今年の夏は、気持ち的に、 時間的に余裕がないので、 リフレッシュ休暇に選んだのは、 近場の #那須塩原市 #塩原温泉 #四季味亭 #ふじや ♨️ チェックイン開始の3時前に到着 早速、誰もいない大浴場に入り、 身体を温めてから、 全身アロマオイルマッサージで 全身の疲れをほぐしてもらい、 ちょっと、うたた寝😪 夕食前に、部屋付の露天風呂でまったり♨️ 「塩原のお湯って、こんなにツルツルだっけ」 って感じで、お湯に入ったり、出たり、 身体の芯までリラックス♨️ 夕食は個室の食事処で、お宿自慢料理が並び、 栃木の地酒の飲み比べもあり、 お腹一杯で大満足🥢🈵🥴 部屋に戻ったら、またお風呂♨️ そのまま早々にベッドで爆睡😪💣💤 珍しく早く寝たので、午前3時に目覚め またまた、お風呂にドボン♨️ それから2度寝して、シャワーを浴び🚿 だめ押しのお風呂♨️に入って 腹ペコで朝食🥢🌄 これまた食べきれない豪華な朝食、 さすが自慢の #ふかひれ茶碗蒸し は 絶品で今日1日頑張れる一品でした😋 天気の悪いリフレッシュ休暇でしたが、 良い温泉、良い宿、良い料理があれば、 かえってユックリできて、大満足でした。 😌♨️🍶🥢🈵😍 #リフレッシュ #休養 #温泉 # hotspring #旅館 #ホテル #オイルマッサージ #アロマオイル #露天風呂付き客室 #barber #バーバー #ヘアサロン #理容 #美容 #床屋 #石岡 #ダブルライセンス #ナカジマ #スキンフェード #フェード #濡れパン #お顔そりエステ #スペインカール #ツイスパ #スパイラルパーマ (四季味亭ふじや) https://www.instagram.com/p/ChgpwsjOd67/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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2023年7月13日(木)
今朝も8時12分に新幹線の予約完了とのメール、これでお盆の予定が確定できた。いったい、そんな混雑するときに何をするのかというと、落語を聴きにいくのである。応援している落語家・露の新治さん、8月は関東での出番が多い。それならと、一泊二日の落語を楽しむだけのツアーとなったのだ。柳家喬太郎・三遊亭兼好はもちろんライブは初めて、夜には鈴本演芸場のお盆興行、東京の定席ももちろん初めて、ワクワク、ドキドキ。
4時30分起床。
日誌書く。
朝食。
洗濯。
弁当*2。
プラゴミ、45L*1。
雨の中、ツレアイは合羽を着て自転車で出勤。
私はO姉と一緒に車で出勤。
順調に到着する。
昨日ミスを犯したエクセル試験の採点作業、仕切り直しで昼まで頑張る。
木曜日3限は<スタディスキルズ(教育学科)>、今日はグループ発表、卓球部員が試合でいないので3班だけの発表、終了後は評価シートを記入して早めに終了。
急いで自室に戻り、エクセル試験の採点作業の続き、なんとか看護学科2クラス分の作業を終えることが出来た。かなりの二極分解、予想された結果ではあるが次週に念を入れて復習させねば。
早めに帰宅、蒸し暑いので速攻で着替える。
昼間採点したエクセル試験の再チェック、これで評価作業がスムーズにできる。明日は栄養学科の分を作業しなければ。
酢タマネギを仕込む。
買物はせずに、あり合わせの食材で夕飯を準備する。
昨日仕込んでおいたジャガイモとサバ缶の煮物、少し焦げてしまったがそれがまた美味しい。頂き物の信州ワイン、濃くて美味しい。
録画番組視聴。
サラメシ シーズン13
(11)宮大工のまかない担う新人奮闘記▽コンポスト
初回放送日: 2023年7月6日
長尾さんは18歳の新人宮大工。高校卒業後、地元を離れ先輩職人たちと寝食を共にしながら修行中。長尾さんに任された大切な仕事が職人たちのまかない作り。宮大工の仕事は段取りが大切、その段取りと思いやりを学ぶため重要な任務なのだ。新人職人の奮闘ぶりを拝見▼コンポストに情熱を注いで四半世紀。通販会社社長のコンポスト愛と野菜たっぷりの仕事とランチをご紹介▼お弁当箱が語る「おべんとうのはなし」は「俺の定番弁当」
「やまがた春夏色模様」
初回放送日: 2023年7月11日
春から初夏にかけての山形市は豊かな自然や伝統工芸などの「色」がきらめく季節。桜から植木市や水田の緑を経てサクランボ、紅花へ。色とりどりの風土と営みを描き出す。
4月、春を迎えた山形市を彩るのは桜色、続いてサクランボの白い花。5月になると街では伝統の薬師祭植木市が開かれ、水田や里山も緑に。草木染めの工房ではさまざまな草花の色、そして江戸時代「金よりも高価」と言われた紅花染めの紅色が輝く。さらに職人が守り伝える和傘、牧野博士ゆかりの植物画家、純白の米こうじから生まれる手作りみそ。6月、サクランボが実り、やがて紅花が咲くと夏へ。山形ならではのカラフルな色模様。
どちらも見応えある内容だった。
片付け、入浴、体重は変わらず(あかんがな!)。
歩数は届かないが、なんとか3つのリング完成。水分は1,540ml。
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虚子自選揮毫『虚子百句』を読む Ⅴ
花鳥誌2024年5月号より転載
日本文学研究者
井上 泰至
8 さしくれし春雨傘を受取し
『五百句』には「大正十三年」と注記され、初出は翌大正十四年八月の『ホトトギス』で、「近詠」とのみ題されている。『年代順虚子俳句全集』第三巻の大正十三年の項には、「四月(日不明。)小樽高商を卒へたる長男年尾を伴ひ京阪地方に遊ぶ。その時の句?」とあって、『虚子百句』では次の九番目に挙げられる「天日のうつりて暗し蝌蚪の水」の後に掲出されている。成立は前後していたか。
しかし、『虚子百句』では、この句の方を先に挙げた。その理由は、単純に『五百句』の掲載順に拠ったとも考え得るが、加うるにこの句の前の七番の句が「雨の中に立春大吉の光あり」なので、「雨」の句で一組としたか。この後九番は「天日」で晴、十番は「思ひ川渡れば又も春の雨」と雨の句となる。単調さを避け、季節の進行に晴雨の交代を入れ込んだ編集の妙でもあったか。
この句の問題は、「春雨や」と持ってこず、「春雨傘」と中七に造語としてわざわざ置いたのは何故かという点にある。ここから考えてみよう。
「さしくれし」の「し」は、一般に「過去」の意味の助動詞「き」の連体形だと言われるが、室町時代末期から、現在もその動作が続いている「完了」の意味を持つようにもなってきていた(井上・堀切克洋『俳句がよくわかる文法講座』第2章)。有名な、
糸瓜咲て痰のつまりし佛かな 正岡子規
の「し」も、「つまってしまった(そして、現につまっている)」の意味でないとおかしい。ただ過去の動作が終わったとか、あるいは過去の動作の影響が終わってしまったということなら、子規は死んでしまっていることになるが、この句は自分の最期の姿を「佛」と客観視して詠んだのであって、「今まさにちょうど」という意味でなければならない。やはりよく知られる島崎藤村の「まだあげ初めし前髪の/ 林檎のもとに見えし時」という『若菜集』「初恋」の一節も、現前する女性のうなじを詠んでいるのだから、「し」は「あげたばかりの」という意味でなければならない。
掲句も、上五の「さしくれし」を受けて「受取りし」と応じた、この呼吸が一句の眼目なのである。繰り返される「し」は、過去でなく完了の意味でなければならない。そこで中七の「春雨傘」の造語が使われることになったものだろう。
そこに気づいてみると、おそらくは女性が手渡してくれた傘を阿吽の呼吸で、虚子か、あるいは虚子が見ていた人物が受け取った動きのある一場面に焦点を当てたことがわかる。
「春雨」は本来京都独特の、鴨川の水面を観て雨を知るような細やかで繊細なそれであるから、この一瞬の「艶」なる場面をつなぐ重要な小道具の属性を知らせるのに、十二分の役割を果たしているのである。当然『喜寿艶』にはこの句は掲載されている。
なお、京都の三業(料亭・待合茶屋・置屋)の女性の品を様々に詠むのは、虚子句の一傾向であるが、
美人手を貸せばひかれて老涼し 昭和二七年
夕立に傘傾けてはつ子来ぬ 昭和三〇年
など京都の女性の「手」や「傘」を材にした同傾向の句を確認すると、虚子にとって「傘」と女の「手」のしなやかさや姿態は、発想の起点であったことが確認できる。
9 天日のうつりて暗し蝌蚪の水
『五百句』には「大正十三年」とのみ注記。『年代順虚子俳句全集』には、前の句の解説で示したように、小樽高商を卒業した高濱年尾を伴い、関西を訪ねた四月の句か、としている。『ホトトギス』大正十三年六月号の「消息」欄で年尾は、滞在十八日、京都・大阪・神戸・堺・大和を回り、特に京都の嵯峨・御室・東山、さらに琵琶湖から比叡山・大原を回り、京都の風光の良さを特記している。
掲句は、二つの解釈が一応想定できる。太陽が位置を傾け、それまで日が当たっていた場所が暗くなり、そんな中をお玉杓子が泳いでいる、というもの。
今一つの解釈は、「沢山のお玉杓子が孵ると水一面が黒くなるほどで」「日の光が水に当っても暗いような感じがする」という『虚子百句』の高濱年尾のような受け取り方である。清崎敏郎も「玉藻研究座談会」で同様の解釈を披露している。
大野林火もまた後者の意味に捉え、「くろずんた蝌蚪」と「水面の日輪」とが重なり、「不思議に重々しい空気を伝えてくる」としている(『虚子秀句鑑賞』)。
こう考えてくると、一句の解釈の分岐点は「うつりて」が「移りて」なのか、はたまた「映りて」なのかというとこにあることが見えてくる。
まず、この句が詠まれていた時、年尾が同伴していたということであれば、後者の解釈に軍配を挙げる客観的証言である可能性は頭に置いておく必要があろう。
さらに、「うつりて」を「移りて」と解釈してしまっては、太陽の移動を説明しただけのことになってしまい、何が何してどうなった式の句として、値打ちが下がる。やはり「映りて」と受け取って、太陽の姿と光は池に映ってはいるものと理解して初めて、句に情趣が生じる。
そもそも「て」は、単純な接続ばかりでなく、「ではあるが」という逆接の含意を俳句では持たせることがままある(井上『俳句のマナー、俳句のスタイル』)。
面白てやがて悲しき鵜ぶね哉 芭蕉
糸瓜咲いて痰のつまりし佛かな 子規
蝌蚪生れて未だ覚めざる彼岸かな 松本たかし
この句も、「太陽の光とその姿は池に映ってはいるものの」と屈折した意味を読み取るべきであろう。
深見けん二は、やはり「玉藻研究座談会」で、「天日」の語の選択について、「何かそこからずうつと広がって行く大きな宇宙なり世界といふものが感じられる」と発言し、敏郎とのやりとりの中で、「太陽」よりも「天日」の語を選ぶことで、客観的な状況が単純化され、それに伴って、個々の細かい現象より、もっと大きな世界を把握し表現することが可能になったと確認しあい、生前虚子は「単純化していくとそこに個性が出て来ますよ」と語っていたことを引用している。
この句に虚子の「個性」を読み取るならば、「金亀虫擲つ闇の深さかな」「蜘蛛に生れ網をかけねばならぬかな」「大寒の埃の如く人死ぬる」のような闇の世界を見つめ、それすら客観視しようとする世界に通じると言えば言えようか。
最晩年の「この池の生々流転蝌蚪の紐」(昭和三十一年)も、細部にこだわった客観写生から出発して、掲句のような「単純化」を経て、たどり着いた表現と境地と見ることも可能だろう。「天日」という世界観を含んだ語の実験が、晩年の自在を生んだと考えたい。
なお、虚子の揮毫は『虚子百句』全体に、かすれた墨痕で、視力が弱くなった老年の筆を感じさせるが、掲句に限っては鮮やかな筆づかいとなっている。意図的なものなのかどうかは、本書全体から見直してみる必要があり、機会を改めたい。ただし「我心或時軽し芥子の花」など明らかに、居住まいとただした書きぶりも認められる句が少ないながらあることは、単純な墨継ぎの問題で収まるのか否か注意を要することは、心覚えに書きとどめておきたい。
『虚子百句』より虚子揮毫
9 天日のうつりて暗し蝌蚪の水
10 思ひ川渡れば又も花の雨
国立国会図書館デジタルコレクションより
___________________________
井上 泰至(いのうえ・やすし)
1961年京都市生まれ
日本伝統俳句協会常務理事・防衛大学校教授。
専攻、江戸文学・近代俳句
著書に
『子規の内なる江戸』(角川学芸出版)
『近代俳句の誕生』 (日本伝統俳句協会)
『改訂雨月物語』 (角川ソフィア文庫)
『恋愛小説の誕生』 (笠間書院)など 多数
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2024鹽水月津港燈節的白天來看看月之美術館
台灣南部四天三夜的旅遊最後一天開始北上,除了在高雄欣賞高雄國際貨櫃藝術節的作品外,開車前往台南市鹽水區的月津港,剛好過年前有2024鹽水月津港燈節,來這個從來沒有來過的有四百年歷史的鹽水。
下高速公路之後往鹽水方向前進,首先看到了聲鏡Acoustic Mirrors這個燈區,但我們來的不是時候,如果晚上來的時候可以看到美麗的藝術品,車子停在路邊之後,開始往月之美術館方向走,經過鹽水天主堂,看起來這個特色為使用中國宮廷式建築建造,感覺有中西合併,有點不太像教堂的感覺,有一點像道教的樣貌,走進巷子裡面後,穿過這些小小的街道,來到了修德拜亭廣場,裡面好像有龍的藝術品在裡面,原來是日本藝術家胡宮雪娜帶來大型充氣作品《兔龍》。
另外這裡的街道或房屋牆密上可以看到許多鮮豔的色彩,還有月之美術館的圖案創作,旁邊有鹽水月津百年風華的古照片與鹽水當地的介紹。
很快地我們走到了月津故事館,這裡也是月之美術館的所在,為月之美術館公眾服務的新場域,結合旅客服務、場域展示及歷史追尋等功能,讓往來鹽水的旅客能夠了解歷史與特色。
月津故事館這裡的牆壁上有展示許許多多鹽水這裡的故事與計畫,在這個小鎮上可以透過藝術與藝文旅行的體驗,展現鹽水的地方特色。
除了在各地區透過蓋章來蒐集這裡有關的特色外,也讓遊可以發現鹽水有什麼不一樣的便利貼,寫上去是否發現另外新奇的人事物,並透過繪畫的方式來展現鹽水小鎮的美麗景物。
延伸閱讀:
- 第一次看2023高雄國際貨櫃藝術節─海口味與音浪塔
- 台灣中南部四天三夜旅遊第三晚住捷絲旅高雄中正館豪華四人房
- 2024鳳山光之季愛心燈區沿著曹公圳看波光共舞等藝術創作
台灣嘉南高屏四天三夜旅遊自助自駕行行程如下
Day1:主要行程-台江國家公園遊客中心
→【交通】自駕,從台北出發
→【午餐】民雄鵝肉太郎老店
→【景點】北香湖公園
→【景點】森林之歌
→【景點】阿里山森林鐵路車庫園區
→【景點】檜意森活村
→【景點】六甲落羽松
→【景點】台江國家公園遊客中心
→【晚餐】鼎富發豬油拌飯
→【住宿】Hotel A 聖禾大飯店
Day2:主要行程-貓鼻頭公園
→【早餐】Hotel A 聖禾大飯店
→【景點】潮州日式歷史建築文化園區
→【景點】潮好玩幸福村
→【景點】林後四林平地森林園區
→【景點】貓鼻頭公園
→【景點】雷打石
→【景點】星砂灣
→【晚餐】邱家生魚片
→【住宿】墾丁夏都沙灘酒店
Day3:主要行程-落山風藝術季-海口沙灘
→【早餐】墾丁夏都沙灘酒店
→【景點】看海美術館
→【景點】落山風藝術季-海口沙灘
→【景點】可茵山可可莊園枋寮旗艦店園區
→【晚餐】海鴻飯店
→【景點】2024鳳山光之季大東燈區燈座
→【景點】2024鳳山光之季黃埔燈區
→【景點】2024鳳山光之季愛心燈區
→【住宿】捷絲旅高雄中正館豪華四人房
Day4:主要行程-2023高雄國際貨櫃藝術節─海口味與音浪塔
→【早餐】捷絲旅高雄中正館
→【景點】2023高雄國際貨櫃藝術節─海口味與音浪塔
→【景點】月之美術館
→【景點】鹽水八角樓
→【景點】蔡和泉故居
→【景點】朴子藝術公園
→【晚餐】清真恩德元餃子館
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春夏秋冬
H:南宋無門慧開禪師的一首詩「好時節」: 「春有百花秋有月,夏有涼風冬有雪,若無閒事掛心頭,便是人間好時節。」 春夏秋冬四季,在我們平常人心中是無感的,除了農人的「春耕、夏耘、秋收、冬藏,四者不失時,故五穀不絕,而百姓有餘食也。」我們只知道寒冷冬天過後,春天覺得暖和,百花也開了。夏天來熱呼乎,秋天有點涼,落葉也多了。冬天來了又冷。其他無言。詩人作家寫四季,詩情畫意隨筆來,美美的意境詠嘆,無聊就念念解心煩。20240420W6
網路資料
正月期間,今天就介紹南宋無門慧開禪師的一首詩,它告訴我們甚麼是「好時節」: 「春有百花秋有月,夏有涼風冬有雪,若無閒事掛心頭,便是人間好時節。」 春花秋月,夏風冬雪,一年四季都可以是好時節,但最讓你能夠感到好時節的,不是外在的春夏秋冬,而是「若無閒事在心頭」,也就是說,心中沒有掛慮,沒有恐懼,那麼任何時候都是好時節。2021年3月1日
荀子王制:
聖主1之制也:草木榮華滋碩之時,則斧斤不入山林,不夭其生,不絕其長也。黿鼉魚鱉鰍鱣孕別之時,罔罟毒藥不入澤,不夭其生,不絕其長也。春耕、夏耘、秋收、冬藏,四者不失時,故五穀不絕,而百姓有餘食也。汙池淵沼川澤,謹其時禁,故魚鱉優多,而百姓有餘用也。斬伐養長不失其時,故山林不童,而百姓有餘材也。
春
作者:朱自清
1933年7月
姊妹計劃: 數據項
 參閱維基百科中的:春季 閲文言維基大典文
盼望着,盼望着,東風來了,春天的腳步近了。
一切都像剛睡醒的樣子,欣欣然張開了眼。山朗潤起來了,水長起來了,太陽的臉紅起來了。
小草偷偷地從土裏鑽出來,嫩嫩的,綠綠的。園子裏,田野裏,瞧去,一大片一大片滿是的。坐着,躺着,打兩個滾,踢幾腳球,賽幾䠀跑,捉幾回迷藏。風輕悄悄的,草軟綿綿的。
桃樹、杏樹、梨樹,你不讓我,我不讓你,都開滿了花趕䠀兒。紅的像火,粉的像霞,白的像雪。花裏帶着甜味;閉了眼,樹上髣髴已經滿是桃兒、杏兒、梨兒!花下成千成百的蜜蜂嗡嗡地鬧着,大小的蝴蝶飛來飛去。野花遍地是:雜樣兒,有名字的,沒名字的,散在草叢裏,像眼睛,像星星,還眨呀眨的。
「吹面不寒楊柳風」,不錯的,像母親的手撫摸着你。風裏帶來些新翻的泥土的氣息,混着青草味,還有各種花的香,都在微微潤溼的空氣裏醞釀。鳥兒將窠巢安在繁花嫩葉當中,高興起來了,呼朋引伴地賣弄清脆的喉嚨,唱出宛轉的曲子,與輕風流水應和着。牛背上牧童的短笛,這時候也成天在嘹亮地響。
雨是最尋常的,一下就是三兩天。可別惱。看,像牛毛,像花針,像細絲,密密地斜織着,人家屋頂上全籠着一層薄煙。樹葉子卻綠得發亮,小草也青得逼你的眼。傍晚時候,上燈了,一點點黃暈的光,烘托出一片安靜而和平的夜。鄉下去,小路上,石橋邊,撐起傘慢慢走着的人;還有地裏工作的農夫,披着蓑戴着笠的。他們的草屋,稀稀疏疏的在雨裏靜默着。
天上風箏漸漸多了,地上孩子也多了。城裏鄉下,家家戶戶,老老小小,他們也趕䠀兒似的,一個個都出來了。舒活舒活筋骨,抖擻抖擻精神,各做各的一份兒事去。「一年之計在於春」,剛起頭兒,有的是工夫,有的是希望。
春天像剛落地的娃娃,從頭到腳都是新的,它生長着。
春天像小姑娘,花枝招展的,笑着,走着。
春天像健壯的青年,有鐵一般的胳膊和腰腳,他領着我們上前去。
說夢
作者:朱自清
1925年10月
姊妹计划: 数据项
偽《列子》里有一段夢話,說得甚好:
“周之尹氏大治產,其下趣役者,侵晨昏而不息。有老役夫筋力竭矣,而使之彌勤。晝則呻呼而即事,夜則昏憊而熟寐。精神荒散,昔昔夢為國君:居人民之上,總一國之事;游燕宮觀,恣意所欲,其樂無比。覺則复役人。……尹氏心營世事,慮鐘家業,心形俱疲,夜亦昏憊而寐。昔昔夢為人仆:趨走作役,無不為也; 數罵杖撻,無��至也。眠中啽囈呻呼,徹旦息焉。……”
此文原意是要說出“苦逸之复,數之常也;若欲覺夢兼之,豈可得邪?”這其間大有玄味,我是領略不著的;我只是斷章取義地賞識這件故事的自身,所以才老遠地引了來。我只覺得夢不是一件坏東西。即真如這件故事所說,也還是很有意思的。因為人生有限,我們若能夜夜有這樣清楚的夢,則過了一日,足抵兩日,過了五十歲,足抵一百歲;如此便宜的事,真是落得的。至于夢中的“苦樂”,則照我素人的見解,畢竟是“夢中的”苦樂,不必斤斤計較的。若必欲斤斤計較,我要大膽地說一句:他和那些在牆上貼紅紙條儿,寫著“夜夢不祥,書破大吉”的,同樣地不懂得夢!
但庄子說道,“至人無夢。”偽《列子》里也說道,“古之真人,其覺自忘,其寢不夢。”——張湛注曰,“真人無往不忘,乃當不眠,何夢之有?”可知我們這几位先哲不甚以做夢為然,至少也總以為夢是不大高明的東西。但孔子就与他們不同,他深以“不复夢見周公”為憾;他自然是愛做夢的,至少也是不反對做夢的。——殆所謂時乎做夢則做夢者歟?我覺得“至人”,“真人”,畢竟沒有我們的份儿,我們大可不必妄想;只看“乃當不眠”一個條件,你我能做到么?唉,你若主張或實行“八小時睡眠”,就別想做“至人”,“真人”了!但是,也不用擔心,還有為我們掮木梢的:我們知道,愚人也無夢!他們是一枕黑甜,哼呵到曉,一些儿夢的影子也找不著的!我們徼幸還會做几個夢,雖因此失了“至人”,“真人”的資格,卻也因此而得免于愚人,未嘗不是運气。至于“至人”,“真人”之無夢和愚人之無夢,究竟有何分別?卻是一個難題。我想偷懶,還是摭拾上文說過的話來答吧:“真人……乃當不眠,……”而愚人是“一枕黑甜,哼呵到曉”的!再加一句,此即孔子所謂“上智与下愚不移”也。說到孔子,孔子不反對做夢,難道也做不了“至人”,“真人”?我說,“唯唯,否否!”孔子是“圣人”,自有他的特殊的地位,用不著再來爭“至人”,“真人”的名號了。但得知道,做夢而能夢周公,才能成其所以為圣人;我們也還是夠不上格儿的。
我們終于只能做第二流人物。但這中間也還有個高低。高的如我的朋友P君:他夢見花,夢見詩,夢見綺麗的衣裳,……真可算得有夢皆甜了。低的如我:我在江南時,本忝在愚人之列,照例是漆黑一團地睡到天光;不過得聲明,哼呵是沒有的。北來以后,不知怎樣,陡然聰明起來,夜夜有夢,而且不一其夢。但我究竟是新升格的,夢盡管做,卻做不著一個清清楚楚的夢!成夜地亂夢顛倒,醒來不知所云,恍然若失。最難堪的是每早將醒未醒之際,殘夢依人,膩膩不去;忽然雙眼一睜,如墜深谷,万象寂然——只有一角日光在牆上痴痴地等著!我此時決不起來,必凝神細想,欲追回夢中滋味于万一;但照例是想不出,只惘惘然茫茫然似乎怀念著些什么而已。雖然如此,有一點是知道的:夢中的天地是自由的,任你徜徉,任你翱翔;一睜眼卻就給密密的麻繩綁上了,就大大地不同了!我現在确乎有些精神恍惚,這里所寫的就夠教你知道。但我不因此詛咒夢;我只怪我做夢的藝術不佳,做不著清楚的夢。若做著清楚的夢,若夜夜做著清楚的夢,我想精神恍惚也無妨的。照現在這樣一大串儿糊里糊涂的夢,直是要將這個“我”化成漆黑一團,卻有些儿不便。是的,我得學些本事,今夜做他几個好好的夢。我是徹頭徹尾贊美夢的,因為我是素人,而且將永遠是素人。
(原載1925年10月《清華周刊》第24卷第8號)
揚州的夏日
揚州從隋煬帝以來,是詩人文士所稱道的地方;稱道的多了,稱道得久了,一般人便也隨聲附和起來。直到現在,你若向人提起揚州這個名字,他會點頭或搖頭說:“好地方!好地方!”特別是沒去過揚州而念過些唐詩的人,在他心里,揚州真像蜃樓海市一般美麗;他若念過《揚州畫舫錄》一類書,那更了不得了。但在一個久住揚州像我的人,他卻沒有那么多美麗的幻想,他的憎惡也許掩住了他的愛好;他也許离開了三四年并不去想它。若是想呢,——你說他想什么?女人;不錯,這似乎也有名,但怕不是現在的女人吧?——他也只會想著揚州的夏日,雖然与女人仍然不無關系的。
北方和南方一個大不同,在我看,就是北方無水而南方有。誠然,北方今年大雨,永定河,大清河甚至決了堤防,但這并不能算是有水;北平的三海和頤和園雖然有點儿水,但太平衍了,一覽而盡,船又那么笨頭笨腦的。有水的仍然是南方。揚州的夏日,好處大半便在水上——有人稱為“瘦西湖”,這個名字真是太“瘦”了,假西湖之名以行,“雅得這樣俗”,老實說,我是不喜歡的。下船的地方便是護城河,曼衍開去,曲曲折折,直到平山堂,——這是你們熟悉的名字——有七八里河道,還有許多杈杈椏椏的支流。這條河其實也沒有頂大的好處,只是曲折而有些幽靜,和別處不同。
沿河最著名的風景是小金山,法海寺,五亭橋;最遠的便是平山堂了。金山你們是知道的,小金山卻在水中央。在那里望水最好,看月自然也不錯——可是我還不曾有過那樣福气。“下河”的人十之九是到這儿的,人不免太多些。法海寺有一個塔,和北海的一樣,据說是乾隆皇帝下江南,鹽商們連夜督促匠人造成的。法海寺著名的自然是這個塔;但還有一樁,你們猜不著,是紅燒豬頭。夏天吃紅燒豬頭,在理論上也許不甚相宜;可是在實際上,揮汗吃著,倒也不坏的。五亭橋如名字所示,是五個亭子的橋。橋是拱形,中一亭最高,兩邊四亭,參差相稱;最宜遠看,或看影子,也好。橋洞頗多,乘小船穿來穿去,另有風味。平山堂在蜀岡上。登堂可見江南諸山淡淡的輪廓;“山色有無中”一句話,我看是恰到好處,并不算錯。這里游人較少,閒坐在堂上,可以永日。沿路光景,也以閒寂胜。從天宁門或北門下船。蜿蜒的城牆,在水里倒映著蒼黝的影子,小船悠然地撐過去,岸上的喧扰像沒有似的。
船有三种:大船專供宴游之用,可以挾妓或打牌。小時候常跟了父親去,在船里听著謀得利洋行的唱片。現在這樣乘船的大概少了吧?其次是“小划子”,真像一瓣西瓜,由一個男人或女人用竹篙撐著。乘的人多了,便可雇兩只,前后用小凳子跨著:這也可算得“方舟”了。后來又有一种“洋划”,比大船小,比“小划子”大,上支布篷,可以遮日遮雨。“洋划”漸漸地多,大船漸漸地少,然而“小划子”總是有人要的。這不獨因為价錢最賤,也因為它的伶俐。一個人坐在船中,讓一個人站在船尾上用竹篙一下一下地撐著,簡直是一首唐詩,或一幅山水畫。而有些好事的少年,愿意自己撐船,也非“小划子”不行。“小划子”雖然便宜,卻也有些分別。譬如說,你們也可想到的,女人撐船總要貴些;姑娘撐的自然更要貴囉。這些撐船的女子,便是有人說過的“瘦西湖上的船娘”。船娘們的故事大概不少,但我不很知道。据說以亂頭粗服,風趣天然為胜;中年而有風趣,也仍然算好。可是起初原是逢場作戲,或尚不傷廉惠;以后居然有了价格,便覺意味索然了。
北門外一帶,叫做下街,“茶館”最多,往往一面臨河。船行過時,茶客与乘客可以隨便招呼說話。船上人若高興時,也可以向茶館中要一壺茶,或一兩种“小籠點心”,在河中喝著,吃著,談著。回來時再將茶壺和所謂小籠,連价款一并交給茶館中人。撐船的都与茶館相熟,他們不怕你白吃。揚州的小籠點心實在不錯:我离開揚州,也走過七八處大大小小的地方,還沒有吃過那樣好的點心;這其實是值得惦記的。茶館的地方大致總好,名字也頗有好的。如香影廊,綠楊村,紅葉山庄,都是到現在還記得的。綠楊村的幌子,挂在綠楊樹上,隨風飄展,使人想起“綠楊城郭是揚州”的名句。里面還有小池,叢竹,茅亭,景物最幽。這一帶的茶館布置都歷落有致,迥非上海,北平方方正正的茶樓可比。
“下河”總是下午。傍晚回來,在暮靄朦朧中上了岸,將大褂折好搭在腕上,一手微微搖著扇子;這樣進了北門或天宁門走回家中。這時候可以念“又得浮生半日閒”那一句詩了。
(原載1929年12月11日《白華旬刊》第4期)
夏日田間即景(近沙士頓)
作者:徐志摩 1922年寫於1922年2月,原載於1922年3月14日《時事新報·學燈》,並未錄入徐志摩在世時出版的4本詩集中。
版本信息
姊妹计划: 数据项
柳林青青,
南風薰薰,
幻成奇峰瑤島,
一天的黃雲白雲,
那邊麥浪中間,
有農婦笑語殷殷。
笑語殷殷——
問後園豌豆肥否,
問楊梅可有鳥來偷;
好幾天不下雨了,
玫瑰花還未曾紅透;
梅夫人今天進城去,
且看她有新聞無有。
笑語殷殷——
「我們家的如今好了,
已經照常上工去,
不再整天的無聊,
不再逞酒使氣,
回家來有說有笑,
疼他兒女——愛他妻;
呀!真巧!你看那邊,
蓬著頭,走來的,笑嘻嘻,
可不是他,(哈哈!)滿身是泥!」
南風熏熏,
草木青青,
滿地和暖的陽光,
滿天的白雲黃雲,
那邊麥浪中間,
有農夫農婦,笑語殷殷。
想飛
作者:徐志摩 1925年收錄於散文集《自剖》
姊妹计划: 数据项
假如這時候窗子外有雪──街上,城牆上,屋脊上,都是雪,���同口一家屋簷下偎著一個戴黑帽兒的巡警,半攏著睡眼,看棉團似的雪花在半空中跳著玩……假如這夜是一個深極了的啊,不是壁上掛鐘的時針指示給我們看的深夜,這深就比是一個山洞的深,一個往下鑽螺旋形的山洞的深…… 假如我能有這樣一個深夜,它那無底的陰森捻起我遍體的毫管;再能有窗子外不住往下篩的雪,篩淡了遠近間揚動的市謠;篩泯了在泥道上掙扎的車輪;篩滅了 腦殼中不妥協的潛流……
我要那深,我要那靜。那在樹蔭濃密處躲著的夜鷹,輕易不敢在天光還在照亮時出來睜眼。思想,它也得等。
青天裡有一點子黑的。正衝著太陽耀眼,望不真,你把手遮著眼、對著那兩株樹縫裡瞧,黑的,有排子來大,不,有桃子來大──嘿,又移著往西了!
我們吃了中飯出來到海邊去。(這是英國康槐爾極南的一角,三面是大西洋)。勖麗麗的叫聲從我們的腳底下勻勻的往上顫,齊著腰,到了肩高,過了頭頂,高入了雲,高出了雲。
啊!你能不能把一種急震的樂音想像成一陣光明的細雨,從藍天裡衝著這平鋪著青綠的地面不住的下?不,那雨點都是跳舞的小腳,安琪兒的。雲雀們也吃過了飯,離開了它們卑微的地巢飛往高處做工去。上帝給它們的工作,替上帝做的工作。瞧著,這兒一隻,那邊又起了兩!一起就衝著天頂飛,小翅膀活動的多快活,圓圓的,不躊躇的飛,──它們就認識青天。一起就開口唱,小嗓子活動的多快活,一顆顆小精圓珠子直往外唾,亮亮的唾,脆脆的唾,──它們讚美的是青天。瞧著,這飛得多高,有豆子大,有芝麻大,黑刺刺的一屑,直頂著無底的天頂細細的搖,──這全看不見了,影子都沒了!但這光明的細雨還是不住的下著……
飛。「其翼若垂天之雲……背負蒼天,而莫之夭閼者;」那不容易見著。我們鎮上東關廂外有一座黃泥山,山頂上有一座七層的塔,塔尖頂著天。塔院裡常常打鐘,鐘聲響動時,那在太陽西曬的時候多,一枝艷艷的大紅花貼在西山的鬢邊回照著塔山上的雲彩,──鐘聲響動時,繞著塔頂尖,摩著塔頂天,穿著塔頂雲,有一隻兩隻,有時三隻四隻有時五隻六隻蜷著爪往地面瞧的「餓老鷹」,撐開了它們灰蒼蒼的大翅膀沒掛戀似的在盤旋,在半空中浮著,在晚風中泅著,彷彿是按著塔院鐘的波蕩來練習圓舞似的。那是我做孩子時的「大鵬」?
有時好天抬頭不見一瓣雲的時候聽著貌憂憂的叫聲,我們就知道那是寶塔上的餓老鷹尋食吃來了,這一想像半天裡禿頂圓睛的英雄,我們背上的小翅膀骨上就彷彿豁出了一銼銼鐵刷似的羽毛,搖起來呼呼聲的,只一擺就衝出了書房門,鑽入了玳瑁鑲邊的白雲裡玩兒去,誰耐煩站在先生書桌前晃著身子背早上上的多難背的書!
啊!飛!不是那在樹枝上矮矮的跳著麻雀兒的飛;不是那湊天黑從堂匾後背衝出來趕蚊子吃的蝙蝠的飛;也不是那軟尾巴軟嗓於做集在堂簷上的燕子的飛。要飛就得滿天飛,風攔不住雲擋不住的飛,一翅膀就跳過一座山頭,影子下來遮得陰二+畝稻田的飛,要天晚飛倦了就來繞著那塔頂尖順著風向打圓圈做夢……聽說餓老鷹會抓小雞!
飛。人們原來都是會飛的。天使們有翅膀,會飛,我們初來時也有翅膀,會飛。我們最��來就是飛了來的,有的做完了事還是飛了去,他們是可羨慕的。但大多數人是忘了飛的,有的翅膀上掉毛不長再也飛不起來,有的翅膀叫膠水給膠住了,融拉不開,有的羽毛叫人給修短了像鴿子似的只會在地上跳,有的拿背上一對翅膀上當鋪去典錢使過了期再也贖不回……真的,我們一過了做孩子的日子就掉了飛的本領。
但沒了翅膀或是翅膀壞了不能用是一件可怕的事。因為你再也飛不回去,你蹲在地上呆望著飛不上去的天,看旁人有福氣的一程一程的在青雲裡逍遙,那多可憐。而且翅膀又不比是你腳上的鞋,穿爛了可以再問媽要一雙去,翅膀可不成,折了一根毛就是一根,沒法給補的。還有,單顧著你翅膀也還不定規到時候能飛,你這身子要是不謹慎養太肥了,翅膀力量小也再也拖不起,也是一樣難不是?
一對小翅膀馱不起一個胖肚子,那情形多可笑!到時候你聽人家高聲的招呼說,朋友,回去罷,趁這天還有紫色的光,你聽他們的翅膀在半空中沙沙的搖響,朵朵的春雲跳過來擁著他們的肩背,望著最光明的來處翩翩的,冉冉的,輕煙似的化出了你的視域,像雲雀似的只留下一瀉光明的驟雨──「 Thou art unseen,ut yet I hear the shrill delight.」──那你,獨自在泥塗裡淹著,夠多難受,夠多懊惱,夠多寒傖!趁早留神你的翅膀,朋友。
是人沒有不想飛的。老是在這地面上爬著夠多厭煩,不說別的。飛出這圈子,飛出這圈子!到雲端裡去,到雲端裡去!那個心裡不成天千百遍的這麼想?飛上天空去浮著,看地球這彈丸在太空裡滾著,從陸地看到海、從海再看回陸地。凌空去看一個明白──這本是做人的趣味,做人的權威,做人的交代。這皮囊要是太重挪不動,就擲了它,可能的話,飛出這圈子,飛出這圈子!
人類初發明用石器的時候,已經想長翅膀,想飛,原人洞壁上畫的四不像,它的背上掮著翅膀;拿著弓箭趕野獸的,他那肩背上也給安了翅膀。小愛神是有一對粉嫩的肉翅的。挨開拉斯(Icarus)是人類飛行史裡第一個英雄,第一次犧牲。安琪兒(那是理想化的人)第一個標記是幫助他們飛行的翅膀。那也有沿革──你看西洋書上的表現。最初像一對小精緻的令旗,蝴蝶似的粘在安琪兒們的背上,像真的,不靈動的。漸漸的翅膀長大了,地位安準了,毛羽豐滿了。畫圖上的天使們長上了真的可能的翅膀。人類初次實現了翅膀的觀念,徹悟了飛行的意義。挨開拉斯閃不死的靈魂,回來投生又投生。
人類最大的使命,是製造翅膀;最大的成功是飛!理想的極度,想像的止境,從人到神!詩是翅膀上出世的;哲理是在空中盤旋的。飛:超脫一切,籠蓋一切,掃蕩一切,吞吐一切。你上那邊山峰頂上試去,要是度不到這邊山峰上,你就得這萬丈的深淵裡去找你的葬身地!
[這人形的鳥會有一天試他第一次的飛行給這世界驚駭,使所有的著作讚美,給他所從來的棲息處永久的光榮]啊!達文西!
但是飛?自從挨開拉斯以來,人類的工作是製造翅膀,還是束縛翅膀?這翅膀,承上了文明的重量,還能飛嗎?都是飛了來的,還都能飛了回去嗎?鉗住了,烙住了,壓住了,──這人形的鳥會有試他第一次飛行的一天嗎?……
同時天上那一點子黑的已經迫近在我的頭頂,形成了一架鳥形的機器,忽的機沿一側,一球光直往下注,硼的一聲炸響,──炸碎了我在飛行中的幻想,青天裡平添了幾堆破碎的浮雲。
(一九二五年十月六月)
故都的秋(郁達夫)
秋天,無論在什么地方的秋天,總是好的;可是啊,北國的秋,卻特別地來得清,來得靜,來得悲涼。我的不遠千里,要從杭州赶上青島,更要從青島赶上北平來的理由,也不過想飽嘗一嘗這“秋”,這故都的秋味。
江南,秋當然也是有的;但草木雕得慢,空气來得潤,天的顏色顯得淡,并且又時常多雨而少風;一個人夾在蘇州上海杭州,或廈門香港廣州的市民中間,渾渾沌沌地過去,只能感到一點點清涼,秋的味,秋的色,秋的意境与姿態,總看不飽,嘗不透,賞玩不到十足。秋并不是名花,也并不是美酒,那一种半開,半醉的狀態,在領略秋的過程上,是不合适的。
不逢北國之秋,已將近十余年了。在南方每年到了秋天,總要想起陶然亭的蘆花,釣魚台的柳影,西山的虫唱,玉泉的夜月,潭柘寺的鐘聲。在北平即使不出門去罷,就是在皇城人海之中,租人家一椽破屋來住著,早晨起來,泡一碗濃茶、向院子一坐,你也能看得到很高很高的碧綠的天色,听得到青天下馴鴿的飛聲。從槐樹葉底,朝東細數著一絲一絲漏下來的日光,或在破壁腰中,靜對著象喇叭似的牽牛花(朝榮)的藍朵,自然而然地也能夠感覺到十分的秋意。說到了牽牛花,我以為以藍色或白色者為佳,紫黑色次之,淡紅色最下。最好,還要在牽牛花底,教長著几根疏疏落落的尖細且長的秋草,使作陪襯。
北國的槐樹,也是一种能使人聯想起秋來的點綴。象花而又不是花的那一种落蕊,早晨起來,會舖得滿地。腳踏上去,聲音也沒有,气味也沒有,只能感出一點點极微細极柔軟的触覺。掃街的在樹影下一陣掃后,灰土上留下來的一條條掃帚的絲紋,看起來既覺得細膩,又覺得清閒,潛意識下并且還覺得有點儿落寞,古人所說的梧桐一葉而天下知秋的遙想,大約也就在這些深沈的地方。
秋蟬的衰弱的殘聲,更是北國的特產;因為北平處處全長著樹,屋子又低,所以無論在什么地方,都听得見它們的啼唱。在南方是非要上郊外或山上去才听得到的。這秋蟬的嘶叫,在北平可和蟋蟀耗子一樣,簡直象是家家戶戶都養在家里的家虫。
還有秋雨哩,北方的秋雨,也似乎比南方的下得奇,下得有味,下得更象樣。
在灰沈沈的天底下,忽而來一陣涼風,便息列索落地下起雨來了。一層雨過,云漸漸地卷向了西去,天又青了,太陽又露出臉來了;著著很厚的青布單衣或夾襖曲都市閒人,咬著煙管,在雨后的斜橋影里,上橋頭樹底下去一立,遇見熟人,便會用了緩慢悠閒的聲調,微歎著互答著的說:
“唉,天可真涼了─—”(這了字念得很高,拖得很長。)
“可不是么?一層秋雨一層涼了!”
北方人念陣字,總老象是層字,平平仄仄起來,這念錯的歧韻,倒來得正好。
北方的果樹,到秋來,也是一种奇景。第一是棗子樹;屋角,牆頭,茅房邊上,灶房門口,它都會一株株地長大起來。象橄欖又象鴿蛋似的這棗子顆儿,在小橢圓形的細葉中間,顯出淡綠微黃的顏色的時候,正是秋的全盛時期;等棗樹葉落,棗子紅完,西北風就要起來了,北方便是塵沙灰土的世界,只有這棗子、柿子、葡萄,成熟到八九分的七八月之交,是北國的清秋的佳日,是一年之中最好也沒有的GoldenDays。
有些批評家說,中國的文人學士,尤其是詩人,都帶著很濃厚的頹廢色彩,所以中國的詩文里,頌贊秋的文字特別的多。但外國的詩人,又何嘗不然?我雖則外國詩文念得不多,也不想開出賬來,做一篇秋的詩歌散文鈔,但你若去一翻英德法意等詩人的集子,或各國的詩文的An-thology來,總能夠看到許多關于秋的歌頌与悲啼。各著名的大詩人的長篇田園詩或四季詩里,也總以關于秋的部分。寫得最出色而最有味。足見有感覺的動物,有情趣的人類,對于秋,總是一樣的能特別引起深沈,幽遠,嚴厲,蕭索的感触來的。不單是詩人,就是被關閉在牢獄里的囚犯,到了秋天,我想也一定會感到一种不能自己的深情;秋之于人,何嘗有國別,更何嘗有人种階級的區別呢?不過在中國,文字里有一個“秋士”的成語,讀本里又有著很普遍的歐陽子的《秋聲》与蘇東坡的《赤壁賦》等,就覺得中國的文人,与秋的關系特別深了。可是這秋的深味,尤其是中國的秋的深味,非要在北方,才感受得到底。
南國之秋,當然是也有它的特异的地方的,比如廿四橋的明月,錢塘江的秋潮,普陀山的涼霧,荔枝灣的殘荷等等,可是色彩不濃,回味不永。比起北國的秋來,正象是黃酒之与白干,稀飯之与饃饃,鱸魚之与大蟹,黃犬之与駱駝。
秋天,這北國的秋天,若留得住的話,我愿把壽命的三分之二折去,換得一個三分之一的零頭。
一九三四年八月,在北平
冬天(朱自清)
說起冬天,忽然想到豆腐。是一“小洋鍋”(鋁鍋)白煮豆腐,熱騰騰的。水滾著,像好些魚眼睛,一小塊一小塊豆腐養在里面,嫩而滑,仿佛反穿的白狐大衣。鍋在“洋爐子”(煤油不打气爐)上,和爐子都熏得烏黑烏黑,越顯出豆腐的白。這是晚上,屋子老了,雖點著“洋燈”,也還是陰暗。圍著桌子坐的是父親跟我們哥儿三個。“洋爐子”太高了,父親得常常站起來,微微地仰著臉,覷著眼睛,從氤氳的熱气里伸進筷子,夾起豆腐,一一地放在我們的醬油碟里。我們有時也自己動手,但爐子實在太高了,總還是坐享其成的多。這并不是吃飯,只是玩儿。父親說晚上冷,吃了大家暖和些。我們都喜歡這种白水豆腐;一上桌就眼巴巴望著那鍋,等著那熱气,等著熱气里從父親筷子上掉下來的豆腐。
又是冬天,記得是陰歷十一月十六晚上,跟S君P君在西湖里坐小划子。S君剛到杭州教書,事先來信說:“我們要游西湖,不管它是冬天。”那晚月色真好,現在想起來還像照在身上。本來前一晚是“月當頭”;也許十一月的月亮真有些特別吧。那時九點多了,湖上似乎只有我們一只划子。有點風,月光照著軟軟的水波;當間那一溜儿反光,像新砑的銀子。湖上的山只剩了淡淡的影子。山下偶爾有一兩星燈火。S君口占兩句詩道:“數星燈火認漁村,淡墨輕描遠黛痕。”我們都不大說話,只有均勻的槳聲。我漸漸地快睡著了。P君“喂”了一下,才抬起眼皮,看見他在微笑。船夫問要不要上淨寺去;是阿彌陀佛生日,那邊蠻熱鬧的。到了寺里,殿上燈燭輝煌,滿是佛婆念佛的聲音,好像醒了一場夢。這已是十多年前的事了,S君還常常通著信,P君听說轉變了好几次,前年是在一個特稅局里收特稅了,以后便沒有消息。
在台州過了一個冬天,一家四口子。台州是個山城,可以說在一個大谷里。只有一條二里長的大街。別的路上白天簡直不大見人;晚上一片漆黑。偶爾人家窗戶里透出一點燈光,還有走路的拿著的火把;但那是少极了。我們住在山腳下。有的是山上松林里的風聲,跟天上一只兩只的鳥影。夏末到那里,春初便走,卻好像老在過著冬天似的;可是即便真冬天也并不冷。我們住在樓上,書房臨著大路;路上有人說話,可以清清楚楚地听見。但因為走路的人太少了,間或有點說話的聲音,听起來還只當遠風送來的,想不到就在窗外。我們是外路人,除上學校去之外,常只在家里坐著。妻也慣了���寂寞,只和我們爺儿們守著。外邊雖老是冬天,家里卻老是春天。有一回我上街去,回來的時候,樓下廚房的大方窗開著,并排地挨著她們母子三個;三張臉都帶著天真微笑地向著我。似乎台州空空的,只有我們四人;天地空空的,也只有我們四人。那時是民國十年,妻剛從家里出來,滿自在。現在她死了快四年了,我卻還老記著她那微笑的影子。
無論怎么冷,大風大雪,想到這些,我心上總是溫暖的。
(原載1933年12月1日《中學生》第40號)
白馬湖之冬
夏丏尊
在我過去四十餘年的生涯中,冬的情味嘗得最深刻的,要算十年前初移居白馬湖的時候了。十年以來,白馬湖已成了一個小村落。當我移居的時候,還是一片荒野,春暉中學的新建築巍然矗立於湖的那一面,湖的這一面的山腳下是小小的幾間新平屋,住著我和劉君心如兩家。此外兩、三里內沒有人煙。一家人於陰曆十一月下旬從熱鬧的杭州移居於這荒涼的山野,宛如投身於極帶中。
那裡的風差不多日日有的,呼呼作響,好像虎吼。屋宇雖係新建,構造卻極粗率,風從門窗隙縫中來,分外尖削。把門縫窗隙厚厚地用紙糊了,椽縫中卻仍有透入。風颳得厲害的時候,天未夜就把大門關上,全家吃畢夜飯即睡入被窩裡,靜聽寒風的怒號,湖水的洴湃。靠山的小後軒,算是我的書齋,在全屋子中是風最少的一間,我常把頭上的羅宋帽拉得低低地在油燈下工作至深夜,松濤如吼,霜月當窗,饑鼠吱吱在承塵上奔竄。我於這種時候,深感到蕭瑟的詩趣,常獨自撥劃著爐火,不肯就睡,把自己擬諸山水畫中的人物,作種種幽邈的遐想。
現在白馬湖到處都是樹木了,當時尚一株樹都未種,月亮與太陽卻是整個兒的,從山上起直要照到山下為止。在太陽好的時候,祇要不颳風,那真和暖得不像冬天。一家人都坐在庭間曝日,甚至於喫午飯也在屋外,像夏天的晚飯一樣。日光曬到那裡,就把椅凳移到那裡。忽然寒風來了,祇好逃難似地各自帶了椅凳逃入室中,急急把門關上。在平常的日子,風來大概在下午快要傍晚的時候,半夜即息。至於大風寒,那是整日夜狂吼,要二、三日才止的。最嚴寒的幾天,泥地看去慘白如水門汀,山色凍得發紫而���,湖波泛著深藍色。
下雪原是我所不憎厭的。下雪的日子,室內分外明亮,晚上差不多不用燃燈。遠山積雪,足供半個月的觀看,舉頭即可從窗中望見。可是究竟是南方,每冬下雪不過一、二次,我在那裡所日常領略的冬的情味,幾乎都從風來。白馬湖的所以多風,可以說是有著地理上的原因的,那裡環湖原都是山,而北首卻有一個半里闊的空隙,好似故意張了袋口歡迎風來的樣子。白馬湖的山水,和普通的風景地相差不遠;唯有風卻與別的地方不同。風的多和大,凡是到過那裡的人都知道的。風在冬季的感覺中,自古占著重要的因素,而白馬湖的風尤其特別。
現在,一家僦居上海多日了,偶然於夜深人靜聽到風聲的時候,大家就要提起白馬湖來,說「白馬湖不知今夜又颳得怎樣厲害哩!」
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東京茶丗SOUです。
皆さまに日本茶の美味しい淹れ方をはじめ、
お茶にまつわる四季折々のお楽しみ情報等を配信しております。
お付き合いの程どうぞよろしくお願いいたします。
【丗 SOU-Letter】 Vol.59/ 令和六年四月
梅に桜に菜の花に、うららかな春見頃。
新年度が始まりました。
ふんわり...
期待に胸を弾ませた花の蕾がひらく
咲花音が聞こえてきます。
日本の4月といえば、お花見。
全国には沢山のお花見スポットがありますが、
今月は東京の桜の名所『新宿御苑』をご紹介します。
私たちの事務所から歩いて7分程にある
新宿御苑では、観桜会として皇室行事が
明治時代から続いています。
庭園には、ソメイヨシノやヨウコウ、カンザン、
新宿御苑の代表品種であるイチヨウ等、
約65種1100本の桜が咲き誇り、
圧巻の桜景色に、多くの人の胸が高鳴ります。
また、園内にある楽羽亭のあかふじ茶室では、
桜を鑑賞しながらお抹茶を一服でき
優雅な時間を過ごすことができます。
毎年3月25日~4月24日は「春の特別開園」が
開催しているようなので、
春を愉しみにお出掛けしてみてはいかがでしょうか。
(※花見時期は事前予約制)
【今月オススメの丗SOU】
梅と和紅茶のブレンドティーまろやかな甘みと
スッキリとした酸味が人気の逸品。
心もふんわりと春色に染めてみてはいかがでしょう?
◆伶-rei-¥1,685(税込)
【丗SOUインフォメーション】
NFTアートをスタートしました。
丗SOUが織り成すクリエイションを是非お楽しみ下さい*
#お花見 #桜 #新宿御苑 #新年度 #桜 #cherryblossom #shinjukugyoen #伶 #東京土産 #organic #丗SOUチャンネル #ギフト #プチギフト #ギフトボックス #nft #nftart #新宿 #丗SOU #tokyocha #丗 #東京茶 #japanesetea #greentea #tea #お茶 #日本茶 #Tokyo #umudesignInc
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山樱之落 贰 东山道与北陆道之行 5
伊万的预料没错,由于摄入了过多的脂肪加之牠吃下了远超平日食量的食物——这就是自己动手烤制食物的坏处,每次伊万这样做时,牠总会不知不觉吃得过多——几小时后牠的确感到了反胃。已经在喝那种伊万讨厌的、用开水冲泡绿色的茶叶粉末的、名为抹茶的樱和菊建议伊万喝些抹茶,不过伊万不认为自己应该在已经感到反胃的前提下挑战自我喝下些瞧上去像是用长了绿霉的面粉制作的东��,故牠采纳了樱、菊的第二个建议,吃些当季的、刚从树上采摘下来的水果。
“这是从伊万君下午瞧见的那些种在西对庭院里的蜜柑树上摘下来的。”樱捧着茶杯说,坐在她身侧的菊正握着一种用竹子制作的、形状如倒过来的伞菌的器具将开水与茶粉搅匀。
下午时在菊的带领下——樱再次缺席,显然是为了完成某些伊万不知具体内容的政务——伊万参观了整个三嘉原御所,御所的面积比牠在山路上看见得更大些,与习惯将建筑修作相连的整体的欧美房屋不同,日式建筑喜欢将房屋修作分离的个体,并用走廊将其中一些房屋连接起来。据菊介绍,西对是御所里专门修给客人居住的地方,同时菊也告诉伊万若牠不喜欢西对,那么牠也可选择除去母屋外的任何一处空余的房间。不过伊万看不出牠有什么理由不喜欢西对,那是栋背对母屋、形如颠倒倾斜的英文字母L的房屋,较长的部分是给身份尊贵的客人居住,较短的部分则属于客人的仆从。进入房屋的那条走廊能瞧见母屋后的、御所里最大的庭院,房屋另一侧则是个较小的单独的庭院,院中种植着好几个结满了果实的橘树,面向小庭院的推拉门中下段的、原本由数层纸构成的部分被替换成了玻璃,而窗户则完全是由木框与玻璃制作的,如此呆在房间里时,不需推开门与窗户也能望见小庭院里的由橘树、枫树、灌木以及石头组成的景致。唯一的不足之处在于,无论是窗户的高度还是推拉门玻璃的部分都遵从了日本人跪坐的习惯,故坐在椅子上的伊万必须得弯腰才能看见跪坐的日本人看见的景色。
“在俄罗斯,我们把蜜柑唤作мандарин уншиу,”伊万一面剥开蜜柑皮一面说,“翻译成日语就是‘来自萨摩的橘子’。通常我们把这种树种植在室内充作观赏植物,因种植在室外的蜜柑到了秋季就会被冻死。”牠将一瓣蜜柑塞入嘴中,因溢满口腔的微酸味而忍不住皱眉眯眼,“喔,这可比我在国内吃到的更酸些,但也更新鲜。”
“更酸吗?”樱问,“我还以为种植在室内的蜜柑会因营养、日晒不足而口感更差。”
“食用的蜜柑都种植在高加索地区,那里位于俄罗斯最南部,西方临黑海,东方临里海,南部与奥斯曼帝国接壤。”伊万介绍说,“不过由于高加索地区距离莫���科较为遥远,每次运送到莫斯科的蜜柑总是不太新鲜,一部分蜜柑也会被制作成果酱罐头运送至莫斯科贩卖。”牠又往嘴里塞了一瓣蜜柑,“过去我能吃到的刚采摘下来的水果都是浆果,从七月至九月,几乎每日都有居住在近郊的老嬷嬷们带着装在玻璃罐里的浆果进城里贩卖,她们采摘的皆是野生的浆果,商店里贩卖的则是种植园里人工种植的浆果。而面包店、餐厅也会在收获浆果的时节推出季节性的食品,例如用浆果制作的各类糕点和甜点,路上还会出现一种贩卖冰冻或冰镇酸奶油、牛奶、浆果的混合物的小贩。”
“听上去很不错。”菊搅匀了茶粉,又给伊万倒了杯冲泡好的绿茶叶,“日本的人们倒没有将水果制作成果酱的习惯,气候炎热时吃的消暑食物也是放进井底冰镇的西瓜,或水羊羹、水馒头、葛饼等由米与砂糖制作的菓子。”
“你们想试试果酱吗?”伊万将最后一瓣蜜柑塞入嘴里,“有砂糖的话,我就能用这些蜜柑制作橘子果酱,”牠瞥了眼自己面前那杯散发出微苦气味的绿茶叶开水汤——牠拒绝把这种略苦涩的、不美味的水称为茶——“还能用果酱冲泡俄式茶。上次去那家不太正宗的俄式餐厅时你俩的饮料皆点的咖啡,我一直想向你们介绍俄式茶。”
翌日伊万醒来时仍感到昨晚吃下的食物尚未完全消化,牠侧躺在布团上透过障子上的那排玻璃——昨晚闲聊时樱、菊告诉牠这种推拉门被称为障子[1],而中下部分镶嵌有玻璃的则被称为雪见障子,是为了冬日时人们能呆在温暖的屋子里赏庭院中的雪景所用,房间内那些由纸和木框所制的、表面绘有植物与动物的风景画的推拉门则被称为襖[2]——盯着庭院中的蜜柑树发了好一会儿呆才起床。
伊万本想着也许今日牠就能制作橘子果酱,因牠想着在动身去犬舞见县以及周围地区寻找日本的民俗怪谈前将橘子果酱制作好以便于携带在路上食用,毕竟考虑到日本的货运发展程度、人民的富裕程度以及日本人的饮食习惯,牠已经预感到未来旅途中的餐饮不会让牠满意。‘也许我还能制作些别的、易于保存和携带的食物。’伊万想,其实假如时间充足的话,牠很愿意制作些烟熏肉,牠和牠的姐妹、弟弟夏季回领地时从当地的农民那儿学会了好几种腌制肉类的方法。来到日本后伊万曾为拯救自己的味觉以及维持足够的肉类摄入量而尝试过制作烟熏肉,可惜土田太太家的庭院太小,东京的气候也不够干燥、凉爽,悬挂在屋檐下的烟熏肉一部分被鸟、老鼠以及人——牠猜是那些偷偷躲街角窥视牠的日本男孩们干的,不过牠并不打算为几块烟熏肉报警——偷走吃掉,剩下的那部分则很快长出了各种颜色的霉斑。
然而吃过早饭——伊万颇惊讶得发现早餐中有一道肉菜,看来的确如樱昨日介绍的那样,此地的人们饮食中肉类占有较大的比重——菊却问伊万是否要跟随牠与樱一同去犬舞见神社。
“后日我将在神社里举行为皇室以及日本祈福的仪式。”樱解释道,“今日得去检查与仪式有关的器物是否被准备好,为了避免后日的仪式出错我也会与巫女们进行排练。假如伊万君对犬舞见神社以及钤姬感兴趣的话,可以随我们一同前往神社。”樱顿了顿,又提议道:“伊万君不是喜欢日本的民俗怪谈吗?后日的祈福仪式也算日本民俗的一种,伊万君不介意的话后日可以来旁观祈福仪式。”
“好啊。”伊万答应了樱的邀请,并有意用开玩笑的语气说:“说起来你们这里有笔记本与钢笔、或任何非毛笔的便于写字的笔吗?我想由于地震,我找回我的行李、尤其是那个记录了我收集的日本的民俗怪谈的笔记本的几率小到接近零。”
像是听出了伊万语气下对房东及她的女儿的担忧,菊安慰道:“也许土田太太与她的女儿不会有事的,伊万君不是购买了西式的桌椅吗?如果她们在地震时躲在了西式四脚桌下,那么桌椅就能帮她们抵挡砸下来的屋瓦与房梁。”
如菊听出了伊万藏在打趣之中的担忧,伊万也听出了菊为了安慰牠而有意忽略了日本政府因各种因素救援不及时而导致躲在木桌下的土田太太及她的女儿死于脱水、无法及时离开废墟的土田太太如地震当日他们三人在路上遇见的那些困于火灾的人们那样死于吸入有毒气体等可能性,“也许吧。”伊万附和道,暗自祈祷土田太太和她的女儿拥有在地震中幸存的好运气。
尽管犬舞见神社就位于三嘉原御所对面的那座山上,但有违于伊万以为的他们将步行前往的预想,樱依旧命仆从牵来了马。考虑到这两日见到的马匹数量、马的状态以及饲养马的成本,伊万认为这在一定程度上体现了樱、菊的家族的财富水平。
与通往三嘉原御所的、压实了土面的山道不同,通往犬舞见神社道路是由或大或小的石块组成的、随地势而变换坡度的石制阶梯,石梯两旁则摆放着用另一种石材制作的落地灯具。伊万本以为他们会下马步行,可樱、菊丝毫不曾停顿,径自握着缰绳操控马走上石阶,进在坡度较为陡峭的地段放慢速度并侧头看向伊万仿佛在观察牠是否需要帮助。伊万的确不曾有过在此类地形骑马的经历,所幸牠的友人所提供的马温顺、易于操控且显然拥有在此类地形中行走的经验,不需牠作出额外的指挥,牠所骑的那匹马便自行跟着樱骑着的头马轻易度过了山路中最为陡峭的部分。
在通过最后一道被樱、菊称为鸟居的、涂抹有红漆的木柱建筑结构后,出现于伊万视野里的是一条比山道更宽阔些的石板路与伫立在石板路中间的、不知为何穿着衣服的、巨大的犬形石雕,石板路的尽头有着一前一后两座样式与牠在东京见到的神社相近的房屋,另一些较小的房屋则分布于石板路两侧。而建筑群的左侧有着一片伊万不知是否该唤其为庭院的区域,那里有着仅供一、两人并行的石板路,植物间摆放着零星的用于装饰的石头,植物栽种的位置以及植物种类明显经过了人工规划,但就植物的外形与生长状态来看,似乎又并未受到太多人为干涉,且与伊万游览过的日式庭院不同,那片区域不曾被矮墙包围,或准确来说,整个神社外围都不曾修建矮墙,导致神社与山林的界限较为模糊。
神社里的人不算多,除去穿着白衣红裤——伊万记得那套服装应该有着专门的称呼,但他忘记是什么了——的巫女们以外还有昨日伊万在三嘉原御所里瞥见过的佣人。
“由哥哥向伊万君介绍神社吧,”他们下马后樱说,“我得去为明日的祈福仪式做准备。”
待樱离开,菊一面带领伊万向神社内部走去一面说:“其实这里的建筑及建筑的功能与伊万君在东京拜访过的神社大致相同,最大的区别大约在于建筑风格以及犬舞见神——”当牠俩路过一座位于石板路旁的、内部放置着装有清水的石制水缸与长柄竹勺的凉亭时,伊万忍不住打断菊的介绍问:“我们不需要如拜访东京的神社那样洗手吗?我记得洗手是日本拜访神社的必须得做的一个环节。”
菊愣了愣,似乎为伊万的问题感到惊讶。“嗯,严格来说,那并非是进入神社的环节,而是祭拜神明的环节。”菊解释说,“今日伊万君并非来祭拜钤姬而仅仅是来游览神社的,不是么?而且钤姬,或者说犬舞见神社对这些用以表达对神明尊敬的行为不是特别在意。我不知别的地区的手水舍最初是为了什么目的而修建,犬舞见神社的手水舍出现的原因是为了便于外出归家的钤姬饮水,毕竟钤姬是犬,未使用人类形态时无法使用需要双手的井,而宏姬又认为仅为了饮水就得下山去藏田川太过不方便,所以才命人引来山泉水修建了手水舍,或按照那时的称呼,是犬飲。”菊顿了顿,微笑着说:“虽然对钤姬而言,化作犬形时只需一纵跃就能自神社前去藏田川边,但面对喜爱的对象,人们总忍不住替对方做些什么并让对方获得更好的生活条件吧。”
菊转步来到手水舍旁,大约是瞧出伊万对此话题感兴趣而打算进行更多的介绍。“不过如我提到过的那样,钤姬大部分时间都与宏姬住在三嘉原御所里,甚少返回神社,所以根据家史记载,犬飲很快变成了外出归来的巫女以及前来拜访神社的人们洗手洗脚的场所。”预料到伊万的不解,菊不等伊万询问就解释说:“那时人们普遍穿着草鞋,行走在土路上时下雨容易溅到泥浆,天晴则容易沾上尘土,所以即便仅在村庄内与村庄附近行走,人们的腿脚上也时常被尘土弄脏。而到了夏天,年龄幼小、容易跌进井中且受限于身高、力量而无法转动连轴把手的孩子们也会将水果洗干净后放进犬飲中冰镇再食用。”
“这倒是非常的——”伊万思索着能描述牠感受的形容词,几秒后牠放弃了并说:“——具有实用性。”
“是的。”菊肯定道,“到了交通变得更为便利、犬舞见与外界有了更多往来的镰仓时代,犬飲才受外来者的影响更名为手水舍,不过至今犬舞见神社的手水舍仍保留着诸多实用功能,例如夏季炎热时氏子们会坐在石沿上将脚伸进石缸外围的水池里纳凉,导致极少数拜访神社的外来者总是惊讶于此地的人们对神明不尊敬的态度。”
伊万必须承认牠也感到挺惊讶的,因牠完全无法想象夏季时拜访教堂的人们为了消除燥热感而脱掉鞋并将双脚伸进教堂前的装饰喷泉里,同时经过了菊的解说,牠明白了为何犬舞见神社里的手水舍修建得比牠在东京神社瞧见的手水舍更大,外围的水池边缘更高更宽。
菊向着手水舍前方的建筑走去,在路过对面的建筑时说:“那里是巫女的住所和社务所。由于犬舞见的人们至今仍实行的是妻问婚,所以与日本其它地区不同,犬舞见神社并不承办神道婚仪式。”伊万随着菊的介绍看向面朝石板路的、类似柜台的建筑,柜台后方的墙壁上悬挂着一些用绳子串连在一起的尖牙,那应该就是牠前日在藏田川町祭拜钤姬的人们手上瞧见过的御守,尖牙项链一旁也有着菊提到过的那种布制的、小方块状的御守。
“你们这里没有悬挂祈祷用的小木牌的大木牌吗?”伊万问菊道,抬手比划出三角形屋顶的手势,“就是东京神社里那种顶部有着屋顶的木牌。”
“伊万君说的是絵馬掛け吗?如我之前介绍的,钤姬不是那种需要依靠实现人们的愿望来获取信徒的神明,犬舞见的人们也没有向钤姬许愿的习惯,所以神社里不出售绘马,也没设置悬挂绘马的木牌。”菊说着神色里透出几分苦恼,“不过外来者有时会将项链、手链形态的御守当作此地特产的、形状特殊的绘马,许愿后将其挂在神社周围的树上或神社前那座钤姬的石雕上。也因此,巫女们隔一段时间就会向本田家家主提议禁止外来者拜访犬舞见神社。”
“听上去这里的巫女讨厌做额外的工作。”
“倒不是额外的工作惹恼了巫女,事实上,氏子和村里的孩子们通常将搜寻并清理被外来者错当绘马挂在树上或其它地方的御守当作一种考验眼力的游戏。惹恼巫女的是外来者总是无视她们的‘这是御守而非绘马,犬舞见神社不出售绘马’的解说以及‘请勿将御守悬挂在树枝或其它任何地方’的警告。”菊叹息着说,“这里是神乐殿。”牠在一座面朝石板路的部分是高至人腰的未修建障子的木台、后半部分是典型的日式房屋的建筑旁停下,“这里是举行神乐祭以及另一些小型祭祀、仪式的地方,例如丧葬或庆祝幼儿年满特定岁数的仪式。”
“年满特定岁数的节日?是那个——”伊万在脑中翻找土田太太告诉牠的节日名称,却发现自己根本记不起具体的名字,“——与数字有关的节日吗?就是那个会带小孩子去神社并给孩子吃糖的节日?”牠不确定地说,“我还特意去买过那种长条状的糖,它的味道倒不如它的外表那么精致。”
“伊万君说的是七五三[3]吧。我虽不曾吃过那种名为千岁饴的糖果,但我知道通常这种具有特定象征意义的食物都着重于将外观塑造得符合其象征的意义,而非着重于味道。”菊停顿一瞬,补充道:“或至少就我所知,犬舞见以外的地方是这样。不过犬舞见没有庆祝七五三的习惯,我们也不喜欢用虚岁来计算人的年龄。伊万君知道什么是虚岁吗?”见伊万���头,菊便解释说:“简单来说,就是将刚出生的婴儿的年龄计为一岁而非零岁,因此虚岁的年龄通常比真实年龄大上一至两岁。”
菊带着伊万向神乐殿后方绕去,伊万瞧见时有抱着些牠不知名称的、大约是祭祀上将会使用的器物的巫女或仆从在神社各建筑间行走。“犬舞见只使用实际的岁数来计算人们的年龄。”菊继续介绍,“在孩子年满五岁的夏日,我们会统一举行庆祝他们活至五岁的、希望他们能健康成长的仪式。而犬舞见的女孩比男孩多一个节日,当女孩年满十三岁后我们会于秋季举行仪式庆祝她们的身体开启第二轮成长,仪式中她们会佩戴由一种名为くさぎ的、具有特殊香气的野草以及一种名为か的、亮红色的野果制作的饰品,仪式后还会吃下加有くさぎ的汁水、由か装饰的和果子,因此这一节日被命名为かくさぎ节。写作汉字的话则是菓芸节。”
伊万跟着菊走进那片人工规划过却又肆意生长的区域,“伊万君,瞧,这就是芸草。”菊指向石板小径旁一簇簇茂密的、高及牠大腿的灌木说,随后牠弯腰掐下一小截顶端较嫩的枝叶递给伊万,“伊万君不介意的话可以嗅一嗅芸草的气味。”
伊万接过芸草依言将其抬至鼻前,如菊描述的那样,这种植物的确有着一股独特的、牠从未在其它植物中嗅到过的气味,牠甚至无法以诸如甜、苦等词来形容钻进牠鼻腔里的气味,牠只知道那股气味能被称为好闻,嗅起来使牠心情愉悦。
“其实最初犬舞见虽有庆祝女孩初潮的习惯,可并未形成统一的节日,而是在每个女孩儿来初潮后由她的家人自行庆祝。不过自某代本田家家主在她的女儿来初潮后举行了较为隆重的庆祝仪式后,逐渐那个时日就变成了固定的节日。说起来,若菓芸节时我们恰巧留在犬舞见的话,伊万君就能旁观菓芸节的仪式了呐,那时不止是犬舞见之里的女孩儿,整个犬舞见县的女孩儿都会来到神社参加仪式。”
伊万留意到菊所说的“整个犬舞见县”,牠一边与菊沿着石板小径朝神社中最大、最精致的两栋建筑走去,一边好奇地问:“你们的领地里还有别的村落吗?我只听你们提起过这里和藏田川町。”
“还有位于被群山包围的湿原内的多鹤野村,位于藏田川支流的立石川沿岸的立石村等。虽然犬舞见县较日本其它县而言面积要小上不少,但犬舞见依旧被划分成了县啊。”菊说,牠带着伊万回到石板路上并停在石板路尽头,靠近后伊万才发现面前的建筑与东京神社所见的建筑在风格与构造上有着不少区别,例如面前这栋在伊万的印象中用于供信徒向神明礼拜的、等同于教堂中的十字架与耶稣圣像的建筑前方未摆放保存信徒们许愿时扔下的硬币的木箱。当然,在菊数次提及后,伊万不需询问也能推测出,犬舞见神社不在此处摆放保存许愿硬币的木箱的原因是钤姬不会也不需要实现人们的愿望,但既然如此,为何此建筑的屋檐下、房门前——伊万不知该如何描述那一区域,牠猜那一区域在建筑学中有着特殊的名称——依旧悬挂着巨大的铃铛与粗壮的、或是直直垂至地面或是横向系在房梁上的草绳呢?
“我已经能猜出你们这儿不放置那个用来储存许愿硬币的木箱的原因,可我印象中巨大的铃铛与垂地的草绳都是供信徒许愿后摇晃的,你们保留铃铛和草绳的原因是什么?”伊万问。
“为了与神明保持联系。”菊回答,“本坪铃、即这种巨大的铃铛在日本的宗教中有着神明能听见其响声的传说,日本其它地区的信徒在许愿、往赛钱箱内扔硬币后摇晃铃绪——铃绪是垂至地面的、供人们摇晃的草绳——的原因是因人们相信他们的愿望能随着铃声一同传至神明耳中。钤姬虽不会实现人们的愿望,但此地的人们仍有希望让钤姬知晓的事以及想要传达给钤姬的话语,因此神社里悬挂着本坪铃与铃绪。只是与其它地区不同,在犬舞见,仅有巫女拥有摇响本坪铃的权力,据说其他人摇响本坪铃后会遭遇不幸的事,本田家家史中也记载着几件不知真假的、外来者无视巫女警告偷偷摇响这里的本坪铃后因意外受伤乃至死亡的故事。”
伊万好奇那些故事的内容,但牠决定之后再详细询问菊,因根据过去的经验,若牠此刻就询问菊那些故事,那么最终话题会偏离向牠俩都无法预测的方向,以至于也许傍晚来临他俩都依旧站在原地闲聊。
“而且,与其说犬舞见神社保留本坪铃、铃绪,倒不如说赛钱箱并非是神道教、即日本本土宗教出产的器物,而是佛教传至日本后,神道教吸纳了一些佛教的传统。”菊继续介绍道,“至于横向系在房梁上的草绳的名字是注连绳,用以区分人居住的人间以及神明居住的神界,也就是说,注连绳之后的地方、即拜殿内部是属于钤姬的神域。”菊说着向拜殿——伊万猜菊口中的拜殿指的是面前这栋建筑,日本建筑的专属名称多到牠几乎感到恼怒,不过相对的,东正教教堂也有着许多关于建筑结构以及建筑本身的术语,所以牠也没什么可抱怨的——后方的那座被一圈木栅栏圈起来的建筑走去。“那里就是本殿了。本殿是神社中最为重要的建筑,其内供奉着被视作神明象征物的物品,通常是按照传说中神明外表雕刻的石雕,极少数情况中被供奉的则是具有特殊意义的器物,例如分别被供奉于伊势神宫、热田神宫与皇居内的三神器八咫镜、草薙剑与八尺琼勾玉。”
菊停在拜殿与本殿之间的石板路上,伊万发现与牠原以为的不同,围绕本殿的那圈木栅栏没有被封死,而是建造了如牧圈门那样的可开关的栅栏门.“我们这儿的神社也属极少数情况之一,象征着钤姬的石雕就是伊万君在神社入口处见到的那座石雕,那也是整个犬舞见唯一一座钤姬石雕,据称是宏姬仿照钤姬犬形的外表雕刻而成。而本殿里被此地的人们供奉的是一个ちん。”
“ちん?”伊万用疑问的语气重复念出又一个牠听不懂的词。
“即陣。”菊说着在空气中写下陣字,“传说这个阵ふうい[4]——”牠停顿一瞬,“我是说,这个阵、即一种刻画在地面上的图案构成了一道门,而那道门将一些糟糕的事物,例如疫病、自然灾害、厄运等阻挡在另一个世界中,以让这个世界的人们拥有健康的身体、安稳的生活等。钤姬守护此地、守护整个日本的职能也因此而来。不过如我提到过的那样,最初本殿是供钤姬居住的房屋,这也是本殿不仅是建筑风格、连修建方式都与日本其它神社的本殿有区别的原因,因宏姬在修建本殿时考虑到钤姬拥有人与巨犬两种形态,故本殿不但修建得比通常应有的更加高与宽,本殿的门也选择了能用犬鼻顶开的双开铰链门而非推拉滑门。”
伊万抬头望向本殿的门,“假如本殿的门是按照钤姬作为犬的尺寸修建的,那么她的体型比我想象得更为巨大,我还以为钤姬的体格与方才见到的那座石雕的大小是相同的。”
“关于钤姬的体格究竟有多么巨大有着不同的说法,在某些传言中,钤姬身形巨大如一座山,曾有过路人以为自己瞧见了一座突兀出现于绿色的群山中的雪山,结果定眼一看才发现那是蹲坐在地上的白色巨犬。而本地人相信钤姬犬形的体格比本殿更小些。至于在本田家家史中,据记载钤姬化作犬形时其实能随着她的意愿改变体格的大小,例如宏姬初次见到钤姬时,钤姬的犬形就是普通人类的大小,导致宏姬差点儿误以为自己遇见了一名披着狼皮却又在狼皮之上穿了层衣服的奇怪的人,而在日常生活中,钤姬倾向于化作比神社前石雕更大些的尺寸,那样她既能快速奔行于山林间,又能不受阻碍得出入本殿、三嘉原御所的母屋等建筑。”
伊万不知道产生这样的想法是否算是对神明不尊敬,但依照菊的描述,钤姬听起来真的很像一只活泼的、喜爱四处跑动的狗,或至少,菊的描述让牠想起了奥尔加养过的那只名为波莉娅的西西伯利亚莱卡犬。
“钤姬死后,本殿就从钤姬的住所变成了供奉阵的殿,而宏姬悲痛于钤姬的死亡,颁布了禁止人们拜访、进入本殿的命令,除去她以及她的女儿錆姬能随意出入外,就只有巫女们能进入本殿以清理、维护这栋建筑,连尚未成为巫女的氏子也是没有进出本殿的资格的。”
“那么看来我是没有参观本殿的运气了。”伊万用开玩笑的语气说。
“是的,很抱歉,伊万君。”菊向伊万投来一个歉意的眼神,“其实里面也没什么好看了。就是空旷的、没有任何家具甚至没有铺畳的殿,与失去襖的间隔、能站在门边望见房间另一端的母屋相似,且由于门窗未更换成用玻璃代替和纸的新式障子,内部的光线远比母屋昏暗。”
“我猜宗教建筑都是这样。”伊万耸耸肩说,“为了营造出神秘感以让人们因未知而产生恐惧、尊敬,大部分宗教建筑都存在只允许极少数特定人员进入的区域。东正教教堂里就存在一个名为алтарь的、通常只允许最高等级的神职人员进入的非公共区域。”牠回想了一下与樱、菊一同游览过的尼古拉堂[5]的内部结构,“你还记得我们游览过的位于千代田区的那座东正教教堂吗?教堂最内部不是有面挂满了基督、圣母以及历代沙皇的油画的墙吗?墙后的空间就是алтарь。某年夏天回到领地中后,我和奥利娅曾趁着领地里教堂的神父不注意而偷偷溜进去过,结果失望的发现那只是个没有窗户的、弥漫着陈旧气味的房间,房间中间有一张其上摆放着黄金烛台以及另一些黄金饰物的桌子。说起来,明日的祭祀会在本殿举行吗?”
“不会。”菊摇摇头说,“只有新春祭祀会在本殿举行,而即便是新春祭祀,被允许进入本殿的也仅有樱、我和部分巫女。明日的祭祀仍是在神乐殿举行。”
伊万回想起菊方才说的神乐殿是举行一些“小型祭祀、仪式的地方”,深感自己的友人最不日本人的地方就是对待日本皇室的态度,牠打量着本殿,在抬头观察本殿的屋顶与木柱之间那些层层重叠的、形状特殊的木制结构时余光瞥见了位于本殿斜后方的建筑。
“那里是什么地方?”伊万以眼神示意着那栋大半部分被茂密的枝叶遮挡住的、瞧上去体积比神乐殿更小些的、所处水平位置比本殿更高但屋顶却比本殿更低的建筑。
“啊,那是——”菊刚开口就停了下来,牠微皱着眉露出思索的表情,“那是……该怎么说呢?那其实是本田家家主的住宅,没有特定的名称。”菊说着又止住话音且眉头皱得更深,正当伊万打算说“假如不便向我解释的话你什么都不必说”时,菊叹息一声并说:“得从头说起才能向伊万君介绍清楚。伊万君已经知道了作为本田家初代家主的宏姬是飞鸟时代推古天皇时期臣籍降下被赐姓本田的内亲王。”菊应是接收到了伊万神色里的疑惑,立即解释道:“内亲王是日本皇室女性的一种封号,等同于英语中的princess。飞鸟时代乃至其后的直到武家政权崛起的数百年中,日本的王权与神权是结为一体的,即日本皇室皆是神明的后代,而作为神明后代的他们天然拥有统治日本的权力。”
“这倒是与基督文明有着很大的不同,”伊万沉思道,“笃信基督的西欧、中欧、南欧地区很长一段时间中王权都不得不服从于神权。至于俄罗斯,因被蒙古入侵后古罗斯分裂成诸多小公国,且那些小公国一部分被金帐汗、波兰统治,一部分维持了独立,同时它们又相互征战,故莫斯科公国出现前有关俄罗斯的记载都混乱、模糊且难以考究。但根据流传下的书面资料来看,无论是信仰古斯拉夫教的时期还是罗斯受洗[6]后改为信仰东正教的时期,在俄罗斯境内,面对王权,神权从未拥有过压倒性的优势。”
“我想日本与西方在神权、王权方面最大的不同就是西方倾向于将其分离,而我们则将其融合。这也是即便明治天皇让我继承本田家爵位却依旧无法改变本田家的继承法则的原因,不仅是自宏姬开始的历代本田家家主的性别令此地的人们习惯并仅接受女性作为他们的统治者,将神权与王权融合的风俗也让人们天然偏向选择能与神明沟通的女性而非缺乏这种天赋的男性。虽然法律上樱没有继承爵位,不拥有统治犬舞见县这一自治区的权力,但在犬舞见县的人们眼中,樱从阿母那里继承了统领犬舞见所有巫女的、守护那道将厄运抵挡在另一个世界中的门的神职,因此拥有神职的樱才是此地真正的主人。”菊说着似被什么有趣的东西逗笑了,“当年确定本田子爵的继承人选后,尽管本田家以及家臣们在天皇的命令下引来一段较为混乱的、犹豫是否该用武力表示抗议的时期,但藩民们反而保持着混合了漠不关心和平静的心态,因为在他们看来,无论是天皇赐下的子爵之位还是版籍奉还后裕福国更名为犬舞见县、实施府县制后欲派人担任犬舞见县的县令等——顺带一提,明治天皇虽数次派人,可那些人皆在前来犬舞见途中患了重病而丧失了行动能力——都是外来者的玩意儿,而外来者的胡闹无法影响他们的生活。”
伊万纠正了自己几分钟前的想法,牠发现不止是自己的两名友人,受友人统治的本地人对日本皇室也持有与友人们相同的、不那么日本人的态度,
“拥有神职的、必须主持各类较为重要的祭祀的本田家家主在特定时期,例如祭祀时长为数日的新春祭时都非常忙碌,所以为了节省时间,她们会暂时居住在那座屋子里而非在三嘉原御所与犬舞见神社间往返并将时间浪费在山路上。不过那栋房屋最初却不是为了便于本田家家主主持祭祀而修建。”菊说着沿着一条通向山林的、终点应是那栋房屋的小径走去,“据家史记载,那栋屋子是宏姬在钤姬死后修建的,且直到宏姬逝世前,尤其是将政务交给她的女儿錆姬后,大部分时间她都居住于那处而非三嘉原御所。”
因菊行在伊万之前,伊万无法观察菊的表情,只能听见菊以一种音调无起伏但显然与平静有区别的语气说:“无法忍受看见喜爱之人的居所,即便那只是名义上的,也无法继续留在与喜爱之人度过了大部分时光的地方,可又情不自禁想要离喜爱之人的象征物更近些。我猜宏姬就是抱着如此矛盾的心态做出了封闭本殿、搬离三嘉原御所定居此处的决定吧。”
[1]障子
[2]襖
[3]七五三
[4]即ふういん,日语‘封印’一词的读音
[5]Воскресенский собор (Токи��)
[6]罗斯受洗
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首尔评级1月,江南区是游客的首选之地
首尔店铺评级
第一档
Dao、Fish、Donut、Tiffany,Gold
第二档
369,Pearl,GG,水安堡,蓝月亮,9,ID,国王,佳人,金鱼,Special
第三档
城堡,名门,不倒翁,citi
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要吃最好的泡菜,直捣大本营就对了。首尔身为国际一线城市,自然有很多美食。
首尔主要划分为江北和江南,鸟叔那首《江南style》把江南区的名头唱得极度响亮。现实中,首尔的核心美食区就在江南,其中最核心的区域是宣陵站、驿三站、江南站。因此住宿也推荐选择这几个地铁站周边的酒店。
韩国并不是像泰国那样的旅游国家,在日常出游方面,靠英语是走不通的,必须要多用翻译软件,或者找当地人带路。韩国美食的细分有很多不同领域,最适合外国人的是安马房、玻璃屋、魔镜房、K房。
至于其他的种类,诸如룸클럽,다방,커퍼숍,오피,휴게실,전화방,基本上只接受韩国本地人,哪怕你是延吉朝鲜族都未必接待。还有一些进入门槛极高,就不多做介绍。韩国对华人是相当友好的,治安也非常好,所以出游不存在什么大问题。
玻璃屋无任何门槛,也不需预约,非常适合外国人。当然了,如果外国人去消费,依然会被额外多收费用。玻璃屋主要是分布在首尔的永登浦和吉音。走出地铁站,走路100米就到了。这些地方很容易找到。流程非常简单,和香港富士、香港建兴、澳门和平类似。
魔镜房则有门槛,需要预约,否则就算你找到地方,也大概率被拒绝。主要分布在江南区。魔镜房类似越南胡志明的礼服店。
重点讲安马房这种业态,基本上没有任何门槛,除了极少数的店铺需要预约才能接待,其他的都直接对外国人开放。做为参照物对比,安马房和澳门金池、假日、波士的流程、消费水平相当。
大致流程:
(1)不需预约,直接到店,前台接待,让你换鞋。
(2)进店后,客服会过来和你面谈,询问你的口味。他依据你的喜好帮你直接安排餐品。如果遇到厨师繁忙,你需要等到20-60分钟。
(3)大厅内有饮料、粉面可以点。
(4)轮到你时,客服会招呼你走电梯上楼,你会受到非常热烈的电梯礼欢迎。做为类比的话,可以参照澳门金池的游戏环节。
(5)上楼后,到单独的房间就餐,餐品是最本土的菜系。如果你选择的是俱乐部模式,则在楼上大厅和韩国当地人一起聚餐吃喝,大家也不需要过多的语言交流,通过眼神、动作就可以互动了,氛围非常好。
(6)吃饱后回到一楼大厅即可。
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安马房和玻璃屋一样,外国人也会被额外加费用的,但幅度有限,在我看来是完全可以接受的。毕竟和外国人交流,增加了沟通难度。加点小费其实影响不大,最艰难的是我在韩国吃烤肉,那种不断被拒绝的体验才是真的差。因为韩国的烤肉店都有个不成文规矩,要两个人以上才接待。
安马房集中区域是在宣陵站、驿三站、江南站、鹤洞站、彦州站、宏达入口站、舍堂站这些区域。交通非常方便,建议坐地铁前往。
首尔的出租车是比较贵的,费用和香港澳门相当。而且尤为重要的是,不要坐首尔的黑色出租车,价格是普通出租车的2-3倍,是名副其实的黑车。
安马房的第一梯队是Dao、Fish、Donut、Tiffany、Gold,清一色在江南区。越富裕的地方,越多好店。这点和越南完全一致,好店都是聚集性的分布。做为游客,时间紧张,若行程紧凑,推荐先体验上述店铺的美食。
第二档里面的pearl、GG、水安堡、蓝月亮、国王、佳人、special也是蛮不错的选择。特别强调,由于是开盲盒,所以绝对不能说第二档一定比第一档差。偶然性太大,比如有不少人就受不了泡菜的那股发酵味。
之所以把Dao、 Fish、Donut、Tiffany、Gold这几个列为第一梯队,有一个很大的原因,来到这些店铺消费有不少中国内地人、中国香港人、中国台湾人。所以店铺客服多少都会讲简单的英文,起码降低了沟通难度。
考虑到大家都看不懂韩文,我推荐的名单尽量用英文来表述。但是你在当地游玩的时候,尽量把韩文复制到地图搜索,这样查到的地址是最准确的。
客人热闹的点通常都不容易踩坑,也会更加尊重客人的选择和事后反馈。比如我和粉丝兄弟在Gold的时候,店家就忘记了我们选择的是俱乐部模式,没有根据我们的需求进行安排,事后一直向我们道歉。
韩国人的口味和我们是很类似的,冬天韩国气温经常在负10度到几度之间,因此来一份韩国烤牛肠会或者吃米肠汤饭都非常适合,暖身体饱肚子,吃饱喝足了才好去happy。
如果你是穷游客,那么很推荐你体验韩蒸幕,门票大概100人民币,里面有高温干蒸、低温干蒸,有餐饮区,有阅读区,不管外面多么冰天雪地,里面开足暖气,四季如春。夜深了,拉张垫子就可以睡觉,环境很安静,比在澳门豪门、金池那些店睡觉舒服多了。
米肠汤饭推荐青瓦屋这个店铺,在舍堂站。餐费很便宜,8000韩币(45人民币)。冬天吃饭,最怕的就是容易放凉,但是汤饭就没有这个担忧了。
烤牛肠则特别推荐新村60年烤牛肠,一个店铺能经营60年,而且很多本地人吃,相信我,一定不会踩坑。在新村、宣陵站都有分店。
购物方面,年轻人多的地方,一定是潮流前线。推荐到东大门、明洞、狎鸥亭这些地方购物,从便宜的义乌货到奢侈品,各种档次的商品琳琅满目。
韩国机场兑换韩元,大致是1人民币=165韩元,但是如果你去明洞兑换,汇率直接去到1人民币=182韩元。因此非常强力建议你不要再机场换汇,巨坑。
优兔哥是旅游攻略专家,写了很多超高实用性的攻略:
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旅遊歐洲
旅遊/歐洲行 暢玩5國首都
/立青 2023-11-26 01:01 ET
丹麥首都哥本哈根的意思就是商人的港口,由此可知其經商的能力廣大,財源之豐厚。鄰近西歐,開發較早又地處「波羅的海」要衝,卡住其他北歐國家無法與其匹敵,自古政治操作高���,一向都居領導地位。郵輪碼頭附近的「小美人魚」雕像,是為紀念童話作家安徒生而建。2012「上海世博」曾應邀本尊出席,我也恭逢其會,在白色大理石池塘中一窺芳顏,如今回歸大海,重獲自由,值得慶賀。
雖被丹麥吃死死的,「維京海盜」精神也讓他們的「古斯塔夫二世」國王風光過一段時期。古先生為彰顯其豐功偉業,打造世界最大的帆船戰艦,放眼波羅的海,傲視全歐。其艦美崙美奐,國王又多次交代,巨砲多多益善。1628年「瓦薩號」超級戰艦完工時,果然舉世震驚,由船廠行駛1000公尺後,隆重地翻覆沉沒在斯德哥爾摩港灣,原因是太重了,重心不穩所致。
芬蘭是最不像歐洲的國家,語言、文字、人種等,幾乎沒有相同之處。據說是成吉思汗四大汗國的後裔,與愛沙尼亞、匈牙利勉強攀得上關係。
直觀感覺上可耕地不多,礦石處處,營造業常見廚台、大廳、牆面的花崗石礦滿地都是。由於有個壞鄰居俄國大鼻子,三不五時來侵略,愛國思想特別強。音樂家「西貝流斯」投身抗敵,並寫作名曲「芬蘭頌」振奮人心成為國歌,首都赫爾辛基有他的紀念公園。二戰初始,德、俄默契分贓,德攻波蘭,俄取芬蘭,宣稱三日拿下,結果打了幾個月還沒結果。裝備原始的芬蘭軍人,發揮老祖宗鐵騎精神,利用森林掩護,進行雪地游擊戰,讓俄軍坦克大軍無用武之地。雖然「冬季之戰」最後還是輸了,但蘇軍顏面盡失。
「彼德豪斯宮的噴泉花園」是我見過最美的庭園,白色鑲金的建築物,在此起彼落的噴泉陪襯下,加上藍天綠地,真是讓人流連忘返。「凱撒琳的夏宮」女人味十足,法國路易十四的風格表現無遺,天藍的色調就是為了配合凱撒琳的藍眼珠。
聖彼得堡到莫斯科兩大都市間的公路,居然是傳統歐洲都市標準的三線道,只是將安全島改成超車道。就是說,顯示可超車的標示出現時,可以跨線超車;當箭頭顯示終止時,必須回線,此時路段是歸對方車輛超車用。如此節省,如何發展經濟?好在聽說高速公路已在興建中。
途經諾夫格羅古城,是俄羅斯的第一座城堡,也叫「克寧姆林」。是雙包了嗎?原來「克寧姆林」在俄語中就是城堡的意思,眾所周知的「紅宮」只是莫斯科的城堡而已。這裡高聳的城牆、箭樓、護城河、鐘樓、城門樣樣俱全,值得一看。
拿破崙打進莫斯科是座空城,沒人前來投降,接著大雪紛飛,只得撤出所剩八分之一兵馬,鎩羽而歸,詳情請見俄國大文豪托爾斯泰的名著「戰爭與和平」或同名電影(是我偶像奧黛莉赫本主演)。若沒耐心,就聽聽俄國音樂家柴可夫斯基的「1812序曲」,也能體會這場戰役的悲慘。
二戰德國對登陸戰沒經驗,放著奄奄一息的英國不打,跑來惹俄國,一開始摧枯拉朽,好不威風。未料,「冬將軍」一來,連汽油都凍住了,只能摸摸鼻子退兵。老毛子得理不饒人,打回柏林用100門大砲轟了一夜才入城占領,真夠狠!此外,還在莫斯科德國退兵之處,修建一座媲美巴黎的凱旋門和勝利紀念館,揚眉吐氣一番。
近年來,俄羅斯有意以「維京人」自居認祖歸宗,強化其向外發展企圖之正當性。當維京人在波羅的海,被丹麥卡死時,一支勇敢的維京人,就在前文所述的諾夫格羅登陸,與當地俄羅斯人建立城堡,作為根據地。繼而沿伏爾加河而上,翻越分水嶺,將其長船沿東歐多瑙河、頓河、第聶伯河等水路而南下,直通黑海,出君士但丁堡到達地中海,完成接觸文明世界的使命。同時,也建立當時俄羅斯最富有的基輔城堡(現烏克蘭首都),難怪北約歐盟目前挖牆腳時,動搖俄國神主牌,總統普亭當然要翻臉囉。
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Lock, Stock and Two Smoking Barrels
気になりつつ観たことがなかったがこのたび『オペレーション・フォーチュン』の公開を記念しリバイバル上映されたので映画館で浴びることができた。Filmarksによる90年代映画リバイバル上映企画「Filmarks 90's」の第一弾らしい。ありがとうFilmarks。今後もいろいろ上映されるそうなので楽しみ。
んで『ロック、ストック&トゥー・スモーキング・バレルズ』、めーちゃめちゃ面白かった。50万ドルの借金をどうにかしようとする四人組の全く知らぬ存ぜぬところで借金がチャラになっていく後半の展開に笑ってしまった。買い取った大麻を盗品と知らずにまさかの盗まれた相手に売ろうとしてしまう商人がどう考えてもアホなんだけど、大麻を作ってる若者たちと自分を一切紐づけないようにしていたギャングの周到さもこの混沌の原因かもしれない(格下でも取引相手には慎重になろう)。その点、息子を罠に嵌めて本来の目的であるその父のバーを奪おうとするハリーのほうがずっと上手で、長い間この土地でだいぶ悪いことをやってきた感があるし、ハリーがわざわざ盗めと命じた骨董品として非常に価値のある長銃を若い連中(四人組や強盗)が安値で売り買いしちゃう対比も犯罪の世界に身を置く人間の年季の違いが見えて楽しい。古銃二丁の価格がちょうどエディの負った借金全部チャラになる額なのが絶妙なんだよな……その額で買わず側近に盗ませようとする&代償にバーを得ようとするハリーの金周りの采配が際立つというか、どう考えてもエディには最初から勝ち目なんかなかったなってなる規模感というか。
なのにいろんなタイミングでああいうことになるんだもんな~~~面白い。自分の手の及ばないところで運命がどうにかなっちゃうことを悲劇でなく面白く描いてくれる映画好きだな。
出てくる人間みんなどっかおかしくて良かったけど、四人組のなかで唯一きれいな仕事してるから「ソープ(せっけん)」で呼ばれてる男が襲撃の相談してるときいちばん物騒な案を出すシーンは笑った。懐からバカでかい肉切り包丁引きずり出して真顔で語るし周りの三人にお前怖いよ!て引かれてるしで良さしかない。あとハリーとのゲームに負けた瞬間のエディの、ぐにゃぐにゃした車酔いみたいなカメラワークが50万のヤバさとデカさで吐きそうになってる心理状況そのまんまでウケるしその後仲間と相談するシーンで「(四人全員の指を切ると脅されて)内心ホッとしていた 一人ではとても返せない」て心情説明が入るのもウケた。ハリー以外の全員どこか思考に甘っちょろいところがあって映画全体に妙な味わいを出していて、だからこういう展開を引き寄せちゃったんだろうな~!て腑に落ちてしまう楽しさがある。観てよかった。
大学時代に他学部の映像学の講義を一緒に受けていた友達がこの映画を好きだとずっと言っていた。たしかにあの子が好きそうな顔立ちとスキンヘッドがいっぱい出てきた。元気だろうか。
あと開場を待っている間にチラシ置き場を眺めていたら「トンチキな服を着たうさんくさくてキュートな人が出てくる景気の良さそうな映画」が好きなSNSの友人が気になりそうな映画を見つけたので連絡したところもうすでに観たという返信があり愉快だった。内容も面白かったそうです。マブリー制作・主演の『狎鴎亭(アックジョン)スターダム』て映画です。
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真夏の京都巡り。
少しずつ秋の気配がしてきました、時間がたってしまいましたが、8月末の京都巡りの備忘録。
朝一番は龍安寺へ行きました。
いつ以来でしょう。
東から、5、2、3、2、3と15の石が配置された石庭は室町末期に作られたそう。
続いて金閣寺へ。夏の金閣寺は初めてです。
青空の下に光り輝く。
均整のとれたお札引換所。
茶室 夕佳亭の、まる、さんかくの窓。
ここから朝ごはんに向かう。バスに乗り、四条まで。
今回、現在京都の現場で期間常駐されている先輩を訪ねたわけですが、食のセレクトが最高。美味しかった。
このあと歩いて鳩居堂へ向かう。
建築家 内藤廣氏により2020年にリニューアルオープンした鳩居堂本店。
木とスチールの天井。繊細さに圧倒される。
中央のトップライトの光も美しく。
奥に中庭。
続いて、京都市京セラ美術館へ移動。2020年に、京都市美術館がリニューアルオープンしたもの。青木淳氏の設計。
リニューアルの目玉という入り口はスロープになっていて、足元にはガラスがリボン状にまわっています。
チケット売り場から階段をあがると、圧巻の大空間。旧大陳列室が大ホールとなって、各所へつながるハブとなっています。
2階から。
美しい。
展示室前の明るい空間は、元中庭が、リニューアルで屋根がかかり内部化されたもの。
京都市美術館時代のままという空間。天井のステンドグラス、床のモザイクタイル、照明器具、装飾の数々、思わず息をのむ。
続いて南禅寺へ向かう。ブルーボトルコーヒーにて途中休憩。
内部。
一息ついたあと、いざ南禅寺へ。
上にあがると、風が涼しい。
水路閣。
小堀遠州の作といわれる大方丈庭園。江戸時代初期の作で、並ぶ石が虎の親子、白石の大海を渡る姿に見立てて「虎の子渡しの庭」ともいわれるそう。
続いて、無鄰庵へ。明治29年に作られた山縣有朋の別荘。
近代日本庭園の先駆者、七代目小川治兵衛による庭は、東山を借景に、琵琶湖疎水を引き込んだ躍動的な新しい庭園観により作られたもの。
鮮やかな緑が美しかったですが、紅葉の季節もきれいだろうなあ。
このあと、三十三間堂に向かうも、数分遅れですでに閉門。残念。そして向かった先は、、、、
路地裏のお好み焼き屋さん。暑い1日のあとの瓶ビールとお好み焼きと焼きそば、最高でした。
久しぶりの京都、気温36℃、夏の京都の洗礼を浴びながら、1日かけてあちこち巡ることができ、楽しく美味しい1日でした。一緒にまわってくれた先輩に大感謝。また行きたいなあ。
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"送別"
她死了,享年102歲, 謹以此文“送別”李叔同的女兒春山油子。
悲欣交集,人生之感悟。當我們再回首時,沈澱的不只是記憶。那些如風的往事,那些如歌的歲月,都在冥冥的思索中飄然而去。2020年7月初,春山油子(日文:はるやまゆうこ)死了,享年102歲。
油子(ゆうこ)死在日本最南端的沖繩島,死在母親的老屋裏,死在掛滿裸體女人油畫的中式四合院裏。油畫,是父親畫的。畫上的裸體女人,是母親。
中式四合院,是母親買的,是母親賣掉父親的一副油畫,換了點錢買的。春山油子,日本一基金的亞洲區官員。春山油子的名字,是母親起的。春山的母親是一個日本人,叫春山淑子(日文:はるやまとしこ)。油子,中文諧音“遊子”,因為遭受中國男人的拋棄,剛出生的女兒成了浪跡天涯的遊子。1988年春天,春山油子剛滿70歲。她作為項目官員來中國考察,在杭州虎跑寺,終得知了父親已去世46年的消息。
2020年7月,春山油子死了,享年102 歲。24年前,她的母親也是在沖繩老屋去世的。那一年是1996年,母親淑子(としこ)享年106歲。《江湖夜雨》第71、72章中,記錄了這段塵封的故事,……。
1994年的冬天,大雪紛飛的季節,二柱前往日本沖繩。
自東京起飛,約兩個多小時後,抵達沖繩那霸機場。沖繩由許多小島連接而成,是日本最南端的島嶼之一,位居日本與台灣之間,常年氣溫保持在24℃左右,屬於亞熱帶海洋性氣候,是一個世界級的旅遊天堂。
那霸,琉球群島中的最大的一個島嶼,也是日本沖繩縣政治、經濟、文化中心。沖繩島,是第二次世界大戰最血腥的戰場。
1945年4月至6月,美軍強行登陸,20萬日本軍人全部戰死。日本戰敗後,美軍在距離那霸機場很近的地方,設置了美軍嘉手納空軍基地。
距離那霸機場不遠處,有座小山,山頂上有個首裏城堡,曾是琉球君主的官邸,是琉球王國的標志。朱紅色的木質結構,完整地保持了中國唐朝建築風格。首裏城的城堡氣勢巍峨,沿山道上去有牌坊和城門,著名的“守禮之邦”大門是沖繩的金字招牌。一天上午,二柱逛完城堡走出大門,踏上一條古樸幽靜的小路。
路邊,有一個古老民居中的日式小吃店,門口古樹參天,小店由夫妻兩人租房經營。吃了一碗清爽的沖繩拉麵後,二柱在庭院裏閑逛。
庭院角落,有一個花壇。花壇的後面,有一扇木制小門,推開小門,裏面是一個中式四合院的後院。後院沒有人,正房房門虛掩,二柱推門進入室內,整潔優雅,牆壁上掛滿了幾十幅裸體油畫,一身穿著中國清朝服裝的老婦坐在藤椅上。這是一個博物館,二柱想。
“你好”,二柱隨口用漢語問候。
老人很慈祥,看了看二柱,輕輕回句“你是中國來的?”一口並不標準的上海話,讓二柱吃了一驚。
沖繩島沒有中國人來,見到中國人,老人似乎有點興致,與二柱攀談起來。原來,這是個百歲老人,已經104歲了。墻上的油畫是80年前一個中國留學生的習作,後來兩人相愛,老人與留學生曾在上海生活了六年。
老人離開上海時,留學生把油畫作為紀念送給了老人。老人蹣跚著走到牆角書櫃。從櫃子裏拿出一個小木箱,小木箱裏放著一只手表、一綹鬍鬚,和幾封書信。“你為何不在上海生活?”二柱好奇地問。
“他做了和尚,拋棄了我和孩子,生活無奈,我就回來了。”老人蚊聲說。
“學生還在上海嗎?”二柱接著問。
“他已去世50多年了”,老人滄桑的臉上略顯傷感。
空氣似乎窒息,沈默了一會兒,好奇心驅使,二柱進一步問道:“您是如何知道留學生去世50多年的?”
“女兒六年前去中國,才知道的。”老人輕聲說著,眼角流出了悲傷的淚水。二柱翻看著書信,突然一首熟悉的詩句映入眼簾。
長亭外,古道邊,芳草碧連天。晚風拂柳笛聲殘,夕陽山外山。
天之涯,地之角,知交半零落。一壺濁酒盡餘歡,今宵別夢寒。
這首手抄的《送別》讓二柱驚嘆,落款“叔同於戊午八月十八日。”
“老奶奶,請問您是春山淑子嗎?”二柱激動地問道。
老人悲愴說:“先生稱呼我為淑子吧!”
淑子?春山淑子。叔同?李叔同。和尚?弘一法師。一連串的疑問在二柱腦海裏閃現。風流才子李叔同,與一代高僧弘一法師,二柱的心裏泛起了漣漪。
“你為何不在東京生活?”
“父母希望我嫁給銀行家,而我選擇了中國留學生,家裏與我斷絕了關係。從上海回到東京,家人讓我滾得越遠越好。我只好帶著一兒一女,坐船來到沖繩。”春山淑子平靜地說。
“你們如何生活呀?”
“我在漁村小診所工作,有時也下海捕魚補貼家用。”
“你的兒女在哪裏?”“兒子當兵,沖繩戰役時死了,女兒春山油子在銀行工作。”春山淑子說。三天後,二柱返回東京。友人協助下,在東京銀座,距離日本海外協力基金不遠處的咖啡廳,二柱拜見了老人的女兒春山油子。1988年,年邁的春山淑子告訴女兒春山油子,其親生父親是中國的李叔同。當年,春山油子作為日本海外協力基金的項目官員來中國考察,並獨自前往杭州,終得知了李叔同已去世了46年的不幸消息。
1992年,李叔同去世後的第50年,春山淑子將一封家書《致淑子:請吞下這苦酒》,轉交給女兒珍藏。
“父親已作古,母親已年邁,半個多世紀前的事情不希望再提起,後人的生活不希望被打攪”,春山油子說。淑子,李叔同的最後一個女人,李叔同的日本妻子春山淑子。
一場抉擇,李叔同擺脫塵念,拋棄愛情與親情,遁入佛門,成為弘一法師。俗世佛途,互成陌路,春山淑子被絕情地拋棄,抱著幼兒絕望地回到日本。
紅塵內外兩茫茫
他拋下的妻兒,那位深愛他的日本姑娘淑子與兒女,70餘年來,在孤島沖繩默默地度過悲情的歲月。
1942年10月10日晚上,62歲的弘一法師索來紙筆,書寫了“悲欣交集”四字絕筆,交給隨侍在側的妙蓮法師,說:“你在為我助念時,看到我眼裏流淚,這不是留戀人間,或者掛念親人,而是在回憶我一生的憾事。”13日晚上八時正,福建泉州不二祠的晚晴室,弘一法師在佛聲中吉祥圓寂。那一刻,弘一法師的眼角流出晶瑩的淚花。
悲欣交集,一代高僧的絕筆。悲欣交集,也是弘一法師對日本妻子淑子的致歉。弘一法師,成為了佛界中唯一“流淚的高僧”。
幾天後,泉州不二祠禪寺為弘一法師舉行了荼毗法會(僧人火葬,佛界稱荼毗),化身窯(火葬爐,佛界稱化身窯)暴起猛烈火光,天空突然升起一朵蓮花。蓮花上坐著菩薩化身的弘一法師,慢慢升起。事後,從化身窯裏檢出1,800餘顆舍利子,600多顆舍利塊。律宗十一代祖——弘一法師功德圓滿。
弘一、虛雲、太虛和印光並稱“民國四大高僧”。
弘一法師,俗名李叔同。長亭外,古道邊,芳草碧連天。晚風拂柳笛聲殘,夕陽山外山。
1918年夏天,李叔同削髮為僧後,他的最後一個妻子春山淑子,一個日本女人,歷經千辛,終於在杭州虎跑寺找到了出家丈夫。而這首感動數代人的《送別》,就是李叔同寫給她的永別信。
1905年秋,26歲的李叔同,東渡日本,在東京美術學院學習美術繪畫。裸體寫生,尋找女模特,困擾著李叔同。有一天,李叔同正在房中作畫,突然窗外一個姑娘飄然而過。他情不自禁地擱下畫筆,衝出畫室,原來是房東的女兒春山淑子,一個櫻花般的嬌羞女子。
淑子停下腳步,羞澀地看著他,他頷首展顏一笑,明眸皓齒,用日語夾帶手勢和她溝通,激動地邀請春山淑子做自己的模特。“這,這……”她十分驚訝,滿臉羞澀。
李叔同,那溫文儒雅的氣質,像磁鐵一樣深深吸引了春山淑子。幾天後,春山淑子成了他的專職裸體模特。春山淑子笑容可掬地走進畫室,第一次在異性面前脫下衣衫,不好意思地閉上眼睛。他示意她斜坐到床上,臉向後微側,作出半回首的姿態,左手自然地支撐,右手隨意地擺放。她靜坐著一動不動,他定格了她的美。他陶醉於這樣的美,畫得屏聲靜氣,沒起絲毫雜念。畫畢,他與她一起,談論一番。然後,他彈琴一曲,直抒胸臆,春山淑子情愫暗生。面對柔情蜜意的女子,李叔同一次又一次心海潮湧。不久,兩人跨越了畫家與模特的界限。雲雨與作畫,讓李叔同如魚得水,油畫大為長進。
一壺濁酒盡餘歡,今宵別夢寒。
李叔同在日本享受了愉悅的滋味。淑子,春山淑子,房東的女兒,成了李叔同的第二位妻子。李叔同以她為原型,創作了大量的女子裸體油畫。六年後。1911年,李叔同攜淑子,與兩歲的兒子,一起回到上海。1912年,李叔同應聘到浙江師範學校,擔任繪畫與音樂老師,節假日從杭州趕回上海與淑子相聚。兩人恩愛有加,相濡以沫,一家人享受著平靜的生活。這期間,李叔同每月的薪水是105元,分成四份:一份給上海的妻兒40元,一份給天津的妻兒25元,自己與在日本學習的弟子劉質平各20元。1916年,李叔同與學校的同事閑聊,聽聞了辟穀(斷食)一事。第二年春節剛過,李叔同就到杭州虎跑寺辟谷穀了21天。在這裏,他接觸了佛經以及僧侶的生活,感受到世間名利原是虛妄。返校後,他開始吃素、讀經、供佛。1918年3月底,淑子生下了女兒。
1918年5月,李叔同又到杭州虎跑寺,辟穀一個月,並拜了悟法師為師。了悟法師給李叔同取名演音,號弘一。1918年8月19日,38歲的李叔同,在虎跑寺正式剃度出家。李叔同歸佛的消息,當天就傳遍了杭州。3日後,傳遍了上海。這也成為民國以來,中國文教界哄動一時的新聞。李叔同出家,妻子淑子一無所知。兩週後,淑子得知消息,攜帶幼女從上海趕到杭州。找了六天,跑了六個寺廟,最終在杭州虎跑寺找到了丈夫李叔同。下午,在寺廟前臨湖的一個素食小吃店,李叔同與妻女見了面。吃著素飯,淑子淚流滿面。吃過飯,李叔同雇了一艘小船,把曾經刻骨愛戀的妻子淑子送上船。“淑子,這是我三個月薪水,你們回日本吧。”李叔同從衣衫裏掏出一沓錢,遞給了淑子。並把一只佩戴多年的手表、一綹鬍鬚、一封信和《送別》這首詩,交給妻子作為離別紀念。“叔同,抱抱女兒吧。”淑子痛哭著,把幼女遞給叔同。
李叔同雙手合十,謝絕了妻子的要求。傍晚,湖面泛起了薄霧。
“叔同”,妻子淑子抱著幼女,站在船頭,大聲哭泣著。
李叔同雙手合十:“阿彌陀佛,請叫我弘一。”聽到這絕塵的聲音,妻子淑子悲傷地問道:“弘一,請你告訴我,什麽是愛?”
李叔同合上雙眼:“愛,就是慈悲。”
“你慈悲對世人,為何獨獨傷我?”妻子淑子責問李叔同。
小船載著傷心欲絕的妻女離去,李叔同轉身進入廟門,剎那即是永恒,永恒亦是剎那。此次永訣,再無見面。一念放下,萬般從容。從此,世間再無李叔同,只有一代名僧弘一法師。那一年,是他們兩人相識後的第11個年頭。李叔同38歲,淑子28歲。妻子淑子回到上海,大病了一場。哀莫大於心死,淑子變賣了上海家中所有的物品。兩個月後,拉著9歲兒子,懷抱5個月的幼女,攜帶著李叔同的畫作和離別紀念物,離開中國。1918年10月底,淑子返回日本東京。淑子因與李叔同相愛,遭到極力反對,與家人斷絕了關係。“滾,……滾遠點,……,有多遠滾多遠”,被中國男人拋棄的淑子,又被父母與兄弟拋棄。舉目無親的淑子,受盡了屈辱。無奈之下,淑子帶著一雙兒女離開東京,乘坐漁船,於40天後來到日本最南部的沖繩島,以春山淑子的名字,到一家鄉村醫院從事醫護工作。
離別永不相見。從此,春山淑子與中國的李叔同、弘一法師、日本家人等斷絕了所有聯繫。淑子隱姓埋名,孤兒寡母默默地生活,萬分艱辛。不管生活多艱難,丈夫李叔同贈予的所有畫作,春山淑子悉心珍藏,從沒有轉讓或賣出。李叔同的一只手表、一綹鬍鬚、一封家書以及李叔同手寫的《送別》等離別紀念物,從未離身,與淑子終生相伴。
1996年,春山淑子在沖繩老屋謝世,享年106年。淑子與弘一法師,自1918年離別,已經過去了88年了,或許在天堂裏再次交集。
春山淑子看著弘一法師,輕聲唸道:“君自故鄉來,應知故鄉事。來日綺窗前,寒梅著花未。”弘一法師腳踩蓮花,雙手合一,回應說:“一念心清靜,蓮花處處開。一花一凈土,一土一如來。”
只有深刻經歷過紅塵的人,才能如此堅決地捨棄紅塵。弘一法師悲喜交織的一生,縱有遺憾,也總歸無悔。“愛就是慈悲”,是丈夫李叔同對妻子春山淑子的最後一句話。
“悲欣交集”,一代高僧的最後絕筆。人生是悲傷的積澱,生命是悲欣後的交集。李叔同,經歷了年少時的才子風流、成年後的藝術熏陶,和中年後的宗教靈魂,三個階段後,深刻醒悟了人生猶如摁下葫蘆起來瓢,恰如這幽幽禪河不盡燈。春山淑子,一段感情,廢了一生。
“愛就是慈悲”與“悲欣交集”遙相呼應,道出了李叔同弘一法師與春山淑子的悲愴人生。天之涯,地之角,知交半零落。一壺濁酒盡餘歡,今宵別夢寒。這首名流千古的《送別》,或許飽含了“悲欣交集”四字絕筆的背後酸楚隱情。
悲欣交集,人生之感悟。當我們再回首時,沈澱的不只是記憶。那些如風的往事,那些如歌的歲月,都在冥冥的思索中飄然而去。擁有的就該要珍惜,畢竟,錯過了,是再也找不回的。
【附後】據記載,1918年出家前,李叔同曾將他的油畫作品二、三十幅,寄贈於北京美術學校(中央美術學院的前身)。很遺憾,遺失了。
1967年,偶然在堆放雜物的倉庫發現了李叔同的《出浴裸女》。作為僅存的一副畫作,《出浴裸女》成為中央美術學院鎮館之寶。《出浴裸女》,一位浴後的半裸少女坐在椅子上,雙手扶把,袒胸露乳,眼睛微閉。神態靜美豐韻,氣質雅致纖素,聖潔如玉雕。【はるやまゆうこ(春山油子)】春山油子證實,台灣一作家(李敖)在沖繩旅遊期間,曾偶遇春山淑子,但並沒有獲贈弘一的畫作。台灣學者李敖,曾自稱獲得弘一法師的真作,並在2013年拍賣弘一畫作。------
李叔同,著名音樂家、美術教育家、書法家、戲劇活動家,是中國話劇的開拓者之一。他從日本留學歸國後,擔任過教師、編輯,後剃髮為僧,法名演音,號弘一,晚號晚晴老人,被人尊稱為弘一法師。
《送別》,曲調取自約翰·P·奧德威作曲的美國歌曲《夢見家和母親》。《夢見家和母親》是首“藝人歌曲”。這種歌曲19世紀後期盛行於美國,由塗黑了臉扮演黑人的白人演員領唱,音樂也仿照黑人歌曲的格調創作而成。奧德威是“奧德威藝人團”的領導人,曾寫過不少藝人歌曲。李叔同留日期間,日本歌詞作家-犬童球溪采用《夢見家和母親》的旋律填寫了一首名為《旅愁》的歌詞。而李叔同作於1915年的《送別》,則取調於犬童球溪的《旅愁》。如今旅愁在日本傳唱不衰,而《送別》在中國則已成驪歌不二經典。沈心工也曾根據《夢見家和母親》寫過《昨夜夢》,但始終未能抵得過《送別》的光芒。
「長亭」,是指古代供旅行休憩的驛站,也是文人墨客筆下的常用詞。在古代送別詩詞中,十里長亭不斷出現,蘊含著離情依依的惜別情愫。久而久之,「十里長亭」就被用來泛指送別之處。
《送別》夢之旅
作詞:李叔同
作曲:John Pond Ordway
長亭外,古道邊芳草碧連天,晚風拂柳笛聲殘,夕陽山外山,天之涯,地之角,知交半零落,一壺濁酒盡餘歡,今宵別夢寒。
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敗筆
H:寫不出字的筆叫敗筆,儲存的資料查不到叫敗資。最近整理很多筆用完了,功成身退。有些筆,未寫放久油乾寫不出,只好烘烤,熱水軟化,再不行即棄筆。有筆堪寫直須寫,莫待筆乾空畫紙。存了很多資料未分類查不到,敗資。徒勞而無功!資料名稱慎始!20240122W1
網路字典:
敗筆
用壞了的筆。宋.蘇軾〈石蒼舒醉墨堂〉:「君於此藝亦云至,堆牆敗筆如山丘。」《儒林外史》第五五回:「他取了一管敗筆,蘸飽了墨,把紙相了一會,一氣就寫了一行。」
書畫或詩文中的疵病。宋.黃庭堅《山谷題跋.卷六.子弟誡》:「敗筆涴墨,瘝子弟職。」《兒女英雄傳》第二六回:「從通部以至一回,乃至一句一字,都是從龍門筆法來的,安得有此敗筆。」
儒林外史/第55回
儒林外史第五十五回 添四客述往思來 彈一曲高山流水
話說萬曆二十三年,那南京的名士,都已漸漸銷磨盡了。此時虞博士那一輩人,也有老了的,也有死了的,也有四散去了的,也有閉門不問世事的。花壇酒社,都沒有那些才俊之人﹔禮樂文章,也不見那些賢人講究。論出處,不過得手的就是才能,失意的就是愚拙。論豪俠,不過有餘的就會奢華,不足的就見蕭索。憑你有李、杜的文章,顏、曾的品行,卻是也沒有一個人來問你。所以那些大戶人家,冠、昏、喪、祭,鄉紳堂裏,坐著幾個席頭,無非講的是些陞、遷、調、降的官場;就是那貧賤儒生,又不過做的是些揣合逢迎的考校。那知市井中間,倒出了幾個奇人。
一個是會寫字的。這人姓季,名遐年,自小兒無家無業,總在這些寺院裏安身。見和尚傳板上堂喫齋,他便也捧著一個缽,站在那裏,隨堂喫飯。和尚也不厭他。他的字寫的最好,卻又不肯學古人的法帖,只是自己創出來的格調,由著筆性寫了去。但凡人要請他寫字時,他三日前,就要齋戒一日,第二日磨一天的墨,卻又不許別人替磨。就是寫個十四字的對聯,也要用墨半碗。用的筆,都是那人家用壞了不要的,他纔用。到寫字的時候,要三四個人替他拂著紙,他纔寫。一些拂的不好,他就要罵、要打。卻是要等他情願,他纔高興。他若不情願時,任你王侯將相,大捧的銀子送他,他正眼兒也不看。他又不修邊幅,穿著一件稀爛的直裰,靸著一雙破不過的蒲鞋。每日寫了字,得了人家的筆資,自家喫了飯,剩下的錢就不要了,隨便不相識的窮人,就送了他。
那日大雪裏,走到一個朋友家,他那一雙稀爛的蒲鞋,踹了他一書房的落泥。主人曉得他的性子不好,心裏嫌他,不好說出,只得問道:「季先生的尊履壞了,可好買雙換換?」季遐年道:「我沒有錢。」那主人道:「你肯寫一幅字送我,我買鞋送你了。」季遐年道:「我難道沒有鞋,要你的!」主人厭他腌臢,自己走了進去,拿出一雙鞋來,道:「你先生且請略換換,恐怕腳底下冷。」季遐年惱了,並不作別,就走出大門,嚷道:「你家甚麼要緊的地方!我這雙鞋就不可以坐在你家!我坐在你家,還要算抬舉你!我都希罕你的鞋穿!」一直走回天界寺,氣哺哺的又隨堂喫了一頓飯。喫完,看見和尚房裏擺著一匣子上好的香墨,季遐年問道:「你這墨可要寫字?」和尚道:「這昨日施御史的令孫老爺送我的。我還要留著轉送別位施主老爺,不要寫字。」季遐年道:「寫一幅好哩。」不由分說,走到自己房裏,拿出一個大墨盪子來,揀出一定墨,舀些水,坐在禪床上替他磨將起來。和尚分明曉得他的性子,故意的激他寫。他在那裏磨墨,正磨的興頭,侍者進來向老和尚說道:「下浮橋的施老爺來了。」和尚迎了出去。那施御史的孫子已走進禪堂來,看見季遐年,彼此也不為禮,自同和尚到那邊敘寒溫。季遐年磨完了墨,拿出一張紙來,鋪在桌上,叫四個小和尚替他按著。他取了一管敗筆,蘸飽了墨,把紙相了一會,一氣就寫了一行。那右手後邊小和尚動了一下,他就一鑿,把小和尚鑿矮了半截,鑿的殺喳的叫。老和尚聽見,慌忙來看,他還在那裏急的嚷成一片。老和尚勸他不要惱,替小和尚按著紙,讓他寫完了。施御史的孫子也來看了一會,向和尚作別去了。
次日,施家一個小廝走到天界寺來,看見季遐年,問道:「有個寫字的姓季的可在這裏?」季遐年道:「問他怎的?」小廝道:「我家老爺叫他明日去寫字。」季遐年聽了,也不回他,說道:「罷了。他今日不在家,我明日叫他來就是了。」次日,走到下浮橋施家門口,要進去。門上人攔住道:「你是甚麼人,混往裏邊跑!」季遐年道:「我是來寫字的。」那小廝從門房裏走出來,看見道:「原來就是你!你也會寫字?」帶他走到敞廳上,小廝進去回了。施御史的孫子剛在走出屏風,季遐年迎著臉大罵道:「你是何等之人,敢來叫我寫字!我又不貪你的錢,又不慕你的勢,又不借你的光,你敢叫我寫起字來!」一頓大嚷大叫,把施鄉紳罵的閉口無言,低著頭進去了。那季遐年又罵了一會,依舊回到天界寺裏去了。
又一個是賣火紙筒子的。這人姓王,名太。他祖代是三牌樓賣菜的。到他父親手裏,窮了,把菜園都賣掉了。他自小兒最喜下圍棋。後來父親死了,他無以為生,每日到虎踞關一帶賣火紙筒過活。那一日,妙意庵做會。那庵臨著烏龍潭。正是初夏的天氣,一潭簇新的荷葉,亭亭浮在水上。這庵裏曲曲折折,也有許多亭榭。那些遊人都進來頑耍。王太走將進來,各處轉了一會,走到柳陰樹下,一個石臺,兩邊四條石凳,三四個大老官簇擁著兩個人在那裏下棋。一個穿寶藍的道:「我們這位馬先生前日在揚州鹽臺那裏下的是一百一十兩的彩,他前後共贏了二千多銀子。」一個穿玉色的少年道:「我們這馬先生是天下的大國手,只有這卞先生受兩子還可以敵得來。只是我們要學到卞先生的地步,也就著實費力了!」王太就挨著身子上前去偷看。小廝們看見他穿的襤褸,推推搡搡,不許他上前。底下坐的主人道:「你這樣一個人,也曉得看棋?」王太道:「我也略曉得些。」撐著看了一會,嘻嘻的笑。那姓馬的道:「你這人會笑,難道下得過我們?」王太道:「也勉強將就。」主人道:「你是何等之人,好同馬先生下棋!」姓卞的道:「他既大膽,就叫他出個醜何妨!纔曉得我們老爺們下棋,不是他插得嘴的!」王太也不推辭,擺起子來,就請那姓馬的動著。旁邊人都覺得好笑。那姓馬的同他下了幾著,覺的他出手不同。下了半盤,站起身來道:「我這棋輸了半子了!」那些人都不曉得。姓卞的道:「論這局面,卻是馬先生略負了些。」眾人大驚,就要拉著王太喫酒。王太大笑道:「天下那裏還有個快活似殺矢棋的事!我殺過矢棋,心裏快活極了,那裏還喫的下酒!」說畢,哈哈大笑,頭也不回,就去了。
一個是開茶館的。這人姓蓋,名寬,本來是個開當舖的人。他二十多歲的時候,家裏有錢,開著當舖,又有田地,又有洲場。那親戚本家都是些有錢的。他嫌這些人俗氣,每日坐在書房裏做詩看書,又喜歡畫幾筆畫。後來畫的畫好,也就有許多做詩畫的來同他往來。雖然詩也做的不如他好,畫也畫的不如他好,他卻愛才如命,遇著這些人來,留著喫酒喫飯,說也有,笑也有。這些人家裏有冠、婚、喪、祭的緊急事,沒有銀子,來向他說,他從不推辭,幾百幾十拿與人用。那些當舖裏的小官,看見主人這般舉動,都說他有些獃氣,在當舖裏儘著做弊,本錢漸漸消折了。田地又接連幾年都被水淹,要賠種賠糧,就有那些混帳人來勸他變賣。買田的人嫌田地收成薄,分明值一千的只好出五六百兩。他沒奈何,只得賣了。賣來的銀子,又不會生發,只得放在家裏秤著用。能用得幾時?又沒有了,只靠著洲場利錢還人。不想夥計沒良心,在柴院子裏放火,命運不好,接連失了幾回火,把院子裏的幾萬柴盡行燒了。那柴燒的一塊一塊的,結成就和太湖石一般,光怪陸離。那些夥計把這東西搬來給他看。他看見好頑,就留在家裏。家裏人說:「這是倒運的東西,留不得!」他也不肯信,留在書房裏頑。夥計見沒有洲場,也辭出去了。又過了半年,日食艱難,把大房子賣了,搬在一所小房子住。又過了半年,妻子死了,開喪出殯,把小房子又賣了。可憐這蓋寬帶著一個兒子,一個女兒,在一個僻淨巷內,尋了兩間房子開茶館。把那房子裏面一間與兒子、女兒住。外一間擺了幾張茶桌子。後簷支了一個茶爐子。右邊安了一副櫃臺。後面放了兩口水缸,滿貯了雨水。他老人家清早起來,自己生了火,搧著了,把水倒在爐子裏放著,依舊坐在櫃臺裏看詩畫畫。櫃臺上放著一個瓶,插著些時新花朵,瓶旁邊放著許多古書。他家各樣的東西都變賣盡了,只有這幾本心愛的古書是不肯賣的。人來坐著喫茶,他丟了書就來拿茶壺、茶杯。茶館的利錢有限,一壺茶只賺得一個錢,每日只賣得五六十壺茶,只賺得五六十個錢。除去柴米,還做得甚麼事!
那日正坐在櫃臺裏,一個鄰居老爹過來同他談閒話。那老爹見他十月裏還穿著夏布衣裳,問道:「你老人家而今也算十分艱難了,從前有多少人受過你老人家的惠,而今都不到你這裏來走走。你老人家這些親戚本家,事體總還是好的,你何不去向他們商議商議,借個大大的本錢,做些大生意過日子?」蓋寬道:「老爹,『世情看冷暖,人面逐高低』!當初我有錢的時候,身上穿的也體面,跟的小廝也齊整,和這些親戚本家在一塊,還搭配的上。而今我這般光景,走到他們家去,他就不嫌我,我自己也覺得可厭。至於老爹說有受過我的惠的,那都是窮人,那裏還有得還出來!他而今又到有錢的地方去了,那裏還肯到我這裏來!我若去尋他,空惹他們的氣,有何趣味!」鄰居見他說的苦惱,因說道:「老爹,你這個茶館裏冷清清的,料想今日也沒甚人來了,趁著好天氣,和你到南門外頑頑去。」蓋寬道:「頑頑最好,只是沒有東道,怎處?」鄰居道:「我帶個幾分銀子的小東,喫個素飯罷。」蓋寬道:「又擾你老人家。」
說著,叫了他的小兒子出來看著店,他便同那老爹一路步出南門來。教門店裏,兩個人喫了五分銀子的素飯。那老爹會了帳,打發小菜錢,一經踱進報恩寺裏。大殿南廊,三藏禪林,大鍋,都看了一回。又到門口買了一包糖,到寶塔背後一個茶館裏喫茶。鄰居老爹道:「而今時世不同,報恩寺的遊人也少了,連這糖也不如二十年前買的多。」蓋寬道:「你老人家七十多歲年紀,不知見過多少事,而今不比當年了。像我也會畫兩筆畫,要在當時虞博士那一班名士在,那裏愁沒碗飯喫!不想而今就艱難到這步田地!」那鄰居道:「你不說我也忘了。這雨花臺左近有個泰伯祠,是當年句容一個遲先生蓋造的。那年請了虞老爺來上祭,好不熱鬧!我纔二十多歲,擠了來看,把帽子都被人擠掉了。而今可憐那祠也沒人照顧,房子都倒掉了。我們喫完了茶,同你到那裏看看。」說著,又喫了一賣牛首豆腐乾,交了茶錢,走出來,從岡子上踱到雨花臺左首,望見泰伯祠的大殿,屋山頭倒了半邊。來到門前,五六個小孩子在那裏踢球,兩扇大門倒了一扇,睡在地下。兩人走進去,三四個鄉間的老婦人在那丹墀裏挑薺菜,大殿上槅子都沒了。又到後邊五間樓,直桶桶的,樓板都沒有一片。兩個人前後走了一交,蓋寬歎息道:「這樣名勝的所在,而今破敗至此,就沒有一個人來修理!多少有錢的,拿著整千的銀子去起蓋僧房道院,那一個肯來修理聖賢的祠宇!」鄰居老爹道:「當年遲先生買了多少的傢伙,都是古老樣範的,收在這樓底下幾張大櫃裏,而今連櫃也不見了!」蓋寬道:「這些古事,提起來令人傷感,我們不如回去罷!」兩人慢慢走了出來。鄰居老爹道:「我們順便上雨花臺絕頂。」望著隔江的山色,嵐翠鮮明,那江中來往的船隻,帆檣歷歷可數。那一輪紅日,沉沉的傍著山頭下去了。兩個人緩緩的下了山,進城回去。蓋寬依舊賣了半年的茶。次年三月間,有個人家出了八兩銀子束修,請他到家裏教館去了。
一個是做裁縫的。這人姓荊,名元,五十多歲,在三山街開著一個裁縫鋪。每日替人家做了生活,餘下來工夫就彈琴寫字,也極喜歡做詩。朋友們和他相與的問他道:「你既要做雅人,為甚麼還要做你這貴行?何不同些學校裏人相與相與?」他道:「我也不是要做雅人。也只為性情相近,故此時常學學。至於我們這個賤行,是祖父遺留下來的,難道讀書識字,做了裁縫就玷污了不成?況且那些學校中的朋友,他們另有一番見識,怎肯和我們相與!而今每日尋得六七分銀子,喫飽了飯,要彈琴,要寫字,諸事都由得我。又不貪圖人的富貴,又不伺候人的顏色,天不收,地不管,倒不快活?」朋友們聽了他這一番話,也就不和他親熱。
一日,荊元喫過了飯,思量沒事,一經踱到清涼山來。這清涼山是城西極幽靜的所在。他有一個老朋友,姓于,住在山背後。那于老者也不讀書,也不做生意,養了五個兒子,最長的四十多歲,小兒子也有二十多歲。老者督率著他五個兒子灌園。那園卻有二三百畝大,中間空隙之地,種了許多花卉,堆著幾塊石頭。老者就在那旁邊蓋了幾間茅草房,手植的幾樹梧桐,長到三四十圍大。老者看看兒子灌了園,也就到茅齋生起火來,煨好了茶,喫著,看那園中的新綠。這日,荊元步了進來,于老者迎著道:「好些時不見老哥來,生意忙的緊?」荊元道:「正是。今日纔打發清楚些,特來看看老爹。」于老者道:「恰好烹了一壺現成茶,請用杯。」斟了送過來。荊元接了,坐著喫,道:「這茶,色、香、味都好,老爹,卻是那裏取來的這樣好水?」于老者道:「我們城西不比你城南,到處井泉都是喫得的。」荊元道:「古人動說桃源避世,我想起來,那裏要甚麼桃源,只如老爹這樣清閒自在,住在這樣城市山林的所在,就是現在的活神仙了!」于老者道:「只是我老拙一樣事也不會做,怎的如老哥會彈一曲琴,也覺得消遣些。近來想是一發彈的好了,可好幾時請教一回?」荊元道:「這也容易。老爹不厭污耳,明日我把琴來請教。」說了一會,辭別回來。
次日,荊元自己抱了琴來到園裏,于老者已焚下一爐好香,在那裏等候。彼此見了,又說了幾句話。于老者替荊元把琴安放在石凳上。荊元席地坐下,于老者也坐在旁邊。荊元慢慢的和了弦,彈起來,鏗鏗鏘鏘,聲振林木,那些鳥雀聞之,都栖息枝間竊聽。彈了一會,忽作變徵之音,淒清宛轉。于老者聽到深微之處,不覺悽然淚下。自此,他兩人常常往來。當下也就別過了。
〈(維基編入者著: 五十五回版本)〉 看官!難道自今以後,就沒一個賢人君子可以入得《儒林外史》的麼?詞曰:記得當時,我愛秦淮,偶離故鄉。向梅根冶後,幾番嘯傲﹔杏花村裏,幾度徜徉。鳳止高梧,蟲吟小榭﹔也共時人較短長。今已矣!把衣冠蟬蛻,濯足滄浪。無聊且酌霞觴,喚幾個新知醉一場。共百年易過,底須愁悶﹔千秋事大,也費商量!江左煙霞,淮南耆舊,寫入殘編總斷腸。從今後,伴藥爐經卷,自禮空王。
〈(維基編入者著: 五十六回版本)〉 看官!難道自今以後,就沒一個賢人君子可以入得《儒林外史》的麼?但是他不曾在朝廷這一番旌揚之列,我也就不說了。畢竟怎的旌揚,且听下回分解。
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經濟布偶表演的好客檔案
歸類為工作場所/公共餐飲、活動餐飲和移動餐飲的企業不提供數據。 如何從30年前起步的家庭式小餐館,發展成為至今仍保持強勢地位的餐飲酒店? 當有意識和漸進的發展為企業創造穩固的支柱時,會是什麼樣子? 冒煙的喬 外燴 我們位於 Székelyudvarhely 的中心,György Nagy、Gondůző Hotel 然而,今天,大約有 3,500 個餐飲單位...... 7.1 貨物、板條箱和包裹只能放在餐車或自助餐車的儲藏室或服務亭的架子上,在臥舖車的服務區,以防止傾倒的方式放置。 four.2.34 輔助器具只有在電源開關關閉並與電源斷開後才能安裝或拆卸到通用廚房器具上。
世紀 外燴 另一個問題是,與 four 月份相比——當時無法在當地消費——這也是一個重大進步,因為那時四分之三的收入消失了。 新制度於2021年1月1日生效,餐飲企業最遲必須在2021年3月31日之前將新分類的變化通知店員。 “很難說客人把錢花在了什麼地方,可以肯定的是,現在開的餐廳比疫情前少了很多,有的開得還不錯,只有路過的人才能看到一家餐廳開得很好。 ”滿了,那麼現在還不確定能不能產生利潤,因為雖然有更多的收入進來,但還是要花在成本上”。
7.four 如果已提供必要的裝載時間,則只能在車輛靜止時裝載貨物。 6.1 娛樂場所只能使用排除有害輻射且不會意外對逗留人員造成危險的激光設備。
在指定的時間,以正確的質量和數量正確交付完好無損的貨物, 未來幾週即將到來的幾項立法變化也指明了方向,即已經發生的餐飲業價格嚴重上漲將繼續加速。
它需要天賦、知識、願望、品味、獨創性,最重要的是,需要心。 我手裡拿著 Károly Gundel 珍貴的小書,書名是“待客之道”。 很多廣播之前,我引用了這部作品中關於餐飲和美食的開創性思想。
在冠狀病毒在匈牙利出現一周年之際,我們了解了匈牙利餐館的狀況。 我們在船上,在餐廳,在市場大廳,在糕點店和咖啡館。 桌子上堆滿的椅子、封閉的空房間、包裝——一系列關于冠狀病毒流行期間匈牙利餐飲業狀況的照片。
切片圓刀切下的部分只能藉助專用工具(火腿鏟)從圓刀上取下。 調整產品時,您只能在機器關閉時將手伸到護手板和刀之間。 four.four.14 儲物箱只能放置在不懸於路面的位置,用兩個輪子固定,裡面的貨物可以安全取出。 four.2.seventy three 使用洗碗機或洗衣機時,只能按照使用說明書的規定放置洗滌物。
如果我傷害了某人,我有義務賠償他們。 如果餐館老闆沒有責任保險,即使實際上不是他本人,而是罐頭廠,例如,對玻璃負責,也必須證明這一點。 能源價格的大幅上漲、原材料價格的快速上漲以及需求的驟降同時打擊了旅遊業。 冬季停業是越來越多人的選擇,但永久性的勞動力短缺讓重啟風險很大——因此許多人準備縮減菜單,關閉房間、樓層和酒店翼樓。 在第八屆酒店和餐廳專業會議 (SzÉSzT) 上,該行業的代表將列出備選方案,首先是就業進口、機器人技術以及具有成本效益的能源管理和運營解決方案。 “然而,這項新要求導致效率、質量、服務質量和效率的下降。 我根本沒有機會給自己 100%,但我會提供數據。
幾乎沒有人沒有至少曾經夢想過開一家米其林星級餐廳,或者一家小咖啡館,或者一家純素食、無糖的糕點店。 雖然一開始我們可能會遇到很多標準、文件和障礙,但如今開餐廳並不是一個遙不可及的夢想。 銷售收入低於此的服務提供商的數據提供開始日期將更改為較晚的日期。 因故障或中斷而無法提供數據時,必須在故障或中斷結束後的次日完成數據提供。
這是一家傳統意義上的家庭餐館,但很多遊客在疫情前也曾在這裡品嚐過辣椒雞。 這在一般情況下可能是正確的,但情況要微妙得多。 在鄉村、巴拉頓湖和溫泉浴場,夏季的幾個月被證明是轟動一時的,因為人們在被迫待在家里或被隔離後開始冒險外出。 但首都幾乎沒有發生什麼事件,因為每天新冠病例的奇數影響了他們一天到晚的舉行或取消,以及人們是否敢離開家。 鄉下人不來布達佩斯,也許除了世界狩獵展。 SZÉP 卡的使用對結果也起到了重要作用。
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