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holycatfriend · 3 months
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Sankyo “Regain EB-jyou” TV commercial  「energy flow」 by Ryuichi Sakamoto (1999)
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holycatfriend · 4 months
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HOLY CAT FRIEND
If you want to understand Japanese culture in a radical way, please read it. Then you can become St. Longinus.
your friend (love) holy cat friend
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holycatfriend · 11 months
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holycatfriend · 1 year
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holycatfriend · 1 year
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Botanzakura around Kamagaya City Stadium, Chiba Prefecture, Japan
Early April 2023
Photographed by Soma Oishi
Botanzakura language is close to the highest meaning.
It is a stupid policy to make someiyoshino the national flower of Japan.
The national flower of Japan should be Botanzakura.
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holycatfriend · 1 year
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holycatfriend · 1 year
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(Jack Villano Villano)
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holycatfriend · 1 year
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(Deryn Cullen - Cellist)
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holycatfriend · 2 years
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「虚飾の繁栄」についての《神の符号一致偶像(ロゴス感覚)》と《神の符号偶像(象徴)》
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※神のロゴス感覚を信仰するメッセージとコミュニケーションは純愛信仰としてある。一方でドクサ感覚を正当化する邪悪感覚は定型的なカンバセーションであってストーキング行為の「なりきりの演技」として存在する。そのストーキング行為の「なりきりの演技」は虚飾であってもそれを「ロゴス感覚としてあるペルソナ」と同等の真理だとして成立させる人の関係性が存在する。それは人の手前味噌であり自画自賛であるのだ。そういった評価は神のロゴス感覚の信仰(受肉)に対し劣等な評価であり特殊詐欺でしか無いのはご存知の通りである。
てまえ‐みそ【手前味噌】 ‥マヘ‥ (自分の作った味噌を自慢する意)自分の事を誇ること。自慢。手味噌。「—を上げる」「—を並べる」 『広辞苑 第六版』 岩波書店
てまえみそ【手前味˟噌】 self―praise; self―glorification ◾彼は手前みそばかり並べる He is always singing his own praises./He is always blowing his own trumpet [horn]. 『プログレッシブ和英中辞典(第3版)』 小学館
じが‐じさん【自画自讃・自画自賛】 ‥グワ‥ ①自分の描いた画に自分で讃をすること。自画讃。 ②転じて、自分で自分のことをほめること。手前味噌。 『広辞苑 第六版』 岩波書店
じがじさん【自画自賛】 self―praise ♦自画自賛する sing one’s own praises; praise oneself; ⦅口⦆ blow one’s own horn [trumpet]; pat oneself on the back; congratulate oneself ◾うまくやったと自画自賛した He told everyone how well he had done it. 『プログレッシブ和英中辞典(第3版)』 小学館
ロゴス logos 理性,言語,理法(法則),比例,定義などさまざまに訳されるギリシア語で,古代哲学,神学における重要な概念。ヘラクレイトスはロゴスを万物の生成を支配する永遠の理法とし,ストア派は世界を合目的的に支配する原理として神と同一視した。なおストア派は個物を形成する能動的理性を種子的ロゴス(ロゴス・スペルマチコス),分たれて個々の人間に内在する思想 ratioとしてのロゴスをロゴス・エンディアテトス,言葉として表出された oratioとしてのロゴスをロゴス・プロフォリコスと呼んだ。コダヤ神学とギリシア哲学の融合を試みたアレクサンドリアのフィロンは,ロゴスを神と同一視せず,神と世界とを仲介し世界形成に関与する神的存在とした。これは『ヨハネによる福音書』における神のひとり子イエス・キリストとして受肉したロゴスと近似しており,直接の依存関係はないがキリスト教神学に与えた影響は大きい。 『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.
ロゴス【logos ギリシア】 (本来は、人々の話す「ことば」の意) ①概念・意味・論理・説明・理由・理論・思想などの意。 ②言語。理性。 ③実体化されて世界を支配する理法。 ④キリスト教では、「神の言」、すなわち「子なる神」(三位一体の第2の位格)。 『広辞苑 第六版』 岩波書店
lo・gos [lóuɡɑs,―ɡous,láɡɑs|lɔɡᴐs]〓 ―n. 1 ⦅しばしば L―⦆ 〖哲学〗 (古代ギリシア哲学で)ロゴス,理法:宇宙を支配し展開させる一定の調和・統一のある理性的法則. 2 ⦅L―⦆ 〖神学〗 (イエス・キリストにおいて人となって語った)神の言(ことば),ロゴス;(三位一体の第二位である)聖子,キリスト. cf.〖聖書〗 John 1:1-14. [1587.<ギリシャ語 lógos 言葉,言うこと,談話,論説,考え,割合,比,計算(légein「選ぶ,集める,話す」と同根);cf. LECTION] 『ランダムハウス英和大辞典(第2版)』 小学館
しん‐ぜん‐び【真善美】 認識上の真と、倫理上の善と、美学上の美。人間の理想として目ざすべき普遍妥当的な価値をいう。これに聖を加えることもある。「かくてなほあくがれますか—わが手の花はくれなゐよ君」(晶子) 『広辞苑 第六版』 岩波書店
しんぜんび【真善美】 truth, goodness, and beauty 『プログレッシブ和英中辞典(第3版)』 小学館
※それは神のロゴス感覚の信仰と特殊詐欺師が現実に共存することが「どうしようもない現実(カール・マルクス)」だからだ。終末の時にはロゴス感覚の信仰しか生き残らずドクサ感覚を正当化する特殊詐欺は神によって滅ぶとされる。それは新約聖書(旧約聖書も然り)の言葉である。そして虚飾の「なりきりの演技」はロゴス感覚と同等の真理とされるがそれは飽くまで定型的なカンバセーションであって「詐欺師の言葉(台詞)」と同じである。詐欺師にはロゴス感覚の信仰は無く原稿(台詞)を読むだけのアナウンサーと同じである。彼らの仕事にロゴス感覚の信仰は無いのだ。しかしTBS(東京放送)のアナウンスメントはロゴス感覚の信仰がありそこに純愛のメッセージとコミュニケーションがある場合が見られる。私はロゴス感覚の信仰がある仕事とロゴス感覚の信仰がない仕事について考える。神のロゴス感覚を信仰する仕事は聖なる仕事と見做すことができると考えられ聖職と言える。しかしロゴス感覚の信仰の無いドクサ感覚を正当化する特殊詐欺は邪悪感覚の仕事である。そういった特殊詐欺は合法であっても仕事と言えるだろうか?仕事が聖職であるなら特殊詐欺は仕事ではないのだ。例え「合法的な特殊詐欺」であってもそれは神のロゴス感覚の信仰において犯罪であるのだ。其処にはロゴス感覚の信仰の言葉もロゴス感覚の信仰の純愛も存在しない。そこには詐欺師の言葉と詐欺師の純愛が存在する。それは詐術である。ロゴス感覚の信仰の言葉とロゴス感覚の信仰の純愛が存在すればロゴス感覚の信仰の純愛のメッセージのコミュニケーションの関係となりそれは聖職と言える。しかし詐欺師の言葉と詐欺師の純愛によっては詐欺被害と詐欺加害の特殊詐欺事件の人間関係が成り立ち犯罪が成立する。それが合法的であっても特殊詐欺であり詐術が聖職とはならないのだ。聖職はロゴス感覚の信仰ある仕事のことなのだ。合法的な特殊詐欺はロゴス感覚を信仰した聖職にはなり得ず「神の王国」においての犯罪となる。特殊詐欺が人の世の合法であっても神の王国では犯罪となるのだ。ロゴス感覚の信仰(受肉)を貶めることは特殊詐欺犯罪の成立となるのだ。そしてロゴス感覚を信仰することはそれだけで聖職であるのだ。
●神のロゴス感覚の信仰は神の評価である。人の評価はロゴス感覚の信仰を貶めて人の自画自賛の評価となる。それは特殊詐欺の完全犯罪を可能にする。ロゴス感覚の信仰は神の評価であり特殊詐欺の完全犯罪は神への反逆となる。人の評価は特殊詐欺の完全犯罪を成立させるためにロゴス感覚の信仰を貶める。これは神への反逆であり堕天使ルシフェルのサタン崇拝である。ロゴス感覚の信仰は「嘘も方便」であって特殊詐欺の完全犯罪ではない。しかし特殊詐欺の完全犯罪はロゴス感覚の信仰を貶める過去の大事件の犯罪を幾らか想起させる。先ず井伊直弼(ロゴス感覚)を暗殺後の明治天皇陛下以下薩長出身者の個人崇拝からの支配である。これはロゴス感覚の信仰を否定した特殊詐欺の完全犯罪である。そしてドイツのナチズムがあまりに有名である。ロゴス感覚の信仰を持つことがその民の証であるユダヤを劣等として大虐殺した。神の評価であるロゴス感覚の信仰を貶め特殊詐欺の完全犯罪を行った例である。他にもあるだろうがこういったロゴス感覚の信仰に対して特殊詐欺の完全犯罪は強烈な「逆恨み」を抱くのだ。それは劣等者のコンプレックスであるだろう。
※ここでは符号偶像(象徴)に関する批判を行うことでドクサ感覚を正当化する邪悪感覚が「偶像崇拝・呪術崇拝」への堕落でしか無いことを証明する。何故なら象徴(符号偶像)にはロゴス感覚の信仰(受肉)は見出だせないからだ。そしてそれは「劣等な存在」を意味する。「暴力」とはロゴス感覚の信仰への「劣等な存在」のヒステリー(異常行動)としてあるのだ。ナチズムにしろスーパーフリーにしろ「日本の独自性」にしろ「其の暴力」はロゴス感覚の信仰へ向けられている。それは「劣等な存在」がロゴス感覚へ抱くコンプレックスなのだ。
※例えば昭和天皇は先の大戦で神から人間の存在へなられた。それが天皇陛下の「人間宣言」である。そして天皇は日本国憲法で「象徴」とされた。もともと昭和天皇は大日本帝国で「現人神天皇」として在られた。だから「現人神天皇」とは「唯一神への信仰」ではなく「偶像崇拝・呪術崇拝」として在られたのだ。それはロゴス感覚の信仰を貶め否定した「個人崇拝」でしかなかったのだ。だから「現人神天皇」にロゴス感覚の信仰(受肉)はあり得ない。何故なら「現人神天皇」が「唯一神」を信仰する信仰者の一人と見做されるなら絶対の矛盾が起こるからである。「唯一神」の下で「現人神天皇」の存在は不可能となるのだ。大日本帝国の「現人神天皇」にロゴス感覚の信仰(受肉)があり得ないのはこの矛盾に拠る。日本の明治維新(文明開化)に神のロゴス感覚の信仰(受肉)があるならそれこそが真の文明開化であった筈だ。しかし実際には神のロゴス感覚の信仰(受肉)を貶め否定することでドクサ感覚を正当化する特殊詐欺の「現人神天皇」が形成されたのだ。それが日本の明治維新(文明開化)の正体である。唯一神の信仰者であるなら「現人神天皇」は虚飾である筈である。そういった虚飾の符号偶像(象徴)はロゴス感覚の信仰のない天皇制の存在であり現在の「象徴・天皇」の存在である。
※私は八王子市の多摩御陵参道付近に在住していた折に平成天皇陛下を実際に拝見したことがある。美智子皇后様とご一緒に参拝されていた。この後起こった陛下の上皇への御移行は一体何を示していたのだろうか?安倍晋三氏の目論見はロゴス感覚の信仰(受肉)を転覆させることにある。彼の政策は全て神のロゴス感覚の信仰を転覆させ特殊詐欺の完全犯罪を行うことにあった。では平成天皇陛下を上皇とされたことはロゴス感覚の信仰の転覆において何を示しているのか?それは唯一神の信仰の否定だと考えられる。それはロゴス感覚の信仰(受肉)を貶めるために天皇の上位に上皇を据えることでそれを「虚飾の符号偶像(象徴)」とする。飽くまで現在の天皇に関しては日本国憲法の存在であり「日本国憲法9条の平和憲法」を絡めた「政治的最高善(イマヌエル・カント)」の「永遠平和」のロゴス感覚の信仰に拠っているのだ。そのロゴス感覚の信仰(受肉)を貶めるために安倍晋三氏が行ったドクサ感覚を正当化する邪悪感覚の個人崇拝へ天皇を貶す仕組みである。それは特殊詐欺の完全犯罪を可能にする「ロゴス感覚の信仰」殺しである。これは統一教会の文鮮明やナチズムのアドルフ・ヒットラーとヨーゼフ・ゲッペルスなどと同じである。それは安倍晋三氏が劣等を良しとする人間でありロゴス感覚の信仰(受肉)を目の敵にしたサタン崇拝者であることを示している。高尚を良しとするなら神のロゴス感覚の信仰を持つであろうからだ。何故安倍晋三氏はこうも劣等な日本国を愛する愛国者なのだろうか?安倍晋三氏は劣等な日本国をこよなく愛した愛国者だった。多分安倍晋三氏はロゴス感覚を解すことが出来なかったのだ。人として劣等だったのだ。そして安倍晋三氏はそれを自画自賛したのだ。その安倍晋三氏のコンプレックスがロゴス感覚の信仰(受肉)の貶めとその大虐殺を招いたのだ。それはナチス・ドイツのアドルフ・ヒトラーと同様であるだろう。また統一教会の文鮮明の教えもロゴス感覚を貶し否定することである。安倍晋三氏はロゴス感覚を解すことが出来ない劣等な存在でありコンプレックスの塊であるのだ。
※一方で神の符号偶像(象徴)の存在はあり得る。例を挙げればキリスト教の十字架(磔刑図)であり、マリア像であろう。其れ等は神のロゴス感覚の信仰(受肉)が符号偶像(象徴)となったものである。それは何らかの聖なる事件の部分的印象を取り出して符号偶像(聖痕)として其の事件の「象徴(符号偶像)」とする。聖なる象徴とは聖なる傷である聖痕である。しかし後に述べるが神の符号偶像(象徴)が示されるには神の符号一致偶像(ロゴス感覚)を見出すことが必要となる。神の符号一致偶像(ロゴス感覚)とは符号一致から神のロゴス感覚を見出していくことである。それにより見出された神のロゴス感覚は神の符号偶像(象徴)をロゴス感覚の信仰者にお示しになる。
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※しかし何らかの事件の全体像の符号偶像(象徴)を意図的に操作することで「象徴」の操作・捏造をすることがなされる。それは特殊詐欺の完全犯罪としてある。その邪な符号偶像(象徴)はドクサ感覚を正当化する邪悪感覚による「偶像崇拝・呪術崇拝」として形成される。そういった虚飾の符号偶像(象徴)は虚飾の象徴(符号偶像)でありドクサ感覚を示している。そしてそのドクサ感覚を正当化する邪悪感覚で「虚飾の象徴を認識すること」は劣等な存在である「偶像崇拝・呪術崇拝」の段階にあることを示しているのだ。何故なら神のロゴス感覚の信仰を貶め否定した存在であり、又はロゴス感覚の信仰の段階に至らない「原始的段階」であるからです。
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※では事件の虚飾の符号偶像(象徴)のドクサ感覚を正当化する邪悪感覚による把握ではなく、この事件のロゴス感覚の信仰(受肉)による把握は如何に可能だろうか?それはドクサ感覚を正当化する邪悪感覚により形成された虚飾の符号偶像(象徴)の特殊詐欺の形態である「偶像崇拝・呪術崇拝」の克服としてあるのだ。それは「至高の抽象化の高み」に向かう神のロゴス感覚の信仰を持つことなのです。それにはここで示される虚飾の符号偶像(象徴)で事件を認識することを禁忌とすることが必要である。その虚飾の符号偶像(象徴)をロゴス感覚の信仰として見出す必要があるのだ。それは神のロゴス感覚を信仰(受肉)することとなる。また其の「虚飾の符号偶像(象徴)」を「無知の知」と見做しそこにロゴス感覚の信仰(受肉)を見出すことを必要とする。それは「ドクサ感覚の領域」を「無知の知」と見做しロゴス感覚を見出していくことと同じである。虚飾の符号偶像(象徴)に符号一致(ロゴス感覚)を見出すための「符号一致偶像(ロゴス感覚)」によるロゴス感覚の信仰(受肉)を見出すのだ。それは虚飾の符号偶像(象徴)の中に於いてだけ「符号一致偶像(ロゴス感覚)」を見出す「分析判断(イマヌエル・カント)」だけではなく、その虚飾の符号偶像(象徴)の「分析判断(イマヌエル・カント)」とその虚飾の符号偶像(象徴)の「分析判断(イマヌエル・カント)」の他者(外部)との「総合判断(イマヌエル・カント)」として「聖なる符号一致偶像(ロゴス感覚)」を見出すことから神のロゴス感覚の信仰(受肉)を見出していくのだ。それが至高の抽象化の高みへ向かう神のロゴス感覚の信仰であるのだ。
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※ここで重要な道具は「タロットカード」である。何故ならタロットカードは「聖なる符号一致偶像(ロゴス感覚)」の「神の符号偶像(象徴)」だからだ。そして「聖なる符号一致偶像(ロゴス感覚)」から神のロゴス感覚を見出す信仰(受肉)より其の事件へ真の聖なる「符号偶像(象徴)」が示される。それは神の符号偶像(象徴)となる。それは「至高の抽象化の高み」としてあるのだ。
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※「全てをひっくり返してやる」と語っていた安倍晋三氏は「ロゴス感覚を覆す」悪しき存在だった。彼は劣等を自画自賛するコンプレックス故に原始的段階を賛美し至高の抽象化の高みを貶め否定した。よって彼は「神の意志」によりあのような死を迎えたと私は考えている。
※安倍晋三氏はロゴス感覚の信仰を全く見出さず社会的最上位となった。そしてロゴス感覚の信仰を見出さず自らの行った政策に関する良い評価を結果として提示することで神のロゴス感覚の信仰(受肉)への貶めを正当化した。これは一体どういうことだろうか?安倍晋三氏はロゴス感覚の信仰(受肉)を貶めて彼の政策に関する良い評価を結果として提示してみせた。しかし神のロゴス感覚の信仰(受肉)に基本はロゴス感覚としてある「悔い改め」でありその「改善」行為が神のロゴス感覚の「真善美」の追求として齎される。そして安倍晋三氏の政策に関する良い評価を結果は定型的なカンバセーションとして提示される。それは人の評価であるが神のロゴス感覚ではない。その意味するところは自画自賛であり特殊詐欺の完全犯罪であるのだ。定型的なカンバセーションはロゴス感覚の信仰(受肉)ではないから詐欺師の言葉と同じである。ロゴス感覚の信仰を貶め否定する人の評価は特殊詐欺となるのだ。それはロゴス感覚の信仰(受肉)による評価によってしか出来ないことを示している。安倍晋三氏への評価は全て「人の忖度」となるのだ。では「神の忖度」があるだろうか?「神の忖度」は神のロゴス感覚を信仰(受肉)をするものへの救済として向けられる。それが黙示録における神の王国である。「神の忖度」は「信じるものは救われる。」ということなのだ。そしてそれは「神の評価」としてあるのだ。ロゴス感覚の信仰(受肉)を貶め否定した安倍晋三氏に関する良い評価を結果としていくら示しても「神の評価」は得られず「神の忖度」もないのだ。ロゴス感覚を貶め否定し続けるなら安倍晋三氏は神の王国へは入れず「神の忖度」で救われることはないだろう。安倍晋三氏への高い評価も人による「虚飾の評価」となっていると見做される。それは特殊詐欺の「人の評価」である。ロゴス感覚の信仰(受肉)を貶め否定するだけの「劣等な存在」がドクサ感覚を正当化する邪悪感覚の「人の評価」となるのだ。そしてロゴス感覚の信仰(受肉)の「真善美」は「神の評価(神の忖度)」となり「神の領域(神の王国)」と呼ばれるものとなるのだ。しかし特殊詐欺の「人の評価」は「虚飾の評価」である。「神の評価(神の忖度)」は「ロゴス感覚の信仰(受肉)の真善美の評価」である。それは神のロゴス感覚の信仰(受肉)に拠ってしか安倍晋三氏に対する正当な評価が出来ないことを示している。しかし安倍晋三氏はロゴス感覚の信仰(受肉)を貶め否定して自らの政策の成功結果を強調した。これは安倍晋三氏が日本に齎した政策とその成功結果が「虚飾の繁栄」であったということを明確に示している。神を拒否して特殊詐欺の「虚飾の評価」に酔っているのだ。安倍晋三氏はロゴス感覚の信仰(受肉)を貶め否定した時点で神のロゴス感覚の「真善美」を否定した「虚飾の評価の人」となったのだ。完全な「特殊詐欺」なのだ。
「神の忖度」による黙示録は終末の時に人に示されるだろう。
そして終末の時は近い。
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では其の特殊詐欺の「誰が被害者」で「誰が加害者」であるだろうか?
堕落したのは人であり、神は怒る。
「安倍晋三氏」ではなく「日本国家」の「国葬」だったのだ。
「日本国」は死んだ。
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「神の王国」の到来は神のロゴス感覚の信仰(受肉)にある。
「神のロゴス感覚の信仰(受肉)」を信じるものは救われる。
何故なら「神の評価」と「神の忖度」が「神の王国」へ人を導くからだ。
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writer
Soma Oishi A friend of the sacred cat!
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holycatfriend · 2 years
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「「ドクサ感覚の領域の正当化」である「邪悪感覚のサタン崇拝」」と「ドクサ感覚の領域を「無知の知」とする神のロゴス感覚の信仰」の間にある人の「Missing-link」の研究
人のドクサ感覚の領域は劣等な存在の証明である。
※将棋指しがよく「神の領域」という言葉を使用するがそれが「ドクサ感覚の領域」であれば「神の領域」とは言わない。「神の領域」は「ドクサ感覚の領域」を「無知の知」とすることであり、それは「神のロゴス感覚の信仰」と言う。将棋指しに「神のロゴス感覚の信仰」があればそれは「神の領域」と言えるかもしれない。しかしそれは将棋指しに「神のロゴス感覚の信仰」があるのではなく、其の人の資質に「神のロゴス感覚の信仰」があることを示している。しかし彼ら将棋指しが「神の領域」と表現するのは「先の手筋」や「詰将棋」に関する才能である。
私が一言で称すれば将棋は「一手差の勝負」である。何手先を読もうが「詰将棋」が上手いやつが勝ち易い競技であるのだ。何故なら最後に「一手差」で王を寄せることが勝利であるからだ。「神のロゴス感覚の信仰」で言えば将棋とは「一手差の勝負事」でしかないのだ。それを「神の領域」と評するのは「ドクサ感覚の領域」であり「邪悪感覚」の「特殊詐欺」である。それは「サタン崇拝」である「アンチキリスト」であるのだ。「ドクサ感覚の領域」を「神の領域」と称す「邪悪感覚」の将棋指しである自称・神童は特殊詐欺でしかないのだ。
人の「ドクサ感覚の領域」を「無知の知」とすることは「神のロゴス感覚の信仰」である。これはソクラテスが説いたことで有名である。神のロゴス感覚の信仰(受肉)こそ神童の証であるのだ。
ソクラテス
Sōkratēs
[生] 前470頃
[没] 前399
ギリシアの哲学者。彫刻家ソフロニスコスと助産師ファイナレテの子。前半生はほとんど不明であるが,後半生,特に晩年は⇨プラトン,⇨クセノフォン,⇨アリストテレス,⇨アリストファネスの著作から知られる。著作を残さなかったのでその学説は主としてプラトンの⇨対話篇によるほかはなく,それ自体哲学史上の大きな問題となっている。ソクラテスは「⇨汝自身を知れ」というデルフォイの神託をあらゆる哲学的思考の出発点におき,人間の自己とは身体ではなく霊魂であり,この霊魂をよい状態に保つことに人間としての幸福が存するとの立場から,善や他の諸価値を⇨ロゴスによって吟味することを試みた。その方法としては対話におけるエイロネイア(⇨アイロニー)と⇨産婆術が有名である。アリストテレスは学の基礎としての帰納法と概念的定義をソクラテスの二つの功績として認めている。 70歳のときメレトスや⇨アニュトスらに告訴され死刑宣告を受け,毒杯を仰いで死んだ。
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ソクラテス(ギリシアのリシップス作品の模刻,前350頃,ナポリ,国立考古学博物館蔵)
『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.
ソクラテスのダイモニオン
daimonion; the daemon of Socrates
『⇨ソクラテスの弁明』や『テアイテトス』などで用いられている言い方でソクラテスの実存の本質的契機の一つ。ダイモニオンとは「ダイモンのごときもの」の意でほかの対話篇でいう「ダイモンの合図」と同義。ソクラテスの態度決定においておおむね禁止の形で現れる内的な神の声,心の奥からの警告。
『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.
ソクラテスのべんめい【ソクラテスの弁明】
Apologia; Apology of Socrates
古代ギリシアの哲学者プラトンの対話篇の一つ。前 399年ソクラテスは国家の神々を信奉せず新しい神を導入し,また青年に悪影響を与えたとしてメレトスにより告発されたが,彼はこれに対して堂々たる弁明を試みた。プラトンは数年後おそらく師の真の姿を示そうとしてこの書を著わした。それは歴史的事件の証人としての完全に正確な記録とはいえないにしても,ソクラテスの哲学的活動の意義,使命感,あわせてプラトンの哲学上の立場を知るうえにきわめて重要な文献の一つ。
『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.
ロゴス
logos
理性,言語,理法(法則),比例,定義などさまざまに訳されるギリシア語で,古代哲学,神学における重要な概念。ヘラクレイトスはロゴスを万物の生成を支配する永遠の理法とし,ストア派は世界を合目的的に支配する原理として神と同一視した。なおストア派は個物を形成する能動的理性を種子的ロゴス(ロゴス・スペルマチコス),分たれて個々の人間に内在する思想 ratioとしてのロゴスをロゴス・エンディアテトス,言葉として表出された oratioとしてのロゴスをロゴス・プロフォリコスと呼んだ。コダヤ神学とギリシア哲学の融合を試みたアレクサンドリアのフィロンは,ロゴスを神と同一視せず,神と世界とを仲介し世界形成に関与する神的存在とした。これは『ヨハネによる福音書』における神のひとり子イエス・キリストとして受肉したロゴスと近似しており,直接の依存関係はないがキリスト教神学に与えた影響は大きい。
『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.
「ドクサ感覚の領域」を「無知の知」とする「神のロゴス感覚の信仰」は神への信仰に依ってありえる。神への信仰が「神のロゴス感覚」を至上とするからだ。しかし人の「ドクサ感覚の領域」は神への信仰がなければ人はその正当化を謀るだろう。「ドクサ感覚の領域の正当化」は「神の領域」ではない。「ドクサ感覚の領域の正当化」は「邪悪感覚」であり特殊詐欺(サタン崇拝)であるのだ。「神の領域」とは「ドクサ感覚の領域」を「無知の知」とすることであり得る「神のロゴス感覚の信仰」のことなのだ。それは神のロゴス感覚の受肉を齎し神の叡智とそれに伴う神の奇跡を世界に齎すだろう。そして人が「ドクサ感覚の領域の正当化」のための「神のロゴス感覚の信仰」の抹殺が「キリストの磔刑」であり、それがアンチキリストであるのだ。私は日本において織田信長は「神のロゴス感覚の信仰」であったと見做している。信長の死の謎は此処にあるのだ。
キリスト
Iēsous Christos; Jesus Christ
もとは神に選ばれ,塗油を受けた者を意味するヘブライ語メシアのギリシア語訳。1世紀の初め頃,ローマ支配下にあったパレスチナのユダヤ人,ナザレ出身のイエスを救い主とする⇨キリスト教の信仰によってイエスをさす言葉として用いられ,イエス・キリストはその固有名詞となった。キリストの行いと言葉は⇨新約聖書の4つの⇨福音書に記されて今日に伝えられている。福音書の記述は信仰と史実が融合しているが,キリストの生涯の大要は知ることができる。キリストは神からつかわされて救いを告知する神の子,メシアをもって自認し,神の国の到来と,特に貧者,病者,罪人の解放の福音を宣(の)べ伝えたほか,多くの癒やしの奇跡によって悩める人々を救ったといわれる。しかし形骸化した律法に固執する当時の⇨ユダヤ教指導者の偽善をきびしく批判し,律法からの解放と,真の隣人愛を説いたため,彼らからローマに対する反逆人として訴えられ 30年頃エルサレム郊外で⇨十字架刑に処せられた。このキリストが3日後に復活したとする確信によって弟子たちのキリストを救い主とする信仰が固められ,十字架の死は人類を罪から救うあがないの死であり,これによって旧約に代る救いの新しい契約が神と人との間に成ったとされて,キリスト教の宣教が開始された。
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「Missing-link」の研究
では最後にこの両者の「Missing-link」の研究をして終わりとしたいと思う。「ドクサ感覚の領域の正当化」と「「ドクサ感覚の領域」を「無知の知」とする「神のロゴス感覚の信仰」」の間の「Missing-link」の研究は人の優劣の問題が絡む大問題である。
うしなわれたわ【失われた環】
missing link
ミッシングリンクともいう。2種の生物の間に進化的移行が考えられるが,それを実証すべき中間形態が見出されていないとき,その想定中間形態を,失われた(または欠けた)環と称する。種と種の間の小さな移行よりも,やや大きい群の間の移行についていうことが多い。化石として発見された有名な一例は爬虫類と鳥類をつなぐ始祖鳥であるが,環形動物と節足動物の中間とみなせるカギムシは,生きている失われた環ともいえるなど,やや広く理解すれば,化石と現存生物を通じて多数の失われた環がいまでは知られている。
『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.
「Missing-link」と「進化論」と「優劣」とは認識がそれぞれ違っていると思う。「生物の進化論」自体は人の「ドクサ感覚の領域の正当化」としてあり「「ドクサ感覚の領域」を「無知の知」とする「神のロゴス感覚の信仰」」としてあるものとは見做せない。何故ならそうなると生物は全て最終的に最も高等とされる人間に進化するという認識となるからだ。人間以外の生物は全て進化の過程であり人間以外の生物は劣等として否定されるからだ。其の認識自体が「ドクサ感覚の領域の正当化」と考えられる。
※「ドクサ感覚の領域の正当化」の典型は庵野秀明監督の「新世紀エヴァンゲリオン」である。そして「「ドクサ感覚の領域」を「無知の知」とする「神のロゴス感覚の信仰」」の典型は宮崎駿監督の「風の谷のナウシカ」である。
新世紀エヴァンゲリオン 「ドクサ感覚の領域の正当化」の典型
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風の谷のナウシカ 「「ドクサ感覚の領域」を「無知の知」とする「神のロゴス感覚の信仰」」の典型
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しかし「「ドクサ感覚の領域」を「無知の知」とする「神のロゴス感覚の信仰」」と「ドクサ感覚の領域の正当化」との間にある明らかな違いは優劣の違いとも言えるし「神のロゴス感覚の信仰」と「サタン崇拝」の違いとも言える。ここで言えることは「頭の良さ」が「ロゴス感覚の信仰(受肉)」であるか「特殊詐欺」であるかの違いとも言える。本来の「頭の良さ」は「道理」に明るく聡明であることであり、それは「神のロゴス感覚の信仰」のことを示している。それは「「ドクサ感覚の領域」を「無知の知」とする「神のロゴス感覚の信仰」」を「頭の良さ」とすることである。しかし逆に「ドクサ感覚の領域の正当化」をする「特殊詐欺」を「頭の良さ」として賛美し高評価することが行われる。
※安倍晋三の「アベノミクス」はこの典型である。
この逆転は「神への反逆」である。「「ドクサ感覚の領域」を「無知の知」とする「神のロゴス感覚の信仰」」を貶めることで「ドクサ感覚の領域の正当化」である「サタン崇拝」を「頭が良い」として讃えるのだ。
※「安倍晋三さん頭良い」「安倍晋三さん頭良い」とテレビ画面で連呼したフジテレビ社員たちである。特に安藤優子キャスターは顕著であった。
これが「サタン崇拝」であり「キリストの磔刑」である「アンチキリスト」であるのだ。
「Missing-link」は神へのロゴス感覚の信仰(受肉)の存在に依ってあるのだ。
そして其の「Missing-link」は「悔い改め」である。
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一言で称せば「悔い改め」である。これは「「ドクサ感覚の領域」を「無知の知」とする「ロゴス感覚の信仰」」をすることの基本のロゴス感覚の信仰となる。
何故なら「間違ったら」又は「間違いと知ったら」それを「悔い改め」をすることは「「ドクサ感覚の領域」を「無知の知」とする「ロゴス感覚の信仰」」の基本のロゴス感覚であるからだ。
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Soma Oishi A friend of the sacred cat!
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「マスコミ・マスメディア」の「特殊詐欺(無知蒙昧・アンチキリスト)」対策入門 定義編-「騙し抜く特殊詐欺の馬脚露顕」と「騙し抜く特殊詐欺の馬脚露悪の趣味」の現実に「キリスト(愛徳)」が顕れる奇跡
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先ずマス・コミュニケーションに関する定義
本「特殊詐欺(無知蒙昧・アンチキリスト)」対策の趣旨-アンチキリスト(サタン)の明確化
マス・コミュニケーションは日本では略称マスコミと言われる存在として一般大衆(マス)に知られている。「神のロゴスが受肉した真のマスコミの定義」と「アンチキリストによるカルト術が弄する偽のマスコミが行う「特殊詐欺(無知蒙昧・アンチキリスト)」の定義」との間で比較・吟味を試みる。それは【「神の真理」を伝える「キリスト(愛徳)」の信仰】と【「騙し抜く特殊詐欺」の露悪趣味である「サタン(アンチアガペー)」の「崇拝(なりきり演技)」】との関係としてある。
※劣等の存在の逆転のシステムが此処にある。社会的システムに拠って「劣等の存在(ドクサ感覚)」が「社会的上位(ドクサ感覚のエリート)」とされるのだ。例えば日本の大相撲などはその典型である。現在の大相撲はドクサ感覚に拠っている競技であり特に高等とは言えない。しかし相撲を愛したとされる織田信長にとってはロゴス感覚に拠っている競技だっただろう。現在の大相撲と信長の相撲はその在り方が全く違うのだ。ドクサ感覚とロゴス感覚の決定的な違いとなる。サタン(アンチキリスト)の崇拝と神(キリスト)への信仰の違いとなるのだ。巨漢の力士が相撲を取ればどちらかが勝ちそして誰かが必ず優勝するのは必定である。それはドクサ感覚の社会的システムでしかない。それが劣等(ドクサ感覚の力士)ではあっても数字の相対的高さに拠って必ず誰かが優勝しそして誰かが必ず横綱になるのだ。それはドクサ感覚の力士が大横綱になることを意味する。ここにはロゴス感覚の力士とドグサ感覚のエリート力士が存在するのだ。相撲が信長の言う神技であるならロゴス感覚の力士が横綱となる。しかし現在の大相撲では単に星取表で横綱が決まるのだ。これはドグサ感覚のエリート力士が横綱とされているだけであり神技の横綱とはいえないのだ。これは巨人球団の優勝にも言えることだ。大横綱・巨人軍は劣等(ドクサ感覚)であっても社会的上位(ドクサ感覚のエリート)とされる。そしてこのような「劣等を優秀とする社会的システム」は「真の優秀さ(ロゴス感覚)」を抹殺する邪な心理が其の源なのである。そして「真の優秀さ(ロゴス感覚)」は「聖性」を帯びるが、しかし「劣等を優秀とする社会的システム」は「サンクチュアリ(アンタッチャブルな聖域)」とされる。それは「社会的特殊詐欺(社会的八百長)」であるのだ。そしてその「サンクチュアリ(アンタッチャブルな聖域)」は様々に讃えられる。社会的なレジェンドという存在も其の一つであり「劣等が優秀とされた存在」としてある。また一般に「劣等が優秀とされた存在」は「超人的存在(ドクサ感覚が超能力とされる)」とされるが「聖性を帯びた存在(ロゴス感覚)」にはなれない。それが最悪なアンチキリストであるのはそれには「真の優秀さ(ロゴス感覚)」はなく「聖性」は決して帯びないからだ。「真の優秀さ(ロゴス感覚)」は「聖性」を帯びるがそれは邪な心理によって社会的システムに抹殺される。其の社会的システムとはアンチキリストであり「サタン(堕天使ルシファー)」が支配する「ディストピア(暗黒卿)」であるのだ。そういった社会的システムとは「人の社会」であって「神の王国」のことではない。「神の王国」が「人の社会」となる時に真の優秀な世界が訪れるだろう。それが「ユートピア(理想郷)」である。 ※「劣等な存在(ドクサ感覚)」を「優秀な存在(ドクサ感覚のエリート)」とする社会的システムよって高評価された存在は社会的には「優秀な存在(ドクサ感覚のエリート)」とされるがまた同時に「狂気の存在(ドクサ感覚の獣)」と言える。「神の真理」を「ロゴス感覚」というが、そういった「「ロゴス感覚」が受肉したペルソナの感覚」と「劣等な才能であるドクサ感覚へ堕落している堕落者の感覚」が人間存在の自分感覚に存在しえる。しかしロゴス感覚とドクサ感覚は両立する。それは自分感覚であるドクサ感覚が自分感覚をロゴス感覚とする信仰によって克服することにより神のロゴス感覚があり得ることを示している。では「ロゴス感覚」に対抗してある「「劣等な存在」を「優秀な存在(ドクサ感覚のエリート)」とする社会的システム」の存在とは一体何なのだろうか?その堕落者の「社会的システム」に於いては「神の凡人(ロゴス感覚)」に対して「「劣等」を「優秀」にしてある「狂人(優秀)の存在(ドクサ感覚)」」は「超人的な優秀さを持った天才(ドクサ感覚のエリート)」とされる。そういった「狂気の天才という存在(ドクサ感覚のエリート)」は「マッドサイエンティスト」とも称され「超人的な優秀さを持った天才(ドクサ感覚のエリート)」とされる。その源は「劣等を優秀にする邪な心理(ドクサ感覚)」に拠っている。そういった社会的詐術が其処に大矛盾を齎すのは想像するに難くはない。何故なら「神のロゴス感覚」を受肉することが真に「超人的な優秀さを持った天才(ロゴス感覚のエリート)」であるからだ。だから「神の凡人(ロゴス感覚)」こそが「人の社会的システム」に於いても真に「狂人(優秀)の存在(ロゴス感覚のエリート)」とされる。「神の凡人(ロゴス感覚)」である真の「狂人(優秀)の存在(ロゴス感覚)」は真の「超人的優秀さを持った天才(ロゴス感覚のエリート)」なのである。それを完全否定すれば完全な詐欺社会でしかないのだ。詐欺社会においても真理を真理として真理の信仰をする人たちはいる。ロゴス感覚を信仰する人たちである。そういった信仰者にとっては其処に「本物の存在(ロゴス感覚のエリート)」と「偽物の存在(ドクサ感覚のエリート)」が登場しその正当な差別の認識が発生することは簡単にお解りだろう。「神の凡人(ロゴス感覚)」が神から遣わされて「人の社会」で「超人的優秀さを持った天才(ロゴス感覚のエリート)」となることはある。それはイエス・キリストでありダビデでありモーゼである。「劣等な存在(ドクサ感覚)」を「優秀な存在」とする社会的システムによって「社会的上位(ドクサ感覚のエリート)」の位である「超人的優秀さを持った天才(ドクサ感覚のエリート)」となることはある。しかしこの天才とされた両者は絶対的に違っている。それが「本物の存在(ロゴス感覚)」と「偽物の存在(ドクサ感覚)」の違いであるのだ。 ※「偽物の存在」として日本の象徴的存在であるのは東京大学出身者(国立大学出身者)だろう。東大(国立大学出身者)だから優秀(ドクサ感覚のエリート)というのはドクサ感覚による判断である。そこにロゴス感覚による判断はないのだ。ロゴス感覚が頭が良いというのはロゴス感覚の受肉(信仰)であり「本物の存在(ロゴス感覚のエリート)」であるのだ。其の何処にドクサ感覚があるのか?国立出身だからロゴス感覚ということはあり得ない。しかしそれでドクサ感覚が社会的上位(ドクサ感覚のエリート)とされて劣等(ドクサ感覚)がデタラメ統治を平気で行うことになる。日本が滅びて当然であり、世界が滅びて当然であるのだ。ロゴス感覚の信仰がなければ滅びるのは必定である。「神の凡人(ロゴス感覚のエリート)」は「優秀が当たり前」であり、「社会的システムの存在(ドクサ感覚のエリート)」は「特殊詐欺を讃える狂気の社会」に拠っている。 これはロゴス感覚とドクサ感覚の違いである。 神の存在はロゴス感覚であり、人の社会的システムはドクサ感覚であるのだ。 神は「神の子」を「人の社会的システム」である「特殊詐欺を讃える狂気の社会」へ遣わし「救済」へ導くだろう。それが「メシア」である。「メシア」は「神の子」であり「神の凡人」である。「人の社会的システム」は「神の凡人(ロゴス感覚)」を才能が欠落していると侮る。しかし当たり前に優秀な「神の凡人」は「神の子」であり「メシア」であるのだ。それは「神の凡人(ロゴス感覚)」が真に「優秀な存在」であることを示している。「神の凡人(ロゴス感覚)」に対して「社会的上位(ドクサ感覚のエリート)」である「優秀な存在(ドクサ感覚のエリート)」は才能に溢れているとされているがそれは真に「劣等な存在(ドクサ感覚)」であることも同時に示しているのだ。 なぜなら才能とは社会的システムで優秀とされた存在でありドクサ感覚(劣等な存在)としてあるからだ。
神の王国ではドクサ感覚はロゴス感覚によって下位とされる真に劣等な感覚であり軽蔑される存在である。そういった東大出身者(国立大学出身者)やドクサ感覚の才能を誇る存在は劣等なドクサ感覚の存在である。それらを頂点とした人間社会は「特殊詐欺を讃える狂気の社会」として劣等な人間存在を賛美するディストピア(無知蒙昧(ドクサ)・アンチキリスト)であるのだ。「神の王国」への救済は神が遣わした真に優秀な「神の子(ロゴス感覚のエリート)」が導くだろう。それがユートピア(神の王国)への道である。 ※「アインシュタインの相対性理論」は「神の凡人(ロゴス感覚のエリート)」の技(ART)である。「量子力学」は「特殊詐欺を讃える狂気の社会」の「狂人(優秀)の存在(ドクサ感覚のエリート)」の詐術である。「劣等な存在(ドクサ感覚)」を「優秀な存在」とする社会的システムは「特殊詐欺を讃える狂気の劣等社会」でしかないのだ。「量子力学(ドクサ感覚のエリート)」はその象徴である。 量子力学は「純粋数学」と「詐術」で構成されている。そして「アインシュタインの相対性理論」は「純粋数学」ではなく「ロゴス感覚」がその核心にある。それは「光速度不変の原理」である。 量子力学の「ロゴス感覚」とされている詐術は「スピン理論」と言われそれにより超高速コンピューターの可能性が言われている。「量子コンピューター」である。しかしこの両者の真偽の「ロゴス感覚」の違いは「写生文(ロゴス感覚)」と「描写態(ドクサ感覚)」の違いとなる。真であるアインシュタインは「写生文」であり「ロゴス感覚」が受肉している。しかし偽である量子力学は「描写態」でありその「スピン理論」は「スピンという状態」の「描写態(形容詞・修飾体)」でしかないのだ。量子力学に「ロゴス感覚」は受肉していない。こういった詐術は「ドクサ感覚」であるのだ。明らかにロゴス感覚ではない「描写態」は「ドグサ感覚」としてある。「そう見えました。(そう思い込んだだけの存在)」という「ドクサ感覚」であるのだ。「ドクサ感覚」である「スピン理論」は「ロゴス感覚」ではないのだ。これはロゴス感覚の受肉したロゴス感覚を解する「神の凡人(ロゴス感覚のエリート)」にしてみれば当たり前のことである。 量子力学の存在が特殊詐欺(ドクサ感覚)でしかない証明は意外と簡単であるのだ。
「神の真理」と「騙し抜く「崇拝(なりきり演技)」」は相反する。「神の真理」が伝えられれば「騙し抜く「崇拝(なりきり演技)」」はその馬脚が露見するからだ。それでも行う「騙し抜く「崇拝(なりきり演技)」」は露悪趣味としてあると言える。
露馬脚
(バキャクをあらわ(は)す)
真相をあらわす。
ろ‐あく【露悪】
欠点や悪いところをわざとさらけ出すこと。「―趣味」
そしてこの「真」と「偽」のマス・コミュニケーションの関係性が人間に「特殊詐欺(無知蒙昧・アンチキリスト)」を成立させている原因をラディカルにマス・コミュニケーションする。「神の真理」を伝える「キリスト(愛徳)」と「騙し抜く特殊詐欺」としてのサタンを崇める「崇拝(なりきり演技)」は「真理を騙し抜く」という「神への反逆罪」がその根底にある。
※(アンチキリストはアンチアガペー(反愛徳)である。)
この論文は単なる「知ったか振り」と「偽善」としてではなくラディカルな「マス・コミュニケーション学批判」となるであろう。それは「騙し抜く特殊詐欺」に対する「神の警告」であり次に来るのが「神の罰」であるのは誰しも想像可能なことである。それは「特殊詐欺(無知蒙昧・アンチキリスト)」の構造の解明による犯罪意識の先鋭化を人類に齎すだろう。
特殊詐欺としての騙し抜きが露悪趣味として行われる最も堕落した世界に対して神が発するロゴスだと言える。
これは「神の警鐘」である。
真のマス・コミュニケーションの理想の定義
先ず「神の真理」が「マスコミ報道の理想」であることを此処に「宣言」する。それは「預言者」の存在がマス・コミュニケーションの理想の在り方であることを示している。「神の真理」は「神に対する信仰」から「神の愛徳」を受け「唯一無二のペルソナ」が受肉する「神のロゴス」からあり得る。「神への信仰」から在る「神のロゴス」の受肉は「神の叡智」であり「神の真理」である。「神の真理」を「預言者」が齎すことを「キリスト(愛徳)」という。
※キリスト教のイエス・キリストはイスラム教では預言者の一人とされている。
そういった「神の真理」を齎す「キリスト(愛徳)」が「真のマス・コミュニケーションの理想」なのである。
※この「アガペーの信仰」を持つ真のマスコミはTBSが有名である。
偽のマス・コミュニケーションの特殊詐欺の定義
「真のマスコミ」と「偽のマスコミ」の区別が付きやすくなれば、それは「特殊詐欺(無知蒙昧・アンチキリスト)」対策として非常に有効であると見做すことができるだろう。至極簡単に言うと「特殊詐欺(無知蒙昧・アンチキリスト)」は「知ったか振り」と「偽善」の問題を孕んでいる。
※「神への信仰」のない偽のマス・コミュニケーションは其の辺の「チンピラ(特殊詐欺(無知蒙昧・アンチキリスト))」がテレビ局を経営していることと何ら変わらないのだ。
「知ったか振り」と「偽善」の両者は同じものであり「知ったか振り」は「偽善」であり「偽善」は「知ったか振り」である。下記の定義をご覧いただければご理解いただけるように「知ったか振り」と「偽善」は全く同じ構造をしている。そして「知ったか振り」は「特殊詐欺(無知蒙昧)」である。そして「偽善」は「特殊詐欺(アンチキリスト)」である。
※「騙し抜くこと」への「崇拝(なりきり演技)」である。
ペルソナ(愛徳)へのストーキング行為は印象の操作として捏造した「ペルソナ(愛徳)」の「偶像」の「崇拝(なりきり演技)」としてある。
「神の愛徳」に呼応してある「ペルソナ(愛徳)」の在り方は「キリスト(愛徳)」の在り方である。「神への信仰」から「神の愛徳」に呼応した「ペルソナの愛徳」はあり、そして「キリストの愛徳」はあり得る。
これが「キリストの存在証明」である。
※一神教は至高の抽象化の高みに達していると言える。(フロイト)
ここで言えることは「他者に対する意識へのストーカーには「他者に対する意識」が欠落している。」ということだ。それは「偶像を「崇拝(なりきり演技)」」であって他者を「意識(認識)」する「ペルソナ(愛徳)」ではないからだ。「偶像の崇拝(なりきり演技)」としてある「ペルソナ(スター)」の「偶像」はペルソナの「顔(面子)」をした「アンチキリスト・サタン」であるのだ。例えば「他者に対する意識へストーキング行為をしているもの」と「他者に対して「意識(認識)」しているもの」とは絶対的に違っている。勝負事において「他者に対して意識(認識)しているもの」の方が「世界(現実)」への「意識(認識)」能力が高く勝負事でも勝利すると思われる。
※例 織田信長の勝利
しかし「他者に対する意識へストーキング行為をしているもの」はその他者を偶像の「崇拝(なりきり演技)」に追い込むために執拗にストーキングして他者を服従させる。
※例 木下藤吉郎の人誑し
其のためにストーカーは「他者」を完全否定するために傷つけても構わないのだ。それは其の「勝負事」の全否定としてありえる。だから「他者に対する意識」へのストーキング行為は他者の完全否定としてあり軽蔑される行為である。それはその競技においての「神聖な勝負事」ではなく「他者に対する意識へストーキングする行為」によって「他者を完全否定」することで勝負が決してしまうことを意味する。「根回し」の競技でありそれが「神聖な勝負事」ならそれは「完全なイカサマ」であることを意味する。「八百長試合」であり「出来レース」であるのだ。「神聖な勝負事」ではなく「出来レース」の「神聖な儀式」である。「競馬」や「野球」の競技としての「神聖な勝負事」ではなく、「他者に対する「意識(認識)」へのストーキング行為」による「暴力」と其処から在る「服従」に拠ってその競技の勝敗が決してしまうならそれは「神聖な勝負事」ではなく「神聖な儀式」である。
※「神聖な儀式」とは「騙し抜くこと」への「崇拝(なりきり演技)」である。
「根回し」が「神聖」という「逆転の意識」が「他者に対する意識(認識)へのストーキング行為」から形成された「偶像崇拝(なりきり演技)」を「神聖」とすることを示している。それは「偶像崇拝(なりきり演技)」を「神聖」とする「偶像崇拝社会」の存在を明確に示している。そして「偶像崇拝(なりきり演技)」は「神聖な勝負事」ではなく「神聖な儀式」である。「なりきり演技社会」とはフロイト先生によれば「原始的段階」に非常に近い社会と言えるのだ。それは本来軽蔑される社会である。
※「一神教は至高の抽象化の高みである。」とフロイト先生は述べておられる。
「偶像崇拝社会(なりきり演技社会)」であり「呪術崇拝社会(未開・未文化社会)」は神を至上とする信仰を拒否した最も劣等な社会であるのだ。「社会」が「信仰」を持って「社会」となるとしたらこれらは「社会」ではない。「頭の狂った生物」でしかないだろう。
※「頭の狂った生物」は「騙し抜くこと」への「崇拝(なりきり演技)」である。
しかしフロイト先生はこの生物を「ヒステリー(異常行動)」として治療を試みた。この行為は「キリスト(愛徳)」の行為である。フロイトは「キリスト(愛徳)」であると言えるのだ。ただ「原始的段階」へ留まろうとするものは「神の王国」には絶対に入れないのだ。こういった存在は最早「神聖な勝負事」ではなく「偶像崇拝(なりきりの演技)としてあるショー(巨男根ショー)」でしかないだろう。それを「神聖な儀式」というなら「偶像崇拝(なりきり演技)」でしかなく「神聖な勝負事」では決してないのだ。それが楽しいでしょうか?「娯楽」ともいえないだろう。
※「騙し抜くこと」への「崇拝(なりきり演技)」が「娯楽」である筈はない。特殊詐欺の世界の娯楽はその馬脚の露顕を笑うことである。
「劣等で無神経で鈍感な俗物の存在」が「偶像崇拝社会(なりきり演技社会)」であり近年では「ナチス・ドイツ」がこの代表であった。「チンピラ(特殊詐欺(無知蒙昧・アンチキリスト))」が国家を経営しているのだ。これは国家の「異常行動(ヒステリー症状)」であり神を信仰し「神の王国」へ向かう以外に人類の生き残る道はない。終末の時は来ている。信仰を持ち「キリスト(愛徳)」を信じなければならない。
※「騙し抜くこと」への「崇拝(なりきり演技)」は「他者に対する意識」へのストーカーであり「ヒステリー患者(異常行動の患者)」である。
「偶像崇拝」とは何か?
フロイト先生によれば「偶像崇拝」は「呪術崇拝」であり「原始的段階」に非常に近いのだ。「原始的段階」である「騙し抜くこと」への「崇拝(なりきり演技)」は最も劣等な存在と言える。
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これは良く言えば「偶像崇拝のショー」であり、悪く言えば「特殊詐欺(無知蒙昧・アンチキリスト)」であるのだ。
※「騙し抜くこと」への「崇拝(なりきり演技)」の露悪趣味は馬鹿にしか見えないだろう。
そういったことは「競馬」で言えば「武豊」であり、「野球」で言えば「イチロー」であり「長嶋茂雄」であるのだ。しかしそういったアンチキリストである存在は「ペルソナの自己意識」に対してストーキング行為をすることで印象を操作し捏造した「ペルソナの自己意識」という「偶像」を「崇拝(なりきり演技)」する。
それが偽物の露悪趣味であっても暴力で「騙し抜くこと」への「崇拝(なりきり演技)」を続ける。其の「偶像」とは「ペルソナの自己意識」いう「自覚」でありその「自覚の偶像」を「崇拝(なりきりの演技)」する。
※「騙し抜くこと」への「崇拝(なりきり演技)」であり当然に露悪するものである。他者だって其処まで馬鹿ではないのだ。しかし暴力に屈することは世にはよくあることである。
しかし彼らの「「ペルソナの自己意識」という自覚の偶像」には「他者に対する意識へのストーキング行為」は存在するが「他者に対する意識」は存在しない。露悪趣味者は他者を完全否定した無神経な欲物なのだ。
「無神経な俗物」が「ペルソナ(スター)」の「自覚の偶像」の「崇拝(なりきり演技)」となっている。
それが「ペルソナ(愛徳)」の「キリスト(愛徳)」である訳はないのだ。そこに「ペルソナの条件」は全く存在していない。「騙し抜くこと」への「崇拝(なりきり演技)」であるのだ。それは特殊詐欺(無知蒙昧・アンチキリスト)の印象の操作でしかない。「騙し抜くこと」への「崇拝(なりきり演技)」であり完全な「まやかし」であるのだ。それは「ペルソナの自己意識」が「他者に対する意識」へストーキングする行為で印象を操作し形成した「ペルソナの自覚」の偶像への「崇拝(なりきり演技)」でしかないからだ。
それは自覚という内面を利用し「騙し抜くこと」への「崇拝(なりきり演技)」を行う卑劣な特殊詐欺(無知蒙昧・アンチキリスト)であるのだ。
其の「ペルソナ(スター)」は全くの「偽物」なのだ。
「ペルソナ(愛徳)」とは何か?
「他者に対する意識」は「ペルソナの愛徳」であり「キリストの愛徳」となる。「キリスト(愛徳)の存在証明」は「神への信仰」としてあり、これが高度な抽象化の高みに在る「一神教」としてあるのだ。それは「神の存在証明」ともなる。しかしそれはヘーゲルと違って信仰を至上とするイマヌエル・カントとしてある。それが「本物のペルソナ」であるのだ。
人間関係における対人意識(認識)において他者に対する意識にストーキングすることで印象を操作し形成した偶像への「崇拝(なりきり演技)」を行う。
これは「偶像崇拝(なりきり演技)」としての存在の仕組みを端的に示したものである。
※「騙し抜くこと」への「崇拝(なりきり演技)」を人間関係だとする堕落した人間存在の在り方が此処にある。
人間関係の対人関係に於いて偶像への「崇拝(なりきり演技)」は他者の意識へのストーキング行為によって可能となる。これは「ストーカー(人間)」のストーキングの快感が人間関係に於ける対人関係の在り方だとする「悪しき認識」である。此処には神との関係はなく「神の愛徳」に呼応する「唯一無二のペルソナ」の存在は問われていない。
※「ペルソナの自覚」の「偶像」を形成しそれで「騙し抜くこと」への「崇拝(なりきり演技)」である。
「神への信仰」を排除した「人の関係」であるが最も堕落した人間存在を示している。「神の愛徳」によってあり得る「唯一無二のペルソナ同士の「対話(ダイアローグ)」」が真のメッセージを持ったマス・コミュニケーションでありこれは「神の真理」を持った「キリスト(愛徳)」のマス・コミュニケーションとなる。他者に対する意識へストーキングすることにより印象の操作を行い形成された偶像への崇拝(なりきり演技)の正体は「知ったかぶり」や「偽善」などの「謀り」であると言える。それは「ペルソナの自覚」の偶像を形成して存在する「騙し抜くこと」への「崇拝(なりきり演技)」である。
※例 「粋」という偶像の「崇拝(なりきり演技)」である。これは偽の「粋」である。何故なら現実を意識(認識)しない「粋」は「格好悪い」からである。完全な「勘違い人間」であるからだ。それは「ペルソナの自覚」の偶像への「崇拝(なりきり演技)」と言える。
これは偽のマス・コミュニケーションが他者の認識へのストーキング行為により印象の操作をして形成する「知識人(知ったかぶり)」と「善人(偽善)」の偶像への「崇拝(なりきりの演技)」のことを指している。
このように「知ったか振り」と「偽善」の構造は同じものであるのだ。
「知ったか振り」に「神への信仰」はなく「神のロゴス」は決して受肉していない。彼らは「神の真理」を何も知らない「特殊詐欺の知」でありそれは「無知蒙昧・アンチキリスト」なのだ。そして「知ったか振り」は「無知の知の知識(ロゴス)」を得ることはない。神を信仰しないからだ。それは「特殊詐欺(無知蒙昧・アンチキリスト)」が神に反逆する犯罪者であることを示している。「騙し抜くこと」への「崇拝(なりきり演技)」であり堕落した神の王国の犯罪者である。神の王国の犯罪者には神の罰が下る。彼らはサタンであり「サタンの下僕」と呼ばれる。そして「偽善」も自らに「神への信仰」がないのに自らに「愛徳の救済」があると主張しそれは「崇拝(なりきる演技)」をする。其の様に「在るという振り」をする「知ったか振り」と「偽善」は全く同じものなのだ。ここで言えば「知識」であり「善行」の「なりきり演技」である。
※これらも「騙し抜くこと」への「崇拝(なりきり演技)」である。
またこうも言える。「知ったか振り」が「偽善」である理由はそれが「特殊詐欺(無知蒙昧・アンチキリスト)」であるだけあり、人々に「神の真理」を伝えることで人々を「愛徳」で救済する「気」も「能力」もないというこことだからです。「真のマス・コミュニケーション」は「預言者」であり「キリスト(愛徳)」であるが「偽のマス・コミュニケーション」は相手の認識へのストーキング行為の快楽者であり印象の操作で捏造した偶像への「崇拝(なりきり演技)」で詐術を弄する特殊詐欺であるのだ。
「真のエキスパート」は「無知の知の知識」を真の知識とするものを言う。
「真のエキスパート」は「無知」を自覚する者のことである。それは「無知の知の知識」こそが真の知識だと知っていることを意味している。
「偽のエキスパート」はマス・コミュニケーションの寵児である。
マスコミの寵児は相手の意識へのストーキング行為によって印象を操作し偶像を形成する。そしてそれの偶像を「崇拝(なりきり演技)」する「まやかしの存在」であるのだ。何でも知っていると「知ったか振り」をする「偽のエキスパート」は「偽善」であり「特殊詐欺(無知蒙昧・アンチキリスト)」であるのだ。「偽善」であるのは人に「神の真理」を伝える気が更々ないことで「アンチアガペー」であることが明瞭であるからだ。
しった‐か‐ぶり【知ったか振り】
本当は知らないのに、いかにも知っているようなそぶりをすること。また、その人。知ったぶり。「―をする」
『大辞泉 第二版』 小学館
しったかぶり【知ったか振り】
pretending to know things one does not.
〓~に言う
talk in a 「knowing [know―it―all] manner.
〓~をする
pretend to know; act as if one knew; assume a 「knowing [know―it―all] air
◾~をする人
a wiseacre; 〖口〗 a know―(it―)all; *a wisenheimer
◾あいつは何かというと~をする.
Whatever the subject, he pretends to know all about it.
〓なんて~なやつ!
He’s such a know―it―all!
『新和英大辞典 電子増補版』 研究社
ぎぜん【偽善】
hypokrisis; hypocrisy
ギリシア語の原意は「劇である役割を演じる」こと。そこから実際にもたない感情や徳などをもっているふりをする倫理的に悪い態度をいう。特に宗教において問題となり,イエスはこの態度を強く戒めている。
『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.
Sa・tan [séitn]〓
―n.
1 (キリスト教で)サタン,悪魔(▶the devil の固有名詞);悪魔のような人間:Satan reproving sin 罪を責める悪魔(自分の弱点・欠点を棚に上げて人を非難する人のこと):〓
2 〖軍事〗 セイタン:旧ソ連の ICBM の NATO コード名.
[900年以前. 中期英語,古期英語<後期ラテン語<ギリシャ語 Satân,Satán<ヘブライ語 śātān 敵]
『ランダムハウス英和大辞典(第2版)』 小学館
マス・コミュニケーションの存在の「真偽の判定」
真偽の判定には「神の「愛徳(ロゴス)」の受肉したマスコミ」と「アンチキリストであるカルト術で「特殊詐欺(無知蒙昧・アンチキリスト)」を行うマスコミ」との明確な差別をする必要がある。それには「神のロゴス」の受肉の概念を明確にし「神を凌ぐ「英雄的行為(胆力家」)」とされている他者の意識へのストーキング行為がアンチキリストでしかなくそのカルト術に依って「特殊詐欺(無知蒙昧・アンチキリスト)」を行うことで「神(愛徳)」を侮辱し「人(ペルソナ)」を貶める存在でしかない「陳腐な存在であるサタンの存在証明」を試みたいと思う。存在が証明された「サタンの存在」には明確に「聖戦」を仕掛けることができる。それが「神の意志」の「聖戦」である。「特殊詐欺(無知蒙昧・アンチキリスト)」の主張は神の下に「人の存在(神を凌ぐ存在)」が降ることが「人の存在(神を凌ぐ存在)」を神の下に貶める行為であるという主張と思われる。人の存在が神を凌ぐ存在であるという傲慢な認識であるのだ。「傲慢の塔・バベル」は「人間存在」であるのだ。それは「神の子」である「キリスト(愛徳)」の存在への悪しき因縁つけとなる。醜悪な人である傲慢な彼らにとって「神(ペルソナ)」を敵対視し「人(サタン)」の世を形成することに拠って「「人間の支配」(サタンの下僕の支配)」に成るということなのだ。彼らにとっては世界が「特殊詐欺(無知蒙昧・アンチキリスト)」の「暗黒卿(ディストピア)」であることを寧ろ望んでいるのだ。「神の真理」を齎す「キリスト(愛徳)」を処刑するのが偽のマス・コミュニケーションである。それによって「「アンチキリストの存在」(サタンの下僕)」が其の世界の「支配者」となれるからだ。しかしそれは「神(ペルソナ)」を敵対視する「ヤンキー暴走族」の因縁付けである。
※女子アナは「レディース暴走族」である。※(TBSは除く)
「神(ペルソナ)」に因縁を付けているだけで「英雄的行為(胆力家)」だと主張する「ヤンキー暴走族」であるのだ。「うんこ座りしてメンチ切ったと因縁つけるみっともない日本のヤンキー」であるのだ。彼らは「頭が悪い存在(無知蒙昧)」の象徴である。彼らにとっては「キリスト」ではなく「アンチキリスト」の方が凄い存在と成るのだ。
※これが劣等が優秀になるシステムである。日本のヤンキーがアンチキリストである「サタン(堕天使ルシファー)」という「超人」となるのだ。「超人」は劣等が優秀になるアンチキリストのシステムである。
愛徳(無知の知の知識(キリスト))のマス・コミュニケーションと特殊詐欺(無知蒙昧(アンチキリスト))のマス・コミュニケーションの関係はストーカー犯罪事件なのである。
「愛徳」によるストーカーは存在しない。「愛徳」は他者を傷つけるものではないからだ。他者を救済する「キリスト(愛徳)」だからだ。しかしストーカーは他者を傷つけるのだ。
※ストーカーは他者を完全否定する。
何故なら他者に対する意識へのストーキング行為によって可能となる印象操作で偶像を形成するために他者を痛めつけ他者を服従させてもいいからである。
「ペルソナの自覚」の偶像の形成により「ペルソナ(愛徳)」を完全否定し「騙し抜くこと」への「崇拝(なりきり演技)」を行う。
他者への「愛徳」が全くないのだ。「特殊詐欺(無知蒙昧・アンチキリスト)」を行う「偶像への崇拝(なりきりの演技)」を行う他者に対する意識へのストーキング行為で印象の操作をする存在をストーカーというのだ。他者に自らを意識させていると思い込みそれを自分の存在の意識として偶像を形成し崇拝し行動するストーカーの存在であるのだ。自分に対する意識が他者に対する意識に拠っているが其の他者に対する意識が自分の支配下に置かれていると意識する。そして他者に強要しながら自らを其の様に意識する。それらは他者に対する意識へのストーキング行為の暴力に依って可能となる。他者を立ち位置の印象操作で騙し其の他者の錯誤した偶像をストーカーは自分自身の存在の偶像だとして「崇拝(なりきり演技)」する。しかし其の立ち位置の印象操作があまりにも稚拙で馬鹿馬鹿しいものである。そして「偶像と自己認識」の間の錯誤は生じ得ない私のようなペルソナの信仰を持つ輩にはそのようなストーキング行為は苦痛でしかない。
※それが他者の完全否定としてあるからだ。
※「騙し抜くこと」への「崇拝(なりきり演技)」であり「他者」を完全否定している「なりきり(演技)」であるのだ。
しかしそれでも私達にそのようなストーカーの偶像崇拝を中心とすることを命じるのが「サタンの愚民政策」である。それが神を凌ぐ邪な心理を持つマス・コミュニケーションの「特殊詐欺(無知蒙昧・アンチキリスト)」としての愚民政策の正体であるだろう。「ストーカー(立ち位置の印象操作)」が「偶像崇拝(なりきり演技)」を強要し其の意識に沿って自らの特殊詐欺を成立させる犯罪者である邪なマス・コミュニケーションは「人(ペルソナ)」を貶めるサタンの下僕であり「人(ペルソナ)」を救済しないアンチキリストであるのだ。「人(ペルソナ)」にとってアンチキリストのストーカーは最悪のうざい存在である。唯一無二のペルソナを完全否定する彼らは全く別の奇妙な生物であるのだ。そんなストーカーなんて本当は相手にしたくないのだ。しかしストーカーはペルソナとアベコベにするストーキングを行う。ストーカーは「ペルソナの自己意識」をストーキングしてそれを印象操作により形成した「偶像(偽ペルソナ)」への「崇拝(なりきり演技)」を行う。
※自分の存在を「騙し抜くこと」への「崇拝(なりきり演技)」である。
「ペルソナ」と「ストーカー」の2つに人類は分かれるのだ。「神との関係としてあるペルソナ」と「他者に対する意識へのストーキング行為によってある「偶像崇拝(なりきり演技)」」の絶対的違いである。これは神の信仰があるキリスト者と神をストーキングするアンチキリストの違いである。
※神を「騙し抜くこと」への「崇拝(なりきり演技)」であるのだ。
「自分がペルソナだという認識」へのストーカー行為
ペルソナに対してストーキングを起こす理由は、「ペルソナの自己意識」をストーカーするためだろう。自らの愛徳故に相手に付き纏うのはストーカーとは言わないのだ。それは自分がストーカーではなく「ペルソナ(愛徳)だという自己意識」である。「ペルソナの自己意識」に対し「その偶像への「崇拝(なりきり演技)」」を対峙させた時に全くのその「特殊詐欺」が明らかになる。ストーカーは「ペルソナの自己意識」への「偶像崇拝(なりきり演技)」で自分を正当化するがそれは「騙し抜くこと」への「崇拝(なりきり演技)」でしかないのだ。
フロイト先生のヒステリー研究
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これは「ペルソナ(愛徳)」と「無神経で鈍感な欲物」の関係である。
※「無神経で鈍感な欲物」は「騙し抜くこと」への「崇拝(なりきり演技)」である。
「ペルソナの自己意識」によりその意識の対象への愛徳はある。しかし「他者に対する意識」へのストーカーが形成する「なりきり演技」は「他者に対する意識」を蹂躙する暴力であり「他者に対して無神経で鈍感」と言える。では「他者に対して無神経で鈍感な俗物」が「他者に対する意識に繊細である。」ということはどういうことだろうか?それは「他者に対する繊細さ」ではなく「他者に対する認識の「偶像崇拝(なりきり演技)」」の「騙し抜くこと」への「崇拝(なりきり演技)」でしかない。「騙し抜くこと」への崇拝でしかないのだ。人間関係が他者への繊細な意識によるのではなく、「偶像崇拝(なりきり演技)」となっていることを示している。しかしこれはフロイト先生の診断ではヒステリー(異常行動)の病因であるのだ。これは完全な特殊詐欺であり幼稚な詐術でしか無いがこの対立は「ナザレのイエスの磔刑」と同じ理屈となる。イエスの磔刑は「ヒステリー(異常行動)」であるのだ。これは「ペルソナ(愛徳)」と「なりきり演技」の「真偽の判定」の問題なのだ。これは「新約聖書福音書」である。
ストーカーは「偶像崇拝(なりきり演技)」の「無神経で鈍感な存在」であり「繊細さ」は「意識(認識)能力の高さ」としてありそれは「ペルソナ(愛徳)」でありキリストである。
キリストは「意識(認識)」し救済するのだ。
「他者に対する意識」を支配下としたと見做して捏造した「ペルソナの自己意識の偶像」にストーカーが自らを合致させたという一見奇妙な「偶像」への「崇拝(なりきり演技)」がある。
※これは他者の完全否定としてあり「他者に対する意識」である「ペルソナ(愛徳)」の完全否定である。「キリスト(愛徳)」の存在の完全否定し「偶像」への「崇拝(なりきり演技)」をするのだ。
それは自分を真に意識しないストーカーが「他者に対する意識」を「偶像」として「崇拝(なりきり演技)」し、それによって自分を偶像崇拝することであり其の「意識」も偶像崇拝としてあり「偽物」である。
※ストーカーは「意識(認識)」能力のない無神経で鈍感な俗物であるのだ。
他者を「「立ち位置の印象操作」(なりきり演技)」で支配下としたと「「意識」(偶像崇拝)」することも「他者」への酷い侮りにも拠っているのだ。ストーカーは自分を全く「意識(認識)」していない。ストーカーには「愛徳」は存在しない。ストーカーには「自己愛徳」すら存在しない。「自分を知らない」のがストーカーなのだ。「自分を知る」とは「無知の知の知識(ロゴス)」の受肉なのだ。それは「自己を知り愛する」ことはナルシストであるがそれは「愛徳(アガペー)」に拠っている。ストーカーの「特殊詐欺(無知蒙昧・アンチキリスト)」の根源��偶像崇拝にある。そして嫌なストーカーに目を付けられると最悪であるのだ。
ストーカーのヤンキーは因縁をつけてくる危険人物である。
彼には愛徳はない。彼には愛国もないのだ。
日本のヤンキーの何処にもジェームス・ディーンの様な格好良さはない。この典型は日本のテレビタレントから政治家に転身した橋下徹である。彼は弁護士の法解釈を主張し合う番組で押しの強さから人気を博した。そして彼は大阪の都知事に押しの強いキャラクターで当選し役所役人に対して強烈に因縁をつけるパフォーマンスでまたもや人気を博した。そのような「神(愛徳)」に因縁を付け「神(キリスト」)を凌ぐ様に見せるパフォーマンスは「英雄的行為(胆力家)」だとされ自らを世界を支配するサタンの存在であると高く評価する。ここで問題なのはサタンを崇める「サタンの下僕」の存在である。橋下徹は「サタンの下僕」であるのだ。それは「フジサンケイグループ」が反日国家として敵対する韓国に対し容赦なく攻撃することを「英雄的行為(胆力家)」であると主張するが実はそれはサタンの定義と一致するのだ。
※超人的存在・罪を責める悪魔(自分の弱点・欠点を棚に上げて人を非難する人のこと)
サタンは
Sa・tan [séitn]〓
―n.
1 (キリスト教で)サタン,悪魔(▶the devil の固有名詞);悪魔のような人間:Satan reproving sin 罪を責める悪魔(自分の弱点・欠点を棚に上げて人を非難する人のこと):〓
2 〖軍事〗 セイタン:旧ソ連の ICBM の NATO コード名.
[900年以前. 中期英語,古期英語<後期ラテン語<ギリシャ語 Satân,Satán<ヘブライ語 śātān 敵]
『ランダムハウス英和大辞典(第2版)』 小学館
Sa・tan /séItn/
―n サタン,大悪魔,魔王 (the Devil) 《ユダヤ教・キリスト教における神の反対者》.
~・ìze vt
[OE<L<Gk<Heb=enemy]
『リーダーズ英和辞典(第3版)』 研究社
これと同様に橋下徹が敵対する役所役人に対して容赦なく攻撃する「英雄的行為(胆力家)」の主張も実はサタンの定義として行われているのだ。
それは愛徳ではないのだ。それはサタンの行いである。
※サタンの定義
彼らには愛徳はなくそして「民の英雄」でもなく「サタンの下僕」なのだ。
サタン
Satan
ヘブライ語 Sātānに由来し「敵対する者」を表わす。旧約聖書では「敵」「仇」など人間について用いられた例も多いが,『ゼカリヤ書』(3・1~2),『ヨブ記』などユダヤ教後期の聖典では,超人間的存在とされている。しかし,旧約聖書では,これもヤハウェによる試練として人間に課されるものであり,新約聖書にみられる超自然的「⇨悪魔」としてのサタンの観念は,善悪二元論に立つペルシア宗教の影響である。新約聖書では,サタンは神の計画の成就を妨げ,キリストを試し,信仰者を誘惑するものとされるが,ここでも神と二元的に対立するものではなく,最後には神の支配下におかれ,滅ぼされる。イスラム教でもユダヤ教,キリスト教,ゾロアスター教などの影響を受け,悪をなすシャイタン(サタン)を教義のなかにもっている。これらは古来文学や絵画などで描かれ,ルキフェル,メフィストフェレスなどは有名である。
『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.
あくま【悪魔】
ユダヤ教,キリスト教などで神にそむく悪や不義を擬人化したもの。ときにデビル devil,ときにサタン satanという。両者の区別は明確ではないが,サタンあるいはデビルは悪霊たちの長ともされる。サタンは旧約聖書ではヤハウェの「検察官」として現れ,必ずしも神に敵対するものではなかったが,後期ユダヤ教やキリスト教ではデビルと同じように考えられた。デビルは元来「中傷者」「誹謗者」をいい,人々を神から離反させ罪に陥れる者をいう。ユダヤ・キリスト教では悪魔は,天使の堕落したものであって,神と並ぶ究極の支配者ではない。このような人格化された悪の表象は,イスラムの⇨イブリース,ゾロアスター教の⇨アーリマン,バビロニアのウトウクスなど他の諸宗教にもみられる。古代ギリシアのダイモンも悪魔とされるが,これはソクラテスの場合にみられるように善神としても働いた。これら悪の表象である悪魔は,さまざまな図像に表現されている。仏教では⇨魔とも魔羅ともいわれる。魔はサンスクリット語 Māraの音写。仏に敵対する���神のようなもので,pāpīyas(一層邪悪なる)という語とともに用いられる。釈尊が悟りを得たときに軍勢をもって威嚇し,自身の娘3人を派遣して釈尊を誘惑したという。また,心理的な疑惑,煩悩,怠惰なども意味する。仏教の魔に関する思想は,パーリ語による仏典の相応部 Samyuttanikāyaのうち,魔相応 Mārasaṃyuttaにまとめられている。
『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.
「特殊詐欺(無知蒙昧)」と「暗黒卿(ディストピア)」
「特殊詐欺(無知蒙昧・アンチキリスト)」が神をマウンティングしても彼らが世界の真理を得るわけではない。ただ最悪でも「特殊詐欺(無知蒙昧・アンチキリスト)」が世界を支配するだけである。彼らの「特殊詐欺(無知蒙昧・アンチキリスト)」が神を凌いだとしても「特殊詐欺(無知蒙昧・アンチキリスト)」であることに何ら変わりはない。世界を「無知蒙昧(特殊詐欺・アンチキリスト)」が支配する暗黒卿(ディストピア)になるだけである。彼らは神を凌ぎ自らの「特殊詐欺(無知蒙昧・アンチキリスト)」で世界を支配しようと試みるが彼らが「真の神」になるには其の「特殊詐欺(無知蒙昧・アンチキリスト)」では無理なのである。「特殊詐欺(無知蒙昧・アンチキリスト)」の「教祖(サタンの下僕)」は絶対に騙し抜ける天才の存在であるがそれはただ「言い張る(なりきりの演技)」だけの狂人と言える存在となる。それは「村上春樹ワールド」ならぬ「小保方晴子ワールド」である。それがカルト術で「特殊詐欺(無知蒙昧・アンチキリスト)」を行う偽のマスコミの正体であるのだ。オウム真理教事件のマインドコントロールと言われる状態と酷似している。
アンチキリストは神の子に因縁をつける劣等の存在に拠っている。
例えば日本の受験勉強エリートは世界的に見て劣等な存在である。テスト勉強に精を出して「学力(テストの点数)」を競うがそれは「学問(学術)」と言えるだろうか?テスト勉強で点数稼ぎした存在が学力が高いと言える筈はない。要領がいいというよりただの詐術でしかないのだ。「真理に対するストーカー」である学問は詐術であっては「学問の破綻」である。優秀な学者はテスト勉強での点数稼ぎをするというなら「特殊詐欺(無知蒙昧・アンチキリスト)」の存在であると言わざるをえない。日本の優秀な学者としての存在が学力の高さの証明なら、「テストの点数稼ぎによる学力」は日本を代表する世界的に劣等な認識であると言える。又「詐術に拠るインチキの学術論文」をいくら書いても「特殊詐欺」でしかない。「神への信仰」が「真理への道」あるなら其の認識のない自称学者が書いた学術論文に「神の真理」が存在しないからだ。偽のマス・コミュニケーションであり「預言者」ではなく「キリスト(愛徳)」でもないのだ。ではそのインチキの学術論文が罷り通っている理由は「特殊詐欺(無知蒙昧・アンチキリスト)」であり「神(愛徳)」に対するストーカーであるからだ。
「ペルソナの自己意識」へのストーキング行為である。
「ストーカーの正体」は「サタンの下僕」であり「劣等な獣」であり「狂人」であり「特殊詐欺」であり「無知蒙昧」である。そしてアンチアガペーでありアンチキリストである。
※自己の存在を盾にして「騙し抜くこと」への「崇拝(なりきり演技)」を行う。かなり凶悪でたちの悪い特殊詐欺犯罪者である。
ストーカーの正体は「真理に対する追求」ではなく「真理に対する悪しきストーカー」なのだ。「真理に対する追求」は「ロゴス」であり、「真理に対する悪しきストーカー」は「捏造(貶め)」である。「ストーカー」は「卑しさの象徴」である。
いやし・い【卑しい・˟賤しい】
〘形〙〓いや・し〘シク〙
〓身分・社会的地位が低い。「―・い身」
〓品位に欠けている。下品だ。「―・い言葉遣い」「根性が―・い」
〓貧しい。みすぼらしい。「服装が―・い」
〓飲食物や金銭に対して貪欲である。さもしい。「口が―・い」「金に―・い」
〓つたない。とるに足りない。「なにがし(=私)が―・しきいさめにて、すきたわめらむ女に心おかせ給へ」〈源・帚木〉
〓いやしげ〘形動〙いやしさ〘名〙
『大辞泉 第二版』 小学館
いやしい【卑しい・˟賤しい】
➊〔貪欲な〕greedy; 〔食べ物に〕gluttonous; 〔金に〕miserly; ⦅文⦆ avaricious
➋〔下品な〕vulgar; 〔下劣な〕mean
◾卑しい人間
a mean person
◾卑しい動機
mean [sordid] motives
◾立ち居振る舞いが卑しい
have vulgar manners
➌〔みすぼらしい〕
◾彼女は卑しい[卑しからぬ]身なりをしていた
She was shabbily [decently/respectably] dressed.
➍〔身分が低い〕low
◾彼は卑しい生まれだ
He is of low [humble] birth.
『プログレッシブ和英中辞典(第3版)』 小学館
evil 〓
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evil・wicked・bad・dark・satanic・base・demonic・sinful
残酷[不道徳]な人間[行動]を表す
【類語訳】極悪な,邪悪な,意地悪な,悪い,恐ろしい,卑しい,卑劣な,罰当たりの
───────────────────────────────────────────────────────────────────────
〓an evil/ a wicked/ a bad/ a sinful man/ woman/ person/ life/ act/ thought
〓an evil/ a wicked/ a bad character
〓an evil/ a wicked/ a base/ a sinful creature
〓an evil/ a wicked demon
〓a wicked/ bad child
〓an evil/ a wicked/ a bad/ a dark/ a sinful deed
〓an evil/ a wicked crime
〓an evil/ a bad/ a satanic influence
〓an evil/ a bad omen
〓evil/ dark/ demonic forces/ powers
evil
極悪な;邪悪な;悪魔の
◇He gave an evil laugh.
彼は悪意のある笑い方をした
◇In his speech he described the evil effects of racism.
演説で彼は人種差別のもたらす害悪について語った
◇It was an ancient charm to ward off evil spirits.
それは悪霊を払うための古代のお守りだった
〓 good(GOOD5)
wicked
極悪な;意地悪な,邪悪な
◇She despised herself for being selfish, even wicked.
彼女は自分勝手で意地悪でさえある自分が嫌だった
◇That was a wicked thing to do!
そんなことしちゃ駄目でしょ
◇The wicked witch casts a spell on the princess.
邪悪な魔女がお姫様に魔法をかけるのです
〓 good(GOOD5)
〓 evilとwickedの使い分け:どちらも非常に悪い人や行動を表す激しい言葉.十分注意して用いなければならない.evilはwickedよりも強烈である.wickednessとは,邪悪であることの喜びが引き起こす悪行のこと.基本的には人間の特性である.evilは人に悪行をさせる外部の力で,しばしば悪魔と関連付けられる.wickedな人間は,邪悪であることや他人の感情を傷つけることを楽しむ.evilな人間は,人を肉体的に傷つけることを楽しみ,人の感情を顧みることすらしない.特に童話では,子ども(child),魔女(witch),継母(stepmother)がwickedである.特に大人向けの物語や大衆向けの報道では,霊(spirit),怪物(monster),殺人犯(killer),黒幕(mastermind)がevilである.
bad
悪い,不正の,不道徳な
◇The hero gets to shoot all the bad guys.
主人公が悪人すべてを撃ち殺す役回りなんだ
◇He said I must have done something bad to deserve it.
私が何かその報いを受けるような悪いことをしたに違いないと彼は言った
〓 good(GOOD5)
dark
邪悪な,恐ろしい
◇There was a darker side to his nature.
彼の人間性にはより邪悪な一面があった
◇There are dark forces at work here.
ここには邪悪な力が働いている
satanic
(または Satanic) 悪魔崇拝の
◇There was no evidence of satanic rituals.
悪魔崇拝の儀式の証拠はなかった
base
《フォーマル》卑しい,卑劣な
◇He acted from base motives.
彼は卑しい動機で行動した
demonic
悪霊の,悪霊のような
◇This was a society in which demonic possession was greatly feared.
ここは悪霊がとりつくことがひどく恐れられている社会だった
sinful
《フォーマル》道徳的に間違った;罰当たりの
◇He tried to keep his sinful thoughts to himself.
彼は罰当たりな考えを隠そうとした
小学館 オックスフォード英語類語辞典
日本の学力は真の学力ではない。それは真理に対する追求ではなく「点数稼ぎの真理に対する悪しきストーカー」だからだ。貶めて優越感に浸る悪しきストーカーなのだ。日本の学力は「点数稼ぎ」を追求し真理を追求しないのだ。
日本の学力は愚の骨頂なのだ。
それは真理に対する追求ではなく悪しきストーカーの卑しさだからだ。最も卑しい存在が「ストーカー」でありそれが代表的日本人である「マス・コミュニケーションの寵児」であるのだ。このように「特殊詐欺(無知蒙昧・アンチキリスト)」は日本では罷り通っている。それは「神(キリスト)」への信仰を貶める最悪の愚民政策であり頭の先から尻尾の先まで愚民が詰まった「愚民観の国家」と成るのだ。そして其の支配者は神となり「神の王国」へ導かれなければ滅ぶ以外に道はないだろう。最早、「神(キリスト)」を信仰する以外に道はないのだ。
終末の時は来ているのだ。
しかし彼ら劣等な存在はアンチキリストのカルト術による「特殊詐欺(無知蒙昧・アンチキリスト)」で報道を行う。此処が重要なのだが彼らは明らかな「アンチキリスト」が根底にあるということなのだ。そこを明確にしなければならない。「性善説」と「性悪説」ではなく「キリスト」と「アンチキリスト」なのだ。「騙し抜くこと」への「崇拝(なりきり演技)」ではなく「神の真理」を知ることが必要だ。それは神への信仰に拠っている。それは「キリスト(神の真理)」と「アンチキリスト(騙し抜きの崇拝)」の在り方でありその核心は「信仰」にあるのだ。それは「神への信仰」の至上性が関わっている。其の認識がなければ「劣等な存在」でしかないのだ。そして「無知の知の知識(ロゴス)」と「無知蒙昧(特殊詐欺)」の違いとなる。「神の王国の統治」と「暗黒郷(ディストピア)の統治」の違いとなる。アンチキリストは「無知蒙昧(特殊詐欺・アンチキリスト)」である「暗黒郷(ディストピア)の支配者」である。「特殊詐欺(無知蒙昧・アンチキリスト)」は愚民政策と言える。そして特権階級の「特殊詐欺(無知蒙昧・アンチキリスト)」はそれを「愚民観の政策」と称する。「愚民政策」と「愚民観の政策」の違いはキリストとアンチキリストに於ける神への信仰の在り方によって簡単に理解される。「愚民政策」はアンチキリストによる「無知蒙昧(特殊詐欺・アンチキリスト)」の政策によって「暗黒卿(ディストピア)」に貶められた世界であり偽のマス・コミュニケーションである。そして本来「愚民観の政策」は「キリスト(愛徳)」の為せる仕事なのです。それは人々を神への信仰へ導き神の福音によって「救済(キリスト)」することであるからです。キリストの「福音(愛徳)」の知らせであり真のマス・コミュニケーションであるのです。しかしこの対立する在り方が「特殊詐欺(無知蒙昧・アンチキリスト」)の在り方を生じさせ「「愚民政策」(偽のマスコミ)」は自らを「「愚民観の政策(愛徳)」(真のマスコミ)」であると称するのだ。「「愚民観の政策(愛徳)」(真のマスコミ)」であると称することは「騙し抜くこと」への「崇拝(なりきり演技)」である。愚民観は支配者にとって無知蒙昧な愚民という厄介な存在に対する政策を意味する。無知蒙昧な愚民とされた民は「キリスト(愛徳)」による救済の対象である。しかし実際には支配者の愚民政策に拠ってその民は愚民へ貶められていることが現実であるのだ。これが「特殊詐欺(無知蒙昧・アンチキリスト)」である特権階級の「サタン(アンチキリスト)」の仕組みであり愛徳の無いマス・コミュニケーションの技であるのだ。彼ら特権階級は民を救済する気は全くない。それは完全なアンチキリストを意味する。キリストは愛徳でありアンチキリストは「反愛徳(アンチアガペー)」を意味する。
あいとく【愛徳】
caritas
カトリック神学で三対神徳(信徳,望徳,愛徳)の一つとされるもの。新約聖書のなかにあるギリシア語の agapēの翻訳であるが,カトリック神学の概念としては,神の愛が人間に与えられるのに呼応した,神に対する人間の愛をいう。⇨アウグスチヌスは,愛徳を人間を神へと統合させる徳とし,中世神学者,特に⇨トマス・アクィナスは,愛徳を他のすべての徳の基礎であり根拠であるとした。
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アガペー
agapē
新約聖書(特にコリント人への手紙1,ヨハネ福音書,ヨハネ書簡など)で愛を意味するギリシア語。ラテン語では amorあるいは caritasと訳される。カトリック神学では caritasは信仰 fides,希望 spesと並ぶ基本的な徳の一つであるが(→愛徳),新約聖書のアガペーは,神の愛,キリストの愛,キリスト信者同士の愛のすべてについて用いられる。キリスト信者同士の愛をさすときには,本能的,衝動的愛をも意味するエロス erōsと区別して用いられており,パウロはこれを最大の徳と呼んでいる(コリント人への手紙1)。またアガペーは初期のキリスト信者の親善,博愛のための会食をもいい,これは初め聖餐式と緊密な関連をもっていたが,3世紀頃から次第に分離され,キリスト教典礼とは別の会食となった。
『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.
マス・コミュニケーションの多くの番組はストーカーであることを告発する。
「愛は地球を救う!24時間テレビ」はチャリティー番組を自称するが其処には愛徳という名はあっても「キリスト(愛徳)」は存在しない。「金」で神をマウンティングする邪な心理は「神への冒涜」である。「金」で神を凌いだと称する邪な心理の表れであり、偶に見かけるこの番組から寄付された日本メーカーの福祉自動車の何処に愛徳はあるのだろうか?愛徳とは「自らの愛徳」であって「神への信仰」からあり得る。「神の愛徳」に呼応して「ペルソナの愛徳」の存在はあるのだ。其の様に神が愛するのは神を信仰するものでありそして「神の愛徳」に呼応して「ペルソナの愛徳」は在るのだ。ペルソナは「キリスト(愛徳)」である。しかし「愛徳を歌う番組」は「愛徳」を布教していると称して他者に愛徳の偶像の「崇拝(なりきり演技)」を強制する。それは「自らの神への信仰から在る愛徳」ではなく、他者に対する意識(認識)を愛徳の偶像の「崇拝(なりきり演技)」にするという「他者に対する意識(認識)」へのストーカーの「逆転の偶像崇拝(なりきり演技)」となる。それは「自分の愛徳」ではなく、愛徳の布教と称して「他者に愛徳の偶像への「崇拝(なりきり演技)」」を強要する姿勢でありそれはストーカーの「愛着(悪しき快感)」である。
※「騙し抜くこと」への「崇拝(なりきり演技)」が快感であるのだ。
「キリスト(愛徳)」の否定であるのだ。キリストを否定した愛着は偶像への「崇拝(なりきり演技」)でしかないのだ。愛徳の布教が実は相手に愛徳の偶像への「崇拝(なりきり演技)」をすることを強要するストーカー行為であり「真の愛徳(キリスト)」ではないということが示される。先程も指摘したが「神の愛徳」への呼応として「ペルソナの愛徳」は在る。それは「愛徳の在り方」である。神とペルソナとキリストの愛徳である。
「ストーカー(因縁付け)」と「キリスト(愛徳)」の違いである。
では自動車会社が自動車を寄付すればいいではないか?アンチキリストでしかない番組は反愛徳であり、アンチアガペーであるのだ。それはアンチチャリティーであることを証明している。橋下徹にしろ田原総一朗にしろアンチキリストなのである。そしてストーカーである。ストーキングの認識で偶像に対する「崇拝(なりきり演技)」の存在となる。サタンのごとく悪しき存在である。これは「信仰」に関する最重要部分である。「神(キリスト)」を至上にして「愛徳(ロゴス)」を「信仰」するか?「サタン(偶像崇拝)」が「神(キリスト)」をマウンティングする「アンチキリスト」を崇拝するか?しかしこれはアンチキリストであるストーカーの「キリスト(ペルソナ)への認識へのストーキング行為」であるのだ。「神(ペルソナ)」を凌いで行う「アンチキリスト等の行為」は「堕天使ルシファー」の行いであり「堕天使ルシファー」は「サタン」と言われている。ストーキング行為をキリスト(愛徳)へ変えるには「神への信仰」へ向かうしかないのだ。「「神(キリスト)」の僕のマスコミ」と「「サタン(偶像崇拝のストーカー)」の下僕のマスコミ」の聖戦が行われている。「私(ペルソナ)」はそれを「マス・コミュニケーション」として実況する。それは人類の命運を賭けた「最終聖戦」である。
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カント全集より-日本国民の性格
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日本国民の学問・天産��他
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日本国民の諸宗教
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イマヌエル・カントは「純粋理性批判(第二版序文)」にて至上命令とは「信仰を入れる場所の確保」だと謳っている。
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神の王国は「ユートピア(神の叡智)」でありサタンの支配する暗黒卿はディストピア「(特殊詐欺(無知蒙昧・アンチキリスト))」である。
ヘーゲルは「信仰」より先に「知識」より始める。しかしそれは「神への信仰」を凌ぐ「特殊詐欺(無知蒙昧・アンチキリスト)の知識」を意味している。「サタン(アンチキリスト)の知識」が「神(キリスト)の知識」を凌ぎ「其の特殊詐欺(無知蒙昧・アンチキリスト)の知識」で世界を支配する。それは「暗黒卿(ディストピア)」であり「人(神を凌ぐ存在)」は世界を支配するがそれは「特殊詐欺(無知蒙昧・アンチキリスト)」の知識の支配でしかない。
※ヘーゲルは「騙し抜くこと」への「崇拝(なりきり演技)」であり偽学者(悟性の欠片もない学者(カント))である。
「神(愛徳)」と「神(キリスト)」と「ペルソナ(愛徳)」とは三位一体としてある。それは神のロゴスが受肉した知識である「無知の知の知識(ロゴス)」のことを示しているのだ。神の真理の存在証明であり、神の叡智と神の奇跡の存在を示している。「神の方舟」と「神の黙示」録の在り方は此処にあるのだ。これは純粋理性批判が「神への信仰」を持ってしかあり得ないことを示している。イマヌエル・カントは神とのマス・コミュニケーションでありヘーゲルはサタンとのマス・コミュニケーションであることを示している。最終聖戦はとっくに始まっている。日本国民はその「特殊詐欺(無知蒙昧・アンチキリスト)」に言い様に利用されていたのだ。サタンの下僕により「人(ペルソナ)」としての存在を否定され貶められている存在なのだ。偶像崇拝社会に飼いならされた「騙し抜くこと」への「崇拝(なりきり演技)」の社会人となる。それは最も堕落した社会人であり大人となる。通過儀礼が「騙し抜くこと」への「崇拝(なりきり演技)」となり神への信仰を捨てサタンの下僕になることとなる。堕落の極みであるのだ。神を信仰し「人(ペルソナ)」を回復せよ。もう「特殊詐欺(無知蒙昧・アンチキリスト)」の時は過ぎ「神の方舟(神の王国)」は目前に来ている。
「「神(キリスト)」を凌ぐ「ポピュリズム(特殊詐欺(無知蒙昧・アンチキリスト))」」と「「神(キリスト)」の信仰としてある「ポピュリズム(神の王国)」」
ただ「神(キリスト)」を凌ぐポピュリズムと言われるものが在る。「神(キリスト)」より「特殊詐欺(無知蒙昧・アンチキリスト)」が人気がある場合はそれは偽の人気であると言える。其の理由は神の僕でなければ全てが「特殊詐欺(無知蒙昧・アンチキリスト)」であることを示しているからである。ではその人気とはなんだろうか?「神(キリスト)」の意識へ因縁をつけるストーカーのストーキング行為であるのだ。「他者に対する意識」へのストーキング行為の悪しき快感であるのだ。
イチローの野球殿堂入り
例えば「鈴木一朗(イチロー)」は先程野球殿堂入りを果たした。それはイチローの念願であったらしい。しかし彼が「神の僕(天使)」ではなく、ストーカーでしかない理由は彼の発言が象徴している。彼はこのように発言した。「僕は結果で相手を黙らせる快感を知っている。」これは「「神(キリスト)」の「僕(天使)」」である「野球選手(ペルソナ)」の発言ではない。イチローは他者を結果で黙らせる快感を知ってそれを得るための他者の意識へのストーキング行為をしているストーカー選手であると自ら語っているのだ。点数稼ぎを追求し神の真理に対する追求をする人ではない。
※イチローは他者を完全否定した無神経で鈍感な欲物であるのだ。そして超人的存在であるのだ。超人的存在とは劣等が優秀とされる社会的システムでありえる。しかし神の王国には入れない。それはサタンの定義であるからだ。神の王国に入れるのは真に優秀な聖性を帯びるものである。
次のイチローの考えは手に取るように理解されるだろう。イチローは「真理に対する追求」をすることで「点数稼ぎに対する追求」を行うと主張する。結局は千葉大学の研究者も「真理に対する追求」をすることで「点数稼ぎに対する追求」を行う。ここで最大の疑問が湧く。「真理に対する追求」で「点数稼ぎに対する追求」は明らかな矛盾があるのだ。「真理に対する追求」は神への信仰からのロゴスの受肉としてあり、「点数稼ぎの追求」は「人(特殊詐欺(無知蒙昧))」の定めた価値基準に拠る点数を争うことある。それは神を排除した人の他者に対する意識へのストーキング行為が印象操作で形成した偶像に対する「崇拝(なりきりの演技)」の「エリート」でしかないからだ。
※他者を完全否定してある無神経な俗物エリート(偽物)であり「騙し抜くこと」への「崇拝(なりきり演技)」の存在である。
エリートが「偶像崇拝(なりきりの演技)」であるのだ。
「真理に対する追求」は「神の僕」としてであり、「点数稼ぎに対する追求」は「サタン(特殊詐欺(無知蒙昧))」の下僕としてである。これは何を意味しているのかおわかりだろう。「真理に対する追求」であり「神の僕」は「点数稼ぎに対する追求」が不可能なのだ。サタンの下の「点数稼ぎに対する追求」では「真理に対する追求」は点数を与えられず点数を稼げないのだ。それは「神の僕」には点数は与えられないのだ。これは「真理に対する追求」をすることで「点数稼ぎに対する追求」を行うことは不可能であることを意味している。
真のエリートは排除されるのだ。「ナザレのイエスの磔刑」のようにである。(新約聖書福音書)
そして「神の真理の追求の意識」への悪しきストーキングが行われる。
それが他者に対する意識へのストーキング行為による印象の操作により形成された偶像への「崇拝(なりきり演技)」としてあるのだ。
※他者を完全否定した俗物がエリートとしての威張っている。そしてそのようなエリートは他者に対する意識をストーキング行為で完全否定した存在であり意識(認識)能力のない偽エリートであるのだ。
「真理に対する追求」と「点数稼ぎに対する追求」の人類の最高の在り方とされる最高学府が「特殊詐欺(無知蒙昧・アンチキリスト)」だったことを証明することになるのだ。大学は「特殊詐欺(無知蒙昧・アンチキリスト)」だったことを証明することになり、千葉大学の研究者の学術論文や研究発表も「特殊詐欺(無知蒙昧・アンチキリスト)」でありサタンの支配である「暗黒卿病院(ディストピアホスピタル)」であることを示している。イチローも点数稼ぎに対するストーカーの快感を誇り、しかし「真理に対する追求(神への信仰)」としての野球人では全くなかった。神の真理の追求であるならキリストである筈がストーカーの快感がモチベーションでありならイチローは「悪しき存在」でしかないのだ。私は全く尊敬はしていない。
※無神経な俗物である。「長嶋茂雄」にそっくりである。
彼は高校球児に対しても自らを誇る快感の追求をしている。野球の指導に関して真理を追求しているのではない。それには自らを誇る快感の追求ではなく、キリストの愛徳が必要なのだ。それは「人を真理に対する追求」へ導く「キリスト(愛徳)」の救済であるのだ。「神に対する信仰」が人を「唯一無二のペルソナ」へ導く。それはロゴスの受肉である。しかしイチローは相手を結果で黙らせる快感を追求してプレーするプレースタイルでありまさに他者の認識へのストーキング行為の快感の追求であるのだ。イチローは大変態である。私は先程こう書いた。「真理に対する追求」はロゴスであり「真理に対する悪しきストーカー」は「捏造(貶め)」である。イチローの野球のプレーも同じことを示している。彼の野球への姿勢は「真理に対する追求」ではなく「真理に対する悪しきストーカー」である。イチローはロゴスを受肉した聖なる存在ではなく「結果(点数稼ぎ)」により相手を黙らせる快感を追求しそれを相手の認識として「捏造(貶め)」する悪しきストーカーであるのだ。他の野球選手や彼の知人はそのようなストーカーであるイチローを内心では本当に軽蔑しているかもしれない。
※「騙し抜くこと」への「崇拝(なりきり演技)」は露悪趣味であり「アンチキリスト」には「凄い」と称賛されるが「キリスト者」には最も軽蔑される存在でもある。
イチローが人気があるのは「愚民政策の娯楽(悪しきストーカーの快感の賛美)」でしかないだろう。相手はイチローが結果を出しているから表立っては言わないだけかもしれない。しかしそのような快感を知っていると公言しプレーを誇っているイチローはみっともない野球選手であるのだ。「結果(点数稼ぎ)」を出せたのはイチローにロゴスが受肉した証拠だと主張する人がいるだろう。しかし彼のプレーが「真理に対する追求」から有り得た結果ではなく「相手を結果で黙らせる快感を知りそれへの追求」にあるのならそこに意識(認識)の逆転が存在することを我々はまた同時に意識(認識)できる。彼はすでに成熟したプロ野球の「プレーの数字的結果(点数稼ぎ)」の他者に対する意識にただストーキング行為しただけの存在である。「結果(点数稼ぎ)」の「他者に対する意識」にストーキングしたからと言って「真理に対する追求」をしたというのは誤りだろう。真理に対する悪しきストーカーであるならそれは真理を捏造し貶めたに過ぎないのだ。
彼は野球を貶めた存在なのだ。
彼の発言に在るように「相手を結果で黙らせる快感を知っている」という発言は真理の追求の基本である「無知の知を知っている」という発言とは大きすぎる隔たりが存在するのだ。真理の追求をした其の結果が彼の野球殿堂入りというのは大いなる認識の間違いだろう。
彼は「真理に対する追求」をする神への信仰者ではなく、「相手を結果で黙らせる快感の追求」をする快楽ストーカーであるのだ。
「点数稼ぎに対する追求」は卑しい。「真理に対する追求」は神への信仰であり崇高である。
イチローの卑しさはそこに在るのだ。彼の高校生への指導にもその「相手を結果で黙らせる快感の追求」への姿勢が「真理に対する追求」を装って透けて見えるのだ。それは「自分の拘り」に対する追求という「自分本位に対する追求」であって「真理に対する追求」という「神に対する信仰によるロゴスの受肉に対する追求」ではないのだ。
※「自分の拘り」も「騙し抜くこと」への「崇拝(なりきり演技)」であるだろう。それも偶像崇拝としてあるのだ。
「ストーカーの目的」が「他者に対する認識」にあるのならイチローは「ストーカー認定」である。
「点数稼ぎに対する追求」などは人類の手前勝手(手前味噌)な認識でしかない。イチローのヒットの本数に何の価値があるのか?そんなもの無い方が増しな愚民政策の娯楽にすぎない。
(※悪しきストーキングの快楽であるのだ)
彼は勘違いをしている。「大リーグの野球殿堂博物館」へ通いそれを崇拝しているらしい。それも「騙し抜くこと」への「崇拝(なりきり演技)」であるだろう。「イチローの人を結果で黙らせる快感の追求」という相手の意識(認識)へのストーキング行為は彼の「異常性(ヒステリー)」を示している。フロイト先生に治療してもらうしか無い存在なのだ。
何を追求するか?邪な快感の追求であるか?神への信仰から在るロゴスの受肉の追求であるか?(真理の追求であるのか?)
「神に対する信仰の追求」と「「騙し抜くこと」への「崇拝(なりきり演技)」の追求」とが全く違うのは、「「神(キリスト)」への信仰」と「「神(キリスト)」へのストーカー」との大き過ぎる違いとなる。「信仰」と「ストーカー」の違いと成るのだ。「神の真理」と「騙し抜くこと」への「崇拝(なりきり演技)」の違いとなるのだ。
信仰は唯一無二のペルソナとなりストーカーは「偶像崇拝(なりきり演技)」となる。
それは結局は「「神(キリスト)」への信仰」と「「神(キリスト)」へのストーキング」の違いと成る。信仰は「愛徳(キリスト)」であり、ストーキ��グは「特殊詐欺(無知蒙昧・アンチキリスト)」によるアンダーコントロールにあり「暗黒卿(ディストピア)」である。
「キリスト(愛徳)」とは「暗黒卿」に顕れる。
しかしイチローの「結果で相手を黙らせる快感を知っている」という誇りは「真理に対する追求」ではなく其の卑しい快感の追求をする彼の卑しい根性を露悪しているのだ。彼の露悪趣味は卑しい快感を彼に引き起こすだろう。要は「真理に対する追求」は「快感」に拠るのではなく「神に対する信仰」に拠っている。
※「騙し抜くこと」への「崇拝(なりきり演技)」の快感の追求は卑しい人間(卑しい根性)の象徴である。
「神に対する信仰」は「快感」に拠るのではなく「唯一無二のペルソナ」としてある「理性信仰」に拠っている。卑しい根性であるだけで理性のない快感に拠っているイチローは変態であるのだ。
※フロイト「快感原則の彼岸」には快感原則への支配に関する研究考察が指摘されている。実際の症例として快感原則に関する「ヒステリー(異常行動)」の報告はあり快感原則は疾病であると意識(認識)できる。そしてストーカーという快感原則も症例の一つであ「りヒステリー(異常行動)」であるのだ。「信仰」を欠落し快感原則を賛美するイチローは快感原則の疾病である他者に対する意識(認識)へのストーキングマニアであるストーカーであり「ヒステリー症状(異常行動)」であるのだ。フロイトによればイチローはストーカーであり「ヒステリー(異常行動)」患者である。それは「偶像崇拝(なりきり演技)」として発症した「異常行動(ヒステリー)」である。
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私は彼の卑しさを目にして尊敬する気にはなれない。少なくとも彼は軽蔑された方が「「なりきり演技」の治療」にはいいと思う。
私が尊敬するのは「神(キリスト)の僕(天使)」の「野球選手(ペルソナ)」であるからだ。
※「騙し抜くこと」への「崇拝(なりきり演技)」の快感を追求するものを一体誰が尊敬するのだ。
一体野球選手は「ペルソナ(愛徳)」ではなく「数字的結果(点数稼ぎ)」に拘ってプレーをして何が楽しいのだろうか?そして観戦する方もイチローの歩数にまで拘って一体何が楽しいのだろうか?現在の「プロ野球(大リーグ)」は最も馬鹿馬鹿しい娯楽である。悪しきストーカー行為は最大の愚民政策の娯楽なのであった。
ポピュリズムの黙示録
「神(キリスト)」の人民であるか?「特殊詐欺(無知蒙昧・アンチキリスト)」の人民であるか?「神(キリスト)」の人民であるなら「神(キリスト)」を凌ぐ邪な心理はあり得ない。そのような偽のポピュリズムは神をマウンティングする邪な心理として嫌悪され禁じられる。真のポピュリズムとは「神(キリスト)」の「人民(ペルソナ)」としてある。神とイエスと聖霊の三位一体がペルソナであり真のポピュリズムである。マス・コミュニケーションの存在は偽のポピュリズムと真のポピュリズムの間で黙示録が始まる。
「神の真理」を信じるか「騙し抜くこと」への「崇拝(なりきり演技)」の快感の追求をするのか?
最も堕落した存在として終焉を迎える人類であるのか?神の黙示録の時は来た。
信じるものは救われる。
ポピュリズム
populism
人民主義と訳されるが,その意味は適用範囲によって異なる。 19世紀後半のロシアにおいて発生した⇨ナロードニキ運動はツアー体制打倒を目指す知識人たちが農村を拠点として展開した社会主義運動である。「ブ・ナロード(人民の中へ)」を標語としたが,理想化した農民像と現実のそれとの乖離への幻滅からテロリズムへと転化した。アメリカにおいては急速な資本主義の発達が 19世紀末に独占段階に達し,諸矛盾が噴出したが,特に西部,南部において農民を軸に結成された人民党 People’s Partyの反独占主義的改革運動をさしてポピュリズムと呼ぶ。また政治的には代表制と複数政党制を特徴とする自由主義的民主主義に対抗して,直接民主制と権力の人民への集中を志向するルソー的な立場を人民主義的民主主義と呼ぶこともある。さらにはカリスマ的な独裁体制を正当化するために人民主義のイデオロギーが掲げられることもある。 1920年代以降のラテンアメリカ諸国では,ポプリスモ populismoと呼ばれるイデオロギーに支えられた政権が多く誕生した。それは旧体制の資本家勢力の一掃と「人民」の支持獲得のための労働者への慈善事業(パンとサーカス),民族主義・国家主義的立場からの経済の国有化政策を特徴とする。アルゼンチンのペロン政権がこの立場として有名である。
『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.
ポピュリズム〖populism〗
〓《Populism》19世紀末に米国に起こった農民を中心とする社会改革運動。人民党を結成し、政治の民主化や景気対策を要求した。
〓一般に、労働者・貧農・都市中間層などの人民諸階級に対する所得再分配、政治的権利の拡大を唱える主義。
〓大衆に迎合しようとする態度。大衆迎合主義。
『大辞泉 第二版』 小学館
Pop・u・lism [pápjulìzm|pɔp―]
―n.
1 〖米史〗 ポピュリズム:人民党(People’s party)の主義・政策.
2 ⦅p―⦆ ポピュリズム:既成のもの・知的なものに反対する政治運動[哲学];古くからの政党や党派イデオロギーによらず,非正統的な解決策や政策を提起し,大衆に呼びかける.
3 ⦅p―⦆ ポピュリズム:草の根デモクラシー;労働者階級の積極的行動主義;万人平等主義.
4 ⦅p―⦆ ポピュリズム:(一般)大衆[労働者階級,敗者など]の主張や称揚;Populism in the arts 芸術におけるポピュリズム[大衆性].
[1893.米語;<ラテン語 popul(us) PEOPLE+―ISM]
『ランダムハウス英和大辞典(第2版)』 小学館
ポピュリズム
〔大衆迎合主義〕 populism.
『新和英大辞典 電子増補版』 研究��
マス・コミュニケーション
mass communication
新聞,雑誌,図書,映画,テレビ,ラジオなどのマス・メディアを通して多数の人々に向けてなされる⇨コミュニケーション。パーソナル・コミュニケーションが,会話などのように,個人的,直接的な接触による相互伝達であるのに対して,時間的,空間的距離をへだてて間接的にコミュニケーションが行われ,また送り手は常に送り手であり,受け手は常に受け手であるというように,一方的な伝達である。受け手は自分に興味のもてるものでなければそのコミュニケーションとの接触を避けるので,受け手に対する訴えの効果を高めるために,受け手の感情や欲求に訴えるような刺激的な表現や扱い方が用いられる傾向がある。
『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.
マス・コミュニケーション
mass communication
不特定多数の受け手を対象に大量の情報を,新聞,雑誌,テレビ,ラジオなどのマスメディアという機械的・技術的手段を通じて伝達するコミュニケーションの一形態。報道,解説・啓蒙,教育,娯楽,広告などの役割を果たし,その社会的影響力は極めて大きい。
『広告用語辞典』 日本経済新聞出版社
Mass [mǽs]〓
―n.
1 ⦅しばしば m―⦆ ミサ,ミサ聖祭:カトリック教会の聖体祭儀(Eucharist)の執行:〓
2 ⦅時に m―⦆ ミサ曲:哀れみの賛歌[キリエ](Kyrie eleison),栄光の賛歌(Gloria),信仰宣言信経,感謝の賛歌三聖唱,平和の賛歌(Agnus Dei)など,5部から成る教会音楽.
[900年以前. 中期英語 masse,古期英語 mæsse<俗ラテン語 *messa,後期ラテン語 missa(ラテン語 mittere「送る,去らせる」の過去分詞 missus の女性形と思われる);おそらく missa est に女性形主語がついた聖歌の一部から抜き出したもの]
『ランダムハウス英和大辞典(第2版)』 小学館
Mass, m―² /mǽs | mǽs, máːs/
―n.
1 〖教会〗 ミサ⦅今は主にカトリック教会の聖餐式にいう⦆; ミサ聖祭, ミサ典礼〓
2 ミサ曲⦅Kyrie Eleison, Gloria, Credo, Sanctus and Benedictus, Agnus Dei など⦆.
Máss of the Presánctified
既聖ミサ⦅受難日[聖金曜日]に行われた聖別[聖変化]の部分のない特殊なミサ; 今日ほとんど行われない⦆. ⦅1758⦆
Máss of the Resurréction
死者のためのミサ⦅白衣の司式者が行うミサ⦆.
〖OE mæsse ▭ VL *messa (変形) ՟ LL missa (fem.p.p.) ՟ mittere to send: 聖餐式の終りに述べる司祭の言葉 Ite, missa est (ecclesia) Go, (the congregation) is dismissed にちなむ: ⇨mission〗
『新英和大辞典 第6版』 研究社
mass¹ /mǽs/
―n.
1 (一定の形はないが一つになった比較的大きい)かたまり (lump)〓
2 密集体, 集団, 集まり (aggregation)〓
3 多数, 多量 (⇨bulk¹ SYN)〓
4 [the ~] 大部分, 大体, 主要部 (majority)〓
5 the masses一般大衆, 庶民 (populace); 労働者階級, 下層民 (cf. class 2 b)〓
6 大きさ, 量, かさ (size)〓
7 〖美術〗 (色・光・影などの)広がり; 質量感を与える形[立方体], マッス〓
8 〖物理〗 質量〓
9 〖薬学〗 練薬, 丸剤塊, 賦形剤.
10 〖鉱物〗 鉱脈以外の所にある鉱石埋蔵物.
máss of mércury
〖薬学〗 =blue mass 1.
―adj. [限定的]
1a 庶民[民衆]の[に関する]〓
b 大衆参加の, 民衆を巻込む〓
c 民衆に影響を与える, 民衆を対象とする〓
2 大がかりな, 大量の (wholesale)〓
3 全体としてみた (total)〓
4 普通の, 平均的な (average), 平凡な〓
―vt.
1 一かたまり[一団]にする, 集合させる〓
2 〈兵力などを〉(特定の場所に)集中する〓
―vi. 一かたまり[一団]になる, 集合する.
〖n.: ⦅c1384⦆ masse ▭ (O)F ⫽ L massa mass, lump ▭ Gk mȃza barley cake ՟ IE māgya― ՟ *mag― to knead (Gk mássein to knead): cf. make¹. ̶ v.: ⦅c1380⦆ ▭ (O)F mass―er ՟ (n.)〗
『新英和大辞典 第6版』 研究社
mass¹ /mǽs/
―n
1a 塊り,塊体;密集,集団,集まり;[ˢpl] 多数,多量〈of〉〓
b 〖薬〗 練薬;〖鉱〗 鉱脈外の鉱床.
2 [the] 大部分,主要部;[the ~(es)] 大衆,庶民,労働者階級 (opp. the classes)〓
3 大きさ,量,かさ (bulk);〖理〗 質量;〖美〗 マッス《全体中で大きな分量を占める単一な色や光のまとまり;立体的な形[量]》.
―a 大量の,大規模の;多勢の;集団的な;大衆の;全体的な〓
―vt, vi ひと塊り[一団]にする[なる];集中する;集合させる[する];集結する.
[OF<L massa<Gk=barley cake]
『リーダーズ英和辞典(第3版)』 研究社
Mass n.
[ときに m‐] 〔カトリック〕 ミサ.
【動詞+】〓
【形容詞・名詞+】〓
【前置詞+】〓
【+前置詞】〓
『新編英和活用大辞典』 研究社
com・mu・ni・ca・tion [kəmjùːnəkéiʃən]〓
―n.
1 (言論・文書・合図などによる思想・意見・情報の)(…への)伝達,コミュニケーション,心の通じ合い,連絡,通信,交信⦅with …⦆:〓
2 (病気の)伝染;(熱の)伝導;(動力が)伝わること:〓
3 (伝達・交換される)情報,ニュース,通知;手紙,伝言;(報道・意見表明・情報伝達などのための)書類,文書,メッセージ;(学会発表)論文:〓
4 交通通信;(場所が)(…に)連絡していること⦅with …⦆:〓
5 交際,交友,親交:〓
6 ⦅communications⦆ ⦅単数扱い⦆
(1)(電話・電信・ラジオ・テレビなどの)通信機関[施設];報道機関;交通機関:〓
(2)〖軍事〗 (道路・鉄道など,基地から前線へ軍隊・物資を輸送する)輸送路,輸送機関,兵站(へいたん)線.
7 〖生物〗 コミュニケーション:蛍の光の明滅,ミツバチが餌(えさ)の場所を仲間に知らせるときのダンスなど.
8 ⦅communications⦆ ⦅単数扱い⦆ 通信学.
9 ⦅しばしば communications⦆ ⦅単数・複数扱い⦆ ⦅米⦆ 〖教育〗 コミュニケーション:スピーチや作文のほか,図形,演技など非言語的なものも用いる概念伝達に関する学問.
10 〖コンピュータ〗 通信.
[c1390.中期英語 communicacioun<中期フランス語<ラテン語 commūnicātiō(commūnicātus より;⇀COMMUNICATE)]
com・mu・ni・ca・tion・al
―adj.
『ランダムハウス英和大辞典(第2版)』 小学館
コミュニケーション
communication
言語,身ぶり,画像などの物質的記号を媒介手段とした精神的交流のこと。語源はラテン語で「分かち合う」を意味する communicare。歴史的には物質的記号は初期の身ぶり,叫びなどの直接的で無反省な状態から,明確な言語などの普遍的かつ間接的な状態へと発達した。コミュニケーションの過程は,精神的内容を物質的に表現する送り出しの段階,受け手によって受容される段階の2段階から成る。また,その内容は分析的に知的理解のためのものと,情緒的な伝播を目指すものとに分けられる。人間社会を成立させる基礎的な条件であり,特に今日ではマス・コミュニケーションが高度に発達して大きな影響力をもっている。
『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.
コミュニケーション
communication
生物学用語としては,動物の同種個体間にみられる種々の信号のやりとりをさす。動作や色彩や光などの視覚的,鳴き声などの聴覚的,匂いなどの嗅覚的信号が用いられる。同種個体は一般にその信号に対して本能的に反応することが多い。また同一信号に対して雌雄間などで反応が異なることもある。
『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.
コミュニケーション〖communication〗
〓社会生活を営む人間が互いに意思や感情、思考を伝達し合うこと。言語・文字・身振りなどを媒介として行われる。「―をもつ」「―の欠如」
〓動物どうしの間で行われる、身振りや音声などによる情報伝達。
◈「コミュニケーション」は、情報の伝達、連絡、通信の意だけではなく、意思の疎通、心の通い合いという意でも使われる。「親子の―を取る」は親が子に一方的に話すのではなく、親子が互いに理解し合うことであろうし、「夫婦の―がない」という場合は、会話が成り立たない、気持ちが通わない関係をいうのであろう。
『大辞泉 第二版』 小学館
ほうどうのじゆう【報道の自由】
表現行為のうち特に事実を伝達する行為の自由。国民に対して事実を伝達する媒体として新聞や放送が大きな役割を果しているところから,報道の自由も新聞,放送との関係で問題となることが多い。日本国憲法 21条の保障する⇨表現の自由のなかに報道の自由が含まれることについては,今日ほぼ異説はない。ただ,この自由が取材活動における違法性を阻却する主張はいまだに承認されていない。
『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.
メッセージ
message
送り手が公人としての立場から,人を介したり,手紙,電信,または通信社,新聞社を通じて伝達する公式の伝言をいう。アメリカでは特に,大統領が議会に送付する教書 President’s Messageをさす場合が多い。
『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.
メッセージ‐ソング
《(和)message+song》社会問題など、聞き手に訴えたい内容を盛り込んだ歌。
『大辞泉 第二版』 小学館
mes・sage [mésidʒ]〓
―n.
1 伝言,言づて,メッセージ;伝達[連絡]事項,音信,(…という)通信⦅that 節⦆:〓
2 コマーシャル,広告,宣伝.
3 ⦅米⦆ (大統領・州知事などから議会に送る)教書:〓
4 (予言者・賢人などの)お告げ,託宣,神託:〓
5 〖コンピュータ〗 メッセージ:情報処理上の単位.
6 (身ぶり・言葉・小説・映画などが含む)教訓,意義,狙い:〓
7 使い(の仕事);(…すべしという)使命⦅to do⦆:〓
8 〖遺伝〗 メッセージ:タンパクを合成する遺伝コードの単位.
9 ⦅messages⦆ ⦅スコット・北イング⦆ 買い物.
―v.t. …をメッセージとして送る,通信によって伝える[命令する];〈通信を〉送る.
―v.i. メッセージを送る.
[中期英語<古期フランス語<俗ラテン語 *missāticum〔ラテン語 missus「送られた」(mittere「送る」の過去分詞)より〕.⇀MISSION]
『ランダムハウス英和大辞典(第2版)』 小学館
⁑mes・sage/mésɪʤ/〓
〖初14c;中世ラテン語 missaticum (送られてきたもの). 「mess- (送られた)+-age (動作の結果)=送られてきた(知ら��)」〗
―〓
1 〓〔…への/…からの〕伝言, 伝達事項〔for, to/from〕;〔…という〕通信(文)〔to do, that節〕(〓msg.)〓
2 〓(公式の)通達, 声明書;⦅米⦆(大統領の)教書;⦅米⦆婉曲コマーシャル(commercial)〓
3 the/a ~教訓, (隠れた)根本思想, ねらい.〓
4 ⦅正式⦆the ~お告げ, 神託;教え, 福音.
5 〓⦅古⦆(託された)用向き(errand)〓
6 ⦅スコット⦆[~s] 買物(shopping).
7 〓〖コンピュータ〗電子メール(による通信文);メッセージ〓
―〓〓(メッセージで)…を送る, (合図で)…を伝える.
―〓メッセージを送る, 通信する;⦅米俗⦆インターネットでメッセージを送る.
message board/––/
伝言板(→ blackboard).
message box/––/
〖コンピュータ〗メッセージボックス.
message stick/––/
⦅豪⦆メッセージスティック《アボリジニが身分証明のために用いる彫りのある棒》.
message switching/––/
〖コンピュータ〗メッセージ交換《データ通信で端末装置間にメッセージを送付する》.
『ジーニアス英和大辞典 用例プラス』 大修館書店
マス・メディア
mass media
マス・���ミュニケーションの媒体。新聞,テレビ,ラジオ,映画,雑誌などがその代表的なもので,ある記号を用いて,受け手である大衆に公的,間接的,一方的に意味内容を伝達する技術的道具ないしは装置のことをいう。印刷媒体と非印刷媒体に分けられ,前者は 19世紀中頃輪転機などの発明によって成立,後者は 19世紀末から 20世紀にかけて,無線電信の送受信技術や映写技術などの発明によって成立した。コンピュータの発達によるパソコン通信やケーブルテレビによる有線テレビもこの範ちゅうに含まれることが多い。マス・メディアの成立基盤としては,近代産業の発達による都市への人口集中,教育の普及,余暇時間の増大など,大衆社会形成の諸条件があげられる。今日のマス・メディアの特性は,資本主義社会では大部分私的な営利企業として営まれている点である。したがって,そこでは利潤の獲得と経営の安定が優先されるため,内容の低俗化,画一化の現象が生れる。また社会主義社会では,政府および支配政党によって,編集,制作方針が左右される。
『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.
máss médium
(pl. mass media) ⦅通例 mass media⦆ マスメディア,大衆媒体.
[1923]
『ランダムハウス英和大辞典(第2版)』 小学館
máss média〓
mass medium の複数形.
[1923]
『ランダムハウス英和大辞典(第2版)』 小学館
マスメディア
the mass media (▶本来複数形だが,今日では単数形扱いされることも多い) (⇀コラム)
『プログレッシブ和英中辞典(第3版)』 小学館
me・di・um /míːdiəm/
―n (pl ~s, ―dia /―diə/)
1a 媒介物,媒質,媒体;導体;〖理〗 《物質の存在・現象の》媒体;〖化〗 《反応の》媒質;〖天〗 星間物質 (=interstellar ~) 《星間空間に存在する星間ガスと宇宙塵》〓
b 手段,方便 (means),《伝達・情報などの》媒体,(マス)メディア;広告媒体《★この意味では media を単数に medias を複数に用いることがある》;記録[記憶]媒体《磁気ディスクなど》〓
c 仲介者;(pl ~s) 巫女(みこ),霊媒;〖論〗 媒辞.
d 〖画〗 展色剤《えのぐを溶く油・水》,媒材,メジウム;画家の使う材料[技法],制作用の材料.
e 〖化〗 濾過物質《濾過紙など》;〖劇〗 《舞台に色光を投じるための》ライト用カラースクリーン.
2 《生息・生育の》 環境,生活条件;〖生〗 培養基[液] (culture medium),培地;《動植物標本の保存・展示用の》保存液.
3a 中間[M サイズ]のもの;中位,中ほど,中等,中間.
b 〖紙〗 中判《標準サイズは 18×23 インチ=457×584 mm》.
c 〖英〗 中期債金縁証券.
―a 中位[中等,中間,中型]の;〈肉など〉焼き方が並の,ミディアムの (cf. RARE², WELL―DONE);〈レンジなど〉中火の;〖色彩〗 《light (明るい)と dark (暗い)の》中間の;〈ワインなど〉半[中]辛口の.
[L (neut)〈medius middle]
『リーダーズ英和辞典(第3版)』 研究社
me・di・um [míːdiəm]〓
―n. (pl. 1-10,15,16で―di・a[―diə],1-11,13,14でme・di・ums)
1 中位,中間,中ほど,中庸(mean):〓
2 中程度[中位置]の物,中間的性質の物,中間物.
3 媒介物,媒体,媒質:〓
4 (生物の)生息場所,生活環境[条件].
5 周囲の事物[状況],環境(environment).
6 (伝達・媒介の)機関,手段,方法,媒体(マス)メディア:〓
7 媒介者,仲介者,周旋人(go―between).
8 〖生物〗 (標本の保存・展示用の)保存液(preserving medium);(顕微鏡で検査する物質をスライドに固定する)封入剤(mounting medium).
9 〖細菌〗 培地,培養基(culture medium):〓
10 霊媒,巫女(みこ):〓
11 〖美術〗
(1)〖絵画〗 (絵の具を溶く)展色剤,媒材.
(2)制作材料;芸術表現の手段[技法]:〓
12
(1)(印刷用紙のサイズで)中判.
(2)⦅主に英⦆ (画用紙・筆記用紙のサイズで)中判.
13 (高速道路の)中央分離帯,中央区分帯.
▶medium [⦅米ミッドランド⦆ median] strip ともいう.
14 (舞台照明の)カラーフィルター(color filter).
15 〖論理〗 媒辞:三段論法の小概念と大概念を前提で媒介し,結論を導く働きをする仲介の概念[名辞].
16 ⦅mediums⦆ ⦅英⦆ 中期金縁証券(medium―dated gilt―edged securities):国債,政府保証債など一流確定利付き証券;5-15年満期.
―adj. ⦅通例限定的⦆ 中間の,中位の,中庸の,並の,中級の;(料理の焼き方などが)並の,ミディアムの;〈ワインなどが〉辛口と甘口の中間の:〓
[1584.<ラテン語「中央」,medius「中央の」の中性形名詞用法.⇀MID¹]
『ランダムハウス英和大辞典(第2版)』 小学館
ばいしつ【媒質】
medium
物体間に働く力には,途中の空間をへだてて直接に作用する遠隔作用と,近接した空間に順次影響を及ぼして遠くに作用が伝わる近接作用がある。後者の場合,作用が伝達される物質あるいは空間を媒質という。一般に音波は物質の中を伝わるので,その物質は音波についての媒質である。電磁波の媒質としては,以前は⇨エーテルの存在が仮定されたが,いろいろ問題があり,現在では空間そのものが媒質と考えられている。
『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.
ばいしつ【媒質】
medium
媒体ともいう。生物を取巻く外囲,すなわち環境を物質としてみたときの言葉。陸生生物では,一般に空気が媒質であり,水生生物では水が媒質である。また細胞レベルでは体液などが媒質で,媒液ともいう。なお,mediumの語は,微生物の培養液の意味,あるいは生化学実験での反応液の意味にも用いられる。
『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.
メディアム
medium
美術・芸術用語。(1)絵具を溶く溶材。油性絵具に用いる各種の油,水性絵具に用いる水など。(2)芸術家の表現手段の素材。絵画におけるカンバス,顔料,彫刻における大理石,木材,ブロンズなど。(3)芸術家の表現手段,絵画,彫刻,建築などの分類をさす。
『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.
れいばい【霊媒】
medium
神霊,死霊などの霊的世界と人間との間を交通,媒介し,さらにその他の超自然的⇨心霊現象を起す能力をもつ人間。日本では⇨口寄せとして知られるが,世界各地にも⇨シャーマンなど古くからみられる。霊媒は女性が多く,彼女たちは一種の入神状態(トランス)に入って,自動言語,⇨自動書記などの心霊活動を行う。欧米では,19世紀になって特に注目を浴び,さまざまな⇨交霊会が催されたが,そこで起る心霊現象は,それを研究対象とした⇨超心理学などの新しい学問を生んだ。
『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.
媒質
[英〓 medium 仏〓 médium, milieu 独〓 Medium 露〓 среда]
[1]*近接作用が行なわれる連続体をいう.たとえば応力やひずみが伝わる弾性波については弾性体が媒質であり,また物質中を伝わる光に対してはその物質が媒質である.光の媒質として物質的なエーテルの存在が仮定されたが,これは歴史的な概念で,今日では電磁作用は真空自体の属性と考えられる.これを媒質というかいわないかは言葉だけの問題である.
[2]反応媒質ともいう.化学反応が行なわれる場をつくる物質で,水や有機溶媒など,種々の均一,不均一の物質系が用いられる.反応の選択性や速度がこれに影響されることが多い.
『岩波 理化学辞典 第5版』 岩波書店
me・di・a¹ [míːdiə]〓
―n.
1 medium の複数形.
2 ⦅the media⦆ ⦅通例複数扱い⦆ マスメディア,(広告)媒体:ラジオ,テレビ,新聞,雑誌などのようなマスコミの媒体. cf. MASS MEDIA:〓
―adj. マスメディアの[に関する]:〓
〓〓
『ランダムハウス英和大辞典(第2版)』 小学館
me・di・a² [míːdiə|médiə]〓
―n. (pl. ―di・ae[―diìː])
1 〖ギリシア文法〗 有声破裂音(voiced plosive):β,δ,γ;無声破裂音(tenuis),有気音(aspirata)と対立をなす.
2 〖解剖〗 (動脈・リンパ管の)中膜(middle layer).
3 〖昆虫〗 中脈:昆虫の翅(はね)の中央部にある縦の翅脈(しみゃく).
[1841.<後期ラテン語(文法的意味のみ),ラテン語 medius「中心の,半ばの(MID¹)」の女性単数形名詞用法]
『ランダムハウス英和大辞典(第2版)』 小学館
◊me・dia¹ /míːdiə/
—n. pl.
〖電算・通信〗 媒体, メディア ⦅(1) 記録[記憶]媒体; データの記録を担う材料及びそれを付着させた担体; 磁気ディスク[テープ]・フロッピーディスク・光ディスクなど (2) 伝送媒体; データの伝送をになう線路; 同軸ケーブル・光ファイバーケーブルなど⦆.
『リーダーズ・プラス』 研究社
Media
メディア《古代アジア南西部,現在のイラン北西部にあった王国,のちペルシアの属州》.
『リーダーズ英和辞典(第3版)』 研究社
メディア
Mēdia; Media
北西イラン地方の古代名。カスピ海南岸沿いのエルブールズ山脈,ウガイール砂漠,アルメニア,アッシリアに囲まれた地域。現イランのアゼルバイジャン州,クルディスターン州。大部分は標高約 900~1500mの山岳高原で肥沃な平原は少い。メディア人は記録の上では,マダ国の人々として,アッシリア王シャルマネゼル3世(在位前 859~824)の『黒のオベリスク』の記録に初めて登場する。前9世紀末から前8世紀中頃までウラルトゥ王国の支配下でアッシリアと戦ったが,サルゴン2世(在位前 722~705)の時代から前7世紀の中頃までアッシリアの支配下に入った。古代ギリシアの歴史家ヘロドトスによれば,⇨デイオケスをメディア帝国の建設者としているが,真にメディアの統一を達成したのは⇨フラオルテス(在位前 675~653)らしい。その子キャクサレスはスキタイの侵入を防ぎ,バビロンのナボポラッサルと組んでアッシリアを倒し,イランからカッパドキアのハリュス川に及ぶ大帝国を建設した。しかし,跡を継いだ⇨アステュアゲスはアケメネス朝ペルシアのキュロス2世と戦って敗れ,メディア帝国は滅亡した(前 550)。都はエクバタナとラゲアにあった。ペルシア帝国の一州となったメディアは前 330年アレクサンドロス3世(大王)によって占領され,北部メディアの統治をゆだねられたアトロパテスは独立に成功,しかし前 220年にはセレウコス朝に屈し,以来,統治者たちは次々にパルティア,アルメニア,ローマに従属した。南部メディアはセレウコス朝シリアの一州となり,前 152年頃パルティアに征服された。その後メディアの名は地理的用語としてのみ用いられるようになった。
『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.
◊Media
—n.
〖天〗 メジア ⦅射手座の δ 星 Kaus Meridionalis の別名⦆.
『リーダーズ・プラス』 研究社
ぐみんせいさく【愚民政策】
人民大衆の批判意識を抑えて体制に服従させるためにとられる政策の一つである。民衆を非識字状態にとどめておく教育政策や民衆に正しい情報を伝えない報道管制などはこの政策の典型といえる。だが民衆の皮相浅薄な好みを満足させ,彼らを脱政治的な生活意識のなかに埋没させる政策こそは,最も巧妙な愚民政策といえよう。
『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.
ぐみん‐かん【愚民観】‐クワン
(国の支配層が)国民は無能でばかだとする見方。「―に基づく政策」
『大辞泉 第二版』 小学館
ぐ‐みん【愚民】
おろかで無知な民衆。「斯(かか)る―を支配するには」〈福沢・学問のすゝめ〉
⇀ぐみん‐かん【愚民観】
⇀ぐみん‐せいさく【愚民政策】
『大辞泉 第二版』 小学館
ぐみん【愚民】
the ignorant masses
◾国民を愚民扱いする
regard the people as foolish [ignorant] (and in need of guidance)
◗愚民政策
policies to keep the people ignorant (and easy to rule)
『プログレッシブ和英中辞典(第3版)』 小学館
エリート
elite
普通エリートは社会的諸価値のピラミッド型配分体系において,その上層部分を構成する集団と定義されているが,エリートが現代社会の重要な問題として登場するのは,20世紀の「大衆社会」の出現が,エリート対マスという新しい問題を生み出してからである。 V.パレート,G.モスカ,R.ミヘルスらの理論に現れたように,そこでは少数エリートの支配と大衆の従属,さらにはエリートの循環が起り,民主主義,社会主義の理念の後退現象が起る。これ以降,大衆はエリートによる操作の客体として無力化される一方,エリートは権力の集中化,組織化によって,C.W.ミルズが述べたように強力な支配手段をそなえた⇨パワー・エリートとなり,さまざまな危機的問題が指摘されている。
『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.
パワー・エリート
power elite
社会組織の頂点にある種々の重要な地位を占め,意思決定,執行にあたる権力集団。 C.W.ミルズが同名の著書(1956)で,現代アメリカの高度な権力集中の事実をふまえて,この権力のにない手を「パワー・エリート」と呼んだところから一般化した。彼は権力の過度の集中をもたらした要因として,「大衆民主主義」での政治のあり方をあげる。すなわち,政治の場に進出した大衆が,一方で受動化,情緒化することによってその政治的機能,役割はかえって後退し,膨大な⇨ホワイトカラーが政治的には後衛にすぎなくなった。このことを背景に,政治,経済,軍事のにない手が一部のパワー・エリートによって占められ,彼らが互いに連合して,「頂点連合」を形成するにいたったという。
『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.
e・lite [ilíːt,eil―]
―n.
1 ⦅通例 the elite⦆ ⦅集合的⦆ ⦅しばしば複数扱い⦆ 選ばれた者,えり抜きの人々,選良,精鋭,エリート:〓
2 ⦅複数扱い⦆ 最上流の人々:〓
3 (大きな機構の中で)権限・影響力を持つ一群の人々,幹部,(社会の)中枢,パワーエリート:〓
4 エリート活字:タイプライターに広く用いられる活字で,だいたい10ポイント;1インチに12文字打てる(cf. PICA¹).
―adj. えりすぐった,えり抜きの;〈嗜好(しこう)品などが〉極上の,優等品の;エリートの[にふさわしい]:〓
(またé・lite[-–])
[1338年以前. 中期英語 elit 公職に選ばれた人<中期フランス語 e(s)lit(e(s)lire「選ぶ」の過去分詞;⇀ELECT)]
『ランダムハウス英和大辞典(第2版)』 小学館
アンチ・キリスト
Anti-Christ
キリスト教神学の用語で,キリストの敵あるいはキリスト教信仰を拒否する者をいう。前者の意味ではベリアルやサタンなどの悪魔をさすことも多く,後者の意味では異端者を含む。中世以後教皇権に対する王権をアンチ・キリストと形容した。ニーチェがその著『アンチ・キリスト』において,キリスト教倫理を徹底的に批判したのは有名。
『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.
An・ti・christ [ǽntikràist]〓
―n.
1 〖神学〗 反キリスト:初期キリスト教で,再臨のキリストの対立者としてこの世に現れるとされた人物または勢力. cf.〖聖書〗 1 John 2:18,22;4:3;2 John 7.
2 ⦅時に a―⦆ 〖神学〗 キリストの敵.
3 ⦅しばしば a―⦆ 〖神学〗 キリスト不信仰者;偽キリスト.
[1150年以前. 中期英語,古期英語<後期ラテン語 Antichrīstus<後期ギリシャ語 Antíchrīstos 反キリスト]
ànti・chrístian
―adj.,n.
ànti・chrístianly
―adv.
『ランダムハウス英和大辞典(第2版)』 小学館
ànti・chríst〓
〓〖神学〗
1 キリストの敵.
2 [the A~] 反キリスト者《初期キリスト教徒が, キリストの再臨前に出現するとした, キリストの対立者(1 John 2:18)》.
3 偽キリスト.
〓ànti・chrístian〓
『ジーニアス英和大辞典 用例プラス』 大修館書店
Antichrist
◆noun (the Antichrist) a postulated opponent of Christ expected by the early Church to appear before the end of the world.
『The Concise Oxford English Dictionary, Eleventh Edition』 Oxford University Press
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Soma Oishi A friend of the sacred cat!
大石宗磨 聖なる猫の友達だよ!
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「サタン」がマウンティングする「獣」は「悪魔」であり「神」がマウンティングする「獣」は「ペルソナ」である。
「サタン」と「神」
「悪魔」の存在
「サタン」が「獣」にマウンティングしてあるものは「悪魔」である。
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「ペルソナ」が人である。
「神」が「獣」にマウンティングしてあるものは「ペルソナ」である。
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「愛徳」はペルソナの証明
「悪魔」と「ペルソナ」の違いは「愛徳」の存在である。
あいとく【愛徳】 caritas カトリック神学で三対神徳(信徳,望徳,愛徳)の一つとされるもの。新約聖書のなかにあるギリシア語の agapēの翻訳であるが,カトリック神学の概念としては,神の愛が人間に与えられるのに呼応した,神に対する人間の愛をいう。⇨アウグスチヌスは,愛徳を人間を神へと統合させる徳とし,中世神学者,特に⇨トマス・アクィナスは,愛徳を他のすべての徳の基礎であり根拠であるとした。 『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.
アガペー agapē 新約聖書(特にコリント人への手紙1,ヨハネ福音書,ヨハネ書簡など)で愛を意味するギリシア語。ラテン語では amorあるいは caritasと訳される。カトリック神学では caritasは信仰 fides,希望 spesと並ぶ基本的な徳の一つであるが(→愛徳),新約聖書のアガペーは,神の愛,キリストの愛,キリスト信者同士の愛のすべてについて用いられる。キリスト信者同士の愛をさすときには,本能的,衝動的愛をも意味するエロス erōsと区別して用いられており,パウロはこれを最大の徳と呼んでいる(コリント人への手紙1)。またアガペーは初期のキリスト信者の親善,博愛のための会食をもいい,これは初め聖餐式と緊密な関連をもっていたが,3世紀頃から次第に分離され,キリスト教典礼とは別の会食となった。 『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.
char・i・ty [tʃǽrəti]〓 ―n. (pl. ―ties) 1 慈善,施し,救恤(きゅうじゅつ):〓 2 (困窮者・貧者への)施し物,救助金[品],慈善的寄付,浄財(alms):〓 3 慈善行為,慈善事業. 4 慈善基金;慈善団体,慈善施設,養護院,施療院:〓 5 公の救済[扶養,援助]:〓 6 慈善的援助[救済]を受ける人:〓 7 慈善心,慈悲心,思いやり,親切心,博愛:〓 8 (他人に対する)寛大,寛容,寛容の精神:〓 9 キリスト教的愛,カリタス(caritas),同胞愛,隣人愛,人間愛,アガペー(agape). cf.〖聖書〗 I Cor.13:〓 10 =charity stamp. 11 =Jacob’s―ladder. [1154.中期英語 charite<古期フランス語<ラテン語 cāritās〔cārus「愛すべき」(CARESS,CHERISH,KAMA²,WHORE と同根)より〕] char・i・ty・less ―adj. 『ランダムハウス英和大辞典(第2版)』 小学館
「悪魔」とは難ゾヤ
「悪魔」には「愛徳」は無い。
ただ「悪魔」は「愛」と称する。
「愛」と「愛徳」の違いとは?
「悪魔」の「愛」には「徳」がない。
とく【徳】 aretē; virtus; perfectio 哲学,宗教の中心的課題の一つ。倫理的,道徳的善に対する意志の恒常的志向性,ないしは善を実現する恒常的能力をいう。したがってそれがみずからの修練によるものであるか否かを問わず身についたものでなければならない。プラトンは徳を有益と結びつけて論じ,賢明,剛毅,節制,正義の四つの徳をあげている。キリスト教哲学でこれら⇨枢要徳としての倫理徳に,神との関係に立つ三つの対神徳(信仰,希望,愛)を加えた。儒教では仁,義,礼,智,信,父子の親,君臣の義,夫婦の別,長幼の序,朋友の信などいわゆる⇨五倫,⇨五常を総称して徳という。アリストテレスは倫理的な卓越性(徳)は本性的に与えられているのではなく,行為の習慣化によって生じる状態(ヘクシス)とし,⇨中庸において成立する行為選択の状態を徳とする(たとえば恐怖と平然の中庸としての勇敢)。ストア派は理性的自然的生活を徳とし,エピクロス派は真に快の何たるかを洞察する能力を徳としている。近代以後では欲望を正しい知識と合致させようとする意志のうちに徳をみるメランヒトンの規定や,徳を義務に従う道徳的強さとするカントの見解が代表的である。 『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.
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七元徳(しちげんとく)とは、カトリック教会の教義における7つの基本的な徳をいう。カトリックの「七つの美徳」(ななつのびとく)とも呼ばれる。
古代ギリシアの知恵、勇気、節制、正義の4つの枢要徳に、『新約聖書』のパウロの手紙に見られる信仰、希望、愛の3つの徳を加えたものである。
カテキズムにおいては、徳を人間的徳と対神徳に分け、4つの枢要徳を人間的徳の中心的な役割を果たすもの、信仰・希望・愛の3つを対神徳とする[1][2]。
「悪魔」の「愛」は「徳」のない「愛」であり「中身」のない「特殊詐欺」である。
それは「悪魔」の「特殊詐欺」である。
「悪魔」には「神の愛徳」はあり得ない。
何故なら「サタン」の「下僕」である「悪魔」は「神」への「反逆者」であるからである。
「神」を信仰しない「獣」を「神」は愛さない。
「神の愛徳」がない「獣」は「神」がマウンティングしない「獣」であり「ペルソナ」とならない。
「人」ではないのだ。
「人」ではない「獣」は「サタン」がマウンティングした「悪魔」となる。
「神の愛徳」に呼応して「ペルソナの愛徳」はあり、「キリストの愛徳」は「愛徳の世界市民」を救済する。
「全ての愛徳」は「神の存在」に拠っている。
それは「神への信仰」が至上命令であることを示している。
それが「愛徳の源」なのである。
「愛徳の世界市民」とは「神の王国の民」のことである。
「悪魔」の群れは「愛」と称するが「徳」はない。
それは「愛徳」のない「善人」であるのだ。
また「悪魔」は「愛ある善人」と称するがそこに「徳」はないのだ。
結局は「悪魔」は「善人」であるが「愛徳」はないのだ。
「愛の歌」と「愛徳の歌」の違いである。
「徳」のない「愛の善人」の番組は「悪魔」の番組である。
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マルキ・ド・サド「悪徳の栄え」に見る「愛徳の栄」の存在
マルキ・ド・サドの「悪徳の栄え」は不道徳際なりない内容であるがその実は「愛徳の栄」を完全否定するものとして書かれていない。
マルキ・ド・サドが「サタン」がマウンティングした「獣」としての「悪魔」だという指摘があるとしたら間違っている。
「7つの大罪」と「七元徳」
それはマルキ・ド・サドが「徳」に関して完全否定したのではなく「悪徳」としての「七つの大罪」を明確に示したのだ。
「徳」とは「七つの大罪」の克服としてあるからだ。
「徳」の在り方が「倫理的,道徳的善に対する意志の恒常的志向性,ないしは善を実現する恒常的能力をいう。したがってそれがみずからの修練によるものであるか否かを問わず身についたものでなければならない。」とされるからだ。
それを解りやすく示したのがマルキ・ド・サドの「悪徳の栄え」である。
露骨に「7つの大罪」の世界を描いたマルキ・ド・サドは精神病院に入れられたらしい。
しかしマルキ・ド・サドは私のように人体実験(七つの大罪)には利用はされなかっただろう。
サド Sade, Donatien Alphonse François, Comte de [生] 1740.6.2. パリ [没] 1814.12.2. セーヌ,シャラントン フランスの小説家。通称マルキ・ド・サド Marquis de Sade。伯爵であったが侯爵と呼ばれる。軍人になったが,スキャンダルを起し投獄され,以後生涯の3分の1以上を獄につながれ,精神病院で死んだ。その作品に倒錯性欲を描いたため(⇨サディズムという言葉は彼に由来する),わいせつと不道徳を理由にあらゆる検閲を受けたが,20世紀に入ってから,人間の根源的自由を求めて大胆な挑戦を試みた者として高く評価されるにいたった。主著『⇨ジュスティーヌあるいは美徳の不幸』 Justine,ou les Malheurs de la vertu(1791),『新ジュスティーヌ』 La Nouvelle Justine(97),『ジュリエット物語あるいは悪徳の栄え』 Histoire de Juliette,ou les Prospérités du vice(97),『ソドム 120日』 Les 120 Journées de Sodome(85執筆,1904刊)など。 『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.
あくとくしょうほう【悪徳商法】 消費者に対して組織的,反復的に行なわれる商取引で,違法または不当な利益を得る商法。悪質商法ともいう。手口は,会場に集めた人々を興奮状態にして商品を買わせる催眠商法(SF商法),商品購入者が販売者の権利を得て新たな購入者を募る⇨マルチ商法,住宅等の点検を偽って不要な工事を行なう点検商法,虚偽の投資をさせる利殖商法など多様。こうした犯罪から消費者を守るため,消費者基本法,⇨消費者契約法,訪問販売法(⇨訪問販売等に関する法律),無限連鎖講防止法,⇨特定商取引法,⇨割賦販売法などが制定されている。近年は住宅リフォームなどを持ちかけ,判断力の劣る高齢者や障害者をねらった犯罪が深刻になっている。内閣府は 2006年に消費者トラブルの予防,早期発見,被害の拡大防止を目的とするメールマガジン「見守り新鮮情報」を発行,2008年4月からこの事業を⇨国民生活センターに移管した。 『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.
◗悪徳医師(七つの大罪・人体実験) a crooked doctor ◗悪徳商法 fraudulent business practices 『プログレッシブ和英中辞典(第3版)』 小学館
corrupt 〓 corrupt・fraudulent・unscrupulous・dirty・rotten・crooked・unprincipled・amoral 利益を得るために正しくない,あるいは違法な行為を進んですることを表す 【類語訳】不正な,腐敗した,堕落した,詐欺的な,不当な,卑怯な,汚い,悪徳の
corrupt 《けなして》(金・利益を見返りに)不正を働く;(行為が)不正な,腐敗[堕落]した ◇It was seen as the only way to overthrow a corrupt regime. それは腐敗した政権を打倒する唯一の方法だと考えられた fraudulent 《フォーマル》詐欺的な,詐欺による,不正[不当]な ◇Steps are being taken to crack down on fraudulent advertising. 詐欺的な広告を厳しく取り締まるための措置が講じられている ◇The number of fraudulent insurance claims has risen. 不正な保険金請求の件数が増加している 〓fraudulentは人よりも物事・行為について用いられることが多い.このグループの非難を表す他の語よりも中立的で説明に適した語.典型的に結びつく語としてclaim,statement,use,tradingが挙げられる. ☞fraud(FRAUD1) 〓fraudulently 〓 ◇She was charged with fraudulently obtaining a bank loan. 彼女は銀行からの融資を不正に得たとして告発された unscrupulous 《ややフォーマル,けなして》(金・利益を見返りに)不正を働く;(行為が)不正な,腐敗[堕落]した ◇The new law will give unscrupulous landlords an easy way of getting rid of people. 新しい法律によって悪徳家主は店子を容易に追い出すことが可能になるだろう 〓 scrupulous(GOOD5), ☞scruple(DOUBT〓2) 〓 corruptとunscrupulousの使い分け:corruptはしばしば当局・体制[組織]およびそこに勤務する人々について用いられる.典型的に結びつくのはregime,system,officialなど.unscrupulousが一般的に結びつく語は特に自営業を営む人およびその仕事に関連した,dealer,employer,landlord,lender,operator,people,politician,dealings,practicesが挙げられる. dirty [ふつう名詞の前で]《インフォーマル,けなして》卑怯な,汚い ◇You dirty liar! この汚い嘘つき野郎め ◇She’s a dirty player. 彼女は卑怯な手を使う選手だ ◇He always gets someone else to do the dirty work for him (= tasks which are unpleasant because they involve being dishonest or unkind to people). 彼はいつも自分のために誰か他の人の手を汚させる 〓この意味でのdirtyはplay,player,work,jobなどと結びつく. 〓dirty 〓 ◇We would have won if the other team hadn’t played dirty (= cheated). 相手チームが汚いプレーをしなかったら我々が勝利していただろう rotten [名詞の前はまれ]《インフォーマル,けなして》(体制・組織が)腐敗した ◇The organization is rotten to the core. その組織は芯まで腐敗している crooked 《ややインフォーマル,特にジャーナリズム,けなして》(事業を行う人が)不正を働く,悪徳の ◇The president has vowed to jail crooked executives. 大統領が不正を働く高官たちを投獄すると宣言した unprincipled 《ややフォーマル,特に書き言葉,けなして》節操のない;道徳[道義]をわきまえない ◇She saw him as an unprincipled opportunist. 彼女は彼を無節操な日和見主義者とみなした 〓 principled(GOOD5), ☞principle(PRINCIPLE1) amoral 《ややフォーマル,特に書き言葉,時にけなして》道徳[道義]心のなさを示す ◇She had led them to believe that she shared their amoral values. 彼女は彼らのような道徳心を欠いた価値観を自分も持っていると彼らに信じ込ませていた 〓 moral(GOOD5), ☞morals(PRINCIPLE1) 〓 unprincipledとamoralの使い分け:unprincipledは主に人を修飾する. ♦an unprincipled charlatan/creature/opportunist/scoundrel (節操のないいかさま師/やつ/日和見主義者/ならず者).amoralは人の態度・行為を修飾することが多い.典型的な結びつく語としてbehaviour,society,attitude,valuesが挙げられる. 小学館 オックスフォード英語類語辞典
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4世紀のエジプトの修道士エヴァグリオス・ポンティコスの著作『修行論』に八つの「人間一般の想念」として現れたのが起源である。キリスト教の正典である聖書の中で七つの罪源について直接に言及されてはいない。八つの想念はエヴァグリオスによると「貪食」、「淫蕩」、「金銭欲」、「悲嘆(心痛)」、「怒り」、「アケーディア(嫌気、霊的怠惰)」、「虚栄心(自惚れ)」、「傲慢」である[2]。
13世紀のトマス・アクィナス(1225年-1274年)も、その著作の中で、キリスト教徒の七つの枢要徳と対比する形で七つの「枢要悪」をあげている。<1>虚栄(inanis gloria)<2>嫉妬(invidia)<3>怠惰(acedia)<4>憤怒(ira)<5>食欲(avaritia)<6>色欲(gula)<7>淫蕩(luxuria)となっており、グレゴリウスが外した怠惰(アケーディア)が悲嘆に代わって復活している[3]。
暴食⇔節制
色欲⇔純潔
強欲⇔慈善・寛容
憤怒⇔忍耐
怠惰⇔勤勉
嫉妬⇔感謝・人徳
傲慢⇔謙虚
新しい七つの大罪
2008年3月、ローマ教皇庁は、今までの7つの大罪はやや個人主義的な側面があったため、これまでとは違う種類の大罪もあるということを信者たちに伝え、理解させるために以下のように新しい七つの大罪を発表した[8]。
遺伝子改造
人体実験 
※私は千葉大学医学部附属病院での精神神経科外来通院時に狡猾な医師に騙されて人体実験に利用され著しい体調不調に陥った。本来精神疾患患者を騙して人体実験に利用するのは著しい医療倫理違反であり医師法及び医療法違反でもある。千葉大学病院がやっていることはナチス・ドイツであり七三一部隊と同様であった。私は自殺未遂に追い込まれたが医師は「自傷」として処理して「患者の自殺未遂」としての一切の診察における聴取を拒否し隠蔽を図った。私は完全に身の危険を感じ医師との外来診察時の会話をスマートフォンで録音しネット公開をすることを試みた。これは私の正当防衛の主張である。
環境汚染
社会的不公正
人を貧乏にさせる事
鼻持ち��らない程金持ちになる事
麻薬中毒
遺伝子改造などは、胚性幹細胞への牽制とみられる[9]。
七つの社会的罪
マハトマ・ガンディーは1925年10月22日に雑誌『ヤング・インディア(英語版)』にて、「七つの社会的罪」(Seven Social Sins)として次の七つを指摘した[10]。
理念なき政治(Politics without Principle)
労働なき富(Wealth without Work)
良心なき快楽(Pleasure without Conscience)
人格なき学識(Knowledge without Character)
道徳なき商業(Commerce without Morality)
人間性なき科学(Science without Humanity)
献身なき信仰(Worship without Sacrifice)
「七つの社会的罪」はインドのラージ・ガートにあるガンディーの慰霊碑の外壁にも刻まれている。
なお、ガンディーがこれを指摘する数か月前に、Fredrick Lewis Donaldsonが説教の中で同様の内容を発表している。そのため、ガンディーがこの概念を作ったわけではないと考えられる。
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Soma Oishi
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holycatfriend · 2 years
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Consideration of 'love of impression manipulation by standing position', 'love of Christ' and 'love of Jesus'
The apocalypse will come to humans who make love into impression manipulation by standing position.
Those who speak of false love will perish from the world.
The end times will come to the false lover.
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holycatfriend · 2 years
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神の愛は世界を救う!しかし24時間テレビの愛は地球を救うか?
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あいとく【愛徳】 caritas カトリック神学で三対神徳(信徳,望徳,愛徳)の一つとされるもの。新約聖書のなかにあるギリシア語の agapēの翻訳であるが,カトリック神学の概念としては,神の愛が人間に与えられるのに呼応した,神に対する人間の愛をいう。⇨アウグスチヌスは,愛徳を人間を神へと統合させる徳とし,中世神学者,特に⇨トマス・アクィナスは,愛徳を他のすべての徳の基礎であり根拠であるとした。 『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.
アガペー agapē 新約聖書(特にコリント人への手紙1,ヨハネ福音書,ヨハネ書簡など)で愛を意味するギリシア語。ラテン語では amorあるいは caritasと訳される。カトリック神学では caritasは信仰 fides,希望 spesと並ぶ基本的な徳の一つであるが(→愛徳),新約聖書のアガペーは,神の愛,キリストの愛,キリスト信者同士の愛のすべてについて用いられる。キリスト信者同士の愛をさすときには,本能的,衝動的愛をも意味するエロス erōsと区別して用いられており,パウロはこれを最大の徳と呼んでいる(コリント人への手紙1)。またアガペーは初期のキリスト信者の親善,博愛のための会食をもいい,これは初め聖餐式と緊密な関連をもっていたが,3世紀頃から次第に分離され,キリスト教典礼とは別の会食となった。 『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.
愛について
神の愛があり、人の愛がある。又新約聖書のアガペーは,神の愛,キリストの愛,キリスト信者同士の愛のすべてについて用いられそれは三位一体のペルソナの在り方を示している。
ペルソナ persona; person 位格ともいう。本来の意味は俳優のかぶる仮面。そこから奥にある実体を意味することになり,個的人格 personの意となる。キリスト教神学におけるペルソナ(位格)とは,⇨三位一体論に関して,神の唯一の神性のなかの三つの「私」といえる基体の意であり,客観的に1個のそれ自体で完結している全体,直接神に向ってつくられた唯一のものとして,それ自体で完成した理性的な単一実体 substantiaを意味する。これはテルトゥリアヌスによるとされ,以後この語は西欧神学,哲学において,認識と愛とをそなえた精神的実体の意で用いられた。⇨ユングの心理学では,表に現れた仮面として,社会的な⇨パーソナリティを意味する。 『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.
さんみいったいろん【三位一体論】 De trinitate 400~419年頃にかけて書かれた⇨アウグスチヌスの円熟期の労作。まず聖書の記録に従って三位一体すなわち3つのペルソナ tres personae,1つの実体 una substantiaの教義の解明に努め,次いでこの教義をめぐる教父たちの諸説に論及し,最後に三位一体の秘儀について考察している。ギリシア教父たちはおおむね父と子と聖霊の3つのヒュポスタシス(個性的実体)から出発して神の唯一性を考察し,3神論に陥る危険を思弁的に克服しようとする傾向にあったが,彼は逆に神の唯一性そのものから出発,3つのペルソナ(父,子,聖霊)を神の存在そのものにおける関係概念として説明することによって3神論への傾斜を避け,啓示と救いの働きにおける面を強調する(経綸的)三位一体論の立場を正統とした。また彼は三位一体の秘儀は啓示と信仰のもとでも理性による十分な把握はむずかしいとし,神の三位一体性を人間の心的活動(記憶と悟性と意志,あるいは精神と認識と愛)の三位一体性と類比的に説明している。なお“tres personae,una substantia”という表現はすでにテルトゥリアヌスに見出されるが,これを明確に定式化したのはアウグスチヌスである。 『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.
さんみいったい【三位一体】 Trinitas; Trinity キリスト教の教理で,一つの神格にある三位格(→ペルソナ)としての父と子と聖霊のまとまりをさす。三位一体という言葉も,この教理を明記した個所も新約聖書の中には出てこない。また,イエスもその弟子たちにも以下のように旧約聖書の中で記されている神の唯一性を否定しようという意図は見られなかった。「聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである」(申命記6・4)。しかし,初代キリスト教会はキリストの再臨と想定されていた霊が来ることと神の力とのかかわりあいについて対処しなければならなかった。つまり,聖霊にかかわる問題であり,聖霊が来ることは,ペンテコステ(→五旬節)の祝いと関係している。父と子と聖霊の関係は,大宣教命令として知られる次の新約聖書の個所でも関連づけられている。「それゆえ,あなたがたは行って,あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして,父,子,聖霊の御名によってバプテスマを授け(なさい)」(マタイ 28・19),そしてパウロによる祝祷である「主イエス・キリストの恵み,神の愛,聖霊の交わりが,あなたがたすべてとともにありますように」(IIコリント 13・13)。このように,新約聖書は三位一体の教理の基礎を確立している。 この教理は何世紀にもわたり,多くの論争を引起しながら徐々に形づくられていった。当初,旧約聖書から受け継いだ一神教的要求と聖書の教えをギリシア=ローマ的宗教に解釈する必要性から⇨ロゴス(言葉)としてのキリストの神性は頂点に立つ神の下に位置するものと解釈されていた。また一方,父,子,聖霊は一つの神のうちにある三つの位格をそれぞれ啓示しているが,神そのものが分れて存在するものではないとする別の解釈もあった。前者には父,子,聖霊にはっきりとした区別を認め,それぞれが同等ではなく,したがって神の単一性も否定(聖子従属説)し,後者には神の単一性を認めるが,それぞれの位格が異なる(様態説)という特徴がある。父,子,聖霊の違いと単一性の論争が,一つの実体において三つの位格が存在するという教理にまとめられ,一般に認められるようになったのは4世紀になってからである。 325年の⇨ニカイア公会議は,聖霊についてはほとんど言及されなかったが,子は父とは本質において同一である(ホモウシオス)という,教理解釈にとって重要な信条を発表した。その後の半世紀の間,⇨アタナシウスはこの⇨ニカイア信条を擁護し,さらに教理を掘り下げたが,4世紀の終りになり,⇨カエサレア(カッパドキアの)の⇨バシレイオス,ニュッサのグレゴリオス,およびナジアンゾスのグレゴリオス(→カッパドキアの3教父)の指導の下,三位一体の教理は本質的に現在と同じ枠組みをとるようになった。 『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.
「日本テレビ放送網 24時間テレビ 愛は地球を救う!」に愛は存在するだろうか?
ペルソナは神の愛、キリストの愛、キリスト信仰者の愛の3つの愛があって三位一体のペルソナがあると言える。
日本テレビ24時間テレビは愛を謳いチャリティーを自称するが神への信仰はあるだろうか?
神を信仰しないものに神の愛はなく、それは神の愛に呼応した人の愛も存在しないことを示している。
神の愛も人の愛も存在しないということはキリストが存在しないことを示している。
そしてキリスト信仰者の愛も存在しない。
神への信仰がなくては全ての愛の無いチャリティ番組となるのだ。
神の愛のないチャリティはサタンの愛のチャリティである。
サタン Satan ヘブライ語 Sātānに由来し「敵対する者」を表わす。旧約聖書では「敵」「仇」など人間について用いられた例も多いが,『ゼカリヤ書』(3・1~2),『ヨブ記』などユダヤ教後期の聖典では,超人間的存在とされている。しかし,旧約聖書では,これもヤハウェによる試練として人間に課されるものであり,新約聖書にみられる超自然的「⇨悪魔」としてのサタンの観念は,善悪二元論に立つペルシア宗教の影響である。新約聖書では,サタンは神の計画の成就を妨げ,キリストを試し,信仰者を誘惑するものとされるが,ここでも神と二元的に対立するものではなく,最後には神の支配下におかれ,滅ぼされる。イスラム教でもユダヤ教,キリスト教,ゾロアスター教などの影響を受け,悪をなすシャイタン(サタン)を教義のなかにもっている。これらは古来文学や絵画などで描かれ,ルキフェル,メフィストフェレスなどは有名である。 『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.
Sa・tan [séitn]〓 ―n. 1 (キリスト教で)サタン,悪魔(▶the devil の固有名詞);悪魔のような人間:Satan reproving sin 罪を責める悪魔(自分の弱点・欠点を棚に上げて人を非難する人のこと):〓 2 〖軍事〗 セイタン:旧ソ連の ICBM の NATO コード名. [900年以前. 中期英語,古期英語<後期ラテン語<ギリシャ語 Satân,Satán<ヘブライ語 śātān 敵] 『ランダムハウス英和大辞典(第2版)』 小学館
*Sa‐tan/séɪtṇ/〓 〖初12c以前;ヘブライ語 śāṭān(敵)〗 〓〓 1 生れつきの[計算された]邪悪さ. 2 ⦅正式⦆(ユダヤ教・キリスト教でいう)悪魔《◆Luke 4:2-13》(cf. Lucifer), 魔王(the Devil)〓 『ジーニアス英和大辞典 用例プラス』 大修館書店
アガペー〖(ギリシャ)agapē〗 〓真の愛。神的愛。 〓神の、人間に対する自発的、無条件的絶対愛。新約聖書の中でのイエス=キリストの受難と復活に象徴的に示される愛。エロスと区別される。 〓キリスト教会で信徒が共にする食事。愛餐(あいさん)。 『大辞泉 第二版』 小学館
a・ga・pe² /ɑːgáːpeɪ, áːgəpèɪ | ǽgəpi, ―pèɪ/ ―n. (pl. a・ga・pae /ɑːgáːpaɪ, áːgəpàɪ, ―pìː | ǽgəpìː, ―pàɪ/, a・ga・pai /ɑːgáːpaɪ, áːgəpàɪ | ǽgəpìː/, ~s) 〖キリスト教〗 1 愛餐(あいさん) (love feast) ⦅初期キリスト教徒の会食で, 祈り・歌・聖書朗読で過ごした⦆. 2 アガペー, 愛, (人間に対する)神の愛; (人間の没我的な)隣人愛, 兄弟愛⦅同じくギリシャ語に由来するエロス (Eros) と区別して, キリスト教的愛を意味する⦆. a・ga・pe・ic /ɑːgəpéɪɪk, æg― | ægəpíːɪk, ―péɪɪk←/ adj. à・ga・pé・i・cal・ly adv. 〖⦅1607⦆ ▭ Gk agápē brotherly love, (pl.) agápai love feast ՟ agapȃn to love ՟?〗 『新英和大辞典 第6版』 研究社
char・i・ty [tʃǽrəti]〓 ―n. (pl. ―ties) 1 慈善,施し,救恤(きゅうじゅつ):〓 2 (困窮者・貧者への)施し物,救助金[品],慈善的寄付,浄財(alms):〓 3 慈善行為,慈善事業. 4 慈善基金;慈善団体,慈善施設,養護院,施療院:〓 5 公の救済[扶養,援助]:〓 6 慈善的援助[救済]を受ける人:〓 7 慈善心,慈悲心,思いやり,親切心,博愛:〓 8 (他人に対する)寛大,寛容,寛容の精神:〓 9 キリスト教的愛,カリタス(caritas),同胞愛,隣人愛,人間愛,アガペー(agape). cf.〖聖書〗 I Cor.13:〓 10 =charity stamp. 11 =Jacob’s―ladder. [1154.中期英語 charite<古期フランス語<ラテン語 cāritās〔cārus「愛すべき」(CARESS,CHERISH,KAMA²,WHORE と同根)より〕] char・i・ty・less ―adj. 『ランダムハウス英和大辞典(第2版)』 小学館
サタンの愛のチャリティとは?
サタンの愛のチャリティとは神に対して金を積んでマウンティングする邪な心理の現れであり誰も救われないだろう。
「人の金」より「神への信仰」であり「人の金」より「神の福音」である。
神の愛無くして人間の愛は無い。
神は神を至上として信仰するものを愛する。
神の愛があって人間の愛はあり得る。
※サタンの愛のチャリティ番組は特殊詐欺の番組でしかない。
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Soma Oishi
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holycatfriend · 2 years
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マウンティング心理学入門
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マウンティング心理学批判序説
マウンティング心理学に関する様々な取り組みは神をマウンティングする邪な心理を至上として「サタンがマウンティングする邪な心理としてのカルト術」の教祖と教理(人の言葉)による人による「支配と命令と服従」の在り方の批判を含むことになります。
ただマウンティング心理学の大前提は神への信仰こそが至上であるという至上命令です。
神への信仰とは神の王国を至上とする世界認識でありサタンがマウンティングする邪な心理は神の真理をマウンティングする自分本意な詐欺行為の認識となります。
神の真理をマウンティングする心理が医科学者のことであるなら彼らはもうイエスの言う死人の存在(悪魔)なのです。
神への信仰がなければ神の真理はわかりません。
神の真理は普遍の真理であり人(ペルソナ)の真理であるのです。
そして神童イエスは死人の中から起こされるのです。
神をマウンティングする邪な心理では神の真理は受肉しません。
特殊詐欺の真理は人(ペルソナ)にその鵜呑みを迫るのです。
特殊詐欺の真理はサタンがマウンティングする邪な心理を嫌悪して禁ずる人(ペルソナ)に吟味され批判されれば馬脚を露わすからです。
*dis・clo・sure /dɪsklóUʒɚ | ‐ʒə/ 〓 —〓 (~s /~z/; 〓 disclóse) 1 〓 (秘密などを)あばくこと, 公表; (情報の)公開, 開示 (of). 2 〓 発覚した事柄; 公開情報. 『ルミナス英和辞典(第3版)』 研究社
ろ‐てい【露呈】 〘名〙(スル) 隠れていた事柄が表面に現れ出ること。また、さらけ出すこと。「矛盾が―する」「本性を―する」 『大辞泉 第二版』 小学館
ろてい²【露呈】 exposure; disclosure. ~する 〔ある事が〕 come 「out [to light]; be revealed; 〔ある事を〕 expose; disclose; reveal [⇒ばくろ]. 『新和英大辞典 電子増補版』 研究社
○馬脚(ばきゃく)を露(あら)わ・す 《馬脚〓が姿を見せてしまう意から》隠していたことがあらわれる。化けの皮がはがれる。しっぽを出す。 ◈「尻尾を出す」との混同で、「馬脚を出す」とするのは誤り。 『大辞泉 第二版』 小学館
ば‐きゃく【馬脚】 〓馬のあし。 〓芝居で、馬のあしを演じる役者。 『大辞泉 第二版』 小学館
詐欺だとバレるのです。
ば・れる 〘動ラ下一〙 〓秘密や隠し事などが露見する。発覚する。「うそが―・れる」「正体が―・れる」 〓釣り針にかかった魚が途中で逃げる。「水面近くで―・れる」 〓相談などが、まとまらずに破れる。「相談ガ―・レル」〈和英語林集成〉「身請けの―・れたる女郎を賦すと見えたり」〈洒・蕩子筌枉解〉 〓卑猥な話をする。下品なことを言う。「わざと―・れたる詞付き」〈浄・鎌田兵衛〉 『大辞泉 第二版』 小学館
ばれる〔露見する〕 come out; be out; be found out; be discovered; come to light; be revealed 『自然科学系和英大辞典 増補改訂新版(第4版)』 小倉書店
神学のペルソナ
神を至上にすることは神が人にマウンティングすることを示しています。
それが三位一体のペルソナです。
神がマウンティングするものとしてあるのが聖人のペルソナなのです。
さんみいったい【三位一体】 Trinitas; Trinity キリスト教の教理で,一つの神格にある三位格(→ペルソナ)としての父と子と聖霊のまとまりをさす。三位一体という言葉も,この教理を明記した個所も新約聖書の中には出てこない。また,イエスもその弟子たちにも以下のように旧約聖書の中で記されている神の唯一性を否定しようという意図は見られなかった。「聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである」(申命記6・4)。しかし,初代キリスト教会はキリストの再臨と想定されていた霊が来ることと神の力とのかかわりあいについて対処しなければならなかった。つまり,聖霊にかかわる問題であり,聖霊が来ることは,ペンテコステ(→五旬節)の祝いと関係している。父と子と聖霊の関係は,大宣教命令として知られる次の新約聖書の個所でも関連づけられている。「それゆえ,あなたがたは行って,あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして,父,子,聖霊の御名によってバプテスマを授け(なさい)」(マタイ 28・19),そしてパウロによる祝祷である「主イエス・キリストの恵み,神の愛,聖霊の交わりが,あなたがたすべてとともにありますように」(IIコリント 13・13)。このように,新約聖書は三位一体の教理の基礎を確立している。 この教理は何世紀にもわたり,多くの論争を引起しながら徐々に形づくられていった。当初,旧約聖書から受け継いだ一神教的要求と聖書の教えをギリシア=ローマ的宗教に解釈する必要性から⇨ロゴス(言葉)としてのキリストの神性は頂点に立つ神の下に位置するものと解釈されていた。また一方,父,子,聖霊は一つの神のうちにある三つの位格をそれぞれ啓示しているが,神そのものが分れて存在するものではないとする別の解釈もあった。前者には父,子,聖霊にはっきりとした区別を認め,それぞれが同等ではなく,したがって神の単一性も否定(聖子従属説)し,後者には神の単一性を認めるが,それぞれの位格が異なる(様態説)という特徴がある。父,子,聖霊の違いと単一性の論争が,一つの実体において三つの位格が存在するという教理にまとめられ,一般に認められるようになったのは4世紀になってからである。 325年の⇨ニカイア公会議は,聖霊についてはほとんど言及されなかったが,子は父とは本質において同一である(ホモウシオス)という,教理解釈にとって重要な信条を発表した。その後の半世紀の間,⇨アタナシウスはこの⇨ニカイア信条を擁護し,さらに教理を掘り下げたが,4世紀の終りになり,⇨カエサレア(カッパドキアの)の⇨バシレイオス,ニュッサのグレゴリオス,およびナジアンゾスのグレゴリオス(→カッパドキアの3教父)の指導の下,三位一体の教理は本質的に現在と同じ枠組みをとるようになった。 『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.
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サタンがマウンティングする邪な心理としてのカルト術
サタンがマウンティングすることで世界を認識する学問は神をマウンティングする邪な心理としてあるカルト術です。
それはサタンがマウンティングする邪な心理としてあるカルト術の教祖とその教理(人(獣)の言葉)でしかありません。
「「サタンの術」=「神をマウンティングする邪な心理としてあるカルト術」」となっています。
しかしそれはサタンが神をマウンティングする邪な心理であり神をマウンティングすることは最高に悪魔(BITCH)といえる行為なのです。
サタンがマウンティングする行為は最も神を冒涜しています。
金を積んでサタンが神をマウンティングする邪な心理でもあるからです。
人(サタン)の金で神(ペルソナ)をマウンティングする邪な心理は人(サタン)の傲慢の現れです。
神は至上のものです。
その神への信仰が神のロゴスの受肉と「無知の知」の知識の至高への導きの福音を齎すのです。
「人(サタン)の金」より「神への信仰」であり「人(サタン)の金」より「神の福音」なのです。
マウンティング〖mounting〗 多くの哺乳類の雄が交尾のときにとる、ほかのものに馬乗りになる行動。サルでは個体間の優位性を誇示するためにも行う。背乗り。 『大辞泉 第二版』 小学館
最高に悪魔(BITCH)な獣とはサタンのカルト術を示している。
悪魔術はサタンが神をマウンティングする邪な心理のカルト術を示しています。
サタンをゴリアテのごとく討ち取る悪魔祓いはエクソシストと言われそれはマウンティング心理学に依って可能となります。
例を挙げればフジサンケイグループの韓国への異常な追求は悪魔のような人間と言えます。
それは敵に対して容赦しない英雄ではなく、罪を責める悪魔(自分の弱点・欠点を棚に上げて人を非難する人のこと)であるということです。
日本の現状にある弱点・欠点を棚に上げて韓国を徹底的に非難します。
これは敵に対してマウンティングする英雄的心理を装ったサタン(ヘブライ語 Sātānに由来し「敵対する者」を表わす。)が神をマウンティングする邪な心理なのです。
要は日本は敵対する韓国へマウンティングする英雄的心理ではなく、サタンが神をマウンティングする邪な心理をしているのです。
神の敵であるサタンが神をマウンティングする邪な心理を持つカルト術師の存在です。
それは神をマウンティングする邪な心理を持つ悪魔(BITCH)な獣が人間(愛徳の善人)の中に潜んでいることを示しています。
それはアンチキリストである愛徳否定者です。
その代表がフジテレビのサタン番組なのです。
日(ひ)出(い)ずる国はLucifer((明けの)明星 (Venus))である。
日本が悪魔が神をマウンティングする邪な心理のカルト術国家であるのは日(ひ)出(い)ずる国から来ていると言える。
○日(ひ)出(い)ずる国 日本の美称。 『大辞泉 第二版』 小学館
ひいずる‐くに【日出づる国】 ‥イヅル‥ 日本の美称。ひのもと。古代、中国に対して用いた称。 『広辞苑 第六版』 岩波書店
Lucifer /ʼlu:sɪfə/ ◆noun 1.the Devil. 2.literary the planet Venus when it rises in the morning. 3.(lucifer) archaic a match. ―ORIGIN OE, from L., ‘light―bringing, morning star’, from lux, luc― ‘light’ + ―fer ‘bearing’. 『The Concise Oxford English Dictionary, Eleventh Edition』 Oxford University Press
ひ¹【日】 1 〔太陽〕 the sun; 〔日光〕 sunlight; 〔日差し〕 a ray of sunlight; the rays of the sun; sunrays. 〓~出ずる[没する]国 the Land of the 「Rising [Setting] Sun. 『新和英大辞典 電子増補版』 研究社
Sa・tan [séitn]〓 ―n. 1 (キリスト教で)サタン,悪魔(▶the devil の固有名詞);悪魔のような人間:Satan reproving sin 罪を責める悪魔(自分の弱点・欠点を棚に上げて人を非難する人のこと):〓 2 〖軍事〗 セイタン:旧ソ連の ICBM の NATO コード名. [900年以前. 中期英語,古期英語<後期ラテン語<ギリシャ語 Satân,Satán<ヘブライ語 śātān 敵] 『ランダムハウス英和大辞典(第2版)』 小学館
*Sa‐tan/séɪtṇ/〓 〖初12c以前;ヘブライ語 śāṭān(敵)〗 〓〓 1 生れつきの[計算された]邪悪さ. 2 ⦅正式⦆(ユダヤ教・キリスト教でいう)悪魔《◆Luke 4:2-13》(cf. Lucifer), 魔王(the Devil)〓 『ジーニアス英和大辞典 用例プラス』 大修館書店
サタン Satan ヘブライ語 Sātānに由来し「敵対する者」を表わす。旧約聖書では「敵」「仇」など人間について用いられた例も多いが,『ゼカリヤ書』(3・1~2),『ヨブ記』などユダヤ教後期の聖典では,超人間的存在とされている。しかし,旧約聖書では,これもヤハウェによる試練として人間に課されるものであり,新約聖書にみられる超自然的「⇨悪魔」としてのサタンの観念は,善悪二元論に立つペルシア宗教の影響である。新約聖書では,サタンは神の計画の成就を妨げ,キリストを試し,信仰者を誘惑するものとされるが,ここでも神と二元的に対立するものではなく,最後には神の支配下におかれ,滅ぼされる。イスラム教でもユダヤ教,キリスト教,ゾロアスター教などの影響を受け,悪をなすシャイタン(サタン)を教義のなかにもっている。これらは古来文学や絵画などで描かれ,ルキフェル,メフィストフェレスなどは有名である。 『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.
Lu・ci・fer /lúːsəfər/ 1 ルシフェル《堕落した大天使で,Satan と同一視される;Isa 14:12 の誤解から》〓 2a 〖ロ神〗 ルーキフェル《ギリシアの Phosphor に当たる》. b (明けの)明星 (Venus). 3 [l―] 黄燐マッチ,《広く》摩擦マッチ (friction match) (=l~ màtch). Lu・ci・fe・ri・an /lùːsəfÍəriən/ a Lucifer の,魔王のような,傲慢な. [OE<L=light bringing, morning star (LUX, L fero to bring)] 『リーダーズ英和辞典(第3版)』 研究社
Lucifer /ʼlu:sɪfə/ ◆noun 1.the Devil. 2.literary the planet Venus when it rises in the morning. 3.(lucifer) archaic a match. ―ORIGIN OE, from L., ‘light―bringing, morning star’, from lux, luc― ‘light’ + ―fer ‘bearing’. 『The Concise Oxford English Dictionary, Eleventh Edition』 Oxford University Press
ルキフェル Lucifer ギリシアのフォスフォロスのローマ名で,明けの明星。曙女神の息子とみなされ,通常,たいまつを手にした青年の姿で表わされ,キリスト教の伝承では,ルキフェルは,「黎明の子,明けの明星よ,あなたは天から落ちてしまった」という『イザヤ書』 14章 12の章句に基づいて,堕天使の頭サタンと同一視され,もっぱらその別名として用いられるようになった。 『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.
Ve・nus /víːnəs/ ―n. (pl. ~・es, 4 では ve・nus・es, ven・er・es /vέnərìːz/) 1a 〖ローマ神話〗 ウェヌス, ヴィーナス ⦅春・花園・豊饒の女神; 後にギリシャ神話の愛・美の女神 Aphrodite と同一視された⦆. b 美女, 美人〓 2 〖天文〗 金星, 太白星 ⦅太陽系で内側から 2 番目の惑星; Hesperus Vesperおよび Lucifer (明けの明星)として現れる⦆. 3 〖錬金術〗 銅 (copper). 4 [v―] 〖貝類〗 =Venus shell. Vénus and Adónis 「ヴィーナスとアドーニス」 ⦅Shakespeare 作の物語詩 (1592‐93)⦆. Vénus de Mílo [the ̶] =VENUS of Melos [Milo]. Vénus of Mélos [Mílo] [the ̶] 「ミロのビーナス」 ⦅有名な古代ギリシャの彫刻, 紀元前 2 世紀作; 1820 年 Melos [Milo] 島で発見, Louvre 博物館所蔵; Venus de Milo, Aphrodite of Melos ともいう⦆. 〖OE ~ ▭ L Venus: venus physical love (՟ IE *wen― to desire: ⇨wish) の擬人化: cf. venerate, venereal, venial〗 『新英和大辞典 第6版』 研究社
ex・or・cist [éksᴐːrsist,―sər―]〓 ―n. 1 悪魔払いの祈祷(きとう)師,悪魔払い師,エクソシスト. 2 〖ローマカトリック〗 祓魔(ふつま)師:下級聖品4段のうちの第2段に属する聖職位. cf. ACOLYTE 2,LECTOR 2,OSTIARY 1. ◊[映画]The Exorcist『エクソシスト』W.Friedkin 監督,米国のホラー映画(1973,II は1977,III は1990). [c1384.中期英語<後期ラテン語 exorcista<ギリシャ語 exorkistḗs.⇀EXORCISM] 『ランダムハウス英和大辞典(第2版)』 小学館
神の学問
学問とは神をマウンティングする邪な心理を嫌悪して禁じることで現実を批判し吟味することを示しています。
其の基本はサタンがマウンティングする邪な心理を禁じることで得られる神のロゴスの受肉である神の叡智です。
神の敵の存在の認識なのです。
神の奇跡は齎されます。
学問とは「神のロゴス」の受肉であり、「無知の知」の知識です。
それは「持たざるものは幸いである」と言えることなのです。
幸いの詞
「幸いだ、乞食たち、神の王国はそのあなたたちのものだ。」
「幸いだ、今飢えている者たち、あなたたちは満腹するだろう。」
「幸いだ、今泣いている者たち、あなたたちは(大)笑いするだろう。」
「幸いだ、あなたたちは。
人々があなたたちを憎む時、そして人の子のゆえにあなたたちを排斥し、侮辱し、あなたたちの名を悪しきものとして唾棄する時は。
その日には喜べ、そして跳ね回れ。
見よあなたたちの報いは天において多いからだ。
実際、彼らの父祖たちは、預言者たちに同じようにしていたのだ。」
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神をマウンティングするサタンの悪魔術(カルト術)と対立
それはサタンが神をマウンティングする邪な心理によるカルト術と決定的に対立します。
何故なら神をマウンティングする邪な心理を司るカルト術の教祖とその教理(人(サタン)の言葉)は、サタンがマウンティングする邪な心理としてのカルト術の内容のエピステーメーのヘゲモニーの支配を目的としていません。
それらカルト術はサタンが神をマウンティングする邪な心理のカルト術として存在し続けることを至上とするものとなっているからです。
要はサタンが神をマウンティングする邪な心理のカルトとしての在り方が至上とされる。
人々をサタンが神をマウンティングする邪な心理で支配することが至上とされる。
これが橋下徹氏が言う「統治」であり政治主導によるサタンが神をマウンティングする邪な心理です。
政治家がサタンが神をマウンティングする邪な心理をするのです。
しかし現在の政治家は二世議員やタレント議員などの特権階級です。
特権階級のサタンが神をマウンティングする邪な心理が橋下徹氏が言う「統治」であり民主主義なのです。
法の支配は神を至上とした信仰によらなければサタンが神をマウンティングする邪な心理に依って立法された法の支配になるのです。
神を至上とした法の支配とサタンが神をマウンティングする邪な心理による法の支配はその世界が決定的に異なっています。
神を至上とすれば神が人(獣)をマウンティングしてあるペルソナは人(獣)が神をマウンティングする邪な心理を嫌悪し禁じます。
そのような世界は神の下の王の世界となり神の王国となります。
一般に王権神授説とは神を至上としたものであり英国王室の根拠は至上の神への信仰にあるのです。
それは現在の日本とは大きく異なっています。
現在においては文化レベルの違いといえます。
神の王国ではサタンが神をマウンテンティングする邪な心理は嫌悪し禁じられます。
それは「ペルソナの律法(立法)」が神をマウンティングする邪な心理を嫌悪し禁じるのです。
神を至上とするのが信仰だからです。
神への信仰故に神のロゴスは受肉し又「無知の知」の知識は齎され神の叡智と神の奇跡が得られる。
それは神の法(摂理)なのです。
それが至上の神がマウンティングした聖人のペルソナです。
サタンが神をマウンティングする邪な心理の世界は自分の弱点・欠点を棚に上げて人(ペルソナ)を非難する人ことであり立法においても同様であるのです。
人(サタン)の法の支配を盛んに訴えてもそれは人(サタン)の立法によるサタンが神をマウンティングする邪な心理であり民を支配するサタンのカルト術でしかありません。
悪魔術なのです。
悪魔術とは人(ペルソナ)を責めながら実はサタンが神をマウンティングする邪な心理をしていることを指します。
※Satan reproving sin 罪を責める悪魔(自分の弱点・欠点を棚に上げて人を非難する人のこと)
しかしそれは神の民主主義をサタンが神をマウンティングする邪な心理でしかありません。
橋下徹氏はサタンの悪魔術でありデマゴーグなのです。
その邪な心理が神をマウンティングする邪な心理のカルト術でありサタンの悪魔術なのです。
橋下徹の言う悪魔(BITCH)な獣の「腹黒政治」です。
サタンが神をマウンティングする邪な心理がサタンのカルト術の存在として至上となった社会主義には神を至上とする聖なる信仰の存在が不純物となるのです。
サタンが神をマウンティングする邪な心理のサタンのカルト術に於ける100%純粋な知の体系でサタンが神の世界をマウンティングする。
そして邪な心理が邪なカルト術を至上としてそれを穢れなき「純粋な世界認識」であると主張します。
それは神への信仰に拠っている「神のロゴス」の受肉も「無知の知」の知識も存在しないものであり「純粋な鵜呑みできる「世界認識と世界知識」」となるのです。
神の言葉は人の言葉ではない。
神の言葉は神のロゴスの受肉と「無知の知」の知識の獲得である。
人(サタン)の言葉は神をマウンティングする邪な心理のカルト術であり神の民を人(サタン)の民に堕して支配するカルト術のことである。
人(サタン)の言葉にロゴスも叡智もなく人(獣)に言葉の鵜呑みを迫り、カルト術の教祖と教理(人(サタン)の言葉)で世界を司っているのだ。
しかしその言葉は特殊詐欺でしか無いのだ。
神の言葉はロゴスであり人(サタン)の言葉は特殊詐欺である。
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村上春樹の鵜呑みできる魚-マウンティングフィッシュ
村上春樹が聖書に存在する自らの作品と同様の描写を指摘しました。
「空から魚が降ってくる」というシーンです。
これは「鵜呑みを賛美」するシーンに村上春樹は使用しています。
魚をマウンティング心理の至上とし神をマウンティングする邪な心理のカルト術として示しその教祖と教理(人(サタン)の言葉)として鵜呑みを命令しているのです。
それが「鵜呑みできる魚」である「マウンティングフィッシュ」です。
村上春樹等の主張は人間(サタン)の力で作った純粋な知であるということだろうと思います。
神が介在しない人(サタン)の知の力です。
しかしそれは人(サタン)の傲慢の象徴である「バベルの塔」です。
その特殊詐欺はすでに露呈しています。
バレバレでもやり抜くのが特殊詐欺の所以です。
「立ち位置の印象操作」と「演技」
立ち位置��印象操作で特殊詐欺を行います。
しかしこれは演技ではありません。
人(サタン)を立ち位置の印象操作でマンティングするカルト術です。
これは神をマンティングする邪な心理のカルト術であり特殊詐欺です。
シェークスピアの演技は神が人をマウンティングする三位一体のペルソナである。
シェークスピアの演技は立ち位置の印象操作ではありません。
神が演技役者の中身を問うのです。
立ち位置の印象操作は演技ではなく特殊詐欺であり演技とは神が人にマンティングしたペルソナとしての唯一性なのです。
教祖村上春樹とその教理(人の言葉)
※彼は早稲田大学文学部で演劇を学んだらしいが立ち位置の印象操作とペルソナの演技を理解していないようだ。彼の作品は特殊詐欺であり文学足り得ていないのだ。きっと彼は神がマウンティングした三位一体のペルソナを理解していないのだろう。彼はギリシャ演劇(悲劇・喜劇)を主張するだろうがギリシャには「無知の知」の知識を主張したソクラテスがいるのだ。バカバレなんだよ。
それを教祖の教理(人(サタン)の言葉)にして鵜呑みを迫ります。
村上春樹作品にはおかしなシーンがいっぱいあります。
しかしそれを言ってはいけないという教理(人(サタン)の言葉)があります。
ハルキストの美人読者と付き合ってもいいけれど村上春樹本人にも作品にも信仰はありません。
読者をマウンティング心理学としての「神のロゴス」の受肉にも「無知の知」にも決して導かず神の叡智も神の奇跡も否定します。
村上春樹が聖書を語ること自体が詐欺師の証明なのです。
彼は信仰の対象ではなく崇拝(神をマウンティングする邪な心理としてのカルト術)の教祖の存在です。
村上春樹ワールドは教理(人(サタン)の言葉)なのです。
村上春樹はマウンティングフィッシュなのです。
純粋の逆転認識
「神(ペルソナ)の真理(ロゴス)」が純粋であり「人(サタン)の真理(人(サタン)の言葉)」は詐術だということです。
詐術を100%信じることをどうして人(サタン)は求めるのでしょうか?
それが鵜呑み出来る100%純粋な人(サタン)の知識とされるからです。
神をマウンティングする邪な心理は「神のロゴス」の受肉も「無知の知」の知識(ロゴス)も否定します。
全て「鵜呑みの知識(人(サタン)の言葉)」なのです。
例えばオウム真理教事件で多くのオウム信者たちはマインドコントロールされているとされていました。
これは「鵜呑み知識(人(サタン)の言葉)」の礼賛で起こったカルト術中状態です。
しかしおかしいのは神をマウンティングする邪な心理を嫌悪し禁じなければ彼らのマインドコントロールは真に解けないということです。
彼らを「神(ペルソナ)のロゴス」の受肉と「無知の知」の知識へ導く信仰がなければマインドコントロールは解けない。
それにはマウンティング心理学が必要です。
神(ペルソナ)をマウンティングする邪な心理の問題はそのような信仰への導きというフロイト精神分析の大課題へと向かうこととなるのです。
信仰を否定しては誰一人救われません。
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マスメディアの詐術としての「問題」化
課題としてあるとすればサタンが神をマウンティングする邪な心理を至上とした邪な問題化のサタンが神をマウンティングする邪な心理としてのカルト術の暴露の必要性であろうと思います。
例えば一部マスメディアは問題化と称してサタンが神の世界をマウンティングした邪な心理を至上として邪な情報をサタンが神をマウンティングする邪な心理のカルト術として報道と称します。
そのサタンが神をマウンティングする邪な心理としてのカルト術には教祖がいて教理(人(サタン)の言葉)がありますが決して視聴者を信仰へ導きません。
それはサタンの言葉は神をマウンティングする邪な心理としてのカルト術でしかありませんので当然そこに教祖が居て教理(人(サタン)の言葉)がありそれは支配と命令と服従を迫ります。
要は「放送(人(サタン)の言葉)の鵜呑み」を迫るのです。
そして信仰(ロゴス)ではなく言葉だと主張します。
NHK(日本放送協会)はアパルトヘイト廃止の英雄ツツ大司教の死に関して彼の信仰(神のロゴス)ではなく彼の言葉(サタンの命令)が重要であるとする朝の世界報道番組でのNHK解説委員の強硬な主張がありました。
これは「信仰(ロゴス)」ではなく「言葉の鵜呑み」だとする主張でありテレビ放送の信仰をマウンティングする邪な心理のカルト術の存在を示しています。
NHK解説委員は教祖であり教理(人の言葉)の鵜呑みを命令します。
彼らにマウンティング心理学はありません。
彼ら教祖は教理を「神のロゴス」の受肉と詐称し又「無知の知」の知識(ロゴス)と詐称して放送しますがそれは「人(サタン)の言葉の鵜呑み」を示しています。
しかし教理(人(サタン)の言葉)と信仰の決定的違いがあります。
教理はカルト術であり「神のロゴス」の受肉と「無知の知」の知識(ロゴス)へ決して人を導かず「教理(人の言葉)の鵜呑み」を命じるところです。
鵜▵呑 (うのみ) 〓①うが魚を飲むように、かまずに飲みこむこと。まるのみ。 ②物事をじゅうぶん理解せず、そのまま受け入れること。 ③原案などをそのまま採用すること。 『新漢語林』 大修館書店
う‐のみ【鵜呑み】 ①鵜が魚を呑むように、噛(か)まずに呑み込むこと。まるのみ。日葡辞書「ウノミヲスル」 ②人の言うことなどを、よく検討・理解せずにそのまま採り入れること。浮世風呂(3)「半二が隠語を—にするとも」。「説明を—にする」 『広辞苑 第六版』 岩波書店
〓〔無批判に受け入れること〕 ◾彼女は新聞に出ていることを何でもうのみにする She swallows [accepts] whatever she reads in the newspaper without thinking. 『プログレッシブ和英中辞典(第3版)』 小学館
う【鵜】 ペリカン目ウ科の水鳥の総称。頸は細長く全身黒色。海岸・湖沼付近に群棲し、巧みに潜水して魚を捕食する。世界各地に約40種が分布し、日本にはウミウ・カワウ・ヒメウなど。鵜飼に用いるのはウミウ。〓夏。万葉集(19)「—八つ潜(かず)けて」
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撮影:小宮輝之 カワウ
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撮影:小宮輝之 ウミウ 『広辞苑 第六版』 岩波書店
うかい【鵜飼い】 ⇨ウ(鵜)を飼いならしてアユなどの魚をとる漁法。これを生業とする人もさす。ウは主としてウミウが用いられるが,浅い川ではカワウも使われる。岐阜県の長良川,大分県日田の三隈川などで,6月から 10月頃にかけて行なわれるアユ漁が最も著名。中国,インドでも行なわれる。 『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.
信仰(ロゴス)は神のロゴスの受肉と「無知の知」の知識の至高への福音を齎す
教祖(教授)の教理(人(サタン)の言葉)は鵜呑みの命令
信仰(ロゴス)は鵜呑みを命じるわけではなく信仰(ロゴス)としてある「神のロゴス」の受肉と「無知の知」の知識(ロゴス)へ人(ペルソナ)を導くのです。
神をマウンティングする邪な心理としてのカルト術は支配し「教理(人(サタン)の言葉)の鵜呑み」を命じます。
彼らの「教理(人(サタン)の言葉)」は鵜呑みできるものとされます。
しかし信仰(ロゴス)とは神のロゴスの受肉であり「無知の知」の知識(ロゴス)を得ることである。
それは「神との対話」である。
神との対話ダイアローグであるのです。
教理(人(サタン)の言葉)を鵜呑みにする人は神との対話をしていない。
ペルソナではないのだ。
「神との対話」と「「教理(人(サタン)の言葉)」の鵜呑み」
信仰(ロゴス)はカルト術を禁じることで救済し人を信仰(ロゴス)へ導きます。
神との対話へ人(獣)を信仰へ導くのです。
神をマウンティングする邪な心理のカルト術は鵜呑みだけの知識論です。
マウンティング心理学入門は信仰(ロゴス)への研究です。
結局は鵜呑みした知識(人(サタン)の言葉)が全滅するのは信仰(ロゴス)がないからです。
教理(人(サタン)の言葉)だけ鵜呑みにして神との対話を完全否定したものはペルソナではなくサタンの下僕です。
鵜呑みが好きな人(獣)はどういう人(獣)でしょうか?
鵜飼いに利用され虐げられる鵜の群れであります。
又鵜飼いになって鵜を利用する人(獣)となります。
詐術としてある鵜飼いという職業は鵜にとっては最悪な人々(サタン)です。
そしてサタン(特殊詐欺)は人にとって最悪な存在です。
特殊詐欺の真理である純粋な知とされた世界知識の鵜呑みを迫るからです。
鵜呑みの魚はロゴスになりません。
イエスが行ったように魚を獲って皆で分けて食べるのが善いのです。
それがロゴスの在り方です。
サタンはペルソナを人(獣)へ貶すのです。
神は人(獣)をペルソナとするのです。
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writer
Soma Oishi
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Text
宮崎駿が名付けた《ジブリ》の名の由来-ロゴス感覚の信仰が刻む《聖痕》とロゴス感覚(聖痕を受肉)の信仰が見出す《聖痕》を示す新約聖書福音書ルカ《時の徴(しるし)》のことであり神の歴史としての聖書を示している。(ジブリ=『熱風になるぞ』)
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ジブリという名前の由来は?(一般に公表されている由来)
ジブリの綴りは「GHIBLI」、サハラ砂漠に吹く熱風を意味するイタリア語です。第2次世界大戦中に使用されたイタリアの軍用偵察機の名前でもあり、飛行機マニアの宮崎監督が命名しました。日本のアニメーション界に熱風を起こそうという思いを込めたネーミングだそうです。
 なお、本来イタリア語では「ジブリ」ではなく「ギ��リ」と発音するのが正しいそうです。
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ghib・li [ɡíbli]
―n. ギブレ:北アフリカの砂漠で吹く砂塵(さじん)を含んだ熱風.
[<アラビア語方言 gibli 南風]
『ランダムハウス英和大辞典(第2版)』 小学館
ギーブリ
ghibli
リビアのキレナイカ地方の⇨局地風。冬から春にかけて吹く砂と塵を多く含んだ風。風速が毎秒 15mに達する。
『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.
ghibli /ʼgɪbli/
◆noun a hot, dry southerly wind of North Africa.
―ORIGIN
C19: from Arab. ḳiblī ‘southern’.
『The Concise Oxford English Dictionary, Eleventh Edition』 Oxford University Press
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新約聖書福音書の「時の徴(しるし)」-ロゴス感覚(聖痕を受肉)の信仰により刻まれた聖痕は「時の徴」であり「歴史」である。
「ロゴス感覚(聖痕を受肉)の信仰を貶め否定し堕落賛美を扇動するカリスマ「個人崇拝とデマゴーグ」への崇拝」と「ロゴス感覚(聖痕を受肉)を信仰するペルソナの受肉する聖痕(時の徴)の信仰」
※ロゴス感覚(聖痕を受肉)は「聖痕」を刻みそして見出す。それは「時の徴」であり「聖痕」が刻まれた「歴史」の存在を示している。そしてそういった「聖痕」を見出すロゴス感覚(聖痕を受肉)は「無知の知」としてあり「聖痕」を刻みそして見出すのが「学問(神の真理)」である。
宮崎駿の神(芸術)へのロゴス感覚(聖痕を受肉)の信仰は「ジブリ」にある。それは新約聖書福音書にある「時の徴」を示していると私は見做している。ジブリの由来がイタリアの軍用偵察機であるという情報は宮崎駿の韜晦から来ているのだろう。そして宮崎駿の芸術(聖痕を受肉)信仰はロゴス感覚(聖痕を受肉)の信仰が聖痕を刻み見出すことであり得る。「芸術(聖痕を受肉)作品」とはロゴス感覚(聖痕を受肉)の信仰が刻み見出す聖痕を持って「芸術(聖痕を受肉)作品」とされる。だからそういったロゴス感覚(聖痕を受肉)の信仰を自分感覚とするものは「聖痕を受肉する芸術家」というのだ。
近年オタク芸術家(サブカルチャー芸術家)と称する人たちが世界で跋扈している。其の日本代表は様々あるだろう。ロゴス感覚(聖痕を受肉)の信仰者・宮崎駿の弟子を自称する庵野秀明や其のグループは特に有名であり、東京オリンピックでポスターに採用された漫画家(浦沢直樹など)もそういった類であるだろう。そして現代のサブカルチャー芸術の旗手である「村上隆・草間彌生」も実際はロゴス感覚(聖痕を受肉)の信仰を貶め否定する堕落賛美の世界的カリスマとされている。
例えば「思わせ振り」を芸術(聖痕を受肉)演出と言うだろうか?
「謎が謎が呼ぶ」と称する演出家である浦沢直樹の「MONSTER」やそれと同様の演出家である庵野秀明の代表作品「新世紀エヴァンゲリオン」、「不思議の海のナディア」は「思わせ振り」と「仄めかし」の連続で実際の中身は空っぽであった。
それはロゴス感覚(聖痕を受肉)の信仰が受肉する「時の徴」の聖痕が皆無であるけれど、過去の作品のオマージュと称してその作品の有名場面の引用を多用した作風が「人の聖痕」とされた。
それはロゴス感覚(聖痕を受肉)の信仰である「時の徴」の「神の聖痕」を貶めることで否定し「人の聖痕」を賛美する作品となっているのだ。
それは「人の聖痕」と言う存在が「神の聖痕」を貶め否定した堕落存在の賛美でありそれをオタク(堕落賛美)の定義でありそれをオタクの二次創作というのだ。
「人の聖痕」とはロゴス感覚(聖痕を受肉)の信仰を貶め否定した堕落賛美の扇動であるのだ。
それはロゴス感覚(聖痕を受肉)の信仰が「時の徴」の聖痕を刻み見出す芸術(聖痕を受肉)を貶めて堕落賛美のオタクの二次創作を制作したことを示している。
それは堕落賛美を芸術(聖痕を受肉)と詐称したのだ。
確かに「人の聖痕」はあるだろうが「神の聖痕」はない。
そして「人の聖痕」は「神の聖痕」を貶め否定する堕落者への扇動であるのだ。
それが日本サブカルチャーの正体であるオタクの存在である。
これは日本サブカルチャーが世界に発信した「特殊詐欺」であるのだ。
《謎謎と神の真理について》
これは人の創造した問題が謎謎であることと同様である。
神の創造した問題はロゴス感覚(聖痕を受肉)の信仰が「時の徴」の聖痕を刻み見出すことで持って解かれる。
それは神の真理を示している。
しかし人の創造した問題である謎謎はその人が創造した回答を知らなければ回答できない八百長となるのだ。
知らなければ回答できないのだ。
しかし神の真理はロゴス感覚(聖痕を受肉)の信仰で持って回答可能である。
※中学生の時に私が「頭の体操」で唯一回答できたのは「臍」であった。
神の真理を貶め否定するカリスマ(個人崇拝とデマゴーグ)は堕落賛美を扇動する。
そして堕落作品とは多神教の「偶像崇拝・呪術崇拝」の作品となるだろう。
それを「思わせ振り」の演出方法のクリエイターと呼んだとしてもその「創造行為」が「神の真理」(聖痕を受肉)を貶め否定し堕落賛美を扇動する「堕落作品」の創造となっていることによって絶対に其のクリエーターはロゴス感覚(聖痕を受肉)の信仰が「時の徴」の聖痕を刻み見出す「芸術家(聖痕を受肉)」ではない。
彼らは自らをクリエーターと呼び社会的面子の最上位となることで「芸術家(聖痕を受肉)」と称されるがそれは全くの詐欺行為である。
「ロゴス感覚(聖痕を受肉)を貶め否定する堕落賛美のドクサ感覚」を自分感覚とした彼らが社会的面子の最上位のクリエーターとなったとしても彼らが「時の徴」の聖痕を刻み見出す「芸術家」であるわけがない。
しかし社会的上位の存在が「芸術家(聖痕を受肉)」とされた時にそのようなドクサ感覚を自分感覚とするクリエーターが「芸術家」のペルソナ(面子)とされる。
其の代表はアドルフ・ヒットラーであったりヨーゼフ・ゲッベルスである。
ではロゴス感覚(聖痕を受肉)の信仰を自分感覚とする真の「芸術家(聖痕を受肉)」のペルソナはどうなるのだろうか?
真の芸術(聖痕を受肉)作品を生み出す才能ある「芸術家(聖痕を受肉)」は堕落者のカリスマによってアウシュビッツのガス室に送られるのだ。
社会的面子の最上位のクリエーターが「芸術家(聖痕を受肉)」のペルソナ(面子)として制作する「ロゴス感覚(聖痕を受肉)を貶め否定する堕落賛美のドクサ感覚」の作品は「思わせ振りの演出」としてあり、「発行部数」や「観客動員数」を誇ることで「映画賞」や「漫画賞」を受賞する。
それは扇動としてあるだけの堕落状態である。
しかしそれが「映画賞」や「漫画賞」を受賞したとしても「芸術作品」と言えるだろうか?
そういった作品は「思わせ振り」の「演出」で中身はほぼ空っぽである。
ただ特殊詐欺で「発行部数」や「観客動員数・視聴率」を稼いだだけである。
それは神の評価(聖痕を受肉)を貶め否定し堕落を賛美して扇動した人の評価である。
「思わせ振り」の「演出」とは「ロゴス感覚(聖痕を受肉)を貶め否定する堕落賛美のドクサ感覚」を利用した作品であり「芸術(聖痕を受肉)信仰」はなく其の完全否定としてあるのだ。
芸術(聖痕を受肉)作品とは「ロゴス感覚(聖痕を受肉)の信仰(受肉)」で制作された聖なる作品を言う。
「芸術(聖痕を受肉)作品」とは「ロゴス感覚(聖痕を受肉)の信仰(受肉)」の「時の徴」の聖痕であるのだ。
「思わせ振り」の「演出」のドクサ感覚の作品が「発行部数」や「観客動員数・視聴率」を誇ってもそれは堕落を賛美し扇動したサタン崇拝でしかない。
それは決して聖なる作品にはならない。
アンチキリストであるのだ。
何故なら「特殊詐欺作品」であり「芸術(聖痕を刻む)作品」ではないのだ。
果たしてそういった作品は「映画賞」や「漫画賞」に値するだろうか?
そういった「ロゴス感覚(聖痕を受肉)を貶め否定する堕落賛美のドクサ感覚」に「映画賞」や「漫画賞」を与えることは日本文化の衰退と退化、後退を示している。
最早日本には「芸術(聖痕を受肉)作品」を評価する能力はないと見做すのが良かろう。
もう日本から「芸術(聖痕を受肉)作品」は生まれないのだ。
日本は終わった国であり「神の王国」以外の場所でロゴス感覚(聖痕を受肉)の信仰としてのペルソナの生きる道はないのだ。
「芸術(聖痕を受肉)作品」が生まれるのは「神の王国」からである。
ロゴス感覚(聖痕を受肉)の信仰を持つことが人の条件と成る。
それが神の王国の住人でありペルソナであるのだ。
サブカルチャーとカルチャー(芸術(聖痕を受肉)信仰)の違いを一文で評すれば「ロゴス感覚(聖痕を受肉)の信仰」を自分感覚とするのが芸術家(聖痕を受肉)であり、「ロゴス感覚(聖痕を受肉)を貶め否定する堕落賛美のドクサ感覚」を自分感覚とするのがオタク(堕落賛美)であるということなのだ。
ロゴス感覚(聖痕を受肉)の信仰とは神への信仰としてある。
神は「間違い」であれば改めることを命令する。それは「悔い改め」と言う姿勢であり「科学的思考」と言えるものである。それにより神の真理を得ることは出来る。そういった姿勢をロゴス感覚(聖痕を受肉)の信仰というのだ。
そして「悔い改め」に対し「隣人愛」で接するのがロゴス感覚(聖痕を受肉)の信仰である。
何故なら「間違い」の「悔い改め」を攻撃することは「サタン崇拝」であるからだ。
Sa・tan [séitn]〓
―n.
1 (キリスト教で)サタン,悪魔(▶the devil の固有名詞);悪魔のような人間:Satan reproving sin 罪を責める悪魔(自分の弱点・欠点を棚に上げて人を非難する人のこと):〓
2 〖軍事〗 セイタン:旧ソ連の ICBM の NATO コード名.
[900年以前. 中期英語,古期英語<後期ラテン語<ギリシャ語 Satân,Satán<ヘブライ語 śātān 敵]
『ランダムハウス英和大辞典(第2版)』 小学館
一方「ロゴス感覚(聖痕を受肉)を貶め否定する堕落賛美のドクサ感覚」は「呪術崇拝・偶像崇拝」としてある。例えばロゴス感覚(聖痕を受肉)の信仰は神の真理としてある。しかし「ロゴス感覚(聖痕を受肉)を貶め否定する堕落賛美のドクサ感覚」はある呪文(呪術)により世界を支配できるとするものとなる。世界を呪術(呪文)で支配できるとする感覚が「ロゴス感覚(聖痕を受肉)を貶め否定する堕落賛美のドクサ感覚」でありそれは「呪術崇拝」となる。そしてそういった「呪術崇拝」に拠る世界支配は「ロゴス感覚(聖痕を受肉)を貶め否定する堕落賛美のドクサ感覚」であり世界を「偶像崇拝」として見做す「ロゴス感覚(聖痕を受肉)を貶め否定する堕落賛美のドクサ感覚」と同じとなるのだ。何故なら「呪術崇拝」で世界を支配したと見做す「ロゴス感覚(聖痕を受肉)を貶め否定する堕落賛美のドクサ感覚」はその神の真理であるロゴス感覚(聖痕を受肉)の信仰を一切否定にすることで「偶像崇拝」の「ロゴス感覚(聖痕を受肉)を貶め否定する堕落賛美のドクサ感覚」となるからである。これはフロイトの「人間モーゼと一神教」の於ける「一神教」と「多神教」の在り方と同じと言える。
それは「至高の抽象化の高み」と「原始的段階」の違いとなるのだ。
一神教は「神への信仰」でありロゴス感覚(聖痕を受肉)の信仰であり「至高の抽象化の高み」である。
多神教は「呪術崇拝・偶像崇拝」であり「ロゴス感覚(聖痕を受肉)を貶め否定する堕落賛美のドクサ感覚」であり「原始的段階」である。
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宮崎駿の理想はロゴス感覚(聖痕を受肉)の信仰を自分感覚とする芸術家(聖痕を受肉)であり其の育成である。そういう意味で宮崎駿の弟子を自称する庵野秀明はロゴス感覚(聖痕を受肉)の信仰を自分感覚とする芸術家(聖痕を受肉)ではなく、「ロゴス感覚(聖痕を受肉)を貶め否定する堕落賛美のドクサ感覚」を自分感覚とするオタク(堕落賛美)であるのだ。
私が宮崎駿の代わりにそれを言う立場にあるかどうかは別にしてそれを言える力のある「自称・批評家」としての気概から敢えて言わせて貰えれば庵野秀明は宮崎駿の直系の弟子ではない。庵野秀明は「アンチ宮崎駿」(アンチキリスト)なのだ。それは「弟子の定義」とは違うだろう。そして「芸術家(聖痕を受肉)の定義」とも違う。庵野秀明の作品は「ロゴス感覚(聖痕を受肉)を貶め否定するドクサ感覚」の堕落賛美作品であり特殊詐欺(無知蒙昧・ドクサ感覚・アンチキリスト)なのだ。それは他の多くのサブカルチャー(堕落賛美)のクリエーターにも言えることだ。其の代表格である村上隆はロゴス感覚(聖痕を受肉)の信仰を自分感覚とはせず「ロゴス感覚(聖痕を受肉)を貶め否定する堕落賛美のドクサ感覚」を自分感覚として開き直ったらしいがただの堕落煽動家でしかない。彼は特殊詐欺(無知蒙昧・ドクサ感覚・アンチキリスト)でしかないのだ。
ここで萩尾望都を記しておく。萩尾望都の「トーマの心臓」は神への信仰に関する名作でありロゴス感覚(聖痕を受肉)の信仰の芸術(聖痕を受肉)作品である。ロゴス感覚(聖痕を受肉)の信仰した芸術(聖痕を受肉)作品であり、萩尾望都はロゴス感覚(聖痕を受肉)の信仰(受肉)を自分感覚とする芸術家(聖痕を刻む)であると言える。
アニメーション芸術(聖痕を受肉)作品が「ロゴス感覚(聖痕を受肉)を貶め否定するドクサ感覚」の堕落賛美作品としてあることを厳しく禁じたアニメ制作スタジオが「スタジオジブリ」であると言える。それは「ロゴス感覚(聖痕を受肉)を貶め否定する堕落賛美のドクサ感覚」を自分感覚とすることを厳しく禁じることを示している。「ロゴス感覚(聖痕を受肉)を貶め否定するドクサ感覚」の堕落賛美作品は堕落賛美を扇動することで堕落賛美の自分感覚を正当化することで世界を堕落したドクサ感覚で認識することを肯定するのだ。
その「臆見(「ロゴス感覚(聖痕を受肉)を貶め否定する堕落賛美のドクサ感覚」を自分感覚とすること)の世界」は「神の真理(ロゴス感覚(聖痕を受肉)の信仰を自分感覚とすること)」の下位に位置する。
堕天したルシフェルであり明らかに神の真理の下位に存在する堕落賛美の扇動なのだ。
「「ロゴス感覚(聖痕を受肉)を貶め否定する堕落賛美のドクサ感覚」を自分感覚とすること」を嫌悪し禁ずる芸術(聖痕を受肉)信仰は「神の真理(ロゴス感覚(聖痕を受肉)の信仰を自分感覚とすること)」の世界の制作であり、「サタンの臆見(「ロゴス感覚(聖痕を受肉)を貶め否定する堕落賛美のドクサ感覚」を自分感覚とすること)」の世界はその下位の堕落賛美作品しか無いのだ。堕落賛美作品とは「「ロゴス感覚(聖痕を受肉)を貶め否定する堕落賛美のドクサ感覚」の世界の制作でありオタク(堕落賛美)である。芸術(聖痕を受肉)は「ロゴス感覚(聖痕を受肉)を貶め否定する堕落賛美のドクサ感覚」を嫌悪し禁ずる「真理の世界(ロゴス感覚(聖痕を受肉)の信仰を自分感覚とすること)」である。芸術(聖痕を受肉)信仰は「神の王国」としてあるのだ。
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「ロゴス感覚(聖痕を受肉)の信仰(受肉)」と「ロゴス感覚(聖痕を受肉)を貶め否定する堕落賛美のドクサ感覚」の譬えは新約聖書「時の徴」を示している。
宮崎駿がスタジオを「ジブリ」と名付けた由来の真相は新約聖書「時の徴」にあると私は考えるのだ。
宮崎駿氏が言う「オタク(堕落賛美)への嫌悪」は「ロゴス感覚(聖痕を受肉)を貶め否定する堕落賛美のドクサ感覚」を自分感覚とするオタク(堕落賛美)への嫌悪であり、それは「臆見(「ロゴス感覚(聖痕を受肉)を貶め否定する堕落賛美のドクサ感覚」を自分感覚とすること)」の世界の作品への嫌悪であり宮崎駿氏が最も禁忌とするものである。
「ロゴス感覚(聖痕を受肉)を貶め否定する堕落賛美のドクサ感覚」を自分感覚とする「特殊詐欺作品(無知蒙昧・ドクサ感覚・アンチキリスト)」は最悪の作品である。
※新世紀エヴァンゲリオンは最悪の代表
宮崎駿氏がオタク(堕落賛美)を嫌う理由である。
庵野秀明はオタク(堕落賛美)であり宮崎駿は彼を嫌悪しているのは明らかだ。
しかし宮崎駿にはロゴス感覚(聖痕を受肉)の信仰があり、それは「悔い改め」と「隣人愛」である。
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勘違いをいつまでもしているのは庵野秀明の方なのである。
宮崎駿は「悔い改め」と「隣人愛」のロゴス感覚(聖痕を受肉)の信仰者なのだから庵野秀明に対してもロゴス感覚(聖痕を受肉)の信仰を持って接しているのだ。
この二人の関係で明らかな堕落賛美は庵野秀明であり特殊詐欺の人なのである。
ただもうバレているのだ。
「悔い改め」と「隣人愛」を君に期待しても駄目かもしれない。
しかしロゴス感覚(聖痕を受肉)の信仰は神の王国への導きなのだ。
なんて馬鹿な庵野秀明なのだろう!
勘違い人間である。
愚か者!
私には宮崎駿がよく理解できる。
彼は真の芸術家(聖痕を受肉)であるからだ。
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writer&photo(2008/6/30)
Soma Oishi
新約聖書「時の徴(聖痕を受肉)」
「ロゴス感覚(聖痕を受肉)を貶め否定し堕落賛美を扇動するドクサ感覚(カリスマ)」をロゴス���覚の信仰(受肉)へ導くメシア(キリスト)
「カリスマ「個人崇拝とデマゴーグ」」と「ロゴス感覚が聖痕を刻みそしてロゴス感覚が聖痕を見出す「時の徴」の聖書は歴史である。」
それは「神の歴史」であり「聖痕が刻まれた聖書」である。
神の歴史としての聖書(聖痕を受肉)は「時の徴(しるし)」でありジブリ(熱風)となる。
僕は宮崎駿のジブリが大好きだ!
I love Hayao Miyazaki's Ghibli!
聖なる猫の友達だよ!
大石宗磨
A friend of the sacred cat!
Soma Oishi.
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holycatfriend · 2 years
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「マウンティング心理のカルト」と「マウンティング心理を嫌悪し禁ずる信仰」
マウンティング心理の考察
臆見(ドクサ)
マウンティング心理とは如何なるものか?
最も解りやすく言えば現実に対する視点である。
マウンティング心理のカルトとは現実に対してマウンティングし現実を認識する姿勢である。
それは自らの臆見(ドクサ)を持って現実を認識することを指す。
「臆見(ドクサ)」とは「侮り」とも言う。
おっ‐けん【臆見】 オク‥ 臆測にもとづく意見。 『広辞苑 第六版』 岩波書店
臆見 (オクケン)・(オッケン) 自分ひとりの考え。また、あて推量の考え。 『新漢語林』 大修館書店
ドクサ doxa 「臆見」を意味するギリシア語。⇨エピステメの対立概念。低次の認識を意味する語としてドクサを初めて使ったのはクセノファネスであるが,永遠不変の存在についての真なる確証に対して,感覚に基づくドクサを立てたのはパルメニデスである。プラトンは後者の思想をうけて,真実在についての知識(エピステメ)と感覚的事象を対象とするドクサを認識論的存在論的に峻別,さらにドクサを感覚的個物に対する確証と感覚的個物の似像に対するエイカシアに区別した。アリストテレスはこれに対して存在論的区別を退け,エピステメを一般者ないし必然的なものについての判断とし,ドクサを感覚的個物にかかわるものとしている。エピクロス派では感覚そのものは真と認めるが,感覚に近い自発的な精神作用であるドクサには感覚の明証性の限界を踏越えて誤謬の可能性があるとしている。 『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.
おもい‐こ・む【思い込む】 オモヒ‥ 〖自五〗 ①深く愛する。強くひかれる。浄瑠璃、用明天王職人鑑「—・うだる妹背の中」 ②固く決心する。浄瑠璃、曾我五人兄弟「—・んだる思ひの思ひ晴らして思ひ出と」。「—・んだら命がけ」 ③すっかり信じてしまう。深く心に思う。男色大鑑「悪(にく)やとばかり—・み」。「親切な人だと—・む」 『広辞苑 第六版』 岩波書店
あなどり【侮り】 あなどること。軽蔑。「—を受ける」 『広辞苑 第六版』 岩波書店
あなど・る【侮る】 〖他五〗 相手を軽くみてばかにする。みくびる。太平記(35)「災変起くれば国土乱る。是上(かみ)慎まず、下(しも)—・る故なり」。「敵を—・る」「—・りがたい勢力」 『広辞苑 第六版』 岩波書店
信仰
ただマウンティング心理を拒否して現実に対することを「信仰」という。
マウンティング心理を嫌悪し禁ずることは神の至上命令であるとして神に従うことが「信仰」である。
私の場合
私は生まれながらの信仰者であった。
マウンティング心理を嫌悪し禁ずることで神のロゴスが受肉することを知っていたためだ。
知らないことを知ったかぶりで出鱈目を言ってのけるデマゴーグは私にとって軽蔑の対象であった。
「何故知らないのに言うのだろう?」
子供の頃から「無知の知」を知っていたのだ。
私は「無知の知」の知識人だったのだ。
むちのち【無知の知】 Bewusstsein des Nichtwissens ⇨ソクラテス哲学を特徴づける有名な言葉。哲学者(愛知者)という意味でのギリシア語 philosophosは,ピタゴラス,ソクラテス的意味では,神だけが知者 sophosであるとの立場から,知者でないがゆえに知 sophiaを愛求する有限的存在としての人間の本質規定であった。したがって philosophiaは,いわゆる賢者や知恵の本性が神と比すれば無にも等しいものであることを明らかに自覚することに始る。本来的な知のイデーのもとにおける自己の無知の自覚が無知の知にほかならず,ソクラテスの優越は,だれよりも深くこのことにおいてすぐれていたことによる(『ソクラテスの弁明』)。しかも無知の知は,消極的側面にとどまらず,かえって迷妄をはらし真実の知への扉を開くのであり,かかる自覚を自己の本質的契機としてこそ,「能うかぎり神に似ること」が philosophosの目標として措定されることになる。それゆえにまた教育者としてのソクラテスは,人々にこの自覚を与え本来的な知のイデーヘ視座を転換するように努めるのであり,そのことはプラトンの対話篇に印象的に示されている。 『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.
「無知の知」の知識と「全知全能」の臆見(ドクサ)
「無知の知」の知識に対して「全知全能」というマウンティング心理が生まれる。
しかしそれは先程も指摘したように知らないのにさも知っていると装う知ったかぶりであり平気で出鱈目を吹聴するデマゴーグである。
それは汎ゆる現実に対して適用される。
臆見(ドクサ)であれば人の全知全能は可能である。
「臆見(ドクサ)の全知全能」って馬鹿な人(白痴)を意味します。
汎ゆる現実に対してマウンティング心理を嫌悪し禁じて「無知の知」の知識人となるか?
汎ゆる現実に対してマウンティング心理の知識のカルトとして全知全能のデマゴー���(白痴)となるか?
現実へのマウンティング心理を嫌悪し禁ずれば「無知の知」の知識人となり、現実へのマウンティング心理のカルトとなれば「全知全能」のデマゴーグ(白痴)となる。
マウンティング心理の知識は臆見(ドクサ)でしかないのだ。
これは現実を例に取っているが人物にも当てはまる。
相手又は自分をマウンティング心理の知識で見ればそれは臆見(ドクサ)でしかない。
相手又は自分をマンティング心理を嫌悪し禁じて見ればそれは「無知の知」の知識でありその人を真に知ることになる。
これが真のリアリズムである。
臆見(ドクサ)の全知全能のデマゴーグ(白痴)に従えば人は滅びるだろう。
臆見(ドクサ)の全知全能のデマゴーグ(白痴)に従えば世界は滅びるだろう。
悪しきリアリズムは臆見(ドクサ)の「全知全能」のデマゴーグ(白痴)である。
すべて知ったように説明してみせるがすべてデマゴーグ(白痴)である可能性が高い。
すべてが臆見(ドクサ)だからだ。
結局はマウンティング心理の知識のカルトはデマゴーグ(白痴)という存在が人の言葉によって人にマウンティングすることであるのだ。
デマゴーグ(白痴)が人にマウンティングするとは人の言葉で人を支配することを示している。
「知識」と「デマゴギー」の関係である。
ただ「無知の知」の知識の白痴とは真の白痴であり「無知の知」の在り方である。
それを描いた名作小説坂口安吾著「白痴」がある。
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ちしき【知識】 knowledge 広義には「知る」といわれる人間のすべての活動と,特にその内容をいい,狭義には原因の把握に基づく確実な認識をいう。ある特定の主体についてのこのような知識がさらに概念的に規定され,論理的,体系的に組織されたものが学問である。知識の正しさへの反省,批判,真理性の規準への探究は哲学の中心問題の一つであり,存在と認識との関係などをめぐって観念論,⇨実在論など多くの議論がある。社会学の分野では,⇨知識社会学が知識を社会的機能の面からとらえる試みがなされている。 『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.
デマゴーグ demagogue 古代ギリシアの民主政治において,その声望および弁舌によって民会の決議に影響を与えて,政治を左右する者,つまり「民衆の指導者」を意味したのが原義であるが,現代では刺激的な弁舌,文章によって大衆を政治的に動員する扇動政治家をいう場合が多い。デマゴーグによって,特定の政治目的のために意図的に捏造され,流布される虚偽の情報がデマゴギーであって,一般にデマと略されている。 『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.
「神の啓蒙」と「人の支配」
「無知の知」の知識は唯一の知識
人に対するマウンティング心理の知識のカルトは人を支配することである。
それは知識を与えることではなくデマゴギー与えてコントロールすることを指している。
人をデマゴギーに依ってコントロールするのだ。
しかしそれは人が真の知識を得ていればできないことである。
真に知識を知った人にデマゴギーでの支配が可能となるとすればそれはパワーハラスメントに依ってのみであろう。
権力のパワーによって屈する以外に知った真の知識を知った状態でデマゴギーの支配を受けることはあり得ないのだ。
パワーハラスメントが支配の基本であるがデマゴギーを可能にするにはパワーハラスメントの根源である権力と暴力の存在がある。
啓蒙された知識のある人間にはデマゴギーだけの支配はできない。
人に対するマウンティング心理を嫌悪し禁ずる信仰は人に知識を与えるが其の核心は「無知の知」の知識に依っている。
「無知の知」の知識がなければ人はデマゴギー(虚偽)の中で生きることとなるのだ。
それはソクラテスが指摘した臆見(ドクサ)のことであるのだ。
マウンティング心理を持って現実を認識することは臆見(ドクサ)にしかならないことが判明した。
それはデマゴーグの支配としてあるのだ。
マウンティング心理の知識のカルトは臆見(ドクサ)の支配としてあり自制心を喪失している。
マウンティング心理の自制心とは信仰に従うことであるからだ。
マウンティング心理を嫌悪し禁ずる信仰は真の真理(心理)を見る視点となる。
真理の木である。
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じせいしん【自制心】 self―control; self―restraint. 〓~がない lack self―control[―restraint] ◾~が強い have a lot of self―control[―restraint] ◾空腹では~が働かなくなる. When one is starving one loses the ability to exercise self―control. 〓~の欠如 a lack of self―control[―restraint] ◾~のない人 a person with no control over himself. 〓~を働かせる exercise (one’s) self―control ◾~を失う lose one’s self―control; lose control 「over [of] oneself; let oneself go; 〖口〗 fly off the handle. 『新和英大辞典 電子増補版』 研究社
自制[じせい] 節制[せっせい] 【共通する意味】 自分の感情や欲望をおさえること。 【英】self―control 【使い方の例】 〖自制〗スル / 怒りを自制して平静を装う / 自制心 〖節制〗スル / 体調がよくないので最近は節制している 【それぞれの意味と使い分け】 「自制」は、怒りなど、自分の感情を抑制して態度や言葉など表面に表わさないことをいうが、「節制」は、健康によくないものとして度を越さないようにおさえること。 『使い方の分かる類語例解辞典』 小学館
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じ‐ちょう【自重】 〘名〙(スル) 〓自らを重んじること。自分の品性を保ち、卑下しないこと。自尊。「自尊―苟(いやしく)も卑劣な事はできない」〈福沢・福翁自伝〉 〓言動を慎んで、軽はずみなことをしないこと。「好漢―せられたし」「隠忍―」 〓自分の健康に注意し、大切にすること。自愛。「なにとぞご―ください」 『大辞泉 第二版』 小学館
自重[じちょう]〓〓 自粛[じしゅく] / 自戒[じかい] 【共通する意味】 自分の行動や態度を慎むこと。 【英】prudence 【使い方の例】 〖自重〗スル / 隠忍自重 / 自戒自重 〖自粛〗スル / 業界内で自粛を申し合わせる 〖自戒〗スル / もって自戒すべし 【それぞれの意味と使い分け】 (1)「自重」は、慎重に構えること、「自粛」は、さし控えること、遠慮することをいう。 (2)「自戒」は、自分自身をいましめ律することをいう。 (3)「自重」は、「ご多忙の折ご自重ください」のように、自分の体を大切にすることもいう。 『使い方の分かる類語例解辞典』 小学館
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真の啓蒙はマウンティング心理を嫌悪し禁ずる信仰に拠ってある。
それが「無知の知」の知識であり、唯一の知識であるのだ。
自制心を喪失したマウンティング心理のカルトはダビデが仕留めなければならない。
自制心のないマウンティング心理が「秩序ある統治」とする人間関係がある。
それがマウンティング心理のカルトの正体である。
何故自制心がないかと言えば先程も記述したとおりに臆見(ドクサ)によるデマゴーグ(白痴)の支配関係だからだ。
この支配関係ではデマゴギーによって人は支配されて行動する。
それがデマゴギーによる支配が「秩序ある統治」だと言う主張は明らかにおかしい。
人がデマゴギーによって支配されることは人が虚偽によって支配されることを示している。
それは虚偽の情報で人が支配され行動することを示してるがそれは「秩序ある統治」と言えるだろうか?
白痴の支配である。
元々が虚偽のデマゴーグによる「秩序ある統治」には正当性はないのだ。
神の信仰に反した背信行為であるのだ。
神に愛されるわけはないのだ。
それは自制心の無いマウンティング心理のカルトによる「秩序の統治」である。
其れが人の統治であり人の支配である。
橋下徹氏が言う「秩序の統治」とはこのようなデマゴーグ(白痴)による支配を言う。
これを図で示せば下記になる。
※堕天使ルシファー(サタン)の支配関係である。
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「自制心のないマウンティング心理」のカルトを嫌悪し禁ずる信仰は二人の人物が考えられる。
それは神童ダビデと神童イエスである。
ダビデは自制心のないマウンティング心理のカルトであるゴリアテを倒した。
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その後に「自制心のないマウンティング心理」のカルト(バビロニア)に統治されたイスラエルの民はユダヤ教というマウンティング心理のカルトに変質した。
それを「バビロン捕囚」という。
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バビロンほしゅう【バビロン捕囚】 Babylonian Captivity(Exile) 前 597~538年にわたってイスラエルのユダヤの人々がバビロニア王ネブカドネザルによってバビロニアに捕囚となった事件をさす。捕囚民は『エレミヤ書』 52章 30によれば,前 597,586,581年の前後3回にわたって 4600人と記されているが,これは男子のみをさしているので,全体では約1万 5000人ぐらいであろう。 当時ユダヤの人口は約 25万人であったが,捕囚民は支配階級に属する者や技術者であったので,残された民は衰退した。バビロニアでは宗教的自由は許されたが,エルサレム神殿において行なっていた祭儀を失ったので,それにかわって安息日礼拝が中心になり,会堂(→シナゴーグ)における律法の朗読と祈祷を中心とする新しい礼拝様式が始められた。またこの時期にモーセ時代から彼らの時代までの歴史,すなわち『申命記』から『列王紀』が編纂された。したがって預言活動はやんで,かわって律法学者や書記が祭司と並んで重要な位置を占めるようになり,旧約の宗教は「書物の宗教」の性格を強めていった。そして前5世紀後半に⇨ネヘミア,⇨エズラが帰国して新しい法典のもとに民族の再建をはかり,ここにユダヤ教が成立することになった。 『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.
「自制心のないマウンティング心理」のカルトを嫌悪し禁ずることで神のロゴスの受肉する場所である「信仰」の場所を確保し持つことが信仰である。
しかしイスラエルの民は自制心のないマウンティング心理のカルトの教理と化した「ユダヤ教」とされたのだ。
信仰が「ユダヤ教」とされてしまった。
そしてその絶望の中でメシアを願うイスラエルの民の声が神童イエス・キリストの存在に依って後のキリスト教となるのだ。
メシア Messiah ヘブライ語,アラム語で油を注がれた者,すなわち聖別された者を意味した。その具体像は,時代によって多少変化している。ダビデの時代には,メシアはダビデの家系を継ぎ,他民族に対して優位を保ち続ける王として考えられ,これは王国分裂後も残っていく。イザヤの時代になると,血統によらず,むしろ正義の執行者という面が強調される。終末時の特別な人格としてのメシア像は第2神殿時代から始るが,大祭司と王という2つのタイプがあり,クムラン教団ではさらに最後の日の預言者という第3の像が加わっている。新約聖書では,イエスがダビデの家系を継ぐキリスト(メシアのギリシア語訳)とされる。イエスをメシアと認めなかったユダヤ教徒の間にはメシア待望の心が残り,ときには強く現れた(その代表が 17世紀の偽メシア,⇨サバタイ・ツェビ)。メシア信仰は教理となりカバラ神秘主義から合理主義神学にいたるまでさまざまな説が展開されている。ユダヤ教近代主義運動では個人としてのメシアは捨てられ,救済された世界への信仰という形をとっている。なお,他の宗教にも救世主信仰はあり,イスラム教シーア派のマーディ,仏教の弥勒菩薩などにメシア的性格を認めることができる。 『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.
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イエスは神の下で「自制心のないマウンティング心理」のカルトを嫌悪し禁ずることを説き神のロゴスを受肉する「信仰」を布教した。
それはメシアの印である「神の信仰」の復興を告げるメシアの再来だったのだ。
人はその信仰の教えを「福音」と呼びイエスの教えを「キリスト教」として後に信仰することになった。
それが神童イエス・キリストである。
神への信仰世界であり神の王国の到来である。
writer
Soma Oishi
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