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#想いがたくさん込められたオーダーキッチン
jp-arch · 4 years
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住工房 // 想いがたくさん込められたオーダーキッチン // 名古屋市 千種区
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localventurelab · 7 years
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ローカルベンチャー最前線:北の住まい設計社 渡邊恭延・雅美さん(後編)
北海道上川郡東川町、大雪山の麓に事務所を構え、北海道産無垢材を使った家具づくりや、天然素材での家づくりを行う「北の住まい設計社」。前編では、事業内容や土地との縁、起業から今に至るまでの経緯などをご紹介しました。後編では、ものづくりのスタンスをさらに掘り下げ、東川町という地域との関わりや、今後の展望なども明らかにしていきます。
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売り上げを落としてでも、ちゃんとしたものづくりを
家具をつくるとき、製作する職人や販売する店舗など、売る側の体制も重要だが、そもそも、材料を提供してくれる材木屋の存在も忘れてはならない。今でこそ北の住まい設計社は、「イタヤカエデ」や「ミズナラ」といった北海道に自生する木を使って家具をつくれているが、実現への道のりは決して平坦ではなかった。
以前は、アメリカのハードメープルなどの材料も使用していた。理由は、イタヤカエデが手に入りにくいことに加え、当時は自然乾燥の技術が乏しく、乾燥させようとしても表面がカビてしまうからだった(すべての木材は水分を含んでいるため、家具にする際には必ず乾燥させなければならない)。
業界では、薬品入りの大きなプールに製材を浸してカビを防ぐのが通例だ。しかし、「自然であること」を大切にする北の住まい設計社にはその選択肢はない。手作業で乾かしたり、漂白したりできないかとさまざまな試行錯誤が続いた。
そしてある日、今なお関係の続く「鈴木木材有限会社」に出会う。信頼の置ける材木屋との出会いにより、イタヤカエデの仕入れは可能になり、本格的な導入が可能となった。
「あとはカビの問題だった」と、創業当時から職人として北の住まい設計社に所属する則末雅敏さんは話す。
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▲こちらが則末さん。渡邊夫妻とは30年以上の付き合いになるという
カビは接地面に発生するため、則末さんたちは、接地面を変えようと積み替えを繰り返した。そのうち、アメリカにいい桟木(風通しを良くするために間に挟む木材)が見つかり、それを使うようになってからは積み替えが二回で済むようになったという。
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▲自然乾燥中の木材
「自然乾燥は大変でしたね。家具メーカーは大体、必要な材料を必要な厚みで、乾燥材の状態で、必要な分だけ買うんです。だから他の会社の情報は全然あてにならなくて、自分たちで手探りするしかなかった。
今では電話一本でほしい材料はなんでも買えちゃう。でもその木材がどのように作られているのか、買い手にはまったくわからない世界なんですね。『薬品を使いたくないね』と言っても、確認のしようがないんです。選別できないようなところでしか供給されていないから。
自分たちの望む、今使っているような材料を手に入れるには、自分たちのルート以外は信用できないんです。電話一本の注文で済ませてしまえば、乾燥に必要な時間も場所も手間も必要ないんですが、それはしない。それがこの会社の一番の特徴だと思いますね」(則末さん)
2016年の春から、輸入材の使用を完全に停止し、北海道産材のみを扱うようになった。それは同時に、それまでの商品がつくれ���くなることと、それまでよりも商品の価格が上がることを意味している。そしてこの影響で、売り上げは大きく低下する。
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▲インタビューに笑顔で応えてくださる雅美さん
「予想以上に落ちました(笑)。そんな感じで、今年で40期目になりますが、会社が楽だって思ったことはないですね。次々と表現したいことがでてくるので、走りながら常に新しいことをやっている感じです」(雅美さん)
「木については、お客さまに自分たちの思いをちゃんと伝えていかないと、というのはありますね。似たようなものがいっぱいあるので、何もしないとやっぱり価格の差で比べられてしまう。自分たちは価格よりも姿勢が大事だと思っているので、そのことは伝えたいですね」(則末さん)
売り上げが落ちたことに対する悲壮感は微塵も感じられない。おそらく北の住まい設計社では、今までもこうして、信念を優先する決断がなされてきたのだろう。
感性を育て、本質を学べる学校をつくりたい
北の住まい設計社と歩んだ40年という歳月が過ぎ、社長の恭延さんは70歳という年齢を迎えた今、「これまでと異なるやり方で、さらに理想を思い求めていきたい」と雅美さんは語る。
「知識も経験も積み重なって、判断する能力というのは衰えている感じはしないんです。でも、やっぱり忘れっぽくなったり、体力が衰えてきたりして、自分たちができることに限りが出てきているのは感じます。
これからは、スタッフやいろんな方たちに協力してもらって、自分たちの考えていることが実現していくようなことをやっていきたい。
夫であれば、職人を大切にしたり、自然から学んだことをものづくりに生かしていくようなこと、私であれば自然と共生するための衣食住。そういったものを表現していきたいですね」(雅美さん)
この構想は、雅美さんの頭の中では「デザインビレッジ」という名前で存在している。そこには衣食のショップがあり、工場があり、家があり、ミュージアムがあり、工芸学校もあるという。イメージは、スウェーデン家具の父と言われるカーム・マルムステン氏がつくった「カペラゴーデン」。本当にいい仕事をする職人を育てるための全寮制の学校だ。
「カペラゴーデン」には、木工、テキスタイル科、陶芸科、園芸科という4つのコースがあるが、カリキュラムはなく、場所と材料と指導者を提供し、自分でやりたいことを見つけて学ばせるという教育スタイルをとっている。夏の間、養蜂をしたり、有機栽培の野菜をつくったりもする。木工コースのレベルが極めて高い水準にあることは、言うまでもない。
「学校をやったらどうか?」言い出したのは、「カペラゴーデン」に通った娘さんだった。娘さんがそう言った背景には、型にはめる日本の教育の考え方に疑問を持つ体験があったという。
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▲こちらがカペラゴーデン
「彼女は高校生の頃、美大の予備校に行ったんですが、デッサンを見た指導者がいきなり『2年は浪人だね』って言ったそうなんです。これから学ぶ人たちに向ける言葉じゃないですよね。
それですぐ、『カベラゴーデン』に行かせたんですが、日本は個人の能力を伸ばすというよりも、どこの学校に入るのかを優先する傾向がありますよね。それに、鉛筆はこれじゃなきゃだめ、線はこれくらい入れなきゃだめ、この美大に入りたかったらこの路線じゃなきゃだめって、だめなことばかりで、それっておかしいなと。
個々人のキャラクターを生かせるような教育をすべきだと思うし、人生に本当に必要な本質を学べる学校をやりたい。大事なのはデッサンじゃなくて感性なんだから」(雅美さん)
地域をつくるさまざまな存在と 有機的につながって歩んでいく
そんな東川町版「カペラゴーデン」の構想を見据えてか、実は北の住まい設計社のカフェも使って、毎月一回デザインスクールが開かれている。コーディネートするのは、東川町在住の北海道東海大学の教授で、世界一の椅子収集家と称される織田憲嗣さん。
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▲デザインスクールの様子
講師陣には、大阪芸術大学の喜多俊之さんや、建築家の中村好文さん、『モダンリビング』発行人の下田結花さん、『暮しの手帖』の前編集長の松浦弥太郎さんなど、日本の一流と呼ばれる人たちが名を連ねているから驚きだ。
参加者は、家具組合やクラフト協会に所属する人たちなど。地元や旭川からやってくるそうだ。町の行政もその価値を感じて、記録を始めているのだとか。
「自治体ってすごく難しいなという印象で、ずっと距離をもっていました。ただ、ここ5~6年、町の職員も若いスタッフの方々が皆さんでうちに来てくれたり、お客を連れて来てくれたりして、話す機さま会が増えてきたんです。
イベントなどもいっしょにできたり、とてもいい関係になってきて、すごく頼もしくて。これからもできるところで接点を持って、一緒に歩めたらいいなと感じていますね」(雅美さん)
東川町は、「写真文化首都宣言」を行ったり、日本初の公立の日本語学校を開校したり、先述の収集家の織田さんと協力してミュージアムづくりを進めていたりと、どんどんと新たな取り組みに挑戦している。
個人、行政、組合、企業といったさまざまな存在と北の住まい設計社をつくる人々が有機的に結びつき、それぞれが撒いている種が芽吹いて花が咲くとき、雅美さんの頭の中にある「デザインビレッジ」もこの世に姿に現すのかもしれない。
社長の恭延さんが、この地に移り住んだ時にまずやったこと。それは「木を植える」ことだった。山の中から若い木を取ってきて、ひたすらに植えていったという。彼がなぜそんなことをしたのか。雅さんの言葉を借りれば、「自然は先生」であり、「自然が大事なことを教えてくれること」を知っていたからなのだ。
自然がなければ人間も経済も成り立たない。人と自然は別のものだと私たちは思いがちだが、人も鳥や虫や木と同様、自然なのである。恭延さんのように、雅美さんのように、その観点を心根に置くことが、これからの時代に地域で起業するうえで、とても大切なことではないだろうか。
そして、市場に迎合するのではなく、誰も見たことがない健全なものづくりをすることが、結果として人を呼び込み、関係を生み、ビジネスを成功させてきた北の住まい設計社の姿勢が、これからローカルベンチャーを始めようとするあなたを勇気付けることになれば、この上なくうれしい。
【PROFILE】 渡邊恭延(わたなべやすひろ) 1945年、美深に生まれ。旭川市内の高校を卒業。旭川教育大学在学中にデザインを学ぶ。 設計事務所で店舗の設計、什器などの家具のデザインを手がける。 店舗什器など特注の家具工場を立ち上げ、マネジメント業務にあたる。 1977年、現在の北の住まい設計社を設立し現在に至る。
渡邊雅美(わたなべまさみ) 1952年、旭川に生まれる。旭川市内の高校を卒業後、東京のデザインスクールにてグラフィックデザインを学ぶ。広告代理店、ショップの販促業務の仕事を経て、1977年、現在の北の住まい設計社を設立。現在に至る。
株式会社 北の住まい設計社 所在地:〒616-8371 北海道上川郡東川町東7号北7線 設立:1977年12月21日 代表者:渡邊恭延 資本金:1,230万円 売上:グループで5.5億円(設計社では2億円) 従業員数:55名(ショールーム・カフェ含む) 事業内容:オリジナルデザインによる家具の製作、卸販売/特注家具、什器などの製作/オーダーキッチン、床材・木製建具等の住宅パーツの製作及び販売
URL:http://www.kitanosumaisekkeisha.com/
<編集・撮影:新田理恵(NPO法人ミラツク) ライター:赤司研介(NPO法人ミラツク)>
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jp-arch · 4 years
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住工房 // 想いがたくさん込められたオーダーキッチン // 名古屋市 千種区
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localventurelab · 7 years
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ローカルベンチャー最前線:北の住まい設計社 渡邊恭延・雅美さん(前編)
大雪山の麓で、無垢材の家具や天然素材の家をつくる
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人口約33万人。北海道内で2番目に大きい都市・旭川市があるエリアは日本5大家具産地のひとつでもあり、120年ほど前から家具製作が行われてきた地でもある。
そんな旭川市の中心部から東に車を走らせること40分。ビルや家などが立ち並ぶ市街地エリアから広々とした田園風景エリアを順に通り抜け、辿り着いたのが、人口約8千人の東川町に事務所を構える「北の住まい設計社」だ。
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▲積雪の向こうに見える、もともと廃校だった工場事務所建物。
北の住まい設計社は、北海道産の無垢材で、オリジナルデザインの家具製作や卸販売、特注家具や什器などの製作、オーダーキッチンや床材・木製建具等の住宅パーツの製作および販売を手がける会社である。自社内に店舗を設け、北欧などの生活雑貨・インテリアグッズの販売や、カフェ事業も行っている。さらには、グループ会社の「北の住まい建築研究社」で、天然素材の住宅・店舗の設計やリノベーション、エクステリアのデザインや施工なども行っている。
創業は1977年。雄大な自然に囲まれた田舎町の、世に言う「効率」とは真逆の場所にあって、今ではグループで年間5.5億円を売り上げ、55人ものスタッフが働く。
ホームページを見てみると、家具づくりにおいても、家づくりにおいても、40年間変化しながら研ぎ続けてきたコンセプトや特徴は非常にわかりやすく言語化されている。
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▲白を基調とした北の住まい設計社のホームページ
例えば、家具づくりにおいてのコンセプトは「昔ながらの工法で、手仕事で、修理も可能な方法で…ひとりひとりの職人が、それぞれひとつの家具を完成させて作ります」というもの。
無垢の木は家具になっても生きており、空気中の水分に自らの含水率を合わせようして、室内の湿度が高いと水分を吸い、湿度が低いと水分を出そうとする「呼吸」を行っていること、その時に木は伸縮するため、「呼吸」を妨げないよう、いろいろな工法や仕口で工夫していること、そういった構造上の制限の中で必然性のある機能的で美しいデザインが生まれてくることなどが綴られている。
家具の材料となる木材は北海道産材のみを使用。外国から材を取り寄せるのも多大なエネルギーを消費する。地球温暖化による環境の変化が現実のものとして感じられるようになってきた昨今、自然と共に暮らすことを考えたものづくりを通して、次の時代に人が生きていける地球環境を残したいと、使用する木材を北海道のものに絞ったのだという。
さらに、家具の表面は有機溶剤を含まない、ドイツの「LEMKE(レムケ)社」の天然亜麻仁油をベースにしたオイルや蜜蝋、パームヤシの油で作った石けん水溶液などの天然塗料で塗装。
カラーリングも、卵の粉末と顔料の混ざった粉に水と亜麻仁油を混ぜ合わせた「エッグテンペラ」を使用し、ソファなどの一部を構成する革についても、クロムという薬品を使わずに古くからのタンニンで鞣す製造���法でつくられるスウェーデン・タンショー社のものを選択している。
まだある。生地についても、オーガニックコットンやウールなど、天然素材のものを採用。永く使い続けられるように、張替えや修理などにも対応している。
家づくりについても家具同様、永く住めることを第一の目標としている。そのためにまず行うのは土地探しだというから驚きだ。そして、土に還らない合板の板やビニールの壁紙、プラスチックなどは使わない。木・土・石を原料とした自然の家を、徹底的に追及しているのだ。
その根っこにあるのは、「自然であること」。綴られる言葉の随所に、次の世代へ負の遺産を残さない健全なものづくりへの思いが込められている。
仕事を通して北欧の自然観を伝えたい
そんな北の住まい設計社が誕生したのは、今から40年も前のこと。それまで旭川市にあったデザイン会社で、家具の設計や現場監督、工場の責任者などとして働いていた渡邊恭延さんと、グラフィックデザイナーとして働いていた雅美さんが二人で起業したのが始まりだった。恭延さんが33歳のころである。
しかし起業したものの、当時、恭延さんは自らの未来に確かな道筋を見出せずにいたという。そして、知り合いのツテを頼って妻の雅美さんと共に北欧・フィンランドに渡り、1ヶ月ほど滞在。その間、目の前に広がる田舎町の「自然と共生する姿」に胸を打たれたと雅美さんは話す。
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▲こちらが渡邊雅美さん
「北欧の人たちは、30年前も今も、そこまで変わらない生活をしています。夏は一ヶ月ほど休みを取って家族でサマーハウスに行き、畑を作ったり、海辺に行った��、絵を描いたり…。自分たちのリズムは絶対に乱さない、スタイルを変えようとしないところが素敵だなと思います。
娘が4年間、スウェーデンにお世話になって、その間にも北欧に随分通いました。福祉にしろ教育にしろ、『いろいろ問題もあるんだよ』と向こうの人は言うのですが、自然や地球のこと、人のこと、子供たちのことなど、一番大事にしなければならないことを彼らは大事にしている。根本的なところが、今の日本と違うなと感じます。
そういう北欧の人々から感じることを、仕事を通して伝えていくのが、私たちの役割かなとは思いますね」(雅美さん)
そして7年後、恭延さんが40歳の時。知人に紹介され、二人は今の場所にたどり着く。そこあったのは、廃校になって7,8年が経過し、雨漏りのする荒れ果てた小学校と、小さな平屋の教員住宅だけだった
雅美さん:「初めてここを見に来きた時も冬でしたね。高齢のご夫婦が二人で住んでいらっしゃって、その方たちが行き来する道が一本だけあって。夫と私とで除雪しながら、校舎に入っていったのを覚えています」
当時は車の免許も持っていなかったという雅美さん。人里離れた場所で暮らす不安はなかったのかと聞くと、「恐れや不安よりも、どこで何をやるのかを優先して決めた」と笑う。
「何かを立ち上げようと思っていたわけではなく、自然の中で、ヤギや羊、鶏などを飼ったりしながら暮らすことで、見えてくるものがあるだろうという感じでした。絶対にこの場所でなければならない、ということでもなかった」(恭延さん)
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▲こちらが代表取締役の渡邊恭延さん
成り行きに任せたら、お客も仲間も増えていった
こうして行き着くままに拠点は定まり、二人の暮らしと、北の住まい設計社の家具づくりは新たなスタートを切る。最初は家の外で使う、鳥の巣箱やテーブル、椅子、ポストなどの小物の製造から始めた。その頃のコンセプトは「質素で豊かな暮らし」だった。
「お金持ちが使うような豪華なものじゃないけれど、素朴で普通の暮らし、田舎暮らし、そういうものをテーマに始めました」(恭延さん)
こつこつと家具を作り、販売することを続けているうちに、二人の知人がこちらを訪ねるようになってくる。遠方まで訪ねてきてくれた知人たちをもてなそうとお茶を振る舞っているうちに北欧のデザインの評判が口コミで広がり、予想を超えてその数はどんどんと増え、ある頃から家具づくりに支障をきたすほどになっていく。
当時はまだ北欧のデザイン自体が珍しい時代。恭延さんは、本場の“血”、つまりデザインに宿る魂をこの土地に入れたいと、北欧のデザイナーや建築家の招聘を構想するも、労働ビザが下りず断念。いろいろと調べた結果、アーティストなら可能性があるとわかり、外務省に掛け合って、数年かけてビザを取得。デザイン学校の生徒だったヤコブという青年を招き入れた。
このことが、結果としてそこからさらに加速度的に来訪者を増加させることになる。
「ヤコブの存在は大きかったですね。本場の血が入ったので、そこで多くのデザインが新しく生まれていきました。家具を作る体制も整っていましたし、指導力に優れた職人さんにも巡り合って、その方が後続を育ててくださった。そうしてヤコブが来てちょうど1年後くらいに、東京で展示会に出したんです。それがすごいことになっちゃって。
小さなところを借りたんですが、とにかくすごい人で、いろんなところから『売らせて欲しい』とお誘いを受けて、あの日が、たくさんの人が来てくれるきっかけになったと思いますね」(恭延さん)
そして、カフェスペースを併設したショールームをつくることに。これが現在展開しているカフェ&ベーカリー事業の原型だ。
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▲カフェ店内。カジュアルでありながら、カジュアルすぎない落ち着く空間だ。
「もともと、ここへ移ってくる前のデザイン会社に勤めている頃、おいしくて安くて、気持ちがいいところで仕事の仲間たちと飲み食いができるお店がほしかったんですが、そういう場所がなかったので、自分たちでやっちゃったんです。
ものすごく繁盛して、2店舗出して、一緒に調理して、アルバイトの大学生を雇って、とてもたのしかった。でも、3年くらいして、これをずっとやり続けるのはつらいなと思って、一緒に働いてくれていた人に譲ったんです。つまり、飲食店の経験はあったんです。
それをここではするつもりはなかったんですが、こんなに遠くまで来てくださる方も増えてきて、お茶をしたりご飯を食べたりできるようにしようかと。だから、カフェも成り行きなんです」(雅美さん)
とはいえ良質な飲食店を構えるためには、優秀な人材が必要だ。どのようにしてその人材を確保したのかと問うと「見つけてきたものではなく、与えられたもの」という答えが返ってきた。
「今振り返れば理想的なことが実現できていますけど、最初は自分がやれることしかできないので、サンドイッチを出す程度の、北欧の学生食堂みたいな感じにしようと思っていたんです。
それが、有楽町にあるホテルのイタリアンに10年以上勤めていた人が、旭川に指導に来ていて、誰かの紹介でうちにも寄ってくれて。そしたら『ここでやらせてくれ』って。彼がいなかったらパスタとかまでやらなかったですね。その人が辞めた後も、今のシェフが、若かったんですけど引き継いでくれて、今に至っています。
お菓子も、厨房でお手伝いをしてくれていた女の子が、『私も厨房に入らせてください』と申し出てくれて、『そんなに難しいことをするわけじゃないのでお菓子教室に通ってみたら?』と伝えたら、真面目なのですぐに通い始めて(笑)。だから、カフェも採用も、計画立ててやったことではないですね」(雅美さん)
話を聞いていると、そこにはずっと、「自然」であることを追求してきた歴史を感じる。場所を決めるとき、家具の素材を選ぶとき、飲食店を始めるとき。「より自然である方」を選び続けていった結果、お客が増え、スタッフが集まり、売り上げが伸び��きた。
どれも、「売り上げを上げるため」に、狙ってやってきたわけではない。自然環境を守り、次世代によりよい世界をつなぎたい。そういう未来への“ギフト”をものづくりに込めてきたのだ。より自然であること、よりよい未来につながる商いを徹底すること。この二つは、これからの時代に起業するすべての人にとって、大切な示唆であるかもしれない。
【PROFILE】 渡邊恭延(わたなべやすひろ) 1945年、美深に生まれ。旭川市内の高校を卒業。旭川教育大学在学中にデザインを学ぶ。 設計事務所で店舗の設計、什器などの家具のデザインを手がける。 店舗什器など特注の家具工場を立ち上げ、マネジメント業務にあたる。 1977年、現在の北の住まい設計社を設立し現在に至る。
渡邊雅美(わたなべまさみ) 1952年、旭川に生まれる。旭川市内の高校を卒業後、東京のデザインスクールにてグラフィックデザインを学ぶ。広告代理店、ショップの販促業務の仕事を経て、1977年、現在の北の住まい設計社を設立。現在に至る。
株式会社 北の住まい設計社 所在地:〒616-8371 北海道上川郡東川町東7号北7線 設立:1977年12月21日 資本金:1,230万円 売上:グループで5.5億円(設計社では2億円) 従業員数:55名(ショールーム・カフェ含む) 事業内容:オリジナルデザインによる家具の製作、卸販売/特注家具、什器などの製作/オーダーキッチン、床材・木製建具等の住宅パーツの製作及び販売
URL:http://www.kitanosumaisekkeisha.com/
次回(後編)は、東川という土地との関わりや、渡邊さんご夫妻が目指すこれからの未来についてのお話をご紹介いたします。
<編集・撮影:新田理恵(NPO法人ミラツク) ライター:赤司研介(NPO法人ミラツク)>
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