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#じ人生、救い、生きる意味、仏教、浄土真宗
bailonglee · 1 month
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神《Age Of God》
神とは?
〔荘厳なのか?〕
〔光に満ちてるか?〕
〔慈愛なのか?〕
ふと、思う。
神とは、もっとラフなもんじゃないかと。
愛とは、身近で、柔和なんじゃないかと。
私達が荘厳を考えるなら、畏怖しかなくなる…
じゃあ私達は、何のために生まれた?
畏怖し、萎縮し、こそこそ隠れて、だらしなさを、出す…
…意味ないやんw
だらしない時も、しょうもない時もあるのは、神も、人も、同じだろう、確信する。
グローバリストの言う神は、理想論であり、今までも、未来も、どこにも存在しない神を、崇めてる気がしてならない。。
イスラムの神は厳しすぎ、それが怒りに変換されるから、戦いばかりしてるんじゃないの?
中国は、毛沢東が神を否定し、金が神になったんじゃないの?
世界は、神を待ってる、それは、皆が神である事実を受け入れた時、出現し、皆が神を認識するまで、神は出現しない。
オナるし、食うし、ぐうたらもするが、透明で、まっすぐで、世界を愛している、それが神ではないだろうか?
そして、もっと、“浮遊感”のある存在じゃないだろうか?
では、私達が“神”と考えてきた存在は?
〚それは、神の家臣(神官、or ルシファー)、だよ。〛
神に仕え、真面目すぎるあまり、崇拝してしまい、価値以上の無駄な価値観を付与する。
つまり、興奮のあまり、大袈裟に神を表現したり、神の言ってない事まで、人々に強いて来た…
誰が結婚するなと言った?
誰が、罪を犯すな、罰すると言った?
誰が、何も食うなと言った?🤣
神の家臣の、誇大表現、軍隊調の服從の人々への強要、そんなもんが、神の実像を捻じ曲げて来た…
役小角が、正面から神に対峙した。
法然は、
「人々には、他力でしか救済出来ない人種がいる。だから現世で徳を積み、死後、西の極楽浄土へ行けるよう、南無阿弥陀仏と祈れ。」
これはさ、冷静に捉えたら、
選民思想そのものなんじゃない?🤣
「おまえらは一生馬鹿なんだから、馬鹿なりに大人しく生きろ。」
、そう言われてんのと、同じだわなw🤣
教育機関もない室町、鎌倉時代、武士にもなれない、鍛えたくない、そんな人らに、逃げ道を作った、しかも、かなり上から目線でw🤣
浄土宗、浄土真宗、そんな匂いがある…
だからこそ、
日蓮
という、アンチテーゼが生まれたんじゃないかな。
「ふざけんな!我ら庶民は馬鹿じゃねーし、現世で救われるんだ!」
で、法華経の流れになったんじゃないか?
警察官の息子、そこそこ裕福、法然。
ハーフの村、貧しい育ちの、日蓮。
貧しさを知らない人間は、庶民を理解出来ない。
同じ過ちを繰り返す理由は、貧し過ぎて、新しい一歩すら踏み出せないが故。
決して庶民は、救いようない馬鹿ではない。
だからこそ、強烈なアンチテーゼが、巻き起こった、南無妙法蓮華経。
皆は、役小角のようになりたい。
でも、自分には無理だと、最初から決めてかかり、最初から諦めてる。
だから、「宗教」の力に、ねじ伏せられる。
親鸞。
肉も食いたい、女も抱きたい、徳は積めないから、南無阿弥陀仏w🤣
…諦め過ぎだよなw🤣🤣🤣
織田信長は、田中角栄よろしく、ヒーローだったが、暗殺される…
再び、へりくだり過ぎの秀吉の時代、そして江戸時代の、“鎖国、カースト”へと流れる。
つまり、“人は、他力でしか変われない”ならば、最初から身分を固定化、溜まったガスは、穢多非人をいじめ、憂さを晴らせと。。
これは、〔停止〕してるだけ。
庶民は解せない中、
〔どうせ俺は、こんな生まれ〕
、強烈な諦め、強烈な停止。
嫌な凪ではあるが、言い方変えれば、
〚天下泰平〛
、そこにある、大いなる諦め。
浦賀湾、ペリー黒船(蒸気機関)
開国をせまられ、見た事ない新しい物を、目にする。。
〔新しい時代は、上手くすれば恵まれた地位につけるかも知れない〕
下級武士たちの不満爆発、明治維新へ向かう。
見た事ない高い文明、自信に満ち溢れた、アメリカ。
〔もしかしたら、今度こそチャンスを掴む〕
そして日露戦争、日本は原子爆弾までずっと、皆が幸せや富を掴むチャンスを、望んでいた。
-----  敗戦 -----
玉音放送。
気がつけば、街は死体の海…
Nothing Remain …
一億玉砕、日本人は絶滅を覚悟した、だから神風特攻隊は成立した。
でも、支配されてしまった…
じゃあ僕らの、次なるスタンダードは?
三島由紀夫
浅間山荘
日本赤軍
安田講堂
革命を呼び掛けた三島由紀夫に、誰も賛同せず、自殺。
次の3つは、“マルクス主義”、つまり占領された日本、おかしな首相、戦争に勝てないなら、共産主義で革命を起こそうと。
安田講堂は、天安門事件と何ら変わらない…
結局、国家が無理くり、”力”で鎮圧したんだ。。
中国から資源を引っ張ろうとした田中角栄は潰され、以降、政治家はアメリカの傀儡…
今に至っても。
庶民が目指すべきは、芸能人なのか?🤣
ジャニーズ腐敗暴露、松本某裁判、結局、極端な形の自己主張には、腐敗しか無かった。
YouTuberか?🤣
グローバリスト、つまり選民思想らが運営してるから、言論統制、人権無視、話にならない偏ったメディア…
そう、
打破せねば、ならない。
自己表現を自由にするには?
Domainを取ればいい。
自分で運営するサーバーに、規制など、無いw🤣
金ばかり考えてたら、グローバリストに飲み込まれるだけ。
自己表現は、した方がいい、というか、
自己表現はしなきゃだめw🙂✨✌️
働く。
企業、もはやブラック企業か、グローバリスト企業ばかり、自由な考えなんて、持てない…
SDGsという呪文をとなえ、まっしぐらに、我々は奴隷化に向かう…w🤣
個人事業主しかない。
もはや、会社員は、諦めた方がいいw😎
馬鹿馬鹿しい忖度、規制、そんなもんから、抜けられる、ただし、自己責任だ🤣
もう一度、キリストの言葉を思い出して欲しい。
あなた方一人一人が、神々なんです。
天上天下唯我独尊😎✌️✨
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uro-9000 · 10 months
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大魯上人
大魯上人
鹿児島の浄土真宗の礎を築いた大魯和尚(だいろ)の墓は旧吹上町の光専寺の敷地内にございます。
大魯は幕末に本願寺で起きた教義上の論争(三業惑乱)で異端者として追放され、京都から肥後、天草を経て薩摩に逃れた。
当時藩では浄土真宗を厳しく禁じていた(※かくれ念仏のぺージ参照)
それでも大魯は煙草講(たばここう)などの名で人々を集め、洞穴に隠れて念仏の教えを説いた。
そして各地を回り30年、多くの人々に慕われながら天保7(1836)年上草田の辻の久保で没した。明治の初め、藩の政策で薩摩半島の技術者が大隅半島に移住したが、その中に大魯の影響を受けた念仏者がいて教えを伝えた。その後、明治22年にこの地に改葬した。やがて念仏禁制が解かれると浄土真宗は県全域に広まった。
鹿児島で浄土真宗がこれだけ広まっている事は大魯和尚の功績が大きいといえる。
大魯上人が本願寺から追放された理由
大魯上人が本願寺から追放された理由である「三業惑乱」というのは、江戸時代に浄土真宗本願寺派(西本願寺)において起きた法論(教えをめぐっての論争)のことです。
この騒動を寺社奉行として裁断したのが、龍野藩の第8代目藩主の脇坂安董(わきざかやすただ)であったというお話です。
『脇坂家譜』の安董についての欄には「同月(文化3年7月)十一日西本願寺宗意惑乱之ヲ裁断ス」と記されています。
善龍寺(龍野市)では龍野で出版された『真宗新義古義裁断実記』という書物も残っています。
この「三業惑乱」事件というのは異安心(いあんじん)論争で、異安心とは真宗の安心(「あんじん」と読みます。救いの境地)と相違した誤った安心を言い、どちらが正意の安心かをめぐっての論争です。救いとは究極は各自の心の問題なので、本来なら安心自体を判断裁定することは無意味でもあるし不当なことと思いますが、安心がその人の思考をともない教相(教え)として外面化し他人に説いた場合、多くの人に影響を及ぼしてしまいますので、看過するというわけにもいかなくなったのです。
安心と教相(教え)とは密接不離な関係にありますので、教えが違えば迷信、邪信を生み出すというような可能性もはらんでいるのです。
ですから厳密には、「安心論争」「異安心論争」というよりは「教義論争」といったほうが妥当だと思われます。
そして教義は真宗の場合は溯れば開祖である親鸞聖人にあり(その本源は阿弥陀如来の「本願」にありますが)、その著述に基づいて、教義論争が行われます。
この事件が発生したのが寛政9年(1797)で一件落着したのが文化3年(1806)で、実に10年の歳月を要しています。安董が寺社奉行として幕政に参与していた期間が寛政3年(1791)から文化10年(1813)までの22年間ですから、安董はこの「三業惑乱」事件の発生から落着まで寺社奉行として見届けていたことになります。
そして最期に落着させました。本願寺派の教義は安董によって守られたという歴史的側面も多分にあると思います。面白いことに、脇坂家の始祖の甚内安治(じんないやすはる)は、天正6年に豊臣秀吉の命を受けて石山合戦(織田信長対本願寺の戦争)で本願寺側であった三木城を攻めたとき、抜群の手柄を立てたそうで、いわば本願寺の敵であったのですが、その本願寺の窮地を子孫の安董が救ったということになるのですから、脇坂家と本願寺とは順逆の違いはあれ縁深いと言えます。
安董は「三業惑乱」事件の裁断によって、その手腕が高く評価されたこともあり、天保8年(1837)には老中に就任しました。
この事件の発端は、寛政10年(1798)に行なわれた蓮如上人(真宗の中興上人、本願寺第8代法主)の300回法要のあと、その前年の寛政9年(1797)に学林(僧侶の修学道場)の第7代能化(「のうけ」と読みます。
宗派の教義を研鑚し人を教化する学寮の責任者)に就任した智洞が門主の文如上人に代わって『無量寿経』の講説を行ない、この中で「三業帰命」の説を唱えたことにあります。
この説は溯れば第2代能化の知空(ちくう)、及びその弟子の峻諦(しゅんたい)などより発し、第6代の能化となった功存(こうぞん)が『願生帰命弁』という著書を著わして「三業帰命」の説がますます鮮明に示され、その後を継いで能化となった智洞に至った頃には、本願寺派の真宗安心の規準とまでなっていました。
「三業帰命」とは「三業安心」ともいわれ、「帰命(きみょう)」の曲解より起こった異安心です。
すなわち、「三業帰命」とは、「阿弥陀様助けてください」と意業(心で)、口業(口で)、身業(体で)の三業で阿弥陀仏に救済を求めることで、三業に帰命の相がともなっていなければならないという説です。
「これだけ阿弥陀様のことを思っているから救われる」「念仏を称えていれば助かる」「これだけ仏壇の前で拝んでいるから救ってくださる」といった自己の三業(行ない)を阿弥陀仏にさしむけることで救いの助けにしようとしたり、三業で帰命していることを救いの証拠にしようというのですから、とどのつまり、その計らい心、自惚れ心(自力)は阿弥陀仏の救済を絶対的に信知していないことから生じるのであって、三業による「たすけたまえ」という「帰命」はその表われの何物でもありません。阿弥陀仏の本願に不足があるから、その不足分を三業で補おうとする心が働くのです。
これは結局は阿弥陀仏の本願を疑っている姿です。機の深信に徹していないから救われるための手段が自分にあると自惚れ、法の深信に徹していないから本願力に不足を思うのです。
どうして功存が『願生帰命弁』という著書を著わして、「三業帰命」説を強調したかというと、当時、北陸を中心に「十劫安心」という異安心が広まっていました。また京都では「土蔵秘事」という異安心が広がっていました。
功存は特に「十劫安心」を正すために『願生帰命弁』を著述したと思われます。 「十劫安心」という異安心は、「十劫秘事」とも「十劫正覚の秘事」「十劫領解」とも呼ばれ、十劫の昔に阿弥陀仏が成仏されたときに、すでに衆生の救済も成就されているのだから、それを忘れないのが信心であるという邪義です。「十劫安心」は必然「無帰命安心」であり、仏に帰命せずともよい、帰命の安心を不要とします。そこで、功存は帰命の安心の欠けた「十劫安心」を正すために、著書の中で「たのむ一念」の帰命を力説したのです。本願寺派で真宗の教化に絶大な能化の取り締まりにより、「十劫安心」は一応の収まりをみせましたが、その教化が未徹底なままで功存は病死してしまいました。
また、功存が能化だった頃には、「本尊論」についての法論も起こりました。
播州の智暹(ちせん)が『真宗本尊義』を著述して学林を問い質した法論でした。 明和4年(1767)5月のことです。本山は両者を戒告して事件を解決しようとしました。
同年の6月には学林は裁決を不服として本山に乱入したりしました。
また功存の『願生帰命弁』に記された「三業帰命」説に対しては多くの批判が上がっていました。
安永4年(1784)7月、大麟(だいりん)が『真宗安心正偽編』などを著述して功存の『願生帰命弁』を批判、安永7年(1787)4月、宝厳(ほうげん)が『興復記』を著してこれまた功存の説の批判を展開しました。
功存が『願生帰命弁』を刊行してからというもの本願寺派内は法論が頻発に起きていました。
功存が能化の時代に「三業惑乱」という爆弾の導火線にすでに火がついていたのです。
功存は「阿弥陀仏をたのむ」こと「帰命」することに力を入れて説いたために教化が「三業帰命」に傾きましたが、それをより徹底して教化すべく、智洞は「三業帰命」説を前面に出して説きました。そして全国の僧侶・門信徒が集まる法要のときにも、智洞が公然と「三業帰命」説を唱えたものですから、この説に不審を抱いた安芸の大瀛(だいえい)、河内の道隠(どうおん)などの在野の学僧(古義派、正義派)が、智洞を代表とする学林(新義派、三業安心派)と対立し、ついに寛政・享和・文化にまたがる10年間にわたって、西本願寺教団内部をはじめ、24カ国に及ぶ未曾有の大紛争となってしまいました。
大瀛は智洞の説の誤りを明らかにするために『横超直道金剛ベイ』を執筆しました。教義の解釈上の対立、相違問題は政治的な紛争へと発展し、混乱と暴動事件を引き起こし、ついには幕府の裁断を受けなければならなくなり、そこで寺社奉行であった安董の出番ということに相成ったわけです。
「三業安心」説の是非をめぐっての争論が各地でまきおこり、ことが「後生の一大事」、救いに関わる問題ですから、門信徒は動揺し、その是非を手次寺に糺すものの埒があかず、嘆願書で本願寺派本山に問い合わせても、本山はこれをとりあげようとしません。
享和元年(1801)になると、門信徒の中には示威行動に出る者も現れて、京都の町々は動揺する門信徒であふれ、奉行所から内々で注意を受けることになります。
大瀛は享和元年���1801)5月に『横超直道金剛ベイ』を刊行しましたが、翌月には販売禁止にされてしまいました。本山は混乱するだけで事態を収拾することができず、翌年の1月になって美濃国大垣領の門信徒の百姓たちが一揆のいでたちで、本山に詰め掛けようと河原に集結しました。このことを知った領主の戸田采女正は当時の老中で、百姓たちの動揺を静めるために本山に対して、宗旨を整えて門信徒の不安を一掃するようにと要請しました。それにも関わらず本山は何ら手段を講じないまま7月に入り、大垣領の門信徒は再び集結しましたが、代官に鎮圧されました。
事態を重く見た戸田采女正は事件を幕府に届け、もはや一宗門内の紛争ですまなくなりました。
7月の終わりには、江戸築地の輪番(江戸在住の本山の役僧)が寺社奉行脇坂淡路守役宅へ呼び出され、留守居役星野鉄三郎から事情聴取されています。
幕府は従来、寺社に対し、教義や宗門の紛争などは余程のことがない限り、黙認する方針でした。しかし、ことが「一向一揆」に似た社会的に不穏な行動であったため介入せざるを得なくなってしまいました。
この事件を担当した寺社奉行師匠番脇坂安董は享和2年(1802)11月、本願寺派本山に対し幕府の厳しい警告書を突き付けたため、本山役人は事態を収拾しようとして三業安心派の学林と対立するようになりました。翌年の享和3年(1803)1月、三業安心派の僧侶・門信徒は巻き返しのために本山に押し寄せ、安心(往生)の権限を学林へ一任せよと強要し、ついに槍を持って門主の室近くへ侵入するなどの狼藉を極める暴挙に出て、宗門はますます混乱してしまいました。
これに対して諸国の古義派の門信徒、特に安芸門徒の学僧たちは大瀛を中心にして、智洞の誤りを全国に訴え、何度も公開討論を申し込んだり、門主の権限を回復するように本山にせまりましたが、本山はこれを黙殺しました。享和3年(1803)2月には、能化智洞の退職を求めました。
大瀛とそれを支持する石見の履善(りぜん)、京都の春貞(しゅんてい)、河内の道隠などは上洛して本山に論戦を挑んだために京都は騒然となりました。
4月になると学林は本山の休講措置を無視して安居講会を開こうとして古義新義の2派が対立したため、本山はこの処置に窮して京の町奉行所へ訴えてしまいました。
町奉行所はこの時とばかりに両派の取り調べを開始し、5月には智洞、大瀛をはじめとする、この騒動に関わった中心人物たち40人余りの入牢を命じました。
翌年の文化元年(1804)1月に幕府は取り調べのため智洞・道隠・大瀛らを江戸に連行しました。
智洞はこのときすでに罪人として鶤鶏籠(とうまるかご)で江戸へ護送されています。
そして2月2日より寺社奉行役宅にて取り調べを受けました。
5月には正義派の中心的存在であった大瀛がこの事件の結末を見ることなく獄死しました。
智洞もまた獄中にあって死に、その他の者も遠島に処せられた。
学林の僧はこの事件が宗門の教義のことだからと安心していましたが、安董は寺社奉行の中でも、また歴代の奉行の中でも仏教に通じていて、しかも、安董の陰には真宗大谷派の宗学を大成した大谷派講師の香月院深励(こうがついんじんれい)師が控えておりましたから、突っ込んだ取り調べを行ないました。
文化3年(1806)7月11日、安董は「三業帰命」は不正義とする判決を下して、本願寺派本山に対して、宗門不取締の責を問い100日間閉門という寛大な処分を行ないました。そして、8月21日登城し、老中の松平伊豆守より、今度の宗論裁断について、勲労の論旨を賜わるとともに御調役の星野鉄三郎に銀10枚、西田金次郎・清水兵蔵両名に銀7枚を賜わりました。
閉門が解除された11月、門主の本如上人は、『御裁断御書』を発表して宗門内としても事件は一件落着しました。
「三業惑乱」事件が契機となり、能化職制度は廃止され、本願寺派の宗学は、学轍分裂に至り、行信論に三業を論じることを嫌うあまりに、極端な離三業の所行説が発展しました。
その代表的学轍が空華轍で、現在の本願寺派宗学の筆頭勢力となっています。
ちなみに智洞一派の徒は、三業惑乱後もまだ智洞の遺響を守っていたことから、如何に智洞の異説が教界内に一大勢力を持っていたかが窺われます。
また、三業惑乱後も三業だのみ説を強く誡めている説法がしばしば見られたことからも、如何に三業惑乱が本派にとって一大苦難であったかが知られます。
本派の三業惑乱は隣山の大派にも影響を及ぼし、大派でも三業帰命説、及びそこから派生する異説、諸問題について研究されることとなりました。
「三業惑乱」以降、本願寺派に属する僧侶たちは三業を論じない傾向になりましたが、「無帰命安心」に堕してもいけなくなり、困惑が続いていたようです。
「三業惑乱」後に、本山は全国の本願寺派僧侶から各自の信仰の申告書を集めたそうです。
そこには、蓮如上人の言葉を書写して自分の信仰を表わす人が多かったということです。「信心」に関しての無難な回答をすることで自己の信仰が糾弾されることを免れたのでしょう。
ちなみに脇坂安董は、この「三業惑乱」事件の他にも、延命院事件といって延命院住持日道の不行跡を糾弾しました。ことは大奥にも関係する難事件でありましたが、断固として日道を斬罪に処して寺僧をふるえあがらせたという。
三業惑乱終結後、龍野に帰った安董に、八十歳の母が「三業惑乱はなんと治まった」と尋ねた。それに答えて安董は、「何もほかのことではなかった。阿弥陀様は真実の親であった」と答えた。
母は、「噫(ああ)そうであったかそうであったか。親子の仲なら、かれこれ云うことはいらなんだのう」と喜んだという。
浄土真宗光専寺
仏事・法事等で不明点あればご連絡下さい。
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selgey · 2 years
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 考えてみたら、法華宗の事ばかり書いていて、ランボゥの事書いてないし、それなら、別にカワサキ空冷4発を合わせることもないのだ。んでもって、ランボゥに話題を引き戻す前に、東本昌平氏の「キリン」の事について少し、と思い、今回は刀。  非常に稚拙な、という修飾語はつくが、プチ宗教論争、プチ思想哲学論争なんて、20代の時、げっぷが出るほどやったのだ。それもこれもすべてはマウントとるためなんだが、夜の酒を飲みながらのそれに備えて、昼間のうちに書籍でにわか知識の詰め込みなんかもやったりしたものさ。今更、同僚で顕正の彼女を、以降、ここでは姫と呼称するが、姫とは多分直接的な論争になることはないだろう。姫の同級生の方か、顕正会のもう少し上位の人が、こんなオレを、それでも、折伏弘通しようというなら、多少はあるのかもしれない。まぁ、オレが彼らの立場なら、こんな奴はごめんだがね。  ざっくり整理するならば、妙法蓮華経と勤行の良さは充分理解できた。それだけで価値があることは分かった。しかし、顕正会の主張方針とは相いれることができず、会員として活動することもできない、ということだ。  心が決まって、改めて思うのは妙法蓮華経の経文としての端正さである。そう感じるというのは一体どういうことなのか、生まれて初めて、じゃないわ、前に鈴木大拙氏の「歎異抄」を読んだことがあるんだった。臨済宗門徒の氏が、親鸞の教えが浄土宗門徒の間で変質することを嘆いた、なんていう、言ってみれば愚痴本だ。名著とは言われているが。仏教関係の書籍を買うのは、その「歎異抄」に次いで、ということになる。それが今回、3冊ほど仏教研究書籍、他に何冊か、まとめてお買い上げだ。   法華経関連書籍が4冊と、佐藤優氏が母校の、氏は神学部であったから、多分その神学部で講義したその内容らしい、という本と、ガダリやデリダと並んで、オレが若い時スターだったドゥルーズの、これ、入門書みたいな内容らしい。  ホントは土木の技術書買って読めばいいのだが、ついつい手が出るのは、単車とかクルマの本じゃなければこのあたりだったりする。GWとその後の2週間の出張の夜、コロナだし遊びに行けないので夜の御供として。  若いころというと、美術部の後輩に、一時期幸福の科学に偉く傾倒した奴と、バイト仲間の他の大学の学生(っていうか百万遍のかの国立大学の奴)でオウム真理教に入信しちゃった奴がいた。それぞれから、結構熱心に勧誘されたりした。 って思いだしたよ。なんか、オレ、勧誘しやすいのか、原理研の勧誘こそなかったけど、前に書いた通り、英会話の教材やら、高校の時新宿駅で自衛隊の勧誘を受けたし、渋谷から青山通り、表参道と歩いただけで2回、厚化粧のオバちゃんお姉さんに、シルクスクリーンやらリトグラフやら売りつけられそうになった。以来、クリズチャン・ラッセンが特に嫌いになったんだがな。 そう思うと、オレって、そんな隙だらけに見える? って、少し落ち込んでしまう。  そのあたりから、思ってたのさ。新宗教、新興宗教なんていうのは、組織として不安定な分、教祖が「烏の色は白」といってもそれに従わなければならないようなところがある。そうしないと組織を維持できない。壺とか怪しげなもの売られる以前に、そういうのが我慢できない。  こうやって、オレは、良いと思ったりとか興味を持ったりしたら、その話の裏も取り、そのうえで受け入れるかどうか決める、なんて言うやり方をいつの間にかとるようになった。法華経との出会いはきっと悪くないものであるという予感がある。それをもたらしてくれた姫には感謝だ。心から。  まぁ、しかし、特に顕正会のような立ち位置の新宗教、そこの支部長あたりが仮に折伏にくるのだとしたら、そのような本では何も日蓮大聖人様の教えなどわからない、とか、間違いだ、とか言うのだろう。まぁ、それならお互い何が分かってるのか? って話なんだが、お互い何もわからないんだよ。なんて、少々乱暴か。主観も客観も必ず正しいことなんてない。一般に客観が正しいみたいな思われ方をしているが、そういうのはただ、外から見る分には、以上の意味はないから、中の事は分からないし、内側にこもっては外からの評価がわからない。信心が、他所の評価も気にならない。自分の信心で目いっぱいで、他人様の信心などどうでもいい、という立場を取らない、あくまで折伏にこだわるなら正しいものはまるで見えていないということになる。ただ、自分が絶対正しい、という料簡こそ、実は真っ先に間違いであると断ぜられるべきものであると思っている。その辺からして多分決して分かり合えない。  まぁ、オレが思ってることだって正しいとはほぼ思っていない。特に万人にとっては。間違っているから常に正しいものを探すのだけど、正しいものを手に入れた瞬間に間違ったものになってしまうのだから、きりがない。しかし、そういうことの面白みが、何となくわかってきていたりしてな。  限界超克の姿こそ男にはふさわしい それは一種永続的な闘争であるが その苛烈な思惟に耐え続けるのは難しい 若さは性急に結論を欲し 問題を切断しようとする  自身の有限を自覚しながらも 再び立ち上がり走り出さなければならない 初めてアクセルを握った時から 何も変わってはいないのだ  そらで覚えているのを書き出してみた。それぐらい若い時のオレには重要な一節だった。「キリン」が最初にMr.Bikeに連載されていた時に、東本氏によって、作中と、漫画とは別のページに書いてあったのを合わせて、こんな感じだったと思う。 こめかみとその奥の脳髄の芯が随分と疲れたような感覚は取れなかったけれど、これはこれからこういうものだし、男ってこんなもんだ、なんて妙に腑に落ち、何か世界が変わったような気がした、これを読んだときは。 因みに、「男には」なんて、「男」を振り回すなんて、随分昭和だが、しかしこの場合の男はつまり、例えば戦場で、恋人の写真を持参して「戦争が終わったらこのコと結婚するんです」なんて妙なフラグを立てることもなければ、そもそも、持って歩く写真に写す恋人などいないのに、いざ始まってしまえば、真っ先にヘルメットごと頭を撃ち抜かれてしまうような男、意を決して女性に愛の告白をして「君のためならなんだってできる」といったら、即座に「じゃぁ、私のために、私の前から今すぐ消えて」と言われてしまうような男である。いくら男女平等とはいえ、そういうのはごめんだろう、多分、女性の方々も。  モチベーションが低いわけではないが、妙に疲れ果てた感覚があるし、それでいて変に覚醒していて、寄り添ってくれる人もなく脚に力は入りきらないのだが、寄り添ってくれる人がいなければ、前に行かないのか? 違うだろ? と、ゴーストが囁いてくれちゃったりなんかして、一度、丹田に力を込め、歯をほんの少しだけ食いしばり、食いしばりすぎると俺みたいに奥歯ボロボロになりますので。まぁ、そういう自己イメージだ。そうやってよろよろ前に進みだす。  どこかの教えにおすがりすれば、それは間違いであると断じられ、なにか即席のお救いをあてがわれるのだろうが、そういうことは選ばない。  で、自己陶酔と揶揄されるから人には言わないけれど、案外とこれが、居直ってしまえば楽しいと思えなくもない。そんな感じ。  キリンが、何十年越しにポルシェに挑みかかるきっかけは若い女性だった。こちらも若い女性であることは変わりないが、あちらはイケオジで女性と懇ろになったりしていたが、こちらは、そういうことはほぼあり得ない。でも、な~んか (´・ω・`)人(´・ω・`)ナカーマ、とか、思ってしまった。   ランボゥの詩というのは、そういうのが、そんな珍しくはないことで、ちょっとばかりしんどいかもしれないが、特別絶望的な孤独感を感じるほどの事もない、と、いい具合に教えてくれる。 ような気がする。知らんけど。  というようなところを、顕正会の件は、ブログでは、一応のまとめとしておく。新しい展開があって、それが面白いと思えば書くことにする。
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cool-s4r6y8m0 · 3 years
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報正寺住職 城山大賢 講話 2021年10月14日
人間、本来、自由。 どんな、思想や、宗教を、持とうが、持つまいが、この人生の、諸苦悩、絶望など、どう、切り開いてゆくか? 本来、「非」意味、「非」目的に思える、この、大宇宙、生命、人類、この私の存在に、生きる「意味」は? 無量寿経を、最初からたどり、考える。
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2ttf · 12 years
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uchu-household-blue · 2 years
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朗読部分は指南役植木さんのまとめた「日蓮の手紙」よりのお手紙。山内さんも青天での岩倉はんなりクセすごかったな。NHKドラマでも見かける柔軟なイメージの、今月は日蓮 平安時代を過ぎどうにかこうにかあるような鎌倉幕府は天災や飢饉に見舞われる民衆の嘆き、苦しみに取り合おうともしない。寺院で祈祷や瞑想にふけるお偉いさん方。日蓮はそんな幕府に「具体的に向き合え政治家よ」と提言する(それ自体も手紙のくくりな感じでQ.A.に仕立ててはいたかな。)も黙殺され、疎まれ、幕府やそれに癒着する宗派の面々から退けられる日々を過ごす。1度目のというべきか、島流しは伊豆、2年、その後故郷に母を見舞うために向かう時に襲撃され弟子たちも本人も負傷する。すごく苦しい~~---.。
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これーー... 苦しい風当たりのなかでも「自分ただひとり」が法華経の行者だ、それは一見自慢かと思うけれど、病に伏す弟子に向けての宛てある言葉だということらしくて、何か今月の趣旨垣間見るよう。
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無知なものから罵られ、刀で斬られる、権力者に通じた出家者たちが(既得権益を死守するようにして)流罪、死罪に及ぼす、けれどそれが何だ のこと
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我らが法華経をそうして大事にした自分であれば、浄土があるのであると思える、信じた世界がどうして信じたものだったのか触れていられる、そんなイメージ。
のち、蒙古のフビライが日本に服従要請をする手紙が来た。うーーわーーー元寇っていつだっけ...
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政治家に対して8年前に提言した内容がまさに予言で的中だった!と、民の注目を浴びた日蓮は(噂の在り方とは)、もう一度幕府に立正安国論を送るけど、なんとこの2度目も黙殺。(公の場での白黒は....つかない気がする!)そして幕府と癒着する一派からあらぬデマ、暴徒と手を組み仲間を集めているらしいぞと罪をきせられる。そのまま死刑になる予定だったけども佐渡に流罪になったというエピも。僧侶という存在。そして、僧侶同士、集団からの排除。というわけだって 佐渡では佐渡とて、そんな邪魔者に会いに来た民衆で彼らを支持する人もいたみたいだし、まぁそりゃね、。 心が折れそうな時こそある、日蓮は、
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この手紙の 良かったななにか。自分は法華経の行者ではなかったのだろうか、行者というワードを手紙の中で31回も繰り返すらしい、徹底的に自己反省する。自らを厳しく問う。↑での「すぐに」の感じは、すごくリアルな呟きだなぁって。この現世での自分が救われないのなら私は間違いですか、っていう気持ちが。素早さとか成果がどうとかじゃない。自己を越えたものが宗教だと信じるあまりにの短距離とでもいえるのではないのかな。何か打ち込むものでもいいけど。信じるべきものを疑うしかない時、「ではないほう」を作り出して相対化して、疑問が膨らむ。ヘミングウェイの回で2回告げて弱まるとあったけど、そちらももしやこのニュアンス有かな.. 傲慢の在り方を告げられる思いが、救いや説法の形、もしくは自分が受動的に求めてしまう形に映りつ更けていくこと?←続けていくこと?。��ういう形相をしたらいいか飲み込めずに分から��いようなテーマだったりして でも「何度考えても」体系や今一瞬の中に鍛錬が内側から照らされて過不足ないのです、他の宗教やきっと意に反することも並べて考えてみましたよと、。...........うん、そして、そこ、に自分のバイアスが無いわけがない。そうだ、それでも、だからこそ自分ではない他者の、仏の、あるいは前任者たちだとかによる教え、問答、編集なわけね。よくよく考えられた体系の、そしてひとつですよ。何かここは逆に他者性、ある意味で他力か。闘牛の図式は対応させてもさせなくても?だから嫌なんだきっとすごく、なぜを問うことと果てないこととの外部からの与えられなさの価値が疎ましいほどにこうもあると。「自分だけが」が他者排他や自己の誇示 なわけではないということを、宗教の広さを求めた僧としての自分が体現しうるという形で仏の格を唯一として持つっていう、語り。誰も彼も、あなたが言うように救われていきたいですよってね
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「罪」に問われて、自分がついにいなくて、忘れたくなかったことの類を守りきれなかった手で、だから、こそ 何度何度考えても、やっぱり法華経に帰依する己とはの問は、間違っていなかった、見捨てられても結構です。わけえ~心の、次元、日本の時代が。分かる。繋がりがどうとかに今躍起になって否定したいような何かって逆に難しい気がするけれど、各地、元気だろうか、さらされながらも  向き合うべきも弟子も、民衆としての心なわけだからな、とも思える要素。。アツさを見ると、本当にこう何か数量とか、もしくは信じるなんてものはとか、何かもう。結構ですっていう気持ちにもなる。し、御加護の近さを思ったら、宗教としての救いとはどこだろうとまず考えてみたかった頃のとっかかりも思い出せそうな感じがする。おそらく自己憐憫のような心象or描写に上手くは向き合えない自分だけど、自己嫌悪の疲れがすごくガッと出てくるような何かがね。引き裂かれ続けていてね。嫌えばいいのではないよ、好きにだって別にならない。むしろ手放しで信じるほど濾されたもの(過程:漸、頓)だとも信じていない。でも疑い続けるよっていうほうの自己意識というかさ、罪をはじき続けるところでさ。頼るとかじゃなくなっちゃうんだ、。それでも、私だってこうして考えてミル 心の一側面が無条件に悲しくてたまらなかったりするけれど、それごと。迷う、惑う道筋自体が正しさを浴びるというような、面白いと思えてきたことは面白いと知れることも、生きるわずらわしいその全ての慰めも悔しさも。どこかにいなくてはいけなくても、どこにも行けなくても。冬季五輪ニュース見かけて思う、誇りのようなものが成果のお溢れだともし言われたら、分け合わないのだとしたらどれほど形なきものだろう、正しく、ちっぽけだろう。
佐渡への流刑、真冬の、それからの3年間で手紙の多かったこと、とのこと。手紙を立体的に読む、きちんと受け止めること が人間味のようなものにも触れるのならというのは面白いし何かこう、言い切れなくてアツいな。自分を殺す文章もあるし、自分であるという中にある超個己もあるだろうし。
しなければならないこと 何一つ 何一つ何一つない 何を感じたらいいかも何も 考えても知らない 作るくらいしかしない 足らないだけが見える 足りないだけが見てる 方法が砂の中だから砂を掬ってでもせめて叫ぶ
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wasite · 2 years
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WASITE.store 2021.12.25 now OPEN  今日の海 基本、クリスマスは今日の日没まで。 それまで、楽しんでいきましょう! と言いながら、朝から年賀状の準備だったりと、 もうすでに日本式の年の瀬の慌ただしさに 押し流される自分がいます。 押し流される。 押し、 押す。 の反対は「引く」 ってことで 1642年の今日 アイザック・ニュートン 誕生!(〜1727) もう今日も言わずもがな! 天才物理学者にして、 「万有引力の法則」 を発見した偉人! クリスマス生まれなのです。 (あ、ちなみにキリストの誕生日はわからないけど冬じゃないことは確か) さて、引力(重力)とも言う。 質量の大きな物体にはそれだけの大きな力で 「引きつける力」があると 思ってません? あれは本当は、 「引き付ける」 力(チカラ)じゃなくて、 「押し付ける」 力なんですよ? 正確には後世のアインシュタインが発表した 一般相対性理論で表現するところの 「質量を持つ物体が引き起こす時空の歪み」 が、物理に働くとしている。 (みんながポカーンとする時間が続くかもしれない。。。続ける!) 何もない宇宙の空間にはある意味でフラットなバランスが広がる。 そこに質量の大きな物体ができる。 その質量の分だけフラットだった時空が変形! 宇宙の歪められた時空は元に戻ろうと物体に向かって 押し付ける(押し戻す)力が生まれる。 これが私たちが地面に立っていられる理由。 〜私たちは宇宙の時空から押し付けられてるってこと!〜 押し付けられたら反抗したくなる! やめなさい!と言われたらやりたくなる。 それが 「わか〜っちゃいるけど、やめら〜れない」 で有名な 1926年 誕生! 植木等!(〜2007) 名曲「スーダラ節」は、人生が変わってしまうかも? というくらいの問題作だった。 なんせ、だらしない。。。 そんな歌を歌っていいのか?父上に聞かせたら、 父「なんていい歌だ!すばらしい!」 と感動!!! 植木さんご一家は浄土真宗なので、 親鸞リスペクツ。 父「親鸞さまは90歳まで生きられて、    あれをやっちゃいけない、これをやっちゃいけない、     そういうことを最後までみんなやっちゃった。   人類が生きている限り、    このわかっちゃいるけどやめられないという生活はなくならない。     これこそ親鸞聖人の教えなのだ。   そういうものを人類の真理というんだ。    上出来だ。がんばってこい!」 と息子を諭す! その親鸞さま。 まじすげぇ。 というのも・・・ 「他力」 こそ救済だって言ってる。 親鸞「我々は『凡夫』なんだからさ!(な〜んも知らないってこと)     ありがたく『南無阿弥陀仏』って唱えていたら、      如来様の『他力=本眼力』で、       それも    生きたまま極楽浄土に行ったり来たりでっせ!」 というもの。 これはかなり仏教の中でもレア中のレアwww どちらかと言うとキリスト教にも近い!という声も! (人間の原罪とキリストによる救済) もうね、親鸞の考え方は、 仏教だけの狭い考え方だけじゃ理解できねぇ! 古代から現代まで通底する "日本のマインド" が 仏教を通して姿を現した! と言っていい。 これは鎌倉時代の貴族と一部の修行者だけの 「救済(の可能性)」だったのを 万人へと可能性を開いたってわけですよ! これが貴族の出身である親鸞から出てきたことが やばいわけ。 そして肉も食うし、嫁ももらう。 それは欲が強かっただけではない。 これ、僧侶じゃ禁じられていたけど 普通の人間のすることです。 普通。 だからこそ全ての普通の人が幸せになれる道を示したってわけ! ヤヴァイ! 「あなたは幸せになれないよw   こうしないと幸せになれないよww    幸せになれるのは一部の人たちだけなんだよwww」 そんな押し付けを跳ね除ける超絶反骨僧侶! パンクです。 パンクかな?違うかも、ごめん。 でも好き! まぁ、こんな浄土真宗が後に一向宗となって、 織田信長にも反抗する 超絶パンクス一揆集団になるのがすごい歴史w ちなみに 「南無阿弥陀仏」 って言葉は、 「阿弥陀仏」に「南無」ってつける これ、 『阿弥陀仏さま!救ってくれて、ありがとね!」 というお礼の言葉。 地球の重力に魂を縛られている人々というのは、 宇宙の理に目がいかなくなるらしい。 感謝やお礼=暖かな気持ちがあれば この世界は極楽や! ってニュータイプの人が言ってたような。。。 (またいろいろ詰め込みすぎましたが、どうぞよろしく) Thank U !! では、今日も良き1日を #WASITE #ワシテ
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nbt7001 · 3 years
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東瑞庵 浄土真宗
■店名 東瑞庵 浄土真宗 ■住所 〒6590024 兵庫県芦屋市南宮町4-14-402 ■電話番号 0797-62-8587 ■店舗紹介文 東瑞庵では様々な日々の悩みや不安を抱えた方々に、真の仏教から得る心の安らぎが生活にも活かされるよう漫談家僧侶(Zulken)が色々なお話(仏教を通じたお話)をしていき、新たな自分との出会いが成されるきっかけとなるよう取り組んでいます。人は常に生きることへの不安を抱えて生きており、自分の心の支えを持つ事で乗り越えられる力を身につける事が必要なのです。世界には多くの宗教観を持たれた方がおり、見えないものへの感謝の念を持つ事で多くの方々が救われています。東瑞庵でも1人でも多くの方々に明るく前向きな人生を歩んで欲しいと願って漫談式での法話を聞く事から自身の気付きとなり、周りへの感謝こそ自分の幸せに繋がるように開催しております。これからの時代は物質的な喜びよりも、精神的な幸福を求める時代へと変革しており、風の時代とも言われる他者との共有が新しい未来を構築していくのです。この意味は他人との情報交換により得るものが自分の生活の糧に変わる事を意味しており、自分のスキルが他人への助けとなり互いに助け助けられる相互作用のような関係性を見出すものになるのです。本来の人間が生まれて来た目的に沿った精神に帰依するものとして、我々が誕生してから生涯を全うするまでの間に彼岸に近づく為に必要な時代背景となったのです。まさに素晴らしい世界に突入したと言えるのです。人が人を助ける当たり前の行為が全ての人々の意識に擦り込まれていき、更なる次元上昇に繋がる実現味を帯びた社会に変化していくのです。全ての人々に少しでも気付ける学びとして東瑞庵があり、本来の仏教の在り方、2500年間語り継がれて来たことを今一度、考え直して我々の生活の一部として仏教の教えを取り入れる事が真の幸せ(弥陀の誓願)に繫るのです。 『芦屋 浄土真宗』『芦屋 仏教』『芦屋 阿弥陀如来』『芦屋 人生相談』『芦屋 除霊』『芦屋 浄霊』『芦屋 占い』『芦屋 漫談家』 ■ホームページ https://zuiken.jimdosite.com/
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kentarouchikoshi · 3 years
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 僕は一人の仏教徒としてこの記事を実に興味深く感じると同時に,各宗派の僧侶には自宗の教義を真摯に見つめ「そこに本当に矛盾は無いか」「そもそも現時点における教義は宗教として成り立つものか」といった再検討を行うよすがにして欲しいという思いを抱きました。  仏教においては「無我」ということが言われます。仮に我というのを「普遍的な本質」と解釈し,かつ「無我」と言う言葉を「我は存在しない」「我が無い」と解釈すれば「人間には本質が存在しない」という意味になるでしょう。しかし一方では仏教では輪廻ということが言われ,しかも「死んだらその後は何も無い」という考え方(「断見」)についても明確に否定しているので,それらを矛盾無く統一的に説明する必要があります。この点については「釈尊が説いたのは『無我』ではなく『非我』だ」「我執への拘りを捨てよという意味だ」などという解釈や「魂のようなものは存在するが,それは永遠に全く変化しないものではない。生きているときにも少しずつ外部の影響を受けて精神が変容することがあるのと同様,死後にも変容を続ける。つまり常住不変の『我』は存在しないが,それは『魂のようなものが存在しない』という意味ではない」などという解釈もあり,そう考えれば無我と輪廻との矛盾は回避出来そうにも思えますし,日本以外の仏教国ではそのような説明がしばしば為されていると聞いています。  しかし日本仏教においては,そのような説明が為されることは稀です。僕は仏教各宗派のホームページを読んでみたのですが「死んだ後に,人はどうなるのか」という疑問についてズバリと答えたものに出会えた機会は殆どありません。「おや」と思ったのは浄土真宗の一派である本願寺宗門(大谷本願寺派)の見解でしょうか。同宗門は本願寺眞無量院のホームページにおいて「釈尊は、死は決していのちの終わりなのではなく、その先の後生というものをお説きになられました。今の命の後にまた生まれるのです」と説き,また東山浄苑東本願寺のホームページおいても「今は亡き御先祖は、阿弥陀如来の『摂取不捨』【せっしゅふしゃ】のお誓いにより極楽浄土に往生し、阿弥陀如来と共に私達を見守って下さっています」と記載している例くらいでしょうか。ここまで明快に説いた記載は,僕が知る限りでは非常に稀です。  宗派のホームページでは駄目なのかと有名なご僧侶方の著書を読んでもみました。しかしそれらにも「どう生きるべきか」といった点では示唆に富む記載が数多く見られるにものの「人は死んだらどうなるか」ということを詳細に論じたものには殆ど出会えません。それどころか「無我というのだから魂や霊魂のようなものは無い」と一刀両断してしまうものすら存在します。では仏典において輪廻や来世について記載されていることをどう考えるかといえば「あれは釈尊在世当時のインドでは常識的な考えだったので,一般人にも判り易いように便宜的に説いただけだ」といったように「釈尊の言葉ではあるが,真実ではない」とあっさり切り捨ててしまっています。  無論,僕は素人ですから「実はそうなのだ」と言われれば反論は困難です。しかし本当にそれが仏教なのでしょうか。たしかに釈尊は「方便」といって人を導くために便宜的に真実とは異なる教えを用いることを許容しています。しかし「実は輪廻も来世も無い」と説きたいのであれば,各経典であれほど盛んに輪廻について論じてしまったのは明らかに大失敗だったでしょう。「無我と輪廻とを矛盾なく説明するにはどうすれば良いのか」と後年の僧侶や学者たちが大いに頭を悩ませることになったのだし,むしろ「後世の弟子たちを誤解させた」ということになってしまいます。そもそも釈尊が本当に「輪廻も来世も無い。死んだらそれまで」と言いたかったのであれば,先述のとおり当時のインドには既にそれと全く同じことを主張する「断見」という考え方がありましたから「実は断見が正解なのだ」と説けば済むだけの話だった訳です。  釈尊だけではありません。日本仏教の各宗派は釈迦直説ではなく真言宗ならば空海・天台宗ならば最澄といった各宗祖によって纏め上げられたものです。それらの宗祖も「死んだらそれまで。完全消滅」などと言った者は誰も存在しません。日本にはインドのような輪廻思想は無かったのに,それにも拘らず各宗祖は「便宜的に」輪廻思想を説いたというのでしょうか。こちらとしては困惑するばかりです。  そもそも,素人なりに考えれば「来世は無い」という考え方では仏教には説明のつかないことが多々存在します。たとえば仏教の僧侶たちは檀家の葬儀や法事を司式し,寺院に設けられた墓地に埋葬された人々のために経典を読誦しています。或いはそれについては「葬儀や法事において行われているのは故人への供養ではなく追憶だ」などという説明も可能かもしれません。埋葬された人々のための読経についても「遺族が毎日墓参し故人を追憶するのは困難なので,僧侶はそれを代行しているのだ」という説明も不可能ではないでしょう。  しかし「釈尊は何のために弟子たちに修行と悟りとを勧めたのか」という根本的な点については,解脱や来世の存在を無視しては説明がつかないのではないか。僕はそう確信します。そもそも仏教ではこの世を「苦」の世界と捉え,またその「苦」を脱することを「解脱」「悟り」と称し,その境地に至るために修行を行います。しかし仮に輪廻も来世も存在しないのなら,苦を逃れるのに一番簡単な方法は死んでしまうことです。しかし釈尊は弟子たちに自殺を勧めたりはせず,戒を遵守しての修行を勧めました。その理由は「死んでも『苦』を逃れることは出来ない」からで,何故逃れられないのかといえば死んだあとには輪廻して再び来世において苦の世界を生きることになるからでしょう。なおこの点について「仏教には不殺生戒というものがあり,自殺はその戒に反するから出来ないのだ」という意見もありますが,これも疑問です。仮に自らの命を絶つことが仏教の教義上「殺生」に該当するとしても,もし来世というものが無いのなら死んでしまえばそれまでの話です。  因みにこれは来世の問題とは直接の関係は無い話ながら,仮に「無我」という言葉を「人間の本質が存在しない」と解釈すると,仏教における戒というものの存在根拠までが失われかねません。仏教においては出家者が不殺生戒や不偸盗戒(盗みの禁止)・不邪婬戒・不妄語戒を犯すことのうち特に悪質なものを「波羅夷罪」といい,僧侶の資格を失うとされています。しかし人間の本質というものが本当に全く存在しないなら,破戒したときの「私」と今現在の「私」も全くの別物であり,今現在の「私」が自らとは全く無関係な別物の咎を負う理由も存在しないことになってしまします。無論,そんな馬鹿な話が通用する筈もありませんが,何故通用しないのかと言えばその理由は「以前に破戒した『私』と今現在ここに居る『私』とは同一の存在だから」としか説明のしようが無いでしょう。  さて,そのような前提に基づいて今回の鵜飼秀徳氏の記事を読んでみました。同氏は真言宗(高野山真言宗)・天台宗・日蓮宗を「霊魂肯定派」とし,一方で浄土宗・浄土真宗(真宗大谷派)・臨済宗(臨済宗妙心寺派)・曹洞宗を「霊魂否定派」に分類しています。  このうち浄土宗については,実は霊魂肯定派なのではないかとも僕には思われます。「お浄土に生まれることを願う」と言っているのですから。そのような宗旨であれば「何が浄土に生まれることを願っているのか。それは現世を生きている『私』と何らかの同一性・継続性を有するのか否か」という点を無視することは出来ません。思うに,人が命尽きても肉体はこの世に残ったままですから「肉体ごと浄土に生まれ変わる」ということは有り得ません。また一方「現世の『私』が命尽き,その後『私』とは全く無関係の存在である何者かが浄土に生まれる」というのではそれを「私が浄土に生まれる」とは言えません。霊魂とは別の名ではあってもそれに類した何かの存在を前提にしていることは明らかで,これを「霊魂否定派」に加えることには僕は疑問を覚えます。浄土宗の見解についてはもっと突き詰めて考察し,本当に霊魂否定派なのか或いは実際には霊魂肯定派なのかを確認する必要があるのではないでしょうか。  一方,臨済宗妙心寺派の見解は「何とも歯切れの悪い」と感じられます。「常見(死んでも霊魂は残る)でも断見でもなく,死んだら終わりでもない」というのでは何も言っていないのと同じです。仏教は中庸を重んじるとはいえ,これは「中庸」ではなく単なる八方美人ではないかとしか思われません。  この点,同じ禅宗でも曹洞宗の回答は「葬送儀礼の中で戒を授ける対象を『霊位』、仏戒を受け諸仏の位に入った者を『覚霊』と位置付けたり、有縁無縁の先亡を『萬霊』とし、儀礼、供養において『霊魂』を対象にしている」とも認めているあたり,臨済宗妙心寺派よりはずっと明晰で誠実なもののように思われます。但し「では霊魂は存在するのか。それとも実は存在しないが民俗に話を合わせてそう言っているだけなのか」という点については明確にしておらず,やはり肝心のところを誤魔化されているように思ってしまいます。  僕がもっとも受け入れ難く感じたのは真宗大谷派の見解です。「存在や死後が存在するか、しないかのどちらかにとらわれる見解を離れよ」というのは一つの考え方として尊重に値するものですが「霊魂が存在するか否か」という質問に対してそのように答えるのは「はぐらかし」というものです。「とらわれを離れる」のと「存在するかしないか」は全く別の話ですから。たとえば僕は昨日モスクワで太陽が見えたか否かに関心は無く「とらわれ」てもおりませんが,仮に「昨日のモスクワで太陽は見えたか」と問われて「そのようなものにとらわれるな」と答えたのでは,それは回答になっていません。同じ浄土真宗でありながら本願寺宗門(大谷本願寺派)が先述のとおり「今は亡き御先祖は、阿弥陀如来の『摂取不捨』【せっしゅふしゃ】のお誓いにより極楽浄土に往生し、阿弥陀如来と共に私達を見守って下さっています」と「死んだらどうなる」という問いに真正面から,しかも宗祖たる親鸞の教えから逸脱しないことを述べているのとは雲泥の差といっては,或いは言葉が過ぎるでしょうか。  次に霊魂肯定派の真言宗(高野山真言宗)・天台宗・日蓮宗の見解について見てみると,それぞれ言っていることは違いつつ,質問に対して真正面から答えていることは共通しています。高野山真言宗の「人間は大日如来から命を与えられてこの世に生まれ、肉体の滅びる後は再び大日如来の内に帰還する」という考え方はむしろウパニシャッド哲学の「梵我一如」に近く,他の宗派とは別の仏である大日如来を崇敬している真言宗においては釈尊の説く「無我」に囚われることは無く,そもそも考え方もやはり他の宗派とは異なるのかと思われます。また日蓮宗の「宗祖が霊魂の存在を認めている」という回答については真宗大谷派の「宗祖と全く違うことを言っていないか」との重大な疑念を抱かせる回答とは対極に位置するものであり,率直で筋の通ったものだと感じられます。  僕が特に注目させられたのは天台宗の「死者儀礼に関与できたことも霊魂の存在を信じることなしでは成り立たない」「霊魂の存在を否定すれば仏教は単なる哲学や道徳律となって、宗教ではなくなってしまう」という回答です。日本仏教においては「人は死後どうなるか」という問題を棚上げにすることで仏教を科学と矛盾しないものにしていこうという考え方があったと聞いておりますが,そのような態度を貫けば「葬送儀礼や先祖供養に際し,故人は今どこでどのようにしているのかを知りもせず答えてもくれず関心すら持っていない,甚だしくはその問題を忘れるようになどと説く僧侶の手など借りても意味が無い」という結論に至るのはある意味当然のことです。近年,日本人の仏教離れやお寺離れということが指摘されていますが,臨済宗妙心寺派や真宗大谷派の見解のようなことを告げられた檀家としては「離れ」ていくのはむしろ当然のことだと僕には思われます。本当にそれで良いのか,特に霊魂否定派はその点を再考する必要があるのではないか。僕はそのように考えます。  なお,日本ではしばしば「幽霊は居るか」という意味で「霊魂はあるか」と問う者が存在します。これに対し「ちゃんと供養しているのだから幽霊になって出てくることは無い」或いは「迷信に惑わされないように」という意味で「霊魂は無い」と回答する僧侶たちが存在することは意識しておく必要があるでしょう。我々一般人からの質問に対しお坊さんが「霊魂は無い」と回答したからといって,それが「死んだらそれまで」という意味とは限りません。但しこの疑問についても仏教的に答えれば「幽霊は居る」というのが正解かもしれないと僕は思っています。上座部仏教では「幽霊もまた生き物であり,それは六道のうち餓鬼に属する」と考えます。生き物である以上むやみに恐れる必要は無いし,心を込めた真摯な供養で救済される存在ではあるのは勿論のことですが。因みに「幽霊の寿命は400年。その証拠に江戸時代の幽霊は目撃例があるが,それ以前の幽霊が目撃されるのは稀だ」などという俗説があります。これも「幽霊も餓鬼という生き物であり,いずれは命尽きて再び輪廻していくのだ」と考えれば説明のつく話ですね。 ��いずれにせよ「来世が無いなら,僧侶は葬儀や法事で何をしているのか」「来世が無いなら苦を逃れるためには死んでしまうのが一番簡単な筈だが,仏教ではそのようなことは説いていない。実は来世があるからではないのか。本当に『来世が無い』という考え方は仏教的に正しいのか」という僕の疑問や「霊魂の存在を否定すれば仏教は単なる哲学や道徳律となって、宗教ではなくなってしまう」という天台宗の指摘に対する,特に霊魂否定派の宗派に属するご僧侶からの見解を是非知りたいと僕は思います。それらについての回答を真摯に見定め,僕は自分なりの信仰を定め信心を深めていきたいと切に願っているところです。 ※本願寺眞無量院のホームページ https://www.shinmuryouin.jp/teachings/t008.html ※東山浄苑東本願寺のホームページ https://honganjifoundation.org/jouen/affair/
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groyanderson · 3 years
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(シーズン2あらすじ) 私はファッションモデルの紅一美。 旅番組ロケで訪れた島は怪物だらけ!? 霊能者達の除霊コンペとバッティングしちゃった! 実は私も霊感あるけど、知られたくないなあ…… なんて言っている場合じゃない。 諸悪の根源は恩師の仇、金剛有明団だったんだ! 憤怒の化身ワヤン不動が、今度はリゾートで炸裂する!!
pixiv版 (※内容は一緒です。)
དང་པོ་
 高々とそびえる須弥山の麓。宙にはトンビやカラスが舞い、地上では鮎や鯉が戯れに滝を登る。その平穏な滝壺のほとりで、徳川徳松少年は私達に今生の別れを告げる。 『あんたらは何も気にしないでいい。地獄行きはぼくだけだ』 「そんな」  光君はしゃがんで徳松の両肩に触れた。 「利用されてただけで。地獄など!」 『ダメだ。御戌神は沢山殺しすぎた。誰かがその業を背負って行かにゃ、地獄の閻魔さんが困っちまう』  ……野暮な事実だけど、現代に地獄や極楽へ行く人は稀だ。大昔は全ての神仏と霊が宗教という秩序のもと、亡くなった人の魂を裁いたり報うための聖域が幾つも設けられていた。けど地球全土が開拓され人口過多の現代では、そういった聖地を置ける場所も管理する神仏も足りていない。誰もが知っている程の重罪人や、誰が見ても割に合わない一生を遂げた善人だけが、狭小な聖地へ招き入れられるんだ。それが当たり前となった平成の時代に徳松が『地獄』へ赴いたとしても、事務的な獄卒にちょっと話を聞かれて追い返されるだけだろう。ただ、江戸時代からずっと本物の地獄を生き続けた彼に、私もドマルもそんな残酷な事言えるわけがなかった。 「どうしてそこまで……島の人達が、あんたに見返りを?」 『見返りなど! これは誰かがやらにゃならねえ事だから。……そりゃ本当はぼくだって辛かった。大散減が飢えたらぼくも腹ペコになって、嫌だ嫌だって思いながら人殺しを。しかも殺るのはぼくと本来無縁だった来世達が! ぼくは……何も出来なかった。ゴメンナサイって思うしか出来なかった』 「僕が地獄へ行く」 『バカこくな……』 「こいてねえ!」  光君は徳松を抱きしめた。 「何が救済だ! この世界は誰かがババ引かにゃ成り立たねぇなら、僕が地獄へ行く! そして何一つ反省しないで永遠に場所取り続けてやる! あんたみたいな人が落ちてこれねぇように!!」 『……!』  すると光君の背中に後光が差していく。ドマルは無言で跪き合掌。私は徳松の隣に寄り添い、彼の顔から影を拭った。 「徳松さん、もう誰もこの件で地獄に落ちる事はありません。あなたは許されたんです」 「『え?』」  光君は振り返り、自分の後ろに光輪ができている事に気がついた。 「こいつは……!」 ༼ 正しい心のもとに、仏様は宿られる。今のこの青年の言葉は、あなたが犯した罪を浄化するに足る力があった。そもそも、殺生の罪とは誰か一人に擦り付けられる物ではない ༽  ドマルも徳松の傍に寄る。 『そんな……けどぼくは実際、何度も人殺しを』 「徳松さん」  これは、あなただけの問題じゃないんだ。 「人が生きるためには、誰かが絶対に殺生をしなきゃいけないんです。お肉を食べるためには、農家の人に動物を屠殺して貰わなきゃいけない。家を守るためには、ときどき業者さんに虫や鼠を駆除して貰わなきゃいけない。殺した本人が悪い、自分で殺してないならセーフ、じゃないんです」 ༼ 言っておくが、僧侶やヴィーガンなら無罪とかそういう事もないからな。草木を殺した死体を着て胡座をかいている坊主だって、もちろん業を背負っている。大事なのは、自分や大切な人々が生きるために糧となった命達への謝意。『謝罪』と『感謝』の心だ ༽ 『謝意……』  光君は徳松の頭を撫で、徳松と指切りをする。 「徳松様。僕達の救済は殺生って形だったけど、誰もせにゃもっと沢山人が死んでたかもだ。僕はあんたの苦しみをずっと忘れない。あんたと一緒にしでかした事、あんたと繋がる縁、全てを忘れない。だから、どうか、安らかに」 『光』  光君の後光は強まり、草葉の陰にまで行き渡る。するとそこから一匹のザトウムシが現れた。針金のように細い体を手繰る、か弱い盲目の虫だ。徳松は子犬のような笑顔を浮かべた後、もはや誰も傷つける事なきその小さな魂を率いて何処へと去っていった。 ༼ はあ、最高かよ。エモいなあ ༽  ドマルが呟いた。口癖なのかな、それ。 「ドマルはどうするの?」 ༼ 拙僧はあなたの本尊だ。ムナルの遺志をあなたが成し遂げた時、この自我は自然とあなたに帰するだろう ༽ 「そう。じゃあ、金剛を滅ぼすまで成仏はお預けだね」 ༼ 成仏……あいつみたいな事を言うな。そもそも拙僧は邪尊だ ༽  ドマルは須弥山の風景を畳み、また私の影に沈んでいった。あの世界で逝去した徳松は、私と光君の中で永遠に生き続けるんだ。
གཉིས་པ་
「じゃじゃじゃじゃあ、埋蔵金って徳川徳松を襲った大妖怪の事だったんですか!?」  空港エントランスにタナカDの馬鹿でかい声が響く。熾烈を極めた大散減浄霊から一夜、五月五日午前九時。私達はしたたびの締めコメントを収録している。けど佳奈さんと二人きりじゃない。この場には玲蘭ちゃん、後女津親子、そして光君がいる。モノホンのみんなで予め打ち合わせした筋書きを、玲蘭ちゃんがカメラに向かって話す。 「したたびさんが歌の謎を解いて下さって、助かりました。マジムンは私達霊能者が協力して、一匹残らず退治しました。ね、斉一さん」 「え! え……ええ!」  斉一さんは『狸おじさん』のキャラを再現しようと、痛ましい笑顔を作った。 「いやぁ、大変だったんすよ。でもね、私の狸風水で! 千里が島の平和は……ぽ、ぽんぽこ、ぽーん、と……」 「た、狸おじさん? ひょっとして泣いてるんですか?」  タナカDが訝しむ。その涙は失った家族を思い出してのものか、はたまた安堵の涙か。カメラに映らない万狸ちゃんと斉三さんも、唇をぎゅっと噛んだ。 「い……いえね……俺今回、割とマジで命がけで頑張ったから……撮ってなかったなんてあんまりじゃないっすか、タナカDっ!」 「なはははは、そりゃすいませんねぇ! こっちも色々とおみまいされてまして……ぶえぇっくしょん!!」  そういえば光君が島民達に拉致されてから色々ありすぎて、私も佳奈さんもタナカDの事をすっかり忘れていた。スマホに入っていた何十件もの不在着信に気がついたのは、昨晩ホテルに戻っていた道中。二人で慌ててタナカDを迎えに行くと、彼は何故か虫肖寺の井戸の中で震えていたんだ。 「タナカさん、そっちは一体何があったんですか?」 「聞いてくれますか? 僕はねぇ、人生で一番恐ろしい思いをしたんですよぉ……」  未だ風邪気味な声でタナカDは顛末を語った。あの時島民達に襲われたタナカDは、虫肖寺のお御堂へ拉致された。そこの住職はタナカDに、「肋骨を一本差し出せばしたたびチーム全員をこの島から無事に帰してやる」というような脅迫をする。祟りなんて半信半疑だったタナカDは千里が島を『島丸ごと治外法権のヤバいカルト宗教村』だと判断、演者の命を優先するため取引に応じる事に。ところが「肋骨は痛そうだしちょっと……」「小指の骨とかで妥協して頂けませんかねぇ?」「足の小指です」などと交渉に交渉を重ねた結果、島民達を怒らせて殺されかけてしまう。慌ててお御堂から逃げ出したがすぐに追っ手が来たため、タナカDは咄嗟に井戸を降りて身を隠した。しかし数分やり過ごして地上へ戻ろうとしたその時、地震や爆発音などあからさまに異常事態が起きておちおち井戸から出られなくなってしまったのだという。色々とツッコミどころが満載な顛末だ。 「あなた、カルト相手に演者の命を値切りしたんですか」 「悪かったですって。けどあの時は本当に怖かったんですよぉ、紅さんだって同じ立場だったら値切るでしょぉ?」 「それは暗にまた私を小心者だと言ってるんですか? この三角眉毛は??」 「一美ちゃん、ここでキレたら小心者だよ!」 「なっはっはっはっはっは!!」  なんだか腑に落ちないけど、まあタナカDが無事だったのは本当に良かった。思い返せば虫肖寺という名前は『虫の肖像という名を冠したお寺』で、さらに漢字を繋げて読むと『蛸寺』になる。つまりそこも八本足のザトウムシ怪虫、大散減を祀る場所だったんだろう。 「皆さん、もうすぐ搭乗開始が」  光君が腕時計を見て告げる。二泊三日、色々あった千里が島ともついにお別れだ。それでも、この地で出会った人達や出来事、それら全ての『ご縁』は、決して捨てるべきじゃない大事なものだと思う。 「光君」  私は化粧ポーチから青いヘアチョークを取り出し、光君に手渡した。 「引越しが落ち着いたら、連絡してね」 「モチのロンで。一美ちゃんいないと、東京で着る服など何買えばいいかわからないんだ���ら」  光君は徳松の成仏を機に、役場の仕事を辞めて島を出る事にしたそうだ。運転免許を取ったらすぐに引っ越すらしい。今は一時のお別れだけど、またすぐに会える。 「それじゃあみんな、帰るよ」  佳奈さんがここにいる全員の手を取った。 「……東京へ帰るよ!」 「「「おー!」」」
གསུམ་པ་
 それから数週間経ち、したたびで千里が島編がオンエアされる頃。  宗教法人河童の家は、『リムジン爆発事故で教祖含め大勢の信者が亡くなった』事故で、アトムツアー社に業務上過失致死の集団訴訟を起こした。リムジンを居眠り運転をしていたアトム社員が新千里が島トンネル前のコンビニに突っ込み、そこに設置されていたプロパンガスに引火、大炎上を起こした……という筋書きだ。この捏造によって私がコンビニを焼却した件も不問になり、私は本当に河童の家さんに落とし前をつけて貰った事になる。なんだかだぶか申し訳ない気もしたけど、先日あんこう鍋さんにお会いしたら『アトムから賠償金めっちゃふんだくれたんでオッケーす、我々はただの笑いと金が大好きなぼったくりカルトですから』と一笑に付してくれた。  加賀繍さんは、玲蘭ちゃんと斉一さんが辞退した除霊賞金三億円を一切合切かっさらっていった。その資金を元手に、電話やスマホアプリで人生相談ができるサービス『みんなのぬか床』の運営を開始。それが大ヒットして、今度は星占い専用人工衛星とやらを打ち上げる計画をしているそうだ。私も興味本位で一度ビデオチャットを課金してみたら、魔耶さんと禍耶さんが相談に乗ってくれた。そういえばこのサイトには、プロフィールも名前もない謎の占い師と繋がる事がある……なんて都市伝説があったような。  後女津親子は失った斉二さんの分の戦力を補充するため、木更津のどこかにあるという聖地『狸の里』で一から修行し直すと言っていた。斉一さんは生きながら強力な妖怪の魂を持つ半妖(はんよう)という状態を目指し、万狸ちゃんと斉三さんもそれぞれ一人前の妖怪になれるよう鍛錬を欠かさないとのことだ。ちなみに万狸ちゃんは九尾の狐みたいに糸車尻尾をたくさん生やして、佳奈さんの童貞を殺す服を着た女を殺す京友禅メイド服に対抗する服を作るのが目標らしい。  玲蘭ちゃんはなんと、あの後再び千里が島に行ったそうだ。今度は沖縄から神様を大勢率いて、長年大散減によって歪んでいた島の理を正したんだという。そこまでしたのにアトムツアーから何の見返りも受け取らなかったのは、『あんな賠償やら何やらで倒産寸前の会社と今更縁を持ちたくないから』。代わりに島の魂達から感謝の印にと、ちゃんと浄化済みの大散減のエクトプラズムをたくさん授かったそうだ。これまで多くの人々が追い求めていた徳川埋蔵金は、玲蘭ちゃんが手に入れたんだ。  さて。一方私はというと、顔のかなり目立つ位置にニキビができてしまいちょっぴりヘコんでいる。しかもこんな時に限って、メッセージアプリで久しぶりに光君から連絡が来た。だぶか、これが想われニキビというやつなんだろうか。 『From:あおきち 映画の前売チケットがたまたま二枚で! ご興味など?』  ……うーん、なんてベタな誘い文句! 返信をしたら詳しく経緯を説明してくれた。  実は来週公開の『シャークの休日』というイタリア映画が、光君が以前務めていた千里が島観光課とのタイアップで『全編南地語字幕上映』という企画をやるらしい。それで光君にも、地元の元同僚さんからチケットが送られてきたそうだ。イタリア人がチャキチャキの南地語を喋ってるような字幕ってまるで想像がつかないけど、確かに面白そうだと思った。 「えーと、『来週の月曜か木曜なら木曜がいいです』……と」  実はどっちも予定は空いているけど、ニキビを治したいから遅めにして貰った。返信を終えた私は早速洗面所へ。さっきお風呂で洗顔したとはいえ、ニキビの箇所はもう一度念入りに洗ってからちゃんとスキンケアしよ……
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Fjórði
 そして一週間後、『トラップブラザーズシアター東雲(しののめ)』にて。 「あ、一美ちゃん! ごめん、お待たせを!」  平日昼間にも関わらず混雑する複合ショッピングセンターで、私は道に迷った青木光、恋人の光君をメッセージアプリ頼りに探し出した。 「あれ、キョンジャクとカンリンは?」 「それが、なくなっちゃったんだ。探してるから見つけたら教えて。そんなことより、行こう?」  この期に及んで『デートできる服を持ってない』などと言い出す恋人を助けてやるため、私は映画鑑賞の時間が近付く前にメンズファッションフロアへ向かった。まるでコーディネートの基本もなっていない男に、流行に合わせた服装を宛がう。それだけで「さすがプロは違う」と煽てられるのだ。 「一美ちゃん? ひょっとして、退屈で?」 「ううん、光君と一緒にいられて楽しいよ」  上映十五分前になり、私達は映画館に戻った。ロビーのスクリーンでは、丁度今日見る作品『シャークの休日』のトレイラーが流れていた。 『餌食である人類の世界を見てみたい……海底は人喰いザメの王国から、自由を求めるサメ姫シャークリー・シャックバーンがローマにやって来たぞ! 姫は魔法で人間に化けて新聞記者と恋仲になるけど、デート中『真実の口』に手を入れたらサメだと見破られちゃった! 魔法が解けて、ローマの人々をヤケ食いし始めるお姫様……全伊震撼の大パニックムービー誕生!』  お世辞にも興味をそそられる内容とは思えないが、私は今までしてきたように楽しそうに振る舞う。 「映画、楽しみだね」 「うん。あ、一美ちゃん、あそこに真実の口が!」  光君が嬉々として示した方向には、記念写真が撮れる真実の口のパネルがあった。彼はタイマー撮影用スタンドに自分のスマートフォンをセットした。 「ねえ、光君。作中の真実の口って、トレイラーで喋ってたよね。『サメ……ウソ……』って。これも手を入れたら喋るかな?」 「一緒に確かめてみるので。いっせー……」 「のー……」 「「せ!」」 『シタタビ……ウソ……』  その時、私はこの真実の口が何か妙な事を言ったように聞こえた。シャッター音と被って耳が錯覚を起こしただけ、だろうか。 「ごめん、もう一回手を入れてみていい?」 「モチのロンで」  二人でセンサー部分に再び手をかざす。 『シタタビ……ドッキリ!』  ヌーンヌーン、デデデデデン♪ ヌーンヌーン、デデデデデン! 突然、テレビ湘南制作『ドッキリ旅バラエティしたたび』主題歌、『童貞を殺す服を着た女を殺す服』のイントロが映画館ロビーに響き渡った。忽ちこの身体は自らの意志に逆らい跳躍し、入場口とは反対方向のエスカレーターへ飛び降りていた。先月末、ドラマ『非常勤刑事』の撮影で主演の男に「一度も見破れないのはだぶか君の才能だ」と言われた記憶が脳で想起される。 「って、サメえええぇぇえええ!?」  エスカレーター階下にはサメ帽子を被ったエキストラの大軍が群がっていた。私はコミカルに叫び、スカートスタイルにも関わらず粗暴に下りエスカレーターを駆け上がった。すると階上には、『ドッキリ』と書かれたプラカードを掲げる光君と志多田佳奈が待ち受けていた。 「ドッキリ大成功ー! 志多田佳奈のドッキリ旅バラエティ、」 「「したたびでーす!」」  悔しがってどうこうなるわけでもないはずだが、この身体はヒステリックに地団駄を踏んでいた。 「やいやいやい小心者! ハニートラップに引っかかるなんてまだまだ小心者だぞ小心者!」 「うるさい万年極悪ロリータ! そこの真実の口で実年齢をバラしてやろうか!?」 「うわぁ~、みみっちー」  しかし、これを放送するのは芸能事務所に許可されるのだろうか。私はまだ世間に正式に発表できるほど、彼と進展した関係ではないはずだ。 「あのね、佳奈さん。私と光君は今日が初デートだし、まだ事務所に何も言っていないんです。こんなのオンエアされたらこちとらたまったもんじゃないんですよ!」 「あ、社長さんには私が色つけて説明しといたから大丈夫だよ」 「勝手に何してくれちゃってるんですか!?」 「だってだって、光君の一美ちゃんへの愛は本当だよねー?」  光君は気恥しそうに真実の口へ手を入れた。 『……ホント』  よく見ると真実の口は、画角外のタナカDが裏声で喋っていたようだ。 「初デートを返せこの三角眉毛ェェ!!」 「ぬわははははは!! ごめんなさいって! ナハハハ!」 「一美ちゃんごめん、本っ当ごめん! これで堪忍を!」  光君が私に何やら縦長なフリップを差し出した。それは特大サイズに拡大印刷されたシャークの休日の前売券だ。 「『映画の世界へご招待! リアルシャークの休日』……『inローマ』ああぁ!!?」 「そ! 今回のしたたびは海外企画、イタリア編! 実は私、この映画の日本版主題歌を担当させてもらったの。そのPVを、ラブラブなお二人に撮ってきて貰いまーす!」 「え、じゃあ佳奈さんは今回行かないんですか?」 「うん。だって主題歌が入るニューアルバム、まだ収録全曲終わってないし。代わりにPVでは一美ちゃんの彼氏役が必要でしょ? だから光君を呼んだの」  そういう事だったのか。今回は光君が撮影に同行するのだ。 「ドッキリは正直ちょっと気が引けたかもけど、テレ湘さんが僕達を海外旅行に連れてってくれるんだから。ローマで本物の真実の口やったり、トレビの泉でコイン投げるなど!」  光君はさぞ嬉しそうに小躍りした。だが、それでは浅はかというものだ。 「光君、ちなみにローマで何をするか知ってるの?」 「うん。だから、映画みたいに真実の口とか……」 「そのフリップ、『inローマ』の下にやたら余白があるよね。よく見て、端がめくれるようになってる」 「え? あっ本当だ! タナカさん……」 「いいですよ、めくって」  フリップから粘着紙を剥がした光君は、前髪で表情が隠れていても解る程、顔面が蒼白した。フリップ上に現れた文章は、上の文字と繋げて読むと『映画の世界へご招待! リアルシャークの休日inローマ県オスティア・ビーチ~スキューバダイビングで人喰いザメの王国へ~』と書かれている。 「そっちへ!?」  彼もまた、私と同様に番組に騙されていたという事だ。するとタナカDが高笑いしながら、タブレットPCで企画書を開いた。 「お二人には最初の三日間でライセンスを取得して、四日目にサメと潜って頂きます。天候とかあるので五日目は予備日にしていますが、運が良ければ真実の口にも行けるかもしれませんよぉ」 「行けるかもしれませんよぉ、じゃないですよ。何が悲しくてイタリアまで行ってサメのいる海に潜らなきゃいけないんですか!」 「あやや……あやややや……」 「しかもこんなショッピングセンターでネタバラシしたって事は、どうせここで荷物買って今から行くんでしょ? 予算一万とかで」 「さすが紅さん、よくわかってらっしゃる」 「今から!? しかも一万円で旅支度を!?」 「安心して下さい、一人一万です。うははははははは!」  私達したたびチームにとっては定石である無秩序な行動に、光君はただ困惑している。 「じゃあ光君、衣装買いに行くよ。デートに行く服がなかったなら、PVに出る服だって持ってないでしょ」 「えっでも、流石にダイビングスーツは現地じゃ?」 「サメと泳ぐだけで終わらせるわけないでしょ? だぶか海中ロケなんてさっさと終わらせて、二人で街ブラする撮れ高で佳奈さんのPV埋め尽くしてやるんだ!」 「そ、そうだ……せにゃ! 見てろよ佳奈さん!」 「ふっふっふー。そう簡単にいくかな? 衣装に予算使いすぎてだぶか後で後悔するなよっ!」 「国際モデルのこの私のプチプラコーデ力を侮らないで下さい。だぶか佳奈さん本人が出てるPVより再生数稼いでやる!」  斯くして、また私達は旅に出る事になった。『行った事のない場所にみんなで殴り込んで、無茶して、笑い合って、喧嘩して、それでも懲りずにまた旅に出る』とは佳奈さんの言葉だ。それが私にとっての日常であり、私はこのような日々がいつまでも続くと漠然と思い込んでいる。
 し か し 、 そ れ で は こ の 『 私 』 に 金 剛 の 有 明 は 訪 れ な い 。 間 も な く 時 が 来 る 、 金 剛 の 楽 園 ア ガ ル ダ が こ の 星 を 覆 い 尽 く す の だ 。
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ritsuko640 · 4 years
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夏休みの最終日はお父さんの七回忌だった。喪服でいくものだと思っていたけれど、もう七回忌だし地味な服でいいんじゃない となり、サンダルに黒いワンピースで行った。そんなに時間が経ったことに驚くような、もうずっとずっと前のことのような気もする。
コロナもあるし家でやろう、ということで、お坊さんとお母さんとおばさんとわたし、4人だけが実家のリビングに集まるささやかな法事だった。うちは浄土真宗なのだけれど、今回はじめて経典を渡されて、さあご一緒に というので、もじもじしながらみんなで読んだ。あれ、意外と長いぞ、と思っているところでお母さんが残りのページ数をぱらぱらと確認していたので笑ってしまった。親子だ。
面白かったのはお経の下に書き下し文がついていて、意味をぼんやり確認しながら読んだのだけれど、だいたいずっと同じことをいっていた。阿弥陀仏を信じます、阿弥陀仏は尊いものです、阿弥陀仏のために励みます。自然を表す言葉も多かった。雨、川、光。毎日毎日読んでいたら、本当にこんな風に思うようになるのかな。普段生きていて仏様について全然考えないのに、大人4人で一生懸命仏様を讃えるお経を唱えていると、ごっこ遊びをしているような不思議な感覚に陥る。
浄土真宗はあっさりしているところが好きで、お経は15分ほどで終わり、お坊さんの説教が始まる。お父さんのお葬式では、お父さんは亡くなった瞬間に光になりました、と言われて驚いた。光になれるのはちょっと羨ましい。法事はめんどうだけど、毎回この説教だけは楽しみなのだ。今回は、お父さんは常に側にいます、常に励まし、見守ってくれています、という話がメインだった。
ただ、その中で気になったのが、仏様を信じてお経を読むのは、仏様に何か与えてもらおうとか、苦難を払ってもらおうとか、そういう心からではないのです、常に困難を受け入れ、立ち向かうための支えとして、仏様を信じるのです、という言葉だった。思わず まじで?と言いたくなった。頭に浮かんだのは平家物語の那須与一だった。与一は扇の的を射抜く直前、菩薩から大明神までありとあらゆる"えらい何か"にお願いしていた。なにしろ外したら死ぬのだ。お参りにいったらお願いするんじゃなくて決意を述べるべき、みたいな話はよく聞くけれど、ほんとのほんとのほんとのピンチには、もうどうしようもない逃げ出したくなるような困難の前では何にでもすがりたくない?助けてください神様仏様って言いたくない?みんな困難を受け入れられるの?そんなに人間って強いの?綺麗事なのか、本当に浄土真宗の人がそうなのかわからなかった。
そのあと、こんなご時世だからこそ、あえてアナログな時代を見直しましょううんぬんかんぬん、という話を経て説教は終わった。お茶をみんなで飲んで、お布施を渡してさようなら、と玄関まで送ったところで、どうしても気になって聞いてみた。本当に救いを求めないんですか?たとえばもうすぐ家族が死ぬ、っていう困難においても、仏様どうか助けてくださいとは思わないんですか?と。少しの間のあと、仏様は困難に打ち勝つための支えであって、何かしてもらうための、願いを叶えてもらうための存在ではないのですよ、という答えを貰った。お坊さんはすごい。すごい強い人間だと思った。仏様は強力なサポーターみたいなイメージなのかな、ちゃんと勉強しないと多分一生わからない。わたしはきっとすがってしまう。すがってすがってお経をたくさん唱えて、それでも困難を乗り越えられなかったら、すごくがっかりした気持ちになる気がする。宗教は向いていない。
お坊さんが帰って一息ついて、お寿司をつまみながらなんでもない話をした。早めに解散しようといいながら気づいたらお母さんとおばさんは2時間ほど話していて、2人とも対面で誰かと会うことに飢えていたんだな、と思った。わたしはうとうとしながら、お母さんの水彩画の本をパラパラとみていた。いつか行ったヘルシンキの大聖堂が描かれていて、この青いドームに差す光もお父さんなのかな、なんてことを考えた。
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abouttetsukuzu · 5 years
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一遍と踊り念仏
一遍と踊り念仏 冨田粥
1. 一遍  一遍は鎌倉時代中期の僧侶である。  彼は現在の愛媛県道後温泉にて、河野通広の次男として生まれた。10歳のときに実母を亡くし、出家する。13歳のときには太宰府へ移り、法然の系譜を引く浄土宗西山派・聖逹上人のもとで修行を行なった。  一遍が25歳のときに父・通広が亡くなると、彼は伊予に戻り、そのまま妻をもつ。いわゆる還俗である。が、完全に還俗したわけではなく、頭は丸めたままだった。彼にはふたりの妻がいた。ふたりの妻と、その子供がいた。河野家は承久の乱で朝廷方についていたため、一族は没落の一途をたどっており、親戚同士での土地を巡った争いがすでに始まっていた。一遍は子供と輪鼓で遊んでいた。輪鼓は力を加えて回さなければ回らない。地面に落ちればその回転を止める。彼はその回転に六道輪廻をめぐる自身を重ねる。俗世で暮らすことこそが、自身が六道を巡る原因なのではないか、それをやめることで往生できるのではないか、と。
 そうして彼は再び出家し、長野県にある善光寺へと向かう。32、3歳の頃だった。一遍は善光寺である一枚の絵を写していた。その絵が「二河白道図」と呼ばれるものだった。絵に描かれるのは火河と水河の間に伸びる白く細い道で、火河は「怒り・憎しみ」を、水河は「こだわり・貪り」を表す。白道は南無阿弥陀仏を唱える清い心を指し、今ここで死ぬあるいはその覚悟がないのであれば、一心に南無阿弥陀仏を念ずることでしか往生できないというものだ。  一遍はこの絵を伊予国の窪寺に構えた閑室に掛け、そこで約3年間、念仏をひたすらに唱えて過ごしたという。彼はそこで、己心領解の法門「十一不二頌」を掲げ、自らを「一遍」と名乗る。時間的にも空間的にも離れた阿弥陀と衆生が念仏「南無阿弥陀仏」の6字によって平等に包括され一体となった世界を一遍は理想としていた。  彼はその後、修行をそれまでともにしていた聖戒と別れ、妻・超一とその子・超二、そして従者の念仏房とともに四天王寺、熊野本宮へと向かう。一遍はすれ違う老若男女に念仏札を配りながら、熊野の険しい道を歩んだ。そこで彼はある僧と出会う。いつものように僧に念仏札を渡そうとすると、僧は「いま信心が起こらない。信じることができていないのに札を受け取れば妄語の罪を犯すことになる」と札の受け取りを拒否する。一遍は「信心起こらずともうけ給へ」と半ば無理やり札をその僧に渡したが、同時に自身がこれまで行ってきた賦算に疑念を抱く。賦算によって衆生を導こうとしてきたのは間違いだったのか。そうしたしこりを残しながら、熊野へ詣でたとき、一遍は熊野権化の託宣を受ける。  衆生は一遍の勧進によって往生するのではない。念仏によってすべての者は往生するとすでに定まっているのだから、その者の浄不浄や信心に関わらず、ひたすら南無阿弥陀仏を唱え、念仏札を配ればよい。託宣はそういった内容のものだった。  一遍は熊野詣でを経て、より他力本願の念を強め、また、超一・超二らに別れを告げる。それから4年ほど、彼は一人で九州遊行を行なった。家はもちろんなく、ぼろぼろの服で野宿の寒さに耐え、食事も満足にとれはしなかった。そこまでして一遍が「捨てる」ことを行なっていたのは、上根・中根・下根のうち、自身は下根の者であると考えていたからだった。上根・中根・下根というのは、仏道における精神の素質を表すものであり、下根の者はすべてを捨てなくては往生できない。  また、衣食住への執着は三悪道に繋がるとも考えていた。彼は、世を捨て、身を捨て、さらにその捨てようという心さえ捨てた。そうしてすべてを捨てたとき、彼に訪れたのは静かな安らぎであった。一遍はそのような心境で、下記のような「自分を捨て、捨てようという心も捨てれば、もう何もこの世のなかに未練はない」という和歌を詠んでいる。 身をすつる すつる心を すてつれば おもひなき世に すみぞめの袖  一遍が九州を遊行していたのはちょうど元寇があった頃だった。彼はここで豊後国の大友兵庫頭頼泰に歓迎され、教えを説いていた��その際、真教という弟子をはじめとした幾人かの門弟を受け入れる。一遍は自身の弟子を「時衆」と呼び、彼らを引き連れ遊行を続けた。  時衆の中には尼も多くいた。というより、むしろ尼の方が多かった。一遍は、還俗していた頃にもった二人の妻の諍いを恐れ、しかし、再出家後にはその二人の妻のうち片方とその子供を同行させていた。前述の通り、一遍は熊野権現の託宣を受けたのち、その妻子にも別れを告げることにはなる。一遍がその別れにどれほどの思いを抱いていたかは定かではないが、尼を拒むことがなかったのは、そうした経緯や熊野権現の「浄不浄にかかわらず念仏札を配れ」という託宣があったからだ、ともいわれる。また、一遍は当時、不治の病とされていた癩病の患者をも拒むことがなかったという。癩病患者は「がきやみ」と呼ばれ差別されていたが、彼らを時衆に迎え入れたのも先の熊野権現の言葉があったからであろう。  その後、伊予国、信濃国、下野国などを通りながら、一行は鎌倉を目指した。踊り念仏がおこなわれるようになったのもこの頃とされている。郊外にも関わらず、彼らが念仏を称えるところへ人々が多く押し寄せた鎌倉での遊行を終えた一行は、東海道での遊行を経たのち、京都でも貴賎に関わらず多くの人々から歓迎を受け、人気を博していった。  その後、山陰でも遊行を行い、死期を前にした一遍は生まれの地四国へと再び帰る。彼は自身の経典などを自らの手で焼き捨て、本心から念仏を唱えるよう弟子らに遺言を残す。「捨てる」こと、念仏をひたすらに称えることを強く示し、51歳のときに一遍は息を引き取った。厳しい遊行による過労と栄養失調が死因と言われている。
2. 踊り念仏  踊り念仏自体は、一遍が始める以前から民衆の間に存在したものと民俗学者の五来重は考えている。平安時代中期の僧・空也も踊り念仏をおこなったとされ、一遍は空也にならって踊り念仏をおこなったともいわれる。  さて、一遍が踊り念仏を始めた場所として信州を先に挙げたが、詳しい場所に関しては二つの説がある。  善光寺への道をともにし、「臨終の際にふたたび会おう」と一遍から約束され別れた聖戒が記した『一遍聖絵』においては、1297年末に信州佐久郡小田切の里にて、念仏往生を願う武士の屋敷で念仏を称えた際に始まったとされる。一方、『一遍上人絵詞伝』では、信州佐久郡伴野とある。  『一遍聖絵』の方では、そこにいた皆に信心が起こり、一遍は時衆とともに念仏しながら鉢やざるを叩き踊り、紫雲が現れたという。五来は、佐久郡では善光寺の聖たちによって融通念仏が広められ、すでに踊り念仏が存在したのではないかと指摘した上で、「一遍は民衆の踊るのを見て、その宗教的エクスタシーと信仰共同体の一体感に着目したのであろう」と述べる。一遍の目的である勧進に踊りというのは効果的なものであり、それゆえ、伴野にて時衆の行儀に採用したのではないか、というのが五来の考察である。  ところで、一遍の遊行の最中には、しばしば紫雲––妙な音楽や不思議な香りとともに立ち込める紫色の雲でめでたいことの前兆と捉えられる––が見られる描写が多くある。そして、その紫雲は踊り念仏のエクスタシーによる共同幻視ではないかという説が根強くある。特に、『天狗草紙』では、踊り念仏と紫雲がともに繰り返し繰り返し起こっていることが引き合いに出される。  一方で、砂川博は『一遍聖絵』において紫雲の上る箇所を検証し、紫雲は「直接的、或いは間接的に往生の瑞相・表象という意味をもつ」と結論づけている。そして砂川はその前提の上で、踊り念仏とは「『踊躍』に念仏『行者の信心』を『示し』、『金磬の響』に阿弥陀仏の本願を『あらはし』、もって迷える『衆生』を救い、念仏に『結縁』させるためのものだ」という内容の『一遍聖絵』における一文を指す。踊り念仏の様子が描かれた『一遍上人絵伝』において、見物する民衆の数人が真上や宙に視線をやり、合唱しているなどの様子を挙げ、画面にこそ描かれていないものの彼らには紫雲が見えているのではないかと述べる。踊り念仏は鎮魂や慰霊が常に目的であったわけではないが、紫雲が出現しているように伺える点からそうした要素がまったくなかったわけではない、というのが砂川の見解だ。  また、林譲は、踊っているのが時衆のみである点を指摘し、「共同の幻想が成立するためには、踊る時衆と見る側とに共有する期待ともいうべきもの」が必要だと述べる。林は、一遍が理想とした「十一不二頌」について触れ、「踊念仏は、大人数への布教・結縁を要請する一遍の宗教から必然的に導かれた行為であり、紫雲が出現した踊念仏の場は、一遍が遊行と賦算とによって目指した『南無阿弥陀仏』という六字名号に包まれ一体となった理想世界の具現化する場と認識された」とする。  踊り念仏の起源や紫雲の解釈については見解が分かれるところではあるが、少なくとも踊り念仏が一遍の宗教的信条に合致していたことは確かだろう。念仏の合唱、踊りとそこで踏み鳴らされる足音、鉢などを叩く金属音、そしてなによりもそれらが繰り返される。繰り返しによって、リズムの予測そしてそれに「ノる」ということ、あるいは微妙な差異が生まれる。そうしたものによる興奮は音楽のそれと同じとも言え、そしてそれはおそらく紫雲-エクスタシー論が根強くある理由の一つであろう。加えて、一遍の理想は何度も述べている通り「十一不二頌」である。繰り返しによって時間の単線的な感覚が崩壊することにこそ恍惚があり、一遍の望む世界が、念仏を媒介して時空も仏/我の境界をも越え一体となる世界があるのではないだろうか。時衆に「ひたすら名号を唱える者たち」という意があるのも、一遍が念仏を「念ずる」のではなく「唱える」ことを強調したのも頷ける。そしてその世界を自身や時衆だけでなく、周囲の踊らぬ人々にさえ結びつけることに、踊り念仏の意義があるのだろう。
*参考文献 井上宏生『一遍 遊行に生きた漂泊の僧』、新人物往来社、2010年 今井雅春編『遊行の捨聖 一遍』、吉川弘文館、2004年 今井雅春『一変と中世の時衆』、大蔵出版株式会社、2000年 金子清光『一遍聖絵新考』、岩田書店、2005年 五来重『踊り念仏』、平凡社、1988年 砂川博編『一遍聖絵の総合的研究』、岩田書店、2002年 柳宗悦『他力の自由 浄土門仏教論集成』、書肆心水、2016年
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selgey · 2 years
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 新しめの賃貸住宅の、小ざっぱりとした一室に設けられた祭壇に向かい、彼女の友達が前に座り読経を始める。彼女はオレのすぐ横に座ってオレが渡された経本のどこか迷ってるとそのたびごとにどこを友達が読んでいるのか教えてくれる。自分の娘ぐらいの女性に高校生の坊やみたいにドキドキしちゃって笑われてみるテスト。  読経自体嫌いではない。そして、なるほど妙法蓮華経、心地よくいいお経だった。前に座って経を読む彼女の友達の声質が変わったようにも思えた。トランス状態に近づいているか。ある意味ヤバいな、これ、とも、ちらっと思ってみたり。  さてそんなこんなで、経本と数珠(彼女の団体ではどういう言い方をするかはわからない。こういうこまごまとしたものの用語、宗派によって違うのだから、ホント面倒くさいよな、お前ら)を渡され、勤行のフォーマットも教えられ、まずは素直にそれに従ってみることにした。反論、批評するにも材料が少なすぎることもあったし。  で、勤行自体は非常に良いものであるとは感じた。さすがは、挫折に打ちひしがれていたであろう彼女を救ったものの事だけはある。  しかし、だ、そういう美点を帳消しにするぐらい、彼女に渡された機関紙、ネットの上位者による講話がお粗末で閉口した。あ、オレはこの団体とは相いれない、と思ってしまうぐらいに。  何点か書きだす。  上位者の講話。信者獲得、引き留めのためもあるのだろう、まぁ、一般通念ではありえないような日蓮大聖人様の起こした奇跡の数々を検証不可能な形で並べて押し付けられても、オレはそこで扱いに困りフリーズしてしまう。正直、そういうのを信じられない以上に、そういう話の押し付け方に拒否感を強く覚える。前にも書いた。彼女を救った、このことだけで充分奇跡的なのだ。そういう心を大切にする感じがちっともしない。なんか妙法蓮華経の良さがなければどうしようもないすぐに吹っ飛んでしまうぐらいに不味い。  ここで、彼女の団体の���前を書かざるをえまい。以下を読めばわかる人にはわかるだろうから。富士大石寺顕正会という名前である。戦後の新宗教というものに分類されるらしい。彼らの目指すところというのは国立戒壇の建立なんだそうで。つまり、妙法蓮華経の国教化である。あ~、一応は法学部政治学科にいたやつに言うことじゃないよな、と、思ったり。 政教分離というが、さて、宗教人が宗教から得たインスピレーションのようなものを政治の場で主張するのはアリだろうが、実際に政治や制度に宗教のエッセンスが入り込むことはあってはならないと思っている。 どうも、法華宗系というのは政治的であろうことを隠そうとはしない。その極が創価学会であるが、一家して学会員のところの従弟に上のようなことを申し上げたら猛烈に反論されたことがある。何を言われてるのかちょっとわかんなかったけど。まぁ、彼が熱心な信者だということは分かった。 政治というのは、一面マウントの取り合いである。その為であろう。法華宗系というのは、他の宗派に比して、分派が非常に多い印象がある。宗派内で、あいつの言うことは間違っている、あいつの言うことが気に入らない、あいつが気に入らない、というのが多宗派より多いのだろう。浄土真宗なども戦国時代はそんな感じだったそうだし、宗派同士の物理的な争いも珍しくなかったが、しかし今や真宗の方はお互い見て見ぬふりなのかどうか、穏やかなものだ。 だから宗教は力をなくすのだ、と、法華経のひとはいうのだ。あ、従弟もそんなこと言ってかもしれない。だから宗教が世を救えないのだと。いや、政治的になる事だけが世を救う道じゃないだろ、と。精神医学、社会学その他の蓄積された知見も使い、それぞれの心について、どうしてもっと具体的な処方を示さない? 政治的であるあまり、地方にある組織を、「隊」などと称する。いやいやいや、宗教も軍隊もなすべきこと、意義がある事だけれど、受け持ちするところは全く違うところはずだろ、と強く思う。正直、気味が悪い。  さて、顕正会は最初妙信講と言っていたそうであるが、宗教施設に関し、当時は同じく日蓮正宗内にあった創価学会を激しく対立したそうであるが、そこからしてなんかもう。箱モノにこだわるところが如何にも政治的であろうとする法華宗的であるが、宗教とはそういうものじゃないだろうと。先に妙信講が正宗を破門になったそうであるが、創価学会も割とすぐ、あまりに金に汚いということで同じく破門になっている、そうだ。してみれば、妙信講側、即ち顕正会側が、自分たちが法華経自体により真摯に向かっているし、それが高じて、自分たちを唯一真の仏弟子と称するようになったのも想像できる。  破門されたときは、まじめに、一所懸命活動していた人たち、悲しかっただろう、悔しかっただろう、寂しかっただろう。 しかし、今となっては、本当のところ日蓮が何を思っていたか分からないし、更に仏陀、ゴーダマ・シッタルダが何を考えていたのか、日蓮が本当にそれに即していたかなどということを誰も検証はできない。検証できないことを押し付けられても、それが気になって、とても信心にはつながらない。  過剰に政治的であることを自身の組織の構造的問題と捉え、法華宗内で提起し活動しようとしても、またしても新しい分派ができるだけの事なのだろうな、と思う。本当に経文自体はいいのに、残念なことである。  で、そのような経緯もあるのだろうが、他宗派、他宗教を邪教と言ってはばからないし、池田大作に至っては蛇蝎認定である。宗教家にしては結構汚い言葉でののしっている。それが一番拒否感を感じてしまうことろ。まぁ、池田大作のあの淀んだ様がよくわからなくとも良からぬものであることは大いに同意できるところであるが。 ルサンチマンから自由になるというのも宗教にとって大きなテーマであり、そのルサンチマンの質もひとぞれぞれで、それに従いそれぞれの処方が必要となる。人をののしる事でオレのルサンチマンは晴れるのか? とてもそうは思えない。  というようなところで、オレが顕正会の会員として活動していくことはムリ、なのだ。あ~、彼女には恨まれるかもな~。ちょっと辛い。が、まぁ、まずは経本と数珠(繰り返すが会の中での正式な言い方を知らない)、返却、どうやってやろ?  ここで顕正会の名誉のため、というか、ネットで検索した限り、創価学会や他の怪しげな新興宗教と違い、金などが絡んだなどのトラブルは、ごくまれに突出した個々の会員を除き、ほとんどないようだ。そういう意味では、もし、彼らと考えが合うというというなら信者になってみるのもよかろう。オレはムリだがな。 何よりも、繰り返す、彼女を救ったのだ。これは大きい。
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cool-s4r6y8m0 · 3 years
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報正寺住職 城山大賢 講話 2021年10月13日
人間、本来、自由。 どんな、思想や、宗教を、持とうが、持つまいが、この人生の、諸苦悩、絶望など、どう、切り開いてゆくか? 本来、「非」意味、「非」目的に思える、この、大宇宙、生命、人類、この私の存在に、生きる「意味」は? 無量寿経を、最初からたどり、考える。
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nagachika · 3 years
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世界宗教史(ちくま学芸文庫版全8巻)を読んだ
去年の暮れごろに技術書や数学書や小説以外の書籍をしばらく読んでいないので読んでみよう、というムーブメントが自分のなかであって、いくつか地方史の本などを読んでみたのだけども、あるゲームのシナリオの考察をしているブログで紹介されていたミルチア・エリアーデの「世界宗教史」というのが神話などの類型を知るのによさそう、ということで読んでみることにした。そしておおよそ5ヶ月かけてついに全8巻を読了した。
まず全体的な構成の話としては、文庫版 8巻は元はそれぞれ 2巻ずつで 1つの書籍で、つまり元は 4巻の書籍。そしてそのうちミルチア・エリアーデが著したのは1〜3巻だけで、4巻目はエリアーデの死後にその弟子と知りあいの研究者が論文を持ち寄って編纂したというもので、原案 ミルチア・エリアーデとなっている。また細かいことだけどこの第4巻の邦訳の際には日本について書かれた章のうちひとつは創価学会と政治について書かれていたのを削って、かわりにエリアーデの同僚であった荒木美智雄氏に書きおろしてもらったとのことで、解説には記述が古くなっていてそぐわなくなってたからとかも書かれていたけど、まあデリケートな話題だからかなぁとも思った。またやっぱりこの4巻(文庫版 7, 8巻)は書き手が変わったことによる味わいの違いみたいなものもあった。
各巻の内容などについては最初のほうは忘れてるところも多いので、全体通して読んで頭に残った概念とかだけ自分の記憶の定着のために記していく。
アルカイック
アルカイックという単語は「アルカイックスマイル」という熟語(?)で「無垢な」という意味での馴染みはあったけど、この書籍では前古代の体系化されていない社会制度や宗教概念を形容するために頻繁に使われていたので、「素朴な」の意味での用途が染み付いた。
冶金技術は時間��作
第1巻で出てきた話だったと思うが、(ヨーロッパでの?)前古代期の重要な発明のひとつである冶金技術について、本質的に「時間を支配する技術」であると書かれていたのが印象的だった。膨大な時間をかければ自然状態でも得られるものを人間にとって有用な時間の中で得るということを言っていた。
「隠れし神(デウス・オティオウスス)」
この書籍を読んでみようというきっかけになった考察��ログで引用されていたのもこの概念。多くの神話体系において、創世を司る神というのはえてしてその後ひきこもって地上(人間を含む世界)の支配/管理に興味を失なったかのように接点がなくなって、その後の神話では出番がなくなっていくという類型のこと。
「救済された救済者(サルヴァトール・サルヴァトゥズ)」
これも頻出する類型として、神の子みたいな救済者として派遣されるものがその任務を果せなくなって(そして彼を活動できなくする障害も眠り、記憶喪失などが頻出するパターンとなっている)、それを救うため使者(これも鳥であることが多い)が遣わされるというミイラとりがミイラみたいなの。「トマス行伝」に含まれる「真珠の歌」というエピソードがその代表みたいなものらしい。
パンテオン
きいたことくらいはある気がするけど、これはある神話体系で登場する神々のラインナップのこと、もしくはその神話体系で主要な役割を果たす神々の集合(エルダースクロールでいうと九大神みたいな)のことを指す単語。
シンクレティズム
これも序盤に頻出する単語だった。ある神話体系や宗教が別の地域/文化から流入した神話/宗教概念を取り込み自身の体系のなかに吸収してしまうこと。北欧神話のトールがローマ神話のユピテルと同一視される、とかそういうのも指す。これはそうした神話の融合や各種土着の神がキリスト教化のなかでひとつの聖人や悪魔に収斂されていくような現象のことだけでなくて、重要な概念が別の宗教から輸入されて定着されることも指していた。というか西欧の古代の宗教においてペルシア世界とインドのアーリア世界の影響がすごく大きかったというのはこの書籍で知った。
エピファニー
これはとても翻訳しにくい単語だと思うのだけど、書籍内では「神性の顕れ」という対訳がついている場合もあった。単語そのものの意味としては「出現」という意味らしい。エリアーデはこのニュアンスをとても大事にしていたみたい。
創世神話がない宗教
東南アジア、ポリネシア/メラネシア/ミクロネシア、オセアニアのあたり(これらは第4巻/文庫版7巻に入っているのでエリアーデの著ではないが)には全般的に創世神話がない。特に無からの世界の創造みたいなのを述べている神話というのはほとんど収集されていなくて、オーストラリアのある部族だけがそのような神話を持ってた、という話があっておもしろかった。これらの地域の宗教の特徴として部族のようなコミュニティが重視される社会構造のため、宗教の主体も個人ではなくコミュニティであり、その一部として祖先崇拝が主となっているので、主たる興味が自然/世界の成り立ちといったところに向かなかったのかなという感じ。
「神道は宗教ではない」
日本の神道について書かれてる章はおもしろかった。まず神道とは 4つに分けられ(「皇室神道」「神社神道」「教派神道」「民俗神道」)、それぞれ歴史上のイベントにより派生してきたものなのだけど、神道の歴史というのは実は思ったよりずっと短かった。もちろん元となる(アルカイックな)概念はあったと思うけど、13世紀に度会行忠という伊勢外宮の神職が書籍を記したのがほとんどはじめて体系として成り立った時ということで、仏教の伝来のほうがずっと早い。
また仏教にせよ神道にせよ日本において宗教は権力者の政治の道具としての側面が強く、そういう意味で「エピファニー」に欠けているように思える。
日本における民衆宗教
このように日本において宗教が常に政治や権力と繋がったものだった一方で、やはり俗世の宗教というのもあった、というか常に権力者のための宗教が盛り上がったあとでそれを大衆に広めるための派閥というのが生まれる、というのが日本でのパターンだったようで、これは平安時代の天台宗から鎌倉時代に浄土宗をはじめ多数の宗派が生まれていったのが小学校でも習うことだけどそれ以外にも頻出パターン。
宗教の解体
さて最終章はドイツ人が西欧の、それも主にドイツにおいての近代の宗教の価値がどう変遷していったかというのを論じているのだけど、これがむちゃくちゃ難解な文章で書かれてる。
まずはブルジョワ的オプティミズムによる宗教の解体、ロマン主義によるカトリシズムの保護、啓蒙主義による解体といった大きな流れがあったことを示した後、理性派のフォイエルバッハ、フロイト、マルクスによる意図的な宗教の解消を目指した思想の話。
しかし第一次世界大戦とその後のマルクス主義的独裁主義の先鋭化により、失なわれかけていた宗教の価値が再び見直されていった、というストーリー。
他にも大陸の創世神話には海の底から土をもってくる、というパターンがよくあるんだよ〜みたいな話もあったけど際限がなくなるのでこのくらいで。難しいところもあるけど時々気になったところを手にとって読み返したいような参考書的な本でした。
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naturalmagickk · 4 years
Text
<すべての日本人に読んでほしい>
「この書は、自分が過去45年間に公にした大小
の英文の著作から、主として禅の本質と解せられる
ものを選出して邦訳し、一小冊としたものである。
それで、この書を一読すれば、大体、近代的に禅の
何たるかを知得することができるわけである。」
補記:
英文で書かれたとき、どうしても英文に翻訳できない
、という苦労をされたにちがいない。そして、また
これを日本語にするにあたっても同様の苦労をされた
はずだ。
しかし、この二重の苦労をしたこの著作は、禅という
ものを世界に伝えるにはまたとない貴重な遺産となった。
また、古典を読めない若い日本人にとっても読みやすい
ものになっている。
私は、すべての日本人にこの書を読んでほしいと
願っている。そうすれば、日本の良さを実感できる
のみでなく、世界の中の日本人として、卑屈になること
も傲慢になることもない自分を構築できるだろう。
<禅とは>
「禅は、仏教の精神もしくは真髄を相伝するという
仏教の一派であって、その真髄とは、仏陀が成就した
<悟り>を体験することにある。」
<禅は慧能(えのう:638-713)に始まる>
「禅の意図するところは、つねには智慧が眠っている
意識の奥底から、その智慧を喚び覚ますことにある。」
<智慧は最高度の直観>
「智慧は最高度の直観に相当する。慧能の時代には、
心を鎮める禅定の実行によって精神の集注をはかる
偏った傾向が大勢を占めていたが、彼(慧能)はこれに
反対して、智慧の覚醒を強調した。
かくて慧能は、中国仏教の歴史の中に革命的な動きを
ひき起こしたのである。」
<禅の二つの要素>
「(禅の)教えは二つの要素からなる。智慧と慈悲である。
・・・
慈悲とは、同胞が智慧に自覚に到るのを助けようとして、
さまざまの工夫を生み出す創造の源なのである。
・・・
・・・
禅が今なお生きた力としてあるのは、日本においてのみ
である。」
<ノドが渇いたらみずから水を飲む必要がある>
「まことに、みずから悪をなしてみずから傷つき、
みずから悪をなさずしてみずから浄(きよ)らかである。
浄と不浄とはおのれみずからに属し、
誰も他人を浄めることはできない。」
(「法句経」165,166)
<全ての問いはおのずから解決される>
「問いはけっして問う者から引き離さるべきではない
とするのが、仏教の行き方である。
両者が分たれているかぎり、問う者に解決はもたらされ
ないであろう。
・・・
問いを解くとは、それと一つになることである。
この一つになることが、そのもっとも深い意味において
行われる時、問う者が問題を解こうと努めなくとも、
解決はこの一体性の中から、おのずから生まれてくる。
その時、問いがみずからを解くのである。
これが、「実在とは何か」という問いの解決についての
仏教者の態度である。」」
<道とは>
「ある時、趙州が南泉に問うた。「道とは何ですか」
南泉:「お前の平常心、それが道だ。」
注:平常心:意識的でありながらしかも無意識である
こと、これが平常心である。
・・・
南泉:「道は知にも属さず、また不知にも属さない。
知は迷いであり、不知は無智である。
疑いの影さえささぬ道に到れば、おまえは、それは
無限に拡がる一大虚空のごときものだと知るであろう。
かぎりなく空で、善悪の入���余地もない。」
・・・・
道とは、完全な”悟り”である。」
<仏陀のさとり>
仏陀は家を出た。もっともすぐれた学者に会い、
問うた。満足できなかった。
次に苦行を試みた。
「しかし禁欲は、自己すなわち真理を問うものを、
敵のごとくに遇する。
・・・
自己は非自己があってはじめてあり得るが、その非
自己が敵なのである。自己が敵の創作者である。
問うものはどこまで行っても問うものであり、問い
の創作者である。
・・・
禁欲の修業や道徳の修練では、人はけっして自己を
越えることはできない。」
仏陀は禁欲の修業をやめた。しかし、彼の問いの答え
を知りたいと思う心は募るばかりであった。
「絶対絶命の窮地に追いつめられて、かれの全存在が
反応した。
かれは、もはや解くべき問いもなく、敵に立ち向かう
自己もないことを感じた。
かれの知性が、かれの全存在が、問いの中に注ぎ込まれた。
言いかえれば、かれはいまや問いそのものとなった。
・・・
ふと空を見上げると、明けの明星が見えた。
・・・
すべてが新しい意味をもった。全世界が、いま、新しい
光に輝いていた。」
補記:
私見では、悟りは、仏陀の例のように、すべて、
”絶体絶命”というステージから生まれるようだ。
<表現というもの>
「唐末の禅僧雲門は、ある時、誕生会を祝するに
あたり、次のように言った。
「仏陀が母の胎内から出て来って、この言葉(天上
天下、唯我独尊)を口にした時、もしわしがその場
にいあわせたら、一棒のもとに打ち倒し、死骸を犬に
与え去ったであろうものを。」雲門は、かれ自身の
禅のゆき方で、仏陀の言ったと同じ心(天上天下、
唯我独尊)を繰り返しているのである。」
<仏教を学ぶ人へ>
「仏教を学び、かつ理解するにあたり、何か困難に
ぶつかった時には、われわれはいつでも、仏陀の
”悟り”の体験にその究極の解決を求めなければ
ならない。
この”悟り”がなければ仏は仏ではない。同時に、
仏教もまた、仏陀の”完全な悟り”の趣意に基づく
ものでなければ、仏教ではない。
かくてわれわれは、仏教が他のすべての宗教と異なる
ゆえんを判然と知ることができる。」
<禅の意味>
「禅は、要するに、自己の存在の本性を見抜く術で
あって、それは束縛から自由への道を指し示す。
・・・
われわれのこの身体は、いわば電池のようなもので、
不思議な力がその中にひそんでいる。この力は、
正しく働かせない時には、かびが生えてしなびて
しまうか、あるいは歪められて異常な現われ方をする。
そこで、われわれが狂ったり、片輪(かたわ)に
なったりするのを救おうというのが禅の目的である。」
<愛の風景>
自我中心的な殻を突き破る人生最初の機会は
性的な愛の目覚めである。
「これまで心の奥深くに眠っていた愛が頭を
もたげて、一大騒動を引き起こす。
なんとなれば、いま目覚めた愛は、自我の主張
と、自我の滅却とを、同時に要求するからである。
愛は、自我をしてその愛する対象の中にみずからを
失わしめる。
しかも同時にまた、その対象を自分のものにしよう
とする。これは矛盾であり、また人生の一大悲劇で
ある。
・・・
愛の目覚めによって、われわれは万物の無限を垣間見る。
そしてこの一瞥が、若者を、それぞれの天性と環境と
教育とに従って、浪漫主義へと、あるいは理想主義へ
と駆り立てる。」
<貧の平和>
「貧の平和(けだし、平和はただ貧においてのみ
可能である)は、あなた方の全人格の力をつくしての
はげしい戦いをたたかい抜いてのちに、はじめて得られる
ものである。怠惰や、放任安逸な心の態度から拾い集めた
満足は、もっとも嫌悪すべきものである。そこには禅はない。
ただ懶惰(らんだ)と、無為の生があるのみである。
戦いは、はげしく雄々しく戦われなければならない。
これなくしては、どんな平和が得られたにしても、それは
みな偽物である。
そこには深い基盤がないから、ひとたび嵐にあえば、たち
まち押しつぶされてしまう。
禅はまったくこの点を強調する。たしかに、禅に見られる
精神の雄々しさは、その神秘な飛躍は別としても、勇敢に
臆せずに、人生の戦いを戦うところからくる。」
<人格>
「われわれの日常生活は、人格の外縁にふれるだけで、
心の奥底を揺り動かすには到らない。
宗教意識が目覚めた時でも、たいていの人は軽くそれを
通り過ぎるだけで、心に何ら苦しい戦いの跡を残さない。
われわれはこうして物事の表面を生きてゆくことになる。
われわれは利口で、利発で、さらに様々であるかもしれな
いが、われわれのすることは、深さと真剣さとに欠けてい
て、深奥の感情には訴えてこない。
なかには、間に合わせのものや、真似ごとのほかは、何一つ
として創り出せない者もある。
彼らはこうしてその人格の浅薄さと精神的体験の欠如とを
むき出しにしている。
禅は本来宗教であるが、それはまたわれわれの道徳的性格を
も形成する。
あるいは、深い精神的体験はその人格の道徳構造にも変化を
もたらさずにはおかない、と言ったほうがよいかもしれない。」
<なぜ禅は生まれたか>
「中国人には、インド人のように、神秘や超自然論
の雲の中に身を隠す才はない。
荘子と列子は、古代の中国において、もっとも
インド的な心に近かったが、かれらの神秘主義は、
壮大さ、精妙さ、天翔る想像力の高さにおいて、
インド大乗仏教者の足もとにもおよばない。
・・・
維摩や文殊、さては阿羅漢のどのひとりにも
匹敵し得るほどの中国の聖者、哲人は、歴史に
記されていない。
・・・
中国人は、徹底して実際的である。かれらは、
”悟り”の教えをその日常生活に当てはめて解釈する
独自の方法を持たねばならなかった。
もっとも深い精神経験の表現として、かれらは、
どうしても、禅を生み出さないわけにはいかなかった
のである。」
「彼ら(中国人)が、仏教を”悟り”の教えとして
内に消化理解しはじめた時、その具体的かつ実際的な
心に開かれた唯一の方向は、禅を生み出すことで
あった。」
<仏教を理解したとき禅が生まれた>
「中国の人々が仏教の教えを完全に理解した時、
かれらの心が要求したのが、すなわち”禅”で
あったが、このことは、議論の余地のない二つ
の歴史的事実の証明するところである。
第一に、禅が確立してのち、中国を風靡したのは
この教えであって、仏教の他の宗派は、浄土教を
除いて、どれも存続し得なかった。
第二に、仏教が禅という形をとる以前は、仏教は、
中国固有の思想と密接な関係を持つことはできな
かった。
ここで中国固有の思想とは、儒教をいう。」
<仏教誕生by禅>
「禅が中国の仏教になったのは、菩提達磨(528没)
の力による。
・・・
禅の種子は、彼(達磨)の手によって蒔かれたので
ある。
・・・
禅の種子が実を結ぶのには、それからなお約二百年を
要した。
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