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#建築雑誌
ayanos-pl · 2 years
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雑誌が届いた。今日はいい日だ。 
「建築知識 2021年12月号」と「建築知識 2022年5月号」(エクスナレッジ)
 図鑑大好きなので買いました。品切れだった2022年5月号も増刷されたので、定価で手に入りますよ。
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lierrelearns · 11 months
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[1]奈良国立博物館 仏教美術資料研究センター Nara National Museum Buddhist Art Library
仏教を中心とする歴史と美術にかかわる学術資料の作成・収集・整理・保管・公開を目的に、昭和55年(1980)に博物館の一部門として設置され、平成元年(1989)より現在の建物にうつりました。
資料公開日: 毎週. 水曜日・金曜日 (国民の祝日・休日、12月26日から翌年1月4日までを除く 開館時間: 午前9時30分〜午後4時30分 (複写受付は午後4時まで) 公開している資料: 図書、雑誌、紀要、報告書、展覧会カタログ、両像資料等 サービス内容: 閲覧、複写、レファレンス
調査研究を目的とする利用者に対して資料を公開しています。利用を希望の方は左側のインターホンを押して係員をお呼び出して下さい (水曜日・金曜日の公開日のみ)。
[2]重要文化財 旧奈良県物産陳列所 昭和58年(1983)1月7日 指定 奈良市登大路町50番地1
この建物は明治35年(1902)に竣工し、同年奈良県物産陳列所として開館したもので、県下の殖産興業と物産の展示販売をおかなう施設として利用された。設計者は、帝国大学工科大学造家学科(東京大学工学部建築学科の前身)出身の建築史学者で、当時奈良県技師として古社寺建造物修理に尽力した関野貞博士(1867-1935)である。 木造桟瓦葺で、小屋組や河辺などに西洋建築の技術とりいれつつ、外観は和風を基調とする。唐破風造車寄を正面につけた入母屋造の中央楼から、東西に切妻造の翼部を延ばし、端には宝形造の楼をおいている。関野は大学在学中より宇治の平等院鳳凰堂を研究しており、屋根の形式や左右対称の優美な外観は鳳凰堂に範をとったものと思われる。また蟇股などのなどの細部には、飛鳥時代から鎌倉時代にかけての伝統的な建築様式を取り入れ、この建物の設計と奈良における古建築研究との密接な関係がうかがえる。その一方で窓にはイスラム風の意匠もみられる。構造・意匠に東西の要素を巧みに取り入れた明治中期を代表する近代和風建築として高く評価されている。 この建物は開館後、奈良県商品陳列所、奈良県商工館と名称を変え、昭和26(1951) に国に移管されて、昭和27年(1952)から55年(1980)まで間のに奈良国立文化財研究所春日野宇舎として利用された。昭和58年(1983)に重要文化財の指定を受け、同年奈良国立博物館が管理するところとなり、現在は当館の仏教美術資料研究センターとして活用されている。 平成23年7月 奈良国立博物館
Vocab 関わる (かかわる) to be concerned with, to have to do with 学術 (がくじゅつ) science, learning, scholarship 作成 (さくせい) making (a report, etc.) 収集 (しゅうしゅう) collection (of art, etc.) 整理 (せいり) sorting, organization 保管 (ほかん) charge, safekeeping, storage 公開 (こうかい) making available to the public, exhibiting 部門 (ぶもん) branch, division 元年 (がんねん) first year 祝日 (しゅくじつ) national holiday 翌年 (よくねん) following year 複写 (ふくしゃ) copying 図書 (としょ) books 紀要 (きよう) bulletin, memoirs 報告書 (ほうこくしょ) (written) report 物産 (ぶっさん)product 陳列 (ちんれつ)exhibition, display 登大路町 (のぼりおおじちょう)Noborioojichou 竣工 (しゅんこう)completion of construction 県下 (けんか)prefectural 殖産興業 (しょくさんこうぎょう)promotion of industry 設計者 (せっけいしゃ)designer 帝国大学 (ていこくだいがく)Imperial University (name of Tokyo University 1886-1897) 工科大学 (こうだいがく)engineering college 建築学 (けんちくがく)architecture 全身 (ぜんしん)previous existence, predecessor organization 出身 (しゅっしん)one’s origin (i.e. school) 史学者 (しがくしゃ)historian 技師 (ぎし)engineer, technician 古社寺 (こしゃじ)old shrines and temples 建造物 (けんぞうぶつ)structure, building 修理 (しゅうり)repair, mending 尽力 (じんりょく)efforts, exertion, services 関野貞 (せきの・ただし)Sekino Tadashi 木造 (もくぞう)wooden 桟瓦 (さんがわら)pantile 葺 (ぶき)roofing 小屋組 (こやぐみ)roof truss, room frame 河辺 (かわべ)riverside, riverbank 取り入れる (とりいれる)to adopt (e.g. an idea), borrow つつ while; even though 外観 (がいかん)exterior appearance 基調 (きちょう)basic theme, underlying tone 唐破風 (からはふ)karahafu, bow-shaped eaves of a gabled roof 車寄 (くるまよせ)carriage porch, entranceway 入母屋造 (いりもやづくり)Irimoya; building with a gabled, hipped roof 楼 (ろう)tower, tall building 切妻造 (きりづまづくり)gabled roof construction 端 (はし)end, tip, edge 宝形造 (ほうぎょうづくり)pyramidal roof 在学 (ざいがく)attending (school), enrolled 宇治 (うじ)Uji (city) 平等院 (びょうどういん)Byodo-in temple 鳳凰堂 (ほうおうどう)Pheonix Hall 左右対称 (さゆうたいしょう)bilateral symmetry 優美 (ゆうび)refinement, grace, elegance 範 (はん)example, model 蟇股 (かえるまた)curved wooden support on top of the main beam of a house (shape looks like a frog with open legs) 細部 (さいぶ)details, particulars 飛鳥時代 (あすかいじだい)Asuka period (550-710) 鎌倉時代 (かまくらじだい)Kamakura period (1185-1333) にかけて till, over (a period), through 建築様式 (けんちくようしき)architectural styles 設計 (せっけい)plan, design, layout における regarding 密接 (みっせつ)close (relationship, connection, etc.) うかがう to guess, infer, surmise 意匠 (いしょう)design 構造 (こうぞう)structure, construction 巧み (たくみ)craftmanship, design 評価 (ひょうか)appreciation, recognition 商工 (しょうこう)commerce and industry 移管 (いかん)transfer of control 国立文化財研究所 (こくりつぶんかざいけんきゅうしょ)National Research Institute of Cultural Properties 春日野 (かすがの)Kasugano 庁舎 (ちょうしゃ)government office building 国立博物館 (こくりつはくぶつかん)national museum 管理 (かんり)control, management
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ryotarox · 3 months
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プレシジョニズム - Wikipedia
プレシジョニズム(英: Precisionism、精密派)とは、1920年代から1930年代にかけて、アメリカに存在した絵画の様式の名称。キュビスム[1]的リアリズム(Cubo-Realism、クボ・リアリズムまたはキューボ・リアリズム)やイマキュラティズム(Immaculatism、清浄派または純潔派)と呼ばれることもある。
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Aucassin and Nicolette, 1921 チャールズ・デムス
精密派の画家には、アメリカ人のアイデンティティを受け入れる者、ヨーロッパからの影響を否定する者などがいた[2]。その作品の特徴は、人工的な風景(主として都市の風景や建築物(工場、倉庫、摩天楼など)、機械)を、キュビスムの影響を受けてやや抽象化しつつも(または、抽象化に適するような題材を選択して)、写実的な筆致で描写するもので、のちの、いわゆる「スーパーリアリズム」の作品へとも接続する。特に、チャールズ・シーラーは、写真作品も制作しており、自分の撮影した写真を手本に、絵画作品を制作することもしばしばあった。このことからもわかるように、プレシジョニズムは、グループf/64の一部に見られるようなタイプのストレートフォトグラフィ(自然風景を撮影したものではなく、人工的な風景を撮影した作品)との近接性を持っている
チャールズ・シーラー(Charles Sheeler; 1883年-1965年)
ジョージ・オールト(George Ault; 1891年-1948年)
ナイルズ・スペンサー(Niles Spencer; 1893年-1952年)
ジョージア・オキーフ(Georgia O'Keeffe; 1887年-1986年)
モートン・シャンバーグ(Morton Livingston Schamberg; 1881年-1918年)
ジョセフ・ステラ(Joseph Stella = Giuseppe Michele Stella; 1877年-1946年 or 1880年-1946年)
チャールズ・デムス(チャールズ・デムース、Charles Demuth; 1883年-1935年)
ラルストン・クローフォード(Ralston Crawford; 1906年-1978年)
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「ニューヨークの風景」チャールズ・シーラー
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ブルックリン橋 ジョセフ・ステラ
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Garage No. 1 スチュアート・デイヴィス
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Untitledジョージア・オキーフ
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Highland Light ジョージ・オールト
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工場地帯の風景プレストン・ディキンソン
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Rue du singe qui pêche  チャールズ・デムス
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Red Chimneys Charles Demuth Works on Paper 1918
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ファイニンガーにちょっと似てる
Precisionism Movement Overview | TheArtStory
(DeepL訳)チャールズ・デムスは、それ以前のキャリアでは、静物画の水彩画家、本の挿絵画家、劇作家、前衛的な雑誌に短い散文を書く作家として優れていたが、「セザンヌ風」の絵画の段階から抜け出して、未来派やドイツ系アメリカ人の表現主義者、リオネル・フェイニンガー Lyonel Feininger から借用した精密主義的な手法で、より緊密に構成された教会や工場などの都市風景を創作するようになった。デムートは穀物倉庫、給水塔、工場の煙突に魅了されたが、工業化を全面的に肯定も否定もしなかった。また、ビルや高速道路沿いの広告看板にも関心を寄せていた。「アメリカは芸術に関心がない」と彼はスティーグリッツに手紙を書いている。「それでも、もし人が本当に芸術家であり、同時にアメリカ人であるならば、たとえそれが人を狂わせるものであったとしても、この無関心であることが芸術の素材となりうる」。
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ari0921 · 11 months
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我が国の未来を見通す(67)
『強靭な国家』を造る(4)
「世界で最初に飢えるのは日本」なのか(その2)
宗像久男(元陸将)
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□はじめに
米国の雑誌「タイム」が岸田首相のインタビューの
特集記事として、「日本を軍国大国に変える」して
いた見出しを「平和主義だった日本を国際舞台でよ
り積極的な役割をもたせようとしている」と変更し
たが、記事そのものは「軍事大国」としたまま変え
ていないとした記事がニュースになっていました。
当然、アメリカも言論の自由が保障されている国な
ので、だれが何を言ってもよいのですが、「タイム」
誌の記者たる者が、この日本を「軍事大国」と呼称
するぐらいの見識しか持ち合わせていないことに愕
然とします。
GDP比2%の防衛費年額約10兆円はようやくN
ATOに肩を並べる水準ですし、アメリカは約85
80億ドル(約114兆円)〔2023年度〕、中
国の約1兆4505億元(約26兆3000億円)
〔2022年度〕には遠く及びません。その上、未
だ憲法にも明記されておらず、反撃能力を保有する
としても「専守防衛」という不可思議な防衛政策を
堅持している我が国です。
この記者は、日本に対する「ビンの蓋」的な発想と
か、「平和主義」の原点である「日本憲法はアメリ
カがつくった」などの思想を保有しているのでしょ
うか。このような時にだけ、「さすがアメリカ」と、
“それが何を意味するかもロクに考えないまま”国
内の同調者がことさらに騒ぎ立てることも問題なの
です。
本当に困ったものですが、個人的には、様々な話題
を世界に発信したい「タイム」誌なれば、もう少し
“賢い記者”を抱えてほしいと願うばかりです。
▼「食料自給なくして独立なし」
前回の続きです。鈴木宣弘氏も引用している言葉で
すが、食料に関してまさに“身につまされる言葉”
を送りましょう。まず「食料を自給できない人たち
は奴隷である」とのキューバの著作家ホセ・マルテ
ィの言葉です。我が国でも、明治時代、高村光太郎
が残した言葉として「食うものだけは自給したい。
個人でも、国家でも、これなくして真の独立はない」
との有名な言葉もあります。
鈴木氏は、「日本に独立を名乗る資格があるのか」
として、現政権などの政策に「食料自給率」の言及
がないことを取り上げ、「日本には『食料安全保障』
が存在しない」とも指摘します。
ゴールデンウイークを利用して、『安倍晋三回想録』
を読破し、改めて諸所に感銘を受けましたが、農業
政策に関する記述はほとんどありませんでした。安
倍元総理は、財務省とはかなり喧々諤々の議論を重
ねたようですが、「経産省政権」と揶揄する向きも
あるように、経産省主導の政策が多かったことは事
実でした。鈴木氏は、「かつては農家が自民党の票
田だったが、農家が減ったことで票田の価値が下が
ってしまったことなどが積み重なって、農政全体に
『ゆがみ』が生じてしまった」と指摘します。調べ
てみると我が国の戦後の農業政策についても意外な
事実があることがわかりました。その概要を紹介し
ておきましょう。
▼我が国の自給率低下と農業離れの要因
 
私たちは一般に「日本は島国で国土が狭いために農
地面積も限られている。よって、食料の自給率は低
くて当然である」という考えを持っていますが、長
い歴史を振り返ると、我が国は、(現在より人口が
少なかったとは事実ですが)、伝統的に食料自給率
100%を維持してきました。
だからこそ、江戸時代は鎖国政策を採用できました
し、外国から資源の輸出入ができないような情勢下
にあっても、様々な工夫で再生可能な植物資源を活
用する独自の「循環型社会」を築き上げてきたとい
う歴史があります。
戦後の歴史を紐解くと、意外にも我が国の食料自給
率が下がった原因は、「貿易の自由化」と「食生活
改善政策」にあったことがわかります。もっと具体
的にいえば、自動車などの関税撤廃を勝ち取るため
に農産物の関税引き下げと輸入枠の拡大を認めたの
でした。そこに、アメリカやヨーロッパが自国の農
家に補助金をジャブジャブ出してダンピングを仕掛
けてきたため、日本の農家は壊滅的打撃を受けてし
まったのです。
特にアメリカは、当時、小麦の生産過剰が問題にな
っていましたので、日本人の食生活を無理やり変え
させてまで、我が国をアメリカの農産物、特に“小
麦の一大消費地”に仕立て上げようとしました。
様々な宣伝・情報工作の中で、当時、影響が大きか
ったのが1958年に出版された『頭脳─才能を引
き出す処方箋』(慶応大学名誉教授・林たかし著)
でした。本書には「米食国民は一歩遅れる」として
「米を食うとバカになる」「日本人が欧米人に劣っ
ているのは、主食の米が原因である」などの主張が
掲載されていました。本書はまた、発売3年で50
刷を超える大ベストセラーになり、その影響は計り
知れないものがありました(ちなみに、本書は現在、
アマゾンの中古本として、最低価格が4758円、
中には1万円を超える価格で売られているものもあ
ります)。
当然ながら、この主張は科学的根拠が全くない「暴
論」のようですが、慶大名誉教授の肩書も手助け
し、当時は“正しい学説”としてまかり通りました。
これが「洋食推進運動」に発展して、「日本人の食
生活近代化」のスローガンの��と、和食を「排斥」
する運動まで拡大しました。この結果、本来、洋食
に反対するはずの農家の人々まで洗脳され、欧米型
食生活を崇拝するようになりますが、「これほど短
期間で伝統的な食文化を捨てた民族は世界史上もほ
とんど例がない」と鈴木氏は指摘します。
この背景には、「日本農業を米国農業と競争不能に
して余剰農産物を買わせる」というアメリカの「し
たたかな食料戦略」があったことは疑いなく、19
73年、当時のバッツ農務長官が「日本を脅迫する
のなら、食料輸出を止めればよい」と豪語したとの
記録も残っています。
終戦後の占領時代の初期、「日本が二度と武器を持
って米国に立ち向かうことができない国にする」と
のトルーマン大統領の「降伏後における米国の初期
の対日方針」が発出され、マッカーサーの占領政策
の方針になります。1970年代と言えば、日本が
オイルショックから一早く立ち直り、ホンダやトヨ
タがアメリカ進出を果たした頃でしたが、その報復
というべきか、1970代あたりでも、トルーマン
大統領の「対日方針」がくすぶったままとはいえ、
まだ生きていたのでした。冒頭の「タイム」記事を
読むと今でも一部に残っていると感じざるを得ませ
ん。
▼その結果が「減反政策」や「酪農」を危機に
伝統的に、米を主食としてきた日本人にとって米の
安定供給は大きな課題でした。特に、戦後の“食糧
難”を経験した日本は、「米の生産量引き上げが国
全体の問題である」といっても過言でない時代があ
りました。
��して、この問題を解決するため、戦後まもなく過
ぎた頃、肥料や農業用機械の導入が進むなど技術革
新が起こり、米の生産量を大きく引き上げることに
成功し、米が名実ともに家庭の主食になりました。
個人的な体験で言えば、小学校の低学年の頃まで、
近所の農家はみな、農作用の馬を飼育していました。
兄が耕運機を購入して我が家から馬がいなくなった
のは小学校4年生の頃、つまり昭和36年だったと
記憶しています。その後の農作業の風景が様変わり
し、我が家も近くの畑や牧草地などを改良して田ん
ぼの面積を大幅に拡大するとともに、兄は、精米に
加工するためのライスプラントを建設し、近所の米
の精米を支援していました。
そのような折、前述の「洋食推進運動」が広がり、
「主食=米」の常識が徐々に崩れ出し、日本人の食
卓の欧米化が進行し、「米離れ」が加速しました。
この結果、米が生産過剰になり、生産量を調整する
ために、政府は「減反政策」を導入しました(昭和
44〔1969〕年に試験的に開始、1971年本
格導入)。これに対して、農家は当初は激しく反発
しますが、政府は、米農家の転作を支援するために
補助金を支払うことで農家を納得させ、事後「減反
政策」は約50年間続けられ、平成28(2018)
年、ようやく終わりを迎えます。
2018年に終了した理由は、高く販売できるブラ
ンド米を耕作する農家が増えて、業務用の米が不足
するようになったのが原因の一つと言われています。
食料増産を目的として米生産は、終戦時の900万
トンから20年後の1967年に1400万トン超
まで拡大しますが、「減反政策」以降の50年間で
半減し、最近は700万トンを切ってしまいました。
つまり、餓死者が出た終戦時より人口が1.7倍に
増えているのに、米生産は当時よりも少なくなって
しまったのです。
1960年以降、中国もアメリカもインドも、米の
生産を3倍以上に増やしていますし、世界全体では3.
5倍に増加している中で、日本のように、米が主食
にもかかわらず、米の生産を減少させている国は極
めて稀でした。
▼“米離れ”が招いたもの
 
2011年の総務省「家計調査」の結果、日本の一
般家庭におけるパンの消費額が米を上回ったと話題
になりました。1世帯(2人以上世帯、農林漁家世
帯除く)あたりの米に対する年間支出額2万742
8円に対し、パンは2万8318円と逆転したので
した。これは昭和21年(1948年)に始まる
「家計調査」史上、初めてのことだったようです。
現に、我が国の小麦の2016~20年(5年間)
の平均流通量は、国産82万トン(14%)のみで、
488万トン(86%)が輸入、その内訳は、アメ
リカ(49.8%)、カナダ(33.4%)、オー
ストラリア(16.8%)で、この3カ国でほとんど
を占めています。
ここでとても興味深い事実に気がつき、私自身は唖
然としました。ほとんどのパンやめん類には「小麦
粉(国内製造)」と書いてあります。実は、外国産
小麦を“国内で製粉した小麦粉”だからこのような
表記になっているのだそうです。
小麦の需給と価格の安定を図るために、政府が外国
産小麦の輸入と売り渡しを行なっており、製粉会社
は国が決めた“売り渡し価格”で小麦を購入して小
麦製品を作っています。小麦や小麦加工品(小麦粉
など)を輸入すると最大で1kgあたり158円の
関税がかかりますが、国が輸入する小麦には関税は
かかりません。
小麦粉は食品スーパーなどで、1kg100円ほど
で特売されていることもありますが、わざわざ高い
関税を払って小麦や小麦粉を輸入する人はいないの
で、外国産小麦から製造された小麦粉は“国内製
造”なのだそうです。
 
さて、米農家が「減反政策」で向かった先は様々で
した。その1つとして、「酪農」について取り上げ
ておきましょう。
我が国が「酪農」に力を入れたのは、我が国がGA
TT(関税及び貿易に関する一般協定)に加盟した
1955年以降でした。つまり、貿易・資本の自由
化が進められて、日本経済の開放体制のなかで、日
本農業の零細性の克服や生産性向上が求められたこ
とが始まりでした。
それを受けて、1961年、政府は「農業基本法」
を制定し、新しい農業と農業政策の方向を示し まし
たが、 経済成長に伴う所得上昇によって牛乳・ 乳
製品の消費量増大が予想されたため,「酪農」は
「農業基本法」の“選択的拡大”部門として位置づ
けられました。
そして、酪農支援策(低利融資、補助金、技術普及
等)の結果、1960年代から70年代、「減反政
策」で米作を諦めた農家が酪農に転向したこともあ
って、酪農農家は飛躍的に増加します。しかし、そ
の形態は、大半が水田の裏作や転作で飼料作物を生
産する 「水田酪農」と呼称される稲作と酪農の複合
経営に留まったという一面もありました。
一方、日本の酪農は、国内の飼料基盤が不十分 なま
ま輸入飼料に依存して急速に発達した ところに大き
な特徴があり、1970年には49.3%であった
飼料自給率は低下の一途をたどり、2007年には
32.8%まで低下します。
時を同じくして、人口増加に伴い、乳製品の消費量
も増加しますが、折からの乳製品 の輸入自由化、関
税率低下、円高もあって乳製品の輸入量も増加しま
す。事実、牛 乳・乳製品の自給率は,1960年で
は89%であ ったものが90年には78%に低下し,
2007年には66%まで低下します。また、飲用
乳の消費量も1994年をピー クに減少に転じます。
その後も、継続的な減少局面に転じ、現在に至って
います。
これらを背景に、酪農農家、特に経営規模が小規模
の「水田酪農」は減少に転じ、1970年代に、3
0.7万戸もあった酪農家は2022には1万33
00戸にまで減少してしまいます。こうして、酪農
と水田農業の結びつきが弱まった とはいうものの、
酪農家の5 割が米を生産しているといわれます。
残った酪農家も最近はコロナ禍やウクライナ戦争の
影響で生産資材価格が上昇し、特に200頭以上の
牛を飼育する大規模経営が赤字に陥っており、この
ままでは赤字がさらに膨らみ、連鎖的に酪農家が倒
産する可能性もあるといわれ、現に北海道ではかな
りのハイペースで倒産が相次いでいるようです。
コロナ禍などの理由以外に、北海道の酪農家は、輸
入している脱脂粉乳を国産に置き換えるための差額
として乳代1キログラムあたり2円以上の負担金が
課せられているようで、酪農家に重くのしかかって
いるのが実態です。
政府が主導した「畜産クラスター事業」(畜産の収
益向上のために、畜産農家を核として地域の関係事
業者が連携・結集していく体制をいい、これによっ
て、補助金として機械や設備導入時に本体価格の2
分の1の国庫補助を受けられる)の結果、全国的に
牛乳余りが生じ、酪農家は経営危機に直面している
一方で、海外からの乳製品輸入は据え置き、酪農家
には「乳製品が過剰だから、生乳をしぼるな、牛を
処分しろ」という矛盾しているではないかと疑問も
沸き上がり、「人災としての危機」と批判されてい
ます。
子牛も値下がりし、生後1カ月の雄子牛がだいたい
1万円ほどでコロナ前の10分の1に下がっている
ようです。餌代にもならない価格に、一斉に酪農家
がいなくなるとの危機感も叫ばれています。
ふたたび、個人的な経験ですが、「減反政策」で米
の生産を諦めた兄は、「水田酪農」に転じますが、
今度は「乳余りのあおり」を受けて、多額の借金を
抱えたまま酪農を諦め、その後、和牛の飼育に転じ
ます。その和牛飼育も12年前の福島原発事故の影
響で再びあきらめざるを得なくなりました。多��な
借金を息子の代(私の甥)になって完全返済したの
はようやく昨年でした。
第2編でも紹介しましたが、「政治家と農林省の官
僚(の愚策)によって、50年前に農業を奪われた」
と今なお、事あるごとに口癖のように語る兄ですが、
実際にこのような被害を受けたのは決して我が家の
みではなさそうです。次回、「日本の農業は過保護
なのか」について、諸外国と比較して“見える化”
してみましょう。意外な事実に気がつくことでしょ
う。
(つづく)
(むなかた・ひさお)
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kijitora3 · 1 year
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慶應アメフト部のバカさ加減には呆れる
しかし、この記事書いた奴がアメフト競技そのものに対するイメージ云々と言ってるのは慶應アメフトで飲酒した奴以上にバカすぎる
元プロ野球選手やラグビー部による強姦事件とか他のスポーツ選手による犯罪行為はこれまで多々あったが、それで野球やラグビーそのものに対する否定的見方が出たか?
犯罪者がもと野球部でも、野球が犯罪の原因か!!とは絶対に言わないがアニメファンだとアニメが犯罪の原因になった疑いは否定できないとか言って騒ぎ立てる、あの無知さがここにも出ている
関西では、関学、京大が中心になってアメフト文化を築き上げてきた 甲子園ボウルは東西大学王座決定戦ではあるが、関西のアメフトファンにとってはおまけみたいな感覚だった 究極のスポーツとして、その面白さを啓蒙し、それに伴い本場アメリカ風のトレーニング理論を研究し合理的なトレーニングを導入して昭和的体育会的な封建制度スポーツを排除し、スポーツ文化の健全化にもなっていた
帝京大ラグビーの集団レイプ事件、日大アメフト部の殺人タックル事件、同志社大アメフト部のレイプ事件と、最近のバカどもの事件のせいで、日本のアメフト草創期から苦労して築き上げられた全てを簡単に否定されるのは、我慢ならん
まあ、雑誌のライターにまともな認識求める方が高望みだとはわかっているが
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kennak · 10 months
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深夜にすまん。先日ついに警察を呼んで問題客に対応してもらった。だが困ったことになってしまい、どうしようもない。私がやっているSNSでは相談できないし、かといってツテもない。増田はSNSではないけど、過去に相談して解決したことがあるので今回もお願いしたい。私の立場としては、関東地方の田舎でコンビニをやっている。先祖代々コンビニを経営している。経営者としては若輩だ。精神が参ってる状態なので文の調子はよくない。変な箇所があれば容赦なく指摘がほしい。半年ほど前だった。ある大学生の女子アルバイトが店を辞めた。その後も一人辞めた。不自然なタイミングだと思った。学生の場合、普通は年度替わりか資格研修に参加する直前に辞めたり休止したりするものだ。今年に入って事情がわかった。私の代になってすぐに働いてくれている姉妹がいるのだが、妹の方が辞めたいと言ってきた。事情を聴くと、「男の人がカウンターで話しかけてくる」らしい。どうやら姉の方も同じ事情のようだった。こんな感じのことを言われたようだ。・「こんにちは」「こんばんは」などの挨拶・髪の感じが変わったね、など外見をほめる・今日は暑かったね、寒かったね・こないだ、そこのイオンに居なかった?これはアウトの案件だった。妹の方には、正式に辞めるんじゃなくて休止という形を取ってもらうことにした。姉の方も言われているようだが、この子とはオーナーの代替わりの時から二人三脚でやってきたつもりだ。経営状況が悪化を続けている時でも相談に乗ってもらったし、アルバイトの人間関係もいろいろ取りもってくれたし、一緒に何度もご飯に行ったことがある。その子(姉)には、「苦しいかもしれないが、まだ続けてほしい」と強く説得した。聞いたところ、私も接客したことのある男だという。まずは、そいつが来る可能性がある夕方から夜にかけてシフトに入り、様子を探ることにした。一月経った頃に見ることができた。ツナギ~作業服の男で、土木か建築の仕事のようだった。記憶にある人間だった。ここ以外でも見たことがある気がした。同じ組内(※近所ぐらいの意味で取ってほしい)かもしれない。服に汚れはなくて、身綺麗だった。見た目は私のいくつか下に思えた。35くらいと推察したが、マスクを付けているから確証はない。レジを受けた印象だと、①体格はそれなり、②自信がありそうな雰囲気・悪くいうとイキッている、③言葉遣いは丁寧、といったところだった。そこまで問題がありそうには見えない。まだ普通の範疇だ。印象はすぐに覆った。ほかの女性店員にも聞いていったところ、けっこうみんな話しかけられていた。高校生も、大学生も、社会人も、旦那さんがいるパートさんも。年齢は関係なかった。中には「いい人だと思います」という人もいれば、「ちょっと怖いです」という人もいた。私の結論は決まっていた。夜シフトの店員に指示を出して、彼が来店したら警察に通報することにした。事前に警察には相談してあって、「事情はわかりました。罪に問えるかはわかりませんが、店に滞在しそうなら通報してください」と指導を受けていた。先月、そいつが店に来た際、漫画雑誌の立ち読みを始めたらしい。アルバイト店員からその連絡を受けて、警察を呼びつつ家を出て店に向かった。駐車場にはパトカーが停まっていた。車内を眺めると、そいつがいた。いつもと同じ、ツナギか作業服かなんともいえない格好だった。店に入ると、通報した男子アルバイトが不安そうな顔をしていて、先ほどの姉の方がレジ付近のATMのところで縮こまっていた。やがて、パトカーから降りてきたそいつと、警察官2人が店に入ってきた。憶えている限りで、やり取りをかく。私「どうなりましたか」巡「事実は認めました。ただ、今回は法令にかかるほどではないかと。様子見にしてください」私「罪に問うほどではないと」巡「はい。ですね。では店長さん。彼にどういう処置を���れるか直接説明を」(そいつがこっちに来る。意外と圧があって緊張した)私「すいませんが、こういうことになってるので、今後のご利用は遠慮いただきたいということで」そ「わかりました。そうします。ただ、今回こういうことがあったんなら、事前に話をしてもらいたかった。いきなり行政ではなくて、店員に話しかけるのが迷惑なら、まずは言ってほしかった。お互い近所なんですから」私「はい……では、今後はご利用はなしでお願いします」そ「わかりました」巡「また来るようでしたら通報してください」話が終わって、そいつと警察官が外に出てちょっと話していて、そのまま解散した。姉の方は、店の奥にある休憩室に引いていた。涙目になっていた。「もう大丈夫だぞ」と言ったけど、怖かったのか反応はなかった。「もうあの人来ないんですか」と言っていた。ハンカチで涙を拭いてやろうとすると、手をぶつけてきて振り払った。こんなことは滅多にないから、気が動転してるんだろうと思い、それで姉のシフトは終わりにした。それから、地獄は言い過ぎとしても苦しい状況になった。2つある。ひとつめに、グーグルマップのクチコミに悪い評価が付いたことだ。元々2~3の評価だったが、それのせいでさらに下がった。内容は、どう見ても先の事情を知ってるとしか思えない人間が、部外者のふりをして書いたものだと思われる。たぶん、あいつが書いたのだ。許せない。それでまた警察に行った。刑法230条に名誉棄損罪があるのを調べていた。それで裁いてもらおうと考えていた。だが、担当した警察官は、「告訴はできないですね」と言う。なぜかと問うと、「慣例上、この程度では表現の自由の範囲内とみなされます。刑法には、憲法とのバランスというのがありますから」という答えだった。ほかにもいろいろ言われたが覚えていない。それでも告訴したいと言ったが、断られてしまった。帰ってネットで調べたところ、刑法上の名誉棄損罪や侮辱罪は一定のレベルでないと成立しないらしい。刑法にも相場があるということか。飯塚幸三とか、木村花さんとか、春風ちゃんとか、ああいうレベルでないと受け付けてもらえないようだ。弁護士に頼んだら何とかなるのかもしれないが、我が家にそんなお金はない。ふたつめが、町内での評判だ。特に組内の中での評判が悪くなったようで、秋に神社である豊作祭の実行委員会とか、組の寄り合いとか、こども会とか、そういう会合に出す弁当の注文がほぼなくなった。これも、おそらくあいつがやったのだ。あいつが店の悪い噂を流して私の店の営業を妨害している。そうでないと、あまりに説明がつかない。あれから約二ヵ月。店の売り上げも徐々に落ちてる気がする。あと数か月も経てばわかるだろうが、それまで待てない。私の代で潰したくない。せっかくアルバイトやパートの子たちも育ってきたのに。手を尽くしたが、道が開ける気がしない。お願いだから知恵を貸してくれないか。このまま経営の危機を迎えたくない。頼むよ。お願いします。
コンビニをやってるんだが助けてほしい
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momonga3376 · 1 year
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自然を残すために都市計画で永久的に保護された保存森の自然環境の中での、クラフトワーク一級建築士事務所のこだわりの設計の家で、住宅雑誌にも掲載された住宅ですが、移転のため、現在リニューアル販売中です。 相模原の森の家 リニューアル販売中          
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lvdbbooks · 11 months
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2023年6月2日
【新入荷・新本】
Apartamento Issue #31 Spring / Summer 2023, Apartamento, 2023
Softcover. 170 x 240 mm. Color, black and white.
価格:3,850円(税込)
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スペイン発、2008年に創刊した年二回刊行のインテリア雑誌『Apartamento』。第31号の表紙を飾るのは、デンマーク人アーティストであるタル・アール(Tal R)の作品。アールのパートナーでありデンマーク人作家、アーティストのエマ・ローゼンツヴァイク(Emma Rosenzweig)と共に、本誌の編集車であるロビー・ホワイトヘッド(Robbie Whitehead)がインタビューを敢行、掲載した特別な一冊となっている。
毎号異なるデザインで彩られる本誌背表紙の絵柄が、今回は2種類のバリエーションで制作。イタリア人アーティストのルチア・ディ・ルチアーノ(Lucia Di Luciano)とジョヴァンニ・ピッツォ(Giovanni Pizzo)がアートワークを手がける。
今号では、2022年に「ハッセルブラッド国際写真賞(Hasselblad Award)」を受賞したインド人写真家であるダヤニータ・シン(Dayanita Singh)を特集、インド西海岸のゴア州に建つ美しい邸宅を訪れる。モロッコ人映像作家のアブデラ・タイア(Abdellah Taïa)に1日かけてパリで行ったインタビューを収録するほか、ロンドンを拠点とするブランド「キコ・コスタディノフ(Kiko Kostadinov)」のデザイナーである双子のローラ・ファニング(Laura Fanning) とディアナ・ファニング(Deanna Fanning)、アメリカ人ディレクター、ビデオグラファー、とりわけスケートフィルムの先駆者として活躍するウィリアム・ストローベック(William Strobeck)、アメリカ人彫刻家のアレクサンダー・カルダー(Alexander Calder)、セネガル人彫刻家のセーニ・アワー・カマラ(Seyni Awa Camara)に関する記事を掲載。
他にも、ポルトガル人映画監督のペドロ・コスタ(Pedro Costa)、アメリカ人アーティストでありフォトグラファーのポール・ムパギ・セプヤ(Paul Mpagi Sepuya)、アメリカ人デザイナーであり彫刻家のミーシャ・カーン(Misha Kahn)、アーティストであるロバート・バーバー(Robert Barber)、 建築家・プロダクトデザイナーから写真の道へと転向したオランダ人フォトグラファーのバス・プリンセン(Bas Princen)、インド系イギリス人ファッションデザイナーのスプリヤ・レーレ(Supriya Lele)を特集。
また、モロッコ人作家であるアブデラ・タイア(Abdellah Taïa)による短編作品「The Goodbyes」、インドを拠点とする建築家でありデザイナーのクシュヌ・フーフ(Khushnu Hoof)、アーティストのオスカー・ペリー(Oscar Perry)、スペイン人作家のレイラ・ベニテス・ジェームス(Layla Benitez-James)、ジャマイカ人作家のダイアナ・マコーレー(Diana McCaulay)、ベルリンを拠点に活動する作家・美術批評家のエステル・ホイ(Estelle Hoy)、イギリスを拠点に活動する作家のジョン・ダグラス・ミラー(John Douglas Millar)による文章を収録する。
(twelvebooksによる本書紹介文)
Apartamento is widely recognised as today’s most influential, inspiring, and honest interiors magazine. International, well designed, simply written, and tastefully curated since 2008, it is an indispensable resource for individuals who are passionate about the way they live. The publication is published biannually from its headquarters in Barcelona.
Featuring: Tal R & Emma Rosenzweig, Pedro Costa, Dayanita Singh, Alexander Calder, Paul Mpagi Sepuya, Laura & Deanna Fanning, Misha Kahn, Abdellah Taïa, Lucia Di Luciano & Giovanni Pizzo, Robert Barber, Bas Princen, Seyni Awa Camara, Supriya Lele, and William Strobeck. Plus: ‘The Goodbyes’, a short story by Abdellah Taïa, and texts by Khushnu Hoof, Oscar Perry, Layla Benitez-James, Diana McCaulay, Estelle Hoy, and John Douglas Millar
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2023年2月11日朝6:30、コーク市内のフラットを出る。約2時間半、電車を乗り継ぎ、キルデア州キルデア(Kildare, Country Kildare)を目指す。
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朝8時17分、乗り換えのサーリス(Thurles)駅プラットフォーム。日照時間がまだまだ短く、朝8時過ぎでも明け方の気配が残る
雨上がりの生臭い都市のにおいと、町外れから風にのって運ばれてくる野原のわずかなにおいが混ざりあって、日の出前の暗闇がつつむ冷たい空気に溶けている。
サマータイムのはじまりまで残り一ヶ月半、日中の陽が短く、曇天と雨の日ばかりが続くアイルランドの冬の厳しさは、南米や南ヨーロッパ出身の友人たちのメンタルを目に見えて明らかにすり減らしていた。
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霜が降りたフィッツジェラルドズパーク(Fitzgerald's Park, Cork)、リー川(River Lee)沿いのキンポウゲの葉
「あなたは日本でも北の方の出身だから、こういう冬の気候に慣れているんでしょ?」と、げっそりした表情の移民の友人たちが訊ねてくるたびに「アイルランドにおける英語の『冬』と、日本語の『冬』は、その言葉に含まれているバックグラウンドが違う、このふたつは完全に違う季節だと思う」と答えた。
彼らが「冬」と呼ぶ、11月初旬から3月後半あたりまで、わたしたちのイメージする冬らしい冬の日もあるにはあったけれど、それはせいぜい1ヶ月半くらい。あとのおおよそ4ヶ月間は、気温一桁台から二桁台前半あたりをうろうろする。メキシコ湾からアイルランドとイギリスに届く暖流の影響で、振り続ける雨は雪になること無く、その影響で湿度が下がらない。体感は寒いのに、大気は霧と湿度に包まれてなんとなくじめじめしている。
要するに、冬の厳しさの質が全く違う。
東北の冬が、雪という抗いようのない大きな重量を持った物体に対して、歯を食いしばりぐっと耐え忍ぶようなイメージなら、アイルランドの冬は、浴室に生えるカビのように毎日少しずつ心の中のしんどさの領土を広げていく。
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コーク郊外、冬はよく町が霧に包まれる
春が来る。
2月1日はケルトの暦の春分の日、ゲール語でインボルク(Imbolc)。
暦の上での春と、体感としての春におおよそ1ヶ月の時間が空くこと、そしてその到来がそこに住む人々にとって他の季節のどれよりも特別であることは東北と同じだ。
前回記事のハグ・オブ・ベアラ(Hag of Beara)についての文献を調べていたときに何度も目にしたブリジッド(Brigid)の名前は、ケルト神話に登場する存在だった。
なので当然、2月1日の聖ブリジッドの日(St. Brigid’s Day)の日や、その名前を冠して2023年から公式にアイルランドの祝日になった2月の第一月曜日も、それに関連する日だと思い込んでいたがどうやら違うらしかった。
聖ブリジッド(St. Brigid)は現在の北アイルランドとの国境近く、ラウス州フォアハート(Faughart, Country Louth)に生まれ、5世紀から6世紀にかけて実在していたとされるアイルランド人の修道女だ。
幼い頃から貧しい人々に施しを与え、アイルランドの守護聖人である聖パトリックによって洗礼を受けたあと、各地で教会や修道院、アートスクールまで設立したと言われている。
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1902年から続く雑誌 Ireland’s Own の表紙の聖ブリジッド、手には彼女の信仰の象徴の十字架の藁細工
彼女に関して興味深い点がふたつある。
ひとつは、彼女が実在したことを確実に証明できる文献が残っていないこと。
そしてふたつめは、前述の通り全く同じ名前のケルト神話の女神が存在することだ。
日本に五穀豊穣や学業成就を祈るためのモチーフとしての神々があるように、キリスト教圏の聖人にもその多くに守護の対象がある。聖ブリジッドの守護対象は家畜、詩、歌、鍛��、病気からの回復な��、周知されているものだけでも非常に手広い。
そしてそれらの守護は、女神ブリジッドの守護するものと同じだ。
普遍的な祈りである「病気からの回復」は、アイルランドにおいて井戸や湧き水と関連付けられることが多い。古くはドルイドの信仰の対象であり、地下から湧き上がる水は癒しや命の源とみなされ、アイルランド国内に約3000ある「聖なる井戸」の内の少なくとも10の井戸がブリジッドと紐付いて周知されている。
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聖ブリジッドの泉の井戸、井戸の水自体は正直あまり綺麗な水質には見えなかった
彼女が修道院と教会を建てたあとそこに没したとされる町、キルデアの町外れには、それらを巡礼する人々のために用意された聖ブリジッドの泉(St Brigids Garden Well)がある。
もともとの小川の曲線に沿って整備されたと思われるその小さな公園には、聖キルデアの銅像が経ち、彼女に対する崇拝の象徴であるイグサや藁で編まれた十字架のモチーフが散見される。
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聖ブリジッド像、聖ブリジッドの日から5日後だったこともあり供えてあった花はすべて瑞々しい
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外壁に刻まれた聖ブリジッドの十字架(St.Brigid’s Crosses)モチーフの彫刻。2月1日にこの十字架を玄関に飾るとブリジッドの守護が受けられるという信仰がアイルランドにおいて広く分布する
その周囲や周りの木々、公園の奥に位置する井戸の近辺には多くの供え物が並ぶ。供え物の多くは治癒を望む体のパーツにまつわるものであるらしく、パンデミック後ということもあってかマスク(文脈を知らず一見すると捨てられたマスクのゴミに見える)が目立った。
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ストッキング、マスク、靴紐、靴下、スカーフ、ネックレス、供え物は様々。木から供物が落ちると祈った箇所が加護を受け、病気や外傷が治癒すると信じられている
町外れに位置するにも関わらず、絶えず入れ替わり数名の人が訪れる。
録音レコーダーをまわしながら、来訪者が途切れたタイミングで公園の全景を眺める。澄んだ小川が風を運び、もとの地形にも配慮されデザインされたと思われる、心地の良い公園である。にも関わらず、なんだか妙な感じがした。
公園の奥にある井戸と、入り口付近を流れる小川が繋がっていないのだ。地下で繋がっているのかもしれないと思い小川の上流を視線でたどっても、井戸とは90度逆の方向だ。上流は茂みの奥へと続き、その先は見えなかった。
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公園全景。撮影地点の背後に井戸がある。小川は写真左奥の茂みの方から水が流れて来ている
録音を終えると、キルデアの中心部に向かう。
中心部といっても、人口9000人に満たない小さな町だ。もとは数えられるほどのパブとカフェ、そして聖ブリジッドが設立したといわれる中規模の教会がある比較的静かな町だったが、2007年にオープンした大型アウトレットモールには隣県である首都ダブリンからも大型バスが乗り入れる。
土曜日の昼下がりに町を歩くほとんどの人が、有名ブランドのショップバッグを持ち、駅の方角へと歩いていく。
中心部にやって来たのは聖ブリジッド大聖堂(St Brigid’s Cathedral)に行くためだった。だが、この日に限ってメンテナンスのために敷地全体が閉鎖されていた。
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聖ブリジッド大聖堂、閉じられたメインエントランスのフェンスに手をつっこんで撮った写真……
アイリッシュ・ナショナル・スタッド&ガーデンズ(Irish National Stud & Gardens)に向かった。
時間が余ったらついでに行けたらいいかな、と思っていた場所だ。
競走馬の繁殖とトレーニングの場として20世紀初頭に設立され、今では市民に親しまれる広域公園としても機能するこの場所には日本庭園がある。
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1906年、ロンドンで日本趣味の骨董品店を経営し、自身も骨董商だった Tassa Eida (日本名: 飯田三郎)は、日本庭園をつくるためにキルデアに派遣され、その後の4年間を彼の息子 Minoru と共に造園に従事する。
(彼らの詳細については こちら と こちら の記事が詳しい、どちらも素晴らしくリサーチされたポスト)
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手入れの行き届いた枯山水
19世紀後半から20世紀初頭にかけてジャポニズム、つまり「日本っぽいもの」がヨーロッパで流行ると、貴族たちはこぞって「日本っぽい建築」や「日本っぽい庭園」を作りたがった。
ただし、やはりそれは「日本っぽいもの」の域を出ないものが多く、日本で生まれ育った人間が見ると、形容し難い、ちょっとした居心地の悪さのようなものを覚えるようなものが多い。
そういう類のものだろうとあまり期待せずに訪れると、良い意味でその期待を裏切られる。
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庭園の動線、ちょうどまんなかあたりにある洞窟?からの景色。右にあるのは藤棚で春にはきれいに藤の花が咲くらしい
清らかな水が美しい動線で引かれ、人が生まれてから死ぬまでを表現したその庭園は、当時イギリスで流行したエドワード様式建築の影響を受けて少しだけ華美ではあるものの、正真正銘の日本庭園だった。
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庭園の石灯籠によじ登っていた鬼。庭園にある多くの植物やオブジェクトが日本から輸入したものだが、たまにこういう西のものとも東のものとも分からないモチーフも見かけて興味深かった
町の中心部に戻ると、帰路の電車の出発まで1時間弱の時間があった。
少し散策したあと、聖ブリジッド大聖堂に戻ってくる。
地域の人だけが使う入り口とかあってそこから入れたりしないかな……などと不届きなことを考えて外壁の周りをうろついたが、それらしきものは見つからなかった。
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入り口を探っているときに外壁から見えたラウンドタワー、実際に登れるものとしてはアイルランド国内でいちばん高いらしい
しかたなくキルデア駅に向かう。
プラットフォームの椅子に座って電車を待っていると知らない女性に、どこから来たのか、と声をかけられた。
薄暗いプラットフォームで目をこらすと、大聖堂に戻る前に一瞬だけ立ち寄った、メインストリートから少し外れた場所にあった雑貨屋の店員だった。
日本から来たこと、リサーチに関すること、井戸とスタッドガーデンの方には行って、教会にどうにか入れないか模索したが結局入れなかったことを拙い英語で説明する。
すると「どっちの井戸に行ったの?」と訊ねられた。
聞き間違いかと思い、どういう意味ですか?と返すと、彼女が説明してくれた内容はこうだった。
ブリジッドの井戸はふたつあって、ひとつはおそらくあなたが行った聖ブリジッドの泉、 聖人の方のブリジッドを祀ってるところ。地元民にとってはずっと特別な場所だったけど、パンデミック中にきれいに整備されて、観光客が来たり滞在したりが以前よりも更に容易になった。
もうひとつあるのが、Wayside Well(日本語直訳: 道端の井戸)と呼ばれている場所。こっちがキリスト教伝来前のドルイド(ケルト人たちの信仰における祭司)のブリジッドを祀っていると言われている。スタッドガーデンの駐車場からすぐそばの、とても素朴な井戸で、観光客はまず行かない。
そして、聖ブリジッドの泉の公園を流れる水は、Wayside Wellが源泉。
そう、この話を初めて聞いたとき、わたしもとてもおもしろいと思った。
地味で、ほぼ地元民しか知らない、古代ブリジッドの方から湧き出た水が、キリスト教のブリジッドの方に流れていって、そしてその公園の方が立派に整備されて���て、人がたくさん来る。歴史が辿ったストーリーと水の流れが同じなんて、ちょっとロマンチックだよね。
そして、あなたの旅のことも同じようにロマンチックに感じる。
日本庭園に行ったんだよね?
あそこを流れる小川の水も、同じWayside Wellから引いた水だよ。
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スタッドガーデンの日本庭園に流れる小川
水の情報記憶に関する文章を読んだことがある。
スプーン1杯の水が1TB分の情報を記録できる、という科学研究だ。
信仰が人々の普遍的な祈りを運ぶ船だと考えたとき、わたしたちは船を替えても、変わらず同じ水の上に浮かぶ。
あれこれ考えて右往左往するよりも、もっと単純に、すべては最初から土地とそこを流れる水にメモリーされていて、わたしたちはきっと、そのぼんやりとした断片にただ触れることだけができるのかもしれない。
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聖ブリジッドの泉公園を流れる小川。水がとても綺麗でクレソン?が群生していた
ふたつの井戸の話にあまりにも驚いて「そんな情報、どこにも書いてなくて全然知らなかった、道端の井戸(Wayside Well)の方にも行くべきだった」とわたしが言うと、彼女は微笑みながらこう言った。
「また来ればいいよ、水が止まることはきっとないからね」
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umino87 · 1 year
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2022も残すところわずか
2022年は会いたい人に会いたいと強く願って叶えられた年だった。ずっと好きだった人に会いに県外に行ったり、会わせたい大切な人たちと会えたり、人生のパートナーと出会ったり。
なんとなく自分のことがきらいになったり、自分って一体何者なんだろうって答えのないことをぐるぐる考えたり、365日脳内フル回転。
さみしい夜に隣にいてくれる誰かがいるのって当たり前のことではないしそれを大切にしなければいけない。好きな作品に出会った時に1番に共有したいのは親友でも家族でもなければ君だけだった。好きな作品を教え合って読み合って感想言い合ってそういうのがしあわせだった。
大変な毎日だったけれど君のことを毎日考えるのが楽しくて充実してて今思えばいい思い出。
君が元気でいてくれたらそれだけでいいって思える。ありがとう。
卒制してた時って朝から晩まで学校に居てもしあわせで、土日のアルバイトもものすごくたのしかった。好きなことに囲まれていたからだと思う。建築雑誌読み漁って、お守りのように好きな建築家の本を製図台に置いて息抜きがてら読む。家に帰ればだいすきな母が作ってくれた豚汁が待っていてまた朝を待つ。常に何かに追われていたはずなのに期限から逆算して予定立てるのがその時は得意だった。今は全くできない。かなしい。もっと毎日を大切に生きたいのに何かに心すり減らして生きている。母に転職したいと伝えた。申し訳ないけれどこの気持ちは変わらないって。そしたら、いいのよって静かに言ってくれて、ちゃんと辞めたい時に辞められるように理由考えなきゃねって、実家に戻りたいので辞めますって言ったら?っていうのがかわいくて笑っちゃった。土日休みになればもっと実家に帰られるし母とも遊べるから今すぐにでも転職したい。会社にはここまで育ててもらった恩があるから最後までちゃんと全うするつもりだ。長くなってなにが書きたいのかわからなくなってきたけれどこれが2022今の素直な気持ちだからこれでいいんだと思う。年が明けてもこの脳内ぐるぐるメーカーはずっとそばに居ると思うから末永く付き合っていくよ。
2022年わたしと関わってくれたナイスなみんなありがとう。だいすきです。
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oniwastagram · 2 years
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📸IROHA village / いろはビレッジ 広島県広島市の『IROHA village』が素敵…! 広島・宮島の代表的な銘菓“もみじまんじゅう”🍁…その老舗「藤い屋」が2018年に開設した新拠点のカフェ・レストランは現代建築家・中村拓志&NAP建築設計事務所がデザインを手掛けたランドスケープが一推し。工場直売、焼きたてのもみじ饅頭も…! 広島・IROHA villageの紹介は☟ https://oniwa.garden/iroha-village-hiroshima/ ...... ウェブサイトや雑誌で見て「素敵だなあ」と思っていた中村拓志&NAP建築設計事務所の“ランドスケープ”色が強めの建築。2022年7月に初めて訪れました。 . 日本三景“安芸の宮島”の紅葉の名所『紅葉谷』🍁にちなんで生まれた「もみじ饅頭」…まず今更ながらちゃんと把握したのが、もみじ饅頭は他の有名なお土産菓子と違って「複数のメーカー(お店)で生産されている」ということ。 その中で藤い屋は1925年(大正14年)に宮島で創業し、まもなく創業100年を迎えられる老舗。 . 2018年に五日市の海沿いの埋立地に開設された新工場🏭 五日市駅の方面から向かうと、バイパス越しに殺伐とした…無機質な空間が現れるのだけど、その中に置いて小さな森・オアシスのような雰囲気を醸すのが「IROHA village」🌲 . ここで紹介する主役は畑が取り囲み、草生える屋根を持つカフェ/レストラン/ショップ棟とそのランドスケープ。 無機質な空間に命を吹き込むよう誕生した「畑LABO」は工場と同程度の面積を持ち、土づくりからこだわった畑でもみじまんじゅうの原材料になる小豆や小麦・果樹を育て、素材研究の場となっています。その一角にはお社も⛩ . そしてショップ・カフェ棟の屋上にはハーブガーデンが(登り忘れた…)。こちらにはローズマリーやラベンダーが育てられているそう🌿 . 建築内にはもみじまんじゅうや藤い屋の別業態『古今果』のケーキの販売や、ベーカリー、カフェ/レストランのスペースも。 自分は今回ベーカリーで持ち帰り利用のみにしてしまったけれど…、自然の素材に囲まれた中でお食事や喫茶が楽しめます☕️ . また新工場に売店窓口があり、焼きたてのもみじまんじゅうや、宮島口の本店とここでしか食べられないジェラートも味わえます。 IROHA villageではただの工場見学ではなく畑LABOも含めたガイド付きの見学ツアーがあり、そちらにも特典として焼きたてのもみじまんじゅうの試食が。広島の新たなランドスケープ、ぜひ立ち寄ってみて。 // 【存続のためのお願い】 庭園情報メディア「おにわさん」存続のため、新オーナー(組織)を募集しています。詳しくは「おにわさん」で検索し、ウェブサイトよりご覧ください。 \\ ーーーーーーーー #japanesearchitecture #japanarchitecture #japanarchitect #japandesign #japanart #japanesegarden #japanesegardens #beautifuljapan #jardinjaponais #jardinjapones #japanischergarten #jardimjapones #bonsai #landscape #landscapedesign #japanlandscape #建築デザイン #庭園 #日本庭園 #庭院 #庭园 #広島旅行 #広島観光 #五日市 #広島庭園 #中村拓志 #nakamurahiroshi #NAP建築設計事務所 #現代建築 #おにわさん (at いろはヴィレッジ) https://www.instagram.com/p/Ch2TSQzvpIb/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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imyme · 2 years
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お母さんがくれた20年前くらいの建築雑誌いろいろペラペラしてたら、私の愛する宇多田ヒカル様がイサム・ノグチ庭園美術館に訪れるという企画が。好きな人の好きなものは好きになっちゃうよね〜読んでたら石に興味が湧いてきた。そういえば私、生まれ変わったら石になりたいなんて言ってたな。。 7.1/2022
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ari0921 · 2 years
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「宮崎正弘の国際情勢解題」 
  令和四年(2022)5月16日(月曜日)弐
     通巻第7335号
 中国大都市ロックダウン続き、サプライチェーンはズタズタ
  22年度GDP成長は3・9%と親中派の野村證券、IMFは4・3%
************************
 有力シンクタンクの中国経済予測が出そろった。
 全人代において李克強首相の掲げたGDP成長目標は5・5%だった。親中路線の野村證券が3・9%と最低、UBSが4.2%,ゴールドマンサックスは4.3%、そしてIMFは4・4%と、いずれも中国の公式目標より低い。
 第一はロシアのウクライナ侵攻で西側のロシア経済制裁がじわり、中国に悪影響を及ぼし、ここに原油高、穀物高騰が加わる。ましてや米国の制裁が継続していて、経済は下降速度を増した。
 食品は8%程度の値上がりとなっている。
 第二に武漢肺炎の変異株が猛威を振るい、深セン、上海メガロポリス、西安、武漢、東北三省(とりわけ吉林省)の諸都市がロックダウンされた。
 上海メガロポリスだけでも2500万人が不自由な生活を強いられ、六週間に亘るロックダウンは習近平への不満の声となって静かに市民の胸底に体積した。
 流通、商業活動が止まり、食糧不足、係官の横暴、工場休業となって道路はがら空き、逆に上海港などで沖合待ち一ヶ月以上。対米輸出航路は平均で74日間の遅れを出している。港湾労働者も不足し、膨大なコンテナの処理が円滑にいかない。上海および無錫、杭州、蘇州などで外国企業の工場閉鎖は七割近く、生産、販売が劇的に落ち込んでいる。
あまつさえ吉林省と国境を接する北朝鮮で発熱が一晩に17万人とか、四月末から五月半ばまで52万人がいきなり感染し、死者もうなぎ登り、中国製のワクチンは効き目がなく、中国東北地方の経済回復は望み薄となった。
 第三がサプライチェーン中断により、部品も調達できず、操業を再開しても、労働者は工場宿泊となるため出社率が悪い。生産ラインが止まったままである。テスラもトヨタもライン再開はかけ声だけ。
もっとも深刻な影響は95%のスマホを中国で生産するアップルで、納期遅れが2ヶ月。
アップルは上海、昆山、鄭州、成都、重慶、深センにiPhone工場があり、およそ95%が中国生産だ。それも委託生産しているのは鵬海精密工業(FOXCON)、ペガトロン、広達(グアンダ)電脳、コンパルなどである。とくにグアンダは、六月前までの生産再開は絶望視されている。
上海都市封鎖は外国企業に深刻な影響だが、中国企業とて例外ではなく、鳴り物入りだった半導体自制のSMIC(中芯国際集成電路)は納品遅れ、工場の拡張どころで名なくなった。
GAFAMの時価総額は25%の大暴落、世界の株式市場からGAFAMの時価総額360兆円が蒸発した(21年末の10兆ドルから22年5月11日は7・4兆ドルに)。アップルは世界株式時価総額トップをアラムコに譲ることとなった。小誌が予測してきたように「さようなら、GAFAM」の季節がやってきた。
 四月の人民元建ての銀行貸し出しは17兆円台に留まって、じつに72%減。資金需要も消えたのである。
 ▲ピョートル大帝を尊敬するプーチンと永楽帝をめざす習近平と
 こうした逆境のなかで気を吐くのが中露貿易だ。
制裁に加わらないばかりかロシア支援を強める中国は石油とガスをロシアから安く買いたたき、パイプライン加えて、トラックと鉄道輸送。また食品や機械、雑貨をロシアへ輸出している。船舶が利用できなくてもユーラシアを横断する陸のシルクロード=「鉄道」輸送が強みを発揮しており、「コンテナ鉄道」は重慶から2011年にドイツへと開通以来、武漢、成都、鄭州、西安から欧州23ケ国をつなぐ。大半がモスクワ経由である。
 積み荷は食品、衣料品、医薬品、自動車部品、雑貨などとされるがコンテナに武器を積み込みロシア支援に活用しているようである。
 とくに機関銃や弾丸、戦車、自走砲の部品などは偵察衛星の監査から漏れる。
 プーチンはピョートル大帝とエカテリーナ女帝の再来を夢想するナショナリズムの強烈な帝国主義を目ざす。プーチンはスターリン、レーニンを問題視していない。
一方、習近平は毛沢東に憧れ、中華民族の夢を豪語してやまないが、それは明の永楽帝が築いた最大版図の回復を実現することであり、台湾ばかりか、尖閣諸島奪取という途方もない野心を研いでいる。
これまで中国はソ連時代からロシアを『兄貴分』としてきたが、ウクライナ情勢で立場を逆転させた。ロシアは弟分、中国が兄貴分で兄弟の杯は、やり直しとなるだろう。
ロシアのGDPは中国の十分の一以下であり、ロシアが誇った武器、宇宙船なども中国が技術をもぎ取った。
だがしかしプーチンは面子にかけても決して習近平の風下に立つことはない。したがって中国台頭への心理的��作用はますます欧米への挑発行為をエスカレートさせる危険性がある。
苛立ちとストレスはすでにプーチンの表情からも読み折れるほどにロシアは反動バネで、より挑発的な姿勢に傾きかねないのである。
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poetry-for-absence · 9 hours
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『吉田 五十八』  - 吉田建築における「いき」の構造 - (2017)
吉田五十八の建築を九鬼周造の『いきの構造』に沿って論じたく思う。
 なぜ、『いきの構造』によって吉田の建築を論じたく思うかといえば、かの建築に「いき」性が感じられるとの直感ゆえである。具体的には、軽やかさ、明朗さ、すっきりさ、しゃんとしていること、多分な含みをもっていること、などが感じられた。また、吉田が日本橋の薬問屋の生まれということもあり、その心身のうちに江戸の気風が宿っているだろうという想起に背中を押され、吉田建築のもつ座標を構造的に確認することは妥当性のあることだと思うのである。吉田五十八(1894 - 1974)。九鬼周造(1888 - 1941)。彼ら二人の日本人は、ともに近代化による西洋との対峙を求められた。時間の流れの偶然と必然のもと、語り、記述され、定位される歴史の中で、同時代の空気を吸い生きた人びとの織りなす色あやはどのようなものであったのだろうか。
 九鬼周造は東京帝国大学で哲学をロシア人哲学者・音楽家ラファエル・フォン・ケーベルに学び、1921年から1929年のあいだヨーロッパへ留学する。『いきの構造』は1926年12月、留学先のパリにおいて書かれ、帰国後の1930年に雑誌『思想』1月号と2月号により世に問われた。九鬼の留学先はフランスとドイツであったが、フランスではベルグソンに面識を得、ドイツではハイデガーに師事し、彼ら二人に高く評価された。『いきの構造』において、九鬼は西洋の論理スキームに沿って、日本語民族に特有の意識現象としての「いき」の構造を分析した。
 1925年、吉田はヨーロッパへ旅行した際、ロンドン、オランダ、ドイツのモダニズム建築を見て失望する。しかし、フィレンツェでのルネサンスやゴシックの建築を見て感銘を受ける。そしてそれらの様式はヨーロッパの血肉から生まれ出でたものであり、日本人である吉田自身が取り組む必然性はないと踏んだ。そうして、近代以降の時代意識を持ちつつも、日本に生きる感性から生まれる建築の姿を求めた。
 私には彼ら二人の人物が一対の鏡像のように見える。九鬼は西洋の論理により日本の生を見つめ、吉田は日本に心身を置き西洋を見つめた。西洋的方法により現れる日本の姿と、日本的方法により照射される西洋の相対的な姿。
 ここでは、吉田が九鬼の論文を実際に手に取っていたか、それを自身の建築的方法とすることに意識的であったかの如何は問題とせず、吉田建築に受肉した感性としての「いき」について確認したい。
 まずは、九鬼による「いき」の概念の措定について記述する。九鬼の論じるところを要約するならば、「いき」とは”対立する二元のあいだのゆらぎによる、多義性と緊張”である。「いき」の意識現象は、男女の間の媚態や、言葉づかい、身振り、状況、所作、顔の表情、衣服、衣服の模様、色、建築や音楽などの形式芸術などに認められる。それは、男女の間のやり取りでは執着しない諦め、しなやかでしゃんとした身振り、湯上り姿、流し目・目配せ・伏し目などの表情における媚態などであり、その特徴を言い換えて言明するならば、”平衡をやぶり常態を崩すこと”、“可能性を可能性のままにし硬直させないこと”と言える。吉田建築にはいくつもの概念的な層において、二元の間のどちらともつかないバランスがあり、九鬼による「いき」の措定が当てはまるように思える。それを以下、いくつかの項目において確認してゆきたい。
『いきの構造』では「いき」な建築の分析として茶屋建築が精査されている。そのような、「いき」の意識にかなうとされる建築的表現においても、”対立する二元のあいだのゆらぎ”という「いき」の構造的な特質が認められる。例えば、竹材や杉皮材ときめ細かな木材との二元的対立であったり、天井と床の対立が両者の材料の相違により強調されていたり(竹天井・黒褐色の杉皮の天井・天井を不均等に二分して大きい部分を棹縁天井とし、小さな部分を網代天井とする・一部分は平天井とし、他の部分を懸込天井とする)することなどである。
 吉田建築にあっては、西洋近代建築の構成と日本建築の構成との二元の間をゆらいでいた。そうして、そのような上位構造(西洋近代建築と日本建築の二元の間のゆらぎ)の流入が吉田建築の表現においても認められる。そこでは西洋近代という鏡により日本自身の姿が映し出され、対象化され、認識され、反省が生まれた。その省察により生み出された態度は様々な価値を生み出した。
 
 まずは建築表現上の技法である。第一に、日本建築の線の多さを減算・単純化した点がある。これは物質性から観念性への上昇であり、明朗さが生まれる。”目を細めてテクスチュアをころして建築をみよ”との吉田の言葉にもあるように、そこには抽象性への志向がある。ここには近代化され装いをすこし変えてはいるが、明朗ときっぱりした態度を是とする「いき」の命脈が確かに息づいている。図式的には従来の線の多い日本建築を野暮とし、吉田建築を意気とした二元がある。
 次に原理と事象に関するものである。そのことに関して、かたちとして大壁を用いたことに触れたい。吉田が大壁を用いたのは関東大震災の悲惨を受けた、防火や耐震構造上の必要からであった。これは構造表現主義をうたう当時のストレートなモダニズムからは反立し、建築家の浜口隆一から”シャム・コンストラクション” = 偽の構造との批判を受けた。しかし、このことは、生活の中で起きる事象や与条件を受け止めたしなやかさがあり、建築家として誠実な態度であると思われる。ここには、建築形式の原理的整合性と生活の営みの中での状況の多義的な不整合とのゆらぎがある。
 また、面的な大壁の表現は、建築を経験する主体と建築との関係を簡素で明朗なものとし、このことにも軽やかな「いき」の様態が見て取れる。加えて、面へと還元された構成は重層的な構成であり、多義的なシークエンスを生む。建築形式としては人の動きを予測し、計画されてはいるが、それはすべて先回りして機能として予定調和し補完されているのではなく、創発的な行為へと開かれた多義的な余白を持ち構成されている。これは“可能性を可能性のままにし硬直させないこと”と言える。
 そして、寝殿造のようなおおらかさや、「家のなかに庭がある」のではなく「庭のなかに家がある」というような、自然の中に溶け込んで主体性が消え去るような日本性も吉田建築の特徴と言える。それは、丹下健三のような構造合理主義、理性原理主義、大陸的な国際性でもない、単なる日本の民家でもない、ケネス・フランプトンならばクリティカル・リージョナリズムと分類するだろうアティチュードが見て取れる。建築家の富永譲は日本におけるアルヴァ・アアルトであろう、と述べている。
 
 『いきの構造』にはこうある。「いき」は過去を擁して未来に生きている。
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yskeblr · 5 days
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archizinesfair2024 · 6 days
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アーキジンズ フェア 2024
【実施概要】
・開催期間:2024年4月26日(金)~ 5月12日(日) ・オープン日時:水〜日11:00~12:30、13:30~18:00(月、火、4/29、5/6はクローズ) ・会場:けんちくセンターCoAK(京都市左京区下鴨東半木町67-17,1F ) ・アクセス:京都市営地下鉄北山駅徒歩10分、京都市バス府立大学前徒歩1分
土地に根ざし動けない建築にとって、雑誌や本などのメディアは古くから、建築表現の発展、建築家たちのコンセプトの伝達に重要な役割を担ってきました。2000 年以後はインターネットメディアが台頭し、世界中の建築家の作品、ニュースが即座に拡散される状況になっています。その一方で長年親しまれてきた雑誌の廃刊が続くなど、紙からwebへと建築メディアの主流は移りつつあります。しかしながら近年、設計事務所が自ら出版社を立ち上げて出版されるこだわりの書籍や、建築家やメディア関係者らによる個性的で独自のテーマを扱ったZine がしばし話題になっています。こうしたメディアは、マーケット重視の出版企画では無視されるような萌芽的なテーマを扱い、丁寧に設計された造本が魅力です。また長い時間をかけて作られる建築物に対し、即興的でスピード感を持ってアウトプットされるこれら出版物は、その時々の作者=建築家の思考・アイデアを軽やかに、かつ鮮やかに刻み込むという魅力を持ちます。アーキジンズ・フェア 2024は、全国各地から40組を超える出展者、100冊近いZineが一堂に会し、多様化する建築や都市の現���を浮かび上がらせる、国内唯一の建築・都市に特化したジンフェアです。
【出展者】 upsetters architects, イスナデザイン+アラウンドアーキテクチャー, interrobang, A/T, MMA Inc., SSK, SfG landscape architects inc., OOPArts, o+h books, 大室佑介アトリエ, 沖島文庫, 奥本卓也建築設計事務所, おどり場, 海法圭, ガデン出版/福島加津也+冨永祥子建築設計事務所, 金沢民景, カミヤオカモト, 川崎光克, 九州大学葉祥栄アーカイブ, 岸本千佳, 葛島隆之, 戸戸, 小林空, 後藤周平+長谷川健太, コヴァレヴァ・アレクサンドラ+佐藤敬 / KASA, コロガロウ, some (       ), 犀と狸社(TR), 出版ウオヒデ, シェアアトリエniu, 静原版舎, 下鴨ロンド, studio TRUE, 高村優月, チーム4.5畳, 辻琢磨建築企画事務所, 鉄窓花書房, DDAA / DDAA LAB 元木大輔, Domino Architects, Traveling Circus of Urbanism, Trip & Doughnut, tribos studio, 中川晃太, 日常記憶地図, ねじれの位置,ノーツエディション(GROUP), 長谷川明建築設計事務所, PRINT&BUILD, フジワラテッペイアーキテクツラボ, 本庄西施工地区, 盆地Edition, 増田一真, ミンガヤコレクティブ, 宮城県美ネット, mtka, 連勇太朗, 屋台本出版, 山をおりる, 湯浅良介, Local Places, 他
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