どっかの宮殿にありそうな像💕
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202309-12
すべてが一瞬で終わっていくと振り返って見れば思う。繁忙期にはイベントに出るものではない。家庭という責任からは逃れているけれど、仕事の責任は年齢なりに出てくるので、器用さがあればよかったけれど、わたしは凡人なので、バランスを取らないとどちらも保てない。趣味に全力で生きることも才能のひとつだね。
前回見た映画で『アフター・サン』を言い忘れた。美しくて切ない映画だった。説明はされないから、描かれていないことは想像するしかないけれど、確実に子どもから大人になるにあたって、自分の無邪気さが人を傷つけ、愛していたのに愛ではどうにもならないことがあった、何が自分にできたかという苦しみがあったに違いないと思うのだけど、もう戻れない過去の風景は涙が出るほど美しくて。娘の気持ち、あとは年齢的には父のどうしようもない気持ちも何となくわかって、思い返してもだばだばと誇張なしに涙が出てきてしまう。こんな父でもなく、娘でもない自分が実情のだが。
映画もほとんど見れていないけれど、やっとスクリーンで『欲望の翼』を見ることができた。相変わらず、人が人を思っても結ばれるわけではなく、タイミングがかみ合わなくてすれ違って、思うことを諦めたり諦めなかったり、どう生きていくかはその人次第で、温かくもなく、冷たくもなく、ただ湿度だけがそこにあって風が抜けていくみたいな映画。好きだな~と噛み締めながらぼんやり見ていた。
高橋亜弓さんの個展、男性でも女性でもない狭間でもなく、もともとそういうものではない個体が漂う空間はいつも静かで、ひとを排しているわけではなく、ぬるま湯の中に浮かんでいるような心地よさがある。
わたしは湿度が高いところがかなり苦手なので永住はできないけれど、旅行で行ったベトナムも、熱帯植物園の植物たちも、大きくて鮮やかであまりにも普段の自分の生きている地域と異なる気候・風土で面白い。大地によってこうも違った生きものが存在している、
永遠の都ローマ展、わたしは彫刻を見るのが好きだが、牝狼の口の中が本当に犬っぽい。犬の生臭い息が聞こえてきそうなくらい。要所要所がとても本物のように作られていて、技術力の高さに驚く。目玉のヴィーナスは後姿、臀部から膝うら脹脛にかけて艶があって美しい。
イヴ・サン・ローラン展、今年のディオール展に比べると展示の仕方が落ち着いていると感じるが、ブランドメゾンの個性の違いといえばそうかもしれない。
コスチュームジュエリーをまとめてみると、やはりこれもブランドメゾンごとの個性があって面白い。ディオールは優美で可愛いし、スキャパレッリのやつはどこかおどけていて可愛いし、アメリカに行くとヨーロッパほどの伝統や固定概念がないから、素材も自由だ。
インド細密画展、今まで見てきた西洋とも日本とも違う独特な文脈があって、小さな絵の中にみちみちに物語が詰まっているのが面白かった。それでいて独自の文化様式の中に他の影響も入っている。
こへきてやむに止まれぬサンサシオン、最初に平衡感覚を失ったすこし気分が悪いまま何かを見ている感覚が面白かった。椅子に座って休憩しながら、それまでの自分の感覚とずれた感覚で見てきたものを見て、感覚の違いを発見する。
庭園美術館には企画展でも庭園を見に行くくらいの感じでないと、がっかりするなというのを再認識した。
大巻伸績真空のゆらぎ展、SNS映えしそうではあるが、この場に来て、スマホではなく展示物に向き合った時にしか得られない空気があった。風もあった。
キュビスム展はボリュームも満点で、教科書のようだった(悪い意味ではない)キュビスムを捉える、理解がしやすくてとても満足した。
原美術館ぶりのリー・キット展も行ったし、ヴェルサイユ宮殿のモノクロームの写真も見た。
全然本を読んでいない。山尾悠子『仮面物語』川野芽生『奇病庭園』
舞台も後半は全然だった。コロナで寝込んだ時に見た『骨と十字架』が信仰と特大な感情のはなしで興奮したし、『わが星』の台詞量とシンプルながらぐるぐる自分物たちが周りを周ったり世界というより宇宙?演技の中で規模が伸縮しながら進んでいくすごい劇だった。映像ではなくて、やはり劇場で見たいな。
一年が、終わっていくね。わたしという人間は、去年も今年もそれまでもこれからもずーっと連続したまま、来年にいく。
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📸三千院庭園(京都市左京区)② Sanzenin Temple Garden, Ohara, Kyoto 実は2つのお寺の歴史を背負う三千院。まず三千院そのものは、古くは延暦年間(782年~806年)に伝教大師・最澄が比叡山延暦寺の建立に際して構えた草庵“円融房”をその起源とします。 平安時代に親王を住職に迎えて門跡寺院となりますが、お寺の場所は火災や応仁の乱、政治的な理由などで転々。滋賀の比叡山坂本、洛中、東山、船岡山麓、京都御所の近接地…。 その呼称も場所によって円融房/梶井宮/梨本坊/梨本門跡/円徳院/円融院と変遷。大原の現在地に移転し『三千院』と呼ばれるようになったのは明治時代に入ってからのこと。 もう1つのルーツの寺院が、平安時代の986年(寛和2年)に天台浄土教の恵心僧都源信により創建された『極楽院』。現在の三千院の中で最も古い建造物『往生極楽院』は極楽院の阿弥陀堂として平安時代後期に建立されたもので、建築が国指定重要文化財、鎮座する「木造阿弥陀如来及両脇侍坐像」(阿弥陀如来像、観音菩薩坐像、勢至菩薩坐像)は国宝に指定。 そんな極楽院は三千院がこの地に移転したのに伴って三千院の一部に取り込まれました。 ■有清園 大正時代の終わり(1926年)に建立された宸殿〜前述の「往生極楽院」の中間点に広がるのが池泉回遊式庭園“有清園”(ゆうせいえん)。作庭年代は不明だけど、極楽院の歴史から考えると聚碧園より古いのかな…?こちらは背後の斜面や山を取り込んだ、よりスケールの大きな庭園。その名は中国の詩人・謝霊運の「山水清音有」(山水に清音有り)より命名されたとか。 夏に訪れても苔がきれいな庭園だったけれど、春にはヤマザクラとシャクナゲ、秋にはモミジが美しい庭園に! そして大原三千院で有名なのは“わらべ地蔵”。 彫刻家・杉村孝さんによる小さな地蔵さんが有清園と往生極楽院から進んだ先の苔エリアの中にたたずんでいます。ちなみにこのお地蔵さん、京都以外のお寺でも見ることができますが(静岡『宝泰寺庭園』)、一番写真を見る機会が多いのはやっぱり三千院。 また境内のその先には6月に見頃を迎える“あじさい苑”や、長い三千院の歴史に伝わる文化財・寺宝を展示する“円融蔵”も。また季節や時間を変えて訪れたい! 京都・三千院庭園の紹介は☟ https://oniwa.garden/sanzenin-temple-kyoto-%e4%b8%89%e5%8d%83%e9%99%a2/ ———————— #japanesegarden #japanesegardens #japanesearchitecture #japanarchitecture #kyotogarden #mossgarden #kyotomoss #zengarden #landscapedesign #beautifuljapan #beautifulkyoto #japandesign #jardinjaponais #jardinjapones #japanischergarten #jardimjapones #kyototrip #kyototravel #kyototemple #庭院 #庭园 #庭園 #日本庭園 #京都庭園 #京都寺院 #京都旅行 #京都観光 #大原 #京都大原 #おにわさん (三千院 有清園庭園及び聚碧園庭園) https://www.instagram.com/p/Cpv-GgqvAwU/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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第百二十五代の今上陛下は、
平成三十一年四月三十日、
譲位され、
翌五月一日、
皇太子殿下が践祚されて万世一系の皇位を践まれ
第百二十六代天皇となられる。
この流れには、一瞬の隙もなく、
今上陛下の譲位は、即ち新帝の践祚即ち即位である。
これが、皇統連綿、万世一系の皇位継承だ。
これを律しているものは、
天照大神の「天壌無窮の神勅」と、
この神勅を実践して万世一系現在に至る長い歴史のなかで生まれてきた
「皇室の慣習」のみである。
現在の我らは、
「法というもの」は、
実定法つまり国会などで議決したことを「紙に書いた文書」だけであると思いがちだが、
これは法というものが存在する形態の内のごく一部の「形式的な法」に過ぎず、
幽遠の歴史と伝統のなかに
慣例として存在する紙に書かれていない法が「実質的な法」なのだ。
そして、我が国こそ、
遙か彼方から続く歴史と伝統のなかにある「実質的な法」によって律せられた国であり、その中枢にあるものが、
我が国を日本たらしめている「万世一系の天皇」である。
この我が国の姿を、
フランスの社会人類学者クロード・レビィ=ストロースが、次のように表現している。
「われわれ西洋人にとっては、神話と歴史の間に、ぽっかりと深淵が開いている。
日本の最大の魅力の一つは、これとは反対に、
そこでは誰もが歴史と神話とも密接な絆をむすんでいられるという点にある。」
また、先の伊勢神宮の式年遷宮を見たフランス人オリビィエ・ジェルマントマは、
フィガロ紙に「伊勢の聖夜」と題する次のような一文を記している。
「闇と沈黙のなか、女神アマテラスを聖櫃に奉じ、これに生絹を掛けて神官の群れが粛々と運んでいく。
生きとし生けるものの起源そのもののシンボルが、いま、眼前を通り過ぎてゆく。・・・東日本大震災の、抑えがたき自然の猛威にさらされて、
どこから己を取り戻すか、日本人が自覚していることの何よりの証拠である。
それは森羅万象の諸力を崇敬するという伝統の維持であり、
そこに日本的ジェニー(天才)はあるのだ。」
この、彼ら西洋人が指摘している
我が国おける「神話と歴史の間の密接な絆」
そして「生きとし生けるもののシンボル」とは何か。
それは、
天照大神であり、
天照大神の「天壌無窮の神勅」に基づいて誕生した我が国の天皇が、
万世一系、皇統連綿、現在に至っているということである。
その「神勅」は次の通り。
豊葦原の千五百秋(ちいほあき)の瑞穂の國は、是吾が子孫(うみのこ)の王(��み)たるべき地(くに)也。
宜しく爾(いまし)皇孫(すめみま)、就(ゆ)きて治らせ。
行矣(さきくませ)、宝祚(あまつひつぎ)の隆(さか)えまさむこと、当(まさ)に天壌(あめつち)と倶(とも)に窮(きわま)り無かるべし。
これが吉田松陰が斬首される十六日前に、
友である堀克之助への手紙に、
「神勅相違なければ日本未だ滅びず。
日本未だ滅びざれば、正気重ねて発生の時は必ずある也。
只今の時勢に頓着するは神勅を疑わふの罪軽からざる也」
と書き送った
神洲不滅の確信の根拠としての「天壌無窮の神勅」だ。
また、三島由紀夫は
「日本に命にかえても守らねばならないものが二つある。
それは、は天壌無窮の神勅と三種の神器である。」
と言った。
これらの吉田松陰や三島由紀夫の言葉は、
日本を日本たらしめている中枢のもの、
即ち我が国の「国体の淵源」を指摘したものだ。
そこで、まず、我が「国体の淵源」としての神話
から発する歴史のなかで生まれた慣例に基づいて行われた
昭和天皇の「御践祚」の実際を、
「昭和天皇実録」と
東宮侍従としてそれを見届けた木下道雄氏の「宮中見聞録」から記しておきたい。
大正十五年十二月、
病が重くなられた大正天皇は、神奈川県葉山御用邸で御静養されていたが、
同月中旬になって御容態が憂慮される状態となられ、
東宮(皇太子)殿下は急いで葉山に行かれて仮泊された。
以下、時系列に従って記する。
なお、当時の皇室典範は、現在のように国会で定める「法律」ではなく、
「皇室の家訓」であり、
その十条に
「天皇崩ズルトキハ皇嗣即チ践祚シ祖宗ノ神器ヲ承ク」
と定められている。
十二月二十五日午前一時二十五分、
大正天皇崩御、御年四十八歳、御在位十五年。
皇太子裕仁親王、
皇室典範第十条により直ちに皇位を践ませられる。
同日午前二時四十分、内大臣、総理大臣、連署の告示をもって崩御を公表。
同日午前三時十五分、
葉山御用邸謁見所内にて、
新帝が三種の神器を承ける為の
「剣璽渡御の儀」が行われる。
この儀は、
元帥大勲位伯爵東郷平八郎、大勲位公爵西園寺公望、
内閣総理大臣、枢密院議長ら顕官の立ち会いの下、
牧野内大臣が、先帝の二人の侍従に神剣と神璽を捧持させて、
新帝の前にある卓の上にこれを安置して、
新帝に、三種の神器を、謹んでお承け願う儀式である。
そして、これと同時刻に、
東京の皇居の賢所では、
掌典長九条直実が賢所の神前即ち天照大神に、御代の移り替わりをご報告した。
なお三種の神器は、
天孫降臨の時に天照大神から皇孫に授けられた神鏡と神璽(勾玉)、
そして須佐之男命が退治した八岐大蛇の尾から出てきた神剣であるが、
神剣と神璽は陛下の一泊以上のご旅行の時は、
必ず侍従が捧持して行在所に安置するのが当時の風習で、
葉山でも陛下の御寝所近くに安置されていた。
神鏡は皇居の賢所に奉安されていた。
同日午前三時三十分、元号建定の為の緊急閣議。
閣議決定の後、枢密院にて、元号案可決。
同日午前九時四十五分、新帝、元号御裁可。
同日十時二十分、新帝、次の詔書に御署名。詔書は直ちに官報号外にて公布。
朕皇祖皇宗の威霊に頼り大統を承け万機を総ふ
茲に定制に遵ひ元号を建て
大正十五年十二月二十五日以後を改めて昭和元年と為す。
御名御璽
大正十五年十二月二十五日
これが現在の「日本国憲法」以前の
皇室の歴史と慣例に基づいて行われた践祚、皇位継承の姿である。
つまり、大正天皇の崩御と昭和天皇の践祚、
剣璽渡御の儀(三種の神器の承継)と
天照大神への報告という
神事であり、
新しい御代の始まりを告げる新元号の公布と不可分である。
もちろん、これは、
我が国の、「神話と歴史の密接な絆」を基にして記された
大日本帝国憲法第一条「大日本帝国は万世一系の天皇之を統治す」、
同第三条「天皇は神聖にして侵すべからず」
を体現するものだ。
その上で、
平成三十一年の今上陛下の御譲位と新帝の践祚の姿は、
この大正十五年の践祚から
如何に変容されるのかを見つめねばならない。
そうすれば、
その変容をもたらした「日本国憲法」とは何か?
という戦後の根本問題、即ち戦後の根本的疑念に帰着することになる。
ここに、
「日本を取り戻す」つまり「日本の再興」という
我が国家の存亡をかけた課題があるのだ。
斯くして、我らは、
今上陛下の御譲位を、「国家の再興」に結びつけねばならないのである。
それは、即ち、まず第一に、
「日本国憲法」第一条の
「天皇は日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、
その地位は主権の存する国民の総意に基づく」
というこの規定、
これは、そもそも真実なのか、ウソなのかと問うことだ。
この第一条には、ウソが書かれている。
これが、答えであろう。
天皇の地位は、
天照大神の「天壌無窮の神勅」に基づいているのである。
これが日本と日本人の真実だ。
日本人とは、この真実を公言する者である。
そもそも、
我が国が大東亜戦争の降伏文書に調印した昭和二十年九月二日から
日本国憲法が起案され施行される同二十二年五月三日までの
一年八か月の間に、
天皇を誰にするかどうかの「国民投票」でもしたのか?!
重ねて言う。
「日本国憲法」第一条はウソだ。
第一、GHQ(占領軍総司令部、以下同じ)のトップである
D・マッカーサー元帥自身が、
昭和二十年九月二日、戦艦ミズーリ号に
「大日本帝国天皇陛下及び日本政府の命によりかつその名において」来訪した
外務大臣重光葵を受け入れて降伏文書調印式に臨み、
さらに、同月二十七日に、
天皇陛下の訪問を受けて謁を賜り、
退出される陛下を見送るとき、
彼は天皇陛下を「ユアー・マジェスティー」と呼んでいたではないか。
要するに、
昭和二十二年五月三日に「日本国憲法」が施行されたから、
天皇が国民の総意で誕生したのではないのだ。
繰り返すが、
我が国の天皇は、
天照大神の「天壌無窮の神勅」によって天皇となり、
以後万世一系現在に至るのだ。
「日本国憲法」は、
日本を占領統治していたGHQの統治方針に基づいて「ウソ」を書いたものであり、
我が国の「神話と歴史の密接な絆」を前提にして書かれた
大日本帝国憲法とは全く違うものであることを確認しなければならない。
全く違うとは、「日本国憲法」は、
大日本帝国憲法と同じ日本の「憲法典」ではないということだ。
よって、ここにおいて、
我らは、この度の今上陛下の御譲位に際して、
如何なる課題に遭遇しているのか、その正体を見極めねばならない。
それは、この御譲位の課程に、
壮大な「文明の衝突」ともいうべき
「GHQの日本占領統治方針」と「日本の歴史と伝統」の相剋が
浮き彫りになっているということである。
この、「GHQの日本占領統治方針」とは
前記のクロード・レビィ=ストロースが「日本の最大の魅力の一つ」と言った
「日本の歴史と伝統」を奪い、
さらに、
戦力を奪うことによる「日本国家の無能力化」だ。
従って、この度の御譲位において、
七十五年前の大東亜戦争における
火器を用いた戦闘が終わった遙か後の現在においても続いている、
思想を用いた攻勢によって
我が国の「歴史と伝統」を消去しようとする勢力に対して
我が国の独自性を如何に守り抜くのかという
精神世界における重大課題が浮かび上がっている。
これ、まことに意義ある戦いが鮮明になっているというべきだ。
即ち、
今上陛下の御譲位に、
国家再興の切っ掛けが見えてきたと捉えるべきだ。
以下、この観点から論を進めたい。
まず第一に、
この度の御譲位において浮き彫りになった敵味方の識別、
つまり、戦後の我が国における「文明の衝突」の当事者の識別が必要だ。
即ち、「GHQの日本占領統治方針」を堅持する勢力は誰であるか?
鮮明になったその当事者は、
もはやGHQではなく、
GHQの下僕であり続けようとする日本国政府そのものである。
このことは、安倍内閣にして、
今上陛下御自ら鮮明にされた「譲位の御意思」に、
不遜にも頑なに目を閉ざし、
「生前退位」
としていることから明らかであろう。
「生前退位」なる言葉は、
我が国の万世一系の皇位継承の歴史の中で、未だかつて使われたことはない。
それ故、皇后陛下は、
平成二十八年十月二十日の御誕生日における宮内庁を通じて国民に伝えられたお言葉で、次のように言われたのだ。
八月に陛下の御放送があり、
現在のお気持ちのにじむ内容のお話が伝えられました。
私は以前より、
皇室の重大な決断が行われる場合、
これに関われるのは皇位の継承に連なる方々であり、
その配偶者や親族であってはならないとの思いをずっと持ち続けておりましたので、
皇太子や秋篠宮ともよく御相談の上でなされた
この度の陛下の御表明も、
謹んでこれを承りました。
ただ、新聞の一面に
『生前退位』
という大きな活字を見たときの衝撃は大きなものでした。
それまで私は、
歴史の書物の中でもこうした表現に接したことが一度もなかったので、
一瞬驚きとともに痛みを覚えたのかもしれません。
私の感じ過ぎであったかもしれません。
このお言葉の中で
皇后陛下は二つの重大なことを指摘されておられる。
その一つは、
「皇室の重大な決断」を
「謹んでこれを承けたまわりました」とされていることだ。
これは、
聖徳太子の十七条の憲法の三「承詔必謹」、即ち「詔を承れば必ず謹め」
という教えの通り、
陛下の御意思を承けたまわるべしということである。
その次は「生前退位」という言葉は
皇室の長い伝統の中で使われたことがないということだ。
今上陛下は、
平成三十年十二月二十三日の御誕生日においても、
「来年春には私は譲位し、新しい時代が始まります。」
と一貫して、譲位であると国民に述べられて、
皇后陛下もこのお言葉を謹んで承っておられる。
もちろん我々も謹んで承っている。
しかるに、日本国政府、安倍内閣は、
陛下の御意思を、
謹んで承らず、
平然と「譲位」ではなく「退位」として扱おうとしている。
その理由は、「日本国憲法」が譲位を想定していないからである。
「日本国憲法」は、
天皇は
「国政に関する権能を有しない」と規定している(第四条)が、
「内閣の助言と承認」によるとはいえ、
天皇は、
内閣総理大臣と最高裁判所長官を任命し(六条)、
国会を召集し、衆議院を解散し、法律を公布する、等々(七条)の、
我が国政上「最高位」にある。
その上で、
今上陛下は、
この国政上最高位の地位を皇太子に譲る、
と決められ、
その旨国民に表明されたのだ。
そこで、
安部内閣と政府機構の法匪達は、腰を抜かした。
何故なら、これは、
天皇が「総理大臣を任命する地位」を譲るということであり、
これは、即ち、「国政に関する最高の権能の行使」に他ならず、
「日本国憲法違反」であるからだ。
従って、内閣の法匪達は、
目をつぶれば世界はなくなると信じる者の如く装い、
これは、
天皇の御意思による「譲位」ではなく、
御意思によらない「退位」とした、という訳だ。
即ち、彼らは、
今上陛下の御譲位を、
こともあろうに、
帝政崩壊によるフランスのルイ十六世やロシアのニコライ二世の退位
と同じように扱っている。
従って、安部内閣は、
践祚による新しい御代の始まりと新しい元号の制定は同時で不可分であるのに、
それをバラバラにしようとしている。
つまり、彼らは、
我が国の歴史と伝統よりも、
「日本国憲法」を重視している。
即ち未だにGHQにお仕えしているのだ。
政府の官僚機構の中に巣くう左翼ならともかく、
安部内閣に、
今上陛下に対して悪意があるとか、
皇后陛下に衝撃を与えて悲しませたいとかの意図はないとは思う。
しかし、「日本国憲法」への、
この無邪気で悪意なき羊のような服従と、
GHQの意向(日本国憲法)に逆らうのではないかと恐れる臆病にこそ、
我が国家と国民の危機を招き入れるものであることを知るべきである。
内閣のこの服従と臆病のなかで、
多くの国民が北朝鮮に拉致され、
竹島が韓国に実効支配され
尖閣が中共に奪われかけているではないか。
このように、内閣の「日本国憲法」への服従は、
国家と国民に惨害を与え、
国家と国民への裏切りである。
内閣総理大臣安倍晋三には、
「従来の京都で作られた律令などで律せられれば被害を被る、
だから俺は、俺たちが古くから従っていた慣例に基づいて行動する」
と表明して、
関東御成敗式目を制定した北条泰時の心意気のコレッポチもないのか。
今上陛下の御譲位という
歴史的な尊い出来事が迫る今が、
まさに、北条泰時の心意気に見習うべきであるのに。
そもそも、
我が国の天皇は、
神話の世界に発して断絶なく現在に続く存在であり、
「日本国憲法」や、
法律としての「皇室典範」によって、
戦後につくられたものではない。
従って、
その「日本国憲法」が想定していない皇位の譲位が為されるならば、
これは「日本国憲法」の想定外のことであるとして、
無理をして「日本国憲法」に基づくのではなく、
太古から続く歴史と伝統に基づいて
古来の例に従ってこの度の御譲位は執り行われるべきである。
これこそ、自然なことではないか。
とはいえ、現実には、
GHQの意向に従順かつ臆病に従うのが安部内閣なのであるから、
この度の御譲位と践祚から、
先に記した昭和天皇の践祚にある神事としての本質を
隠蔽する姑息な工夫をして執り行うであろう。
しかしながら、
如何にGHQに従う臆病者が狡智を以て工夫しても、
今上陛下の御譲位と新帝の御践祚の本質が、
我が国の神話と歴史の連続性の中で執り行われる神事であることは
紛れもない事実として国民の眼前に顕れる。
安部内閣が、
御譲位を生前退位だ、白を黒だ、と言い繕っても、
御譲位は御譲位、白は白だ。
しこうして、
この度の御譲位で、我が国の最も大切な中枢は、
神話と歴史であり、
「日本国憲法」ではないことが明確になる。
よって、安部内閣の誤魔化しが、
却って
「日本国憲法」こと「GHQの日本占領統治方針」からの脱却、
即ち
「日本を取り戻す」方向に扉を開く画期となるのだ。
ここに、
この度の今上陛下の御譲位がもつ歴史的な意義がある。
振り返れば、
第百八代御水尾天皇は、
こともあろうに朝廷を幕府の統制下におく「禁中並に公家諸法度」を制定した
大御所徳川家康と二代将軍秀忠の構築する徳川幕藩体制に対抗して、
三十三歳で御自分の皇女である七歳の明正天皇に譲位された。
そして以後、五十一年間、
上皇として幕府に対抗され、
天下に対し幕府を越える尊い権威としての朝廷の存在を示し続けられた。
そして、この御代に、
二百五十年後の王政復古による明治維新を成就させる
山崎闇斎や山鹿素行や徳川光圀らの尊皇の思想家が生まれた。
同様に、
この度の第百二十五代今上陛下の御譲位も、
歴史の転換としての
「戦後体制」即ち「日本国憲法体制」崩壊の地殻変動をもたらすこと確実である。
何故なら、
明治維新が、厳しい国際情勢の中で、
国家のサバイバル・生き残りをかけた変革であったように、
現在も、
我が国家の生き残りの為に
戦後体制即ち「日本国憲法体制」か���の脱却が必要であるからだ。
ここまで記してくれば、
この度の御譲位に直面する我々の
「臣民としての任務」が
見えてくるではないか。
それは、我が国から、
日本が日本であり、国家であることの本質を奪おうとするものの正体を摘発して、
それを廃棄することである。
戦後に生まれ生きる我々は、この任務から目をそらしてきた。
しかし、今こそ、
はっきり見なければならない。
つまり、
「日本国憲法」は
有効なのか無効なのか、
それを見つめろということだ。
見つめれば、必ず見える。
「日本国憲法」
は明らかに無効だ。
昭和二十年九月二日に調印された降伏文書によって、
我が国を軍事占領して
天皇と日本国政府を統制下においた
連合軍最高司令官D・マッカーサーに対して、
ワシントンの統合参謀本部は、
「日本の占領と支配のための連合軍最高司令官に対する降伏後初期の基本指令」
と題された命令(JCS1380/15)を発した。
その命令におけるアメリカ政府の、
日本占領マスタープランは、
「軍事占領中に日本社会を恒久平和に役立つように変革すべし」
というものであった。
そして、その命令を実施するための具体的施策として、
D・マッカーサーは、
GHQ民政局の若手二十五人に、
昭和二十一年二月四日から十二日までの九日間で
「日本国憲法」を書かせ、
それを形式的に日本人の議会によって決定されたように装った。
従って、「日本国憲法」は、
最初から、「日本の憲法」として書かれたのではなく
「アメリカの日本統治基本方針」として書かれたのであり、
冒頭にウソの第一条を記して天皇から神聖を奪い、
第九条で我が国から軍事力を剥奪し、
第三章の人権規定では、
家庭や社会や国家からも歴史と伝統からも拘束を受けない
「砂粒のような個人」
を人権の保障された理想的な存在として、
日本人の共同体をバラバラにしようとし、
さらに古来からの日本人の風俗習慣と密接に関わる神道を敵視したのである。
この「GHQの日本国憲法」に縛られて
「御譲位」を
「生前退位」とする安部内閣は、
我が国の最も神聖なことに関して、
GHQとマッカーサーの後継者に堕落している。
この安部氏が、
「戦後体制からの脱却」とか「日本を取り戻す」とかの志を掲げたことを思うと
なお許せんのだ。
また、
この安部氏をはじめとして、憲法改正を掲げる人士が多いので言っておく。
「日本国憲法」は、
もともと憲法ではなくGHQの日本占領基本方針なのだから、
「改正」しても憲法の「改正」にはならん。
「毒の樹」の幹を温存して葉や枝を変えても
「毒の樹」は「毒の樹」で、有害さは変わらない。
無効なものを改正するバカがどこにいる。
さて、
今上陛下の御譲位によって、新しい御代が始まる。
この新しい御代において、
「日本国憲法」の無効を確認して
「大日本帝国憲法」を甦らせ、
改正するなら
「大日本帝国憲法」の改正規定で改正をするのが、
法論理上の正道である。
同時に、
我が国を取り巻く内外の厳しさを増す情勢に鑑み、
早急に自衛隊を
国軍に再編するべきだ。
即ち、
今上陛下の御譲位を切っ掛けに、
我らは、
本来の日本、
本来の日本人を
取り戻す時が来たのだ。
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2018.4-5ドイツ(3/5)
2/5より
【フランクフルト滞在4日間~帰国】
4日目はミュンヘンからICE(日本で言う新幹線)を使って340km離れたフランクフルトへ移動する。運賃は初日に買った乗り放題400€チケットで払っているので特に切符を購入することもない。ただ、座席を予約しないと座れない可能性があるので、予約だけは別料金で予めとっておいた。始発駅から終点まで乗っていたのかな、3時間半かかったけど、ずーっと延々と大富豪をやって中央駅に着いてしまった。トランプは現地で購入したもので、ドイツではジョーカーが3枚入ってる。ちなみに自分めちゃくちゃ強かった。とりあえず荷物が大きくて邪魔だったので、 ミュンヘンのときと同じように まずは宿泊予定のホテルへ向かい、預かってもらう。ホテルへは中央駅から2つ隣の駅だったので、そんなに時間はかからない。
フランクフルト1日目は午前中を移動で使い果たしてしまったので、午後は適当に市内観光を行う。一応3日目も市内観光を予定していたので、あまり1日目に回り過ぎると後々暇になってしまうのだが...。フランクフルト1日目は5/1でメーデーの日。ドイツでは飲食店やスーパー以外はすべての仕事がお休みなんだって、すごくない!?ただし、路上にはゴミがすごい散らかっているし、地元の人がほとんど外出していないみたいで街中でも閑散としている。変わって3日目に観光したときはちゃんと清掃されていたので安心(マッド・シティ感があったので)。
ミュンヘンは誰もが思うヨーロッパの美しい街並みであったが、比べてフランクフルトはかなり都会的で池袋や新宿に近い。ミュンヘンにはほぼゼロだった高層ビルが、フランクフルトは密集している。ゴミが散らかっているし、道もごちゃごちゃしてる。スプレーの落書きが多くちょっと治安が悪そう。あとフランクフルト上空はヨーロッパの主要空路なのか、飛行機雲の数がすごく多い、常に8本くらいある。
ゲーテハウス
まず向かったのはゲーテハウス 。
「ドイツを代表する文豪ゲーテの生家を復元した建物。ゲーテの生家があった建物は第二次世界大戦で破壊されてしまったが、戦後、もとの18世紀の典型的な中産階級の住宅が忠実に復元され、3階のゲーテの書斎には、ゲーテの青年期当時の後期バロック時代の家具や調度がしつらえられて、ゲーテに関わりの深い当時の絵画などを展示している。」
ゲーテ読んだことないんだけどな...。入場は7€で、もう3€払えばオーディオガイドがついてくる(日本語対応)。博物館といったら今まで金銀財宝の家具や部屋しか見てこなかったので、 中~上流階級というガラッと変わった雰囲気。やっぱ王様の感覚っておかしいよなぁ。王宮とのギャップがありすぎて特に語ることは無いんだが...。どうやら自分の感覚までおかしくなってしまったようだ。ゲーテハウスの隣にゲーテ博物館もあったのだが、閉館時間が来てしまい観れなかった。
その後は引き続き市内観光だが、これといって目的地は無くブラブラ(1日目に廻りすぎても3日目も市内観光だから)。ゲーテハウスを南に歩くとすぐ近くにマイン川が流れているので、川沿いを散策。「鉄の橋」というのが架かっているので行ってみたら、メーデーでほとんど人気がなかったのにこの橋は観光客が密集してけっこう混んでる。混雑具合からもそこそこ有名な橋らしく、欄干には大量の南京錠がかけられていた。対岸に見えるのは福音協会らしく、都会から少し歩いただけでガラッと観光地に変わる、面白い街である。フランクフルト1日目の夕食で今が旬であるホワイトアスパラガスのスープを食すのだが、これがとんでもなく絶品!スープの湯気と一緒に漂ってくるアスパラの香りが非常に濃厚である。
ケルン大聖堂 Kölner Dom
フランクフルト2日目は、ミュンヘンのノイシュヴァンシュタイン城やヴィースの巡礼教会と並び、ドイツ旅行のハイライトである世界文化遺産ケルン大聖堂。フランクフルトからはICEで1時間くらいだったかな(約200km)?駅舎から出ると目の前に巨大な大聖堂が鎮座しており、あまりの迫力に思わず声が出てしまった。てか、こんなに駅前にあるものなのか(笑)
「正式名称は、ザンクト・ペーター・ウント・マリア大聖堂(Dom St. Peter und Maria。聖ペトロとマリア大聖堂の意)。現存の大聖堂は3代目で、初代が完成したのは4世紀のことであった。3代目は2代目が焼失した年である1248年に建設がはじまった。全てが完成したのは建設開始から600年以上が経過した1880年のことであり、高さが157mの大聖堂はアメリカのワシントン記念塔(高さ169m)が完成する1884年まで建築物としては世界一の高さを誇った。大聖堂は第二次世界大戦時のケルン市に対する英米軍の空襲で14発の直撃弾を受けた。修復の一環として破損したステンドグラスの一部はゲルハルト・リヒターによって近代的なモザイク風の市松模様の物に置き換わったのだが、これについては未だに賛否両論がある。」
本当にでかすぎて、広場の端まで移動しても全体が写真に収まらないレベルである...。はやる気持ちを抑え、まずは外観を観察。これほど大きな建造物であるのに、紋様や人物の彫刻がびっしりと掘られていて壮観である。当時の有名な彫刻家が掘ったらしいんだが、仮に何百人いたとしてもこれほどのものとなると一体どれだけの時間がかかったのだろうか。この彫刻群だけ見ても大変な芸術作品である。
実はケルン大聖堂は登ることができ(有料)、せっかくなのでてっぺんまで行ってきた。かなり狭い石の螺旋階段を500段くらい延々と上がるのだが、途中に休憩するスペースが無いのでかなり疲れる。地上100mの尖塔付け根にたどり着き、ここからはケルン市街やライン川の流れを一望することができる。 またこのときのチケットで宝物室も入ることができるが、ここも宮殿みたいに金銀財宝でなかなかすごかった。司祭が持つ杖とか冠とか(写真撮影禁止)。
礼拝堂の見学は無料。教会内は、もはや自分の書く文字では表現することができない。「美しい」とか「立派な」とかのもう2, 3次元上の世界である。「人類の創造的才能を表現する傑作」という文化遺産の登録基準の言葉だけではとても表しきれない...。 時代は違えど、世界が変わろうとも、人々が何を求めるかは変わらないんでしょうね。昔の人達がなにを考えてこの教会を建てたのか感じとることができる。いろんなことを考えて、気がついたら長椅子に座って1時間くらい経っていた。それだけ、この教会には引き込まれる。
この教会はステンドグラスでも有名である。教会内を歩いていると常にきらびやかなステンドグラスが目に入ってくる。中でも、ルードヴィッヒ1世が1842年に奉納した「バイエルンの窓」という5枚のステンドグラスが最も有名らしく、戦火を免れてちゃんと残っていた(写真右上)。1枚1枚に「ルードヴィッヒ1世寄贈」と紋章が描かれており、それぞれどこにあるのか探してみるのも面白かった。キリストの受胎の告知、アダムとイブ、4人の預言者、東方三博士の礼拝、ピエタ、聖霊降臨、聖ステファノの殉教などが描かれているんだと。 奥には半円形の回廊があり、その通路には「シュヴェ」と呼ばれる7つの礼拝堂が放射状に突き出している。それぞれにどんな意味があるかまでは追うことはできなかった。中央祭壇には世界最大の黄金で飾られた豪華な聖棺が置かれており、東方三博士の頭蓋骨が奉納されているんだとか(写真左下)、かなり厳重に囲まれていた。
総じて、ケルン大聖堂は今回の旅の中で間違いなく一番印象に残った場所となった。ミュンヘンのツアーみたいに1日に何箇所も巡るのであれば、ここを訪れるのはもったいないかな。1日丸々使ってここだけを観光した方がいい。あと余談だが、ここでGaffelという銘柄のビールを飲んだんだが、人生で飲んだビールの中で最も美味しかった。
哲学者の道 Philosophenweg
フランクフルト4日目(ドイツ観光最終日)は、ICEで80kmくらい南下してハイデルベルグへ向かう。目的はハイデルベルク城だが、途中に哲学者の道があるのでそちらを通っていくことに。
ハイデルベルク駅を下車し、そこから徒歩だと城も哲学者の道も遠いので路面電車に乗る。市バスも同じ道を並走しているのでどっちでもいいかも。下車駅から歩いて10分くらいすると哲学者の道だが、意外と路地裏みたいなところに入り口があるので、地図持っていなかったり標識を見落とすときっと見つからないと思う。
「牧歌的なハイデルベルクのアルトシュタットを望む最適な場所の一つが哲学者の道である。この道は、ハイデルベルク城の対岸にあたる河畔からハイリゲンベルクをやや上った位置を通っている。ゲーテを始めとした詩人や哲学者がこの道を歩き、その思索を深めた。 」
最初の10分くらいは住宅街で車もたくさん路駐してあるので、あまり思索を深めることはできなさそう(笑)。あと、急な上り坂なので運動不足の人は途中でバテてしまうかもしれない。哲学者の道の大部分は丘の中腹を通っているので、まずは高度を上げるこというわけだ。住宅街や上り坂を過ぎるとあとはずっと平坦な道となり、ハイデルベルグ城やその旧市街を一望できるとても眺めが良い道となる。ところどころベンチが設けられているので、休憩してしばらく景色を眺めるのもよし。地元の幼稚園児たちが先生に引率されて歩いて、微笑ましいのと同時に、下から登ってきたのならみんな元気だなーと思った。ま、子供が一番体力あるものだよね。
自分たちがイメージする哲学者の道は下りの道にあった。登りは閑散とした住宅街、丘の中腹の平坦な道は景色は良いが転落防止の柵が立つ遊歩道。下りの道は石畳や石壁で囲まれており、景色は見えないものの周りは茂った樹々で囲まれた古道である。けど、やっぱりスプレーの落書きはある...。 登り10分、平坦な道20分、下り10分くらいだったと思うが、観光地の割には意外と人がほとんどおらず、道の途中で見かけた人たちは足しても30人程度だと思う。その分ゆっくり、静かに散策することができた。ドイツ最終日というのをひしひしと感じて、なんか寂しくなる。
ちなみに登り道下り道と表現したけど駅側が登り、城側が下りという意味ね(読んでればわかると思うけど)。
ハイデルベルク城 Heidelberger Schloss
哲学者の道を抜けると賑やかな城下町に出る。聖霊教会や14世紀からのハイデルベルグ大学、カフェが並び、丘の上にはハイデルベルグ大学がそびえ立っている。観光客は多いのだが、おそらくそれ以上に学生さんと思われる若者たちで賑わっていた。
「ドイツで最も有名な城趾の一つであり、ハイデルベルクの象徴的建造物となっている。プファルツ継承戦争で破壊されるまで、この城はプファルツ選帝侯の居城であった。ケーニヒスシュトゥール(「王の椅子」)という山の北斜面、マイン渓谷の底から約80mの高さに位置し、旧市街の風景を決定づけている。」
城へ向かうにはまた丘を登らなければならない(さっき下ってきたばっかりなのに)。ケーブルカーもあるのでそれを使ってもよいが、別に徒歩でも大した時間かからなかったのでもう一度足で登ることに。2・300段くらいの階段を登りきると目の前は城門。城の庭園を散策する分にはお金がかからず、城内を見学する場合は入場チケットを買う。日本語の音声ガイドもあるみたい。
まずは城内の見学。修復されているとはいえ(一番最近の修復は100年前)城からは樹が生え、レンガの隙間からは根っこが垂れ、ところどころ破壊されている。でも逆にそれが、悠久の時の流れを感じさせる。庭園の方は常に手入れされているようなので、綺麗に整っていた(ここまでは無料でも見れるところ)。この城で有名なのが城内大樽棟にある大樽だろう。ワインを貯蔵していたとのことだが、その容量なんと219m^3、1mx1mx1mの立方体が219個分というとんでもないもの。直径5m、長さ10mくらいの樽が横に寝かされているが、あまりにもでかいのでこれまた写真にすべて収めるのは難しい!樽の上には登ることができるのだが、その大きさおわかりいただけるだろうか?(写真右下)。実はこれの手前に、この大樽よりも小さい樽があり(といっても十分にでかいのだが)、最初はそれが有名な大樽だと思って「すげー」となり、すぐ隣にアホみたいな大樽があり、これ完全にフェイントだよね。また樽以外にも、何百年前もの化学の実験器具が展示されていて、長い時間が経っても器具の形があまり変わっていないのに関心。
最後に城外の庭園を散策、結構広い。綺麗に整った芝生にはレジャーシートを敷いて寝転ぶ人だけではなく水鳥も屯していて、どちらも気持ちよさそう、てかドイツって芝生があればとにかく水鳥おるのな。庭園のテラスからはハイデルベルグ城と旧市街、ネッカー川がすべて一つの絵に収まる。美しい。自然と人工と、さらに時間という次元がちょうどいい具合に、見事に融合している。地元の人は好きなときにここへ訪れることができるなんて、なんて羨ましいんだろう。いっそのことドイツへ住みたいくらい、マジで。
帰国
とても名残惜しいが、ミュンヘン3日間・フランクフルト4日間の全日程を終え、翌日は帰国の途につく。フランクフルト空港は市の中心部から非常に近い、なんとフランクフルト中央駅から3つお隣、泊まっていたホテルからは5駅隣。お土産としてビールを何本か買って帰ろうと思い、空港��らお店にたくさん置いてあるだろうと期待していたが、予想に反して全く置いていない...。かろうじて空港内唯一の小さなスーパーを見つけたのでそこで購入(種類は多くなかった)。レストランでは普通に飲めるんだけどね。
出国エリアにはドイツ製(Bechstein)のピアノが展示されていた。ベヒシュタインは世界的にも有名なピアノメーカーらしく、「ピアノのストラディバリウス」と呼ばれるほどの名器で、最高のピアノの代名詞である。とのこと。もしかしてかなり高価なピアノだった?自由に弾いてよいらしく、旅行者がピアノを弾いていて周りには人が集まっていた。あぁ、こういうのって素敵だよね。知らない曲だけど旋律が空港中に響き渡り、つい聞き惚れてしまった。ドイツの最後の素敵な思い出をありがとう。とても素晴らしい旅だったよ...。
帰りもエアチャイナで、1355フランクフルト発~0515北京着の便。帰国時は特に何事も起こらず穏やかだった。もう知っていたので驚くことはなかったが、敢えて書き残すとするれば北京空港のトランジットがやっぱりクソだった。しかも今回は到着便のタイミングがいくつか重なったため、自分たちはまだマシだったけど、その後ろにすごい人が並んでいて列が何回も折り返されていて...。なかなか悲惨である。ちなみにこの並ぶスペースは中国への入国ゲートもあるので、そっちの列も合わせて人がやばい、余裕で1000人超えてるでしょ。相変わらず乗り換えゲートの先の保安検査もひどく待たされた。自分が保安検査を抜けて出発ロビーに出れたのは、何故か目の前に並んでいた友人たちが抜けた時間よりも20分くらい遅かった。何が起きたのか自分でもよくわからん(おそらく、ほんの一瞬のスキに別の早い列へ移されていたらしい)。搭乗ゲート近くの椅子に座っていたとき、目の前の(ドイツ人?)女性が、今まで見てきた中で最強に格好良くて見惚れてしまった。
日本へはエアチャイナ0820北京発~1230羽田着の便。飛行機からは富士山が見え、やっと帰ってきたのかと、懐かしくホッとする。茂原直通の高速バスに乗り、時差ボケで眠たい体をなんとか動かして夕方無事に帰宅、このとき日本は日曜日、翌日は会社である(特に問題ないと思い有給は取らなかった)。
これで今回の旅は全て終了。ドイツは本当に良い国だった。最初はヨーロッパに行こうと聞いて驚いたが、やはり体力や自分で使える金があるエネルギッシュな若いときにいろんな経験をするべきだと思う。楽しいのはもちろんだが、とにかく視野が広がる。人生の糧になる。とりあえず行程については以上で、あとはドイツの公共交通機関などについて、気がついたことなどをメモしていく予定。
4/5へ続く
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戌年最強のパワーアイテム!? オオカミを祀る三峯神社の白い氣守り(埼玉)【車中泊女子の全国縦断記】
近年メディアなどで話題の、三峯神社で毎月1日に授与されるという「白」い「氣守」。 フィギュアスケートの浅田真央選手がこのお守りを持っていたことから人気に火がつき、ご利益を授かろうとお守りを求める参拝者が殺到、ものすごい渋滞&行列ができることでも知られています。 今回は参考までに、筆者が11月1日に参拝したときの経験を元にご紹介します。 駐車場料金は二輪 200円、乗用車 510円、マイクロバス 1,020円、大型バス 1,540円。 ここまでの道が狭くて曲がりくねった山道であるにも関わらず、大型バスも訪れます。筆者が向かったのは10月31日の16時近くだったのでクルマの往来は少なかったのですが、バス同士は渋滞中に離合することができるのだろうか? 狭いところで出会いたくないなとヒヤヒヤしました。 やはり前日から来る方が多いようで、夜にはほぼ満車に。1泊しても駐車料金は1日分なのは有り難いです。綺麗なトイレと喫煙所、バスの待合室もありました。警備員が一晩中、誘導・巡回しています。大変お疲れ様です。 三峯神社は標高1102m、車中泊される場合は防寒対策を怠りなく! お土産&お食事処【山麓亭】では、名物のいもでんがくや、くるみ汁が人気。三峯神社の特徴でもある【三ッ鳥居】の目の前にも【大島屋】というお土産&お食事処があります。31日の夕刻、まず三峯神社に参拝しようと前を通ったら山麓亭から三ッ鳥居までの間に、ずら〜っと並んでいる人々が! この寒いのに一晩ここで待つなんて信じられません! 1日の深夜1時半から三ッ鳥居前で「白」い「氣守」の引換券が配られ、2時から授与が開始されました(11月1日の場合です。元旦のスケジュールは最後に記載しています)。 夜通し並んでいた方々は、早々にいただいて帰ったりご来光を見に登山に行ったりしたようです。これなら平日でも仕事終わりに来て、早朝ここから出勤することもできますね。 引換券には番号が書かれている訳ではなく、17時までに受け取ればいいとのこと。おそらくお守りの数と同じだけ用意されているのではないでしょうか。筆者が行動を開始したのは朝7時で、もう列もなくなっていました。 石碑が建ち並ぶ参道を通り、まず奥宮遥拝殿へ。朝日を受けて神々しい雰囲気です! ふもとのバス停『大輪』からここまで、遊歩道(登山道)でつながっています。渋滞を避けて、約2時間かけて歩いて登って来る方もいらっしゃいます。 遥拝殿からの眺め。日本武尊が東夷平定の帰りに山梨県から奥秩父の山々を越えて三峯山に登られた際、この山川が清く美しい様子を見て、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)・伊弉册尊(いざなみのみこと)が国産みしたことを偲び、お宮を造営し二神を祀り、この国が永遠に平和であることを祈ったそうです。それが三峯神社の創まりと伝えられており、それはおよそ1900年も前のこと! その折に道案内をつとめたのが山犬(狼)で、その忠実さと勇猛さによって三峯神社の御眷属に定められたそうです。 この右側に奥宮が建つ妙法ヶ岳がそびえています。その写真は後ほど。 荘厳な随身門(随神門/ずいしんもん)。ここに至る前にも三ッ鳥居前には【三峰山博物館】(入館料300円/撮影禁止)、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の銅像など見どころがあります。 随身門をくぐり灯籠が建ち並ぶ参道を抜けると、左側に神楽殿、右側に拝殿が見えます。拝殿の手前、両側に屹立するご神木・樹齢およそ800年の大杉は鎌倉時代に畠山重忠が奉献したと伝えられており、「白」い「氣守」の源でもあるため参拝者が〝氣〟をいただこうと長蛇の列をなしています。触れられているところだけ幹が手脂でつるつるです。 11月1日は、10時頃に授与所へ行ったところ並ばずに「白」い「氣守」をいただけました。初穂料は2,000円です。中には「ご神木」が入っているらしいのですが、詳細は不明。 ちなみに「白」以外のピンク、緑、赤、黒色の「氣守」は、いつでも授与されています(初穂料1,000円)。仕事運、金運、心身浄化、縁結び、家庭円満、健康運、特に厄災い除けのご利益があると評判です。 「白」い「氣守」が誕生したのは2012年7月。『白』は太陽の光を現し、白無垢や白装束を代表するように神聖な色とされています。 また神道では『白』は「一に還る」再生を意味し、新しいスタートを切るということから「朔日(1日)」に頒布することになったそうです。 拝殿前の敷石に、2012年(辰年)に忽然と現れた赤い目の龍神様。水をかけると浮かび上がるので、水桶と柄杓が置いてあります。 拝殿前には八棟灯籠と青銅鳥居があります。手水舎は四方を色彩豊かな彫刻で飾られ、天井には龍が!どこをとっても豪奢です。国常立神社、伊勢神宮、大山祇(おおやまづみ)神社などなど摂末社も多数鎮座しています。 拝殿を過ぎて杉林の小径をゆくと【縁結びの木】があり、根元にお社が建っています。自分と相手の名前を書いて願掛けすると結ばれるといわれ祈願者が後を絶ちません。 遠宮(お仮屋)。三峯神社の御眷属、大口真神(お使い神、お犬さま)は深い山中に身をひそめられているので、ここを仮のお宮としてお祭りを行う場所=『お仮屋』と呼んでいます。 三峯神社境内には、狛犬ならぬ「狛狼(?)」がたくさん奉納されています。三ッ鳥居前、遥拝殿、随身門…それぞれ違って犬のようだったり狐のようだったり様々。きっとあなたのお気に入りの狛狼さんがいますよ。 三峯神社を中心に、一帯が【三峰山園地】として整備されています。時間があれば散策してはいかがでしょうか。無人のビジターセンターには動物の剥製やジオラマ、資料パネルなどが展示されています。個人的には登山地図も置いてほしいです(三峰とは妙法ヶ岳・白岩山・雲取山の三山を指し、登山できるのです)。 妙法ヶ岳(奥宮)までは、往復約2時間。三峯神社公式サイトには「10月9日 閉山」と書いてありますが立ち入り禁止になっているわけではなく、11月1日にも多くの方が参拝に訪れました。 休憩ポイントが3ヶ所あり、東屋も建っています。高所恐怖症の方には試練の道が続き、尾根を歩いている感じで右も左も崖になっているところもあります。最後はクサリ場です。 ただし元日というと積雪が予想されるので、アイゼンなど冬���登山装備が必須であり、冬山登山の経験者でなければ参拝は控えた方が神様も喜ばれると思います。無謀は禁物です。 さらに三峯神社は山間にあるので日暮れが早く、11月1日の時点では16時過ぎ頃に山の向こうに太陽が沈みました。森の中はただでさえ薄暗いし、太陽が沈んだらあっという間に暗くなり気温もぐっと下がります。15時には下山するように時間調整した方が無難です。 奥宮山開祭は5月3日。登山初心者は5月以降の参拝をおススメします。 奥宮からの景色を見ていて、きっと夕陽が山を照らしているだろうな〜と思って、帰りに遥拝殿に立ち寄りました。予想通り、山体が夕陽に赤く染まる様が美しかったです。まさに神々しい風景。 宿坊【興雲閣】では日帰り入浴ができます。入浴料600円、利用時間/10:30〜18:00(17:00受付終了)。シャンプー・リンス・ボディソープ、化粧水などのアメニティ完備。ナトリウム-塩化温泉で癒されて、なおかつ禊にもなりますね。写真の左側は、茶房などがある【小教院】です。 興雲閣のレストランで「パワーフード」という謳い文句に釣られてとろろ蕎麦を食べました。パワーアップしたかな!? 【興雲閣】前にある売店では、三峯神社オリジナルの日本酒、焼酎、ワインなども販売されています。御神酒として有り難みも倍増した気分になりますね。 ——などなど、境内を散策するだけでも1〜2時間はゆうに費やします。筆者は奥宮参拝もしたので、まる一日を過ごしてしまいました。 【朔日限定『白』い『氣守』頒布予定時間】 ・大晦日/23時30分頃 引換券配布 ・元 日/1時00分 御守頒布予定 ・元 日/18時30分 引換券配布終了 ・元 日/19時00分 御守頒布終了 降雪の可能性もありますので、スタッドレスタイヤ・タイヤチェーンなどご準備ください。路上駐車など、ほかの参拝者の迷惑となる行為はおやめください。 山奥のため近くにガソリンスタンドはありません。長時間におよぶ渋滞でガス欠になったという報告もありますので、じゅうぶんに給油しておいてください。 道の駅【大滝温泉】 住所:埼玉県秩父市大滝4277-2 電話:0494-55-0126 駐車:普通車 65台/大型 10台/身障者 2台 三峯神社まで約15km。物産館、お食事処、歴史民俗資料館、日帰り入浴【遊湯館】併設。三峯神社駐車場の領収書を提示すると、温泉施設が100円引きになりますよ。 (松本しう周己) 【関連リンク】 三峯神社 公式サイト http://www.mitsuminejinja.or.jp/ あわせて読みたい * 寒い日はやっぱり温泉ですよね。日本有数の炭酸泉・長湯温泉で温まりませんか(大分)【車中泊女子の全国縦断記】 * チバニアンに続け!? 世界でたった3ヶ所しかない「世界三大奇勝」が徳島県阿波市にあるって知ってますか?【車中泊女子の全国縦断記】 * 竹田城跡だけじゃない。あの空中都市・マチュピチュを思わせる風景が大分にあった【車中泊女子の全国縦断記】 * 全国から神様が集まっている今、出雲大社で縁結び祈願をすれば間違いなし!?(島根)【車中泊女子の全国縦断記】 * 水の郷・佐原の町並みを舟めぐり(千葉)【車中泊女子の全国縦断記】 http://dlvr.it/Q6zXf1
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欧州旅日記
6月12日(日)
成田→(アムステルダム)→(ジュネーブ)→ベルン
成田からアムステルダム経由でジュネーブに到着。すべて順調。オランダ航空のスチュワーデスさんたちは体の大きい人が多かった。はきはきした応対が気持ちがよい。機内で11時間。アムステルダムに着く直前に、隣の男性が声をかけてきた。村上春樹の「海辺のカフカ」なんて読んでいるから、ちょっと気取った奴かなと勝手に思っていたが(ゴメンなさい!)、海外のITがらみの投資企業に勤め(ニューヨーク在住)、ロンドンや東京を行き来する、気心の優しい国際ビジネスマンだった。私がNPOの仕事で電磁波問題の海外取材に行くのだと話すと、素直に「それは大事な仕事をなさっていますね」と共感してくれた。名詞を交換して「よい旅を!」と声をかけあった。
ジュネーブからベルンに行く電車にぎりぎり間に合った。外国で電車に乗るときはいつもどぎまぎする。チケットの扱い、路線、行く先……どれも日本と要領が違うし、標識もわかりにくいものが多いからだ。途中、ローザンヌを通ってベルンに向かったのだが、レマン湖の周辺の景色のきれいなこと! 迫った山の連なり、点在する石造りの家々、湖面の深い青……これらがなんとも見事に調和している。スイスは観光で生きていける国だと感じさせられた。車窓から見る限り、路線に沿って家々はまばらで、企業のスマートなビルや中規模の工場が時々姿を現す以外は、畑と牧場だった。牛の姿を久しぶりに見たが、その数は決して多くはない。観光以外では、スイスの人たちは主に何で生計を立てているだろう?
ベルンに到着し2日間滞在することになるホテルにたどり着いた。予約しておいたホテルの部屋がやたら大きいことに驚く。洗面と風呂場がひとつになった部屋がなんと6畳はおろうかという広さだ。これでもユニットバスと呼んでいいの?? トイレで用を足しながら妙な気分になった。
明日は一日をかけてベルンをじっくり歩きまわる。
6月13日(月)
ベルン
昨晩は早く寝たので、今朝は朝4時に起床。驚いたのは、朝5時、つまり夜が明けてくる頃に、3種類ほどの鳥の声が聞こえてきたことだ。首都のど真ん中のホテルでこんな感じだとすると、市のいたるところに小さな森がたくさんあるのかもしれない。午前5時から7時までの2時間、「電磁調理器使用に伴う低周波磁場の被曝量計量モデル」を考える。朝食をホテルでとって8時半に出かける用意ができた。朝食に出たパンがやたら美味しい。ついついたくさん食べてしまう。ベルンの中心街は地図で見る限り2時間もあれば一周できそうな感じだったが、ホテルから出て歩き始めて、それが本当だとわかる。道に沿って並んでいる建物や家屋のきれいなこと!
1階部分はアーケードで連なっていて(全部あわせると長さが6キロにもなって、ヨーロッパで最長とのこと)、しゃれた感じのお店が延々と続く。大聖堂や時計台をはじめとする背の高い中世の建物、そして道路に点在する噴水や彫像がアクセントをつけ、どの建物も全体と調和を保ちつつ一つ一つが目を引く要素ももっている。まるで一人の人間が設計したものが長い時間を経て熟成したかのような落ち着きとしっくり感がある。世界遺産に登録されるのも、むべなるかな。午前9時半頃にあいにく雨が降り出し、バラ園を訪れたときにはずいぶん降られたが、その後はさっと雨が引き、少々暑く感じるほどに晴れ上がった。
道行く人々を見下ろす位置にあるレストランのテラスで雨上がりの涼しい風に吹かれながら昼食をとり、午後にはベルン自然史博物館に出かけた。(ベルンの施設は月曜日は休館、もしくは午後2時からの開館となっていて、この自然史博物館もそうだった。)動物の剥製が多いことは前もって知っていたが、いやー、この博物館はすごい。ロンドンの自然史博物館をある面では超えていると思う。剥製技術の精巧さは言うに及ばず、網羅的に生物の種を示そうとする収集へのこだわり、内部の解剖や骨格、運動の様子なども含めて、生きている身体の様子や周りの環境とのやりとりをあの手この手を使って再現させようという点など、面白い博物館のお手本のような展示がいくつもあって、びっくりした。蟻を何千(何万?)匹も飼って巣を作らせ、その活動の様子を見せるために透明なチューブで結んだ3つほどの大きな透明なケースに住まわせて行き来させるやり方には圧倒された(人によっては猛烈な数の蟻が蠢く姿を見て、気持ち悪くなるでしょう)。生きたカブトガニも初めて目にすることができた。アンモナイトや羊歯類の化石の数や大きさも半端ではない。巨大な哺乳類、非常に多数の鳥類、そして超精巧な製作技術を要するようにみえる両生類など小さな生き物の剥製や骨格標本……いずれも作る者の執念を感じさせるこだわりの品々だった。(説明がドイツ語しかなかったのは残念。)
ベルンの街の主だった通りを歩きまわってすごした一日だったが、東京の繁華街のどこと比べても人の数がうんと少なくて、混雑した感じがまったくないのは、うらやましい限りだ。アーレ川が中心街全体をぐるっと取り囲むようにU字型に流れ、その外側にはまた街全部を覆うように、小高い丘(というか山)に緑鮮やかな木々が生い茂る。至る所に赤いゼラニウムの花が咲き、家々の屋根はすべて赤茶けた色の煉瓦屋根に統一されている。落ち着いた時間の流れを感じるのは、こうした中世の風情が残っているためだろうか? こんな街に住んでみたい、と思わないではいられない。
6月14日(火)
ベルン→ジュネーブ
今日は午後から「スイス健康局」(スイス連邦公衆健康局)に取材に出かける。これは日本の厚生労働省に相当する政府の省庁だ。事前に申し込みをしていたMartin Meierさんにお話をうかがう。
午前中少し時間があったので、昨日月曜日は休館だった「ベルン市立美術館」に入る。パウル・クレーの作品が2000点以上も収められていると聞いていたので、大いに期待して入ったのだが、なんとなんと、少し離れた丘の方に6月20日に開館する新設の「クレー美術館」へ、1点を除いて全部移したのだとこと。残念でならなかった。ただ、アンケルやホドラーといったスイスの画家やドラクロワ、セザンヌ、モネ、ムンク、ブラック……など、どれも1点か2点ずつであるものの、重要な作品が展示されていて、じっくり眺め入った。帰りにクレーの絵の絵葉書を2つ買う。
その後、正午までの時間で、ベルンの大聖堂の中に入り、長くて細い螺旋階段を延々と上ってすばらしい展望を楽しむ(足元から急転直下の切り立った所からの見晴らしなので、ほんとのことを言うと、かなり怖かったです)。高さ100mのこの大聖堂はほぼ500年をかけて造られたのだという。礼拝堂は20mはあろうかと思える高さのドーム状の天井を持ち、後期ゴシック様式の彫刻とステンドグラスがじつに見事だ。美しく装飾された巨大なパイプオルガンもあり、静かな音楽が奏でられていたが、それが礼拝堂全体をなんとも美しい響きで満たしていた。造られた当時に音響設計の複雑な計算などなされたとは思えないのだが、これほど美しいオルガンの調べと響きは耳にしたことがない。職人が自身の感性を研ぎ澄ませたところに成立する技術は、奇跡的なことを可能にするものだという気がする。
午後は健康局に向かった。連邦政府の官庁なのだが、コンクリート打ちっぱなしの飾り気のない箱のような建物が郊外のだだっ広いところにポツリポツリと建っているという感じなのだが(研究都市のつくばを連想させました)、中に入ってびっくり。きわめて斬新なデザインで、個々のオフィスがガラス張りになっているところが多く、外から中の様子が眺められる。扉も開けっ放しにし���誰でも出入りできそうなオープンな感じが全体に漂っている。カフェテリアで約束の時間が来るまでを過ごしたのだが、職員や研究員たちは背広を着ている人はほとんどいなくて、みなとてもカジュアルでインフォーマルな姿だ。なんと言っても若い人が多い。大学の自然科学系研究室の仲間たち、といった感じだ。
Meierさんが迎えに来てくれて、彼のオフィス(研究室)に通される。30歳半ばくらいに見える男性で、柔和な表情が印象的。生物学と物理学のPhDを持つ。私がなげかける質問に「国の政策についてはそれほど詳しくはないのだか」と断りながら、電磁波規制に関する取り組みや現在の問題点について丁寧に語ってくれた(話の中身は別のところで詳しく取り上げる)。貴重な資料もコピーをいただいたいり、情報源を教えていただいたりした。
公衆衛生・健康に関して予防原則の尊重を法的に規定しているため、個々の環境問題で予防的措置をとることに、日本とは比較にならないほど前向きである。ほとんどまったく普及していないIH調理器についても、家庭内の熱システム全体からの電磁波被曝を調べようとするプロジェクトの中で調査対象のひとつと位置づけられていることからも、それは伺える。
バスでベルン中央駅に戻り、鉄道ICでジュネーブに向かった。夜の(といっても明るいのですが)7時にホテルに到着。明日からWHOのワークショップだ。
6月15日(水)
ジュネーブ
ジュネーブの中央の中央駅であるコルナバンからバスに乗って10分のところに、国際機関が集中して立ち並んでいる一角(アッピア通り)がある。不覚にも、今朝はいくつもあるバス停-しかもかなり距離的に分散している-のどれからその通りに向かうバスが出ているのか、4人ほどの人に尋ねたのだが、みんなはっきりわからず、ワークショップの開始時間のこともあったので、やむを得ずタクシーを使う。
10階ほどの巨大な建物だが全体がガラス張りで細長い直方体の形をしているので威圧感はない。周りに緑が多い。入り口でパスポートを示して参加証となる名札をもらい中に入る。昨年のワークショップでもお目にかかった日本からの参加者SさんとOさんの姿が見えたのでご挨拶する。今回は他にも日本人が4,5人参加している。中央に円卓を配して、その周りを正方形状に囲むように机が並ぶ。TVで映る国連の会議場の雰囲気とやはり似ている。
ワークショップのテーマは「携帯基地局と無線ネットワーク」だ。主たる話題は、携帯基地局からの高周波電磁波が人体にいかなる影響をもたらしているか、科学的にどこまでわかったかを検討しようというもので、1日目は「携帯通信革命」「高周波電磁波の被曝量計測」「基地局電磁波の健康影響研究の評価と今後求められる研究」……といった話が続く。30分のプレゼンで濃い内容をつめこもうとほんとんどのスピーカーがかなりの早口でまくし立てる感じだ。こちらは聞き取るのに必死。やはりあまりに専門的な内容になるとわからない部分も出てくる。幸いパワーポイントの大きな画面がスクリーンで映し出されるので、おおよそのところは把握できるが、的確な質問を瞬時に返せるくらいに聞きながら内容をつかみとるのが難しい。これは英語圏に属さない参加者にわりと共通した悩みなのではないだろうか。というのは、やはり質問する人がかなり限られているように思えるからだ。ワークショップの中身については、講演予稿集もあるので、別の機会に詳しく紹介することになる。(帰国して間もない26日に簡単な報告をする機会もある。)
日本でワークショップ形式の専門家会議を行うときと比べて、少し違うなと思えるのは、ブレイクの時間が長いことだ。昼食(1時間半)を別にして、午前に1回、午後に1回、30分の休憩が入る。コーヒーなどの飲み物とスナック類が用意される。会議中に質問の時間が十分とれなかったことを、これで補おうとしている感じさえする。
1日目の会議が終わって、簡単なレセプションパーティーがあった。数人の参加者といろいろおしゃべりした。台湾の2人の研究者(毒性学、環境アセスメント)、ドイツの社会学者、オーストリアの政府で環境関連の仕事をする女性……なかなか楽しかった。こちらがNPOだと言うと「どのようにして資金を得ているのか」という質問が必ず出てくる。オーストリアの女性はどうも私と年が同じくらいで、しかも生物学を専攻していて途中で方向転換したところも似ているので話が弾んだ。「大学に入りたてのときは、よし分子生物学を研究して癌を撲滅させるための画期的な発見をするのだ、と息巻いていたわ」と語っていた。私が発生生物学を専攻したことを述べると、「それこそ生物学で一番興味深くて核心的な分野ね」と反応してくれた。女優のジョディ・フォスターによく似た美人で、にこっとするときの知性的な笑顔が素敵だった。
6月16日(木)
ジュネーブ
WHOのワークショップの2日目。
今日のテーマは携帯基地局のリスクアセスメントやリスクコミュニケーション。一番興味深かったのは、各国の事例紹介の中でスイスが予防原則をそう生かして高周波の規制を行っているか、という点とイタリアがはやり独自の規制を設けていて、それが現実に守られているかどうかをモニタリングする方法を編み出している点だ。イタリアは全国に100箇所を超えるモニタリングポイントを設け、環境中の電磁波を定点計測していると同時に、を全国で「青バス」という名をつけたバスをいくつかの都市部などで街の中を走らせて、気になる環境に赴いての計測も行っている。この2つの国は携帯基地局の問題で紛争がないわけではないのだが、それを解決していくために賢明な政策的対応をなしていこうという姿勢が著しいように感じた。
一昨日スイスの健康局でインタビューした際に紹介されたバウマンさんがスピーカーとして話をされたので、ブレイクの時間につかまえてお話をした。スイスでは家電製品からの電磁波漏洩の問題は“環境問題”として扱わないので、電磁波規制をしていく対象としてとらえていないが、全部の家庭に共通する要素(たとえば熱供給システム)や職場に固有の要素については“環境”として扱うので、規制の対象としてとらえていく傾向がある、との指摘をされていた。
会議は夕方5時半まで続き、様々出た意見をどうまとめるのか、なかなか明確にみえないまま、幕を下ろした。WHOの電磁波プロジェクトがこの問題に一定の見解をfact sheetとして示すのがいつになるのかはわからないが、世界各国でもめている携帯基地局設置の問題だけに、メディアからも大いに注目されるだろう。
昼食の後に、各国の状況を伝えるための自発的なショートプレゼンテーションの受付けがあった。日本人の参加者の中から某国立研究所に所属するある若い方が5分ほど発表をしたのだが、あまりにお粗末で筋違いな発表だったので、唖然としてしまった。「各国の報告」とは、基地局をめぐる状況を伝えることだ。何を考えているのか、総務省のホームページの紹介そのままといって過言ではない、「日本には電波防護指針があり、その中で規制をしている。生体電磁環境推進委員会があり、各種の研究をしています」といった類のことを述べただけ。基地局の設置に関する問題点や紛争のことは一言たりとも触れない。日本は他の国と比べても基地局のことでは解決すべき課題を多く抱えているはずだが、この人はとにかく上司から「日本のことを伝えてこい」と言われて、総務省のスポークスマンになればよいと考えたのだろうか。英語も非常につたなかったけれど、それ以前の問題として、他の参加者をポカンとさせることを自分がしゃべっているという事態がわかっていない。それが恐ろしい。
ワークショップを終えて、夕方の涼しい風に吹かれながら、レマン湖の突端にあたる場所(「英国公園」があるあたり)を歩きまわった。ベルンと違ってやはり大都会だ。道行く人々も様々な国籍の人がいるように見受けられる。テラスにテーブルを構える店が軒を連ねるあたりを見つけ、1軒を選んでテーブルにつき、注文する。メニューがすべてフランス語なのでよくわからなかったが、あたりをつけて3品を頼む。ここのところ野菜不足だったので少し大き目のサラダと、オムレツ(なぜか量が少ない!)とパスタ。そしてビール(これも量が少ない!)とグラスワイン(同様!)。スイスは物価が高いと聞いていたいが、これら全部をあわせて日本円で4500円もしたので驚いた。
6月17日(金)
ジュネーブ→(パリ)→ブリュッセル
今日は移動の日だ。ジュネーブからパリを経てブリュッセルに向かう。鉄道での移動は初めての旅で一番不安を掻き立てる要素だ。電車の指定席を手に入れても、ちゃんと出発の時刻までにその駅にたどり着けるか、ヒヤヒヤすることがあるからだ。今日も、パリでいったん地下鉄に乗ってブリュッセル行きの電車に乗り換えることになったのだが、この地下鉄、どれがどこ行くのかがわかりにくい(パリ駅のインフォメーションセンターのお姉さん、こちらが英語で尋ねた内容がわかっているくせに、英語で返事しないでフランス語のメモ書きをポンと渡すだけ、というのはやめてよね)。荷物も抱えているし、載り損ねたら大変だし……と、どうしても焦ってしまう。でも無事ブリュッセルに到着。朝10時に電車に乗って、待ちや乗り継ぎを経て、夕方4時20分に到着。長い車中旅行だった。面白かったのは、ジュネーブからパリに向かう列車から見た風景だ。ジュネーブを出てすぐにフランスに入ったはずだが、そこからパリの直前まで特急延々2時間半ほどの間、見渡す限り農場と牧場が広がっていたことだ。「フランスは農業国」とはよく言われることだが、それを実感させる光景ではあった。
ブリュッセルの街は立ち並ぶ建物こそ中世風の造りをとどめているといえ、軒を連ねる店舗やオフィスはモダンだし、駅の周辺や中央広場付近には高層のビルがいくつもそびえている。ホテルにはタクシーで向かったが、いったん街に繰り出してみると方向がわからず、そもそも手元に地図を持っていないので(ベルギーだけの観光マップを手に入れることができなかった)、とにかく街に掲げてある大きな地図を見つけて、どこをどう歩けばいいのかを把握しようとやっきになった。車が多くて、けっこうスピードを出しているものもある。歩道はやたら広くて(スイスでもそうだった)、これに慣れると日本に戻ったときつらく感じるだろうなと思う。広大な植物公園がホテルから歩いて10分くらいのところにあった。中をぐるっと回りたかったが、どうもいくつかの部分はもう閉まっているらしい(夕方6時)。そこをあきらめて、目抜き通りを歩く。銀座に雰囲気がよく似た通りだ。大きく違うのは、道往く人々の国籍が多様であるという点(どういうわけだか、トルコやイランンなど中東から来ているとおぼしき人が多い)、そして通りのうんと先が見通せてそこには巨大な宮殿が控えているという点だろう。
期待のベルギービールを2種類飲んだが、どちらもきわめて美味しかった(ひとつはすごく甘みの強いビールだった)。お店の給仕の男性もがっしりとしているのに動きが軽やかで、無口だけれど笑顔が素敵な、まるで映画俳優のような雰囲気を漂わせた人だった。ベルギー人とフランス人やドイツ人を見分けるのは難しい(というよりたぶんできない)が、全体として日本人よりやや大柄といった背丈で、少し北欧系の肌の白さが強い(そして目が青い人が多い)という印象を持った。
明日は憧れの街、ブルージュを訪れる。
6月18日(土)
ブリュッセル→ブルージュ→ブリュッセル
今日は土曜日。ベルギーのブリュージュを訪れた。ブリュッセルから電車で2時間弱。素晴らしい晴天に恵まれて、期待に胸が膨らむ。駅前の広場から街に聳え立ついくつかの聖堂や塔が見える。街の中央部に到るいくつもの道があるようだが、とにかく一番高い聖堂を目指して歩くことにした。
歩き始めて直ちにここが「屋根のない美術館・博物館」と呼ばれる理由がわかる。
車と観光客がいなければ、中世にそのままタイムスリップしたと錯覚するような光景。どの道もどの建物もすべてが一つに溶けあっている。美しい川と馬車と至る所に生い茂る大きな樹木と小鳥たちの囀り……。石造りの家々が石畳の道に沿ってどこまでも続く様は、これは映画のためのセットではないかと目を疑いたくなるほどだ。電柱や電線は一切ない(あたりまえか……)。観光客を乗せたボートや馬車がゆったりと行き来するのが、なんとものどかだ。
昼食はベルギーの名物ムール貝と美味しいビールをいただいた。
歩き疲れて川べりで寝そべり、空を見上げた。たくさんの葉っぱが太陽をさえぎったり透かされたりしながら、川の水の流れを映して刻一刻と変化する微妙な緑のグラデーションを生じている。風に吹かれて枝がゆっくりと揺れ、それがまた陰影の変化をもたらす。聞こえるのは水が流れる音、風に吹かれて葉がすれあう音、小鳥の声だけ。僕自身もこの街に溶け込んでしまいそう……。
心ゆくまでのんびりとこの美しい街で一日を過ごせたことは、一生忘れられない思い出となるだろう。
6月19日(日)
ブ��ュッセル→デン・ハーグ
今日は国境を越えてオランダに移動する日。そう言うと大そうに聞こえるが、実際はブリュッセルから特急で2時間ほど乗るだけ。電車待ちの時間が1時間近くあったが、もし前もって時刻表など読めるようになっていれば、その待ち時間も短縮できる。ブリュッセルの駅もそうだったが、デン・ハーグの駅も1つではない。つまり「中央」があり、「北」があり……で3つも同じ名前で始まる駅名であったりする。これが混乱のもとなので、ホテルを予約する際は要注意だ。デン・ハーグのホテルは特急が到着した駅から近いのかなと思っていたが、まず中央駅まで一駅電車で向かう必要があった。そこからインターネット入手していた地図を手がかりにホテルに向かったのだが、この地図には駅が示されていないので、まず方角で迷う。ドイツと同じでオランダにはすべての通りに名前がついているので、一つだけでもその通りが認識できれば後は大丈夫。しかし、大きな地図に細かな道がたくさん記されていると、求める名前を探すこと自体が大変だ。大きな荷物を抱えながら目的のホテルにやっとのことで到着した(初めから路面電車のルートが分かっていれば、もっと楽だったろう)。
デン・ハーグの街は日曜日であるせいなのか、とても閑散としていた。駅前に超近代的な高層のビル(デザイン的にすぐれている)があると思えば、宮殿風の非常に大きな古い建物が運河沿いに続いている。(後で分かったのだが、オランダの国会議事堂だった。なんと立派な!)自転車道路、路面電車道路、車道、歩道と4つがきれいに分かれていて、道路が全体としてとても広いせいか、街の見通しがよく、気持ちがよい。花壇や街路樹も到るところに目にするし、洗練されたショーウィンドを持つお店などが並ぶ路地も面白い。なぜか書店、ギャラリー、古本屋が多い。日本人が着ても似合う人は少ないだろうなと思える、いかにも高級で見栄えのするスーツやドレスのお店も目に付く。もちろん、教会の聖堂や塔もある。
ただ、日曜日だということでレストランがほとんど閉まっていて、探すのにちょっと苦労した。1件見つけて入ったのはおよそ午後4時半。夏の盛りに入っているのだろうか、非常に日差しが強く、かなり暑い(蒸し蒸しはしないけど)。美味しいビールを飲んで、まったくわからないオランダ語のメニューを見ながら給仕の人にひとしきり説明を受けて、海産物の取り合わせがいろいろある品を注文した。海老やイカの揚げ物や炒め物が中心だったが、なかなか美味しかった。いつものうように、店の外にテーブルを並べているテラス風のスペースで(正式にはなんて言うのでしょう、こういうスペース?)食べたが、60席くらいあるところに数組しかおらず、日本だったらかかっていそうなBGMもまったくなく(これは街全部がそうです)、なんとも静かでさんさんと明るい夕方だった。こちらのカラスに相当するのか、日本のカラスの半分ほどの大きさのカラスが、もの欲しそうにテーブルのまわりをちょっと高めのトーンの「カァ」という鳴き声を出しながらうろついているのがおかしかった。
夜は9時半頃まで明るいので、食後もデン・ハーグの街をぶらつきながら、明日のインタビューや明後日の「被曝モデル」の相談、そして日本の友人たちのことを考えた。国際電話をかけてみようかなと思ったが、時差が7時間ほどあるので、日本は真夜中。さすがにあきらめました。
6月20日(月)
デン・ハーグ
デン・ハーグでの取材の日。
朝一番に、取材先である「オランダ健康評議会」が入っている建物を探す。駅からホームページにあった指示通りに歩いてみると、なんと昨日デン・ハーグの駅に着いてすぐに通りがかった巨大でモダンな建物の中にあることが分かった。この建物自体は「健康、福祉およびスポーツ省」という政府の省庁であり、その中に健康評議会が入っている。
今日も朝から相当暑かった。部屋には冷房が欲しいほどだったが(ちょうど朝の日差しが部屋に入ってくる位置だった)、安いのホテルの悲しさで、空調はなく、トイレとシャワー室も共用。少し落ち着かない感じでシャワーを浴び、インタビューの準備をする。
お昼の2時頃に永瀬ライマー桂子さんが宿に到着。1年ぶりに再会する。今日と明日のインタビューの通訳していただくためだ。本日のオランダ健康評議会は英語でのインタビューも可能であると知らされていたが(というより、オランダ人にとってドイツ語を使われることはむしろ若干嫌われる傾向がある、第二次大戦でのドイツによる支配の歴史があるから)、相手にドイツ語で話を進めてみることを承諾してもらえるようならそれでいき、専門用語などで差し障りが生じるようなら英語を随時使うという方針にした。
インタビューの時間(午後4時半)を迎えて建物の中に入っていったのだが、ベルンの時にもまして、とても省庁とは思えない見事なデザインと構造になっていることにまず驚かされる。入口で電子入館証となっているカードをもらい、目的の部屋まで歩いていったが、階段といい、各部屋といい、資料が並べてあるスペースといい、モダンな博物館・美術館といった雰囲気がしてならない。健康評議会の入口には、何ゆえか日本の着物とおぼしきもの(ただし人が着るものの2倍くらいはありそう)が飾ってある。秘書さんが待ち構えていてくださって、部屋に通され、冷たい飲み物をすすめられた。普段から打ち合わせに使っていると思えるそのオフィスのものも、明るくて落ち着いたオレンジっぽい色調で統一されている、広くて清潔感にあるれる部屋だった。
インタビューに応じてくださったのは、健康評議会のヘッドの地位に相当すると思われるExecutive DirectorのPasschierさん。白髪の60歳ほどのお年にみえるいかにも厳格な学者を思わせる感じの方だ。マースリヒト大学のリスク分析の特任教授もしておられる。105年の歴史を持つこの健康評議会が、公衆衛生や健康にかかわる政策決定をなすにあたって必要な専門的情報や判断を政府や国会に提供するための研究機関であり、かつ審議・諮問機関でもあることから話が始まった。200人ほどの専門家(科学者、公衆衛生関係者)を擁して、政府からは独立しながらも、科学技術政策のためのブレインとして機能する極めて重要な機関だ。
Passchierさんの話は脳死臓器移植や環境問題、予防原則の一般論にも及び、驚くほど守備範囲が広いことを伺わせたが、さらに驚いたのは、おそらく扱う領域の一部でしかないはずの電磁波問題に関しても、こちらが言及した、国際的にある程度知られた報告書やデータのことはどれもよくご存知で、「日本にはこういうタイプの専門家はほとんどいないのではないか……」と感じないではいられなかった。Passchierさんは「予防原則は科学的根拠に立脚しつつ適用することができるものだ」との考えを示されていたが、オランダが予防原則をどう政策に適用していくかの方針に関わる報告書を現在まとめておられるとのことだった。年末に英語で報告書がまとまるらしい。私の直感だが、これは世界的に見て、予防原則に関する重要な文書になるのではないだろうか。インタビューの詳しい内容は、また別の機会に紹介する。
取材を無事終えて、永瀬さんが前もって教えてくれていた「オランダはインドネシア料理が美味しいのですよ」という教えにしたがって、ホテルの近くのインドネシア料理店に入る。食べ物が美味しかったのはもちろんだが、お店の店主やウエイトレスさんたちが大変フレンドリーで、思いっきりくつろげた。店を出た後もホテルの軒下のカフェ・スペースで引き続きビールをいただき、気づいてみれば4時間ほども楽しいおしゃべりに興じたのだった(次々と面白い話題が飛び出してきて、笑いすぎてお腹が痛かったです)。
6月21日(火)
デン・ハーグ→ケルン→フランクフルト
昨年も訪れたnova研究所(nova-Institute)でのインタビューのために、デン・ハーグからユトレヒトを経てケルンに向かう。ユトレヒト行きの電車が、通勤に利用されているのか、けっこう混雑していた。途中の駅で電車が何かのトラブルのために止まってしまい、「どうしたのだろう?」と思っていると、「ドアが開きません。今開けようとしています」とのことで、都合1時間近くも遅れることになった。でも乗客たちはそんなに焦っているふうでもなく、車内アナウンスが流れたときに苦笑している人が多かった。
ユトレヒトからケルンに向かう電車では、指定席のコンパートメントは4人が2人ずつ向かい合う形の座席だったが、同席したアメリカ人のビジネスマンが、同席のよしみで声を交わすうちに、なんと永瀬さんが学んだのと同じオランダの大学の同窓生であることが判明。ひょっとして同期かもしれないと、話が盛り上がった。彼は物理学を専攻して、情報系の会社、自動車メーカーと勤め、今は放送関係企業のIT関連の部署で働いている。一流のビジネスマンであり、極めて頭がよいように思われた。私が「電磁波問題でWHOのワークショップに参加した」と言ったら、俄然興味を示し、電磁波リスクのことやモバイルのシステムや規格のことなどで矢継ぎ早に質問を投げてきて、ひとしきり議論してしまった。日本では乗り合わせただけの他人とここまで話が弾むことはなかなかないので、これも国境を越える旅だからこその体験かなと思った。
電車のトラブルはあったものの約束の時間に10分遅れほど駆け込むことができそうなので、ケルンの駅について駅前の超巨大な大聖堂に見とれる暇もなく、すぐさまタクシーに乗り込んでnova研究所に向かう。
1年ぶりに再会したスタッフのPeter Nieβen博士およびMonika Bathow さんのお二人は、素敵なアパートメントの2階つながりの部屋を使った事務所で私たちの到着を待ち構えてくださっていた。「この1年の活動はどうでしたか?」と聞いてくださったので、食プロジェクト、ナノテクリスクプロジェクト、生命操作プロジェクトのことなどとともに、電磁波プロジェクトで行った、関東の鉄道会社13社への「電車内の携帯電話使用に関する公開質問状」のことなどもお話した。
nova研究所は、電磁波、過疎地域援助(EUから資金援助を受けて、旧東ドイツの産業不振地域などを対象に)、代替原料(ディーゼル→菜種油、木綿→麻などエコロジカルな原料の推奨・普及)の3つのテーマに取り組むNPOで、専属スタッフ20人、うち電磁波チームは4人でそのうちの2人が電磁波問題専属だ(インタビューに応じてくれた二人が専属である)。
このたびは、市民科学研究室の「電磁波プロジェクト」がIHクッキングヒーターの調査研究をすすめるにあたって、いかに被曝モデルを設計して有効な計測データを得るのか、そして得たデータをリスクの評価にどうつなげるかを相談するのが目的だ。ドイツではIHはほとんどまったく普及していないが(逆に「日本ではなぜ普及するのですか? 電熱器ではダメなのですか?」と訊かれました)、nova研究所が様々なところから請われて精密な電磁波計測(低周波ならびに高周波)を行っているので、私が考案した「IH被曝モデル」が妥当かどうかを議論していただこうと考えたわけである。
近くのレストランでの庭先のテーブルを囲んで、私が用意した資料などにも目を通してもらいながら、熱心に意見を述べてくださった。計測にあたっての具体的なアドバイスもいくつかいただき、本当に来てよかったと思った。2時間半に及ぶ話し合いが終わり(永瀬さん、通訳お疲れ様でした!)、お二人はアップルパイを私たちにおごってくださった。いやー、そのパイの大きいこと! お二人の心の広さ、暖かさに似つかわしい、大きくて美味しい手作りパイだった。
nova研を後にして、ケルンの駅で永瀬さんと別れ、フランクフルトに向かう。昨年泊まったのと同じ駅前のホテルを予約しておいたのだが、その場所が変わっていて、戸惑ってしまった。この欧州旅行の最後の夕食を、喉越しに気持ちよいビールとともにいただいた。ひと時の夕立も涼しい夜を招いてくれる恵みのように感じられた。
6月22日(水)
フランクフルト→(アムステルダム)→成田
11日間の欧州取材旅行を無事終えて、11時の飛行機に乗るためにフランクフルトに向かった。フランクフルトは欧州最大の空港で、成田空港も作る際に日本から視察団が訪れて参考にしたといわれる。オランダ航空の便に南米からの一行が乗り合わせたのだが、陽気で騒がしく、この人たちもし12時間も飛行機で隣同士になったら大変だろうな、と思った。中継はアムステルダム空港だったが、これがまた大きい。トランジットで1時間半ほどあったので、御土産の買い物がてら時間をつぶしたのだが、「寿司バー」(カウンターで寿司とワインがいただける)あり、インターネットカフェあり、大きな書店あり、高級ホテル風のレストランあり……で飽きさせない。チーズを数種類買ったが、その際に搭乗券の提示を求められ、バーコードが素早く読み取られるシステムになっていた。
11時間のフライトは、窓際の座席の上の蛍光灯が始終点いたままになっていたので、快適とはいいかねたが(私は外が明るかったり、電灯が点いていたりすると、眠れないのです)、途中で延々と広がる雲の“大海”のはずれから太陽がゆ��くりと昇る、極めて美しい“日の出”を眺められたのは嬉しかった。驚いたのは、機内でヘッドホンで聞ける音楽のうちクラシックのチャンネルをひねったら、ずいぶんと通(ツウ)向きの曲が流れていたこと。私が愛してやまない、ベートーヴェンの後期の弦楽四重奏曲たちの嚆矢、第12番の第一楽章が、久しぶりに聞けた。雲上で体験する“日の出”とボンの巨匠の流麗な音楽。ヨーロッパの旅の締めくくりにふさわしいな、と思った。
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日記
朝けっきょく早くは起きられずでもごはん食べてすぐ出かけた!まずは観光案内所でmuseums card買って、フラウエン教会 きれいだったな~色合いがかわいかった。午後行ったお城の教会はこれぞプロテスタント(?)って感じの白基調のシンプルな感じだったから、やっぱりフラウエン教会はかわいかった~ 座って眺めてたら訪問者のみなさま みたいな感じでちょっとしたお話が始まったから聞いてた。けどやっぱドイツ語はわからない。神様が~イエスさまが~みたいなこと言ってた、たぶん。さもドイツ語わかりますみたいな顔して(たつもり)聞いてた。そのあとはツヴィンガー宮殿へ!まずはアルテマイスターから。ほんとにいっぱい絵があった~ バベルの塔の絵があって、「あっこれ見たことある~!」ってなった。システィーナの聖母の絵はたしかに天使がかわいかった ポストカード買った 元祖(?)カナレットとポーランドのカナレット、両方見れて満足した(いまウィキペディア読んだらヴェネツィアのカナレットの甥でしかもポーランド来る前はドレスデンにいたのねえ~) クラナハの楽園 彫刻コレクションもあったね~ そのあとは陶磁器コレクション ポーランド王アウグスト2世ってまんまその人じゃん!ってなった 最初チケット展示台の下に落としちゃって拾おうとしてめちゃ止められた。はずかしい 冷静に考えるともし割っちゃったら弁償いくらになるんだ恐ろしすぎる……うわーーーコレクションはすごかった、ほんとすごいなーて思った ザクセン栄えてたんだな~って ママが来たら喜びそう…って思った。有田焼と伊万里とかきつけ?マイセンで焼かれた日本風のやつとかもあってへーって ママとマイセン行ったら楽しそう 窓の外は宮殿でっていうギャップもまた良かった~ 西欧感??? そのあとは~中庭の時計が鳴るとこ見たり、君主の行進見に行ったりしてブリュールのテラスで電話した!で、風強くてスカートめくれまくりながら橋わたって新市街のほうへ~ ケストナーミュージアム!おもしろいとこだった。日本語の岩波の古めのほうが置いてあった。動物会議読んだことあるかも。日本帰ったら飛ぶ教室読むんだ~ ヘブライ語?とかチェコ語、リトアニア語のはあったけどポラ語のはなかったなぁ~ Coselpalais入りたかったけどあきらめAltmarkt Galerieのケーキ屋さんでDresner Eierschecke食べたよ~ そしてホテルのレストランで夜ごはん食べた。Soliankaていうロシアのスープをドイツに来て飲むという。おいしかったデザートにアイスも食べたよ さーもうあと10分で日付変わる感じなんだけど明日も早起きできるかなぁ~お城(火曜は休みだった)行きたいなぁ~~~がんばろ あと1週間で日本なの信じがたい うわ~~~ そんな感じの一日でした。太陽の光浴びすぎた!サングラス欲しい~以上
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📸ヴァンジ彫刻庭園美術館 / Vangi Sculpture Garden Museum, Nagaizumi, Shizuoka 静岡県長泉町の『ヴァンジ彫刻庭園美術館』が素敵…! イタリアの彫刻の巨匠:ジュリアーノ・ヴァンジの現代アートと四季ごとに花咲くクレマチス、そして眺望の美しい静岡の誇る“庭園美術館”…富士山🗻とも連なる愛鷹山の中腹にある《花/アート/食》がコンセプトの『クレマチスの丘』の美術館の一つ。 . 静岡・ヴァンジ彫刻庭園美術館の紹介は☟ https://oniwa.garden/vangi-sculpture-garden-museum/ ...... 2010年台前半はよく東京から静岡へ帰省する道中に立ち寄っていたお気に入りの庭園美術館だったのだけれど――しばらく訪れてなかったので、2022年夏に約7年ぶりに訪れました! . 現代イタリア🇮🇹を代表する具象彫刻の巨匠:ジュリアーノ・ヴァンジの世界で唯一の個人美術館であり、屋内・庭園で彫刻作品を鑑賞できるほか、クレマチスとバラ🥀が中心の“クレマチスガーデン”では四季の花々を楽しむことができます。 . スルガ銀行創業家出身の実業家・岡野喜一郎がコレクションしたフランスの画家:ベルナール・ビュフェの作品の展示のために1973年に開館した『ベルナール・ビュフェ美術館』🖼を皮切りに、愛鷹山麓に開かれていった“クレマチスの丘”。 . ビュフェ/ヴァンジの両美術館のほか、『井上靖文学館』『IZU PHOTO MUSEUM』(休館中。杉本博司が作庭した中庭も)、書店やカフェ、各種レストランが点在しています。あと『静岡サッカーミュージアム』も。 . 「ヴァンジ彫刻庭園美術館」はビュフェ美術館より約30年後の2002年4月に開館。 . 地元イタリアやヨーロッパではピサ大聖堂、パドヴァ大聖堂、ナポリのサン・テルモ城…など教会/お城/宮殿でも作品を発表したヴァンジ。 . この美術館も氏の作品の展示に特化して設計されたもので、館内への入り口になる白い御影石が敷き詰められた展示デッキ&石庭は日本国内でもここしかない!と言える空間。 . 館内の作品の位置・照明にもヴァンジの意図が反映され、氏の作品が映える空間になっている一方で、外の庭園から射すやわらかな光は現代アート作家が中心の企画展で展示されていた奈良美智/川内倫子/長島有里枝/イケムラレイコさんらの作品ともマッチしている…(好きな作家さんの名前を連ねてるだけとも言う…) 続く。 ーーーーーーーー #japanesegarden #japanesegardens #japanmuseum #japanartmuseum #artmuseum #beautifulshizuoka #beautifuljapan #japanesearchitecture #japanarchitecture #japanarchitect #japandesign #japanart #jardinjaponais #jardinjapones #japanischergarten #jardimjapones #vangi #GiulianoVangi #建築デザイン #アート #現代アート #庭園 #日本庭園 #庭院 #庭园 #美術館 #庭園美術館 #openairmuseum #長泉なめり #おにわさん (ヴァンジ彫刻庭園美術館) https://www.instagram.com/p/ChC-BGyP49o/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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庭園に「太った家」が出現?ウィーンの宮殿で彫刻作品展示
Source: やる夫アンテナNEWS
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パネライコピー 、生きて呼吸するようにたくさんある
lがもくもくとグスン。の間にサンウンヨン一匹商運で生きて。にぼんやり用用、りんの爪が天安門城閣でさらにははっきりしが、このフリー・ラジカルや華麗な色合いの宮殿のようなもののように、高貴な宮殿前阿だ。飛んで車輪を機構に乗ってボードの片翼をしながら飛んでいるのと似ている、小さなツバメツバメが中華の体の羽の彫刻されている。 パネライコピー 、生きて呼吸するようにたくさんある 僧侶が彫刻されたすべてのクリップボード(背面の基準側面つまり組み立てボックス、寝たストライプラウンド)、のふた、フォーク、棚、帰ってブモクチョ、そして映画のラウンドケース両面の、道の横車輪の中心に、映画・ホイールスポークさらに、行事以外にも輪ねじ杭の表面の図案が彫刻ごとにその素晴らしいディテールまで精巧に整備した部分ごとに北京に満ちているスタイルと特有の創意的なチャートを作成している。この中で感覚的な腕時計の車輪を飛んで曹操の創作、その中の一つに温度とホーム・プレートの副木が超える彫刻を挟んで3ヵ月ぶりに僧侶らが製作することはできるだけに、品質に対する精励している。 ガガミラノコピー 恋愛機琺瑯。蝶花植え—— "生まれた一場の夢を破った荘重ながら、早くから蝶飛んで春の日の未明コッバッエ"の伝説は遠く離れていて、そこでベイジンジェ時計を作って出した霊感をリアルなまた、他の境地だ。全体的にこのモデルは腕時計の世界に伝達して幻想的な色が色とりどりのという一つの省庁を入れてダイヤルの空中庭園、美しい花が華やかに咲き始めて色とりどりが日差しの下で出ている。 お風呂蝶の踊りを踊る。 このうち遊覧する。 この ブランド時計コピー を製作した正面の主人は、琺瑯のパンチング・ボードに飛んて槍もない丘陵に影響を与える完全な絵柄琺瑯引きの腕時計の針も、緑と青、黄色を使用した背景と大きな装飾が調和した色合いが調和をさらに見やすい。2mmの幅が不足する時、もう一人、針の上にぱっと咲いた枝を青葉が鬱蒼としたチューリップと味方を披露し、花咲く姿だ。時計の裏に大きな鉄の車輪一輪のバラの花を満開した形の傘一本に、副木の上。"さかさまにつるし上げられ、ゴールデンベル"ビラワルジョルハクランレースは、金の首を絞め、琺瑯ウンパタンに金をすべての技術の中で最も権威、琺瑯の最も代表的だ。 美しい色"蝶花恋人"も世界的に1匹は土レンガを甲板の首を絞めてレース(円形時計の主人が真っ白だ入れて販売した)なら、その原型かもしれないとではないディテールいるが、非の打ち所がないように革新の道は、それはヨチョンヒで優秀な製品だ。 スーパーコピー腕時計 このほか、他の腕時計も持っているエナメルが他のスタイルにデザインとダイヤル一つ一つをまるで一冊が全部溶けている、精巧な絵と千年の歴史文化、中国。 正確ている。 機械式時計黒野—— 北京を除いて複雑なものを除いたスタイルの時計も一般製の機械式時計の製作に重点を置いて、機械式時計にパンチングジップアップだ。手に機械式時計とブレスレット時計のデザインを簡潔ほど自動機械の時計はむしろ驚きを隠さなかった。
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📸耕三寺 未来心の丘“巍々園” [ 広島県尾道市 ] Kosanji Temple “The Hill Of Hope”, Setoda, Hiroshima の写真・記事を更新しました。 ーー #国登録有形文化財 の鮮やかな寺院建築群と、彫刻家 #杭谷一東 が作り上げた現代庭園はインスタでも人気。 ...... 潮聲閣からの続き、先に寺院の成り立ちと“未来心の丘”について。 . 広島県・尾道と愛媛県・今治を結ぶ“しまなみ海道”🌉の途中、生口島の西部の港町・瀬戸田にある #浄土真宗本願寺派 の寺院“潮聲山 耕三寺”。 昭和初期創建の比較的新しいお寺ですが、当時建立された15件の建築が国登録有形文化財。その豪華な伽藍は“西の日光”とも呼ばれます。 . 明治時代後期~昭和初期にかけて溶接や鋼管の事業で成功した実業家/発明家・金本福松(後の金本耕三、耕三寺耕三)。 氏が自らの母の菩提寺として1936年(昭和11年)から建立を開始。その経緯から“母の寺”とも呼ばれます。 . 登録有形文化財となっているのは、山門/中門/羅漢堂/鐘楼/鼓楼/仏宝蔵/法宝蔵/僧宝蔵/至心殿/信楽殿/銀龍閣/八角円堂/多宝塔/潮聲閣。最初に母親の隠居所として建てられた潮聲閣を除いて1940年前後の完成。(その後、戦後にも孝養門や五重塔🗼も建立。) . その特徴は、それぞれが日本の他の有名寺院の名建築のオマージュである点。 奈良『法隆寺』を元にした中門・羅漢堂、『平等院鳳凰堂』を元とした本堂、『日光東照宮』の陽明門を模した孝養門、そして『慈照寺(銀閣寺)』がモチーフの銀龍閣など。その上で鮮やかな彩色は耕三寺ならでは。 . そして境内の高台部に2000年(平成12年)に開園したのが“未来心の丘 巍々園”。作者は広島県出身でイタリアにアトリエをかまえるアーティスト・杭谷一東。 世界各地に彫刻作品を残されている氏が12年の歳月をかけて造営した現代庭園で、この作品でイタリアのアワードでランドスケープ部門で大賞を受賞。 . 青空に白い大理石が映え、瀬戸内海🏝の眺望も素晴らしい! なお、氏が師事したのが圓鍔勝三で、開基の耕三寺耕三と同じく尾道市名誉市民の彫刻家です。 . そして『耕三寺博物館』(金剛館)では快慶作の宝冠阿弥陀如来坐像や奈良『興福寺』に伝来した木造釈迦如来坐像をはじめ17点の国指定重要文化財を含む美術品を所蔵・公開。これらも開基の耕三寺耕三が収集したコレクションが起源。 . そんな 建築や現代庭園を含め、境内全体が博物館。実業家自身が僧職を選び寺院を構えたというのは、(企業と結びつきが強い)『神勝寺 禅と庭のミュージアム』ともまた異なる面白い背景を持つ寺院でもある。 . で、 潮聲閣の話に戻ります。 ・・・・・・・・ 🔗おにわさん紹介記事: https://oniwa.garden/setoda-kosanji-temple/ ーーーーーーーー #japanesearchitecture #japanarchitecture #japanesegarden #japanesegardens #japanlandscape #japaneselandscape #日本庭園 #庭園 #庭院 #庭园 #建築デザイン #ランドスケープ #庭屋一如 #寺社仏閣 #瀬戸田 #setoda #onomichi #近代建築 #おにわさん #oniwasan (未来心の丘) https://www.instagram.com/p/CTi2scQJFIm/?utm_medium=tumblr
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📸賓日館庭園 [ 三重県伊勢市 ] Hinjitsukan Garden, Ise, Mie の写真・記事を更新しました。 ——圧巻!120畳の大広間から眺める国名勝“二見浦”🌊の借景と回遊式庭園。 #国指定重要文化財 の近代和風建築。 ...... 「賓日館」は1887年(明治20年)に伊勢神宮⛩の賓客の休憩・宿泊施設として建築された #近代和風建築 。「旧賓日館」として本館・大広間棟・土蔵が国指定重要文化財。中庭と建物の表裏に #枯山水庭園 を見ることができます。 . 「八勝館、優勝」に続き、ここも今年の表彰台候補。“贅を尽くす”もここに極まれり…いやあまだまだすごい“和”の空間、ありますね…。 . 国指定名勝にも選定されている景勝地『二見浦』。その代表的なスポット“夫婦岩”は伊勢神宮とセットで古代から信仰されたそうで、大正時代以降は海水浴場、湯治場のある旅館街として栄えました。今回初めて訪れたけど賓日館だけでなく立派な旅館が多く残っていて驚いた。 . 伊勢神宮の賓客といえば皇室や政財界の要人たち。賓日館は #有栖川宮熾仁親王 が総裁をつとめていた伊勢神宮を崇敬する団体“神苑会”により建造されました。 “賓客の泊まる日の昇る館”…🌞というそのまんまの意味の名の命名は #有栖川宮 親王。その後英照皇太后(孝明天皇の女御)や皇太子時代の大正天皇も宿泊。 . 明治末期〜大正時代以降は隣接していた旅館“二見館”の別館となり、1999年まで営業。二見館閉業後に賓日館は二見町(現・伊勢市)に寄贈され、現在は観光施設や貸室として運営されています。 なので今回紹介する大広間も貸室として借りられるという…!(国重文だから飲食イベントとかはさすがに厳しいかもだけど。)駅から歩いていくとこの賓日館の隣にだだっ広い空き地があるんだけど、そこが元二見館なのかな…。 . で、その空き地が見えたあたりからもうその先にどデカい和風建築が見えてきます…そして唐破風屋根の玄関ドーン。 玄関からは赤絨毯が敷かれていて、階段の感じからも洋風も入ってきているな…というところからの。120の大広間棟。広さ!シャンデリア!折上格天井!天井絵!そしてそこから見下ろす庭園と二見浦の景色…。「圧巻、ヤバい」の言葉しかないですね…。 . それ以外の、皇族滞在のための“御殿の間”や客室も意匠がめっちゃくちゃ凝ってて色んなデザイン���゙あって(あと彫刻家・板倉白龍による階段の取手をカエル🐸にした作品もかわいい)。 . その2に続きます。 ・・・・・・・・ 🔗おにわさん紹介記事: https://oniwa.garden/hinjitsukan-%e8%b3%93%e6%97%a5%e9%a4%a8/ ーーーーーーーー #庭園 #日本庭園 #三重 #伊勢 #japanesegarden #japanesegardens #jardinjaponais #japanischergarten #jardinjapones #jardimjapones #японскийсад #japanesearchitecture #japanarchitecture #二見浦 #枯山水 #karesansui #近代建築 #近代和風建築 #けしからん風景 #おにわさん #oniwasan (賓日館) https://www.instagram.com/p/CFCtQqiBQoI/?igshid=594lxgdgu5ru
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\おにわさん更新情報📸/ [ 鳥取県智頭町 ] 石谷氏庭園(石谷家住宅) Ishitani Residence Garden, Chizu, Tottori の写真・記事を更新。 ーー近代鳥取の高額納税者だった実業家/貴族院/衆議院議員 #石谷伝四郎 の豪邸と借景の美しい庭園。#国指定重要文化財 。 ・・・・・・・・ 石谷家住宅は #智頭往来 の宿場町“智頭宿”🏘の代表的な邸宅(豪邸)で、昭和初期に建てられた主屋・座敷棟・家族棟のほか明治〜大正期の複数の蔵が国指定重要文化財。 その庭園が「石谷氏庭園」として #国登録記念物 (名勝地関係)および #鳥取県指定名勝 となってます。鳥取県指定名勝の第一号。 2019年秋に初めて智頭町を訪れました。元々は岡山の津山に行くことを決めていて――宿を探した結果、智頭急行沿線のあわくら温泉♨️のゲストハウスに泊まることになったのでその足でそのまま智頭へ。 この「石谷氏庭園」が春と秋の数日のみ特別公開されるというのは何年か前から把握していたんだけど、ようやく初訪問。今回は“ルート的に行けそう”ってぐらいだったんだけど、運良くこの秋の庭園特別開放最終日に。 しかしこんなに大きな邸宅とは思わなかった…!石谷家は江戸時代には宿場町の商家として、明治以降の近代には山林地主として栄えた旧家。なるほど、どおりで(後で紹介する)庭園の借景が素晴らしいわけだ⛰ この邸宅を建築した頃の当主・石谷伝四郎は衆議院議員・貴族院議員も務め鳥取県の多額納税者でもあったそう。 デカくて広くて(3,000坪)、部屋も沢山(40部屋!)あるので建物の魅力は公式サイトの説明に任せたい。笑。自分が目が行きがちなのはやはり“意匠”。欄間や障子の透かし彫りが素晴らしいの!! 制作者は #国米泰石 さんという方。堀込泰行さんを連想する名前…というのはさておき、智頭出身の彫刻家で #岡倉天心 に見出され日本美術院へ。奈良・東大寺をはじめ国宝級の仏像🗽修復に数多く携わり、京都・妙心寺からは“大仏師”の称号も与えられたすごい人。この方の彫刻だけでも観に行く価値ありでは! ハート型(源氏パイ型)の透かし彫りが印象的な“江戸座敷”から、赤く染まった山を借景とした #池泉回遊式庭園 が眺められます🌋 庭園に降りて歩くことができるのは例年GW前後と秋の11月中旬の週末ですが、それ以外の時期もこの江戸座敷や新建座敷や二階から眺められます。 庭園もこの池泉庭園、上段部分にある芝庭、茶室の裏にある露地庭や坪庭、中庭…と広大な敷地にいくつかあるのですが、最も早い時期――現在の邸宅の工事がはじまった大正時代以前の作庭で、元の江戸座敷が整った幕末の安政年代〜明治30年に小松宮殿下を迎えた間の時期と推定されています。 借景となっている牛臥山、豪勢な滝に長い石橋――という江戸座敷側からの眺めも素晴らしいし、その逆側から茶室・江戸座敷を眺めてもその先にはやはり山の借景が目に入るし、母屋の前に広がる枯山水庭園〜芝庭はまた違う趣きがあって素敵。智頭も今年は紅葉が遅かったのだとしたら、例年は周囲のモミジも真っ赤に染まってるんだろう🍁ここは本当に一流の庭園! 最後の一つ余談を。“国指定名勝”と“国登録記念物(名勝地)”ってどれぐらい格が違うのって話。これは以前志布志の庭園を巡った時にご案内いただいた方や、別の文化財に詳しい人に聞いた話なのですが、保護の仕組(助成金など)の格的には『県指定名勝>国登録名勝』なんだそう。 国ナントカっていう名前の優位性はあるけど、国登録…よりは市指定名勝の方が良い場合もあるんだって。へえー。で、“国登録名勝”と“●●指定名勝”のダブルになってる事例は殆ど無いのですが、この石谷氏庭園は国登録名勝と県指定名勝のダブル。これってアリなの?…と思ったら、Wikipediaに注釈があった。なるほどー。書いた人天才。 この庭園のみならず智頭の宿場町は他にも立派な邸宅が残り(いくつか公開施設もあり)素敵な街並みでした。また訪れたいし地味ながら推せる観光地! 〜〜〜〜〜〜〜〜 🔗おにわさん記事URL: https://oniwa.garden/ishitani-residence-%e7%9f%b3%e8%b0%b7%e5%ae%b6%e4%bd%8f%e5%ae%85/ ーーーーーーーー #庭園 #日本庭園 #借景庭園 #garden #japanesegarden #japanesegardens #智頭 #智頭宿 #智頭町 #chizu #鳥取 #鳥取県 #tottori #山陰 #sanin #近代和風建築 #国重文 #国登録名勝 #登録記念物 #名勝地 #おにわさん (石谷家住宅) https://www.instagram.com/p/B7i_AAOAzFx/?igshid=35e3lnsrfl2n
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