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#東海環状道大安インターから車で5分
rkwalk2019 · 2 years
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おうちカフェ様、リポストさせていただきます❤️ 宣伝までしていただきありがとうございます😆妹のように可愛がっていただいております、鯛焼き子は嬉しいです笑💕 #Repost @ouchicafe2600 with @use.repost ・・・ 🎈 TOINマルシェ2022🎈〜昨日のオムライスはなんと㊙️ ・ 🏠☀こんにちは☀😁☀ ・  ☀連日☀残暑が続く日ばかりですね☀ ・ 🍧先日も🍰スイーツタイムに🍰🍧 ・ 🍧かき氷🍧していませんか❓😁 ・ 🍧問い合わせを頂きました🍧 ・ 🍧既に💦🍧かき氷は🍧終了していますので😅✌……そっとやりそっと終了になりました🙇‍♀💦〜来年は💪😎💪 ・ 📷🎈アップさせて頂きました🎈 ・ 🎈9月17日㈯🎈9月18日㈰🎈 ・ 🎈TOINマルシェ2022🎈開催です🎈 ・ 🎈三重県員弁郡東員町大字北大社1634番地🎈 ・ 🎈会場🎈東員町中部公園🎈 ・ 🎈問い合わせ先🎈 🎈東員町観光復興会🎈 🎈TOINイベント実行委員会🎈 ☎0594-76-6989☎まで🎶😊🎶☎ ・ 🎈🚗🎶当日🚗駐車場に❌限りがありますので💦 ・ 🎈🚃三岐鉄道北勢線の🚃東員駅を下車してもらって😁✌ ・ 🎈🚌オレンジバスにて🚌5分程で🎈 ・ ⚽9月18日㈰は⚽ ⚽ヴィアティン三重⚽キャラクタ⚽ ⚽ヴィアくん⚽が遊びに🎶😊🎶⚽ ・ 🎈2日間🎈キッチンカー🎈 ・ 🎈2日間🎈物販のなども🎶😊🎈 ・ 🎈詳しくは🎈Instagram&Facebook🎈を確認して下さいね🎈 ・ 🎈🌀台風🌀の☔影響があるかもしれないので🎈 ・ 🎈当日💪開催あるかの💪確認も💪 ・ そして🎈キッチンカーでは🎈 ・ 🎈💪😎💪店長の💕可愛い妹💕が出店していますよ🎈 ・ 🎈🚗🎶幸せの黄金鯛焼き🚗🎶🎈 ・ 🎈🚗🎶安納芋を使った⭕絶品の鯛焼きを🎶ご賞味あれ💪😎💪🎈 ・ そして😁 昨日🌃夜分にアップさせて頂いた😁 🐣ふわとろオムライスランチ🐣 ・ プラス料金で🧀チーズ🧀のトッピングも🤤とかいってましたよ🥳 ・ あの🍳玉子🍳のふわとろ感と🧀チーズ🧀を🔥バーナー🔥で炙ったら最高🤤と思いませんか🌟🌟🌟 ・ 書いてるだけで🤤🤤🤤 ・ お楽しみに💗 ・ 🆕✨🍝パスランチ🆕✨新メニューもまもなくです🥳(仕入れ高騰の為🙇‍♀💦 大変心苦しいのですが🙇‍♀💦 価格も改定させて頂きますのでご了承下さい🙇‍♀💦) ・ それでは🏠☕おうちcafeOPENしました🕚 ・ 本日もみなさま💗の🏠🍚🍰ご来店&🏠🍱ご注文お待ちしてます🏠☕😉 👍0594-37-7055☎ ・ #おうちcafe#おうちカフェ #いなべcafe#いなベカフェ #おうちlunch#おうちランチ #雑貨#ハンドメイド#委託販売 #東員マルシェ#イベント #幸せの黄金鯛焼き#パスタランチ #ふわとろ#オムライス#安納芋 #いつもありがとうございます #アルコール消毒#換気#空気清浄機 #東海環状道大安インターから車で5分 #カフェ#cafe#コーヒー #ランチ#スイーツ #いなべ市#ご来店お待ちしています https://www.instagram.com/p/CieLuCUpym_/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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archi-amorphe · 8 years
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予言者としての建築家 architect as prophet ――― 日本の建築批評の位相
English version
日本では、建築批評という領域が一般ジャーナリズムにおいて確立されていない。 文学、映画、美術、音楽、などは新聞に定期的に批評が掲載されるが、建築の批評が掲載されることはほとんどない。このことから一般に建築が人々の日常的な 関心の的となっていないのだと類推される。文化の一ジャンルとして受け入れられるのでなく、むしろ生活からかけ離れた行政や企業の経済行為であると受け止 められているのかもしれない。建築批評家は職能として自立しえないどころでなく、建築批評自体が期待もされない。 建築批評はしたがって、一般の人々の教養というより、建築家予備軍のための戦略テキストという性格を持つ。そこではつくるという行為の現場からの声が専ら関心の対象となり、生活の現場からや、味わうという観点からの批評は欠落する。 もともと建築家は優れた批評眼を持つはずだ。批評が求められる土壌を社会が持たないなら、いきおい、優れた建築批評眼を持つものはそのまま建築家の道を歩もうとする。そこで、なおさら建築家の言説のみが新しい建築を予告する声として待たれるという状況を生む。 ここには建築界の閉塞的な状況も一役買っているだろう。批評の欠如は作為(intentionality)に対する自然(naturallity)の優 位、つまり他者性の欠如にあるからである。明確な意図や計画を欠き、さまざまな利害を調整するだけ。あとはなるようになると考えているとしか思えない事勿 れ主義(a "peace-at-any-price" principle)が幅を利かせている。 ところで、概して日本では過去や現状への批評に欠ける嫌いがある。どちらかといえば、批評は未来への提言の形をとりがちである。 たとえば日本には、「過去は水に流す」(forgive and forget)という言葉がある。それは、基本的には美徳であるが、場合によっては一貫性の無さにも通じる美意識(a sense of beauty)でもある。過去は問わないという潔さともとれるが、過去や現在は問題だらけでコメントするにも値しない、未来がすべてである、という気分も その内にある。 こうした気分はとりわけ敗戦で焼け野原となり、それまでの価値観が完全にひっくり返されて以来、より強まってきているといえるだろう。 たとえば都市づくりひとつとってみても、都市の現在はいつでも否定すべき対象として見られている。とくに日本の建築家にとって、都市は敵対的な環境として 立ち現れる。なぜなら彼らは都市に密接に関わって仕事をせざるをえないにもかかわらず、都市から基本的に疎外されているからだ。 日本は、建築家が都市計画に積極的に関与することができないシステムをとっている。そこで、建築家は都市の現状の実践的な課題への解答を求められることはないという立場に置かれる。 そこでは、良く言えば未来に対する先見的な��悪く言えば実現可能性のない構想のみが求められる。 概括してみよう。閉鎖的な状況をつくりやすく、他者性が希薄で、文化としての建築という観点も未成熟な日本の風土において、広く一般の人々に訴えかける建築批評は成立しにくい。 日本における建築批評行為はほとんどが建築家から建築家予備軍に向けてなされる建築家の言説であるのはそのためである。 批評家の不在と建築家による予言的言説、これが日本の建築批評の位相である。 歴史の転回点としての1970年の意味 アポロが持ち帰った月の石が展示された1970年の大阪万博で、日本は戦後の高度成長期のピークを迎えた。そして1973年オイルショックの後、低成長期に突入する。 戦後モダニズムをリードした丹下健三が、大阪万博を見届けた後、日本経済の暗転とともに、その主たる活動の場を日本から海外へシフトした。1970年、戦後という時代は大きな曲がり角をまわった。 70年の元旦の新聞は華々しい未来図に彩られていた。しかし、大阪万博が終了し、未来図の白々しさがひとときの宴のあとのけだるさとともに人々の胸に忍びこみつつあった秋、三島由紀夫の自決の報が、街を駆けた。 腹切りという衝撃的な作法ともあいまって、多くの人々はそのアナクロニズムに当惑しながらも、それまであえて目を背けてきた日本のアイデンティティーとい う問題が突きつけられたのを感じた。三島は日本の歴史の忘却に異議申立てを行うと同時に、敗戦の事実と戦後のアメリカナイゼーションによるアイデンティ ティー・クライシスを個人の死で表現したのだった。 世界的な学生運動の徹底的な異議申立てとその失速は、70年をはさんで社会に内省的な雰囲気をもたらした。日本においてとりわけ象徴的だった72年2月の 浅間山荘事件は、学生によって組織された連合赤軍が山荘に立てこもり、警察と銃撃戦を行った事件だが、人々に深い絶望感を与えたのは行軍中に仲間を次々と 粛正していったという事実だった。同年5月、テルアビブの日本赤軍による乱射事件が続いて、学生運動が急速に社会から見放されていった。 日本の学生運動の主要なターゲットはアメリカ帝国主義だったが、そこにアメリカの庇護の下にある国家に対する、三島とは逆向きのベクトルの、アイデンティティー確認要求という側面を指摘することができるかもしれない。 政治的には、沖縄の返還協定調印(71年)、日中国交回復(72年)をもって日本の戦後は新たな段階に入った。最大の激戦地であり、敗戦の象徴でもあった 沖縄の返還は、過去の追慕を禁じられた日本のアイデンティティー不在の感覚を、心の痛みとともに呼び覚ました。しかも沖縄にはアメリカ軍の基地が存在した ままであり、今なお存続している。そこからベトナムへと飛行機が飛び立っていったのだった。 中華人民共和国との国交も、日本の頭越しにアメリカが結び、日本も追随する形となった。 経済環境もドラスティックに変化した。1ドル360円であった円とドルとの固定相場がはずされ、71年8月には変動相場制へ移行。円は上昇を続け(ちなみ に99年2月9日現在1ドルは116円)、日本の労働者の賃金も相対的に上がって、国際競争力の側面で日本は新たな局面にさしかかった。そして73年秋の オイルショック。中東からの石油がストップするという危機感から、インフレと物不足の危機感が煽られ、日用品の買いだめが起こり、パニックとなった。日本 の産業構造は大きな変化に見まわれる。 人々は否応無しに歴史の転換点に立っていることを思い知らされた。政治的にも経済的にも国際社会の荒波に投げ出され、もはやアメリカの鏡に映る自らの姿に アイデンティティーを投影するだけでは生きていけなくなったことを朧げに感じはじめた。敗戦後の茫然自失から国際社会の一員としての自覚へ。アメリカの無 条件の庇護の下に成長を夢見る時代は、70年を境に、過ぎていたのである。 戦後、日本の未来の指針はアメリカだった。昨日の敵は今日の友。「過去は水に流」された。敗戦の処理を通して、自らの過去は断罪され、封印された。アイデ ンティティーは未来の可能性に求めるよりなかった。このことは日本に過去や現在に対する批評が不在であることと関係しているかもしれない。 アメリカナイゼーションからの離脱も70年以降の風潮である。アメリカが体現したものとは、わかりやすく単純化してしまえば、民主主義と家庭電化製品。理 想のアメリカに対して現実の遅れた日本があった。ところが技術が追いついてくるにつれて、意識の上でのアメリカ離れがおきた。自動車の嗜好もアメリカン・ カーでなくヨーロピアン・カーへと移った。 しかしながら、日本のジレンマは、アメリカへの不信を決して自問しえぬところにあった。少なくとも安全保障面においては対米従属を余儀なくされていたから だ。日本は軍隊を持つことを憲法で否定している。1 そして本当はその態度が正しいと信じたいのだが、今のところ丸腰で生きて行けるほど世界は善意に満ちてはいない。 後に90年の湾岸戦争でそのジレンマに基づく苛立ちはピークに達する。金を出しても感謝はされない。アメリカの庇護の下にいることの違和感が70年以降深 く潜行した分、強まっているといえるだろう。。戦後は1970年で終わっている。1970年以降を<戦後・後>と呼んでもいい。いまや<戦後・後>を再び <戦前>とせぬ努力と覚悟が求められている。 ふりかえれば、日本が世界の中の日本という意識を名実ともに持つようになったのが1970年。この頃を境に人々の年代の数えかたも、日本独自の年号である 昭和何年代から西暦へと変化する。昭和20年が終戦だから、20年代、30年代という数え方は敗戦から10年ごとというわかりやすい指標であった。人々の 意識における西暦への移行は、敗戦をもはや時代の区切りとする必要のない時代、国際社会の一員としての日本という時代への参入を意味しているのである。 70年代以降を代表する3人の建築家の言説<解体・否定・内省> 丹下健三が退席し、経済が失速した70年以降の建築界の言説をリードしたのは磯崎新、篠原一男、原廣司の3人であった。 磯崎新 丹下健三がリードしてきたモダニズムを批判的に継承したのがi磯崎新であった。実際にも彼は丹下の弟子であり、70年万博において彼は丹下の下で、中心施 設であるお祭り広場を担当している。60年代を彼はその著「空間へ」(71年)で総括し、「心情的に脱落した」という言葉で70年万博への距離感を表明し た。 「建築家にとって最小限度に必要なのは、彼の内部だけに胚胎する<観念>」であり、「設計のときに動いた手の軌跡によってはじめて観念はささえられて実在 する」という言説は、大上段に振りかぶった社会性を背景にしたそれまでの建築家の言説をたちどころに色褪せたものとして、個人の内省に向かう時代の転換点 を宣言し、アイロニカルな批評精神と卓抜した時代への洞察を示した。 ベトナム戦争が終結した年、1975年に「建築の解体」は出版された。それは、当時の世界の新しい建築思想の鮮やかな収集展覧であると同時に、磯崎自らの 戦略に即した批評でもあって、すぐさま日本の若い世代のバイブルとなった。ホライン、アーキグラム、ムーア、プライス、アレグザンダー、ヴェンチューリ、 スーパースタジオ/アーキズームという一連の建築家を論じたこの使徒列伝は、モダニズムのバイブル、ギーディオンの「空間・時間・建築」に取って代わっ て、いわば新約聖書となった。旧約のモダニズムに対して、この新約を総じてポストモダニズムと称しても今やさほど問題はあるまい。 もちろん磯崎はこの本の中でポストモダンという言葉をどこにも用いてはいない。しかしながら、この新しい流れを日本にもたらした磯崎自身が情報のもっとも 鋭敏なアンテナであり、水先案内人として、日本のポストモダンを導いてゆくことになる。日本におけるモダニズム批判の流れはこの一冊によって決定的になっ たと言っていい。 磯崎は、自らの鋭敏な感覚で新しい建築思潮を世界から吸収し、また的確な判断に基づく発信を続けることによって、70年以降の日本の建築言説の軸となって ゆく。 原廣司 1931年生まれの磯崎より5歳年下の、1936年生まれの原廣司は、「建築の解体」の翌1976年、岩波の「思想」誌上に「均質空間論」を発表する。これはより徹底した、文明史的視点に立ったモダニズム批判であった。 1967年に出版された「建築に何が可能か」において、すでに建築という思考が思想を行為に移すための方法論にほかならず、「歴史と(個人の)抒情の隔た り」を架け渡すものの在り方を決定する方法を、モダニズムの再検討を通して発見するという目標を設定していた原にとって、歴史的な課題と個人の課題は統合 可能なはずの問題設定であった。60年代とモダニズムは歴史の中における個人の思想の可能性として、検証されていった。この問題意識が「均質空間論」に結 実する。 原はミース・ファン・デル・ローエの建築に、モダニズムの究極の到達点を見る。普遍的な記号のシステムであり、人類一般に適用可能な方法を求めたインター ナショナリズムでもあったモダニズムは、ミースの構想したガラスの箱の実現をもって完成した。ミースはどのような機能も形態もオールタナティヴな関数とし て書き込み可能な座標を提案したのである。これを均質空間と呼んで原は根底的な批判を加えた。 均質空間の一番の逆説は、それが自由を求めながら、支配の空間と化してしまうところにある。空間配分の自由は使用者側でなく管理者側の手に握られるからだ。 世界の主要都市の中心部はこの形式の建物で埋め尽くされる。均質空間はいわば文化の支配的な空間概念となった。この均質空間が、個々の人間を量と記号に還 元するモダニズムの限界を露呈する。しかし現在のところこれに取って替わる空間は残念ながら見出されていない。これが原の認識である。 建築誌でなく一般誌である「思想」に掲載され、長期的な史的展望を持ったこの論文は、建築を論じた批評に珍しく、広く一般知識人に読み継がれ、現代の古典となった。 原は70年万博には批判的な立場に立ち、70年代は世界の集落を踏破しつつ周縁から自らの思想を鍛えるという道を選ぶ。モダニズムに対する原理的な批判を試み続ける原を、アンチモダンと位置づけていいだろう。 篠原一男 磯崎より6歳年長にあたる1925年生まれの篠原一男は、60年代の高度成長にも70年万博にも背を向け、ひたすら純粋に住宅を問い続けた。しかも極めて作家的な方法をもって。 たとえば彼はこう語っている。「60年代の日本に流行した、壮大なコンクリート・インフラストラクチュアによる都市デザインを私は夢見たことはない。70 年大阪万国博覧会に最盛期をつくった楽天的技術合理主義よりも、日本の伝統のなかに”非合理的なるもの”として閉じ込められている”意味の空間”に限りな い興味を抱いていた。」2 篠原にとって建築は社会や経済や政治にコミットする方法でなく、ひたすら個人の内面に関わる芸術であった。 一貫して内省的方法を取り続けてきた篠原にとって、70年以降の内省の時代は、時代の方が勝手に自らの構図のなかに飛び込んできたようなものだっただろう。 はじめ数学を学び、後に建築に転向した篠原にとって、原点は彼自身が繰り返し述べるように日本の伝統的建築にあった。 日本の多くの建築家が、戦後の課題を、日本の伝統からの切断、モダニズムの日本的受容形態の追及と捉えたのに対して、一人篠原のみが、日本の伝統からの創造を唱えた。 日本のモダニストたちは、伝統を問うにしても、敗戦を通して否定された日本の伝統的形態を意識的に避け、また日本の歴史書(これも戦争を推進した神話とし て否定されていた)に記述された時代、すなわち天皇の時代をも避けて、一気に先史時代である縄文(約1万年前から2200年前)や弥生(2200年前から 1800年前)を対立項として取り上げた。それが日本の「伝統論争」であった。 篠原はそれに対して、ごく素直に、天平時代を代表する寺院建築である唐招提寺(759年創建)を「美しいと思った」と語るのである。戦後の思想空間の中で追憶を禁じられた時代を、平然として、「私の建築の原イメージの多くは甘美な追想の中にある」3 と振り返るのである。 篠原は他の建築家が日本の伝統との断絶から出発することを当然とした時代にあって、堂々と日本の伝統を出発点にすると宣言したのであった。つねに時代の潮 流から超然として、自らの道を行く。これが篠原一男の強さであり、最大の戦略であった。 そして時代が転換点を迎えるとき、篠原一男の言説はつねに、事後的にex post facto、時代を予見した形となった。これはその後も、10年から20年の時差をもって繰り返された現象である。篠原はポストでもアンチでもなく、シノ ハラであった。そして88年には自らモダンネクストと称するようになる。4 76年に彼は「篠原一男2/11の住宅と建築論」という美しい作品集を出し、その巻頭に「野生と機械」という論文をおいた。ここで彼は70年が彼にとって も伝統から「無機質な空間」「中性の空間」への転換点であると述べ、さらには「空間から事物への遡行」を標榜し、やがて「裸形の事物」という言葉に到達し ている。 篠原の純粋な個人作家としての言説のスタイルは、70年代から80年代前半という、内省の時代の多くの建築家を魅了した。篠原の姿勢に共鳴する若い作家た ちの集団は、篠原スクールとすら呼ばれた。この中には伊東豊雄や長谷川逸子など、後に世界的な活躍を見せる建築家が含まれていた。 85年:新たな切断点、そして<形式・肯定・越境>へ 1985年あたりを境に、日本の景気が本格的な上昇傾向に入り、中曽根=レーガンの内需拡大路線の呼応もあって、いわゆるバブル・エコノミーに突入していく。 85年は筑波科学博も開催され、このあたりで70年から15年ほどの「内省の時代」、あるいは「解体と否定の時代」が収束したと見ていいだろう。 その予兆は80年代前半のパリにあった。 79年から80年にかけて開かれたパリの個展をきっかけに、篠原一男が「プログレッシヴ・アナーキー」という概念を提示。そのモデルとなった都市「トウキョウ」は、バブル期の変容の予感を秘めて、時を待っていた。 82年、パリ、ラ・ヴィレット・コンペ。磯崎新が審査員の一人となり、バーナード・チュミ、レム・コールハースがトップを競った。佳作となった原廣司の提 案は、空間の重ね合わせという方法において、レム・コールハース案とも響きあっていた。彼はこれを「多層構造」と呼び、後の「様相」概念に流れ込む重要な 概念となった。 磯崎は異質の他者を並列したり重ね合わせたりする方法に鋭く反応し、「ディスジャンクション」や「衝突」といった言葉がその後の彼の言説に頻繁に顔を出す ようになる。 単一の美学でなく、異質の他者が共存する美学へ。「建築の解体」でウィリアム・エンプソンの「曖昧の7つの型」と関係づけて彼が詳しく分析したように、そ れはヴェンチューリ([COMPLEXITY AND CONTRADICTION IN ARCHITECTURE (1966)]によってすでに引かれた道筋であったが、ラ・ヴィレット・コンペは、物理的な実体のデザインというよりむしろ純粋な関係のデザインにおける 新しいコンフィギュレーションの出現であった。 そしてそれは、日本にもともと存在した美学でもあって、そこでは実体より関係あるいは気配のみが関心の対象となる。80年代後半のトウキョウは、曖昧で衝 突に満ち、ランダムでカオティックで、強度を持った無気味な姿を露わにしつつあった。いわば要素のデザインでなく布置の明滅であり、不在の事物の共鳴であ る。パリのこだまによってトウキョウは活気づいたといってもいいかもしれない。 少なくとも磯崎・原・篠原は、自らの言説や方法論と時代との感応に、強い確信を持つ時代を迎えた。解体や否定や内省から、形式や肯定や越境extraterritorialへと言説もまた変化していく。 1985年をまたいで、彼らのこうした言説の基調音を裏付ける作品が完成されていく。 1983年、磯崎による「筑波センタービル」、1986年、原による「ヤマトインターナショナル」、1987年、篠原による「東工大百年記念館」。 70年代から80年代を通して、磯崎による活発な評論は、毎年のように出版され、ここですべてあげることは差し控えるが、その言説は、時代の微妙な動きを的確に読み取り、短期間の予言を繰り返しながら、時代を導く役割を果たした。 篠原は20年程度を結果的に視野に収めた予言的発言を行ってきた。強度を持ち、詩的な含みを持つ言葉を用いるぶん、余計に予言的な印象が強い。 原はほとんど50年から100年、時にそれ以上のオーダーで歴史に向かい合っているから、はじめから予言として言葉が発される。たとえば、1987年に出された「空間<機能から様相へ>」はこのような表現に満ちている。 「建築は、失語症の哲学である.ここで、いささかのちゅうちょもなく予言しておきたいのは、21世紀には、建築をはじめとする芸術は、哲学にとって替る。なぜかといえば今日がそして来世紀が、<空間の時代>であるからだ。」5 1985年をまたいで、3人の建築家は70年のモダニズム批判と「解体・否定・内省」の乗り越えについて、明快な展望を開いたといっていいだろう。 もともとモダニズムにとどまらず、建築そのものを問題にしてきた彼らにとって、そしてまた建築が思想であり、なおかつ現実にコミットする行為にための思想 であり、それが構築の原理、組み立てる、創り出すという行為の論理を問題にする思想である以上、彼らの言説には建築という思考の方法の運動の軌跡が刻まれ ている。 実はこの渦中にあるという言説の性質が、日本で専ら建築家による言説が流通し、日本の建築批評を導いてきた理由なのかもしれない。 超越的な視点を立てて、あるいは外部に出��、客観的に冷静に物事を語るというスタイルを、あるいは本質的に日本人は好まない。密接に自体にコミットしつつ状況を語るという語り口がむしろ好まれる。現場の声の尊重、である。 一芸に秀でた人々は無条件に尊敬される。はたから批判するだけの人間は、嫌われる。そして日本人は一般に嫌われることを嫌う。嫌われたときの逃げ場がない社会だからだ。 そしてさらに言うなら、理想や理念や弁証法的に導かれるはずの真理という普遍的な価値や意味に対して、おそらくは根底のところで違和感を持っているのである。真理を支える神を持ったことがないからである。 ともあれ、渦中にありながら、彼らが建築を問い直しつつ開いたそれぞれの世界とその関係は以下のようなものであった。 三者の言説の関係<解放・凍結・破壊> 磯崎は「建築の解体」というタイトルでも明らかなように、それまでの建築という概念を解体しようとした。解体とは狭い意味ではモダニズムの規範の解体であ り、その意味で真性のポスト・モダニストである。ただそれは広い意味では、建築概念自体の解体、すなわち拡張や移動や変形や圧縮や抹消をも含めての再吟味 を意味していた。 ただし磯崎が建築という概念を通して見据えていたのは、西洋古典建築のメインストリームであり、ついに彼がどうしても解体し尽くせぬものとして取り出した のは「大文字の建築 architecture with initial A」、すなわち単純化していってしまえばクラシシズムの建築原理であった。正確には18世紀中期の古典主義的言語の崩壊に果てに出現した超越的な概念であ ると語られる6 が、クラシシズム概念を拡張すれば、磯崎の意図するメタ概念が、これに基づく建築原理をさしていると理解していい。 解体作業の果てに、西洋の思想を貫き、建築の定義そのものともいえるこの建築原理にぶつかって、建築概念そのものを支える体系性、形式性を問い直すことの 自己言及的な構えに気づいた磯崎は、建築という概念さえ実は正確には通用していない日本の言説空間への啓蒙の意味も込めて、あらためて「<建築>という形 式」というエッセイを、新建築誌上に1年間にわたって毎月連載する。ここで<建築>とは「大文字の建築」を指すと彼自身が語っている。 つまり、磯崎は建築を解体しようとして解体しきれぬ<建築>(=大文字の建築)にぶつかり、ついにこれを強化する役割へと向かうのである。 これは日本において、もとより原理的な思考が不在であり、したがって、建築という形式が不在であるという事情とも関係している。世界は建築の解体に向かっ ているが、日本はまず解体すべき建築が不在である、形式の確立が先である、という日本建築の歴史的な使命感に燃えたといってもいいかもしれない。 原はこうした建築観から少しずれた地点にいる。もともと彼は周縁からのまなざしで世界を捉えてきた。原の眼からは、西洋古典主義建築も、イスラム建築も、 ベルベル人の集落も、アフリカの円形住居も等価である。建築史の山脈の頂を形成している輝きと同時に、谷や裾野にある見逃されがちな輝きも視野に入ってい る。個物と普遍はつながっていると見ているからだ。 歴史のメインストリームに目を凝らすのでなく、身を引いていって全体を眺め渡す構えを取る。その分視野が広角レンズに捉えられたそれとなる。原が「世界風 景」という言葉を使うのも、こうした姿勢が関係しているだろう。その言説から伺える、時代から少し離れて遠くを見ているような態度が、彼の予言の射程を延 ばしている。 磯崎はこうした原の姿勢が歯がゆいらしく、いつか「原は<建築>に出会っていない」と述べていた。磯崎の標準レンズで中心に捉えられるものが、原のレンズ からは風景に溶け込んで見えるのである。磯崎の焦点が「大文字の建築」にぴたっと合って揺るがないのに対して、原はいわば「反大文字の建築anti」を眺 めている。 篠原のレンズはほとんど接写に近い。個人的に関心を引かれるものにぐっとよっていって、そのエッセンスを掬い取る。対象の選択はほとんど直観的といってい い。しかしそのフレームには、結果的に時代の「次」が映し出される。歴史の全体像を捉えて、という迂遠な回路を通らない。方法的にも「非大文字non」と いえるだろう。 磯崎が60年代の「解体」の現場から70年代の「手法」に向かい、ついには80年代「形式」の再確認にいたったとするなら、原は70年代世界の「集落」を 巡り、80年代に「様相」なる概念に到達する。篠原は60年代の「伝統」との対話を経て、70年代「キューブ」から「不確かな事物」へ、そして80年代 「機械」と「カオス」へと歩を進めた。 磯崎はもっともオーソドックスにヨーロッパーアメリカ軸で歴史を捉え、原はそれに対して喩えて言うなら非西欧ーイスラム軸で歴史を捉える。篠原は言ってみれば日本ーフランス軸。究極の位相のみで全体を表象する。 これらは歴史に対するさまざまなスタンスであって、日本という国の地理的な位置と、日本の現代という過渡的な時代を表象もしていよう。 磯崎は最終的にややニヒルなスタンスで、建築という「形式」の向こうに「廃虚」という「不在」の相貌を見ざるをえないと達観しているように思える。原は 「意識ののぞきこみ」というやり方で、「世界風景」を描きつつ、「記号場」という言葉で「意識の状態」の写像を試み、そこに自らの建築と言説の歴史的な役 割を位置づけようとしているように思える。篠原は「零度の機械」という言葉に見られるようなぎりぎりの還元作業の彼方に、とてつもない「力」の表現を見定 めているように思える。 ついには死に向かう人間の、建築がその生の証しであって、しかもエロス(個体としての生の在り方を守ろうとする欲望)をタナトス(個体の生を普遍的な「生 命の流れ」に解消しようとする欲望)へと転換する装置であるとするなら、三人の建築家の言説を辿れば、それがちょうどフロイトの言う「死の三形態」に対応 するのが面白い。 しかもこのフロイトに対する言及は、「建築の解体」における磯崎によるホラインの解説から引用しようとしているから、ウロボロスのようにここで円環が閉じ る。 フロイトは死を意識の解放、時間の凍結、肉体の破壊の三つの位相で捉えようとしたという。解放はニルヴァーナにいたり、凍結はモニュメントにいたり、破壊は廃虚にいたる。あるいは不在、それともユートピア(どこにもない場所)にいたる。 これはそのまま原、篠原、磯崎の建築と言説に当てはまるといっていいだろう。原は「世界風景」や「非ず非ずの論理」にニルヴァーナを見、篠原は「透明な力 の幾何学」に永遠のモニュメントを夢想し、磯崎は「廃虚」に不在のユートピアを透視する。言うまでもなく、ニルヴァーナは「状態」であり、モニュメントは 「力」であり、ユートピアは「形式」である。 日本の現代を導く建築家の言説は、死をめぐる三角形の予言となっている。 90年以降:歴史へのスタンス 理念や理想、そしてそれを支える共同体のアイデンティティーへの信頼が崩壊した戦後の日本の言説空間においては、個人のアイデンティティー、そしてこう 言ってよければ予言者の言説に、自らのアイデンティティーを仮託せざるをえない状況がより強く生み出されていた。建築家はある意味でこうした特権的な個人 でありえたのかもしれない。 90年、日本のバブル経済が崩壊する。89年にすでにベルリンの壁が崩壊し、やがて91年にはソヴィエト連邦が解体する。91年には湾岸戦争も勃発。95 年は神戸地震が起き、オウム真理教による地下鉄サリン事件が起きた。97年、神戸で中学生が小学生を殺し、首を学校の校門に晒すという事件が起きた。 世紀末を間近に控えて、日本は政治的にも経済的にも社会的にも不安定をきわめている。 かつてバブル経済がそれに拍車をかけた、豊かさの消費形態としての「ポストモダン」も、バブルの崩壊とともに姿を消し、「ディコンストラクティヴィズム」も崩壊した神戸の風景と重なって、色が褪せた。 ポストモダンの代表とされ、消費社会的シニシズムを生きてきた日本社会も、いまや消費の欲望すらが希薄となった。 こうした相対的な差異の消費を、かつて磯崎は差異の戯れをもって加速し、原は差異の中の同一を求めて脱出し、篠原は差異の強度をもって切断したのだったが、やがて磯崎は固有の場所へと回帰し、原は共有の意識へと反転し、篠原は固有の形へと凍結する方向に向かった。 日本には60歳をもって循環的な時間がいったん閉じて、再生を果たすという風習がある。これを還暦(暦が一巡してもとにもどること)という。 篠原一男は1985年に、磯崎新は1991年に、原廣司は1996年に還暦を迎えた。 それぞれ篠原は、東工大百年記念館の設計を終え、磯崎はMOCAから始まる世界巡回展とANY CONFERENCEを開始し、原は還暦をはさんで新梅田シティーと京都駅という巨大プロジェクトを完成させた。 ほぼ5年おきの彼らの還暦の年が、90年という日本のもうひとつの節目をまたいだ。85年から90年という日本の有史以来空前絶後の繁栄の時代(バブル時代)をまたいだ。 日本にはいまだ建築批評は欠如している。そして歴史観を持った建築家も彼ら三人以降はほとんど出ていない。おそらく日本において建築批評が予言の形を取 る、という事情は、これまで説明してきた理由以外にも幾らも見出せるだろう。ただそうである限り、批評を担う建築家に歴史観が要求される。そして歴史観を 持つことは自身の中において自己と他者との対話がなされることを前提する。 それぞれの歴史へのスタンスを強引に一言で述べてしまうなら、磯崎は状況史、原は文明史、篠原は個人史、ということになろう。だからそれぞれの言説の射程 が、磯崎は短期的であり、原は長期的であり、篠原は中期的である。磯崎は微分的であり、原は積分的であり、篠原は母関数そのままといえよう。 磯崎は他者そのものであろうとし、篠原はあくまでも自己に固執する。原は他者の誘惑に導かれる予言者となろうとしている。磯崎は世界そのものであろうと し、篠原は自己のうちに世界を築こうとし、原は世界の誘惑に魅了される精神であろうとする。 しかし世界の座そのものは空虚である。引き受けるべき歴史が日本では否定されているからである。心を一つにして民族のアイデンティティーを追求すること が、国際社会において悲惨な結末をもたらす歴史を少なくとも我々は知っており、核爆弾という技術がその物理的な破壊を可能とすることを自ら体験してしまっ たからである。 理想を持たず、理念を持たず、しかし朗らかに未来へ向かって歩んでいくための思想的な支えを、われわれは建築という思想の実践の現場で模索し続けているのかもしれない。そしてそれはそのまま、この3人の予言者から引き継ぐわれわれの使命となるだろう。 竹山聖 (オランダの建築誌「アーキス」1999年5月号より)
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rkwalk2019 · 2 years
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