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#銃・病原菌・鉄 上巻
qsfrombooks · 4 years
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一年草は寿命が一年しかないので、背丈ではなく種子をできるだけ大きく実らせ、子孫を残すためにエネルギーを費やす。一年草の種子は、乾期をやりすごし雨期になったところで発芽する。したがって一年草は、樹木や灌木のように人間が食べられない樹皮や繊維質の多い幹や茎にエネルギーを費やすことはない。とくに一年草の穀類やマメ類は、人間の食べられない部分を大きくすることにはエネルギーを使わず、人間が食べられる種子を大きく実らせる。そのため、一二種ある世界の主要作物のうち六種は穀類やマメ類である。
銃・病原菌・鉄 上巻 / ジャレド ダイアモンド
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ryotarox · 2 years
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(ファイストスの円盤 - Wikipediaから)
ファイストスの円盤(ファイストスのえんばん)とは、1908年7月3日にクレタ島南岸のファイストス宮殿(もしくは神殿)の内部でイタリア人ルイジ・ペルニエル (Pernier) によって発見された厚さ2.1cm、直径16cmの粘土製の考古学上の遺物である。粘土のひもを渦巻き状に巻いて作ったことが分かっている。紀元前1600年代、宮殿は火災によって被害を受けており、ファイストスの円盤も焼き固められた状態で見つかった。
ファイストスの円盤は、線文字Aが書かれた粘土版が貯蔵された部屋で、水平に置かれた状態で発見された。イギリス人の考古学者アーサー・エヴァンズの分類に従って、上になっていた面をA、下になっていた面をBと呼ぶ。どちらの面にも「絵文字」が螺旋形に記されている。両面を通じて登場する文字は45種類で、両面に登場する文字の総個数は241である。 エヴァンズは絵の内容に従って文字に番号を付けた。文字1から文字6までは人の顔、もしくは全身像に見えるもの、文字29から文字34はネコ、ウシ、鳥、魚など何らかの動物に見える。 それぞれの文字が垂直線によって数個ずつに区切られている点はファイストスの円盤に特徴的である。A面には31区画(122文字)、B面には30区画(119文字)ある。 エーゲ海地方ではすでに紀元前2000年ごろから文字が使われていた。しかしながら、粘土の塊に棒で跡を付けたものがほとんどであった。一方、ファイストスの円盤にある各文字は正確に同じ形状、寸法であることから何らかの印章のようなものを粘土の表面に押し当てて記録したと考えられている。これを、「最古の印刷物」と呼ぶことが多いが[1]、印章は印刷史家からは一般的に印刷とは見なされない
内容に関する解読は進んでいない。理由は3つある。 最初の理由は、同じ文字が記された粘土板が他に見つからないことである。印章を用いて制作したのであれば、他にも同印章を用いた粘土板が存在する可能性はあるが、この円盤しか見つかっていない。このことから、ファイストスの円盤はクレタ島に起源があるのではなく、なんらかの輸入品であるとも考えられる。発見時に周囲に線文字Aが記された粘土板が見つかっているが、ファイストスの円盤との関係は分かっておらず、両者の文字には類似性もない。 2番目の理由は、商業的な記録ではないこと。つまり定型文ではないことである。わざわざ専用の印章を用いたということは、他に例のない文章を記録したと考えられ、解読に際しては不利となる。 3番目の理由は、円盤に記された文字の数がギリシャ語の音節の数と合わないことである。文字の種類が60以上であれば、ギリシャ語が記されている確率が高いが、円盤の文字は45種類しかない。 特に1番目の理由が大きく、別の資料が現れない限り解読は不可能と考えられている[3]。にもかかわらず、「解読できた」という主張が絶えない。
Audible版『銃・病原菌・鉄 下 』 | ジャレド ダイアモンド, 倉骨 彰 (翻訳) | Audible.co.jp
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i11matic · 4 years
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息子が「『銃・病原菌・鉄』持ってる?」と聞いてきたので前のめりで私の付箋だらけの上下巻を渡し、さらにそれを読むならこれもあれも、、とやりたいところをぐっと堪える。頼まれもせぬ親からの供給過多が子供の意欲の芽を摘んでしまうのです。何度となくやらかしては、反省をしてきたのです。— 紫原 明子🍞しはら あきこ (@akitect) June 12, 2020
https://twitter.com/akitect/status/1271247251055144961?ref_src=twsrc%5Etfw
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2ttf · 12 years
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実際に家畜化された大型哺乳類は、どの種類も、つぎの三つの社会性を共有している──群れをつくって集団で暮らす。集団内の個体の序列がはっきりしている。群れごとのなわばりを持たず、複数の群れが生活環境を一部重複しながら共有している
銃・病原菌・鉄 上巻 ジャレド ダイアモンド
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20200801
雑記(図書館、未来のルーシー)
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葉月朔日、白駒の隙を過ぐるが如し。
中国から送られる謎の種のニュース、あれなんだろか。 なんだか不穏だ。
雨で畑を放ったらかしてたらいんげんが1.5kgもなってたのだ。刻んだにんにくとバターで炒めて食べた。
ほんで久々に図書館へ行ったのだが初検温にわくわくしてしまった。ここ数年に亘る温活の成果か平熱はやや高め。予約制で20分間のみということだったが、行ったらあたくし一人だけ。だだっ広い空間にぽつねーんと独りという状況はポスト・アポカリプス的な映画で誰もいない図書館の廃墟にいる気分だった。
ジャレド・ダイアモンド「銃・病原菌・鉄」の上下巻と赤坂憲雄「ナウシカ考」、小泉武栄「日本の山が出来るまで」など10冊程借りる。
気になった一冊は新刊の中沢新一と山極寿一「未来のルーシー・人間は動物にも植物にもなれる」という対談本。
冒頭から「現生人類がアフリカを出てアジアに到達する数万年の間に地理的に未知の世界に行こうとする精神の獲得と、さらに稲作が始まると時間的に未知の世界に投資する、あるいは何かを期待するということが起こった。それは原初の資本主義であり投資を行いそれがタイムラグをもって利潤を伴って再生産される、これが農業の構造である。(要約)」とあり、植物の振る舞いに商いの基本を学ぶ、と少し前の日記に書いたことと同じようなことが書かれており、何や知らんが今読むべきタイミングの本なんだなと思った。
この数年気の向くままに登山と植物栽培を始めた訳だが考えてみると登山は空間的に未知の領域へのエネルギーの投資であり、サボテンあるいは野菜の栽培は時間的に未知の世界への投資である。
河合隼雄のユング心理学入門にも幼児の連作の絵のモチーフに画面を二分する山、樹などの植物、そして赤子等が象徴として出現し、子供が心の発達の過程を無意識に絵の中に表現するという例が解説されていたが、山と植物を媒介に新しい認識を獲得する、生まれ変わる。これは人間が辿った移動と農耕を介した認知機能の変化の記憶で、人類が共通して持つ変容の元型イメージなのかもしれない。
思えばこの五年程私は努めて人間になろうとしてきた。前頭葉を鍛えて自我を働かせるために試して有効だと感じたものは習慣化した。(特に有効だったのはブレインダンプ、モーニングページというような排泄とも言える手書きの文章とそれを時間を置いて読み返すという行為。何よりもまず自分とコミュニケーションを図るということ。)
それ以前の私には自我というものが無かった、あるいはかなり脆弱なものだったように思う。幼少期から思春期をアルコールや暴力の問題を抱えた機能不全の環境で過ごした影響もあるだろう。自我の無いままに生きることは様々な困難を人生にもたらす。(自我は自我で苦を生む訳だがそれはまたこの先の話。)
ある意味で獣のような反射・反応の感覚状態から人間的な論理思考を獲得し始める。感覚と論理のそのどちらかだけではなく、それらを統合したその先に四次元みたいな直感思考が下りてくる。それを前後して今までは知覚していたかすら怪しい、山というものが風景の中に立ち現れる。山岳空間という異界に踏み込み植物という存在が急に迫ってくる。生と死の境界すら曖昧な世界。それを自身の振る舞いや日常の中にどうにかして取り込みたいという意識が生まれて植物の栽培を始める。わざわざ山に登るのも、意図を持って植物を育てるのも人間だけである。思うに図らずして人間を人間たらしめる道を再び辿ったような気がする。
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clnmn · 6 years
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著者というものは、分厚い著書をたったの一文で要約するように、ジャーナリストから求められる。本書についていえば、つぎのような要約となる──「歴史は、異なる人びとによって異なる経路をたどったが、それは、人びとのおかれた環境の差異によるものであって、人びとの生物学的な差異によるものではない。
銃・病原菌・鉄 上巻 | ジャレド ダイアモンド, 倉骨 彰 | 歴史・地理 | Kindleストア | Amazon
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qsfrombooks · 3 years
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ほとんどの微生物が無害なのに、ある種の微生物はわれわれ人間を「病気にする」ように進化したのはなぜか
銃・病原菌・鉄 上巻 / ジャレド ダイアモンド
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ryotarox · 6 years
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(デザイン思考の今後 - Kamihira_log at 10636から)
ここ最近、「デザイン思考」に関する議論はもう一周したんだなー、と感じさせる文章を目にすることが増えてきた。
最近読んだ3つの記事と論文を引用してみた。僕も同じようなことを春先に思っていて、何度か講演の際に下のような図を書いて喋ったことがある。
三角形の最下部は具体的な活動の層。それが短期間で終わらず長期間にわたるものになると、それらをどうやるか(How)をうまく進めるためにデザインプロセスが必要になってくる。この層は近年の言語化の努力によってあらかた整備されたといってよいだろう。 そしてもう一段階視点を上げると、上の層には、「何をするのか」「どこでやるのか」「誰がやるのか」「どんなタイミングで、どのくらいの期間やるのか」といったような、"状況"を含んだデザインを取り巻く環境の問題が存在する。この層は、しばしば前提となってしまって、なんだかんだで簡単に変えにくいし疑いにくいが、前提は「解」を規定してしまうからこそ、ここを問うことは重要だ。 そしてさらにもっと抽象度の高いところには、その環境の中で、もしくは環境そのものを再解釈し、「なぜ」やるのか?「なぜデザインなのか?」といった、行き先を照らすビジョンの問いがある。 ここで悩ましいところだが、ビジョンと環境は、どっちが上位という訳でもなさそうである。 ジャレッド・ダイアモンドが「銃・病原菌・鉄」で示したように、文化はそもそも地理的条件の中でつくられていくからだ。 例をあげれば、移民が多い街では異文化を考慮した地域コミュニティをどう作るかが切実な問題になるし、自然災害が多い国では防災に関するデザインが発達する。我々はそうして環境から影響を受けながら、身の回りを人工物化していく。そしてそれは環境になっていく。両者は密接な相互関係にある。
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なぜ、自分が(or あなたが)それをするのか  ↑ 《誰にどんな価値を提供するか》  ↓ どうやって、いつ、いくらで、どれくらい
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[参考]
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nyantria · 7 years
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* 秋元寿恵 東京帝大出身の血清学者     1984年12月の証言 部隊に着任して人体実験のことを知った時は非常にショックを受けました。 あそこにいた科学者たちで良心の呵責を感じている者はほとんどいませんでした。 彼らは囚人たちを動物のように扱っていました。 ・・・・死にゆく過程で医学の発展に貢献できるなら名誉の死となると考えていたわけです。 私の仕事には人体実験は関係していませんでしたが、私は恐れおののいてしまいました。 私は所属部の部長である菊地少将に3回も4回も辞表を出しました。 しかしあそこから抜け出すことは出来ませんでした。 もし出て行こうとするならば秘かに処刑されると脅されました。 * 鎌田信雄 731部隊少年隊 1923年生      1995年10月 証言 私は石井部隊長の発案で集められた「まぼろしの少年隊1期生」でした。 注: 正式な1期から4期まではこの後に組織された 総勢22~23人だったと思います。 平房の本部では朝8時から午後2時までぶっ通しで一般教養、外国語、衛生学などを勉強させられ、 3時間しか寝られないほどでした。 午後は隊員の助手をやりました。 2年半の教育が終ったときは、昭和14年7月でした。 その後、ある細菌増殖を研究する班に所属しました。 平房からハルビンに中国語を習いに行きましたが、その時白華寮(731部隊の秘密連絡所)に立ち寄りました ・・・・200部隊(731部隊の支隊・馬疫研究所)では、実験用のネズミを30万匹買い付けました。 ハルビン市北方の郊外に毒ガス実験場が何ケ所かあって、 安達実験場の隣に山を背景にした実験場があり、そこでの生体実験に立ち合ったことがあります。 安達には2回行ったことがありますが、1~2日おきに何らかの実験をしていました。 20~30人のマルタが木柱に後手に縛られていて、毒ガスボンベの栓が開きました。 その日は関東軍のお偉方がたくさん視察に来ていました。 竹田宮(天皇の従兄弟)も来ていました。 気象班が1週間以上も前から風向きや天候を調べていて大丈夫だということでしたが、 風向きが変わり、ガスがこちら側に流れてきて、あわてて逃げたこともあります ・・・・ホルマリン漬けの人体標本もたくさんつくりました。 全身のものもあれば頭や手足だけ、内臓などおびただしい数の標本が並べてありました。 初めてその部屋に入ったときには気持ちが悪くなって、何日か食事もできないほどでした。 しかし、すぐに慣れてしまいましたが、赤ん坊や子供の標本もありました ・・・・全身標本にはマルタの国籍、性別、年齢、死亡日時が書いてありましたが、 名前は書いてありませんでした。 中国人、ロシア人、朝鮮族の他にイギリス人、アメリカ人、フランス人と書いてあるのもありました。 これはここで解剖されたのか、他の支部から送られてきたものなのかはわかりません。 ヨーロッパでガラス細工の勉強をして来た人がピペットやシャ-レを造っていて、 ホルマリン漬けをいれるコルペもつくっていました。 731部隊には、子どももいました。 私は屋上から何度も、中庭で足かせをはめられたままで運動している“マルタ”を見たことがあります。 1939年の春頃のことだったと思いますが、3組の母子の“マルタ”を見ました。 1組は中国人の女が女の赤ちゃんを抱いていました。 もう1組は白系ロシア人の女と、4~5歳の女の子、 ���してもう1組は、これも白系ロシアの女で,6~7歳の男の子がそばにいました ・・・・見学という形で解剖に立ち合ったことがあります。 解剖後に取り出した内臓を入れた血だらけのバケツを運ぶなどの仕事を手伝いました。 それを経験してから1度だけでしたが、メスを持たされたことがありました。 “マルタ”の首の喉ぼとけの下からまっすぐに下にメスを入れて胸を開くのです。 これは簡単なのでだれにでもできるためやらされたのですが、 それからは解剖専門の人が細かくメスを入れていきました。 正確なデータを得るためには、できるだけ“マルタ”を普通の状態で解剖するのが望ましいわけです。 通常はクロロホルムなどの麻酔で眠らせておいてから解剖するのですが、 このときは麻酔をかけないで意識がはっきりしているマルタの手足を解剖台に縛りつけて、 意識がはっきりしているままの“マルタ”を解剖しました。 はじめは凄まじい悲鳴をあげたのですが、すぐに声はしなくなりました。 臓器を取り出して、色や重さなど、健康状態のものと比較し検定した後に、それも標本にしたのです。 他の班では、コレラ菌やチフス菌をスイカや麦の種子に植えつけて栽培し、 どのくらい毒性が残るかを研究していたところもあります。 菌に侵された種を敵地に撒くための研究だと聞きました。 片道分の燃料しか積まずに敵に体当りして死んだ特攻隊員は、天皇から頂く恩賜の酒を飲んで出撃しました。 731部隊のある人から、「あの酒には覚醒剤が入っており、部隊で開発したものだ」と聞きました ・・・・部隊には,入れかわり立ちかわり日本全国から医者の先生方がやってきて、 自分たちが研究したり、部隊の研究の指導をしたりしていました。 今の岩手医大の学長を勤めたこともある医者も、細菌学の研究のために部隊にきていました。 チフス、コレラ、赤痢などの研究では日本でも屈指の人物です。 私が解剖学を教わった石川太刀雄丸先生は、戦後金沢大学医学部の主任教授になった人物です。 チフス菌とかコレラ菌とかを低空を飛ぶ飛行機からばらまくのが「雨下」という実験でした。 航空班の人と、その細菌を扱うことができる者が飛行機に乗り込んで、村など人のいるところへ細菌をまきます。 その後どのような効果があったか調査に入りました。 ペスト菌は、ノミを介しているので陶器爆弾を使いました。 当初は陶器爆弾ではなく、ガラス爆弾が使われましたが、ガラスはだめでした。 ・・・・ペストに感染したネズミ1匹にノミを600グラム、だいたい3000~6000匹たからせて落とすと、 ノミが地上に散らばるというやり方です ・・・・ベトナム戦争で使った枯葉剤の主剤は、ダイオキシンです。 もちろん731部隊でもダイオキシンの基礎研究をやっていました。 アメリカは、この研究成果をもって行って使いました。 朝鮮戦争のときは石井部隊の医師達が朝鮮に行って、 この効果などを調べているのですが、このことは絶対に誰も話さないと思います。 アメリカが朝鮮で細菌兵器を使って自分の軍隊を防衛できなくなると困るので連れて行ったのです。 1940年に新京でペストが大流行したことがありました。(注:731部隊がやったと言われている) ・・・・そのとき隊長の命令で、ペストで死んで埋められていた死体を掘り出して、 肺や肝臓などを取り出して標本にし、本部に持って帰ったこともありました。 各車両部隊から使役に来ていた人たちに掘らせ、メスで死体の胸を割って 肺、肝臓、腎臓をとってシャ-レの培地に塗る、 明らかにペストにかかっているとわかる死体の臓器をまるまる持っていったこともあります。 私にとっては、これが1番いやなことでした。人の墓をあばくのですから・・・・ * 匿名 731部隊少佐 薬学専門家 1981年11月27日 毎日新聞に掲載されたインタビュ-から 昭和17年4月、731と516両部隊がソ満国境近くの都市ハイラル郊外の草原で3日間、合同実験をした。 「丸太」と呼ばれた囚人約100人が使われ、4つのトーチカに1回2,3人ずつが入れられた。 防毒マスクの将校が、液体青酸をびんに詰めた「茶びん」と呼ぶ毒ガス弾をトーチカ内に投げ、 窒息性ガスのホスゲンをボンベから放射した。 「丸太」にはあらかじめ心臓の動きや脈拍を見るため体にコードをつけ、 約50メ-トル離れた机の上に置いた心電図の計器などで、「死に至る体の変化」を記録した。 死が確認されると将校たちは、毒ガス残留を調べる試験紙を手にトーチカに近づき、死体を引きずり出した。 1回の実験で死ななかった者にはもう1回実験を繰り返し、全員を殺した。 死体はすべて近くに張ったテントの中で解剖した。 「丸太」の中に68歳の中国人の男性がいた。 この人は731部隊内でペスト菌を注射されたが、死ななかったので毒ガス実験に連れて来られた。 ホスゲンを浴びせても死なず、ある軍医が血管に空気を注射した。 すぐに死ぬと思われたが、死なないのでかなり太い注射器でさらに空気を入れた。 それでも生き続け、最後は木に首を吊って殺した。 この人の死体を解剖すると、内臓が若者のようだったので、軍医たちが驚きの声を上げたのを覚えている。 昭和17年当時、部隊の監獄に白系ロシア人の婦人5人がいた。 佐官級の陸軍技師(吉村寿人?)は箱状の冷凍装置の中に彼女等の手を突っ込ませ、 マイナス10度から同70度まで順々に温度を下げ、凍傷になっていく状況を調べた。 婦人たちの手は肉が落ち、骨が見えた。 婦人の1人は監獄内で子供を産んだが、その子もこの実験に使われた。 その後しばらくして監獄をのぞいたが、5人の婦人と子供の姿は見えなくなっていた。 死んだのだと思う。 * 山内豊紀  証言  1951年11月4日   中国档案館他編「人体実験」 われわれ研究室の小窓から、寒い冬の日に実験を受けている人がみえた。 吉村博士は6名の中国人に一定の負荷を背負わせ、一定の時間内に一定の距離を往復させ、 どんなに寒くても夏服しか着用させなかった。 みていると彼らは日ましに痩せ衰え、徐々に凍傷に冒されて、一人ひとり減っていった。 * 秦正  自筆供述書   1954年9月7日  中国档案館他編「人体実験」 私はこの文献にもとづいて第一部吉村技師をそそのかし、残酷な実験を行わせた。 1944年冬、彼は出産まもないソ連人女性愛国者に対して凍傷実験を行った。 まず手の指を水槽に浸してから、外に連れだして寒気の中にさらし、激痛から組織凍傷にまでいたらしめた。 これは凍傷病態生理学の実験で、その上で様々な温度の温水を使って「治療」を施した。 日を改めてこれをくり返し実施した結果、その指はとうとう壊死して脱落してしまった。 (このことは、冬期凍傷における手指の具体的な変化の様子を描くよう命じられた画家から聞いた) その他、ソ連人青年1名も同様の実験に使われた。 *上田弥太郎 供述書  731部隊の研究者   1953年11月11日  中国档案館他編「人体実験」 1943年4月上旬、7・8号棟で体温を測っていたとき中国人の叫び声が聞こえたので、すぐに見に行った。 すると、警備班員2名、凍傷班員3名が、氷水を入れた桶に1人の中国人の手を浸し、 一定の時間が経過してから取り出した手を、こんどは小型扇風機の風にあてていて、 被実験者は痛みで床に倒れて叫び声をあげていた。 残酷な凍傷実験を行っていたのである。 * 上田弥太郎   731部隊の研究者 中国人民抗日戦争記念館所蔵の証言 ・・・・すでに立ち上がることさえできない彼の足には、依然として重い足かせがくいこんで、 足を動かすたびにチャラチャラと鈍い鉄の触れ合う音をたてる ・・・・外では拳銃をぶら下げたものものしい警備員が監視の目をひからせており、警備司令も覗いている。 しかし誰一人としてこの断末魔の叫びを気にとめようともしない。 こうしたことは毎日の出来事であり、別に珍しいものではない。 警備員は、ただこの中にいる200名くらいの中国人が素直に殺されること、 殺されるのに反抗しないこと、よりよきモルモット代用となることを監視すればよいのだ ・・・・ここに押し込められている人々は、すでに人間として何一つ権利がない。 彼らはこの中に入れば、その名前はアラビア数字の番号とマルタという名前に変わるのだ。 私たちはマルタ何本と呼んでいる。 そのマルタOOO号、彼がいつどこからどのようにしてここに来たかはわから���い。 * 篠塚良雄     731部隊少年隊   1923年生    1994年10月証言から ・・・・1939年4月1日、「陸軍軍医学校防疫研究室に集まれ」という指示を受けました ・・・・5月12日中国の平房に転属になりました ・・・・731部隊本部に着いて、まず目に入ったのは 「関東軍司令官の許可なき者は何人といえども立入りを禁ず」と書かれた立て看板でした。 建物の回りには壕が掘られ鉄条網が張り巡らされていました。 「夜になると高圧電流が流されるから気をつけろ」という注意が与えられました ・・・・当時私は16歳でした。 私たちに教育が開始されました・・・・ 「ここは特別軍事地域に指定されており、日本軍の飛行機であってもこの上空を飛ぶことはできない。 見るな、聞くな、言うな、これが部隊の鉄則だ」というようなことも言われました。・・・・ 「防疫給水部は第1線部隊に跟随し、主として浄水を補給し直接戦力の保持増進を量り、 併せて防疫防毒を実施するを任務とする」と強調されました ・・・・石井式衛生濾水機は甲乙丙丁と車載用、駄載用、携帯用と分類されていました ・・・・濾過管は硅藻土と澱粉を混ぜて焼いたもので“ミクロコックス”と言われていました ・・・・細菌の中で1番小さいものも通さないほど性能がいいと聞きました ・・・・私は最初は動物を殺すことさえ直視できませんでした。 ウサギなどの動物に硝酸ストリキニ-ネとか青酸カリなどの毒物を注射して痙攣するのを直視させられました。 「目をつぶるな!」と言われ、もし目をつぶれば鞭が飛んでくるのです ・・・・私に命じられたのは、細菌を培養するときに使う菌株、 通称“スタム”を研究室に取りに行き運搬する仕事でした。 江島班では赤痢菌、田部井班ではチフス菌、瀬戸川班ではコレラ菌と言うように それぞれ専門の細菌研究が進められていました ・・・・生産する場所はロ号棟の1階にありました。 大型の高圧滅菌機器が20基ありました ・・・・1回に1トンの培地を溶解する溶解釜が4基ありました ・・・・細菌の大量生産で使われていたのが石井式培養缶です。 この培養缶1つで何10グラムという細菌を作ることができました。 ノモンハンのときには1日300缶を培養したことは間違いありません ・・・・ここの設備をフル稼働させますと、1日1000缶の石井式培養缶を操作する事が出来ました。 1缶何10グラムですから膨大な細菌を作ることができたわけです ・・・・1940年にはノミの増殖に動員されました ・・・・ペストの感受性の一番強い動物はネズミと人間のようです。 ペストが流行するときにはその前に必ず多くのネズミが死ぬと言うことでした。 まずネズミにペスト菌を注射して感染させる。 これにノミをたからせて低空飛行の飛行機から落とす。 そうするとネズミは死にますが、 ノミは体温の冷えた動物からはすぐに離れる習性を持っているので、今度は人間につく。 おそらくこういう形で流行させたのであろうと思います ・・・・柄沢班でも、生体実験、生体解剖を毒力試験の名のもとに行ないました ・・・・私は5名の方を殺害いたしました。 5名の方々に対してそれぞれの方法でペストのワクチンを注射し、 あるいはワクチンを注射しないで、それぞれの反応を見ました。 ワクチンを注射しない方が1番早く発病しました。 その方はインテリ風で頭脳明晰といった感じの方でした。 睨みつけられると目を伏せる以外に方法がありませんでした。 ペストの進行にしたがって、真黒な顔、体になっていきました。 まだ息はありましたが、特別班の班員によって裸のまま解剖室に運ばれました ・・・・2ケ月足らずの間に5名の方を殺害しました。 特別班の班員はこの殺害したひとたちを、灰も残らないように焼却炉で焼いたわけであります。     注:ノモンハン事件 1939年5月11日、満州国とモンゴルの国境付近のノモンハンで、日本側はソ連軍に攻撃を仕掛けた。 ハルハ河事件とも言う。 4ケ月続いたこの戦いは圧倒的な戦力のソ連軍に日本軍は歯が立たず、 約17,000人の死者を出した。 ヒットラ-のポーランド侵攻で停戦となった。 あまりにみっともない負け方に日本軍部は長い間ノモンハン事件を秘密にしていた。 731部隊は秘密で参加し、ハルハ河、ホルステイン河に赤痢菌、腸チフス菌、パラチフス菌を流した。 参加者は、隊長碇常重軍医少佐、草味正夫薬剤少佐、作山元治軍医大尉、 瀬戸尚二軍医大尉、清水富士夫軍医大尉、その他合計22名だった。 (注:ハバロフスクの裁判記録に証言があります) * 鶴田兼敏  731部隊少年隊  1921年生 1994年731部隊展の報告書から 入隊は1938年11月13日でしたが、まだそのときは平房の部隊建物は建設中でした ・・・・下を見ますと“マルタ”が収容されている監獄の7、8棟の中庭に、 麻袋をかぶった3~4人の人が輪になって歩いているのです。 不思議に思い、班長に「あれは何だ?」と聞いたら、「“マルタ”だ」と言います。 しかし私には“マルタ”という意味がわかりません。 するとマルタとは死刑囚だと言うんです。 軍の部隊になぜ死刑囚がいるのかと疑問に思いましたが、 「今見たことはみんな忘れてしまえ!」と言われました・・・・ 基礎教育の後私が入ったのは昆虫班でした。 そこでは蚊、ノミ、ハエなどあらゆる昆虫、害虫を飼育していました。 ノミを飼うためには、18リットル入りのブリキの缶の中に、半分ぐらいまでおが屑を入れ、 その中にノミの餌にするおとなしい白ネズミを籠の中に入れて固定するんです。 そうするとたいてい3日目の朝には、ノミに血を吸い尽くされてネズミは死んでいます。 死んだらまた新しいネズミに取りかえるのです。 一定の期間が過ぎると、缶の中のノミを集めます。 ノミの採取は月に1,2度行なっていました ・・・・ノモンハン事件の時、夜中に突然集合がかかったのです ・・・・ホルステイン川のほとりへ連れていかれたのです。 「今からある容器を下ろすから、蓋を開けて河の中に流せ」と命令されました。 私たちは言われたままに作業をしました ・・・・基地に帰ってくると、石炭酸水という消毒液を頭から足の先までかけられました。 「何かやばいことをやったのかなあ。いったい、何を流したのだろうか」という疑問を持ちました ・・・・後で一緒に作業した内務班長だった衛生軍曹はチフスで死んだことを聞き、 あの時河に流したのはチフス菌だったとわかったわけです ・・・・いまだに頭に残っているものがあります。 部隊本部の2階に標本室があったのですが、 その部屋でペストで殺された“マルタ”の生首がホルマリンの瓶の中に浮いているのを見たことです。 中国人の男性でした。 また1,2歳の幼児が天然痘で殺されて、丸ごとホルマリンの中に浮いているのも見ました。 それもやはり中国人でした。 今もそれが目に焼きついて離れません。 * 小笠原 明  731部隊少年隊 1928年生れ  1993~94年の証言から ・・・・部隊本部棟2階の部隊長室近くの標本室の掃除を命じられました ・・・・ドアを開けたところに、生首の標本がありました。 それを見た瞬間、胸がつまって吐き気を催すような気持になって目をつぶりました。 標本室の中の生首は「ロスケ(ロシア人)」の首だと思いました。 すぐ横の方に破傷風の細菌によって死んだ人の標本がありました。 全身が標本となっていました。 またその横にはガス壊疽の標本があり、太ももから下を切り落としてありました。 これはもう生首以上にむごたらしい、表現できないほどすごい標本でした。 拭き掃除をして奥の方に行けば、こんどは消化器系統の病気の赤痢、腸チフス、コレラといったもので 死んだ人を病理解剖した標本がたくさん並べてありました ・・・・田中大尉の部屋には病歴表というカードがおいてあって、人体図が描いてあって、 どこにペストノミがついてどのようになったか詳しく記録されていました。 人名も書いてありました。 このカードはだいたい5日から10日以内で名前が変ります。 田中班ではペストの人体実験をして数日で死んだからです ・・・・田中班と本部の研究室の間には人体焼却炉があって毎日黒い煙が出ておりました ・・・・私は人の血、つまり“マルタ”の血を毎日2000から3000CC受取ってノミを育てる研究をしました ・・・・陶器製の爆弾に細菌やノミやネズミを詰込んで投下実験を何回も行ないました ・・・・8月9日のソ連の参戦で証拠隠滅のためにマルタは全員毒ガスで殺しました。 10日位には殺したマルタを中庭に掘った穴にどんどん積み重ねて焼きました。 * 千田英男 1917年生れ  731部隊教育隊  1974年証言 ・・・・「今日のマルタは何番・・・・何番・・・・何番・・・・以上10本頼む」 ここでは生体実験に供される人たちを”丸太”と称し、一連番号が付けられていた ・・・・中庭の中央に2階建ての丸太の収容棟がある。 4周は3層の鉄筋コンクリ-ト造りの建物に囲まれていて、そこには2階まで窓がなく、よじ登ることもはい上がることもできない。 つまり逃亡を防ぐ構造である。通称7,8棟と称していた・・・・ *石橋直方      研究助手 私は栄養失調の実験を見ました。 これは吉村技師の研究班がやっていたんだと思います。 この実験の目的は、人間が水と乾パンだけでどれだけ生きられるかを調べることだったろうと思われます。 これには2人のマルタが使われていました。 彼らは部隊の決められたコ-スを、20キログラム程度の砂袋を背負わされて絶えず歩き回っていました。 1人は先に倒れて、2人とも結局死にました。 食べるものは軍隊で支給される乾パンだけ、飲むのは水だけでしたからね、 そんなに長いこと生きられるはずがありません。 *越定男    第731部隊第3部本部付運搬班 1993年10月10日、山口俊明氏のインタビュ- -東条首相も視察に来た 本部に隣接していた専用飛行場には、友軍機と言えども着陸を許されず、 東京からの客は新京(長春)の飛行場から平房までは列車でした。 しかし東条らの飛行機は専用飛行場に降りましたのでよく覚えています。 -マルタの輸送について ・・・・最初は第3部長の送り迎え、、郵便物の輸送、通学バスの運転などでしたが、 間もなく隊長車の運転、マルタを運ぶ特別車の運転をするようになりました。 マルタは、ハルピンの憲兵隊本部、特務機関、ハルピン駅ホ-ムの端にあった憲兵隊詰所、 それに領事館の4ケ所で受領し4.5トンのアメリカ製ダッジ・ブラザ-スに積んで運びました。 日本領事館の地下室に手錠をかけたマルタを何人もブチ込んでいたんですからね。 最初は驚きましたよ。マルタは特別班が管理し、本部のロ号棟に収容していました。 ここで彼らは鉄製の足かせをはめられ、手錠は外せるようになっていたものの、 足かせはリベットを潰されてしまい、死ぬまで外せなかった。 いや死んでからも外されることはなかったんです。 足かせのリベットを潰された時のマルタの心境を思うと、やりきれません。 -ブリキ製の詰襟 私はそんなマルタを度々、平房から約260キロ離れた安達の牢獄や人体実験場へ運びました。 安達人体実験場ではマルタを十字の木にしばりつけ、 彼らの頭上に、超低空の飛行機からペスト菌やコレラ菌を何度も何度も散布したのです。 マルタに効率よく細菌を吸い込ませるため、マルタの首にブリキで作った詰襟を巻き、 頭を下げるとブリキが首に食い込む仕掛けになっていましたから、 マルタは頭を上に向けて呼吸せざるを得なかったのです。 むごい実験でした。 -頻繁に行われた毒ガス実験 731部隊で最も多く行われた実験は毒ガス実験だったと思います。 実験場は専用飛行場のはずれにあり、四方を高い塀で囲まれていました。 その中に外から視察できるようにしたガラス壁のチャンバ-があり、 観察器材が台車に乗せられてチャンバ-の中に送り込まれました。 使用された毒ガスはイペリットや青酸ガス、一酸化炭素ガスなど様々でした。 マルタが送り込まれ、毒ガスが噴射されると、 10人ぐらいの観察員がドイツ製の映写機を回したり、ライカで撮影したり、 時間を計ったり、記録をとったりしていました。 マルタの表情は刻々と変わり、泡を噴き出したり、喀血する者もいましたが、 観察員は冷静にそれぞれの仕事をこなしていました。 私はこの実験室へマルタを運び、私が実験に立ち会った回数だけでも年間百回ぐらいありましたから、 毒ガス実験は頻繁に行われていたとみて間違いないでしょう。 -逃げまどうマルタを あれは昭和19年のはじめ、凍土に雪が薄く積もっていた頃、ペスト弾をマルタに撃ち込む実験の日でした。 この実験は囚人40人を円状に並べ、円の中央からペスト菌の詰まった細菌弾を撃ち込み、 感染具合をみるものですが、私たちはそこから約3キロ離れた所から双眼鏡をのぞいて、 爆発の瞬間を待っていました。その時でした。 1人のマルタが繩をほどき、マルタ全員を助け、彼らは一斉に逃げ出したのです。 驚いた憲兵が私のところへ素っ飛んで来て、「車で潰せ」と叫びました。 私は無我夢中で車を飛ばし、マルタを追いかけ、 足かせを引きずりながら逃げまどうマルタを1人ひとり潰しました。 豚は車でひいてもなかなか死にませんが、人間は案外もろく、直ぐに死にました。 残忍な行為でしたが、その時の私は1人でも逃がすと中国やソ連に731部隊のことがバレてしまって、 我々が殺される、という思いだけしかありませんでした。 -囚人は全員殺された 731部隊の上層部は日本軍の敗戦をいち早く察知していたようで、敗戦数ヶ月前に脱走した憲兵もいました。 戦局はいよいよ破局を迎え、ソ連軍が押し寄せてきているとの情報が伝わる中、 石井隊長は8月11日、隊員に最後の演説を行い、 「731の秘密は墓場まで持っていけ。 機密を漏らした者がいれば、この石井が最後まで追いかける」と脅迫し、部隊は撤収作業に入りました。 撤収作業で緊急を要したのはマルタの処理でした。 大半は毒ガスで殺されたようですが、1人残らず殺されました。 私たちは死体の処理を命じられ、死体に薪と重油かけて燃やし、骨はカマスに入れました。 私はそのカマスをスンガリ(松花江)に運んで捨てました。 被害者は全員死んで証言はありませんが、部隊で働いていた中国人の証言があります。 *傳景奇  ハルピン市香坊区     1952年11月15日 証言 私は今年33歳です。 19歳から労工として「第731部隊」で働きました。 班長が石井三郎という石井班で、ネズミ籠の世話とか他の雑用を8・15までやっていました。 私が見た日本人の罪悪事実は以下の数件あります。 1 19歳で工場に着いたばかりの時は秋で「ロ号棟」の中で   いくつかの器械が血をかき混ぜているのを見ました。   当時私は若く中に入って仕事をやらされました。日本人が目の前にいなかったのでこっそり見ました。 2 19歳の春、第一倉庫で薬箱を並べていたとき不注意から箱がひっくりかえって壊れました。   煙が一筋立ち上がり、我々年少者は煙に巻かれ気が遠くなり、   涙も流れ、くしゃみで息も出来ませんでした。 3 21歳の年、日本人がロバ4頭を程子溝の棒杭に繋ぐと、 しばらくして飛行機からビ-ル壜のような物が4本落ちてきた。 壜は黒煙をはき、4頭のロバのうち3頭を殺してしまったのを見ました。 4 22歳の時のある日、日本人が昼飯を食べに帰ったとき、 私は第一倉庫に入り西側の部屋に死体がならべてあるのを見ました。 5 康徳11年(1944年)陰暦9月錦州から来た1200人以上の労工が 工藤の命令で日本人の兵隊に冷水をかけられ、半分以上が凍死しました。 6 工場内で仕事をしているとき動物の血を採っているのを見たし、私も何回か採られました *関成貴  ハルピン市香坊区  1952年11月4日 証言 私は三家子に住んで40年以上になります。 満州国康徳3年(1936年)から第731部隊で御者をして賃金をもらい生活を支えていました。 康徳5年から私は「ロ号棟」後ろの「16棟」房舎で 日本人が馬、ラクダ、ロバ、兎、ネズミ(畑栗鼠とシロネズミ)、モルモット、 それにサル等の動物の血を注射器で採って、 何に使うのかわかりませんでしたが、 その血を「ロ号棟」の中に運んでいくのを毎日見るようになりました。 その後康徳5年6月のある日私が煉瓦を馬車に載せて「ロ号棟」入り口でおろし、 ちょうど数を勘定していると銃剣を持った日本兵が何名か現れ、 馬車で煉瓦を運んでいた中国人を土壁の外に押し出した。 しかし私は間に合わなかったので煉瓦の山の隙間に隠れていると しばらくして幌をつけた大型の自動車が10台やってきて建物の入り口に停まりました。 この時私はこっそり見たのですが、日本人は「ロ号棟」の中から毛布で体をくるみ、 足だけが見えている人間を担架に乗せて車に運びました。 1台10人くらい積み込める車に10台とも全部積み終わり、 自動車が走り去ってから私たちはやっと外に出られました。 ほかに「ロ号棟」の大煙突から煙が吹き出る前には中国人をいつも外に出しました。 *羅壽山  証言日不明 ある日私は日本兵が通りから3人の商人をひっぱってきて 半死半生の目にあわせたのをどうすることもできず見ていました。 彼等は2人を「ロ号棟」の中に連れて行き、残った1人を軍用犬の小屋に放り込みました。 猛犬が生きた人間を食い殺すのを見ているしかなかったのです。
生体実験の証言 | おしえて!ゲンさん! ~分かると楽しい、分かると恐い~ http://www.oshietegensan.com/war-history/war-history_h/5899/
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kuromoyo · 4 years
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「東アジアで新型コロナの被害が少なく欧米で爆発的に広がったこと」はそんなに不思議なことでもないと思うようになるでしょう。 新型コロナウイルスの世界と直接的に関連する名著「銃・病原菌・鉄」をナショナルジオグラフィックの編成で映像化した番組。著者本人が出演していて、原著を的確に踏襲してさらに映像を加えて素晴らしい番組になっています。重厚な上下巻に挫折した人 (おれ) や、中学高校生あたりなら東西文明の成り立ちのきっかけを知る良い番組だと思う。 これ多分違法アップロード動画だからどうしようかと思ったんだけど、もう中古でしか DVD が出回っていないので視聴は自己責任でという形で共有しておきます。
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arthur-meursault · 6 years
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二日分の日記
きのうと今日、二日分の日記である。
久しぶりに三日分休みがきた。 夜勤の場合は睡眠調整のために半日取られるので、三日休みでも感覚でいうと二日半くらいだ。なので日記にまとめても二日分である。 なんだか損な気がするが、夜勤自体はラーメン屋や工場で経験済みなので肉体的なきつさはない。 それにコンビニは夜勤の方が人が来ない。その点はまあいいかと思える。 納品やらあるので楽ではないが、それをうだうだ考えるつもりはない。 コンビニの多忙で悩むほどどうでもいいこともないのだ。 慣れるのみである。
なんだかんだ、電話番号が無いと不便だ。 不便というかまともな都会生活は送れまい。 携帯電話を契約しに駅二つ分先のUQモバイル店舗まで赴く。 一番安いプランに破損保証だけつけてもらい、前と同じ型のスマホを購入。 月六千円も取られるのはさすがに閉口するが3千円くらいならまあいいかと思える。 店員の女性がこなれた感じで印象の良い人だった。 そして俺は、そもそも知らない人と即興で会話するのがあまり好き(得意)ではないタイプだと気づくのだった。 知ってる人と相談や雑談なら続くのだが。 にしても店員の方は間を作らないように話してくれて、好印象。 俺みたいなタイプにはありがたいですね。 喋るのが下手かつ好きでないからといって、話してくれること自体が嫌なわけでは当然ないのですよ。
携帯を無事契約し外へ。
この携帯店は商店街にあり、周辺にはよさげな飲食店がいくつかある。 昼ごはんを物色する、 商店街を道一本挟んだそば屋にカツ丼を見つけ、注文。 普通の定食を食べさせるそば屋らしいが小綺麗で印象の良いところ。 店員のメガネで小柄な女性がかわいらしかった。 地味めで、話し方がもったりしてて。 「好き」と性的に興奮するか否かは俺の中で別カテゴリなのだなー、と、なんとなく思う。 なぜでしょうか。ライフとセックスが別物な人種だからかな……。
カツ丼はうまかった。 カツ肉は薄いが脂身が程よく乗っててうまい。卵とじの汁気が少し多めでそれも好印象。
カツの肉は多ければ多いほど良いというわけでもない。 小林銅蟲先生のつくるスマホみたいなデカさのカツ丼、あれ丼の汁気に対して肉の味が大きすぎて実際食べてみると普通より早く膨満感が来るのではないかとおもう。 腹が膨れればそれでいいみたいな舌になることは度々あるのであれはあれで食べてみたいし、そもそも作ってみたいとは思う。
その後、ウィーナーのサイバネティクスを読みながら帰宅。 数式が出てきてうんうん唸りながら読むくだりになってきた。 それはそれで一興。 家ではもっぱら漫画を描いた。 網戸の建てつけが悪いことを知る。 一つしかない窓がまともに開かないとなると夏場どう過ごせばいいのかわからん。 クーラーもぶっ壊れているようだし。 網戸は留め具の締まり具合とレール上の障害物(砂利、塵等)、そして底面の滑車の経年劣化によるさびつきで滑走しなくなる。 明日薬局でプラスドライバーと潤滑油を買ってくるとする。 そこまで考えたところで寝た。 1日めの日記終わり。
そして今日である。
連日コンビニの廃棄弁当だの��麺だのばかり食べている。 昨日はカツ丼を食べて、それ自体は満足したが、思えばコンビニの廃棄弁当も含めて肉ばかり食べている。 海鮮系のなにかが食べたくなり、スーパーで醤油漬けの筋子と白米を買っていくら丼にして食べようと思い、近場の駅に向かう。 ついでに日用品や生活必需品も揃える腹だ。
必要なものは複数あった。 まず靴。 今使っている靴、コンバースのスニーカーは良いとして、普段履いているボロボロの革靴がいい加減限界らしい。 実家でさんざん猫の遊び相手にされ見た目もボロボロなのだが、一番厳しいのは靴底だ。 なにせ俺が大学一年生の頃、歩きやら自転車やらで旅をしている間ずっと履いていた靴である。 靴底が変なすり減り方をしてて、歩いてると足に微妙な痛みがくる。たぶん体重のかかり方の問題だろう。
次に、マットレスor座布団。 いまあぐらをかいて日々漫画を描いているのだが(ラップではない)、どうも足の骨が痛い。 外果(足首のあたりで外側にでっぱった骨。内側のでっぱりは内果)、 第五基節骨(小指の付け根らへんのでっぱり)、この二つが痛い。 でっぱりには負荷がかかるもので、これをなんとかするための敷物が欲しい。
最後に、本。これはまあ無いなら無いでいいのだが。 漫画の新刊があれば買うし、前の日記で言及した高村友也氏の本も欲しかった。
買い出しと散歩ついでにこの三つを探す冒険に出た。 駅近場のショッピングセンターの靴売り場に向かうと、合うサイズの靴がない。 デザインはキャメルでシックなやつがあって欲しかったのだが、サイズが25センチでは履けまい。 在庫もないらしいので近場を散策。 靴屋はないらしい。 目的は靴のみにあらず故、しばらくぶらぶら歩いていると、良い散歩感が出てきた。 俺の思う良い散歩とは観察する「風景」とそれに突っ込む「モノローグ」の二つがある散歩である。 歩きながら考え事をしていると、なんの変哲もない風景にいろいろと面白みが出てくる。
小学校のグラウンドの出入り口に垂れ下がるグリーンのネットに、重りの鎖がついている。 俺がいた小中学校でも底辺に鎖を結ったグリーンネットがあった。 学校にはとんと思い入れがない俺だが、これは少し懐かしくなった。 思えば小中学校以外の場所で鎖をつけたグリーンネットなるものを見たことがない。 鎖は割とありふれたものだし、グリーンネット自体は河川敷のゴルフ場なんかで頻繁に目にしたが。 こんな変哲ないものが学校の思い出のオリジナリティを担保したりする。
雑草園なんてのも見つけた。 花鳥園ならわかるし、花園ならわかるのだが、雑草園。 雑草という植物はないが雑草という植物群は存在するだろう。 ネズミという固有名の種がいなかったりするのと同じだ。 雑草園と聞くとそれこそ草を好き放題茂らせた場所のイメージが浮かぶし、それが由緒正しい雑草感なのだろうが、世の雑草と呼ばれるものを網羅して一定量栽培するとなるとこれは骨が折れる作業だ。 畑で野菜を栽培する難しさである。 大根をその辺に一本か二本生やしておくなら簡単だが、時期と数を調整する必要が出てくると難易度がぐんと増す。管理システムを導入せねばならないのだ。 猿と人間の違いはこの辺にあるのではないか、と思ったりもする。 そこまで考えておきながら、なんとなく雑草園には入らなかった。次に通りかかったら入るかな、という感じである。
結局靴屋は見当たらなかったので電車に乗って一つ先の駅へ。
高架下の店舗群の中に靴屋がある。 そこでセール中の靴を買った。3000円である。 作りは安っぽいが色合いがキャメルでちょうどいい。デザインも悪くない。 なによりもともとバイトで使うことを想定した靴なので、履き心地が良ければまあ良い。
靴を買ってから同じく高架下の本屋に寄る。 高村さんの本を探したら、あった。 「スモールハウス 3坪で手に入るシンプルで自由な生き方」という本だ。前にソフトカバーで出した本が文庫化したらしい。 買った本は全部で4冊。 「スモールハウス」 上述の高村氏の本。ちょっと読んだら読ませる文章で安心。 「銃・病原菌・鉄」上下二巻 文明史の本。前から気になってた。上下二巻の本は手が出にくいが、清水の舞台から飛び降りてみた。 「スモールワールド・ネットワーク」 ネットワーク科学の本。この手のものは普通に好物である。 すべて文庫である。 スモールという単語が目につくラインナップだが偶然に過ぎない。 オール文庫だが4500円近くかかった。 本が存外金を食う趣味であったことを思い出す。 なお欲しい漫画は無かったので大人しく引き下がった。
電車に乗って元の駅のショッピングセンターに舞い戻り買い物。 靴、本、電車賃ともう8000円近く消費しているので高い商品には慎重になる。 が、安いものには適当な製品がなかったので、1400円の横長の座布団を買う。 ついでにゴミ袋も購入。ゴミ袋に高価安価の概念はないので無感情で購入。
食品売り場で筋子を探すが、ない。なんということだ。 自分へのご褒美にとっておいた筋子がない。無念。 俺の海鮮欲求はお預けとなった。 水と乾麺を買い、パン屋でパンを買い、帰宅。
両手が荷物でふさがるのは久しぶり。 さすがに重い。
エイコラ家に戻り、昼飯にパンを食す。 ブロッコリーとマヨネーズ、チーズを乗せたパンを食べる。おいしい。前の日記で何度か書いたがこのパンにははまっている。マクドナルドのハンバーガーの一番おいしいとこの味がする。
ピザを食べる。これもおいしい。 俺は、パン屋のピザは、いかにもパン生地という感じのふっくらしたものより、ピザ生地の薄いカリカリしたものの方が好きである。 本場のピザはカリカリが普通で、アメリカ人が好むようなパンのごときピザは邪道らしい。 こんなものにまで正邪があるのだからやはり世の中単純ではない。 これはカリカリ生地なのでとてもおいしい。チーズとトマトソースでしっとりしているのもポイントが高い。
このショッピングセンターのパン屋は明太フランスもおいしい。 明太子ソースをケチらずにちゃんとサンドしてくれるのでフランスパンの無味に苦しまず食べることができる。 ケチなパン屋はフランスパンの上辺だけに明太を塗って、中にはなにもサンドしてくれないので、食す明太ソースのペース配分で苦労する。 何もつけないフランスパンもとてもうまいのだが、それなら最初からフランスパンを買う。 明太フランスを買う理由は明太にある。
なぜこんなに熱くなっているのだろうか。 思えば、同じ魚卵の筋子を買えなかった哀しみを明太フランスにぶつけているのかもしれない。 ��つけるというか、この店の明太フランスはとてもおいしいので普通に元は取れているのだが。
パンを三つ食べたら腹いっぱいになった。 どうも夜勤明けの休みは生活リズムが狂うようで、腹のリズムもおかしくなる。 徹夜もするので、思い返せば1日4食食べてたり、逆になぜか一食だけで一日中腹持ち続いたり。 睡眠時間の狂いから前の食事が残ってるのだろう。 今日はこれで二食目であるが、夕飯は食べずとも腹持つ気がするな。
とりあえず二日分の日記は終わり。 あとは作業して本を読んで寝る。 気が向いたら網戸の修繕もするかもしれない。
なにせ春である。 風はあっても日が照るし、そろそろ部屋を閉め切っていると暑いし、厚手のパーカーでは汗をかいてしまう。 この間買った半袖パーカーがなかなか良いので、カラーリングの違う同じものをまた今度買うことにする。
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[銃・病原菌・鉄]上巻 ジャレド・ダイアモンド  ⭐️⭐️⭐️⭐️
The meaning is GUNS,GERMS,AND STEEL 
Including not only history but  geography, demography, and ecological happenstance.
【Amazon Science and History rank】# 2
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qsfrombooks · 3 years
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クスコでスペイン軍を包囲した皇帝マンコと彼の最強の軍隊
銃・病原菌・鉄 上巻 / ジャレド ダイアモンド
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qsfrombooks · 3 years
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ヨーロッパの都市では、集団感染症で亡くなる住民減を補うために、健康な農民が地方から絶えず都市に流れ込んでいた。ヨーロッパの都市が、そうした人口流入を必要としなくなったのは、ようやく二十世紀に入ってからのことだった。
銃・病原菌・鉄 上巻 / ジャレド ダイアモンド
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