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#西役犬原水辺公園
roundtripjp · 5 months
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最能貼近鄉下日常之所在,在擁有著開拓之神所開墾的肥沃大地之中,深度感受農村、農事、湧水氛圍的「西役犬原水辺公園&霜宮農村公園」!
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to-shika · 3 months
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東京鹿踊ライブ「風とう鹿」 本日(2/十)より予約開始!
【本日より、チケット発売開始!】 とうシカとうとう十年をむかえまして 〜東京鹿踊ワンマンライブ@座・高円寺 開催
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郷土芸能を伝える舞川地区の出身者らと、郷土芸能の可能性を世に問う有志と共に結成した、(略称・トウシカ)。 東京の地で活動を始め、『風 とう 鹿』と題した宴を開催します。
「東京鹿踊ライブ 風とう鹿」 座・高円寺 春休み 音楽企画 出演:東京鹿踊
ゲスト:   3月23日:桑島法子さん 3月24日:行山流都鳥鹿踊 期間 2024年03月23日(土)~03月24日(日) 会場 座・高円寺1
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チケット予約 座・高円寺HPより →https://za-koenji.jp/detail/index.php?id=3107
――詳細―― 3月23日(土) その一 鹿踊+朗読劇『風とう鹿』 “シシオドリ” の誕生を朗読とともに ▶︎行山流舞川鹿子躍秘伝書『勘太郎之巻』より  ▶︎宮沢賢治『鹿踊りのはじまり』より ▶︎朗読 桑島法子さん(声優・岩手県出身) 鹿踊の誕生の由来は諸説あります。 今回は岩手県出身の声優で、トーシカの初期の頃から観ていただいている桑島法子さんを迎え、東京鹿踊のルーツである行山流舞川鹿子躍に伝わる秘伝書『勘太郎之巻』と、宮沢賢治の『鹿踊りのはじまり』の芝居仕立ての朗読+東京鹿踊で、鹿踊の誕生に想いを馳せてみてください。本場の岩手弁からなるリズムと躍動する鹿の踊り、お楽しみください。
3月24日(日) その二 鹿踊演舞『問う鹿乱舞』 装束から動きまで 深く分け入る鹿踊×体験ワークショップ ▶︎鹿踊比較演舞   東京鹿踊+行山流都鳥鹿踊(ゲスト鹿踊・岩手県奥州市胆沢) ▶︎23日の劇中で登場した鹿踊りを間近で体感!  鹿と躍ろう、鹿になろう! 鹿踊りワークショップ 鹿の角をつけた鹿頭をかぶり、背中に長い“モノ”を背負い、太鼓を叩きながら歌い踊る「太鼓踊系鹿踊」。
岩手・宮城には今も約50の鹿踊りが伝わっています。 東京鹿踊にも、
●行山流舞川鹿子躍(岩手県一関市)  ●行山流水戸辺鹿子躍(宮城県南三陸町) ●仰山流前田鹿踊り(岩手県大船渡市)
出身者がメンバーになっています。
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●行山流舞川鹿子躍
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●行山流水戸辺鹿子躍
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●仰山流前田鹿踊り
見た目は似ているけど・・・?な、太鼓踊系鹿踊の多様さを、岩手県奥州市胆沢に伝わる行山流都鳥鹿踊の皆さんをゲストに迎え、土地土地で異なる鹿踊に深く分け入ります。東京鹿踊との比較演舞や、装束や動き、演奏などの特徴を解説、舞台上で実際に体験いただきます(事前申込制)
【体験申込】 座・高円寺HP  → https://za-koenji.jp/detail/index.php?id=3107
東京鹿踊が、自身のありようから模索してきた郷土芸能の可能性、その十年が形づくる『風とう鹿』、どうぞご期待ください。
スペシャルゲスト: ○桑島法子さん(岩手県出身)  KUWASHIMA HOUKO
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12月12日生まれ。岩手県出身。 青二プロダクション所属。 デビューしてまもなく大ヒットアニメ『機動戦艦ナデシコ』のヒロイン、ミスマル・ユリカ役に抜擢される。以降、『犬夜叉』の珊瑚役をはじめ、『機動戦士ガンダムSEED』のナタル・バジルール役、フレイ・アルスター役、『ハートキャッチプリキュア!』の明堂院いつき:キュアサンシャイン役、『宇宙戦艦ヤマト2199』森雪役 、『鬼滅の刃』炭治郎(主人公)の母役など、人気作品のキャラクターを数多く演じています。番組ナレーターとしても活躍中。
2001年から宮沢賢治作品を朗読する“朗読夜”をライフワークとして続けており、これらの活動が評価され、2009年に花巻市主催「第19回宮沢賢治賞・イーハトーブ賞」で、イーハトーブ賞奨励賞を受賞しました。第73回全国植樹祭いわて2023にて「虔十公園林」を朗読。2010年からは、岩手県の希望郷いわて文化大使を務めています。
○行山流都鳥鹿踊保存会(岩手県奥州市胆沢)  GYOZANRYU TODORI SHISHI-ODORI
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岩手県奥州市胆沢に伝わります。「鹿のハツ連れ」といい、親鹿(仲立)、女鹿、両側に雄鹿が6人、計8人で踊ります。装束の幕には「九曜」・春日並びに日月の四季を略した「十二揩子」、36の神々を象徴した「チドリ」を染め、腰には3mもある「ササラ」を挿し、「大太鼓」を付ける。鹿の情操や生態を舞踊化したものとされ、ササラ竹 が踊るにつれてもつれ、からむ様は、咲き乱れる秋の七草とすすきの波を乗り越え、戯れ遊ぶ鹿を想起させます。 行山流舞川鹿子躍と同じ「行山流」ですが、違いや共通点を探してみてください。
東京鹿踊  -TOKYO SHISHI-ODORI-
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2013 年6 月、行山流舞川鹿子躍(ぎょうざんりゅうまいかわししおどり)が伝わる岩手県一関市舞川地区出身者が呼びかけ人となり、首都圏在住の鹿踊伝承者と郷土芸能の可能性を信じる有志で結成。「鹿踊」の演目を習い、実演する他、多国籍・多世代・多分野に対応したワークショップ、魅力発、郷土芸能を通じた地域との関わり方、未 来へ継ぎ方を思考するためのプロジェクトを企画しています。 2023年にとうとう10周年をむかえました。 https://to-shika.tumblr.com/
出演者:東京鹿踊 小岩秀太郎、松坂史、古谷加奈 (以上出身:岩手県一関市・行山流舞川鹿子躍) 山田雅也(出身:群馬県) 西田昌代(出身:東京都 江戸祭囃子 獅子舞) 小野寺翔(出身:宮城県南三陸町・行山流水戸辺鹿子躍) 山下明恵(出身:兵庫県) 塩原那奈(出身:長野県) 鈴木康正(出身:岩手県大船渡市・仰山流前田鹿踊り)
主催:NPO法人劇場創造ネットワーク/座・高円寺 後援:杉並区、公益社団法人全日本郷土芸能協会 企画:東京鹿踊 協 力:株式会社青ニプロダクション、機糸横糸合同会社
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fda-blog · 1 year
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「縄文時代について(後編)」~竹末の読書メモ④
お待たせしました!昨年10月のブログ配信以来、久しぶりの投稿です。 前回(2022年10月末)のブログでは、縄文時代は、日本の古墳時代から21世紀の現代までの1700年間の8倍以上の13000年の長さであることの概要をお話しました。また、弥生時代というのは、わずか800年です。なんと1/16の短さです。・・・と言っても、現在を生きる我々からするととんでもない長さなのですが・・・
さて、青森市郊外の青森湾に注ぐ沖館川の右岸台地上にある「山内(さんない)丸山(まるやま)遺跡」はご存じでしょうか? ここでは、戦後、小規模な発掘は行われていましたが、1992年に県営野球場の建設をきっかけに大規模な事前発掘が実施されました。縄文時代前期中頃から中期(今から5500年ほど前にあたります)までを中心に、約1500年続いた大規模集落の遺跡です。その広さは35ha(東京ドームが7.5個分)、ここだけで500人近い人びとが住んでいたと言われています。1994年には、直径約1mのクリの巨木を、4.2m間隔で6本立てた大型掘(ほった)立柱(てばしら)建物跡が見つかり、同年8月には公園の計画が変更され、遺跡として保存されることになったところです。
考古学者の説によりますと、一万5千年ほど前の日本列島は、現在より温暖であったようです。したがって、現在の日本列島の北部地区での縄文遺跡の発見が続いたために、長い間、北方起源と考えられていました。その根拠は、①縄文時代の初期に東北日本を中心に数多く分布した、大型で特徴のある石槍や石斧などが北方系であること、②かねてより、縄文文化が東高西低であると考えられていたこと、などの理由から、「縄文文化は北から南へ伝播し、弥生文化は稲作を中心に、ゆっくりと北上した」と考えられていました。 ところが、近年、種子島も含めた南九州で、約一万一千年前に噴火した桜島起源のサツマ火山灰の下から、続々と縄文時代初期(草創期)の遺跡が発見され、北方起源ではすまされなくなってきたのです。 筆者の住んでいる昭島市の隣にあきる野市がありますが、その多摩川沿岸では縄文遺跡が発掘されています。そもそも昭島市では戦後、200万年前のクジラの骨が発見され、昭島市の市立図書館に隣接する郷土資料館にはクジラの骨や多数の土器が展示されています。今の東京湾から昭島市あたりまで海だったと推定されています。つまり、日本国中にはまだまだ発見されていない縄文遺跡が眠っているのかもしれませんね。
さて、唐突ですが、【図2】に「縄文カレンダー」というものをご紹介しましょう。 國学院大学名誉教授の小林達雄氏(現在85歳)が提唱されたもので、縄文文化の食料の季節変化を円に描いて表わしています。縄文人が、季節の変化を考慮して、計画的な労働を展開していた様子がよくわかります。
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図2:縄文カレンダー(國学院大学名誉教授・小林達雄氏提唱)
縄文時代の前半の住居形式は、地面を掘りくぼめた「竪穴式住居」の中で寝起きしていました。後に向けて、次第に「平地式」が増加していきます。 食べ物は、主に自然から集めており、クリやクルミ、トチ、ドングリなどの堅果(けんか)類、シカ、イノシシなどといった陸獣、タイ、スズキ、サケといった魚類。また、甘み不足を補うために、アケビやコクワ、ヤマブドウ、そして昆虫食も食べていたとされています。 堅果(けんか)類は地面に穴を掘って貯蔵もしていたし、ハマグリなどは、いったん煮てから干し貝にしたり、魚や肉類も干し魚や干し肉、燻製にして保存食品にしていたようです。
道具としては、東日本域では、石刃を素材とし、主に手持ちの槍の先として使用されたと推定。 ナイフ形石器類は、北海道、東北、関東などに多様な地域に存在が認められています。 土器の出現は、北と西でほぼ同時期に出現したとみられています。しかし、北も西も大陸からの伝播の痕跡はなく、列島各地での発祥とみられています。 土器の持つ歴史的な意義は、ものを入れる容器としてよりも、煮沸具としての方が大きかったようです。 動物のスジや頬肉など硬い部位の肉、草菜の植物繊維なども煮込むことによって、柔らかくなり食べることができるようになりました。また、熱を加えることによって、人体に有害な物質を除去することも可能になるので、重要なデンプン質の供給源であるトチやドングリ類も食料資源として十分に利用できるようになりました。また、貝類や魚類を土器で煮ただろうし、獣骨を煮て骨髄からスープを取り出したりもしただろうとも言われています。
土器が利用されるのは、なにも食料を調理する場面だけではなく、たとえば、植物の繊維を柔らくするために湯に長時間浸け込んだり、アスファルトを溶かしたりするときにも用いられました。また、ウルシの精製をしたり、染料や顔料も焼成・煮沸し、接着材や塗料としても活用していたと言われています。
樹木についてですが、ナラやクリは縄文時代全時期を通じて重要な植物とされています。特にクリは実が食用にもなる一方、樹木は建築材料にも使われていました。それは比較的加工が容易であることと、耐久性、保存性に優れ、特に水湿に強く腐食しにくい性質があるからです。当時の人々はそれらの特性をすでに知識として獲得していたと思われます。集落の周辺にクリを意図的に植栽し、群生させ、これを管理していたと考えられています。
次に社会構造について触れてみたいと思います。 前期あたりの社会構造は母系的な社会であったと推定されています。というのは墓の人骨分布とそのDNA鑑定から、男性が集団内に婚入してくるような社会構造を有していたことが分かっています。 昔の女性にとって、出産は死の危険がともなう一大事だったでのしょう。江戸時代でさえ、出産の15%くらいは死産で、無事に生まれても、5歳までにおよそ1/4が死んでしまったと言われています。
超自然的で不可解なことを解消し、さまざまな願いを成就するために、縄文人は、祈りを捧げていたようです。森羅万象・万物に生命・精霊が宿ると考え、神格化した、あるいは人と同様な生き物に畏敬の念を持ち、その心を静め、災いを避けるために祈っていたようです。 万物への崇拝、つまり祈りを具体的に表すために、日を決めて行う儀礼である「祭祀」を行い、それを行う建物や墓地を含めた場が「祭祀場」であり、用いられた道具が「祭祀具」と言われています。 土偶は女性を表わし、とくに妊娠の姿を表わすことが多いことから、豊穣を祈る祭祀具であるとされてきましたが、これについては、ある芸術家が異を唱えており、機会があればご紹介したいと考えています。
「七歳までは神の子」といわれて、幼くして死んだ子どもはカミに返すため、葬式もせずに川原や村のはずれに捨て、あの世に送るのが通例であったとされています。 縄文人は、現代人がゴミとして遠ざける物を、汚い物、邪悪な物、遠くに捨てる物とは考えず、逆に自分たちに恵みを与えてくれた物として感謝を込めて送っていたようです。この時期、住居の入口に土器を埋めて乳幼児の遺体を埋め、再生を願うのが一般的な習俗であったとされています。 集落内には、貝塚・ゴミ捨て場・盛土遺構などと呼ばれるゴミの処理・送り(祭祀)をした場所が発見されています。ここは単なるゴミ捨て場ではなく、彼らに恵みを与えてくれた食べカスや、役目を終えた道具類に感謝を込めて、火を焚いてカミの世に送る所であり、現世は良かったと報告させて、また再び戻って来るよう祈ったとされています。
縄文人も様々なアクセサリーを身に着けていました。先日(2022年10月20日)に、NHKBSプレミアムの『英雄たちの選択』で放映されました「追跡!古代ミステリー“顔”に隠された古代人のこころ」でも、貝殻を刳り貫いた腕輪のようなものや、現代のアフリカ原住民が顔に化粧をしているような事例を紹介されていました。たとえば頭飾りとして、漆塗りの櫛や骨角系製の笄(こうがい)、耳飾り、鹿角製の腰飾り、トリの長管骨やイノシシの犬歯による足飾りなどで、装身具の着装は他者との差異を表わすと同時に、同じ装身具を着装することで、他者との同一性を示していたようです。まだ言語というコミュニケーションツールが確立していない状況であったでしょうし、そういった形で差異化をはかっていたのではないでしょうか。
ヒトの移動、渡海ルートは、朝鮮半島から北部九州の西回りルート(現在の瀬戸内海は陸続きだった)、沿海州からサハリンを経由して北海道(一部は新潟、富山、島根まで到達)へと至る北回りルート、そして南西諸島を北上してきた南回りルートが考えられています。舟は丸太を刳り貫いて造ったとされ、最近でも木を刳り貫いて造った舟を再現し、縄文時代の海洋交流を実体験している研究者もおられるようです。
以上、一万5千年以上前から一万3千年以上続いた縄文時代の生活について概説してきました。まだまだ謎の部分が多いのですが、ほとんどのことがわずか百年程度の研究で推察されてきたに過ぎません。彼(彼女)らが、現代の生活を想像することはまったくできなかったでしょう。自分たち人間の創ってきた文明の利器で自然を破壊し、同じ人間同士が殺戮を繰り返すことなど予想だにできなかったでしょう。 遥か昔のことを知ることによって、いろいろ考えさせられる良い機会となりました。
以上、前回と今回までで、ご意見やご要望があれば、下記メールアドレスに送信ください。 [email protected] 【筆者・竹末俊昭…一般社団法人ファブデザインアソシエーション【 FDA 】理事長・元拓殖大学工学部デザイン学科教授】
参考文献: ・「縄文の生活誌」岡村道雄*(講談社学術文庫、2008/11第一版発行) 岡村道雄氏*:1948年生まれ、東北大学博士課程修了、東北大学、東北歴史資料館、文化庁等歴任
・「縄文時代の歴史」山田康弘**(講談社現代新書、2019/01発行) 山田康弘氏**:1967年東京生まれ、筑波大博士課程中退、人類学者
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innocent-3 · 4 years
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「獅子身中の虫鈴木貞一」より
…皇道派の連中は概して陰性な者が多かった。真崎(甚三郎)、柳川(平助)、小畑(敏四郎)、鈴木(率道)、秦(真次)などは蛇の肌に触るようなつめたい感じがした。荒木(貞夫)は秘書官と酒のみ競争するような茶目気があり、比較的陽気なところがあった。青年将校の信望を集めたのも、一つはそのせいであったと思われる。…
 皇道派の変わり種として、いま一人の珍しい人物を紹介しておこう。鈴木貞一である。第二十二期だから鈴木率道と同期だ。支那駐在から任満ちて参謀本部に戻ったが、肝心の支那班で「彼は支那班に置くような者ではない。もっとしかるべきところに」といって収容しない。他の部課でも「ああ、こちらにはいらないよ」とみな敬して遠ざける。頭脳もよし手腕力量ともに凡庸ではないが、どういうものか同期生から好まれない。同期生といえば同胞よりも親しい。血をすすりあった盟友だ。それから排斥されるんだから、よほどの大器に違いない。それを聞いた軍事課長の永田鉄山が「それじゃ、俺のところにもらおう」という。軍事課の者が「ゲテモノ食いもたいがいにしなさい。彼を抱えこんでは課長が食われますよ」と散々忠告したが「まさか」といって採った。
 駑馬も騎手が良ければ駛る。いわんや鈴木は千里の馬だ。騎手は古今の名手と来ているから、正に天馬天をいくごとく見えた。「鈴木はいいだろう」と永田は鼻をうごめかしていた。鈴木も永田の知遇に感じたか、御奉公第一と勤めているうち世の中が変わって来た。荒木が陸相としてその一党を率いて乗り込んで来た。永田と意気投合していた小磯(国昭)は軍務局長から次官に棚上げされた。荒木の髭の塵を払わねば立身出世かなわぬ雲行になった。永田は新軍務局長山岡重厚が素人だから、従来より一倍骨を折ってこれを補佐しているが、山岡は事務などはどうでもよい。永田の言動を厳重監視するのが役目である。
 永田は人からはゲテモノ食いなど冷やかされるが、どんな者でも一芸一能に秀でている者ならばりっぱに使いこなす。鈴木など好例であるが、その他の軍事課員も一癖も二癖もある。腕に覚えのある侍どもだ。大臣がかわろうが局長が動こうが、俺は俺の道をいくという構えでジタバタする者はない。それぐらいの面魂は持っているのである。ところで、某日、筆者が山岡を訪れた。その頃はすっかり仲よしになっていた。
「おい、珍しい物を見せようか」
 山岡は応接室から自室に引き返して持って来たのは汚い鞘に納められた短刀である。
「拝見します」
 と抜いてみるとさびついている。銘はない。むろん筆者にはわからない。「何ですか」ときくと「俺にもよくわからないが、関もので兼房あたりではないかと思う。物は大したものではないが、まあ窓をあけるぐらいの価値はあろう」と卓子の上に載せ、「問題はこれを持って来た者だ。誰と思う」わかりませんと答えると「貞一だよ、鈴木貞一だよ」と言って笑う。「彼が北京とか天津とかの古物屋のガラクタの中にあったのを発見して、掘出物ではなかろうかといって持って来たんだ。彼は平素刀などひねくりまわしているのかい」と愉快そうに笑う。山岡は皮肉屋である。彼には鈴木がどういう意味でこんなものを持参したかを知っているのだ。それを筆者に言わせて拍手しようという魂胆だ。山岡が刀剣以外には何の趣味も道楽もない木強漢であることは部内周知の事実だ。酒を持ちこんでも菓子折を持参しても何の効顕もない。もし、刀剣を持ちこめば相好をくずして喜ぶ。この点はまことに弱い。持ちこむといっても贈物ではない。鑑定だ。贈物となれば少なくとも山岡の所持している以上のものでないと喜ばないだろう。現に長光とか国安とか稀代の国宝級のものを持っている。それに匹敵する物は、まず手に入るものではない。そこで鈴木はこの山岡最大の弱点をついたのである。
 山岡が積極的に悪口を言わなくなれば、皇道派の連中は大抵信用する。面と向かっても罵倒するし、陰での批判など痛烈無比だ。皇道派とは因縁のない板垣征四郎を呼ぶに、まともに言ったことはない。「板(パン)」である。「板」がまた支那人にだまされてウンと金をとられた。「彼は板じゃなくて白(パイ)だよ。白痴だよ」という。金をとられたという事件の内容は忘れたが、おおむねこの類だ。彼の口に上らなかったのは武藤、荒木、真崎の三守護神くらいだが、それでも荒木については善意の悪口はのべていた。鈴木はその後も、長いもの短いもの幾口かを持ち込んでいた。山岡は役所でもろくな仕事はしていないんだから、役所に抱えて行って局長室に投げこんでおけばよいのを、わざわざ自宅に持参するところに彼の狙いがあった。かくて、皇道派のメンバーの一人の如く振舞うようになってから、永田に対する態度は次第に冷ややかになった。つめたくなるばかりではすまない。皇道派に永田の悪口を注進する。
 鈴木はしばらく新聞班長をしたことがある。上着の内ポケットがいやに硬直している。「機密費でもしこたま入れてるのかい」というと、「ばかを言え、これだ」と取り出したのは短刀だ。見ると月山貞一の作である。「僕と同名だし、なかなかいいできだろう」と得意である。 月山は帝室技芸員か何かになって、晩年は知られたが、日清戦争頃までは鍛刀の依頼者も少なく、やむなく古刀の擬物を打っていたと伝えられる。擬物でもすぐ発見されるようなものでなかったから、その技術は高い水準にあったらしい。それにしても贋物作りをするような人物は感心できない。それはそれとしても、何のために新聞班長が懐ろに短刀を呑んでいなければならないか。それほど彼の身辺は危険だったのか。真に護身用なら赤の他人に誇示するようなことはないはずである。また、手をのばせば届くところに、日本刀を仕込んだ軍刀を置いている。どこから見ても不必要だ。それを見せるキザな態度に筆者は、しばらく胸の悪くなるのを覚えた。
 斎藤内閣のとき、何かの要件で鈴木は高橋(是清)蔵相を訪れた。大いに気おって蘊蓄を傾けて老蔵相を説き、ことに陸軍予算のみならず、国家予算全体についても話したらしい。高橋は鈴木の階級も何も知らず、おそらくポストも知らなかったろうが、ともかく数字をならべて説くところがなかなか堂に入っている。感心して鈴木が出て行ったあとで、次官か秘書官かに「今来てしゃべって行った兵隊はあれは主計か」と尋ねたそうだ。この話が陸軍に伝わり鈴木の耳にも入った。「君は主計に間違えられたそうだね」というと怒るかと思いのほか、満悦である。大蔵大臣に主計と間違えられるほど、俺は数字にも明るいんだと誇りたいんだ。渋谷美竹町の彼の自邸は、佐官級としては過ぎたりっぱなものであった。応接室も広く、周囲に飾られている物はみな中国のものだ。新聞記者が行くと、なかなかの御馳走を出す。ウィスキーなんか本場物を幾種類か出し、時には上等の中国の酒を振舞う。酒好きの記者はしばしば鈴木邸を夜襲したらしい。そういうことをするのが弘報宣伝だと心得ていたのだ。
 さて、世の中はまた変わった。荒木が引っこみ林(銑十郎)が出て来た。その直後のことである。筆者は毎朝犬の運動のため、渋谷、駒場方面から方角違いの中野、杉並、八王子近くまで自転車で走りまわっていた。その途中に知りあいの家があれば、遠慮なく叩き起こす。仲には「どんなことでもきくから朝起こすのだけは勘弁してくれ」と泣きつく者もいた。家を出るのは薄暗い頃だから、運のわるい者はほんとうに夜半のつもりでいる。渋谷方面では永田も被害者の一人だ。しかし、その頃は旅団長をしていて、夜ふかしは少ないはずだから、帰途に垣根の外から「永田さん」と呼ぶ。美しい夫人が縁側に三つ指つくときは、まだ起きていない証拠だから素通りする。ところで、その朝は筆者の行ったのが少し遅くなってはいたが、珍しく庭に出て楊子をくわえている。そして先方から声をかけた。
「オイ、ニュースがあるぞ、こっちに入れ」
 永田がそんなことをいうのは稀有だ。「何ですか」と犬をつれて庭に入って縁に腰かけるとこういうのだ。
「鈴木貞一が来たんだよ。御近所まで参りましたからといってね」
「鈴木は美竹町ですぐ近所じゃありませんか。今まで訪ねなかったんですか」
「来るものか、そして省内の事情や何かをききもしないのにいろいろしゃべって行ったよ」
「閣下が軍務局長にでもなると見たんですね。ほんとうにそんな気配が感ぜられますか」
「いろいろの情報や脈引きに来る者はあるよ、だが御免だよ、毎朝馬に乗って軍隊のことばかり考えていればよい旅団長は、めったにやめるわけにはいかないよ、ことにこんな御時世ではね」
 林が就任すると間もなく、永田軍務局長説が出た。筆者は渡辺(錠太郎)から、林はつっかえ棒なしでは乗りきれない。永田は迷惑だろうが軍務局長になってもらわねばなるまい。林もその気でいる。しかし、実現するまでは新聞に書いてくれるなよ、書けば彼らが騒ぎ出すからと堅く差し止めされていた。しかし、部内でも永田出馬説がでるし、他の新聞にも書き立てている。そういう際だったので永田の真意を打診したのだが、やはり永田は出ないと言っている。けれども渡辺が強引に林を説得しているから、所詮出なければならなくなるだろう。渡辺のことは伏せておいたが、結局引っぱり出されるだろうことを話した。永田は「困る、困る」を連発して、憂鬱そうだった。
 昭和九年三月の異動で、永田は軍務局長となった。鈴木貞一は永田の下で羽ぶりをきかせたかったらしかったが、こんどは永田もそうはしない。陸大主事に追った。小畑幹事の下だか��うまく行くはずだが、林陸相出現以来の鈴木の豹変振りが皇道派を痛く刺戟した。彼は何をするかわからぬという疑惑がある。俊敏な小畑がそれを見損ずることはない。新聞班長時代には千客万来だった鈴木邸にも、雀が門前に巣をかけるようになった。だが、それぐらいのことで尻尾をまくような鈴木ではない。小畑にはつとめて媚態を呈するとともに、新聞班長時代に開拓した政界という新分野に鎌首を突っこんで行った。侯爵井上三郎は砲兵大佐で現役を退き貴族院にいる。現役時代から接近している。西園寺公の秘書原田熊雄は以前から食い込んでいる。原田から近衛、木戸の方につながる。
 五・一五事件のあとではあり、政治家はみな陸軍のことを知りたがっている。それには鈴木は最もよい情報屋である。原田日記にも鈴木の名はところどころに出ているが、林が陸相辞任騒ぎをおこしたときでも、鈴木は原田に荒木、真崎らの動向を伝え、こういう風に西園寺公に報告してくれなど注文している。政友会の方では、五・一五事件が政治家のだらしなさに対する警告だったことなど忘れ、また軍部をのさばらせることが、いかなる結果を招来するかも慮らず、いたずらに政権をとりたい野心から、しきりに軍部の機嫌をとる。森恪などその第一人者だった。鈴木は森恪の存在を重視しないはずはなく、ここを窓口として政友会に近づく。かくて政界で流行児になった。現役軍人としているのもよし、退いて政界にいづるも不可なしと、彼の地盤は漸次強固になる。ここらの手腕は実に鮮やかなものであった。
 永田軍務局長時代であるが、小磯は第五師団長として広島にいた。筆者は満州からの帰途にはいつも小磯を訪問することにしていた。広島は急行列車が不便で、夜半でなければ通過しない。小磯は起きて待っている。大きな玄関を入ると上り口にりっぱな果物籠が置いてある。小磯は出迎えに出た夫人を顧みて「籠はまだ捨ててないじゃないか」となじっている。夫人は困ったという顔つきで笑っている。どうしたのかときいてみると
「その籠にはふれるな、けがらわしいんだ。名刺かなにかはさんであるだろう、それを見ればわかる」
という。電灯の光でのぞいてみると鈴木貞一の名刺だ。
「鈴木が広島を通過したが、次官の関係でお伺いできないから、閣下に宜しく伝えてくれといって、多分駅にいた憲兵にでも頼んだんだろう、俺の留守中に届けられているんだ。胸糞が悪いから捨ててしまえと言って置いたのに、まだそこに置いている」
 なるほどそれでわかった。その頃は小磯が中央部に出て、航空本部長になるかという噂がたっていた。その先物を買ったのだろうが、小磯としては次官、関東軍参謀長時代の鈴木の仕打ちには我慢ならぬものを感じていたのだ。
「捨てるのはもったいない。名刺さえ捨てておけば中身は上等な果物ばかりです。一つ食いましょう」
 と名刺を土間に捨てて、籠を持って応接室に入った。小磯は機嫌がわるい。
「そんなものを食うより、今夜は虎の肉を食おう。山下亀三郎が朝鮮か満州かで仕留めたと言って、虎の肉を送って来ているんだ。この方がさっぱりしとっていいよ」
 とさっそくすき焼きにして食ったが、肉が堅くてだめだった。それよりこの方がいいと、メロンや何かを食った。先物を買ってまた一儲けしようと考えたのだろうが、小磯は中央にもどらず、朝鮮軍司令官になった。果物は贈り損をしたわけだが、彼にもたまには目算違いがあった。…
(高宮太平『昭和の将帥』、1973年、190-197頁)
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xf-2 · 5 years
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最初の特攻を命じたことによって、「特攻の産み親」と呼ばれることになった大西瀧治郎中将は、天皇が玉音放送を通じて国民に戦争終結を告げたのを見届けて、翌16日未明、渋谷南平台の官舎で割腹して果てた。
特攻作戦を採用した責任者といえる将官たち、前線で「おまえたちだけを死なせはしない」と言いながら特攻を命じた指揮官たちの中で、このような責任のとり方をした者は他に一人もいない。
そして、ひとり残された妻・淑恵さんも、戦後、病を得て息を引き取るまで33年間、清廉かつ壮絶な後半生を送っていた。
最初の慰霊法要に駆け込み、土下座した貴婦人
終戦の翌年、昭和21(1946)年3月のある日、全国の有力新聞に、
〈十三期飛行専修予備学生出身者は連絡されたし。連絡先東京都世田谷区・大山日出男〉 との広告が掲載された。
空襲で、東京、大阪、名古屋はもちろん、全国の主要都市は灰燼に帰し、見わたす限りの廃墟が広がっている。
連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は昭和21年1月、「公職追放令」を出し、旧陸海軍の正規将校がいっさいの公職に就くことを禁止した。日本の元軍人が集会を開くことさえ禁じられ、戦犯の詮議も続いている。広告を見て、「戦犯さがし」かと疑う者も少なからずいたが、呼びかけ人の大山のもとへは全国から続々と連絡が寄せられた。
戦争が終わってこの方、掌を返したような世の中の変化で、生き残った航空隊員には「特攻くずれ」などという侮蔑的な言葉が投げかけられ、戦没者を犬死に呼ばわりする風潮さえもはびこっている。そんななか、大勢の戦友を亡くして生き残った者たちは、戦没者に対し、
「生き残ってすまない」
という贖罪の気持ちをみんなが抱いている。それは、はじめから陸海軍を志した、いわばプロの軍人も、戦争後期に学窓から身を投じた予備士官も、なんら変わるところがない率直な感情だった。
「十三期飛行専修予備学生」は、大学、高等学校高等科、専門学校(旧制)を卒業、または卒業見込の者のうち、10万名を超える志願者のなかから選抜された5199名が、昭和18(1943)年10月、土浦、三重の両海軍航空隊に分かれて入隊、特攻戦死者448名をふくむ1616名が戦没している。呼びかけに応じて集まった予備学生十三期出身者たちの意思は、
「多くの戦没者同期生の慰霊こそ、生き残った者の務めである」
ということで一致した。そして、同期生たちが奔走し、GHQ、警察、復員局の了承をとりつけて、ふたたび10月30日の新聞に、
〈十一月九日、第十三期飛行専修予備学生戦没者慰霊法要を東京築地本願寺にて行ふ〉
と広告を出し、さらにNHKに勤務していた同期生の計らいで、ラジオでも案内放送が流れた。
昭和21年11月9日、国電(現JR)有楽町駅から築地まで、焼跡の晴海通りを、くたびれた将校マントや飛行靴姿の青年たち、粗末ななりに身をやつした遺族たちが三々五々、集まってきた。築地本願寺の周囲も焼け野原で、モダンな廟堂の壁も焦げている。寺の周囲には、機関銃を構えたMPを乗せたジープが停まって、監視の目を光らせている。焼跡のなかでその一角だけが、ものものしい雰囲気に包まれていた。
広い本堂は、遺族、同期生で埋め尽くされた。悲しみに打ち沈む遺族の姿に、同期生たちの「申し訳ない」思いがさらにつのる。読経が終わると、一同、溢れる涙にむせびながら、腹の底から絞り出すように声を張り上げ、「同期の桜」を歌った。
歌が終わる頃、一人の小柄な婦人が本堂に駆け込んできた。「特攻の父」とも称される大西瀧治郎中将の妻・淑惠である。
大西中将は昭和19(1944)年10月、第一航空艦隊司令長官として着任したフィリピンで最初の特攻出撃を命じ、昭和20(1945)年5月、軍令部次長に転じたのちは最後まで徹底抗戦を呼号、戦争終結を告げる天皇の玉音放送が流れた翌8月16日未明、渋谷南平台の官舎で割腹して果てた。特攻で死なせた部下たちのことを思い、なるべく長く苦しんで死ぬようにと介錯を断っての最期だった。遺書には、特攻隊を指揮し、戦争継続を主張していた人物とは思えない冷静な筆致で、軽挙を戒め、若い世代に後事を託し、世界平和を願う言葉が書かれていた。
昭和19年10月20日、特攻隊編成の日。マバラカット基地のそば、バンバン川の河原にて、敷島隊、大和隊の別杯。手前の後ろ姿が大西中将。向かって左から、門司副官、二〇一空副長・玉井中佐(いずれも後ろ姿)、関大尉、中野一飛曹、山下一飛曹、谷一飛曹、塩田一飛曹
昭和19年10月25日、マバラカット東飛行場で、敷島隊の最後の発進
淑惠は、司会者に、少し時間をいただきたいと断って、参列者の前に進み出ると、
「主人がご遺族のご子息ならびに皆さんを戦争に導いたのであります。お詫びの言葉もございません。誠に申し訳ありません」
土下座して謝罪した。淑惠の目には涙が溢れ、それが頬をつたってしたたり落ちていた。
突然のことに、一瞬、誰も声を発する者はいなかった。
われに返った十三期生の誰かが、
「大西中将個人の責任ではありません。国を救わんがための特攻隊であったと存じます」
と声を上げた。
「そうだそうだ!」
同調する声があちこちに上がった。十三期生に体を支えられ、淑惠はようやく立ち上がると、ふかぶかと一礼して、本堂をあとにした。これが、大西淑惠の、生涯にわたる慰霊行脚の第一歩だった。
生活のために行商を。路上で行き倒れたことも
同じ年の10月25日。港区芝公園内の安蓮社という寺には、かつて第一航空艦隊(一航艦)、第二航空艦隊(二航艦)司令部に勤務していた者たち10数名が、GHQの目をぬすんでひっそりと集まっていた。
関行男大尉を指揮官とする敷島隊をはじめとする特攻隊が、レイテ��の敵艦船への突入に最初に成功したのが、2年前の昭和19年10月25日。三回忌のこの日に合わせて、一航艦、二航艦、合計2525名の戦没特攻隊員たちの慰霊法要をやろうと言い出したのは、元一航艦先任参謀・猪口力平大佐だった。安蓮社は、増上寺の歴代大僧正の墓を守る浄土宗の由緒ある寺で、住職が猪口と旧知の間柄であったという。
神風特攻隊敷島隊指揮官・関行男大尉。昭和19年10月25日、突入、戦死。最初に編成された特攻隊4隊(敷島隊、大和隊、朝日隊、山桜隊)全体の指揮官でもあった。当時23歳
昭和19年10月25日、特攻機が命中し、爆炎を上げる米護衛空母「セント・ロー」
寺は空襲で焼け、バラックの一般家屋のような仮本堂であったが、住職は猪口の頼みに快く応じ、特攻隊戦没者の供養を末永く続けることを約束した。この慰霊法要は「神風忌」と名づけられ、以後、毎年この日に営まれることになる。
遺された「神風忌参会者名簿」(全六冊)を見ると、大西淑惠はもとより、及川古志郎大将、戸塚道太郎中将、福留繁中将、寺岡謹平中将、山本栄大佐、猪口力平大佐、中島正中佐……といった、特攻を「命じた側」の主要人物の名前が、それぞれの寿命が尽きる直前まで並んでいる。
生き残った者たちの多くは、それぞれに戦没者への心の負い目を感じつつ、慰霊の気持ちを忘れないことが自分たちの責務であると思い、体力や生命の続く限り、こういった集いに参加し続けたのだ(ただし、軍令部で特攻作戦を裁可した事実上の責任者である中澤佑中将、黒島亀人少将は、一度も列席の形跡がない)。
東京・芝の寺で戦後60年間、営まれた、特攻戦没者を供養する「神風忌」慰霊法要の参会者名簿。当時の将官、参謀クラスの関係者が名を連ねるなか、淑惠は、亡くなる前年の昭和51年まで欠かさず列席していた
十三期予備学生の戦没者慰霊法要で土下座をした大西淑惠は、その後も慰霊の旅を続けた。特攻隊員への贖罪に、夫の後を追い、一度は短刀で胸を突いて死のうとしたが、死ねなかった。ずっとのち、淑惠は、かつて特攻作戦渦中の第一航空艦隊で大西中将の副官を勤めた門司親徳(主計少佐。戦後、丸三証券社長)に、
「死ぬのが怖いんじゃないのよ。それなのに腕がふにゃふにゃになっちゃうの。それで、やっぱり死んじゃいけないってことかと思って、死ぬのをやめたの」
と語っている。
大西瀧治郎中将(右)と、副官・門司親徳主計大尉(当時)。昭和20年5月13日、大西の軍令部次長への転出を控えて撮影された1枚
暮らしは楽ではない。夫・大西瀧治郎はおよそ金銭に執着しない人で、入るにしたがって散じた。門司は、フィリピン、台湾での副官時代、大西の預金通帳を預かり、俸給を管理していたから、大西が金に無頓着なのはよく知っている。淑惠もまた、金銭には無頓着なほうで、もとより蓄えなどない。
家も家財も空襲で焼失し、GHQの命令で軍人恩給は停止され、遺族に与えられる扶助料も打ち切られた。
昭和3年2月、華燭の典を挙げた大西瀧治郎(当時少佐)と淑惠夫人
自宅でくつろぐ大西瀧治郎、淑惠夫妻。大西が中将に進級後の昭和18年5月以降の撮影と思われる
焼け残った千葉県市川の実家に戻って、淑惠は生きるために商売を始めた。最初に手がけたのは薬瓶の販売である。伝手を求めて会社を訪ね、それを問屋につなぐ。次に、飴の行商。元海軍中将夫人としては、全く慣れない別世界の生活だった。
昭和22(1947)年8月上旬のある日、薬瓶問屋を訪ねる途中、国電日暮里駅東口前の路上で行き倒れたこともある。このとき、たまたま日暮里駅前派出所で立ち番をしていた荒川警察署の日下部淳巡査は、知らせを受けてただちに淑惠を派出所内に運び、近くの深井戸の冷水で応急手当をした。
「質素な身なりだったが、その態度から、終戦まで相当な身分の人と思った」
と、日下部巡査はのちに語っている。柔道六段の偉丈夫だった日下部は、元海軍整備兵曹で、小笠原諸島にあった父島海軍航空隊から復員してきた。後日、淑惠が署長宛に出した礼状がもとで、日下部は警視総監から表彰を受けた。だが、その婦人が誰であるか知らないまま8年が過ぎた。
昭和30(1955)年、日下部は、元零戦搭乗員・坂井三郎が著した『坂井三郎空戦記録』(日本出版協同)を読んで坂井の勤務先を知り、両国駅前の株式会社香文社という謄写版印刷の会社を訪ねた。日下部は、昭和19(1944)年6月、敵機動部隊が硫黄島に来襲したとき、父島から硫黄島に派遣され、そこで横須賀海軍航空隊の一員として戦っていた坂井と知り合ったのだ。
香文社を訪ねた日下部は、そこに、あの行き倒れの婦人がいるのに驚いた。そして、この婦人が、大西中将夫人であることをはじめて知った。日下部は淑惠に心服し、こののちずっと、淑惠が生涯を閉じるまで、その身辺に気を配ることになる。
淑惠が、坂井三郎の会社にいたのにはわけがある。
淑惠の姉・松見久栄は、海軍の造船大佐・笹井賢二に嫁ぎ、女子2人、男子1人の子をもうけた。その男の子、つまり大西夫妻の甥にあたる笹井醇一が、海軍兵学校に六十七期生として入校し、のちに戦闘機搭乗員となった。
笹井醇一中尉は昭和17(1942)年8月26日、ガダルカナル島上空の空戦で戦死するが、戦死するまでの数ヵ月の活躍にはめざましいものがあった。ラバウルにいたことのある海軍士官で、笹井中尉の名を知らぬ者はまずいない。
その笹井中尉が分隊長を務めた台南海軍航空隊の、下士官兵搭乗員の総元締である先任搭乗員が坂井三郎だった。笹井の部下だった搭乗員はそのほとんどが戦死し、笹井の活躍については、坂井がいわば唯一の語り部となっている。
坂井は、海軍航空の草分けで、育ての親ともいえる大西瀧治郎を信奉していたし、
「敬愛する笹井中尉の叔母ということもあり、淑惠さんを支援することは自分の義務だと思った」
と、筆者に語っている。
坂井は淑惠に、両国で戦後間もなく始めた謄写版印刷店の経営に参加してくれるよう頼み、淑惠は、実家の了解を得て、夫の位牌を持ち、坂井の印刷店のバラックの片隅にある三畳の部屋に移った。日暮里で行き倒れた数年後のことである。
だが、坂井には、別の思惑もある。淑惠が経営に関わることで、有力な支援者を得ることができると考えたのだ。坂井の謄写版印刷の店は、福留繁、寺岡謹平という、大西中将の2人の同期生(ともに海軍中将)ほかが発起人となり、笹川良一(元衆議院議員、国粋大衆党総裁。A級戦犯容疑で収監されたが不起訴。のち日本船舶振興会会長)が発起人代表となって株式会社に発展した。
出資金は全額、坂井が出し、名目上の代表取締役社長を淑惠が務めることになった。会社が軌道に乗るまでは、笹川良一や大西に縁のある旧海軍軍人たちが、積極的に注文を出してくれた。淑惠は、香文社の格好の広告塔になったと言ってよい。
「裏社会のフィクサー」の大西に対する敬意
淑惠には、ささやかな願いがあった。大西の墓を東京近郊に建て、その墓と並べて、特攻隊戦没者を供養する観音像を建立するというものである。
苦しい生活のなかから細々と貯金し、昭和26(1951)年の七回忌に間に合わせようとしたが、それは到底叶わぬことだった。だが、この頃から慰霊祭に集う人たちの間で、淑惠の願いに協力を申し出る者が現れるようになった。
大西中将は、まぎれもなく特攻を命じた指揮官だが、不思議なほど命じられた部下から恨みを買っていない。フィリピンで、大西中将の一航艦に続いて、福留繁中将率いる二航艦からも特攻を出すことになり、大西、福留両中将が一緒に特攻隊員を見送ったことがあった。このときの特攻隊の一員で生還した角田和男(当時少尉)は、
「大西中将と福留中将では、握手のときの手の握り方が全然違った。大西中将はじっと目を見て、頼んだぞ、と。福留中将は、握手しても隊員と目も合わさないんですから」
と述懐する。大西は、自身も死ぬ気で命じていることが部下に伝わってきたし、終戦時、特攻隊員の後を追って自刃したことで、単なる命令者ではなく、ともに死ぬことを決意した戦友、いわば「特攻戦死者代表」のような立場になっている。淑惠についても、かつての特攻隊員たちは、「特攻隊の遺族代表」として遇した。
「大西長官は特攻隊員の一人であり、奥さんは特攻隊員の遺族の一人ですよ」
というのが、彼らの多くに共通した認識だった。
そんな旧部下たちからの協力も得て、昭和27(1952)年9月の彼岸、横浜市鶴見区の曹洞宗大本山總持寺に、小さいながらも大西の墓と「海鷲観音」と名づけられた観音像が完成し、法要と開眼供養が営まれた。
昭和27年9月、鶴見の總持寺に、最初に淑惠が建てた大西瀧治郎の墓。左は特攻戦没者を供養する「海鷲観音」
その後、昭和38(1963)年には寺岡謹平中将の筆になる「大西瀧治郎君の碑」が墓の左側に親友一同の名で建てられ、これを機に墓石を一回り大きく再建、観音像の台座を高いものにつくり直した。
墓石の正面には、〈従三位勲二等功三級 海軍中将大西瀧治郎之墓〉と刻まれ、側面に小さな字で、〈宏徳院殿信鑑義徹大居士〉と、戒名が彫ってある。再建を機に、その隣に、〈淑徳院殿信鑑妙徹大姉〉と、淑惠の戒名も朱字で入れられた。
この再建にあたって、資金を援助したのが、戦時中、海軍嘱託として中国・上海を拠点に、航空機に必要な物資を調達する「児玉機関」を率いた児玉誉士夫である。児玉は、海軍航空本部総務部長、軍需省航空兵器総局総務局長を歴任した大西と親交が深く、私欲を微塵も感じさせない大西の人柄に心服していた。大西が割腹したとき、最初に官舎に駆けつけたのが児玉である。
昭和20年2月、台湾・台南神社で。左から門司副官、児玉誉士夫、大西中将
児玉は、昭和20(1945)年12月、A級戦犯容疑で巣鴨プリズンに拘置され、「児玉機関」の上海での行状を3年間にわたり詮議されたが、無罪の判定を受けて昭和23(1948)年末、出所していた。
巣鴨を出所したのちも、淑惠に対し必要以上の支援はせず、一歩下がって見守る立場をとっていた。「自分の手で夫の墓を建てる」という、淑惠の願いを尊重したのだ。だから最初に墓を建てたときは、協力者の一人にすぎない立場をとった。
だが、再建の墓は、大西の墓であると同時に淑惠の墓でもある。児玉は、大西夫妻の墓は自分の手で建てたいと、かねがね思っていた。ここで初めて、児玉は表に出て、淑惠に、大西の墓を夫婦の墓として建て直したいが、自分に任せてくれないかと申し出た。
「児玉さんの、大西中将に対する敬意と追慕の念は本物で、見返りを何も求めない、心からの援助でした。これは、『裏社会のフィクサー』と囁かれたり、のちにロッキード事件で政財界を揺るがせた動きとは無縁のものだったと思っています」
と、門司親徳は言う。
鶴見の總持寺、大西瀧治郎墓所の現在。墓石に向かって左側に海鷲観音と墓誌、右側には遺書の碑が建っている
大西瀧治郎の墓石右横に建てられた遺書の碑
墓が再建されて法要が営まれたとき、淑惠が参会者に述べた挨拶を、日下部巡査が録音している。淑惠は謙虚に礼を述べたのち、
「特攻隊のご遺族の気持ちを察し、自分はどう生きるべきかと心を砕いてまいりましたが、結局、散っていった方々の御魂のご冥福を陰ながら祈り続けることしかできませんでした」
と、涙ながらに話した。
「わたし、とくしちゃった」
淑惠は、昭和30年代半ば頃、香文社の経営から身を引き、抽選で当った東中野の公団アパートに住むようになった。3階建ての3階、六畳と四畳半の部屋で、家賃は毎月8000円。当時の淑惠にとっては大きな出費となるので、児玉誉士夫と坂井三郎が共同で部屋を買い取った。ここには長男・多田圭太中尉を特攻隊で失った大西の親友・多田武雄中将夫人のよし子や、ミッドウェー海戦で戦死した山口多聞少将(戦死後中将)夫人のたかなど、海軍兵学校のクラスメートの夫人たちがおしゃべりによく集まった。門司親徳や日下部淳、それに角田和男ら元特攻隊員の誰彼も身の周りの世話によく訪ねてきて、狭いながらも海軍の気軽な社交場の趣があった。
「特攻隊員の遺族の一人」である淑惠には、多くの戦友会や慰霊祭の案内が届く。淑惠は、それらにも体調が許す限り参加し続けた。どれほど心を込めて慰霊し、供養して��、戦没者が還ることはなく、遺族にとって大切な人の命は取り返しがつかない。この一点だけは忘れてはいけない、というのが、淑惠の思いだった。
大西中将は生前、勲二等に叙せられていたが、昭和49(1974)年になって、政府から勲一等旭日大綬章を追叙された。この勲章を受けたとき、淑惠は、
「この勲章は、大西の功績ではなく、大空に散った英霊たちの功績です」
と言い、それを予科練出身者で組織する財団法人「海原会」に寄贈した。大西の勲一等の勲章は、茨城県阿見町の陸上自衛隊武器学校(旧土浦海軍航空隊跡地)内にある「雄翔館」(予科練記念館)におさめられている。
昭和49年、大西瀧治郎を主人公にした映画「あゝ決戦航空隊」が東映で映画化され、淑惠は京都の撮影所に招かれた。大西中将役の鶴田浩二、淑惠役の中村珠緒とともに撮られた1枚
淑惠は、毎年、この地で開催されている予科練戦没者慰霊祭にも、欠かさず参列した。
「こういう会合の席でも、奥さんはいつも自然体で、ことさら変わったことを言うわけではない。しかし短い挨拶には真情がこもっていて、その飾らない人柄が参会者に好感をもたれました。大西中将は『特攻の父』と言われますが、奥さんはいつしか慰霊祭に欠かせない『特攻の母』のようになっていました」
と、門司親徳は振り返る。
昭和50(1975)年8月、淑惠は最初に特攻隊を出した第二〇一海軍航空隊の慰霊の旅に同行し、はじめてフィリピンへ渡った。
小学生が手製の日の丸の小旗を振り、出迎えの地元女性たちが慰霊団一人一人の首にフィリピンの国花・サンパギータ(ジャスミンの一種)の花輪をかける。特攻基地のあったマバラカットの大学に設けられた歓迎会場では、学長自らが指揮をとり、女子学生が歌と踊りを披露する。警察署長が、慰霊団の世話を焼く。
予想以上に手厚いもてなしに一行が戸惑っていたとき、突然、淑惠が壇上に上った。
「マバラカットの皆さま、戦争中はたいへんご迷惑をおかけしました。日本人の一人として、心からお詫びします。――それなのに、今日は、こんなに温かいもてなしを受けて……」
涙ぐみ、途切れながら謝辞を述べると、会場に大きな拍手が起こった。
淑惠は、翌昭和51(1976)年にも慰霊団に加わったが、昭和52(1977)年6月、肝硬変をわずらって九段坂病院に入院した。この年の4月、二〇一空の元特攻隊員たちが靖国神社の夜桜見物に淑惠を誘い、砂利敷きの地面にござを敷いて夜遅くまで痛飲している。
「こんなお花見、生まれて初めて……」
77歳の淑惠は、花冷えのなかで嬉しそうに目を細め、しみじみつぶやいた。
九段坂病院5階の奥にある淑惠の病室には、門司親徳や、かつての特攻隊員たちも見舞いに駆けつけ、人の絶えることがなかった。児玉誉士夫は、自身も病身のため、息子の博隆夫妻に見舞いに行かせた。香文社時代の同僚、遠縁の娘など身近な人たちが、献身的に淑惠の世話をした。日下部淳は、警察の仕事が非番の日には必ず病院を訪れ、ロビーの長椅子に姿勢よく座って、何か起きたらすぐにでも役に立とうという構えだった。
昭和53(1978)年2月6日、門司親徳が午前中、病室に顔を出すと、淑惠は目をつぶって寝ていた。淑惠が目を開けたとき、門司が、
「苦しくないですか?」
とたずねると、小さく首をふった。そして、しばらくたって、淑惠は上を向いたまま、
「わたし、とくしちゃった……」
と、小さくつぶやいた。子供のようなこの一言が、淑惠の最期の言葉となった。淑惠が息を引き取ったのは、門司が仕事のために病室を辞去して数時間後、午後2時24分のことであった。
「『とくしちゃった』という言葉は、夫があらゆる責任をとって自決した、そのため、自分はみんなから赦され、かえって大事にされた。そして何より、生き残りの隊員たちに母親のようになつかれた。子宝に恵まれなかった奥さんにとって、これは何より嬉しかったんじゃないか。これらすべての人に『ありがとう』という代わりに、神田っ子の奥さんらしい言葉で、『とくしちゃった』と言ったに違いないと思います」
――門司の回想である。
淑惠の葬儀は、2月18日、總持寺で執り行われた。先任参謀だった詫間(猪口)力平が、葬儀委員長を務め、数十名の海軍関係者が集まった。納骨のとき、ボロボロと大粒の涙を流すかつての特攻隊員が何人もいたことが、門司の心に焼きついた。
こうして、大西淑惠は生涯を閉じ、その慰霊行脚も終わった。残された旧部下や特攻隊員たちは、淑惠の遺志を継いで、それぞれの寿命が尽きるまで、特攻戦没者の慰霊を続けた。戦後すぐ、芝の寺で一航艦、二航艦の司令部職員を中心に始まった10月25日の「神風忌」の慰霊法要は、元特攻隊員にまで参会者を広げ、平成17(2005)年まで、60年にわたって続けられた。60回で終わったのは、代のかわった寺の住職が、先代の約束を反故にして、永代供養に難色を示したからである。
大西中将の元副官・門司親徳は、「神風忌」の最後を見届け、自身が携わった戦友会の始末をつけて、平成20(2008)年8月16日、老衰のため90歳で亡くなった。昭和と平成、元号は違えど、大西瀧治郎と同じ「20年8月16日」に息を引き取ったのは、情念が寿命をコントロールしたかのような、不思議な符合だった。
大西夫妻の人物像について、門司は生前、次のように述べている。
「大西中将は、血も涙もある、きわめてふつうの人だったと思う。ふつうの人間として、身を震わせながら部下に特攻を命じ、部下に『死』を命じた司令長官として当り前の責任のとり方をした。ずばぬけた勇将だったとも、神様みたいに偉い人だったとも、私は思わない。だけど、ほかの長官と比べるとちょっと違う。人間、そのちょっとのところがなかなか真似できないんですね。ふつうのことを、当り前にできる人というのは案外少ないと思うんです。軍人として長官として、当り前のことが、戦後、生き残ったほかの長官たちにはできなかったんじゃないでしょうか
奥さんの淑惠さんも、無邪気な少女がそのまま大人になったような率直な人柄で、けっして威厳のあるしっかり者といった感じではなかった。でも、人懐っこく庶民的で、人の心をやわらかく掴む、誠実な女性でした。長官は、そんな淑惠さんを信じて後事を託し、淑惠さんは、つましい生活を送りながら、夫の部下たちやご遺族に寄り添って天寿を全うした。
正反対のタイプでしたが、理想的な夫婦だったんじゃないでしょうか。いまの価値観で見ればどう受け止められるかわかりませんが……」
そう、現代の価値観では計り知れないことであろう。責任ある一人の指揮官と、身を捨てて飛び立った若者たち。そして、自決した夫の遺志に殉ずるかのように、最期まで慰霊に尽くし続けた妻――。
「戦争」や「特攻」を現代の目で否定するのは簡単だ。二度と繰り返してはならないことも自明である。しかし、人は自分が生まれる時や場所を選べない。自らの生きた時代を懸命に生きた人たちがいた、ということは、事実として記憶にとどめておきたい。
旧軍人や遺族の多くが世を去り、生存隊員の全員が90歳を超えたいまもなお、全国で慰霊の集いが持たれ、忘れ得ぬ戦友や家族の面影を胸に、命がけで参列する当事者も少なくない。彼らの思いを封じることは誰にもできないはずだから。
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monqu1y · 3 years
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戦後の事件簿  「日本が受諾したポツダム宣言は、イギリス首相、アメリカ合衆国大統領、中華民国主席の名において発された。ソ連は後から加わり追認した。中共は、抗戦相手ではなかった。大日本帝国の一部を形成する朝鮮半島の住民と内地の住民も、戦火を交える敵同士ではなかった。しかし、どこまでも敗戦革命にこだわる報道関係者たちは、中国や韓国や北朝鮮に戦勝国とウソをつかせたうえで、日本に対する理由のない非難と恐喝をするよう唆している。そして、韓国人や朝鮮人は本名を隠し日本人名を名乗っている。彼らの犯罪は、日本人による犯罪のように報道されるか、犯罪そのものが報道されない」という話を聞いた  図書館に行って朝鮮人の犯罪を調べたら、次のような記録が見つかった  1945年10月22日、大阿仁村事件が起こった。秋田県北秋田郡阿仁合町の阿仁鉱山で働いていた朝鮮人12名は、午前9時頃、約16キロ山奥の同郡大阿仁村の伏影集落へ行き、共同管理の栗林に侵入し、栗を拾っていた所を村人に発見され、注意したところ乱闘となり、双方数名が負傷した。午後1時になると、約40名の朝鮮人が来襲したので、警察と警防団は直ちに現場に急行し鎮圧の為に急行した  1945年12月24日、生田警察署襲撃事件が起こった。午後9時頃、50名を超える朝鮮人の暴徒が「岡山の刑事を出せ」と叫びながら署内に侵入。署員を拳銃・日本刀・匕首を突きつけて軟禁した上で、岡山県警察部の捜査員を探し始めた。捜査員らが脱出に成功した一方で、暴徒によって署内の警察電話線が切断されたため、警察署は外部との連絡手段を絶たれてしまった。その後、事件を聞きつけた連合国軍部隊によって暴動が鎮圧された。襲撃以前、岡山市内にて7人組による拳銃強盗事件が発生しており、強盗犯を追って岡山県警の捜査官が神戸市まで出張にきていた。この捜査員に生田署が協力していたため、暴徒の襲撃を受けることになった。もっとも以下に挙げた資料には、確かに報復を仕掛けたのは朝鮮人の一団であったが、元の拳銃強盗事件の犯人が朝鮮人であったのかどうかまでは記されていない  1945年12月29日、直江津駅リンチ殺人事件が起こった。午後7時頃、新潟発大阪行の列車が国鉄信越本線黒井駅に到着した。3人組の朝鮮人が列車に乗車しようとしたが、満員のため乗車することが出来なかった。そこで彼らは列車の窓ガラスを叩き割り無理やり乗車しようとしたところ、ある男性の乗客に阻まれたため、已む無くデッキにぶら下がり次の直江津駅まで行く破目になった。列車が直江津駅に到着すると、3人組は自分たちを阻んだ男性に対して、「乗降口から乗れないので仕方なくガラスを壊して乗ろうとしたのに何故妨害した」と詰め寄った。 男性に「窓から乗り込むという方法はない」と反論されたため、その男性を直江津駅のプラットホームに引きずり降ろし、駅の備品であるパイプやスコップを持ち出して男性に襲い掛かり、メッタ打ちにした。男性は頭や左眼などに十数か所の傷を負い、絶命した。警察が緊急配備したところ、直江津の病院で傷の手当てをしていた3人組を突き止めた。そして容疑を認めたため、殺人犯として緊急逮捕した  1946年1月3日、富坂警察署襲撃事件が起こった。正午、春日町交差点において多くの不審者を乗せたトラック2台が富坂警察署方面へ向かうのを、交通整理にあたっていた警察官が発見、直ちに署に連絡した。連絡を受けてまもなく、例のトラックが富坂警察署に到着、警察官の制止を振り切って約80人の朝鮮人が署内に乱入し、留置中の在日朝鮮人の即時釈放を要求した。危険を察知した警部が警察電話を通じて、警備隊の応援を要請したところ、在日朝鮮人20人が電話室に乱入し占拠した。これにより外部との連絡が絶たれた。交渉にあたった署長は「朝鮮人は留置していない」と突っぱねたが、情報が漏れていたらしく、在日朝鮮人たちが留置場を探し始めた。これを阻止しようとした警察官に対して殴る蹴るの暴行を加えて負傷者を続出させた。在日朝鮮人はついに留置場を発見、中にいた容疑者を連れ出し、「署長は、朝鮮人は留置していないと我々を欺いた」と署長を責めた後、富坂警察署の前を通りかかったトラックを奪って逃走した  1946年1月9日、生田警察署襲撃事件が起こった。翌年、三宮ガード下で賭博団が検挙されたことを受け、30 - 40人の朝鮮人が犯人の奪還を目的に再度署内に侵入したが、この事件も進駐軍の協力を得て鎮圧し、首謀者3人を検挙した  1946年5月13日、長崎警察署襲撃事件が起こった。午前10時30分、280人の警官隊が一斉取締を開始し、日本人150人、朝鮮人26人、中国人6人を検挙、長崎警察署に連行した。その直後、在日本朝鮮人連盟や中国人団体が長崎警察署に押しかけ、被疑者の即時釈放を要求したが、署長は取調前の釈放はできないと拒否した。午後2時30分頃、朝鮮人や中国人など総勢約200人がバッドや鉄棒を持って長崎警察署を包囲・襲撃した。これにより警察官1人が死亡、10人が重軽傷を負った。その後、余勢をかって東浜町派出所や港町派出所も襲撃し、警察官に対し暴行を加えている  1946年8月5日、富山駅前派出所襲撃事件が起こった。午後6時50分頃、富山駅において闇米取り締りを実施し、朝鮮人3人を検挙した。しかし、それを見ていた朝鮮人2人が妨害し、3人を逃走させた。そのため自治隊員2人を公務執行妨害罪で逮捕し、富山駅前派出所に連行したところ、朝鮮人約30人が包囲し険悪な雰囲気となった。署に救援を頼んだが、その前に大乱闘となった。その直後に、救援隊が駆けつけて朝鮮人たちを実力で排除した。この乱闘で警察官1人が負傷した  1946年9月22日、坂町事件が起こった。午前0時50分頃、村上警察署の署員8人が坂町駅に赴き、ヤミ米の取締に当たった。署員が現れるや、約50人の朝鮮人・中国人は一斉に姿をかくした。警察官がホーム上に置き去りにされたヤミ米を押収しようとすると、「殴れ!」「叩け!」の叫び声を合図に襲いかかって来た。警察官が応戦している最中に列車が到着し、列車内から朝鮮人20人が下車し加勢、警察官に暴行を加えた後、発車間際の列車に乗り込み逃走した。この日の午後になり、「また、ヤミ米を運��しようとしている」との情報が入った。警察官 10人が現場に向かい取り締まろうとしたところ、約50人の朝鮮人・中国人が襲い掛かり、殴る蹴るの暴行を加えた。金屋村警防団は警察官の応援に駆けつけたが、逆に鳶口や木刀を取り上げられて、彼等の武器にされる始末であった。その後、撤退命令が出たので、警察官等は一旦引き上げた。その後、進駐軍の新潟軍政部の係官が現地に到着し、朝鮮人・中国人に対して「日本に在住している限り、日本の法律に服さなければならないこと」、「警察官のヤミ米取締を拒むことは、連合国の指令に反するものであること」を言い渡した。軍政部のお墨付きが出たことで、警察は断固とした取締りが可能になり、12人が検挙された  1946年9月26日~29日、新潟日報社襲撃事件が起こった。在日本朝鮮人連盟などの朝鮮人16人が新潟日報社を訪れ、新潟日報社と読売新聞社の両社に対して、「坂町事件の報道に誤りがあると認め、ラジオ放送を通じて新潟県民に誤報であったという声明を出せ」と要求した。両社は「即答はできない」として、29日まで猶予してもらうことになった。その後読売新聞社は、9月28日になって譲歩し、誤報を認め謝罪記事を掲載することで話がついた。9月29日、朝鮮人16人が再度新潟日報社を訪れ、新潟日報社側の返答をせまった。新潟日報社は「警察の調査結果をまって善処する」と答え、彼等の要求を拒んだため、朝鮮人側は憤慨し、茶碗を投げつけたのを合図に一斉に暴れだし、社内の備品を破壊した。新潟警察署は、朝鮮人らを暴力行為等処罰ニ関スル法律違反で逮捕した  1946年12月20日、首相官邸デモ事件が起こった。の全国大会では、約1万人の朝鮮人が結集した。日本共産党の徳田球一も出席しており、徳田球一の演説の後、生活権擁護の決議文を採択し、午後1時頃に集会は一旦終了した。午後1時30分、「朝鮮人虐殺政策絶対反対」「吉田内閣は日本の敵だ」といったプラカードを掲げてデモ行進を開始。午後2時頃に首相官邸前に差し掛かると、突如警察官の制止を無視して官邸正門前に殺到した。警官隊は侵入を阻止するため門を閉鎖しようとしたが、デモ隊は投石やプラカードを振り回すなどして暴れ、遂に首相官邸に侵入した。午後2時30分頃にアメリカ軍憲兵隊が出動し、まもなくデモ隊全員を解散させた。この事件で、警察官23人が重軽傷を負い、拳銃2丁が奪い取られた  1947年10月20日、尾花沢派出所襲撃事件が起こった。朝鮮人7人は警察によるヤミ米摘発の鬱憤を晴らすべく、派出所の襲撃を計画し、午後3時頃に楯岡警察署の尾花沢派出所に乗り込んだ。警察官が不在だったため、派出所内の器物を破壊し、門標を取り外した後引き揚げた。その後、外出から戻った警察官が、派出所内の惨状を見て驚き、直ちに署に連絡した。その直後、前述の朝鮮人7人と他の朝鮮人30人が派出所を取り囲み、火鉢を投げつけるなどの暴行を働いた。楯岡警察署は隣接の新庄警察署や進駐軍の応援も得て、29人を逮捕した  1948年4月23日~25日、阪神教育事件が起こった。9時、大阪府大阪城前の大手前公園で、朝鮮人学校弾圧反対人民大会が開催された。集会には在日朝鮮人や日本共産党関西地方委員会の日本人など7000人余が集結した。16人の代表が選出され、大阪府庁舎で大阪府知事・赤間文三との交渉を行うことになった。12時30分、大阪府庁知事室において副知事と朝鮮人代表者16人との交渉が始まったが合意には至らず、15時になって在日朝鮮人や日本共産党関西地方委員会の日本人など7000人余の中からシュプレヒコールが起こった。同時に50人余の青年が行動隊を編成し、スクラムを組んで大阪府庁前の阻止線を突破した。15時30分には行動隊に続いて、在日朝鮮人や日本共産党関西地方委員会の日本人など7000人余も大阪府庁に暴力で突入し、3階までの廊下を占拠。副知事は警察官の誘導で、戦時中に作られていた地下道を通って脱出した。17時頃には群衆が知事室になだれ込み、ドアや調度品を破壊するといった行動に出る。日本共産党大阪地方委員会に派遣されていた増山太助は川上貫一衆議院議員とともに知事室に駆けつけたが、収拾がつかない状態だった。夜になって大阪城周辺の各所で在日朝鮮人や日本共産党関西地方委員会の日本人によってかがり火が焚かれ、朝連としては川上を代表として交渉の場を作ろうとした。しかしそこへアメリカ軍や武装警官が到着し、在日朝鮮人や日本共産党関西地方委員会の日本人らと乱闘。在日朝鮮人のうち1人が死亡し20人が負傷した。警官側の負傷者は、31人だった。179人が騒擾罪で検挙された。4月25日には朝連や日本人約300人が南警察署に押しかけ逮捕者の釈放を要求したが、抗議に来た群衆に向けて警官隊が威嚇射撃を行い追い返した。翌4月26日に朝連は大阪東成区や旭区などで「朝鮮人学校弾圧反対人民大会」を開催。午後には朝鮮人代表者と赤間府知事との間で再度交渉が行われたが、15時40分に別室で待機していた大阪軍政部のクレーグ大佐が、交渉の中止と大手前公園に集結していた在日朝鮮人2万人の解散を指示。これに対し在日朝鮮人1600人のデモ隊が再び大阪府庁に向かい、武装警官隊の阻止線で投石を開始。武装警官隊は消防車に放水をさせ、デモ隊に突入し拳銃で発砲した。この衝突で当時16歳であった在日朝鮮人金太一が死亡する。検挙者は軍事裁判にかけられ、日本人9人と在日朝鮮人8人が重労働4年以下の判決を受けた。このうち当時の朝鮮総連の朴柱範兵庫県本部委員長は神戸刑務所に服役し、1949年11月25日に病気を理由に仮釈放されたが僅か数時間後に死亡した。事件解決後、大阪市警察局は、アメリカ陸軍第25師団司令部より感謝状が贈呈された。兵庫県非常事態宣言布告を報じた朝日新聞号外アイケルバーガー司令官の神戸視察を報じた神戸新聞10日に兵庫県知事・岸田幸雄は、朝鮮人学校に対して封鎖命令を発令。これを受けて14日に朝連は兵庫県庁を訪れ、岸田との交渉を要求した。言動はしばしば威圧的・脅迫的になった。4月23日に警官隊と米軍MPが朝鮮人学校灘校と東神戸校を封鎖すると、翌24日に封鎖に抗議する在日朝鮮人や日本人が兵庫県県庁前に集結。9時30分に兵庫県庁知事室で、岸田知事と神戸市長・小寺謙吉、検事正ら15人が朝鮮人学校閉鎖仮処分執行問題と在日朝鮮人の抗議集会対策を協議。協議が行われているとの情報は朝連にも伝わり、約100人の在日朝鮮人や日本人が兵庫県庁内に突入。知事応接室を占拠して備品などを破壊した後、壁を打ち破って知事室になだれ込み岸田知事やMPを拉致監禁するに至る。知事室に乱入した在日朝鮮人や日本人は電話線を切断して外部との連絡を絶ち、「学校閉鎖令の撤回」「朝鮮人学校閉鎖仮処分の取り消し」「朝鮮人学校存続の承認」「逮捕された朝鮮人の釈放」などを岸田知事に要求。半ば監禁状態にあって岸田は、17時に諸要求の受け入れを誓約。しかしその日の22時に岸田知事と吉川覚副知事・市丸検事正・田辺次席検事・出井兵庫県警察長・古山神戸市警察局長らが、占領軍兵庫県軍政部に召集され、23時に兵庫県軍政部が「非常事態宣言」を発令。軍政部の非常事態宣言によって兵庫県と神戸市の全警察官はアメリカ軍憲兵司令官の指揮下に入り、兵庫県庁への乱入者の徹底検挙命令と共に岸田知事が一旦受け入れた在日朝鮮人の要求への誓約を無効とした。25日早朝にMPと米軍憲兵司令官指揮下の警官による県庁乱入者の検挙を開始し、29日までに、1590人もしくは7295人 を検挙。日本共産党の神戸市議会議員・堀川一知も拘引された。4月28日には米軍軍政部の非常事態宣言も解除。検挙した者から主だった者を拘留し、23人を軍事裁判にかけた。唯一の日本人被告人だったは堀川は重労働10年の判決を受け、在日朝鮮人には最高重労働15年の判決が出されて刑期終了後は本国に強制送還されることになった  1948年10月11日~12日、評定河原事件が起こった。の10時から開会式が始まった。北朝鮮国旗の掲揚をめぐり仙台市警察が警告を発するなどのトラブルがあったが、1日目は特に混乱も無く終了した。2日目の10月12日は運動会が開かれた。国旗掲揚の代わりに国旗を頭上に捧げ持って行進したため、米軍の憲兵が行進の中止を命じた。その後、運動会は再開され、16時30分頃に閉会式が開かれた。そのとき、酒を飲んだ数人の朝鮮人が会場内に入って歌を歌い始めた。これに同調する者が次々と現れ、赤旗を掲げてデモ行進するなど不穏な空気に包まれた。その中で、北朝鮮国旗を持った一団がデモ行進をし、米軍憲兵の制止を無視し行進を続けたため、米軍憲兵は国旗を押収し、参加者4人を検挙した。その後の米軍憲兵隊の捜査で、更に2人が検挙された  1948年12月9日、宇部事件が起こった。約200名の朝鮮人が宇部市民会館に参集し生活擁護人民大会を開催していた際に、在日本朝鮮人連盟山口県本部委員長を進駐軍憲兵および警察隊が逮捕した。大会参加者は集団的に同被疑者を奪還しようとして警察側と衝突し、双方に多数の負傷者が出る騒ぎとなったが、警察側の発砲によって鎮圧された  1949年1月25日、益田事件が起こった。島根県美濃郡益田町の朝鮮人集落において密輸入物資が隠匿されているとの密告に基づき、進駐軍島根軍政部将校2名と経済調査官2名が同行して、令状なしで摘発に乗り出した���、「令状のない捜査は違法である」と拒否されたため、警察官10名が応援して違反物資を押収したが約100名の朝鮮人に奪還された。翌日、被疑者9名を検挙したものの、夜に入って約200名が警察署に押しかけて被疑者の釈放を要求し、署内に侵入しようとしたために警察官と乱闘になり48名が検挙された。逮捕されたもののうち9名が起訴され、騒乱罪で有罪となった  1949年4月6日~13日、枝川事件が起こった。午後6時頃、3人の捜査員は主犯を発見、逮捕しようとした。しかし主犯は別人を主張、周りの朝鮮人数人も捜査員を見ていたため、任意同行に切り替えた。そして、屋外に出ようとしたところ、主犯は捜査員を突き飛ばし、裸足のまま逃走した。捜査員は拳銃を3発威嚇発砲して制止しようとしたが、逃走を続けたため、遂に主犯に向けて発砲した。そしてなんとか逮捕することができたが、主犯はその際に負傷した。それを見ていた約40人の朝鮮人が「仲間を殺したやつは殺してしまえ」と捜査員2人に襲い掛かり、殴る蹴るの暴行を加え重軽傷を負わせた上に在日朝鮮人連盟の施設に連行した。もう1人の捜査員は、事態の重大性を察知し、近くの民家の電話を借りて枝川地区を所轄する深川警察署と月島警察署に通報した。まもなく深川警察署と月島警察署の応援部隊が在日朝鮮人連盟の枝川支部に急行したが、激しい抵抗にあい、警察側に負傷者を続出させたが、アメリカ軍憲兵隊が来ると急に態度を軟化させた。その後の交渉で朝鮮人側は暴行犯人の引渡しを確約したが、4月8日になっても引き渡さず、逆に捜査員の処分を求める有様であった。4月9日より、警察は枝川地区に架かる橋に検問所を設置、通行者全員に検問を開始した。それと並行して内偵調査を行った。その結果、警察官に暴行した容疑者が割り出されたため、4月13日に一斉捜査が行われ、容疑者5人が逮捕された。4月19日までに更に10人が逮捕された  1949年4月7日~11日、高田ドブロク事件が起こった。午前6時頃、取締部隊は朝鮮人集落に到着し一斉取締を開始した。早朝であったため、この取締そのものは整然と行われ、午前8時30分頃には引き上げた。午前10時40分頃から朝鮮人たちが高田市警察署に集結し始め、正午頃になると200人に膨れ上がり、検挙者の釈放を要求した。しかし警察側が断固拒否したため、警察署に向かって投石を行い窓ガラス十数枚を破損させた。4月8日も朝鮮人約200人が警察署前に集結し、釈放を要求した。4月9日正午、一人の朝鮮人女性が高田税務署に現れた。一人であったことから税務署を警備していた警察官も、一般の利用者と思って油断していたところ、あっという間に14・15人の朝鮮人女性が集まり、署長との面会を要求してきた。警備の警察官が退去を勧告したところ、「人殺し」と叫び座り込みをはじめた。午後1時になると多くの朝鮮人男性が押しかけ、税務署内に突入しようとしたので、小競り合いになり双方に負傷者を出した。4月10日、検挙者の自供により、高田市においても密造酒の醸造が行われていることが判明したため、在日朝鮮人連盟信越支部などを家宅捜査した。4月11日、約500人もの朝鮮人が高田市に集結、デモ行進を行った。彼らは市民に対して「警察が朝鮮人に対して不当な弾圧を加えている」「放火して高田市を灰にする」などと叫び牽制していた。ここに至り、警察もデモの首謀者12人を検挙したため、この事件も収束に向かい始めた  1949年6月2日~11日、本郷村事件が起こった。国家地方警察福井県本部若狭地区警察署の本郷派出所の警察官が朝鮮人地区の地図を作成したことについて、在日本朝鮮人連盟の幹部が抗議した。幹部は一旦戻り、在日朝鮮人70人を引き連れて、派出所を包囲した。そして中の警察官に暴行を加え、そのまま居座り続けた。若狭地区警察署は署員を急派したが、なおも居座り、6月4日になってようやく解散した。朝鮮人側は 暴行警察官の罷免 被害者に対する損害賠償 朝鮮人に対する謝罪 朝鮮人問題については、事前に朝連と連絡協議をすることなどを要求したが、警察は6月10日に朝鮮人2人を逮捕するために現地に向かった。待ち構えていた朝鮮人200人が、石や糞尿を投げつけて逮捕を妨害���たが、なんとか強行突破し、2人を予定通り逮捕した。その後朝鮮人たちは、「民族弾圧、ファッショ警察の再現」と叫んで警察署前に居座ったり、「ファッシズム国警若狭地区警察の真相」と題するビラをばら撒くなど示威行動を続けた  1949年8月20日、下関事件[騒乱]が起こった。19日午後11時頃、朝連事務所前に約150人の在日朝鮮人が集結し、民団を非難する集会を開いた。集会そのものは特に問題なく終了したが、警備に当たっていた朝連の構成員と民団の構成員が路上で遭遇、乱闘となり、民団側が所持していた日本刀で朝連側に負傷者を出した。朝連は、これに報復すべく8月20日午前2時30分頃、構成員約200人を招集し、民団下関支部や民団構成員の自宅を襲撃した。そして被害家屋から金品を略奪するなどの狼藉を働いたあと解散した。このため、未明にも係らず市内は一時大混乱になった。下関市警察は、直ちに国家地方警察山口県本部に応援を要請した。国家地方警察は、自治体警察を含む山口県内の全警察に非常招集を発令、警察学校の学生をも動員した。県内各地から来る応援部隊の到着後、朝連や民団の施設を一斉に捜索を開始し、939 人の警察官のうち 14 人が負傷したが、73人を検挙した。翌日8月21日には、下関市警察と国家地方警察の合同による「下関事件合同警備本部」を設置するとともに、市内各所に検問所を設けて逃亡を阻止した。最終的に208人が検挙され、殺人未遂罪のほか、騒擾罪などで75人が起訴された  1950年3月20日、台東会館事件が起こった。10日午前9時、東京都の係官が台東会館に赴いた。警視庁では不測の事態に備えて多数の警察官を警戒に当たらせた。係官は会館を引き渡すよう命じたが、旧朝連はそれを無視したばかりか、投石を行い抵抗した。そのため、この日の接収は一旦取りやめになり、3月20日に再度接収を行うことになった。旧朝連側は接収予定日の前日から、会館入口にバリケードを設け、周辺道路を巡回して警戒していた。3月20日午前7時、係官が台東会館に入ろうとしたが妨害を受けた。そして、警戒に当たっていた警察官に向かって、石や唐辛子粉を投げつけて抵抗した。そのため警察は強行突入を断行し、朝鮮人119人を検挙した  1950年8月15日、連島町事件が起こった。1949年9月8日、GHQの指示を受けた法務府は告示第51号を出し、在日本朝聯と在日本朝鮮民主青年同盟に対し団体等規正令を適用して解散命令を下す。また朝鮮学校と民団総連も解散請求を受けた。これらの措置は在日朝鮮人の生活に直接の打撃を与えた。将来に不安を抱いた朝鮮人同胞らの中には、革命を叫んで公共施設を不法占拠し火炎瓶で武装した事件が起きた。こうした世情不安の中、岡山県浅口郡連島町で、朝鮮解放5周年を祝って約700名の朝鮮人が集まり集会を強行したため、これを制止しようとした警察と乱闘になり8名を検挙した。この事件で警察官15名が負傷した  1950年11月20日~27日、長田区役所襲撃事件[第二神戸事件]が起こった。午後1時、約200人の朝鮮人が神戸市長田区役所に押しかけた。要求は「市民税免除」と「生活保護の徹底」である。しかし区長がこれを認めなかったため、区長を軟禁状態にして騒ぎ出した。神戸市警察は直ちに出動、30人が逮捕された。11月24日午前11時、約300人の朝鮮人が再度長田区役所に押しかけ、区長との面談を要求した。区長が拒否したため、朝鮮人たちは区役所に乱入し、窓ガラス等を破壊した上、出動した警察官に対しても暴力を振るったため、不退去罪の現行犯として26人が逮捕された。11月27日朝、24日に逮捕された仲間の奪還などを求め、姫路市、明石市、尼崎市などから約600人の朝鮮人が神戸に向かっているとの情報が警察にもたらされた。警察は甲号非常招集を発令、神戸市警察および国家警察兵庫県本部の警官約3000人に待機命令をかけた。長田区にある西神戸朝鮮人学校に神戸市在住の者も含め約千人の朝鮮人が集結。「祖国統一決起大会」を開催し、投石用の石や棍棒を用意するなど不穏な状勢となったため、正午頃に解散を命じたが、「犬め、殺してやる」「貴様等人民裁判にかけてやる」と暴言を吐いて命令を無視、午後3時20分頃には、学校から出てデモ行進を始めた。遂に警察は神戸市電湊川大橋停留所付近で検挙を開始したが、デモ隊は激しく抵抗し、約60人が逮捕された。その残党は新湊川沿いに北上、長田区役所や長田税務署を襲い、窓ガラスを割るなどした。最終的に179人が逮捕された  1951年1月23日、四日市事件が起こった。旧朝連四日市支部を接収しようとしたところ、居合わせた朝鮮人約20名が、器物やガラスの破片を投げつけたり、灰・唐辛子による目潰し攻撃をしたり、濃硫酸を浴びせて接収の妨害を行った事件。そのため、執行係官7名が全治2 - 3週間の重軽傷を負った。警察が出動して、公務執行妨害容疑で15名を検挙した  1951年3月7日、王子朝鮮人学校事件が起こった。当日、王子警察署は周辺の道路を封鎖し、同校生徒以外の群集の流入を阻止しようとしたが、群集はそれを無視し最終的に2000人が集まった。集会は午前10時から始まった。一方、学校外にいた群集が警察隊に対し、投石や唐辛子粉の噴霧など抵抗したため、ある警察官が付近の民家の2階から写真を撮ろうとした。しかしそれを見た群集が民家に乱入、その警察官に暴行を加え、カメラを破壊した。応援に来ていた蔵前警察署員が救出しようとしたが、逆に返り討ちにあい、重軽傷を負わされた上、拳銃や警棒などが奪われた。警視庁は、遂に群集を強制的に解散させることを決断、警官隊が校内に突入しようとした。群集は煉瓦や石を投げつけるなど強硬に抵抗したが、午後2時50分までに全員を校外に排除した。警察はこの事件で28人が重軽傷を負った  1951年6月13日、神奈川事件が起こった。横浜市神奈川区にある青木小学校分校において、神奈川県朝鮮人学校PTA連合運動会が開かれていたが、参加者の一人が警備をしていた警察官に対して暴力をふるったため、公務執行妨害で検挙しようとしたところ、これを妨害しようとして大乱闘となった。これにより、双方ともに数名の負傷者を出した。運動会終了後、約500名の在日朝鮮人が横浜市警察本部に殺到し、玄関前でスクラムを組んで奇声をあげた。 そのため、横浜市警は約1000名の警察官を動員し、公安条例違反容疑で28名を検挙した  1951年10月22日、下里村役場集団恐喝事件が起こった。下里村において、在日朝鮮人約200名が、「生活保護」「強制送還反対」の陳情をするために村役場に押しかけた  1951年12月1日、東成警察署襲撃事件が起こった。午前11時頃、朝鮮人たちは旧御幸森朝鮮人小学校に集まり、東成警察署までデモ行進した。その後、元御幸森朝鮮人学校に集合し、12時15分ごろ東成警察正門前に到着した。さらに同署の東方道路から約20名、南方道路から20名が殺到し気勢を上げて署内に突入しようとしたので、大阪市警視庁機動隊はそれを阻止した。その際デモ隊は、クロールピクリン酸入りサイダーびん3本、投石や唐辛子を投げつけて抵抗した。この事件で3人が公務執行妨害罪で逮捕された 。12月16日午後、不法デモをおこない3隊に分かれ、生野区、巽町の工場を襲撃した  1951年12月18日、日野事件が起こった。10月18日午前11時30分、滋賀県蒲生郡桜川村に、在日朝鮮統一民主戦線や祖国防衛隊のメンバーが集結し、自転車にスピーカーを取り付けて自転車デモを行おうとした。滋賀県公安条例の届出を出していない違法デモであった。国家地方警察滋賀県本部蒲生東地区警察署では、これを制止しようとしたが、デモ隊は強行突破し、日野町内に侵入した。デモ隊は日野郵便局前で「朝鮮人強制送還反対」「軍事基地化反対」などの演説を行った。その間、周辺在住の朝鮮人が集まり、ピケを張ったりバリケードを作ったりした。そして警官隊に棍棒で襲い掛かったため、公務執行妨害罪で20人が検挙された  1952年2月21日~23日。木造地区警察署襲撃事件が起こった。国家地方警察青森県本部木造地区警察署は、傷害容疑で在日朝鮮人2名を逮捕した。これに対し、在日朝鮮人数十人が検挙者の即時釈放を要求して連日署に押しかけた。2月23日に入り、在日朝鮮人約70名が署内への侵入を図って警備の警察官と揉み合いになり、警察署の玄関のガラス戸が破壊された。また同日午後7時、応援に駆けつけていた弘前地区警察署の署員11人が、国鉄五能線木造駅を警備していたところ、在日朝鮮人に取り囲まれ、警棒を奪われる事件も発生している  1952年3月26日~30日、多奈川町事件が起こった。以前より多奈川町警察は、隣接の国家地方警察泉南地区署の応援を得、幾度も朝鮮人による密造酒の摘発を行っていたが後を絶たず、増加するばかりであった  1952年3月24日、大阪国税局は、同局泉佐野税務署・大阪地方検察庁岸和田支部・国家地方警察泉南地区署と合同捜査会議を行い、一斉摘発を決定。同年3月26日午前5時40分ごろ、泉南地区署に、国税局員45名・検事1名・副検事1名・検察事務官12名・制服警察官50名の合同捜査チームが集合。10班に分かれ、トラック10台に分乗し、多奈川町9ヶ所、深日町1ヶ所、計10ヶ所の密造場所に向かう。納屋や豚小屋に偽装された密造工場の各所で、朝鮮人による抵抗に遭うも、検察庁職員によって容疑者の逮捕、国税局員によってドブロク・コウジ・蒸留機などの酒造器具を証拠品として差押さえるなどし、各班は逐次南海電気鉄道多奈川線多奈川駅前に集合。この時、婦女子を先頭にした朝鮮人約200人がトラックの前に座り込んだり、大きな石をいくつも道路上に置いて交通を妨害。これを排除しようとした警察官が激しい抵抗に遭っている間、手薄な警備に勢を得た朝鮮人の数はさらに増え、ついには「生活権」を訴える怒号に扇動された朝鮮人が「殺してしまえ」とわめきながらトラックに殺到し、タイヤの空気を抜く、窓ガラスを叩き割る、トラックの運転手を袋叩きにする、差押えた証拠品を叩き落して破壊・強奪する、被疑者を逃がすなどの暴挙に出た。 この危機を脱したトラック3台は集合場所の大阪拘置所に向かったものの、残る7台は駅前の国道で立ち往生となる。1個班につき警察官が5人と言う手薄な警備体制が招いた失敗であった。不測の事態を受けた合同捜査チーム総指揮官大坪検事及び泉南地区警察署長は、深日町警部派出所から国家地方警察大阪府本部に応援を要請。検挙は後日に譲ることとし、後日の検挙に備え多数の現場写真を撮影、道路上の妨害を排除しつつタイヤの空気を入れなおし、午前7時半ごろ、捜査チームは泉南地区署に引き揚げた。午前8時過ぎごろ、朝鮮人約30名が多奈川派出所に押しかけ「俺たちの生活をどうしてくれる」と抗議。間もなく代表者3名を残し引き揚げる。午前9時ごろ、取材に来ていた毎日新聞社大阪本社の記者がドブロク密造地区捜査取材のため多奈川派出所に向かう途中、朝鮮人の暴徒に囲まれて殴打され、石を投げつけられ、全治2週間の怪我を負う事件が発生。また、この騒ぎで城東税務署員も右手に怪我を負っている。事態を重く見た国家地方警察大阪府本部は27日・28日の2日間にわたり、現場証拠写真、現場に出動した警察官、第三者の証言から被疑者の割り出し、証拠収集にあたる。結果、被疑者17名を特定し、29日、暴力行為等処罰に関する法律違反、公務執行妨害および傷害ならびに酒税法違反容疑で逮捕状・捜査令状を大阪地検より受けた。同年3月30日午前2時、検事らをはじめ、大阪府下8地区署から制私服警官警察官・警察学校生徒など、約450名が大阪市城東区関目の大阪府警察学校に集結。午前5時すぎ、自動車・トラック約30台に分乗して多奈川町小田平、朝日、東、湊、深日町兵庫の5地区21ヶ所に急行し、逮捕、押収捜索にあたった。捜査員が被疑者を逮捕しようとした際、人糞を降りかけられる、手を噛まれる、水桶・たらい・マキなどを手当たり次第投げつけられる、クワ・こん棒などを振り回して暴れる、トウガラシの粉を投げて目潰し戦術に出るというようなことがあり、捜査員3名が打撲傷などを負ったが、前回ほどの組織的集団抵抗はみられなかった。この検挙の際、26日の暴行首謀者とされる3名が逃走。緊急逮捕を含む27名の逮捕者は取り調べののち、5名を釈放。残り25名を酒税法、公務執行妨害、傷害、業務妨害などの容疑で大阪地検に送庁、19名が起訴された。3月30日の検挙活動の際、朝鮮人1名が職務質問を受け逃走、追いついた警官ともみ合いになり拳銃の引き金が引かれ、弾が右腹部を貫通、重傷となり、数日後に死亡した  1952年5月1日、血のメーデー事件が起こった。GHQによる占領が解除されて3日後の、第23回メーデーとなったこの日の中央メーデーは、警察予備隊についての「再軍備反対」とともに、「皇居前広場の開放」を決議していた。大会は午前10時20分ごろ開会され、途中、全学連を中心として人民広場への乱入を扇動しようとする乱入者が相次いだものの、午後0時10分に閉会し、同25分より、北部・東部・南部・中部・西部の各コースに分かれて、予定のデモ行進に移った。デモ行進の途上でも、人民広場への乱入を扇動しようとする試みが相次ぎ、一部のデモ隊は当初のコースから外れて投石などを行ったほか、西部コース指導者は人民広場への乱入を拒否したために暴行を受けるなどの混乱が生じたものの、最終的には午後2時から4時にかけて順次に予定の解散地点に到着し、解散した。しかし特に混乱が著しかった南部コースを中心として、日比谷公園で解散したデモ��の一部は、その中の全学連と左翼系青年団体員に先導され、朝鮮人、日雇い労務者らの市民およそ2,500名がスクラムを組んで日比谷公園正門から出はじめた。警視庁は、会場や行進中には主催者の自主的統制に待つこととしていたが、5,600名の部隊を編成して雑踏警備にあたっていたほか、各署員1万名以上を待機させて即応体制を整えていた。日比谷交差点を通過して無届デモを開始した群衆に対して、まず丸の内警察署長以下60名が制止したが、投石や竹槍・棍棒による攻撃を受け、13名の負傷者を出した。デモ隊は外国人の自動車19台に投石して窓ガラスを次々に破壊しながら北上した。馬場先門においては、第一方面予備隊と三田・東京水上・高輪の3警察署による470名の部隊が警備にあたっていたが、方面予備隊の一部が拳銃および若干の催涙弾を装備していたほかは警棒を携帯しているのみであった。またデモ隊は極めて先鋭的であったことから、周囲の一般通行人への被害も憂慮した方面予備隊長は車道の警戒線を解き、デモ隊は皇居前広場になだれ込んだ。乱入したデモ隊は、二重橋正面で警備にあたる丸の内警察署員および増援の第一方面予備隊2個中隊に対して投石を開始した。祝田町警備巡査派出所ではボックスが押し倒され、警察官は袋叩きにされて拳銃を奪われた。警察部隊は催涙弾を使用して鎮圧にあたり、午後3時頃には暴徒を中央自動車道まで後退させ、にらみ合いの状態となった。しかしこの頃、桜門および祝田橋でも警戒線が突破されたことで暴徒は8,000名に増加した。警察側も逐次に予備隊を配置転換して体制を強化したが、暴徒との攻防は激しく、一部ではやむなく拳銃を使用した。この結果、暴徒が混乱に陥ったことから、警察側は体制を整えて一気に鎮圧を図り、午後3時40分までには暴徒の大部分を広場外に排除した。しかし広場外に排除された暴徒はその後もしつこく攻撃を繰り返し、祝田橋では第一方面予備隊の隊員4名が包囲され、角棒で乱打のうえで凱旋濠に投げ込まれ、更に投石を加えられた。また他の隊員4名も包囲されて同様の暴行を受けそうになり、拳銃の威嚇射撃でやっと難を逃れる状況であった。またこのほかにも、警察官への暴行が相次ぎ、拳銃を奪われる例もあった。午後3時50分頃には、桜門前濠端側に駐車されていた外国人自動車14台を転覆させて火を放ち、炎上させたほか、付近をサイドカーで通行していた交通第一課員を取り囲んで暴行を加え、サイドカーにも放火した。その消火のため出動した消防隊も投石や殴打を受けて13名が負傷、ホースも切り破られた。これらの暴徒も午後4時頃には離散しはじめたが、その後も有楽町巡査派出所が襲撃されたり、また一部は日比谷公園に逃げ込んで投石を続けていた。皇居前広場・日比谷公園が平静を取り戻したのは午後6時過ぎのことであった。これらの騒動の結果、デモ隊側は死者1名、重軽傷者約200名、警察側は負傷者832名を出す流血の惨事となった。当日は警察予備隊の出動も検討されていたが、一般警察力によって収拾されたため、出動を命じられるには至らなかった。 なお、この事件に出動した「予備隊」とは「警視庁予備隊」のことであり、後の機動隊である。警察予備隊のことではない
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 1952年5月12日~25日、大村収容所事件が起こった。法務省は朝鮮人410人を韓国の釜山に強制送還したが、韓国政府は125人については引き取りを拒否し、日本に送り返した。これらの逆送還者は大村収容所に収容された。逆送還者は、韓国政府の逆送還で収容根拠を消失したと主張し、収容所からの即時釈放を要求した。これに在日朝鮮統一民主戦線が同調し、「逆送還者奪還闘争」が繰り広げられた。11月11日午前10時30分、収容者の代表が所長との面談を申し入れたが、当局がこれを拒否したため、午後3時20分になって暴動が発生した。収容所の警備官や大村市警察の警察官は、催涙弾と消防車でこれを阻止し、ようやく鎮圧した  1952年5月13日、広島地裁被疑者奪回事件が起こった。午後2時55分から広島地方裁判所第二号法廷で勾留理由開示を開くことになっていた。対象となった被疑者は、4月30日と5月1日に、国警広島県本部安佐地区署古市町駐在所と民家に、それぞれ火炎瓶を投げつけて放火した容疑で逮捕された朝鮮人4人であった。勾留理由開示は予定通りに開廷されたが、傍聴席には多くの朝鮮人が陣取り、赤旗や北朝鮮旗が掲げられるなど異様な雰囲気での開廷であった。閉廷直前の午後5時20分、傍聴席の朝鮮人約200人が被疑者と傍聴者を分ける柵を乗り越え、被疑者に手錠をかけようとした看守を妨害して、被疑者4人を奪還した。広島地方裁判所の事務室には、万が一の時のために広島市警察の警察官約70人が待機していたが、現場に駆けつけたときには、既に逃走された後だった  1952年5月26日、高田事件が起こった。民団愛知県本部の顧問は、北朝鮮系の在日朝鮮人の脅迫を受け続けてきた。同年3月には自宅を襲撃されたり、殺害予告のビラが貼られたりしていた。午前5時40分頃、北朝鮮系朝鮮人数十人が顧問宅に侵入、ドアやガラスを破壊したりするなどの狼藉を働いた。顧問は何とか逃げ出し、名古屋市警察瑞穂警察署高田派出所に助けを求めてきた。まもなく顧問を追跡してきた一団が高田派出所に押しかけ、備品を破壊したり火炎瓶を投入したりして焼き討ちした。顧問は警察官の誘導で裏口から退避し、道を隔てた高田小学校正門より用務員室に向かったが、追いつかれ暴行により全治10日の傷を負った  1952年5月31日、奈良警察官宅襲撃事件が起こった。25日、桜井町で民団磯城支部書記長が、旧朝連系の在日朝鮮人に襲われる桜井町事件が発生した。国家地方警察奈良県本部は犯人を検挙し、奈良地検に送致した。5月30日、奈良市警察に国警磯城地区警察署から「在日朝鮮人の一団が奈良市に向かっている」との連絡が入った。在日朝鮮人の一団が奈良地検に突入したため、奈良市警は実力で排除した。このことから、旧朝連系は奈良市警に反感を持つようになった。襲撃を受けた奈良市警の警察官宅は、桜井町事件が発生した桜井町に所在していた。5月31日、桜井町の奈良市警警備課巡査部長宅に約10名の在日朝鮮人が覆面姿で押しかけて戸を叩いた。巡査部長の父親が戸を開けたところ、いきなり暴行を加え意識不明の重体にした。そして窓ガラスや障子を破壊して逃走した  1952年5月31日~6月5日、万来町事件が起こった。当時、宇部市には約3100人の在日韓国・朝鮮人が居住しており、大半が生活保護受給者だったが、市当局は彼らが「日中ブラブラしていた」ことから、「潜在収入がある」として、生活保護費増額を見送っていた。朝鮮人側はこれに激昂し、以降、連日宇部市福祉事務所に押しかけ、市職員を吊るし上げた。6月3日になると約400人に達したため、宇部市警察は全職員を動員して対処したが、朝鮮人側はその隙をねらって、留守中の上宇部派出所を襲撃した。6月5日、宇部市万来町において、朝鮮人解放救援会山口県本部が「民主愛国青年同盟」を結成し、当日は県内各地から朝鮮人が多数集結した。うち約70人が午前11時に宇部興産の工場に乱入、守衛を殴打し、電話線を切断するなどの行為をおこなった。続いて民団の団員宅を襲撃した後、引き揚げた。警察は襲撃犯を逮捕するため、午後2時に解放救援会事務所を包囲した。警察は解散を呼びかけたが、朝鮮人側は投石などの手段で抵抗した。午後3時半より警察は実力行使を開始し、午後4時からは催涙ガス弾も導入してようやく鎮圧した  1952年6月10日、島津三条工場事件が起こった。午後4時頃、トラックに乗った祖国防衛隊所属の在日朝鮮人約50人が、京都市中京区にある島津製作所三条工場に押しかけ、守衛の制止を振り切って中に突入、破防法反対のアジ演説を行った。工場側の要請を受けた京都市警察堀川警察署の署員約15人が現場に急行、五十代くらいの朝鮮人が妨害したため、ただちに検挙し京都市警南部警邏隊のパトカーに収容した。すると、付近にいた朝鮮人約100人が騒ぎ出した。パトカーがサイレンを鳴らして発進し、春日通三条にさしかかったとき、多数の朝鮮人が前に立ちふさがり、車内に火炎瓶を投げ込んだ。パトカーはたちまち火の車となり、道を大きくそれて京都市バスの車庫に入り込み、バスに激突した。乗っていた8人の警察官は重軽傷を負った。検挙者も火傷を負ったが逃げおおせることに成功した  1952年6月13日、醒井事件が起こった。滋賀県坂田郡醒井村では、民団系と在日朝鮮統一民主戦線系の在日韓国・朝鮮人間で対立が起きており、10日と6月11日の2日連続で乱闘事件が起きていた。午前5時頃、国家地方警察滋賀県本部坂田地区警察署の警察官は、被疑者逮捕のために現地に向かったが、朝鮮人は事前に察知し、ピケを張るなどして自宅に立て篭った。朝鮮人側が、投石や棍棒を投げつけるなど被疑者の逮捕を妨害したため大乱闘となったが、警察はこれを鎮圧し公務執行妨害罪で48人を逮捕した  1952年7月7日、大須事件が起こった。日本社会党の帆足計と改進党の宮越喜助の両代議士が、ソ連及び中共を訪問して日本国政府の方針に反する「日中民間貿易協定」を結んだ後に帰国し、6日に名古屋駅に到着した。両代議士の歓迎のために約千人の群集が駅前に集合、無届デモを敢行したが、名古屋市警察によって解散させられた。その際に12人が検挙されたが、その中の1人が所持していた文書から、翌日の歓迎集会に火炎瓶を多数持ち込んで、アメリカ軍施設や中警察署を襲撃する計画が発覚した。7日、名古屋市警察は警備体制を強化し、全警察官を待機させた。午後2時頃から、会場の中区大須球場に日本共産党員や在日朝鮮人を主体とする群衆が集まり始め、午後6時40分頃に歓迎集会が挙行された。午後9時50分に集会が終わると、名古屋大学の学生がアジ演説を始め、その煽動によって約千人がスクラムを組みながら球場正門を出て無届デモを始めた。警察の放送車が解散するよう何度も警告したが、デモ隊は放送車に向かって火炎瓶を投げ込み炎上させた。警察は暴徒を鎮圧すべく直ちに現場に直行したが、デモ隊は四方に分散して波状的に警察部隊に対して火炎瓶・投石・竹槍・プラカードで攻撃を行い、路上の一般の乗用車に放火するなど、大須地区は大混乱に陥った。また、大須のデモ隊とは別に、アメリカ軍の駐車場に停めてあった乗用車を燃やしたり、中税務署に火炎瓶を投下する事件も発生している。この事件で、警察官70人、消防士2人、一般人4人が負傷し、デモ隊側は1人が死亡、19人が負傷した。名古屋市警察は捜査を開始、最終的に269人を検挙した。その内、半数以上が在日朝鮮人だった。捜査の結果、この事件は共産党名古屋市委員会が計画し、朝鮮人の組織である祖国防衛隊とも連携しながら実行に移されたことが分かった  1952年11月9日~12日、大村収容所事件が起こった。5月12日、法務省は朝鮮人410人を韓国の釜山に強制送還したが、韓国政府は125人については引き取りを拒否し、日本に送り返した。これらの逆送還者は大村収容所に収容された。逆送還者は、韓国政府の逆送還で収容根拠を消失したと主張し、収容所からの即時釈放を要求した。これに在日朝鮮統一民主戦線が同調し、「逆送還者奪還闘争」が繰り広げられた。11月11日午前10時30分、収容者の代表が所長との面談を申し入れたが、当局がこれを拒否したため、午後3時20分になって暴動が発生した。収容所の警備官や大村市警察の警察官は、催涙弾と消防車でこれを阻止し、ようやく鎮圧した  1952年11月19日~26日、五所川原税務署襲撃事件が起こった。仙台国税局は警察の協力を得て、青森県北津軽郡板柳町周辺の在日朝鮮人が経営する密造酒工場を摘発し、密造酒約100石、酒粕約400貫、その他容器約200点などを押収、酒税法違反として45名を検挙した。また、摘発を妨害したとして、在日朝鮮人7名を公務執行妨害の現行犯��逮捕した。その後、在日朝鮮人は「生活権の保障」と「職の斡旋」を要求し、国警板柳地区警察署と五所川原税務署に連日抗議活動を行った。11月26日には約60名が五所川原税務署に押しかけて署内に乱入し、署を占拠した
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kachoushi · 3 years
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各地句会報
花鳥誌 令和2年11月号
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坊城俊樹選
栗林圭魚選 岡田順子選
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令和2年8月1日 零の会 坊城俊樹選 特選句
青山へ八月の雲のし上がる 和子 魂も今蝶と化すてふ墓所の百合 眞理子 雲の峰青山墓地に崩れけり 梓渕 薄闇にラジオときには蚊遣香 順子 蚊取線香みだらに燃えてゐたりけり 公世 からつぽの鳥籠吊つて婆の朱夏 光子 空蟬の破られし背に光満つ 小鳥 白き糸濡れてをりけり空蟬に 和子
岡田順子選 特選句
黒揚羽ぬかづく人へ入れ替はる 要   槙剪つて明るき墓所や雲の峰 梓渕 揚羽来る墓に朽ちたる名刺受 俊樹 草いきれよりマリア仏の上半身 光子 かき氷ひとつに父と娘かな 同   からつぽの鳥籠吊つて婆の朱夏 同   神愛し薔薇を愛せし寝墓とも 俊樹 蟬時雨彼を一瞬隠しをり 久
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和2年8月6日 うづら三日の月(八月六日) 坊城俊樹選 特選句
秋の夜の澄みし青空何処までも 柏葉 土用干し守る着物に仕付け糸 さとみ 墓参り避けたつもりも鉢合せ 同   天筆に願ひを込めて星祭 都   留守居して語る人なき盆の月 同   七夕や一つを願ひ糸結ぶ 同   客帰り独り帯解く夜半の秋 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和2年8月7日 鳥取花鳥会(八月七日) 岡田順子選  特選句
友の墓訪ふも吾のみ原爆忌 益恵 蟬の穴被爆の眼窩に似て静か 都   八月や浜辺に白き船並び すみ子 抽出しにしまふ西日や能事足る 悦子 蜩の破調に夜明け整へり 宇太郎 油照お濠の亀は泥を負ひ 都   雲の峰サーファー起てば動き出す 益恵 帰り行く友や日傘をまはしつつ 幸子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………   令和2年8月7日 さゞざれ会 坊城俊樹選 特選句
昨夜の色閉ざしてをりし月見草 かづを 蟬しぐれ故山に溢れをりにけり 同   故山より風渡りくる施餓鬼寺 同   月見草夢に終りしことばかり 雪   炎天下大きくきしみバス停まる 和子 法堂に集ふ百僧蟬しぐれ 笑   暮六つや七堂伽藍の蟬しぐれ 希   母の背に負はれて逃げし終戦日 千代子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和2年8月8日 札幌花鳥会 坊城俊樹選 特選句
病院の小児病棟星祭 清   ぐづる子を放り入れたる踊の輪 晶子 銀河から金平糖のお裾分け のりこ 魔法めく夜店にかざしみる指輪 岬月 老僧の盆経朗朗たる気迫 同   とび出しもはみ出しもゐる砂日傘 同   搗ち割の角なめらかや蕎麦焼酎 慧子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和2年8月8日 枡形句会 栗林圭魚選 特選句
やはらかな色に隠元大揃へ 秋尚 ひと頻り法師蟬鳴き風起る 同   空蟬の登る姿勢を崩さずに 同   音の無き蒼茫怖し星月夜 ゆう子 新盆の信女の墓碑の径細し 三無 星月夜野辺山走る小海線 幸風 蜩や夕餉のお菜鉢ふたつ ゆう子 鬼灯の色乾きたる寺の畑 秋尚 隠元の色鮮やかにバターソティー 瑞枝
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和2年8月10日 武生花鳥俳句会 坊城俊樹選 特選句
墓洗ふ母の育てし供華を持ち 信子 サングラス粋なる人と恐き人 みす枝 裸電球に照らされてゐる地蔵盆 上嶋昭子 日もすがら響動もす鐘や盂蘭盆会 時 江 丸き笊丸く並べて梅を干す 信 子 蟬時雨つり橋の子の声消され 中山昭子 神々の光さづかる大御祓 ただし 星祭壺にさしたる笹の竹 錦子 野も山も深く沈みて星月夜 みす枝 蟻の列ラベルのボレロまだつづく 上嶋昭子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和2年8月11日 萩花鳥句会
秋風や万里の長城行きし旅 祐子 少し愚痴呟きながら墓洗ふ 美恵子 新盆に帰る家なき仏たち 健雄 弟と母住む故郷鰯雲 ゆかり 庭仕事合間に西瓜ご馳走に 克弘
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和2年8月14日 さくら花鳥句会 岡田順子選  特選句
田舎道兜虫売る小屋に遇ふ みえこ 迫真の演技の子役夏芝居 登美子 幼な子も数珠握りたり墓参 実加 イヤホンを片耳づつに星月夜 登美子 晴天にシーツ洗ふや原爆忌 実加 永遠に在り続くかに花氷 紀子 蜩を聞きつつ帰り仕度の子 裕子 野の花を供へて母の展墓かな 登美子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和2年8月17日 伊藤柏翠俳句記念館 坊城俊樹選 特選句
サングラスかけて犬にも恐がられ 英美子 酒呑まぬ父はお洒落でパナマ帽 千代子 終ならん声を聞き入る秋の蟬 かづを 秋の雲落暉に燃えて消えにけり 同   ギヤマンに盛られ清しき夏料理 みす枝 口紅の朱の沁み出る極暑かな 同   遺骨待つただそれだけの盂蘭盆会 同   無人駅帰省子ホームまで送る 世詩明 羅の女の視野に万華鏡 同   帰省子の戻る車窓に掌を重ね 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和2年8月19日 福井花鳥句会 坊城俊樹選 特選句
黒髪で顔を隠され西瓜食ぶ 世詩明 口紅が熟れた西瓜を齧りつく 同   九頭竜の流れおだやか終戦日 千代子 海凪いで沖行く船に盆の月 同   流行りもの一つ身につけ生御魂 同   終戦日一男優の死すと云ふ 同   炎天や路面電車の軋み来る 美代 これ以上青くなれざる青蛙 雪
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和2年8月21日 鯖江花鳥俳句会 坊城俊樹選 特選句
手枕で昼寝をしたる沈金師 世詩明 虫干や母の袂に恋の文 みす枝 小恙を顔に出さじと踊りの輪 一涓 肉魚を下げて八月大名来 同   虫の世に火取虫とし果つ定め 雪   白と云ふ哀しき色の盆灯篭 同   赤と云ふ色は淋しや盆灯篭 同   煎餅屋ののれんの奥の扇風機 上嶋昭子 捩花のねぢれる時に媚少し 同   美しきことに飽きられ水中花 同   物干の続く町並夜は秋 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和2年8月10日 なかみち句会(八月十日) 栗林圭魚選 特選句
芭蕉葉に道草を食ふ風ありて 三無 恒例の枝豆届き安堵かな エイ子 海沿ひの蕎麦屋の遠く秋暑し 貴薫 裏庭に風探しけり夕残暑 和 魚 枝豆や父の遺影と酌む忌日 三無 ゆらゆらと芭蕉広葉の青き翳 同   家事とても遣る気奪はれ残暑かな せつこ 公園の要一本大芭蕉 怜   影広げ海辺の宿の芭蕉かな せつこ 枝豆の彩りとなり皿の上 ます江
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和2年8月 九州花鳥会(投句のみ) 坊城俊樹選 特選句
双手上げ銀漢しづく待ちにけり さえこ 天の川渡る媚薬を飲んでより 伸子 黒日傘ひらりと海へ消えにけり 朝子 ゆくりなく女と生まれ天の川 美穂 盆の月透き通るまで踊りけり 愛   その先は有耶無耶なりし道をしへ 伸子 天の川の端より天の川仰ぐ ひとみ 星よりも暗き島の灯月見草 豊子 走馬灯曼陀羅の闇廻しけり 喜和 蟬の殻蹴りし少年黙り込む かおり 天の川尾は聖堂の十字(クルス)まで 志津子 病窓よりビアガーデンの見えるらし 順子 水をくれムンクの叫び原爆忌 喜和 色鳥来ルドビコ踏みし甃 寿美香 難しく考へる鶏頭の襞 伸子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………
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scuderialice · 4 years
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J1リーグ 全順位予想 2/14
今季のサッカー/J1リーグもACLプレーオフを皮切りに、ゼロックス・スーパーカップと、ACLグループ・リーグなどが戦われ、徐々に開幕へと近づいてきた。数日後にはリーグカップである「ルヴァンカップ」によって、本格的なシーズンが幕を開ける。新型肺炎ウィルスの蔓延など、心配なニュースもあるが、楽しみであることに変わりはない。
昨季は横浜Fマリノスが、前年からの躍進を果たして、攻撃的なチームで優勝に辿り着いた。昨シーズンからはリーグ全体のコンペティションの質もワン・ランク上のステージへと上がり、補強合戦も激しくなった。まだ飛び抜けたクラブはなく、差の少ない横一線でシーズンが進むことだろう。以下で、順位の予想を公開する。
1位 柏レイソル
同じ奇跡が、再現するかもしれない。2011年シーズンで、ネルシーニョが率いる柏レイソルは前々年のJ2降格から、1年で再昇格して、即J1優勝を果たした。今季も、同じような良い循環が来ている。
柏はJ2の前半戦ではなかなか結果を出せずに来たが、フォーメーションを変更し、粘りづよいトレーニングで、ネルシーニョの目指すサッカーを体現できるようになった後半は、J2レヴェルではない戦力を十分に活用できるようになって、他クラブを圧倒する内容でJ2を制することになった。
新シーズンに向けては、オルンガや瀬川に移籍の兆候はあったが、結局、主力級の離脱はなく、逆にJ1、J2から才能の光る選手たちを的確に補強して、若く、可能性のある選手層を整えた。
フォーメーションは多分、4-3-3をベースにしたものと考えられ、これは昨季優勝の横浜FMと、そのコーチだったクラモフスキーが指揮を執る清水、そして、やや守備的な形ながらも、フォーメーションをこのシステムにかえた東京と同じである。柏はどちらかというと、東京の形にちかそうだが、後ろの攻撃参加はそれほど重要でなく、アンカーを除く、FW、MFの豊富なアタッカー5人によるコンビワークが冴えることになりそうだ。
前記2選手をはじめ、若手によい選手層を抱えるチーム事情から、夏の移籍などで選手が抜かれる可能性も低くはなく、プレ・シーズンの準公式戦におけるGK中村航輔の怪我も心配されるものの、そのバックアップには神戸で鳴らした名手キム・スンギュを獲得済みで、スタートダッシュから前に出られれば、シーズン最後まで高い順位を維持できる実力が十分にあるはずだ。
問題は、ディフェンス・ラインだろう。ベテランのCB鎌田らを中心とする昨季のバックラインは、J1に入ったときに質の高いものではないことは明らかで、U-23アジアカップで致命的なパス・ミスを犯した古賀など、SBの若手にもかなりの成長が求められる。実績のある三丸や高橋が狙いどおりに機能し、磐田から引き抜いた若手の大型CB大南らの成長具合によっては、優勝も夢ではないと考えている。
2位 ガンバ大阪
ガンバ大阪は、プレ・シーズンの評判がよさげに聞こえるチームのひとつだ。昨季は前半の戦いぶりで、クラブ・レジェンド=宮本監督の手腕に疑問符もついたが、後半は宇佐美がドイツから復帰するなどして、攻撃的な戦術に転換したことが功を奏して、見るべき成果を上げた。大胆な発想の転換と、それに適応できるチーム構成の素晴らしさは素直に評価すべきだ。
近年はその宇佐美をはじめ、井手口、堂安、中村敬斗、食野と、次々に有望な若手を海外へ送り出す流れが続いていたが、その中でうまくキャリアを伸ばせなかった選手の復帰という流れもできつつある。井手口などはスペイン、イングランドにおける過去数シーズンの飼い殺しによって、落ちに落ちたコンディションもようやく回復してくるにちがいない。本来は、代表を背負って立つぐらいのタレントだった。
システムは、3-5-2が予想される。前線は宇佐美を中心に、アデミウソン、パトリックなど、日本での実績も十分で、決定力の高いメンツを揃えている。攻撃の核となるのは宇佐美のキープ力と、倉田や小野瀬からのクオリティの高いボールの供給だ。新加入の福田や、井手口、矢島などが水を運ぶ役目を果たす。90分はもたないが、勝負どころでは遠藤の投入で、まったくちがう展開が望めるだろうし、プレ・シーズンは調子もよかったと報道されている。遠藤、藤春のようなベテランと、若いメンバーの融合は進んでおり、上位進出を期待できる戦力が揃った。
ただ、ディフェンス・リーダーの三浦弦太については海外移籍の志向が強いようで、���ければ、夏の移籍も噂されている。その対策ということもあり、フランスに渡っていた昌子の補強が急転直下で決定した。もっとも、トゥールーズでは怪我の治療が進んでおらず、まずはそれを治して、コンディションを上げ、戦力化してくるまでには、かつての清武や井手口の例を考えても、早くとも半年、もしくは1年以上の猶予をみなくてはならないはずだ。
その間、金英権に加え、呉宰碩、菅沼、そして、新里などの踏ん張りが効けば、優勝にも手が届く位置にあるとみている。今年こそは、素晴らしいホーム吹田に相応しい結果を残せるのではなかろうか。
3位 FC東京
昨季は惜しいところで横浜FMに競り負け、栄冠を掴むには至らなかった。キープレーヤーの離脱や移籍に対して、的確な対応をできた横浜との差が如実に表れた。フリー・トランスファーで、久保がレアル・マドリーに旅立ったあと、左サイドのポジションを埋めることがシーズン最後まで課題として残ってしまった。
今季は4-3-3に組み替え、戦術のブラッシュ・アップを図る。しかし、そのシステムはチャンピオン・チームへの追随ではなく、長谷川監督らしい手堅い変更だ。守備意識を高くもち、切り替えの早さで鋭いカウンターを仕掛ける基本戦術は変わっていない。3トップはどちらかというと中央に絞り、ブラジル人同士の連携で、崩そうという意図が明確だ。そこで空いてくるペナルティ・エリア脇のスペースを、東京のストロング・ポイントを成す室屋と小川の両SBが頻繁に使い、高い精度でクロスを上げて、攻撃を活性化する作戦だと思われる。
この戦術が昨季はディエゴ・オリベイラの個人技と、カウンターにおける永井のスピードだけに頼っていた攻撃力を磨く鍵になるかは、正直、心許ない。ACLグループリーグでの蔚山との戦いをみると、とりたてて攻撃面で進歩があるようには思えなかった。ディエゴ、アデミウソン、レアンドロといったアタッカー陣のスキルはそれぞれに魅力的だが、3人の連動はシステマティックに組み合ってられたものではなく、1試合や、年間を通じて、一貫性があるものではない。
中盤は逆三角形型で、DMFに橋本を置く布陣が基本となりそうだ。これは横浜FMの2ボランチが終始、ポジションを離れて、(偽)SBなどと連携し、攻撃にも頻繁に出ていく布陣とは一線を画し、やや守備的な選択である。代表の常連になりつつある橋本のスキルは、半分しか生かされない点で残念だ。前の2枚は現時点で東が離脱中のため、高萩と、新人の安部柊斗が起用されている。昨季から特別指定で出場可能だった選手だが、大学4冠を達成した昨季の明大から加入した安部のさらなる成長は、高萩、東といった実績あるタレントを十分に脅かすポテンシャルを示しつつある。
中盤では、さらに神戸から復帰した三田のスキルフルで、精力的な動きや、からだの強さが目立つ羅相浩らもおり、オプションが豊富だ。
結局のところ、攻守のバランスが長谷川監督のサッカーの肝だ。CBには森重が座り、相方で五輪代表候補の渡辺も、昨季以上の成長をみせている。そして、バックアッパーには神戸と鳥栖でプレーしたレバノン代表のオマリを確保した。SBは替えが効かない2人だが、ベストメンバーは隙がなく、かなり強力といえるだろう。
室屋と小川、それに橋本は海外から引き抜かれるリスクがあり、その場合は、久保と同様の問題が生じそうだが、SBに関しては、トルコで居場所のなくなった長友の復帰という噂もあり、それが事実となれば、得がたい戦力になるだけではなく、マーケティング的にも大きな意味を持ってくる。資金力のあるロシア・クラブとの綱引きともいわれており、高額な年俸もネックではあるが、2-3億円であれば、安い買い物かもしれない。
4位 鹿島アントラーズ
ACLプレーオフではオーストラリアのチームに敗れ、本戦GLの進出を逃し、悔しい船出となった。しかし、リーグ戦という観点でみれば、重荷を下ろした鹿島の今季は期待が大きいだろう。新監督のアントニオ・カルロス・ザーゴが就任5日目でみせたゲームでさえも、負けて強しの内容だった。伝統の4-4-2のフォーメーションは維持しながらも、そこにザーゴがオリジナルの動きを混ぜ込んで、強固な組織が完成する見取り図が窺われたからだ。
移籍市場では昨季チーム得点王のセカンド・ストライカー、セルジーニョが中国2部に移籍し、CB鄭昇炫が韓国に戻った一方で、名古屋からスキルフルで突破力のあるウインガーの和泉、川崎から経験豊富なCB奈良を補強したほか、横浜FMから広瀬、仙台から永戸という攻撃的な左右のSBを揃え、湘南からもポリヴァレントな若手のタレント杉岡も迎え入れて、十分な戦力を整えた。さらに、静学から入団したアタッカーの松村もオプションに加わり、既存の土居、伊藤翔らとのコンビネーションがはまれば面白い。
アタッカーには監督人事同様、ジーコの強烈なコネクションにより、FWエヴェラウドと、MFファン・アラーノを加えることができた。このうち、エヴェラウドは先のゲームでもスコアこそなかったが、十分な存在感を示し、セルジーニョの穴は完全に埋めてくれるだろう。強力な9番でゴリゴリ行くところもありながら、周りの選手も使えるクレヴァーさが目を惹く。一方、アラーノのほうはブラジルで将来を嘱望されていたタレントという触れ込みだが、現時点では、日本での適応にいささか苦労しているようだ。
問題は、こちらも守備面だろう。多分、移籍組でも奈良が中心となり、犬飼、ブエノ、町田、さらに関川あたりがレギュラーを競うことになるが、ほかのポジションと比べて、やや頼りない。SBが積極的に出ていくタイプの選手である分、後ろの備えをどう整えるかにザーゴの手腕が問われることだろう。
5位 横浜Fマリノス
ポステコグルーの構築した攻撃的なサッカーで、昨季は東京とともに抜きん出た成績を収めて、優勝を勝ち取った。シーズン中には点取り屋のエジガル・ジュニオが負傷離脱して、槍の先端を喪い、三好や天野といった貴重なレフティのタレントを海外へ送り出す難しいシーズンではあったが、エリキらの的確な補強もあり、ペースの落ちこみを最低限に止めての快挙だった。
しかし、私の感想はやや出来すぎというものである。90分間、足を止め���、次々に新しい狙いをもって動き出す理想のサッカーは、十分に完成していなかったものの、東京や鹿島など、上位陣のふらつきと、仲川やマルコス・ジュニオールの破壊力が桁知らずだった点、そして、チアゴ・マルチンスの高い能力と、相方=畠中の成長による守備の安定が決め手だった。
新シーズンに向けてはFWオナイウ、MF水沼、DF前、山本などを獲得し、不動のレギュラー・メンバーに対して、層の薄い部分の厚みを増すことに成功した。このうち、オナイウはスタメン獲得に向けて奮闘中である。また、補強ではないが、スーパーカップ、ACLにおいて成長著しいのが遠藤の動きだ。昨季はRWGの仲川、もしくは、エリキの攻撃力が目立ち、逆サイドから遠藤がフォローする感じだったが、今季はむしろ、遠藤の攻撃力のほうに注目が集まりそうだ。
私が気になっているのは、CB畠中の出来である。ここ数シーズンに飛躍的な成長を見せ、国内組では貴重な手堅いCBとして代表でもフル回転しており、疲れがあるのかもしれない。英コミュニティ・シールド方式で、TM的な性格も持っているとはいえ、スーパーカップでポステコグルー監督は後半から伊藤槙人にチャンスを与え、その後のACLでは畠中がスタメンを続けたが、動き自体はよくなかった。チアゴの相棒役に苦労すると、チーム全体のバランスも揺らぎかねないと思う。
今季はACLの過密日程を戦う必要もあるが、新型ウィルス対策で、日程そのものが流動的ということもあり、参加クラブには難しい事情がある。代表監督も務めたとはいえ、ポステコグルーもこのような戦いに慣れているとは言えないので、適応は簡単ではないはずだ。
また、仲川や遠藤、喜田などには移籍のリスクもある。CFGへの加盟は世界的な情報網を生かして、一貫した強化を行える基盤を得る一方で、日本で発掘された優秀な才能を世界へと送り出していく側面も備えている。その点で、若干の値引きは必要であろう。
6位 浦和レッズ
今季、プレ・シーズンでポジティヴな表情が窺えるのはガンバ以外に、浦和レッズがある。昨季はオリヴェイラ監督がシーズン途中で指揮権を奪われ、後任の大槻監督が現場に復帰して悪戦苦闘したが、リーグ戦は降格も懸念される低空飛行に終始し、ACLは決勝まで進んだことは立派だが、中東チームの前に何もできずに完敗した。
退潮傾向にあるチームを生まれ変わらせるべく、大槻監督はフォーメーションを3バックから4-4-2に組み替え、新シーズンに備えている。すると、戦術的な流動性は出にくいものの、各個のタスクが限定されるシステムがよく機能し、選手が躍動し始めた。鳴り物入りで加入したものの、ロング・ポジションに悩んだSBの山中なども実力を発揮し始め、マリノス時代の勢いが鳴りを潜めて、過去2シーズンはベンチに甘んじたMFマルティノスの好調も伝えられている。
大槻監督は最先端の戦術をバリバリ埋め込んでいくような手腕はないものの、選手のタスクを理解させ、長所を研磨していく指導力には長けている。一時期、代表でも注目されたMF長澤や、個性的な突破力をもつMF汰木などもブレイクの可能性がある。
そして、今季の掘り出し物は、FWレオナルドだろう。当初、これといって際立ったステイタスはなかったが、岡野オーナーのJ3鳥取から、J2新潟へ渡り歩き、2つのカテゴリーで連続して得点王となったスピード感あふれるアタッカーの存在が、近年は「興梠FC」と揶揄されるまでになったレッズの攻撃陣を変えてくれるかもしれない。
昨今は人気の退潮も指摘されるようになったリーグの鑑としてのクラブに、復活の気配が窺われるのは悪いことではない。ただ、後ろの危うさは相変わらずであり、槙野らがさらに年齢を重ねてきたにもかかわらず、後継の補強がなかった。槙野、マウリシオを中心軸に、鈴木大輔、岩波らが競争する形となるが、やや手薄なのは否めないところだ。
7位 川崎フロンターレ
この低い順位に、川崎を置くのはすこし勇気がいる。ベストメンバーはなお有力だが、年間を通しての一貫性をみると、やや層の薄さが目立つのである。また、負傷中の中村憲剛を中心に、家長、小林悠などの主力が、年齢的にフル稼働できるかわからないのも不安要素だ。好調であれば手のつけられない天才の家長も、昨季はゴールがなかった。そのなかで、キープレーヤーとなり得た阿部を手放したのも痛い。
一方で、CMFのクオリティは全球団のなかでもピカイチである。当面、憲剛を除くとしても、大島と、U-23でブレイクした田中碧を中心に、守田、下田といった活きのいいタレントが揃う顔ぶれは魅力的であり、器用な守田に至っては昨季から偽SBのような形で、最終ラインでも起用されるようになった。今季は4-3-3に組み替え、そのような戦術への適応に向けて、本格的なトレーニングに取り組んでいる。このシステムに特徴的な動きによくフィットしそうな選手としては、SBの登里をはじめ、守田、アタッカーでは脇坂や長谷川、斎藤、旗手など豊富なリソースがあり、もともと試合のなかでのポジション調整は得意なチームであることから、大きな可能性を含んでいる。
もっとも、これらの若いタレントは近年、日本に目をつけてきている海外クラブの草刈り場となり得ることも否定できない。最近では、このファクターを重く捉えないといけなくなってきた。例えば、田中碧は東京五輪があるにせよ、その前後にある夏の移籍で、ヨーロッパのクラブに移る可能性が高いのではないか。川崎はエウシーニョの例でも分かるように、財政的にはきわめてシビアなルールがあり、引き止めに大金を投じるようなことはしないクラブだ。親会社である、富士通の業績が渋いこともある。
もちろん、優勝シャーレの奪還も十分に可能なメンバー構成と、戦術ではあるだろう。様々なリスクに対して、4年目となる鬼木監督のマネージメントが問われるシーズンになるだろう。
8位 ヴィッセル神戸
フィンク体制がようやく固まってきたヴィッセルだが、このクラブの着火剤は言うまでもなく、強欲で、要求のシビアなオーナーの側にあることは間違いない。初めての天皇杯を獲得しての今オフは、昨季のフェルマーレンなどの加入を先行させていたこともあり、資金力に対して、補強は物静かなものになった。夏以降はダヴィ・シルバや、ペドロといったスペインの名プレーヤーの加入も噂されているが、どこまで本当になるかはわからない。
清水からFWドウグラスを補強したのは大きいが、当初、2億円ほどといわれた年俸も、移籍元である清水の頑強な抵抗にあい、3億円ほどに膨らんだと噂されている。ブラジルの代理人は、本当に遣り手である。しかも、清水が昨季前に、中国クラブとのマネーゲームに勝って、確立した契約を反故にする解除金を満額払ったうえでのオペレーションであり、さすがの神戸にも重い投資になったことは間違いない。
イニエスタ、噂のスペイン人選手たち、ドウグラスは、年齢を考えてみても、その後、売り抜けすることができない片道の投資といえる。もっともイニエスタ加入によるリターンは、クラブ・レヴェルを越えて大きなものになったが、クラブのバランス・シートそのものは他の堅実な運営をするクラブや、一般の企業からは理解しがたいものになっているはずだ。
天皇杯では、古橋と藤本という日本人の元気のいい2FWが相手を追い回し、その他の選手が的確にレーンを埋めて、ボールを拾うことで、ピッチを支配していただけに、この投資が本当に正しいものだったのかについては疑問が残る。SB西の残留には成功したものの、中盤から後ろの層の薄さも改善しなかった。
スーパーカップでは相手側の自滅もあり、クレイジーなPK戦の末に貴重な賞金も手にしたが、チーム戦術というよりは、イニエスタ、山口、古橋、酒井などへの依存体質が生まれており、チームとして、どれほど高く機能するかには疑問のほうが大きくなった。すこしでもうまくいかなくなると、オーナーが悪魔の顔をみせ、チームをバラバラにしてしまう可能性もあるのだ。このヒステリー体質は、誰にも止められない。
また、大きなリスクとして、古橋の海外移籍も現実味が高まってきている。それまでに、ACL初戦で活躍した小川などの成長が、どこまで来ているかが鍵になるだろう。相手がACLのレヴェルに適応していないマレーシアのクラブだったとはいえ、そこで証明した小川の得点力は高いが、古橋のアグレッシヴな動きと比べると、まだまだ見劣りがする。
また、中盤では安井や郷家の成長も期待される。郷家は高校時代の活躍などから見ても、アタッカーにちかい中盤と思われてきたが、ACLでは山口の離脱から緊急でこなした、やや守備的なタスクも柔軟に務めることができた。柏木のように、柔軟性のあるタレントになれる可能性も示したのはポジティヴなことだろう。
9位 清水エスパルス
贔屓のチームゆえに、優勝を信じてサポートするが、冷静に分析すれば、1桁の順位を獲得するのが最初の目標だろう。経営陣、スカウト体制、監督・コーチ陣、選手を大幅に入れ替え、一挙に成功を掴む体制は出来上がっているものの、オリンピック・イヤーということもあり、準備が例年に比べても短いのに加えて、体制の確立が遅れたことは決してポジティヴとは言えない。そのため、例えば、スイスからの加入がほぼ確実と言われているFWカルリーニョスの加入は、まだ正式に発表できる状況にない。
また、エウシーニョが怪我の影響で、チームに合流できていないほか、中盤のダイナモであるヘナト・アウグストも、昨季中の腕の怪我からの快復過程にあり、ボディ・コンタクト以外のところでコンディションは上がっているものの、起用は3月から4月にずれこむだろう。そのほかの選手にも獲得交渉を行っているようではあるが、2月、3月の時期に行われる6試合は、現有戦力によるサバイバルとなりそうだ。
それでもポジティヴな雰囲気に満ちているのは、昨季優勝の横浜FMを現場レヴェルで強烈にコントロールしてきたピーター・クラモフスキー監督の加入が大きいのだろう。システムも横浜FMのミラーとなる4-3-3のアグレッシヴなスタイルに切り替わり、まだ完成には程遠いものの、ドウグラスの高さと尋常ではない決定力に頼った昨季からは、攻撃パターンが圧倒的に増えているのは明らかだ。
ドウグラスのほか、SB松原もベルギーにフリー・トランスファーとなり、年々、タレントを喪っていく現状ではあるが、新任の大熊GMは、それでもサポーターのポジティヴな反応を生むだけの的確な補強策を進めており、クラモフスキーが求めるフットボールのスタイルに、選手たちも懸命に適応しようとしている過程をみると、感動的でさえある。
かといって、結果が出るかは別問題だ。TMでは不用意なミスからの失点も多く、カウンターの対応など、課題も依然として多い。ブラジレイロ・セリエAのセアラーで主力級だったCBヴァウドが加入したが、トリッキーな日本のリーグでの実績はなく、若い立田とのコンビが予想される守備陣の再構築は決して簡単ではない。しかし、GKにはコロンビア王者から、足もとの技術に優れたブラジル人の正GKネト・ヴォルピを獲得するなど、期待感��ある補強はできた。
先にも述べたように、先行する横浜FMの戦術完成度には、まだまだ隙がある。清水は今季中における若手の移籍リスクは少なく、スカッドも当初は大きめになっており、カップ戦のターンオーバーにも余裕がある。この強みを生かし、高度なトレーニングで選手たちが覚醒していった場合、ひょっとすればひょっとするという可能性もあるチームに生まれ変わった。
なお、どれほどの戦力になるかは定かでないが、タイでは、わが国のカズ選手のように英雄視されるFWティーラシン・デンダーの加入も話題性がある。移籍元のムアントンFCとも濃密に手を組んだ移籍は、東南アジアにおけるクラブのブランド価値を高めるのにも貢献するはずだ。今冬の獲得は見送ったようだが、タイU-23代表のSBティタトーンの加入などにつながれば、それはそれで面白い。
ティーラシンは一昨シーズン、在籍した広島では1年で6ゴールを記録。後半は重要な戦力とまではなりきれなかったが、それでも、十分にポテンシャルを評価されていたということだ。身長はやや足らないが、スキルフルな選手で、ミートもうまく、ヘッドの技術も高い。実績十分の元エース鄭大世、大分から新加入の精力的なFW後藤などとポジションを争う存在として、期待は大きい。
10位 セレッソ大阪
J2でヴェルディ川崎を指揮したロティーナが就任して、セレッソはキャラ変し、相手よりも多く獲るサッカーから、まずは守備を固めて、手堅くキープしてボールを握る戦術に移行して、リーグ屈指の守備網を築き上げた。その一例として、一昨季まではすこし足らない存在と思われていたCB木本は今オフ、各クラブが狙いをつける人気株となったが、本人は残留を選択した。これは、クラブにとって大きな決断だった。
チームを離れるとみられていた攻撃の要ブルーノ・メンデスも、レンタル延長に成功し、大きな補強がなくとも、チームの基軸はしっかりと残すことができた。ここに、ベルギーではそこそこの得点力を見せ続けながらも、ついに帰国を選んだFW豊川を加え、山形からはスピード感あふれるサイド・プレーヤーの坂元を、桐光学園からは欧州のビッグ・クラブも熱視線を注ぐ若手のタレント西川潤が加わり、前線には厚みが増した。ただし、西川は早い段階で、ビッグ・クラブに引き抜かれる可能性が指摘されている。
タレントが多くとも、起用できる人数が増えるわけではない。ロティーナのフットボールの問題点は、ボールを保持するにしても、攻めが遅いことであり、相手がリトリートしてからの崩しでは、なかなか効果的な攻めは見せられない。セレッソの布陣は、オーソドックスな4-4-2で変わりないだろう。ソウザが移籍したボランチに目立った補強はなく、デ・サバトと藤田が基本線になるとみられており、攻撃面で特徴が出せる面子とはいえない。
すると、攻撃面は前4人でのコンビネーションが中心となる。前線はブルーノ・メンデスを中心に、柿谷、奥埜 、豊川、都倉、鈴木などのオプションがある。サイドハーフは清武、西川、坂元のほか、新加入のルーカス・ミネイロと、残りの攻撃陣から選ぶ。駒は豊富だが、それよりも、前述のようにスピードアップした攻撃が構築できるかどうかが鍵を握るだろう。守備面の安定を生かすための、攻撃のアイディアに一貫性をもたせることが必要だ。
それがうまくいかない場合、自分たちから主導権を握ろうとするチームも増えた中で、どれだけポゼッションの優位を守れるかは疑問に思うところである。10位というのは、あまりにシビアな予想かもしれない。もちろん、うまくはまれば、優勝も狙えるメンバー構成である。
11位 サンフレッチェ広島
城福体制が期待以上のフィットをみせる広島だが、年々、戦力は渋い状態が続いている。昨季の目玉だった攻撃的なSBサロモンソンは、ディフェンス・ラインの中核とはなれずに、期限付きで放出された。昨季途中からFWパトリックもチームを離れ、今季はさらに中盤の汗かき役であった稲垣や、ストライカーとしてそこそこの働きを見せていた渡も放出した。
ハイネルやレアンドロ・ペレイラという活躍選手を、期限付き延長でクラブに残せたのはポジティヴだ。新加入の目玉であるエゼキエウはまだ21歳で、トリッキーな技術をもつようだが、線が細く、まだ州レヴェルでの活躍しか見られない。むしろ、松本から加入した永井龍のほうが、このチームで可能性がある。
フォーメーションは3-4-2-1となり、前線はドウグラス・ヴィエイラを中心に、森島や川辺が掻きまわす間に、サイドのハイネル、柏が入り込んでくる攻撃パターンが強力だ。稲垣を放出したことで、相変わらず、中盤の軸は青山だろう。誰もが認めるクオリティの高いプレーヤーではあるが、年間を通じての活躍は期待できるのであろうか。守備面では荒木、野上を中心とするディフェンス・ラインに、名古屋から櫛引が加わったのは大きい。代表にも召集された大器、荒木の成長も楽しみだが、その分、移籍リスクも嵩む。
スタメンは十分に強力だが、層が厚いとは言いかねる。年間を通しての一貫性ということで、このクラブには脆弱性が見出せる。しかし、そのような状態でも、ここ数年は下馬評をはるかに上回る安定の実績を挙げてきており、それが崩れるはっきりした兆候も見出せない。
戦力の問題以上に、サポーターとクラブの関係は決して良好とはいえないようだ。新スタジアムの建設場所が決まるなど、ポジティヴな要素も出てきた一方で、アウェイ・ユニフォームをめぐっては他クラブとの連携で、日の丸をモティーフにした赤を採用し、伝統的なチームカラー(紫)とは異なるうえに、広島だけに「カープ・カラー」と揶揄されるなど、ゴタゴタが絶えない結果になっている。サポーターからの反対意見も多く出されたようだが、現時点でクラブに変更の意思はない模様だ。
サポが試合をするわけではなく、また、ユニフォームのことでサポがまったく応援を放棄するとも思えないが、ワン・チームとなって戦うのにネガティヴな要素であることは間違いない。
12位 大分トリニータ
昨季は一時、上位を維持するなど、J1昇格年でも片野坂監督の構築する特異なサッカーは十分に通用した。戦力を上回る強力な実績をあげたが、終盤は息切れがみられ、研究もされたのか、中位に落ち着いた。
若いタレント=オナイウの復帰はならなかったが、今季も主力級の移籍はなく、質の高いサッカーが崩れることはない。移籍市場では地味な動きだったが、FWの渡と知念を加え、弱点である攻撃の切っ先に的確な補強がなされた。両者とも厳しい競争やチーム事情のなかで、活躍が限られていたものの、大分ではブレイクが期待できる素材である。仮に彼らがフィットしない場合でも、チームで長くやってきた三平が控えているのは大きい。
さらに、ロドリゲス監督のJ2徳島では、その躍進を演出したMFの野村もかなりのブレイクが期待されている。小塚と組む2シャドーは、野村のほか、軽快な動きとテクニックを誇る町田という可能性もある。サイドハーフには田中と松本というタレントがおり、3バックからも岩田や三竿が機をみて飛び出し、どこからでも攻撃が成り立つ柔軟性のある戦術はピカイチだ。さらに、香川の加入で、4バックのオプションもあり得るようになった。
この状況で、大分を低くみる理由はないが、私の勘が苦戦を告げている。片野坂監督は、これまでやってきたことを、さらに研磨するためのアイディアをもっているのであろうか。グァルディオラの、マンチェスター・シティをみてみよう。多くの指導者が参考にする、あれだけ成熟したはずのチームが、結果的にはまだまだ上位にいるが、リヴァプールとは差を開けられ、歯車が狂うと格下相手にも勝ち点を落とすようになってきた。CLの結果にもよるだろうが、ペップは近い将来、チームの指揮権を失うかもしれないと噂されている。
13位 コンサドーレ札幌
1季を過ごしたメンバー全員の残留は、ある意味では最強の補強である。ペトロヴィッチの号令一下、その荒業をほぼ実現した札幌だが、より攻撃的なスタイルに移行している過程であり、プレ・シーズンではややネガティヴな結果が聞こえてきている。昨季も、大分と同様、前半戦は周囲の予想を上回る結果を残していたが、終盤まで上位に留まることはできなかった。
新シーズンは代表にも定着しつつあるFW鈴木武蔵や、FKを武器とするDF福森などの移籍なども取り沙汰されたが、岩崎を除く、貴重な戦力の保持に成功した。今季はそのベースに基づき、1対1の競り合いを軸とした新しいフットボールが、まったく仕上がっていないようだ。実際の試合をみないとわからないものの、そのキーワードから想像できるのはイタリア/セリエAに所属する、アタランタのガスペリーニ監督を見本とするスタイルだ。
昨季のメンバーでいうと、例えばフィジカルに優れたCBの金眠泰が積極的に、相手前線のボール・ホルダーに食いついた途端、すべての選手が相手と1対1になる形をつくり、オール・コート・マンマークでボールの行く先を塞いだ上、そこで奪ったボールを素早く相手ゴールまで運ぶというアグレッシヴな戦い方だ。激しくボールに食いつき、球際に妥協せず、相手のロストを誘うのが特徴だが、1対1が外れてしまうと、背後に広大なスペースを与えることになり、リスキーでもある。フィジカルの強さと、タフなスタミナに自信がないとできない戦術である。アタランタは、この新戦術で中小の育成型クラブでありながら、国内リーグの上位に浮上するだけではなく、欧州で最高ランクのコンペティションに当たるCLでも、旋風を巻き起こしている最中だ。
正にペトロヴィッチが、全員残留を勝ち取ってこそ、初めて選ぶことができた戦術である。これがうまくいけば、札幌は確かに大きな野心を達成できるだろう。それだけのタレントも揃っているはずだ。ただ、ジェイのように年齢を重ねた選手や、アンデルソン・ロペスのように攻撃的な選手にはハードルが高いようにも思う。福森も1対1ということでいえば、ディフェンス面で甘いのではなかろうか。
誰もやったことがないサッカーに挑戦する!その志は、大いに応援したい気持ちもあるのだが。
14位 名古屋グランパス
ここ数シーズンは他が羨むような戦力を整えながらも、期待された結果とは遠いシーズンを送ってきた。昨季途中で、ついに風間監督を諦めたが、後任のフィッカデンティも、正反対のサッカー観からチームを建て直せたとは言いがたい状況だった。新シーズン、クラブは監督を信じ、続投させた。一方で、攻撃的なチームの構築を命じている。この矛盾が、再び名古屋の足を引っ張るのは目に見えている。
フィッカデンティはイタリアのプロヴィンツィアで指揮を執ってきた叩き上げの指導者で、セリエA時代のチェゼーナでは、その後、インテルで長く活躍することになる長友を抜擢したことで有名だ。その手堅い手腕に注目し、FC東京が日本に連れてきてからはJクラブに定着して、鳥栖でも実績をあげ、この程、名古屋のファイアーマンに指名された。いずれも守備に軸足を置いたチームづくりであり、攻撃的なスタイルには挑戦したことがない(イタリア時代はわからないが)。
戦力的には、さすがにトヨタ・マネーが効いており、既に一流のものを揃えていて、今冬は比較的、控えめだが、十分なものを維持している。一線級の選手ではジョー、長谷川のバックアップで、質のいい活躍を見せたFWの赤崎と、スキルフルなサイドプレーヤーとして、様々な高さで起用された和泉が、チームを後にしている。さらに、若手のDF櫛引と、経験豊富なSBの金井が放出された。
一方で、横浜FMでは怪我人の穴を埋め、優勝にも貢献したマテウスがレンタル・バック。五輪代表候補の攻撃的なタレントである相馬も鹿島から戻ったほか、湘南からは精力的なポスト・プレーヤーの山﨑、川崎からは気の利いた動きができる「優勝請負」MF阿部、広島からも足を止めない守備的な中盤の稲垣という特徴あるキャラクターを次々に入手した。昨季の戦力と合わせ、強力なスカッドが完成したのは間違いない。
攻撃面では常にJのトップに位置するFWジョーの決定力と、際立った攻撃センスをもつガブリエル・シャビエルの存在感が大きいが、ジョーは現時点で故障しており、年齢を重ねた彼と、安定感を欠くシャビエルは、年間を通して計算できるアタッカーとまでは言えない。それに加え、昨季は前線で大きく成長し、これら2人をあるいは越える存在感を放っていた長谷川アーリアジャスールも、しばらく戦列を離れることになりそうだ。
新加入の山﨑と、突破力のある前田に、阿部、マテウス、相馬が加わるユニットは十分に頼りになると思われるが、ここへきて、LSBにも不安が出てきた。このポジションにも適応できる金井は清水に新天地を求めたが、残ったメンバーに怪我が相次いでいるのだ。この状況では、昨季の川崎のように、中盤の選手の偽SBとしての起用も考えられる。例えば、阿部はそのような役割をこなすことができる柔軟な能力をもっているはずだ。
CBも含め、後ろはやや手薄な印象だ。風間時代と比べ、フィッカデンティが就任してからの名古屋のポゼッションは悪かった。その反省を踏まえて、主導権を握る攻撃の構築が、このあたりの弱点をカヴァーするはずである。しかし、それならば、もっと適任の指導者がいたのではなかろうか?
15位 湘南ベルマーレ
湘南、鳥栖、仙台、横浜FCが、今季のボトムにちかいと思われる。それぞれにネガティヴなポイントがあるが、湘南の場合は攻守の要であったDF山根と、FW山﨑の離脱が痛すぎるのは確かだろう。ただし、FW岩崎や、MF茨田と福田、三幸、CB大岩、SB馬渡など、計算できる補強は十分にできた。
浮嶋監督は、問題になった曹元監督とは対照的に、人柄は優しめの指導者と思われる。ただし、湘南が一時代を築いたブートキャンプ方式を捨てるとは思えない。他サポからすれば、「浮嶋さんって誰?」という感じだが、横浜FCと湘南で長く育成のほうに携わってきた。そのステイタスで、難しい時期の指揮を執り、そのままの指揮権が認められたのだから、素材はしっかりしている。
新加入のタリクはノルウェー代表ではあるが、実は北アフリカの生まれで、典型的なノルマン人種のように長身ではないため、2トップの確立を探っている。茨田や三幸といったメーカーがいるため、トップだけではなく、サイドからの侵入が攻撃の鍵を握ると思われるのだ。
特に攻撃の構築は難しく、守備にも難しい点はいくつかあるが、清水との最終チェックでは手ごたえを感じたようだ。正直、自分たちでも、どれだけ通用するかは予測できないところが大きいのだろう。しかし、パワハラ監督のほうがよかったと言われたくはない。これまでのシーズン通り、クレヴァーに勝点を獲得していってほしいものである。
16位 横浜FC
横浜FCはPO圏でも、自動降格は免れると予想する。戦力は、確かに見劣りする。だが、下平監督は十分でないリソースを十分に生かして、難しいJ2を2位で通過させ、その戦いぶりには安定感があった。
J2では安定的に得点しながらも、J1から声が掛かることはなかったイバのようなストライカーが、J1でどれほど活躍できるかはわからないが、転じて、一美の獲得は間違いなく大きい。中盤には、技術のしっかりした手塚を加え、爆発的なスピードをもつSBのマギーニョも、期限付きで獲得した。水戸から個人昇格した志知も質のいい選手と聞いている。
カズ、俊輔、松井、レドミなどの昔の名前で出ている、話題性のあるメンバーは、あまり戦力にはならないだろう。俊輔がトップ下で起用されるとの報道もあるが、俄かには信じがたく、年間を通じた一貫性も期待できない。しかし、その場合はハーフウェイよりやや前方に位置して、精確なロングボールでサイドを混乱に陥れるか、逆にサイドに開いて、斜めに中央のターゲットを狙う戦術が予想できる。
一方で、GK六反は精神と肉体の不調であるオバトレから快復してきており、十分な戦力になり得るはずだ。清水での好調期のパフォーマンスを考えれば、重要な補強であった。カズにも似たストイックな姿勢をもち、若手への影響力も大きい選手だ。
問題は、チーム全体の運動量であろうか。J1のハードワークは、J2のそれと比べても、はるかに質が高く、タフなものが求められるからだ。それに耐えられるだけの選手が揃っているのかどうか。
メンバーも大きく変わり、下平監督にはまた難しいミッションが待ち受けている。しかし、柏時代にはJ1屈指のマネージメント能力を示し、不幸にして、レイソルのJ2降格の起点にはなったものの、その実はACLへの対応で不調だった早い時期に、クラブが我慢しきれなかったことが大きかった。フリューゲルス消滅���ら13年。それとはまったくちがうチームの内実にはなっているものの、多くの人が心密かに気にかけているクラブであることに変わりはない。
17位 サガン鳥栖
ネットゲーム大手のサイゲームスの撤退に次いで、DHCがスポンサーから撤退し、それに代わる大きなスポンサー契約は結ぶことができなかった。フェルナンド・トーレス獲得というお祭り騒ぎを頂点に、鳥栖の陣容は大きく厳しさを増してきている。昨季は最終戦で清水に敗れ、最後は他力本願ながら、POを戦わずに済んだ。
今季も重要なタレントの多くを喪ったが、フロントもできるだけのことはしてきている。攻撃面では強烈なキックをもったチアゴ・アウベスを残留させ、金森も完全移籍で獲得し、チームに残留させている。LWGのクエンカや、攻撃的な位置でポリヴァレントな働きをみせる小野を喪ったのは大きいが、鹿島で一世を風靡したFW金崎や、ハートの強いクラブの象徴であるFW豊田がいるほか、ウイング的な動きが鋭い安庸佑なども残留し、アタッカー陣は十分に強力で、ヴァリエーションが揃った。
サイドプレーヤーとしては小谷松を獲得、最終ラインに神戸の宮を獲得するなど、目を惹く加入も演出した。GKは足もとの自信がある高丘が昨季、躍進をみせたが、松本から加入の守田も「1番」をつけ、熾烈なレギュラー争いがみられる。
これらのタレントを、金監督がブート・キャンプ方式の厳しいトレーニングで鍛え上げて、戦力を整えていくことになると思う。カレーラス体制に始まり、どん底に落ちた状態から、昨季、クラブをJ1残留に導いた金の指導力は十分、評価に値する。厳しい状況にもかかわらず、勝点を稼ぐ武器は十分に豊富といえる。中位進出はぐらいなら、やりようによっては可能性のある戦力とみている。
18位 ベガルタ仙台
戦術家の渡邉監督を切り、隣のJ2山形から木山監督を引き抜いて起用した。あくまで攻撃的なサッカーを志向する前監督の継続を選ばず、より現実的な選択がよいとする判断だ。内情はわからないが、フロントと監督の間で、深刻な齟齬があったように見受けられる。木山も、前監督と同様にクレヴァーなチームを構築するが、やや守備的なことは否めない。
攻撃的なサッカーがすべてのクラブにマッチするわけではないが、今季のトレンドをみる限り、仙台はかなりの我慢を強いられるはずである。
才能ゆたかなプレーヤーであったSB永戸がステップアップし、昨季のキャプテンを務めた大岩も、他チームへと去った。補強も渋いが、FW赤崎と、DF浜崎の加入は、ポジティヴである。ベストメンバーをみると、十分にものになる戦力が整ったとみるべきである。堅い守備を武器に、前線は絶対的な高さを誇る長沢の落としに、ジャーメインやクエンカが反応する。これらのタレントの決定力は、決して見劣りしない
しかし、ここにきて、その鍵となる長沢とクエンカの離脱が明らかになった。赤崎やゲデスもいるが、当初、構想した戦術は採れないかもしれない。ただ、赤崎を中心に、道渕、中原、石原、椎橋、松下らが掻きまわす布陣は、相手にとって、かえって厄介かもしれない。
J1チームとして、恥ずかしくないだけの戦力は揃えてきた。横一線のサバイバルに、自信をもってチャレンジできるはずだ。
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【良き隣人がすること】 - クリーネストライン : https://www.patagonia.jp/blog/2020/02/what-good-neighbors-do/ : https://archive.is/uWx1w サキアス・バンクソン | 2020/02/04
 {{ 図版 1 : 地平線にマウント・ベイカーを眺めながら、ガルブレイスのクラシック「SST」トレイルの下りに備えるマーク・アリソン(左)とボニー・バーク(右)。Photo:Paris Gore }}
エリック・ブラウン、通称「EBエクストリーム」は、ワシントン州ベリンハムの東、レイク・ワットコムの東側にある荒れたクーガーリッジ・トレイルの跡地で被害を調査しながら、倒木の根のあいだを縫うように足早に進む。この「クーガー」はかつて非認可のダウンヒルトレイルで、いずれは閉鎖される予定だった。しかしいまではこの地域の主要な、しかも「合法」のバイク用トレイルとなっている。
この区間は最近の嵐で3本の巨木が倒れ、石と泥と枝が散乱しているが、EBはまったくひるまない。
かつてオンライン企業の製品マネージャーを務めていたEBは、妻のコートニーとともに2008年にシアトルから引っ越してきた。彼は郡の支援グループである〈ワットコム・マウンテンバイク・コーリション(WMBC)〉のトレイルディレクターとして、市民会議や公開討論会、レースやイベント、そしてもちろんベリンハムのトレイルの常連でもある。〈WMBC〉の有償正社員第1号である彼は、みすぼらしいタスマニアデビルのように森のなかを這いまわりながら、トレイルのルート��更や再建、そして切り株を元の場所に戻す方法など具体的な事柄について、歩くのと同じくらいの早さでしゃべる。非公式の「ベリンハムのマウンテンバイク市長」であるEBがすこぶる有能な理由はこれだ。彼は難題に立ち向かうのではなく、あふれる楽観的な熱意で難題を圧倒するのだ。
“いいヤツらを連れてくると、悪いヤツらは去っていくんだ”
電話が鳴り、カリフォルニアの市外局番であることが示される。「サリー」ことジム・サリバンからだ。サリーはEBのことを「リコ・スアベ(リッチでソフトなヤツ)」というあだ名で呼び、僕にハイタッチをしろと言うので、その通りにする。それからサリーに「クーガー」が違法でなくなったことがどれほど素晴らしいかを伝える���、彼は間髪を入れずに指摘する。
「『違法』という言い方は止めた方がいい。ハイキングや乗馬や犬の散歩できれいな場所に行くことや、並行する2つのトレイルをつなぐのは良いことで、自転車だと違法になるのはおかしいだろう?たとえ悪かったとしても、それは些細な違反なのに」
 {{ 図版 2 : スチュワート・マウンテンの斜面に新しい登り用トレイルを検討中のエリック・ブラウン(前方)とリード・パーカー(後方)。 前の見開き:ワシントン最古の州立公園にある「ダブルダウン」トレイルを駆け抜けるブルックリン・ベル(前方)とサキアス・バンクソン(後方)。Photo: Paris Gore }}
モンタナ州、カリフォルニア州、アイダホ州、さらにはワシントン州でも、原生地域や国立公園でのマウンテンバイクの使用は禁止され、またサイクリストと環境保護主義者は自然保護論議では異なる立場に立つことも少なくない。しかしベリンハムは例外だ。文字どおり手を汚す行動主義となると、マウンテンバイクのコミュニティの熱心さに敵う者はそういない。彼らは〈WMBC〉に導かれ、これまでに環境税の導入に協力し、またトレイル作業にも(それがマウンテンバイク用のトレイルではない場合でも)大勢が参加する。〈WMBC〉の青と緑のテントはワットコム郡各地のイベントではお馴染みの存在で、テントには同団体のミッション・ステートメント「管理、教育、支援運動を通じて、ワットコム郡のトレイルへの非動力系アクセスを守り、強化する」がくっきりと書かれている。
そしてすべてのストーリーがはじまったのは、ゴミの不法投棄、エスプレッソメーカー、そして数名の良き隣人からだった。
EBがベリンハムの自転車市長だとすれば、サリーはそのゴッドファーザー的存在で、ガルブレイス・マウンテンは2人の共有の「オフィス」となるだろう。そこはアメリカ太平洋岸北西部におけるマウンテンバイクの活発な心臓部であり、しかもかなり見苦しい場所だ。
正式名はルックアウト・マウンテンであるガルブレイス、通称「ガルビー」には、僕たちを取り囲むシダやいくつかの滝のある巨大な二次林はないが、ここにたどり着くまでにバイクで走り抜ける場所には、皆伐地がある。この標高544メートルの山は林業用地として使われている森林で、過去何十年間も定期的に伐採されてきた。しかしそこには全長約105キロメートルの世界級のシングルトラックもあり、マウンテンバイクやハイキングやトレイルランニングを楽しむ何十人もが毎日のように見かけられ、さらにはここで乗馬をする人もいる。町で見る車の2台に1台は自転車を積んでいそうで、どの道路にも自転車が走っている。そしてそのほぼすべてが、ガルブレイスに向かっている。
「ワットコム郡に住んでいれば、ガルブレイスへ遊びに行く人に必ず出会う」と言うのは、〈ワットコム・ランド・トラスト〉でディレクターを務めるリッチ・バワーズ。「ベリンハムでは30年以上にわたって、マウンテンバイカーたちがガルブレイスに関わる肉体労働をしてきた。それが評判を築いてきたんだ」
サリーがはじめてベリンハムを訪れたのは1974年、西海岸の温泉巡りの自転車ツアーをしたときだった。そのあと1979年にガルブレイスの麓に家を買い、エスプレッソメーカーの修理業をはじめた。そのほんの2年前に「発明された」スポーツ、と言われているマウンテンバイクには乗ってはいなかったが、「ファットタイヤ・バイク」には誰よりも馴染みがあった。サリーはマウンテンバイクの誕生の地、カリフォルニア州のマウント・タマルパイスの麓で、初期の伝説的マウンテンバイカーのひとりであるトム・リッチーの隣家で育ったからだ。
 {{ 図版 3 : エリック・ブラウン、ベリンハムの 非公式マウンテンバイク市長。Photo: Paris Gore }}
サンファン諸島の東、シアトルの約130キロメートル北、ブリティッシュ・コロンビア州バンクーバーの約97キロメートル南に佇む、この「控えめに刺激的な町」の人口は約9万人。全国規模のマウンテンバイク会社3社とオーダーメイドのバイク製造者4人に加えて、自動車用バイクラックの会社、トレイル建設用具の会社、シートポストの会社があり、マウンテンバイク誌『Freehub』の拠点でもある。そして町にはブルワリーとほぼ同数のバイクショップがある(2019年はじめ現在は13軒)。
自転車の人気はベリンハムから東に延び、カスケード山脈を越えてワットコム郡全域(その大部分が田園地帯)に広がっている。〈レクリエーション・ノースウエスト〉の2015年度の分析によると、アウトドアレクリエーションは同郡に7億500万ドルの収益と3,728の職業を生み出している。
言うまでもなく、ベリンハムは自然保護にも熱心な町である。その証拠に、アウトドアレクリエーションがこの地方に与える影響は、生態系サービス(生態系が人類の利益となる機能の経済的価値)に換算すると、年間60?100億ドルにも及ぶと〈レクリエーション・ノースウエスト〉は推定している。
1980年代初頭にサリーがマウンテンバイクに乗りはじめると、彼の家はすぐさまベリンハムのマウンテンバイカーたちのたまり場となった。毎週火曜日の夜は数人の「イカれたバイクマニアたち」がエスプレッソを飲みに集まり、町の周囲の丘のトレイルや四輪駆動車道をマウンテンバイクで「巡回」した。
「当時のガルブレイスはそりゃあひどいものだった」とサリーは語る。「四駆車とダートバイクで深くえぐられ、ゲートは引き倒され、ゴミの不法投棄も日常茶飯時だった。だから『バイカー』の前には必ず『マウンテン』を付けることが肝心だった。僕たちがエンジン付きじゃないってことをはっきりさせるためにね」
サリーにとって、この言いまわしはとくに重要だった。彼はカリフォルニアの初期のマウンテンバイカーたちが猛烈な反感に直面し、ほぼすべてのトレイルでマウンテンバイクが禁止になったことを目撃していたからだ。
「カリフォルニアではじまったことは、必然的に全国に広がる。でも僕はマウンテンバイカーをアウトドアコミュニティで好感のもてるメンバーとして確立させたかった。僕たちはちょっと顔を出すだけでなく、会議や作業に必ず現れる信頼できる存在で、良き隣人だった。だから世間は僕たちを、エネルギーあふれる若者のグループと見なすようになったんだ」
 {{ 図版 4 : 悪くない種類の交通渋滞。オーナーたちが下りトレイルの最初のセクションの岩や樹根を偵察するあいだ、「ダブルダウン」の最高地点を印す自転車の群れ。Photo:Paris Gore }}
サリーはベリンハムの反感を避けるために、あらゆるところで友人を作った。彼らのグループの取り組みを皆に理解してもらえるよう、犬を散歩させる人、ハイカー、バードウォッチャー、町内会、さらには〈バックカントリー・ホースメン・オブ・ワシントン(ワシントン州バックカントリー乗馬会)〉にも語りかけた。やがてガルブレイス地区の住民たちは違法行為をサリーに報告するようになり、また火曜の夜のライディングの規模が膨らむと、評判のよい人物たちまでが彼らの「変人の集まり」に姿を現すようになった。
「いいヤツらを連れてくると、悪いヤツらは去っていくんだ」とサリーは言う。「警官、医者、消防士、検察庁の職員などが、僕たちに加わるようになった。それで僕たちは不法投棄者の車のナンバープレートや様相を通報した。捕まった当事者たちは自分でゴミを片づけさせられた。そうすると、その手の行為が起こらなくなくなった。本当だよ」
マウンテンバイカーたちがガルブレイスの非公式の見張り役となったことは、ガルブレイスの大半を所有する伐採企業を含む、誰の目にも明らかとなり、彼らは新たな利用者のグループとして温かく迎えられた。12平方キロメートルにも広がる裏庭を有効に走りまわるべく、サリーは土曜日のバイクライディングも企画し、数か月後には毎週60人以上が集まるようになった。
この勢いに乗って1987年、サリーは中心となるライダーのグループとともに、ベリンハム初の公式なマウンテンバイク支援団体をまとめた。〈ワットコム・インディペンデント・マウンテン・ペダラーズ・アンド・ヨーヨーズ〉、略してWHIMPYS(1990年代はじめに略称をWHIMPSに改名)は、レースの主催や大規模なプロジェクトの管理、有意義な土地開発のロビー活動などに取り組み、地元の自然保護政策に対する影響力を発揮した。1990年に可決された最初の「グリーンウェイ税」はそのひとつで、固定資産税の一部が生息地保護、公園、トレイル、オープンスペースの資金に充てられた。サリーはその創設メンバーだった。
1996年、サリーは2度目の心臓切開手術のためにカリフォルニアに戻り、当時のバイスプレジデントだったマーク・ピーターソンに手綱を渡した。ピーターソンは〈WHIMPS〉の全盛期と内なる葛藤の両方を見ることになった。2000年代のはじめ、マウンテンバイクのフリーライディングが台頭した。これはジャンプやドロップ、そして不安定な木製障害物の妙技などを組み込んだライディングのスタイルで、往々にして危険をともない、そのコースの建造にはトレイルに大きな影響を与え、たいていは人目を盗んで行われた。フリーライディングの反逆的かつモーターバイク的な思考により、自然保護主義者とマウンテンバイカーは大いに対立し、ベリンハムではすぐにクロスカントリー志向の〈WHIMPS〉やその他の利用者グループに緊張感をもたらした。
「ジム・サリバンやマーク・ピーターソンなど初期のメンバーたちは、自然保護の倫理観が強かった」と、〈コンサベーション・ノースウエスト〉の創設者兼事務局長のミッチ・フリードマンは言う。「ギアやスピードやアドレナリンラッシュを好むフリーライダーたちは、木を切り倒して傾斜台などを作る。僕は〈WHIMPS〉のリーダーたちに、それはマウンテンバイクの支援運動に悪影響を与える、ということを説得したかった。長い目で見れば、より良い市民であることの方が大切だと伝え、協力しあってもっと高い基準を設けようと呼びかけた」
 {{ 図版 5 : 「クーガーリッジ」の下りで追いかけっこをするボニー・バーク(前方)とエリック・ブラウン(後方)。かつて非認可だったこのダウンヒルトレイルは、ガルブレイスを南側の再譲渡地へとつなぐ。Photo: Paris Gore }}
このことは2002年に〈トリリウム・コーポレーション〉と画期的なアクセス合意をまとめ、〈WHIMPS〉がガルブレイスの正式な管理役に定められた以降の大きな課題となった。ピーターソンとバイスプレジデントのダレン・クラークは、もしフリーライディングを正当に認めて、そのライダーたちを正しい方向に導くことができれば、非常に高い基準を設けることが可能だと信じていた。そこで重要な架け橋となったのが、地元で教員を務める2人のフリーライダー、ビル・ホークとマット・デュランドだった。この2人は2004年に〈WHIMPS〉の役員に加わり、ガルブレイスに設置されたすべての木製障害物の解体に協力した。そのなかには、彼ら自身が建造したものもあった。
「あれは本当につらい体験だった」とピーターソンは言う。「相当な恨みつらみがあったからね。でも〈WHIMPS〉の創設以来、最も重要な時期だったと思う。すべてを取り壊すことで再建が可能になり、いまの僕たちがある。それは僕たちの正当性を証明し、僕たちが長期的な目標を達成するための妥協策を理解していた証拠でもある」
その苦労は報われ、彼らは2005年に新たに〈WHIMPSマウンテンバイク・コーリション〉として非営利団体の認定を受け、その後10年間ガルブレイスには山のいたるところに多くの新しい多目的トレイルが敷かれた。しかしこのすべては2011年4月18日に宙吊り状態となり、人びとはベリンハム高校の体育館に集うこととなる。
その2年前、〈トリリウム〉はガルブレイスに所有していた12平方キロメートルの土地を、1,800万ドルの負債の返済として開発企業〈ポリゴン・ファイナンシャル〉に譲渡していた。そして2011年4月11日、〈ポリゴン〉はガルブレイスへの公共アクセスの閉鎖を発表した。それに応じて、ピーターソンは〈ポリゴン〉の土地管理者であるブレア・マーレイを高校の体育館での公開討論会に招いた。
「市長も、市議会議員も、郡議会議員もいた」と、事前交渉に参加したEBは言う。「そして500人ものマウンテンバイカーが現れた。数日前に知らされたばかりで、しかも平日の夜だというのに。あれはすごかった」 その後まもなく、〈ポリゴン〉はガルブレイスの一般開放をつづけることに合意した。
丘の中腹はかなりの急勾配だ。少し傾斜が緩い場所があったとしても、それはサーモンベリーとアメリカハリブキの棘地獄となっているはずだ。だがそれもスチュワート・マウンテンの山腹ではビレイのような役割を果たし、斜面を幾分か安全に走ることができる。脚下には灰緑色のモミとアメリカツガが林立する斜面が、約600メートル下にあるレイク・ワットコムの暗い湖面まで延びている。
EBとリード・パーカーは、ここがマウンテンバイク用トレイルにもってこいの場所だと考える。
 {{ 図版 6 : 教育は幼いうちから。ガルブレイスのトレイル作業日に、自分専用の紫色のクワを振り回しながらお父さんを手伝う、ゴム長靴姿のクロエ・ブラウン。月に2回の作業イベントには、あらゆる世代のライダーとその家族を含む、何十人ものボランティアが定期的に集まる。Photo: Paris Gore }}
2人は進みやすい道を探してベイマツのあいだをくねくねと縫いながら、30メートルごとにピンク色のリボンを枝に結び、GPSのデータを記録する。ワットコム郡の自然保護と公園管理に携わるパーカーはEBと組んで、郡の企画課がルートの環境影響と地滑りの可能性を査定する前に少なくとも2回はこの作業を繰り返す。そして査定が済んだあかつきには、シャベルとバケツとビールを手にボランティアたちと戻ってくる。
最初に遭遇する開けた場所には腐りかけの倒木が散乱しており、それは最近の皆伐(2014年時点が最後)の痕跡である。1990年代初頭には、この斜面で一連の地滑りが発生した。100年間も伐採が行われてきたことの結果である。地滑りは周辺住民を脅かし、湖を汚染した。そこで5,000人以上の市民が〈コンサベーション・ノースウエスト〉の支援のもと署名を集め、土地の所有主である天然資源局にレイク・ワットコム流域保護の管理計画の提出を要請するよう、州議会に申し立てることに成功した。
1957年に設立された天然資源局は、公立学校や州立機関、または郡の業務のために収益をあげる土地利用を義務づけた信託令のもと、ワシントン州全域で約22,660平方キロメートルの土地を管理する。郡がこれらの信託地を取り戻すことができるのは公園を設立する場合にかぎられるため、〈コンサベーション・ノースウエスト〉はその目的だけに運動を展開した。10年間の激しい交渉ののち2005年に、ワットコム郡議会はレイク・ワットコムの両側に延びる広大な自然保護区の計画をはじめた。
この決定により、〈WMBC〉内部では緊張が高まった。メンバーのなかには再譲渡に反対する者もあり、ピーターソン、EB、ホーク、デュランド(2013年に〈WMBC〉のプレジデントに就任)とその他の主要擁護者は仲間に考え直すよう訴えた。その転換期は2012年、天然資源局が娯楽に対して寛大だったかつての評判を崩し、ベリンハム東部のトレイル網を閉鎖したときに訪れた。ガルブレイスの4倍近い規模の事態に直面し、マウンテンバイクのコミュニティは即座に、最も声高な保護支持派となった。
「マークは大きな支えだったが、彼が〈WMBC〉に苛立ちをみせることもあった」と、フリードマンは言う。「エリックや他のメンバーと対立する、ピリピリした場面もあった。異なる倫理観のメンバーをも含めた〈WMBC〉全体を代表しなければならなかったからね。でも彼らはかけがえのない存在で、彼らがいなかったら実現しなかっただろう。エリックはその中心にいて、彼のおかげで大勢のマウンテンバイカーが公聴会に出席したんだ。善良な市民としてね。」
2013年3月、ワットコム郡議会は投票により、約36平方キロメートルの林業用地跡を自然保護と非動力系娯楽のために確保することを可決した。スチュワート・マウンテンを取り囲む約19平方キロメートルと、ルックアウト(ガルブレイス)・マウンテンの約17平方キロメートルは、公式にレイク・ワットコム公園の一部となった。これは全国で7番目に大きな地元管理の公園で、ベリンハムの飲料水源で あるレイク・ワットコム全流域の4分の1を保護している。土地開発の計画には約153キロメートルの新たなシングルトラック整備もあり、その大半でマウンテンバイクの利用が認められている。
この勢いは2015年に入ってからも、ガルブレイスの南のトレイルヘッドから16キロメートルに位置するララビー州立公園でつづいた。そこはワシントン州初の州立公園で、腰の高さにまでタマシダが群生し、滝や湖があり、チャカナット山群の砂岩の尾根をまたいで鬱蒼たる原生林が広がっている。サイラス・ゲイツの展望台ではじまり、クレイトン・ビーチの砂利浜で終わるダブルダウン・トレイルは、モミに覆われた550メートルの西側斜面「チャッキーズ」の全ルートを縫うように下降する。マウンテンバイクのダウンヒル専用のこのトレイルは2015年に公園の承認を得て〈WMBC〉が作ったもので、ピーターソンが「チャカナット総合開発計画」に関わっていた1994年に遡る、20年以上のパートナーシップの成果である。
チャカナットは〈WMBC〉と〈コンサベーション・ノースウエスト〉のつい最近の共同事業の現場でもある。チャカナットの南沿いにある短い斜面、マウント・ブランチャードのことだ。10年にわたる市民運動ののち、州議会は2018年に天然資源局の管理下にある約6平方キロメートルの土地を���リエット・スパネル州有林に指定した。そこには年間10万以上の人が訪れ、樹木が伐採されることは永久にない。
「ガルブレイスに加えて、レイク・ワットコムの土地の再譲渡とマウント・ブランチャードは、マウンテンバイカーと自然保護主義者を連動させる2つの重要な取り組みになった」と、フリードマンは言う。
 {{ 図版 7 : 樹根と岩とむき出しの土が混在する「クーガーリッジ」では、ときどき現れるスムーズな場所でブレーキの指を休めることが重要。高速で進むことのできるセクションのひとつで、その機会を大いに利用するボニー・バーク。Photo: Paris Gore }}
切り傷だらけの汗まみれでようやくスチュアートの森の斜面から出てくると、気温は16度だった。EBとパーカーはトラックの荷台に地形図を広げ、計画を練っている。2017年、〈WMBC〉は再譲渡地の未来の153キロメートルの最初のセクションとなる、シャントレル・トレイルの登りの下半分の建設に着工した。僕たちが午前中にマッピングした場所は2つ目のセクションとなる。
EBは僕たちがたどったルートを地図上でなぞる。〈WMBC〉には野心的な長いリストがあり、その中なかにはスチュワートのすぐ北側にある、もうひとつの天然資源局管理地(約13平方キロメートル)があり、〈WMBC〉はそれを再譲渡地のトレイルシステムに結びつけることを望んでいる。信託地でありつづけながらも、近隣のケンドールやデミングの住民に娯楽に基づく新たな機会をもたらすことが可能となる。どちらも近年不況に苦しんできた林業の町だ。
「このような田舎町に働きかけるとき、観光客を呼び寄せるだけでなく、その地域に住む家族や子供たちにはけ口を提供するような種類の経済を支持したい」とEBは言う。「それがこれから先の取り組みの大きな構成要素となるだろう」
だがEBが最も熱くなるのは尾根を横切る雑林、つまりベリンハムの巡礼地としては不釣り合いな、ガルブレイス・マウンテンだ。でもその理由は、僕には初耳だった。2002年以来、「ガルビー」への立ち入りは月極め契約になっているのだという。その不明確性により、地元の観光業はトレイルシステムの振興に足踏みし、〈WMBC〉が公共助成金を確保することも妨げられてきた。この30年以上にわたってマウンテンバイクが駆り立ててきた文化、経済成長、市民運動のすべては、あるとき30日以内にあっさりと終わっていたかもしれないのだ。
「僕たちは最終的な永遠の保証という夢と希望を抱き、ボランティアの力を借りて、毎年こつこつとトレイルを作りながら、ここまでやって来た」と彼は言う。「僕たちのことを正気じゃないと言う人もいたけれど、すべては良い信頼にかかっていた」
その信頼がしっかりと築かれていたことは証明された。2018年7月、ベリンハム市と〈ワットコム・ランド・トラスト〉、そして2017年に〈ポリゴン〉から土地を購入した〈ガルブレイス・ツリー・ファームLLC〉は、ガルブレイスとその80キロメートル以上のトレイルへの公の立ち入りについて、「永久」保証契約を結んだのだ。サリーが創設に携わった「グリーンウェイ・プログラム」の資金を利用して、連合は伐採企業から永続的な娯楽と保全地役権を購入。そのうちの275万ドルは市から、25万ドルは〈ワットコム・ランド・トラスト〉から寄付された。〈WMBC〉は要望の高かった新しい駐車場(総工費30万ドル)とトレイルの管理を担うことになった。
契約は完璧ではなく、この土地の森林はいまでも林業用地として使われている。しかし保全地役権は山でのいかなる開発も永久に禁じ、それにはワットコム流域の4平方キロメートルが含まれ、また再譲渡地やチャカナットのような緑地ともつながっている。そして将来政策や所有者が変わっても、保全地役権は変わらない。
「地役権の購入は法律に基づく以上の、永久的な解決策だ」とバワーズは言う。「国立公園は神聖なものだと思ってきたが、いまではそれも定かではない。けれどもガルブレイスは、100年後にもマウンテンバイクのための場所でありつづけ、同時にハイカーやランナー、また犬の散歩やたんに森を歩く家族のための場所でもありつづける」
一方、サリーはガルブレイスの運命について心配することは決してなかった。とくに2018年10月にベリンハムを訪れ、700人のマウンテンバイカーたちの前で、ピーターソンとともに〈WMBC〉の特別功労賞を受け取ったあとは。信頼とは要するに良き隣人がすることなのだ。
「物事をひとりで達成することはできる。でもあらゆる努力と同じように、本当に効果を出したかったら、力を合わせて取り組まなければならない」と、サリーは言う。「それが、僕たちが『いいヤツら』になれた理由だ」
●著者プロフィール  {{ 図版 8 : サキアス・バンクソン }}  サキアス・バンクソン  パタゴニアのマウンテンバイクの編集長を務める前は、ワシントン州ベリンガム在住の『フリーハブ・マウンテン・バイク・マガジン』の編集長だったサキアス・バンクソンは、現在妻のジェイミーと16キロのボーダーコリーの雑種モキシーとともに、5.4メートルのトラベルトレーラーで暮らす。
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第8章 質問に対する回答
第8章 質問に対する回答
  8.1 植物、動物は生老病死に苦しむ悩むことがないのに(動物は病に関しては苦しみがあると思いますが)、
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa5637110.html
人はなぜ生老病死に苦しみ、悩まねばならないのでしょうか。
 これは大事なご質問です。 解答は、人間は想像するから悩むのです。 いろいろ余計なことを勝手に想像して、悩んでいるのです。 動物も植物も想像しませんから、悩まないのです。 苦しみは、動物も人間もありますね。 表情など見れば分かります。 しかし、神様はそれさえも限度を与え、無理にはしませんね。 人間でも下半身 ライオンに食べられるとき、苦しみよりは 恍惚的な喜びを味わうか、気を失いますね。 ある方は交通事故に遭いましたが、気を失って、後では悪い気分がしませんでした。 と言っていました。 よって人間は、本来何も恐れる必要はないと思います。
 8.2 学生運動って何でおきたの?
http://okwave.jp/qa/q5496863.html、http://oshiete1.goo.ne.jp/qa5496863.html
今の学生からしたら60年代の学生運動って 意味解りません。どうして、あれだけの暴動がおきてしまったのでしょうか?
 これは大事な問題提起だと思います。 深い分析を行い、いわば総括しておことが大事だと思います。 ある方の意見を聞きました。 同じ時代を生きましたが、私はどちらかというと傍観者であったといえると思います。 私の見方を簡単に: 先ず言える事は、学生が、社会の矛盾をいろいろ見出し、社会に意思表示を強くしたということではないでしょうか。 何か、熱病にかかったように、全国に広がったのは、本当に不思議な感じがします。 その辺の分析、事情を知りたいと思います。 それに人生をかけられた人が多くいるので、私としては無責任にいろいろ言いたくないところがあります。 数年前までの退職の先生方は 相当傷ついたようで、必ず学園紛争のことを触れていました。 当時の学生は元気で、社会の問題等いろいろ考えて、行動されたのですが、 逆におかしいくらいに 今の学生は元気がなく、 社会の問題から目を避けて、自分の世界に閉じこもっているように感じますが、如何でしょうか。
 8.3 学校は必要でしょうか:
http://okwave.jp/qa/q5551930.html
適当に定められた行政区画ごとに、たまたま4月から12月まで生まれたという共通点を持つだけの集団を、一日中強制収用される。「気をつけ」で背筋を伸ばし、「前へ習え」で手を前に出す。 出された課題をこなし、周りと同じ行動を強要され、そこから外れれば「問題児」とされてしまう。 社会生活を学ぶ場というより、そこからは社会生活は学べず、個性がつぶされる場、と見たほうが妥当だと思うのです。 教員は、人生のどの地点で社会生活を学んだのでしょう。大学までいったあと、教員採用試験(ペーパーテスト)で教員になっているだけ。教員とは、自分自身の子供時代における、学校生活の延長上の存在でしかない。 自分が思うに、社会の様々な温床は、人生初期、すなわち「学校」にあると思う。 教員に問題があるというか、教員を教員たらしめる、学校というシステムに諸悪の根源があると思うのです。学校というシステムは、一体いつの時代まで残るのでしょうか。教員の方々には誠に申し訳ないですが、より良い世界に、教員も学校も、必要ありません。いい大人が、これ以上、赤の他人の可能性を弄ばないでほしい。この程度のことに、気づけない民衆ではないはずです。おそらく、大多数の意見に淘汰されると思っているから、黙っているだけでしょう? そうなのですよね? 皆さん、おかしいと思っていますよね?
 おっしゃっている意味、考えは良く理解できます。 しかしながら、 あまりに自由にしてしまうと世の中の人は 混乱するのではないでしょうか。 ある程度の基準は必要であり、現在の教育システムの問題点を1歩ずつ修正していくのがいいのではないでしょうか。現在の教育の根本問題は、何かと問うていく必要があると思います。 教育は社会に根ざした文化そのものですから、みんなで絶えず努力していく必要があると考えます。 ご提案の考えは 逆の立場からの見解で、大いに参考になります。
 8.4 動物も宗教するか:
http://questionbox.jp.msn.com/qa5578099.html、http://okwave.jp/qa/q5578099.html
 人間の場合ピンチに陥ると神頼みしますが、動物の場合どうでしょう。例えばライオンに追われるシマウマも最後は宗教家になっているとおもいますか。
 動物には そのような心はないのではないでしょうか。 しかし、お聞きしたことがあります。 猿に銃を向けたら、手を合わせていたというのです。 それから、象が、亡くなった象の周りで、悲しむように 群がっていたというのです。 忠犬ハチ公の話しや、猫が、亡くなった人の墓参りを繰り返していたということです。 動物に心があるのは、確かですね。 犬などは、相当人間の心が通じていますね。 しかし、祈ることをするでしょうか???
 8.5 私は今、学校でいじめられてはないんですけど、本当に学校に行きたくありません。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1037479730
 先ずは人のことをあまり気にされないで、自分の好きなことをするようにされたら 如何でしょうか。(読書、音楽、散歩、運動、園芸、その他 ですね) 人は人で、自分の世界を充実させて豊かにするのが良いと思います。 先ずは 気分を転換することですね。 次に、誰でも理解者を積極的に探して、話し合える人を大事にしていけば 良いのではないでしょうか。 あまりに周りの人にとらわれすぎないのが良いと思いますが、 如何でしょうか。
 8.6 なぜ日本は消費社会から省エネ循環型社会に移行しないのか?:
http://okwave.jp/qa/q5685982.html、http://oshiete1.nifty.com/qa5685982.html
 省エネ循環型社会については 日本は、努力している方で、世界の模範生と思います。 今日もある人とメールしたのですが、 失業問題、 雇用問題は、世界の大問題だと思います。 日本には まだまだ余裕があるところが、あると思いますので、消費税の前に重点課税すべきところが 沢山あるのではないでしょうか。 財政はしっかりさせていただきたいと考えます。外国軍の侵入より、財政破綻や、経済危機の方が 現実的ですから、防衛費の有り様、使い方も大いに検討すべきと考えます。 政権は、厳しいところ、頑張っていると思います。そう簡単に世の中は、変えられないのではないでしょうか。
 8.7 未来への扉を閉ざされた科学技術 失ったのは「カネ」ではなく、「熱意」だった 一転して「予算復活」も、政府の無理解に広がる失望感
http://business.nikkeibp.co.jp/article/tech/20100317/213423/
 これは真面目な意見でしょうか。 国が破産したら、 国立大学も、科学技術の発展も望めないのではでしょうか。 国の財政状況 をご存じでしょうか。大学を良くし、科学技術を発展させるためにも、その前提である 国の財政をきちんとすることが大事ではないでしょうか。 自分のところだけ、上手くしようでは、世の中上手くいかないのではないでしょうか。 衆愚政治に導く意見ではないでしょうか。
 8.8 自我や心というのは脳が司るわけですよね?
http://okwave.jp/qa/q5752907.html
自我や心というのは脳が司るわけですよね?違ったとしてもそうだと仮定します。そこで自我をきちんと持った人の脳のどこに自我が存在すると思います?また脳の中心で左脳右脳のように真っ二つにしたら自我はどうなりますか?(仮に人物は死なないとします)片方に自我があり片方は脱け殻ですか両方とも脱け殻ですか それとも両方に自我がありますか?
面白い自然な疑問だと思います。 有名なルネ・デカルトは、ショウカスイタイのあたりにあると 述べていたと思います。 自分とは 頭のそのへんにあると大体感じますね。 心が足の先にあるという実感はしませんね。 その疑問は、科学的に医学的に進めていただきたいと考えますが、私がここで言いたいのは他の考え方です。 有機的に結びついているという考え方です。 体の全体が、精神や自我もこめて、いろいろ結びついていて、関係しているのではないでしょうか。 つま先でも何かがあると 心の状態にも影響するのではないでしょうか。 心も体も結びついていて、体は一部も全体も結びついていて、 一つの全体をなしているのではないでしょうか。 それと同じように、個人は、社会内に存在していて、社会やそれを取り巻く外なる世界とも 密接に関係しているのではないでしょうか。 このような考え方ですね。
 8.9 世界中の人の財布を1つに統合しませんか?:
http://okwave.jp/qa/q5731578.html
世界中の人の財布を1つに統合しませんか? そうすれば誰も金にこまることはない。もちろん、すべて電子マネーで。 物質のお金は廃止です。 みんなで世界財布を共有し、環境を考えながら使っていくのはどうでしょう? もちろん土地や不動産もみな対象になります。
 私は逆に考えています。 国境を固くして、国家や民族は、独自の文化を進めた方が多様性に富んでいて、 面白く また、世界として、強いのではないでしょうか。 世界が一体になると危険性が高まり、独自の美しい文化や習慣、伝統が消えてしまい残念に想い、心配しています。
 8.10 凡人はいくら努力しても天才には勝てないのか?
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/5848581.html
 天才には勝てないのかですね。 そのような面は確かにあると思います。 それでは天才はどのように生き、そうでない人は どのように立ち向かうかが、問題かと思います。 簡単に触れると、天才はその才能を活かして、精進して、大きな仕事をして頂きたいと思います。 さらに、人間として高まり、素晴らしい境地に達して頂きたいと考えます。 天才でない人が、天才と立ち向かうのは、容易ではありませんから、覚悟が必要ではないでしょうか。 まずは自分に向いているか否かをよく考えてみる必要があると思います。 それでもやりたいということであれば、好きだから、やりたいということになるのではないでしょうか。 真摯に努力すれば、 勝ち、負けだけでない、良い事が起きると思います。 強い相手に立ち向かうだけでも、素晴らしい挑戦で、大いに精神を鍛えられ、天才以上に素晴らしい境地が拓かれることが多いのではないでしょうか。 世の中、勝ち負け、結果だけではないですね。 いろいろな過程にあるのではないでしょうか。
 8.11 愛はお金で買えるのか?
http://okwave.jp/qa/q5842439.html
 テレビのようなことは、真実性があるのではないでしょうか。 しかし、それを表記のように表現すると それは間違った解釈になると思います。 愛をお金で買ったのとは感じも、実相も違うと思います。 愛には曖昧さが有りますね。 かぐや姫の物語も、愛の強さ、真剣さを確かめたくて、いろいろ難題を課して試していると考えられます。 お金は生活上大事ですから、きちんと整えられるかは、分かり易い、愛のひとつの表現と考えればよいと思います。 しかし、女性も強くなり、自立するようになりましたから、経済面など 一緒に考えて行こうとなってきていますね。 その点は、中国や西欧の人達の方が、考え方が進んでいるというか、厳しさからそうなっていると思います。
 8.12 人の優劣とは何なのでしょうか?
http://okwave.jp/qa/q5839215.html
 今考察して、纏め中ですが、優劣というのは何か価値を評価する基準を作れば、論じることができますね。 簡単なのは100メートル競争です。 身長の高さで、優劣を決めるのであれば それも簡単です。 その他何でも考えられますね。 しかしながら、人の優劣となると、価値判断の基準が与えられていないですから、 いわば解答のない質問ということになると思います。 しかし、人の価値はそもそも何かと問えば、哲学的な大事な問題ですね。 人間とは、人とは何かを問う必要があると思います。 考えたいと思います。
 8.13 将棋指しの名人の頭脳は、ノーベル賞受賞者より優秀か?
http://okwave.jp/qa/q5801271.html
 直ぐにどちらが、優秀かと問題にするのは感心できませんが、面白い問題、疑問です。 道理にかなっていると思います。 確かに将棋は、個人の才能・感覚によるところが、極めて高いのではないでしょうか。 教えられるものでは無くて、また遺伝する才能でもないということですね。 他方ノーベル賞などは、科学ですから、学んで積み重ねていく部分があるので、学習や環境に影響される部分があり、親子続いて等が起こり易いと考えれば如何でしょうか。 最初の優秀かは、違った種類の才能と考えて、比較すべきではないと考えます。 いろいろな才能、個性を尊重して、一元的な価値判断をしないことは、極めて大事なことではないでしょうか。
 8.14 雨河童と純粋理性批判
http://questionbox.jp.msn.com/qa5928502.html
 人間は人間が考えるほど理性的ではなく、また賢くもないのではないでしょうか。小鳥など、生態を見ていると神秘的で、完全のように見えますね。 複雑な運動して、食料をとり、恋もして子供も育てます。
そこにいくと、人間はふらふらし��いて危なっかしく、不安定に見えますが、それでも本能原理によって、うまく調節されているように見えますね。 うまい、題名です。 人間はフラフラしていて、とても理性的な存在ではないということですね。 さらに人間は賢くもなく、ボーとした存在ですね。 予断も偏見も強く、盲目的ですね。
 8.15 神様は魂の崇高な人物ほど多くの試練を与える、というのは事実だと思いますか。:
http://okwave.jp/qa/q5902599.html
 これは、真実を神様の名を借りて、表現していると思います。 崇高な人物ほど、苦労しているということで、一面の真実ではないでしょうか。 逆にも考えられます。 苦労して、崇高な人物に成長したということですね。 人間には 奥に、良心とか神聖なものが、在るのではないでしょうか。 人間は、人間が考えるほど簡単ではないと思います。 親鸞が、悪人ほど救われると言っているのは、大きな真実を含んでいると思います。
 8.16 頭の悪い親が自分の子供に将来を期待するのは愚かか?
http://oshiete1.nifty.com/qa5863641.html
 述べておられることは 良くわかります。 前に学内で 行事がある、連日数千人以上集まりました。 本当に多様な人たちです。 本当に どうしてこんなにいろいろな人がいるのかと驚かされました。 何か、価値が定まってあるように考えるのは 如何なものでしょうか。 水泳が苦手で向かない人が 水泳で競争するのは如何でしょうか。 すなわち、世にはいろいろな価値・分野・役割などがあり、多様な世界ですから、自分の個性、性格、好み、などなどよく考えて、好きなような 道を探すべきではないでしょうか。 人の真似や、定められた考えにとらわれることなく、うまく自分の道を探したいと思います。
 8.17 真の傍観者は存在するのでしょうか。
http://questionbox.jp.msn.com/qa5983551.html
 真の傍観者は存在するのでしょうか。 つまり純粋な観測者は存在するのかというのとおなじようにですが。純粋な観測者は存在しない?
これは存在するのでは、ないでしょうか。 真実、事実として、どうなっているか興味を持って、観察しますが、見ますが、対象に対して、働きかけはしない状態は、大いにありうると考えます。 1000光年も先の宇宙の観測のようにでね。 意味はあると思います。
 8.18 何もしないよりは、悪いことでもしたほうがましでしょうか。
http://okwave.jp/qa/q5950502.html
何の役にも立たない人間より、社会に悪影響を与えている人間の方がましでしょうか。 後者がましと思う方は、何もしないよりは何かした方が魂の成長につながるからなどの理由でしょうか、
 鋭いご意見ですね。 何もしないよりは このような状態があるでしょうか。 生きている限り、生きるために いろいろ既にされているのではないでしょうか。 迷っていて 1歩が出ないというのは、大事な事を考えていることにはならないでしょうか。 何の役にも立たない人間 本当にあり得るでしょうか。 生きている限り 消費活動もされているし、人に影響を与えているのではないでしょうか。 世に無駄など、意味のないものは何もないと誰かが言っていました、気になります。 さて、結論の方ですが、一面の真理を表していて、大いに考えさせられますね。 世には正ばかりではなく、負も必要であり、それで、成り立っていると考えると なるほどという面があります。社会に悪影響を与えている これの位置づけが難しいですね。 何もしないよりは何かした方は、もっと良いという見解が取れますね。
 8.19 何事にも左右されない絶対の悪人は存在するのか?
http://okwave.jp/qa/q6060593.html
 大事なまた、面白い問題の提起です。 結論は 絶対は、難しいのではないでしょうか。 東条英機が そんなに悪いと言うのは間違っていると思います。 彼が、国家の意思に基づいて 国家のために尽くしたというのは正当な弁明になると思います。 ヒトラーは当時、熱烈な支持を受けていたと思います。 絶対に悪いなどとは、言えないと思います。 沢山言いたいことがあるのですが、声明1と声明41を参考にしてください。 第二次世界大戦にも大義はある と思います。 声明45を参照してください。 絶対的な標準としては、神を考えたい。 世界史ですね。 声明41. しかし、絶対と言うのは 難しいと思います。
  8.20 人の人格の捉え方は、国や地域、民族によって異なるといわれています。
http://questionbox.jp.msn.com/qa6043442.html
これは簡単ですね。 一般に、認識の問題と捉えればいいのではないでしょうか。 例えば、1枚の富士山の絵があるとします。 この富士山をどのように理解し、捉えるかは、その人の富士山に関するいろいろな情報・経験によって全然違うと言うことです。 富士山の麓で富士山を見て育った人、全然見たことがないが、小説で思い出がある、絵で何時も眺めていた 等等経験が多 影響を与えますね。 結局同じ絵でも捉え方は、違うということですね。 これが、民族や国となると考え方が違うのは、当然ではないでしょうか。 認識の問題と考えれば、分かりやすいのではないでしょうか。
 8.21 日本の歴史における仏教の位置について:
http://www.mag2qa.com/qa6025425.html
 これは大きな話題ですが、感じを述べさせて頂きます。 日本には世界を表現する文字も理論も相当に欠けていた時代ですね、中国の文字と仏教が伝来したのですから、日本文化の根本に仏教と漢字が影響を与えたと思います。 従って それらは、ほとんどのところに影響を与え、影響を与えないのがないくらいではないでしょうか。 従来あった神道が世界を表現し、考える思想に曖昧さと定かでないものを感じるのは、今でも本質的に変わらないと思います。
そこで、中国の思想、漢字と仏教は、計りしれない影響を日本に与えたと思います。言葉を中国から輸入し、日本が中国語にならなかったのは、日本には確かな文化があり、それらを吸収できた偉大さは誇りにしていいのではないでしょうか。 多くの世界の国々は、言葉さえも輸入して、輸入した言語を話すようになっていますね。
 8.22 機械論的身体観とは、意識が、機械的身体を一部分一部分すべてコントロールするというもので、:
http://bekkoame.okwave.jp/qa6012940.html
 これは極めて面白い考えで、ロボットや身体補助の器具の開発など、無限に発展する余地が あると思いますが、まだまだ幼稚な段階と考えるべきだと思います。 我々の行動の大抵は、無意識の中で、本能的に動いているのが、実情ではないでしょうか。 いつも 小鳥たちの複雑な飛び方と飛ぶ様を感心して見ています。 どうして、あのような複雑な動きができるのかと感心してしまいます。 恋をしたり、南国まで飛んで行ったり、戻ったり、子を育てたりですね。 なかなかそのような世界に科学はまだ入れませんね。
 8.23 なぜ才能がないのに努力をしようとするのか?
http://questionbox.jp.msn.com/qa6135472.html
 まるで才能のない私のことを言っているように感じました。 確かに才能のある方に勝てない、かなわない事は現実にあり、実際多いと思います。 それは結果において、評価しているのですね。 その通りです。 しかし、私たちは 勝負の賭け、負けで考えて良いでしょうか。 結果だけの価値で良いでしょうか。 実際、私たちは、幸せになりたいのではないでしょうか。 幸せは個人が感じるものですから、個人が納得して、感動したりできれば、良いのではないでしょうか。 努力し、心を打ち込んでいる時に充実感がすれば、良いのではないでしょうか。 課程・努力している途中が、大事ではないでしょうか。 世の中結果だけではないと思います。 もしそうなら、野球など 馬鹿らしくてできないのでは。甲子園に行っても最後に残るのは、1チームだけですね。 みなさん、夢を抱いて、努力していたその間も素晴らしいのではないでしょうか。
もちろん、すべては自分の心が決めるものですから、良く自分を捉えて、納得が行くように生きたいと思います。 結果で人生を見たら、初めから、人生は、馬鹿馬鹿しいとはならないでしょうか。天才数学者で、偉大な業績を残されたが、不幸な人生であった。 凡人でも 数学を楽しみ、結構 良い人生を送れたとなれば、そんなに業績を残さなくても良いのではないでしょうか。
 8.24 インドと日本の違いは英語力 世界を相手になぜ、話さないのか
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100819-00000131-san-soci
 この問題は、文化に関わりますが、大きな問題だと思います。 日本人ほど、英語が下手な国民はいないと考えられるのではないでしょうか。 考える必要があります。 国際化・国際情報化の時代に、英語が自由でないのは、大きな不利益になるので、対策を根本的に考えるべきだと思います。 先ず、第1にこれを学校教育の問題にしないで、日常の生活から、自然に英語が身につくような文化環境を整えることが肝要ではないでしょうか。 外国のテレビやラジオが、どこでも自然に利用できるようにするのが良いと考えます。 さらにラジオ・テレビに外国の放送が、自由に利用できるようになれば、飛躍的に改善されると考えます。
 8.25 「男女別教育は学力アップ」 シンポで報告
http://sankei.jp.msn.com/life/education/100815/edc1008152034007-n1.htm
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100816-00000502-san-soci
 この問題は、慎重に総合的に考える必要があると思います。 先ず言える事は、学力をつける事だけが学校教育の目標ではないことですね。 学力は付けたが、変人や奇人を多く教育している 現状が多くあると思います。 しかしながら、そうは言っても、男女は種類が違うわけですから、個性なども相当に違っているので、いろいろ分けて、授業を行った方が良い、活動を行った方が良い場合も多いのではないでしょうか。 男女共学の学校でしたが、体育などは別別に授業を行っていました。 それは当然です。 学校全体を男女で分けないで、クラスごとの男女別のクラスを作ったり、合同の授業を作ったりの融合したものなど良いのではないではないでしょうか。 基本は、社会は男女共同で作られ、構成されるということではないでしょうか。 ここにも述べられていますが、特殊な受験体制を敷いた学校を出なければ、いわゆる名門大学に入れないような社会は、健全とは言えず、大学の入試制度は 柔軟に変えて硬直させないような配慮が必要だと考えます。
 8.26 日本人最大の弱点とは何だと思いますか?:
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/6209521.html
 大変鋭い意見で、このような問題意識は、素晴らしいですね。 私の説は、ご指摘のことは、真実だと思いますが、合理的な・論理的な思考能力の欠如と真理の追究・真実の追究に甘さがあって、誤魔化しや いい加減なところが多いですね。 人生、世界についても考察が甘いと言う弱点があると思います。 欧米では、時間を越えて、真理・真実を追求しようとする文化がある。 これは神の前に出るときには、清い心で望みたいという宗教が背後にあるように感じられる)のに比べて、日本には誤魔かしたり、隠蔽したり、曖昧にする文化があることに深く根ざしているとも言える。
 8.27 日本人の本音と建前は必要な事でしょうか?
http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6177288.html
 これは普遍的に存在して、また必要なのではないでしょうか。 ものごとの二面性で深いもののように思います。 添付する2元論も参考にしてください。 どんなに健康状態が絶望的でも、必ず良くなると言うのはその典型的なことではないでしょうか。 意外に人は、嫉妬心や、妬みの心が在って、人の失敗を喜ぶようなところがありますが、建前では必ず成功を祈るとなりますね。 また結婚式では、花嫁さんは必ず美しいと表現しますね。 実際、皆さん美しいですが。 頂くのは賛成ですが、建前では、遠慮する表現をとりますね。 これらは悪いとは言えないのでは。 すなわち、表現するときには、一般には美しい方向の表現になるのではないでしょうか。 国家の問題だと、侵略戦争でも、必ず防衛のための、自衛のための戦争と表現しますね。 悪くても、やむを得ない戦争だと表現すると思います。
 8.28 なぜ地球は食物連鎖というルールの中で存在しているんでしょうか? そこに大きな意味みたいなものが存在しているんでしょうか?
http://oshiete1.nifty.com/qa6160506.html
 素晴らしい質問です。 自然は厳しいので、多様性を有する形に生体系を作って、生物の生存を図っているように見えますね。 生命の目指す先は、まだ分かりませんが、生存すること、知ること、感動することを求めているのは確かですね。
次を参照してください。 尚そこで言われている、元祖生命体は、遺伝子という実在するもので、実現しているともいえますね。 遺伝子は生物を乗りついで生きていますね。何を目指しているのでしょうか。
 8.29  美しい悪:
http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6350771.html
意外な問題提起ですね。 美と悪の定義から、始める必要があります。 先ず、美ですが、感性的で感じることですね。 悪は、何か道徳基準があって、それに反する行為ですね。少し理性的なものですね。 それらは、公正の原則や世界観から言って、調和するのが、理想的と考えるわけですが、それらが、背反する場合を述べていると思います。 まず、赤穂の討ち入り事件は、如何でしょうか? 主の無念を、存念を晴らしたい、忠義の精神が美しいとして伝えられてきましたね。 死をかけて忠義を尽くした事が人を感動させるのですね。 他方、それは法と公儀に立てつく事ですから、それを許しては、秩序が保てず、悪と考えざるをえません。 将軍が評価をどのように処置するか、如何に苦悩したかが推し量れますね。そのように、世には、矛盾することが起きて、 いろいろどのように対応すべきか、迷うことが多いのではないでしょうか。 次の原理 (声明1公正の原則)で、大体はうまくいくと思いますので、ご参考にしてください:
 8.30 なぜ帰化人というと偏見を持たれるのでしょうか?
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1052923075
 これは相当に日本特有の野蛮な考え方ですね。 中国や韓国では開かれた国ですから、そのような外人・自国民の考えはないのではないでしょうか。 EUなどでは王族たちも積極的に混血したり、 混血は相当に進んでいたり、人種が混じっていますので、日本の考え方など全然ないですね。 キリスト教などが影響しているかも知れません。 世界でも、日本のようなと 述べられているような考えをする国は思い浮かびませんね。 中国や韓国に行けば、兄弟や両親・祖母などと区別ができない人に会い、日本人が大陸から来たことを実感しますね。 外人などの考えそのものが野蛮な発想ですね。 島国根性から出ている田舎ものの習性ともいえますね。 広い視点を持ちたいと思います。
 8.31 核は時代遅れの兵器では?
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/6407816.html
本当に時代遅れのマイナス兵器ですね。 人間は愚かですから、馬鹿げたことをしないように、しっかりしたいと思います。 世界の歴史を拓く様な戦略が幾らでもありますね。日本に核兵器を持ちたいという考えがある方がおかしいと思います。 簡単に理由を述べたいと思います。 1)核兵器を持つと何か良いことがあるでしょうか。 第2次世界大戦以前ならば、使用が考えられたと思いますが、現在の世界情勢で、本当に核兵器を使える場面が起きるでしょうか。 起き得ないと考えます。 人間は愚かで、核戦争を起こすでしょうか。人種も民族もお金も経済も密接につながっている現状で、それらは不可能ではないでしょうか。 2)そのような無用の長物を作って、沢山のお金がかかり、保管や安全管理に膨大な資金と労力をかける意味は何でしょうか。 マイナスの大きな仕事ですね。 間違えば自滅ですね。小さな島で、核実験さえ満足にできない。 地球の環境破壊。 3)脅かしに持ちたいと考えられるのではないでしょうか。 しかし、それこそ張り子のトラで、使えない魔物を持っているだけですね。 責任者は怖くて、日常的に相当なストレスを懐くことになると思います。   4)北朝鮮のような小さな国が、大国・中国やアメリカを振り回しても何もできない状況をしっかり見るべきではないでしょうか。 核兵器を1発放して、うまくいくでしょうか。それを世界は許すでしょうか。 イラクでもどうでしょうか。 本当に膨大な資金と労力・生命を失っていますね。それでも、核兵器は使えませんね。 5)日本は被爆国として、愚かなことはよしましょうと 世界に訴えていますね。 それは地球に対する、人類と生命全体の大義ある主張として続けた方が 日本国の世界の中の存在として、意味があるのではないでしょうか。 マイナスの核保有国になるより。
 8.32 多様性ってどうして必要なの?
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/173664.html
 人間として生きる意味を深く考えることが大事ですね。 生きるということの意味です。 更に、何をやるにも多様なもの・考えがあった方が有利ですね。 家を建てるにも、いろいろな構想があり、物があり、道具があった方が、良い家が建てられるのではないでしょうか。 生命も、厳しい自然の中で生きていくためには いろいろな種類がいて、様々な環境に耐えられる生物が生まれますね。 例えば温泉の中で生きられるウイルスや、地中深くに住める微生物などですね。 いろいろな生物がいて、全体として、協力して何億年も生存を続けてこられたのは、生物の多様性のためではないでしょうか。 国でも社会でも、広い世界ですから、いろいろな人がいて、役割を果たして、社会は成り立っているのではないでしょうか。人間存在の本質などについては、夜明け前 よっちゃんの想い の中でいろいろ触れて見ました。
 8.33 なぜ人は絶滅危惧種を救おうとするのか?
http://okwave.jp/qa/q6402904.html
 先ず絶滅をすると、今の段階では、その種を作ることができないので、絶滅させるのは良くないと考えるわけです。 理由は、その生物が、全体の生命活動の中で、かけがいのない役割を果たしている場合、かけがいのないものを永遠に失うことになるからです。 生態系の中での役割は、良く分からないので、かけがいのないものを失いたくはないのは、当然です。 また、生物の多様性を絶えず、大事にするのは、世界を豊かにすることですから、基本的に大事だと思います。 次の声明 (恋の原理と心得: 再生核研究所声明36)も参考にしてください:
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jazieta-blog · 5 years
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安倍の虚言は今年もアクセル全開! 2018年、安倍首相がついた真っ赤な嘘とインチキを総まくり
litera (前編) https://lite-ra.com/2018/12/post-4455.html litera (後編) https://lite-ra.com/2018/12/post-4456.html 今年も、リテラ年末恒例・安倍首相による「大嘘」振り返り企画をお届けする季節がやってきた。毎年毎年カウントしきれないほどの嘘をつきつづける総理だが、2018年も虚言のアクセルは全開。今年も数々の疑惑をめぐる嘘はもちろん、あらゆる失政や失態について、あったことをなかったことに、なかったことをあったことに。誰の目にも明らかな嘘を平然と、まさに息をするように嘘をつきまくった安倍首相。  そのため、今年は昨年よりも5本多い、よりぬきの15の嘘を振り返りたい。胃もたれ必至の嘘つき発言、まずは前編の8本をお届けしよう! ◎大嘘その1 「決して日本が蚊帳の外に置かれていることはありません」 4月29日付、産経新聞独占インタビュー  北朝鮮の脅威を「国難」と呼び、Jアラートを鳴らしまくって国民に恐怖を植え付け、文在寅大統領と金正恩委員長の南北首脳会談実現が決定しても「圧力を最大限に高める」と吠えつづけた安倍首相。だが、「最大限の圧力」を国会で叫んだ数日後には“親愛なる”トランプ大統領も金委員長と首脳会談を開く意向を表明、平和的解決への流れが決定的に。つまり、日本だけがこの動きを知らず圧力をがなり立てていたという「蚊帳の外」だったことが判明して飛んだ赤っ恥をかいたのだが、安倍首相は御用メディアの産経で「蚊帳の外じゃない!」「日本が国際社会をリードしてきた成果」と主張。しかし、この「蚊帳の外」状態は、いまだに日朝首脳会談の道筋さえつけられていないことからもあきらか。にもかかわらず、ついには次のようなことまで言い出したのだ。 ◎大嘘その2 「あの、拉致問題を解決できるのは安倍政権だけだと私が言ったことは、ございません」 9月14日、日本記者クラブでの総裁選討論会  思わず耳を疑った。総裁選討論会で御用メディアである読売新聞の橋本五郎特別編集委員に「安倍晋三政権は一貫して拉致問題を解決できるのは安倍政権だけだと言われていた」「現状はどうなっているのか、見通しはあるのか」と問われた際の、安倍首相の返答だ。  安倍首相といえば、これまで一時帰国した拉致被害者5人を“帰さなかったのは自分だ”という嘘を筆頭に、対拉致問題で数々のニセの武勇伝や逸話をでっち上げ、「拉致被害者を取り戻せるのは、これまで北朝鮮と渡り合ってきた安倍首相しかいない!」という空気をつくり出してきた張本人。今年4月に出席した「政府に今年中の全被害者救出を再度求める 国民大集会」でも、「すべての拉致被害者の即時帰国」について「安倍内閣においてこの問題を解決するという強い決意を持って、臨んでまいりたい」と高らかに宣言していた。  ところがどっこい、拉致問題に進展が見られないことを突っ込まれると、「拉致問題を解決できるのは安倍政権だけだと私が言ったことはない」と言い出し、その上、「ご家族のみなさんがですね、そういう発言をされた方がおられることは承知をしておりますが」などと責任を逃れしたのである。  さんざん拉致問題を政治利用した挙げ句、都合が悪くなると「自分は言ってないもん」。これで信用しろというほうがどうかしているだろう。 ◎大嘘その3 「私は、明治時代に逆戻りしようと言ったことはまったくない」 1月29日、衆院予算委員会  え? 今年の年頭所感で初っ端から〈本年は、明治維新から150年の節目の年です〉と“明治150年推し”を全開させ、明治時代の日本を手放しで称賛して明治の精神をこれからのモデルにしようと国民に提示したのは、誰でしたっけ? しかも、安倍首相は自民党総裁選への出馬を表明した際も、わざわざ鹿児島県で表明をおこない、その背景には鹿児島を象徴する桜島がドーン。この表明の直前には、会合で「ちょうど今晩のNHK大河ドラマ『西郷どん』(のテーマ)は『薩長同盟』だ。しっかり薩長で力を合わせ、新たな時代を切り開いていきたい」(産経ニュースより)と講演していたほどだ。 『西郷どん』人気に便乗し、「明治=大日本帝国を取り戻す」という戦前回帰志向を“改革に邁進するリーダー”に置き換えて印象づけたい──。この姑息な目論見には反吐が出るが、しかも安倍首相は「逆戻りしようと言ったことはない」と抗弁した際には、「いまのスタンダードで150年前のことを『上から目線で』で断罪することもいかがなものか」と発言。「歴史から反省を学ぶ」ことを放棄した人物を総理に据えているとは、恐怖以外の何ものでもない。 ◎大嘘その4 「こういう(圧力の)話はよくある」→「(圧力は)いや、ほとんどないんです(笑)」 9月17日、『報道ステーション』出演時  自民党総裁選では、対抗馬の石破茂氏が掲げた「正直、公正」というキャッチフレーズにさえ「安倍首相への個人攻撃だ」と噛み付くという狂犬ぶりを見せた安倍陣営。なかでも象徴的だったのは、現役閣僚だった石破派の斎藤健農水相(当時)が安倍首相を支持する国会議員から恫喝されたと暴露した一件だ。  そして、各局の報道番組を石破氏とそろってハシゴして出演した際も圧力・恫喝問題についての質問がいくつか飛んだのだが、安倍首相はこの話題になると終始、落ち着かない様子で目をキョロキョロと泳がせた上、なんと圧力を正当化。橋本龍太郎と小泉純一郎が争った1995年総裁選のエピソードをもち出し、「私も小泉応援団だったんですが、そんときわれわれもですね、一度、けっこう圧力をかけられてねってことを結構、みんな言ったんですが」として「こういう(圧力の)話はよくある」と正当化したのだ。  ところが、MCの富川悠太キャスターから「実際にそのときは(圧力が)あったんですね?」と訊かれると、安倍首相は「いや、ほとんどないんです(笑)。ないけど、我々もそう言ったほうが、いわば陣営かわいそうだなっていうことにもなりますし。ただ、実際にあったかもしれませんし、私にはまったくなかったな」などと発言。自分には圧力がなかったにもかかわらず「圧力を受けた」とウソを言いふらしていたと自ら暴露したのである。  この宰相が“類い稀な嘘つき”であることは公然の事実だが、ひどいのは“自分たちも圧力をかけられたとウソをついて同情を誘ったことがある。だから斎藤もウソをついてるんじゃないか”と誘導していること。いやはや、まことに大した人間性である。 ◎大嘘その5 「今後、ICANの事務局長からあらためて面会要請があった場合には、そのときの日程などを踏まえて検討したい」 1月30日、衆院予算委員会  今年1月、ノーベル平和賞を受賞した国際NGO・核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)のベアトリス・フィン事務局長が来日した際、「日程の都合上できない」と面会を拒否した安倍首相。この対応にはネット上で「芸能人とは会食する時間はあるくせに」と批判が起こり、フィン事務局長の会見では「失望」という言葉も出た。  だが、安倍首相の「今度は検討する」というのがその場しのぎの嘘であることは明白。実際、ICANのノーベル平和賞受賞が発表された後も、サーロー節子さんが被爆者としてはじめて授賞式でスピーチをおこなった後も、安倍首相は公式に祝福コメントを一切発しないまま。さらに、今年11月に来日したサーロー節子さんが面会を求めたにもかかわらず、安倍首相はまたも「日程の都合」(菅義偉官房長官の弁)で面会を拒否したのである。  サーローさんは会見で「推測だがよほど忙しいか、意図的に私を避けたいかだ。違った意見を持った人にも会って語り続けるのが本当のリーダーシップではないか」と批判したが、まさにそのとおり。「唯一の戦争被爆国として核兵器のない世界の実現に向けて努力を重ねていく」と言いながら、核兵器禁止条約の批准を求める国連総会決議案に反対するという安倍首相の異常さ、二枚舌に、国民はもっと怒るべきだろう。 ◎大嘘その6 「『非正規』という言葉を、この国から一掃してまいります」 1月22日、施政方針演説  この言葉、じつは安倍首相は2016年6月の記者会見をはじめ、事ある毎に述べてきたが、一見すると格差是正に向けた大胆な改革というようにも映る。しかし、騙されてはいけないのは、安倍首相はけっして「非正規雇用をなくす」あるいは「正規と非正規の格差をなくす」と言っているわけではない、ということ。たんに「非正規」という言葉を使わない、というだけの話なのである。  実際、安倍首相が今年の通常国会で成立させた「働き方改革関連法案」の「同一��働同一賃金の導入」では、正社員と非正規のあいだに不合理な待遇差を設けることを違法としているが、ガイドラインでは正社員と非正規の基本給などついて「実態に違いがなければ同一の、違いがあれば違いに応じた支給を求める」とするなど、正社員と非正規の賃金格差を容認するものとなっている。  だいたい、「非正規という言葉をこの国から一掃する」という掛け声とは裏腹に、第二次安倍政権がはじまった2012年から16年までの4年間で非正規雇用者は207万人も増加。一方、この間の正規雇用者は22万人増加でしかなく、雇用者数の9割が非正規というのが実態だ。  低賃金の非正規を増やしつづける一方、低所得者に打撃を与える消費税増税を決めた安倍首相。このままではさらに貧困は広がっていくだろう。 ◎大嘘その7 「裁量労働制で働く方の労働時間の長さは、平均的な方で比べればですね、一般労働者よりも短いというデータもある」 1月29日、衆院予算委員会 「働き方改革関連法案」の目玉のひとつだった「裁量労働制の対象拡大」をめぐって、自信満々に言い放ったこの答弁。しかし、答弁から間もなくこのデータが恣意的に捏造されたものだったことが判明。それでも安倍首相は「(答弁前にデータが)正しいかどうか確認しろなんてことは、あり得ないんですよ」などと開き直るという醜態を晒したが、その後は加藤勝信厚労相が「なくなった」と説明していたデータの基となった調査票が厚労省本庁舎の地下倉庫から発見されるわ、さらにデータを精査すると異常な数値が相次いで見つかるわ、問題が雪だるま状態に。結局、法案から「裁量労働制の対象拡大」は削除される結果となった。  だが、安倍首相は「裁量労働制の対象拡大」を諦めたわけではない。すでに厚労省の有識者会議が新たな調査票をまとめたが、これがまたも実態を把握できない設計になっているとして修正を求める声があがっている。問題を起こしても忖度をやめない姿勢には反吐が出るが、ともかくいまは安倍首相の嘘を未然の防ぐための監視が必要であることは間違いない。 ◎大嘘その8 「明日の時代を切り拓くための全員野球内閣だ」 10月2日、内閣改造後の記者会見で  失笑必至のネーミングもさることながら、発足1カ月も経たないうちにその実態が「(ほぼ)全員“不適格”内閣」であることが判明した第4次安倍改造内閣。なかでも、国税への100万円口利き疑惑のほか疑惑が湧き水のように吹き出した片山さつき地方創生担当相や、「質問通告なかった」「PC打たない」発言で一躍“無能大臣”として名を馳せた桜田義孝五輪・サイバーセキュリティー担当相に注目が集まったが、このほかにも閣僚の問題が続出。  入閣後すぐに「教育勅語は普遍性をもっている部分がある」という発言が問題となった柴山昌彦文科相にもち上がったバスツアー利益供与・公選法違反疑惑に、茂木敏充経済再生相の日本リラクゼーション業協会との癒着疑惑、吉川貴盛農水相の太陽光発電所の新設をめぐる口利き疑惑、渡辺博道復興相の補助金受給企業からの寄付問題、平井卓也IT担当相の談合企業からの献金問題と、宮腰光寛沖縄北方担当相にいたっては談合企業からの献金問題にくわえ、酒に酔って議員宿舎内のほかの議員の部屋を“全裸でピンポンダッシュ”したという過去の醜態まであきらかになった。  しかも、この内閣、差別主義者と歴史修正主義者だらけの「(ほぼ)全員ネトウヨ内閣」でもある(詳しくは過去記事参照→https://lite-ra.com/2018/10/post-4291.html)。稲田朋美元防衛相や杉田水脈議員のようなトンデモ極右・差別発言がいつ飛び出してもおかしくはなく、来年も先が思いやられるのである。 リテラ年末恒例・安倍首相による「大嘘」振り返り企画。前編ではまず8つの嘘をお届けしたが、後編ではさらなる嘘・インチキを紹介したい。昨年の森友・加計問題に続き、今年もすごかったのが疑惑に関する嘘。公文書改ざんに「首相案件」問題、無能外交、そして「ケチって火炎瓶」など問題や疑惑が噴出し、そのたびにデタラメやインチキを重ね、嘘八百を並べ立てた。嘘に嘘を重ねる“嘘のミルフィーユ”状態の安倍首相の大嘘2018後編7本をご一読あれ! ◎大嘘その9 「国有地の払い下げか認可について、私や私の妻や事務所が関われば、責任をとると言うことを申し上げたわけでございます」 2月26日、衆院予算委員会  昨年、安倍首相が国会で宣言した「私や妻が関係していたということになれば、私は総理大臣首相��国会議員も辞めるということは、はっきりと申し上げておきたい」という発言を忘れた人はいないだろう。ご存じの通り、昭恵氏付きの秘書だった谷査恵子氏は財務省に“口利きFAX”を送信、その後これらはすべて叶えられるという満額回答を引き出していた。つまり昭恵氏は「関係していた」のは明々白々で、さっさと総理も国会議員も辞めていただかなくてはならないのだが、それを安倍首相は「国有地の払い下げか認可に関わっていたらの話」だと主張しはじめたのである。  しかも、だ。5月28日の参院予算委員会ではさらにこう答弁した。 「贈収賄ではまったくないってことは申し上げておきたい。そしてそういう、私は文脈のなかにおいて(自分や妻が)一切関わってないということを申し上げているわけでございます」 「関係していたら辞める」と言っていたのが、いつのまにか「金品の授受という意味で関わっていない」と後出しジャンケンで発言を修正してくるとは……。だが、この苦し紛れの姑息な答弁修正は、昭恵夫人のかかわりを安倍首相が認めていることの何よりの証明だろう。 ◎大嘘その10 「(改ざん前文書が存在することは)11日に報告を受けた」 3月14日、参院予算委員会  森友の決裁文書が改ざんされていた──今年3月2日に朝日新聞のスクープによって発覚した公文書改ざん問題。これは間違いなく戦後日本の歴史のなかでも類を見ない深刻かつ重大な国家犯罪であり、民主主義の根幹を揺るがす大問題だが、当初、安倍首相は「捜査に影響する」などと言い逃れ、麻生太郎財務相も「6日に調査結果を出す」と言いながら直前になって「捜査が終わらないと個別な調査がなかなかしにくい」と文書の開示を拒否する予防線を張る動きを見せていた。しかし、週末金曜日の9日になって近畿財務局で直接改ざんを命じられた職員の自殺が伝えられると、財務省は「書き換え」を認める方針を打ち出し、週明け月曜の12日に改ざん前文書の公表へといたった。  そんななか、安倍首相は改ざん前文書が存在することを公表の前日である「11日に報告を受けた」と答弁したのだが、これが大嘘であることがすぐさまバレた。菅義偉官房長官が6日には安倍首相も「承知」していたと認めたのだ。  そもそも、改ざんの事実を安倍首相が今年3月6日に知ったなどということもあり得ず、むしろ安倍官邸が改ざんを主導したとしか考えられないのだが、この「11日に知った」という答弁が嘘だと判明してからも、安倍首相は開き直って「事実関係を確認できるのは財務省だけ」「私たちがそれを乗り越えて確認できない」と強調したのである。  普段は「強いリーダーシップを発揮する。これがトップである私の責任だ」などと言うくせに、不都合な問題では「事実の確認」さえできない。それが安倍総理の実態なのだ。   ◎大嘘その11 「前川前次官ですらですね、京産大はすでに出していたんですが、そのことはまだ準備がまだ十分じゃないという認識の上に、熟度は十分ではないという認識の上に、加計学園しかなかったとおっしゃっていたわけであります」 5月14日、衆院予算委員会  平気で嘘をつくだけではなく、自分が貶めてきた相手を都合よくもち出して正当化の材料に使うとは……。もちろん、前川喜平・元文科事務次官が京都産業大学よりも加計学園のほうが獣医学部新設計画の熟度が上だったと認めたことなど一度もなく、安倍首相のこの答弁のあとに前川氏が発表したコメントでも〈2016年10月17日の京産大の提案内容を知らされていない私が、加計学園の提案と京産大の提案とを比較考量することは不可能〉と反論。同時に、安倍首相が「前川前次官も含め、誰一人として私から国家戦略特区における獣医学部新設について何らの指示も受けていないことがすでに明らかになっている」と強弁しつづけていることに対しても〈私は加計学園の獣医学部の平成30年度新設が安倍首相自身の強い意向だという認識を持っていました〉とし、〈安倍首相が加計学園の獣医学部新設に自分が関与していないと主張するための材料として、私の名前に言及することは極めて心外であり、私の名前をこのように使わないでいただきたいと思います〉と釘を刺したのだった。  だが、こうした反論を受けていながら、その後も安倍首相は何食わぬ顔で前川氏の名前を出して「私から指示を受けたり依頼を受けた人は一人もいない」と言いつづけている。ゲッベルスが言ったとされる、「たとえ嘘であっても100回聴かされれば真実と思い込むようになる」という言葉を地でゆく首相……恐ろしさしかない。 ◎大嘘その12 「かつてですね、私がNHKに圧力をかけたという、まったくこれは捏造の報道をされたことがあります。そして朝日新聞は検証したんですが、私が圧力をかけたという事実を掴めることができなかったという検証だった。でも、彼らが間違ったとは一度も書かない。で、私に一度も謝らない」 2月13日、衆院予算委員会  総理大臣がメディアを名指しして猛批判を繰り広げる下劣さに慣らされつつあるが、今年も安倍首相は国会で朝日新聞バッシングを展開。とくに聞き捨てならなかったのは、この発言だ。  安倍首相がここでもち出したのは、いまから13年前の2005年に朝日が報じたNHK番組改変問題のこと。日本軍性奴隷制を裁く女性国際戦犯法廷を取り上げたETV特集『問われる戦時性暴力』の放送直前に内閣官房副長官だった安倍氏らが放送直前に政治的な圧力をかけ、その結果、番組が改変されたと2005年1月に朝日が報じた問題だ。当時、安倍氏は各局の番組に出演しては圧力をかけたという事実の否定と朝日批判を繰り返し、自民党は朝日への選挙広告の出稿もストップ。当初は強気な姿勢だった朝日も、同年9月に取材が不十分だったとする記者会見を開くにいたった。  しかし、朝日が弱腰になっただけで、安倍氏が番組に圧力をかけたことは事実だ。現に、同番組の取材を受けた市民団体が NHKを訴えた裁判の控訴審判決では、裁判長が「制作に携わる者の方針を離れて、国会議員などの発言を必要以上に重く受け止め、その意図を忖度し、当たり障りのないよう番組を改変した」と指摘。さらに判決理由の要旨では「安倍氏は、いわゆる従軍慰安婦問題について持論を展開した後、NHKが求められている公正中立の立場で報道すべきではないかと指摘した」とされている。  しかも、朝日は安倍氏らが圧力をかけたことを裏付ける証言を番組放送時のNHK放送総局長から得ていた。その中身を公表したジャーナリストの魚住昭氏のレポートによれば、放送総局長は安倍氏らとの面談について「脅しとは思った」「圧力とは感じる」と述べた上、安倍氏との面会時の様子を、こう証言している。 「先生はなかなか頭がいい。抽象的な言い方で人を攻めてきて、いやな奴だなあと思った要素があった。ストレートに言わない要素が一方であった。「勘ぐれ、お前」みたいな言い方をした部分もある」 「勘ぐれ」──。安倍首相が恫喝のために吐いたこの一言は、いわば「忖度しろ」と言っているのと同じだ。加計学園問題における「総理のご意向」という言葉が思い返されるようだが、安倍首相はこうやって昔から、直接的な指示ではなく「勘ぐれ」というような直接的ではない脅し文句によって、圧力をかけたり忖度を引き出してきたのではないのか。  NHK番組改変問題は安倍首相が言うような「捏造の報道」などではけっしてなく、安倍首相が番組に介入し圧力をかけたことは紛れもない事実だ。「私に一度も謝らない」と言う前に、自分がついた数々の嘘について、まずは国民に謝るべきだろう。 ◎大嘘その13 「これはむしろ私が関わりがあるということではまったくなくてですね、私は一切の関わりを断ってきたなかにおいて発生した事件であるわけであります」 7月17日、参院内閣委員会  今年、ネット上で大きな話題となった“安倍ネタ”といえば、やはり「#ケチって火炎瓶」問題を忘れるわけにはいかない。  ごく簡単に説明すると、1999年におこなわれた下関市長選をめぐり、安倍事務所が暴力団とも関係が深い前科8犯のブローカー・小山佐市氏に選挙妨害を依頼。その後、安倍事務所は男と交わした“見返り”の約束を破ったため、翌2000年に男は暴力団員を使って安倍邸を放火。その後、2003年に小山氏が逮捕された。  それが今年、ジャーナリスト・山岡俊介氏が2月に出所したばかりの小山氏との接触に成功。安倍首相が選挙妨害に関与していた“決定的物証”を手に入れたため、ネット上では大きな話題となったのだ(詳しくは過去記事を参照→https://lite-ra.com/2018/07/post-4108.html、https://lite-ra.com/2018/07/post-4111.html)。  そして、この問題を、“みなさまの鉄砲玉”こと山本太郎議員が国会で安倍首相に追及。すると、安倍首相は“恐喝されても屈しなかったから火炎瓶襲撃の被害に遭った。むしろ自分は被害者だ”と主張したのである。  言い訳が「自分は被害者だ」とは、まるで森友���題で籠池泰典氏に対してとった態度を彷彿とさせるが、その主張の嘘まやかしもまったく同じだ。そもそも、小山氏は安倍事務所への恐喝については起訴猶予で釈放されている。また、仮にそれが恐喝まがいの要求だったとしても、問題なのはそれ自体ではなく、小山氏にそういう要求をさせた原因ではないか。小山氏が放火未遂に及んだのは、安倍事務所から依頼された選挙妨害を実行したのに、見返りの約束が果たされなかったからなのである。  実際、これは裁判でも認められている“事実”だ。2007年に出た判決公判で福岡地裁小倉支部の野島秀夫裁判長(当時)は、「(小山被告は)事件の1年前に行われた下関市長選挙に関して安倍総理大臣側に協力したのに金銭の要求を拒絶された。この恨みを晴らすとともに、暴力に訴えて多額の金銭を得ようとつきあいがあった組長に犯行を依頼した」と述べているのだ。  しかも、山岡氏の取材に応じた小山氏は、選挙妨害の詳細から見返りの約束の内容まで事細かに証言。見返りが実行されないことに業を煮やした小山氏サイドと安倍本人が直接面会して“秘密会談”をおこなったこと、さらには交渉内容を確認して署名捺印した記録文書を提示。そこには〈安倍晋三 秘書 竹田力〉というサインと捺印が入っている。──つまり、安倍事務所が依頼した違法な選挙妨害を口封じするために、安倍首相自身が小山の突きつけた要求に応じる約束をおこなっていたのだ。 「ケチって火炎瓶」とは言い得て妙だが、それにしても、反社会的勢力に通じた人間に選挙妨害を依頼する、そのダーティさにぞっとせずにはいられない。 ◎大嘘その14 「今後とも県民のみなさまの気持ちに寄り添う」 10月12日、玉城デニー沖縄県知事との会談で  こう言ってから、わずか約2カ月後の12月14日、政府は辺野古の海に土砂を投入した。対話を拒否しまくった翁長雄志・前知事時代とは違い、安倍首相は表向き「対話路線」を強調したものの、たんに「対話には応じた」という既成事実をつくっただけ。県知事選で「辺野古新基地建設反対」を掲げて与党推薦候補に約8万票もの差をつけて玉城氏が圧勝した選挙結果を一顧だにせず、「気持ちに寄り添う」どころか気持ちを踏みにじり、牙を剥いてみせたのだ。  そもそも、安倍首相に「気持ちに寄り添う」つもりなどさらさらなかった。現に、今年1月5日に出演した櫻井よしこ率いるネトウヨ番組『櫻LIVE 新春スペシャル「安倍首相に華やかさくら組が迫る!」』出演時には、「(在沖米軍の)訓練はときとして迷惑になることもありますが、それを受け入れてくれる人がいて初めて、いざというときに対応できる」と発言。米軍の訓練が住民の生活に支障を与えているだけでなく命の危険さえ生じさせている事実が歴然と沖縄にはあるというのに、“いざというときのために我慢して受け入れろ”と安倍首相は投げつけているのだ。これは、本土決戦の時間稼ぎのために沖縄を捨て石にした、戦時中の発想そのものではないか。  安倍首相はミエミエの嘘をつかず、はっきり国会でも「沖縄は我慢しろ」と言えばいい。そうすれば、いかに安倍首相が国民の命を軽視しているか、その正体が多くの人に伝わるだろう。 ◎大嘘その15 「(森友と加計問題については昨年の総選挙で)国民のみなさまの審判を仰いだところ」 9月14日、日本記者クラブでの総裁選討論会で  今年も山のように嘘を吐きつづけた安倍首相だが、もっとも仰け反ったのはコレだろう。昨年の解散発表時、安倍首相は森友・加計問題について「国民のみなさまに対してご説明もしながら選挙をおこなう」と明言したが、蓋を開けてみれば、選挙中は「街頭演説で説明するより国会で説明したい」と言い出し、選挙後は「国会において丁寧な説明を積み重ねて参りました」と開き直った。国民の審判など、ただの一度も仰いでないのだ。  だいたい、森友学園の公文書改ざんが発覚したのも、加計学園問題で愛媛県から「首相案件」と記した文書が見つかったのも、今年に入ってからの話。なのに、全部ひっくるめて「昨年の総選挙で国民の審判を仰いで圧勝しましたけど何か?」と言わんばかりにふんぞり返ったのである。  いま、永田町では、安倍首相が来年、衆参同時選挙に打って出るのではないかという噂が流れている。選挙で改憲のカの字も出さなくても、この男は「国民の負託に応える」などと言って一気に改憲へと突き進むだろう。選挙で止めなくては、嘘とデタラメでどこまでも暴走する。そのことをけっして忘れてはいけないだろう。 ----------------------------------------------------------------  今年、安倍首相がついた嘘はこれだけにかぎらないのだが、いかがだったろうか。  だが、安倍首相は「稀代の嘘つき」であるだけでなく「知性や品性のなさ」、はっきり言うとバカ丸出しかつ人間性を疑わざるを得ない無神経さという問題がある。そして、今年もそうした発言が大量にあった。次の記事では、そうした「バカ丸出し&人格破綻」発言集をお送りしたいと思うので、ご期待いただきたい。 litera (前編) https://lite-ra.com/2018/12/post-4455.html litera (後編) https://lite-ra.com/2018/12/post-4456.html
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中国江蘇省の「南京大虐殺記念館」が2017年12月14日、リニューアルを終えて一般公開を始めた。  しかし、産経新聞の河崎真澄記者の報道(2017.12.15)によると、「南京大虐殺の史実を世界に周知させた」として顕彰された朝日新聞の本多勝一元記者らの写真と資料が撤去されていたことが分かったという。  河崎記者は日本軍が朝鮮半島で女性を強制連行したとする吉田清治氏(故人)の証言報道が「虚偽だった」と朝日新聞が認めたことなどから、同紙の過去の報道の信頼性に疑念をもたれる恐れがあると判断した可能性があるとしている。  一方、習近平主席が2015年の公式訪英時、エリザベス女王主催の晩餐会で「日本侵略者の暴行を暴く記事を発表した」などと英国人記者を称賛して中英の友情物語として紹介したことがある。  ところが、岡部伸(産経新聞ロンドン支局長)氏の調査で件の記者は南京に行っていなかったことが判明した。筆者はこの失態の影響もあるのではないかと思料している。  嘘は大きければ大きいほど愛国心が強い証とされた「愛国虚言」ゆえか、本多氏のルポルタージュ「中国の旅」(1971年)以来、「南京大虐殺」は拡大の一途をたどり独り歩きしてきたが、展示品の撤去や事実を確認しない虚偽の紹介は、矛盾の露呈ではないだろうか。 ■ そもそも「南京事件」とは何か  支那事変(日中戦争、日華事変とも呼称)は、北京近傍の盧溝橋事件(1937年7月7日)で始まり、3週間後の29日には日本人居住地を守っていた中国の守備隊が反乱を起こし、250人余の猟奇的殺害、処刑を行う通州事件が起きる。8月9日には上海に拡大した。  「中国に深入りするのは泥沼に踏み込むようなものだ」と不拡大を主張していた参謀本部の第1部長石原莞爾少将や慎重論の米内光政海相も堪忍袋の緒を切らし、作戦を限定する方針のもとに上海への出兵に同意する。  9月にかけて2個師団強(第3・第9師団、1個支隊)が松井石根大将を総司令官とする上海派遣軍として派遣された。  他方、蒋介石の中国側はドイツから招いた将軍の指導下にチェコ製機関銃を配備するトーチカを構築して、75個師団(約75万人)の大兵力を布陣していた。  日本側は苦戦を強いられ、11月には予備役まで招集した第10軍(第6・第101師団、1個支隊)を増派、北支から第16師団も転用して上海派遣軍に編入し、中支那方面軍(司令官松井大将)を編成した。
5個師団基幹でも総兵力は約7万人で、国民党軍の10分の1以下でしかなかった。  蒋介石は住民を盾にする戦術を採り、住民を巻き添えにしたくない日本軍は至る所で思わぬ抵抗を受け、20キロを進むのに1か月余を要した。  その後の南京までの三百数十キロの追撃が30日であったことからも、上海戦の激烈さが分かる。  日本軍が南京攻略戦を開始したのは12月8日である。蒋介石は前日に南京を脱出する。  松井方面軍司令官は9日1600に翌日正午までの停戦命令を出し降伏を勧告するが返答なく、10日1300に攻撃を再開した。  日本軍の攻城に耐え切れず南京防衛軍司令長官の唐生智が12日夜脱出すると、13日早朝に南京は落城する。その後城内の掃討戦を行い、17日に松井司令官を先頭に入城式を行う。  日本軍の意向もあって、12月23日には早くも南京市自治委員会が成立し、翌1938年1月1日を期して発会式を挙行している。  城壁上に上がった陶錫三会長は城下に集う民衆に対して「ここに敵の主都は甦生へのスタートを切った」と宣言する(「アサヒグラフ」昭和13年1月26日)。  「南京事件」と言われたものは、米人宣教師たちが後々の布教のために、「城内における日本軍の暴行」をでっち上げ、国際世論や南京市民の支持を得るプロパガンダであったとされる。  従って、城内の暴行報告は日本軍の南京入城(12月13日)から翌38年2月上旬までの約6週間であった。  しかし、この間の暴行報告を見ても強姦、掠奪、放火などで数も多くなく、虐殺と思われるような事象は見られない。
 事実、南京戦以前は100万人いた市民の多くは戦火の拡大と共に脱出した。  残った20万人もドイツ人ジョン・ラーベを長とする国際委員会が設定した安全地帯(安全区や難民区などの呼称もあり、皇居前広場の約4倍)に収容され、安全区外の城内にいる市民はほとんどいない状況であった。  しかも、城内の人口は日本軍の入城後も減ることはなく、2月頃は25万人と推定されるまでになっていた。  この時点で南京市民虐殺30万人説は成り立たず、「南京大虐殺」の虚構は崩れ去る。  しかし、大虐殺は「あった」派は満足せず、何時しか上海戦から南京攻略に至るまでとしたり、南京攻略戦以降の数か月にわたる期間などとするように変化させていく。  また、歴史家で「日本『南京』学会」理事でもある冨澤繁信氏は、大虐殺の出発点となった6週間内の「南京安全地帯の記録」を丁寧に翻訳・研究し、安全地帯の記録で「兵士」と書かれているのを一方的に「日本軍兵士」とする恣意的誤訳などを指摘している。 ■ 本多氏『中国の旅』での記述  日本軍が南京に近づく状況を本多氏の『中国の旅』は、「ここに至るまでに、すでに膨大な数の住民が殺されています」と書いている。  日本軍が入城すると、10万人以上いた蒋介石軍の高級将校は家族を連れ、また主な将校らも北側の2つの門から逃げ出し、門を閉め外から錠をおろして遮断する。  そこに大衆が押し寄せると、「日本軍は機関銃・小銃・手榴弾などを乱射した。飢えた軍用犬も放たれ、餌として食うために中国人を襲った。二つの門に通ずる・・・大通りは、死体と血におおわれて地獄の道と化した」。  日本軍は「二つの門を突破して、南京城外へくりだした。長江ぞいに下流(北東)へ、・・・と虐殺をすすめ、さらに南京城北7キロの燕子磯では10万人に及ぶ住民を川辺の砂原に追い出しておいて、機関銃で皆殺しにした。・・・このときまでに、南京城内も合せて約20万人が殺されたとみられている」と記している。  本多氏に語る姜根福氏は「アヒルがたくさん浮いているかのように、長江の水面をたくさんの死体が流れていた光景が、今でもはっきりとまぶたに浮かびます」と語る。  続けて、「虐殺は大規模なものから一人、二人の単位まで、南京周辺のあらゆる場所で行なわれ、日本兵に見つかった婦女子は片端から強姦を受けた。紫金山でも2000人が生き埋めにされている。こうして歴史上まれに見る惨劇が翌年二月上旬まで2カ月ほどつづけられ、約30万人が殺された」と語るのである。
このわずかな引用でも異常な殺し方が見られるが、姜が伍長徳さんから聞いた話として次のような記述がある。  「(日本兵は)逮捕した青年たちの両手足首を針金で一つにしばり、高圧線の電線にコウモリのように何人もぶらさげた」  「・・・下で火をたき、火あぶりにして殺した。集めておいて工業用硝酸をぶっかけることもある。苦しさに七転八倒した死体の群れは、他人の皮膚と自分の皮膚が入れかわったり、骨と皮が離れたりしていた」  「(化学工場では)強制連行に反対した労働者が、その場で腹をたち割られ、心臓と肝臓を抜きとられた。日本兵はあとで煮て食った」  残酷な殺し方が出てくるが、日本人にはなじめない方法ばかりである。  中国の古典『資治通鑑』にはこうした殺し方が記述されていると言われ、正しくこれらは中国4000年の歴史でしかないようだ。  なお、南京は幾度も事変に見舞われ、その度にこうした殺戮が繰り返された都市でもある。 ■ ごまかしに終わった藤岡氏との誌上討論  「週刊文春」(2014.9.4号)が「朝日新聞 売国のDNA」で、「本多氏は事実とかけ離れた『南京大虐殺30万人説』を流布させた人物だ」として、上述の「歴史上まれに見る惨劇・・・」を引用したうえで、藤岡信勝拓殖大学客員教授の「この記事は本多氏が中国共産党の案内で取材し、裏付けもなく執筆したもので、犠牲者30万人などは、まったくのデタラメです」とのコメントをつけていた。  このコメントに対し、「週刊金曜日」編集部から「週刊文春」編集部に「公開質問状」が届く。  両者の意を受けた両編集部が相談した結果、誌上での公開討論を5回行うことになるが、藤岡氏の第1信に対する本多氏側の「週刊金曜日」からは本多氏とA記者が対談する変則的な形の第1信が届く。  これでは2対1の討論で、しかも討論相手の本多氏の発言は10%位(全5信の文字数6000字中の比率)でしかないという。
藤岡氏が「本多氏との誌上討論には同意したが、正体不明の『A記者』なるものと討論することを承諾した事実はない」から「心底驚き、呆れた」「卑怯であり卑劣である」「責任逃れ」だと詰るのも頷ける。  平行線というか不毛に終わったように、日中間の最大の歴史戦は南京事件である。  当時、南京に派遣された特派員は朝日新聞約80人、東京日日(現・毎日)新聞約70人、同盟通信社約50人など、総計200人超とみられ、また「アサヒグラフ」などの写真報道も盛んに行われた。  こうした資料が「南京事件」を全くと言っていいほど扱っていないのは、そもそも事件は「なかった」という最大の傍証ではないだろうか。  筆者がJBpress『欺瞞にみちた創作か、本多勝一氏の「中国の旅」―「柳条湖」をルポルタージュで「柳条溝」とした顛末から読み解く』に見たと同じく、当時の史料や関係者の発言などよりも中国側が長年にわたってシナリオを練り脚色した言説を信じるという「本多ルポルタージュの破産」(殿岡昭郎氏)ではないだろうか。 ■ 記者たちは真実の報道を怠ったのか  南京城を陥落させるまでの数日間は城外で激戦が続くが、入城後に市民を虐殺したという報道はほとんどない。  20万人と言われた市民のほぼ全員が安全区に避難し、安全区以外の城内外にいたのは中国の兵士だけであったとみられているからである。  石川達三など一部の作家が日本兵士の悪逆非道ぶりを見たように東京裁判前に新聞に書いたが、後に「大殺戮の痕跡は一片も見ておりません。・・・(自分が以前書いた)あの話は私は今も信じてはおりません」と否定している。  当時の各新聞やアサヒグラフ、支那事変画報(朝日版、毎日版)などが報道している内容は、平和な日常が返ってきたという印象の記事や写真がほとんどである。  しかし、8年後の南京裁判と東京裁判で、突如として20万とも30万とも言われる虐殺を日本軍がやったとして被告席に立たされる。  戦闘に関わった万を数える将兵や当時現地で取材したほとんどの記者たちも、初めて聞く話に驚き、狐につまされた感じであったと述べている。
前述の通州事件はたった1日の出来事で、記者らしい記者もいなかったが、翌日からは各紙が報道した。  一方、6週間にもわたった南京戦では200人を超す内外記者・カメラマン、作家・画家、内外の外交官などが居合わせながら、誰一人として「虐殺」など語らなかったのだ。  松井石根・中支那方面軍司令官は入城に先立ち9日、唐生智・南京防衛司令官あてに降伏の勧告を行っている。  主旨は南京には歴史遺産が多くあり破壊するに忍びないし、また罪のない民衆が傷つくおそれがあるので南京を開放せよというものであった。  しかし、指定時刻になっても南京城からは何の反応もなく、勧告を無視したので攻撃命令が発せられた。日本軍は激しい攻城戦を繰り広げながら包囲網を確実に狭めていった。  南京を逃れて重慶に政府を移転した蒋介石さえ、内外への宣伝と支援要請のため開いた300回もの記者会見で「虐殺」には言及していない。  のちに政権を取る毛沢東も「自分が政権を取れたのは皇軍のお蔭」とは述べるが、虐殺非難など一切しなかった。  「虐殺」ほど世界を驚かし、同情を誘い支援要請に好都合な宣伝であろうに、「一切しなかった」、いや「できなかった」のはなぜか。答えは言うまでもないであろう。 ■ 暴虐を働いたのは支那兵だった  1937~38年の日中戦争当時、蒋介石や国民党軍の行動を実見した米国人ジャーナリストのフレデリック V. ウイリアムズは、『中国の戦争宣伝の内幕 日中戦争の真実』(田中秀雄訳)で、蒋介石の国民党が米国を巻き込んで、残虐極まる中国軍を糊塗して、悪逆非道の日本軍とするプロパガンダ大戦略を練り展開する状況を記している。  本多氏の「中国の旅」は、中国にとっては「飛んで火にいる夏の虫」を捕えた場外延長戦ではなかったのだろうか。  宣伝に長けた中国共産党のプロパガンダで、仕組まれた成果は「南京大虐殺記念館」の建設(1985年)にも繋がっていったのであろう。  大阪朝日新聞(12年12月10日付)は、「負傷兵締め出し」「非人道極まる支那軍」の見出しで、ニューヨーク・タイムス南京特派員の9日の報道を転載している。
日本軍に圧迫されつつある支那兵が化学戦研究所や金陵公園内の政府要路の大人たちの広大美麗な邸宅に放火しているというのである。  同時に、中国人負傷兵が城内に入って中国軍から手当てを受けるのを締め出すために門を閉ざしたと伝える。  それどころか、城内で治療を受けていた負傷者までが城外に追い出され、自力で城壁を迂回して揚子江へ出るか、野垂れ死にする以外にない状況に置かれたとの報道である。  日本軍との城外での熾烈な戦闘の一方で、支那軍自身が自国民や負傷兵士を手当てするどころか、死に至らしめている状況を作り出していたのである。  同紙はまた、「狂ふ支那軍の大破壊」「外人の軍事専門家呆れる」の見出しも掲げ、中立国の軍事専門家がニューヨーク・タイムス南京特派員に語ったことを報道している。  それによると、「日本軍の空襲砲撃の与えた損害は殆んど軍事施設に限られてをり、これを全部合わせてもなほ支那軍自身の手によってなされた破壊の十分の一にもたらぬであろう」というのである。  「支那軍は退却に当たり、不毛の原野や残煙立ち昇る廃墟を後に残して、これを日本軍に占領させた方が、ただ空しく退却するよりは、彼らの威信を高めるものだと信じてゐる」からだという。  そして「今や日本軍の進撃を前に奥地に殺到する避難民は数百万に達してゐるが、支那政府が彼らを救済しようとしても何事もなしえぬ今日、彼らは如何にこの冬の衣食住を得んとするか、これは想像に余りあるものがあらう」とも述べる。  日本軍の手の届かないところで、南京市民や負傷兵たちがほかならぬ中国軍によって死に追いやられている状況を遺憾なく示していたのである。  このように、中国政府や中国軍は、市民たちをあっさり棄民として見捨て、われ先にと安全なところに逃げて行った。  日本軍が入城した時に見た死体などの光景は、中国軍が自国の市民を死に追いやった姿であったのだ。  姜根福が語った「南京城内も合せて約20万人が殺されたとみられている」というのは、中国軍の仕業であったことが図らずも証明されるのである。
■ 全体的に平穏な南京城内  同盟通信社の前田雄二記者は開城と共に入城するが、「まだ戦闘は終わってはいない。城内の中国軍は統制を失ってはいたが、各要所に立てこもって一歩もひこうとしない部隊であった」と相手のタフネスについてもしっかり記録している。  そして「浅井、祓川、高崎などのカメラは、この市街戦をとり続けた」(『戦争の流れの中に』)と書いている。このように、城内の戦闘状況を撮りつづけていた同盟通信社のカメラマンだけでも3人がいたのである。  当時の新聞などは戦闘状況を報道しているだけで、「南京事件」を報じていなかった。先ほど述べたように、むしろ退却する中国軍の悍ましい状況を報道している。  当時のアサヒグラフなどの写真を見ても、大人も子供もにこやかな顔の写真が多く、日本軍の入城を歓迎したという話はあながち嘘でもなかったことが分かる。  そうした中で、蒋介石の宣伝戦に協力する外国人(特に米国人宣教師など)や外国メディアが外電で針小棒大に事件を仕立てて報じたわけで、実際に戦争に関わっていた将兵や数百人もいた報道記者たちにとっては、初めて耳にすることで吃驚仰天以外の何物でもなかったというのである。  戦後の中国共産党は、戦前・戦中の報道や東京裁判での判決などをベースに、日本に対し三戦でゆさぶりをかけているわけで、吟味なしに被災者たちの声を直接伝えることは、共産党の広報員になったも同然ではなかろうか。  今日においても日常的に、自己正当化や数値の操作などは共産党が得意とするところである。  南京の事象を日本軍の暴行として報道する外国人教授や米国人宣教師たちはどこにいたか、主として安全区に避難していた。  危険地帯を歩き回っている記者やカメラマンらの目と、安全区に保護されている欧米人の目と、いずれが信ずるに足るというのだろうか。  午後は残敵掃討戦になる。  「敵は陣地を放棄する時は建物に火を放つので、黒煙がもうもうとあがる。砲火と銃声がひびきわたり、市内には凄愴の気がみなぎった。住民の巻きぞえをくうものもあり、中国軍の遺棄死体は多数にのぼった」と前田記者は記す。  また「多くは兵服を脱いで住民に成りすました」とも述べている。  前田記者は13日から15日にかけ、何回となく南京城内を車で見て回っている。旧支局が安全区内にあったということで、15日には安全区に入っている。
「店はまだ閉じていたが、多くの住民が行き交い、娘たちの笑い合う姿があり、子供たちが戯れていた。生活が生き残り、平和が息を吹き返していたのだ。私は戦争で荒れた心が和むのを覚えた」という。  報道写真からもそうした情景をみることができる。  14日の状況について、東京朝日新聞(12月16日付)はどういう報道をしていたであろうか。  「中山路の本社臨時支局にいても、もう銃声も砲声も聞こえない。14日午前表道路を走る自動車の警笛、車の音を聞くと、もう全く戦争を忘れて平常な南京に居るような錯覚を起こす。住民は一人も居ないと聞いた南京市内には尚十数万の避難民が残留する。ここにも又南京が息を吹き返して居る。兵隊さんが賑やかに話し合って往き過ぎる」  しかし、当然のことながらこの前後にも小競り合いの戦闘は継続しており、16日には日本兵が捕虜を銃剣で処刑している場面に遭遇する。  その後、下関の挹江門に回ると「まるで門をふさぐように中国兵の死体がぎっしり詰まっている」場面に出くわす。  また他の場所では銃で処刑しているところも見ており、別の記者が日本の兵士に勧められて中国兵を射殺もしている。  翌17日が入城式で、約100人の報道陣が集まり、その中には西条八十、大宅壮一氏などもいたという。  翌日、再度城内を車で走ると挹江門の死体はすべて取り除かれていたが、護送中に反乱を起こした「夥しい中国兵の死体の山が(揚子江岸に)連なっている」のを目撃している。  市民は安全区に保護されており、決して市民の死体などではない。  戦いの相手であった国民党が発刊した当時の国民党軍の行動記録にも不法殺害や虐殺などの字は見出せない。  前田記者たちは、同社の記者とは言うまでもないが、他の新聞社の記者らとも情報交換しており、自分一人の目で見たことではなく、南京戦場のあらゆるところから何百人もの記者らが見たり聞いたりした言行をベースに書いている。  前田記者が城内を実見した状況や当時の朝日新聞が報道した内容、また国際連盟での中国代表であった顧維均等の発言・討議と、宣伝戦を得意とする中国共産党の息のかかった人物から本多氏が30余年後に聞き書きした内容と、どちらの信憑性が高いかは一目瞭然ではなかろうか。
森 清勇
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airenejp · 6 years
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571 Request Denied (Safari-蒼穹ちゃver.)@無断転載は禁止 sage 2016/09/07(水) 07:50:26.59 ID:xq33nQ0p 徳間は、 レーカンでアニメ進出したとき ポニキャンの関沢Pを連れ込んで ヒロイン主題歌路線を推進、といっていたのに アニメ業界ウォッチング第7回:「うしおととら」「レーカン!」のアニメ化 徳間ジャパンによるアニメ再参入の狙いを聞く http://akiba-souken.com/article/22695/  『「主題歌アーティストとアニメのさらなる有機的な組み方は推進したい」ですね。   たとえばアーティストが声優として出てくるとか、キャラクターとして出てくる   みたいなところはやっていきたいと 』 ここで飯田にやっとアニタイを与えた 572 Request Denied (Safari-蒼穹ちゃver.)@無断転載は禁止 sage 2016/09/07(水) 07:51:02.04 ID:xq33nQ0p デジモンユニバースは 内山夕実主役で、飯田のキャストはまだ発表なし 徳間は「4 to 6」で、 Pileの安田社長に作詞をさせず、 そのあと飯田をソロでお持ち帰りしたから JTBよりは有能かもしれない 徳間の力を持っても ヒロイン主題歌実現のハードルは高い キングとかは恵まれてる 573 Request Denied (Safari-蒼穹ちゃver.)@無断転載は禁止 sage 2016/09/07(水) 07:51:34.89 ID:xq33nQ0p 飯田タイの新デジモン 主題歌は、和田がキング販売で売ってたやつだけど、 前作から徳間になってた デジモン主題歌 IDX/キング 2006/12 **1,182 **2,173 和田光司  ヒラリ 2006/05 ***,862 ***,862 ダイナマイトSHU 強ing! Going! My soul!! 徳間 2010/11 **2,270 **3,174 ソナーポケット ネバギバ! 2011/06 ***,700 ***,700 twill NEW WORLD 2012/03 ***,534 ***,534 twill STAND UP タイ効果は500枚くらいかもしれない 握手会��須 寺川愛美が「FAIRY TAIL」のタイもらって  ノンイベで売ったら累計400枚だったから、昼アニメは油断できない 574 Request Denied (Safari-蒼穹ちゃver.)@無断転載は禁止 sage 2016/09/07(水) 07:53:04.04 ID:xq33nQ0p 楠田の新曲、中国アニメのED ルパン3世で 久川綾の古い歌を使ったことあるけど おそらく、vapがきちんと声優にアニタイつけるのは、 これが初めて 今後もこの路線でやってほしい 中国製のカンニング・アニメらしいが 575 Request Denied (Safari-蒼穹ちゃver.)@無断転載は禁止 sage 2016/09/07(水) 07:53:58.14 ID:xq33nQ0p 瀬戸のカート正式入団で、陰謀は新段階に突入 水樹一家は、 満を持して最後の賭けに出た ピグモン瀬戸は、 三間チーム入りに大学卒業を待っていた 水樹と福圓が背後にいる緻密な計画であることは確実 この数年、 水樹・三間コネクションが再活性化している 一瞬も油断できない 576 Request Denied (Safari-蒼穹ちゃver.)@無断転載は禁止 sage 2016/09/07(水) 07:54:49.62 ID:xq33nQ0p 上坂すみれ(コンレボ・三間) 石原夏織(ここたま・中島聡彦) 佐倉綾音(SB69・ヒロアカ、三間) ここにとりあえず、水樹が手を付けたような気配 上坂と石原を押し込んだのは、明らかに水樹 すみぺも、水樹の軍門に屈したか 石原は、もちろん小倉への分断工作 あやねるについては、 どんな下心があるのかわからない 水樹なのか三間なのか あやねるは、三間が最も近寄りがたい立場の人間だったはず 577 Request Denied (Safari-蒼穹ちゃver.)@無断転載は禁止 sage 2016/09/07(水) 07:56:47.17 ID:xq33nQ0p 佐倉綾音出演作品の音監 2014年 山田陽     ガールフレンド 松尾衡     月刊少女野崎くん 土屋雅紀    極黒のブリュンヒルデ 明田川仁    ご注文はうさぎですか? 岩浪美和    PSYCHO-PASS サイコパス 2 明田川仁    四月は君の嘘 岩浪美和    シドニアの騎士 亀山俊樹    星刻の竜騎士 明田川仁    精霊使いの剣舞 川添憲五    Z/X IGNITION(Type.II) 岩浪美和    selector infected WIXOSS/spread WIXOSS 山口貴之    テラフォーマーズ1号編 えびなやすのり トリニティセブン 小泉紀介    ひめゴト ハマノカズゾウ 未確認で進行形 長崎行男    ラブライブ! 2nd Season 山田陽、松尾、土屋、明田川x3、岩浪x3、亀山、川添、山口、 えびな、小泉、ハマノ、長崎 総計12人、岩浪・明田川だけ3回 岩浪・明田川が3回なのは、 二人の担当する深夜アニメ数が多いことの反映であって、 むしろ偏りのないことを表してもいる どの年でも大して変りない 578 Request Denied (Safari-蒼穹ちゃver.)@無断転載は禁止 sage 2016/09/07(水) 07:57:51.61 ID:xq33nQ0p あやねるは、 三間グループの音監、 三間雅文、中嶋聡彦、清水洋史、森下広人とは、 関係の殆どない、清らかな人生を歩んできた それはすなわち、水樹や瀬戸と無関係だったということ 三間の協力者、若林和弘、木村絵理子も縁は薄い わずかな関係を探すと 2013の「IS2」で中島聡彦、 2015には「SB69」の三間、「ロゴス」の清水 2015年の2つが危険だ 接触に使われた 579 Request Denied (Safari-蒼穹ちゃver.)@無断転載は禁止 sage 2016/09/07(水) 07:58:52.74 ID:xq33nQ0p 権力バランスの変化を感じる しかも悪い方向に 田村と堀江も、 生前はそれなりに役にたっていたということ 「ドラゴン殺し」ならぬ「三間殺し」堀江がいる限り、 水樹と三間は、 堀江の政治的後継者である松田ビルエース、 アイム中枢アイドルの早見・真礼・佐倉に近寄れなかった 堀江が力を失って 斬り捨て御免の心配がなくなったので 水樹にそそのかされ、触手を伸ばし始めた アイム3皇女で最も弱い輪は、歌手をしてないあやねる シンフォギアにあやねる登場とかしたら、目の前真っ���だ 580 Request Denied (Safari-蒼穹ちゃver.)@無断転載は禁止 sage 2016/09/07(水) 07:59:38.74 ID:xq33nQ0p 先月末の瀬戸加入で 三間カート声優女子チーム(VOICE3号)は、現在4人 応援団長:水樹奈々 VOICE3号 瀬戸麻沙美 藤村知可 沢井美優 菊池瞳  藤村は、いちばん古参 沢井は、3年前くらいから入団 菊池は、昨年あたりに入った新人 いちおう、瀬戸以外のメンバーの全出演作を確認 三間組(三間中島森下清水)との関係を 100%黒だろうけど 581 Request Denied (Safari-蒼穹ちゃver.)@無断転載は禁止 sage 2016/09/07(水) 08:00:33.64 ID:xq33nQ0p 沢井美優 2014- 2014年 三間雅文 ポケットモンスター XY 特別編 最強メガシンカ Act I(アヤカ) 2015年 三間雅文 うしおととら(三上理恵子) 三間雅文 コンクリート・レボルティオ超人幻想(クラウディア) 三間雅文 蒼穹のファフナー EXODUS(オルガ・カティーナ・ペトレンコ) 2016年 三間雅文 甲鉄城のカバネリ(信乃) 三間雅文 コンクリート・レボルティオ?超人幻想THE LAST SONG(クラウディア) 三間雅文 ポケットモンスター XY&Z(アヤカ) 三間雅文 マクロスΔ(ベス・マスカット) 582 Request Denied (Safari-蒼穹ちゃver.)@無断転載は禁止 sage 2016/09/07(水) 08:00:58.13 ID:xq33nQ0p 藤村知可 2011年-2016年 三間雅文  ギルティクラウン 中嶋聡彦  たまごっち! 三間雅文  NO.6 三間雅文  ポケットモンスター ベストウイッシュ 三間雅文  ポケットモンスター ベストウイッシュ シーズン2 中嶋聡彦  たまごっち! ゆめキラドリーム 中嶋聡彦  たまごっち!?みらくるフレンズ? 三間雅文  ポケットモンスター XY 中嶋聡彦  GO-GOたまごっち! 未公表   カリーノ・コニ  三間雅文  ポケットモンスター XY 三間雅文  コンクリート・レボルティオ超人幻想(マリア) 583 Request Denied (Safari-蒼穹ちゃver.)@無断転載は禁止 sage 2016/09/07(水) 08:01:44.40 ID:xq33nQ0p 菊池瞳  2015年 三間雅文  うしおととら 三間雅文  コンクリート・レボルティオ超人幻想 三間雅文  マクロス・デルタ 森下広人  はいふり 菊池の所属はアクセントだから、 同じ事務所の三間ハーレム先輩、佐藤ゆうこや清水理沙 から「紹介」されたと考えられる 清水理沙 2015年 三間雅文  うしおととら(かがり) 三間雅文  コンクリート・レボルティオ超人幻想(大和右京) 三間雅文  SHOW BY ROCK!!(アンゼリカ) 三間雅文  ポケットモンスター XY(シェリル) 清水洋史  アクエリオンロゴス 584 Request Denied (Safari-蒼穹ちゃver.)@無断転載は禁止 sage 2016/09/07(水) 08:03:13.42 ID:xq33nQ0p はいふりの音響監督、森下広人(元グロービジョン)は、おそらく三間のコピー 三間ハーレムを声優までそのまま継承したうえ、やり方も同じ 大図書館、ブレソウ、モン娘、はいふり、など 三間は3クリやソニーに近づいて、 水樹や戸松スフィアに媚び、 その報酬としてハーレムを自由に作ったが 森下はその忠誠対象が、 スフィアからトライセイルにかわったくらい はいふりには、製作指定のキャストに加えて 三間組の 豊口、相川奈都姫、菊地瞳、小林ゆう、藤田茜ら 今後、森下組になりそうな 宮島えみ、中村桜、丸山有香、などが混じってる 大沢新人の金子って子もいるな どういう風に使うんだろう 585 Request Denied (Safari-蒼穹ちゃver.)@無断転載は禁止 sage 2016/09/07(水) 08:03:45.16 ID:xq33nQ0p 超高校級の希望 沼倉くんの新曲がいまいちで、出落ちだった… でも売れてほしい 期待が大きすぎたのか 西沢幸奏クラスの名曲をもってきてほしかった アニメ次第かな 飛犬アニサマ出場組 石川P 2 相坂優歌/AKINO with bless4/ 佐藤P 1 May'n 西辺P 3 ナノ/西沢幸奏/沼倉愛美 これは、ひとつの希望 西辺組は最大勢力になりつつある 586 Request Denied (Safari-蒼穹ちゃver.)@無断転載は禁止 sage 2016/09/07(水) 08:05:03.23 ID:xq33nQ0p 飛犬レーベルについて 2007年成立。 婆綾から千管中島May'n野水悠木相坂AKINO新居アリプロ梶浦ナノ菅野FJ そして「ローダンセ」や「ワルキューレ」まで ほとんどが、ここに属する 飛犬誕生時にいたベテランP陣のうち、 福田以外については 石川吉元Pは、 相坂、AKINO、松元環季、Hitomi(黒石ひとみ)、不定期にアリプロと、 石川智晶(2012)を見ている (石川智晶は、時期によって担当が変わる) 石川Pは、福田以前に婆綾のもとにいた 解放奴隷の一員であり、逆らうことはできない身分のようだ 相坂くんにアニタイOPをつけているのは、評価できる 587 Request Denied (Safari-蒼穹ちゃver.)@無断転載は禁止 sage 2016/09/07(水) 08:05:57.58 ID:xq33nQ0p 佐藤正和Pは、 野水と悠木とMay'n、ローダンセ、バトルガール 野水は、閉ざさ��た「角川部屋」にいる あおちゃんはアニタイを奪われて絶命寸前 May'nは、アニサマでゆかちに絶賛されてたので もう少し延命できそう 昔は、野崎Pの下で組んでいた例が多いが 基本的に福田傘下であり、立場は弱い 終了しそうな歌手が多いので ローダンセあたりから探すと思ったら ここからバトガの下地という子を出すみたいだ 588 Request Denied (Safari-蒼穹ちゃver.)@無断転載は禁止 sage 2016/09/07(水) 08:06:34.05 ID:xq33nQ0p ・悠木碧 「クピドゥレビュー」 2014年4月  A & R Director:佐藤正和 (FlyingDog)  Producer:吉田博  EP : 佐々木史朗 (FlyingDog)、谷村誠(Pro Fit) 谷村社長がEPに加わっている しかし、これも福田婆綾の攻勢には無力 589 Request Denied (Safari-蒼穹ちゃver.)@無断転載は禁止 sage 2016/09/07(水) 08:07:24.97 ID:xq33nQ0p 野崎圭一Pは、 梶浦FJ周辺を担当、あと石川智晶(2006~2010頃) この数年の個人では、山村響(hibiku)や中野愛子や山口理恵など (山村は、野崎P+佐藤D) 中野愛子はSSWで 「カメリアの瞳」は昭和ロックみたいな曲だったが すぐ結婚してしまった 野崎組で稼働している声優は、 山村響はラムズ時代でもう切れているので 南里だけとなるが、最新リリースが3桁なので終了っぽい 南里 2015/4 ONE DAY(アルバム) 960枚 新規獲得について不明だけど 山口・松永の終了後、いま前田玲奈と「ライブドッグ」をやっている 前田はナナシスでも活躍している 590 Request Denied (Safari-蒼穹ちゃver.)@無断転載は禁止 sage 2016/09/07(水) 08:08:15.60 ID:xq33nQ0p ・山村響(hibiku) 爪痕 2010年1月  Producer:野崎圭一 (FlyingDog)  Co-Producer:鹿志村聡(RAMS)  Director  : 佐藤正和 (FlyingDog)  EP : 佐々木史朗 (FlyingDog)  山村のメジャーはこの一作のみ 野崎組の中野愛子が作詞している ・南里侑香 「閃光のPRISONER」 2014年2月  Produce & Direction:野崎圭一 (FlyingDog)  Co-Producer:森康哲(SPACE CRAFT PRODUCE)  Artist Producer : 福田真紀 (SPACE CRAFT ENT.)、菅原貴範(FlyingDog)  EP : 佐々木史朗 (FlyingDog)、大西一興(SPACE CRAFT GROUP) 上坂以上にスペクラの関与が濃い 591 Request Denied (Safari-蒼穹ちゃver.)@無断転載は禁止 sage 2016/09/07(水) 08:09:18.45 ID:xq33nQ0p 井上裕香子Pは、 スペースダンディくらいから あまり見かけ無いが ベテランの新居明乃を担当 新規に声優個人を見ることはなさそう 桜井裕子Pは、 これもクロワーゼくらいから、見かけないが、古くは有坂美香や 福山潤の担当(-2011まで) ただし福山は途中で佐々木史郎に代わっている(-2013) 福士洋介Pは、 飛犬成立直前の時期に FictionJunctionなどに野崎圭一の下で名を連ねていたが いま放映中のアクテゥブレイドのED担当なようだ 個人は見てない なお、アクティEDは、黒沢ともよのソロ・キャラソン 592 Request Denied (Safari-蒼穹ちゃver.)@無断転載は禁止 sage 2016/09/07(水) 08:10:59.75 ID:xq33nQ0p キングやテイチクと並び ビクターは老害権力が君臨して、身動き取れない会社といわれ 飛犬古参Pはすべて福田・婆綾によって無力化され、 抵抗勢力になれない 音楽的には、 相坂くんも野水も、ゼロ年代のアニソンみたいだし 飛犬はこの路線で売るのはいまいち 悠木については、 あのダークファンタジー音楽は曲者 ジャズっぽい転調 浮遊感・不安感を出す福田渋谷系の傍流に含まれることから それが仇となってか 力に屈してしまっている 593 Request Denied (Safari-蒼穹ちゃver.)@無断転載は禁止 sage 2016/09/07(水) 08:12:46.11 ID:xq33nQ0p ・花澤香菜 KANAight ~花澤香菜キャラソン  2016年8月  Producer:ミト(クランボン)  Co-Producer:山内真治(ANIPLEX)  Director:安谷屋光生(ANIPLEX)  A&R:内木重行、元松友紀(ANIPLEX)  Supervisor:落越友則(ANIPLEX)  EP:岩上敦宏(ANIPLEX)、大澤田鶴子(大澤事務所) 花澤さんは、ネタ切れ もう音楽的にやることがないのに 最近の種ちゃんのナレみたいに、無理して振り絞ってる まるで意地で出してるようだ 「リミックス」されてるのは7曲のみ 変に変えすぎると、アニメの雰囲気も声のキャラ感もなくなって アニソンだかなんだかわからない 594 Request Denied (Safari-蒼穹ちゃver.)@無断転載は禁止 sage 2016/09/07(水) 08:13:53.42 ID:xq33nQ0p 花澤さんは 歌手としてもいまいちだけど さらに実写女優としてはまるで才能ないな 声優としては天才なのに 「ヤマカン実写映画における戸松花澤のモブ扱い」 みたいなものは、妥当だったわけだ 種ちゃんも、 学生時代の映画はそんな扱いだった そう考えると、 映画の中で、一番いい扱いだった三上枝織のほうが、 明るくて才能あるように見えたんだろうな 595 Request Denied (Safari-蒼穹ちゃver.)@無断転載は禁止 sage 2016/09/07(水) 08:15:29.39 ID:xq33nQ0p 種ちゃんは ショートカットだった美大時代は痩せてたわけだし http://i.imgur.com/Ka7tmqY.jpg 短髪スリムで違和感はないけど 8月の痩せかたは少し目立つ この時はダイエットの成果じゃなくて、心労のせいか 病んだ種ちゃんの、憂いのある顔が気高く、美しい 薄幸の美人声優といわざるをえない 596 Request Denied (Safari-蒼穹ちゃver.)@無断転載は禁止 sage 2016/09/07(水) 08:16:29.55 ID:xq33nQ0p 改めて1年分確認したら 種ちゃんTLSで咳こむのは2月と3月だけだ 34回(2/24放送)で、 何度か咳をして「むせちゃった」と弁明している 37回(3/16)には、 笑いをきっかけに空咳が制御できず、 内山に「死なないで」とネタにして突っ込まれてる 笑いも喋りもないのに、 30秒も止まらない発作が起きたのは、次の38回(3/23)だけ ところが次の39回(3/30) 瀬戸ゲスト回では飲み会で陽気で特に問題なし、 咳なし、咽ることもなし 「瀬戸ちゃんといると前向きになる」発言 確かに、喘息が酒を飲んで治るというのはおかしい 気道に刺激を与えるのは禁止だから これ以降、咳は止まり、以後は問題なかった このころの症状は、 単に冬の乾燥による一時的なものか、精神的なものか 597 Request Denied (Safari-蒼穹ちゃver.)@無断転載は禁止 sage 2016/09/07(水) 08:17:17.25 ID:xq33nQ0p 1月から3月は、ラジオでブログでも、 健康の話が多く出ている 31回(2/3)では 25年後の自分たちに重要なことについて 内山は「結婚と子供」、種ちゃんは「あと、健康」 33回(2/17)で 内山が、種ちゃん病欠の「悪夢」を語る 種ちゃんがインフルエンザにかかって イベントに来れなくなり 内山は「一人でイベントやれ」と言われ、 泣きながら舞台に立つ、という悪夢について語った 内山には、種ちゃんの健康不安が感染していたのかもしれない 598 Request Denied (Safari-蒼穹ちゃver.)@無断転載は禁止 sage 2016/09/07(水) 08:18:45.45 ID:xq33nQ0p 40回(4/06)、4月最初の放送 「今年度の目標」として種ちゃんは、健康問題を上げ 「糖質ダイエットを始めた(村瀬の影響)」 「ジムに頑張って通うこと」 「自炊をすること、現場にも弁当持参」 健康について、「意識高い系になる」、と宣言している 内山は、それに対して 「なんか、すごく生き生きしてきたよね」 「いや良かったよ 種ちゃんが。なんか、みるみる健康になっていく感じが」 種ちゃんは、振る舞いの上では健康になり これ以降、健康や病気の話はなくなった 599 Request Denied (Safari-蒼穹ちゃver.)@無断転載は禁止 sage 2016/09/07(水) 08:19:43.88 ID:xq33nQ0p 昨年・今年のラジオ聞くと 料理学園 ごちラジ2、TLS、いのり帝国 昨年4月-10月の、 種田高橋料理学園から、もう読み上げが苦しくなってる あまり目立たなかったけど そこからこの6月くらいまで、低位安定みたいな感じ 自覚症状ありで たぶん今年1月より前には、医者にかかりはじめてる けっきょく、ただの適応障害みたいな診断だろうな しばらく酒飲んで温泉巡りでもして、 スポーツジムに行ってれば、再起できるはず 600 Request Denied (Safari-蒼穹ちゃver.)@無断転載は禁止 sage 2016/09/07(水) 08:21:14.55 ID:xq33nQ0p TLSでは、読み上げは苦しくても 最後まで エチュード(即興ドラマ)では アドリブ演技台詞も、はっきり叫んだりできる 相手が内山で、リラックスしていることも大きい 生歌は、17回(10/28)で大声で内山誕生日の歌をうたい あと8月は犬の吠え声や狼の声とか 駄目なのは、読み上げだけ ミスが許されず、正解が一つしかないからかな いのり帝国は、 トークも台本が多い分?苦しいのかも 601 Request Denied (Safari-蒼穹ちゃver.)@無断転載は禁止 sage 2016/09/07(水) 08:22:27.06 ID:xq33nQ0p TLS最新61回(9/01放送)は 種ちゃんは元気で声も出て、いつも通り たぶん内山は、この収録前に事情を知ってた 通販の楽しさについて語る種ちゃんに 内山「なんかあれだね、種ちゃん。楽しそう。」 種c「楽しいよ?!」 内山「一人でいても、楽しそう」 種c「あはは、やめてよ。やめてよー」 不思議な会話だったが、 内山は、種ちゃんが落ちこんでる、一人にしておけない、 と心配していたから、こういう発言が出たんだろう 内山は、 59・60回三上ゲスト会収録(収録日8/15以前)から、 61回収録(収録日8/29)の間に、休養を知らされたと考えられる 61回は、内山が8/28開催のa-nationの Acid Black Cherryライブを見た話をしてるので、収録はたぶん8/29 内山が近いうちに、なにか言ってくれると期待する 5日のローダンセ内山ブログは、夏フェスの話だけだった 602 Request Denied (Safari-蒼穹ちゃver.)@無断転載は禁止 sage 2016/09/07(水) 08:23:46.69 ID:xq33nQ0p 適応障害だとしたら、発動条件は何だろう 最近は、ハイプレッシャー(学校職場の過度の競争)で やられる独身女性が多いらしいから 大沢事務所の体育会系な完璧主義な雰囲気、 それに昨年起きたことと言えば、茅野愛衣の加入かな 種ちゃんは、 「好きなよ」以来ずっと茅野を尊敬し、 親しみを持っていたが、これはプラスとばかりは言えないかも 大沢のモンスター級メンタル超人揃いじゃあ、 普通の人はやっていけない 種ちゃん アイムかアーツに移籍して、 ポニキャンからデビューしてほしい 603 Request Denied (Safari-蒼穹ちゃver.)@無断転載は禁止 sage 2016/09/07(水) 08:24:21.30 ID:xq33nQ0p はいふりと文ストにでてきた大沢の新人 金子彩花 2016年 少女たちは荒野を目指す はいふり(広田空) 文豪ストレイドッグス 僕だけがいない街(中西彩) 文ストとはいふりは、三間系音監要素(若林と森下)あり はいふり・僕町は、アニプレ しょこめざは、ワーナー インタビューを読むと、 松岡超の好きなド根性タイプみたいだ
アイドル声優を語るコテハンスレ Part1 http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/voice/1458619868/
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mineryosk · 6 years
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ニューメキシコ 2017
2017/11/22 ニューメキシコ 2017/11/22朝5時に家を出る。まだ暗い。カレッジステーションを抜けて、US380ひたすら。小さな街道沿いの街、名もなき街をいくつも通りすぎてUFOの街ロズウェルに辿り着く。11:00。テキサスの左上は、ほとんどが綿花畑。巨大な収穫用重機。11月は収穫シーズン。ニューメキシコに入った途端、畑がなくなる。 ロズウェルのUFO博物館やってない。なぜならサンクスギビングまえだから。さしたる落胆もなく街をぶらぶら。UFO型のマクドナルド。モーテルはバジェットイン。43ドル。かなりこぎれい。インド人店長良い。コーヒー入れて休憩後、フェイク中華料理をたべにチャイナキングという店に行くもやってないためフーナンレストランという店で。あまりおいしくもない期待どおりのものを食べガソリン入れてファームマーケットという良い感じのスーパーで果物やトマトなんかを買い出し。この街、外が肥料くさい。すぐに寝る。 
2017/11/23 3時過ぎごろから準備。牛乳、しじみ味噌汁、コーヒー。もってきた味噌汁がうまい。四時過ぎに出る。真っ暗で道が見えない。US380からUS70, 山道を少しずつ登り高度は2000メートル。行動中のアライグマ、道路横断の犬発見。山を一気に下り、広大な荒野へと抜ける。空が明るんできた。西の空がピンクまじりで綺麗。白の砂漠ホワイトサンズ国立公園にはオープンの7時に到着。奥まで車で進むが想像以上のまっしろ具合。湖底にあった水晶質のものが隆起したのちに砂になったとか。トレイルヘッドから入ってみるがほんとに白い砂漠。異世界の風景を写真取りまくり、お土産買ったのちに、砂漠内のご休憩コーナーにもどり、お湯を沸かしてカップヌードル。風情ありすぎてすごい。ひと通り楽しんで次の目的地サンタフェを目指す。 とにかく真っ直ぐに、荒野と荒れた山を見ながらUS54を北上するだけ。妻も寝てしまうが、一人きりでニューメキシコの、本当の荒野を走り抜けている事実にすこし、自転車で一人きり走っている時のような、素晴らしい感情が込み上げる。運転交代し、間違えて農道の3に入ってしまう。ボコボコのすごい道。1930年代からあるのかな。インターステート25を一瞬だけとおり、サンタフェに到着。非常にお洒落なアリゾナ州セドナという感じ。妻の縦列駐車が炸裂し街中に無事駐車。歩き回りお店などを探索。美術の店を見つける。古い手形にかかれたチープなインディアンの絵が非常に良い作品が多数吊るしてあり、白ひげの爺さんが片言の日本語も操り接客してくれる。かなり惹かれるものがあり明日戻るとの約束。街自体良さそうなところとの感触を得て、土壁の外観ながらフランス的なキッシュなど提供する店に入る。ホウレンソウ入りクレープ、オニオングラタンスープなど食べひと息ついたのちにホテルへ。プエブロリバイバルと呼ばれるニューメキシコ特有の建築方式のホテル。ここで妻の免許証忘れが発覚しすこし焦る。エマニュエル君から連絡があり、サンクスギビングは実家に来てお食事しないかと。電話で不義理を詫びる。夕日を見てみるもあんまり見えず。夜は余っていた野菜やナッツ、誰かにもらったトレーダージョーズの小ごませんべいなんかとビールですませて寝る。 2017/11/24 早起き。US84からローカルの68、リオ・グランデという渓谷をへて、最奥の集落タオスへ。ここにはインディアンの集落が1000年ぐらい前から維持されており、人もまだちゃんと住んでいると聞き。まだ寒い朝、到着して早速そのプエブロの原始的な感じとスパニッシュコロニアル的影響の混ざった感じに感動しながら集落を歩く。集落全体で飼っている犬が歩き回り出し、ツアーが始まる。教会はカトリック。しかしスペインに征服されずに残ったから今も残り、ユネスコ遺産になったという経緯など。家の外の土オーブンはスペインからの影響。プエブロはドアがもともとなく、ハシゴで一番上まで行き、そこに唯一ののドアがあるという要塞のようなものだった模様。なんとなく、最近水を守るためにダコタアクセスパイプラインの近くのスタンディングロックスーという部族がアメリカ政府に対する反対運動を起こしたが、そのことが福島の除染土壌の廃候補地となることに反対している実家の栃木県塩谷町と似かよってるような気になる。ツアー後、妻はおそらくタオスの方が作ったであろう小斧を買い求める。私は片腕がないおじさんからセージの束を購入し思い出とする。まだ時間も早いが集落を去り、リオ・グランデのキャニオンを過ぎてサンタフェのジョージアオキーフミュージアムへ。そのまえにバーガー等だすレストランに寄り、グリーンチリがこの辺の特徴であると知る。美術館ではさっそく受付のおばさん見ヒューストンのハリケーン被害を心配する声をかけられ、何か文化度が違うことを感じる。作品の前に見たビデオコーナーにて、オキーフの人生だいたい把握し、とにかくアメリカ初の、ヨーロッパ的美術の伝統から解き放たれた画家であり、20C初頭のアメリカにおいて真に自立した人生を歩み20cの終わりまで生きた女性であり、何よりニューメキシコの真の田舎を終の住処にわざわざ選ぶ人間であり、とかいろいろ勉強する。作品を見たのちに、作品をプリントしたものを$12ぐらいで購入する。その後、コーヒーを飲みに行く。落ち着いて昨日の美術の店へ。キャッシュしか受けつけてもらえずATM探しに歩き回るが昨日から見てた手形の作品をぶじ3点入手。スプラウツがあったので食事を買い出してホテルにもどる。今日から2日は一階の広い部屋。中西部×インディアン風味があってかなり良い。 2017/11/25 いつのまにか朝に。今日も早くからフィールドを目指す。US84-285-84と通過し、オキーフが暮らしたAbiqiuの集落、さらにゴーストランチという牧場へ。途中、プラザブランカという、白い尖った巨大な砂石が隆起している場所へ立ち寄る。誰もいない。アプローチが好きな良い感じの荒野度合い。石をひらったり、写真撮ったり。さらにオキーフのアビキウの家の前までいき見学。家適度にやったのちにゴーストランチ目指すも、最初場所まちがって違うホテルのなかをうろうろする。場所の違いに気づきゴーストランチ目指すが、途中のAbiqiu ダム湖に立ち寄ってみる。巨大な湖面に映ったニューメキシコの山、岩、キレイすぎてすごい。それから誰もいない。しばし感動したのちに去る際、ひとりのバイカーが休憩しているのを見る。たった1人でここまでバイク、この風景を前に休憩しているのか。それこそが真の旅だ。ここで集合時間に遅れているのに気づく。急いでたどり着き、ゴーストランチのツアーを開始。ウェンディというショートカットのおば様が案内役。ランチはかつて1930年代の大恐慌まで、DUDEドュードランチという、東部・北部のお金持ちのひとに、かつての西部開拓時代のアクティビティ・料理を体験させる施設として機能し、その前の1800年台は、本当に西部開拓時代で、周りの農場を襲い殺人・家畜を奪い取るような荒くれもの兄弟が居を構えていた跡があり。昼休憩は、農場の大食堂。大学の食堂みたいな食べ放題ミートソースパスタとサラダ。農場は様々な体験学習(地層・化石・農場・乗馬・登山、等)を提供しており今日は小学生が多数詰めかけている。午後からはバスに乗り、オキーフがモチーフにしたゴーストランチ付近の巨大な岩の台地メサ、またオキーフが最初に購入したほうの家などをめぐる。ウェンディのレクチャーは非常に詳しく、どの角度からオキーフが描いたか等詳細に分かる。オキーフがキャンパスの中心線を無視していた。背景・前景を絵から排除した。夫のスティグリッツが現代写真において編み出した表現である写真のクロップを絵画に適用した。それらが当時の絵画の世界ではまったくもって誰もやったことのないことだったという説明。ランチに帰り、化石の展示施設、ランチを上から見渡せるトレイルの入り口だけ登る。たったの10分だが素晴らしい眺め。ショップでオキーフの家の詳細、見えた景色、それをどう作品に落とし込んだかの関係が分かる図録を購入する。名残惜しいがもう帰る必要があり、最後にゴーストランチが使っているダッジのワゴン車を写真におさめて帰る。ホテルに戻り、ホテル内の食堂で夕食。この旅でかなり美味しいときづいたサンタフェブルーイングのペールエールを飲む。ガーリック風味のきいたホワイトソースのパスタとフィッシュアンドチップス。 2017/11/26 今日はひたすら帰る日。朝は持参したジェットボイルでおいしいコーヒーをのむ。これは車の旅の定番になりつつある。チェックアウト後、サンタフェの街をめぐり写真。あとはひたすら長閑なUS84を戻る。運転を交代し、オキーフの図録を熟読。まだ10ページぐらいだけど、日干しれんがアドビという建築の手法はスペインがもたらしアメリカインディアンに伝わった等、かなり面白い。 ニューメキシコとテキサスの境ほどにある、メルローズという街に差し掛かる。ひるご飯をたべましょうということで路傍の名も無きガソリンスタンド兼食堂に飛び込む。どうやら街でひとつだけの食堂で、教会がえりの街の皆が食事する時間帯にぶつかった模様。真のカウボーイ姿、つまり正装のじいさん、その家族 、着飾った婆さん等が日替わりメニューのグリーンチリ・ブリトーを食している。なかなか狙って出会うことは難しいであろう日常のひとコマ。我々もブリトー、チキンナゲット、フレンチフライを頼む。ポテトあげたてでおいしい。満足ののち出発、US84からI20へ差し掛かる。ガソリンを入れたドライブインに、ミネトンカのモカシンが大安売りで売っており、思わず二人そろって購入。お約束のコインもスマッシュする。まずい、かなりむだな時間を使ってしまった! テキサス州道6に到着する頃にはすっかり暗い。I20をダラス・フォートワース方面にいくか6に曲がって南下するかで、後者を選ぶ。進んでみて大後悔。あたりに何もない、街灯も街の明かりもない、片道1車線。間違ったら道から落ちそう。とにかくまっすぐ、ただ走る。名もなき街、ダブリンのあかりが全て緑だった。そんな記憶しかない。カレッジステーションをぬけてUS290にさしかかれば、もう慣れたもの。はやく家にかえりたい一心でヒューストン中心街へと車を飛ばす。ついたのは日付がかわった1時すぎ。総走行距離3500kmをこえ、片道13時間以上はかかっているわけだが、そんなに疲弊していない。数時間交替制で運転ができたこと、アメリカに来てからの運転体力じたいの向上もあるようだ。楽しかった旅も終わってしまった。アビキウのオキーフハウスはオフシーズンの春から夏つまり灼熱の時しかやっていないので、またいつか、オキーフの家とゴーストランチを訪ねる旅を実現させたい。
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