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#ジェンダーばい結婚事情
hosakakyodai · 7 months
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22oq · 6 months
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仕事に疲れきって、短い休みをとり、4回目の屋久島に行くことを決めた。
旅をするのがすきなわたしは、九州1周したり、四国一周したり、10年ほど通っていた伊豆七島の島があったり、日本の島は沖縄の離島から瀬戸内海とよく行ってきた。海外も10カ国は行き、好きな国は複数回行っている。それでも、回復や癒されることを考えた時に真っ先に浮かんだのが屋久島だった。屋久島だけだった。
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今回の屋久島は、癒されることが必要な者同士、友人2人で過ごした回復やケアのための時間だった。私たちは本がとてもすきで、この時間のために厳選に厳選した2冊ずつの文庫を抱え、屋久島に行った。
私たちは年齢も違えば、生まれも育ちも違うのに、なんだか変に境遇が似ていて、今の政治の違和感について、家族について、ジェンダーについて、セクシュアリティについて、結婚について、なんだって話していた。屋久猿や屋久鹿を眺め「動物を可愛いっていうのは、無責任なのではないか。」という会話もして、考えることを楽しんでいた。私より6つ年下の彼女はいろんなことを教えてくれるし、感じてきた時代の雰囲気も違う中で、希望のようなものを一緒に持って来てくれた。下の世代への希望のようにも感じるし、わたしが個人的に彼女に感じている希望のようなものが、いつも会話の中にあった。
私たちは、行きたいところにはどこまでも車を飛ばして行き、道中は話が止まらないのに、カフェに入ると2人で黙って海風を浴びながら本を読み耽た。道中の話が止まらないせいで、夜中にとんでもない山奥に迷い込んだりもしながら、日中は地元の人と一緒に熱い熱い温泉に入って、温泉にいた地元の赤子をみんなで愛で、最後は夕焼けを見に海中温泉まで走った。お金がない!と嘆いて入った郵便局のおばちゃまがとってもキュートで、ここ屋久島の素敵なところだからこの3つは行って来てねと教えてくれたりもした。お金なんて久しく窓口で下ろしていなくて、こんな時間すらもご褒美みたいな時間になるんだと思った。夜はスナックで地元のおじいちゃんたちと古い曲を歌っては喜んでもらって、帰ろうとしたら10分くらい若いお兄さんに引き止められた。
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何度か屋久島に来ている私は、会いたいけれどちょっと気負いするような関係性の人たちもいて、会いたいような会えないような感情を行き来しながらも、友人とちょっとだけ会いに行けた。久しぶりに会えた彼らは元気そうで、私がお世話になっていた時と同じだけの誠実さを持っていて、安心した。友人を変なことに巻き込んでしまった申し訳なさを持ちつつも、友人が微笑みながら、ずっとそばにいてくれたことにすごく感謝していた。私にとってやっぱり大切な人たちで、だからこそ友人と会いに来れて本当に良かったよってずっと思っていた。
回復の旅としながらも、書ききれないほどいろんな人に会い、いろんなところに行き、隅々まで楽しんだ。このペースは、2人にとって自然で必然で、必要な過ごし方だった。私たちにとって回復することが、興味関心に沿って制限なく動き続けることだった。
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この文章で、私は、私と友人の2人を、私たちと括りすぎてしまった気がする。でも、そのくらい一体感があって、共鳴していた。こういうことってよくあることではないし、きっとずっと続くものでもない。だからこそ、すごく特別だった。
今後、彼女は私が思いもよらないくらい飛躍していくだろうし、私たちのステージが全く変わっていけば、きっと感じていることも、自然と変わっていくだろう。寂しいことではなくて、だからこそ、今回のこの時間があってよかったなって思う。そして、互いの変わった価値観をぶつかり合う時間も屋久島であったらいいなとも思う。
今回はとにかく、ずっと忙しくて、ずっと癒されていた。"癒し"ってすごくカジュアルに使われるようになっているけれど、もっとフォーマルな治療という意味でずっと癒されていた。癒されるっていろんな形があるんだなって思った。
私たちはきっとこれからも傷つく。傷つく場所に躊躇なくでていく人たちだから。でもそういう時はまた何度でも、癒されにきたらいい。そして回復した自分を連れて、また社会の中で傷ついている人たちのところに行こう。やっぱり、見なかったことにはできないから。
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kennak · 7 months
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30代女性。セクシャリティがよくわからないので性欲と性癖について聞いてほしい。  【幼少期】小さい頃から性欲が強くよく父親の持っている週刊誌のグラビアページを見てニヤニヤしていた。セーラームーンのアニメが大好きで戦闘シーンのパンチラ(レオタードなので正確にはパンチラではない)をコマ送りにしてもらって喜んでいた。幼稚園で親友の女の子が用を足しているのをドアの上から覗いたり(ごめんなさい)公衆トイレで母親が用を足しているのをドアの下から覗いたり(ごめんなさい)公園で母親のスカートをめくって死ぬほど怒られたり(ごめんなさい)母親の実家に帰省したとき叔母の風呂を覗いたりした。(ごめんなさい)ただその後ふつうに叔母に風呂に入れてもらったときは恥ずかしくてずっと下を向いていたので、単に裸が好きというより相手の意に反して隠されているところを晒したいという加害欲込みだったんだと思う。  女体に興奮するのとは別に手のひらサイズの小さくてかわいい生き物を狭い所に閉じ込めてつついたりしたいという欲求もあった。ディズニーの「不思議の国のアリス」で牡蠣の赤ちゃんたちがまとめてセイウチに食べられるシーンの顔と悲鳴はたまらなかった。よく妖精のような生き物をいじめる妄想をしたけど自分はその対象が好きなのにいじめるとその対象に嫌われちゃうな…というジレンマがあった。  【小学生時代】夕方に再放送していた水戸黄門や大岡越前で町娘が悪いおっさんに手籠めにされそうになるシーンにものすごく興奮した。ただ子供なので裸に剝いたあとどうするのかはわからなかった。病院の待合室のテレビでそういうシーンが流れたとき明らかにいつもより人が見入っていてなぁんだみんな好きなんだとちょっと安心した。この頃まで性的対象は女性だった。(本当に女性が好きなのかショタや男の娘みたいに性的客体化されていれば男性でもよかったのかはわからない)  【中学生時代】オタク女性向けサブカル雑誌「ぱふ」を読む。記事や投稿コーナーで腐女子が男性キャラに「美人」とか「エロい」と言って盛り上がっている様子を読んで「男の人をそういう目で見ていいんだ…!」「男性を女性と同じようにオカズ要員として扱う界隈がこの世にあるんだ…!」という人生最大のカルチャーショックを受ける。ここらへんで主な性欲の対象が男性に移り変わる。リアルの恋愛には興味がなく周りの女の子たちがどうしてアイドルや恋バナに夢中になっているのか理解できなかった(今でもどんな人がタイプ?とか嵐だと誰が好き?と聞かれてもわからないので困る)  【高校生時代】テニプリ、BLEACH、銀魂、リボーンなど腐女子に人気のあるジャンプ漫画の全盛期で毎日起きた瞬間から寝る直前まで推しキャラや推しカプのことを考えていた。一番好きなのは受けがモブおじさんや攻めにレイプされる展開でそういう二次創作を読んだり妄想したりした。メインで好きなのはBLだったけど平行して女体に興奮するヘキも残っていたので、ドラマや漫画の女性登場人物がヌード写真集を見て嫌がるシーンを見て「これが一般的な女性の反応で見入ってしまう自分は異常なのではないか…」と不安になる。  【大学生時代】ゆっくり虐待にハマる。ウザいゆっくりに制裁を加えるよりキュートアグレッションの文脈で性的虐待する展開の方が好きだった。これは自分でもさすがにヤバい趣味だと思うので誰にも話したことはないし記憶に蓋をして努めて考えないようにしている。  この頃から刀剣乱舞など女性向けキャラカタログコンテンツが流行し、少年漫画には存在しなかった自分のアバターが作品内に登場したことで男性キャラ×自分にも萌えるようになる。(メインは男性キャラ×男性キャラで活動してたけど)思春期のころは自分の全てにコンプレックスがあって(今もあるけど)自分がかっこいい男性キャラと特別な関係になるのが厚かましいようで苦手だったんだけど、普段性的客体化している男性キャラへ向ける攻撃性を自分へ反転すれば夢妄想もイケることに気付く。かっこよくて悪い攻めキャラにレイプされたり利用されて捨てられる妄想が好きになる。  【現在】性欲が減退したのか妄想や二次創作自体以前より楽しめなくなった。BLはそこまで興味なくて男性キャラ×自分で妄想してる。(内容は催眠とかレイプとか)フィクションより現実世界のことに興味が出てくる。  ここから悩み相談になるんですが①女性なのに女体に興奮するのはなぜなのか?バイなのか?②幼少期から現在に至るまでレイプものが一番好きなのは異常か?③キュートアグレッションがあ���のはヤバいか?  ①について以前朝日新聞の人生相談コーナーに「私は男性が好きで結婚もしているけれどAV鑑賞が好きで、若い頃は女友達と観てゲラゲラ笑ったりしていた。これはどういう心理なのか?女優に感情移入しているのか?」という相談があって、上野千鶴子が「女体=エロい 男体=エロくない という社会のジェンダー規範を内面化していれば女性が女性に性的興奮するのは何もおかしなことじゃない」的な回答をしていて長年の疑問が解けた…!と思ったんだけど、その理屈だと私が社会経験の乏しい幼少期から女体の秘匿された部分に強い関心を持っていたのが説明できないのでは…?やっぱり本能なのか?と気になっている。②についてDLsiteの乙女向けランキングでは無理矢理凌辱系が常連なのでそんなことはないと思いたい。ただレイプものが好きと言ってもポルノあるいは自分がポルノ認定した作品のレイプ展開が好きなのであって、普通に楽しんでいた作品でキャラクターがレイプされるとショックで何年も引きずったりする。「日出処の天子」の刀自古と「ダウントンアビー」のアンナの件はトラウマになっている。③について最近もセイレーンに味噌漬けにされるモブちいかわ族に加害欲を喚起されて困っている。(嫌いだからいじめたいんじゃなくて可愛いからいじめたいという気持ち)  なんでこんなことを聞いてほしいのかというと自分の性癖がはっきりしないまま婚活とかしていいのかな…?と気になったから。人付き合いが苦手なのと怠惰な性格と2011年氷河期卒で一度も就職したことがなくて婚活市場のスタートラインにすら立てないのと中学から大学卒業までぼっちで一時期いじめられたり学校生活にろくな思い出がなくてもし子供なんかできたら自分の黒歴史の再放送を見る羽目になりそうなのが不安で今まで一度も人とお付き合いしたことがない。そもそも人に恋をしたことがない。一人の方が気楽だけど「二次元キャラじゃない生きてる人間と恋愛する」「セックスする」という人生の実績解除をしたい気持ちもあって…めちゃくちゃ自分本位で申し訳ないですが…。そこで自分のセクシャリティとか性癖に引っかかるところがあるのにそれを隠したまま恋愛とか婚活するのは不誠実かな?というのが気になって行動に移せないでいる。あと男性は慣れてない分自分が性的客体化されるのは嫌じゃないか?とか。  まとめると・女性なのに学生時代は勉強に集中できない程エロいことで頭がいっぱい・ドハマりしたキャラの8割は男性だけど視覚的にエロいと思うのは男体より女体・男性を好きになるのにも腐視点と夢視点で二種類ある・リアルの人間に恋をしたことがない。テレビで見てかっこいいなと思うことはあっても熱が持続しない・性的な妄想は好きだけど自己肯定感が低いからか自分がリアルに当事者になるのは嫌悪感や恥ずかしさがある・性欲と加害欲が結び付きがち  アラサーあたりから下の二項目が結びついて「自分を性的客体化されることが地雷な私が犯されるのを客観的に見て可哀想だと思って興奮する自分」みたいなよくわからないことになってる。まあSとMは表裏一体とも聞くし…。「性欲と加害欲をぶつける愛しい他者」が「性欲と加害欲をぶつける愛しい自分」にチェンジしたのかな?そう思うと人生の主役が30代半ばにしてやっと二次元から本人になった気がするけどもう手遅れな気がする。  【追記】長いのでそもそも読んでもらえないんじゃないかと思っていたのですが皆さん意外と真面目に読んでくださって体験談やアドバイスなどもいただけててうれしいです。特に同じ女性と思しきユーザーからの共感、AVや男性向けアダルトコンテンツ好きな女性も多いのがわかってほっとしました。もっとボロクソに言われても仕方ないと思っていたら意外と「ごく普通、実行に移さなければ問題ない。婚活でもわざわざ言う必要はない」というブコメが多くて驚いています。「性癖」の誤用についてめちゃくちゃ指摘されてた。日常的に誤用の方で使っていたのでつい…以後気を付けます。あと「一度も就職したことがない」と書いたので「子供部屋おばさんニートなのか?」とのコメントが多かったですがバイトはしてます。(パートやアルバイトの場合就職という言葉は使わないそうなので)子供部屋おばさんなのはその通りです お恥ずかしい…。以下答えられそうな範囲で返信。  「女性が女性に対しての欲望を持つって言うのはラカンかなんかで読んだ気がするな。ほぼ忘れてるから説明できんけど笑"女は存在しない"だっけ。男のホモセクシャルというのは存在するが女のレズビアンはない、女を愛するのは(身体)男にとっても(身体)女にとっても正常。なぜなら(身体女は存在するが)精神が女は存在しないから、みたいなこと書いてあった希ガス。」  「女は不死である」って本ですかね?すごく興味を惹かれました。読んでみたいです。  「なにが元増田に対して言いたいかって言うと、自分の性癖に怖がらずに、むしろ色々取り入れたらいいんじゃないかってこと。あとレイプ陵辱暴力は確かに興奮するけど、例えるならばめっちゃ味の濃い料理なので、そればっか食ってたら舌が鈍くなるんじゃないかってこと。まあ鈍くなってもいいと思うけどね、自分の人生だし。」  味の濃い料理めちゃくちゃわかります…!どんどん強い刺激に慣れてしまってふつうの萌えに不感症になるのよくないですよね…。  「②については仕事してた身から言うと、受ける側が積極性を持たない極限がレものだ。マグロのフィクション版というか…。ただそこに首絞められとか腹パンされ嘔吐、腹ボコなどが入ってくると別の願望になるよ」「レイプって自分から何かする事ないし、なんならセックスするかどうかの決定自体も「されてしまった」にする完全なる受動的性行為なんだよ。」  めちゃくちゃ納得しました。よく「令嬢が政略結婚させられるけど実は両想いで…」みたいなTL漫画の広告が流れてきますがそういう「良好な人間関係を築く手間をすっ飛ばして素敵な相手と一緒になりたい」みたいな需要のもっと極端なやつってことか。    『婚活の理由が「恋愛」と「セックス」だけど、婚活とはそこ意外と関係ないから気を付けて。婚活は「これから人生を共に生きるパートナー」を見つけるところであって恋愛したことない人を恋愛させる機関じゃないぞ。セックスの可否ももちろん夫婦生活に影響でるけど…』「それよりも、自分に結婚が本当に必要かどうか、掘り下げた方が良いのでは。」「婚活は時期尚早ではないかな まず出会いの場に行って自分が人を好きになる感覚があるのかトライしつつ、自分の食い扶持を自分で稼ぐ経済的自立をするのがまず大前提では」  それは本当にそうですね…。言われてからよく考えたら「結婚したい」じゃなくて「結婚したいと思えるほどリアルの世界で好きな人が欲しい」だったかもしれません…。  『「女性はエロいことに興味がないもの」みたいな社会通念が女性の生きづらさに繋がっている気もする。性別に関係なく性欲の多様性はある』  実際最近女性の性欲について解説した増田の内容が非常に理性的だったのと、「俺のイメージする女性の性欲に近い」というブコメが上位に来ていたので「そうじゃない奴もいるよー」と知ってほしくて書いたところはあります。(ただ私の文章読んで女だって性欲まみれじゃないか!と思われるのも世の女性に迷惑かけないか心配になってきた…)  「言っちゃ悪いけどクソしょうもない凡庸な悩み。長文書いていいのはやかんが沸騰するの見て興奮するとかそんなレベル。」「正直どうでもいい凡庸な自分語りだけど一度も就職したことなくて今何してるんだ?婚活してる場合だろうか。たぶんその前に友達作るとこから始めた方が良さそう。性癖以前にコミュニケーションに問題ありそう。」  そう言われましてもアンケートとか取ったことないし本当にわからなかったので…。みんな普通に友人と何に勃つかとか何に萎えるとか会話するものなんですか?羨ましいです…。  「こういう長文を書くのは最も増田らしい増田の使い方のひとつだと思うしみんなどんどん書いてほしい。」  優しい。  『性癖や嗜好よりも学生時代のいじめとコミュニケーション不全の方が問題。現実逃避からやっと今に目が配れるようになったと。あなたに告げたいのは「これからよくなるから大丈夫」てこと。』  優しい。泣く。  「性欲が強いと豪語するなら、自分の自慰行為や性行為について語らなければそれは性欲として見做すことは間違っている。同性が性的に辱められている不様さを愉悦する悪趣味なだけだ。同性の友人の不幸にも興奮してそう」  それは全然違います。男性キャラがレイプされると女性キャラと同じくらいかそれ以上に興奮するので「同性が性的に辱められている不様さを愉悦する」には当てはまらないし、本文にも書いてありますが「好きor可愛い」と思っているキャラがひどい目に遭う展開に興奮するのでむしろ制裁されてスカッとするようなキャラがレイプされも全く嬉しくありません。「同性の友人の不幸にも興奮してそう」←尊敬するフォロイーの痴漢され報告ツイートを見てその人の良さを何も理解していない知らない男に雑に消費されたのが悲しくて未だにふっと思い出して嫌な気持ちになるのでそういうことを言われると腹が立ちます。侮辱された気分です。
自分の性欲と性癖について聞いてほしい。【追記】
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shredderwastesnow · 10 months
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クィアたちのZINE交換【前編】
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発端
ある6月の休日、ZINE交換会に参加した。 主催は、数人のクィアによって結成されたプロジェクト集団「陰気なクィアパーティ」。今年春から、東京と名古屋で、派手なパフォーマンスが苦手なクィアのための穏やかな集まりを開いている。
そもそも「クィア」とは何か
「クィア」は、既存の性のカテゴリーに馴染めない人を指す言葉として、最近様々なメディアで使われるようになった。 元々「クィア(queer)」は「奇妙な」「異様な」という意味の英語で、セクシュアルマイノリティたちを揶揄する蔑称として欧米で使われていた。 しかし社会運動をしていたセクシュアルマイノリティたちが、たとえ端から見れば奇妙でも自分たちはありのままで生きるという決意と共に「クィア」を自称しはじめたことで、かつてのネガティブな意味合いが薄れてゆき、現在に至っている。
「クィア」の意味するところは「セクシュアルマイノリティ」と似ているが、カバーする範囲は「クィア」の方が広い。 紙媒体やネットでこれらの言葉に触れてきた印象では、「セクシュアルマイノリティ」は、性自認・性的指向が明らかにマジョリティとは違うという自覚がある人を指している。 それに対して、「クィア」には、まだはっきり認識できていないものの、世間が想定する性のカテゴリーに今ひとつ馴染めない…と感じているような、マジョリティとマイノリティのあわいにいる人も含まれる。 また、「セクシュアルマイノリティ」には、マジョリティに理解されず、社会から疎外された存在というニュアンスがある(その他の「マイノリティ」=在日韓国人、部落民、外国人などのような)。 この言葉が使われる際は、当事者が法制度などによって不当に権利を制限され、自分らしく生きることを阻まれているという実態がセットで提示されることが多いように思う。
例えば、性自認が男性(シス男性)で恋愛対象は女性(ヘテロセクシュアル)だが、女装をしている時の方が心地よいという人がいたとする。「クロスドレッサー(異性装)」「トランスヴェスタイト」「女装家」などと呼ばれる存在だ。 特殊なセクシュアリティを持っているが故に、街中で後ろ指を指されたり馬鹿にされたりして、尊厳を傷つけられることはあるだろう。 しかし、「ホモセクシュアル」ではないので、同性婚できない日本でパートナーと結婚できずに苦しむリスクはない。 「トランスジェンダー」的な傾向はあるものの、性自認と医学的・社会的に割り当てられた性のギャップに苛まれたり、高額な性別適合手術の必要性を感じているわけではない。 このような人は、「私はセクシュアルマイノリティです」と言っていいのか戸惑いがあるのではないだろうか。 自分の辛さは、法制度と闘わなければならない人のそれに比べたら軽微なのだから、この程度でセクシュアルマイノリティを自称して生きづらさを訴えるのは行き過ぎている…と自粛してしまうことが考えられる。 しかし、男は365日ズボンで暮らすものだという既存のジェンダー観から外れているという点で、彼は間違いなく「クィア」である。「私はクィアです」と言うのは、「私はセクシュアルマイノリティです」と言うよりはるかにハードルが低い。
「クィア」は、既存の性のカテゴリーに馴染めていないが「セクシュアルマイノリティ」の括りから除外される人々もふんわりと包み込む、懐の深い言葉だ。 セクシュアリティは千差万別で、まだ解明されていないことも多く、しかも生まれてから死ぬまでに変化する可能性もあるという揺らぎを前提として生まれた概念なので、より多くの人たちの拠り所になれる。しかし、このふんわりとした性質故に、定義するのは非常に難しい。
参考:
私のクィアネスについて
私は自分が「デミロマンティック」だと思っている。要は、世間一般の人と比べて、恋愛感情が希薄だという自覚がある。
多分「デミロマンティック」は多くの人にとって聞き慣れない言葉だが、「アセクシュアル」「アロマンティック」であれば知っている人はいるのではないだろうか。 「アセクシュアル」は性的欲求を持たない人、「アセクシュアル」は恋愛感情を持たない人を指す。 (日本では「アセクシュアル」は恋愛感情も性的欲求もない人の意味で使われ、恋愛感情はあるが性的欲求のない人は「ノンセクシュアル」と呼ばれるケースもあるようなので、「アセクシュアル」の意図するところは使う人や文脈によって変わりそうだ。なお、「ノンセクシュアル」は和製英語だそうです。)
「アセクシュアル(asexual)」「アロマンティック(aromantic)」の頭に付く「a」は、英語では否定(non-、un-)の意味を持つ。「asexual」=「sexual(性的欲求のある状態)でない」、「aromantic」=「romantic(恋愛感情のある状態)でない」ということになる。 一方、「demi」は、「半分」「少し」の意味を持つ(ヨーロッパ系のカフェでエスプレッソを注文すると出てくる小さなカップ=「デミタスカップ」を想像してもらえると腑に落ちるのではないでしょうか)。つまり「デミロマンティック(demiromantic)」は、「romantic(恋愛感情のある状態)が少なめである」という意味になる。
息抜き:
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当事者の書いた文章や当事者が主人公の小説を読む限り、アセクシュアルおよびアロマンティックの人は、それぞれセックスや恋愛に対して拒否感や嫌悪感がある印象だ。 私はどちらに対してもそこまで強い拒否感はなく、恋愛の延長線上にセックスがあることにもそれほど違和感を持っていないが、いかんせん恋愛感情が起こらない。
学生時代、周囲が少女漫画を貸し借りして「○○君と△△君だったらどっちがタイプ?」「私たちもこんな恋愛したいよね~」と真剣に語り合っている中、私はそのテンションに全く付いていけず、自分はみんなと違うな……と漠然と感じていた。
勉強や就職活動や創作活動などは、将来の自分の可能性や選択肢を増やして今より自由になるための活動であるのに対し、恋愛は、相手と良い関係を作るためのしがらみや我慢を発生させる点で、人生を不自由にする活動だと思っていた。 シスヘテロ男性との恋愛の先にあるかもしれない結婚・妊娠・出産などを想像すると、積極的に恋愛するシスへテロ女性たちは、自ら進んで家父長制に取り込まれにいっているように見えてしまった(ものすごく穿った見方だという自覚はある……彼女たちは自分の意志で恋愛しているのであり、余計なお世話だとは思うけど)。
私の中にこういった思考が育まれたのは、幸せな恋愛やパートナーシップのサンプルを身近に見つけられなかったという環境的な要因に加えて、やはり先天的な要因もあると思う。 近年の脳科学では、外部からの刺激によって脳内の快楽を司る「報酬系」という神経回路が活発化し、ドーパミンが分泌されると恋愛感情が起こるとされている。多分、私の脳ではこの回路があまり活発ではなく、少女漫画という刺激では作動しないのだろう。 (ただ、脳内物質にはドーパミン以外にもセロトニン・テストステロン・エストロゲンなどがあり、これらが出ていれば何らかの感情は発生していることになるので、恋愛感情がないからといって無感動というわけではないのですが。)
参考:
社会人になってから、微妙に恋愛感情が出てきた時期もあるにはあったが、それも数年に一度ぐらいの低い頻度だった。 仕事が忙しければどうでも良くなるし、一人で行きたい場所に旅行したり、カルチャーに触れたりライブやイベントに行ったりすればそこそこ満たされてしまうので、そのうち別にいいやという気持ちになる。
そんな自分のことを、私自身は「ドライな人間」「淡泊なタイプ」だと解釈していた。 ただ、性自認と医学・生物学的な性は一致しており(シス女性)、恋愛感情が起こる場合は異性に向くため(ヘテロセクシュアル)、自分がセクシュアルマイノリティだとは思っていなかった。 しかし、日本でもセクシュアルマイノリティに関する議論が活発になり、LGBT以外のセクシュアルマイノリティやクィアについての文献や記事が広く出回るようになって、やっと「デミロマンティック」というちょうど良い表現に出会えた。
クィアを自覚した後の問題
自分がクィアだと自覚することは、こういう人間は自分だけではないと安心できる点では救いだが、自分は差別される側の人間なのだという疎外感を突きつけられる点で呪いにもなる。 過去にセクシュアリティの違いが原因で周囲から浮いてしまった経験を、差別を受けた体験として捉え直す作業は、それなりの痛みを伴う。 しかし、これを丁寧に行わなければ、自分の生きづらさを解きほぐして緩和することもできないし、この先どう生きるのが自分にとっての幸せなのかも模索できない。 また、自分が生きている日本社会がどんな人間を異端として疎外・排除しているか、あらゆるセクシュアリティが肯定されるために社会や自分自身はどうあるべきかも見えてこない。
自分の中のクィアネスに向き合うことを意識し始めてから、同じように既存の性のカテゴリーからはみ出している人がどう生きているのか知りたいと思うようになった。 コロナが沈静化したタイミングで読書会やコミュニティを定期的に検索していた���ころ、「陰気なクィアパーティ ZINE交換会」の告知に出会った。 クィアとして生きる実感をZINE作りという形で語り直す作業を、この機会にやってみたいと思った。
限られた時間の中で何とか内容をまとめ、A5版12ページ、6,000字強のZINEが完成した。 会場で7部を交換し、2部は手持ちのZINEがなかった人に渡した。
「陰気なクィアパーティ」の大らかさ
私は「LGBT」ではないし、「アロマンティック」「アセクシュアル」のいずれでもないので、そういった人を対象とするコミュニティへの参加には抵抗がある。 でも「クィア」を冠したコミュニティであれば、私もここにいて良さそうだと思える。
会のグラウンドルールには、このような文言がある。
陰気なクィアパーティは、セーファースペースであり、あらゆる性のあり方を持つ私たちが共にいるための空間です。 差別の構造を解体する空間であるためには、参加者全員の協力が必要です。 自身の境界と他者の境界を尊重し、全ての人が居心地良く過ごすことができる対話空間作りにご協力ください。
この宣言はとても心強い。 このような場なら、「性的指向も性自認もマジョリティと変わらないくせにマイノリティぶるな」とか、「もっと辛い立場にあるセクシュアルマイノリティに比べれば、お前のしんどさなんて取るに足りないものだ」といったような攻撃を受けるリスクは低そうだと感じた。 そして、一定の安全が担保された空間で様々なクィアたちとコミュニケーションする中で、クィアとしてどう生きるかのヒントが掴める気がした。
会場に足を運び、様々なセクシュアリティの参加者からもらったZINEを読んで、自分の想像を超えた差別や疎外感を知り、世界の見え方が少し変わった。 あの空間に、一人のクィアとして立ったからこそ見えた景色だ。 私のZINEも、誰かにとって新たな気付きをもたらすものになっていればいいなと思う。
会社を辞めようとしているタイミングでこのような場に出会うことができ、本当に感謝している。 主催者の皆様、ありがとうございます。
そして今後は、小説の執筆ペースを上げることと並行して、一人のクィアとして考えたことをもっと言葉にしたくなった。 個が尊重されるセーファースペースで、様々なクィアと対話したり励まし合ったりする時間が定期的にあったら、何かと心細いクィア人生も豊かなものになる予感がする。
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tobiphoto · 3 months
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映画感想『SUPER MARIO BROS. THE MOVIE』
 実はやっと見ました。映画館に行く勇気もなく、レンタル開始されてもレンタルする気概もなく、Youtubeで広告が頻繁に入るようになり、めっちゃ評判がいいのも知っていた。「そろそろ避けられない!」と思ったので視聴しました。「良かった」って感じです。  ただ、ゲーマー且つフェミニストであるという自覚のある私は「ゲームのマリオシリーズ」と「映画のマリオ」と<設定は同じでリスペクトある別物>という意識での感想です。「映画のマリオもゲームと地続き」と言われてしまったら「映画版ピーチでも遊ばせろ!!!」と文句言うと思います。
 超カッコよかったじゃんピーチ。  マリオ無双ならぬ、ピーチ無双出してほしい。
■映画のピーチ  映画版のピーチは原作となった『スーパーマリオブラザーズ』シリーズでさらわれる「お姫様」としてのピーチとはまた違い、キノコ王国という国というからには存在している国境を守るため政治、社会情勢、軍事にも明るいまさに君主としてふさわしいキャラクターとして異世界からやって来たマリオを導きます。二人は恋愛というよりも、同じ目標に向かって戦う仲間という感じでしたが、キノコ王国に人間が一人しかいない理由なども含め、ゲームの「なぜ?」を映画なりに理由づけて映画としてまとめ、とても早いスピードで展開する様は視聴側を飽きさせない作り。悪く言えば、全体的にハイテンションなまま、緩急少なく物語が進み、とてつもなく印象に残ったシーンが少ないとも言い換えられはする。
 でも、全体的に「これでいいのだ」(by赤塚不二夫)でまとめてあって、文句もなく。
■ゲームのピーチ  一方、ゲーム版のピーチは「さらわれるヒロイン」というジェンダー役割を抱え、「女らしさ」に縛られているステレオタイプなお姫様から脱却できずに今もいます。今年、ピーチが主役となる『プリンセスピーチ』作が新たに登場します(DSでピーチを主役にした作品が登場しては居るので、ピーチ主役のアクションゲーム初作品ではありません)が、映画版ピーチのアクティブ且つスタイリッシュさよりも、フェミニンなお姫様というステレオタイプから逸脱できていません。  でも、私はフェミニンでたまにマリオを誘って旅行に行ったりしているお姫様のピーチもキライではありません。ゲームの世界のピーチはピーチで、一応固まった個性があります。これは長い年数培われてきたゲームの『マリオシリーズ』が「ピーチという女性はどういう女性なのか」考えてきた結果だと思います。保守的な女性像だとは思いますが。  ピーチはピーチでお姫様としてのステレオタイプを抱え、マリオの後ろに控えつつ、楽しそうなことには積極的に挑戦していく女性なのだとは思います。それはそれでピーチの個性だと思います。
■映画版を見て思った、もしかしてクッパ周りの「王族」の女性不足?  ところで…、クッパがあれだけ執拗にピーチを狙う理由というのは今までハッキリしていませんでした。ただ、ピーチがさらわれる理由として、クッパがピーチに恋心を抱いているという設定のようなものが付属されているのですが、正直「何で?」って思います。クッパとピーチ、種族も違うし。  そこが映画版を見て「もしかして、マリオの世界では“王族の女性”が不足しており、王族としての血を求めるクッパは嫁不足に悩んでいるのか?」という一つの可能性がこう、ふっと降りてきました。ヨーロッパの王侯貴族同士の結婚のような。(クッパが)一流の女性と結婚しなければならないと思っていて、キノコ王国の姫であるピーチ以外の王族がもしかしたら存在しないのかもしれません。もしくは、存在していたとしても文化が大きく違って、クッパの文化と近いところで高貴な女性というのがピーチしかいないのかもしれない。とか、そんなことを考えたりもしました。
 なんだかんだいって面白かったよね。
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aronespace · 1 year
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まちかどAronespace のお知らせ
 4月から1年間、Aロマ/Aセクの人間がここに存在している、という社会運動をやることにしました。
【目的】
 私はAロマAセクの人間で、ひとりで生きていきたい人間です。「ひとりでやりたい」の中には、「ひとりは寂しい」「孤独が辛い」「ひとりで生きるのは不安」「誰かを好きでいる」「誰かを大切にしたい」「実際はひとりでやれない」も含まれています。その上で、「ひとり」とは何か、私を「ひとり」にさせてくれないのは何か、「ひとり」を否定し、困難にさせるものは何か、「やる」とはどういうことか、そういうようなことを考えていこうと思います。
 もう一つの目的は、Aロマ/Aセクの人間が存在している、ということをやることです。Aロマ/Aセクは時に「見えない(恋愛的指向/性的指向)」であるとされます。それは、恋愛感情/性的欲求が他者に向く状態が正常/ノーマルであるとされている社会で私たちが不可視化されているからです。「(見え)ない」から「いない」ってどうして?すでにここにいるのに、どうして我々が可視化させなければならない?なぜここにいるだけ、を許され��い?「ない」を抹消されなくてはならない?私たちはこの異性(恋)愛規範、恋愛伴侶規範に支配される社会から(再)発見される存在ではなく、すでにここにいます。そんな社会の中、街の風景の中から私たちの場所を奪い返さなければならない。そういう思いで、基本的に屋外の「見られる」場所でやります。この社会が私たちにとって安全だったことはなく、よってまちかどaronespaceはセーフスペースではありません。この社会の中に私たちが存在することで感じてきた傷や悔しさ、やるせなさを話すことは、それらを個人の話(だけ)ではなくそうさせる社会規範への抵抗になると考えています。「ひとり」をやりたいのにそれが難しく、また不幸(unhappy)と結びつけられる社会から、繋がりを求めない、あくまで個として存在しながら、社会の中に私たちのための場所として「ひとり」を獲得し直す、そういう意図でやっていきたいと思っています。
【活動内容】
 メイン:仙台市内のどこか(基本は屋外、天候・体調によっては屋内)で、私(はねだ)が本を読みます。Aロマ/Aセクに関することを始め、ジェンダー、セクシュアリティ、フェミニズム、婚姻制度、家制度、クィア、(反・脱)恋愛、単身者(と老い)、孤独、ひとりなど、そのとき読みたい本を数冊持参します。ひとり積読解消読書会みたいな感じです。
 また、随時来訪者を募集します。通りがかりに手を振ってくれるだけでも嬉しいし、なんとなく一緒に本を読むのもいいですし、ふらっときて一言交わすだけでも十分です。少しの間おしゃべりできたら楽しいなと思います。が、人と会うこと、喋ることを目的としているわけではなく、コミュニティ作りや仲間作りをするわけではないので、基本的にその場だけの関係です。(私が人間関係を継続させるのがとても苦手なので、毎回その場だけの関係のスタンスでいこうと思います。もちろん何回きていただいてもいいですし、そこからいわゆる緩いつながりが構築できたら嬉しいですが、それを目的とした場ではないので)喋らなきゃ...みたいに全然気負わずにふらっと会って、ふらっとさよならしましょう。
追記:半年やってみて、いらっしゃった方とは本を読むというより話をする関わり方の方が多いというか、そのかたちがほとんどです。もちろん参加の在り方は自由ですが、読書会っぽい空気感ではないんじゃないかなという感覚です。話のテーマも特に設定していないので、話したいことを話すだけでも全然OKです。
 おしゃべりができたら楽しいと思いますが、答弁や教示はしません。また、正義のための議論(※「トランスジェンダー問題」のサブタイトルのようなニュアンス)以外を求める議論もしません。しゃべる内容も特に決めませんが、私は「ひとりでやりたい」をどうやってやるのか、を考えていきたいので、それに沿った話題を話せたらいいなと思います。
【日時・場所・期間】
 日時:基本月1度、日曜日に開催予定です。私の都合で変更や不開催などが起こることもあります。時間も季節や天候等によって変化しますが、今のところ14時以降から2時間ほどを目安としています。いつどのタイミングで来て、いつどのタイミングで帰っても全然オーケーです。
 場所:基本的に、宮城県仙台市内の屋外でやります。現在下見した上で候補にあるのは
・勾当台公園市民広場周辺
・錦町公園周辺
・仙台駅東口周辺
です。都度Tumblrと当ツイッタアカウント(@aronespace)にてお知らせします。なるべく直射日光が当たらないようなところで開催したいので、時間によって場所を移動することがあるかもしれませんが、それもリアルタイムでお知らせします。室内でやる場合はその都度の連絡となります。尚屋外で開催する場合、どうしてもトイレへのアクセスが悪くなってしまうことをご了承ください。
【グランドルール】
・私(羽田)はAスペクトラムへの差別を始め、性的マイノリティ差別、トランスジェンダー差別、ノンバイナリー差別、Aジェンダー差別に反対する立場です。よって、「#まちかどAronespace」ではそれらに対する差別を許容しません。おしゃべりの中でそれらに気づいた場合ストップをかけることがあります。意見交換、意見の批判はオーケーですが、差別につながるような議論、おしゃべりはしません。これらへの差別をする方は、ここに来ないでください。他者の尊厳、あなたの尊厳を毀損する発言や行為は控えてください。この社会が私たちにとって安全ではないと認識していることと、他者の尊厳を傷つけない行動を取ろうとすることは矛盾しません。また、まちかどaronespaceは障��、ルーツ、宗教、それ以外のあらゆる差別にも同様に反対します。
・参加される方の代名詞、呼び方(「さん」「ちゃん」「くん」など)は本人が望むものを使用します。基本的には「さん」呼びをします。もちろん名乗らなくても大丈夫です。
・Aロマ/Aセクのための場所ではありますが、参加される方はAロマ/Aセクでなければならないということはありません。セクシュアリティを問う場ではありませんので、明かしたくないことは話す必要はありません。
・「まちかどAronespace」は原則録画・録音禁止です。参加者を写すことはやめてください。ボムや本などの物品の撮影は可能です。写真を撮る場合は一言お声がけください。また、この場で話したことを、個人が特定できる形で第三者に伝えることはやめてください。
・疾病や障害、それ以外の事情によって参加に何かしら困難がある場合、お手数をおかけしますがどのような対応が必要か教えてください。私(はねだ)がひとりで対応するため、できることに限りがあるかもしれませんが、可能な範囲で参加を阻害しないような方法を取らせていただきます。
・原則マスク着用をお願いします。
・飲食物、本やZINE、フラッグ、プラカードなど持ち込みOKです。
・おしゃべりや仲間作り、コミュニティ作りは目的ではありませんので、無理にコミュニケーションを取る必要もありません。通りすぎる、挨拶する、手を振る、なんとなく本を一緒に読む、おしゃべりするなど、完全に自由です。ご自身のペースに合わせてご参加ください。(固い言い方で繰り返しているので交流を歓迎していないように思われるかもしれませんが、積極的には求めていないだけで交流できたら嬉しいと思いますので、ぜひお気軽にいらしてください🖤)
【第1回・4月開催予定のお知らせ】
【日時】4/16(日)14:30〜16:30
【場所】錦町公園の空いているスペース(最寄り駅:JR仙台駅、地下鉄勾当台公園駅)
【読みたい書籍】*これ以外にも増える可能性は全然あります
・エリザベス・ブレイク「最小の結婚」
・ショーン・フェイ「トランスジェンダー問題」
・三浦しをん「愛なき世界」
・塩沢美代子・島田とみ子「ひとり暮らしの戦後史」
 こんな感じで、2023年度の1年間やっていきます。一緒に本を読んだりおしゃべりできたらとても嬉しいですし、何より「ひとりでやる」を考えやっていくゆるい運動として関心を寄せていただけたら幸いです。
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hakoniwa-h · 1 year
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10周年目のトモダチコレクション新生活
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 2013年4月18日に発売日を迎えた「トモダチコレクション新生活」ですが、なんとなんと10周年を迎えました。おめでとうございます。2013年の4月17日夜11時のワクワクを共有したくて、このブログも2023年4月17日夜11時に更新しました。  いつもいっしょで無くさないダウンロード版をおススメしていたのももうできなくなってしまいました……。  ブログをお引越ししてくる前、Seesaaブログと言う場所でトモダチコレクション新生活のあれやこれやを載せていたのですが、その時代からのお付き合いがある方は10年以上このブログを見ていたことになります。  ありがとうございます。10周年おめでとうございます!
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↑リクノコ島生まれの100人目の住民かんたも9歳になりました。
 トモダチコレクション新生活は2014年6月6日、『Tomodachi Life』という名前で、アメリカ、EU、オーストラリア、韓国‥で発売されました。発売前、「同性婚」に関する要素を任天堂が不具合として修正、これに対し、「修正しないで欲しい」という当事者からの要望に、「社会的主張は盛り込めない」と強気な態度に出た覚えがありますが、この態度に対してユーザー、人権団体から抗議を受け、謝罪に至ったという非常に残念な経緯があります。  当時、私もこの騒動について自分なりにまとめなければならないと、拙いながら騒動について纏めたのですが、ジェンダーやLGBTコミュニティに関する知識が薄く、「同性婚」や「同性愛」と書いて良いのかという惑い(Miiの恋愛に関しては何と言うか、「愛」なの? という意識が若干ありました)や宗教保守に対する忖度を抱いたことを覚えています。そのため「同性結婚」や「同性恋愛」という言葉を使っています。その拙いブログ記事はSeesaaから引っ越し、あまりにも「差別的な表現なのではないか」「ちょっとここ間違いなのではないか」と思う部分は時代時代、静かに修正を行ってきましたが、それでも当時の自分の雰囲気や思いの大筋はそのままで、削除することなく、今でもあります。
 当時、好きな作品と時代の移り変わり、自分の抱く「当たり前だと思っていた社会と闘うこと」についてまだ拙かった私がそこに存在しています。 【過去に書いたブログ】  トモコレ海外発売前の同性結婚騒動  https://hakoniwa-h.tumblr.com/post/151286653996/
【参考】 ・HUFFPOST - 伊藤大地 「任天堂は同性婚にNO」? ゲームの設定めぐり海外で波紋 https://www.huffingtonpost.jp/2014/05/08/nintendo-tomodachi_n_5292748.html ・CNET Japan – Nick Statt 任天堂が謝罪--「トモダチコレクション 新生活」欧米版で同性愛に対応せず https://japan.cnet.com/article/35047703/ ・CNET – Michelle Starr How to have same-sex relationships in Tomodachi Life https://www.cnet.com/tech/gaming/how-to-have-same-sex-relationships-in-tomodachi-life/
 今日はこの10年で思ったちょっと真剣な、トモダチコレクション新生活から考えられる、政治に関する話にお付き合いください。
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■Miiの活躍  批判から10年近く経ちました。この批判の後、『Miitopia』が発売され、Miiのスキは仲間のMiiなら性別関係なく(というかMiiの性別すらとても曖昧になった)、誰でもスキという新たな面白さを持つソフトとして3DSで生まれ、Switchでリメイクされてパワーアップして帰ってきました。
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↑Miitopia  また、Miiは2016年3月17日に配信を開始した『Miitomo』で任天堂のスマホ事業第一作目として華々しい活躍を見せました。現在、残念なことに『Miitomo』は終了してしまいましたが、『Pikmin Bloom』でピクミンたちと街にお花を植えています。Mii自体は頑張っていると思います。
■ゲームと政治  任天堂は「社員一人ひとりが力を発揮できる環境づくりに努めます。」(https://www.nintendo.co.jp/csr/report/employees/topics/index.html?active-topics=topics01)と人権の尊重を掲げ、パートナーシップ制度を2021年3月導入したと報道されました。  この多様性のある職場環境づくりには「女性活躍推進」の項目もあるのですが、任天堂(日本)は女性社員が30%なのは一般企業を思えば多い方かもしれませんが、未だ女性にチャンスが少ない状態は変わりなく、同時に女性社員が少ないことは、女性がパートナーシップ制度を受けるチャンスも少ないということでもあります。今日明日にいきなり5割などはさすがに無理だとは思いますが、徐々に増やして欲しいですね。  また、任天堂含めた日系エレクトロニクス企業は2020年新疆ウイグル自治区での強制労働に関与したのではないかと指摘を受け、「現代奴隷」に関してどう考えているのか報告書の提出を求められています。
【参考】 ・国際人権NGOヒューマン・ライツ・ナウ 【報告書】新疆ウイグル自治区に関連する強制労働と日本企業の関与について https://hrn.or.jp/activity_statement/18457/ ・任天堂株式会社 現代奴隷に関するステートメント(PDF) https://www.nintendo.co.jp/csr/pdf/ModernSlaveryTransparencyStatement_jp.pdf
また、ちょっと気になるニュースがありました。 ・CNN 「任天堂米国法人が女性社員を解雇、理由を巡り物議に」 https://www.cnn.co.jp/business/35080561.html ・Gigazine 「ニンテンドー・オブ・アメリカで受けたひどいセクハラや女性差別について元従業員が告白」 https://gigazine.net/news/20220819-nintendo-of-america-sexual-harassment/
■現実が足を引っ張っている状態  さて、私が、そして多分このブログを見てくれている人なら望んでいる『トモダチコレクション新生活』正当な続編なのですが、日本社会のLGBTQ+コミュニティに対する冷酷な対応がMiiたちの生存にも影響を及ぼしているという指摘を今しなければなりません。  Miiの恋愛や結婚を男性対女性の一つだけにしておくのか、もっと自由なものにするのか、そのあたりの政治の問題が開発や発売の足を引っ張っていると思わずにいられないのです。もう「一方の性別しか好きにならないMii」は恐らく作ることができません。「一方の性別しか好きにならないMii」を作ったら、9年前のTomodachi Life発売時に起きた騒動の約束が嘘になってしまいます。  世界規模に広がっているファンコミュニティ(正直、「任天堂法務部」とキャッキャしながらマイノリティを攻撃している一部コミュニティや、国際情勢や戦争に影響しかねない機密情報を晒し合うコミュニティはともかくとしてという思いがありますが)はバカではないからです。そして、トモダチコレクションのみならず、様々なゲームに影響が及びます。「ビジネスのために人権をないがしろにする」と判断されれば、上記の人権ステートメントにも更に厳しい目線が向けられることになるからです。  これらの問題をクリアできなければ、『トモダチコレクション新生活』の続編開発なんて指示しない(というかできない)でしょう。  開発の足を引っ張っているのは、この10年で悪化した日本の政治と、「人権教育のなさ」だと今なら思います。
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 『トモダチコレクション新生活』の発売を望むあなたに言えることは、まじめに日本の政治について考えることだと思います。できれば、人権やLGBTQ+コミュニティについて、Miiは架空のアバターですが、現実に生きる人をゲームの中に落とし込むことができる不思議な立ち位置は、現実と切っても切り離せない存在であり、現実に影響を及ぼすこともあるからです。  それに自覚的であること、自分の当たり前を見直し、差別をやめることが開発販売への一番の近道だと思います。  男女じゃなければ結婚できないのは当たり前ですか?  現実にはありえずとも、赤ちゃんが同性カップルに導かれてもよかったのでは?  家を手に入れる方法が夫婦に限られているのはなぜでしょう?  見直せることはたくさんあります。
 そんなまじめなことを、トモダチコレクション新生活発売後10年で言わなければいけないと思うほどに、「ちょっとこの国まずいぞ」と深刻に私が捉えているという意識を受け取っていただけないか。という小さなお願いです。  私は『トモダチコレクション新生活』の新しい島にSwitchが輸入されて、それでゼルダとか、リングフィットアドベンチャーとか、Miiに遊んで欲しいよ。3DSにWiiU遊んでるMiiも愛しいけど、「Switch輸出して~!」と言いたいです。
 たぶん、3DSやWiiの���理にダウンロードコンテンツも、もう少し景気が良かったら続けられることもたくさんあったのではないかなと思います。島に住むMiiのWiiや3DSが壊れたらどうするんだろう。なんて悲しいんだろうと思うと同時に、Miiなら直せそうな気もするとも思う……。
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■締め付け  昨年、2月24日ウクライナ侵攻に侵攻したロシアは ――13年に「非伝統的性的関係(同性愛)」について未成年に「宣伝」することを禁じる法律が成立した。17年にはDVを非犯罪化する法改正もあった――  (毎日新聞:「女の子」だから、抗議する プーチン政権下のロシアの女性たち より引用)  とあり、2022 年末、「LGBTを宣伝するゲーム」のリストアップが行われました。これは、上記の法律が成立していたことが所以です。 そのリストの中には『Miitopia』が確実に含まれているし、含まれていなくても報告があれば含まれるようになるだろうと思います。 『Miitopia』がR18発売になったことも大きな話題を呼んだのですが、これは、この“宣伝”の部分に引っかかってしまったためです。  『Tomodachi Life』も含まれているかもしれません。
【参考】 ・毎日新聞 – 菅野 蘭 「女の子」だから、抗議する プーチン政権下のロシアの女性たち https://mainichi.jp/articles/20230413/k00/00m/030/139000c ・AUTOMATON – Daiki Imazato ロシア下院議員が「LGBTを宣伝するゲーム」をリストアップ。『Fallout』や『Apex Legends』など有名ゲーム多数を危険視 https://automaton-media.com/articles/newsjp/20221115-226706/ ・AUTOMATON – Ayuo Kawase Nintendo Switch『ミートピア』はロシアでは“18禁”だとして話題にのぼる。同性愛描写が影響か https://automaton-media.com/articles/newsjp/20210219-152683/
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 他にも、昨年11月、神道政治連盟が、同性愛について「精神の障害」「依存症」と書かれた差別的な冊子を 自民党の国会議員懇談会の会合で 配布したことが問題になりました。ハッキリと申し上げて、日本はLGBTQ+に関しては上記で述べたロシアの状態にとても近いと私は感じています。日本に「同性愛プロパガンダ禁止法」を作られては、Miiに関するゲーム作品の発売に限らず、日本に輸入される他のゲームにも、作品にも制限がかかります。『トモダチコレクション新生活』、『Miitopia』の中古作品の流通停止という事態さえ最悪あり得ると頭の片隅で考えてしまう。そんな未来は嫌で嫌でたまりません。
【参考】 ・Yahoo個人 – 松岡宗嗣 「同性愛は依存症」「LGBTの自殺は本人のせい」自民党議連で配布 https://news.yahoo.co.jp/byline/matsuokasoshi/20220629-00303189 ・朝日新聞デジタル – 伊藤舞虹 議員ら会合でLGBTQ差別冊子、「加担怖い」 当事者の神職ら抗議(有料記事) https://www.asahi.com/articles/ASQCG74K2QBPOIPE00S.html ・東京新聞 日本除いた「G6」からLGBTQの人権守る法整備を促す書簡 首相宛てに駐日大使連名 サミット議長国へ厳しい目 https://www.tokyo-np.co.jp/article/238238 ・Wikipedia「自民党議員会合LGBT差別冊子配布問題」 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E6%B0%91%E5%85%9A%E8%AD%B0%E5%93%A1%E4%BC%9A%E5%90%88LGBT%E5%B7%AE%E5%88%A5%E5%86%8A%E5%AD%90%E9%85%8D%E5%B8%83%E5%95%8F%E9%A1%8C
・BBC NEWS JAPAN 80秒で解説…米国防総省の機密情報流出、なぜ深刻なのか https://www.bbc.com/japanese/video-65284025 21歳の空軍州兵を逮捕、米国防総省の機密文書流出 https://www.bbc.com/japanese/65271731 (オンラインゲームチャットグループと言われていますが、SteamやDiscordと思いっきりゲームコミュニティで起きた事件です)
・Wezzy 多様性を目指すゲーム業界と、アンチ・ポリコレゲーマーの衝突/今井晋さんインタビュー 【前編】https://wezz-y.com/archives/63889 【後編】https://wezz-y.com/archives/63890
 日本のゲーム業界がどちらに行くのかは、ユーザーの雰囲気にも影響されると思います。
 好きなゲームが遊べるなら自分さえよければ良いという態度や姿勢を今まで取れてきたかもしれませんが、それはこの国に(比較的まだ)「お金」があると思われており、他人のことをおもんぱかることのない態度を取れる無神経な人々が多い国だったからだと私は思っています。そしてそれが、「東アジアの奇妙な風習の島国の人だから…」という人種的目こぼしがそこはかとなくあったとも思います。  しかし、今後はその言い訳は通用しませんし、その言い訳を通用させてきた裸の殿様ビジネスの在り方を情けなく思わないといけない時代に入ったと思います。だからこそ、私はせめて、Miiを愛し、このブログを読むあなたに今後の政治含めた未来について、まじめに考えて欲しいと切に願います。
 そして、それを踏まえた上で『トモダチコレクション新生活』の続編を開発してほしい。と堂々と願って欲しいと思うのです。
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 次の選挙は4月23日の統一地方選挙後半です。  今後、Miiがどう描かれて欲しいのか、そのキッカケの一つとして真剣に考えてみませんか。
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shukiiflog · 3 months
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ある画家の手記IF.?-6 雪村絢視点 告白
絢:まこまこー。髪型がいま真澄さんとおそろっぽくなってる♡から今度遊ぼー。見てー。 まこ:おーそうか。…わかった まこ:ウチくる?俺がそっち行くか? 絢:…(・ω・;)俺はまこの部屋行きたいけど…免疫弱ってるとかで、俺が出かけ��とかえって各方面に迷惑かけるかも…? まこ:じゃとりあえず行くわ。そしたらこっち来たいんだったら俺についてくればいいし。まーそれは体調次第な 絢:んー。ありがと~。
…間の取り方で 髪の変化の理由は察されたかな。 仕方ない、現実の形はいつも具体的だ。 髪型と髪色は口実にしても、色々と関係なくもない。
ここ最近外に出かけるより家で翻訳作業してたから、たぶん今迂闊に俺が外出したら季節的にもなにかウイルスもらってきちゃう。うちは三人ともそういう攻撃に弱いとこあるし、気をつけてないと。 翻訳ばっかりしてるのは、どうも付き合ってくしかなさそうな焦燥感があるから。後世に名を残すとか歴史に残る名訳を残すとか、そんな大層なこと望んでるわけじゃない、それでも時々俺はこのまま、どこにもなにも残さないで、一人で煙みたいに跡形もなく消えて、それっきりで、それが死んじゃうってことなのかって、朝起きたときとかに、思うから。 もちろん現実はそうじゃない。死後にきっと俺は俺が思ってる以上の人に、俺が思ってるよりきっと深く、爪痕を残していく。ちゃんと遺る。そういうことが分かってても、俺は翻訳を少しでも多く、精度高く、自分の言葉で残していきたい。 たくさん溜まった日記は…恥ずかしいから軽めの暗号化してるんだけど、言語さえ読めるなら二人には簡単に解読されちゃうかな。 今日まこを呼んだのは、最低限でも伝えるべきことを伝えていくため。 ほかの何が伝わらないままでもこれが伝わらないと困ること、だ。 今日一日でどこまで話せるかは分からない。長い話にまこがキャパオーバーするってことはなさそうだけど、この話をどう解釈してまこが今後どうするのかには、それなりの判断までの時間がいるかも。 もしかしたら俺も真澄さんも導き出さなかった別角度からのアプローチをまこは試みるかもしれないし、あの頃と違って今の状況はそこまで切迫してない、香澄も一年前とは違う。直にぃと結婚して、本来煩わなくていいことが綺麗に吹き飛んだ感じがするかな。 タイミングとしてはベストだと思う、俺が知り得たことをまこに託していくための。 玄関で真澄さんがまこを迎える気配がした。 けど俺はベッドの上にゆったりジェラピケ着たまま、上半身起こして書きものしてる体勢のままでいた。
前は来客の予定あったら朝からちゃんと身支度して髪セットして服着替えて体調もその日に合わせて整えて、お客さん来たら必ず俺も顔出してリビングにも出てお茶用意して、ってしてたんだけど、そろそろそういうのもきつくなる頃合いかと思って、やめた。 本当にきつくなってからじゃ余計に体壊すから、予兆があるなら早め早めに対処してかないとね。運良くここに顔出す人ってみんな、俺がだらしないカッコしてても気にしなさそうだし。
真澄さんが開けてくれた書斎のドアからまこがいつもの軽めの荷物抱えて入ってくる。 俺は書きものをやめて隣のデスクにまとめて置いた。 真澄さんから最初にもらった万年筆とコピー用紙であれから何も変わらずそのままずっと書いてて、インクも用紙も足してくけど、俺はパソコンとかより自分の直筆で文字を綴るってこと自体も好きみたい。真澄さんからノートパソコンももらったけど、結局手書きに戻っちゃったし。 「まこ いらっしゃい」 にっこり笑って体を少し伸ばしてベッドの上を整頓して片付ける。 「あんま部屋片付けてなくてごめんね。最近ここにいる��と多いから…」 俺が書いたものまとめてたら目に入ったのかまこが「おーすげー」って感嘆の声をあげた。…翻訳っぽいことってまこの前ではそんなしてなかったっけ…?でも留学中にさんざん多国語は喋ったな…。すごいのかなこれ…? きょとんとしてたらまこはテキパキ荷物をその辺に置いて防寒用の上着を脱いだ。 「ハンガーある~」って差し出したら使ってくれた。 まこの手が俺の前髪をさらさらいじる… 俺の耳にはサメのピアス。まこの耳にも。二人ともやっと開けた穴が安定してきたから。かいじゅうピアスは今日はおやすみ。 「翻訳作業するなら髪よけろよ」 「案外慣れると髪って気になんなくなるよ~。それにこれ、真澄さんヘアー!」 満面の笑みで言いながらベッド脇に立ってるまこの胸あたりに頭ぐりぐりしたらぽんぽん頭撫でられた。 「似合う似合う」 一拍置いて話が変わる。 「誕生日会のこと聞いた。…大丈夫か」 …誕生日。まことした誕生日じゃなくて、直にぃの家で…吐いちゃった方の。 「あーうん…誕生日会…。俺は直にぃと香澄のほうが打撃うけたんじゃないかと思ってる…。調子悪い本人はもうそういるしかないとこあるけど、周りはなんかできることないかって最後まで必死になったりそれで疲れきっちゃったり…とか…」 できることないかって、本当はそんなにないのも分かってて、それでもあの人のために俺はまだベストを尽くしてないんじゃないか、もっともっとやれることが俺にもあるんじゃないか、もっと必死に、救いたいなら愛してるならもっともっと、俺がボロボロになったって最悪死んだってあの人にできることがーーー そばにいて、あの人が弱ってたとき、俺はそんなふうに思い詰めそうになることも度々あったから。 「当事者のお前より他人が打撃うけてるわけないだろ」 …まこの言葉に小さくうなずくしかなかった。 …頭、切り替えよう。俺の話じゃないんだ今日は。 まこにベッドに座るようにぽんぽんベッドを叩いて促す。 「それより今日ちょっと聞いてほしい話あってさ…。お願い…になるのかな…微妙なとこなんだけど、結構重い話…かな…。」 重い話の重みでまこがダメージ受けるとはあんまり思ってない、そういう1ケースとして聞けば。でもこれは、他でもない、香澄の話だ。 「…。」 ベッドに浅く腰掛けて聞く姿勢になったまこに一旦切り出す。 「香澄のことなんだけど…」 ここまでで一度言葉を切る。 まこは自認するように淡白だ。それは良し悪しじゃなくて性質の話。まこは自分が進む道においてまだどういう形かは分からないけどもし香澄が道を阻害するような存在になると感じたら、香澄のことも遠ざけるかもしれない。 俺はまこのそういうとこを信頼してるし好きだから、改めろってもいえなくて、難しいところ。人間関係と感情と愛でほかのすべて自分の志すものさえ場合によってはなにもかも捨てるような俺には、できない判断。例えば香澄が煮詰まっちゃってもうどうしようもなくなって、俺に「しにたい」って言ってきたら、きっと俺は…
「…ねえ。寿峯はこの先もずっと香澄の友達だよね。 大学からの延長でなんとなくとか、仕事の都合で遠くに引っ越すことになったらそこまでとか、香澄が寿峯を失望させるようなことしたり言ったりしても。」 ちょっと俯いてまこのほうをチラッと伺う。 「…友達でいるための努力はするけど」 一度言葉を切って続けるのを静かに聞く。 「確約はない。俺も人間だし。自分だけが頑張って関係を続けるのは無理。…香澄は…よほど大丈夫とは思うけどな」 少なくともまこには香澄と自分が関係を続けるために頑張ることは、大前提としてあるものと、思っていい語り口。ちょっと安心した。 三人でいるときの様子から推し量れるものはあるけど、俺がいない間も二人は二人の関係を築いてきたし、ぱっと見良好に見えるけど俺はよくないものばっかり見ちゃう癖があるし。 「そういう条件は俺と香澄も今だって同じだから。無理して香澄のそばにとどまれとかって要求してるわけじゃないよ。まこが自分の人生を犠牲にしない範囲で、ってことかな…。線引き難しいけど自分の感覚でいいならまこはそういうの自然にできるかなと思って。」 「なるようになるんじゃねーかな…なんでずっととか言うんだよ」 うーん。最近自然とそういう、俺のほうの終わりを想起させるような言葉が無意識に出ちゃってよくないな。死とか終末とか悲観的で暗くてジメジメしたようなずっとそういうことばっか考えてるわけじゃないんだけど、でも遠くない自分の死を踏まえて生活すること自体はべつに不健全でも病んでもないと思う。 「お前が傍にいれなくなるからって俺じゃ代わりにはならんからな」 まこは香澄への自分の影響力をすこし低くみてるからなぁ。 以前、香澄とまこが少し揉めたとき、なんとなく察する事情からしてもいずれは起きたことだったように思う。香澄は直にぃとのここまでの関係を、おそらくどこかで「これは世間から非難されるんじゃないか」って風に思ったことは、ただの一度もない。多様化していく恋愛や愛、人間関係、結婚生活、ジェンダーやセックス、そういう世の中の潮流と、香澄と直にぃの事情がギリギリうまくはまったのは完全に偶然で、二人はそんな世間の向きなんて知らなかった。それだけで、まこと根幹から亀裂が入るのは目に見えてる。 この手のことに関してまこの言い分はおそらく首尾一貫していて非の打ち所がない。つまりそこで完全に閉じてしまったもの、論理の手前の段階の基礎ルール。これを香澄が突きつけられると切り崩しにくい、俺だってまこの主張自体を切り崩すことは口先でもできない、切り崩せないものだから仕方ない、物事の見方を転換させるような方法とらないとね。 そして香澄にかかる負荷のうち、なにが起爆剤になるかはーーーー誰にも分からない。 俺はこの件に関しては誰のことも信じてはない。 真澄さんも。光さんも。寿峯も。直にぃも。香澄も。俺もだ。 この中の誰だって香澄を殺すに十分な殺傷能力を持ってる。その中でも、話しておいたほうが安全性が高くなる存在にだけ、俺は話していく。 「まあ聞けって。お前の受け取りようにかかってくる面も大きいけど、代わりとは違うよ。ただの情報共有だ」 少し声のトーンを変えた。まこの顔つきも変わる。 そう、ここからが本題だ。 「俺が、香澄の体が傷だらけだって言ったの覚えてる?結構前の…会ったばっかの頃のことだけど。 俺はあの頃、直にぃのそばに綾瀬香澄がいることが直にぃにとってベターな選択なのか探ってた。だから香澄の体の傷痕見ただけで少しは憶測できた。まこも全裸じゃなくても少しなら傷痕見たようなこと言ってた。そこから厳密じゃなくてもなにか予測や予想できることってある?」 じっとまこを見る。 逸脱しない範囲で香澄に最も接近した距離にいる寿峯にどこまで予測がたつかで、香澄が両者とも不可侵領域にいる安全な距離感から相手に一方的にどこまで察せられてしまうのかをはかることができる。寿峯はそういうことを思考しようとすればできる。 「そういうの口に出すのあんま好きじゃねーんだけど…」 前置きみたいに言ってから、まこは考え始めた。 「…目につく事故や事件があると…違うな、危ない目にあいそうな誰かがいると、庇わずにいられない。ってふうに見えた。怪我から推し量ってんのかこれ微妙だけど」 まこの前でもそういう瞬間が日常的にあったというより…推測かな。 「俺は最初直人さんが電車にひかれそうなとこを香澄が庇ったって聞いて…香澄のそういう…ほっとけない性格、っていうには危なっかし過ぎんだけど、…つけこまれたんじゃないかと思ってたんだ。まぁ今は思って無い、直人さん本人見たら違うのもわかったし」 ほっとけない性格…に、つけこまれた可能性まで思い至ってる。つけこみたい人間はつけこめる相手を嗅ぎ分けるのがうまい。まこの把握は起きたこととしっかり一致してるな。 「俺も好きじゃないよ、俺自身が意図して示してもないものを勝手に詮索されたり読まれたりとかね。 でもプライバシーや本人の意思を無視しないと守れない存在がいる。これから話すのはその極例・綾瀬香澄と、彼が今の怪我のない状態に落ち着くまでのこと…。」 まこがどう受け取るかは分からない、それでも安全性は上がる、俺がまこを信頼してるからじゃない、まこの中に香澄への好意があるからだ。 「香澄について、俺は真実に限りなく近いはずのことを知ってる。誰も知らない、香澄も知らない、香澄のこれまで。 それをまこに話したい。 今ので分かったと思うけど、いまだに香澄が知らない、それを俺がそのままにしてる、香澄が知るとまずいことがある。 香澄も変わって来てるから、俺もやり方を適宜変えてきた。 聞いて、もし俺と同じ危険を感じたなら、警戒して、香澄を守ってほしい。これは強要できない、だからお願い」 にっこり笑って、話し始める。なるべく心を均一に保って、事実を。 香澄がどう生まれて誰に育てられ、なにが起きたか、真澄さんやほかの関係者は記号か父・母とか関係性だけで呼んで説明した。香澄が今に至るまで。 だから俺は、知る限りでの直にぃのことも、生い立ちからすべてを話した。香澄を守るために直にぃはもう切り離すことができない。 それにこの二人がなぜ関係を育めたのかは、二人ともの成り立ちが深く関係してくる。これは直にぃ本人から俺が聞いたことでもある。そしてこの二人は奇妙な点で、トラウマが表層だけ絡み合ってもいる。攻撃しようとすれば二人同時に殺せる。 話し終わっても、まこはじっと座ったままだった。
…ここからは、俺の話だ。 「浅い事情でも深い事情でも人は死ぬ。香澄だってこんなこ���とはなにも関係なくただある日転んで運悪く頭打っちゃって死んじゃうかもしれない。死んだらそれまでだっただけって。 理屈じゃなくてさ、俺は香澄の幸せを願ってるだけで。 これだけのことがあったならもういいだろって 思う この先うれしいこととか楽しいこととか幸せなことだけしか起きなくても…どれだけ俺がそう願ったって現実はそうはならないから だから現実の中で 願いだけは自由じゃないと いつかそれが現実にそっちへの道標をつけるかもしれないから」 どう考えるか決めあぐねてるような様子のまこに、今日は帰るように軽く促す。 なにか返事が欲しいとかは言わなかった。言ったとおり、情報共有、伝えただけでもそれだけで意識にないのとあるのとでは全然違ってくる。ここから先はまこが香澄にどう接していくかで、俺が口出せる領域じゃないとも言える。 まこが帰るのを玄関まで見送りしようとして、真澄さんに書斎に押しとどめられた。小さくまこに手を振る。見送りできないのは残念だったけど、書斎のベッドに倒れこんだら重力に負けたみたいに大粒の涙が次々出てきた。 余裕で平気なふりして話してもうとっくに整理できた俺の中では冷静に考えられることみたいに喋って、声も震えたり感情的になったりしないで、ちゃんと喋り終えた。 でも俺には そんな余裕ぶって話せないよ 本当は どうして香澄の身に起きたの?ほかの誰かじゃだめだったの?もっと最低のクズ野郎とか犯罪者とか大人とかいっぱいいるだろ、そういうやつでいいじゃん、なんで香澄だったの? ひとのことを愛せる、信じられる、優しくできる、気遣える、心配できる、どうしてそういう人たちがいつも利用されて傷つけられる? わかるよ、俺は、香澄じゃない、直にぃでもない、使わない手はないよねああいう人種は こういう人間が、俺みたいなのが、二人の人生をずっとずっと蝕んだんだ 薄く開いた扉にノックの音。涙声で返事したら真澄さんが入ってきた。 俺の頭を撫でていった手が額に当てられる。あつい。まこを早く帰したのも熱が上がりそうだったから。あと泣いたらさらに熱が上がった。 真澄さんの服の裾をくいくい引っ張ってねだる。「飲ませて」 サイドテーブルの水を薬と一緒に口に含んだ真澄さんにキスされて解熱剤を飲まされる。 こくっと喉を鳴らして全部飲み込んでから、布団の中に首まで入って大人しく寝る体制になったら、真澄さんは静かに微笑んで書斎から出ていった。 こういう人間が、二人の人生を蝕むのが分かる、二人には見えなくて俺には見えるそういう人間から、俺が二人をこれから先もずっと守れたらよかった でもそうはならないんだよ そうはならない 俺がもっと頑張ればとかもっと誰かの助けがあればとかじゃない 俺は今誰からも殴られてないし犯されてもない 食事も服もお金もなんにも困ってなんてない なんにも不足なんてない 周りは大好きな人たちに囲まれてて その誰も悪くない ここにいない誠人さんだって、現実はゲームじゃない、あの人を倒せば俺の命が伸びるとか、そんな分かりやすい悪人も悪役もどこにもいないんだよ 俺は 今 幸せ で、 一度入った布団から飛び出して書斎のデスクからハサミを引っ掴んだ そのまま風呂場にいって 伸びすぎた前髪を掴んでハサミでジョキジョキ切り落とした 前髪伸びたからなんなんだよ …なんだってんだよ… 黒く染める前はすこし自分に期待もした 色々偶然も重なったけどそれでも黒く染めたら髪型の印象がちょうど大好きな真澄さんとお揃いになりそうで 黒くするのはこれからもっと弱って 死んでく からだけど でも真澄さんとお揃いになるからそれだけで充分俺は心から嬉しくてはしゃげて だんだん死に装束に近づく現実なんかよりずっと嬉しさが上回るかもって なんで俺はそういうとこでだけおめでたい頭してないんだよ かなしい 悔しい こわいだけだった なにもはしゃげない きっとなんの事情もなく真澄さんとお揃いにしたくてこうしたなら心から幸せだったはずのことなのに 俺の現実が起きることなにもかも暗い不幸な出来事みたいに塗りつぶして 本当なら嬉しかったはずのことも書き換えられてく 今日寿峯と会って話せたのだって 嬉しくて寿峯のことが好きで幸せで それだけでいいはずのことなのに、これが最後になったらどうしようって頭をよぎって 別れ際、玄関までついていこうとした 幸せが、現実に貶められてく…
風呂場で髪をめちゃくちゃにハサミで切り刻んだまま散らばった髪の毛の真ん中で呆然と泣いてたら、光さんが風呂場に入ってきた 泣きついたら黙って抱きしめ返された 服を脱がされて俺の切りっぱなしの髪をシャワーで優しく洗われる 傾けた頭から切った髪が綺麗に洗い流される 髪を乾かしてみたら、ちょうど香澄と初めて会った頃くらいの、眉あたりに前髪がくる絢人の頃とほとんど同じ長さになってた ヤケになって髪切り刻むとか衝動的なことして、きっと心配もかけたのに光さんは怒らなかった 泣きながら手を繋いで寝室に連れてかれて、 寝室で待ってた真澄さんにハサミですこし怪我した指をベッドに座って手当てされる なにか言おうとしたけどその度にもっとひどく泣きじゃくって 嗚咽に全部つぶされた
その日は三人で一緒に寝た 俺はずっと泣いてた 二人は黙って寄り添っててくれた
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nagachika · 3 months
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水を縫う を読んだ
これ読むきっかけとなったのは図書館で借りた「なんでも魔女商会」シリーズの本にしおりのように挟んであった前に借りた人の貸出票レシートの切れはしがあって、そこに児童書といっしょにこの「水を縫う」という書籍名が書いてあったので、タイトルで気になって調べて借りた。結果おお当たりだった。早くも 2024年ベストの可能性のあるのを引いてしまった(暫定1位)。
裁縫の好きな高校生の清澄、結婚を控えたその姉の水青、子を思うゆえに過干渉になってしまう母のさつ子、おおらかな祖母の文枝という家族をそれぞれの視点から描くことでお互いの認識の齟齬をあきらかにする家族愛の群像劇であるつつも、ジェンダーによる役割分担の押しつけという抑圧への抵抗が共通したテーマとしてあり、さらにはもっと広く「好きを貫く」ことや「人生の成功/失敗とはなにか」が主題かなと読んだ。
清澄は母の期待に反して裁縫好きな男子で、彼と母との反目というのが序盤から終盤まで続く緊張であり、そのほかの個々人のわだかまりや後悔といったものはそれぞれの視点での章でそれなりに解消されるので読んでいて心地が良い。彼の視点での第1章では裁縫好きで友人のいなかった彼が高校で友達をつくるという他愛ないエピソードと、本作のメインストーリーといってもいい「姉の結婚式のドレスを縫う」というチャレンジの発端が描かれる。そこから視点が変わってお互いのことを実はちゃんと理解していないなというのがわかっていくのがおもしろい。
2章以降は他の家族の視点で、幼少期にあった痴漢とその二次被害の経験から「かわいい」を忌避していた水青が自分なりの「かわいい」をとりもどす第2章、子への愛情のもっていきかたに悩む母さつ子が祖母の会話で半生を思いかえす第3章、長年の抑圧からの開放をテーマとした祖母文枝視点の第3章(この章のタイトル「プールサイドの犬」がまた実にふるっている)ときて、じゃあ次は社会人として破綻していて父親としてもたよりない離婚して家を出ている全の視点かな、と思わせておいてなんと全の友人にして雇い主の黒田の視点の章がはさまる。ここすごい。彼の視点からみた全の過去の才能のきらめき。黒田は全が再びその才能を発揮するのを待っている。まるで夫婦のように。後の章でその黒田のことを清澄は「黒田さんはお父さんの家族」と表現するがまったくその通り。そして清澄に助力を求められた全はいろんな種類の記事を当てて水青のためのドレスを作りあげてしまう。さすがプロ。このシークエンス好き。
で、最後は全の視点でしょう、と思ったらまた清澄の視点に戻って、父親が完成させたドレスに流水の刺繍をするという奮闘を描いて本作は終わるのだが、ここの章で脇役のくるみが言う「自分の好きになるものをはやってるとかいないとか、お金になるかならないかみたいなことで選びたくないなと、ずっと思ってきた」「好きなことと仕事が結びついてないことは人生の失敗でもなんでもないよな、きっとな」というのが本作の本当の主題だと思った。くるみは一貫したキャラでぶれがない。母や祖母に対してもその身にしみついたジェンダーバイアスをあぶりだす役目を帯びている。あとこの「人生の失敗」という単語は母さつ子と祖母との会話でも出てくるし黒田さんの章でも出てきていて、これも本書の大きな主題なのだろうなと読んだ。
1月1冊目にして最高の読書だった。思えば去年も最初に読んだのが「千年の黙」だったかな。
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crydayz · 5 months
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231211 ふわふわビジョンの重要性
ういー・・ 気持ちいい。
柔らかくて温かいものに抱きついて安寧と停滞の酩酊に浸るのは超気持ちいい。
自分にとって究極の安らぎの「巣」を作ってそこでヘロヘロになるのはたまらない。
かつてはゲームの中で、絵の中で、仕事の中でそれを行い、他人と社会にそれをズタズタに切り裂かれ(それもちょっと気持ちよかった)、仕方がないから現実のプライベート空間でそれを再現する為の権利と技術を積み上げた。
安寧と信頼感得る為の最短ルートは「ペット」を飼うことだと思ってます。
バーチャルじゃなくちゃんと生きてるやつ。
死んだらガチで死んで遺骸残るやつ。
社会的な地位や美醜に関係なく自分を信じて懐いてくれる命。
そういうものを手にすると、他のしんどいメチャクチャもそれなりに耐えられるようにな・・・
―らんかった。つい最近までそっちの温みの依存症で相対的に建設的な行動や思考するのがつらくてつらくてたまらんかった。
ずっとふにゃくちゃでいたかった。
けど今はそれをそっと寝床に置いて戦場に復帰できるし、脳内にいつでも「ふわふわ」をロードできるし、そのふわふわを戦場の殺伐とした景色にテクスチャーばりに張り付けてクスクス笑う事もできるし可愛がる事もできる。
「オネェ」的パーソナリティ持つヒトは肉体が男性であっても「ふわふわビジョン」を行使しやすい。
純オスってのは「大好き」という感情がもたらす精神的肉体的バフを軽んじすぎている傾向がある。
それを異性という他者を介してしか摂取できないと信じ込んでいる傾向があるし、異性以外からそれを摂取してしまったら「オスじゃなくなる(オス社会から排斥される)」という警戒心を持っている。
僕は10代の頃から自身の中のオス性を嫌悪し否定し続けていた。
しかしオスワールドにおいてはそのスタンスがことごとく悪いベクトルへと作用した。
どんなカルチャーにおいても「メジャーなアセット」を使うのが大嫌いだ。
(素の欲求に従うなら)「線が細くてジェンダーが曖昧」なやつばかりを好んで用いるし摂取する。
大きな性差が確定しないロリやショタが好きなのもその所為だ。
嫌いなのは「成熟し社会的ロール引き受けカタにハマったマッチョでヘテロなジェンダー観」なのだ。
そういう意味で「ヘテロ男女同士の結婚」とか最低最悪で超つまらん選択だと思ってた。
途中はすっ飛ばすが「ペット」の存在がその凝り固まった世界観を少しずつほぐし「柔らかくて可愛くて温かければなんでもいいじゃん」という適当さを僕の中に蓄積していった。
「成熟したヘテロ男女の性愛はベタで安っぽくて味が薄いからダメ、全然トべない」という「厄介ハードル」をいい意味でなあなあにしてくれた。
他者の命に対して過剰なまでに「責任」感じたり「理想の愛のあり方」を自分の中で定義してるといつまで経っても「温み」を手にする事ができない。
だからその手の飢餓者は「無責任で乱暴なアプローチで温みをむさぼる人々」を攻撃する事で自身の「善性」を証明しようとする。
ああ、120%嫌われるアプローチな、それ。
でも嫌われてでもそれをやるのが自分の使命とか思っちゃうじゃん、思ってたね。
だんだん自分こそが他人を不快にさせる「害悪の渦」そのものだと感じられるようになってきたよね。「そう思ってしまうのはあなたが優しいからだよ」とか言われても何の慰めにもならんしお前も●すと思ってたよね。
オチを明確に定義しないまま無い物ねだりしてるような状態が続いていたし、それこそがイノセントな青春だと確信してたし、それをずっと続けていたいとも思ってた。
だから鬱は終わらんかったし終わらせるようなものでもないと思ってた。
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ummiii-moonlight · 10 months
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とりとめのない性のお話
(20230615再掲)
大学を卒業した途端、これからのライフプラン、あるいは恋愛、さらには性愛について、何か得体の知れないものを突きつけられた感覚がある。
ロマンティックな関係性やセクシャルなシーンのあるドラマや映画、あらゆる創作物には今まで人並みに触れてきたつもりでも、なんだか全て他人事だった。鑑賞直後には多少の余韻を感じ、主題歌のラブソングを聴いてみるものの、今!ものすごく恋愛をしたい!という強い欲求に駆られることはなかったように思う。
詳しくは書かないが、中学を卒業してから22歳の今まで、ほぼ女性のみで構成されるコミュニティで生活をしてきた。勿論、この環境が今の自分に影響を与えていないと言ったら嘘になる。とはいえ、この環境でなかったら自分は今頃、自然なきっかけで出会った一人の愛する異性と恋愛をして、セックスをして、その後のことを考えて…などといった時間を歩んでいたのかと言われると高確率でそうではない気がする。
ジェンダーバイアスが色濃い非都市部で中学までの15年間を過ごしたことにより、どこか異性の存在や恋愛というものへの恐怖感があり、「恋」という感情へは一定の距離感を持って過ごそうと、何ならどこか身構えていた節がある。今思えばこれはかなり視野の狭い考えで、異性愛規範にも強く縛られているし、実際、大学に入学してまもなくこの感情は消えていた。(ただ、似たような環境を経験し、同じように恋愛と距離を保ってきた女性は自分以外にもいるのではないかとも思う)
異性への恐怖感や恋愛への嫌悪感こそ和らいだものの、だからといって今すぐ恋人がほしい!とはならなかった。よし!恋をしよう!とおもってするものではないとも思っていたし、なんだろうな、自分にとって、恋愛より面白い何かがずっとあった気がする。それは好きなアイドルの存在であったり、芸術に触れることであったり、勉強であったり、友人との時間であったりしたが、自分の狭いキャパシティではここに恋愛が入り込む余地がなかった。そんなこんなで自分のセクシュアリティすらなんだかよく分からないまま、今日を生きている。
そもそもの話ではあるが、こんな自分であっても、これからの生活を考える際に、有無を言わせず「恋愛」や「結婚」の二文字がズカズカと脳内に介入してくることに少し落ち込む。そう、有無を言わせないのだ。
高校時代から定期的に会っているとある友人とは(少なくとも私は無意識に)そういった類の話をほぼしてこなかった。やはり恋バナよりも話したいことは沢山あって、その時間が何かと比べて軽んじられるような時間では全くなかった。(かといって恋バナがくだらないものだとか、そういうことでは一切ない)
そんなわたしたちですら、その近辺の話をはじめた。はじめざるを得なかったのかもしれない。第一声は「なんか最近寂しいよね、不安だよね」という会話からだった。今までであればこの寂しさや不安感という話から「恋愛」や「結婚」にはあまり結びつかなかった。しかし、ここでちらつくのが自分たちは「今年でもう23歳になる女性であること」や「もう学生ではないこと」。こうして文字にしてみると何とも自分たちを縛りつける呪いのようにも感じるし、一方で果てしなく自由で軽やかな響きのようにも思えてくる。けれども、この寂しさと不安を無意識に恋愛で埋めようとしてしまう。まるで何かにそうさせられているみたいに。心のどこかでは別に埋めなくてもいいとも思いつつ。
そもそも恋愛感情としての「好き」とは何なのか、友愛と恋愛、男女の友情について、性的欲求と恋愛欲求は必ずしも地続きではないのではないか、ロマンティック・ラブ・イデオロギー(恋愛・結婚・出産の三位一体構造)に対する違和感、マッチングアプリについて、魅力を感じる人やこと、異性愛規範について、けれでもこの国は異性同士のパートナーシップを基に制度設計がされていて…
このような話を友人は「自分や他者の話」と呼んでいた。わたしは友人の言葉に深く頷きつつ「性の話」でもあると感じていた。この場合の性はセクシャルなことのみを意味するのではなく、セックス、ジェンダー、あらゆる社会的な、時には私的な「性」に纏わるお話、という意味だ。(きっと、大好きな「わたしたちのスリープオーバー」というラジオ番組に影響を受けている)
現状、誰にでも気軽に話すことができるわけではない恋愛や性愛、その周辺のこと。たまに恋愛至上主義社会に翻弄されてしまう自分について。とりとめのない、それでもなんだか誰かと話したいと思っていた話ができた気がする。こんなに凝り固まってしまった世界でこんなに柔らかな話ができること、とても大切な時間だったなぁ。
少し、いやだいぶ話は逸れるけれど、
ずっと夢見てる景色があって、
夜の海辺で二人で寝転がって、
ハンモックもあったりして、
これまであったこととか、感じたこととか
これこれこういうことが起こった、というのもそうだけれど、君からはどんな世界が見えてたのかとか
知りたいし、わたしも伝えたい。
身体でつながることも気持ちよいけれど、他者から見える世界を教えてくれること、こちらも教えることって、見方によってはセクシーなやりとりだなと思ったりもする。きっと涙が出てきてしまって、そんな時はおでこを合わせて手を握れたら、それ以上のことはきっとない。
これは恋愛感情の相手でなくともいいのではないかと、自分でもそう思う時がある。でも、この先もしも自分が恋をするのならこんな瞬間が、こんな夜が、あってもいいんじゃないかと思う。
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ぼやける輪郭がいい
単純に自分の世界を広げてみたいと思い、難しい顔をしながらプロフィールを書いたマッチングアプリで、今日もひたすらスワイプをしてみる。これまでもアプリを入れては消していて、正直向いていないと感じつつも、何か少しでも面白いことが起こったらいいなと思っている。
大前提として恋をしてもしなくてもセックスをしてもしなくても、己の魅力だとか価値だとかに何ら関係はない、ほんとうに。そんな至極当たり前のことすら疑わせてくるような社会や政治には反吐が出るけれど、世界ってそんなシンプルじゃなくてもっと全然わかんなくて最高だってこと、少なくとも私と君だけは、ずっと覚えていたいね。
(ヘイトやデマを根拠とした目を疑うような法案が目を疑うような過程を辿って可決されてしまった日に加筆している。ここまで読んでくれた人の中には、なんでいきなり政治の話?恋愛の話を読みにきたのに!という方ももしかしたらいるかもしれないが、残念なことにすべては地続きで。
自分は女性だとか男性だとか、異性愛者だとか、紛れもない個人の選択が、力の大きい誰かのためだとでも言うのだろうか。たまたま既存の制度に当てはまるというだけで、勝手に、都合よく、他人の感情や関係性を利用してるんじゃないよ、と思う。
あなたたちはこれから先、思春期には異性を意識し出して、大人になったら好きな異性と結婚をして、子どもを産み育てて、「女らしさ」「男らしさ」が内包された保健の教科書。拭えない家父長制。守りたいのは子どもたちの心と身体なのか、そうではない何かか。マジョリティに都合のよい多様性が蔓延る世界で、これ以上何を「普通」のために差し出せばいいのだろう。
多数派ではないということを息苦しく感じてしまうすべての人がやさしい気持ちで眠ることができる夜が少しでも多くあってほしい。そして、もし、これを読んでいるあなたがここまで何も気にせずにこれたならば、少しでもいいので想像してみてほしい。
いかなるジェンダーの相手を好きになったって、誰も好きにならなくたって、結婚をしてもしなくても、性的関係や子どもを望んだって望まなくたって、あなたが女性であっても、男性であっても、そのどちらでもなくとも…
あなたが傷つけられて、抑圧されていいわけなんかこれっぽちもないはずだ。あなたが泣いているのなら、涙も枯れるほど、涙すら出ない絶望に包まれているのなら、わたしもきっと悲しいと、共にありたいと思っていること、誰かの心ない言葉によって変わることなんかできないくらい君はやさしくて美しいこと、どうか覚えていて。)
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chilchilmischie · 11 months
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Mo’ bitter words
前の日記に続けて書いている。
昨日は気持ち的にグワーっとしてたから、なんかとんでもないことを書きそうだったけど、今日は落ち着いて書けそう。内容は重いかもしれないけど、あんまり難しく考えずに書いていく。
本当は「土鍋でご飯炊くのにハマった!」みたいな日記を書き残すのが好きなんだけど、常にそういう時だけじゃ無いし、ちょっと際どいことも書き残してみようと思う。
■性の話
当たり前のことを書くけど、自分は男である。
性染色体をXYの組み合わせで受け継ぎ、生物学上「男」であるし、性自認も「男」だ。
ということで、「男だよ!」と言うことは簡単なんだけど、正直「男らしい男」であるかとなると、ちょっと怪しい。まあ「男らしいって何?」という疑問もあるのだけど、日常生活で男性として求められているようなことに対して、「え?うちをそれに当てはめるのは嫌だな」ということはちょこちょこあったりする。
まずさっきから書いている一人称については、やっぱり「僕」や「俺」と言うものを使うのがしっくり来ないという点がある。
一方で「うち」を使っていると「女の子みたい」と言われる。
確かにそうかもしれないなと思いつつ、でもこれが一番しっくりくるので、「男らしい一人称使って」と言われると、「どうしよう」という気持ちになる。
他にも「男らしい」で困った点は、振る舞いだろうか。
床に座る際、よく正座や体育座りをするのだけど、それがどうも男らしく無いようだ。初めて指摘された時、周りの男性を見てみると、確かに自分と同じように座ってる人がいなくてビックリした記憶がある。
バッグの持ち方でも言われたことがある。肩掛けバッグを両手で握っていたり、買い物カゴを両手で持ち歩いていたりしたら「女の子持ち」と言われた。これも「え!」ってなった。
他にも細かい部分で「男らしくない」と言われたことが何度もある。その度に「でもこれが一番落ち着くし」と思ってしまう。
見た目のことでも、ちょっと疑問に思うことがある。髪の長さなのだけど、自分としては髪の毛は短いよりも長い状態の方が「自分らしい」と感じる。だが、周りからは短い髪型の方が「似合っている」とか「短い方が良い」と言われる。「短い方がカッコいいよ」と言われることがあるけど、カッコよさなんて求めてない。むしろ丸っこいフォルムに柔らかい感じが好き。
以前、両耳がすっぽり髪の毛に隠れ、頬の部分まで髪が掛かった状態まで伸ばしたことがあるけど、その時の髪の長さについて個人的には気に入っていた(流石にこれ以上伸ばすのは変かなとは思っていたけど)。
ただその時も周りからは「変!」と言われてて、その後バッサリ切ってもらった後は「そっちの方が断然良い!」となった。それでもやっぱり自分の中では短い髪型の姿が嫌で、「早く髪伸びてくんないかな」と仕切りに思い、髪が伸びるまでの間ずっとモヤモヤしていた。
ちょっと話はズレるけど、男の人が髪を切る頻度にも驚いたことがある。どうやら月に1回程度らしい。
「え!?全然伸びてないのに何で切るの!?」と思うのだけど、髪をセットする際のことを考えると、どうしても一ヶ月周期になるようだ。
まあ、確かに自分も髪が短い時とかはワックスを付けたりして纏めたりするし、長くなるとセットしづらくなるよな、と理解は出来る。
でも毎月行くようだと髪切ってくれる人との会話内容が無くなりそうな気がする。「あ、その話前にも聞きましたよ」ってならないのかな?うん、大分話が逸れた。
たまたま自分が今いる環境下で、「男らしくない」って言われるだけで、実際はそんなことない(男らしくなくもない)のかもしれない。でも、「変!」と言われる機会が何度もあると「自分は普通だと思ってるけど、なんか変なのかな?」と思ってしまうものである。
ということで、最近になって自分の性について疑問に思うようになった。自分のことを女性と思ったことは無いけど、男性であるというのも、もしかして違うのかもしれない。
こういった話って、おそらくジェンダー論に関わる問題になるのだろう。
大学生の頃、社会学専攻だったので、こういった話は何度か授業で聞いたことはあったけど、正直他人事だと思っており、あまり難しく考えたことはなかった。「LGBTって大変だな」ぐらいの感覚。
でもいざ自分のことを当てはめてみたら、「性って何?」と、全く分からなくなる。
自分は自分のことを男だと思っているけれど、自分の振る舞いに対して『男らしい』と周りからは思われないし、自分自身も『男らしい』とされる振る舞いに対しては、違和感があってそういったことをしたくないと思っている。
振る舞いが性を示すのであれば、自分は男であると言えなくなるし、そもそもこちらから「じゃあ男じゃなくて良いよ!」となってしまう。
そうなると、自分は女性なのか?ということになるけど、これも絶対に違うと思う。「女の子みたい」と言われれば、ムッとなる訳だし。
となると、「どちらでもない」とするのか。ノンバイナリー?本当にそうなのかな。むしろクエスチョニングと言われるものの方が近そう。でも、そこに自分を位置付けするのも早計なような気がする。
と、あれこれ考えてしまうのだけど、直感的に自分はやっぱり男なんだと思う。色々当てはめようとしてみて、しっくりくるのは自分を男だと位置付けた場合だけだから。
答えはきっとこれで合ってると思うけど、もう少し「自分はこうだ!」と言える根拠のようなものが欲しい。
ということで、一般的(?)に性を構成しているとされる要素について、一つひとつ考えてみたいと思う。
1、身体的性
さっきも書いたけど、XY染色体に基づく男性。
生殖器官も男性のそれだし、見た目で男だと分かる。
2、性自認
男だと思ってる。根拠は無いけど、やっぱりそうだと思う。
3、性的指向
これがちょっと難しい気がする。
ドキドキしたりムラっときたりする場合のことなんだろうけど、基本的に女性に対してそういった意識が向く。とはいえ詳しいことは後述するけど、もう少し身体が女性っぽければ男の人とでも良いかもぐらいには思ってしまう。それと比べたがりな性格なので、女性との場合に比べて、男性とした時はどんな感じなんだろうという興味もあったりはする。実際にそんな目で男性を見た試しは無いけど。正直、気持ち良くなれて幸せに感じられるなら、これについてはなんでも良いと思う。
4、恋愛指向
これも正直よく分かんない。
他人に対して恋愛感情を抱いたことなんて多分無いような気がする。一人でいるのが好きだし、誰かと一緒にいたいという気持ちが無い。これは男女関係ないと思う。
でも、子どもの頃ぐらいはそういった気持ちがあったかもしれない。そういえば、幼稚園児の頃に仲良しだった男の子に「どっちかが(性別)反対だったら結婚できたのにね」と話をしたことがある。仲が良いというか、その子のことが好きだったのかもしれない。分かんない。
5、性表現
これが今一番自分の中で問題になってる分野なのかな。
ちょっと調べてみたら、一人称の扱いも性表現のひとつのようで、ちょうど「僕」や「俺」を使うのが嫌で、「うち」を使いたい自分の様なことが問題として挙げられていた。この日記書いてて初めて知ったことなので、びっくりした。
振る舞いについて。「男らしい」とされる振る舞い(益荒男振?)よりかは「女らしい」とされる振る舞い(手弱女振?)の方がしっくりくる。「お淑やかな風になりたいな」と思っているし、そういった風に見られたいとも思っている。けど「女性っぽい」とはまた違う。難しい。
身体的外見についても、「こうでありたい」と思うのは筋骨隆々な姿ではなく、華奢で少し丸みを持って、肌も白い方が良いと思ってる。多分、女性のそれに近い身体付きなんだろうけど、胸は無くて良いし、男性器があることについても特段不満はない。幸い、自分の身体に対してはお金やら努力やらで解決できる部分が多いし、そこまで気にすることはなさそう。というか、周りの人にそこを指摘されたことないから、自分だけでこっそり満足出来れば良い。
ファッションはどうだろう。スカートやヒラヒラのワンピースを着たいと思ったことは無いけど、服を買う際の基準を考えると、「あ、これ可愛い。」で選んでいるような気がする。だけど、服装については「女の子みたい」と指摘されたことは無いと思う。上はフーディーやカーディガン、ボトムスはワイドかスキニーパンツしか選ばないし、自ずと男女問わずな格好になってるだけだからかもしれない。
「どうありたいか」という表現はどちらかと言えば女性のそれに近いのかもしれない。それでも「うちは男です」と言うけど。
(今日はこの辺で書くのやめよう。疲れた。)
続きを書く。
読み返すと、なんか本当に際どいこと書いてると思ってしまう。
こういった気持ちをずっと前から持ち続けていたのか、それともここ最近になってのことなのか。いや、でも多分あまり意識してなかったことを、文字に書き起こして「あ、そうか」ってなっていったというのが一番近い気がする。
さて、昨日書いた要素について、それぞれどの性ジャンルに近いのか確認してみる。一日置いてみたので、少しは客観的に考えられそう。
1+2のこと:シスジェンダー
肉体的にも気持ち的にも合致しているので、多分これ。ただ、100%男である、という結論を下して良いのかは分かんない。
もしかしたら無意識下で「こういったところは女性のそれ」という気持ちが内在しているかもしれない。どうやらそういうもののことをデミジェンダーと呼ぶらしい。
じゃあ、デミジェンダーってことにしておく?でもやっぱり「男です!」って思うからシスジェンダーだと思う。
3や4のこと:アロマンティック
多分これ。
性的指向については、上に書いたとおり「幸せに感じられて、かつ気持ち良ければなんでも良い」という考えがある。大分退廃的で快楽主義的な考え方してるなとは思うけど。でも、そもそも人とそういった関係を持つのさえ嫌かもしれない。
恋愛指向は、まず誰かを好きになる感覚がよく分かんない。家族や友だちは大切だけど、それとはまた別の感情ということになると、「え、それってどんな感じなの?」ってなる。でも、これまた無意識にそういった気持ちを持ったりしてるのかもしれない。やっぱり、こうだって言い切れない部分が多い。
5 のこと:ノンバイナリー(トランスジェンダー?)
若干女性寄りな部分が多いような気がするけど、でも飽くまでも「こうしたいからしてるだけで、それが偶々女性のそれに近い」が正しいと思う。男らしい言動や理想とする身体付きに対して、「そういうの趣味じゃないし」という感覚で選ばないだけ。
となると、これについては男性でも女性でもないってことになる。恐らくノンバイナリーが一番当てはまる。
一人称の話から大分長々と書いてきたけど、そういった部分から大分込み入った話にまで発展したので、ちょっと驚きである。
男の身体で生まれて男として育ってきたので、それに対して疑問を挟む余地なんて無い、というか自分の性について考えること自体思いつきもしなかったことだけど、いざ実際に考えてみると、性って本当に酷く曖昧なんだなと思った。
ここ数年は「自分のことって実はよく分かっていないんだ」と感じることが多いけど、この性についてもそうだったということみたいだ。でも、それに対して少しだけ理解できたような気がするし、ある程度自分自身に説明が出来るようになったと思う。
もしかしたら今後も「え、そんなこと疑問に思ったことすら無いよ!」みたいな事柄について、いつかどこかで「え、でもどうなんだろう?」と疑問に思うことがあるかもしれない。
そういった時はまた黙々と考えてみて、でも難しい気持ちにならない程度に日記として書いてみようと思う。書くのすごい時間がかかるから大変だけど。
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shredderwastesnow · 9 months
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クィアたちのZINE交換【後編】
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前回の記事に書いたが、ZINE交換会で、私は7冊のZINEをいただいた。 今回の後編では、それぞれを読んだ感想をまとめてみる。
※作者がセクシュアリティをどの程度オープンにしているか分からないため、ZINEの作者名は伏せています。 ※オンラインで公開・販売されているものについては、末尾にリンクを貼っています。
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■「ノンバイナリーがわからない」というテーマ詩またはエッセイ シンプルな紙面から、生きているだけで「男/女」と申告させる社会への失望が伝わってくる。これまで深く知る機会のなかった生きづらさに気付かされる。 「お兄さん」「お姉さん」という呼びかけも、時として相手のメンタルを削ることを学んだ。会話の端々で、知らず知らずのうちに相手を「男/女」のカテゴリーに当てはめていたかもしれない……と怖くなる。
「男/女」のあわいにいる人と同じ社会に生きているのだと、もっと意識して生活しなければと思う。 そして、無意味な性別の振り分けをなくす方向に社会を変えることも必要だ。当事者を死に追いやるレベルの苛烈なトランスヘイトが実際に起きている今、一層強く感じる。 シスジェンダーの自分には、まだまだ見えていないことがあると気付かせてもらえた一冊。
■YOGA HAMSTER STAMP ヨガのポーズを、素朴なハムスターのイラストと共に解説するZINE。 モフモフしたハムスターが、1ページごとに「チャイルドポーズ」「猫のポーズ」などを決めている。手足が短いなりに頑張っていて可愛い。
様々な研究で、クィアが精神を病む率は、そうでない人よりも高いことが分かっている。 体をほぐし、リラックスする時間を意識的に取ることも、クィアとして豊かに生きる上では大事だなと認識した。いや……いっそハムスター飼う?
■LIFE LIFE LIFE vol.3 そうだ、京都行こう 写真が趣味の6人(Gender Identityは男性寄りと思われる)が、京都で撮った作品をまとめたZINE。 作品と共に、撮影エピソードも載っている。歴史ある町並みや自然の佇まい、旅の興奮が伝わってくる。
ZINE作りに参加した6人のうち、3人は一緒に撮影旅行をしたそう。 1人では挑戦しづらい着付け体験に連れ立って行き、着物姿で街を散策しながらお互いを撮り合う。スーパーで食材を買い、airbnbの宿で一緒に料理をする。朝は古い喫茶店でモーニングを楽しみ、香り高いコーヒーを優雅に味わう。 エッセイパートで若者たちの予測不能な旅の面白さを追体験しながら、友達が家庭を持ってしまった今はこんな旅行もしづらくなった……と少し切なさもよぎる。
なお、この3人のうちの1人が、旅先で気分が落ち込んでしまったときに2人がそっとしておいてくれて嬉しかったと書いており、印象に残った。 自分が相手より優位に立っていることをアピールしたり、キャバクラなどの空間で女性にケアしてもらいながら親睦を深めたりする「ホモソーシャル」なノリではなく、お互いに褒め合ったりケアし合ったりする友情の育み方が、読んでいて気持ちよかった。 作者のクィアネスについては特に触れられていなかったが、シスへテロ男性らしさを要求されないコミュニティが、作者の精神を支えているのかもしれない。
■Q&Q スモールトークが苦手なわたしのための質問カンペZINE A6版の手に収まるサイズ感と、ポップなイラスト、ドミノピザの箱のような色使いが可愛い。 イベントで初対面の人と実のある対話ができるようにという心遣いから、各ページに「今日はどうしてこちらへ?」「今の社会に足りないものはなんだと思いますか?」などの質問が並び、読者(ユーザー?)はページを指差したりめくったりして会話を進めるという仕組み。便利!
趣味や好きなカルチャーに関する比較的軽い質問もあれば、「どんなジェンダーの相手とでも、友情は成り立つと思いますか?」「自分の力で社会は変えられると思いますか?これまでに何か変えられた経験はありますか?」など、ぱっと答えられないような深い質問もある。
後ろの方には、作者が推している海外ドラマや本などの紹介も付いていて、世界が広がる。 最近はセクシュアリティの問題を扱った作品の数が増えて嬉しい反面、作り手側に深い理解や考察のない作品は観ても傷つくだけなのでうかつに手を出せないという現実もある。 セクシュアリティについて日々真剣に考えている人から、口コミで良作を教えてもらえるのは有難い。
読んだのがイベントから帰った後だったので、作者の方と会場でこれを使って喋れたら更によかったかも。次回に期待。
★おまけ★ 「どんなジェンダーの相手とでも友情は成り立つか」について: 友達になれないと感じるジェンダーの人は思い浮かばないが、テレビに出ているゲイやトランスジェンダー(ドラァグクイーン)に時折見受けられる「自由=性的に奔放」という考え方は苦手だなと思う。 タレントの恋愛相談に「積極的にどんどん行っちゃいなさいよ!そうやって経験を積んで人は大人になるんだから~」と答えるオネエ言葉の人たちは、恋愛やセックスをしない自由という発想がなさそうなので、友達になれる気がしない。知り合い止まりにしたい。 でも、あの人たちも、テレビが作り上げたステレオタイプを演じさせられているのかもしれない……どうなんだろう。 ドラァグクイーンでも文化人寄りのヴィヴィアン佐藤さんあたりは、恋愛相談に対してもっと深みのある言葉を返すのではないかと思う。
■アセクシュアルである私がどのようにしてサトシに救われ、今回の件でどのようなことを考えたか 2022年の冬、25年もの期間にわたって放送されてきたアニメ版ポケットモンスター(以下「アニポケ」)の主人公が、次のシーズンからサトシではなくなることが発表された。 このニュースは、アニポケのオタクであり、アセクシュアルでアロマンティック傾向のある作者にとって、人生を揺るがす出来事だった。
作者は、小学校時代から自身のセクシュアリティを自覚し、友人の恋バナについてゆけず疎外感を味わってきたという。 恋愛に無頓着でありつつポケモンバトルに魂を燃やし、そのまっすぐな生き方で人々に愛されるサトシの姿は、作者にとって救いだった。 脚本を書いた人は意図していなかったかもしれないが、テレビの前でアニポケを観ていた一人の小学生は、恋愛がなくても充実した人生を送ることができるというメッセージを受け取ったのだ。
主人公の少年が戦いを通じて成長するストーリーの少年向けアニメでは、多くの場合、サイドストーリーとして恋愛が描かれる。 「るろうに剣心」「NARUTO」「鬼滅の刃」など、主人公と女性キャラクターのカップルをぱっと思い浮かべられる作品は多い。 これらの恋愛は基本的に異性愛であり、同性カップルは登場しない。ほとんどの少年向けアニメの世界観は、シスへテロ恋愛規範に基づいていると言えるだろう。 こういった状況にあって、物語に恋愛を持ち込まないアニポケは、作者にとって抵抗なく楽しめる希有な作品だった。 サトシに好意を持つ女性キャラクターが登場しても、サトシにはぴんと来ず、「そんなことよりバトルしようぜ!」という態度を取る。そして、周囲はそんなサトシを責めたり馬鹿にしたりせず、「まあサトシだからね」と受け入れる。 こういった物語に触れることで、恋愛感情の湧かない作者は、自分自身も肯定されたと感じていた。
しかし、サトシが主人公のアニポケは、もう制作されない。作者の心の支えが、一つ失われてしまうのだ。
そして作者が危惧しているのは、「NARUTO」→「BORUTO」のような続編への移行だ。 「NARUTO」の続編である「BORUTO」は、「NARUTO」の主人公うずまきナルトとヒナタの息子が主人公。 この展開によって、主人公が異性と結婚して家庭を持つ=ハッピーエンド、という原作者と制作者の世界観が鮮明になった。 もし、同じように次期アニポケの主人公がサトシの子供になってしまったら――それはつまり、制作者の中に、「バトルに熱中していた少年も、大きくなれば異性を好きになって恋愛→結婚・セックスするのが当たり前」という考え方があることを意味する。 これまでアロマンティックやアセクシュアルを肯定する存在だったサトシが、シスへテロ恋愛の模範として再定義されてしまうことを想像し、作者は何度も泣いたという。 やり場のない不安を整理すべく、このZINEが作られた。
このZINEが突きつけてくるのは、恋愛や性愛のない人生を肯定してくれる物語の少なさだ。 純文学などの中には探せばあると思うが(谷崎潤一郎「細雪」とか)、沢山の人が楽しむアニメや漫画などのポップカルチャーの中に、主人公が恋愛なしで満たされている作品を見つけるのは難しい。 2022年、主人公がアロマンティック・アセクシュアルのドラマ「恋せぬふたり」がNHKで放送され、話題を呼んだ。 このような、恋愛に縛られない幸せの形を提示できる物語が、もっと作られてほしい。 そして、私も何か書けるかな……。
https://note.com/ichijosayaka_59/n/n93046e8a589f
■2306 最悪のプライド月間を、なんとかやり過ごすZINE 1968年にアメリカで起こったクィアによる反差別運動(通称「ストーンウォールの蜂起」「ストーンウォール事件」)にちなみ、6月は「プライド月間」とされている。 今年の6月も、世界各地でセクシュアルマイノリティへの理解を深めるキャンペーンやイベントが行われた。 日本でもこうした取り組みは盛り上がりを見せたが、一方でLGBT理解増進法案が保守勢力によって骨抜きにされるなど、国や社会によるクィアへの抑圧が鮮明になるような出来事もあり、国内のクィアにとっては希望を感じづらい1ヶ月となってしまった。
このZINEには、ゲイであり鬱療養中の作者がこの6月をどう過ごし、何を考えたかが記録されている。文章の合間にゆるい漫画や犬の写真が配置されているので、深刻な内容があってもそこまで肩肘張らずに読めて有難い。
鬱によって思い通りに動かない身体。過去に受けた性被害のトラウマ。 反差別というメッセージが限りなく薄められたLGBT理解増進法案や、SNSでのトランスバッシング。 彼氏が両親の留守中に犬の世話をするため実家に帰ることになり、こっそり同行させてもらうという楽しいイベント。 彼氏が両親にカミングアウトしていないため、表向きは友人を装わなければならない現実。 彼氏と犬のユズちゃんと共に過ごした穏やかな時間。 無職である後ろめたさ。梅雨時の湿気。 その時々の作者の感情が、グラデーションになって迫ってくる。
二人と一匹の間に流れる温かい空気を感じながら、二人が堂々と一緒に暮らせないことを悔しく思う。 また、病気などの理由で一日八時間労働が難しい人が社会から零れ落ちてゆくような現状も、もっと改善できないものかと感じた。 (「Marriage for All」に署名し、選挙の時も人権意識のありそうな人に投票するようにはしているが、まだ足りないんだろうな……。) 一応、作者が欲しいものリストを公開した時に、応援を込めて1品ポチッとした。まだ足りないだろうけど。
※「はじめに」のみ公開 https://nigenige2020108.hatenadiary.jp/entry/2023/06/30/090000
■恋愛も結婚もセックスもしたくない人がいるんです アロマンティック・アセクシュアルである作者が、自身のこれまでの人生と現状、将来のビジョンをエッセイ漫画にしたZINE。
作者は30代で、性自認は女性。アロマンティック・アセクシュアルでありつつ、BLが好きで百合も読む「腐女子」。 自分が恋愛や性愛の当事者になりたくはないが、フィクションの恋愛や性愛は読者として楽しめる、ということになる。
恋愛を経ての結婚をする気はないが、何かあったときに���け合える人がいてほしい気持ちもあり、いわゆる「友情結婚」にも興味がある。 助け合うことと恋愛・血縁が分かちがたく結びついている現代社会では、恋愛感情や性欲がなかったり少なかったりすると孤立しがちだな……と改めて認識する。 「恋愛経験がない/少ない=人間的に未熟」というバイアスに苦しめられるくだりは、共感しかなかった。
平日は金融機関で働き、週末にオタ活を楽しむ作者の人生は、ちゃんと充実している。 変わるべきは、「人生には恋愛と性愛があるべき」という価値観を振りかざし、無駄なコンプレックスを味わわせる世間の側だろう。 恋愛・性愛のない豊かな人生はあり得るという希望を見せてくれる、爽やかな読後感のZINEだった。
※8/11時点でこのZINEは完売、続編は購入可能 https://hinotoya-akari.booth.pm/
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こうして感想を並べてみると、作者7人のセクシュアリティと抱えている事情が千差万別であることに、改めて驚く。 本やウェブで「LGBTQ+とは?」みたいな解説を読んだだけでは絶対に見えてこない現実と実感が、それぞれのZINEから生々しく伝わってくる。
社会がカテゴライズした性別や恋愛・性愛規範に自分を無理矢理当てはめて解釈しようとすると、どこかで無理が生じる。 クィアはそうでない人より無理をしなければならないが、自分がクィアだと明確に認識していない人も、実は無理をしていることがあるのではないかと思う。 (「性自認が男なのにメイクしたいと思うのは変かな?」「恋人との時間より友達との時間が楽しいと思う私は間違ってるのかな?」といったように。)
既存の枠組みに囚われずに自分のセクシュアリティを語ることは、社会や権力の都合によって奪われた自分の一部を取り戻し、自分の生を自分に合う形にカスタマイズする第一歩なのかもしれない。
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oimotoai · 1 year
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排除と矛盾のオリンピック
東京2020におけるピンクウォッシングに着目して
はじめに
 2021年に開催された東京オリンピック(以下東京2020)では、大会のコンセプトとして「全員が自己ベスト」「未来への継承」に並び、「多様性と調和」が掲げられた。新型肺炎の流行に伴い社会の分断が深まる中、多様な人々が個性を発揮し、違いを認め合う機会を提供することを目指して据えられたこのスローガンは、大会のあり方に一定の影響を与え、ポジティブな成果を残している。例えば運営においては、日本オリンピック委員会史上初めてトランスジェンダー当事者の委員が就任したほか、女性理事の割合が全体の4割を超えるなど、ジェンダーバランスの取れた組織づくりに一歩近づいた。また、LGBTQ+の支援団体(プライドハウス東京、グラード、アスリート・アライ)がメディア向けに「ジェンダー平等、公平性の確保のためのポートレイヤル(表象)ガイドライン」を配布するなどし、ステレオタイプ的な報道や選手を客体化するような表現への対策を行った。出場選手については、オリンピックで少なくとも185名、パラリンピックおいては少なくとも36名のLGBTQ+を公表する選手が出場し、どちらの人数も過去最多だったという。また、開催地である東京都では、2018年10月から性自認及び性的指向を理由とする不当な差別の禁止を盛り込んだ「東京都オリンピック憲章にうたわれる人権尊重の理念の実現を目指す条例」が施行され、セクシュアルマイノリティに対する差別に反対する立場が示された(プライドハウス東京 2021)。これらの成果をふまえると、東京2020はスローガン通り、多様性を祝福するイベントとして成功を収めたかのようである。
 しかし東京2020は、スポーツの大祭典という特大イベントに人々の注目を惹きつけ、またセクシュアルマイノリティへの寛容性をアピールしながらも、開催地である日本での実際のセクシュアルマイノリティの扱いから人々の関心を遠ざけていた。本稿では、日本におけるセクシュアルマイノリティ周縁化に焦点を当て、それらが東京2020によってどのように覆い隠されていたのかについて論じる。まず、ピンクウォッシングという概念について説明したのち、その概念を用いて東京2020での寛容性アピールと日本社会の現状との落差を指摘し、最後にこのピンクウォッシングが、スポーツウォッシュを可能にするオリンピックというスポーツのメガイベントに組み込まれることでその効果を最大限に発揮していた可能性について論じる。
ピンクウォッシングとは何か
 ピンクウォッシング(pink-washing)とは、同性愛を表すピンク色(pink)と「もみ消す」という意味の動詞であるwhitewashとを掛け合わせた概念であり、国家や行政がセクシュアルマイノリティに対する寛容性をアピールすることで、その他の人権問題を隠蔽することを指す(保井 2018)。例えば、イスラエルによる同性愛者への寛容性の表明は、パレスチナ人に対する人権侵害から言い逃れるためのピンクウォッシングであることが指摘されている。パレスチナを含むイスラエルの周辺国においては同性愛が宗教的にタブーとされているため、イスラエルは同性愛者を受け入れる姿勢を積極的に宣伝することで、自国の人権感覚がどれほど「進んでいる」かを示し、パレスチナの占領などのネガティブな印象を払拭しようと試みているのだという(保井 2018; 須崎 2022)。
 セクシュアルマイノリティへの寛容性を表明することで他のマイノリティの排除を不可視化することを指すピンクウォッシングだが、日本の場合、その効果はやや変わった形で現れる。セクシュアルマイノリティの難民の受け入れに着目した保井(2018)の研究からは、日本では、多様な性への寛容を国際社会にアピールすることで、実社会におけるセクシュアルマイノリティへの不寛容を隠蔽するという独自のピンクウォッシングが起こっているという。このように、特定の属性への不寛容を、その属性に対する寛容を表明することで誤魔化すという矛盾したピンクウォッシングの構造は、東京2020においても見出すことができる。
東京2020におけるピンクウォッシング
 ボイコフ(2021)は、オリンピックのネガティブな傾向が(1)過剰支出、(2)白象(無用の長物)の会場、(3)公共圏の軍事化、(4)立ち退きとジェントリフィケーション、(5)グリーンウォッシングという5つの主だった傾向に分類されると指摘しているが、東京2020ではこれらに加え、ピンクウォッシングが行われていたことを指摘したい。
 東京2020大会内で、視覚的にわかりやすくセクシュアルマイノリティへのサポートが表明された例としては、開会式での、歌手MISIAによる君が代の歌唱が挙げられる。「レインボーのドレスを身に纏って君が代を歌う」というパフォーマンスは、セクシュアルマイノリティに対する寛容的なイメージと日本という国家とを強く結びつけるという点で意図的かつ効果的な演出だったといえよう。また閉会式では、日系イギリス人でパンセクシュアルを公表しているリナ・サワヤマとエルトン・ジョンによる楽曲「Chosen Family」が使用され話題を呼んだ。自分達は「選び取った家族(Chosen Family)[*1]」であり、遺伝子も名字も関係ないのだと力強く言い切る「Chosen Family」は、世界中のセクシュアルマイノリティ当事者と痛みを分かち合い、お互いを祝福する賛歌として大ヒットした楽曲である。このように東京2020では「多様性と調和」というテーマに忠実なパフォーマンスや演出が行われたことで、日本があたかも多様な性と生のあり方に開かれ、他国を啓発するレインボーな国家であるかのような印象を与えた。
 しかし、イメージと現実は大きく異なる。日本では、君が代が賛美する天皇制を支えた家制度の名残によって、異性婚をした夫婦が別姓を名乗ることすら認められない。家制度を契機に日本社会に広く浸透した家父長的価値観は、家制度の廃止後もなお、男性による女性の支配を当たり前と見做すような考え方や、異性愛を前提とした「家族とはこうあるべきだ」という固定観念として日本を生きる人々の生活に影響を与え続けている。
 また、同性婚が法制化されていない日本では、パートナーシップ制度の導入は着実に広がっているものの[*2]、Chosen Familyとの関係について、法的な保障を受けることが不可能である。G7において唯一同性婚を認めておらず、また性的指向に基づく差別を禁止する法整備をしていない国でもある日本は、OECDが発表したLGBTQ+の包摂に関する法整備のランキングにおいて、35カ国中34位、つまりワースト2位であることが発表されている[*3]。
 オリンピックの開催を念頭に「LGBT理解増進法」の制定が見込まれたが、2023年現在に至ってもその導入は実現しておらず、そもそも明確に差別を禁止しない法整備のあり方に批判が集まっている。加えて最近では、元総理秘書官による「(同性愛者を)見るのも嫌だ」「(同性愛者が)隣に住んでいたら嫌だ」などの発言[*4]、岸田総理大臣による「(同性婚を認めれば)家族観や価値観、社会が変わってしまう」との答弁[*5]によって与党のセクシュアルマイノリティに対する偏見や差別感情が露呈し、「理解増進」を促す側がそもそもLGBTQ+に対して不寛容であることに疑問の声も上がっている。
 このように、「多様性と調和」を掲げ、セクシュアルマイノリティの包摂を説くような大会運営の裏では、保守的な政権の下で同性婚もできず、差別を取り締まる法もなく、異性愛者でさえ生きづらさを抱えざるを得ないような社会が広がっていたのである。東京2020で行われていたイメージ戦略はまさに、セクシュアルマイノリティに対する寛容性をアピールすることで、国内の人権問題を隠蔽するピンクウォッシングに他ならない。
スポーツウォッシング×ピンクウォッシング
 そもそも開催国の社会問題を覆い隠す効果を持つオリンピックというスポーツの大祭典は、ピンクウォッシングにうってつけの舞台であった。
 ボイコフ(2022)は、政治指導者がスポーツを利用し、自国を国際的に先進的な存在であるかのように演出しつつナショナリズムを煽り、国内に蔓延る社会問題や人権問題から目をそらさせる現象を「スポーツウォッシング」と定義しており、ソルトレイクシティ冬季オリンピックをその一例として挙げている。9.11の同時多発テロ後、米国では「女性及び非異性愛者に不寛容なイスラーム社会」と「その社会の被害者を救済する自由で寛容な米国」という位置付けのもと、反イスラーム感情を伴う愛国主義―Puar(2007)によるところの「ホモナショナリズム」―が登場した。当時の米国では、イスラーム社会と対比した米国社会の安全性と先進性をアピールするために、例外的に女性や同性愛者の権利保障が強調されるという、一種のピンクウォッシングが起きていたのである。9.11後に初めて開催された2002年のソルトレイクシティ冬季オリンピックは、まさにこのホモナショナリズムによって強調される「(イスラーム圏からやってくる)テロとの戦い」というメッセージがメディアを通じて国際的に発信される、絶好の機会を提供したという。このように、オリンピックの開催を通じて、開催に尽力する政治家はスポーツを隠れ蓑にし、自国についての望ましいイメージを国際社会及び国内に向けてもに打ち出すことができるのである。
 開催国の権力者に都合の良い政治的効果をもたらすスポーツウォッシングには、広告、メディアとの結びつきが欠かせない。オリンピックは大会に対する政治的な異議申し立てを「スポーツに政治を持ち込むな」という態度でシャットアウトしながら、広告会社やメディア業界と結びつくことで、開催国の政治的思惑の実現を可能にさせる。東京2020では朝日新聞、北海道新聞、毎日新聞、日経新聞、産経新聞、読売新聞の6紙がオリンピックのスポンサーとなった。これに対し、主要なメディアがほとんどスポンサーシップを結んでいることで、これらのメディアに広告を出している企業も含め、メディアによる政治の監視という役割が十分に果たされていたかどうかが疑問視されている(ボイコフ 2020; McNeill 2020)。実際、当時の新聞の社説を比較した研究から、オリンピックのスポンサーでない新聞では国内の社会問題が大会開催と結び付けられて語られていたのに対し、スポンサーの新聞においてそれらの問題は大会と切り離され、あくまでオリンピックの外側での出来事として位置づけられていた傾向が明らかに��れている(森津 2022)。
 このように、東京2020におけるピンクウォッシングは、スポーツの純粋さを盾にとるスポーツウォッシングと手を組み、メディアを懐柔するオリンピックというメガイベントの名の下に行われたことで、その問題性に対する追及から逃れている可能性がある。
さいごに
 本稿では、東京2020で掲げられた「多様性と調和」から出発し、日本におけるセクシュアルマイノリティの排除と周縁化が、オリンピックによってどのように隠蔽されたのかについて、ピンクウォッシングとスポーツウォッシングの概念を参照しつつ論じた。
 セクシュアルマイノリティであること自体が犯罪とされたり、迫害の根拠とされる国がいまだ88カ国にのぼる中[*6]、政権がセクシュアルマイノリティに対する寛容性をアピールすることにメリットを見出す程までに、国際社会及び日本社会が変化していること自体は、より包摂的な社会の実現にとって良い傾向である言える。しかし、先進国のお墨付きを得るために行われる寛容性の強調は、法整備による人権の保障といった内実が伴っていなければ、単に有害なだけである。日本、特に東京に対して、世界中に「多様性と調和」を呼びかけたからには責任意識を持ち、一刻も早くセクシュアルマイノリティの排除をなくすための法整備を整え、見せかけと実情が矛盾した状況を脱することを強く望む。
[*1] LGBTQ+コミュニティで長年使われてきた用語.血縁や法的な関係にはないが「家族」のような絆で結ばれ,互いに支え合うコミュニティを指す.
[*2] 2023年2月22日時点で,導入自治体の数は少なくとも260以上に上り,人口に対するカバー率は6割を超えている.(2023年2月25日取得,https://www.marriageforall.jp/marriage-equality/japan/).
[*3] OECD iLibrary, 2023, “3. Are laws in OECD countries LGBTI-inclusive?” より(2023年2月27日取得,https://www.oecd-ilibrary.org/sites/e22596d2-en/index.html?itemId=/content/component/e22596d2-en).
[*4] NHK,2023,「岸田首相 同性婚「見るのも嫌だ」などと発言の荒井秘書官 更迭」NHKホームページ,(2023年2月27日取得,https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230204/k10013970711000.html).
[*5] NHK,2023,「岸田首相 夫婦別姓や同性婚「改正で家族観 価値観 社会が変わってしまう」」NHKホームページ,(2023年2月27日取得,https://www.nhk.or.jp/politics/articles/lastweek/95231.html).
[*6] 認定NPO法人虹色ダイバーシティ,2022,「性的指向に関する世界地図」より(2023年2月25日取得,https://nijibridge.jp/wp-content/uploads/2022/07/220713_marriagemap_F_ol.pdf).
参考文献
ボイコフ,ジュールズ,2021,「祝賀資本主義,スポーツメガイベント,東京2020オリンピック」井谷恵子訳,『2020 横浜スポーツ学術会議報告(セッション:R-26)』19: 67-79.
――, 2022, “Toward a Theory of Sportswashing: Mega-Events, Soft Power, and Political Conflict,” Sociology of Sport Journal, 39(4): 342-351.
McNeill, David., 2020 “Spinning the Rings: The Media and the 2020 Tokyo Olympics,” The Asia-Pacific Journal, 18(5).
森津千尋,2022,「2020年オリンピック東京大会におけるスポンサーシップと新聞報道」スポーツ社会学研究,30(2): 85-99.
Puar, Jasbir., 2007, Terrorist Assemblages: Homonationalism in Queer Times, Durham and London: Duke, University Press.
プライドハウス東京,2021,東京2020オリンピック・パラリンピック競技大会における LGBTQ+及び,SOGIESCに関する成果と課題,今後に向けての声明文,プライドハウス東京ホームページ,(2023年2月20日取得,https://pridehouse.jp/news/1431/).
須崎成二,2022,「セクシュアルマイノリティの受入をめぐる日本の二重規範――地理的スケール概念」からみた難民認定・在留許可」駿台史學,176: 55-74.
保井啓志,「中東で最もゲイ・フレンドリーな街――イスラエルの性的少数者に関する広報宣伝の言説分析」日本中東学会年報,34(2): 35-70.
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enrichmyheart · 1 year
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反省と自戒を込めて
ここからは(も)個人的意見だ。
ひとの怒りに触れるのが苦手な人(ほとんどそうだとは思うけれど)はだからこそ、ひとの怒りに対して『封印』的なメッセージを伝える。しかし受け取る側も、考えてみて欲しいことがある。
人間を人間足らしめるのは言うまでもなく感情があるからだ。ひとのネガティブな感情をすべて押し殺させようとするのは、果たして正義だろうか。
遥か昔から存在する“喜怒哀楽”という言葉。人間を人間足らしめる=人間が不完全な生き物であるゆえんだ。
一方で、ひとのネガティブな感情というのは本人だけではなく、引きずられるように他人の感情、精神力も容赦なく削り落とす。それが一番の問題なのだけれど、一方で不機嫌をまき散らすのは、そのひとが「自分のはけ口をみつけて」「自分の心のバランス」を保とうとするからだ。これは手前勝手で、無関係の人間にとってはいい迷惑でしかない。言葉でひとの心を殺すことも簡単にできてしまう。
この複雑な“ひとの心”。研究ですべてを詳らかにできるほど簡単なわけはないし、そうしようと努力するのは大切だけれど、一方で分かった気になるようなおこがましさも孕んでいる。これがいつも「答えはひとりひとり違う」と言っている理由だ。
個人的には日本国という島国の特殊な事情から、その心理の閉鎖性についても含めて考えるようにしている。抑圧の話も何度かしたけれど(抑圧はいずれ暴動につながる)、権力による抑圧は必ずどこかで反動がくるのは、周知の通りだ。
そして過去から続く「結婚」という同調圧力に代表されるように、価値観の同調圧力が昔の人々を苦しめてきて尚且つ、地方にはいまだにこの傾向が色濃く残っていて(結婚だけではない数々の掟)、現代化に伴う時代の変遷の過渡期の真ん中で、苦しんでいる人たちも多くいる。
はじめの話に戻すと、無理やりネガティブな感情を封じ込めようとする行為は、こういう現実に苦しんでいるひとたちに強制的に『我慢しろ』と言っているのと、何ら変わりがないのではないか? これが疑問のひとつだ。
だからといって私のしていることを正当化しようというのではない。ただ、目的はある。
不条理な圧力の数々によって、爆発寸前になっている人々が国内にもたくさんいる。
合法的に、もっと怒れ。気づいているひともいるかも知れないけれど、これが今までの私からのメッセージだ。
ひとの心の複雑さには、時間経過も無視してはいけない。ひとの心の変容、変化は他人からみれば苛立つほどに緩慢で、それが他人を簡単に変えられない理由だ。だからこそ子育てほど重要なものはない。遺伝要素と環境要素でまだ無垢な子供を、周囲の“オトナ”や“オトナの事情”がどんどん染めていく。たとえ不条理な意味不明の理屈であっても、この強制性は抗い難い。年を重ねるごとに、いろいろな制約を学ぶことになるが、知恵をつけてくると納得できないものも増えていく。
筋を通していくならば、怒りの矛先が自分の周囲や大切なひと(弱者)に向けられるのならば、それは理不尽だと思う。あなたが真に向けるべき怒りは、インスタントに発散できる弱者や短絡的な暴力ではなく、筋を通したときに見えてくる別の敵がいるのではないか——これも答えは、ひとりひとり違うのかもしれない。
しかし狭い視野から徐々に「なぜ今の環境があるのか」ということに目を移していったときに、また別の角度から見えてくるものがあるはずだ。
冷静に、俯瞰する能力をつけていけば、自分の力でどうにかできるものと自分の力ではどうにもならないもの。その真実を見極める力はつけられるはずだ、というのがもうひとつの私の意見。
学習能力に差がでることのひとつに「素直さの欠如」は切り離せないと考えている。社会を観察しているとそのことがよくわかる。これはジェンダーの議論に関する重要な鍵にもなっているし、この同調バイアスは長いあいだ植え付けられてきた、多様性を無視して封印してきた、それを守り抜いて頭の固い人間を量産してきた、歴史的背景がある。
繰り返すと、人間の感情の変化を待つのは、苛立つほど緩慢だ。年齢を重ねて身体全体がくたびれてくると、認知能力は低下するし新しいものは受け付けられなくなる。一方で生存本能は衰えるどころか、本質の部分がだんだんとむき出しになってくる。これは否定したいのではなく、これもまた人間という生き物の本質なのだと思う。
落としどころを見つけるのも「誰かの我慢」抜きには語れないとも思うが、年を重ねた人間ほど「我慢」が難しくなってくる。バランスのいい「我慢」を見つけるのは、誰かの絶対的な主義主張ではなく引くことの大切さに本質があるのではないか。押し付け合いの議論は建設的ではないかもしれないが、しかし高齢化が進むほどに“引く人間”が減っていく。これは非常に重要な問題を孕んでいると考える。
今、少子化によってこれらの問題が先送りされてきた結果、この過去の遺物をすべて若者に押し付けるかたちになってしまっている。
私個人は、こんな世の中のまま子供たちに残していくことはできないと思っているし、無責任に「生めよ増やせよ」とはとても言えない。
ここでまた少しきつい言い方をすれば、楽観主義も行き過ぎると悪意に変わるのではないか。これが、さらにもうひとつの主張。
すべての“オトナ”が真剣に考えるべき局面にきているように思う。私たち中年の世代にとっては、このしわ寄せがダイレクトにきている理不尽な世の中かもしれない。しかし私たちの世代が「最後の我慢できる世代」かもしれない、とも思う。それ以上進んでしまった人間の動かしがたい感情を、嫌というほど観察していると、真にそう思う。
これらの問題は、気持ち的には“緊急度も重要度も高いタスク”であっても、ひとの心が簡単に変えられないのであれば仕方がない。
“緊急度は低いかもしれないが重要度が大変高いタスク”である、と考えて行動しようと思う。
—続き—
私はこのことを考えるとき、いつもネガティブな未来が見えていた。すなわち、欲の塊となった餓鬼=高齢者たちに喰い散らかされてしまう未来の子供たち——の構図しか見れなくて、そのことを憂いて絶望していた。一方で絶望から切り開く未来、というものも見据えて行動する『思考の癖』も持っていたから、どうすれば未来を変えられるか、そういう考え方もしていた。
この考えをいつも妨害するのが“ひとの感情”だった。
そうして、切羽詰まった自分の感情を優先させるために、手っ取り早く、根本原因である他人のプライドをまずはボコボコに打ち砕く。これを目標としてきた。しかし当たり前だけれど、そうしようとすればするほどひとは普通、意固地になる。少なくない反感も買う。手段が間違っているのかもしれない。この考えにたどり着くのにも、時間がかかってしまった。そしてまた、振り出しに戻った。
既存の邪魔なプライドは、もう壊せないのかもしれない。であれば、これからの子供たちには同じようにならないような、教育方法を求めたい。拡大解釈をすれば、邪魔なプライドほど国力を衰退させ、発展を阻害するものはない。
これ以上、子供たちが無意味な“オトナの事情”に黒く染まっていくことは極力避けなければならないし、伸び伸び健やかに育成できる環境づくりも必要だ。
これが、緊急度も重要度も高いタスク。しかし人間の感情という無視できないものを加味するのであれば、緊急度はいったん脇に置いて、重要度が最も高いタスクになる、と考え方を改めた。
日本再生のカギとして。
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zubaban · 1 year
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フェミニスト、LGBT、同性婚、差別問題
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何でしょう。騒いでいるのは当事者で段々と凶暴化しているような気がする。 主張だけが激しすぎる
"経口中絶薬の必要性について質問した2年の男子生徒(17)は「ツイッターの情報から、フェミニストに過激で偏った印象を持っていたが、一人一人が幸せに暮らせることを目指すという考え方を直接聞けてよかった」と満足そうだった。"
で締めているが
"授業が終わった後も、生徒らは「医師不足の中で長時間働ける男性医師が選ばれるのは仕方ないのでは」「公共の場での『萌えキャラ』利用についてどう考えるか」などと率直に質問"
こういう質問した生徒も納得したのだろうか? 極々自然な質問疑問だと思うが
→「フェミニストの敵は男性ではない」灘高生、性被害や男女格差を学ぶ 作家アルテイシアさん講師に | 神戸 | 神戸新聞NEXT
最近、有名な当事者の意見が聞いてみたいと思っていた。美輪明宏はまさにレジェンドだし、歴史にも詳しいし、こういう方の意見を聞いた方がいいと思うね。
カルーセル麻紀とか、マツコとかさ
→美輪明宏さん語る同性婚問題「岸田首相の無知にあきれ…人が人を愛したことの何が悪いのか」(女性自身) - Yahoo!ニュース
→「公金チューチュー」と弱者保護の皮をかぶった活動家を巡る予算分捕り合戦(JBpress) - Yahoo!ニュース
まさに言いたいことが書かれている
→室井佑月「ずっと、あなたにいっている」〈週刊朝日〉(AERA dot.) - Yahoo!ニュース
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