Tumgik
#九頭龍権現水神社
hidekigogo · 1 year
Photo
Tumblr media
昨日のウォーキングは、結局は大井町駅まで行ってゼームス坂を下って一国の新馬場駅近くまで。 大井水神公園を通過したあと進むとこちら、大井の水神社(九頭龍権現水神社)が見えてくる。 1865年に豊かな水の供給を願って水神を祀ったのが始まりだそうな。こういう史跡をウォーキングの途中に見るのも良いな。 #大井の水神社 #九頭龍権現水神社 #品川区 #史跡 #品川区史跡 (水神社) https://www.instagram.com/p/CqCfQy4yGWm/?igshid=NGJjMDIxMWI=
4 notes · View notes
toshiki-bojo · 2 years
Text
俊樹五百句
虚子の「五百句」と対峙したい。虚子はそれを五十年ほども掛けたが、この作句期間は一週間に過ぎない。出来不出来以前にこの名著なる存在と対峙したかった。俳句の存在意義だけがこの試行錯誤の源である。短い人生である、我が愚行を是非批評して頂きたい。
坊城俊樹 令和4年8月
Tumblr media
弔ひの夜に横たはる暑き襤褸 浮浪者の襤褸に星降る夜となりぬ 弔ひの夜の白服なる異形 弔ひの杖に樹海の町暑し 浮浪者の眠る窓とて朧なる 夏の灯のまたたき琴座鳴るといふ 幽霊や露台に支那の戦没者 幽霊の招く小路の風死せり 夏の路地女幽霊絢爛に 星の降る夜へ英雄の霊かぎろふ
Tumblr media
国士無双あがる男へ星流れ 夏の夕遺族は骨を探索す 夏夕べ黒き連鎖の遺族たち 遺族らは夜より黒し星流れ 哀しさは真夏の盆へ地震きたる 地震の町に吠える家守の夜でありし 恋人も濡れる家守の夜となりし 母死して星も死すてふ家守の夜 家守らの目の爛々と星見上ぐ 家守らに昭和の記憶ありにけり
Tumblr media
金色の家守は母の野望とも 父がつけし渾名の犬へ星流れ 大蛇の我が天井を護りたる 姫蛇の碑へと真夏の夜の夢 蛍火に意思といふものありにけり 山泣くも山笑へるも蛍へと 犬死して総理も死して蛍へと 一億の蛍の一つ死してをり ほうたるの火に照らされて万華鏡 ほうたるの乱舞を待てる半旗かな
Tumblr media
火蛾ひとつ火焔の中を舞うてをり 蛍来る夜は両親へ星降る夜 死ぬ匂ひして晩年の蛍籠 怪しげな教会へ入る蜥蜴かな 万華鏡の色の蜥蜴や月を追ひ 猊下そは百歳に死し蜥蜴また 猊下死す百一の星流る夜を 猊下逝く蜥蜴は天の星仰ぐ 猊下逝く十の契りを夏の夜に 総理逝きしばらく夜の火蛾として
Tumblr media
猊下逝く祇園の夏の夜の契り 星流る方へ杖つき神楽坂 夏の夜の三味の灯しは籠もらざる 懇ろに幽霊を待つ簾上げ いつも見てゐて見てゐない裸かな 貪りて夜の怨霊の裸とも 風通す裸の窓をすべて開け 恩讐もある傷跡の裸体とも カンバスに幾何模様なる裸体 日当たるとやはらかくなる裸体かな
Tumblr media
陰翳の裸の体囁ける 因果なる裸体を褒めてゐて死せり 裸体なる女カオスの縮図とも 茅舎忌の我を白痴と思ふかな ヌードデッサンせんと孤高の茅舎の忌 茅舎忌といふ忌まはしき忌なりけり 俳壇に生けるも死ぬも茅舎の忌 茅舎忌の猿股を日に干してあり 金剛の露現今の茅舎ゐて 口唇に薬挿し入れる茅舎の忌
Tumblr media
河童忌の屋根に墜ちたる龍之介 河童忌といふ祝祭のやうなもの 蚕豆に天使の翼ありにけり 蚕豆の妻の故郷はカタルーナ 蚕豆といふ処女作のやうなもの 蚕豆を剥き深緑やや遺憾 蚕豆の筋のあたりを背骨とも 蚕豆のやうな赤子を授かりし 蚕豆とは一卵性双生児 バンクシーの絵は白黒に夜の秋
Tumblr media
我が瞳孔まもなく朽ちて夜の秋 丑三つのマンゴーゆつくり熟すなり 丑三つの蜘蛛透明な糸を吐く 斬られる待つ丑三つの熟柿かな 愚かなる夢の中なる熱帯夜 しづかなる女の舐める熱帯夜 黒蛇が白蛇を呑む熱帯夜 括れざる腰振る真夜の熱帯を 母さんが父さんを呑む熱帯夜 口唇を襞と思へる熱帯夜
Tumblr media
熱帯夜朱き口唇とて腐臭 熱帯夜とはずぶ濡れの吾子の夢 峠路に幽霊を待つ月見草 裏切りの美人薄命月見草 月光やちやん付けで呼ぶ影法師 月見草火星より木星が好き 月見草路地の子やがてゐなくなる 星の降る夜はひとつきり月見草 月見草恐らく祖母は浮気した 新婚の路地の匂へる月見草
Tumblr media
日覆を立てる穴とて深淵に 日覆のおほひて赤子腐敗せり ビルよりも高き日除けを立てにけり 男一人日除けを出でず老いにけり 裸族らし我が家の下の夫婦かな 裸にて人に逢ひたく皮を脱ぐ しづかなる蛇しづかなる自死をせり 蟻と蟻獄を出でたる如出逢ふ 灯の蟻といふ見当たらず羽蟻とす あの蛇を保育園へと見失ふ
Tumblr media
青条揚羽より高き蝶のなき 金輪際黒筋揚羽見失ふ 黒揚羽より正装の男かな 瑠璃揚羽祖父の遺墨を飛び立てり 暑き電線暑き電線と出逢ふ とぐろ巻く蛇地境を管理せり 大いなる物の崩れががんぼの死 青き星流れて白き星流れず 蟷螂と格闘をして日記とす 暁に麦飯を食ふ祖父の髭
Tumblr media
亡霊が炊いた麦飯吾れのため 麦飯の茶碗に描くただの柄 麦飯に卵二つの豪華さよ 麦飯を母は嫌がり父も嫌がり おばQを見て麦飯を食ふ至福 箸は茶で洗ふ麦飯たひらげて 麦飯を父は食はずにバタを食ふ 麦飯といふ軍縮のやうなもの 麦飯にのりたまかけて邪気かけて 仏教にあらず神道麦飯を食ふ
Tumblr media
麦飯を御霊に捧ぐことならず 麦飯で鉄腕アトム見てをりぬ 昭和三十六年の麦飯豪華なり 麦飯といふ神道のやうなもの 瑠璃鳴くや御霊のやうな声溢れ 神域を歌へる瑠璃のすきとほる 殉職の御霊へ瑠璃の鳴きにけり 銃弾に斃るるときに瑠璃鳴けり 天照大神きて瑠璃鳴かせ 天辺の虹の上より瑠璃鳴けり
Tumblr media
虚子とのみ彫られし墓へ瑠璃鳴けり 坊城家六代目へと瑠璃鳴けり 勾玉の青のひとつは瑠璃の声 瑠璃何か喩へてみれば金剛に 夏燕折り返し来る消防署 三次元を四次元に斬る夏燕 生れ替るなら岳麓の夏燕 青空を巻き込んでゆく夏燕 夏燕鏡を斬りてさかしまに 天辺に仏来給ふ朴の花
Tumblr media
朴の花白く翳りて懇ろに 朴の花の中に釈迦尊をらざりき 虎尾草に毛並のありて逆立ちて 虎尾草の揺れて待ちたる未通女かな 金輪際虎尾草と縁切ると言ふ 虎尾草の先くねくねと蠅を追ふ 梧桐に影といふもの濃かりけり 樹海めく梧桐たちに迷ひたる 梧桐を仰ぐ超高層仰ぐ 梧桐の葉とは天狗の団扇かな
Tumblr media
梧桐やブランコは立ち漕ぎ続け 梧桐の翳に不良の煙草吸ふ 梧桐に青春である疵を彫り 梧桐の伐られ虚空の天となる 山笠の波動花鳥子より届く 山笠の句の勇壮な波動来る 山笠に恋といふものありにけり 博多つ子純情の夏なりしかな 山笠の日と生誕の日と隣る 純情の山笠に夢馳せてをり
Tumblr media
山笠に天神颪とは来たり 金亀虫裏返りたる真夜の褥 黄金虫夜を引き摺りて灯へ入りぬ 灯に入手夜の帝国の黄金虫 羽蟻の夜玻璃にべたりと都市の闇 羽蟻翔ちお日様に溶けなくなりぬ 子を捨てし母は戻らぬ羽蟻の夜 羽蟻の夜金輪際の父は帰らぬ 羽蟻の夜弔問はなほつづきをり 茅舎忌の卍となりて日章旗
Tumblr media
露の世へ消ゆる人あり茅舎の忌 茅舎忌の夜が流れてしまひたる 隻眼が見えなくなりぬ茅舎の忌 龍子の絵どこか稚拙な茅舎の忌 茅舎忌の流れ流れて星ゐない 吾妹子の胸やはらかき虎が雨 吾妹子の海へ尿する虎が雨 煙草屋もとうに死に絶え虎が雨 土用波恋愛はもう星屑に 岬越え来る土用波白々と
Tumblr media
土用波いよよ怒濤となり崩れ 子が一人攫はれてゆく土用濤 土用濤灯台を越え来たりけり 元総理死にて土用の波濤へと 波怒濤土用の夜の人攫ひ 伝説の出水川とはこの小川 子を攫ひ妹を攫ひて出水川 出水川と記憶流れて悪夢とも 出水川恋の破綻も流しゆく 虚子塔に人来ぬ日なる最澄忌
Tumblr media
最澄忌千日回峰終るころ 叡山は星の降る夜の最澄忌 叡山をさ迷ふ夜の最澄忌 最澄の忌の極楽の湯舟かな 最澄忌灯す頃の先斗町 祇園にて猊下と���みし最澄忌 萍の隠沼として河童棲む 萍を髪に見立てて河童立つ 萍の茂り月光留めたる 妖精が腰掛けてゐる蛭蓆
Tumblr media
丑三つの月光にある蛭蓆 優曇華へ星やさしくて月やさし 優曇華のいのち揺らぎて月を待つ 儚きは優曇華の茎なりしかな 優曇華にいのちあかりの灯せり 優曇華に神降臨すひとつづつ 母死して優曇華の情なしとせず 優曇華へ言葉少なき真夜の人 ケルン積む星降る夜となりしかな ケルン積む大岩壁と対峙して
Tumblr media
ケルン積むひとつひとつに女の名 行李から恐らく祖父の登山帽 恋をして山登りして死に逝けり ロッククライミングの刹那あの夏を しづかなる人しづかな死夜の秋 夜の秋幽霊ももう寝静まり 恋をして失恋をして夜の秋 瞳の奥の闇へと星の流れゆく 星の降る中に月降る夜の秋 蟻ひとつ彷徨うてゐる夜の秋
Tumblr media
死顔の威厳なるかな夜の秋 曾祖父も祖父も今宵は夜の秋 星ひとつ艶然とある夜の秋 夜の秋網膜剥離みたいな灯 羅を着て恋などに惑はされず 浴衣着て金魚の柄を泳がせて 羅を着て老いらくの恋をせむ 羅に序破急といふ恋のあり 妙齢は達磨柄なる浴衣着て 浴衣着て恋に窶れてしまひけり
Tumblr media
祖父と祖母らし残像の藍浴衣 羅の包んでをりぬ裸体かな 羅の包み適はぬ恋をして 浴衣着て恋の乳房となりしかな 浴衣着て恋人と逢ふ浜の路地 羅を着て蝮酒召し上がる 浴衣の子星とおしやべりしてをりぬ 後ろ手に団扇はさんで恋浴衣 白兎波間に跳ねて卯波くる 人死して星の卯波となりしかな
Tumblr media
卯波寄す森田愛子の臥所へと 九頭竜の卯波漣ほどのもの 夏の波真砂女の卯波とぞなりぬ 月光が卯波流してをりにけり 滴りの金銀の粒金剛に 滴りに輪廻転生ありにけり 滴りて岩壁となる日本海 東京スカイツリーの天辺滴りて 滴りて浅草線の三ノ輪駅 ゆつくりとしづかに歩む蛇ひとつ
Tumblr media
蛇の夢見てその蛇を見てをらず 蛇酒といふ極楽の中に死す 滴りの岩壁を行く数学教師 滴りの後ろ姿の女体山 蛇女邪心となりて星流れ 蛇ふたつ絡んでをりぬ月光に 蛇絡みつつ愛欲の中にあり 権現の無数の蛇の降る社 炎帝の統べるままなる総理の死 炎帝へ斬首の鴉羽ばたけり
Tumblr media
炎帝いま月の裏側焼きにけり 炎帝といふ今生の大宇宙 勲一等正一位なる墓灼けて 勲一等の軍馬の墓は緑蔭に 暗夜行路書きし墓とて茂り中 暑き固き墓石の如き絵画館 イザベラの墓に彫られし薔薇香る 銀杏並木の緑蔭もとんがりて 茂りてはいつも探せぬ乃木の墓 坊城は俊ばかり付く墓涼し
Tumblr media
殉教の墓へマリアの南風吹く 寝棺そのものを横たへ夏の墓 緑なる線対称の銀杏かな 八月の面対称の絵画館 サンドレスとは青山のあつぱつぱ 青山の墓みな灼けて無言なる 夏日燦超高層といふ墓標 無機質の超高層を旱とも ソファーめく茂吉の墓へ夏蝶来 茂吉いま夏蝶となり利通へ
Tumblr media
墓に挿す供華も明日より秋薔薇 秋の蝶クルスの墓を懇ろに 夏果てて石より重き絵画館 緑蔭のハチ公の墓何処なり ハチ公の供華はおそらく水羊羹 異国なる地下に眠りて薔薇の墓 夏の蝶マリアの指に触れてより 喪主だけが半袖で乗る霊柩車 蟬の音は聞かず真昼の野辺送り 蟬死して蝙蝠ばかり飛んでをり
Tumblr media
蝙蝠は帰る逆さになるために 蝙蝠の裏切る音を聴いてゐる 蝙蝠も消え失せグリム童話の夜 めまとひはめまとひとして囁けり めまとひは無責任なる大家族 婆の眼の脂にめまとひ親しめり めまとひを払ふ多情の口を閉ぢ めまとひの中を葬列続くなり 朱烏夏の夜の夢覚めし頃 茅舎忌の月光ことに夢を食ふ
Tumblr media
茅舎忌の虫の音といふ哀しけれ 茅舎忌のシュミーズは幽霊の自慰 そこはかとなく隠微なる茅舎の忌 キリストと生きる男へ茅舎の忌 茅舎忌に金子みすずを読んでをり 白鼻心白夜の夢を見てをりぬ おぼこ今白夜の夢を見てをりぬ 白夜とは神の数だけありにけり 熊に似る男涙の炉辺話 雪女帰らず解けてしまひたき
Tumblr media
金輪際なき眼光の鯖を食ふ 鯖を食ふ恋愛をした夢を見て 銀色に無限のありし鯖を食ふ 恩讐の臭みの鯖を食ふ女 鹿島灘あたり怒濤や鯖を食ふ 鯖を食ふ女臀部を揺らしつつ 鯖を食ふ潮の香りを煮てをりぬ 黒潮を炊いて鯖煮となりしかな 鯖食ひ男鯖食ひ女淫靡なる 鯖食うて惜別の情無しとせず
Tumblr media
我が生の金輪際の虹に逢ふ 虹死して首都凡庸の空となる 奈落より虚子の墓へと虹の橋 蚊柱となりて青山墓地を舞ふ 吾妹子の子宮男の子を生みにけり 我が家より大いなる虹架かりけり 苔の花とは妖精の小さき眼 苔の花喋るぺちやくちやぺちやくちやと 苔の花海に流れてしまひさう 我が生も淋しからずや苔の花
Tumblr media
大漁の夜の纜に苔の花 苔の花阿呆の黄色楽しくて 苔の花金輪際の生にあり 苔の花哀しくなれば咲いてをり 苔の花苔を大地として咲けり 苔の花の夜は近づく大宇宙 未熟児に産まれる人へ苔の花 そよぐことなき苔の花小さすぎ 流星と同じ色して苔の花 苔の花咲きて天動説となる
Tumblr media
苔の花影といふものありにけり 囁きの夜に閉ぢたる苔の花 河童忌を星の吹雪と思ふなり 河童忌の蛇口ひねれば湧いてをり 河童忌に砂糖を舐める女あり 河童忌のしんがりの児は引き込まれ 河童忌にベートーベンを聴いてをり 河童忌を皇后陛下畏くも 河童忌の童は杓子定規かな 怒濤とし童押し寄せ河童の忌
Tumblr media
滴りて山又山を濡らしをり 絵画館の壁の隙より滴れり 夏の水汲み元勲の墓域へと 滴りに栄枯盛衰ありにけり 滴りて富嶽をすこし潤せり 滴りに奈落といふは先のこと 滴りてゆつくり濡れてをりにけり 滴りて巌の命を疑はず 幻か滴る先に河童の子 滴りて四国三郎ありしかな
Tumblr media
蟻ひとり穴ひとつあり佇みぬ 増上寺国葬にあり蟻ひとつ 群衆の蟻群衆の蟻に逢ふ 山蟻の威厳の黒に死してをり 黒蟻と赤蟻言葉交さざる 蟻ひとつ地下迷宮を出で来たる 蟻塚に蟻の声のみ充満す 蟻塚の掘りたての土匂ふなり 蟻地獄静謐といふ美しき あとづさりして身を隠す臆病に
Tumblr media
岳麓へ行者道めく蟻の道 蛾の破片ゆらゆら運ぶ蟻の道 ビール飲む眉間に皺を寄せながら 麦酒飲むますます法螺を吹きながら 白魚のやうな指もて麦酒注ぐ 我が世とぞ思ふ望月の麦酒かな 麦酒のむいつか焼かれし喉仏 女ひとり化粧濃くして黒麦酒 蛇苺姉の我が儘永遠に 蛇苺庭に埋めし金魚へも
Tumblr media
侯爵の墓の片隅蛇苺 蛇苺男鰥の庭の恋 山笠の西の便りを句に乗せて 博多つ子純情いまも山笠に 山笠の男だらけの怒濤なる 傀儡の関節錆びて夏の雨 白雨きて蛍光灯の切れかかり 関節はぎしぎし老ゆる夏の雨 飴玉が降る音のして夏の雨 連続の数珠の音して夏の雨
Tumblr media
夏の雨身の内の獅子唸るなり 旋律はボブマーリーに似て夏の雨 戦後すぐ膣より産まれ夏の雨 白雨きてボサノバの雨合体す 白雨きてコーラの壜の女体めく おそらくは黄泉の国とて夏出水 夏出水遺品の遺書の何処へと 高貴なる神に押し寄せ夏出水 最果ての鵺の夜へも夏出水 土用波七里ヶ浜で祖父に抱かれ
Tumblr media
土用波みたいな嬶の乳房かな 柏翠の療養所へと土用波 土用波森田愛子の身の内へ 土用波虚子と愛子の物語 髪洗ふ乳房の先を湿らせて 髪洗ふ妬み嫉妬を流すとか 女百態懇ろに髪洗ふ 髪洗ふ幼き頃の金盥 あんな女に嫉妬して髪洗ふ 犬洗ふ即ち犬の髪洗ふ
Tumblr media
昼寝して夢の合戦破れたり 元首相撃たれし頃の大昼寝 夜よりも昼寝彼の世に近かりし 貪るは蛸か女体か昼寝覚 昼寝して夜には死んでをられたる 昼寝覚女百態消失す 昼寝覚地獄の釜を押し上げて 昼寝覚一年損をした気分 昼寝して虚子と話をして戻る 昼寝覚范文雀と別れ来て
Tumblr media
蝙蝠の彼の世此の世と飛翔せり 蚊食鳥煙のやうなる蚊を追へり 蚊食鳥夕焼け小焼けの唄に乗り かはほりの逆さに夢を見る昼間 かはほりに迷子探してもらふ夕 蚊食鳥夜の女は出勤す かはほりは街の電波と交錯す 蚊食鳥幼稚園児はもう家へ 友人の納骨を終へ蚊食鳥 学習院初等科の上蚊食鳥
Tumblr media
あぢさゐの萎れし夕べ蚊食鳥 かはほりと月と金星置きどころ 青林檎みたいな乳房持つ少女 青林檎囓る気もなく接吻す 青林檎真夏の夜の夢の中 昭和とはヌード写真と青林檎 麗人の口怖ろしく青林檎 漆黒の夜は青ざめて青林檎 青林檎堅しと思ふ瑪瑙より パテイーデュークショーを観ながら青林檎
Tumblr media
青林檎がさつな漢の手に堕ちる 夏の夜の夢とはならず老いゆけり 夏の夜の罪ある墓標御影石 唇は濡れて真夏の夜の夢 夏の夜のネオンサインはジジと切れ 漆黒の真夏の夜の夢となり 入れ墨の夏の女を持て余し 金魚玉夜に入る頃の小宇宙 絢爛の金魚は恋をしてをりぬ 絶縁の夜に浮きたる金魚玉
Tumblr media
和服着て振り袖を振る金魚かな 勲一等正二位の飼ふ金魚かな 飛魚の飛んで越え行く隠岐の島 隠れキリシタン飛魚となり戻りけり 飛魚の流刑の島を飛び越えて 炎帝に見つからぬやう昼に寝る 日輪が炎帝をまた拐かす 炎帝に翳といふものありにけり 白日夢とは炎帝が司る 炎帝が紛れ込んだり夢の中
Tumblr media
盆栽といふ炎帝の置き土産 炎帝も銀河の裾の一部分 我が霊も炎帝となり銀河へと 観音の笑みて溽暑を遠ざけて 観音の炎暑の唇を赤しとも 陽炎へる陽子の墓や禁色に 墓の苔とて万緑の一部分 観音の胸乳あたりへ夏の蝶 五輪塔とは緑蔭のただの石 乾きたる���毛氏の墓とて旱
Tumblr media
一山の万緑なだれ年尾句碑 薔薇咲かせ流行り遅れの服を売る 昔から麦酒が好きな人の墓 蛍光灯切れかかりゆく夏の果 夏行くや皆んな貧しき灯して 人を待つ心にも似て夜の秋 涼しさの雨の粒とは淋しくて 街の灯の蒼く点りて夏の夜 灯して何読むでなき夜の秋 夜の秋義兄は生れ替りしや
Tumblr media
涼しさの夜の灯の鈍色に 堕胎の子いつも走りて汗哀し 夏逝くや雨の音符の翳色に 夜の秋眼の衰への文字歪む 夜の秋炎集めて住む川原 夜の秋己れ空しく酒を飲む 涼しさの夜雨の音の蓄積す 涼しさは恨みに似たり灯を消せば 幽霊坂うすむらさきの夜の秋 幼稚園死んだ子が居る夜の秋
Tumblr media
夜の秋やがて孤独の誕生日 蛍光灯切れかかりゆく死者の秋 老いてなほ秋めく恋の行方かな 新涼の飴の色とは濃紫 秋めきて失恋をする七回目 新涼の鏡に映す吾の死顔 頭痛して秋めく我の髑髏 新涼の驚き顔となりし天 新涼の犬に哀しき堕胎過去 八月の女ものものしく太り
0 notes
kayyttea · 3 years
Photo
Tumblr media
おはようございます^ - ^ 昨日は 1番 昼の時間が長い日
 #夏至 の日 でしたね^^ 
この日を境に様々なことが変わっていく
 #二十四節気の一つ。 変わるといえば 自分自身が意識するしないにかかわらず
生まれ変わるタイミング
人のご縁もこの頃を境に 変わる 変える
タイミングとしてある意味最適の時ともいえますね。


来週から≒1週間続くインプットの週にを前に
デジタル・ネットで多くのことが解決されていく
仕組みに変わってはおりますが
今週は 総会 など リアルで動かねばならない
機会が多くなり、ある意味アウトプットの週
体調万全 でコトにあたります。


暦としては
今週後半から来週29日までは良い日が続きますので
 今週木曜日までの芳しくない暦を払い除けて
 金曜日 日曜日~火曜日までの良い日をいかしながら
 計画したことを粛々と進めていけたらと思います^^



皆様にとりまして
 本日も良い日でありますように〜〜^^/ 




———————————————————

写真

今回の水をテーマとし お参りした数々。

#九頭竜神社 本宮 、#関東総鎮守 #箱根神社 お参りをし

 #両社参り となります。

前回投稿の 

#箱根権現御手洗の池 = #芦ノ湖 に鎮座する本宮 とは別に

写真は  #九頭龍大神 が祀られている
 箱根神社内 #九頭竜神社 新宮 となります。



 ==================

2021年6月21日 火曜日

本日の暦
 干支 辛丑 五行 相生 九星 五黄 六曜 大安 十二直  危 二十八宿  觜 吉日 神吉日 凶日 不成就日


どんな行いも思っていた結果に結びつかない 不成就日。
この日ばっかりは決め事も できませんね^^

 ================== 20210621   #リトリート 命名 #リトる  
#龍 #蛙 #蛇 #御朱印 #神社 #神社参り #御利益 #ご利益 #開運 #金運 #お守り #御守り #20210621 火曜日 (九頭龍神社) https://www.instagram.com/p/CQZtN0oHarA/?utm_medium=tumblr
0 notes
tsthxh · 4 years
Text
魔女の霊薬 種村季弘
十六世紀ドイツの画家ハンス・バルドゥングス・グリーンに、「魔女たち」と題して、数人の魔女が恍惚状態で飛翔したり、そのための準備をしているらしい場景を描いた一幅の銅板画がある。後方に水平に浮遊している老婆が片方の手に尖の二股状になった杖を持ち、もう一方の手で、なかば浮き上った若い娘の腰を抱えて何処(いずこ)かへ拉し去ろうとしている。前景右手には、片手にもうもうと煙を上げる魔香の器を掲げて今にも地を離れんばかりのエクスタシーに浸っている女がいる。
注目すべきはしかし、それよりさらに前景左手の女である。彼女は左の手に何やら呪文のようなものを記入した紙片を持ち、もう一方の手を股間に押入して(後方にぐつぐつ煮えている釜から取り出したものであろう)塗膏(ぬりあぶら)らしきものを陰部に塗布しているのである。呪文と見えたのは、あるいは塗膏の製法または用法を書きとめた処方箋でもあろうか。仔細に見ると、この銅版画は映画的な連続場面で構成されていて、最前景の塗膏を塗布している魔女が遠景に退くのにつれて、徐々にエクスタシーに陥りながら催眠状態で飛翔する(もしくは飛行感覚に襲われる)過程を刻明に記述していることがわかる。
バルドゥングス・グリーンばかりではない。ゴヤも(「サバトへの道」)、アントワーヌ・ヴィルツもレオノール・フィニーも、古来魔女を描いたほとんどの画家が、箒にまたがって空中を飛行する魔女を描いた。魔女は飛ぶのである。しかも股間にあやしげな塗膏をなすり込むことによって。これこそが悪名高い「魔女の塗膏」であった。
ところで、一体、魔女の塗膏の成分はどんなものだったのだろうか。血やグロテスクな小動物のような、さまざまの呪術的成分を混じてはいるけれども、主成分はおおむね幻覚剤的な薬用植物であったようだ。ゲッチンゲン大学の精神病理学学者H・ロイナー教授は魔女の塗膏の成分を分析して、混合されたアルカロイドの種類をおよそ五種に大別した。
一、      イヌホオズキ属のアトロパ・べラドンナから抽出されるアトロビン。
二、      ヒヨスから抽出したヒヨスキアミン。
三、      トリカブトのアコニチン。
四、      ダトゥラ・ストニモニウムから取ったスコポラミン。
五、      オランダぱせりからのアフォディシアクム。
これらの各成分から醸し出される効果はまず深い昏睡状態であり、ついで、しばしば性的に儀式化された夢幻的幻視、飛行体験などである。おそらく媚薬(アフロディシアクム)として常用されたオランダぱせりは性的狂宴効果を高めたであろう。魔女審問の記録(十六、七世紀)には、実際におこなわれたものか、それともたんなる幻覚であったの定めではないか、ソドミー、ぺデラスティー、近親相姦のような倒錯性愛の告白がいたるところに見られる。告白された淫行のなかには悪魔の肛門接吻(アナル・キス)のように入社儀式化されているものもあった。アコニチンによる動悸不全はおそらく飛翔からの失墜感覚を惹起した。またベラドンナによる幻覚は、はげしく舞踊と結びつくと運動性の不安――すなわち飛行感覚を喚起する。睡眠への堕落、性的興奮、飛行感覚は、こうして各成分の作用の時差によって交互に複雑に出没する消長を遂げるものにちがいない。
使用法は、右のアルカロイド抽出物の混合液を煮つめたものに、新生児の血や脂、煤などを加えて軟膏状にこしらえたものを、太腿の内側、肩の窪み、女陰のまわりなどにすり込むのである。さて、細工は流々、はたして所期の効果が得られるであろうか。
現代の学者で魔女の塗膏を実際に当時の処方通りに造って人体実験をしてみた人がいる。自然魔術と汎知論、あるいはパラケルスス研究やシュレジア地方の伝説採集の研究で高名な民俗学者ウィルーエーリッヒ・ポイケルト教授である。一九六〇年、ポイケルトと知人のある法律家は、十七世紀の魔女の塗膏を処方通りに復元して、こころみに自分の額と肩の窪みにすり込んでみた。成分はベラドンナ、ヒヨス、朝鮮朝顔、その他の毒性植物を混合したものであった。まもなく二人はけだるい疲労に襲われ、ついで一種の陶酔状態で朦朧となり、それから深い昏睡状態に陥った。目がさめたのようやく二十四時間後で、かなりの頭痛を覚え、口腔からからに渇き切っていた。二人はそれから、時を移さずにぞれぞれ別個に「体験」を記述した。結果はほとんど口裏を合わせたように一致し、しかも、三百年前、異端審問官の拷問によって無理矢理吐き出させられた魔女たちの告白とおどろくべき一致を示したのである。
「私たちの長時間睡眠のなかで体験されたものは、無限の空間へのファンタスティックな飛翔、顔というよりはいやらしい醜面をぶら下げている、さまざまな生き物囲まれたグロテスクな祭り、原始的な地獄めぐり、深い失墜、悪魔の冒険などであった。」(ポイケルト『部屋のなかの悪魔の亡霊』)
してみると十六、七世紀の魔女たちの証言はかならずしも根も葉もない虚構ではなかったのである。一五二五年に『異端審問書』を書いたバルトロメウス・デ・スピナは、当時の有名な医者ぺルガモのアウグストゥス・デ・トゥレが、その家の女中が部屋のなかで素裸になり意識を失って死んだように床に倒れているのを発見した委細を記録している。翌朝、正気に戻ったところを尋ねてみると、彼女は「旅に出ていた」と答えたという。どうやら塗膏を使用したのである。ルネッサンス・イタリアの自然科学学者ヒエロニムス・カルダーヌス(カルダーノ)も旅の幻覚を伴う塗膏の話を書いている。
「それは、おどろくべき事物の数々を見させる効力と作用を有しているとされ……大部分は快楽の家、縁なす行楽地、素晴らしい大宴会、種々様々のきらびやかな衣装を着飾った美しい若者たち、王侯、貴顕の士、要するに人の心を呪縛し魅するありとあらゆるものを目に見させ、ために人びとはてっきりこれらの気晴らしや快楽を享楽し娯しんでいると錯覚さえする。彼らはしかし、一方では、悪魔、鳥、牢獄、荒野だの、絞首吏や拷問刑吏の醜怪な姿だの、とかをも眼にするのであって……そのため非常に遠い奇妙な国を旅行したような気がするほどである。」
おそらく現代の幻覚剤による「旅(トリップ)」と同じような、未知の空間への旅行が体験されたのであろう。ヒエロニムス・ボッシュの「千年王国」の天国と地獄を一またぎするような、至福と恐怖がこもごも登場するその旅の旅行の体験の内実は、「ビート族のベヨーテ生活」の至福共同体が「ある敷居を境に苦痛の闇へと転落し、そこからヒップスター生活が犯罪の世界へ繋っていく」(ワイリー・サイファー)ところまで、現代の幻覚剤体験そっくりだったようだ。
 幻覚剤文明が現代の特産物ではないように、魔女の塗膏もキリスト教的中世独特の薬物ではなかった。それは古代ローマにも、それ以前の蒼古たる地中海文明的なかにも、明らかに存在していた。ただ、またしてもその意味が違っていたのだ。キリスト教的中世の魔女の塗膏が忌むべき禁止の対象であったのにひきかえ、そこでは同じものが驚異の対象だったからである。
もっとも著名な例は、アプレイウスの『黄金の驢馬』の主人公ルキウスが魔女めいた小婢フォティスの導き屋根裏の小部屋の扉の隙間ごしに覗き見るパンフォレエの変身であろう。ミロオの妻パンフォレエは人眼に隠されて塗膏を身体中に塗り、鳥に変身して夜な夜な恋する男のもとへの飛んでゆく。
「見るとパンフォレエは最初にすっかり着ていた着物を脱いでしまうと、とある筐(はこ)を開いて中からいくつもの小箱を取り出し、その一つの蓋を取り去って、その中に入った塗膏をつまみ取ると、長いこと掌でこねつけておりましたが、そのうち爪先から頭髪のさままでからだじゅうにそれを塗りたくりました。そいでいろいろ何かこそこそ燭台に向ってつぶやいてから、手足を小刻みにぶるぶると震わせるのでした。すると、体のゆるやかに揺れうごくにつれて柔かい軟毛(にこげ)がだんだんと生え出し、しっかりした二つの翼までが延び出て、鼻は曲って硬くなり、爪はみな鉤状に変わって、パンフォレエは木菟(みみずく)になり変わったのです。
そうして低い啼き声を立てると、まず様子を吟味するように少しずつ地面から飛び上がるうち、次第に高く上がってゆくと見るまに、いっぱい羽根をひろげて、外へ飛んでってしまいました。」(呉茂一訳)
この場合にもパンフォレエの羽化登仙的な至福感は事の一面を物語っているにすぎない。同じ塗膏をフォティスから手に入れたルキウスは、同じようにそれを身体中に塗りたくりながら鳥とは似もつかぬ鈍重な驢馬に変身してしまう。それは天上的なものの失墜した果ての、道化た、暗い、醜悪な実相である。以後、彼はヒエロニムス・カルダーヌスのいわゆる「非常に遠い奇妙な国」の間をさまざまの魔物や物の怪に囲まれながらさまよいつづけなくてはならない。天上の飛翔は、一転、暗い冥府の旅に変るのである。
さて、このように両極的な作用を及ぼす『黄金の驢馬』の魔女の塗膏の成分は、一体どのようなものだったのであろうか。フォティスはこれらの驚異が「小さな、つまらない野草のおかげで」成就すると説明している。「茴香(ういきょう)をちょっぴり桂の葉をそえ、泉の水に浸したものを身に浴びるとか、飲むとかするだけ」でよく、また変身の解毒剤には「薔薇の花」を食べればよい。これ以上の説明がないので詳細は不明であるが、塗膏が茴香や桂の葉を含むいくつかの野草から合成されたことだけはたしかである。
ローマ文学史上、アプレイウス(一二三頃~一九〇年?)が登場するのは白銀時代も終焉してからのことであった。すでにこの頃、オリエントの異教はローマに流入して熱病のような猛威をふるっていた。しかし魔女の薬草はこれより早く、すでに黄金時代から重要な文学的トポスとしてしばしば詩文学の上に登場している。さいわい、ゲオルク・ルックという学者が黄金時代の四人の詩人に焦点をしぼって、『ローマ文学における魔女と魔法』について論じているので、これを参照しながらローマにおける魔女の塗膏の繁昌とその源泉をしばらく訪ねてみよう。
アプレイウスのパンフォレエが「恋いこがれた男」のもとに飛んでいくために鳥に変身したように、塗膏の効果の主たる目的の一つは明らかに愛の魔法であった。正確にはむしろ愛の錬金術というべきかもしれない。なぜから塗膏は、別れた男女をふたたび合一させたり、げんに夫婦である男女を分離させてその一方をよこしまにも他の男や女に結びつけようとする、分離と結合のための触媒の役を果たしたからだ。それゆえに塗膏の使い手反しばしばローマの悪場所である売淫の街区スブーラに巣食う百戦錬磨の取り持ち女たちであった。
盛期黄金時代の詩人ウェルギリウス(前七十~十九年)の『牧歌』第八に、ダフニスに恋をして捨てられた女が魔法で男を呼び返そうと逸話が見える。ふつうから職業的な魔女の家を訪うべきところであるが、この女(そもそも『牧歌』第八のこの箇所は、牧人ダモンとアルフェシボエウスが歌くらべをして、アルフェシボエウスが魔法を実演してみせるためにその女にじかになり変わり、彼女の声、言葉、状態を直接に演じているので、女は無名である)は女奴隷のアマリリスを助手に使い、かつて大妖術使いのモエリスから伝授された霊薬の製法を駆使して、みずから愛の魔法を演じてみせる。はじめに彼女はアマリリスを呼び寄せてつぎのように命じる。
「水を持ってきて、そこの祭壇をやわらかい紐でお結び。それから強い野草と匂いのきつい乳香を燃やすのだよ、そうすれば情夫(あのひと)の狂った気持を魔法の供物(くもつ)で惑わしてやれるのだから。足りたいのはあと魔法の呪文だけ。――街から家へ、私の呪文よ、ダフニスを連れ戻しておくれ。」
祭壇に結び紐、野草、呪文といった魔法が早くもあらわれている。「やわらかい紐」はおそらく羊毛の紐で、羊毛の紐には霊的呪縛力があると信じられていた。紐の結び方は、まず不実な相手の肖像画の首のすわりにそれぞれ三色(黒、白、赤)に彩った三本の紐をかけ、この画を祭壇のまわりに三度めぐらせる。「三つの異なる色を三つの結び目でひとつに結ぶかいい、アマリリス、結びつけさえすればいいのだよ、アマリリス、そしてお言い、〈私の愛の絆(きずな)を結ぶ〉と。」
三の数がしきりに重用されるのは、「神は奇数をおよろこび��なる」からである。したがって「愛の絆」云々の畳句(ルフラン)も三x三の九回唱えられる。紐の三色のうち黒は冥府の色で、赤と白は悪を予防する保護色であり、黒を中心にしていわば施術者を庇護してくれる。こうして呪縛――結合(katadesis)が完了し、ダフニスは空間を立ち越えて施術者につながれてしまう。しかし魔法はこれで終わりではない。無気味な呪いの人形の焚刑がこれにつづく。
「粘土が火で固くなるように、蠟が同じ火にあった溶けるように、ダフニスは愛のために私のところにやってくる。供物の碾(ひ)き粉を徹き、もろい月桂樹を瀝青で燃やすがいい。悪いダフニスが私を燃やし、私はこの月桂樹の枝と私のダフニスを燃やす。」
呪いの人形はホスティウスの『諷刺詩篇』第一巻八「魔女とかかし」にも登場するが、ここでは魔女は「毛制と蠟制の二つの像をもっていた」(鈴木一郎訳)とあって、はっきり人体を模している。しかしウェルギリウスでは粘土や蠟をダフニスの姿に似せて捏ねておく必要はなかった。男の名前や不実を意味する符号が粘土や蠟に刻み込まれていたかもしれないが、顔形を模造するまでもなく、施術者の女がこれこれの呪物によってダフニスを意味し、それが相手だと考えればよかったのである。粘土は火のなかで固くなり、蠟は軟らかくなる。ゲオルク・ルックの注解によると、粘土は女の(相手にたいして硬化する)憎悪の固さをあらわし、蠟は彼女にたいしてふたたび軟化するであろう男の気持をあらわしている。異解では、粘土が固くなるのは、彼女から離れて他の情婦に移ったダフニスの気持を憎むべきコイ恋仇にたいして固くさせるの意である。同時に投げ込まれる月桂樹は願いの筋の吉凶を知らせてくれる。月桂樹がバチバチ爆(は)ぜて燃えれば願いはかない、燃えつきが悪ければさらに瀝青を注いで火を熾(おこ)らせるのである。
だが、つぎつぎにおこなわれる魔法にもかかわらず吉兆は一向にあらわれない。そこで女は、ダフニスが「担保」としてのこしていった衣服を閾(しきい)の下に埋めて地下の神々の裁きを乞う。「ダフニスは私にこの担保の借りがあるのだ」と。事態はこれでも好転しないので、女はアマリリスに先程燃えていた火の冷めた灰を河に持っていって投げ捨てるように命じる。その場合、灰を運んだらそれを「頭越しに」河に捨て、そちらの方を見ないで帰ってこなくてはならない。そうしないと悪霊がかえって施術者の側に憑(つ)いてしまうおそれがあるからである。かくて灰は流れに運ばれて「ダフニスを襲うであろう」。
この箇所では、女はダフニスへ呪縛をひとたび放棄して、呪いの灰で彼を襲うためにふたたび相手から分離している。「結合(カタデシス)の後にかりそめの「分離(アポリシス)」がつづくのである。この分離は恒久的なものではない。最後の結合手段として効果甚大な薬草(野草)が控えているのを女は知っている。しかしその力はあまりにも強大で、まかりまちがえば周囲に致命的な影響を及ぼす。そのために、一瞬、女は最後の切札を出すべきかどうかを逡巡する。するとこの瞬間、一度冷たくなった灰がふたたびめらめらと燃え上って祭壇を焦がしはじめる。
「これは吉兆だ!明らかにこれは何事かを意味している。――これを信じるべきなのか。それとも恋する女が魔法の夢にまどわされているのか。止まれ、わが呪文よ、止まれ。ダフニスはすでに都(みやこ)から帰りつつある。」
強烈な薬草を用いるまでもなく愛の魔法は成就する。しかし抜かずに終わった伝家の宝刀を彼女は依然として持ってはいるのである。それほどのようなものか。
「黒海沿岸で採集されたこの薬草と毒草は、モエリスがみずから私にくれたもので――それは黒海地方に多生している、しばしば私は、モエリスがこれを使って狼に変身して森のなかに姿を隠したり、深い墓穴から霊魂を喚び戻したり、穀物をよその土地に移したりするのを見た。」
薬草は単純な野草ではなく、特に「黒海地方に多生する」と明示されている。ホラティウスも初期の『エポーディ』のなかで、「毒薬の国イオルコスとヒべリアからきた毒薬」について語っている。ヒべリアは現代のグルジア共和国で、黒海地方に属する。黒海という地方は当然コルキス生まれの大魔女メデアを連想させるにちがいない。実際、詩人たちが邪悪な薬物の出所として念頭に浮かべているのはメデアその人なのである。メデアの壮大な魔法を活写した『転身物語』のオウィディウスはいうまでもなくティブルスも、「キルケ―か持ち、メデアが持っているあらゆる毒薬、デッサリアの地に生れたあらゆる薬草、欲情にたける雌馬の女陰からしたたる粘液」(『『哀歌』』と列挙する。オウィディウスのメデアは龍に打ちまたがってデッサリアに飛び、そこから薬草を採ってくる。すなわち薬草の特産地として、黒海沿岸とデッサリアといういずれ劣らぬ不気味な地方がいちじるしく強調されるのだが、これが何を意味するかについてはのちに述べたいと思う。
さて、ウェルギスウスの述べているモエリスの薬草の三つの応用例のうち、一は人狼変身、二は死者を喚起する降霊術(ネクロマンシ―)、三は穀物の生殖力の転移にそれぞれ関わる。人狼変身の話は後代(紀元一世紀)の『サテュリコン』の「トリマルキオーの饗宴」にも出てくるが、人狼信仰はおそらく神話時代に遡る起源を有している。ところがで、ロイナー教授は神話学者ランケ・グレイヴスらの説を援用して、オリュムボス神の飲食物たるアルブロジア(神々の食物)やネクタール(神々の美酒)が右のごとき幻覚性の薬物そのものではなかったとしても、そのエッセンス多量に混じていたにちがいないと推定する。ディオニュソス祭儀のメーナードたちの狂乱もこれと無関係ではない。
アルブロジアややネクタールを飲食する権限を独占している神々は、おそらく有史以前の聖なる王や女王たち(その前身はシャーマンであろう)であった。彼らの王朝が没落した後、それは、閉鎖的結社的なエレウシス密議やオルフェウス密議の秘密の要素となり、ディオニュソス祭儀とも結びついだ。密議の参加者たちは密議の席で共食した飲物や食物を絶対に口外してはならなかった。そうすることによって忘れ難い一連のヴィジョンが体験され、その類推的延長の上に超越的世界における不死と永生が約束されたからである。
ディオニュソス祭儀のメーナードたちの狂乱は、内的には飛翔感覚や性的興奮を伴い、外面的にはさながら狼のような凶暴を示したものにちがいない。彼女たちは髪をふり乱しながら国中を進行し、家畜や子供をずたずたに引き裂き、酒や薬物入りのピールに酔って「インドに旅行してきた」ことをひけらかした。してみると、見知らぬ士兵や妖術使いの人狼変身は、密議的な幻覚共同体が崩壊した後、秘密から疎外された個人や小集団が犯罪の形で表出せざるを得なかった聖なる薬物体験であったとおぼしいのである。
メーナードの末裔のように残酷な魔女たちは、先にふれたホラティウスの『エポーディ』にも登場してくる。数人の魔女が良家の子供を誘拐してきて、地面に首だけが出るように生き埋めにし、御馳走が山盛りの血を眼の前において(口元まで皿がきていても手が使えないので食べられないのだ)凄まじい飢えの修羅場をながながとたのしみ、はては生きたままの身体から骨髄と生き肝をちぎりとり、これを煮つめて媚薬をつくる。
「髪に、さてはまた蓬髪乱れる頭に、小さな蝮どもを絡ませながら、カニディアはコルキスの焔のなかにつぎのものを投ぜよと命じた。墓場から引き抜いてきた野生のいちじくの樹、死者の樹なる糸杉の木材、いやらしい蟇の血に塗られた卵、夜鳥ストリックスの羽根、毒草の国イオルコスとヒべリアからきた野草、飢えた牝犬の口からもぎとってきた骨を。」
これに子供の生き巻肝を加えれば魔女の霊薬は完成する。怖ろしい魔女カニディアのつくる媚薬は、ウェルギリウス作品の場合と同様、ある不実な男を呪縛するためである。しかし不思議なことに、カニディアの媚薬は予期したような効果を発揮しない。男の名はヴァールス、「老いぼれの漁色家」である。いましも彼は「私の手がこれ以上完璧には調和することのない塗膏(ポマード)を塗られ」て、魔窟スプーラの犬に吠えつかれ、人びとの物笑いの種になっているはずであるのに、これはどうしたことであろう。彼はこともなげに街をうろついて夜の冒険に出かけている。やがてカニディアは「(自分より)さらに秘密に通じた魔女」が彼の背後にいて、その呪文が自分の塗膏の効果を台なしにしていることをさとる。「もっと強力な薬を、そのもっと強力なやつをお前から取り上げてやる」。こうして毒物と解毒剤が互いにきそいながら老ヴァールスを板はさみにしてしまうわけた。
それはちょうど、十八世紀毒殺魔ド・ブランヴィリエ侯爵夫人が夫の侯爵を亡き者にしようと毒を盛ると、度重なる毒殺の発覚をおそれた相棒のサント・クロアが解毒剤をあたえ、毒と解毒のシーソーゲームのなかで中途半端な廃人となった侯爵が、宙ぶらりんな生かさず殺さずの、世にも恐ろしい余生を送ったのとそっくりであった。
ヴァールスというのが誰をモデルにした人物ではっきりしない。しかしホラティウスの知人であることはたしかで、詩人ははっきりとヴァールスの肩を持ち、かつカニディアを憎んでいる。一方カニディアは、詩人の庇護者マェーケーナスがローマの無縁墓地エスクィリーナエの丘を自分の庭園に造りなおした際、この旧墓地に出没した魔女である。ホラティウスは「汝、マドロスや旅商人どもにあまた愛された女」と侮蔑しているので、前身は港町の娼婦かいかがわしい取り持ち女の類であろう。一説には、本名をグラティディアと称してナポリで美顔用塗膏を商っていた実在の女であるともいう。
ホラティウスは何故かこの女を心底から憎悪していた。開明的なエピキュリアンであったホラティウスはむろん魔法を真に受けていたわけではないが、不倶戴天の敵カニティアの脅威は身をもって知っていたらしい。カニディアは詩人に執拗に呪いをかけた。『エポーディ』前半ではカニディアを揶揄していた詩人も、第十七歌あたりではさすかに音(ね)を上げて魔女に降参してしまう(「やめろ、やめてくれ!私は効き目のある術に降服する!」)カニディアとホラティウスの間には直接の色情的怨恨はないのに、何故こうも執拗に呪詛し憎悪し合うのであろう。目下の論題から離れるので無用の詮索ではあるが、講和主義として敗北してから「黄金の中庸」を看板に韜晦してきたホラティウスの、政敵にたいする潜在的な不安が魔女カニディアの姿に結実したのだとすれば含意は深長である。
ところで、先に私は、老ヴァールスがより秘密に通じた別の魔女から対抗秘薬を調達し、カニディアの塗膏から身を護った経緯を述べたが、正確にはこれは逆である。漁色家ヴァールスは老いかけた精力を挽回するために(別の)魔女に催淫剤を依頼し、そのお蔭で老齢にもかかわらず夜な夜なスプーラに出没することができたのであった。一方、カニディアの塗膏は通常の媚薬とに逆に、この好色な遊び人を性的不能に陥らせる麻痺的な減退剤であったにちがいない。なぜなら「老漁色家がスプーラに犬に吠えつかれ、人びとの物笑いの種になる」効果を狙った薬物は、相手を色街における無用の徒である不能者に仕立てるための、底意地の悪い精力減退の薬にほかならないだろうからである。この不能不毛化させる魔法は、ウェルギリウスのいう「第三の魔法」である穀物の生殖力の転移盗奪の法にも通じている。
ローマ最古の法文書である十二銅表律は、隣人の耕地の収穫物を荒廃させる災いの魔法を重罰をもって禁じている。罰は犯罪を前提としているので、すでに当時から他人の畑の生産力を涸渇させ、(あまつさえ)これを我田引水しておのが腹を肥やす魔法が実践されていたのであった。本来神と自然の摂理のみが按配すべき穀物の作不作が人為の魔法によって操作されるのなら、同じことは人間的自然である肉体の活力の、特に性的エネルギーの増減についても通用するはずである。
ホラティウスがカニディアに蒙ったの呪い魔法は、老ヴァールスのような精力衰弱のそれぞれではなかったが、肉体のすみやかな老化という脅威であった。彼の髪は急速に白くなり、仕事は日々困難になりまさり、一瞬として息を吐くひまもなくなるであろうというのが、カニディアの呪いに籠めた脅迫であった。事実、ホラティウスは年齢より早く白髪が目立ち始めていたが、それがカニディアの魔法のたまものという証拠はなく、むしろ詩人は生来の病身にもかかわらず健康を維持し、日々の仕事も快適に楽しんでいた。彼はカニディアの悪意を感得してはいたが、魔法そのものはそれほど本気で信じていたわけではなかった。
ウェルギリウスやホラティウスの同時代の詩人プロベルティウス(前四十八?~十九年)も魔女の呪いを蒙ったことがある。プロベルティウスの受けた呪いは、まさに彼の男性としての能力の荒廃の脅威であった。敵なる魔女はその名もアカンティスといい、魔法をあやつると同時にやはり男女の仲を斡旋する取り持ち女でもあった。そもそもおらゆる種類の自然と蔑視してその正常な運行を人為的に左右しようとするプロメテウス的瀆神行為である魔法を、とりわけ肉体のの領域において一手に引き受けていたのは、先にも述べたように、当時スブーラに巣食っていた卑賤な薬草売りの魔女やあやしげな取り持ち女だった。ホラティウスの『エポーディ』のいちじるしい影響下にある『哀歌』のなかで、プロペルティウスはほとんどホラティウスをそのまま踏襲しながら唱っている。
「彼女(アカンティス)はつれないヒッポリュトスをアプロディーテーにたいして和ませるすべをすら心得ているのだ、水入らずの愛の絆にたいする最悪の災いの鳥であるこの女性。彼女はベネローベをさえ、その夫の知らせなどおかまいなしに、淫蕩なアンティノースとめあわせることだろう。彼女がその気になれば、磁石はもはや鉄を牽引せず、鳥はその小鳥たちの巣のなかで継母(ままはは)となる。すなわち彼女がポルタ・コリナの野草を掘り出したならば、固く結ばれていたものはすべて流れる水に溶け去るのだ。彼女は大胆にも月に呪文をかけ、月をおのが掟に従わせ、夜な夜なその肉体を狼の姿に隠す。醒めている夫の眼を環形でくらませるために、彼女は処女の雌鳥どもの眼を爪でくり抜く。彼女は魔女たちと結託して私の男性の能力を去勢させようとし、私に害をあたえようものと子持ちの雌馬の欲情の愛液を集めた。」
アカンティスはエロチックな引力(共感)と斥力(反感)の結合(カタデシス)と分離(アポリシス)の両極原理を基盤とする錬金術的性愛術を自在に操るのである。思うがままに貞淑ペネローペを淫蕩なアンティノース靡かせ、冷たいヒッポリュトスにアプロディーテーにたいする熱烈な情欲をかきたてる。彼女は自然の法則を嘲笑し、リビトーの流れをあちらからこちらへと変えたり、涸らしたり、増量させたりすることさえできる。共夫の女をよこしまな道楽者に取り持つように頼まれれば、不運な男の眼を鳥の眼をくり抜くようにくらませ、あまつさえ他人の畑の作物を枯らすようにしてそのリビドーを荒廃させ、不能の夫から強壮薬で男性的魅力をいやが上に引き立たせられた道楽者の方へと女の浮いた心を誘導していく。共感の法則をたくみに使い分けて、愛し合う男女を別れさせたり、嫌われた相手を手元にたぐり寄せたりするのである。
もっとも、このときにこそ魔女アカンティスを憎々しげた呪詛しているプロベルティウスであるが、彼自身、若年の頃は靡かぬ片恋の人「キンティア情(なさけ)を買うために「キタイアの女の魔法の呪文によって星辰や河の軌道を転ずることができ」、「わが主なる女(ひと)の心を変えて、彼女の貌(かんばせ)を私のそれよりも蒼ざめさせる」魔女の性愛術に帰依したことがあったのである。
アカンティスの魔法の中心にあるのも「ボルタ・コリナの野草」である。黒海やコーカサス地方の野草ではなく、市郊外の入手しやすい野草に頼ったのは輸入品が高価だったからであろう。いずれにせよ、この野草を投ずることによって、星の運行、河川の流れ、男女の情愛、磁力や母子愛まで、自然の正常な摂理は突然ばらばらに分解し、崩壊した積木の神殿を魔女の家に組み立てなおすように、別種の構成原理の手に委ねられる。
端的にいえば、この瞬間に世界は昼の側から夜の側に逆転し、世界原理の主宰者が神と宗教から悪魔(もしくは魔霊(デーモン)と魔法に交替する。あるいは天地創造の原活力たる火が神の手からプロメテウスに簒奪される、といってもいい。このように、あらゆる魔法使いは自然の法則を嘲笑するプロメテウスにほかならないのである。
「宗教的人間の態度は、祈る人、懺悔する人の態度であり、魔法使いの態度は主人と支配者の態度である。信仰篤い人間は祈りのなかで彼の神々に自分の優位を感じさせ、呪文によって神々を屈服させる。ある意味で魔法使いは神々の上に立っている。なぜなら彼は、神々がそれに従わなければならないと呼びかけと誓言とを知っており、かつ服従させられた神々の怒りから身を護る予防策に精通しているからである。」(ゲオルタ・ルック)
ローマの詩人たちは宗教詩人というよりはむしろ世故に通じたエピキュリアンであった。彼らは神々の側に立って魔法使いや魔女をきびしく紏弾したわけではない。そうかといって、あまたの魔女の姿を描いたにも��よ、彼らは悪魔崇拝に首までどっ��りと浸って秘教的な暗黒詩を書いたのでもない。
詩人たちが魔法にたいしてあいまいな態度をとりつづけたのは、彼ら自身と魔法使いたちとの間に存在した隠微な抗争のためであった。彼らは宗教の側に立って魔法を攻撃することこそあえてしなかったが、彼らなりに魔法を嘲弄もしくは嫉妬していた。なぜなら魔法が万事を解決してしまえば、彼らの持駒である言葉の救済力という白い魔術の出番がなくなってしまうからである。「歌(カルメーン)の原義は「魔法の歌」、「魔術的呪文」であった。「詩作(ポイエーテス)」もまた言葉の自然状態の組み変えというプロメテウス的行為である。それゆえに詩人もまた「傲慢(ヒュブリス)」の罪によってみずからはコーカサスの山巓にさらされながら地上の人びとに慰藉を授ける。プロベルティウスの言葉の医術についての確信は反語的である。
 私は離ればなれにさせられた恋人たちをふたたび合一させることができ、
主(ぬし)なる女(ひと)の抗う扉を開くことができる。
私は他人(ひと)の生々しい悲哀を癒すことができるが、
私の言葉のなかにはいささかの薬剤もない。
 さてウェルギスウスのモエリスが演じた薬草による三つの魔法のうち、まだ死者降霊術のみが言及されていない。死者召喚の秘法に関しては、すでにホメーロスの『オヂュッセイア』第十一巻に「招魂」の章がある。そこでオヂュッセウスに地下に一キュービット四方の穴を掘り、乳、蜜、酒、水、大麦の粉などを播いてから黒い牧羊の喉を切ってその血を穴に注ぎ、死者たちの魂を喚び戻す。古代人にとって死者は存在から消滅するのではなく、冥府や月世界に移行するのであるから、冥府の主であるハーデスやペルセポネイアに祈願して時間を逆流させることができれば、死者は当然地下世界から地上に還帰するはずなのである。地下的なものの秘密の結実である薬草がこの喚び戻しに重要な役割を駆使するのである。オウィディウスはいう。「彼女は黴び朽ちた墓の底から汝の父祖や祖先を引き出し、大いなる祈りによって大地と岩石とを割る。」
死者召喚が発端と終末、死と生と逆転であるとすれば、死から生への大逆流の一環として若返りの魔法が考えられる。老年から幼年への(自然的に不可逆的な)若返りはいわば死者再臨の模型である。オウィディウスは『転身物語』のなかで大魔女メデアがアエソンに施したおどろくべき若返りの秘法を絢爛たる筆にのせて活写している。
しかもここでメデアの魔法の要となっているのも「魔法の霊薬」である。まずメデアは翼のある龍にの首に牽かれた車を呼び出し、これにのり込んでテッサリアの野に飛び、あまたの薬草を採集する。それから奇怪な薬の調合にかかる。
「かの女は、髪の毛をバックスの巫女のようにふりみだして、炎のもえている祭壇のまわりをぐるぐるまわり、こまかに割った炬火(たいまつ)を溝のなかの黒々として血にひたし、ふたつの祭壇の炎でその炬火に火をつけ、こうして火で三度、さらに硫黄で三度老人(アエソン)のからだを清めた。そのあいだに、火にかけた青銅のなかでは、魔法の霊薬が煮えたぎり、白い泡をたててふきこぼれていた。かの女は、ハエモニア(テッサリアの古名)で刈りとってきた草の根や種子や花や激烈な草汁をそのなかに煮こみ、さらに、極東の国からとりよせた 取り寄せた小石や、オケアヌスの引潮に洗われた砂をまぜ、これに満月の夜にあつめた露、鷲木菟(わしみみずく)の肉といまわしいその翼、おのれを狼のすがたに変えることができるといわれる人狼の臓腑をくわえ、その上にキニュプスの流れに住む水蛇のうすい鱗皮と、九代を生きながらえた鴉の嘴と頭を入れてことをわすれなかった。」(田中秀夫・前田敬作訳)
前代の詩人たちの精読者であったオウィディウスは、ここにウェルギリウスやホラティウスやプロペルティウスの伝えた魔女の秘薬のあらゆる要素を投げ入れ、ほとんど完璧なごった煮を調製しているのである。さて、メデアの最後に橄欖樹の枯枝でこの液体をかきまわすと、老いた枯枝はみるみるうちに縁に返って豊かな薬をつけ、ふきこぼれた液がふれた地面はたちまち若やいだ春の地肌に変り、花が咲き、やわらかい草が萌え出た。メデアはすぐさま剣を抜いて老人の喉に孔をあける。流れる出る古い血の後に薬液を注ぎ込むと、瀕死のアエソンの白い鬚や髪はたちまち真黒になり、老醜の皺は消えて四十年前の姿になり変わった。
メデアが龍にのって薬草を探しにいくデッサリア地方は、都の郊外のように手近ではないが、さりとて彼女の故郷の黒海沿岸(コルキス)やコーカサスのような遠方でもない。しかしこころみに地図を広げてみると、エーゲ海から黒海に入るダーダネルス海峡を通じて、薬草の特産地たる黒海東端のコルキス、ヒべリア、コーカサスは水路から意外にも指呼の間にある。事実、アルタゴナウタエたちはテッサリアのパガサエの港からアルゴ号を仕立ててコルキスの金羊毛皮を探しに出立した。テッサリアと黒海沿岸地方に古くから深い関係が成立していたであろうことは、この一事からも容易推測される。ちなみにロイナー教授の野生幻覚剤分布表によると、魔女の塗膏の歴史的原生地は「中央ヨーロッパ全土」とされている。
おそらく中央ヨーロッパ奥地から地中海沿岸地帯にかけて、かつて強大な母神信仰が栄えていたのであった。この地下的(クトーニッシュ)母神崇拝の宗教はやがてアポロン的宗教に打倒され、輝かしいギリシア世界の表面からは駆逐された。とはいえ跡形もなく消滅したわけではなく、勝利を占めた若いアポロン信仰は古い地中海宗教の多くの要素を受け入れた。たとえばデルポイの神託を授けるアポロン神殿の巫女ピュッティアは、大地の裂け目の上にすわって地中からくる母の指示を受信する。ピュティアという名称そのものがすでに前ギリシア的宗教における地下的なものの化身たるピュトンの蛇との関連を暗示している。
若い宗教に征服された前代の宗教は、一転、魔法となるのがつねであった。のが常であった。同様に魔女たちは、かつてこの冥府的な大母神信仰の由緒正しい女司祭若巫女だったのであろう。しばしば魔女が引合いに出すテッサリアやコルキスのような土地は、メデアのような大女司祭が君臨していた聖地だったのであろう。したがってローマの詩人たちがその作品のなかに描いたアカンティスやカニディアのような魔女は、没落した大母神崇拝教団の巫女の、いまは往古の栄えある祭儀に参加するすべもなく孤立して巷をさまよい、賤業に口糊する、頽落したなれの果ての身にちがいない。彼女たちが時折り口にした霊薬の甘味は、プルーストにおけるマドレーヌの喚起的美味とひとしく、それが神餞として共食された往時の、栄光ある、だがいまは沈んで久しい世界の天上的な至福の思い出を、一瞬ざまざと想起させてくれたかもしれない。
魔女の塗膏や霊薬は、それ自体としても、むろん後の悪魔礼拝と切っても切れない密接なつながりがある。しかしそれよりも重要なのは、魔女を女司祭に戴いていた前ギリシア的地中海宗教が若い宗教に敗北したとき、そこにアポロン信仰が定位されたことである。いいかえれば、このとき以来、崇拝の対象は女性神(大母神)から男性神アポロンに変ったのだ。
アポロン的宗教の男性神崇拝は、当然のことながらキリストを受け入れる基礎を用意した。ここからキリストの倒錯像サタンの成立まではわずか一歩である。アポロンとキリストが男性でなかったならば、悪魔もまたついに男性ではなかったであろう。若い男性神に打倒された母神へのなつかしい郷愁は、アポロンやキリストへの憎悪の化身である第二の男性神を必然的に招来せしめた。この怨恨と憎悪に黒々と塗り込められた黒い男は、ときにはサタンとして、ときにはロマンティックな悪魔主義者として、ときには超人や天才として、時代とともに変転する自己表現をとげた。 いみじくも聖侯爵の「悪魔主義」について語りながら、「天才は母の国にではなく、魔女の国に棲む」と語ったのはG・R・ホッケである。私が右に述べてきたのもサタンの棲もう風土たる「魔女の国」のくさぐさの追憶であった。
出自《悪魔礼拝》
0 notes
kachoushi · 5 years
Text
老いてこそVI
花鳥誌2019年11月号より転載
Tumblr media
句誌「太白」代表
吉岡 乱水
「長崎くにち」(地霊への存問)
 キリシタン大名大村純忠(キリシタン大名の有馬氏より養子となった大村藩領主)は、後藤貴明(大村藩主の次子だが武雄の後藤藩の養子)などの反純忠派に貿易港横瀬浦を焼き払われ、純忠は、寒村であった長崎をポルトガル人に提供、長崎港周辺と茂木を治外法権のイエズス会領とし、貿易港として発展し、長崎繁栄の基礎となった。  純忠の信仰は過激で、領内の寺社を悉く破壊し、僧侶や神官を殺害、領民にキリスト教を強いて、改宗しない領民の殺害や土地の略奪などの暴虐をほしいままにし、家臣や領民の恐怖となったという。  その後、豊臣秀吉のバテレン禁教令が敷かれ、情勢は逆転した。その流れを踏襲した江戸時代、長崎奉行や代官らの寺社保護援助の下、青木賢清(キリシタンからは「天狗」つまり「悪魔」とののしられた)が、切支丹教徒の妨害を受けながら、社殿を建立し、諏訪・森崎・住吉の三神を再興・合祀し、諏訪神社の基礎が築かれた。  安政四年(一八五七)火災により社殿が焼失、明治二年(一八六九)に再建、現在の姿となる。  「長崎くにち」は、この神社の秋季大祭、寛永十一年(一六三四)丸山町.寄合町の高尾と音羽の舞の奉納に始まり、出し物も増え、日本三大祭となった。  「くにち」は、六月一日「小屋入り」を以って始まる。踊町の世話役や出演者が諏訪・八坂の両神社まえで清祓いを受け、出し物の稽古を始める。
追ひ込みの忙しき準備宮日前 水上良子
 宮日が季語か疑問だが、十月が近づくと宮日準備に大童で稽古の笛太鼓も街へ流れ来るのである。  十月三日、踊町は家を空け広げ、様々なものを飾り、出演者への贈答品を並べ披露する。
庭見世という庭見世は禁教名残諏訪祭 溝越千鶴子
 禁教時代に家中を披露し、禁じられているものはない、キリスト教ではないという証の制度だと人は云う。単なる風評か確かな証拠はない。今は、祭の一部に溶け込む催しとなっている。
庭見世や新酒振舞ふ赤ら顔 坂口かづさ
 十月七日、くにち初日、まず境内での出し物、大勢の観客の見守る中での晴の試技である。
モッテコイの歓声ひびく秋祭 里見澄
 モッテコイは、出し物の出演の催促である。アンコールの意味ではない。
駆け下る長坂気負ふ神輿足袋 里見澄
 初日、境内の広場で勇壮に練り歩いた後、三社の神輿が長坂を駈け下りてゆくお下りの様子、街を練り歩き、大波止の御旅所へと向かう。
天高し長采振りの鯔背ぶり 久保恭
 長采(ながさい)とは、川船(船の形の山車)・竜宮船・御座船を引く根引衆(勢子)を調整する役で、その格好の良さを鯔背と愛でている。
龍じゃおどり踊を担ぎて若し秋祭 外輪ふみえ 秋祭生ある如く白蛇舞ふ 山口桂子 蛇踊の秋陽濃かりし石畳 松尾みちこ
 龍踊は殊に市民の心を揺さぶる催しである。中国文化を取り入れた出し物は、龍踊だけに止まらないが、龍踊は関心が高く、「太白」の句も甚だ多い。
三味線の指先をどり秋祭 奥田 好春着崩れを��す役居て秋祭 八木花栗
 これは本踊りの仕草である。本踊りとは日本本来の踊、一方オランダ漫才等異国風の出し物もあり、国際色豊かな長崎ならではの華やぎである。
川船の大漁に湧く秋祭 立川裕子 秋祭諏訪を舞台の稚児船頭 里見澄
 川船という山車である。担ぐのは若者、子供の船頭が舟に乗り、投網を打ち、境内に散らばる鯛を網に掛け、拍手喝采を受け、船頭は肩をそびやかす。
秋天を押し上げ抛る太こっこでしょ鼓山 吉岡乱水 こつこでしよ秋天高く掲げ持つ 三河祥子
 太鼓山は「コッコデショ」と読む。こっこでしょは掛声だったが出し物の名になっている。子どもの乗った山車を天へ抛り上げる勇壮な出し物である。
辻々に踊献上秋祭 本田福代
 街を練り、家々や辻辻に舞を奉納し寿ぐ。
七町の傘鉾七つ秋高し 久保恭 御旅所の御饌は三俵今年米 溝越千鶴子
 御旅所の大波止に出店が並び、賑いも格別である。駆け上る神輿三体宮日果つ 溝越千鶴子  お登りの様である。三社の神輿が長坂を駈け登り社殿に安置され祭りは終末を告げる。  仏教・神道の迫害そしてキリスト教迫害と悲惨な歴史の繰り返された長崎。それに原爆。今「おくにち」の平和に酔い、隠れの文化は、世界遺産と騒いでいる。歴史って何? 命って何? 私は頭抱えている。
0 notes
哲学的に考えると、子どもに「自由」はない。 ORICON NEWS-2 時間前
哲学的に考えると、子どもに「自由」はない。 ORICON NEWS-2 時間前
哲学史2500年の結論! ソクラテス、ベンサム、ニーチェ、ロールズ、フーコーetc。人類誕生から続く「正義」を巡る論争の決着とは? 哲学家、飲茶の最新刊『正義の教室 善く生きるための哲学入門』の第5章のダイジェスト版を公開します。
本書の舞台は、いじめによる生徒の自殺をきっかけに、学校中に監視カメラを設置することになった私立高校。平穏な日々が訪れた一方で、「プライバシーの侵害では」と撤廃を求める声があがり、生徒会長の「正義(まさよし)」は、「正義とは何か?」について考え始めます……。
物語には、「平等」「自由」そして「宗教」という、異なる正義を持つ3人の女子高生(生徒会メンバー)が登場。交錯する「正義」。ゆずれない信念。トラウマとの闘い。個性豊かな彼女たちとのかけ合いをとおして、正義(まさよし)が最後に導き出す答えとは!?
子どもの「自由」を哲学する 前回記事『人助けを「無理やりさせる」のは、“正義の行為”か?』の続きです。
僕を挟んで唐突に始まった、副会長と庶務の言い合い。
いや、生徒会室なら、正直見慣れた光景ではあるのだが、今は授業中。公の場だ。でも、ここで何か口を挟もうものなら、生徒会長として、この場の調停を求められてしまう(それもまた見慣れた光景だ)。まずはそれを回避しよう。僕は息を殺して背筋を伸ばし、無言で真っ直ぐ前を見て、この件に自分は無関係であるというアピールをする。
が、その結果、先生と思いきり視線がぶつかってしまった。
「正義くんは、どう思うかな?」 逆効果。むしろ、僕に任せてください的なアピールになってしまった。
「そうですね……」 そのとき脳裏によぎったのは、「たしかに人助けを強制するってなんか違うなって思いますが、でも、助ける助けないは自由でまったく強制しないってのも問題ですよねー」といったどっちつかずの曖昧な答え。
それを口に出して、なんとかこの場をしのごうかとも思ったが……、今までの記憶を思い返してみると、そう言って、しのげた試しがない。見慣れた光景だからこそわかる。お茶を濁す発言はそれこそ逆効果なのだ。ならば……。
「あの……自由主義は、子どもの自由についてはどう考えているのでしょうか?」 ならば、一旦視点を変えてみる。もちろん当てずっぽうではなくて。たぶん、おそらくつながると思うんだけど。
「ほう!」 先生は、とても感心した声を出した。
「なるほど、良い視点だ。たしかに自由主義は、人間の自由を尊重する立場であるが、子どももしくは未成年の行動については、ある程度制限するべきだと考えている。ただし、ここで制限すると言っているのは、あくまでも行動であって自由ではないことに注意してほしい」
ん? 行動は制限するけど、自由は制限していない? どういうことだろう。同じことのように思えるのだが。...
https://www.oricon.co.jp/article/862564/
再生核研究所声明 139 (2013.10.22):  正義とは 戦争における; 短期的には 勝者が決めるが、世界史が評価の大勢を定める
(2013.10.10.16:35 休んでいるとき、構想を練る。これは声明に関心を擁く人からの 要望による。)
まず、用語を確認して置こう: 正義(せいぎ、希: δικαιοσύνη、羅: jūstitia、英: justice、仏: justice、独: Gerechtigkeit)とは、倫理、合理性、法律、自然法、宗教、公正ないし衡平にもとづく道徳的な正しさ[要出典]に関する概念である。 正義の実質的な内容を探究する学問分野は正義論と呼ばれる。広義すなわち日本語の日常的な意味においては、道理に適った正しいこと全般を意味する。以下では、専ら西洋における概念(すなわちjusticeないしそれに類似する言葉で示されるもの)を記述する。東洋のそれについては義のページを参照。 定義[編集] 正義とは、それ自体に鑑みれば、社会における物および人に関する固有の秩序である[要出典]。この概念は、哲学的、法的あるいは神学的な影響の下で、歴史上絶え間なく論じられてきた。正義に関する問題の多くは、西洋における正義概念に依拠している。例えば、「正義とは何であるか」「正義は個人および社会に何を要求しているか」「社会における財と資源の本来的な配分方法(平等主義、才能主義、身分主義)は何か」などである。これらの問いに対しては、政治および哲学に関する多様な観点から様々に答えうる。 正義の概念は、多くの正義論によって極めて重要な概念であるとされている。例えば、ジョン・ロールズは次のように述べている[1]。「正義とは、思想体系が真であることとしての、社会制度の根本的な徳である」。正義は、親切、慈悲、慈愛、寛大さあるいは共感などのその他の徳と区別され、そしてそれらよりもより基本的な徳であると考えることもできる。正義は、とりわけギリシャ哲学やキリスト教においては、運命、輪廻あるいは神の予見のように、自然の摂理や超越的存在によって規律された生ないし生き方と結び付けられることがしばしばであった。しかし、現代の正義論においては、このような宇宙論的・宗教的世界観を離れて、正義を社会制度の根源を為す価値である公正さと結び付けて人間社会の枠組みの問題であると捉える傾向が強い。(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E7%BE%A9より) また、
義   「己の威儀なり。我+羊の会意」 ・・・ 「羊+我声」 と改めたほうがよい。  「羊」 を含むのは、祥・善 に羊を含むのと同じく、ヒツジを神に捧げるギセイに常用した習慣に基づく。  もともと宜 と同じく神への供物が くっきりとかどばって美しく揃っていること。  <書経、文侯之命> の「父義和」の鄭注に、「義とは匹(そろう)なり」とあるのは、なお原義に近い。  <礼記、中庸> に「義とは宜なり」とある。また<礼記、祭義> に「義とはこれに宜(よろ)しきなり」ともある。  転じてすべてかどあるさまを義・儀 という。娥(美しい女) とも同系。※ 『漢字語源辞典』(学燈社) p.592。
また、 ここで再び唐漢氏に登場願う。彼曰く、
甲骨文字「義」
金文「義」 「義」という字は、羊と我という文字から成り立っている。ここで「羊」はこの種の頭上にある大きく湾曲した角を指す。その意味は羊の統率指導権や交配優先権を表すものだと解釈されている。そして「我」というのは古代の長い柄の一種の兵器のことであるが、形が美しく作られ実際の戦闘には不向きで、軍隊の標識用に作られたものだとしている。したがって「義」という字は、本来は「羊」の頭を指し自分あるいはグループの権力、戦闘に向かう集団の権力の誇示に並べたものであろうということである。 このことから「義」は情理・正義に合致した名目の立つ出兵を示し、公正適切な言行を指すようになったということである。  このことから考えると先ごろのアメリカ・イギリスなどのイラク攻撃には一体いかなる「義」が存在したのだろう。一旦この「義」が地に捨てられてしまうと、後は強肉弱食のカオスの世界しか残らない。  このことを「天地人」の作者は最も言いたかったのではないだろうか。 http://kanji-roots.blogspot.jp/2010/05/blog-post_26.htmlより また、 「義(ただしい)」は、犠牲として神に捧げる「羊」と、これを切る鋸(のこぎり)「我」の合体した文字。「義」には悲劇がつきまとう。【『一日一書』石川九楊(二玄社、2002年)】
上記のように “正義” は 実に曖昧な言葉であることが分る。 義の語源から、戦闘を大義名分にするときに掲げる言語で、重い意味を有する言語ではないだろうか。そこで、正義の意味をきちんとさせたい。 きちんとした解釈を与えたい。 まず、世の道徳や、法や慣習が確立している範囲��らば、正義は 次の 公正の原則 で定められるのではないだろうか: 再生核研究所声明 1 (2007/1/27): 美しい社会はどうしたら、できるか、 美しい社会とは: 平成12年9月21日早朝、公正とは何かについて次のような考えがひらめいて目を覚ました。(公正の原則)
1) 法律、規則、慣習、約束に合っているか。 2) 逆の立場に立ってみてそれは受け入れられるか。 3) それはみんなに受け入れられるか。  4) それは安定的に実現可能か。
ところが、合戦や戦争では いわゆる約束ごと、ルールを越えて 行われるので、世の一切の法やルール、慣習を越えている。それで、その戦いを正当化する言語、正義は、極めて難しい言語であると言える。ルールは何も無く、ただ戦争の勝利者が正義を定められる と考えるべきである。これは既に 定着している 勝てば官軍 の諺に表現される。合戦には 不意打ち、だまし討ち、陰謀などは常識であり、侵略どころか、虐殺、皆殺しなども世界史には存在する。第二次世界大戦でも 戦闘力のない 敗戦真近かの国に 非戦闘員、民間人の大量虐殺を始めから意図した原爆投下などが 存在するが、戦争だから仕方がないと 世界では受け止められている。 非戦闘員は 巻添えにはしない などの慣習や道義など、一切のルールは 機能していないのが 世界史である。 ― (いわゆる戦時における 慰安婦問題などが 問題にされているが、原爆投下などの 大きな非道に目をつぶって、そのような問題を論じているのは、誠におかしいのでは?(再生核研究所声明 101 慰安婦問題 ― おかしな韓国の認識、日本の認識))。 そこで、勝てば官軍 の現実を受け止め、勝利者が正義を定める としたい。戦争、合戦は 無条件の戦いであり、生きるか死ぬかの 究極の選択と考える。これは生物界に厳然と存在する、食うか食われるかの戦いであり、究極の局面である。(そのような戦争は したくはない。戦争は ゲームのようなものではない、兵士は 権力者の消耗品ではないと言うことである。)。大和朝廷の平定、アレキサンダー大王の遠征、南アメリカへの侵略、北米の支配などなども いろいろ批判されるべき点が有っても、いわば自然法に基づいた 強い者が正義を定める を述べている。 その原理は、今でも同じで、戦いには法は無く、総合的な力が世界を動かしている現実がある。イラク進攻を見れば、歴然であり、法も無く、国連安保理事会も 未だに機能していない。若いアメリカ合衆国は 力の信仰、自由競争による自然法的発想が、もっとも強い国であるように見える。 これで、正義 は 確定し、正確に定義された。 それで、戦争に 正義を掲げるのは、この意味で意味を失うことになる。― もちろん、対立する双方が大義を掲げるのは、当然である。― 世界史は 勝利者によって書かれ、作られて来たと言えるが、その勝利者は、その時代における総合戦による勝利者であって、単に軍事だけで世界が動いたのではないと言える。植民地支配をしたり、侵略して来たのは、勝者として、それだけの力を有していたと、評価できる面が有ることを 認めざるを得ない。自然の生物界の現実が そうであると考えられる。自己防衛は あらゆる生物に与えられた、本能であり、当然の義務、基本的な義務であると考えられる。国防の戦略や災害に対する対策が無い国などは、国家の基本を疎かにしていると批判されるだろう。 再生核研究所は それでは 軍備拡張で富国強兵を考えているのかと言えば、逆である。現在の世界の状況を総合的に理解して、世界史を進化させて、和によって、夜明け前の暗い時代を 終わらせ、明るい時代を築こうと いろいろ世界の平和の問題についても 具体的に 提案を行っている:
再生核研究所声明8: 日本国の防衛の在り方について 再生核研究所声明10: 絶対的な世界の平和の為に 再生核研究所声明 25: 日本の対米、対中国姿勢の在りようについて 再生核研究所声明 53: 世界の軍隊を 地球防衛軍 に 再生核研究所声明 111: 日本国憲法によって、日本国および日本軍を守れ、― 世界に誇る 憲法の改悪を許すな
また、戦いに勝利しても、永い歴史のうちでは、文化力で敗北して、結局は 事実上、逆に支配されてしまったような現象は 世に多いのではないのだろうか。幾ら戦争だからと言っても 何をやっても良いでは、戦争には、戦いには勝てず、人間存在の原理や文化、慣習の尊重などは、官軍になるためには 時代に受け入れられる、それなりの大義名分が必要ではないだろうか、全体的な評価は、世界史が 判断するだろう(再生核研究所声明 41:世界史、大義、評価、神、最後の審判)。 これからの戦争では 完全な勝利を得るものは無く、共倒れの可能性が高いのではないだろうか。大きな本格的な戦争に至れば、人類絶滅の可能性が高いのではないだろうか(再生核研究所声明 137: 世界の危機と 権力者の選出)。
以 上
正義は武器に似たものである。武器は金を出しさえすれば、敵にも味方にも買われるであろう。 正義も理屈をつけさえすれば、敵にも味方にも買われるものである。 芥川龍之介「侏儒の言葉」より
Fallacy of division | Revolvy https://www.revolvy.com/page/Fallacy-of-division
このページを訳す
In the philosophy of the ancient Greek Anaxagoras, as claimed by the Roman atomist Lucretius,[1] it was assumed that the atoms .... For example, the reason validity fails may be a division by zero that is hidden by algebraic notation. There is a ...https://www.revolvy.com/page/Fallacy-of-division
ソクラテス・プラトン・アリストテレス その他
2017年11月15日(水) テーマ:社会
The null set is conceptually similar to the role of the number ``zero'' as it is used in quantum field theory. In quantum field theory, one can take the empty set, the vacuum, and generate all possible physical configurations of the Universe being modelled by acting on it with creation operators, and one can similarly change from one thing to another by applying mixtures of creation and anihillation operators to suitably filled or empty states. The anihillation operator applied to the vacuum, however, yields zero.
Zero in this case is the null set - it stands, quite literally, for no physical state in the Universe. The important point is that it is not possible to act on zero with a creation operator to create something; creation operators only act on the vacuum which is empty but not zero. Physicists are consequently fairly comfortable with the existence of operations that result in ``nothing'' and don't even require that those operations be contradictions, only operationally non-invertible.
It is also far from unknown in mathematics. When considering the set of all real numbers as quantities and the operations of ordinary arithmetic, the ``empty set'' is algebraically the number zero (absence of any quantity, positive or negative). However, when one performs a division operation algebraically, one has to be careful to exclude division by zero from the set of permitted operations! The result of division by zero isn't zero, it is ``not a number'' or ``undefined'' and is not in the Universe of real numbers.
Just as one can easily ``prove'' that 1 = 2 if one does algebra on this set of numbers as if one can divide by zero legitimately3.34, so in logic one gets into trouble if one assumes that the set of all things that are in no set including the empty set is a set within the algebra, if one tries to form the set of all sets that do not include themselves, if one asserts a Universal Set of Men exists containing a set of men wherein a male barber shaves all men that do not shave themselves3.35.
It is not - it is the null set, not the empty set, as there can be no male barbers in a non-empty set of men (containing at least one barber) that shave all men in that set that do not shave themselves at a deeper level than a mere empty list. It is not an empty set that could be filled by some algebraic operation performed on Real Male Barbers Presumed to Need Shaving in trial Universes of Unshaven Males as you can very easily see by considering any particular barber, perhaps one named ``Socrates'', in any particular Universe of Men to see if any of the sets of that Universe fit this predicate criterion with Socrates as the barber. Take the empty set (no men at all). Well then there are no barbers, including Socrates, so this cannot be the set we are trying to specify as it clearly must contain at least one barber and we've agreed to call its relevant barber Socrates. (and if it contains more than one, the rest of them are out of work at the moment).
Suppose a trial set contains Socrates alone. In the classical rendition we ask, does he shave himself? If we answer ``no'', then he is a member of this class of men who do not shave themselves and therefore must shave himself. Oops. Well, fine, he must shave himself. However, if he does shave himself, according to the rules he can only shave men who don't shave themselves and so he doesn't shave himself. Oops again. Paradox. When we try to apply the rule to a potential Socrates to generate the set, we get into trouble, as we cannot decide whether or not Socrates should shave himself.
Note that there is no problem at all in the existential set theory being proposed. In that set theory either Socrates must shave himself as All Men Must Be Shaven and he's the only man around. Or perhaps he has a beard, and all men do not in fact need shaving. Either way the set with just Socrates does not contain a barber that shaves all men because Socrates either shaves himself or he doesn't, so we shrug and continue searching for a set that satisfies our description pulled from an actual Universe of males including barbers. We immediately discover that adding more men doesn't matter. As long as those men, barbers or not, either shave themselves or Socrates shaves them they are consistent with our set description (although in many possible sets we find that hey, other barbers exist and shave other men who do not shave themselves), but in no case can Socrates (as our proposed single barber that shaves all men that do not shave themselves) be such a barber because he either shaves himself (violating the rule) or he doesn't (violating the rule). Instead of concluding that there is a paradox, we observe that the criterion simply doesn't describe any subset of any possible Universal Set of Men with no barbers, including the empty set with no men at all, or any subset that contains at least Socrates for any possible permutation of shaving patterns including ones that leave at least some men unshaven altogether.
https://webhome.phy.duke.edu/.../axioms/axioms/Null_Set.html
I understand your note as if you are saying the limit is infinity but nothing is equal to infinity, but you concluded corretly infinity is undefined. Your example of getting the denominator smaller and smalser the result of the division is a very large number that approches infinity. This is the intuitive mathematical argument that plunged philosophy into mathematics. at that level abstraction mathematics, as well as phyisics become the realm of philosophi. The notion of infinity is more a philosopy question than it is mathamatical. The reason we cannot devide by zero is simply axiomatic as Plato pointed out. The underlying reason for the axiom is because sero is nothing and deviding something by nothing is undefined. That axiom agrees with the notion of limit infinity, i.e. undefined. There are more phiplosphy books and thoughts about infinity in philosophy books than than there are discussions on infinity in math books.
http://mathhelpforum.com/algebra/223130-dividing-zero.html
ゼロ除算の歴史:ゼロ除算はゼロで割ることを考えるであるが、アリストテレス以来問題とされ、ゼロの記録がインドで初めて628年になされているが、既にそのとき、正解1/0が期待されていたと言う。しかし、理論づけられず、その後1300年を超えて、不可能である、あるいは無限、無限大、無限遠点とされてきたものである。
An Early Reference to Division by Zero C. B. Boyer http://www.fen.bilkent.edu.tr/~franz/M300/zero.pdf
OUR HUMANITY AND DIVISION BY ZERO
Lea esta bitácora en español There is a mathematical concept that says that division by zero has no meaning, or is an undefined expression, because it is impossible to have a real number that could be multiplied by zero in order to obtain another number different from zero. While this mathematical concept has been held as true for centuries, when it comes to the human level the present situation in global societies has, for a very long time, been contradicting it. It is true that we don’t all live in a mathematical world or with mathematical concepts in our heads all the time. However, we cannot deny that societies around the globe are trying to disprove this simple mathematical concept: that division by zero is an impossible equation to solve. Yes! We are all being divided by zero tolerance, zero acceptance, zero love, zero compassion, zero willingness to learn more about the other and to find intelligent and fulfilling ways to adapt to new ideas, concepts, ways of doing things, people and cultures. We are allowing these ‘zero denominators’ to run our equations, our lives, our souls. Each and every single day we get more divided and distanced from other people who are different from us. We let misinformation and biased concepts divide us, and we buy into these aberrant concepts in such a way, that we get swept into this division by zero without checking our consciences first. I believe, however, that if we change the zeros in any of the “divisions by zero” that are running our lives, we will actually be able to solve the non-mathematical concept of this equation: the human concept. >I believe deep down that we all have a heart, a conscience, a brain to think with, and, above all, an immense desire to learn and evolve. And thanks to all these positive things that we do have within, I also believe that we can use them to learn how to solve our “division by zero” mathematical impossibility at the human level. I am convinced that the key is open communication and an open heart. Nothing more, nothing less. Are we scared of, or do we feel baffled by the way another person from another culture or country looks in comparison to us? Are we bothered by how people from other cultures dress, eat, talk, walk, worship, think, etc.? Is this fear or bafflement so big that we much rather reject people and all the richness they bring within? How about if instead of rejecting or retreating from that person—division of our humanity by zero tolerance or zero acceptance—we decided to give them and us a chance? How about changing that zero tolerance into zero intolerance? Why not dare ask questions about the other person’s culture and way of life? Let us have the courage to let our guard down for a moment and open up enough for this person to ask us questions about our culture and way of life. How about if we learned to accept that while a person from another culture is living and breathing in our own culture, it is totally impossible for him/her to completely abandon his/her cultural values in order to become what we want her to become? Let’s be totally honest with ourselves at least: Would any of us really renounce who we are and where we come from just to become what somebody else asks us to become? If we are not willing to lose our identity, why should we ask somebody else to lose theirs? I believe with all my heart that if we practiced positive feelings—zero intolerance, zero non-acceptance, zero indifference, zero cruelty—every day, the premise that states that division by zero is impossible would continue being true, not only in mathematics, but also at the human level. We would not be divided anymore; we would simply be building a better world for all of us. Hoping to have touched your soul in a meaningful way, Adriana Adarve, Asheville, NC https://adarvetranslations.com/…/our-humanity-and-division…/
5000年?????
2017年09月01日(金)NEW ! テーマ:数学 Former algebraic approach was formally perfect, but it merely postulated existence of sets and morphisms [18] without showing methods to construct them. The primary concern of modern algebras is not how an operation can be performed, but whether it maps into or onto and the like abstract issues [19–23]. As important as this may be for proofs, the nature does not really care about all that. The PM’s concerns were not constructive, even though theoretically significant. We need thus an approach that is more relevant to operations performed in nature, which never complained about morphisms or the allegedly impossible division by zero, as far as I can tell. Abstract sets and morphisms should be de-emphasized as hardly operational. My decision to come up with a definite way to implement the feared division by zero was not really arbitrary, however. It has removed a hidden paradox from number theory and an obvious absurd from algebraic group theory. It was necessary step for full deployment of constructive, synthetic mathematics (SM) [2,3]. Problems hidden in PM implicitly affect all who use mathematics, even though we may not always be aware of their adverse impact on our thinking. Just take a look at the paradox that emerges from the usual prescription for multiplication of zeros that remained uncontested for some 5000 years 0  0 ¼ 0 ) 0  1=1 ¼ 0 ) 0  1 ¼ 0 1) 1ð? ¼ ?Þ1 ð0aÞ This ‘‘fact’’ was covered up by the infamous prohibition on division by zero [2]. How ingenious. If one is prohibited from dividing by zero one could not obtain this paradox. Yet the prohibition did not really make anything right. It silenced objections to irresponsible reasonings and prevented corrections to the PM’s flamboyant axiomatizations. The prohibition on treating infinity as invertible counterpart to zero did not do any good either. We use infinity in calculus for symbolic calculations of limits [24], for zero is the infinity’s twin [25], and also in projective geometry as well as in geometric mapping of complex numbers. Therein a sphere is cast onto the plane that is tangent to it and its free (opposite) pole in a point at infinity [26–28]. Yet infinity as an inverse to the natural zero removes the whole absurd (0a), for we obtain [2] 0 ¼ 1=1 ) 0  0 ¼ 1=12 > 0 0 ð0bÞ Stereographic projection of complex numbers tacitly contradicted the PM’s prescribed way to multiply zeros, yet it was never openly challenged. The old formula for multiplication of zeros (0a) is valid only as a practical approximation, but it is group-theoretically inadmissible in no-nonsense reasonings. The tiny distinction in formula (0b) makes profound theoretical difference for geometries and consequently also for physical applications. T https://www.plover.com/misc/CSF/sdarticle.pdf
とても興味深く読みました:
10,000 Year Clock by Renny Pritikin Conversation with Paolo Salvagione, lead engineer on the 10,000-year clock project, via e-mail in February 2010.
For an introduction to what we’re talking about here’s a short excerpt from a piece by Michael Chabon, published in 2006 in Details: ….Have you heard of this thing? It is going to be a kind of gigantic mechanical computer, slow, simple and ingenious, marking the hour, the day, the year, the century, the millennium, and the precession of the equinoxes, with a huge orrery to keep track of the immense ticking of the six naked-eye planets on their great orbital mainspring. The Clock of the Long Now will stand sixty feet tall, cost tens of millions of dollars, and when completed its designers and supporters plan to hide it in a cave in the Great Basin National Park in Nevada, a day’s hard walking from anywhere. Oh, and it’s going to run for ten thousand years. But even if the Clock of the Long Now fails to last ten thousand years, even if it breaks down after half or a quarter or a tenth that span, this mad contraption will already have long since fulfilled its purpose. Indeed the Clock may have accomplished its greatest task before it is ever finished, perhaps without ever being built at all. The point of the Clock of the Long Now is not to measure out the passage, into their unknown future, of the race of creatures that built it. The point of the Clock is to revive and restore the whole idea of the Future, to get us thinking about the Future again, to the degree if not in quite the way same way that we used to do, and to reintroduce the notion that we don’t just bequeath the future—though we do, whether we think about it or not. We also, in the very broadest sense of the first person plural pronoun, inherit it.
Renny Pritikin: When we were talking the other day I said that this sounds like a cross between Borges and the vast underground special effects from Forbidden Planet. I imagine you hear lots of comparisons like that…
Paolo Salvagione: (laughs) I can’t say I’ve heard that comparison. A childhood friend once referred to the project as a cross between Tinguely and Fabergé. When talking about the clock, with people, there’s that divide-by-zero moment (in the early days of computers to divide by zero was a sure way to crash the computer) and I can understand why. Where does one place, in one’s memory, such a thing, such a concept? After the pause, one could liken it to a reboot, the questions just start streaming out.
RP: OK so I think the word for that is nonplussed. Which the thesaurus matches with flummoxed, bewildered, at a loss. So the question is why even (I assume) fairly sophisticated people like your friends react like that. Is it the physical scale of the plan, or the notion of thinking 10,000 years into the future—more than the length of human history?
PS: I’d say it’s all three and more. I continue to be amazed by the specificity of the questions asked. Anthropologists ask a completely different set of questions than say, a mechanical engineer or a hedge fund manager. Our disciplines tie us to our perspectives. More than once, a seemingly innocent question has made an impact on the design of the clock. It’s not that we didn’t know the answer, sometimes we did, it’s that we hadn’t thought about it from the perspective of the person asking the question. Back to your question. I think when sophisticated people, like you, thread this concept through their own personal narrative it tickles them. Keeping in mind some people hate to be tickled.
RP: Can you give an example of a question that redirected the plan? That’s really so interesting, that all you brainiacs slaving away on this project and some amateur blithely pinpoints a problem or inconsistency or insight that spins it off in a different direction. It’s like the butterfly effect.
PS: Recently a climatologist pointed out that our equation of time cam, (photo by Rolfe Horn) (a cam is a type of gear: link) a device that tracks the difference between solar noon and mundane noon as well as the precession of the equinoxes, did not account for the redistribution of water away from the earth’s poles. The equation-of-time cam is arguably one of the most aesthetically pleasing parts of the clock. It also happens to be one that is fairly easy to explain. It visually demonstrates two extremes. If you slice it, like a loaf of bread, into 10,000 slices each slice would represent a year. The outside edge of the slice, let’s call it the crust, represents any point in that year, 365 points, 365 days. You could, given the right amount of magnification, divide it into hours, minutes, even seconds. Stepping back and looking at the unsliced cam the bottom is the year 2000 and the top is the year 12000. The twist that you see is the precession of the equinoxes. Now here’s the fun part, there’s a slight taper to the twist, that’s the slowing of the earth on its axis. As the ice at the poles melts we have a redistribution of water, we’re all becoming part of the “slow earth” movement.
RP: Are you familiar with Charles Ray’s early work in which you saw a plate on a table, or an object on the wall, and they looked stable, but were actually spinning incredibly slowly, or incredibly fast, and you couldn’t tell in either case? Or, more to the point, Tim Hawkinson’s early works in which he had rows of clockwork gears that turned very very fast, and then down the line, slower and slower, until at the end it approached the slowness that you’re dealing with?
PS: The spinning pieces by Ray touches on something we’re trying to avoid. We want you to know just how fast or just how slow the various parts are moving. The beauty of the Ray piece is that you can’t tell, fast, slow, stationary, they all look the same. I’m not familiar with the Hawkinson clockwork piece. I’ve see the clock pieces where he hides the mechanism and uses unlikely objects as the hands, such as the brass clasp on the back of a manila envelope or the tab of a coke can.
RP: Spin Sink (1 Rev./100 Years) (1995), in contrast, is a 24-foot-long row of interlocking gears, the smallest of which is driven by a whirring toy motor that in turn drives each consecutively larger and more slowly turning gear up to the largest of all, which rotates approximately once every one hundred years.
PS: I don’t know how I missed it, it’s gorgeous. Linking the speed that we can barely see with one that we rarely have the patience to wait for.
RP: : So you say you’ve opted for the clock’s time scale to be transparent. How will the clock communicate how fast it’s going?
PS: By placing the clock in a mountain we have a reference to long time. The stratigraphy provides us with the slowest metric. The clock is a middle point between millennia and seconds. Looking back 10,000 years we find the beginnings of civilization. Looking at an earthenware vessel from that era we imagine its use, the contents, the craftsman. The images painted or inscribed on the outside provide some insight into the lives and the languages of the distant past. Often these interpretations are flawed, biased or over-reaching. What I’m most enchanted by is that we continue to construct possible pasts around these objects, that our curiosity is overwhelming. We line up to see the treasures of Tut, or the remains of frozen ancestors. With the clock we are asking you to create possible futures, long futures, and with them the narratives that made them happen.
https://openspace.sfmoma.org/2010/02/10000-year-clock/
ダ・ヴィンチの名言 格言|無こそ最も素晴らしい存在
https://systemincome.com/7521
ゼロ除算の発見はどうでしょうか: Black holes are where God divided by zero:
再生核研究所声明371(2017.6.27)ゼロ除算の講演― 国際会議  https://ameblo.jp/syoshinoris/entry-12287338180.html
1/0=0、0/0=0、z/0=0 http://ameblo.jp/syoshinoris/entry-12276045402.html 1/0=0、0/0=0、z/0=0 http://ameblo.jp/syoshinoris/entry-12263708422.html 1/0=0、0/0=0、z/0=0 http://ameblo.jp/syoshinoris/entry-12272721615.html
ソクラテス・プラトン・アリストテレス その他 https://ameblo.jp/syoshinoris/entry-12328488611.html
ドキュメンタリー 2017: 神の数式 第2回 宇宙はなぜ生まれたのか https://www.youtube.com/watch?v=iQld9cnDli4 〔NHKスペシャル〕神の数式 完全版 第3回 宇宙はなぜ始まったのか https://www.youtube.com/watch?v=DvyAB8yTSjs&t=3318s 〔NHKスペシャル〕神の数式 完全版 第1回 この世は何からできているのか https://www.youtube.com/watch?v=KjvFdzhn7Dc NHKスペシャル 神の数式 完全版 第4回 異次元宇宙は存在するか https://www.youtube.com/watch?v=fWVv9puoTSs
再生核研究所声明 411(2018.02.02):  ゼロ除算発見4周年を迎えて https://ameblo.jp/syoshinoris/entry-12348847166.html
再生核研究所声明 416(2018.2.20):  ゼロ除算をやってどういう意味が有りますか。何か意味が有りますか。何になるのですか - 回答 再生核研究所声明 417(2018.2.23):  ゼロ除算って何ですか - 中学生、高校生向き 回答 再生核研究所声明 418(2018.2.24):  割り算とは何ですか? ゼロ除算って何ですか - 小学生、中学生向き 回答 再生核研究所声明 420(2018.3.2): ゼロ除算は正しいですか,合っていますか、信用できますか - 回答
2018.3.18.午前中 最後の講演: 日本数学会 東大駒場、函数方程式論分科会 講演書画カメラ用 原稿 The Japanese Mathematical Society, Annual Meeting at the University of Tokyo. 2018.3.18. https://ameblo.jp/syoshinoris/entry-12361744016.html より
*057 Pinelas,S./Caraballo,T./Kloeden,P./Graef,J.(eds.): Differential and Difference Equations with Applications: ICDDEA, Amadora, 2017. (Springer Proceedings in Mathematics and Statistics, Vol. 230) May 2018 587 pp.
再生核研究所声明 424(2018.3.29):  レオナルド・ダ・ヴィンチとゼロ除算
再生核研究所声明 427(2018.5.8): 神の数式、神の意志 そしてゼロ除算
アインシュタインも解決できなかった「ゼロで割る」問題
http://matome.naver.jp/odai/2135710882669605901
Title page of Leonhard Euler, Vollständige Anleitung zur Algebra, Vol. 1 (edition of 1771, first published in 1770), and p. 34 from Article 83, where Euler explains why a number divided by zero gives infinity.
https://notevenpast.org/dividing-nothing/
私は数学を信じない。 アルバート・アインシュタイン / I don't believe in mathematics. Albert Einstein→ゼロ除算ができなかったからではないでしょうか。
1423793753.460.341866474681。
Einstein's Only Mistake: Division by Zero
http://refully.blogspot.jp/2012/05/einsteins-only-mistake-division-by-zero.html
ゼロ除算は定義が問題です:
再生核研究所声明 148(2014.2.12) 100/0=0,  0/0=0 - 割り算の考えを自然に拡張すると ― 神の意志 https://blogs.yahoo.co.jp/kbdmm360/69056435.html
再生核研究所声明171(2014.7.30)掛け算の意味と割り算の意味 ― ゼロ除算100/0=0は自明である?http://reproducingkernel.blogspot.jp/2014/07/201473010000.html
アインシュタインも解決できなかった「ゼロで割る」問題
http://matome.naver.jp/odai/2135710882669605901
Title page of Leonhard Euler, Vollständige Anleitung zur Algebra, Vol. 1 (edition of 1771, first published in 1770), and p. 34 from Article 83, where Euler explains why a number divided by zero gives infinity.
https://notevenpast.org/dividing-nothing/
私は数学を信じない。 アルバート・アインシュタイン / I don't believe in mathematics. Albert Einstein→ゼロ除算ができなかったからではないでしょうか。1423793753.460.341866474681。
Einstein's Only Mistake: Division by Zero
http://refully.blogspot.jp/2012/05/einsteins-only-mistake-division-by-zero.html
#divide by zero
TOP DEFINITION
Genius
A super-smart math teacher that teaches at HTHS and can divide by zero.
Hey look, that genius’s IQ is over 9000!
#divide by zero #math #hths #smart #genius
by Lawlbags! October 21, 2009
divide by zero
Dividing by zero is the biggest epic fail known to mankind. It is a proven fact that a succesful division by zero will constitute in the implosion of the universe.
You are dividing by zero there, Johnny. Captain Kirk is not impressed.
Divide by zero?!?!! OMG!!! Epic failzorz
#4 chan #epic fail #implosion #universe #divide by zero
3
divide by zero
Divide by zero is undefined.
Divide by zero is undefined.
#divide #by #zero #dividebyzero #undefined
by JaWo October 28, 2006
division by zero
1) The number one ingredient for a catastrophic event in which the universe enfolds and collapses on itself and life as we know it ceases to exist. 2) A mathematical equation such as a/0 whereas a is some number and 0 is the divisor. Look it up on Wikipedia or something. Pretty confusing shit. 3) A reason for an error in programming
Hey, I divided by zero! ...Oh shi- a/0 Run-time error: '11': Division by zero
#division #0 #math #oh shi- #divide by zero
by DefectiveProduct September 08, 2006
dividing by zero
When even math shows you that not everything can be figured out with math. When you divide by zero, math kicks you in the shins and says "yeah, there's kind of an answer, but it ain't just some number." It's when mathematicians become philosophers.
Math: Let's say you have ZERO apples, and THREE people. How many apples does each person get? ZERO, cause there were no apples to begin with
Not-math because of dividing by zero: Let's say there are THREE apples, and ZERO people. How many apples does each person get? Friggin... How the Fruitcock should I know! How can you figure out how many apples each person gets if there's no people to get them?!? You'd think it'd be infinity, but not really. It could almost be any number, cause you could be like "each person gets 400 apples" which would be true, because all the people did get 400 apples, because there were no people. So all the people also got 42 apples, and a million and 7 apples. But it's still wrong.
#math #divide by zero #divide #dividing #zero #numbers #not-math #imaginary numbers #imaginary. phylosophy
by Zacharrie February 15, 2010
https://www.urbandictionary.com/tags.php?tag=divide%20by%20zero
№983
Dividing by Nothing by Alberto Martinez
Title page of Leonhard Euler, Vollständige Anleitung zur Algebra, Vol. 1 (edition of 1771, first published in 1770), and p. 34 from Article 83, where Euler explains why a number divided by zero gives infinity.
https://notevenpast.org/dividing-nothing/  より
The Road
Fig 5.2. Isaac Newton (1643-1727) and Gottfried Leibniz (1646-1716) were the culprits, ignoring the first commandment of mathematics not to divide by zero. But they hit gold, because what they mined in the process was the ideal circle.
http://thethirty-ninesteps.com/page_5-the_road.php より
mercredi, juillet 06, 2011 0/0, la célèbre formule d'Evariste Galois !
http://divisionparzero.blogspot.jp/2011/07/00-la-celebre-formule-devariste-galois.html  より
無限に関する様々な数学的概念:無限大 :記号∞ (アーベルなどはこれを 1 / 0 のように表記していた)で表す。 大雑把に言えば、いかなる数よりも大きいさまを表すものであるが、より明確な意味付けは文脈により様々である。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E9%99%90 より
リーマン球面:無限遠点が、実は 原点と通じていた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%B3%E7%90%83%E9%9D%A2 より
http://jestingstock.com/indian-mathematician-brahmagupta-image.html より
ブラーマグプタ(Brahmagupta、598年 – 668年?)はインドの数学者・天文学者。ブラマグプタとも呼ばれる。その著作は、イスラーム世界やヨーロッパにインド数学や天文学を伝える役割を果たした。 628年に、総合的な数理天文書『ブラーマ・スプタ・シッダーンタ』(ब्राह्मस्फुटसिद्धान्त Brāhmasphuṭasiddhānta)を著した。この中の数章で数学が扱われており、第12章はガニタ(算術)、第18章はクッタカ(代数)にあてられている。クッタカという語は、もとは「粉々に砕く」という意味だったが、のちに係数の値を小さくしてゆく逐次過程の方法を意味するようになり、代数の中で不定解析を表すようになった。この書では、 0 と負の数にも触れていて、その算法は現代の考え方に近い(ただし 0 ÷ 0 = 0 と定義している点は現代と異なっている)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%82%B0%E3%83%97%E3%82%BFより
ブラーマ・スプタ・シッダーンタ (Brahmasphutasiddhanta) は、7世紀のインドの数学者・天文学者であるブラーマグプタの628年の著作である。表題は宇宙の始まりという意味。 数としての「0(ゼロ)の概念」がはっきりと書かれた、現存する最古の書物として有名である。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%97%E3%82%BF%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%83%E3%83%80%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%82%BF より
ゼロ除算の歴史:ゼロ除算はゼロで割ることを考えるであるが、アリストテレス以来問題とされ、ゼロの記録がインドで初めて628年になされているが、既にそのとき、正解1/0が期待されていたと言う。しかし、理論づけられず、その後1300年を超えて、不可能である、あるいは無限、無限大、無限遠点とされてきたものである。
An Early Reference to Division by Zero C. B. Boyer http://www.fen.bilkent.edu.tr/~franz/M300/zero.pdf
Impact of ‘Division by Zero’ in Einstein’s Static Universe and Newton’s Equations in Classical Mechanics:http://gsjournal.net/Science-Journals/Research%20Papers-Relativity%20Theory/Download/2084 より
神秘的に美しい3つの公式:
面白い事にゼロ除算については、いろいろな説が現在存在します しかし、間もなく決着がつくのではないでしょうか。
ゼロ除算は、なにもかも当たり前ではないでしょうか。
ラース・ヴァレリアン・アールフォルス(Lars Valerian Ahlfors、1907年4月18日-1996年10月11日)はフィンランドの数学者。リーマン面の研究と複素解析の教科書を書いたことで知られる。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%AC%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%AB%E3%82%B9 フィールズ賞第一号
COMPLEX ANALYSIS, 3E (International Series in Pure and Applied Mathematics) (英語) ハードカバー – 1979/1/1 Lars Ahlfors (著) http://www.amazon.co.jp/COMPLEX-ANALYSIS-International-Applied-Mathematics/dp/0070006571/ref=sr_1_fkmr1_1?ie=UTF8&qid=1463478645&sr=8-1-fkmr1&keywords=Lars+Valerian+Ahlfors%E3%80%80%E3%80%80COMPLEX+ANALYSIS
原点の円に関する鏡像は、実は 原点であった。 本では、無限遠点と考えられていました。
Ramanujan says that answer for 0/0 is infinity. But I'm not sure it's ... https://www.quora.com/Ramanujan-says-that-answer-for-0-0-is-infi...
You can see from the other answers, that from the concept of limits, 0/0 can approach any value, even infinity. ... So, let me take a system where division by zero is actually defined, that is, you can multiply or divide both sides of an equation by ...
https://www.quora.com/Ramanujan-says-that-answer-for-0-0-is-infinity-But-Im-not-sure-its-correct-Can-anyone-help-me
Abel Memorial in Gjerstad
Discussions: Early History of Division by Zero H. G. Romig The American Mathematical Monthly Vol. 31, No. 8 (Oct., 1924), pp. 387-389 Published by: Mathematical Association of America DOI: 10.2307/2298825 Stable URL: http://www.jstor.org/stable/2298825 Page Count: 3
ロピタルの定理 (ロピタルのていり、英: l'Hôpital's rule) とは、微分積分学において不定形 (en) の極限を微分を用いて求めるための定理である。綴りl'Hôpital / l'Hospital、カタカナ表記ロピタル / ホスピタルの揺れについてはギヨーム・ド・ロピタルの項を参照。ベルヌーイの定理 (英語: Bernoulli's rule) と呼ばれることもある。本定理を (しばしば複数回) 適用することにより、不定形の式を非不定形の式に変換し、その極限値を容易に求めることができる可能性がある。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%94%E3%82%BF%E3%83%AB%E3%81%AE%E5%AE%9A%E7%90%86
Ein aufleuchtender Blitz: Niels Henrik Abel und seine Zeit https://books.google.co.jp/books?isbn=3642558402 -
Arild Stubhaug - 2013 - ‎Mathematics
Niels Henrik Abel und seine Zeit Arild Stubhaug. Abb. 19 a–c. a. ... Eine Kurve, die Abel studierte und dabei herausfand, wie sich der Umfang inn gleich große Teile aufteilen lässt. ... Beim Integralzeichen statt der liegenden ∞ den Bruch 1/0.
https://books.google.co.jp/books?id=wTP1BQAAQBAJ&pg=PA282&lpg=PA282&dq=Niels+Henrik+Abel%E3%80%80%E3%80%80ARILD+Stubhaug%E3%80%80%E3%80%80%EF%BC%91/0%EF%BC%9D%E2%88%9E&source=bl&ots=wUaYL6x6lK&sig=OX1Yk_HxbCMm_FACotHYlgrbfsg&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwj8-pftm-PPAhXIzVQKHX7ZCMEQ6AEISTAG#v=onepage&q=Niels%20Henrik%20Abel%E3%80%80%E3%80%80ARILD%20Stubhaug%E3%80%80%E3%80%80%EF%BC%91%2F0%EF%BC%9D%E2%88%9E&f=false
Indeterminate: the hidden power of 0 divided by 0 2016/12/02 に公開 You've all been indoctrinated into accepting that you cannot divide by zero. Find out about the beautiful mathematics that results when you do it anyway in calculus. Featuring some of the most notorious "forbidden" expressions like 0/0 and 1^∞ as well as Apple's Siri and Sir Isaac Newton.
https://www.youtube.com/watch?v=oc0M1o8tuPo より
ゼロ除算の論文:
file:///C:/Users/saito%20saburo/Downloads/P1-Division.pdf より
Eulerのゼロ除算に関する想い: file:///C:/Users/saito%20saburo/Downloads/Y_1770_Euler_Elements%20of%20algebra%20traslated%201840%20l%20p%2059%20(1).pdf より
An Approach to Overcome Division by Zero in the Interval Gauss Algorithm http://link.springer.com/article/10.1023/A:1015565313636
Carolus Fridericus Gauss:https://www.slideshare.net/fgz08/gauss-elimination-4686597
Archimedes:Arbelos https://www.math.nyu.edu/~crorres/Archimedes/Stamps/stamps.html より
Archimedes Principle in Completely Submerged Balloons: Revisited Ajay Sharma:
file:///C:/Users/saito%20saburo/Desktop/research_papers_mechanics___electrodynamics_science_journal_3499.pdf
[PDF]Indeterminate Form in the Equations of Archimedes, Newton and Einstein http://gsjournal.net/Science-Journals/Research%20Papers-Relativity%20Theory/Download/3222 このページを訳す 0. 0 . The reason is that in the case of Archimedes principle, equations became feasible in. 1935 after enunciation of the principle in 1685, when ... Although division by zero is not permitted, yet it smoothly follows from equations based upon.
Thinking ahead of Archimedes, Newton and Einstein - The General ... gsjournal.net/Science-Journals/Communications.../5503 このページを訳す old Archimedes Principle, Newton' s law, Einstein 's mass energy equation. E=mc2 . .... filled in balloon becomes INDETERMINATE (0/0). It is not justified. If the generalized form Archimedes principle is used then we get exact volume V .....
http://gsjournal.net/Science-Journals/Communications-Mechanics%20/%20Electrodynamics/Download/5503
Find circles that are tangent to three given circles (Apollonius’ Problem) in C#
http://csharphelper.com/blog/2016/09/find-circles-that-are-tangent-to-three-given-circles-apollonius-problem-in-c/ より
ゼロ除算に関する詩:
The reason we cannot devide by zero is simply axiomatic as Plato pointed out.
http://mathhelpforum.com/algebra/223130-dividing-zero.html より
#2019年
#更新
#math
#4
#divide
#smart
#0
#hths
#Genius
#universe
#Epic
#implosion
#ZERO
#DIVISION
#NOT
#numbers
#by
#undefined
#dividebyzero
#IMAGINARY
#dividing
#oh
#結論
#哲学史2500年の結論
Tumblr media
0 notes
namimushisrn · 7 years
Photo
Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media
廻田金山神社(2017/04/22)Megurita-Kanayama-Shrine
東京都東村山市廻田町4丁目   Megurita 4chome, Higashimurayama, Tokyo, Japan
祭神は 金山彦命。創建は不詳ですが 、中世に鍛冶職であった小町大膳左京主水が、鍛冶の神である金山神を邸内に祀ったことに由来すると、伝えられている。境内社は 神明社(天照大御神)、戸隠神社(九頭龍権現)。
15 notes · View notes
shibaracu · 4 years
Text
◆「日本病」を考える  英国病の後を追っている
本文を入力してください
◆「日本病」を考える http://www.st.rim.or.jp/~success/nihonbyou_ye.html -現代日本人のネガティブな感情-    1 日本病の心的傾向 日本病の特徴は以下のような点であろう。  第一に、日本病の感染者は、自分が日本病の病に罹っていても、  容易にそれと気づかないという傾向が強いこと。  (感染意識の欠如)  第二に、日本病の感染者は、全てにおいて受動的な心的傾向を伴うこと。  (積極的行動の欠如)  第三に、日本病の感染者は、極端に自分が突出を恐れ、  出る杭は打たれるという教訓を心に刻んでいること。  (顕著な中産階級意識)  第四に、日本病感染者は、封建時代の権化とも言うべき、  徳川家康の信奉者が多いこと。  (見ざる・言わざる・聞かざるの思想)  第五に、日本病感染者は、恥という日本文化の根底にある心的傾向を  務めて無視するか、完全に忘れ去っていること。  (恥の文化の喪失)  第六に、日本病感染者は、政治とは世襲的な労働であり、選挙において、  自分が誰に投票しようと無意味であると諦念の気持を持っていること。  (政治的諦念)  第七に、日本病感染者は、依然としてアジア諸国に対する優越意識を持ちながら、  アメリカを始めとする欧米先進国に対しては、卑屈な劣等意識を  引きずっていること。  (プチ?脱亜入欧意識)  第八に、日本病感染者は、日本の欠点ばかりを探して、  長所を見ようとしないネガティブな心的傾向を強く持つこと。  (ネガティブな傾向)  第九に、日本病感染者は、自分がリスクを負って先頭に立つことを  極力避ける傾向があること。  (冒険精神の欠如)  第十に、日本病感染者は、目の前で犯罪が起こっても、それがテレビの中か、  テレビゲームの中で起こっていると考えてしまう傾向があること。  (テレビ中毒症)  第十一に、日本病感染者は、他人事(ひとごと)意識が強く、たとえ  親子友人間にあっても、すべてにおいて他人のことで関与を避ける傾向がある。  (他人事意識)  第十二に、日本病感染者は、物事の本質をブランド化する傾向が強く、  かつブランドを神の如く神格化する傾向と、それに時として過剰依存する傾向がある。  (ブランドへの過剰依存意識) 以上の特徴から、日本病を、一般的にこのように定義することが出来るのではないだろうか。日本病症候群は、日本人の2000年前後の心の傾向であり、それは国家としての日本が、バブル経済の後処理に結果として失敗したために、経済の低迷が十年にも及び、その不安と自信喪失から来る否定的な心的傾向である。しかもそれは極端な「他人事意識」を伴った鬱病的な傾向である。   ◆【日本病脱却マニュアル】日本病を克服しなければ、新たな時代に生き残れない?! http://blog.hikaruland.co.jp/2017/12/post-1754/ 2017/12/02 日本病は、特別な病ではない。誰でもなり得る病。 このタイトルをお聞きになって、読者の皆様はどのような印象を持たれましたでしょうか?「そんなことない、日本は海外からも優れていると賞賛を受けている」或いは、「ああ、やっぱり。自分も最近の日本はおかしいと思っていたんだ」という印象、大抵はこの二手に分かれるのではないかとお察しします。   ◆フジマキ「英国病から日本病に、危機感乏しい日本人」 (1/2) 〈週刊朝日#藤巻健史 https://dot.asahi.com/wa/2017100500015.html?page=1    経済総合 https://dot.asahi.com/wa/2017100500015.html?page=2 2017/10/07 伝説のディーラー”と呼ばれた藤巻健史氏は、海外から「日本病」と批判される日本経済の状況について、危機感を持つべきだと指摘する。* * * 私が英国に赴任した1982年、経済が低迷して「英国病病」真っ盛りだった。英国とアルゼンチンが争ったフォークランド紛争の勃発直後。「アルゼンチンに爆撃されたら、地下鉄に逃げ込めよ」と脅しのような励ましを受けながら赴任したことを覚えている。   それが私の分析で、改善しないと日本の未来はない。日本国内では、「資本主義は終わった」などという主張をよく聞くが、そうではない。「日本は社会主義だった」から、ダメになったのだ。資本主義を積極的にとり入れた中国はこの30年間で、名目GDPを75倍にもしている。   ◆コラム:自覚症状なき経済衰退の兆し、「日本病」の実態 - ロイター https://jp.reuters.com/article/column-tamaki-idJPKBN1Y90ME 2019/12/04   3 分で読む [東京 5日 ロイター] - 直近で公表された日本の経済データは、弱い数値が目立つ。詳細にみると、経済のエンジンが不調となり、循環的に回復しないリスクが高まっていることがわかる。しかし株式市場はそれに目を向けることなく、年末高値を追っている。衰退リスクに自覚症状のない今の現象を「日本病」と呼びたい。この病気は予想外に進行している。   ◆日本病(読み)ニホンビョウ デジタル大辞泉の解説 1990年代初頭のバブル経済崩壊後、長期にわたって経済が低迷し、景気回復や財政再建に向けた効果的な政策を打ち出すこともできない日本の状況を揶揄(やゆ)する言葉。   ◆「日本病」に気付き始めた日本人それが復活の始まりを告げる | 莫 邦富:作家・ジャーナリスト https://diamond.jp/articles/-/34195 2013/04/04 かつて日本を訪れた中国人は、日本の発展に驚嘆した。だが、その後、日本は同じ場所にとどまり停滞を続ける。その原因でもある「責任逃れ」現象を批判する日本人も現れた。それは日本復活の始まりとなるだろう。   ◆「首都機能移転を日本病克服のきっかけに」 - 国会等の移転 ... https://www.mlit.go.jp/kokudokeikaku/iten/onlinelecture/lec42.html 「日本病」蔓延の危機 日本の現状は、70年代後半から80年代初めにかけての、アメリカ病、イギリス病、ヨーロッパにはヨーロピアンペシミズムが蔓延した時期に近い状況です。経済の活力が非常に衰えてしまって、例えばIMD(International Institute for Management Development)のインターナショナル・コンペティティブネスの評価だと、日本は93年まではトップでしたが、今は26番目に下がっています。また産業の空洞化といったことも起こっているわけで、そういう点では経済全体の活力が落ちていると思います。   ◆日本病の治し方(ビデオニュース・ドットコム) - BLOGOS(ブロゴス) https://blogos.com/article/50990/ 2012/11/25  少し前の話になるが、イギリスの高級誌『エコノミスト』(2008年2月21日号)が「JAPAIN」と題する巻頭特集を組んだことがあった。Japan(日本)とpain(苦痛)を掛け合わせた言葉だったが、それ以来「英国病」ならぬ「日本病」の存在は世界にも広く知れ渡ることとなった。  外国メディアの指摘を待つまでもなく、日本は先進国でも最も早く少子高齢化に直面した。その中で、経済は20年あまり停滞を続けたまま構造改革は進まず、社会も格差や高い自殺率などに喘ぎながら、政治は相も変わらぬ内向きな足の引っ張り合いを続けて無策ぶりを露呈している。結果的に、社会の隅々にまでさまざまな問題が波及し、人心の荒廃も進んでいるように見える。   ◆英国病 - Wikipedia   https://ja.wikipedia.org/wiki/英国病 英国病(えいこくびょう)またはイギリス病 国を挙げてセカンダリー・バンキングへ傾注した1960年代以降のイギリスにおいて、充実した社会保障制度や基幹産業の国有化等の政策が実施され、社会保障負担の増加、国民の勤労意欲低下、既得権益の発生、およびその他の経済・社会的な問題を発生させた現象である。   ◆イギリスは如何に「英国病」を克服したか? - Market Hack http://markethack.net/archives/51941457.html 2014/10/19 僕が大学を出て社会人になった頃(1982年)、よくマスコミで言われたのは「イギリスみたいになったら、おしまいだ」ということでした。 その頃の英国は、慢性的な経済の停滞に加えて、労働者が怠け者で、ちっとも働かないという評判でした。 そのような状況を、世界は「英国病」と呼び、せせら笑ったのです。 特に1978年から1979年にかけての冬は「Winter of Discontent」と呼ばれる、げんなりするような冬で、頻発するストライキで暖房の石炭にすら不自由する状況でした。罷業はゴミの回収にも及び、ロンドンの町のいたるところでゴミ袋がうず高く積み上がりました。   ◆コラム:「失われた20年」の次は「英国病」か=河野龍太郎氏 - ロイター https://jp.reuters.com/article/l3n0jv0kf-forexforum-ryutarokono-idJPTYE9BF05Q20131216 2013/12/16 公的債務の圧縮方法は理論上、増税や歳出削減による財政調整、中央銀行が財政赤字を穴埋めするマネタイゼーションによるインフレ醸成(金融抑圧)の二つしかない。 中央銀行ファイナンスによる追加財政を続ければ、日本経済はいずれ完全雇用に達し、デフレ脱却の道筋が見えてくる。しかし、インフレ予想の醸成に成功すると、長期金利が大幅に上昇、財政危機のリスクが高まるため、政府・日銀にとって長期金利の安定が至上命題となる。長期金利を低位に維持するため、インフレ率の上昇にもかかわらず、ゼロ金利政策や長期国債の大量購入を継続せざるを得ない。つまり、日本経済は金融抑圧の道をたどる。 問題は、金融抑圧の下で、モデレートなインフレを維持できるかということである。 今回は、金融抑圧の採用によって実際に高インフレに陥った戦後の英国の事例を分析する。戦後の英国はなぜ高率のインフレとなったのか。結論から先に言うと、金融抑圧が採用された結果、公的債務残高の対国内総生産(GDP)比の圧縮に成功した一方、拡張的な財政政策が続けられたことに加え、非効率な歳出構造や肥大化した政府部門(国有企業)が温存されたためである。   ◆日本病脱却マニュアル / 坂の上 零【著】 - 紀伊國屋書店ウェブストア https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784864715713 内容説明 世界経済は今、破滅的混乱に向かっている。日本病のままでは、次の時代から淘汰されてしまう。最終関門は、あなたの不安の原因を探り、自分自身の弱さ、恐怖と向き合い、恐怖を克服するワーク!日本病を脱却し、本来の輝く自分自身へと生まれ変わるワーク!そして、自由自在の自分自身に至るワーク!日本病を脱却して、本来の凛々しい自分自身となり、これから来る困難な激動期をサバイバルしよう! 目次 第1部 日本病を誘発したこの社会の現状を知る―日本だけじゃない!日本病は世界的現象!(この4つの質問にお答えください;11の日本病の定義を述べます ほか) 第2部 日本病から脱却するためにすべきこと―日本病のままでは、あなたは時代から淘汰される(日本病とは何か?定義;典型的な日本病の症状 ほか) 第3部 日本病脱却への道筋―世界と人間、国家を滅ぼす日本病と世界を救う方法(では、どうすればいいのか?(答)エンジェルバンク構想! エンジェルバンク構想その1 インドと日本を基軸としたアジア経済共栄圏の創出 ほか) 坂の上零式 日本病克服 ワークシート(自分の価値の再発見(言語化する) 自分の日本病 タイプ別 重症度 ほか) 著者等紹介 坂の上零[サカノウエレイ] エンジェルバンク社長、発明家、作家、ジャズピアニスト&ボーカル。1972年1月25日生(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです) ※書籍に掲載されている著者及び編者、訳者、監修者、イラストレーターなどの紹介情報です。   ◆政財界に蔓延する重篤な「日本病」。今後、この病の克服なくして中国・台湾からの「逆流」は止められない  近藤 大介  『週刊現代』特別編集委員 https://gendai.ismedia.jp/articles/-/33424  先週は、日本中が丹羽大使の「旗問題」に激震したが、日中関係では他にも大変重要なことが起こった。シャープと鴻海の攻防だ。  経営危機に瀕したシャープの主力工場である堺工場に、8月30日、「救世主」こと台湾企業・鴻海の郭台銘会長が視察に現れ、これに日台のメディアが殺到した。結局、郭会長は詰めかけたマスコミを煙に巻くように消え、同日夕刻には、プライベート・ジェットに乗って台湾へ帰ってしまった。  私がこの問題をことさら注視しているのは、今後の東アジアの「逆流」が本格化する大きな一里塚になるだろうからだ。「逆流」というのは、中華系企業による日本企業の買収の流れのことだ。脅すわけではないが、あなたが勤めている会社が、5年後、10年後に中華系企業に買収されていない保証など、どこにもないのである。シャープにしても、わずか5年前まで���、年間3兆円もの売上高を誇る超超優良企業だったのだから。   ◆「日本病」は世界に伝染するか?BBC | 金沢京子のブログです https://ameblo.jp/minakatario/entry-12280256963.html 2019/08/01 「日本病」は世界に伝染するのだろうか 2016年5月30日 BBC http://www.bbc.com/zhongwen/trad/fooc/2016/05/160530_fooc_world_turning_jp?ocid=socialflow_twitter もし先進国が将来、日本と同じく低経済成長。いや、ゼロ成長に直面した場合、政治的には経済マインドの拡大を求めるより、むしろ国民の生活水準向上に、より多くの注意を払うべきだろう。先週、G7の首脳らは日本の伊勢湾でサミットを開き、世界経済を安定させるための方法を話し合った。 最も関心を持って話し合われたのは、先進国が実際に経済低成長期に直面しているのか否か、将来ゼロ成長は避けられないのか、ということだった。このような状況を、我々は「日本病」と呼んでいる。日本では経済の低成長、デフレの悪循環が20年以上も続いているからだ。 日本政府はこの悪状況から脱却すべく、ありとあらゆる手段を試した。マイナス金利、構造改革、財政刺激策などである。しかし、今の所、どれも目に見える経済効果を現していない。
1 note · View note
yukehaya · 4 years
Text
転売ヤー必見、花こう岩を高額転売する方法。o(^-^)o
いつもありがとうございます。林雄介です。(*^_^*)(林雄介の文章の転載を拒否します。著作権法は刑事罰もありますので、ご注意ください。) 花こう岩は、河原や山に転がっています。 しかし、あなた自身の所有の山でなければ、石の持ち出しは犯罪です。 まず、河川法が石などの持ち出しを禁止しています。法の制定主旨は、河川の氾濫予防なので、子供や観光客が、数個の石を持ち帰るだけであれば、原則、河川管理者の国や自治体は黙認しています。 次、山は国有地が大半です。特に、国定公園は環境省が環境保全のために管理しているので、小石や草を一本でも持ち帰れば犯罪となります。 昔、自治体研修で天然記念物の岩を自治体の総務課長さんに案内してもらったことがありますが、天然記念物指定をかけていない石は、持って帰ってもいいと自治体の総務課長(筆頭課長)がくれたので、お土産に貰ってきました。ですから、管理者が黙認しているものであれば、処罰されないとは思いますが、商売となると別になります。 あくまで、元官僚の個人的な感想ですが、法律は個人利用と商売でわけているのです。 具体的には、河豚。河豚��個人で釣ってきて食べても捕まりませんし、個人で買ってきた生レバーを食べても捕まりませんが、無免許で河豚を提供すれば犯罪となります。生食用レバーも売れば、犯罪となります。 石は、他人の私有地や公有地からの持ち出しは窃盗となります。 市販の花こう岩は、輸入したり、山の持ち主の許可をとって採掘し購入したものを売っているのです。 水槽にいれるために石や流木を持ち帰るぐらいなら逮捕されることはありませんが、ウニやサザエは一個でも採れば捕まります。というか、農水省の人間や他省庁の新人が公務員の自治体派遣研修でサザエかウニを海でとって、警察につかまり、本省の課長が飛行機で身元引き受けにいかされた事件があり、それ以降、人事院研修で、絶対に海産物をとるなという指導が行われるようになったのです。 もちろん、水産庁のキャリア官僚であれば、逮捕されない可能性はありますが、水産キャリアなら密漁は重罪という知識がありますから密漁しませんし、密漁が発覚した時点で免職されるでしょうから、誰もチャレンジはしません。 さて、次に旧薬事法、いわゆる薬機法の解説をします。 薬機法は、無許可であらゆる効能を謳うことを禁止しています。 宗教行為との関係ですが、宗教も薬機法に引っかかりそうなことはやっていません。例えば、箱根神社には九頭龍さんのご神水が沸いてますが、ペットボトルは100円で売ってますが、水そのものは無料です。 カトリックのルルドの泉は販売そのものが禁止されているので、神父やシスターが空輸したものを実費で頒布することは可能ですが、利益がでたらめカトリックを破門されます。 宗教は、物販はやらないのです。祈祷料は、寄附です。本当は、お守りも定価をつけることはできません。国税庁通達があり、崇敬者の寄附に対するお礼として、原価率が1割以下のものを頒布しているのです。 原価率が市販品に近づくと、課税対象となり、宗教法人と別会計でやったり、別会社に売らせて納税しなければ脱税で摘発されます。 ですから、宗教は物販はやらないのです。寄附に対するお礼で原価率が市販品以下のものを頒布しているだけです。 また、宗教法人法上、宗教は本尊、信者、教師がなければ設立できません。特に、ねずみ講や暴力団がマネーロンダリングのために、宗教法人を設立したり、乗っとることが多いので、認証は厳しくなっています。 つまり、石に何らかの医療的効能があると謳うと薬機法で摘発される可能性が高いのです。 妊娠米も、福岡の神社で祈祷したと主張して売り出しましたが、メルカリは薬機法違反の可能性が高いと出品不可にしました。 余談ですが、ヤフオクで御札の転売をしている人がいますが、御札の転売は危険です。 私自身も、霊を祓ったり、開運祈祷をやりますが、無料でやっています。なぜなら、有料で祈祷をやると霊力が落ちるからです。 私の本を買った人のために、祈祷はやりますが、本の価値が神の目からみて、商品価値以上の値段で売っており、かつ祈祷を本の販売のために利用するとどうなるか?というと、寿命を削られて死ぬんですよ。 本当に、神仏のことをわかっていたら、霊感商法はできないはずなんです。危険だから。 まとめると霊感商法まがいのもので、ビジネスやらない方がいいですよ。 霊の声が聞こえたといって売っている人がいますが、それ邪霊ですよ。病気治しは、寿命の問題も絡んでくるから、かなり複雑なプロセスをしないとやれませんから。 病気治しだけなら、白蛇ちゃんや、自然龍でもやれますが、寿命がきてたら病気が治っても死にますし。白蛇や自然龍は、無欲な人間しか動かせないから、商売に使えませんよ。 現世利益がある神仏は、欲をすてないと動かせませんよ。だから、僧侶を出家させる文化があるんだから。 欲がある人間が祈ったら邪霊しかきません。邪霊は必ず最終的に人間を不幸にしますからね。邪霊でも、近未来予知や病気治しはできますが、100%、死んだら地獄につれてかれますよ。 (林雄介の文章の転載を拒否します。著作権法は刑事罰もありますので、ご注意ください。) 〇公務員と大人のスキルアップ、成功本の教科書として15年以上の超ロングセラー「新版、絶対スキルアップする公務員の勉強法」(林雄介、ぎょうせい) https://www.amazon.co.jp/dp/4324102678/ 〇林雄介の新刊は「大開運」(林雄介著、青林堂)です。必ず開運を阻害する邪霊の邪魔が入るので、しっかり神様と守護霊さんに感謝のお祈りをして手にいれてください。 https://www.amazon.co.jp/dp/4792606705/ from Blogger https://ift.tt/38tfxjf via IFTTT
0 notes
abeya38 · 6 years
Text
【宗教とは何か】
宗教とは「得体の知れないものと自分とのポジション争ひ無限地���。」 宗教ではなく、我が國の國體でも祭祀こそが大切です。 一応、皆様との意見交換の爲に私の考へ方、賛成だと結論した経緯などを書いて置きます。 これは一言でいふと「「國體護持總論」を学んだからだ。」となるのですが、支持者の方でも読んでゐないといふ方がゐますので少し噛み砕いてみました。まづ、宗教の定義を辞書などで確認しましたが、明確なものはない様でした。 大辞林によると「② 経験的・合理的に理解し制御することのできないような現象や存在に対し、積極的な意味と価値を与えようとする信念・行動・制度の体系。」とありました。 さうであるならば、そもそもの宗教とは「得体の知れないもの」と人(自分)との関係(位置関係、力関係)であり、嘗ては科学の未解明な部分を棚上げした分野で、それは学問の一分野ともいへたものであつたのでせう。ですが、特に現代に於いては科学の発達により市場占有率を低下させるばかりの物理分野とは絶縁し、精神分野に引き篭もる事で暴走してゐるといふ事でせうか。これだとどうも西洋的歴史観を前提としてゐる感じがありますが、本来ならば車の両輪である物理と精神とを別ち、精神だけになれば「足るを知る」といふ事がないではありませんか。「いや、私達の経典、教義はさういつた欲望をこそ諌めてゐる!」とよく聞くのですが、搾取される立場の信者は欲望を制限されて当然であり、その宗教といふ構造自体がそもそも危険だと思ひます。まるで関西國際空港や精神医学のやうな利権構造です。 因みに、私は以前から宗教が蛇蝎のやうに嫌いで、宗教や蛇蝎と名の付くものは見つけた端から焼き討ちにしても問題ないといふ心情なのですが、それは宗教団体といふものが単なる集金システムであり、その対価として信者に教団公認の免罪符(教義・現実逃避)を与へて、その同様の価値基準を信じる人達が集まり、現実社会で負つた傷を舐め合ふコミュニティだと感じるからです。 宗教の教義といふものを私は「ドラえもん幻想」と呼んでゐるのですが、宗教団体とはそのやうな「現れる事のない救ひ主」である「ドラえもん」の愛好家や支持者を募つた出会系サイトの運営であり、信者はその利用者でせう。この例へでいふなら創価学会を脱会して日蓮正宗に戻るとは「やはりドラえもんの声は大山のぶ代だ。」といつてゐるのと同じ事でせう。 そして、それはその儘「戦後日本社会」であると思ひます。 GHQ制定の多國間合意である日本國憲法が憲法であるといふ幻想を信じる間抜けを集めて國家である、政府であるといつてはをりますが、それは単なる「商法支配所(南洲翁遺訓※1)」といふか「山師の元締め(詐欺師)」であり、その國民である「山師」共は「元締め」のいふ権利や自由、平和や豊かさといふ「存在し得ない鉱脈」が「日本國憲法・戦後日本といふ架空の山(仮想憲法・仮想國家)」にまだまだ埋まつてゐると欲に駆られて「正氣(正氣の歌※2)」を失ひ、我が私(わたくし)の功名や充足の爲だけにいつまでも掘り続けてゐるのです。戦後日本社会がさうであるからこそ、「政治参画」だの「國益」「愛國」「尊皇」だのといひながら政治団体などに参加する人達は、宗教団体の青年部のやうに生産性のない「仲良しサークル」にしかならなず、私を先にして公を蔑ろにするのでせう。 「其の分れる所は、僕は忠義(公)をするつもり、諸友は功業(私)をなす積もり。(吉田松陰)」 さうであるからこそ、保守風味に気触れて「日本國憲法改憲(創価学会)」と叫んでゐた者が、「日本國憲法護憲(日蓮正宗)」といふ元の鞘に収まる事もあり、どちらへ転んでも「日本國憲法有効論」といふ桎梏から逃れてはゐないのです。そして信じられない事に「眞正護憲論」を叫んでゐても「道(國體・祭祀)」を得る事のない儘に「日本國憲法有効論」へと戻る者もゐるのです。 そのどれも「井を掘るは水を得るが爲なり。學を講ずるは道を得るが爲なり。(講孟餘話※3)」といふ根本を欠き、「空理を玩び事実をゆるがせ(講孟餘話※3)」てゐるのでせう。 また、空理を玩ぶ事についてですが、例へば「動かぬ歴史事実として日本國憲法といふ文書は國際法の範疇であり、國内法である憲法とはなり得ません。我が國の正統典憲は現存してゐます。(眞正護憲論)」この事実を支持し信心する事だけで、これを念仏のやうに唱へるだけで、維新回天がなる筈がありません。当然です。 さうであるのに、これを支持してゐる事だけを以て、まるで維新新政府の要職や褒賞が約束された気になつてゐる者もゐるのです。捕らぬ狸の皮算用といふべきか、何かの新興宗教かと疑ふべきか、理解に苦しみます。 他人様の財布を拾つたとして、それを届けるのは財布の金銭が一割が欲しいといふ訣ではないでせう。そして、眞正護憲論とは皇統の元にある國體を再確認した、詰まり財布を拾つたやうなもので「それを届けてやれば、それなりの褒美を給はれる」といふのは如何なものでせうか。そのやうな態度の者をこそ「売國奴」といふのではないでせうか。もちろん功を立てた者には相対する賞がある事でせうけれど、それを目当てにするといふのは余りにさもしいではありませんか。 「我が功に於きては、日本國を給へ、もしは半國を給はりても、足るべかれずなど申すめる。まことにさまで思ふ事はあらじなれど、やがて是れより亂るる端ともなり、叉朝廷のかろがろしさも、推し測らるるものなり。言語は君子の樞機なりといへり。あからさまにも、君をないがしろにし、人に驕る事、あるべからぬ事にこそ。(神皇正統記)」 また戦後日本人の民度の低下は目に余るものですし、戦後の占領体制は経済や権利を餌とし、利権構造で固めた強固なものです。それを悲観して他國に頼り自國の窮状を救はうといふ者がゐますが、それをやつてしまふならば現在のアメリカや國聯体制を頼む戦後体制と何が違ふといふのでせうか。 「日本國憲法からも明らかなやうに、アメリカや國聯体制を頼む戦後日本の状況とは國體に反するものであるから認められない!」 なるほど。しかし、他國を頼むといふ事は構造的に同じ結果へと繋がるのが必然なのです。先払ひか後払ひかといふ違ひしかないのに、それを良しとするといふのは潔しとはいへないのです。 そして、そのやうな言説が通るとなれば「韓國や台湾ならば嘗て同じ皇國日本であつた!それらを頼むならば筋が通るだらう。」といふ他力本願へと繋がり、皇國日本とその聖戦である大東亜戦争を否定して出来上がつた韓國臨時政府を認める事にもなります。実際に、眞正護憲論を支持してゐると自称する者達がわざわざ靖國神社で日章旗と共に韓國旗と台湾旗とを掲げて英霊を侮辱してゐたのです。朝鮮・台湾出身の皇國臣民として朝鮮人や台湾人を募る、頼むといふならば、その旗は日章旗以外にはあり得ません。 「正道を踏み、國を以て斃るるの精神無くば、外國交際は全かる可からず。彼の強大に畏縮し、円滑を主として、曲げて彼の意に従順する時は、軽侮を招き、好親却て破れ、終に彼の制を受るに至らん。(南洲翁遺訓)」 運動を進める上で、奇貨居くべしとして褒賞や免税で釣るのも一つの手段だとは思ひますし、私自身も最初は「相続税や消費税、酒税やたばこ税の廃止」を掲げて赤報隊のやうな事をする積りでしたが、どのやうな手段を選ぶにしても、道を外れる事、至誠に悖る事を進んで行ふべきではないとも思ひます。 それは何故かといへば、これが天下の問題、政事の問題であるからです。例へそれらが実現可能であるとしても、そこに勝手な約束事を掲げるのは不誠実だと思ひます。ここは堂々と天道、正道を踏まねばならないのですから、赤報隊といふよりも敬神党でありたいと思ひます。 「至誠にして動かざる者未だ此れ有らざる也」 「功名何か夢の跡 消えざるものはただ誠 人生意気に感じては 成否を誰か論(あげつら)ふ」 「人を相手にせず天を相手にせよ。天を相手にして己れを尽し、人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬべし。」 「道を行ふ者は、固より困厄に逢ふものなれば、如何なる艱難の地に立つとも、事の成否、身の死生抔に、少しも関係せぬもの也。事には上手下手有り、物には出来る人、出来ざる人有るより、自然心を動かす人も有れども、人は道を行ふものゆえ、道を蹈むには上手下手も無く、出来ざる人も無し。故に只管ら道を行ひ、道を楽み、若し艱難に逢ふて、之を凌がんとならば、弥々道を行ひ、道を楽む可し。予、壮年より、艱難と云ふ艱難に罹りしゆえ、今はどんな事に出会ふとも、動揺は致すまじ、夫れだけは仕合せ也。」 「人を籠絡して、陰に事を謀る者は、好し其の事を成し得るとも、慧眼より之を見れば、醜状著るしきぞ。人に推すに、公平至誠を以てせよ。公平ならざれば、英雄の心は決して攬られぬもの也。」等々。 また、政事や天下といへば崔子玉の「四殺(四不殺※4)」を思ひ出すのですが、釈迦の四苦(生老病死)が全て己の勝手な願望である事と比べると釈迦よりも崔子玉の方が正しい訣です。 では更に、先に「得体の知れないものと自分との関係」が宗教であると書きましたが、この四不殺のいふ嗜慾、貨財、政事、学術でそれぞれ自分、子孫、民、天下を殺すなかれといふ場合に、それらが死ぬまでにはどの程度の余裕があるのでせうか。嗜慾で自分を殺すとしてどの程度までは大丈夫なのか。死なないのか。その位置関係を探つてきたのが宗教なのではないでせうか。 戒律や規範とは経験や歴史から学んだ経験則から生じてゐると思ふのですが、そこに神(GOD)の裁きといふ嘗ては超自然的だと認識されたものが入ると本と末とが転倒し、人が創造したGODといふ概念が、GODが人を創造したといふ事になるのです。嗜慾を貪つた罪でソドムとゴモラはGODによつて滅ぼされたといはれますが、実際にはキリスト歴の紀元前3123年6月29日のアテン群小惑星の落下によるものでした。この宇宙の自然現象がヤハウェの裁きによるものだとされ、その理由付けが「巫山の雲は乱れ飛ぶ」といふ性の乱れだといはれます。これは行動経済学などでいふ相関関係であり、それ自体には直接的な因果関係がある訣ではないのです。性の乱れがあつたとしてそれによる性病の蔓延や社会の荒廃があるとしても、性の乱れがあるからといつて必ずしも小惑星が落下するといふ事にはなりません。 ですから、戒律をいくつ、どの程度破るとGODの裁きがあるのか、塔はどの程度までの高さならば許されるのか、といふ事になれば、GODが存在し得ない以上、それらは現実的、物理的な制約が許す限り底無しに許される事になる青天井です。 では、我が國に於ける宗教観の特徴とは、神聖といふものが超自然的なものではなく、自然の延長であり、繰り返される自然の営みそのものなのでせう。無常の循環が無窮であり、いはば永遠であるものが神聖であるといふ訣です。 宇宙の法則、物理法則、人の道、眞心が不朽であり、神聖さの背骨のやうにして一貫してゐる。その普遍性が神聖なのです。 さうであるからこそGODのやうな御都合主義的な概念とは、それがどのやうに神聖なものであると権威付けされたとしても、その絶対性故に神聖にはなりません。我が國の無常観、潔さ、足るを知る、辧へとは、無窮の連続性と相対するものだと思ひます。 しかし、この世に終りのないものはない筈ですから、天壌無窮のこの天壌(あまつち)もいつかは終る時が来ます。地球の惑星としての寿命が尽きる前に、生物が生きてゆける環境が保たれてゐないかも知れません。更にいへばこの宇宙もまた、いつかは終るでせう。宇宙の中の地球、その自然環境が宇宙の雛形でもあるならば、循環し再び生まれて来るのかも知れません。仮に、物質もエネルギーも何もかもなくなり宇宙が無へと還るのだとしても、私達がここに存在した事実は動きません。私達の存在自体が夢か幻のやうなものであるとしても、宇宙誕生の神代から、遠つ祖から、両親から頂く御恩、それをしらす皇恩は確かにあるのです。さうであればそれに沿ふ形で私達一個の人間の報恩も、眞心もまた消える事はないのです。 「天下後世迄も信仰悦服せらるるものは、只是れ一箇の真誠也。古へより父の仇を討ちし人、其の麗(か)ず挙て数へ難き中に、独り曽我の兄弟のみ、今に至りて児童婦女子迄も知らざる者の有らざるは、衆に秀でて、誠の篤き故也。誠ならずして世に誉らるるは、僥倖の誉也。誠篤ければ、縦令当時知る人無くとも、後世必ず知己有るもの也。(南洲翁遺訓)」 七十八年七月晦日(平成三十年九月九日)  安倍 正行 このよをば よどみにうかぶ うたかたと しればとどめむ ただまごころを (この世(宇宙)をば 澱みに浮かぶ 泡沫と 知れば留めむ ただ眞心を) ※1 南洲翁遺訓 「談國事に及びし時、慨然として申されけるは、國の凌辱せらるるに当たりては、縦令國を以て斃るとも、正道を践み、義を尽すは政府の本務也。然るに平日、金穀理財の事を議するを聞けば、如何なる英雄豪傑かと見ゆれども、血の出る事に臨めば、頭を一処に集め、唯目前の苟安を謀るのみ、戦の一字を恐れ、政府の本務を墜しなば、商法支配所と申すものにて、更に政府には非ざる也。」 ※2 藤田東湖「文天祥の正氣歌に和す(正氣の歌)」 天地正大の氣, 粹然として神州に鍾(あつま)る。 秀でては不二(���じ)の嶽となり, 巍巍(ぎぎ)として千秋に 聳(そび)ゆ。 注ぎては大瀛(だいえい)の水となり, 洋洋として八洲を 環(めぐ)る。 發しては萬朶(ばんだ)の櫻となり, 衆芳 與(とも)に儔(たぐ)ひし難し。 凝(こ)りては百錬の鐵となり, 鋭利 鍪(かぶと)を割く可(べ)し。 藎臣(じんしん)皆な熊羆(ゆうひ), 武夫 盡(ことごと)く 好仇(かうきう)。 神州 孰(たれ)か 君臨する, 萬古 天皇を 仰ぐ。 皇風 六合(りくがふ)に 洽(あまね)く, 明徳 大陽に 侔(ひと)し。 世に 汚隆(をりゅう)無らざれば, 正氣 時に光を放つ。 乃(すなは)ち 大連の議に參し, 侃侃(かんかん) 瞿曇(くどん)を排す。 乃(すなは)ち 明主の斷を助け, 燄燄として 伽藍を焚(や)く。 中郞 嘗(かつ)て 之(これ)を用ひ, 宗社 磐石(ばんじゃく)安し。 淸丸 嘗(かつ)て 之(これ)を用ひ, 妖僧 肝膽 寒し。 忽(たちま)ち 龍口の劍を 揮(ふるひ)て, 虜使 頭足 分(わかた)る。 忽ち 西海の颶を 起して, 怒濤 胡氛を 殱(ころしつ)くす。 志賀 月明なる 夜, 陽(いつは)りて 鳳輦(ほうれん)と 爲(な)りて巡(めぐ)る。 芳野 戰 酣(たけなは)なるの日, 又 帝子に 代って屯す。 或は 鎌倉の窟に投じ, 憂憤 正に 愪愪(うんうん)。 或は 櫻井の驛に 伴ひ, 遺訓 何ぞ 殷勤なる。 或は 伏見城を守り, 一身 萬軍に當る。 或は 天目山に殉(したが)ひ, 幽囚 君を忘れず。 承平 二百歳, 斯氣 常に 伸を獲る。 然(しか)れども 其の鬱屈するに當(あたり)ては, 四十七人を生ず。 乃(すなは)ち知る 人 亡すと 雖(いへど)も, 英靈 未(いま)だ嘗(かつ)て 泯(ほろ)びず。 長く 天地の間に 在りて, 隱然 彜倫(いりん)を 敍(つい)づ。 孰(たれ)か能(よ)く 之(これ)を 扶持(ふぢ)す, 卓立す 東海の濱(ひん)。 忠誠 皇室を尊び, 孝敬 天神に事(つか)ふ。 文を 修むるは 武を 奮ふを兼ね, 誓つて 胡塵を 淸めんと 欲す。 一朝 天歩 艱(なや)み, 邦君 身 先(ま)づ 淪(しづ)む。 頑鈍 機を知らず, 罪戻 孤臣に及ぶ。 孤臣 葛藟(かつるゐ)に困しむ, 君冤 誰に 向てか 陳せん。 孤子 墳墓に 遠(とほざ)かる, 何を 以てか 先親に 報(むく)ひん。 荏苒(じんぜん)たり 二周星, 獨(ひと)り 斯(こ)の氣の隨ふにあり。 嗟(あゝ) 予 萬死すと 雖(いへど)も, 豈(あに) 汝(なんぢ)と離るるに忍びんや。 屈伸 天地に付し, 生死 又た 何ぞ 疑はん。 生きては 當(まさ)に 君の冤を雪(すす)ぎ, 復(ま)た 綱維を張らるるを見るべし。 死しては 忠義の鬼と爲り, 極天 皇基を護せん。 ※3 吉田松陰「講孟餘話」 「井を掘るは水を得るが爲なり。學を講ずるは道を得るが爲なり。水を得ざれば、掘ること深しと云ども、井とするに足らず。道を得ざれば、講ずること勤むと云ども、學とするに足らず。因て知る、井は水の多少に在て、掘るの淺深に在らず。學は道の得否に在て、勤むるの厚薄に在らざることを。」 「空理を玩び實事を忽(ゆるがせ)にするは學者の通病なり。」     ※4 崔子玉 「四不殺」 嗜慾を以て身を殺す無かれ。 貨財を以て身を殺す無かれ。 政事を以て民を殺す無かれ。 学術を以て天下を殺す無かれ。
0 notes
clipfiling · 6 years
Text
■日本メディア検閲史 <新聞法、出版法について> | 前坂俊之オフィシャルウェブサイト http://www.maesaka-toshiyuki.com/massmedia/3838.html  
静岡県立大学国際関係学部教授 前坂 俊之
 
われわれは今、「言論の自由」を、ごく当たり前のことと思っている。 「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」(憲法21条1項)、「検閲は、これをしてはならない」(同2項)という日本国憲法の条文を、わざわざ引き合いに出すまでもなく、当然と受け止めている。
しかし、1945(昭和20)年8月の敗戦まではそうではなかった。それ以後の連合軍による占領期間中も、言論の自由は制限されていた。 明治以来、メディアに対する検閲制度は昭和の敗戦まで約80年間続いた。
現行憲法でわざわざ検閲禁止の規定が盛り込まれているのは、この検閲の歴史の反省が込められている点を忘れてはならない。
検閲は表現の自由への公権力の規制の形式的、方法的問題であり、たんに文章や表現をチェック、削除する狭い範囲で考察するのではなく、広く言論統制、情報操作の一側面としてとらえることが必要である。 この「メディアと検閲」の章では、そうした観点から、主に日本でのメディア検閲の歴史的な関係について触れたい。
 
■1 言論の自由と検閲制度・ミルトンらで言論の自由の確立へ
秦の始皇帝(紀元前259-210年)の「焚書坑儒」を引き合いに出すまでもなく、歴史のなかであらゆる政治権力は、自らと対立する都合の悪い言論、思想を抑圧、弾圧の対象としてきた。
ギリシャ、ローマ時代はいうにおよばず、中世キリスト教の異端審問など、言論の抑圧が続いた。一五世紀の活版印刷の発明がエポックとなって、大量印刷や伝達が可能となり、マスメディアが生まれ、これを抑圧する手段としての検閲も一層、組織化、制度化され、近代検閲が生まれた。 大量に、スピーディに、安く印刷できる革命的な活版印刷の発明は、異端の広がりに厳重に目を光らせていたローマ教皇庁に衝撃を与えた。
グーテンベルクが活版印刷を発明したドイツ・マインツで、大僧正ベルトルドが1486年に出版物を取り締まるため検問所を設けたが、これがいわゆる「検閲制度」のはじまりである。 活版印刷の発明は中世ヨーロッパの宗教社会の内部から宗教対立を激化させる要因となり、宗教改革を生み、ついには市民社会の誕生の契機となったのである。 1501年には、ローマ教皇アレキサンダー六世が出版の許可主義をとった。さらに1542年には、ローマ教皇パウロ三世がカトリックに反対する出版物に対して、異端審問所の許可をとっていないものについては発行、流布を禁止した。 言論、出版の自由の歴史はこうした検閲制度との不断の戦いの歴史であり、その上に勝ちとられたものであった。
イギリスでは1586年に星室庁(当時の最高司法機関)が印刷条例をつくり、検閲を実施したが、これは後に長期議会に引き継がれて、1643年に検閲条例が定められた。 封建主義、絶対主義社会の象徴としての検閲に対して、言論、出版の自由の要求が生まれてくるが、その先駆者がミルトン(1608-74年)である。
ミルトンは『アレオパジテイカ』(許可なくして印刷する自由のためにイギリス議会に訴えるパンフレット)で「……真理と虚偽とを組打ちさせよ。自由な公開の勝負で真理が負けたためしを誰が知るか」、「他のすべての自由以上に、知り、発表し、良心に従って自由に論議する自由を我にあたえよ」と書き、言論の自由を強く訴えた。(内川芳美「新聞の自由の歴史」 稲葉三千男・新井直之 編著『新版新聞学』日本評論社、1988年、40頁)。 ミルトンは検閲条例をきびしく批判し、思想は抑圧されず自由に公開、競争される「思想の自由市場理論」と、そうすれば人間の正邪を判断できる理性によって、真理が必ず勝ち残るという「真理の自働調整作用」を唱えた。 こうしたミルトンらによって、イギリスで特許検閲法が廃止されたのは名誉革命後の1695年のことであり、新聞、出版の自由が制度的に確立されていった。
 
■2 徳川時代の検閲制度
一方、日本ではどうであったのだろうか。
徳川時代中期から出版業が盛んになってくるが、幕府は1630(寛永7)年にキリシタン関係書の売買、閲読の禁止に乗り出した。 1649(慶安2)年には、大坂の書店・西村伝兵衛が出版した『古状揃』のなかに「家康表裏之侍太閤忘厚恩」という徳川家康を誹語する文句があったことから、幕府はこの書物を没収、絶版の処分にし、伝兵衛は斬首の刑となった。 新開の前身である「読売瓦版」に対しては貞享、元禄年間の禁令をみると、検閲がおこなわれていた事実がみられる。 1722(享保7)年には、出版に関するはじめての成文法といってよい『町触れ』(現在の法律)が出された。 内容は猥褒や異説を唱えるもの、徳川家の事蹟に関する記事について禁止したほか、板本の奥づけに作者と板元名を記すことを定めたものであった。
このように、すでに江戸時代からはじまった出版物取り締まりの基本的な考え方は、明治になっても踏襲された。
 
■3 明治の新聞の誕生と言論恐怖時代の幕開け
ところで、日本での新聞の始まりは幕末の翻訳新聞、外字新聞である。
幕府の洋書調所にいた洋学者たちの翻訳によって新聞づくりがはじまった。当時は新聞、雑誌の区別はなく、この洋書調所から雑誌も翻訳雑誌として生まれた。 当初、このように幕臣による新聞が多かったため、鳥羽伏見の戦い(1868年)、江戸への薩長軍の進軍に対しては佐幕派の新聞が多数発行され、官軍を攻撃する記事や虚偽の報道、風説を流し、幕府の味方をした。 柳河春三「中外新聞」、福地源一郎「江湖新聞」、岸田吟香「もしほ草」など多くの“佐幕派新聞”に対して、明治政府は、はじめて言論弾圧に乗り出した。
1869(明治2)年2月、政府はわが国で最初の新聞紙法である「新聞紙印行条例」を発布した。 発行を許可制にし、編集者の責任を定め、政治評論を禁止するなどの内容であった。
1874(明治7)年1月、江藤新平、板垣退助、後藤象二郎らが『民撰議院設立建白書』を提出したことから、自由民権運動がまたたく間に全国に広がった。 新聞はこれを支持する民権派が多数を占め、そのなかで急進派と漸進派に分かれ、これに反対の立場の官権派が入り乱れて激しい論戦を展開し、“言論の黄金時代”を迎えた。
言論界では急進的民権派が圧倒的多数を占め、反政府運動と化したため、政府は1875(明治8)年6月に「新聞紙印行条例」を大改定した「新聞紙条例」と、新たに「讒謗律」をセットで公布した。 讒謗律は 名誉毀損罪と政治的誹謗罪が一緒になったような法律で、天皇、皇族、官吏に対���る誹謗を防ぐというねらいだが、実際は反体制的言論を規制し、弾圧するのが目的であった。 言論界にとってこの両法は正に青天の霹靂であり、一大ショックを与えた。 まず「曙新聞」の末広鉄腸が、これに触れて罰金20円、禁獄3ヵ月に処せられたのをはじめ、各社の記者が続々と処罰され、獄中は新聞記者や編集者であふれかえる事態となった。 宮武外骨の調査によると、5年間でこの両法によって記者、編集者約200人が禁獄されるという“一大言論恐怖時代”を現出した。 しかし、これでも自由民権連動の大きなうねりを止めることはできず、逆に高まる一方であった。
このため、翌76(明治9)年に政府は「国安ヲ妨害スト認メラルル者ハ、内務省二於テ、ソノ発行ヲ禁止又ハ停止スヘシ」という太政官布告を出した。 この規定が「安寧秩序ヲ妨害」したものに対して「発売頒布禁止権」を行使するという出版警察の中核的な行政処分権となり、敗戦までの約七〇年間にわたり言論の自由の生殺与奪となったのである。[奥平康弘、1983、137-138頁]。
さらに、明治政府は帝国憲法の発布(1889年2月)に照準を合わせ、1887(明治20)年に「新聞紙条例」、「出版条例」を改定し、取締法規を整備、強化した。 「新聞紙条例」では内務大臣の発行禁停止権、保証金制度、陸海軍両大臣の記事差止権、その他掲載禁止事項などが定められ、一方、「出版条例」では発行10日前に製本3部を内務省に届け出ることが義務づけられた。
1889(明治22)年2月発布の帝国憲法では、「言論の自由」については「法律ノ範囲内ニ於テ言論、著作、印行、集会、及結社ノ自由ヲ有ス」(第29条)とされ、「新聞紙条例」、「出版条例」、「保安条例」、「集会条例」の4つの言論統制法の範囲内での制限つきの言論の自由しか認められなかった。
労働運動、社会主義運動が高まった1900(明治33)年2月、片山潜、安部磯雄らによって「社会主義研究会」が発足した。政府は集会、結社の取締法の集大成である「治安警察法」を制定して、きびしい取り締まりに当たり、翌年5月に片山、安部、幸徳秋水ら6人で結成された「社会民主党」は、即日解散となった。 1903(明治33)年2月、日本で初の社会主義新聞「平民新聞」(週刊)が幸徳秋水、堺利彦、西川光二郎らによって創刊された。日露戦争に対して非戦論を主張した同紙は官憲によってきびしい弾圧を受けた。同20号の幸徳の「鳴呼増税」が新聞紙条例に違反、発禁が相次ぎ、創刊一周年記念号に『共産党宣言』が翻訳掲載され、再び発禁となり、3人は起訴され、有罪となり1905(明治38)年1月に64号で廃刊に追い込まれた。
 
■4 大正の大阪朝日新聞「白虹事件」
大正デモクラシーの高揚は憲政擁護、閥族打破、言論擁護の運動でもあった。その中心的な役割を果たしたのは民衆とともに、新聞であった。大正はじめに政党と結び、憲政擁護で第3次桂内閣を倒した新聞は、今度は民衆と歩調を合わせ、寺内内閣との対決姿勢を強めた。 寺内内閣の非立憲的な態度は、新聞への姿勢でもかわらず弾圧的態度に終始した。
シベリア出兵問題(1918年)、米騒動(同年)に対して発禁を連発、とくに、米騒動に対しては一切の報道を禁止したため、『春秋会』(新聞社の社交クラブ)は「言論の自由への圧迫」として再々にわたり、取り消しを求めたが、寺内内閣は応じなかったため、内閣打倒へ立ち上がった。
1918(大正7)8月25日、寺内内閣糾弾の関西新聞社大会が大阪・中之島で開かれた。 村山龍平・朝日新聞社長を座長に関西の新聞、通信社など計86社約170人が集まって開催され、「大阪朝日新聞」は同日夕刊(26日付)社会面のトップで次のように報じた。
「我大日本帝国は今や恐しい最後の審判の日に近づいているのではなかろうか。 『白虹日を貫けり』と昔の人が呟いた不吉な兆が黙々として…‥」
この記事の「白虹日を貫けり」が問題化し、日本の言論史上に残る一大筆禍事件「白虹事件」へと発展していった。 「白虹日を貫けり」とは中国の故事で、白い虹が太陽を貫いて見えるときは、国に内乱が起きるしるしであるという意味だが、当局は「日」が天皇をさし、不敬に当たるといいがかりをつけて、記者と編集発行人を新聞紙法違反(安寧秩序素乱)で起訴、2人は禁固2ヵ月の有罪となった。 かねてより、当局は政府へ批判的な「大朝」の弾圧の機会をねらっていたのである。 この事件で鳥居素川、長谷川如是閑、大山郁夫らの編集幹部が総退陣し、村山龍平社長も退陣した。『大阪朝日新聞』は廃刊の危機を迎えたが,当時の原首相は上野理一社長を呼び、編集方針の変更などの釈明を聞いた上で、発行禁止を見合わせた。 この事件をきっかけに、新聞自体の批判精神は低下して、新聞の企業化が一層進んでいった。
 
■5 出版警察の核心・検閲は発売頒布禁止で
戦前の日本の検閲制度、出版警察の核心は 原稿検閲制による発行禁止ではなく、世界にも類例のない 内務大臣による発売頒布禁止であった。
政府は西欧ブルジョア主義の「出版の自由」を認めず、大量印刷物の流通に対して事前検閲をすることは実際上不可能であるため、ときに応じて権力を行使できる発売頒布禁止を導入したのである。[奥平康弘、1983.132頁]。 この発売頒布禁止権は新聞紙法第23条、出版法第19条でそれぞれ定められていたが、司法審査から独立した絶対的なものであった。 さらに、内務大臣が行使するこの権限は中央集権警察組織下で実質は地方の末端警察が握り、より一層、恣意的に運用、処分がおこなわれたのである[奥平、1983、160-161頁]
 
■6 検閲の基準は当局にとって伸縮自在の弾力運用
では、具体的な検閲の基準はどのようなものであったのだろうか。 当局が新聞紙法第23条、出版法第19条での「安寧秩序素乱」、「風俗壊乱」と規定する基準一検閲担当官が参考にしたものは次のようなものであった。
●【安寧秩序素乱出版物の検閲基準】(一般基準) ▽皇室の尊厳を冒涜する事項 ▽君主制を否認する事項 ▽共産主義,無政府主義等の理論、戦略、戦術を宣伝し、その連動実行を煽動し、この種の革命団体を支持する事項 ▽植民地の独立運動を煽動する事項 ▽非合法的に議主義会制度を否認する事項 ──など計13項目であった。
●【風俗壊乱の検閲基準】 ▽春画淫本 ▽性、性欲又は性愛等に関する記述で淫猥、羞恥の情を起こし、社会の風教を害する事項 ▽陰部を露出せる写真、絵画、絵葉書の類 ▽陰部を露出せざるも醜悪、挑発的に表現された裸体写真、絵画、絵葉書の類 ▽男女抱擁、接吻(児童を除く)の写真、絵画、絵葉書の類 ──などであった。(以上、内務省警保局『昭和五年中における出版警察概観』)
この基準に基づく適用については取締当局によって伸縮自在の「弾力性」をもっていた。 大正時代には-時縮小した禁止範囲は、1932(昭和7)年以降、再び急速に拡大し、社会主義、労働運動に関する著作は以前にましてきびしい取り締まりにあった。 安寧秩序素乱の取り締まりの場合は1920年代に一時禁止基準はゆるむが、30年代になると再びきびしくなった。(油井正臣 他『出版警察関係資料解説・総目次』不二出版、1938年、24頁)。
こうした発売頒布禁止制度とともに、内務省は超法規的な記事掲載差し止めをおこなった。 これは重大事件が起こったとき、この記事を掲載すると発売禁止になるぞ、とあらかじめ警告するもの。新聞側は発禁による不測の損失をまぬがれるために歓迎し制度化したが、もともとは新聞紙法上でも認められた処分ではなかった。 この“差し止め処分”は禁止事項の軽重によって、
① 示達/当該記事が掲載されたときは多くの場合、禁止処分に付すもの。 ② 警告/当該記事が掲載されたときの社会情勢と記事の態様いかんにより、禁止処分に付すかもしれないもの。 ③ 懇談/当該記事が掲載されても禁止処分に付さないが、新聞社の徳義に訴えて掲載しないように希望するもの。
以上の3種類があり、「懇談」は少なかったが、「示達」、「警告」は乱発された。これに触れること、発禁などを受けるため、無視できない。 さらに、これ以外にも、便宜的処分として発禁処分にするほどでない場合は該当の部分のみを切除する「削除」処分や注意だけの「注意」処分もあった。削除処分は1933、34(昭和8、9)年に年間200件、注意処分は1932(昭和7)年には約4,300件に達した。
 
■7 15年戦争と幕開けと言論統制の強化
1928(昭和3)年3月15日には日本共産党に対する一斉検挙のいわゆる“三・一五事件”によって、労農党の関係者ら千五百数十人を検挙し弾圧を加えた。 「新聞紙法」、「出版法」による発禁件数は一挙にはね上がっていく。
1931(昭和6)年9月、日本軍による満州事変の勃発で、中国への侵略、十五年戦争の幕が開く。言論統制は一段ときびしくなっていく。 「安寧秩序素乱」による新聞、出版の発禁件数は翌32年には4,945件と1926(昭和元)年の412件の12倍にも激増して、ピークに達した。
満州事変以降のファシズム化の過程でメディア統制の一つの特徴は新聞紙法、出版法を補完、併用する形で、他の諸規定が利用された点である。 たとえば、出版法による発禁処分に該当しない街頭での選挙ポスター、ビラの類にも、治安警察法(1900年)第16条での往来などでの表現の自由を取り締まる規定を適用するように内務省警保局は指示。これはレコードにも拡大適用され、従来は各府県ごとに任されていた取り締まりが1932(昭和8)年10月から、内務省によって統一的におこなわれ、事実上、レコードの発禁処分をおこなった。 翌34(昭和9)年8月の出版法改正によって、レコード類は出版法による発禁、差し押さえの対象となった。レコードの取り締まりの内容は圧倒的に風俗取り締まりが中心で、兵隊漫才が「軍の統制紀律をみだす」などとして取り締まられた。
1937(昭和12)年7月に、日中戦争が起きると、新聞紙法第27条が発動された。 「陸海軍大臣、外務大臣は軍事・外交の記事の禁止、制限をすることができる」という内容で、陸、海軍省令、外務省令で記事掲載が制限された。
 
■8 検閲から総合的な言論統制へ
日中戦争による本格的な臨戦体制から、マスメディア統制も従来の検閲という消極的な抑圧統制から、国民を積極的に戦争体制に協力、同調させていく方向へ転換、情報操作、プロパガンダ機能を重視した稔合的な組織、体制づくりがおこなわれた。
1938(昭和12)年4月、国家総力戦を目指した準戦時体制の国家総動員法が公布されると、メディア統制も事業面から休止、合併、解散の命令(同16条)という生殺与奪の権限が政府に握られることになった。 記事掲載の禁止、制限という言論面だけでなく、企業体としての生存にかかわる心臓部を押さえられ、その後におこなわれる新聞の統廃合、一県一紙への道を開く結果となる。
さらに、積極的なプロパガンダ体制づくりとしておこなわれたのは、内閣情報局と国策通信会社「同盟通信社」 の組織、設立である。 1936(昭和11)年1月に「電通」、「連合」の両通信社を強引に合併させて「同盟通信社」を誕生させた。内閣情報委員会が万難を排して、合併、同盟発足のために協力した。 政府は世論指導の中心に、この同盟を置き、毎年莫大な交付金を与えて、朝日、毎日、読売などの大手中央紙を巧妙に牽制しながら、言論統制を推進したのである。
情報宣伝システムはさらに太平洋戦争へ向けて整備され、言論統制の最終的な決め手となったのが、用紙統制であった。 戦時体制が進行するなかで、不要不急品の制限という目的で用紙割り当てがおこなわれ、新聞、出版にとっての死活にかかわる用紙の統制が、一つ加えられた。 政府へ批判的なこ怠納やメディアは用紙割り当てをてこに締め出され、弱小紙の整理統合が強引に進められた。 内閣情報局によって立案された統制団体である「日本出版文化協会」が1940(昭和15)年、「日本新聞連盟」が1941(昭和16)年に相次いで設立される。 一県一紙を目指した新聞の整理統合は1943(昭和18)年10月に完了するが、新聞は統合前に2422紙あったのが55紙に、出版社は3664社が203社にされていた(塚本三夫「戦時下の言論統制」 城戸又一・新井直之・稲葉三千男 編『講座現代ジャーナリズム歴史』時事通信社、1974年、147頁)。
 
■9 平洋戦争下の言論統制
1941(昭和16)年12月についに日本は太平洋戦争に突入した。 太平洋戦争中にはそれ以前の日中戦争下などとは比べものにならないほど厳重な思想、情報、言論統制がおこなわれた。
【治安、警察関係】 刑法、治安警察法、警察犯処罰令、治安維持法、言論・出版・結社等臨時取締法、思想犯保護観察法 【軍事、国防関係】 戒厳令、要塞地帯法、陸軍刑法、海軍刑法、軍機保護法、国家総動員法、軍用資源秘密保護法、国防保安法、戦時刑事特別法 【新聞、出版関係】 新聞紙法、新聞紙等掲載制限令、出版法、不穏文書臨時取締法、新聞紙事業令、出版事業令 【郵便、放送、映画、広告関係】 臨時郵便取締法、電信法、無線電信法、大正十二年通信省令第八十九条、映画法、映画法施行規則、広告取締法
このほかにも、新聞にかぎると、さらに内務省差止事項、陸・海軍、外務省による禁止事項、宮内省の申し入れ、情報局懇談事項、大本営発表、指導原稿でがんじがらめにされた上に検閲が2重3重におこなわれ、情報局、内務省、陸海軍報道部、航空本部、警視庁検閲課でチェックされた。
検閲の総本山の内務省警保局検閲課には1942(昭和17)年5月当時、85人の担当者が目を光らせていた。 このなかに新聞検閲係があったが、43年中の新聞の事前検閲ほゲラ刷、またほ原稿によるもの約9万件(一日平均250件)。 このうち不許可処分は1万2000件(全体の13%)にのぼった。また、電話によるものは約5万件(一日平均140件)で、合計14万件に達した(松浦総三『戦時下の言論統制』白川書院、1975年、108頁)。
 
■10 コミュニケーションの自己崩壊
こうしたきびしい検閲で、開戦直前の日米交渉での野村・ハル会談は「朝日新聞」の特派員が60数行の特電を送稿したのに対して、最終的にたった2行半に削られてしまった。 交渉内容が書けないのは仕方ないにしても「2人はまず握手を交し」が対米親近感を表現する、「会談一時間」が交渉緊迫感をかもし出す、「交渉はなお続行されるだろう」が前途推測不可でズタズタに削られた結果であった。
太平洋戦争がはじまったころの検閲の実態について、朝日・毎日・読売とわたり歩いた名文記者として知られた高木健夫は次のように述懐している。
「新聞社に報道差止め、禁止の通達が毎日何通もあり、整理部では机の前にハリガネをはって、これらの通達をつるすことにしていた。この紙がすぐいっぱいになり、何が禁止なのか覚えているだけでも大変で頭が混乱してきた。禁止、禁止で何も書けない状態であった」
こうした徹底した検閲の一方で、太平洋戦争の報道のシンボルと化したのが、大本営発表である。 嘘と誇大発表の代名詞となった <大本営発表> だが、戦争の最初の半年間は戦果や被害はほぼ正確であった。 それ以後は戦果が誇張され、最後の8ヵ月は嘘の勝利が誇示された。戦争の全期間を通じて、戦艦、巡洋艦は10・3倍、空母6・5倍、飛行機約7倍、輸送船は約8倍もその数を水増しして発表された。
事実の徹底した秘匿、検閲というコミュニケーションの切断が逆に虚報を生み、増幅して、送り手と受け手の相互関係を成立不可能にしていく。 戦前のファシズム体制を支えたメディア統制の総合的極限的システムはこのコミュニケーションの断絶によって、自己崩壊していったのである。
[EOF]
(出典)→日本メディア検閲史 <新聞法、出版法について> | 前坂俊之オフィシャルウェブサイト http://www.maesaka-toshiyuki.com/massmedia/3838.html
0 notes
tana-station-blog · 6 years
Text
藍と人生ーー映画的・詩的に上質な『夜空はいつでも最高密度の青色だ』について
モノローグ、スローモーション、クローズアップ、並行モンタージュ、劇中歌、いずれも、ともすれば映画を青くさくさせてしまう技術だけれど、俳優の巧みな演技とあわさることで、それをうまく回避するどころか映画の次元をひとつ上に高めてしまったのだから、原作の鬱々とした雰囲気とは違って、観る者の気持ちを昂らせてしまった。
ただ街の形を順々に映す鮮やかな色のプリズム、それらを素早くカットしていく冒頭、突然日の丸があらわれて政治的な雰囲気を一瞬帯びるのだけれど、なにもなかったかのようにまたシーンが繋がれていく。ただ、(三年後の東京オリンピックを待つ)2017年の東京(渋谷/新宿)が舞台で、とかく「貧困」が社会的な問題にされる若者が主役の位置を占めるという設定を踏まえれば、シーンを追っていくに当たって、映画全体に行き渡らされたその政治性を念頭に置く必要はあるだろう。
はじめて池松壮亮が出てきたときの、あの気だるそうな感じ。しかし鋭い目は、『枯木灘』や『十九歳の地図』(中上健次)の主人公にどこか似ていた。
左側半分が真っ黒な画面と、抜群に(映画的な)「運動神経」のよい池松壮亮による、左目だけの「演技」によって、主役の身体的な特徴を伝えるところや、松田龍平の死に際、ホースからちょろちょろとしか水が出ないことによって死因を暗示するところなどは、見事だった。
基本的なところだが、やはり並行モンタージュである。映画的な「近接の原理」によって、二人は出会うのだったし、一度近づいたがために最終的には実家にまで行ってしまった。(これは逆を考えると分かりやすい。並行モンタージュで交互に映された男女がいたとして、同じ街に住んでいる場合、むしろ出会わない方がおかしいでしょう、という話だ)
変化球だったのは、たばこをふかしながら寝っ転がって電球を見つめる主役の主観ショット、かと思いきやカメラがフィックスされたまま主役が画面に出てきて電気を消すという、あのシーン。(瀬田なつき『PARKS』にも似たシーンがあった)
それからマンションなのにクラブ状態の一室に苛立つ若い隣人が、堪えきれず壁をどんどんと叩くシーン。構図だけみれば、ネメシュ・ラースロー『サウルの息子』に酷似していた。
全体の質を落とすくらいなら、活字にして画面に映せばよいと思っていたモノローグも、なるほど実際に平面に並べてみるとその言葉たち(たとえば「少子高齢化」と「震災」)が”均等にしか”意味(価値)を持ち得ないことを知ると、まあ盛り上がっていいかな、と。並べられた言葉の意味(価値)が均質になるということは、つまりそれぞれ事象の重要度がすべて同じになってしまうということだ。モノローグ(=「パロール」)はここで、差異化の役目を果たす。
そして「死」のテーマ。いつか(等しく)訪れる死も、本来は人目に晒されないこともあるのだけれど、この映画ではきちんとみんなに弔われるのだし、「仕事中には死ぬな、とみんなに伝えといて」と説く工事現場の責任者も、一応憐れみの気持ちを持っていた。最低限の倫理が、かろうじて保たれていた。
主役の隣人の死を受けて、ひとしきり弔いの言葉を述べた後、工事現場の同僚は(こんなひどいありさまだけど)「俺は生きてる。ざまあみやがれ」と、決して主役の隣人にむけてではなく、どこかで安逸を貪っている輩に向けて、強く吐き捨てた。終末部の主役は、恋人の「嫌な予感」をなだめるために、「そっか」……「そっか」……と言葉を継ぎ、しかし力強く「まあ任せろ、嫌なことは俺が半分にしてやる」と宣言したのだった。いったい、こう高らかに宣言できる俳優は、池松壮亮以外に何人いるのだろう……? とんでもなくダサいそのセリフが、多分この二人の行く末を祈るように観ていたからかどうかわからないが、光って聞こえた。そしてその二つのシーンを観た者は、同じ数だけ目を腫れさせるのだった。
テマティックな分析を試みても、この映画には語るべき多くのポイントがある。繰り返される「愛」という一語の「密度」、あるいは「強度」? 「濃度」?「厚み」? 「重み」? なんでもよいのだけど、とにかく幾度とない反復によって質感が変容したその言葉が、(音のとおり)主役をとりまく渋い「藍」色(おもに服)になり、さらには爽やかに哀しい「青」色にせわしく繋がれていき、映画の全体を統一するさまをみて、「青は藍より出でて藍より青し」なんて言っている暇はないと気づかされた。なぜなら(金井美恵子のバスター・キートン評ではないけれど)、主役は、それが彼の唯一の方法であるかのように、走って(のちに恋人になる)友達のもとにいったのだから。センチメンタルになる暇などない。若く溌剌とした生気を纏う主役の姿を目にして、きっと彼より年上の者は己の身を憂うだろう。しかし本当は、この「東京」という場で、自らの生きてきた歳月を憂う余裕はないはずだ。まずもって、「東京」にはモラルも救いもないのだが、しかしそれが同時に、かろうじてモラルになり救いとなるしかないような、そんなギリギリの場でもあるのだから。生きるために、速く、動き続けなければならない。「速くあれ! たとえその場を動かぬときでも」(ドゥルーズ)。
この映画では「青」が特権的な位置にあるが、しかし一方で「赤」もそれに続くぐらい気になる色ではあった。ほとんどコジツケなので括弧内に記していく。
(日本的文化風土において、「赤」からまず想起される慣用句は「赤の他人」だろう。明白な他人、自分とは関係のない人を指すこの言葉が一般的に用いられる一方、同時に赤のイメージは血も想起させる。転じて、「血」は家族的な関係性を示唆する語(血縁関係)でもある。そこで「赤」にまつわる(普通はほとんど問題にならない)この両義性を考えたい。つまり、最も親密な血(赤)の関係になりうるのは、全然関わりのなかったはずの「赤の他人」同士でしかありえないということだ。太古より近親相姦が禁じられてきたことを踏まえれば、それは至極当然のことなのだけれど……。
とすれば、途中工事現場で主役が血を流してしまったテクスチュアルな必然性もわからなくはないし、恋人の実家に行ったのち、同じ部屋で「募金しよう」と提案されるとき、あまりにも本物の兄妹に似ていたのもわかるような気がする。先ほどの「近接の原理」のポイント、「似たものは近づきあい、近づいたものは似通いあう」ことを覚えておきさえすれば……。日本における「赤」は、二つの層に意味が塗り重ねられている。そしてこの映画における赤い「血」。その血はいつでも最高密度の赤色だ、とでも冗談めかしておけばよいか。)
終わりちかく、何度も反復されてきた路上ミュージシャンの歌が、でもいつもと違ってスピーカーから流れてくると思ったら、彼女は大成してメジャーデビューを果たしており、音は広告のトラックから聞こえてくるのだった。それを観た池松壮亮の顔である。トラックのスローモーションが陳腐だなと思っていたら、あの顔をされたのだったけど、簡単には忘れられないような表情をしていた。「意味」にまみれた「目の怠惰」(中平卓馬)を打ち砕かれ、寄る辺なく途方もない現実を、しかし嬉々として生きていた。そして横にいた恋人と微笑みあうのだったが、とても可愛らしかった。
どうせくだらないモノローグの連続なんだろうという偏見を持っていた少し前の自分を愚かだと思うと同時に、単純にああ、映画館で観れてよかったなとも思った。原作より、映画的にも詩的にも、上質な仕上がりだった。あるいは、原作の詩よりも詩的だといえるかもしれない。観終わったあと、目を腫らして映画館を出なければならなかったのは嫌だったけれど、出たら、主役が嫌いな渋谷で雨が降るなか、親子が楽しそうに自転車に乗っていたのもなにかの縁か。それともなにかを伝えるためか。生きることを諦めてしまわぬように、と? いや、とりあえずもっと真面目に職を探せ、と……? そういえば本作の外国人実習生は、日本にほとほと愛想を尽かし、帰国するのだった。主人公の元クラスメイトも、アメリカに行った。意外にも政治色が強かったこの映画を観終えたあとなら、そして、はからずも先のような映画的現実を生きてしまったこの身を信じて、海外で就職するのも、もしかしたら悪くないのかも……?
#夜空はいつでも最高密度の青色だ
[http://www.yozora-movie.com/sp/index.html:title]
0 notes
kusanotakashi · 7 years
Text
北九州出身てどげな人がおるか? まとめてみた
君も彼らを超えてみるか? その可能は大だ なして?て 北九州んもんやろうがね!
政治・軍事 国会議員・現職 * 高木美智代 (衆議院議員) * 野田聖子 (衆議院議員。元郵政大臣、元岐阜県議会議員) * 杉尾秀哉(参議院議員。元TBSテレビ記者) * 仁比聡平(参議院議員。弁護士) 国会議員��験者 * 自見庄三郎 (衆議院・参議院。郵政大臣、内閣府金融担当特命担当大臣を歴任。医師) * 弘友和夫(衆議院・参議院) * 末松義規 (衆議院。外務官僚出身) * 東順治 (衆議院) * 城井崇 (衆議院) * 緒方林太郎(衆議院。外務官僚出身)八幡西区出身 首長 * 舛添要一 (前東京都知事。前参議院議員。元厚生労働大臣、国際政治学者)八幡東区出身 * 麻生渡 (前福岡県知事、前全国知事会会長) * 亀井光 (元福岡県知事) 裁判官 * 高橋久子 (元内閣審議官・労働省婦人少年局長・女性初の最高裁判事) 軍人 * 杉山元 (元陸軍大臣、参謀総長) * 板倉光馬 (元海軍中佐、海上自衛隊幕僚総監部、戦記作家) * 奥保鞏 (元元帥陸軍大将伯爵) 金融 * 白川方明(元日本銀行総裁) 政治活動家 * 桜井誠(『在日特権を許さない市民の会』会長)
実業 * 大前研一 (経済評論家) * 高原正雄(いすゞ自動車理事、一般社団法人明専会会長、全日本学生フォーミュラ大会元委員長) * 福地茂雄(NHK会長、元アサヒビール相談役、会長):戸畑区 * 村井勉(元アサヒビール社長、元西日本旅客鉄道会長) * 吉田秀雄(元電通社長) * 利島康司 (北九州商工会議所会頭、元安川電機会長、社長、JR九州取締役) ☆小南孝教 (元神戸製鋼副社長、神鋼鋼線工業社長)同級生の兄 ☆大庭雅志(元東京海上日動副社長)同級生
学者 * 杉崎光世 (法学者・九州国際大学名誉教授) * 藤田哲也 (竜巻研究の第一人者) * 中島義道 (哲学者) * 高橋和夫 (国際政治学者)
医師 *福島孝徳 (脳神経外科 新門司病院) *延吉正清 (循環器科、心臓外科 小倉記念病院 )退任 *田中恩 (産婦人科 セントマザー病院) *市川光太郎 (小児科 救急科 市立八幡病院) *川原尚行 (スーダン・東日本震災支援医療 NPOロシナンテス)
文化 * 津村禮次郎(能楽師、人間国宝) * 山田稔 (小説家、フランス文学者) * 左方郁子 (小説家) * 火野葦平 (小説家) * 岩下俊作 (小説家) * 劉寒吉 (小説家) * 佐木隆三(小説家) * 末永直海 (小説家) * 鶴田知也 (小説家) * 佐伯泰英 (小説家) * 一条真也 (作家) * 伊馬春部 (作家・日本初のテレビドラマの脚本を担当した) * 加納朋子 (推理作家) * 立石泰則 (ノンフィクション作家、ジャーナリスト) * 宗左近(詩人) * 高橋睦郎 (詩人) * 平出隆 (詩人) * 笠青峰 (日本画家) * 北条司 (漫画家) * 星里もちる (漫画家) * 鈴宮和由 (漫画家) * 山口かつみ (漫画家) * 前川涼 (漫画家) * 篠塚ひろむ (漫画家) * 谷村ひとし (漫画家・パチンコ評論家) * 萩岩睦美 (漫画家) * 山口美由紀 (漫画家) * 畑中純 (漫画家) * 井上正治 (漫画家) * すえのぶけいこ (漫画家) * 中島史雄 (漫画家) * 藤原ここあ (漫画家) * 原徹 (アニメプロデューサー) * リリー・フランキー(イラストレーター) * サイトウマコト (イラストレーター) * 石橋謙一 (イラストレーター、ボックスアーティスト) * 横山宏 (イラストレーター) * 藤原新也 (写真家) * 小倉朗 (作曲家) * 和田直也 (作曲家) * 畑中良輔 (バリトン歌手、指揮者、音楽評論家) * 大野徹也 (テノール、オペラ歌手) * 川口ヱリサ (ヴァイオリニスト) * 篠崎史紀(ヴァイオリニスト) * 南紫音 (ヴァイオリニスト) * 桂英昭 (建築家) * 大竹英雄 (囲碁棋士、名誉碁聖) * 森下卓 (将棋棋士) * 中村正三郎(プログラマー、コンピュータ評論家)
芸能 俳優 * 秋本祐希(女優) * 鮎川陽子 (モデル、女優) * 天本英世 (俳優) * 板谷由夏 (女優) * 伊原剛志 (俳優) * 榎木智一 (俳優) * 草刈正雄 (俳優) * 早乙女太一 (俳優) * 鈴木浩介 (俳優) * つるの剛士 (俳優、タレント、歌手、ミュージシャン) * 富永研司 (スーツアクター、アクション俳優) * 内藤武敏 (俳優) * 中村有志 (俳優) * 野間口徹 (俳優) * 萩尾みどり (女優) * 林美穂 (女優) * 原田佳奈 (女優) * 深見亮介 (俳優) * 藤本隆宏 (俳優、元競泳オリンピック代表) * ふとがね金太 (ナレーター、俳優、ミュージシャン) * 細川俊之 (俳優) * 松尾スズキ (劇作家、映画監督、俳優) * 光石研 (俳優) * 森田順平 (俳優、声優) * 横内正 (俳優) * キタキュウマン (ご当地ヒーロー 滝夕輝) 歌手・ミュージシャン * 広石武彦 (元UP-BEATヴォーカル) * 175R (ロックバンド) * SHOGO (ショーゴ) - ヴォーカル * ISAKICK (イサキック) - ベース * KAZYA (カズヤ) - ギター * YOSHIAKI (ヨシアキ) - ドラム * 岩坂士京(シンガーソングライター) * 城戸けんじろ (元ジャパハリネット) * 梅田彩佳 (NMB48チームBII副キャプテン):2011年市長選挙イメージキャラクター * 大内義昭 (歌手、作曲家) * 葛城哲哉 (ミュージシャン) * 川崎真弘 (ミュージシャン、作曲家) * キミーブラウニー (ミュージシャン、お笑いタレント) * キハラ龍太郎 (元ブルー・トニック、ORIGINAL LOVE) * 荒神直規(Naifu、元ELF) * 香田晋 (演歌歌手) * 小久保淳平(シンガーソングライター) * シーナ(シーナ&ザ・ロケッツボーカル) * 塩ノ谷早耶香(歌手) * 清水健太郎 (元歌手、タレント) * 千里愛風(歌手) * CHAGE(シンガーソングライター、CHAGE and ASKA) * 高城亜樹 (AKB48チームB) * 冨永裕輔(シンガーソングライター) * 中尾ミエ (歌手) * NEW DOBB(ロックバンド。現在は解散) * HIDE (元crossfm DJ、現 ミーナ&ザ・グライダー)倉掛英彰(作曲家) * Dobb (元crossfm DJ)倉掛信彰 * 野中美郷(元AKB48)※出生地 * 野見山正貴 (ミュージシャン) * 葉月 (歌手、SEED) * Waka(ワカ・フルート担当) * Mariko(マリコ・チェロ担当) * 藤井一子 (元歌手) * 藤田大吾(ミュージシャン、alütoボーカル) * 藤弥美里 (歌手) * 宮本一粋 (歌手・二千花ボーカル) * 山下祐樹(ミュージシャン、ラムジボーカル) * 山本リンダ (歌手) * yu〜ki (ロックバンド、MALICE MIZERのベーシスト) * ルースターズ (ロックバンド、現在は解散) * 大江慎也 - ボーカル&ギター * 花田裕之 - ギター * 井上富雄 - ベース * 池畑潤二-ドラム 声優 * うえだゆうじ (声優) * 内海賢二 (声優) * 置鮎龍太郎 (声優) * 加藤正之 (声優) * 川原和久 (俳優、声優) * 佐藤利奈 (声優) * 中原麻衣 (声優) 映画監督 * 青山真治 (映画監督) * タナダユキ (映画監督) * 平山秀幸 (映画監督) * 吉田啓一郎 (映画監督、テレビ演出家) お笑いタレント * 秋山竜次 (ロバートメンバー、お笑いタレント) * 芋洗坂係長(小浦一優) (お笑いタレント) * 井上虫歯二本 (お笑いタレント) * 桑原和男 (喜劇俳優) * ゴン(ビックスモールンメンバー、お笑いタレント) * なかやまきんに君 (お笑いタレント) * 馬場裕之 (ロバートメンバー、お笑いタレント) * 原口あきまさ (お笑いタレント) * 山本高広 (お笑いタレント) * 渡邊孝平 (クロスバー直撃) その他 * 朝本浩文 (音楽プロデューサー、アレンジャー、DJ) * 鬼橋美智子 (ラジオパーソナリティ、タレント) * 紗綾 (入江紗綾)(グラビアアイドル) * 椎葉ユウ (タレント、ラジオパーソナリティ) * 白石さおり (タレント、ミスコン53冠女王) * 申徹也(しん てつや・ラジオパーソナリティ、タレント) * 高城樹衣 (タレント、Girl<s>ACTRY、高城亜樹(歌手・ミュージシャンの項参照)の姉) * 橘家蔵之助 (落語家・2代目) * 林家きく麿 (落語家) * 立山律子 (DJ、ローカルタレント) * F.King Toggy (DJ、パーソナリティ、ローカルタレント、ミュージシャン) * 原田大三郎 (CG作家、多摩美術大学教授) * 米岡誠一 (タレント、ラジオパーソナリティ、ミュージシャン)
スポーツ * 今浪隆博 (プロ野球選手、日本ハム→ヤクルト) * 柴原洋 (元プロ野球選手、ソフトバンク) * 柴田講平 (プロ野球選手、阪神) * 中田賢一 (プロ野球選手、中日→ソフトバンク) * 日高剛 (プロ野球選手、阪神) * 山本和範 (元プロ野球選手、近鉄→南海・ダイエー→近鉄) * 小関翔太(プロ野球選手、楽天) * 松永浩美 (元プロ野球選手、阪急・オリックス→阪神→ダイエー) * 安田猛 (元プロ野球選手、ヤクルト) * 奥宮種男 (元プロ野球選手) * 楠城徹 (元プロ野球選手) * 清家政和 (元プロ野球選手) * 宅和本司 (元プロ野球選手) * 森下整鎮 (元プロ野球選手) * 外園正 (元プロ野球選手) * 森博幸 (元プロ野球選手) * 高信二 (元プロ野球選手、現広島コーチ) * 溝口大樹 (元プロ野球選手、ソフトバンク元投手) * 森山良二 (元プロ野球選手、現楽天コーチ) * 敷田直人 (プロ野球審判員) * 松永怜一 (アマチュア野球の指導者) * 本田泰人 (元サッカー選手、鹿島アントラーズ) * 本山雅志 (サッカー選手、ギラヴァンツ北九州) * 平山相太 (サッカー選手、FC東京、U-22日本代表) * 三好拓児 (元サッカー選手、FC琉球) * 池元友樹 (サッカー選手、ギラヴァンツ北九州) * 重光貴葵 (元サッカー選手、ギラヴァンツ北九州) * 山形辰徳 (サッカー選手、栃木SC) * 千疋美徳 (元サッカー選手、前ニューウェーブ北九州監督) * 柴田華絵 (女子サッカー選手、浦和レッズレディース) * 鹿毛誠一郎 (元プロバスケットボール選手) * 川面剛 (元プロバスケットボール選手) * 藤原隆充 (プロバスケットボール選手、bjリーグ・滋賀レイクスターズ所属) * 鬼塚勝也 (元プロボクサー、WBAジュニアバンタム級チャンピオン) * 白石豊土(プロボクサー) * 箕内拓郎 (ラグビー日本代表主将) * 竹下佳江 (バレーボール選手、日本代表) * 河村めぐみ (元バレーボール選手・モデル) * 江藤直美 (バレーボール選手) * 長田力(プロゴルファー・元日本プロゴルフ協会会長) * 一丸尚伍(自転車競技選手) * 吉岡稔真 (元競輪選手、競輪学校65期) * 北津留翼 (競輪選手、自転車競技選手、競輪学校90期) * 森美紀 (女子競輪選手、競輪学校102期) * 植木通彦 (元競艇選手、登録番号3285番) * 高野拳磁 (プロレスラー) * 浪口修 (プロレスラー) * 渕正信 (プロレスラー) * デビル雅美(女子プロレスラー) * 大潮憲司 (大相撲力士、元小結、元式秀親方) * 小役丸勇走 (大相撲力士、元十両) * 豊ノ花光義 (大相撲力士、元十両) * 春日洋光二 (大相撲力士、元十両) * 山岸二郎 (テニス選手) * 福井烈 (元テニス選手、JOC委員) * 君原健二(マラソン選手、メキシコオリンピック銀メダリスト) * 金哲彦 (元マラソン選手) * 岸川聖也(卓球選手、北京五輪日本代表) * 北畠紗代子(アーチェリー選手、北京五輪日本代表) * 村田愛里咲(モーグル選手、バンクーバー五輪・ソチ五輪日本代表) * 浜中俊 - 競馬騎手(日本中央競馬会所属) * 山下健夫(エベレスト登山家) * 山本浩之(車いす陸上競技) * 廣重毅 (空手家) * 内村航平 (体操選手)
マスコミ * 原田徹 (NHKアナウンサー) * 有馬幸恵 (NHK北九州放送局契約キャスター) * 池内博子 (山口放送アナウンサー) * 池尻和佳子 (RKB毎日放送アナウンサー) * 猪原智紀 (NHKアナウンサー) * 岩元良介 (NHK福岡放送局アナウンサー) * 上田早苗 (NHKアナウンサー) * 江崎裕子 (福岡放送契約アナウンサー) * 小川真人 (元テレビ埼玉、熊本県民テレビアナウンサー) * 川上一夫 (テレビドラマプロデューサー) * 坤徳ひとみ (元RSK山陽放送アナウンサー) * 佐々木正洋(テレビ朝日アナウンサー) * 佐藤征一 (元テレビ西日本アナウンサー) * 塩田真弓(テレビ東京記者、元アナウンサー) * 重松亜紀 (元NHK北九州放送局キャスター) * 武内裕之 (KBC九州朝日放送アナウンサー) * 竹林紀雄 (映像作家、テレビプロデューサー、文教大学准教授) * 田尻敏明 (フリーアナウンサー、ナレーター、ローカルタレント) * 田畑竜介 (RKB毎日放送アナウンサー) * 中野謙吾 (日本テレビアナウンサー) * 西口久美子 (NHK福岡放送局キャスター) * 野田真外 (映像演出家) * 本名正憲 (中国放送アナウンサー) * 宮本隆治 (フリーアナウンサー、元NHK) * 室田智美 (STVラジオパーソナリティ、所属は札幌テレビ放送) * 室屋典子 (TNCテレビ西日本キャスター) * 安田瑞代 (RKB毎日放送アナウンサー) * 山縣慎司 (元フジテレビプロデューサー) * 山下末則 (元日本テレビアナウンサー) * 山下奈緒美 (RKB毎日放送アナウンサー) * 山本耕一 (KBC九州朝日放送お天気キャスター、元テレビ長崎アナウンサー) * 山本剛士 (ニッポン放送アナウンサー) * 吉松孝 (元TVQ九州放送アナウンサー、現在フリー) * 吉永真樹 (熊本県民テレビアナウンサー) * 伊藤薫平 (静岡第一テレビアナウンサー、元テレビ高知アナウンサー) ゆかりのある人物 * 安川敬一郎 (政治家、実業家) 福岡市中央区出身 設立した企業 安川電機、黒崎窯業、若松築港、明治コンサルタント、九州製鋼→後の八幡製鐵所、九州鉄道、 設立した学校 明治専門学校→後の九州工業大学、明治学園小、中、高校 * 出光佐三 実業家 赤間出身 (出光興産創業者、貴族院多額納税議員) * 大迫忍 (実業家)大分出身 父の善隣を拡大、カーナビ、GPSへの道筋、北九州空港実現、スターフライヤー誘致に尽力 *森鴎外 (小説家、医師、翻訳家) 津和野出身 1899に陸軍軍医長として小倉に左遷、後の軍医トップの座を固める素地つくり * 松本清張 (小説家)広島市で生まれ幼少期を下関市で育ち11歳頃以降小倉で育つ。 * 松本零士 (漫画家)久留米市生まれ * 高倉健 (俳優) 中間出身 東筑高校卒 任侠からシリアスな演技で国民的なスター * Vanilla Mood(クラシカルバンド)※4人中2人が北九州市出身 * 永井謙佑 (サッカー選手、名古屋グランパス、広州アジア大会サッカー日本代表):広島県福山市生まれ、ブラジル在住を経て8歳から18歳まで市内在住 * 田村貴昭 (衆議院議員)大阪府生まれ、北九州市立大学��業後北九州市議会議員を務めた。 * 末吉興一 (前北九州市長、元内閣官房参与)兵庫県生まれ、大分育ち * わたせせいぞう(漫画家)兵庫県神戸市生まれ。幼少期より高校まで北九州市で育つ * 仰木彬 (プロ野球監督 解説者)中間生まれ 東筑高 西鉄 近鉄 オリックス * 平野啓一郎 (小説家)愛知県蒲郡市生まれ。幼少期より18才まで北九州市で育つ * 村野藤吾 (建築家)佐賀県唐津市生まれ * 横内謙介(脚本家、演出家、「扉座」主宰)東京生まれ * 小林千登勢 (女優)京城生まれ、東京育ち。引揚げ地が八幡市 大庭久美子(元バスケ選手《DENSO》)折尾中学校出
0 notes
shibaracu · 4 years
Text
●大御心【オオミココロ】●勅語●勅命●皇室典範●ドグマ
本文を入力してください
●大御心【オオミココロ】●勅語●勅命●皇室典範●ドグマ 「女性宮家創設問題」が浮上している。 ・女系天皇反対-藤原正彦 https://www.dailymotion.com/video/x17qaz ●藤原正彦の男系天皇論【書きおこし】 | 歴史と文化 巡礼の旅日記 https://ameblo.jp/mejirotabi/entry-12464807343.html 2019/05/31 これは昔(小泉内閣の時に「女系天皇」が政治課題となった時代)、フジの「新報道2001」という番組に、数学者の藤原正彦先生が出演した時の書きおこしです。 男性司会者 藤原さんは「女系天皇」には反対だということですが、どうしてですか?   ●藤原正彦、女系天皇を切る - 日本の傳統(伝統)を守らう! https://blog.goo.ne.jp/fuji2630/e/f1ab798f8c4ec8302bdcec16ba0d4405 2006/03/14 「國家の品格」の藤原正彦先生が 2006/03/12 のフジテレビの報道2001で  女系天皇をばっさりと切ってゐて、痛快でした。 司會: 藤原さんは女系天皇には反對(反対)ださうですが、どうしてですか? 藤原: 餘り(余り)にも明らか過ぎて、      1+1はどうして2かと言はれるやうなもので、      答へやうが無い。      譬(たと)へば2000年間男女男女で續(続)いて來たら、      今後永遠に男女男女と決まってるわけで、      或(あるい)は男男女、男男女と桂馬のやうに飛んで來たら、      此れからも永遠に桂馬のやうにする。      或(あるい)はですね、天皇家が毎朝1時間鰯の頭にお祈りしてきたとする、      そしたら今後永遠に鰯の頭にお祈りしないといけない。      傳統(伝統)とは其のやうな物で、ただただただ跪(ひざまづ)く物です。      論理も意義も何も考へる必要が無い。      其の傳統を守ること自身が最も價値(価値)があることだと、      此れを国民がみんな忘れてますね。
     (この後、ケンブリッジ大學でのディナーの話。      12世紀からイギリスの白鳥は女王陛下の物で、      食べるのに許可が必要なことに、胸を張る教授の話)   皇室は二千年続く系統である。 憲法はその時の流行の主張である。 皇室典範は延々と続いてきた伝統である。 万世一系は延々と続いている伝統である。 憲法の下において世論の意見を聞いて変えるとはトンデモないこと。 不変なのが皇室で有り簡単に有識者などと如何わしいものの意見で 左右されるものではない。
今の利益主義と何ら変わりなくなってしまう。 老舗商法を悪く言う人がいるけれども決して悪いものではない。 楽だからこっちにアッチに変更ばかりしていては守れるものも守れなく成る。 私たちの血の中に脈々と流れているものは不変なものだ。 震災でそれは証明されている。 米国のような昨日今日出来た国とは違う。 ましてや長い年月 歴代の権力者に翻弄されてきた支那とも違う。 動画の中で英国の話で白鳥は総て女王陛下のもの。 こんなちやちな物事と一緒には出来無い。 個人のものなんてコレほど変な意見はない。 天皇家は自然をも含めた大切な心。 一時の世論と伝統を一緒のラインに置くのはおかしい。 おかしいのではなくて同列に扱う問題ではないということ。 自然の原理に近いものではないかと理解した。 思いやる心もココから出ているのでは無かろうか。   ●数学者が語る日本の国柄ー藤原正彦氏 - 草莽崛起ーPRIDE OF JAPAN http://prideofjapan.blog10.fc2.com/blog-entry-254.html?sp 2006/01/30 万世一系の美しい形に手を加えるなど、数学者としての美感が耐えられない。 お茶の水女子大学教授  藤原正彦  ふじわら まさひこ ■プロフィール 昭和十八年満州生まれ。数学者、エッセイスト。父は作家の新田次郎氏、母は戦後の大ベストセラー『流れる星は生きている』の著者、藤原てい氏。東京大学理学部数学科卒業。コロラド大学助教授などを経て現職。数学者でありながら、国語教育の重要性を訴えている。著書に『数学者の言葉では』『若き数学者のアメリカ』『遥かなるケンブリッジ』『祖国とは国語』など。近刊の『国家の品格』がベストセラーに。 前編 世にも恐ろしいことを ― はじめに、「皇室典範を考える有識者会議」(以下、有識者会議)の報告書についてのご感想は。 藤原◆私は、最近の「改革」についてはほとんど全てに腹を立てております。日本の昔からあった国柄を片端から壊してしまう愚行がまかり通るようになってしまったと。ただ政治上経済上外交上の失敗は腹を立てても蒼ざめることなどあり得ません。しかし、女性女系の天皇を認めるという有識者会議の報告書には、驚愕して蒼ざめました、「世にも恐ろしいことを」と。 ● 日本の伝統中の伝統、皇統に手を入れ、国体を揺るがそうというのです。数学者は一匹狼です。私一人で世界中を相手に戦うという気持ちでいつも生きていますから、徒党を組むのは屈辱と思うくらいです。ただ、今回ばかりは生まれて初めて発起人というものに名を連ね(皇室典範を考える会)、あちこちで書いたり話したりしています。万世一系を毀損するとは、あまりにも恐ろしいことです。   ●万世一系 - Wikipedia http://bit.ly/yMsBiw 万世一系(ばんせいいっけい)は、永久に一つの系統が続くこと。多くは皇室・皇統についていう。 伊藤博文は、皇位継承における万世不変の原則として、万世一系を以下のように定義している。 第一 皇祚を践むは皇胤に限る 第二 皇祚を践むは男系に限る 第三 皇祚は一系にして分裂すべからず 『古事記』と『日本書紀』を編集した人物は、神武天皇から仲哀天皇までの治世を記述した。これは、当代の天皇の正統性を確保するためである。 6世紀までの日本で王朝が次々と交代したか、複数の王朝が異なる地方を同時期に並列して支配していたことを示唆する手がかりが公式の編年誌にあるとする諸説が存在する。 だが、日本の現王朝は6世紀以降には王朝交代した証拠はなく、少なくとも1500年もの間存続している。1500年以前に存在した他の君主家で今日なお在位しているものは、世界のどこにもな。 皇室に名字がない事実も、天皇の王朝の古代史に遡る古さを示している。日本人が歴史が始まって以来知っている唯一の王朝だからである。 天皇が日本を統治する根拠とされたのは、天照大神が「天壌無窮」に葦原中国を治めよという神勅をニニギ(瓊瓊杵尊)とその子孫に下し、ニニギの曾孫である磐余彦が初代の天皇・「神武天皇」として即位したことによる。 『古事記』には天照大神が孫のニニギに「この豊葦原水穂国は、汝の知らさむ国なり」とある。『日本書紀』には「葦原千五百秋瑞穂の国は、是、吾が子孫の王たるべき地なり。爾皇孫、就でまして治らせ。行矣。宝祚の隆えまさむこと、当に天壌と窮り無けむ」とある。 この記述が、皇室が日本を永遠に統治する歴史的・法的な根拠であるとされた。大日本帝国憲法第1条はこの記述を明文化したものである。日本神話に登場する初代の天皇・神武天皇から現在まで、天皇の王朝が断絶せずに皇室が日本を一貫して統治してきたとする史観を形成し、万世一系は国体において不可欠なものとされていた。 「日本は、王朝交代したことがない点で他国と基本的に異なる」という信念は、日本の王朝と同じくらい古くからあった。   ●成熟した論理を身にまとった二人の女系天皇論 - THINKSELLの裏側 http://blog.thinksell.net/2005/12/18/165900/ 2005/12/18 『国家の自縛』の佐藤優氏と『国家の品格』の藤原正彦先生が、女系天皇について言及している。成熟した論理を身にまとったご高説は、ともに「女系天皇反対」で一致している点が興味深い。ただ、佐藤優氏の方はインタビューアーの表現が"女帝”となっているので、「女性天皇と女系天皇」を峻別しているかわかりません。   ●万世一系と国家の品格 - ne.jp https://00m.in/ujUlG 2006/02/01 「日本の息吹」平成十八年二月号 万世一系と国家の品格 お茶の水女子大学教授 藤原正彦. 万世一系の美しい形に手を加えるなど、数学者としての美感が耐えられない。 インタビュ─〈前編〉 ◎世にも恐ろしいことを ─ はじめに、「皇室典範に関する有識者会議」(以下、有識者会議)の報告書についてのご感想は。   ●藤原正彦「公と私」 2015/07/30  https://youtu.be/gpJ3N0rhL4c   ●藤原正彦 国語教育の重要性 1/2 2009/10/09 https://youtu.be/Xhi2bE1o2r0 「国家の品格」を出版する前の藤原正彦先生が語る! 小学校での英語教育に反対!(塾や家庭での英語を否定しているわけではない) ●藤原正彦 国語教育の重要性 2/2 2009/10/09 https://youtu.be/BOA3oAVDiPw   ●女系天皇容認論の賛否   第30回 2007.11.10      丸 淳一 file:///C:/Users/asahi/AppData/Local/Temp/30_maru.pdf   1.女性天皇と女系天皇の違い・・・  (1)国民は本当のことを知らない  (2)「愛子様が可愛いから」とか「雅子様がお世継ぎの問題でプレッシャーがありか わいそうとか、それから解放されるとか」  そんなレベルの問題ではない  2,過去の女性天皇は8方 10 代  (1)48 代称徳天皇の時、危機が訪れる  (2)称徳天皇の寵愛をいいことに弓削の道鏡が皇位をうかがう  (3)和気の清麻呂が出てこれを防ぐ  (4)もし弓削の道鏡の子を産みその子が天皇になれば、弓削の道鏡の天皇ということ  (5)藤原正彦教授も同じことを言っている藤原王朝ですよと   ●勅語 - Wikipedia http://bit.ly/AmGYCJ 勅語(ちょくご) 原則として天皇が口頭により発する公務上の意思表示であり、詔勅 の一種である。 主に明治時代から日本国憲法が施行される前に出され続けた。 現在では「おことば」と呼ぶことが普通である。   ●勅命 とは - コトバンクデジタル大辞泉 1 天皇の命令。勅諚(ちょくじょう)。みことのり。 2 明治憲法下で、法律・勅令の形式によらず、天皇が国家機関に直接下した命令。   ●勅 - Wikipedia http://bit.ly/xKp5qL 勅(ちょく)は、皇帝、天皇の命令。 また、命令が書いてある文書。勅が書いてあるものを勅書(ちょくしょ)と言う。 主に特定の人物・組織などを対象に天皇の意思を伝えるために用いられた。 なお、口頭によるものを勅語(ちょくご)と言う。 『日本書紀』などに由来が求められるが、金石文としては天武天皇の時代に 改葬された船王後の墓誌に、船王後が舒明天皇より勅によって位を 与えられたことが記載されている。 大宝律令の制定後は公式令に基づいて出された勅旨などの勅書のことを主に指した。 また、奈良時代の天平宝字8年(764年)には勅及び勅書の遂行と天皇及び 宮中の用度を担当する勅旨省(ちょくししょう/てしのつかさ)が 設置されていたことがあるが、延暦元年(782年)の行政整理の際に 造宮省とともに廃止されている。   ●皇室典範 http://bit.ly/xvw6dz 皇室典範(こうしつてんぱん、昭和22年1月16日法律第3号)とは、日本国憲法第2条及び第5条に基づき、皇位継承及び摂政に関する事項を中心に規律した皇室に関する法律である。 「皇室典範」は1889年(明治22年)2月11日に、大日本帝国憲法と同時に裁定(勅定)され、1947年(昭和22年)に、日本国憲法第100条及び第2条、第5条に基づき、日本国憲法施行前に、憲法に附属する法律の制定手続によって、枢密院の諮詢及び帝国議会の協賛を経て、現在の「皇室典範」(昭和22年1月16日法律第3号)が制定された。   ●明治神宮-ご参拝・ご祈願される方へ-明治神宮のおみくじ「大御心」について http://bit.ly/yqWPAc 「大御心(おおみごころ)」 「大御心(おおみごころ)」は、明治神宮独自のおみくじです。 他の神社で見られる吉凶を占うおみくじではなく、御祭神である明治天皇さまの御製(ぎょせい=天皇の作られた詩文・和歌)93、032首、昭憲皇太后さまの御歌(みうた=皇后・皇太后・皇太子などのよまれた和歌)27、825首より、特に人倫道徳の指針となる教訓的なものを15首ずつ、合計30首選び、それに解説文を付したものとなっています。   ●「大御心(おおみごころ)」三省堂 大辞林 天皇の心を敬っていう語。天皇のお考え。叡慮(えいりよ)。   ●大御心【オオミココロ】デジタル大辞泉 天皇の心。叡慮(えいりょ)。   ●九頭竜伝承   https://ja.wikipedia.org/wiki/九頭竜伝承 九頭龍(大神)伝承(くずりゅう{おおかみ}でんしょう)、九頭龍(大神)伝説(くずりゅう{おおかみ}でんせつ)は、日本各地に残る九頭龍(大神)に関する伝承・伝説の事である。 寛平元年(889年)6月、平泉寺の白山権現が衆徒の前に姿を現して、尊像を川に浮かべた。 すると九つの頭を持った竜が現れ、尊像を頂くようにして川を流れ下り、黒竜大明神の対岸に泳ぎ着きたという。 以来、この川を「九頭竜川」と呼ぶ���うになった。 (『越前国名蹟考』福井県郷土誌懇談会 著 1958年発行より) 大慈大悲の大御心で衆生に利益を与えんとする実体なり。   ●大御心は大切です。しかし、もし・・・。 「道鏡事件」に学ぶ「女性宮家」問題  umayado17   2011年12月30日 雑誌に「(女性宮家創設は)天皇陛下のご意志」 でもあると語った輩がいるらしいですね。 そう言う事はありえませんが、仮にそんな時は、道鏡事件の再来ということになりますから、嫌われても諫言するのが忠義の道、ということになるのかもしれません。 天皇陛下の「大御心」は大切です。「詔を承りては、必ずつつしめ」(17条憲法・三に曰く)です。 http://togetter.com/li/234520   ●女系天皇(じょけいてんのう)http://bit.ly/Ac2EEG 日本において母のみが皇統に属する天皇を指す呼称である。母系天皇と称されることもある。 語句の類似から、単に女子の天皇を指す女性天皇と混同されることも多いが、皇統についての「女系天皇」と、天皇個人の性別についての「女性天皇」とは異なる概念である。 その天皇自身が男か女かという性別とは関係がなく、概念上は女系男性天皇と女系女性天皇の両方が存在しうる。また逆に、男系についても、男系男性天皇と男系女性天皇が存在しうる。 『古事記』、『日本書紀』やその他歴史書の記載によれば、日本の皇統は初代神武天皇から現在の第125代今上天皇まで男系の血筋のみで続いてきたとされる(いわゆる「万世一系」。 その信憑性については諸説あるが、少なくとも「高群逸枝(民俗学者)が古代は母系制であったと主張している」というのは誤認である。 高群が提示した概念は「父系母族制」という名称の通り、母権的であってもあくまで父系(=男系)であった)。 神武天皇以来、男系で続いてきたことを万世一系とする立場からは、女系天皇は即位しても神武天皇以来の皇統に属さず、その結果として日本史上初の王朝交代が生じる、という意見も出されている。   ●女性天皇(じょせいてんのう)http://bit.ly/zjzhkh 女性の天皇のこと。古くから女帝(漢音じょてい、呉音にょたい)と呼ばれていたが、皇位継承問題の議論が盛んとなった2004年以降、日本の公文書や報道では「女性天皇」の表現が用いられることが多くなった。   ●家督相続(かとくそうぞく) [ 日本大百科全書(小学館) ] 戸主(家の長)の身分と財産とを1人の人が受け継ぐ形(単独相続)の相続をいう。 主として封建時代の武士階級の相続法に範をとって、1898年(明治31)に制定された民法(旧民法)で採用されたもので、第二次世界大戦後、現行民法(1947)が制定されるまでの、家の制度の中心をなすものであった。 戦後、家の制度が新憲法の理念に反するものとして廃止されたのに伴い、家督相続も廃止された。 家督相続は、戸主が死亡した場合のほか、戸主の隠居・国籍喪失、入夫婚姻(女の戸主との婚姻)など、被相続人の生存中に相続が開始されることがあった。 家督相続人となる者は1人で、まず直系卑属のうち、親等の近い者、男と女では男、年長者と年少者では前者が選ばれ、したがって普通は長男が相続した。 直系卑属がない場合には、被相続人の指定した者、一定の家族のなかから一定の選定権者が選定した者などが相続することになっていた。 家督相続は、戸主の財産を承継するだけでなく、戸主の身分をも受け継ぐ(身分相続)とされていた点も現在の相続とは大きく異なる。また、法定推定家督相続人(被相続人の直系卑属である相続人)は相続を放棄することは許されなかった。なお、当時においても、戸主以外の家族が死亡した場合には、現在の相続法と同じような共同相続法(家督相続に対して遺産相続とよばれ、現行民法では相続という)が行われていた。   ●家制度(いえせいど)http://bit.ly/wV0KLO 1898年(明治31年)に制定された民法において規定された日本の家族制度であり、親族関係を有する者のうち更に狭い範囲の者を、戸主(こしゅ)と家族として一つの家に属させ、戸主に家の統率権限を与えていた制度である。 江戸時代に発達した、武士階級の家父長制的な家族制度を基にしている。 女性参政権の施行と日本国憲法の制定に合わせて、1947年(昭和22年)には民法が大規模に改正され、親族編・相続編が根本的に変更された為に、家制度は廃止された。   ●ドグマ (dogma) ・宗教・宗派における教義のこと。 ・広義としては、上項から派生して「独断・偏見的な説や意見」、「教条主義」を指すようになった。 ・ドグマ (アダルトビデオ) - 日本のアダルトビデオメーカー。1961年設立。 ・特撮テレビドラマ『仮面ライダースーパー1』に登場する架空の王国。(→ドグマ王国) ・ドグマ95 - 1995年にデンマークで提唱された、映画製作の作法。 ・ドグマ (映画) - 1999年に公開されたアメリカの映画作品。 ・コンピューターゲーム『ドラゴンクエストVI 幻の大地』に登場する架空のキャラクター。   ■女性宮家(じょせいみやけ)  https://ja.wikipedia.org/wiki/女性宮家 皇統に属する女性皇族が成人もしくは結婚後に皇族のままで独立した生計を営む宮家のこと。 これまで皇室の歴史上、女性皇族が当主となり子を儲け又その子が継承した宮家はなく、歴代の女性天皇も未亡人か未婚のまま生涯を終えている。 結果として、「女系皇族」は一例の例外も存在していない。 大日本帝国憲法下の旧皇室典範及び日本国憲法施行に伴い制定された現皇室典範においては、女性皇族は皇族以外の男子と結婚した場合は、皇族ではなくなることとなっている。結果として将来においても「女系皇族」が誕生することは禁止されている。 皇室典範を改正して女性皇族を当主とする宮家を創設して皇族以外の男性と結婚し、その配偶者およびその女性宮家から生まれた子供を皇族としようとするのが「女性宮家創設問題」である。 歴史始って以来、配偶者として民間人男性が皇族となるのに加え、女性宮家から「女系皇族」を誕生させることになり、皇室制度の根本的な転換になる。
0 notes