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#板垣征四郎
fa-cat · 4 months
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「世界のオザワ」 指揮者の小澤征爾さんが死去
海外の名だたるオーケストラで活躍し、「世界のオザワ」と評された指揮者の小澤征爾さんが、今月6日都内の自宅で心不全のため亡くなりました。 88歳でした。
小澤さんは1935年に旧満州、いまの中国東北部で生まれました。 小学生の時初めてピアノに触れてレッスンを始め、その後、桐朋学園の音楽科に入学し、国内で数多くの指揮者を育てていた齋藤秀雄さんから本格的に指揮を学びました。 さらに世界的な名指揮者のカラヤンやバーンスタインに師事し、アメリカのボストン交響楽団や世界屈指の歌劇場として知られるオーストリアのウィーン国立歌劇場で音楽監督を務めるなど、世界的に有名な数々のオーケストラで長年活躍し、「世界のオザワ」と評されました。 小澤さんは、今月6日都内の自宅で心不全のため亡くなったということです。 88歳でした。
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historysandwich · 2 years
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【常威近代史】(七百零三回) 最後一場冇理由要買熱門 😂1935年9月17號,正當 #張國燾(1897-1979)要脫離中共中央另起爐灶之際,紅軍攻佔岷山天險臘子口,打開咗北上進入陝甘地區嘅通道,25000里長征終於搵到終點。老實講,紅軍今次嘅長征,其實都係摸著石頭過河,遊擊戰略嘅重點,就係強大嘅運動性,你估我唔到我去邊?其實我自己都未知我去邊?真正嘅無從捉摸,係自己都未捉摸到自己嘅動向,要贏人,要先贏自己;要呃人,首先要呃自己。明就明,唔明都冇辦法。今個月10號,中共中央率領紅1方面軍嘅第1、第3軍團從班佑地區繼續北上,9月16號擊潰甘南魯大昌師第6團,進逼川、甘邊界要道臘子口。臘子口由國軍3個團據守,紅軍正面強攻,未能奏效。當晚,派出2個連攀登峽谷東側嘅懸崖峭壁,迂回到國軍側翼,今日破曉時份,紅軍先行部隊第4團同正面發起攻擊,配合側面攻勢,一舉擊潰國軍守兵,攻佔臘子口。 😜9月18號,秦皇島海關巡邏船被日本憲兵強行解除武裝,真係你鍾意點就點。同日,國民政府委派 #王正廷(1882-1961)為中華民國紅十字會總會會長。9月19號,蔣介石通電玉 #馮玉祥,邀請佢參加國民黨四屆六中全會,馮玉祥就提出抗日主張。今日,財政部決定明年元旦開徵所得稅。9月20號,中國法學會喺南京成立;9月22號,英國財政經濟顧問 #李滋羅斯(1887-1968)作為經濟特使,到中華民國訪問,幫助國民政府進行幣制大改革,之前已經提過佢,李滋羅斯係一個重量級經濟學家,亦都曾經插手調停中日紛爭,可惜佢並無成功到。 😔9月24號,天津日駐屯軍司令多田召集日本記者聚餐,即席派發《日本對華之基礎觀念》小冊子,公開鼓吹「#華北自治」方案。喺本小冊子之內,宣稱日本應該「在兩國之間建立一個共存共榮的樂園,以推行日本帝國的對華政策」,而「華北正是上述對華政策最易並最速實施的地區」。多田又講「為把國民黨黨部及蔣介石政權從華北排除出去而使用武力,也是迫不得已的」,「當前亟需的,是對組織華北五省聯合自治體給予指導」。自《#何梅協定》及《#秦土協定》簽訂之後,日本分離華北嘅活動亦以其他方式同步進行,6月28號,民國關公 #吳佩孚(1874-1939)舊部 #白堅武(1880-1937)受天津日本浪人組織嘅「北支青年同盟會」收買,組織「正義自治軍」,自稱為總司令,率領烏合之眾300幾人襲擊豐臺車站,並且乘坐鐵甲車駛近北平永定門,向城內發炮,聲言要組織「華北國」,不過之後就被北平守軍擊潰。除咗白堅武之外,日本人仲策劃華北各省嘅當權人物脫離南京中央政府。#土肥原賢二(1883-1948)、#板垣征四郎(1885-1948)等人及其幕僚,對北平嘅 #宋哲元(1885-1940)、濟南嘅 #韓復榘(1890-1938)、太原嘅 #閻錫山(1883-1960)同保定嘅 #商震(1888-1978)等軍閥進行種種遊說工作,幸好上述四位,到咗最後都冇出賣中國,其中宋哲元曾經被土肥原說服過,逐漸向組織新政治組織方面靠攏,不過我諗其實佢都係唔鍾意蔣介石啫,或者對某啲軍閥嚟講,日本人同蔣介石兩個選擇,都未必係一個好嘅選擇,真係橫又死掂又死,睇下點樣死得靚仔啲啫! 😳當其時,偽滿洲國已經站穩陣腳,日本亦開始大規模殖民東北,如果華北地區再脫離南京中央政府,以不同政治形式獨立,以今日嘅中國版圖計算,蔣Sir係會失去半壁江山(整個北方),此消彼長,日本人十年八載後南下食埋你南京國民政府都似乎係必然結果!因此蔣Sir嘅選擇最後只有一個,就係同日本進行一場幾強弱懸殊嘅全面戰爭。情況可以比喻為,一日跑十場馬,買win跑第二,買place跑第四,輸到第九場,最後一場冇理由要買熱門,一定買隻大冷門博翻本,賭過錢嘅人會明白我講乜,橫死掂死,不如搏一鋪喇。不過歷史太喜歡同人開玩笑,大家都知道,蔣Sir係搏中咗99倍大冷門,最後打贏日本仔,不過去櫃位收錢嘅係中共啫。 🤔9月26號,日本人限定北平民國學院學生10日內遷出校舍;同日,閻石山喺山西推行「#土地村有」政策。9月27號,行政院下令,河北外交事件都歸該省政府處理;今日歐亞航��公司西安至成都線正式開航;9月30號,天津教育��規定,中小學課本中,凡有礙中日邦交嘅文字一律要刪除。今個月,日本喺天津設立貿易館,關東軍副參謀長板垣征四郎亦曾經到訪内蒙,同德王、索王見面,圖謀建立蒙古國;沙面美商美孚(美孚新村個美孚)、亞細亞等煤油公司,擅自喺市內建築油倉,設立契稅機關,令到廣東土產煤油業奄奄一息。今個月,舞蹈家 #吳曉邦(1906-1995)喺上海舉行個人舞蹈表演,係中國第一個個人舞蹈作品晚會,吳曉邦先後三次去日本學習芭蕾舞同現代舞,期望將西方舞蹈嘅精華注入中國古老嘅舞蹈傳統之中,剛柔兼備,作品《傀儡》、《送葬》、《浦江之夜》等彌漫住一種苦難同悲憫嘅氣氛,係國寶級大師級人馬。今個月,由王君綱編譯嘅《避孕新術》開始徵訂。 #常威💀 #蔣介石平反系列 #中日戰爭 #民國歷史 #佛經抄寫員 ❤【常威近代史】第十二部《籠裏雞大作反》 ▶https://play.google.com/store/books/details?id=heJ1EAAAQBAJ 🙏最新上架!請大家多多捧場! https://www.instagram.com/p/CgJ2BfNPFNe/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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locomotive51 · 5 years
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殉国七士廟 三ヶ根山の山頂近くにある、東京裁判判決に従い死刑を執行された7名の軍人・政治家を祀っている廟で、7人の遺骨は実際に碑石の下に埋まっているらしい...🙏🇯🇵 #殉国七士廟 #殉国七士墓 #萬世太平 #萬世太平碑 #東京裁判 #東條英機 #土肥原賢二 #板垣征四郎 #木村兵太郎 #松井石根 #武藤章 #広田弘毅 #三ヶ根山 #西尾市 #風景 #grave #yasukuni #tomb #sanganesan #nishio #scenery (殉国七士廟) https://www.instagram.com/p/B3EEjQPAJh7/?igshid=2y5zuxhb3m5g
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gtokio · 2 years
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主なる登場人物
「新しき土」原節子/「殉職警官」笠智衆/「新京不倫」小暮実千代/「越境将軍」林銑十郎/「童貞将軍」植田謙吉/「満蒙放棄論者」石橋湛山/「朝日新聞の関東軍司令官」武内文彬/「満洲の印象」小林秀雄/「満洲紀行」島木健作/「満洲事変の謀略者」板垣征四郎/「満洲経営の事務総長」小磯国昭/「植民地の大番頭」駒井徳三/「関東軍と喧嘩した官史」大達茂雄/「少年大陸浪人」内村剛介/「小澤征爾の母」小澤さくら/「焦土外交」内田康哉/「阿片専売」難波経一/「獄中十八年」古海忠之
Amazon.co.jp - 満洲国グランドホテル 平山周吉・著
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innocent-3 · 4 years
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「獅子身中の虫鈴木貞一」より
…皇道派の連中は概して陰性な者が多かった。真崎(甚三郎)、柳川(平助)、小畑(敏四郎)、鈴木(率道)、秦(真次)などは蛇の肌に触るようなつめたい感じがした。荒木(貞夫)は秘書官と酒のみ競争するような茶目気があり、比較的陽気なところがあった。青年将校の信望を集めたのも、一つはそのせいであったと思われる。…
 皇道派の変わり種として、いま一人の珍しい人物を紹介しておこう。鈴木貞一である。第二十二期だから鈴木率道と同期だ。支那駐在から任満ちて参謀本部に戻ったが、肝心の支那班で「彼は支那班に置くような者ではない。もっとしかるべきところに」といって収容しない。他の部課でも「ああ、こちらにはいらないよ」とみな敬して遠ざける。頭脳もよし手腕力量ともに凡庸ではないが、どういうものか同期生から好まれない。同期生といえば同胞よりも親しい。血をすすりあった盟友だ。それから排斥されるんだから、よほどの大器に違いない。それを聞いた軍事課長の永田鉄山が「それじゃ、俺のところにもらおう」という。軍事課の者が「ゲテモノ食いもたいがいにしなさい。彼を抱えこんでは課長が食われますよ」と散々忠告したが「まさか」といって採った。
 駑馬も騎手が良ければ駛る。いわんや鈴木は千里の馬だ。騎手は古今の名手と来ているから、正に天馬天をいくごとく見えた。「鈴木はいいだろう」と永田は鼻をうごめかしていた。鈴木も永田の知遇に感じたか、御奉公第一と勤めているうち世の中が変わって来た。荒木が陸相としてその一党を率いて乗り込んで来た。永田と意気投合していた小磯(国昭)は軍務局長から次官に棚上げされた。荒木の髭の塵を払わねば立身出世かなわぬ雲行になった。永田は新軍務局長山岡重厚が素人だから、従来より一倍骨を折ってこれを補佐しているが、山岡は事務などはどうでもよい。永田の言動を厳重監視するのが役目である。
 永田は人からはゲテモノ食いなど冷やかされるが、どんな者でも一芸一能に秀でている者ならばりっぱに使いこなす。鈴木など好例であるが、その他の軍事課員も一癖も二癖もある。腕に覚えのある侍どもだ。大臣がかわろうが局長が動こうが、俺は俺の道をいくという構えでジタバタする者はない。それぐらいの面魂は持っているのである。ところで、某日、筆者が山岡を訪れた。その頃はすっかり仲よしになっていた。
「おい、珍しい物を見せようか」
 山岡は応接室から自室に引き返して持って来たのは汚い鞘に納められた短刀である。
「拝見します」
 と抜いてみるとさびついている。銘はない。むろん筆者にはわからない。「何ですか」ときくと「俺にもよくわからないが、関もので兼房あたりではないかと思う。物は大したものではないが、まあ窓をあけるぐらいの価値はあろう」と卓子の上に載せ、「問題はこれを持って来た者だ。誰と思う」わかりませんと答えると「貞一だよ、鈴木貞一だよ」と言って笑う。「彼が北京とか天津とかの古物屋のガラクタの中にあったのを発見して、掘出物ではなかろうかといって持って来たんだ。彼は平素刀などひねくりまわしているのかい」と愉快そうに笑う。山岡は皮肉屋である。彼には鈴木がどういう意味でこんなものを持参したかを知っているのだ。それを筆者に言わせて拍手しようという魂胆だ。山岡が刀剣以外には何の趣味も道楽も��い木強漢であることは部内周知の事実だ。酒を持ちこんでも菓子折を持参しても何の効顕もない。もし、刀剣を持ちこめば相好をくずして喜ぶ。この点はまことに弱い。持ちこむといっても贈物ではない。鑑定だ。贈物となれば少なくとも山岡の所持している以上のものでないと喜ばないだろう。現に長光とか国安とか稀代の国宝級のものを持っている。それに匹敵する物は、まず手に入るものではない。そこで鈴木はこの山岡最大の弱点をついたのである。
 山岡が積極的に悪口を言わなくなれば、皇道派の連中は大抵信用する。面と向かっても罵倒するし、陰での批判など痛烈無比だ。皇道派とは因縁のない板垣征四郎を呼ぶに、まともに言ったことはない。「板(パン)」である。「板」がまた支那人にだまされてウンと金をとられた。「彼は板じゃなくて白(パイ)だよ。白痴だよ」という。金をとられたという事件の内容は忘れたが、おおむねこの類だ。彼の口に上らなかったのは武藤、荒木、真崎の三守護神くらいだが、それでも荒木については善意の悪口はのべていた。鈴木はその後も、長いもの短いもの幾口かを持ち込んでいた。山岡は役所でもろくな仕事はしていないんだから、役所に抱えて行って局長室に投げこんでおけばよいのを、わざわざ自宅に持参するところに彼の狙いがあった。かくて、皇道派のメンバーの一人の如く振舞うようになってから、永田に対する態度は次第に冷ややかになった。つめたくなるばかりではすまない。皇道派に永田の悪口を注進する。
 鈴木はしばらく新聞班長をしたことがある。上着の内ポケットがいやに硬直している。「機密費でもしこたま入れてるのかい」というと、「ばかを言え、これだ」と取り出したのは短刀だ。見ると月山貞一の作である。「僕と同名だし、なかなかいいできだろう」と得意である。 月山は帝室技芸員か何かになって、晩年は知られたが、日清戦争頃までは鍛刀の依頼者も少なく、やむなく古刀の擬物を打っていたと伝えられる。擬物でもすぐ発見されるようなものでなかったから、その技術は高い水準にあったらしい。それにしても贋物作りをするような人物は感心できない。それはそれとしても、何のために新聞班長が懐ろに短刀を呑んでいなければならないか。それほど彼の身辺は危険だったのか。真に護身用なら赤の他人に誇示するようなことはないはずである。また、手をのばせば届くところに、日本刀を仕込んだ軍刀を置いている。どこから見ても不必要だ。それを見せるキザな態度に筆者は、しばらく胸の悪くなるのを覚えた。
 斎藤内閣のとき、何かの要件で鈴木は高橋(是清)蔵相を訪れた。大いに気おって蘊蓄を傾けて老蔵相を説き、ことに陸軍予算のみならず、国家予算全体についても話したらしい。高橋は鈴木の階級も何も知らず、おそらくポストも知らなかったろうが、ともかく数字をならべて説くところがなかなか堂に入っている。感心して鈴木が出て行ったあとで、次官か秘書官かに「今来てしゃべって行った兵隊はあれは主計か」と尋ねたそうだ。この話が陸軍に伝わり鈴木の耳にも入った。「君は主計に間違えられたそうだね」というと怒るかと思いのほか、満悦である。大蔵大臣に主計と間違えられるほど、俺は数字にも明るいんだと誇りたいんだ。渋谷美竹町の彼の自邸は、佐官級としては過ぎたりっぱなものであった。応接室も広く、周囲に飾られている物はみな中国のものだ。新聞記者が行くと、なかなかの御馳走を出す。ウィスキーなんか本場物を幾種類か出し、時には上等の中国の酒を振舞う。酒好きの記者はしばしば鈴木邸を夜襲したらしい。そういうことをするのが弘報宣伝だと心得ていたのだ。
 さて、世の中はまた変わった。荒木が引っこみ林(銑十郎)が出て来た。その直後のことである。筆者は毎朝犬の運動のため、渋谷、駒場方面から方角違いの中野、杉並、八王子近くまで自転車で走りまわっていた。その途中に知りあいの家があれば、遠慮なく叩き起こす。仲には「どんなことでもきくから朝起こすのだけは勘弁してくれ」と泣きつく者もいた。家を出るのは薄暗い頃だから、運のわるい者はほんとうに夜半のつもりでいる。渋谷方面では永田も被害者の一人だ。しかし、その頃は旅団長をしていて、夜ふかしは少ないはずだから、帰途に垣根の外から「永田さん」と呼ぶ。美しい夫人が縁側に三つ指つくときは、まだ起きていない証拠だから素通りする。ところで、その朝は筆者の行ったのが少し遅くなってはいたが、珍しく庭に出て楊子をくわえている。そして先方から声をかけた。
「オイ、ニュースがあるぞ、こっちに入れ」
 永田がそんなことをいうのは稀有だ。「何ですか」と犬をつれて庭に入って縁に腰かけるとこういうのだ。
「鈴木貞一が来たんだよ。御近所まで参りましたからといってね」
「鈴木は美竹町ですぐ近所じゃありませんか。今まで訪ねなかったんですか」
「来るものか、そして省内の事情や何かをききもしないのにいろいろしゃべって行ったよ」
「閣下が軍務局長にでもなると見たんですね。ほんとうにそんな気配が感ぜられますか」
「いろいろの情報や脈引きに来る者はあるよ、だが御免だよ、毎朝馬に乗って軍隊のことばかり考えていればよい旅団長は、めったにやめるわけにはいかないよ、ことにこんな御時世ではね」
 林が就任すると間もなく、永田軍務局長説が出た。筆者は渡辺(錠太郎)から、林はつっかえ棒なしでは乗りきれない。永田は迷惑だろうが軍務局長になってもらわねばなるまい。林もその気でいる。しかし、実現するまでは新聞に書いてくれるなよ、書けば彼らが騒ぎ出すからと堅く差し止めされていた。しかし、部内でも永田出馬説がでるし、他の新聞にも書き立てている。そういう際だったので永田の真意を打診したのだが、やはり永田は出ないと言っている。けれども渡辺が強引に林を説得しているから、所詮出なければならなくなるだろう。渡辺のことは伏せておいたが、結局引っぱり出されるだろうことを話した。永田は「困る、困る」を連発して、憂鬱そうだった。
 昭和九年三月の異動で、永田は軍務局長となった。鈴木貞一は永田の下で羽ぶりをきかせたかったらしかったが、こんどは永田もそうはしない。陸大主事に追った。小畑幹事の下だからうまく行くはずだが、林陸相出現以来の鈴木の豹変振りが皇道派を痛く刺戟した。彼は何をするかわからぬという疑惑がある。俊敏な小畑がそれを見損ずることはない。新聞班長時代には千客万来だった鈴木邸にも、雀が門前に巣をかけるようになった。だが、それぐらいのことで尻尾をまくような鈴木ではない。小畑にはつとめて媚態を呈するとともに、新聞班長時代に開拓した政界という新分野に鎌首を突っこんで行った。侯爵井上三郎は砲兵大佐で現役を退き貴族院にいる。現役時代から接近している。西園寺公の秘書原田熊雄は以前から食い込んでいる。原田から近衛、木戸の方につながる。
 五・一五事件のあとではあり、政治家はみな陸軍のことを知りたがっている。それには鈴木は最もよい情報屋である。原田日記にも鈴木の名はところどころに出ているが、林が陸相辞任騒ぎをおこしたときでも、鈴木は原田に荒木、真崎らの動向を伝え、こういう風に西園寺公に報告してくれなど注文している。政友会の方では、五・一五事件が政治家のだらしなさに対する警告だったことなど忘れ、また軍部をのさばらせることが、いかなる結果を招来するかも慮らず、いたずらに政権をとりたい野心から、しきりに軍部の機嫌をとる。森恪などその第一人者だった。鈴木は森恪の存在を重視しないはずはなく、ここを窓口として政友会に近づく。かくて政界で流行児になった。現役軍人としているのもよし、退いて政界にいづるも不可なしと、彼の地盤は漸次強固になる。ここらの手腕は実に鮮やかなものであった。
 永田軍務局長時代であるが、小磯は第五師団長として広島にいた。筆者は満州からの帰途にはいつも小磯を訪問することにしていた。広島は急行列車が不便で、夜半でなければ通過しない。小磯は起きて待っている。大きな玄関を入ると上り口にりっぱな果物籠が置いてある。小磯は出迎えに出た夫人を顧みて「籠はまだ捨ててないじゃないか」となじっている。夫人は困ったという顔つきで笑っている。どうしたのかときいてみると
「その籠にはふれるな、けがらわしいんだ。名刺かなにかはさんであるだろう、それを見ればわかる」
という。電灯の光でのぞいてみると鈴木貞一の名刺だ。
「鈴木が広島を通過したが、次官の関係でお伺いできないから、閣下に宜しく伝えてくれといって、多分駅にいた憲兵にでも頼んだんだろう、俺の留守中に届けられているんだ。胸糞が悪いから捨ててしまえと言って置��たのに、まだそこに置いている」
 なるほどそれでわかった。その頃は小磯が中央部に出て、航空本部長になるかという噂がたっていた。その先物を買ったのだろうが、小磯としては次官、関東軍参謀長時代の鈴木の仕打ちには我慢ならぬものを感じていたのだ。
「捨てるのはもったいない。名刺さえ捨てておけば中身は上等な果物ばかりです。一つ食いましょう」
 と名刺を土間に捨てて、籠を持って応接室に入った。小磯は機嫌がわるい。
「そんなものを食うより、今夜は虎の肉を食おう。山下亀三郎が朝鮮か満州かで仕留めたと言って、虎の肉を送って来ているんだ。この方がさっぱりしとっていいよ」
 とさっそくすき焼きにして食ったが、肉が堅くてだめだった。それよりこの方がいいと、メロンや何かを食った。先物を買ってまた一儲けしようと考えたのだろうが、小磯は中央にもどらず、朝鮮軍司令官になった。果物は贈り損をしたわけだが、彼にもたまには目算違いがあった。…
(高宮太平『昭和の将帥』、1973年、190-197頁)
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日本为什么敢袭击珍珠港,向“巨人”美利坚宣战?
作者:葛晓笛   2016-09-10
1941年,日本面临一个是否与美国开战的选择,如果避免战争,他们就要退出轴心国同盟,从中国和法属印度支那撤军,他们将失去连年战争的成果,超过20万人的死亡将毫无意义,在日本的领导人看来,这种情况将导致他们的国家沦为“三流”。
▍无法解决的问题
但是与美国一战这个选择似乎更不可取,因为在这样一场不符合逻辑的战争中,日本要面临一些看上去没有办法解决的问题。
首先,日本要面对美国绝对的实力。
1941年开战前,美国的工业产值是日本的22倍,煤炭产量是日本的7倍,石油产量是日本的721倍,钢铁产量是日本的18倍,国民生产总值是日本的13倍。
在没有进行战争动员的1941年,美国每年制造价值45亿美元的武器装备,而同期的日本,尽管处于战争状态,这一数字也只有20亿美元。
随着战争的爆发,这些数字还将被拉大数倍。另外,美国的人口是日本的2倍,这就意味着,一旦发生战争,美国的动员兵力也将大大超过日本。
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(1941年美日经济实力对比【NHK纪录片《太平洋战争》】)
其次,日本人面对的是自己最大的贸易伙伴,因为与中国进行着胶着的战争,资源匮乏的日本依赖美国为其提供战略资源。
1941年,日本70%以上的钢铁和石油从美国进口,一旦与美国开战,这些资源将被切断。
第三,日本当时在世界上的盟友,只有同为轴心国成员的德国和意大利,它们并不希望改变美国的孤立主义状态。
虽然通过援助法案,美国给予轴心国的敌人以很大的帮助,但显然,美国不直接参战,对德国来说仍然是最好的情况。
希特勒清醒地认识到这一点,在日本进军南洋,向全世界宣战之前,他一直希望日本能够进军西伯利亚,对苏联进行夹击,而不是去和美国进行一场不可能获胜的战争。
另外,虽然德意两国是日本盟友,但相隔甚远的地理位置决定了它们处于不同的战场,一旦发生战争,很难互相呼应。
在1941年,美国的钢铁、飞机和机动车的总产量已经超过第二次世界大战其他所有参战国的总和。
一个渺小的亚洲岛国,挑战世界上最强大的国家,究竟是什么,让日本敢于在1941年12月7日的清晨袭击珍珠港,挑起与巨人之间的战争?
▍日本的精神
太平洋战争的爆发不是某一个单一事件的后果,它是无数线索汇聚到一起的结局。
对日本来说,任何时候,这个国家都不缺乏挑战强者的勇气,但是有些时候,它确实缺乏理智与智慧。
从十九世纪中期的明治维新,到二十世纪初开启对外扩张的脚步,直至第二次世界大战与美国在浩瀚的太平洋上交战,日本的帝国主义和军国主义道路自始贯彻,是政策路线、国族传统和社会思想引导的必然结果。
帝国主义道路
明治维新是日本在殖民主义的压迫感下选择的自强道路。佩里的黑船敲响了日本的门户,其意义不亚于鸦片战争之于中国。
1850年代,日本已经被迫进入了一个他们所不熟悉的国际网络之中。
开放港口、固定关税、最惠国待遇以及治外法权等等,殖民国家制定的游戏规则,被应用于波斯、土耳其、暹罗、清朝直至日本,一种耻感在这个国家蔓延。
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(马修·佩里的黑船让日本见识到了西方文明的船坚炮利)
这种耻感是压迫日本人奋发的动力,他们的初步目标是废除外部强加给他们的一系列不平等条约,而后要做到与殖民列强平起平坐;
最终,他们还要在东北亚排除一切其他殖民者,树立日本的区域霸权和殖民体系。
要做到这些并不容易,日本人从一开始就意识到了反抗并不是办法,于是他们开始学习。
1856年,来自佐贺的年轻武士江藤新平写出了长篇备忘《图海策》,并以此受到政府重用。
江藤在这份备忘录中写道,同样作为岛国的英国,甚至在农业上不如日本,但是因为向外扩张而富强,如果日本也同样发展航海与贸易,它将成为“真正的世界上最强的国家”。
在这之后,日本改变了闭关锁国的政策,开始对外开放,认真地学习起各国的发展经验。
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(江藤新平的《图海策》是日本国策转变的标志)
在1868年垮台之前,幕府已经向西方国家派出了7个使团,除外交任务外,有300多名代表调查了各国的制度与文化。这其中,就有后来提出“脱亚入欧”的福泽谕吉。
1860年和1862年,福泽谕吉两次出使美国与欧洲,深感西方文明的发达和东方各国的落后,因此写作了《西洋事情》等书,向日本人介绍西方的政治制度和价值观。福泽谕吉认为日本应摈弃东方文化的传统,吸取西方文明的精髓。
他认为在文明的碰撞中,东方毫无胜算,日本最好的出路,在于与东亚邻国断绝交往,避免日本被西方视为与邻国同样的野蛮之地。进而,他提出,日本应该脱离亚洲,加入欧洲。
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(1万面额的日币上印有福泽谕吉的肖像)
在幕府统治结束后,日本变得更加开放,与西方的交流也更加频繁。
1871年,岩仓具视率领由政府高层组成的考察团,对美国和欧洲进行了细致的考察。岩仓使节团原计划对欧美进行七个月的访问,但随着考察内容的增加,他们的行程增加了超过一年的时间。使节团被分为几个小组,分别研究西方的宪法和政治体制,收集有关贸易、工业、银行业等信息。
与这些官员同行的还有58名学生,他们被要求在国外进行长期留学。
岩仓使节团惊讶于西方的发达,但也为日本的发展提供了信念 —— 西方的工业化成果不过是近几十年才得来的,只要能够有效地学习国外的产业、技术与知识,日本也应该能够很快地追赶上来。
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(岩仓考察团的核心成员)
十九世纪是殖民主义的时代,世界上的先进国家都将殖民视作文明由高位向低位灌溉的必然途径,是一种理所当然。
日本的情况更加彻底,作为后发国家,能否成为帝国主义的一份子,决定了作为一个国家的日本和作为一个民族的共同体能否存在与生存下去。
在日本人看来,问题十分简单,这就是一道关于独立与从属的选择题,他们显然要选择前者。因此,日本一方面如饥似渴地学习着西方的先进经验,另一方面,也在战略层面谋划着未来的出路和底线。
1890年,时任内阁总理大臣的山县有朋上奏《外交政略论》,向明治天皇表明:
“国家独立自卫之途有二:一曰防守主权线,不容他人侵害;二曰保护利益线,不失形胜地位何谓主权线,国家之疆土是也;何谓利益线,同我主权线安全紧密相关之区域是也。”
“仅仅防守主权线已经不能够维护国家之独立,必须进而保护利益线,经常立足于形胜之地位。”
以此“利益线”理论为指导,控制朝鲜乃至中国东北地区成为了日本国家战略的目标,为此,他们不惜与中国和俄国交战。
甲午战争与日俄战争的胜利给予日本人极大的信心,使他们坚信自明治维新开启的日本帝国主义之路毫无疑问是正确的。
武士道精神
日本是一个具有武士传统的国家,从1192年幕府统治国家开始,武士即为“士、农、工、商“的四民之首,其后长达800余年的历史,就是武士阶级统治国家的时代,而武士道精神则是社会伦理的基本。
明治维新后,武士阶层虽然不复存在,但是武士道精神并没有消失,军人则从某种程度上继承了武士的地位。
1872年,明治政府颁布《全国募兵诏书》动员全体国民“以生命报效国家”。
1882年颁布《军人敕谕》,要求军人恪守“忠节、礼仪、武勇、信义、朴素”等武士道要义。
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(日本陆军大学校被称为战犯的摇篮,战后被取消,原址上建立了东京都港区立青山中学)
1883年,在山县有朋等人的领导下,日本陆军成立陆军大学校,招收服役两年以上,28岁以下的步兵和骑兵少尉,以及服役一年以上,30岁以下的炮兵和工兵中尉。
陆大是一所精英学校,录取率只有10%,其毕业生在日后占据了日本军部的重要岗位。
明治时代,日本军队已有办中学的传统,随着陆大的成立,军队得以系统地培养一批从青少年起便沉浸在军事教学和训练中的职业军人。
这些职业军人具备武士道和理想主义精神,军事素质一流,但脱离社会的培训方式,让他们对世界、对社会、对政治缺乏合理的认知。
对日本帝国的精英军人来说,他们继承的是武士阶层的精神与责任,那就是恪尽职守效忠天皇,在他们看来,死亡只是尽忠职守的一种手段而已,没有完成责任所规定的任务,是比死亡更加可怕的事情。
在日后的对外侵略中,继承了武士道精神的日本精英军人成了罪魁祸首。
狂热的民族主义与爱国主义
明治维新是一个中央集权的改革,它重新树立了天皇绝对的权威,把分散的地方大名替换为由中央政府派出的地方政府,不断强化日本国民效忠天皇的信念。
通过宣扬神化天皇的“皇国史观”,日本国民被逐渐塑造为合格的“天皇��民”。
在明治时代的日本课本中,楠木正成为后醍醐天皇尽忠的事迹被大为赞扬,将其“七生报国”的信念烙印到每一个日本国民的心中。
日后,这种信念成为了日本军队的理念。
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(终其一生效忠后醍醐天皇的楠木正成,被视为忠君的典范,他雕像就树立在皇居外苑)
进入20世纪后,尤其是经历了甲午战争、日俄战争乃至第一次世界大战的胜利,日本逐渐成为亚洲唯一的殖民主义帝国。
至此,日本已经不再满足于做西方的好学生了,它需要建立自己的殖民体系,划分自己的势力范围。
为此,它需要一个理论体系的支撑。
这时,日本军国主义者极力创造一种“皇国史观”,通过将神武天皇神话转变为一种意识形态,来树立日本民族的优异性,以及日本国家的特殊性。
在这种话语体系下,日本国民形成了一种对天皇的盲目崇拜,和对蔑视外界、妄自尊大的社会心态。
所谓八纮一宇的东亚新秩序,就是建立在这样一套说辞之上。可以说,正是这种意识形态,催生了近代日本国民的殖民主义和帝国主义心态。
军国主义者利用民众对天皇的崇拜,达到自己发动战争和控制国家的目的、在不断地对外征伐中,日本人不断用借口欺骗自己,把侵略行为塑造为具有正义性的圣战。
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(1945年8月15日,昭和天皇玉音放送的时刻,在皇居外跪拜的民众)
日本的媒体在对外侵略中也起到了推波助澜的作用。
每一次日军的海外行动都能带动报纸销量的大幅提升,在大正时期敢于批评军费增加的媒体,在1930年代发生转向,化身为军部的喉舌,为日本对外战争鼓吹。
在战争年代,日本媒体与军部之间的关系非常密切,报社记者可以在军部机关自由活动,甚至被允许进入作战课。
在1931年9月和1937年7月这些重要的历史转折中,日本媒体上的声音,都是军方想要听到的声音 —— 是中国人的挑衅造成了日本军队的反击。
国家利益至上的原则,让媒体失去了独立和冷静的态度,成为鼓吹爱国主义和民族主义的旗手,异化了日本国民的心态,鼓动了发动战争的民意。
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(日本报刊销量与对外战争【来源:NHK纪录片《日本为何通向战争之路》】)
在太平洋战争之前,日本已经通过长期的教育和宣传,把国民培养成为一种极端民族主义和爱国主义的产物。
在军国主义者富有煽动性的鼓吹下,在爱国主义的驱使下,日本人陷入了一种近乎癫狂的集体意识之中。
这时,少数具备冷静头脑,能够独立思考的人无法改变现状,只能任由整个国家走上战争这条万劫不复的道路。
从结果的角度看来,日本以“文明开化”为目的的社会启蒙运动彻底的失败了。它创造的,不是具备民主和自我意识的国民,而是基于皇道和武士道的臣民;它建设的,不是一个文明而自强的国家,而是充斥着征服与奴役的帝国。
从极左到极右的社会思想
至1920年代,日本的资本主义发展业已成型,社会各阶层都不可避免地卷入工业化体系之中。随着城市规模不断扩大,农业人口逐渐减少,传统零散的小农经济无法跟上工业化发展的脚步,农产品出现减产。
1918年,日本政府为对外征战,大幅征收大米,米价随之上涨,引发资本家和地主囤积大米。1918年8月,日本市场上的大米价格较一年前翻了三倍,平民家庭开始出现无米可用的情况。米荒的蔓延导致了社会不满,引发了米骚动。至9月中旬,日本共38座城市,153个乡镇和177个村庄爆发超过623起骚乱,参与者逾200万人。
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(神户的铃木商店在米骚动中被烧毁)
资本主义的发展和阶层流动导致社会不公的加剧,人们开始怀念明治时期生活的美好与富足。在这种情况下,倡导社会公正的左翼势力抬头。
1925年,随着成人普选法案的通过,日本涌现了大量社会主义政党。1928年,早年由安部矶雄组建的社会民主党在议会选举中赢得了4个席位,并向国会提交了一份号召将基础产业收归国有、进行土地改革和建设福利社会的纲领。
左翼势力强烈要求改变现状,其中代表人物是国家社会主义者北一辉。
1906年,时年23岁的北一辉就自费出版了《国体论与纯正社会主义》,这本书后来成为日本军国主义对外扩张的纲领性文件。
在这本书中,北一辉披露了底层社会的困苦与财阀官僚的奸佞,呼吁天皇帮助底层人民完成社会主义大变革,实现“土地和生产机构的公有”,实现“社会的共产制”。
这本书一经出版便被查禁,北一辉本人也流亡中国。在中国期间,他与黄兴和宋教仁等人相识,并结下友谊,他曾为中国革命奔走,后隐居在上海,写出了《国家改造法案大纲》一书。
在这本书中,北一辉系统阐述了他的政治观点和行动纲领,他呼吁举行军事政变,取消宪法,进行为期三年的戒严管制,期间成立一个由军队领导的政府,把政党和政客们扫地出门。
同时,他鼓吹国有化和土地改革,将土地分给贫困的农民,以此“消除那些天皇和他的子民们分离的障碍”。
他认为,如果能够做到这些,日本必将完成促进亚洲其他地区文明化的崇高使命。这时,北一辉的思想已经具备了十足的军国主义和法西斯特征。
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(北一辉)
北一辉并不相信渐进的社会改造,而是寄希望于发动底层,进行激烈的革命。
他把对外侵略美化为“文明化”,视之为作为“先进国家”的日本的历史使命,这些观点在日本军队的下层军官中引起共鸣,使之成为“皇道派”的理论领袖。
1936年2月26日,一群信奉北一辉观念的军官发动叛乱,提出“为了唤醒日本民众,成就一次昭和复兴”的口号。
叛乱士兵占领了东京的重要地点,刺杀多名军政大臣,制造了震惊世界的“二二六事变”。
叛乱最终被镇压,北一辉也在随后的审判中被判处死刑。
北一辉虽然死了,但是造就他思想的土壤还在。
1920年代和北一辉一起建立法西斯社团犹存社的大川周明,曾在1916年的文章中宣称,“大日本帝国是上天所派下来的新世界的领导者”,日本对于东亚人民有着义不容辞的义务,就是“救治那些饱受西欧民族虐待下的人们,决不代替西欧民族奴役他们”,“复兴亚细亚之战士又必须是改造日本之战士。”
1943年,大川周明出版了著名的法西斯理论书籍《大东亚秩序建设》,提出了“东西方对抗”的理论,为战争、侵略和扩张寻求理论依据。
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(大川周明是东京审判中唯一一名平民被告)
明治维新并不是一场现代化的变革,它是日本在帝国主义时代寻求自保的一种手段,从一开始就注定了对外侵略与扩张的结果。
甲午战争和日俄战争胜利的经验让日本人坚信,大和民族是一个更加优秀的民族,这进步一刺激了本就兴旺的民族主义与军国主义的气焰。
在这种非理性的心态下,日本人坚信,虽然因先天的地理因素,日本的综合国力无法与美国相提并论,但是倘若拥有能够抗衡美国的资源,那么凭借强大的精神力量,他们能够战胜任何对手。
孤注一掷的搏斗,即使失败也要像樱花一样灿烂地陨落,这就是日本人的战斗精神,凭此精神,他们相信自己的国家必将获胜。
▍日本的政治
政治构架是日本发动战争的制度保障。军人对武士阶层社会地位的继承,让这个群体自视甚高,强烈希望在关系到国家的前途与命运的问题上拥有发言权 —— 他们的确做到了,因为政治规则允许。
日本是典型的军国主义和非典型的法西斯主义国家,它没有阿道夫.希特勒和贝尼托.墨索里尼式的人物,即便是头号战犯东条英机,也在马里亚纳战役失败后辞职 —— 你能够想象希特勒因为一次战役的失败而辞职吗?
并非野心家的独裁,而是独立于政府存在的军部,使得日本得以发动这场战争。
军人当政,畸化了日本的内政与外交,让战前的和平努力都化作了泡影。
从中日战争到太平洋战争,是明治时代遗留下来的政治隐患的集中爆发。
军部独大
明治维新重构了日本的国家权力,幕府时代割据地方的武装势力被直属于天皇的中央军队取代。
1878年,在山县有朋等人的领导下,日本军队以普鲁士为模板,建立了直属于天皇的陆海军参谋部,使军令权与军政权分离。其中军令权(即统帅权)包括战时动员和作战指挥等内容,归参谋部掌管;军政权包括训练和后勤等内容,归内阁主管。
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(战前的日本政治构架,从中可以看出,军部系统是完全独立于政府组织的存在)
1930年,当被誉为“雄狮首相”的滨口雄幸力排众议,准备接受伦敦海军裁军会议的决议时,在野党即以干涉军部统帅权为由对政府进行大力抨击。
这一事件最终导致滨口雄幸被刺杀。
滨口雄幸的遇刺,和他强力推行裁军决议的所谓“统帅权干犯事件”,充分暴露了日本政治的混乱,以及政府对军队势力的无能为力。
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(滨口雄幸遇刺)
由于权力架构的原因,政府缺少制衡军部的能力,但是军部大臣现役武官制的存在,却让军部可以肆无忌惮地干预政府行为。
所谓军部大臣现役武官制,就是指内阁中的陆军大臣和海军大臣必须由现役军人担任。
在这种情况下,只要军部对政府政策不满,就可以通过陆海军大臣辞职并不指派新大臣的方式使内阁垮台。
明治宪法是日本军国主义的重要法理依据,其“天皇统御陆海军”的条文,是军部独立于政府存在的基础。
1900年,在山县有朋执政期间,对政府陆军省和海军省制度进行了大幅度修改,确立这一制度,规定内阁成员中的海军和陆军大臣必须是现役的大将或中将,对天皇负责。
这一举措造成了军部的实际独立运作和对政府权力的钳制。
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(山县有朋被认为是日本军国主义之父)
军部大臣现役武官制曾在1913年山本权兵卫内阁时期被废除,但“二二六事件”后,这一政策再次被恢复。
广田弘毅于“二二六”之后上台,但不到一年后,就由于军部对其不满而导致陆军大臣寺内寿一辞职,广田内阁随即倒台。
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(“二二六事件”的诸多影响之一,就是扩大了军方在政治生活中的话语权)
另外一些军队利用军部大臣现役武官制影响政治的例子,比如1912年12月,西园寺公望内阁因拒绝陆军增设两个师团的要求,时任陆军大臣上原勇作辞职,导致内��垮台。
1937年,宇垣一成因陆军不指派陆军大臣人选而组阁失败。
1940年,米内光政内阁因反对德意日三国同盟引发陆军不满,陆军大臣畑俊六辞职,内阁随即垮台。
恐怖政治与皇道派的失败
二十世纪初,针对国家发展与前途问题,日本军国主义者分裂出两个松散的政治派别 —— 皇道派与统制派。
其中皇道派信奉北一辉等人的政治理论,坚持只有以“暴力革命”打倒日本国内“资本财阀”,才能实现日本的富强和社会的正义。
在对外政策方面,皇道派视苏联为国家敌人。
而统制派则主张保持陆军中央机构稳定的统制,通过自上而下的合法手段进行国家改造,建立军部独裁,主张消除陆军内部的派系,主张进军南洋,夺取以英、美等国在东南亚的殖民地和石油资源,主张通过战争解决“中国问题”,对苏联持互不侵犯态度。
自滨口雄幸遇刺到“二二六事件”,在大半个1930年代,日本政坛陷入皇道派的“暴力变革”之中惶惶不可终日。
1931年10月,陆军军官右翼团体樱花会成员桥本欣五郎中佐试图发动政变未遂;
1932年2月9日和3月5日,右翼团体血盟团成员先后暗杀滨口内阁财务大臣井上准之助以及三井财阀总裁团琢磨;
1932年5月15日,九命年轻军官冲入首相官邸,枪杀了时任首相的犬养毅;
1936年2月26日,陆军第一师团的一千余名士兵发动兵变,杀害了大藏大臣高桥是清、前首相斋藤实以及军事教育总监渡边锭太郎。
随着恐怖政治的不断升级,政治生活始终处于死亡威胁之下,政治家逐渐将国家权力让位于军部统帅。
曾经在大正时代颇有建树的政党政治,在1930年代的恐怖面前败下阵来。
自犬养毅被刺后,政党政治家在日本的地位一落千丈,在1932年至1940年的八届内阁中,没有一位政党政治家出任首相职务,政党政治已经实质上让位于军队统治。
由于恐怖政治并没有解决腐败和社会不公等问题,反而加剧了政治动荡和社会不安,二二六事件后,这种形式的斗争不再受到民众的支持;政党政治家们显然希望社会能够回到法治的轨道上去;裕仁天皇也因为几位肱骨大臣的遇刺而愤怒不已。
因此,二二六的参与者遭到了前所未有的打压,参与事变的军官被判处死刑,持皇道派观念的高层则被调离拥有实权的岗位,皇道派就此式微。
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(二二六事件的另一个后果是统制派的大获全胜)
随着统制派在军中独揽大权,日本发动全面对华入侵的可能性大增。
皇道派与统制派是日本军国主义道路上的持不同政见者,在日本需要通过殖民与扩张来变得强大这一点上,双方并无分歧;同样,双方也都不满西方主导的世界秩序。
1931年,正是皇道派的石原莞尔策划了满洲独立,使日本走上对外孤立的道路。 只是历史的诡吊在于,在1936年那个节点,皇道派相信,日本的扩张到伪满洲国已经足够,不需要冒着毫无意义的风险去和中国进行一场没有胜算的战争。
而统制派则坚信,必须要打通中国,直至东南亚,获取至关重要的战略资源,日本才有可能和西方各国平起平坐。
一方面,日本的政治完全被军部控制;另一方面,军部完全被统制派掌控。在这种情况下,中日战争无可避免地全面爆发了,此时,美国再也无法容忍日本对华盛顿体系日益嚣张的挑衅,决定要给予日本惩罚。
这种惩罚并不以战争为目的,但却最终把日本的航空母舰引向珍珠港。
▍日本的孤立
“这不是和平,这是二十年休战。”1919年费迪南·福煦元帅评价凡尔赛和约。
英国历史学家泰勒在《第二次世界大战的起源》一书中表达过这样的观点,二战的欧洲战场是一个自成一体的故事,只是偶尔受到远东地区的干扰。
因此在分析欧洲局势的时候,人们几乎可以忽略发生在遥远东方的战斗 —— 尽管在德国入侵波兰,英法对德宣战前,中国已经和日本打了好几年仗了。
但是这条规则的反推并不适用,如果我们不对一战后的世界体系进行分析,那么我们就无从得知太平洋战争发起的原因。
无时无刻,西方的国际关系都对远东的一切产生着影响,日本这个一战前日不落帝国在远东最大的盟友,第一次世界大战的战胜国,凡尔赛-华盛顿体系名义上的受益者,为什么最终会倒向轴心国,这是一个必须将目光放眼全球才能进行分析的问题。
日本对凡尔赛-华盛顿体系的破坏
日本并非一开始就是国际秩序的挑战者。它是第一次世界大战结束后,亚洲唯一得以和西方列强并驾齐驱的强国。在华盛顿会议中,日本与美英并列,是海军裁军协议中被公认的三个首要的海军强国之一。
在另一项重要的条约 —— 九国公约中,日本也与美国、英国、法国、意大利、比利时、荷兰、葡萄牙一起,与中国确立了在华合作的国际框架,即尊重中国的主权和领土完整,坚持机会均等原则,为中国的稳定和发展创造条件。
同时,日本与中国签署了《中日解决山东悬案条约》,放弃了《凡尔赛合约》中获得的在山东的特权,并撤回驻军。
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(日本在华盛顿会议中签署了海军裁军协议)
遵守国际秩序的游戏规则让日本成为一战后最有影响力的亚洲国家,但这种情况并不符合所有人的心意。
对于日本的民族主义者来说,退出中国山东意味着把到手的果实交了出去,战后的裁军协议也不符合军队的胃口,对这些人来说,遵守由西方人制定的规则,是对日本利益的放弃。
这种情况在中国国民政府统一后显得尤为严重,固守军国主义理念的日本人相信,他们在中国的利益正在受到威胁。
但在1910至1920年代,稳定的国际环境和快速的经济发展掩盖了部分问题。
在大正天皇时代,政治家们掌控了国家,削弱了军国主义的崛起势头。其中的标志性事件就是军部大臣现役武官制被暂时废除。
1913年,山本权兵卫内阁制定政策,规定编入预备役或退役武官也有资格出任陆军和海军大臣。1918年,原敬内阁正式组建,原敬作为日本首位没有持有爵位的首相,打破了内阁制实施以来的藩阀政治,政党政治逐渐步入正轨。
历史上将这一时期称为大正民主时代。
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(原敬组阁成功,标志着政党政治确立)
1929年的大萧条打破了大正民主时期的良好局面,让处于被压制地位的军国主义有了可乘之机。当时,日本政府和其他主要资本主义国家一样,以货币手段应对经济危机。削减货币流通导致贸易的衰退和出口的减少,购买力的下降和失业浪潮随之而来。
根据当时的主流经济学理论,这种现象是应对危机的必须,但受到冲击的民众没有等待经济复苏的耐心,反对政府的声音立刻鼓噪了起来。
在大正民主时代隐忍不发的反政府力量抓住了机会,他们宣称,政治家们漠视劳动者和国家的利益,无法带领日本走出危机,是时候选择另一条道路了。
1929年,当滨口雄幸内阁决定以高汇率回归金本位时,立刻获得了漠视民生疾苦的骂名。
这种舆论逐渐发酵,终于在1930年爆发。当滨口首相批准了伦敦裁军协议后的一个月后,他被佐乡屋留雄刺杀。
正如前文所述,1930年代,日本政坛充满了恐怖主义的气氛,政治家们成为了不受欢迎的人,先后有多名持国际主义观点的政治家和企业家被刺杀。
在这种政治气氛下,政治与商业精英选择了退缩和沉默,这助涨了军队势力和右翼知识分子“重建国家”的气焰。
1931年,接替滨口雄幸担任首相的若槻礼次郞坚持依赖国际合作的政治路线,遭到了政友会的激烈抨击。若槻的政治路线被认为是“软脚外交”,无法根本解决“满蒙问题”。
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(1931年9月18日,日本关东军破坏南满铁路,制造事变,最终占领了中国东北。从此,日本告别国际体系,走上一条对外侵略的道路。)
在这种政治气氛下,1931年9月18日,关东军在中国东北独走,石原莞尔和板恒征四郎等军官擅自发动对华军事行动,并在随后半年的时间里,无视日本政府“防止事态扩大”的明确指示和国际舆论压力,制造了“满洲独立”的事实。
伪满洲国的成立将日本推向了既有的国际秩序的对立面,因此而退出国联。
但当时列强都处于大萧条的内外交困之中,无力为中国提供实质性帮助;华盛顿体系的框架也缺乏相应的制约机制,以对此进行反制。除了谴责,国际社会对日本的侵略行为毫无办法。
1931年,日本侵占中国东北;1935年,意大利入侵埃塞俄比亚;1936年,德国军队进入莱茵非军事区;1937年,日本全面入侵中国。
以上事实让一战后的国际秩序化为泡影,凡尔赛-华盛顿体系完全失控了。
多米诺的第一张牌
第二次世界大战,在各个国家拉开阵势开始打仗前,有两场特别奇怪的战争。
其中之一就是1939年英法对德的“宣而不战”;
另外一个,则是中国与日本从1937年就开始的“战而不宣”。
如果我们要追溯太平洋战争起源的话,那么我们就必须至少向前追溯到中日之间纠结的历史,因为正是这场战而不宣的中日战争,直接决定了太平洋战争的爆发。
中日战争的初期双方都不宣战,就是体现了交战双方从各自的角度出发,对国际社会反应的敏感。
不宣战对双方都有好处,所以这场战争就一直处于奇怪的战而不宣的状态。这从一个侧面反映出国际社会对中国和日本的影响都是非常巨大的,在那个时代,没有任何一个国家希望孤立于世界体系之外,即便是总是做出错误选择的日本也是如此。
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(中日战争导致了日本的孤立)
太平洋战争是由中国与日本的战争演变而来的多国对抗。
1931年9月18日,当一小撮日本关东军士兵与中国军人在奉天城外发生冲突时,最具想象力的人也不会把这一事件看做推倒多米诺骨牌的第一步 —— 但它恰恰就是。
十年后,1941年12月7日,日本帝国联合舰队突然袭击了珍珠港,拉开了太平洋战争的序幕。
最终,一个远东国家与另一个远东国家之间的战争,引发了日本与美国、中国、英国、荷兰以及最后参战的苏联的联合力量的对抗。
日本的政治家和外交家们,眼睁睁地看着国家被军队拖入万劫不复的深渊,却毫无办法。
从1931年到1941年,这十年间的战争,是直到今天中日两国都无法摆脱的一切历史纠结的渊源,这是一场决定了今天中国和日本面貌的战争,也是一场重塑东亚乃至世界面貌的战争。
九一八
1931年,大萧条正在削弱世界主要经济强国的实力,同时引发了日本国民对政客的普遍不满。
在这种情况下,自从华盛顿会议以来就对国际体系不满,认为其原则削弱了日本在华利益的那些阴谋家们,开始了自己的行动。
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(板恒征四郎)
在中国东北,以石原莞尔和板恒征四郎为首的一群关东军军官相信,行动的时机已经到来。
在他们看来,只要日本还坚持在华盛顿体系下行动,就不可能维护日本在华的特殊利益,他们试图寻找的,是一劳永逸地巩固日本势力范围的方式。
关东军的军官们完全了解东京的政府会反对他们生事,但他们相信日本民众会支持他们的行动,只要放手去做,政府只有接受既成事实一条路可选。
1931年9月18日晚间,板恒征四郎把参谋本部派来制止关东军做出过激行动的建川美次少将灌醉,于当晚10点使用事先埋好的炸弹破坏了南满铁路。
这次爆炸是如此的轻微,以至于之后的火车不受影响地安然通过;但这次爆炸的影响却是非凡的,它决定了中日两国的近代历史。
爆炸发生后,关东军以此为借口开始向中国军队发起进攻。
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(石原莞尔)
在日本国内,樱花会成员桥本欣五郎中佐试图呼应关东军行动的政变失败了。
在中国的行动却取得了意想不到的成功。
出于保存实力或者其他什么原因,张学良没有发起保护自己势力范围的战争,把东北拱手让给了日本人。
半年后,1932年3月1日,关东军拥立清朝末代皇帝溥仪为“满洲国”皇帝,在中国东北建立了一个在日本人控制下的傀儡国家。
退出国联
关东军在东北的独走让开始就反对这一行动的日本政府处于十分被动的局面。
一方面,为了应对随之而来的国际压力,他们必须为这个本不是自己责任的烂摊子找到合理的说辞;另一方面,在国内本已不受欢迎的政治家们在面对狂热的民意时,不可能选择放弃关东军在中国取得的侵略成果。
当时,即便是最热忱的军国主义分子也不认为日本具有在国际上独立行事的可能。
在日本人的形容下,在中国的军事行动不但不是对华盛顿体系的破坏,反而是对中国破坏条约体系的惩罚,是维护华盛顿体系的努力。
在李顿调查团作出对日本非常不利的结果后,日本驻国联代表松冈洋右仍然以这样一套说辞来为关东军的行动进行辩护。
他以“警察行动”的名义为日本辩护,由于各国仍处于大萧条的谷底,外交解决“满洲事件”并非毫无希望。
1932年12月,松冈洋右与英国外相约翰·西蒙举行了一系列秘密磋商,西蒙提出了一个妥协方案,包括在不承认满洲国独立的前提下,以国际名义接管中国东北,任命日本人为顾问,协助管理东北地区等建议。
松冈认为,这是日本所能得到的最好结果,但却被外相内田康哉拒绝。日本内阁害怕妥协的结果激起民众的反对,错失了外交解决问题的最佳时机。
随后,在1933年1月,内阁又批准军部针对热河地区的军事行动。
这一举措让松冈洋右大为光火,他在国联的所有努力都化作了泡影。
随着日本对华军事行动的不断扩大,日本再也无法赢得其他国家的信任。
1933年2月24日,国联针对满洲事件的劝告案出台,措辞和内容远比李顿调查团的结论更加严厉。松冈在会议最后进行发言,承认日本无法接受这一决议,宣布退出国联。
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(1933年2月24日,松冈洋右宣布日本退出国联)
退出国联是日本外交的一个巨大退步,是日本侵华带来的恶果。从这一刻起,日本脱离了把他们塑造为重要国际力量的世界政治体系,变得更加一意孤行。
同时,反观日本在1931至1933年的一系列外交举措可以看出,日本政府缺乏战略布局,对各种事件采取疲于应对的态度,而且明显误判了世界局势。
1930年代,是殖民主义和帝国主义的退潮时期,也是民族主义逐渐兴起的年代,日本人仍以旧时观点衡量世界,不知何故地乐观认为,中国政府一定能够接受日本的条件,列强也能够接受“满洲国”的既成事实,这是日本长达十年连续误判局面的起点。
双线外交
1933年至1936年,日本的政治家们努力弥补因侵华造成的外交孤立局面。
在1935年6月的一次外务省会议中,时任外务辅佐大臣的重光葵提出,联合中国国民政府,建立一个防共同盟的提法,希望可以弥合看似毫无希望的中日关系。与此同时,日本的外交官对波兰、比利时、荷兰展开外交攻势,希望这些国家能够与中日一起,共同签署一份防共协定。
就在日本外交官们紧锣密鼓地开展行动的同时,军部也在从事着外交活动。
在战前,日本军部的情报部门能够有效破译各国外交电文,这使他们对国际局势有着自己的一番判断。但由于独立运作的体制缘故,军部的情报并不与外务省相通,两套系统实际上是在同时进行着分头行动。当时,军部的主要精力放在了与纳粹德国结盟上面。
1936年初,外务省逐渐了解到军部的行动,他们试图采取措施,统一双方的外交路线。外务省提出,联合英国与德国,共同签订防共协定。可是出于担忧世界政治局面复杂化和分裂化的考虑,对此英国反映冷淡。
更为致命的是,英国和中国在与日本进行谈判的过程中,都发现了日本的外务省和军部行动不一致的行为。日本内部问题导致的双线外教使中国和英国进一步担忧,日本的外交不过是为他们军队行动提供的障眼法罢了。
因此,防共协定最终无疾而终。
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(1936年11月25日,日德签署防共协定)
这时,唯有德国对日本表示兴趣。
1936年11月25日,日德单独签署了防共协定。
日本政府再次误判了形势,他们以为各国对共产主义的敌视足以化解他们对日德两国条约签署的敏感,但事实是各国对两个对外扩张迹象明显的国家结盟普遍表示不安。
防共协定,这一旨在令日本摆脱孤立的行动,却让它更加孤立了。
随着1937年7月中日战争的全面爆发,日本彻底成为了国际社会的孤家寡人,除了德国,没有任何一个国家对它表示信任。
1940年9月27日,德日意三国同盟条约签署,轴心国正式成为事实,日本在四面楚歌的外交环境中努力寻找盟友,最终走向了法西斯同盟。
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(1940年9月27日,德日意三国签署同盟条约)
这时,他们距离太平洋战争只有一步之遥了。
▍走向战争
1937年10月5日,美国总统罗斯福在芝加哥发表演说,向法西斯主义展示强硬姿态,号召自由世界的人民抵抗“那些正在制造国际无政府主义状态和不稳定局势的破坏条约的行为”。
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(罗斯福发表演说)
这次演说在当时美国国内并没有取得良好的反响。
芝加哥是孤立主义的大本营,他的演说很快便遭遇了非干涉主义者的批评。
孤立主义是美国国父留给这个国家的一个政治遗产,要克服它去广泛而深入地参与国际政治,在1930年代,是任何一个政治家都做不到的,包括富兰克林·罗斯福本人。
促使美国告别孤立主义,走上世界警察岗位的,是1941年的日本海军联合舰队。零式战机在珍珠港投下的炸弹宣告了一个帝国的灭亡,也宣告了一个时代的崛起。
当我们回顾历史的时候,会发现事情往往并不像想象中那么简单。
从日本与纳粹德国结盟到珍珠港之间的一年多时间里,究竟发生了什么?
太平洋战争是完全无可避免的吗?
近卫内阁
为迫使日本停止侵略行为,美国逐步加大施加在日本身上的压力。
1939年7月27日,美国宣布废止自1895年开始的日美通商航海条约,随后进一步宣布禁止对日本出口机床和钢铁。由于日本经济严重依赖美国的原料和能源,美国对日本的经济制裁产生了显而易见的影响。
在压力之下,日本开始考虑如何应对。
1940年7月23日,近卫文麿在危难之际第二次出山组阁,面对日本深陷战争泥潭、内政混乱和外交孤立的现状,这位年轻的贵族试图力挽狂澜。
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(试图力挽狂澜的近卫文麿)
1940年11月27日,近卫内阁任命与罗斯福总统拥有良好个人关系的野村吉三郎为日本驻美大使,这被看做是日本追求和平的表现。1941年初,野村在到任后随即开始与美国国务卿赫尔展开会谈。
野村的任务,是要求美国接受亚洲地区的既有事实,即承认日本的侵略行为。
即便面对欧战的巨大压力,这种想法对美国人来说也是完全不可能的。
赫尔提出,为改善太平洋国家关系,缓解东亚地区紧张的战争局势,恢复中日之间的和平,美国主张“领土完整、不干涉内政、商业机会均等以及和平改变现状”的四项原则。
这些原则要求日本必须从中国撤军,这是日本无法接受的。
美日之间的分歧十分巨大。
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(为阻止战争爆发,赫尔和野村吉三郎进行了一系列交涉,但在当时情况下,外交手段能够取得的作用实在有限)
在日本国内,关于未来战略的分歧同样巨大。
1941年6月,德国启动巴巴罗萨计划,开始了对苏联的闪电入侵。战役初期,德军势如破竹,攻破莫斯科看来只是时间问题。
欧洲战场的变化迫使日本人开始思考他们的战略。
陆军认为,自日俄战争以来,一劳永逸地解决北方问题的时机终于到来了,以满洲为跳板,入侵西伯利亚,和德国东西呼应击败苏联,是日本最好的选择。
海军则认为,南下南洋,夺取欧洲诸国在东南亚的殖民地,占领拥有大量石油、橡胶和稀有金属资源的土地,是缺少战略资源的日本的当务之急。
与此同时,仍然有政治家寄希望于通过外交手段解决问题。
1941年7月2日,近卫内阁在御前会议上通过了“基本国策纲要”,该文件要求日本“不管世界形势如何变化”都要“建立大东亚共荣圈”,海军和陆军要同时做好南下和北进的准备,究竟是采取哪种策略,“具体事项按实际情况进行商榷”。
总体而言,这份被称为“国策纲要”的文件毫无新意,也没有做出任何决定。
在这之后,陆军和海军都开始按照自己的战略准备战争。
7月13日,陆军展开了以苏联为目标的关东军特种演习,以应对预计于9月1日开始的日苏之战。但这一行动引起了海军和政府方面的反弹。
由于苏联在东北亚留存的兵力远超日本方面的预期,德国的进展也没有起先那么迅速,陆军在作战目标上也发生了转移。
在此之前的7月3日,陆军批准了一项关于进军法属印度支那的作战计划。
在7月中旬,由于对苏作战的吸引力锐减,这项南下的方针得到了更加坚决的执行。
与此同时,为争取美国的支持,近卫文麿决定替换掉外相松冈洋右,后者因为是轴心国条约的缔造者而在华盛顿不受欢迎。为保全松冈的面子,近卫内阁选择集体辞职而后重新组阁。7月16日,新的近卫内阁组成,担任外相的是丰田贞次郎海军大将。
但这一任命并未打消美方的疑虑,相比人事任命,行动更能说明问题。
日本向法属印度支那前进的脚步,即将触发美国最严厉的警告。
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(日军侵略法属印度支那的行动,促使美国做出全面石油禁运的决定)
7月14日,日本方面向维希政权(当时的法国政府)发出照会,要求对方允许日军拥有在南印度支那驻军的权利。7月19日,新上任的丰田外相给法国方面下达了7月23日的最后期限,但不等法方回应,日军便悍然发动入侵。
维希政权于7月23日接受了日本的要求,于是,日军在7月30日前,完成了对法属印度支那的“和平”占领。
7月21日,美国副国务卿萨姆纳·威尔斯警告日本,占领印度支那的行动与美日谈判是相抵触的,但这并没有阻止日军前进步伐。
美方对日本不顾警告的侵略行为反应激烈,7月25日,美国政府下令冻结日本资产,随后,英国、荷兰、新西兰和菲律宾等国跟进。
丰田外相还在幻想着重启华盛顿谈判,调整外交关系。而日本军方则相信,只要止步于此,美国人就不会有进一步的行动。
日本人再次吃到了自己���以为是的苦头。
7月25日后,美国实际上已经开始了对日本的石油禁运。石油禁运对日本是决定性的打击。
事已至此,近卫文麿不得不承认,“我们离大战只有一步之遥”。
东条内阁
石油禁运和随后美英《大西洋宪章》的发表,把日本逼到了一个角落。
前者让日本的战略储备出现了极大危机,当时日本的石油只够他们的战争机器继续运转不到两年;
这种压力迫使他们不得不将视线从北方彻底转向拥有石油资源的南洋,而那里正是美国(菲律宾)、英国(新加坡和香港)与荷兰(荷属东印度)的地盘,加上中国,要打破这ABCD四国(美英中荷)联盟,必然要与美国一战;
后者给予日本的是一种心理上的影响,他们把这看做是美英企图统治世界的野心的象征。
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(《大西洋宪章》被日本视为美英企图称霸世界的宣言)
近卫文麿为了和平的最后一搏,是试图与美国总统罗斯福举行一场私人会谈。
罗斯福本人对此很感兴趣,但是国务卿赫尔劝告他,除非日本在原则问题上做出让步承诺,否则会谈毫无必要。
美国与日本举行高层峰会将对美国周围的盟友造成不良的印象,尤其是中国。
罗斯福不愿意冒着毫无建树的风险去做一次费力不讨好的尝试,近卫也无法提供日本能够退让的承诺,这种分歧这次会谈没有成行。
与中国的战争让近卫文麿陷入了进退维谷的境地。
他坚信日本无法取得与美国进行的战争的胜利,但因为军部不可能在中国撤军的问题上做出让步,他也无法与美国人取得外交上的进展。
1941年10月14日,陆相东条英机在内阁会议上慷慨陈词,坚决反对日本从中国撤出部队,坚决反对日本的战争成果付诸东流,坚决反对东亚局势回到20年前的局面。东条说,这样会让国家成为“满洲事变前的小日本”。
10月16日,无可奈何的近卫文麿内阁集体辞职,10月17日,东条英机上台组阁,东条本人一人兼任首相、陆相和内务大臣三职;
在外界看来,这就是日本的战争内阁,剩下的,就是战争何时打响的问题了。
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(1941年10月17日,东条英机组阁)
但事实并不是这么简单。
就在东条英机上台前夜,内大臣木户幸一向他传达了天皇的期待,“希望能从零开始,把不开战作为既定路线,探讨所有的可能性”。作为一名职业官僚,东条很快转变了角色,把代表陆军利益,转向了代表国家利益。
东条本人知道,能够避免与美国开战的最后机会就在自己的手中。
他拒绝了陆军关于任命松冈洋右为外相的提议,以新内阁全力支持与美国进行谈判的承诺,邀请到老牌外交家东乡茂德出山。同时,东条本人兼任陆军大臣和内务大臣,一方面是为了控制陆军,另一方面为控制警察部队,防止与美国达成协议后,国内出现失控局面。
11月1日,东条内阁举行了一次长达16个小时的会议,商讨最��的政策问题。摆在他么面前的有三个选项:或者与美国合作,或者发动战争,或者谈判与备战同时进行。
内阁中只有外相东乡茂德和藏相贺屋兴宣支持第一个选择。
东条称天皇不同意第二个选项,因此他认为最好的办法还是选择第三个选项。
而两个参谋总长杉山元大将和永野修身大将都认为,谈判已经被证明是无效的,开战是唯一的办法。
这次会议最终做出决定,以11月30日午夜为最后时限,如果在此之前仍然无法达成外交协议,那么战争就将打响。
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(东乡茂德在1941年11月为和平做了最后的努力,但为迷惑美方,东乡在战争决策已定的情况下,仍然命令继续谈判,这使他最终没有逃过成为甲级战犯的命运。)
为了与美国达成和平协议,在兼顾军部意见的前提下,东乡茂德给出了日本方面能够提出的最底线条件,即日军承诺不超出法属印度支那范围活动,日美双方在荷属东印度采取合作,美国恢复对日贸易,取消冻结资产和石油禁运,美方不阻挠日本和中国单独进行和平谈判。如果能够达成协议,日军承诺撤出法属印度支那。
11月26日,针对东乡茂德的提议,赫尔做出了美国方面的回应。
美国要求日本从中国和印度支那完全撤军;除蒋介石外,不承认任何中国政府或政权;在事实上废除德日意同盟条约。
11月27日,当这份提议到达东京时,东条英机内阁一片死寂。
东乡形容他被这份照会“梗住了喉咙”。
这份照会后来被日本人称作“赫尔通牒”,它宣布了战争的不可避免。
1941年11月26日,就在日本方面等待赫尔的回复的同时,日本联合舰队大部从单冠湾悄然驶出,跨越半个太平洋,向美国太平洋舰队驻扎地珍珠港驶去。
这支舰队悄然等待着谈判的结果,如果达成协议,他们就将回头。
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(近景为1941年11月前往单冠湾集结瑞鹤号航空母舰)
12月2日,日本国会做出宣战决定,当天下午5点30份,舰队指挥官南云忠一收到“1208”和“攀登新高山”的开战指示;
随后,舰队进入无线电沉默,义无反顾地向着夏威夷群岛冲去。
为何而战?
即便包括最狂热的战争支持者,也少有日本人认为他们能够在即将开始的太平洋战争中取得大获全胜的结果。
他们只是寄希望于利用突击的优势,在战争初期取得足够的成果,从而为随后的长期战争奠定基础。
但他们没有规划出一条有可能结束战争的路线,对未来的把握并不依据实际,而是建立在自己的想象之中。
日本人曾经低估了国际社会对满洲事件的反应,曾经低估了中国人民抗击侵略的决心,如今,他们又低估了美国人反击的决心与能力。
这些误判一次比一次致命,最终成为军国主义自掘坟墓的良好注脚,长留于历史之中。
“为生存而战”,戳穿其看似堂皇的表面,内里不过是一个面子问题。
归根到底,帝国的尊严和战争带来的实惠让日本陆军无法放弃他们在过去十年间侵略而来的“成绩”。
这让他们在面对美国人给出的选择题“加入国际体系,或者与之战斗”时,只能给出唯一的答案。
日本政府在整个1930年代,为了应和民众的情绪,为了不与军部发生冲突,默许了关东军的独走,默许了对华事态的一步步扩大,默许了占领法属印度支那,最终默许出了一个太平洋战争。
日本帝国的军人们,拖着这个国家的所有子民一起,卷入了一场完全不可预知、完全不合逻辑的战争之中。
▍结语
当我们把历史连贯起来,这场从逻辑上看来不太合理的太平洋战争的爆发,也就显得顺理成章了。
第一次世界大战之后,在甲午战争和日俄战争之后成为殖民国家一员的日本,其野心与国力一起膨胀了起来。军队不断地出现“下克上”的行为,1931年和1937年,关东军的独走让日本与中国的关系陷入了战争的泥潭,日本在国际体系中也陷入孤立。
面对国际压力,政治家和军人的反应完全不同,前者倾向于谈判与妥协,后者则试图用更大的武力冲突来重构秩序。
不幸的是,从明治维新以来,日本的国家体制导致政治家完全无法控制军队。
军部的任意妄为造成了日本的内外交困,一方面它从外部把整个日本国带离了既定的国际秩序轨道,另一方面,它也从内部摧毁了日本在大正天皇时期建立起来的脆弱的政党政治。
最终,军国主义带领日本走向了太平洋战争这场万劫不复的深渊。
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(所谓大东亚共荣圈,不过是日本为掩盖其侵略罪行的说辞罢了)
无论是国家防御的说辞 —— 所谓“自存自卫”;还是八纮一宇的东亚新秩序 —— 所谓“大东亚共荣圈”,都已经被历史证明不过是日本为掩盖其战争罪行和军国野心的自说自话而已。
在发动太平洋战争的过程中,军人政治的短视与盲目一览无余。
这场从头到尾都没有一个统一战略思想的战争,不过是日本军人的应激反应,却给包括日本在内的所有亚太国家的人民带来了无尽的苦难;
直到今天,仍然具有鲜活的警示意义。
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第一回 風雪驚變
  錢塘江浩浩江水,日日夜夜無窮無休的從臨安牛家村邊繞過,東流入海。江畔一排數十株烏柏樹,葉子似火燒般紅,正是八月天時。村前村後的野草剛起始變黃,一抹斜陽映照之下,更增了幾分蕭索。兩株大松樹下圍著一堆村民,男男女女和十幾個小孩,正自聚精會神的聽著一個瘦削的老者說話。
  那說話人五十來歲年紀,一件青布長袍早洗得褪成了藍灰色。只聽他兩片梨花木板碰了幾下,左手中竹棒在一面小羯鼓上敲起得得連聲。唱道:
  「小桃無主自開花,菸草茫茫帶晚鴉。
   幾處敗垣圍故井,向來一一是人家。」
  那說話人將木板敲了幾下,說道:「這首七言詩,說的是兵火過後,原來的家家戶戶,都變成了斷牆殘瓦的破敗之地。小人剛才說到那葉老漢一家四口,悲歡離合,聚了又散,散了又聚。他四人給金兵沖散,好容易又再團聚,歡天喜地的回到故鄉,卻見房屋已給金兵燒得乾乾淨淨,無可奈何,只得去到汴梁,想覓個生計。不料想:天有不測風雲,人有旦夕禍福。他四人剛進汴梁城,迎面便過來一隊金兵。帶兵的頭兒一雙三角眼覷將過去,見那葉三姐生得美貌,跳下馬來,當即一把抱住,哈哈大笑,便將她放上了馬鞍,說道:『小姑娘,跟我回家,服侍老爺。』那葉三姐如何肯從?拚命掙扎。那金兵長官喝道:『你不肯從我,便殺了你的父母兄弟!』提起狼牙棒,一棒打在那葉四郎的頭上,登時腦漿迸裂,一命嗚呼。正是:
    陰世新添枉死鬼,陽間不見少年人!
  「葉老漢和媽媽嚇得呆了,撲將上去,摟住了兒子的死屍,放聲大哭。那長官提起狼牙棒,一棒一個,又都了帳。那葉三姐卻不啼哭,說道:『長官休得兇惡,我跟你回家便了!』那長官大喜,將葉三姐帶得回家。不料葉三姐覷他不防,突然搶步過去,拔出那長官的腰刀,對準了他心口,一刀刺將過去,說時遲,那時快,這一刀刺去,眼見便可報得父母兄弟的大仇。不料那長官久經戰陣,武藝精熟,順手一推,葉三姐登時摔了出去。那長官剛罵得一聲:『小賤人!』葉三姐已舉起鋼刀,在脖子中一勒。可憐她:
    花容月貌無雙女,惆悵芳魂赴九泉。」
  他說一段,唱一段,只聽得眾村民無不咬牙切齒,憤怒嘆息。
  那人又道:「眾位看官,常言道得好:
    為人切莫用欺心,舉頭三尺有神明。
    若還作惡無報應,天下兇徒人吃人。
  「可是那金兵佔了我大宋天下,殺人放火,姦淫擄掠,無惡不作,卻又不見他遭到甚麼報應。只怪我大宋官家不爭氣,我中國本來兵多將廣,可是一見到金兵到來,便遠遠的逃之夭夭,只賸下老百姓遭殃。好似那葉三姐一家的慘禍,江北之地,實是成千成萬,便如家常便飯一般。諸君住在江南,當真是在天堂裡了,怕只怕金兵何日到來。正是:寧作太平犬,莫為亂世人。小人張十五,今日路經貴地,服侍眾位看官這一段說話,叫作『葉三姐節烈記』。話本說徹,權作散場。」將兩片梨花木板拍拍拍的亂敲一陣,托出一隻盤子。
  眾村民便有人拿出兩文三文,放入木盤,霎時間得了六七十文。張十五謝了,將銅錢放入囊中,便欲起行。
  村民中走出一個二十來歲的大漢,說道:「張先生,你可是從北方來嗎?」張十五見他身材魁梧,濃眉大眼,便道:「正是。」那大漢道:「小弟作東,請先生去飲上三杯如何?」張十五大喜,說道:「素不相識,怎敢叨擾?」那大漢笑道:「喝上三杯,那便相識了。我姓郭,名叫郭嘯天。」指著身旁一個白淨面皮的漢子道:「這位是楊鐵心楊兄弟。適才我二人聽先生說唱葉三姐節烈記,果然是說得好,卻有幾句話想要請問。」張十五道:「好說,好說。今日得遇郭楊二位,也是有緣。」
  郭嘯天帶著張十五來到村頭一家小酒店中,在張板桌旁坐了。
  小酒店的主人是個跛子,撐著兩根枴杖,慢慢燙了兩壺黃酒,擺出一碟蠶豆、一碟鹹花生,一碟豆腐乾,另有三個切開的鹹蛋,自行在門口板凳上坐了,抬頭瞧著天邊正要落山的太陽,卻不更向三人望上一眼。
  郭嘯天斟了酒,勸張十五喝了兩杯,說道:「鄉下地方,只初二、十六方有肉賣。沒了下酒之物,先生莫怪。」張十五道:「有酒便好。聽兩位口音,遮莫也是北方人。」楊鐵心道:「我兩兄弟原是山東人氏。只因受不了金狗的骯髒氣,三年前來到此間,愛這裡人情厚,便住了下來。剛才聽得先生說道,我們住在江南,猶似在天堂裡一般,怕只怕金兵何日到來,你說金兵會不會打過江來?」
  張十五嘆道:「江南花花世界,遍地皆是金銀,放眼但見美女,金兵又有那一日不想過來?只是他來與不來,拿主意的卻不是金國,而是臨安的大宋朝廷。」郭嘯天和楊鐵心齊感詫異,同聲問道:「這卻是怎生說?」   張十五道:「我中國百姓,比女真人多上一百倍也還不止。只要朝廷肯用忠臣良將,咱們一百個打他一個,金兵如何能夠抵擋?我大宋北方這半壁江山,是當年徽宗、欽宗、高宗他父子三人奉送給金人的。這三個皇帝任用奸臣,欺壓百姓,把出力抵抗金兵的大將罷免的罷免,殺頭的殺頭。花花江山,雙手送將過去,金人卻之不恭,也只得收了。今後朝廷倘若仍是任用奸臣,那就是跪在地下,請金兵駕到,他又如何不來?」郭嘯天伸手在桌上重重一拍,只拍得杯兒、筷兒、碟兒都跳將起來,說道:「正是!」   張十五道:「想當年徽宗道君皇帝一心只想長生不老,要做神仙,所用的奸臣,像蔡京、王黼,是專幫皇帝搜括的無恥之徒;像童貫、梁師成,是只會吹牛拍馬的太監;像高俅、李邦彥,是陪皇帝嫖院玩耍的浪子。道君皇帝正事諸般不理,整日裡若不是求仙學道,便是派人到處去找尋希奇古怪的花木石頭。一旦金兵打到眼前來,他束手無策,頭一縮,便將皇位傳給了兒子欽宗。那時忠臣李綱守住了京城汴梁,各路大將率兵勤王,金兵攻打不進,只得退兵。不料想欽宗聽信了奸臣的話,竟將李綱罷免了,又不用威名素著、能征慣戰的宿將,卻信用一個自稱能請天神天將、會得呼風喚雨的騙子郭京,叫他請天將守城。天將不肯來,這京城又如何不破?終於徽宗、欽宗都給金兵擄了去。這兩個昏君自作自受,那也罷了,可害苦了我中國千千萬萬百姓。」   郭嘯天、楊鐵心越聽越怒。郭嘯天道:「靖康年間徽欽二帝被金兵擄去這件大恥,我們聽得多了。天神天將甚麼的,倒也聽見過的,只道是說說笑話,豈難道真有此事?」張十五道:「那還有假的?」楊鐵心道:「後來康王在南京接位做皇帝,手下有韓世忠、岳爺爺這些大將,本來大可發兵北伐,就算不能直搗黃龍,要收復京城汴梁,卻也並非難事。只恨秦檜這奸賊一心想議和,卻把岳爺爺害死了。」   張十五替郭、楊二人斟了酒,自己又斟一杯,一口飲乾,說道:「岳爺爺有兩句詩道:『壯志饑餐胡虜肉,笑談渴飲匈奴血。』這兩句詩當真說出了中國全國百姓的心裡話。唉,秦檜這大奸臣運氣好,只可惜咱們遲生了六十年。」郭嘯天問道:「若是早了六十年,卻又如何?」張十五道:「那時憑兩位這般英雄氣概,豪傑身手,去到臨安,將這奸臣一把揪住,咱三個就吃他的肉,喝他的血,卻又不用在這裡吃蠶豆、喝冷酒了!」說著三人大笑。   楊鐵心見一壺酒已喝完了,又要了一壺,三人只是痛罵秦檜。那跛子又端上一碟蠶豆、一碟花生,聽他三人罵得痛快,忽然嘿嘿兩聲冷笑。   楊鐵心道:「曲三,怎麼了?你說我們罵秦檜罵得不對嗎?」那跛子曲三道:「罵得好,罵得對,有甚麼不對?不過我曾聽得人說,想要殺岳爺爺議和的,罪魁禍首卻不是秦檜。」三人都感詫異,問道:「不是秦檜?那麼是誰?」曲三道:「秦檜做的是宰相,議和也好,不議和也好,他都做他的宰相。可是岳爺爺一心一意要滅了金國,迎接徽欽二帝回來。這兩個皇帝一回來,高宗皇帝他又做甚麼呀?」他說了這幾句話,一蹺一拐的又去坐在木凳上,抬頭望天,又是一動不動的出神。這曲三瞧他容貌也不過二十來歲年紀,可是弓腰曲背,鬢邊見白,從背後瞧去,倒似是個老頭子模樣。   張十五和郭楊二人相顧啞然。隔了半晌,張十五道:「對,對!這一位兄弟說得很是。真正害死岳爺爺的罪魁禍首,只怕不是秦檜,而是高宗皇帝。這個高宗皇帝,原本無恥得很,這種事情自然做得出來。」
  郭嘯天問道:「他卻又怎麼無恥了?」張十五道:「當年岳爺爺幾個勝仗,只殺得金兵血流成河,屍積如山,只有逃命之力,更無招架之功,而北方我中國義民,又到處起兵抄韃子的後路。金人正在手忙腳亂、魂不附體的當兒,忽然高宗送到降表,說要求和。金人的皇帝自然大喜若狂,說道:議和倒也可以,不過先得殺了岳飛。於是秦檜定下奸計,在風波亭中害死了岳爺爺。紹興十一年十二月,岳爺爺遭害,只隔得一個月,到紹興十二年正月,和議就成功了。宋金兩國以淮水中流為界。高宗皇帝向金國稱臣,你道他這道降表是怎生書寫?」楊鐵心道:「那定是寫得很不要臉了。」   張十五道:「可不是嗎?這道降表,我倒也記得。高宗皇帝名叫趙構,他在降表中寫道:『臣構言:既蒙恩造,許備藩國,世世子孫,謹守臣節。每年皇帝生辰並正旦,遣使稱賀不絕。歲貢銀二十五萬兩,絹二十五萬匹。』他不但自己做奴才,還叫世世子孫都做金國皇帝的奴才。他做奴才不打緊,咱們中國百姓可不是跟著也成了奴才?」   砰的一聲,郭嘯天又在桌上重重拍了一記,震倒了一隻酒杯,酒水流得滿桌,怒道:「不要臉,不要臉!這鳥皇帝算是那一門子的皇帝!」   張十五道:「那時候全國軍民聽到了這個訊息,無不憤慨之極。淮水以北的百姓眼見河山恢復無望,更是傷心泣血。高宗見自己的寶座從此坐得穩若泰山,便道是秦檜的大功。秦檜本來已封到魯國公,這時再加封太師,榮寵無比,權勢薰天。高宗傳孝宗,孝宗傳光宗,金人佔定了我大半邊江山。光宗傳到當今天子慶元皇帝手裡,他在臨安已坐了五年龍廷,用的是這位韓侂胄韓宰相,今後的日子怎樣?嘿嘿,難說,難說!」說著連連搖頭。   郭嘯天道:「甚麼難說?這裡是鄉下地方,盡說無妨,又不比臨安城裡,怕給人聽了去惹禍。韓侂胄這賊宰相,那一個不說他是大大的奸臣?說到禍國殃民的本事,跟秦檜是拜把子的兄弟。」   張十五說到了眼前之事,卻有些膽小了,不敢再那麼直言無忌,喝了一杯酒,說道:「叨擾了兩位一頓酒,小人卻有一句話相勸,兩位是血性漢子,說話行事,卻還得小心,免惹禍端。時勢既是這樣,咱們老百姓也只有混口苦飯吃,挨日子罷啦,唉!正是:     山外青山樓外樓,西湖歌舞幾時休?     南風薰得遊人醉,直把杭州作汴州。」   楊鐵心問道:「這四句詩,說的又是甚麼故事?」張十五道:「那倒不是故事。說的是我大宋君臣只顧在西湖邊上飲酒作樂,觀賞歌舞,打算世世代代就把杭州當作京師,再也不想收復失地、回汴梁舊京去了。」   張十五喝得醺醺大醉,這才告辭,腳步踉蹌,向東往臨安而去,只聽他口中兀自喃喃的唸著岳飛那首〈滿江紅〉中的句子:「靖康恥,猶未雪;臣子恨,何時滅?駕長車……」   郭嘯天付了酒錢,和楊鐵心並肩回家。他兩人比鄰而居,行得十餘丈,便到了家門口。   郭嘯天的渾家李氏正在趕雞入籠,笑道:「哥兒倆又喝飽了酒啦。楊叔叔,你跟嫂子一起來我家吃飯吧,咱們宰一隻雞。」   楊鐵心笑道:「好,今晚又擾嫂子的。我家裡那個養了這許多雞鴨,只是白費糧食,不捨得殺他一隻兩隻,老是來吃你的。」李氏道:「你嫂子就是心好,說這些雞鴨從小養大的,說甚麼也狠不下心來殺了。」楊鐵心笑道:「我說讓我來殺,她就要哭哭啼啼的,也真好笑。今兒晚我去打些野味,明兒還請大哥大嫂。」郭嘯天道:「自己兄弟,說甚麼還請不還請?今兒晚咱哥兒一起去打。」   ※※※   當晚三更時分,郭楊二人躲在村西七里的樹林子中,手裡拿著弓箭獵叉,只盼有隻野豬或是黃麖夜裡出來覓食。兩人已等了一個多時辰,始終不聽到有何聲息。正有些不耐煩了,忽聽得林外傳來一陣鐸鐸鐸之聲,兩人心中一凜,均覺奇怪:「這是甚麼?」   便在此時,忽聽得遠處有幾人大聲吆喝:「往那裡走?」「快給我站住!」接著黑影晃動,一人閃進林中,月光照在他身上,郭楊二人看得分明,不由得大奇,原來那人撐著兩根枴杖,卻是村頭開小酒店的那個跛子曲三。只見他左拐在地下一撐,發出鐸的一聲,便即飛身而起,躲在樹後,這一下實是高明之極的輕身功夫。郭楊兩人不約而同的伸出一手,互握了一下,心中均是驚詫萬分:「我們在牛家村住了三年,全不知這跛子曲三武功竟然如此了得!」當下躲在長草之中,不敢稍動。   只聽得腳步聲響,三個人追到林邊,低聲商議了幾句,便一步步的踏入林來。只見三人都是武官裝束,手中青光閃爍,各握著一柄單刀。一人大聲喝道:「兀那跛子,老子見到你了,還不跪下投降?」曲三卻只是躲在樹後不動。三名武官揮動單刀,呼呼虛劈,漸漸走近,突然間波的一聲,曲三右拐從樹後戳出,正中一名武官胸口,勢道甚是勁急。那武官一下悶哼,便向後飛了出去,摔在地下。另外兩名武官揮動單刀,向曲三砍去。   曲三右拐在地下一撐,向左躍開數尺,避開了兩柄單刀,左拐向一名武官面門點去。那武官武功也自不弱,挺刀擋架。曲三不讓他單刀碰到枴杖,左拐收回著地,右拐掃向另一名武官腰間。只見他雙拐此起彼落,快速無倫,雖然一拐須得撐地支持身子,只餘一拐空出來對敵,卻是絲毫不落下風。   郭楊二人見他背上負著一個包裹,甚是累贅,鬥了一會,一名武官鋼刀砍去,削在他包裹之上,噹啷一聲,包裹破裂,散出無數物事。曲三乘他歡喜大叫之際,右拐揮出,啪的一聲,一名武官頂門中拐,撲地倒了。餘下那人大駭,轉身便逃。他腳步甚快,頃刻間奔出數丈。曲三右手往懷中一掏,跟著揚手,月光下只見一塊圓盤似的黑物飛將出去,托的一下輕響,嵌入了那武官後腦。那武官慘聲長叫,單刀脫手飛出,雙手亂舞,仰天緩緩倒下,扭轉了幾下,就此不動,眼見是不活了。   郭楊二人見跛子曲三於頃刻之間連斃三人,武功之高,生平從所未見,心中都是怦怦亂跳,大氣也不敢喘上一口,均想:「這人擊殺命官,犯下了滔天大罪。我們若是給他發覺,只怕他要殺人滅口,我兄弟倆可萬萬不是敵手。」   卻見曲三轉過身來,緩緩說道:「郭兄,楊兄,請出來吧!」郭楊二人大吃一驚,只得從草叢中長身而起,手中緊緊握住了獵叉。楊鐵心向郭嘯天手中獵叉瞧了一眼,隨即踏上兩步。曲三微笑道:「楊兄,你使楊家槍法,這獵叉還將就用得。你義兄使的是一對短戟,兵刃可太不就手了,因此你擋在他身前。好好,有義氣!」楊鐵心給他說穿了心事,不由得有些手足無措。曲三又道:「郭兄,就算你有雙戟在手,你們兩位合力,鬥得過我嗎?」   郭嘯天搖頭道:「鬥不過!我兄弟倆當真有眼無珠,跟你老兄在牛家村同住了這麼些年,全沒瞧出你老兄是一位身懷絕技的高手。」   曲三搖搖頭,嘆了口氣,說道:「我雙腿已廢,還說得上甚麼絕技不絕技?」似乎十分的意興闌珊,又道:「若在當年,要料理這三個宮中的帶刀侍衛,又怎用得著如此費事?唉,不中用了,不中用了。」郭楊二人對望一眼,不敢接口。曲三道:「請兩位幫我跛子一個忙,將這三具屍首埋了,行不行?」郭楊二人又對望一眼,楊鐵心道:「行!」   二人用獵叉在地下掘了個大坑,將三具屍體搬入。搬到最後一具時,楊鐵心見那個黑色的盤形之物兀自嵌在那武官後腦,深入數寸,於是右手運勁,拔了出來,著手重甸甸地,原來是個鐵鑄的八卦,在屍身上拭去了血漬,拿過去交給曲三。   曲三道:「勞駕!」將鐵八卦收入囊中,解下外袍攤在地下,撿起散落的各物,一一放入袍中包起。郭楊二人搬土掩埋屍首,斜眼看去,見有三個長長的捲軸,另有不少亮晶晶的金器玉器。曲三留下一把金壺、一隻金盃不包入袍中,分別交給郭楊二人,道:「這些物事,是我去臨安皇宮中盜來的。皇帝害苦了百姓,拿他一些從百姓身上搜刮來的金銀,算不得是賊贓。這兩件金器,轉送給了兩位。」   郭楊二人聽說他竟敢到皇宮中去劫盜大內財物,不由得驚呆了,都不敢伸手去接。   曲三厲聲道:「兩位是不敢要呢?還是不肯要?」郭嘯天道:「我們無功不受祿,不能受你的東西。至於今晚之事,我兄弟倆自然決不洩漏一字半句,老兄儘管放心。」曲三道:「哼,我怕你們洩漏了秘密?你二人的底細,我若非早就查得清清楚楚,今晚豈能容你二位活著離開?郭兄,你是梁山泊好漢地佑星賽仁貴郭盛的後代,使的是家傳戟法,只不過變長為短,化單為雙。楊兄,你祖上楊再興是岳爺爺麾下的名將。你二位是忠義之後,北方淪陷,你二人流落江湖,其後八���為交,義結金蘭,一起搬到牛家村來居住。是也不是?」
  郭楊二人聽他將自己身世來歷說得一清二楚,更是驚訝無比,只得點頭稱是。   曲三道:「你二位的祖宗郭盛和楊再興,本來都是綠林好漢,後來才歸順朝廷,為大宋出力。劫盜不義之財,你們的祖宗都幹過了的。這兩件金器,到底收是不收?」楊鐵心尋思:「若是不收,定然得罪了他。」只得雙手接過,說道:「如此多謝了!」   曲三霽然色喜,提起包裹縛在背上,說道:「回家去吧!」   當下三人並肩出林。曲三道:「今晚大有所獲,得到了道君皇帝所畫的兩幅畫,又有他寫的一張字。這傢伙做皇帝不成,翎毛丹青,瘦金體的書法,卻委實是妙絕天下。」   郭楊二人也不懂甚麼叫作「翎毛丹青」與「瘦金體書法」,只唯唯而應。   走了一會,楊鐵心道:「日間聽那說話的先生言道,我大宋半壁江山,都送在這道君皇帝手裡,他畫的畫、寫的字,又是甚麼好東西了?老兄何必干冒大險,巴巴的到皇宮去盜了出來?」曲三微笑道:「這個你就不懂了。」郭嘯天道:「這道君皇帝既然畫得一筆好畫,寫得一手好字,定是聰明得很的,只可惜他不專心做皇帝。我小時候聽爹爹說,一個人不論學文學武,只能專心做一件事,倘若東也要抓,西也要摸,到頭來定然一事無成。」   曲三道:「資質尋常之人,當然是這樣,可是天下盡有聰明絕頂之人,文才武學,書畫琴棋,算數韜略,以至醫卜星相,奇門五行,無一不會,無一不精!只不過你們見不著罷了。」說著抬起頭來,望著天邊一輪殘月,長嘆一聲。   月光映照下,郭楊二人見他眼角邊忽然滲出了幾點淚水。   郭楊二人回到家中,將兩件金器深深埋入後院地下,對自己妻室也不吐露半句。兩人此後一如往日,耕種打獵為生,閒來習練兵器拳腳,便只兩人相對之時,也決不提及此事。兩人有時也仍去小酒店對飲幾壺,那跛子曲三仍是燙上酒來,端來蠶豆、花生等下酒之物,然後一蹺一拐的走開,坐在門邊,對著大江自管默默想他的心事,那晚林中夜鬥,似乎從來就不曾有過。但郭楊二人瞧向他的眼色,自不免帶上了幾分敬畏之意。   秋盡冬來,過一天冷似一天。這一日晚間颳了半夜北風,便下起雪來。第二日下得更大,銀絮飛天,瓊瑤匝地,四下里都白茫茫地。楊鐵心跟渾家包氏說了,今晚整治酒餚,請義兄夫婦過來飲酒賞雪。吃過中飯後,他提了兩個大葫蘆,到村頭酒店去沽酒,到得店前,卻見一對板門關得緊緊地,酒簾也收了起來。   楊鐵心打了幾下門,叫道:「曲三哥,跟你沽三斤酒。」卻不聽得應聲。隔了一會,他又叫了幾聲,屋內仍無應聲,走到窗邊向內一張,只見桌上灰塵積得厚厚地,心想:「幾天沒到村頭來,原來曲三已有幾天不在家了。可別出了事才好。」當下只得衝風冒雪,到五里外的紅梅村去買了酒,就便又買了一隻雞,回到家來,把雞殺了,請渾家整治。   他渾家包氏,閨名惜弱,便是紅梅村私塾中教書先生的女兒,嫁給楊鐵心還不到兩年。當晚包氏將一隻雞和著白菜、豆腐、粉絲放入一隻大瓦罐中,在炭火上熬著,再切了一盤臘魚臘肉。到得傍晚,到隔壁去請郭嘯天夫婦飲酒。   郭嘯天欣然過來。他渾家李氏卻因有了身孕,這幾日只是嘔酸,吃了東西就吐,便推辭不來。李氏的閨名單字一個萍字,包惜弱和她有如姊妹一般,兩人在房中說了好一陣子話。包惜弱給她泡了一壺熱茶,這才回家來張羅,卻見丈夫和郭嘯天把炭爐搬在桌上,燙了酒,兩人早在吃喝了。   郭嘯天道:「弟妹,我們不等你了。快來請坐。」郭楊二人交好,又都是豪傑之士,鄉下人家更不講究甚麼男女避嫌的禮法。包惜弱微笑答應,在炭爐中添了些炭,拿一隻酒杯來斟了酒,坐在丈夫下首,見兩人臉上都是氣忿忿地,笑問:「又有甚麼事,惹得哥兒倆生氣了?」楊鐵心道:「我們正在說臨安朝廷中的混帳事。」   郭嘯天道:「昨兒我在眾安橋頭喜雨閣茶樓,聽人談到韓侂胄這賊宰相的事。那人說得有頭有尾,想來不假。他說不論那一個官員上書稟報,公文上要是不註明『並獻某某物』的字樣,這賊宰相壓根兒就不瞧他的文書。」楊鐵心嘆道:「有這樣的皇帝,就有這樣的宰相;有這樣的宰相,就有這樣的官吏。臨安湧金門外的黃大哥跟我說,有一日他正在山邊砍柴,忽然見到大批官兵擁著一群官兒們過來,卻是韓宰相帶了百官到郊外遊樂,他自管砍柴,也不理會。忽聽得那韓侂胄嘆道:『這裡竹籬茅舍,真是絕妙的山野風光,就可惜少了些雞鳴犬吠之聲!』他話剛說完不久,忽然草叢裡汪汪汪的叫了起來。」包惜弱笑道:「這狗兒倒會湊趣!」楊鐵心道:「是啊,真會湊趣。那狗子叫了一會,從草叢裡鑽將出來,你道是甚麼狗子?卻原來是咱們臨安府的堂堂府尹趙大人。」包惜弱笑彎了腰,直叫:「啊喲!」郭嘯天道:「趙大人這一扮狗叫,指日就要高昇。」楊鐵心道:「這個自然。」   三人喝了一會酒,只見門外雪下得更大了。熱酒下肚,三人身上都覺得暖烘烘地,忽聽得東邊大路上傳來一陣踏雪之聲,腳步起落極快,三人轉頭望去,卻見是個道士。   那道士頭戴斗笠,身披簑衣,全身罩滿了白雪,背上斜插一柄長劍,劍把上黃色絲絛在風中左右飛揚,風雪滿天,大步獨行,實在氣概非凡。郭嘯天道:「這道士身上很有功夫,看來也是條好漢。只沒個名堂,不好請教。」楊鐵心道:「不錯,咱們請他進來喝幾杯,交交這個朋友。」兩人都生性好客,當即離座出門,卻見那道人走得好快,晃眼之間已在十餘丈外,卻也不是發足奔跑,如此輕功,實所罕見。   兩人對望了一眼,都感驚異。楊鐵心揚聲大叫:「道長,請留步!」喊聲甫歇,那道人倏地回身,點了點頭。楊鐵心道:「天凍大雪,道長何不過來飲幾杯解解寒氣?」   那道人冷笑一聲,健步如飛,頃刻間來到門外,臉上滿是鄙夷不屑之色,冷然道:「叫我留步,是何居心?爽爽快快說出來罷!」   楊鐵心心想我們好意請你喝酒,你這道人卻恁地無禮,當下揚頭不睬。郭嘯天抱拳道:「我們兄弟正自烤火飲酒,見道長冒寒獨行,斗膽相邀,衝撞莫怪。」那道人雙眼一翻,朗聲道:「好好好,喝酒就喝酒!」大踏步進來。   楊鐵心更是氣惱,伸手一把抓住他左腕,往外一帶,喝道:「還沒請教道長法號。」陡然間忽覺那道人的手滑如游魚,竟從自己手掌中溜出,知道不妙,正待退開,突然手腕上一緊,已被那道人反手抓住,霎時之間,便似被一個鐵圈牢牢箍住,又疼又熱,疾忙運勁抵禦,那知整條右臂已然酸麻無力,腕上奇痛徹骨。   郭嘯天見義弟忽然滿臉脹得通紅,知他吃虧,心想本是好意結交,倘若貿然動手,反得罪了江湖好漢,忙搶過去道:「道長請這邊坐!」那道人又是冷笑兩聲,放脫了楊鐵心的手腕,走到堂上,大模大樣的居中而坐,說道:「你們兩個明明是山東大漢,卻躲在這裡假扮臨安鄉農,只可惜滿口山東話卻改不了。莊稼漢又怎會武功?」   楊鐵心又窘又怒,走進內室,在抽屜裡取了一柄匕首,放在懷裡,這才回到內堂上,篩了三杯酒,自己乾了一杯,默然不語。   那道人望著門外大雪,既不飲酒,也不說話,只是微微冷笑。郭嘯天見他滿臉敵意,知他定是疑心酒中作了手腳,取過道人面前酒杯,將杯中酒一口乾了,說道:「酒冷得快,給道長換一杯熱的。」說著又斟了一杯,那道人接過一口喝了,說道:「酒裡就是有蒙汗藥,也迷我不倒。」楊鐵心更是焦躁,發作道:「我們好意請你飲酒,難道起心害你?你這道人說話不三不四,快請出去吧。我們的酒不會酸了,菜又不會臭了沒人吃。」   那道人「哼」了一聲,也不理會,取過酒壺,自斟自酌,連乾三杯,忽地解下簑衣斗笠,拋在地下。楊郭兩人細看時,只見他三十餘歲年紀,雙眉斜飛,臉色紅潤,方面大耳,目光炯炯照人。他跟著解下背上革囊,往桌上一倒,咚的一聲,楊郭二人都跳起身來。原來革囊中滾出來的,竟是一個血肉模糊的人頭。
  包惜弱驚叫:「哎唷!」逃進了內堂。楊鐵心伸手去摸懷中匕首,那道人將革囊又是一抖,跌出兩團血肉模糊的東西來,一個是心,一個是肝,看來不像是豬心豬肝,只怕便是人心人肝。楊鐵心喝道:「好賊道!」匕首出懷,疾向那道人胸口刺去。   道人冷笑道:「鷹爪子,動手了嗎?」左手掌緣在他手腕上一擊。楊鐵心腕上一陣酸麻,五指登時無力,匕首已被他夾手奪去。   郭嘯天在旁看得大驚,心想義弟是名將之後,家傳的武藝,平日較量武功,自己尚稍遜他一籌,這道人卻竟視他有如無物,剛才這一手顯然是江湖上相傳的「空手奪白刃」絕技,這功夫只曾聽聞,可從來沒見過,當下惟恐義弟受傷,俯身舉起板凳,只待道人匕首刺來,就舉凳去擋。   誰知那道人並不理會,拿起匕首一陣亂剁,把人心人肝切成碎塊,跟著一聲長嘯,聲震屋瓦,提起右手,一掌劈將下來,騰的一聲,桌上酒杯菜盆都震得跳了起來,看那人頭時,已被他手掌擊得頭骨碎裂,連桌子中間也裂開一條大縫。   兩人正自驚疑不定,那道人喝道:「無恥鼠輩,道爺今日大開殺戒了!」   楊鐵心怒極,那裡還忍耐得住,抄起靠在屋角裡的鐵槍,搶到門外雪地裡,叫道:「來來來,教你知道楊家槍法的厲害。」那道人微微冷笑,說道:「憑你這為虎作倀的公門鼠輩也配使楊家槍!」縱身出門。   郭嘯天見情勢不妙,奔回家去提了雙戟,只見那道人也不拔劍,站在當地,袍袖在朔風裡獵獵作響。楊鐵心喝道:「拔劍吧!」那道人道:「你們兩個鼠輩一齊上來,道爺也只是空手對付。」   楊鐵心使個旗鼓,一招「毒龍出洞」,槍上紅纓抖動,捲起碗大槍花,往道人心口直搠過去。那道人一怔,讚道:「好!」身隨槍走,避向左側,左掌翻轉,逕自來抓槍頭。   楊鐵心在這桿槍上曾苦下幼功,深得祖傳技藝。要知楊家槍非同小可,當年楊再興憑一桿鐵槍,率領三百宋兵在小商橋大戰金兵四萬,奮力殺死敵兵二千餘名,刺殺萬戶長撒八孛堇、千戶長、百戶長一百餘人,其時金兵箭來如雨,他身上每中一枝敵箭,隨手折斷箭桿再戰,最後馬陷泥中,這才力戰殉國。金兵焚燒他的屍身,竟燒出鐵箭頭二升有餘。這一仗殺得金兵又敬又怕,楊家槍法威震中原。   楊鐵心雖然不及先���威勇,卻也已頗得槍法心傳,只見他攢、刺、打、挑、攔、搠、架、閉,槍尖銀光閃閃,槍纓紅光點點,好一路槍法!   楊鐵心把那槍使發了,招數靈動,變幻巧妙。但那道人身隨槍走,趨避進退,卻那裡刺得著他半分?七十二路楊家槍法堪堪使完,楊鐵心不禁焦躁,倒提鐵槍,回身便走,那道人果然發足追來。楊鐵心大喝一聲,雙手抓住槍柄,陡然間擰腰縱臂,回身出槍,直刺道人面門,這一槍剛猛狠疾,正是楊家槍法中臨陣破敵、屢殺大將的一招「回馬槍」。當年楊再興在降宋之前與岳飛對敵,曾以這一招刺殺岳飛之弟岳翻,端的厲害無比。   那道人見一瞬間槍尖已到面門,叫聲:「好槍法!」雙掌合攏,啪的一聲,已把槍尖挾在雙掌之間。楊鐵心猛力挺槍往前疾送,竟是紋絲不動,不由得大驚,奮起平生之力往裡奪回,槍尖卻如已鑄在一座鐵山之中,那裡更拉得回來?他脹紅了臉連奪三下,槍尖始終脫不出對方雙掌的挾持。那道人哈哈大笑,右掌忽然提起,快如閃電般在槍身中間一擊,格的一聲,楊鐵心只覺虎口劇痛,急忙撒手,鐵槍已摔在雪地之中。   那道人笑道:「你使的果然是楊家槍法,得罪了。請教貴姓。」楊鐵心驚魂未定,隨口答道:「在下姓楊,草字鐵心。」道人道:「楊再興楊將軍是閣下祖上嗎?」楊鐵心道:「那是先曾祖。」   那道人肅然起敬,抱拳道:「適才誤以為兩人乃是歹人,多有得罪,卻原來竟是忠良之後,實是失敬,請教這位高姓。」郭嘯天道:「在下姓郭,賤字嘯天。」楊鐵心道:「他是我的義兄,是梁山泊好漢賽仁貴郭盛頭領的後人。」那道人道:「貧道可真魯莽了,這裡謝過。」說著又施了一禮。   郭嘯天與楊鐵心一齊還禮,說道:「好說,好說,請道長入內再飲三杯。」楊鐵心一面說,一面拾起鐵槍。道人笑道:「好!正要與兩位喝個痛快!」   包惜弱掛念丈夫與人爭鬥,提心吊膽的站在門口觀看,見三人釋兵言歡,心中大慰,忙入內整治杯盤。   三人坐定,郭楊二人請教道人法號。道人道:「貧道姓丘名處機……」楊鐵心叫了一聲:「啊也!」跳起身來。郭嘯天也吃了一驚,叫道:「遮莫不是長春子嗎?」丘處機笑道:「這是道侶相贈的賤號,貧道愧不敢當。」郭嘯天道:「原來是全真派大俠長春子,真是有幸相見。」兩人撲地便拜。   丘處機急忙扶起,笑道:「今日我手刃了一個奸人,官府追得甚緊,兩位忽然相招飲酒,這裡是帝王之都,兩位又不似是尋常鄉民,是以起了疑心。」郭嘯天道:「我這兄弟性子急躁,進門時試了道長一手,那是更惹道長起疑了。」丘處機道:「常人手上那有如此勁力?我只道兩位必是官府的鷹犬,喬裝改扮,在此等候,要捉拿貧道。適才言語無禮,實是魯莽得緊。」楊鐵心笑道:「不知不怪。」三人哈哈大笑。   三人喝了幾杯酒。丘處機指著地下碎裂的人頭,說道:「這人名叫王道乾,是個大大的漢奸。去年皇帝派他去向金主慶賀生辰,他竟與金人勾結,圖謀侵犯江南。貧道追了他十多天,才把他幹了。」楊郭二人久聞江湖上言道,長春子丘處機武功卓絕,為人俠義,這時見他一片熱腸,為國除奸,更是敬仰。兩人乘機向他討教些功夫,丘處機詳為點撥。   楊家槍法雖是兵家絕技,用於戰場上衝鋒陷陣,固是所向無敵,當者披靡,但以之與武學高手對敵,畢竟頗為不足。丘處機內外兼修,武功雖然尚未登峰造極,卻也已臻甚高境界,楊鐵心又如何能與他拆上數十招之多?卻是丘處機見他出手不凡,心中暗暗稱奇,有意引得他把七十二路槍法使完,以便確知他是否楊家嫡傳,要是真的對敵,數招之間就已把他鐵槍震飛了;當下說明這路槍法的招數本意用於馬上,若是步戰,須當更求變化,不可拘泥成法。楊郭二人聽得不住點頭稱是。楊家槍是傳子不傳女的絕藝,丘處機所知雖博,卻也不明槍法中的精奧,當下也向楊鐵心請教了幾招。   三人酒酣耳熱,言談甚是投機。楊鐵心道:「我們兄弟兩人得遇道長,真是平生幸事。道長可能在舍下多盤桓幾日麼?」丘處機正待答話,忽然臉色一變,說道:「有人來找我了。不管遇上甚麼事,你們無論如何不可出來,知道麼?」郭楊二人點頭答應。丘處機俯身拾起人頭,開門出外,飛身上樹,躲在枝葉之間。   郭楊二人見他舉動奇特,茫然不解。這時萬籟無聲,只聽得門外朔風虎虎,過了一陣,西面傳來隱隱的馬蹄之聲,楊鐵心道:「道長的耳朵好靈。」又想:「這位道長的武功果然是高得很了,但若與那跛子曲三相比,卻不知是誰高誰下?」又過一會,馬蹄聲越來越近,只見風雪中十餘騎急奔而來,乘客都是黑衣黑帽,直衝到門前。   當先一人突然勒馬,叫道:「足跡到此為止。剛才有人在這裡動過手。」後面數人翻身下馬,察看雪地上的足跡。   為首那人叫道:「進屋去搜!」便有兩人下馬,來拍楊家大門。突然間樹上擲下一物,砰的一聲,正打在那人頭上。這一擲勁力奇大,那人竟被此物撞得腦漿迸裂而死。眾人一陣大嘩,幾個人圍住了大樹。一人拾起擲下之物,驚叫:「王大人的頭!」   為首那人抽出長刀,大聲吆喝,十餘人把大樹團團圍住。他又是一聲口令,五個人彎弓搭箭,五枝羽箭齊向丘處機射去。   楊鐵心提起鐵槍要出屋助戰,郭嘯天一把拉住,低聲道:「道長叫咱們別出去。要是他寡不敵眾,咱們再出手不遲。」話聲甫畢,只見樹上一枝羽箭飛將下來,卻是丘處機閃開四箭,接住了最後一箭,以甩手箭手法投擲下來,只聽得「啊」的一聲,一名黑衣人中箭落馬,滾入了草叢之中。   丘處機拔劍躍下,劍光起處,兩名黑衣人已然中劍。為首的黑衣人叫道:「好賊道,原來是你!」刷刷刷三枝短弩隨手打出,長刀劈風,勒馬衝來。丘處機劍光連閃,又是兩人中劍落馬。楊鐵心只看得張大了口合不攏來,心想自己也練得十年武藝,但這位道爺出劍如此快法,別說抵擋,連瞧也沒能瞧清楚,剛才如不是他手下容情,自己早就死於非命了。   但見丘處機來去如風,正和騎馬使刀那人相鬥,那使刀的也甚了得,一柄刀遮架砍劈,甚為威猛。再鬥一陣,郭楊兩人已看出丘處機存心與他纏鬥,捉空兒或出掌擊、或以劍刺,殺傷對方一人,用意似要把全部來敵一鼓殲滅,生怕傷了為頭之人,餘黨一哄而散,那就不易追殺了。   只過半頓飯時間,來敵已只賸下六七名。那使刀的知道不敵,一聲呼哨,雙腿一夾,撥轉馬頭就逃。丘處機左掌前探,已拉住他的馬尾,手上一用勁,身子倏地飛起,還未躍上馬背,一劍已從他後心插進,前胸穿出。丘處機拋下敵屍,勒韁控馬,四下兜截趕殺,只見鐵蹄翻飛,劍光閃爍,驚呼駭叫聲中,一個個屍首倒下,鮮血把白雪皚皚的大地片片染紅。   丘處機提劍四顧,惟見一匹匹空馬四散狂奔,再無一名敵人賸下,他哈哈大笑,向郭楊二人招手道:「殺得痛快嗎?」   郭楊二人開門出來,神色間驚魂未定。郭嘯天道:「道長,那是些甚麼人?」丘處機道:「你在他們身上搜搜。」   郭嘯天往那持刀人身上抄摸,掏出一件公文來,抽出來看時,卻是那裝狗叫的臨安府趙知府所發的密令,內稱大金國使者在臨安府坐索殺害王道乾的兇手,著令捕快會同大金國人員,剋日拿捕兇手歸案。郭嘯天正自看得憤怒,那邊楊鐵心也叫了起來,手裡拿著幾塊從屍身上撿出來的腰牌,上面刻著金國文字,卻原來這批黑衣人中,有好幾人竟是金兵。   郭嘯天道:「敵兵到咱們國境內任意逮人殺人,我大宋官府竟要聽他們使者的號令,那還成甚麼世界?」楊鐵心嘆道:「大宋皇帝既向金國稱臣,我文武百官還不都成了金人的奴才嗎?」丘處機恨恨的道:「出家人本應慈悲為懷,可是一見了害民奸賊、敵國仇寇,貧道竟是不能手下留情。」郭楊二人齊聲道:「殺得好,殺得好!」   小村中居民本少,天寒大雪,更是無人外出,就算有人瞧見,也早逃回家去閉戶不出,誰敢過來察看詢問?楊鐵心取出鋤頭鐵鍬,三人把十餘具屍首埋入一個大坑之中。   ※※※   包惜弱拿了掃帚掃除雪上血跡,掃了一會,突覺血腥之氣直衝胸臆,眼前一陣金星亂冒,呀的一聲,坐倒在雪地之中。楊鐵心吃了一驚,忙搶過扶起,連聲問道:「怎麼?」包惜弱閉目不答。楊鐵心見她臉如白紙,手足冰冷,心裡十分驚惶。   丘處機過來拿住包惜弱右手手腕,一搭脈搏,大聲笑道:「恭喜,恭喜!」楊鐵心愕然道:「甚麼?」這時包惜弱「嚶」了一聲,醒了過來,見三個男人站在身周,不禁害羞,忙回進屋內。   丘處機微笑道:「尊夫人有喜啦!」楊鐵心喜道:「當真?」丘處機笑道:「貧道平生所學,稍足自慰的只有三件。第一是醫道,煉丹不成,於藥石倒因此所知不少。第二是做幾首歪詩,第三才是這幾手三腳貓的武藝。」郭嘯天道:「道長這般驚人的武功若是三腳貓,我兄弟倆只好說是獨腳老鼠了!」三人一面說笑,一面掩埋屍首。掩埋完畢後入屋重整杯盤。丘處機今日一舉殺了不少金人,大暢心懷,意興甚豪。   楊鐵心想到妻子有了身孕,笑吟吟的合不攏口來,心想:「這位道長會做詩,那是文武雙全了。」說道:「郭大嫂也懷了孩子,就煩道長給取兩個名字好麼?」丘處機微一沉吟,說道:「郭大哥的孩子就叫郭靖,楊二哥的孩子叫作楊康,不論男女,都可用這兩個名字。」郭嘯天道:「好,道長的意思是叫他們不忘靖康之恥,要記得二帝被虜之辱。」   丘處機道:「正是!」伸手入懷,摸出兩柄短劍來,放在桌上。這對劍長短形狀完全相同,都是綠皮鞘、金吞口、烏木的劍柄。他拿起楊鐵心的那柄匕首,在一把短劍的劍柄上刻了「郭靖」兩字,在另一把短劍上刻了「楊康」兩字。   郭楊二人見他運劍如飛,比常人寫字還要迅速,剛剛明白他的意思,丘處機已刻完了字,笑道:「客中沒帶甚麼東西,這對短劍,就留給兩個還沒出世的孩子吧。」郭楊兩人謝了接過,抽劍出鞘,只覺冷氣森森,劍刃鋒利之極。   丘處機道:「這對短劍是我無意之中得來的,雖然鋒銳,但劍刃短了,貧道不合使,將來孩子們倒可用來殺敵防身。十年之後,貧道如尚苟活人世,必當再來,傳授孩子們幾手功夫,如何?」郭楊二人大喜,連聲稱謝。丘處機道:「金人竊據北方,對百姓暴虐之極,其勢必不可久。兩位好自為之吧。」舉起酒杯,一飲而盡,開門走出。郭楊二人待要相留,卻見他邁步如飛,在雪地裡早已去得遠了。   郭嘯天嘆道:「高人俠士總是這樣來去飄忽,咱們今日雖有幸會見,想多討教一點,卻是無緣。」楊鐵心笑道:「大哥,道長今日殺得好痛快,也給咱們出了一口悶氣。」拿著短劍,拔出鞘來摩挲劍刃,忽道:「大哥,我有個傻主意,你瞧成不成?」   郭嘯天道:「怎麼?」楊鐵心道:「要是咱們的孩子都是男兒,那麼讓他們結為兄弟,倘若都是女兒,就結為姊妹……」郭嘯天搶著道:「若是一男一女,那就結為夫妻。」兩人雙手一握,哈哈大笑。   包惜弱從內堂出來,笑問:「甚麼事樂成這個樣子?」楊鐵心把剛才的話說了。包惜弱臉上一紅,心中也甚樂意。   楊鐵心道:「咱們先把這對短劍掉換了再說,就算是文定之禮。如是兄弟姊妹,咱們再換回來。要是小夫妻麼……」郭嘯天笑道:「那麼對不起得很,兩柄劍都到了做哥哥的家裡啦!」包惜弱笑道:「說不定都到做兄弟的家裡呢。」當下郭楊二人換過了短劍。其時指腹為婚,事屬尋常,兩個孩子未出娘胎,雙方父母往往已代他們定下了終身大事。   郭嘯天當下拿了短劍,喜孜孜的回家去告知妻子。李萍聽了也是歡喜。   ※※※   楊鐵心把玩短劍,自斟自飲,不覺大醉。包惜弱將丈夫扶上了床,收拾杯盤,見天色已晚,到後院去收雞入籠,待要去關後門,只見雪地裡點點血跡,橫過後門。她吃了一驚,心想:「原來這裡還有血跡沒打掃乾淨,要是給官府公差見到,豈不是天大一樁禍事?」忙拿了掃帚,出門掃雪。   那血跡直通到屋後林中,雪地上留著有人爬動的痕跡,包惜弱愈加起疑,跟著血跡走進松林,轉到一座古墳之後,只見地下有黑黝黝的一團物事。   包惜弱走近一看,赫然是具屍首,身穿黑衣,就是剛才來捉拿丘處機的人眾之一,想是他受傷之後,一時未死,爬到了這裡。她正待回去叫醒丈夫出來掩埋,忽然轉念:「別鬼使神差的,偏偏有人這時過來撞見。」鼓起勇氣,過去拉那屍首,想拉入草叢之中藏起,再去叫丈夫。不料她伸手一拉,那屍首忽然扭動,跟著一聲呻吟。   包惜弱這一下嚇得魂飛天外,只道是殭屍作怪,轉身要逃,可是雙腳就如釘在地上一般,再也動彈不得。隔了半晌,那屍首並不再動,她拿掃帚去輕輕碰觸一下,那屍首又呻吟了一下,聲音甚是微弱。她才知此人未死。定睛看時,見他背後肩頭中了一枝狼牙利箭,深入肉裡,箭枝上染滿了血污。天空雪花兀自不斷飄下,那人全身已罩上了薄薄一層白雪,只須過得半夜,便凍也凍死了。   她自幼便心地仁慈,只要見到受了傷的麻雀、田雞、甚至蟲豸螞蟻之類,必定帶回家來妥為餵養,直到傷癒,再放回田野,若是醫治不好,就會整天不樂,這脾氣大了仍舊不改,以致屋子裡養滿了諸般蟲蟻、小禽小獸。她父親是個屢試不第的村學究,按著她性子給她取個名字,叫作惜弱。紅梅村包家老公雞老母雞特多,原來包惜弱飼養雞雛之後,決不肯宰殺一隻,父母要吃,只有到市上另買,是以家裡每隻小雞都是得享天年,壽終正寢。她嫁到楊家以後,楊鐵心對這位如花似玉的妻子十分憐愛,事事順著她的性子,楊家的後院裡自然也是小鳥小獸的天下了。後來楊家的小雞小鴨也慢慢變成了大雞大鴨,只是她嫁來未久,家中尚未出現老雞老鴨,但大勢所趨,日後自必如此。   這時她見這人奄奄一息的伏在雪地之中,慈心登生,明知此人並非好人,但眼睜睜的見他痛死凍死,心下無論如何不忍。她微一沉吟,急奔回屋,要叫醒丈夫商量,無奈楊鐵心大醉沉睡,推他只是不動。   包惜弱心想,還是救了那人再說,當下撿出丈夫的止血散金創藥,拿了小刀碎布,在灶上提了半壺熱酒,又奔到墳後。那人仍是伏著不動。包惜弱扶他起來,把半壺熱酒給他慢慢灌入嘴裡。她自幼醫治小鳥小獸慣了的,對醫傷倒也有點兒門道,見這一箭射得極深,一拔出來只怕當時就要噴血斃命,但如不把箭拔出,終不可治,於是咬緊牙關,用鋒利小刀割開箭旁肌肉,拿住箭桿,奮力向外一提。那人慘叫一聲,暈死了過去,創口鮮血直噴,只射得包惜弱胸前衣襟上全是血點,那枝箭終於拔了出來。
  包惜弱心中突突亂跳,忙拿止血散按在創口,用布條緊緊紮住。過了一陣,那人悠悠醒來,可是疲弱無力,連哼都哼不出聲。   包惜弱嚇得手酸足軟,實在扶不動這個大男人,靈機一動,回家拿了塊門板,把那人拉到板上,然後在雪地上拖動門板,就像一輛雪車般將他拖回家中,將他安置在柴房之中。   她忙了半日,這時心神方定,換下污衣,洗淨手臉,從瓦罐中倒出一碗適才沒喝完的雞湯,一手拿了燭台,再到柴房去瞧那漢子。見那人呼吸細微,並未斷氣。包惜弱心中甚慰,把雞湯餵他。那人喝了半碗,忽然劇烈咳嗽起來。   包惜弱吃了一驚,舉起燭台一瞧,燭光下只見這人眉清目秀,鼻樑高聳,竟是個相貌俊美的青年男子。她臉上一熱,左手微顫,晃動了燭台,幾滴燭油滴在那人臉上。   那人睜開眼來,驀見一張芙蓉秀臉,雙頰暈紅,星眼如波,眼光中又是憐惜,又是羞澀,當前光景,宛在夢中,不禁看得呆了。   包惜弱低聲道:「好些了嗎?把這碗湯喝了吧。」那人伸手要接,但手上無力,險些把湯全倒在身上。包惜弱搶住湯碗,這時救人要緊,只得餵著他一口一口的喝了。   那人喝了雞湯後,眼中漸漸現出光采,凝望著她,顯是不��感激。包惜弱倒給他瞧得有��不好意思了,拿了幾捆稻草給他蓋上,持燭回房。   這一晚再也睡不安穩,連做了幾個噩夢,忽見丈夫一槍把柴房中那人刺死,又見那人提刀殺了丈夫,卻來追逐自己,四面都是深淵,無處可以逃避,幾次都從夢中驚醒,嚇得身上都是冷汗。待得天明起身,丈夫早已下床,只見他拿著鐵槍,正用磨刀石磨礪槍頭,包惜弱想起夜來夢境,嚇了一跳,忙走去柴房,推開門來,一驚更甚,原來裡面只賸亂草一堆,那人已不知去向。   她奔到後院,只見後門虛掩,雪地裡赫然是一行有人連滾帶爬向西而去的痕跡。她望著那痕跡,不覺怔怔的出了神。過了良久,一陣寒風撲面吹來,忽覺腰酸骨軟,十分睏倦。回到前堂,楊鐵心已燒好了白粥,放在桌上,笑道:「你瞧,我燒的粥還不錯吧?」包惜弱知道丈夫因自己懷了身孕,是以特別體惜,一笑而坐,端起粥碗吃了起來。她想若把昨晚之事告知丈夫,他嫉惡如仇,定會趕去將那人刺死,豈不是救人沒救徹?當下絕口不提。   ※※※   忽忽臘盡春回,轉眼間過了數月,包惜弱腰圍漸粗,愈來愈感慵困,於那晚救人之事也漸漸淡忘了。   這日楊氏夫婦吃過晚飯,包惜弱在燈下給丈夫縫套新衫褲。楊鐵心打好了兩雙草鞋,把草鞋掛到牆上,記起日間耕田壞了犁頭,對包惜弱道:「犁頭損啦,明兒叫東村的張木兒加一斤半鐵,打一打。」包惜弱道:「好!」楊鐵心瞧著妻子,說道:「我衣衫夠穿啦!你身子弱,又有了孩子,好好兒多歇歇,別再給我做衣裳。」包惜弱轉過頭來一笑,卻不停針。楊鐵心走過去,輕輕拿起她針線。包惜弱這才伸了個懶腰,熄燈上床。   睡到午夜,包惜弱矇矓間忽聽丈夫陡然坐起身來,一驚而醒,只聽得遠處隱隱有馬蹄之聲,聽聲音是從西面東來,過得一陣,東邊也傳來了馬蹄聲,接著北面南面都有了蹄聲。包惜弱坐起身來,道:「怎麼四面都有了馬?」楊鐵心匆匆下床穿衣,片刻之間,四面蹄聲越來越近,村中犬兒都吠叫起來。楊鐵心道:「咱們給圍住啦!」包惜弱驚道:「幹甚麼呀?」楊鐵心道:「不知道。」把丘處機所贈短劍遞給妻子,道:「你拿著防身!」從牆上摘下一桿鐵槍,握在手裡。   這時東南西北人聲馬嘶,已亂成一片,楊鐵心推開窗子外望,只見大隊兵馬已把村子團團圍住,眾兵丁手裡高舉火把,七八名武將騎在馬上往來奔馳。   只聽得眾兵丁齊聲叫喊:「捉拿反賊,莫讓反賊逃了!」楊鐵心尋思:「是來捉拿曲三麼?這幾日卻不見他在村裡,幸好他不在,否則的話,他武功再強,也敵不過這許多兵馬。」忽聽一名武將高聲叫道:「郭嘯天、楊鐵心兩名反賊,快快出來受縛納命。」   楊鐵心大吃一驚,包惜弱更是嚇得臉色蒼白。楊鐵心低聲道:「官家不知為了何事,竟來誣害良民。跟官府是辯不清楚的,咱們只好逃命。你別慌,憑我這桿槍,定能保你衝出重圍。」他一身武藝,又是在江湖上闖蕩過的,這時臨危不亂,掛上箭袋,握住妻子右手。   包惜弱道:「我來收拾東西。」楊鐵心道:「還收拾甚麼?統通不要了。」包惜弱心中一酸,垂下淚來,顫聲道:「我們這家呢?」楊鐵心道:「咱們只要留得性命,我和你自可在別地重整家園。」包惜弱道:「這些小雞小貓呢?」楊鐵心嘆道:「傻孩子,還顧得到牠們麼?」頓了一頓,安慰她道:「官兵又怎會跟你的小雞小貓兒為難。」   一言方畢,窗外火光閃耀,眾兵已點燃了兩間草房,又有兩名兵丁高舉火把來燒楊家屋簷,口中大叫:「郭嘯天、楊鐵心兩個反賊再不出來,便把牛家村燒成了白地。」   楊鐵心怒氣填膺,開門走出,大聲喝道:「我就是楊鐵心!你們幹甚麼?」兩名兵丁嚇了一跳,丟下火把轉身退開。   火光中一名武官拍馬走近,叫道:「好,你是楊鐵心,跟我見官去。拿下了!」四五名兵丁一擁而上。楊鐵心倒轉槍來,一招「白虹經天」,把三名兵丁掃倒在地,又是一招「春雷震怒」,槍柄挑起一兵,摜入了人堆,喝道:「要拿人,先得說說我又犯了甚麼罪。」   那武官罵道:「大膽反賊,竟敢拒捕!」他口中叫罵,但也畏懼對方武勇,不敢逼近。他身後另一名武官叫道:「好好跟老爺過堂去,免得加重罪名。有公文在此。」楊鐵心道:「拿來我看!」那武官道:「還有一名郭犯呢?」   郭嘯天從窗口探出半身,彎弓搭箭,喝道:「郭嘯天在這裡。」箭頭對準了他。   那武官心頭髮毛,只覺背脊上一陣陣的涼氣,叫道:「你把箭放下,我讀公文給你們聽。」郭嘯天厲聲道:「快讀!」把弓扯得更滿了。那武官無奈,拿起公文大聲讀道:「臨安府牛家村村民郭嘯天、楊鐵心二犯,勾結巨寇,圖謀不軌,著即拿問,嚴審法辦。」郭嘯天道:「甚麼衙門的公文?」那武官道:「是韓相爺的手諭。」   郭楊二人都是一驚,均想:「甚麼事這樣厲害,竟要韓侂冑親下手諭?難道丘道長殺死官差的事發了?」郭嘯天道:「誰是首告?有甚麼憑據?」那武官道:「我們只管拿人,你們到府堂上自己分辯去。」楊鐵心叫道:「韓丞相專害無辜好人,誰不知道?我們可不上這個當。」領隊的武官叫道:「抗命拒捕,罪加一等。」   楊鐵心轉頭對妻子道:「你快多穿件衣服,我奪他的馬給你。待我先射倒將官,兵卒自然亂了。」弦聲響處,箭發流星,正中那武官右肩。那武官啊喲一聲,撞下馬來,眾兵丁齊聲發喊,另一名武官叫道:「拿反賊啊!」眾兵丁紛紛衝來。郭楊二人箭如連珠,轉瞬間射倒六七名兵丁,但官兵勢眾,在武官督率下衝到兩家門前。   楊鐵心大喝一聲,疾衝出門,鐵槍起處,官兵驚呼倒退。他縱到一個騎白馬的武官身旁,挺槍刺去,那武官舉槍擋架。豈知楊家槍法變化靈動,他槍桿下沉,那武官腿上早著。楊鐵心舉槍挑起,那武官一個觔鬥倒翻下馬。   楊鐵心槍桿在地下一撐,飛身躍上馬背,雙腿一夾,那馬一聲長嘶,於火光中向屋門奔去。楊鐵心挺槍刺倒門邊一名兵丁,俯身伸臂,把包惜弱抱上馬背,高聲叫道:「大哥,跟著我來!」郭嘯天舞動雙戟,保護著妻子李萍,從人叢中衝殺出來。官兵見二人勢兇,攔阻不住,紛紛放箭。   楊鐵心縱馬奔到李萍身旁,叫道:「大嫂,快上馬!」說著一躍下馬。李萍急道:「使不得。」楊鐵心那裡理她,一把將她攔腰抱起,放上馬背。義兄弟兩人跟在馬後,且戰且走,落荒而逃。   走不多時,突然前面喊聲大作,又是一彪軍馬衝殺過來。郭楊二人暗暗叫苦,待要覓路奔逃,前面羽箭颼颼射來。包惜弱叫了一聲:「啊喲!」坐騎中箭跪地,把馬背上兩個女子都拋下馬來。楊鐵心道:「大哥,你護著她們,我再去搶馬!」說著提槍往人叢中衝殺過去。十餘名官兵排成一列,手挺長矛對準了楊鐵心,齊聲吶喊。   郭嘯天眼見官兵勢大,心想:「憑我兄弟二人,逃命不難,但前後有敵,妻子是無論如何救不出了。我們又沒犯法,與其白白在這裡送命,不如上臨安府分辯去。上次丘處機道長殺了官兵和金兵,可沒放走了一個,死無對證,諒官府也不能定我們的罪。再說,那些官差、金兵又不是我們兄弟殺的。」當下縱聲叫道:「兄弟,別殺了,咱們就跟他們去!」楊鐵心一呆,拖槍回來。   帶隊的軍官下令停箭,命兵士四下圍住,叫道:「拋下兵器弓箭,饒你們不死。」   楊鐵心道:「大哥,別中了他們的奸計。」郭嘯天搖搖頭,把雙戟往地下一拋。楊鐵心見愛妻嚇得花容失色,心下不忍,嘆了一口氣,也把鐵槍和弓箭擲在地下。郭楊二人的兵器剛一離手,十餘枝長矛的矛頭立刻刺到了四人的身旁。八名士兵走將過來,兩個服侍一個,將四人反手縛住。   楊鐵心嘿嘿冷笑,昂頭不理。帶隊的軍官舉起馬鞭,刷的一鞭,擊在楊鐵心臉上,罵道:「大膽反賊,當真不怕死嗎?」這一鞭只打得他自額至頸,長長一條血痕。楊鐵心怒道:「好,你叫甚麼名字?」那軍官怒氣更熾,鞭子如雨而下,叫道:「老爺行不改姓,坐不改名,姓段名天德,上天有好生之德的天德。記住了麼?你到閻王老子那裡去告狀吧。」楊鐵心毫不退避,圓睜雙眼,凝視著他。段天德喝道:「老爺額頭有刀疤,臉上有青記,都記住了!」說著又是一鞭。   包惜弱見丈夫如此受苦,哭叫:「他是好人,又沒做壞事。你……你幹麼要這樣打人呀?你……你怎麼不講道理?」   楊鐵心一口唾沫,呸的一聲,正吐在段天德臉上。段天德大怒,拔出腰刀,叫道:「先斃了你這反賊!」舉刀摟頭砍將下來。楊鐵心向旁閃過,身旁兩名士兵長矛前挺,抵住他的兩脅。段天德又是一刀,楊鐵心無處可避,只得向後急縮。那段天德倒也有幾分武功,一刀不中,隨即向前一送,他使的是柄鋸齒刀,這一下便在楊鐵心左肩上鋸了一道口子,接著第二刀又劈將下來。   郭嘯天見義弟性命危殆,忽地縱起,飛腳往段天德面門踢去。段天德吃了一驚,收刀招架。郭嘯天雖然雙手被縛,腿上功夫仍是了得,身子未落,左足收轉,右足飛出,正踢在段天德腰裡。   段天德劇痛之下,怒不可遏,叫道:「亂槍戳死了!上頭吩咐了的,反賊若是拒捕,格殺勿論。」眾兵舉矛齊刺。郭嘯天接連踢倒兩兵,終是雙手被縛,轉動不靈,身子閃讓長矛,段天德自後趕上,手起刀落,把他一隻右膀斜斜砍了下來。   楊鐵心正自力掙雙手,急切無法脫縛,突見義兄受傷倒地,心中急痛之下,不知從那裡忽然生出來一股巨力,大喝一聲,繩索繃斷,揮拳打倒一名兵士,搶過一柄長矛,展開了楊家槍法,這時候一夫拚命,萬夫莫當。長矛起處,登時搠翻兩名官兵。段天德見勢頭不好,先自退開。楊鐵心初時尚有顧忌,不敢殺死官兵,這時一切都豁出去了,東挑西打,頃刻間又戳死數兵。眾官兵見他兇猛,心下都怯了,發一聲喊,四下逃散。   楊鐵心也不追趕,扶起義兄,只見他斷臂處血流如泉湧,全身已成了一個血人,不禁垂下淚來。郭嘯天咬緊牙關,叫道:「兄弟,別管我……快,快走!」楊鐵心道:「我去搶馬,拚死救你出去。」郭嘯天道:「不……不……」暈了過去。   楊鐵心脫下衣服,要給他裹傷,但段天德這一刀將他連肩帶胸的砍下,創口占了半個身子,竟是無法包紮。郭嘯天悠悠醒來,叫道:「兄弟,你去救你弟婦與你嫂子,我……我是……不成了……」說著氣絕而死。   楊鐵心和他情逾骨肉,見他慘死,滿腔悲憤,腦海中一閃,便想到了兩人結義時的那句誓言:「但願同年同月同日死。」抬頭四望,自己妻子和郭大嫂在混亂中都已不知去向。他大聲叫道:「大哥,我去給你報仇!」挺矛向官兵隊裡衝去。   官兵這時又已列成隊伍,段天德傳下號令,箭如飛蝗般射來。楊鐵心渾不在意,撥箭疾衝。一名武官手揮大刀,當頭猛砍,楊鐵心身子一矮,突然鑽到馬腹之下。那武官一刀砍空,正待回馬,後心已被一矛刺進。楊鐵心擲開屍首,跳上馬背,舞動長矛。眾官兵那敢接戰,四下奔逃。   他趕了一陣,只見一名武官抱著一個女子,騎在馬上疾馳。楊鐵心飛身下馬,橫矛桿打倒一名兵士,在他手中搶過弓箭,火光中看準那武官坐騎,颼的一箭射去,正中馬臀,馬腿前跪,馬上兩人滾了下來。楊鐵心再是一箭,射死了武官,搶將過去,只見那女子在地下掙紮著坐起身來,正是自己妻子。
  包惜弱乍見丈夫,又驚又喜,撲到了他懷裡。楊鐵心問道:「大嫂呢?」包惜弱道:「在前面,給……給官兵捉去啦!」楊鐵心道:「你在這裡等著,我去救她。」包惜弱驚道:「後面又有官兵追來啦!」   楊鐵心回過頭來,果見一隊官兵手舉火把趕來。楊鐵心咬牙道:「大哥已死,我無論如何要救大嫂出來,保全郭家的骨血。要是天可憐見,你我將來還有相見之日。」包惜弱緊緊摟住丈夫脖子,死不放手,哭道:「咱們永遠不能分離,你說過的,咱們就是要死,也死在一塊!是麼?你說過的。」   楊鐵心心中一酸,抱住妻子親了親,硬起心腸拉脫她雙手,挺矛往前急追,奔出數十步回頭一望,只見妻子哭倒在塵埃之中,後面官兵已趕到她身旁。   楊鐵心伸袖子一抹臉上的淚水、汗水、血水,把生死置之度外,一心只想救出李氏,為義兄保全後代,趕了一陣,又奪到了一匹馬,抓住一名官兵喝問,得知李氏正在前面。   他縱馬疾馳,忽聽得道旁樹林一個女人聲音大叫大嚷,急忙兜轉馬頭,衝入林中,只見李氏雙手已自脫縛,正和兩名兵士廝打。她是農家女子,身子壯健,雖然不會武藝,但這時拚命蠻打,自有一股剛勇,那兩名兵士又笑又罵,一時卻也奈何她不得。楊鐵心更不打話,衝上去一矛一個,戳死了兩兵,把李氏扶上坐騎,兩人同乘,回馬再去找尋妻子。   奔到與包氏分手的地方,卻已無人。此時天色微明,他下馬察看,只見地下馬蹄雜沓,尚有人身拖曳的痕跡,想是妻子又給官兵擄去了。   楊鐵心急躍上馬,雙足在馬腹上亂踢,那馬受痛,騰身飛馳。趕得正急間,忽然道旁號角聲響,衝出十餘名黑衣武士。當先一人舉起狼牙棒往他頭頂猛砸下來。楊鐵心舉矛格開,還了一矛。那人回棒橫掃,棒法奇特,似非中原武術所使家數。   楊鐵心以前與郭嘯天談論武藝,知道當年梁山泊好漢中有一位霹靂火秦明,狼牙棒法天下無雙,但除他之外,武林豪傑使這兵刃的向來極少,因狼牙棒份量沉重,若非有極大膂力不易運用自如。只有金兵將官卻甚喜用,以金人生長遼東苦寒之地,身強力大,兵器沉重,則陣上多佔便宜。當年金兵入寇,以狼牙棒砸擊大宋軍民。眾百姓氣憤之餘,忽然說起笑話來。某甲道:「金兵有甚麼可怕,他們有一物,咱們自有一物抵擋。」某乙道:「金兵有金兀朮。」甲道:「咱們有韓少保。」乙道:「金兵有枴子馬。」甲道:「咱們有麻札刀。」乙道:「金兵有狼牙棒。」甲道:「咱們有天靈蓋。」那天靈蓋是頭頂的腦門,金兵狼牙棒打來,大宋百姓只好用天靈蓋去抵擋,笑謔之中實含無限悲憤。   這時楊鐵心和那使狼牙棒的鬥了數合,想起以前和郭嘯天的談論,越來越是疑心,瞧這人棒法招術,明明是金兵將官,怎地忽然在此現身?又鬥數合,槍招加快,挺矛把那人刺於馬下。餘眾大驚,發喊逃散。   楊鐵心轉頭去看騎在身後的李氏,要瞧她在戰鬥之中有無受傷,突然間樹叢中射出一枝冷箭,楊鐵心不及閃避,這一箭直透後心。李氏大驚,叫道:「叔叔,箭!箭!」楊鐵心心中一涼:「不料我今日死在這裡!但我死前先得把賊兵殺散,好讓大嫂逃生。」當下搖矛狂呼,往人多處直衝過去,但背上箭傷創痛,眼前一團漆黑,昏暈在馬背之上。   ※※※   當時包惜弱被丈夫推開,心中痛如刀割,轉眼間官兵追了上來,待要閃躲,早被幾名士兵擁上一匹坐騎。一個武官舉起火把,向她臉上仔細打量了一會,點點頭,說道:「瞧不出那兩個蠻子倒有點本事,傷了咱們不少兄弟。」另一名武官笑道:「現下總算大功告成,這趟辛苦,每人總有十幾兩銀子賞賜罷。」那武官道:「哼,只盼上頭少剋扣些。」轉頭對號手道:「收隊罷!」那號兵舉起號角,嗚嗚嗚的吹了起來。   包惜弱吞聲飲泣,心中只是掛念丈夫,不知他性命如何。這時天色已明,路上漸有行人,百姓見到官兵隊伍,都遠遠躲了開去。包惜弱起初擔心官兵無禮,那知眾武官居然言語舉止之間頗為客氣,這才稍稍放心。   行不數里,忽然前面喊聲大振,十餘名黑衣人手執兵刃,從道旁衝殺出來,當先一人喝道:「無恥官兵,殘害良民,統通下馬納命。」帶隊的武官大怒,喝道:「何方大膽匪徒,在京畿之地作亂?快滾開些!」一眾黑衣人更不打話,衝入官兵隊裡,雙方混戰起來。官兵雖然人多,但黑衣人個個武藝精熟,一時之間殺得不分勝負。   包惜弱暗暗歡喜,心想:「莫不是鐵哥的朋友們得到訊息,前來相救?」混戰中一箭飛來,正中包惜弱坐騎的後臀,那馬負痛,縱蹄向北疾馳。   包惜弱大驚,雙臂摟住馬頸,只怕掉下馬來。只聽後面蹄聲急促,一騎馬追來。轉眼間一匹黑馬從身旁掠過,馬上乘客手持長索,在空中轉了幾圈,呼的一聲,長索飛出,索上繩圈套住了包惜弱的坐騎,兩騎馬並肩而馳。那人漸漸收短繩索,兩騎馬奔跑也緩慢了下來,再跑數十步,那人呼哨一��,他所乘黑馬收腳站住。包惜弱的坐騎被黑馬一帶,無法向前,一聲長嘶,前足提起,人立起來。   包惜弱勞頓了大半夜,又是驚恐,又是傷心,這時再也拉不住韁,雙手一鬆,跌下馬來,暈了過去。   昏睡中也不知過了多少時候,等到悠悠醒轉,只覺似是睡在柔軟的床上,又��身上似蓋了棉被,很是溫暖,她睜開眼睛,首先入眼的是青花布帳的帳頂,原來果是睡在床上。她側頭望時,見床前桌上點著油燈,似有個黑衣男子坐在床沿。   那人聽得她翻身,忙站起身來,輕輕揭開了帳子,低聲問道:「睡醒了嗎?」包惜弱神智尚未全復,只覺這人依稀似曾相識。那人伸手在她額頭一摸,輕聲道:「燒得好燙手,醫生快來啦。」包惜弱迷迷糊糊的重又入睡。   過了一會,似覺有醫生給她把脈診視,又有人餵她喝藥。她只是昏睡,夢中突然驚醒大叫:「鐵哥,鐵哥!」隨覺有人輕拍她肩膀,低語撫慰。   她再次醒來時已是白天,忍不住出聲呻吟。一個人走近前來,揭開帳子。這時面面相對,包惜弱看得分明,不覺吃了一驚,這人面目清秀,嘴角含笑,正是幾個月前她在雪地裡所救的那個垂死少年。   包惜弱道:「這是甚麼地方,我當家的呢?」那少年搖搖手,示意不可作聲,低聲道:「外邊官兵追捕很緊,咱們現下是借住在一家鄉農家裡。小人斗膽,謊稱是娘子的丈夫,娘子可別露了形跡。」包惜弱臉一紅,點了點頭,又問:「我當家的呢?」那人道:「娘子身子虛弱,待大好之後,小人再慢慢告知。」   包惜弱大驚,聽他語氣,似乎丈夫已遭不測,雙手緊緊抓住被角,顫聲道:「他……他……怎麼了?」那人只是不說,道:「娘子這時心急也是無益,身子要緊。」包惜弱道:「他……他可是死了?」那人滿臉無可奈何之狀,點了點頭,道:「楊爺不幸,給賊官兵害死了。」說著只是搖頭嘆息。包惜弱傷痛攻心,暈了過去,良久醒轉,放聲大哭。   那人細聲安慰。包惜弱抽抽噎噎的道:「他……他怎麼去世的?」那人道:「楊爺可是二十來歲年紀,身長膀闊,手使一柄長矛的麼?」包惜弱道:「正是。」那人道:「我今日一早見到他和官兵相鬥,殺了好幾個人,可惜……唉,可惜一名武官偷偷繞到他身後,一槍刺進了他背脊。」   包惜弱夫妻情重,又暈了過去,這一日水米不進,決意要絕食殉夫。那人也不相強,整日只是斯斯文文的和她說話解悶。包惜弱到後來有些過意不去了,問道:「相公高姓大名?怎會知道我有難而來打救?」那人道:「小人姓顏,名烈,昨天和幾個朋友經過這裡,正遇到官兵逞兇害人。小人路見不平,出手相救,不料老天爺有眼,所救的竟是我的大恩人,也真是天緣巧合了。」   包惜弱聽到「天緣巧合」四字,臉上一紅,轉身向裡,不再理他,心下琢磨,忽然起了疑竇,轉身問道:「你和官兵本來是一路的?」顏烈道:「怎……怎麼?」包惜弱道:「那日你不是和官兵同來捉拿那位道長、這才受傷的嗎?」顏烈道:「那日也真是冤枉。小人從北邊來,要去臨安府,路過貴村,那知道無端端一箭射來,中了肩背。如不是娘子大恩相救,真是死得不明不白。到底他們要捉甚麼道士呀?道士捉鬼,官兵卻捉道士,真是一塌胡塗。」說著笑了起來。   包惜弱道:「啊,原來你是路過,不是他們一夥。我還道你也是來捉那道長的,那天還真不想救你呢。」當下便述說官兵怎樣前來捉拿丘處機,他又怎樣殺散官兵。   包惜弱說了一會,卻見他怔怔的瞧著自己,臉上神色痴痴迷迷,似乎心神不屬,當即住口。顏烈一驚,陪笑道:「對不住。我在想咱們怎樣逃出去,可別再讓官兵捉到。」   包惜弱哭道:「我……我丈夫既已過世,我還活著幹甚麼?你一個人走吧。」顏烈正色道:「娘子,官人為賊兵所害,含冤莫白,你不設法為他報仇,卻只是一意尋死。官人生前是英雄豪傑之士,他在九泉之下,只怕也不能瞑目罷?」   包惜弱道:「我一個弱女子,又怎有報仇的能耐?」顏烈義憤於色,昂然道:「娘子要報殺夫之仇,這件事著落在小人身上。你可知道仇人是誰?」包惜弱想了一下,說道:「統率官兵的將官名叫段天德,他額頭有個刀疤,臉上有塊青記。」顏烈道:「既有姓名,又有記認,他就是逃到了天涯海角,也非報此仇不可。」他出房去端來一碗稀粥,碗裡有個剝開了的鹹蛋,說道:「你不愛惜身子,怎麼報仇呀?」包惜弱心想有理,接過碗來慢慢吃了。   次日早晨,包惜弱整衣下床,對鏡梳好了頭髻,找到一塊白布,剪了朵白花插在鬢邊,替丈夫帶孝,但見鏡中紅顏如花,夫妻倆卻已人鬼殊途,悲從中來,又伏桌痛哭起來。   顏烈從外面進來,待她哭聲稍停,柔聲道:「外面道上官兵都已退了,咱們走吧。」包惜弱隨他出屋。顏烈摸出一錠銀子給了屋主,把兩匹馬牽了過來。包惜弱所乘的馬本來中了一箭,這時顏烈已把箭創裹好。   包惜弱道:「到那裡去呀?」顏烈使個眼色,要她在人前不可多問,扶她上馬,兩人並轡向北。走出十餘裡,包惜弱又問:「你帶我到那裡去?」顏烈道:「咱們先找個隱僻的所在住下,避一避風頭。待官家追拿得鬆了,小人再去找尋官人的屍首,好好替他安葬,然後找到段天德那個奸賊,殺了替官人報仇。」   包惜弱性格柔和,自己本少主意,何況大難之餘,孤苦無依,聽他想得周到,心中好生感激,道:「顏相公,我……我怎生報答你才好?」顏烈凜然道:「我性命是娘子所救,小人這一生供娘子驅使,就是粉身碎骨,赴湯蹈火,那也是應該的。」包惜弱道:「只盼儘快殺了那大壞人段天德,給鐵哥報了大仇,我這就從他於地下。」想到這裡,又垂下淚來。   兩人行了一日,晚上在長安鎮上投店歇宿。顏烈自稱夫婦二人,要了一間房。包惜弱心中惴惴不安,吃晚飯時一聲不作,暗自撫摸丘處機所贈的那柄短劍,心中打定了主意:「要是他稍有無禮,我就一劍自殺。」   顏烈命店伴拿了兩捆稻草入房,等店伴出去,閂上了房門,把稻草鋪在地下,自己倒在稻草之中,身上蓋了一張氈毯,對包惜弱道:「娘子請安睡吧!」說著閉上了眼。   包惜弱的心怦怦亂跳,想起故世的丈夫,真是柔腸寸斷,呆呆的坐了大半個時辰,長長嘆了口氣,也不熄滅燭火,手中緊握短劍,和衣倒在床上。   次日包惜弱起身時,顏烈已收拾好馬具,命店伴安排了早點。包惜弱暗暗感激他是至誠君子,防範之心登時消了大半。待用早點時,見是一碟雞炒乾絲,一碟火腿,一碟臘腸,一碟燻魚,另有一小鍋清香撲鼻的香梗米粥。她出生於小康之家,自歸楊門,以務農為生,平日吃早飯只是幾根鹹菜,半個鹹蛋,除了過年過節、喜慶宴會之外,那裡吃過這樣考究的飲食?食用之時,心裡頗不自安。   待得吃完,店伴送來一個包裹。這時顏烈已走出房去,包惜弱問道:「這是甚麼?」店伴道:「相公今日一早出去買來的,是娘子的替換衣服,相公說,請娘子換了上道。」說罷放下包裹,走出房去。包惜弱打開包裹一看,不覺呆了,只見是一套全身縞素的衣裙,白鞋白襪固然一應俱全,連內衣、小襖以及羅帕、汗巾等等也都齊備,心道:「難為他一個少年男子,怎地想得如此周到?」換上內衣之時,想到是顏烈親手所買,不由得滿臉紅暈。她半夜倉卒離家,衣衫本已不整,再加上一夜的糾纏奔波,更是滿身破損塵污,待得裡外一新,精神也不覺為之一振。待得顏烈回房,見他身上也已換得光鮮煥然。   兩人縱馬上道,有時一前一後,有時並轡而行。這時正是江南春意濃極的時光,道旁垂柳拂肩,花氣醉人,田中禾苗一片新綠。
  顏烈為了要她寬懷減愁,不時跟她東談西扯。包惜弱的父親是個小鎮上的不第學究,丈夫和義兄郭嘯天都是粗豪漢子,她一生之中,實是從未遇到過如此吐屬俊雅、才識博洽的男子,但覺他一言一語無不含意雋妙,心中暗暗稱奇。只是眼見一路北去,離臨安越來越遠,他卻絕口不提如何為己報仇,更不提安葬丈夫,忍不住道:「顏相公,我夫君的屍身,不知落在那裡?」   顏烈道:「非是小人不肯去尋訪尊夫屍首,為他安葬,實因前日救娘子時殺了官兵,眼下正是風急火旺的當口,我只要在臨安左近一現身,非遭官兵的毒手不可。眼下官府到處追拿娘子,說道尊夫殺官造反,罪大惡極,拿到他的家屬,男的斬首,女的充作官妓。小人死不足惜,但若娘子無人保護,給官兵逮了去,遭遇必定極慘。小人身在黃泉之下,也要傷心含恨了。」包惜弱聽他說得誠懇,點了點頭。顏烈道:「我仔細想過,眼下最要緊的,是為尊夫收屍安葬。咱們到了嘉興,我便取出銀子,託人到臨安去妥為辦理。倘若娘子定要我親自去辦這才放心,那麼在嘉興安頓好娘子之後,小人冒險前往便了。」包惜弱心想要他幹冒大險,於理不合,說道:「相公如能找到妥當可靠的人去辦,那也是一樣的。」又道:「我丈夫有個姓郭的義兄,同時遭難,敢煩相公一併為他安葬,我……我……」說著垂下淚來。   顏烈道:「此事容易,娘子放心便是。倒是報仇之事,段天德那賊子是朝廷武將,要殺他著實不易,此刻他又防備得緊,只有慢慢的等候機會。」包惜弱只想殺了仇人之後,便自殺殉夫。顏烈這番話雖然句句都是實情,卻不知要等到何年何日,心下一急,哭出聲來,抽抽噎噎的道:「我也不想要報甚麼仇了。我當家的如此英雄,尚且被害,我……我一個弱女子,又……又有甚麼能耐?我一死殉夫便是。」   顏烈沉吟半晌,似也十分為難,終於說道:「娘子,你信得過我嗎?」包惜弱點了點頭。顏烈道:「眼下咱們只有去北方,方能躲避官兵的追捕。大宋官兵不能追到北邊去捉人。咱們只要過得長江,就沒多大危險了。待事情冷下來之後,咱們再南下報仇雪恨。娘子放心寬懷,官人的血海沉冤,自有小人一力承擔。」   包惜弱大為躊躇:自己家破人亡,舉目無親,如不跟隨他去,孤身一個弱女子又到那裡去安身立命?那晚親眼見到官兵殺人放火的兇狠模樣,若是落入了他們手中,被充作官妓,那真是求生不能、求死不得了。但此人非親非故,自己是個守節寡婦,如何可隨一個青年男子同行?此刻若是舉刃自刎,此人必定阻攔。只覺去路茫茫,來日大難,思前想後,真是柔腸百轉。她連日悲傷哭泣,這時卻連眼淚也幾乎流乾了。   顏烈道:「娘子如覺小人的籌劃不妥,但請吩咐,小人無有不遵。」包惜弱見他十分遷就,心中反覺過意不去,除非此時自己立時死了,一了百了,否則實在也無他法,無可奈何之下,只得低頭道:「你瞧著辦吧。」   顏烈大喜,說道:「娘子的活命大德,小人終身不敢忘記,娘子……」包惜弱道:「這事以後別再提啦。」顏烈道:「是,是。」   當晚兩人在硤石鎮一家客店中宿歇,仍是同處一室。自從包惜弱答允同去北方之後,顏烈的言談舉止,已不如先前拘謹,時時流露出喜不自勝之情。包惜弱隱隱覺得有些不妥,只是見他並無絲毫越禮,心想他不過是感恩圖報,料來不致有何異心。   次日中午,兩人到了嘉興。那是浙西大城,絲米集散之地,自來就十分繁盛,宋室南渡之後,嘉興地近京師,市況就更熱鬧。   顏烈道:「咱們找一家客店歇歇吧。」包惜弱一直在害怕官兵追來,道:「天色尚早,還可趕道呢。」顏烈道:「這裡的店舖不錯,娘子衣服舊了,得買幾套來替換。」包惜弱一呆,道:「這不是昨天才買的嗎?怎麼就舊了?」顏烈道:「道上塵多,衣服穿一兩天就不光鮮啦。再說,像娘子這般容色,豈可不穿世上頂頂上等的衣衫?」   包惜弱聽他誇獎自己容貌,內心竊喜,低頭道:「我是在熱喪之中……」顏烈忙道:「小人理會得。」包惜弱就不言語了。她容貌秀麗,但丈夫楊鐵心從來沒這般當面讚過,低下頭偷眼向顏烈瞧去,見他並無輕薄神色,一時心中栗六,也不知是喜是愁。   顏烈問了途人,逕去當地最大的「秀水客棧」投店。漱洗罷,顏烈與包惜弱一起吃了些點心,兩人相對坐在房中。包惜弱想要他另要一間客房,卻又不知如何啟齒才好,臉上一陣紅一陣白,心事重重。過了一會,顏烈道:「娘子請自寬便,小人出去買了物品就回。」包惜弱點了點頭,道:「相公可別太多花費了。」顏烈微笑道:「就可惜娘子在服喪,不能戴用珠寶,要多花錢也花不了。」
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keenywong · 2 years
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culture_isss 【#專欄|歷史行旅:俄羅斯入侵烏克蘭給予我們的歷史啟示】 2022年2月24日將會銘記在世界歷史上。數月以來,國際社會一直關注俄羅斯會否入侵烏克蘭終於有了答案。在一輪導彈攻擊後,俄羅斯總統普京在這一天命令海、陸、空三軍越過邊界入侵鳥克蘭,兩個戰鬥民族很快便爆發戰鬥。 這場戰爭引起了國際社會嘩然,因為這是二戰結束以來歐洲大陸上國與國之間最大規模的戰事。意想不到的是,俄軍遭遇烏克蘭軍民的頑強抵抗,始終沒法攻下烏克蘭首都基輔,並開始出現士兵厭戰、補給不足、損兵折將的狀況。 1930年代,隨着納粹黨興起,德國先後入侵波蘭、捷克等東歐小國,當時歐美列強採取綏靖政策,沒有積極介入甚至姑息德國的侵略行徑,結果卻是養虎為患,其胃口越來越大,終致法國、英國引火自焚。由此可見,國際社會對這類侵略別國的行為是絕對不能姑息的,否則只會禍及己身。 俄羅斯入侵烏蘭克的理據是烏克蘭親西方陣營的外交政策,尤其是鳥克蘭積極爭取加入北大西洋公約組織,被俄羅斯視為威脅其國家安全的舉動,企圖以泰山壓頂之勢,通過一場閃擊攻擊短時間內攻佔基輔,拉倒澤倫斯基的政權,再扶植一個親俄政權,作為其應對西方陣營的前沿陣地。 諷刺的是,俄羅斯的侵略既拉近了烏克蘭跟西方陣營的距離,亦令歐盟跟美國站在同一陣線,因為他們發現了一個潛在的共同敵人。在美國及歐盟快速的強力反制下,俄羅斯要面對一連串經濟上和軍事上的制裁,並且在國際社會上陷於孤立的境地。在九十一年前,東北亞同樣發生了一場令侵略者陷於孤立而不惜孤注一擲的戰爭。 1931年9月18日晚上,駐守中國東北的日本關東軍在瀋陽北大營面八百米的柳條湖附近,炸毀了南滿鐵路的一段路軌。關東軍在爆炸現場擺放了三具身穿中國士兵軍服的屍體,誣衊是中國軍隊炸毀路軌。關東軍以此為藉口攻擊中國東北軍駐地北大營。經過一輪戰鬥,東北軍撤退後關東軍佔領北大營。關東軍進攻北大營進攻期間,同時派兵攻陷奉天、四平、營口、鳳凰城、安東等地。結果,關東軍在不到半年的時間內,便佔領了東北三省。 為了掩飾自己沒有侵佔別國領土的行為,關東軍召開所謂「建國幕僚會議」,並邀請東北一些有頭面的中國人參與,最終看中了被趕出紫禁城、寓居天津的末代皇帝溥儀。在關東軍安排下,張景惠、熙洽、臧式毅、謝介石等東北軍政界人士在瀋陽召開所謂「東北政務會議」,會議卻由關東軍司令官本莊繁主持,議決迎接溥儀擔任「滿洲國」執政,日軍支那通板垣征四郎擔任「滿洲國」軍政部最高顧問,並公佈「從即日起宣佈滿蒙地區同中國中央政府脱離關係,根據滿蒙居民的自由選擇與呼籲,滿蒙地區從此實行完全獨立,成立完全獨立自主之政府」。 據說,溥儀得悉自己只是擔任「執政」,並非重登帝位感到非常失望。這跟俄羅斯承認烏克蘭東部地區為兩個獨立國家的行徑,有着極其相似之處。 「滿州國」卻得不到當時國際社會的承認,國際聯盟派出代表前往中國東北調查九一八事變,發表並通過著名的《李頓調查團報告書》。國際聯盟明確地提出以下各點:第一,東北主權屬於中華民國;第二,日本違反國際聯盟盟約侵佔中國領土並使之獨立;第三,關東軍在東北的軍事行動絕非自衛;第四,「滿洲國」的產生並非出於民族自決,而是由日軍策劃組織。 面對國際聯盟的調查結果,日本採取了自絕於國際社會的做法,宣佈退出國際聯盟。不久,日本與另外兩個同樣自絕於國際社會的國家結成同盟,並引發一場席捲世界的戰火。當今俄羅斯同樣面臨被國際社會孤立的危機,不知普京作何感想,是否會跟當年日本一樣,為了達到侵略的目的,不惜孤注一擲,自絕於國際社會? 專欄作家|#梁偉基 #烏克蘭 #俄羅斯 #俄烏戰爭 #國際 #全球 #新聞 #打仗 #滿洲國 #溥儀 #歷史 #文化本事 stardust0908 歷史不斷重複,但就算最聰明的人也會有盲點,一言堂的情況永遠走到最糟糕的景況…… https://www.instagram.com/p/CbGziCRPpN-/?utm_medium=tumblr
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historysandwich · 1 year
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【常威近代史】(七百八十九回)
正式賣國
1938年11月15號,美國進出口銀行給予中國2500萬美元信用貸款(應該借咗唔使還),春江水暖鴨先知,當蔣介石政權退到大後方重慶,美國終於出手提供協助,幫助中國對抗日本人,是否太遲?實屬見仁見智,有時候跟車太貼,亦未必一定是好事。11月18號,國民政府照會英國、美國、德國、意大利四個國家拒絕開放長江,戰火連天,仍然有人想繼續做生意袋袋平安,但事情當然冇咁簡單。11月19號,國民政府明令廢止《反省院條例》;今日日本亦都設立中央東亞事務處,落實著手建設大東亞共榮圈事務。11月20號,日本戰機轟炸延安,民眾死傷百餘人,紅都延安位處陝西窮山惡水荒蕪之地,由陸路進攻難於上青天,利用空中轟炸似乎係唯一可行之道。但係紅都延安窯洞處處,民眾本來就係住喺窯洞裏面,居所本身就係一個天然防空洞,對逃避空中轟炸,效果極佳。
11月20號,汪精衛派代表同日本方面代表喺上海舉行秘密會談,大漢奸卒之begin賣國,本年初,蔣介石汪精衛等人喺陶德曼(1877-1950)調停失敗後,為繼續尋求同日本和談,派出外交部亞洲司司長高宗武(1905-1994)以蒐集日本情報為名,秘密去到香港上海等地活動,表面上唔傾,其實有得傾。表面上硬砌 ,背後其實想停戰,世界上好多事情都係咁樣,只係睇表面嗰浸,永遠係唔會知道真相係咩?因為表面個浸好多時候係做出嚟俾你睇,落好晒藥tune好晒色,好好睇睇。至於核心係乜嘢?真相為何?好多時候就要靠自己嘅分析同埋獨立思考,聰明同愚蠢,大概分別就喺呢度。當然知道真相未必要講出嚟,更加唔需要四圍唱,總之自己知自己事,千萬唔好要由別人講畀你知自己究竟係乜嘢事,人貴自知,就係咁解。
之後汪精衛慫恿高宗式辭去司長職務,並派佢秘密前赴日本,同日本陸軍省軍務參謀長影佐禎昭(1893-1948)、參謀次長多田駿(1882-1948)、陸相板垣征四郎(1885-1948)等人秘密會談,上述三位人兄,全部死於1948年,大家都知乜嘢事?雙方會談,確定如果蔣介石不主和談,則由汪精衛出馬「收拾殘局」。11月3號,日本首相近衛文麿(1891-1945)發表聲明,表示如果國民政府「更換人事組織」,日方「並不予以拒絕」。簡單啲講,蔣介石就冇得傾,汪精衛就乜嘢都可以傾。
11月24號,上海《申報》報導,陳嘉庚(1874-1961)、陳果夫(1892-1951)、陳立夫(1900-2001)、謬雲臺(1894-1988)、潘公展(1895-1975)等人發起組織華西墾殖公司;11月25號,日軍喺廈門搜查中華書局同埋商務印書館,沒收並焚燬書籍數萬冊;今日,國民政府軍事委員會喺湖南衡山召開為期4日嘅軍事會議,重新部署對日作戰。蔣介石喺會上提出「廢人利用」、「廢物利用」、「廢時利用」、「廢地利用」,要求打持久戰。軍事會議亦都重新劃定全國戰區,第一戰區,司令長官為衛立煌(1897-1960),負責管轄河南及安徽一部分;第二戰區司令長官為政壇不倒翁山西王閻石山(18883-1960),管轄山西及陝西一部;第三戰區司令長官為顧祝同(1893-1987),管轄蘇南皖南及浙閩地區;第四戰區司令長官張法奎(1896-198),管轄兩廣地區;第五戰區司令長官李宗仁(1891-1969),管轄皖西、鄂北及豫南地區;第八戰區,司令長官為朱紹良(1891-1963),管轄甘(肅)寧(夏)青(海)及綏遠一帶;第九戰區司令長官為陳誠(1898-1965),由薛嶽(1896-1998)暫代,管轄嘅地區為鄂南及湘贛;第十戰區司令長官蔣鼎文(1895-1974),管轄陝西;另外蘇魯戰區,司令長官為于學忠(1890-1964);冀察戰區,司令長官為鹿鍾麟(1884-1966)。同時取消西安、廣西及重慶行營;設立天水、桂林行營,以程潛(1882-1968)、白崇禧(1893-1966)分任行營主任。由上述嘅戰區調整,大家亦可以睇到當時唔��派系部隊嘅勢力分���。
11月25號,甘肅海固縣回族民眾,為咗反抗國民黨軍陳誠部隊嘅壓迫,進行暴動。數千名回民攻打隆德縣城,殲滅國民黨軍一個營同一個連。暴動一直持續到一個多月先被鎮壓,但1939年4月11號,海固縣回民及漢民群眾8000幾人,發動第二次武裝起義,苦戰幾日又遭軍隊鎮壓。1941年4月8號,海固縣民眾發動更大規模嘅第三次武裝起義,但係最終都係失敗收場,一而再,再而三起義暴動,究竟當時佢哋受到幾大嘅壓迫呢?我諗絕對非同小可,因為暴動武裝起義係人頭落地之事,唔係逼到埋身,好難會咁做。
11月27號,中國教育學術聯會12個團體喺重慶舉行年會,11月29號,日本宣佈正式封鎖長江。11月30號,蔣介石下令中等以上學校組織學生軍,同一日,冀南解放區反「掃蕩」作戰勝利結束。今個月,教育部頒佈《青年守則》12條,命令全國各級公私立學校一律遵行;日軍對冀東解放區開始殘酷嘅掃蕩行動,掃蕩即係濫殺,有掃蕩,自然就有反掃蕩。八路軍亦喺大青山開闢抗日根據地。
1938年11月於焉結束。
#常威💀 #蔣介石平反系列  #佛經抄寫員 #中日戰爭 #中華民國
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jaguarmen99 · 2 years
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次の資料に記載がありました。 (1)『佐賀の乱(役)』 中田 二佐/編 九州地区補給処 1978  p.148 「江藤新平の行動」 3月1日、鰻温泉で西郷隆盛と会う。西郷は江藤と約3時間密談。翌日約4時間、更に密談したという。西郷の「私がいうようになさらんと、あてが違いますぞ」という言葉だけが外に聞こえたといわれる。会談の内容は不明である(註1)。  p.149-150 (註1) 江藤が西郷を訪問した目的は、恐らく西郷に助力を頼み、失敗したならば土佐の板垣に、それも駄目なら中央に戻り、政府に働きかけようとしたであろうと考えられるが、山中一郎の口述書には次のような重要な言葉がある。「西郷は江藤に、島津久光に頼むことがよかろうと言ったが、江藤は久光に相談することを喜ばなかった」と言っており、又、香月経五郎の口述書には、「西郷に面談して依頼したけれども、征韓のことについては同志だが、官軍と交戦してしまったからには周旋の仕様もない」と断られたとある。軍事的な援助を依頼するとともに政府に対する周旋のことも目的であったと思われるし、島津久光に頼ることができなかった江藤であった。 (2)『新西郷南洲伝 下』 稲垣 秀哉/著 高城書房 2008  p.317 いち早く戦場を離脱した江藤である。彼は鹿児島に到着し、武村の南洲邸を訪れたが不在。~(中略)彼は早速鹿児島を発って、南洲の行き先である山川鰻温泉を訪れた。南洲に会うことができたのは3月1日のことである。江藤の南洲訪問の趣旨は、鹿児島同行者の供述書によれば、薩摩兵四五千を借り受けるか、それが駄目なら朝廷へ歎願し、賊名を雪ぐための周旋を依頼することにあったらしい。しかし、同行の香月経五郎の供述によれば、「同行中の江藤その他西郷へ面談致し、一身上の依頼に及び候えども、征韓の儀は固より同志に候えども最早官軍と抗戦の上は、如何とも周旋の途これなき趣にて、拠なく3月3日終に相分れ云々」とのことであるから、南洲は二つながら江藤の依頼を断ったことになる。結局江藤は、東京へ出て自首すると言い残して南洲と別れた。 (3)『江藤南白 下』 的野半介/編 原書房 1968  p.490-491 此日、西郷は、終日閑居して温泉に在りしに、卒然として南白の訪問に接し、其意外なるに驚きしも、直に左右を屏けて快く之に接見せり。~(中略)翌日早暁、南白は又西郷訪ひ密談すると約4時間に及びしが、~(中略)時に西郷は辞気、厳粛、談論、激高、其の声の室外に聞ゆるあり。而して南白の希望は終に西郷の容るる所と為らざりしものの如く、午前9時頃、彼は別を西郷に告げて宇奈木温泉を辞したり。
「佐賀の乱」の際に、江藤新平が逃亡先として薩摩藩の西郷隆盛を頼ったが、西郷がそれを断ったいきさつが分... | レファレンス協同データベース
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toshihikokuroda · 3 years
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《「満蒙は日本の生命線」というスローガンは松岡洋右(ようすけ=のちの外相)が唱え、マスメディアがはやらせたものですが、「満州」も東部「内蒙古」も日本とはまったく関係ない地域です。古代に日本人が住んでいて、中国人によって追い出されたのではありません。そこを「守れ、守れ」というマスメディアがいた。》…😡😡😡😡😡😡
「満州事変」90年 侵略戦争・植民地支配を直視 国文学資料館准教授 加藤聖文さんに聞く 2021年9月17日【政治総合】
 今年は「満州事変」から90年です。1931年9月18日、日本の関東軍は、奉天(今の中国遼寧省瀋陽市)郊外の柳条湖で、満鉄(南満州鉄道株式会社)の線路を自ら爆破しながら“中国軍の仕業”として攻撃。半年もたたずに「満州」(中国東北部)全域を占領しました。これが日本に何をもたらしたのか、加藤聖文国文学資料館准教授(日本近現代史)に聞きました。(山沢猛)
 ―「満州事変」とはどういうものですか。
 日露戦争(1904~05年)で日本が得たのは、大連と旅順という港を抱える関東州(遼東半島の先端部の地域)と、満鉄でした。旅順から長春(新京)にいたる鉄道路線とその支線、撫順炭鉱の経営などを行う満鉄が「満州権益」の中心であり、利潤をもたらす源泉でした。
 しかし軍閥の頭、張作霖(ちょう・さくりん)爆殺などで日中関係が行き詰まるなか、事態は思わぬ方向に進みました。1928年10月、石原莞爾(かんじ)が関東軍参謀に着任しました。陸軍大学校教官でドイツに留学した石原の構想は「世界大戦争」に日本が生き残るために「満州」全域を領有し、日本の一大兵たん基地に変えることでした。
 石原の構想(「国運転回ノ根本国策タル満蒙問題解決案」、「関東軍満蒙領有計画」など)が、関東軍全体に広がるために役立ったのは、張作霖を爆殺した河本大作大佐の後任に、参謀より上の高級参謀として赴任した板垣征四郎でした。板垣は石原の構想に心酔し、「満州事変」でも石原を支えました。
 こうして綿密に計画された侵略戦争が柳条湖事件を発端として始まり、朝鮮駐留の日本軍も出動し、わずか2カ月余で奉天(遼寧省)から吉林(吉林省)、さらにチチハル(黒竜江省)と3省都を占領しました。そこには当時のソ連、軍閥の動向など特殊な条件が重なっていました。
 翌32年3月、滅亡した清の廃帝・溥儀(ふぎ)をかつぎだし、「独立国」の体裁をとった「満州国」を建国。実際は関東軍司令官が人事などの実権をもった傀儡(かいらい)国家でした。
軍需頼みの経済策  ―「満州事変」は当時、日本国内でどのように受けとめられたのでしょうか。
 それまでは中国側の圧力とか、「満鉄が危機だ」などの暗い話ばかりでしたが、日本による省都の占領などが新聞で連日報じられ、「明るい話」になり、軍部への国民の信頼感がかなり高くなりました。
 浜口雄幸内閣、若槻礼次郎内閣と民政党内閣が実現して、国際的にもワシントン条約、ロンドン条約と海軍の反対派を抑えて海軍軍縮条約が日本も賛成して成立しました。
 しかし、その政党内閣は経済政策に失敗しました。1929年の世界大恐慌が起きると、日本も失業者があふれて、農村でも生糸などが売れず現金収入がなくなり、農民の疲弊や没落が表面化しました。
 両内閣ともお金はしぼりにしぼってという「緊縮財政」でした。一方で、「満州事変」が起きると政府が「戦時公債」を出して軍事需要も高まって、経済が一時的に回り始める。強制的に公共事業をやるような話ですから。大陸で「領土」は増えるし景気がよくなれば、関東軍が「満州事変」を起こしてくれたおかげだとなります。「事変」の拡大阻止に失敗した若槻内閣も倒れ、日本の政治の不安定化が強まります。
 「満州事変」の最中に海軍が上海で軍事行動をおこします(第1次上海事件)。陸戦隊が全く必要のないところで中国軍との衝突を起こします。軍事予算のために海軍が陸軍と張り合った結果でした。
あおったメディア  ―新聞などマスメディアがあおり、国民が巻き込まれていく特徴がでていますね。
 「満蒙は日本の生命線」というスローガンは松岡洋右(ようすけ=のちの外相)が唱え、マスメディアがはやらせたものですが、「満州」も東部「内蒙古」も日本とはまったく関係ない地域です。古代に日本人が住んでいて、中国人によって追い出されたのではありません。そこを「守れ、守れ」というマスメディアがいた。「満州」がなければ国民が生活をやっていけないわけでもありません。もともと日本人とは関係のない地域です。
 「満州国」のスローガンである「五族協和」(日、朝、漢、満、蒙の5民族)といっても日本人は20万人で、全「満州」の人口3000万人のうちの1%もいなかったのです。関東軍がこの土地を侵略し傀儡政権をつくり、日本各地から「満蒙開拓団」が関東軍や政府の主導で国策として推進されました。悲劇はこうしてつくられました。
 「満蒙特殊権益」「五族協和」とは何か、歴史的背景と現実を自分なりに考えてみましょう。現在でも「安全・安心」のような抽象的なスローガンが氾濫しています。そのような言葉に踊らされず、物事の真実を見極めることが求められています。
 日本では過去の侵略戦争と、朝鮮半島や台湾の植民地支配をめぐる議論が深まりません。そうしたなかで、「満州事変」は、問題の本質を浮かび上がらせ、私たちに重要な視座を与えてくれると思います。
 かとう・きよふみ 1966年生まれ。日本近現代史、アーカイブス学。著書に『海外引揚の研究』『満蒙開拓団』など。
(しんぶん赤旗、2021年9月17日)
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captainjajajthings · 3 years
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7個被絞死的日本戰犯,臨終遺言都說了啥?只有1人再提中國
7個被絞死的日本戰犯,臨終遺言都說了啥?只有1人再提中國
原創2021-08-22 21:51·文史旺旺
1948年11月,歷時兩年半之久的遠東國際軍事法庭審判庭,最終落下了歷史的帷幕。
 這場舉世矚目的戰後國際事件先後對28名日本戰犯進行了審判,最終2人在審判中去世,1人裝瘋賣傻免於刑罰,7人被判處死刑,18人被判處徒刑。
 被判處死刑的7人在當年12月被執行絞刑,命殞巢鴨監獄,結束了他們罪惡的一生。
 當我們今天回看這段廣為人知的歷史,會發現其中尚有諸多要點可供後世考究,諸多歷史事件可供今日借鑒。
 7個被絞死的日本戰犯,臨終遺言都說了啥?只有1人再提中國
結合那7個罪大惡極的死刑犯臨終前的遺言,我們最終會發現,當國家意志投射到個人身上,會產生多麼強大的驅使力,而當個人意志回饋給國家時,其作用卻只是微乎其微。
 強弩之末
時間來到1945年的夏天,中國軍民已開始向日軍進行最後的反攻,此時的日本人在東南亞及太平洋戰場已經完全失利,甚至退至本土叫嚷著要與盟軍進行“本土決戰”。
 因為遭遇硫磺島、沖繩島等登島戰的慘痛教訓,當時的抗日主力美國軍隊放棄了登陸日本本土作戰的想法,轉而採用了此前還未被投入使用過的新式武器——原子彈。
 1945年8月6日、9日,美國人分別在廣島和長崎投下了兩枚原子彈,造成大量日方人員傷亡,逼迫日本政府儘快放棄抵抗。
 7個被絞死的日本戰犯,臨終遺言都說了啥?只有1人再提中國
1945年8月14日,日本仁裕天皇最終接受《波茨坦公告》,宣佈日本無條件投降;次日中午,投降的消息被傳至日本本土的每一個角落,和所有還在戰鬥且能聯繫得上的日本士兵耳中。
 9月2日上午,隨著重光奎和梅津美治郎在降書上簽字,人類歷史上最為慘絕人寰的二次世界大戰最終結束。
 第二次世界大戰深刻地改變了人類的歷史,從39年開始至45年結束,歷時6年,先後有60多個國家和地區、20多億人口被波及,最終導致了7000多萬人死亡,1億多人受到不可再生機能性損傷。
 7個被絞死的日本戰犯,臨終遺言都說了啥?只有1人再提中國
對於我國來說,從1931年“918事變”起,共有3500多萬中國軍民在這場浩劫中傷亡,可以說是近代中華民族遭受的最沉重的打擊。
 接下來要做的,就是審判戰犯、懲治戰犯,以告慰亡靈,給生者一個交待。
 東京審判
1946年1月19日,遠東國際軍事法庭正式成立,座標位於東京市穀,由中國、美國、蘇聯、英國、法國、荷蘭、澳大利亞、加拿大、新西蘭、印度、菲律賓共11個國家,各派代表參與庭審。
 5月3日,審判正式開始,中方派遣了法官梅汝璈(áo)、檢察官向哲浚(jùn)、檢察官首席顧問倪征燠(yù)、秘書楊壽林等十餘人的團隊全程參與東京審判。
 7個被絞死的日本戰犯,臨終遺言都說了啥?只有1人再提中國
這場審判歷時兩年多,對28名甲級戰犯進行了公正的庭審。
 其中永野修身、松岡洋右在庭審期間自然原因去世,大川周明被診斷患有梅毒性腦炎免予起訴,其餘25人均被判在二次世界大戰中犯下戰爭重罪。
 其中7名主要人員被判處死刑,他們分別是土肥原賢二、東條英機、松井石根、武藤章、板垣征四郎、廣田弘毅、木村兵太郎。
 7個被絞死的日本戰犯,臨終遺言都說了啥?只有1人再提中國
作為中華民族的後代,我們每一個人都應該牢牢記住這每一個名字,正是他們,發動了“918事變”,建立了偽滿洲國,挑起“七七事變”,策劃全面侵華戰爭、製造南京大屠殺等等震驚中外的慘劇。
 值得一提的是,在最後投票表決是否對這7名主要戰犯施以絞刑時,最終結果竟是贊成票6票,以一票之差贏過了5票的反對票。當時是哪5位法官作出了不予以執行死刑的判決,因為種種原因,如今已不得而知。
 據筆者猜測,非常有可能是新西蘭、澳大利亞、加拿大以及美國的兩位法官。
 7個被絞死的日本戰犯,臨終遺言都說了啥?只有1人再提中國
原因之一,除了美國的夏威夷,戰火從未燃燒至以上四國的本土,幾乎沒有造成平民的傷亡,使其對戰犯所犯下罪行的認識不到位;
 原因之二,新西蘭、澳大利亞、加拿大雖然都派兵加入盟軍,參與進了反法西斯戰爭,但在戰鬥過程中,盟軍主力一直都是美、英、自由法國等,新、澳、加主要是以側翼輔助的形式出現的,陣亡士兵並不多,加起來不會超過10萬人;
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  原因之三,當時美國急於投放原子彈來取代登島作戰,很重要的一個原因是當時蘇聯也想進行登島作戰,搶先佔領日本本土,寄希望於戰後瓜分日本領土,而面對這個龐大的紅色帝國,二戰中大發戰爭財的美國內閣早已開始部署,打算在戰後將日本打造成美在太平洋近海離蘇最近的前沿陣地,因而想留這些高層一命。
 無論如何分析,事實是這7名罪大惡極的戰犯被判處絞刑。1948年12月22日,在東京東池袋的巢鴨監獄,7名死刑犯被押解上刑場。淩晨時分,7人被陸續執行絞刑。
 7個被絞死的日本戰犯,臨終遺言都說了啥?只有1人再提中國
遺言
行刑順序按照抽籤決定,在華間諜頭子土肥原賢二抽中大獎,第一個上絞刑臺。
 土肥原賢二是個地地道道的中國通,策劃了諸如暗殺張作霖、煽動汪精衛等多起早期亂華事件,可以說為之後日本軍國主義大舉侵華,鋪設好了前進道路。行刑前,他留下一句:
 “往前跨,狹路亦變寬,二河白道如斯否,但願亦見寬。”
 全句是非常精華的中華漢字,大體的意思是希望自己死後,步入佛教白道時,道路能寬敞一些,讓自己安然走過。這完完全全是到死還想著自己的極致利己行為,似乎毫無對罪行的懺悔。
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le-tessia · 3 years
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【拡散】NHMKSK ナチスドイツの迫害から逃れて来たユダヤ人を無賃輸送で助けた満州鉄道総裁は松岡洋右、輸送に対するナチスの抗議をはねつけたのが東条英機、ユダヤ人を排斥しない事を日本国策にすべしと政府に要求したのが板垣征四郎、皆いわゆるA級戦犯ですぞ、春香クリスティーンさん。
https://twitter.com/braveymithra/status/1344772489725923329?s=21
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aikider · 4 years
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安倍首相の政策は愛国主義という保守的な思想と財政出動という社会主義的な行動のハイブリッドである。
戦後の日本の政治空間は愛国主義=右派、再分配=左派というステレオタイプによって整理されてきた。これは自民党と社会党の関係性から出てきた発想であり、当時としてはそれなりの合理性があったが、実際はもっと複雑である。
そもそも戦後の自民党は国民皆保険などの再分配を推進してきた。従って自民党は左派的な政策も持っていたわけである。
これは戦後に始まったものではない。そもそも保守合同で自民党が結党されたとき立役者になったのが岸信介である。岸は戦時中は満鉄国の高官を歴任しており、日本の戦時政策を指揮した官僚のトップである。そして満州国の設立にあたり、社会主義の影響を色濃く受けているからだ。
それ以前の日本は保守派=自由主義であった。経済活動については他の欧米列強諸国と同様に自由放任政策に近く、格差社会であり労働者の待遇はかなり低かった。しかし世界恐慌が発生して自由主義の限界が明らかとなったことから、マルクスの思想や社会主義に注目が集まった。自由主義の限界を超えるため、統制的な政策に期待が集まったからである。
保守派=自由主義の観点からは労働組合やマルクス思想は警戒の対象であった。国家による統制は、経済主体たる財閥から見れば自分たちの行動を制約するものだったからである。同時に保守派=愛国主義的な観点からもマルクス思想は警戒の対象であった。ソ連は革命によって皇帝を処刑したが、 日本の共産主義者たちもソ連に倣って革命を起こそうとしていた。天皇を担ぎ出して幕府を倒した日本政府から見れば許しがたいことであった。結果的には共産主義は大きな支持を得られなかった。特高による弾圧以前の問題として、共産主義の大前提はインターナショナリズムであり、これは日本では受け入れられなかったのである。
そこで北一輝らが提唱したのが国家社会主義であった。すなわち共産主義のインターナショナリズムを否定し、国家単位でマルクス思想を実践しようというのである。北一輝はのちに死刑となったが、北の思想は受け継がれ、軍の統制派や岸、近衛文麿に影響する。岸は北の著作を筆写したと語っており、近衛文麿はマルクス主義の勉強会に顔を出していた。
一方軍の立場から見ると、一次大戦で総力戦の時代が来たことを軍も認識していた。とくに中国市場をめぐってアメリカとの衝突が起きることは、かなり早くから予想されていた。しかし当時の日本は工業化が遅れており、このまま国力の差が広がればアメリカに蹂躙されることは火を見るより明らかであった。折しも不況にあって無為無策な政府への支持が低下し、軍に期待が集まっていた。軍のエリートにも自らが日本を救わんとの機運が生まれ、陸軍に一夕会が結成された。ここに軍主導で社会主義的な政策を実践しようという模索が始まる。一夕会には石原莞爾も参加していたが、石原は満州を支配すれば、満州の資源と市場をもってアメリカと戦うことができると考えた。東条英機も一夕会に所属していたが石原とは相容れず、石原を関東軍に左遷した。
石原は軍中央から排除されたが、左遷先の関東軍でかえって活発に活動するようになった。満州の権益をめぐっては日本側と中国側(蒋介石、張作霖)との間で衝突と妥協を繰り返していたが、石原にとっては国家社会主義を実践するための格好のフィールドとなったのである。石原と板垣征四郎らは満州事変を起こし、愛新覚羅溥儀をトップに据えて満州国を作り、傀儡国家とした。満州事変は本来、関東軍が軍中央の許可を得ずに行ったものであり、常識的に考えれば反逆行為である。しかし結局日��政府は関東軍の行動を追認することになる。
ここで岸が満州国に渡り、インフラ整備を主導する。岸の手法は自由主義の正反対で、むしろ社会主義的である。何しろ「五か年計画」などソ連を模倣した政策を数多く行っているのだ。しかし前述のように共産主義のようなインターナショナリズムではなくあくまで国家主導であることから、(北の提唱したような)国家社会主義と呼ぶべきであろう。そう、岸は社会主義者であり、戦時中の日本は国家社会主義なのである。
岸が戦後自由民主党を創始し、社会党と対立したことを考えると違和感があるかもしれない。しかし実際のところ、日本の戦時体制は明らかに社会主義なのだ。
社会主義の特徴として、本来の語義の面で統制経済が強調されるが、実践的には一党独裁、思想統制、秘密警察、個人崇拝などの特徴も挙げられるだろう。ソ連にせよ中国にせよ北朝鮮にせよ、共産党ないし類似する政党による一党独裁や思想統制は明らかだ。思想統制のためには、ソ連のKGBに代表されるような秘密警察が必要となる。同時にスターリン、毛沢東、金日成などの個人崇拝が行われた。
これらの特徴は、実は戦時中の日本も該当する。統制経済はもちろんのこと、特高という名の秘密警察を用いた思想統制が行われたし、皇民化教育によって天皇に対する個人崇拝が進められた。未完に終わったのは一党独裁であるが、近衛は既存政党を解体して大政翼賛会に統合しようと考えていたことを考えると、意図としては同じであった。ソ連と異なるのは、インターナショナリズムを受け入れないという一点においてである。その意味でも日本は正しく国家社会主義であった。
ちなみに特高は共産主義者を弾圧したが、これは共産主義者が天皇を打倒しようとしたことが原因である。天皇打倒を枉げない共産主義者は処刑されたが、天皇の下での社会主義を受け入れれば(転向という)釈放された。さらに、意外にも特高は労働組合の結成を支援していた。つまり共産主義=プロレタリア独裁は許さないが、国家社会主義=天皇のもとの社会主義は推進するというわけだ。
なお国家社会主義というのは日本のオリジナルというわけでもない。ドイツ語ではNationalsozialismusだそうだが、略すとNazism、つまりナチスなのだ。ナチス党はその名の通り国家社会主義である。考えてみればナチスドイツも統制経済、ナチス党独裁、思想統制もあり秘密警察もあり、ヒトラー個人崇拝もある。ソ連との違いはやはりインターナショナリズムを受け入れないことである。
なお、国家社会主義が軍と結びついたものを軍国主義と呼ぶ。その意味で日本の戦時体制は思想的分類ではヒトラーと類似しているのだ。ナチスドイツと戦った英米が日本を警戒したのは当然すぎるほど当然なのである。
ドイツはナチス党が保守派を圧迫して政権を取ったという経緯があり、戦後のドイツはナチスドイツを全否定することで歴史を精算しようとした。そこにある程度の欺瞞があったことは間違いないのだが、ナチスドイツは保守本流でなかったのも確かであり、今もその歴史観を貫いている。
一方で日本はというと、そもそも政治家、官僚、軍の内部から改革を行おうと出てきたのが国家社会主義グループであった。従って彼らを全否定しようとしたら能力のある政治家や官僚がいなくなってしまう。このため、アメリカは彼らを再利用することで日米関係を円滑にしようとした。そもそも岸が自民党を作るにあたってCIAから資金を得ていたのだ。
この手法は国民生活や経済面においてはうまくいった。GHQの民政局には、アメリカで中央から排除されたニューディーラーたちが集っていた。彼らは本国で失敗した社会民主主義的な手法を日本で実践しようとした。戦時中と違うのは、独裁的な国家社会主義から欧州的な社会民主主義への転換、すなわち民主化であった。皮肉な話だが、日本は戦時中に国家社会主義があったからこそ、そうした戦時体制を流用して社会民主主義国家に変革することができたのである。岸もその流れに乗って、国民皆保険や最低賃金の制定を進めるなど福祉国家化への業績を残しているが、やはり岸には社会主義的な側面が強いと言える。
しかしながら、戦時体制の流用というリサイクル戦略は、外交関係で禍根を残すこととなる。岸がA級戦犯として訴追されたのは戦勝国による一方的な裁判であるから法的な合理性がないにせよ、少なくとも満州や中国での戦争に対しては岸が戦時体制の構築に深く関わっていることから、一定の責任があるのは間違いない。しかし満州や中国への事実上の侵略について、本人は認めようとはしなかった。その背景には冷戦で中ソと対立するアメリカの意図があった。
岸の孫にあたる安倍は、岸の思想を色濃く受け継いでいる。すなわち戦時体制のような愛国主義、独裁、思想統制、経済の国有化などの国家社会主義的傾向である。首相としての演説ではさすがに戦争責任について言及しているが、アメリカとの関係を最優先にして中国との関係を改善しようとはしない。中国が反自由主義であることを引き合いに出して関係改善は不可能であると擁護する論客はいるが、そのわりには安倍はマスコミ統制を進めるなど統制志向であり、むしろ中国のような監視国家を志向しているという矛盾がある。経済面ではGPIFが日本株を大量に保有し、事実上の国有化を進めている。
すなわち安倍は岸と同じく国家社会主義者なのである。そう考えると、これらの政策は(少なくとも安倍の中では)矛盾がないのである。
しかし、国家社会主義でよりよい社会になるのか?そもそも日本は国家社会主義をやって一度失敗している。政治的には、民主主義から離れることで、その失敗を繰り返すおそれがある。また経済的には、アベノミクスで円安に誘導したが、為替差益は大企業の内部留保に回っており、労働者への再分配は進んでいない。自民党は賃金アップの「業績」を掲げているが、これらは組織化された労働組合に所属している大企業の労組に限られている。つまり事実上、大企業の正規雇用のみが受益している。若年者の多くが非正規雇用で不安定な生活を強いられており、生活が改善する兆しがない。その証拠に、数年前には名目賃金が下がるという恐ろしい事態まで起きた。「名目で語るのは無意味」と言う半可通がいるが、そもそも経済成長している場合には名目賃金は下がってはならない数字なのだ。
結局、アベノミクスの掲げる2%成長は達成できず、賃金は上がらず、生活水準はむしろ下がっている。アベノミクスの受益者は事実上資本家層に限られている。資本家というと古臭い言葉に感じられるが、今や日本には新たな資本家層が生まれ始めている。資本家にエリート(経営者たち)に正社員に非正規社員。日本は階層化が進んでいる。次に来るのは何だろうか。
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陽明丸と800人の子供たち・・・日米露をつなぐ奇跡の救出作戦
西村眞悟の時事通信 より 百年前の日本人の義侠心と遺徳を甦らせる ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 平成二十二年(2010年)四月二十二日、イスラエル建国六十二周年記念式典に出席する為にイスラエルを訪問した。その旅の途上、エルサレム近郊で、モサドという通称をもつイスラエル諜報特務庁長官を務めたナホム・アドモニ氏に会った。  アドモニ元モサド長官は、夫人のニーナさんを同行していた。その理由は、私が日本人であるからだった。元長官との話が一段落した後、夫の横に座っていたニーナ夫人が私に言った。   七十年前、七歳の時、両親に連れられてシベリアから満州を経て船で敦賀に着いた。  そして神戸に移り、日本の人たちに大変親切にしてもらった。そのことを忘れたことはない、感謝にたえない、日本人にお礼を言いたい、と。今は亡き父母とともに日本にいた七歳の時の情景を回顧する美しいニーナ夫人の目に涙がたまっていた。ニーナ夫人は、ナチスのユダヤ人迫害の嵐が吹き荒れるヨーロッパからシベリアを経由して満州から日本に逃れてきた幼いユダヤ人達の一人だったのだ。  この時、我が国の関東軍と政府は、ヨーロッパを逃れてシベリア東端のソビエト・満州国境で足止めされていた大勢のユダヤ人達の満州通過の便宜を図り、ある時は特別列車を仕立てて満州を通過させて、上海のアメリカ租界や日本への渡航を支援した。そのユダヤ人の総数は二万人に達するといわれている。  この我が国のユダヤ人救出に関して特に有名なのは、ハルビン特務機関長であった樋口季一郎大佐であるが、樋口に限らず、当時の我が国の首脳、即ち、後のA級戦犯全員は、全てユダヤ人救出に積極的であった。何故なら、我が国は、「八紘一宇(世界は一つの家)」を国是として、満州においては、「五族共和」を掲げていたからである。そして三国同盟を口実に、我が国にユダヤ人迫害を要請し、我が国のユダヤ人救出を非難してそれを止めるように迫るナチスドイツに対し、例えば、東条英機将軍は、同盟はしたが属国ではないとドイツの要求を一蹴し、板垣征四郎将軍や荒木貞夫将軍そして文民の廣田弘毅は、我が国の国是は「八紘一宇」であり人種差別はしないと明言したのだった。 もちろん、駐リトアニア領事館の杉原千畝領事が、外務省の訓令に反して、(その当時から現在に至るも、我が国外務省は外国の圧力に弱い、 昔はナチスドイツ、今は中共と北朝鮮の圧力に弱い)、昭和十五年七月から八月の間に、約六千名のユダヤ人 にビザを発行して彼らをヨーロッパから脱出させて命を救ったことは有名である。  しかし杉原より以上の数万のユダヤ人難民を関東軍が救ったことを日本人なら知っておくべきである。  また、ナチスドイツのユダヤ人迫害以前に、 第一次世界大戦勃発後にシベリアに追い詰められた難民、さらに、ソビエト革命の暴力と無秩序のなかでの難民を救出した日本政府と日本人のことを、日本人なら知っておくべきである。  そのなかで、ボルシェビキと反ボルシェビキの闘争のなかでシベリアに追い詰められたポーランド人孤児達合計七百六十五名を大正九年と十一年(1920年と22年)に日本赤十字と日本軍が救出して東京と大阪に送って保護し治療して健康を回復させて、横浜港と神戸港から彼らの母国ポーランドに送り届けたことはよく知られている。  この時、シベリアには、日本ともに、アメリカ、イギリス、フランスそしてイタリアの軍隊が出兵してボルシェビキの勢力がシベリアに及ぶことを阻止していた(シベリア出兵)。 しかし彼ら欧米の諸国はポーランドの孤児達を救出せず、日本政府と日本軍だけがポーランドの孤児を救出したのだ。これが、今に続くポーランドの親日の原点である。
 ここでさらに知っていただきたいのは、このロシア革命期の闘争のなかでシベリアに追い詰められて孤立無援となったロシア難民の子供達八百人の命を救った日本人船長と貨物船「陽明丸」の地球を三分の二周する劇的な航海の物語である。 何故、日本人がこのロシアの子供達を救ったドラマが今までベールで覆われたように知られなかったのか。それは、未だ解明されていない。しかし、2009年9月26日、ロシアの古都、サンクトペテルブルグの歴史文化児童図書館で「ロシア絵本と篆刻との融合 あるアバンギャルト展」という個展を開いていた日本人女性北室南苑さんと、日本人の船長とその船を探しているオルガ・モルキナという女性の出会いによって、約百年前の閉ざされた歴史の霧の奥からロシア難民の八百人の子供達を救った日本人船長と貨物船が浮かび上がってきたのだ。
そのオルガ・モルキナという女性こそ、百年前に日本人船長に助けられて日本の貨物船でロシアに帰った子供達の孫であった。オルガの祖父母は、その時、同じ日本の船に乗って祖国へ帰った子供だったのだ。オルガは、祖父母が言っていた船長の「カヤハラ」という名と、船の「ヨウメイマル」という名を、個展会場で北室南苑さんに告げて探して欲しいと真剣に訴えた。  彼女は、この船長の子孫にお礼を言いたい一心で北室さんに頼んだ。何故なら、この船長と船がなければ、自分はこの世に生まれていなかったからだ。 北室さんは、日本に帰国してから、運命の糸に引かれるように、隠されている歴史の闇から、「カヤハラ船長」と「ヨウメイマル」を探り当て光のなかに引き戻してきた。そのひたむきな探求は、女性らしく、まるで、隠れた恋人を探すかの如きけなげさである。  1918年、暴力と無秩序のサンクトペテルブルグからウラルに夏期居留疎開した八百九十五名のロシアの子供達は、激化した内戦に巻き込まれて故郷に帰れなくなり両親に会えなくなる。そして翌年の1919年、子供達は故郷とは反対の6000キロ離れたウラシオストクにシベリア横断の旅の末にたどり着く。  しかし、シベリアに出兵した日本軍と東に攻め寄せる赤軍との大規模な軍事衝突の危険性が高まるに至り、子供達を保護してウラジオストクに避難させてきたアメリカ赤十字社は、子供達をウラジオストクから船で太平洋を渡って帰郷させることを決意する。しかし、アメリカ赤十字社の母国アメリカ政府も船会社も、またシベリアに出兵していたイギリスやフランスの政府も船会社も、その船を出すことを拒否し、唯一、日本の船長と船だけが、彼ら約八百人のロシアの子供達を、太平洋と大西洋を越えて、さらに機雷が漂い施設されたバルト海に入って、ロシアのサンクトペテルブルクに帰郷させることを引き受け、それを実行したのである。
数年のユーラシアの荒野で難民逃亡生活を続けていたロシアの子供達にとっては、「ヨウメイマル」での大航海が終生忘れ得ない幸せな思い出となり、ヨウメイマルとカヤハラ船長の名は、八百名の子供達のそれぞれの子孫達に語り伝えられ、「『ウラルの子供達』子孫の会」代表のオルガ・モルキナは、そのカヤハラ船長の子孫に会って救われた子供達の子孫を代表して一言でもお礼を言いたいという長年の願いを抱き続けていたのだった。  その船長は岡山県出身の茅原基治(昭和十七年八月十八日死去、享年五十七歳)、その船は陽明丸、と、奇蹟のように歴史の闇から浮かび上がったのだ。北室南苑さんの一念がなければ、決して浮かび上がらなかったであろう。まことに、北室さんは、船長と船の名とともに、日本人の誇りと先人の遺徳を甦らせたのである。
次の書は、著者の北室さんの隠された恋人となった茅原基治船長捜索の手記であり、本年百年を迎えるロシア革命の実相を伝える歴史書であるとともに、我ら日本人の崇敬すべき先人の遺徳を甦らせる、魂のこもった書である。  是非とも、一読されたい。
 書名 「陽明丸と800人の子供たち・・・日米露をつなぐ奇跡の救出作戦」  編著者 北室南苑 発行所 並木書房 http://books.rakuten.co.jp/rb/14868655/
陽明丸と800人の子供たち 日露米をつなぐ奇跡の救出作戦
北室南苑 | 2017年04月08日頃発売BOOKS.RAKUTEN.CO.JP
ロシア革命の混乱期、ロシア難民の子供たち約800人救出に尽力した海運王 任侠の男、勝田 銀次郎 http://dayzi.com/a-izinkatuta.html
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