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#伝説への序章
102ka0fficial · 2 years
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忘れてしまったが!! @umayahompo_sakura に本日も突撃‼️ 今回はさいぼしと赤身と特上赤身で! 帰りにはTVにでているASAHIの蓋付きビールを購入して社宅へ戻りました! ちなみにお酒は社宅の先輩が呑んで美味かったと言ってました! 私は馬刺しとさいぼしで体力回復を努めてみました! 美味い❗️ #馬刺し #さいぼし #生ジョッキ缶 #アサヒスーパードライ #夏 #体力作り #夕飯 #社宅 #社宅暮らし #いいね #馬肉 #大阪 #出張 #遠征 #色々 #楽しむことが大事 #まだまだこれから #伝説への序章 https://www.instagram.com/p/Cf1P5pfr8-3/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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japaneseschooltokyo · 6 months
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外国人にとって日本語を学習することは、私たち日本人が想像する以上に大変なことで...
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bsamngodangbralba · 5 months
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小町数人説をめぐって
陽明文庫に中世の小町の絵がある。絹本着色、縦六一・六センチ、横四一・七センチの絵を表装してあるのだが、軸心近くの裏面に「小野小町像 貞治六秊六月廿五日」と、まさしくその頃この筆跡にて記されたものが付加されている。表装そのものもそんなに新しいものでないが、表装するにあたって、この絵に本来ついていた紙をここに付加したものであろうことは、その字がまさしく貞治頃〈一三六二〜一三六七〉この事跡であることが疑いもないからであろう。
ところで、この絵は「小野小町像」となっているが、まさしく「玉造小町子壮衰書」によっている。「容貌ハ憔悴シテ、身体ハ疲痩」、「頭ハ霜フリタル蓬ノ如ク、膚ハ凍リタル梨ニモ似タリ」、「骨ハ辣チテ筋ハ抗クナリ、面ハ黒クシテ歯ハ黄バミタリ」、「裸形ニシテ衣ナク、徒跣ニㇱテ履ナシ」、「左臂ニハ破レタル筐ヲ懸ケ、右手ニハ壊レタル笠ヲ提ツ」、「頸ニハーツノ囊ヲ係ケ、背ニハーツノ袋ヲ負ヘリ」、「肩ノ破レタル衣ハ胸ニ懸カリ、頸ノ壌レタル蓑ハ腰に纏ヘリ」とある「壮衰書」の序文をのものである。ここでもまた小野小町と玉造小町を同人物とする中世の理解が確認されるのである。
先にあげた「無名抄」の文〔五〇頁参照〕の続きに「玉造の小町と小野小町と同人かあらぬ者から、人々おぼつかなきことに申して争ひはべりし時...」とあって別人説もあったことは確かだが、その多くは前述の「玉造小町子壮衰書」の弘法大師著作説を土台にしての疑問であり、中世の大勢は、あくまで両者を同じものと見、「玉造小町子壮衰書」を小野小町の事蹟を語るものと見ていたことは疑いもないのである。
近世に入っても、この傾向は変わらなかった。貞徳の「徒然草慰草」などその顕著な例だが、中期以後の随筆の類を見ても、たとえば天野信景の「塩尻」〈『随筆大成』等〉、志賀忍〈天保十一年、七九歳没〉の「理斉随筆」などは、小野小町と玉造小町を同一人と考えている。
ところが、小町という名は、実は普通名詞であって、〇〇小町と呼ばれる女性はまことに数多くいたのだ、玉造小町と小野小町もとうぜん別人だという、いわば画期的な説が新井白雅の「牛馬問」「〈温知義書〉」に提示され、人々を驚かせたのである。
古代には一国より一人づつ采󠄃女を内裏へ献ぜしこと也。既に仁明帝の前後には、小町とて召されたるもの六十余人ありしとなり。この采󠄃女を后町のうちにをらしめたまふ。故にみなみな小町と呼ばれたるなり。その人々の宮仕へをやめて古郷に帰り身まかりたる墓を、おほか「た小町塚とよびしとなん。さてこそ、国々に小町塚といふもの多し。美濃・尾張の間にさへ二三所あり。
しかるを、なべての小町を一人と思ふよりまぎれたる説多し。たとへば実方朝臣、陸奥へ下向の時、髑髏の目穴より薄の生ひ出て、「秋風の吹くにつけてもあなめ〱」の歌の小町は小野正澄が娘の小野小町なり。文屋康秀が三河掾となりて下りし時、「身をうき草の根をたえて」さそふ水あらば」とよみしは高雄国分が娘の小町なり。「おもひつつぬればや人の見えつらむ」の歌、又業平の「舞の袖」などいひしは出羽郡司小町良実が娘なり。高野大師のあひたまふ、壮なる時憍慢最も甚だし、衰ふる日愁歎猶深しと答へしは常陸の国玉造義景が娘の小町なり。かく一人ならず。故に時代其外異なる事あるのみ。中にも良実が娘の小町は美人にて和歌にもすぐれたれば、独り名高く、すべて一人のやうに伝へ来たるのみ。
まず、小町を采󠄃女をし、采󠄃女のすべてに「町」をつけてよんだといっているが、平安時代の文献にあらわれる采󠄃女は、たとえば「近江の采󠄃女」〈拾遺集〉「明日香の采󠄃女」〈大和物語〉などのごとく、国名を冠して呼ぶのが普通である上に、文献にあらわれる「町」のつく女性は前述のように后町にいる更衣であって采󠄃女ではない。小町采󠄃女説自体が出羽都司良実の娘という伝承をもとにして出来たものであり、出羽国から采󠄃女をさしだすことはなかった〈「続日本紀」「類聚三代格」〉という事実を持ち出すまでもなく、この日雅の説には従えないのである。地方に数多い小町塚の合理的説明としても弱いものである。
ところで、この白雅の説、後半になると、その多数の小町が四人にしぼられて来る。架空の人物である小野正澄とか高雄国分とか玉造義景などの名をどこから持ち出して来たのか不明だが、既に伝説化説話化している小町像のすべてを事実と認定する立場からの合理的整理であって、まったく意味をなさぬものとしか言いようはないのである。
伝承る整理しながら、また新しい伝承を生んでいる感じの「牛馬問」の説であるが、その合理的整理法に人気があったのか。それに賛同して引用している随筆が実ははなはだ多いのである。神沢貞幹の「翁草」〈『随筆大成』第三期所収〉、城戸千楯の「紙魚室雑記」〈『随筆大成』第一期所収〉、石川宣続の「卯花園漫録」〈『新燕石十種』第三所収〉、山本信有の「孝経楼漫筆」〈『随筆大成』第三期所収」、滝沢馬琴・屋代弘賢らの「兎園小説」〈『百家説林』所収〉など、いずれもこれに全面的な賛同を示しているのである。
小町に限らず、伝説的人物は、その伝説化の過程において、事蹟が膨脹し、それを全体的��把握するとなると、そこに新しい矛盾が出てくることが多い。これを予盾なく合理的に統一しようとすると、いわば原生動物の体のように多方面に膨脹したものを分割するほかはなくなる。
たとえば柿本人麿の場合にしても、「万葉集」の記述を信するかぎり人麿は持統朝から文武朝にかけて活躍した歌人であるとするほかはない。だが一方、「万葉集」が引用する「柿本人麿歌集」にはそれよりもかなり後の歌もある。「人麿歌集」に後代の歌が入っているというのは今日の学者の常識だが、人間歌集なのだからすべてが人麿の歌だという立場に立てば、「万葉集」の人麿にして、既に最低二人いたことになる。次に「古今集」の仮名序を見ると、、「おほきみつの位(正三位)柿本人麿」を「ならの御時」の歌人としている。現在では、これを「奈良時代」と解し、しかも人麿が活躍した飛鳥時代は奈良時代に接していたからこのように書いたと説明している。だが、そこに都があった「時代」と解するのはどうか。平安時代において「御時」とは天皇の治世、すなわと御宇のことであり、「ならの御時」は平城の帝の御時の意にほかならないからである。事実、この仮名序に対応する真名序(漢文の序)には「平城天子」とはっきり書かれている。「古今集」より五十年ほど後に出来た「大和物語」にも人麿が平城天皇に仕えていたとある。平城天皇は平安時代第二の天皇だから「万葉集」の人麿とは違う。これ第三の人麿ということになる。ところ、で、「古今集」から百年ほど後の第三の勅撰歌集「拾遺集」を見ると、人麿が渡唐してよんだという歌が二首見える。これ、第四の人麿である。
人麿を一人ではなく四人とすると、その間の矛盾はなくなる。しかし矛盾がなくなったところでどうなるというのだ。私が問題にしたいのはそんなことではない。実在の人麿が、その死後、奈良時代・平安時代にどのように伝説化されていったか、別のことはで言えば、後の人々の心の中に人麿がどのように生き続けて来たか、私はそれを問題にしたいのである。
小町の場合も同じである。江戸時代の学者のように小町を四人にしたり、現代の民俗学系の国文学者のように、小町と称する女が無数にいたとか、小町を名のる遊行婦女・あるき巫女・歌比丘尼のたぐいが諸国をめぐり歩いていたと言い切ることによって事足れりとし、文献に残った小町の文学と伝承について深く考えようともしないのは学問の堕落、ある意味では頽廃という評語が適切でさえある。仮に彼らの言うようなことがあったとしても、せいぜい中世の後期のことであり、「小野小町の歴史」ほ既に平安時代中期以前から始まり、中世、近世と続いていたのである。小町が、その死後も、後代の人々の心の中にどのように生き続け、どのように変容していったか、あるいはまた、時を経て変容しながらその底に変えずに生き続けてゆく、いわゆる小町的なもの、それはいったい何かということの追跡にこそ、私は意味を認めたいのである。世に虚と言い実と言う。しかし、このように見れば、人々の心の中に生き続けていたものはすべてが実だと言うほかはないのである。
以下の章において次第に明らかにしてゆくことであるが、小野小町の説明化は、彼女の死後間もない頃から既に始まっていたのである。そして十世紀の末頃には、我々が知っている小町説話、たとえば(1)雨乞説話(2)好色説話(3)男性を拒否する驕慢説話(4)衰老説話 等、そのおおむねが既に出来るがっていたはずである。だから、そのような流れの中に「玉造小町子壮衰書」を置くならば、「小町老いて後、おとろへさらぼりたりなど云ふめるは、玉造小町の事なるを混じていへるなり」〈本居内遠「小野小町の考」〉というような見方が必ずしもあたらぬことを知るのである。小町衰老落魄の説話が「壮衰書」の影響で出来上がったというよりも、既に世に行なわれていた小町落魄説話の仏教的結実として壮衰書を考えるべきではないか。「玉造」の由来を明らかに出来ぬことは残念であるが、ともかくも「小町」と表題にあるだけで人々が説明を求めないような人物の伝でなければならないこと、しかもそれが「花ノ時ヲ待チテハ玉筆ヲ秉リテ紅桜紫藤ノ和歌ヲ詠ズル」美女の伝でなければならないことなどを併せ考えれば、平安末期から中世にかけての人々の大勢的理解がそうであったように、これをも小野小町のこととするのが、最も素直な、そんなして最も妥当な理解だと思うのだが、いかがであろうか。
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kennak · 1 year
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借用作品の紛失問題が起きたアーツ前橋(群馬県前橋市)が、出展アーティストとの契約を守らず、業務委託料の一部が未払いだったとして市はアーティストに謝罪し、損害賠償金80万円を支払った。問題は、作品紛失が判明した前年の2019年に発生し、同館の住友文彦館長(2021年3月末に退任)と学芸員が関わっていた。いったい何があったのか。本件を報じた上毛新聞と毎日新聞の記事(*1)によると、経過の大筋は以下となる。アーツ前橋は2019年、美術を通じた学びの可能性を探ることなどを目的にアーティストの山本高之を招聘した企画展「山本高之とアーツ前橋のビヨンド20XX」を開催。山本と交わした契約には同展の企画立案に加え、記録集の監修なども盛り込まれた。企画展は同年7~9月に開催されたが、記録集の内容をめぐり調整が難航。同館は一方的に記録集の発行を中止し、作成委託料の一部を支払わなかったという。アーティスト側は2020年9月に損害賠償を請求し、前橋市は経緯を調べた結果、同館が契約を一部守らなかったと判断。損害賠償金の支払いと、市の負担による記録集(2000部)の発行、同館ホームページでの1年間の謝罪掲載を決めた。関係者によると、記録集の発行と謝罪掲載は今年度内の3月末までに行われる予定。なお3月中旬現在、まだ同館は謝罪文を掲載しておらず、発行中止に至る詳細も公表していない。(追記:3月29日、アーツ前橋のホームページに山本龍・前橋市長の名前で「『山本高之とアーツ前橋のBEYOND 20XX 未来を考えるための教室』の記録集発行遅滞に関する経過について(報告)」と題した文書が掲載され、謝罪文と時系列順の経過も公開された)未来に残すアーカイブとなる記録集を巡り、公立美術館の契約違反が明るみに出た本件。現代アートの展覧会は、直前までの作品制作や会場自体を作品化するなど様々な要件により、会期中に記録集や図録の編集作業が行われるケースは少なくない。そうした経験値もあるはずの同館は、どのような対応や作家とのやり取りを経て、発行中止に至ったのか。Tokyo Art Beat編集部は、本件の関係者が前橋市に情報公開請求を行い提供された資料を入手した。600ぺージ超に及ぶ資料は、市による本件の検証結果のほか、館内部の会話の記録やメールなども含まれ、詳細な経緯が浮かんでくる。以下抜粋して紹介するが、その前に被害を被ったアーティストと対象展覧会について簡潔に記しておこう。山本高之は1974年愛知県生まれ。小学校教諭の経験をもとに子供達とのワークショップ活動や作品制作を通じて「何かを知る」体験を探求し、地域コミュニティと協働するプロジェクトにも取り組んでいる。問題が起きた企画展「山本高之とアーツ前橋のビヨンド20XX」(以下ビヨンド展)は、山本と同館学芸員が「〈美術〉を通じた学びとは何かを共に議論し、これからの〈美術/美術館〉の役割について考える〉(同館ホームページ)目標を掲げ、2019年7月19日~9月16日に開催された。会場は序章と3つのセクションで構成され、各学芸員が過去の事業を振り返る展示、学芸員によるサーフィンの体験映像、山本が「教育制度を考える近未来SF映画」をテーマに前橋市民と協働した新作《ビヨンド2020 道徳と芸術》などが盛り込まれた。追加提出資料から矛盾が判明最初に報じられなかった発行中止決定前後の経過をたどる。なお、ビヨンド展はA学芸員が担当し、開催年の4月に同展担当の臨時職員としてB学芸員が着任した(肩書はいずれも当時)。市が作成した資料によると、展覧会閉幕後の10月に住友館長がアーツ前橋を所管する文化スポーツ観光部長と文化国際課長に記録集の制作を中止した経過説明を行った。住友館長は、「個人の展覧会記録を製作したい山本氏と、これまでのラーニングを振り返る内容までも反映したいアーツ前橋との考え方は、平行線であり、合意に達することができなかった」と述べ「製作を継続するのは不可能」とした。発行中止の決定はアーツ前橋副館長から山本に電話で伝えられた。その後に市が送付した協議書に対し、山本は市が発行できない理由を文書で示すことやアーツ前橋の意思決定過程の開示を要請。市は11月上旬にアーツ前橋側が提出した資料(会議の議事録や音声記録、決裁、メール等)に基づく回答書を山本に送り、発行中止はやむを得ないと伝えた。山本は「説明不足だ」と市に情報公開請求を行い、2020年9月に損害賠償請求に踏み切った。流れが変わったのは、2021年2月。A学芸員が自身や住友館長が山本とやり取りしたメールの多くを未提出のまま保有していたと判明し、追加提出された資料の内容からアーツ前橋側の主張に矛盾や齟齬があると分かったためだ。市は同年4月、市側の瑕疵を認めて山本に連絡し、2022年12月に記事冒頭の条件で和解した。「恣意的な解釈と対応が行われた」次に市が認めたアーツ前橋側の問題点を振り返る。市が追加提出分を含め資料に基づいて検証したポイントは以下の3点。①作家との契約締結を行うまで記録集がどのように話し合われ、本展でどのような位置づけの発行物として認識されていたか。メールや口頭での合意形成がどのようになされたか。②契約後に発行スケジュールや内容がどのように意思決定され、内部で話し合われたか。③住友館長やA学芸員の主張する記録集の内容は、どの時点で定義づけられて作家側に伝わったのか。結論から先に言うと、市はアーツ前橋内で「恣意的な契約の解釈と対応」(市の内部文書)が行われたと判断した。アーツ前橋の指示に作家が反したという住友館長らの説明は事実経過が異なり、作家は適正に対応していたと認めた。アーツ前橋側が途中で記録集の方向性を一方的に変え、作家に適切な伝達や要請も行わなかったとした。検証の決め手になった一つが、住友館長がビヨンド展開幕4ヶ月前の2019年3月に山本に送った1通のメールだ。「山本作品の制作プロセスと会期中の仕掛けをドキュメントして���くことで『まだ見ぬアーツ前橋のラーニング』について考えることができる、という案です」と記され、住友館長が記録集を展覧会の「ドキュメント」(記録)と位置付けていたことが分かる。メールには「山本さんには、出品アーティストでもあり、かつこのラーニングを考えるラボのディレクターとして(中略)これからの日本の美術館におけるラーニングプログラムへの提言をまとめてもらう、ということをお願いできないでしょうか?」の文章も含まれ、これは作家に対し企画と監修を大枠で一任したと解釈された。また住友館長は、ラーニングに関する展示について未来を視程に入れた「まだ見ぬアーツ前橋の」と表現。それに対し、山本は翌4月にA学芸員にメール送付した企画書内で「未来について考えるためには、今の自分たちが作っている過去と向き合うことが必要」と述べ、学芸員たちが過去の事業を振り返る展示内容を提案していた。つまり「アーツ前橋のラーニングを振り返る」は館でなく山本の発案だったと判明し、住友館長が主張した作家が指示に従わなかったという主張は成り立たなくなった。なおこのメールは、当初アーツ前橋側が提出した資料になく、A学芸員が2021年に追加提出したもので、送信した住友館長からの提出はなかった。
出展作家との契約違反で市が損害賠償。アーツ前橋でなにが起きたのか|Tokyo Art Beat
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manganjiiji · 1 year
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私の中に文字がいない
小説をもし書こうとしても(疲れてとうてい無理だが)今おのれの中の文字庫とも言うべき貯蔵施設(施設というか、蔵)がすっからかんであり、言うべきせりふや取るべき行動は決まっていても、自分の好きな音楽と図像として出力されない。インプットが圧倒的に足りないため。そして、大まかなストーリーラインは決まっているものの、そこに入れ込むエピソードやモチーフの案が全然ない。これもインプットがないため。ということで、原稿はストップしています。2連休をふいにしてしまった。それはもう自分の人生に向き合った結果受けたダメージに苦しんだからで仕方ないのだけれども、ここまで自分の感情に左右されて小説が書けないというのは、もしもわたしが小説を書く仕事人だったら致命的だと思う。それとも、人生の問題をある程度片付けたら、このような波もあまり立たなくなるのだろうか。それはそれで小説を書く意味もなくなるのだろうか。結局なにか書く(この日記も)ことを通して私は自分を癒そうとしている。おそらくそれ以外の目的はない。誰かに読んでほしいとか知ってほしいとか伝えたいとかではなくて、ただただ、自分が自分を慰めるために書いている。あとで自分で読み返すために書いている。私が生きるためには「他者の視点」がいるので、他者の視点を借りるために公開を前提としている。非公開だったら何も書かない。少なくともこんなに意味のある言語の連なりは書かない。自分一人しか読まない文章は私にとっては発狂の原因であり結果であるので、よっぽどの事がない限り書かない。他者から見た私を感じていないと狂ってしまう。これは生まれつきの性分なので仕方ないと思う。まあそんなことはいいんだけど、フィガファウの「いかづちください」のために吸収したいと思える文章がない。ないというか、あったのだが、時期を逃してしまった(早く書かないからこうなるんだよ)。『人間の土地』『パパララレレルル』のあたりにはまっていた頃にまじで書いちまえばよかったのに、あの頃は本を読むことに夢中になっていたというか前向きに努力していた気がする。そして、その頃に作ったと思われる「いかづち」メモだが、つまらないし、今の私の考えていることと全然違うような気がする。結局書き出してみたら元のシーンと全然違う流れになったし、これからどうすんだよ、というところで止まっている。フィガロの人格もやや違う気がする。このように、数ヶ月で頭の中身がすっかり入れ替わってしまう人間なので、まじでネタをずるずるひっぱるべきではない。しかもいちばん萌える部分はもう書いてしまって(序盤にそのシーンがある)残りの8割が蛇足というか説明というかネタばらしの為の長い道のりなので、めっちゃつまらないのである(私はネタを知ってしまっているので)。でも読んだ時に、「えーっ!?」となりたいので、頑張って書く。すぐ中身を忘れて「えーっ!?」となるので、その「えーっ!?」が最大限効果的に発揮されるように、まだネタを覚えている自分はどうにかうまく仕掛けを作っていきたいと思う。あ〜んめんどくさいよ〜。それにしても何か他の要素を入れないとマンネリで死んでしまうので、どこからか突然の異物を持ってきたい。刀剣乱舞でいちつるを書いた時に、「音楽」(いんすとぅるめんた)という内番を勝手に作り、2人にヴァイオリンを弾かせたことがある(ほかの刀はピアノだったりフルートだったり楽器は選択制で、器楽を習得すると声楽も学べるという仕組みだった)。その時のような感じで、何か「へえ、そんなこともやってたんだ」という、つまり、キャラクターの多面の部分を作り込まないといけない。いや作り込む必要はないが、魔法と討伐(あるいは鎮魂)と日常生活以外の「生活」がないと、かれらを表現することは難しいと思う。そういう時、シャイロックのバーや、ネロの厨房という「場所」はすごいなと思う。フィガロにとっては医務室(?)でファウストにとっては呪い用の部屋(?)だろうか。かれらの個人的生活からしか映されない、個人的なこだわり、個人的な癖、個人的な思想がある。原作で提示されているそれらの「場所」を使ってもいいのだが、それはキャラクターの公の部分でもあるので、もう少し踏み込んだ、プライベートな部分が現れるものを投げ込みたい。恋の話だから。恋というのは相手の隠しておきたい部分をこじあけること(暴力)。どうでしょう。愛というのは相手の隠しておきたい部分に、あえて言及すること(対話)。さて、これもどうでしょう。
出勤すると気分が晴れますね。嫌なことというか不安なことがいっぱいです。でもとりあえずいつも通りの労働をこなすことによって、それなりの達成感や満足感を得られる。「こなす」ことが畢竟生きることであって、それをしている限り私はいちおう、この世にいていい人間と思える。この世で生きている人間として、次のアクションを希求する権利がある。そんなふうに思う。
2023.4.22
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thetaizuru · 2 months
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 先月、事実上史上最も著名なジャーナリストの2人が話題になった。プーチン露大統領にインタビューを行い、日本時間2月9日にSNSで公開したタッカー カールソンと、2月20日と21日に英高等法院で米国への身柄引き渡しを巡る審理が開かれた、英国で収監中のジュリアン アサンジである。  事実上史上最も著名なジャーナリストというのは、タッカー カールソンについては現在のアメリカで最も視聴者数が多いからで、例えば中国やインドなどにもっと多い視聴者数を抱えるニュース番組などがあるのかもしれないが、なんといってもアメリカは情報覇権国であって、今回のプーチン大統領へのインタビューについても、視聴者数の多さ自体が語るものというのがある。  内部告発サイト「ウィキリークス」の創設者であるジュリアン アサンジは対照的に今回の審理には体調不良により出席しなかった。アサンジが現在のインターネット上のメディアに与えた影響の大きさもそうだが、今回の審理をめぐっても、「ジャーナリズム」という概念そのものに対する影響というのが話題の焦点の一つになった。
 こうした話題への関心は、実際のところは、主流メディアのみならずネット上のほとんどのメディアやジャーナリストとか、ジャーナリズムそのものへの懐疑とか厭世観の表れなんじゃないかとも思う。情報覇権国と言ってもその内部秩序は崩壊しまくってるようにしか見えないし、正しい情報が何かを救うとか言ってる人のこともバカだと思っている。そう言いながらもやたら情報を探し回ってぶん投げ合ってる自分たちはまるで、砂漠のような崩壊後の空間をモヒカン肩パッド姿で奇声をあげながら疾走してるようにしか見えない。
 芥川龍之介は『西方の人』と『続西方の人』というエッセイで、イエス キリストをジャーナリストだと表現した。  『西方の人』の最初の章で「わたしは唯わたしの感じた通りに「わたしのクリスト」を記すのである。厳しい日本のクリスト教徒も売文の徒の書いたクリストだけは恐らくは大目に見てくれるであらう。」と断わったうえで、「ジヤアナリスト」と題した章で「我々は唯我々自身に近いものの外は見ることは出来ない。少くとも我々に迫つて来るものは我々自身に近いものだけである。クリストはあらゆるジヤアナリストのやうにこの事実を直覚してゐた。花嫁、葡萄園、驢馬、工人――彼の教へは目のあたりにあるものを一度も利用せずにすましたことはない。「善いサマリア人」や「放蕩息子の帰宅」はかう云ふ彼の詩の傑作である。抽象的な言葉ばかり使つてゐる後代のクリスト教的ジヤアナリスト――牧師たちは一度もこのクリストのジヤアナリズムの効果を考へなかつたのであらう。彼は彼等に比べれば勿論、後代のクリストたちに比べても、決して遜色のあるジヤアナリストではない。彼のジヤアナリズムはその為に西方の古典と肩を並べてゐる。彼は実に古い炎に新しい薪を加へるジヤアナリストだつた。」と書いている。  『続西方の人』でも「ジヤアナリズム至上主義者」と題した章で「クリストの最も愛したのは目ざましい彼のジャアナリズムである。若し他のものを愛したとすれば、彼は大きい無花果のかげに年とつた予言者になつてゐたであらう。平和はその時にはクリストの上にも下つて来たのに相違ない。彼はもうその時には丁度古代の賢人のやうにあらゆる妥協のもとに微笑してゐたであらう。しかし運命は幸か不幸か彼にかう云ふ安らかな晩年を与へてくれなかつた。それは受難の名を与へられてゐても、正に彼の悲劇だつたであらう。けれどもクリストはこの悲劇の為に永久に若々しい顔をしてゐるのである。」と書き、「クリストの言葉」という章では「クリストは彼の弟子たちに「わたしは誰か?」と問ひかけてゐる。この問に答へることは困難ではない。彼はジヤアナリストであると共にジヤアナリズムの中の人物――或は「譬喩」と呼ばれてゐる短篇小説の作者だつたと共に、「新約全書」と呼ばれてゐる小説的伝記の主人公だつたのである。我々は大勢のクリストたちの中にもかう云ふ事実を発見するであらう。クリストも彼の一生を彼の作品の索引につけずにはゐられない一人だつた。」と書き、「貧しい人たちに」と題した最後の章でも、「クリストのジヤアナリズムは貧しい人たちや奴隷を慰めることになつた。それは勿論天国などに行かうと思はない貴族や金持ちに都合の善かつた為もあるであらう。しかし彼の天才は彼等を動かさずにはゐなかつたのである。いや、彼等ばかりではない。我々も彼のジヤアナリズムの中に何か美しいものを見出してゐる。何度叩いても開かれない門のあることは我々も亦知らないわけではない。狭い門からはひることもやはり我々には必しも幸福ではないことを示してゐる。しかし彼のジヤアナリズムはいつも無花果のやうに甘みを持つてゐる。彼は実にイスラエルの民の生んだ、古今に珍らしいジヤアナリストだつた。同時に又我々人間の生んだ、古今に珍らしい天才だつた。「予言者」は彼以後には流行してゐない。しかし彼の一生はいつも我々を動かすであらう。彼は十字架にかかる為に、――ジヤアナリズム至上主義を推し立てる為にあらゆるものを犠牲にした。ゲエテは婉曲にクリストに対する彼の軽蔑を示してゐる。丁度後代のクリストたちの多少はゲエテを嫉妬してゐるやうに。――我々はエマヲの旅びとたちのやうに我々の心を燃え上らせるクリストを求めずにはゐられないのであらう。」と書いている。  キリストについて書いたエッセイで、中心テーマに「ジャーナリズム」を置いている。しかし、「ジャーナリズム」という語について特に定義付けを行ってはおらず、つまりは当時の一般的な意味で使っており、それは現在ともそれほど大きくは変わっていないと思われる。
 『西方の人』の初出は1927(昭和2)年の雑誌『改造』8月号で、『続西方の人』は翌月の『改造』9月号に掲載された。7月24日未明、『続西方の人』を書き上げたあと芥川は、致死量の睡眠薬を飲んで服毒自殺した。そのため『西方の人』『続西方の人』は必然的に作者の死と深く関連するものとして語られ、あるいは読者への遺書としても解釈されるが、死後に見つかった久米正雄に宛てたとされる遺書「或旧友へ送る手記」で芥川は自身の自殺の動機を「ぼんやりした不安」とした上で、それを解剖したものを『或阿呆の一生』に書いたとしている。『或阿呆の一生』は、『改造』1927年10月号に掲載された。それらを読み比べると、『西方の人』『続西方の人』はむしろ最期だからこそ自身の「不安」や、あるいは信仰などとは切り離して、唯感じた通りを書くことができたものだとも解釈できる。そして「クリストのジヤアナリズム」というのは、唯感じた通りを伝えることであり、それを聞いた人が見たまま聞いたままのことを感じられることであり、またそれぞれが感じた通りのことを表現できるようになることであって、それが「我々の心を燃え上らせるクリスト」だとも解釈できる。  「エマヲの旅びとたち」というのは、『ルカによる福音書』24章13節から32節に書かれているエピソードである。エルサレムから七マイルばかり離れたエマオという村へ歩いていたクレオパとルカとされるもう一人の弟子のところへ、復活したイエスが近づいてきて、その二人の弟子と語りながら一緒に歩いた。彼らの目はさえぎられて、それがイエスだと認めることができなかった。彼らが行こうとしていた村に近づき、夕暮になっていたため、なお先へ進み行く様子のイエスを引きとめ、一緒に食卓についた。イエスがパンを取り、祝福してさき、彼らに渡してるうちに、彼らの目が開けて、それがイエスであることがわかった。するとその時イエスの姿は見えなくなった。二人の弟子は互に言った、「道々お話しになったとき、また聖書を説き明してくださったとき、お互の心が内に燃えたではないか」。  この場面は多くの画家が描いた場面でもあり、なかでもカラヴァッジョが描いたや絵画『エマオの晩餐』(1601)が有名である。カラヴァッジョは、日常の中に訪れる日常を超越させるもの、日常生活を中断させる崇高な存在、自分自身の感情に自分自身が気づく瞬間といった、二面性や二重性を持つテーマを繰り返し描いた。カラヴァッジョはそれらのテーマを、一瞬を切り取る鋭い観察眼と見たままを描写できる卓越した技巧で超越すると同時に、その技巧をテーマで超越するという二重の超越で、二面性や二重性の中に、矛盾や逆説とは別の、それらを超える「超越性」そのものというような概念があることを提示し、西洋美術史に新たな美意識を加えた。  芥川もこの超越性のような概念に触れていて、『西方の人』の「復活」と題された章で、「我々は唯茫々とした人生の中に佇んでゐる。我々に平和を与へるものは眠りの外にある訣はない。あらゆる自然主義者は外科医のやうに残酷にこの事実を解剖してゐる。しかし聖霊の子供たちはいつもかう云ふ人生の上に何か美しいものを残して行つた。何か「永遠に超えようとするもの」を。」と書いている。  これらは作者自身の不安などとは切り離して唯感じた通りを書いたものだとも解釈できると言ったものの、「ぼんやりした不安」にあたるとも思われるものを、『西方の人』の「クリスト教」という章に書いている。この章は「クリスト教はクリスト自身も実行することの出来なかつた、逆説の多い詩的宗教である。」という文で始まり、「クリストは兎に角我々に現世の向うにあるものを指し示した。我々はいつもクリストの中に我々の求めてゐるものを、――我々を無限の道へ駆りやる喇叭の声を感じるであらう。同時に又いつもクリストの中に我々を虐んでやまないものを、――近代のやつと表現した世界苦を感じずにはゐられないであらう。」という文章で締められている。  この「世界苦」というのは、ドイツ語の「ヴェルトシュメルツ」をほぼ直訳したもので、「感傷的厭世観」「世の中の邪悪を思って悲しむこと」「悲観的世界観」というような意味を言い表す文学的概念だと説明される。もともとは、この「ヴェルトシュメルツ」という言葉は、ゲーテと同時代の作家のジャン パウルが遺稿となる小説『セリーナ』(1827)で造語したものとされる。小説の翻訳では「苦痛」や「苦悩」などと訳されている。「世界苦」という言葉は19世紀後半のドイツ哲学などで使われるようになり、19世紀のロマン主義の底流に流れていた文明に対するペシミスティックな懐疑主義のことを言い表す言葉になっていった。こうした文明に対する懐疑や厭世観が顕著に表れたのが19世紀末のデカダンス(退廃、世紀末芸術)である。この中からアールヌーヴォー(新しい芸術)やモダンスタイル(近代様式)などと言われる新しい潮流の可能性を見つけ、終末的な気分も終わった頃には、「世界苦」という言葉は、自己憐憫を「世界の苦悩」だとはき違えただけだとして一蹴され、そうした傾向を揶揄あるいは自嘲するための言葉としても使われるようになる。  悩みの多くは何かをはき違えただけというのも確かにそうかもしれないが、世の中に問題がないわけでもない。大雑把に分けると、18世紀後半の古典派は、教養と技術の習得によってこれを乗り越えようとしたのに対し、ロマン派は、問題の所在を明確にするための主題(テーマ)探しへと向かった。あらゆる問題を解決する教養は存在しないし、必要なすべての技術の習得も不可能で、テーマやスローガンなどに踊らされた群集心理は暴徒化する。1世紀近い混乱の時代の後で、これを乗り越えたのが大衆文化の成立で、すなわち近代ジャーナリズムの成立だった。
 芥川個人の不安というのが何だったのかは結局はわからないし、関東大震災(1923年9月1日)後のCPTSDだとか、それっぽい理屈を当てはめるのも何か違う気がするが、後に解釈されるように、1920年代はどことなく不穏な空気が世界を漂い、ジャーナリズムも危機を迎えていた。検閲もそうだが、後にナチスが政権獲得(1933年)後に本格的に行うエンタルテテクンスト(退廃芸術)の排斥運動の理論的な基礎が組み上げられていた。  退廃芸術の排斥というのは、理屈としてはイコノクラスム(聖像破壊運動)にあたる。イコノクラスムに長けていたとされる宗派や集団というのが古くから存在していたとされ、アリストテレス学派やユグノーがそうだとも言われるが、議論も多く実際のところはわからないと言われている。イコノクラスムの目的の一つは経済的な支配権の獲得だと考えられていて、経済的な支配と思想的な支配はいわば車の両輪の関係にある。  近代ジャーナリズムの成立と、アメリカの南北戦争(1861年-1865年)によって奴隷貿易による利権が崩れたことは、間接的かもしれないが、少なくとも時期が同じという以上の関係があり、1930年代の世界恐慌とナチスの台頭は、間接的かもしれないが、少なくとも時期が同じという以上の関係がある。
2024年3月 リハイドレーション
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dorpor · 3 months
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#拙著振り返り
『かげろう』について。
あとがき代わりに思ってたことを書いたり自分で褒めたりする恒例行事。
なんかあれば直接聞いていただいてもいいし、匿名がよければwave boxからメッセージ下さい。
https://wavebox.me/wave/5hebd6htzdymaxlt/
・構造
最後のシーンが一番最初に浮かんで、そこにどうつなげていこうかとひたすら考えていた。
冒頭にもいれた、放浪者キャラストの「滅ぼそう、花の如く、羽の如く、朝露の如く無用な人生を!」という言葉、やけにたとえが美しいからずっと印象に残っていたのと、雷電影のキャラストを復習していた時に出てきた友人がそれぞれ「花」「羽」「朝露」に関連付けられる……と気づいたのを、「これだ!」となって話にできた。
朝露なんかは仏教でも儚いものとして例えられがちなのでそこも良い。
「稲光」そのものも儚いものとして例えられる(電光朝露という言葉があるらしい)ので、これはそのまま雷電眞のことになるし、雷電影のまわりって儚いものしかなくてすごいな。
雷電影がそういった儚く美しいものを大事にして、失ってしまって、もう失いたくないから「永遠」を追い求めるようになり、その過程でできた失敗作が散兵であり、その散兵が儚く美しいものを「無用」と断じるのはすさまじいなほよば……と感銘を受けた。
ここまでほぼ原作ゲーム内の話。
・雷電影
このゲーム、「根からの悪人」が出てこないことが特徴だと思っている(代わりに世界システムに悪意がある)。
だから、雷電影の人形への態度も「人形に自我ありそうだけど不要だから捨てた」という直線的な解釈をしてしまうとゲームそのもののコンセプトに対して違和感がある、と思っている。
そもそも、人形側は「母」と呼んでいるけど雷電影側は「子」とは思っていなさそうなところがまた重要。子だと思ったらさすがに捨て置かないのでは。
あの人形を制作しているときの雷電影って、眞を失ったことで本当にひとりになってしまったという喪失感の中、「永遠」という目標のためになにもかもを費やしている状態だったはず。
そんなときにもし雷電将軍の人形を見たら、まずはじめに「眞」を思い出すだろうな……と思ったし、その眞顔の人形が涙を流そうものなら眞の「優しさ」を思い出すだろうし、そこまできたらその先、その終わりまで想像するのは自然なこと……みたいな。
たいせつで美しいものがみんな儚くなったときに、儚いものを追い打ちされた影のこと考えるとそれだけでなんでも書ける気がしてくる。そういう女が好きだから。
伝説任務の影と眞のやり取りが好き。「あなたはきっと、幾度となく涙をこぼしそうになりながら、とても険しい道を歩いてきた。そうよね?」に対して「幾度などと……!」って怒るんだけど、涙を零しそうになったことは否定しないの、影の人間味が出ていて……。
その涙をこらえながら歩いた険しい道で出会った儚いもの……そして自分が「儚いもの」だと分かったうえで、「儚いから捨てられた」ことを「無用」ととった散兵……すれ違ってて良いなという話本当に何度でもしたい。
・散兵
この本では、姿がないのに、ずっと、ずっと、ずっと強い感情を墨にたくしてほぼ全ページにわたって漂わせているのが本当に良い。
この墨、最後にも書いたけど本人が燃えてできた煤で作った墨という設定だから、それがわかったうえで初めから読むと嫌な気持ちになる……みたいな。
複数回読んで楽しい話を書きたいといつも思っている。
時系列的には、ちょうど散兵が世界樹で自分を抹消してる真っ最中のほんの一瞬水面がゆらいだときを想定している。だから散兵もいるし、修験者もいる。時間の隙間なのでいろいろ混ざってしまっている。
・最後のシーン
本当に影スすぎる。
あと、水面に影の顔が映ることで、それがのっぺらぼうの人形と重なって人形に顔があるように見えて、そのままその顔が散兵になる……という非現実的なシーンは、幻想小説を書きましたと言ってもいいんじゃないかと思えるほど好きな流れ。
最後の三行なんかはたんたんと「起こったできごと」を書いているのも好きだし、すごく静かな中で赤が緒のように広がる様だけが動的なのも良い。「緒のように」という比喩は狙って使っている。
ここで終わるしかないだろうという終わり方も良い。良いことしかない。
ところで、「ごやのすえ なぞながされ」は文法的に連体形で終わるのが自然なはずだよな……?と思って勝手に続きを付け足したけど、実際のところはどうなんだろう。古文に対して完璧な理解を持っているわけではない。
・P16
序破急でいうところの「急」だから舞台仕掛けが一回転するような気持で……と思ったことは覚えている。
「見上げれば糸時雨、たちまち音高く落水が花を撃ち、葉末の露もろとも飲みこんでいく」……って……良……!? これまでずっと川とか露とかの話をしていたのを汲んだうえで謡うように文章にしている。
・羽花朝露
笹百合千代狐斎宮の話は序破急の「序」にあたる部分で、ほぼゲーム内テキストを元にしている。でも、ゲーム内テキストを何も読んでいなくてもわかるように作中ですべて説明している。
御輿千代、書くのが楽しかった……。
ちょっと説明っぽいか……?と思って、これがずっと続くと読んでる方は退屈じゃないかと心配したんだけどどうでした……?
「別れの日 朝露のよう いつかまた」も、狐斎宮が詠んだものとしてゲーム内に出てきていたのをそのまま引用している。
それはそれとして、笹百合の下りで「黒い文字→指の黒い影→視点が紙の外に移動して黒い鴉」の流れは、現実と思い出のシーン切り替わりを、カメラの視点変更でスムーズにやるという、すごく鏡花を意識した手法を取れた……と思っているんだけどどうだろうか……。
・タイトル
「かげろう」とひらいているけれど、実際は奥付にもある通り「陽炎」と「影蝋」をかけている。陽炎はそのまま、最後のシーンで使ったというのと、これも儚いものとしてよく例えられるから。「影蝋」は人形が死蝋に例えられたことから。
・隅田川
子が行方不明になった母が、子を探し回っていて、その過程で隅田川に来たときの話。川を渡る時、船頭が「川岸で亡くなった子供の墓があり、その一周忌に加わってくれ」と乗客に話をする。しかしなんと、その亡くなった子こそが、母の探していた我が子のことだったとわかる。墓の前で念仏を唱えると、その子の霊が現れるも、抱きしめようとしても腕をすり抜けていく。やがて夜が明けると霊も消えて、母はなにもない場所で泣くばかり。という話。(すごくざっくり)
この話の見どころは、能で子を探す親が出てくるとだいたい最後会えるんだけど、これは「会えない」というところ。いちおう亡霊は出てくるけど、それも寂しさを強調するばかりにしかならない。本当になにもなく、ただ立ち尽くすしかない……ところにどうしようもなさを感じて好きな演目。
この本でも川沿いに話が進んでいく構造にしている。スミレトキ(里梅鳥)のくだりも、隅田川で「都鳥よ、都の名を冠するならば都のことはしっているだろう。私の思う人は元気でいるのでしょうか」って感じの歌が出てくるのでふわっとオマージュした。
・装丁
固形の墨そのものをイメージした感じにしたかった。
本当なら黒い表紙にエンボスがすごくそれっぽいんだけど、自家製本では限界があった。
という話をしていたときに、しゃしゃんさんが「箱にしちゃえば?」と言ってくれて、私の投げた素材でいい感じに嫌な感じにしてくれて大助かりした。
黒い紙は、世界堂でいちばん墨っぽい紙を選んだ。
よく見るとなにか書いてある。
これは気づいても気づかなくても良くて、ただ、「読者は知らないうちに、この本を手にした瞬間に既に散兵の情念の重さに触れている」という状態にしたかった。
紐の栞も本来この文字数ならいらないんだけど、「くゆる墨の香り」を視覚的に突然出したかったこと、どのページにも「これ」を存在させられること等から執念深さを感じていいなと思ったのでつけた。作業は面倒だったけどやってよかった。
・全体
原作の設定組み込み、構成、表現、なにをとってもきれいに作れたと思う。
その上、ほとんど出てこないくせにデカすぎる感情をずっと燃やし続ける散兵を書いているのが本当に好き。
影の視点もひとつひとつ丁寧に追っていて、過去を抱きしめる女を書けていて好き。
好きなところがたくさんある本。
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ashi-yuri · 3 months
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オルガ・トカルチュク「昼の家、夜の家」
きのこみたいな語りで
とらえがたく、湿っていて、色とりどりの断片たちを夢やインターネットや記憶が菌糸のようにつなぐ、ふしぎなポーランドの小説
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細かで夢のようにとりとめなく、へんに入念な記述の掌編がつらなっていて、きのこ料理、マルタというふしぎな老女、刃物の宗教、人を食べて狼となった男、男性から女性へ変異することを夢見る修道士、キリストの顔を浮かべる聖女、などなど話は四方八方に一見無秩序に広がっていく。
最初は読みづらいと思ったけれど、きのこのように自分ではわからないなにかで繋がっているのだと気づいてからはだいぶ読みやすくなり楽しく読めた。
植物・動物とも違い、超然として生死や人間の理屈を超えて、謎めいた効果を与えたり与えなかったりしながら、地下に伸びる菌糸でいろいろなものを結びつけ、過去も未来もなくただ現在を生きる存在としての観念きのこ。
わたしにはマルタがわからなかったし、いま考えてもわからない。だけどそもそも、わかる必要なんてあるかしら。彼女の行動の動機を明らかにし、話のいっさいの出処をつきとめることに、なにか価値があるものかしら。マルタに履歴みたいなものがあるとしても、それを知ってわたしが得られることなんてあるだろうか。もしかしたら、履歴のない人、過去も未来もない人がいるのかもしれない。そういう人は傍から見れば、いつも現在に生きているのだろう。 オルガ・トカルチュク「昼の家、夜の家」マルタより(p.12) 
作者はポーランドの方で、作品全体に大戦時のドイツによる侵略の暗い影が残ってはいるけれど、古いおとぎばなしのような語りで進むこともありどこか俯瞰してるような視点が新鮮。
調べたらトカルチュク氏、ノーベル文学賞受賞してた。
どこか湿り気があって、まるくなめらかで、なんとなくポーランド郊外の森や町ってこんなかんじなのかなあと思うような文体と、もやっと繋がるさまざまなモチーフが、馴染みの少ない国への想像力を刺激してくれてよかったです。急に料理のレシピとか挟んでくるのもたのしい。
なにかを食べたり食べなかったりすることが、まるで私たちを死から救うとでもいうみたい。なにを食べようが食べまいが、なにをしようがするまいが、考えようが考えまいが、わたしたちは死んでいく。死ぬことは、生きることよりも自然なことに思われる。(中略)ヒダハタケを食べたそのとき、生き残る人もいれば、死ぬ人もいる。何パーセントかは生きていて、何パーセントかは死んでいる。片方からもう片方へ、いつ一線を越えるのか、はっきりとは、言いにくい。どうして人は、「あるいは」から「あるいは」へ移るこんなにも短い瞬間に、あれほどの重きを置くのかわからない。 ウラベニイロガワリのワインとスメタナ煮のレシピは以下。(後略) オルガ・トカルチュク「昼の家、夜の家」ウラベニイロガワリのワインとスメタナ煮のレシピより(p.222)
ほかにポーランドだとSFのレムや偏執的な視点が興味深いゴンブローヴィチを読んだことあるくらいだろうか。
ポーランド郊外の狭い地域の話だけれど、ドイツやチェコと地続きで、時代も数百年単位で飛ぶし、インターネットや夢でいろんな国の人々と繋がってる感覚もあり、物語と同様に小さくまとまらないで広がっていく感じがあるのがおもしろかった。
トカチュルクさん心理学を専攻してフロイトやユングを学んだと書いてあって、安易な結びつけはよくないけれど、他者との夢の共同性・繋がりみたいなアイデアはそのあたりからなんだろうか。意図的に合理性とか歴史の中の位置付けとか秩序を切り離す視点を取っていて、ちょくちょく反出生主義にも近いような強烈に虚無的な描写が出てくるのだけど、そういう人にはきのこがあったほうがいいんだろうなと思った。きのこの語りにより絶妙なバランスが保てているというか。
マルタもきのこだったのかな。
最後に、町の描写の羅列だけなのに本作でいちばんエモーショナルな断章から。
ノヴァ・ルダ
美容院と古着屋がたくさんある町。男たちのまぶたが、炭で煤けている町。小さい橋のかかる町。現れては消える川、いつも水の色が異なり、どんどん派手な色になる、そういう川に橋はかかっている。(中略)湿気の後が家の壁に残る町。家の窓から通行人の足しか見えない町。迷路みたいな中庭の多い町。終着駅の町。旅行で列車を乗り換える町。犬がさまよっている町。(中略)雪がけっして溶けきらない町。(中略)水っぽいアイスクリームを売る町。(中略)ピレネー山脈にあることを夢見る町。太陽が昇らない町。出ていった人が、いつか必ず帰る町。ドイツが掘った地下トンネルが、プラハ���ヴロツワフとドレスデンに通じている町。断片の町。シロンスクと、プロイセンと、チェコと、オーストリア=ハンガリーと、ポーランドの町。周縁の町。頭の中ではお互いのことを呼びすてにするくせに、実際に呼ぶときには敬称をつける町。土曜と日曜には空っぽになる町。時間が漂流する町。ニュースが遅れて届く町。名前が誤解をまねく町。あたらしいものは何もなくて、現れた途端に黒ずみ、埃の層に覆われ、腐っていく町。存在の境界で、みじんも動かずに、ただあり続ける町。 オルガ・トカルチュク「昼の家、夜の家」ノヴァ・ルダより(p.365)
本書はおすすめをいただき読むことができました。全く知らない作品だったので、作品に出会う機会をいただき感謝。
断片小説だとバーセルミの「雪白姫」が好きだったなと久々に思い出したので、そのうち読み返そうかな。
表紙がいい。
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kachoushi · 4 months
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虚子自選揮毫『虚子百句』を読む Ⅰ
花鳥誌2024年1月号より転載
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日本文学研究者
井上 泰至
 「恋の季題」は材料も尽きてお開きとしたが、書き物は続けてほしいとのお話だったので、『虚子百句』を私なりに読んでいくことにしたい。
 まず、本書の成り立ちや、おおよその性格を説いて、なぜこの書物を丁寧に読んでいくことにしたのか、その理由をあらあら述べておきたい。
 本書は昭和三三年、すなわち虚子の亡くなる前年の自選句集である。京都の便利堂からの依頼を受けたもので、短時日の間に選んだものであるから、本書の価値は、ある程度割り引いて考える必要はある。が、ともかくも虚子が、自分の代表作と認めた百句だったことは間違いない。
 選句の基準については、追々検討を加えていくが、まず揮毫しやすく、たびたび揮毫してきた句であったことは、序で虚子自身が明らかにしている。本書は、虚子の揮毫を写真で掲載し、五十句ずつを高濱年尾と星野立子が分担して、簡単な句の評釈をつけるという趣向のものだった。年尾の跋文によれば、虚子も事前に二人の文章を検したという。
 本書の企画を持ち込んだ便利堂は、明治二十年創業の書店兼出版社である。コロタイプ印刷機を早くに導入し、美術書の出版で信頼を得た。岡倉天心が創始し、今日でも美術史学の権威的雑誌の位置を保っている「國華」は、便利堂の図版印刷の高度な技術が遺憾なく発揮されたものである。
 四代目店主中村竹四郎は、国宝級の貴重書の複製印刷をも数々手がけ、『虚子百句』刊行の翌年には文化功労者として表彰されている。虚子の字は、それ自体が俳句文化の遺産としての価値を持つ、と認識されていたわけである。
 つまり、主役は百句のみならず、その揮毫でもあったわけで、この点には留意しなければならない。書は、運筆から句の呼吸や中心点を確認できる。同じ字であっても、楷書か行書かといった書き分けがあれば、それは句の眼目ともなる。
 一例を挙げよう。小諸市立虚子記念館に残る十二ヶ月十二句の揮毫を屏風に仕立てたものは、展示の目玉だが、「心」を詠んだ句が三句ある。
  鶯や文字も知らずに歌心 虚子
  二三子や時雨るる心親しめり 同
  我が心ある時軽し罌粟の花 同
 このうち三句目のみ「心」はきちんと楷書で書かれ、他の二句はややリラックスした崩し字となっている。三句目は愛児六を失った悲嘆の中で詠まれた句だからである。書道家に聞くと、「心」の字のバランスは、筆をとる者の「心」を反映するのだと言う。
 こうした鑑賞の醍醐味も『虚子百句』にはあることが、当然予想される。年尾の跋文によれば、この頃の虚子は眼が弱って、それが字に出てしまっている、という。確かに、青年期・壮年期のそれから比べ、運筆の力や字配りを焦点化する眼の力の衰えは隠せない。それでも、修練とは凄いもので、序文の虚子自身の言によれば、百句の大方は一、二時間で揮毫してしまったというから驚きである。字の味わいも、私の能力の範囲で解説を試みたい。
 本書の構成は、春夏秋冬・新年の部に分かれ、各部の句の配列は、成立順となっている。従って明治・大正・昭和と万遍なく句が拾われている。『百人一首』が古典和歌そのものの粋であり、歴史でもあるように、『虚子百句』も虚子の句業の入門書にして到達点でもある。これが本書を読む何よりの理由である。
 本書の装幀を担当した福田平八郎(一八九二〜一九七四)についても、簡単に触れておこう。虚子との縁は、『虚子京遊録』(昭和二三年)『喜寿艶』(昭和二五年)に続き、これが三度目である。  大分出身で、上村松園や竹内栖鳳も出た京都市立絵画専門学校を卒業。京都日本画画壇で重きをなす。トリミングやデザイン感覚に秀で、書物の装幀も得意とした。『虚子句集』の竹の絵は、自家薬籠中の画題であったと考えられる。
 本書は二〇一〇年、岩波書店から復刊された。解説は東京大学教授であった、日本近代文学専攻の野山嘉正が担当した。
 最後に一言。平成期、伝統派で、虚子句の解説つき選集といえば、稲畑汀子氏の『虚子百句』が定番だった。虚子自身の選句とは違ったところに新味を出した素晴らしい本だが、時に稲畑氏らしからぬ、非常に硬い内容と文章の評釈があるのは惜しい。この連載は、あくまで虚子の自選に立ち戻り、虚子句の成立事情と、選句の背景を平易に語ることに徹したい。ただし、この自選句集の性格上、私の虚子観・俳句観が問われることは言うまでもない。
1 美しき人や蚕飼の玉襷
 初出は明治三十四年四月三十日の新聞『日本』。季語は「蚕飼」。蚕はふつう四月に孵化して繭籠る。
 初出では「蚕」の題で内藤鳴雪・坂本四方太・河東碧梧桐・佐藤紅録らの各三句も載る、題詠句である。虚子の他二句は〈蝋燭の灯影に白き蚕かな〉〈蚕飼ふや年々ふやす桑畠〉。『新歳時記』にはこの句を採用せず、写生句らしい〈逡巡として繭ごもらざる蚕かな〉を載せたか。
 蚕は食欲旺盛だ。食べ残した桑やフンは蚕網(さんもう)を使って取り除く。蚕は眠る。睡眠と脱皮を四回ほど繰り返して成長すると、絲を吐き始める。ここで蔟(まぶし)という仕切りのある箱に移す。繭籠らせるのである。絹糸を吐き、繭を成す様は、実に神秘的だ。春の陽が漏れてくる中、吐き出されたばかりの絹糸は光そのものである。この過程に、ひと月ほどはかかる。
 蚕網をかけ、桑を与えると、蚕は網目を通り上にあがる。蚕網の下は蚕のフンと桑の食べ残しが残る。網を上げると、蚕とフン、食べ残した桑の分離ができる。蚕の成長に合わせて網目の大きなものへ変えながら使用する、といった具合である。丁寧さと経験が要求される女性の仕事である。
 養蚕は、明治期日本の主要産業だった。欧州では産地の南仏で病害が発生し、需要が高まったのである。巨利を成した者も多い。出荷は横浜が多かった。
 女性は襷掛けで、髪も縛る。明治期の浮世絵等を見ると、襷の色は赤が代表的である。かの富岡製糸工場では、技術のある女工は赤襷をして周囲から尊敬されたという。
 国を挙げての養蚕業振興を宮中も率先して奨励し、皇后美子が手ずから養蚕を行い、浮世絵などで宮中養蚕が喧伝された。皆赤襷で、髪はおすべらかし、すなわち、後ろでまとめた髪に「長かもじ」を継ぎ、水引や絵元結などを掛けて、長く垂らしたのである。
 結髪の問題にこだわったのも、襷掛けの女性は、皆髪を結ったり、挙げたりして、うなじがあらわになる点が一句の焦点だと考えるからである。つまり、「美しき人」の美しさの拠って立つところは、「襷」に暗示される、黒髪と白いうなじだったのだ。
 「玉襷」という言葉は、『万葉集』以来ある言葉で、これ自体一種の神々しさを醸し出す。『虚子百句』の評釈で、年尾が宮中養蚕を詠んだと解したのも一理ある。しかし、もっと重要なのは、「玉襷」は「うなじ」の連想から、大和の畝傍山を呼び出す決まり文句だったことの方である。謡曲の「恋重荷」に用例がある。虚子がこれを知らないはずはない。
 蚕と繭の「白」と、後れ毛を残したうなじの「白」の連想が、この女性の「美し」さを支えるものだったと考えたい。虚子は、和装の女性の髪にはかなり執心した。
 「まあ旦那でいらしつたんですか。どなたかと思ひましてね。お断り申しましたですけれど何だか気になりまして、一寸御挨拶だけに。どうも姉さん有難う。姉さん有難う」と二人に挨拶して末座に坐つたまゝ一寸こぼれた鬢を掻き上げる。
 小光は総髪の銀杏返しに結つてゐるのが仇つぽくて、薄つすらと白いものゝついてゐる額の広々としてゐるのも美しい。 (『俳諧師』)  小光のモデルは、女義太夫の竹本小土佐で、虚子は彼女の語りがかかる東京中の演芸場へ出かけ、追い回したのであった。虚子の眼裏に焼きつけられた美しさは、挙げた髪やこぼれた鬢にあった。
 谷崎潤一郎も言っている。女性美の焦点は首だと(『陰翳礼賛』)。和服で身体が露出するのは、首・手先・襟足だ。首は細く長くなければいけない。「猪首」という言葉を想起すればよい。肌は白くなければいけない。そこにうなじの後れ毛が色気を呼ぶ。
 「玉襷」はその呼び出しであり、それは説明しないことが肝要だから、「美しき」とだけ冒頭に置いて謎を掛けた。だから、『喜寿艶』でも、この句については、木で鼻をくくったような説明しかしていない。
 完全な主観句で、実際にそういう女を見たのか、絵の中の女か、記憶の中の女か、そんなことはどうでもいい。小説家志望で主観派が本質だった虚子らしい、冒頭の一句なのである。『虚子百句』は『新歳時記』のような教育的意義を取り払った、「作家」虚子の選集だった。
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井上 泰至(いのうえ・やすし)   1961年京都市生まれ 日本伝統俳句協会常務理事・防衛大学校教授。 専攻、江戸文学・近代俳句
著書に 『子規の内なる江戸』(角川学芸出版) 『近代俳句の誕生』 (日本伝統俳句協会) 『改訂雨月物語』 (角川ソフィア文庫) 『恋愛小説の誕生』 (笠間書院)など 多数
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kanglo · 6 months
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「これからのことを語り合おう~未来は明るいに決まっている」
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「これからのことを語り合おう~未来は明るいに決まっている」第27回ファイナルShock Coherent Innovation Club(SCIC)オープン・ダイアログ(2023年12月8日)※参加費無料・入退室/飲食自由 チケット: https://scic231208.peatix.com/view https://www.facebook.com/events/315638591329277
■日時:2023年12月8日(金)20時~22時(オンライン開催)
■ダイアログのテーマ: ・これからのことを語り合おう
■ご挨拶: 弊社がコロナ禍より開始したショックコヒーレント講座および、ショックコヒーレント・イノベーションクラブを、2023年12月末を持って終了することとしました。これまで、講座へのご参加、交流にお付き合い下さり、有難う御座いました。この場をお借りし、心より感謝致します。
今後につきましては、この講座のエッセンスは、別な建付けで生成化育していく予定でおります。
また、合わせまして、カングロ株式会社は、2024年度(第15期)より、事業の主要ドメインを刷新し、再スタートを切ることにしました。
今回、これを節目とし、大変急ではありますが、12月8日(金)20~22時、オンラインにて、SCBC修了生、SCICオープンダイアログ参加の皆さんを中心に、「これからのことを語り合う会」を開催したいと思います。ここで、少しだけお時間を頂いて、弊社のこれからのビジョン、そして新規事業について概要をお伝えしたいとも考えております。
参加費は無料です。入退室自由にて、飲み物とおつまみを携えてぜひご参加下さい(どなたでもご参加頂けます)。年末のご多忙の中ではありますが、ぜひともご参加をお待ちしております。
皆さんとの再会を楽しみにしております。
カングロ株式会社 藤井啓人/森夕花
■Zoomオンライン:URLは、Peatix経由によるチケット購入者に自動送信されます
■オープン・ダイアログ参加対象: ※どなたもご参加頂けます ・SCIC正会員 ・SCBC修了生&SCBC受講生 ※SCIC未会員 ・一般参加(社会人) ※SCIC非会員 ・学生(中学~大学院生)
■参加料:無料 ※入退室自由・飲食を自由にしながら
■SCICとは: SCIC(Shock Coherent Innovation Club)は、ショック・コヒーレント基礎講座(SCBC)修了生をベースとした会員制クラブです(ご入会頂くためには、SCBCを受講し修了証明が必要となります)。 https://scic2023.peatix.com/view
●目的:SCBC修了生同士の交流と創発の加速。私たち自身が動き、世界に奇跡を起こす
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■『Shock Coherent(ショック・コヒーレント)』とは: 現代社会は今、破壊的な人間活動によって、エントロピー(無秩序・乱雑さの度合い)を加速度的に増大させています。故に、地球環境の悪化による気候変動や自然災害、絶え間ない疫病の発生、人心荒廃による貧富の格差拡大、資源収奪、世界各地で紛争や戦争が頻発化し、世界の指導者たちが核兵器の使用をほのめかす事態となり、もはや地球生命全体の未曾有の危機に陥っています。これを人々は、VUCAワールドと呼び、行先不透明な生き難い時代の合言葉となってしまっています。
このような時代において、「私は、これからどう生きれば良いのか?」と、多くの人々が、自問自答を繰り返し、五里霧中の状態に陥っています。このままでは、時代に翻弄され、本来あるべき使命を全うすることなく人生を終えてしまうことになるやも知れません。そうならないために、私たちに何が出来るのか。当講座は、そうした社会の強い要請により、30年に及ぶ研究の集大成により創発的に完成した稀有なプログラムです。
当講座では、様々な立場の仲間と共に、自分自身の「存在意義(パーパス)」を見つける5ヵ月間の不思議な旅に出て頂くこととなります。即ち、この「存在意義(パーパス)」が、自己変革への道標となるのです。そして、感性を刺激し、心を揺さぶる独自のアプローチフレームを活用し、固定観念の融解を起こし、事例や課題から自己変革へのヒントを得、仲間やファシリテイタとの多くの対話や繋がりから閃きをもらい、自身でも予期せぬ“創発”を起こしていきます。
このワークショップは、個人が真の意識変革を興すことを目的として、カングロ株式会社によって開発されたプログラムです。私たちは、この講座を多くの方々にお届けすることを使命とし、日々事業を営んでおります。そのことを通じて、真の道を啓く方が増え、社会そのものの変革を成し遂げられたら本望であります。ぜひ、講座で会いましょう。
(プログラム開発者:藤井啓人)
■第1~6期「ショック・コヒーレント基礎講座」全アーカイブ・オンデマンド映像集(有料コンテンツ) https://vimeo.com/ondemand/shockcoherent
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★【ダイジェスト版動画特別提供映像】: 「今だから知っておこう!災害時のマンション活用法/対談セッション『新しい世界の街づくり』安心のデザイン~こころの時代へ向けて」第27回SCICオープン・ダイアログ/講師:尾山幸代氏(2023年11月10日) https://youtu.be/W4NIZzdwtnQ
「アフリカ紛争地に命の素を届ける志経営~ルワンダに単身乗り込みコンゴ民主共和国にトウモロコシ粉を送り届ける汗と涙の奮闘記」第25回SCICオープン・ダイアログ/講師:牧野広太氏(2023年10月13日) https://youtu.be/OVGqlO2zino
「やめられない、とまらない資本主義を考える/どうしたら人類は本当の豊かさ幸福を取り戻せるのか?」第25回SCICオープン・ダイアログ/講師:森夕花氏(2023年9月8日) https://youtu.be/GNLq4y8he6w
「小説『サルの覚醒』著者が語る己の道の啓き方~”第二章”の秘話を参加者の皆さんだけにお伝えします」第24回SCICオープン・ダイアログ/藤井啓人氏 (2023年8月11日) https://youtu.be/jMKc1sQpThg
「上手くいっている経営者は実践している~九星気学を活用した組織構築と経営」第23回SCICオープン・ダイアログ/山田早苗氏 (2023年7月14日) https://youtu.be/hJ1bawvuXpE
「地域共創型サステナビリティ活動の育て方」第22回SCICオープンダイアログ/西田哲也氏(2023年6月9日) https://youtu.be/HlccCwoXLqc
「いまどきの就活と人材育成~コロナで世の中の働き方、人との接点が変わって3年。いまどきの新卒の就職活動と企業の動き、今後について妄想します」第21回SCICオープン・ダイアログ/河合洋氏 (2023年5月12日) https://youtu.be/pmsu1fga9eQ
「54歳の地図 青春の意味を問い直すロールモデル無き人生の彷徨い方」第20回SCICオープン・ダイアログ/山田修司氏 (2023年4月7日)【ダイジェスト版】 https://youtu.be/TMRbyfEUX_c
「心理的安全性を醸成するコミュニケーション~あなたのチームのパフォーマンスと定着率を高める方法」第19回SCICオープン・ダイアログ/池田かなえ氏 (2023年3月9日) https://youtu.be/Gsk5JF4ZCEc
「眠る資産に価値をつける!地方の現状と世代交代後の未来」第18回SCICオープン・ダイアログ/博多敏希氏 (2023年2月10日) https://youtu.be/hU7SvTAhgFk
「地球意識革命・未熟者の道の啓き方~人生のメタノイア(視座転換)についての基礎編」第17回SCICオープン・ダイアログ/講演者:藤井啓人氏 (2023年1月13日) https://youtu.be/CtaWJAboMKM
「なぜビジネスにアート思考が必要なのか?世界の見方を変えるアート思考」第16回Shock Coherent Innovation Club(SCIC)オープンダイアログ/講演者:森夕花氏(2022年12月9日) https://youtu.be/vFnykrdzwt4
「VUCAワールドに効く個人と組織の視点の再構築~自己や地者、そして世界への認識の見直し」第15回Shock Coherent Innovation Club(SCIC)オープン・ダイアログ/講演者:楠徳生氏 (2022年11月11日) https://youtu.be/-wIwXLX4ZUQ
「破壊と創造~壊れると、新しく生まれる/コロナ禍で悪者だった飲食店はどう変化していくのか」第14回Shock Coherent Innovation Club(SCIC)オープンダイアログ/講演者:福本浩幸氏(2022年10月7日) https://youtu.be/ygxXywmvQ1w
大企業病への挑戦 第2章~認知科学の実践における人間性と抽象度の壁/自分を変え、常識を変え、世界を変えていく/第13回Shock Coherent Innovation Club(SCIC)オープン・ダイアログ/講演者:内藤礼志氏 〔2022年9月9日) https://youtu.be/qBNlFTor9hw
新しい『構造』がうつ病から復活させ組織も前進させる~うつ病経験者が語る、ストレスとつき合い未来をつくる方法/第12回Shock Coherent Innovation Club(SCIC)オープンダイアログ/講演者:堀北祐司氏(2022年8月5日) https://youtu.be/HudMdpphjEI
The 事業承継~当社流、バトンの受け方、渡し方/第11回Shock Coherent Innovation Club(SCIC)オープン・ダイアログ/講演者:大島右京氏/2022年7月8日 https://youtu.be/dWnOtXQAmqw
心理的安全性のリーダーシップを身に付ける方法~組織パフォーマンス最大化の処方箋/第10回Shock Coherent Innovation Club(SCIC)オープン・ダイアログ/講演者:倉持茂通氏(2022年6月8日) https://youtu.be/DuUvRzcqJD0
100年企業研究から見えてきた、コロナ禍だからこそ変えなければならないこと、変えてはいけないこと/第9回Shock Coherent Innovation Clubオープンダイアログ/講演者:小山貴子氏(2022年5月13日) https://youtu.be/0juftCrZ1mQ
人事制度のミライを探求する~ノーレイティングを超え給与を自己申告する人事制度への挑戦/第8回Shock Coherent Innovation Club(SCIC)オープンダイアログ/講演者:福留幸輔氏(2022年4月15日) https://youtu.be/XEm-OdMYwMY
「パーパスと共に生きる時代/パーパスとはいったい何なのか?宇宙の営みから壮大なタペストリーを読み解く」第7回Shock Coherent Innovation Club(SCIC)オープン・ダイアログ/講演者:森夕花氏(2022年3月11日) https://youtu.be/vNaK4qH94fA
「部署なし管理無し評価無し、VUCA時代に挑む選択できる組織作りへの挑戦」第6回Shock Coherent Innovation Club(SCIC)オープン・ダイアログ/金光広樹氏(2022年2月18日) https://youtu.be/33DyPirlM7c
「新規事業における企業の在り方」第5回Shock Coherent Innovation Club(SCIC)オープン・ダイアログ/長島壮洋氏(2022年1月13日) https://youtu.be/eM3sRZDo0Ng
「ティール組織の作り方“レシピ”」第4回Shock Coherent Innovation Club(SCIC)オープン・ダイアログ/嶋田崇孝氏(2021年12月10日) https://youtu.be/JDp0srEGxGE
「こころの病との上手な付き合い方~仕組みがわかれば予防ができる」第3回Shock Coherent Innovation Club(SCIC)オープン・ダイアログ/中田健士氏(2021年11月5日) https://youtu.be/_OW88883t7o
「混ざると、新しい事業価値が生まれる。」第2回Shock Coherent Innovation Club(SCIC)オープン・ダイアログ/星野良太氏(2021年10月8日) https://youtu.be/fZJWaFmhAD4
「大企業病への挑戦~認知科学の理論と実践」第1回Shock Coherent Innovation Club(SCIC)オープン・ダイアログ/内藤礼志氏(2021年9月3日) https://youtu.be/aV8ux6Ha-9M
■「Shock Coherent Innovation Club(SCIC)オープン・ダイアログ」アーカイブ・全オンデマンド映像集(有料コンテンツ) https://vimeo.com/ondemand/scic
■主催:カングロ株式会社 https://www.kanglo.co.jp 協力:サステナ塾/SDGs超実践者委員会/イノベーションサロンZ/システムD研究会/フィロアーツ研究会
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onomasahiro99 · 6 months
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小野 正裕 (Ono Masahiro) - 富の伝承と文化の伝承
小野 正裕 (Ono Masahiro) - 富の伝承と文化の伝承
アメリカは世界で最も多く慈善寄付をしている国です。 ギビングUSA財団が発表した「2020年米国慈善寄付報告書」によると、2019年、米国の個人、遺産寄付、財団、企業は慈善団体に約4496.4億ドルを寄付しました。 アメリカの慈善寄付は、どのようにしてこの高みに達したのでしょうか?
アメリカの慈善事業の発展過程をたどってみると、富が蓄積された最初の黄金時代である19世紀後半から20世紀初頭にかけて、アメリカの富豪たちが大規模な慈善寄付を始めたことがわかります。 『アメリカの富豪はなぜ慈善活動をするのが好きですか? (一)』では、著者は当時の富豪企業家が置かれていた外部環境の変化について分析しました。一つは経済と社会関係の変化が富豪への寄付を推進する基礎要素を形成したことです。もう一つは政府の行政介入が富豪への寄付を促進する制度の基礎を築いたことを指摘しています。
社会批判が集中的な爆発し、政府の介入が続いたことで、先見の明のある富豪たちが反省を始めました。 彼らは具体的にどのように考え、またどのようにしたのか? 本記事では、引き続き詳しく解説しています。
激動する社会環境は、米国政府に変革を迫っています。 富裕層と起業家の役割問題も、さらなる論争を巻き起こしています。 経済生活の時代における起業家の重要性を疑う人がいないですが、アメリカ人の深い認識では、成功には善良な人格に基づく道徳的秩序が伴うべきです。しかし、ダーウィニズムに支配された弱肉強食の大企業のやり方は、この考え方に逆行するものであり、人々は起業家に対して両義的な感情を抱き、畏怖と不信の両方がありました。
大企業に対する態度について、支持派は、大企業の台頭は産業の進歩を反映したもので、それは良いことであり、より安い商品を提供し、より多様な商品やサービスを提供できるようになったと主張しました。改革派は、大企業はその経済力を利用して政府を引き込み、腐敗を引き起こすことで政府の手先になってしまったと主張しました。 彼らは企業家が公益を追求すること、またその冷酷さや腐敗を糾弾しました。批評家たちは、上院を富裕層の利益に奉仕する「大富豪クラブ」とまで表現しました。
特に1890年代半ばの経済恐慌の時期には、その不満は声高に叫ばれました。 アメリカでは社会的対立の兆候が非常に多く、カーネギーなどは民主主義が存続するのかどうか疑問に思っていました。 アメリカ社会では改革への意識が高まり、自由放任の原則に挑戦する古い価値観と新しい現実との間に緊張が高まっていました。
富豪たちの行動と現代公益思想の誕生 底辺の怒り、批判と抵抗、そして政府の改革に直面し、ヨーロッパ社会主義思潮が絶えず伝わってきて、大手財団にストレスを与えました。彼らは苦境から抜け出す道を探して、彼らの「強盗男爵」の悪いイメージを変える必要があります。 このような状況で、富豪や社会のエリートたちが反省し始めました。 一方、巨大な富の情報が自分の手に集中して、どのように富を処理しますか? 私有財産を守るにはどうすればいいですか? これは当時の大金持ちたちが直面していた時代の課題です。 再投資? 投資収益率は減少しています。消費? 富は消費能力をはるかに上回り、贅沢はもう不愉快になりました。 子孫に残しますか? 子孫に災いが及ぶことを心配して、富豪家族は子孫が衣食に困らない生活を送ることを望んでいますが、ハングリー精神を失いたくないし、巨額の富が彼らの互いの計算と傷害の伏線になることを望んでいません。
一方、富の所有者自身の生い立ちを見ると、彼らの多くは貧しい出身で、何もないところから出発しています。 制度の受益者として、彼らは動乱と革命が現状を根本的に変えるのを見たくなくて、温和で効果的な行動によって社会の矛盾を是正して緩和したいです。 彼らは自分が社会に貢献すべきだと考え、消極的に社会の矛盾を緩和するのではなく、積極的に自分の信念に基づいて社会の進歩を促進しようとしています。 最も簡単で便利な方法は、寄付して財団を設立し、公益を解決案とすることで、社会に利益をもたらし、子孫に事業を残すことができます。
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カーネギーは1889年に発表した「富の福音」の中で、慈善活動を富の創造過程で急激に出現した社会問題を解決する方法としています。 「私たちの時代の問題は富を合理的に管理することであり、裕福な人と貧しい人の間は兄弟のような調和関係であるべきだ」と本は述べています。 彼は富の集中による貧富の格差の拡大は文明の進歩にとって避けられない代償であり、金持ちは社会に対して避けられない責任を持っており、社会が安定し、自分にとっても有利であると考えています。 財を集めるには散財と同様に高度な経営能力が必要であり、富豪は生前に適切な運営を通じて富を公共に利益をもたらす事業に使うべきだと主張しています。
どうやって公衆に利益をもたらしますか? カーネギーはまた続編『公益寄付の最良の分野』を書きました。彼は富を寄付する鍵となる要件は、被援助者に自己救済に不利な傾向です。例えば怠惰、不真面目、救済に頼るのではなく、人々を鼓舞し、自分の努力に頼って行動し、現状を改善できるようにすべきだと考えています。 このポイントに基づいて、カーネギーは富を寄付する6つの「最良の分野」を提案しました。大学、無料公共図書館、公園、公共プール、教会を建設し、病院などの医療機関を設立または拡大します。
カーネギーのこの二つの文章はアメリカ公益事業の古典的な作品と呼ばれ、20世紀のアメリカ現代基金の発展の思想基礎を築きました。 同時代のロックフェラーの基本的な考え方と行動はカーネギーと一致しています。
二、寄付して財団を設立することは富豪たちが選んだ組織方式です。 財団は公益事業の重要なキャリアであり、富豪たちは財団という組織形態を通じて、社会環境の改善を目指しています。 発展の歴史から見ると、財団は通常、社会で推進者、協力者、触媒の3つの役割を果たしています。私たちは20世紀初頭の3つの財団からこれらの役割の影を見ることができます。20世紀初頭に設立された最初のリーダーシップのある財団は3つあります。それぞれ1907年に設立されたセッチ財団、1911年に設立されたカーネギー財団、1913年に設立されたロックフェラー財団です。彼らは理念、経営方法、寄付モデル、寄付分野の選択において模範的な役割を果たし、その後の財団の発展基盤を築いています。
三大財団はいずれも、理事会の設置やプリンシパルの任命など、企業の運営方式を導入しており、理事会は意思決定権を持ち、財団のニーズに応じて業務プログラムや優先順位を調整することができます。 それ以来、財団の経営は専門化に向かって発展し始め、常勤の職員も大幅に増え、次第に独立した産業となりつつあります。また、鉄道や通信手段が発達したおかげで、財団の視野はもはや寄付者のコミュニティ、宗教に限定されず、アメリカ全土、さらにはアメリカ国外にまで目を向けるようになりました。 寄付の分野では、大多数の財団が教育、医療、農業、物理学、化学、生物学、天文学などの科学研究分野に投資しています。スタンフォード大学、ジョンズ・ホプキンス大学、コーネル大学、ヴァンダービルト大学、シカゴ大学など多くの大学は、アメリカ南北戦争後の寄付によって設立されました。 同時に財団は、ニューヨークのMOMAやロンドンのV&Aなど、美術分野への寄付も好んで行っています。
企業家が公益事業を寄付する動機について、一般的な見解では、慈善寄付の免税はアメリカの富豪が財団を設立する重要な理由の一つであると考えられています。 これは、米国財団の発展の過程で、税収政策の調整が慈善寄付に重要な役割を果たしていることを否定するものではないです。 しかし、本論文で述べたタイムノードで、特に前述の3つの財団が設立されたとき、米国には明確な慈善税優遇政策はないです。 アメリカは1913年から個人所得税を徴収し始め、1917年まで慈善寄付免税の税法がありました。 そのため、「米国財団の発達は政府税制の奨励に由来し、脱税は創立者の主な動機である」という認識は正確ではないです。
しかし、一つ指摘できるのは、この時期の企業家は慈善寄付には寛大に見えますが、労働者の労働条件を改善し、労資矛盾を緩和するなど、企業の社会的責任の面ではコントラストが大きいことです。金持ちと貧しい労働者との間はずっと対立状態にあります。カーネギーを例にとると、彼は他の業界リーダーと同様に、労働者に困難で危険な労働条件を与え、労働者スト運動を鎮圧し、彼の工場で労働組合を設立することに断固反対しました。 一方で、彼は不幸者に対する関心はまた真実で、1919年に亡くなる前に、累計は3億3000万ドルを寄付して、自分の巨大な富を社会福祉分野に投入しました。 ロックフェラーの箴言は、「手に入るものはすべて手に入れ、与えるものはすべて手に入れる」というコントラストの表れとも言えます。
統計によると、1913年から1919年にかけて、アメリカの実質賃金は上昇するどころかむしろ低下し、1日8時間労働制が確立されたにもかかわらず、それが企業で普遍的に実施されるにはほど遠かったです。 8時間労働を求める闘いは、ロックナー訴訟によって一時中断しました。 ロックナーはベーカリー経営者で、労働者に1日10時間以上の労働を要求し、ニューヨーク州ベーカリー法に違反したとして訴えられました。 この法律は、ニューヨークのパン職人組合とマスコミによる絶え間ない闘争の末、1895年にようやく成立しました。 裁判所はロックナーに直ちに50ドルの罰金を支払い、50日間の服役を命じました。 ロックナーは、ベーカリー法は労働者階級を優遇する階級偏重の法律であり、憲法修正第14条の平等保護条項に違反すると主張し、判決を不服として連邦最高裁判所に上訴しました。 ロックナーに勝訴の見込みはないと誰もが思っていました。 しかし結局、高裁はロックナーを支持する判決を下しました。 原判決は次のように述べています。「この法律は、雇用主と被雇用者の間で契約を結ぶ権利、すなわち雇用主のパン工場における被雇用者の労働時間に関する権利を必然的に妨害するものであります。 自分のことに関して契約を結ぶ一般的な権利は、連邦憲法修正第14条が保護する個人の自由の権利の一部です」。 それ以来、「ロックハートイズム」が優勢となり、数十年にわたる労働争議と労働者運動を引き起こしました。
もちろん、8時間労働制を実施している企業もあります。 1914年、ヘンリー・フォードは比較的大胆な措置を講じて、労働者の給料を1日5ドル、勤務時間を9時間から8時間で、つまり「5ドル勤務日」に減らすことにしました。 当時、自動車業界では一般的に日当が2-3ドルでした。 このようにした結果、フォード社の労働者欠勤率は下がり、離職率も0.5%以下に下がり、同時に採用事務室の入り口には長い列ができました。 また、自動車の生産規模の拡大に伴い、自動車の生産量は急速に向上し、コストの低下は明らかで、有名なt型車の出荷価格は1950ドルから290ドルに下がりました。 フォードは「給料を1日8時間5ドルにすることは私がこれまでにしたことのない最もきれいな管理決定であり、それを6ドルに引き上げることは、私がその上でさらにきれいな管理決定である」と誇りに思っています。 この決定は、フォードが技術的に熟練した忠実な労働力を得ただけでなく、一部の労働者の給料を上げることで自動車を買うことができる大衆消費者を育成しました。 しかし、パイプラインの労働者は依然として疲れ果てており、革新効果は次第に減少しています。フォードの試みは結局、一部の企業活動が暴露した道徳問題や、鋭い階級対立、環境汚染、社会不安などの問題を解決することができませんでした。
もちろん、大富豪やその財団の公共福祉に対するアメリカの世論は必ずしも肯定的ではなく、批判は続いています。 一方では、財団がその富を利用して教育や医療制度、さらにはアメリカ社会全体の野心をコントロールし、最終的には一般市民を混乱させ、麻痺させ、地域社会に深刻な脅威をもたらすと批判されています。ある人々は、大富豪たちの「寄付」は利己的な喜びであり、恩着せがましく、優越感に満ちている、あるいは贖罪意識からくるもので、善行とはみなされないと批判しています。またある人々は、こうした公共の福祉は本質的に、自分たちの財産を守るための大コンソーシアムによる脱税であると非難しています。 善行です。また、これらの公共の福祉は本質的に、財産を守るための重要な方法である税金の支払いを回避するためのコンソーシアムであり、さらには、移転の犯罪を「清算」するための寄付を通じて不正な利得を求める不適切な手段の使用であると非難する者もいます。
では、富豪寄付基金の効果はどうでしょうか? これは非常に重要で評価が難しく、また答えなければならない質問です。 資中筠さんはかつて非常に重要な観点を述べました:「一つの社会の継続と発達はどのように発展と平等のバランスを取るかにある」。 この観点から、アメリカの財団は両方の面で積極的に貢献しています。 同時に、大資本家は基金会を設立することで税収減免と富の移転と継承による利益を享受し、基金会の資金運営によって大きな資本利益を得ました。
三.社会的な力としての財団は、新しいタイプの政府と企業の関係に貢献します まず、米国財団は社会的矛盾を緩和する上で大きな役割を果たしていることを認めなければなりません。 20世紀初頭、アメリカ社会の矛盾が鋭く、大規模な調整と改良が必要な時、財団は政府より先に教育、医療���どの分野で救助を行い、先駆的な役割を果たしました。
1929年の大恐慌は、アメリカ社会のパニックと空前の激動を引き起こし、問題の深刻さは民間救済では解決できず、さらに起業家も危機で深刻な傷を負いました。 ルーズベルトの当選とニューディール政策の登場に伴い、アメリカの社会福祉は新しい時代に入りました。 「ニューディール政策」は社会保障体系を確立し、労働者の自由組織の権利と代表を選ぶ権利を保障しました。 また、民間寄付を大いに奨励し、大企業の寄付に対して一部の免税待遇を与え、民間寄付を奨励することを士気を高め、社会的結束力を高める手段としています。 このような状況の中で、いくつかの大財団は政府ができる限り社会を救うことに協力して、ルーズベルト新政は政府の介入政策と民間の寄付行為との対立を避けて、政府の行為が民間の慈善事業に完全に取って代わられないようにしました。
ニューディール政策の後、富裕層と一般大衆の妥協は成功し、経済は大きく成長し、所得格差は着実に縮小しました。1940年代から1970年代にかけて、アメリカの上位1%の富裕層の所得シェアは、1940年の約16%から1970年には7%にまで低下しました慈善事業も強力な力となり、ある分野では社会のアジェンダにも影響を与えることができます。例えば、ゲイツ氏は2014年のインタビューで、財団の活動の目的は、政策立案者に直接何をすべきかを指示することではなく、政策立案者が選択できる選択肢を増やすこと述べました。
その後、アメリカ政府の福祉政策は企業、民間公益寄付と並行して矛盾せず、相補的な新しい政商関係を形成しました。 政府にとって、財団は政府の遺棄を補い、政府が「していない、できない、またはしたくない」ことをすることができます。 一方、財団は政府の公益事業資金の不足を補い、政府が社会の矛盾を緩和し、社会福祉を満足させ、文化教育を発展させるのを助けることができ、またアメリカの価値観とイデオロギーを輸出する有効なキャリアとなり、政府外交政策の「見えない手」となります。 基金会にとっても、政府との関係は政府の意思決定への影響を増やし、自分の影響力とコントロール力を拡大することができます。 ロックフェラーが指摘したように、「ワシントンの国務院は私たちの最大の助っ人であり、多くの大使と部長たちは私たちが世界で最も遠い隅に新しい市場を開拓するのを助けてくれました」。
社会組織である財団と政府との間の人員移動もよく見られます。 アメリカの多くの政府高官は財団と密接な関係を持っています。 例えば、ロックフェラー財団だけでも、国務長官を務めた政府高官が3人います。 第一は、ラスク��Dean Rusk)は、トルーマン政権で国務次官、ジョンソン政権で国務長官を務め、2回の政府職務の間にロックフェラー財団の会長を務めました。 第二は、ジョン・フォスター・ダレス(John Foster Dulles)はロックフェラー財団の会長職を退き、アイゼンハワー政権で初代国務長官を務めた後、カーネギー平和財団の会長を務めました。第三は、サイラスヴァンス(Cyrus Vance)で、ロックフェラー財団の会長職から退任した後、カーター政府の国務長官を務めました。このように、この財団は「影の内閣」とも呼ばれています。
慈善寄付は社会の進歩を推進する重要な原動力となっています 20世紀以来の基金会は、アメリカ社会の改良を推進する三つの力の一つとみなされ、世界経済の発展を促進し、社会の進歩を推進し、貧困を減らし、健康を促進し、貧富の格差を解消する重要な力です。 彼らはグローバル財団の発展をリードし、今日でもグローバル文明を推進する上で重要な役割を果たしています。
財団の教育、科学研究に対する強力な支援、および知識の伝播と文化学術交流に対する熱心な提唱は、社会生産力の発展に積極的な推進作用を果たしました。 同時に財団は社会的弱者にも注目しています。 アメリカの特定の条件下では、人種の矛盾と貧富の差は常に深刻な社会問題ですある。 慈善基金は社会の不平等を根本的に解消することはできませんが、アメリカの1世紀以来の矛盾の先鋭化を防ぐ重要な力を構成しています。
特に、自然科学でも社会科学の分野でも、いくつかの新しい発明や研究は、最初の肝心な時に財団の助成に役立つことが多いです。成功が自信がない場合や、実際の利益が明らかでない場合、一般政府や企業はリスクを冒したくないからです。 この助成金の割合は小さいですが、「無から有へ」の推進作用を果たしています。
ロックフェラー財団を例にとると、1928年、ロックフェラー財団は英国人フレミングによるペニシリンの発見に資金を提供しました。ロックフェラー医科大学の設立後、数年以内に鉤虫症、流行性髄膜炎、ポリオ、黄熱病、梅毒の研究が飛躍的に進み、鉤虫症だけでも6500万米ドルが投資されました。1930年、ロックフェラー財団は近代的な職業・精神医学研究の先駆者となりました。ロックフェラー・ウイルス研究所に勤務していたテイラーは、黄熱病に対するワクチンの開発でノーベル医学・病理学賞を受賞しました。ロックフェラー財団は、フォード財団やその他の財団と共同で「緑の革命」プログラムを立ち上げ、米やその他の作物の収量を倍増させました。また、当時最先端であった遺伝学、生物物理学、生化学の飛躍的進歩や、検出器ミラーやX線分解装置などの研究機器の改良と発明も、すべて財団の支援によって実現しました。
同時に、財団が始めた新しいプロジェクトが、後に新たな政策として政府に引き継がれることも多かったです。 例えば、フォード財団のスラム対策「グレーゾーン」プロジェクトは、ジョンソン政権の「貧困との戦い」プログラムの先駆けとなりました。カーネギー財団の公共図書館と大学教員の年金プログラムは、公共の福祉に分類されました。ロックフェラー財団の公共図書館と大学教員の年金プログラムは、公共の福祉となりました。カーネギー財団は、公共図書館や大学教員の年金プログラムを開始し、これらは公的給付として分類されるようになりました。ロックフェラー財団は、第二次世界大戦後のアメリカにおける人口動態の変化を初めて分析しました。
今、主要な財団は、経済発展と平等のバランスを世界的に維持する上で重要な役割をしています。 例えば、ゲイツ財団は、世界保健機関、世界銀行、ユニセフと協力して、グローバルワクチン免疫連合(Gavi)を設立し、各国政府と関連機関に共同で資金調達してワクチンを購入し、低所得国の子供たちに提供するよう呼びかけています。 2019年までに、Gaviは7億1300万人以上の子供のためにワクチン接種し、1300万人の子供の死亡を回避しました。 この機関はまた、より多くのワクチンと物資をより安い価格で市場に導入することに成功しました。例えば、1剤で5種類の致命的な感染を予防できる5連ワクチンは過去の価格で3.65ドルでしたが、現在では1ドル未満に下がっています。
財団の設立と管理は富の分配と継承の構成構造となっています 現在、米国には特別で独立した慈善法はなく、憲法、税法、会社法、非営利団体法などの連邦および州の法律法規に慈善に関する規定と条項が散在しています。 米国の法律による基金会の税収規定は、基金会を富豪たち脱税のための有効な道具とし、財産を長期的に保存するための重要な手段の一つとなっています。
『アメリカ連邦国内税収法典』第501条(c)項(3)項の規定に従って、登録された基金はすべて所得税を免除する優遇政策を享受することができます。 慈善団体の収入は、私立財団の純利益に消費税を徴収し、目的に関係のない商業収入に課税することを除き、免税です。 また、慈善団体に寄付した組織と個人に税金控除を与え、個人が享受できる税金優遇はその年の税前収入の60%に達し、会社は税前収入の25%に達します。これは慈善寄付を大いに奨励しています。
米国国税庁は財団に対し、毎年財団の投資資産の時価総額の5%に相当する金額を慈善目的のために、支出することを義務付けており、余剰分は翌年度の最低支出額に対して積み立てることができ、最長5年間繰り延べられます。その結果、ほとんどの財団は、毎年わずかな部分のみを慈善目的に支払い、多額の資金を財団に留保しています。様々な投資を通じて、財団は「保全と感謝」という目的を容易に達成することができ、財団の財源が持続可能な発展を達成し続けるようにすることができます。ルンドバーグが言ったように、「財団を通じて、創設者はより多くの資金を得ることができ、より多くの資金を残すことができる」のです。
アメリカには慈善団体の支出比率をハードに規定する法律がなく、慈善団体の中には慈善の看板を掲げて私利をむさぼる人もいます。 統計によると、アメリカの数十の慈善団体の管理支出は70%を超え、一部は90%を超えています。 例えば2015年に明らかになったがん財団のスキャンダルでは、「アメリカがん基金」という慈善団体が受け取った1ドルの寄付金のうち、実際にがん患者に寄付したのはわずか3セントでした。 慈善基金はアメリカの現在の「贈収賄」方式の一つになっており、クリントンやトランプなどには自分の名前をつけた慈善基金があるとの告発もあります。 利益グループがある役人に賄賂を贈りたいとき、慈善基金に寄付することができ、基金は「個人の金庫」になります。 彼らはほんの一部を慈善活動に使うだけで、残りのお金は日常の花屋に使うことができ、その名の通り「行政費用」です。 このように、財団は発展の中で、富豪家族が財団を利用して利益を求める、財団と企業が互いに利益を求める、財団が不正に投資するなどの問題がよく発生しています。
米国政府は税制上の免除を提供する一方で、慈善団体に対する入会基準や運営上の要件を定めています。税法では、財団は毎年、その財務および運営活動の状況を文書化した詳細な年次報告書、フォーム990(公的慈善団体の場合)またはフォーム990-PF(私的財団の場合)として知られています。慈善活動の詳細が記載され、特定の質問に対する回答には、文書や説明資料の添付が義務付けられています。フォームの必須項目には、利益相反を回避し、慈善団体の資金の不正使用を防ぐために、団体の管理者の個人情報、相互関係、給与についても規定されています。慈善団体が免税を受けられるのは、申請書が内国歳入庁によって審査され、承認された後です。
米国政府はまた、法律ハードルール基金を通じて社会公衆の問い合わせ要求を満たし、社会監督を受けなければなりません。そうでなければ、国税庁は厳しい処罰を与えます。 税法によると、免税資格を取得した慈善団体は、免税資格申請書とすべての添付資料、年度財務諸表が公共書類であり、社会全体に公開して、公開して閲覧できるようにしなければなりません。一部の組織は厳しい鑑査を受けなければなりません。情報の透明性は慈善団体を監督する多くの機関を生みました。 これらの機関は慈善団体が提出した公開情報の抽出を簡素化し、財政状況、説明責任能力、透明性などの指標を用いて慈善団体を評価採点し、寄付者に参考を提供し、社会監督の目的を達成しました。 慈善資金を慈善事業に投入することを奨励するため、2021年1月『フォーブス』は過去のフォーブス400慈善ランキングの評価方法を変えました。 このランキングでは、ランキングメンバーが一生の間に財団に投資した資金を計算するのではなく、これらの財団からの寄付金に加えて、追跡できる直接の寄付金を集計し、フォーブス400ランキングのメンバーが実際にどのくらい寄付したかを試算しました。
慈善寄付が家族の伝承に与える積極的な役割は主に富の伝承と文化の伝承の2つの側面に現れています。 富の継承の観点から見ると、一方で、国家の巨額の遺産税の存在により、家族の富を基金会に移すことで富の最大の残存が実現し、「敗者」の出現により巨額の財産が急速に浪費されることも防止されています。 一方、慈善事業は家族に分散投資の機会を提供し、すべての財産を家庭の主要な経営業務に投入する潜在的リスクを回避します。 文化伝承の観点から見ると、慈善活動は「裕福な世代」たちの個人と家族に対する価値観の基本的な表現で、慈善活動が家族リーダーの存在の価値観を実践に追い込むのです。 アメリカでは、慈善活動は裕福な人々に子供と外部との接触を奨励する重要な手段とみなされています。 家族は慈善活動を通じて富の真の意味を理解し、親や先祖が行っている慈善事業に誇りを感じ、家族への更なる賛同を形成しています。 多くの後輩はこれによって先人の慈善事業を継続し、さらにはそれをより広い分野に広げました。 子孫に受け継がれるのは富の管理だけではなく、家族の慈善精神もあります。
慈善活動を通じて、家族の社会的価値も向上しました。 慈善事業への投資を通じて、ロックフェラーやカーネギーなどは自分のイメージの再構築を成し遂げただけでなく、アメリカ社会のあらゆる面で家族の影響力を高めました。 例えば、ロックフェラー家は長年ブルッキングス学会などのアメリカのトップレベルのシンクタンクを支援して、連邦政府の決定に直接影響しています。マンハッタン東区の土地を寄付することで国連本部をニューヨークに移転した話はさらに美談になりました。 国際交流では、フォード財団に代表される家族財団がアメリカ外交の先駆者となり、海外で直接または間接的にアメリカの利益を推進しています。
現在、ロックフェラー家族は第6世代に発展しています。 百年を経て、ロックフェラーの子孫たちは文化、衛生、慈善事業に積極的に参加し、大量の資金を大学に投資し、病院を運営し、社会全体で彼らの富を共有できるようにしました。 家庭の富の内部伝承に加えて、ロックフェラー家は彼らの富を使って社会に貢献し、家族の影響力を世界各地に浸透させました。
以上のことから、アメリカの慈善寄付の現代的発展の歴史を分析すると、慈善寄付は社会各界が合意を得ることができる事業であり、国、人種、宗教、文化を問わず、さらには異なる組織でも合意を得ることができ、参加者も積極的に行動します。 将来の発展には、より長期的な社会問題に対応して解決し、人類の進歩を促進するために、富の所有者と政府、司法機関、学界、新たに出現した業界協会などの様々な進歩エリートとの間に協力関係を築く必要があります。
アメリカの富豪が最初に財団を設立した寄付の動機を見ると、彼らが寄付を始めた目的は、自分たちが置かれている社会環境を変え、社会の矛盾を緩和し、さらに社会全体の環境を変え、社会の進歩を促し、教育、医療、芸術分野での寄付がより高い社会構造を示していることがわかります。 彼らの慈善活動は、すべての人の利益を最大化し、社会的矛盾を解決することです。 全体的に見ると、「いかなる慈善的動機に基づいても、慈善事業自体の目的は人類文明の福祉、幸福、文化を推進することである」。
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easyinformality · 1 year
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RPGのジョブ風芸術家の理想像7種(仮)
7種:貴族 聖人 隠者 道化 芸人 職人 市民
以下それぞれのジョブの説明。
・貴族(ルールメーカー) 例:岡本かの子 蓮實重彦 後鳥羽上皇 マルセル・デュシャン  貴族とは、批評家の最も高度な形態である。もしかすると藝術家の最も高度な形態かもしれない。批評家は批評文によって物事の価値の是が非かを決定するが、貴族は卑しい批評家とは異なり、価値付けのために組織化された文章でなく、彼の振る舞いそれ自体によって物事の価値を決定する(文章上の仕草、話しぶりにおいても同様である)。このことは芸術作品が目指すところのものそのものではないか?と考える向きが現代の風潮となっている。しかしこの理想像を目指すには、多分に生まれ持った能力と階級が重要になる。人々の振る舞いの模範となるには、『失われた時』に登場するシャルリュス男爵やゲルマント公爵夫人のような、高貴さと洗練された趣味が必要になるからである。とはいえ、後者はあればいい程度のものにすぎないかもしれない。  貴族であろうとすることは、自分を社会に押し付けようとすることである。努力の仕方を間違えたり、才能の質を見誤ると、その権力への欲求が妄想の病の形を取りかねない危険がある。  現代アー��ィストの大半はこの類型を目指している。しかし、自然の法則からして、ルールメーカーは本質的に少人数でなければならない。数が少ないということこそ、貴族であることの証明だからだ。現代では、ルールメーカーが企業か何かのように乱立するという混乱した様相を呈している。現代アーティストが金を追求するのも当然だろう。金はルールメーカーの力を支えてくれる、もっとも分かりやすく、もっとも手に入りやすいものなのだから。  ルールメーカーの頽落した形式として、社会活動的アーティストというものがある。ときにそれは聖者が頽落したものでもありうる。
・聖者 例:石牟礼道子 ドストエフスキー(サブは道化) ゴッホ  聖者は聖なる時代には出て来ない。聖者の出現は、聖なるもの(宗教道徳、倫理、あるいはそれよりもはるかに高度な宗教感情一般)が衰退するか、衰退の危機にあるときに出てくる。宗教的なるものの衰微の兆候や既存の宗教の硬直化が、聖者が乗り越えようと目するものである。  彼らは彼らの持つ宗教感情を最大限に生かして、物語を物語ったり、詩を読んだりする。彼らが捉えたいと願い、またしばしば捉えたと信じるものは、我々人類の生活世界を越えた、より大きな世界、それもSF作家がしばしば思い描くような宇宙、混乱した雑多なものの集積物で、その奇怪さゆえに人智を越えていると考えられるような宇宙ではなく、人類を包み込む調和の取れた世界としての宇宙、ないし調和を見出すための一筋の光を見出すことができる宇宙である。この人間社会よりも高次の、より大きな秩序を探究し、作品のなかでその秩序に触れた際の人間の感情の働きを追求したいという願いが、しばしば彼らの作品の構成のための最初の目的になる。つまり、彼らは何か超越的なものを、単なる個人における探究ではなく、全人類のためのものとして、追い求めるのである。  聖者は聖なる時代には出て来ないと最初に述べた。この点で聖者は、市民社会の高度な道徳の体現者である市民から区別されなければならない。また、単に宗教的なものを求める気持と聖者の気持とは、それが超越的なエネルギーを持っているかいなかで区別される(これは、聖者とその追従者はそのエネルギーの有無で価値を判別する存在ではあるものの、その作品、藝術家の価値とはまた別の話である。)。
・隠者 :丸谷才一 正徹 トゥオンブリー  隠者は知識を重んじる。それは、つまり、過去の作品とその歴史を重んじるということである。しかし過去や歴史や文献といったものは、世間が最も嫌うものの一つでもある。過去を気にしているうちは人生を生きられないし楽しめない、と世の人々は思っている。したがって隠者は世間を離れて隠遁生活に入り、隠者同士のネットワークのなかで生きていかざるを得なくなる。  それを見て人々は彼らは禁欲的な人だとか立派な人だとか世捨て人だとか言うかもしれない。だがそれは誤った称賛だろう。隠者は隠者で、彼らの社交の場を持つからだ。隠者と宗教的な苦行者とはこの点において区別されなければならない。だが一方で宗教組織がしばしば隠者の隠れ場であったというのも事実である。大学という場が宗教組織を土台に出来上がったという事実もある。  要するに隠者とは、文学から文学を生み出す類の芸術家のことを言う。彼らは紙の中でしか息ができないために、自身の作品も、冒険そのものというより書物から書物へ移る知的な冒険を含んでしまうのである。宮廷が衰退した後に正徹が和歌をものしたことは、その最も分かりやすい例と言えよう。  隠者、つまり知識人という種族が成立するためには、ある種の個人主義を成立させるだけの自意識の発達が必要であり、つまり都市化という過程が必要であるように思われる。だが、実際のところはどうなのだろう。代々怪しげな呪文を伝えてきた古代の呪術師たちと、どの程度系譜上近接しているのか、興味深いところだが、真実が明らかになることはなさそうである。
・道化 :中原昌也 象徴主義の詩人たち アリストファネス ジェフ・クーンズ  道化師はアイロニーの達人である。ということは彼らは、人を針で突き刺すと同時に自分をも針で刺す達人だということだ。それは彼らが、その批判意識を言葉として振るわないときでも、同じである。無言のパントマイム劇の最中にも、彼らの身振り手振りは刺々しいものを含んでいる。一見彼らのポーズや放言は、おどけた愉快なものに見える。だがよくよく観察すれば、彼らは我々を楽しませようとしているのではなく、我々を腹の底から馬鹿にして虚仮にしようとしているのだということが、はっきり見て取れる。そして同時に、そんな馬鹿よりも馬鹿者として振る舞っている自分を彼らは馬鹿にするのである。  とはいえ以上で述べたようなことは、道化の姿としては現代的なものすぎないのかもしれない。古くには、演じられた馬鹿ではなく本物の馬鹿者が、道化を演じることがあったのだろう、と想像して、私は何の疑いも抱かない。馬鹿者は礼儀を知らないから、浮かれ騒ぎになれば、思ったことを何でも言ってしまったのだろう。そしてそれが、現世のすべての秩序が逆さまになる祝祭として、喜ばれたことがあったのだろう。次の時代には、馬鹿者を真似た陽気だが知的な馬鹿者が出てきた。彼らは人を馬鹿にしながら寿ぐ技を磨いた。最後の時代には、道化は陽気さを失い、何かを祝福するという術を失った。  すべてのものを馬鹿にするということは、すべてのものを自由にするということでもある。そのため道化の技は、その価値転換の目的からして、貴族のそれに近いと言えないこともない。だが道化の技はより危険である。彼の活躍の場は社交ではなく祝祭であり、祝祭を持つことのできなかった道化には、しばしば悲劇的な結末が待っている。そして現代においては、本当の価値転換が行われる祝祭というものは望まれない。ヨーロッパにおいては、神が死んでからは、祝祭は不可能になってしまったという事情もある。そういうわけで、現代の道化はかつてよりも知的で、かつてよりも暗い顔をしている。彼らは自らの性質により道化になったというよりは、価値転換を行いたいがために道化にならざるを得なかったように見える。古代と現代の間で、どちらがより優れているのかは、容易に結論の出ない疑問である。だが、現代において古代と同じものを望むのは、倒錯的だというだけではなく危険も大きいと、言っておく必要があることだけは確実だろう。
・芸人 :チャールズ・ディケンズ 紫式部   人を楽しませることを活動の目的とする人々は、観客を選好したりしない。たいていの場合、受け手がどの階級に属していようと、その場にいる大多数の人々を楽しませることが、自分の職分であると理解しているものである。そのため、芸人というこの類型は、ジャンルによらず、もっとも民主的で大衆的な芸術の作り手であると言える。  芸人という職業が誕生した歴史的経緯は無論定かではない。ただ、古事記の岩戸のエピソードが示すように、文化の発展史の初期には、芸人は宗教的な巫女の役割を兼ねていたのではないか、と想像することはできる。確かに、平家物語やホメロスの叙事詩など、職業的な芸人がその成立や普及に関わったと思われる作品には、御霊信仰や神威の偉大さを伝える話が、欠くことのできない主題としてある。このことも、芸人という職業の民衆的な性質を考えればすっかり説明できるように思われる。思想は知識階級の産物だが、一方宗教と信仰は本質的には民衆のものだからである。  その後時代が下るに連れて、芸人が内在していた宗教的価値は薄れていったようだ。まだ社会階層が分離された状態が長く続き、都市化によって社会の複雑さが増すと、それぞれの社会階層ごとの芸人というものが登場し出す。上流階級向けのバイオリン弾きもいれば、下層階級向けのエレキギター弾きもいる、といったように。しかしそうした区別は単なる階級の好みに依存しているにすぎず、その本質ではない。興味深いのは、薄れたとはいったものの、依然として芸人には何かホーリーな後光が指しているように思えることである。クラシックにしろポップスにしろ、現代のコンサートに足を運んで、そこにかつてなら宗教的なものと呼ばれたものの顕現を目にしないものはいるだろうか? またどれほど下らないと知識階級が言い張ったとしても、戯作に感涙する人はいつの時代も少なくないのである。それに、知識階級が大事にしているものですら、単に知識人向けの戯作でないとは限らないではないか。
・職人  貴族は趣味に第一の関心を持つ。聖者は超越的なるもの、隠者は作品史、芸人は観客に関心を持つ。道化は何かに関心を持ったりはしない。職人はメディウム、つまり素材に関心を持つ。  形式への問いは要するに歴史への問いであると言える。形式が歴史の産物であると見なすことは、近代以降の我々にとっては常識となっている。だが同時に、形式は素材を規定し、素材は形式を規定するものである。この点において、素材に感嘆するにしてもそれを征服しようとするにしても、職人の関心と隠者の関心が交わることもある。文学史上におけるモダニズムを思い浮かべればそのことがすぐにわかる。そしてモダニズムというものが一時代に限られたものでないということも、この事実からわかる。  一方両者の違いも明白である。隠者には彼らの作品をできるだけ複雑なものにしようとする傾向がある。過去と現実、形式と素材の対立に、彼らは美を見出す。職人においては、複雑さも歴史も第一位の関心事ではない。そのため、名工の技を鑑賞する際に特に歴史的事実を思い浮かべなくてもその美しさが十分に分かるように、洗練の極致にあったとしても、極めて単純なものを作ることもある。そういう場合の職人の技とは、あたかも人力で、石から完全な球体を削り出そうとするようなものである。  藝術家とは職人である、と考えられた時代もあった。藝術家が、言ってみればメディアを通して人々を誘惑する職業である以上、当然のことだろう。だが職人という理想像は、現代においては真面目に受け取られることは少ないようだ。たしかに職人はもっとも世俗的な芸術家像であり、その分容易に頽落した形式になる。優れた職人とそうでない職人を見分けることは、この民主化した社会においては個々人の好みの問題にすぎないとされてしまうからなおさらそうである。だがそれでも、ラディカルな職人であることの重要性は、現代において見直されるべき主題であると思われる。
・市民 :ソフォクレス ゲーテ  市民は、ある社会における理想的な人物を体得し、それを表現しようとする。彼らの表現するものは、その社会における最高の道徳と能力を、堂々たる威容として観客に提示する。彼らの提示する人物は、他の理想像が提示する人物のように、恨みを内に抱いていたり、変わっていたり、醜かったりすることがない。逆に、高次の道徳を備えた安定した社会の、最良の良心である彼らは、万人にとって重要な、ないし重要であるべき理想像を、恥も入り組んだ苦心も抜きで示す。重要であるベき、と述べたのは、いかなる道徳も衰退するものであり、衰退の時期に生まれた市民は、彼が備えた良心ゆえに、世間に逆らわざるを得ないことがしばしばあるからである。そういうときは、市民はまた別の理想像、聖者や隠者に姿を変えるかもしれない。それは未来にそうした優れた社会を打ち立てようとしたときも同様である。  聖者とは異なり、市民は超越的な感覚に二次的な興味しか抱かない。彼らが興味を抱くのは、高次の道徳とそれに伴う充実感である。彼らが神の法と言うときは、この高次の道徳を指しているのであって、そこに神秘主義の匂いを嗅ぎつけるのは誤りである。  諷刺の技を市民的芸術に含めるかどうかという問題は難しい。市民的芸術と同様に諷刺は良識によりかかっているものだが、往々にして、市民的芸術よりも実社会に対して疎遠になってしまっている。区別の基準は、結局、その作家の目的と素質に依るのかもしれない。アリストファネスやモリエールは常識に基づいて滑稽な人物を組み立てるが、市民とは呼び難いと私には思われる。また諷刺は、単に政治活動において相手方を攻撃する目的で用いられることもあるから、一芸術ジャンルとして数え上げることはできないようである。
どうでしょう。実際こんな感じなのでは? ちなみにこの文章自体は、道化と隠者が6:4ぐらいだと思います。
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habuku-kokoro · 1 year
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祈りと偶然、願いと必然から生まれるもの――――― 幾時代の地層上に立つ創造 2021   稲坂良比呂
<公演に寄せて>
祈りと偶然、願いと必然から生まれるもの
――――― 幾時代の地層上に立つ創造 2021
  稲坂良比呂(劇作家・香文化研究・香の伝道師)
【起】
1,000余年の昔、日本の一人の女性が書き遺した膨大にして精緻深遠なものは、21世紀の現代、人類の文化遺産のひとつに称えられる。それは、紫式部による『源氏物語』。三世代60年、800人の登場者が織り成す全54巻。世界最古の大長編小説である。
100余年前、大英博物館で、この和綴本に偶然出会った一人の英国人が、不思議な文字群の羅列に、なぜか引き寄せられた。彼は、至難の独学の末、ついに読解する。そして、その英訳が世に出た。ここから『源氏物語』が世界へ驚嘆の飛翔をする。
【承】
80年前、ニューヨークのタイムズスクエアの古本屋で、コロンビア大学の一学生が偶然出会った一冊が、大英博物館の出会いに始まった『源氏物語』の、あの英訳本であった。それが、彼の人生を決めることになる。その生涯を、『源氏物語』と日本文化の研究、紹介に捧げ、ついには日本に帰化し、日本人として文化勲章も授与されたドナルド・キーン博士である。千古の文化遺産は、時代も国も、言語も民族も超え、偶然必然の出会いを繰り返し、感嘆され愛され、次なる創造の大いなる種となってきた。ちなみに現在、20数言語の『源氏物語』が、世界50数ヶ国で出版され続け、その数は増えているという。この遺産にもっとも近いところにいるのが、実は私たち日本人である、筈だ。
【転】
1,400余年の昔、世界の東端の「日出づる処の天子」が、西の世界と志を持ってつながった。遥かな陸路海路をたどり、もたらされた新しい文化、学術、芸術、技術、哲学、宗教を和の心を持って受けとめ、日本文化の礎を築いた伝説の人を、聖徳太子と呼ぶ。2021年は、その1400年忌にあたる。
聖徳太子から300年後、花開く王朝の類ない香文化も、太子から800年後、観阿弥・世阿弥父子により形定まる能楽も、全ては太子の時代に遥かな地からもたらされたものからの創造である。
【結】
創造は継承され、更に次の時代の創造が加わり継承され、「継承」と「創造」は重ねられてゆく。それは、歴史年代の美しい地層のように、私たちの足元にある。私たちは、幾時代の知と美と創造の地層の上に立ち、今、21世紀の創造へ向かっている。
先人たちが、祈りから偶然得られたものと、願いから必然の創造されたものを受け継ぎつつ、「今だからこそ、生み出せるもの」への、創造の挑戦である。
                                           
序/ 古来、人の心が求めるものに、「やすらぎ」と「ときめき」がある。
   それは、神仏への「祈り」の中にあった。祈りに伴うものに、香があり華があり、
   唱があり楽があり、舞があり演があった。
   祈りの熱量は、人の生命の力となり、幾千年を重ね、今ここにある。
破/ 「浦島伝説・乙姫物語」「羽衣天女」「月と輝夜姫」、数々の伝承説話は、遥か古
   より語り継がれ、唱われ舞われ演じられ、文字化され、絵草紙にもなり、今も
   ここにある。それらは皆、不偏の問いを秘めている。
   「人という私たちは何者なのか」「永遠と、限りある命とは」・・・。
急/ 能舞台から「ひと���文芸ミュージカル」を世に問う、「省心会」という創造活動
   体。知遊美の伝統の地層の上に立ちつつも、今という時代の感性の創造を世に問
   う。この創造が、次なる時代の礎の地層の一つとなることを願いつつ。 
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manganjiiji · 1 year
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さようならかく語りき
頭の中で小説を書こうとして、ぱっと、3単語くらいで終わる、ゆっくりした一文がいいな、と思った。すでに、諒解がある。くらいの一文。ほうっておくと私の書き出す(ディスクに書き出すみたいなニュアンス)文は、途切れがなく、加速し、長くなりがちなので、志賀直哉とか川端康成とか、短くて、ゆっくりはっきりした音楽を持つ文章を定期的に取り込まないとリズムの点でだめだ、と思い至る。数年ぶりに、というと大袈裟でおそらく1年は経っていないだろうが掌の小説(川端康成)を読んだ。アンナの話(題は忘れた)と、離婚の子のはじめのところ。離婚の子は気が良くなる小説なので続きを読もうと思う。私は志賀直哉の描く夫婦関係がわりあいに好きなことが多いが、川端康成は子どもが出てくると面白いなと感じている。面白いというか、まるで無いような大人の善性が引きずり出されるような。
午前中の耳鼻科を諦め、午後の脳神経外科(片道一時間半)へ。バスの待ち時間で浦和の蔦屋書店に入って、ひらりささんの『それでも女をやっていく』を無事購入。さすがにありました。よかった。差しだったけど(もうちょっと前は面陳だったのかも、2箇所展開してたけど在庫1になって1箇所展開の差しにしたっぽい。検索機の結果から推測)。売上好調なんじゃないかなと思う。すごく読みやすいというか、するする頭の中に入ってくる上に、中身がぎっしりとしているので、とても食べでがある本だ。東大のなかでの女子学生としての傷になった体験、とても普遍的だと思った。かれらも男子校生活が長かったんでしょうね、と思いました。私は田舎の公立の共学の進学校で、そういう振る舞いをする男子はいなかったから新鮮だった。小中高大とずっと共学で、なんというか、わりに進歩的で紳士的な男子としか接してこなかったのかも、と思った。私が常に性別とほとんど無関係でいられる位置にいることを曲芸レベルで維持していたからかもしれないが。まだまだ読書は序盤だが、こういったことなら、私にもなんらか書けることがあるかもしれないなあと思った。ただ、テーマはなんなのか、家族か、病気か、性別か。ただの自分語りではエッセイになり得ないので絞った方がいいと思うのだが、全てが密接に関係しており、切り離して語ることはむずかしい。ひらりささんのような鋭く重い筆力もないし、とは思うが、飽きなければnoteか何かで淡々と書いていこうかなと思う。思っているだけなので実行するかはわからない。それより小説を書く場合だと思う。5月の締切は早いんですよ(スパコミ併せの締切は早いんですよ!)。いかづち(フィガファウ)、進められるとは思うのだが、時間と体力の取り方だなあ。今日友人とチャットしていて、にわかに英語の勉強も再開したくなってしまったし…ホテル籠もりのときの手引き車(なんていうの?スーツケースの小さい版)をあけて、久しぶりに、取り組んでいたテキストを見て「そうかここにあったのか」と忘れていたような心地になった(一応どこかで覚えていたとは思う)。国際政治史の有斐閣ストゥディアと、英語のテキスト幾つか。あとは、『詩の教室』の読書も途中であった。
他人依存というか、誰かと話をしないと寂しくて死んでしまうヤマイについて、徐々に脱却をはかろうと考え、もうつけなくなっていた体調記録用のダイアリーを、他人依存減退用の記録ノートにすることにした。今日も色んな人にLINEを送ってしまったし、また誰も来ないもくりを開いていたし、最終的に何人かとお喋りしてから夜を終えることができたが、誰とも喋れずに終わってしまっていたらと考えるとやや恐怖である。基本的に私はテンションが高く話したいことが多く、体調さえ良ければ永遠に話している。ちょっとおかしいくらいだ。相手から返信がなくても5時間後くらいに別の話題で同じ相手にLINEしている。Twitterにしておけよ、とも思うが、考えどころ。Twitterにしておこうかなあ。ここ何日かはあまりTwitterに書くべきでもない話題で身を騒がせており(加えて体調が危険だった)、これを万人に発信するのもなあ、と思って、鍵の友人にリプライするための鍵垢に自分用メモとして投稿しておくことが多かった。その辺の感情がまとまったら個人的なことでもだいたいこの日記に書く、という流れ。今回は家庭でのストレスが限界を迎えたのか、気圧や気温の変化+花粉症による体力の限界か、欠勤を2回もしてしまい、とうとうこの家にいることは仕事までままならなくなる、との結論を出した。友人の言葉に背を押��れ、受診している精神科の相談員(精神保健福祉士)の方に相談し、安価なシェルターがあれば紹介するので折り返し連絡するということと、別の相談用ダイヤルを教えてもらった。そこは平日のみのダイヤルなので今日電話すべきだったのだが、病院に行って帰ってで時間がなかった。次の金曜までまた保留かもしれない。そう思いながら、かなり安い物件を見つけたので、勢いで内見予約の申し込みをしてしまった(連絡待ち)。シェルターが見つからなければ、母親にできる限りの事情(父親と私との事情、この文字列を入力するだけでかなり身体的に負荷がある)を話して、障害年金が降りるまでの家賃と初期費用の無心をするのもいいだろうと思えた。とにかく今はどんな手をつかってでもこの生家を離れることが先決だ。このままでは仕事を辞めざるを得なくなるほどに欠勤を重ねてしまう。すでに欠勤したぶんの信頼を取り戻すのに倍の時間がかかることを思うと心が暗くなる。ただ、できる限りの手は打っているし、これからも打ち続ける、ということは伝えられる範囲で上長に伝え、あとは気にせず勤務するしかない。とにかく60%の力でその日を退勤まで過ごすことをもっと意識的に努力しなければ続かない。低気圧のせいもあるとはいえ、2週間のドクターストップを2月頭に食らってから、職場でパニックになりがちだ。結果や成果を焦る気持ちになっている。できるだけ成果は出さずに、最低限正確にこなせるように、という方向性を忘れてはいけない。いつもそれで続かなくなって息切れして倒れて退職するのだから。怒られても気にしすぎてはいけない。職場でよい人間関係を得ようとして無駄に頑張らないように気をつける。コミュニケーションはまだまだ最低限でいい。業務だけやって、とにかく給与をもらう。まあ、いくらそう思っても、私はどうせ働き始めると楽しくてはしゃいで全力疾走してしまうので、楽しく思うことは楽しくやればいいと思う。相変わらずどういうハンドリングなら自分がうまくやって行けるのか、わからない。職場で心を殺しすぎても結局ストレスになってしまうし、自然体でいると何もかも「やりすぎ」の感じになって疲労してしまうし、あちらを立てればこちらが立たず。自分に体力や精神力がもう少しあれば解決する問題なのかもしれないが、無いものは無い。仕事なんかみんないくつになってもやらかす時はやらかしているし、とにかく失敗しても人が死ぬわけじゃない、という気持ちだけは忘れずにやっていきたい。
家を出て、父親と生活が切り離されさえすれば、かなり心労も減るだろう。まずはそれを目指す。仕事のことは、とにかくゆっくり考えればいいと思う。わからないことは聞け。最初の1年はとにかく聞きまくっても怒られはしないだろう、というか怒られても聞くしかない時はある。であれば、木偶の坊でもいいから毎日そこに存在して、自分に余裕ができて自然と成長する時が来るまで待つという戦法でいいのではないか。
2023.3.13
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shinayakani · 1 year
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230301 言葉を一つの〈生〉にまで高めること
 坂口ふみ『〈個〉の誕生』は、古代末期(4世紀~6世紀)のキリスト教教義論争における、三位一体論やキリスト論(全く人であることと全く神であること、両者が自己を失わず差異を保ちながら、かつ同時に一つに結合しているという逆説的な存在であるキリスト)を丹念に辿って行くことを通じて、時を経て現代まで連綿と続く「個の概念・個の思想」の起源に立ち会う。未聞の教義論争の歴史的な推移の下、当時すでに隆盛していたギリシア由来の概念と、聖書由来のキリスト教教理とが複雑に絡み合うなかで、個(かけがえのない、それこそ特異なもの)の思想が形作られるさまが、著者の瑞々しい文章で描き出されている。そしてまた読者にとって何より忘れがたいのは、そんなダイナミックな思想の流れを追った壮大なドキュメントとも言えるこの本が、著者の亡き親友・アンナと過ごした日々を巡る言葉にはじまり、彼女へ宛てた言葉で終わっていることだろう。
《「しかし、アンナ、私が書きたかったのは、あなたが知りすぎるほど知っていたことだ。つまり、いちばん私的で、個人的で、いきいきと真実なこと、したがってまたとらえようもなく繊細で無定形なもの、そういったものへの感覚だけが、ほんとうの普遍、つまりほんとうのことば、通念、組織、制度を生むことができるということを。そしてもちろん、そういう繊細で無定形なものたちは、普遍に支えをもとめるのだが、普遍なものはいつでも両刃の剣だということを。それは生命を抑え、殺す傾向をつねにもっている。その二つのたえまないあらがいの中で私たちは生きるしかないのだし、その中で普遍のつくるかたちにできるだけ生命を与え、またはつくりかえるのが私たちみんなのなすべきことなのだろう。あなたはどうしてこの戦いから、そんなに早く身をひいてしまったのか?」》
 確固とした概念による理論付けによって、本性つまり「普遍」を捉えようとする(ギリシア由来の)思想。もう一方には、「とらえようもなく繊細で無定形なもの」への感覚に向けられた(イエスの言葉と振舞いが深く根を張る、キリスト教由来の)思想がある。個の思想は、両者の「たえまないあらがいの中で」生まれる。そして、一人ひとりの個人は、「二つのたえまないあらがい」を通じて思想が生成されてゆくという、そのプロセス自体によって、特異的な、まさしくかけがえのない〈個〉を形成する。これはしかし、哲学の営みがいかに慎ましいものであるかということを言い表すに留まってはいないだろう。いつの時代の歴史を振り返ってみても、思想が形作られる動機はつねに激しいものではなかったか。
《人はたしかにさまざまな価値を求めねばならない。ある価値をたて、それに合わぬものを裁き、つねにさらに高い価値を探求し、世界を分割し、分類し、そうやって理解し対応しうるものとし、秩序を見いだし、人びとの間にも序列と階層と秩序を造り――それらはかがやかしい人間の理性の業績である。ギリシアの文化には、そのような方途をはじめて見いだし、探求する人びとのみずみずしい感激があって、私たちをこよなくひきつける。しかし、それらがひとたび固定し、絶対化してくると、それは人の生命を圧迫しはじめる。そこにはいつも逆方向のせめぎ合いがある。知は流動する現実のうちに真実を捉え、明瞭に固定することを求め、秩序は人びとの間の争いや非効率な動きを、統一と安全と生産へと形づくる。それは偉大な業績である。しかし、所詮人の見いだしたものにすぎないそれらの真実や秩序につきまとう見落としと欠陥は、つねに声をあげて叫び続ける。  あらゆるカテゴリー、価値基準、階層、能力、貧富などを度外視した、人のうちの核のようなもの、個人がかけがえない個人として存在するその場所にこそ光をあてることを説く教えが意味を持つのは、そういう場においてである。それは、より本質的なものを生かすために、文化と秩序の所産すべてを疑問視する。ヨーロッパの初期の歴史の中で、その役目を果たしてきたのはやはりキリスト教であった。そのインパクトは、既成のキリスト教自身をも破壊するものとして、後代に伝えられた。》
 「序章 カテゴリー」から引いた。つねに眼前には、ある価値によって分類され秩序付けられた複数の制度がある。しかしそれら自体は、はっきり感じとれる形をもって外部にあるものとは限らない。輪郭を刻々と変化させるその境界は、むしろそれこそ「とらえようもなく(…)無定形なもの」のように、ひとりの人間の内部に撓まれていく。秩序付けられたカテゴリーや制度を抜きにして生きることができない人間は、しかし何よりも、それらに対する「あらがい」なしに生きることはできない。時として、外の世界に声をあげることも、ただ音のない叫びが内にこだまし続けることも、兆しや発端、原因が曖昧なままにはじまる。
 それならば、概念化や理論化という行いの手前には、思考と行動を触発させるその「はじまり」には、いったい何があるのだろうか。例えばそこには、この本を書きはじめた著者にとってのアンナのように、具体的な他者(たち)が発した身ぶりや表情、そして言葉があるのだろう。しかしまた、思考と身体を断絶させるような傷を負わせる出来事すらも。ひとりの人間が他者や出来事にさらされる経験、その「たえまないあらがいの中で」言葉を紡ぎ、新たな概念をつくり出そうとすること――それこそが〈個〉の思想の内実であり、生きられた一つの生そのものであるように。
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