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#毎日庭球日
maiteicoach16 · 1 year
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東京ジュニアテニス選手権/5日目 🎾18歳以下単3R 堀 陽菜子(毎日庭球日) 3-6 2-6 立ち上がりのテニスを徹底できなかったのと後半は引いてしまいらしさ出させてもらえず… 関東ジュニアに向けて課題や感じた事に取り組みます。 齋藤 来実(毎日庭球日) 0-6 4-6 1stは何もさせてもらえず… 2ndはなんとか考えながらプレーしましたが、簡単なミスがまだまだある分とりきることができなく敗退。 課題ばかりですがのびしろと信じて一緒に取り組みます。 🎾18歳以下複2R 伊東 杏菜(毎日庭球日) 堀 陽菜子(毎日庭球日) 4-6 1-6 1stシーソーゲームを取られ、2nd立ち上がり一気にゲームを離されてしまい力負け… テニスはじめたばかりの練習試合から、U12.14.16.18.高校テニス部と長く組んできました。いい事も悔しい事もともにしてきました… 今回の敗戦を最後の高体連にいかしてインターハイ勝ち取りに💪💪💪 八角監督に託し、サポートしていきます。 先生今日は忙しい中遠い所ありがとうございました‼️ 金津 咲杏(大成高校) 齋藤 来実 (毎日庭球日) 0-6 5-7 1stはのまれてしまい… 0-6 2ndは二人で工夫しながら1-0 2-1 3-2 4-3 5-4とリードしてましたが最後は5-7 第一局面での差が大きく1st確率が低く、リターンエラーなど🤏 簡単ミスがやはり多く悔しい敗戦になりました。高体連に向けて課題や確認すべき事を部活/クラブで取り組みインターハイに必ず💪 明日はU16複、明後日はU14複です。 夜はゆっきー、お京、ナッツとダブルス練習とサーブを徹底‼️ コツコツが勝つコツ 信じてやり続けます🎾 #毎日庭球日 #ジュニアテニス #princetennis #princebeast100 #princephantom100 #ダブルス #コツコツが勝つコツ #まいてい #毎庭 #シングルス #ダブルス #アンナ #princeo3tour100 #ヒナ #princephantom100 #ナッツ #princebeast100 #先輩今後もよろしく #princeと庭球日 (昭和の森テニスセンター) https://www.instagram.com/p/Cqasui4plxe/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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littlesallywalker · 3 months
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日記
暗闇の中で夜が見える。
目をとじても町の灯がさし君が笑っていた歌をうたう。
毎朝、頭を揉み眼球体操(話せば長い)をしている。
特に動体視力だけはいいそうで何か保持しようかと。
昨日は西荻へ行こうとおもっていたのだけど、
最終的には仕事が入ってしまった雨の時。
いま時期に元気なものはいない模様で、
話すとそこに壁打ちのボールが必要だ。
目のまえコンビニでパンを買う。
どうしてお腹がすくのかなっていう調子で。
ほんのすぐそこだけどごみをかごにつめて出かける女の子。
そして気分でポリ袋だけ買ってぼくもごみ出しチャレンジ。
ない出来事を思う、空想。夢ではぼくは木箱だった。
お辞儀をして同級生をガン!とぶつかった。
いいよいいよ~、気遣われてしまった箱。
地元のロータリーの地下階段の匂い。
寝静まったボールのある校庭。
すこしくじけていて目を閉じる。
ceroが好きなお客さんにルーペをあげた。
ルーペで月をみてみてほしかった。
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kei-life · 1 year
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『東京都某市、厳冬の春』
我家の小さな庭は、沢山ではないですが草花を植え、春夏秋冬を楽しめるようにしています。今年は幾分か芽吹きが早いような…結構寒いのにね。
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1枚目はオキザリス。なので、ある意味順調?毎朝健気に花開き、夕方には閉じる。小さい花だけど元気があって、見ていると楽しくなります。
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すぐそばのシクラメンは、手入れが少し遅れたからか、花芽の伸びがイマイチなんですけど…蕾は沢山見えているんですよね。今後に期待。
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何本か育てている薔薇の内、ピエールドロンサールの育ち具合も順調。一時、急激に気温が上がったり、今日みたいに本格的な冬場になったり気温差が激しく、害虫などの被害を心配しましたが、問題無し。
他、ジュリア・ラレーヌビクトリア・ナエマ・マインミュンヘン・ミステリューズ・ブラスバンド・ヘンリーフォンダ・ブルームーンも、まずまずの成長。
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庭の造り替えで、植替えを余儀なくされていた、不遇のクリスマスローズは、昨年の無開花を乗り越えて、今シーズン一年ぶりの蕾を見せてくれました。紫色と白色の子が居るのですが、どうなる事やら⁈
そして、いま一番の可愛い子。
昨シーズンより突然咲き始め、今年も健気に咲いてくれた、マツユキソウ(スノードロップ)。
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どこからか球根が紛れ込んだのか。たった一歩、スラリと伸びて、俯きながら白い花を広げる様は実に愛らしく、今後何年かで株が増えてくれたら嬉しい花。
毎日眺めて、癒されています。
今宵から各地で大雪の知らせ。10年に一度…とはメディアで騒いでいるけど、数十年前は、年に数回は雪で臨時休校とか、外の水道が凍って使えないなんて事、当たり前でしたけどね(笑) 地域によっても事情は変わりますので、どうぞお気を付け下さい。
植物は素直です。周りの喧騒に左右される事なく、今年も気持ち早目の春を楽しんでいます。
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greenthumgarden · 2 months
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自宅で簡単!無農薬・無肥料で育てるハーブの種類と栽培法①
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無農薬・無肥料栽培の基本
ハーブ栽培の成功は、良質な土作りから始まります。この記事では、健康で香り高いハーブを栽培するための土の準備方法を紹介します。自然な成分を使い、化学肥料に頼らない土作りの秘訣を学びましょう。適切な土壌を整えることで、ハーブの成長を促進し、豊かな香りと栄養を引き出すことができます。このプロセスを通じて、あなたも自然とのつながりを深め、日々の生活に新鮮な味と香りを加えることができるでしょう。
無農薬栽培のメリット
無農薬栽培は、自然の恵みを活かした健康的な野菜を育てる手法です。そのメリットは多岐にわたります。
まず第一に、無農薬栽培は食品安全性を確保します。農薬や化学肥料を使わないことで、食べ物に含まれる化学物質の心配が減ります。特に、小さなお子様や妊娠中の方、体調管理に気を使う方々にとっては安心感が大きいでしょう。
さらに、環境にも優しい方法として注目されています。農薬や化学肥料の使用を抑えることで、土壌や地下水の汚染を軽減し、生態系の保全に貢献します。また、有機物を多く含む土壌で栽培することで、土壌の健康を保ち、生物多様性を促進します。
さらに、無農薬栽培は味と栄養価にも影響を与えます。自然の肥料や有機物を用いた栽培は、野菜の味わいや栄養価を高めます。また、作物が自然のリズムで成長することで、季節ごとの旬の味を存分に楽しむことができます。
無農薬栽培は、食品安全性、環境保護、味と栄養価の向上など、多くのメリットをもたらします。これらの理由から、自然と共存する持続可能な農業の一環として、無農薬栽培が注目されています。
自然な肥料の選び方
自然な肥料を選ぶ際には、いくつかのポイントに注意することが大切です。以下に、自然な肥料を選ぶ際のポイントをご紹介します。
まず第一に、有機肥料を選ぶことが重要です。有機肥料は、化学物質を含まず、天然の有機物から作られています。これにより、作物への安全性や土壌の健康を保つことができます。有機肥料には、堆肥や魚粉、骨粉などがありますが、自分の育てる作物や土壌の状況に合ったものを選ぶことが大切です。
次に、バランスの取れた栄養素が含まれているかを確認しましょう。肥料には窒素、リン、カリウム��どの栄養素が含まれていますが、これらのバランスが良い肥料を選ぶことで、作物の成長や収穫量を最大化することができます。
また、肥料の効果の持続性も重要です。長期間にわたって栄養素を供給し、土壌の健康を保つことができる肥料を選ぶことで、作物の成長を安定させることができます。
最後に、地域や季節に合った肥料を選ぶことも大切です。地域の土壌や気候に適した肥料を選ぶことで、作物の栽培効率を高めることができます。
以上のポイントを踏まえて、自然な肥料を選ぶことで、作物の健康と収穫量を最大化し、持続可能な農業を実践することができます。
土の健康を保つ方法
土の健康は、作物の成長と収穫に直結する重要な要素です。以下に、土の健康を保つための方法を紹介します。
まずは、有機物を追加することが重要です。有機物は土壌に栄養を与え、微生物の活動を促進します。堆肥や腐葉土などの有機物を定期的に追加することで、土壌の健康を維持しましょう。
次に、土壌のpHを調整することも大切です。土壌のpHが適切でないと、栄養素の吸収が阻害される場合があります。pH測定キットを使用して、土壌のpHを測定し、必要に応じて土壌改良を行いましょう。
また、土壌中の微生物を活性化させることも土の健康維持のポイントです。有益な微生物が土壌中で働くことで、栄養素の循環が促進され、作物の栄養摂取が効率化されます。有機肥料や微生物製剤を使用して、土壌中の微生物を活性化させましょう。
さらに、土壌を覆うことも土の健康維持に役立ちます。マルチングや草刈り残しを行うことで、土壌の水分保持能力が向上し、土壌中の有機物が分解されて栄養源となります。
以上の方法を実践することで、土の健康を維持し、豊かな作物を育てることができます。
病害虫の予防と自然な対策
病害虫は、ハーブ栽培において頻繁に発生する問題ですが、化学的な農薬を使用せずに自然な方法で予防・対策することが可能です。
まずは、予防策から始めましょう。健康な植物は病害虫に対する抵抗力が高くなりますので、適切な管理を行いましょう。定期的な健康チェックや適切な間隔での水やり、適切な日当たりなど、植物の健康を維持することが重要です。
また、自然な対策として、生物のバランスを活用する方法があります。例えば、天敵となる生物を利用して、害虫を制御することができます。例えば、ガーデンカニやレースウイングなどの天敵昆虫を利用することで、害虫の発生を抑えることができます。
さらに、自然な防除剤を使用する方法も効果的です。ニームオイルやピレスロイドなど、自然由来の成分を含む防除剤を使用することで、病害虫を効果的に制御することができます。
以上の方法を組み合わせることで、化学的な農薬を使用せずにハーブ栽培を行うことができます。自然な方法で病害虫を予防・対策することで、安全で健康的なハーブを育てることができます。
まとめ
無農薬・無肥料栽培は、健康的で持続可能な生活への第一歩です。この記事を通じて、化学物質に頼らずに豊かな収穫を得る方法を学びました。自然の力を最大限に活用することで、土壌と環境を守りながら、栄養豊富で美味しい野菜やハーブを育てる喜びを実感することができます。この知識を活用し、毎日の食卓を彩る新鮮で健康的な食材を、自分の手で育ててみませんか?自然に優しい栽培法は、あなたと地球の未来にとっても価値ある選択となるでしょう。
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manganjiiji · 3 months
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内省ましまし
ずと楽しみにしていたイベント(す〜ぱ〜コミックシティ)に行くことができなかったが、さもありなん。という感じだった。ここのところ全然、起きて出かけたり、用意をしたり、生活をしたりすることができない。でも冬だし、仕方がないし、できないときはできないものだと思って、自堕落に暮らしている。シティには行って即帰るくらいの気持ちでいたので、まあ行かなくても、というか、私が行かないことで誰も損しないんだから全然行かなくてもよかった、と思えて、よかったな〜となった(日本語崩壊)。もし私が行かなければならない場に私が行けないとなると、落ち込みが激しいが、そうではないので、別に落ち込む必要はないか、と思えた。2ヶ月前くらいから楽しみにしていたが、疲労から立ち直れなかった。物理的に無理なことは無理。私の体には明確な限界があるのだった。
午後の、友人との映画、劇団ドラマティカの「カラ降るワンダフル!」には無事行けた。友人とも久々の再会となりとても嬉しかった。これはあんスタのキャラクター達のなかの演劇部のメンバーを中心として、キャラクターが演劇をするという舞台。カーテンコールでは、役を演じたキャラクター達が出てきて、最後のカーテンコールで、キャラクターを演じた俳優たちがやっとコメントをするというマトリョシカのような構造で、カーテンコールが面白かった。劇中ではコメディだったので恐ろしいほどの数のアドリブ(ミニコント的なもの)が成されており、そのアドリブはキャラクターがやっているていでやらなければおかしいと思うのだが、どう考えても俳優の「地」が出ていて、そこはやはり賛否両論あったらしい。私は劇団ドラマティカおよびあんスタ関係の2.5次元には全く触れたことがなかったし、最近はもう2.5にそこまでの思い入れがないので、役者たちが楽しそうだなあと思って普通に楽しめた。そして2.5でもなんでも、板の上の世界ってやはりいいなあと思った。映画館で見たので、カメラがここを見ろと映してくれ、視点で迷うことなく物語に没入できたのも楽だった。とにかく衣装とウィッグがかなりレベルが高く、金のあるコンテンツってこういうところがめちゃくちゃいいんだよな、と思った。全員顔が良かったし、ウィッグがとにかく良かった。
そんな舞台を見たあと、最近全然動けてなくてまずいという話を友人と最後にし、別れた。帰路、ドラマティカを見て元気を貰ったのもあって、これからは少し頑張れそうだと思った。もしも病気がなく、私の精神が健全で、人間としてもう少しまとも(つまり年相応)だったなら、私も36歳ならばなんらかの管理職か何かに就くか、家庭でなんらかの役割をこなすかしていたかもしれない。子供がいればそろそろ小学生だったり、そういう年齢だ。しかしそうはならなかった。そのような未来および過去は存在せず、どうすることもできない現実の現在だけがある。どうすることもできない。もしもりっぱな36歳だったら、働くことも逃げることもできず虐待の呪縛から解放されないまま苦しんでいる友人の面倒を見るというか、居候くらいさせることができたかもしれない。しかし、そうはならなかった。そもそも、私が病気になっていないのであれば、私は健全な家庭でそれなりに真面目に育ったはずで、そうなると、被虐待者の友人たちと出会わなかった可能性が高い。また、私が彼女達の状況や感情を理解できなかった可能性が高い。それを思うと、私は加害され、病気になり、36でも未だにアルバイトしかできないこの体と、実年齢マイナス10歳くらいの精神しか持ちえないこの状態で、全然良かったと思う。苦しんでいる人の痛みを理解できないままに、ただ自分の幸福だけを追う、ただの勝ち組になる��りは、私は、弱者としてでもいいから、弱者とよばれる人たちの支援のために駆けずり回る人生でよかった。うつ状態や希死念慮がどんなものか、親(養育者)に迫害されるとはどういうことか、トラウマを乗り越えるにはどのような困難があるか、そういったことを十分に想像できるこれらの経験があり、本当によかったと思う。もし恵まれた側に生まれていたら、私の頭の悪さでは、頭の悪い方向にひたすら突っ走って、いわゆる弱者を切り捨てることになんの躊躇ももたない人間になっていたと思う。こんなに(当社比)こころやさしい人間になれたのは、やはり辛酸を舐めたからだと思う。そういう意味では親に感謝したほうがいい。最悪な子育てをどうもありがとう。あなた達がクソみたいな人間だったおかげで、私は人間性を獲得しました。これは本当に、もし良い親に育てられていたら私の人間性はここまで担保されなかったと思うので、よかった。まともな親でも子供がやばい場合は多々あるし、まともじゃない親に育てられたからといって、まともな子供になれるという訳でもない。世の中にはさまざまなパターンがある。私はたまたま親にも生まれにも恵まれて、そこそこまともな思考を持つことができた。自分ではまともだと思っているけれど(全くまともではない自覚を持っていることも含めて)、いやお前は邪悪だよ、と言われてしまったらそれはごめん、という感じだけど、私としては真剣に何が正しいのかということを常に考えているつもりです。私はずっと正しさなんてないと思っていたが、長く生きていくうちに、どうやらほんとうに「正しい」ことはあって、それを実践するのが人生のようだ、ということに気づいた。正しさとは相対的なものではなく、絶対的なものだ。これに関して、ひとつ今でも覚えている例は「産まれたばかりの赤ん坊を、窓から放り投げるのは正しいか」という問いだ。これは正しくない。これは明確に正しくない。どんな状況だったとしても正しくない。もし、この赤ん坊が育ったとしても、結局は口減らしのために殺されるとか、何か壮絶な困難が待ち受けているとしても、成長した赤ん坊が「あの時殺してくれていれば」と思うとしても、やはり、産まれたばかりの赤ん坊を窓から放り投げるのは正しくない。理由はさまざまにあるのだが(考えればわかることなので省略する)、とにかく正しくなくて、我々は、産まれたばかりの赤ん坊を窓から放り投げる人がいる社会を、どうにか生み出さないようにしないといけない。正しさがあるから社会は変わっていく、時代は進んでいく。人間が生きることは正しくて、死ぬことも正しいが、その死が正しくなければ、それは悲しい。おおむねそういう考え方で、人間は社会というものを運営している気がする。
生きることや生まれることは無条件に正しいのか。という当然の問いが生まれる。その問いに関しては、私は正しいと思う。思わざるを得ない。今私は生きているし、生きている期間以外の記憶が無いから比較できず、判断のしようがないため、ともかく生きていることを正しいと考えることが、現時点で不可避である。産まれないことや、死ぬことは今のところ未知なので、正しいのか正しくないのかそちらはわからない。ただ、私は生きているので、私以外の誰かが産まれないことや死んでしまうことにたいして悲しさを感じる。だから、私にとっては今のところ、生きることは正しい。全ての正しさの根本は結局のところ生きることになっている、というか、生きて、悲しくない暮らしをすること、ということになっている。「生きて悲しくない暮らしをすること」だけが、今のところこの世界の人々の多数派の「幸せ」の考え方で、私も多数派に属するのでそう思う。もちろんこの多数派に属さない人もいて、とくにうつ状態というわけでもなく、死ぬほうが自分にとって自然だからという理由で自死する人もいる。そういう人にとっては、産まれたばかりの赤ん坊を窓から放り投げる行為はもしかしたら正しいかもしれない。が、やはり、死ぬことを決めるのは自分であるほうがよいのではないか、と私は思う。そうすると、正しさというのは、自分のことを自分で決められることになるのだろうか。自分が生きるか死ぬか、悲しく暮らすか、悲しくなく暮らすかは、自分で決める。決めて実行する。それが正しさなのかもしれない。正しさ。やはり相対的なものなのだろうか。でも、この時代、この場所での「正しさ」というものはかなりの精度まで絞れると思う。絞ったとしても、例外がある限り相対的ではあるが、人ひとりが生きていくための関わりの中(たとえば、私にとっては、80年間くらいの、地球上の関わり)で共有される正しさというのは、注釈付きで絶対的と言ってもいいのではないかと思われる。
まあともかく正しさがあって、あると仮定して、みんな生きているから、こんなに毎日議論は紛糾しているんだなあということが、いつだか忘れたが唐突にわかった。無抵抗の市民を空爆して殺すことは正しくない。このことを「正しい」と考える人達がいるから実際に攻撃は止まっていないわけだが、私は地球上の全員が「正しくない」と考えることを願う。そして、正しくないことをやめる権利を全員がもつことを願う。人を殺すのは基本的に正しくない。ただ、お互いが殺し合うことを合意していて、フェアな状況であれば、人を殺すのもやむなし、という事もある(戦争)。それでも正しくはないと思うが。人は、たとえ何か不快なこと、人、ものがあっても、その不快を自分の世界に容認して、共存していく力がある。殺さなくても、生きていけるならば、殺さないほうがいい。ここでもまた無根拠な、生きていることが正しいという感覚が出てくる。なぜか。人は死に対して恐怖を抱くことが多いから。死にたくない、と思うことが多いから。死にたくない、と思う相手を殺すことは、相手の意志を無視しているから。となると、死にたい、死ぬことはとくに自分にとって不利益ではないと感じている人(うつ状態や希死念慮、精神疾患によりそう思っている人を除く)を殺すのは、正しいということになる。すくなくとも、正しくないとは言えない。こうやって考えていくと、正しいこと、正しくないことの線引きが明らかになっていく。産まれたばかりの赤ん坊���、生きたいと思っているか生きたくないと思っているか、それがわからないため、窓から放り投げて殺すのは、正しくない。その赤ん坊が明確に「生きたくない。死にたい。」と考えていると分かるならば、窓から放り投げるのは正しいかもしれないが、今のところその意志を確認しようがないため、正しくないとされている。やはり、本人の「意志」が重要なのだ。人が自分の意思で何かをしたいと思った時に、基本的にはそれが成されるのが正しい。ただし、そこで他人の意志を阻害しないのが条件。なぜなら他人もまたその人の意志を達成しようとしていて、それは正しいから。ということで、意志と意志が共存できない時、コンフリクトが起こる。その時に、どちらの意志のほうが正しいのか。「生きたい」と仮に思っている赤ん坊のほうが正しいのか、何らかの理由で赤ん坊を窓から放り投げたいと思っている人の方が正しいのか、私達は考えなければならない。このとき、また繰り返しで申し訳ないが、やはり「生きること」のほうが優先される。ひとりが生きてひとりが死ぬことよりも、2人ともが生きることの方が優先される。それが基本的には正しいとされる。可能性。1人しか生きないより、2人が生きたほうが、可能性が大きくなるから。何の?繁殖の。という、結局動物としての答えも出るには出てしまうが、それでも私は「意志説」を押したい。殺したいという意志よりも、生きたいという意志のほうが尊重される。殺すことは何度もできるが、生きることは一度しかできない(と私たちは感じている)。結局、この世界では人間はこの生きている間のことしかわからないから、生きることをとりあえず正しいこととして暮らしている。産まれる前や、死後のことも含む世界では、正しさのあり方もまた違うだろう。
2024.1.28
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honnakagawa · 3 months
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1月25日(木)open 12-18
お日さまが出て、街の若いみんながお散歩がてら中川にわいわいとやって来てくれました。
携帯やコートに #freepalestine のメッセージを携えて。
ちょうど先ほど〈東京都がミサイル攻撃に備え「地下シェルター」〉というニュースを目にし、気持ちが重く沈んでいたところでした。
『暮しの手帖 28号』が発売となり、改めて花森安治の「武器をすてよう」という文章を読み返してもいました。
中川にもいつも並んでいる『一戔五厘の旗』の中にも掲載されている文章です。
一番最初に掲載されたのは、1968年10月に発行された『暮しの手帖』第1世紀97号。
56年も前から、花森さんは呼びかけている。
「地球上の、すべての国、すべての民族、すべての人間が一人残らず亡びてしまうまで、ついに武器を捨てることができないなんて。
ぼくたち、この人間とは、そんなにまで愚かなものだとはおもえない。
ぼくは、人間を信じている。
ぼくは、人間に絶望しない。
(中略)
武器を捨てよう。」
国内外のニュースに心が切り裂かれるような日々。
私は人間に絶望してしまいそうになることが、多々ありますが...
みんながこのままで良いと思っているわけがないのに、どうして世界は変わらないのだろう。
生きることが当たり前の世界、困っているときにすぐに躊躇なく手を差し伸べてくれる政治、それは特別なことでしょうか。
命は必ず平等に終わりがやってきます。
私たちはどう暮らしたいのか、考えながら生きる、選択する、ということが、必要ではないかと思います。
それは毎日の暮らしの中のひとつひとつも。
贅沢するな、とかそんな話ではありません。
街の若いみんなが当たり前のように、そんな話をして、そしていろんな行動をしている姿を見て、とても勇気と元気をもらったのです。
今日来てくれてありがとう。
今日発売の『暮しの手帖』28号には、またまた僭越ながら一冊の本をおすすめさせていただいております。
表紙は今井麗さんの作品「FLOWERS」。
庭作りに関心を持って、と書かれていて、この花たちを見ていたら私も花を飾りたくなって、庭から蝋梅を少し切ってきました。
4枚目の動画は、最近姿を見せなくなった庭のねずみくん。
小さな庭にも、入れ替わりがどうしても生まれます。
庭の生き物たちを思いながら、選んだ本のことを書きました。
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kennak · 4 months
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こう話始めるのは変な感じだけど、つい最近まで歯医者に行けなかった。 特に学生の頃は、自分の意思で歯医者に通えなかった。今でもある程度そうだけど、あの頃は生活の細かい問題を先延ばしにする癖��あった。 当時は電話をするのも怖かったし、前もって予定を決めて予約をするのもできなかったから、本当に歯が痛くて困ったときなどは予約なしで行ける歯医者に行っていた。ホームページもなく、寡黙な男性歯科医が自宅を兼ねた歯科医院でワンオペで治療をしているようなところだった。 耐えられない問題はなんとか治療してもらい、ギリギリ耐えられる問題は無視して先送りにした。 先延ばしにする癖だけでなくて、歯科治療に恐怖心があったことも歯医者に行けない理由だった。意識的なレベルでも無意識的なレベルでも歯医者への恐怖の存在が大きかった。 もっと子供の頃 もっと子供の頃、親に車で連れていかれた歯医者で、あまり麻酔が効かず、前歯から脳の天井まで突き抜けるような痛みを何度か感じたことをトラウマのように今でも覚えている。 当時の僕にとっては、得体のしれない理由で得体のしれない攻撃をされるようなイメージだった。 「痛かったら手をあげて言ってね」と言われて実際手を上げたら「もうちょっと我慢して!」と言われることに人生の不条理さえ感じていたと思う。 当然実際はそんなことないし、歯医者は良いことだってわかっているけれど、当時の僕の主観からはそういう風に見えていた。 僕はまだ幼すぎたし、客観的な分析を細かい生活に適用できるような段階には至ってなかった。 5年以上経った そして、青春時代・学生時代のような期間は風のように通り過ぎて、5年以上経った。5年どころではないかもしれない。最近は年を数えるのも怖い。 住む場所は京都から東京に移ったが、僕はまだこの歯医者の問題を先延ばしにしていた。 大きな問題が現れたのは、昨年2022年。普段のように在宅勤務していたある日、前歯の裏側と舌が触れ合う感覚に違和感を気づいた。なにかが石のようなものが詰まっているか欠けているかといった感覚で、いくら歯みがきしても糸ようじを通しても違和感はとれなかった。 ついに長らく先送りにしていた問題に取り組む時が来てしまった、と思った。僕は歯医者に行かなければならない。人生にはそういう時があるようだった。 問題解決モード そういうわけで、歯医者に行かなければいけなくなったが、僕には恐怖心と先延ばしの2つの課題があった。 歯医者に1度行くだけなら意思の力でなんとかなることもあるが持続的でないから、この際できれば継続的に通えるようにしたかった。 つまり、やるべきことは2つだった。 恐怖心を消す 先延ばしと闘う 恐怖心を消す 恐怖心というのは完全に主観の中にしか存在しないものだ。外の世界で恐怖心を探しても地球のどこにも見つからない。 だから、感情のゲームとして恐怖心を攻略することを考えた。歯医者への恐怖心がラスボスで、うまく攻撃を加えてHPゲージを削っていくゲームのようなイメージ。恐怖心は消えることはないかもしれないけど、HPゲージを削って弱らせることはできるかもしれない。 そのなかでうまくいった方法は3つくらいあった。 客観視する 歯科治療を僕という患者の主観を通して見ているから、恐怖が生まれてくるわけで治療行為を客観で捉え直すと恐怖はそもそも存在しなくなるのではないか? そう思って、歯科治療は一体なんなのか、治療中に歯医者はなにをしているのか、歯の根の奥にグリグリ押し込んでくる物体は一体なんなのか、というのを知ることにした。 こういう思考方法は、僕のようなエンジニアというかオタクにとっては得意なものだ。物事はまず、自分の得意な方法で進めてみる。 小学生が教わるような歯に関しての基礎的な情報収集から始めた。 Google で検索で得られる情報はジャンクが多いので、まず一般書を読んだ。その次に、比較的信頼できそうなウェブの情報ソースをいくつか読んだ。 歯科医のセールストークが含まれていることもあるので、その辺は割り引いて読んで、なにか特定の本を信じないようにした。 一般書だとこういう基本的なことから書いている本を読んだ。 歯医者が教える 歯のQ&A大全 | 小谷航 | 家庭医学・健康 | Kindleストア | Amazon 厚生労働省がウェブに出している情報も参考になった。 www.e-healthnet.mhlw.go.jp 情報収集をしていると、だんだんとエンジニアの仕事との共通点が見えてきて、歯科医に近い目線で自分の歯を見れるようになってきた。基本的にやるべきことをやるしかないから、やるべきことをやるという視点からすると恐怖は現れない。 怖くなさそうな歯医者を選ぶ 情報収集をするだけでなくて、実際の行動をしないと問題は解決しない。 物事を進めるには、星の数ほどある歯科医院のなかから1つ選んで行かないいけない。 あくまで目的は恐怖心を和らげることだった。 まず、Google Maps でネガティブなレビューが多いところは避けた。レビューは信頼できるとかどうとかというわけでなく、単にネガティブなレビューがあることが僕の不安を増幅するからだった。 過去に行っていた歯医者が歯科助手に当たりが強く、叱っているのを見るのが嫌で、通院ができなくなってしまったことがあった。できるだけ通えなくなる要因を潰したいという理由もある。 2つめに、設備と機械で選ぶ。ある程度新しい設備が導入されている歯科医院を選んだ。人間は誤る生き物だから信頼できないが、機械は信頼できる。歯科医がどれだけ疲れていても、適切な機械の支援があれば誤りのリスクは減らせる。機械が揃っているのを見ると不安も若干和らいだ。 3つめに、大切だと思ったのは選びすぎないということ。僕のようなタイプの人間は、最適でベストな選択肢を選ぶために情報収集に時間を使いすぎる傾向がある。その上、ベストな選択肢が見つからないと、選択することを放棄してしまう。 何もしないよりも、ほどほどの選択肢を選んだほうが遥かに良い。選びすぎることを避けるために、情報収集をする時間にタイマーである程度制限をかけたりして、その時間が過ぎたら決定をするように心がけている。 音楽を聴く 僕にとってのブレイクスルーは、治療中に Airpods で音楽を聴けることだった。この発見は人類にとってのアメリカ大陸の発見にも相当するといっていいと思う。 過去に歯医者に行っていたときは、ワイヤレスで小さいイヤホンがあまり普及していなかったから、気持ち的に装着しにくい感じがあった。 治療中にドリルの轟音に対抗するために爆音で強めのヒップホップを聴いたり、Podcast を聴けるようになってずいぶん気持ちが楽になった。 今では、仕事の気分転換として Podcast を聴きに歯医者に行くか、という気持ちになっていて、歯医者に通うモチベーションにもなっている。 先延ばしと闘う 恐怖心については色々書いたけど、先延ばしについてはやったことは基本的に1つで、徹底的にTODO管理をする、ということだった。 全体の問題をできる限り小さく分けて、それを1つ1つTODOアプリに登録しておく。 たとえば、今回だと、歯科治療の情報収集する、歯医者を選ぶ、歯医者を予約する、という風になる。 タスクを先延ばしにしていることに気づいたら、タスクをさらに小さく分割して、やる気が最小でも実行できるようにする。 今日できることは今日する、というマインドをよく利用している。過去に予約などに失敗していたときには「明日する」というアルゴリズムで動いていて、その結果永遠に予約できないことがあった。 東京の歯医者はネット予約に対応しているところが多いので、電話がとにかく苦手な僕にとっては予約はかなりしやすく、今日できる予約を今日するを実践しやすかった。 言葉の空中戦 これである程度の問題には戦えるようになっていたけど、すべての恐怖心・先延ばし・その他の感情が消え去ったわけではない。 いくら客観的に問題をフレーミングしても、主観と恐怖はやってくる。 こうなってくると、主観の問題だ、感情のゲームだ、と思って、頭のなかで言葉で闘うしかない。 脳内での言葉の空中戦が行われているイメージに近い。歯医者に行きたくない気持ちに言葉の銃弾を撃ちまくるイメージを持っていた。 たとえば「たぶん痛いから歯医者に行きたくない」という気持ちが出てくると、”No pain, No gain” という言葉を自分に投げかけて闘ったりしていた。こういうときにパンチラインを引用して、自分の気持ちと闘えるので、ヒップホップを聴いていて良かったと思う。 「健康はレバレッジが効く」という言葉も有効だった。呪文かなにかのお経のように、健康はレバレッジが効く…健康はレバレッジが効く…と唱えていた。なぜなら健康はレバレッジが効くからだ。 最終的に「恐怖に打ち勝つためには恐怖の中に入り込むしかない」と自分に言い聞かして、歯医者に向かった。ブルース・ウェインは、コウモリの巣に入り、恐怖であったコウモリに向き合うことによって恐怖に打ち勝ち、恐怖それ自体と同化してバットマンになった。それとは全然次元の違う話ではあるけど、こういうことを頭のなかで考えていると気は和らぐ。あくまで主観と感情のゲームだからだ。 その後 普通の人は何も思うことなく普通に歯医者に通えるんだろうけど、僕の場合はこのように精神力や仕事で培ったスキルをフル活用してなんとか歯医者に通えるようになった。 歯医者にしばらく毎週通い、一通り問題をなおしてもらった。はじめ歯医者に行ったときは、前歯の裏が欠けてるだけだと思っていたが、全然そんなことはなくて、色々な問題を思い出したり見つけてもらったりした。奥歯の歯茎が腫れて耐えられないほど痛くなってたりしていたこともあったのだけど、その問題も自分では忘れていた。 今では、歯のクリーニングに3,4ヶ月に1回、定期的に通うようになった。保険適用1回3000円で虫歯のチェックをしてくれて、ついでに歯がツルツルになる。3割負担でこんな良いサービスが受けられるのは制度がバグっているとさえ思う。健康はレバレッジが効くから、ふるさと納税なんかの比ではない。 最近では、差し歯を交換したいと思って、自分の意思で新しい歯医者に通えている。円安だから米国株式と比べて相対的に日本の医療が安いのではと思って、株式ではなく健康に投資しようと思っている。なぜなら健康はレバレッジが効くからだ。 僕はこうやって歯医者に行けるようになった。普通の人にできることができない誰かの参考になると嬉しい。
歯医者に行けるようになった - 運河
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tokyomariegold · 4 months
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2023/9/29〜
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9月29日 朝の通勤で、隣の席の方が、明日からの大阪旅行の時刻を調べてメモしているのをぼーっと眺めていた。朝6時台の電車で玉川上水(!)から東京駅まで出て、そこから新幹線で新大阪へ。目的地は芦屋だった。
いま私が計画している大阪旅行の目的地と同じだったり、わりと実家近くの駅から出発する旅行に、少し親近感。
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今日は午前中出勤するけれど、大好きな服を着て、つらくなること(現場に出たりすること)はしないぞ!デスクワークだけする心意気で出勤すると、廊下から水が流れる音がしていて、?と給湯コーナーを見るとポットに水を溜めるために水栓が開けっぱなしになっていた。 もうすっかりポットから水が溢れて時間が経っていた様で、床が海。 でも今日の私はとても吸水作業ができる仕様ではなかったので、水を止めて、近くを通りかかった上司たちを引き止める様にして、みなさんに雑巾やモップで片づけをさせてしまった。 人力でこの海を処理するのは難しいのでは…と思っていたけれど、みなさんが雑巾で水を吸っては絞るのを繰り返してくれて、あっという間に片付いた。 私はあわあわと見ているだけだった。
午前中だけの業務時間だと、いつもの3倍速のスピード感で仕事をしようとしてしまう。
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午後のチャイムが鳴って走って退勤して、上野へ向かった。 国立科学博物館の企画展“海”を鑑賞。 一期下の方がいただいた招待チケットに便乗させてもらって、海にまつわる展示を見てきた。 平日だけれどひとがとてもおおかった。 子供より大人が多くて、展示の内容も、宇宙から縄文遺跡まで海というか地球と宇宙にまつわるあらゆることが網羅されている展示で色んなことを知れて賢くなった気分。
前回、恐竜展に一緒に行った友人が科博の出口で「鯨好きなんだよね〜」と言っていたのを思い出して撮った展示の鯨の標本(本物って書いてあったから剥製?)の写真を後で送りたい。
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展示を見ながら、そこから思い出されたエピソードをしたり、油壺マリンパークに行ったことがあった話や冬に広島と下関に行く話を聞かせてもらった。 下関はかつて毎年言っていた場所なのでなぜか嬉しくなってしまった。
展示を観て、かっぱ橋方面まで歩いて、いつも帰り一緒にお話ししているけれど、それでも今日もお付き合いしてもらえて嬉しいし助かってしまう。
来週までが締め切りの個人調書に異動希望を示そうかどうか悩んでいる。
今日は中秋の名月。月みてね。
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9月30日 昨日は月がずっと雲に隠れていた気がする。 六本木と表参道へ遊びに出て、帰る電車に乗る時はまだ外が明るかったのにずっと地下鉄を走る電車に乗っていて、地上に出たら真っ暗でしばらくまだ地下なのかと思っていた。
今日も暑かったけれど、日がどんどん短くなって秋になっている。
ネイルをとってもらい、また新しく施してもらってしまった。一回やってもらうと嬉しいけれど、生活の不都合の方が優ってしまったり、一週間くらいで飽きてしまったりするので、帰りの電車でオフだけの予約をした。
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六本木のギャラリーは13時オープンで、着いた時はまだ閉まっていて入り口の扉の前に宅配便が置き配されていた。 残念だな〜と、表参道まで歩く途中、昔好きだった人がとつめていると言っていた出版社の建物の前を通って、そういえば乃木坂で勤めていて青山霊園とか散歩するのが良いです、みたいなことを言っていた。
さらに少し歩いたら、カメヤマキャンドルのお店を見つけ、ふらっと入ってみる。 インターネット見たことがあるワンカップ大関やココアシガレットの面白キャンドルの実物を見て、思わずあずきバーキャンドルを買ってしまった。 あとパチパチ音が鳴るキャンドルも買えた! ネイリストさんに、帰り際にあずきバーキャンドルを見せたら失笑されてしまい少し戸惑っていた気もしたので「なんか最後にごめんなさい」と気づいたら誤っていた。
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友人と待ち合わせして岡本太郎記念館へ。 先週鎌倉で「岡本太郎好きですか?」と誘ってもらっていた。(私はその時、片岡八幡宮や鎌倉の古美術店を眺めながらその質問を聞いていたので、勝手に片岡鶴太郎に変換していた。)
岡本太郎のアトリエ兼住宅を美術館にした建物。 食虫植物や南国系の草が生えるお庭に、所狭しと作品がざわざわと展示されていておどろおどろしかった。 太陽の塔の中はかなり良いらしい。マンスーンさんも楽しいって言ってたね。
最近の写真の活動の報告をしながら表参道をふらふらしていたら、先日写真展にも来てくださった先輩とぱったりすれ違う。カメラ好きでとてもおしゃれ(世の中のおしゃれ軸では計れない感じ)。 今日はF値のTシャツを着ていた。
先週カメラのファインダーがとてつもなく汚い(私の手ではどうにもできない範囲)ことを指摘されたこと、忘れていたけれど、今日も改めて友人から言われてちゃんとショックになり、そうだカメラを買おうかなと思っている。
良いフィルムカメラを探す、というタスク(?)に少しわくわくする。
ありがたいことに1冊写真集を買ってくださった方がいたので、梱包材や納品書の準備をしなくては!で、少し忙しい気持ち(写真がガビガビでごめんなさい!)。
現像したかったフィルムを持ってくるのを忘れてしまったので、明日は、何としてでも、現像出したい。気をつけたい。
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patsatshit · 6 months
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今年の前半は暇さえあれば劇場へ行っていたのに今全然行けていない!デヴィッド・フィンチャーの”The Killer”はおろか、スコ爺の新作もまだ観れていない。”The Killer”は配信になる前に観に行きたいけど…!そうこうしているうちに『インファナル・アフェア』もパトリシア・ハイスミスの映画も終わってしまう!12月はアキ・カウリスマキの新作『枯れ葉』が公開されるし、年が明けたらビクトル・エリセの最新作が…!意識的な無関心の時期がきてるけど、タイミング合わせて劇場に行きたいな。今こういう時代だからこそカウリスマキの”人間愛”に触れたい。
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↑右は試写に行った友人から送られてきた画像。カウリスマキの映画に救われている人は沢山いるのだから、まだまだ引退せずにいてほしい…!
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今年は南方熊楠、串田孫一を知れたことで充分に幸せ。南方熊楠って全然知らなかったけど、知れば知るほど面白い人物だ。彼の研究、民俗学に特化せず言語学(ラテン語を独学?どうしたらできるの?)、精神学や人文学など多岐に渡りすぎていて、生きているうちに彼の脳内を理解しきれるのか不安になってくる。大学へ行かずに独学でオイはいく!っていう地の地でいく姿勢に密かなアナーキー精神を感じて惹かれてしまう。(ちょっと厨二病っぽいところが面白い)ここで彼の型破りな名言を紹介。
「肩書きがなくては己れが何なのかもわからんような阿呆共の仲間になることはない」
学歴や肩書きはない。組織にも所属せず師もなく独学で生涯在野で生きてきた熊楠さん。偉大な功績を残しながら、当時はかなり風変わりな人物だった模様。
「学問は活物(いきもの)で書籍は糟粕(酒のしぼりカス)だ」
蔵書家でありながら、不要と判断した本はキチンと返却していたらしい。
「権威に媚び明らかな間違いを不問にしてまで阿諛追従(あゆついしょう。相手に気に入られようと媚びへつらうこと)する者など日本には居ない」
ロンドン滞在中、ある大学の事務総長に腹を立て一言ピシャリ。
どうでしょう、魅力しかない人物だと思いませんか。来年は和歌山県にある熊楠の研究の場であり長く暮らした母屋を訪れたい。
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今は串田孫一にはまっている。人と自然のつながりが明瞭なわかりやすい表現、飾らない言葉たちで綴られている。ある部分でめざしたい文章、文体。この静寂な世界…静かな朝に読むのが至高。今は『雲の憩う丘』を読んでいる。27の随想、少しずつ味わいたい。
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そのほか先ほどの南方熊楠を始め『ノモレ』『パパラギ』など、今年は民俗に関する本を読んできた。文化人類学にはずっと興味と憧れをもっていて、大学では映画学と同じくらい学んでみたいと思っていた。もっと広い世界がみたいという漠然とした思い、日本とは違う世界の人たちの暮らしを体感したいという気持ちはいまだにずっと心にある。文明社会から遠く離れた人々の暮らしは至ってシンプル。こういった人類の衣食住に触れると決まって、モノに溢れ返った自分たちの生活が馬鹿らしく思えてくる。10年後はもっと情報化社会が進んでいるだろうし、自分の手を使って生み出したり足で稼ぐ機会がどんどんなくなっていきそう。そうなれば人間はどんどんダメになるだろうし、そこに自分は存在していられるかとても不安。人との連帯だけで何とか乗り切っていきたいけれど。指先だけで答えが分かる世の中でも、熊楠の「知の妖怪」精神で生き抜きたい。などと思う。
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今はもっと世界の、日本の往年の作家たちを知りたいという気持ちが強い。情報過多な現代に惑わされないよう、一度立ち止まって自分を見つめ直す時間を大切にしたい。
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↑今年のWBC。Jimmy Fallonみたいな人が映っていて、まさか⁈と思って調べたらやっぱりジミーだったみたい!(右側にいる頭抱えた水色シャツの人。)
今年は縁あって野球をたくさん観ている。WBCで人並みに大谷フィーバーがきたし、周りに野球ファンが増えたこともあり、初めてちゃんとプロ野球を見始めた。今は日本シリーズという、日本一を決める試��を一生懸命みている。ほんとはカードを持っている山本由伸選手がいるオリックスを応援したいのだけど、今は阪神タイガースを全力応援している。(ルールは勉強中!)
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私の家族は元々野球ファン。父は世間でいうまぁまぁなレベルの虎党だ。小さい頃ユニフォームとメガホンを持ちオリーブ色のパルサーに乗って、甲子園によく連れていってもらった。私が覚えているのはタイガースファンに対する恐怖心。地鳴りみたいな大歓声、メガホンをバンバン叩いて騒いで叫んで…圧がもうね、すごいやん、おーん。て感じ。甲子園は高校時代に行事で出て以来、一回も行っていない。今年は突然父の体調が悪くなり、実家に頻繁に帰るようになった。今まで滅多に戻らなかったので、兄と「これからはできるだけ家族と過ごそう」と決めた。はからずも家族と向き合う年となり、全員が少し照れながらできるだけ毎週末を大切に過ごしている。嬉しさと少し変な感じ。高校から各々が別々の暮らしを送っていた。家訓かわからないけど、早いうちから家を出て自活するのが当たり前だと思っていた。だけど今は顔を見せることが一番の親孝行なのかも、と思ったりする。
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エニウェイ今は阪神タイガースが優勝できるように応援している。(いっぱい勝ってる気がするけど一体何回勝てばいいんだ)今日は山本由伸さんが出てるので複雑な心境だった。してやられたり…。毎日勝つのは難しい。勝ち負けの世界で戦う人たちはみんな輝いてるなぁ。
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今日は朝から実家へ直行。しばしダラダラした後リニューアルオープンした神戸のタワレコに行った。前は店舗数が少なかったのでひと店舗が占める割合が大きかったのだけど、今回は店舗数が増えたためタワレコもリニューアルとはいえかなり縮小されていた。取り寄せていたアナ・フランゴ・エレトリコの新作とRachael&Vilrayのアルバムを購入。
↑アナ・フランゴ・エレトリコの新作情報。
↑細野(晴臣)さんがラジオでおすすめしていたRachael&Vilray。毎夜聴いてます。
家に帰り、バーベキューの準備。今日は庭でバーベキューみたいなことをしながら野球をみて過ごした。すいちゃん(義姉)の手伝い2割おしゃべり8割。野球は負けたけどいい一日だったー。
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以上、雑多な日記でした。みなさん良い週末を〜。
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junikki · 10 months
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最近白泉堂のマンガparkというアプリで「ぼくの地球を守って」を読んでる。なんかセーラームーンの元ネタになったとか聞いて前から気になってて。最初はふーん…て感じで全くハマってなかったんだけども、マンガparkでは1日に10話ぐらいまとめて読めるから、世界観にハマった。これは確かに前世を信じる戦士症候群とか生まれるわ。
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主人公のありすが植物と会話できるの羨ましいなあとか思う。マンションのベランダにたくさんの植物植えてるのも羨ましい…まあ私はあんま園芸には興味ないんだけどもね。実際憧れてこういう庭園を作ったとしても、花の世話とか多分面倒で普通に枯らせてしまうと思う。
あと前髪パッツンの中性的な錦織一成ていう子も好き。なんか最近はこういう髪型もリバイバルして多いけど、私が子供の頃に流行って憧れてたイケメンの髪型て感じで良い。よっぽど顔が良くて雰囲気のある似合う人じゃないとあかん髪型だと思うけど。
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なんかマンガの影響で毛先ぱっつんにしたくて毛先自分で切り揃えてみた。結構真っ直ぐになったと思う。切れ毛があるから定期的に自分で毛先揃えてるけど、しっかり揃えると気持ちいいね。美容院でやってもらうべきなんやろうけど、とりあえず自力でそれなりに真っ直ぐにできてよかった。毛先に���リーチ3回ぐらいしてるところはほぼ無くなったかも。胸下ぐらいの長さが乳首隠れるくらいになった。今年は日本の美容院でちゃんとカラーするつもりやからこれでしばらく放置しとこ。
アラフォーのおばちゃんになってから初見で読んでるから、90年代前半頃の世紀末感を懐かしく思い出したり、もはや歴史としてかなり冷静に分析しながら読めるけど、世間知らずの子供の頃これ読んでたらめちゃくちゃ感化されてたと思う。
https://ja.wikipedia.org/wiki/戦士症候群
これ読むと当時の雰囲気が垣間見れて面白い。目覚めた戦士の募集が何気にアイデア豊富。ほんまネットのなかった時代の厨二病はレベルが違うわ。現代の厨二病はそれなりに現実的というか、ちょっと大袈裟で痛い人程度で済んでて、世の中そういうこともありえるんだろうな、程度。ていうか、こんな症候群あるの自体わりと最近知ったんだよな。不思議。幼少期大好きだったセーラームーンもある意味転生ものだし、ごっこ遊びとかしてたけども、なんかこれはこれ、って感じだった。当時レイアースとかも流行ってて、どれもそれなりにハマってたから、どちらかというとマンガの登場人物みたいになりたいというより、こんなかわいい絵を描けるようになりたい!という気持ちが強かったかも。
まあ実際、戦士とか姫なんてかなりハードモードやと思う。ドイツで知り合ったロシア人の男友達(当時18歳)が兵役2回も行かされて、ロシアが大嫌いで、ロシア人であることも恥じるほどだったんよなあ。兵役でそんだけハードやから、やっぱ実際の戦士って大変。大怪我したり、死ぬのなんて当たり前の世界やし。セーラームーンとか子供の頃うさぎには泣いてないでしっかりしろよとか思ってたけど、そりゃ中学生の女の子が時間関係なく突然戦いに行かなきゃいけないなんて、泣きたくもなるわ。自分が中学の時なんてそんな心配もなく、何の力もない一般人の同級生にちょっと虐められただけでめちゃくちゃ悩んでた訳だから、今考えるとめちゃくちゃ気楽なモンやわ。セーラームーンの敵とか絵だから美化されてるけども実際見た目だけでトラウマになる化け物だらけやし、なんの害もない身体障害者を見ただけでビビってしまっていたような中学時代の私にはとても無理。
あと姫は一見イージーモードだと思うだろうけど、眞子さまとかあんなに嫌がってて今もう一般人でNYに住んでるのにあんなに写真撮られて追いかけ回されて、そりゃ一生お金には困らんやろうけど、目立ちたくなくても目立って現地の日本人に色々言われてしまうし、そこらの芸能人以上にプライベート皆無で生まれてから死ぬまでなんかやらかしたら全部報道されて、ってめちゃくちゃ大変やと思う。それならそこそこ金持ちの家で生まれてプライベート充実した人生の方がよっぽどイージーモードだわ。オタサーの姫とかもバカにされがちだけどほんとそのくらいの規模の姫が一番幸せだわ。
あとコメント欄では玉蘭が嫌われてて、紫苑に人気があるんだけども、紫苑レベルのハードモードな人生の読者がどのくらいいることやら。脱北者とか、日本に難民として亡命してきて毎日差別されてる外国人レベルじゃないと釣り合わないような。こんなマンガを読んでその世界観に浸れる余裕のある人はどちらかといえば恵まれている玉蘭側の人間ばかりなんだと思う。
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今日はデトロイト川沿いの公園でカーニバルやってた。ロバートの幼馴染のブルーノはこのカーニバルに毎年行ってるらしい。ブルーノはロバートと同じく長年独身で30代になっても40代になってもこういう子供向けのカーニバルを満喫するような人間だったらしい。ロバートによるとブルーノには子供時代がろくになかったとか。親がイタリア系移民で児童労働が悪いことだという認識はなく、スポーツして遊ぶとかめちゃくちゃ嫌がったらしい。なので子供時代は常に畑仕事の手伝い。児童労働といえば「ロミオの青い空」のイメージ。あれもイタリアが舞台だったよな。でも時代は児童労働が問題視され義務教育が始まる以前の1800年代だったと思われる。半世紀前のイタリア人にまだその価値観が残っていたのが何気に衝撃的。
移動遊園地という感じだろうけども、日本の夜店に雰囲気が似ている。景品に国の個性が出ていて面白い。ポケモンのプリンだけが何故か大量に置かれている。ピカチュウじゃないんや…とか思うけど。あとバスケのユニフォームが景品というのもスポーツ好きな人の多いカナダらしいチョイス。日本だと遊園地といえばユニバかディズニーで大人も楽しめるって感じだけども、移動遊園地は流石に大人になるとそんなに楽しめるもんでもない。簡単に解体できるから安全性が怖いし、子供が行きたい言っても危ないからと反対するかも。
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ritsukoimai · 1 year
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毎年この時期はこうなんだけどさ。 コロナ禍だった頃はこんな慌ただしさでさえ恋しく思ったもんだけどさ。 それにしても、丸一日休みって日が数週間ないだけで、こんなにも疲れが取れない。 とにかく忙しく目まぐるしい。
時間があったらもっと寝たい。 7時間じゃ足りない。9時間くらい毎日寝たい。 画面を見ると重い瞼が痙攣しはじめるので、SNSからも、こんなふうに文を綴ることからも当然遠ざかる。 ネットに流れるよく知りもしない人たちの情報いらないって瞼が言ってるみたい。 もっと山羊たちと庭を駆け回りたい。 山羊たちはたんぽぽの花が大好き。食べても食べても、翌日にはまた一面たんぽぽの花が咲いている。 そして糞は土壌の栄養になる。 なんて、なんて、地球の自然のサイクルに組み込まれた生き物なんだろうと、毎回感動すら覚える。(ほっといたら木々の新芽も食べちゃうのでそれは必死で阻止しているけど) その生き方を見せてもらえるだけでありがたくて愛おしくて、毎日の地味で埃だらけの世話だってなんだってできる。 庭の植物の成長も、もっともっと眺めていたい。 冬のあいだ土の下でじっと眠っていた彼らの、待ってました!っていう声が聞こえるよう。 聴きたいラジオ番組も毎日たくさんある。 こればかりは仕事中にしか集中して聞けないので、ラジオを聞くために仕事も頑張れる。 ラジオに慣れてしまうと、他のメディアがいかにコントロールされて作られているかがしみじみわかってくる。 一人一人の、あなたの、私の、本音ってどこにある? 本当の気持ちや意見や考えを、さまざまなしがらみによって覆い隠されて、大きな力の管理下で作られたもののハリボテ感。 画面の中の笑顔で唄わされる美しい人たち、本当にその商品いいと思ってる? 花粉や気圧やホルモンにぶんぶん振り回されるし、それでもおよそ穏やかに、けれど高速駆け足で日々は過ぎていく。 忙しい時ほど、頭の中ではさまざまな問題意識や疑問が言語化されていく。 書き出すとキリがない。 大昔にどこかで見た、年配陶芸家の社会や政治への長文愚痴ブログと何が違うのかわからなくなりそう。 だからといって言葉を繰り出すのを恐れていても、何にも、これっぽちも変わらない。 それに日々に忙殺されて何が問題か見えなくなることや、問題を見て見ぬ振りするのは嫌。 そんなこと言ったってしょうがないじゃん、って一般市民の無力さを言い訳に諦めてスカしてるのももっと嫌。 で結局、自分にできる範囲でできることをコツコツやるしかないってところに何度も戻ってくるんだけど。 こんなことを繰り返しながらも、もがいて、行動して、少しでも自分が納得できる生き方を模索していくしかないのかもしれないけど。 人間以外の生き物の潔さが羨ましくなってしまうけど、それでも人間に生まれたことは何かの奇跡だと思って、頑張って生きていきますよ。ちくしょう。
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maiteicoach16 · 1 year
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10年お世話になった純心テニス部の教え子たちが送別会💐をしてくれました。 松本先生をはじめ保護者の皆様、選手のみんな本当にありがとうございました🎾 先生も今年度末で勇退🏫 みんなに愛されてる先生/指導者でした。 ジュニアたち含めていろいろアドバイスいただき感謝しています。先生との10年間でコーチ/指導者としていい経験となりました。 今後もご指導よろしくお願いいたします🤲 #送別会 #純心テニス部 #部活 #文武両道 #松本先生 #外部コーチ #テニスコーチ #教え子 #感謝 #ありがとう #幹事学年ありがとう #毎日庭球日 #10年 #素敵な出会い #princeと庭球日 (東京純心女子中学校・高等学校) https://www.instagram.com/p/CqRN2vVSfAP/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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littlesallywalker · 11 months
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日記2
雨。まぼろしの公園で居眠りをした。
A遠がわたしたちの庭に入る夢をみた。そんなところ。
今日の用事はあとひとつ、これが、不安で不安で。裁きの時間。
スマホ故障の彼是でlineのやりとりみんな消えてよかったです。
ぼくはそれでよかったのだとおもう。
あの人の住所もわからなくなった、
今日から。いいのだこれで今はもう。
なにもかもを売っぱらいたくなるぜ。
Instagramに写真がすごくいいなと思う方がひとりいる。
どの人もみんなみんなそれぞれみなさんいいのは勿論だけど。
プロにむかって生意気にもっていうのでなくきっと一般の方で、
ある時話しかけてくれてぼんやり話していたらその人もまた、
「あなたを見てはじめました」って君みたい。君かとおもた。
「弟子にしてください」の別の方とか...
あまいお世辞たちよ、おだや🦀。。
前略遠くの歩道橋の天使魚座さま
集合住宅に一緒でいやなら向かいに住んでいーい?
窓と窓で話して。めぞん一刻感っていうかロマンティック。
はしごを渡したりぶどう食べたり糸電話したりたのし荘です。
やってトライ見たいです。おまけに二人羽織してみる?こわい。
ナイフが苦手ならハサミの術もありますよ。大丈夫。
これだけはともかく妄想ではないです。
本当にだめなら飼ってもらおかな。
でもきっと大丈夫ですよ君は。
東京のころOLさんとのアパートの夏は毎時セックス。
ちょっとなんていうか...野球部のごとし地獄でした。
誰かやかんで水もってきてください...くらい。
すっごいえろい人でぼくまだ18歳ですよ、
それでいてなんにも知らないのをいいことに、
(※ここからは有料版でお楽しみいただけます)
セックスあまり得意じゃないかもという癖?があります。
いわゆる多分コンプレックスなんでしょうね、何かが。
上手じゃないんじゃないかとすっごい考えてしまったり。
最近「お人柄ですよ」ってよく言われる度ごと内蔵の部位に、
どことなく両性具有のお祈りを見すかれてしまっているのかもと。
行為と話が破綻していますが、なんか、ありがたいことです(?)。
...まだおやつの時間ですよね、わたしは何を言っていますか?
人生で何回か突然のプロポーズをうけたうち2回、
「あなたの子どもがほしい」でおっかなくなりました。
今週あんまり不安定で大人用おしゃぶりを買いました。
ぼくは口淋しいみたい、たばこにまつわることすべても。
パイポよりか落ち着くのではないかって。これもヘンな話。
ちなみに今夜のじゃがたまねぎにんじん鶏を炊いたものは、
炊飯器でも作れるよ。ショウガと塩コショー(あらびき)で充分。
おしゃぶりしながら、ナンですが...。
外は雨がつよまってきた。宅配物を持ってきてくれるおねいさん、
腕章どうにしたらいいですかねと訊いたら別の腕章もってきてくれ、
試しに装着いい感じ。腕白いたくましいってわかってる気にしてる。
今日した会話、レスポンスみんなそれだけっぽいです。~fin~
あ、Twitterでモスめ師匠とお菓子のお話したんだ。
警視庁の腕章ですあしたから、グッバイ職務質問。
真新しいペンでお手紙をって。
今、というかあれからずっとメルカリで売れたレシート集めていて、
貼り合わせて展の入り口の暖簾にしようかなって謎幻想。
野球場横の市営プール、今年はひらくかな。
チャリでいこかなって。そばに温泉まであるんです。
かあさんビスケット買ってたお店はなくなった、淋し。
でもクリーニング屋さんは駄菓子屋さんも兼業されていて、
夢だった子たちとガチャガチャする性悪猫の毎日でした。
もうすぐごはんですよ、でておいで。さようなら。
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はじめお店でジャケ買いのものでした。これも学生。
スーパーの脇のレコード市へ行くのがたのしみだった。
こんなことがしたかった音でした。このファーストがいちばん好き。
キスしてください白鳥さん。
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yachch · 1 year
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新刊『光や風にさえ』試読
プロローグ アサイラムにて
 おぼえているかしら、ねえさん、裏庭にあったブランコのこと。古びたユーカリの木の枝からぶら下がっていた。嵐の晩にどこかへ飛ばされてしまって、どんなに探してもみつからずに、枯れ葉の下で朽ちて、土に還っていった。  妹の声がよみがえってきたのは、シャワールームにいるときのこと、わたしはバスタブに寄りかかってシャワーの水があたたまるのを待っていた。給湯器の調子が悪くて、適温になるまで何分もかかったから。わたしは両足を開いて床に座り、陰部にできたしこりをいじっている。クリトリスを挟むようにできたしこりは痛みこそないけれど、時間をかけ、ゆっくり成長している。  妹とは夕方に十五分くらいビデオ通話で話した。電話代だってばかにならないのに、水曜日になるとかならずかかってくる��儀式めいたもの。でも、このところの彼女は、どうにも歯切れが悪く、あたりさわりのない話題ばかり選んでいるようだ。衛星がぐるぐる回るように、迂遠な語りばかり重ねている。だからふたりの会話はいつも迷走して、着地点を見失って終わる。頻繁に話しているわりには印象に残りづらい、無意味な語りかけは、けれどもトゲのようにわたしの胸に刺さった。  かつて家族で暮らした一軒家には、たしかにユーカリの木があった。赤土にどっしり根を張り、枝という枝からボロ布のようにウスネオイデスをぶらさげていた。けれども、その枝にブランコをぶらさげたことは一度もなかったと記憶している。妹と一緒に暮らす両親すらおぼえていないと言うのなら、もうたしかめようのないことだ。火の不始末で、わたしたちの生家は祖母ごと燃えてなくなってしまったことだし。  でも、たしかめようがないからこそ、おぼえているかしら、と妹は語りかけてきたのかもしれない。記憶という本来わかちがたいものを共有したいと思い、願ったから。不幸にもその記憶はだれにも受けとめられず、宙に浮いてしまった。蓋然性を失し、空想の、あたかも物語であるかのような語りに変質していった。ただ生きているだけの、とるにたらない人間の記憶の正誤など、いちいち検証してはいられない。記憶を共有する誰かが、たしからしいと証明しないかぎりは。だから、記憶を共有できないというのは、物語と区別がつかなくなることに近しいのではないか、とわたしは思う。  眩暈が波のように押し寄せてくる。貧血からくるそれを床に伏せてじっとやり過ごす。気を取り直して、シャワーが適温になったことを手のひらでたしかめた。  バスタブに入り、半身に湯水を浴びて、肉体の痛みがどこか遠い場所に去ってくれることを期待する。湯気にかすむ天井をぼんやりながめていると、ふと、半年くらい前におなじ体験をしたのだ、ということに思い至った。あのときの彼女も、わたしに対してこのように語りかけた。Tal vez te acuerdes(おぼえているかしら)、と。耳朶に直接吹きつけられたかのように、息づかいや吐息の熱とともに、なまなましくよみがえるその声。  泡沫のように予期せず浮かび上がってきた記憶が、異なる記憶と共鳴し合い、痛みからの逃避を求めるわたしをその渦に飲みこんでいく。  ――きっかけはロドリゴだった。半年ほど前だったか、彼から電話がかかってきて、たまたまそれを受けた。テニュア審査に落ちた彼が市内の別の大学に転籍するのと、わたしが自分の研究室を閉めたのはほぼ同時期で、以来、一年半にわたって彼からの連絡を無視していた。だからわたし電話口に出ると、彼はとてもびっくりした。  彼は興奮ぎみに近況を話し、非常勤講師としてなんとか食いつないでいると言った。わたしはすでに大学を退職していたけれど、自分からは話さなかった。用件はこうだ――調査に同行してくれる日本語通訳者をさがしている。  たしかにわたしは日系三世で、日系移民の帰国事業を見越して親も桂(ケイ)なんていう日本的な名前をつけ、日本語の教育を受けさせた。でも、第一言語は彼とおなじスペイン語で、妹ほど流暢にはしゃべれない。正直にそう話すと、いいから、とロドリゴは言った。実は、日系移民の女性に会いに行くんだ。貴重な一世さ。スペイン語が通じなかったとき、ちょっと手助けしてくれるだけでも――本音をいうと、きみに会えるかもしれない、ってのがうれしくてたまらないんだ。ロドリゴの声は弾んで、涙まじりだった。すこし前だったら、不愉快になっていたかもしれない。あなたが想像したり、ときに期待したりするほど、あっというまに死ぬわけじゃないんだと嫌味を言っていたかもしれない。でも、電話に出る気になったのと同じ理由で、わたしは柄にもなく浮かれていた。病気が寛解し、経過観察になったから。血流に放たれたエクソソームが臓器を耕し、いずれはまた悪いものの芽を生やすとしても、たとえいっときでも心身をどろどろにする化学療法から離れられた。  ロドリゴは以前とかわらず、『トラタミエント』と呼ばれる処置を受けた臓器提供者たちの追跡調査を続けていると話した。くだんの日系移民の女性もそのひとりだった。長く非合法の臓器提供者として生計を立て、その最後の段階として、いまは心臓の提供先を探しているという。わたしの祖母と世代が近く、長く市内のアサイラムで暮らしているとの話で、どこかで祖母とかかわりがあったかも、と考えたことをおぼえている。昔からここに住んでいる日系人はめずらしかったので。  約束をとりつけて、数日後には彼女のもとに足を運んだ。彼女の暮らすアサイラムまでは、最寄りのバス停からけっこう距離があって、何度も階段路地をのぼったりおりたりするはめになった。歩きながら、ロドリゴは飼っているデグーの話をした。わたしは適当に相づちを打ちながら、どうしてこのあたりはこんなに臭いんだろうと考えていた。アサイラムは移民街のなかほどに位置していたが、腐った歯のようにバラックが密集して、有機物の発酵しゆく臭いが充満していた。  さんざ迷った末に目的地に到着し、受付にいたアサイラムのスタッフに彼女の所在をたずねると、あのひとならいつも中庭よ、と言われた。日陰で根を生やして、じっとしているはずよ。案内された中庭は狭く、きたならしかった。年老いた女性が地面を転がりながら煤けた肌をかきむしっていた。なにをそんなに恐れているのか、ずっと声を震わせながら怒鳴っている男性もいた。でも、大抵のひとは、死んだように目を閉じて、その場でじっとしていた。コントロールしやすいように毎日多量の鎮静剤を与えて、市街からかき集めてきた浮浪者や精神異常者を押しこめているから。公的給付金を得るためだけに運営される福祉施設のひとつ。  狭い中庭をロドリゴは歩き、すぐひとりの女性に目をつけた。大柄な彼の影にすっぽり収まってしまうくらい小柄な女性で、膝を抱えて座りながら、じっと地面の一点をみつめていた。  ――なにをみているんですか?  地面に膝をつき、ロドリゴが問いかけるが、女性はひび割れたタイルを凝視するだけで答えない。まばたきをしないので、眼球がすっかり乾いて、充血していた。目許には脂(やに)が溜まって複雑な地層をなしていたことをおぼえている。  ロドリゴがしばらく無意味な呼びかけを続けていると、屋内からスタッフが出てきて、備えつけのホースで水をまきはじめた。ロドリゴがさっと立ち上がる。彼女の隣には排水溝があって、地面の傾斜に従って水がそこに流れていった――でも、彼女はくるぶしまで水に浸かっても平然としていた。みじろぎひとつせず、修行僧のようにじっと座り続けている。  事前に渡された診断書には、彼女が多数の臓器を喪失している事実とともに、認知能力が極端に低下していることが記載されていた。くずれゆく脳では記憶が更新されず、判断力と遂行力も消失する。外界からの刺激に鈍くなっていた。  スタッフがおもむろに歩み寄ってくる。水の通りが悪くなったのか、排水溝に引っかかるものをつかんで放る。  放り投げられたものは、偶然、彼女の目先に落ちた。  すると、はだしの指の先が、ぴくりと動いた。  彼女はまぶしそうに片目をすがめると、ささやくようにこう言った。  ――あれは蘭。アングロアの根。  何年ぶりかに話したかのように、声はかすれている。  ロドリゴはかすかに身じろぎし、前のめりになると自然と傾聴の姿勢をとった。彼女はスペイン語を話しはしたがひどくなまっていたので、正確に聴き取るためには用心深く耳を澄まさねばならなかった。  ――もともとは寒いところの花……だから、低地で育てると夏越えができなかった。毎年そうだった。  それだけ言うと、また押し黙ってしまう。  ――蘭を育てたことがあるのですね。私の実家の裏庭にも、原種の蘭がたくさん咲いていましたよ。  彼女の目線の先にあるものは、たしかに植物の根のようにもみえた。腐ってカビが密集し、もとが何だったのかは判別がつかなかったけれど。  ――私の家の庭には、アロエやベゴニアがあって……それから。  意外にもしっかり会話がつながったことにおどろいていると、彼女はゆっくり顔を上げ、相手と目を合わそうとすることさえ試みた。  でも、視線の先にいたのは話しかけたロドリゴではなく、どうしてかわたしった――彼女は表情らしき表情を浮かべていた。不自然に顔をしかめるだけだったが、驚愕ともとれた。  ――おぼえているかしら?  口の端にほほ笑みをにじませ、彼女は語りかけた。分かちがたく、不可侵の記憶の一片を、わたしが受けってくれることを願いながら。  ――わたしの庭に蘭があったこと、おぼえているかしら、アングロアの、赤ん坊の花。  あとになってわたしは思う。もしかしたら、あの瞬間、彼女はみずからをとりまいていた深い暗闇をぬけだして、くずれゆく自己をほんの一片でもつかみとったのかもしれないと。  この不可解なできごとを前に、ひとつ思い出すものがある。  いつかSNSで拡散されていた、ある動画のこと。再生をはじめると、どこかの高級な養老院とおぼしき明るいホールが映る。そこでは老人たちが談笑しており、カメラのレンズはそのなかのひとり、車椅子に座った老女に近づいていく。赤子のように無垢な目で虚空を眺めていた老女は、ホールに音楽が鳴り出すやいなや、不自由な上半身を繰って、何とも生き生きと踊りはじめる。見間違いようもなく、アルゼンチン・タンゴのふりつけで。タンゴは足さばきに目がいきがちだが、軸が置かれるのは上半身だ。上半身の動きがあってこそ、複雑なステップが生まれる。だからこそ老女が上半身をよじり、そらすだけで、タンゴという共通言語をもつ者の目には自然と優雅な足どりが浮かぶ――動画の最後には、老女がかつて一世を風靡したアルゼンチン・タンゴのスターであり、現在は深刻な認知症で自分の名前すら思い出せない旨が記される。奇跡の数分間。でも、そのうつくしい再現はけっして奇跡の賜物ではないことをわたしは知っている。単に彼女が長い時間をかけて軟骨をすり減らしながら、必死にタンゴのリズムを身体に記憶させたという証左でしかない。身体記憶は、自我や認知とは異なる場所に保管されるものだから。ゆえに自分の名前を忘れても、タンゴは忘れないという不可解な状況も成立する。  だから、彼女はあの腐った根をみて、土をいじる感触、花と緑葉の香りを想起したんじゃないだろうかとわたしは想像する。身体記憶をきっかけに、ほどかけかた自己が偶然にも結び直されて、泥河に沈んでいた物語に光が当てられたのではないかと。  そうでなければ、説明できないとも思う。  ――だいじょうぶ、ちゃんとやるわ、私。あなたのためなら、心臓をあげたってかまわない。約束したものね。  ――約束って?  ロドリゴの質問に、彼女は穏やかに話した。  ――仏さまに近づけるって、あなたが言ったんじゃない、マヤ。  ――マヤって?  ――私の娘。そうでしょう?  わたしはとっさにかぶりを振る。  すると彼女は語りはじめた。  真偽不明で信憑性に欠けた、一編の長い物語について。
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ari0921 · 2 years
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「宮崎正弘の国際情勢解題」 
令和四年(2022)8月26日(金曜日)
     通巻第7440号  
 崖っぷちに立つ現状は中国の小学生でも気がついている
  両親は毎日家でぶらぶらしている。僕は予備校へ行かなくても良くなった
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 武漢肺炎から足掛け三年、世界のサプライチェーンは円滑に機能しなくなり、海外ツアーは沙汰止み、『地球の歩き方』は身売りして『ムー大陸』などヴァーチャルな世界旅行へ埋没し、テレビの旅番組は何年か前のフィルムを流している。
日本からすれば、あの行儀の悪い国々からのツアーがこなくなって、ゴミも減り、静かになった良かった、と潜在的に思っている人が意外に多いようだ。
 8月21日、中国の人民銀行は利下げを発表した。
プライムレートを0・05%下げて、3・65%に、住宅ローンは0・15下げて4・3%とした。優遇金利がそれなら市中金利は2~3%は高く、ヤミ金はその二倍以上だろう。
しかし資金需要は前年比でじつに30%の激減。第二四半期のGDPはほぼゼロ、欧米の経済シンクタンクは「中国のGDPは、事実上『マイナス成長』だろう」とコメントしている。
 習近平の表情から輝きが失われたのは2019年からだ。GDP成長率は公式発表でも鈍化が明瞭だが、コロナ禍拡大に平行したサプライチェーンの損傷、機能低下は著しく、はてはGDPの30%を支えた不動産バブルの瓦解。住宅ローンの支払いボイコット、そして各地の銀行では取り付け騒ぎだ。
 8月24日、中国当局は6兆円規模の景気対策を発表し、さらに電力供給寸断に追い込まれた発電企業向けに4兆円の起債を許可した。また干ばつで不振の農家にも2000億円の支援策を追加で発表した。
 重慶などの計画停電の無期延期はサプライチェーンの悪化、頓挫を招き、ホンダ、マツダなどは『中国抜きのサプライチェーン構築』を模索する。
 ホンダはちなみに世界生産414万台のうち中国で162万台(日本では63万台)、じつに生産の40%もホンダは中国に依存しているのである。
 第二十期中国共産党大会を前に、習近平は「2035年までにGDPを二倍に、2060年までに脱炭素を達成」などと豪語してきたが、同じ台詞を繰り返せるのか?
 街から活気が失われたのはコロナの所為だと嘯いてきた。ところが、建設中のビル工事は中断し、クレーン動かず、労働者がいないことは、明らかにコロナが原因ではない。不況に陥って、これから奈落の底へおちる。その崖っぷちに立っていることくらい、小学生でも気がついている。テレワークと称して自宅で両親は毎日家でぶらぶらしている。
 
 大学を出ても就職口がない。家庭教師に予備校が閉鎖され、「僕は学習塾へ行かなくても良くなった」と喜んでいる子供も、次第に何か異常な空気を感じている。
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iconomiccc · 2 years
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深々と燃えるような身のうちの炎と、絶好調について。
正確な日時を調べると、私が初めてtumblrでリブログしたのは2011年10月21日のようです。という事は、今月21日がきたら私がこのブログを開始してから11年がたったということになりますね。 この11年間ほぼ毎日欠かさず更新を続けていますが、今が一番楽しくて、tumblrにおける「創作」、「私の美意識の発露」ということを意識してリブログをしています。 tumblrの1日の投稿数の上限は200件です。私は調子が良いと1日の間に200��以上の素敵なpostをあっという間に見つけてくるので、すぐに上限いっぱいになってしまって、制限が解除される時間まで待たなくてはならなくなります。 この夏精神科の閉鎖病棟というとんでもないところに一ヶ月半入院していましたが、退院して仕事にも復帰して、市の担当の支援員さんや精神科の主治医や会社の上司や家族や親友、私の大切な人たちに私がつくづく語ることは、「今回、あの病院に入院して良かった」「とても辛くもあったけど、かけがえのない貴重な体験を通して、得るものがたくさんあった」ということです。 実際、今、私は、あそこで流れていた時間や過ごした時を、出会った人たちを愛おしく思い出し、「まるで竜宮城のようであったなあ」と懐かしさと切なさで胸をいっぱいにしているのです。 これはうつ病を発症して会社を辞めなくてはならなくなり、社会復帰するためにリワーク(精神障害者就労支援施設)に通っていた時にも似たような感覚を覚えたのですが、 「精神病の人たちが集まっているところ」なんて聞くと、「社会的弱者」、あるいは「近づくのも恐ろしい、何をするかわからないやばい人たち」の巣窟のように感じてさける人も多いのでしょう。 でも、私は自分が精神障害者という当事者であるからだと思いますが、 「そこ」へ入って行って、性別も年齢も経歴も色々な人たちと会話を交わし関わると、病気の原因になっている心の深い部分の傷は、私もみんなも「同じだ」、と感じ、普通に生きていると互いに曝け出す機会はそうそうないであろうその傷から生まれる弱い部分を見せ合って、互いを許し、認め、共感しあうことによって、何か「人間の一番美しい部分」に触れることができたような気がするのです。 病棟で私の隣の部屋に、私より先に入院していたおそらく40代後半の女性の患者さんがいました。 彼女はのび太くんを女の人にしたみたいな容貌で、やせっぽちでいつも膝下のズボンを履いて度のきつい眼鏡をかけていました。不安障害があり、ほんの少し目の不調があれば泣きながら「眼科の先生にいますぐ診てもらいたい」と看護師さんに訴えたり、「夜中に自室に看護師さんがきて勝手にロッカーの鍵を開けられて荷物を漁られている」と涙ながらに他の患者に相談したりするような方でした。 その方が、私が投薬の時間にとあることがきっかけでひどいうつ状態になり、ホールの椅子に体育座りして動けなくなっていた時に、そばにきて一生懸命、一時間も慰めてくれたのです。 ほんの小さなことで、健常な人から見れば異常なほどに落ち込み、傷つき、不安になってしまい、泣いたり食事がとれなくなったり体調を崩してしまったり、最悪な場合は命を絶ってしまうような病気。 同じ症状を持つものとして、「その気持ちわかるよ」「大丈夫」と、言葉を尽くして一生懸命私の肩をさすりながら慰めてくれた彼女のことが、お世辞ではなく女神か天使のように思えました。 確かに、閉鎖病棟なので「やばい状態」になっている人もいます。(だから入院しているんだしね) 廊下を一人でぶつぶつ何かと交信しながら話して歩いている人もいれば、暴れて物を壊してしまったり、部屋のドアを何時間も「助けて、ここから出して!!」と叫んで叩いている人もいました。 確かに「異常な状態」であり、怖いんだけど、そういう人たちも「病気で」そうなっているわけで、先生に診断してもらって処方箋のお薬が合えばまるで見違えるように良くなって、普通ににこやかに挨拶をして、会話を交わしたりできるようになるんです。 私としては自分が精神病の疑いがあることから目をそらして病院に行かず、治療を受けてない健常者の方がよっぽど危険なやばい人、だと思います。 私が退院してきて親友に電話でこのことを伝えた時、彼女は「芸術家というものはそのほとんどが、精神的に健常の域を超えて辛い思いをしたり、生きづらさに困窮することがある。それでもその経験を糧に彼らが作り出す「芸術」は、健常者のわたしたちに見たこともないような鮮やかな世界を見せてくれて、救いを与えてくれる。絶対に必要な人たちだよ。 いこちゃんも、そうだと思っているよ。」と言ってくれました。 そして、「元気が戻ってきたらまた創って。詩でも、絵でも、ビーズのアクセサリーでも、なんでも。私はいこちゃんのセンスが好きで、創り出すものが好きで、楽しみなんだ。だからまた、創って、見せてほしい」と言われました。 その時、 私は、私の生きている証というか、存在意義というか、弱っていた私の命の炎に、焚き付けの薪をドバッとくべてもらった気分になったのです。 彼女は大学の同級生で、もう二十年以上の付き合いがあります。私が自然を愛しながら何かを創りながら生きてきたその生き方を、愛し、尊重し、一緒に歩いてくれた人でもあります。 ありがたいことにこのtumblrでも私の創る世界を愛してくれるフォロワーの方が何人かいらして、熱いメッセージをいただくことがあります。 そんな時、今までは謙遜することが多かったのですが、今の私は自分の中の「創りたい」という炎に怯えることなく、真っ直ぐに見つめ、「そうか、燃えたいのか、では燃やそう、」と肯定し、楽しく創ることができているように思います。 何も考えずに歩いて行った先で、自分のアンテナに引っかかった美しいpostを200件精査して、アーカイブに並んだ時の形や色味の調和を見ながらリブログする。 まるで一枚の永遠に続く綺麗な布を、拾ってきた貝殻や露や花びらや骨で飾って織るような行為。 ちっとも苦ではありません。 楽しいからできている。 楽しいから続けていられるんだろうし、私が楽しく創っているから、見ている人も楽しいんだと思います。 このブログのタイトル「涙ぐむ眼」は、宮沢賢治が故郷の少年院の庭に作った花壇のタイトルです。涙を湛えた瞳の形をしたその花壇は、まつ毛や虹彩や涙丘それぞれを表すにふさわしい種類の花々で作られています(涙丘の部分は睡蓮を浮かべた小さい池になっている)。 中学の頃、友達が誕生日プレゼントに透明の小さなビーズの球を数粒、くれました。 「いこちゃんの涙みたいと思って」と言って。 私はそれからずっと、露や真珠の粒が好きです。 狂人と紙一重のところまで心を飛ばして自然と交わり、そこから詩作のインスピレーションを得ていた賢治の作った「涙ぐむ眼」と、すぐ泣くけど、泣く時は一人で泣かなければならないと思いこんで自分を許さなかった若い頃の自分を重ねて、11年前、このブログのタイトルに据えました。 今、私は今までで一番元気です。 これからも日々楽しんで此処を創っていきますので、楽しんでいただければ幸いです。
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