Tumgik
#ソフィ・カル
satelliteee-com · 2 years
Photo
Tumblr media
Sophie Calle The Address Book
ソフィ・カルの作品の中でも重要かつ物議をかもした1983年「アドレスブック」を書籍化。 カルがパリの路上で見つけた落し物のアドレスブックを匿名で持ち主に返却する前にページをコピーし、その見知らぬ持ち主を知るためにアドレスブックに載っていた持ち主の知人に連絡し接触していく。フランスのリベラリオン新聞に1ヶ月に渡り連載されたこのプロジェクトは、アドレス帳の持ち主「ピエール・D」の友人や家族・同僚との会話と写真によって、ピエール・Dに関する印象が生み出していく。 このプロジェクトを知ったピエール・Dによって、プライバシーの侵害で訴訟問題になりかけた。この作品はピエール・Dの意志によって彼の死後まで封印され、2005年に彼が亡くなり、2012年に本書が発売された。
ISBN-10: 0979956293, 13: 978-0979956294 13 x 1.5 x 19 cm 2012/9/30
Sophie Calle: The Address Book
1 note · View note
kabukicat · 2 years
Text
Tumblr media Tumblr media Tumblr media
階段ギャラリーの新作は、ソフィ・カルの猫ポスター@soonerorlator.shop さんより。
額装を家人に頼んだその答えは、少し小さめのパネルに貼り、浮いているように見せる、というもの。
額だけではない作品の引き立て方もあるのだなあと感心しました。
亡くなった猫への思いをよせる愛らしくも切ない作品は秋にふさわしく思います。
#art #sophiecalle #cat #poster #homegallery
6 notes · View notes
floatan · 7 months
Text
Tumblr media Tumblr media Tumblr media
#Repost @takikonishiki
・・・
福岡の平尾にあるfloatan(フロータン @floatan)の一角にしつらえた『うき』
夏から秋へと移り変わるころ、あらたな本を迎え入れてもらいました
今回、個に還ることのできるこの場所でこそみていただきたいと選んだのは、こちらの2冊
フランス出身のソフィ・カル、そのコンセプチュアルで濃密な作品世界は唯一無二のものだと感じています
鑑賞者はいち目撃者となって体感するように向き合うのがいい気がします
その点、己のペースでどっぷりと深く潜り込んでいけるがゆえに、綿密に編み上げてつくられる本という体裁とは相性がいいのでしょう
これまでも幾度か彼女の作品集に触れてきましたが、そのいずれも揺らがぬ美意識が細部まで行き届く、もはやアートピースと呼ぶにふさわしいものでした
そう心得てはいても、いざこの本と出逢ったときには、あまりのうつくしさに息を呑むほどに圧倒されました
直感で「この本は『うき』にこそふさわしい」と選び入れたのです
かつての自身の体験を発端とし、時の経過と時代の変貌を重ねてようやくかたちづくられる本作の独特な空気感
ページをめくるごとに感じ入ってもらえたら
フランツ・エアハルド・ヴァルターのこの作品集をひらいた瞬間、軽妙な筆致が目に飛び込んできました
耳をすませば、鉛筆を動かす音がきこえてきそうです
よくよく深掘りしていくと、これらは彼の半生において印象深いエピソードを描いたものだとか
こうしたかたちで、表立っては語られてこなかったひとりの表現者の追憶を垣間見せてもらえるのは興味深いものです
それにしても、自ら考案したフォントの配列には意味があるのか、まったくもってランダムなのか…?
多くを語らずにいることで、観る側に自由な想像をふくらませる余白を与えてくれます
そもそも彼の代表作は鑑賞者が行為者として関与するという特性上、作品集というとパフォーマンスの光景を実録したアーカイブになることも多いのですが、純粋に彼自身の手によって生み出された創作物に触れることができるのもまたうれしいですね
『うき』は、floatanという実物を手にとり観ることのできるフィジカルな場と、tiny webstore(@tiny_webstore)といういつでもどこからでも入手できるオンラインの場とで構成されます
ご所望の方は同店の店頭でご購入いただけます
ご多用や遠方ゆえに来訪が難しい場合、あるいは熟考したい方はこのウェブストアもご活用くださいね
心地のよいほうをお選びいただけますように
1 note · View note
itocaci · 1 year
Text
ゲルハルト・リヒター展 から思うこと
Tumblr media
こんばんは。
1月末から2月頭まで休暇を頂いた当店。
そんな休暇を利用して愛知県の豊田市美術館に行ってきた。
ドイツのアーティスト、「ゲルハルト・リヒター」の展覧会を見に行くためだ。
昨年東京でスタートした「ゲルハルト・リヒター展」。
東京での会期が終了後、豊田市美術館に巡回された。
"アブストラクト・ペインティング"という代表作をメインとし、これまでのリヒターの作品に様々触れることができる展覧会だったのだが、その変遷を辿れる展示内容だった。
Tumblr media
リヒターが長年向き合ってきたテーマの一つが「ホロコースト」である。
そんな「ホロコースト」という主題に向き合った作品が「ビルケナウ」である。
そして、その制作を終えた後に制作した最後の"アブストラクト・ペインティング"。
その最後の"アブストラクト・ペインティング"は、「ビルケナウ」までに見受けられた重く、暗い色使いから解放され、どこか明るく、筆のタッチも異なる印象を受けた。
Tumblr media
一つの作品の変遷を、作家のその他の作品も取り上げながら紹介することで、「ゲルハルト・リヒター」という作家の長年に渡る制作の歴史を垣間見ることができる内容だったと思う。
これまで、リヒターの作品は何度も見る機会があった。
しかし、その本質を理解していなかったことを強く認識させられると同時に、これからも出会うであろうリヒターの作品を見るのがとても楽しみになった。
それにしても、展示内容はもちろんだけど、作品の配置や構成も非常に良かったと感じる。
「ビルケナウ」制作後に発表された最後の「アブストラクト・ペインティング」は、先ほども述べたが、どこか明るく、筆のタッチも異なる印象を受けた。
そんな作品を、程よく光が入る空間に配置することで、リヒターの転換点とも言える作品を見事に展示できていたのでは無いかと思う。
「ゲルハルト・リヒター展」の開催が決定した際に、巡回で豊田市美術館に回ってくることを知った。
東京には出張もあるため、東京で見る方が個人的には楽なのだが、この展覧会は「豊田市美術館」で見たい。
だから敢えて東京展をスルーし、豊田市美術館での巡回を待った。
Tumblr media
豊田市美術館は、僕の大好きな美術館でもある。
と言ってみたものの、実は訪問するのは今回で2回目だ。
しかも、前回は7〜8年前。
ソフィ・カルというアーティストの展覧会を見にくために訪れた。
ソフィ・カルは、僕の好きなアーティストでもあり、そんなソフィ・カルの展覧会を見れたという印象もあったのかもしれない。
僕の中で「豊田市美術館」の印象が勝手に増大されて、イメージだけが先行してしまっているのでは無いか。
そんな不安もあったのだが、実際に期待を裏切らない素晴らしい美術館だったと思う。
美術館の心地よさはもちろんだが、収集している作品のクオリティ。
そして展示の空間。
どの点においても素敵だったと思う。
Tumblr media
もし近くに行く機会があればぜひ立ち寄ってみてはいかがだろうか。
さて、この僕が感じてきた充足感というのは、豊田市美術館による力が大きく働いている。
別の美術館で同じ作品を見たとしても感動も変わってくる。
もっと感動するかもしれないし、反対に満足度の低い展示だと思って帰るかもしれない。
最近は、作品という目に見えるものや主題だけではなく、そんな環境やサービスといったソフトな面に大きく左右されることが多くなった。
それは、僕はお店をしているからなのだと思う。
Tumblr media
例えば、当店にAというブランドのBというアイテムが並んでいたとする。
そして、それは、梅田でも難波でも、京都でも神戸でも見れるお店があるとする。
でも、きっとBというアイテムは各店での見せ方やスタイリングの見せ方が違うはずだ。
だから、今回僕が豊田市美術館から得られた心地よさというのは、店舗運営においても大切なことだと思っている。
また、ここ数年は美術館に行くと、必ずコレクション展も丁寧に拝見させていただくようにしている。
それまではメインの企画展ベースだったのだが、企画展はセレクトショップで言う"POP UP"のようなものだと思っている。
そうではなくて、美術館が限られた予算の中で、どんな作品を買い付け、それをベースに展示を組み立てるのか。
いわば、新作もあるのだろうけど、企画展や季節、時代に合わせてアーカイブからどのように展覧会を組み立てていくのか。
そんな、美術館が集めてきた作品を、時代に合わせどう切り取り、私たちに提案するのか。
そんな工夫に触れられるのがコレクション展なのだ。
そして、これもセレクトショップに通ずるものがあると思っている。
だからコレクション展を見る目が変わったのだと思う。
季節に応じて、どのように提案を変えていくのか。
昨年と今年で、どう見せ方を変えるのか。
どんなアイテムを組み合わせるのか。
非常に参考になるのだ。
Tumblr media
そんなことをずっと模索しながら僕は"itocaci"をしているのだが、見せ方や見せる場所、タイミングなどが変わると服の印象も変わるのかもしれない。
だからこれまで、僕はあの手、この手で服の魅力を伝えようとしてきたのだ。
だからこれからも、あの手この手を使って、服の魅力を発信し続けられたらと思っている。
工夫や角度を変えながら、服の魅力を引き出せるようなお店になれるよう、これからも頑張って行けたらいいなぁ。
帰りの電車でそんなことを思いながら、座席で眠りに落ちてしまった。
Tumblr media
1 note · View note
tamanonikii · 4 years
Text
20190323/ソフィ・カル「局所的激痛」
原美術館のソフィ・カル展に行ってきた。これまでこれほどまでの痛みの風化の可視化をみたことはあるだろうかというかんじ。絶望のどん底に突き落とされてからのその悪夢的な記憶が心身を侵食し、時間の経過とともに削いだりしながら変形していくことについて。
絶望も形を変えながらいつか遠くの出来事になる。
痛みの文字が白地の布にグレー糸で刺繍されているのほんとうにすごい。痛みが痛みを針で刺し縫い付けていく、それはまさに心に矢が突き刺さるようでつまりめちゃくちゃ局所的なのだね。
写真は幸せの記憶もすべて思い出させてくれてそれを永遠にしてくれるんだけどそれはつまりその幸せのあとの絶望も色濃く記憶させるんだよな。いつからだろう好きな人の写真を撮るのがこわくなったのは。
0 notes
reflections-in-t · 1 year
Photo
Tumblr media
. . 友人 #tatkar0420 のポッドキャストのエピソードが更新された . 尾行という名の現代アート/ソフィ・カルの尾行プロジェクトについて . が今回のNine Minuiteの内容 . 9分1秒だし彼の声もよいのでとても聴きやすく内容も興味深い . ローリー・アンダーソンとのことも知れたし . 写真は2015年に訪れた豊田市美術館での『ソフィ・カル - 最後のとき/最初のとき』のもの . . #NineMinuite #尾行という名の現代アート #ソフィカルの尾行プロジェクトについて #Podcast #TasuhikoKarasawa #tatkar0420 #SophieCalle #SpotifyPodcast #ApplePodcast #ソフィカル最後のとき最初のとき #2015 #豊田市美術館 ##fujifilmx20 #iphone5 . . https://www.instagram.com/p/Cl5dHxDv6z1/?igshid=NGJjMDIxMWI=
0 notes
moderndays · 5 years
Text
「ソフィ カル ─ 限局性激痛」原美術館コレクションより
Tumblr media
「ソフィ カル ─ 限局性激痛」原美術館コレクションより
この展示が日本で初めて原美術館で行われたのが2000年。つまり私が初めてこの作品に出会って19年目ということになってしまうのだが、つい数年前のように覚えているソフィ カルのシリーズ作品を初めて見たのが「限局性激痛」だ。
若い頃、将来を捧げようとした年上の男性との実際の失恋の前後を描いたシリーズだが、19年前は失恋「後」のもがくような苦しみ部分に強烈に引き込まれたのに、今はその「前」の心象に気がそぞろになるのは何故だろう。
会期:2019年1月5日[土]─3月28日[木] 11:00 am- 5:00pm 
水曜のみ8:00 pmまで開館 ※入館は、閉館時刻の30分前まで
��館日: 月曜(1月14日、2月11日は開館)1月15日、2月12日
Tumblr media
2020年12月末をもって閉館することが決まった原美術館。近代建築としても私の愛する建物のひとつ。
Tumblr media
併設のカフェ「カフェ・ダール」にて。ニンニクたっぷりのペペロンチーノの食後にはエスプレッソ。
1 note · View note
g00melo5-art-blog · 5 years
Link
0 notes
satochin723 · 5 years
Text
Tumblr media
なくならないでほしい
0 notes
hiruzenmegata · 4 years
Text
1012自分をはげます
 制作活動に限らず、なにかを考えたり、じっと観察することをやりすぎて、それがクセになってしまうということは、「いじわるな人間になる」ということと非常によく似ていると思う。悪意をもって積極的に人を攻撃するような「いじわるな人間」とは違うにしても、常に一定の距離を保って、なにか対象について冷めた視線を自覚的に、意識的に持ち続けるよう自分を調教した人間が、しかも視座が多ければ多いほうがよかろうという批判精神を大切にしてさえいる。……このようにして、「いじわる」という言葉の響きの幼さ、素朴さにむしろ肯定的なにおいを嗅ぎつけたうえで、そのうえでいいますが、観察癖のある人間のいじわるさはすてきだし、いじわるな作品に出会うとうれしい。ソフィ・カルとかやばない?
Tumblr media
(五年前に拾った手紙)
 そうそう、ソフィ・カルに限らず、写真をつかったアート作品はなにかと、「絵画」とか「カメラ」の構造や制度について自己言及的・自己批判的・メタ的なふるまいをすることが多い。(ジェフ・ウォールかっこいい)メタ的な視点を持つこと(それをこうしてピックアップしちゃう注意力が身についていること)は、コーゾーシュギっちゅう時代の趨勢の残響のなかに生きているからこそかもしれんし、まあ平たくいってそういう視点にすぐ立てる身のこなしを得意とする人のこと「頭がいい」なんて表現したりするけど、ともかく、「メタ視点」への移動を可能にするのも「いじわるさ」な気がする。「ある種のいじわるさ」じゃなくて、むしろそれこそが「いじわるさ」のど真ん中な気がする。
「気がする」連呼しているのは「いじわるさ」への自信がないからで、それは裏を返せば、「いじわるになりたい」って考えているって話。いじわるになりたいし、いたずら、迷惑行為や犯罪行為、意味や主張のあることではなく、いたずら、がしたい。とは思うんだけど、「自分なりの条件にあてはまるいたずら行為をやりたい、というのがまず先にある」状態でなにをしても、それは「自分なりの条件」からはずれてしまう。いたずらができない。
 蛭子能収さんが、単行本のタイトルを相談した編集者の提案「私はバカになりたい」を「まるでオイが天才みたいやからいいね」つっておおよろこびしたて話を思い出しましたけど、わたしはね、いじわるになりたいなあ、いじわるになりたい。意地が悪くなってみたいもんだよ。
Tumblr media
 わたしは嫌いなやつを自作の小説のなかに登場させ、そいつを殺したことがあるんですが、そういえば蛭子能収さんも、学歴の自慢をしてきた編集者を漫画に登場させて殺していた。これはこの記事を書いていて思い出したこと。蛭子さんと共通点が複数あること、あまりうれしくない。(漫画は好き)
Tumblr media
さて前回の記事の最後に書いていた、友人と中華街を歩いた話から続けて日記を書きます。
彼は甥っ子がとにかく大好きで、仕事帰りにはいつも甥っ子の動画像をみたいのだけど、電車のなかでみてしまうとニコニコのニヤニヤになってしまうからそれが恥ずかしくて悩んでいる。ところがこの半年以上、甥っ子に会えていない。ということを、ほんとうにさみしそうにそう語る。「小さい子の半年は長いからね、もう忘れられてるかもね、誰にでもなつっこい時期や、誰にでも人見知りする時期が子供にはあるというし、いま会いに行っても相手してくれないかもね」追い打ちをかけておれは、ニコニコのニヤニヤでいじめます。数日後、連休を見つけた彼は突発的に帰省していました。「久々の甥っ子どうだった?忘れられてなかった?」と訊いたら、「そんなことはなかった!」とうれしそう。久しぶりのおじさんによろこんでくれた甥っ子に「絵本読んで!!!」とねだられて、いいよいいよって応えたら、甥っ子の持ってきたのはおもちゃのカタログだったそうです。トミカが欲しいらしい。それか仮面ライダーのなにか。このおじちゃんは甥っ子にはなんでも買ってしまう。甥っ子はそれをわかっている。話すテンポはゆっくりじゃないけど、「かわいい」という言葉だけすごくタメて言う(〇〇は〇〇ですよね、〇〇だったりして〇〇って〇〇じゃない? 〇〇みたい。ははっ、か~~~わ~~~い~~~い~~~~~)人だから、甥っ子の話のときは滞空時間が増える。
その友人、もちろん好きですけど、どこが好きかというと、きちんとしていなくても構わないっていう部分については徹底的にぼんやりしているところ。めちゃくちゃ隙がある。見た目はむしろちょっといかついくらいなはずなのだけど、ひとりで都心にでると四回に一回は必ず宗教勧誘を受ける。それでも善人なので、たとえばちょっと困ってそうな人がいると自分から声をかけて手助けすることもある。夏には、新宿で荷物を運んであげたおじいさんから日本酒が二瓶���られてきていた。けどそんな「いい話」はとても珍しく、たいていは何らかの勧誘につながっている。みなさん!都心で急に「このへんで、いいラーメン屋知りませんか?」と話しかけられたら要注意ですよ。
Tumblr media
赤レンガ倉庫でビールをあけて、「このあいだ話」に興じます。彼の鼻の穴に血の乾いたあとがあるのを見つけました。今朝がた鼻血をだしたのかもしれない。
ワールドポーターズをぬけてコスモワールドの方向へ。固有名詞というか、ローカル名詞ばっかですみません、桜木町駅にむかって移動しているということです。ワールドポーターズっていうのはショッピングモールで、丸見えになるポイントがあるとは知らないんであろう場所でそこそこの年齢の男女が、エレベーターを待っているにしてはやりすぎなスキンシップをしているさまをふたり見下ろして、ちょっとひいたあと、露出狂というか、野外で性的な行為に及ぶ自分を人に見て欲しいというタイプの人がインターネット上にアップロードしていた、横浜の夜景をバックにはしたない姿になっている自分自身の写真がかなりきれいな写真で、画質もそうだが横浜の夜景がきれいで、あまりの美しさに笑ってしまった、みたいな話をしていました。ビールはあけたけどお互いひと缶ずつだけだし、とっても穏やかな調子で話しています。「おもしろ」になるかと思って書いているだけですが、この話の強烈さが印象つよくて、ほかの話題は思い出せないな。僕はそのとき、去年末にまた別の友人とワールドポーターズ通り抜けてたときのことを思い出したりしていた。そのときは、椎名林檎の文体はほかの人がつかうとクソ寒くなるよねって話をした。その話をしているとき、わたしは「無罪モラトリアム」のバンドスコアの質感を思い出していた。それから、カラオケで福山雅治をいれる人がきらい、みたいなことを(話し相手が)していた。大森靖子さんやパフュームやあいみょんの話がされていた気がします。これはなん��伏線でもない。
 時空を戻す。甥っ子大好きぼんやり人間の彼と歩く横浜、桜木町駅の近く、「日本丸(日本丸メモリアルパーク)」のところでアイドルっぽい人らが握手会っぽいことをしていた。ファンっぽい人たちが群れてたので近寄ってみたけど、ポスターのひとつも掲示されていない。あとで「横浜 握手会」などでツイッターを検索したら、NON STYLEみたいな名前のアイドルさんらが握手会してたみたい。
それを見送って道を渡ると、ショッピングビルの中庭的広場で大道芸人が「最後の大技」をしていました。机や椅子を重ねた上に立ち、火を飲んだりしていました。
横浜美術館の外観(トリエンナーレ仕様になっている)すらみずにランドマークタワーのあたりのビルにはいる。ジェラート屋さんの列で子供が走りまわる。彼はハンディアイロンと一般的なアイロンと、両方持っているがあまり使わない。今日着ているディーゼルの上着にはアイロンをかけている。高かったから。彼は翌日の予定を面倒がる。忙しさの波が激しい職場で、かなりヒマなとき机に突っ伏して寝る先輩がいる。「海上散歩」を読み間違えて「陸上散歩一時間800円だって」と看板を音読する。桜木町駅前を、彼は写真に撮る。兄が「ゆず」のファンだから、ゆずの聖地に立ち寄ったという自慢をしたいらしい。けれど、駅を知っている人はわかると思うが桜木町駅前って別に写真に撮ってわかりやすいような感じじゃない。桜木町駅にきたことのない人が写真だけぱっとみて「あ!あそこね!」ってなるようなものじゃない。まあ、わたしの知ったことではない。
 以上のように事細かに、「話題はなんであったか」「どのような言い間違いがあったか」「どのような仕草があったか」「そのとき、なにを思い出していたか」などを書き留めてしまうのは、自分がなんらかの時間を過ごしたという歯ごたえに「この人と一緒にどこどこにいきました」という情報だけでは不満足が残るからだ。はっきりくっきり、どうでもいい情報をこそ記しておかなければならない。という焦りを持っているためです。とはいえ、律儀に書き残すことを近年ほとんどしていないのだけど。相手のプロフィールなど、つまり出身地や家族構成、勉強していたことや部活について、あるいは恋愛歴や読書歴は、なるべくメモするようにしている。見返すこともないのだけど。
 桜木町から乗る電車はそのまんま和光市までゆく、東横線と副都心線のつながったやつ。車内で彼は、甥っ子が遊園地の、パンダの乗り物に乗っている動画をみてニコニコしています。わたしは、NON STYLEが好きという彼のその振る舞いをみながら、姪っ子のことになると涙腺がもろくなりすぎてしまうオードリーの春日さんのことを連想していました。
Tumblr media
わたしはいま、映像作品をふたつ作っています。そのうちのひとつは、さまざまな人へインタビュー取材をさせていただき、収集したものを編集する、というもの。この制作のためのインタビューを撮らせていただくため、中華街の翌日、出演者の人に会いに行きました。場所は自由が丘です。ロケ場所が自由が丘であるということがわかるショットが欲しかったのですが、駅前では謎のイベントをしており、この音がうるさい。だから駅前を撮影しても都合が悪い。八代亜紀さんの新曲が云々、という声が聞こえたので一瞬、「え!八代亜紀さんがきているの!??うそ??」と期待しましたが、うそでした。駅前で、電波にのせずにラジオをやっているような状態。大音量でただ曲を流す。曲と曲の間に司会者によるトークがはいる。「去年は誰々さんをスペシャルゲストとして呼ばせていただいておりました!しかし台風のために中止になりました。それで、フィナーレを迎えることができませんでした!それでは次の曲です!」つって阿部真央的な感じの曲が鳴り響いていました。
AマッソのTシャツを着た出演者からたっぷりインタビューを搾りだし、小雨から逃げつつオムライスを食べて夜に解散。どのようなことをして、どのような話を聞いたのか、これは作品に関わることですしあまり書きませんが、それはそうとこの「作品」をどうしたものか。発表のアテがないのでふわふわ、はらはら、しています。この映像はいったいなんなのか。
 しかしこの週末の日曜日にも、やはり同じ作品のためのインタビュー撮影を行った。ZOOMを利用しての録画です。というか、出演者8名のなか、7名はZOOMでの録画であります。自由が丘までロケしにいったのはかなり特別なシーン。背景や、写っているひとの胴体が動く映像が欲しかったのです、ZOOM録画映像だけだと視覚的にあまりに単調なのでね。とはいえこの日曜の録画は特別であった。なぜならインタビュー出演者は映像制作に携わっている人だから知識がある、それ以上に、部屋に機材がある。ほんでもってバッキバキにキマった画面になるってえワケ。
 発表のあてのない作品制作を重ね、僻みでしかない被害妄想を膨らませ、自分の制作活動を呪いつつ、まあどうせいつか死ぬからいっか、と自分に言い聞かせてすごしています。ほんとうは金沢21世紀美術館に展覧会をみにいった話まで書きたかったんだけど分量的にこれでおしまい。お元気で。
Tumblr media
4 notes · View notes
ymkc · 4 years
Text
ALL THE BEST THINGS IN THE WORLD --- looking back on 2019
30日の日曜、いつものように恵比寿8で7人の友人たちと忘年会をして、オンを母に預けたままひとり遅く起きた月曜の朝、迎えに行く前に少し仕事をしようと近所のスターバックスに向かう。雨が降ったのかアスファルトがすっかり濡れていて、信号待ちをしながら、目の前を車が通りすぎて行く音を聞いていた。すばやく転がるタイヤが、雨で濡れたアスファルトをジューッとこするときの音。それはわたしが世界でいちばん好きな音のひとつで、でも世界でいちばん好きな音だってことは、その朝にあたらしく決めたんだった。これまでに、「世界でいちばん好き」をわたしは何度決めてきたかな、なんて思いながら、ぼんやりした頭でドリップコーヒーのヴェロナを注文したら、あまりに濃くて、半分以上残したまま店を出た。結局ほどんど時間がなく、パソコンは開かずじまいだった。世界でいちば��好きな歌に世界でいちばん好きな花、におい、食べもの、本、映画、それから世界でいちばん好きな人。36年ぶん、わたしなりになんとか広げながらそれでもまだ、せまいせまいせまい世界のなかで、何かを限定しながら生きてしまうことの傲慢さ、それでもこうしてしるしをつけることで、今のわたしがどんなやつなのかを、なんとか見逃さずにいることができている。
.
インターネットにものを書くこともジンをつくることもそうで、今年は意外にもそれがたくさんできた年だった。10月に予定していた展示は忙しさのあまり急遽キャンセルさせてもらったけれど、それでもジンは4冊ほどつくった。去年よりもたくさん映画館で映画を観た、3年前からずっと観たかった『タレンタイム』は良いタイミングでふたたび上映され、2回観に行くことができたし、1度は松樹とふたりで観れた。(すばらしい声で歌うハフィズにあわせ、カーホウが二胡をしずかに弾きはじめた瞬間の、あの旋律も「世界でいちばん」のひとつかもしれない。マレー語に中国語、タミル語、そして英語がひとつの映画のなかで響いてくるのもうれしい驚きで、あらためて、わたしはほんとはもっと多言語の空間にいたいんだと実感した。)
.
オンはオンでものすごく成長して、とにかくよくしゃべる人になったので、ふたりの関係性もずいぶん変わった。今までわたしが勝手に注いできた感傷的な視線をやすやすとはね退け、彼女は彼女なりの人生をいきいきと生きているから、わたしもあれこれ言葉にして書くことができなくなった(少なくとも今はまだ)。とりあえず彼女に関しては、辻邦生が水村美苗との往復書簡集でつかっていた「生きることの嬉しさを何げなく生きる」を実践している人としてわたしの目に映っている。
.
それでそう、今年のわたしはどんなやつだったか! たぶん、ある人から見たら「やっかいで口うるさい」(松樹かも)で、また別の人からみたら「いつも寝てる」(オンだと思う)、それから「ちゃんと夜寝てほしい」(母かな)、「わりとがんばってる」(父かな)とか、あとは「ずいぶん夜でかけているなあ・ジンつくってるなあ・インスタストーリー活用してるなあ・ピクニックしてるなあ・返信おそいなあ・おそいなあ・おそいなあ」とかそんな感じかもしれない。でも、ほんとにほんとにわたしがどんなことをしてたかと言えば、とにかくこたえは「仕事に追われている」だった。人生ではじめて(これまた限定のひとつ)毎月締め切りがある(しかも2回)仕事をして、というより人生ではじめてまともに仕事をしてると言ってもいいくらい、これまで何もできていなかったわたしにとっては、とにかく大きな変化だった。裏方で名前が出ない仕事だけど、翻訳をすることができている。人の言葉が、じぶんを通過してまた別の言葉になっていくあの感覚は、何にもまさる喜びがある。それに、自分で言葉を紡ぎだすときよりもずっと、孤独じゃない。そうしたとにかく「大きな変化」が今ではずいぶん通常モードになり、そのまま来年も継続するので、ありがたいなと思うばかり(そして締め切り抱えたまま新年を迎える)。
.
あとはオイリュトミーもなんとか続けられているし、夏には言語造形のワークショップにも集中して通うことができて、学びらしい学びの多い年でもあった。オンとたくさん歌も歌った。ピクニックもした。世界でいちばん大好きな麺のブンボー・フエも、外食のチャンスさえあればかならず食べた。年明け早々にはShe isとのコラボレーションで詩のストールとステッカーもつくることができたし、ながいインタビューも受けて、エッセイも書いた(テーマは「運命」)。日韓関係の悪化で大好きな書店にも影響が出て、みんなで何かできないかと「連帯」というテーマを掲げてはじまったポスター展に、みじかい詩の言葉を提供させてもらい、それは日本各所の書店やスペースにまで広がった。髪の毛を十数年ぶりにばっさり切って、1度はせいせいした気持ちになったけど、やっぱり心もとなく今はまた伸ばしている。オンがはじめて写真を撮ってくれた。そのじぶんの顔をわたしはとてもいいと思えた。プールにも行ったし、海でも泳いだ。あたらしい音楽に衝撃をうけて、ひとり夜の道でわんわん泣いた。3度、他人に大きな怒りをおぼえた。そのうちのひとりにはその場で声をあげた(タクシー乗り場でつっかかってきた中年男性)。渋谷のスクランブル交差点で、深夜にソフィ・カルの作品をながめるぜいたくもあった。偶然、となりに知り合いの男の子がいた。偶然知り合いに出会った回数はおそらく7回ほど、ますますシンクロ度が高まっている。相変わらず朝は起きれないし、いまだに自転車には乗れないけれど、音が、声が、風のようにじぶんのからだを先へ先へと連れてってくれる、そんな経験を何度かした。言葉が好きで好きでたまらなくなって、それは文字を超え音にまで広がり、だから久しぶりにまた、ポエトリー・リーディングをしたいと思えるようになった。じぶんの声を、のどを、からだを、はじめて大切に思うようになった。それはちょっと心細くて、なんだか初恋みたいなできごとだった。だからこそ、体調をやたらと崩し、産後からはじまった自己肯定感の低下が誕生日の夜にピークに達したときには、心底落ち込んで、これまでにないくらい(これまた限定)じぶんのことがいやだと思ったけれど、そのたびに助けになったのは、ジンの感想をくれる人たちと、かつてのじぶんが書いた文章だった。
.
「世界でいちばん」はいつのまにか2ばん3ばんへと後退するか、ともすればすっかり記憶からこぼれ落ちてしまうし、「人生ではじめて」はそう思った瞬間にすぐ経験に変わっていく、「これまでにない」と大げさに思っていたできごともそのときの感情も、時間が経つうちに次々と更新されてまた、そのくり返しくり返し。
.
2本の線香花火がちりちりとゆっくり点滅するみたいな、かすかにあやうい予感の2020年、ねがわくば、ここにいる・ここにきた・ここからでていく、すべての人たちがそれぞれに、世界でいちばん好きなものに胸ときめかせ、同時に、何度も何度もそれを忘れてしまってもこまらないくらい、安心で満たされてた気持ちで、日々を過ごせますように。
おおみそかの、おやすみなさい!
Tumblr media
2 notes · View notes
unintendedzines · 5 years
Text
★UNINTENDED ZINES★ (2017〜)
.
.
ONという名前の子どもが生まれたのが2017年。いらい、(unintended.) LIARSはいったんおやすみして、現在は小さなジン(トートバッグやポケットにさっといれておける、子といる人でも気軽に手に取りやすいもの)を気が向いたときにつくっています。
.
.
2019 -  『わたしがぜんぶ思い出してあげる』
Tumblr media
「ねえ、こういうとき、どうしたらいいのかなあ? 親密さが損なわれたり、誰かと敵対してしまったり、よくわからない哀しみに、ぜんたい胸が苦しくなって、どこにいたって暗いとき。何かをすごくわかった気がして、でも何一つさわれない。天の果てまで、骨の奥まで、行ったり来たりを繰りかえす。そして息を、はあ、はあ、はあ。目を閉じて、目を開いて、たまに笑ってまた黙ったり。誰かと寝たり、一人でいたり。ねえ、この哀しみも、きっとすぐになくなっちゃうんだろう。この思いも、不安も、やるせなさも、いつの間にか忘れてしまうね。いつもと同じやり方で、いつもと同じ時間をかけて、少しずつここから無くなるね。いつもとぜんぜん変わらない。さびしさだけがそこに残り、哀しみはいつも忘れられる。」
.
詩・エッセイ・格言・写真・日記 etcで構成されたささやかなジン。あるふたつの事件を通じて、思い出すこと/忘れること、ニュースで語られること/個人が物語ること、そして分断と融合、喪失感・悲しみ・敵対の心・恋・そして親密さ……についてぐるぐる考えた、わたしにとっては祈りの言葉のような、それじたいがひとつの詩であるような小さな本。誰かの手のなかでめくられるたびに、ちょっとしたやさしさや親密さなんかが発動したらいいな、と思ってつくった。
.
For more info & backstory 👉https://ymkc.tumblr.com/post/186115988071/but-i-cant-remember-a-thing-about-them
.
.
2018 - 『SMILE, WHEN OUR EYES MEET.』
Tumblr media
(わたしは水のなかで、あなたたちの脚がどう見えるかを知っている。それはとくべつ美しい光景ではないかもしれないけれど、どこかわたしの胸を打つ。はげかけたペディキュア、音もなく何度も跳ね上がるつま先。あなたのすね毛には、ぽつぽつと小さな泡の玉がいくつも浮かんでいる。)
.
「目が合ったのなら、微笑んでほしいよ」というタイトルの本。人と会話することと孤独についてのナイーヴな考察……がテーマ。人と出会うこと、人と会話すること、離人感について、ささやかな夢のはなし、カウンセリングに通っていた日々、手話とベビーサインのこと、書くことの孤独と書くことによる出会い、椅子取りゲーム恐怖症、前世療法体験、それから詩経やらオイリュトミーやらAnimal Collectiveについても少々、と、わたしの当時の頭のなかをそのままぜんぶ書いたような内容。ちょうどその時に読んでいたカーソン・マッカラーズの『心は孤独な狩人』がバックグラウンドテーマに。
For more info & backstory 👉https://ymkc.tumblr.com/post/180201500191/new-zines-distorted-twins
.
.
2017 - 『愛を、まぬがれることはどうやらできないみたいだ』
Tumblr media
「書きたいことはたくさんある。形にして手のひらに載せ、一緒にさわったり舐めたりして大事だね、大事だねって確認したいことたくさん。でも、わたしの手元にはラップトップがない。最近はうまくそれに向かえない。そしてラップトップなしのわたしはたいていの場合役立たずで、文字にして残らないそうした思いは、見上げた空でばたばたと飛ぶ山鳥のあとについて消えていってしまうだけ……」
.
マタニティ・スイミング、モーガン・フリーマン、ソフィ・カル、須賀敦子、『悪霊』、『夜はやさし』、デッサン・モデル、それから魂と共時性etc、などをテーマに、子がうまれる前・生まれた後に書きつづったショート・エッセイ15篇を収録。
.
.
.
.
.
.
6 notes · View notes
keijukita2018 · 5 years
Text
戦略会議 #02 作家づくり/ 展示まわりソフィ・カル 3本立て(原美術館・ギャラリー小柳・GALERIE PERROTIN)
しっかり事前周知しての展示まわりは実に久しぶりに開催。 今回は僕の企画で「ソフィ・カル 3本立て」とした。 ソフィ・カルは写真作品、テキストを巧みに扱う現代美術の需要なアーティストでナラティブアートの作家としてよく知られる。 あまり「ナラティブ」を得意分野としない僕としてはかなり挑戦的な企画ではあったのだが、大学院で取り上げられて多少予備知識を学んだこと、院の同級生に「ナラティブ」を作品とする仲間がいるので、その影響もあってこの時期に展示をまわるなら、これしかないと都内三箇所で同時に別の作品を観れる初日である2月2日をピンポイントで選んでの企画にした。 他の作家さんの展示は今回は全部拒否しての純ソフィ・カル巡りとなった。 結果を先に言えば三箇所とも非常に興味深い展示で、ソフィ・カルの作品がいかに重要であるのか?ということを理解するには十分な展示まわりとなった。 最終地点となったGALERIE PERROTINでプリントの購入を決めたことはいかに今回の展示まわりが充実したものであったかを説明するには十分であると思う。 まず、開館と同時に原美術館「限局性激痛 原美術館コレクションより」へ。 この展示は1999年の展示の20年ぶりのフルスケールでの再展示となる。 1階には人生最悪の日を迎えるまでの92日間をカウントダウンする作品、そして2階にその最悪の出来事から立ち直るために人生最悪の出来事を人に話し、代わりに相手の最悪の出来事を聞くというやり取りの中で回復していく様を作品との2部構成で展示されている。 最初をこの原美術館にしたことはとても正解であったと逆算すると思える。 「ナラティブアート」とはどういう作品を示すのか?とそのどこがすごいのか?写真とテキストを扱う作品とはということが非常にわかりやすい展開で展示された作品であったからだ。 1部である1階の展示をひとまわり92日分の作品を観た時点で「ソフィ カル…作品ちゃんと理解してなかったけどすごいじゃん!」となっていた。 何がすごいと感じたのかというのはナラティブアートを創るそのやり方だ。 物語を構築していくものと考えがちなナラティブアートだが、彼女のこの作品に関しては多少考え方をシフトさせる必要があると思う。 92日からカウントダウンしていく仕組みと写真、パスポート、通帳のコピー、チラシ、メモ、本などを使っての展示の方法によって違和感なくソフィの言う所の「人生最悪の日」へ向かう物語を見事なインスタレーションとして組み上げている。 物語を「違和感なく」感じるということろが実は恐ろしい。 「人生最悪の日」というのはあらかじめ決められていた出来事ではない。 「スタート時点では知り得なかった92日後の���来事が実はスタートになっている」という事実は違和感にならない。 つまり、92日後に起きる出来事までの91点の作品に感じる物語性は多少の上下はあったとしても本来はソフィの単なる日常であって、その中に物語を感じるのは巧みなテキストの演出と作家の誘導があったとしても「92日後」に何かしら人生最悪の出来事が起きると知らされた鑑賞者の中で創られている。 ソフィそのもののパーソナルな問題をスタートとし、作品が鑑賞者も巻き込み共有した状態でナラティブアートとして現実側の中に機能する仕組みが作品全体に組み込まれ構成されている。 結果としてこの物語が持つリアリティが真実かフィクションか編集されたものかといった類のことを無意味にする。圧倒的なリアリティはすでに鑑賞者には共有されているからだ。同時にそれは写真のもつ「これは事実である」という神話そのものに揺さぶりをかける批評性を伴う。 現実である意味のない日常を意味がありげな非日常としてナラティブアート化され、パーソナルな問題に鑑賞者を引きずり込むこの作品づくりのメゾットにまず圧倒的に感心した。 2部は、頭でフランスに残してきた恋人との間で起きた人生最悪の出来事がなんであるかを鑑賞者は知る。 ソフィが他者へ話をした人生最悪の出来事と、その代わりに聞いた相手の最悪の出来事とを写真とテキスト(布に刺繍された文字)とで交互に並べて展示した作品。 高ぶった感情はテキストの量と刺繍の糸の背景の布とのコントラストによって絶妙にビジュアル化されている。 他者との交換を終えるごとにその文字のコントラストがなくなっていくことで、ソフィが自身の出来事を客観視していく段階が見事に可視化されている。 感情のタイポロジーのように前後の差からその変化を読取る。 図録によれば、99日(展示は90日まで)をもって背景の布と同化し見えなくなった文字は自身に起きた最悪の出来事を消化完了したようにも、客観視のプロセスが完了したようにも受け取れる。 おそらくその後に1部の作品制作を構成したのだろう。だからこそ、すでにその作品は単なるパーソナルな作品ではなくなる道筋を間違いなく進めたのだろうと考える。 すでに現実の過去にいる自分という人物を登場させたナラティブアートを構成する準備ができているということだ。
Tumblr media
GALERIE PERROTINでの展示は身の回りの人(家族など)の「死」を取り扱った作品なのだが、同様のことが言える。
自分ごととして考えてみたが、これは僕にはできないと思える。そういう風に目の前の出来事とは向き合えない。 GALERIE PERROTINがレセプションのために17時からのオープンとのことだったので、先にギャラリー小柳「なぜなら(Parce que)」を観に銀座へ。 こちらは国内初展示となる「Parce que」のシリーズから9点の展示となる。 額の前面にかけられたフェルトに「Parce que(なぜなら)」からはじまるテキストが刺繍されていて、そのフェルトをめくることで写真作品が観れるという作品となっている。 「なぜなら(写真を撮った動機と言っていいのか?)」が写真を観るよりも先にテキストで指し示めされているということだ。
Tumblr media
原美術館での興奮はこの展示にたどり着いていい意味で一気に冷却された。
さっきまでのとっつきのいいナラティブアートではなく、急に難解なコンセプチュアルアートになったことがその一因である。
従来、鑑賞者は写真作品を画像のイメージを読み解くことで作家の「なぜなら」を知ろうとし、その「なぜなら」の幅の広さを鑑賞者の入り込む余白としてもっていることを芸術表現としては解釈の幅として良しとされる。 この「Parce que」はそれを完全に逆手にとっている。 展示を観ながらヴィレム・フルッサー『写真の哲学のために』で読んだテクノ画像について考えた。 第一の抽象である画像、第二の抽象であるテキスト、第三の抽象であるテクノ画像。 テキストは本来は画像のメタコードだ。そして、テクノ画像はテキストのメタコードで、テキストを説明するためのものということになる。 「Parce que」の展示 の仕組みにより強制的にテキストから見せられるこの情報伝達の順番の逆転は、ある意味で鑑賞者にこの写真作品をテキストのメタコードであるテクノ画像として意識させ、自覚させられているのだと感じた。 つまり、「なぜなら」とははじまるもののこのテキストは画像を説明するわけではなく、画像がテキストを説明する。そして、この展示の仕組み(流通のプログラム)によってソフィの写真作品はフルッサーのいうところの伝統的な画像とは違うものと明らかに区別して鑑賞者に情報を届ける。
この20世紀末のフルッサーのヴィジョナリーな展望を、コンテンポラリーアートの重要人物であるソフィ・カルが2020年を間近にした現在に意識して作品としたかはわからない。 ただ、本を読んでいた時には非常に興味深い内容であった「テクノ画像」であることをこうも具体的に示されるとそれはそれで…と少し面白さとはちがった部分に何かが行き詰まる。 ただ、同行した仲間たちの反応を観るとこれに関しては僕自身が考えすぎていることは明白だった。純粋に面白いと感じるらしい。 17時ジャストにGALERIE PERROTINの入口の前にいると僕らの後ろにはかなりの行列がいつの間にかできていた。 GALERIE PERROTINは日本に唯一ある海外の国際的なメガギャラリーのひとつだ。六本木に来るたびに展示を観に足を運んでいる。 17時にはガラス前面に幕を貼ってVIPの対応をしていた。聞こえてきた感じでは作品が購入されたようだった。 17時のオープンと同時にギャラリーには続々と人が入った。 シャンパンが振舞われ、ギャラリー内には妙な熱気が溢れた。 1/4ほどの人は海外の人だ。
Tumblr media
NYやヨーロッパでは当たり前に行われていると聞いたが、日本にあるギャラリーでこれほどしっかりしたレセプションをするギャラリーを聞いたことがない。 GALERIE PERROTINの展示は「Ma mère, mon chat, mon père, dans cet ordre(私の母、私の猫、私の父、この順に)」 ソフィの身近な人(家族など)の「死」をテーマにした写真とテキストによって構成されたインスタレーションだ。 自身に多大な影響を及ぼしその上から目線をキリンとして例える母のこと、テキストと写真という作品の構成は医者でありアートコレクターであった父のコレクションにあった作品をスタートに父に認めてもらうためであったことなどのエピソードを聞きながら、非常に優雅な展示空間を味わう。 すっかりソフィ・カル作品鑑賞の免疫力がついていることもあって、苦手傾向にあった作品もすんなりと楽しめる。 ここでも図録を購入することにした。 普段はあまり興味ないのだが、せっかく買ったのだからと18時からの本人のサイン会まで会場にいることにした。 「Serie Noire」という本を使った小さい作品のシリーズがほしいと思ったのだが、さすがに予算オーバーで手が届かない。 サインをしてもらい、ひとしきり展示を見直してプライスリストを見ていると買える価格で、しかも事前に調べてきた印象的な作品のイメージがあるではないか! ギャラリーのスタッフの人に聞いて、プリントを見せてもらい即購入を決めた。 この出会いのための1日だったようにも思える。
5 notes · View notes
nrmkh · 5 years
Photo
Tumblr media
フランスの現代美術作家ソフィ・カル「Voir la mer」のプロモーションビデオの中で彼女はこう語る。
—私は真実を伝えようとはしない。真実とはもっと大きくて、複雑で、私的なもの、言葉にしないもの。
この言葉を聞いたとき、最近知ったデンマークの画家、ハンマースホイの絵が目に浮かんだ。静かにハレーションが広がる誰もいない室内画や、妻の後ろ姿がある室内画。ソフィ・カルの言葉を裏返せば、言葉にされたものの中には真実はない。
忘れ物をするとき、忘れられる物が必要なのと同じように、探し物をするとき、探される物が必要になる。探し物の場合は、その必要な物を見つけることが目的の場合もあれば、その必要な物がないことを確認する場合もある。前者はいわゆる探し物だし、後者は検査とも言われる。どちらにしても、何かしらの物が前提になっていることは変わらない。
平成がはじまったとき、日本社会のいたるところで見聞きできた「自分探し」も、やはり「探される自分」がどこか別の場所にあることが前提になっていた。しかしそれはすぐに幻想となり、「探される自分」などどこを探しても存在しない風潮へと移り変わる。そして、「ルーツ」「アイデンティティ」「自分らしさ」「自己決定」などの言葉に置き換わり、平成も終わろうとしている。
私が演出を務めている舞台が今週末本番を迎える。カミハマ演劇研究所・試演2「14歳の国」。3月16・17日@四天王寺スクエア。「14歳の国」は1998年に宮沢章夫によって書かれ、初演された戯曲。昨年2018年には宮沢さん自身が20年ぶりに再演している。「自分探し」に徒労感が広がっていたころに書かれたことになる。この戯曲に登場する5人の教師も、生徒のいない教室で探し物をしている。ただ、彼らの行為は、いわゆる探し物でも、いわゆる検査でもないように感じる。彼らは探し物が「ない」ことを確認し続けることで、自分たち人間の歪さを証明してしまっている。ソフィ・カルの言葉を敷衍して言うなら、彼らが作品中で語る言葉のどこにも真実はない。彼らが避けたもの、選ばなかったもの、語らなかったものこそが真実なのだと思う。
ご都合あう方、ぜひ劇場にお越しください。お待ちしております。
公演情報はこちら。 http://akebonoza.net/190316play.html
Tumblr media
1 note · View note
stem115 · 5 years
Text
Feb,2019
BOOK - 短歌ください / 穗村弘 - 雪あかり日記 / 谷口吉郎 - 魔法の色を知っているか? / 森博嗣 - 風は青海を渡るのか? / 森博嗣 - すべてがFになる / 森博嗣
EXIHIVITION - 東京藝術大学 卒業・終了作品展 - Voir la Mer 海を見る - Shibuya Crossing(ソフィ・カル)   @渋谷スクランブル交差点 - ピアニスト(向井山朋子)   @メゾンエルメス - 光の島(アントニ・タウレ)   @シャネルネクサスホール
1 note · View note
tokyoeizobrig · 2 years
Photo
Tumblr media
[News] 2022.2.20&27
三木はるかの個展がイメージフォーラムで開催されます!
旅団参加作家 三木はるか さんの単独個展が、渋谷イメージフォーラム・シネマテークで開催されます。 10年間の活動の集大成となる今プログラム。これまでの作品を一挙上映いたします。 両日とも本人のティーチインあり。どうぞお見逃しなく!
イメージフォーラム・シネマテーク No.1044 「撮る撮られる全部わたし ―三木はるかとセルフ・ドキュメンタリー」
Tumblr media
Aプログラム(4作品80分)
「にじむ・あふれる・こびりつく」デジタル/13分/2010
「もうアイドルなんかならない」デジタル/27分/2012
「わたしバスガイド、あなたたち修学旅行生」デジタル/11分/2013
「三木はるかるた2017」デジタル/29分/2018
Bプログラム(3作品102分)
「そげる・たわむ・外に流れる」デジタル/26分/2011
「劇場版三木はるか賞2018」デジタル/65分/2019
「三木自由律はるか2019」デジタル/11分/2019
※各日16:30の回上映後にティーチインあり。
ー イントロダクション ー
 ちょっと大げさに言ってしまうと、三木はるかも伊藤高志や大木裕之と同じくスタート地点からスタイルを確立してしまった映像作家である。というより、自作自演というスタイルが最初にあったので、創作を続けて来られたのかもしれない。これはひとつの才覚である。表現方法が多様化してなんでもありのこの現代で、個人がシングルチャンネルの「映画」表現にこだわってコンスタントに作品を発表し続けるというのは簡単なことではないと思う。しかも被写体は常に自分で、日常生活や人間関係をさらけ出さないといけない。まるでそのフィルモグラフィーは実験映画芸人と化した三木はるかの芸道一代記である。
 最初の作品の『にじむ・あふれる・こびりつく』は自らを登場人物として、メディアに登場するステレオタイプな人物像をカリカチュアライズして演じる作品だったが、2作目の『そげる・たわむ・外に流れる』は三木はるかが本人として登場し、自らの物語を語り始める。以降、虚実織り交ぜて(時には自虐的に)自身の物語を語るスタイルを中心としてフィルモグラフィーが増えていく。三木さんはイメージフォーラム映像研究所の卒業生であるが、その前に日本大学芸術学部映画学科の脚本コースを卒業している。その時に所沢のケーブルテレビ局でレポーターをした経験が自作自演の発端になっているのは、3作目の『もうアイドルなんかならない』で窺われるとおりなのだろう。ふと考えると、「脚本コース」の学生が自作自演するのは珍しいのではないだろうか。スタッフが様々な役割を兼ねる自主映画は別として、出演もする脚本家というのは映画史の中ではあまりいないはずだ。しかし、脚本を学んだことが作風を独特なものにしているのは間違いない。
 三木さんの作品はセルフ・ドキュメンタリーの形を取ってはいるが、現実を超越したいという欲望が常に渦巻いている。その肥大化した欲望が作品を破壊することなく、脚本を学んだ経験から生み出される緻密な構成と編集の妙によって映画的な興奮へ転換していくことに唸らされる。『劇場版三木はるか賞2018』はそんな優れたストーリーテラーとしての三木さんのひとつの到達点だと思っている。
 今回のプログラムはイメージフォーラム・シネマテークでは初の三木はるかの単独個展であり、10年に及ぶ自作自演の自己愛の集大成なので、全部見るとお腹いっぱいかもしれないが、まあ、お腹いっぱいだと思っていても、もうちょっとくらいは入るものである。(イメージフォーラム 門脇健路)
ー 作家による作品解説 ー
「にじむ・あふれる・こびりつく」
Tumblr media
NG、リテイク、OKカットの前後、長いコメント、ノイズなど、使えないと判断された映像たちは本編をよりよいものにするためにいさぎよくカットされます。映ってはいけない映像の残骸たちがスクリーンに映りたい思念を蓄えて逆襲してくるとしたら? ★イメージフォーラム・フェスティバル2012ヤング・パースペクティヴ入選
「もうアイドルなんかならない」
Tumblr media
NHKの人気番組『東京カワイイTV』からの出演オファーをきっかけにテレビに映りたい〈三木はるか〉が大奮闘。そのときもう1人の《三木はるか》は売れっ子アイドルとして苦悩していた。映像作家・三木はるかの公共放送レベルの野望は成就するのか!?一粒で二度美味しい虚実入り交じるファッショナブル映画。 ★イメージフォーラム映像研究所第35期卒業制作展最優秀賞 ★アイドル映画祭2019優秀出演者賞 ★東京フェイクドキュメンタリー映画祭2020入選
「わたしバスガイド、あなたたち修学旅行生」
Tumblr media
「ぼくたち1組A班は修学旅行で訪れた鎌倉の思い出を映像にまとめてみました」という設定で、働いている学習塾の先生たちに学ランを着せ、カメラを持たせ、演技をしてもらった。わたしはバスガイドになりたかった。映像制作の経験のない人間たちで映画を作ってみたらどうなるのか、リハーサルなしの一発勝負に賭けて撮影を試みた。 ★イメージフォーラム・フェスティバル2014ヤング・パースペクティヴ入選
「三木はるかるた2017」
Tumblr media
31歳。作家として��が出ず、不安定な収入、恋人にも距離を置かれ、心はマイナス方向に傾きます。せめてこの気持ちをかたちにしたいと自虐短歌を100首作りました。プライベートな悩みやけったいな恋愛観が詰まった歌たち。かるたにしてみんなで遊んでみましょう。 ★イメージフォーラム映像研究所第41期卒業制作展卒業生作品セレクト集選出
「そげる・たわむ・外に流れる」
Tumblr media
下着メーカーのワコールが発表した研究結果によれば、日本人女性の加齢による体型変化には「法則」があるのだそうです。そのことが書かれた2010年4月16日付け朝日新聞朝刊の記事を、わたしはトイレの壁に貼っていました。“登場人物が8ミリとビデオを行き来する”というアイデア��映画にするとき、毎日眺めていたこの記事がわたしの気持ちをキレイに汲み取ってくれたのです。 ★イメージフォーラム映像研究所第34期卒業制作展優秀賞 ★イメージフォーラム・フェスティバル2012ジャパン・トゥモロウ入選 ★第17回ながおか映画祭イメージフォーラム・フェスティバル2012ハイライト選出
「劇場版三木はるか賞2018」
Tumblr media
三木はるかが本当に魅力的だったら、番組の企画は頓挫せず映画祭で賞は獲れるし恋人もできるんです。しょうがないって愚痴るのは簡単だけどほっといたらもっとダメになる。だから全部、三木はるかがやることにしました。身に降りかかるアンラッキーはすべてネタに、映画のためなら人生をねじ曲げてもオーケーという境地に至った初の長編。 ★東京ドキュメンタリー映画祭2019入選
「三木自由律はるか2019」
Tumblr media
種田山頭火がカメラを持ったら何を撮るか?多分ね、自然とか風景じゃなくて自分ばっかり撮ると思うよ。生きざまの不具合に落とし前をつけたい令和元年の三木はるか。生前葬でもする?否、結婚式が先だ!山頭火のことばを胸にウエディングドレスをまとい街をさまよう。 ★輝け!令和元年度よりぬき短編映画祭選出
ー 三木はるか(みきはるか) ー
Tumblr media
1986年群馬県桐生市生まれ。2010年日本大学芸術学部映画学科卒業。イメージフォーラム映像研究所第34期・35期卒業。学習塾で国語教師をしながらセルフ・ドキュメンタリー形式の極私的実験映画を作り続ける。いまからでもなりたい職業は落語家とグラビアアイドル。私淑する映像作家はソフィ・カルとクリストフ・シュリンゲンジーフ。
1 note · View note