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#水の魅力と女性のポートレート
amaotoeros · 4 months
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2024.02.10 | Portrait003
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shredderwastesnow · 1 year
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【尊い人々】1人目:大きな手の中に、小さな兎のぬいぐるみ
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2022年、8月31日のことだった。 曜日は忘れたが、平日だった。
私は会社を早退し、総武線に乗っていた。定時に退社したのでは高円寺にある本屋のイベントに間に合わないので早く上がることにしたのだが、職場からの移動時間は思ったほどかからず、このまま現地に直行すればイベント開始まで手持ち無沙汰になる予感しかなかった。 どう時間を潰すか……ドアの上に貼られた路線図を眺めていたら、昼休みにツイッターで見かけたイラスト展の告知が頭をよぎった――会場は、中野のギャラリーだった。出展者は確か現役の美大生2人で、キャリアの長い人たちではないので、全部見るのに30分もかからないだろう。
数分後、私はずいぶん久しぶりに、年季の入った中野駅のホームに降りた。
この展覧会を主催したのは、入間生さんとこざとユウさん。私が情報を得たのは、入間さんのツイッターからだ。 入間さんは昔、講談社が開催するコンテスト「ミスiD」に「詩乃」という名前でエントリーし、ミスiD2018の1人に選ばれた。(私はほぼオンラインで見ていただけだったが、エントリーした人たちの多彩なプロフィールや選考委員たちの真摯な姿勢に衝撃を受け、翌年はセミファイナリスト発表からずっと見続けるほどハマってしまった。)
「詩乃」は奈良県に住む高校生で、大学に進学して一般企業に就職するのではなくミュージカルやイラストレーションの道に進むという夢を叶えるべく、その第一歩として講談社に書類を送った。 エントリーしている人たちの多くが、服もメイクも完璧に整えて撮影したのちアプリで加工を施した「盛れてる」自撮り写真をSNSにアップしてアピールするのに対し、「詩乃」はいつも飾らない姿のポートレートや、家族と囲む食卓や、丸い目の女の子と兎が織りなす不思議な日常を描いたイラストをアップした。「現役JK」であることを強調して自ら男性に消費されにゆくような発信はなかった。あざとさとは無縁の、素朴な可愛さに溢れた彼女のSNSは穏やかだった。(もちろんコンテストに出ている以上、彼女の心中は必ずしも穏やかではなかったかもしれないが。) 彼女の投稿には、ミスコンで結果を出そうとする女性の多くが努力の過程で失ってしまう、愛すべき野暮ったさがあった。選考委員の1人が、選評に水森亜土と重なるところがあると書いていて、なるほどと思った。イラストと本人の佇まいは決して洗練されているわけではないが、そこにこそ誰にも真似できない魅力がある、ということなのだろう。
多分「詩乃」は、いつもクラスの中心にいてみんなに憧れられるような、華やかな女子高生ではない。でも、心の中に兎と人間が共に暮らす空想の世界を大切に持ち続けている女の子が同じ高校にいたら、私は仲良くなりたい。彼女がノートの端に描いた落書きを見せてもらって、物語に耳を傾けたい。彼女をミスiDに選んだ選考委員たちも、そんな気持ちになったのかなと想像する。
駅前の大きなアーケードを抜け、喧噪から少し隔たったところにある細い商店街を、スマホを頼りに歩いた。やがて道の左側に、小さなギャラリーが現れた。ガラス張りの壁に、展覧会タイトル「モラトリアムメイトの及第点」がポップな書体であしらわれていたので、迷わずガラスのドアを押した。
受付には入間さんとは別の女性が一人座っており、軽く挨拶して中に入った。恐らく、こざとユウさんだろう。 手前の壁面に飾ってあるのはこざとさんの水彩タッチのイラストで、どれも瑞々しい雰囲気だった。その先に、見覚えのある、丸い目をした女の子と兎のユーモラスなイラスト群。 連れ立って自転車に乗り、ボートに乗り、ファミレスで長居し、海へ行き……何枚もの葉書サイズの紙の中で、一人と一匹は夏の鮮やかな色彩を纏い、生き生きと躍動していた。 その隣には、「シャイナシティ旅行記」という連作があった。「シャイナシティ」はシャイな住民が暮らす街で、上空は雲に覆われて飛行機などから目隠しされている。住民は顔や身体を晒さずに済むよう宇宙服のようなものを着て暮らし、コミュニケーションへの圧も少ない……想像の斜め上を行く世界が、軽やかなタッチの絵と言葉でこれまた生き生きと描かれている。 ミスiD2018から4年が過ぎたが、彼女の空想世界は変わらずにあり、さらなる広がりを見せていた。
作品を見ている間に、ギャラリーに一人、二人と客が入ってきた。一人は女の子でもう一人は男の子、どちらも10代前半から20代半ばぐらいに見えた。 もう作品を見終わるかというタイミングで、金髪ショートカットの小柄な女性が入口に現れた。黒髪だった時しか顔を見たことはなくても、「詩乃」=入間生さんだと分かった。白いシャツと短パンという、夏の終わりに相応しい格好だった。
絵を見ていた女の子が入間さんに気付き、声を抑えつつも興奮した様子で話しかける。「あの、ツイッターずっとフォローしてて……」「え、どのアカウント?」おたくと推しの記念すべき初対面が、ギャラリーの片隅でひそひそと始まった。 恐らく受験などの事情なのだろう、入間さんのSNSアカウントは更新がストップした時期もあった。しかしそれでも、この女の子のおたくはずっと「詩乃」を忘れず、追い続けていたようだった。
あまりじろじろ眺めるのも悪いし、残りの絵を見よう……と壁に視線を戻しかけた時、少し離れた場所にいた男の子が視界に入った。さっきまでの私と同様、彼も入間さんと女の子を見つめていた。 背の高い男の子の手に、何かが握られている――透明の袋に入った、10センチほどの兎のぬいぐるみだった。
ああ、きっと彼も古参のおたくだ。 「詩乃」が兎のモチーフを描き続けているから、兎のぬいぐるみをプレゼントしようと思い立ったのだろう。 喋っている二人の間に割って入ったりせず、話が途切れたら渡すつもりで、じっと待っているのだ。
私は絵を見終わり、ドアの方に向かった。入間さんが小走りで向かってきて、「ありがとうございました!」と名刺をくれた。
強い日差しの中を中野駅まで歩きながら、さっきの男の子を思った。
ぬいぐるみは、無事に渡せただろうか。 そうであってほしい。 しかし渡せなかったとしても、それはそれで美しい物語ではある。 夏の終わりの、果たせなかった思い。
大きな手に、柄にもなく小さな兎のぬいぐるみを握ってじっと待っている彼の後ろ姿は、少し可笑しく、尊かった。その情景を切り抜いて、額に入れて飾りたいほどに。
「推しが尊い」というフレーズは、おたくの口癖として広く知られている。 しかし、スポットライトの当たらない場所に視線を移せば、やがて気付く――おたくの中にも、尊い光を放つ人々がいるのだと。
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voidplus-jp · 5 years
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Unknown Image Series no.8  #1 山元彩香「organ」 Ayaka Yamamoto "organ" 2019. 11. 1 (fri) - 11.30 (sat)
void+ではUnknown Image Series no.8 #1 山元彩香「organ」を11月1日より開催いたします。Unknown は、インディペンデント・キュレーターのカトウチカが企画するシリーズの展覧会で、2011年より開催。シリーズ8回目となる本展は、Unknown Imageというタイトルで、5名の作家による連続個展形式のグループ展としてHIGURE 17-15 casとvoid+にて開催する予定です。
初回の山元彩香は、京都精華大学芸術学部で絵画を専攻しましたが、米国への交換留学を機に写真の制作を始めました。近年は、自身の持つ知識、経験、言葉の通じない外国へ赴き、現地で知り合った少女たちのポートレート写真を撮り続けています。訪問先は、エストニア、ラトビア、ロシア、ウクライナ、ブルガリア、ルーマニア、ベラルーシなど東欧各国、今年は初のアフリカ大陸、マラウイを訪問し、精力的に制作活動をしています。
本展では新作となる映像作品と、その他旧作と新作で構成した写真作品を展示いたします。会期中にはDIC川村記念美術館学芸員の光田由里、愛知県美術館学芸員の中村史子をゲストに迎え、トークイベントを開催いたします。
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<展覧会概要>
■タイトル:Unknown Image Series no.8  #1 山元彩香「organ」 ■会期:2019 年11月1日(金)— 11月30(土)14:00-19:00 ・レセプション:11月1日(金)19:00-21:00 ・トークイベント:11月29日(金)19:00-20:30 山元彩香+ 光田由里(DIC川村記念美術館学芸員)+ 中村史子(愛知県美術館学芸員) ■会場:void+ 東京都港区南青山3-16-14, 1F ■定休日:日、月、祝日 ■入場無料 ■お問合せ:Tel: 03-5411-0080/メール: [email protected]  
[主催]void+委員会/Unknown実行委員会 [企画]カトウチカ                                                                                         [助成]令和元年度港区文化芸術活動サポート事業助成 [協力]Taka Ishii Gallery Photography / Film、YN Associates [機材協力]ソニーマーケティング株式会社
・未就学児の入場可能 / 車椅子ご利用の方は事前にお申し出ください。
Starting on November 1, void+ will present Unknown Image Series no.8 #1 YAMAMOTO Ayaka “organ.”
The Unknown series of exhibitions, launched in 2011, are planned and coordinated by independent curator Kato Chika. This eighth exhibition takes the title “Unknown Image,” and will be staged as a group show by five artists in the format of consecutive solo exhibitions at HIGURE 17-15 cas and void+.
Featured in the first show is Yamamoto Ayaka, who majored in painting at Kyoto Seika University’s Faculty of Arts, but began producing photographs during a student exchange in the United States. Recent years have seen Yamamoto traveling to parts of the world where her own knowledge, experience and language do not apply, and shooting portraits of girls she meets there. She has thrown herself enthusiastically into the project, visiting Eastern European nations including Estonia, Latvia, Russia, Ukraine, Bulgaria, Romania, and Belarus, and this year traveling to Africa for the first time, to take photos in Malawi.
Unknown Image Series no.8 #1 YAMAMOTO Ayaka “organ” will present a new work on video by Yamamoto, along with a selection of photographic works. In conjunction with the exhibition, a talk event will also be held, featuring, in addition to the artist, guests Mitsuda Yuri, curator at Kawamura Memorial DIC Museum of Art, and Nakamura Fumiko, curator at Aichi Prefectural Museum of Art.
<Exhibition data>
■Title: Unknown Image Series no. 8  #1 YAMAMOTO Ayaka ”organ” ■Dates/Hours: Friday, November 1 – Saturday, November 30, 2019  14:00–19:00 • Opening reception: Friday, November 1   19:00–21:00 •Talk event: Friday, November 29  19:00–20:30 YAMAMOTO Ayaka + MITSUDA Yuri (Curator, Kawamura Memorial DIC Museum of Art)+ NAKAMURA Fumiko (Curator, Aichi Prefectural Museum of Art) ■Venue: void+ 3-16-14, 1F Minami Aoyama, Minato-ku, Tokyo ■Closed: Sundays, Mondays, holidays ■Admission: free ■Inquires: Tel: 03-5411-0080  Email: [email protected]  
Organized by: Unknown executive committee / void+ committee Conceived and planned by: KATO Chika                                                                                          Supported by: Minato City Cultural Arts Support Project With cooperation from: Taka Ishii Gallery Photography/Film, YN Associates Equipment provided by: Sony Marketing Inc.
*Preschoolers welcome. Wheelchair users please let us know in advance.
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「organ」について
2011年に初めてラトビアを訪れたとき、毎朝友人の鼻歌で目覚めた。
それは、言葉になる前の声の連続で、彼女の内部に無意識的に蓄積されている記憶が音のイメージとなって発せられているようにも思えた。
会話とはまた別のレベルで、彼女が辿ってきた時間そのものに触れているような感覚があった。
放たれた声は私の身体の一部となり、自らの声で再び発することで他者へと循環、連鎖してゆく。
organとは、容れ物としての器という意味を持ちながら、臓器や楽器の意味を成す。
遥か昔、儀式に使われていた鈴や鐸はその空洞に響く音によって、それを身につけた人間に見えざるものを憑依/循環させていたそうだ。
空の器としての身体に宿る音により、その奥底にかすかに在る未だ見ぬものに触れたいと願う。
(2019年10月 山元彩香)
About “organ”
When I first visited Latvia in 2011, I was woken every morning by my friend, humming. To me this felt like the continuation of a pre-verbal voice, the emission of memories unconsciously accumulating within her, in the form of sound images. The sensation was one of experiencing the very time she had traveled, at a different level from conversation. Her voice, released, become part of my body, and emitting it again in my own voice causes it to circulate and connect to others. An organ may be a body organ or a musical instrument; in Japanese the character (器) read as ki or utsuwa has these meanings, while also referring to a vessel. Back in the mists of time, the sound of a bell used in rituals, reverberating in the cavity of that bell, would apparently cause the wearer to be possessed by some invisible presence, or have such a presence circulating within them. Hopefully the sounds harbored by the body as empty vessel will put us in touch with glimmers of yet unseen things found in its depths.
(YAMAMOTO Ayaka, October 2019)
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organ
一見、古典的な絵画のように見えるその写真には、非現実なまでに美しい「いきもの」が写っている。彼女たちの表情は虚ろでどこか遠くを見つめているか、死者のごとく目を閉ざしている。あるいは仮面やベールをつけて、その表情すら見えないのだが、仮面をつけた身体やベールの奥にかすかに残っているものがある。果たしてそれはなんなのだろうか?
山元は、あえて言葉が通じない国に出かけ撮影する。言葉に頼らないコミュニケーションに よって被写体と共同作業でイメージをつくり上げる。個人を形成している様々なレイヤーを剥ぎ取って新たな衣を纏わせていく過程において、最後には被写体の自意識が消えてしまう瞬間が生まれるのだという。 今まで纏っていた衣服、名前、記憶、自意識、文字通りすべてを剥ぎ取り新たな姿を与える撮影は、写真が持つ本質的な暴力性を孕んでいる。しかし、作家が被写体の属性をいくら奪おうとしても奥底に残るものがあるのだという。彼女はそこに何を見出したのだろうか。異国の他者を撮影することで何を問い続けているのだろうか。その静謐なポートレートは、作家の問いであると同時に、イメージの謎そのものなのである。
今回の個展で、山元は映像作品(撮影地ラトビア、2019年制作)を展示する。organ=空の器としての身体は、言葉ではない歌を歌う。映像=時間の中に置かれた空の器は、いかなる音を宿すのか、さらなる問いを生じさせる。
カトウチカ(Unknown Series キュレーター)
organ
Yamamoto’s photographs, at first glance reminiscent of classical paintings, show “creatures” of almost unreal beauty. The girls appear either to be vacantly staring at some point in the distance, or have their eyes closed as if dead. Or they wear a mask or veil, making it impossible to even see their expression, although something remains in the body wearing the mask, or visible faintly behind the veil. What is it? Yamamoto deliberately sets out to take photographs in countries where she does not speak the language, constructing images in collaboration with her subjects via non-verbal communication. The process of peeling away the layers that go to make up an individual and clothing them in new garb apparently, in the end, creates a moment in which the subject sheds her self-consciousness. Photo shoots that strip away literally everything previous—the clothes the person was wearing, their name, memories, self-consciousness—to give them a totally new appearance, are filled with the intrinsic violence of photography. Yet the artist says that no matter how much she endeavors to denude her subjects of their attributes, deep down, something remains. What has Yamamoto identified there? By photographing strangers from other countries, what question does she continually ask? These tranquil portraits serve at once as inquiries on the part of the artist, and the very riddle of images. In this solo outing, Yamamoto will present a video work, shot in Latvia in 2019. The organ/body as empty vessel, sings a song without words. This generates further questions about what kind of sounds are harbored by the empty vessel placed in a video/time.
KATO Chika (Unknown Series curator)
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<作家プロフィール>  
山元彩香| YAMAMOTO Ayaka
1983年 兵庫県生まれ。2006年 京都精華大学 芸術学部 造形学科洋画コース卒業。言語による意思疎通が難しい状況下での撮影は、写真というメディアが本質的に抱える性質以上に他者との様々な接点を作家にもたらし、以降、暴力的でありながらも魅力的なイメージ生成の場とも言えるポートレートの撮影を続ける。主な個展に「We are Made of Grass, Soil, and Trees」(タカ・イシイギャラリー フォトグラフィー/フィルム、2018)、「Nous n'irons plus au bois」(同、2014)など。主に東欧各地で撮影を行い、国内外で写真展やレジデンスに参加。2019年に写真集『We are Made of Grass, Soil, and Trees』(T&M Projects、2018)が「さがみはら写真新人奨励賞」を受賞。
YAMAMOTO Ayaka Born 1983 in Hyogo, Japan. BFA in painting, Kyoto Seika University, Faculty of Fine Art.   In a situation in which communication through words was difficult, photography took on a value beyond its intrinsic nature, serving as a point of contact with others. Since then, Yamamoto has continued to take in a certain sense violent, yet alluring portraits. Solo exhibitions include ”We are Made of Grass, Soil, and Trees” (Taka Ishii Gallery Photography/Film, 2018) and “Nous n’irons plus au bois” (Taka Ishii Gallery Photography/Film, 2014). She photographs mainly in Eastern Europe, and has participated in photo exhibitions and residencies in Japan and overseas. She won  the 19th Sagamihara Prize for Newcomer Professionals in 2019 for her photobook We are Made of Grass, Soil, and Trees(T&M Projects, 2018).
<ゲストプロフィール>
光田由里|MITSUDA Yuri
DIC川村記念美術館学芸員。専門は近現代美術史と写真史。近年の主な企画に、「描く、そして現れる―画家が彫刻を作るとき」(DIC川村記念美術館、2019)、「美術は語られる―評論家・中原佑介の眼―」(同、2016)、「鏡と穴-彫刻と写真の界面」(ギャラリーαM、2017)、「ハイレッド・センター直接行動の軌跡」(松濤美術館、2008)など。主な著書に、『高松次郎 言葉ともの』(水声社、2011)、『写真、「芸術」との界面に』(青弓社、2006、日本写真協会学芸賞)、『安井仲治写真集』(共同通信社、2004、倫雅賞)など。
MITSUDA Yuri Curator, Kawamura Memorial DIC Museum of Art, specializing in modern/contemporary art history and history of photography. Recent exhibitions include ”Painting into Sculpture – Embodiment in Form” (Kawamura Memorial DIC Museum of Art, 2019), “Talking about Art – The Viewpoint of Yusuke Nakahara” (also at KMDMA, 2016), “Mirror Behind Hole: Photography into Sculpture“ (gallery αM, 2017), and “Hi-Red Center: "The Documents of ‘Direct Action’” (Shoto Museum of Art, 2008). Among her published writings are Words and Things: Jiro Takamatsu’s issue(Suiseisha, 2011),Shashin, “geijutsu” to no kaimen ni[Photography, in its interface with “art”] (Seikyusha, 2006; winner of the Photographic Society of Japan AwardsScholastic Achievement Award), and Nakaji Yasui photographer 1903–1942(Kyodo News, 2014, Ringa Prize).
中村史子|NAKAMURA Fumiko
愛知県美術館学芸員。専門は視覚文化、写真、コンテンポラリーアート。担当した主な展覧会に「これからの写真」(2014)、「魔術/美術」(2012)、「放課後のはらっぱ」(2009)など。また、若手作家を個展形式で紹介する「APMoA Project, ARCH」を企画し、伊東宣明(2015)、飯山由貴(2015)、梅津庸一(2017)、万代洋輔(2017)を紹介。2017年にはタイでグループ展「Play in the Flow」を企画、実施。
NAKAMURA Fumiko Curator, Aichi Prefectural Museum of Art, specializing in visual culture, photography and contemporary art. Responsible for exhibitions including “Photography Will Be” (2014), “Art as Magic” (2012) and “In the Little Playground” (2009), as well as for planning “APMoA Project, ARCH” presenting young artists in a solo show format, which to date has featuredItohNobuaki (2015), Iiyama Yuki (2015), Umetsu Yoichi (2017) and Bandai Yosuke (2017). In 2017, she planned and implemented the group show “Play in the Flow” in Thailand.
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<Unknown Image Series no.8 展覧会>
未知のイメージを創出する
イメージが持つ力と本質を探り、未知のイメージを創出する。
この世界においては、日々膨大なイメージが生まれては消えていくが、ときに稀有なイメージが出現する。今回の参加アーティストは、三田村光土里、横山奈美、鈴木のぞみ、山元彩香、庄司朝美の5名。連続する個展の形式をとる。各回のトークイベントとテキストのゲストには、光田由里、梅津元、飯田志保子、中村史子、中尾拓哉らを招く。 シリーズの終了後にはバイリンガルの記録集を制作し、本というメディアにおいても新たな表現の展開をはかっていく。
女性たちがつくるイメージ
Unknown Imageのシリーズは、イメージをテーマに、今、注目すべきアーティスト一人一人の作品とその世界を深く掘り下げ、その可能性をさらに見出していく場でもある。今回は、はからずも全員が女性アーティストとなった。
初回の山元彩香は、言葉の通じない国で神秘的なまでの美しさと暴力性をもつポートレートを撮影する。被写体の名前や意識すら剥ぎ取り、空の器にしようとしても残るものとはなんなのか。鈴木のぞみは、写真や時間の原理の静かな探求者である。生命なき事物に「視線」と「記憶」を出現させ、写真に身体のようなものを与える。横山奈美は、絵画の大きな歴史と私的な小さな歴史を交錯させ、日常の取るに足らないものたちの美しさや、明るく輝くものの背後にある存在を描き出す。庄司朝美の描線は、舞台のように見る人を引き込む物語性と、生命と死のエネルギーに満ちた身体的絵画空間をつくり出す。三田村光土里は、このシリーズではもっともキャリアの長いアーティストである。ごく私的なイメージや言葉の数々は、写真、映像、オブジェ、ドローイング、インスタレーションとなるが、それらは個人の物語やアートの枠組みを越えて普遍性を帯び、見る人の心を捉えて離さない。そして、ゲストは性別や年代は幅広いが、いずれも芸術の発生の現場において、極めて優れた批評の言葉を紡いできた方々である。
美術史において、かつて周縁の存在であった女性アーティストたちは、今、最先端にいる。彼女たちがつくるイメージはどのようなものなのか。なぜそれを生み出さねばならなかったのか。参加者の出自やキャリア、テーマ、歴史や現在の状況との向き合い方、その目指すところも様々である。だが、彼女たちの存在と彼女たちがつくるイメージは、それぞれに強く鮮やかだ。その未知のイメージは見る人を深く静かに揺るがし、世界に多様な変化を生み出す力ともなっていくだろう。
<Unknown Image Series no.8 exhibitions>
Creating unknown images
Exploring the power and essence possessed by images, to create unknown images.
A vast number of images are generated every day in this world, only to vanish, but just occasionally, some extraordinary images do emerge. The artists in this eighth Unknown exhibition are Mitamura Midori, Yokoyama Nami, Suzuki Nozomi, Yamamoto Ayaka, and Shoji Asami, who will stage consecutive solo shows. Those serving as guests for the talk events for each of these shows, and providing the texts, will include Mitsuda Yuri, Umezu Gen, Iida Shihoko, Nakamura Fumiko, and Nakao Takuya. After the series is finished a bilingual document will be produced, thus extending the exhibition into another form of expression, that of the book.
Images made by women
The Unknown Image series is also an opportunity to delve deeply into the individual work of some of today’s most noteworthy artists and their worlds, identifying further possibilities for each. This time, albeit not by design, all the artists are female.
Yamamoto Ayaka, featured in the first of the exhibitions, travels to countries where she does not speak the language, and takes portrait photographs suffused with a beauty and violence verging on the mystical. What is it that remains even when everything is stripped from her subjects, down to their names and consciousness, in an attempt to turn them into empty vessels? Suzuki Nozomi is a quiet explorer of the principles of photography and time. Endowing non-living things with a “gaze” and “memory” she gives her photos something like a physical body. Yokoyama Nami blends the vast history of painting and small personal histories to depict the beauty of everyday, insignificant things and what lies behind the bright and shiny. Shoji Asami’s lines create a narrative quality that draws the viewer in like a stage, and a corporeal painterly space suffused with the energy of life and death. Mitamura Midori is the artist in this series with the longest career. Her many very personal images and words are presented in photographs, videos, objects, drawings and installations, that go beyond individual stories or the confines of art, taking on a universal quality that irrevocably captures the heart of the viewer. The guests, meanwhile, are a varied lineup in terms of age and gender, but all individuals on the frontlines of art creation, of superb critical talent.
Once a marginal presence in art history, female artists are now at its cutting edge. What kind of images do these artists make? Why have they felt the need to produce them? The artists participating in these exhibitions have different origins and career trajectories, different ways of engaging with their themes, with history and current circumstances, and different aims. Yet their presence, and the images they create, are without exception strong and vibrant. Their unknown images will quietly shake the viewer to the core, and likely serve as a force for many types of change in the world.
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<Unknown Image Seriesno.8個展スケジュール>
#1|山元彩香  [会場]void+ 2019年11月1日(金)―30日(土) トークイベント:11月29日(金)19:00-20:30 山元彩香+光田由里(DIC川村記念美術館学芸員)+中村史子(愛知県美術館学芸員)
YAMAMOTO Ayaka  @void+ Friday, November 1 – Saturday, November 30, 2019 Talk event: Friday, November 29  19:00–20:30 YAMAMOTO Aya + MITSUDA Yuri (Curator, Kawamura Memorial DIC Museum of Art)+ NAKAMURA Fumiko (Curator, Aichi Prefectural Museum of Art)
#2|鈴木のぞみ [会場]void+ 2020年夏(予定) トークイベント: 鈴木のぞみ+梅津元(埼玉県立近代美術館学芸主幹/芸術学)参加予定 テキスト執筆:梅津元
SUZUKI Nozomi  @ void+ Summer 2020 (TBD) Talk event:SUZUKI Nozomi + UMEZU Gen (Curator, The Museum of Modern Art, Saitama / Art Studies) TBC Text: UMEZU Gen
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鈴木のぞみ《光の独白》2015ミクストメディア ©️SUZUKI Nozomi
#3|庄司朝美  [会場]HIGURE 17-15 cas     2020年9月(予定) トークイベント:庄司朝美+光田由里(DIC川村記念美術館学芸員)
SHOJI Asami  @ HIGURE 17-15 cas     September 2020 (TBD) Talk event:SHOJI Asami + MITSUDA Yuri (Curator, Kawamura Memorial DIC Museum of Art)
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庄司朝美《18.10.23》2018 アクリル板に油彩 画像提供:損保ジャパン日本興亜美術館
#4|横山奈美 [会場]void+ 2021年5月(予定) トークイベント:横山奈美+飯田志保子(キュレーター)
YOKOYAMA Nami @ void+ May 2021 (TBD) Talk event:YOKOYAMA Nami + IIDA Shihoko (Curator)
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横山奈美《Cross》2019 麻布に油彩 Photo by WAKABAYASHI Hayato
#5|三田村光土里 [会場]HIGURE 17-15 cas   2021年(予定) トークイベント:三田村光土里+中尾拓哉(美術評論家)
MITAMURA Midori  @ HIGURE 17-15 cas   2021 (TBD) Talk event:MITAMURA Midori + NAKAO Takuya (Art critic)
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三田村光土里《ここにいなければどこかにいる》2018 ピグメントプリント ©︎ MITAMURA Midor
<その他参加作家プロフィール>
鈴木のぞみ| SUZUKI Nozomi
1983年 埼玉県生まれ。東京藝術大学大学院 美術研究科 博士後期課程在学中。何気ない日常の事物に潜む潜像のような記憶の可視化を、写真の原理を通して試みている。現前しているが不在であるという性質を持つ写真を事物に直接定着することで、写真に触覚的な身体のようなものが付与され、過ぎ去りゆく時をいまここに宙づりにする。近年の主な展示に「あした と きのう の まんなかで」(はじまりの美術館、2019)、「MOTサテライト2018 秋 うごきだす物語」(清澄白河、2018)、「無垢と経験の写真 日本の新進作家vol.14」(東京都写真美術館、2017)、「NEW VISION SAITAMA 5 迫り出す身体」(埼玉県立近代美術館、2016)など。受賞歴多数。現在、ポーラ美術振興財団在外研修員としてイギリスにて研修中。
SUZUKI Nozomi Born 1983 in Saitama, Japan.Currently in the doctorate course of Intermedia Art at Tokyo University of the Arts.Attempts to visualize, through the principles of photography, the memories resembling latent images submerged in innocuous everyday objects. Fixing photographs, which have the characteristic of being present yet absent, directly to objects, assigns photographs something like a tactile body, suspending passing time in the now.   Recent group exhibitions include “In the middle of tomorrow and yesterday” (Hajimari Art Center, 2019), “MOT Satellite 2018 Fall: To Become a Narrative” (Kiyosumi-Shirakawa, 2018), “Photographs of Innocence and of Experience: Contemporary Japanese Photography vol.14” (Tokyo Photographic Art Museum, 2017), and “New Vision Saitama 5: The Emerging Body” (The Museum of Modern Art, Saitama, 2016). Among her many awards, she was recipient of the POLA Art Foundation Grant for Overseas Research in 2018, under which she is currently studying in the UK.
庄司朝美| SHOJI Asami
1988年 福島県生まれ。2012年 多摩美術大学大学院 美術研究科 絵画専攻版画領域修了。「線が引かれる。それは必ずしも天と地を分割するような境界線ではなくて、地を這う生き物が砂/泥へ残した痕跡のような、動くことで開かれていく空間がある。私たちは誰かの想像した世界を連綿と引き継いで生きている。」庄司の絵画には特定の物語がないにも関わらず、見る人はそこに様々な物語を見出す。また、絵画の空間的体験によって、自由な身体感覚が循環する生きた絵画空間が誕生する。主な個展に「明日のまみえない神話」 (gallery21yo-j、2019)、「泥のダイアグラム」(Cale、2018)、「劇場の画家」(gallery21yo-j、2017)、「夜のうちに」(トーキョーワンダーサイト渋谷、2017)などがある。「FACE2019」損保ジャパン日本興亜美術賞で大賞受賞。
SHOJI Asami Born 1988 in Fukushima, Japan. Earned her MFA in printmaking in 2012 from Tama Art University (Tokyo). ”A line is drawn. It is not necessarily a borderline of the kind dividing heaven and earth, but perhaps a space that opens up through movement, like that of a creature that crawls along the ground, leaving a track in sand or mud. In our lives we are continuously inheriting a world imagined by someone.” Despite not having a specific narrative, Shoji’s paintings reveal various stories to the viewer. They also spawn a living painterly space of circulating free physical sensation, through the spatial experience of painting. Solo shows include”Tomorrow’s Unseen Mythologies” (gallery21yo-j, 2019), “Diagram of the Mud”(Cale, 2018), “A Painter in the Theater” (gallery21yo-j, 2017), and “During the Night” (Tokyo Wonder Site, Shibuya,2017). Grand Prix winner at the “FACE 2019” Sompo Japan Nipponkoa Art Awards.
横山奈美 | YOKOYAMA Nami
1986年 岐阜県生まれ。2012年 愛知県立芸術大学大学院 美術研究科 油画版画領域修了。捨てられる寸前の身の回りの物や、ネオン管の裏側に隠された器具や配線といった主役にはならないものに光を当てることで、そのものが持つ役割の枠を取り払い、すべてのものに備わる根源的な美しさと存在意義を表現する。近年は、「LOVE」の意味を問いかける油画とドローイングを続けて発表している。主な展示に、アペルト10「LOVEと私のメモリーズ」(金沢21世紀美術館、2019)、「日産アートアワード2017」(BankART Studio NYK)、「手探りのリアリズム」(豊田市美術館、2014)、「Draw the World-世界を描く」(アートラボあいち、2013)など。 主な受賞に「日産アートアワード2017オーディエンス賞」などがある。
YOKOYAMA Nami Born 1986 in Gifu, Japan. Earned her MFA in painting in 2012 from Aichi Prefectural University of Fine Arts and Music. By shining a light on things that never take center stage, such as familiar objects in the moment before their discarding, and the fittings and wiring hidden behind neon signs, Yokoyama does away with the parameters of the roles played by these things to express the fundamental beauty and raison d’etre possessed by all things. Her recent drawings and paintings continue to question the meaning of love. Solo and group exhibitions include “Aperto 10: Memories of Love and Me” (21st Century Museum of Contemporary Art, Kanazawa, 2019), “Nissan Art Award 2017” (BankART Studio NYK), “Reaching for the Real” (Toyota Municipal Museum of Art, 2014),and “Draw the World” (Art Lab Aichi, 2013). Recipient of the Nissan Art Award 2017 Audience Award.
三田村光土里| MITAMURA Midori
1964年 愛知県生まれ。1994年 現代写真研究所 基礎科修了。「人が足を踏み入れられるドラマ」をテーマに、日常の記憶や追憶のモチーフを、写真や映像、日用品、言語など様々なメディアと組み合わせ、私小説の挿話のような空間作品を国内外で発表。近年の主な個展に、グラン・カナリア(スペイン)での「If not here, then I'm somewhere else」(Galeria Manuel Ojeda、2018)、「Art & Breakfast」(CAAM – Atlantic Center of Modern Art、2017)がある。展覧会ではイギリスの「フォークストン・トリエンナーレ2017」関連企画「Leaving Language」、国内では、「あいちトリエンナーレ 2016」(愛知芸術文化センター)など。2019年にはウィーンで、日本−オーストリア国交150周年記念展「Japan Unlimited」に参加。
MITAMURA Midori Born 1964 in Aichi, Japan. Completed the fundamentals course at The Institute of Contemporary Photographyin 1994. Taking as her theme “dramas that people can step into,” Mitamura combines motifs of everyday memories and reminiscences with various media such as photography and video, household goods and language, presenting in Japan and further afield spatial works that resemble an episode of an autobiographical novel. Recent solo exhibitions include ”If not here, then I'm somewhere else.” (Galeria Manuel Ojeda, 2018) and “Art & Breakfast” (CAAM – Atlantic Center of Modern Art, 2017)both in Gran Canaria, Spain. Among her group show participations are “Leaving Language,” a collateral program of the Folkestone Triennial 2017in the UK, and Aichi Triennale 2016 (Aichi Arts Center) in Japan. In 2019, she will participate in “Japan Unlimited,” an exhibition staged in Vienna commemorating 150 years of friendship between Austria and Japan.
<その他ゲストプロフィール>
梅津元|UMEZU Gen
埼玉県立近代美術館学芸主幹。専門は芸術学。同館での主な企画(共同企画を含む)に「DECODE/出来事と記録ーポスト工業化社会の美術」(2019)、「版画の景色 現代版画センターの軌跡」(2018)、「生誕100年記念 瑛九展」(2011)、「アーティスト・プロジェクト:関根伸夫《位相ー大地》が生まれるまで」(2005)、「ドナルド・ジャッド1960-1991」(1999)、「<うつすこと>と<見ること>ー意識拡大装置」(1994)など。ギャラリーαMでの企画に「トランス/リアルー非実体的美術の可能性」(2016-17)がある。美術手帖や展覧会カタログなどに寄稿多数。
UMEZU Gen Curator, The Museum of Modern Art, Saitama, specializing in art studies. Exhibitions he has organized/co-organized at MOMAS include ”DECODE / Events & Materials: The Work of Art in the Age of Post-Industrial Society” (2019), “A View of Prints: Trajectory of the Gendai Hanga Center” (2018), “100th Birth Anniversary, Q Ei” (2011), “Artist Project: Toward the Emergence of Sekine Nobuo’s Phase – Mother Earth” (2005), “Donald Judd 1960–1991” (1999), and “Visualization in the End of the 20th Century” (1994), as well as “Trans / Real: The Potential of Intangible Art” (2016-17,Gallery αM). He has contributed a great number of essays to the art magazine Bijutsu Techo, as well as to art catalogues and books. 
飯田志保子|IIDA Shihoko
キュレーター。1998年の開館準備期から2009年まで東京オペラシティアートギャラリーに務める。主な企画に「ヴォルフガング・ティルマンス―Freischwimmer」(2004)、「トレース・エレメンツ―日豪の写真メディアにおける精神と記憶」(東京オペラシティアートギャラリー、2008/パフォーマンス・スペース、シドニー、2009)など。2009-2011年クイーンズランド州立美術館/現代美術館で客員キュレーター。その後、国際展のキュレーターを歴任。2014年度から17年度まで、東京藝術大学美術学部准教授。「あいちトリエンナーレ2019」ではチーフ・キュレーターを務める。
IIDA Shihoko Curator. Worked at Tokyo Opera City Art Gallery from 1998, when it was preparing for inauguration, until 2009, where her major exhibitions included “Wolfgang Tillmans: Freischwimmer” (2004) and “Trace Elements: Spirit and Memory in Japanese and Australian Photomedia” (2008/Performance Space, Sydney, 2009). She was a visiting curator at Queensland Art Gallery/Gallery of Modern Art in Brisbane from 2009 through 2011, and has since co-curated successive international art exhibitions. Associate professor at Tokyo University of the Arts for the academic years 2014–2017. She was Chief Curator (Head of Curatorial Team) of Aichi Triennale 2019.
中尾拓哉|NAKAO Takuya
美術評論家。博士(芸術)。近現代芸術に関する評論を執筆。特に、マルセル・デュシャンが没頭したチェスをテーマに、生活(あるいは非芸術)と制作の結びつきについて探求している。2014年に論考「造形、その消失においてーマルセル・デュシャンのチェスをたよりに」で『美術手帖』通巻1000号記念第15回芸術評論募集佳作入選。2017年に単著『マルセル・デュシャンとチェス』を平凡社より出版。主な論考に「50年あるいは100年後の鑑賞者ー日本・マルセル・デュシャン論再考」(『美術手帖』2019年2月号)など。
NAKAO Takuya Art critic. PhD in art. Writes criticism on modern and contemporary art. In particular, has been exploring the connections between living (or non-art) and creative practice from the perspective of chess, in which Marcel Duchamp was also engrossed. His 2014 essay, “The Plastic, in Disappearance: From Marcel Duchamp’s Chess” received honorable mention in the 15th (1000th Issue Commermorative) Bijutsu TechoArt Writing Competition. His book Marcel Duchamp and Chesswas published by Heibonsha in 2017. Recent published writings include “One’s Public, Fifty or One Hundred Years Later: Reconsidering Marcel Duchamp Studies in Japan”(Bijutsu Techo, February 2019).
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photo: Ayaka Yamamoto, “organ”, 2019
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kozuemori · 2 years
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5月になるのを待ちきれなかったように花開いたうちの1番花です。(写真4枚目)Jude the Obscure(日陰者ジュード)という名前に全然ふさわしくない、トロピカルフルーツと白ワインをミックスしたような芳醇な香りと、アプリコット色のグラデーションが魅力のイングリッシュ・ローズです。曼荼羅模様のような花弁を見つめていると、「全ての中に神は存在する」という言葉がすんなり理解できると思いませんか?
ウパニシャッドの中にこんな言葉があります。
『すべての行為、すべての愛欲、すべての香、すべての味、このすべてを包括しているものは、言い表せることなく気づかない。これが心の中の我がアートマンであり、これがブラフマンである。この世を去って後、われはこれと合一すべしと思う者には、実に疑いあることなし。』
ヴェーダには、ブラフマン(宇宙を支配する原理、大宇宙)とアートマン(個人を支配する原理、小宇宙)が同一であることを知ることは、究極の悟りとされている梵我一如(ぼんがいちにょ)と呼ばれる思想があります。梵がブラフマン、我がアートマンを示します。
本来アートマン(आत्मन्)は「息」を意味する言葉ですから、日本人が自分の子どもの事を息子や娘(息女?)と書くのも神の子という意味があるのではないか、と私は勝手に推測しています。
サンクスクリット語で「Tat Tvam Asi(タットバマシ)」という言葉があります。和訳すると「あなたは、それです」。つまり「あなたは、神です」という意味です。
古代マヤの人々の挨拶の言葉にも「In Lak’ech(インラケチ)」というのがあります。「私は、もう1人のあなたです」、つまり「あなたもまた、神の一部です」という意味になります。
5月開講のマントラ入門では、サンスクリット語のアルファベットの発音から丁寧に解説を加えながら、簡単なマントラからじっくりと学んでいただけます。美しい音霊に触れ、ご自身の魂の琴線を奏でてみませんか?夏学期クラスのお申し込みはこちらからどうぞ。通信のオールレベルクラスへの締め切りは5月10日です。
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木曜日に開催したドロップイン・ナイトでは、過去世のサイキックアートをお届けしました。(読みやすいように編集しています。)
森:(描きながら)この過去生は、インドのサリーを着ていますよ。
女性:はい。
森:インドにご興味はあります?
女性:興味はあります。実は習い事の先生がインドが好きでインドによく行っていて、声のヨガとかインドチックな歌を歌ったりします。
森:マントラとかですか?
女性;マントラとか、そういう、独特の発声をするんです。
森:じゃあ、もろ、インドですね。(笑)
女性:(笑)
森:マントラとか、やられるといいですよ。
女性:そうですね、マントラとか、アイイスでも習ってすごく興味があって、そこから古代の言葉を今年ぐらいから始めたいと思って…。
森:あ、素晴らしい!それは開堂先生のクラスですか?
女性:以前、大阪で開催されたワークショップの中で習いました。
森:前世がインド人だって感じたことはあります?
女性:昔、バリ島に新婚旅行で行った時、すごく惹かれて…。
森:ヒンドゥー教ですもんね。
女性:はい。バリの舞踏にもすごく惹かれました。
森:今日いらした方全員、融和性があるんですよね。過去世で会っているとか…今回の趣旨とは違うんですが。(笑)この方は、まずすごく忙しい。ご自身は忙しくしていたい方なんですかね。休息とか眠りをハッキリ意識されるといいのかな、という感じがします。
女性:眠ります、と言う意識ですか。
森:はい、眠る時間、休む時間にメリハリをつける。
女性:なるほど、はい。
森:うたた寝しちゃったりとか、お昼寝しちゃったりとかって、あります?
女性:はい、仕事でお客さんが帰られた後に、鉛筆持ったまま寝てしまうことがあります。(笑)
森:(笑)そうですか。まとめて寝られた方がいいのかな。うたた寝とか二度寝も体に悪いわけじゃないんですよ。いいことも勿論あるんですけど、体が欲していることだから。なんて言ったらいいのかな、こう、リズミカルな規則正しい生活のことをこの過去生がおっしゃっているんですよ。で、あと断捨離、棚とか、机の上の物とかをスッキリさせているところを見せてくださっているんですけど。
女性:本がすごくたくさんあって、断捨離をして整理したいなという思いがあるのと、プライベートでは洋服を断捨離したつもりなんですけど、まだ(たくさん)置いてあって、それがすごく苦痛になっています。
森:今よりもスリム化することをおっしゃっていますね。
女性:机の上に置いてあるものも、意識して整理するようにしています。
森:そのほうが考え方もスッキリするし、必要な本がより明確になるのかもしれません。今回ご参加いただいたお3人とも、女性の過去生を見せてくださっていて、肌のトーンも皆似ていて、もしかすると…類魂という可能性もあるかも知れませんね!(ポートレートを見せながら)こんな感じの方ですね。
女性:へぇ…どうもありがとうございます。
※ このデモンストレーションで描いたポートレートは3枚目の写真です
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今後のイベント・ワークショプ:お申し込みはアイイスへどうぞ
6月1日(水)19:30〜21:00 Prime90 アートで読み解くスピリチュアリズム〜ケルト神話編〜
7月6日(水)19:30〜21:00 Prime90   LONDON・ミディアムシップ修行物語」
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keijukita · 7 years
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遠い未来へ向け。
「茶碗の中の宇宙 樂家一子相伝の芸術」のレセプションへ ギャラリー冬青の伊藤計一さんとともに国立近代美術館へ伺ってきた。 16世紀後半より15代続く樂家という楽焼茶碗を創る一族の四百数十年分の展示である。 祖長次郎はかの千利休の侘茶と深いつながりがあり、今回展示された茶碗はその千利休が使ったであろうものということだ。 楽焼茶碗は、唐物と言われる茶碗が重宝された時代に一石を投じ、その後日本陶芸史における重要な役割を果たという。 現代から見れば骨董品であるが、当時は前衛的な作品であったという。 15代脈々とその歴史を受けつぎながらもその前衛的である姿勢は崩さずに常に今という時代を反映し、変化を持って続いてきたのだという。 その15代までの多くの作品と今という時代に生きる15代吉左衞門氏の作品とがともに博物館ではなく、近代美術館に並び展示されることということが素晴らしいではないか?と話をされていた。 そして、それ以上に400年という時代の重さをその中に内包し、今という現代にまでその所有者の思いを繋いできたのだという。 子孫である当代であってもおいそれと作品を貸していただきたいとは言い難いほどであったという。 そうなのだ、目の前にある茶碗は忘れられ、どこかにしまわれていたものでもない、何かの拍子に土に埋まってしまっていたものが発掘されたものでもない。 その魅力は創られた当時から一時として人の興味を失うことなく、長いもので400年以上という時間の間大切に受け継がれてきたのだ。 考えてみたら、なんと重いものだと。 それほど陶芸に明るくはないのだが、その話を聞いて身震いをするほどであった。 そういえば、最近近い感覚になったことがあったのを思い出した。 京都での卒業展示搬入の前日に、朝イチから撮影を行い、バックアップとってオフライン編集してギャラリー冬青へ向かった。
目的は先輩作家である権平さんの展示を拝見するためだ。 3月はなんだか忙しく、ご本人がいらっしゃるタイミングで作品を観れるチャンスがもしかしたらないかもしれないとの心配があるからだった。 権平さんは日本の女性(和装など)を撮っていらっしゃる作家さんで、先日高橋社長とともにすばらしい写真集も創られている(参照:「権平太一氏写真集「凛々と」」)。 ヨーロッパを中心に海外でも高い評価を受けていてとても素晴らしい作品を創る尊敬すべき先輩作家さんだ。 僕は人物のポートレートの写真は自分が撮らないこと、特に女性の写真は部屋に飾るときに少し考えてしまうことから得意ではない分野のひとつである。 そんな僕であっても、このプリントはすばらしいと思える作品であったため今回1枚作品を購入させていただくことにした。 何故買おうと思ったのか?その後のこの数日間自分の中で言葉にならないのでしばらく考えていた。 京都の町中のちいさな川は柳が掛かっていて、手すりがない。 これを何だか「風情」だと思うのは僕が日本人だからだろう。 どんなに現代的な人間であると思っていでもその「美」に対する意識の根本は日本人であるという背景に根付いているようだ。 当然海外の人もそれを美しいと思うのだろうが、それとは違った感覚だろう。 権平さんはご自身の手でその日本的な美しさをイメージの中に作り出している。 考え抜かれ、準備しつくされ、計算しつくされた上で創られたそのイメージは既に日本の伝統的な美しさを持って生み出されている。 今という同時代に生きる僕であってもそこに風情を感じるのだ。 そして、作家である権平さんは今日見てきた樂家が数百年という間作品を残してきたように、おそらくご自身の作品も果てしなく長い未来へ繋ごうという覚悟をしていると思える。 たしかスペインであったと思うがどこかの町の公的な施設に収蔵されている。 もしかしたら、その作品も数百年後に僕が買った作品とともに日本での大規模な没後400年祭に貸し出されることになるかもしれない。 冗談ではなく、その時のプリントの美しさのこともおそらくすでに考え、準備している。 僕には普段はやさしく気さくな先輩であるが、実はそんなスケールの作家さんであると思っている。 国立近代美術館での400年後の展示が楽しみである。 負けてはいられないぞ! 権平 太一 凛々と @ギャラリー冬青 2017年3月10(金) - 4月1日(土) 11:00~19:00 水曜のみ21時まで開廊 日曜・月曜・祝日(23日) 休廊
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magazinex-blog · 7 years
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『君の名は。』監督・新海誠がゲーム業界を駆け抜けた日々 ~『イースII』リメイクOPから『ほしのこえ』誕生まで 【ゲーム語りの基礎教養:特別回】 2017年4月3日 09:00  国内の興行収入が247億円を突破し、海外でも「世界で最も稼いだ日本映画」になるなど、記録を次々と塗り替えている劇場アニメ『君の名は。』。 突き抜けるような空のタッチが印象的な『君の名は。』のキービジュアル。 (画像は「君の名は。」特報2より)  だが、その新海誠監督は、元はといえばゲームソフトを開発・販売する日本ファルコム【※】に勤務していた。彼の「商業作品」の初期作が同社の『英雄伝説 ガガーブトリロジー』や『Ys II ETERNAL』のOPムービーだったことを知っている人は今、どれだけいるだろうか。ゲーム本体の開発にこそ関わっていないが、広い意味では新海誠は「ゲーム業界出身」といえるのだ。 ※ 日本ファルコム 新海誠が1996-2001年の間勤めていた、ゲームソフトを開発・販売する日本の企業。代表作は「ドラゴンスレイヤー」シリーズ、「イース」シリーズ、「英雄伝説」シリーズ。 『君の名は。』の原点は『Ys II ETERNAL』にあり  前回の連載でも述べたが、「イース」シリーズはアクションRPGに限らず、ゲームを「感動の時代へ」導いた画期的な存在だった。感動とは、「感情を揺り動かす」ということだ。まさに「イース」シリーズによって、ゲームは「反射神経を研ぎすませて強敵を倒す」だとか「難解な謎を解く」だとかといったハードルを乗り越える行為だけでなく、「宿命のライバルとの対決」や「ヒロインと心通わせる」、あるいは「美しいグラフィックや音楽に心打たれる」などの、多様な感動を内包することになったのだ。  「イース」シリーズには、そんな大きな潮流をたった一つで象徴している映像がある。それが、『イースII』オープニングの振り向きリリア【※1】だ。 ※1 振り向きリリア……「感動の時代へ」がキャッチコピーの『イースII』のオープニングで作中に登場する女性キャラクター・リリアが振り向いてプレイヤーを見つめるシーンのこと。畳みかけるような、テンポのよいアニメーションは当時まだ珍しく、多くのゲーマーを魅了した。詳細は、前回の記事を参照のこと。 (画像は『イースI&IIクロニクルズ』のリリア。公式サイトより。 まだ表現力が乏しかった当時のPCで、ディスプレイの中の小さなウィンドウで作り込まれたサウンドとドット絵が、ユーザーの心をつかんで放さなかった。そんな「感動の時代」の志ごと受け取ってリメイクされたゲームが、2000年発売の『Ys II ETERNAL』だった。  そのオープニング映像を手がけた人物こそが、当時日本ファルコムに在籍していた新海誠その人に他ならない。  映像を見てみれば、そこには「壮大な空の風景」がある。「浮遊大陸イース」と「地上」という「2つの離れた場所」がある。そう、ここには「新海アニメ」にお馴染みの要素があり、すでに17年前から「新海誠は新海誠だった」ことが確認できる。なにしろ『君の名は。』における、あの彗星に見られるような「高速移動する物体(=浮遊大陸に打ち上げられたアドル)」までもあるのだ。  『イースII』が踏み出した一歩は、世界に羽ばたいた『君の名は。』へと繋がっている――。  同時に、この映像は商業ゲームのゲーム内ムービーや、パソコンゲームに近い文化圏にあった自主制作CGアニメーションが積み重ねてきた歴史の延長線上にある。新海誠アニメは「ゲームの遺伝子を持つ作品群」の中に位置づけられる存在だ。また、それは同時代のゲームを含むデジタル映像と強い繋がりを持っていた。本稿では、そんな今や見えにくくなってしまった「新海誠とゲーム」の繋がりを、「ゲーム史」の縦軸と「同時代カルチャー」の横軸から検証していこう。 X68000と自主制作CGアニメの夜明け  時は2016年8月。公開されて間もない『君の名は。』に、とあるパソコンが映っているとの未確認情報に、ネットの一角はざわめいた。そのパソコンの名は「X68000」――ツイートしたのは製造元であるシャープの公式アカウントだ。そして同日、新海誠監督自ら「ありますよ」と画面キャプチャ付きのレスポンスが返されると、そのざわめきは歓声に変わった……。 SHARP シャープ株式会社 ✔@SHARP_JP 映画「君の名は」でこれが映るシーンありとの未確認情報 9:52 - 2016年8月29日 45 45件の返信   2,787 2,787件のリツイート   2,116 いいね2,116件 Twitter広告の情報とプライバシー  X68000は、シャープが1987年に発売したホビーパソコンだ。  『ドラゴンクエストII』と同じ年に登場したこのハードは、お披露目のときに『グラディウス』の移植をアーケードゲームそのままに動かし、当時のユーザーの度肝を抜いた。まだ家庭用ゲーム機と業務用ゲーム機には「天と地の差」があった時代のこと。個人用としては破格のパワーを持ちながら、その価格も専用モニタと合わせて実売40万円程度というのは、実に型破りな価格設定だった。  まさに「究極のゲームパソコン」と言うべきハードの登場。それは、やがて個人や少人数のアマチュアによるCGアニメーション、すなわち「自主制作CGA」の大きなうねりを作り出すことになる。  1985年、大阪大学コンピュータクラブ(OUCC)や京大マイコンクラブ(KMC)等の共同プロジェクトとして発足したのが、PROJECT TEAM DoGA(以下、DoGA)。彼らはその後、パーソナルCGアニメの歴史に大きな影響を及ぼしていく。  その2年後の1987年、DoGAはX68000シリーズ上で動作する「DoGA CGA System」【※1】を開発する。これはCGアニメを制作するだけでなく、鑑賞することもできるシステムだった。まだ「PC上で動画をリアルタイムで再生する」など夢のまた夢だった頃に、CGアニメの「創り手(クリエイター)」と「受け手(ユーザー)」を同時に作り出したわけである。  そして1989年、さらにDoGAは自主制作CGアニメを募るコンペ「CGアニメコンテスト」【※2】の第一回を開催。インターネットが普及するはるか前、文字ベースのパソコン通信しかなかった当時、全国の有志達はパソコン雑誌を通じて細々と繋がっていた。���れが一つのコンテストに出品し、アイディアを出し合うことでコミュニティが形成され、小さな流れは大きなうねりに合流していった。 ※1 DoGA CGA System CGアニメによって、個人で制作し個人で発信していく新しいデジタル映像文化を広める活動をしている団体。「CGアニメコンテスト」を主催するなど若手作家の育成に努めている。 ※2 CGアニメコンテスト 関西を中心としCGアニメによる個人ベースの新しいデジタル映像文化を広めるために結成された非営利団体「プロジェクトチームDoGA」が運営する、コンピューターを使用した自主制作映像作品を募るコンペティション。1989年から毎年開催されており、国内の類似するコンテストの中でも歴史は最も古い。  その後も、CGアニメコンテストは毎年行われ、数々の才能を輩出した。『イヴの時間』や『パトレイバーREBOOT』等で知られる吉浦康裕監督も、第15回に入賞した(『水のコトバ』)、コンテスト出身者だ。そして2000年、第12回のグランプリに輝いたのが『彼女と彼女の猫』【※】。日本ファルコムに勤務していた新海が、1999年初夏から初冬にかけて完全にひとりで作り上げた5分弱の短編アニメだった。 ※彼女と彼女の猫……2000年に公開された、新海誠による自主制作短編アニメーション作品、およびそれを原作とした日本の短編テレビアニメ。同氏はこれを1999年の初夏から初冬にかけて、日本ファルコムに勤めながら制作し、第12回CGアニメコンテストグランプリ受賞した。 (画像はリメイク版。『彼女と彼女の猫』公式サイトより)  と言っても、本作の制作環境はMacintosh+After Effects【※1】やLightWave【※2】等のソフトウェアであり、X68000やDoGAのシステムが直接用いられたわけではない。だが、この2つが無ければ、ハードルが高かったCGアニメーションを自主制作する動きが広まることは遅れていた。いや、CGコミュニティさえも小さな界隈にまとまっていたかもしれない。 ※1 After Effects Adobeの映像編集ソフト。 ※2 LightWave 米NewTek社が開発及び販売を行う3DCGソフトウェア。 新海誠は18禁ゲームムービー出身ではない  それから新海誠が『彼女と彼女の猫』で自主制作アニメに手応えを覚えて、『ほしのこえ』を制作・公開劇場公開するまでには、2年の時間が流れている。  この2000年~2002年という時期は、ゲーム業界では、ちょうど『AIR』(2000年・ビジュアルアーツ)『CLANNAD』(2004年・ビジュアルアーツ)の二大“泣きゲー”や、TYPE-MOON(当時は同人サークル)の処女作と言える同人ゲーム『月姫』【※】(2000年)が出た頃に当たる。 ※月姫……2000年に同人サークルTYPE-MOONが製作した同人ビジュアルノベル『月姫』。シナリオは奈須きのこ、イラストは武内崇。 (画像は「月箱」より)  ここに挙げた3本のゲームはいずれも「ビジュアルノベル」というジャンルの作品だ。言わばディスプレイ上で読む小説とでも言うべきもので、文字で書かれたテキストに絵や動画、効果音や選択肢(時にはないこともある)などを加えた「読むゲーム」だ。すでに1970年代前半からあった「文字だけを読み、選択肢を選ぶ」テキストアドベンチャーの進化系でもある。  時系列を言うと、まずチュンソフトが90年代前半に『弟切草』や『かまいたちの夜』で確立した「サウンドノベル」シリーズがある。その後に、リーフ(株式会社アクアプラスのゲームブランド)が1996年に『雫』、『痕』と続き、そして彼らの3作目の『To Heart』が大ヒット。その「リーフビジュアルノベルシリーズ」(3作の総称)の成功に、『AIR』【※】などKey(株式会社ビジュアルアーツのゲームブランド)ブームも重なり、ビジュアルノベルはジャンル名として定着した。 ※AIR……Keyが制作した2作目の恋愛アドベンチャーゲーム、およびそれを原作としたアニメやコミックなどの作品群。。シナリオが感動に特化した“泣きゲー”として多くの支持を集めた。画像は『AIR(全年齢対象版)』。 (画像はAmazonより)  ちなみに一時期、新海監督が18禁ゲーム用ムービーの“出身”であるかのように伝えるメディアもあった。確かにminoriの『BITTERSWEET FOOLS』や『Wind -a breath of heart-』のムービーを手掛けたことが有名だが、前者の制作は日本ファルコム退職後の『彼女と彼女の猫』のあと、後者は『ほしのこえ』に続く形で公開されており、時系列的にも「18禁ゲームムービー出身」は単なる事実誤認だ。  だが、新海アニメとビジュアルノベルに、もっと深いレベルで共通点があるのも事実だ。それは、「背景」の比重が大きいことである。  新海アニメでは、家の中、雲の立ち昇る青空、電柱のある風景、電車とホーム、都会と地方……���ど人物以上に「背景」がものを言う。壮大な世界の中での人のちっぽけさ、踏切越しにすれ違う心、過去の思い出や同じ空の下のあの人への想いを託された空――というぐあいだ。だが、これは情感を盛り上げる効果に留まらず、「動画が少なくて済む」という、労力を節約する効果もある。今や新海アニメの特徴として挙げられるこの特徴は、実は自主制作アニメを「ひとりで作る」上で、とても重要な工夫から来たものだ。   新海アニメとビジュアルノベルに共通する、美しい背景。 (画像は新海誠 監督作品集&新作特報、Keyの公式サイトより)  では、ビジュアルノベルはどうか。  このジャンルは、大ざっぱに言えば、「キャラクターの立ち絵+背景」を中心にして成り立っているフォーマットである。「ある人物が」×「ある場所で」の数だけシチュエーションがあり、テキストで綴られるセリフや芝居を支える。学校が舞台なら教室、音楽室や図書室、グラウンドや体育館や校門前など、背景が心情に彩りを与えドラマを豊かにする。  この「背景」は、そう資金力に恵まれていないPCゲームメーカーにとって「採算」の要でもある。ゲームの「物量」については、(ライターは大変だが)テキストにお任せする。その代わり、ビジュアルの部分は同じ場面を全キャラにつき流用することでコストも省き、逆にキャラも増やしやすくする。こうした低コスト構造は、インターネット上でフリーで配布されたスクリプトエンジン【※】と相まって、中小ブランドの参入を促し、2000年代前半にジャンルを活性化させていく。  こういう「背景」の省エネ効果の工夫が、新海アニメとビジュアルノベルに共通しているのは、まさに当時の技術的条件に、両者が共通するものがあったからに他ならない。 ※スクリプトエンジン ノベルゲームに特化したゲームエンジン。『月姫』や『ひぐらしのなく頃に』に用いられたNScripterなどがある。 実写背景の『センチメンタルグラフティ』との同時代性  もう一つ、今や新海誠のアニメの大事な部分を形作る「背景」の特徴に、この90年代後半~2000年代初頭の技術的な条件が反映されていることを指摘しよう。それは新海アニメの背景の一貫して変わらない強み――「緻密な美しさ」だ。 新海誠のポートレート。 (画像は新海誠作品ポータルサイトより)  そもそも新海誠は本職の絵描き出身ではない。そんな彼が、なぜ劇場アニメとしては25分の短さとは言え、『ほしのこえ』を「ひとりで作れた」のか?  それは、デジタルツールの登場によるところが大きい。90年代後半はのQV-10【※】(1994・CASIO)をはじめ、デジカメが急速に普及し始めた時期だった。まだ解像度はそう高くなく、アナログ写真に取って代わるには遠い性能だったが、それでも現実の風景がコンピュータ上で加工できる「素材」になった意義は小さくはない。 ※QV-10……カシオ計算機が1994年に発売した、民生用デジタルカメラのはしり。初めて液晶画面が備わるなど、性能と価格(65000円)の折り合いがよく、ここを契機に一般にデジタルカメラの存在が認知され始める。 (画像:編集部撮影)  『彼女と彼女の猫』の制作も、出発点は「デジカメとPC」だったという。新海は部屋の様子を写真に撮り、それをIllustrator(イラストレーター)などで加工した。手描きの絵やコンテもデータに取り込み、全てがPC上で統合されたという。そうしたデジタルの手触りが、手描きアニメを見慣れた目には「新しい」と映った。逆に「見るからにCG」、「デジタルの異世界」といったCGアニメの中で、新海の描き出した「生活感のある部屋」や「当たり前の日常」は、異彩を放っていた。  この、現実の空間感覚を映像に取り入れるスタイルは、90年代当時の「レイアウトシステム」の広がりともシンクロしている。先に画面構成(レイアウト)を決めてスタッフの意思統一をしてから原画で要所要所の絵を制作、これを元に細かい動き=動画を描くーーというやり方は宮崎駿が『アルプスの少女ハイジ』で確立したとされる。だが、実際に普及したのは押井守監督が『機動警察パトレイバー2 the Movie』で使用された実際の資料を解説した教本『Methods 押井守・「パトレイバー2」演出ノート』【※】が出てからのことだ。 ※Methods 押井守・「パトレイバー2」演出ノート……1994年刊行。『機動警察パトレイバー2 the Movie』について監督である押井守が自ら項目ごとにキャプションを加えた演出ノート。画角の違いによる印象や情報量の変化などを細部まで解説しており、アニメ映像制作を学ぶ人にとっては教科書的存在となっている。 (画像は復刊ドットコムより)  そして同時期、やはりゲームの背景にも「写真」を取り入れる動きが、一部にあった。『美少女花札紀行 みちのく秘湯恋物語』や「北へ。」シリーズ、『センチメンタルグラフティ』など、名所や地方を移動する「旅ゲーム」がそれに当たる。  レイアウト作りには写真がつきものだ。矛盾のないアニメ空間を作るには、「現実」以上に参考になるものはない。新海誠は商業アニメがどう作られているか知らず、手探りするうち「写真」を重要なパーツにした。だが、それはたまたま「アニメの最先端」に位置していた。 写真にコンピューターグラフィックを重ねる手法が話題となった『美少女花札紀行 みちのく秘湯恋物語 Kai』。 (画像はAmazonより)  この中では『美少女花札紀行 みちのく秘湯恋物語』が、1997年と最も登場が早く「元祖」と言われるが、いずれも背景には実写取り込みが使われている。アニメのデジタルツーリズム、すなわち「聖地巡礼」の原点的な位置づけとしては、しばしば2002年の『おねがい☆ティーチャー』【※】が挙げられるが、実写データが流用しやすいゲームは、(アニメでは実写の違和感が出やすい)「現実の風景を活用する」ことについて、実は少し先を行っていたのだ。  こうした「旅ゲーム」は、先述した「立ち絵+背景+テキスト(メッセージウィンドウ)」から成るビジュアルノベルの延長上にある。実写取り込みによる背景はキャラクターを立たせてドラマを盛り上げる一方で、それ自体が「旅情」を作る主役でもある。 ※おねがい☆ティーチャー 2002年に放送された日本のテレビアニメ作品、およびそれを原作とする漫画・小説。舞台である長野県大町市の木崎湖周辺は、ファンが作品に縁のある場所を訪れる「聖地巡礼」の対象とされている。 『北へ。Photo Memories』(1999年・ハドソン) (画像はAmazonより)  北海道観光協会とタイアップした『北へ。』シリーズは、まさに「北海道」が主人公だった。高校2年の少年が夏休みの14日間を利用して、観光スポットを巡りながら8人の女の子達と関わる。「北海道の地下鉄には網棚がない」などウンチク会話で好感度がなぜか上がるシステムはスゴかったが、街並みや自然の美しさは十分伝わってきた。『センチメンタルグラフティ』はさらに豪快で、北海道から九州まで全国各地にいる女の子に会いに行き、恋愛イベントを発生させるゲームだ。要するに学校の各教室やデートスポットが日本各地に散らばった『ときめきメモリアル』という体裁だが、その結果「バイトで旅費を稼いで日本を飛び回り、カネがなければ野宿する」という超人的な主人公が生まれた。こちらの背景は実写とアニメ絵を馴染ませる加工がほぼかけられてなかったので、良くいえばワイルドな味わいだ。  新海誠監督が自主制作アニメを作れたことの根底には、こうしたことを可能にしたデジタルツールの進化があった。当時の新海誠は、確かに「ゲームの発想とツール」の最先端に位置していたのだし、それがアニメ一般に波及していく入り口の場所にも立っていたのだ。 『ほしのこえ』とともに消えたゲームの影響  そして、2002年に『ほしのこえ』【※】が公開される。 ※ほしのこえ……2002年公開の新海誠監督の短編アニメーション映画。同氏初の初の劇場公開作品にあたる。キャッチコピーは、「私たちは、たぶん、宇宙と地上にひきさかれる恋人の、最初の世代だ。」 (画像は新海誠 監督作品集&新作特報より)  約25分とは言えまとまった長さがあり、内容もハイクォリティ。そんなアニメを「ひとりで作った」ということで話題になり、新海誠監督が自主制作CGアニメの“内輪”を超えて注目を集めた、事実上のメジャーデビュー作だ。  だが本作は同時に、「ゲームとバックグラウンドを共有する新海作品」としては、おそらく最後の存在となる。その後の新海アニメは、「普通のアニメ」の作り方に近づき、デジタルツールに重きを置くゲームとは遠ざかっていった。  そんなふうになった理由は『ほしのこえ』の成功そのものが、新海が「ひとりで作る」必要���ない環境を用意してしまったからだ。なにしろ、このアニメは社会的名声だけではなく、DVDが発売から1週間で1万枚、最終的には国内で6万8千枚(2005年時点)の売上という商業的大成功にも恵まれた。  その結果、CGアニメ制作ツールという「省力化の道具」や、諸々のゲームと地続きの存在に頼らなくてもいい環境が、新海の前に用意された。次回作『雲のむこう、約束の場所』【※】で新海は、スタッフの増員と充実をはかる。「手描き」できる人手が多ければ、背景も「加工」ではなく一から描ける比率が高くなるし、手描きで2Dの人間キャラも止め絵ではなく「動かせる」ようになる。そして私見を言うと、この時期から新海は映像作家としては、その強みである「遠距離恋愛と美しい背景」に特化していき、ゲームの影響はむしろ意図的に排除したようにさえも思えるのだ。 ※雲のむこう、約束の場所……2004年に公開された、新海誠監督の長編アニメーション映画。前作『ほしのこえ』以上の作画のクオリティーと巧みな演出、音楽とのマッチングが大いに評価され、この作品で第59回毎日映画コンクールアニメーション映画賞を、宮崎駿監督の『ハウルの動く城』などを抑え受賞。 (画像は新海誠 監督作品集&新作特報より) ロボットゲームCGの遺伝子  では、そんな2002年の『ほしのこえ』はどんな作品だったのだろうか?  大まかに言って、本作は美しい背景をバックにした情感ある人間ドラマ部分と、スピーディーで迫力ある宇宙ロボットバトルの3DCG部分という、2つのパートに分けられる。その振れ幅が世界の広さとなり、前作『彼女と彼女の猫』よりもスケールが大きな印象を与えている。  この点について「新海誠が好きなものを詰め込んだ」という見方も間違いではないかも知れない。だが、この異質な二つの組み合わせによる物語のスケールアップは、おそらく意図的なものだ。というのも、元々『彼女と彼女の猫』に続く新作は、前作に繋がる地味な話になる予定だったからだ。こうなったのは、DoGA代表のかまたゆたか氏がNGを出した【※1】結果だったという。その理由は、より多くのユーザーに訴求するよう派手にする狙いもあったろうし、当時登場していた少年少女の関係が世界の運命に直結する「セカイ系」【※2】作品のブームに乗る形でもあっただろう。 ※1 DoGA代表のかまたゆたか氏がNGを出した 参考文献:Sぱらインターネット分室の『ほしのこえ』のエントリーより ※2 セカイ系 主人公とそのごく近くの人間だけで世界の行く末が決定づけられる物語の類型。主人公と周囲の人物との関係性が世界の危機に直結する、精神世界の描写に重点が置かれるなどの特徴がある。1995年の『新世紀エヴァンゲリオン』が大きな影響を与えた。2000年代前半の代表的な作品として挙げられるのは『ほしのこえ』(2002年)のほか、高橋しんのマンガ『最終兵器彼女』(1999~2001年)、秋山瑞人の小説『イリヤの空、UFOの夏』(2001~2003年)など。  だが、同時にロボットバトルの3DCGパートは、やはり新海が「ひとりで作る」ために必須でもあった。人間ドラマのパートだけを取り出すと、ほぼ止め絵かスライドになり「絵が動いてない」箇所が多く、ちょっと「アニメ」とは言いにくい。本職のアニメーターでもなく、手描きで「動画」を大量に描いた経験もない新海が、時間が限られた中でここに労力を割くのは合理的でもなかったろう。  それに対して、ロボットの3DCGパートは、コンピュータ+3DCGソフトウェアで「動き」が自動生成できる。モデリングしたデータを配置し、アニメーションの動きを設定する手間はかかるが、「動かす」実作業はコンピュータに任せられる。2Dの手描きキャラと3DCGのロボットバトルという構成は、「ひとりで作る」ための実にクレバーな設計だったのだ。 画面左が『ほしのこえ』で登場するロボットのビジュアル。 (画像は新海誠 監督作品集&新作特報より)  では、そのロボットアニメパートは、どんなものだったのか。  ここについては『新世紀エヴァンゲリオン』や『トップをねらえ!』、『機動戦艦ナデシコ』などのアニメの影響ばかりが指摘されやすいが、技術的にもビジュアル的にもゲームの系譜にも連なっている。実際、宇宙での艦隊戦や、敵侵攻予想ルートなどのブリーフィング図は、『スターブレード』【※1】や『ギャラクシアン3』【※】などナムコの3DCGゲームを思わせないだろうか?  これはただの印象論ではない。そもそも90年代半ば〜後半にかけてのロボットや、宇宙×メカのCGムービーは、ゲームの強い影響下にあったのである。例えば、『ほしのこえ』の3DCGはLightWaveというソフトウェアで作られているが、このソフトの存在を日本に知らしめたのは、『PROJECT-WIVERN』【※3】という3DCGムービーだった。これは今もCGの第一線で活躍している青山敏之氏と北田清延氏が3年かけて、卒業制作として作った映像である。 ※1 スターブレード ナムコ(当時)が1991年にリリースしたアーケード用シューティングゲーム。自動進行する自機に乗り込み、ポリゴンで描かれた壮大な宇宙戦闘に臨む。出撃前には、プレイヤーに目的を説明するとともに気分を盛り上げるブリーフィングのシークエンスがある。 ※2 ギャラクシアン3 巨大なスクリーンで複数人が同時に挑むナムコ(当時)のアーケード用シューティング。プレイヤーはブリーフィングを受けたのち、『スターブレード』と同様に壮大な宇宙戦闘に挑む。映像に座席が連動して動くなどの大仕掛けだったため、巨大なイベントなどでの体験が中心となり、1990年に大阪で催された国際花と緑の博覧会に出展された28人乗りのものが最初となる。ほかには1990年代に期間限定で東京・二子玉川に存在したナムコのアミューズメントパーク、ワンダーエッグなどでプレイできたほか、スポットやゲームセンター用にサイジングされた16人乗り、6人乗りのものなどがある。 ※3 PROJECT-WIVERN CGクリエイターの青山敏之氏と北田清延氏が1997年に共同制作した3DCGアニメーション。PROJECT TEAM DoGA主催の第9回CGアニメコンテストで映像賞を受賞し、VHSの自主販売では3000本以上という異例の売り上げを記録した。 『スターブレード』(画像左)と『ギャラクシアン3』(画像右) (画像はWii Virtual Console Arcade STARBLADE、PlayStation/ギャラクシアン3-Galaxian3-より)  96年のCGアニメコンテストで予告編が公開されたとき、この作品はその圧倒的なクォリティでCGアニメーション界に大きな衝撃を与えた。そして翌年には15分のフルバージョンが公開。WAVY AWARD’97最優秀賞とCGアニメコンテスト入賞に輝き、1人……ではないが「2人でできた」ことが驚かれた。 (画像はPROJECT-WIVERNの公式サイトよりダウンロードできるティザームービーのスクリーンショット)  この『PROJECT-WIVERN』には、確かに「宇宙要塞に突入すると、閉まるシャッター」などの『スター・ウォーズ』へのオマージュも伺えるが、やはりそれ以上にゲームの影響が大きい。「光の輝きに向かってワープ」や「解き放たれるホーミングレーザー」などにはMEGA-CD版『シルフィード』【※1】、硬質なメカデザインには『ヴェイグス』【※2】などPC-8801【※3】時代のゲームアーツ作品の影響……があることは、そもそもご本人達も認めている。無論、それらのゲームも先行した映画なりゲームなりの影響下にあったはずだが、この作品はまさに「映像→ドット絵→3DCG」という、日本ならではのメカCGアニメの進化が詰まった映像だった。  当時の状況を思えば、そこに使われたLightWaveを使い、5年後に『ほしのこえ』を送り出した新海監督が『PROJECT-WIVERN』の影響を受けなかったとは、さすがに考えにくい。実際に動きのタイミングにも近いものを感じる。それに『彼女と彼女の猫』と地続きではない、「宇宙とロボットへの飛躍」を促したDoGAかまた氏の脳裏にも、CGアニメに大きなインパクトをもたらした同作の再来を期するところはあったのではなかろうか。 ※1 シルフィード ゲームアーツによる3Dポリゴンシューティング。オリジナルはPC-88シリーズで1986年に、文中のMEGA-CD版は1993年に発売された。『スター・ウォーズ』のタイトルロールのような、画面の奥に向かって左右が細る画面構成が特徴。宇宙空間を切り裂くシャープな自機のシルバーカラーと、当時のポリゴンの描画具合がマッチ。さらに画面構成もあいまってゲームにスピード感をもたらしていた。 ※2 ヴェイグス 日本のゲームソフトウェア制作会社「ゲームアーツ」が1988年12月16日に発売した、サイドビュータイプの強制横スクロールアクションシューティングゲーム。当時のパソコンゲームとしては極端に大きなキャラクターが画面上を激しく動き回る点で画期的とされた。 ※PC-8801 1981年から日本電気(当時)が販売していた、パーソナルコンピューター、及びその周辺機器のシリーズ名。1980年代当時パソコン御三家の筆頭格と謳われたシリーズの一つである。 世界に誇るアニメ監督になった新海誠  新海のアニメに直接的なゲームからの影響を言う根拠は乏しい。だが、ここまで書いてきたように、新海アニメが同じ土壌の中から生まれ育ち、「ゲームが積み上げた歴史の上」にあることは疑いない。  冒頭に話を戻すと、実はX68000の発売当時、筆者は(もっぱら『スペースハリアー』ばかり遊ぶダメ部員だったが)京大マイコンクラブ(KMC)に在籍しており、発売されて間もない頃にDoGAにX68000が数台導入された光景を、現場で見た。まだコンピュータが非力で一枚絵のCGを描くことも大変だった頃、コンピュータで絵を「動かしたい」気運だけは草の根で高まっていた時代――そんなCGへの情熱を「実際に動かす」と結びつけた始まりこそが、個人向けワークステーションとしてのX68000だった。  新海が過去のPC歴を語ることはほとんどないが、大学時代にX68000に触れたことは十分ありうるだろう。いや、そもそも『彼女と彼女の猫』のグランプリ受賞がきっかけで、新海はCGアニメ制作に専念することを決意し、日本ファルコムを退社したのだ。『君の名は。』でのX68000出演は、そんな「恩人」へのせめてもの手向けだったのではなかったか。 新海誠 @shinkaimakoto ありますよ。ほら。 https://twitter.com/SHARP_JP/status/770061618239639552 … 13:05 - 2016年8月29日  また、もう一つ思うこともある。  より広いユーザーを楽しませ、最大多数の最大幸��をめざす新海監督は、公開当時も賛否両論に分かれたロボット3DCGアニメをその後、事実上封印した。だが、元々は『とらドラ!』ほか青春恋愛ものでブレイクした長井龍雪監督が、ロボットアニメ『機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ』に進出した例もある(以前『アイドルマスター XENOGLOSSIA』を手がけたので“再進出”かもしれないが)。 「世界に誇るアニメ監督」になった今こそ、「“ゲームの遺伝子”を全開にした新海ロボットアニメが観たい!」――そう願うのは筆者だけではないはずだ。 ※日本最古のCG制作会社に関する記述を削除いたしました(4月3日18:30追記) プロフィール 多根 清史 ゲームやアニメを中心に活躍するフリーライター。著書に『教養としてのゲーム史』、共著に『超ファミコン』など。 Twitter:@bigburn(写真は筑摩書房ウェブサイトより)
http://news.denfaminicogamer.jp/column03/shinkaimakoto
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tkmt-soichi · 7 years
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「狂気、障害、そして《Untitled》シリーズ」①
Frederick Grossの著作 Diane Arbus’s 1960s: auguries of experience (Minneapolis: University of Minnesota Press, 2012)所収の”Madness, Disability, and the ”Untitled ” Series ”というダイアン・アーバスの《Untitled》を主題にした論考を邦訳してみる。
註は割愛したものもある。文意を通りやすくするために意訳したところがあるから差し引いて読んでほしい。引用文に邦訳があるときはそれに拠ったが、一部拠っていないところがある。 原文中の ” ” や斜体字、大文字は、強調の意味の場合は太字に、邦訳されているものに限り書名・演劇・映画の題名の場合は『』、論文・雑誌の題名等の場合は「」、芸術作品・展示会の題名の場合《》で表記した。
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《Untitled》シリーズとして知られるアーバスの最後の作品は、知的障害者のイメージを扱っている。1969年11/28のアラン・アーバスへの手紙で、彼女はこの作品の重要性を「最終的に私が探し求めていたもの」と表現している。では彼女が探していたものとはなにか?なぜアーバスはこのテーマの虜になったのか?以前言及したように、アーバスの《Untitled》シリーズは知的障害者や精神異常者の写真というカテゴリに結びついている。同じカテゴリという点で、アーバスはアウグスト・ザンダーに目を向けていたかもしれない―彼は1930年の《精神病棟の収容者〔Inmate of an Asylum〕》など正面から繊細に精神病の写真を撮った。アヴェドンの『Nothing Personal』も同じく精神病の写真の先駆けだが、一要素として扱ったに過ぎないようである。
その手紙でアーバスは、自身の持つ知的障害者のイメージを表現した写真集をつくりたいという望みを記している。「知的障害の女性の写真集については本当に���くわくしているの。年内には仕上げられそうよ…(写真の枚数の)多い〔multiplicity〕のが大事な被写体なんて初めてのことだわ。つまり、単に彼女らの最高の一枚を模索してるだけじゃないってこと。たくさん撮りたいの…書き物もしなきゃ。わたし彼女たちのことがほんとに大好きなんですもの。」しかし、アーバスがその写真集に着手することはなかった。それらのイメージが世に出たのはずっと後で、『Untitled』と題された写真集が出版された1995年だった。*₁1969年から翌年にかけてアーバスは知的障害者施設を訪れ、踊りやお祭り、ピクニック、ハロウィーンのパレードなどを撮影した。彼女は被写体に関する文献を読み漁った。彼女の本棚にはStigma: Notes on the Management of Spoiled Identity〔アーヴィング・ゴッフマン著・石黒毅訳『スティグマの社会学―烙印を押されたアイデンティティ』せりか書房、1970年〕やSanity, Madness and the Family: Families of Schizophrenics〔R.D.レイン、A.エスターソン著・笠原嘉、辻和子訳『狂気と家族』みすず書房、1972年〕、The Divided Self: An Existential Study in Sanity and Madness〔R.D.レイン著・天野衛訳『引き裂かれた自己:狂気の現象学』筑摩書房、2017年〕、Autobiography of a Schizophrenic Girl〔マルグリート・セシュエー著・村上仁、平野恵訳『分裂病の少女の手記』みすず書房、1971年〕などの本が並んでいた。*₂とはいえ結局、彼女がこのシリーズを出版したかった意図は不明のままである。アーバスがどのイメージを写真集に組み込もうとしていたか、どんなタイトルをつけるのか、なにを書くのか、知る術はない。彼女が撮影した知的障害者の何人かについてのメモが残るのみである。ただ、彼女の作品の根幹に形式的変化が表現されていることは確かである。アランへの手紙のなかでアーバスが言う「彼女らの最高の一枚を模索してるだけじゃない」とは、一枚ないし二枚の際立った写真を意味していて、さらに彼女は「たくさん撮りたいの」と言う。この作品は、出版された五枚によって定着したような、彼女の主たる手法―すなわちフォトストーリーというフォーマット―において現れたものとするよりは、おびただしい写真の枚数、つまり「多さ〔multiplicity〕」という側面から読まれるべきだろう。
この形式についての転換で殊にラジカルで、彼女がずっと持ちつづけたタイポロジーについての批評性の一つを構成するものとは、これらの琴線に触れる儚い写真が、写真を観る者のフリークの顔つきに関する狂気のスティグマを脱臼させていると言われているということだろう。ザンダー《精神病棟の収容者〔Inmate of an Asylum〕》とリチャード・アヴェドン《精神病院患者〔Patients in a Mental Institution〕》(1962年に撮影され、『Nothing Personal』の最後に載っている。)は、アーバスの《Untitled》シリーズが世に出るための下地となった。ここの連関を分析することで、狂気表象の歴史、それが1960年代にどう展開したかを端的に追うことになるだろう。
ポートレートにおける狂気の表象には、テオドール・ジェリコの連作ポートレート《偏執狂〔Monomania〕》やゴヤのボルドーでの狂人のスケッチから、ヒュー・ウェルチ・ダイアモンドやドゥシェンヌ・ド・ブーローニュなどの一九世紀の写真家、アウグスト・ザンダーなど今日に至るまで長い歴史がある。*₃ほとんどの場合、写真は出版物において例証という役割を持った。アントナン・アルトーは、写真が狂気についての真実主義的な記録とする解釈に疑義を呈し、芸術と文学を並行したアヴァンギャルド的実践によって認められた先駆けの一人である。アルトーは、狂気を構成する精神状態について、感情の表現/理解に伴う主観の自覚を導入することで、人相学の定説を否定し、狂気の表象を明らかにした。アーバスは間違いなくアルトーを意識していた。というのも彼女自身、Antonin Artaud: Anthology (1965)の第二版を所有していたのである。
かような文脈において、フーコー『狂気の歴史』(1961)のいくつかの議論は、60年代の狂気という語の用法についての議論に突出した理論モデルを提供する。1965年英語版初版のこの本は1955-65年の文学のトレンドだった。ジョセフ・ヘラー『キャッチ=22』(1955)ケン・キージー『カッコーの巣の上で』(1962)カート・ヴォネガット『スローターハウス5』(1969)などは、制度化された狂気という概念に疑義を呈した最も有名なものだろう。狂人という語の新たな用法によって、皮肉やブラックユーモアが香る不条理主義が流行する。患者は正気なものとして、病棟側は狂人として描かれるのだ。この語用法の根底には、社会制度や政策のひどい欠陥、すなわち、苦しみや人間性、そして個人といったものへの無関心がある。心理学者でさえその仲間なのだ。精神分析医T.S.サズは『精神医学の神話』で、精神病という概念は「科学的に無価値で社会的に実害がある」と論じる。R.D.レインは『狂気と家族』や『引き裂かれた自己:狂気の現象学』で、精神分裂病患者はしばしば社会的恐怖に抗うように狂人を演じることがあると主張する。
さらに、この時代を象徴するのはペーター・ヴァイスの戯曲『マルキ・ド・サドの演出のもとにシャラントン精神病院患者たちによって演じられたジャン=ポール・マラーの迫害と暗殺』(1965)である。この戯曲は批評家の注目を集め、雑誌「パーティザン・レビュー」にスーザン・ソンタグの論評が掲載された。ソンタグは劇中の狂気と演劇性の結合について記したうえで、ハプニングと呼ばれる類の演劇や芸術にアルトーが大きな影響を与えたと論じた。アルトーは患者の革命への欲求を鎮静化するために電気ショック療法を使う精神病院を、社会的抑圧の装置と考えた。精神病院を非難した「精神異常と黒魔術〔Madness and Black Magic〕」*ⅰと冠するテクストでアルトーは、そこを黒魔術的な拷問所という風に表現する。人間の身体は、彼の著作やドローイングの中心にあった。アルトーの研究者スティーヴン・バーバーによると、アルトーは身体について、「野蛮で柔軟性に富むが、いまだ完結しえないと同時に欠陥だらけの器官だと考えた。その身体は、悪意ある収奪(社会と家族と宗教による)を経験しているために硬直して不毛であり、決定的に全体性を欠き、あらゆる表現性を奪われるまでに抑圧されている。アルトーはその生涯をかけて、この無用の身体を、自己変革を可能にする無限の能力を秘めた狂乱的舞踏の新たな身体へと粉砕してしまうための、概念やイメージを生み出そうとしたのである。」*₁₁彼は狂気に対する近年の制度を強く非難したが、傷ついた身体の再生の可能性に再び救いを見出す。後述するように、アーバスの《Untitled》シリーズも身体に救いを見ていた。
フーコーは60年代の身体と国家の衝突についての理論に強い発言力を持っていた。アラン・セクーラは、フーコーの著作、主に『監獄の誕生』に依って、監視や権力が個人を識別するニーズという側面から写真を分析し歴史化した。*₁₂わたしは『狂気の歴史』を理論モデルとして採用して、(アーバスの全作品を分析するための理論モデルではなく)ただ《Untitled》シリーズにのみ関係するテーマの類似を肉付けすることで、理論の枠組みを架橋するときの落とし穴を回避する。わたしはこのアプローチで、社会に「狂人」というレッテルを張られた個人とアーバスの写真とが理論的にパラレルであること描き出すのみならず、思想的領野を共有し、同意見を持つプロジェクトの分析に寄与することを試みるのである。
フーコーにとっても、アーバスにとっても(わたしはそう信じている)、身体はある種のキメラ―フーコー曰く「さまざまな出来事の刻みこまれる平面(言語はそれらをうち出し、観念はそれらを分解させる)」―として描かれる。身体は「自我の解体の場(その自我にひとは実質的な統一性という妄想をおしつけようとする)」であり「不断に風化状態にある量塊」*₁₃である。この「刻み込まれた面〔inscribed surface〕」という身体の捉えかたは「意図と効果のずれ」を表現したいというアーバスの欲求に共鳴する。身体は文化の力―私たちはこれに常に自覚的というわけではない―によって不断に変形させられる。フーコーの言う身体は、競合する社会の力と個人の力の間でアイデンティティが骨折している在りようを示している。身体は時間と言語によって移り風化していくシニフィアンなのだ。「意図と効果のずれ」を撮りたいという欲求の中で、明らかにアーバスの写真は「実質的な統一性という妄想〔the illusion of a substantial unity〕」或いは、障害のせいで見られたい(=意図)自分のまま写らない(=効果)アーバスの被写体の無力さに焦点を当てている。まるでフーコーのテクストはアーバスの写真の「効果」の側面に向かって影を落としているかのようだ。エリザベス・グローツの言葉を借りるならば、「身体とは…身体的であると同時に心理的なものだ。身体が自然と文化の要、または閾であるという理解は、遺伝学(解剖学/生理学)的に身体を扱う限界を明らかにする。」フーコーにとっても、おそらくアーバスにとっても、狂気にはフーコーの言う「接近できない原初の純粋さ〔inaccessible primitive purity〕」という点で見る価値があった。概して狂人は野性/自由/原始の意識をそなえ、そしてそれは観る者に有益だった。
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ところで、どうしてアーバスやアヴェドンは精神病院に赴き、患者を撮影したのだろう。彼らはそこで何を求めていたのだろう。ここで今やおなじみのアーバスの姿勢に立ち戻らねばならない。その姿勢とは、アーバスが「フリーク」と「常人」のどちらも同じフォーマットで撮影することで、中流階級の白人プロテスタントという伝統的な表象とその他という見えない境界線を取り除き、自己認識の崩壊を描こうというものである。『狂気の歴史』のなかでフーコーは、狂人/障害者/変質者(=フリーク)のように他者という烙印を押す制度的慣習を批評する。写真における狂気の他者性は、被写体の人相によって特徴づけられ、精神病患者を体系化するために施設が用いたマグショットと全く同じやり方で分類された。アーバスに比べると、フーコーの方法論は、市民社会において欠陥のある主体と分類される方法の正統性に疑義を呈し、主体というものを文化人類学的に歴史化する。「この別種の狂気の傾向について歴史を書く必要があるのである。―その傾向によって、人間は隣人を監禁する最高の権威たる理性のはたらきを通して伝達し、非狂気の無情な言語を介して認知しあう。しかも、理性のこの陰謀が、心理の支配のなかで決定的に完了してしまわないうちに、抒情中心の抗議の声によって息を吹きかえさないうちに、この陰謀の契機を発見しなおす必要がある。」*₁₇ドキュメンタリー写真というものの背後に隠れているイデオロギー装置に不信を抱き始めた写真家たちのように、フーコーは実験心理学や臨床精神医学などの領域の出現や実証的科学の歴史に見る狂気について考究した。
『狂気の歴史』では16~19世紀における所謂「狂気のアルケオロジー」が考究されているが、彼はそれを20世紀に接続する。「時間的に連続し断絶しているこの狂気、世界を一夜の輪〔the ring of a single night〕に歪めてしまうこの狂気は、今日のそれとはかなり異質なものであり、ニーチェやアルトーが受け取れたような、この古典主義時代の非理性のかすかな囁きは伝わらない。」フーコーは狂気の歴史の「零度」に立ち戻る必要性を説く。「狂気の歴史の零度を、つまり狂気が未分化の経験であり、分割じたいによってまだ分割されていないである、あの零度を、歴史のなかに発見しなおす必要がある。狂気のあの「別種の傾向」は、そのはたらきのいたるところで、〈理性〉と〈狂気〉を、これからさき相互に無関係で、あらゆる交換をこばみ、いわば互いに死せるものと化しているのであって、こうした「別種の傾向」を、その歪みの根源にまでさかのぼって描き出す必要があるのである。」*₁₈この本の設定する時間枠にかかわらず、読者が、哲学的歴史主義の新たな型として、また、フランスの崇高な美徳である自由の現代における寓話として、この本を受け入れるだろうことをフーコーは承知していた。フーコーは狂気への今日のまなざしが限定的決定論によって導かれたものとして以下のように描写する。「今ではわれわれは狂気を、―自由のすべての形式が漸次でなくなっていく―一つの決定論への落下として知覚するのが習慣となってしまっている。もはや狂気はわれわれに、決定論のもつ当然な規則性、その諸原因の連鎖、その諸形式の論理的な運動しかしめさない。実際、狂気が現代人をおびやかすのは、狂気が動物および物の暗い世界への回帰、それらの束縛された自由への回帰であるということのほかにはない。」*₂₁
フーコーの見立てでは、狂気のイメージは二つの形式とる。ひとつは人間のある種の「動物性」―19世紀のカリカチュアにおいて流行した擬人観に接続する―としてであり、もうひとつは主体の側の倫理的に劣った精神の証拠としてである。このような動物性への科学的証拠が不幸で神聖な結果をもたらしたとフーコーは論じる。「同じこの古典主義時代には実証的な動物学を組みたてようとする努力が認められるが、にもかかわらず、狂気の自然的空間として知覚されている動物性の、こうした強迫観念は、たえず古典主義時代の地獄にはびこりつづけたのである。ほかならぬ、この強迫観念が想像上の要素となって、そこから生まれたのが、監禁のあらゆる実際面とその野蛮さのきわめて異様な側面だった。」*₂₂19世紀、精神や身体、魂の退行によるものと信じられた狂人のイメージは、気質や精神的内面の欠陥の証拠として写真が機能することによって助長された。
「精神の感受性という考え方は、かつて古典主義時代の狂気経験にまったく特有ではなかった、罪過や倫理的制裁や当然な罰という一つの内容をそっくり、この狂気に加える。この感受性は、こうしたすべての新しい価値で非理性に重みをあたえる。すなわち、盲目を、狂気のすべての現われの可能条件とするかわりに、狂気を、倫理的な罪の心理的結果として表わす。かつて盲目とされていた事柄がやがて無意識になり、かつての錯誤とされていた事柄が、やがて罪となる。そして、狂気は存在せざるものの逆説的な現われという考え方が、倫理上の悪に対する当然な懲罰になるだろう。要するに、さまざまな具体的原因の円環にはじまって妄想の超越状態にいたる、古典主義時代の狂気構造を組み立てていた鉛直なあの階層序列のすべてが、今や動揺するようになり、いずれ心理学と倫理学とによってともに占められる領域の平面に分散されるようになろう。しかも、心理学と倫理学がこの領域を相争って、相手を否認する日もそう遠くない。〔こうして〕十九世紀の《科学的な精神医学》が実現可能になった。この精神医学が、その起源を見出すのは、これらの《神経病》とこれらの《ヒステリー》においてであるが、それらは、この精神医学にたいして皮肉な役目をはたすようになろう。」*₂₃
フーコーによる狂気の再定義は、修辞学的な機能として、当時の読者に狂気という語の多価性への考えとその文化的位置の変遷を接続させる。狂気は、人相学的徳目による「罪過や倫理的制裁という新たな内容」を含む、イメージや分類法と関係するようになる。無論、フーコーは「古典主義時代」や19世紀について論じたといえるが、読者がフロイト派の精神分析批評の台頭を頭に浮かべるだろうことを彼自身想定している。精神分析学者が普通であるとか合理的であると考える中心には、一般市民の価値観や倫理観が据えられていることは周知の事実である。こうして、1960年代、雑誌「ライフ」や「ルック」を購読するような流されやすい中流階級の白人のもつイメージのレパートリーに当てはまらない人たちは、他者―もっと言えば「非理性」―として扱われた。フリークをフリークたらしめる身体的特性は、フリークと反対の、正常という考えが存する場合にのみ、そのフリーク性を発揮できる。『狂気の歴史』に並行して、フーコーの師であるジョルジュ・カンギレムは『正常と病理』のなかで、医学史において「正常」という状態を構築する、そんな制度的論理に真っ向から挑んだ。
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『狂気の歴史』や『正常と病理』と比べると、アーバスの作品は、写真における(芸術写真やスチール写真、報道写真、ドキュメンタリー写真などの)異なる有力な喩法の対話である。そしてそれは、実証主義者や人相学の盲点をむき出しにさせ、ポートレート写真を「未分化の経験」にする写真の「零度」を求めて、その歴史の深みを押し広げ、正統性を批評するだろう。だが、こうして喩法を開陳することが精神病の表象に対してどんな意味をもつのだろうか。本質を言えば、それはその歴史的な分類法に疑問を投げかけることである。『言葉と物』でフーコーは、公の文化の庇護のもとにある人間の分類法を説明することで、『狂気の歴史』で含みを持たせた箇所に答えを与えている。フーコーはいわゆる知のアルケオロジー―生物学の知、文献学の知、経済学の知―に着手し、それらを17世紀~19世紀という時期を経た同時代の哲学的言説と接続しようとした。この目的のためにフーコーは、彼の言葉で言う「知の実証的無意識〔the positive unconscious of knowledge〕」、すなわち「その妥当性を疑ったり、その科学的性質を減じたりせずに、科学者の意識をすり抜けながら科学的言説の一部を為す基準」を明かすことに関心を寄せる。フーコーは科学の心の闇を明かそうと意図したわけではない。というよりも、カンギレムのように、文化的な死角に媒介されている科学理論の形成原理を明らかにしようとしたのだ。『言葉と物』において重要であり、そしてこれまで見てきたように、フーコーとアーバスの作品群とを結びつけるものとは、「古典主義時代における博物学や経済学、哲学のいたるところにちりばめられた科学的な〈表象〉や〈産物〉のすべてに普遍的な基盤、或いはアルケオロジーの機構」を定めることに関心があったということである。ただしフーコーの大きな狙いは、論証的実践がどう科学の言説について歴史的分析に関わっているかという点にある一方、アーバスのそれは「常人」と「その他」の境界を消すところにある。
フーコーは『言葉と物』の序文で、その狙いを、アーバスもいたく敬愛していたボルヘス*ⅱに結び付けて語っている。そこで彼は、非線状になっていて一見奇妙な分類法、西洋の実証科学の土壌にある我々からは完全に取り去られてしまっただろう分類法によって動物が分類される、ボルヘスの「シナのある百科事典」に言及する。これは「つまり、この寓話により、まったく異った思考のエクゾチックな魅力として我々に指ししめされるのは、われわれの思考の限界、調和のとれたその他の分類体系を思考するにあたっての、まぎれもない不可能性にほかならない」*₃₀ことをわれわれに理解させる分類法なのである。
* ⅰ『アルトー後期集成Ⅰ』291~299頁、河出書房新社、2007年。
*ⅱちなみに、アーバスはボルヘスのポートレートも撮影している。Diane Arbus: Magazine Works (New York: Apature, 1992) 118,119頁。
【原註】
*₁Diane Arbus, Untitled (New York: Apature,1995)
*₂ロサンゼルス・カウンティ美術館(LACMA)の写真部門のキュレーターであるロバート・ソビーズゼック氏が、2004年2/29~3/31の期間、LACMAで催された《Diane Arbus: Revelations》という写真展���展示されたアーバス所蔵の337冊もの本のリストの記録を親切にも提供してくれた。これは私の研究にとって天の恵みだった。展示会場でこれらの本は、ぼんやり照らし出されたうえに、観客の頭上にある本棚に置かれ、たくさんある本のタイトルは見えないようになっていた。私は過去にアーバスの財産権所有者に全所蔵本を見たいというリクエストを断られていた。展示された337冊もの本は、アーバスの財産権所有者が全図書から選んだものだった。
*₃ アーバスはオルダス・ハクスリーのThe Complete Etching of Goya (New York: Crown, 1943)の複写を所有していた。19世紀の精神異常者の描写に関する素晴らしい議論については、サンダー・ギルマンのSeeing the Insane (Lincoln: University of Nebraska Press, 1982)を見よ。
*₁₁ S.バーバー著、内野儀訳『アントナン・アルトー伝:打撃と破砕』10頁、白水社、1996年。
*₁₂ 論集The Contest of Meaning (Cambridge, Mass.:MIT Press, 1977)所収のアラン・セクーラの論考”The Body and the Archive ”を見よ。
*₁₃ 「ニーチェ・系譜学・歴史」(『フーコー思考集成Ⅳ』20頁、筑摩書房、1999年。)
*₁₇ M.フーコー著、田村俶訳『狂気の歴史―古典主義時代における―』7頁、新潮社、1975年。
*₁₈『狂気の歴史―古典主義時代における―』7頁。
*₂₁『狂気の歴史―古典主義時代における―』181頁。
*₂₂ 『狂気の歴史―古典主義時代における―』175頁。
*₂₃ 『狂気の歴史―古典主義時代における―』316‐317頁。
*₃₀ M.フーコー著、渡辺一民・佐々木明訳『言葉と物―人文科学の考古学』13頁、新潮社、1974年。
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kozuemori · 4 years
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暑い日が続いていますが、お元気ですか?私は相変わらず、最低限の外出(買い物や郵便局、銀行等へ行く用事)を3日に1回程する以外は、ほとんど家に閉じこもりの生活をしています。2月下旬からの自粛生活で得たものは、たくさんの新しいレシピとお腹まわりの贅肉…失ったものは、今まで当たり前だった思い込みや常識、体力、といったところでしょうか。幸いにも近所に魅力的なレストランや商業施設がない事とこの暑さで、割と難なくステイホームを継続できています。
夏のバカンスがわりにと、世界中の観光地や美術館、博物館をネットを使って訪れています。有名な観光地にはライブカメラが設置されていたりします。最近のお気に入りは、ロンドンにあるアビーロード・スタジオの入り口にあるライブカメラ。観光客の様子や、朝昼晩の様子の違い、行き交うロンドンバスやロンドンタクシーを眺めているだけで、ちょっとした観光気分を味わえます。
先週お伝えした『幽霊屋敷』も楽しそうですが、今日ニュースで見つけた『湖底の幽霊村』も素敵です。ですが、そもそも全ての建造物、モニュメントはスピリットのエネルギーが関与している『幽霊物件』です。私たちのそばにはスピリット・ガイド(指導霊)をはじめ、常に見守ってくれているたくさんのスピリット達が存在するからです。かつて西新宿にあったアイイス本部も、そんな幽霊物件の1つでした。中には入り口のドアのベルを鳴らしたり、カウンターにあるスイングドアを揺らしたりして、わざわざ訪問を知らせてくれるスピリットもいました。
私は小さい頃から理由もなくキリスト教会に惹かれ、小学生の頃は親に頼んで日曜学校に参加したり、高校生になってからは放課後、教会で牧師先生とマンツーマンで聖書の勉強をしたりしていました。どちらも人生の中で迷いが多い時期だったと思います。そこがスピリットに守られ、私にとって安心できる空間だったのを憶えています。街中にもそういうところは随所にあり、お気に入りのレストラン(いつも外に優しそうな男性のスピリットがニコニコして立っています)だったり、美術館(特に丸の内にある三菱一号館美術館、貴婦人のような女性のスピリットがいます)だったり、公園だったりしますが、今、私がストレスなく自粛生活を送れているのは、今や自宅が最大限にスピリットに守られている空間になっているからです。カウンセリングやデモを自宅から行うようになって、益々それを実感しています。コロナ禍でパワースポットや神社仏閣巡りができなくなっても、スピリットは自宅にやって来てくれていますので、心配しなくても大丈夫ですよ😄
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kozuemori · 4 years
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落ち葉のカーペットの上を歩くのが楽しい季節になりました。(写真1枚目)気がつけば、もう今年もあと2週間を残すのみとなりました。今年の漢字が先日発表になりましたね、『令』だそうです。私のマックは令和を一発変換できないし、私自身もこの元号にまだ慣れません。今年って2019年だったよね、と時々確かめている位、今年もすごい早さで過ぎて行きました。駅などでも忘年会シーズンだからなのか、酔っ払った人をいつもより多く見かけるようになりました。全くの下戸なのですが、私もいくつか忘年会に顔を出して、親しい人達と今年最後の交流をする予定です。
私にとって、今年の漢字はなんといっても『三』。ミディアムになって三年経ったからです。ちなみに、ヌメロロジーでも3です。クラスではいつも瞑想の始まりに、三脚かイーゼルのイメージで体を3点で安定して支えるように誘導しているのですが、秋学期のクラスで指導霊からインスピレーションを受けた『デルポイの神託』を誘導瞑想のテーマにしようと色々調べていたら、ピュティアと呼ばれる巫女が、アポロン神殿の中で三脚椅子に座って神託を受けていたと知り、ちょっと嬉しかったです。最近もずっと15日と16日に開催するワークショップの調べ物をしていたのですが、それ以来数字の魅力にハマっています。超右脳派なので、今までずっと数字は苦手だし避けてきたのですが、ここにきて数字の持つ神秘性とスピリチュアルな側面に俄然興味を持ち始めています。次のワークショップはこのテーマで行こうかな?今回のワークショップでは、忌数である13についての誤解にも触れたいと思っています。もう13日の金曜日(昨日もそうでしたね)は怖くない!
写真2枚目は最近のサイキックアートのセッションから。2名とも指導霊のポートレートです。
春学期の『サイキックアート with スピリット』の日時が変更になりました。ご参加を検討中の方は、お手数ですがご確認いただけますよう、どうぞよろしくお願いします。
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ライトワーカーズ掲載の日時が変更になっていますので、ご注意ください 
水曜日:13:00~15:00  参加費:15,000円(全5回)
1/15、1/29、2/12、2/26、3/11
講師:森 梢
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