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#災害遺児
herbalcafeprana · 2 years
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|チャリティーご報告 2022年6月26日に セリオンで開催いたしました ヨガイベントの寄付が 冊子に掲載されましたので ご報告させていただきます みなさまの善意に 厚く御礼申し上げます🙇‍♂️ そしてこのような活動に 関わらせていただきまして ありがとうございました🙏 せば、YOGA!プロジェクトチーム #せばヨガ ー 国際ヨガデー2022 in 秋田 チャリティーヨガイベント 2022年6月26日開催 レッスン料金は無料の代わりに ドネーション(募金)をいただいて 社会福祉法人 秋田県社会福祉協議会 災害遺児愛護基金事業 へ寄付させていただきました #国際ヨガデー #ヨガ #チャリティー #全日本ヨガ連盟 #インド大使館 #福祉 #災害遺児 #秋田県 #秋田市 https://www.instagram.com/p/CiWMVESBaw5/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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shintani24 · 4 months
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2024年2月2日
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貧乏によるストレスは離婚や介護よりも強く健康状態の悪化に関連していることが判明(Gigazine)2024年2月2日
人生には経済的な問題や配偶者との離婚、親の介護といったさまざまな問題が付きまとい、これらのストレスは精神だけでなく健康にも悪影響を及ぼします。イギリスの研究チームが行った新たな研究で、経済的なストレスはその他のストレス要因よりも強く健康状態の悪化に関連していることが示されました。
イギリスのユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンとキングス・カレッジ・ロンドンの研究チームは、さまざまなタイプの慢性的なストレスが高齢者の健康バイオマーカーとどのように関連しているのかを調査しました。
研究には、50歳以上のイギリス人を追跡調査したEnglish Longitudinal Study of Ageing(イギリス老化縦断研究)が2008~2012年にかけて収集した合計4934人のデータが用いられました。被験者は面接や自己記入のアンケートに回答したほか、看護師によるバイオマーカーの採取を受けました。今回の研究に用いられた4934人の年齢の中央値は65歳でした。
今回の研究で調査されたストレス要因は、将来的に必要な経済的リソースが枯渇する可能性がある「経済的なストレス」、過去1年間に私生活で成人の介護を行っていた「介護のストレス」、歩行やしゃがむといった行動に困難がある「障害のストレス」、長年の病気や健康問題により活動が制限される「病気のストレス」、過去2年以内に親や配偶者との死別を経験した「死別のストレス」、過去2年以内に離婚を経験した「離婚のストレス」の6つでした。
また、被験者の健康状態のリスクは、ストレスに反応して産生されるホルモンのコルチゾール、炎症への免疫反応に関連するCRPとフィブリノゲン、老化と長寿に関連するIGF-1という血液中の4つのバイオマーカーを通じて測定されました。
分析の結果、何らかのストレスにさらされていると報告した被験者は、4年後の追跡調査で高リスクのカテゴリーに分類される可能性が61%高まりました。この結果は遺伝的要因や年齢、性別、ライフスタイル、調査開始時点の健康状態といった要因を除外しても確認されました。
また、複数のストレスを持っていた被験者では、ストレス要因が増えるごとに高リスクカテゴリーに分類される可能性が19%増加しました。ところが、「経済的なストレス」のみを報告した人は、それだけで4年後に高リスクカテゴリーに分類される可能性が59%も高くなることが判明しました。つまり、「経済的なストレス」はその他のストレス要因よりも強く健康状態の悪化に関連していたというわけです。
経済的なストレスが健康により強い悪影響を及ぼす理由について、論文の筆頭著者でユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンの博士研究員であるオデッサ・ハミルトン氏は、経済的なストレスは生活のさまざまな側面に関与しているからかもしれないと指摘。経済状況の悪化は家族間の対立や社会的な疎外につながるほか、最終的には飢餓やホームレス状態などに陥る可能性もあるとのこと。ハミルトン氏は、「今回の研究では、経済的ストレスが生物学的健康に最も有害であることがわかりましたが、これを確立するにはさらなる研究が必要です」と述べました。
今回の研究結果は、必ずしもストレスが長期的な健康問題を直接引き起こしていると証明したわけではありません。しかし、ストレスが高齢者の体に大きな影響を与えており、ストレス源によって身体的影響が異なる可能性を示唆しています。
ハミルトン氏は、「免疫系と神経内分泌系がうまく連携して機能すれば、体のホメオスタシス(恒常性)が維持され、健康が保たれます。しかし、慢性的なストレスはこの生物学的経路を乱すため、病気につながる可能性があります」と説明しました。
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被爆者団体「まだまだ戦わなければ」 引き続き「黒い雨」訴訟支援など確認 広島(RCCニュース)2024年2月2日
広島県被団協の代表者会議が2日、広島市で開かれ、引き続き「黒い雨訴訟」の支援などを続けていくことを確認しました。
広島県被団協 恒例の「新春代表者会議」には、県内各地の被爆者団体など、約40人が出席しました。
広島県原爆被害者団体協議会(県被団協)箕牧智之 理事長 「被爆から79年、高齢化でこうした集会は集まりにくいが、戦争犠牲者・原爆犠牲者は、まだまだ戦わなければならない」
現在、被爆者の高齢化で、団体の存続が課題となっています。坂町にある被爆者団体は、高齢化を理由にいったん解散したものの、被爆2世などで再結成し、黒い雨訴訟の相談会のチラシを配る活動などをしたということです。
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原爆投下直後に降った「黒い雨」をめぐっては、援護対象区域を広げた国の新基準でも、被爆者手帳の申請を却下された人たちが、取り消しを求める裁判を続けています。
厚生労働省の有識者検討会では、現時点で降った範囲を判定することは困難だとしていますが、広島県被団協は引き続き、被爆者の救済を国に求めていくとしています。
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「公園内は軍施設と一体でそのメッセージは『戦争』」 被団協の講師団がパールハーバー視察報告 広島市の姉妹公園協定をめぐって(RCCニュース)2024年2月2日
広島市が、平和公園と姉妹公園協定を結んだハワイの「パールハーバー国立記念公園」について、協定に異議を唱えている市民団体が、現地視察の報告会を開きました。
アメリカ・ハワイ州にあるパールハーバーには、アメリカ軍の基地や、1941年の真珠湾攻撃で亡くなった兵士などを追悼する記念館などがあります。
広島市は、去年6月、パールハーバー国立記念公園と平和公園は「共通の理想を達成するために、国際協力と相互利益を促進する」として、姉妹公園協定を締結しました。
被爆者などでつくる団体は先月、現地を視察した報告会で、公園は軍の施設があるため、自由に撮影ができないことなどを紹介しました。
広島市は、姉妹公園協定の対象を、ビジターセンター周辺とアリゾナ記念館など4施設に限定し、軍の施設は含めないとしています。
しかし団体は、対象の施設が、核兵器の威力や開発を誇る軍の記念館や基地と隣り合っていることから、「公園内は一体で、目に飛び込んでくるのは『戦争』というメッセージだ」と訴えました。
佐久間被団協平和学習講師団 山根岩男さん 「『ノーモア・広島』『核兵器廃絶で平和を』と訴えていくことと真逆のような、『油断するな 戦争に備えよ』『抑止力こそ強化すべき』と訴えている」
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広島でしか買えない 人気の「むさし」と「うえの」の弁当 新幹線で大阪に直送(RCCニュース)2024年2月2日
広島でしか買うことのできない人気の弁当を、大阪のイベントで販売するために、新幹線で直送しました。
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広島駅の新幹線ホームです。出来上がったばかりの「むさし」の「若鶏むすび」が、新幹線の到着を待っていました。JR大阪駅で開かれている広島・山口の人気商品を販売するイベントに、新幹線で素早く届けるためです。
記者 「スタッフ用の入り口が開きました。新幹線が停車する1分の間に積み込みが行われます。今、むさしのお弁当が運びこまれました」
「むさし」に加えて「うえの」の「あなごめし」という広島でしか買えない人気弁当を、イベントの期間中、4回新幹線でスピード輸送するということです。
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むさし新幹線店 沖田隆次 店長 「大阪のお客様に召し上がっていただいて、広島に行きたいなと思っていただければ光栄です」
JR西日本は、荷物を早く定時で運べる新幹線の活用を、検討していくということです。
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「私たちの病院を助けて」病床ひっ迫、疲労の蓄積 被災地の医療は課題山積(石川テレビ)
被災地の医療は課題が山積みです。珠洲市の診療所は断水が続き十分な医療が行えていません。奥能登の医療体制は綱渡りの状態が続いています。
珠洲市内にある小西医院。普段は内科、循環器内科、小児科の3つの診療をしています。しかし、今はかかりつけ患者への薬の処方だけです。
小西 堅正院長「(正院地区は)いわゆる電気の復旧も一番遅かったんです。サーチライトやってそれでもなかなかカルテも散らばって診療にならないので、やっぱりこれは無理があった」
地震発生後は停電のため電話も使えず、体にカイロを貼り懐中電灯などで辺りを照らしながら再開に向け準備をしてきたそうです。
電気が通ったのは地震から22日目。今は1日に20人から30人ほどの患者が薬の受け取りにやって来るそうです。
小西 堅正院長「金沢に避難された患者さんから『元気でいますよ』と電話だけかかって来ることもあるんです。無理して頑張っても誰も(珠洲市に)いなくなるんじゃないかなと心が折れそうになるときも実際ありましたけど、そうやって『自分らも必ず戻るから頑張ってね』と言われると、やっぱり自分ももうちょっと頑張らんといかんなと元気づけられる。(人手不足などもあるが)人的支援もいただきながら少しずつ戻していければと思っています」
一方、こちらは七尾市の恵寿(けいじゅ)総合病院。病床のひっ迫に危機感を募らせています。
恵寿総合病院 神野 正博理事長「非常に病床はひっ迫していて空いているベッドは10数床ということで、救急患者を受け入れるためにその10数床をどうやって空けるかを考えながらいろいろと患者の流れをつくっています」
別館の一部で天井が崩落するなどの被害が発生。スタッフのおよそ1割は現在も避難所など自宅以外からの通勤を余儀なくされています。手術や透析などの病院機能はこれまでにほぼ全て回復しましたが、被災地の医療現場では先行きの見えない状況が続いています。
恵寿総合病院 神野 正博理事長「(この病院は)手術などがちゃんと機能しているという意味で、(今後)療養だけの患者さんはここではなくて他のところで受けていただくという形が必要だと思います。職員が非常に疲弊しています。全職員の10パーセントくらいは自分の家以外から、全体の3パーセント程度の方は避難所から出勤しているんですね。全国の病院に呼びかけているんですけども、私たちの病院を助けてくださいと。少し職員を休ませて、そして長持ちさせるということが必要かなと思っています。これからの医療を止めないために、私たちがいま一番必要なのは人材の支援だと思っています」
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2月2日夜、直径約290mの小惑星が地球付近を通過 NASAも監視中(Forbes)2024年2月2日
スタジアムサイズの小惑星が日本時間2月2日金曜日の夜に地球の近くを通過する。そして、そのサイズと地球への接近距離のため、NASAの科学者らは危険がないか監視している。
直径約290mの小惑星が、秒速約18kmで地球から約270万km(月までの距離の約7倍)以内のところを通過するとNASAのジェット推進研究所は発表した。
「2008 OS7」と呼ばれるその小惑星は、太陽を962日周期で周回しているため、次に戻ってくるのは2026年となるが、その次に地球へ接近する2037年では、地球から約1600万kmの距離を通過する見込みだ。
NASAは、地球から約750万km以内に接近する直径140m以上の天体を「潜在的に危険な小惑星」に分類しているため監視している。
地球付近を通過するのは日本時間2月2日金曜日の午後11時41分頃と予測されている。肉眼で見えることはできないが、NASAがバーチャル小惑星トラッカーを提供して小惑星の位置をリアルタイムで伝えているほか、Virtual Telescope Projectがライブ中継を行う。
小惑星は惑星と同様に太陽を周回している岩石質の天体だが、惑星よりずっと小さいとNASAは説明している。約46億年前に太陽系が形成された時の残骸からできている。小惑星2008 OS7は、アポロ群と呼ばれる地球軌道と交差する可能性のある1万8232個の小惑星からなるグループに属している。
近年NASAは、地球に接近する小惑星の脅威をより深刻に捉えている。2022年のDARTミッションでは、小惑星の軌道を変更するテストを行った。NASAは探査機を宇宙に飛ばして小惑星に衝突させ、その公転周期を32分短くした。さらにNASAは、地球に接近しているベンヌと呼ばれる小惑星を研究するミッションで探査機OSIRIS-RExを送り込んだ。同探査機は小惑星の標本を採取し、2023年9月に地球に届けたが、発見内容は未だに公開されていない。科学者らは、ベンヌが2182年に地球に衝突する可能性を信じており、それがベンヌの探査が行われている理由だ。OSIRIS-RExミッションの科学者チームは、ベンヌが2182年に、テキサス州サイズの領域に2700分の1の確率で衝突する可能性があると考えている。Icarus誌に掲載された2023年の論文による。
2月2日に地球近傍を通過する小惑星は2008 OS7だけではない。あと2つ小惑星が近づいている。小惑星2024 BJ3は今年発見された直径約21mの飛行機サイズの小惑星だ。2008 OS7よりもずっと近い86万km以内に接近する。小惑星2024 BP1も飛行機サイズだがやや大きい直径約40mほどで、この中では最も遠い340万km付近を通過する。
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ari0921 · 2 months
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桜林美佐の「美佐日記」(251)
ひたすら「誰かのために」生きた柳澤慎一さん
桜林美佐(防衛問題研究家)
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おはようございます。桜林です。「男もすなる日記
といふものを、女もしてみむとてするなり」の『土
佐日記』ならぬ『美佐日記』、251回目となりま
す。
 現在、放送中のNHKの朝ドラは「ブギウギ」で、笠
置シヅ子がモデルになっているようです。
 あくまで「モデル」になっているだけで、事実と
いうわけではないところが複雑で、常にこの手のド
ラマを観る時は注意が必要です。
 歌われている楽曲が実際に存在するものであった
りするため、本当の話なのか作り話なのか分からな
くなり、困ったものです。
 このドラマには榎本健一(エノケン)と思われる
人物が登場します。そう、言わずと知れた日本の
「喜劇王」です。
 実は、私、かつてエノケンと深く関係する仕事を
したことがあり、そのため、朝ドラにそれらしい人
が登場すると興味深く観てしまいます(と言うほど
ちゃんと観ていないのですが・・)。
 私がどんなことでエノケンさんと関わったかと言
いますと、さかのぼること2003年(平成15年)、
東京の「浅草演芸ホール」にある「東洋館」におい
て「エノケン生誕100年祭」が開催され、私はな
んとその総合司会を務めたのです。
 エノケン夫人を招き、小林のり一さん(三木のり
平の長男)、八波一起さん(八波むと志の長男)、
三波伸一さん(三波伸介の長男)によるコント、前
田憲男さんのピアノで柳澤慎一さんが歌うエノケン
メドレー・・・など、豪華盛り沢山で、最後は私も
皆さんと一緒にステージで「月光値千金」を歌い、
幕を閉じたのでした。
 こうした皆さんと丸一日過ごさせて頂いた経験は、
本当に得難いもので、楽屋でのしきたりなどで失礼
があってはいけないと、その日は知人の芸人さんの
付き人に身の周りの世話をお願いするほど気合を入
れました。舞台裏での張り詰めた空気や緊張感を忘
れられません。
 なぜ、私がこのような大役を仰せつかったのかと
いうと、かつて俳優や歌手として名をとどろかせた
柳澤���一さんとの出会いからでした。
 柳澤さんは介護のNPOを立ち上げ、老人ホームの名
誉館長をされていて、私がその施設をリポートする
仕事で訪れた際に初めてお目にかかったと思うので
すが、悲しいかな、そこから先が思い出せません!
 いずれにしても、きっかけは全く関係のないこと
だったのですが、柳澤さんは、私の恩師が脚本家の
西澤實であり、西澤門下で朗読の活動をしていたこ
とや、懐メロに詳しかったことで「大抜擢」して下
さったのだと思います。
 柳澤さんは戦後、信徒ではなかったようですが、
通っていた教会で宣教師の方と出会い、奉仕活動に
目覚めたといいます。
 進駐軍クラブでジャズを歌い始めたのは、戦災孤
児や障害者の慰問費用を捻出するためでした。
 エノケンに可愛がられ「柳澤をオレの二代目にす
る」と言われていたほどだったといいます。数多く
の映画やドラマに出演していますが、私がリアルで
知っているのは「奥様は魔女」のダーリン役の吹替
です。
 福祉活動をしていたことは秘匿していたといい、
老人ホームの受付にいてもその人だと気付かれるこ
とはなかったようです。
 そんな方が「エノケン100周年」の時だけは恩
返しということでステージでスポットライトを浴び
たのですから、実に貴重な場面に私はご一緒したの
です。
 柳澤さんが一昨年2022年の3月24日に89
歳で召天されたと知ったのは昨年になってからでし
た。
 亡くなってから1年間も公表されなかったのも、
柳澤さんの遺志だったのでしょうか。とにかく「善
行を見せびらかさない」という、手本のような方で
した。
家を売却して福祉活動に投入したという逸話に驚か
されましたが、そもそも芸能界に入ったのは福祉活
動のためだったといいますから、その意味では柳澤
さんが人のためにタダ働きをすることはこれ以上に
ない自己実現だったということになります。
 一流のオーラを持ちながら、絶対に目立たないよ
うにして、ひたすら「誰かのために」生きた柳澤さ
ん。今やその名前を知る人も少なくなっているかも
しれませんが、日本人が忘れないように、こういう
方の物語を朝ドラにしてはどうなのでしょう(ご本
人は嫌がるでしょうけど)。
それにしても、朝ドラのおかげで柳澤さんの命日に
合わせてこのような思い出を書けたわけですから、
観ていて良かった!ということですね。
 
 今日も最後まで読んで頂きありがとうございまし
た。どうぞ良い1週間をお過ごし下さい!
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kennak · 7 months
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鹿児島県の曽於市の病院に勤務していた20代の男性看護師が自殺したのは労災が原因として、遺族は31日、国に対し労災を認めるよう求める訴えを鹿児島地方裁判所に起こしました。 (弁護士)「エッセンシャルワーカーが頑張ってきたことを裁判所がどう評価するか、我々は問いたい」 訴えを起こしたのは、曽於市の病院で看護師として勤め、2020年5月に自殺した当時20代の男性看護師の父親です。代理人弁護士が31日に会見を開きました。 訴えによりますと、男性は2020年4月から働き始め、先輩から受けたパワハラや長時間労働などで適応障害を患い、勤務して1か月後に自殺しました。 遺族は鹿児島労働局などに労災申請しましたが、認められなかったため、国に決定を取り消すよう求めています。 会見では、弁護士が原告である父親のコメントを代読しました。 (父親のコメント)「精神的に追い詰められ自死した息子が、どうして労災にならないのでしょうか?どうしても納得いかない思いがあり、力を振り絞って今回の裁判を起こすことにしました」 病院が設置した第三者委員会の調査報告書は、男性が先輩から「学生じゃないんだよ」「患者を殺すつもり?」などと複数回言われたことや、深夜までレポートを作成して慢性的な睡眠不足になっていたことを認定しています。 しかし、国は「業務による強い心理的負荷があったとは認められない」として、今年8月、男性の労災を認めない決定を出しました。 代理人弁護士は「コロナ禍で心理的負荷がある中、パワハラなどが重なった労災」と主張しています。 (代理人弁護士 古川拓弁護士)「同じ時期にいろんなことが重なった場合は、より心理的負荷は強くなる。裁判所には(コロナ禍当時を)思い起こしてもらい適正な判断をしてほしい」 鹿児島労働局は取材に対し「訴状が届いておらず、現時点でコメントできない」としています。
MBCニュース | 20代男性看護師の自殺��「労災と認めて」遺族が国を提訴 「深夜までレポートで慢性睡眠不足」鹿児島
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jaguarmen99 · 1 year
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フィリピン南部沖でフェリー火災が発生し、少なくとも31人が死亡、14人が負傷し、230人が救助された。当局が30日、明らかにした。  災害当局によると、火災は29日夜、バシラン(Basilan) 州バルクバルク(Baluk-Baluk)島沖を航行していたフェリー「レディ・メアリー・ジョイ3号(The Lady Mary Joy 3)」で発生。  同船はミンダナオ(Mindanao)島からスルー(Sulu)州ホロ(Jolo)島に向かっていた。出火に気付いた乗客は海に飛び込んだという。  バシラン州知事によると、31人の遺体が収容され、うち18人は客室内で見つかった。また、犠牲者の少なくとも3人が子どもで、うち1人は生後6か月の乳児だったという。  行方不明者の正確な数は分かっていない。同知事は乗船者数について、乗客名簿に記載されていた205人よりも多かったと述べている。
比南部沖でフェリー火災 31人死亡、14人負傷 写真8枚 国際ニュース:AFPBB News
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yotchan-blog · 8 days
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2024/5/13 19:00:45現在のニュース
プロ野球、来季は3月28日開幕 セ・パ両リーグともに(毎日新聞, 2024/5/13 18:59:49) 林官房長官「被爆の実相、正確な理解を」 米議員の原爆発言巡り(毎日新聞, 2024/5/13 18:59:49) シャープ、液晶パネル工場停止 テレビ向け国内ゼロに 【イブニングスクープ】 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/5/13 18:52:17) 弾圧強めるミャンマー国軍、市民らの犠牲者5千人に 人権団体が集計(朝日新聞, 2024/5/13 18:47:15) 日本「最南端」オーロラ? 愛知・東栄町の北の空、淡く赤い光を撮影(朝日新聞, 2024/5/13 18:47:15) KDDI、ローソン店舗など1000か所にドローン配備…設備点検や災害対応で活用へ([B!]読売新聞, 2024/5/13 18:46:00) 清水建設が上場来初の営業赤字 24年3月期、民間で苦戦 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/5/13 18:45:34) 東京都の小池百合子知事、つばさの党家宅捜索に「本来の選挙の目的にかなっているのか」([B!]産経新聞, 2024/5/13 18:40:13) 小池都知事、公選法「見直しも必要」 つばさの党の選挙妨害疑い巡り | 毎日新聞([B!]毎日新聞, 2024/5/13 18:39:35) JAL機、停止線越え滑走路に接近 別機が離陸取りやめ 福岡空港(朝日新聞, 2024/5/13 18:38:55) サラリーマンと専業主婦→個人単位 年金水準の示し方、見直しを検討(朝日新聞, 2024/5/13 18:38:55) 胎児のエコー動画を別の妊婦に渡すミス 近大病院で個人情報漏えい(毎日新聞, 2024/5/13 18:38:22) 住民が「記憶頼りに」発見 67年前廃止の「十勝鉄道」駅遺構公開(毎日新聞, 2024/5/13 18:38:22) 「すずめの戸締まり」でカギを握った「要石」、能登の神社では霊石「地震石」に参拝者相次ぐ([B!]読売新聞, 2024/5/13 18:38:00)
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niyuuhdf · 28 days
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トキ/灯彦:『証言』
俺は先祖代々の故郷からは幾分離れた込み入った住宅街の一軒家で生まれ育った。 俺が産まれるって時に、俺の父の実父…つまり行屋のじいさんが単身故郷を離れて近場に越してきた。その理由を「可愛い孫のためだ」とかなんとか嘯いてたが。 じいさんには随分と可愛がってもらったもんだ。 そのじいさんがある時口にした 「俺たちは行灯の火を潜り抜けて現し世に偶然姿を晒しちまった。現し世の人々の目に、俺たちのこの姿が分け隔てなくうつるとは、ゆめにも思わずに。」 歌舞伎は東海道四谷怪談の提灯抜けに掛けたらしい言葉。 それは相変わらずの食えねえ薄ら笑みに紛れ溶け込ませるように、諧謔に包み隠しながらも深い悲哀と悔恨の織り混ざったような述懐であったことを覚えている。 その言葉は、まだ年若い俺の心のもっとも深部にある原風景をそのまま写し出したかのようであったから。
ある画家の手記 Part : 行屋虚彦 
『疾彦の証言』
海辺に故郷の土地があるなんてえのは、一つのもののたとえだと、じいさんは言った。 行屋の人間ーーーー随分と大雑把にして大袈裟で選民的な言い回しだと幼い俺は思ったが、他に言いようがなかったもんかねーーーーは、長く住み着いたそこに多少の愛着こそあれ、土地そのものを故郷だと強く体感してなどねえと。
ここからは俺のじいさんの語ったことだ。語るにも聞くにも死ぬほど退屈極まりねえんで適当に端折りながらじいさんの言葉を復唱する。 じいさんが俺に語ったことは、口伝とも言えねえ、じいさんも朧に伝え聞いただけの昔話 どれだけ眉唾か知れたもんじゃねえ そういう類の話だ
蔵を引っ掻きまわしゃ出てくる家系図では、行屋家は平安の武家まで遡る。かのエリート様、文武両道の色男にして若くに妻と幼児を捨てて旅の歌人の人生を選んだ、あの男だ。さもあらん。 そいつが真実どんな様相で生きていたかは知る由もない。ただ、「なにごとの おはしますかは しらねども かたじけなさに なみだこぼるる」なんて詠むからには、己の心に馬鹿正直ではあったかもしれねえ。 かろうじて行屋の血筋の生き様…様相を伺えるのは江戸から。 記録が片手落ちすぎて話にならねえが、その時代にはもう漠然と血縁同士で助け合い、どうにかこうにか支えあって普通に人里の中で生きていた、らしい。
行屋の血筋の者は見えるはずのないものをよく見た。 見えたものを人里でそのまま口にすれば何が起るかは自明の理ってんで、血縁同士で教え伝え合って戒めあった。見えるものを口にしすぎないようにと。 ごく稀に幼な子がうっかり口を滑らせちまって、ひどい仕置きも暴力も迫害も公然とあったらしいが、 行屋の血筋は遺伝的にそのほとんどが誕生からの発達と発育が異様に早く早熟…これは俺もナナも虚も例外じゃねえ。 だから幼い時分から言い聞かせ、親族の中での教育で悪しき事態を防いで沈黙することで、表向きには何事もなく暮らしていくことが可能だった。 それにも勿論個人差はあったろう、いずれ綱渡りには違いねえ気はするが。
まさに当時から、すべてを沈黙し隠蔽し尽くして生きることには限界があったらしい。なにごとにつけ全てが嘘ってのは具合が悪いもんだ。故に、何かしらが時折りふと見える程度の仄めかしを村の中で敢えて情報開示として行ってきた。 不運にも露呈するような形で知られるんじゃあ、周囲に不安と警戒心を与えて排斥されるってんで。そうじゃなくごく穏当に村の利益に繋がる形にして受け入れさせようと。 結果、この海辺の村では運良く受け入れられつづけたらしい。 村民にしてみりゃあ「ありがたい不思議な力、うまくご利益にあやかろう」てふうに…脅威として認識されることはうまく避けてたらしい。 まだ人知の及ばねえものがそこらを跋扈した時代でもあったろうし、…行屋の人間の立ち振る舞いや言動、人間としての気質もその印象に落ち着かせるのに一役買っただろうと。じいさんは言ってた、若い頃の俺が良い例だとな。 産まれてすぐにしっかりと大きく目が開き、よく笑い、人に懐く、すぐに立って歩き走りまわる、幼児に似つかわしくなく流暢によく喋る、運動神経がやたら良くて、口が達者な笑い上戸、周りを冗談や話術や手遊びで沸かせ賑わわせ、躊躇いなく道化にもなる、華やかにしてごく自然に人の輪の中心となり他者を牽引する、が、すべてを絶妙に抑制し、決して逸脱しすぎず飛躍しすぎず常軌を逸さず、己に人間としての分を弁えさせつづける。行屋の人間の若年期ってのは、代々こんなもんだったそうだ。まったく辟易するぜ、じいさんは学生の頃の俺しか知らねえからな、今の俺のざまを確と見ろと言いたくもなる。
昔の話に戻る。 この目は重宝がられさえしたらしい。村人に失せ物さがしなんかを気楽に頼まれたりな、都度その場で解決、不思議な力に村の皆で感謝しつつ宴会でもひらく、ってなふうに…楽観的で素朴なものとして受容されてたらしい。当然の如く例外はあったろうがな。 当時は30代よりかは多少長く生きてもいたらしい、当時はそれくらいの齢でくたばるのはそこまで異例でもなかったかもしれねえし、海が近いことも有利に働いたそうだ。
時代が進めば、怪奇も不思議も人地を超えた力も身幅が狭くなってくる。 里にも医者が それも西洋医学を軸に学んだ医療が及んだ。 行屋の人間の目と苦痛と短命が、放置されなくなった。 仁と医を尽くしてすべての人間に懸命に長寿を達成させようってえ向きだ。 しかし医者が手を尽くせば尽くすほど、行屋の人間だけは医学じゃどうにもできないことだけが只管に浮き彫りになってくる。
もっと時代が進むと、遠方まで容易に情報が行き交うようになった。 行屋の人間の一部は「霊能者」あるいは「エセ霊能者気取りの不気味で不謹慎な血筋」だってんで、一時期は強烈な迫害と少数の誤った信仰を招いて、非科学的なものを否定する世間の流行の猛威を浴びたらしい。
歳を負うごとに身体の苦痛が増し、自制を欠いた狂躁のような激しい気質を帯び、昂って暴走し、性的快楽に耽り、目には激痛が襲う、瞼を閉じ、家からふらふらと海へ向かって外へ出る、ふっつりと茫然自失になる、そういうさまから、行屋家の人間が遠方へ嫁いでいった先では、家に座敷牢なんて豪勢極まる代物も用意されたとか。
行屋の人間は、自分たちの目にも苦痛にも短命��も、名前をつけなかった。 苦痛は耐え忍ぶ。憐れむならそれを上回る快楽を。故郷の慣わしなんぞ何も知らねえ俺でさえ奇しくも似たような手段を取った。 目の激痛は光を遮断することで少しは和らげられる。暗く閉ざした部屋に行灯一つあれば充分。あとは多くの時間を瞼を閉じて生きるだけ。 今でも里じゃ親戚の中を見渡せば、ずっと瞼を閉じた者や、目隠しをした者がちらほら見受けられる。 今のように「病」だと呼ぶことも定義づけることもなかった。当事者間ではそのような認識ではなかったとよ。血族で似た者同士が群をなすと異質さはかき消える。道理だ。 あとは血族以外との折り合い、順応と適応の世界。 どれほどの苦しみであっても、家内で分かち合える以上それは体質に過ぎねえと。 しかし医学に割って入られると事情は変わる。そこから行屋の人間は「精神病者」と定義づけられて、積極的に私宅監置に置かれることになった。定義づけと命名が必要だったのは、医療を施すためだ。行屋の人間を捉える主体が当人らからそっちへ移ったわけだ。 即刻入院治療とならず私宅監置…座敷牢になったのは、もっと手に負えねえ精神を患った患者が病床を占めてたから。そいつらに比べりゃあ行屋の人間は意思疎通が可能で聞き分けがよく大人しい。
その後、また時代が変わって、医師の側の意識改革と医療の是正が始まった。 外部から調査にきた医師団が、親族の私宅監置の現状を調べて、あまりに杜撰で酷いものが多いことから、病院への入院治療を推し進める流れになった。 杜撰で酷い座敷牢ってえと目を覆うような惨状を思い浮かべそうなもんだが、それは東京って都会のど真ん中からカメラやら取材道具担いでやってきた人間の感覚で、その感覚は間違っちゃあいないが、当事者との齟齬は大いにあったとかなんとか。 おりしも行屋家の住む土地は人の少ない辺境の海辺、危険行為を繰り返す精神病者を完全に病院に隔離することなく開放的な入院治療と静養がかなうとして、里からほど近い静かな海辺に精神病院が建てられた。勿論行屋の人間のみのための病院じゃなかったろうが。
その後、この国の人口が増加したためか知れねえが、そんな海辺の田舎にも一般住宅が押し寄せひしめき合うようになり始めた。「海が綺麗だ」ってのがよそから好んで移り住みたがる人間の主な理由。 そいつらはいうにことかいて、古くから住む行屋を含めた住人も、そこに建つ不吉な精神病院も忌み嫌い、病院側に立ち退きを要求してきた。まあ海沿いのリゾート感覚で住み始めたんだ、そんなもんだろうな。 病院側は、「患者を院外に出さない」ことを条件に立ち退きを免れた。 これは行屋の人間にとって痛手だった。他の多くの患者にとっても自由と尊厳を踏み躙られる大きな痛手だったろうが。行屋の人間にとっては、思いのままに海へ出られない、これこそが痛手だった。 その後の大きな戦争と災害の度に、打撃を受けた精神病院から、一部の行屋家の連中が焼け出されて、そのまま身を隠した。 他の多くの患者は医師との信頼関係によって病院におとなしく留まったらしいが。 身を隠した連中が、海沿いの各地に散って、或いは村にひっそりと戻り、留まったのが、今のお里の実態なんだとよ。
他の地域の海辺で暮らす奴もいるらしい。面識はねえが。望みもしねえが。 海外に飛んだ奴もいるが、皆決して海から離れようとしない、離れ難いんだそうだ。 じいさん曰く、苦痛に耐えられなくなったとき、或いは茫然自失と化した状態で、招かれるように自ら海へ入っていく。そうして自らの火を、もといたあちらへ帰そうとする。火だるまになった身体の炎は海が消火し尽くしてくれる。 幼い頃から、耐え難い苦痛の際には海へ浸かるのがひとつの慣わしであり、自然な行動だったんだと。慣習と衝動のどちらが先だったかは判然としない。 はたから見れば判断能力をなくした入水自殺じみてうつるその行動も、案外現実的らしい。海へ浸かることで身体の苦痛が安らぎ、死に至るまでもなく平然と浜から自宅まで自分の足で戻ってくる場合のほうが多いらしい。 じいさんも七を知ってるが、七が月夜に招かれるように外へ出たがったのは、月より潮と呼応してたように見えたそうだ。
"死の先に帰る場所がある  我々はそこからやってきた  そこにしか我々のよるべはない  死の先に故郷がある  死そのものをのぞむのではない  死後になにかを期待しているのではない  死の先に明瞭な故郷の景色や幻想を抱いているのではない  ただ帰ろうとするときの帰路に偶然死が横たわっている  我々はただ帰りたい  我々は己らの生命、出生、誕生、人生を捉えられない  捉えられないものを無思慮に否定するものでもない  しかし  こちらにきたことは偶然だった  隔てなく人間の身に己がおさまることを知らぬ無知、隔てなく人間の目に我々がうつることを知らぬ無知故にここへきてしまった  その過ちは我々の目を焼き、腑を犯した  我々はただ帰りたい  この由来なき形容し難い感覚を、閉鎖的に、つい近年まで血族とだけ共有してきた  ただ帰りたいだけなのだ  ただ帰してやりたいだけなのだ  どうか行かせてほしい"
じいさんのそのまた祖父さんが遺してった走り書き。遺書か。 「行屋」の姓の字の由来がそんな詩的なもんかは置いといて、 幼い俺にじいさんが零した戯言は、そんなような代々脈々と、連綿と続いた根深い感傷と言いしれぬ衝動に端を発していた。 走り書きの「我々」ってのが何を指してんだか知ったこっちゃねえんで検証にも足らねえが。 俺はそれらを言葉になった上っ面だけで聞き知ったとき、なんの異質さもねえ誰の内にも在るごくありふれた回帰願望の類だと思った。貶めようってんじゃねえ、ただ大袈裟に身内の中だけで秘める必要などなかったものを、ってな。 そういう意味じゃご先祖さんが一等賢い選択をしてる。家族を捨て、出家して、従者もなく一人、諸国をさすらい歌でも詠む、それで結構じゃねえか。 この回帰願望めいたなにか…理論立てれば幾らでも容易く突き崩せる穴だらけのなにか…が代々受け継げるほどに強靭に仕立てられていったのは、身体性…目と身体の苦痛に大きく依拠するだろう。身体の苦痛…身体的な経験の共有は同じ思想や信仰に染めるにもってこいの洗礼だ。おそらくなにより先立ってその身体性があった。 …ただ、「帰りたい」という情緒の言語化…、そこは解せねえ。積極的にそこを言語化して親族間で整えた環境と教育によって伝え刷り込んだという印象は薄かった。 共有したのは具体的な生き延びるすべのほうで、まあ生活様式に規範を揃えりゃそれだけで充分一つの具体的な信仰にはなっちまうが、情緒や思想にはなんの強要もなかったようだ。それよりかは、生来の生まれ持った形容し難い感覚に呑まれて苦しむ者を、血族がなんとかあとから帳尻合わせにそういう戯言を例外的に用いて掬い上げることもあった、程度。 そんな印象を抱いたのは、遠方の親族のことなんざ露知らず育った俺の中にも過去に似たような萌芽があったことを認めざるを得ねえからか、否か。
俺の実父は、俺が産まれる直前になって、抑制の効かない状態に陥ったらしい。意気揚々と里から離れた新天地に移ると言いはり、親族の反対を押しきって実行した。それをその父、つまりじいさんは、淡々と見ていた。 じいさんは、それに賭けた。 じいさんは息子を見張るような建前を身内には示しつつ、息子の移り住んだ土地に自分も移った。 奇矯を装いつつも、俺の父は薄々気付いていただろうとな。親族だけで寄り集まって閉鎖的に同じ場所に留まり続ける、その弊害と欺瞞に。 俺はそこから解き放たれて生まれ育った。虚も。 それは賭けだ。じいさんはその人生の行く末を見届けたかった。 七は大学入学まで里で生まれ育ったが、そこから七を連れ去ったのは俺だ。 その俺が、中学の頃、生家に火を放ち父母もろとも焼き滅ぼした。そのことにじいさんだけが目敏く気付いた、血は争えねえな。 尋ねられたわけでもねえのに、その時俺は動機めいた一言を口走った。嘘偽りない本心だった。「そろそろ帰してやらねえと」…と。
…………
虚の性的快楽への拒絶っぷりは血筋で言うなら異端中の異端だ。
ーーーーーーーーー
曽祖父:
海辺に故郷の土地があるなんてえのは、我々にとっては一つのもののたとえ。 行屋の人間はこの土地そのものを故郷だと強く体感してはいません。 勿論この土地に愛着はあります。何せ長く住み着きましたからな。
これから語ることは口伝とさえ言えない、伝え聞いただけの昔話で どれだけ眉唾か知れたもんじゃねえが…
辿れば平安の武家まで家系図はありますが、今のような様相で生きていたかは知る由もない。 かろうじて様相を遡れるのは江戸までです。 家業は本来なんだったか、記録が片手落ちなもので定かでないが、その時代にはもう漠然と血縁同士であることを感じ取って助け合い、なんとか支えあって普通に人里の中で生きていたようです。
行屋の血筋の者は、およそ見えるはずのないものをよくその目で見た。 見えたものを人里でそのまま口にすれば何が起るかは自明の理。 だから血縁同士で教え伝えました。見えるものを他者に口にしすぎないようにと。 ごく稀に、幼な子がうっかり口にしてしまい村の秘密を暴き、ひどい仕置きも暴力も迫害も公然とあったようですが。 しかし我々の血筋は遺伝的にそのほとんどが誕生からの発達と発育が異様に早く早熟です。 言い聞かせ、親族の中での教育でそのような事態を防いで沈黙し、表向きには何事もなく暮らしていくことが可能だった。 それにも勿論個人差はある。いずれ綱渡りには違いなかったろうが…。
当時から、すべてを沈黙し隠蔽し尽くして生きることにも限界があったとみえます。故に、何かしらが時折りふと見える程度の仄めかしを村の中で敢えて情報開示として行ってきた。 不運にも露呈するような形で知られるのでは、周囲に不安と警戒心を与え、排斥されます。そうではなく、受け入れさせるのです。 結果、この海辺の村では運良く受け入れられつづけた。 さしずめ村民にすれば「ありがたい不思議な力、うまくご利益にあやかろう」てなもんで…脅威として認識されることなく、ごく自然に受け入れられていた。 まだ人知の及ばぬものが許された時代でもあったろうし、我々の立ち振る舞いや言動、人間としての気質もその印象に落ち着かせるのに一役買ったでしょうな。若い頃の疾彦などが良い例です。 あの子はここで生まれ育ったわけでもないのに …否、だからこそだったのか、行屋家の人間の典型そのものでしたよ。幼い頃から見てきましたが。 産まれてすぐにしっかりと大きく目が開き、よく笑い、人に懐き、すぐに立って歩き走りまわり、流暢によく喋る。運動神経が良く、聡明で、口が達者な笑い上戸、周りを冗談や話術や手遊びで沸かせ、賑わわせ、躊躇いなく愛嬌ある道化にもなる、同時に泰然として威風堂々、自然に他者を牽引する人気者、…がしかし、すべての有能さを絶妙に抑制し、決して逸脱しすぎず飛躍しすぎず常軌を逸さず、己に人間としての分を弁えさせる。 行屋の人間の若年期とは、代々このような気質が多かった。
昔の話に戻りましょう。 この目は重宝がられさえした。村人に失せ物さがしなど気楽に頼まれたり、都度その場で解決してみせ、不思議な力に村のみなで感謝しつつ宴会でもひらく、というような…楽観的で素朴なものとして受容されていたそうです。当然ながら例外もありましたが。 我々も、当時は30代より少し長く生きたし、当時はそれくらいの年齢で亡くなることはそこまで異例でもなかった。海辺が我々に環境として合っていたのもある。
時代が進めば、怪奇も不思議も人地を超えた力も身幅が狭くなります。 ここにも西洋医学を軸とした医療が及びました。 我々の目と苦痛と短命が、放置されなくなった。 …そのことを、我々は沈鬱な内心を抱え、それでも静かに時代に従った。 仁と医を尽くしてすべての人間に懸命に長寿を達成させようとする向きです。 しかし医者が手を尽くせば尽くすほど、行屋の人間だけは医学ではどうにもできないことだけが浮き彫りになってくる。
もっと時代が進むと、遠方まで容易に情報が行き交うようになった。我々は「霊能者」あるいは「エセ霊能者気取りの不気味な血筋」として、一時期は強烈な迫害と少数の誤った信仰を招き、非科学的なものを否定する世間の流行の猛威を浴びたようです。 歳を負うごとに身体の苦痛が増し、自制を欠いた狂躁のような激しい気質を帯び、それが昂って暴走し、目には激痛が襲い、家からふらふらと外へ出る、そしてふっつりと茫然自失になるさまから、行屋家の人間が遠方へ嫁いでいった先では、家に座敷牢が用意された。
我々は、この目にも苦痛にも短命にも、名前をつけなかった。 苦痛は耐え忍ぶのみ��憐れむならそれを上回る快楽を。 目の激痛は光を遮断することで少しは和らげることができる。暗く閉ざした部屋に行灯一つあれば充分。あとは瞼を閉じて生きるだけ。 ここに住む親戚の中にも、見渡せばずっと瞼を閉じた者や、目隠しをした者がちらほら見受けられるはずです。 今のように「病」だと呼ぶことも定義づけることもなかった。当事者間ではそのような認識ではなかった。血族で似た者たちが群をなすと、異質さはかき消えます。 あとは血族以外との折り合い、順応と適応の世界になります。我々のうちではどれほどの苦しみであっても、それは体質に過ぎません。 しかし医学に割って入られると事情は変わります。そこから行屋の人間は「精神病者」と定義づけられ、積極的に私宅監置に置かれることとなった。定義づけと命名が必要だったのは、医療を施すため。我々を捉える主体が我々自身からそちらへ移ったわけですな。 我々はそれを静かに受け入れた。
その後、また時代が過ぎて、医師の側の意識改革と医療の是正が始まった。 外部から調査にきた医師団が、我々の親族の私宅監置の現状を調べ、あまりに杜撰で酷いものが多いことから、病院への入院治療を推し進める流れになった。 杜撰で酷い座敷牢と聞くと目を覆うような惨状を思い浮かべられるかもしれない。が、それは東京という都会のど真ん中からやってきた者の感覚です。その感覚は間違ってはいないが、当事者との齟齬は大いにありました。 おりしも行屋家の住む土地は人の少ない海辺であったので、危険行為を繰り返す精神病者を完全に病院に隔離することなく開放的な入院治療と静養がかなうとして、ここからほど近い静かな海辺に精神病院が建てられた。勿論我々のみのための病院ではなかったはずですが。
その後、全国で人口が増加したためか、こんな田舎にも住宅が押し寄せひしめき合うようになり始めました。「海が綺麗だ」というだけの理由で好んで住みたがる人間たちが、各地から集い出した。 その人間たちは、古くからここに住む我々も、そこに建つ精神病院も忌み嫌い、病院側に立ち退きを要求してきたそうです。 病院側は、「患者を院外に出さない」ことを条件に立ち退きを逃れた。 これは我々にとって痛手だった。他の多くの患者にとっても自由と尊厳を踏み躙られる大きな痛手であったでしょうが。我々にとっては、思いのままに海へ出られない、これこそが痛手だった。 その後の大きな戦争で打撃を受けた精神病院から、一部の行屋家の者が焼け出され、そのまま身を隠した。 多くの患者は医師との信頼関係によって病院におとなしく留まったそうですが。 身を隠した者たちが、海沿いの各地に散り、或いはここにひっそりと戻り、留まったのが、今の我々の実態です。
ここだけではなく、他の地域の海辺で暮らす者もいますよ。 海外に飛んだものもあるが、皆決して海から離れようとしない。離れ難いんでしょうな。 苦痛に耐えられなくなったとき、或いは茫然自失と化した状態で、我々は招かれるように自ら海へ入っていく。 そうして自らの命の火を、もといたあちらへ還すのです。火だるまになった身体の炎は海が消火し尽くしてくれる。 幼い頃から、耐え難い苦痛の際には海へ浸かるのがひとつの慣わしであり、自然な行動でした。慣習と衝動のどちらが先だったかは判然としない。 はたから見れば、判断能力をなくした入水自殺じみてうつるその行動も、案外、現実的なのです。海へ浸かることで身体の苦痛が安らぎ、死に至ることなどなく平然と浜へ自分の足で戻ってくる場合のほうが多い。 七が月夜に招かれるように外へ出たのは、潮と呼応していたように見えた。
我々の故郷はここに無い。 死の先に、帰る場所があるように感じている。 我々はそこからやってきた。 そこにしか我々の帰る場所はない、とも。 …この由来なき感覚を、閉鎖的に、つい近年まで血族とだけ共有してきた。 死の先に 故郷がある。 幼い疾彦に私が零した戯言は、そんなような根深い感傷に端を発していたのです。
私の息子…疾彦の実父は、疾彦が産まれる直前になって、抑制の効かない状態に陥りました。意気揚々とここから離れた新天地に移るのだと言いはり、親族の反対を押しきって実行した。 私は それに賭けた。 だから私は息子を見張るような建前を身内には示しつつ、息子の移り住んだ土地に私も一度は移った。 奇矯を装いつつ、息子も薄々気付いていたのでしょう。親族だけで寄り集まって閉鎖的に同じ場所に留まり続ける弊害と欺瞞に。 疾彦はそこから解き放たれて生まれ育った。…虚彦も。 行く末を見届けたかった。 七は大学入学までここで生まれ育ちました。ここから七を連れ去ったのは疾彦です。 その疾彦が、生家に火を放ち父母もろとも焼き滅ぼした。その動機を疾彦は呟くように私にこう一言語った、「そろそろ帰してやらねえと」…と。
それらすべてが間違っていたのかどうかは …………
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takachan · 7 months
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Google Arts and Culture 、安藤忠雄の特集ページ「The Self Taught Architect」を公開
Google Arts & Culture は、日本人建築家の安藤忠雄氏を特集するページ「The Self Taught Architect」を本日 10 月 2 日に公開しました。現役の建築家としても日本人建築家としても初の特集ページとなる本ページは安藤忠雄氏、及び安藤忠雄建築研究所のご協力の元、数年の歳月をかけ作り上げました。 本特集では、安藤氏のこれまでの経歴や建築を志したきっかけはもちろんのこと、その建築における哲学と功績、与えた影響について触れながら、長きにわたって同氏が取り組んできた社会活動にも焦点をあて、安藤忠雄という人物を包括的に紹介します。初期作品である住吉の長屋から、世界各地の美術館、住宅プロジェクトの3Dイメージなどをストーリーや高解像度の画像、ストリートビューなどを通して、安藤忠雄氏だけでなく日本の建築について深く学ぶことができます。(対応言語:日本語、英語) 本特集ページ公開にあたり、安藤忠雄氏からコメントをいただいています。 今、私たちは極めて変化の激しい不安定な時代を生きています。 そして皆、「この世界がどこに向かおうとしているのか」と、答えを必死で探しています。 しかし、こんな時だからこそ、考えるべきは、変わりゆく世界の中でも変わらない、あるいは、変わるべきではない、人間文化の本質、原点ではないでしょうか。 時代の潮流を読むばかりでなく、ときには自ら流れをつくり、路を切り拓いていく覚悟と勇気が必要です。 若い人たちには、とにかく今を精一杯生きろ!そうして、その緊張感を、人生の最期まで保ち続けるべき、内なる力を養え!とエールを送りたい。未来はあなた達が創るのです。 若くない人もそれを眺めているだけでは駄目ですよ。年を重ねても、心は青いまま、目標をもって、希望の光を追う限り、「青春」を生きられるのですから。 老いも若きも変わりません。 目指すはいつまでも熟することなく、挑戦の日々を生き続ける「青リンゴ」の人生です! 安藤 忠雄 2023 年 10 月 2 日 「The Self Taught Architect」 の主な内容 始まり * 建築家安藤忠雄の誕生 * 世界的な建築家でもある安藤忠雄氏ですが、彼は建築を学校で学んだわけではありません。職人の仕事を見ながら育ち、プロボクサーを経て、世界の建築を巡る旅に出ます。このストーリーでは彼がいかにして建築を志したかを紹介します。 * 住吉の長屋:都市に埋め込まれた個の砦 * 安藤忠雄氏の実質のデビュー作である住吉の長屋、都市環境の悪化が深刻化する時代にあって、住環境をコンクリートの壁によって都市から切断し、その内部に自己完結した空間をつくり出す、安藤氏がたどり着いた発想の過程を紹介します。 Row House Sumiyoshi, Tadao Ando, 1976 祈りの空間、自然と建築 * 人々の想いを励まし、寄り添う「祈りの空間」 * 都市に埋め込まれた小さな住宅から自然の中で伸びやかに展開する公共建築まで、安藤氏が手掛けてきた規模も環境も様々な建築の中から、教会や寺院などの祈りの空間に焦点をあて、近代建築が発展させた幾何学的な空間構成を継承しつつ、自然といかに共生するかという安藤氏の目指す建築観を紹介します。 Church of the Water, Tadao Ando, 1988, Photo by Mitsumasa Fujitsuka 安藤建築に住んでみる * 六甲の集合住宅―急斜面に展開する現代の集落 * 急勾配の山の斜面に沿って建てられた、六甲の集合住宅を例に、どのように地形の特性を読み解き、周囲の自然と一体的な環境を生み出してきたのかを紹介します。 Rokko Housing Ⅱ, Tadao Ando, 1993, Photo by Mitsuo Matsuoka 世界各地の安藤建築 * フォートワース美術館 * ガラスに包まれたコンクリートの箱が水庭に面して連続する現代アートのための美術館であるフォートワース美術館をテーマに、20世紀を代表する素材である鉄・ガラス・コンクリートを用いて、いかに現代にふさわしい新たな建築表現を実現したのかを紹介します。 Modern Art Museum of Fort Worth, Tadao Ando, 2002, Photo by Mitsuo Matsuoka 建築を超えて * 未来への贈り物 * 世界的な建築家であると同時に、積極的に社会と接点を持ち、災害によって困難な状況にある子どもたちを支援する震災遺児育英基金の設立や、子ども図書館の建設など、未来に向けた活動を続けてきた安藤氏の活動を紹介します。なかでも、「建築も森づくりも、同じく環境に働きかけ、新しい価値を場所にもたらす」という本人の言葉にもあるように、植樹をとおした環境づくりはライフワークと呼べるほど長年にわたって各地で進められてきました。 SAKURA GARDEN, Tadao Ando, 2006 3D モデル * 城戸崎邸 / 小篠邸 * 安藤忠雄の住宅プロジェクトより、2プロジェクトを 3D化し初公開。360 度、様々なアングルからご覧いただけます。 正式名称 Google Arts & Culture「The Self Taught Architect」 パートナー 3 パートナー:安藤忠雄建築研究所、上野文化の杜、プンタ・デラ・ドガー(五十音順) 展示につ���て * 画像 340 点以上 * 20 以上のオンライン展示 対応言語 日本語、英語 公開日 日本時間: 2023 年 10 月 2 日(月) URL goo.gle/tadaoando ( ※ ブラウザにそのまま記入いただくことでアクセスできます。 ) Google Arts & Culture について Google Arts & Culture は、3,000 を超える世界各地の美術館や博物館(日本においては 100 以上)等が所蔵する作品や文化遺産を鑑賞できるサービスです。2011 年に提供を開始し、ウェブサイトや iOS または Android アプリからアクセスすることで、ゴッホの星月夜、伊藤若冲の樹花鳥獣図屏風、広島平和記念資料館など、700 万点を超える芸術作品や歴史的資料にアクセスすることができます。Google Arts & Culture では、世界各地の美術館や博物館等とパートナーシップを結び、人類の多様な文化遺産に世界中のユーザーがインターネットを通じて簡単にアクセスできるサービスやツールの開発・提供に取り組んでいます。 Posted by Elisabeth Callot, Google Arts & Culture http://japan.googleblog.com/2023/10/google-arts-and-culture-self-taught.html?utm_source=dlvr.it&utm_medium=tumblr Google Japan Blog
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manganjiiji · 1 year
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黙祷同級生
子は親を選べないし、親も子を選べない。不幸な場合に陥った時、もうそれはいかんともしがたい不幸にはまるだけで、解決策がなさすぎる。子は親から離れればいいが、親も子から離れていいと思う。おそらく、ちょっと親子というものにエモーショナルになりすぎだと思う、この国の?人達は。そうなる歴史の素地があるからこうなっているわけだけれども、いい加減、高度経済成長期を経て昔の日本人の価値観とは決別したのだから、そのあたりもべちゃべちゃしていないでさっさと割り切っていいと思う。ただ、それは私たち(20〜30代)が親となる世代からじゃないと難しいのかもしれない。私たちの親世代は、まだ高度経済成長期前に生まれて育っている人がいるから。そういう人たちは旧日本人的な価値観の親にがっつり育てられているから、ちょうど価値観の過渡期を体現している。この人達(50~60代)を親に持つ現代の人は、とにかく家庭でのクライシスが多い。その内訳は世代によって微妙に傾向が違うけれども(若い人の家ほど管理家庭が問題になっている、私たち30代はどちらかというと放置家庭が多かった)、とにかく私たちの親世代というのは、自分の家庭を作る際に大きな歪みを子供に与えている場合が多いと思う。それより前の世代になると、それはそれで旧日本的な別の問題(それは私には良くわからない、体感もないし記録も見ていないから)があり、児童虐待というのとはまた違った趣になると思う。とにかく児童虐待というのは、現代の50~60代が30代だった頃あたりから問題になり始めたのではないかと思う。つまり、1990〜2000年頃に虐待が多く発生していて、その頃に虐待を受けた世代がいま成人し、親世代となって(ただし親になっているケースはあまり見かけない、精神疾患をわずらい独身の人が多い印象を受けている)、より虐待に対しての世の中の感受性が鋭くなっている。虐待を受けた側が、整理し、考察できるような年齢まで生き延びて成熟してきたから、という意味。今日まで生き延びることができなかった人を数人知っている。自殺。精神疾患の果てに希死念慮にやられて死んでしまう。それは自然な状態(たとえばなんの不満もなく生きているが死にたいと思い、フラットにスムーズに死ぬ人はいる)での自殺ではなく、明らかに病死だ。その病気に追いやって死ぬまで追い詰めたのは、親と、助けなかった周囲の大人、つまり社会なので、私は人災だと思っている。その人の周りにいた大人の誰もがその殺人に加担している。「死ぬ」まで行かなくとも、生きることが困難な人の数は死ぬほど多い。もちろん、虐待だけのせいではなく、様々な要因でそうなったのだが、虐待を受けていなければこの人は精神疾患を患っていないだろうなという人はいる。逆に、虐待を受けていても、精神疾患を患わない人もいる。精神疾患には様々なファクターが絡んでおり、とくに遺伝で発症するものは、過去の虐待の記憶と、現在の生活のつらさ、そのふたつに押し出されるようにして遺伝因子が発芽してしまう印象を受ける。その3つ(精神疾患になりやすい形質(遺伝など)、過去の記憶、現在の辛さ)のうちどれかひとつを軽減できなければ病状の快復は望めないと思うのだが、追い詰められてしまうと、というか病状が進んでしまうと、その3つのうちのどれも、軽減することが難しくなってしまう。だからできるだけ症状が軽度のうちに然るべき治療やカウンセリングを受けたり、生活の環境を変えたり、少しでもストレッサーと距離をとる事がよいと思う。
それにしても、遺伝形質は残酷だと思う。が、そもそも疾患や障害の因子を多少なりともみんな持っていて、それらが個性となるのだから、重度ではない場合は、気にしすぎなくてもいいと思う。そしてそれ以外の、生活に支障が出る場合には、やはりかわいそうだ。その場合、親も障害者というか、なんらかの疾患や歪みを持っていることが多く、よけい虐待を受ける確率が高い。虐待というのは、身体的なものだけでなく精神的なもの、子供の成長を阻害するほどの「恐怖感」を植え付ける行為全般のことを私は言っている。マルトリートメントという言葉もある。そうした行為によって、子供の脳はダメージを受け、精神疾患も発症しやすくなる。そうした子らが成長し、今ちょうど20〜30代となって、苦しみと向き合い、耐え難きを耐え、生き抜いている。繰り返すが、生き延びることができなかった人もいる。
子供を虐待から救い出すこと。いちばんいいのは、恐怖を与える存在から引き離すことだが、今の日本社会に、そうした子供たちの受け皿となる場所はぜんぜん足りていない。つまり、かなり多くの子供が、恐怖によって自分を傷つける存在の庇護を受けながら成長するしかない。よほど、つまり、死の危険が迫らない限り、社会は子供を保護しない。結局この国では、血縁者のことは血縁者でどうにかしてくれ、という思想が強く、子供は社会の共有財産という考え方はスタンダードではない。それに本気で親から子供を引き離しまくったとしても、その子供の受け皿が実際的に足りない。子供は1人では生きていけず、庇護者、養育者を必要とするが、その資質や意思がある人は、すでに自分の血縁者としての子供を持っている。だから現状、ある程度はこう言わなければならない。「虐待されても耐えて生き抜け」。最悪な話だ。最悪な話だが、本当に、結局、今、これしかないのである。最悪な話だが、虐待されても耐えて生き抜き、大人になって精神疾患がもう後戻りできないところまで悪化していても、それでも耐えて生き抜かねばならない。私たちはそういう時代を生きている。
養育者から虐待を受けていても、ほかの人間関係、たとえば教師や講師、親戚といった周囲の大人たちや、友人関係が、子供に安心できる場所を一時的にでも与えてくれることがある。重要なのはそれで、虐待を受ける場ではつねに恐怖し緊張していなければならなくとも、学校へ行けば、塾へ行けば、親戚の家へ行けば、どこかへ行けば、一時的にその恐怖から解放されるという体験。その子をまるごと救い出すことはできなくとも、できる限り虐待者と離れて、安心していられる時間を取らせる。その時間にしか子供は「成長」できない。成長というのは、「安全な場所で眠ること」から始まる物語だから。
それにしても、虐待者というのは不思議だ。産んだその時にはその赤ん坊を抱き上げただろうし、乳もあげただろうし、しかし成長するにつれて、つまり相手(子供)がある程度の攻撃に耐えうる体になったと判断する頃には虐待、とくに陰湿なものはエスカレートしていく。自分のストレス解消のためのサンドバッグとして使うために育てるにしては、赤ん坊の時の育児のとき、どのような気持ちだったのだろう。やはりその頃から子供を恨んで憎んでいたのだろうか。それでも赤ん坊が立って歩いて話して学校へ行くくらいまで育てるのだから、人間というのは不思議だと思う。自分の生きたサンドバッグを得るためだけに、その腕に抱いたり、おぶったり、病院に連れて行ったりする。子供が子供として生き延びているというのは、つまりそういうことだ。それとも、いつかの時点では純粋に愛したりしていたのだろうか。または、育児をする自分に陶酔したり、自己憐憫にひたりながら、粛々とそれらをこなし、離乳食を食べさせ、おむつを替えたのだろうか。そこに愛情はなかったのだろうか。行為にともなう愛情は。まあ、もしあったとしても、愛情というのは消えてなくなったり、容易に憎しみに変わったりするものであるのだけど、子供は、「愛情を受けたこと」を体のどこかで覚えているのではないだろうか。それを覚えている子ほど、虐待を受けた場合に、傷つく。とても。子供は親のことが好きなのだ。子供は親に愛されたかった。なぜかといえば、やはり産んで、育ててくれた行為の中で、勝手に愛情を受け取ってしまったからだと思う。そうなるならば、赤ん坊のうちに殺しておいてくれよ、と思うが、なぜか赤ん坊や幼児が殺されることはほとんどない。あったらすぐニュースになる。やはり、養育者はある程度まで、育てるのだ、子を。なぜなのだろう。世間体のためだけに乳幼児の世話を引き受けられるものだろうか。産んだからには育てる。ということを、親は何年かはできるのかもしれない。しかしその何年かが過ぎて、子供が独立した人格を持ち始めると、とたんに憎しみをぶつけてくる。まるでその為に産んで育てたかのように。でも、その為に産んで育てたわけではないだろう。生物としての指令がそうさせるのだろうか。初めのうちは、子供とは親そのものなのかもしれない。それが「別個の人間」であることがわかってくると、養育者(親など)は子供を自分の「持ち物」として、自分から切り離す。
虐待者が、子供の乳幼児期にはどんな感情でどんな育児をしていたのか気になる。
2023.5.31
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unicodesign · 1 year
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建築探訪 淡路島編
思いがけず古墳!からスタートな兵庫2日目の朝。
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五色塚古墳。兵庫県下最大の前方後円墳だそうです。
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淡路島と明石海峡大橋をのぞむ絶好のロケーション。
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観音屋のデンマークチーズケーキを食べて
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明石海峡大橋を渡る。
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まずは本福寺水御堂。
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安藤忠雄設計、1993年の竣工。蓮の池から地下に潜っていく写真を見ては、いつか行ってみたいと思いながら、30年も経過していたことにも驚きました。
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階段をおりきった入り口。打ち放しのコンクリート壁に細い光のライン、模様かと思うような絶妙な位置に落ちていた。帰りには光のラインが移動していて、ほんの一瞬の美しいタイミング。
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朱色の空間の美しいこと。
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本殿は撮影禁止でしたが、本殿の内部の格子と、この外の廊下の格子が重なった時、光の加減で内側の格子が黒く見える不思議。光と影が美しかった。
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お昼にサワラを食し、
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伊弉諾(いざなぎ)神宮へ。
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日本神話「国生み」に登場する二神イザナギノミコトとイザナミノミコトを祀る日本最古の神社。2神が天之瓊矛(あめのぬぼこ)を授かり、引き上げた矛先から滴り落ちた塩の雫がオノゴロ島となったという国生みの神話。2人は夫婦となり、次々と日本列島を作った最初の島が淡路島だそう。
昨年登った鹿児島高千穂峰の天の逆鉾の話に似てる?と思ったら同じお話でした。
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そんなわけで夫婦円満の聖地とよばれるこの神社。夫婦大楠の前での模範的な友人家族。夫婦と、写真を撮る娘。
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このあと、淡路島の南端、南あわじまで車を走らせてくれた友。行きたかった場所にたどり着きました。
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四国まであと一歩、鳴門海峡を見渡す場所に建つ、戦没学徒記念 若人の広場。丹下健三設計、1967年竣工。
まず見えてくるのが石積みの建物、戦没学徒記念館。
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入り口を通り越して
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塔が見える。
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太平洋戦争で戦没した全国約20万人の学徒ら若者を慰霊する高さ25Mの祈念塔。
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HPシェルの曲線。力強くてかっこいい。
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塔の側からは、地面に埋まるように低い入り口が。
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内部。石積みの上にヴォールト屋根が連続しています。
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力強く美しかった。建築に目がいきがちですが、内部には、全国の戦没学徒の遺品などが展示されています。
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来場者の減少により1994年に閉鎖されたのち、阪神・淡路大震災の被害もあり、約20年放置されていたといいます。2008年の日経のネット記事で「廃墟」と書かれていました。その後、南あわじ市が買い取り、2015年に都市公園として再整備されたとのこと。
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こんな場所が無料で開放されているなんて。来られてよかった。
そして本州に戻りつつ、最後にあわじ夢舞台。
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季節的に植物が少ないせいなのか、人が少ないせいなのか、ブルータルという感じでした。とにかくスケールが大きい。
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本州に戻って焼肉を食べて、夜は温泉へ。
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初めての淡路島、満喫した1日でした。建築もすばらしく、玉ねぎ関連みやげもしっかりゲット。兵庫最高です。
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shintani24 · 1 month
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2024年4月8日
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【地震情報】 4月8日 10:25 震度5弱 【宮崎県】宮崎県南部平野部 震源:大隅半島東方沖 M5.2 深さ約40km
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事件・事故の犠牲者の顔写真、生成AIが無断使用…遺族「使うのやめて」・識者「尊厳にかかわる」(読売新聞)
画像生成AI(人工知能)の精度を上げるための学習に使われる膨大な画像データの中に、事件や災害の犠牲者の顔写真が多数含まれていることが、読売新聞の取材でわかった。ニュースサイトなどから収集されたものを無断で使っているとみられる。AIが犠牲者と似た画像を生成する可能性は排除できず、今後、是非が議論になりそうだ。(桑原卓志)
【図解】生成AIを悪用、児童のわいせつ画像も
「再発防止のため」
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「娘の写真がそんなことに使われているなんて」。大手広告会社・電通の新入社員だった高橋まつりさん(当時24歳)を2015年に過労自殺で亡くした母親の幸美さん(61)は困惑気味に話す。
幸美さんはまつりさんを亡くした後、報道各社にまつりさんの顔写真を提供し、SNSでも公開してきた。過重労働の実態を広く知ってもらい、「二度と同じようなことが繰り返されないように」との思いからだ。
しかし、その写真が世界で最も人気が高い画像生成AIの一つ「ステーブル・ディフュージョン(SD)」が学習に使うデータセット(データ群)の中に含まれていた。読売新聞が昨年12月、ネット上で公開されていたデータセットの内容を調べ、見つかった。
幸美さんは「無関係なAIの学習に使うのはやめてほしい」と訴えた。
震災犠牲者も
画像生成AIは、指示を出すだけでイラストや実写と区別が付かない精巧な画像を生成する。画像の精度を上げるため、膨大なデータの学習を必要とする。
SDを開発した英新興企業「スタビリティーAI」によると、SDは、ドイツの非営利団体「LAION(ライオン)」が無償で提供しているデータセットを利用している。
画像データは約58億点に及び、まつりさん以外にも事件や事故の犠牲者の写真が多数見つかった。神戸市で1997年に起きた連続児童殺傷事件の被害児童や、東京・世田谷一家殺害事件(2000年)の家族4人の写真。東日本大震災(11年)などの災害や、米同時テロ(01年)などテロ事件の犠牲者の画像もあった。
データセットの画像は、ネットを自動巡回するプログラムで集められており、収集先にニュースサイトや、そこから転載されたネット掲示板などが含まれていた。
機械的に収集
報道では、事件や災害の被害の実像を伝えるため、犠牲者の顔写真を掲載する場合がある。
一方、画像生成AIが学習に利用するデータセットは、画像の中身を問わず、機械的に無差別に収集されている。そのため、イラストなど著作物の無断学習も問題視されている。
これまでの読売新聞の取材では、児童買春・児童ポルノ禁止法に抵触する恐れがある実在児童の性的画像もデータセットに含まれていることが明らかになった。
専門家によると、AIが学習した画像と似た画像を生成する可能性は排除できない。犠牲者の名誉を傷つけるような画像が生成されたり、生成された画像が偽情報の発信に悪用されたりすることもありうる。
スタ社はメールでの取材に対し、「(希望者が申請をすれば)学習対象から除外できる仕組みがある」と回答した。しかし、データセットに犠牲者の顔写真が含まれていることの認識や見解については、回答がなかった。
死者のデジタルデータに詳しい関東学院大の折田明子教授(情報社会学)は「事件や災害の教訓を訴えるため、犠牲者の顔写真を公開した遺族からすると、AIの学習に使われることは想定外で、死者の尊厳にもかかわる。公益性がある報道とは異なる。AI開発企業が『申請があれば除外する』という対応では不十分だ」と指摘する。
一方で、無断学習の問題とは別に、亡くなった家族をAIで再現したいという需要が今後高まる可能性がある。折田教授は「AIが普及する中、遺族感情や死者の尊厳をどのように守っていくか、社会全体で議論する必要がある」と話した。
画像生成AIに関するご意見や情報を大阪社会部にお寄せください。
神田敏晶(ITジャーナリスト・ソーシャルメディアコンサルタン���)提言 ウェブサイトのようにクロールさせたくないページには『noindex』を設定できるように、画像や動画にも『noindex』という概念が必要なのかもしれない。しかし、ウェブニュースの場合は、表示されることによっての広告収入があるので難しい。画像AIが学習する場合、オリジナルをそのままではなく、3種類以上のデータの合成が必要などと重み付けを加える、または学習データに対して見返りを与えるなどのいろんなバリエーションを考えてほうがよい。
また、個人の場合は、学習されたデータから削除依頼がかけられるなどの展開も必要だろう。AIに学習させたくないデータのデータベースビジネスも必要とされていると考えたほうがよい。
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イラン、慎重に報復検討か 「弱腰」回避で強硬論も イスラエルと直接衝突望まず(時事通信)2024年4月8日
イランの「革命防衛隊」隊員の葬儀で燃やされるイスラエル国旗=5日、テヘラン(AFP時事)
【イスタンブール時事】イスラエル軍がシリアの首都ダマスカスにあるイラン大使館領事部を空爆してから8日で1週間。
イランは「罪を後悔させる」(最高指導者ハメネイ師)と明言しつつも、これまで目立ったイスラエルへの反撃を控え、報復の時期や規模を慎重に見極めているとみられる。イランは強力な報復を訴える声が国内で強まる一方で、イスラエルやその同盟国の米国と直接衝突する事態は避けたいのが本音で、どこまで強硬に対抗すべきか苦慮しているもようだ。
▽標的や規模焦点
1日に起きた攻撃では、イランの精鋭「革命防衛隊」の司令官らが死亡。特に、殺害された対外工作部門「コッズ部隊」のザヘディ司令官は、イスラエルを敵視するレバノンのイスラム教シーア派組織ヒズボラやシリアの親イラン勢力と緊密な重要人物だった。革命防衛隊は6日、「シオニスト(イスラエル)やその支持者への懲罰に対する国民の求めを満たすことを保証する」と改めて宣言した。
今後の焦点は、報復の標的に加え、その規模や手段だ。米CBSテレビは、イランが今月10日前後のイスラム教ラマダン(断食月)明け前にも、無人機や巡航ミサイルでイスラエル外交施設を狙うとの情報を米政府が得ていると報道。CNNテレビも、米・イスラエル両国が「幾つかの方法」による大規模な攻撃に備えていると伝えた。
イランは主導権を握る保守強硬派を中心に主戦論が強まる。大使館を狙った異例の空爆は本国への攻撃とも見なされ、「弱腰」と映る報復ではハメネイ師やライシ大統領ら体制指導部への不満に直結する。一方で、イスラエル領内へ弾道ミサイルを撃ち込むような前例のない作戦は両国の軍事衝突を誘発し、中東全域に戦火が拡大しかねない。
▽攻撃応酬の懸念
イランが隣国イラクやシリア、レバノンなどの親イラン組織を利用し、イスラエルや米軍基地への攻撃を強める可能性もある。1月にはヨルダンで親イラン勢力の無人機攻撃により米兵3人が死亡。米軍が報復し、緊張が高まった。ただ、ロイター通信は米当局者の話として、大使館攻撃後に親イラン組織が米兵を狙う兆候を示す情報はないと報じた。
報復の一環で、核開発強化に乗り出す恐れも指摘されている。イスラエルはイランの核保有を嫌い、同国内で核科学者暗殺や核施設への破壊工作を続けているとされる。核武装の脅威が高まればイスラエルや米国が強く反発し、緊迫の度が増すのは必至。イスラエルのネタニヤフ首相は4日、「単純な原則に沿って行動する。われわれに危害を及ぼそうとする者には、われわれも危害を加える」と警告している。
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イラン“48時間以内”攻撃の可能性…イスラエルが備え 米WSJ紙が報じる(テレ朝news 4月12日)2024年4月8日に追記
イスラエルは、イランによる48時間以内の国内への報復攻撃の可能性があるとして準備しているとアメリカメディアが報じました。
アメリカの有力紙「ウォール・ストリート・ジャーナル」は11日、関係者の話としてイスラエル政府は24時間から48時間以内に、南部または北部を狙ったイランからの攻撃に備えていると報じました。
その一方で、イラン政府指導部から情報を得た関係者の話として、「攻撃は協議されているものの、まだ最終的な決定は下されていない」と伝えています。
1日、イスラエル側によるとみられるシリアのイラン大使館への攻撃以降、イランは報復を示唆していて、緊張が高まっています。
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dempameat · 1 year
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一人生き残った先生を追い詰めたのは、本当は誰だったのか。
先生から校長に宛てたメールや手紙、生存した生徒の「裏山に逃げようと訴えた子もいた」証言を握りつぶしたのは誰なのか。
埋まらない遺族と学校や行政の溝を埋めるために、文科省が用意した第三者委員会の面々、彼らと行政側の偶然では片づけられない繋がりとは。
そして第三者委員はなぜ執拗に津波の到達時間の記憶を早めたがったのか。
さらに説明会の席で遺族の問いに答えかけた者に向かって、同じ行政側の人間が人差し指を唇に充てた。この行為が意味することとは。
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kennak · 2 years
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米ニューヨーク州のキャシー・ホークル知事は 9 日、ポリオのアウトブレイクに対し州内全域での災害事態を宣言する行政命令に署名した (Ars Technica の記事)。 州内のロックランド郡では 7 月、ポリオウイルス潜伏期間内に渡航歴のないワクチン未接種の住人に麻痺性ポリオの症例が 1 件発生し、経口生ポリオワクチン (OPV) 由来のポリオウイルス (VDPV) 2 型であることが確認された。これを受けて下水サンプルを調査したところ、ロックランド郡・オレンジ郡・サリバン郡で 4 月 ~ 8 月に採取した下水サンプルからこのウイルスと遺伝的に密接な関連を持つウイルスが発見されている。 一方、州内では COVID-19 パンデミックの影響やワクチン忌避の増加によりポリオワクチン接種率が低下しており、2 歳児のワクチン接種率は州全体で 78.96 %、これよりも大幅に低い地域もある。州政府は州内自治体のアウトブレイク対応やワクチン接種推進などを支援し、感染拡大防止に努める必要があることから、行政命令の発出に至ったとのことだ。
米ニューヨーク州、ポリオによる災害事態を宣言 | スラド サイエンス
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fda-blog · 1 year
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「縄文時代について(後編)」~竹末の読書メモ④
お待たせしました!昨年10月のブログ配信以来、久しぶりの投稿です。 前回(2022年10月末)のブログでは、縄文時代は、日本の古墳時代から21世紀の現代までの1700年間の8倍以上の13000年の長さであることの概要をお話しました。また、弥生時代というのは、わずか800年です。なんと1/16の短さです。・・・と言っても、現在を生きる我々からするととんでもない長さなのですが・・・
さて、青森市郊外の青森湾に注ぐ沖館川の右岸台地上にある「山内(さんない)丸山(まるやま)遺跡」はご存じでしょうか? ここでは、戦後、小規模な発掘は行われていましたが、1992年に県営野球場の建設をきっかけに大規模な事前発掘が実施されました。縄文時代前期中頃から中期(今から5500年ほど前にあたります)までを中心に、約1500年続いた大規模集落の遺跡です。その広さは35ha(東京ドームが7.5個分)、ここだけで500人近い人びとが住んでいたと言われています。1994年には、直径約1mのクリの巨木を、4.2m間隔で6本立てた大型掘(ほった)立柱(てばしら)建物跡が見つかり、同年8月には公園の計画が変更され、遺跡として保存されることになったところです。
考古学者の説によりますと、一万5千年ほど前の日本列島は、現在より温暖であったようです。したがって、現在の日本列島の北部地区での縄文遺跡の発見が続いたために、長い間、北方起源と考え���れていました。その根拠は、①縄文時代の初期に東北日本を中心に数多く分布した、大型で特徴のある石槍や石斧などが北方系であること、②かねてより、縄文文化が東高西低であると考えられていたこと、などの理由から、「縄文文化は北から南へ伝播し、弥生文化は稲作を中心に、ゆっくりと北上した」と考えられていました。 ところが、近年、種子島も含めた南九州で、約一万一千年前に噴火した桜島起源のサツマ火山灰の下から、続々と縄文時代初期(草創期)の遺跡が発見され、北方起源ではすまされなくなってきたのです。 筆者の住んでいる昭島市の隣にあきる野市がありますが、その多摩川沿岸では縄文遺跡が発掘されています。そもそも昭島市では戦後、200万年前のクジラの骨が発見され、昭島市の市立図書館に隣接する郷土資料館にはクジラの骨や多数の土器が展示されています。今の東京湾から昭島市あたりまで海だったと推定されています。つまり、日本国中にはまだまだ発見されていない縄文遺跡が眠っているのかもしれませんね。
さて、唐突ですが、【図2】に「縄文カレンダー」というものをご紹介しましょう。 國学院大学名誉教授の小林達雄氏(現在85歳)が提唱されたもので、縄文文化の食料の季節変化を円に描いて表わしています。縄文人が、季節の変化を考慮して、計画的な労働を展開していた様子がよくわかります。
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図2:縄文カレンダー(國学院大学名誉教授・小林達雄氏提唱)
縄文時代の前半の住居形式は、地面を掘りくぼめた「竪穴式住居」の中で寝起きしていました。後に向けて、次第に「平地式」が増加していきます。 食べ物は、主に自然から集めており、クリやクルミ、トチ、ドングリなどの堅果(けんか)類、シカ、イノシシなどといった陸獣、タイ、スズキ、サケといった魚類。また、甘み不足を補うために、アケビやコクワ、ヤマブドウ、そして昆虫食も食べていたとされています。 堅果(けんか)類は地面に穴を掘って貯蔵もしていたし、ハマグリなどは、いったん煮てから干し貝にしたり、魚や肉類も干し魚や干し肉、燻製にして保存食品にしていたようです。
道具としては、東日本域では、石刃を素材とし、主に手持ちの槍の先として使用されたと推定。 ナイフ形石器類は、北海道、東北、関東などに多様な地域に存在が認められています。 土器の出現は、北と西でほぼ同時期に出現したとみられています。しかし、北も西も大陸からの伝播の痕跡はなく、列島各地での発祥とみられています。 土器の持つ歴史的な意義は、ものを入れる容器としてよりも、煮沸具としての方が大きかったようです。 動物のスジや頬肉など硬い部位の肉、草菜の植物繊維なども煮込むことによって、柔らかくなり食べることができるようになりました。また、熱を加えることによって、人体に有害な物質を除去することも可能になるので、重要なデンプン質の供給源であるトチやドングリ類も食料資源として十分に利用できるようになりました。また、貝類や魚類を土器で煮ただろうし、獣骨を煮て骨髄からスープを取り出したりもしただろうとも言われています。
土器が利用されるのは、なにも食料を調理する場面だけではなく、たとえば、植物の繊維を柔らくするために湯に長時間浸け込んだり、アスファルトを溶かしたりするときにも用いられました。また、ウルシの精製をしたり、染料や顔料も焼成・煮沸し、接着材や塗料としても活用していたと言われています。
樹木についてですが、ナラやクリは縄文時代全時期を通じて重要な植物とされています。特にクリは実が食用にもなる一方、樹木は建築材料にも使われていました。それは比較的加工が容易であることと、耐久性、保存性に優れ、特に水湿に強く腐食しにくい性質があるからです。当時の人々はそれらの特性をすでに知識として獲得していたと思われます。集落の周辺にクリを意図的に植栽し、群生させ、これを管理していたと考えられています。
次に社会構造について触れてみたいと思います。 前期あたりの社会構造は母系的な社会であったと推定されています。というのは墓の人骨分布とそのDNA鑑定から、男性が集団内に婚入してくるような社会構造を有していたことが分かっています。 昔の女性にとって、出産は死の危険がともなう一大事だったでのしょう。江戸時代でさえ、出産の15%くらいは死産で、無事に生まれても、5歳までにおよそ1/4が死んでしまったと言われています。
超自然的で不可解なことを解消し、さまざまな願いを成就するために、縄文人は、祈りを捧げていたようです。森羅万象・万物に生命・精霊が宿ると考え、神格化した、あるいは人と同様な生き物に畏敬の念を持ち、その心を静め、災いを避けるために祈っていたようです。 万物への崇拝、つまり祈りを具体的に表すために、日を決めて行う儀礼である「祭祀」を行い、それを行う建物や墓地を含めた場が「祭祀場」であり、用いられた道具が「祭祀具」と言われています。 土偶は女性を表わし、とくに妊娠の姿を表わすことが多いことから、豊穣を祈る祭祀具であるとされてきましたが、これについては、ある芸術家が異を唱えており、機会があればご紹介したいと考えています。
「七歳までは神の子」といわれて、幼くして死んだ子どもはカミに返すため、葬式もせずに川原や村のはずれに捨て、あの世に送るのが通例であったとされています。 縄文人は、現代人がゴミとして遠ざける物を、汚い物、邪悪な物、遠くに捨てる物とは考えず、逆に自分たちに恵みを与えてくれた物として感謝を込めて送っていたようです。この時期、住居の入口に土器を埋めて乳幼児の遺体を埋め、再生を願うのが一般的な習俗であったとされています。 集落内には、貝塚・ゴミ捨て場・盛土遺構などと呼ばれるゴミの処理・送り(祭祀)をした場所が発見されています。ここは単なるゴミ捨て場ではなく、彼らに恵みを与えてくれた食べカスや、役目を終えた道具類に感謝を込めて、火を焚いてカミの世に送る所であり、現世は良かったと報告させて、また再び戻って来るよう祈ったとされています。
縄文人も様々なアクセサリーを身に着けていました。先日(2022年10月20日)に、NHKBSプレミアムの『英雄たちの選択』で放映されました「追跡!古代ミステリー“顔”に隠された古代人のこころ」でも、貝殻を刳り貫いた腕輪のようなものや、現代のアフリカ原住民が顔に化粧をしているような事例を紹介されていました。たとえば頭飾りとして、漆塗りの櫛や骨角系製の笄(こうがい)、耳飾り、鹿角製の腰飾り、トリの長管骨やイノシシの犬歯による足飾りなどで、装身具の着装は他者との差異を表わすと同時に、同じ装身具を着装することで、他者との同一性を示していたようです。まだ言語というコミュニケーションツールが確立していない状況であったでしょうし、そういった形で差異化をはかっていたのではないでしょうか。
ヒトの移動、渡海ルートは、朝鮮半島から北部九州の西回りルート(現在の瀬戸内海は陸続きだった)、沿海州からサハリンを経由して北海道(一部は新潟、富山、島根まで到達)へと至る北回りルート、そして南西諸島を北上してきた南回りルートが考えられています。舟は丸太を刳り貫いて造ったとされ、最近でも木を刳り貫いて造った舟を再現し、縄文時代の海洋交流を実体験している研究者もおられるようです。
以上、一万5千年以上前から一万3千年以上続いた縄文時代の生活について概説してきました。まだまだ謎の部分が多いのですが、ほとんどのことがわずか百年程度の研究で推察されてきたに過ぎません。彼(彼女)らが、現代の生活を想像することはまったくできなかったでしょう。自分たち人間の創ってきた文明の利器で自然を破壊し、同じ人間同士が殺戮を繰り返すことなど予想だにできなかったでしょう。 遥か昔のことを知ることによって、いろいろ考えさせられる良い機会となりました。
以上、前回と今回までで、ご意見やご要望があれば、下記メールアドレスに送信ください。 [email protected] 【筆者・竹末俊昭…一般社団法人ファブデザインアソシエーション【 FDA 】理事長・元拓殖大学工学部デザイン学科教授】
参考文献: ・「縄文の生活誌」岡村道雄*(講談社学術文庫、2008/11第一版発行) 岡村道雄氏*:1948年生まれ、東北大学博士課程修了、東北大学、東北歴史資料館、文化庁等歴任
・「縄文時代の歴史」山田康弘**(講談社現代新書、2019/01発行) 山田康弘氏**:1967年東京生まれ、筑波大博士課程中退、人類学者
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yotchan-blog · 2 months
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2024/3/30 9:00:54現在のニュース
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ishuran · 1 year
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Vol.156 あるの?ないの?妊娠目的での乳がんホルモン療法中断の再発リスクへの影響
「クリスマス寒波」、厳しい寒さとなりましたね。日本海側・北日本・西日本の皆さまは、例年より早い時期での大雪で大変な思いをされているかと思います。
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【記事1】術後療法の価値を何で判断すべきか?肺がん領域の現在最もホットな議論とは
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12月初めに肺癌学会の学術集会に参加してきました。
その中で、一番熱い議論が交わされていたセッションが、”緊急企画”「術後補助療法EGFR-TKI」です。
この企画の背景あるのが、オシメルチニブ(製品名タグリッソ)という抗がん剤の、EGFR変異陽性非小細胞肺がんの術後療法としての適応の取得です。
 ■「アストラゼネカのタグリッソ、早期EGFR変異陽性肺がんの術後補助療法として適応拡大」(アストラゼネカ株式会社) 
EGFR遺伝子変異陽性は、非小細胞肺がんの40%程度を占めると言われており、このタイプの肺がんに特異的に効果のある抗がん剤が、EGFR-TKI(EGFRチロシンキナーゼ阻害薬)と呼ばれるものです。
EGFR-TKIの第一世代としてゲフィチニブ(製品名:イレッサ)という薬がありまして、がん細胞の遺伝子変異に応じた治療(=個別化医療)の先駆けとなった薬剤です。
(発売当初は薬害騒ぎで大きなニュースになってしまったので、そちらで記憶されている方も多いかもしれませんが…)
イレッサ等のEGFR-TKIの第一世代や後続の第二世代は、再発・進行症例に対する効果は抜群なのですが、早期EGFR陽性肺がんの術後療法として決定的な再発予防効果を示せたものはありません。
オシメルチニブ(タグリッソ)はEGFR-TKI第三世代で、再発・進行症例では第一世代より優れた効果を示して標準治療となっていますが、術後療法でどうかを検証したのが、ADAURA試験です。
この試験の第2回解析がESMO2022(欧州臨床腫瘍学会)で発表され、主要評価項目であるStage II/IIIAのDFS(無病生存期間)中央値で、オシメルチニブ群65.8ヵ月vsプラセボ群21.9ヵ月(ハザード比0.23)と、圧倒的な差で有効性の優位性を示しています。
ADAURA試験に基づき、欧米のガイドラインでは既に明確に推奨されているのですが、この度、日本では承認はされたものの最新のガイドライン上で「推奨不能」という扱いとなりました。
これが、どのような議論の末そのような判断になったのか、レビュー&討論の機会が学術集会の中で緊急に設けられた、というのが冒頭の緊急企画です。
色々な論点が示されていましたが、きっちり推奨されなかった一番の要因は、OS(全生存期間)上でのベネフィットがまだ明確ではない、という点です。
OS(全生存期間)は、ADAURA試験でも副次評価項目になっているので、今後フォローアップの結果は出てきますが、当然ながら数年単位の時間はかかります。
では、本当にDFS(無病生存期間)ではなく、OS(全生存期間)を術後療法の効果指標のゴールデンスタンダードと考えるべきなのか?、というのが私が議論を通じて感じていた疑問です。
ここに対して良い示唆となる論考がちょうど出てきたので、要旨を長文ですが紹介したいと思います。
 ■"You're Cured Till You're Not: Should Disease-Free Survival Be Used as a Regulatory or Clinical End Point for Adjuvant Therapy of Cancer?”「完治していないとされるまでは完治:癌の術後療法の承認上/臨床上のエンドポイントとして、無病生存率が使用されるべきか?」(Journal of Clinical Oncology) 
>>
術後療法が治癒をもたらす可能性があるということが、この議論の本質です。治癒目的で手術を行った後、その後のフォローアップ期間中、その患者は治癒とみなされ続けるか、再発を経験するかになります。従って、患者の観点からは、再発するまでは治癒している可能性がある。進行がんの場合、患者の関心はいつまで生きられるかにありますが、術後療法の場合、患者の関心はむしろ治癒の可能性、すなわち再発/再燃のない生活を続けられるかどうかにあります。このような観点から、患者の立場からは、術後療法におけるエンドポイントは、治癒が最も重要で、次にDFS、そしてOSが続くと考えるべきです。臨床医としては、患者さんにとってDFSとは、無病息災(つまり、治癒した状態)で、長期的に治癒への期待を意味することを理解する必要があります。ある意味、DFSは治癒のサブカテゴリーで、身体的、心理的、社会的な生存やQOLの基本的な側面と密接に関係しています。このような理由から、術後療法や術前療法の研究において、DFSはOSよりも重要ながんアウトカムであると我々は考えています。
>>
私もこの論旨に全面的に賛成で、なるべく早期に日本の肺がんガイドラインも見直しが入ることを希望します。
最後に3点ほど。
まず、学術集会の中でこうしたセッションを設けられたこと自体、大変素晴らしいことと感じました。議論が密室のみで行なわれるのではなく、堂々と戦わされるのは学会としての健全性を示しています。
2点目は、ガイドラインの改訂タイミングが2年に1回とか3年に1回という「今までのやり方」は、現代のがん治療の進展速度を考えると、変えていく必要があるというものです。
確かに、ガイドライン作成には多大な労力がかかるでしょうが、書籍の発行ペースを基準にしているから上記のようなやり方になっているのであって、Web上でもっとタイムリーな対応をしていかないと、「ガイドライン」の存在意義自体が問われかねません。
最後に、本セッションに患者さんの立場の方が不在だったのは勿体無かった、ということは声を大にしたいです。そもそも、ガイドライン作成の場に患者さんも入っているべきではないのかなと。
DFSやOSが患者さんの人生にとってどのような価値や意味があるのか、という観点は、患者さんが一番の当事者な訳ですから。
肺癌学会は、患者さんとの協働という意味で先進的な取り組みをしている学会と認識していますので、こうしたセッションに患者さんが参加できるよう、今後の善処を期待したいです。
※本項執筆時点(2022年12月26日)で、筆者はオシメルチニブに関して、特筆すべき利益相反はありません。
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【記事2】あるの?ないの?妊娠目的での乳がんホルモン療法中断の影響
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乳がんは比較的若年で罹患する可能性が高いがんであり、その約7割は「ルミナール」と呼ばれるホルモン陽性(HER2陰性)と呼ばれる、女性ホルモンによって増殖するタイプです。
このタイプの乳がんは、術後5年や10年といった長期間に渡って、女性ホルモンを抑制する「ホルモン療法」を行なうのが標準治療となっているのですが、治療中は薬による催奇形性(胎児への悪影響)があるため、避妊が必要とされています。
従って、妊娠出産を希望される方は、治療を中断する必要があるのですが、その場合再発リスクが増えるかもしれないという恐れと向き合わなければならず、難しい判断を迫られる状況が続いていました。
そこで、一定期間治療を中断し、妊娠出産をトライした場合の治療効果への影響を検証する国際共同臨床試験「POSITIVE試験」が企画され、その初の結果発表が、先日SABCS(サンアントニオ乳癌シンポジウム)でありました。
 ■「妊娠を希望するHR陽性乳癌女性に内分泌療法を中断しても3年再発リスクは高くならない可能性【SABCS 2022】」(がんナビ)
「対象は、術後内分泌療法を18-30カ月受けたI-III期HR陽性乳癌で、再発したことのない、妊娠を希望する閉経前の42歳以下の女性。登録前1カ月以内に術後内分泌療法を中断しており、3カ月間のウォッシュアウトを含め、内分泌療法を最長2年まで中断した。妊娠、出産、授乳後は、5-10年間の術後内分泌療法を完了するため、内分泌療法を再開することが強く推奨され、その後、長期経過観察が行われた」
わけですが、結果、3年時点のBCFIイベント発生率(再発と同義と考えてください)は8.9%で、これは他試験で同様の患者背景でホルモン療法を中断しなかった場合の発生率と同等、となりました。
3年時点のBCFIイベント発生率ということで、比較的短期間ではありますが、妊娠を試みるための内分泌療法の中断は再発リスク上昇には繋がらないことが示されたわけです。 
妊娠を希望する患者さんにとって「再発リスクが増えるかもしれないという恐れ」が軽減されるという意味で、目に見えない価値が非常に高い、素晴らしい試験結果だと思います。
本試験は前述したように「国際共同」臨床試験で、世界各国から517人が参加していますが、日本からも62人参加しており、日本での臨床上でも十分応用可能な試験結果と言えそうです。
本試験参加者の詳細内容を知りたい方は、↓をご参照ください。
 ■"Who are the women who enrolled in the POSITIVE trial: A global study to support young hormone receptor positive breast cancer survivors desiring pregnancy”「POSITIVE試験に登録された女性とは:妊娠を希望するホルモン受容体陽性の若年乳がんサバイバーを支援するための国際共同研究」(ScienceDirect)
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