Tumgik
#野村美丘_雑誌
micknomura · 1 month
Text
Tumblr media
埼玉アーツシアター通信 CROSSING 2024年4月号 Vol.108
公益財団法人埼玉県芸術文化振興財団
制作、編集、取材、執筆
0 notes
liliyaolenyeva666 · 3 years
Text
Tumblr media
🎼 00740 「かたつむりサンバ」。
過去に 1955年6月、映画世界社から刊行されました 「まいまいつぶろ」 の新装版 「まいまいつぶろ (新潮社 2011年)」 を読んだわたしですけれど、その新装版の半分ほどの大きさの文庫版 「まいまいつぶろ (高峰秀子さん、河出文庫 2015年)」 を読んでいます。表紙や写真が若干異なるこの文庫本は ハードカバーのものと比べると フォトや文字がすこし小さめですけれど、狭い我が家には丁度良いかもしれません。テキトーに書き留めます。
・愛よ星と共に
ヒデコさんが出演した映画。阿部豊監督作品。
・朝の波紋
ヒデコさんが出演した映画。五所平之助監督作品。
・阿片戦争
ヒデコさんが出演した映画。マキノ正博監督作品。
・或る夜の殿様
ヒデコさんが出演した映画。衣笠貞之助監督作品。
・1フィート
30.48cm。
・稲妻
ヒデコさんが出演した映画。成瀬巳喜男監督作品。
・浮雲
ヒデコさんが出演した映画。成瀬巳喜男監督作品。
・美しい出発 (美はしき出発)
ヒデコさんが原節子さんと初共演した映画。山本薩夫監督作品。
・馬
ヒデコさんが出演した映画。山本嘉次郎監督作品。
・うりざね顔
瓜の実のやうな顔立ちのこと。褒め言葉。
・五月蝿い
うるさい。
・煙突の見える場所
ヒデコさんが出演した映画。五所平之助監督作品。
・蚊帳
かや。
・カルメン故郷に帰る
ヒデコさんが出演した映画。木下惠介監督作品。
・カルメン純情す
ヒデコさんが出演した映画。木下惠介監督作品。
・銀座カンカン娘
ヒデコさんが出演した映画。島耕二監督作品。
・グッドバイ
ヒデコさんが出演した映画。島耕二監督作品。
・ゴシップ
"Gossip" って綴りらしい。
・コドモノクニ
1922年1月に創刊されたらしい 東京社の児童向け雑誌。1944年3月に休刊。
・良人の貞操
ヒデコさんが出演した映画。山本嘉次郎監督作品。
・十九の春
ヒデコさんが出演した映画。五所平之助監督作品。
・新道
ヒデコさんが出演した映画。五所平之助監督作品。
・ソルボンヌ
Sorbonne。パリのどこかにある 1253年に建てられたらしい建物。
・超音ジェット機
デビッド・リーン監督作品。イギリス映画。
・並木座
おそらく 銀座にあった映画館のことかと。1953年開館、1998年9月閉館。
・二十四の瞳
ヒデコさんが出演した映画。木下惠介監督作品。
・七つの大罪
エドゥアルド・デ・フィリッポ監督作品。イタリア映画。
・ニヒリスト
"Nihilist" って綴りらしい。
・裸足の伯爵夫人
ジョセフ・L・マンキーウィッツ監督作品。米伊映画。
・花籠の歌
ヒデコさんが出演した映画。五所平之助監督作品。
・母
ヒデコさんが出演した映画。野村芳亭監督作品。
・巴里ひとりある記
ヒデコさんが書いた、1953年に映画世界社から出版された本。
・P・C・L
株式会社寫眞科学研究所 (Photo Chemical Laboratory) のこと。現在の 東宝株式会社の前身のひとつ。
・秀子の応援団長
ヒデコさんが出演した映画。千葉泰樹監督作品。
・秀子の車掌さん
ヒデコさんが出演した映画。成瀬巳喜男監督作品。
・頬を寄すれば
ヒデコさんが出演した映画。島津保次郎監督作品。
・まいまいつぶろ
でんでん虫虫、かたつむりのこと。
・満艦飾
まんかんしょく。特別な日や行事などに停泊中の軍艦が着飾ること。 または キルラキルに出てくるマコちんのこと。
・南風の丘
ヒデコさんが出演した映画。松井稔監督作品。
・宗方姉妹
ヒデコさんが出演した映画。小津安二郎監督作品。
・ルオー
おそらく 画家のジョルジュ・ルオー (1871 5/27 - 1958 2/13) のことかと。バオーは来訪者。
・ワシントンハイツ
おそらく、現在の代々木公園や 代々木体育館辺りにあった、敗戦後、占領下の日本に駐留していた米軍の家族らが暮らす住宅地や兵舎のこと。
..
1 note · View note
2ttf · 12 years
Text
iFontMaker - Supported Glyphs
Latin//Alphabet// ABCDEFGHIJKLMNOPQRSTUVWXYZabcdefghijklmnopqrstuvwxyz0123456789 !"“”#$%&'‘’()*+,-./:;<=>?@[\]^_`{|}~ Latin//Accent// ¡¢£€¤¥¦§¨©ª«¬®¯°±²³´µ¶·¸¹º»¼½¾¿ÀÁÂÃÄÅÆÇÈÉÊËÌÍÎÏÐÑÒÓÔÕÖ×ØÙÚÛÜÝÞßàáâãäåæçèéêëìíîïðñòóôõö÷øùúûüýþÿ Latin//Extension 1// ĀāĂ㥹ĆćĈĉĊċČčĎďĐđĒēĔĕĖėĘęĚěĜĝĞğĠġĢģĤĥĦħĨĩĪīĬĭĮįİıIJijĴĵĶķĸĹĺĻļĽľĿŀŁłŃńŅņŇňʼnŊŋŌōŎŏŐőŒœŔŕŖŗŘřŚśŜŝŞşŠšŢţŤťŦŧŨũŪūŬŭŮůŰűŲųŴŵŶŷŸŹźŻżŽžſfffiflffifflſtst Latin//Extension 2// ƀƁƂƃƄƅƆƇƈƉƊƋƌƍƎƏƐƑƒƓƔƕƖƗƘƙƚƛƜƝƞƟƠơƢƣƤƥƦƧƨƩƪƫƬƭƮƯưƱƲƳƴƵƶƷƸƹƺƻƼƽƾƿǀǁǂǃDŽDždžLJLjljNJNjnjǍǎǏǐǑǒǓǔǕǖǗǘǙǚǛǜǝǞǟǠǡǢǣǤǥǦǧǨǩǪǫǬǭǮǯǰDZDzdzǴǵǶǷǸǹǺǻǼǽǾǿ Symbols//Web// –—‚„†‡‰‹›•…′″‾⁄℘ℑℜ™ℵ←↑→↓↔↵⇐⇑⇒⇓⇔∀∂∃∅∇∈∉∋∏∑−∗√∝∞∠∧∨∩∪∫∴∼≅≈≠≡≤≥⊂⊃⊄⊆⊇⊕⊗⊥⋅⌈⌉⌊⌋〈〉◊♠♣♥♦ Symbols//Dingbat// ✁✂✃✄✆✇✈✉✌✍✎✏✐✑✒✓✔✕✖✗✘✙✚✛✜✝✞✟✠✡✢✣✤✥✦✧✩✪✫✬✭✮✯✰✱✲✳✴✵✶✷✸✹✺✻✼✽✾✿❀❁❂❃❄❅❆❇❈❉❊❋❍❏❐❑❒❖❘❙❚❛❜❝❞❡❢❣❤❥❦❧❨❩❪❫❬❭❮❯❰❱❲❳❴❵❶❷❸❹❺❻❼❽❾❿➀➁➂➃➄➅➆➇➈➉➊➋➌➍➎➏➐➑➒➓➔➘➙➚➛➜➝➞➟➠➡➢➣➤➥➦➧➨➩➪➫➬➭➮➯➱➲➳➴➵➶➷➸➹➺➻➼➽➾ Japanese//かな// あいうえおかがきぎくぐけげこごさざしじすずせぜそぞただちぢつづてでとどなにぬねのはばぱひびぴふぶぷへべぺほぼぽまみむめもやゆよらりるれろわゐゑをんぁぃぅぇぉっゃゅょゎゔ゛゜ゝゞアイウエオカガキギクグケゲコゴサザシジスズセゼソゾタダチヂツヅテデトドナニヌネノハバパヒビピフブプヘベペホボポマミムメモヤユヨラリルレロワヰヱヲンァィゥェォッャュョヮヴヵヶヷヸヹヺヽヾ Japanese//小学一年// 一右雨円王音下火花貝学気九休玉金空月犬見五口校左三山子四糸字耳七車手十出女小上森人水正生青夕石赤千川先早草足村大男竹中虫町天田土二日入年白八百文木本名目立力林六 Japanese//小学二年// 引羽雲園遠何科夏家歌画回会海絵外角楽活間丸岩顔汽記帰弓牛魚京強教近兄形計元言原戸古午後語工公広交光考行高黄合谷国黒今才細作算止市矢姉思紙寺自時室社弱首秋週春書少場色食心新親図数西声星晴切雪船線前組走多太体台地池知茶昼長鳥朝直通弟店点電刀冬当東答頭同道読内南肉馬売買麦半番父風分聞米歩母方北毎妹万明鳴毛門夜野友用曜来里理話 Japanese//小学三年// 悪安暗医委意育員院飲運泳駅央横屋温化荷開界階寒感漢館岸起期客究急級宮球去橋業曲局銀区苦具君係軽血決研県庫湖向幸港号根祭皿仕死使始指歯詩次事持式実写者主守取酒受州拾終習集住重宿所暑助昭消商章勝乗植申身神真深進世整昔全相送想息速族他打対待代第題炭短談着注柱丁帳調追定庭笛鉄転都度投豆島湯登等動童農波配倍箱畑発反坂板皮悲美鼻筆氷表秒病品負部服福物平返勉放味命面問役薬由油有遊予羊洋葉陽様落流旅両緑礼列練路和 Japanese//小学四年// 愛案以衣位囲胃印英栄塩億加果貨課芽改械害街各覚完官管関観願希季紀喜旗器機議求泣救給挙漁共協鏡競極訓軍郡径型景芸欠結建健験固功好候航康告差菜最材昨札刷殺察参産散残士氏史司試児治辞失借種周祝順初松笑唱焼象照賞臣信成省清静席積折節説浅戦選然争倉巣束側続卒孫帯隊達単置仲貯兆腸低底停的典伝徒努灯堂働特得毒熱念敗梅博飯飛費必票標不夫付府副粉兵別辺変便包法望牧末満未脈民無約勇要養浴利陸良料量輪類令冷例歴連老労録 Japanese//小学五〜六年// 圧移因永営衛易益液演応往桜恩可仮価河過賀快解格確額刊幹慣眼基寄規技義逆久旧居許境均禁句群経潔件券険検限現減故個護効厚耕鉱構興講混査再災妻採際在財罪雑酸賛支志枝師資飼示似識質舎謝授修述術準序招承証条状常情織職制性政勢精製税責績接設舌絶銭祖素総造像増則測属率損退貸態団断築張提程適敵統銅導徳独任燃能破犯判版比肥非備俵評貧布婦富武復複仏編弁保墓報豊防貿暴務夢迷綿輸余預容略留領異遺域宇映延沿我灰拡革閣割株干巻看簡危机貴揮疑吸供胸郷勤筋系敬警劇激穴絹権憲源厳己呼誤后孝皇紅降鋼刻穀骨困砂座済裁策冊蚕至私姿視詞誌磁射捨尺若樹収宗就衆従縦縮熟純処署諸除将傷障城蒸針仁垂推寸盛聖誠宣専泉洗染善奏窓創装層操蔵臓存尊宅担探誕段暖値宙忠著庁頂潮賃痛展討党糖届難乳認納脳派拝背肺俳班晩否批秘腹奮並陛閉片補暮宝訪亡忘棒枚幕密盟模訳郵優幼欲翌乱卵覧裏律臨朗論 Japanese//中学// 亜哀挨曖扱宛嵐依威為畏尉萎偉椅彙違維慰緯壱逸芋咽姻淫陰隠韻唄鬱畝浦詠影鋭疫悦越謁閲炎怨宴援煙猿鉛縁艶汚凹押旺欧殴翁奥憶臆虞乙俺卸穏佳苛架華菓渦嫁暇禍靴寡箇稼蚊牙瓦雅餓介戒怪拐悔皆塊楷潰壊懐諧劾崖涯慨蓋該概骸垣柿核殻郭較隔獲嚇穫岳顎掛括喝渇葛滑褐轄且釜鎌刈甘汗缶肝冠陥乾勘患貫喚堪換敢棺款閑勧寛歓監緩憾還環韓艦鑑含玩頑企伎忌奇祈軌既飢鬼亀幾棋棄毀畿輝騎宜偽欺儀戯擬犠菊吉喫詰却脚虐及丘朽臼糾嗅窮巨拒拠虚距御凶叫狂享況峡挟狭恐恭脅矯響驚仰暁凝巾斤菌琴僅緊錦謹襟吟駆惧愚偶遇隅串屈掘窟繰勲薫刑茎契恵啓掲渓蛍傾携継詣慶憬稽憩鶏迎鯨隙撃桁傑肩倹兼剣拳軒圏堅嫌献遣賢謙鍵繭顕懸幻玄弦舷股虎孤弧枯雇誇鼓錮顧互呉娯悟碁勾孔巧甲江坑抗攻更拘肯侯恒洪荒郊貢控梗喉慌硬絞項溝綱酵稿衡購乞拷剛傲豪克酷獄駒込頃昆恨婚痕紺魂墾懇沙唆詐鎖挫采砕宰栽彩斎債催塞歳載剤削柵索酢搾錯咲刹拶撮擦桟惨傘斬暫旨伺刺祉肢施恣脂紫嗣雌摯賜諮侍慈餌璽軸叱疾執湿嫉漆芝赦斜煮遮邪蛇酌釈爵寂朱狩殊珠腫趣寿呪需儒囚舟秀臭袖羞愁酬醜蹴襲汁充柔渋銃獣叔淑粛塾俊瞬旬巡盾准殉循潤遵庶緒如叙徐升召匠床抄肖尚昇沼宵症祥称渉紹訟掌晶焦硝粧詔奨詳彰憧衝償礁鐘丈冗浄剰畳壌嬢錠譲醸拭殖飾触嘱辱尻伸芯辛侵津唇娠振浸紳診寝慎審震薪刃尽迅甚陣尋腎須吹炊帥粋衰酔遂睡穂随髄枢崇据杉裾瀬是姓征斉牲凄逝婿誓請醒斥析脊隻惜戚跡籍拙窃摂仙占扇栓旋煎羨腺詮践箋潜遷薦繊鮮禅漸膳繕狙阻租措粗疎訴塑遡礎双壮荘捜挿桑掃曹曽爽喪痩葬僧遭槽踪燥霜騒藻憎贈即促捉俗賊遜汰妥唾堕惰駄耐怠胎泰堆袋逮替滞戴滝択沢卓拓託濯諾濁但脱奪棚誰丹旦胆淡嘆端綻鍛弾壇恥致遅痴稚緻畜逐蓄秩窒嫡抽衷酎鋳駐弔挑彫眺釣貼超跳徴嘲澄聴懲勅捗沈珍朕陳鎮椎墜塚漬坪爪鶴呈廷抵邸亭貞帝訂逓偵堤艇締諦泥摘滴溺迭哲徹撤添塡殿斗吐妬途渡塗賭奴怒到逃倒凍唐桃透悼盗陶塔搭棟痘筒稲踏謄藤闘騰洞胴瞳峠匿督篤凸突屯豚頓貪鈍曇丼那謎鍋軟尼弐匂虹尿妊忍寧捻粘悩濃把覇婆罵杯排廃輩培陪媒賠伯拍泊迫剝舶薄漠縛爆箸肌鉢髪伐抜罰閥氾帆汎伴畔般販斑搬煩頒範繁藩蛮盤妃彼披卑疲被扉碑罷避尾眉微膝肘匹泌姫漂苗描猫浜賓頻敏瓶扶怖附訃赴浮符普腐敷膚賦譜侮舞封伏幅覆払沸紛雰噴墳憤丙併柄塀幣弊蔽餅壁璧癖蔑偏遍哺捕舗募慕簿芳邦奉抱泡胞俸倣峰砲崩蜂飽褒縫乏忙坊妨房肪某冒剖紡傍帽貌膨謀頰朴睦僕墨撲没勃堀奔翻凡盆麻摩磨魔昧埋膜枕又抹慢漫魅岬蜜妙眠矛霧娘冥銘滅免麺茂妄盲耗猛網黙紋冶弥厄躍闇喩愉諭癒唯幽悠湧猶裕雄誘憂融与誉妖庸揚揺溶腰瘍踊窯擁謡抑沃翼拉裸羅雷頼絡酪辣濫藍欄吏痢履璃離慄柳竜粒隆硫侶虜慮了涼猟陵僚寮療瞭糧厘倫隣瑠涙累塁励戻鈴零霊隷齢麗暦劣烈裂恋廉錬呂炉賂露弄郎浪廊楼漏籠麓賄脇惑枠湾腕 Japanese//記号//  ・ー~、。〃〄々〆〇〈〉《》「」『』【】〒〓〔〕〖〗〘〙〜〝〞〟〠〡〢〣〤〥〦〧〨〩〰〳〴〵〶 Greek & Coptic//Standard// ʹ͵ͺͻͼͽ;΄΅Ά·ΈΉΊΌΎΏΐΑΒΓΔΕΖΗΘΙΚΛΜΝΞΟΠΡΣΤΥΦΧΨΩΪΫάέήίΰαβγδεζηθικλμνξοπρςστυφχψωϊϋόύώϐϑϒϓϔϕϖϚϜϞϠϢϣϤϥϦϧϨϩϪϫϬϭϮϯϰϱϲϳϴϵ϶ϷϸϹϺϻϼϽϾϿ Cyrillic//Standard// ЀЁЂЃЄЅІЇЈЉЊЋЌЍЎЏАБВГДЕЖЗИЙКЛМНОПРСТУФХЦЧШЩЪЫЬЭЮЯабвгдежзийклмнопрстуфхцчшщъыьэюяѐёђѓєѕіїјљњћќѝўџѢѣѤѥѦѧѨѩѪѫѬѭѰѱѲѳѴѵѶѷѸѹҌҍҐґҒғҖҗҘҙҚқҜҝҠҡҢңҤҥҪҫҬҭҮүҰұҲҳҴҵҶҷҸҹҺһҼҽҾҿӀӁӂӇӈӏӐӑӒӓӔӕӖӗӘәӚӛӜӝӞӟӠӡӢӣӤӥӦӧӨөӪӫӬӭӮӯӰӱӲӳӴӵӶӷӸӹӾӿ Thai//Standard// กขฃคฅฆงจฉชซฌญฎฏฐฑฒณดตถทธนบปผฝพฟภมยรฤล���วศษสหฬอฮฯะัาำิีึืฺุู฿เแโใไๅๆ็่้๊๋์ํ๎๏๐๑๒๓๔๕๖๗๘๙๚๛
see also How to Edit a Glyph that is not listed on iFontMaker
5 notes · View notes
kosyokuma-9560-blog · 6 years
Photo
Tumblr media
「新入荷情報」古書クマゴロウ 秋の過ごしやすさに喜びつつ、スーパーのアイス売り場から消えてゆくチョコミントアイスを惜しむ今日この頃、皆様いかがお過ごしでしょうか。 練馬区は西武池袋線「中村橋駅」の古本屋、古書クマゴロウです。 古書クマゴロウでは本日、店頭の均一大判コーナーを大幅に更新しました! 今回は散歩の達人などの街巡り雑誌、サライなどのカルチャー誌、美術図録、絵本、実用ムックなど雑多な種類が新入荷。全て100~300円なので掘り出し物もある(かも)です。 中村橋の練馬区立美術館では月岡芳年の展示会が9/24(月)まで開催されております。せっかく中村橋にお立ち寄りでしたら、ぜひともその足で古書クマゴロウまでおいでください。お散歩ついでに古本ハントがお楽しみいただけますよ! #練馬区 #練馬 #古本 #古書 #古本屋 #古書店 #読書 #中村橋 #桜台 #練馬高野台 #富士見台 #大泉学園 #西武池袋線 #阿佐ヶ谷 #豊島園 #江古田 #本 #古書クマゴロウ #本好き #本好きな人と繋がりたい #美術館 #芳年 #book #reading #所沢 #保谷 #ひばりヶ丘 #月岡芳年 https://www.instagram.com/p/BnyJWsFnCYL/?utm_source=ig_tumblr_share&igshid=1mmvh3ifxif0i
1 note · View note
cupiporo · 3 years
Photo
Tumblr media
雑誌スロウが開催するイベントに参加します☺️ マトリョーシカとブローチとキーホルダーを置いていただく予定です🪆 以下、スロウ @magazine_slow の投稿を転載させていただきます🙇‍♀️ ・・・・・・・・・・・・・・・ イベント開催のおしらせです🌸 ~北海道スロウなお買い物展~ 7/3(土)~7/11(日) 11:00~16:00 ※土曜のみ17:00まで 中川郡幕別町本町62-2 Makura showcase @makura_showcase 作り手との交流は今は難しくても、いつかその町や工房を訪ねるきっかけになりますように✨ 幕別町の古倉庫のスペースをお借りして、小さなイベントを開催します☺️ 出展者のみなさま ※敬称略 <すべて委託or受注販売。作家さんは在店しません> asanomi(陶器の花器/釧路市)@asanomi_asa あとりえMOON(刺子小物/北見市)@a.moon623 アマムエクル(焼き菓子/音更町)@amamuekle 安部郁乃(石の器/札幌市)@tutinokakera 入舩絵美(樹皮細工/中川町)@irifune.emi 丘の上珈琲(コーヒードリップバッグ/長沼町)@okanoue_coffee 気球堂(七宝焼きブローチ/帯広市)@kikyudo_ 工房ameiro(白樺樹皮細工/帯広市)@koubouameiro kokochi屋(もみがらまくら/当別町)@kokochiya.tobetsu コヅツミ(革製アクセサリー/札幌市)@shiduka_m 粉ユキ菓子創作室(焼き菓子/帯広市)@konayukikashi coneru(スコーン・ハーブシロップ/七飯町)@coneru2244 櫻井芳枝(キャンドル/栗山町)@candle_koko そら豆ガラス商店(ガラス小物/江別市)@soramameglass 髙橋綾子(木のアクセサリー/中川町)@ayakoworks tama feltworks(羊毛の花器カバー/七飯町)@yoomoofeltworkstama cupiporo(ブローチ、マトリョーシカ/石狩市)@cupiporo パティスリージャンレイ(焼き菓子/釧路市)@janrei2007 bankeiねんど小屋(陶器/札幌市)@b.nendogoya はぜや珈琲(コーヒードリップバッグ/網走市)@coffee_hazeya 日時計Lab.(腕日時計/恵庭市) Sjunde himlen(巾着バッグ、エプロン/芽室町)@luke_sjundehimlen mego 牧野潤(陶器/函館市)@makinomegumi ミチヒト(バッグ/旭川市)@michi_hito みちみち種や(コーヒードリップバッグ/石狩市)yakan_wakuwaku 村本テント(帆布小物/岩内町)@muramototent mederu(焼き菓子/砂川市)@mederu.story 焼菓子ガブリ(焼き菓子/新篠津村)@gaburi.gyosho Yoshida Leather Works(革製小物/幕別町) laughsion(バブーシュ/札幌市)@laughsion lämpö(蜜蝋キャンドル/東川町)@lampocandle <ハードパン限定販売> 7/3(土) toi(音更町)@__toi___ 7/4(日) 此方(厚真町) 7/10(土)おおば製パン(森町)@ooba.sei.pan 他 <飲食出展> 7/3(土) Cafe&Life akao(池田町)@akaoo 7/3(土)4(日)うみやまキッチン(帯広市) 7/10(土) ふるカフェ カマクラヤ(清水町)※弁当委託のみ @furucafe_kamakuraya 7/10(土)11(日) 坂東農場×佐藤農場(芽室町) ※入場にはスロウなお買い物Webサイトへの会員登録が必要となります。事前の登録がおすすめです 「スロウなお買い物」と検索するか、@magazine_slow のプロフィール欄からお願いします。 ※駐車台数には限りがあります。できるだけ乗り合わせてお越しください。JR幕別駅から徒歩5分ですので、公共交通機関もご活用ください。 ※来場者数によっては入場制限を実施する場合があります。 ※支払いは現金、paypayのみ対応です。ご了承ください。 ※お買い物袋(紙袋)は有料となります。マイバッグ持参にご協力をお願いします。 ※一部の商品はスロウなお買い物のWebサイトでも購入できますので、混雑緩和にご協力をお願いします。 #makurashowcase #イベント #ものづくり #アクセサリー #焼き菓子 #北海道 #幕別町 #northernstyleスロウ #スロウ #北海道スロウなお買い物展#十勝 https://www.instagram.com/p/CQf6GFxsXhk/?utm_medium=tumblr
0 notes
uso8oo · 4 years
Text
米長邦雄伝説
親友だった枡田幸三に「彼だけは会長にしてはいけない」と言われていた
あだ名は「オラウータン」
米長哲学「自分にとっては消化試合でも、相手にとって重要な対局であれば、相手を全力で負かす」 相手の降格が掛かった非タイトル戦に正装で戦う
自分自身のサイトから情報を発信しており、「個人的な発言なのか、連盟会長としての発言なのか」と将棋界を混乱に巻き込む
「『させてくれ』と女にお願いしているうちは半人前である」「鍛練して『してください』と頼まれるようにならなければいけない。 なおかつ、そのお願いに充分に応えられなくてはならない」
Q.ストレス解消法は?A.「口に出すわけにはいかない」
弟弟子の沼春雄と八ヶ岳に登頂。天狗岳山頂で「ああいいねえ」と言いながら自らの天狗を開チン
加藤一二三との十段戦。トイレで一緒になった観戦記者の山田史生に「ここだけは加藤さんには負けないんですね」と逸物を見せつける
瀬戸内寂聴と対談して「先生は最後にセックスしたのいつ?」
道後温泉のホテルで将棋連盟の社員を前にして「よし!明日は頑張ろうじゃないか」と下半身露出
米長邦雄追悼号では、これらの赤裸々なエピソードも掲載される
携帯サイトで「米長邦雄のさわやかイロザンゲ」を連載。内容はモテる秘訣、自身の過去についての赤裸々な告白だった
49歳11ヶ月で名人位を獲得(50才名人) 名人位を取った後妻に電話「帰ったら、オマンコしよう」
朝早くのさわやかな時間にラジオ番組を担当「米長邦雄・人生さわやか流」。内容は女性遍歴や不倫経験を赤裸々に告白する。
「米長の将棋」で穴熊相手の将棋を、女性の下着を脱がす事に例えて解説。
新宿のぼったくりバーにそれと知りつつ飲みに行き文句ひとつ言わず言われるままに支払い翌日も素知らぬ顔して行った。相手はぎょっとするも大サービスを受けた
死の床につく米長を見舞いに行った伊藤能の境遇を聞き、逆に分厚い金一封を渡した
観戦記者に「事務所の○○さんのおまんこ見た事ある?w」と問いかける
「まんこ知新」「正常位よ永遠なれ」という本を出版しようとして、編集者に止められた。
タイトル戦の打ち上げで、お酌に来た芸者に、おもむろに浴衣の裾を開いて米長玉を見せる。
劣勢になると局面を複雑にする手を指して逆転を狙う棋風から、「泥沼流」と呼ばれる。本人の見た目から「さわやか流」とも呼ばれた
将棋雑誌でプレゼントの色紙に書いた言葉「TOTOが あたたまるころ 尻をふき」
奨励会員の時に、将棋会館の二階から放尿
島朗にストレート負け、ホテルで自室から大浴場まで「ギャオーッ」と絶叫しながら全裸で疾走
45歳で南芳一から王将を奪取した際には、打ち上げの際に「まあ滅多に他人には見せないんですけど」と言いつつ 弟子の先崎学と歓喜の裸踊りを敢行。 目撃者からは「裸踊りで勃起させてる人は初めて見ました」との感想も。
A級順位戦、谷川浩司に完敗し、名人挑戦が遠のく。対局後「悔しい!」と叫びながら将棋会館4階より放尿を試みる。 心ある棋士たちの体を張った制止により未遂に終わる。
名人戦で三連敗して、本来の自分を取り戻さなければならないと、将棋を離れ女に向かう。 今まで感じた事がないという32歳の不感症の女を4時間半かけてイかせることに成功したことで自信を取り戻し 第4局は会心の将棋が出来た
65歳で前立腺がんを患う。SEXできなくなると手術を拒否して投薬治療
その後完治し、自らのブログで「愛人を作って、セ〇クスできました!、チンコから血が出ました」とファンへ歓喜の報告。
、「悲願千人斬り」という目標を立てましてね。千人の女性とする、と。 ・・・千人というのは、もうとにかく大変な数なんです。 三百八十人くらいまでノートに付けていたんだけど、結局五百人くらいまでいったのかな。 二十歳のころを振り返って、なんで千人斬りをもっと早く始めなかったのか、という反省がありますね。・・・
雑誌でチンコの白髪について語る。
性的描写マンガ規制。よーく考えると私自身の存在も問題ありかなあ。
中原誠との十段戦を前に「男四十、鳥取砂丘に立つ」と題して週刊誌に全裸写真を掲載。
俺以上に女を喜ばせられる男がどこにいる?
私の特技はセクハラで訴える女性かどうかを瞬時に見分けられることです。
巣鴨のとげぬき地蔵は線香の煙を患部に当てると御利益があります。前立腺癌の私は当然アソコにこすりつけました。
(読売新聞記者)電王戦について「デンノウセン、デンオウセンどっちが正しい読み方ですか?」米長「言葉を大事にする読売新聞ならではの質問だと思うのですが、将棋連盟というところは「どっちでもええやないか」という団体でございます。」
(弟子の中村太地について)「自分のタイトル19期を抜けるかは難しいが千人切りは間違いなく抜ける」
(84歳の男が、24歳の美女と結婚というニュースを聞いて)「よーし。元氣が出た。 」
「人妻を落とすのが最高の楽しみだ」
「手八丁、口八丁」手と口さえあればエッチはできる。
「この世を去るまでモテる法。これについて語り合う会を立ち上げたい。あっちもこっちも立ち上げたい。」
やった女の数を自慢
週のうちに5日は家に帰ってこない時期があった。
74才で買春疑惑。イタリアのベルルスコーニ首相。けしからんと怒るべきか、羨ましいと感心するべきか。
「女房を大事にしないような男は、よそへ行ってもモテません。今、目の前にあるものを大事にしないということですから」
「いちばん大事なことはな、いちばん最初の女に尊敬されることなんだ」
私のツイッターは80%が女性ファンが見ているような氣がしています。
原発の事故地に行ってみたい、でも90才になって子供が出来ない体になったらどうしようと心配だ。
「お前は元氣になると目が大きくなるね」「私は、あの、その、違う所なんですけど」
飲むと全裸で踊る。 弟子も全裸で踊らせる。
将棋界も「先生」と呼ばれるうちはまだまだだ、野球界の茂ちゃん、ワンちゃんのように。米ちゃんと呼ばれたい。
うんこなう。快心の作です。直径2センチで長さ80センチが一本にゅーっ。幸せです。」
快眠、快便。今朝は直径2センチ長さ70~80cmのが一本です。流すのが惜しい。うなぎさんサヨウナラ。
中国は発展途上国なんて言ってる国は日本だけだろう。発展増長国です。
「なんだ、なんだ。いきなりキスしようとして」「だってあなたチューし��って言ったでしょ」 「コタツの温度だよ。低温を中温にしてくれって言ったんだ。チューにしてくれ」
「スエデン食わぬは男の恥」。
「おい、一杯やろうよ」「俺、飲まねえ」「どうして?」「ノーマネー」
常用漢字追加196字。好きな字は駒ですね。氣になるのは淫、股、尻、蜜、勃、妖、萎、媛、艶、何か氣になるもんで。
「悪寒がするからお燗がいいわね」
私の朝食は洋食です。パン・ティーです。
お墓を購入、妻に「お前の人生は、はかない人生ではない。これからは墓ある人生だ。」
今日から師走。「しあわせっす」で締めくくりたいものです。
「オ××コ見るような目で将棋盤を見ろ」
「相手を誘惑するコツはあるんでしょうか」「YOUをワクワクさせることだね」
壱岐島で戸籍上200才の男性が史上最高齢の人となった。さすがは「生きの島」
イチローは早い。ちろうは遅い。
居候は長くて嫌われる。そうろうは早くて嫌われる。
お嬢さんがご懐妊。父親の方は役職をご解任。
羽生善治は名人、棋聖を防衛して他も好調です。ガッポリ入ったのかなぁ。「羽生り」が良いらしい。
「すべてうまくいった。感無量」「すべてがまずかった。菅無能」
古稀になった知人。「あっちこっち体も悪いところが増えてね。古機だ」
カテキンは勝て菌
「おい。凄いことになりそうだぞ。凄いシーンが見られる」数分後、息をひそめていても何も起こらない。何も音がしない。「シーン」
「マニフェストって公約じゃなくて口約なんだね」「どうして」「口約束ってことさ」
「マニフェストって公約じゃなくて膏薬なんだね」「どうして」「いつでも剥がせるってことさ」
ドガ展に32万人。ドガッと来たのね
私腹を肥やす時が至福の時
こっちの遊園地は中年女性が泣いている。豊島園(年増エーン)
工程表が東電から発表された。国から出して「見通しが悪かったら俺が責任を取る」くらいの事出来ないのか。これはイカン、遺憾である。
青春。若い頃は良かったなあ。今じゃ肝心のものがシュンとしたまま、と友人が嘆く。性しゅん時代。
「私は浮氣をしたことがない」
釣りガールが流行というんですね。私も釣ってみたい。
0 notes
Text
【お知らせ】第3回福島県障がい者芸術作品展 「きになる⇆ひょうげん 2019」審査結果発表
第3回福島県障がい者芸術作品展 「きになる⇆ひょうげん 2019」の 審査結果を発表いたします。
   ★福島県知事賞★
Tumblr media
「おもいで本」  深谷 美加子(ふかや みかこ) 41歳(郡山市)
 
【評価コメント】
漫画雑誌のページの間に、深谷さんが気になったいろんなものが挟まっている。新聞のチラシやカード、シールを使った後だったり、いろんな紙が挟まって、この状態になっている。実がパンパンに膨らんではちきれそうで、ここからいろんな胞子なんかが飛んでいきそうな、そんなエネルギー・迫力にあふれた造形。深谷さんは、これを日頃持って歩いている。最初からなにかを作ろうと思ってはおらず、なにか気になったものの集積が結果的にこの形になっているのではないか。意図していたらこうはできないんじゃないかと思える、本展ならではの作品。
   
  
★きになる⇆ひょうげん賞★ 
 
Tumblr media
「踏まれてもVサイン」「すだれVSエアコン」  芳賀 喜善(はが きよし) 45歳(会津若松市)
 
 
【評価コメント】
今回は写真2点を連作として選出した。まず「すだれvsエアコン」は、すだれとエアコンの室外機を、抽象絵画のように風景を切り取った1枚の写真。タイトルが表す通り、このすだれとエアコンの室外機が、夏の暑さに対して、それぞれ自然の力と人間の力で抗う戦いのような。色んなものを連想させる作品になっている。「踏まれてもVサイン」は、道路に落ちている軍手が、ペチャンコになって、ちょうど指の形がVサインになっている。持ち主知らずのものが道路に落ちていて、それが何かを訴えるかのように、勝利を宣言しているという。この2点の作品はどこにでもありそうな日常の風景だが、日常の中で作者の芳賀さんが気になったそのときの心境が、きっとシャッターを押させたんだと思う。
 
  
★審査員賞・日比野克彦賞★
Tumblr media
「リズム」 ※映像作品 塩谷 聡子(しおや さとこ) 44歳(郡山市)  
 
【評価コメント】 
本作は、塩谷さんが繰り返しおこなっているこのリズムを、スタッフが撮影して応募したものである。当然彼女が主役で表現をしているが、それを観客であるスタッフが気になったことで今回応募したのだと思う。表現というのは、表現者と、受け手である鑑賞者というものがいて、はじめて成立する。これを見るとそのことが分かるし、こういう状況は施設のなかではよく出会う場だと思う。同じ時間、同じ場所で、よく行う癖や動作。そういうのがダンスに見えたり、演劇に見えたり、なにか表現しているような身体表現に見えたりする。周りにいる人の見方次第ではいろんな表現になるという、そんなことを考えさせられる作品。
 
   ★審査員賞・川延安直賞★
Tumblr media
「象」 村上 駿仁(むらかみ はやと)14歳(田村郡小野町)  「命」 村上 茉奈美(むらかみ まなみ)13歳(田村郡小野町)  「風神雷神」 村上 麻莉奈(むらかみ まりな)11歳(田村郡小野町)
 
【評価コメント】 
本展は書の出品も多い。 書の良し悪しの評価は難しい。 意味の伝達が文字の最大の役割だが、漢字は起源が象形文字であることもあり、書く際に造形的関心が強く働く。意味と造形、書く者の想いがどう溶け合っているか、そこが書の醍醐味である。 あらためて書の良し悪しは難しい。 筆法の巧拙はさておき、障害の有無を読み取ることも難しい。 だが、言い換えれば文字の魅力のみを作品審査の基準とすれば良いということ。 村上駿仁さん、茉奈美さん、麻莉奈さんたちの作品は3点1組として評価した。各作品それぞれ魅力的だが、違うタイプの3点が揃うと一層輝く。 プロかと思わせる勢いの「風神雷神」「象」、正直で真っ直ぐな「命」。 素直に心ひかれる作品でした。
 
   ★審査員賞・岡部兼芳賞★
Tumblr media
「気になる かんばん・けいじばん」 KO☆(こうせい) 10歳(南会津町) 
 
【評価コメント】
本作は、看板がびっしり立て込んである作品である。KO☆さんは去年も作品を応募され、そのときはスケッチブックに、KO☆さんが車のなかから見た風景がたくさん描かれていた。そのスケッチブックがたくさんあったなかに、本作にも似た雰囲気を感じるものがあった。今年は、そのなかでも看板だけが抜き出されていて、なんでこんな風に貼ったんだろうと気になった。お母さんのコメントにも、このきになる⇆ひょうげん展が、KO☆さんの目標になっているという言葉もあり、お母さんとも一緒に考えながら作ったりしたのだろうかと、2人の関係も見えてくるような作品。見れば見るほどいろんなことが気になる作品である。
 
 
入賞者は以上となります。
 
特選
特選の作品は以下になります。 ※順不同・敬称略
 
・「丘車〜雪の上でもRCが好き〜(Half Clear Version)」 近内 冲尋(こんない おきひろ)36歳(郡山市) ・「近所の人」 フジオ(ふじお)70歳(郡山市) ・「ボンボン」 のぞみ号(のぞみごう)(郡山市) ・「大好きな・・・」 薄田 真平(うすだ しんぺい)11歳(猪苗代町) ・「こたつでみかん」 本田 正(ほんだ ただし)40歳(須賀川市) ・「自分の病気の世界を絵と文字にしました」 大友 義之(おおとも よしゆき)49歳(郡山市) ・「無題」 KEIJI(けいじ)26歳(郡山市) ・「無題」 江田 祐子(えだ ゆうこ)31歳(郡山市) ・「海底を漂うコブダイ」 森 陽香(もり はるか)31歳(郡山市) ・「東京タワー」 赤埴 地洋(あかはに ちひろ)15歳(猪苗代町) ・「にじ」 喜多見 結愛(きたみ ゆあ)16歳(猪苗代町) ・「恐竜図かん」 佐藤 柊也(さとう しゅうや)15歳(猪苗代町) ・「自転車」 長谷川 恒(はせがわ わたる)26歳(いわき市) ・「竹添さん」 鈴木 和子(すずき かずこ)51歳(石川町) ・「飲みたかった」 生田目 幸作(なまため こうさく)73歳(石川町) ・「秋の森人」 正木 柚衣(まさき ゆい)23歳(いわき市) ・「大好きなネギ」 羽根田 晃(はねだ あきら)45歳(福島市) ・「だいすきなロボット〜あつまれ12このロボット〜」 小野 広夢(おの ひろむ)10歳(福島市) ・「あらしをよぶはなよめ」 大内 聖惺(おおうち まさと)11歳(本宮市)
  
 
  入選者は下記をご覧ください。
Tumblr media
 
Tumblr media
0 notes
release-info · 5 years
Photo
Tumblr media
真木よう子さんが松本・塩尻でワイナリー巡り 電子雑誌「旅色」2019年6月号公開 歴史と自然をゆったり巡る 大人が映える初夏の旅へ 無料で読める電子雑誌を発行する株式会社ブランジスタ(本社:東京都渋谷区、代表取締役社長:岩本恵了、証券コード:6176)は、真木よう子さんが表紙・巻頭を飾る、電子雑誌「旅色」2019年6月号を公開しました。 ■ 「旅色」2019年6月号 https://tabiiro.jp/  表紙・巻頭インタビューは、美しさと強さを兼ね備えた、凛とした表情が人々を魅了する女優・真木よう子さん。多忙ながらも、仕事で全国を巡る際には、地元の美味しいものを食べ、神社などのパワースポットに足を運ぶそう。今号では、城下町の風情漂う町歩きが楽しい松本市からワイナリーが並ぶ塩尻を経て、昔ながらの風景が残る「奈良井宿」への旅を満喫しています。  また、今号より3つの新連載がスタート。写真家の浅田政志さんがユニークな宿を訪ねる「写真家・浅田政志の宿旅」、“見えないもの”をテーマに小説やマンガを手がける小林エリカさんのエッセイ「旅と創造」、俳優の渋川清彦さん、代官山蔦屋書店のコンシェルジュ・間室道子さん、映画ソムリエの東紗友美さんが“旅”をテーマにおすすめの映画や本を紹介する「あの人の旅カルチャー」。ほかにも、旅に関する充実した情報を多彩な切り口でお届けします。 ■ 表紙・巻頭グラビア・インタビュー / 真木よう子 http://bit.ly/2VQT3SH  ミステリアスな雰囲気を持ちながら、時折見せる愛らしい笑顔がなんとも魅力的な女優・真木よう子さん。「旅先に求めることは、解放されること」という真木さんの心に残る旅の地は、ハワイ島だそう。「旅先ではラグジュアリーな部屋でお姫様気分を味わいたい」という意外な一面もお話してくれました。 ■ 1泊2日のRefresh Trip 真木よう子さんが案内!初夏の信州 歴史散歩とワイナリー巡り(長野県 松本・塩尻) http://bit.ly/30OI4gD  「国宝 松本城」から、信州ワインの宝庫である塩尻でワインを楽しんだあとは、「奈良井宿」へ。懐かしさと美味を同時に楽しめる信州中部を巡る旅を、真木さんが満喫します。歴史的建造物が好きだという真木さんが、「松本城」や「中町通り」で優雅に佇む姿にご注目ください。 ■【新連載】写真家・浅田政志の宿旅 Vol.1 古代生���体験村(栃木県 佐野市) http://bit.ly/2VNePXz  写真家の浅田政志さんがわざわざ泊まりに行きたいユニークな宿を訪ね、そこでしか見られない風景を切り取る写真連載。第一回は、竪穴式住居に宿泊できる「古代生活体験村」(栃木県佐野市)へ。 ■【新連載】旅と創造 小林エリカ 旅の中にだけある会話 http://bit.ly/30Ia9WB  “目に見えないもの”をテーマに小説やマンガを手がける小林エリカさんの連載がスタート。たった一度きりしか会わないからこそ、記憶に残って消えない旅人との「会話」とは。 ■【新連載】今月の旅カルチャー スペシャルインタビュー 渋川清彦さん http://bit.ly/2VMUO3q  映画『柴公園』に出演する、俳優・渋川清彦さんが旅に出たくなる映画を紹介。また、代官山蔦屋書店のコンシェルジュ・間室道子さんと映画ソムリエ・東紗友美さんが「夏の旅」をテーマにおすすめを紹介。 ■ エリアフィーチャー 「阿波徳島」(徳島県)自然美と文化に触れる初夏の旅 http://bit.ly/30KvMpj ■ テーマのある旅 ユニークな離島を巡り のんびり島時間を満喫 http://bit.ly/2VSQvDM ■ プレゼントキャンペーン 北海道「『しこつ湖 鶴雅別荘 碧の座』1泊2食付きペア宿泊券」をプレゼント http://bit.ly/30ND6jS  「旅色 厳選宿特集 北海道版」に掲載中の“支笏湖ブルー”を望む絶好のロケーションを満喫できる「しこつ湖 鶴雅別荘 碧の座」より、「1泊2食付きペア宿泊券」を1組2名様にプレゼント! ◇ 応募期間:2019年5月25日(土)~2019年6月24日(月) 次号、2019年7月号(6月25日公開)の表紙は、川島海荷さんです。 <株式会社ブランジスタ 会社概要> URL   :http://bit.ly/2mluzUo 本社所在地:〒150-0031 東京都渋谷区桜丘町20-4 ネクシィーズスクエアビル 代表者  :代表取締役社長 岩本恵了 設立   :2000年11月 事業内容 :電子雑誌出版・電子広告・ソリューションサービス 本リリースに関するお問合せ  株式会社ブランジスタ  広報担当:田口隆一 e-mail: [email protected] TEL:03-6415-1183 #真木よう子 #松本 #塩尻 #ワイナリー #長野県 #長野 #ひとり旅 #浅田政志 #小林エリカ #写真家 #渋川清彦 #仕事 #観光振興課 #旅行電子雑誌 #動画 #名産品 #歴史 #全国 #地元 #神秘的 #海 #アクティビティ #絶景 #旅行電子雑誌 #動画 #名産品インスタフォロワー #インスタグラマー #SNS映え #インスタ映え #映え #創刊 #電子雑誌 #無料 #女優 #プレゼント #読者 #インスタグラム #思い出 #アクティブ #写真 #旅写真 #撮り方 #応募 #スポット #絶景 #観光誘客 #写真映え #フォトジェニック #女優 #家族旅行 #リゾートホテル #風景 #特産 #名産 #特産品 #名産品 #ご当地グルメ #ご当地 #グルメ #ブランジスタ #地方 #観光 #宿泊 #旅館 #旅色 #旅色コンシェルジュ #ホテル #リゾート #シティ #シティホテル #旅 #温泉 #源泉かけ流し #食 #ランチ #飲食店 #レジャー #体験 #厳選 #自然 #プロモーションメディア #メディア #プロモーション #伝統 #国内 #湯めぐり #国内旅行 #食べ歩き #旅行 #雑誌 #露天 #露天風呂 #巡り #めぐり #宿泊予約 #宿 #旅先 #予約 #リラックス #ツアー #スイーツ #旅先 #大人の女性 #日本 #ウェブマガジン #ウェブ #マガジン #リーディングカンパニー #憧れの宿 #観光ガイド #お取り寄せ #レストラン #brangista #大人の女性 #贈る #12周年記念 #表紙 #グラビア #スペシャル #プレゼントキャンペーン #特集 #紹介 #衣装 #荷物 #和食 #健康食材 #食材 #ふるさと #インタビュー #日本 #1泊2日 #大人 #大人旅 #連載 #連載コラム #コラム #特別 #散歩 #風物詩 #温活 #美食 #神秘的 #神秘 #エリア #美味しい #おいしい #美味 #一人旅 #パワー #パワースポット #スピリチュアルスポット #風情ある #宿場町 #宿場 #美しい #文化 #情緒 #レトロ #街道沿い #街道 #名所 #海 #週末旅 #週末 #キャンペーン #ペア宿泊券 #1泊2日2食付き #1泊2日 #2食付き #宿泊券 #厳選宿 #新客室 #泊まれる #のんびり旅 #デスティネーション #特集 #自然 #大地の恵み #ラーメン #花 #女優 #モデル #爽やか #満喫 #魅力 #ハイキング #トレッキング #アウトドア #名湯 #肌がつるつる #モデルコース #美味しい #おいしい #食事 #美活 #隠れ家リゾート #隠れ家 #リフレッシュ #1泊2食付き #露天 #地産地消 #料理 #美味 #アート #名旅館 #ご利益 #返礼品 #パワースポット #和牛 #ラーメン #ご当地グルメ #話題 #工芸品 #文化 #伝統芸能 #パワースポット #スピリチュアルスポット #スピリチュアル #スポット #ファッション誌 #ショッピング #名店 #ブランド牛 #インスタ #町並み #マリンレジャー #宿場町 #古民家カフェ #老舗 #ノスタルジック #柑橘類 #文化庁 #日本遺産 #認定 #伝統文化 #風習 #伝承 #文化財 #地域活性化 #ストーリー #店植物性飼料 #うなぎ #国産うなぎ #国産 #宿泊券 #木工職人 #ヒノキ #檜 #子ども #ジュース #名産地 #果汁100% #ギフト #採れたて #ジェラート #合成着色料 #香料 #保存料 #一切不使用 #果物 #洞窟 #焼き魚 #刺身 #浴場 #文化遺産 #旅カルチャー #本 #映画 #長野県 #長野 #プロポーション #顔 #タレント #旅好き #カメラ #初挑戦 #果樹園 #イベント #公開 #美肌の湯 #一望 #源泉 #源泉掛け流し #湯 #神社 #城下町 #松本市 #奈良井宿 #新連載 #小説 #マンガ #エッセイ #俳優 #代官山蔦屋 #代官山 #蔦屋 #TSUTAYA #コンシェルジュ #映画ソムリエ #ソムリエ #ハワイ島 #ハワイ #ラグジュアリー #部屋 #初夏 #信州 #ワイン #信州ワイン #松本城 #国宝 #中町通り #栃木県 #佐野市 #柴公園 #阿波徳島 #徳島県 #自然美 #しこつ湖 #北海道 #鶴雅別荘 #碧の座 #ペア宿泊券 #支笏湖 #川島海荷 #離島 #阿波おどり #渦潮 #大歩危 #小歩危 #名画 #陶版画 #大塚国際美術館 #広島県 #広島 #竹原市 #式根島 #野生 #ウサギ #野生のウサギ #大久野島 #新島村 #東京都 #東京 #夏の旅 #夏旅 #支笏湖ブルー #河合神社 #下鴨神社 #京都 http://bit.ly/2EzEJbr
1 note · View note
micknomura · 1 month
Text
Tumblr media
TRANSIT 63号 インドネシア マレーシア シンガポール 熱狂アジアの秘境へ
ユーフォリアファクトリー/2024年3月発行
「バリ島案内」取材、撮影、執筆
0 notes
sasakiatsushi · 7 years
Text
慟哭と吃驚ー小島信夫と小沼丹ー
 「第三の新人」と呼ばれた作家たちの中で、小島信夫と小沼丹は、理由は異なるが、どこか収まりの悪い存在に思える。  小島信夫については言うまでもなく、彼が一九一五年生まれと「第三の新人」では最年長であり、それどころか「第二次戦後派」とされる三島由紀夫(一九二五年生まれ)や安部公房(一九二四年生まれ)、井上光晴(一九二六年生まれ)や堀田善衛(一九一八年生まれ)よりも年上、「第一次戦後派」の野間宏や梅崎春生とおない年であるという事実に依っている。これは一九一七年生まれの島尾敏雄が「第三の新人」と「戦後派」のどちらにも入れられていることがあるのに似ているが、小島にかんしては「戦後派」とされているのは読んだことがない。  「第三の新人」という呼称は、山本健吉が「文學界」の一九五三年一月号に発表した同名の論文が初出とされるが、そこで山本が取り上げている作家は「第三の新人」とはあまり重なっておらず、実際にはその後、山本を含む文芸評論家やマスコミが、この時期に文壇に登場もしくは頭角を現してきた一群の小説家たちを、この便利なフレーズの下にカテゴライズしていったということだったのだと思われる。小島は五二年に「燕京大学部隊」と「小銃」(初の芥川賞候補)を、五三年に「吃音学院」を、五四年に「星」「殉教」「微笑」「馬」「アメリカンスクール」といった力作を矢継ぎ早に発表し、五五年に「アメリカンスクール」で芥川賞を受賞する。この経歴からすれば、彼は如何にも「第三の新人」と呼ばれるに相応しい存在だった。  しかし最初期の作品集『公園/卒業式』(冬樹社/講談社文芸文庫)を繙いてみればわかるように、小島は戦前から小説を書いていたし、その中には「死ぬということは偉大なことなので」(一九三九年)のような重要な作品もある。でもまあ「小島信夫=第三の新人」という等号は、文学史的にはごく常識に属すると言っていいだろう。単に他の面子よりも年を取っていたというだけである。  これに対して小沼丹の場合は、もう少し微妙な浮き方をしている。彼も一九一八年生まれと「第三の新人」では年長組だが、そういうことよりもむしろ、存在感というかアティチュードというか、その小説家としての佇まいが、他の「第三の新人」たちとは、かなり異なった風情を持っていると思えるのである。小沼は井伏鱒二の弟子だったわけだが、彼が井伏から受け取った或る種の態度と、それは関係があるのかもしれない。比較的横の繋がりの強い印象がある「第三の新人」の中にあって、小沼は他の作家たちと親しく交流することもあまりなかった(庄野潤三とは付き合いがあったが)。年譜を見ても井伏鱒二と旅ばかりしている。しばしば言われることだが、小沼にとっては、あくまでも早稲田大学の英文学の教授が本職であって、作家活動は趣味というか余技というべきものだった、というのも、あながち間違った見方ではないだろう。もっともそれを言うなら小島信夫も英文学の明治大学教授だったのだが。  小島と同様に「第三の新人」ムーヴメントの頃の小沼の筆歴を記せば、一九五四年上半期に「村のエトランジェ」、下半期に「白孔雀のゐるホテル」、五五年上半期に「黄ばんだ風景」「ねんぶつ異聞」で、計三度、芥川賞候補に挙げられたが、受賞はしていない。ちなみにそれぞれの回の受賞者は順番に、吉行淳之介、小島信夫/庄野潤三(二名受賞)、遠藤周作と、見事に「第三の新人」で占められている。これ以後、小沼が芥川賞候補になることはなかった。ちなみに五五年下半期には石原慎太郎が「太陽の季節」で受賞し、もはや「第三の新人」が新しかった時代は過ぎ去ってしまう。とはいえ翌五六年には「第三」の近藤啓太郎が「海人舟」で受賞するのだが。  小沼の第一作品集『村のエトランジェ』(みすず書房/講談社文芸文庫)は五四年刊だが、そこには収められている小説には、四〇年代後半には原型が書かれていたものもある。同時期に彼はスティーヴンスンの翻訳や『ガリヴァー旅行記』『ロビンソン・クルーソー』の子ども向け翻案などを手掛けており、大昔の異国を舞台とする「バルセロナの書盗」や「ニコデモ」(ともに四九年)や「登仙譚」(五二年)には、そういった仕事からの影響を窺うことが出来る。  先にも述べたように、小沼丹が「白孔雀のゐるホテル」で候補になり落選した一九五四年下半期の芥川賞は、小島信夫の「アメリカン・スクール」(と庄野潤三「プールサイド小景」)だった。両作の冒頭を引用してみよう。
 大学生になったばかりの頃、僕はひと夏、宿屋の管理人を勤めたことがある。宿屋の経営者のコンさんは、その宿屋で一儲けして、何れは湖畔に真白なホテルを経営する心算でいた。何故そんな心算になったのか、僕にはよく判らない。  ……湖畔に緑を背負って立つ白いホテルは清潔で閑雅で、人はひととき現実を忘れることが出来る筈であった��そこでは時計は用いられず、オルゴオルの奏でる十二の曲を聴いて時を知るようになっている。そしてホテルのロビイで休息する客は、気が向けばロビイから直ぐ白いヨットとかボオトに乗込める。夜、湖に出てホテルを振返ると、さながらお伽噺の城を見るような錯覚に陥るかもしれなかった。  コンさんは、ホテルに就いて断片的な構想を僕に話して呉れてから云った。 ーーどうです、いいでしょう? ひとつ、一緒に考えて下さい。 (「白孔雀のゐるホテル」)
 集合時間の八時半がすぎたのに、係りの役人は出てこなかった。アメリカン・スクール見学団の一行はもう二、三十分も前からほぼ集合を完了していた。三十人ばかりの者が、通勤者にまじってこの県庁にたどりつき、いつのまにか彼らだけここに取り残されたように、バラバラになって石の階段の上だとか、砂利の上だとかに、腰をおろしていた。その中には女教員の姿も一つまじって見えた。盛装のつもりで、ハイ・ヒールをはき仕立てたばかりの格子縞のスーツを着こみ帽子をつけているのが、かえって卑しいあわれなかんじをあたえた。  三十人ばかりの教員たちは、一度は皆、三階にある学務部までのぼり、この広場に追いもどされた。広場に集まれとの指示は、一週間前に行われた打ち合わせ会の時にはなかったのだ。その打ち合わせ会では、アメリカン・スクール見学の引率者である指導課の役人が、出席をとったあと注意を何ヵ条か述べた。そのうちの第一ヵ条が、集合時間の厳守であった。第二ヵ条が服装の清潔であった。がこの達しが終った瞬間に、ざわめきが起った。第三ヵ条が静粛を守ることだという達しが聞えるとようやくそのざわめきはとまった。第四ヵ条が弁当持参、往復十二粁の徒歩行軍に堪えられるように十分の腹拵えをしておくようにというのだった。終戦後三年、教員の腹は、日本人の誰にもおとらずへっていた。 (「アメリカン・スクール」)
 小島信夫は五四年だけで実に十編もの短編小説を発表しているのだが、個人的には「アメリカン・スクール」よりも「星」や[殉教」、そして「馬」の方がすぐれていると思う。単行本『アメリカン・スクール』の「あとがき」で、小島は実際に自分がアメリカン・スクールに見学に行った経験が出発点になってはいるものの、それはごく最近の出来事(「先年」とある)であり、しかも「事件らしい事件は、その時には一つも起らなかった」と述べてから、こう書いている。「僕はこの見学を終戦後二年間ぐらいの所に置いてみて、貧しさ、惨めさをえがきたいと思った。そのために象徴的に、六粁の舗装道路を田舎の県庁とアメリカン・スクールの間に設定してみた。それから今までなら「僕」として扱う男を、群像の中の一人物としておしこめてみた」。  その結果としての、主題的な、話法的な、一種の紛れもないわかりやすさが、芥川賞の勝因だったと言ったら怒られるかもしれないが、「終戦後二年間ぐらいの所」というのだから、一九四七年頃の物語を一九五四年に(五三年の体験をもとに)執筆したこと、それから「六粁」すなわち「往復十二粁」という「行軍」の設定、そして「僕」から「群像の中の一人物」への変換(右引用の少し先で、この小説の主人公というか狂言回し的な人物は「伊佐」という男だとわかる)という三種類の「距離」の導入が、その「わかりやすさ」に寄与していることは間違いない。もちろん小説とはこういうことをするものであるわけだが、「現実」を巧妙にずらすことによって却って「現実味」を増すという操作が、ここでは見事に上手くいっている。と言いつつ、であるがゆえに、わたし的には今ひとつ物足りない気もするのだが。兎角上手くいき過ぎているものはどうもつまらない。だがそれはとりあえず置く。  これに対して小沼丹の「白孔雀のゐるホテル」の場合は、ここで夢見られているホテルの「お伽噺」めいたイメージとは裏腹に、現実の宿屋は二軒長屋を若干改造しただけの古臭くて襤褸い代物で不便この上なく、何故だか自信満々の「コンさん」に驚き呆れた「僕」は、ひと夏の間に六人以上の泊まり客が来るかどうかの賭けをすることになるのだが、その賭けの顛末が綴られてゆく物語は、この時期の小沼小説の一大テーマというべき男女の色恋がメインに据えられてはいるものの、どこか牧歌的であり、こう言ってよければ妙に非現実的な「お伽噺」ぽさの内に全編が展開されるのである。つまりこの小説には「アメリカン・スクール」にあったようなリアリティへの配慮と戦略が著しく欠けている、というかそれはほとんど顧みられていないようにさえ見える。小沼丹がやろうとしているのは、もっとあからさまに「物語」らしい小説であり、その意味では「文学」らしからぬ小説なのである。そのせいで芥川賞を得られなかったのかどうかはよくわからないが、この作風は「第三の新人」においてはやはり異色である。  それは「村のエトランジェ」や、二編と同年発表の「紅い花」など、この頃に書かれた多くの作品にも言える。「エトランジェ」は衝撃的な殺人の目撃シーンから始まるが、現在の感覚からするとまだほとんど子供と言っていい「中学一年坊主」の「僕」の視点から、戦時中に田舎に疎開してきた美人姉妹と若い詩人とのロマンス、そのドラマチック過ぎる結末が、しかしやはりどこか牧歌的な雰囲気の中で物語られる。「紅い花」の舞台は「戦争の始る三年ほど前」だが、「大学予科生」の「僕」によって、郊外の山小屋を借りて独り暮らしを始めた「オスカア・ワイルドのように真紅のダリアを一輪飾った女」の波乱に富んだ恋愛模様が、おそるべきショッキングなラストに向かって物語られてゆく。いずれも極めて人工的なお話になっており、特に「紅い花」には一種の心理サスペンス風ミステリの趣がある。そして実際、この数年後の五七年から五八年にかけて、小沼丹は雑誌「新婦人」に「ニシ・アズマ女史」を探偵役とするユーモラスな短編を連作し、その後も何作かミステリ小説を発表している(「ニシ・アズマもの」は『黒いハンカチ』として一冊に纏められている。ミステリ作家としての小沼の側面にかんしては同書創元推理文庫版の新保博久氏の解説に詳しい)。ミステリに留まらず、五〇年代末から六〇年代頭の小沼はいわゆるジャンル小説にかなり接近しており、当時隆盛を迎えていた「宝石」「オール読物」「小説中央公論」などの中間小説誌にも作品を書いている他、六一〜六二年には新聞小説としてユーモア長編『風光る丘』を連載している。ジャンル的な方向性や出来映えの違いはあるが、デビュー以来、この頃までの小沼の小説は、おしなべて物語的、お話的なものであり、言い替えればそれは、どこか浮き世離れした雰囲気を持っていた。ところが、よく知られているように、この作風は、その後、大きく変化を見せることになる。  一九六三年の四月に小沼丹の妻・和子が急逝する。彼は娘二人と現世に残された。翌六四年には母親も亡くしている。そして同年五月に、のちに「大寺さんもの」と総称されることになる連作の第一作「黒と白の猫」が発表される。  この小説は、次のように始まる。
 妙な猫がいて、無断で大寺さんの家に上がりこむようになった。ある日、座敷の真中に見知らぬ猫が澄して坐っているのを見て、大寺さんは吃驚した。それから、意外な気がした。それ迄も、不届な無断侵入を試みた猫は何匹かいたが、その猫共は大寺さんの姿を見ると素早く逃亡した。それが当然のことである、と大寺さんは思っていた。ところが、その猫は逃出さなかった。涼しい顔をして化粧なんかしているから、大寺さんは面白くない。  ーーこら。  と怒鳴って猫を追つ払うことにした。  大寺さんは再び吃驚した。と云うより些か面喰つた。猫は退散する替りに、大寺さんの顔を見て甘つたれた声で、ミヤウ、と鳴いたのである。猫としては挨拶の心算だったのかもしれぬが、大寺さんは心外であった。 (「黒と白の猫」)
 以前から身辺雑記的なエッセイは発表していたが、この作品によって小沼丹はいわば「私小説的転回」を果たしたとされることが多い。淡々とした、飄々とした筆致から「大寺さん」の、とりたてて劇的な所のない平凡な日常が浮かび上がり、いつの間にか自宅に上がり込むようになった猫の話が綴られてゆくのだが、小説の後半で「大寺さん」は妻を突然に亡くす。しかしそのことを伝える筆致もまた、どこか淡々と、飄々としている。事情を知る読者は、おそらく作家自身に現実に起こったのも、こんな感じであったのかもしれないと思う。そしてこの作品以後、かつてのような人工性の高い「お話」は、ほとんど書かれなくなってゆく。これが多分に意識的な「転回」であったのだということは、次の文章でもわかる。
 小説は昔から書いているが、昔は面白い話を作ることに興味があった。それがどう云うものか話を作ることに興味を失って、変な云い方だが、作らないことに興味を持つようになった。自分を取巻く身近な何でもない生活に、眼を向けるようになった。この辺の所は自分でもよく判らないが、この短編集に収録してある「黒と白の猫」という作品辺りから変わったのではないかと思う。 (「『懐中時計』のこと)
 作品集『懐中時計』は一九六九年刊。右は九一年に講談社文芸文庫に収められた際に附された「著者から読者へ」より抜いた。この先で「黒と白の猫」についてあらためて触れられているのだが、それは(明記されていないが)一九七五年発表の「十年前」というエッセイの使い回しとなっている。なので以下は同エッセイ(『小さな手袋』所収)から引用する。「十年前」とは勿論「黒と白の猫」が書かれた時のことである。
 日記には「黒と白の猫」を書き終わって、一向に感心せず、と書いているが、これはそのときの正直な気持ちだろう。尤も書き終って、良く出来たと思ったことは一度も無いが、この作品の場合は自分でもよく判らなかったような気がする。よく判らなかったのは、主人公に初めて「大寺さん」を用いたからである。  突然女房に死なれて、気持の整理を附けるためにそのことを小説に書こうと思って、いろいろ考えてみるがどうもぴったり来ない。順序としては一人称で書いたらいいと思うが、それがしっくりしない。「彼」でも不可ない。しっくりしないと云うよりは、鳥黐のようにあちこちべたべたくっつく所があって気に入らなかった。此方の気持の上では、いろんな感情が底に沈殿した上澄みのような所が書きたい。或は、肉の失せた白骨の上を乾いた風邪が吹過ぎるようなものを書きたい。そう思っているが、乾いた冷い風の替りに湿った生温い風が吹いて来る。こんな筈ではないと思って、一向に書けなかった。  それが書けたのは、大寺さん、を見附けたからである。一体どこで大寺さんを見附けたのか、どこから大寺さんが出て来たのか、いまではさっぱり判らない。 (「十年前))
 「兎も角「僕」の荷物を「大寺さん」に肩代りさせたら、大寺さんはのこのこ歩き出したから吻とした。しかし、出来上がってみると、最初念頭にあった、上澄みとか、白骨の上を吹く乾いた風の感じが出たとは思われない。それで一向に感心せずとなったのだろう」と小沼は続けている。ここでわたしたちは、小島信夫が「アメリカン・スクール」について「今までなら「僕」として扱う男を、群像の中の一人物としておしこめてみた」と語っていたことを思い出す。つまり小島も小沼も、一人称を架空の固有名詞に変換することによって、或る転回を成し得ている。興味深いことに、「私」で/と書くのを止めることが、むしろ「私/小説」を誕生、もしくは完成させているのである。  「アメリカン・スクール」前後の小島信夫の小説で、一人称の「僕」もしくは「私」で書かれていないのは、他には「声」(一九五五年)など数える程しかない。一九五五年には初の長編小説『島』の連載が「群像」で開始されるが、これも人称は「私」である。そして長編小説にかんしてみると、続く『裁判』(一九五六年)、『夜と昼の鎖』(一九五九年)、『墓碑銘』(一九六〇年)、『女流』(一九六一年)は全て一人称で書かれている。そして小島が初めて三人称で書いた長編小説が、他でもない『抱擁家族』(一九六五年)なのである。その書き出しは、次のようなものである。
 三輪俊介はいつものように思った。家政婦のみちよが来るようになってからこの家は汚れはじめた、と。そして最近とくに汚れている、と。  家の中をほったらかしにして、台所へこもり、朝から茶をのみながら、話したり笑ったりばかりしている。応接間だって昨夜のままだ。清潔好きの妻の時子が、みちよを取締るのを、今日も忘れている。  自分の家がこんなふうであってはならない。…… (『抱擁家族』)
 この「三輪俊介」は『抱擁家族』から三十二年後の一九九七年に刊行された長編『うるわしき日々』に(それだけの年を取って)再登場する。当然のことながら、一人称で書かれているからといって作者本人とイコールでないのと同じく、三人称で書かれているからといって作者とまったく無関係��は限らない。小島の他の長編小説、たとえば大作『別れる理由』(一九六八〜八一年まで連載)の「前田永造」であるとか『美濃』(一九八一年)の「古田信次」であるとかも、基本的には「小島信夫」の別名であると言ってしまって構わない。これはあらためてじっくりと論じてみたいと思っていることだが、日本文学、少なくとも或る時期以降の「日本」の「文学」は、煎じ詰めればその大半が広義の「私小説」である。それは人称の別にかかわらず、そうなのだ。その中にあって小島信夫は、かなり特異な存在だと言える。何故ならば小島は、自身の人生に材を取って膨大と言っていい小説を書いたのみならず、それらの小説群によって自らの人生自体をも刻々と小説化=虚構化していったからである。だが本稿ではこの点にはこれ以上は踏み込まず、小沼丹との比較対照に戻ることにする。それというのも、言うまでもないが『抱擁家族』でも「三輪俊介」の妻が亡くなるからである。  『抱擁家族』は、前半では「三輪俊介」の妻である「時子」と、三輪家に出入りしていたアメリカ兵ジョージとの姦通(次いで三輪家の二番目の家政婦である「正子」と息子の「良一」も関係を持つ)によって生じた「家/族」の危機が、後半では「時子」が癌に罹り月日を経て死に至るまでと、それ以後が描かれる。現実の小島信夫の最初の妻・キヨは、一九六三年十一月に数年の闘病生活の末に亡くなっている。これは小沼丹の妻の死の半年後のことである。小島信夫の代表作、おそらく最も有名な作品であろう『抱擁家族』は発表以来、さまざまに読まれてきた。言わずもがなではあるが、よく知られた論としては、実質的に「第三の新人」論と呼んでいい江藤淳『成熟と喪失』(一九六七年)が挙げられるだろうが、今から見れば些か過剰に社会反映論的とも思えるそこでの江藤の立論は、たとえ当たっていたとしてもわたしにはあまり面白くはない。今のわたしに面白いのは、たとえば小島の最初の評論集である『小島信夫文学論集』(一九六六年)収録の「『抱擁家族』ノート」における、次のような記述である。
 時子の死ぬところがうまく行かない。つまらない。自然の要素が強すぎる。  しかし、ここをとるわけには行かない。一応こういう自然の時間を追うスタイルの小説だからである。
 小説の推移、一つ一つの会話がそのまま混沌としていて、しかも人生そのものというようにすべきである。そのくらい複雑でなければ、こういう問���を書く意味がない。 (「『抱擁家族』ノート」)
 二つの断片を引いた。この「ノート」は、小島が実際に『抱擁家族』執筆に当たって作成した創作メモがもとになっているそうだが、最後の一文に「俊介は狂っている」とあり、思わず戦慄させられる。周知にように、小島信夫は小説と同じくらい、ことによるとそれ以上の労力を傾注して多数の小説論を書いた作家だが、自作にかかわる論においては常に、右の引用に示された紛れも無いパラドックスをめぐる葛藤が旋回している。すなわち「小説」と「自然の時間=人生そのもの」との、ややこしくもあり単純でもある関係性が孕むパラドックスである。それは小沼丹が「突然女房に死なれて、気持の整理を附けるためにそのことを小説に書こうと思って、いろいろ考えてみるがどうもぴったり来ない。順序としては一人称で書いたらいいと思うが、それがしっくりしない」と悩んだあげくに、ふと「大寺さん」を発見したのと同じことである。  それならつまり、小島信夫も小沼丹も、自らの実人生に起きた、たとえば「妻の死」という決定的な出来事、悲劇と呼んで何ら差し支えあるまい出来事を、如何にして「小説」という虚構に落とし込むかという試行に呻吟した結果、それぞれにとっての小説家としてのブレイクスルーを成す『抱擁家族』と「黒と白の猫」という「三人称の私小説(的なるもの)」が産み落とされたのだ、と考えればいいのだろうか。それはまあそうなのだが、しかし両者の対処の仕方は、一見すると対照的である。『抱擁家族』では、夫である「三輪俊介」が、妻である「時子」の死に対して激しく動揺し、狼狽し、慟哭するさまが執拗に描かれている。その様子は勿論シリアスなものではあるが、しかし同時に奇妙な諧謔味を湛えてもおり、そしてその諧謔がぐるりと廻って哀しみを倍加する、というようなものになっている。それは名高い「私の妻は病気です。とても危いのです。その夫が私です」という台詞に象徴されているが、そこに作家自身の生の感情が吐露されていると考えてはならない。「アメリカン・スクール」で施されていたのと同様の戦略と計算が、ここにはより大胆かつ精妙に働いている。  たとえば次の場面には、小島の独特さが現れている。
 病院での通夜までの間に一時間あった。その間、彼は病院の玄関に立っていた。涙がこみあげてきて、泣いているとうしろで廊下をするような足音がした。ふりかえるとカトリックの尼が、トイレから出てきたところで、トイレのドアがまだ動いているところであった。  二人の尼は俊介のところへおびえるようにして近よってきた。 「お亡くなりになったそうで」  眼から涙がこぼれおちてくる、と俊介は思った。 「先日はどうも」  と彼は口の中でいった。 「祈ってあげて下さい」  と若い女の方がいった。 「それは僕も祈りつづけてきたのですが、祈る相手がないのですよ。だからただ祈り、堪え、これからのことを考えるだけです」 「あなたは、今、神に近いところにおいでになりますよ」 「なぜですか」  俊介は尼について歩きはじめた。 「家内に死なれたからですか。これは一つの事業ですよ。その事業をぶざまになしとげただけのことですよ」  俊介の涙はとまった。 「ただ僕は子供がふびんで……これからどうして暮して行ったらいいのだろう。ずっと前から予想していたが、やっぱり思いがけないことが起きたのです」 (『抱擁家族』)
 「『抱擁家族』ノート」には、こうある。「カトリックの尼を出す。時子は求めているらしいのに、追払う。こういう錯覚、洞察力のなさが俊介にはある。神の問題は、この程度にしかあらわれない。そういうこと、そのことを書く」。これはつまり、敢て、故意にそうしている、ということである。小島は、あくまでも意識的なのである。小島は「演劇」にも関心の深かった作家だが、ある意味で「三輪俊介」は、演劇的に慟哭してみせているのだ。  小島信夫は徹底して方法的な作家であり、彼の方法意識は『抱擁家族』でひとつの極点に達し、それから数十年をかけて、ゆっくりと小島信夫という人間そのものと渾然一体化してゆくことになるだろう。従って、それはやがて「方法」とは呼べなくなる。だが、ともかくも言えることは、『抱擁家族』という小説が、たとえ表面的/最終的にはそう見えなかったとしても、実際には精巧に造り込まれた作品なのだということである。以前の作品と較べて、明らかにスカスカを装った文体や、一読するだけではどうしてそこに置かれているのかよくわからない挿話、あまり意味のなさそうな主人公の述懐さえ、周到な準備と度重なる改稿によって編み出されたものなのである。  小沼丹の「大寺さんもの」は、「黒と白の猫」に始まり、計十二編が書かれた。最後の「ゴムの木」の発表は一九八一年なので、実に十七年にわたって書き継がれたことになる。いずれも、ほぼ作家と等身大とおぼしき「大寺さん」の日々が綴られている。そこでは確かに、お話を「作らないこと」が慎ましくも決然と実践されているようであり、また「自分を取巻く身近な何でもない生活に、眼を向け」られていると読める。この意味で、小沼の姿勢は小島信夫とは些か異なっているかに思える。  だが、ほんとうにそうなのだろうか。「黒と白の猫」の、今度は末尾近くを読んでみよう。
 大寺さんは吃驚した。  例の猫が飼主の家の戸口に、澄して坐っているのを発見したからである。大寺さんは二人の娘に注意した。娘達も驚いたらしい。  ーーあら、厭だ。あの猫生きてたのね。  ーーほんと、図々しいわね。  この際、図々しい、は穏当を欠くと大寺さんは思った。しかし、多少それに似た感想を覚えないでもなかった。大寺さんもその猫は死んだとばかり思っていたから、そいつが昔通り澄しているのを見ては呆れぬ訳には行かなかった。 (「黒と白の猫」)
 この短編を、そして続く「大寺さんもの」を読んでゆく誰もが気付くこと、それは「大寺さん」が、やたらと「吃驚」ばかりしていることである。もちろん小沼丹の小説には、その最初期から「吃驚」の一語が幾度となく書き付けられてはいた。たとえば「村のエトランジェ」の冒頭も「河の土堤に上って、僕等は吃驚した」である。『黒いハンカチ』の「ニシ・アズマ」も、一編に一回は「吃驚」している。だが、それでも「大寺さんもの」における「吃驚」の頻出ぶりは、殆ど異様にさえ映る。なにしろ「大寺さん」は、悉く大したことには思えない、さして驚くには当たらない小さな出来事にばかり「吃驚」しているのだ。そして/しかし、にもかかわらず「大寺さん」は、真に不意打ちの、俄には信じ難い、受け入れ難い出来事に対しては、むしろ淡々としている。その最たるものが、身近な者たちの「死」に向き合う態度である。「黒と白の猫」には「細君が死んだと判ったとき、大寺さんは茫然とした。何故そんなことになったのか、さっぱり判らなかった」とある。彼は「茫然」としはするが、そのあとはせいぜい「しんみり」するくらいで、取り乱すことも、泣くこともない。「茫然」は、あっさりと恬然に、超然に席を譲るかにさえ思える。演劇的なまでにエモーショナルな『抱擁家族』の「三和俊介」とは、まったくもって対照的なのである。つまり「大寺さん」の「吃驚」は、実際の出来事の強度とは殆ど反比例しているのだ。  「大寺さんもの」第三作の「タロオ」(一九六六年)は、タロオという飼犬のエピソードで、最後にタロオは知人のAの所に貰われてゆく。
 大寺さんがタロオを見たのは、それが最后である。タロオはその后十年以上生きていて死んだ。死ぬ前の頃は、歯も悉皆抜けて、耳も遠くなって、大分耄碌していたらしい。老衰で死んだのである。  その話を大寺さんはAから聞いた。  ーータロオが死んだとき、とAは云った。お知らせしようかなんて、うちで話していたんです。そしたら、奥さんがお亡くなりになったと云うんで、吃驚しちゃいまして……  ーーうん。  大寺さんの細君はその二ヶ月ばかり前に突然死んだのである。 (「タロオ」)
 ここには「吃驚」の一語があるが、それは「大寺さん」のものではない。この短編で妻の死が持ち出されるのはこのときが最初で、そしてこれだけである。あと数行で、この小説は終わる。「……タロオをルック・サックに入れて持って来て呉れたTも、五、六年前に死んだっけ、と思った。そして、みんなみんないなくなった、と云う昔読んだ詩の一行を想い出したりした」。この幕切れは寂寞としてはいるが、哀しみと言うにはやはり妙に飄然としている。  「大寺さんもの」を通して、小沼丹は繰り返し繰り返し、幾つもの「死」を話題にする。それは疑いもなく作家自身が「身近な何でもない生活」の中で現実に出逢った「死」がもとになっている。要するに「大寺さんもの」とは、死をめぐる連作なのだと言ってもいいくらいに、そこでは死者たちの思い出が語られている。しかし、にもかかわらず、小沼の筆致はその点にかんしては、いや、とりわけそれに限って、只管に抑えられており、そしてその代わりに、彼の言う「何でもない生活」の周囲に、夥しい数の「吃驚」が配されているかのようなのだ。  だとしたら、これは、これもまた、一種の「お話」と言ってしまっていいのではあるまいか。小沼丹は「黒と白の猫」で変わったわけではなかった。彼の創意と技術は、むしろ以前よりも研ぎ澄まされていったのだ。小島信夫とは別の「方法」によって、だが底の底では極めてよく似た動機に突き動かされて、小沼は「大寺さん」というキャラクターを造り上げていったのではなかったか。その「動機」とは、受け入れ難いのに受け入れなくてはならない出来事を受け入れざるを得なかった、この自分を虚構化=小説化する、ということだった。  「大寺さんもの」の最終篇「ゴムの木」の終わりを引用して、本稿を閉じることにしたい。「黒と白の猫」が「黒と白の猫」のお話だったように、「タロオ」が「タロオ」のお話だったように、これは「ゴムの木」のお話である。
 いつだったか、大寺さんの娘の秋子が、ちっぽけな男の子を連れて大寺さんの家に遊びに来たとき、何かの弾みで想い出したのだろう、  ーーウエンズさんに頂いたゴムの木、どうしたかしら? まだ、あります?   と訊いた。  ーーあれだ。  と大寺さんが教えてやると、  ーーまあ、驚いた。あんなに大きくなったの……。  と眼を丸くした。大寺さんも何となくゴムの木を見ていたら、青い葉の傍に恨めしそうな眼があったから吃驚した。 (「ゴムの木」)
 最後の「吃驚���に、わたしは思わず吃驚した。この「眼」はいったい何なのか、まったく説明はない。まるで「村のエトランジェ」の頃に戻ったかのようではないか。しかしこれ以降、小沼丹の小説は、ますますエッセイと見分けがつかなくなってゆく。彼は一九九六年、七七歳で没した。「ゴムの木」が書かれたのと同じ一九八一年、小島信夫は大作『別れる理由』の連載を終え、『女流』の続編である『菅野満子の手紙』の連載を始め、『美濃』を刊行した。小島は二〇〇六年、最後の長編『残光』を発表し、それから間もなく亡くなった。九一歳だった。
(初出:三田文学)
6 notes · View notes
hint-lab · 4 years
Text
アートは決して都市の「飾り」ではない。清水敏男と中村康浩が語る、東京ミッドタウンのパブリックアート
デザインとアートを通して、日本の新たな価値や感性を世界へと発信してきた東京ミッドタウン。ここには、清水敏男とジャン=ユベール・マルタンが世界で活躍するアーティストを選定、プロデュースしたパブリックアート作品が19点展示されている。そして今年3月29日、ここに、パブリックアート恒久設置コンペ「The Best of the Best TMA Art Awards」によって選ばれた石山和広の作品が20点目の作品として新たに加わる。東京ミッドタウンにとってパブリックアートが持つ意味とは。そして、都市とアートの関係性とは? 国内外で多岐にわたってアートワークをプロデュースしてきた清水敏男と、東京ミッドタウンマネジメント株式会社 代表取締役社長の中村康浩がそれぞれの思いを語る。
聞き手・構成=藤生新 ポートレイト撮影=池ノ谷侑花(ゆかい)
安田侃《意心帰》(2006)の前で。左から中村康浩、清水敏男
「アート優先」で設計された東京ミッドタウン
──2007年3月にオープンした東京ミッドタウンは、いまや六本木のランドマークのひとつとして幅広い人々に親しまれています。東京ミッドタウンはどのような理由でオープンし、そのなかでのアートの位置づけはどのようなものだったのでしょうか?
中村康浩 東京ミッドタウンのある場所にはもともと防衛庁があって、そのさらに前は陸軍駐屯地、萩藩毛利家の下屋敷と、過去400年間にわたって一般の人が足を踏み入れることのできない土地でした。長年パブリックに解放された歴史も文化もない地域の再開発として、東京ミッドタウンは始まりました。
 そのときに立てられたコンセプトのひとつが「デザイン&アート」。土地に根ざした開かれた歴史も文化もなかったからこそ、アートの力でそれを新しくつくっていこうという構想が生まれ、その中でパブリックアートディレクターの清水敏男さんに関わっていただくことになりました。
清水敏男 コンペプランが発表された際、ジャン=ユベール・マルタン(ポンピドゥー・センター元館長)がアーティストとのコミッションワークを数多く行っていたので、経験豊富な彼とともに提案することにしました。結果、パブリックアートディレクターとして、この再開発に関わることになりました。
 パブリックアートについては、2人だけですべてを決めるのではなく、マスターアーキテクトを担当したアメリカの建築設計事務所のSOM、コアアーキテクトを務めた日建設計、商業棟をデザインしたCommunication Artsと隈研吾建築都市設計事務所、ランドスケープデザインを担当したEDAW(現AECOM)など、複数のチームに対して、私たちアートディレクションチームから様々な提案を投げ掛けて、その都度ディスカッションしながら揉んでいくという作業になりました。
 とくにSOMはアートに対して寛容で、なにか提案をすると「じゃあアート優先で」とデザインを変更してくれたり、ランドスケープのEDAWも「それなら丘の形を変えよう」と逆提案してくれたり、全体的にとても柔らかい発想で作業を進めることができたのが印象的でしたね。
──とても良い雰囲気でプロジェクトを進められたのですね。
清水 そうですね。あと、再開発にアートを取り入れる場合、アートは最後の「飾り」になってしまうことがほとんどです。でも東京ミッドタウンの場合、コンセプトありきで設計段階からアートディレクターとつくり込んでいくという姿勢があり、そうした協働の形態はとても珍しいものでした。
──どのくらいの期間をかけてプロジェクトを進行されたのでしょうか?
中村 2001年にスタートして、2007年のグランドオープンまでに6年かかりました。清水さんには2004年から参加していただいたのですが、それというのも、ディベロッパーだった三井不動産の当時の社長がアートへの強い想いを持っていたからでした。
清水 それはとても大きかったですね。経営のトップがまずアートのことを考えて意志決定してくださったので、私たちとしてはディレクションに集中することができました。
アートが土地の歴史をつくる
──設置作品はどのような判断で決定されたのでしょうか?
清水 東京ミッドタウンの全体のヴィジョンに基づき、「ハイブリッド・ガーデン」というコンセプトをたてました。様々な文化的な出自を持つアーティストたちの作品が混合した「新しい日本庭園」をつくるというイメージを持っていました。
 そのため国内外で幅広い調査を行い、アーティストたちとも直接会って��ンセプトを提案し、反対にアーティストの側からは作品のプランを提案してもらい、実現できたものもできなかったものもありますが、数多くのディスカッションを積み重ねていきながらプランを固めていきました。
──リサーチ段階から大変な労力をかけられていたのですね。
清水 そうですね。それに、アーティスト、建築家、ゼネコン、施工業者など、これだけ多くの人々が協働するプロジェクトはとても珍しく貴重なものでした。
──実際に設置されたパブリックアートに対する反響はいかがでしたか?
中村 東京ミッドタウンは3月30日で12周年を迎えます。先日とある雑誌で六本木が特集されたんですが、そこで紹介されたデートコースの中で東京ミッドタウンが基点になっていて、「まず安田侃の作品前で待ち合わせしましょう」みたいに紹介されているなど、作品が街のなかに自然と溶け込んでいることを実感しています。
清水 パブリックアートは展覧会の作品と違って、元々どこかにあったものを持ってきているわけではありません。そうではなく、最初からその場所にあって土地の歴史を形成するものです。東京ミッドタウンの土地はもともと歴史的には貧しいところでしたが、アートがまさしくそれを形づくっているんですよね。
中村 歴史と言えば、すぐ近くの赤坂は古い町なのでたくさんの町会があるんですが、ここにはそれがなかったので「東京ミッドタウン町会」をつくって、いま私が町会長を務めています(笑)。まさに「地元」としてこの土地と付き合うことが始まっているわけです。
「ハイブリッド・ガーデン」に加わる新たな作品
──2008年からは「TOKYO MIDTOWN AWARD(TMA)」が行われてきました。アワードの取り組みも開始から10年以上が経ち、過去のアートコンペ受賞者を対象にした「The Best of the Best TMA Art Awards」が実施され、新たに恒久設置される作品が選定されました。まずはその狙いについて教えていただけますか?
中村 2008年から実施してきたアワードも2017年で10回目を数え、このタイミングでひとつの総括をしたいなという想いがありました。それはアートだけではなく、ミッドタウン全体を総括するというなかのひとつで、これまでの10年を振り返ることによって次の10年に繋げようという狙いがあったんです。TOKYO MIDTOWN AWARDでは毎年たくさんのアーティストをバックアップしてきましたが、最近になってようやく世界的に活躍する作家も出てきています。
清水 このコンペはアーティストにとっては「鍛えられる」ものなんです。39歳以下であることが応募条件ですが、その年齢だとパブリックスペースに作品を設置する経験もみな少ないので、耐久性、クオリティ、場所との関係など、単純に「つくること」以外の要素もたくさん考えなければならないんです。
 しかしそれら厳しいハードルを乗り越えてきた作家たちから、さらに今回「The Best of the Best」として一人のアーティストを選出しました。グランプリには石山和広さん(2010年受賞者)が選ばれたのですが、これから何十年と作品が設置されることになるので、繰り返し繰り返しディスカッションを重ねてグランプリを決定しました。
──そこで考慮されるべきは、作品の内容だけではないということなんですね。
中村 そうですね。アーティストは表現する思考だけでなく素材に対する深い理解も持っていないといけないということが分かりました。
 私も審査員として「The Best of the Best」に立ち会ったのですが、興味深かったのは、審査員の方々がとても熱く議論されていたことでした。今回だけでなくTOKYO MIDTOWN AWARDの審査の際も、みなさんお互いにリスペクトしているからこそだと思いますが、アートの門外漢である私から見るとまるで喧嘩しているみたいで。最初は、これ、まとまるのかなと不安に思ったくらいでした(笑)。様々な議論が本当に白熱していましたね。
​──主にどんなポイントで議論が白熱したのでしょうか?
清水 いろいろありましたが、例えばキュレーターとアーティストの視点で意見が分かれたり、「このアーティストが今後どうなるのか」ということを予想する上で、みなさんそれぞれのご経験から見解が全く異なったので、すり合わせを行うのが難しく、しかし面白い議論が行われました。
──最終的に石山さんがグランプリに選ばれた理由はどのようなものでしたか?
清水 それぞれの審査員によって意見は異なりますが、「作品とコンセプトの一致」という点では全員が共通して認識していたと思います。反対に「コンセプトはいいけど作品がいまいち」というケースもありましたが、石山さんの作品はその点で最もバランスよくプランニングされていました。
中村��私などは最初「ただの写真でしょ」くらいに思っていたんですが、実際にできあがった作品を見て圧倒されてしまいました。大きさだけを見ても異様な感覚を覚えましたね。このできあがりのイメージを審査員の先生方は最初から想像して議論されていたのだと思います。さすがですね。
清水 あの作品(《絵画からはなれて[磊](らい)》)は、実際のところ写真というよりもコンピュータグラフィックスなんですね。普通写真を撮ると焦点がどこかしらありますが、この作品はCGなので全てのディティールに焦点が合っています。なので肉眼の体験とはまったく異なるわけです。
 さらにコンセプトも優れていました。日本の床の間では山水画と水石と草花を飾るのがひとつの典型ですが、それは家の中に「山の気」を呼び込むための装置でもあります。この作品もそれと同じ発想を持っていて、東京ミッドタウンという「書院」の中に「山の気」を取り込む作品であると考えることもでき、「ハイブリッド・ガーデン」という庭園全体のテーマにもしっかり応答していました。
アートの持つ力
──アートと都市の関係について、お二人はどのような理想を思い描かれていますか?
中村 私はあくまでデベロッパー側の人間ですが、最近になってアートと関わらせていただいている中で、「豊かさ」について考えることが増えています。
 いまはもうなくなりましたが、かつて三井不動産が「都市に豊かさと潤いを」というステートメントを掲げていました。その言葉が私は好きで、じつはアートがその「豊かさと潤い」なのではないかなと思っています。デベロッパーとしては都市の豊かさについて常に考えていきながら、街づくりに取り組んでいくことが大切になると考えています。
清水 街は歴史の積み重ねでできていて、例えば街角に古い祠や寺院が残っていることがありますよね。ところが、新しい街にはそれがない。そこでアートやデザインが歴史の積層の代わりとなるのではないかと思っています。
 というのも、アートって基本的には「よくわからないもの」ですよね。でもそんなものが人間には必要で、中村さんが仰るように、それは人の心に潤いを与えてくれるものでもあると思います。
 最近よく仕事で中国に行くんですが、そこかしこがニュータウンだらけなんですね。それでデベロッパーの若手社員に話を聞いてみると、じつは誰もその街に住んでいなかったりします。なぜかと聞いてみると、口々に「ここは寂しくて住む気がしない」と言うんですよ。自分でつくっておいてダメじゃんとは思いますが(笑)、それくらい街には文化や心のゆとりが必要であるということなんですね。
中村 その点について私が思うのは、豊かになったから心のゆとりができるのではなく、その逆もあるんじゃないかということです。
 山口県宇部市にときわ公園というところがあるのですが、そこでは1961年から「UBEビエンナーレ」という野外彫刻の公募展が開かれています。現在も半世紀以上にわたって続けられているので、公園には作品を置ききれなくなっていて、市全体に200体くらいの彫刻が設置してあるそうです。
 なぜそんな試みが始められたかというと、ビエンナーレが始まった当時、高度経済成長期の宇部市はコンビナートだらけの「公害の街」だったんですね。そんなマイナス・イメージを塗り替えるべくビエンナーレが始められたそうですが、アートの持つ力はすごいもので、半世紀以上続けられていくなかで、いまではすっかり街のイメージもポジティブに変わりました。
清水 そういった機会は街にとってもそうですが、アーティストにとっても貴重な場だと思います。例えば関根伸夫も、宇部で20代のときに力作を発表したあとで世界的なアーティストになりました。ある意味そこで鍛えられて美術の流れを変えるに至ったとも言えるわけですから、よく考えてみるとすごいことですよ。
中村 たしかに宇部の街からはそんなパワーを感じました。それと同じことを私たちも東京で行えたらと思いますし、もともとそこには何もなかった東京ミッドタウンだからこそ、それを行うためのポテンシャルを秘めていると感じています。
──アートと都市のこれからを考える上で、貴重なお話をうかがうことができました。本日はお二人ともありがとうございました。
0 notes
shiro-absence · 6 years
Quote
著名なエスペラント由来のネーミング[編集] 「エスペラント (曖昧さ回避)」も参照 企業・団体別[編集] 旭化成不動産レジデンス - 展開しているマンションのシリーズに「(ラ)フェリオ」(〔La〕 Ferio)というものがある。エスペラントで「休日、祝日」の意(より正しくカタカナ表記するなら「フェリーオ」である)[13]。 アニミ - 横浜市西区みなとみらいに本拠地をおくNPO法人(カフェ併設)。animi とは「生命を吹き込む」という意味。[14] ラボリ - animi の就労支援プロジェクトの名前。labori とは「働く」という意味。 アミーコ - 神奈川県横浜市中区弁天通にある喫茶店。エスペラントで「友達」の意(店名のスペルが“Amiko”である為、イタリア語の“Amico”ではない事は確かである)。 アムレテロン -(Amleteron, より正しくカタカナ表記すれば「アムレテーロン」)東京都杉並区高円寺(正確には高円寺北)にある古書店。エスペラントの「ラブレターを」より(謳い文句によれば「読書と手紙にまつわるお店」)。[15] アルタ・モント-バッグ・ジャケットなどのアパレル・ブランド。本社が岐阜県の高山市にある為、エスペラントで「高い山」を意味する "Alta Monto" より命名された。 アルバーロ(Arbaro)動物病院 - 東京都町田市森野に在る動物病院(獣医)。エスペラントの「森」より。[16] アルボ(Arbo)- 札幌市中央区大通り西にある喫茶店・カフェ。エスペラントで「木・樹木」を意味する“Arbo”より。 株式会社 ARBO(アルボ)- 大阪市北区 芝田にある、店舗・オフィスの内装デザインとその施工・プロデュース、家具・家電のレンタルの会社。上記同様、エスペラントで「木」の意より。[17] イグニッション・エンターテイメント - 2011年4月28日に発売されたゲームソフト「エルシャダイ」に登場する、悪役キャラクターの“Nokto”(ノクト)。エスペラントの「夜」より。 イッセイ・ミヤケ OVO - 三宅一生プロデュースの腕時計。エスペラントで「卵」を意味するovo(オーヴォ)に由来する。デザインは工業デザイナーの山中俊治である。 Irizo (イリーゾ) - 東京都豊島区南池袋(最寄り駅は東京メトロ雑司が谷駅)に在るリラクゼーションサロン。エスペラントの「虹色の輝き」「虹色の色彩」「虹の色合い」より命名。 Irizo (イリーゾ) - 東京都江戸川区西葛西に在る美容院。上記同様、エスペラントの「虹色の輝き」「虹色の色彩」「虹の色合い」より命名。 VIVO(ヴィヴォ) - 1959年から1961年まで存在した写真家集団。生命を意味する vivo(ヴィーヴォ)に由来。 Virina(ヴィリーナ)- 東京都港区西麻布に在る、マタニティウェア(妊婦服)を中心とした女性用品店・ブティック。エスペラントの「女性の」という形容詞より。[18] Eskapi (エスカピ) - 京都市下京区にあった多国籍料理・無国籍料理のカフェ・レストラン。エスペラントで「逃避する」の意(2015年5月26日閉店)。 エスシーコスメティクス(SC.Cosmetics)株式会社 - 東京都港区港南にある化粧品会社。この会社の主力商品の一つに天然の植物素材を多用し、蒸気の力で乳化させた“ARBARO”(アルバーロ、エスペラントで「森」の意)という保湿用クリームあり(ブランド名は「スチームクリーム」)。[19] fairtrade shop & cafe エスペーロ能勢-大阪府豊能郡能勢町にある、フェアトレードによる雑貨店・カフェ。エスペラントの「希望」より。旧店名「エスペーロ」から、2017年1月27日に現地に移転し、カフェ業態を追加とともに改名。[20] 大高酵素 ヘーラールーノ - (化粧品) Hela Luno(ヘーラールーノ)。エスペラントで「明るい月」を意味する。 オアゾ(oazo) - 新潟県新潟市西区赤塚にある、メイワサンピア内の洋食店・レストラン(和食もやっている)。エスペラントでオアシスを意味する「オアーゾ」より。 オアーゾ(OAZO)- 岩手県盛岡市菜園にあった、多国籍料理のダイニング・バー。エスペラントで「オアシス」を意味する「オアーゾ」(Oazo)より(閉店年月日不明)。 カフェ・オアーゾ(Cafe Oazo) - 横浜市神奈川区金港町(横浜ベイクォーター内)にあったカフェ・レストラン。上記同様、店名の「オアーゾ」はエスペラントでの「オアシス」より(2014年12月31日閉店)。 カフェヨ・オアゾ(Kafejo Oazo, より正確には「カフェーヨ・オアーゾ」)- 京都府舞鶴市字浜にあるカフェ。エスペラントで「喫茶店・オアシス」の意(上記とは経営者は全く別)。 グリル オアゾ(Oazo) - 兵庫県宝塚市中筋にある洋食レストラン。上記4件と同様、エスペラントの「オアシス」より。 オアゾ(OAZO) - 熊本県熊本市中央区上通町にある、カレー屋さん兼カフェバー、居酒屋。上記5件と同様、エスペラントの「オアシス」より。 OAZO - 長崎県長崎市船大工町に在るバー。上記6件同様に、エスペラントでの「オアシス」より命名(最寄駅は、長崎市電の観光通停留場)。 オーヴォ - 学生専用マンションの会社であるジェイ・エス・ビーの、100%出資の関連会社。エスペラントで「卵」の意と、ラテン語で「歓声をあげる」のダブルミーニング[21]。 小田急不動産 - TAN TA TOWN アルボの丘(たん・た・たうん あるぼのおか)。東京都稲城市向陽台にある、小田急不動産が伊藤忠都市開発、NTT都市開発と共同で開発した集合住宅。エスペラントで「木」「樹木」を意味する“Arbo”より。なお、この事業の設計者・施工者は三井住友建設である。 JNN・JPN アノンシスト賞 - JNN・JPN系列各局の優秀なアナウンサーに与えられる賞。「アナウンサー」を意味するanoncisto(アノンツィスト)に由来している。 香川シームレス - 香川県丸亀市にあるストッキングや靴下、(女性用)肌着等の総合メーカー。エスペラントで「足」を意味する“Piedo”(ピエド、より正確にカタカナ表記するなら「ピエード」)というストッキングを主力商品の一つとして生産している(この商品だけでなく、「香川シームレス」を含むレガルト、ケーアイといった会社で構成されるグループ全体にも“Piedo グループ”という名前が付けられている)。 カフェ・アルバーロ(Cafe Arbaro) - 熊本県荒尾市平山にあるオーガニック・カフェ。エスペラントで森の意の“Arbaro”(アルバーロ)より。 カフェ・ステラーロ(Cafe Stelaro) - 岩手県花巻市矢沢(JR 新花巻駅前)にあるカフェ・喫茶店。エスペラントで「星座」の意。宮沢賢治に因んで名づけられた。[22] Giĉeto(ギチェット、より正しくは「ギチェート」)- 沖縄県国頭郡本部町字伊豆味に在った雑貨店。エスペラントの「窓口」より(実店舗の方は、2016年4月1日をもって閉店)。 Kuraci エレガンタ・本郷(クラーチ・エレガンタ・本郷) - 文京区向丘2丁目に在る、同名の企業が経営する介���付き老人ホーム。エスペラントで「治療する」の意。JR南武線津田山駅近く(神奈川県川崎市高津区)に在る「クラーチ溝の口」も同様 ("Kuraci" の発音をより正しくカタカナ表記するなら「クラーツィ」である)。[23] コンフォルタ(Komforta) - 沖縄県国頭郡宜野座村惣慶にある定食屋・大衆食堂。エスペラントでの「快適な、心地良い」の意。 コンフォルタ(Komforta) - 兵庫県神戸市中央区北長狭通 (JR 三ノ宮駅の近所)にある、創作料理店。上記同様、エスペラントで「快適な、心地良い」より。 コンフォルタ(Komforta) - 山形県米沢市林泉寺 にあるカフェ。上記二件同様、エスペラントでの「快適な、心地良い」より。 東日本旅客鉄道 釜石線全駅、および山田線の駅のうち、釜石線営業所管内に所属する釜石駅から浪板海岸駅までの各駅にエスペラントによる愛称が付けられている。 JR東日本ホテルズ ファミリーオ - 長期滞在型ホテルブランド。家族を意味するfamilioに由来する。 フォルクローロ - 長期滞在型ホテルブランド。民話を意味するfolkloroに由来する。 スクウェア・エニックス ファイナルファンタジーXI(FF11)のオープニングムービーのBGM「FFXI Opening Theme」に、「Memoro de la Ŝtono(石の記憶)」というエスペラントのコーラスパートがある。作曲者である植松伸夫は、MMORPGであるFF11が世界中の人達が心を通い合わせるきっかけになれば、という意図でエスペラントを採用したとサウンドトラックのライナーノートで明かしている。エスペラントへの訳詞は、小西岳である。 スワニー - 商品名にエスペラントを使用している[24]。以下の旅行バッグの商品名等がエスペラント由来である。 「マニエーロ」(maniero=様式) 「アーモ」(amo=愛) 「コンフォルテ」(komforte=心地よく) 「スポルト」(sporto=スポーツ) 「コメルツォ」(komerco=商業) 「フルーゴ」(flugo=飛行、これは飛行機持込用のバッグ)。 SONORI(平仮名表記は「そのり」)-人材開発コンサルティング会社(有限会社)。エスペラントの Sonori (音が鳴り響く)より。 Dialogo(ディアローゴ) - 大阪府豊中市本町(阪急宝塚線豊中駅近く)にあるカフェ。エスペラントの「対話」より。 Teo Kafon (テオカフォン) - 京都市中京区桜之町にあるカフェ。エスペラントで「紅茶」の意味の“Teo”(テーオ)と、「コーヒー」の意味の“Kafo”(カーフォ)の対格である“Kafon”(カーフォン)より。プロデュースは前田珈琲店。[25] Tosti (トスティ)-東京都中央区銀座7丁目にあるバー。エスペラントの「乾杯する」より。 Dog life Felicha(ドッグライフ・フェリーチャ) - 愛知県岡崎市美合町字老婆懐にあるドッグフード、その他のペット用品・雑貨店。エスペラントで「幸せな」という意味の形容詞“Feliĉa”(フェリーチャ)より。敢えて代用表記を用いての店名。[26] トラフ建築設計事務所 - 「トラフのコローロ展」。2012年8月10日(金曜日)から9月9日(日曜日)まで東京・目黒区のホテル、ホテル・クラスカで開催されていたインテリア展。「コローロ」(Koloro)はエスペラントで色の意。尚、この事務所は鈴野浩一と禿真哉の二名によって創設された。 Pano Pano (パノパノ) - 岩手県盛岡市向中野にあるパン屋。エスペラントでパンを意味する“Pano”(パーノ)を二つ並べて命名。[27] ハルフィルムメーカー 『ルーミス・エテルネ』(Lumis Eterne)- ARIA The ORIGINATIONの挿入歌(劇中歌)。エスペラントで『永遠に輝いた』を意味する。初めて全編の歌詞がエスペラントで書かれたアニメ挿入歌である。 バンダイナムコゲームス 『テイルズ オブ イノセンス』(Tales of Innocence, 2007年12月6日に発売されたニンテンドーDS用のコンピュータRPGソフト)の登場人物「スパーダ・ベルフォルマ」(Spada Belforma) の「ベルフォルマ」という姓。エスペラントで「形の美しい」の意。 姫路セントラルパーク ルーモ(Lumo)- (2011年6月20日 - )ホワイトライオンの雌。エスペラントで「光」の意。三つ子。他の2頭の「シャイン」(雄)と「ルーチェ」(雌)はそれぞれ英語とイタリア語で「光」の意味。 Festivalo (株式会社フェスティバロ) - 鹿児島県鹿児島市に本店のある洋菓子店。唐芋レアケーキで知られる。エスペラントで「祭り」の意[28]と説明がある。 人形劇団プーク - 発足時の国際名称がLa Pupa Klubo(エスペラントで「人形クラブ」の意)であり、それを略してPUK(プーク)としていた。1946年の劇団再建の時に「プーク」を正式名称とした。東京都渋谷区にあるプーク人形劇場の正面には「PUK PUPA TEATRO」(PUK人形の劇場)の文字が表示されている[29]。 フード・ユニオン社(ラトビア) - 発酵乳(ヨーグルト)製品のシリーズに " Lakto " (ラクト)というものが在り。エスペラントで(牛乳)の意[30]。 人形劇団ポポロ - イタリア語のPOPOLOも同じような意味であるが、この名称はエスペラントのPOPOLOより名付けられた。 フェリカ建築&デザイン専門学校 - 同学校サイトに『「フェリカ(Felica)」はエスペラントで、「幸福」という意味 』[31]という説明がある。しかし、エスペラントで幸福を意味するのはfeliĉo(フェリーチョ)である。ちなみにFelicaに似た綴りのfeliĉa(フェリーチャ)は「幸福な」を意味する。 季節の食堂 フラティーノ(Fratino) - 石川県金沢市駅西本町にあったカフェ・食堂。「フラティーノ」はエスペラントで姉または妹の意(2016年4月をもって、建物の立替のため閉店)。 プラネード(Planedo) - 2007年に東京都国分寺市東恋ヶ窪で創業された、オーガニック・コットンを素材とした服を売るブティック。エスペラントで惑星の意。[32] Blanka(ブランカ)- 愛知県名古屋市中区丸の内に在る、ギャラリー兼カフェ。エスペラントで「白い」の意。 Plena 幕張 (プレナ幕張) - JR 京葉線海浜幕張駅のすぐ南側にあるショッピングセンター(千葉県千葉市美浜区ひび野、幕張新都心内)。エスペラントの「満ち足りた」「充足した」「ぎゅうづめの」という意味の形容詞“Plena”(プレーナ)より。 ベスペラズ ファラフェル(VESPERA'S FALAFEL, 或いはただの“Vespera”) - 東京都杉並区高円寺南にあった、ファラフェルを中心としたヴィーガン(完全菜食)カフェ。エスペラントの「夕方の」という形容詞より(2016年4月11日に、高円寺の店は閉店 [33])。 ポプラ社 月刊Psiko (プシコ、より正しくは「プスィーコ」)- 2005年から2007年まで発行していた、日本初の心理学系雑誌。エスペラントで「精神」を意味する。 Pomo de Amo(ポーモ・デ・アーモ) - 神奈川県横浜市都筑区茅ケ崎中央にあるケーキ店。エスペラントでの「愛のリンゴ」より。[34] 手作りパン工房ボングスタ - 「良い味の」「おいしい」を意味する bongusta (ボングスタ)に由来する。[35] ボンズ ラーゼフォンに登場する組織『TERRA(テラ)』の正式名称は、『TERENO EMPIREO RAPIDMOVA REAKCII ARMEO(最高天特区機動軍)』。劇中の地球連合の公用語がエスペラントであるため、名前にエスペラントの単語が使用されている。[36] 使用されている単語の意味はそれぞれ、TERENO(テレーノ)= 領域・指定区域、 EMPIREO(エンピレーオ) = 天国・最高天、RAPIDMOVA(ラピドモーヴァ)=機敏な、REAKCII(レアクツィーイ)= 反応する、ARMEO(アルメーオ)=軍。 本田技研工業 ホンダ・シビックフェリオ - シビックの4ドアセダンバージョン。サブネームのFerio(フェリオ)は「休日」を意味する。 ホンダ・バモスホビオ - バモスの軽自動車のバージョン。サブネームのHobio(ホビオ)は「趣味」を意味する。 日本たばこ産業 リベラ・マイルド - JT がかつて販売していた煙草の銘柄。LIBERA (リベラ、より正しくは「リベーラ」)はエスペラントで「自由な」という意味の形容詞。 日本テレビ系列 中井正広のブラックバラエティ - かつて放映されていたバラエティー番組。サブタイトルのnigra varieteo(ニグラ・ヴァリエテーオ)は、「黒いバラエティ」を意味する。 丸の内オアゾ - 複合商業施設。 「オアシス」を意味するoazo(オアーゾ)に由来している。[37] 美浦トレーニングセンター - 2008年5月13日に、このセンターで生まれた鹿毛の競馬馬(サラブレッド)のトレボーネ(Tre Bone)。エスペラントで「とても良い、素晴しい」の意。性はセン馬、調教師は、当時このセンター所属だった大竹正博、父はアグネスデジタル、母はハートフルボイス(メジロライアンの娘)。馬主は田上雅春、生産者は岡田スタッド。 ミルフルクト(MIL FRUKTO ) - 東京都小平市学園西町にある、カレーとチャイの店。エスペラントで「千の果実、実り」の意(この店名は文法上は誤りで、この意味ならば「ミルフルクトイ」〔MIL FRUKTOJ 〕と複数形にするのが正しい)。[38] Monero (モネロ、より正しくは「モネーロ」) - CryptoNoteプロトコルを採用したプルーフ・オブ・ワークに基づくブロックチェーンを利用した暗号通貨(仮想通貨)。エスペラントで「小銭」の意。 モバード(MOVADO) - スイスの時計メーカー。エスペラントの単語としては movo「単独の動き」に継続の接尾辞-ad-が加わりmovadoは「運動」を表す。なお、同社の英語公式サイト[39]では"always in motion"と説明され、同社の日本代理店のサイト[40]では「たゆまぬ前進」と意訳されている。 ヤクルト本社 ヤクルト(Yakult)- 乳酸菌飲料。「ヨーグルト」を意味する jahurto(ヤフルト)に由来している。[41] ラーラ・コルーソ(Rara Koruso)混声合唱団。エスペラントで「稀有な合唱団」の意。[42] ラ・グランダ・ファミリオ(より正しくは「ファミリーオ」、ラテン文字表記は La Granda Familio Nakazakicho の模様) - 大阪府大阪市北区中崎西にあるグラノーラをメインとしたオーガニック、自然食品の店(カフェ併設)。エスペラントで大家族の意。[43] Luna Nokto Oyamada (ルーナ・ノクト・オヤマダ)-東京都世田谷区二子玉川にあるイタリア料理店。エスペラントで「月夜」を意味する、釜石線の小山田駅のエスペラントでの愛称より。 ワルシャワ交通局 Veturilo - レンタサイクル。エスペラントで乗り物を意味するVeturilo(ヴェトゥリーロ)に由来。ネット投票によるネーミング。[44]   個人別[編集] 石塚富美子(fumiko) 「テル・グローボ」- チェコ民謡を題材とした曲。2003年発表のアルバム『f』の5曲目に収録されている。エスペラントで「地球」を意味する terglobo に由来。なお、一般に terglobo の発音をカタカナで表す場合、一語であるため中黒は付けずに「テルグローボ」と表記する。 ピーター・ガブリエル OVO (オーヴォ)- 2000年にロンドンのミレニアム・ドームで行われたミレニアム・ドームショーの為のサウンドトラック。エスペラントで「卵」の意。 桑島法子 realigi キャラクターソングベスト - アニメソング、キャラクターソングのベスト・アルバム。realigi(レアリーギ)はエスペラントで「叶える」「実現させる」の意。 坂本真綾 Vento(ヴェント) - オリジナルアルバム『かぜよみ』の1番目に収録されている曲。エスペラントで「風」の意。 宮沢賢治 主に東北地方の地名をエスペラント風にした架空地名を作中に登場させていた。例を挙げる。 「イーハトーヴォ」← 岩手県 「シオーモ」← 塩竈市 「センダード」← 仙台市 「ハームキア」← 花巻市 「モリーオ」← 盛岡市 宮沢賢治原作の劇場用アニメ映画「銀河鉄道の夜」では、劇中に登場する文字は全てエスペラントである。 安村美博 ベロ細胞(Vero cell) - アフリカミドリザルの腎臓上皮細胞に由来する、細胞培養に使われる細胞株。名前の由来は、エスペラントで「緑の腎臓」を意味する verda reno を短くし、これにエスペラントの「真理」を意味する vero をかけたものである。
https://ja.wikipedia.org/wiki/エスペラント
0 notes
villa-chitose · 7 years
Text
平日施工のお客様がルミクールSD、シルフィードがさらに4,000円引きに!
※短期間のキャンペーンになりますので、ご了承下さいませ。
カーフィルムの施工が年間1000台以上は関東ナンバーワン!安さもナンバーワン!
激安カーフィルム・車のスモークフィルム!「ルミクールSD」は東京・神奈川の平均価格よりも24,098円、「シルフィード」は15,390円もお得です。他社と比較してください!
※弊社は色褪せのある外国製の使用ではなく、すべて日本製ですので5年以上は色褪せしません。
↓画像をクリックしますと、施工金額が表示されます♪↓
カーフィルム・車フィルム・スモークフィルムってなんで貼るの?
まずは優先されるのがプライバシーの保護になり、日本車のプライバシーガラスでも透過率が20~30%になり、平均で25パーセント位が多いでしょう。 下記の画像の左側が透過率20%になり、右側画像が30%になり、通常のプライバシーガラスですと、かなり室内が見えてしまいます。
 
                                                         しかし、プライバシーガラスの上からカーフィルム透過率7%のフィルムを施工しますと、透過率1~2%になりますので、ほぼ外観からは見えませんので、盗難防止などにもつながります。 下記画像はプライバシーガラスの上から透過率7%施工後の画像になります。
では、室内からの視界性はどうなの?
↑どの透過率のカーフィルムを施工しても、もともとのプライバシーガラスより若干濃くなるぐらいですので、外観の色合いだけ決めて頂ければ、室内の視界性は良好です。
UVカット(紫外線カット)カーフィルムってなに?
UVカット(紫外線カット)カーフィルムは日焼けの防止や室内のインテリアの色褪せを防ぐフィルムになっております。 今の日本車の殆どは運転席・助手席のみUVカットガラスになっており、フロントガラスや後部座席のリア3面、5面のガラスにはUVは入っておりません。 プライバシーガラスが黒いから日焼けしないかと言うと違います。下記のガラスのようにガラス右下部分にUV,UVS,UVUと記載がなければUVカットされてないので日焼けします。皆さんのガラスはどうでしょうか? 外車の90%以上はほぼUVすら入っておりません。 NSコーポレーションのカーフィルムは全てUV99%カットになります。
ガラスごとに下記のUV,UVS,UVUの��印があるか確認してみてください。
赤外線カット カーフィルムって何?
殆どのお客様がUVカットがあれば暑さ対策や冬場の保温性につながると思われておりますが、UVの他に赤外線もカットしなければ暑さ対策にはなりません。
例として、ルミークルSDを全体的に施工した場合は車内温度に変化はありませんが、ウインコスを全体的に施工すると車内温度は5度位変化し、シルフィード カーフィルムを施工しますと車内温度は11度位変化しますので、燃費の向上にもつながります。 特に外車はガラスの透明度が日本車よりも遥かに高いのでシルフィード カーフィルムをお勧めします。
※よくある赤外線カット率ですが、カット率の測定は測定機関があるわけではなく、メーカーごとに独自の測定結果ですので、実際は体感温度が大事になります。 弊社では実際、体感でき、過去のお客様も体感の違いを実感して頂いております。 皆さんかなり違うと言います!
カーフィルムの種類と性能の違い
ルミクールSD
※ルミークルSDは紫外線カット99%カットするフィルムになります。 紫外線カットとは日焼けはインテリアの色褪せの保護になります。 プライバシーの保護と紫外線のみの場合ですと、こちらをお勧めします。
ウインコス
※ウインコスは紫外線カット99%の他に赤外線もカットするフィルムです。 車全体に貼ると車内温度が5度位かわります。 赤外線カットは夏場のジリジリ感だったり、冬場の室内の保温性を保ちます。
シルフィード
※シルフィードは紫外線カット99%の他に赤外線もカットするフィルムです。 車全体に貼ると車内温度が11度位かわります。 赤外線カットは夏場のジリジリ感だったり、冬場の室内の保温性を保ちます。 シルフィードはベンツなどを取り扱うヤナセの指定フィルムですので、外車にお勧めです。
※透明断熱フィルムFGR‐500 FGR‐500はシルフィードと同じ効果があります。フロント・運転席・助手席にも施工可能です。 透過率は1%しかダウンしないので、どの車でも施工可能となります。
ニュープロテクション
※ニュープロテクションは紫外線カット99%カットするフィルムになります。 紫外線カットとは日焼けはインテリアの色褪せの保護になります。 プライバシーの保護と紫外線のみの場合ですと、こちらをお勧めします。 一番、黒いカーフィルムを貼りたい場合は透過率5%があります。
※ニュープロテクション インフレットピュア 車全体に貼ると車内温度が5度位かわります。 赤外線カットは夏場のジリジリ感だったり、冬場の室内の保温性を保ちます。 安くフロント・運転席・助手席に施工したい場合はインフレットピュアをお勧めします。 但し、日本車の運転席・助手席は透過率73%位であり、インフレットピュアを施工しますと透過率が5%ダウンしますので、ガラスの透明度の高い外車がメインになります。
3Mカーフィルム
※3Mカーフィルムは自動車整備指定、認証工場のみが取り扱えるフィルムになり、ディーラーの殆どがIR機能のついた「3M カーフィルム」が性能的にも主流になっており、フィルムの性能も今までとは違い200層を超える薄い膜を重ねた特殊な高級フィルムとなっております。
カーフィルム5年保証
※お客様の車が車両保険に加入していてガラスが破損した場合、相手方に車をぶつけられてガラスが破損した場合、カーフィルムも保険の対象になります。
NSコーポレーションのカーフィルムは激安ですが、すべてが日本製であり、量販店のような外国製とは違い色褪せがしません! また、ベンツなどを取り扱う全国ヤナセ指定フィルム採用により、他社の断熱フィルムよりも圧倒的に体感温度は違います! シルフィードはインフレットピュア、ウインコス・スタンダードよりもUVカットはもちろん、赤外線カットがとても優れたフィルムです。
紫外線を99%カットし、心地よい優しい光と快適な車内環境を生み出します。
断熱性能の違いを体感器で検証。左側がシルフィード、右側が一般スモークフィルムで、スタート時はどちらも26.4℃を示している。
照射後、5分後の温度計は31.2℃と42.1℃を示している。シルフィードを施工した側が10℃以上低いことがわかる。
万が一の事故などで側面ガラスが割れた場合、ガラスが割れて細かく飛び散り大変危険です。
シルフィードを施工したガラス。ガラスは割れますが、フィルムによって飛散が抑えられ、安全性を確保できます。
フロント透明断熱フィルムも施工しております!
カーフィルム「シルフィード」全体的に施工すると車内温度が10度変化します!
カーフィルム・スモークフィルム・車フィルム・車のスモークフィルム・ガラスコーティング ご来店の多いエリア:
湘南(しょうなん)は、神奈川県の相模湾沿岸地方を指す名称である。
語源は、かつて中国に存在した長沙国湘南県で、現在の湖南省南部地域の地名である。 歴史 国内文献における「湘南」の初出は『倭名類聚抄』で、かつて中国に存在した長沙国湘南県である。中世中国の湘南では禅宗が発展し、そのメッカであった。 現在の日本では「湘南」とは主に神奈川県相模湾沿岸を指すが、うち禅宗を保護した鎌倉幕府の拠点「鎌倉」は、現在も禅宗臨済宗建長寺派および臨済宗円覚寺派の大本山「建長寺」・「円覚寺」の所在地であり、鎌倉時代には夢窓疎石らにより日本の禅宗の中心地ともなった禅宗と非常に密接な関係を有する土地でもある。 「湘南」の定義は曖昧だが、鎌倉や江の島などは観光資源が豊富で観光集客力が高く、マスコミによるイメージ作りによって「海」や「太陽」や「若者」などを連想させ、「湘南」は範囲拡大傾向にある。 「湘南」の由来 「湘南」とは、もともと現在の中国の湖南省を流れる湘江の南部のことで、かつては長沙国湘南県が存在し、中世には禅宗のメッカとなった。日本における「湘南」も禅宗の流入に伴って広まったと考えられ、[要出典]「禅宗」を保護した鎌倉幕府の北条得宗家が居し、国内初の禅寺「建長寺」や「円覚寺」を擁した鎌倉周辺の地域が、中国の「湘南」にちなんで名付けられたといわれる。実際に、円覚寺の僧夢窓疎石の周辺には「湘南」を冠する人物・建築が散見される。また、1664年ごろ、室町時代に中国から日本に移住した中国人の子孫が小田原に居してういろう商人となり(崇雪という人物)、自ら創設した大磯の鴫立庵に建てた石碑に「著盡湘南清絶地」と刻んだものが、現在の神奈川県周辺域における呼称の起源ともいわれる。この石碑は複製品が作られて鴫立庵の庭にあり、本物は大磯町が管理している。 明治期の「湘南」 江戸期に大磯発祥の命名とされる「湘南」は、明治期に政治結社名や合併村名に用いられた。当時、相模川以西地域が湘南、相模川以東地域は湘東または新湘南という認識だった。明治期の「湘南」は、山と川が織りなす景観を持つ相模川以西地域に限られていたと考えられる。 明治維新により、当時西欧で流行していた海水浴保養が日本にも流入し、適した保養地として逗子や葉山、鎌倉、藤沢など相模湾沿岸が注目されて別荘地となり、湘南文化が芽生える。 1897年、赤坂から逗子に転居した徳冨蘆花が逗子の自然を國民新聞に『湘南歳余』として紹介する。翌1898年、元日から大晦日までの日記を『湘南雑筆』として編纂して随筆集『自然と人生』(1900年)を出版する。これを端緒に「湘南」は、当初の相模川西岸から、相模湾沿岸一帯を表すように変化する。 明治期から戦前までの湘南 1879年(明治12年)- お雇い外国人で東京医学校の講師であったドイツ人医師のエルヴィン・フォン・ベルツ博士が、内務省より海水浴場候補地の諮問を受けて江の島を訪問し、片瀬が適地と答申する。 1882年(明治15年)- 明治政府の使節団が、ロンドン近郊のブライトン海浜保養地を視察する。 1885年(明治18年)- 軍医総監松本良順の勧めで海水浴場を大磯に設営し、由比ヶ浜三橋旅館が海水浴場の開設を東京横浜毎日新聞に広告する。 1886年(明治19年)- 藤沢鵠沼海岸に海水浴場を開設する。 1887年(明治20年)- 東海道線横浜駅と国府津駅間が開業し、保土ヶ谷駅、戸塚駅、藤沢駅、平塚駅、大磯駅、国府津駅を設置する。 1888年(明治21年)- 大船駅が開業する。 1889年(明治22年)- 旧日本海軍軍港の横須賀に至る鉄路として横須賀線が開通し鎌倉駅、逗子駅、横須賀駅を設置する。 1891年(明治24年)- ベルツ博士の推奨の下、葉山に有栖川宮別邸を竣工する。 1893年(明治26年)- 葉山に北白川宮別邸を竣工する。 1894年(明治27年)- 葉山御用邸を竣工する。 1897年(明治30年)- 徳富蘆花が赤坂から逗子柳屋へ転居する。 1898年(明治31年)- 國民新聞に『湘南歳余』(徳富蘆花)が掲載される。 1900年(明治33年)- 『湘南雑筆』を含む『自然と人生』(徳富蘆花)が出版され、逗子の自然や、逗子から見た相模湾や富士山などの風景を西洋画風に紹介する。 1921年(大正10年)- 神奈川縣立湘南中學校を藤沢町鵠沼に開設する。 1922年(大正11年)- 歌誌『明星』2月号に、荻野綾子の鵠沼を詠んだ『湘南にて』が掲載される。 1928年(昭和3年)- 高瀬弥一の江之島水道株式会社が玉川水道と提携し、湘南水道株式会社として事業を拡張する。 1930年(昭和5年)- 湘南電気鉄道黄金町~浦賀駅間、金沢八景駅~湘南逗子駅間が開業し、「湘南電車」と呼ばれる。 - 神奈川県土木部、湘南海岸道路(川口村片瀬龍口寺-中郡大磯町間)の敷設計画に着手する。 1931年(昭和6年)- 湘南瓦斯株式会社が藤沢町鵠沼で創業する。 - 湘南養蚕実行組合が藤沢町で結成する。 1932年(昭和7年)- 植物学者久内清孝が、『植物研究雑誌』に「滅び行く湘南の鵠沼片瀬を弔う」を発表する。 1933年(昭和8年)- 湘南学園(小学校・幼稚園)を藤沢町鵠沼に開設する。 1935年(昭和10年)- 都市計画神奈川地方委員会が、湘南海岸公園計画地域を可決して答申する。 - 松岡静雄が「神楽舎講堂湘南国語研究会誌」第1輯発行する。 1936年(昭和11年)- 湘南氷業販売組合を藤沢町で結成する。 - 神奈川県道片瀬大磯線相模川「湘南大橋」完成し、全線開通する。 1941年(昭和16年)- 藤沢市内外の文化人や宗教家が集まり、「湘南文化連盟」を結成する。 各地域の特色 藤沢・茅ヶ崎・寒川 県の行政区域では「湘南地域」に含まれ、江の島を中心とした海岸風景は、現代の「湘南」の代表的なイメージである。神奈川県立湘南高等学校、私立湘南学園(幼稚園-高等学校)は藤沢市に位置し、江ノ電沿線の大正時代に開発された住宅地である鵠沼や片瀬地域では比較的広い邸宅も見られる。 しかし、北部は海からも遠く、現代の「湘南」というイメージとはほど遠い工業・田園地帯である。地理的にも、町の雰囲気からみても、湘南と呼べるのは事実上東海道本線以南の沿岸地域だけといえるが、キャンパスの名称やマンション・アパート名など、大学や不動産業者のネーミング戦略的な理由により、かなり広い範囲で「湘南」が当てられている。 藤沢市北部に小田急江ノ島線・相鉄いずみ野線・横浜市営地下鉄の湘南台駅があり、その西に慶應義塾大学湘南藤沢キャンパスと文教大学湘南キャンパスがある。やや南の六会にも日本大学湘南キャンパス(旧・藤沢キャンパス)があるが、いずれも海岸からかなり離れた田園・丘陵地帯に位置する。 藤沢市西部、茅ヶ崎市北部にまたがる区域には「湘南ライフタウン」と呼ばれるニュータウンが存在するが、海岸地域ではなく、北部の丘陵地域を開発したものである。 現代の「湘南」のイメージが一般にも定着している加山雄三は横浜生まれだが茅ヶ崎育ち、またサザンオールスターズの桑田佳祐は茅ヶ崎市の出身であり、現在は茅ヶ崎海水浴場もサザンビーチと呼ばれている。 太平洋戦争末期、もし日本が降伏せずに徹底抗戦した場合、相模川以東で相模湾中央部の長い海岸線を持つという理由から、茅ヶ崎海岸が連合国軍上陸作戦の有力候補地点として想定されていた(コロネット作戦)。戦後海岸地区は一時アメリカ軍を中心とした連合国軍に接収された(在日米海軍辻堂演習場)が、1959年6月25日に返還された。 1940年(昭和15年)、藤沢町が片瀬町に合併を呼びかけた際、片瀬町が条件として市名を「湘南市」とする案が挙げられたが、実現せず、「藤沢市」となった経緯がある。(片瀬町が藤沢市に合併するのは1947年) 1956年(昭和31年)、寒川町が藤沢市と茅ケ崎市に合併の上「湘南市」とする話を持ち掛けるが実現に至らなかった。 明治期、相模川に接した東側の茅ヶ崎・寒川の一部地域は湘東と呼ばれていた。「湘東」は、湘江に見立てた相模川の東の意味である。 平塚 県行政区域では「湘南地域」に含まれ、県の出先機関である「湘南地域県政総合センター」を始め、湘南ナンバーを発行する「湘南自動車検査登録事務所」など湘南地域を管轄する行政機関が多く所在し、行政的に湘南地域の中心である。政治的にも「湘南市」として合併し政令指定都市を目指す構想の中心的役割を果たすが、リーダー役であった平塚市長が2003年に落選し構想は挫折する。 海岸は急に深くなる地形的理由から海水浴に適さないが、「湘南」のイメージ戦略もあり、海岸工事により近年海水浴場を開設した。相模湾を一望する湘南平は湘南海岸を俯瞰できる場所として知られる。夜景も美しく、湘南地域のデートスポットとして有名である。 関東三大七夕祭りの1つ「湘南ひらつか七夕まつり」が7月7日を中心とした3日間に開催される。サッカーJリーグの湘南ベルマーレの本拠地は平塚競技場である。市西部に東海大学湘南キャンパス・神奈川大学湘南ひらつかキャンパス(旧・平塚キャンパス)が存在する。 大磯・二宮 県行政区域では「湘南地域」に含まれる。江戸時代、崇雪が大磯の東海道筋にある標石に「著盡湘南清絶地」と景勝を讃えた言葉を刻んだことから、湘南発祥の地とされており、その碑が城山公園内の大磯町郷土資料館に保存されている。 大磯は、律令以前に豪族の師長(磯長)国造が支配する地域だが、中央集権体制の整備に伴い朝廷に仕えた渡来人が移住したと考えられ、高麗山や高来神社など、大陸からの文化を広めた高句麗からの朝鮮民族渡来人に由来する地名もある。明治以降には伊藤博文や吉田茂が別荘を構える。二宮は手狭な海水浴場で観光集客力は高くないが、温暖な気候で交通の便も良く堤義明邸も所在する。 明治期の「湘南」は「山と川が織りなす景観を持つ相模川以西地域」であり、大磯、二宮近辺には湘南馬車鉄道や、大磯町の湘南大磯病院、二宮町の湘南牛乳株式会社、など「湘南」を冠する企業が存在した。 伊勢原 伊勢原市大山は江戸時代に「湘山」「湘岳」と呼称され、歴史的に湘南海岸方面と連携する。現在は県行政区域上「湘南地域」に含まれるが、経済面では車両交通に優れる平塚市と関連深く、小田急小田原線や国道246号で結ばれる厚木市など県央地域と関係が深化している。 鎌倉・逗子・葉山 県行政区域上「湘南地域」に含まれずに「横須賀三浦地域」と呼称される。現在の逗子市域は昭和初期に湘南電気鉄道沿線となり、戦後横須賀市より分離独立して発足した。「湘南」育ちの印象が強い石原裕次郎は、逗子市で青年期を過ごしている。「歴史の街」や「御用邸」などの印象が強く、「湘南」ではなく「鎌倉」、「逗子」、「葉山」と呼称される。 横須賀・三浦 県行政区域上「湘南地域」に含まれずに「横須賀三浦地域」と呼称される。相模湾側は1000年以上昔から「湘南」と呼ばれ、鎌倉時代以降は幕府直轄領漁港として繁栄し、東京湾側と一線を引くように逗子市が横須賀市から分離する以前から最寄駅は逗子駅である。横須賀市中心部は相模湾ではなく東京湾に接し、湘南の基本的な定義である「相模湾沿岸」に該当しない。経済活動も横浜横須賀道路や京急線で結ばれる横浜と連携する。相模湾に面する横須賀市や三浦市西部では、長者ヶ崎を挟み葉山に接する秋谷海岸などで「湘南」を訴求する住宅地や避暑地も近年見られる。湘南鷹取、湘南国際村、湘南信用金庫、横須賀市中心部に所在する湘南学院高等学校など地名や企業名などに湘南を採用する例も多く、古くは昭和初期の湘南電気鉄道がある。プロ野球横浜ベイスターズ(2010年当時)二軍チームは、2000年から2010年シーズン終了まで湘南シーレックスとして横須賀を本拠地に活動した。 小田原・足柄下郡 県行政区域上「湘南地域」に含まれず、大磯 - 小田原間を結ぶ西湘バイパスの様に「西湘地域」と呼称される。温泉宿泊地やキャンプ場、城下町など独自色が強く、保養地や観光地の特色が強い。 明治期の「湘南」のイメージは「山と川が織りなす景観を持つ相模川以西地域」であり、小田原には「湘南」を冠したものが多く存在した。 南足柄・足柄上郡 県行政区域上「湘南地域」に含まれずに「足柄上地域」と呼称され、一般的に「湘南」として扱われる事は無いが、自動車登録番号標の「湘南ナンバー」適用エリアである。 相模原 県行政区域上「湘南地域」に含まれずに「県央地域」と呼称される。市内城山町小倉、城山町葉山島の両地区は、かつて湘南村という行政区が存在した。これは1889年に旧小倉村と旧葉山島村の合併で生じ、1955年に旧川尻村、旧三沢村と合併し旧城山町が成立して消滅する。2007年、旧城山町は旧藤野町とともに相模原市に編入され、現在に至る。旧村名の由来は「相模川を文人が湘江と呼んでいることにちなみ、湘江の南側の村」である。現在、1906年に創立された城山町小倉の小学校名にその名を留める。 大和・海老名・座間・綾瀬 県行政区域上「湘南地域」に含まれずに「県央地域」と呼称され、一般的に「湘南」の扱いは殆ど無いが、気象予報区における二次細分区域「湘南」適用エリアである。 厚木 県行政区域上「湘南地域」に含まれずに「県央地域」と呼称され、一般的に「湘南」の扱いは殆ど無いが、湘南ベルマーレのホームタウンの一つである。 カーフィルム・スモークフィルム・車フィルム 平塚 カーフィルム・スモークフィルム・車フィルム 藤沢 カーフィルム・スモークフィルム・車フィルム 茅ヶ崎 カーフィルム・スモークフィルム・車フィルム 鎌倉 カーフィルム・スモークフィルム・車フィルム 小田原
0 notes
notio-libary-blog · 7 years
Photo
Tumblr media
住宅特集 2017/5
特集・敷地に応答せよ
内容紹介 敷地に応答せよ 変形敷地の醍醐味 特集:敷地に応答せよ ---変形敷地の可能性
特集作品18題
地形の画室|福山博之/福山建築事務所
living journey|佐藤美輝|佐藤事務所
安城の住宅|三家大地建築設計事務所
ヤマノイエ|津野建築設計室 津野恵美子
クッテハウス|矢部達也建築設計事務所
天川の山荘|PLANET Creations 関谷昌人建築設計アトリエ
TRANS|駒田剛司+駒田由香/駒田建築設計事務所
海辺の丘|川本敦史+川本まゆみ/エムエースタイル建築計画○キューブ
tomy|大場徳一郎 宮内義孝
武蔵藤沢の家|清水壮輔+頭井奈菜子+頭井秀和
HYH |UAo
千本の家|矢田朝士/ATELIER-ASH
5層のワンルーム住居|松山建築設計室
擁壁と屋根/対行政住宅|齋藤隆太郎/DOG
4n/NEW LIGHT POTTERY|ninkipen!
Loop| 彦根アンドレア/彦根建築設計事務所
小江戸川越の町家|鹿嶌信哉+佐藤文/K+Sアーキテクツ
披露山の家|三浦丈典/スターパイロッツ
COLUMN: 建築家の創造力 私の失敗|香山壽夫
MONTHLY REVIEW: 座談月評|千葉学 × 家成俊勝 × 門脇耕三
特集記事: コンディションを読む 変形敷地への応答に見る境界を越える思考| 曽我部昌史 × 島田陽 × 松岡聡 ×田村裕希 記事作成|白須寛規 田野宏昌
この雑誌について 最新の住宅を美しい写真と図面でビジュアルで紹介
0 notes
oriori-ki · 7 years
Text
第26回 『九十九島動植物園 森きらら』(前編)
ただいま冷房中
 そろそろ関東地方では早くも冬支度にかかろうとし、もう北海道では雪が積もり始めたとテレビで報じられる、11月初旬に森きららへ行くために長崎県佐世保市を訪れた。
 腹ごしらえでJR佐世保駅前の庶民的な店の昼飯に供された刺身のうまいこと! 関東圏では滅多に食えないほどのうまさに狂喜して舌づつみを打ちながら、こんなうまいものを食っていたら、この地を離れて首都圏などの大都会に出ていくことなんて考えられないだろうなと、妬ましくさえ感じた。
Tumblr media
 さて、急いで駅前から石岳の中腹にある「森きらら」行のバスに乗り込んだ。バスはやっと通れる細い九十九折の路をくねくね登って行った。眼下には佐世保の港が広がり、バスのなかに眼を転ずれば「ただいま冷房中」と大きく掲示されている。この気温のギャップに驚くとともに、あらためて日本列島の長さをしみじみ実感した。
 30分ほど揺られてバスを降りると、こじんまりした「森きらら」の入口があり、子ども連れの若い夫婦たちが並んで賑わいをみせていた。切符を買うと「九十九島水族館海きらら」や九十九島遊覧船の割引券をいっしょにくれた。
 この周辺は数多くの島々が織りなす絶景に富んでおり、クルージングもセーリングもでき、花や樹々を眺めながら小高い丘をウォーキングすることもできて、健康的なひとときを楽しめるリゾートなのである。
 今回は残念ながら見送ったけれど、こんどはゆとりをもって来ようかな。
ヤシの葉陰で南国情緒満喫
 さて園内に入ろう。一歩足を踏み入れると、いきなり椰子の林が目に飛び込んできて、南国の風が吹いてくる。その向こうに大きなどっしりとした円形バードケージが構えていた。
 この中にはハクチョウ・シュバシコウ・インドクジャク・ペリカン・クロトキ・カナダガン・ホロホロチョウなど10種類ほどのトリがなかよく同居している。ケージのまえには掲示板でトリの種類の名前が絵入りで書いてあった。
Tumblr media
 ケージのなかをのぞくと、トリたちはエサの取り合いもせず、自由にのびのび暮らしているようすだった。1羽のベニイロフラミンゴが細い1本脚でしばらく立っていた。よくするポーズらしいが、はじめて目にした。
Tumblr media Tumblr media
 そのむかしの、プロ野球名選手・ホームラン王の王貞治選手のフラミンゴ打法を思い出させる。けれどフラミンゴの脚はすごく長くて細い。何本もホームランを打って、世界に冠する仕事をした王の1本脚のほうは、もっとどっしりとしていたはずだ(と、ここでフラミンゴと較べてもしょうがないけど、ね)。
Tumblr media
 さらに先を歩いていくと、ケージの下のスペースに、トリたちの特徴を絵入りでおもしろく説明した札が並んでいた。そのいくつかを挙げてみると、
1.「食べ方 ここに注目!」 長いクチバシを大きく開き、水ごと魚をすくい取ります。クチバシのすき間から水だけをはき出し、魚を丸のみにします。
2 . シュバコウは大人になると鳴かない。(くちばしを上下に「カタカタ」と打ち鳴らしてコミュニケーションをとる。)
3. コブのあるハクチョウ 優雅な見た目のわりに なわばり意識が強い!
4. 不思議な光景 インドクジャクが羽を広げるのは オスがメスに恋の季節にアピールするため。残念ながらフライングケージにメスのクジャクはいません。……他の鳥や人間に求愛します。
5. モモイロペリカンのくちばしはスゴい!! くちばし付近にあるのど袋には10リットルの水が入ります。……
6. アフリカクロトキは神様!? 古代エジプトでは神聖な鳥として大切にされていた! この鳥を殺したならば死刑というエピソードもあるほど。
Tumblr media
7. 海外からやってきたカナダガン 仲間入りしたのは1981年2月のこと。佐世保市の姉妹都市であるアルバカーキ市(アメリカ)から寄贈されました。
8. チェリーフラミンゴ・ベニイロフラミンゴ (⇦あっちに行くときも)集団行動ならフラミンゴが№1!(こっちに行く時も⇒)
Tumblr media
9. ホロホロチョウはおしゃれ!! 羽は黒色に白色の水玉もようでとてもおしゃれ。走りもはやくフライングケージ1のランナー。
 こう並べてみると、このケージにいるトリたちを目のまえで見ながら、その性質や特徴がかんたんにわかる的確な掲示板だ。ケージのなかのトリたちと見物人との距離がとても近くなる。飼育員さんたちの苦心の跡がうかがえる会心の作である。
壮観! マントヒヒの大家族群
 大きなバードケージから左にきれいに整列したバラ園を見ながら進んでいくと、ライオンが寝ていた。その姿はとても百獣の王とは見えないし、おもしろくない。けれどエサやりの時間には、好物の肉片に鋭く跳びつく迫力あるさまが見られて、大人気とか。
Tumblr media
 その先はマントヒヒの広場だった。ざっと見て40~50���はいるだろうか。体が大きいのがオス、いくぶん小さいのがメスで、お尻がピンク色に膨らんでいるヒヒもいる。キーキーと騒ぎながら追っかけたり逃げたり、引っ掻き合ったり、あちこちで大きな体のヒヒが何組も賑やかに騒いで駆けずり回っていた。メスの取り合いでもしているのだろうか。なかにはあるべき長い尻尾がちょん切れてしまって、まったくないヒヒもいた。
Tumblr media
 周りの岩場は垂直の壁になっていて、よじ登れないようになっている。器用で力強いヒヒの防御対策として、垂直に3mほどの高さの壁面に電流が流れている銅線が数本横に並べて巡らされていた。もしも攀じ登ることができると、逃亡ヒヒが出てきて大変なことになるからだろう。
 柵の真下をのぞいてみると、ちょこちょこ走ってきて、拝むように首をあげて柵のうえの入園者を凝視している。販売機で購入したエサを入園者が上から投げてくれるからだ。
 おとなのヒヒのほうが敏捷で、すぐにエサを拾い上げて口に放り込んでしまう。子どものヒヒも混じっているがなかなかエサにありつけない。その場をじっと離れないのは、たまに落ちこぼれたものが回ってくるからだろう。
 ヒヒたちの裸のようすを上からながめていると、ヒトの世にも似た姿が露骨に表現されて二重写しに見えるようで、いつまで見ていても見飽きない。これで彼らヒヒが言葉でも持っていたらどんなことをしゃべって暮らしているのだろうか、興味は尽きない。
Tumblr media
手を洗うしぐさがかわいいアライグマだが…
 となりにはクマがいた。ニホンツキノワグマで長野県軽井沢から子グマのときに来園したという。オスは「元気」、メスは「美海(みみ)」と公募によって命名された。すくすくと育てられたあと、元気は福岡市動物園に移り、代わりに美海のお婿さん「豪詩(つよし)」が福島県から迎えられたそうで、この2頭はたいへん仲良く暮らしているという。
 ただ、今日は背中合わせのオリに別々にされていて、見物するにはちょっと遠くにいてよく見ることができない。豪詩はとなりが気になるようで、扉の付近を行ったり来たりを繰り返していた。望遠でカメラにおさめてみたが、仲のよい雰囲気に撮れないのが残念だ。
Tumblr media Tumblr media
 ところで、たとえば北海道に生きるクマのテリトリーを10とすると、アラスカのクマのテリトリーは1で十分だそうだ。つまりアラスカでは狭くても充分にエサがあるからだ。そして、動物園のなかといえどもクマなどは自分のなわばりを主張してマーキングいているという。どこにいても本能は失わないのだろう。
 さて、向かいのコーナーにぽんぽこタヌキに似たアライグマが何点か、四角い小さなプールで遊んでいた。北アメリカ南部から南アメリカ北部の水辺の森などに生息して、丸っこい体にもかかわらず木登りもたいへん上手だそうだ。雑食で水中の獲物を手探りで捕るしぐさが、手を洗っているように見えることから「アライグマ」といわれている。
 可愛いからとペットとして人気がでて飼われだしたが、それが逃げ出したり無断で捨てたりしたのが野生化してしまった。その後日本各地で農作物を食い荒らしてたいへんな被害が出ている。
Tumblr media
 そのため現在では特定外来種生物と認定されて、輸入や飼育を禁止されている。むしろ、ハクビシンなどと同様に、いかに駆除するか日本各地の農村では対策に頭を痛めているようだ。動物をペットとしてかわいがるのはいいけれど、身近な社会に悪影響を及ぼさないように責任をもって飼育して欲しいと痛切に感じる。
寒くなくてもサル団子?
 また戻ってツキノワグマのとなりが、インドゾウの「ハナ子」(メス)の住処だった。
 ところが残念なことに彼女は身まかってしまったのだった。柵に掲げられたお知らせが風に吹かれてぶらさがっていた。書き写してきたのでここにご紹介しておこう。
「平成28年9月14日15時28分にインドゾウのハナ子が永眠いたしました。ハナ子は昭和47年(1972年)7月に1歳でタイから森きららへやって来ました。ハナ子は森きららのアイドルとして44年間多くの皆様に愛されてきました。今まで本当にありがとうございました。 九十九島動植物園 森きらら スタッフ一同」
「森きらら 開園50周年記念誌」によると、ハナ子は以下のように紹介されている。
「甘えん坊で頑固な性格です。/大好きなベテラン飼育員に対しては、『かまって』というように足をあげたり、鼻で頭を撫で回し髪の毛をクシャクシャにしたりと、手のつけようのないほどの甘えっぷりです。」
 そして「とてもきれい好きな性格でもあります。水を飲む時は、いったん鼻に水を吸い込んで、それを口に運んで飲みますが、ハナ子は、必ず鼻を洗ってから飲みます。/夏の暑い日には鼻でホースを持ち、頭の上からシャワーのようにして水浴びをします。その姿がとてもユニークで入園者からも人気を集めています。」
 そんなハナ子の姿に会ってみたかった。45歳は少しばかりゾウとしては若死にといえるだろう。心からご冥福をお祈りします。
 ゾウ舎のまえにニホンザルがいた。ここのサル舎はコンクリート製ガラス張りでかなり狭いように思った。点数が少ないから適当なのだろうか。
 ガラス張りのなかをのぞくと、それほど寒くはない日だったにもかかわらず、九州の長崎・佐世保に生きるサルには、そろそろ冬の感じがしていたのだろうか。3匹も4匹もお互いに体をしっかり寄せ合わせて、じっとかたまっていた。
Tumblr media
 しばらく眺めていると、3匹になったり4匹になったり、場所を変えたり、今日のおサルさんはちょこちょことグループ替えをして団子になっていた。これら団子になるのはみなメスザルなのだそうだ。いっぽうオスザルはあまり団子にはならず、ひとりでそれぞれ高いところに上って、ポツンポツンと太陽に当たって暖を取る。そんな姿を他の動物園でよく見かけたことがある。
 この団子状態の光景を初めて目にしたので、いったい何をしているのか理解に苦しんだ。「広辞苑」で調べたけれどのっていない。そこで知人に訊いてみたら「サルダンゴ」というと教えてくれた。これはメス同士でかたまってお腹と相手の背中を重ね合わせて、数匹から数十匹が群れになってお互いに暖を取り合い、エネルギーの消耗を防ぐのだそうだ。いまや冬の風物詩になっている、と。
 いろいろ見てまわったので、ちょっとつかれた、コーヒーブレイクにしよう。
(後編に続く)
(磯辺 太郎)
0 notes
micknomura · 1 month
Text
Tumblr media
アンドプレミアム 特別編集合本「暮らしと生き方の、読書案内。」
マガジンハウス/2024年5月発行
「暮らしと、心の本」伊藤亜紗 取材、執筆
「暮らしと、料理の本」飛田和緒、長島有里枝、赤澤かおり、稲田俊輔 取材、執筆
「私をつくってきた、幾冊かの本との出合い」上白石萌音、山極壽一、松本紹圭 取材、執筆
「素敵な本に出合える、私の好きな本屋」くどうれいん×ぼたん、中川正子×本屋ヌルガンガ 取材、執筆
0 notes