2: こちらハートのクイーン(2/3)
ペアと後輩がどこにいるのかと思えば食堂で普通に楽しそうにお茶していたのでさっさと完食させて最上階まで引き立てた。翔成は正規会員ではないので本来ゲストカードなしに使ってはいけないのだが、どうせ会員たちもバッジをつけないことがままあるので後輩の姿は工夫することもなくその場に紛れていた。
莉梨に呼ばれたことを伝えながら会長室に戻ると、何か言い合うような、女の子同士の会話が聞こえる。
少し迷いつつ、二重扉を押し開けたとき、
「――瑠真ちゃん待って!」
「うーっ!!」
二つの声が同時に鼓膜に突き刺さった。動物のような、と呼ぶにはさっきよりはいくぶん人格の存在を感じる唸り声だった。けれど同じように、黒髪の女子高生が瑠真に肉薄している。
瞬間的に足がすくんだ。莉梨の傍から浴衣をはだけさせて駆け寄りながら、彼女は会長室の机に置かれていたカップを片手で掴み、武器のように振りかぶろうとする。
場数というかペアのほうが反応が早くて割り込むように瑠真を押し退けた。瑠真もはっとして拘束用ペタルを練る。が、
「〈だめ。止まって〉」
莉梨のりんとした声が響いたとたん、浴衣の少女が動きをとめた。
目の前でぴたりと立ち止まった彼女は、まるで踏み出す力を失ったみたいにがくんとよろめいて手を下ろした。
「〈落ち着いて、武器を置いて〉」
床の上にかしゃんとカップが落ちた。燃えていた彼女の目がゆっくり、炎の消えるように平常に戻っていった。
ようやく、変にぎらついた光のない、理性のある瞳で彼女と向かい合った。
少女は沈黙していた。少女にしてはやや筋肉質な印象もあるが、丸腰の、普通の女の子だ。さっきまでの怒りを持て余したように、頬は赤く染まっていて、こちらを見据える瞳を外すことはない。
「やっぱり特殊な方式の洗脳でも受けているのですか? 〈戻って。ここに座って〉」
莉梨は立ち上がって、背後から少女に手のひらを向けていた。その声が強く響くと、少女はわずかに唇を噛んでゆっくりと背を向け、音もなく莉梨が指した茣蓙の上に戻る。
望夢が力を抜いて場所をあけた。まだどきどきしながら壁沿いに会長室の中に入る。
「歌じゃなくても言うこと聞くの……?」
「そういう立場に置きました。私の言葉にだけね」
あまりに強力な命令状態に戸惑った瑠真が疑問を口に出すと、莉梨が少しのあいだだけ目を離して簡単に答えた。
「女王のカリスマと仮称しています」
「何、それ」
眉をひそめるが、莉梨は集中を少女に戻したらしくレスポンスが遅れた。邪魔するわけにもいかないのでもどかしい沈黙が落ちる。
代わって横から静かな解説口調が飛んできた。それだけなら予期の範囲だったが、口を開いたのは意外というか、後輩の少年の日沖翔成のほうだった。
「莉梨さんの独自術式です。おれも電話づてで多少勉強したくらいなんですけど。『ハートの女王とタルトのジャック』、マザーグースの一編を取って、『罪人』認定した相手を強制的に改心させるカリスマ術式……」
後輩の整然とした説明口調にも驚くものがあったが、それ以上に内容の不穏さに眉根を寄せる。つまり敵に言うことを聞かせる力っていうことでいいのか。
「翔成くん、説明ありがとう。正確には、『私を害することができない』のが女王のカリスマです」
莉梨が真面目な口調で向こうから同意を寄越した。
「さっきのうちに『言うことを聞いてくれないと私の心が痛む。私はそれで死んでしまうかも』って言い含めておきました。効果を見る前に瑠真ちゃんが入ってきたから、十分かどうかひやひやしたわ」
浴衣の少女がぎりっと奥歯を噛み締める音がここまで聞こえた。理由は分からないが聞く胸がざわざわする。
莉梨が振り向いて、少女に話しかけた。
「あなたの名前は?」
「スズ。寿を重ねて、寿々」
最初の発言だった。ごく論理的な普通の口調だ。声音としては、少女としてはやや低めかもしれないが特段変わったものでもない。
「寿々ちゃん。あなたが私の〈ジャック〉です、いい?」
どんな顔で眺めていいのか分からなかったのでペアのほうを振り向いたが、瑠真より多少は詳しいはずの相方の少年もこのあたりは初耳のようで肩を竦めた。仕方がないので壁際から動けないままとりあえず静観することになる。
「寿々ちゃん、自己紹介を」
「……倉持寿々(くらもちすず)、一七歳。扶桑高校の二年」
「扶桑ってあの、有名な女子校ですか? ふむ。ええっと、それがどうして七花(なのか)中の門前で待ち伏せなんか?」
莉梨は不思議そうな顔をして、すぐに核心的な質問に踏み込んだ。寿々は答えるというより、俯いて、ただ相手の言葉と、己の内にあるもので葛藤する痛みをこらえるような顔をした。
「そこの女の子が、七花西に通ってるって聞いた」
全員の視線が瑠真にちらりと向いた。瑠真は思わず後ずさりかけた足を踏ん張って、ごくりと唾を飲んだ。
「私?」
「……明確に、あの子を狙っていたってことでいいのですか? 彼女のフルネームは言える?」
「……七崎瑠真」
知られている。空気が凍っていた。
瑠真の心臓が早鐘を打つ。喉元に感情の塊がせり上がってくる。
「あのさ」
その塊に押し出されるように口を開いていた。
「アンタは、何を考えてるの?」
寿々の瞳がこちらを見た。またぎらりと双眸が光る。
「アンタは、何?」
空調の静かな音が白い部屋を満たした。
どうして私なのか、と思っていた。彼女が瑠真を見る目に明確に意思がある。この子は……この、迷いのない視線は、何なんだ。どうやったら、そんなに。
少し遅れて、莉梨がもぞりと身体を動かした。それで気が付いた。たぶん莉梨に直接帰属する質問ではないから、寿々には答える強制力が働かないのだ。けれど浴衣を着せられた黒髪の少女の瞳には、何か葛藤するような色が勝手にひらめく。
葛藤は一瞬だった。自力で覚悟を決めたらしく、真っ直ぐにこちらを見た少女の瞳には、最初に見たような、明確な怒りの炎が傲然と燃え盛っていた。
「私は倉持寿々だわ。それ以上でも、それ以下でもない」
「なんで」
「なんでそんなことが言えるかって? あなた、どんな人間かと思って会いに来てみれば、ずいぶん軟弱で、ひよひよの赤ちゃんね」
「何?」
声が裏返って詰まった。初対面の奇襲犯がなんて言った?
寿々は莉梨によって座らされていた場所からふらふらと立ち上がって、床を踏みしめた。数メートルの距離を挟んで少し高い目線が対決するように迷いなく挑んだ。
「私、自分のために世界を捨てたのよ。私ひとりになって裸で向かい合ってるの。そうやってこの身体の全部で人を好きになった」
ざわり、と会長室の空気が揺れた。それは瑠真の心象の問題だったのか、それとも全員がぴくりと反応した総体の結果だったのかは瑠真には分からない。
何を言っている、この少女は?
「私はただの倉持寿々。嘘、名前だってどうでもいい。ただ、好きな人を好きなだけの私。そのつもりで……そのつもりで、戦うつもりで来たのに、あんたはずいぶんつまんない奴ね!」
「寿々ちゃん!」
莉梨が論理的な答えを要求するように、手厳しく口を挟んだ。彼女に向かって白い手のひらを向けると、寿々が力を削がれたようにがくりとよろめいた。
だが彼女はその場で踏みとどまって今度は莉梨を睨んだ。莉梨がその視線を受けて初めて、ぱっと怯んだように肩を強張らせた。
「あんたもいい子ちゃんなお人形さんだわ、ホムラグループ」
聞いている瑠真のほうがぎょっとする台詞だった。莉梨にはたてつかないんじゃなかったのか。
寿々は折れようとする足を支え、目を逸らそうとする頭を縛り付けるように、全身を震わせながら莉梨を見据えていた。その顔のうえにも、違う種類の感情がないまぜになって入れ替わるような小刻みな変化が何度か行き過ぎる。けれど視線だけはぶれない瞳の中から、何ともつかない透明な涙がひとつころんと零れ落ちた。
「ホムラグループもそこの女も、仲良しこよしばっかりで馬鹿みたい!」
思ってもみない言葉だった。そこの女と示されたのはたぶん瑠真だ。瑠真は人と仲良くしようとした記憶がないし、莉梨に至っては今日が初対面だ。
思ってもみない――的外れな言葉なら無視すればいいだけなのに。なぜか足が竦んで――
寿々は一体、何を見ている?
「〈女王に向かって不敬です!〉」
外から鋭い言葉が飛んだ。
それは莉梨が唱えるような不思議な響きを帯びていたが、莉梨からではなかった。莉梨は寿々の言葉に叩かれたみたいに手を差し出したままぼうっとしていて、その叫びに我を取り戻したようにさっと頬を赤らめて振り向いた。
日沖翔成が瑠真の隣から踏み出していた。斜め前の望夢のあたりに並び、寿々に右手を向けている。何か効果を持っていたのかただ驚いたのか、とにかく寿々はばちんと口を噤んだ。
近くにいた望夢も隣を見てゆっくりまばたきしている。
「翔成、お前」
「おれ、たぶん、汎用からの推測しかできませんけど。莉梨さんのカリスマ演出効果って、他者由来でも働きますよね?」
後輩はそこで咳ばらいをした。瑠真には何も分からないが、つまりホムラグループの方式の妖術というやつなのだ。少年は改めて、台詞を読むように仕切り直す。
「だったらおれは〈ハートのキング〉、でしょう? これ、恥ずかしいな。莉梨さん、自分でやってください」
「……ええ、うん、ありがとう」
莉梨が頬を紅潮させたまま姿勢を正した。改めてスカートを翻すと、寿々を見つめて一言一句、ゆっくりと唱える。
「〈私は女王、あなたはジャック、ケーキを盗んだ罪の人。悔いて改め、罰を受け、女王の命を受けなさい。〉寿々ちゃん、はっきりさせておきましょう。あなたの好きな人というのは、何?」
当てつけのごとき質問だった。莉梨のペリドット・アイと見つめ合う、寿々の瞳にはいっぱいの涙が溜まっていた。きっとせめぎ合う痛みをこらえる顔。
ただただ見ているしかなかった瑠真のほうが、一瞬心臓が焦げた。ぜんぜん分からない、寿々が言っていることも気持ちも何も理解できないけれど、……こんなことを、言わせてもいいのかって。
あなたの好きな人。それはきっと、瑠真だったらまだ訊こうとも思わない世界のことで。
「カノ」
答えは、端的だった。
寿々は今にも気を失いそうな蒼白な顔に、一片の迷いのない強さだけを込めて、もう一度その名前を繰り返した。
「ヒイラギ会の、『ワールドエンド』カノよ」
×××
古人が愛を語った末に死ぬとか水に入るとか、正直暇を持て余した知識人一流のジョークなんじゃないかと長いこと思っていた。人生経験そう長くないが、他人がどうのを言う前に命の危険が多い生き方だ。個人的な好き嫌いはあれど、それより我が身を優先するのは生物の前提だと高瀬望夢は思っていた。
あんな死にそうな顔をして他人(ひと)の話をする人間が実在するんだな、とそういう感想を呟く。
「それはおまえの視点も特殊な感じがするよ……」
「カナお前、何わかってんだよ」
「カナ言うな」
ペアの後輩の少年に、気の抜けたタメ口で呆れられた。先輩ぶってつま先で小突くと嫌がって押し退けられる。
それ以上ふざけている気分でもなかったので、ふうっと息を吐いて椅子に背中を預けた。
「翔成、汎用帆村式ってやってんの」
「……あー、ええ、理論だけ」
椅子の背に頭をひっくりかえしてごろんと横に向けた。静かになった布団の上に浴衣で黒髪の女子高生がすうすうと寝息を立てている。
「じゃあお前があいつの思念判定するとか、そういうこともできるんだ」
「理論だけ、って言ったじゃないですか。具体内容読むとか、そこまではまだ。薬物補助使えば別ですけど」
否定の説明を聞き流しかけて、それから頭を起こした。「薬物?」
「前のと違って危なくはないので安心してください。適当に使っちゃいけないだけ。おれ、最初にバイタライザーから生成入ったから、類似の刺激を与えたら集中がしやすいみたいなんですよね。どっちかっていうとペタル式の理論になっちゃいますけど」
ペタル式、バイタライザー。二か月前までずぶの素人だったはずの少年の口からなめらかに業界用語が流れ出してくる。それはつまり彼の世界解釈の形成を示していた。
二十世紀以降の人類に最も広く浸透する解釈ベースは自然科学だ。自然科学的法則に対し、他の解釈、他の世界の捉え方を容認した人間は、しばしば外れた現象を引き起こす。これが歴史慣習的に総称として異能と呼ばれる。概ね、それら思想の内容をおおまかに括って分類したのが勢力だ。
ざっとした傾向として、自身の内の想像に信を置くのが協会式。逆に外部現象の解析を基準にするのが高瀬式。翔成が選んだはずの帆村式なら、どちらかといえば、他者の目に映る世界の在り方を軸にして世界を形成することになる。
他者の目に映る世界。
「ヒイラギ会は、」
その名を口にしたとき、声音が少し乾いていた。
「どういう思想ベースなんだろうな」
「知りません。訊いてみたらいいんじゃないですか」
翔成は淡白だ。が、解析情報が命になる秘術師の望夢としては、敵対者の解釈理論は常に最も知りたいものの一つだった。
カノ、と言った浴衣少女の声音をもう一度再生する。ヒイラギ会のために動いていることは間違いなさそうだ。だが、介入していた莉梨が一度、それ以上の引き出しを打ち切った。寿々の脳処理が一度限界に近づいていたからだ。
でも、こっちだって休憩が必要だった、と望夢は思う。
それは望夢にとっても多分に不吉な焼き印として心臓を焼いた。ヒイラギ会のカノ。
今朝聞いたばかりの不穏な話。南天決起会とヒイラギ会の線対称。
「瑠真にはこれ以上聞かせたくない」
ぽつんと呟く。後輩は細く、長い息を吐いて、おそらく、突き放した諦めのようなものを示した。
「瑠真さん、前にも言ってました。もしかして、山代さんってやつの関係ですか?」
「……たまたま、名前が似てる。二文字なんて重なってもおかしくないけど」
「だけど、意図があるって疑ってるんですよね」
瑠真は部屋をあけていた。
帆村莉梨は気を遣ったのか、彼女を追いかけて様子を見に行っている。
不憫だな、と思う。あの強気な暴れ猫が、完全に「これは駄目だ」という蒼白な顔をして部屋を出ていった。「ちょっと席あける」と変に淡々とした口調で言い残して。「すぐ戻る」
莉梨が再び寿々を眠らせ、瑠真を追っていってからすでに十分。手を洗いに行ったとかの話ではたぶんもうない。
「誰が主導してるのかまだ分からないけど、めちゃくちゃ悪趣味だ。ちらつかせてくる内容が、ぜんぶ俺たちを刺激するために作られてるようにしか思えない」
「『俺たち』って?」
「だから瑠真と、俺。あと春姫も」
「……共通の知り合いなんですか? 差支えなければ聞いても?」
「え。そっか」
目を緩慢にしばたいた。ほんとうに詳しくないのだ。そういえば高瀬家と違ってホムラグループには山代姉妹をことあるごとに気にする積極的な動機は特になかった。こと翔成が関わった五月のヒイラギ会騒動についても。
「妹が瑠真の友達。今は行方不明だ。会員だったから春姫も認識してる。姉は……俺の知り合い」
「名前が似てるっていうのは?」
「姉が華乃。だけど」
「騙りで釣ってる可能性もありますよね?」
「本人なわけがない。華乃は死んでる」
普通に返事したつもりだったのに自然と強い語調になった。
「華乃とか、美葉乃とかっていう名前を使ってあいつらがこっちをからかってるんだ。調べれば出てくるよ、あいつら去年八月のニュースで名前出てるから。っていうか」
好きな人って。と続けかけて、自分でぱたんと口をつぐんだ。人の惚れた腫れた自体にどうこう言える立場ではない。
単純に、倉持寿々の瞳の強い光が気になっていた。莉梨も「洗脳」と疑っていた。
首謀者が誰にせよ、それがいちばんきな臭い。望夢が公平性を旨とする警察出身だからそう思うのかもしれないけれど……個々人の「好き」「嫌い」っていう感情を係累にして勢力を構築するのは、外法だ。暗黙の禁じ手だ。
そんなことはないと信じたいけれど。眠る女子高生をぼんやりと眺める。
「おまえも」
ふいに翔成に声をかけられた。翔成は基本的に敬語を使うけれど、望夢に対しては最初がそうだったから気恥ずかしいのか人称や呼び方がやや無遠慮だ。
「おまえももっと悩んでいいことじゃないの」
その口調で、伝えられた言葉が何を示しているのか分からなくてしばし固まった。
「悩んで?」
「悩んでっていうかさ。おまえは瑠真さんが心配だって言うけど、おれからしたらおまえも心配ですよ」
「……、そう」
そうかなと訊き返しかけて、でも一般人に近い感性をもった翔成からすればそうかもしれないと思い至った。知り合いの名前を騙って釣られているのは望夢も同じだ。高瀬望夢は生まれたときから出会う相手出会う相手、一年後には生死なんかわからないだろうという前提をもって生きてきた。たぶんそれは現代日本社会においてあまり常識的ではない。
「俺は平気だよ。慣れてるから」
平易な言葉でそれを説明したつもりだったが翔成はあまり信用の伺えない目をしていた。
「慣れちゃだめだよ、そんなもの」
迷いのない言葉だ。静かな声だった。会長室に他の聞き手はいない。
望夢は後輩を黙って見つめ返した。勢力戦における後輩である翔成はときどき、ひるがえって普通に生きていくための人生にかけては、自分より先輩なのかもしれないと思うことがある。
それをいちいち言葉にすること自体が傲慢なのだと思うけど。
×××
やってしまった、ついに。鏡に向かって心の中で言う。
「瑠真ちゃん」
追いかけてきた莉梨が明るい声で呼んだ。「ああ、うん」肩を強張らせて振り向いた。女子手洗いの入り口ドアから金髪の頭が覗いている。
「あの寿々って子、置いてきていいの」
「眠ってるのを確認しましたし、望夢さんと翔成くんが見張ってくれてますから。お邪魔じゃないですか?」
桃色の扉をするりと潜って入ってきた莉梨が、通路すぐにある休憩椅子に腰かけた。瑠真も断りがたいのでしかめっ面をしつつ隣に座ることになる。
「気を遣わなくても、平気だよ。ちょっと考え事をしてただけ」
「いえ、私が不勉強なので教えてほしいと思って来たのです。寿々ちゃんの言い分をどう思うかってことについて。もう一回質問を始める前に」
滑らかに述べられた莉梨の言葉が的確に瑠真の面子を立てていた。さすがに思念操作とか大声で言うだけあるな、と瑠真は苦々しく思う。やってしまった、って、会長室で狼狽を見せたあとに思ったのだ。個人的な動揺で話の腰を折り、流れを断ち切ってしまった。みんな冷静だったのに。莉梨はそのあたりのフォローに来たのだ。
「ヒイラギ会ね。分かんないよ」
ひねくれた口調で答えを探す。
「なんで私に……狙ってやってるなら、いい趣味だなって思う」
「怖くないですか?」
「実感がない。だって何もしてこないじゃん」
名前を知ってから今日までの二ヶ月。あるいはその前の二ヶ月。
「むしろ来るなら迎え撃って、正面から何が何だか訊いてやるって思ってた。だけど何もなくて、今になって知らない女の子なんか寄越して」
「なんで瑠真ちゃんが、とは私は思いません。私だって瑠真ちゃんのことはずっと気になっていたからです」
莉梨はしっかりとした口調で言った。
「むしろ不思議なのは、どうやってあなたを見つけたのか、のほうです」
「……」
「ヒイラギ会の活動以前にあなたがしたことは、せいぜい三月の秘匿派対戦に参加したことです。それは春ちゃんも秘匿派警察も黙っていたし、監視はあったとしてもあなた一人に注目が集中するのは不自然。たぶん春ちゃん、あの夜協会から信用できる所属者をこぞって駆り出したでしょう? 私が春ちゃんへの牽制として選ぶのなら、もっと有名なペアにします。望夢さんへの、というのなら分からなくもないけど……」
そこで少し言い淀んで、
「いいえ、あんまり分かりませんね。当事者の誰かから直接聞いたのでなければ、瑠真ちゃんは当時のペアとしてあの場に呼ばれていた程度の認識になるでしょう。それに、あの時点以降、望夢さんは完全に権威から切り離された一個人になっている。ヒイラギ会が対象をあなたに決めた経路は、そこではないと思います」
莉梨は後半から早口になって言い終えた。ずっと聞きやすいと思っていた莉梨の説明がそのあたりから分かりづらくなったので瑠真は顔をしかめた。
「つまり、どういうこと? 私は大したことやってないのになぜかあの寿々って子に恨まれてるって話じゃないの」
「……だから、そこに個人の感情があるような気がする、ということです」
莉梨は何か間違いを指摘されたかのようにさっと頬を染めて慌てて言い足した。言い分自体は寿々の言葉から連想したものに近くて瑠真はぐっと奥歯を噛んだ。
「客観的利害だけではあなたまで行き着かない。ごく私的な人間関係を経由して興味を持つような存在なんです、あなたは」
それが何か、と考え始めるとどつぼにはまる。
莉梨の意見を訊こうとして顔をあげてから、莉梨が口を滑らせたとでも言いたげに綺麗な瞳をぱちぱちさせて逸らしてしまったことに気が付いた。怪訝な顔で目の前の女の子を見つめる。これは帆村莉梨が、ヒイラギ会について考察しているというよりも、なんとなく、
「莉梨ちゃんの話?」
「きゃん」
変な声をあげて莉梨が小さくなった。別に責めたつもりもなかったので瑠真のほうが困る。
「そう聞こえましたよね。自分のことになっちゃってすみません」
「いや、いいけど……でも逆に、言いたいことがあるんだったら言って……」
莉梨はこれではヒイラギ会とかいうやつに共感を示しているように見える。身柄を狙われている瑠真としてはあまり心穏やかではない。
莉梨はしばらく迷うように視線を泳がせていたが、やがてこほんと咳ばらいをすると、背筋を伸ばして前を見た。瑠真のほうではなく、向かいの壁の洗面鏡を見つめるような恰好だ。
色素の薄い頬がほんのりと桃色に染まっていた。
「私、ホムラグループ内でも友達少なくて。八歳のとき、望夢さんに会って、初めて同い年で、同じ立場の友達ができたって思ったんです」
「……あー」
八歳の高瀬望夢。というビジョンが思い浮かばなくて一瞬取り残されたが、なるほどそういえば八歳なら当然望夢は高瀬家の跡継ぎ的なポジションのはず。ホムラグループ社長令嬢の莉梨と同じ立場といえばそうだろう。ペアとして雑に付き合っているとそのあたりの設定(設定?)を忘れそうになる。
それ以前に、莉梨に友達がいなかったというのが意外だった。瑠真には笑顔でぐいぐい来るのに。
「だけど、次に会ったら、あの人、立場がぜんぜん変わってたでしょ? 莉梨とおんなじ大きな名前の責任者だと思ってたら、いつの間にか複雑な立ち位置になってるし、本人が代表とかじゃなく個人を名乗って飛び回るようになってるし。びっくりして事情を聞いて……それで、瑠真ちゃんのことを知ったんです。どこの誰でもない、ただ自分であるだけのあなたを」
「え。次に会ったときって、いつのこと?」
「すみません、語弊がありました。あの人の出奔を聞いて調べたのが先。二回目に会ったのは、今日です」
「二回目?」
瑠真の声のほうが裏返った。学校帰りに合流した望夢と莉梨の態度を思い出す。もっと気心が知れているのかと思った。
「八歳で初対面で、次が六年後……」
「そう」
顔だって忘れてしまう、と瑠真は思う。いや莉梨に会っていたら目立つから覚えていられるかもしれないけれど。八歳のときにそもそも友達と呼ぶほどの友達がいなかったので瑠真が比べるのは無粋かもしれない。
十歳で会って去年まで一緒にいたあの子にだって、何を感じていたのか分からなくなりつつあるのに。
気が滅入りそうだったので早めに切り上げた。
「じゃああの寿々って子、何を勘違いしたんだろ」
雑談に飛んでいた話の軌道を修正するつもりで、会長室のやり取りに意識を戻した。莉梨がきょとんと振り向いた。
「勘違い?」
「仲良しばっかりって。私あれ、莉梨ちゃんが違う勢力とずっと仲良くしてるからだと思ってた。ばっかりって……言うほど、じゃないよね。春姫とも喧嘩してたし」
正確には春姫が一方的に威嚇して喧嘩モードだったのだが、表現を省いた。協会と仲良くしているというほどのことには当たらないはずだ。他にもやや後ろ暗い部分をわざと省いたのを言い終えてうすうす自覚した。違う、そういえば、自分にも何か言われていたのを棚に上げている……
莉梨にそれを指摘されるかと思いながら伏し目をあげると、莉梨は固まっていた。
「莉梨ちゃん?」
「あっ、はい」
停止モードから再起。
「寿々ちゃんについては、もう一回きちんと調べましょう。その結果として、何が出てくるかまだ未知数だけど」
莉梨は立ち上がってスカートの皺を伸ばすように裾を払った。そのまま戸口に向かう。話を誤魔化されたような気がする。
「私は戻るけれど、瑠真ちゃんはどうしますか。一緒に話を聞きますか」
「決まって……」
追いすがって廊下に出ながら、勢い込んで肯定しかけたが、ぱたっと返事をとめた。
廊下の正面の大窓の端に、ひらりと合図のような手のひらが翻ったような気がしたのだ。自然と足をとめて見つめると、反射光に黒髪の少女の姿が映り込んでいた。春姫だ。
廊下から繋がる階段の踊り場の壁に背中をもたせて、窓越しにしいっと人差し指を立ててくる。
莉梨の角度からはちょうど見えないのか、彼女は気づいていないらしい。振り向いて示すのもためらわれて黙っていると、瑠真が迷っていると受け取ったのか、莉梨は事務的な口調を作った。
「正直な話、寿々ちゃんはあなたを見ると平静を失います。正しい情報を引き出すなら、離れていてくれたほうがいい」
お題目なら要らない、と言葉は浮かんだが、言いきれなかった。春姫のことも気になったし、同時に寿々の強い目も思い出す。目覚めれば何度でもあの視線を向けられる。尋問には邪魔だというのも正しいだろう。それは何度でも、こうあろうと思ってきた瑠真なら立ち向かわなきゃいけない敵のような気がするけど。
あの目に、どうやって勝ったらいいのか、まだ瑠真には分からない。
「私」
せめて鍵をひとつ伝えておこうと思った。声が震えないように押さえられたかどうか。
「誰かが、私の友達の名前、勝手に使ってると思う」
ヒイラギ会のカノ。聞き覚えのない電話の声。八月の女の子っていう謎かけ。一年間消息のない美葉乃。
莉梨はどこまで知っているのかまだ分からない。けれど、その一言を聞いてぱっと理解が及んだように金髪の房を跳ねさせた。
「分かりました。あなたはどこかで待機していて。情報が出たら持っていく。友達のこと……任せてください」
任せてください。そう言われて少し違和感はあった。瑠真は何も美葉乃の面倒を見るような立場にいるわけじゃない。
「大事な友達なんですね」
莉梨が言った。
違う、と言おうとして、じゃあ何なのか、自分で分からない。
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