最近読み始めた吉田・赤『数学序説』(ちくま書房)は「函数」を使っていた。「どれどれ、何を入れたろうか、そしたら何が出てくるだろうか感」は、「関数」よりも「函数」の方があるから、「函数」の使用は捨てきれない。憧れるばかりで、使ったことはない。
(『数学序説』の初版は1954年)
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「終末の鳥人間」「週末の鳥人間」
絶対間髪入れずに「終末の」→「週末の」を読むことをオススメします。
というのも「週末の」は「終末の」のパラレルワールド的構成になっているため。
「終末の」世界では、アハ体験のように日本が戦争に突入していく。2012年に世に出た作品なのに、どうして作中時間最初の方は2024年現在と世界情勢が似ているんだろう。預言のようでおそろしい。
今の世界がこんな事になるの怖いから、どうしてこうなったんだろう、何がいけなかったんだろうと逆上っても、明確な分岐点が分からない。ただ、2冊通してみると、2つの世界の違いは誰かが途中で声を上げなかったからなのかなと思う。現在の平穏のために黙殺したり、何も問題を考えないまま日頃の鬱憤を乗せてエスカレートしたり。
「終末の」、宙に浮かんだ結末過ぎて読み終わった瞬間困惑あまり叫んじゃったんだけど(だって何だかんだ成功する未来を祈っていたから)、もしかして俊晴はアヤちゃんが能力開放した影響であの世界から消滅し、代わりに「週末の」世界に行っちゃったんじゃないか。そしてきっと「終末の」世界のアヤちゃんはミッションを果たした後人力飛行機の中でそのまま亡くなっちゃったんだろうなと思う。俊晴が消え、アヤちゃんの死んだ世界。アヤちゃんの超能力というファンタジーでもない限り救われない世界。
これに対して週末世界は週末世界で、前作の存在を前提にするとむしろ本の存在自体がとんでもないホラーだと感じる。まず、こっちでは大七夕祭後、開始7ページで「野党が一致団結」してカッシー内閣不信任案可決して戦争が回避される。喜ばしいはずなのに、現実を考えると野党の一致団結なんて超能力以上にありえない感じがする。故にホラー。そしてこっちの日暮は影ながら平和的に戦う。須谷に声がけを続け、峯田の執拗な悪意をユーモアで躱す。挙句左遷先で災害に遭ったのに最高のタイミングで五体満足で帰って来る。エースケの父も腐らず行動する。須谷に焦点が当たり、須谷が救われる。人物や事件のバックグラウンドがフワッとしている。
しかもアヤちゃんは超能力持ってないどころか名前が絢音に変わっている。名前どころか見た目もショートボブは変わりないのに垢抜け、フツーに喋る。「『触らずに物を動かせるなんて冗談に決まってるよ』とのことで、肩をすくめてペロッと舌を出して見せた」という一文を読んだときはショックを受けた(彩子ちゃんは終末の世界で死んだと仄めかされてる感じがする)。
戦争は回避したけど今度はプラント存続問題が立ち上がる。Team78としてはハッピーエンドになるけど一瞬で、結局静かに街は死んでいき、アヤちゃんとは結婚せず、俊晴の時給はそれなりの役職なのに手取り15万独身、みんな街を出て年に2、3回しか帰ってこない中唯一残ってる日暮と付き合い続けるルートになるんだろう。これだけ奇跡を詰め込んだのに、週末世界ですらハッピーエンドは叶わないのか。
それでも思ってしまう。前作を知っていれば、これでもハッピーエンドなんだと。そこに妙な現実感がある。
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【読書記録】
深沢潮 『翡翠色の海へうたう』 角川書店
「小説家になる」ことに活路を見いだす葉奈は、好きなK‐POP歌手のSNSから慰安婦問題を知り、執筆意欲をもやす。
非難されつつ職を休み沖縄へ取材に。
悲惨な歴史に意識は深まるが、親友も、応援してくれる編集者(羨!)も反対する。
そして一番キツイ、「当事者」に寄り添う人からの直撃。
「人の傷で有名になりたいの?」
そんな主人公の葛藤と入れ替わりに、だまされて朝鮮から連れてこられ、「穴」にされながら生き延びた「コハル」の目で、77年前の沖縄戦の地獄が語られる。
終盤、時を超えて、二つの人生がつかのま接触したと���、葉奈は、ある「慰安婦」(「コハル」)の奪われるだけではなかった人生に気づき、自分が何も知っていなかったことに気づく。
覚悟が足りないとはどういうことかを感じ、その上で決意する。
近い将来、もっと知って、「かけがえのない彼女」を書きたいと。
《取り上げた題材を深く極めて、小説を書くことで、私自身が「知らない」ことを少しでも減らしたい。
私はきっと、書いていい。誰に何を言われようと、自分で決めることだ。
書くことは自由なのだ。だけど、自由には、ちゃんとした覚悟や責任がともなう。それは、どういうことなのか、私はもっともっと考えたい。》p232
葉奈が決意へいたったとき、戦争中の「わたし(「コハル」)は自分の名を呼ぶ。
《「わたしは、チャン・ミョンソ」》
誰かの人生を、私に書く資格はあるのか。
「自分は物書きだ」と思う誰もが、向き合わなくてはいけない問いなのに、わりかし適当なところで手をうってやしないか。
そのことに、正面から向き合った深沢潮さんの真摯さを讃えたい!
世の中の苦しみや生き方の問題に、正面からがっぷり取り組むこと。
これは、「芸術性のミエ」から自由なエンターティメント文学の、一つの大きな使命だと、窃かに思う。
個人的に、主人公にものすごく共感できる立場だったので、ぎゅーっと引き込まれた。
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久しぶりに小説読んだ。
双子が題材とのことで気になって手に取った一冊です。
はじめはなんとも不思議なお話だなあ、伊坂幸太郎だなあ、と思いながら読み進めてたんだけど、終盤はもうバクバクして止まらなかった。
虐待とか、子供が殺害されたりとか、そういう内容も含まれているから苦しい場面もたくさんありました。「あの男」 は本当に怖かった。
えー…この展開はあまりにも…ってモヤモヤしたところからひっくり返って、本当の結末は悲しく、帯にある通り切なかったです。
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私にとっては、今なお"unique" な存在であるデヴィッド・ボウイ✨
読書家だった彼の人生を変えた100冊から、まだ私が読んでいないものを選ぼうと思ったのですが、三島由紀夫の『午後の曳航』の新版を買い直して読むことにしました。
10代の頃に読んだ時には、「なんか江戸川乱歩とコレットとサガンを足して3で割ってどうにかした話」なんて思っていましたが、約40年ぶりに読むと全く違う印象を持ちました。
構成、表現、心理描写などをゆっくり味わって堪能出来ました。
読書をするということは、そして同じ本を年月を経て読むということは、物語、時代、空気のみならず自分自身をも読むことなのだとデヴィッド・ボウイに感謝した次第です。
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西加奈子さんの『くもをさがす』。
カナダのバンクーバーに移住した著者が乳がんがあると分かり抗がん剤や手術を乗り越えていくお話。
いっきに読んでしまった。
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2023年12月5日(火)曇り
『さみしい夜にはペンを持て』を読了。この本を読んで日記を書こうと素直におもえるほど綺麗な心は持ち合わせていないけれど、日記はずっと続けていたいと思う。本書にも書かれていたけれど、三年後の自分へのプレゼントとして。そうなのだ。10日前に書いた日記のことなんて大体は忘れている。あの日の私は別人で、今の私とは人格が異なるのではと思うことさえある。そうやって大体のことは忘れていくから、忘れていくことはきっと良いことだから、だから思う存分忘れられるように、私は書いていたい。あらゆることを過去にかえていくことは、今を生きる私たちにとって、とても大切なことなのだ。そんなことを思った本だった。
娘、午後から5時間起きていて、機嫌の良いときがわかるようになってきた。数秒後にはころりと表情をかえて泣いたり怒ったりするのだけど。
そういえば、夜のお風呂の時間に、ああでもないこうでもないとここ数日のモヤモヤのことを考えていた。話し合ったとしても、どこまでも平行線のままなのだったら、この話し合いに使う労力はとても無駄なようにおもえ、もう心の中に止めておけばよい。大人の対応というか、スルースキルというのか、あえて噛み付くことで、互いに干渉し合えなくなるという未来があるのだとしたら、言わずにいることも一つだと私は考えていて、だから、これさえも、平行線できっと相手とは結びつかない。価値観の違いというものは埋まらない。だってあなたはあなただし、私は私だし。ひと通り、考え尽くしたのでもうやめにしよう。
今夜からは宮本輝の『彗星物語』。おやすみ。
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大切な気持で読んでる若くて苦いラブストーリー
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『ダンジョン飯』 アニメと漫画全部見終わった!!! めちゃくちゃ面白かった!!
絵が可愛いキャラクターも 全員可愛い 最初はライオスのビジュアルに惹かれてみたけどみんな可愛い……ご飯たくさん食べたくなる
先にアニメ→漫画の順で見たから、
アニメの11話で「あ!これって ギャグよりに見せたシリアスの流れかもしれん!」って思ってたけど、ど〜しても続きが気になって全巻買ってしまった…。漫画ではハッピーエンドで終わったので満足です🫶
ファリンとマルシルの関係性が超好き……
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最近の休日記録
やはりひとりで過ごす1日も至高。オンリーワン。図書館だいすき。本屋さんだいすき。図書館さんとは言わないのに本屋さんとはいう不思議。句読点あると違和感ある文章。
しんどい思いになるということがわかっているのに読む手はとめられない ショート動画とか、YouTubeとかからは摂れない栄養がある なんかいやな表現だな 映画もまともに観れなくなってきた最近の私 2時間もじっとできないのにページをめくるという動作が加わるだけで5時間くらいはゆうに読める (意図的にとばしているページもあるけど) あと、登場人物の名前が覚えられないからメモしながら読んでる いい言葉、使いたい言葉だったり言い回しがあったらそれもメモしてる 「賽の目」「ぶぶ漬けいかがどす」「澱」「雨宿り」「味覚の縄張り」あぁ、日本語ってだいすき 文章がすき 文字がすき
女性であることに嫌気がさす2冊 と同時に女性で良かったとも思う感覚がある 確かに言えることは登場する女性の嫌な部分に共感できる、傲慢さが私にはあるということ
今週末はバターがたっぷりのたらこパスタを食べようと思う と思っているけど、高カロリーな日々毎日なので結局納豆ごはん食べてると思うし、この本の内容なんてすぐ忘れちゃうと思う 影響されてしんどいのも数日 わたしはなんとも単純で、考えてるようで考えてない 日常はただ続いていくんだよね なんかピンとこないなぁって思ったらきっと落とし穴が待ってる 善良な価値観に騙されないようにしたい
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今冬は、ランダウ/キタイゴローツキ『万人の物理学 1・2』(東京図書)の二冊を終わらせたい。そしたらば、ランダウらが望んだように、中学生と一緒にまた一から注意深く、身近な物理現象を例に挙げて学び直そう。
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そこへたどり着いてもわたしには見えない
フォトエッセイ集『つばさの方へ旅をする』を読んでくださった方はご存じだろうと思うが、滋賀県の湖北にオオワシが飛来する。カムチャツカで繁殖し、北海道などで越冬する巨鳥だ。
滋賀県の湖北地方に25年間連続で飛来しており、ねぐらとしているのが「山本山」という山だから、「山本山のおばあちゃん」という愛称で呼ばれている。
去年初めて会いに行き、彼女が帰北するころ、世界情勢が大きく動いてしまった。大丈夫だろうかと不安に思いながら、11月を待った。飛来の知らせを聞いたとき、戻ってきて「くれた」と、なにかそれが人類への自然からのプレゼントのように思えたし、同時に警鐘のようにも思えた。
だから今年もまた、どうしても山本山のおばあちゃんに会���たかった。『消えゆくものたちの生』で、筆者が「絶滅しつつある生物をこの目で見て言祝がねばならない」と綴っていたが、まさにそうで、人間という種族に生まれた責任と、(オオワシは絶滅危惧種である)まだこの目で見て存在を確かめることができる機会があるという幸運から、たしかにこの目で見て、言祝ぐ必要があるとわたしも思う。
オオワシがどんな環境で越冬するのかをこの身で体感すること、オオワシの生態を知ること。鳥の幻想小説を書いている(主人公はコウノトリだがオオワシやいろいろな鳥が登場する)ので、その取材も兼ねていた。
湖北野鳥センターで、オオワシの生態について教えて欲しいとスタッフの人に話しかけ、情報をもらっていたら「調べているんですか」と逆に質問を返された。
「オオワシが出てくる小説を書いているんです」
とするっと小説を書いていることが出てきたことに自分でも驚く。
見ず知らずの人に、(そうでなくても親しい人とかでもだけど)「小説を書いている」と宣言することは、わたしにはハードルの高い行為で、ほとんど人に話すことができなかったのだが……。
どんな心境の変化があったんだろうと不思議に思う。
まあ、もうすぐ転職する開放感とかがあるのかもしれない。
やっぱり退職というのは体にいい行為で、なにかしら人をおおらかに、強気にさせるものだ。
体調不良もあって、いまの仕事は休みがち。(今日は次の仕事の準備?で工場見学とか行って休んだ)
肩があがらなくなって日常生活に支障も出たので先々週一日休んだ。
肩が痛いのは、カメラが原因らしい。2キロ越えてる超望遠を振り回していたらそうなるなと言うことで、山本山ではさすがに一脚を持っていった。
肩を痛めた日は『神々の山嶺』という映画を見た。
山に憑かれた人間の物語で、最後はエベレストに登頂する。
「なぜ登るのか」その行為への答えが「わからない」のがよかった。登山する男を追うのは記者で、もともとは風景写真を撮っていたようだ。だけど次第に山に憑かれていって、自分もエベレストへ途中までだが登る。「風景写真」という、わかりやすく「その場にいない人間」にも共感を得られるツールを操る人間が、「その場で体験することでしかわからない」世界を経験するところがすごい。
わたしは鳥がいるから仕方なく登山もする人間で、景色や、登る(歩く)楽しさというのを感じる感受性に乏しい。
どうして山に登るのかとか、山に登ってなにが得られるのかとかわたしにはちっともわからない。夜通し走って木曽駒ヶ岳へゆき、三時間以上並んでたどり着いた千畳敷カールも、そんなに感動しなかった。
ただ、五歩歩いたら十分休むような酸素濃度のひくい世界で、ヒイヒイいいながら登っているときに、宝剣岳の山頂で万歳をする人を見て「のぼったんやなあ、幸せそうやなあ」とつぶやいている人がいたのが印象的だった。
この人の中には(たぶんこのぞろぞろと蟻の熊野詣のように登っている人たちのほとんどが)「登り切る」ことの『幸せ』を知っているのだ。そう思うと、わたしもその尻尾の毛先くらいはつかんでみたいと思う。また木曽駒ヶ岳へ行きたいと思う。
ほかに、昨日は『イサド住み』(オカワダアキナ)を読む。
トランス男性が主人公のボーイズラブだ。
マジョリティに対して『語らされる』ことで飼い慣らされていく過程への抵抗の物語としてわたしは読んだ。マイノリティが、マジョリティ側から「説明」を要求されるとき、聞き手には「期待している物語」がある。物語を期待できる(ジャッジできる)乱暴な権力のまえに、矯められなければ立つ場所が得られない。座ってくつろげるような場所なんてなくて、「まあいてもいいよ」と言われるのは排除ベンチみたいなかたちの椅子しかない。
「当事者の言葉で語られるべきだ」とわたしは常々思うのだが、その「当事者の言葉」は、この乱暴なジャッジにしてみれば「期待外れ」の言葉なんだう。期待通りの言葉を語らされることで、どんどんどんどん心の中にはゆがみがたまっていくし、マジョリティに都合のいい「物語」ができあがってしまう。
「物語すること」というのは主体的な行いのように見えて、聞き手の立ち位置によっては「させられること」受け身の行いになって(変えられてゆくこと)になる。作品の紹介に書かれた「吠える」とは、語りの主体を獲得することだとわたしは読んだ。
『誰かの理想を生きられはしない』という書物のタイトルが、ずしりと重く思い出される本だった。
あと二日出勤したら、療養のための長い旅に出る。
小説をたくさん読みたいという気持ちがあるのに、荷造りで詰めたのは小説の資料本ばかりだった。
旅先の本屋で、小説と縁を結びたい。
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一晩で読み切ってしまった。赦されざる恋の物語。
出会ってしまって、火種ができて、放っておけばそのまま消えてしまったかもしれないのに、そこに酸素を結びつけるキッカケができ(もしくは故意にそのキッカケを作り)、パッと燃え上がる。
そこからはあっという間にもうひとつの人生ができてものすごくいい感じに定着してしまうのが、不倫なのかな。
相手の家庭に波風が立たないストーリーが新鮮でした。だからこそ終わりが見えない。
二人の関係が最高潮の時に取り返しのつかない失敗をして、罪の気持ちと残された愛情を抱えて生き続ける残酷さ。しんどいな。
二度と会えなくなってからさらに月日を経て主人公が迎えた結末は、まだ幸せな方だと私は思いました。現実は、そうはいかんよ。
私は好きになる時は本当に心から大好きになるけど恋の魔法が解けたら一気にどうでもよくなる極端なタイプなので、この主人公にそこまで共感はできなかったんだけど、思い出を美しいまま永久保存するタイプの人や、どうしても忘れられない人がいるという人は、主人公に共感できるかもしれません。
…あれ。ちょっと私、感情が鈍くなってるかな。
もっと本を読んで心を湿らそう。
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伊勢志摩から帰ってきてから読んでいた山崎豊子著『沈まぬ太陽』を読み終えました。
ホテルに置かれてあった山崎豊子さんのデスクを見て、久しぶりに彼女の著作を何か読みたくなったのでした。
日航機墜落事故とその遺族のこと、航空会社の労働組合問題、政界、財界、官僚と航空会社の裏のつながり等、ぐいぐい読ませられる内容でした。
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