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kuribayashisachi · 8 months
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拙勉強メモ
野口良平『幕末的思考』第3部 第2章-3に著者様からお返事頂いてしまいました!
日本じゅうがひとり歩きした天皇制にからめとられ、「優勝劣敗」なんてことを大真面目に言い出し、青年たちも成功ドリームに我を忘れてゆく明治20年代。
そんな中で、理想を語り合う仲間も見失った透谷は、一人で考え苦しみ、死んでしまいます。
本当の自由とは、あるべき社会とは……。 弱くて強くてでもやっぱり弱い人間の心こそ、基本では……?
透谷は本当にひとりぼっちだったのか。
彼と課題を共有し継承した人はいなかったのか? 著者は、夏目漱石『こころ』を取りあげます。
その探求の背景や思いなどをお便り頂きました。 一人で読んではあまりにもったいないので、ご許可を頂き、個々に共有いたします!
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■ 野口良平さまよりのご返信
言ってみたかったことは、漱石の『こころ』は、透谷の苦闘に一矢報いているところのある作品として読めるのではないか、ということです。
透谷の敵はバケモノだった。 しかし、そのバケモノの生命は、やはり有限である。 漱石はそのバケモノの像を、自らの生命の限界を自覚した存在として造型しようとした。 そのことを通して、透谷の戦いが妄想や幻覚として片づけられてよいものではなく、生きた人間の、血の通った戦いだったことを、いわば「証明」しようとしたのではないか、と。
これは、もちろん私の読み方でしかありません。 それに、こんなふうに『こころ』を、また漱石を読もうとしている読み手は、そんなにはいないのではないかと思います。
それでも、『こころ』には、また漱石には、そういう読解に開かれた何かがあることも、また確からしく思われるのです。
私にとって励ましになったのは、松元寛、森谷篁一郎、の二人の著作でした。(どちらも漱石の専門家ではありません。)
松元さんは、シェークスピアの研究者ですが、広島での被爆体験をもち、高校生向けの案内書を、岩波ジュニア新書(『新版 広島長崎修学旅行案内―原爆の跡をたずねる』)から出しています。『小説家大岡昇平』という好著(と思います)もあります。
森谷さんは、鳥取で高校の国語の先生を長く勤めた方ですが、高校で『こころ』の授業をしながら、この作品を高校生と読むことの意味がわからなくなり、苦しんだのだそうです。
それで、定年退職した後に、自分への宿題への答えを探ろうと、『こころ』論(『漱石『こゝろ』その仕掛けを読む』)を自費出版します。それを私は何かの記事で知り、直接版元に注文して読んだところ、とても面白いものでした。
日清戦争は、大きく日本を変えていくきっかけになった出来事で、これとともに日本の教育制度が、あるいは知識人の養成過程そのものが様変わりしていきます。
日清戦争の直前になくなった透谷も、その前後に松山中学の先生だった漱石も、日本の性急な近代化と、教育制度の変化に適応できなかったという共通点を持っていますね。
留学先では文部省に求められていない問題を自分で作って苦しみ、無鉄砲にも学校を飛び出す主人公を描き、博士号はいらないと文部省にたたき返す。そんな漱石に、透谷の面影を垣間見ることは不可能なのだろうか?そんなふうに、ここでは私は考えてみたのです。
ここで、幕末と明治のスキマに生きながら、近代化に適応できなかった人として、もうひとり、樋口一葉のことが書ければよかったというのが、今考えるところですね。
一葉の小説には、その後の日本文学史が取り落としていったさまざまな可能性が、ぎゅっと凝縮されている感じがしています。
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野口良平様、もったいなきお便りをありがとうございました!!!
松元寛先生、谷篁一郎先生の研究にも心惹かれます。
しかしよく遭遇なさったなあ。。。。。(さらっとおっしゃってますが、ほんとにむちゃくちゃ先行研究を渉猟されてます……)。
本を一冊書くって、そういうことなんだ)
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kuribayashisachi · 8 months
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#勉強メモ
野口良平『幕末的思考』 第3部「公私」 第2章「滅びる者と生き残る者」-3
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第2章「滅びる者と生き残る者」-1,2の続きです。
透谷の孤独な思考を受け継いだのは?
-3で著者は、透谷と同世代で、透谷の死後20年生きて文学の仕事をした、夏目漱石の「こころ」を取りあげています。
以下、いつにも増して理解の届かない、ワタクシのメモですので、参考にもしないでください。「いや、これはこうじゃないの?」というご意見がありましたら、是非教えて頂きたいです~!
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
-3
著者は、北村透谷という人を 《「内部生命」を掲げつつ市民宗教への抵抗に殉じるに至った》(p247)人だとしています。 「"個人の心(内部生命)が基本だ!"という考えをもって、天皇制という市民宗教(集会、布教の自由を許さない)への疑問を突きつけ、力尽きて死んでしまった」人、 という感じでしょうか
透谷の命がけの問いを受け継いだ仕事として、夏目漱石の「こころ」を、著者は読み解いてゆきます。
「こころ」のストーリーは、
過去に、利己心から「K」を裏切ってしまった「先生」は、自死をとげる。
というもの。
なのですが、そんな「先生」は遺書に、自殺の理由として「明治の精神への殉死」をあげている。 (乃木希典の明治天皇への「殉死」がすぐに連想されます)
これはなぜなのか。
「こころ」の先行研究(森谷篁一郎、松元寛)を紹介しつつ読み解きます。
① 先生は己の「倫理意識」と「利己心」のせめぎ合いの内に死を選んだ。
これを著者は、 先生の自殺が 「市民宗教(天皇バンザイ)への帰依」と 「市民宗教からの自由」の 「意識相克」を照らし出す仕掛けとうけとることもできる、という。
乃木大将のモノマネをする、ということが、 「殉死に倣う」と言うことであると同時に、 「異化」の目線を醸し出す。(まねすることの戯画化、ということは透谷が論考の中で言い残している)。 つまり、天皇バンザイという考えから体を離した所に身を置いている姿勢をも描いている。
② 先生の遺書を年下世代の「私」が受けとる
=利己心も含めた私情(先生が「K」を裏切ったこと、それを苦しんだこと)を否定しない契約社会のあり方を提示しているのかも。 山路愛山の言うように「健康で正直で優秀な人しか生きていけない社会」でなくて!
透谷の死も、そのことを次の世代に引き継いでいた、ともいえるかも。
③ 漱石の「こころ」は、透谷が挑んで玉砕した相手が何だったのか、という問いに、同じように直面している。
先生が殉じた「明治の精神」とは、 “健康で堅実で清くそれでいて無慈悲に「弱肉強食」” というバケモノなものだったけど、
「明治の精神」に対抗すべき「人の心」「内部生命」は、その力にあまりにも限界があった。そのことを「先生」や「K」、透谷は知ってしまっていた(自殺してしまった)。 じゃあわたしらはどうすりゃいいの??(答えはないと漱石は言ってる。答えはないけど幕末の志士のように斬るか斬られるかの覚悟で文学をやりたいと)という困ったバケモノ。
④ 「先生」の造形=北村透谷という“もう一人の「K」”の「なぞり」のようにも見える
(「先生」の自殺が「K」の自殺のなぞり。ふーん。なんかパズルみたいになってきたぞ)
・・・・・・・・・・・・
理解し得た、とは言えない第3部第2章-3ですが、 著者が、透谷が悶絶して一人で死んで、歴史空間に宙ぶらりん、にしてはあまりに惨い、そうではなかった、誰か辿った人があるはずだと、心を込めて細道を探査しているように思えました。
いやー
ほんとうに透谷、もう少し生きてくれなかったでしょうか。 せめて日本語が言文一致の書き言葉を獲得してくれるまで。 そうしたら新しい書き言葉でたくさん書き残してくれたし、 なにより、だましだまし元気で生きてほしかった。
平塚らいてうみたいに、両親が娘のどんなバッシングにも負けず、文句は言わずにお金だけだして支えてくれてたら。
平塚らいてうみたいに、座禅を組んだりして肝っ玉を太くする習慣があったら。
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kuribayashisachi · 8 months
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#勉強メモ
野口良平『幕末的思考』 第3部「公私」 第2章「滅びる者と生き残る者」-1、2
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*あくまでワタクシの危うい理解のもとにとったメモですので、ぜんぜん受け取り間違ってるかもしれません。 ぜひぜひ、野口良平『幕末的思考』みすず書房をお読みくださいませ!
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偉い人だけで準備した国会や憲法が整い、「日本」がいちおう近代国家らしくなった明治20年代。
明治20年代は《列島の精神史にとっての重大な転換期》だと、著者は言います。
これまでは、戊辰戦争や西南戦争の敗者や、「意見の違う者同士の対立があって維新を迎えたこと」に心を寄せる人たちが庶民の中にもたくさんいた。 それが、 明治27年の日清戦争後は、国民の気分が一変。したのだそうです。
「優れた者が勝ったのだ」「おれたち日本人、天皇のもと心を一つに大きな国を作るのがタダシイ」という一本調子の言説が主流になってゆく…… その様相が論客たちの精神活動史を通じて辿られます。
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-1 
まず、最高学府、東京帝国大学の大先生たちがヤバくなってくる。
-1節では、こうした先生方の精神の営みを追っていきます。 のですが、何を思って大先生方がこんなことするのかわからない。読者も理解に苦しむし、たぶん、著者にも「わかりたくもない!」のかもしれない。うわーぜんぜん楽しくない。
奇妙な”横暴正当化”の人たち。現代社会にもたくさんいる。 明治20年代からずっと続いているのかもしれない。
・井上哲次郎(帝国大学教授)
天皇の名を持ちだして、いろんなことの正当性にすえた。
そもそも天皇バンザイ教は、西洋におけるキリスト教をまねた「市民宗教」で、理屈抜きに国民をまとめようという企みだったのに、その企みを隠すかのように、天皇の肖像にお辞儀しなかった内村鑑三やキリスト教信仰を攻撃したりした。変すぎる。
・加藤弘之(帝国大学総長)
加藤は元々は幕臣で、官軍が攻めてきたときは主戦派だった。 明治になり、新政府のもとで重く用いられる。 すると急に「優勝劣敗」なんてことを平気で言い出す。 「新政府は優れていて正しいから勝ったんだよ、負けた方は自分が劣ってるのが悪いのだからだまっとけ」というあきれた理屈。
『強者の権利の競争』という(何かのギャグ?)タイトルの本を一生懸命書き、日本語、そしてわざわざドイツ語で出版したそうです。
そのほか、当時の東大(帝国大学)では、 いろんな大先生たちが 「進化論(=優れた者だけが生き残るように世の中はできているんだよねっ)」だとか 「天腑の人権なんてない」とか 「スペンサーの哲学」(弱い劣った者は淘汰されて当然)なんてものをふりまわし出していたそうで、若者たちは、これに相当影響されていった……とか。
・・・・・・・・・・・・・・・・
-2 山路愛山 VS 北村透谷
-2節では、 こういう偉い先生たちの言説を聞いて、反論した若者たちのこと。
山路愛山と北村透谷。2人の若者の発言が紹介されます。
2人は、同じように幕臣・藩士の子で、「敗者」側に生まれ、キリスト教に希望を見て受洗。知り合いでもあったそうです。
山路愛山は幕臣の子(父は函館五稜郭まで行って幕府軍に参加した人)、父は失意のあまり酒浸り。 愛山は貧しい家計を支えるため、子供の頃から働いてガッツで生きぬきます。当時翻訳されて明治ドリームを盛り上げたスマイルズ『西国立志編』を読んで、“人は生まれた境遇や身分にかかわらず、努力と忍耐で一生を築くことが出来るのだ!”という考えに大いに励まされたそうです。
わかりやすいですね、大河ドラマの主人公になりそうです。
といって愛山は、勝ち組エリートの「優勝劣敗」に大賛成かというと、少し違うようです。 のちの著書(「現代日本教会史論」)で彼は、 「敗者には敗者の自負がある!」《総ての精神的革命は時代の陰影より出づ》」と、敗者側の魂を語っているそうです。
かたや北村透谷は、 時流に乗り遅れた小田原藩士の子。無気力な父とがんばり屋だけど怖いお母さんの下で育ちます。 小学校時代に世を席巻した自由民権運動に引かれ、歴史小説を愛読しました。
透谷は繊細で、やや抑うつ傾向があったけど、東京専門学校に入ると、「政治的に万民に尽くしたい」《一個の大哲学家となりて、欧州州に流行する優勝劣敗の新哲学を破砕す可しと考えたり》(石坂ミナへの手紙)p232 と考えたと言います。
この夢がかなったら、どんなに良かったでしょう。日本の、東洋の、世界の歴史にとって財産だったでしょう。涙
透谷の短い一生は苦渋に満ちています。
まず、夢を託した民権運動が、もう目も当てられないほうへ落ちていってしまう。 運動資金を作るために「強盗をする、お前もこい」と言われた透谷は、苦しんだすえ、剃髪して仲間に断りを入れ、運動を離れたそうです。 こういう行為こそ勇気があると思いますが、透谷には大きな挫折でした。
透谷は一人になってしまいました。 「強盗はどうしてもいやだ、大義のためでも正しくないと思う」という「個人の感情」を大事にすることと、 「「優勝劣敗」は理不尽だと思う」ということ。 この二つを両方大事にすることが、仲間の中でも通じない。
《透谷は二度の敗北を味わった。一度目は共同的な個として、二度目は孤独な個として(ここ、「個としての敗北」とはどの事態を指してるのか、読解できなかったのですが)。透谷が短い生涯において希求したのは、この二重の敗北に耐えうる根拠だった。》
さて。
愛山が単純で、活力に溢れているのに対し、 透谷が繊細で、物事をもっと深くみつめ、愛山のモノサシではとうてい測れないことをつかもうとしているのは、何となくわかりますが、
著者は、2人の違いはまず、「優勝劣敗」について、 愛山が「当然しかたない、世の摂理」と受けとめているのに対し、 透谷は「西洋で流行している変な考え」だと相対化している ところだと、指摘します。
つまり、透谷の方が暗くて弱々しいように見えるかもしれませんが、ずっと弾力があって、もっと高いところまで跳ね上がってものを見極めようとしているわけですね。
(でも、この心の大冒険をするには、彼は人に恵まれてなかったように思って、悲しさではち切れそうになります。健康にも恵まれていなかったのでは。彼が他人に捧げた誠実が、彼に返ってきたかと思うと……)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
山路愛山と北村透谷は「論争」をしたそうです。
愛山の高らかな文学論(頼山陽を褒め称えた内容) 《文章即ち事業なり。文士筆を揮ふ猶英雄剣を揮ぶが如し》に、
透谷が反発を表明。 《繊巧細弱なる文学は端なく湖江の嫌厭を招きて、異しきまでに反動の勢力を現はし来りぬ》
何を言い合っているのか一見、現代人にはわからないですし、 どうも愛山の方には、透谷の問題提起が全くわかっていなかったようです、いかにもわからなそうですよね。
愛山は、 人生とは、「空の空なるもの」ではなく「人間現存の有様だ」。 文学はそういうものを書くべきだ。といい、
透谷は、 いや、人生とは、「空の空なるもの」と「現存の有様」にはっきり分けたりできない、いろんな可能性や忘れ去られたことやなんかがあわさった生命そのものなんだ、と考えた。 愛山のようにはっきりきっぱり言ってしまうこと自体が、何かを排除してる、こういう奴はダメだとか、こうじゃなきゃ×だ、という排他性になってる、それはすごく怖いし、人間てそんなもんじゃないと言いたかった。
愛山も、透谷が死んでしまうと、気にして 「透谷くんは、文学は事業なんかじゃなくて「人の内心」を描くものだ、といってたけど、おれは「心が心に及ぼす影響」のことを事業だと言ってるのだから、彼の反論は的はずれだったんだ」と書いているそうです。
愛山は、その後も元気いっぱい民間の立場で歴史を描き続け、日露戦争の時には、立派な帝国主義者として発言していたそうです。
《吾人は(…)不健全なるもの、不正直なるもの、貪欲なるもの、懶惰なるものの失敗を庇護すべき理由を見ず》こういう失敗をやらかす奴を教導し、健全な国民に育て上げる帝国主義はすばらしい、と。
かたや透谷は未刊の書《『明治文学管見』》の中で、 「憲法は「信教の自由」をいうけれど、ゆるされるのは個々人の内心の自由だけで、集会、演説、布教の自由はない」 と記し、 これって自由? ここでいう内心というのは何? 内心とは? 自由とは? と探求してゆきます。
日本人の心と自由の起源を、まるでルソーがやったかのように、透谷は江戸時代、幕末を遡って探求していったのですが……力尽きて自分で死んでしまうのです。
では、こんな透谷の思想を引き継ぐ人はいなかったのでしょうか。
-3節では、透谷の孤独な闘いを受け継いだものとして、 著者は夏目漱石「こころ」を解説しています。
ちと難しかったので、理解できてないと思いますし、 長くなりますので、次回に……
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kuribayashisachi · 9 months
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拙勉強メモ
野口良平『幕末的思考』第3部 第1章 ③に著者様からお返事頂いてしまいました!
野口良平『幕末的思考』みすず書房 第3部「公私」 第1章 再び見いだされた感覚──第三のミッシングリンク1~4 ③
の、福沢諭吉『痩我慢の説』のところ。
誰もが住みよい世の中をつくるのには、法(ルール)が必要。 なのだけど、「強い人たちも弱い者を搾取する自由を手放し、従いなさい!」という理屈の根本は何か。 ルソーと中江兆民は、それは強者だけが自由を謳歌する、「自然状態」がまずいからだ。と位置づけたのだけど、 福沢は「痩我慢の説」でこういっているそうだ。「公をつくるのは私情だ」と。
このあたりが、私はちょっとわからず、「自然現象がまずいから」という考えでは不正解なのか……。と疑問だったのです。
すごく貴重なお返事を頂いてしまって、自分一人で見るにはもったいないので、ご許可を頂いて、ここにアップいたします。
◆ 野口良平様からのお返事
・・・・・・・・(略)
自然状態のままだと弱肉強食が野放しにされてヤバいので社会契約を結ぶ。これが、ルソーと中江兆民が考えたことです。でもそのとき、すべての人がそれを「ヤバい」と気づけるわけではないのではと、二人は考えたわけです。
ルソーは、「立法者」と「市民宗教」を考えることで、その難問をクリアしようとして失敗しました。兆民は、その失敗に気づくことはできたのですが、その失敗を克服する明確な根拠を見出すことはできませんでした。
意外なことかもしれませんが、その根拠を見出したのが福沢だったのではないかというのが、私が出してみたた考えです。福沢は、弱肉強食は「ヤバい」と感じるものが、一個の「私」「私情」でしかないことに注目します。
ルソーは、「私」の大切さを痛いほど知っていましたが、私情というものが「公」をつくるだけの力をもつものだとまでは考えることができませんでした。言い換えれば、「私」というもののとらえかたがまだ浅く、「私」というものが経験のなかで広く、深いものに成長しうるものだとまでは考えることができなかったわけです。
「私」には公をつくる力がある。と同時に、どのような公にも回収しきれない固有の価値をもつ。こういうダイナミックな把握をなしえたのは、兆民よりも福沢だったのではないか。
一方、ひるがえってみれば、兆民自身、自分の思想にどこか足りないものがあるということに気づいていたふしもあります。国会議員をやめて再び野にくだったのち、いろいろな商売に手を出しては失敗し、辛酸をなめたのも、「公をつくるものとしての私」という考え方を試してみたかったのだ、と考えることも可能だと思われるのです。
今だったら、こういう説明も加えてみるかもしれませんね。そもそも、人間に私情というものがあるからこそ自然状態が生じた。と同時に、その自然状態を終わらせたいと思うのも、私情にほかならないのだと。「私情」には、それだけのふり幅が備わっているのではないか。
「私」には「公」をつくり、しかもその「公」のありようをチェックする力がそなわっている。福沢のこの考え方がなかったら、文学というものそれ自体の存在理由がなくなってしまうように、私には思えたのです。
***
福沢に対しては、さまざまな批判が寄せられていることは承知しています。どんな言論にも、可食部と不可食部というものはあるでしょう。福沢の考え方についても、どこまでが可食部で、どこからが不可食なのかということが、過不足なく見極められる必要があるのではないでしょうか。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
なるほどです。
なんとももったいなきご返信、ありがとうございます。
ルソーは、「私」の大切さはイヤと言うほど知っていたけど、「私」にそんな力があるとは気づいていなかった……。
そっかー。もしかしたらルソーは自分がすごい変人と知っていたので、そこまで「私」を大事にする自信がなかったのかなあ。
なんて、そんな奥ゆかしい人じゃないか。
そして、《どんな言論にも、可食部と不可食部というものはあるでしょう。福沢の考え方についても、どこまでが可食部で、どこからが不可食なのかということが、過不足なく見極められる必要が……》とのお話。 可食部と不可食部という言葉が、とても効き目があるなあ! などとヨロコンデいたのですが、考えてみると、これは、もう少し強い「たしなめ」のお言葉ですね。
福沢のたくさんの言説の中から「醜業婦」発言に真っ先に注目して、福沢全体を否定してしまうのは、 りんごをもらってヘタに噛みつき「ぺっ、ぺっ、これ食べれない~」というのと同じじゃないですか、と。
◆ ウーマンリブの合い言葉「個人的なことは社会的なこと」について
頂いたお返事は、
(追記)「公をつくるものとしての私」という考え方は、The personal is political.という考え方を含みうるものだと、私は思います。ただ、ギリギリのところで、「私」には政治的な要素には還元できない性質が残されるように感じられます。福沢の「瘠我慢」は、The personal is both political and non-political.という考え方に近いのではなかという気がしますね。
「個人的なことは社会的なこと」というより「個人的なことは政治的なこと」ですね。
The personal is political.は、60年代にアメリカを席巻したフェミニズム第2波と反戦運動の合い言葉だったのですね。
私はそれを認識してないで、ウーマンリブのお姉さんたちが、世間から馬鹿にされながら「がんばろうね」「私たち自分勝手なわけじゃないよね。この苦しさは社会の問題だよね」と励まし合った、という感じの言葉だと思っていました。
どこかで耳に挟んでじーんとしたのです。
《「私」には政治的な要素には還元できない性質が残されるように感じられます。》
なるほど。
といって、野口さんのおしゃることが、自分にわかったのかどうか……そのうち、「あ」とおもうかもしれません。
野口さん、もったいなきお返事を、まことにまことにありがとうございます。
m--m
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kuribayashisachi · 9 months
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勉強メモ
野口良平『幕末的思考』
第3部「公私」 第1章 再び見いだされた感覚──第三のミッシングリンク1~4 ③
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勉強メモ 野口良平『幕末的思考』 第3部「公私」 第1章 再び見いだされた感覚──第三のミッシングリンク1~4 ③
(あくまでわたくしのメモですので、読み間違っているところも大アリとおもいます)
■前回までのおさらい
① 明治の三傑の後を継いだ伊藤博文は、「今の国民には憲法を考えるような頭はない」と判断。ブレーンと共に秘密裏に憲法を草案し、これを天皇から国民に下すことに。 それと同時に、国民たちに天皇への信仰を浸透させることで「国民意識」をもたせようと、「教育勅語」を発布。全国の小学校に「教育勅語ください」と言わないといけないような雰囲気を演出する。
この政府のやり方に対して、思想家たちはどう対抗したか、
②と③で中江兆民と、福沢諭吉の思想的格闘が紹介される。
②中江兆民は『三酔人経綸問答』を書いて、「理想主義の洋楽紳士」、「侵略主義の豪傑くん」、飲んだくれの思想家「南海先生」の3人が、これから近代日本がどうなるべきか意見を戦わさせてみた。けっきょく正解は出ないのだが、簡単ではない民主主義の難題を、絶えず語り合わねばならないことを提示した。
で、今回は、
③福沢諭吉が最晩年に書いて、友人と、自らが批判した勝海舟、榎本武揚にだけ送った(死語に新聞に掲載)「瘠我慢の説」です。
■ 「天保の老人」福沢諭吉
国会と憲法が準備されつつあったこの明治20年代初頭、「幕末を知らない」若い世代の論客が登場し始めていた。
20代の徳富蘇峰(徳富蘇峰というと、弟の蘆花と違ってごりごりの国粋主義ジジイという印象がありますが、最初は自由とか民権をまじめに考える人だったみたい)などがぶいぶいいわすようになる。 「天保の老人はひっこめー」みたいな論調も。
だけど、 伊藤博文たちによる「上からの憲法」の危なさを鋭くかぎとり、問題点を書き記したのは、若い徳富蘇峰たちではなくて、「天保の老人」である福沢諭吉だった、そうです。
『痩我慢の説』を紹介する前に、
私が個人的にちょっと思ったのは、これはどっちかというと社会的に強い立場の人、エリートの人たちに向けた提言だろうな、ということです。
人生ですっと虐められたり踏みつけられ通しで、もう我慢も限界!!(現代日本人にはこの状態の人が多いと思う)の者からみたら、「は? 痩せ我慢? それどこじゃねえ!」 「寝ぼけてんのかこの1万円おやじ!」と思うかもしれません。
なので、そう思うのはちょっと脇へ置いて、いまはひとまず福沢の鋭さのポイントを聞きましょう。
やっぱり福沢は、凡百の“上から目線おじさん”ではないのです。
■公は私情
人間は自由だ。
でも、強い人も弱い人も、誰もが住みよい世の中をつくるのには、法(ルール)が必要だ。 なのだけど、「ルールが必要。強い人たちも弱い者イジメをする自由を手放し、従いなさい!」という理屈の根本は何か。それは自由の侵害にならないのか。
ルソーと中江兆民は、それは強者だけが自由を謳歌する、力づくの「自然状態」がまずいからだ。と位置づけた。 だが、それだけだろうか。 (ここ、じつは未消化です)
福沢は「痩我慢の説」でこういっているそうだ。
「公をつくるのは私情だ」と。
え? なになに?
私情とは、何かというと……
「そんなのおかしいよ、そういうのってよくないと思う」という、状況に対する個人の気持ち。
これを 「感情的になるな」とか 「現状はこうなんだから仕方ない、この方が便利だしうまくいく、変なことにこだわるな」 「うるさい」「意地を張るな」 といって退けてしまっていいのか。
損得利害、大義名分からだけつくられた法は、「悔しい思いをする人たち」からのチェックが働かなければやがて一人歩きするだろう。 (そんなこと著者はいってないかもしれません) 気がついたら誰にも便利じゃなくて悲惨な状態に追い込まれているかもしれない。
ここへきて、戊辰戦争の時、江戸の街を戦火から守った勝海舟を、著者があまり評価していないようだった理由がわかってくる。
勝海舟は、戦争を止めたのは偉かったし、そのおかげで、日本列島は欧米列強の食い物にならないですんだのかもしれない(内乱が泥沼になったら、フランスが幕府に、イギリスが薩長について内乱を助長し、その結果、日本列島を植民地に分割(山分け)……なんてことになってたかもしれない)
けれど「そんなの理不尽だ!」と勝てる見込みがないのを承知で抵抗せざるを得なかった幕臣方の思い(私情)を、無価値にしてしまったことには、勝海舟は責任がある、と。
戦争は極力避けるべきだが、かれらを「益のない戦争をした時代遅れの人」とくくってしまうなら、それは何か大事なものを見失うことになるだろう、と。
福沢の言う「痩我慢」とは、「おかしいだろ」と思うときに、「その方がトクだから、ま、いいか」という方をあえてとらず、損をこうむっても「いやだ、そんなのおかしい」という姿勢を大事にすること。
福沢は、消されようとしている「幕末の経験」を次世代に伝えなければと思ったに違いない、という。
黒船に迫られ、古い身分制度の社会に限界を感じ、行動し考えた幕末の人々は、《「私」意外に何一つ支えがない場所》にいた。
そのことを忘れないでほしい。と。
上から「与えられた」憲法に「おい、ちょっと待てよ」と疑問を感じ、口にすることを忘れないでほしい、と。 このあぶない顕密システムを見はるには、この姿勢こそが大事なのだ、と。
■これはあれだ!
「そんなのおかしいだろ!」 という私情から始まってこそ、理のある「公」が育つのではないか。という、哲学者ならではの省察。
それでハッとしたのですが、
この「私情」ってやつ、あれじゃないですか!
福沢の死後、70年。 「三食昼寝つき」 「家電は揃ってるし、インスタント食品は出てるし、女は極楽だろ、何の不満がある?」 「永久就職、いいねえ」 といわれ、それでも 「おかしい、なんかいやだ」 と言い合ったウーマンリブたちの合い言葉。
「個人的なことは社会的なこと」
もちろん、ウーマンリブの考えは、苦しみ、必然から生まれたもので、おそらく福沢諭吉の影響なぞは受けていないだろう。
むしろ、福沢がすごいのはそこかもしれない。 70年も前の“上から目線おじさん”(デフォルトマン)でありながら、この真実を見いだせたってこと。
福沢は「日本の女は売春婦になって海外へ繰り出せ」(?)とか言って、心ある女性たちに嫌われてるし、私も全然興味がなかったのですが、決して一面からだけで判断できる人ではないし、書き残した者もたくさん校訂つきで残っているのに、それをまるで読まないなど、下からの“上から目線”といわれてもしかたない、と反省しました。
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kuribayashisachi · 9 months
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勉強メモ
野口良平『幕末的思考』
第3部「公私」
第1章 再び見いだされた感覚──第三のミッシングリンク1~4 ②
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勉強メモ 野口良平『幕末的思考』 第3部「公私」 第1章 再び見いだされた感覚──第三のミッシングリンク1~4 ②
② 中江兆民『三酔人経綸問答』
明治維新の三傑(西郷・大久保・木戸)がなくなり、 後を継いだ伊藤博文らによって"秘密裏に用意された憲法が、天皇から人々に「下される」"ことになってしまった明治20代前夜……。
伊藤のやり方に、思想家たちはどう対抗したか……
まず、中江兆民の格闘の産物『三酔人経綸問答』が紹介されます。
■「自由」の難題
「われわれは自由だ。自由な人民のためにこそ国家がつくられる」 というルソーの思想を、日本人に紹介した中江兆民は、
そのルソーもぶち当たった難題 「自由は尊ばれねばならないが、力の強い人が、立場の弱い人から横取りする自由はどうする? この自由を、ルールでもって制約する理由づけは何?」 
という問題の答えが出せなかった。 一時は、 「すごく立派で利口でやさしい立法者が、参謀の補佐を得て裁けばいい。その立法者は西郷さんみたいな人だ」 と考えていた兆民先生。
だが西郷さんは鹿児島で敗れてしまう。
どうする?
人民が主人公の世をどんな理論で作っていけばいい? 経済力や軍事力など、こちらより強い諸外国とどうつきあっていけばいい?
兆民先生は考え続け、民権運動にも身を挺してかかわる (この本にはその細かい動きはあまり書かれていない)。 思考も続ける。 そして世に問うたのが『三酔人経綸問答』なのだ。
■『三酔人経綸問答』
『三酔人経綸問題』その内容は……、 3人の男が、酒を酌み交わしながら、これからどんな国をつくったらいいか、語り合う、というもの。
その3人とは……、 酒豪で奇抜な思想家「南海先生」、 立憲民主制、平和を理想とする「洋学紳士」、 侵略主義者の「豪傑の客」。
洋学紳士の理想と、豪傑くんの乱暴な説を聞き、 南海先生は 「洋学紳士くんの意見は、みんなが同じ意見にならないととても無理だし、豪傑くんのやりかたは、よほどのスゴイ人にしかできないだろう」といい、 「じゃあ南海先生のご意見は?」ときかれると、 「立憲制をしいて、上は天皇、下は国民、みんな幸せに暮らし、穏健な外交をして、欧米からは良いところだけを取り入れる」 とこたえる。
これではまるで、子供やそこらへんの一般人(「児童徒卒」)、現代のNHKのアナウンサーでも言える一般論だ。 「南海先生ごまかせり!」 と、解説者(欄外から兆民先生が自分でちゃちゃを入れているらしい)から突っこみが入るそうだ。
以前、この本の結末を以前どこかで聞いたとき、 「えー結局、答えがでないじゃん、だめじゃん」と、私は大いに落胆した。
しかし、 この「ごまかし」が率直に認められ、発語されること、これこそがルソーの挫折を受けとめ、列島の思想的課題に挑むための必要条件だ、と著者はいう。
《この架空鼎談を通して中江は、「天保の老人」から明治の「児童徒卒」までが、それぞれの歩みの固有性を失うことなく言葉を交わし合うことのできる──顕教密教システムを包囲しうるような──丸テーブル、穴ぼこだらけの宇宙を創り出そうとしているのである。》 p208
正確な答えを出すことが大事なのではなく、 へだてなく立場の違う人たちが課題を共有し、意見を言い合うことが大切! ってこと。
それが民主主義。 そうなのだ、民主主義に最終回答はたぶん、ないのですね。
■私がおもしろかったところ
私は恥ずかしながら『三酔人経綸問答』をまだ読んでいないのですが、今回、内容を紹介されておもしろかったのが、例によって枝葉末節です。
「豪傑くん」というのが、ごりごりの軍事大国主義者で 「列強に追いつけ追い越せ、アジアをどんどん占領して日本を大きくしろ」とかいう傲慢な勝ち組指向の奴かと思っていたのですが、 そうではないのですね。 ちょっとすねてる感じなのですね。 「自分たちは古い人間で、新しい(立憲主義みたいな?)制度になじまない社会の癌なので、こういうやつらが日本を出てアジアかアフリカのどこかを占領して「癌社会」をつくろう」……というブラックに可笑しい説なのでした。(占領される方はたまらん!!)
ということはつまり、 まだこの頃の侵略主義者は、自分たちが「社会の癌」だという自覚する知性をもっていたのですね。 「五国共和」みたいなことをいう厚顔さとは遠かったんですね。
■それからの兆民
さて
兆民先生は、論客として人気があっただけでなく、民権運動もがんばり、人望があった��伊藤の企みによる欽定憲法ができて国会が開設されると、みんなに推されて国会議員に立候補し、圧倒的な得票で当選。 初めての国会で、あれやこれやと、国民の代表の意見が尊重されるような仕組みを作ろうとするが、どれもこれも阻まれ、とうとう絶望して「アル中だから」と、辞職してしまう。
うーん。
やっぱ残念。
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kuribayashisachi · 9 months
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勉強メモ 野口良平『幕末的思考』第3部「公私」 第1章 再び見いだされた感覚──第三のミッシングリンク1~4 ①
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明治10年代のはじめ。 西郷隆盛が西南の役で敗死。 つづいて木戸孝允が病死し、大久保が暗殺され、 「明治の三傑」が一度に消えてしまう。
日本列島はいまだ混乱の中。 後を継いだ次世代政局担当者たちはどうしたか。
この章では、大久保の跡継ぎ、①伊藤博文の大車輪の仕事を追い、 また、この政府のやり方に対して、思想家たちはどう対抗したか、 ②中江兆民と③福沢諭吉の格闘をたどる。
1章まるごとサクッとまとめたかったのですが、どうしても面白かったことをちまちま書きたくなってしまうので、①②③を分けて書きます。
いつもながら、私の学習したところをメモしているものなので、理解を間違ってるところもいっぱいと思います。 ぜひ、一緒に読んでくれる方があるとうれしいです~~!!
①伊藤博文の工学
著者は、伊藤やそのブレーンである井上毅の仕事を「工学」とよぶ。
どんな世を作るべきか、そのためにどのような根拠でどんなルールが必要なのか、という精神の働き、思想とは別物だからだ。
伊藤の考えは、方法というか手段というか作戦だ。
伊藤博文のことを熱意を込めて描く物語作家はあまりいないと思う。
おもしろいのは、精神史を辿る著者が、伊藤の仕事の結末を批判してはいるのだが、着実な実務家であった彼の仕事を、まるで側で見ている親友のように細やかに追っていることだ。
この節を読んでいて、 NHK大河ドラマ「花神」(1977年)で、長州の志士たちが外国大使館に忍び込んで、みんなは放火してぱーっと逃げちゃうのに、尾藤イサオの伊藤俊輔だけが戻って、ちゃんと火がついたかどうか確かめて(放火なんだけど)ふーふーしてから逃げる……シーンを思い出してしまった。 ナレーションで「師の松陰が、俊介は理屈はダメだが、細かいことをきちんとする性格だ、といっていた」というようなことを言う。
うん、こういう人はいてくれないと困る。
***
伊藤は、一刻も早く、日本列島の混乱をまとめ、欧米列強国から一人前の国家と認められる国を作らなくては、と痛切に考えていた。
三傑のことも、伊藤たちのことも、排除された人々は認めていない。 そういう人たちの多くが参加している民権運動は、もはや弾圧するだけでは静まらないし、憲法や国会がないのは近代国家としてまずい。
一番早く、確実に、目的を遂げるためにはどうすればいいか。
伊藤は、「いまの国民には、こういう高度な法律作りは無理!」 と判断し、とりあえず急いでエリートだけでやってしまおうと考えた。 エリートだけで憲法を作成してしまい、それを天皇の名でもって、人民に上から授け与える、というやり方だ。
伊藤は、自ら3度目のヨーロッパ留学を果たして、プロイセンの憲法作りを習得する。(すごいんだよね) そして、イギリス流の立憲君主制を見習おうという大隈重信を「政変」で追い落とし、どんどん仕事を進める。
もう一つ、秘密憲法作りと平行して、伊藤たちの進めたのが、「市民宗教」を国民に浸透させること。欧米でキリスト教信仰がいかに人々の頭と心を統制しているかに、彼らは目を見張っていた。 (アメリカとかの裁判で、裁判とかいう「法」や「制度」の場なのに、聖書に手を当てて宣誓する場面とかニュースで見ると、ちょっとびっくりしませんか?)
日本の市民宗教の神様は、「天皇」だ。
これを、教育の力を使って、子供の頃から「あたりまえのこと」として教え込むのだ。
そういうわけで、欽定憲法からまもなく「教育勅語」が発布される。どんな国民に育ってほしいか、「天皇の大事なお言葉」をしろしめし、全国の学校に天皇の真影を配る。
この伊藤たちのやり方を、著者は、思想家、久野収が中世の仏教体制になぞらえて呼んだ「顕密体制」という名で呼んでいる。
【密】「本当のことを知って政治をちゃんと仕切る一部エリート」と
【顕】「国民意識をもって、上の決めたことに従う一般国民」。 「きみたちみんな国民なのだから、天皇のもと、力を合わせて強い日本帝国を作ろうね、バンザーイ」と。
で結局、この「いまは急ぐから」と、伊藤たちがとった方法が、 いつのまにか「いまは」という条件が忘れられ、 「そりゃおかしいぜ! あんたらいったいなんで官軍になったんだ?」 と抵抗する声が、だんだんに聞こえなくなったことで、大日本帝国はとんでもない国家へと育ち、自国民のみならず、隣国、アジアの人々を地獄に突き落とす……のだ。
だが、伊藤はそこまで予想はしていなかっただろうと、著者は言う。
***
いっぽう、「これではおかしい!」「国」のあるべき姿を考えた人々もいた。
著者は、多くの同時代人に訴えかけた中江兆民『三酔人経綸問題』と、晩年の福沢諭吉(死後に新聞掲載)による「瘠我慢の説」をたどる。
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kuribayashisachi · 11 months
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勉強メモ 野口良平『幕末的思考』 第2部「内戦」 第四章「未成の第二極」1~3 細かいメモ
野口良平『幕末的思考』みすず書房 第2部「内戦」第4章「未成の第二極」1~3 
きのう大まかに書いたことの、さらに書き留めておきたい細かいことどもをメモします。
【目次】
■中江兆民とルソー
■西郷に希望を託した若者たち
■会津藩士たち
■増田栄太郎と福沢諭吉
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■中江兆民とルソー
 中江兆民は、大久保に直談判して(司馬遼太郎『翔ぶが如く』で、中江青年が大久保の馬車を追いかけて、乗せてもらいながら売り込みをするシーン、印象的ですね。なんか、長い小説の中に、二回くらい、この同じシーンが出てきたような)岩倉使節団に随行する留学生としてフランスに学ぶ。
 ルソーの『社会契約論』に目を拓かれ、これを訳して日本に紹介するが……
まず、ルソーの思想とは。
ルソーの最初の著書『人間不平等起源論』では、「すべての人間が本来平等である」という。
我々をつないでいる身分制度の鎖を解き放て! と。
(高校生の時、これを聞いてときめいた。平等だったのか! しらんかった! 生まれつき高級な人と、わたしのようなどうしようもないのがいて、そういうことは運命的に決められているのだと思っていた! 民主主義の時代に生きてる私でさえそう思うのに、身分制度の時代に生まれてそんなことを考えたルソーって天才だ! と。うれしかった。平等なんだ!! わーいと思った)
だけど、どうだろう。どこまでも自由だとしたら、力が強かったり悪知恵が働いて良心のかけらもない人が、気の弱い人や体の弱い人を押しのけて、奴隷にしたり餌食にしたりするのも自由、ってことになる。そしたら弱い者には勝ち目のない地獄になる(今の日本のようですね)。
 この状態を、ホッブスは「自然状態」といって指摘した。
『人間不平等起源論』の七年後、ルソーはこれに答えるべく?『社会契約論』を書く。
強くて悪い者が好き放題する自由は、やっぱ困る。
で、こうまとめたそうだ。p176
《人間は、ルール(鎖)なしには自分を自由にする力を持たない。ルールには、正当化しうるもの(鎖)と、そうでないものとがある。》
その正当化しうる鎖とは、力ではなく約束。(じーん)
《正当化しうるルールの源泉とは、各人が自己保存と自己への顧慮を手放すことなしに、すべての人と利益を共有しうる結社の創設への合意(convention)すなわち「社会契約」である。》
しかし、難問が!
「えー。おれ強くて頭いいいから、好き放題してても困らない。ルールなんか従いたくないんだけど。自由がいい」という横暴な人たち(往々にして世の中の主流になる)を、どうやって約束の席につかせうるか。
ルソーは「立法者」というスーパーマンの存在を考え出して、この人になんとかさせようとしている。
中江も自分で考えた。
やっぱり答えは出ないけど、
徳が高くて強い立法者と、その補佐役がいたらいい!
とこのとき考えたそうだ。
そして、この立法者が西郷さんで、補佐役がオレ!
でも、中江の「フランスすばらしい!」は、航海中のベトナムでかげる。人権に目覚めたはずのフランス人が、ベトナム人に酷いあしらいをしている!
「人権を考え出したのはヨーロッパ人だが、実行するのはアジア人だ!」
しかしさあ、どうやって実現する? (むずい)
■西郷に希望を托した若者たち。
大久保たちの裏技を使ったやり方に敗れ、野に降った西郷。 (私としては、やめんでほしかった)
大久保たちのごり押し近代化(武士の禄を奪い、藩をなくし、誇りだった刀を強制的にやめさせ……)に異議申し立てせんという旧士族たちが、方々で叛乱を起こす。
(江藤新平のことももう少し知りたいなあ)
西郷は、慕ってきた子分たちと共に鹿児島で私学校を開いていた。
西郷自身は、ことを起こすことに対して慎重だったようだけど、 結局、大軍を率いて、東京へ押しかけ政府のやり方をあらためさせようと「挙兵」。
鹿児島を出発。
でも熊本で負けてしまい……。 明治10年9月、よくドラマに出てくる最期をとげる。
この節で、私が胸を衝かれたのは、
中江兆民世代の、ほんとに有望な人(小倉処平、宮崎八郎)、 迷える青年(増田栄太郎)らの戦死だ。
小倉処平は、 日向飫肥藩の仲間たちをひきいて西郷軍に参じた人望ある人。 かつては藩主に留学制度を進言し、選抜した青年たちを率いて長崎に学ぶ。のちロンドンにも留学。《英国仕込みの自由主義者であり、中央政府による急進的な近代化とは異なる、もう一つの近代化の可能性を探っていた人物だった。》p183 (滂沱)
宮崎八郎は、熊本荒尾村の庄屋の次男(実質長男)。 《人民の擁護者を任じる家風の中で育てられた》p179 (中岡慎太郎みたいね)
八郎は、はじめは、列強の理不尽への怒りや、政府の強引さへの不満から、征韓論に熱中し、征台義勇軍を組織するなど、物騒な感じだったが、中江訳『社会契約論』に目を拓かれる。
それがどうして、西郷の武装蜂起に参加?
→「キミの考えは西郷とは違うじゃないか、どうして西郷軍へ?」と聞かれて、 「西郷を助けて政府を倒してから、西郷を倒すんじゃ」 (西郷軍に身を投じた若者には、こういう人が多かったようだ)
けれどもどちらもならぬまま、戦死。
その克明な日記は、預かった人が川の徒渉に失敗して永遠に喪失してしまったと。 ……このシーン、小説のよう。 川の畔に立ち尽くしたような気持ちに。
■会津藩士たち
また、西郷軍を熊本で果敢に防いだ政府軍には、多くの有能な旧会津藩士が加わっていたことも記される。
極寒不毛の斗南藩へ送られたのち、一族を率いて新政府の警視庁に出仕した、元会津藩家老の佐川官兵衛は、阿蘇山麓で戦死。(呆然)
同じく元家老の山川浩は、西郷軍に囲まれた熊本城を後巻きして救出する。
いっぽうで、同じく会津藩士だった長岡久茂は、政府打倒を試みて、獄死していた。
両極に別れたように見える彼らの行動を 著者は、「同じ動機」によるものと記す。
《彼らが目指していたのは(略)──戊辰戦争が勝者のため��けに戦われたものではなかったことを自力で証明してみせることだった。》p179
■増田栄太郎と福沢諭吉
増田栄太郎は、福沢の又従兄弟にあたるという。
増田は遅れてきた攘夷青年。それだけに、「攘夷に落とし前をつけなくていいのか」という答えを求めていた。 殺してやろうと思っていた福沢から「敵である列強の良いところを学べ」といわれて、一時は慶応大学にはいるが、すぐに退学。郷里で結社を作ったり、新聞を発行したりする。 これらの手当たり次第のような闇雲なガッツは、《内心の葛藤の受け皿を手探りで構想する作業だった。》p186
(個人的には激しく共感;; むしろ出来ブツの小倉処平さんより。ああ、この人、もっと長く生きていればなあ、生き方は見つかったに違いないのに)
そんな「迷走」のさなか、増田栄太郎は、西郷軍が田原坂で敗退してから、わざわざ敗軍の鹿児島勢に加わる。
何を思って?
その死には諸説あるが、曙新聞は「不敵な笑いを浮かべて処刑された」と報じた。 最期に披瀝したといわれる増田の言葉は、「西郷先生バンザーイ」というかんじのもの。 探していた思想はどこへ……。(余計に悲しい)
西郷の死と、救えなかった増田の刑死報道に衝撃を受けた福沢諭吉は、『丁丑公論』を窃かに書く。 西郷の敗北ののち、世論がいっきに「西郷=賊」視したことへの激しい疑問から。
福沢は言う。
政府が専横になることは仕方ないことだが、あまり野放しにするととんでもないことに。これを防ぐためにも抵抗は必要だ。と。
かつて『文明論之概略』で、“難題を抱えていながらそれで乱れない(戦争したりしない)のが文明というものだ”と喝破した福沢だが、この文明論は、何の役にも立たなかった。
西郷の死は、福沢の思想に深みを与えたと、著者は言う。
これまでの『学問のすすめ』『文明論之概略』では、 眠���から覚めている自分が、眠りこけているみんな(愚民)へ呼びかけていた。
『丁丑公論』では、 眠りから覚めるのが「速かった人」と「遅い人」の差があるだけだと、福沢は気付く。
このことに福沢は
《おそらくサイゴンの中江篤介よりも、城山の増田栄太郎よりも、遅れて気づいたのである。》p189
心がどよめいた。
どうしてだろう。
すっきりしたような、著者の福沢評にようやく合点がいった、ような。
いやちがう。 利口者の福沢の真摯な“愕然"が胸を打ってくる。
利口で視野が広いがために、低い苦しみの地平からものがみえなかった。 凡百の利口者なら死ぬまでそれに気づかないだろう。
だがやっぱり福沢は本物だったのだ。
私はまことに直感的に、福沢は信用できなかった。 なんだってこう上から目線なのか。何を持って自分は上から見てるつもりになっているのか。と。
でも、福沢も、その不思議な「特権階級」にあぐらをかくような人ではなかったのだ。
西郷の死と、フラフラしているかに見えた若い増田の問い掛けを、心と頭脳を駆動して受けとめたのだ。
そこを(これまで福沢をすごくひいき?にしてるように見えた)著者にとかれて、
こういう利口者が、真摯にがっくり「膝を折った」音に、心を叩かれたのかもしれない。
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kuribayashisachi · 11 months
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勉強メモ 野口良平『幕末的思考』 第2部「内戦」第4章「未成の第二極」 1~3
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野口良平『幕末的思考』 第2部「内戦」 第4章「未成の第二極」1~3
欧米列強に倣って近代化を進める大久保たち新政府スタッフと、 急激な変化で「取り残される人々を出してはいけない」とする西郷。
政府を離れた西郷は、新政府のやり方に不満、疑問をもつ者たちの旗印となり、武装蜂起へ。そして鎮圧されてしまう。 世に言う「西南の役」だ。
この本のこの章を読んで、「西南の役」観ががらっと変わった。
西南の役のことは、“武力をふるうしか方法を知らない、時代遅れの人たちの自殺行為"のように語られることがある。 私も「まーそうなんじゃないのかな、いかんよな軍隊とかサムライは」と思っていたのだ。
読み込んだあまたの史料を並べることで歴史を物語る著者が、珍しく、時代への思いを記した2行にでくわす。
《専制への抵抗を西郷が武力で行ったことには賛成できないが、西郷が「国民抵抗の精神」を発揮してその気脈を保たせようとしたことのなかには、今の世の中に失われつつある大事な契機が宿っている。》p188
西郷はいろんな可能性を秘めていた存在だったのだ。
「幕末の志士」になり遅れた、新世代(1850年前後生まれ)の若者たちは、西郷に時代の難題をとく鍵を見いだし、駆け寄った。
その代表として、兆民中江篤介の思想の足跡と、 彼が倣おうとしたルソーの「社会契約論」の希望と限界を、 著者の筆は克明に追う。
そして、中江訳のルソーに感化された同世代の若者たちが、西郷軍に義勇兵として加わった、その思いをたどっている。
小倉処平、宮崎八郎など、何とも惜しい人物の横死に絶句してしまう。 また、時代の迷いを我が身で背負って迷走したかのような増田栄太郎の短い人生。 新聞で報道されたその最後の有様は(本当かどうかは不明だが)やりきれない。長く生きたらどんな答えを見つけたろう。
さらに、この増田栄太郎のずっと年上の又従兄弟、あの、何もかもわかったような顔をしてる(というのは私の感想)上から目線の福沢諭吉が、西郷の死と、増田の問いかけ、そして世論が一いっせいに西郷を賊呼ばわりしたことをうけて、変わったこと。
ここの箇所にはすごく打たれた。どうしてどんなふうに打たれたのか、説明がちょっと入り組んでしまいそうだ。
細かい備忘録はまた明日…… (やっぱり書き留めておきたくて長くなってしまうなあ)
以下、
■中江兆民とルソー ■西郷に希望を託した若者たち ■会津藩士たち ■増田栄太郎と福沢諭吉
という感じでメモしてゆきます。
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kuribayashisachi · 11 months
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勉強メモ 野口良平『幕末的思考』 第2部「内線」 第3章「一八七三年のアポリア」1~3
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理不尽なやり方で幕府を倒した新政府は、急いで自分たちの正統性を証明しなくてはならなかった。
そんな新政府内で、分裂が起こる。
きっかけは……
◆ 岩倉欧米使節団の12カ国視察
明治4(1871)年11月~岩倉具視・大久保利通・木戸孝允・伊藤博文ら、新政府の主要メンバーが、ごっそり、しかも1年10ヵ月も欧米諸国を視察巡回。
この旅で使節団は合点する
欧米と自分たちの力の差のあまりの大きさ
国際法である「万国公法」は弱者を助ける法ではない、日本と同じ新興国、プロシア(ビスマルク)のゴリゴリのやり方に、希望がありそうだ
国家をまとめるには宗教の力が大きい。キリスト教はあらゆる考えの基本。これに相当するものを、日本にも根を張らせなければ! → 天皇の利用。顕密2分法 《国民には、天皇を信仰の対象と見せる。「陛下バンザーイ」  列強とエリートには、イギリスのような「立憲君主制」として天皇制を据える
◆留守政府の奮闘と混乱の中で……西郷隆盛のチャレンジと���折
留守を守った新政府メンバーは、 西郷隆盛・三条実美(太政大臣)・井上馨・山県有朋・板垣退助・後藤象二郎・江藤新平・大隈重信・大木喬任
ビシビシ厳しい態度でたくさんの仕事をした →・学制発布 ・地租改正 ・徴兵制(げっ) ・司法制度確立 ・えた非人の呼称廃止 ・仇討ち禁止 ・キリスト教禁止を廃止 ・鉄道 ・太陽暦 ・マリアルーズ号事件をうけて娼妓解放令
だが、旧武士や庶民の生活を直撃するものも多く、取り残される人々が……。このありさまに、西郷隆盛は心を痛めてゆく。
そんななか、留守政府は、朝鮮王朝ともめごとをおこす。 1873(明治6)年、朝鮮半島にあった日本の出先機関、「草梁倭館」(対馬藩が管轄)をムリヤリ廃止して、日本政府外務省が管轄する「大日本公館」にしてしまう。
↓ 一方的なやり方に、朝鮮政府は反発 ↓
板垣退助たちは「そんならペリーみたく、軍隊つきの使節を派遣して脅しちゃおうぜ!」 ↓ 西郷「そりゃいけん!」 板垣と三条実美たちを説得。
西郷の考え: 「日本はアジア諸国と連携して近代化をとげ、欧米列強に対峙すべし」
「欧米は、文明国と言いながら、小国に対しては野獣のような振る舞いだ! こんなやり方をまねしてはいけん!」
(えーそうだったの!?)
朝鮮には、軍隊も軍艦も率いずに、西郷が丸腰で交渉にでむく(西郷丸腰派遣)ことに決まる ↓ 帰国していた大久保・岩倉は、西郷に押し切られて了解するが……若い天皇に手を回したりして、西郷の派遣をやめさせてしまう。 ↓
西郷、ゼツボーして政府を去る (えーっ、ちょっとまってよ、やめないで無責任でしょ~~! 朝鮮はどうなるの!! 江華島事件止めてほしかった!! ……でも西郷さん一人では無理か……)
◆在野で考えた人たち
明治六年に、政府と在野の知識人たちが結成した明六社のチャレンジが紹介される。
森有礼、福沢諭吉、加藤弘之、津田真道、西周、中村正直ら
身分や序列による「命令!」ではなく、 すべての者が対等な立場で、 反対意見を尊重し、意見を交換することで妥協点を見いだし、 混乱を切り開いてゆくやり方を築こうと。
累計156もの論文が掲載され、毎号平均3200部(す、すごい!)も売れたが……
早くも2年後には、大久保政権の打ち出した、言論の自由を弾圧する法「讒謗律」「新聞紙条例」をめぐって、意見が対立 (「学問は政治に口出しすべきでない」という森と「知識をひろめようという人間が政治のことに関わるな、というのは無理な話だ」という福沢と)。解散してしまう。明治8年11月14日。
この10日後、森有礼は、政府の役人として江華島事件(やっちまったか~!)の処理のため、朝鮮へ。
◆福沢諭吉『文明論之概略』(明治八年八月刊)
明六社は短命だったが、その試みの可能性は、福沢の著『文明論之概略』に盛り込まれているそうだ。
いま、混乱の根にあるのは、
《立国の目標としての“文明とは何か”をめぐる信念の対立である》。p163
では、文明とは……
《文明とは、信念の対立を武力によらない仕方で受け止める精神(人民の気風と化した知徳)のことであり、かつそのような精神の発達過程のことである。》p163-4
だったら、と福沢はいう。
今の欧米のやり方は、すぐに戦争で片をつけようとする。 こんな彼らはいつまでも「文明」のトップではいないだろう。
人間が殺し合いになだれ込んでしまうのは、
難題に立ち向かう耐性の欠如ゆえ。
《時代の転換期を生きる人間が、その生き方のうちにアポリアを抱え込まざるをえなくなるという経験は、一つの僥倖でありうる》 という考えを、福沢はこの本の「緒言」で述べているそうだ。
これは、著者の求めるところであるかもしれない。 「何が正しいか」を探ろうとしているのでなく、いろいろな正義が湧き上がるとき、どのようにまとまって暮らしやすい社会を作るか、と。
これはハッだな。
◆メタフィジカルクラブ
ちょうど明六社ができたころ、 アメリカでは8人のエリート青年が「メタフィジカルクラブ」というのを結成。
意見の対立から悲惨な南北戦争を起こしたことへの反省、知識人としてそれを止められなかった上の世代への皮肉から、意見の対立を乗り越える知恵を探求。「プラグマティズム」を提唱した。
プラグマティズムとは……
《異なる信念をもつ者同士が衝突しつつ、そのいっぽうで妥協の道を探る道を探る思考法》p162
《いかなる信念の意味もそれを行動に移した際の帰結を思い描くことで明らかにしうるという考え方》p163
高校の倫社の授業の「プラグマティズム」のところで、とてもドキドキして、心が晴れるようだった、のを思い出した。
著者にはルイ・メナンド『メタフィジカル・クラブ 米国100年の精神史』みすず書房、という共訳書もある。おもしろそう。
◆印象
西郷の思想に、そうだったのか!!
朝鮮を侵略するために、鉄砲弾になりに行こうとしたのかと思っていた。
他の著者が書いたなら「また~。西郷さん人気だからな、いいもんキャラにしてるんでしょ」と思ったと思うが、ちゃんと史料をたどって、西郷の思いの軌跡を辿っているので説得される。
あと、三条実美ってどういう人だったのだろう。
この本を読むまでの理解では、
“朝鮮を攻めたがる西郷たちと、戦争を始めないために西郷にストップを書けた大久保の板挟みになって、発狂した……なんて気の毒な、と思い、しかし、「これはもう手に追えない」と判断して発狂を演じたのかな、したたかかだね!と思ったりした。
この章もまた、1行ごとに発見でたいへんでした。
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kuribayashisachi · 1 year
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勉強メモ 野口良平『幕末的思考』みすず書房 第2部 第2章 勝者の思考と敗者の思考
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尊皇攘夷を掲げて、幕府方をたたきのめした新政府。 嘘っぱちと理不尽な犠牲者の屍の上に、どんな良い国を作るのか。
◆顕密二分法
新政府は「尊皇攘夷」のはずだから、これから攘夷をはじめるはずだと、人々は思っている。 政権を取るために、幕府方を賊呼ばわりしたことも見ている。 「賊」呼ばわりされ、殺され故郷を追われ路頭に迷う人もたくさん。
「人々に納得のいく説明をしなくてはいかん!」 と考え提言する新政府人もいた。(岩倉具視、加藤弘蔵(弘之))
だが新政府(大久保利通・西郷隆盛・木戸孝允・岩倉具視(あれ?))スタッフがやったのは、 近代国家を整え、富国強兵して急いで欧米諸国に肩を並べ、不平等条約を改正させようということ。
そのために、また方便をつかった。
顕密二分法(久野収先生が名付けたそうだ)。 【顕】=一般大衆には、天皇を信仰をさせ(「日本国民」を意識させた、ってことかな?)て、情報も知識も与えず、 【密】=指導者層だけでいろんなことを取り決めてしまう。
たとえば、最初は、「新政府になったら年貢が半減だぞ!」と相楽総三たちに宣伝させて民衆に協力させ、実はそんなことできないので、あとから相楽総三を「偽官軍」呼ばわりして殺してしまったのも、このやり方みたいだ(ちがうのかなこれは?)。
◆岩倉具視
永井路子『岩倉具視 言葉の皮を剥きながら』では、戊辰戦争のあと、岩倉は大して活躍してない、としているが……。
『幕末的思考』では、岩倉具視は、 「天下の人々は『これから新政府が攘夷をするはずだ』と思ってる。ちゃんと説明せねば」と具申していたという(「会計外交等ノ條々意見」)。
また、岩倉は、訪ねてきた薩摩の中村半次郎(桐野利秋)に 「で、いつ攘夷をはじめるのじゃ?」と聞いたそうだ。 そしたら中村が 「あなたはそんなこと言わない方がいい」と答えたので、 中村と一緒に来ていた有馬純雄(近藤勇の処刑に反対したんですって)が驚いて、あとで西郷どんにきいたら、
西郷は「ん~。あれは方便といふものぢゃ」と、答えたとか。 (「西郷わるい!」と私は思ったけど、著者は西郷どんにやさしい。その評価のわけは、次の章でじわじわわかる)
そういう岩倉なのに、なぜか次の場面では、大久保や木戸と一緒に【密】を共有する新政府スタッフになっている。
どこら辺で変わったのだろう。
◆敗者の思想
この章でいちばんゆさぶられたのは、-3の、敗者の側に立った人々のこと。
・雲井竜雄:米沢藩出身で、戦争被害を抑えるべく奔走した人
 新政府に仕えるがすぐにやめ、新政府の理不尽にあって困窮する人々を助けようと「帰順部局点検所」をつくったが、これが新政府に睨まれ、死刑になってしまう。
・会津藩士、柴五朗:その人生の最後に語り残した記録が、石光真人編『ある明治人の記録』 (えっ! 読んだことあるけど、そんな本だとぜんぜん知らずに、あさってのことばっかりノートしてた;)
・柴五朗の兄柴四朗=東海散士(え、そうだったの!?)
 会津藩士が日本を脱出し、アイルランドやスペインの独立戦争に身を投じ、女性闘士と交流したりする『佳人之奇遇』。面白そう~。
 ハイチ革命を、東海散士は熱く語っているそうだ。  ハイチが今もどうなっちゃってるかと思うと、涙も凍りつく。  しかし、どうしてこんなことになっちゃってるんだろう。
・福沢諭吉と山川健二郎(白虎隊から東大総長へ)も、体制に従う範囲内で、「敗者」の名誉を訴えたそうだ。
・西村茂樹(明六社の同人、倫理学者) 福沢たちよりももっと根本的に、 「“朝敵”とか“賊”という捉え方がおかしい。賊と言ったら無実の人を殺して泥棒する人のことだ」といった。 えらい~!
・山本覚馬:鳥羽伏見で捉えられ、失明しても獄中から新政府方に建白書を出した、会津藩士。
新政府方と幕府方と、どちらも「義」でもって闘った。義と義がぶつかるのはなぜか、論考した(のかな?……ここ未消化です)
新島八重のお兄さんなのね。
また、-1で紹介された人々、
嘘をつきっぱなしの新政府に「協力しない」態度を表明した、 玉松操(錦の旗の考案者)や、福井の殿様、松平春嶽のことも、もっと知りたい。
雲井龍雄のことをもっと知りたいなあ。
さらにいろんな人のことを知りたくなった。
2023/04/25
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kuribayashisachi · 1 year
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勉強メモ 野口良平『幕末的思考』第2部「内戦」 第1章「内戦の経験──第二のミッシングリンク」-3
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あくまで抵抗する人々、蝦夷へ
えぐいえぐい戊辰戦争。
尊皇攘夷だったはずなのに、いつのまにかするっと開国派になって、急ごしらえの「錦の御旗」でちゃっかり「官軍」になり、相手を「賊軍」呼ばわりして、江戸に攻め上った新政府軍。
将軍様が降伏し、有名な西郷と勝の話合いで「江戸開城」となっても(この本では、この場面はほとんど語られない。認めてないのだ。「開城」を批判的に見ていた福沢諭吉の言い方「解城」という言葉を、著者も使っている)
納得できない幕臣たち(彰義隊)が、上野にこもって戦った。
が、長州のアームストロング砲で叩き潰される。 (えぐっ! 大村益次郎、花神とかいっちゃっていいのかー!!)
この様子を、幕府の軍艦に乗って見ていた榎本武揚や、彰義隊を脱出した大鳥圭介(京唄子とは関係ない)たちはこの軍艦で北上する。
榎本たちは、仙台まで来て、 陸上を転戦北上してきた、新選組の生き残り土方歳三と合流。 (土方は、ただのケンカ好きではなくて、新式の軍の指揮に精通していたそうだ)
おりしも、東北の諸藩は連盟して抵抗を決めてたけど、 「降伏しよう」という意見も強かった。 東北の大藩である仙台藩もしかり。
仙台で、榎本と土方は、主戦派の人たちを激励し、 かたや降伏派をも訪問して「闘おう!」と説得する。
成り行きから言って、自分がもし仙台藩の人だったら、 「そんなこと言われてもなあ~」と思うだろうなと思ってしまった。 それだけ私というか現代人は、土方たちが負けるのを知ってるので、「無駄な抵抗~」などと無意識のうちに思ってしまうのだと思う。
だが この本のこの節で一番、胸をつかれたのがこの場面だったのだ。
著者は、土方歳三を評価している。 学問の人は、だいたい「新選組」をアタマ悪い人たちとみて、馬鹿にする向きがあると思うので、前章での近藤勇への評価に加え、ちょっと驚いた。
仙台藩の「勤王恭順論者」大条孫三郎・遠藤文七郎という人に、榎本と土方は説く。
榎本「今の新政府は正しい勤王じゃありません! 薩長の策士が方便でこしらえたものですっ」
土方「利・不利の問題ではない。薩長のやり口は不正義。貴藩はそんな奴らに味方するのですか、それでいいのですか」
二人は説得されなかったが、遠藤文七郎はあとで 榎本を「胆気愛すべき、しかれども順逆をしらず」と好意的に評した。 だが、土方のことは 「斗筲の小人、論ずるに足りず」(ちんけな小者がうぜーよな) と吐き捨てたとか。
土方が京でやらかした人殺しや、仲間内の粛清を思うと、そういう評価は仕方ないように、私には思えた。
だが、
“土方が説いたのは節義”だと、著者は言う。
《ここで土方が問うていたのは、それなしにはルール自体が存在しえないルールの源泉をどうかんがえるか、ということだったろう。》 p126
え、なに? 
《それなしにはルール自体が存在しえないルールの源泉》?
立ち止まって何度か反芻する。
《ルールの源泉》 そうだ。自然にしてたら人間の群れは、弱肉強食し放題になる。でも、「そんなの悲惨だ、いい社会じゃない」 そう考えて、人間は「ルール」をつくったんだ。 「どんな手を使っても、勝てば正解じゃん」という考えにノーという心だ。
じーん。
土方はやっぱりあんまり好きじゃないけど(私の好みはどうでもいい)、著者のぶれない理非の考えが、「新選組」を再発見したことに揺さぶられた。
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kuribayashisachi · 1 year
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勉強メモ 野口良平『幕末的思考』第2部「内線」 第1章「内線の経験──第二のミッシングリンク」-2の後半
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野口良平『幕末的思考』 第2部「内線」 第1章「内線の経験──第二のミッシングリンク」-2,3
新政府軍VS幕府軍 の戊辰戦争。 西から迫り来る「官軍」
新政府軍の西郷どんと幕府の勝海舟の話合いで、江戸城は「無血開城」され(著者は、福沢諭吉の言葉を引いて「解城」という語をもちいる)、徳川慶喜は「恭順の意」を示して降伏。
京都で幕府を支えてきた(とても危険で不利な任務なのに、徳川慶喜に頼まれて引き受けた)会津藩は、武備はしつつ恭順の姿勢でことにのぞむ。
東北の大藩である仙台藩・米沢藩は、会津を救おうと、新政府方を説得してなんとか和平を扱おうとしたが、 薩長「新政府」軍は、「会津と庄内藩はゼッタイ叩き潰す!!」
ひどいー!!💢💢💢
だけど、こんな人たちもいたのだ! 彼らの必死の奔走を記した-2に、感動。
■ 戦争回避に努力した人々
 ほんとにたくさん、立派な人がいたのだ……。  あまりドラマとかに出てこない人たち。
 ●米沢藩士の宮島誠一郎と若い雲井龍雄(小島龍三郎)
 列藩同盟内での「平等」を実現(大藩である「米沢・仙台藩に小藩がしたがえ」という規約を改正させた。えらいなあ! よくそんなことを主張して実現させたなあ)
 この二人は、京都で新政府の参与、広沢真臣(長州人)と会って、和平をはかる。
 雲井龍雄は、何だったかの大河ドラマに「処刑」されてしまうシーンが出てきたので、その悲運を知っていた。  宮島は? 辞書を引いてみたら、明治政府で活躍していたので少しほっとした。
 雲井は宮島よりずっと若い。なんと20代で斃死してるのね。おいたわしや……。  二人の命運をわけたのはどんないきさつだったのか。
 ●仙台藩士、玉蟲左大夫
 ……この人、なんて面白いんだろう!!
 かつて勝海舟たちと(アメリカへゆき、平等な社会へのみずみずしい驚きをしるしていた人。
 その帰国後、製塩所建設や内外の事情調査に従事。 来たるべき世について、理想を書き記しているそうだ。 「理想の前に会津も長州もない」(『夢晤』)と。
《徳川にも薩長にも与せず、天皇を政治に巻き込まず、合議政体の確立により非戦の可能性をさぐりつづけること》本書p121
 が、玉蟲のたどり着いた理念だった。  列藩同盟の会議に、彼は政府としての機構設備を推進し、  ・公議所  ・軍務局   などを整えた。
 そして玉蟲は、仙台藩の使いとして、会津へ降伏をすすめにゆく。  だが戦争回避は実らず……。とだけ、本書には書いてあったので、この後、玉蟲はどんな活躍をしたのだろう、と、人名辞典で調べたら……うそでしょーっっ!!  ショックで呆然とする。  みごとな人物ばかり、明治前夜にたおれてゆく。
 ●会津藩士、山本覚馬
 鳥羽伏見の戦いで、薩長に捉えられ獄中に。失明にもかかわらず、
・新政府の青写真(三権分立のほか22項目)を描いて、薩長に提出。 ・万国公法(欧米列強の奉ずる国際法)を紹介して会津・桑名藩の救解を訴える。
 山本覚馬は、藩の任務として、京で諸藩の開明的な知識を持つ人々と交流していた。  この人は、この後どうなったのだろう……  辞書で見たら……同志社大学を作ったのね。よかった。新島八重の兄さんでしたか。
 ●長岡藩家老、河井継之助
 幕府の瓦解をみると、テキパキと藩政を改革し、武装中立を宣言。  だが、新政府軍と談判するも「中立」は認められず。長岡藩は、会津藩たち「奥羽列藩同盟」に加わった。  新政府軍に果敢に抵抗するが……
 
■ 新政府軍の侵攻はつづき……
 慶応4(1868)年  7月23日 会津若松に新政府軍侵入(藩士一族市民に多大な犠牲)       鶴ヶ城、包囲さる。
 7月29日 二本松城陥落
 7月29日 長岡藩、新潟港と長岡城      (一度は長岡藩軍が取り返していた)新政府軍にとられる
 9月4日  米沢藩降伏
(9月8日 慶応4年、明治1年となる) (9月13日 「明治天皇」、東京へ)
 9月15日 仙台藩降伏
 9月22日 会津藩、鶴ヶ城を開け、降伏
 9月23日 庄内藩降伏
 10月9日 盛岡藩降伏
無念じゃああああああ!!
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kuribayashisachi · 1 year
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勉強メモ 野口良平『幕末的思考』 第2部 内線 第1章 内線の経験──第二のミッシングリンク-1
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第1章「内線の経験──第二のミッシングリンク」-1、-2の半分
■戊辰戦争──失われてゆく可能性
新政府軍VS幕府軍 の戊辰戦争は、理念でも正義でもなく、欲と欲の争い。
どちらも、お互いに相手を「賊」と思っていて、それはお��い様だとわかっていた。 「自分の方が正義だ」と信じてたわけではないし、お互い目指すところは一つなので、「薩長からも幕臣方からも、有能な人材をだして一緒に新しい政治機構を作る」 という選択肢もあり得たはずだった。
だが、その可能性と「お互い様」を、「錦の旗」は見えなくしてしまう。目端が効いて軍事力が強いだけの新政府軍が、「官軍」(正義)を名乗って、押し切ってしまった。
戊辰戦争の中で、こうした不正義への"抵抗の思想"が芽生えてくる。
(文中にあった「錦旗と日の丸の戦い」というのはちょっと意味がわからなかった。日の丸=徳川???なのかな)
■マニュフェストの提示
政府軍も幕府方も、どちらも、 欧米列強から「正当な新政権だ」と認めてもらわねばならなかったし、 民衆からも「まっとうな政権者だ」と認めてもらわねばならなかった。
「ちゃんとした政府」だと示すために、マニュフェストの提示が必要になる。
【新政府のマニュフェスト】  =五箇条の御誓文   福井藩士、由利公正(三岡八郎)が初めに起草    ・管理の任期制    ・専制はダメ(万機公論に決し、わたくしに論ずなかれ)
  が↓   長州の木戸孝允、土佐の福岡孝弟(たかちか)による修正    ・ドクサイができちゃうかもしれない文言にかわる。
【幕府方は……】  まだそれどころじゃない……    → 徳川慶喜は、さっさと降伏  → 会津藩(京都で幕府を支え、新選組の親方だったので薩長に恨まれてしまった)は「武備はしつつ恭順」の姿勢。  
 →東北の大藩仙台藩・米沢藩は、新政府方を説得しなんとか和平へ  →だが薩長新政府軍は「ダメ!会津と庄内藩は叩き潰す!!」   (ナニサマ💢?)  ↓  奥羽諸藩(仙台藩・米沢藩がリーダー)が集まり、重役会議  奥羽列藩同盟ができる (長岡藩も加わり、奥羽越列藩同盟に)  ここへきてようやく  彼らも、方針・理念を提示する  ↓ 【奥羽越列藩同盟のマニュフェスト=修正盟約書】
 ・大義を天下に伸ぶるをもって目的とす  ・信をもって属し、義を持って動くべし  ・強いからって弱い者を押しのけてはならない   (最初は「小藩は大藩の意向に従うこと」と決められてた)  ・自分の利益や都合を優先しない  ・みだりに百姓に労役を課さない  ・無辜の民を殺したり、金穀を奪ってはいけない
(なんか感動してしまう。  織田信長の口にこの盟約書をねじ込んでやりたい)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 現代の私たちは、「新しい時代がくるためにそういう戦争があった」みたいにスルーしがちだけれど、この戊辰戦争というのは、本当に新政府方がエグいのですね。
「叩き潰してやる! おまえらなんかいれてやんないもんね!」 と、新政府が襲いかかったのはなぜなのか。いじめか。 幕府方に有能な人が多いので、分け前が減るのが怖かったのかしら(枝野さんが山本太郎さんを恐れたのと同じ心?)
そして、「旧式で弱い」かにおもわれた奥羽列藩軍は、ものすごく抵抗し、かなり強かったのですね。 やっぱり「負けるわけにはいかな」かったのだな。
でもやっぱり、戦争はなんとしても避けたい。 近現代の歴史では、国が市民を戦争に巻き込むとき 「仕掛けてきたのはあっちだ、これは国を守る戦争だ、戦わないなんて卑怯だぞ」 という論法をとり、そのさいに会津白虎隊の犠牲なんかが褒め称えられたりして使われがちだから、紛らわしくてイヤだ。
でも「抵抗」の思想を著者が支持(というか「一蹴しない」)のは、共感できる。 とはいえやっぱり、戦争を回避しようとした人がいたと、次の-2で知って、ほっとした。
あー結局、1節ベタ記録になってしまった。。。頭わる;
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kuribayashisachi · 1 year
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小栗忠順と近藤勇の刑死 読書メモ 野口良平『幕末的思考』第1部第5章-5から
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「官軍」が「幕府方」を“倒した”「戊辰戦争」。
この渦中で「幕府方」として処刑されたのは、小栗忠順(上野介)と新撰組の近藤勇、この2人だけだという。
小栗の処刑はあまりにひどい。
小栗は、幕府を強化し、徳川主導で新しい合議制の政治体制を作ろうとしていた有能な人物だったが、「官軍」への恭順を決めた徳川慶喜に罷免されて、知行地の上州権田村へ帰って隠居生活を始めたところだった。
だのに、やってきた「官軍」の別働隊にいきなり逮捕され、尋問さえ受ける間もなく、20歳そこそこの若者の手で、翌日に処刑されてしまったのだ。
いっぽう近藤勇。
近藤勇の最期は、ドラマや小説で有名だ。 「まあ近藤はたくさん人殺しをしたし、しょうがないんじゃないか」と、新選組のファンでも思うのではないか。
だが、『幕末的思考』は、近藤勇を語り直す。 近藤勇は「草莽の志士」の一人だったというのだ。 えっ!と思ったけど、腑に落ちた。
草莽の志士というのは……、 幕末、日本列島の町々村々津々浦々で、人びとは新しい世の鼓動を聞いていた。黒船で脅してきた異国になんとか対抗しなくてはいけない。身分のある家に生まれた者しか学び意見を言う機会が与えられない世の中ではだめだ。自分たちみんなで新しい世を作ろうと考えた、そういう人たちのことだ。
近藤勇はまた、ただの人斬りのボスではない。考えもちゃんと持っていたらしい。 京都で諸藩のお偉方の集まる酒席で「薩摩や長州がやってるようなご当地攘夷ではだめだ。国を挙げてみんなで攘夷しなくては」と、近藤は意見を言ったそうだ。
そして、教養もあったのね。 辞世に残したという漢詩「七言絶句」を著者は紹介する。
《孤軍、援(たすけ)絶えて俘囚と作(な)る/顧みて君恩を念へば涙更に流る/一片の丹衷、能く節に殉ず/睢陽(すいよう)千古、是我が儔(ともがら)」
漢詩なんて詠んだのね!
睢陽(すいよう)は、案録山の乱のとき、反乱軍との戦いで籠城した張巡軍が孤立無援の中で壊滅した場所だとか。
詩中の「君恩」というのも、特定の国家とか主君とかにバンザイするのではなくて、 《草莽の初志の理解者にむけられる私情の謂いだった》という。
新撰組の旗の「誠」もしかり。 何か特定の「国家」への忠誠ではない、自分たち、身分を問わず有志で集まってきた仲間たちが共通に抱く志への誠だったと。
うーん。 こう紹介してしまうと、表面的な決めぜりふみたいで残念だ。 著者の香華の高い文は、丁寧にその論拠を解きほぐしていて説得力がある。
京都での新撰組の行いは、この志を実行したとはイマイチ言えないが……と、著者は続ける。 《鳥羽伏見以降、錦旗との戦いという試練のなかで、この隊旗はもう一つの理念性を帯びるようになった���それは大勢(=大義名分)に対する抵抗の根拠であり、さらにいえば、敗れても残る──残らねばならない──理念への忠誠という性格である。p111
ただの主導権争いなのに、「正義」を早い者勝ちでぶんどった強者たちへの、抵抗。
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kuribayashisachi · 1 year
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読書メモ 野口良平『幕末的思考』第1部「外圧」第5章「残された亀裂」-4
野口良平『幕末的思考』第一部「外圧」 第5章「残された亀裂」―4、5
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王政復古のクーデターを起こして、徹底的に幕府を叩かんとする薩長+岩倉具視たち「新政府」軍。
「官軍」VS幕府方の「戊辰戦争」は、「どんな政府を作ったらいいか」などではない。 誰が政権を取るかの、欲と欲とのぶつかり合いだった
その身も蓋もない争いの中で、相楽総三、小栗忠順、近藤勇が 「え??」というまもなくスピード処刑される。
-4は、相楽総三のこと。 相楽は、信州の村々の人たちに「新政府は年貢を半分にするぞ、いい世の中を作るから味方になれ」といって、「官軍」の露払い役をする。
だが、新政府は勤王藩の殿様たちを味方にしないといけないので、百姓たちの『年貢半減』なんて聞いてやるわけにはいかなかった。 新政府は、相楽総三が「嘘を触れ回った偽官軍」だったのだ、ということにしてさっさと処刑し、さらし首にしてしまうのだ。
ひどいー! 岩倉具視、薩長サイテー!!
と思ったが、著者の受け止めはもう少し注意深い。
当事者からの聞書を元に書かれた長谷川伸『相楽総三とその同志たち』には、相楽の同志たちが、相楽の恨みを晴らそうと、岩倉具視を訪ねるシーンが描かれているそうだ。
岩倉は逃げも隠れもせず、丸腰で、自分を斬りにきた男たちに面会すると、
「雄藩(殿様たちは年貢が半減されたら困る)の力なしには新政府は樹立できない。《そのためには小事を捨てることはやむを得ない。今は岩倉もお前たちも忍ぶべき時である。》と言ったそうだ。
《岩倉は、一つ賽の目が違えば自分たち自身が「偽官軍」にされる危険をよく承知していただろう。「偽官軍」だったのはそもそも自分たちだったからである。》
たたみかけるような、ため息の出る語りだ。
私たちは漠然と、「徳川幕府が終わって、次に、尊皇攘夷を頑張ってた薩長に交代した」というふうに思ってるけど、そんなふうになるかどうかはぜんぜんわからなかたというか、クーデターで無理矢理そうなったのだし、現代の政治家や会社の偉い人や役人の「保身」と同じにしてはやはり違う。
魔術を使って転向した新政府を、わたしは「ちゃっかり」とメモしたが、ちゃっかりというほど軽いことではなく、まさに命ガケだったのだ。勝った方も。やるからにはやり遂げねばならない責任感も強烈だったろう。
激動の時代を意志を持って生きた人間への、著者の敬意を感じた。
それでもやはり、相楽は可哀想すぎる。
新しいよい世の中を作ろうと志した草莽の人々は、多くの人が、戊辰戦争の中で、いったいどうすればいいのかわかりかね、右往左往した。
目端の利く者が「時間」を味方につけて先手を打っていった。 「時間」こそが、全てを決めた切り札だったと(あってるかな)著者は言う。 「時間」というのはつまり、何でもいいからとにかく「早い者勝ち」ということか。 史上最もえげつない「死のカルタとり」とでもいおうか。 椅子取りゲームでさえないのだ。 椅子なんてしっかりしたものはない。
だれもがどうなるか、まったくわからなかった。 相楽総三は、目指す世の中を「新政府軍」と一緒に作ることに賭けたが、新政府軍は相楽の思いを撥ねつけた。
相楽には、新政府軍がどうするかを読むすべがなかった。自分の理想にふさわしい去就を選ぶ自由もいとまも、情報もなかったのだ。
次の-5では、幕府方のたった二人の刑死者、最後まで幕府を強くしようとしていた小栗上野介と、幕府が倒れる直前に幕臣となった、新選組の近藤勇のことが記される。
-4以上に、と胸を突かれた。
近藤勇のイメージが転覆した。
近藤勇を「草莽の志士」だと、著者は語る。
「誠」の旗は、誰か偉い権威のある人への忠誠ではなく……
辞世の七言絶句に、目から鱗だった。
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kuribayashisachi · 1 year
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読書メモ 野口良平『幕末的思考』みすず書房 第1部「外圧」第5章「残された亀裂」-3
野口良平『幕末的思考』みすず書房 第一部第5章-3
■「ちゃっかり」に踏みにじられた犠牲者たち
行列を横切ったイギリス人を斬ったり、外国商船を撃ったり……。薩摩・長州は「攘夷」の急先鋒だったはずだ。 ところが新政権を樹立し、主導者の地位を独占する過程で、彼らはいつの間にかこっそり「転向」した。 こっそり隠して転向したために、大きな混乱が生じた。
混乱の中で事件が起き、悲惨な犠牲者が出続ける。
新政府に味方すると決めた藩の武士たちは、当然、薩長政権は「攘夷」で行くと思っただろう。 そう思って行動した末端の武士たちが、外国人と接触し、先方に犠牲者が出る。 すると新政府は、フランスやイギリスら列強から「責任をとれ」と迫られたことを、逆に利用した……と著者は読み解く。
混乱の中で起きたのは、鳥羽伏見の戦いからほどなく発生した、神戸事件と、その一月後の堺事件だ。
秩序に従って行動し、刑死しなければならなかった前線の人たち。
本当にあんまりで、やりきれない。
【神戸事件】 これまで攘夷の急先鋒だった薩長の新政府が、まさか「開国」を是としているとは知らずに、隊の前を横切ったフランス人を槍で突いた備前藩の兵たち。 怒ったフランス軍と小競り合いになる。 新政府は、列強に迫られ(た、というよりは自ら進んで)末端の武士を切腹させた。
【堺事件】 神戸事件の「切腹」の13日後、 土佐藩の軍が、備前藩兵と同じように「攘夷」が新政府方針と考え、元から生粋の攘夷派だった隊長の発砲命令によって、外国兵9人が撃ち殺された。 新政府はやはり、列強の意を迎えて20人を切腹させることに決め、「発砲した」と答えた29人から、くじ引きで決まった兵士たちを切腹させる。
【新政府のもくろみ】 欧米列強から「責任をとらないと日本全部を攻撃する」と脅されたことを、新政府は、自分たちを対外的に認めさせるチャンスに変える。
またしてもあざといレトリックを使い、あとからするっと出した「対外和親の方針を掲げた布告文」に基づいて、攘夷が方針だと信じた将兵たちを「違反者」にしたてあげ、刑死に追いやったのだ。
しかも、この布告文は言い回しが曖昧で、天皇や自分たちがどうして開国派になったか、はっきり言わず、自分たちの「転向」を更にちゃっかり隠しているのだそうだ。
こんなことで神戸事件の「責任者」として切腹させられた、鉄砲隊の隊長、滝善三郎はあまりに気の毒すぎる。聞くだけでもやりきれない。
「開国が国是とは承知していなかった」という滝の陳述は、新政府によって改ざんされ、「私が独断で発砲を命じた」と列強側に報告されたそうだ。
滝善三郎たち備前藩の将兵も、土佐藩の武士たちも、藩の命令でごくまじめに、任務として、新政府側に味方するため従軍して、神戸や堺に来ていたのだ。 それが、いつの間にか「新政府」上層部の方針がするっと変わっていて、変わったことも、理由も、あとからさえ報告もされないのだ。そして、ばっくれた上層部の命令で、罪人として死ねという。 まさかこんな死に方をする者が出ると、誰が想像しただろう。
飲んだ息が胸の中で凍りそうだ。
堺事件は、大岡昇平が最晩年に『堺攘夷始末』という小説に書き、未完で亡くなったそうだ。
それにしても……。薩長め、なんてやつらだー
西郷さんは、錦の御旗をたてて「正統派」の座をちゃっかりうばっちゃった盟友、大久保たちのやり方を「臆面もなくて恥ずかしい」と言ってるそうだけど、でもねー
私は以前、司馬遼太郎『翔ぶが如く』で「責任感の強い為政者」と書かれていた大久保利通ファンになってたので、えらくくやしい~
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