なんか自信ない。私はいつからこんなにお姉ちゃんが嫌いになったんだっけ。私が保育園に通っていた時、メダルを作って遊ぶ、というのがあった。そのメダルには、家族の中で一番大好きな人の名前を書くことになっていた。みんなが圧倒的に「お母さん」と書く中、私は「お姉ちゃん」と書いてもらった。家に帰ってきて、お母さんがお姉ちゃんに「なぜかお姉ちゃんって書いてもらったんだよ」と報告していた。小さい頃はお父さんとお母さんのけんかがよくあったから、私はお姉ちゃんに完璧になついていた。また、こういうこともあった。大きめのショッピングセンターに家族で行って、自由行動することになった時のことだ。お母さんが私に、あんたは小さいから誰かについていきなさい、と言った。私は、間髪入れずにお姉ちゃんを選んだ。そして、お姉ちゃんと一緒にプリクラを撮った。車の乗り物に乗って、お金を入れると写真シールができるやつだった。そのシールに、お姉ちゃんは困惑の表情を浮かべながら、私はあらぬ方向を見ながら写っていた。私は小さい頃、姉と一緒にいられればそれで良かったし、ごくたまに姉の部屋で寝る時は、ちょっと友達の家に泊まっているような気がして楽しかった。姉の部屋にはなかなか入れなかったから、入れたことも嬉しくて、わくわくしていた。私は、そんなことでわくわくしていたのだった。姉がものすごく良いもののように感じていたのだった。そういう時もあったのだった。
九月二十日 会社の人にある宗教に誘われた。彼女はまるで「あの角においしいハンバーグ屋さんがあるよ」、と話すのと同じレベルでその宗教を勧めてくれた。彼女は両親が生まれたときから入信していたので、その宗教のない世界の存在を想像するしかない。ない、というか、ないんだろう、とこれは私の想像だけど。彼女は「わかる」と言った。「あなたが不審に思うだろうことはわかる」。「あなたが怖がるとか、そういうことはしないから、私は何も押し付けたりしないから」とか。それでも、彼女の勧め方が、ハンバーグ屋さんレベルだったので、私は直感で、私と彼女の意識は、別の国に生まれた人同士くらいには遠いのではないかと思った。でも、別の国同士ならまだ良い。互いが互いに違うところを持っていることをはっきり認められるから。クリアー。問題は、どちらも自分と同じように感じていると信じて疑わないとき。人が生きている上で、こんな大きな違いでなくても、もっと些細なものからたくさんあって、例えば優しさとか、例えば怒りとか、例えば、例えばという言葉とか、そういうこと、そういう考えてもどうしようもないこと、つまらないことを、私はそう言えば今まで無視してきたなと、そう思う。それが良いと信じていたのだから。だってそうでなければ生きていくことは本当に、本当に難しい。
私が失ったもの
姉の3日間(夜) 
一日目の夜
 姉、帰ってくる。
 コート、鞄、ポストから取り出した新聞を置く。テーブルライトを点ける。カーテンを閉める。鍵を置く。新聞をテーブルに置く。コーヒーを淹れる。ポットにミネラルウォーターを注ぎ、セットする。新聞を読む。
二日目の夜
 姉、帰ってくる。
 コート、鞄、ポストから取り出した新聞を置く。テーブルライトを点ける。カーテンを閉める。鍵を置く。新聞をテーブルに置く。コーヒーを淹れる。新聞を読む。編み物をする。
三日目の夜
 姉、帰ってくる。
 コート、鞄、ポストから取り出した新聞を置く。テーブルライトを点ける。カーテンを閉める。鍵を置く。新聞をテーブルに置く。コーヒーを淹れる。新聞を読む。編み物をする。
 一日目の夜、新聞の地方欄に交通事故による死亡事故の記事が出ていた。そこで死んだのは、以前、姉と結婚寸前までいった相手だった。その男は、姉にプロポーズをしていたが、姉の方が思案しており、それが長引いている間に、別の女との結婚を決めた。姉と男の間では、結婚に際して、価値観の違いからくる意見の相違を、お互いに譲れなかった。それは子どもをいつもうけたいかとか、何人子どもが欲しいかとかいった、結婚してからのことが主だった。男と、その結婚した女とは、運命のようにさっさとことが進み、結婚に至った。その頃、姉は子どもを持つことも結婚することもそんなに重要視していなかった。そして、男の方が自分以外の女を選ぶとも考えていなかった。姉は男が自分とだから結婚したいと思っていると思っていた。しかし、男が別の女と結婚した時、自分でなくても良かったんだと知り、深く傷ついた。姉は、男は戻ってくると思っていた。それでも男は戻って来なかった。
 姉は、ただ、その記事を読んだ。死んだ?彼が死んだ?彼女はそれは、何か、あたかも新しいお店が近所に開店したとか、そういう類いの、気にも留めない記事を読んでいるかのような心持ちで、冷静に、そしてあまり深刻になる必要もないかのような、そういう構えで、その記事を読もうとした。ネットのサイトでも確認した。彼だった。彼が死んだ?死んだ?姉は、男が別の女と結婚したとき、死のうと思ったが死ねなかった。姉は、男とその女との間に子どもが産まれたときも、やはり死のうとしたが死ねなかった。その彼が死んだ。
 彼女は、このことをどのように考えれば良いのか、感じれば良いのか、この二日間、分からないままでいた。それで、電話をかけることにした。 
三日目の夜、編み物をふと中断し、地元に住む幼なじみに電話をかける。 
 もしもし?ミチル?今、電話して平気?え、あ、ごめん、出かけるの?これから?ペットの食事?ミチル、何飼ってるの?え、嘘、それ妹も飼ってる!流行ってるの?うん、やっぱ生き餌なんだ、え、タブレットもあるの?すごいね。え〜かわいい、寄ってくるんだ。え、いいよいいよ、水槽の管理とか私には無理。ふふふふふ、うん。サボテンも枯らした。嘘じゃなくて。腐らせたこともある。それも嘘じゃなくて。
 あのね、実は、面白い話があるの。ねぇ、あの人のこと覚えてる?私が結婚するって言って、ミチルにも紹介した、そう、その人がね、うふふふふふふ、あははははははは、あぁ、ごめんね、あのね、一昨日新聞読んでたら、交通事故の記事があって、死亡事故でね、それが、あの、うふふふふふ、ふふふ、彼だった、彼の名前だったんだよね、それが。あはははははは、いろいろ調べたんだけどね、少し驚いちゃった。
 言わなかったけど、私だからだって思ってたのね、彼が結婚するのは。私とだから結婚を考えたんだって思ってたんだよね。だから、私、鷹揚に構えてたの。結婚しようって言われたときも、結婚するのがいいのかどうか、ゆっくり考えてた。それを向こうも受け止めてくれてるって、本当に思ってた。だから、彼女と結婚するって聞いたとき、本当に死にたかったの。それからね、子どもが産まれたって聞いた時も、本当に死にたくって、死にたくって、あははははははは、馬鹿みたいなんだけど、死にたいなぁーって、思ってた。でも、向こうの方が先に死んじゃったの。どう思う?面白いね。私が消えなくても、向こうが先に消えちゃったの。私、これも別に言わなかったけど、本当に、本当にあの時、というか別れてから、本当に何かが決定的に変わってしまった、と思っていた。地に足がついたものの見方をするようになったって、思っていた。そんな生き方ではいけませんよーって、叩き付けられたって、それで方向転換できたって思っていた。変わってしまったというか、変えていこうとして、それからできるようになった、と思っていた。間違いに気付いたと思っていた。あの女は、ほんとうに賢かったんだなって、私とは違って、しっかり現実を見据えていたんだなって、何をどうすれば良いか見えていたんだなって、覚悟があったんだなって、それで、私、本当に馬鹿だったなぁーって、自分がほとほと嫌になって、嫌になりきれたつもりだった。学んだつもりだった。それまで一生懸命生きてるつもりでいて、でも周りを見渡したら周りはもっと一生懸命で、死に物狂いで生きてたんだなって、わかった、つもりだった。確かに、私、それから、本当に死に物狂いで生きるようになったとは思う。だけどね。
 私は何一つわかってなかった。全てあの時の私のままだった。私、また自分に期待してしまっていた。こんなどうしようもない存在に、まだ期待して本当に愚かだね。彼が死ぬなんて、生きていたのに、何もしなかった。馬鹿になれば良かった。わかったふりしているって一番愚かなのにね。わかったことなんて何もなかったんだ。ただ、眼を背け続けていただけだったんだ。私は私から、ずっとずっとずっと、眼を背け続けていて、それを頑張ってるって本気で思ってたんだ。彼が死んでしまうなんて、どうして、私そういうこと考えられなかったんだろう?
 私ね、あの人といるとき、あらゆる私を取り巻くことと、あの人との生活を天秤にかけてしまっていた。あれもしたい、これもしたい、できることは私の力で、私の努力で何でも、本当に頑張って何でもやりたいって、思っていた。そして自分を信じてたの。結婚したり、子どもを産んだり、それは私にとって、どうしてか、幸せと結びつけて考えられる事柄じゃなかったの。今でも、子どもを産んで、それで?その後私どうやって生きていくの?人生の方針を立てるの?って考えてしまう。それでもね、変な話だけど、そういう計算抜きに彼と結婚すれば良かったなと、いや、できれば良かったなぁーって、彼の子どもを産めたら良かったなぁーって、そういう気持ちに、何度も何度も何度も首が絞められそうになったんだよね。朝、目が覚めて一番にはっとして、そのことが頭にあって、そうして一日を始める日が本当にあって、そうして、そのうちに、私にとっての幸せとか、私の人生の方向性とか、そんなものは本当は初めからなくって、あったように思えていたものは、そう思っていただけで、本当は、私、もっと素直に生きられたのになぁーって、でも、それが私の人生なんだなぁーって、わかったつもりになっていた。それがしっかりするということなんだなぁーって、思っていた。でも、それが嘘だった。私、全然しっかりしてなかった。
 私、知らなかった。今、知った。私、ずーっとあの人のことだけを考えてたんだ。忘れてるつもりだった。もちろん、思い出さない時もあった。でもね、馬鹿だね。本当に。どうしてこうなるんだろうね?…もしもし?
 あはははははは、ねぇ、今までの私の話、全部忘れて。え、嘘、今日は星がすごく綺麗。どうでもいいね、そんなこと、ね、あははははははは、あははははははは、あのね、冗談なの。ちょっと、思い出しちゃったの、あぁ、そうだ、私、そういうこともあったなぁ、って。私、また同じこと繰り返してるなぁ、って。あの人は死んでないの。そろそろ私の中から消してしまって、もうあの人から私を解放してやろうって、これ以上自分を苦しめることはやめようって、そう思っただけなの。死んでないの。はははははは。あの人が死んだりするわけないじゃん。…ねぇ、でも、一つだけ私、不思議に思うことがあるの。あのね、どっちにしろ、もう彼に会うことはないわけだけど、もしそうだとしたらね、ねぇ、私の人生は、どうして彼に出会うようになっていたんだろうね?
  C’est pas mal, c’est la vie.
妹 
 フランス人の上司が、出張から帰るときに富士山を見たらしい。あのセパマル、としか言わない彼女にしては珍しく、帰ってきてしきりにトレマニフィークと言っていた。私は、日本人なのでそんなに感慨はないけど、あぁ、そうだね、みたいな大人の対応をしておいた。彼女は息子が富士山を見たがっているのだと言って、写真を送っていた。子どもがいると知らなくて何となく聞いたら、上司は離婚していた。謝ったら、彼女はただ、セラヴィ、と言った。セラヴィ。それが人生だ。私は、少し、このフランス人上司の子どもとか、前の旦那さんとか、いるかもしれない今の恋人とか、両親とか、彼女の周りに存在する人たちのことを考えた。恐らく、私が一生出会わない人々について。きっと良い人もいて、そうでない人もいるだろうし、好きになる人もいるかもしれないし、出会わなくて良かったと思う人もいるだろう。そうして私は、彼女の人生について、彼女の言う、それが人生だ、の、それ、について、考える。誰にでも、彼女みたいな人がいればいいのに、と思う。適当なときに、適当な言葉を言える人。セパマルと言ってくれる人が必要だ。出会えるかもしれないし、出会えないかもかもしれないけど。人はいつ、どこで、どうして会えたり会えなかったりするのかわからないのだから。だから良いのだから。セパマル、セラヴィ。
妹の会社の付属保育所
妹 ゆりあちゃん、またそんなことして。ほら、それゆうくんに返してきてあ
  げて。そうだ、私ピアノ弾いてあげるね。だからゆうくんも聴きにおいで
  って呼んであげて。 
妹、トイピアノを弾く。
 終
  公演記録
2017年2月4日(土)・5日(日)全4公演
会場 DESIGN FESTA GALLERY EAST301 
作・演出 藤井治香
キャスト 妹/しおしお
     姉/藤井治香
制作   穐山茉由
照明   鈴木拓実
企画制作 le 9 juin
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「小西美術工藝社」社長で、イギリス人のデービッド・アトキンソンさんをご存知ですか。  拙ブログでは以前一度だけご登場いただいたことがあります。 ■15/2/9付:中国産漆に駆逐される国産漆!国宝守る英国人社長の闘いと日本人への提言  25年以上前に日本に移り住まれて、近年は著書も多数出版されています。  雑誌『WiLL』にも「ミステリアス・ジャパン」という連載を持っておられ、私は毎月楽しみにしています。  連載では、日本が抱えるさまざまな問題をイギリス人ならではの視点で語っておられるのですが、2016年3月号(先月号)は、移民と難民の問題がテーマでした。  結論から言うと、アトキンソンさんの主張はこうです。  「日本は移民に対してあまりに無防備であり、難民認定法や社会保障制度を見直し、しっかりとした移民、難民の受け入れ戦略を立てないと、近い将来、大変なことになる。財界の方にも、移民を受け入れる前にやるべきことがあることをしっかり認識してもらいたい」  母国イギリスの歴史や制度と比較しながら、個別具体的に問題点を提起してくれています。  その内容を少し紹介すると…  話はまず、日本の外国人に対する厚遇ぶりから始まります。  アトキンソンさんは以前、肝炎のような症状を起こし、外国人専門の病院で診察してもらったそうです。  すると「大学病院で診てもらった方がいい」と言われ、紹介状を書いてくれました。  ところが、アトキンソンさんは日本の健康保険に入っていませんでした。  すると「会社の加入している保険があるだろうから、申請すれば、すぐに仮の保険者番号を発行してくれる」と言われ、病院へ向かうタクシーの中で秘書に連絡し、申請をしてもらうことになりました。  驚くべきことに、病院に到着する時にはそれが発行され、病院で使うことができたそうです。  アトキンソンさんは、良かったと思う一方で、外国人である自分に対する厚遇ぶりを、1980年代のイギリスと重ね合わせました。  当時イギリスでは、観光ビザで入国した観光客もイギリスの健康保険制度が使えたそうです。  つまり、医療費はタダ。  無料で治療を受けようと観光客が大挙してやって来たため、「社会保障観光」という言葉さえできたほどでした。  同時に、社会保障制度目当ての移民もあとを絶たなかったそうです。  しかも移民認定された人はすぐに親類を呼び寄せ、無料で治療を受けさせました。  移民は当然、保険料や社会保障費など���っていませんから、イギリスの財政を圧迫していきました。  が、そうした社会保障制度も、現在までに改正されたとのこと。  健康保険は難民の場合、緊急の場合以外は使えるようになるまで数カ月、待たなくてはなりませんし、それ以外の社会保障制度もかなり制限され、ほとんど使えなくなっているそうです。  また、現在、イギリスでは難民は約12万6000人しかいません。  申請してきた難民の7割弱は認定されませんし、認定されるまでは就業が禁止され、1日の手当も1000円程度。  最長1年、仕事ができないこともあるうえに、認定されなかった時の異議申し立ては1回だけだそうです。  このように審査が厳しく、難民が入ってきにくい状況となっています。  一方の日本はどうでしょうか。  『週刊新潮』2015年11月12日号の【「受け入れない、冷たい国」のウソ! 難民「ニセ申請」が日本で蔓延っている】によれば、2010年に難民認定制度が改正されてから、年々、難民申請者数は増加しています。  2010年は1202人だったのが、2014年には5000人まで増えました。  難民申請をすると、半年で可否の結果が出て、異議の申し立てをすると、面接まで2年、そこから可否の判断まで半年ぐらいかかる。  申請を出してから決定まで、3年はかかるということになります。  つまり、3年間は合法的に日本に滞在することができるので、その間に難民たちは働いて稼ぐわけです。  しかも、一度不認定となっても、何度でも申請を出すことが可能。  4回申請を行えば、12年間、合法的に日本で暮らし、稼ぐことができるのです。  制度改正により、逆に外国人は、難民申請さえすれば、日本で長い間、合法的に働けるようになってしまった。  これでは半分、難民を無制限に受け入れているようなものだと、アトキンソンさんは指摘されています。  同様の制度はかつてイギリスにもありましたが、2000年代の初めに変えられたそうです。  アトキンソンさんはEU全体の移民データも紹介されています。  『Eurostat 2000』によると、EU人口の9.4%が移民でした。  ドイツは2005年の法律の改定により、アメリカに次ぐ世界第2位の移民大国(移民の数、約1000万人)になりました。  但し、EUの9.4%の移民のうち、3分の1程度はEU内の移民で、EU外からの移民は6.3%。  つまりEU全体では、そこまで外からの移民を受け入れているわけではない、ということになります。  「日本は冷たい国」云々と責められますが、「実は先進国はそれほど難民を受け入れていない」という事実を隠すため、海外メディアは日本をスケープゴートにしているのではないか、というのがアトキンソンさんの見立てです。 [2014年5月7日放送「スーパーニュースアンカー」より]  移民受け入れで比較的成功している国は、「所得などの厳しい条件を設けて、上流階級を中心に受け入れる」方法を採っているそうです。  ところが、日本はかつてのドイツのように、経済合理性だけしか頭にありません。  「外国人技能実習制度」を設けていますが、企業が低賃金で酷使したりして、失踪する実習生があとを絶ちません。  中には、「難民申請から一定期間が経てば原則として就労が認められる」という制度を悪用し、失踪後に難民申請する実習生もおり、その人数は2014年には400人以上に上りました。  単純労働者の受け入れが危険なら、カナダやオーストラリアのように上流階級の移民を受け入れればいいのではないかという考えも、日本では簡単にいかないというのがアトキンソンさんの主張です。  まず、日本語習得のために金銭的、時間的コストがかかる。  もうひとつは、外国人に対する日本人の拒否反応。  後者はアトキンソン自身の体験から言われています。  外国人が上の立場になることに対して、日本人は抵抗感が強いと感じているそうです。  イギリスに話を戻すと…  イギリスは1950年代から移民を受け入れてきましたが(帝国の崩壊によって、かつて植民地だった���々の困窮した人々が流れてきた)、彼らの多くはイギリス社会に溶け込もうとはせず、地域で固まって、コミュニティを形成しました。  それはどんどん大きくなり、地元のイギリス人よりも自治体で大きな力を持つようになっていきました。  ある田舎町では、学校の保護者がほとんどインド人で、「英語ではなくヒンディー語で授業をさせたい」とか、「ヒンドゥー教に基づいた教育制度へ変えたい」とか、主張するようになったそうです。  当然、地元のイギリス人たちはそんなことは受け入れられないため、衝突するようになります。  しかし、民主主義国家である以上、小さな田舎のことであっても、民主的に多数決で決まったことには国はなかなか口を挟めません。  アトキンソンさんは私たちに、こう警鐘を鳴らされています。 「日本は新しきなかにも古きよき文化が残り、あまり国際化されていない稀有な国です。下層階級の移民、難民が大勢入ってくれば、必ずイギリスのようにコミュニティが形成され、地元民と摩擦が起こるでしょう。  そういったリスクがあるにもかかわらず、財界の方針によって安易に難民、移民を受け入れていいものでしょうか」  イギリス社会と日本社会、両方をよくご存知の方のおっしゃることだけに、説得力があります。  イギリスといえば、最近、EU離脱の問題がニュースになってますよね。  イギリスでは、遅れてEUに加盟した東欧諸国などから域内移民が急増し、雇用が奪われたとの不満も国民の間では強いそうです。  移民に対する社会保障についても、アトキンソンさんの言われるように昔に比べればかなり制限されてはいるものの、社会保障財源を圧迫していることに変わりはないようです。  こうした経緯から、イギリスでは、これまでEU離脱の是非がたびたび政治の焦点になってきました。  今年6月には、EUからの離脱の是非を問う国民投票が行われる予定になっています。  2月19日、EU首脳会議は、イギリスの離脱を防ぐため、イギリスが突き付けたEU改革案(EU残留条件)に大幅譲歩する形で合意しました。  EU改革案には、域内移民の抑制が盛り込まれています。  一定以上の移民流入が認められた場合、加盟国は7年間の期間を設け、その間に入国した移民への社会保障給付を4年間制限できるようにする、などです。  イギリスが求めていた改革案が承認されたのを受け、キャメロン首相はEU残留の立場から、6月の国民投票に臨むことになります。  日本では、移民や難民の受け入れ問題が、まだほとんど議論されていないように思えます。  他国の事例も参考にしながら、もっと議論を深めなければ…。  日本国民は現在、移民・難民問題をどう考えているのでしょうか。  2月20日・21日に行われた産経・FNN世論調査によれば、「日本が移民や難民を大規模に受け入れること」について、賛成は20.2%、反対は68.9%となっています。  反対の理由はデータがないので分かりませんが、アトキンソンさんが指摘された社会保障とか、地元民との摩擦とかは第一ではないような気がします。  私が思うに、EU域内で移民や難民による「事件」が最近頻発していることが、反対の大きな理由になっているのではないでしょうか。  昨年11月に発生したパリの同時多発テロでは、実行犯の中に、難民に紛れ込んで入国した人物が複数いました。  昨年大晦日から年明けにかけドイツのケルンで発生した、ドイツ女性に対する集団強姦・強盗・性的暴行事件では、容疑者の半数強がアラブ・北アフリカからの難民だったそうです。  つまり、「移民や難民に紛れてテロリストや不届き者が日本に入ってくる」ことに不安を抱く人が多くいて、それが世論調査に反映されたのではないでしょうか。  2/24(水)放送のフジプライムニュース 【世界揺らす移民の足音 国際機関トップに聞く】を、ざっと見ました(完全版動画こちら)。  ゲストの一人は、国際移住機関事務局長のウィリアム・レイシー・スウィング氏でした。  各国が移民・難民に対して抑制的な対応を打ち出している現状について、スウィング氏はこれを良しとしない立場で、このように反論しました。  「これらの動きは根拠のない恐れに根付いている」  「セキュリティー症候群と言えるかもしれない」  「テロリストが入ってくるのではないかという根拠のない恐れ」  「反移民感情が高まっているが大部分は根拠のないもの」  司会の反町氏が「根拠がないと言うが、実際に暴動が起きていることについて、我々はどう受け止めたらいいのか」と突っ込んだところ、スウィング氏の回答はこうでした。  「国民の一部の恐怖、反移民感情を政府がコントロールできていない」  「ケルン事件の犯人の中で亡命希望者はわずか」  「そのわずかな人のために100万人の難民を全く受け入れないというのは問題」  「アメリカも移民を受け入れなければ国が成立しない」  全く説得力がない…(T_T)  また、番組では、先ほど触れた「日本が移民や難民を大規模に受け入れること」に反対が68.9%に上った世論調査も紹介されたのですが、それについてのスウィング氏のコメントは、こういうものでした。  「歴史の中で今、移民がこれほど多い時期はない。移民の数が増えるのは当然」  「現実的にいろいろな側面で考えなければいけない」  「もっとポジティブな意見を持っている人もいるはずだ」  とにかく全体通してスウィング氏の主張は、「移民・難民は怖くない」「受け入れて当然」と言わんばかりでした。  そう言われれば言われるほど私は逆に、やはり日本は移民・難民受け入れについては、慎重の上にも慎重を期さねばならないと感じたのでした。 ★アトキンソンさんの著書ご紹介★  近著は「国宝消滅」。2月19日に出版されました。  「新・観光立国論」は山本七平賞受賞作です。
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maconn · 7 years
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ガメ・オベールの日本語練習帳v_大庭亀夫の休日 十全外人ガメ・オベールとはわしのことじゃ バノンという厄災  ラウンジャーに寝転がってコミュニティペーパーを読んでいたら、ページの3分の1ほどもある、若い、いかにも屈託がない5人のイギリス人の男女の写真があって、「Team Brexit」と書いてある。 なんじゃ、これは、と思って読んでみると、イギリス人は欧州の助けなどはなくても、ちゃんと健康にやっていけるのだということを世間に見せるためのランニング・チームだという。 ますます、なんのこっちゃ、だが、到頭イーストベイ・クーリエという最も豊かでリベラルな地域のコミュニティペーパーにまで、こんな記事が出てくるようになってしまったことに軽い衝撃を感じる。 Brexitは人種差別とは何の関係もない、という建前になっている。 大陸欧州との考え方の違いや大陸欧州的に硬直した官僚主義と、イギリス的価値は相容れないと述べているだけである。 Brexit支持者の主張であって、日本でも未だに人気があるモンティパイソンのメンバーも、同じ趣旨を述べています。 人種差別とは何の関係もないBrexitは連合王国の正式の外交方針になって、その結果、アジア人は路上で唾を吐きかけられ、ロンドンで生まれて育ったジャマイカ人は「国に帰れ」とクルマから叫びかけられる。 たいてい白い人しかいない夜更けの小さなスタンダップコメディクラブでは、中国人や日本人を嘲笑するネタが、ぐっと増えている。 80年代に日本人とみると、すれ違いざまに「自分の国へ帰れ、猿め」と述べたりするのは戦争を通じて日本人への憎悪を育んだ老人たちか、パンクなにーちゃんたちと決まっていた。 ことさら判りやすい扮装のスキンヘッヅがダブルデッカーの二階席で跳びはねながら、誰に向かってなのか「ジャップ、国へ帰れ」と、アホはアホらしく集団で床を鳴らして跳びはねていたのを最後に見たのは1991年ではなかったろうか。 舗道から眺めていたガキわしは、どうも、治らないよね、このわしらのビョーキ、人種差別は北海文明の本質なのではなかろーか、と子供らしからぬ諦念をもって考えていたのをおもいだす。 あの頃は専ら日本人が対象だったが、この頃なら、中国人が対象だろう。 あの剃りハゲたちくらい頭が悪ければ、どこかで頭の線がショートして、いつのまにか中国は日本に戦争を仕掛けて勝利したことになっていそうな気がする。 まだ日本が国として存在すると、わかっていないのではないか? 大統領選挙期間中、Steve Bannonがトランプ陣営で軍師を勤めているようだというニュースは英語人の眉をくもらせた。 バノン? あのバノンかい? 飲んだくれの白人至上主義者。 他人種を絶滅させるというようなことになると、ますます働きがよくなる鋭敏な頭脳の人種差別主義者。 いや、人種差別主義者という言葉は正確ではなくて、もっと正鵠を期せば人種絶滅主義者だろう。 アフリカ系人などは根こそぎにしてしまえばよいし、アジア人は平べったい顔を見ただけで虫酸が走る、という絶対白人優越主義の伝道師バノン。 トランプがただの「おやじパリス・ヒルトン」から、もう一歩さらに危険な人物へ変貌したのではないか、という考えがみなの頭をよぎって、嫌な気持ちがした。 しかし、まさか、いくらトランプがバカでもバノンは極右への影響力を利用するために陣営に導き入れただけだろう。 「そこまでのことは起きるわけありませんよ。現実の世の中は案外と無事平穏にすすむものなんですよ。あなたはオーバーだなあ、わっはっは」なのは、程���は異なっても日本人だけではない。 西洋の人間もおなじで、最大の根拠は、いろいろあったのは事実だけど、世の中はまだ続いているじゃない。 心配しないでのんびり行こうぜ、ということであると思われる。 いままで大丈夫だったのだから、これからも大丈夫ですよ。 それに戦争みたいなものも二度の大戦から人類はたくさん学んだからね。 Steve Bannonが入閣した、というニュースは、おおげさでなくて、鈍器で頭を殴られるくらいの衝撃だった。 なあああーんとなく、それでも「海の向こう」のことであったアメリカのバカタレぶりが、他人事ではなくなって、自分の仕事の分野でも対処しなければいけなくなったのは、まさにSteve Bannonが入閣したせいだった。 背景のおおきな絵柄の政治的な事柄が市場に直截影響を与えるのは、80年ぶりというか、わしキャリアでは初めてです。 Bannon入閣のニュースでボーゼンとしているうちに、バノンはあっといまにNSC (National Security Council)、日本語でなんと呼ぶのかいま調べてみるとアメリカ国家安全保障会議を牛耳る地位についてしまった。 もう意図を隠さなくなった、というべきで、バノンの「世界を地獄の業火のなかにたたきこんで、その混乱のなかから白人種が世界の支配者として復活する」というヒットラー的な人種闘争の年来の信奉者であることを考えれば、自由に戦争という外交手段を操れるポジションにつくことは、ずっと前からの戦略だったのでしょう。 考えてみると、権力の働きという角度から考えると、要するにミャンマーでクー(クーデター)が起こって軍事政権が誕生したのと同じ事で、好戦性において、民間人と軍人の立場が逆転しているだけで、シビリアンコントロールが徹底した制度を逆手にとったバノンらしい妙手と言えなくもない。 むかし不穏な時期のオーストラリアのアウトバックに行こうと思って、近所のオーストラリア人に治安を聞いたら話の最後に「ぼっちゃんは白人だから大丈夫ですよ」と言うので、ぶっくらこいてしまったことがあった。 え?おっちゃん、いまもう90年代だよ? もうすぐ21世紀なんだよ? それで、白人じゃないと無事じゃないかもしれないの? うっそおー、と思ったが、 今度、折りを見てモニとふたりでアメリカの中西部の田舎を旅行してまわって、いろいろな人と話してみようと思っているが、 90年代などはかわいいもので、いっそ30年代まで逆行したような雰囲気であるらしい。 21世紀になっているのにジョージ・タケイたちが、また日系人狩りが始まるのではないかと心配しているのは滑稽だと書いている人を見かけたが、アメリカ人が排外主義に走ったときの暴力性と徹底ぶりを肌で学習した世代にとっては、この白人至上主義が、日系人にまで及ばなければ、そちらのほうが不思議だと感じている。 もしかすると日本人が無事でいられるのはハワイとオレゴンとカリフォルニアくらいだけになってしまうのかもしれない、と不安な未来像を組み立てている。 Bannonのやり方や考え方をよく知っていれば、ムスリムバンは、別に徹底しなくてもよい、まして、テロ対策だなどとは発案者の当の本人が露ほども信じていないのは、誰にでもわかる。 彼が踏み出したのは、白人支配復活への戦略の第一ステップで、まず国内で騒擾を起こして混乱を起こすこと、だいたいみっつくらいの種類の騒擾を起こして、国内が昏迷していけば、その次は国外での騒擾で、国家主義的な「愛国心」を大規模に育てることを目論むだろう。 ターゲットは無論中国だが、バノンは、それこそ「ナチの手口」を、意味も判らずに使った日本の政治家とは異なって、長年研究を重ねてきているので、手強い敵は我慢しうるかぎり後において、取りあえず、油断している日本をターゲットにするつもりかもしれない。 ツイッタで、こりもせずに日本語で英語世界で行われている観測を述べたら、 「不安を煽るな」から始まって「ジャパンハンドラーが去ったので大丈夫です」 「世界2位と3位のGDPの国を破滅に追い込むなんて考えられない」 という人が案の定やってきて、すぐさま中止して、 「おかあさんは、死なないんだよね?」と母親の膝にすがりつく幼児を思わせるような日本のひとの、いつもの、「なにも悪いことは起こらない。絶対、絶対、起こらない」の反応を楽しむだけにしたが、現実から顔をそむけて、自分が心のなかに描いた暢気な書き割りだけを見つめて暮らせば、結局はどうなるかは1945年に日本を襲った徹底的な破滅の教訓が教えている。 トランプは、日本が安全保障上、完全にアメリカに依存していて、しかも政権はマヌケなことにアメリカが日本の利益を守るために行動すると盲信している好戦性の強い政権であることを見逃すはずがない。 トランプが、というよりもバノンが、ということになるが。 バノンという人は悪意と他人種への憎悪の炎のなかに立っているような人で、善意志などは鼻で笑う人だが、厄介なことに戦略的な勘と機敏な行動力には恵まれている人であって、NSCのまんなかに座らせてみると、破壊神が降臨したような、このくらい世界を破滅に追い込むことに向いたひとはいない。 イスラム人を入国禁止にして、なぜアメリカを分裂させるようなへぼな政策を初めに打ち出すのか、とヒョーロンカ的な気楽さで述べている人達がいるが、 スティーブ・バノンは分裂と混乱をこそ望んでいるのだ、ということを知らないのではないだろうか、と考える。 ヒラリー・クリントンが代表するようなエスタブリッシュメントによる安定は、バノンにとっては最も苛立たしい停滞であり、粘着して、アメリカ社会にこびりつくような富者の驕りにしかすぎなかった。 彼は破壊者であって、建設には興味をもっていない。 ワイフビーターでアルコール中毒なのは、よく知られているが、妻を殴ったりウイスキーを毎夜ひと瓶開けて怒鳴り散らすよりも有効な自己の解放を発見したバノンは、日毎、活き活きとした表情を見せるようになっている。 そして、念願どおり破壊の王の玉座に座った彼の手には、世界をなんども焼き尽くすだけの核兵器が握られているのです。
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gunosy-news · 4 years
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人間、捨てたもんじゃない…知らない人から受けた「親切」に心あたたまる
集計期間:2020年3月4日~3月6日 回答数:14138
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 人間関係の希薄化が叫ばれる現代社会では、人の嫌な面ばかりが見えてしまいがちです。ニュースでも、毎日のように残酷で陰湿な事件が報じられ、思わず人間に絶望してしまいそうになるという人も多いのではないでしょうか。
 しかし、他者を信用できない世の中ほど寂しいものはありません。そして、そんな世の中だからこそ、人の親切に触れた時に受ける感動もひとしお。
 そこで今回は「知らない人から受けた親切」にまつわるアンケート調査を行いました!
Q1.知らない人から親切にされたことはありますか?
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 回答者14138名のうち、全体の約4分の3にあたる人々が「見知らぬ誰かから親切にされたことがある」という結果に。なんとも希望を持てる数字ですね!
 ここからは、具体的なエピソードを見ていきましょう。
<具体的な親切エピソード>
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【赤ちゃん・子供・妊婦のエピソード】
・小さい子供が二人いるので、電車に乗る時や電車を待っている時、道を歩いているだけでたくさんのひとから話しかけられ、譲っていただいています。
・子供が電車のドアに腕を引き込まれてしまった時に見知らぬ男性が助けてくれた。お礼をしようとしたらその電車に乗って去ってしまった。
・年子の赤ちゃん連れて買い物へ行った際に、スーパーや薬局などのレジでお会計しながら袋入れしてもらうことが結構あり助かりました!
・5カ月の子供と電車に乗ったとき、泣き出してベビーカーを嫌がる息子。その時若い10代のカップルが、『ベビーカー僕たちが見てるので、ここ座ってください』と席を譲ってくれた。都会も捨てたもんじゃないな
・妊娠中、電車で席を譲ってもらった。
・妊婦の私が電車に乗った時、腰が痛かったので座りたかったけど席が空いてなくて、優先席の人も見て見ぬ振りをされてしょうがないなと窓際に立っていたら、離れた場所に座っていた女性が、自分が座っていた席に荷物を置いてキープしたまま席を立って私のところまで座ってくださいと言いにきてくれました。とてもありがたくて、こういう事ができる女性になりたいなと思いました。
・レジに並んでる時、子供がぐずってたらあやしてくれたり、順番変わってくれたりしてくれた
・子供の頃、自転車のチェーンが外れて困ってたら助けてくれた
・子連れでいると、年配の方に「頑張ってるね」「いま大変かもしれないけど、頑張ってね!」と温かい言葉をかけてもらうことが多いです。妊娠中は電車の中で20-30代の男性がよく声をかけてくださり、席を譲ってくださいました。
・息子がまだベビーカーに乗っているとき、駅で乗り換え方がわからずそこにいた学生さんに聞いたら『私、時間あるのでその駅まで一緒に行きますよ(^-^)』と言ってくれて、更にマザーズバッグを持ってくれて一緒に電車に乗って私が行きたい駅まで同行してくれた!帰り際に名前聞いたけど教えてくれなかったー!どこかの学生さんに間違いないけど本当に感謝しています。世の中イイ人もたくさんいる(((*≧艸≦)
・子供が小さいときに席を譲っていただき、「何年か経って大変そうな子供連れの方がいたら、代わってあげてね。私もそうしていただきながら、子供を育てたのよ。」と言ってもらいました。今、親切はそうやって世の中を巡っていくのだと思っています。
・妊娠中に会社から帰宅中に、上の子を迎えに行き電車に乗ってすぐに気を失って倒れてしまいました。子供に後で聞いたところ、車掌さんに連絡をしてくれた方、上の子の手をずっと繫いでいてくれた方、ホームから担架でおろしている間もまわりの方々が親切にしてもらったようです。ありがとうございました。
・抱っこ紐を忘れて赤ちゃんを抱っこしたまま買い物した物を袋詰めしてたら、やってあげるわよと言って袋詰めしてくれ、車まで荷物を運んでくださった親切なおば様。
・電車で泣き止まない息子に焦っていたら、声をかけていただいて、あついのかなー?おなかすいたのかなー?ママも大変ねって笑ってくれて、本当に嬉しかった。人の目があったので、怒られたら、と心配になってましたが、おかげで注意や非難されることなく無事に目的地に着きました。
・このコロナ騒ぎの最中、買い物にでかけた先で大量の鼻血を出した息子回りは白い目で見てた中、おばちゃんがポケットティッシュをポンとくれたちょうどティッシュなどの紙類がなくなる中、気にしなくていいからと去っていった姿にジーンとした 
【雨のときに…】
・野外ライブで雨が降り、傘しか持ってなかったのに使用禁止で困っていたら、隣りの人がゴミ袋をくれた。
・急な豪雨で雨宿りしていたら、傘をくれた方がいた。
・バス停でバスを待ってたら突然の雨、知らないおばさんに傘いれてもらった。
・子供と散歩中、急に雨が降ってきて傘を持ってなかったので濡れて帰ろうと遊びながら帰っていると、車で通りかかった男性がわざわざ降りてきてくれて『傘使ってください!もういらないので!』とビニール傘を差し出してくれました。結構な雨の量だったのですごく助かりました。
・足の骨折で片松葉づえ状態の時、腎臓病の猫の通院日が雨だった。右手杖、左手猫のかごなので、傘させず雨の中帽子だけかぶって濡れながら駅に向かっていたら、知らない方が傘をずっとさしかけてくれた
・雨の日、子供を抱っこして予防接種に向かう途中あと少しで病院というところで、さしていた傘が崩れ壊れた。通りかかった年配のご婦人が赤ちゃん濡らしちゃったら大変と、折り畳み傘をくれた。その後病院にいる間に雨が強くなってきたようで���ご婦人が折り畳み傘じゃ濡れると病院まで普通の傘をわざわざ持ってきてくれた。ご近所にお住まいだったようだが、わざわざそこまで気にかけて頂き親切にしていただいて、本当に助かりとても感謝しています。
【電車内で】
・電車に乗っていたら知らないおばちゃんからみかんもらいました。
・特に人が多い日に満員電車に乗った際、押しつぶされ倒れてしまいました。その時に男子中学生が手を差し伸べて大丈夫ですか?と聞いてくれました。毎朝イライラしてる人が多い電車の中で心優しい子もいるんだなと嬉しかったです。
・色々な方に親切にしていただいた事があります。中でも20年前くらいのことですが、仕事で現場に向かう途中の朝の通勤ラッシュの電車内で貧血と過呼吸に見舞われ、意識が遠のいてしまった事がありました。意識が薄れる中、微かに「大丈夫?」と女性の声が聞こえたのを覚えているのですが、気づいた時は降りる予定の駅で、ドアが開くと同時に駅員の方が二人で私を抱えてくださっていました。その時は駅員さんに御礼を言うのがやっとでしたが、きっとあの時の声の方が、駅に連絡をしてくださったりしたのではないかと思います。どれくらい意識を失っていたのかも分からないので、誰かに引き継いでくださっての到着だったかもしれないので、もしかしたらその方だけではなかったのかもしれません。どんな方だったのか、何人だったのか、なぜ降りる予定の駅で救護して貰えたのか、など分からない事がばかりですが、ただ一つはっきりとした事実は、その時その場所には人の善意しかなかったという事です。恥ずかしながら今の私は辛い状況の中にいるので、その時の事を思い出すと、もう少し踏ん張って見ようと思えます。
【海外で困ったときに…】
・海外旅行中、ケネディ空港で迷子になり、搭乗口がわからなかった時、たまたま日本人おばちゃんが前を通りかかったので声をかけた時、自分と同じ飛行機に乗るとの事で搭乗口まで一緒に行ってくれた。1人旅で心細かったのでとても助かった。
・学生時代、海外でテイクアウトのコーヒーを買った。飲み始めて現金があと1ドル足りないことに気付いた。もう飲み始めている上に後ろにも列が出来ていた。カードも何も無くて半泣きになっている私に見知らぬ男性が黙って1ドル置いて立ち去った。追いかけてお礼を言うのが精一杯でお金を返せなかった。あれから30年以上経つが未だに忘れられない思い出です。
・オーストラリアのシドニーでお店を探していたら男性が話し掛けてくれた。店の行き方を教えてくれた、すぐ近くの銀行員だったが本当にありがたかった。
・パリで乗る電車が分からないとき声をかけてもらいました。
・バスに乗り間違えてロサンゼルスの郊外で迷子になった時、その場にいたメキシコ出身と思われる男性が親切に正しい戻り方を教えてくれた。無事に帰れたお礼を伝えることができず、今でも連絡先を聞かなかった後悔と、見ず知らずの若い日本人を助けてくれた恩に感謝しています。
・子供の頃バンコクに家族旅行に行った際、つば付きのキャップが風に飛ばされ水上ボートだったのですが船頭の少年が川に飛び込んで取ってきてくれた。
・アメリカでガソリンが無くなって困っていた所ガソリンスタンドまで乗せて行ってくれて携行缶を借りてくれようとしたが借りられず、自分の家のガソリンを取りに行ってお金も受け取らず助けてくれました。
・韓国に行った時、行きたい場所にたどり着けず困っていたらその場所まで一緒に歩いて連れて行ってくれたり行きたい店が見つからずHPを見せたら携帯で電話して聞いてくれたりとにかくとても親切でした日本でいるとイメージが真逆でびっくりしました
・台湾で夜に道がわからなくなってコンビニに入って店員さんに聞いたら、店内にいる他の人達もそれに気づいて一緒に探してくれて、最後には「女の子1人で夜道は危ないから」ってタクシーも呼んでくれて、到着後支払おうとしたら「友達だから!」ってタクシー代まで支払ってくれていた。海外で言葉もなかなか通じないのに、こんなに親切にしてくれて、本当に感謝と感動が止まらなかった。連絡先を聞き忘れた事を未だに後悔している。また出会えないかなぁ、と台湾に行くたびに思う。
【お金がらみのエピソード】
・小さい頃、スーパーのレジで金が足りないとき、レジの人が足りない部分の金を払ってくれた。
・子供のころ、買い物で10円足りなかったところ、知らない高校生の男の子が10円くださり、買い物ができました。自分も、大人になって、困っている子供に同じ事をしたことがあります。
・所持金が5000円しかない状態で深夜にタクシーに乗った時、その旨と予算内ギリギリの所までの走行をお願いしたのですが、500円ほど予算オーバーにも関わらず、5000円で自宅前まできちんと届けて頂いたことがあります。
・高校生のとき友達とスーパーの惣菜コーナーをみていたら知らないおばあさんにお金をもらって好きなものを買いなさいって言ってもらった
・終電で寝過ごして、同じ状況の人とタクシーで相乗りして帰った。その人は先に降りられ、私が家に着いたら全額払っていてくれた。
・他人から何故か駅でSuicaチャージする時にどうぞって1000円渡されたことある、全く知らない男
・高校生の時に定期を忘れて、遅刻したくない勢いで駅員さんに相談したら、しょうがないなぁ、と個人的にお金を貸してくれた
【迷子になったとき…】
・学生時代、道に迷って困ってたら道案内してくれた
・知らない土地で迷っていると声をかけられて、車で道案内してもらった上に食事まで奢ってもらえた。
・道を聞いたら、言葉だけでなく、わかりにくい道なのでと、分かり易くなるところまで連れていってくれたこの人はお年寄りでした
【ケガ・体調不良のときに…】
・体調を崩している所に、お水を渡してくれた
・山でバイクで怪我をしたとき、車で通りかかった夫婦に麓の病院まで乗せて行っていただいた時
・銭湯でのぼせたときに冷たいタオルを首に巻いて、水を飲ませてくれた
・駅で派手に転んでしまったら、若い男性が大丈夫ですか?と手を差し伸べてくれて、余計恥ずかしかった。
・体調が優れずに駅のホームにうずくまっていたら、周り��人が駅員さんをよんでくれた。苦しい間励ましてくれた。
・花粉症で鼻水ズルズルのとき知らない人からティッシュもらった
・骨折して松葉杖で歩いていたら雨が降ってきて知らない大人が車で家まで送ってくれた中学生の時
・ 脚を手術し、しばらく松葉杖で歩いていたら駅の階段で荷物を上まで運んでくれたひとがいた。
・風邪を引いてる時に寄ったコンビニで店員の女性がのど飴をくれた
・酔っぱらって道端で苦しんでいたら、知らない人がお手拭きをくれて、私の背中をさすって、「がんばれー!」って介抱してくれた。
・泥酔して気持ち悪くなって駅のホームで休んでいたら 見ず知らずの方にお水を自販機で買っていただいて 大丈夫ですか?と声を掛けて頂いたことがありますとてもありがたかったです
・高校生の時、学校に登校する途中で派手に転んで膝から血が出た。でも一旦家に帰ると遅刻してしまうためそのまま電車に乗った。膝から出る血をティッシュで押さえながら電車に乗っていたら、知らないおばさんが声をかけてくれて絆創膏をたくさんくれた。
・貧血でふらついてて転んで怪我をした時、手当てをしてもらった。自分が持っていたハンドタオルを濡らして血を拭いてくれて、バンドエイドを貼ってくれました。ありがとうございますとしか言えなかった。その節は本当にありがとうございました。
・出勤のため雪道を自転車で走っていたら見事なくらい派手にすっ転んだ。歩行者の女性と、車からわざわざ男性が降りてきて自転車を起こしてくれたり助けてくれた。恥ずかしいやら申し訳ないやらで、ひたすらすみません!有難うございます!大丈夫です!を繰り返しながら全身ビッショビショで仕事場に向かったけど、嬉しかった。
・バイクで自損事故をした時に119番して救護をしてくれた人が居た。知らん顔して遠巻きに見てる人が集まる中、その方の車の中からバスタオルを数枚持って来てくれて頭の下に敷いてくれたり会社にまで連絡をしてくれたらしいけど、救急車が来て立ち去った。聞けば祖母の病院へ着替えやバスタオルを持って行く途中だったとのこと。助けられました。 
・足に釘が貫通した時、病院へ看護師さんを呼びに行って車椅子を持って戻ってきてくれた。 
【色んな意味であたたかい】
・寒いなか外で仕事してたら、ホッカイロもらった。ありがたかったです
・飛行機に乗っていて寒いのを我慢していたら、隣の紳士なおじさまがブランケットをCAさんに頼んで「良かったらどうぞ」と笑顔で渡してくれた
・子供と某テーマパークのアトラクションに並んで100分が経過した頃あまりの寒さに泣き出して帰る!と言われ半泣きしていると、後ろに並んでいたカップルがホッカイロをくれた。
・フェリーのざこ寝の大部屋で、有料で毛布を借りるのをケチってそのまま眠った。目が覚めたら毛布であたたかい。途中の港で早朝下船した隣のおじさんがそっと毛布をかけてくれたらしい。
【遺失物・忘れ物がらみのエピソード】
・財布落としたら交番に届けてくれた方、本当にありがとうございました!
・落とし物を拾ってもらい、さらに速達で自宅に送ってくれた。無記名で手紙付きで。感謝しかないです。
・先日買い物の際財布を入れた鞄をショッピングカートにかけていたのを取り忘れたまま帰宅‼️途中気づいて慌てて戻ったらサービスコーナーに届けられてました。届けて頂いた方は名前も言われず行かれたとか。入ってた財布は諦めてたけどホント届けていただいた方には感謝‼️
・財布を落としたら後ろを歩いてた人に声かけてもらって財布を拾ってもらいました。今の嫁です。
・北海道で一人旅をしていて、バスに乗るって時に少し前に立ち寄った所に手荷物を忘れたので取りに行こうとバスの運転手さんに忘れ物を取りに行くので先に行って下さいと伝えたら、『 わかりました』と言ってたんですが、約1時間後再びバス停に戻ると同じバスが待っていて不思議だなと思い乗り込むと、運転手さん初め乗客の皆さんから拍手喝采。『 荷物が見付かって良かったね』と。私の事が心配で待っていてくれていたのです。その場に居た皆さんには感謝しかなかったです。初めての場所で初めて会う方々なのにとても優しさを感じました。
・私が学生の頃、電車に飛び乗ったとき、電車のホームに定期券を忘れてしまいました。しかし、私は定期券に気がつかず電車の扉が閉まってしまいました。そこに見知らぬ男性が私の定期券を持ちながら「車掌さんにこれ(定期)わたすよ」という身振りをしてくれました。後からその駅に戻ると私の定期を車掌さんが持っていてくれ無事に手元に戻りました。あのときは、ほんとうにありがとうございます。
【何かをもらった】 
・ライブの当日券売り場に並んでいたら見知らぬ男性が良い席のチケットが余っているとただでチケットをくれました。
・イベントの入り口で入場券を買おうとしたら、余っている無料券を貰えた!
・スーパーで1000円毎に応募券もらえるっていうキャンペーンやってて、1000円いかなくてもらえなかった時に、おじさんが応募券いらないからあげるよって渡してくれた!すっごく嬉しかったです!
・牛丼屋でバカ食いしてたら、しらないオバサマから割り引き券を貰った。 
・部品がなくなったときに、ホームセンターの人に、無料で譲ってもらったこと
・先日ドラックストアで、買いそびれたマスクを見ず知らずのご婦人に、譲っていただいた。ただ、自分も多少ストックが家にあったので、更に必要に迫られている知人に譲りました。
・ウォーキングしてる時、向こうから歩いて来たおばあちゃんから、タケノコあげると言って呼び止められ、結構な量のタケノコ頂きました。
・潮干狩りでちっとも獲れなかったんだけど、幼かった子供にたくさん貝をくれた。美味しくいただきました。
・何年も前の話です。出先でレジ袋を置いていないスーパーで買い物をし、会計時にそのことに気づきました。段ボールは置かれていたので、それに詰めて持って帰ろうかと夫と話をしていたら、知らない女性が手持ちのビニール袋を渡してくれました。とても有り難かったです。日頃から人に親切にすれば、困ったときに返ってくると信じて私も親切にしようと心がけています。
【行列で】
・イベントの並ぶ列がわからず困ってたら教えてくれた
・飛行機の搭乗手続きで 間違えた列に並んでいたのに気づかずにいたところ、後ろに並んでいた方が気づいてくれて 正しい列の場所を教えてくれました。
【災害時に】
・311の大震災の時、仙台駅から地元まで歩いて帰りました。高いヒールで、立ち止まったりしながら寒い中歩いていた時に、渋滞している車に追い越し追い越されをしていました。その時に親切な方に乗りなよ!って声をかけてもらったのですが、人見知りだし好意に甘えることに抵抗があり断りました。が、また歩いていると先ほど声をかけてくれた奥様の車が追いつきやっぱり乗りな!高校生の息子とその友達しか乗ってないから!と、断った私にまた声をかけてくれました。私に気遣い安心させてくれる声がけ。また、再度声をかけてくれたのを断るのは違うと思い乗せていただきました。さらに、乗車後にこんなのしかないけど、とバナナとチョコを、くれました。きちんとお礼ができていないのが悔やまれます。が、本当に人の暖かさに触れた瞬間でした。
【何か手伝ってもらった】
・スーパーで箱入りブドウを買うつもりで持ち歩き他の買い物してる時にブドウを落としてバラまいた時に一緒に拾ってくれた一人の方がいたこと
・買い物で自転車からちゃんと縛ったつもりの買い物した物が沢山入った段ボールが落ちて道路に散乱。知らないおばあちゃんが転がった玉ねぎやキャベツ大根など拾ってくれて段ボールに入れてくれた。
・駅の駐輪場で自転車がずらーっと倒れていてその間に自分の自転車があり、ひとつひとつ立てていってたら知らないおじさんがスマートに手伝ってくれた
・病院の駐車場で父を車から車イスに乗せかえる時に、それを見て知らない男性が車からサッとおりて来て「お手伝いします!」と言われて大変感動しました!以来私も知らない人が困っているのを見かけたら迷わず親切にしています!
・小学1年生の頃、終業式の日に学校に置いていた教材などを全て家に持ち帰らなければならず、それらを入れた重い袋を引きずりながら歩いていた学校の帰り道。知らないおばさんが「重そうね〜ちょっと持ってあげようか」と声をかけてくれて、しばらく持って歩いてくれた。
・20年位前、大きなスーツケースを持って、通勤ラッシュの浜松町駅の階段を登っていたら、ふっと軽くなり、あれ?と思ったら後ろからきたサラリーマンの人が私のスーツケースを持って階段の一番上に。そのまま颯爽と行ってしまいました。振り返る事もなく、あっという間の事で後ろから「ありがとうございます」と言うのが精一杯。スマートでありがたかったです。
【事件に巻き込まれたとき】
・車で信号待ち中に当て逃げされた時 逃げた車の後を走ってたというカップルの方が前の車の様子がおかしかったからってナンバーも覚えてくれてて慌ててる私に直ぐに警察へ行き!とナンバーと車種を教えてくださったこと。おかげで直ぐに相手が判り認知症のお爺さんでした。
【車にまつわるエピソード】
・豪雪の夜中に車のチェーン着けるの手伝ってもらった!しかもご飯までご馳走になってしまった!トラック運転手さんありがとうございました!
・何年か前の母娘旅行で、船の時間間に合わない時、駅にいてた旅館送迎の運転手さん(宿泊してないです)が船着場まで送ってくれました!その旅館のお客さん乗ってたのに、その場のお客さんも文句言わず、無事間に合いました!
・早番の出勤で駅までのバス待ちをしていたら、大型トラックのドライバーさんが止まって「途中事故があって当分バス来ないから駅まで乗せてあげるよ」と親切に乗せて下さった。最初は知らない人の車で怖かったけど、とても良い方だった。
・免許取り立ての時 コンビニにいったら隣にトラック 後ろに街頭で 斜めに出る技術がなく 四苦八苦してたら知らない人が車を出してくれた。
・自分の車が脱輪したときに、周りの人が大勢助けてくれた。 
・車で走行中にマフラーが外れてしまい、知らずに走っていたら、すぐ後ろの車の人がわざわざ教えに来てくれた。その後、とりあえず応急処置をしようとしていたら、知らないお兄さんが声をかけてくれて、やり方を教えてくれたけど、あまり機械に詳しくないと言ったら、全部そのお兄さんがやってくれた。神!
・冬、国道から路肩の雪山に車が落ちて埋まった時、見ず知らずの方達が何台かとまってくれ、交通整理をしたり車を引き上げてくれた。
・田舎で一日数本のバスを乗りすごし歩いていた時に通りがかりのタクシーの運転手さんに駅まで料金を取らずに送ってもらえたことがあります。お金を払うって言っても回送中なので受け取れませんということでした。
・昔、友達にバイクを借りて家に向かう途中、カーブを曲がりきれずガードレールに突っ込んでしまい、借りたバイクは一発廃車私は血だらけ、、周りにたくさん人もいて恥ずかしさの余りその場から早く立ち去りたかったので、逃げる様にその場から急いで去ろうとした時に声をかけてくれた障害者のお兄さん、私がパンツ丸出しで倒れてるのを見てハンカチ���隠してくれてました。あの時はお礼も言えなかったけど感謝です。
・仲間とドライブして山で迷子になり挙げ句ダブルでパンク、冬場で雪も降り始めガソリンも底をつき途方に暮れてたと頃、麓のおばあちゃんが通り掛かり自宅に招待してくれ食事から宿泊まで面倒をみてもらって修理費まで建て替えてくれた。その後何年間か交流してくれたけど、暫くぶりに伺ったら亡くなれて家もなかった。
・職場から自家用車で帰宅途中、ふと気づくとワイパーに小さなメモが挟まっていた。気になったので高速道路に乗る前に車を停めて確認すると、「恐らく右の後輪がパンクしてると思います。JAFを呼んだ方がいいです。」と。朝、確かに変な形の石に乗り上げていたのと、運転中右にハンドルが取られる気がしていたので即納得、JAFを呼びました。メモは、近所に住む車に詳しい警備員の方からでした。通りがかりに気になって教えてくれたそうです。あのまま高速に乗っていたらと思うとゾッとします。
【喫煙者同士の絆】
・何年も前の事ファーストフード店でタバコを吸おうとしたらライターを忘れていた恐縮しながら近くの人にライターを借り、一服していたら、『1つ余分にありますから』と借りた方がライターをくれました
【トイレを我慢しているとき…】
・子供のトイレが漏れそうな時、順番を譲ってもらった
・子供の頃、トイレに行きたくて我慢出来ず、近くの家に飛び込んだとき、見ず知らずの私を快く家に入れてくれた。もちろん、トイレも借りました。
【そっと教えてくれる人】
・電車でチャック開いてたのをそっとおばあちゃんがおしえてくれた
・スカートの後ろチャックが開いていたのを、こっそり教えてくれて、サッと去って行った紳士
・出先でトイレ後、トイレットペーパー引きずって歩いてたのをそっと教えてくれたご婦人。
・カーディガンを裏表着てた時に教えて頂きました、今の旦那のご両親に会う時だったので本当に感謝してます!
【その他】
・徳島県で遍路道を歩いていた時、様々な人に励まされ、親切にされた。ご年配の方からも小学生からも親身になっていただき、無事に歩き通しました。
・社員旅行で、まだ入社したてだったからか、休憩のサービスエリアに置き去りにされ、携帯で連絡はできたが移動手段がなく困ったので、駐車場の車に声を掛けて、次のサービスエリアまで乗せていってもらった。
・花火大会で普段着慣れない浴衣の帯が取れて困っていたとき、通りすがりの女性に締め直してもらった。
・幼少期にプールで溺れて知らない人に助けて貰った。その人がいなければ今生きてない。
・ケンカの仲裁をされました。他人なので冷静になりましたね。
・人ではないがネコ、喧嘩の仲裁をしたその後 お礼なのか仕留めた鳩を加えて玄関へお土産として置いった。複雑な気持ちになった。
・バスの中で変な人にからまれ、外国人の方に守って頂いた。
・初めて甲子園に行ったとき、席探してると、阪神応援団の方が席案内してくれて、初めてだと言うと、選手応援歌の歌詞が書かれた紙をくれたこと。阪神ファンは怖いとか言う人いるけど、いい人ですよ。
・買い物中に顔面蒼白だったらしく、見知らぬご婦人から鏡を貸して頂いた事がある 
・MonsterHunterWorldというゲーム内で慣れないことをやっている時、オンラインで他のプレイヤーがサポートしてくれたおかげで簡単に終わりました。そんプレイヤーは報酬を受け取らず、途中で離脱していったのが、またシブイです。
・昔、銭湯で知らない人に背中を洗ってもらいました
・子供が家出をしたが、知らない人が心配して連絡をくれた
・観光地でカップルでもじもじしてたら「撮りましょうか?」と。いい記念写真とれました。
・ジム行って機械の操作がわからなく色々なぶっていたら、このジムにいつも通っている人が近くに来てくれて操作を教えてくれた。
・蜂に刺された時、その場の近くの家の人がアロエを持ってきてくれて、刺されたところに塗ってくれた
・近所のスーパーで、お婆ちゃんが袋詰めの極意を教えてくれた
<まとめ>
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 以上が、皆さんの「見知らぬ他人から受けた親切エピソード」でした。どれもこれも、読んでいるだけで心あたたまる話ばかりでしたね。
 寄せられたエピソードの中でも印象的だったのは、親切にしてくれた人から「私も以前、人に助けてもらったことがある」と明かされ「次は自分も困ってる人を助けてあげたい」と決意する人が多かったことです。一人の親切心が、大きな輪を広げていくのがわかりますね。
アンケートにご協力いただきありがとうございました。
グノシーの「アンケート」タブにて、毎日新しいアンケートを更新しています。ポイントが手に入るものもあるので奮ってご参加ください。
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shibaracu · 4 years
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●柳田國男の世界
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●柳田國男の世界 この人の本はあまり読んだことがない。 何故か少し恐怖があった。 何ともコトバにしようがないほどの感じである。 民俗学的には良いものを出しているようだ。 でも批判もタダ有るようだ。 下の方の論文などは一度読む価値があるように思える。 折口という人と比較されたり並べていろんな話もあるようだ。 どれが良いのかハッキリしない。 人それぞれの取り方もある。 私は読んでも味方も敵にも成れない。 もともと、柳田が資料に頼らない歴史を民俗学としたから、 そういう学問になっている このコメントが引っかかる。     ◆柳田國男 - Wikipedia http://bit.ly/yTENHp 柳田 國男(やなぎた くにお、1875年(明治8年)7月31日 - 1962年(昭和37年)8月8日)は日本の民俗学者。 現在の兵庫県神崎郡福崎町生まれで、晩年に名誉町民第1号となった。正三位勲一等。 日本列島各地や当時の日本領の外地を調査旅行し、初期は山の生活に着目し、著書『遠野物語』で「願わくは之を語りて平地人を戦慄せしめよ」と述べた。 日本における民俗学の開拓者であった。   ◆柳田國男の世界 | 福崎町 http://www.town.fukusaki.hyogo.jp/category/3-2-0-0-0.html
   故郷 七十年 [2016年5月17日]    國男 年表 [2014年2月3日]    國男ゆかりの地 [2014年2月3日]    福崎の人々 [2014年2月3日]    柳田國男の世界 [2014年2月3日]    福崎という土地 [2014年2月3日]    其の一 [2014年2月3日]    其の二 [2014年2月3日]    其の三 [2014年2月3日]    其の四 [2016年5月17日]    其の五 [2016年5月17日]    其の六 [2016年5月17日]    其の七 [2016年5月17日]    其の八 [2016年5月17日]    其の九 [2016年5月17日]
森鴎外と出会い、松浦萩坪に師事し、自然主義の文学青年と交流。「文学界」に新体詩を発表、斬新な詩作で仲間を刺激した。 が、「なぜに農民は貧なりや」という言葉に示されるように、社会構造に対する鋭い疑問から、文学への傾倒を絶ち、農政学を志した。
◆福崎町立柳田國男・松岡家記念館 http://bit.ly/zeFzJs 本館は,『後狩詞記』や『遠野物語』などの多くの著作をあらわし,「日本民俗学の父」と 呼ばれる柳田國男(文化勲章受章,福崎町名誉町民第1号)と,医学・国学・言語学・ 美術などの分野で活躍した松岡家の顕彰を目的に,昭和50年に設立された記念館です 。   ◆1144夜『海上の道』柳田国男|松岡正剛の千夜千冊 https://1000ya.isis.ne.jp/1144.html 2006/05/23 今夜は柳田国男の『海上の道』をもって、いったん「千夜千冊」を擱筆するつもりでとりあげようと思っているのだが、その前に少し書いておきたいことがある。何にも煩わされることなく柳田や折口を読んでいたころがひたすら懐かしいということだ。   ◆成城大学 | 民俗学研究所 柳田國男について http://bit.ly/zD7Dft 「日本民俗学」の創始者で、近代日本を代表する思想家でもあった柳田國男(1875~1962) 成城大学民俗学研究所は、日本民俗学の創始者で近代日本を代表する思想家の一人でもある、柳田國男の寄贈書を納めた「柳田文庫・民俗学研究室」を基盤とし、設立されました。我国における民俗文化の研究センタ—としての役割を担うべく、日本の民俗文化及びこれに関連する研究、調査並びに資料の蒐集を行っています。   ◆柳田國男について  https://www.seijo.ac.jp/research/folklore/kunio-yanagida/intro/ 名もなき庶民(常民)の歴史や文化を明らかにしたいと考え、 「常民文化の探求」と「郷土研究」の必要性を説く 「日本民俗学」の創始者で、近代日本を代表する思想家でもあった柳田國男(1875~1962)は、明治8年7月31日に兵庫県神東郡田原村辻川という農村の医者・国学者であった父松岡操の六男として生まれる。幼少期に体験した飢饉、故郷を離れて見聞きした庶民の暮らしや間引き慣習の悲惨さを思い、「経世済民の学」を志向、東京帝國大学法科大学(現東京大学)で農政学を学ぶ。  「日本民俗学の祖」柳田國男の旧居は、小田急線の「成城学園前」下車3分、駅前の道を北進して2つ目の四つ角を左に折れると、木立の中に洋館があり、現在は、建て直されてご子孫が住まわれている。 柳田國男存命中の大きな書斎を持つ建物は、昭和63年に解体され、柳田家先祖ゆかりの信州飯田にある「飯田市美術博物館」の中に移築され、今は当時の面影はない。   ◆柳田國男館 - 飯田市美術博物館 http://bit.ly/AoL6VZ 「民俗の宝庫」―伊那谷の「生きた学び舎」としての活用をねがうものです。   ◆柳田國男記念公苑 [茨城県利根町公式ホームページ] http://www.town.tone.ibaraki.jp/page/page003532.html 2019/12/04 柳田國男記念公苑は、國男が少年時代を過ごした旧小川家の母屋、土蔵(資料館)で構成されており、著作物や文書等を展示しています。また、会議、講座、宿泊施設として利用できます。   ◆柳田国男 家系図研究にも影響を与えている http://bit.ly/zhfiMj 家系図の分野で有名な丹羽基二氏の大学での恩師にあたるそうです。(「日本人の苗字」にありました。) 神隠しの体験について語っていたりする神秘家としての柳田国男がいるわけですが、遡れば陰陽道の中心地播磨という関連もあるかも知れません。 宮本武蔵とは、赤松 つながりでもあるのですが、養子の宮本伊織の神隠し体験ともなんらかのつながりが あるかも ...   ◆第866回談話会要旨(2012年12月2日=いくつかの「先祖の話」:京都で読む柳田祖霊神学)  2013年5月6日 · http://www.fsjnet.jp/regular_meeting/abstract/866.html 主な登場人物2 ―京大文化史学派の『先祖の話』受容― 京都大学・菊地暁
 今回のシンポジウム「いくつかの『先祖の話』 ―京都で読む柳田祖霊神学―」(日本民俗学会第866回談話会、京都民俗学会第31回年次研究大会シンポジウムを兼ねる)はシンポジウム「京都で読む柳田国男」(2005年、柳田國男の会、国立歴史民俗博物館共同研究「日本における民俗研究の形成と発展に関する基礎研究」、京都大学人文科学研究所共同研究「近代京都研究」共催)の第2ラウンドともいうべき企画である。「京都で読む柳田国男」は、民俗学史をとりまくいくつかの「中心史観」への挑戦だった。柳田中心史観、純粋民俗学中心史観、東京教育大中心史観、そういった一連の偏向をともなう学史叙述は、結果的に、地方や隣接分野における実践の脱落につながった。そこでその偏向を転倒させるため、「京都」という視点の挿入を試みた。すなわち、粗野に対する洗練、野外に対する���献、在野に対する官学といった、「野の学問」の正反対を抱え込む「京都」をあえて前景化させることによって、民俗学という運動の射程と多様性を可視化させようとしたわけである。   ◆ぶく速 柳田国男と折口信夫って どっちのほうが強いの?http://bit.ly/x6R8bG 2011/12/23 ▽英雄の条件  「大人物出でよというのはかつて政界の常套語であったが、これは今いる連中がみな凡庸だという意味の反語であったかもしれぬ」 「丸太棒であれ鸛(コウノトリ)であれ、何か自分たちを統御してくれるものを恋しがっていた者は多いのである。 しかしその適任者が仲間の内に、今まで埋もれていたということはあまり喜ばなかった。英雄はもう少し毛色の変わった馬に乗って、雲の彼方より出現してこなければならなかった」  これは、民俗学の泰斗である柳田国男が1930年に書いた「明治大正史世相篇」の「英雄待望」の章の文章だ。この本には文明時評的なところがあるが、この部分も皮肉で面白い。 柳田とか折口とかの著作って学術書と言えるの?文学とかエッセイ、随筆の類だろ もともと、柳田が資料に頼らない歴史を民俗学としたから、そういう学問になっている   ◆遠野物語の柳田国男、農政の先駆者としての顔: オーライ!ニッポン https://blog.canpan.info/ohrai/archive/82 2019/02/03 遠野市を訪問したことから、遠野物語の柳田国男、民俗学の祖である柳田国男のもう一つの顔、農政の先駆者としての姿を知った。柳田が考える農政とはどのようなものだったのであろうか。 並松信久氏(京都産業大学 大学院 経済学研究科教授)は、論文「柳田国男の農政学の展開」の中で、柳田国男の農業政策の目的は生産量の増加ではなく、それを通して国民総体の幸福を実現することにあり、これは柳田がJ.S.ミル(JohnStuartMill,1806_1873)のイギリス功利主義の影響を受けていることを物語っている。 論文「柳田国男の農政学の展開」(PDF) https://ksu.repo.nii.ac.jp/index.php?action=pages_view_main&active_action=repository_action_common_download&item_id=1516&item_no=1&attribute_id=22&file_no=1&page_id=13&block_id=21
◆水木しげるが漫画化した柳田國男『遠野物語』の“お色気シーン” http://bit.ly/z8x7Oi 作家の嵐山光三郎氏は過去に『水木しげるの遠野物語』(小学館刊)を書評しているが、この原稿で衝撃の事実が明らかになっている。以下、嵐山氏の書評だ。(『週刊ポスト』2010年4月9日号より)
◆柳田國男「ネブタ流し」を読む http://bit.ly/Aqfjb8 柳田國男の「毛坊主考」は、多面的な作品である。表題のとおり、地方の集落で半俗半僧侶生活を送る念仏の徒についての話もあれば、シュクや茶筅などの被差別的な扱いを受けていた人々の生態とその信仰について、また、各地に残る由来のわからなくなった塚や山という異界の周辺にたむろしている者(童子)たちについての話もあった。 この多様性は、「毛坊主考」が「郷土研究」誌上に連載されたものであるということに由来する。 柳田は、地域の口碑や伝承、他の地域の攘却行事を参考にして、ねぶたを“御霊祭”の一種として捉えていこうとしているのだ。   ◆遠野物語 - Wikipedia http://bit.ly/y0ckcQ 『遠野物語』( とおのものがたり)は、柳田國男が1910年(明治43年)に発表した説話集。日本民俗学 の黎明を告げた名著である。   ◆柳田国男 海上の道 - 青空文庫 https://www.aozora.gr.jp/cards/001566/files/54331_53583.html +一二. +一三. +一四. +一五. +一六. +一七. +一八. +一九. +二〇. +二一. +二二. +二三. +海神宮考. +緒言. +一 昔話の島嶼型 ... それからこの方の記録だけによって海上の交通史を説くのは間違いのもとであろう。 昭和三十六年六月. 柳田国男. [#改丁] ... 日本の海端に、ココ椰子の実が流れ着くということは、決して千年ばかりの新らしい歴史ではなかったはずであるが、書物で海外の知識を学び取ろうとした者は、かえって ... 寄木 ( よりき ) は流木の浜に漂着したものといい、親はこちらで言うならば長者のことである。 「椰子の実」と柳田國男 =流木のロマン= ■ 日本は四方を海に囲まれ、その海岸線の 総延長は3万6千km(地球の9/10周に相当)にも及び、ロシア連邦、オーストラリアに 次いで世界で3番目に長い。日本は紛れもなく海洋大国なのです。   ◆島崎藤村の「椰子の実」は実にロマンチック… | 八重山毎日新聞社 http://www.y-mainichi.co.jp/news/12500 2008/12/02 島崎藤村の「椰子の実」は実にロマンチックだ。愛知県・渥美半島の伊良湖岬を民俗学者の柳田國男が訪れたとき、散策の途中に恋路ヶ浜で拾ったヤシの実の話を友人の島崎に語ったのがきっかけで生まれた叙情詩だという ▼波に揺られ、長い歳月をかけて南の島からたどりついた1個のヤシの実は文部省唱歌となり、多くの人々に親しまれている。その舞台になった渥美町(合併で田原市)は、石垣島沖から毎年ヤシの実を流して自然のロマンを再現、実際に漂着したケースもある ▼ところがどうだろう。八重山に流れ着くのは嫌なものばかりだ。復帰前は爆発物の「機雷」や米軍機の燃料タンク、廃油ボール、そしていまは海外の漁具類やごみだ ▼かつては海岸線を歩くのが楽しかった。珍しい形をした流木や漁具のガラス玉を拾って持ち帰った。だがいまは漂着ごみ量にぼうぜんとなる。プラスチックの容器をヤドカリが抱えて歩いている光景にも出会った ▼先に開かれた環境省の漂着ごみ地域検討会で、観光客アンケート結果として「ごみ回収で滞在日数は0.9日増える」と報告された ▼漂着ごみは静かに島々に負のイメージを広げており、事態は深刻。回収しても次々とごみは流れ着く。その悪循環を断ち切るのが外交力であり、政府に強く望みたい。(黒島安隆)   ◆童謡集/椰子の実(歌詞付き) https://youtu.be/eG1gB5dluU8 2009/08/02 有名な童謡曲集~MillesVents風~シリーズ 第2弾 とても難しい日本語で書かれた歌詞・・・ それを少しでも聴いて頂いた方に理解出来るようにと工夫して歌ってみました・・・。 伝わったでしょうか? ---歌詞の親切な解釈--- (文語調に不慣れな方の為に、歌詞の概略をしるしておきます) ※歌詞そのものではありません
名前も知らない 遠い島から
流れ着いた 椰子の実がひとつ
ふるさとの岸を離れて
お前はいったい何ヶ月 海をただよって来たんだい
お前が育った椰子の木は きっと生い茂り
枝の下に 影ができるほどなんだろうね
僕もまた 波の音を枕に
一人さすらう 浮寝の旅さ
椰子の実を手に取り 胸に当てれば
さすらいの憂いが また新たにわく
海に沈む夕陽をみていると
遠い異郷の地に流れ着いた今の我が身に
涙があふれて流れ落ちる
思いははるか 果てしない波の彼方
いつの日にか 故郷へ帰ろう
いつの日にか 故郷へ帰ろう ~Pucky訳~   ◆日本近代史の中の日本民俗学-柳田国男小論  http://bit.ly/xwOKIY 戦前の大東亜共栄圏の夢が軍事政治的には潰え去ったけれど、経済的覇権として甦ったのだ。 なぜ私たちは「大日本主義」の時代になると「日本」「日本人」を問いたくなるのだろうか。 外部より内部に目を向けたがるのだろうか。   ◆南方熊楠のキャラメル箱サイト内検索:柳田国男 http://bit.ly/wxM9F9 南方熊楠の手紙:神社合祀反対運動の終結、その他(口語訳1)明治44年12月10日   ◆柳田国男と遠野物語 2019/12/28 https://youtu.be/94ZghOx8jXM   ◆柳田国男.mpg  2010/08/16 https://youtu.be/oWm7zXLOBCI
◆遠野の昔話 『オシラサマ』  2015/04/04 https://youtu.be/h0hVjjrd5Gc 川崎市立日本民家園 佐々木家住宅 語り部 大平悦子氏   ●とおの物語の館 - 遠野市 http://www.city.tono.iwate.jp/index.cfm/48,23855,166,html 2013/04/25 昔話の世界を体感  とおの昔話村が、平成25年4月27日、「とおの物語の館」としてリニューアルオープンしました。  昔話を映像や音声で楽しむことができる「昔話蔵」や、語り部による昔話を聞くことができる劇場「遠野座」などのほか、お食事処やギフトショップも充実。見て、聞いて、食べて遠野をまるごと満喫できます。   ◆遠野の語り部   2008/12/08 https://youtu.be/96rY_9SQEWE 遠野の語り部、カッパの昔話 岩手の方言をお楽しみください   ◆柳田國男「神道は、太古の昔から現在にいたるまで連綿と続く、自然発生的な日本固有の民族的宗教である」 幕末の国学、柳田國男の「国家神道」批判、http://bit.ly/A5bfro   ◆第4回講座-神道研究入門- http://yamaguchi-gokoku.jp/subupage4.html 神道を敵視する立場から神道を研究するわけですから、そうした人たちの神道の研究書に従えば、天皇は人民統治手段として神道を用い、神も支配したという結論に導かれる論理になっており、神道は超国家主義的宗教とされました。
◆補足 「国家神道」がムラを壊した 04 09/10  http://bit.ly/xLHSWv 近代国家としての日本は終始一貫して「国家神道」を、国民の国家への忠誠と献身とを引き出す道具として利用した。 このような国家的計略を「日本に固有のものとはとうてい言えない」と批判したのは官僚出身の民俗学者、柳田国男であった。   ◆民俗学 - Wikipedia http://bit.ly/xOE6LS 民俗学(みんぞくがく、英語:folkloristics)は、学問領域のひとつ。高度な文明を有する諸国家において、自国民の日常生活文化の歴史を、民間伝承をおもな資料として再構成しようとする学問で、民族学や文化人類学の近接領域である。   ◆国家神道批判 [柳田国男の昭和]  http://bit.ly/xbZnG6 国男にとって、神道とは神と人とが交感し、交歓する祭にほかならなかった。その原風景が残るかぎり、たとえ国家が敗れても、くには残ると信じていた。   ◆祭政分離はとうぜん [柳田国男の昭和]  http://bit.ly/xKz8M5 記事はGHQの検閲をへている。 国男の発言は、明治憲法と国家神道を廃絶しながら、政治から切り離された国の祭祀者としての天皇を認めるというマッカーサーの考えを側面から支援するものとなっていた。 だが、それだけでは終わらない。 国男はさらに進んで、政治に利用されることのない神道の再生をひそかに構想していたのである。   ◆【日本近現代史】歪められた日本の歴史 | 日本人の信仰と聖書 ... http://nihonjintoseisho.com/blog001/2019/06/06/history-of-japan-2/ 2019/06/06 「高校生のためのおもしろ歴史教室」というウェブサイトを大変興味深く読ませていただいております。「日本を不思議の国から当たり前の国にいま、周辺国の陰謀によって悪化しつつある国際的評価に正しい主張をしてまいりましょう」日本を美しくする会相談役 鍵山秀三郎(月刊「致知」平成27年10月号「巻頭の言葉」/致知出版社) という文章が紹介されていましたので、一部をご紹介させていただきます。   ◆戦後日本 : 柳田国男らの民俗学による歴史学の破壊 file:///C:/Users/asahi/AppData/Local/Temp/symp_012__39__27_36__39_48.pdf A・N・ メシェリャコフ ロシア国立入文学大学 (日本語訳 ・土田久美子) 二十世紀はユートピアの世紀であった。ソビエト連邦でも、ナチス・ドイツでも、そして日本でもユートピアを建設する試みが見られた。 すなわち、ソ連は共産主義 、ドイツは「新秩序」、日本は「大東亜共栄圏」の建設を試みたのである。 ユートピアの思想を実現させる為 、いずれの三力国でも一社会的・文化的相違はあるにせよ一「全体主義」として特徴づけられるべきシステムが構築された。 いずれの三力国でもユートピアの建設は、国内外に対する広範囲の武力行使によて 実現された。 二十世紀はユートピア建設の世紀であるだけでなく、その破綻の世紀でもあった。 前述のいずれの国家もこの運命を免れることは不可能であった。 ドイツと日本は戦争に敗北し占領下に置かれ 、ソ連は第一に非効率的な経済システムの為に崩壊した。 全体主義が破綻した後 、いずれの三力国でもより民主的・個人主義的な社会を創り出す政策がとられ 、それは「全人類的」価値への参加として理解されたそれと同時に、かつての希望の破綻に伴い 、厳しいアイデンティティの危機が生じた。 危機には解決を要する。 新しいアイデンティティを創造した日本の経験はかなりの独自性で際立っており、あらゆる観点からの研究がなされる必要がある。
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asaee30-blog · 6 years
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私がバイロンを選んだ理由
お久しぶりの更新ーっ‼️😌💕
今日は 私がワーキングホリデーで
オーストラリアのバイロンベイを選んだ理由を
お伝えします🐣🌳🌳🌳✨
私は 昔っから 自然いっぱいのところが大好きで
なによりも 海が大大大好きだったんです❤️
冬に生まれたくせに 寒いのが苦手で
一年中 常夏のところで暮らしたいー
なんて、ひたすら夢描いてました☺️
ビルばかりで ヒールカツカツ👠して
最新のトレンドに敏感になって
オシャレなカフェ行ったりする生活に
まったく 憧れはなく
自然いっぱいのところで
徒歩1分で海に行けて
仕事の前にサーフィンして
仕事おわったらビーチでぼーっと
サンセット見て、ザブンと海潜って、、、
ってゆーそんな生活を夢みてました😌💕
ワーキングホリデーに興味をもったとき、
オーストラリア以外のとこは
一ミリも検討しませんでした笑
暑いところ!オーストラリア!!!
みたいな決断でした🐨👍
そして、
オーストラリアのどこにいこっかなー
って思ったときに
ネットで
“オーストラリア 田舎 日本人少ない”
で検索して、でてきたのが
“Byronbay”でした✨
写真みてるうちに、どんどんどん
吸い込まれてくかのように好きになり
もう、バイロン以外 考えませんでした😂
よく、バイロンの有名ブランドが
好きで行ったんですか?
とか、いわれるんですけど、
まっっったく知らなかったです😂
むしろ、バイロンのことなんにも知らなすぎて
バイロンで会った友達に
“え、今日本で有名だよ?知らないの?”って
びっくりされるくらい
本当になんにも知らなかったです😂
なんだか、今 日本では
どんどんバイロンの価値があがって
どんどん有名になってってて、
日本人の観光客やワーホリが増えてるみたいです。
淋しさもあれば ああ、やっぱり
魅力のある場所だったんだな。
と、思うくらい、バイロンは素敵なところ✨
とまぁ、長くも語れないくらい
直感で選んだのが
たまたま ここだったわけです‼️🙆🎈🎈🎈
ワーホリって、色んな国あるから
悩みますよね🐨🐨🐨
でも、わたしはオーストラリアのいいところは
農作業80日頑張れば
2年目のビザもゲットできることだとおもいます❤️
大好きな場所に2年も住めるなんて
そんな贅沢なことないですよー😛😛😛
最近、カナダのワーホリも
抽選になったので、
オーストラリアもそのうち
抽選になると予測してます😞😞😞
悩んだらすぐ!行動ですよ🙂‼️‼️‼️
迷ってる時間があるなら
行動してから迷ったほうが
何倍も 素敵な未来につながります❤️
て、
こんな感じで
今日はおわり🐨🎈❤️🎈❤️
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miharamaako56 · 7 years
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劇場版Free!TM約束二回見た独り言
約束ついについに公開です! 二回見た今の勢いのまま日記がてら一度感想をまとめておく。なので後から変わる感想もあるだろうし、まず記憶があやふや。わたしが思想の強い凛モンペ過激派ということ、文句も多いこと、とばしとばしかいている、感想なので全部ネタバレなのを前提に気分を害する恐れがあるので一個人がブツブツいっているだけとスルーしてください。 まず、松岡凛について。 サメがモチーフなのでギザついたヒロインでずっときた松岡凛。まさかまさか凛がど真ん中で凛がメインの総集編といえど映画の主役になれる日が来るなんて、これがまさか夢ならみはらの脳内は完成に近づいてきていると思う。 あの、叩かれまくった、ギザギザゴミ箱キックの松岡凛ちゃんが主役?!!!!!????ロッカードンした回の人が監督???!!!いいんですか松岡凛いやぁ松岡凛がかわいすぎてすいません!!!!!!ありがとうございます!!!!!!ありがとうございます!!!!!!!!! と公表された三月からずっと思ってて、それでも前日の日記にあったように、絆が綺麗にまとめられていたので約束への期待値が上がってしまって、そんなにいまいちだったら悲しいなと思っていた中の初日。 劇場書き下ろしの松岡凛、すべてにおいて髪サラサラの睫毛ふさふさお目目キラキラで美少女で最高だったー!! 本編の前にカーテンが開く前の遙の「凛!」がなんからめちゃくちゃかわいくて癒される。遙って凛のことお前って呼んでるけど、凛の名前よぶといつもちょっと勢いよく呼ぶのすごい好き。真琴と違って呼び慣れてない感がたまらない。 まさかのまこりん…観劇の注意がまさかのまこりん普通初回は遙と真琴か、遙と凛かとおもいきやまこりん…劇場からわきあがる悲鳴…これは京アニさんからの、『プールに入る前に心臓がびっくりしないようにパシャパシャかける水』だったことを我々は心臓がびっくりして死んでから思い知るのであるーーー。 そして本編はじまり 松岡凛が語り始める いやほんともうまさかちらっとぐらいはとかそんなふうにおもってたらまさかいやうそだろおまえむりですそれはああほんきかよ京アニさん古時計とふるい電話の音がまさか今日から地雷になるなんて ちっちゃい松岡凛を高い高いでかわいがる松岡虎一、ちっちゃい松岡江、をみまもる松岡都。 ま、まままままま松岡ファミリー!!!!!!!!!声付きでうごいてる松岡ファミリー!!!???!!!!!ってか親父!!!!!親父、、、!!!!親父まじかギザギザ!!!!ギザギザ!、!!、、! 松岡父母の顔面偏差値高すぎて松岡凛が父のギザギザと母の美貌を引き継いでて松岡凛の紫芋の髪色は母譲りなんだとかそんなの考えれたのは2回目に見た時でした。一回目はこの幸せな一家の結末を知っているからこそ最初から涙が止まらなかった。 松岡虎一はまさかのすごいイケメンで、こちらとしてはあなたの小学生の時は知ってますよ!!って不思議な感じで、どうみても都会の商社マンみたいでびっくり。 ずっと不思議だったのが、『漁師の父の夢だったオリンピック』を目指す松岡凛で、お父さん漁師になったけどオリンピックにそんな固執した父だったのか??父を失ったのは幼少期だけどその数年でそんなにも刷り込まれたのか?という疑問がずっとあったんだけどそこが全て解明してすっきり。 母と妹の支えになるためにも一番であり続けようとそう決めたんだね。 小学生ながらに転向を決め留学を決め旅立った凛は誰よりも早く大人になろうとしていたんだ。大人にならなきゃいけなかったんだ。 あーーーーもう辛すぎ監督ちょっと初っ端から飛ばしすぎ!、!! 都さんが泣いてるのとかほんともう辛すぎむり!!!!!勝手な妄想で松岡母は旦那を失いつつも子供2人を抱えて立ち上がる強い母なのかとおもってたけどそんなことないよね!!!松岡家のみんなは傷だらけになりながらみんなで立ち上がったんだ… 脳みそプリンみたいにして感想を述べると松岡凛かわいすぎかわいいかわいいエンジェルかわいいつらいむり、です。 宗介とはscでであったのかな?なんかその辺全然覚えてなくて申し訳ないけど宗介のショタ時代はなくて残念…と思いつつもそれいれたりしたら絆みたいにブレた感じが出るから逆に松岡凛一点集中だったのですごい見易かった。 ただ宗介がひとりぼっちで腕出してたのつれぇめちゃくそつれぇ… 小学校卒業〜高校三年生まで まさかのハイスピの新規かきおろしもあり、日本とオーストラリアの時系列を交互に映し出し、二期までの物語ダイジェスト。凛が立っちまってるシーンがもうみててうわああああああってなった… 数ある松岡凛のシーンの中でもトップクラス好きな一期の、お墓の前の凛のシーンがまた見れてよかった。髪が全部バラバラに風に吹かれてふわふわ揺れて京アニのスゴ技をみたよね。 オープニング 殺傷能力の高いオープニング。 あーーーーーーーー金網夕焼け屋上のなつかしいやさぐれた松岡凛ちゃんスタート!!!!!!かなりなつかしいぞーーー!!!!!!! ものすごい松岡凛ちゃんが主人公だ!!!!松岡凛ちゃんが主人公だ!、!、!!!スタートから絶望に叩き込んでおいて松岡凛ちゃんが主人公だ!!!!ていうかハイスピ!!! ハイスピの映像一期の映像ぜんぶまとまってて、ああこれは松岡凛の映画なんだけどTMとしてのFree!としての完結編なんだ、って思わされました。 まさかのオーストラリアのとこの書き下ろしにぶへえええええええ(。◞ノ‸◟)ってなった。はるりん、かわいい、はるり、はるり、ん、カフェで、まさかのES12話の未公開シーン2017年夏に見れるなんて。水中で見つめ合う遙のと凛は一期からずっとあったビジュアルだけど今回また見つめ合う遙と凛、その後ろに並ぶ彼らの仲間たち、そして歩み出す2人!!! そう歩み出すんですよ!!2人は!!未来に向かって!!不敵な笑みを浮かべながら!! 力強く前に進む松岡凛!!! もうめちゃくちゃかっこよくてさっきスタートでどん底に落とされたあとでこの輝き、眩しすぎて涙。 オープニングほんと素敵すぎてはよこれだけでいいから今すぐ円盤にして売って欲しい。 そして物語はES2話へ。 あっ宗介のショタ時代はないんだ…とおもったけど 宗介の『ミツケタ…』が大スクリーンで観れるとは… 殴りかかるように見えるシーンカットは辛かったな…なぜあの数秒削った…『変な時期に転校してったのはお前だろ』のとこでなぜかポップな音楽とともに流れる『いっしょにリレーしたいやつみつけたんだ!』のところ流れて、え???!!!!ってなったわほんとびっくりしたわこんなポップにふりかえんのマジ??!!!ってなった。ただの回想の一部でよかった。こここんなポップにしたらあかんやろ…ってびっくり。だけどここはとりあえず流すだけだったみたいなのでよかった。 桜のプール。 絆で削られてて悲しかったけどこっちだったかー!!よかったー!!! 電話で呼び出されるシーンがまさかの描き下ろしで、しかも、遙が自ら電話をかわり凛を誘い出す。 それに対する凛の『おぅハル』がウルトラスーパー優しい優しい優しい聖母まさに聖母えっっなにこれまだ二期前半だよねもうこんな聖母になってたんか松岡凛やばすぎ!!!時系列的にははるりんとして名高いおとまりしたあのCDの後の話だからもうこれはるりんですわありがとうございます。たぶんこれはもう付き合ってるな。 スプラッシュフェス。 まだ宗介がヤンホモと言われていた頃。 ちょっとなつかしい笑 4話。 絆の時はBGMが解釈違い!といちゃもんつけてたけど今回は逆に音がなくなるシーンが印象的で『なんで連絡よこさなかった』のとこで宗介の回想シーンのところがふっと音楽がきえて無音になるのがぐっときた。 戯れてる二匹のモンシロチョウはバッタ組みのイメージそれともおセッセの揶揄? ランニングからのシーン 宗介の『なんでもいうこと聞くって約束だろ!!』っていうセリフ。 ノベライズを読んでから聞くと受け取り方がすごいかわった。今までは勢いで約束を持ち出していったのかとおもってたけど、宗介は約束をほんとにこれとして使うつもりで鳥取に帰ってきてーーーなのでここは勢いなんかじゃなくて宗介の心からの叫びなんだ。 宗介の熱いハートをうけとった凛… 夜のプールの対決。ここもBGMなしで水の音だけが響く。ちょっとえっちやん?※とても大事なシーン 『さぁ前に出ろ!!』の松岡凛のとこでいつもおもうけどこんなかわいい子に言われたらみんな前に出るんじゃ?!とおもうけどどうなんだろうね。凛の後ろ姿のお尻最高だよね。 県大会 まさかの、岩清水くんverのリレー全カット…みたかった…ここは岩鳶視点で描かれてたからだよね…みたかった…ここを削られてしまったので、一番にならないといけなかった松岡凛の語りに対して劇中一位取れるシーンは地方大会フリーだけなんだ…うーん…努力が結果に報われてなくてここはちょっとつらい。ESのときからずっとおもってた。鮫柄が練習ばっかり多かったから余計にね…。 似鳥が夜中に百にエールを送るシーン、パッと目を開けるとき、『起きてるーー!!!』 ってツッコミが聞こえちゃうのは去年の両国イベントの円盤のみ過ぎ笑 地方大会 リレーの練習での4人の後ろ姿のシーンで、当時リアルタイムのTLで『鮫柄最終回!!』っていわれたの思い出した。 凛のフリーめっちゃかっこよかったー!!!!!おめでとう凛ちゃん!!!かっこいいー!!いいぞいいぞ松岡オーーッ!!! まさかのロッカードンが入れられてぶへぇ(。◞ノ‸◟)ハルのセリフカットだから凛がドンだけで黙らされたみたいに…(。◞ノ‸◟) そのあとのバッタはカット。ここどうだったのかな…全国行けなかったんだよね。精神的ダメージでかすぎたのかとおもうよね… 監督がパンフで悲しいこと経験しすぎだろ凛ちゃんさん!ったかいてたけど、悲しいのはおめーーーのかいた9話だろーーーがっ!!!!!!!ってなりましたけどね。 10話 5000000パーセント号泣シーン。ここは10話の通りほぼ進むので感想は少なめ。ここに言葉はいらない。 コーラを投げる前に凛が一瞬コーラを見るとこがほんとうぐってなる。宗介の好きなコーラを投げて凛がとどめを刺すんだーー凛が宗介のことを怪訝な顔で見るシーンは何度もあって、それでも追求しなかったのは、宗介が全部話すのを待ってたのかほんとになんでもないとおもってたのか聞かないのが優しさだとおもってたのか五年ぶりでいくら親友といえど聞くことができなかったのかそれはよくわからない。 リレー 全国行けてたんだー!!!!!!!それがすごい嬉しい!!!よかったタイムはよかったんだ!!!!!よかったよかったほわとよかった!! やっと見つけた宗介にたいして鼻をすする凛が追加されててここで、ここで宗凛の物語は…おわらないでくれー!!でもアニメではここから遙のほうに移って11.12.13話と終わっていくのでここからどうなるのか、絆でほぼオーストラリアをやったのでどうなるのか、未知の領域に。 宗介が賢者モード並みにさわやか爽やか…で凛が未練タラタラな顔しててえーんつらい… そして突然のまこりん。 まさか12話の『真琴進路決まったって聞いた』ってやつを描き下ろしでぶち込んでくるとは…声がまた聖母松岡で…はぁ、、しゅごい…開始前の水パシャパシャをちゃんとやってなかったので心臓びっくりしちゃった… あの花畑と星空はなんなの?!ってびっくりしたけどきっと心臓びっくりして死んだ我らが最後に見上げた景色だったんだーーー そして書き下ろしの宗凛 旅立つ凛とそーすけ…松岡凛の声がこれまたもう聖母で聖母で聖母… 宮野さんの吹き替えの洋画とか最近すごい優しいなっておもったんだけど松岡凛こんな優しい声でなんか生々しい生きてる感がでてて…松岡凛にほんとに命吹き込んでくれたんだ…ってじんとなる。ありがとうございます。 あまくないの…何買ってきたんだろうか。 ハルの話をするときいい顔するって宗介は言うんだけど(しかも凛がちゃんときいてないのがもうほんと罪作りな男だよ凛は)宗介のことみてる凛もいい顔してるんだよー!気づけよバカー!(´;ω;`)なんかその一言でほんと宗介って凛のこと大好きじゃんって気付かされてしまった… オーストラリアは絆でしたのでカットはわかるけど、全国大会 まさかここまでもってきて全国���会全部カットされるなんてね!!!!ね!!!!うわーん!!。゚(゚^ω^゚)゚。すだひがしのきんじょうだれだよ!!!!! そしてエンディングへ。 待ってる、の凛がふと目をそらしてしまうのがもーーーいじらしいわざとやってんのかもーーーそんな顔されたらそちゅけもそら考えざるを得ないよー!!!ってかやっぱここでおわりかよー!!!なんかここがとどめでESは不完全燃焼感があるんだよねぇ…だからずっといつかつづきあるのかな?っておもっちゃう。 エンディングよかったへんな記念写真エンディングじゃなくて! 部長引き継ぎ、鮫柄は見てたけど岩鳶のもあって、それみたらああ、ああ、ああ、ほんとに卒業しちゃうんだ三年生はいなくなるんだ、これは映画約束のエンディングじゃなくて、映画TMシリーズのエンディング、そしてテレビシリーズのしめくくりなんだ!ってようやくここで気付いてしまい今までの思いが込み上げてくる。 それを追うように今までのアニメダイジェストが流れる。絆でカットされていた渚とれいちゃんのシーン、ES13話の夜のとことか小さいカットでも何度でも泣けるー!!!!!!! まさかのまさかの『みたことのない景色みせてやる』を引き継いだのが江ちゃんで驚きなんだけど、そういえばみたことのない景色は虎一からの引き継ぎワードか。(小説ハイスピでそんなのがたしかあったようなあやふやな記憶が…)江ちゃんも水泳部の仲間で、そして松岡家なんだ!だから江ちゃんがこのワードを引き継いでくれたのほんと嬉しい! そして全て書き下ろしのCパートへ 宗凛追加シーン コーラをわけあって、わけあってんのか、おまえら、かわいい…かわいい! 宗介は見送りに来てくれるのかなー同人誌で何百回もみたけどきてほしいな。そして手紙。かいてやれよ松岡!!!写真も入れてやれ!!!! まさかのここから郁也の話に、松岡凛が郁也の存在に触れる…絆の時予想したけどまさかほんとに…七瀬遙に憧れ七瀬遙に並び続けた空前絶後の聖母松岡凛と七瀬遙に影響され七瀬遙をコピーした空前絶後の美少女桐島郁也のキャットファイトがーーーー、!!!!! 郁也 すごい美少女…という感想。まだ謎に包まれているからね。 旭 旭地方大会止まりなんだ!とおもったらパンフにネタバレが。旭も水泳部をつくった立場なんだね!かっこいいなー旭は。 てゆかなんで『きまってんだろ!』のキメ顔をやったんだ。きまってんだろ、ってきたら視聴者みんなの度肝を抜いた『きまってんだろオーストラリアだ!』の11話Cパートなんだけど、なぜそこを凛にかぶせてきたのかはどこにもかいてなくて謎。 キスミ 旭ときすみが会う約束をしたのは五月のようですね。きすみはほんといい子だなー大好き! 凛と江 江の『私も帰ろうかな』が意味不明で????だったけどこれもパンフに書いてましたね。都さん一人暮らしなんだ…凛に似た美女未亡人一人暮らし…!凛と都さんの二週間(卒業〜オーストラリアまでの間ね)みてみたいなー!! まさかの松岡凛のTM最後のシーンがプールでもラリアでもなく地元の田舎町で妹と歩いていくシーン。冒頭の松岡家に帰結していくっていうか、そこをまた思い出して大きくなった凛の背中にじんとくる。彼は、オープニングでもそうだったように歩き出したんだ。 遙と真琴 舞台は東京へーーー。 スタート台に立つんだけど、遙は競泳水着で、真琴はコーチの時のダイビングスーツなのね。ふたりはもう高校生じゃないんだ。ふたりは、違う道へ、でも隣にいる、ひとりじゃない、そして信号が青に変わる、旅立っていく、Free!の子達が。 寂しいんだけどなんか納得してしまったというか、遙達の高校生の時代の物語はこれで終わりなんだ、ってものすごい感じさせられた終わり方だった。 もちろん終わりは悲しいしずっと先までやってくれーー!!って思うんだけどここで『高校生の』遙の話はほんと『一区切り』ついたなって思いました。 ESでなんかもやついたままおわり、そのつぎがまさかのハイスピでさらにもやついたままだったのでほんと綺麗にまとまってたとおもうTM。 紘子の描いた勢いと筋肉と勢いの最終回とはまた違って、わちゃわちゃした部分を削って丁寧に丁寧にかいた作品だったなTM。90分という短さだからこそわちゃわちゃがなくても見れたな。もっと長かったら筋肉わちゃわちゃを求めてた笑 とくに約束は中心を松岡凛一本に絞りに絞ってまとめてるからすごい見易かったな。 あと、もちろんまえから好きだけど似鳥めちゃすきになった。頑張ってるとこがまとめて濃縮してあるので一時間半常にがんばっててほんとよしよししてあげてくれ。凛が。 逆に宗介は、リアタイ時は3ヶ月かけて見守って悲鳴あげてたので一時間半のなかでヤンホモから急に容体悪化して賢者モードになられるとびっくりするからES通しで見た方がいいな。でも書き下ろしも含めて松岡凛への思いがほんと強くて、優しい子だった。優しい大型犬だよ宗介は。 鮫柄は泳いでるとこの解説が魚住くん美波くんがやってくれててよかったー!書き下ろしは少なかったけど本音を言えばもっと見たかったけどホテル見てはしゃいでる声かわいかったー! ていうか約束は結局どこいったんだ?!?!またあやふやなままにしたよな!!!!そこがテーマタイトルとしはもやっとするなぁ… 予告 まさかのFrFr!まさかのまさかの。久々すぎて忘れかけてたFrFr!、え?!みたいな。よくよくみたら卒業前の三月の話4本、ということは実質15.16.17.18話ってことだよね!!これに、ハイスピメンバーも全員出して、松岡凛ちゃん出番あるのかな?!(モンペ) FrFrとかのノリでかぁ…すごい楽しそうなんだけど紘子いないけどわちゃわちゃ楽しい系大丈夫?つくれる?!っておもうよね笑 でもきっといい感じに仕上げてくると信じてーーーーーーーー 旭帰ってくるの五月だよね???? 次のTMは三月の話でーーーーー 凛と郁也のキャットファイトはーーーーー 宗介結局どうしたんだよーーーー き、期待なんかしてないんだから(´;ω;`) それにしても伏線ばらまいたなー!!(´;ω;`) 洋画って、続編決まってなくてもラストは何か続きがありそうな気配を醸し出しながら終わることが多いから(それが実際続編の布石になることもあるし、続編なくて投げたまま転がった石の時もある)そういうかんじなのかな? もう何も考えずにとりあえずいまは約束を噛み締めたい。最高でした。 一番最高なのは、エンディングで一つの物語の終わりに気づいて泣きそうなのに予告の最後の最後で笑わせてくるのが、映画冒頭でどん底に突き落としてきた松岡凛ということ。映画館がパッと笑いに包まれて終わるの。 救われる。 ありがとう松岡凛。 松岡凛をずっと好きでよかったし、 Free!をずっと好きでよかった。 ありがとう京アニさん。 17.07.03今日はFree!1話の放送日なんだって!
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