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#東海七福神めぐり
sugabucks · 1 year
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《秋のおもひで》 田原市に点在する、東海七福神へ行った。 その昔は大変賑やかだったそうですねぇ。 ※そーいえばそろそろ春の大祭ですねぇ… #東海七福神 #東海七福神めぐり #東海七福神巡り #東海七福神巡り2022 #田原市 #田原市観光 #渥美半島 #渥美半島観光 (Tahara, Aichi) https://www.instagram.com/p/CpefvHXP-PZ/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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paparun0714 · 1 year
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#新春 #東海七福神めぐり ①#大黒天 品川神社 ②#布袋尊 養願寺 ③#寿老人 一心寺 ④#恵比須 荏原神社 ⑤#毘沙門天 品川寺 ⑥#福禄寿 天祖諏訪神社 ⑦#弁財天 磐井神社 2023/01/04 #東海七福神 #品川区 #大田区 #ゆるラン #ファンラン #朝ラン #ダイエットラン #がんばラン #GARMIN #paparun の #papawalk #paparunのpapawalk #ウォーキング #ウォーキングダイエット #朝ウォーク #ファンウォーク #散歩 朝散歩 #七福神 #SEVENLUCKYGODS (東京都品川区) https://www.instagram.com/p/Cm-1lHlyBK9/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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chaukachawan · 6 days
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こんちゃ、あろハムです
つい1年前の今頃は演劇のえの字も頭になかったのに偶然が重なって今では舞台に立って新入生を演劇に勧誘している。人生って本当に不思議なもんですねえ〜。さて、本題の役者紹介ですが、あれ?独断と偏見シリーズ流行ってるの、、、?結構色々考えたのですが皆面白いのを書いてくれてるのでこれまでふざけてた分今回くらいは自分が感じていることを素直に書いてみるのも良いのかも知れませんね。たまには、ね。さ、前置きはこれくらいにして、耳の穴かっぽじいて聞いて下さい。
園堂香莉(夢の住人α)
本当、器用な役者さんなんだなと今公演特に感じました。今回の3役とも全く性質が違うのに飄々とこなしてしまうなぽりが羨ましいです。実は稽古の時エレベーターガールのなぽりが好きすぎて気付かぬうちにガン見していたことは墓場まで持っていきます。エレガのマイムいつの間にあんな上手くなったの?5月にあるvaundyのライブ、どうだったかまた感想言いますね。
水琴冬雪(東雲)
私の演劇を好きになるキッカケを作ってくれた先輩なので、今公演でやっと役者として同じ舞台に立てるのが凄く嬉しかったです。役者として理想的すぎる発声と滑舌を持っているので演技しているところを見て自分なりにもこそっと真似してみますがまあー近づけないですよね。いつか背中が見える日が来れば良いな。あ、噛んで落ち込んでるベガさんも素敵ですよ。
緒田舞里(二宮光)
ちゃうかの大量の仕事をやりながら主役するってどんな生活、精神力してるんですか?絶対疲れてるはずなのに演技中全然そんな姿を見せないのは何故ですか?まりおさんの声の震わせ方、表情、目線の使い方がめっちゃ好きです。みんなの魅力を引き出すキャスパ、素敵すぎました。とにかくお疲れ様でした。ゆっくり休んでください。
たぴおか太郎(弁護士)
ちゃうかをイメージすると大体一番最初になすかさんが出て来ます。(withちいかわTシャツ)異議なし、毎回幕裏で笑っていました。あのなすかさんの通る声だからこそ6発6中でウケたのだと思います。オムニからお世話になっているのでなすかさんに褒められると尻尾振って喜んじゃいます。仕込み週になるとほぼ毎日全体LINEで謝ってるなすかさんが大好きです。
肆桜逸(検察官)
唯一の学科の先輩です。体験稽古でめっちゃ優しく話しかけて下さって、それが無ければ私はちゃうかに入ってなかったかもしれません。重い物持ってる時とか仕込みの時とか一番皆に声かけしてくれている優しい先輩です。オムニの時から思っていたのですが、ボケ寄りの役をやってるスチルさんめっちゃ好きです。あと、今公演の場転で行き詰まった時すぐ解決策を出してくれるのがすっごく頼もしかったです。でもキャスパのカウントを勘違いしていて呆然としていたスチルさんもなかなか良かったですよ。
帝京魂(深山登)
今公演で1番関わりがあった役者です。こんの爆発力のある演技を間近で見てみたいなあとは前々から思っていたのでそれが叶って嬉しかったです。演技している時の表情とか目つきが「入っている」感じがして役者として悔しかったです。あんな素晴らしい演技をするもんだから、私の存在感が消える!負けたく無い!と思って��死に練習しました。あと、この前サッカーマシンガントークしてごめんなさい。でもあれは聞いてきたこんが悪い。
縦縞コリー(市原優)
2公演続けての主役、本当にお疲れ様でした。こりの演技を見てると「ああ〜主役だなあ〜」とひしひし感じます。主人公、という言葉がお似合いです。新入生が入ってきても変わらず主演の座に立ち続けて下さい。恐らくこりは自分の中でこう演じたいとイメージしたものをそのまま演じることができる役者さんなんだろうなと勝手に思っています。凄いなああ。私もそうなりたい。線形なんてものも簡単に攻略できるんだろうなあ。
大福小餅(裁判長)
本当に、本当に頑張ったよね。舞監としても、役者としてもめちゃくちゃ頑張ってた。ここは手を抜いてもいいかな、こんくらいで良いかみたいなことを絶対にしない。キャスパも夜遅くまで残って、周りもほとんど帰ってるのに、すごく疲れてそうだったのに、「私出来てないからまだやりたい」って言ってたこふくの顔が忘れられません。こふくを傷付けるような人は私が絶対に許しません。みんなでこの可愛く勇ましい舞監をこれからも全力で支えていきましょう。
苔丸(村上)
器用すぎる。役者としても裏方としても。かっこいいと可愛いを両方バランス良く兼ね備えた役者さん。毎公演本当見事に違う役を演じていて、稽古初日どんな演技をしてくれるのか楽しみでした。色んな役をやってみたいとは思っても実際にやるのはめちゃくちゃ難しいし、苔丸にそういう色んな幅の役が任されるのは恐らくこれまでの演出全員「苔丸なら出来る」と大きな信頼を寄せているからなんでしょう。今公演、役の相談にも乗ってくれてありがとう。役者としても人としてもすごく信頼しています。
岡崎仁美(七瀬マイコ)
先輩としての頼もしさもあるのにたまに同期と勘違いしてしまうような可愛さを持っている方です。今公演の役、恐らくカヌレさんじゃ無いとあんなあどけない無垢な少女にはならなかったでしょう。カヌレさんじゃ無かったら誰がやってたんだろ。想像つかない。立て看、良すぎです。めちゃくちゃ好き。あれに顔はめて写真撮れなかったのが心残り、、、。次もまた看板作ってくれますよね?
衿君(夢の住人β)
実はちゃうかイチオシの役者です。公演ごとの私の推しキャラは大体エリックがやってます。普段は割と大人しめ(周りがうるさい)なのに皆をツボらせたときのウケ方は間違いなくちゃうかイチだと思う。静と動の演じ分けがめっちゃ上手い。だから人の注意が飽きることなくエリックに注がれるんだと思う。ラジパ、後ろでやってたから一回も見れ無かったけど写真で見てビックリしました。あんな笑顔してたんですね。あの写真は今公演1番のお気に入りです。
海泥波波美(夢の住人γ)
この人は何にも考えてなさそうに見えて(失礼)人の観察力がすごいなと思います。だから適当に言っているように思える発言でも実はそのおかげでちゃうかの空気は澱みなく流れてるんだと思う。今公演のあさぎの不気味なシーンちゃんとめちゃくちゃ不気味で大好きです。あの笑い方、良いですよねえええ。あそこで空気がひゅんっと変わる感じが大好き。楽ステのアドリブめっちゃ面白かった。回転扉が回らなくなって焦ってる時のあさぎの顔が忘れられません。
七枚目(郷田)
マキマさーん!チェンソーマン見たことないけどマキマさんだー!郷田さん好きぃいい!私も郷田さんに肩揉んでもらいたいよーー!ぜーんぜん怖くないよ!って言って欲しいよおお!って感じでみそかの演技は脳死しちゃうくらい好きです。通しの時とかずっと周りでウロウロしててごめんね。みそかの優しさと強さを兼ね備えた声が大好き。毎回言ってるけど。一生役者していて下さい。
ミル鍋(施設長)
相変わらず動きの付け方が上手すぎる。実は今公演からゆにの動きをパクってます。というか、ここ動きどうしようって思ったらゆにならどうするかなとイメージしてからその動きを真似してます。バレて、、無いよね!?多分まだ言われたことないから大丈夫。今回も動きに関することでゆにに相談させてもらったら、良いアイデアを即座に言ってくれました。流石です。吹田で一緒に練習したの楽しかったね。またやろう。製図なんてくそくらえ。
西峰ケイ(八戸)
面白すぎです。らびの面白さがフル発揮出来る役を見れてめっちゃ良かった。あの漫才、本当に驚きました。内容もさることながらテンポ感、間、動きの付け方、完成度が凄すぎてちゃんと面白かったし、あんだけお客さんを笑わせるの普通じゃないよ。ずっと練習してたもんね。なのに、そこだけじゃない。二宮と八戸のあの2人のシーン、周りからも散々言われたと思うけど本当に良かった。2人とも演技してるようには思えない空気感だった。あのシーンが今公演で1番のお気に入りです。
あろハム権左衛門(黒川)
キャラメルメル
白子(演出補佐)
誰よりも演劇への想いが熱く、そして演技指導をする時の「こんな感じ」が、レベル高すぎる生粋の演劇サイボーグ。役のことで相談した際、わざわざ私の役の解釈を色分けした台本を作ってくれた。あれは本当に助かりました。白子には前公演も今公演も助けられてばかりです。次の公演は役者として出てくれるのでしょうか?楽しみにしています。あ、授業の方も演劇と一緒にちゃんと頑張りましょうね。
近未来ミイラ・唯端楽生(演出・脚本)
もう散々褒めたしいっか。嘘です。褒め足りません。メガホン持ってスクランブル交差点のど真ん中で「俺は天才なんだぞおおおお!」って言ってもお釣り帰ってくるくらい天才です。ミイラの脚本は、こんな感じのストーリーを描きたいからこのキャラを作る、じゃなくてこのキャラの人生、生き様を描こうとして気づいたらストーリーが出来ていたって感じがします。付け足しのキャラクターがいない。ひとつのキャラクターがいなくなっちゃうだけでもストーリーが壊れてしまうような繊細で美しい作品。黒川の解釈を聞いたらめちゃくちゃ長文ですっごく分かりやすい表現で説明してくれたとき感動しました。ひとつひとつのキャラクターにこんな細かい想いが込められているとは思ってなかったです。出来れば他の人のアドバイスとか指摘とか一切聞く耳持たずにみいらの感じたこと、書きたいことをそのまま書き続けて欲しい。演劇のルール、文学のルールとかにとらわれない自由な作品をこれからもずっと描き続けて欲しいなあと勝手に思ってます。
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myonbl · 9 months
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2023年7月29日(土)
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高齢男子と妙齢女子の凸凹コンビ、酷暑の中で3ヶ月ぶりの京都ツアーを敢行した。以前から宿題であった<松尾大社>をスタート、<鈴虫寺>は空振り、<魚問屋ととや>で美味しくランチを頂き、<安井金比羅宮><八坂神社>と経めぐって、いつもの<キリンシティ新京極店>で打ち上げ。酷暑に打ち勝つには麦酒でなければと、美味しくグラスを空けたとさ。
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午前4時起床。
日誌書く。
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朝食。
洗濯。
久しく使っていなかったEvernoteにログインできず、パスワードをリセットする。
今日は妙齢女子と3ヶ月ぶりの京都ツアー、阪急桂駅で待ち合わせ、松尾大社駅まで移動してまずはお詣り。
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風鈴祈願 招福除災の音
~夏の境内を彩る 600個の風鈴~
“鈴” は神代の昔より神事にも用いられ、音の “涼しき” より名付けられました。その音色は神様をお慰めすると同時にご自身の罪穢れを祓い、清々しくするものと伝えられます。
日々の穏やかな願いを短冊に記し、風鈴の音色と共に皆様の祈りを松尾山の風が松尾(まつのを)の大神様にお届けします。短冊祈願料500円 当社、授与所にて受付中。
皆様よりお預かりした風鈴は、松尾大社八朔祭9月3日まで境内にお供え致します。
とても綺麗で涼やか。
本来のターゲットは<鈴虫寺>、ところが門前の列に恐れをなしてすごすご退散、上桂駅まで汗をかく。
桂駅まで戻ってバスへ、七条千本で下車して<ととや>、15分程度待ってからの入店、日替わりの刺身定食+🍺を美味しくいただく。
タクシーで東山まで移動、安井金比羅宮へとやって来た。
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なんとこちらも<縁切り縁結び碑>にお詣りする人が長蛇の列、とっとと退散して八坂神社へと向かう。
疫神社夏越祭 素戔嗚尊が南海に旅をされた時、疫神社の御祭神蘇民将来に手厚くもてなされたことを喜ばれ、疫病流行の際、蘇民将来之子孫は疫病より免れしめると誓約された故事により鳥居に大茅輪を設け、参拝者は之をくぐって厄気を祓い、又「蘇民将来之子孫也」の護符を授かります。
夏越の祓は他では6/30だが、こちらは祇園祭の最後に執行される。茅の輪をくぐって邪気を払っていただいた。
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よく歩いて汗びっしょり、仕上げはやはり美味しい麦酒。
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<SOU・SOU伊勢木綿店>に立ち寄る、相変わらず圧倒的に女性客で賑わっている。
阪急で桂駅まで移動して解散、本日もお疲れさまでした。
帰宅してすぐに<鈴本演芸場>にアクセス、8/12(土)の夜席チケットを無事に確保できた。
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ツレアイが買い物してくれていたので適当に見繕っての夕飯、彼女も美術展めぐりから汗だくで帰宅、早い時間にみなでいただく。
録画番組視聴。
(59)「鳩(はと)のなかの猫」
世界が愛した名探偵、エルキュール・ポワロ。アガサ・クリスティー原作の人気ドラマシリーズ。名門女子校で教師が殺害される事件が起きる。さらに学園の生徒が行方不明に…
名門女子校のメドウバンクを訪れたポワロは、校長のバルストロードから「次期校長の人選で悩んでいるので助言してほしい」と頼まれ、しばらく学校に滞在することに。そんな中、体育教師のスプリンガーが、深夜に体育館で殺されるという事件が起きる。スプリンガーは嫌みな性格で、教師や生徒たちから好かれていなかった。さらに学園の生徒でラマット国から来た王女が行方不明になる。ラマット国は政変で揺れていた。
片付け、入浴、体重は2日前から450g増、まぁよく食べてよく飲んだからね。
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さすがによく歩いた、水分は2,060ml。
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0nce1nabluemoon · 1 year
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泉に戻ることを望む者は、流れに抗して泳がなくてはならない
[東ドイツ ある家族の物語] P.265
しかし日本は、国を失ったことはないでしょう
[また、桜の国で]P.115
今、僕の国では、未だかつてないほどに、武士道や大和魂という言葉が使われているよ。でもね、覚えておくと良い。濫用される時は必ず、言葉は正しい使い方をされていない。
[また、桜の国で]P.482
誤解せんで欲しいが、資本主義が勝利するわけではないぞ。敵を見失った資本主義は、これまた果てしなくモラルを失っていく。どんな形で崩壊するのか、それとも再生できるのか。
[プラハの春 下]P.366
犠牲者を追悼する際、たとえ何百万単位で数えられたとしても、彼らは個人であり、集団ではないと覚えておかねばならない。どのような形であれ、殺された人々を集団として記憶しようとするのは死者を否定し、還元し、再び消滅させてしまう行為である。まさに犠牲者を殺害した人たちの思うつぼなのだ。さもなくば記念碑は忘却と否定の文化に取り込まれてしまう。私たちが忘れてしまうのは単純に忘れた方が楽だからであるが、不安や恐怖の時代にそれをしてしまっては無責任である。忘却は無知に自由な支配を許すことになる。つまるところ、心に留めておきたい歴史が何であるのか、あるいは過去を意図的に消そうとする理由は一体何か内省してみれば、私たち自身が何者であるのかが見えてこよう。
[ポスト・ヨーロッパ 共産主義後をどう生き抜くか]PP.214-215
あたしはずっと歴史を教えてきたけど、歴史上の出来事のどれひとつをとってもわたしたちが最後まで知っていることってありません。経験したどれをとっても。真実のすべてを......
[戦争は女の顔をしていない]P.46
僅か十日のあいだに、日本の国民はこれだけの大きな自由を奪い去られたのだ。
[風にそよぐ葦(上)]P.199
そしてこの動乱の時代には、すべての愛情が悲劇の原因になるのだ。裏切られなかった愛情がどこにあるだろう。悲劇をもたらさなかった愛情がどこにあるだろう。人間と人間のつながりが、兵役法だの徴用令だの動員規定だの、その他無数の法令によってばらばらに切りはなされ、愛情の幸福はその根底を失ってしまった。
[風にそよぐ葦(下)]PP.76-77
榕子は日の丸の旗が嫌いであった。それは残忍きわまる国家権力の象徴であった。ここ数年来、国家とは国民の不幸の象徴ではなかったかろうか。良人を奪い子を奪い富を奪い食を奪い、あらゆる生活の根底を破壊し去ったものはこの日の丸の旗であった。
[風にそよぐ葦(下)]P.93
道徳も義理も人情も、そういう美しいものはすべて生きるための邪魔ものであった。
[風にそよぐ葦(下)]P.198
国家が国民に要求する犠牲がその極限に達し、その極限を過ぎて、血をすすり肉を啖い尽してから、戦争指導者と重臣たちとはようやく降伏を決意した、それまでは決断がつかなかったのだ。
[風にそよぐ葦(下)]P.271
古今の歴史は、為政者たちの暴政や侵略者たちの暴虐による人間の悲劇を、幾つとなく記録しているが、どれほど凶暴な力に打ちたおされても、それが人間の本質的な姿を変えることはできなかった。ヒトラーやムッソリーニや東条が、あのなさけ容赦ない強制と圧迫とを加えてみても、ついに蹂躙することのできなかった(人間の最後の自由)というものがあるのだ。ソヴィエトの圧制者たちがあれほどの秘密警察と懲罰主義とをもって、幾度か血の粛清を行なって見ても、どうしても奪い去ることのできなかったスラヴ人の自由というものがあるのだ。全体主義者たちが最後につきあたるものは、この、人間が人間であるという真実であるに違いない。自分の思考をもち、自分の欲望をもち、自分の理想をいだき自分の幸福を求める、人間としてのその本質的な希望は、国際関係が緊迫してきた現代の社会ではほとんど許されなくなってしまった。しかし、最後に残るただ一つの自由は、拒否するという意志に於いて表現されるのではあるまいか。
[風にそよぐ葦(下)]PP.464-465
しかし、どんな時代が来ても、人間の心の奥底にある、孤独感というか、一人きりでは生きて行けない、誰かを愛し、誰かを信じないでは居られない、そういう本質的な弱さ、・・・弱さと言ってもいいだろうね。・・・そういうものの美しさを信じることはできるんだよ。
[風にそよぐ葦(下)]P.536
私は罰を受けている・・・でもどうして?もしかして、人を殺したから?時々そんなふうに思います。年をとると、昔より時間がたくさんあって・・・あれこれ考えてしまう。自分の十字架を背負って行くんです。毎朝、ひざまずいて、窓の外を眺める。みんなのことをお願いするの。すべてを。夫を恨んではいないわ。許しました。彼のために祈ります。責めません。私が女の子を産んだ時、彼はしげしげと眺めて、すこし一緒にいたんだけど、非難の言葉を残して出て行ったんです。「まともな女なら戦争なんか行かないさ。銃撃を覚えるだって?だからまともな赤ん坊を産めないんだ」私は彼のために祈るの。もしかして彼の言うとおりかもしれない。そう思うことにする......これは私の罪なんだって......私はこの世で何よりも祖国を愛していた。私は愛していたんです。誰にこんなことをいま話せます?自分の娘......あの子にだけ......私が戦争の思い出話をすると、あの子はおとぎ話を聞いているんだと思ってるんです。子供用のおとぎ話を。子供のおそろしいおとぎ話を。
[戦争は女の顔をしていない]P.369
スターリンは結局民衆を信じなかった。祖国は私たちにそういうお礼をしてくれたの。私たちが注いだ愛情と流した血に対して。
[戦争は女の顔をしていない]PP.430-431
だって、人間の命って、天の恵みなんだよ。偉大な恵さ。人間がどうにかできるようなものじゃないんだから......。
[戦争は女の顔をしていない]PP.480-481
「本当の親か、本当の子かなんてことはね、誰にもわかりゃしないんだよ」良太郎は仕事に戻りながら、いかにもやわらかに云った、「お互いにこれが自分のとうちゃんだ、これはおれの子だって、しんから底から思えばそれが本当の親子なのさ、もしもこんどまたそんなことを云う者がいたら、おまえたちのほうからきき返してごらんーーおまえはどうなんだって」
[季節のない街]P.276
「おてんとさまばっかり追いか��るなよ」
何のこと���のか理解出来ず、私は父を見た。七十年生きてきて、ようやく判ったのだと父はつづけた。自分は、日の当たっているところを見て、いつも慌ててそこへ移った。けれども、辿り着くと、そこに日は当たっていず、暗い影になっている。また焦って走る。行き着いて、やれやれと思ったら、たちまち影に包まれる。振り返ったら、さっきまで自分のいた場所に日が当たっている。しまったとあと戻りしても同じことだ。
[血の騒ぎを聴け]P.23
私は深夜、寝つけなくて、無数の映像と無数の音楽について考えた。どのような映像の彼方にも見えないものがあり、いかなる音楽からも聴こえないものがある。それを立ちあがらせるのが言語ではないか。文学は、終わるどころか、これから真の力を発揮する時代に入る。そう確信して、夜明け近くまで起きていた。文学が負けるのではない。虚無や時代への迎合というらくな階段を昇り降りし、訳知り顔に民衆をなめる作家や編集者が負けるのだ。
[血の騒ぎを聴け]P.47
文学が、結局は、死と恋に集約されざるを得ないのは、その哀しみと、そこから得るものが、数学の試験のように、一プラス一イコールニとはならないからであり、いかなる言葉を尽くしても、自分の心を表現することができないからであり、「別れ」が、なぜか個々人の人間のグラスを、ほんの少し大きくしてくれるからである。
[血の騒ぎを聴け]PP.287-288
われわれが実際に建設しているのは、投機を行うための都市であって、人々が住むための都市ではない。
[反資本主義]P.107
人が受け取ることのできる他人のあり方などほんの断片であり、一個人の持つ複雑な内面の全てを推し量ることなど決してできない。
[歌われなかった海賊へ]PP.362-363
王や神は書く必要がない。その存在は自己自身のうちで絶対的に充実しており、他者との関係を必要としない。王は書くことなく語る主体であって、自分の声をただ書きとらせるだけなのだ。
[デリダ]P.73
「一者」への結集は、「他の他者たち」に対してのみならず、「自己における他者たち」に対しても「暴力」となる。
[デリダ]P.293
そういう生まれつきの能を持ってる人間でも、自分ひとりだけじゃあなんにもできやしない、能のある一人の人間が、その能を生かすためには、能のない幾十人という人間が、眼に見えない力をかしているんだよ。
 [さぶ]P.291
この世から背徳や罪悪を無くすことはできないかもしれない。しかし、それらの大部分が貧困と無智からきているとすれば、少なくとも貧困と無智を克服するような努力がはらわれなければならない筈だ。(略)「世の中は絶えず動いている、農、工、商、学問、すべてが休みなく、前へ前へと進んでいる、それについてゆけない者のことなど構ってはいられない、ーだが、ついてゆけない者はいるのだし、かれらも人間なのだ、いま富栄えている者よりも、貧困な無智のために苦しんでいる者たちのほうにこそ、おれは却って人間のもっともらしさを感じ、未来に希望が持てるように思えるのだ」
  「赤ひげ診療所」 P.178
見た眼に効果のあらわれることより、徒労とみられることを重ねてゆくところに、人間の希望が実るのではないか。
「赤ひげ診療所」P.298
「……そういう人たちと別れ、戦地から戻って日銀に復職したら、なんだか妙にシャクにさわってむかむかしてきたんだな。わが身が大事のエリートが威張りくさって、トラックでわたしが一緒に働いたような、学歴のない人たちが、ここでもやっぱり下っ端として馬鹿にされて理不尽な目にあっている。こりゃなんだ、戦争は終わったのに、何も変わっていないじゃないか、と」「わたしはトラック島で部下だった工員たちに救われていた部分がずいぶんあった。そんなかれらが価値のないものとして否定されて、軍人より先に死んでいかなきゃいけないのが戦争だった。同じことが、まさにわが職場で行われているとわたしの目には映った。こりゃあ黙って見過ごしちゃいかん、と思ったんだな。大げさに聞こえるかもしれないが、それはわたしなりの、死者への責任でもあったんだ」
[昭和二十年夏、僕は兵士だった]PP.60-61
彼らにとっての祈りとは、死者を自分の裡に住まわせてこの世を生きる、その生き方そのものではないかと思った。→デリダの幽霊
[昭和二十年夏、僕は兵士だった]P.121
われわれの歴史だって、いつか、誰かによって演じられたものなのかもしれない。そしてわれわれは、その時と同じような敗北に向かって、同じような手で、コマを進めているのかもしれない。このベラミとそっくりのきちんとしておとなしい男が、かつては、象牙海岸で黒人狩りをおこない、ハイチやルイジアナへ船で運び、その途中、船倉でくたばるものはくたばるにまかせていたこともあり得る。そのベラミには、当時なんの悪気もなかったのである。いつの時代でも、ベラミには悪気はなかった。だから、始末にこまるのである。
「山椒魚戦争」 PP.242-243
市民であることとは、市民をケアすることでもあり、民主主義そのものをケアすることである。
「ケアリング・デモクラシー」 P.ⅻ
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ari0921 · 1 year
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▪️危機の日本 首相奮起を 
  【櫻井よし子 美しき勁き国へ】
 令和5年は尋常ならざる危機の年だ。戦争を大前提にして準備しなければ取り返しのつかない事態に陥る。戦争回避には強い軍事力と経済力が必要で、抑止力を飛躍的に高めずして、私たちが享受する平穏な生活は守れない。
 だが、わが国は準備不足だ。第一に継戦能力がない。軍事力増強を支える経済力は財務省主導の財政・金融政策で弱体化されつつある。憲法と法律は自衛隊の手足を縛り続ける。日本国と日本人全体の危機意識が薄いのだ。
 かつて、わが国は列強の脅威にさらされ、開国し、富国強兵政策を実行した。発足時には独自の軍隊さえなかった明治政府と、軍事的に中国に圧倒されている現在の日本の姿が重なる。
 日清戦争前夜の明治26(1893)年、山縣有朋は国民に軍備増強で重い負担をかける心苦しさを語り、「国家の安全と人民の福利を購(あか)ふの資本だ」と説いた。彼は清国の向こうのロシア、フランスの野望を見てとり、10年もしない内に「東洋の禍機」が暴発すると考えた。弱肉強食のこの時代、わが国が他のアジア諸国のように植民地にされなかったのは、わが国に先を見通す戦略とそれを支える死に物狂いの戦術、富国強兵政策があったからだ。
 かって清国の脅威の先に列強諸国の野望があったように、いま、ウクライナと台湾の先に中露による冷徹かつ壮大な世界秩序の書き換えの野望がある。昨秋の中国共産党大会で、習近平国家主席は中国主導の「人類運命共同体」が世界の前途だと語った。中国は、米国は衰退期にあり、西側の民主主義は機能停止の陥ったと信じ、中華の価値観とルールが世界秩序の基盤をなすべきだと考えている。
 この異形の大国を受け入れるわけにはいかない。彼らの価値観に太古からあがなってきたまれなる国がわが国だ。604年の「十七条の憲法」も明治元(1868)年の「五箇条の御誓文」も、一人一人を大事にする精神に貫かれている。明治期、軍事に特化した印象を与える山縣も、「(身分の)上下を平均し人権を斉一にする道」を説いた。人権は万人に平等だとする日本の考え方は、第一次世界大戦後の国際連盟創設時に人種差別撤廃条項創設の提唱に発展した。実に開明的な日本の主張はウイルソン米大統領が不条理に葬り去った。
 だが、今、世界がかつての日本の主張に追いついた。中国のウイグル人に対する弾圧非難が一例だ。それなのに、日本に輝きを添えてきた大事な価値観を、肝心なわが国が忘れ去っている。日本にこそ中国政府を非難する資格がある。ロシアに領土を不法に奪われている日本こそウクライナを積極的に支援すべき立場にある。日本国の歴史やその歩みを支えた価値観を忘れてしまってどうするのだ。
 迫り来る中国の脅威の前で、わが国はいま、米国との軍事力強化に取り組んでいる。この努力が単なる軍事協力に終われば、日本は精神的に米国に追従するだけの国になる。中国も日本を侮り、からめとり戦術に出るだろう。
 だが日本が日本らしさを発揮するとき、状況は劇的に変わるだろう。中国は、反撃能力(敵基地攻撃能力)の保有などを盛り込んだ日本の新たな「安保3文書」に激しく反応した。わが国への恐れゆえであろう。日清、日露以降、世界戦争を戦った日本人に対する記憶がそうさせるのだ。
 人間にとっても国家にとっても当然のことなのだが、気概を持つことの大事さを再確認したい。気概は力の強化と揺るぎない自信につながる。私たちが強い精神を取り戻すことが、中国に対しては日本国の抑止力を大いに高め、同盟国の米国に対しては信頼を深めることになる。
 本紙8日付の朝刊における台湾の李喜明元参謀総長の指摘は冷静だった。米台間には共通の指揮・通信体制も作戦計画もなく、台湾有事で米台が共同作戦を行うことは難しい。「日本が台湾を助けてくれるとは思わない」が、「事前に台湾の防衛戦略を知り、準備することが日本の国益になる」との内容だ。
 ウクライナでロシアのプーチン大統領に勝利を与えてはならないように、台湾で中国の習近平国家主席に勝利を与えてはならないのは明らかだ。そのための唯一の道は日米台の協力体制を築くことだ。米国がウクライナ問題でアジアに軸足を移しかねているいま、わが国こそ、米国に働きかけなければならない。対中国で日本は生まれ変わる決意で抑止力を高めると説き、具体策を示すのだ。
 たとえば、中国は尖閣諸島(沖縄県石垣市)周辺海域や南シナ海で、少しずつ着実に、継続的に状況を有利にする「サラミ戦術」を展開し、影響圏を
拡大してきた。いま、私たちが「逆サラミ戦術」を展開する場面ではないか。日米台で情報を共有し、有事対応についてシミュレーションを繰り返すのだ。回数を重ねれば、事実上の日米台同盟につながり、中国の台湾攻略を防ぐ一手となる。習氏が権力基盤の浮沈をかけて台湾攻略に出てこようとするのに対し、抑止を確実にするには日米台の覚悟が必要で、日本は日本の国益のためにこそ、その覚悟を促す立場に立つのがよい。
 世界史大転換の今、国政に携わる政治家、とりわけ岸田文雄首相は幸運である。怠惰な眠りの中で長く自立しなかった日本を鮮やかな目覚めに導き、新たな国家像を打ち立てることができる。国の形を大きく変えた明治維新では多くの人材が日本国の未来に命をささげた。いま、政治家たる人々は、その政治生命を賭けて日本のために働くことができる。これ以上望めない幸運な巡り合わせではないか。
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tenshitsukinuke · 17 hours
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👼「天使突抜(てんしつきぬけ)」にまつわる話し… 📝アーカイブ⛩️
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📝「天使突抜(てんしつきぬけ)」の由来 -----
「天使」と言えば、羽根の生えたかわいい神の使いのエンジェル を想像してしまいますが、この「天使突抜」の 天使 はそれではなく--- 牛若丸(源義経)と武蔵坊弁慶が、平安時代末期1176(安元2)年に出会った京都のとある神社〜平安遷都 794(延暦13)年の時に創社の 『天使の宮』=『五條天神宮(ごじょうてんしんぐう)』の 由緒ある歴史的な名前から きていることをあらかじめ申し上げておきます〜⁉︎
✍️端的に『天使突抜(てんしつきぬけ)』を説明すると、次の① ② ③ になりますーーー
①『天使』→ 「天使の宮(五條天神宮)」を指す。その「天使」とは、主祭神:「少彦名命(すくなひこなのみこと)」の別名・通称名。
〒600-8459 京都市下京区松原通西洞院西入ル天神前町351番地 に鎮座する、794年 平安遷都時に創社した洛中最古の神社。なお、当時の「五條通」は、現在の「松原通」。
また 中世以来、度々火災に遭い規模の縮小を余儀なくされ、現在の社殿は近時の再建で、
1888(明治21)年に今の 幣殿 を再建、 1933(昭和8)年10月に本殿をはじめとした各建造物を改築し、現在に到ります。
②『突抜』→ 近世(安土桃山〜江戸時代)の京都市中の道路形態の一種。大路や小路の間に新しく通した南北の道路で、あいだに寺社や邸宅などがあって分断されるものを言う。
③『天使突抜』 ▶︎▶︎▶︎ 時は、16世紀末 安土桃山時代…豊臣秀吉が実施した 京都都市大改造事業の一環で、正方形街区を南北縦割りの短冊形=長方形街区に分断して、新たに通りを増やす「天正の地割(てんしょうのじわり)」政策により、「天使の宮」の当時 広大な境内の真ん中を分断して、南北を通る道「天使突抜通(現:東中筋通)」を新しく建設し、その辺りの町名を「天使突抜○町目」としたことによる。
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✍️ もう少し詳しく知りたい方や興味のある方は、少々長くなりますが、以下の説明をご覧ください……
⏱️ 時はさかのぼり〜平安遷都の西暦794年に始まり、16世紀末 豊臣秀吉の安土桃山時代の頃になります。
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「五條天神宮」は、794(延暦13)年の平安京遷都の際に桓武天皇の命により、弘法大師・空海によってこの地に 大和国宇陀郡(奈良県)から 天神(あまつかみ)を勧請(かんじょう)されたと伝わる洛中最古社。創建当初から「天使の宮」や「天使社」とよばれ、鎌倉時代初期に「五條天神宮」に改められました。
「五條天神宮」のご祭神は、次の3柱です。
①主祭神:「少彦名命(すくなひこなのみこと、すくなびこなのみこと)」
②配祀神(はいししん):「大己貴命(おおなむちのみこと)」=「大国主命(おおくにぬしのみこと)」
③配祀神:「天照大神(あまてらすおおみかみ)」
農耕、病気退散の神、疫神、厄除け、医道の祖神、医薬、禁厭(きんようorきんえん、まじないの意)の神様として、古くから広く崇敬されてきました。
ちなみに、神話をもとにして、我が国の「薬祖神」として崇められているのは、「少彦名命(すくなひこなのみこと、少名毘古那など11通りの書き方がある) 」と 「大己貴命(おおなむちのみこと、大国主命など合わせて6つぐらいの異名がある)」である。二神が力を合わせて国を治め、人々や家畜の病気の治療法を定め、獣や昆虫の害をはらうまじないを教えたと言われています。
👉 3柱あるご祭神の内の主祭神である「少彦名命」の異名である「天子」の呼称は、当時は 神の子孫であるとした天皇 を示す言葉で 混同しないようにと配慮されて、神の使いを表す『天使』に呼び名を言い換え、創建当初から「天子の宮」ではなく「天使の宮」または「天使社」と呼ばれ、その近辺の住人達からは「お天使さま」とも呼ばれていたようです。
👉 ちなみに、794年「天使の宮」創建のほぼ半世紀後に生誕された「菅原道真(845〜903)」 の霊を祀った天神(てんじん)とは別モノですが、本殿の背後にある境内社の中に 菅原道真 を祀る「筑紫天満宮」(洛陽天満宮二十五社順拝 第3番)と、菅原道真と縁の深い ご祭神:十川能福(そごうのうふく)の「福部(ふくべ)」神社 及び ご祭神:渡会春彦(わたらい はるひこ)の「白太夫(しらだゆう)」神社が鎮座しています。
それは、北東方角100m強程の離れた 西洞院通仏光寺 菅大臣町に位置する、菅原道真 の生誕地「菅大臣神社」(洛陽天満宮二十五社順拝 第1番、菅公御霊地三社)が鎮座していることと、関係しているのかも知れません。
平安時代後期の 久寿年間(1154-1156)には「祇園社(現在の京都市東山区にある 八坂神社の旧称)」の末社でしたが、その後 平安から鎌倉時代初期に天皇家の支配下になり、少なくとも南北朝時代の1390年に再び「祇園社」の末社に戻ったといわれています。
👉 鎌倉時代初期の第82代・後鳥羽天皇(在位: 1183-1198)の支配下にあった「天使の宮」は、「五條天神宮」と改められました。
👉 なお、清水寺への参詣道としてもにぎわった「五條大路(五條通)」は、豊臣秀吉の京都大改造までの呼称で、以降は「松原通」と呼ばれるようになり 今に至ります。
源義経(1159-1189)とその主従を中心に書いた作者不詳の軍記物語『義経記(ぎけいき)』によると、平安時代末期の 1176(安元2)年6月に 源義経(牛若丸)が 武蔵坊弁慶(?-1189)と出会った場所として描かれています。
それに取材した 謡曲「橋弁慶」でも弁慶は五條天神に丑の刻参りに訪れた際に五條大橋に現れる牛若丸の存在を聞いて橋へと向かったとされ、また その様子は京都では有名な「祇園祭・後祭」の「くじ取らず」の山鉾巡行 一基目の「橋弁慶山」でも描かれ、おなじみの光景となっています。
👉 当時「天使の宮」の東側を通る 西洞院通(旧:西洞院大路)には「西洞院川」が流れていました。牛若丸と弁慶の立合いがあったのは、天使の宮から約1.2km離れた五條大橋(現:松原橋)ではなく、この西洞院川に架かっていた橋という伝承もあり、確証はありませんが、この説の方が自然なのではと思われます……
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それから 時は16世紀末の 豊臣秀吉 の安土桃山時代にワープします。
1582(天正10)年に 明智光秀 が謀反を起こし、京都 本能寺に滞在する主君・織田信長を襲撃した「本能寺の変」後、羽柴秀吉はいち早く行動をおこし、戦国の騒乱に終止符を打ちました。秀吉は、1585(天正13)年に関白職を 受け、1586(天正14)年に豊臣の氏を賜り太政大臣に就任し、政権を確立すると同時に、戦国時代からの荒廃した京都の町の復興のため、かつての平安京の「条坊制」の特長を残しつつ、京都の地形並びに治水対策、商業を含めた街の活性化・繁栄のための街区の町割区画整備 等を考えた綿密な計画のもとに、下記の主な①から⑤の京都大改造の事業に取りかかり敢行しました。
これにより現在の京都の基盤を築きあげ、今日の京都を形づくったのは、天下人となった 豊臣秀吉 だったのてす。
① 「聚楽第(じゅらくだい、じゅらくてい)」の造営を 1586(天正14)年 に開始し、その周辺に「大名屋敷町」を建設しました。
② 「御所の修築」を 1589(天正17)年 から行い、その周辺に「公家屋敷町」を配置しました。
③ 「寺町・寺之内」の「寺院街」を 1590(天正18)年 に造成して、主に「寺町通」沿いおよび「寺之内通」沿いに寺院を「京中屋敷替え」と呼ばれた強制移転を強行し 集中させました。
④ 「天正の地割り(てんしょ��のじわり)」を1590(天正18)年から翌年にかけて敢行。平安京からの「条坊制」による 正方形街区=碁盤の目の区画を、要所要所で 縦=南北 に短冊形に割って 長方形街区にして 区画及び通りを増やし、街区の町割区画を整備・再編成。この時の町割の変更に伴う新たな通りの建設事業が、「天使突抜」という地名ができるきっかけとなります。詳しくは、後述します。
⑤ 「御土居(おどい)」を 1591(天正19)年に、外敵の襲来に備える 防塁 と 川の氾濫から街を守る 堤防 として、京都の周囲を丸ごと取り囲む土塀を、防御施設=総構として張り巡らせました。その範囲は、北は上賀茂から鷹ヶ峰、西は紙屋川から東寺の西辺、南は東寺南側の九条通、東は鴨川西側の河原町通まで、南北約8.5km、東西約3.5km、総延長は 約22.5kmにも及びます。
この御土居によって、京都市中を意味する「洛中」と、外部である「洛外」が明確化されました。そして 御土居には「京の七口」と呼ばれる関所となる出入り口がつくられ、これによって京都に入ってくる人間をチェックするようになりました。
---関白になった豊臣秀吉は、京都を実質的に支配し、応仁の乱等で大半が焼失し荒廃した京都を大規模な都市改造政策をもって復興させ、①から⑤等の多くの都市改造の大事業を敢行し、聚楽第の建造や街区の町割区画整備 等の施策を中心に 洛中の周囲を土塁で囲まれ、容易に攻略できない巨大な城郭(城塞)都市に生まれ変わったのです。
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✍️ 「天使突抜」の名前由来の話しに到達する前に、もう少し関連する歴史的な話しが続きます--- それでは、1590 (天正18)年 の④「天正の地割り(てんしょうのじわり)」の話しになります。
室町時代後期から力を付けてきた京都の商人は、「通りに面した向かい合わせた両側」のコミュニティを1つの町(ちょう)と考える「両側町」と呼ばれるグループを構成し、一体感を背景としたにぎわいをみせるようになっていました。
それまでの平安京からの「条坊制」による 正方形街区の場合、1区画が約120m四方の正方形のブロックの四辺に住居や商店が建てられ、中央部分が空き地になることが多く、農地として利用されたり 空き地になったりして、無駄な土地が多いという欠点がありました。そして、当時は「間口税」という 間口の幅=道路に面した建物の正面の幅 の広さによって税金の額が決められていたので、碁盤の目のような正方形街区を2つに分けて長方形にして面を増やせば、税収とは無関係だった中央の空き地部分にも商店や住宅が建てられ、より多くの間口税を徴収することができるようになります。
そこに秀吉は着目し、京都の復興には「商 業の発展」が不可欠との確信から、町割と通りを増やして 街や商業の活性化 及び それに伴う「間口税」の税収増を目指し、平安京からの「条坊制」による 正方形街区=碁盤の目の区画を、要所要所で 縦=南北 に短冊形に割って 長方形街区にして 区画 及び 通り を増やし、町割を大きく変更する「天正の地割」を敢行しました。これにより、京の街路は南北120m、東西60m間隔で長方形状に区画されることとなり、現在に至っています。
新設された通りの 東は寺町通から西は大宮通にかけてで、北端は丸太町通から南端は五条通付近となっているものが多く、後に延長されたものも多いとされています。
👉 そのうちの一つとして、五條通(現在の 松原通)にある 天使の宮・天使社 とも呼ばれた「五條天神宮(ごじょうてんしんぐう)」の 広大な鎮守の森= 「天使の杜(もり)」を、南北に貫通するかたちで街路を分断し、その「天使の宮を突き抜けて作られた道」を「天使突抜通(てんしつきぬけどおり、現在の 東中筋通)」、その道に沿った 両側町 の町名(ちょうめい)を「天使突抜○町目」と呼ぶようになりました。その後、太平洋戦争終戦以降は「天使突抜○丁目」に変わったようです。
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ちなみに、「突抜(つきぬけ)」 とは、近世(安土桃山〜江戸時代)の京都市中の道路の一種。大路や小路の間に新しく通した南北の道路で、あいだに寺社や邸宅などがあって分断されるものを言います。
かつての 「天使突抜通」は、現在では名称が変わり「東中筋通(ひがしなかすじどおり)」と呼ばれ、西洞院通(旧:西洞院大路)と 油小路通(あぶらのこうじどおり、旧:油小路)の間に位置します。
北は 仏光寺通(ぶっこうじどおり、旧:五条坊門小路)から、南は 木津屋橋通(きづやばしどおり、旧:塩小路)までの下京区を南北に貫通する細い小路(こうじ、しょうじ)です。
👉 東中筋通(旧:天使突抜通)に沿っての両側町で 天使突抜の町名 として名付けられ、
①松原通(まつばらどおり)の少し南から 万寿寺通(まんじゅじどおり)までの 天使突抜一町目、
②五条通までの 天使突抜二町目 があり、
③五条通より南へ楊梅通(ようばいどおり)までの 天使突抜三町目、
④六条通(ろくじょうどおり)までの 天使突抜四町目 があります。
余談ですが、京都市のほとんどの 町名 は 末字(まつじ)に「町」がついて「○○町」と呼びますが、「天使突抜○丁目」は末字に「町」がつかない町名になります。ただ、その町内住人は 例えば 「天使突抜二丁目」と呼ぶには少々長いので普段は略して「天二町」と呼んだり書いたりしています。
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( 注📝 現在の「堀川通」や「五条通」や「高辻通」は、太平洋戦争時の空襲被害に備えるための 防空空地や消防空地 設営の「建物強制疎開」により、終戦年の1945(昭和20)年前半に道路幅がそれぞれ拡張されています。また、その時の「堀川通」の道路幅拡張により、五条通以南の「醒ヶ井通(さめがいどおり)」は消失し、オマケに「京の三名水」の一つの「左女牛井、醒ヶ井(さめがい)」の円井戸の源泉が消滅してしまいました。)
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✍️オマケ📝【天正地割の副産物「路地」】→
西暦794年の平安遷都では、中国の都:長安をモチーフに、街区の町割りを「条坊制」が採用されました。大内裏(平安宮)と羅城門を結ぶ朱雀大路を南北に通し、そこを境として左京・右京を配置。東西南北に、大路(おおじ)・小路(しょうじ、こうじ)と呼ばれる通りを張り巡らせることで、碁盤の目���ように 縦横の一辺が一丁・一町(約109m、道路幅含まず)の 大きなほぼ正方形街区に区分けされた町並みが生まれ、通りに囲まれた区画の中心部に入るために作られた道が、「辻(つじ)」や「辻子・図子(ずし)」や「路地(ろーじ、ろうじ、ろじ)」=「露地・露路」です。
更に、1590 (天正18)年 から翌年にかけての「天正地割」によって南北を通る小路が増え、そして 建物と建物の間を通る「辻」や「辻子(図子)」や「路地」=「露地・露路」と言われる 普通の小路より更に細い=狭い 道幅の通り道が たくさん増えました。
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通り(大路、小路)をつないで家(建物)と家(建物)の間を通り抜けられる=突き抜けられる 狭い道を「辻」や「辻子(図子)」と呼び、袋小路(行き止まり)になった通りの道を「路地」と呼んで区別することがあるようですが、辻・辻子(図子)も含めて 路地 と総称するため、明確な区別はないともいわれています。
もともと「辻」は、十字状の道を表す「十字」という言葉に由来して作られた字で、次第に細い通りを「辻子」「図子」と表すようになったとのことです。
「路地(ろーじ)」には、「コ」の字型や「L」字型になっていて、入り口とは違うところに通じているものや、路地の入口に面した通りとは反対側の通りへ出る通り抜けられる路地もあります。
1949(昭和24)年生まれの私の幼少時に住んでいた京都市下京区有隣学区内では、当時の大人の人達や私も含めて、コの字型やL字型等の曲がって通り抜けられる路地のことを「抜け路地(ぬけろーじ)」と呼んだりしていましたが、辻子(図子)という言葉は 最近まで聞いたことがなく、古稀過ぎてから 京都通 などのサイトに出てくるネット検索で知った言葉です。今住んでいる天使突抜町でも 誰もその言葉は使わないし、耳にしたことはありません。その類いの道は、「路地(ろーじ) 」や「抜け路地(ぬけろーじ)」とか「 辻 」と呼んでいます。ただ それは、私が住んできた限定的な地域的な特徴かも知れませんが……
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 「路地」というのは、その路地の中にある家に訪れるために通る道としての通路のようなものなので、一般の小路を通る場合とは少し異なり、閉鎖的で私道的な雰囲気もあることから、無用の者が立ち入るのはちょっと躊躇もしくは気が引ける感じになりがちです。なかには、路地の入口にそこの住人の「集合表札」が掲げられていたり、「無用の者の立ち入りはお断り」というような注意書きが路地の入口に張られている場合もあったりします。
ところで、私の個人的見解での 小路と路地の違いは、端から端までの全ての道路が、 車(自動車)が通れる幅があるかないのか、及び 車が通れるように地面が整備されているかいないかの差ではと、勝手に解釈して区別していますけど……
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📝①参考までに---今は 五条通や堀川通や御池通など京都市の 大幹線道路として広い道幅になっていますが、これは「太平洋戦争」時の米軍の無差別爆撃の空襲による火災の延焼防止 の対応策として 防火地帯(空地) 等を設けるため、それまでは他の道路と同じような細い道幅だった通りの道路沿いに佇んでいる家屋を、戦争の名の下に 有無を言わさず「取り壊し=建物疎開=家屋等の強制撤去」が無惨にも遂行され、道路幅を拡張させられたことによります。
京都府 約2万戸、京都市 で1万世帯以上が 1944(昭和19)年から翌年の1945(昭和20)年 終戦時までに、建物疎開が 第1次~第4次までに分けて 以下の内容で強行され、無惨にも建物強制疎開で拡張されたことを、特に京都市民は 決して忘れないようにしたいものです🙏
 1、『 防空空地帯 』・・・防火帯、緊急避難路、防空活動道路としての利用を目的に、50〜100メートル幅で指定。京都駅周辺、堀川通、御池通、五条通。
 2、『 防空空地 』
イ、「 交通疎開空地 」……交通要地の防護が目的。京阪三条駅周辺、四条大宮交差点、梅小路駅周辺など。
ロ、「 消防空地 」……消防活動用の道路拡幅。智恵光院通、七本松通、高辻通など。
ハ、「 疎開小空地 」……軍需工場、役所、変電所、病院等の周辺を空地にしてそれらの施設を防護。
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📝②参考までに---京都は、太平洋戦争時の 米軍による 当初原爆投下候補地の第3の原爆投下予定地だったようで、威力を分かりやすくするために、京都市内の空襲を5回程度の散発的に爆撃を控えた…とされています。その空襲は、終戦年の1945年1月から6月にわたって5回の空襲(馬町空襲、西陣出水空襲 他)を受けて 約100名程の死者が出ています🙏
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kachoushi · 25 days
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各地句会報
花鳥誌 令和6年4月号
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坊城俊樹選
栗林圭魚選 岡田順子選
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令和5年1月6日 零の会 坊城俊樹選 特選句
ドッグラン鼻と鼻とで交はす賀詞 荘吉 裸木のはるかを白く光る街 要 頰切るは鷹の翔つ風かもしれず 順子 人波をこぼれながらの初詣 光子 焼芋の煙たなびく志んぐうばし 和子 群衆といふ一塊の淑気歩す 順子 寒雀神馬と分かちあふ日差し 光子 寒雀入れ神苑の日のたまり 同 寒の水明治の杜のまま映す 小鳥
岡田順子選 特選句
跼り清正の井を初鏡 昌文 本殿につぶやく寒紅をつけて 光子 楪の浴ぶる日我にゆづらるる 慶月 肺胞に沁み込んでゆく淑気かな 緋路 冬草や喧騒去りて井戸残し 眞理子 馬見えぬ乗馬倶楽部の六日かな 六甲 寒鯉来おのれの色の水を分け 緋路 寒椿落つれば湧くや清正井 眞理子 寒の水明治の杜のまま映す 小鳥
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年1月6日 色鳥句会 坊城俊樹選 特選句
一束もいらぬ楪もて遊ぶ 成子 深井より羅漢に供ふ冬の水 かおり 赤なまこ横目に買ひし青なまこ 久美子 畳みたるセーターの上に置くクルス かおり 再会のドアを開けばちやんちやんこ 朝子 半泣きのやうに崩るる雪兎 成子 火を見つめ男無口に薬喰 かおり 歳晩の一灯母を照らすため 朝子 悴みて蛇となる能の女かな 睦子 その中の手話の佳人やクリスマス 孝子 悪童に悲鳴をはなつ霜柱 睦子 凍空とおんなじ色のビルに棲み かおり かくも典雅に何某の裘 美穂 唐突に雪投げ合ひし下校の子 成子 楪や昔硝子の磨かれて かおり 奥伝の稽古御浚ひする霜夜 愛 出会ひ重ね寿限無寿限無と年惜む 美穂 冬灯一戸に遠き一戸あり 朝子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年1月8日 武生花鳥俳句会 坊城俊樹選 特選句
流れ来し葉屑も霜を置いてをり 昭子 御慶述ぶ老いも若きも晴れやかに みす枝 初春の光りまとひし石仏 ただし 神なびの雨光り落つ氷柱かな 時江 地震の中産声高き初笑ひ ただし 歌留多とり一瞬小町宙に舞ふ みす枝 まだ誰も踏まぬ雪道新聞来 ただし 奥の間に柿餅吊し賑はへり 時江 さびしさの枯野どこまで七尾線 昭子 万象の音の鎮もり除夜の鐘 時江
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年1月9日 萩花鳥句会
初句会吾娘よりホ句のファクシミリ 祐子 書き初め震何んぞ訳あり辰に雨 健雄 吹雪突き突進するエネルギー 俊文 日本の平安祈る今朝の春 ゆかり こがらしが枯葉ころがしからからと 恒雄 平穏な土地にて食べる七草粥 吉之 御降や茶筅ふる音釜の音 美惠子
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令和5年1月10日 立待花鳥俳句会 坊城俊樹選 特選句
被災地にすがりし木の芽盛んなる 世詩明 的中の乾いた響き弓始 誠 初場所の桟敷の席の晴れ着かな 同 初御空耶馬台国は何処にぞ 同 石段を袖振り上がる春著の子 同 細雪番傘粋に下駄姿 幸只
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年1月11日 うづら三日の月花鳥句会 坊城俊樹選 特選句
年上の夫に引かるる初詣 喜代子 地震起こり慌てふためく大旦 由季子 曇り拭き笑顔映りし初鏡 さとみ 地震の地にぢりぢり追る雪女 都 冴ゆる夜の天井の節をまじまじと 同 男衆が重き木戸引き蔵開き 同 寒月や剣となりて湾の上 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年1月12日 鳥取花鳥会 岡田順子選 特選句
海鳴や雪の砂丘は祈りめく 都 初電話卒寿は珠のごと笑ひ 同 針始友が未完のキルト刺す 同 授かりし神の詞や竜の玉 悦子 蜑に嫁し海山詠みて老いの春 すみ子 焚上げの火の粉加勢や冬銀河 宇太郎 古傷を思ひ出させて寒四郎 美智子 枯葦の透き間に光る水一途 佐代子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年1月12日 風月句会 坊城俊樹選 特選句
寒の雨誦経とよもす陽子墓碑 文英 寒林を上り来よとて母の塔 千種 顔消えし元禄仏へ寒菊を 慶月 道祖神寄り添ふ寒の雨うけて 慶月 就中陽子の墓所の蕗の薹 幸風 裸婦像の背にたばしる寒の雨 同
栗林圭魚選 特選句
信州へ向かふ列車の二日かな 白陶 寒林を上り来よとて母の塔 千種 晴天の初富士を背に山降る 白陶 大寺の太き三椏花ざかり 幸風 空までも続く磴なり梅探る 久 はればれと良き顔ばかり初句会 三無 就中陽子の墓所の蕗の薹 幸風 五姉妹の炬燵の会議家処分 経彦 走らざる枯野の車両咆哮す 千種 凍蝶のポロリと落つる影哀れ れい 三椏の開花明日かと石の門 文英
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年1月13日 枡形句会(一月十三日) 栗林圭魚選 特選句
嗽ぐをどる喉越し寒の水 幸風 七福神ちらしの地図で詣でをり 多美女 七福神詣りしあとのおたのしみ 白陶 凍て鶴の青空渡る一文字 幸子 金継ぎの碗に白湯汲む女正月 美枝子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年1月15日 なかみち句会 栗林圭魚選 特選句
曇天に寒紅梅や凜と咲く のりこ 寒梅のつぼみの枝の陽の仄か 貴薫 青空に白き寒梅なほ白く 史空 朝の日に紅色極め寒椿 廸子 我が机散らかり初めし二日かな 和魚 倒れ込む走者にやさし二日かな 三無 釦穴に梃摺る指や悴かみて あき子 夢てふ字半紙はみ出す二日かな 美貴 二日早主婦は忙しく厨事 怜 りんご飴手に兄妹日向ぼこ 秋尚 雪遊びかじかむ手の子包む母 ことこ
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年1月16日 さくら花鳥会 岡田順子選 特選句
幼子の運を担いで福引へ 実加 寒空や命尊きこと思ひ みえこ ことわざを子が覚えをりかるた取り 裕子 元旦の母と他愛もない話 同 元旦や地震の避難を聞くことに みえこ 初詣車椅子の児絵馬見上ぐ 実加
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年1月17日 伊藤柏翠記念館句会 坊城俊樹選 特選句
古里に温石と言ふ忘れ物 雪 師の墓に愛子の墓に冬の蝶 清女 寒の月見透かされたり胸の内 眞喜栄 鴨浮寝無言の中にある絆 同 降る雪を魔物と今朝を天仰ぐ 英美子 藪入りも姑の一言行けぬまま 同 庭仕事今日冬帝の機嫌よき かづを 玻璃越に霏々と追はるる寒さかな 同 正月が地獄の底に能登地震 みす枝 雪しまき町の点滅信号機 ただし お御籤の白き花咲く初詣 嘉和 若狭より繋がる水脤やお水取 やす香 水仙の香りて細き身の主張 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年1月17日 福井花鳥句会 坊城俊樹選 特選句
寒紅の濃き唇が囁きし 世詩明 お雑煮の丸と四角と三角と 同 正月の馳走其々ある謂れ 千加江 新年の風も言の葉も美しく 和子 磯の香も菰巻きにして野水仙 泰俊 捨て舟を取り巻くやうに初氷 同 左義長や炎崩れて闇深し 同 去年今年形見の時計よく動く 同 ふと今も其の時のマフラーの色 雪 天地に誰憚からぬ寝正月 同 迷惑を承知の猫に御慶かな 同 不器用も父似の一つ初鏡 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年1月17日 鯖江花鳥句会(一月十七日) 坊城俊樹選 特選句
而して九十三の初鏡 雪 蛇穴に入り人の世は姦しく 同 紅を差し眉ととのへて近松忌 同 懐手おばあちやん子を憚らず 同 鬼つ子と云はれて老いて近松忌 同 着膨れて顔ちさき女どち 一涓 歌かるた子の得て手札取らずおく 昭子 年新たとは若き日の言葉とも やす香 新年を地震に人生うばはれし 同 元旦を震はせる能登竜頭めく 同 裂帛の気合を入れて寒みそぎ みす枝 風の神火の神乱舞どんど焼き ただし 八代亜紀聞きをり外は虎落笛 清女 寒怒濤東尋坊に砕け散り 同 波の腹見せて越前浪の華 世詩明
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年1月19日 さきたま花鳥句会
月冴えて城址うろつく武者の翳 月惑 仲見世を出て蝋梅の香に佇てり 八草 枯菊や木乃伊の群の青き影 裕章 寒鴉千木の反り立つ一の宮 紀花 合掌す金波銀波の初日の出 孝江 青空に白き一機や寒紅梅 ふゆ子 初詣令和生まれの児と犬と ふじ穂 白鼻緒水仙の庫裏にそろへあり 康子 激震の恐れ記すや初日記 恵美子 お焚き上げ煙を浴びて厄払ひ 彩香 我が干支の年につくづく初鏡 みのり 家篭りしてをり冬芽萌えてをり 良江
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令和5年12月1月 花鳥さざれ会 坊城俊樹選 特選句
師を越ゆる齢授かり初鏡 雪 初笑玉の如くに美しく 同 大晦の右大臣左大臣 同 猫の名は玉と答へて初笑 同 天が下縁深めゆく去年今年 数幸 能登の海揺るがし今日の空冴ゆる 和子 しろがねの波砕かれて冴え返り 笑子 語り継ぐ越前の秘話水仙花 同 雪降れば雪に従ふ越暮し 希子 皺の手にマニキュア今日は初句会 清女 初電話親子の黙を解きくれし 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年11月 花鳥さざれ会 坊城俊樹選 特選句
蟷螂を見て戻りたるだけのこと 雪 もて余す老に夜長と云ふ一つ 同 蟷螂の緑失せつゝ枯れんとす 同 小春日や袱紗の色は紫に 泰俊 正座して釜音聞くや十三夜 同 海沿ひにギターの調べ文化の日 千加江 枝折戸をぬけて紅さす返り花 笑子 祇王寺の悲恋の竹林小鳥来る 同 大胆な構図を取りし大銀杏 和子 宿の灯も消して無月の湖明り 匠 秋の海消えゆくものにますほ貝 天空 落葉降る賽の河原に降る如く 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年12月 花鳥さざれ会 坊城俊樹選 特選句
異ならず枯蟷螂も人老ゆも 雪 世の隅に蟷螂は枯れ人は老い 同 無造作に残菊と言ふ束ね様 同 冬ざれや汽車に乗る人何を見る 泰俊 石膏でかたまりし腕冬ざるる 和子 山眠る小動物も夢を見る 啓子 路地裏の染みたる暖簾おでん酒 笑子 冬ざれや路面電車の軋む音 希子 おでん屋の客の戯れ言聞き流し 同 風を背に連れておでんの客となり かづを にこにこと聞き役おでん屋の女将 同 冬紅葉地に華やぎを移したり 同 街師走見えざるものに背を押され 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
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siteymnk · 4 months
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2023年の文化活動(一覧)
昨年もたくさん行脚しました。特筆すべきはコロナ禍からの本格的な脱却、夏休みの北海道旅行、勤続30年目のリフレッシュ休暇で西日本周遊、だろうか。行きつけの美術館は展示替えの都度、再訪するルーチンが確立。思ってたよりコンサートにもたくさん行ってた(クラシック系が多い)。地方の美術館(県立レベルの)を攻略する楽しさを知ってしまったので、今年も隙を見て行ってみたい。
星野道夫 悠久の時を旅する@東京都写真美術館
プリピクテジャパンアワード@東京都写真美術館
野口里佳 不思議な力@東京都写真美術館
パリ・オペラ座─響き合う芸術の殿堂@アーティゾン美術館
ウェンデリン・ファン・オルデンボルフ 柔らかな舞台@東京都現代美術館
MOTコレクション コレクションを巻き戻す 2nd@東京都現代美術館
DOMANI・明日展 2022-23@国立新美術館
クリストとジャンヌ?クロード 包まれた凱旋門@21_21 DESIGN SIGHT
ハンドメイドジャパンフェス冬2023@東京ビッグサイト
室内楽・シリーズNo.22 デュオの世界 <チェロとピアノのための>@東京文化会館
驚異の声、驚異の言葉─未体験の音空間へようこそ!@横浜みなとみらいホール
Sit, Down. Sit Down Please, Sphinx.:泉太郎@東京オペラシティーアートギャラリー
3331によって、アートは『    』に変化した@3331 Arts Chiyoda
恵比寿映像祭2023@東京都写真美術館へ
同潤会アパート渋谷@白根記念渋谷郷土博物館・文学館
引き寄せられた気配@トーキョーアーツアンドスペース 本郷
東京都水道歴史館
開館60周年特別展「横山大観と川端龍子」@龍子記念館
0~8848M・地上の紋――中国空撮写真展@日中友好会館美術館
毎年恒例の岡本太郎現代芸術展@岡本太郎美術館
六本木クロッシング2022展:往来オーライ!@森美術館
わたしたちは生きている!セタビの森の動物たち@世田谷美術館
それぞれのふたり 萩原朔美と榎本了壱@世田谷美術館
平原まこと 50周年 メモリアルコンサート@東京国際フォーラムCホール
吉松隆オーケストラ傑作選 吉松隆の<英雄>@東京芸術
動物会議 緊急大集合!@ギンザ・グラフィック・ギャラリー
VOCA展2023@上野の森美術館へ
藤子不二雄のまんが道展@豊島区立トキワ荘マンガミュージアム
昭和レトロ館
ヴォクスマーナ 第49回定期演奏会@豊洲シビックセンターホール
第52回邦楽演奏会@国立劇場
ダムタイプ|2022: remap@アーティゾン美術館
アートを楽しむ 見る、感じる、学ぶ@アーティゾン美術館
画家の手紙@アーティゾン美術館
重要文化財の秘密@東京国立近代美術館
明治美術狂想曲@静嘉堂@丸の内
今井俊介 スカートと風景@東京オペラシティアートギャラリー
収蔵品展076 寺田コレクションハイライト(前期)@東京オペラシティアートギャラリー
ブルターニュの光と風@SOMPO美術館
情景の地 ブルターニュ モネ、ゴーガン、黒田清輝が見た異郷@国立西洋美術館
エドワード・ゴーリーを巡る旅@松濤美術館 応挙と蘆雪@東京黎明アートルーム
「ラ・フォルジュルネ2023」 公演番号:313止まらない!若き活力の横溢と抒情 公演番号:324大作曲家に楽器の制約ナシ!SAXカルテットによる名曲の解答
島じまん2023@竹芝桟橋
デザインフェスタ vol.57@東京ビッグサイト
東京みなと祭@東京国際クルーズターミナル
ルーヴル美術館展@国立新美術館
清澄庭園
大阪の日本画@東京ステーションギャラリー
第63回 海王祭@東京海洋大学 越中島キャンパス
マティス展@東京都美術館
都美セレクション グループ展 2023
夢と自然の探求者たち―19世紀幻想版画、シュルレアリスム、現代日本の作家まで@群馬県立館林美術館
原始神母 THE DARK SIDE OF THE MOON 50th ANNIVERSARY@日比谷公園大音楽堂
本橋成一とロベール・ドアノー 交差する物語@東京都写真美術館
TOPコレクション セレンディピティ 日常のなかの予期せぬ素敵な発見@東京都写真美術館
田沼武能 人間讃歌@東京都写真美術館
発掘・植竹邦良 ニッポンの戦後を映す夢想空間@府中市美術館
プレイプレイアート展@ワタリウム美術館
下町七夕まつり@かっぱ橋本通り
モネ・ルノワール 印象派の光@松岡美術館
フィンランド・グラスアート 輝きと彩りのモダンデザイン@東京都庭園美術館
川崎水族館
F.A.T.2023 Summer Concert FireBird & AzBand & TAKEBAN@月島社会教育会館ホール
山下清展 百年目の大回想@SOMPO美術館
ABSTRACTION 抽象絵画の覚醒と展開 セザンヌ、フォーヴィスム、キュビスムから現代へ@アーティゾン美術館
野又 穫 Continuum 想像の語彙@東京オペラシティー アートギャラリー
没後10年 映画監督 大島渚@国立映画アーカイブ
熊谷守一美術館
三井高利と越後屋@三井記念美術館
北海道旅行 ファーム富田 旭山動物園
恋し、こがれたインドの染織@大倉集古館
ブラチスラバ世界絵本原画展@うらわ美術館
特別展 古代メキシコ -マヤ、アステカ、テオティワカン@東京国立博物館
誰かのシステムがめぐる時@TOKAS本郷
東京大学総合研究博物館
第21回東京音楽コンクール(ピアノ部門)の本選@東京文化会館
テート美術館展@国立新美術館
ガウディとサクラダファミリア展@国立近代美術館
ワールド・クラスルーム:現代アートの国語・算数・理科・社会@森美術館
コレクション展2023-3@青森県立美術館
大巻伸嗣 地平線のゆくえ@弘前れんが倉庫美術館
弘前昇天教会
旧五十九銀行本店本���(青森銀行記念館)
旧東奥義塾外人教師館
旧弘前市立図書館
山車展示館
弘前城
津軽藩ねぷた村
カトリック弘前教会
荒木珠奈 展@東京都美術館
ARTBAY TOKYO アートフェスティバル2023 CIRCULATION -ひともまちもせかいもめぐる‐@臨海副都心エリア
生誕140年 モーリス・ユトリロ展@横浜高島屋ギャラリー
全日本模型ホビーショー@東京ビッグサイト
デヴィッド・ホックニー展@東京都現代美術館
「あ、共感とかじゃなくて。」@東京都現代美術館
ステファン・サグマイスター ナウ・イズ・ベター@ギンザグラフィックギャラリー
福田美蘭 「美術ってなに?」展@名古屋美術館
生誕120年 安井仲治YASUI NAKAJI: PHOTOGRAPHS@愛知県美術館
フランク・ロイド・ライト  世界を結ぶ建築@豊田市美術館
漆の彩り・黒と金の幻想 - 高橋節郎@豊田市美術館(髙橋節郎館)
コレクション展 歿後20年 若林奮@豊田市美術館
2023年度 第2期 コレクション展@豊田市美術館
山田寅次郎展@ワタリウム美術館
Japan Mobility Show 2023@東京国際展示場
黒田記念館(特別室開室)
横尾忠則 寒山百得展@東京国立博物館
東京国立博物館の寒山拾得図
デザインフェスタ vol.58@東京ビッグサイト
永遠のローマ展@東京都美術館
上野アーティストプロジェクト2023 いのちをうつす ―菌類、植物、動物、人間@東京都美術館
動物園にて ―東京都コレクションを中心に@東京都美術館
第64回 日本版画会展@東京都美術館
「今こそ、ルーシー!」 ~LUCY IS HERE~@スヌーピーミュージアム
大原美術館
そして船は行く@高知県立美術館へ。
大塚国際美術館
コレクションハイライト@福岡市美術館
芥川龍之介と美の世界 二人の先達─夏目漱石、菅虎雄@久留米市美術館
遠距離現在 Universal / Remote@熊本市現代美術館
第3期コレクション展:宮崎県立美術館
MOTアニュアル2023 シナジー、創造と生成のあいだ@東京都現代美術館
MOTコレクション歩く、赴く、移動する 1923→2020 特集展示 横尾忠則―水のように 生誕100年 サム・フランシス
大巻伸嗣 Interface of Being 真空のゆらぎ@国立新美術館
第4回カルチャー芸術展@国立新美術館
第12回 躍動する現代作家展@国立新美術館
21世紀アートボーダレス展(2023)@国立新美術館
JAGDA国際学生ポスターアワード2023@国立新美術館
第63回全国矯正展@東京国際フォーラム
ゴッホと静物画―伝統と革新へ@SOMPO美術館
ピカレスク・ニュー展 Vol.8@ピカレスク
モネ 連作の情景@上野の森美術館
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doctormaki · 8 months
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随分と御無沙汰であった。前回は、日本への帰路はヘルシンキ経由だったが、なんだか、ぐったり疲れていて、NoaとIsabelとの旅行の後には、何も書いていなかったのか。。。と気付く。
七月中旬に帰国し、八月下旬に帰独。一ヶ月半滞在した日本は、異様に暑く。七月中旬まで、ドイツでもそれなりにバタバタしていたのもあり、帰国して立教や東大に行ったりとバタバタした後は、疲れて倒れていたように思う。山中湖は涼しく過ごしやすかったが、思わず何事にも全力投球して夢中になる私は、甥っ子と彼の犬、礼緒と過ごした後は、AI哲学研究会で東京に出た以外は、また山中湖で倒れてしまう。そして論文を書いた後も、ほぼ機能不全になっていた。母が付き添ってくれていたものの、疲れのせいか、体調不良のせいか、山中湖で倒れていた日々の記憶が断片的だ。
夏の成果は、オニヤンマを甥っ子と作って、石割山登山して、報湖祭の花火を見た事と、甥っ子滞在中に今学期の履修学生達の成績をつけた事。OISTの研究者に誘われた言語についての論文は、なんとか書き上げた事。また、五年目に入ったカスリス先生の日本哲学小史という大著の翻訳に、一応の目処を立てた事かな。そう。ハンブルグでは、日本の聖武天皇、聖徳太子の十七条憲法から鎌倉に至るまでの長い章を、ひたすら訳していた。帰国してからは、道元と西田を終わらせたかった。。。
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言語についての拙論は、詰めが甘いようにも思うが、言語を使って考えるということはどういうことなのか。習慣的思考と言語の関係について、考えてみたかった。言語の限界が世界の限界といったヴィトゲンシュタインを研究した大森荘蔵が展開した、言霊論の重層性に関心を抱き、日本の近代言語学の祖でもありソシュール批判をした時枝誠記、Yale言語学のSapir-Worf仮説などや、現代のAIの祖を築くNorm Chomskyの生成文法を概観しつつ、彼らが言語の何を解き明かそうとしたのかをまとめた。空海の声字実相義やデリダのエクリチュールとパロールの問題にまでは展開できなかった。まぁ今後のネタの一つかな。言語を巡るアンソロジーにはなりそうだ。
先人達の試みを簡単にまとめると、言語を構造的とみたいのか、意味的とみたいのかの両極に別れる。言語の見方の差異を過去の研究者達を追うことで浮き彫りにした。両者のアプローチはスイングしつつ発展しゆく。ChatGPTで解明された事は、言語構造に偏り過ぎてもダメという言語の不思議を改めて確認した作業だったように思う。重層性が言語に内在するものであるならば、思考にも重層性が自ずとあるだろう。言語操作を通した概念操作でしか、人間が新しい発想を具体化できないのであれば、言語の貧弱は思考や発想の貧困化を表す。
どおりで、現代日本社会の言説は陳腐。知識層を自認する者たちは、目立つ奇抜な論を展開し、適当に和製英語を散りばめて煙に巻く事を好み、そして大衆も、そうした陳腐を好む。今年は高校野球は塾高大活躍だったが、彼らへの妬みや誹りもひどいものだ。桐蔭、智弁、日大や早稲田なら良いのに、何故、慶應義塾だと叩くのか。若き血の応援スタイルが無いからって、やっかみも甚だしい。伝統は一日にして作れるものではない。昨今の言論分野を見ても、高校野球を見ても、福沢諭吉の次の言葉を沁み沁み思う。曰く、愚民の上に辛き政治あり。批判ポイントの論点がズレているところで批判されても、相手をするだけ無駄だ。多様性の時代、画一的な価値観の押し付け合いは、ますます無駄になっていくだろう。
上げ足を取られないように、馬鹿な癖に言いがかりをつけてくる相手をひたすら尊重し、口先だけに理解を示す戦法しか無いのが、現代のリベラリズムだ。つまり、永遠に平行線でいきましょうという態度だ。子供に意見を求めて、心の中で子供の意見を馬鹿にしている癖に、子供の意見に理解を示すエセ教育の結果でもある。馬鹿な大人に育ち上がった元子供たちは、自分の吐く意見がどれだけ適切なものか省みる能力が無い大人になっただけ。道理で言論がどんどん陳腐になる。
9月末までに、まだまだ3本ほど論文の締め切りを抱えているが、その内の一本は熊沢蕃山という江戸前期の陽明学者。神道と儒教の融合を体現すべく実践を重んじた儒学者。幕末水戸学は熊沢蕃山から多くのヒントを得ているだろうが、彼らが重視したのは朱子学。陽明学の実践的なものといえば、私のYaleでの恩師Tucker先生がコロンビアで研究していた貝原益軒。いずれ、実践的儒教と、仏教、神道の相互浸透性について、何か考えることができればと思っている。
しかし、今の時代は、蕃山のような混ぜこぜの良いとこ取りを理論体系が無いとして取り上げない。南方熊楠があまり評価されていないのと同じだ。西田と何が違うのか。私には、世俗的権威主義しか感じられない。在野した者は評価に値せず、新井白石や西田みたいに時の権力の傍にいた者が、それだけで評価されているのか。疑問はつきない。つまり、容易な事を難解に言った者は勝という権威主義と、民衆に交じり実践を重んじた者、在野主義は無視されるという、そういう構造なのだと思う。兎に角、他人から尊敬され、立派だと言われたかった人々だけが異様に注目されているだけのようだ。
バカが東大でハダカ踊りしていても、東大だから許される。むしろ東大の癖に凄いと尊敬されたりする。それなのに、日大でハダカ踊りしても、別に誰からも良い意味では注目されず、返って、世間を騒がせたと謝罪させられる。こういう民衆の意識構造とは何か。これこそ、ポランニーの群集心理を再度、再読する必要を感じさせる事態だ。ファシズムを回避するための活発な言説は、返って、新たなファシズムを助長しているというパラドクスなのだから。
。。。とつらつら、ヘルシンキ空港のラウンジで思いを馳せる。ヘルシンキ経由にして良かった。ロンドンは管制塔コンピュータの故障で混乱の極みらしく、多くの客がヘルシンキ経由を利用している。BAとのコードシェア便だから。来月のアイルランド、エディンバラ行きは、都度、ロンドン経由なんだけどなぁ。。。そして、日本も、今は先人達のお陰様でなんとか頑張っているけれど、今から十年も経たない間に、インフラが崩壊していくんだろうな。
若い人々を教えるようになって、六年目。今夏、コロナ前に教えた、顔に見覚えのある学生さんが、社会人になって働いているレストランで偶然再会した。彼女は私にとってはいつまでも二年生。真面目な頑張り屋さんだった学生。バイトなの?って聞いた私も不用意だったが、就職したんですと教えてもらい、大きくなったんだなぁと感慨深かった。彼女は地味で、しっかりと社会を支える小さき市井の人々の代表のような方。
丸山眞男が重視した、市井の小さき人々が、これからますます、踏ん張らされていく。日本の衰退は著しい。一億総中流を実現し、八割型の国民は、現状に満足しきっているのだろう。勉強しなくても、なんとか食っていける。向上心なんて、そんなもん無くったってなんとかなる時代だ。夢を語るだけで尊敬され、夢が無い事を嘆き、夢を追いかけなくても、口先だけで夢を語れば許され、夢がある事を異様に褒める時代だ。つまり、夢なんか抱かない位、満たされている時代という事だ。失われた三十年は、成長していない事ばかりが注目されるが、底上げが浸透し、高卒は当たり前、大卒も普通になった底上げバブル時代の継続でもある。必死に生きる事なんて、命を繋いで生きるなんて事、とっくに忘却されているのだ。そんな時代に、真剣になれ、とか責任をもって、なんて多くの人にとって、白々しくしか聞こえないのだろう。
残念ながら身体が弱い私は、思うように身体を使えない。そして悔し涙ばかりする。身体の弱さ売りをしてサボる怠惰な人々と私の間にあるのは、元気だったらあーしたいこ~したいという気の焦りと苛立ちだけなのだろう。自分が動きたいほどには動けない時、私は苛立つ。苛立たず怠惰にできる人はサボっているんだなぁって思う。でも、他人は他人。私にできるのは、私も私なりに微力ながらに懸命に生きている不器用でブザマな姿を、見せ続ける事だけかもしれない。そこから、私の破天荒さに勇気を貰えたって同僚から言ってもらえたり、先生の授業楽しかったって振り返ってくれる学生がいるから。他者あっての私。お陰様で、ヘルシンキまで辿り着いています。
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turkey-trip · 10 months
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#7 エフェソス遺跡ガイド
こんにちは、カサダニアンです。   夜行バスでギョレメからセルチュクへ移動お疲れ様です。 セルチュクの朝はどうでしょう。 早めのランチでゆっくりした後、今日は忙しい1日です。 頑張っていきましょう。   この記事では、エフェソス遺跡の見どころについて紹介します。
 
〇エフェソス遺跡までの移動
エフェソス遺跡までは歩いて40分ほどかかるので、ミニバスで移動しましょう。
 
ミニバス(ドルムシュ)乗り場を見つけて、エフェソスへ移動しましょう。
  
〇エフェソス遺跡とは
・入場料120トルコリラ
エフェソス(エフェソ)は、トルコにある古代都市です。
現在もその遺跡が良好な保存状態で残されており、2015年にはユネスコ世界遺産に登録されました。
エフェソスでは、世界七不思議のひとつであるアルテミス神殿、聖母マリアの家(遠いので行けないと思う)、世界三大図書館に数えられるセルシウス(ケルスス)図書館など、ヘレニズム時代・ローマ帝国時代・初期キリスト教時代の貴重な遺跡を数多く見ることができます。
ローマ帝国時代には、かの有名なアントニウスとクレオパトラも滞在し、古代ローマ帝国では貿易の要衝となり、初期キリスト教時代の教会会議や公会議が幾度も行われるなど、歴史的にも重要な意義を持つエフェソス遺跡には、世界中から多くの観光客が訪れます。
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〇ギリシャ神話「狩猟・貞潔・月の女神アルテミス」
「エフェソスのアルテミス」として知られるギリシャ神話の女神像は、紀元前7000年、祈りの対象としてチャタルホユック人の手により誕生しました。
女性の豊潤さを極端に強調した形が採られた女神は、長い間、人々の上に君臨することになります。
彼女は全ての母であり、支配者であり、何よりも力強く、アナトリアの隅々からエフェソスを経由して、メソポタミア、エジプト、アラビア、更にはスカンジナビアの地方までに多大な影響を与えました。
何千年もの展開を見た後、女神はエフェソスのアルテミスと呼ばれるようになったわけです。
敬意を表して造られたアルテミスの神殿は、過去から残った最も重要な宝であるとされており、その周辺に位置したエフェソスは、文化的・社会的観点からして、文明発生地として認められていました。
エフェソスに関する情報は、古代の学者の著書や、発掘によって出土された何千もの碑文、その他の考古学的発見物によって得ることが可能ですが、その設立については、まだ充分解明がされていません。
古代の有名な学者ストラボンとパウサニアスは、エフェソスの設立者はアマゾネスで、カリア族とレレグ族が主な民族であったとしています。
【ギリシャ神話についてもっと詳しく】
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〇キリスト教とも深いつながり
エフェソスには早くからキリスト教が入ってきており、聖ヨハネの教会、聖母マリアの家など初期キリスト教の貴重な遺跡も多く見ることができます。
新約聖書には、「エフェソの信徒への手紙」という一書があります。
54年の初夏、「人の手によって作り出された神は、もはや神ではない」と説く聖パウロに対して、銀細工師ディミトリウスに扇動された何千ものエフェソス人達は口々に「エフェソスのアルテミス万歳、偉大なアルテミス万歳」と叫びながら大劇場に押し寄せ始めました。
2時間にも及ぶ民衆の叫びを前にして、白い法衣に身を包み、片手にしゃくを持った聖パウロも、これを鎮圧するには力及ばず、数人の信者の助けによって、命からがらその場を後にするのがやっとであったそうです。
この出来事は、都市の発見者アンドロクロスがこの町にやって来た日、リディア人やペルシア人の最初の侵入、この地を襲った17年、355年、365年、そして368年の地震、さらに431年に開催されたキリスト教審議会などと同様、エフェソスの歴史上の重要事項に新しい1ページを加える結果となったのです。
しかし、空を震わす勢いのアルテミスへの賛歌は、実際、7,000年生き続けたエフェソス人の尊い女神の臨終の一息でもありました。
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〇アルテミス神殿跡
豊穣の女神『アルテミス』を奉った総大理石の神殿は、紀元前7世紀~紀元3世紀頃に実際に存在していました。
高さ19m、直径1.2mの円柱が127本、建築期間は約120年という驚異の神殿。 パルテノン神殿を凌ぐ程の規模だったと言われており、現在は跡地に柱だけ復元されている状態です。
アルテミス神殿は、長い歴史の中で放火も含め何度も破壊と再建を繰り返しました。
最終的にはゴート人の侵略、キリスト教徒により破壊されたままとなりました。
尚、神殿跡の近くにあるエフェス考古学博物館には「エフェソスのアルテミス」という像があります。
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〇 世界七不思議
実は、『アルテミス神殿』は【世界七不思議】のうちの1つとして知られています。
古代ギリシャの数学者で旅行家だったビザンチウムのフィロンが紀元前2世紀に「世界の七つの景観」という本を書きました。
【世界七不思議】とは、その中で紹介した古代の地中海地方に存在していた7つの巨大建造物を指しています。
「驚くべき、称賛すべきもの」を意味しており、「当時の技術では考えられないほど革新的で巨大な建造物7選」というニュアンスのようです。
≪世界七不思議リスト≫
〇ギザの大ピラミッド
 現エジプト・ギザ/現存
〇バビロンの空中庭園
 現イラク・ヒッラ(古代バビロン)/痕跡なし
〇エフェソスのアルテミス神殿
 現トルコ・エフェス/ごくわずか現存
〇オリンピアのゼウス像
 現ギリシャ・オリンピア/痕跡なし
〇ハリカルナッソスのマウソロス霊廟
 現トルコ・ボドルム/ごくわずか現存
〇ロドス島の巨像
 現ギリシャ・ロードス/痕跡なし
〇アレクサンドリアの大灯台
 現エジプト・アレクサンドリア/痕跡なし
 
〇エフェソス遺跡の見どころ
エフェソス遺跡の見どころについて解説していきます。
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〇マグネシア門(上門)
現在のエフェソス遺跡の上の東側入口より400m程外側にあります。
防壁が張り巡らされていたエフェソスには3か所から入ることができました。一つは海からの港、二つ目は北側のスタジアムの横のコレッソス門、そしてもう一が東側のマグネシア門です。
紀元前3世紀頃に造られた凱旋門で、ドーリア式の3.7mの幅で2段、3つのアーチのある作りだったと思われ、門の町側にはほぼ正方形の中庭があったとされています。
紀元前129年からのローマの支配下では戦略的重要性が失われ、真ん中のアーチの両側に小さな二つのアーチが増設されました。
歩行者は小さな門から、騎馬と戦車は大きい中央のアーチを通ったと言います。
ローマ皇帝ヴェスパスィアヌスの治世に門の名は“名誉の門”と改名されました。
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〇 バリウスの浴場
バリウスの浴場は1929年から1979年の間に断続的に発掘が行なわれましたが、未だ完全で事業の終結を見られずにいます。
建物はプナール山の裾野に広がる平地に造られた為、山側の自然に削られて滑らかになった岩肌を壁として使用していたのです。
ほとんど全てのローマ浴場に見られる様にバリウスの浴場もフリジダリウム(冷水浴室)、テピダリウム(ぬるま湯用)、カルダリウム(熱い湯)の施設の他、かなり広めの付属の部屋から構成されています。
壁は大きめのブロック造りで、屋根は煉瓦を用いてアーチ形に設計されています。建物の南手にはトイレも設置されていたようです。
建物はローマ時代の様々な時期、そしてビザンチン時代に修繕と改築が施され、増築も行なわれています。
南に位置するモザイク装飾の見られる5世紀の建物はこれらの例として挙げることができます。
ある碑文によれば、フラビウスとその妻は浴場の広間を建設する為に融資していたとされています。
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〇 公立アゴラ(上アゴラ)
皇帝アウグストゥスにより1世紀初頭に造られたアゴラは、公的な会議や証券取引等が行われたところです。
町の行政の中心地でした。
160×58mの広さで三方を柱のあるギャラリーで囲まれ、西側には無数のモニュメントが並んで立てかけられた切石の壁に囲まれていました。
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〇オデオン/ブーレウテリオン
エフェソスでは、二院制が行われており、その内の上院が議論の場として使っていたのがこのオデオンです。
2世紀にエフェソスの裕福な市民プブリウス・ヴェディウス・アントニウスとその妻のフラヴィア・パイアナの命によって造られたと言います。
当時は木製の屋根付きで舞台がある1400人収容の小さな劇場型の議事堂で、ここで市内の重要な決定ごとや行政に関して話し合われていました。
また、会議だけでなくコンサートなど劇場としても使われていたようです。
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〇プリタネイオン
宗教的な儀式、公式のレセプション、宴会が行われたのがこのプリタネイオンでした。
一番大きな役目は、エフェソスの町の永遠を象徴する神聖な炎がこの儀式部屋の中央で絶えず灯されていたことです。
このため、プリタネイオンはこの都市でアルテミス神殿の次に神聖な場所でした。
現在、床の赤く色づいた場所が炎があった場所です。
この儀式部屋の周りには神々と皇帝たちの像が並べられていたと言い、ここで発見された二体のアルテミス神像はエフェソス博物館に所蔵されています。
隣の建物は、迎賓のために使われていました。
この建物自体は紀元前3世紀のリュシマコスの治世中に建てられましたが、複合施設はアウグストゥス帝の時代に完成しています。
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〇ポリオの泉
公立アゴラの南側下、オデオンの向かい側にあるのが、97年に裕福なエフェソス人C.S.ポリオとその家族により造られた泉です。
市の公共の泉でしたので、無料で水を使用できました。
42㎞の距離のクシャダスのケンケリオス、15㎞の距離のマルナスのチャムルク村の小川、20㎞の距離のカイストロス川(現キュチュック・メンデレス川)、この3つの水源から水道橋を通ってエフェソスのこの泉に水がもたらされていました。
そしてここから土管の排水システムによって水が分配されていました。
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〇ドミティアヌス神殿
トラヤヌスの泉の前にあるのが、エフェソス都市の中で一番大きな建物の一つであるドミティアヌス神殿です。
現在は基礎部分しか残っていませんが、23×34mの6段の下部構造の上に建てられた神殿には8×13本の柱があったと言います。
皇帝ドミティアヌスに奉納する為に89~90年頃造られました。
しかし、彼は暴君だったことで死後に“記憶の破壊”に処されましたので、ドミティアヌス個人ではなく彼の家族フラウィウス家へ捧げられたという経緯があります。
ドミティアヌスの石像は頭部と一本の腕が残っているのみです。
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〇ヘラクレス門(ニケのレリーフ)
クレテス通りの一番上にあるのが、ライオンの毛皮を纏ったヘラクレスのレリーフが印象的な2本の柱が残る門です。
この門により上の行政の地域と下の市民の地域に実質的に分けられていました。
元々は別の場所にあったこの門を4世紀後半に現在の場所に移したとされており、レリー��自体の年代は2世紀の物とされています。
因みに、この狭い門によって車両の交通が妨げられて、4世紀以降この通りは歩行者専用になったようです。
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ヘラクレス門のすぐ上のドミティアヌス広場にある、勝利の女神ニケの飛んでいる姿が彫られた三角形のレリーフは、このヘラクレス門の上部を飾っていたもので、4世紀前半に造られたとみられています。
ちなみに、勝利の女神ニケはあのナイキのロゴの由来となっている女神でもあります。
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〇クレテス通り
エフェソスの三大通りの一つで、エフェソスの町の真ん中をヘラクレス門(上)からケルスス図書館(下)まで突っ切っているメイン通りです。
大きな石畳が伸びていてエフェソス遺跡を一望できる道でもあります。
クレテスはギリシャ神話の神霊ですが、後にエフェソスでクレテスと呼ばれた聖職者にちなんでこの名が付けられたと言います。
大理石と一部石畳で覆われている道の下には、下水路、飲料水路、温暖パイプが巡らされています。
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〇トラヤヌスの泉
クレテス通りに面して建つ2階建てのこの建物は、102~114年にティベリウス・クラウディウス・アリスティオンとその妻によって女神アルテミスと皇帝トラヤヌスに捧げる為に作られた泉です。
エフェソス遺跡の中で最も素晴らしいモニュメントの一つです。
20×10mの泉の3面を9.5mの柱と彫像が並んだ2階建ての外壁が囲み、水が注がれる泉の真ん中には地球を踏んでいるトラヤヌスの足を乗せた台座があります。
ここで見つかった外壁のギリシャ神話の神々や皇帝家族の彫像は現在エフェソス博物館に収蔵されています。
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〇丘の上の邸宅(テラスハウス)
クレテス通りを下っていき左側、ハドリアヌス神殿の向かい側にて坂を利用して幾つかの邸宅が段々に作られています。
3000平方メートルの広さの中に3つのテラスがあり、6軒の家がそれぞれくっついた形で建てられており、一番古い家は紀元前1世紀のもので、これらはローマ人の裕福な家族によって7世紀まで使われていたと考えられています。
この家々の中央には中庭があり、二階建ての家の床には素晴らしいモザイク、壁にはフレスコ画が残っています。
また、お風呂や暖房システムが備わっているなど、当時の裕福な家庭の暮らしを鮮明に見ることができます。
1960年より始まった発掘は現在も続けられており、上部は屋根で覆われ、ちょっとした博物館のようになっております。遺跡とは別料金となりますが、一見の価値はあるので是非見学してみてください。
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〇スコラスティカ浴場
紀元前1世紀に作られ、4世紀に富豪でクリスチャンの女性スコラスティカによって再建された浴場です。
元々は3階建てで、クレテス通りからと脇道からの二つの入口を持ち、1階が入口から順に脱衣所、プールのある冷却部屋、リラックスできる温かい部屋、最後が発達した暖房システムが供えられたホットルームがあり、2階はマッサージやセラピーやスクラブのために使われていたと言います。
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〇ハドリアヌス神殿
皇帝ハドリアヌスに捧げる為に造られた小さな神殿の様な記念碑で、大変状態良く残っています。
コリント式の神殿の入口上部のフリーズには、エフェソス創設の伝説が刻まれています。
ちなみに、この神殿はケルスス図書館と共に、2001年から2009年までトルコのお札の裏に描かれていました。
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〇公衆トイレ
スコラスティカ浴場の一部にあるのが古代の公衆トイレです。
三方の壁に大理石でコの字型に作られたベンチには、一定間隔でいくつも穴が開いており仕切りはありません。
ここに市民は横並びに座って用を足していました。
富裕層の市民は、寒い季節は先に使用人に座らせて大理石の便器を温めさせてから座ったそうです。
下水道も完備されており、汚物は便座の下を通る流水で流されていました。
また、便座の前には水路があって、用を足した後は海綿が先に付いた棒でお尻を洗い、前の水路の水で海綿を洗ったそうです。
ちなみにこの海綿のお尻洗い棒は共有で使われていたようです。
トイレ部屋の地中央にはプール、床にはモザイクが施してあるなど当時はとっても優雅だったことがうかがえます。
ローマ人にとってトイレは用を足しながら語り合う社交場でもあったのです。
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〇ケルスス図書館
エフェソス遺跡の目玉が、106年に死去したエフェソス知事ケルススのために、息子ガイウスが墓碑として作らせた2階建てのケルスス図書館です。
古代世界の三大図書館の一つで、アレクサンドリアとペルガモンに次ぎ3番目に大きな図書館でした。
当時は1万4千冊が収容されていたと言います。
ケルススのお墓は図書館の西壁の下にあり、この図書館で発見されたケルススの銅像は、現在イスタンブール考古学博物館で展示されています。
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〇セラピス神殿
エフェソス遺跡の中で最も変わっているのが、ケルスス図書館の裏にあるセラピス神殿です。
138~192年頃のローマ五賢帝時代の建築装飾が施されている建物の破片があり、発掘の際に発見されたエジプト花崗岩の像と碑文により、この神殿はセラピス信仰者に捧げられた神殿とみられ、そこからセラピス神殿と呼ばれるようになりました。
なお、キリスト教時代には神殿は教会へと変えられています。
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〇エフェソス大劇場(円形劇場)
大理石通りの終わり、パナユル山の斜面を利用して作られているのが、遺跡の中でも最も壮大な大劇場です。
ステージはなんと18メートルの高さで、観客席には2万4千人収容でき、古代アナトリア世界で最大の野外劇場とも言われています。
コンサートや演劇だけでなく、宗教的、政治的、哲学的な討論の場として、また剣闘士と野獣の戦いなどにも使われていました。
リュシマコスの時代に造られたこの大劇場は、皇帝クラウディウスの治世31~42年の間に完成までに70年かかる大規模な増築改修工事が始められました。
ちなみに、あの聖パウロがエフェソスを訪れた際にこの工事が行われてい��と言われ、聖パウロはここで宣教の演説をした際、エフェソス市民の反乱に遭ったため、エフェソスから離れざるをえなくなったと聖書で触れられています。
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【参考ブログ】
 
以上、エフェソス遺跡について簡単ですがまとめました。
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paparun0714 · 2 years
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【東海七福神 with 戸越八幡神社 ラン】⁡ ⁡ご利益ありますように🙏 #東海七福神めぐり #夏詣 ①#大黒天 品川神社 ②#布袋尊 養願寺 ③#寿老人 一心寺 ④#恵比須 荏原神社 ⑤#毘沙門天 品川寺 ⑥#福禄寿 天祖諏訪神社 ⑦#弁財天 磐井神社 with #戸越八幡神社 2022/08/20 #東海七福神 #品川区 #大田区 #ゆるラン #ファンラン #朝ラン #ダイエットラン #がんばラン #GARMIN #paparun の #papawalk #paparunのpapawalk #ウォーキング #ウォーキングダイエット #朝ウォーク #ファンウォーク #散歩 #朝散歩 #七福神 #SEVENLUCKYGODS (荏原神社) https://www.instagram.com/p/Chd7e8RvfTB/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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iseilio-blog · 2 years
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雁 寺
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雁 寺
雁の寺 あらすじ - YouTube
以描繪鳥獸而在京都畫廊享有名聲的 岸本南嶽 死在 丸太町 東洞院
一角為黑色板屏圍著的屋宇後面房間 是在昭和八年的秋天。
年老,加上氣喘的老毛病,如同蚱蜢一般消瘦的 南嶽 晚年可以說是
只靠著意志而存活著。就弟子們口中的說法,死的時候就如同一顆
蟲蛀的朽木,就可以知道生前精力旺盛,玩女人不輸人。在一整個
晝夜的鼾聲中,最後到底咽喉來不及吸氣而死。南嶽享年六十八。 岸本南嶽 死前一日、正確的說,是十月十九日。就剛好夫人的 秀子
不在,衣笠山麓 孤峰庵 的住持 北見慈海 到訪。和尚的頸子繞著白
裐布的護襟,穿著黑袍,大概是在那裡做了法事的回程
「怎麼樣,狀況如何?」
慈海和尚一面向出到玄關,不頂熟的女傭如雷灌頂一般的說著,
不客氣的走了進去。就這個時候,後面站著一個不到十二三歲,
矮小的小沙彌。這個小沙彌也跟了上來。 岸本家,幾代都是 孤峰庵 的護持。
湖北の紅葉めぐり 小堀遠州のゆかりの寺 近江孤蓬庵 - YouTube
也曾經擔任 名譽總代,所以和尚這樣大剌剌的進到裡間,倒也不是
怎麼不可思議。一直就坐在枕頭邊,用棉花水沾著唇的弟子 井南窗
有點不高興。師父氣息疲弱,醫生也不看好。這時,也正好菩提寺的
和尚來訪。大家面無表情的望著 南窗。女傭下到走廊去拿茶菓,無視
於弟子們的臉色, 南窗 走近了枕頭邊,望著 南嶽 的臉、
「怎麼樣,狀況如何 ?」
聲音高亢衝到了不高的天花板,回到了南嶽的耳邊,閉著眼的南嶽
微張著眼 ;
「和尚阿 . . 」
辛苦而斷續的出了聲。
這讓在一旁的弟子們吃了一驚。從一早,南窗 再怎麼叫著師父的
名字,南嶽就是不出聲。而現在南嶽卻乾渴著嘴用沙啞的聲音
說到。
「就想到會來」
「討厭的角色」
和尚低著肩膀望著南嶽的臉,
「我倒沒有想到只有你歡迎我」
說完,望向坐在這十疊大的南窗與三名弟子,不在意的笑著。
笑著,一說完就招來從剛剛就一直站在房緣看著石燈籠的小沙彌。
「喂,慈念」
小沙彌回首望向房間,剃光頭,頭大如鉢,顯得顯眼的孩子。前額
突出,眼睛下陷,臉看起來就窄小。
「過來一下」
慈海招著手。小沙彌靜靜的走了過來。
「叫做 慈念。昨日完成了得度式。庭院也掃得很乾淨。有空要到
寺院來玩。」
這是培育侍者的一種招呼方式。南窗 望著光頭的大頭小沙彌的
側臉。也真是怎的找來了一個陰氣的小和尚了。小沙彌一旦舉行了
得度式之後,這是檀家(施主)的例行工作。 和尚終於從枕邊回頭,走向房緣;這時南嶽仍舊用著那沙啞的聲音
「和尚,還一件事拜託。那是孤峰的女兒。」
一說完,閉上了眼。好像說了不應該說的話,南嶽 開始咳嗽。南窗
走了過來,用棉花沾溼著嘴唇。
「要多保重 !」
只有四、五分鐘的對話。慈海 摸摸小沙彌的頭,離開了岸本的家。 隔天,南嶽一句話也沒有說,一樣用乾渴的嘴沙啞的聲音說話。
喉嚨辛苦的咳嗽,卻又忽然停止呼吸張開著嘴,像是有什麼話
要說。弟子們附耳傾聽,只聽到似乎是說「里 . .」 弟子們望著夫人的 秀子,秀子掩著臉,開始啜泣著。 南嶽在死時託付的 里 . . ,指的就是 桐原里子、南嶽 在上京區
出町 的花店二樓包養的女人。南嶽在 木屋町 小料理店看上,
是晚年的伴侶。弟子們、慈海和尚 都見過,也都知道。年三十二,
是個男人會喜歡、嬌小而可愛的樣子。為什麼 南嶽 會 將 里子
託付給 慈海 ?稍想一下倒也不是沒有道理。
健康時的 岸本南嶽,到過中國、歐洲旅行,而認真的大手筆就是
租來 孤峰庵 做事。似乎喜歡 衣笠山 一帶落葉樹林的寺院。
0091「衣笠山公園」「衣笠城趾」花見散歩 - YouTube
十多年前也曾經整個夏天住在這裡。那時帶來的就是 里子。 「這個涅,是我畫的雁」
帶著 里子,從孤峰庵倉庫的門板,本堂到迴廊,到處都畫著雁,
一路介���著。 紙門上灑著金粉。粗大的松樹,枝葉覆蓋著水池。似針一般的
葉子,一枝枝明晰的畫著,雁群或者停留在枝上,或者拍打著雙翼
要振翅起飛。也有幼雁,張著嘴等待母雁餵食。畫家帶著滿腔熱情,
似乎可以聽見筆觸的聲音一隻一隻仔細的描繪,栩栩如生。
這是南嶽在那一年的兩年前,南嶽就是不去自誇也毫不遜色的傑作。
「我要是死了,這個雁的寺啊,洛西 就多了一個名勝。」
帶著酒氣的南嶽,撫摸著里子的頸子微笑著。
「好像可以聽到啼叫聲吧。」
里子在幽暗的本堂中恍惚的嘟噥著。南嶽一面笑著,一直撫弄著
里子的頸子。
死去的南嶽之所以將里子託付給慈海,是無法忘懷這個夏天的事吧。 其實,慈海三人常一起喝酒。慈海比南嶽年輕十歲,和南嶽一樣有著
精悍的身軀,與里子也很和得來。
「和尚,耳朵的毛也該拔一拔了吧。」
里子微張著醉眼說到,慈海眼裡閃著好色的笑看著兩人。慈海沒有
家室。里子常向南嶽說:
「和尚的眼可怕」
因為知道慈海喜歡自己。
慈海與南嶽喜歡女人、喜歡酒相當一致。南嶽似乎對慈海沒有妻室
感到不滿。孤峰庵的本山寺院對有女人早已是公開的事。倉庫後邊,
在那個寺院都藏著女人,南嶽也曾經說過,要好色的和尚守空房也
沒有道理。慈海痴痴的笑著。
「斷髮即斷根,不就是禪家剃度的旨趣嗎?」 初七那日,桐原里子穿著喪服,白嫩的手腕戴著褐色的瑪瑙數珠,
進入了孤峰庵的山門。陰天,有風。小松茂盛的衣笠山微冒著煙,
疏落的落葉樹葉,赤色的山嶺夾雜著日漸轉紅的楓樹。
孤峰庵山門旁有個上了鎖的小門。里子穿著草履進來。鐵鎖的聲音
打破了寂靜。出來應對的是慈念。如鉢的大頭與眼眶凹陷的小沙彌,
穿著青色線條的合襟服,跪在地板,背後是倉庫為煤煙燻黑的柱子,
看起來不很順眼的大人模樣。里子有點猶豫。
「去告訴和尚我來了」
里子站在踏石上說著
「是」
慈念下到隱寮下方,不久,聽到從迴廊後方疾步而來的腳步聲,
穿著白色合襟的慈海出來了。
「上來 上來」
里子懷念的看著和尚。福泰的里子一如往常的精神,面孔不太記得,
慈海很是高興,讓里子進到書院,那裡有著里子熟悉的屋子。南嶽
已經在這裡辦完喪禮,是個可以看到山水景緻的屋子。
「和尚,好久不見。」
里子沒有去參加南嶽的喪禮,就可以知道在花店二樓聽到了他的死,
也知道日程,卻一個人單獨悼念的原因了。
「有想早點來;和尚,讓我看看他那張畫。」
里子撒驕的多加了一句。
進到本堂,里子望著新的牌位,幾乎要難以呼吸。
【 秀嶽院南燈 一見居士 】
是慈海取的戒名。岸本南嶽現在凝縮成了不到一尺的短冊木板。
里子焚了香。十疊屋子裡邊,南嶽畫在隔板的雁,在白煙裊裊的
霧中,似乎要飛了起來。美麗的雁。里子忽然想到南嶽升天成佛
了嗎。 「來吧,去那邊,給妳很多藥酒。」
里子第一次進到了隱寮的六疊。那是慈海的房間。慈海摸了一下
小沙彌的下顎,向著里子說
「這是慈念,最近才得度。」
慈念彎腰敬了禮,匆匆就走掉了。 「在玄關第一次見到的時候,嚇了一跳,這孩子有點怪 . . . . . 
幾歲 ?」
「十三了」
「嗯, 學校呢 ?」
「大德寺的中學。」
「接你的棒 ?」
慈海只看了一下里子的臉,沒吭聲。站在佛壇下,打開櫃子站著。
有幾瓶酒,拿出了澤鶴。
澤之鶴資料館 | 酒廠 | Sake of Nadagogo (hanshin.co.jp)
「今天開這個。」
說完,慈念出現了。
「去溫熱一些。」
慈念拿著酒就跑開了。不像外表,很勤快的孩子;里子想到。飯
準備好了,拿來了酒瓶、酒杯。里子第一次見到慈念覺得不太習慣,
不過看慣了,覺得頭大了些的這個孩子怪可憐的。
「很勤勞,有這個小沙彌很不錯。」
醉了起來,里子向慈海說到。
有一陣子沒喝了,醉意來得快。夜晚了。常常加入南嶽三人喝到
天亮。
「南嶽有拜託我喔。」
慈海這麼說著的時候,里子看到慈海那明亮的眼
「你來照護就不錯 ;那個人知道我喜歡你。」
慈海坐靠近了些,好像在等待著下一句話。里子沒再說什麼。
靜默似乎反而給了慈海出手的時間。踢開了坐墊,慈海的唇付了
上來,里子瞬間似乎也預期了這一天的到來,沒有抵抗。和尚精悍
的身軀終於插開了衣裾。里子咪著眼,忽然看到門窗外有什麼影子
動了一下,里子嚇了一跳。
好像是慈念,不過又好像什麼也不是。里子意識模糊了起來,身體
被和尚吸了進去。
「可以嗎 ?」
慈海一面喘息問了好幾次。臉貼住塌褟米,散亂的頭髮,里子幾度
瘋狂,終於昇抵了億劫。 就這日的隔天,桐原里子 住進 孤峰庵 的倉庫。 桐原里子 之所以成為孤峰庵的女人有幾個原因。首先是經濟。
南嶽死後,里子必需再找自活的生路。里子從岸本家,一文錢也
沒拿到。夫人也看不出來有那樣的同情心,當然也沒有分手費。
死後才知道,南嶽留下不少欠債。夫人費盡了力,也才留下來
丸太町的房子。里子想要出去工作,年紀過了三十,也只有料理店
的服務生。超過三十,要回到從前一般的辛勞,真的是億劫,也感到
厭倦。回到老巢,也會被老同事笑。
所以孤峰庵對里子來說,絕對不是不好的地方,不但是本山燈派的
特別處所,壇家也很多。成了慈海的妻子的話,就不怕餓肚子,
尤其寺院裡有種柿子、枇杷等果樹。 還有,本堂裡面有南嶽畫的雁。 十年 - 與南嶽一起過日子的里子,似乎對孤峰庵有著與對南嶽
相同的愛戀。現在想起來,畫了雁,卻有對慈海分文未取的南嶽,
是否有在死後交託給慈海呢。如果是這樣,里子也會把這個寺院
當成了最後的家。
慈海不像禪宗和尚一般的面容,稚氣的笑容也是里子喜歡的地方。 「受了南嶽委託,. . . . .」
慈海說著,靠了過來,里子心中混雜著既歡喜與悲傷,膝蓋僵硬
了起來。不過就在身子要鬆軟下來的時候,窗外的那個影子是
什麼呢 ?或許是慈念。大頭的小沙彌從門窗的那邊消失,里子的
醉意醒了。 (清規戒律的寺院裡男女的愛與慾。P . 20/P . 110)
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