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#城戸灰都
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遺骨、酸初、初夏、夏至、我博、臨床、先客、那波区、東海、雲海、雲水、初楽、飼養、規律、滅法、頑丈、撃破化、内板、飼養、機咲州、分癖、蛾妙、頌栄、丼爆発、濃彩、恋欠、名瀬、徒歩機、歌詞役、素市、癌滅、元凶、願文、文座、同發、長門、至極、極美、呵責、端午、併合、奈落、底癖、幕府、某尺、尊式、検疫、未除、路側、柑橘、脂溶、瑛人、冠水、豪材、剤枠、土岐、駄泊、検尺、漏洩、破裂無言、任期、崩説、全滅、壊滅、開幕、統帥、頭数、水湿、冠水、抹消、網滅、馬脚、財冠水、風隙、来妙、勤学、餞別、名判、名盤、観客、衆院、才覚、無能、果餓死、損初、波脈、釋迦、損失、片脚、那古、可物、筋層、真骨、存廃、破格、名湯、今季、写楽、苦況、罪責、孫覇、全滅、今父、奈落、旋盤、秒読、読破、名物、貨客、泉質、随想、滅却、監理、素質、遡行、文滅、菜根、無端、庄屋、破壊、客率、合併、豪式、続発、泣塔、透析、頑迷、場脈、野張、船室、乾物、吐瀉分裂、戒行、噛砕、爾、晩別、海苔、西明、縁月、花月、独歩の大蛇、再発、納言、遺言、残債、背角、破壊、忠膵癌、統帥、馬車、下劣、火災、乱尺、毒妙、縫製、貨坂城、歳発、富低落、菜初、命式、山賊、海剤、激武者、瓦礫、破水、分裂、賀露、屠畜、能月、見激、破壊、破戒、採石、屈託、門別、皆来、家来、千四、我楽、夏楽、無慈悲、壊滅、破棄、損勤学、外鰓、長水、瑛人、永久、旋律、斑紋、財年、場滅、甘露、舐めけり、真靭、察作、論祭、乾裂、薩長、泣塔、室見、川縁、岩石、言後、荷火災、防爆、鋒鋩、体制、貨車、顎脚、刺客、坐楽、損益、脳系、文才、分合、合壁、啓発、萌姫、島内、監修、真木、合理、独房、雑居、紋発、乱射、雑念、五輪、三振、欄居、托鉢、紋腹、画狂、欠年、射殺、殺傷、脳初、目車、濫用、懸念、學年、身者、卓越、餓死、軟卵、場者、童空、我作、滅法、涅槃、抹殺、怒気、燃焼、略奪、宰相、馬腹、刳発、南山、活発、沙羅、割腹、殺戮、循環、奈良、菜道、紗脚、残雑、颯和、和歌、東風、南富、背面、焼却、四季、同發、博羅、無償、透明、明闇、雲海、陶酔、溺愛、泊雑、湖畔、花車、小雑、蘭風、雑魚寝、逆発、罵詈、検遇、明細、鳥羽、無数、飾西、涼感、割烹、面月、略発、明暗、御覧、絶滅、名者、焼却、野版、絶筆、数界、洒落、羈絆、四索、敏捷、旋律、脚絆、安行、軽安、難産、伊賀、消滅、生滅、巡数、水災、万華、論発、処住、崇拝、年月、画鋲、我流、剣率、草庵、律年、雑魚、規約、貨車、蒸発、重大、錯乱、蓮妙、奈良、坐楽、延宝、財年、爆発、龍翔、日向、塁側、席園、座札、風評、財年、何発、旋律、画狂、論券、戦法、尊師、大概、二者、那波、麺期、演説、合邦、放射、雑律、貨客、選別、燕順、考慮、試薬初、財源、富、符号、井原、若��、清涼、無數、才覚、絶望、奈落、奔放、有識、台東、詮索、懸念、病状、設楽、宴客、怠慢、時期、同部、弁解、冊立、立案、前略、妄動、侮蔑、廃絶、間髪、図解、経略、発泡、者発、立案���滅鬼、自利、論酒、桜蘭、五月雨、垓年、処理、短髪、散乱、絶滅、命日、庵客、実庵、龍翔、派閥、同盟、連峰、焼殺、勝中、割裂、残虐、故事、量発、敗残、花夢里、面月、原氏、雑考、推理、焼殺、膵癌、導風、千脚、砂漠、漁師、活滅、放射、洋蘭、舞妓、邪武、涅槃、毛髪、白藍、他式、民会、参謀、廃車、逆発、峻峰、桜蘭、殺戮、銘客、随分、刺死、脳犯、我版、論旨、無垢、血潮、風泊、益城、拝観、舘察、懺悔、空隙、髭白、模試、散乱、投射、破滅、壊滅、下痢、他殺、改札、寿司、葉式、魔雑、渾身、等式、命日、安泰、白藍、良志久、中須、掻敷、北方、監視、血式、血流、詐欺、加刷、販社、壊滅、坐楽、白那、苫小牧、欄物、演説、開脚、摩擦、欠史、宰相、掻敷、飾西、近隣、可能、刺自虐、崑崙、独歩、良案、隔絶、菜作、妄動、犬歯、核別、概要、立案、破格、殺戮、良案、快絶、防止、那古、風別、焼安泰、独庵、囲炉裏、壊滅、外傷、刃角、視覚、耳鼻、下顎骨、子孫、剥奪、憂鬱、優越、液状、先端、焼子孫、兵法、那波、安楽、最短、数式、絶句、庵杭、雅樂、動乱、者妙、垓年、独初、前報、奈落、数道、弓道、拝観、俯瞰、散乱、男爵、害面、炎上、抹殺、破棄、分別、額欄、学雑、宴客、体面、村落、柿区、害初、告発、欄式、体罰、侮蔑、浄光、情動、差額、君子、何発、兵式、童子、飾西、各滅、我札、審議、半旗、普遍、動脈、外傷、無償、木別、別格、名皿部、京脚、破棄、試薬、絶滅、学札、清涼、爆発、組織、壊滅、ここに、名もなき詩を、記す。風水、万別、他国、先式、続発、非力、産別、嘉門、神興、撃易、弊社、紋別、座泊、画狂、式典、胞子、画力、座敷、学舎、論別、閉域、爆風、万歩、博識、残忍、非道、望岳、死骸、残骸、符合、壊滅、匍匐、弄舌癖、死者、分別、砂漠、白藍、模写、服役、奈落、忖度、符尾、同盟、田式、左派、具癖、退役、蛇路、素白、昆北、北摂、写経、文武、択液、図解、挫折、根塊、道厳、視野別、奈落、鳥羽、グリシャ・イェーガー、粗利、惨殺、学癖、優遇、陶器、場作、土壌、粉砕、餓鬼、草履、羅列、門泊、戸癖、山系、学閥、座枠、忠膵癌、視野別、脳族、監視、佐伯、釋迦、敏捷、遇歴、佐渡、名張、紀伊市、名刺、干瓢、夏至、楽節、蘇遇、列挙、間髪、風脚、滅法、呪水、遇説、死骸、爆発、山荘、塀楽、茗荷、谷底、愚者、妄動、還魂、色別、最座、雑載、論客、名足、死期、近隣、名張、迷鳥、呑水、飛脚、晩別、獄卒、殺傷、視覚、乱脈、鉱毒、財閥、漢詩、死語、諸富、能生、那波、合理、血中、根菜、明初、鹿楽、宮札、度劇、臥風、粋玄、我馬、洞察、今季、爾脈、羅猿、激園、葉激、風車、風格、道明、激案、合祀、坐楽、土地油、力別、焼殺、年配、念波、郭式、遊戯、富部区、奈脈、落札、合祀、寒白、都山、額札、風雷、運説、害名、亡命、闘劇、羅沙莉、砂利、夢中、淘汰、噴水、楽章、農場、葉激、際泊、手裏、合併、模等部、トラップ、落着、御身、学習、零、概要、各初、千四、何匹、笘篠、熊本、京駅、東葛、土量、腹水、活潑、酢酸、数語、隠語、漢語、俗語、羽子、豚皮、刃角、醪、能登、半年、餓鬼、泣塔、用紙、喜悦、山荘、元相、炭層、破裂、腹水、薔薇、該当、懐石、討滅、報復、船室、壊滅、回族、先負、嗚咽、暁闇の、立ち居所、餞別、乾式、財閥、独居、乱立、差脈、桜蘭、龍風、抹殺、虐案、某尺、無銭、漏洩、北方領土、白山、脱却、幻滅、御身、私利私欲、支離滅裂、分解、体壁、脈、落札、合祀、寒白、都山、額札、風雷、運説、害名、亡命、闘劇、羅沙莉、砂利、夢中、淘汰、噴水、楽章、農場、葉激、際泊、手裏、合併、模等部、トラップ、落着、御身、学習、零、概要、各初、千四、何匹、笘篠、熊本、京駅、東葛、土量、腹水、活潑、酢酸、数語、隠語、漢語、俗語、羽子、豚皮、刃角、醪、能登、半年、餓鬼、泣塔、用紙、喜悦、山荘、元相、炭層、破裂、腹水、薔薇、該当、土脈、桜蘭、郎乱、乱立、派閥、別癖、恩給、泣き所、弁別、達者、異口同音、残骸、紛争、薔薇、下界、雑石、雑草、破戒、今滅、梵論、乱発、人脈、壊滅、孤独、格律、戦法、破戒、残席、独居、毒僕、媒概念、突破、山乱発、合癖、塹壕、場技、極楽、動脈、破裂、残債、防壁、額道央、奈良市の独歩、下界残滓、泣き顎脚、朗唱、草庵、場滅、乖離、鋭利、破戒、幕府、網羅、乱脈、千部、土場、契合、月夕、東美、番號、虎破戒、在留、恥辱、嗚咽、完封、摩擦、何百、操船、無限、開発、同尺、金蔵寺、誤字、脱却、老廃、滅法、涅槃、脱却、鯉散乱、立哨、安保、発足、撃退、学別、憎悪、破裂無痕、磁石、咀嚼、郎名、簿記、道具雨、壊滅、下落、吐瀉、文別、銘文、安胎、譲歩、剛性、剣率、社販、薙刀、喝滅、解釈、村風、罵詈雑言、旋風、末脚、模索、村立、開村、撃退、激癖、元祖、明智用、到来、孟冬、藻石、端午の贅室、癌客、到来、未知道具雨、寒風、最壁、豪族、現代、開脚、諸富、下火、海日、殺傷、摩擦、喃楽、続落、解脱、無毒、名毒、戒脈、心脈、低層、破棄、罵詈、深海、琴別府、誠、生楽、養生、制裁、完封、排泄、虐殺、南京、妄撮、豚平、八食、豪鬼、実積、回避、答弁、弁論、徘徊、妄説、怒気、波言後、節楽、未開、投射、体者、破滅、損保、名水、諸味、透析、灰毛、界外、土偶、忌避、遺品、万別、噛砕、剣率、戒行、一脚、快哉、提訴、復刻、現世、来世、混成、吐瀉、場滅、経絡、身洋蘭、舞踏、近発、遊戯、男爵、最上、最適、破裂、改名、痕跡、戸杓、分髪、笠木、路地、戳脚、快晴、野会、対岸、彼岸、眞田、有事、紀伊路、八朔、減殺、盗撮、無札、無賃、無宿、龍梅、塩梅、海抜、田式、土産、端的、発端、背側、陣営、戒脈、母子、摩擦、錯覚、展開、星屑、砂鉄、鋼鉄、破滅、懐石、桟橋、古事記、戸杓、媒概、豚鶏、墓椎名、顎舌骨筋、豚海、砂漠、放射、解説、海月、蜜月、満期、万橋、反響、雑摺、油脂、巧妙、
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kachoushi · 1 year
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各地句会報
花鳥誌 令和4年12月号
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坊城俊樹選
栗林圭魚選 岡田順子選
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令和4年9月1日 うづら三日の月句会 坊城俊樹選 特選句
散歩する頭上に置きし蟬時雨 喜代子 初老なる夫婦八人墓参り 同 名月やうるはしき夜はゆつたりと さとみ 新涼やメダルの如き耳飾り 都 月白し八十路女の薄化粧 同 漁火や月より遠き船の道 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和4年9月5日 花鳥さゞれ会 坊城俊樹選 特選句
蝸牛進退ここに尽きたるか 雪 静もれる故山はみだす虫の声 かづを 鬼ヤンマ唯我独尊そのままに 数幸 虫の音や今日の命のつきるまで 雪子 彼岸花蕊の情念撓めけり 笑 秋の蝶縺れて解けてまた縺れ 希 倶利伽羅の谷底埋めし曼珠沙華 千代子 山門の落慶法要赤のまま 天空 山門の檜の香り曼珠沙華 々
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和4年9月7日 鳥取花鳥会 岡田順子選 特選句
縁台が身の置き所盆の月 宇太郎 去ぬ燕神の杜へと集まり来 和子 秋時雨幽かに日射す山の裾 益恵 雨上がるぽつてり重き鶏頭花 都 つみれ汁どんな魚かと盆の客 すみ子 蹌踉けくる秋の蚊を打つ掌 悦子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和4年9月7日 立待花鳥俳句会 坊城俊樹選 特選句
九頭竜に手波で送る万灯会 世詩明 大根を種蒔くごとく踊りの輪 同 近松の碑黒き露葎 ただし 花鳥誌を拾ひ読みする柏翠忌 同 胸を開け峠を行くや青葉風 輝一 秋深し山粧ふや手をかざす 同 針山に待ち針錆びてゐる残暑 清女 今朝の秋きりりと髪を結ひ上げて 同 抱かれし赤子も一人墓参り 蓑輪洋子 空蟬の銅色をいとほしむ 同 ふるさとの火祭を恋ふ孟蘭盆会 同 犬引いて犬に引かれる青田道 秋子 陶の里古き甕墓秋陽濃し やす香 秋草に隠る甕二つ三つ 同 通り過ぐ風のささやき大花野 誠 団栗の十津川淵へ落つる音 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和4年9月10日 枡形句会 栗林圭魚選 特選句
多摩川の風の広さやねこじやらし 美枝子 待宵の月にかかりし雲動く 和代 太刀魚の尾まで隈なく光伸び 秋尚 香を辿り見上げる空に葛の花 教子 一叢の露草の青向き向きに 多美女 一山を覆ひ尽して葛咲けり 三無 手際よく太刀魚捌く島の嫁 多美女 露草の儚く萎える句碑の午後 三無
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和4年9月12日 武生花鳥俳句会 坊城俊樹選 特選句
暫晴間急ぎ稲刈り火蓋切る さよ子 陽が沈み無人駅舎に秋津飛ぶ 世詩明 お十夜の庭石ことに湿りをり さよ子 芋虫も愁ひの時のあるらしき 上嶋昭子 黒数珠や梅の家紋の墓参り ただし 一人暮しと見られたくなし秋すだれ ミチ子 人住まぬ屋根にも月は影落とし 英美子 銀河濃し鬼籍の人を懐かしむ みす枝 虫を聞く闇に心を近づけて 信子 細くなる髪を眺めてゐる秋思 中山昭子 洗ひ髪口に咥へて甘えけり 世詩明 朝霧の緞帳音なく上りゆく 時江 父は父私は私鳳仙花 三四郎
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和4年9月12日 なかみち句会 栗林圭魚選 特選句
名月や巻雲淡く細くあり 和魚 一晩の伽となりゆくちちろかな 聰 木道の空何処までも秋の雲 秋尚 こほろぎの屋敷稲荷に住みついて 怜 草むらを抜け露草の楚楚として 秋尚 湯煙もやがて紛れて秋の雲 怜 さつきまで庫裏に人居りちちろ虫 あき子 つゆ草を残し置くなり墓掃除 エイ子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和4年9月13日 さくら花鳥句会 岡田順子選 特選句
かなかなや夢二の絵にも黒い猫 令子 植物園はるかな道に桔􄼷咲く 裕子 蜩や一里を登る尼の寺 登美子 柏翠忌師の口癖よ「しようがないや」 令子 学校のこと話す道鰯雲 裕子 師弟なる五灰子生きろ柏翠忌 令子 青い目のバックパッカー秋澄めり 登美子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和4年9月13日 萩花鳥会
大相撲元気を貰ふ秋場所に 祐子 たつぷりと生かされ米寿の彼岸花 健雄 宝石か朝露庭の曼殊沙華 恒雄 爽やかさ簞笥から出たシャツ��ボン 俊文 秋の灯や沁沁友と語り合ひ ゆかり 文書けば秋蝶ゆるやか折りかへし 陽子 爽やかや一分音読はじめたり 美恵子
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令和4年9月16日 伊藤柏翠忌俳句記念館 坊城俊樹選 特選句
飛べば憂し飛ばねば淋し火取虫 雪 地に落ちし火蛾の七転八倒す 同 裸火搦め取られし火取虫 同 炎帝に万物黙す他は無し 同 忘れずに約束のごと曼珠沙華 みす枝 兜虫見つけ揚揚子の戻る 同 紺碧の空に小さく燕去る 同 剝落の蔵を背にさるすべり 上嶋昭子 砂時計くびれ見てゐる庭の秋 同 甕墓に離れ離れに彼岸婆 ただし 曼珠沙華淋しき風の甕の墓 同 甕墓の底の暗さや盆の月 同 浅間山焼りは雪の峰となる 世詩明
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和4年9月16日 さきたま花鳥句会
人待ちの小半酒や秋しぐれ 月惑 銀漢をよぎる宇宙観測船 一馬 新都心ビルの凹みに秋入日 八草 秋暁や路地に酵母の甘き湯気 裕章 四方に散り芒に沈むかくれんぼ とし江 歳時記の手摺れのあとや秋灯火 ふじ穂 綾なして咲き継ぐ窓や牽牛花 ふゆ子 朝顔をからませ町家昼灯す 康子 草むらの道なき土手にカンナ燃ゆ 恵美子 白粉花咲きて従妹の嫁入日 静子 居酒屋に恩師と出会ふ良夜かな 良江 鶏頭の赤さを増して咲き揃ふ 彩香
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令和4年9月18日 風月句会 坊城俊樹選 特選句
地虫鳴く甲深き靴はく朝 久子 白樫の森黒々と台風来 眞理子 雨粒を玉と飾れば花野かな 眞理子 昼の虫静かに聴きぬ濡れ鴉 久子 一面に火群立ちたる曼珠沙華 幸風
栗林圭魚選 特選句
白樫の森黒々と台風来 眞理子 かまつかや燃えあがらんと翳深く 千種 四阿に鴉と宿る秋の雨 斉 登高をためらふ今日の風雨かな 真理子 団栗の袴はづれて光りけり 久子 開門の前のしづけさ萩しだる 千種 秋出水さわは飛石を隠すまで 眞理子 群れも良し一茎もまた曼珠沙華 三無
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和4年9月21日 福井花鳥句会 坊城俊樹選 特選句
江戸生れ浅草育ち柏翠忌 世詩明 柏翠忌三国に残る墓一つ 同 柏翠師みなし児にして月仰ぐ 同 虫時雨して父恋し母恋し 同 ちらり見ゆ女の素顔柏翠忌 令子 河口から虹屋へつづく月の道 笑子 柏翠忌城下にのこる里神楽 同 月窓寺ふたつの墓碑に星月夜 同 草相撲では一寸鳴らしたる漢 雪
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和4年9月21日 鯖江花鳥俳句会 坊城俊樹選 特選句
水鶏笛一人夜更に吹く女 雪 男有り愛子の墓の草を引く 同 虫すだく九頭竜に闇引寄せて かづを 大花火人なき家を照らしけり たけし 弔句書く筆の悲しさ蚯蚓鳴く みす枝 夕月を崩してをりぬ池の鯉 同 過疎の村今は花野の風の中 英美子 日焼して盗人冠りの農婦かな 千代子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和4年9月25日 月例会 坊城俊樹選 特選句
どの窓も歪むことなき秋の空 和子 銀杏の匂ひ拭へと下乗札 順子 なめらかに吹かれ秋蝶それつきり 和子 風うねる度敗荷になりかけて 小鳥 手庇の薄きに秋の蝶が消え 和子 碑のうしろ一切曼珠沙華 同 昼はまだ黄泉へ遠しと法師蟬 順子 人々は秋日に溶けて印象派 小鳥 竜淵に潜み国葬待てる森 はるか
岡田順子選 特選句
冷やかや手渡されたる阿弥陀籤 ゆう子 石橋を掃く庭番や柳散る 眞理子 落葉のみ掻き寄する音陰陰と 要 秋蟬の大音声の骸なり 俊樹 落蟬の眼とはなほ瑠璃なりし 同 香具師の声ありし境内昼の虫 要 地に転ぶまま靖国の銀杏の実 昌文 眼裏に黒き温みや秋日濃し 小鳥 金風を乗せ大仏を真似たる手 光子 秋天へ金の擬宝珠の衒ひなく 要
栗林圭魚選 特選句
石橋を渡る人影水澄めり て津子 銀杏の匂ひ拭へと下乗札 順子 お守りの小さき鈴の音野分晴 美奈子 桜紅葉いよいよ昏き能舞台 佑天 碑のうしろ一切曼珠沙華 和子 雅楽部の復習ひ音零す宮の秋 順子 敗れ蓮と成り切るまでを濠の風 はるか
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和4年9月 九州花鳥会 坊城俊樹選 特選句
天高しバベルの塔は小指ほど 古賀睦子 うす衣の雲の行方よ女郎花 由紀子 夕映えて剥落のなき鱗雲 美穂 露の身を映す鏡架のくもりぐせ かおり 蚯蚓鳴く誰もゐぬ時計屋の時計 ひとみ 大漁旗鰯の山のてつぺんに 喜和 揚花火空に遊びて降りて来ず 朝子 眠られぬままに秋思のままにをり 光子 夏彦の怪談と行く秋の夜 桂 城門の乳鋲は無言盆の月 朝子 あの夏の天地の焔壕暗く 朝子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和4年5月11日 立待花鳥俳句会 坊城俊樹選 特選句
したたかに顔を打つなり化粧水 世詩明 天平の庭白牡丹眩しけり 同 み仏のなんじやもんじや風光る ただし 羅や大方に父似一寸母似 清女 桜満開の軍旗祭りや七十五年 輝一 聞き役も時にははづしつつじ見る 蓑輪洋子 丈六の金の観音寺の春 やす香 海原に風の道あり波の綺羅 同 馬酔木咲く近くて遠き明治の世 誠
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
立待花鳥俳句会 令和4年6月1日 坊城俊樹選 特選句
鯉幟風の階段ありにけり 世詩明 老夫婦夏痩せの身の重かりし 同 美しき日傘の人の振り向かず 同 相寄りて源氏蛍の河和田川 ただし 葉桜や茶筅に残る薄みどり 同 老いの肘掬ふや目髙五匹まで 輝一 鮎置いて門を去り行く釣り師かな 誠 村の子の手足を洗ふ清水かな 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
立待花鳥俳句会 令和4年7月6日 坊城俊樹選 特選句
手花火や素足に女下駄を履く 世詩明 一筋の水を落して滝白し 同 釈迦仏渡と共に祭らる六地蔵 ただし この奥に東光寺あり地蔵盆 同 軋みかと思へば虫や秋の風 輝一 何となく筆持ちたき夜天の川 清女 明易やドラマの様な夢を見て 同 眉と目に力あふるる大日焼 蓑輪洋子 勤行の夫の後行く夕立風 同 落雷に神木青く光りけり 誠 図書館の茂りの中の大欅 同 猿田彦夏越し祓ひ輪をくぐる 信義
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
立待花鳥俳句会 令和4年8月3日 坊城俊樹選 特選句
枯れた字を書くと言はれし生身魂 世詩明 三國山車祭に見合ふ辻屋台 同 飛ばされてゆく星もある天の川 同 古里へ立つ汽車減りし盆の月 ただし 子供達木魚を打てり地蔵盆 同 山寺や老鶯の声心洗はる 輝一 川泳ぐ蛇とかけつこ下校の子 同 兵一人炎天の中帰り来ぬ 誠 家々の火影の中を花火船 同 ぺちやんこの胸の谷間を流る汗 清女 太公望さつぱりですと日焼顔 同 蓮池に生まれて蓮葉に寝る蛙 やす香
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
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rebecca-ju · 3 years
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57 notes · View notes
tsuneminnn26 · 3 years
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Kanazawa-Kuruwa
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郭の中の金沢、辺京の小宇宙
郭_この辺京の遊郭には、金沢の美しさと醜さがくるわれている。
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郭は...
北陸の美学の結晶であった。 卯辰山へまっすぐ伸びる石畳、黒光るボッテリとした能登瓦、弁柄色の木虫籠(きむすこ、細い桟の出格子)。九谷の襖の手掛けや輪島塗りの調度品、べっ甲のかんざしや色とりどりの菓子や酒、夜遅くまで鳴り響く唄、笛、鼓の音色。
同時に人身売買の��窟でもあった。 極めて幼い頃に身売りされた少女は、楼主と養子縁組を結び、自らにかけられた身代金を返すまで拘束を受け、芸妓・娼妓として働いた。町を彩った女のいくらかは楼主となった。
今回は、金沢の光であり影である茶屋街について、制度・人びと・建物・遊び・性の観点から明治・大正の茶屋を前提にご紹介する。
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(参照:『金府大絵図』金沢市立玉川図書館所蔵)
明治に生まれた主計町を除けば、ひがし・にし・きた・愛宕の郭は2つの大きな川、犀川と浅野川の金沢城から見て外側に位置している。(これは、江戸の吉原が常に皇居から見て川向いに建てられて、都市の外周部に位置していたこと同様の理由で、穢の場所を都市の外側に配置するためであろう。)
その中でも、金沢人が憧れと嫉妬を込めて名付けた東の廓(言うまでもなく京都の祇園・東山にかけている)であるひがし茶屋街は、北陸の最も代表的な茶屋街であった。
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(参照:『金府町絵図』金沢市立玉川図書館近世資料館所蔵)
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A:郭の制度
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金沢の花街の仕組みは京都と同様にお茶屋が客の要望に応じて、芸妓を置屋か ら呼ぶ方式である。芸妓は置屋に所属し、お茶屋から依頼があれば、料亭やホテルなど地域外へも出張することが可能なのも、京都と同様の取引制度である。 さらに金沢の三茶屋街の特色として、お茶屋と置屋の兼業が挙げられる。つまり、お茶屋は場所を提供するのだが、同時に芸妓を抱え、他のお茶屋に派遣することもでき、食事は飲食店から取り寄せることとなる。
お茶屋には上茶屋、中茶屋、下茶屋の3つがあり、上茶屋は5等級に格付けされていた芸者の中でも、一等級のものしか置かなかった。上茶屋は農家の出や他国の婦女は抱えたがらない気風があり、それを誇りにしていた。加賀血筋を大事にし、みっちり芸と作法を仕込むとのこと。明治時代には能登半島をはじめ、日本全国から身売りされた少女が芸妓として所属しており、朝鮮出身の芸妓の記録もある。
郭では「旦那」は芸妓の経済的な保護者であり、後援者であった。旦那は月々お手当を置屋の女将に渡すかわりに、贔屓の芸者を自分一人のものにすることができた。女将は抱え芸者の旦那から一ヶ月の手当をもらうこと大きな収入源であった。ある置屋の抱え芸者が、別の置屋の客を旦那としている場合、旦那はその置屋の女将に毎月の斡旋料を支払うこととなっていた。
お茶屋では客は一見の客は挙げない。理由は、遊興費が後でもらえるか不安なことと、もう一つは酒癖が悪い客を案じてであった。たちの悪い客の中には、火鉢の中に小便をしたり、掛け軸に盆をぶつけたり、美人画を盗む客もいたという。二度目から置屋は電話で芸者の予約を受付け、時間の打ち合わせをする。客は遊興費を何ヶ月に一度、現金で女将に直接手渡しでまとめて払っていた。
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B:郭のひとびと
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お茶屋に以下の人々が住み込んでいた。どこの家もかなりの大所帯で、大抵は十数人で寝ていた。
①女将:
多くは元芸者で、お茶屋の経営をするとともに芸妓と養子縁組を組み芸妓を育てるとともに労働者として管理する。
②芸妓、娼妓:
女将と養子縁組を結び、芸者として客に奉仕する。住み込みと通いがあったが、殆どが住み込みで、通いは芸者でも年季明けの終わった歳高の人たちだけだった。年季明けや旦那がお金を支払った場合は妾として茶屋街の周辺に暮らしていた。
③たあぼ:
行儀見習いと諸芸習得の傍ら、日中は走り使いの雑用、夕方からは芸者衆の座敷勤めな三味線をもって供をなし、供先きの置き屋とか料亭では家族用玄関の片隅で芸者衆の座敷終わりを待つ。12歳になると振り袖芸者と呼ばれ見習いの芸者とみなされ、さらに15,6歳になると留め袖芸者と呼ばれ水揚げが行われた。このころには体だけではなく、三味線・踊り包などの芸も一人前の扱いを受けた。
④ばんば:
年寄りが多く、飯炊賄いが主な仕事。
⑤べえべ:
10-40代、女中、下働きの女で賄い全般、掃除洗濯、女将の身の回りの世話をした。やりてばばあと呼ばれるべえべは客から以下にして金を使わせるか、寝床での振る舞いを芸妓に教え込んだとのこと。
男衆:
登楼のの客引き、芸者の世話役として付き添い、用心棒兼見張り役をする。
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C:郭の建物
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(参照:金沢「東の郭」の復元 平井聖・大林組)
茶屋は2つの大門を持ち、文字通り塀によってくるわれていた。門の外には妾宅が並んでいた。2本の大通りは卯辰山に向かい、卯辰山がアイストップの役割を果たしている。かつては壱��町へは小川を越えてアクセスするようになっていた。
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(参照:『浅野川茶屋町創立之図』文政3年(1820年) 石川県立図書館蔵 「旧東のくるわ」伝統的建造物保存地区保存対策事業報告書 1975年 金沢市教育委員会)
建物の外観は、1階は出格子となっており、木虫籠と呼ばれる細い縦格子がはめてある。縦桟は断面が台形になっており、外から中が見えにくい仕掛けとなっている。2階は今では小窓付きの雨戸になっており、全て開け放てる仕組みになっている。祭りの際には大通りにステージが設けられ、開け放した2階の座敷から芸者の踊りを見下ろしていたのだという。現在では失われているが、かつては木部分に紅殻色の塗装が施されており、赤い色彩と卯辰山の緑が生えたことだろう。また、屋根はかつて石置き板葺きであったが、今では釉薬を全面に施した北陸特有の黒く厚い瓦が葺かれている。
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平面は時代を経て大幅に変更されており、機能上の要求から下記図面の小さい方の平面図(明治以降)へと変更されていったようだ。
明治以降の平面図を前提に話すと、まず玄関を入ると黒漆塗りの大きな階段があり、ハイサイドライトから薄光が差し込んでいる。階段の横は長火鉢が置かれた茶の間であり、女将が座って一切を指示していた。奥座敷と茶の間は主に女将が使用する部屋で、奥座敷は仏間、寝室として使用していた。
みせの間は支度部屋で、芸妓が詰めていたから、街路には芸妓の声がよく聞こえていたことだろう
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2階は大きく表(前2階)・中・奥(広間)の3室に分けられ、表と奥を座敷とし、中はロビーのように使用されていた。間口が大きい場合は表と奥は2室に分けられ、4畳の部屋を芸妓が踊り演奏するステージのように使用していた。2階の更に奥には廊下や小階段を隔てて「離れ」があり、数寄屋風のしつらえとなっている。水揚げや日中の娼妓の使用にはこの部屋は人目につかないので都合が良かった。
3階はどの家にもあるとは限らないが、座敷を1間もつ場合がある。
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(参照:金沢「東の郭」の復元 平井聖・大林組)
座敷の土壁は紅殻色が用いられる場合が多く、柱は紅殻と灰をあわせて塗装されている。金沢では紅殻色や群青色が来客の場所に使用されることが多いようである。
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(参照:https://www.kanazawa-kankoukyoukai.or.jp/spot/detail_10094.html)
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(参照:https://www.pinterest.de/pin/523332419194794021/)
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D:廓遊び 
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(参照:金沢「東の郭」の復元 平井聖・大林組)
宴会は夜だけではなく、遊びなれた客は深更にきて朝帰りということも珍しくなかったし、庄屋の番頭などが小僧の手前もあって夜抜け出せないために早朝に密かに遊びに来ることもあったし、昼遊びの客もあった。これらの時間の揚げ代は夜よりもむしろ高かったとのことである。
客としては、加賀友禅などの伝統工芸の職人の親方や商人、旅の客などがいた。
廓の花代の1単位は45分だった。1時間を1番木と言って、拍子木が隣の控えの間で打たれた。合図の1番木で、芸者は時間切れを伝えて帰り支度をはじめ、そこから客を送り出すまでを15分と見ていたようだ。これは線香1本が燃えるまでに40分かかったことからきていると聞いた。
婚礼の祝宴が夜通し続いたりすると、芸者たちは三日三晩睡眠を取ることもできないこともあった。
芸妓は昼に芸を磨いた。自由を厳しく制限された分、芸に自らの存在価値をかけたからなのであるが、当時の売れっ子は芸を磨くだけの時間的な余裕がなかった。遊客は気に入った芸妓がいると追い回し、昼夜となく名指しをしたため、彼女らは歌や踊りの稽古などしている暇がない。流行りっ子ほど無芸という結果になったのであった。しかし、芸に精進することは文字通り体をいじめ抜くことになり、体の形を崩してしまったようで、例えば、笛の達人と言われた美津は増えをあてがう下唇がミミズ腫れのように腫れ上がっていたとのことである。
お茶屋遊びは数多くあるが、ここで流行ったものに「かんざしえらび」がある。座敷で客と芸妓は輪になって歌った。
お姫さんと寝るがに かんざし引こう お姫さんを抱くがに かんざし引こう 人のかか抱きゃ せわしない ほれ せっせっせ せっせっせ
黒く塗った丸い盆の縁にかんざしが10〜20本、妓の数だけ放射状に置かれ、客たちはじゃんけんをして勝ったものからかんざしをとり、そのかんざしの持ち主と一晩寝ることとなった。
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E:郭の性
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中店以下にいる芸者は、多くは二枚鑑札を持っていた。芸者と娼妓を使い分けなくては前借りを支払うことができなかったからである。上店では芸者と娼妓の区別が一応はひかれていたが、明治から大正にかけてはほとんど建前になっており、体を張ることによって何十円と貰いが増え、前借金を返すことができたから、体を張る者も多かった。
朝から夜まで客が来た。一人は娼妓を置かなくては営業許可が降りなかったため、芸妓は自分の代わりに一日中客の相手をしてくれる娼妓には感謝していたとのことである。
日露戦争の折には、松山、習志野、大阪に加えて金沢もロシア人俘虜の収容地となり、4000人近くの俘虜が寺院などに収容された。彼らは「大切に」扱われたというが、国から通達を受けた市当局が置き屋の女将に協力を要請し、廓の芸者らがロシア人の相手をしたそうだ。廓には梅毒の予防のために「下洗い」する建物が設置され、性的搾取の対象となった。
第二次世界大戦の際には、芸者は三味線を弾くことや太鼓を禁じられ、専ら復員や動員に押しかける兵隊を相手に慰安婦、接待婦として働いた。
15歳ほどになると水揚げがある。水揚げの相手の旦那は、女将同士であらかじめ相談し、決められ多くは老人だったとのことである。若者では手荒く、過ちがあると良くないと考えられたためと、水揚げをするには大金が必要だったからである。相手が年寄りであることは女たちは皆嫌がった。水揚げというものは一回きりで一人前の女になるというわけではなく、二度も三度もしなければならない。水揚げは特別に料金が高いからお茶屋が儲かったとのことである。場所は自分の住むお茶屋とはとは限らず、離れの間が使用される事が多かった。
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(旦那衆が人目を避けて利用した梅ノ橋とかつての妾邸)
金沢の芸妓の生涯を描いたノンフィクション小説である『郭の女』(井上雪著)には花街の美しさと醜さがよく描かれている。
読者は気がつく。 あの美しく見えた芸妓は木虫籠という籠に囚われているのだと。
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malibu-beach · 3 years
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通過済みシナリオ
★CoC6版 ・あぁ~!水素の音ォ~!! /月野滉太郎 ・アイイズノットチョコレート! /毒島健治 ・愛され少女のステキな末路(HO1) /渡中井のえる ・仰ぎ見る遡行 /凍崎つぐみ ・青と紫の指輪 /城山洋一N ・アオのあなたへ /汐見きら ・悪魔の唇(HO2) /酒匂玲夢N ・悪霊の家 /メルヴィンN ・あけて、あけてよ! /蒲鮫ラブN ・鮮やかな死を貴方に /星浦あくあN ・貴方は私を二度殺すのね。 /梵霙N ・アンケート#17 /汐見きら ・アンチテェゼ・ポジション(HO1)/永福溯哉N ・AND/HAND /頭夢児冰御 ・行きはよいよい /魚住潤N ・一瞬で終わるシナリオ /湯麗桃N ・隠匿のエリス(HO2) /凍崎つぐみN ・薄紅色の扼痕 /霜陰雅智N ・海も枯れるまで(HO1) /揺風波音N ・うらおもて /双葉潮 ・永久の一日 /敷浪惚N ・S村事件についての考察 /澄川透 ・択ぶ魂刻師(予定) ・エンジェル・デビル・インプロ��ー(HO悪魔) /エレN ・縁と命はつながれぬ /咲洲輝凪 ・おい、電車に牛丼挟んだ奴誰だよ /天満らむね ・お酒こわい /宮ヶ瀬綺純 ・御一人様ですか!? /澄川透N ・お前がママになるんだよ! /魚住潤 ・御曹司オペラ /九重弥白N
・カーテンコールは手の中に /霧裂瞳子 ・怪傑倶楽部義勇奇譚(予定/HO鼠) ・かいぶつたちとマホラカルト(HO1) /牙峰澯N ・欠けた片割れの星 /宮ヶ瀬綺純 ・彼方からの君に捧ぐ(予定) ・がなる切っ先と硝子ペン /毒島健治N ・神はサイコロを振らない /灰方霞 ・カリガリ博士のキャビネット /花浴栄華N ・関西大日本帝国(HO1) /漆戸景N ・ギガンティック☆ギャラクシー☆ツアー /中溝染N ・ぎこちない同居 /桜雷照N ・黄添高校怪奇忌憚 /真鶴詩沁N・渡中井のえるN ・君隠れしの誰そ彼刻 /源悠奈 ・君におはようといえたら /渡鳥彼方 ・キミは神推し? /星浦まりん ・きみはここにいた(HO3) /双葉潮N ・狂気山脈~邪神の山嶺~ /渥美開N ・京都怪異譚(HO1) /濡羽群青N ・共有せよ /汐見きら ・虚箱 /入田・S・渚N ・僅差平行のヴェルダンディー /漣夕陽 ・空中ブランコ乗りのエリー /淡辺ナディアN ・腐っても探索者! /蘭鋳霑N ・99 /湯翠雨N ・クソキノコの恐怖~このクソキノコはどこまでも~(HO2) /マイカ ・口裂け女 /宮ヶ瀬綺純 ・Good morning All(予定/HO不老不死) ・クロッカスはリナリアを見ない /初台湊N ・KPCが知らないおばさんと健康飲料売りにきた /漣夕陽 ・月面世界(HO地球人) /遠浅マヒナN ・こゝろ(HO2) /霽月紘希N ・孤独の密室 /入田・S・渚L ・コンティニュエーション・ベット /灰方霞
・囀りとメメント(予定/HO2)  ・サファイアの月(HO2) /蓮池・Q・魅夜N ・36℃のMSゴシック /龍海マーメイドN ・三色の部屋 /星浦まりんN ・幸せな夫婦 /淡辺ナディア ・死者のストンプ /メルヴィン ・死にたがり電車 /敷浪想 ・死ね!花粉 /湯紫耀N ・蹂躙するは我が手にて(HO3) /シスネ・C・テティスN ・心臓がちょっとはやく動くだけ /甘露寺心N ・人類は何故パンツを履くのか? /宮ヶ瀬綺純 ・Sweets xxxxx Lend /滝留磨生 ・好きです、○○さん /要害汀月 ・ストラフトン山の火 /メルヴィン ・絶世美人 /汐見きら ・絶望の孤島 /汐見きら ・遭難者C /渥美昇 ・ソープスクール(HO3) /雫川鴇羽 ・そして、誰がいなくなるのか?(HO4) /チェイスNL ・その命を捧げよ /汐見きらN ・その真紅に愛を見る(HO召使) /緋臆深令N ・空の色すら知らない(HO3) /ハイドランジェラN ・空の観客席から拍手喝采を! /宮ヶ瀬綺純
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・永すぎた前奏 /天満らむねN ・何をしたって言うんだ!? /双葉潮 ・なりかわり様 /敷浪想N ・ナンとカレーなダンスを! /ビチN ・汝、死を乗り越え目覚めを渇望せよ /入田・S・渚 ・庭師は何を口遊む(HO1) /漣夕陽N ・人間博物館 /メルヴィン ・ぬばたま落ちよ /宮ヶ瀬綺純N ・沼男は誰だ? /日向夏海NL ・ネリネ /鱓沢衣々瑠N ・脳筋夜行列車 /ジャンゴNL
・廃棄物 /源悠奈N ・Bye-Bye Summer Days(図書委員) /大橋浪漫N ・パスハの卵 /漂内うずら ・花園崩壊(HOスターチス) /マリオンN ・Paranormal Crime(HO3) /ベニコ・M・羽ヶ崎N ・Hello Hero(予定休止中・2話まで通過済/HO2) /敷浪恋N ・晩夏の聖処女(HO2) /洛輪太郎N ・パンケーキ夜行 /汐見きら ・Hand in Hand /凍崎つぐみ ・Pの正体 /真鶴深哉NL ・火点し頃の蜘蛛踊り(HO4) /南雲知朱N ・秘密と内証 /アイルN ・fearless(HO集合体恐怖症) /紫波岡善人N ・ブルー・スターズ・セパレート /メルヴィン ・ブリーディングボール /夕涼彗夏 ・ベッドから起きるのめんどくさすぎる!! /頭夢児冰御 ・ペットは私 /メルヴィン ・Help mew! /灰方霞 ・VOID(HO2) /菊花N ・紡命論とシンギュラリティー(HO2) /霪紅慰N ・僕と夏とサバ味噌サイダー /源悠奈 ・ぼくの考えた楽しいお部屋 /湯麗桃 ・綻びの家 /渦巻威風NL ・星の神話、エンドロール(HO1) /梵霰N ・ホットココアとマシュマロを。 /凍崎つぐみ
・MY SUPER DARLING! /星浦あくあ ・マザーグース・レストラン /頭夢児冰御 ・真夜中のサルーテ /灰方霞 ・真夜中のシークレットサーカス /梵霰 ・真夜中遊園地 /メルヴィン ・まれびとこぞりて /南雲知朱 ・Mamma Mia Vampire /滝留磨生 ・水底から呼ぶ者 /梵霰 ・見果ての綸紡(HO4) /梵雹N ・名探偵黒猫と大怪盗キャッツ(HO1) /滝留磨生N
・幽明境を異にして、(HO4) /轟鬼零N ・雪山密室 /渥美昇N ・ようこそ!迷冥市役所都市伝説課へ!(HO2) /霊仙祈N ・よるのしじまがやってくる /凍崎つぐみ
・ラーヘンデル・アイランド /宮ヶ瀬綺純 ・楽園パラノイア(HO1) /咲洲輝凪N ・リガロ /灰方霞 ・裡面世界の天蓋花 /日向夏海永L ・旅館の捕食者(HO3) /漂内うずらN ・りんごはあまい /甘露寺心 ・ルベライトジャム(HO4) /梵雪N ・レモン症候群 /漆戸景
・WORSTBUDDY-獣の覚醒- /双葉潮 ・海神の契約書 /湯麗桃 ・嗤う人間師(HO4) /マイカN ・悪い子だぁれ? /霧裂瞳子N ・ワンルーム・ディスコン(HO2) /狩湖飛菜N
★CoC7版 ・まずはダイスを振れ、話はそれからだ。 /メルヴィン ・The サイゼリヤ /メルヴィン ・紅文字 /メルヴィン
★インセイン ・この家は眠れない(PC2) /護国寺涙N
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xf-2 · 5 years
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最初の特攻を命じたことによって、「特攻の産み親」と呼ばれることになった大西瀧治郎中将は、天皇が玉音放送を通じて国民に戦争終結を告げたのを見届けて、翌16日未明、渋谷南平台の官舎で割腹して果てた。
特攻作戦を採用した責任者といえる将官たち、前線で「おまえたちだけを死なせはしない」と言いながら特攻を命じた指揮官たちの中で、このような責任のとり方をした者は他に一人もいない。
そして、ひとり残された妻・淑恵さんも、戦後、病を得て息を引き取るまで33年間、清廉かつ壮絶な後半生を送っていた。
最初の慰霊法要に駆け込み、土下座した貴婦人
終戦の翌年、昭和21(1946)年3月のある日、全国の有力新聞に、
〈十三期飛行専修予備学生出身者は連絡されたし。連絡先東京都世田谷区・大山日出男〉 との広告が掲載された。
空襲で、東京、大阪、名古屋はもちろん、全国の主要都市は灰燼に帰し、見わたす限りの廃墟が広がっている。
連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は昭和21年1月、「公職追放令」を出し、旧陸海軍の正規将校がいっさいの公職に就くことを禁止した。日本の元軍人が集会を開くことさえ禁じられ、戦犯の詮議も続いている。広告を見て、「戦犯さがし」かと疑う者も少なからずいたが、呼びかけ人の大山のもとへは全国から続々と連絡が寄せられた。
戦争が終わってこの方、掌を返したような世の中の変化で、生き残った航空隊員には「特攻くずれ」などという侮蔑的な言葉が投げかけられ、戦没者を犬死に呼ばわりする風潮さえもはびこっている。そんななか、大勢の戦友を亡くして生き残った者たちは、戦没者に対し、
「生き残ってすまない」
という贖罪の気持ちをみんなが抱いている。それは、はじめから陸海軍を志した、いわばプロの軍人も、戦争後期に学窓から身を投じた予備士官も、なんら変わるところがない率直な感情だった。
「十三期飛行専修予備学生」は、大学、高等学校高等科、専門学校(旧制)を卒業、または卒業見込の者のうち、10万名を超える志願者のなかから選抜された5199名が、昭和18(1943)年10月、土浦、三重の両海軍航空隊に分かれて入隊、特攻戦死者448名をふくむ1616名が戦没している。呼びかけに応じて集まった予備学生十三期出身者たちの意思は、
「多くの戦没者同期生の慰霊こそ、生き残った者の務めである」
ということで一致した。そして、同期生たちが奔走し、GHQ、警察、復員局の了承をとりつけて、ふたたび10月30日の新聞に、
〈十一月九日、第十三期飛行専修予備学生戦没者慰霊法要を東京築地本願寺にて行ふ〉
と広告を出し、さらにNHKに勤務していた同期生の計らいで、ラジオでも案内放送が流れた。
昭和21年11月9日、国電(現JR)有楽町駅から築地まで、焼跡の晴海通りを、くたびれた将校マントや飛行靴姿の青年たち、粗末ななりに身をやつした遺族たちが三々五々、集まってきた。築地本願寺の周囲も焼け野原で、モダンな廟堂の壁も焦げている。寺の周囲には、機関銃を構えたMPを乗せたジープが停まって、監視の目を光らせている。焼跡のなかでその一角だけが、ものものしい雰囲気に包まれていた。
広い本堂は、遺族、同期生で埋め尽くされた。悲しみに打ち沈む遺族の姿に、同期生たちの「申し訳ない」思いがさらにつのる。読経が終わると、一同、溢れる涙にむせびながら、腹の底から絞り出すように声を張り上げ、「同期の桜」を歌った。
歌が終わる頃、一人の小柄な婦人が本堂に駆け込んできた。「特攻の父」とも称される大西瀧治郎中将の妻・淑惠である。
大西中将は昭和19(1944)年10月、第一航空艦隊司令長官として着任したフィリピンで最初の特攻出撃を命じ、昭和20(1945)年5月、軍令部次長に転じたのちは最後まで徹底抗戦を呼号、戦争終結を告げる天皇の玉音放送が流れた翌8月16日未明、渋谷南平台の官舎で割腹して果てた。特攻で死なせた部下たちのことを思い、なるべく長く苦しんで死ぬようにと介錯を断っての最期だった。遺書には、特攻隊を指揮し、戦争継続を主張していた人物とは思えない冷静な筆致で、軽挙を戒め、若い世代に後事を託し、世界平和を願う言葉が書かれていた。
昭和19年10月20日、特攻隊編成の日。マバラカット基地のそば、バンバン川の河原にて、敷島隊、大和隊の別杯。手前の後ろ姿が大西中将。向かって左から、門司副官、二〇一空副長・玉井中佐(いずれも後ろ姿)、関大尉、中野一飛曹、山下一飛曹、谷一飛曹、塩田一飛曹
昭和19年10月25日、マバラカット東飛行場で、敷島隊の最後の発進
淑惠は、司会者に、少し時間をいただきたいと断って、参列者の前に進み出ると、
「主人がご遺族のご子息ならびに皆さんを戦争に導いたのであります。お詫びの言葉もございません。誠に申し訳ありません」
土下座して謝罪した。淑惠の目には涙が溢れ、それが頬をつたってしたたり落ちていた。
突然のことに、一瞬、誰も声を発する者はいなかった。
われに返った十三期生の誰かが、
「大西中将個人の責任ではありません。国を救わんがための特攻隊であったと存じます」
と声を上げた。
「そうだそうだ!」
同調する声があちこちに上がった。十三期生に体を支えられ、淑惠はようやく立ち上がると、ふかぶかと一礼して、本堂をあとにした。これが、大西淑惠の、生涯にわたる慰霊行脚の第一歩だった。
生活のために行商を。路上で行き倒れたことも
同じ年の10月25日。港区芝公園内の安蓮社という寺には、かつて第一航空艦隊(一航艦)、第二航空艦隊(二航艦)司令部に勤務していた者たち10数名が、GHQの目をぬすんでひっそりと集まっていた。
関行男大尉を指揮官とする敷島隊をはじめとする特攻隊が、レイテ沖の敵艦船への突入に最初に成功したのが、2年前の昭和19年10月25日。三回忌のこの日に合わせて、一航艦、二航艦、合計2525名の戦没特攻隊員たちの慰霊法要をやろうと言い出したのは、元一航艦先任参謀・猪口力平大佐だった。安蓮社は、増上寺の歴代大僧正の墓を守る浄土宗の由緒ある寺で、住職が猪口と旧知の間柄であったという。
神風特攻隊敷島隊指揮官・関行男大尉。昭和19年10月25日、突入、戦死。最初に編成された特攻隊4隊(敷島隊、大和隊、朝日隊、山桜隊)全体の指揮官でもあった。当時23歳
昭和19年10月25日、特攻機が命中し、爆炎を上げる米護衛空母「セント・ロー」
寺は空襲で焼け、バラックの一般家屋のような仮本堂であったが、住職は猪口の頼みに快く応じ、特攻隊戦没者の供養を末永く続けることを約束した。この慰霊法要は「神風忌」と名づけられ、以後、毎年この日に営まれることになる。
遺された「神風忌参会者名簿」(全六冊)を見ると、大西淑惠はもとより、及川古志郎大将、戸塚道太郎中将、福留繁中将、寺岡謹平中将、山本栄大佐、猪口力平大佐、中島正中佐……といった、特攻を「命じた側」の主要人物の名前が、それぞれの寿命が尽きる直前まで並んでいる。
生き残った者たちの多くは、それぞれに戦没者への心の負い目を感じつつ、慰霊の気持ちを忘れないことが自分たちの責務であると思い、体力や生命の続く限り、こういった集いに参加し続けたのだ(ただし、軍令部で特攻作戦を裁可した事実上の責任者である中澤佑中将、黒島亀人少将は、一度も列席の形跡がない)。
東京・芝の寺で戦後60年間、営まれた、特攻戦没者を供養する「神風忌」慰霊法要の参会者名簿。当時の将官、参謀クラスの関係者が名を連ねるなか、淑惠は、亡くなる前年の昭和51年まで欠かさず列席していた
十三期予備学生の戦没者慰霊法要で土下座をした大西淑惠は、その後も慰霊の旅を続けた。特攻隊員への贖罪に、夫の後を追い、一度は短刀で胸を突いて死のうとしたが、死ねなかった。ずっとのち、淑惠は、かつて特攻作戦渦中の第一航空艦隊で大西中将の副官を勤めた門司親徳(主計少佐。戦後、丸三証券社長)に、
「死ぬのが怖いんじゃないのよ。それなのに腕がふにゃふにゃになっちゃうの。それで、やっぱり死んじゃいけないってことかと思って、死ぬのをやめたの」
と語っている。
大西瀧治郎中将(右)と、副官・門司親徳主計大尉(当時)。昭和20年5月13日、大西の軍令部次長への転出を控えて撮影された1枚
暮らしは楽ではない。夫・大西瀧治郎はおよそ金銭に執着しない人で、入るにしたがって散じた。門司は、フィリピン、台湾での副官時代、大西の預金通帳を預かり、俸給を管理していたから、大西が金に無頓着なのはよく知っている。淑惠もまた、金銭には無頓着なほうで、もとより蓄えなどない。
家も家財も空襲で焼失し、GHQの命令で軍人恩給は停止され、遺族に与えられる扶助料も打ち切られた。
昭和3年2月、華燭の典を挙げた大西瀧治郎(当時少佐)と淑惠夫人
自宅でくつろぐ大西瀧治郎、淑惠夫妻。大西が中将に進級後の昭和18年5月以降の撮影と思われる
焼け残った千葉県市川の実家に戻って、淑惠は生きるために商売を始めた。最初に手がけたのは薬瓶の販売である。伝手を求めて会社を訪ね、それを問屋につなぐ。次に、飴の行商。元海軍中将夫人としては、全く慣れない別世界の生活だった。
昭和22(1947)年8月上旬のある日、薬瓶問屋を訪ねる途中、国電日暮里駅東口前の路上で行き倒れたこともある。このとき、たまたま日暮里駅前派出所で立ち番をしていた荒川警察署の日下部淳巡査は、知らせを受けてただちに淑惠を派出所内に運び、近くの深井戸の冷水で応急手当をした。
「質素な身なりだったが、その態度から、終戦まで相当な身分の人と思った」
と、日下部巡査はのちに語っている。柔道六段の偉丈夫だった日下部は、元海軍整備兵曹で、小笠原諸島にあった父島海軍航空隊から復員してきた。後日、淑惠が署長宛に出した礼状がもとで、日下部は警視総監から表彰を受けた。だが、その婦人が誰であるか知らないまま8年が過ぎた。
昭和30(1955)年、日下部は、元零戦搭乗員・坂井三郎が著した『坂井三郎空戦記録』(日本出版協同)を読んで坂井の勤務先を知り、両国駅前の株式会社香文社という謄写版印刷の会社を訪ねた。日下部は、昭和19(1944)年6月、敵機動部隊が硫黄島に来襲したとき、父島から硫黄島に派遣され、そこで横須賀海軍航空隊の一員として戦っていた坂井と知り合ったのだ。
香文社を訪ねた日下部は、そこに、あの行き倒れの婦人がいるのに驚いた。そして、この婦人が、大西中将夫人であることをはじめて知った。日下部は淑惠に心服し、こののちずっと、淑惠が生涯を閉じるまで、その身辺に気を配ることになる。
淑惠が、坂井三郎の会社にいたのにはわけがある。
淑惠の姉・松見久栄は、海軍の造船大佐・笹井賢二に嫁ぎ、女子2人、男子1人の子をもうけた。その男の子、つまり大西夫妻の甥にあたる笹井醇一が、海軍兵学校に六十七期生として入校し、のちに戦闘機搭乗員となった。
笹井醇一中尉は昭和17(1942)年8月26日、ガダルカナル島上空の空戦で戦死するが、戦死するまでの数ヵ月の活躍にはめざましいものがあった。ラバウルにいたことのある海軍士官で、笹井中尉の名を知らぬ者はまずいない。
その笹井中尉が分隊長を務めた台南海軍航空隊の、下士官兵搭乗員の総元締である先任搭乗員が坂井三郎だった。笹井の部下だった搭乗員はそのほとんどが戦死し、笹井の活躍については、坂井がいわば唯一の語り部となっている。
坂井は、海軍航空の草分けで、育ての親ともいえる大西瀧治郎を信奉していたし、
「敬愛する笹井中尉の叔母ということもあり、淑惠さんを支援することは自分の義務だと思った」
と、筆者に語っている。
坂井は淑惠に、両国で戦後間もなく始めた謄写版印刷店の経営に参加してくれるよう頼み、淑惠は、実家の了解を得て、夫の位牌を持ち、坂井の印刷店のバラックの片隅にある三畳の部屋に移った。日暮里で行き倒れた数年後のことである。
だが、坂井には、別の思惑もある。淑惠が経営に関わることで、有力な支援者を得ることができると考えたのだ。坂井の謄写版印刷の店は、福留繁、寺岡謹平という、大西中将の2人の同期生(ともに海軍中将)ほかが発起人となり、笹川良一(元衆議院議員、国粋大衆党総裁。A級戦犯容疑で収監されたが不起訴。のち日本船舶振興会会長)が発起人代表となって株式会社に発展した。
出資金は全額、坂井が出し、名目上の代表取締役社長を淑惠が務めることになった。会社が軌道に乗るまでは、笹川良一や大西に縁のある旧海軍軍人たちが、積極的に注文を出してくれた。淑惠は、香文社の格好の広告塔になったと言ってよい。
「裏社会のフィクサー」の大西に対する敬意
淑惠には、ささやかな願いがあった。大西の墓を東京近郊に建て、その墓と並べて、特攻隊戦没者を供養する観音像を建立するというものである。
苦しい生活のなかから細々と貯金し、昭和26(1951)年の七回忌に間に合わせようとしたが、それは到底叶わぬことだった。だが、この頃から慰霊祭に集う人たちの間で、淑惠の願いに協力を申し出る者が現れるようになった。
大西中将は、まぎれもなく特攻を命じた指揮官だが、不思議なほど命じられた部下から恨みを買っていない。フィリピンで、大西中将の一航艦に続いて、福留繁中将率いる二航艦からも特攻を出すことになり、大西、福留両中将が一緒に特攻隊員を見送ったことがあった。このときの特攻隊の一員で生還した角田和男(当時少尉)は、
「大西中将と福留中将では、握手のときの手の握り方が全然違った。大西中将はじっと目を見て、頼んだぞ、と。福留中将は、握手しても隊員と目も合わさないんですから」
と述懐する。大西は、自身も死ぬ気で命じていることが部下に伝わってきたし、終戦時、特攻隊員の後を追って自刃したことで、単なる命令者ではなく、ともに死ぬことを決意した戦友、いわば「特攻戦死者代表」のような立場になっている。淑惠についても、かつての特攻隊員たちは、「特攻隊の遺族代表」として遇した。
「大西長官は特攻隊員の一人であり、奥さんは特攻隊員の遺族の一人ですよ」
というのが、彼らの多くに共通した認識だった。
そんな旧部下たちからの協力も得て、昭和27(1952)年9月の彼岸、横浜市鶴見区の曹洞宗大本山總持寺に、小さいながらも大西の墓と「海鷲観音」と名づけられた観音像が完成し、法要と開眼供養が営まれた。
昭和27年9月、鶴見の總持寺に、最初に淑惠が建てた大西瀧治郎の墓。左は特攻戦没者を供養する「海鷲観音」
その後、昭和38(1963)年には寺岡謹平中将の筆になる「大西瀧治郎君の碑」が墓の左側に親友一同の名で建てられ、これを機に墓石を一回り大きく再建、観音像の台座を高いものにつくり直した。
墓石の正面には、〈従三位勲二等功三級 海軍中将大西瀧治郎之墓〉と刻まれ、側面に小さな字で、〈宏徳院殿信鑑義徹大居士〉と、戒名が彫ってある。再建を機に、その隣に、〈淑徳院殿信鑑妙徹大姉〉と、淑惠の戒名も朱字で入れられた。
この再建にあたって、資金を援助したのが、戦時中、海軍嘱託として中国・上海を拠点に、航空機に必要な物資を調達する「児玉機関」を率いた児玉誉士夫である。児玉は、海軍航空本部総務部長、軍需省航空兵器総局総務局長を歴任した大西と親交が深く、私欲を微塵も感じさせない大西の人柄に心服していた。大西が割腹したとき、最初に官舎に駆けつけたのが児玉である。
昭和20年2月、台湾・台南神社で。左から門司副官、児玉誉士夫、大西中将
児玉は、昭和20(1945)年12月、A級戦犯容疑で巣鴨プリズンに拘置され、「児玉機関」の上海での行状を3年間にわたり詮議されたが、無罪の判定を受けて昭和23(1948)年末、出所していた。
巣鴨を出所したのちも、淑惠に対し必要以上の支援はせず、一歩下がって見守る立場をとっていた。「自分の手で夫の墓を建てる」という、淑惠の願いを尊重したのだ。だから最初に墓を建てたときは、協力者の一人にすぎない立場をとった。
だが、再建の墓は、大西の墓であると同時に淑惠の墓でもある。児玉は、大西夫妻の墓は自分の手で建てたいと、かねがね思っていた。ここで初めて、児玉は表に出て、淑惠に、大西の墓を夫婦の墓として建て直したいが、自分に任せてくれないかと申し出た。
「児玉さんの、大西中将に対する敬意と追慕の念は本物で、見返りを何も求めない、心からの援助でした。これは、『裏社会のフィクサー』と囁かれたり、のちにロッキード事件で政財界を揺るがせた動きとは無縁のものだったと思っています」
と、門司親徳は言う。
鶴見の總持寺、大西瀧治郎墓所の現在。墓石に向かって左側に海鷲観音と墓誌、右側には遺書の碑が建っている
大西瀧治郎の墓石右横に建てられた遺書の碑
墓が再建されて法要が営まれたとき、淑惠が参会者に述べた挨拶を、日下部巡査が録音している。淑惠は謙虚に礼を述べたのち、
「特攻隊のご遺族の気持ちを察し、自分はどう生きるべきかと心を砕いてまいりましたが、結局、散っていった方々の御魂のご冥福を陰ながら祈り続けることしかできませんでした」
と、涙ながらに話した。
「わたし、とくしちゃった」
淑惠は、昭和30年代半ば頃、香文社の経営から身を引き、抽選で当った東中野の公団アパートに住むようになった。3階建ての3階、六畳と四畳半の部屋で、家賃は毎月8000円。当時の淑惠にとっては大きな出費となるので、児玉誉士夫と坂井三郎が共同で部屋を買い取った。ここには長男・多田圭太中尉を特攻隊で失った大西の親友・多田武雄中将夫人のよし子や、ミッドウェー海戦で戦死した山口多聞少将(戦死後中将)夫人のたかなど、海軍兵学校のクラスメートの夫人たちがおしゃべりによく集まった。門司親徳や日下部淳、それに角田和男ら元特攻隊員の誰彼も身の周りの世話によく訪ねてきて、狭いながらも海軍の気軽な社交場の趣があった。
「特攻隊員の遺族の一人」である淑惠には、多くの戦友会や慰霊祭の案内が届く。淑惠は、それらにも体調が許す限り参加し続けた。どれほど心を込めて慰霊し、供養しても、戦没者が還ることはなく、遺族にとって大切な人の命は取り返しがつかない。この一点だけは忘れてはいけない、というのが、淑惠の思いだった。
大西中将は生前、勲二等に叙せられていたが、昭和49(1974)年になって、政府から勲一等旭日大綬章を追叙された。この勲章を受けたとき、淑惠は、
「この勲章は、大西の功績ではなく、大空に散った英霊たちの功績です」
と言い、それを予科練出身者で組織する財団法人「海原会」に寄贈した。大西の勲一等の勲章は、茨城県阿見町の陸上自衛隊武器学校(旧土浦海軍航空隊跡地)内にある「雄翔館」(予科練記念館)におさめられている。
昭和49年、大西瀧治郎を主人公にした映画「あゝ決戦航空隊」が東映で映画化され、淑惠は京都の撮影所に招かれた。大西中将役の鶴田浩二、淑惠役の中村珠緒とともに撮られた1枚
淑惠は、毎年、この地で開催されている予科練戦没者慰霊祭にも、欠かさず参列した。
「こういう会合の席でも、奥さんはいつも自然体で、ことさら変わったことを言うわけではない。しかし短い挨拶には真情がこもっていて、その飾らない人柄が参会者に好感をもたれました。大西中将は『特攻の父』と言われますが、奥さんはいつしか慰霊祭に欠かせない『特攻の母』のようになっていました」
と、門司親徳は振り返る。
昭和50(1975)年8月、淑惠は最初に特攻隊を出した第二〇一海軍航空隊の慰霊の旅に同行し、はじめてフィリピンへ渡った。
小学生が手製の日の丸の小旗を振り、出迎えの地元女性たちが慰霊団一人一人の首にフィリピンの国花・サンパギータ(ジャスミンの一種)の花輪をかける。特攻基地のあったマバラカットの大学に設けられた歓迎会場では、学長自らが指揮をとり、女子学生が歌と踊りを披露する。警察署長が、慰霊団の世話を焼く。
予想以上に手厚いもてなしに一行が戸惑っていたとき、突然、淑惠が壇上に上った。
「マバラカットの皆さま、戦争中はたいへんご迷惑をおかけしました。日本人の一人として、心からお詫びします。――それなのに、今日は、こんなに温かいもてなしを受けて……」
涙ぐみ、途切れながら謝辞を述べると、会場に大きな拍手が起こった。
淑惠は、翌昭和51(1976)年にも慰霊団に加わったが、昭和52(1977)年6月、肝硬変をわずらって九段坂病院に入院した。この年の4月、二〇一空の元特攻隊員たちが靖国神社の夜桜見物に淑惠を誘い、砂利敷きの地面にござを敷いて夜遅くまで痛飲している。
「こんなお花見、生まれて初めて……」
77歳の淑惠は、花冷えのなかで嬉しそうに目を細め、しみじみつぶやいた。
九段坂病院5階の奥にある淑惠の病室には、門司親徳や、かつての特攻隊員たちも見舞いに駆けつけ、人の絶えることがなかった。児玉誉士夫は、自身も病身のため、息子の博隆夫妻に見舞いに行かせた。香文社時代の同僚、遠縁の娘など身近な人たちが、献身的に淑惠の世話をした。日下部淳は、警察の仕事が非番の日には必ず病院を訪れ、ロビーの長椅子に姿勢よく座って、何か起きたらすぐにでも役に立とうという構えだった。
昭和53(1978)年2月6日、門司親徳が午前中、病室に顔を出すと、淑惠は目をつぶって寝ていた。淑惠が目を開けたとき、門司が、
「苦しくないですか?」
とたずねると、小さく首をふった。そして、しばらくたって、淑惠は上を向いたまま、
「わたし、とくしちゃった……」
と、小さくつぶやいた。子供のようなこの一言が、淑惠の最期の言葉となった。淑惠が息を引き取ったのは、門司が仕事のために病室を辞去して数時間後、午後2時24分のことであった。
「『とくしちゃった』という言葉は、夫があらゆる責任をとって自決した、そのため、自分はみんなから赦され、かえって大事にされた。そして何より、生き残りの隊員たちに母親のようになつかれた。子宝に恵まれなかった奥さんにとって、これは何より嬉しかったんじゃないか。これらすべての人に『ありがとう』という代わりに、神田っ子の奥さんらしい言葉で、『とくしちゃった』と言ったに違いないと思います」
――門司の回想である。
淑惠の葬儀は、2月18日、總持寺で執り行われた。先任参謀だった詫間(猪口)力平が、葬儀委員長を務め、数十名の海軍関係者が集まった。納骨のとき、��ロボロと大粒の涙を流すかつての特攻隊員が何人もいたことが、門司の心に焼きついた。
こうして、大西淑惠は生涯を閉じ、その慰霊行脚も終わった。残された旧部下や特攻隊員たちは、淑惠の遺志を継いで、それぞれの寿命が尽きるまで、特攻戦没者の慰霊を続けた。戦後すぐ、芝の寺で一航艦、二航艦の司令部職員を中心に始まった10月25日の「神風忌」の慰霊法要は、元特攻隊員にまで参会者を広げ、平成17(2005)年まで、60年にわたって続けられた。60回で終わったのは、代のかわった寺の住職が、先代の約束を反故にして、永代供養に難色を示したからである。
大西中将の元副官・門司親徳は、「神風忌」の最後を見届け、自身が携わった戦友会の始末をつけて、平成20(2008)年8月16日、老衰のため90歳で亡くなった。昭和と平成、元号は違えど、大西瀧治郎と同じ「20年8月16日」に息を引き取ったのは、情念が寿命をコントロールしたかのような、不思議な符合だった。
大西夫妻の人物像について、門司は生前、次のように述べている。
「大西中将は、血も涙もある、きわめてふつうの人だったと思う。ふつうの人間として、身を震わせながら部下に特攻を命じ、部下に『死』を命じた司令長官として当り前の責任のとり方をした。ずばぬけた勇将だったとも、神様みたいに偉い人だったとも、私は思わない。だけど、ほかの長官と比べるとちょっと違う。人間、そのちょっとのところがなかなか真似できないんですね。ふつうのことを、当り前にできる人というのは案外少ないと思うんです。軍人として長官として、当り前のことが、戦後、生き残ったほかの長官たちにはできなかったんじゃないでしょうか
奥さんの淑惠さんも、無邪気な少女がそのまま大人になったような率直な人柄で、けっして威厳のあるしっかり者といった感じではなかった。でも、人懐っこく庶民的で、人の心をやわらかく掴む、誠実な女性でした。長官は、そんな淑惠さんを信じて後事を託し、淑惠さんは、つましい生活を送りながら、夫の部下たちやご遺族に寄り添って天寿を全うした。
正反対のタイプでしたが、理想的な夫婦だったんじゃないでしょうか。いまの価値観で見ればどう受け止められるかわかりませんが……」
そう、現代の価値観では計り知れないことであろう。責任ある一人の指揮官と、身を捨てて飛び立った若者たち。そして、自決した夫の遺志に殉ずるかのように、最期まで慰霊に尽くし続けた妻――。
「戦争」や「特攻」を現代の目で否定するのは簡単だ。二度と繰り返してはならないことも自明である。しかし、人は自分が生まれる時や場所を選べない。自らの生きた時代を懸命に生きた人たちがいた、ということは、事実として記憶にとどめておきたい。
旧軍人や遺族の多くが世を去り、生存隊員の全員が90歳を超えたいまもなお、全国で慰霊の集いが持たれ、忘れ得ぬ戦友や家族の面影を胸に、命がけで参列する当事者も少なくない。彼らの思いを封じることは誰にもできないはずだから。
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居残り佐平次
 江戸時代には、吉原を天下|御免《ごめん》の御町《おちよう》ともうしました。つまり天下公認の遊廓《ゆうかく》だったわけで……これに対して、それ以外の遊廓を岡場所《おかばしよ》といっておりました。  江戸の岡場所として有名だったのが、品川、新宿、板橋、千住《せんじゆ》の遊廓――これを四宿ともうしました。  このなかでは、品川の遊廓が、東海道の通り道でしたし、海は近いし、魚はうまいしというわけで、とりわけさかえたようで……
「どうだい、みんなでひさしぶりに押しだそうじゃねえか」 「どこへ?」 「ひとつ気を変えて、南へ押しだそうか」 「品川かい」 「そうよ。なにも女郎買いは、吉原とばかり相場がきまっちゃあいねえよ。品川となると、また気がかわるじゃねえか」 「そうとも、品川とくりゃあ食いものはうめえしな」 「そこだよ。なにもあそびは食いものを食いにゆくというのじゃねえが、やっぱりまずいよりうめえほうがたのしみというもんだ」 「そうとも……それで、なにかい……品川はどこへいくんだい?」 「どこの、ここのといってるのはめんどうだから、むこうへいってみて……とにかく大見世《おおみせ》へあがっちまおう」 「そうよなあ、小見世のあそびは、どうもこせついていけねえからな」 「まあ、どこか大見世へあがるとして、酒は飲みほうだい、食いものはふんだんに食って、芸者を二、三人もよんでわっとさわぐという寸法にして、一円というのはどうだい?」 「おいおい、それじゃあ勘定があわねえじゃねえか。だってそうだろう……品川で、ただあそぶだけだって、小見世で二、三円、中見世で六、七円、大見世とくりゃあ、どうしたって十円から十五円ぐらいはかかるぜ。それを、飲んで、食って、さわいで一円というのはどうも……」 「だからよ、そこはおれが云いだしっ屁《ぺ》じゃねえか。あとはおれのふところがいたむということで……いく気があるかい」 「おおあり名古屋の金のしゃちほこだね。ここにいる連中もみんないくよ。なあ、いくだろう?」 「いく、いくよ、はばかりなんか三日ぐらいいかねえたって、こればかりはいかなくっちゃあ」 「いうことがきたねえな……金ちゃんはどうだい?」 「おれは親父の遺言でね」 「いかねえのか?」 「いくんだ」 「気をもたせるない。じゃあみんないくそうだよ」 「そうかい、それじゃあ、ぶらぶらでかけようぜ」  ということで、みんなそろって品川へやってまいりました。 「さあ、兄貴そろそろ坂を下りはじめたが、どこへあがるんだい?」 「そうよなあ……ここはどうだい? え? すこし大見世すぎるって? ……いいよ、まあまかしときなよ……おい若《わけ》え衆やい」 「こんばんは」 「気のねえ若え衆だなあ、よせやい、おもしろくもねえ、女郎屋の若え衆は若え衆らしくやってくれ。なんだい、こんばんはってのは……ものをたずねるんじゃあねえやい、少々ものをうかがいます、これから青物横町(品川のさき)はどうまいりますかってんじゃねえや。今夜厄介になろうというんだ」 「どうも、おみそれいたしました。ええ五人さまで、ああさようで……どうぞおあがりを……えー、おあがんなさるよ」  送り声というものをかけます。べつの若い衆の案内で座敷へ通ります。 「へい、どうもまことにありがとう存じます」 「そうかい、そんなにありがたいかい、それじゃあこれで帰ってもいいかい?」 「それはいけません」 「そりゃあじょうだんだが、とにかくみんないける口なんだ。酒はどんどん持ってきておくれ。それから、ここは品川だ、魚はあたらしくってうめえや、刺身をふんだんにな……刺身が、ひとりに一枚ずつなんてのはいけねえよ」 「へえ、かしこまりました。それから、おなじみさまでいらっしゃいますか?」 「いや、なじみじゃねえんだ。みんなお初会《しよかい》だ。まあ、ここのうちは、みんないいおいらんばかりだろうが、そのなかでもとくにいいやつをたのむぜ」 「へえ、かしこまりました」 「それから、座敷が陰気なのはいけねえや。ひとつ芸者に口をかけてくんねえ……わっとさわいで浮かれようという寸法だ」 「かしこまりました、ではただいま……」  まもなく酒肴がはこばれる、芸者がくりこんできて、さんざん陽気にさわいで…… 「おお、いつまでさわいでいたからって興はつきねえ、そろそろおひけにしようじゃねえか」 「いいだろう、みんな部屋へひきとりな」 「おっと待ちな。みんな部屋がわかったら、あとでそろっておれの部屋へきてくんな」 「ああわかった……あとでな……」  ということで、いったんそれぞれの部屋へひきあげた連中が、いわれた通り兄貴分の部屋へやってまいりました。 「兄貴、あけてもいいかい」 「大丈夫だ。安心して入ってくれ。だれもいねえから……」 「あははは、そうかい、でははいるよ。おれはまた女の子がいるんじゃねえかとおもって……ときに、兄貴、なんだい? そろってやってこいてえから、みんなそろってやってきたのだが……」 「みんなこっちへ入んな、あとをしめてな……いや、なにもわざわざよびつけなくてもよかったんだが、ほかでもねえ、じつはあの場ではいいだしにくくてな……なにしろおたがいに色気もあるからな……じつは、みんなから割り前がもらいてえ」 「うん、そりゃあだすけれどね……なにしろ兄貴たいへんだぜ。酒もたらふく飲んだし、芸者もお直し、お直しと、ずいぶん口がかかったし、食いものはこてこてときたし……ほんとうに一円の割り前でいいのかい?」 「いいんだよ。おれがいいとうけあったからには、安心して、親船に乗った気でいろよ」 「そうかい、すまねえな」 「そのかわりな、あしたの朝は、すまねえが、みんな一足さきに帰ってくんねえか」 「さきに?」 「そうだ。夜があけたら、すぐに顔をあらってひきあげてくんねえ。それからすまねえがたのまれてくれねえか。ここにおめえたちがよこした金が四円あるから、これをおふくろにとどけてくれ。おふくろに、この金で当分やっているようにいってくんねえ。としよりのことだ。それだけありゃあなんとかくらしていけるだろうが、もしたりなかったら、このたばこいれを質屋へ持っていって、番頭にわけをはなすと、いつもの通りちゃんと貸してくれるから、それでやっててくれ、そのうちにおれが帰るからといっといてくれ」 「へえー、なんだかはなしがおかしいが、それで兄貴はどうするんだい?」 「おれか……おれはな、このあいだからどうもからだのぐあいがわるくってしょうがねえ、医者にみてもらったら、転地療養するといいてえんだ」 「うん」 「なるべく海辺の空気を吸うといいというんだがな、どこへいくったって金がなくちゃあしょうがねえや。そこで気がついたのが品川だ。ここなら海辺だから、空気もいいし……そこで、おれは当分ここの家へ居のこりになって、ゆっくり養生をして、からだがなおった時分にまた逢おうよ」 「おお、おどろいたなあこいつはどうも……はなしが変だ変だとおもっていたんだが、居残《いのこ》りてえのはおだやかじゃねえぜ」 「いいよ、そんなことはお手のもんだ」 「お手のものはひどいなあ」 「まあいいからってことよ……それ、足音がしてきた……帰んな、帰んな……」 「じゃあ、おやすみ」  がらりと夜があけますと、連中はいわれた通り早帰りで、兄貴分の佐平次だけがあとにのこります。 「へい、おはようございます」 「おう、若え衆か、おはよう」 「ええ、おめざめでございますか」 「ああ、天気はいいようだね……まあ、こっちへおはいり。どうもゆうべは、たいへんにいい心持ちにあそばせてもらったねえ」 「まことにおそまつさまで……」 「とんでもねえ、おそまつどころじゃねえ……ちかごろになくおもしろいおもいをさせてもらったよ……ところで連中は帰ったかい?」 「へい、お早くお帰りになりました」 「そうかい、むりはねえ、あの人たちは朝の早い商売でね……おい、若え衆さん、おめえも商売がらだ、一目みたらわかったろう。あそびのすきな人たちだからね。ゆうべはだいぶよろこんでいたようだから、裏(二回目)からなじみ、とんとんっと通ってくるうちには、ここの家へ、さあっと金がふるようになるぜ。なにしろ金をむやみにつかいたがる人たちだからね。福の神がまいこんだようなもんだぜ」 「どうもありがとうさまで……」 「ところで、おれは、ゆうべすこし飲みすぎたんで、けさはあたまがいたくってしょうがねえんだ。あつくして一本つけてもらってくんねえか」 「へい、ご酒を?」 「そうだよ。朝直しは湯豆腐というが、なにも湯豆腐にかぎったことじゃねえ。かき豆腐かなにかそういってくんねえか」 「するとお直しになりますんで?」 「やぼなことをいっちゃいけねえぜ。おてんとうさまが高くなって、帰ることもできねえじゃねえか、直してくんねえ」 「へえ、さようで……では、ただいまおあつらいを……」 「早えとこたのむぜ」  若い衆はなにも知りませんから、あつらえものを通す、酒がはじまるということになって……佐平次は、酔ったからというので横になります。そのうち、お昼をすぎますから、寝か���てもおかれません。 「ええ、おめざめになりましたか?」 「ああ、いい心持ちだ。いま何時だい?」 「ただいま三時を打ちましたばかりで……」 「ああそうかい、ついとろとろとしちまった……この家では、いったい何時に湯がわくんだい?」 「もうわいておりますんで……」 「そうかい、じゃあ一っ風呂あびて、さっぱりしてこよう。手ぬぐいをかしておくれ。いい男になってくるから……」 「へえ、それから、てまえがかわり番になりますのでございますが……」 「ああ、そう、かわり番ねえ……遠慮なくおかわりなさい」 「ええ、つきましては、ちょっと一段落くぎりをつけて、あとはまたべつということに……えへへへ……そのお勘定のほうを……」 「ああ、勘定か。わかってるんだよ……しかし、めんどうだなあ、おまえさんの前だが、あそびなんてものは、どのくらいやったらいやになるものか、あきるまであそんでみようとおもっていたんだのに、これがきのうので、これがきょうのでなんという勘定はめんどうくさいやね……だから、帳場へそういって、まとめてもらおうじゃねえか。ひとまとめにして、山のようにたまったところでさっとはらいたいね。なにしろ、手ぬぐいをとっておくれ、お湯へいってこよう」  ひどいやつがあるもので、ものにおどろきません。お湯からあがってくると…… 「いや、どうも湯あがりというやつは、なんとなくおつな心持ちだねえ、生まれかわったような気分になるね、せいせいとして……だがね、ゆうべからの飲みすぎで、だいぶ胸がこう……もやもやしてるんだが……こういうときには、なにかあついおつゆでも吸ってみたいというような心持ちなんだが……毒は毒をもって制すのたとえ、酒でしのがす苦の世界てえことがあるからね、あつくして一本持ってきてもらいたいねえ。それからね、ご当家のお酒はだいぶ甘口だねえ、わたしは辛口のお酒がすきなんだ。いいかい、お酒の口を変えてすぐつけてもらっておくれ。それに、なにか食べたいねえ。青柳なべかなにかそういってくんな」 「ええかしこまりましたが……てまえはかまいませんが、帳場がうるそうございますので、ちょっと一段落をつけていただきたいもんで……」 「勘定かい、わかったよ。うるさいなあ、ひとがいい心持ちでいるのに……勘定、勘定って……それじゃあかんじょう(感情)を害するってもんだ。だがね、おい若え衆さん、お客商売をするなら、もうすこしあたまのはたらきをよくしていただきたいねえ。時計をごらん、もう四時を打ってしまったよ。これでわたしがちびりちびりとやっている、そうこうするうちにあたりは小暗くなる……あっちの家でねずみなきの声、下足札《げそくふだ》の音がはじまる時分には、坂の上からいせいのいい車が四台……おりるのがゆうべの四人《よつたり》だよ。あそびをして裏をかえさないのはお客の恥、なじみをつけさせないのはおいらんの腕のにぶいぐらいは心得ている連中だからね、どうせかえす裏ならば、ほとぼりのさめねえゆうべの今夜で、またきたぜてんで、前の晩に縞を着ていたひとがかすりにかわって、おお芸者でもよんでくんねえと、陽気にわーとさわいで、一同そろって当家を退散しようという寸法だ。その人たちのくるのをわたしが待っているというところへ気がつかないで、それで勘定とはなんてやぼなんだい」 「へい、よくわかりました。おつれさまをお待ちとは気がつきませんで……では、ただいまおあつらえを……」  ということで、若い衆はすっかり煙にまかれて、まただまされてしまいました。やがて酒肴がはいってくる、そのうちにほかのお客がくりこんできて、その晩はとりまぎれてしまいまして……その翌朝…… 「へえ、おはようございます」 「よう、おはよう、まあ、おはいり」 「昨夜お待ちもうしておりましたが、とうとうおみえになりませんでしたようで……」 「ああ、どうも低気圧はそれたようだね、まずたたかいは今夜九時すぎだね、坂の上からいせいのいい車が四台、おりるのが一昨日の四人だよ、あそびをして裏をかえさないのはお客の恥、なじみをつけさせないのはおいらんの腕のにぶいぐらいは心得ている連中だ。おなじかえす裏ならほとぼりのさめねえ、ゆうべの今夜で、またきたぜてんで、前の晩に縞を着たひとがかすりにかわって……」 「へい、それは昨夜もうけたまわりましたが……てまえはかまいませんが、なにしろ帳場がやかましゅうございますので、おそれいりますが、ひとつお勘定をねがいたいもんで……」 「勘定かい、さあよろしい、心得たよ」 「ああさようですか」 「心得ているよ」 「へえ、ではひとつおはらいねがいたいもんで……」 「だから心得ているといってるんだよ」 「では、さっそく勘定書きを持ってまいりますからおはらいを……」 「そうかい、勘定書きを持ってくるのかい……そうすると、あたしがここへお金をずっとならべりゃあいいんだ……いいんだが……ないんだよ」 「ない? ないとは?」 「だから……ないといえばわかりそうなもんじゃないか、お金のことだよ」 「でも、あなた心得てるといってたじゃありませんか」 「そりゃあ心得ているんだ。口のほうはばかに心得ているんだが、あははは……ふところのほうが心得ていないんだ。どうだ、おもしろいだろう」 「じょうだんじゃありませんよ。じゃあ、いったいどうなるんです?」 「なにが?」 「どうなるんです? お勘定のほうは?」 「だからさ、じれってえなおまえさんは……お客商売をするくらいなら、もうすこしあたまのはたらきをよくしてもらいたいねえ。なんのためにわたしが友だちがくるくるといってさわいでるんだい、友だちが金をどっさり持ってむかえにくるのを待ってるんだよ」 「では、お友だちさまのところへ、おつかいとか、お手紙とかを……」 「そりゃあ家がわかりさえすりゃあ、むかえもやりてえけれども、どこなんだかわからねえんだ」 「どこなんだかわからねえって……あなた、お友だちでしょう」 「そりゃ友だちだよ。しかしねえ、それがまことにあたらしい友だちなんだ。ここへみんなできたろ、あの晩に友だちになったんだ。というのはね……おれが新橋のしゃも屋で一ぱいやってると、となりにいたのがあの連中なんだ。女中が気がきかなくって、なかなかちょうしを持ってこないんで、おれがじれったがって、なにをしてるんだかなんかいってると、となりにいたあの連中が、どうです、つなぎに一ぱい献じましょうとちょこを一ぱいさしてくれた。とたんにこっちのおちょうしがきたんで、へい、ご返盃てえことになった。酒飲みというやつはすぐに仲よくなるものだ。しまいには、いっしょになって飲みはじめたが、そのうちに、どうです、このままわかれるのもおしいから、今晩ひとつ品川へでもくりこみましょう、よう結構……結構毛だらけ、猫灰だらけ……ってんで、このうちへきてあそんだあくる朝、ぱっとわかれちまったんだが、ありゃあいったいどこの人だったのかしら?」 「おう、こりゃたいへんだ、おお、ちょいと松どん、源どん、鉄どん、ちょいときてくれ」 「だからいわないこっちゃない。なんだかようすがおかしいが、ほんとうに大丈夫なのかと念を押したら、おまえがなんといった、長年の商売人だ、にらんだ目にまちがいはねえから安心してろといったじゃねえか。ぜんたい、こんな深みへはまらないうちに、あのあくる朝、どうにかけりをつけてしまうほうがよかったんだ」 「そりゃあいわれるまでもないんだよ。おれもね、どうにかはなしをつけようとおもってとりにきたんだが、この人が、おれに口をきかせねえんだ。おれが勘定のことをいいかけると、わかってる、心得てると、とめちまうんだよ。勘定のことはわすれてる、わすれてるって……自分でしゃべりまくっておれに口をきかせてくれねえんだよ。そうなると、おれは因果と、舌がつっちまって口がきけなくなるんだ」 「だらしがねえじゃねえか……まあ、いいや、おれがかけあってやるから……おい、佐平次さんとやら、こりゃ、いったいどうなるんだい?」 「おや、おそろしいけんまくだね……さあ、どうなりますかな」 「おちついてる場合じゃないよ……どうなるってきいてるんだよ」 「さあ……どうもこまったもんだ……」 「人ごとのようにいうない、こまるのはこっちなんだぜ。どこかで金のできるあてはないのかい?」 「ものごとはあきらめがかんじんだよ。あきらめなさい。まあ、災難だとおもってあきらめなさい」 「ふざけるんじゃないよ……金をどうにか……」 「だから覚悟はしてますよ」 「え? 覚悟?」 「おいらんからきせるのわるいのを一本もらってるしね、新聞紙でたばこいれを折って、なかにきざみがいっぱいつまってるし、たもとにはマッチが二つはいってるし、当分|籠城《ろうじよう》もできるしするから、ではそろそろあんどん部屋へでもさがりますかな」 「おお、たいへんなしろものだよ、こいつは……なにしろまあ、おいらんのおざしきをふさがれちゃあこまるから、とにかく下へおりてきてください」 「結構、どこへでもまいりますよ。ええ、どちらですな、そのあんどん部屋というのは?」 「じょうだんいっちゃいけないよ。いまじぶんあんどん部屋なんかあるものかい。ここが夜具がはいってる部屋だがね」 「ああ、夜具の部屋……いいね、どうもあったかくて……」 「ふとんによっかかっちゃいけないよ」 「大丈夫、大丈夫……そこは道楽者だよ。ふとんによりかかりゃあえんぎがわるいぐらいのことは心得ているから……どうかご心配なく、そこをおしめになって、おしごとにとりかかってくださいよ。ええ、ちと、また、ごたいくつの節は、どうぞおはなしにでもおでかけねがいまして、どうもごくろうさま、えへへへへ」  ひどいやつがあるもので、ものにおどろかないという、まことにずうずうしいやつがあるもので……こんなことがあったので、商売にけちがつくかとおもうと、ふしぎなもので、その晩も、そのあくる晩も、翌晩もと、たいへんに客の足どりがいいということがつづきました。あまり客がたてこむと、こんな大見世でも、奉公人のかわり番やなにかで、ちょっと手がたりないことができて、それがために、客に対して不行きとどきというようなことがたまにはあるもので…… 「ちえっ、なにをしてやがるんだろうなあ、今夜は、出がけに気がさしたからよせばよかったよ。女のこねえのはいそがしいんだろうからしかたがねえや……そんなことをぐずぐずいうほどやぼじゃねえんだが、おばさんも若え衆もつらをみせねえってのはしゃくにさわるじゃねえか。いくらいそがしいか知らねえが、これだけの屋台骨をはっていやがるんだ。奉公人の二十人や三十人いるだろうに、なにしてやがるんだ。刺身を持ってきやがったって、醤油《したじ》がねえじゃねえか。醤油をつけねえで生魚《なまざかな》が食えるかい、猫じゃねえや、ちくしょうめ……手をたたけばやぼな客にされちまうし、銭をつかいながら神経をいためるなんてくだらねえったらありゃあしねえや……なにしてやがるんだ、このうちは……」 「ええ、こんばんは」 「なんだい?」 「ええ、お刺身のお醤油《したじ》を持ってまいりました」 「持ってくるならはやく持ってこい。なにしていやがるんだ」 「どうもお待ち遠さまで……いえ、なにしろたてこんでますもんで……つい、どうも……えへへへ……いらっしゃいまし、おひさしぶりで……」 「おひさしぶりったって、おめえみたことがねえが、ここの若い衆かい?」 「まあ、若い衆みたようなもんで……」 「なんでえ、そのみたようなものてえのは?」 「えへへへ……ときに、つかんことをうかがいますが、あなたさまはなんでしょう? かすみさんとこの勝つあんでいらっしゃいましょう」 「よせよ、なにもかすみさんとこの勝つあんてえことはねえけれども、おれは勝太郎というものだ」 「よう、勝つあん、あなたが、やっぱり……うかがってますよ、あなたのおのろけ……おいらんが、ひまがありさえすりゃあ、うちの勝つあんがこうなんだよ、うちの勝つあんがああなのさって……うちの勝つあん、うち勝つあんてえことについては、あたしもじつによわっちまって……」 「変な世辞《せじ》をいうない」 「いいえ、まったくのはなしなんで……ともかくもおちかづきのしるしに、ひとつおさかずきをいただきたいもんで……」 「どうもあつかましいやつがきたもんだ……まあ、おれもひとりで、はなし相手がいなくて、たいくつはしていたんだ。それ、やるよ。飲めよ、……どうした? さかずきをとらねえで……飲めねえのか?」 「いいえ、いただけないというわけではございませんが、どうせいただくなら大きなやつのほうが……うしろの茶だんすのなかに湯飲みがありますから、その湯飲みでひとつ、えへへへ、いただくということにねがいたいもので……」 「たいそうずうずうしいやつが入ってきやがった。それじゃあ、湯飲みについでやるぜ」 「へい、ありがとうございます。ええ、あなたさまが今晩おあがりになったのは、たしかあれは九時をすこしまわったという時分でしたなあ」 「よく知ってやがるな」 「あとで、おいらんがみんなにいじめられてましたよ、ちょいと、勝つあんがきてよかったねかなんかいわれて、せなかなんかぶたれたりして……すると、おいらんのほ���でもうれしそうな声をだして、ありがとうかなんかいってましたよ。あんまりおいらんがぼーっとしてるんで、この人は、ほんとにしっかりおしよてんで、みんながまたおいらんのせなかをどやしたりしてましたが、あのおいらんをあれだけむちゅうにさせるというのは、あなたはどこかすごいところがあるんだね、人の知らない術をもちいてるんだよ、きっと……へへへへ、色魔、女殺し……くやしいねえどうも……だまってご祝儀ください、ほんの名刺がわりに」 「おいおい、それはこっちでいうことだ……手をだすなよう、どうもたいへんなやつが入ってきたもんだ。やるよ、やるから待ちなというのに……さあ、ここにたばこを買ったおつりがいくらかあるから、これで示談にしろ」 「よう、よう、おそれいりました。はなしがじつによくわからあ。ではいただきます。このあいだね、雨のふる日においらんがあなたののろけをいってましたぜ」 「よしねえよ。うめえことをいうのは……」 「ほんとうですよ。あなたのことで、新造衆といさかいをして、なにをいってるのさってんで、おいらんすっかりおかんむりで、燗ざましをあつくしたやつを湯飲みへついで、ぐいぐいやっていましたが、やがて目のふちがぼーっと赤くなってくると、かけてあった三味線をとって、爪びきで、都都逸《どどいつ》をうたってましたぜ。その文句をあなたにきかせたかったねえ」 「そうかい」 「あたしははじめてうかがったけれど、おいらんはいいのどしてますねえ……その文句というのが…… 来るはずの人はこないで、ほたるがひとつ、風に追われて、蚊帳《かや》のすそ……なんてね、どどいつのうたい尻をすうっとあげてうたったから、なるほどさすがは江戸っ子だとおもって、あたくし、じつにどうも感服……ちょっとおはしを拝借……」 「おいおい、食いものをとりまくなよ」 「どうもおそくなってすみません。あら、ちょいと、勝つあん、おまえさん、この人をよんだの?」 「いや、べつによんだわけじゃねえが、むこうで勝手に入ってきたんだあな」 「まあ、あきれたねえ、この人は……」 「なんだい、こいつは?」 「うちの居残りよ、この人……」 「いのこり? ……ええ、おまえさん、うちの居残りなのかい?」 「ええ、てまえ当家の居残りで……えへへへ、なにぶんごひいき、おひきたてのほどを……」 「ふざけちゃいけねえぜ。なにがごひいき、おひきたてだよ。どうもおれも変だとはおもってたんだ。若い衆ときいたら、まあ若い衆みたいなもんでといいやがって……刺身の醤油《したじ》がねえといってたら、この人が持ってきたんだ」 「まあ、気がきいてるのね、でも、よくおまえさんわかったねえ、お醤油のあるところが……どこから持ってきたの?」 「ええ、今晩紅梅さんの部屋でおそばをおとりになりまして、あとで、そのいれものが廊下にでておりました。で、さきほど、あたしがこのお部屋の前をぶらっとあるいておりますと、醤油をつけねえで生魚が食えるかい、猫じゃねえやなんてことが聞こえましたから、よう、ここが忠義のみせどころてんで、そばつゆの徳利をふってみると、がばりと音がしましたから、それを小皿へあけて、ただちにこちらへ運搬を……」 「なんだい、そばのつゆだったのかい? どうりで、いやにあまったるい醤油だとおもってたんだ。ひどいことをするない」 「えへへへ、どうもあいすみません……間にあわせということで、まことにどうも失礼……おいらん、ただいま、こちらさまから、ご祝儀をいただきました。おいらんからよろしく……どうも旦那ありがとうございました。へい、あまり長くなりますと、おじゃまになるといけませんから、このへんでおひまをいただきます。ごゆっくりおたのしみを……よいしょ、よう……」  てんで、まことにあつかましいはなし。  そのうちに、佐平次のやつ、ほうぼうのおざしきへ顔をだすようになりました。なにしろ、人間がずうずうしくって、口さきがかるい、それで酒の相手ができるというのですから、ああいう場所にはもってこいで……そのうちに、おいらんたちにはかわいがられる、おなじみのお客もできるということになって、なかにはお客のほうでも、ずいぶんのんきなのがあります。 「おお、なんだか座敷がさびしくっていけねえな。おらあ陰気なのが大きれえなんだ。呼べよ、ひとつ、口をかけねえか」 「だれにしましょうか、小きんさん、梅香さん?」 「芸者なんかよんだっておもしろいもんか、それより居残りをよんでくんな。まだいるんだろ?」 「居残りですか……いますよ、まだ……」 「じゃあ、よびねえな」 「では、よんでみましょう……ちょいと、いの(居残り)どーん」 「へ――い」 「十三番さんで、お座敷《ざしき》ですよ」 「へい、ありがとうさまで……いよう、こんばんは、これは旦那さま、先夜はまことにどうも失礼を、よいしょ」  なんだかわけがわからない。かたっぱしからお客をとりまきはじめたんで、ほかの若い衆たちは苦情がたいへんで…… 「おい、鉄どん、松どん、源どん、みんなこっちへおいで、いや、どうもあきれたねえ、どこの国に居残りが座敷でかせぐということがあるんだい。このごろ、われわれのもらいがねえとおもっていると、あいつがひとりでもらっちまうんだよ。どうもひどいはなしじゃねえか。なんだい、あのゆうべのさわぎというものは……十三番のざしきで、口をかけろ、口をかけろといっているから、芸者でもはいるのかとおもっていたら、居残りをよべってんだ。すると、おいらんものんきだねえ、居のどんとよんだよ。すると、また、あいつが、へーいとへんじをしてやがる。十三番でおざしきですよ、よろしい心得たてんで、扇子をパチパチやりながら、お客の座敷へおどりながら入っていきやがる。お客が、また、それをみて、よろこんで祝儀をやってるんだ。ばかばかしいったらありゃあしねえ……ところが、あとからきた客がなおいけなかった。座敷がさびしいから、居残りに口をかけてくれ、ただいま居残りはふさがっております、それならはやくもらいをかけろって……そんなばかなはなしがあるもんか。じつはね、���那にもそういったんだ。いままでの損は損として、どうにかしてあんなやつはたたきだしてしまわなければ、店のしめしがつかねえと……」 「まったくだ。あんなものにいられた日にゃあ、われわれがめしの食いあげだよ。旦那から追いだしてもらわなけりゃあ……」 「おう、きやがった、きやがった……おいおい、居残りさん」 「へーい、どちらのお座敷で?」 「お座敷をつとめる気でいやがる……お座敷じゃねえんだ。旦那が用があるとおっしゃるんだ。わたしといっしょにきておくれ……ええ、旦那さま、居残りの人をつれてまいりました」 「ああそうかい。あとをしめていきな。さあ、おまえさん、ずっとこっちへおいでなさい。あたしが当家の主人だ。おまえさんもふしぎなご縁でこうして長くおいでなさるが、いつまでこんなことをしていてもしかたがあるまいし、そうかといって、すぐに勘定をはらうこともできますまい。だから、おまえさんのつごうのいいときでかまわないから、半年でも、一年でも待ってあげるということにして、ひとまず家へお帰んなさい」 「へえ、そうやさしいことをいっていただきますと、穴にでもはいりたい心持ちがいたします……しかし、わたしは、こちらさまの敷居をまたいでおもてへでますと、御用とつかまって、くらいところへいかなくっちゃあならない身でございます」 「御用とつかまる? なんだい? そんなわるいことをしたのかい?」 「へえ、人殺しこそいたしませんが、夜盗、追いはぎ、家尻《やじり》切り……わるいにわるいということをしつくしまして、五尺のからだのおきどころのない身の上でございます」 「これはおどろいた。おまえさんがねえ……どうも、そんな悪事をはたらいたようにはみえないが……」 「へえ、親父は神田の白壁町で、かなりのくらしをしておりましたが、持って生まれた悪性で、がきのときから手くせがわるく、抜けまいりからぐれだしまして、旅から旅をかせぎまわり、碁打ちといっては寺々や、物持ち、百姓の家へ押しいりまして、ぬすんだ金の罪とがは、毛抜けの塔の二重三重、かさなる悪事に高とびなし……」 「どこかで聞いたような文句だね」 「こちらさまの敷居をまたいでおもてへでて、もしも御用とつかまった日にゃあ、三尺高え木の空で、この横っ腹に風穴があきます。お慈悲でございますから、ほとぼりのさめるまで、もうすこしのあいだ、おかくまいなすってくださいまし」 「どういたしまして……とんでもないことで……知らないむかしならいざ知らず、それを知って、なんでわたしの家へかくまっておけますものか、とんでもないことだ。そんなことをいっていないで、すこしもはやくここの家を出て、どこかへ逃げてもらうわけにはいかないかい?」 「そりゃあ、わたしだって、こちらへごめいわくをかけたくはございませんから、高とびもしましょうが、さきだつものは金でございます」 「それでは、すくないけれど、ここに三十円の金がある。これを路銀《ろぎん》にしてどこか遠いところへ逃げておくれ」 「へえ、ありがとうございます。それでは、おことばにあまえましてちょうだいいたしますが、このなりではどうすることもできません。おそれいりますが、旦那のお着物をひとついただきたいもので……」 「そりゃあ、着物ぐらいあげてもいいが……」 「どうせいただきますなら、このあいだできてまいりました結城《ゆうき》の着物をおねがいいたします」 「よく知ってるね、しかし、丈《たけ》があうかどうか……」 「いいえ、それは大丈夫でございます。旦那の丈が七寸五分、わたしも七寸五分で、寸法もぴったりおんなじで……」 「これはおどろいたねえ。あたしの丈まで知ってるとは……まあ、みこまれたのが災難だからあげるよ」 「へい、ありがとうございます。ついでに帯も一本いただきたいんで……」 「ああそうかい。では、茶|献上《けんじよう》の、あれをあげよう」 「ですが、旦那、着ながしというやつは人目につきやすいもんで、羽織《はおり》も一枚どうぞ」 「そうかい、羽織は、ごまがらの唐桟《とうざん》のでいいだろう」 「ありがとうございます。お金はいただきましたが、たもとから金をだすやつは、なんとなく人柄がわるくみえますから、紙入れも一つくださいまし」 「はいはい、ではこれを持っておいでなさい……それから、半紙を二帖、手ぬぐいが一本、あたしの下駄が入り口にあるから、それだけあればよかろう」 「へい、なにからなにまでありがとうございます。それでは旦那、これでごめんをこうむりますから、みなさんにどうぞよろしくおっしゃってくださいまし。どうもおやかましゅうございました」 「ああ、わかったから、はやくお逃げなさい」  佐平次がでていってしまったあと、旦那は、店の若い衆をよんで…… 「おい、鉄どんか、あいつが家のそばでつかまったりしては、こっちがめいわくだから、おまえ、どんなようすだか、ちょいとみてきておくれ」 「へい、いってまいります」  鉄どんという若い衆がようすをみに佐平次のあとをついてくると、佐平次は鼻唄まじりでのんびりとあるいてゆきます。 「おい、おい、居残りさん、おい」 「おう、鉄どんじゃねえか、どうしたい、おつかいかい?」 「そんなことはどうでもいいけれど、おまえさんものんきだねえ、鼻唄なんかうたっていて……もしもつかまったらどうするんだい?」 「つかまる? おれが? あはははは、いやどうもすまなかった。おめえのところの旦那はいい人だねえ」 「いい人だとも……品川じゃあ、神さまか、仏さまのようにいわれているくらいだから……」 「いえさ、いい旦那といえば体裁がいいが、はっきりいやあばかだ」 「なんだ? ばかだと?」 「こう、おめえも女郎屋の若え衆でめしを食うなら、おれのつらをよくおぼえておけ。吉原《なか》へいこうが、板橋へいこうが、どこでも相手にしてのねえ居残りを商売にしている佐平次とはおれのことだ。まだ品川じゃあ一度もやらねえからと、おめえのとこをみこんであがったんだ。まあ、おかげでちょいとした小づかいとりになった。はい、さようなら」 「あっ、ちくしょうめ、ひどい野郎だ……旦那、たいへんでございます」 「どうした? つかまっちまったか?」 「いいえ、つかまるどころではございません。あいつは居残りを商売にしてあるく佐平次という男だそうで……」 「そうか、あきれたやつだ。どこまであたしをおこわにかけたんだろう」 「へへ、あなたのおつむりがごま塩ですから……」
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stellarstellar · 6 years
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欅坂の作曲家の方々について調べてみた
欅坂46に楽曲を提供して下さっている作曲家の方々が坂道グループ、AKBグループ以外で どんな楽曲を作られているのか気になって今年に入ってリリースされている曲を調べてみました!
★白戸佑輔さん (世界には愛しかない)
・乙狩アドニス - Saql Faith (あんさんぶるスターズ!)
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Saql Faith 乙狩アドニス(CV.羽多野渉)
・下地紫野 - いつか
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いつか 下地紫野
宮田愛萌ちゃんも大好きなアイカツシリーズで大空あかりちゃんの声を務める 下地紫野さんのアーティスト名義での楽曲から 声が良すぎる…試聴だとちょうど歌始まりで終わっちゃうのが残念><
★原田アツシさん (渋谷からPARCOが消えた日)
・高峯翠 - 真昼の残像 (あんさんぶるスターズ!)
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真昼の残像 高峯翠(CV.渡辺拓海)
PARCOと同じひとが作曲したとは思えない…すごい!
★Soulife(河田総一郎さん、佐々木望さん) (二人セゾン)
・King & Prince - シンデレラガール
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切なげポップ書かせたら最強や…最強なんや…
★湊貴大さん (I’m out)
・22/7 - 未来があるから
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未来があるから 22/7
いや秋元先生の息バリバリかかっとるやないかい!って言われそうなんですが 下半期聴いた曲の中で今のところ一番好きなので絶対聴いてください(強気) 河野都ちゃんかわいい
★杉山勝彦さん (青空が違う、沈黙した恋人よ)
XX:me - トリカゴ (ダーリン・イン・ザ・フランキス)
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トリカゴ XX:me
杉山さんの曲っぽさがめちゃくちゃあるのに坂道の曲の雰囲気とはきちんと分けられてて ちゃんとアニソンになってるのすごすぎるとしか言いようがない… 他のEDも杉山さんが作曲を担当されてるので興味のある方は是非↓
XX:me - 真夏のセツナ (ダーリン・イン・ザ・フランキス)
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真夏のセツナ XX:me
XX:me - Beautiful World (ダーリン・イン・ザ・フランキス)
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Beautiful World XX:me
XX:me - ひとり (ダーリン・イン・ザ・フランキス)
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ひとり XX:me
XX:me - escape (ダーリン・イン・ザ・フランキス)
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escape XX:me
XX:me - ダーリン (ダーリン・イン・ザ・フランキス)
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ダーリン XX:me
★石井健太郎さん (永遠の白線、キレイになりたい)
星見純那、神楽ひかり、愛城華恋 - 世界を灰にするまで
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好き!!!!!!!!!!!!!!;;;
★三谷秀甫さん (男友達だから)
歌姫アーサー - Falsetto My Heart
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Falsetto My Heart 歌姫アーサー (CV.内田真礼)
原田さんとは逆方向の振り幅くらって衝撃受けました
★渡辺翔さん (割れないシャボン玉)
湯ノ花幽奈 - own (ゆらぎ荘の幽奈さん)
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own ゆらぎ荘の幽奈さん
和泉一織 - ONE dream (iDOLiSH7)
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ONE dream 和泉一織 (CV.増田俊樹)
渡辺さんはまどかマギカの歴代OPの作曲もご担当されてます 全然関係ないけどマギアレコードの舞台最高でしたよね 3回見に行って二葉さなちゃんのとこで3回とも号泣しました
★Sasakure.UKさん (割れないシャボン玉)
Sasakureさんの他アーティストの方やCMへの楽曲提供やBGMアレンジ、Remixなど一覧はこちらから とにかく多方面に活動されててヤバイ
http://sasakure.uk.com/information/
_____________________________________ 抜けてるものとか普通にありそうなんでもし見つけたら教えてください それでは
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herbiemikeadamski · 3 years
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. (^o^)/おはよー(^▽^)ゴザイマース(^_-)-☆. . . 7月10日(土) #赤口(己未) 旧暦 6/1 月齢 0.1 #新月 #四万六千日 年始から191日目(閏年では192日目)にあたり、年末まであと174日です。 . . 朝は希望に起き⤴️昼は努力に生き💪 夜を感謝に眠ろう😪💤夜が来ない 朝はありませんし、朝が来ない夜は ない💦睡眠は明日を迎える為の☀️ 未来へのスタートです🏃‍♂💦 でお馴染みのRascalでございます😅. . 熊本県、宮崎県、鹿児島県の方には ご愁傷様です🙏台風でもないのに🌀 この大雨なんですかねホント天変地異 には人間はなす術もありませんね⤵️ ホント✋新コロなんかよりも危険が危なw . さて、関東地方も昨日までは大した 雨じゃないが毎日ですもんね😅💦 洗濯物が乾かないなんて嘆きたく なるが、今は乾燥機があります✋ 問題ないですかね⤴️電気代が嵩む💦 . 早朝は四方八方どこもかしこも空が 厚い雲で覆われてましたが徐々に 青い空が見えて来ました今日だけ みたいですけど、お出かけ日和カナ❓ 「緊宣」前なんで行っちゃおう🏍 . 今日一日どなた様も💁‍♂お体ご自愛 なさって❤️お過ごし下さいませ🙋‍♂ モウ!頑張るしか✋はない! ガンバリマショウ\(^O^)/ ワーイ! ✨本日もご安全に参りましょう✌️ . . ■今日は何の日■. #仙台大空襲(#アメリカ軍による無差別爆撃). 第二次世界大戦末期の1945年(昭和20年)7月10日にアメリカ軍によって行われた宮城県仙台市への空襲(戦略爆撃)である。 この空襲によって仙台の中心部は焼け野原になった。 . 大東亜戦争中の日本本土空襲のうち、初期のものは航空母艦や中国内陸部の基地から発進した爆撃機によるものであり、航続距離の制限から爆撃できる範囲は限られ、攻撃対象も限定的で軍需工場が主な目標とされていた。 しかし1944年(昭和19年)6月、アメリカ軍がマリアナ諸島を制圧した事で北海道を除く日本本土の大部分が爆撃機B-29の航続距離内となり、また、無差別爆撃を主張していた陸軍少将のカーチス・ルメイが1945年(昭和20年)1月にグアム島第21爆撃集団司令官に着任してからは、日本各地の都市に対して無差別爆撃が行われるようになった。 . 1945年(昭和20年)5月、仙台の偵察飛行が行われ、街の様子が上空から撮影された。 アメリカ軍は仙台を、工業面での重要性はないが、住宅が密集し延焼を防ぐ広い道路や広場がほとんどないといった点から焼夷弾攻撃に適した都市であり、爆撃による心理的効果も期待できると評価していた。 アメリカ軍は大規模空襲に先立ち「仙台よい町 森の町 7月10日は灰の町」と印刷したビラを空から撒き、空襲を予告していたという。 . #四万六千日.  7月10日の観世音菩薩の縁日。  この日に参詣すると、四万六千日参詣したほどの功徳 (くどく) があるという。  東京浅草寺では境内にほおずき市が立つ。 . #ほおずき市(2021年7月9日(金) – 2021年7月10日(土) 東京都・浅草寺)中止です。。。_| ̄|○...  ほおずき市は、愛宕神社の千日詣が浅草寺に波及し、江戸時代享保元年(1716年)からは浅草寺で四万六千日分の参拝に相当するご利益(功徳)が得られると信仰される縁日に 併せて、薬草として評判の「ほおずき」が境内で売る店が建ち並び、鉢に付けられた風鈴が涼しげになる事から、江戸の夏の風物詩となっています。 . . #オイルフィルターの日. . #納豆の日(全国納豆協同組合連合会1992). . #ウルトラマンの日. . #ナオトの日. . #四万六千日. . #指笛の日. . #ドットわん・犬の納豆の日. . #くにさき七島藺の日. . #岡山県牛窓産冬瓜の日. . #クリエイトの日. . #潤滑油の日. . #ブナピーの日. . #日本なまずの日. . #Stop!迷惑メールの日. . ●アメリカンフライドポテトの日(毎月10日). . ●コッペパンの日(毎月10日). . ●パンケーキの日(毎月10日). . ●糖化の日(毎月10日). . ●Windows 10 の日(毎月10日). . ●バイナリーオプションの日(毎月10日). . ●スカイプロポーズの日(毎月10日). . ●植物油の日(毎月10日). . ●LPガス消費者保安デー(毎月10日). . ●キャッシュレスの日(毎月0の付く日). . ●バハマ独立記念日. . . ■今日のつぶやき■. #飛んで火にいる夏の虫(トンデヒニイルナツノムシ) 【解説】 昆虫は光に向かって飛ぶ習性を持つため、人間は誘蛾灯などでおびきよせ害虫を駆除する。 灯火をめがけて飛んでくる夏の虫のように、自分から危険なところに身を投じ、災難を招く事。 自ら進んで危険や災難に飛び込んで行く事の例え . . 1978年〈昭和53年〉7月10日 #小泉孝太郎 (#こいずみこうたろう) 【俳優、タレント、司会者】 〔神奈川県横須賀市〕 . . (牧野記念庭園) https://www.instagram.com/p/CRH8rNYlG9rcOz6jFC1keUio1DUavOXEKvSvuI0/?utm_medium=tumblr
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monqu1y · 3 years
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戦後の事件簿  「日本が受諾したポツダム宣言は、イギリス首相、アメリカ合衆国大統領、中華民国主席の名において発された。ソ連は後から加わり追認した。中共は、抗戦相手ではなかった。大日本帝国の一部を形成する朝鮮半島の住民と内地の住民も、戦火を交える敵同士ではなかった。しかし、どこまでも敗戦革命にこだわる報道関係者たちは、中国や韓国や北朝鮮に戦勝国とウソをつかせたうえで、日本に対する理由のない非難と恐喝をするよう唆している。そして、韓国人や朝鮮人は本名を隠し日本人名を名乗っている。彼らの犯罪は、日本人による犯罪のように報道されるか、犯罪そのものが報道されない」という話を聞いた  図書館に行って朝鮮人の犯罪を調べたら、次のような記録が見つかった  1945年10月22日、大阿仁村事件が起こった。秋田県北秋田郡阿仁合町の阿仁鉱山で働いていた朝鮮人12名は、午前9時頃、約16キロ山奥の同郡大阿仁村の伏影集落へ行き、共同管理の栗林に侵入し、栗を拾っていた所を村人に発見され、注意したところ乱闘となり、双方数名が負傷した。午後1時になると、約40名の朝鮮人が来襲したので、警察と警防団は直ちに現場に急行し鎮圧の為に急行した  1945年12月24日、生田警察署襲撃事件が起こった。午後9時頃、50名を超える朝鮮人の暴徒が「岡山の刑事を出せ」と叫びながら署内に侵入。署員を拳銃・日本刀・匕首を突きつけて軟禁した上で、岡山県警察部の捜査員を探し始めた。捜査員らが脱出に成功した一方で、暴徒によって署内の警察電話線が切断されたため、警察署は外部との連絡手段を絶たれてしまった。その後、事件を聞きつけた連合国軍部隊によって暴動が鎮圧された。襲撃以前、岡山市内にて7人組による拳銃強盗事件が発生しており、強盗犯を追って岡山県警の捜査官が神戸市まで出張にきていた。この捜査員に生田署が協力していたため、暴徒の襲撃を受けることになった。もっとも以下に挙げた資料には、確かに報復を仕掛けたのは朝鮮人の一団であったが、元の拳銃強盗事件の犯人が朝鮮人であったのかどうかまでは記されていない  1945年12月29日、直江津駅リンチ殺人事件が起こった。午後7時頃、新潟発大阪行の列車が国鉄信越本線黒井駅に到着した。3人組の朝鮮人が列車に乗車しようとしたが、満員のため乗車することが出来なかった。そこで彼らは列車の窓ガラスを叩き割り無理やり乗車しようとしたところ、ある男性の乗客に阻まれたため、已む無くデッキにぶら下がり次の直江津駅まで行く破目になった。列車が直江津駅に到着すると、3人組は自分たちを阻んだ男性に対して、「乗降口から乗れないので仕方なくガラスを壊して乗ろうとしたのに何故妨害した」と詰め寄った。 男性に「窓から乗り込むという方���はない」と反論されたため、その男性���直江津駅のプラットホームに引きずり降ろし、駅の備品であるパイプやスコップを持ち出して男性に襲い掛かり、メッタ打ちにした。男性は頭や左眼などに十数か所の傷を負い、絶命した。警察が緊急配備したところ、直江津の病院で傷の手当てをしていた3人組を突き止めた。そして容疑を認めたため、殺人犯として緊急逮捕した  1946年1月3日、富坂警察署襲撃事件が起こった。正午、春日町交差点において多くの不審者を乗せたトラック2台が富坂警察署方面へ向かうのを、交通整理にあたっていた警察官が発見、直ちに署に連絡した。連絡を受けてまもなく、例のトラックが富坂警察署に到着、警察官の制止を振り切って約80人の朝鮮人が署内に乱入し、留置中の在日朝鮮人の即時釈放を要求した。危険を察知した警部が警察電話を通じて、警備隊の応援を要請したところ、在日朝鮮人20人が電話室に乱入し占拠した。これにより外部との連絡が絶たれた。交渉にあたった署長は「朝鮮人は留置していない」と突っぱねたが、情報が漏れていたらしく、在日朝鮮人たちが留置場を探し始めた。これを阻止しようとした警察官に対して殴る蹴るの暴行を加えて負傷者を続出させた。在日朝鮮人はついに留置場を発見、中にいた容疑者を連れ出し、「署長は、朝鮮人は留置していないと我々を欺いた」と署長を責めた後、富坂警察署の前を通りかかったトラックを奪って逃走した  1946年1月9日、生田警察署襲撃事件が起こった。翌年、三宮ガード下で賭博団が検挙されたことを受け、30 - 40人の朝鮮人が犯人の奪還を目的に再度署内に侵入したが、この事件も進駐軍の協力を得て鎮圧し、首謀者3人を検挙した  1946年5月13日、長崎警察署襲撃事件が起こった。午前10時30分、280人の警官隊が一斉取締を開始し、日本人150人、朝鮮人26人、中国人6人を検挙、長崎警察署に連行した。その直後、在日本朝鮮人連盟や中国人団体が長崎警察署に押しかけ、被疑者の即時釈放を要求したが、署長は取調前の釈放はできないと拒否した。午後2時30分頃、朝鮮人や中国人など総勢約200人がバッドや鉄棒を持って長崎警察署を包囲・襲撃した。これにより警察官1人が死亡、10人が重軽傷を負った。その後、余勢をかって東浜町派出所や港町派出所も襲撃し、警察官に対し暴行を加えている  1946年8月5日、富山駅前派出所襲撃事件が起こった。午後6時50分頃、富山駅において闇米取り締りを実施し、朝鮮人3人を検挙した。しかし、それを見ていた朝鮮人2人が妨害し、3人を逃走させた。そのため自治隊員2人を公務執行妨害罪で逮捕し、富山駅前派出所に連行したところ、朝鮮人約30人が包囲し険悪な雰囲気となった。署に救援を頼んだが、その前に大乱闘となった。その直後に、救援隊が駆けつけて朝鮮人たちを実力で排除した。この乱闘で警察官1人が負傷した  1946年9月22日、坂町事件が起こった。午前0時50分頃、村上警察署の署員8人が坂町駅に赴き、ヤミ米の取締に当たった。署員が現れるや、約50人の朝鮮人・中国人は一斉に姿をかくした。警察官がホーム上に置き去りにされたヤミ米を押収しようとすると、「殴れ!」「叩け!」の叫び声を合図に襲いかかって来た。警察官が応戦している最中に列車が到着し、列車内から朝鮮人20人が下車し加勢、警察官に暴行を加えた後、発車間際の列車に乗り込み逃走した。この日の午後になり、「また、ヤミ米を運搬しようとしている」との情報が入った。警察官 10人が現場に向かい取り締まろうとしたところ、約50人の朝鮮人・中国人が襲い掛かり、殴る蹴るの暴行を加えた。金屋村警防団は警察官の応援に駆けつけたが、逆に鳶口や木刀を取り上げられて、彼等の武器にされる始末であった。その後、撤退命令が出たので、警察官等は一旦引き上げた。その後、進駐軍の新潟軍政部の係官が現地に到着し、朝鮮人・中国人に対して「日本に在住している限り、日本の法律に服さなければならないこと」、「警察官のヤミ米取締を拒むことは、連合国の指令に反するものであること」を言い渡した。軍政部のお墨付きが出たことで、警察は断固とした取締りが可能になり、12人が検挙された  1946年9月26日~29日、新潟日報社襲撃事件が起こった。在日本朝鮮人連盟などの朝鮮人16人が新潟日報社を訪れ、新潟日報社と読売新聞社の両社に対して、「坂町事件の報道に誤りがあると認め、ラジオ放送を通じて新潟県民に誤報であったという声明を出せ」と要求した。両社は「即答はできない」として、29日まで猶予してもらうことになった。その後読売新聞社は、9月28日になって譲歩し、誤報を認め謝罪記事を掲載することで話がついた。9月29日、朝鮮人16人が再度新潟日報社を訪れ、新潟日報社側の返答をせまった。新潟日報社は「警察の調査結果をまって善処する」と答え、彼等の要求を拒んだため、朝鮮人側は憤慨し、茶碗を投げつけたのを合図に一斉に暴れだし、社内の備品を破壊した。新潟警察署は、朝鮮人らを暴力行為等処罰ニ関スル法律違反で逮捕した  1946年12月20日、首相官邸デモ事件が起こった。の全国大会では、約1万人の朝鮮人が結集した。日本共産党の徳田球一も出席しており、徳田球一の演説の後、生活権擁護の決議文を採択し、午後1時頃に集会は一旦終了した。午後1時30分、「朝鮮人虐殺政策絶対反対」「吉田内閣は日本の敵だ」といったプラカードを掲げてデモ行進を開始。午後2時頃に首相官邸前に差し掛かると、突如警察官の制止を無視して官邸正門前に殺到した。警官隊は侵入を阻止するため門を閉鎖しようとしたが、デモ隊は投石やプラカードを振り回すなどして暴れ、遂に首相官邸に侵入した。午後2時30分頃にアメリカ軍憲兵隊が出動し、まもなくデモ隊全員を解散させた。この事件で、警察官23人が重軽傷を負い、拳銃2丁が奪い取られた  1947年10月20日、尾花沢派出所襲撃事件が起こった。朝鮮人7人は警察によるヤミ米摘発の鬱憤を晴らすべく、派出所の襲撃を計画し、午後3時頃に楯岡警察署の尾花沢派出所に乗り込んだ。警察官が不在だったため、派出所内の器物を破壊し、門標を取り外した後引き揚げた。その後、外出から戻った警察官が、派出所内の惨状を見て驚き、直ちに署に連絡した。その直後、前述の朝鮮人7人と他の朝鮮人30人が派出所を取り囲み、火鉢を投げつけるなどの暴行を働いた。楯岡警察署は隣接の新庄警察署や進駐軍の応援も得て、29人を逮捕した  1948年4月23日~25日、阪神教育事件が起こった。9時、大阪府大阪城前の大手前公園で、朝鮮人学校弾圧反対人民大会が開催された。集会には在日朝鮮人や日本共産党関西地方委員会の日本人など7000人余が集結した。16人の代表が選出され、大阪府庁舎で大阪府知事・赤間文三との交渉を行うことになった。12時30分、大阪府庁知事室において副知事と朝鮮人代表者16人との交渉が始まったが合意には至らず、15時になって在日朝鮮人や日本共産党関西地方委員会の日本人など7000人余の中からシュプレヒコールが起こった。同時に50人余の青年が行動隊を編成し、スクラムを組んで大阪府庁前の阻止線を突破した。15時30分には行動隊に続いて、在日朝鮮人や日本共産党関西地方委員会の日本人など7000人余も大阪府庁に暴力で突入し、3階までの廊下を占拠。副知事は警察官の誘導で、戦時中に作られていた地下道を通って脱出した。17時頃には群衆が知事室になだれ込み、ドアや調度品を破壊するといった行動に出る。日本共産党大阪地方委員会に派遣されていた増山太助は川上貫一衆議院議員とともに知事室に駆けつけたが、収拾がつかない状態だった。夜になって大阪城周辺の各所で在日朝鮮人や日本共産党関西地方委員会の日本人によってかがり火が焚かれ、朝連としては川上を代表として交渉の場を作ろうとした。しかしそこへアメリカ軍や武装警官が到着し、在日朝鮮人や日本共産党関西地方委員会の日本人らと乱闘。在日朝鮮人のうち1人が死亡し20人が負傷した。警官���の負傷者は、31人だった。179人が騒擾罪で検挙された。4月25日には朝連や日本人約300人が南警察署に押しかけ逮捕者の釈放を要求したが、抗議に来た群衆に向けて警官隊が威嚇射撃を行い追い返した。翌4月26日に朝連は大阪東成区や旭区などで「朝鮮人学校弾圧反対人民大会」を開催。午後には朝鮮人代表者と赤間府知事との間で再度交渉が行われたが、15時40分に別室で待機していた大阪軍政部のクレーグ大佐が、交渉の中止と大手前公園に集結していた在日朝鮮人2万人の解散を指示。これに対し在日朝鮮人1600人のデモ隊が再び大阪府庁に向かい、武装警官隊の阻止線で投石を開始。武装警官隊は消防車に放水をさせ、デモ隊に突入し拳銃で発砲した。この衝突で当時16歳であった在日朝鮮人金太一が死亡する。検挙者は軍事裁判にかけられ、日本人9人と在日朝鮮人8人が重労働4年以下の判決を受けた。このうち当時の朝鮮総連の朴柱範兵庫県本部委員長は神戸刑務所に服役し、1949年11月25日に病気を理由に仮釈放されたが僅か数時間後に死亡した。事件解決後、大阪市警察局は、アメリカ陸軍第25師団司令部より感謝状が贈呈された。兵庫県非常事態宣言布告を報じた朝日新聞号外アイケルバーガー司令官の神戸視察を報じた神戸新聞10日に兵庫県知事・岸田幸雄は、朝鮮人学校に対して封鎖命令を発令。これを受けて14日に朝連は兵庫県庁を訪れ、岸田との交渉を要求した。言動はしばしば威圧的・脅迫的になった。4月23日に警官隊と米軍MPが朝鮮人学校灘校と東神戸校を封鎖すると、翌24日に封鎖に抗議する在日朝鮮人や日本人が兵庫県県庁前に集結。9時30分に兵庫県庁知事室で、岸田知事と神戸市長・小寺謙吉、検事正ら15人が朝鮮人学校閉鎖仮処分執行問題と在日朝鮮人の抗議集会対策を協議。協議が行われているとの情報は朝連にも伝わり、約100人の在日朝鮮人や日本人が兵庫県庁内に突入。知事応接室を占拠して備品などを破壊した後、壁を打ち破って知事室になだれ込み岸田知事やMPを拉致監禁するに至る。知事室に乱入した在日朝鮮人や日本人は電話線を切断して外部との連絡を絶ち、「学校閉鎖令の撤回」「朝鮮人学校閉鎖仮処分の取り消し」「朝鮮人学校存続の承認」「逮捕された朝鮮人の釈放」などを岸田知事に要求。半ば監禁状態にあって岸田は、17時に諸要求の受け入れを誓約。しかしその日の22時に岸田知事と吉川覚副知事・市丸検事正・田辺次席検事・出井兵庫県警察長・古山神戸市警察局長らが、占領軍兵庫県軍政部に召集され、23時に兵庫県軍政部が「非常事態宣言」を発令。軍政部の非常事態宣言によって兵庫県と神戸市の全警察官はアメリカ軍憲兵司令官の指揮下に入り、兵庫県庁への乱入者の徹底検挙命令と共に岸田知事が一旦受け入れた在日朝鮮人の要求への誓約を無効とした。25日早朝にMPと米軍憲兵司令官指揮下の警官による県庁乱入者の検挙を開始し、29日までに、1590人もしくは7295人 を検挙。日本共産党の神戸市議会議員・堀川一知も拘引された。4月28日には米軍軍政部の非常事態宣言も解除。検挙した者から主だった者を拘留し、23人を軍事裁判にかけた。唯一の日本人被告人だったは堀川は重労働10年の判決を受け、在日朝鮮人には最高重労働15年の判決が出されて刑期終了後は本国に強制送還されることになった  1948年10月11日~12日、評定河原事件が起こった。の10時から開会式が始まった。北朝鮮国旗の掲揚をめぐり仙台市警察が警告を発するなどのトラブルがあったが、1日目は特に混乱も無く終了した。2日目の10月12日は運動会が開かれた。国旗掲揚の代わりに国旗を頭上に捧げ持って行進したため、米軍の憲兵が行進の中止を命じた。その後、運動会は再開され、16時30分頃に閉会式が開かれた。そのとき、酒を飲んだ数人の朝鮮人が会場内に入って歌を歌い始めた。これに同調する者が次々と現れ、赤旗を掲げてデモ行進するなど不穏な空気に包まれた。その中で、北朝鮮国旗を持った一団がデモ行進をし、米軍憲兵の制止を無視し行進を続けたため、米軍憲兵は国旗を押収し、参加者4人を検挙した。その後の米軍憲兵隊の捜査で、更に2人が検挙された  1948年12月9日、宇部事件が起こった。約200名の朝鮮人が宇部市民会館に参集し生活擁護人民大会を開催していた際に、在日本朝鮮人連盟山口県本部委員長を進駐軍憲兵および警察隊が逮捕した。大会参加者は集団的に同被疑者を奪還しようとして警察側と衝突し、双方に多数の負傷者が出る騒ぎとなったが、警察側の発砲によって鎮圧された  1949年1月25日、益田事件が起こった。島根県美濃郡益田町の朝鮮人集落において密輸入物資が隠匿されているとの密告に基づき、進駐軍島根軍政部将校2名と経済調査官2名が同行して、令状なしで摘発に乗り出したが、「令状のない捜査は違法である」と拒否されたため、警察官10名が応援して違反物資を押収したが約100名の朝鮮人に奪還された。翌日、被疑者9名を検挙したものの、夜に入って約200名が警察署に押しかけて被疑者の釈放を要求し、署内に侵入しようとしたために警察官と乱闘になり48名が検挙された。逮捕されたもののうち9名が起訴され、騒乱罪で有罪となった  1949年4月6日~13日、枝川事件が起こった。午後6時頃、3人の捜査員は主犯を発見、逮捕しようとした。しかし主犯は別人を主張、周りの朝鮮人数人も捜査員を見ていたため、任意同行に切り替えた。そして、屋外に出ようとしたところ、主犯は捜査員を突き飛ばし、裸足のまま逃走した。捜査員は拳銃を3発威嚇発砲して制止しようとしたが、逃走を続けたため、遂に主犯に向けて発砲した。そしてなんとか逮捕することができたが、主犯はその際に負傷した。それを見ていた約40人の朝鮮人が「仲間を殺したやつは殺してしまえ」と捜査員2人に襲い掛かり、殴る蹴るの暴行を加え重軽傷を負わせた上に在日朝鮮人連盟の施設に連行した。もう1人の捜査員は、事態の重大性を察知し、近くの民家の電話を借りて枝川地区を所轄する深川警察署と月島警察署に通報した。まもなく深川警察署と月島警察署の応援部隊が在日朝鮮人連盟の枝川支部に急行したが、激しい抵抗にあい、警察側に負傷者を続出させたが、アメリカ軍憲兵隊が来ると急に態度を軟化させた。その後の交渉で朝鮮人側は暴行犯人の引渡しを確約したが、4月8日になっても引き渡さず、逆に捜査員の処分を求める有様であった。4月9日より、警察は枝川地区に架かる橋に検問所を設置、通行者全員に検問を開始した。それと並行して内偵調査を行った。その結果、警察官に暴行した容疑者が割り出されたため、4月13日に一斉捜査が行われ、容疑者5人が逮捕された。4月19日までに更に10人が逮捕された  1949年4月7日~11日、高田ドブロク事件が起こった。午前6時頃、取締部隊は朝鮮人集落に到着し一斉取締を開始した。早朝であったため、この取締そのものは整然と行われ、午前8時30分頃には引き上げた。午前10時40分頃から朝鮮人たちが高田市警察署に集結し始め、正午頃になると200人に膨れ上がり、検挙者の釈放を要求した。しかし警察側が断固拒否したため、警察署に向かって投石を行い窓ガラス十数枚を破損させた。4月8日も朝鮮人約200人が警察署前に集結し、釈放を要求した。4月9日正午、一人の朝鮮人女性が高田税務署に現れた。一人であったことから税務署を警備していた警察官も、一般の利用者と思って油断していたところ、あっという間に14・15人の朝鮮人女性が集まり、署長との面会を要求してきた。警備の警察官が退去を勧告したところ、「人殺し」と叫び座り込みをはじめた。午後1時になると多くの朝鮮人男性が押しかけ、税務署内に突入しようとしたので、小競り合いになり双方に負傷者を出した。4月10日、検挙者の自供により、高田市においても密造酒の醸造が行われていることが判明したため、在日朝鮮人連盟信越支部などを家宅捜査した。4月11日、約500人もの朝鮮人が高田市に集結、デモ行進を行った。彼らは市民に対して「警察が朝鮮人に対して不当な弾圧を加えている」「放火して高田市を灰にする」などと叫び牽制していた。ここに至り、警察もデモの首謀者12人を検挙したため、この事件も収束に向かい始めた  1949年6月2日~11日、本郷村事件が起こった。国家地方警察福井県本部若狭地区警察署の本郷派出所の警察官が朝鮮人地区の地図を作成したことについて、在日本朝鮮人連盟の幹部が抗議した。幹部は一旦戻り、在日朝鮮人70人を引き連れて、派出所を包囲した。そして中の警察官に暴行を加え、そのまま居座り続けた。若狭地区警察署は署員を急派したが、なおも居座り、6月4日になってようやく解散した。朝鮮人側は 暴行警察官の罷免 被害者に対する損害賠償 朝鮮人に対する謝罪 朝鮮人問題については、事前に朝連と連絡協議をすることなどを要求したが、警察は6月10日に朝鮮人2人を逮捕するために現地に向かった。待ち構えていた朝鮮人200人が、石や糞尿を投げつけて逮捕を妨害したが、なんとか強行突破し、2人を予定通り逮捕した。その後朝鮮人たちは、「民族弾圧、ファッショ警察の再現」と叫んで警察署前に居座ったり、「ファッシズム国警若狭地区警察の真相」と題するビラをばら撒くなど示威行動を続けた  1949年8月20日、下関事件[騒乱]が起こった。19日午後11時頃、朝連事務所前に約150人の在日朝鮮人が集結し、民団を非難する集会を開いた。集会そのものは特に問題なく終了したが、警備に当たっていた朝連の構成員と民団の構成員が路上で遭遇、乱闘となり、民団側が所持していた日本刀で朝連側に負傷者を出した。朝連は、これに報復すべく8月20日午前2時30分頃、構成員約200人を招集し、民団下関支部や民団構成員の自宅を襲撃した。そして被害家屋から金品を略奪するなどの狼藉を働いたあと解散した。このため、未明にも係らず市内は一時大混乱になった。下関市警察は、直ちに国家地方警察山口県本部に応援を要請した。国家地方警察は、自治体警察を含む山口県内の全警察に非常招集を発令、警察学校の学生をも動員した。県内各地から来る応援部隊の到着後、朝連や民団の施設を一斉に捜索を開始し、939 人の警察官のうち 14 人が負傷したが、73人を検挙した。翌日8月21日には、下関市警察と国家地方警察の合同による「下関事件合同警備本部」を設置するとともに、市内各所に検問所を設けて逃亡を阻止した。最終的に208人が検挙され、殺人未遂罪のほか、騒擾罪などで75人が起訴された  1950年3月20日、台東会館事件が起こった。10日午前9時、東京都の係官が台東会館に赴いた。警視庁では不測の事態に備えて多数の警察官を警戒に当たらせた。係官は会館を引き渡すよう命じたが、旧朝連はそれを無視したばかりか、投石を行い抵抗した。そのため、この日の接収は一旦取りやめになり、3月20日に再度接収を行うことになった。旧朝連側は接収予定日の前日から、会館入口にバリケードを設け、周辺道路を巡回して警戒していた。3月20日午前7時、係官が台東会館に入ろうとしたが妨害を受けた。そして、警戒に当たっていた警察官��向かって、石や唐辛子粉を投げつけて抵抗した。そのため警察は強行突入を断行し、朝鮮人119人を検挙した  1950年8月15日、連島町事件が起こった。1949年9月8日、GHQの指示を受けた法務府は告示第51号を出し、在日本朝聯と在日本朝鮮民主青年同盟に対し団体等規正令を適用して解散命令を下す。また朝鮮学校と民団総連も解散請求を受けた。これらの措置は在日朝鮮人の生活に直接の打撃を与えた。将来に不安を抱いた朝鮮人同胞らの中には、革命を叫んで公共施設を不法占拠し火炎瓶で武装した事件が起きた。こうした世情不安の中、岡山県浅口郡連島町で、朝鮮解放5周年を祝って約700名の朝鮮人が集まり集会を強行したため、これを制止しようとした警察と乱闘になり8名を検挙した。この事件で警察官15名が負傷した  1950年11月20日~27日、長田区役所襲撃事件[第二神戸事件]が起こった。午後1時、約200人の朝鮮人が神戸市長田区役所に押しかけた。要求は「市民税免除」と「生活保護の徹底」である。しかし区長がこれを認めなかったため、区長を軟禁状態にして騒ぎ出した。神戸市警察は直ちに出動、30人が逮捕された。11月24日午前11時、約300人の朝鮮人が再度長田区役所に押しかけ、区長との面談を要求した。区長が拒否したため、朝鮮人たちは区役所に乱入し、窓ガラス等を破壊した上、出動した警察官に対しても暴力を振るったため、不退去罪の現行犯として26人が逮捕された。11月27日朝、24日に逮捕された仲間の奪還などを求め、姫路市、明石市、尼崎市などから約600人の朝鮮人が神戸に向かっているとの情報が警察にもたらされた。警察は甲号非常招集を発令、神戸市警察および国家警察兵庫県本部の警官約3000人に待機命令をかけた。長田区にある西神戸朝鮮人学校に神戸市在住の者も含め約千人の朝鮮人が集結。「祖国統一決起大会」を開催し、投石用の石や棍棒を用意するなど不穏な状勢となったため、正午頃に解散を命じたが、「犬め、殺してやる」「貴様等人民裁判にかけてやる」と暴言を吐いて命令を無視、午後3時20分頃には、学校から出てデモ行進を始めた。遂に警察は神戸市電湊川大橋停留所付近で検挙を開始したが、デモ隊は激しく抵抗し、約60人が逮捕された。その残党は新湊川沿いに北上、長田区役所や長田税務署を襲い、窓ガラスを割るなどした。最終的に179人が逮捕された  1951年1月23日、四日市事件が起こった。旧朝連四日市支部を接収しようとしたところ、居合わせた朝鮮人約20名が、器物やガラスの破片を投げつけたり、灰・唐辛子による目潰し攻撃をしたり、濃硫酸を浴びせて接収の妨害を行った事件。そのため、執行係官7名が全治2 - 3週間の重軽傷を負った。警察が出動して、公務執行妨害容疑で15名を検挙した  1951年3月7日、王子朝鮮人学校事件が起こった。当日、王子警察署は周辺の道路を封鎖し、同校生徒以外の群集の流入を阻止しようとしたが、群集はそれを無視し最終的に2000人が集まった。集会は午前10時から始まった。一方、学校外にいた群集が警察隊に対し、投石や唐辛子粉の噴霧など抵抗したため、ある警察官が付近の民家の2階から写真を撮ろうとした。しかしそれを見た群集が民家に乱入、その警察官に暴行を加え、カメラを破壊した。応援に来ていた蔵前警察署員が救出しようとしたが、逆に返り討ちにあい、重軽傷を負わされた上、拳銃や警棒などが奪われた。警視庁は、遂に群集を強制的に解散させることを決断、警官隊が校内に突入しようとした。群集は煉瓦や石を投げつけるなど強硬に抵抗したが、午後2時50分までに全員を校外に排除した。警察はこの事件で28人が重軽傷を負った  1951年6月13日、神奈川事件が起こった。横浜市神奈川区にある青木小学校分校において、神奈川県朝鮮人学校PTA連合運動会が開かれていたが、参加者の一人が警備をしていた警察官に対して暴力をふるったため、公務執行妨害で検挙しようとしたところ、これを妨害しようとして大乱闘となった。これにより、双方ともに数名の負傷者を出した。運動会終了後、約500名の在日朝鮮人が横浜市警察本部に殺到し、玄関前でスクラムを組んで奇声をあげた。 そのため、横浜市警は約1000名の警察官を動員し、公安条例違反容疑で28名を検挙した  1951年10月22日、下里村役場集団恐喝事件が起こった。下里村において、在日朝鮮人約200名が、「生活保護」「強制送還反対」の陳情をするために村役場に押しかけた  1951年12月1日、東成警察署襲撃事件が起こった。午前11時頃、朝鮮人たちは旧御幸森朝鮮人小学校に集まり、東成警察署までデモ行進した。その後、元御幸森朝鮮人学校に集合し、12時15分ごろ東成警察正門前に到着した。さらに同署の東方道路から約20名、南方道路から20名が殺到し気勢を上げて署内に突入しようとしたので、大阪市警視庁機動隊はそれを阻止した。その際デモ隊は、クロールピクリン酸入りサイダーびん3本、投石や唐辛子を投げつけて抵抗した。この事件で3人が公務執行妨害罪で逮捕された 。12月16日午後、不法デモをおこない3隊に分かれ、生野区、巽町の工場を襲撃した  1951年12月18日、日野事件が起こった。10月18日午前11時30分、滋賀県蒲生郡桜川村に、在日朝鮮統一民主戦線や祖国防衛隊のメンバーが集結し、自転車にスピーカーを取り付けて自転車デモを行おうとした。滋賀県公安条例の届出を出していない違法デモであった。国家地方警察滋賀県本部蒲生東地区警察署では、これを制止しようとしたが、デモ隊は強行突破し、日野町内に侵入した。デモ隊は日野郵便局前で「朝鮮人強制送還反対」「軍事基地化反対」などの演説を行った。その間、周辺在住の朝鮮人が集まり、ピケを張ったりバリケードを作ったりした。そして警官隊に棍棒で襲い掛かったため、公務執行妨害罪で20人が検挙された  1952年2月21日~23日。木造地区警察署襲撃事件が起こった。国家地方警察青森県本部木造地区警察署は、傷害容疑で在日朝鮮人2名を逮捕した。これに対し、在日朝鮮人数十人が検挙者の即時釈放を要求して連日署に押しかけた。2月23日に入り、在日朝鮮人約70名が署内への侵入を図って警備の警察官と揉み合いになり、警察署の玄関のガラス戸が破壊された。また同日午後7時、応援に駆けつけていた弘前地区警察署の署員11人が、国鉄五能線木造駅を警備していたところ、在日朝鮮人に取り囲まれ、警棒を奪われる事件も発生している  1952年3月26日~30日、多奈川町事件が起こった。以前より多奈川町警察は、隣接の国家地方警察泉南地区署の応援を得、幾度も朝鮮人による密造酒の摘発を行っていたが後を絶たず、増加するばかりであった  1952年3月24日、大阪国税局は、同局泉佐野税務署・大阪地方検察庁岸和田支部・国家地方警察泉南地区署と合同捜査会議を行い、一斉摘発を決定。同年3月26日午前5時40分ごろ、泉南地区署に、国税局員45名・検事1名・副検事1名・検察事務官12名・制服警察官50名の合同捜査チームが集合。10班に分かれ、トラック10台に分乗し、多奈川町9ヶ所、深日町1ヶ所、計10ヶ所の密造場所に向かう。納屋や豚小屋に偽装された密造工場の各所で、朝鮮人による抵抗に遭うも、検察庁職員によって容疑者の逮捕、国税局員によってドブロク・コウジ・蒸留機などの酒造器具を証拠品として差押さえるなどし、各班は逐次南海電気鉄道多奈川線多奈川駅前に集合。この時、婦女子を先頭にした朝鮮人約200人がトラックの前に座り込んだり、大きな石をいくつも道路上に置いて交通を妨害。これを排除しようとした警察官が激しい抵抗に遭っている間、手薄な警備に勢を得た朝鮮人の数はさらに増え、ついには「生活権」を訴える怒号に扇動された朝鮮人が「殺してしまえ」とわめきながらトラックに殺到し、タイヤの空気を抜く、窓ガラスを叩き割る、トラックの運転手を袋叩きにする、差押えた証拠品を叩き落して破壊・強奪する、被疑者を逃がすなどの暴挙に出た。 この危機を脱したトラック3台は集合場所の大阪拘置所に向かったものの、残る7台は駅前の国道で立ち往生となる。1個班につき警察官が5人と言う手薄な警備体制が招いた失敗であった。不測の事態を受けた合同捜査チーム総指揮官大坪検事及び泉南地区警察署長は、深日町警部派出所から国家地方警察大阪府本部に応援を要請。検挙は後日に譲ることとし、後日の検挙に備え多数の現場写真を撮影、道路上の妨害を排除しつつタイヤの空気を入れなおし、午前7時半ごろ、捜査チームは泉南地区署に引き揚げた。午前8時過ぎごろ、朝鮮人約30名が多奈川派出所に押しかけ「俺たちの生活をどうしてくれる」と抗議。間もなく代表者3名を残し引き揚げる。午前9時ごろ、取材に来ていた毎日新聞社大阪本社の記者がドブロク密造地区捜査取材のため多奈川派出所に向かう途中、朝鮮人の暴徒に囲まれて殴打され、石を投げつけられ、全治2週間の怪我を負う事件が発生。また、この騒ぎで城東税務署員も右手に怪我を負っている。事態を重く見た国家地方警察大阪府本部は27日・28日の2日間にわたり、現場証拠写真、現場に出動した警察官、第三者の証言から被疑者の割り出し、証拠収集にあたる。結果、被疑者17名を特定し、29日、暴力行為等処罰に関する法律違反、公務執行妨害および傷害ならびに酒税法違反容疑で逮捕状・捜査令状を大阪地検より受けた。同年3月30日午前2時、検事らをはじめ、大阪府下8地区署から制私服警官警察官・警察学校生徒など、約450名が大阪市城東区関目の大阪府警察学校に集結。午前5時すぎ、自動車・トラック約30台に分乗して多奈川町小田平、朝日、東、湊、深日町兵庫の5地区21ヶ所に急行し、逮捕、押収捜索にあたった。捜査員が被疑者を逮捕しようとした際、人糞を降りかけられる、手を噛まれる、水桶・たらい・マキなどを手当たり次第投げつけられる、クワ・こん棒などを振り回して暴れる、トウガラシの粉を投げて目潰し戦術に出るというようなことがあり、捜査員3名が打撲傷などを負ったが、前回ほどの組織的集団抵抗はみられなかった。この検挙の際、26日の暴行首謀者とされる3名が逃走。緊急逮捕を含む27名の逮捕者は取り調べののち、5名を釈放。残り25名を酒税法、公務執行妨害、傷害、業務妨害などの容疑で大阪地検に送庁、19名が起訴された。3月30日の検挙活動の際、朝鮮人1名が職務質問を受け逃走、追いついた警官ともみ合いになり拳銃の引き金が引かれ、弾が右腹部を貫通、重傷となり、数日後に死亡した  1952年5月1日、血のメーデー事件が起こった。GHQによる占領が解除されて3日後の、第23回メーデーとなったこの日の中央メーデーは、警察予備隊についての「再軍備反対」とともに、「皇居前広場の開放」を決議していた。大会は午前10時20分ごろ開会され、途中、全学連を中心として人民広場への乱入を扇動しようとする乱入者が相次いだものの、午後0時10分に閉会し、同25分より、北部・東部・南部・中部・西部の各コースに分かれて、予定のデモ行進に移った。デモ行進の途上でも、人民広場への乱入を扇動しようとする試みが相次ぎ、一部のデモ隊は当初のコースから外れて投石などを行ったほか、西部コース指導者は人民広場への乱入を拒否したために暴行を受けるなどの混乱が生じたものの、最終的には午後2時から4時にかけて順次に予定の解散地点に到着し、解散した。しかし特に混乱が著しかった南部コースを中心として、日比谷公園で解散したデモ隊の一部は、その中の全学連と左翼系青年団体員に先導され、朝鮮人、日雇い労務者らの市民およそ2,500名がスクラムを組んで日比谷公園正門から出はじめた。警視庁は、会場や行進中には主催者の自主的統制に待つこととしていたが、5,600名の部隊を編成して雑踏警備にあたっていたほか、各署員1万名以上を待機させて即応体制を整えていた。日比谷交差点を通過して無届デモを開始した群衆に対して、まず丸の内警察署長以下60名が制止したが、投石や竹槍・棍棒による攻撃を受け、13名の負傷者を出した。デモ隊は外国人の自動車19台に投石して窓ガラスを次々に破壊しながら北上した。馬場先門においては、第一方面予備隊と三田・東京水上・高輪の3警察署による470名の部隊が警備にあたっていたが、方面予備隊の一部が拳銃および若干の催涙弾を装備していたほかは警棒を携帯しているのみであった。またデモ隊は極めて先鋭的であったことから、周囲の一般通行人への被害も憂慮した方面予備隊長は車道の警戒線を解き、デモ隊は皇居前広場になだれ込んだ。乱入したデモ隊は、二重橋正面で警備にあたる丸の内警察署員および増援の第一方面予備隊2個中隊に対して投石を開始した。祝田町警備巡査派出所ではボックスが押し倒され、警察官は袋叩きにされて拳銃を奪われた。警察部隊は催涙弾を使用して鎮圧にあたり、午後3時頃には暴徒を中央自動車道まで後退させ、にらみ合いの状態となった。しかしこの頃、桜門および祝田橋でも警戒線が突破されたことで暴徒は8,000名に増加した。警察側も逐次に予備隊を配置転換して体制を強化したが、暴徒との攻防は激しく、一部ではやむなく拳銃を使用した。この結果、暴徒が混乱に陥ったことから、警察側は体制を整えて一気に鎮圧を図り、午後3時40分までには暴徒の大部分を広場外に排除した。しかし広場外に排除された暴徒はその後もしつこく攻撃を繰り返し、祝田橋では第一方面予備隊の隊員4名が包囲され、角棒で乱打のうえで凱旋濠に投げ込まれ、更に投石を加えられた。また他の隊員4名も包囲されて同様の暴行を受けそうになり、拳銃の威嚇射撃でやっと難を逃れる状況であった。またこのほかにも、警察官への暴行が相次ぎ、拳銃を奪われる例もあった。午後3時50分頃には、桜門前濠端側に駐車されていた外国人自動車14台を転覆させて火を放ち、炎上させたほか、付近をサイドカーで通行していた交通第一課員を取り囲んで暴行を加え、サイドカーにも放火した。その消火のため出動した消防隊も投石や殴打を受けて13名が負傷、ホースも切り破られた。これらの暴徒も午後4時頃には離散しはじめたが、その後も有楽町巡査派出所が襲撃されたり、また一部は日比谷公園に逃げ込んで投石を続けていた。皇居前広場・日比谷公園が平静を取り戻したのは午後6時過ぎのことであった。これらの騒動の結果、デモ隊側は死者1名、重軽傷者約200名、警察側は負傷者832名を出す流血の惨事となった。当日は警察予備隊の出動も検討されていたが、一般警察力によって収拾されたため、出動を命じられるには至らなかった。 なお、この事件に出動した「予備隊」とは「警視庁予備隊」のことであり、後の機動隊である。警察予備隊のことではない
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 1952年5月12日~25日、大村収容所事件が起こった。法務省は朝鮮人410人を韓国の釜山に強制送還したが、韓国政府は125人については引き取りを拒否し、日本に送り返した。これらの逆送還者は大村収容所に収容された。逆送還者は、韓国政府の逆送還で収容根拠を消失したと主張し、収容所からの即時釈放を要求した。これに在日朝鮮統一民主戦線が同調し、「逆送還者奪還闘争」が繰り広げられた。11月11日午前10時30分、収容者の代表が所長との面談を申し入れたが、当局がこれを拒否したため、午後3時20分になって暴動が発生した。収容所の警備官や大村市警察の警察官は、催涙弾と消防車でこれを阻止し、ようやく鎮圧した  1952年5月13日、広島地裁被疑者奪回事件が起こった。午後2時55分から広島地方裁判所第二号法廷で勾留理由開示を開くことになっていた。対象となった被疑者は、4月30日と5月1日に、国警広島県本部安佐地区署古市町駐在所と民家に、それぞれ火炎瓶を投げつけて放火した容疑で逮捕された朝鮮人4人であった。勾留理由開示は予定通りに開廷されたが、傍聴席には多くの朝鮮人が陣取り、赤旗や北朝鮮旗が掲げられるなど異様な雰囲気での開廷であった。閉廷直前の午後5時20分、傍聴席の朝鮮人約200人が被疑者と傍聴者を分ける柵を乗り越え、被疑者に手錠をかけようとした看守を妨害して、被疑者4人を奪還した。広島地方裁判所の事務室には、万が一の時のために広島市警察の警察官約70人が待機していたが、現場に駆けつけたときには、既に逃走された後だった  1952年5月26日、高田事件が起こった。民団愛知県本部の顧問は、北朝鮮系の在日朝鮮人の脅迫を受け続けてきた。同年3月には自宅を襲撃されたり、殺害予告のビラが貼られたりしていた。午前5時40分頃、北朝鮮系朝鮮人数十人が顧問宅に侵入、ドアやガラスを破壊したりするなどの狼藉を働いた。顧問は何とか逃げ出し、名古屋市警察瑞穂警察署高田派出所に助けを求めてきた。まもなく顧問を追跡してきた一団が高田派出所に押しかけ、備品を破壊したり火炎瓶を投入したりして焼き討ちした。顧問は警察官の誘導で裏口から退避し、道を隔てた高田小学校正門より用務員室に向かったが、追いつかれ暴行により全治10日の傷を負った  1952年5月31日、奈良警察官宅襲撃事件が起こった。25日、桜井町で民団磯城支部書記長が、旧朝連系の在日朝鮮人に襲われる桜井町事件が発生した。国家地方警察奈良県本部は犯人を検挙し、奈良地検に送致した。5月30日、奈良市警察に国警磯城地区警察署から「在日朝鮮人の一団が奈良市に向かっている」との連絡が入った。在日朝鮮人の一団が奈良地検に突入したため、奈良市警は実力で排除した。このことから、旧朝連系は奈良市警に反感を持つようになった。襲撃を受けた奈良市警の警察官宅は、桜井町事件が発生した桜井町に所在していた。5月31日、桜井町の奈良市警警備課巡査部長宅に約10名の在日朝鮮人が覆面姿で押しかけて戸を叩いた。巡査部長の父親が戸を開けたところ、いきなり暴行を加え意識不明の重体にした。そして窓ガラスや障子を破壊して逃走した  1952年5月31日~6月5日、万来町事件が起こった。当時、宇部市には約3100人の在日韓国・朝鮮人が居住しており、大半が生活保護受給者だったが、市当局は彼らが「日中ブラブラしていた」ことから、「潜在収入がある」として、生活保護費増額を見送っていた。朝鮮人側はこれに激昂し、以降、連日宇部市福祉事務所に押しかけ、市職員を吊るし上げた。6月3日になると約400人に達したため、宇部市警察は全職員を動員して対処したが、朝鮮人側はその隙をねらって、留守中の上宇部派出所を襲撃した。6月5日、宇部市万来町において、朝鮮人解放救援会山口県本部が「民主愛国青年同盟」を結成し、当日は県内各地から朝鮮人が多数集結した。うち約70人が午前11時に宇部興産の工場に乱入、守衛を殴打し、電話線を切断するなどの行為をおこなった。続いて民団の団員宅を襲撃した後、引き揚げた。警察は襲撃犯を逮捕するため、午後2時に解放救援会事務所を包囲した。警察は解散を呼びかけたが、朝鮮人側は投石などの手段で抵抗した。午後3時半より警察は実力行使を開始し、午後4時からは催涙ガス弾も導入してようやく鎮圧した  1952年6月10日、島津三条工場事件が起こった。午後4時頃、トラックに乗った祖国防衛隊所属の在日朝鮮人約50人が、京都市中京区にある島津製作所三条工場に押しかけ、守衛の制止を振り切って中に突入、破防法反対のアジ演説を行った。工場側の要請を受けた京都市警察堀川警察署の署員約15人が現場に急行、五十代くらいの朝鮮人が妨害したため、ただちに検挙し京都市警南部警邏隊のパトカーに収容した。すると、付近にいた朝鮮人約100人が騒ぎ出した。パトカーがサイレンを鳴らして発進し、春日通三条にさしかかったとき、多数の朝鮮人が前に立ちふさがり、車内に火炎瓶を投げ込んだ。パトカーはたちまち火の車となり、道を大きくそれて京都市バスの車庫に入り込み、バスに激突した。乗っていた8人の警察官は重軽傷を負った。検挙者も火傷を負ったが逃げおおせることに成功した  1952年6月13日、醒井事件が起こった。滋賀県坂田郡醒井村では、民団系と在日朝鮮統一民主戦線系の在日韓国・朝鮮人間で対立が起きており、10日と6月11日の2日連続で乱闘事件が起きていた。午前5時頃、国家地方警察滋賀県本部坂田地区警察署の警察官は、被疑者逮捕のために現地に向かったが、朝鮮人は事前に察知し、ピケを張るなどして自宅に立て篭った。朝鮮人側が、投石や棍棒を投げつけるなど被疑者の逮捕を妨害したため大乱闘となったが、警察はこれを鎮圧し公務執行妨害罪で48人を逮捕した  1952年7月7日、大須事件が起こった。日本社会党の帆足計と改進党の宮越喜助の両代議士が、ソ連及び中共を訪問して日本国政府の方針に反する「日中民間貿易協定」を結んだ後に帰国し、6日に名古屋駅に到着した。両代議士の歓迎のために約千人の群集が駅前に集合、無届デモを敢行したが、名古屋市警察によって解散させられた。その際に12人が検挙されたが、その中の1人が所持していた文書から、翌日の歓迎集会に火炎瓶を多数持ち込んで、アメリカ軍施設や中警察署を襲撃する計画が発覚した。7日、名古屋市警察は警備体制を強化し、全警察官を待機させた。午後2時頃から、会場の中区大須球場に日本共産党員や在日朝鮮人を主体とする群衆が集まり始め、午後6時40分頃に歓迎集会が挙行された。午後9時50分に集会が終わると、名古屋大学の学生がアジ演説を始め、その煽動によって約千人がスクラムを組みながら球場正門を出て無届デモを始めた。警察の放送車が解散するよう何度も警告したが、デモ隊は放送車に向かって火炎瓶を投げ込み炎上させた。警察は暴徒を鎮圧すべく直ちに現場に直行したが、デモ隊は四方に分散して波状的に警察部隊に対して火炎瓶・投石・竹槍・プラカードで攻撃を行い、路上の一般の乗用車に放火するなど、大須地区は大混乱に陥った。また、大須のデモ隊とは別に、アメリカ軍の駐車場に停めてあった乗用車を燃やしたり、中税務署に火炎瓶を投下する事件も発生している。この事件で、警察官70人、消防士2人、一般人4人が負傷し、デモ隊側は1人が死亡、19人が負傷した。名古屋市警察は捜査を開始、最終的に269人を検挙した。その内、半数以上が在日朝鮮人だった。捜査の結果、この事件は共産党名古屋市委員会が計画し、朝鮮人の組織である祖国防衛隊とも連携しながら実行に移されたことが分かった  1952年11月9日~12日、大村収容所事件が起こった。5月12日、法務省は朝鮮人410人を韓国の釜山に強制送還したが、韓国政府は125人については引き取りを拒否し、日本に送り返した。これらの逆送還者は大村収容所に収容された。逆送還者は、韓国政府の逆送還で収容根拠を消失したと主張し、収容所からの即時釈放を要求した。これに在日朝鮮統一民主戦線が同調し、「逆送還者奪還闘争」が繰り広げられた。11月11日午前10時30分、収容者の代表が所長との面談を申し入れたが、当局がこれを拒否したため、午後3時20分になって暴動が発生した。収容所の警備官や大村市警察の警察官は、催涙弾と消防車でこれを阻止し、ようやく鎮圧した  1952年11月19日~26日、五所川原税務署襲撃事件が起こった。仙台国税局は警察の協力を得て、青森県北津軽郡板柳町周辺の在日朝鮮人が経営する密造酒工場を摘発し、密造酒約100石、酒粕約400貫、その他容器約200点などを押収、酒税法違反として45名を検挙した。また、摘発を妨害したとして、在日朝鮮人7名を公務執行妨害の現行犯で逮捕した。その後、在日朝鮮人は「生活権の保障」と「職の斡旋」を要求し、国警板柳地区警察署と五所川原税務署に連日抗議活動を行った。11月26日には約60名が五所川原税務署に押しかけて署内に乱入し、署を占拠した
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