Tumgik
#石垣島の自然
nippongoto · 3 months
Text
Tumblr media Tumblr media Tumblr media
アオスジコシブトハナバチ
群れで眠るところにやっと出会えた。メタリックターコイズブルー縞々集団サイコー。
R5.11
2K notes · View notes
canarity · 2 years
Photo
Tumblr media
9.14-16 Ishigaki trip 食べたものたち あらゆるものが美味すぎた #写真好きな人と繋がりたい #ファインダー越しの私の世界 #photography #photooftheday #photo #自然が好きな人と繋がりたい #誰かに見せたい風景 #キリトリセカイ #石垣島 #石垣島グルメ #石垣牛 #ハンバーガー #クラフトビール #海ぶどう #おにささ美味しすぎた #A&W https://www.instagram.com/p/CjIfN0NLeB8/?igshid=NGJjMDIxMWI=
10 notes · View notes
ari0921 · 4 months
Text
「宮崎正弘の国際情勢解題」 
令和五年(2023)12月27日(水曜日)参
    通巻第8070号
 AIは喜怒哀楽を表現できない。人間の霊的な精神の営為を超えることはない
  文学の名作は豊かな情感と創造性の霊感がつくりだしたのだ
*************************
 わずか五七五の十七文字で、すべてを印象的に表現できる芸術が俳句である。三十一文字に表すのが和歌である。文学の極地といってよい。
どんな新聞や雑誌にも俳句と和歌の欄があり、多くの読者を引きつけている。その魅力の源泉に、私たちはAI時代の創作のあり方を見いだせるのではないか。
 「荒海や佐渡によこたう天の川」、「夏草や強者どもが夢の跡」、「無残やな甲の下の蟋蟀」、「旅に病で夢は枯野をかけ巡る」。。。。。
 このような芭蕉の俳句を、AIは真似事は出来るだろうが、人の心を打つ名句をひねり出すとは考えにくい。和歌もそうだろう。
 『春過ぎて 夏来にけらし 白妙の 衣干すてふ 天香具山』(持統天皇)
 皇族から庶民に至るまで日本人は深い味わいが籠もる歌を詠んだ。歌の伝統はすでにスサノオの出雲八���垣にはじまり、ヤマトタケルの「まほろば」へとうたいつがれた。
 しかし人工知能(AI)の開発を米国と凌ぎを削る中国で、ついにAIが書いたSF小説が文学賞を受賞した。衝撃に近いニュースである。
 生成AIで対話を繰り返し、たったの3時間で作品が完成したと『武漢晩報』(12月26日)が報じた。この作品は『機憶(機械の記憶)の地』と題され、実験の失敗で家族の記憶を失った神経工学の専門家が、AIとともに仮想空間「メタバース」を旅して自らの記憶を取り戻そうとする短編。作者は清華大でAIを研究する沈陽教授である。生成AIと66回の対話を重ね、沈教授はこの作品を「江蘇省青年SF作品大賞」に応募した。AIが生成した作品であることを予め知らされていたのは選考委員6人のうち1人だけで、委員3人がこの作品を推薦し
「2等賞」受賞となったとか。
 きっと近年中に芥川賞、直木賞、谷崎賞、川端賞のほかに文学界新人賞、群像賞など新人が応募できる文学賞は中止することになるのでは? 考えようによっては、それは恐るべき時代ではないのか。
 文学の名作は最初の一行が作家の精神の凝縮として呻吟から産まれるのである。
 紫式部『源氏物語』の有名な書き出しはこうである。
「いづれの御時にか、女御、更衣あまたさぶらひたまひける中に、いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて時めきたまふありけり」
 ライバルは清少納言だった。「春は曙、やうやう白く成り行く山際すこし明かりて、紫立ちたる雲の細くたなびきたる」(清少納言『『枕草子』』
 「かくありし時すぎて、世の中にいとものはかなく、とにもかくにもつかで、世に経るひとありけり」(道綱母『蜻蛉日記』)
 額田女王の和歌の代表作とされるのは、愛媛の港で白村江へ向かおうとする船団の情景を齊明天王の心情に託して詠んだ。
「熟田津に 船乗りせむと月待てば 潮もかなひぬ今は漕こぎ出いでな」(『万葉集』)。
 「昔、男初冠して、平城の京春日の郷に、しるよしして、狩りにいにけり。その里に、いとなまめいたる女はらから住みけり。」(『伊勢物語』)
 ▼中世の日本人はかくも情緒にみちていた
 「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶ泡沫(うたかた)はかつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし」(『方丈記』)
 『平家物語』の書き出しは誰もが知っている。
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。 沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。 奢れる人も久からず、ただ春の夜の夢のごとし。 猛き者も遂にはほろびぬ、 偏(ひとへ)に風の前の塵におなじ」。
 『太平記』の書き出しは「蒙(もう)竊(ひそ)かに古今の変化を探つて、安危の所由を察(み)るに、覆つて外(ほか)なきは天の徳なり」(『太平記』兵藤祐己校注、岩波文庫版)
「つれづれなるままに、日くらし硯にむかひて、心にうつりゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ」(『徒然草』)
 古代から平安時代まで日本の文学は無常観を基盤としている。
 江戸時代になると、文章が多彩に変わる。
 井原西鶴の『好色一代男』の書き出しは「「本朝遊女のはじまり、江州の朝妻、播州の室津より事起こりて、いま国々になりぬ」
 上田秋成の『雨月物語』の書き出しはこうだ。
「あふ坂の関守にゆるされてより、秋こし山の黄葉(もみぢ)見過しがたく、浜千鳥の跡ふみつくる鳴海がた、不尽(ふじ)の高嶺の煙、浮島がはら、清見が関、大磯小いその浦々」。
 近代文学は文体がかわって合理性を帯びてくる。
「木曽路はすべて山の中である」(島崎藤村『夜明け前』)
「親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりしている。小学校に居る時分学校の二階から飛び降りて一週間ほど腰を抜ぬかした事がある」(夏目漱石『坊っちゃん』)
「石炭をば早はや積み果てつ。中等室の卓つくゑのほとりはいと静にて、熾熱燈の光の晴れがましきも徒らなり。今宵は夜毎にこゝに集ひ来る骨牌カルタ仲間もホテルに宿りて、舟に残れるは余一人ひとりのみなれば」(森鴎外『舞姫』)。
 描写は絵画的になり実生活の情緒が溢れる。
「国境の長いトンネルをぬけると雪国だった」(川端康成『雪国』)
 谷崎潤一郎『細雪』の書き出しは写実的になる。
「『こいさん、頼むわ』。鏡の中で、廊下からうしろへ這入はいって来た妙子を見ると、自分で襟えりを塗りかけていた刷毛はけを渡して、其方は見ずに、眼の前に映っている長襦袢姿の、抜き衣紋の顔を他人の顔のように見据みすえながら、『雪子ちゃん下で何してる』と、幸子はきいた」。
 「或春の日暮れです。唐の都洛陽の西の門の下に、ばんやり空を仰いでいる、一人の若者がありました」(芥川龍之介『杜子春』)
 ▼戦後文学はかなり変質を遂げたが。。。
戦後文学はそれぞれが独自の文体を発揮し始めた。
 「朝、食堂でスウプをひとさじ吸って、お母様が『あ』と幽(かす)かな声をお挙げになった」(太宰治『斜陽』)
 「その頃も旅をしていた。ある国を出て、別の国に入り、そこの首府の学生町の安い旅館で寝たり起きたりして私はその日その日をすごしていた」(開高健『夏の闇』)
 「雪後庵は起伏の多い小石川の高台にあって、幸いに戦災を免れた」(三島由紀夫『宴のあと』)
和歌もかなりの変質を遂げた。
正統派の辞世は
「益荒男が 手挟む太刀の鞘鳴りに 幾とせ耐えて今日の初霜」(三島由紀夫)
「散るをいとふ 世にも人にも さきがけて 散るこそ花と 吹く小夜嵐」(同)
 サラダ記念日などのような前衛は例外としても、たとえば寺山修司の和歌は
「マッチ擦る つかのま海に霧ふかし 身捨つるほどの 祖国はありや。」
 わずか三十一文字のなかで総てが凝縮されている。そこから想像が拡がっていく。
 こうした絶望、空虚、無常を表す人間の微細な感情は、喜怒哀楽のない機械が想像出来るとはとうてい考えられないのである。
AIは人間の霊感、霊的な精神の営みをこえることはない。
5 notes · View notes
petapeta · 1 year
Quote
六麓荘町(ろくろくそうちょう)は、兵庫県芦屋市の町名及び同地の高級邸宅街。「丁目」のない単独行政地名。 神戸市、大阪市および阪神間の市街地と瀬戸内海を俯瞰する六甲山地の南東麓斜面の海抜200 - 250メートル地点に位置する。1928年に払い下げられるまでは国有林で[5]、現在も芦屋市の自然環境の一部分を形成している。 芦屋の一部は元々、大阪財界人の別荘地として開拓されていた。六麓荘町の開発は、明治後半から大正時代にかけ、日本一の富豪村[6]と呼ばれた住吉村(現・神戸市東灘区)や夙川、香櫨園など近隣地域の影響を受けた延長上のものであった。1928年(昭和3年)から富商・内藤為三郎ら大阪財界人の手によって、国有林の払い下げを受けて当初197区画、数万坪にのぼる宅地造成を行ったことから始まった。六麓荘という地名は「風光明媚な六甲山の麓にある別荘地」に因み名付けられた。電線類地中化など先進的な街づくりが取り組まれた[5]。 六麓荘の開発は、1928年(昭和3年)に大阪財界人のひとり森本喜太郎が発起人になって、土地開発・住宅造成の会社である「株式会社六麓荘」を設立したことが始まりである。社長には上記の内藤為三郎、専務に森本喜太郎が就任した。この当時は、資金があまり準備できず、2人は協賛金や株の手付けなどの資金調達に専念した。 この地帯も国有林であったので、国有林の払い下げなどの運動については、法律に長けた取締役の瀬尾喜二郎が国との交渉にあたったとされる。 六麓荘開発のコンセプトは、この地を「東洋一の住宅地」とすべく香港の九龍半島やその対岸の香港島の白人専用街区をモデルに開発が行われた[5]。南斜面の起伏のある恵まれた地形を有効に利用し、スケールの大きな住宅地が形成された。例えば、細い山道にすぎなかった道を幅6メートル以上に拡幅して、1区画につき少なくとも300坪から400坪以上を標準とした。また、自然の地形を尊重した曲線道路により、住宅地全体が構成され、造成時に切り出された石材は石垣や石橋、庭石に利用。山林の赤松もできるだけ残されて庭木などに活用された。 敷地内に流れる山からの湧水を小川として取り込むほか、溜池や道路を流れる川には橋をかけた。さらに、特色として上水道は経営地の最高部に貯水池を設け、下水道はヒューム管を埋設。都市ガスも導入している。また、電気については、電柱が著しく風致を損なうとして、多額の費用をかけて日本で初めてとなる電線類の地中化が行われた。道路の保全と美観上の問題を含めて全面的な道路舗装を行い、安全面にも留意している。開発当初の1区画の敷地規模は、平均300 - 1000坪以上である。 六麓荘最大の特色として「六麓荘町内会」が開発直後から組織されていることが挙げられる。なお、「町内会」を別に「自治会」と称する事もある。町内会は環境保護・景観保護の為に、ある意味においては、治外法権的な役割を果たしており、町の住民は、開発当初から町内会独自の協定を設けて高級住宅街の維持に努めてきた。協定では、建物は一戸建ての個人宅に限り、新築と増改築には町内会の承認が必要である。 町内での営業行為は一切禁止しているため、マンションや商店、自動販売機は全くない[5]。町内会員により構成される六麓荘町内会(六麓荘土地有限会社)は、道路部分の土地所有権を有している。開発当初は道路を区分所有していたが、管理に限界があり、有限会社を設立することで共有財産とした。しかし、有限会社での自主管理にも限界があったために、芦屋市に無償貸与して市による管理が行われることになった。 新規居住者は、入居時に、町内会の入会金を支払いとともにこれとは別に月々の管理費を支払っている。これらの資金は、共有施設がある駐在所兼公会堂施設の維持・管理と町内会の活動経費に充てられている。新規入居者は、計画時に芦屋市から申請の内容が町内会に伝えられ、町内会でこれを承認するという手続きをとっている。セキュリティー面では、1930年(昭和5年)に町内会が無償で建物を提供して、芦屋警察署の六麓荘駐在所が開設された。 現在の建築条例(旧建築協定)は敷地面積を400平方メートル(121坪)以上とし、400平方メートル未満の面積への分筆も禁止され、用途は2階建以下の一戸建個人専用住宅に限られる。建物の高さは最高10メートルで、軒の高さは7メートル以下とし、営業行為も一切禁止で他にも色々な制限がある。 上述の厳しい制約から、賃貸契約や会社名��(社宅)としての利用が不可であると勘違いされる事も多いが、建築条例を充たした建物であれば居住形態の制限等は無い。賃貸(借家)住まいや社宅住まいの住人も数多く存在している。 バブル経済崩壊、阪神・淡路大震災以後の近年では世代の交代や高額の相続税の支払いが原因で、土地を手放すケースが増加した。そのうえ前述している紳士協定に過ぎない「建築協定」では風致を維持することができなくなることが懸念されるようになる。そのため住民は強制力のある条例による景観保護を市に求めることとなった。 住民の要望を受けて芦屋市は「建築協定」をそのまま「条例」に格上げした「景観保護条例」を市議会に提出した。「景観保護条例」は、2006年(平成18年)12月22日の芦屋市議会で全会一致で可決されて、2007年(平成19年)2月1日から施行となった。通称「豪邸条例」として話題になった[5][7]。
六麓荘町 - Wikipedia
21 notes · View notes
myonbl · 6 months
Text
2023年10月18日(水)
Tumblr media
出勤すると、ドアノブにビニール袋がかかっていた。中には、同僚かつご近所さんのK姉からの石垣島の土産が入っていた。<リュウキュウアカショウビン>のタオルハンカチ、<一枚につき100円が八重山諸島の自然保護に寄付される>とのことだ。沖縄には何度も言っているが、石垣島にはいったことがない。いつか訪れたい場所の一つだが、果たしてその日は来るのだろうか。K姉、ありがとうございます。
Tumblr media
5時45分起床。
Tumblr media
水曜日の朝は忙しい。
ツレアイが2男のおにぎりを用意し、私が洗濯機を回してから夫婦の朝食を用意する。終われば、私が3人分の弁当を用意し、彼女が洗濯物を干す。
空きビン缶、45L*1。
彼女の職場経由で出勤する。
Tumblr media
名神吹田出口手前から渋滞、合流する中央環状線の事故の影響、いつもより10分以上よけいにかかってしまった。
明日の<共生社会と人権>の資料作成、印刷。
水曜日2限・3限は<情報機器の操作Ⅱ(栄養学科)>、月曜日のクラスと同じくPowerPointの試験を実施する。
3限終わりで、<インターンシップ>の受講生1名が実習日誌を持ってきた。コピーをとって返却する。児童教育学科の3年生だが、保育関係ではなく車のディーラーに就職したいとのことで、実習先も同内容、良い経験となったようだ。
月曜日クラスの試験採点のため、スライド8枚を1枚に印刷する。内容チェックはモニターだが、返却時に利用するのだ。
Tumblr media
帰路は順調。
在庫食材チェック、買い物せずにいけそうだ。
Tumblr media
息子たちの夕飯、無水肉じゃが+あれこれ。
途中でツレアイが買い物して帰宅、我々はアジの干物を焼いて晩酌。
録画番組視聴。
Tumblr media
少し前の再放送、「仏師屋盗人」桂吉坊、「禁酒番屋」柳家喬太郎。
片付け、入浴・・・の前にダウンしてしまった。
Tumblr media
珍しく、エクササイズが足りなかった。水分は、1,690ml。
4 notes · View notes
lupinnewseason · 1 year
Text
【ルパン三世フェスティバル in 浜中町】浜中町ルパン三世バーチャルツアー&フェスレポート
Tumblr media
漫画「ルパン三世」原作者であるモンキー・パンチ先生のふるさと北海道・浜中町で、3年ぶりに『ルパン三世フェスティバル』(2022年10月29日・30日)がリアル開催されました。フェスティバル会場の模様と、浜中町中や観光スポットで見つけることのできるルパン三世たちを【浜中町ルパン三世バーチャルツアー】としてご紹介します。
◎浜中町ルパン三世バーチャルツアーMAP
---------------------------------
①ルパン三世通り(霧多布市街地)
ツアーは、浜中町役場がある霧多布(きりたっぷ)よりスタート。霧多布市街地の『ルパン三世通り』にはルパン・次元・五ェ門・不二子・銭形たちが描かれたフラッグや看板が掲げられています。
Tumblr media
各キャラクターが描かれたマンホールのふたは、浜中町オリジナルのお土産としてキーホルダーも販売されています。 浜中町商工会:https://hamanaka-shoko.jp/pg937.html
Tumblr media
通りにある仮想店舗「JIGEN’S BAR」「PUB FUJKO」は、ファンが必ず訪れる人気のフォトスポットです。
Tumblr media
仮想映画館「霧多布座」は老朽化により2022年6月に取り壊しとなりましたが、復元ARとして現地で写真撮影ができます。
Tumblr media
※ARサービスの提供は2022年11月30日まで
---------------------------------
②霧多布市街地 店舗
Tumblr media
霧多布市街のお店「鎌沢ドラッグ」さんにお邪魔しました。こちらは店内を飾るモンキー・パンチ先生のサインやルパン三世グッズ、ジオラマなど圧巻のコレクションで、現地を訪れるファンのサロン的存在のお店とのこと。この取材の際も、コスプレ姿のファンが見学をしていました。
Tumblr media
市街には他にも店頭にルパン三世やモンキー・パンチ先生のサインが飾られているお店があります!
Tumblr media
---------------------------------
③浜中町役場 新庁舎
Tumblr media
津波対策として高台に建てられている浜中町役場の新庁舎。役場までの案内板には、町の基幹産業である農・漁業ルックのルパン三世一味&銭形警部の姿が描かれています。
Tumblr media
通常は平日のみ見学可能な庁舎内ですが、今回はルパンフェスのため特別に見学することができました。
▼1階:吹き抜けの入り口から見える各階案内板にはルパンたちが。
Tumblr media
▼2階:モンキー・パンチ先生のルパン三世イラストを大きく使用した壁画。
Tumblr media
▼3階:展望台は霧多布市街地を見渡せる絶景ポイント。
Tumblr media
ちなみに新庁舎の外では、ルパン三世通りと同じ5種類のマンホールを見つけることができます!
---------------------------------
④「妖精花伝説」イラスト
浜中町内の牧場にはモンキー・パンチ先生が描かれた妖精のイラストが看板となっている牧場も。
Tumblr media
妖精は何種類かいるそうなので、現地に来た際はぜひ探してみて下さい。 今回は浜中町役場ちかくの小松牧場さんにお邪魔しました。 ※牧場では牛舎や牧草地など立ち入り禁止の場所にご注意ください
---------------------------------
⑤霧多布湿原センター
Tumblr media
霧多布市街からJR花咲線・茶内(ちゃない)駅へ向かう一帯は約3000平方メートル(東京ドーム600個分以上)の広さをもつ霧多布湿原です。浜中町の自然を楽しみたい方は「霧多布湿原センター」で専門ガイド付きのエコツアーも開催しています。また、センターでは物産品と合わせ、浜中町オリジナルのルパン三世グッズも販売しています。
霧多布湿原センター:https://www.kiritappu.or.jp/center/
---------------------------------
⑥JR花咲線 茶内(ちゃない)駅
Tumblr media
JR花咲線(JR根室本線、一部区間の愛称)の浜中町内にある<茶内駅>。 駅の入り口ではルパン三世の等身パネルが出迎えてくれます。そしてホームにはルパンを追ってきた(?)銭形警部の姿も。 フェス中はJR茶内駅から会場までの町営バス(予約制)も運行しています。
---------------------------------
⑦仮想店舗「居酒屋五ェ門」
茶内にあるフォトスポット・仮想店舗「居酒屋 五ェ門」は、駅入り口を背に200メートルほど歩いた場所に建っています。(実際の営業はしていません)
Tumblr media
---------------------------------
⑧浜中町ウェルカム看板
茶内駅をはなれ、釧路市~根室市を結ぶ国道44号線に向かうと見えてくるのは、表はルパン、裏は不二子のイラストが描かれた大きな案内板です。
車での観光の際はこの看板が浜中町の目印となります!
Tumblr media
※自動車での観光は、交通ルールを守って安全運転を心がけましょう。
 
---------------------------------
⑨ルパン三世 デーリィロードマップ看板
そのまま国道44号線を北上すると見えてくる茶内酪農展望台。 そのパーキングエリアにある酪農地域全体の案内板にもルパン三世が。
Tumblr media
この他にも、浜中町内の酪農地域ごとに「ルパン三世」キャラクターと「妖精花伝説」のイラストが描かれた案内板があるようです。
---------------------------------
⑩JR花咲線 浜中駅
国道44号線から再びJR花咲線に戻って<浜中駅>へ。 こちらの入口では誰かと待ち合わせしているような次元と五ェ門、そして駅舎内の切符売り場とホームには不二子とルパンの姿を見ることができます。
Tumblr media
駅舎以外でもJR花咲線では大自然の中をルパン三世のラッピングトレインが運行しています。霧多布のラッピングタクシーなど、各種交通機関を合わせての観光もオススメです。
Tumblr media
▼JR北海道 ルパン三世ラッピングトレイン運行表 ⇒ https://www.jrhokkaido.co.jp/travel/lupin/
浜中町の観光スポットではARを使ってルパンたちと写真が撮れるサービスを実施し、フェス期間中に訪れたファンの皆さんにも好評でした。
Tumblr media
※ARサービスの提供は2022年11月30日まで
---------------------------------
⑪ルパン三世フェスティバル会場(浜中町総合文化センター)
霧多布市街地へ戻り、フェス会場の浜中町総合文化センターにやって来ました。 駐車場ではラッピングトレーラーの展示や地元グルメ屋台の出店で賑わっています。
Tumblr media
総合文化センター1階ロビーにあるルパン三世の愛車の展示コーナーでは、フェス中は特別に車のそばまで近づくことができたため、コスプレをしたファンなどたくさんの方が記念写真を撮りに集まっていました。
Tumblr media
2階ではフェスティバルに合わせ TVアニメ「ルパン三世 PART6」ビジュアル展を開催。 ルパン三世グッズ販売や浜中町内で使えるルパン三世payの発行コーナーも設置されていました。
Tumblr media
◎モンキー・パンチ・コレクション
Tumblr media
文化センター2階にある常設施設「モンキー・パンチ・コレクション」にもフェス中たくさんの人が訪れていました。この中ではモンキー・パンチ先生の漫画原稿やイラストが多数展示されているほか、先生の書斎を再現したスポットなど創作の原点を垣間見ることができ、浜中町を訪れるファンが必ず立ち寄る名所となっています。
Tumblr media
◎「スペシャルトーク」ステージ
フェス2日目のラストには、声優陣と制作スタッフによる「スペシャルトーク」ステージが文化センター大ホールにて開催されました。
Tumblr media
<「スペシャルトーク」登壇者> (ステージ左より)MC小新井涼さん/ルパン三世・栗田貫一さん/石川五ェ門・浪川大輔さん/トムス・エンタテインメント 野﨑プロデューサー/東北新社 清水音響監督/日本テレビ放送網 中谷敏夫さん
まず栗田さん、浪川さんが久しぶりとなった浜中町ステージでの挨拶、そして今回がフェス初参加の音響監督・清水さんも浜中町の印象を語り、和やかにトークがスタートしました。
今年8月に亡くなられた次元大介の声優 小林清志さんの話題では、栗田さんはアフレコ現場での小林さんとの最後の会話、浪川さんからは小林さんとの印象的なエピソードが語られました。 そして、今回のステージではサプライズとして次元大介の声優を引き継がれた大塚明夫さんからのビデオメッセージが紹介され、ステージでは「PART6」アフレコ時の様子など制作時のエピソードも飛び出しました。
続く浜中町ステージでのお楽しみ・生アフレコのコーナーでは、栗田さんと浪川さん、そして観客席から元気に手をあげた銭形警部姿のファンも参加し、音響監督の生指導の下で「PART6」第一話ラストシーンのアフレコを再現。見事にリリー役を演じた参加者に、栗田さんと浪川さんからは驚きと称賛の声があがり、会場からも大きな拍手が送られました。
最後のあいさつでは新しいメンバーも加わったルパン三世チームでまた浜中町を訪れたいと栗田さんが語り、温かな雰囲気の中ステージは幕を閉じ、「ルパン三世フェスティバル」の全日��が終了しました。
---------------------------------
浜中町とルパン三世スポットについて詳し��は下記WEBサイトでもご案内をしています! ⇒ 浜中町観光協会:http://www.kiritappu.jp/ ⇒ ルパン三世宝島プラン:https://www.hamanaka-lupin.com/
フェスにご参加いただいたファンの皆様、ありがとうございました!
12 notes · View notes
ateliertanu · 9 months
Text
Floral Friday #128
 夏になると少しばかり人工的で濃厚な色が多くなる。それが何かの自然の摂理と関連しているものなのか、見ている側の期待による結果なのかはわからないが、そうした色を見て夏が終盤を迎えたことを感じている。海洋性気候の石垣島よりも高い横浜の気温にため息をつきながら、ブルターニュの知人から聞く秋の気配を想像して少し涼しい気分になった。夏のはじめに少し気温が高くなったが、いつものように盛夏であっても25度で過ごしやすいとのこと。でも、暑い海に行くらしい。それぞれの夏。
Tumblr media
View On WordPress
6 notes · View notes
memory-of-hiroshima · 2 years
Text
77回目の8月6日が来ました。 あの日、そしてその後の“ヒロシマ”を知ってもらうことが、核兵器廃絶への道につながることを信じたいのです。 2年前に書いた文章ですが、読んでいただければ嬉しいです。
Tumblr media
胎内被爆者の綴り方
<はじめに>  長い間、私は不特定多数の人に被爆体験を語ることにとまどいを覚えておりました。胎内被曝のため、実際に被爆の被害・惨状を見たわけでもなく、肉親を失ったわけでもなく、私自身もこの年齢まで生きてこれた幸運もあり、大きな嘆きの人々に比べれば語る資格がないと思っていました。  しかし、ここ数年、特に日本政府は広島・長崎の被害の事実をなかったものかのように動き始め、核兵器禁止条約に対しても、日本の代表とは思えぬ動きで、私は不安でたまりません。  今まで、生協の平和行進や集会、そして募金に参加したことがあるくらいで、平和や反核に対する運動をほとんどしていません。平和公園での座り込み運動にも、心をよせてはいても、ただの傍観者でした。私が育った戦後、ついこの間までは多くの活動をする人がいて、私も黙っていてもよかったのです。ただ被爆者の会も高齢化で消滅解散する中で、何かしなければならないのではと思い始めていました。  そんな時、オーラルヒストリーを研究しておられる元TBSアナウンサーの久保田智子さんの講演を聞く機会がありました。私が記憶を語るとしたら客観的事実ではないかもという懸念をもっていたのですが、久保田さんは「その人が感じ考え思ったことをいっしょに述べること、主観的事実でいい」と言われました。「複雑でいい、矛盾していい、個人的なものを社会的なものに関連づけて解釈するのだ」と。これは私を勇気づけました。  また、ピラミッドの一番上に直接被爆者がいて、その下にいろいろな人が階層的に存在し、それぞれに思うこと感じ考えることがある、それも大切だと。「ああ私の位置はヒエラルキーの二番目だ、それでも語っていいのだ」と強く励まされました。  それから1ヵ月後、ニューヨークの2020年NPT(核兵器不拡散条約)会議に広島生協の代表として行くことになった友人が、胎内被爆者の会が証言集を出す予定であることを教えてくれました。思い迷った末に、証言集に応募するしないにかかわらず、記憶がうすれる前に一度整理してみようかなとの思いに至りました。
<8月6日>  1946年1月24日生まれの私は、1945年8月6日原爆の炸裂したあの日、母の胎内にいました。予定より早く生まれたと聞いていますから、妊娠4ヵ月位ではなかったでしょうか。悪阻が激しく空襲警報がなっても「このまま死んでもいいから」と逃げるのが億劫だと言っていた母は、朝の洗たくものを干すため両手をあげた時、原爆の光を浴びたといいます。あっと思った時は、胸と腕に火傷をしたようですが、幸いにも「天ぷら油をぬったらいい」と教えてもらい、ケロイドにならずにすみました。借家だった家の前はごぼう畑が広がり、己斐駅がすぐ目の前に見渡せました。光線をさえぎるものは何もありません。爆心地から2.5kmとS42年(1967年)2月18日取得の被爆者手帳にはしるされています。  その時父は観音町の三菱重工の工場、爆心地から4kmの所で被爆。父がどのルートでどのように己斐まで帰ってきたのか全く知りません。9月に4才になる姉は、家の中の布団で寝ており、布団ごと部屋の端から端まで飛ばされていました。壁が少し崩れたくらいで、家は倒れずにすみ、姉も無事でした。  これらの話を父や母から直接聞いたという記憶はなく、どこでどのように知ったのでしょう。母が黒い雨にうたれ、髪の毛が抜け寝こんだこともどうして知ったのでしょう。それには一つの類推があります。
<近所の人々との思い出>  私が小学校低学年の頃住んでいた家はやはり己斐ですが、被爆した時とは違う近くの家です。家の前にも横にも40cm位の側溝に水が流れ、夏には青い露草の花が咲き蛍もとんでいました。暑い暑い8月6日の前後には、近所の人々が涼を求めて集まり、石垣に座って思い思いに語ります。クーラーも無い時代、手にはうちわがあります。冷蔵庫も氷で冷やす木の冷蔵庫です。家には西瓜が待っており、私たち子供は浴衣を着て、大人のまわりをうろちょろしています。そんな時大人の話が聞こえるともなく聞こえるのです。 「ようけえ逃げてきたのお」「おう、水あげりゃあえかったのう、どうせ死ぬんじゃったらのお」「Tさんの家は壊れたらしいのぉ」「下敷きになって男ん子が死んだんよ」「Nさんの奥さんは今年も日傘さして行きよっちゃったよ」「式典なんじゃろう。姉妹や親はえっとこ亡くなったって」  話が聞こえてくるうちにだんだん恐くなります。帰ってトイレに行くのも、夜寝るのも恐くなります。こんな会話の中で私の母の話も語られ、私が覚えたのだという気がします。  Nさんとは、私を実の娘と同じようにかわいがって、お風呂に入れて身体をごしごし洗ってくれたり、焼きリンゴを作ってごちそうしてくれたおばちゃんです。あの優しいおばちゃんが大きな悲しみを抱えておられたのに深く気づくのはずっと後です。このおばちゃんは小学生の女の子2人を残して腎臓病で、身体をパンパンにむくませて亡くなられました。きっと被爆の影響だったと今なら思いますが、当時小学生だった私は、おばちゃんの変わり様に恐ろしかっただけです。  あの夏の日々は、あらためて語り部と言わなくても、みんな思い思いに自然に語って、私たちに伝承されていたのだなあと改めて思います。
<己斐小学校でのこと>  伝承というと小学校の担任を1年から6年まで受け持ってもらったY先生のことが思われます。8月6日宝町の自宅から己斐小学校へ通勤した日のできごと。爆心地近くから相生橋、本川を通ってひたすら己斐へ歩く途中に見た被災の光景。川の中に浮かぶたくさんの人々、横たわる死者たち。その話を聞いた記憶がしっかり残っています。教壇に立って語る先生の息づかい。並ぶ生徒たちの机。写真のようにまぶたに残っています。先生はその日どのように自宅へ帰られたのでしょうか。全く知りません。Y先生はその後私たちが4年か5年生の頃、だから戦後10年くらいでしょうか、肝臓を悪くされ長く入院されたことがありました。きっとこれも原爆と関係があるに違いないと今は思います。  私の小学校は己斐小学校ですが、己斐はたくさんの被災者が流れ込んできて、小学校の校庭ではたくさん人を焼いたと言います。春秋に運動会があったのですが、グランド整理で土をならすと骨が出るというのをよく聞きました。私は直接拾ったことはないのですが恐くてたまりませんでした。それに春は校庭の桜が葉桜になる頃の運動会でしたから、毛虫がぞろぞろはい回ります。私は大の虫嫌い。二重に恐くて――。今と違って素足でかけっこですものね。
<ABCCの記憶>  私が唯一当事者として語れるのはABCC(現・放射線影響研究所)のことかもしれません。小学校低学年の時だったと思います。母と、あるいは近所の友と、そして級友と何回かABCCが近所まで迎えに来て出かけました。学校まで迎えに来たこともあります。黒塗りの大きなハイヤーが来るのですが、私はすぐ酔うので苦手です。行くと、全てがすんだあとクッキーやサンドイッチ、紅茶などをご馳走してくれるのです。異文化への興味や憧れのようなものがありました。けれども何しろアンパンやジャムパン育ちで偏食も多かった私は、なれないものを何とか口にし、帰りの車でまた気分が悪くなるのでした。  さて、ABCCの記憶で長く私が語れなかったことが一つ。検査に行くとズロース(パンツ)の上に白いスモックのようなものを1枚かぶるのですが、それを着てある部屋に一人連れて行かれます。大きな机、私には3m×4mぐらいにも思われましたが、その端に足をぶらんと下ろして、入口のドアに向かって不安そうに座っている自画像が脳裏に残って消えません。そして、立つように促されたのでしょうか。服を脱いでズロース1枚でテーブルに立ったと思うまもなく、大きな180cm位の白人男性がこれまた大きなカメラを抱えて10人近くどたどたと入って、テーブルの回りから、四方八方カメラのフラッシュをたきました。驚きと恥ずかしさと何があったかわからないのとで呆然としていたのでした。一番大きかったのはたぶん恥。何かいけないことのように思ったのでしょう。この話は帰りの母にも友にも誰にも話しませんでした。話せば自分一人の体験ではなかったことがわかったかもしれません。後に語れるようになり、友人夫妻にこの体験を話した時「つらい話をさせてしまった」と言われ、ああそうだったのかと納得したものです。映画のワンシーンのようなこの記憶は今後も決して消えることはないと思います。
<病気に思うこと>  私が生まれたのは、母の母・未亡人だった祖母のいた広島県北部の旧・山縣郡千代田町壬生です。大雪で2階の窓から出入りするような日だったということです。戦後の広島を避けてお産をしたのでしょう。私は乳を飲んでもすぐ吐き、胃の入口の調子が悪くて薬を飲んで治したといいますが、詳しいことはわかりません。その後10カ月位の時には百日咳の激しいのにかかり骨と皮になりました。母は父の実家の香川県高松市鬼無町にひきあげました。そこで祖父から「こんな子を連れて帰って」と非難されたことを相当うらめしく思ったようで、時々同じ話をしてくれました。父の家の事情もあり、結局両親と私たちはまた己斐に戻りました。  そこで成長して22才の大学卒業まで暮らすのですが、父も母も被爆者でしたが、特に母の身体が弱かった気がします。家事だけの人でしたが、一日中かかって掃除・洗たく・食事の支度をし、少し動くと休みながらという具合です。おまけに度の過ぎた清潔好きで、洗たくもハンカチを洗って次は上のもの、下着はその次、そのあとパンツ…といったくらいに丁寧でした。今思えば、それもこれも細菌におびえていた事情もあったかもしれません。私は母の身体の弱いのは偏食のせいと思っていましたが、ひょっとすると被爆の影響があったかもしれません。父は61才、母は57才で亡くなりました。二人とも脳内出血ですが、母は一度肺ガンということで、広島市のM病院で放射線治療を受けたこともあります。  私はよく熱を出し、決し���強いとは言えず、身体も細く背も前から一・二・三を争うくらいのチビでした。それでも高校時代は皆勤賞をもらいました(授業中寝てばかりの子でしたが)。  それが結婚して1ヵ月ちょっとだったでしょうか。盲腸になり、夫も手術をしたこともあり夫の家族の中では名医と呼ばれていたN外科で手術をしました。なぜか2、3日眼が覚めず熱も出て、私が被爆者手帳で受診したからでしょうか、先生は慎重になられ結局1ヵ月入院しました。  また、二人目の子のお産の時、妊娠5ヵ月くらいから妊娠中毒症になりとうとう7ヵ月ころ入院。そして子供が9ヵ月に入った時母体がもたないということで早く生みました。お産がすめば蛋白尿がよくなるということでしたが、数値は4本プラスが2本プラスになっただけで入院がその後も続きました。家族を心配して泣き、食事もとれなくなり、そんな私を心配した先生が退院させてくれました。1年位かけて漢方薬をせんじて飲みながら治ることができました。この2回のトラブルで、人がスムーズにできることが上手にできないのは被爆と関係があるのかなあと思ったりしました。これが被爆者共通の心理かもしれません。
<家族の中で>  私が被爆者であるということを夫に初めて言ったのがいつかは覚えていません。当時は手帳取得が結婚にさわるという風評もあり、姉などは「いらない」とすぐにはとらなかったような気がします。私はそんな思いもなく所持していたのですが、夫が戦争の責任とか社会のものの見方などで、私よりはるかに反戦の意識が強かったので何も心配ありませんでした。広島・長崎の式典中継でも私より深く正座してみるような人で、これは幸いでした。  家庭の中で被爆体験を話せたこと。それを淡々と聞いてくれる家族がいたことはうれしいことです。  初孫が5才のころでしょうか。我が家には「原爆の図」「ひろしまのピカ」「ピカドン」(いずれも丸木位里・俊作)や原爆ドームの本など夫が集めた本がたくさんあります。それらを持って帰るほど興味をもち、「原爆ドームに行きたい」と親にねだるほどの孫娘。ホロコースト記念館にも何回か行き、私たち夫婦にもアンネの部屋を丁寧に教えてくれ、「ああこの子は平和の担い手に」と期待をこめて見守っていました。なにしろ8月15日生まれですから。そしてその孫に、佐々木禎子さんについてまとめたダイジェスト版の本を夫は作りました。それを読んだ孫は「禎子さんちは散髪屋さんだったんだね」と。夫はその一言に苦笑していました。2、3年もすると興味を失った孫娘が、いつの日かまた興味と関心を持ってくれれば幸いです。  孫娘が小学校1年生くらいの夏に遊びに来て、寝物語に被爆体験の話をしたところ「おばあちゃん(生きてて)よかったね」と言われ、私ははっとしたのを覚えています。「生きてて申しわけない」という被爆者のことばがよく言われます。私に明確にあるのではありませんが、いくらか私にも長生きへの申しわけなさみたいなものがあります。でも「よかったね」というのはありがたくかみしめたいと今では思っています。
<最後に>  たまたま2020年3月15日付の中国新聞に、「被爆オリンピアン肉声現存・広島市出身36年出場故高田静雄氏」という見出しを見ました。その人は小学校時代の級友の父親です。また、米兵たちの被爆をほりおこし追悼してオバマ大統領にハグされた森重昭さんも級友のお兄さんです。佐々木禎子さんが白血病で亡くなられたころ入院した級友もいます。でも、私たちは戦後60年、還暦を迎えた同窓会でほんの少し被爆のことを話したことがあるくらいで、級友でも詳しいことはほとんど知りません。日々衰えていく記憶と、語りあう機会も減っていく中で、今回書き残してみたのはよかったように思います。記憶とは不思議なもので、自分流にゆがめているかもしれません。この主観的な記録がどのように伝えられていくのか少し楽しみです。長生きすれば「最後の被爆者」となる可能性もある人間の記録ですから。そのためにも両親からもっともっと話を聞いておきたかったです。
<さらに>  この原稿のパソコン入力を娘がひきうけてくれました。彼女は幼い頃、原爆資料館のろう人形母子を見ておびえましたが、私と平和行進に参加したことや、大会で「青い空は青いままで子どもらに伝えたい。燃える八月の朝…」と歌ったことは覚えています。8月6日の式典で峠三吉の詩を子供代表が語ったのに感動して、東京から電話をかけてきたこともあります。彼女には彼女のヒロシマとの歴史が作られているのですね。いろいろな形でヒロシマが伝承され続け、子や孫・その先まで、この愚かなことがくり返されぬように祈ります。私の胸を今でもゆさぶる歌「原爆許すまじ」を心に銘じて。
(2020年4月記/上村洋子)
16 notes · View notes
Photo
Tumblr media Tumblr media
2022 Summer Collection
ヨーガンレール / ババグーリの夏のカタログができました。
今回の撮影地は、沖縄県石垣島にあるヨーガン レールの別邸。 自然溢れる美しい風景とともに、最新のコレクションをご覧いただけます。 カタログは全国のショップ店頭にてお配りしておりますが なくなり次第終了となります。 気になる方はお早めにショップスタッフへお声がけくださいませ。
6 notes · View notes
illaalli444 · 2 years
Text
『犬王』舞台巡り【山陽道編】
友魚の旅路/平家都落ちルートも巡りたいよね、という記録です。関西在住・北部九州出身なのでこの経路なんてもう数え切れんほど往復しているが視点を変えるだけでこんなにも新鮮な旅ができるってすごいなあと思う。
行った場所:腕塚(腕塚堂・腕塚神社)/草戸千軒町遺跡/厳島神社/花岡八幡宮/壇ノ浦古戦場・赤間神宮ほか
Tumblr media
腕塚(兵庫県神戸市・明石市)
腕を埋めて腕塚。一の谷の戦いに破れ西へと落ちゆく途中で非業の死をとげた平忠度の腕を埋めたと伝えられる"腕塚"は神戸市長田区駒ヶ林と明石市天文町の2箇所にある。え どゆことじゃ?と思ったけど知りたいこと全部書いてある論文ありました(大坪舞2008「祭祀される忠度の腕ー伝承を引き寄せる場をめぐってー」『論究日本文学』88)。こちらを参考にすると、そもそも忠度死地は『平家物語』でも史実でも絞り込めない。両地の忠度伝承は、駒ヶ林は17世紀後半(腕塚そのものは19世紀)、明石は17世紀初頭(腕塚は17世紀後半)までは遡れそう、とのこと。
駒ヶ林の腕塚は一の谷からちょっと東に位置。地下鉄海岸線駒ヶ林駅が最寄り。長田港に面する民家に囲まれて"腕塚堂"がある。細い路地に入っていくけど看板や標石があるので迷いはしないと思う。ガレージみたいなお堂。北西に忠度胴塚もある(こっちは看板少なくてわかりにくかった。伍魚福さんの隣)。
明石の腕塚は一の谷から西へ10kmほど離れる。山陽電鉄人丸前駅下りてすぐの"腕塚神社"。神社といってもお堂はごく小さい。木製の腕は地元の彫刻家の方が奉納されたもので、これで患部を撫でるとよくなるとか(境内においてあった「腕塚神社縁起」より)。東南に忠度塚と忠度公園もある。駅をはさんで北の丘陵にある人丸神社は柿本人麻呂を祀るが、境内に"盲杖桜"があり目の見えない人とのゆかりが深い。このへんからは明石海峡と行き交う船たちがよく見えます。
当たり前ですが京都とは全然景色が違っている。南が海、北が山。海を眺めていると友魚としてはこのへんまでは始めて来た場所であっても(見えなくても)"知ってる景色"なんだろうし逆に平家の人びとにとっては都を落ちて流浪の身になってしまったことを思い知らされる景色なんだろうなと思う。
どちらの腕塚も、いまも地元の人に愛されているのが伝わってくるたたずまい。腕塚が複数箇所にあるの、後世の人たちが"物語"を求めた結果だと思うのでそんな人間の営みが愛おしくなります。
Tumblr media
草戸千軒町遺跡(広島県福山市)
直接の舞台ではないのですが、湯浅監督がふくやま草戸千軒ミュージアム(広島県立博物館)の街並み復元模型に言及されていたので。博物館では中世の人々の生活に関連する出土品を沢山見られる。本編で町の人たちが持ってて印象的な曲物の容器もいっぱい並んでる。
草戸千軒町遺跡は当時の海岸線で芦田川の河口付近にあった中世の港町。友魚と谷一さんも寄ったかな?と思っていたのですが、拠点的な大都市というわけではないようなのと、どうやら14世紀後半は一時的に町が衰退していたようなので寄ってないかもしれません。友魚が魚をほぐしているシーンはまだ広島らしいので(オーコメより。広島を2年もまったり旅していたのはちょっと謎)、このあたりかなと思っていたのですが、お金持ちがの人がいるのは尾道とか鞆とかかな。
遺跡現地は博物館から西南約2kmに位置。調査後に掘削されあとかたもありませんが、法音寺橋に説明板が設置されている。橋を渡って芦田川の右岸には草戸稲荷神社と明王院(常福寺)がある。明王院は本堂が1321年、五重塔が1348年に建てられたものなので、友魚たちが見たかもしれない建物がそのまま残っていることになる。明王院入り口付近の石垣にはひょうたん形の石が組み込まれている箇所があり(現地に説明板あり)、犬王ポイント高いように思います。
Tumblr media
厳島神���(広島県廿日市市)
あれに見えるは厳島(ここでお社は映さないの超好き)。斎き島=神様をお祀りする島 として古くから信仰されてきた。1151年に安芸守となった平清盛は厳島神主家の佐伯氏と関係を深め、12世紀後半に海上の社を造営。その後何度か建て替えられているが、主要な建物の配置は基本的には変わっていないらしい。特に印象的な回廊は、現在のものは永禄~慶長年間(1558~1615)の再建。作中の回廊は、1241年に再建され、1537年に焼けたものにあたる。
干潮のタイミングで訪問したので、社殿が建ってるベースとの距離感がわかってよかった。友魚が落ちちゃっても自力で這い上がれそうな深さで安心(海の子なので心配には及ばないんだろうけど)。社殿が海に浮かんでいる姿が見られなかったのがかなり残念だけど、昼に干潮だと夜に満潮になる、という関係が理解できた。
大鳥居は改修中だったので足場が組んであり近くまで行けず。でも社殿の柱にもフジツボいっぱい付いてるのが確認できました。大鳥居も何回か建て替えられていて、現在のものは明治期の再建。1325年に2代目が倒壊してから1371年に3代目が建てられるまで空白期間があるので、友魚訪問時(1360年代後半くらい?)、実際には建ってなかったぽい。
しゃもじって琵琶みたいな形だな~と思いながらお土産見てたのですが、弁財天の琵琶っぽい工芸品としてつくられるようになったんですね。知らなかった。
Tumblr media
花岡八幡宮(山口県下松市)
境内に友魚が雨宿りしてた塔(閼伽井坊多宝塔)がある。多宝塔の建てられた時期、立て看板では「室町中期」となっているのですが、ガイドブックやウェブ上で「室町末期」説も見るのでど~いうこっちゃと思っていたのですが、建築様式からみて室町中~後期、解体修理で見つかった木片に永禄3年(1560)の墨書あり、ということのようです(下松市HPより)。また、お宮そのものも創建当初の鎮座地から1489年頃に現在地に動いているらしい。作中で描かれているのは実際よりも少し下った時期の姿になるのかなと思います。
多宝塔の実物は思っていたより小さい印象を受ける。というか、ここに友魚があの感じで座っているのを想像すると、まだだいぶこどもだな...?!と感じました。
旧山陽道に面した丘陵上に位置し、高いところにあるのでめちゃくちゃ石段を登る。現代人にとっては雨宿りにちょっと寄るレベルを越えてるので、参道入り口あたりでお寺の人が友魚に声をかけたのかもとか想像します。
Tumblr media
壇ノ浦古戦場・赤間神宮ほか(山口県下関市)
鴨の河原と同様、壇ノ浦も始まりの場所であり終わりの場所。
壇ノ浦古戦場跡は関門大橋の下関側のふもとに「みもすそ川公園」として整備されている。ちょうどこのあたりに友魚の暮らしていた集落があったのかなと想像できる景色。作中では霧に包まれて対岸は描かれていないけど、九州側の門司がかなり近くに見える。この土地も"境界"ですね。
赤間神宮は壇ノ浦古戦場跡から南西1kmに位置。壇ノ浦の戦いで入水した安徳天皇を祀る。江戸時代までは阿弥陀寺で、明治の神仏分離により天皇社赤間宮へ。1940年に赤間神宮に改称。1958年につくられた水天門は「波の下にも都がございます」の竜宮城を地上に造りだす意図でデザインされている。
耳なし芳一の舞台でもあり、境内の片隅に芳一堂あり。宝物館ではいろんな種類の琵琶も見られる。境内に平家蟹の標本も置いてる。
生きてる平家蟹は市立しものせき水族館海響館で見られる。海響館ができるまえの旧下関市立水族館は長府にあったのだけど、敷地内に"鯨館"という鯨形の建物があった。現在は中には入れないけど外観は見られます。小さい頃訪れたことがあって、でっかい鯨!のイメージだったけど今回再訪したら思っていたより小さいな...となりました。場所は関見台公園。下関は近代捕鯨発祥の地とされ、鯨とゆかりが深い。たまたまかもしれませんがモチーフの重なりが面白いです。
旅してこの文章を書くことで、山陽道、というか瀬戸内の海辺が友魚の旅路であり作中作(腕塚、鯨、竜中将)の舞台でもあるという重なりをはっきり認識できたのでよかった。この作品の重層的につくられているところが大好きです。
文献(本文中で言及したものを除く)
小川國治編 2001『長州と萩街道』街道の日本史43 吉川弘文館
県立広島大学宮島学センター2020「宮島 大鳥居のひみつ」
広島県歴史散歩編集委員会編2009『広島県の歴史散歩』山川出版社
ふくやま草戸千軒ミュージアム2020『瀬戸内の交流 まちのにぎわい 人のつながり』
峰岸隆2015『日本の回廊、西洋の回廊』鹿島出版会
山口県歴史散歩編集委員会編2006『山口県の歴史散歩』山川出版社
山口佳巳2008「仁治度厳島神社廻廊の復元的研究」『国立歴史民俗博物館研究報告』第148集
頼祺一編 2006『広島・福山と山陽道』街道の日本史41 吉川弘文館
6 notes · View notes
oniwastagram · 2 years
Photo
Tumblr media
📸石照庭園 / Sekisho Garden, Unnan, Shimane ② 島根県雲南市の庭園『石照庭園』が素敵…! 地元・奥出雲では花菖蒲の名所として人気🌷東京『北の丸公園』をはじめ、昭和〜平成年代に日本各地で日本庭園を手掛けた現代東京を代表する造園家 #伊藤邦衛 が設計した池泉庭園に加え、園主の邸宅だった数寄屋建築に自らが作庭した“出雲流庭園”も見所…! ...... 続き。東京の作庭家が携わった庭園がある一方で、当地の“出雲流庭園”のスタイルが垣間見えるのが母屋と数寄屋造りの別邸の周囲にある庭園。 . 数寄屋造りの別邸の茶室から臨む庭園は、山奥から数kmにわたって水路を引いた自然流の滝が見所の庭園で、その滝石組には主に広島県湯来町(現・広島市佐伯区)で産出される緑輝岩が用いられています。 . 数寄屋造りの別邸と園内にある観音堂(石照寺)の建築を手掛けたのは、島根県津和野町の『乙女峠 マリア聖堂』の作者 #稲村重清 氏。 伝統建築にも造詣が深いキリスト者として、1940年代に広島市内にある長束修道院⛪️の建築修繕や、ローマンカトリックの指示に応じてマリア聖堂の建築を担当。 . その後故郷に帰って大工として暮らしていたところ、堀江園主との出会いから再び本格的な建築に携わりはじめ、この庭園内の観音堂、茶室など、園内各所に匠の技を残しています。 . そして石王山の山林には一万株のシャクナゲが植栽されているほか、遊歩道では山の自然を感じることができます。 園内の最後、お休み処“古地上”では地元の牧場の生乳によるアイス🍨や地元のドリンクも。奥出雲を訪れた際にはぜひ立ち寄ってみて。 . 島根・石照庭園の紹介は☟ https://oniwa.garden/sekisho-garden-%e7%9f%b3%e7%85%a7%e5%ba%ad%e5%9c%92/ ーーーーーーーー #japanesegarden #japanesegardens #kyotogarden #zengarden #beautifuljapan #japanesearchitecture #japanarchitecture #japanarchitect #japandesign #japanart #jardinjaponais #jardinjapones #japanischergarten #jardimjapones #建築デザイン #庭園 #日本庭園 #京都庭園 #庭院 #庭园 #数寄屋建築 #出雲流庭園 #島根庭園 #島根旅行 #島根観光 #奥出雲 #アート #おにわさん (奥出雲 石照庭園) https://www.instagram.com/p/CgwbPtEPcxo/?igshid=NGJjMDIxMWI=
2 notes · View notes
nippongoto · 3 months
Text
Tumblr media Tumblr media
タイワンサソリモドキ
面白い交接行動
R5.11
86 notes · View notes
canarity · 2 years
Photo
Tumblr media
9.14-16 Ishigaki trip #写真好きな人と繋がりたい #ファインダー越しの私の世界 #photography #photooftheday #photo #自然が好きな人と繋がりたい #誰かに見せたい風景 #キリトリセカイ #石垣島 https://www.instagram.com/p/CjIdDp9LDBr/?igshid=NGJjMDIxMWI=
1 note · View note
ari0921 · 9 months
Text
我が国の未来を見通す(77)
『強靭な国家』を造る(14)
「強靭な国家」を目指して何をすべきか(その4)
宗像久男(元陸将)
─────────────────────
□はじめに
 前回、字数の関係で先送りした“論点”を先に紹
介しておきます。先日、都内某駅前の道路を歩いて
いた時、ある建物の入り口いっぱいに「軍拡より生
活 平和な未来を」と2行にわたる大きなポスター
のような看板が目に入ってきました。確かにそのよ
うな主張する政党などもありますので、政党か何か
の建物かと思って注意深くみてみますと、何と、立
派な“病院”でした(細部はあえて省略します)。
しばらくの間、「病気やけがを治し、人の命を救う
病院の玄関にふさわしいのだろうか」との疑問が頭
から離れませんでした。
最近、沖縄の与那国島では「自衛隊が来たからミサ
イル攻撃の目標になるのが怖い」と発言する住民の
声があたかも島民の大多数の考えのように報道され
たり、石垣島では「自衛隊を人口に含めるな」との
某地元紙の社説も波紋を呼びました(さすがに後日、
謝罪記事を掲載したようですが)。
現役時代から、何度もこのような主張を耳にしてき
ましたが、立場上表立った反論はできませんでした。
今はもう“失うものはない”ので、あくまで個人的
な率直な印象のみを述べておきたいと思います。
病院の看板は、「軍拡、つまり防衛力を増強すれば、
生活が苦しくなり、平和も壊れる」と言いたげなフ
レーズですが、逆に「軍拡さえしなければ、生活が
豊かになり、平和も続く」と信じ込んでいるのでし
ょうか。
言うまでなく、防衛力を増強し、自衛隊を国土の隅
々まで配置する目的は、現在の国民の生活や我が国
の平和が永遠に続くよう万全を尽くすとともに、万
が一にもそれが侵されそうな事態になった時には、
まさに“病院が病人やけが人を治す”ように、被害
を最小限にするための処置です。つまり、上記のフ
レーズは、言葉を代えれば、「病院があるから、病
人やけが人が出る」と言っていることと同じなので
す。優秀な医者の先生方の集まりである病院がなぜ
そのことに気がつかないのか、不思議でなりません。
残念なのは、このような方々は、「普段の生活や平
和がどうやって維持されているのか」などには全く
考えが及ばず、それどころか、「何も抵抗せずにし
て外国に占領されても、普段の生活や平和が維持で
きる」と勝手に思い込んでいる節があることです。
古くは欧米列国の植民地、現在でも中国の占領下に
あるチベットや新疆ウイグルで何が行なわれている
かを知れば、そのような考えは一挙に吹っ飛ぶはず
です。
関係しているマスコミ人も同様の認識なのでしょう。
「表現の自由」を盾に、「自衛隊がいなくなれば、
簡単に占領されてしまう可能性がある」ことなどに
は全く思いが至らず、“思慮が至らない”街中の声
をあたかも真っ当な意見のように報道するのだと思
います。
我が国は、戦後70年余りの間に、どうしてこのよ
うな“能天気な大人たち”を大量に輩出してしまっ
ているのでしょうか。それでも、一般の国民の皆様
には正確な情報が届かず、学校でも教えられず(た
ぶん、逆のことを教えられ)、国の防衛などについ
て考える機会も余裕もなかったと言い訳ができるこ
とでしょう。
しかし、一部のマスコミや政治家、そしてその道で
は優れた知見をお持ちの高名な有識者の中にも同じ
ような思想を持っている人がかなりおられるのはシ
ョックです。一例を挙げましょう。最近、手に取っ
て読ませていただいた1冊に『主権者を疑う』(駒
村圭吾著)があり、「主権者とは何か」を考えさせ
てくれる、私に取りましてはとても興味深い1冊で
した。
しかし、その「はしがき」には、「改憲と言う重大
なプロジェクトの前提となるような、“今そこにあ
���危機”や“忍び寄る危機”がどうしても見当たら
ない。少なくともそれらが“国民に共有される”よ
うなかたちで議論が展開されていない」として、著
者は、「憲法改正を否定しているわけではないが、
私が否定的なのは、意味不明な政治状況で改憲が提
案され、議論されることに対してである」との立場
を述べていました。
ことさら批判する気はありませんが、正直、「これ
ほど優秀な方が、またこれほど勉強しているのに、
もったいないな」との印象を持たざるを得ませんで
した。書籍を発刊するような有識者は、少なくとも
国民を誤って誘導するような言動は厳に慎むべきと
思いますが、現時点においても我が国には様々な課
題が山積しており、近未来も、遠い将来も、国内外
の情勢がますます厳しくなる可能性が大と考えます。
一方、これほどの「危機」が差し迫っていても、
“眼をふさぎ、耳を閉じ、関心を持たなければ”何
も見えません。そして、そのような自分自身を、不
勉強とも、偏っているとも、恥とも思っていないこ
とでしょう。
私が「もったいない」と考えたのは、少しでもそれ
らに気がつけば、また違った視点で「主権者」につ
いて解説できたのではないか、と考えたからでした。
このような認識の方々から導かれる結論は、せいぜ
い「今のままで何が悪いのか」でしょう。かなり多
くの政治家、マスコミ人、有識者、そして我が国の
未来などに関心もなければ考えたこともない、大多
数の国民はこのような認識で留まっているものと想
像します。そして、そのような“現実”を知ってい
るから、小室氏のような方でも“歩き出す”で止ま
ってしまったではないでしょうか。
我が国の最大の課題・問題点は、小室氏が「アノミ
ー」と表現した社会現象に代表され、かつ「権利の
み主張し、義務を果たさない国民」とか「3メート
ル以内しか関心がない若者」と揶揄されるような、
多くの日本人の「行動原理」にあると考えます。そ
れが「政局と選挙しか考えない政治家」とか、自己
主張に固守し「目立つことしか考えない言論人」な
どを生み出し、それが巡り巡って、このような現状
を“矯正”できない主要因となっていると考えます。
よって、少数の先見者が様々な形で警鐘を鳴らして
も、あるいはウクライナ戦争のような具体例をもっ
て注意喚起してもほとんど届かないのでしょう。
我が国が少なくとも現状程度の「国力」を保持し、
国際社会で「名誉する地位」を保ちながら、後世に
この日本を残すために、私たちの世代がやらなけれ
ばならないことは、「国力」の要素のどれ一つとし
て簡単なものはないと思います。どうしても「ソフ
ト・パワー」として、個々の要素を束ねて向かうべ
き方向を定める「国家戦略」のようなものが必要と
考えていた矢先でした。
偶然にも「戦略は統治を超えられない」という言葉
を見つけ(『軍事と政治 日本の選択』(細谷雄一
編)より)、再び立ち止まりました。歴史を振り返
ると、大正時代の政治家や有識者たちも当時の内外
情勢の変化などに無頓着で、主に大日本帝国憲法に
謳われている我が国の「統治機構」がこのままでよ
いのか、などには露ほども思いが至らなかったよう
ですが、それが「激動の昭和」を迎える大きな要因
にもなりました。
見方によっては、大正時代と現在は“よく似てい
る”と考えますが、最大の違いは「主権が国民にあ
る」ことでしょう。つまり、最終的には、どうして
も“統治”の主役である「主権者」の「行動原理」、
その基となる「国民の精神」に行き着くのです。
「戦略は統治を超えられない」は、改めて、「現憲
法下で我が国は未来へ立ち向かうことができるのか」
を私達に突き付けているような“重い言葉”となっ
て響いてきます。そしてその先に、大方の“能天気
な国民の精神”を、戦争や天変地異や外圧に委ねる
ことなく、“内側からの改革”として、どのように
変えていけばよいのだろうか、という命題に突き当
たるのです。
細部はいずれまた触れることにしますが、またして
も「任重く道遠し」の感を一層強くしながらも、気
を取り直して、今回以降、再定義した「国力」のそ
れぞれの要素を分解しつつ、我が国が向かうべき方
向、私たちの世代があらゆるものに優先してやるべ
きこと、やらなければならないことを微力ながら導
き出そうと思います。
▼「人口」が「国力」に及ぼす影響
「はじめに」が長くなりました。さっそく 前回取
り上げたように、「国力」の柱となる「ハード・パ
ワー」のそれぞれの要素から考えてみましょう。そ
の筆頭は「人口」です。
これについては、本メルマガの第1編で18回にわ
たり、様々な角度から割と詳しく分析し、書き綴り
ました。興味ある方は、バックナンバーをお読みい
ただきたいと思います。それにしても、最近、「少
子化対策」などを取り上げる記事や解説が目立つよ
うになりました。「少子化」などの文字自体が多く
の国民の目に触れることはとても良いことと思いま
す。
私はすでに、「少子化対策」として「“3人産んだ
ら家が建つ”くらいの超異次元の政策が必要」と主
張しましたが、マクロ経済学の専門家・小黒一正氏
も「第3子以降、1時金1000万円に」と抜本的
な対策を提案していました(産経新聞6面(7月9
日朝刊))。小黒氏は、「“既婚者にさらに一人で
も多く産んでもらう”『有配偶出生数』を引き上げ
ことに資源を集中すべき」として、そちらの方が婚
姻率などを高めることなどより“近道”としていま
す。
最近、マスコミでは「500万円の壁」が話題にな
っています。内閣府の資料では、男性の有配偶者の
年収「500万円」が“子供を持つかどうかを分け
る最低ラインになっている”とのことです。一方、
既婚男性の年収は400万円台が最多で、不足分は
共稼ぎによって「500万円の壁」を突破している
ようですが、そうなると、出産・子育てを機に仕事
を辞めざるを得ないケースも珍しくありません。
すでに、パパ育休制度の推進とか児童手当の増額な
ども「こども未来戦略方針」に盛り込まれています
が、「月額数万円を増額したことで結婚や出産に踏
み切る人は少数派だろう」と分析されていることも
事実です。その対策として、公務員やサラリーマン
など社会全体で、“子育てが終了した世代の賃上げ
は抑制してでも、若者世代の賃上げを優先する”よ
うな、思い切った給与制度の改善なども必要なので
しょう。
イマイチ盛り上がりに欠けることに危機意識を持っ
たのでしょうか、岸田首相は、「政策を気兼ねなく
活用してもらうために社会が変わらなければならな
い」として、「少子化対策国民運動」をスタートす
ることを決意したようです。
しかし、今後、この国民運動が盛り上がるかどうか
は疑問でしょう。「どうやって社会自体をかえてい
くか」の提示もなければ、「最近の支持率低下を防
止するためのその場凌ぎ」などと揶揄されているよ
うでは、首相の“発信力(本気度)”が国民に届く
可能性が低いように思えてなりません(読む限り、
関連記事も1回のみでした)。
メルマガですでに取り上げましたが、我が国は、非
嫡出子が2.3%と50%を超えるフランスや北欧
諸国などと比較してとても低いことを例示しながら、
「日本の『少子化』の原因は、『直系家族病の病』」
だ」とするような意見(『老人支配国家日本の危機』
(エマニエル・トッド著))もあります。
トッドは、「核家族」化が進んできたとはいえ、
「日本に依然として強く残っている『家族』の過剰
な重視が『非婚化』や『少子化』を生み、逆に『家
族』を消滅させてしまっている」というのです。そ
の対策として、欧米のように、子育ても老人介護も
公的扶助によって「家族」の負担を軽減させる(ほ
ぼゼロにする)必要があると提言します。
これは、後に述べる日本の「文化」の問題でもある
のですが、「人口」は「経済力」と正比例の関係に
あることから、「国力」維持の“一丁目一番地”と
も言えるでしょう。その「人口」を確保するために
は、我が国の伝統的な「文化」の領域にまで踏み込
んで考える必要があるという点には私も同意です。
さて、「人口」の中の要素の「人的資源」について
これまでほとんど触れませんでした。世界に誇れる
「ものづくり」の精神や技術、及び(すでに紹介し
ましたような)無形の価値としての「インタンジブ
ルス」のようなものはすべてこの「人的資源」に包
含されると考えます。
一方で、後に詳しく述べる「教育」の実態や最近の
若い世代の価値観、そして「働き方改革」などによ
って大きな曲がり角にある雇用環境など考える時、
「将来の『人的資源』は大丈夫だろうか」との懸念
を払しょくできないことも事実です。
「少子化」になればなるほど、一人ひとりの「真の
力」が試される機会が増えることは間違いないでし
ょう。幸い、AIをはじめデジタル化やロボットの
活用��ど、人的資源を補完する資源���増える傾向に
ありますが、それらを有効かつ適切に使いこなすの
は何と言っても「人間」でしょうから、「人口」の
質的側面の尺度としての「人的資源」は、“その時
代時代に適合する人材をいかに多く抱えるか”に集
約されると考えます。そのような視点に立った教育
や人材育成が求められてきていますが、それぞれの
“現場”はどうなっているのでしょうか。この続き
は、「教育」のところで触れたいと思います。
「高齢化」の問題点については第1編で詳しく取り
上げましたので省略しますが、焦点は、“「少子化」
がさらに加速すれば、国が滅ぶ”との「危機意識」
を全国民が共有できるかどうか、そしてどのように
して共有するか、にかかっていると考えます。
このような発言をすると“袋叩き”に遭うような気
もしますが、かつての日本には「産めよ、増やせよ」
という時代があったのです。この後に「地に満ちよ」
と続くフレーズは旧約聖書の言葉ですが、大東亜戦
争最中の昭和16(1941)年1月22日に閣議
決定されました。いわゆる“敵国”のフレーズをそ
のまま引用して人口増加を目論んだ当時の為政者た
ちは相当先の日本まで思い描いていたことでしょう。
今では、「軍国主義の象徴的な人口政策で、個人の
権利を侵害する決定であった」旨の批判もあります
が、翌日の「朝日新聞」1面は、「日本民族悠久の
発展へ」の大見出しで本閣議決定がトップ記事で紹
介されていました。敗戦はしましたが、この「唱導」
(当時は、このように呼んでいました)のもとの国
民精神が全国津々浦々に行き渡り、終戦時の約7千
2百万人から、終戦直後のベビーブームを含めて、
現在の1億人を超える大国になるまで成長させたの
でした。
ちなみに昭和26年生まれの私は、7人兄弟の末っ
子ですが、私たちの親の世代は、終戦後の食料事情
が極端に悪い中でも、我が国の未来のために子孫を
残してきたのです。「時代が違う」と言えばそれま
でですが、戦争を体験した世代のご苦労に比べれば、
「500万円の壁」などはさほどの障壁ではないと
思ってしまいます。要は、国民がこぞって「危機意
識」を持つかどうかにあると私は考えます。
そのためには、目先の「少子化対策」とか、言葉だ
けが先行している「こども未来戦略方針」などの内
容では何とも不十分で、冒頭に述べたような、「国
の形」を問う「国家戦略」の範疇に及ぶものと考え
ます。それについてはのちほど取り上げましょう。
(つづく)
(むなかた・ひさお)
5 notes · View notes
usickyou · 2 years
Text
What a wonderful worldend
 今日、南極点のそばで美波ちゃんに出会った。  偶然だね。そう言った彼女も、聞けばどうやら探し人の途中らしい。「寒いところで、生まれた子だから」って北極に次いで南極に訪れたという彼女を「効率悪いねえ」って揶揄したら、「本当にね」ってくすくす笑ってたから、それが彼女たちのリズムなんだろうなって、あたしは妙に納得してしまう。  ちょっとおしゃべりしようよ、って白夜に放棄された基地へ忍び込んで、運良く残っていた燃料で暖を取りながら肩を並べる。「元気にしてた?」「全然。美波ちゃんは?」「私も全然。あの子には会えそう?」「にゃは、意趣返しだ」「違うよ。会ってほしいって思うから」。  それは、本心なんだろう。彼女はそういうふうにできていて、それだけは、全てが変わろうと何も変わらない。「金色の、風が吹いてるんだよね」「うん」「たどっていけば、会えるって思うんだ」「うん、素敵だね」「美波ちゃんにもそういうのない?」「うーん……そうだ。流れ星、追いかけてみようかな」「幸せだねえ」「うん、幸せだよ」。  そうやってのろけ話を交わして、朝、目を覚ましたら彼女はもういなかった。物質的な痕跡は何も残さず、ただ眠る寸前に寄せた右肩の感覚だけが残っていた。  彼女は本当に、ここにいたのだろうか。  どちらでもいいし、それに、またいつか会えるだろう。  だって、世界の終わりにはみんな、誰かを探してる。
 *
 通り雨が上がって、ぬかるんだ地面に足を取られた。けれど汚れたのは右手と左手も若干それだけで、上手に処理したなあってアイドルだった頃の努力を今さらにも感じていたら、押しころすみたいな笑い声が聞こえてきた。  フランス、シャンパーニュ。右手に広がる常盤色のブドウ畑、その向こうに万年雪のお化粧をしたアルプス連峰。左手もブドウ畑、小屋や農機具。後ろ、歩いてきた茶褐色の道。前、進んでいく未舗装の道。「3、2、1……」「ごめんなさい、つい」。そう、この道を形成する石垣の影から静々と現れたのは奏ちゃん。手に持った葡萄を差し出して「どう?」「やだよ、酸っぱいでしょ」「私も食べる前に知りたかったわ」って苦笑い。石垣に腰を下ろして、インディゴのサテンワンピースから伸びた脚は宙をぶらぶら泳いでいる。  何してるの、って聞こうとして寸前にそれが無意味だって気付いた。「どうしてここなの?」「だって、あの子すごく自由でしょう」「にしても、もっとそれらしい場所ありそうだけど」「思いつくような場所は行ったわ」「それもそうだね」。風が、あたしたちの髪を揺らした。南から吹く、温暖な風。たくさんのものが変わってしまって、失われて、そうして自然は少しだけ優しくなった。  葡萄を一つもらって、かじってみる。それはやっぱり酸っぱくて、だけど新鮮な果実の甘みは思いがけない喜びをもたらした。一緒に食べたら、エメラルドみたいな瞳はどんなかがやきを見せてくれるだろう。「志希は、訊くまでもないわね」「聞いてくれてもいいよ」「パリ、どれくらいかしら」「一緒に行く?」。そんな気もないのに、言ってみる。「あなたが望むならね」。彼女は石垣を下りて、あたしが来た方の道へ歩き出した。裸の足が柔らかい土を踏みしめるたびに鳴る音は、確かに生命を感じさせて、だけど振り返ればきっと彼女はそこにいないんだろう。  さようならって声が聞こえた気がしたけど、答える代わりに葡萄をもう一個、口に放り込む。
 *
 真っ赤な凝灰岩と赤煉瓦の建造物に焼けるような夕日が射して、世界は燃えている。「暑いねー」「これ、冷えてるわよ」「それ、もっと熱くなるやつ」「そんなことないと思うけど」「ほっぺ赤いよー」「だって、暑いんだもの」「なによりだね」。かつてこの国、イランには禁酒法があったらしいが、それは全く正しい判断だったとその人は身を以て教えてくれる。  こんなに暑い昼間のうちに歩き回らなくても、と入り込んだ煉瓦の家に、楓さんはいた。やけにターバンが似合って、「異国情緒よねえ」って皮袋から何らかのアルコールを摂取して、なんだかその姿は、誰よりもこの世界を楽しんでいるように映る。「だって、私たちアイドルでしょう」「うんうん」「……」「お酒、おいしい?」「ええ、とっても」。  日が沈むと、この国はよく冷えた。とは言え気候としては過ごしやすく、眩しいほどの星明かりの下をあたしたちはふらふら。訊けば探し人は、月がよく似合うらしい。「なんだか、予感がするわ」「何度目の?」「初めて。あの人と会う時は、いつもそう」。そう言った、横顔があまりに美しいから、空を見上げた。綺麗な月だ。もしかしたら、あたしの探し人はそこにいるのかもしれない。月がちょっとだけ金色に輝いているのは、そこで彼女が歌っているからかもしれない。なんて考えていて、地上に意識を戻した時には、楓さんはもういなくなっていた。  きっと、そこに行ったんだろう。  彼女の歌が聞こえたか、帰ってきたら教えてもらおう。そう心に結んで、残していったターバンを巻いてみる。  なぜか心地良い、アルコールの香り。ほんのりと。
 *
 みんな、その色がこんなにも美しいと誰かに伝えたくて仕方がないから、この街は思い思いの好きで溢れている。けれど、降り注ぐ太陽があまりに優しくて、あたしは、今はもういない彼らの願った通りにたくさんの色を好きになっていく。  キューバ、トリニダ。ここは、そういう街だった。  彼女なら、どんな色を選ぶだろう。萌黄色か、コーラルピンク、ベイビーブルーもいいかもしれない。毎日その日の気分で家の壁にペンキを塗って、そんな毎日を過ごすのもいい。「げ、志希」「にゃは、奈緒ちゃんだー」「逃げていいか?」「いいけど、すぐ捕まえるよ」「……だろうなあ」「よしよし」。  市街に描かれた緩やかな曲線を、のんびりと下っていく。気候は暑くも寒くもなく乾いても湿気ってもいない。降りてきた天国のようだった。白い窓枠を花が伝って、さながらニンフェットの住処だと思っていたら、「海に行きたいって言ってたから」と彼女がぽつりとこぼす。「そこにいるかも?」「いやーどうだろ、けっこう回ったんだけど」「案外、渋谷のマクドナルドとか」「否定しきれないって」裏とか表とかそういうのがバカらしくなるくらいの笑顔は、やっぱり今日の太陽によく似合って、あたしは彼女のことをもっと好きになる。  でも、この海はちょっと特別かも。そんなことを言おうとしたけれど、彼女が駆け出したせいで行き場を失った言葉は潮風に溶けて消えていった。「海だー!」子供みたいに大声を上げて坂を下っていく背中に「転ばないでねー」ってまるでママみたいな言葉を送って、ちょうど差しかかった木陰で足を止める。なるほど見下ろした海のアクアマリン、乱反射する光に誘われて、駆け出したくなる衝動で脚は疼いていた。  だけどもう少し。たとえばこの坂道を一緒に下って、波間に踊るその手足を想像していたい。それからでも、何もかも遅いってことはもう、この世界には一切なくなってしまったのだから。  そうしてあたしは、すっかり見えなくなってしまった彼女に手を振った。
 *
 タンザニア。この砂と礫の海で人間は誕生した、という説がある。正確には、あった。その真偽は保留するとして、ここは、そう考えるにはあまりにロマンのない場所だ。少なくとも、彼女の起源を辿ればここに行き着く、なんて説はあたしの知の全部を尽くして否定しなければならないだろう。  けれど、良いところもある。たわむれに蹴った石が傾斜を転がり落ちて、生まれたのは跳ねる音符、やけにハッピーなメロディ。意味もなくばらまいた砂粒は、陽光にきらめく極小のトパーズ。「あーあ」ってため息がこぼれて、乾いた喉に流し込んだ水は��じられないくらいおいしくて、もっと、彼女に会いたくなった。  どこにいるんだろう。  終わってしまった世界で、あたしは彼女を探し続けている。(まだ、何歩か進んだだけだよ)(あたし我慢って苦手なんだよね)(泣き言なんて、似合わないわね)(そう聞こえた? ならそうなのかも)(ちょっとくらい、休んでもいいんじゃないかしら?)(止まったものを動かすのって、エネルギー使うんだよ)(あいつも、志希のこと探してるんじゃないか?)(自分だって、そう言われても待てないでしょ)。それぞれが、それぞれ勝手に喋りかけて、まあ、退屈はしないけど。  でも悪いけど、今日は閉店。洞穴に入り込んで、涼やかな風を楽しみながら、目を閉じる。瞼の裏に、何度か彼女の色が射した気がして目を開くけど、その度見えるのはゴツゴツした火成岩の岩肌。外はもう暗くなっていて、もう寝ちゃおうってちゃんと目を閉じたら「そのまま、開けちゃダメだよー」って、聞き間違えるはずがない、ずっと、ずっと聞きたくて、何度も思い返して、夢にだって数え切れないくらい見たんだよ。「もしかして、夢?」「なら、開けたら覚めちゃうよ」「そっか、目、閉じてれば覚めないんだね」。  あたしたちは、たくさん話した。最初は、見てきた景色のこと。モンゴルの草原で寝ころんで見上げた空の深さ。スイスのなだらかな丘陵で牛に葉っぱをあげたこと。カナダ、メイプルの群生林で凍えていた夜。フォークランド諸島で追いかけまわしたペンギンたち。「ぜんぶ、一緒が良かったんだよ」「うん、ふたりで行こうね」。それから、出会った人のこと、出会わなかった人のこと。咲いていた花の名前。月齢の数え方やアーチ状の格子窓がどれだけ綺麗か。そうして、この世界がどうやって終わっていったか、なんてつまらないことを話そうとしたらキスをされて、言葉は消えてなくなった。抱きしめられて、空間が消失した。幸せで、満ち足りて、もう何もいらないなあ、なんて思ったけれど、「またね」「うん、ありがとう」って目を開けば朝日は柔らかく射し込んでいて、周囲に人間が存在していたことを示す痕跡は何一つ残っていなかった。  洞穴の外に広がる礫砂漠をぼんやりと眺めていたら、あくびが一つこぼれた。もうちょっとだけ眠ろうとする体を「よいしょ」って起こして、タンザニアの青い空、太陽の下へ足を踏み出す。  金色の風は、今日も彼女と同じ温かさで、あたしの手を引くみたいに、吹いていた。
2 notes · View notes
myonbl · 2 years
Text
2022年5月21日(土)
Tumblr media
三重県紀北町・奥川ファームから隔週に届く定期便、平飼い有精卵・特別栽培玄米・畑無農薬野菜、それにおまけで鹿肉と梅が届いた。梅は洗って塩漬けの準備、鹿肉は今夜カツにしていただこう。いつもの蕎麦がないのだが、明日打つので月曜日に届けるとのことだ。我が家の健康を支えてくれる元気食材、いつもありがとうございます。
Tumblr media
5時起床。
二十四節気は<小満=万物が成長し、天地に満ち始める(暦生活)>。
日誌書く。
Tumblr media
いつもより30分遅い朝食、チクワそば+そば湯+ヨーグルト。
奥川ファームから定期便届く。鹿肉が入っていたので、夜は鹿カツに決定。
Tumblr media
今日は映画、西大路七条のフレックスの駐輪場に、餃子の自動販売機と宅配便受取ロッカーが新しく置かれていた。バスを待つ間に、1人の女性が宅配便を受け取りに来る、初めて見る光景だ。
Tumblr media
京都みなみ会館で、「わたしのはなし 部落のはなし」
日本に根強く残る「部落差別」を題材にしたドキュメンタリー。かつて日本には「穢多」「非人」と呼ばれる賤民が存在した。1871年に明治政府が発した「解放令」により賤民身分は廃止されたものの、それ以降も彼らが住んでいた地域は「部落」と呼ばれ、差別構造は残り続けた。現在、法律や制度上は「部落」「部落民」は存在しないが、少なからぬ日本人が根強い差別意識を抱えている。映画では部落差別の起源・変遷から現状までを描き、積み重なった差別の歴史と複雑に絡み合った背景をひも解いていく。監督は、屠場とそこで働く人々を捉えたドキュメンタリー「にくのひと」で第1回田原総一朗ノンフィクション賞を受賞した満若勇咲。「なぜ君は総理大臣になれないのか」の監督・大島新がプロデュースを手がけた。
10時30分から14時10分、途中で休憩が15分入る。いろいろ思うところはあるが、労作であることは間違いない。
帰宅して、残り物のカレーを温めて遅い昼食を頂く。
録画番組視聴。朝から笑タイム
▽桂小枝 落語「悋気の独楽(こま)」
初回放送日: 2022年5月21日
土曜の早朝は、関西の笑いを、たっぷりと!今回は桂小枝さんの落語『悋気の独楽』を。小枝さんへの爆笑インタビューもお見逃しなく▽ご案内役は南沢奈央・らくご男子
軽さはこの人の味に違いないが、雑すぎて私は好きになれない。
町内の社協委員が配り物と年会費の請求に来られる、20,000円を支払う。
Tumblr media
夕飯は鹿カツ、時間はかかるがやはり美味しい。
録画番組視聴。
(35)「闘牛士の栄光」
何度見ても新しい!ミステリードラマの金字塔。舞台はメキシコ。伝説的な名闘牛士が長年の相棒を凶暴な牛に襲わせて殺害する。果たしてその動機とは? 
メキシコの元闘牛士で国の英雄でもあるモントーヤの牧場で、かつての相棒エクトールの息子が牛に立ち向かい負傷する事件が発生。エクトールと共に助けに向かったモントーヤは、突然、麻酔銃を彼に発砲し、荒くれ牛を放った。その後エクトールは牛に襲われ死亡する。モントーヤの動機とは?休暇でメキシコを訪れていたコロンボは、地元の警部に請われ、捜査に加わることに!
「横浜・川崎〜横浜・川崎は東京湾をどう進化させた?〜」
初回放送日: 2022年5月21日
海の上から横浜・川崎を見ると東京湾の数奇な運命が見えてくる!?その謎をタモリさんが船でめぐって解き明かす!▽京浜工業地帯・誕生の秘密!浅野総一郎の壮大な計画とは 
 「ブラタモリ#203」で訪れたのは東京湾の西側・神奈川県の横浜市と川崎市。旅のお題「横浜・川崎は東京湾をどう進化させた?」を探る▽拡大を続ける横浜港の埋め立て現場を目撃!▽小さな漁村だった横浜が大きな港町になった理由▽横浜の街なかで発見!石垣の秘密とは!?▽京浜工業地帯を生んだ実業家・浅野総一郎の計画を探る!▽大正時代に浅野が残したドックへ!▽新しい人気スポット・海から見たきれいな工場夜景の秘密
今夜もワインはグラスにⅠ杯だけ、密かに減量計画を進行させているのだ。
入浴・片付け、布団に入って柳家小ゑんのCDを聴きながらの読書、気がつけば夢の中。
Tumblr media
今日は映画館に籠もっていたのでこんなもの、水分は1,600ml。
5 notes · View notes