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#こどもアートくらぶみかんせい
maruhi · 8 months
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エボリューション
わたしと従姉妹は青森在住の友人と三人で久々に会う事になり時間を作って秋田市で待ち合わせすることになった。友人は旦那さんの都合で遅くなるとの事で、わたし達はそこいら辺のオシャレ過剰な喫茶店に入り涼む事に。
コーヒーを頼んで席を選ぼうとウロウロしていると、天井からハンモック風の一人掛けで座るようなナニカが幾つかバネっぽい何かでぶら下がっている。
(これは座るナニカなのかな?)などと逡巡していると既に従姉妹は件のナニカに身体を沈めて寛いでいる。
わたし「パンツ見えてるし普通の席に座りたい、なんか恥ずかしい(特にお前が)」
従姉妹「大丈夫身長165cmあるから」(根拠?)
仕方ないので近くのやたら脚の長い椅子に座り従姉妹の様子をみながら思う、
(ソレは座り心地良いの?そもそもアート的なお店の装飾か何かで座って良いものなの?)
よほど居心地良いのか従姉妹はユラユラしながら「うぇ~、えぅ~」などと目を閉じて静かに声を出してる、まるで類人的なアニマルじゃないの。
そういえばこの近所には大山動物園がある。猛暑。
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kyokocanary777 · 11 months
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ところで♪
私の父が「アートムーブコンクール」というアート系のコンクールで大賞をいただきまして✨あと、佳作も!先週、大阪で展示会があり、行っておりました😊
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これが、大賞をいただいた父の作品です♪
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おめでとう㊗️🎊🎉🎈
アートムーブコンクールの詳細は↓
私の父は、75歳です。そして、昔グラフィックデザイナーでした♪
この色使いとかタッチとか、父の感じだなーと、思いますね☺️
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他の作品はInstagramやYouTubeに公開してます♪
→Instagram
→YouTube
先日、私のInstagramにも投稿しまして、何人かのフォロワーさんにコメントもいただきました😊
→こちらです
で、この大きな魚は、ナポレオンフィッシュだということをInstagramのコメントで知りました💦(あんまり魚のことを知らない)
調べてみたところ、
ナポレオンフィッシュは熱帯魚としても有名なようなので、水族館でお目にかかることも多いかもしれません。
日本名ではメガネモチノウオというらしく、目のところにメガネの耳掛けのところのような縞ができることが、名前の由来になってます。
また、歳をとるにつれて、おでこのところが前に出てくるらしく、だからたぶん、父が描いたナポレオンフィッシュは歳をとっているのだと思います。
のわりに、実際のナポレオンフィッシュよりも唇がぷっくりしててで、紅をさしているかのようにも思えます👄
で、この作品のタイトルが「魚の片思い」なので、歳をとってから片思いしてる絵なのかなぁと思うと、なんだかニヤけてきました😎
最初見た時は、目が悲しそうなので、なんだか悲しい絵なのかなぁと思ったのですが、Instagramのコメントがきっかけで「そうでもないのかな🙄」と思えてきて、ちょっとホッとしましたね。
アートムーブコンクール展は、阿波座駅近くの「大阪府立江之子島文化芸術創造センター」で行われていました。
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さて、先日のInstagramの投稿では、なぜか何枚か投稿できてなくて💦
入選作品が展示されていた全体の写真があったのですがね。。。
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投稿されていなかった写真をここにアップしておきます。
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他の方々の作品も全部見せてもらいました☺️
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いろんなアーティストさんたちの鮮やかな心の世界を楽しませてもらいました😊
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でわ、今日から月末にかけて、ライターの納期の嵐なので、ちょっとだけ頑張ります👍
2023/05/27
20:53
カナリヤ響子
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kohanakonohana · 1 year
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ねこ、後日談。
向こうは締めたので…静かにこっちでちょっとグチりたいです、すみません。
事の発端は、まあ法的にどうなのと聞いてしまったのは私が悪いんですけど…artist とcreator に線引があるというのはともかくとして、アーティストwやめちまえってのは本気で思ってます。だって自分の中にネタがないんでしょ?遅かれ早かれじゃないか、と。
しても謎な言われようがいくつかあって、まず、
【先方より年上だと思うので大人の対応をしろ】と。大人同士で片方に大人の対応って…お粗末。敢えて言うけどれでぃの歳を勝手に推察するのは失礼なんちゃう?あ、私がyellowだからいいのか。だからracistとまで言われるハメになるんじゃなかろうか。
次に、【アーティストらしい対応じゃない】。パチもん擁護のどの口が言うかなぁ。
更には【絵を描く大変さが分かってない】。これに至ってはもう…海外では知りませんが、日本で学校で染織を学びますと、基礎知識としての洋画に染下図基礎としての日本画もある程度学びます。染っちゃ友禅を含みますんでね。経緯の世界に住んでますけど、人物100体とか裸婦とかちゃんと及第してるんです、一応。ま、いっちょ噛みさんは、過去のいろんなフラグまで見ないんでしょうけど。というか、あれ、ただのトレスやないかーい!絵とちゃうて、まず。な?
しかしあの写真、ボケてますんで、写真としていいものではないと思いますが、瞬間切り取りとしてはなかなか面白いものが撮れたと思いました。私は猫写のために時間は取らないので、運なんですけど。そういう他人の運を盗んだアートってどうよ、とも思いますし、そもそもあのシーン、擬人化動物アニメくらいじゃないとオリジナルで湧いてこないと思う珍妙な瞬間ですよ。それを安易にパチるとは。
それ以上にあの写真はJさんの日頃のイケメンぶりを知っている皆さんに、「ちょ、何この顔、ウケる」とジワっていただくのがいい写真だと思って公開しているので。要は内輪の楽しみを無断で他人に、それも自分のものとして出すって…現実世界でもハミゴにされるリスク高いんちゃう、と思う次第。
インスタお閉めになったみたいですけど、HPがノンクレジットで手つかずなんですよね。他のも含めて。なので、きっと、ほとぼりが冷めたらまたやっちゃうんじゃないかな。自分の中にあるもの吐き出す時間が足りない側としては、ネタ探してまで加工して何を表現したいのか、やっぱりまったく理解できませぬ。
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fantasybrade · 10 months
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母が急にスイッチを買ってそろそろ1年経つ なんかスプラトゥーン3が発売した時、急にスプラトゥーンがやりたくなったらしく、スイッチを購入して諸々の機材を揃え、ゲーム環境を整え始めた 今は実家に母用のゲームするためのスペースがある
もともとスプラトゥーンのアート好きそうだなとは思っていたので、3でいきなりスプラやりたい!とか言い出したときはなんか謎の納得があった といっても母親はJRPGで育っている人間で、FPSやTPS、アクションゲームに関してはめっきりダメ 200時間かけてクリアしたゲームの根本のアクションシステムを把握しきれていないこともザラだったりする スプラトゥーンはガワは子供向けゲームだけど内容はいわゆるオンラインシューティングなので、いやムリそ~ と思っていた
この間、なんの気なしに母親のスイッチを覗き見したら、スプラトゥーンのプレイ時間が1060時間になっていた
え何
私などそもそもゲームを四桁時間プレイしたことがない 四桁時間って相当だ よく考えたらもう長いこと母がスプラトゥーンをしていないところを見てない ずっとずっとスプラトゥーンをしている しかもほとんどサーモンランしかしてない 端的に言って狂っている ゲームはスプラトゥーン以外購入してない 1060時間プレイしたスプラトゥーンだけがあるスイッチ デフォルトのライトテーマの真っ白な背景にスプラトゥーン3のサムネイルだけがあり、なぜか死ぬほどゾッとした
よく考えたら 母はゲームを一度プレイし始めるといつもこういうことになっていた 実績をフルコンプリートするまで私生活の9割がそのゲームに吸い取られる 自分が小学生の時などは家に帰ると母がずーっとキングダムハーツでセフィロスと戦い続けていた 同じコンテンツを長期間楽しむことに全くストレスがない人間というか 侍戦隊シンケンジャーを毎日一周している時などもあった 今になって冷静に振り返るとなんか異常な感じがする
そういう人間がオンラインゲームに触れるとどういうことになるのか それが現状の1060時間になっているのだと思う スプラトゥーンに全クリは存在しないので、自分が全クリだと思うまでやめることがない そして母が、自分自身で全クリを決定したことはない ゲームが全クリの判定を下すまでゲームをやめたことがない人間による、オンラインシューティングへの傾倒 1060時間 母が育児中にMMOとかに沼らなくてよかったと心底思う
いちおう二人でIndie WorldやNintendo Directとかは見ている あ、これ面白そう~!とか言いながら見ている 一緒にやりたいねこれ~みたいな でも結局この人はゲームを買わない スプラトゥーンを全クリしていないから次のゲームを買おうという発想にならない なんならゲームをクリアせずに次のゲームを購入するみたいな人間の感覚があんまり分かっていないらしく、 職場の人間とフレンドになった時、「スプラをやる日もあればどうぶつの森をやる日もあるし今はポケモンをやっている同僚」を全く理解できてなかった 「なんでスプラやろうってフレンド申請してきたのにお前のアイコンはニャオハなんだ? おかしい」とか同僚に文句つけているのを聞いたことがある 別にいいだろSwitchのアイコンがニャオハでも 母のSwitchのアイコンはちゃんとイカちゃんだった スマホにもイカちゃんのシールを貼っている
サーモンランしかやってないのもなんかコワイ なんか気が向いた時はたまにナワバリバトルとかもしているんだけど、自分がたまに母を見かけて声をかけるときはだいたいサーモンランのあの「ドンドコドンドンドンドコドン」みたいなBGMが聞こえるし 画面もオレンジだし いやサーモンランはすごい面白いというのは分かるんだけど PvEをオンラインの見知らぬ他人と1000時間続けるというのは、自分にとって全く見知らぬ世界観すぎてよくわからない
プレイ中は常にサーモンランの配信者の過去配信とかを垂れ流しにしている サーモンランをやりながらサーモンランを見ている ええ?
なんならそれがほぼ一人で完結しているというのもなんだか変な感じがする 例えば自分の友人にもそうやってゲームにのめり込む人は結構いるけど 自分のゲームのプレイ時間とかを友人間のネタにしたり、ゲーム画面を通話越しに見せたり、あとはゲームの近況をブログに書き溜めたりしている そのゲームのファンアートを書くとか、Youtubeで配信してみるとか そういう二次的な楽しみを踏まえた上でのゲーム四桁時間プレイは正直まだ理解できる それはもはや ゲーム-自分 のみの1000時間ではなくて、 ゲーム-自分-他者 による1000時間だから そうなると自分自身の他人との関わりが少なければ少ないほどゲームのプレイ時間は伸びていくものだし そうやってゲームで友達を増やしたりもできるだろう Twitterとかやってればね
母は SNSを発信目的では一切やっていないし、スプラトゥーンをやる時は基本的に一人だし 職場では普通に人間関係を築いている たまに職場の友達と焼肉とか行くし、スプラトゥーンが間に挟まるような人間関係が一つもない この人は基本的にゲームと自分の間に何も挟まない 自分はそういうゲームとの関わり方はあんまりしたことがないし というかそういう人間を現代で見ることはなかなかない 周りの友人ですら、続けているゲームは友人間でのコミュニケーションとしての側面を持っている 自分の見える範囲で、母にそれはない オンラインのプレイヤーからちょくちょく来るフレンド申請も全て無視しているし、スプラトゥーン3をプレイする人間としてSNSでもやれば?と勧めたりもしたけど、結局スプラトゥーン3の公式アカウントだけフォローしてROM専になっている 会社の同僚とフレンドになったりもしたけど、前述の理由で結局一緒にプレイしていない(普通の人間はスプラトゥーン以外のゲームもするので)
母がゲーム中にスプラトゥーンのWikiを随時確認できるようにノートパソコンでも買ってやりたいと思っている なんというか、なにかに打ち込んでいる人間をサポートしてあげたくなる人の気持ちが今はかなり分かる 1000時間もやっているから、本当にめちゃくちゃ下手くそだった母も今はバクダンやモグラの処理がかなりスムーズになっている 正直、ずっとスピーカーでスプラトゥーン3をやっている母を見るともどかしい気持ちでいっぱいになる かなり高級なヘッドフォンでプレイしてほしい 今のモグラはヘッドフォンなら気づくことができたのに!と、横目で見ている私は常にそういうもどかしさの中で母を見ている
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elle-p · 4 months
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Famitsu 1820 Persona 3 Reload part scan and transcription.
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続報
リマスターではなく、全ビジュアルを一から描き起こしている本作。3Dモデルも頭身が上がりより魅力的に。
人々との絆が“影”を切り裂く力となる
岳羽ゆかり
声:豊口めぐみ
専用ペルソナ
イオ
↑←弓を武器とするゆかり。テウルギア“サイクロンアロー”は、敵1体に相性を無視して疾風属性の特大ダメージを与える効果を持つ。
月光館学園高等部2年生で、主人公のクラスメイト。専用ペルソナの“イオ”は、ギリシャ神話で女神ヘラに仕え、主神ゼウスの寵愛を受けたという巫女がモデル。
リマスターではなくフルリメイク作品として18年ぶりに帰ってきた、JRPGの傑作『ペルソナ3』。グラフィックを一新し、システムや操作系に多くの新要素を加えるなど、現在のP-STUDIOの手で生まれ変わっている。今回は、新戦闘服や日常生活について紹介しよう。
現行機種で蘇る少年少女たちの死闘
特別課外活動部(S.E.E.S.)が新戦闘服に身を包んでタルタロスヘ
本作では、特別課外活動部のメンバーがタルタロスに挑む際の戦闘服が新たなものに。オリジナル版をやり込んだ人も、新鮮な気分でバトルに臨めるはずだ。今回は、すでに公開中の主人公に続いて、ゆかり、順平の新戦闘服アートが披露された。合わせて、新要素で戦闘中に条件を満たすと発動できる超強力なスキル“テウルギア”のスキル内容も紹介しよう。
主人公
声:石田 彰
伊織順平
声:鳥海浩輔
↑火炎、斬撃属性を得意とし、両手剣での豪快な攻撃が持ち味の順平。テウルギア“バースト���イング”も、敵1体へ相性を無視した斬撃属性の特大ダメージを与えるという、彼らしいスキルだ。
専用ペルソナ
ヘルメス
主人公とゆかりのクラスメイト。専用ペルソナ“へルメス”は、ギリシャ神話でゼウスの使いとして従事する伝令の神で、旅人や商人から崇められていた。
共用の設備を使って仲間たちとともに過ごす寮生活
主人公たちが暮らす学生寮では、寮内にある共用の設備を使って、仲間といっしょの時間を過ごすこともできる。ときに仲間の意外な一面も垣間見られる共同生活では、主人公の人間性が磨かれるだけではなく、仲間たちがバトルで役立つパッシブスキル“特性”を獲得することも。
コロマルとの散歩
テスト勉強
屋上菜園
読書
料理
DVD鑑賞
共用パソコン
寮のラウンジには寮生共用のパソコンが置いてある。プレイ中に手に入る、サイトのURLが書かれたメモを使うなどしてこれを利用すると、ソフトを使った学習や、情報収集を行うことができる。それらを通じて、主人公の人間性を表し、さまざまな行動に影響する“人間パラメータ”を上げられるほか、戦闘や探索に役立つ技能を習得できることもある。
ネット環境完備の巌戸台分寮
特性の習得
学生寮で、共用の設備を使って主人公とともに寮生活イベントを過ごした仲間たちは、“特性”と呼ばれる特別なスキルを習得することがある。特性は、任意で発動させるものではなく、つねに効果が発生している、いわゆる“パッシブスキル”と呼ばれるもの。その内容は、“クリティカル攻撃の発生率アップ”、“回復スキルの発動に必要なコストが減る”など、戦闘に役立つものばかり。時間があれば積極的に仲間と過ごそう。
放課後に学園内外で
学園で出会う“コミュ”のメンバー
→月光館学園の生徒たちは、部活動や下校時の寄り道など、おもに放課後の時間帯に交流しやすい。
“コミュニティ”、略して“コミュ”とは、主人公が多くの人々と出会い、交流していく中で生まれる辞のこと。交流を重ねてコミュのランクを上げ、特別なイベントを発生させると、主人公のペルソナ能力の強化にもつながるため、非常に重要な要素だ。本作ではコミュ対象キャラクターのイラストが新規に描き下ろされ、イベントも新キャストによるフルボイスで展開する。今回はコミュ対象の月光館学園の生徒たちを紹介しよう。
気のいい男子生徒。クラスメイトとなった主人公に、なかば強引に友だち宣言をした。年上好きで、主人公に恋愛相談を持ち掛ける。
友近健二
クラスメイト
声:羽多野 渉
3年生。港区中の飲食店を渡り歩き、あらゆるメニューを食べ尽くした。トラブルから助けてくれた主人公を、自身のSPに任命する。
末光望美
グルメキング
声:落合福嗣
主人公のクラスメイトで、陸上部の部活仲間。 努力と気合と根性で結果を残してきたエースだが、主人公をライバルと認めている。
宮本一志
運動部
声:宮下英治
2年生。陸上部のマネージャーで、宮本とは幼なじみ。面倒見がよく、入部したての主人公のことも気に掛けてくれている。
西脇結子
女子マネージャー
声:加藤英美里
生徒会の副会長。厳格な性格で一般生徒からの受けはおおむねよくない。美鶴の推薦で生徒会に加入した主人公に一目置いている。
小田桐秀利
平賀慶介
声:松風雅也
1年生で、生徒会の会計を務める。押しに弱く厄介ごとを押しつけられがち。男性に苦手意識があり何とか克服したいと思っている。
伏見千尋
生徒会会計
声:遠藤 綾
美術部部長の3年生。医者の息子だが、医学部進学か芸術方面での留学か迷っている。部活動見学から主人公と交流することになる。
平賀慶介
文化部
声:井口祐一
フランスからの留学生で、着物と時代劇と日本庭園をこよなく愛する大の親日家。“ふぁっしょん同好会”に主人公を勧誘する。
ベベ
同好会の留学生
声:市来光弘
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xf-2 · 7 months
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コンサルティング会社「スピーディ」の福田淳社長。2016年4月から俳優・のんさんのエージェントを務めている
ハリウッドの契約を見てきた弁護士も驚愕
―― 福田さんは、もともと映画業界でキャリアを重ねてきました。のんさんに関わるようになったきっかけをお聞かせください。
福田淳社長(以下、敬称略): ソニーグループに20年いました。元々は映画監督になりたかったのですが、最初の10年は「ソニー・ピクチャーズエンタテインメント」のM&A担当で新規事業の責任者をしていました。後半10年が社内起業で立ち上げた「ソニー・デジタルエンタテインメント」です。ハリウッド10年、日本のテック系10年。こういったキャリアを持つ人は多くないと思います。ソニーの先輩が役職定年になる中で、「勢いがあるうちに辞めなきゃ」と17年に立ち上げたのがスピーディです。    のんとの接点ができたのは15年末で、エージェントを始めたのは今から約7年半前の16年4月です。ある出版エージェントの友達から「なかなか日本の芸能で困っているよ」という話があって会ってみたら、本当に信じられないような内容でした。いわゆる奴隷契約と申しましょうか、低賃金で移籍の自由もなく、本名が使えないとか...。うちの弁護士はハリウッドの契約を見てきた弁護士ですが、その内容には驚愕していました。事実として「能年さん、サインしてしまっているので、本名使えないみたいですよ」と伝えたら、本人は次の日に「NON」って書いてきて、「これ、小文字にしたら絵文字の笑顔に見えますから」ということで「私のことは『のん』って呼んでください」。 それから7年が経ちました。そんなひどいことが21世紀に起きるものなのか、今でも信じられません。同じくらいの年の娘がいるんですよ。子どもを持つ父としても、正義感からしても、のんに起きていることは許せないと思いました。
広告クライアントは延べ55社、28社が継続中
―�� 最近でも、国民民主党の玉木雄一郎代表が記者会見で言及するなど、ジャニーズ問題と、のんさんをめぐる問題を関連付けて議論されることがあります。
福田: 今回のジャニーズ問題や、「あまちゃん」再放送を機に「そういえば『のん』っていう人もいたね」「まだ俳優してるの、この子」となることがあるようです。中には「あの子何か問題起こして干されてるんだわ」と思っている方もおります。だけど別に何もないんですよ。のんの「劣悪な労働条件なので移籍したい」という訴えが、前事務所の「お前育てたの誰だと思ってんだ!」という反応になった、ということです。    この機会に、僕がエージェントを始めてからの代表的な仕事をまとめたのですが、23年に映画「さかなのこ」で「第46回日本アカデミー賞 優秀主演女優賞」をいただいたほか、アニメ映画「この世界の片隅に」(16年)も好評でした。広告クライアントは延べ55社。うち継続中が28社です。電通・博報堂からはほとんど相手にされていないので、全部直取引です。テレビ局は編成と営業が全く別会社みたいなものなので、(CMの枠を売る)営業サイドとすれば、お金が入る分には誰が出ていようと構わないわけです。ですが、(番組そのものを担当する)編成となると、にらみがきいてしまうので出せない。
―― 19年には、ジャニーズ事務所が元SMAPメンバー3人の出演を妨げようとテレビ局側に圧力をかけた疑いで公正取引委員会が調査を行い、「該当するような行為があった場合は、独占禁止法に抵触する」として「注意」した、という経緯があります。当時、ウェブサイトに「CMの依頼が多くあり広告には出ることができています。でも彼女は女優です。現場からの熱烈なオファーもある、のんが三年間テレビ局で1つのドラマにも出演が叶わないことは、あまりにも異常ではないでしょうか?」と書き込んだことが話題になりました。この4年間で状況は変わりましたか。
福田: 19年当時は色々な(地上波の番組を製作している)プロダクションから「のんさん主演でこんなのやりたいんです」という脚本が来て、検討している間に立ち消えになっていたのですが、今ではゼロになりました。「こんな話ありますよ」もゼロ。ただし、ネットフリックスやアマゾンプライム、U-NEXTといったオンラインメディアとは取引があります。いつも「新しいことやりませんか」とお声がけいただいており、新規案件も多数あります。
―― 地上波ドラマには出られない状況が続く一方で、別のところで道が開けつつあるということですね。
福田: 元々僕はブランディングのプロでもあります。「能年玲奈」という「商品」は、それが自分の本名だったことが悲劇なのですが、「のん」という芸名に変えたことでブランディングは十分できています。本人が地上波ドラマに出られる状態が正常だとは思いますが、それを目的にしていないのと、テレビドラマに出ることが成功だという時代ではなくなっています。「テレビドラマに出られなくてかわいそう」という声がありますが、全然かわいそうじゃないんですよ。たくさん収入はありますし、好きなことをやっていますし。
ずっと売れているので、2年先までほぼ休みなし
のんさん。CMやPRイベントへの出演は多く、「常に2年先ぐらいまでほぼ休みなし」だという
―― てっきり冷や飯を食わされていると思っていたのですが、違うわけですね。
福田: ずっと売れているので、常に2年先ぐらいまでほぼ休みなしで悲しむ余地がない、というのが実情です。
―― ご本人は、自らが置かれている状況をどう受け止めているのですか。
福田: すごく元気です。精神的にめちゃくちゃ強い、自己肯定感が200%ぐらいある人です。
―― のんさんの個人事務所「non」と、スピーディ社がエージェントとしてマネジメント契約を結ぶ、という形をとっています。芸能事務所に所属する、という伝統的なスタイルとは異なります。
福田: 当初は僕の会社に「所属」するというやり方もあったのですが、「もうやめた方がいい。僕だっていつ豹変して、『奴隷契約』にするか分からない。だから大人は信じないで」ということで、エージェント契約になりました。    米国であれば俳優が一番偉いわけです。例えばトム・クルーズが一番お金を持っていて、経理、総務、運転手、ブッキング担当、付き人がいて、いわば「トム・クルーズカンパニー」なわけです。エージェントというのは、俳優を売り込んだり原作権を買ってきたりする役割です。スポーツの分野で活躍している団野村さんが分かりやすいですね。日本ですごい選手がいると、売り込みに行ってくれたりする。    ハリウッドでは一番の主体にある人(俳優)が契約のフレーム(大枠)をつけて、あとは弁護士さんが見る、というのは普通なのですが、日本ではそういうことの訓練ができている人は少ない。タレントがギャラの交渉も知らなければ、契約に噛むこともできないというのは、僕からすれば驚くべき事実でした。年端もいかない人を地方から連れてきて「訓練してあげよう」なんて言っているうちに、奴隷契約に持ち込んでしまう。公正取引上、非常に問題がある、優越的地位の濫用だと思います。
―― 所属ではなくエージェント制にするメリットは、どういったところにありますか。
福田: のんが自分の会社をつくって、そこと僕の会社がある期間、独占的な契約をしましょう、その年数の中で僕の働きが悪かったらクビにすればいい、という考え方です。それがフェアトレード(公正な取引)だと思います。他のタレントと違って、仕事のギャラがいくらで、どんな意味があるのかを完全につかんでいるので、生き生きしていますよね。僕からは、「嫌な仕事はやらなくていいと思うけど、ある程度責任を持ってやった方がいい大きい仕事もあるし、小さくてもSDGs(持続可能な開発目標)啓発の仕事など、社会的に意味があるものは一生懸命やろう」と伝えています。    LINEのCMではLINE幹部の方がすごく応援してくれました。「起用をやめろ」という脅しの電話も各方面にあったようですが、クライアント(LINE)が「正義は勝つと思います」と言ってくれて、あのCMはOKになりました。ユニクロのCMは、ナンバー2に頼んでアジア18か国での展開が実現しました。    このように独自の路線を切り開けていけたから、消されずに何とか生き延びてきました。だからこそ、ジャニーズ問題が出るたびに副次的に、能年玲奈の問題が出てくるという構造になっているのだと思います。
(インタビュー後半に続く。10月1日掲載予定です)
福田淳さん プロフィール ふくだ・あつし ブランドコンサルタント、スピーディ社長。1965年、大阪府生まれ。日本大学芸術学部卒。ソニー・ピクチャーズエンタテインメントを経て、2007年にソニー・デジタルエンタテインメントを創業。17年に株式会社スピーディ設立。「のん」をはじめとする俳優・ミュージシャンなどのタレントエージェント、ロサンゼルスでのアート・ギャラリー運営などを行っている。金沢工業大学大学院客員教授や横浜美術大学客員教授も務める。著書、講演多数。
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nzomix · 6 months
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【展示告知】
小林望美個展「サナギュトリウム」
会期:2023年11月21日(火)〜12月3日(日)
11時〜19時※最終日17時まで
会場:MEDEL GALLERY SHU 愛でるギャラリー祝
〒100-0011 千代田区内幸町1-1-1帝国ホテルプラザ2F
入場無料
2023年の集大成となる個展です。どうぞよろしくお願いします🎨
<展示ステイトメント>
サナギュトリウム:さまざまな出来事を要因にサナギ化した人々が、ぶじ羽化する時を待つ場所(造語)
「自他の表裏一体性や親和性」を画題にモザイク画を制作する小林望美。その作風は石や、ガラス、貝殻などの小片を寄せ合わせてつくる装飾美術技法ではなく、写真のメディウム転写に始まり、ブロックノイズや低解像度の画像などから着想を得て変遷してきました。
2016年以降は木製パネルへ描いたモザイク画を彫刻刀で彫り、溝へ金属色を流し込むといった独自のスタイルを確立し、手掛ける作品は現在も進化変容を遂げています。小林のモザイク画は、現代社会とその中に存在する個人を細かなモザイク粒子とその集合体によって暗喩した作品が多く、彫る行為は個を明確に区分し存在を刻み込む意図で用いられてきました。
SNSを利用した広域での交流が容易となった現代社会において、各自が保有する当事者性から起こる主張や保護を巡る衝突は顕著になり、さまざまなキャンセルカルチャーやヘイトクライムがより盛んに巻き起こった2023年。現代を生きる作家として、本個展では彫る行為をいったん休め、調和や、安全な繭・サナギの中で新しい時代へ羽化する時を待つ人々を細かな粒子で表現しようと試みた新作を発表します。
<プロフィール>
小林望美 Nozomi KOBAYASHI
2014 群馬大学教育学部 美術専攻 卒業
2016 彫るモザイク画での活動を開始
以降、都内ギャラリーや百貨店でのグループ展を中心に活動を展開中
<個展>
2022「ユーフォトルビア404」MEDEL GALLERY SHU(東京)
2021「roll swipe connect」MEDEL GALLERY SHU(東京)
2019「ジェネリックラブ」八犬堂(東京).
2018「夜底の惑星で、」Art Mall(東京)
2017「心辺に座礁」Art Mall(東京)
<受賞歴>
2017 第2回星乃珈琲絵画コンテスト 佐藤俊介審査員優秀賞
2016 KENZAN2016 LOWER AKIHABARA賞
<メディア>
2022 月刊アートコレクターズ 12月号「日常、再発見」(新作グラビア掲載)
Cocco 25周年12thアルバム「プロム」ジャケットアートワーク担当
2022 雑誌「SWITCH」Vol.40 No.4 特集 Eve 廻人奇譚(「プロム」関連インタビュー掲載)
2021 歌集『変奏曲を編む 』辻 桂子 / 鷹志かれん著・編、求龍堂刊行(描き下ろし作品掲載)
2020 アートビジネスマガジン「ARTFULL」インタビュー掲載
2019 月刊美術6月号(「藝術集団 ARTpro」のエッジィな個性派×7 頁にて掲載販売)
2018 BSフジ「ブレイク前夜〜次世代の芸術家たち〜」第107回出演
2017 美術の窓6月号(「新人大図鑑2017」Art Mall推薦作家として掲載)
<参加アートフェア>
2023
「Study:関西大阪国際芸術祭 2023」MEDEL GALLERY SHU
2022
「ART TAIPEI」MEDEL GALLERY SHU
2019
「ART FAIR ASIA FUKUOKA」八犬堂
「Infinity Japan Contemporary Art Show」八犬堂
「ART EXPO MALAYSIA」八犬堂
2018
「ART FAIR TOKYO」八犬堂
<近年参加グループ展>
2023
「アートまみれ Vol.2 Part.1」Artglorieux of TOKYO GINZA SIX(東京)
「once more Jonathan Hadipranata & Nozomi Kobayashi」MEDEL GALLERY SHU(東京)
「大宴会的美術展 KENZAN2023」東京芸術劇 Gallery1
2022
「KOWAII展 Vol.XII」銀座新井画廊(東京)
「NEW SURFACE -新しい絵肌への挑戦-」大丸東京店(東京)
「EYES-portrait show-」MEDEL GALLERY SHU(東京)
「八犬堂京橋移展」八犬堂ギャラリー(東京)
「Artist! Artist! Artist! Matusya Contemporary Art Selection」松屋銀座(東京)
「art art arヤングアーティスト旋風2022」松坂屋名古屋店(愛知)
「変奏曲を編む刊行記念展」MARUZENギャラリー(丸善・丸の内本店、丸善京都本店、ジュンク堂書店福岡店他、巡回)
開通60周年記念「芸術作品に見る首都高展」O美術館(東京)
2021
「NEW SURFACE -新しい絵肌への挑戦-」大丸東京店(東京)、松坂屋名古屋店(愛知)
「家入一真コレクション展 “表現へのシナジー” 」awabar kyoto(京都)
「名作 REBORN展」松坂屋上野店(東京)
2020
「アートのチカラ」伊勢丹新宿店(東京)
「阪急×アートコレクターズ ニュースター達の美術展」阪急うめだ本店(大阪)
「ニュースターアートコレクション」松坂屋名古屋店(愛知)
「Artglorieux Selection」GINZA SIX(東京)
「名作 REBORN展」松坂屋上野店(東京)、松坂屋名古屋店(愛知)
「KENZAN2020」一般社団法人Jian主催 WEB展示会
「たんざく展」銀座新井画廊(東京)、阿部敬四郎ギャラリー(宮城)
「納涼妖画展」丸善・丸の内本店(東京)  
「ほころびとざんぞう」MEDEL GALLERY SHU(東京)
「フレンチチーズウォーク in 中目黒」MDP GALLERY、ビストロ13区
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chibiutsubo · 4 months
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#おでかけ #カニミライブ図書館
ヨシヅヤの中にオープンした、可児市立図書館と無印の一体型店舗を覗いてきました。
無印の店舗はわりと広め。無印の店舗の真ん中あたりに、図書館の機能がコンパクトに存在しているというようなところでした。雰囲気的には、カフェと一体型の書店のような雰囲気なのですが、そこは市立図書館なので食べ物はNG。飲み物は、多分水筒や蓋付きのものならOKっぽい感じでした。飲食店と一体型の書店には以前から抵抗があったので(本が汚れるやん…)食べ物禁止というこの点は嬉しい。
ちなみにカウンター横にウォーターサーバーがあって、お水は自由に飲めそうな感じでした。どうやら中身は水道水だとのことで、そうか、南アルプスの天然水ならぬ、木曽川から汲んできた可児のおいしい水ってわけか。
たまたま近くを通りかかったので、ちょうど昼ご飯用のレトルトカレーを切らしていたし、新しくできたという無印で補充するか、ぐらいの気持ちで、図書館も分館だというし、冊数自体もそこまで多くなさそうで、話題の本とか万人受けしそうな本ばかり集めた感じじゃないの?と冷やかし程度の心持ちで行ってみたんですが。
無印自体はまあ、普通に無印の店舗だったんですが、図書館の方が良い意味で期待を裏切ってくれていました。確かに分館なので扱っている冊数自体は本館とかに比べたらだいぶ少なそうです。
でも、書店の平台とかで並んでいそうな話題の本はあまり見当たらない。むしろ、あまり万人受けしなさそうな、アートに関する本や外国文学の棚、食に関する本などの棚が広く取られています。その分小説ジャンルの本はあまり置かれていません。
とにかく私が普段好んで見ているような棚のあたりの本がピックアップされてずらりと並んでいて、なにこれ借りたい本だらけじゃん、天国か?ここに住みたい感じの天国か??となり、即座にカードを作って貸出カウンターへと向かうことになりました。こんなはずではなかった。
なので、普段図書館をよく利用している人には逆に不向きなつくりで、最近増えている個人の書店とか、その書店ごとの選書のこだわりとかを楽しむ感じの人にはめちゃくちゃ刺さる感じの図書館だなと私は感じました。まんまと私はホイホイされ、なんだろう……私ぐらいの年代もターゲットにされていたんでしょうか??いやでも、本の好みはほんとに好き好きだから分からんか。
あと何が幸せって、オープンしたてなので新品の本が多く置かれていて、図書館なのに他人の手垢のまだ付いていない新品の本を手に取れるという奇跡の状態なのです。私の借りてきた本も、恐らくまだ誰も借りていなさそうな新品で、そうか……この本の初めての手垢が私か……みたいな感慨深げな気持ちで読んでいるところです(いやもちろんきれいな手できれいに扱ってますけどね!)。
とにかく今日ざっと周ってみた感じでは読みたい本が結構並んでいたので(最近海外の作家さんの本が自分の中で熱い)、これは……入り浸るというか、休日の暇な時にフラフラ本を選びに行く場所になりそうだぞ……という予感がしています。
図書館というと私はお隣の市の図書館(自分の住んでいる市の図書館は、とにかく古くて暗くて本も少なくてあまり良い雰囲気ではない)にたまにお世話になっていたのですが、駐車場が狭いのと、中で読む場所が少ないので、これはしばらくこちらに鞍替えになるかもしれません。ありがとう可児市……。
と、私はわりと好印象の意見なんですが、多分この図書館、図書館を図書館として正当に利用したい人向けのつくりの図書館ではないので、そういう方々からは猛批判されそうだな、と思いました。そんな方々からすれば、ありがとう可児市どころかふざけんな可児市になってしまいそうだなぁ。
ただ私みたいに、図書館のあのシンとして音を立てられない環境が苦手だったりする人には、隣接する無印店舗からの雑音が救いになるのです。
あと個人書店でたまにあるような、本のジャンルごとの分類なしで、とにかく雑多な本が詰まっている本棚が好きな人向け。図書館というより、個人書店に近いかもしれません。
これといった目的の本がなく、新しい本とふらりと出逢いたい!という感じに使えばストレスなく使えそうだなと思います。
まあ、正統派の図書館は各市町村にひとつ以上はあるはずなので、目的に応じて使い分けかなぁと。とりあえずフラフラ書店めぐりの好きな私には嬉しい仕様なので、また行きたい……というか本を返却に行くのでまた訪れます。願わくば、これがオープン直後だけではなく、荒廃した雰囲気にならず継続していきますように。
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iafshop · 8 months
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The Greatest ROBOT Ever Created.
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Minetaro Mortal Plastic Vandals Hove Albion Hobby Club
“The Greatest ROBOT Ever Created."
科学技術の粋を集めて生み出される鋼の身体・ロボット。原義としての「労働力」に始まり、兵器、正義、人間関係、親、恋人、友人、成長した自分自身と、様々なものの象徴となりうるロボットは、国内外を問わず多くの人々の想像/創造力を刺激し続けてきた。本企画では、そんなロボットの中でも、日本国内のポップカルチャーの中で醸成されてきた特異なロボット表象をテーマに、無機物とテクノロジーによって作られ・描写される身体イメージの奔流について、作品展示と言論活動を交えて問い直す。
Art Exhibition 会期:9月30日(土)・10月1日(日)両日とも13:00-20:00 峰松宏徳 / Hironori Minematsu 浦和レッズサポーターグループ “さいたま第七艦隊” 代表。主に西日本中心のアウェー試合に出没しています。 MAITON 1994年生まれ。場所をとるか電気がいるか音が出る作品を作っています。 DUMBHEAD / Nagano Mitsuhiro 立体造形/映像を作るパソコンマスター。腐った脳をテクノライズした結果、中古ゲーム棚のディグスピードは他の追随を許さない。ぶれいんだむど! ZeFFFY 「自分にヒーロー・怪人等の精神を降臨させ戦う」をテーマに落書きから派生した絵画・立体作品の制作を行う。 生島国宜 / ixima kuniyosi 画業の傍らアメコミ映画を愛でるユニット「ファンタスティックポップコーンボーイズ」にて影の領袖クニ・ツラヤバとして暗躍するスピリチュアリスト。 西園尚志 / Takashi Nishizono 1981年生まれ #sadame という創作活動をしています。 Satoshi / TRASH ART WORKS アーティストとして活動中。脳内草野球チーム「太宰府ガイコッツ」の不動の4番としても活躍。 江口翔英 / Shoei Eguchi またの名をETE→CO あるときはキャメラマン、ある時はミュージシャン、してその正体はー!? TomoP 鹿児島の地に産まれましたが少し北の方へ向かって福岡に長く居座っております。 齋藤聖菜 / saito kiyona 子供とボロボロなもの等を描くのが好きです。本を作るのと見るのも好きです。いつか分厚い画集を作りたいです。 とよだまりさ 北九州在住の絵描き。私の中に潜むロボットを連れてきました。 Talk Show 日時:9月30日(土)17:00-19:00 プロダクト、被写体などの文脈を介した分析を行うことで、「ロボット」であることがいかなる表現を可能にしてきたのかについての検討を行う。 part.1 『神はどうしてモビルスーツを人の形に作りたもうた』 福地英臣 part.2 『「巨大ロボット」が持つビジュアルパワー~ロボットキャラクターのスケールに関する一考察~(仮)』 坂口将史 福地英臣 / HIdeomi Fukuchi 漫画批評家・現代美術家。今回の企画に取り組むために生まれてきた。Art Exhibitionにも参加。 坂口将史 / Masashi Sakaguchi 特撮研究者・漫画研究者。日本経済大学経営学部経営学科講師。メディア芸術カレントコンテンツ・コアライター。論文に「成田亨がキャラクター デザインにもたらしたもの」(『藝術研究 2017』)など。『ユリイカ 2021年10月号 特集 : 円谷英二』などに寄稿。 Artist Talk 『ぼくのかんがえたさいきょうのろぼっと』 日時:10月1日(日)17:00-19:00 ART Exhibition に参加するアーティストによるトーク。 昨今の「キャラアート(キャラクターアート)」に代表されるような、ポップカルチャーのビジュアルを想起させる若手現代美術家らが登壇。戦後間もなく誕生した日本独自の「ロボットもの」コンテンツに脳天を撃ち抜かれたユース世代の美術家が、それらの作品と自身のアートとの接点について言及する。各世代の様々な視座から繰り出される美術家ならではのアクロバティックな考察は、胸にポッカリ空いた夏の喪失を埋め合わせてくれるに違いない! ----------------------------------
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トム・ヴァーレインのブックセールにて
アレックス・アブラモビッチ
昨年の夏、ブルックリンでこんなミームが飛び交った: トム・ヴァーレインのブックセールの会場でキスしたらどうなる? バンド「テレヴィジョン」を結成し、そのフロントマンを務めたヴァーレインは、2023年1月28日に死去した。彼は長年にわたり、アート、音響学、占星術、UFOなど、さまざまなテーマに関する5万冊、20トン以上の本を入手していた。ブルックリンの隣接するガレージで8月に2日間にわたって行われたこれらの本の販売会は、大変な人気だった。アヴァンギャルドポップ・ミュージシャンのアート・リンゼイが立ち寄った。トニー・アウスラーは短いビデオを撮り、インスタグラムに投稿した。旧友たち(中には数十年ぶりに太陽の下に出てきたかのような者もいた)が、長い行列の中にお互いを見つけた。
ヴァーレインは膨大なコレクションをいくつかの倉庫に分けていた。彼が暮らすチェルシーの1ベッドルームから歩いてすぐの場所に1つ、川向こうのゴワナス運河に近いレッドフックに4つ。ヴァーレインはウーバーを使わなかった。ブルックリンの方の倉庫に行くには、おんぼろの食料品カートを持ってF系統の地下鉄に乗り、街でいちばん標高の高い地下鉄駅であるスミス・アンド・ナインストリート駅まで行き、あとは徒歩で移動した。人ごみの中で、ヴァーレインは目立った。背が高く、痩せていて、きれいな姿をしていた。(「トム・ヴァーレインの首はロック界で最も美しい」とパティ・スミスは1974年に書いている。「本物の白鳥みたい」)。彼は一度もタバコをやめず、フィルム・ノワールの登場人物のようなカーコートを着ていた。しかしそんな彼がカートを押して階段やエスカレーターをガタガタと降り、ブルックリン・クイーンズ・エクスプレスウェイの下をくぐり、7車線の道路を横切り、レッドフックに向かっていた。本をどこかに運ばねばならなかったのだろう。
ヴァーレインはストランド書店の常連で、かつて出荷部門で働いていたこともあった。店の前の1ドル均一のカートのまえにいるところを見かけることもあった。ツアー中にはサウンドチェックから開演までの時間を利用して地元の書店を訪れた。ブルックリンでは、倉庫にあまりにぎっしりと荷物を詰め込んでいたため、彼の遺品整理を任された友人のパトリック・デリヴァズは、箱を動かすスペースを確保するためだけに別の倉庫を借りなければならなかった。テレヴィジョンの直近のギタリストだったジミー・リップは、1月にアルゼンチンからやってきたが、7ヶ月後にまだニューヨークにいて作業を手伝っていた。ブッシュウィックの書店「ベター・レッド・ザン・デッド」のデイヴ・モースとマティ・ディアンジェロも整理に参加していた。
モースは言う。「ふつう、『5万冊の本がある』と言う電話がかかってきても、行ってると500冊くらいなんだ。今回、僕らは箱を数えた。5万冊よりは少しだけ少なかったかもしれない。ヴァーレインはパッキングがとても上手だったからね。たくさんの詰め物が使ってあった。波形の段ボールを折ったりプチプチを使って、即席で巣のようなものをつくってある。がさつではあったけれどとても几帳面で、ほとんどの本は素晴らしい状態だった。僕らは計算し、自分たちだけでは無理だと悟って頭をかいた。そしてスペースを持っている知り合いのディーラーを考えた。
ディアンジェロはワシントンDCのキャピトル・ヒル・ブックスを思い出した。そこはブックストア・ムーバーズという姉妹会社を持っていて、トラックも調達できた。そのトラックはいま���ブルックリンのガレージの前にあって、デリヴァズがみている。中の本は「文学」、「詩」、「宗教」といったテーマ別に分類されている。ディアンジェロは、神話や神秘主義、オカルト、超常現象、スピリチュアリティを指す「MOPS」という新しいカテゴリーを作った。イスラム教の旋舞教団、アレイスター・クロウリー、アントン・ラヴェイに関する本が、チャップブック[17世紀ごろからの冊子]や料理本(ヴァーレインがコンロで作ったのはコーヒーだけだったが)、中国に関する本の隣に並んでいた。読書家として、ヴァーレインは心理学や過激な理論に思う存分傾倒した。しかし、何度も立ち返ったテーマがあり、興味がずっと昔にさかのぼるものもあった。ヴァーレインのかつての親友でありバンドメイトでもあったリチャード・ヘルは、2013年に出版された自伝『I Dreamed I Was a Very Clean Tramp』の中で、彼がとても若かった頃のことをこう語っている:
世界は彼にとって理解不能の異様なところと写っており、空飛ぶ円盤のようなものから、極端な陰謀論、不明瞭な宗教的神秘主義まで、あらゆる種類の非合理的な説明に影響を受けやすかった。彼は、これらの信念や疑念が多くの人々にとってクレイジーに映ることを知っていたし、それが彼が人前に出るのを嫌がっていた理由の一つだ。
ブックセールの数日後、私はリップとデリヴァズに会うためにレッドフックの倉庫まで歩いて行った。彼らはアンプ、スピーカー・キャビネット、真空管でいっぱいのユニットを見せてくれた。それもヴァーレインが収集したものだ。「曲のキーがE♭だと、トムは真空管を交換するんだ。ほら、ここに、彼が印をつけていたかがわかるだろう」
販売会場には『The Tube Amp Book(真空管アンプの本)第4版』というカタログが、ギオルギー・リゲティの伝記とブルーノート・レコードの歴史に挟まれてあった。私はいま、それを買わなかったことを後悔している。ヴァーレインはまだ製造が続いているスロバキアから輸送した新しい真空管を持っていた。eBayから入手した、あるいはeBayが存在する前に購入したヴィンテージの真空管も持っていた。何百という真空管を持っていた。
ヴァーレインは高価な機材には手を出さなかった。(ルナ・アンド・ギャラクシー500のディーン・ウェアハムは、ヴァーレインがかろうじて弾ける12弦のエレキを持ってスタジオに現れ、それを見事に弾きこなしたことや、ヨーロッパ・ツアーを全く機材を持たずに行い、各都市で新しいストラトキャスターをレンタルしたことを覚えている)。しかし、彼は自分のトーンにこだわった。ジェフ・ベックのように、アンプに直に接続し、ギターのボリュームとトーンのノブを操作して、他のプレイヤーがエフェクターのペダルでしか作れないようなエフェクトを得ることができた。彼はおそらく、どこまでも繊細だったのだろう。リップは彼らのサウンドチェックの一コマを振り返った。「トムが弾くのをやめて『ブーンという音がする』と言った。俺らには何も聞こえなかったけれどトムは言い張った。俺らはその音の元を探して、やっと会場のうしろのほうで見つけたんだ。その下まで行かなければわからなかったのに、トムはステージから気づいたんだ」
「トムは非常にガード固かった」とヘルは自伝に書いている。「防御が強いんだ。それには良いことも悪いこともある。それは彼にある種の整合性を与えた。流行に流されることはなく、慎重で信頼できた。でもそのせいで一緒に仕事をするのは本当に難しかった」。しかし、6年ほどの間、ヴァーレインとヘルは(ふたりは一緒にデラウェア州の高校を飛び出し、ニューヨークで再会していた)同じアパートに住み、同じダブルのマットレスで眠り、「テレサ・スターン」として一緒に詩を書き、ヘルが主宰する詩誌『ドット』から出版した(彼が最初に出版したのはアンドリュー・ワイリーの詩集だった)。
1972年、ふたりはバンドを結成した。ヴァーレインはサード・アベニューの質屋でベース・ギターを選び、ヘルに基本を教えた。髪を切り、名前を変え(「マイヤーズとミラー」から「ヘルとヴァーレイン」に)、ネオン・ボーイズと名乗り、ビリー・フィッカを加入させた。数ヶ月間、彼らはヴァーレインのアパートでリハーサルをした。アンプやセットを買う金はなかった。ジャズ志向の優秀なドラマーだったフィッカは、代わりに電話帳でドラムを叩いた。ヘルは「Love Comes in Spurts」、「Blank Generation」、「Eat the Light」など数曲を書いた。ヴァーレインは「Bluebirds」、「$16.50」、「Tramp」を書いた。彼らは『ヴィレッジ・ヴォイス』紙に「ナルシストなリズム・ギタリスト募集、最低限の才能があればOK」という広告を掲載し、何人かがオーディションを受けた(ディー・ディー・ラモーンになったダグ・コルヴィンや、ブロンディを結成することになったクリス・スタインもいた)が、誰もフィットしなかった。1973年になっていた。ヘルとヴァーレインは13番街にある小さな店、シネマビリアで働いていた。マネージャーのテリー・オークは、チャイナタウンのロフトに寝泊まりしていたリチャード・ロイドを推薦し、ロイドを2人目のギタリストに迎えて、彼らはバンド名をテレヴィジョンに変えた。
CBGBのオーナーであるヒリー・クリスタルは、彼のクラブでカントリー、ブルーグラス、ブルースのバンドを取り上げようと計画していた。テレヴィジョンをマネージメントするようになったオークは、代わりに自分のバンドを演奏させるよう彼を説得した。徐々にひとつのシーンが形成されていった。テレヴィジョンはリチャード・ウィリアムズとブライアン・イーノとデモを録音した。もしヴァーレインがイーノのサウンドを嫌っていなければ、イーノは彼らのファースト・アルバムをプロデュースしていただろう。ヴァーレインは、イーノがそのテープをイギリスに持ち帰ったと確信していた。ロキシー・ミュージックの次のアルバムのグルーヴの中に、自分のアイデアが入っているのが聴こえたと思っていたのだ。それが事実かどうかは別として、同じ頃、マルコム・マクラーレンとヴィヴィアン・ウエストウッドは、とんがった髪、破れたTシャツ、安全ピンといったヘルのルックスや態度をコピーし、セックス・ピストルズにあてがった。ヘルは回想する。「俺らの演奏はまるで反逆のスクラップが転がり落ち、ぶつかり合う音みたいで、同時にそれを遠くから眺めているみたいに美しくて胸が張り裂けそうでもあった。感動させられ、揺さぶられ、目を覚まさせられた」
しかし、テレヴィジョンがファースト・アルバムをレコーディングする頃には、バンドはそのメンバーではなくなっていた。ヴァーレインは、徐々に、そしてその後は徐々にではなく、ヘルとヘルの曲を脇に追いやった。『Marquee Moon』を何年もリハーサルして手を入れ続け、考え続け、それは1977年、ヘルの脱退から2年後に発表された。ヘルの代わりにフレッド・スミスがベースを弾いていた。曲はより慎重に構成され、短編小説のように構成された。ヴァーレインはジョン・コルトレーンとアルバート・アイラーを愛し、彼のレコード・コレクションの大半はESPやインパルスといったレーベルのジャズ・アルバムで占められていた。しかし、コンサートでも、テレヴィジョンがノイジーで自由だった頃、ヴァーレインとロイドが奏でる連動したソロは高度にアレンジされていた。ウィリアムズはそれを「金線細工を施された」と表現した。
彼らの曲は文字通り「文学的」だった。ロックンロールではめったに美徳とされないことだが、ヴァーレインにははまっていた。彼は手がかりや警官、裏切り者、その他ハードボイルドな小物でいっぱいの探偵小説を書き、それを打ち砕いているかのようだった。『Marquee Moon』に収録されている8曲のうち5曲は、夜に起こる物語を歌っている。4曲は過去形と現在形を行き来している。ヴァーレインの描くイメージにははっとさせられる。「素敵な小舟が欲しい/海でできた小舟」、「世界はとても薄かった/俺の骨と皮のあいだで」、「思い出す/雷が雷自身に落ちたのを」。
しかし、パンクの先駆けとなったテレヴィジョン(ヘルが所属していたときのグループ)がアナーキーで、1977年のテレヴィジョンがほとんどプログラムされたようにコントロールされていたとしても、両者を異なるバンドと考えるのはまちがいだし、ヘルとヴァーレインを正反対の人物と見るのもまちがいだ。ヴァーレインの歌声は神経質で切迫していた。彼のアルバムはやはりパフォーマンスであり、素早く録音され、多かれ少なかれライブだった。奇妙で、絶望的で、すばらしかった。1曲目の終わりに「愛する人と未来を引きずり降ろせ」とヴァーレインは10回続けて歌っている。彼とヘルには共通の恍惚感があった。
もちろん彼らは憎み合っていた。「あいつには我慢できない」とヴァーレインは言い、ヘルも手加減しなかった。しかし、『I Dreamed I Was a Very Clean Tramp』のエピローグで、ヘルはほんとうに久しぶりにヴァーレインに会ったときのことをこう語っている:
このあいだ、レストランから家に帰る途中、古本屋の前でトム・ヴァーレインが安売り本の箱を漁っているのを見かけたんだ。俺は彼に近づいて、「空飛ぶ円盤について何かわかったか?」と聞いた。
ヘルはヴァーレインの歯(俺の歯よりもっと悪い」)、顔(「でこぼこで膨張している」)、髪(「白髪まっしぐら」)を描写している。
俺は背を���け、ショックを受けて歩き去った。俺たちはまるで2匹の怪物が打ち明け話をしているようだったが、ショックを受けたのはそのことではなかった。俺が愛を感じたからだ。俺は彼に感謝し、彼を信じ、自分の中で、彼がありえない人間であり、彼を好きになることがありえないことを肯定した。それまでもずっとそうだったのだ。俺はこれまでと同じように彼を近くに感じた。彼のような人間以外に何を信じればいいのだろう? なんてこった、俺は彼と同じなんだだ。俺は彼だ。
ヴァーレインの本は、Better Read than DeadやCapitol Hillのサイトでまだ購入できる。彼のレコード・コレクションは、そのうちグリーンポイントとイースト・ヴィレッジのアカデミー・レコード別館で販売されるだろう。その本やレコードははいまとはちがう時代、いまとはちがう街を思い出させる。書店やレコード店が遅くまで開いていて、CBGBで夜遊びした後でも店を覗くことができて、そこで手に入るものは安かったし、それを保管するのに必要なスペースも安かった。たとえ書店で働いていたとしても、その金でオフセット印刷機を買って自分で詩の版元を始めたり、ソーホーにロフトを見つけて自分のバンドを始めたりできたのだ。
2024.3.4
ロンドン・レビュー・オブ・ブックスに掲載
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crydayz · 2 months
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240213 STRETCH
ご飯をちゃんと食べたのだが仕事モードに入れない
入ったら入ったで余裕で6hくらい没頭するのだが会議まで残り4時間半
その尺で何かを形にできる自信がない
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もとい、最悪取りこぼしてもなんとかなるだろうという甘えがあるのだ
ぶっちゃけ殴られたり無給にすると言われても大して動じないだろうからXのメインアカウント消すぞくらいの脅し受けない限りやる気は出ないのだろう
まったくなんて図々しいヤツなんだ俺は
人を尊敬する事はしない
しかしその結果他人をナメすぎてしまう事は本意ではない
常に「畏怖」を感じていたい
純粋な「恐怖」でもいい
とにかく尊敬をやめてる以上「恐怖」と「欲」でしか動けない
尊敬は本当に危険だ。尊敬対象が命じるどんな不本意なオーダーでも喜んで受け入れてしまう
尊敬とはある意味「自己保存セキュリティの解除」行為だ
「好き」という感情もそう
自分が最終的に損を被るような関係性であっても対象の事を「好き」ならば許容できてしまう
困ったもんだー
いや、困らない。困らないから厄介なんだ
「好き」に身を委ねた際の自身の動物っぷりと言ったらない
全細胞が歓喜しちまう
これでいいのだ、って思っちまう
ザ・チョウチンアンコウの雄の生存戦略
いやいやそんなのどうでもいい。仕事モードに入れない。勝手にオチつけて悦に浸るな! 文章的なオチついたら さも問題解決したような顔すんな
普通の一般人の、サラリーマン的な矮小メンタルに戻せ!
それで仕事が出来るならそれに越したこたあないじゃあないか
自分は「そもそも論」を掘り下げすぎたんだ
何もしない自分や好きなことしかやらない自分を許しすぎている
どんなに自分の中でサボタージュに正当性があろうとも「働かない自分をなんとなく許さない」という悪意にも似たなにか・・
それでもってしか安い労働なんてできっこない!!
ああ、俺は一枚絵を描いたら最低3000万円欲しいんだ!!!
100万で十分? バカ言うな。そんなの現代アート界では底辺だ
ド底辺はさらに下がいるので「ド」はつかないにせよ、底辺なのは間違いない
そして自分はその業界で敗けた、敗走した。ならば甘んじて与えられた仕事をきっちりこなす事が敗者の義務だろう
うむ。なかなかキレイな言い訳だ。モチベのトリガーとしても十分
しかし、この態度は応援しづらいな・・・
お金のアレコレは一旦横に置こう。僕は妻と娘と穏やかに過ごせるだけで十二分に幸せなんだ
善良さ失わせる博打にまつわる思考を人前で展開するな
そういうもんは影でこっそりやって成功オア失敗後に報告すりゃ十分
温み / 愛 / 居場所
それに勝る価値あるものなどこの世にない
でもそれだってお金でどうとでもなるじゃない? と言われたらイエス
お金がなきゃそれを手にする難易度バカ高くなるでしょ言われたらイエス
「持続性の問題」だよな。数日間だけ幸せの絶頂味わってその後一生不幸でいいならあるいは夢は実現できる
けど「やっぱ続かないものには価値がない感」ある
少なくとも「飽きるちょっと前」くらいまでは楽しみたい
わ、長いよこのエントリー。いい加減終われ
【✓】
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shredderwastesnow · 3 months
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長々と「ゴーストワールド」考
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私がテリー・ツワイゴフ監督の映画「ゴーストワールド」と出会ったのは、2000年代中盤のことだった。映画館ではなく、ツタヤでDVDを借りて実家のリビングで観た。コロナ禍によってビデオ・DVDレンタル屋としてのツタヤが街から消えた今になって振り返ると、あの日からずいぶん遠くに来てしまったことを実感する。
映画冒頭、アップテンポなジャズが流れ出し、こぶしの利いた男性シンガーの声が重なる。「シャンフェケシャンフゥ」--何語だか分からないが、気分を高揚させる陽気なグルーヴ。しかし、映像はアメリカ郊外の白いマンションで、音楽の古めかしさと不釣り合いな印象を与える。
カメラはマンションの外から窓の中を捉えつつ、右へと移動する。それぞれの窓の向こうにいる住人たちが部屋でくつろいだり食事をしたりといった光景がいくつか展開された後、濃いオレンジの壁紙の部屋が映し出される。部屋の中央で、黒縁眼鏡をかけたぽっちゃりめの女の子が、黒髪のボブを振り乱して踊っている。傍らには昔ながらのレコードプレーヤー。そこから大音量で流れる「シャンフェケシャンフウ」--アメリカにおけるサブカル眼鏡女子の強烈な自己主張は、無機質な郊外の光景へのレジスタンスのようだ。
細かい台詞やキャラクターは忘れてしまっても、このシーンだけは鮮烈に頭に残っている。この映画が何を描こうとしているのか、冒頭を観ただけで分かった。自分の世界を持っている人間の素晴らしさと痛々しさ。そんな存在を愛おしむ監督の眼差し。
2時間弱の物語の中では、高校を卒業したものの進路が決まらない主人公イーニドが迷走に迷走を重ねる。そして、彼女が何かを成し遂げるようなラストも用意されていない。
ありがちなティーンエイジャー文化に埋没する無個性なクラスメイトや郊外の退屈な人々を馬鹿にしている割に自分自身もぱっとしないイーニドの姿は痛々しいが、十代の自分にも確かにそんな一面があったことが思い出され、いたたまれない気持ちになる。それでも、映画を見終えた私の心には温かい余韻が残った。監督が最後までイーニドに寄り添い続けていることが伝わってきたから。
2023年下旬、何の気なしに見ていたX(旧twitter)で、ゴーストワールドのリバイバル上映を知った。絶対に行かなければと思った。あの名作と、映画館で出会い直したい。 上映が始まって約1ヶ月後の2024年1月、再開発によって円山町から宮下に移転したBunkamuraル・シネマの座席で、私はイーニドたちと再開することになった。
改めて観てみると、最初に観た時の感動が蘇ったシーンもあれば、初見では気付かなかった要素が見つかったシーンもあり、希有な鑑賞体験になった。 これ以降、個人的に気になった部分を列挙してみる。
自由という試練
物語の序盤で、主人公イーニドと幼馴染みのレベッカは、揃って高校を卒業する。式が終わると、イーニドとレベッカは会場から走り出て、卒業生が被る伝統の角帽を脱ぎ、校舎に中指を突き立てる。二人とも大学には進学せず就職もしないので、これからは受けたくない授業を受ける必要もなく、大人として自分の道を選ぶことができる。スクールカースト上のポジションに惑わされることもない。
しかし、コーヒーのチェーン店で働きながら親元を離れて暮らすためアパートを探し始めるレベッカとは対照的に、イーニドは将来のビジョンを持てないまま高校の補講に通い、髪を派手な色に染めてみたり、映画館のアルバイトを一日でクビになったりしている。ルームシェアをする約束を果たす気があるのかとレベッカに問い詰められれば「自立、自立って馬鹿みたい」と滅茶苦茶な言葉を返して怒らせ、家に帰ってからベッドで泣く。イーニドは自由を満喫するどころか、自由を持て余しているように見えた。
高校生の頃は、学校の教員たちが決めたルールに従い、与えられたタスクをクリアすることが求められていた。経済的に親に頼っている分、親や家��というしがらみもある。大人の介入を避けられない年代にいるうちは、人生の問題を大人のせいにすることもそれなりに妥当だ。
しかし、高校を卒業してしまえば、もう人生の諸問題を安易に大人のせいにできない。複雑な家庭の事情に悩まされていても、「もう働ける年齢なんだから、お金を貯めて家を出ればいいんじゃない?」と言われてしまう。
自分の進路を選び、やるべきことを見極めて着実に実行することは、何をすべきなのか指示してくる人間に「やりたくない!」と反抗することよりもはるかに難しい。与えられた自由を乗りこなすだけの自分を確立できていないイーニドの戸惑いと迷走は、滑稽でありながらも、既視感があってひりひりする。
シスターフッドの曲がり角
この映画には、イーニドとレベッカのシスターフッド物語という側面もある。十代を同じ街で過ごし、お互いの���愛事情も知り尽くしている二人が、高校卒業という節目を境に少しずつ噛み合わなくなってゆく過程が切ない。二人とも、相手を大切に思う気持ちを失ったわけでは��してない。それでも、環境の変化が二人の違いを鮮明にし、今まで通りではいられなくなる。
イーニドもレベッカも、世界をシニカルに見ている点は共通している。派手に遊んでいたクラスメイトが交通事故で身体障害を負ってから改心し、卒業式のスピーチで命の尊さを語っていたことに対して「人間そんなに簡単に変われるわけない」と陰で批判したり、卒業パーティーでも弾けたりせずぼそぼそ喋っていたりと、どこかひねくれた態度で生きている。世の中が用意する感情のフォーマットに素直に乗っからない低温な二人の間には、確かな仲間意識が見て取れた。
しかし卒業を契機に、二人の関係はぎくしゃくし始める。 イーニドは仮に卒業できたものの、落第した美術の単位を取得するため補講に出なければならない。スムーズに卒業したレベッカはカフェのチェーン店で働き始め、アルバイトではあるが社会に居場所を得る。卒業したばかりの頃はイーニドと一緒にダイナーに行き、新聞の尋ね人欄に出ていた連絡先にいたずら電話をするといった行動にも付き合っていたレベッカだったが、アルバイトも続かずルームシェアの部屋探しにも消極的なイーニドに徐々に愛想を尽かす。イーニドが中年男性シーモアとの関係を隠していたことが、さらに二人の距離を広げてしまう。
イーニドは古いレコードを集めるのが好きで、一癖あるファッションを身に纏い、多少野暮ったい部分はあるにしても自分の世界を持っている。バイト先でも、上司の指示に違和感を覚えれば分かりやすく態度で示す。表面的にはリベラルな国を装いつつ水面下では依然として差別が行われているアメリカ社会に対しても、批判的な眼差しを向けている。
しかし、それを表現した自分のアート作品が炎上した際、イーニドは作品を批判する人々に対して展示の意義を説明せず、展覧会の会場に姿を見せることすらしなかった。どんなに鋭い感性があっても、表現する者としての責任を全うする姿勢のないイーニドは、アーティストにはなれないだろう。黒縁眼鏡の媚びない「おもしれー女」ではあってもカリスマになる素質はなく、かといってマジョリティ的な価値観への転向もできないイーニドの中途半端さは、何とも残念である。
一方レベッカは、シニカルな部分もありつつ、現実と折り合いを付けて生きてゆけるキャラクターだ。店に来たイーニドに客への不満を漏らしながらも、上司に嫌味を言ってクビになったりすることはない。経済的に自立して実家を出るという目標に向かって、地に足の着いた努力ができる。
そして、レベッカは白人で、イーニドより顔が整っている。二人がパーティーに行くと、男性たちはユダヤ系のイーニドに興味を示さず、レベッカにばかり声を掛ける。 どう考えても、社会で上手くやってゆけるのはレベッカの方なのだ。
卒業を契機に、高校という環境の中ではそれほど目立たなかった二人の差が浮き彫りになる。置いて行かれた気持ちになるイーニドと、現実に向き合う意欲が感じられないイーニドに苛立つレベッカ。どちらが悪いわけでもないのに、高校の時と同じ関係ではいられない。絶交するわけではないけれど、何となく離れてゆく。
人生のフェーズに応じて深く関わる人が変わってゆくのはよくあることだし、どうにもならない。それでも、楽しかった長電話が気まずい時間に変わったり、昔だったら隠さなかったことを隠すようになる二人を見ていると、人生のほろ苦い部分を突きつけられるようで、胸が締めつけられる。
シーモア:大人になりきらないという選択肢
冴えない中年男性シーモアは、この映画におけるヒーローでありアンチヒーローだ。平日は会社員だが、休日は音楽・レコード・アンティークオタクとして自分の世界に耽溺し、友達も似たような同性のオタクばかり。せっかくライブハウスで女性が隣に座っても、音楽の蘊蓄を語って引かれる。そのくせ「運命の出会い」への憧れをこじらせている。自分の世界を持っている人間の素晴らしさと痛々しさを、これでもかと体現しているキャラクターだ。
イーニドとシーモアの出会いは、イーニドのいたずら電話がきっかけだった。新聞の尋ね人欄を読んでいたイーニドは、バスで少し会話をした緑のワンピースの女性にまた会いたいと呼びかける男性の投書を発見し、この気持ち悪いメッセージの発信者を見てやろうと、緑のワンピースの女性を装って電話をかける。会う約束を取り付け、待ち合わせの場所に友達と共に向かうと、呼び出されたシーモアがやって来る。
待ちぼうけを食らうシーモアを陰で笑いものにするイーニドだったが、別の日に街で偶然見かけたシーモアを尾行して、彼がレコードオタクであることを知り興味を持つようになる。シーモアのマンションで開かれたガレージセールで、イーニドはシーモアが売りに出した中古のレコードを買い、会話を交わし、徐々に距離を縮めてゆく。
シーモアが自宅でレコードオタクの集まりを開いた日、イーニドはシーモアの部屋に入る機会を得、彼のコレクションと生き様に驚嘆する。
恐らくイーニドは、シーモアという存在から、アーティストやクリエーターにはなれなくても自分らしさを手放さずに生きられると学んだ。たとえ恋愛のときめきが去ったとしても、シーモアの残像はイーニドの中に残り、社会と折り合いを付けられない彼女の行く先をささやかに照らすのではないだろうか。
(そして、シーモアの姿が、一応仕事や勉学などで社会と折り合いを付けながらも、家庭を持たず読書や映画鑑賞や執筆に明け暮れる独身中年の自分と重なる。その生き様が誰かの未来を照らしたりすることはあるのだろうか。もちろん作家として誰かの人生に言葉で貢献するのが一番の目標ではあるものの、映画を観た後、最低限シーモアになれたらいいなという気持ちになった。初見の時と感情移入するキャラクターが変わるというのは、なかなか新鮮な体験。)
矛盾を抱えたアメリカ社会への言及
最初に観た時はイーニドや一癖あるキャラクターたちが織り成す人間模様にしか目が行かなかったが、二度目の鑑賞では、画面の端々に映り込むアメリカ社会への皮肉もいくつか拾うことができた。
ライブハウスのシーンに、ブルースに影響を受けたと思われる白人のボーイズバンドが登場する。ヴォーカルは「朝から晩までcotton(綿花)を摘む毎日さ」みたいな歌を熱唱する。確かにブルースにありがちな歌詞だ。しかし、綿花を摘む労働をさせられていたのは主に黒人であり、白人は黒人をこき使う側だったはず。労働者の心の拠り所として作られたブルースという文化を、ブルジョワである白人が無神経に簒奪しているという皮肉な現実が、この短い場面にそっと描かれている。
また、イーニドとレベッカが一緒にパーティーに行くとレベッカばかりが男性に声を掛けられる件には既に触れたが、声を掛けてくる男性はほぼ白人だ。アジア系の男性や黒人男性などがレベッカをナンパすることはない。たまたま二人の住む街が白人の多い地域という設定なのかもしれないが、このようなキャスティングが決まった背景には、制度上の人種差別がなくなっても人種によるヒエラルキーが社会に残っているという監督の認識があるのではないかと感じた。
そして、個人商店がチェーン店に取って代わられ、住宅地が画一的なマンションで占められ、街が少しずつ個性を失ってゆく描写もある。レベッカが働くカフェ(ロゴがスターバックス風)やイーニドがバイトをクビになるシネコン内の飲食店は、無個性なチェーン店そのものだ。モノやサービスが画一的になり、雇用や労働のスタイルも画一的になり、マニュアル通りに動けない人間が排除される世界へのささやかな批判が、様々なシーンの片隅にそっと隠されている。
この映画は、十代の葛藤を単なる自意識の問題として片付けず、矛盾だらけで個性を受け入れない社会にも責任があると言ってくれていた。改めて、監督や制作者たちのティーンエイジャーに対する温かい眼差しを感じた。
ラストシーンをどう解釈するのか
ネタバレになるので詳細は伏せるが、この映画のラストシーンは比喩的で、どう受け止めるのが正解なのか分からない。イーニドの人生に希望の光が差すことはなく、かといって大きな絶望が訪れることもなく、自分を命がけで守ってくれた人の思い出を胸に強く生きることを誓うみたいな展開にもならない。とにかく、分かりやすいメッセージのある終わり方ではないのだ。
(映画館を出た後にエレベーターで乗り合わせた若いカップルも、やはりラストの解釈が難しいという会話をしていた。)
私自身は、このラストを、イーニドが他力本願な自分から卒業することをようやく決意したという意味に捉えている。
これまでのイーニドは、心細くなれば友人のレベッカやジョシュを呼び出し、映画の中盤以降ではシーモアにも絡んでいた。人生に行き詰まれば、誰かを頼って気を紛らわす。偶発的に何かが起こって道が開けないかな、みたいな感覚で生きているような印象だった。 しかし、物語の終盤で、一時はイーニドにとってヒーローだったシーモアが、突然遠のく。レベッカとも既に疎遠になっているイーニド。そして、不思議なラストシーン。イーニドは、私たちに背中を向けている。
イーニドは、自分を導いてくれるヒーローも、どう生きるべきか教えてくれる天使も、どこにもいないということに気付いたのではないだろうか。 人間は最終的には孤独で、自分の人生は自分で切り拓いてゆくしかない。ラストシーンのイーニドからは、彼女が紆余曲折の果てに辿り着いた人生の真理が滲んでいるように思える。
そして、イーニドの後ろ姿は、スクリーンのこちら側にいる私たちに対しても「自分の人生は自分で切り拓いてゆくしかないよ」と語りかけている気がする。どう生きるべきか、映画に教えて貰おうなんて思うなよ。自分で行動して、傷ついたり恥をかいたりしながら、自力で見つけるんだ。
以上が私なりの解釈だが、違う見方もあるのかもしれない。他の人の批評も検索してみたい。
おわりに
Bunkamuraル・シネマでの「ゴーストワールド」上映は明日で終わる。しかし、各地の名画座での上映はまだ続くようだ。これからも沢山の人がイーニドたちに出会うことを想像すると、自然と笑いがこみ上げる。
イーニドの冴えない青春は、観た人の心に何をもたらすのか。
これを読んで少しでも気になった方は、是非スクリーンで、ラストシーンまで見届けてください。
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jinsei-pika-pika · 3 months
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流動しながら個として見つめ、判断する。 北村道子の仕事の向き合い方。
#01
北村道子
衣裳デザイナー/スタイリスト
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40年以上にわたり、映画、広告、雑誌など、さまざまなメディアで活躍する衣裳デザイナーの北村道子さん。キャストやスタッフと真正面に向き合い、ときに衝突することも恐れず、信念を持ってスタイルを貫く。そんな彼女の個性はどのように育まれ、いかにして磨かれたのだろう。仕事場としてたくさんの時間を過ごしてきたフォトスタジオという空間で、コーヒーを片手に彼女が歩んできた半生と仕事について語ってもらった。
Apr.19.2023
Michiko Kitamura
photography:Mai Kise interview & text:Tomoko Ogawa edit:Shigeru Nakagawa
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家を飛び出し、世界を分解して見る癖をつけた少女は、映画の中の洋服に出合う
— ご自身の10代、20代を振り返って、その後の人生に影響した出合いについて聞かせてください。
私は寺山修司の影響が大きいんですよ。『書を捨てよ、町へ出よう』、「親を捨てよ」を実行した人だよね。私は16歳で実家の金沢から出て、サハラ砂漠やアメリカ、フランスを放浪しましたけど、18歳になっても、30歳を越えても実家にいる人もいますよね。親だって子離れしてないじゃない。これが今の日本という文化、社会を育んでいるんじゃないかと思う。だから、自然と政治も家父長制に、政治家も世襲で引き継がれるようになってますよね。なぜ出ていくか。それは自分のアイデンティティを知るためです。知るっていう行為は、過去を見つめるしかないということなんだよね。
— たしかに、経験からしか何かを知るということはできませんもんね。
今の瞬間、何秒間という現在点で、目の前にいる他者と自分には大きなギャップがある!と思ったときに、自分のアイデンティティを知る。特に外国に出ると、相槌打って微笑んでいるだけじゃ会話は進まないじゃない。日本みたいに、同調圧力が強くないから。つまり、実家にいるということは、母親のお腹で守られている状況と近いんです。そこから出ることによって、初めて世間にさらされる。そこで、世の中を自分で分解してみる癖を持つようになる。私の場合、子どもの頃から英和、和英辞典と広辞苑を持ち歩いてたから、誰かの発言に対して、「この人の言ってることはなんだろう?」と思って全部つぶさに見るんです。そこから、言葉はこうやって進化してるのか!と発見する。もっと言えば、ブランド力にとらわれず、自分の力で学びたい高校や大学を選んでいくこと。そうすると、一人の有権者として、政治と経済とアートがどう自分の仕事と人生と結びついてるかを分析して、議論できるようになっていくんですよね。
— もともと彫刻家を目指されていて、洋服に興味はなかったそうですが、何がきっかけで衣裳の世界に入られたんでしょうか?
なぜ私が洋服をスタイリングすることになったかというと、〈シャネル〉がきっかけなんです。当時のパートナーと外国を回っていた20歳の頃、シャネル本店でスーツをオーダーしたんです。なぜかというと、(ルキノ・)ヴィスコンティの映画『ボッカチオ’70』を観て、こんなストーリーなのに、こんないい服が出てくるんだ!と思って(笑)。お金もなかったから、モリエールの銅像の前で似顔絵を描いたり、その辺に捨てられたもので立体を作ったりしていたら、お金を置いていく人がいるんですよ。フランスは、そもそもアートに対してお金を恵むという文化があるよね。2カ月くらい経つと、そこそこお金が貯まってくるんですよ。それで、一番いい服を着てシャネルに行ったら、らせん階段の上からなんか貧しい子が来たぞっていう感じで見られて、クチュールのスタッフに全身を採寸されてね。スーツ自体が欲しいというよりは、あの機能美を兼ね備えたスーツにどう辿り着くんだろう、とその過程を見たくて。今日着ている〈メゾン マルタン マルジェラ〉の初期のワンピースも、マルタンはヴィンテージファブリックを使っているから、これは私しか持ってないんです。多分、それが洋服の原点ではないかと思う。究極、ファッションも映画も、この1点の洋服が、誰に似合うのかを考えるのが面白いんです。だから、着こなしの作法をつかんで服を着ている人にはついていきます!となるよね、私としては。
— 作法をつかむには、その人の生き様が関係してきますよね。
映画の見方にも視点があるように、着る人の視点が見えるかどうか。例えば、海外の俳優で、普通のデニムをはいてるだけなのに、かっこよく見えることがあるじゃないですか。よくよく見てみると〈ギャップ〉のものだったりするんだけど、それがなぜおしゃれに見えるのか、そこに、その着こなしにおのずとその人らしさが出てくると思うんだよね。
— 北村さんが考える「良い仕事」の定義とは?
私がチョイスしたものは良い仕事、というのは冗談だけど(笑)、興味や好奇心が向かう、面白いなと思える人と仕事をすることですよ。その人が心から出てくる言葉を使っているか、誰かから借りている言葉を使っているかは、この年になるともう、すぐにわかるんです。だから、自分の言葉を使って、馬鹿馬鹿しいことを本気でやっている人に興味があるんだよね。 私は長く、社会思想、政治学、社会学、哲学の本を読み続けているんだけれど、そうすると、道草をたくさんしなくちゃいけなくなる。そこに新たな興味が出てきて、あれもこれも読まなくちゃとなることが楽しいんです。だから、何か新しいことを学ぼうとすると、なんとなくつかめるようになるまで、少なくても10年はかかっちゃうんだよね。
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他人に委ねず、自分自身でジャッジするという強さ
— 仕事の際に、自分自身に課しているルールは?
自分自身でジャッジすること。周りはダメと言うだろうと思っても、自分がいいと思うことを提案してみると、意外とオッケーが出たりして、できたものをすごく喜ばれたりもするんですよ。なぜだかはわからないんだけど。昔、平山景子さんが編集長をしていた時代の『花椿』※1 で2年間仕事させてもらえたのも、そういう私の発想を面白がってもらえたからなんだよね。子どもが行水しているようなビニールプールの素材あるじゃないですか。あれをそのまま生かして洋服にしませんか?とか、油揚げを1メートルぐらい縫い合わせて、お稲荷さん洋服にしたらどうですか?とか(笑)、捨てられた手袋を全部寄せ集めたら、ベストにできるんじゃない?とかね。それは、資生堂にはない発想だったんじゃないですか。 ※1 1937年に創刊した資生堂の企業文化誌。
— 長く活動する秘訣があれば教えてください。
やめたら生活できないから続いただけで、若い頃からそんなに仕事してないんですよ、私。目立った仕事はしていたかもしれないけれど、1年のうち3カ月は外国に出ていた時期もあったし。しかも、私、結構喧嘩してるんですよね、編集者やメイクアップアーティストと。クライアントに対しても意見しちゃうんで(笑)。我慢して黙っている持久力がないんです。自分は労働者階級だと思ってるから、偉ぶる人や権力が大嫌いなんですよ。だから、広告代理店の大げさな儀式が嫌になっちゃって、70歳でもう広告はやめました。今は、一緒に仕事したい人に頼まれたら引き受ける、という感じでやってますね。
— 師弟制度を取り入れていた時期もあったのでしょうか?
以前、マネージャーをやりたいと名乗り出てくれた人がいて、勝手にアシスタント志望という子に数人声をかけて職場に呼んでいたんです。私は好きにやりたいからとその人のオファーは断ったんだけど、アシスタントをしたいという子はもうそこに来てしまっていたから、「しょうがない。5カ月は面倒みる!」と言って。当時、私はよく免停になってたのね。それで、運転手として手伝ってもらっていました。そうしたら、いつの間にか「北村道子のアシスタントをやっている」が一人歩きして、そう言っているスタイリストが十何人になってたんです。悪いうわさの多い私の名前だったから、出すと響くらしいんだよね(笑)。自分から口説いて手伝ってもらっていた美大の学生たちは、私が留学を勧めたこともあって国外に出てしまい、それから戻ってきてないですね。
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— 創作のリソースとして、どこからインプットする機会が多いのでしょうか?
映画と本ですね。小説は眠くなるからあまり読まない。今、一番学びたいのは、古代ギリシャの哲学者ヘラクレイトスなんです。ニーチェについて読んでいたときに、ヘラクレイトスは偉大だと思って。ソクラテス以前のギリシャを唯一学んだのが、「神は死んだ」を主張したニーチェなんですよ。つまり、それ以前は、神を作っていたとも解釈できるじゃないですか。ワインも蒸造して、ドラッグもやって、錬金術で実験してたとされているから、多分、既存の価値観で振り返ると、ものすごく壊れてるんじゃないかと思うよね(笑)。あとはね、事実、行動、現実性を重視する「プラグマティズム」を日本に紹介した鶴見俊輔の本も全部読み返してますよ。彼は16歳でハーバードに入学して、プラグマティズムを学び、“人は矛盾してる。その矛盾こそが人間なんだ”という生き方をするんです。
— 北村さんも、“矛盾こそが人間である”を体現していらっしゃいますよね。
私、「明日になったら、同じこと言ってるかはわかんないけどね」って、よく言うんです(笑)。今日は、このインタビューに対して思ったことを答えてるだけ。取材なんかで話をするときも、言いたいことだけを言う。都合が悪い部分はどうせカットされるわけだし、口に出さないと、その瞬間のリアルな言葉にならないじゃないですか。身も蓋もないことを言ってしまえば、面白いことって活字にできないのよ。活字にしたら、固定化されちゃうから。このままの空気で、世の中の悪口を言いたい放題言ってるのが面白いわけじゃない。それを、私は風流だと思う。繰り返しになるけど、人間は十月十日、女性の子宮に閉じ込められているわけだから、そこからポンと外へ出て行かないと。閉じ込める、というのは人間をダメにする。昆虫だって、閉じ込めても外へ出ていくでしょう。人間の一番の罪は、脳が発達していることだよね。今は、デジタル化も都市設計も脳化社会が生み出しているわけじゃないですか。そこに入りたくないけど、家賃は上がっていくし、一生懸命、白井聡の『マルクス 生を呑み込む資本主義』を読みながら、どうしようかなと考えてます。
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本日のコーヒー
UCC GOLD SPECIAL
PREMIUM 炒り豆 フルーティウェーブ 150g
『発見のあるコーヒー』をコンセプトに、UCCのロースティングとブレンド技術で、コク、苦み、酸味の奥にある特別な香りと味わいを表現したブレンド。口あたりは柔らかく、余韻にはブラックベリーやブルーベリーのような甘みのあるコクが感じらる。
『UCC GOLD SPECIAL PREMIUM』ブランドサイト
UCC公式オンラインストア
個人の愉しみとしてコーヒーのある場所に行く
— 最後に、日常におけるコーヒーがどんな存在か、教えていただけますか?
コーヒーは外で飲むものというのが私の概念です。ヨーロッパだと、近くのバールでエスプレッソを一杯カッと飲むじゃないですか。そういう感じ。なので、私は美味しいコーヒーが飲める店がある場所の近くに引っ越す。そこで、バリスタが淹れたエスプレッソを飲む。あれが本来のコーヒーの旨味なので。映画も一人で観ますし、あまり人とつるまないので、個人の愉しみとしてコーヒーを飲みに行きます。ドリップコーヒーを飲むときは、バリスタが「今日はこれがいいよ」とお薦めするものをチョイスします。対面だから、店に入ってきた瞬間から人を見て、豆を挽いて、淹れる。どんな豆をどの水で、温度で、どのタイミングで、どんなカップで、ロジックがちゃんとある。そういうバリスタのセンスを感じさせる店に通う。誰かに一杯のコーヒーを淹れるのも、その人に合う一着の服を着せるのと同じような哲学がある、と私は思うんですよね。
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北村道子
衣裳デザイナー/スタイリスト
きたむら・みちこ|1949年、石川県生まれ。10代でサハラ砂漠、アメリカ大陸、フランスを放浪し、30歳頃から、映画、広告、雑誌などで衣裳を務める。1985年公開『それから』以降、数々の映画作品に携わり、2007年には『スキヤキ・ウエスタン ジャンゴ』で、第62回毎日映画コンクール技術賞を受賞。昨年、人気シリーズ待望の第3弾となる著作『衣裳術3』(リトルモア)を上梓。第40回毎日ファッション大賞にて、鯨岡阿美子賞を受賞。
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manganjiiji · 5 months
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はぎはぎと揺する
トーキョーアートブックフェアへ、東京都現代美術館に。MoT。なんと朝から小雨が降っていて、さすがに真冬用のコートを出したら暑いだろうな…?(人よりも極度に暑がり)と思ったが、それしかコートがなかったので着ていく。なんと、寒かった。全然暑くなかった。なんなら手袋も欲しいくらいに寒い瞬間もあった。45分に着いた時には開場前の列はほぼ無いくらいだったが、同行した友人と合流した11時ちょうどには、列は伸びに伸びていた。それでもすぐ入れたし、混雑は午後のほうが濃厚だった。昼時に「2階のサンドイッチ」で席を取れたのは奇跡かもしれない。私たちが座ったあとからどんどん人が来て「席ないね」と言って去っていった。
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おいしすぎる美術館ごはん。カマンベールチーズとクルミと鶏肉とマスタードのサンドイッチ。パンが堅くておいし〜い。いつぞや流行ったマリトッツォみたいにクリームたっぷりのなんらかのサンドイッチ(?)も中にさらに固めのクリームチーズが入っており、なにもかもが泣くほどうまかった。こんなに美味しいことがあっていいのか?カフェラテを含め価格は2000円ほど。こんなに美味しいなら2000円は納得であった。外国の味がした。
アートブックフェアはかなり海外のクリエイターや印刷所、プレスの参加が多く、会場も全然日本じゃなくて面白かった。日本語で説明してくれるブース主の方もいたが、英語や、日本語が書かれたボードを使って教えてくれる方もいた。使う言語が限定されていない場というのは、厳密な商業主義の現場でなければ、気楽で愉快でいいなあと思った。私は英語の聞き取りもできないし、文を組み立てて話すこともできないが、読むことはできる。一冊、欲しいと思った英語の本があったが、価格的に断念した。今回は価格でかなり断念した。いい事だと思う。結局買って帰ったのはステッカー3つと、ワークショップで手作りしてもらった缶バッジ1つ。ブックフェアでの買い物というより、ブックフェアに行ったおみやげ、という感じかも。いつか資金をためてきちんと本を買いに行きたい。それでも特殊印刷や特殊紙のブースがかなり楽しく、ステッカー等もそこで買えたので、ブックフ��アの本質的な部分もきちんと楽しんだ。ブックには様々な側面がある。コンテンツ(内容)よりも私は外側、装丁やデザインに興味があるので、その部分のアートを求めるのもまたブックフェアの客であるとは、一応言えるだろう。そもそも、私が内容に興味がある本というのはものすごく限られている。新刊の日本語のハードカバーでも買うか買わないかだから(私はかなり日本語を偏愛している)、日本語以外の、テーマが抽象的であったり思想・哲学の方面からの着想によるアートが内容であれば、あまり意欲がわかない。どちらかといえば、思想・哲学や抽象思考について文字がぎっしりと詰められた学術書のほうが読みたい。もしくはフィクション。日本語の小説は文体の好き嫌いがあるので苦手だが、英語なら文体のこともなにもよくわからないので、好き嫌いがない。その代わり、自分の読みが正しいのかどうかもわからないので、本当に小説を読めているのかはわからない。でもまあ小説とは多少なりともどの言語であれそういう側面があって、母国語だからわかるというものでもないしな、と思うと、言語による文章を自分の中に取り込むことは、言語の種類が変わったところであまり変わらないのかなと思う。もしくは地続きな話なのかなと。そのうち、サリンジャーの小説は、内容を覚えているのだし、英語で誤読せず読めるようになりたいなとは思う。辞書を引いてもいいので、ふつうのものをふつうに読めるようになりたい。解釈や意味付けはその先の話として。
芥川賞を受賞した『ハンチバッグ』、書店で何気なくひらいたら初っ端から面白すぎて即座にレジに向かってしまった。半分くらいまで読んで止まっている(施設の中の食堂の描写あたり)。ほかにも『N/A』とか『##NAME##』とか、気になるものはあるが、どれもだいたいテーマというか行き着く先は同じだろうなという気がする。ハンチバッグも含め。まずたぶん女の話だし、未婚の女の話だし、つまりある程度は少女の傷つきのその後またはそのままの話だし、芥川賞候補がほとんどそんな感じになっているのは、というか純文学のシーンがだいたい「そこ」に焦点をあてているのは、世相を反映しているというか、それこそが世相で面白いなあと思う。いま、新人の男性の純文学の書き手って誰がいて、何を書いているのだろうか、と思うくらいには(想像がつかないくらいには)女性から見た世界のほうが、どうやら面白く感じる人が多いようだ。女には問題がいっぱいある。そもそも自分が女なのか、と疑問に思う人は、そもそも自分は男なのか、と疑問に思う人より相当多いだろうと思う。女のほうが性欲が弱い、または性欲への発達が遅い、または弱い人が多いから。男のほうがどうやらセックスしたいという欲望はかなり抗いがたいものとしてあるようだ、というのを、文化的なものなのか本能的なものなのかはさておいて、現状そうらしいと、どうやら確かに感じてきた。女とセックスしたいという欲望が自分に強く生まれれば、自分は男だという自認を持つのは直接的な理由として有り得るだろうが、女はそこまで「男とセックスしたい」というのは、セックスを知る前にはそれほど(割合的に)多いことではないと思う。男とセックスしないままだと、たぶん元々性欲が強くない女は、男とセックスしようとはそんなに思わないと思う。そうなると、性自認は女性だが、性的指向はアセクシャルだろうか?と思う人がどんどん増えると思う。私自身はセックスを経験するまではまったくセックスに興味が無かったのだが、経験したら、その後確かに性欲というものを、とくに、他人に向かう性欲というものを感じるようになった。これは1回電流を通してみないと、回路が開かないようなことかもしれない。個人差がある話だと思うので自分のこと以外はわからないが、男はそこまで文化的に後押しされなくても性欲の力で「男」に目覚められるのに対し、女は文化的にかなり後押しされないと、男と番うことに対して積極的にはなれないのでは?と感じている。男は基本的に女にとっては「加害者」だし、ふつうに考えてあまり関わりたくない。これはとくに日本だからというのがあるかもしれない。このあたりの事情が最近噴き出していて、女から見た世界のほうが、男から見た世界より、よほど面白いものになっているのではないだろうか。あくまで純文学新人賞の話であって、現実の男性から見た世界の面白さの話ではありませんが。
絲山秋子『神と黒蟹県』、井戸川射子『共に明るい』、凪良ゆう『汝、星のごとく』と合わせていきなりハードカバーを4冊買った。凪良ゆうの本屋大賞は、わたしが読むものではないだろうなと思っていたが、たまたま久しぶりに通話した友人に「尋常じゃない」という感じの感想を言われて、とにかく読んでほしいとのことだった。私がそういう物語に対してどういう反応を示すのか、私も興味がある。黒蟹県も一編読んで、こういう小説は「いい小説」だなあ、と、エンタメではないのに、物語というよりは語り、ナラティブなのに、「落とし所」があるのって、話として偉いよなあと思った。私はいしいしんじの『四とそれ以上の国』の各編に、とくにこれを感じる。面白い小説は読みたくなくて、「いい小説」が読みたい。いい小説というのは、結局は村上春樹が言うような「いい小説」になるのだろうが(ちなみに村上春樹の小説は、私はあまりいい小説とは思わない。いつもファンタジーで因果関係がよくわからないから)、そうすると『老人と海』とかを読んだほうがいい。『人間の絆』も買ってあるが読んでいない。これは『月と六ペンス』が最高に良かったために買ってある。井戸川射子は、詩が好きなので、芥川賞受賞後第一作の小説を買ってみた。詩は好きだが、小説はあんまり?と思ったので、芥川賞受賞作は読んでいない。でも今回のはなんとなく詩っぽいんじゃないかなと思ったのだった。勘です。とくに中身を立ち読みしたわけでもない。
社会学の教科書が開かれなさすぎてそろそろ埃をかぶっているが、まあ、人生の全てが勉強なのでいいか、と思う。専門用語はいくらかおさらいしてから試験に臨もうと思うし、家族の章だけは読み終わった方がいいと思うが、それ以外はもういいやと思っている。英語は一日さぼるとそれだけ単語が抜けていくが、最近は単語よりも文意そのものを読み間違えていることが多いので、焦らず落ち着いて読む技術に集中したい。まあもうできることも限られているので、足掻いても仕方がない。
明日は午前中お金を下ろしてから歯医者に行って、午後はアルバイトの面接で、明後日にはもう荷物を纏めて受験地のホテルにチェックインしている。とにかく受験票と元気な体があれば大丈夫、と言われたので、それだけ忘れずに持っていこうと思う。
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2023.11.26
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imwatashi · 5 months
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重たい腰を上げてアートブックフェアに行った。行ったらよかったと思えることくらい最初から見え透いているのに、いつも行く前にやたら費用対効果やら移動距離やら電車賃やらを気にしてしまうのは何故でしょう。そんな理由で重たくなっていた腰を上げて、ちゃんと外に出た、そしてやっぱり行ってよかったと思えた。やっぱりアートなんか正直よくわかんなくて、でもよくわかんないことこそがアートなんだと思っているけれど、ああいう場に行くとやっぱり「アートとは何ぞや」を知ってる人ばかりが来ているような感覚になって、勝手にどきどきしたりしていた。私は整理整頓もできないし基本的に物欲もないから、素敵なデザインのポスターやアートブックを見ても買うに至らないことがほとんどだ。そんな中で自分が手に取り思わず読みふけってしまうものは、やっぱり言葉が大きく世界観を構成する誰かの個人的なZINEだった。読んでいて、すげー個人的じゃん、とか思ったけれど、正直ZINEとか個人的なものでしかないし、それがあるべき姿なんだなって思って、私はそんなあたりまえのことに気が付けたことが嬉しかった。自分の本を作るなんて言うと大それたもののように感じるけれど、まじで個人的なものでいいし、書店に並ぶきれいな本のようになる必要もないし、ぺらっぺらの紙でできたそれも本と呼べば本になるんだな。そして自分が誰かの個人的な思いや経験に心惹かれたように、言葉を夢中で綴るだけでも誰かが読んでくれて、それに対して何か思いを抱いてくれる可能性があること、それが自分にとってすごく救いだった。きっとラッパーとか歌を作る人も同じ気持ちなのかもしれない。うまい文章を書こうとか、SNSに載せる然としたものをつくろうとか、もしかしてそういうの気にしてばかりで何も書けなくなっていたのかもしれない。書くという行為は自分自身と向き合うことで、自分の感情の背景を無駄に深堀することだと思っていて、それってすごくしんどいことだと思う。でも、同時にすごく大切なもののように思える。少なくとも私にとっては。それをやらないからダメとかではないけど、私は最近自分自身をないがしろにしていたのかもしれないし、感動を覚えても思いを残すってことに手を抜いていたと思う。だれのためでもなく、自分のためにそうするだけだ、いつか過去の自分が今の私を救ってくれる可能性があることも、過去のくせに新しいひらめきをくれる可能性があることも、ずるずると自分の脳みそから言葉を振り絞ってきたから何となくわかるのだ。こうして書いてるうちにああ私ってこんなこと考えてたんだなって、また気が付いた。
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4komasusume · 5 months
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4つのコマで大喜利だ!? 「現代4コマ」作品を分類しつつ紹介する試み
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「#現代4コマ」は Twitter (現「X」) 上のハッシュタグ・ムーブメントです。最初の使用者は「いととと」さん (@itototo1010) のようであり、現在はいとととさんや Twitter アカウント「現代4コマ」 (@gendai4koma) を中心に投稿が行われています。
 現代4コマとは、いとととさんによれば「マンガに捉われない新たな4コマの概念」であり、また「現代4コマ」アカウント管理者のひとりである人生さんによれば「芸術運動でありながらも大喜利性を秘めたユーモア深きコンテンツ」とのこと。筆者の理解では、二重カッコ付きの「いわゆる『現代アート』」を参照しつつ、抽象表現や現実の事物を4コマだと理屈付ける試み、といったところでしょうか。挑戦的で挑発的だが表層的にも思えるこの営みは、しかし投稿されている作品を見れば、してやられた、と感じるものがいくつもあります。
 冒頭に挙げた、いとととさんの代表作4つを紹介しましょう。まずは『運命を思い付いた瞬間』。ベートーベンの顔を一部だけ映した1・2・3コマ目とタテ長のバストアップを映した4コマ目は、タイトルによる誘導とあいまって『交響曲第5番 運命』の冒頭のジャ・ジャ・ジャ・ジャーンを想起させます。ベートーベンと同時にコマもタテ方向に伸縮させることによって時間流の長短を表現しているわけです。また、言わば4つあると認識できるものを、具体的な4つのコマに収めていく、あるいは4つのコマに見立てていくのも、現代4コマの主流な手法であるように見えます。
 次の『卒業式』は合唱曲『旅立ちの日に』を題材にした作品。混声合唱のパートごとに時間的にズレたり合わさったりする歌唱を、各コマを二重にしてヨコ方向に空間的にズラすことによって表現しています。歌唱のズレがネタになることは珍しくありませんが、この作品で特筆すべきはそれを4コマ的な手法で表現している点です。これはタテ方向の大局的な時間流を前提にして、ヨコ方向で局所的な時間流を表現する試みと理解できます。その製作意図はヨコ書きの文字が読者の視線をまずヨコ方向へと誘導するものになっていたり、最後に伸ばして歌う「て」がヨコ長になっていたりする点からも伺えます。
 続いての『カニカマ食べてる時/カニ食べてる時』は二本一対の作品です。前者では家族団欒のセリフが描かれているのに対して、後者ではセリフどころか何も描かれていません。俗に言う、人はカニを食べるとき無口になってしまう、というやつです。一対の4コマを用いて対比を描く手法は昔から存在するところ、この作品では片方の4コマを全くの空白にしている過激さがポイント。一本目に有を対置させることによって二本目で言わば「無を描く」ことを実現した、技巧的で哲学的な4コマと言えます。
 代表作4つの最後は『非行少年の4コマ』。円を切るように引かれた手書きのように真っ直ぐでない線は、タイトルからも推察されるように『ケーキの切れない非行少年たち』を題材にしています。元々はホールケーキを三等分するという課題に対して等分ではない3つに分けている→等分の概念が分からない少年がいる、という衝撃による問題提起だったところ、この作品は3つを4つにしただけ。元ネタの表層しかなぞってないじゃんとか、そもそも分割後の各領域が四角形になってないじゃんとか、様々なツッコミが容易に想像できる問題作です。その一方で、言わば「4つじゃないなら4つにしてしまえ」「四角形でなくてもコマと言ってしまえ」イズムも確かに感じる、ある意味でラディカルな作品のようにも思うのです。
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 現代4コマを端的に述べるならば、4コマ表現の限界と本質を追究するムーブメントと言えるでしょう。それならば、その表現を成立させている原則を理解、分類することによって、ボーダーラインはより明瞭となり、技法は再利用が可能になり、そしてまだ見ぬ先へと歩みを進められるようになるはずです。
 そこで、以下では筆者が見た数多くの現代4コマ作品を名前付けて分類しつつ、代表的と思われる作品を埋め込み画像やリンクで紹介します。なお、あらゆる作品を網羅的にカバーできてはいないこと、また名前付けと分類は完全に筆者の独断によるものあることをご容赦いただきたく思います。これもまた大喜利の一部。
(注意:技術的な問題により、作品全体を表示的できていない画像が多々あります。また、画像中の「Read more on X」は機能しません。画像に対応した作品タイトルを本文中で太字リンクにしておりますので、クリックいただき、Twitter にて観賞いただくことをオススメします。)
空白主義
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「空白主義」は何も描かれていない4コマを用いて何かを表現しようとする思想であり、究極の(屁)理屈主義とも言えるでしょう。現代4コマにおけるメインストリームのひとつであり、作品例は枚挙にいとまがありません。前述の『カニカマ食べてる時/カニ食べてる時』もここに位置付けられる作品です。
 空白主義で特筆すべき作品は、いとととさんの『骨格標本』。理科室のガイコツと対照させることによって空白の4コマを「4コママンガの骨格標本」と意味付けた画期的な(あるいは、うまいこと言った)作品です。骨格という表現からは、4コマの本質を起承転結に求める「起承転結根本主義」に対して、そのような意味付けに先立つ4つのコマ枠にこそ本質を求める「4コマ枠根本主義」の作品であることが伺えます。
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 また、空白主義をさらに推し進めた「補完主義」は4つのコマを描くことなく4コマを想起させようとする思想です。いとととさんの『はーい4人組つくって~ (班決め)』は学校の授業でありがちなフレーズを題材にした作品。そのタイトルと1つだけ残されたコマからは、作品の外部に4つ1組になったコマ=4コマが存在することが想像できるでしょう。
事物主義
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「事物主義」は現実のコトやモノに4コマを見出す、あるいはそれらを4コマに見立てる原則です。写真による表現が主ですが、前述した『非行少年の4コマ』のようにイラスト的に表現されることもあります。これも現代4コマの大きな流れのひとつであり、『starbucks』『ジェンガ』『無題 (駐車スペース図)』『無題 (ポケモンのワザ欄)』『キャベツの4コマ (作画崩壊の4コマ)』『無限1upできそう』など多くの作品が発表されています。
 その中でも、いとととさんの『サークルカットの4コマ』は同人誌即売会のサークルカットを4コマに見立てた作品です。左上隅のスペース番号欄と上部のサークル名欄を前提かつコマと見なし、カット本体を二分割することによって、全体で4コマとしているのです。この即売会はスペース番号とサークル名から推測するに COMITIA145。この回のカタログではいとととさんの同人誌『自分を4コマ漫画だと思い込んでる4コマ』が紹介されており、いとととさんはその紹介ぶりにも4コマを見出しています。
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 また、事物主義の支流のひとつである「掲示物主義」は街中のポスターや看板などを主な対象としており、『こんなビル助かるな~の4コマ』『不景気』『←』『石川のカニを食べよう』といった作品が発表されています。その中でも、いとととさんの写真作品『無題 (流石に4コマすぎる なんだこれ)』は、日鮪さんが指摘するように、現代4コマと「剥がしアート」という二つの大喜利ムーブメントの邂逅と言えるでしょう。
カラーチャート主義
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「カラーチャート主義」は4コマを着色して何かを表現する思想です。やはり現代4コマの主流のひとつであり、『オレオにケチャップ混入』『プーさん』『肉抜きバーガー』『ねぎま』など数多くの作品が発表されています。相当数の作品が事物主義の流れも汲みつつ各コマを単色で塗りつぶしており、言い換えればスーパーワギャンランドのモザイク当てを突き詰めたものになっています。
 その中でもアラヤマさんの『暗槓』は麻雀牌の白の暗カンをタテ方向に表現しており、2・3コマ目に空白主義の流れも感じられる特筆すべき作品です。また、いとととさんの『バナナ、食べ頃の推移』はむしろ時間主義(後述)の流れを汲み、また塗りつぶしだけでなく黒い斑点も描いているところが注目に値します。
時間主義
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「時間主義」は4コマを上から下へと読む順に時間が流れているものと捉える原則であり、前述した『運命を思い付いた瞬間』もこの流れを汲む作品です。また、やがみさんの『将来』は1・2コマ目の白、3コマ目からの不穏な文字、そして4コマ目から下の黒塗りが、白いキャンバスのような無限の未来、将来への不安、そしてお先真っ暗、という思春期から青年期にかけた現代社会の生きづらさを表現しています。
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 時間主義の支流のひとつである「歌唱主義」は歌唱の時間流を4コマによって表現する思想であり、先ほどの『旅立ちの日に』もここに位置付けられます。また、こーやんさんの『無題 (LMNOP)』は『ABCの歌』の冒頭を題材にした作品であり、4拍を1コマとして4コマ目で LMNOP の文字を重ねることによって、いわゆるエレメノピーのリズムを巧みに表現しています。歌唱主義の作品には他にも『モーニング娘。の4コマ』『学園天国』『天城越えの4コマ』などがあります。
空間主義
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「空間主義」は4コマを物理的あるいは概念的な空間として捉える原則です。qpdb さんの『自分』はタイトルのように見える「自分」からコマが進む=距離が離れるにつれて友人、知人、他人と疎遠な関係になっていきます。4コマ目では色を併用することによって赤の他人を表現している点も巧み��す。また「んぷとら」さんの『脱走』は非常口マークがコマ枠からはみ出ていくのを牢屋からの脱走に見立てた作品と解釈できます。人の部分だけでなくマーク全体が出ていく点にシュールさを感じます。
時空間主義
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「時空間主義」は時間主義と空間主義の合流です。視力さんの『セグウェイ』は騙し絵の要素も含んだ特筆すべき作品。残像のような図像は、一見するとセグウェイに乗った人間が時間とともに左から右へと移動しているように見えます。しかしこの図像を道路に見立てた1コマと残像1つのペアが4ペア分ズラされてコピペされたものと解釈すれば、各ペアのコマ内の人間に相対的な動きはなく、それを残像のようにコピペしたところで動きが生まれるはずがないのです。にもかかわらずパッと見では時空間的な動きを感じられるところに面白さがあります。また、桜桃さんの『執行』はギロチン処刑を表現した作品であり、時間が経つととともに重力によって上から下へと刃が落ちていく様子を描いた各コマは時空間の両義性を帯びたものとなっています。
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 時空間主義の支流のひとつ「カメラワーク主義」は4コマをカメラのフレームの連続と見なす原則です。ぷらりねさんの『拡大または縮小』はズームアップとズームバックを2通りの方法で対比的に表現した、示唆に富む作品と言えます。また、いとととさんの『プッチンプリン側の視点』は逆さになったプリン容器の内部からプッチン棒の方向に上天を見た光景を表現したものであり、絶妙なドラマ性さえ感じられる作品です。
コマ間主義
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「コマ間主義」はコマとコマの間を細工して意味付けをする思想です。「なむさん」さんの『幸せな人生だった (心電図)』はコマ間を用いて心電図の波形を表現した作品。タイトルから想像するに臨終の時を表現しており、上から下へとコマを読み進めるにつれて波形が小さくなっていくことから、時間主義の流れも汲んでいることが伺えます。同様に、うりよしきばさんによる時間主義的な『YouTubeの4コマ』では、プレミアムの方はタイトル枠から4コマ目=最後まで隙間なく詰まっているのに対して、無料会員はそれぞれの間に空きがあることから、コマ枠で本編を、コマ間で広告を表現しているものと解釈できます。タイトル枠と1コマ目の間=動画の再生開始時にも空白=広告の有無にちゃんと差異があるところが細かい。
 また、コマ間を排除してコマ同士を隣接させ、コマとコマの仕切り線に意味付けをする思想も、コマ間主義に含まれると言えるでしょう。城ブドウさんによる、モールス信号のSOSを用いた『タ・ス・ケ・テ』や、折り紙の山折り線や谷折り線を用いた『山あり谷あり、山あり』がここに位置付けられます。
オブジェクト主義
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 前述した空間主義がコマを物理的または抽象的な広がりを持つ空間と見なすのに対して、「オブジェクト主義」は各コマや4コマ全体を抽象的なモノに見立てる原則です。いとととさんの『通販番組の4コマ』は各コマを通販商品と見なし、ありがちなフレーズとともに5コマ目を提示しています。空白主義的でもあり、またトータルではコマが5つ存在するにもかかわらず4コマとして成立させている、前衛的な作品と言えます。オブジェクト主義の作品には他にも『4コマの千切り』『水圧』『肩身が狭い』などがあります。
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 オブジェクト主義の支流のひとつである「擬人化主義」は各コマや4コマ全体を人間的な体躯または人格ある主体と見なす原則です。いとととさんの『ジェットコースターに乗れない4コマ』は4コマ全体を児童の体躯と見なした作品。なんじゃそりゃ、と思われるかもしれませんが、1コマ目を頭部と見なしつつ、こどもは4~5頭身と言われていることを鑑みれば、実はかなり的を得た描写と言えます。擬人化主義には他にも『デス4コマ』『回避』などの作品があります。
記号主義
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「記号主義」は4コマを図像として捉えて記号を解釈する、あるいはその逆に記号を図像として捉えて4コマを解釈する原則です。qpdb さんの『1分前の4コマ』はデジタル時計の「2359」=23時59分を表現した作品。あと1分で00時00分=「0000」になって4つのコマが出現することを示唆しており、コマ枠を用いずに4コマを表現した画期的な作品です。また、にこはぴさんの『万』はタイトル付きの空白の4コマを反時計方向に90度回転させており、タテ長のタイトル枠と4つのコマ枠をデジタルカウンターの「10000」に見立てた、空白主義の流れも汲む作品です。
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 また、記号主義の支流のひとつである「漢字主義」は漢字の中にある四角形の部分をコマとして解釈する、またはその逆に4コマを漢字の一部として解釈する原則です。つぶ謎さんの『憂鬱』は時間主義の流れも汲む作品であり、2コマと2コマの分割、赤黒の着色、そして4コマ目の下に伸びる脚によって、日曜日が終わって月曜日が始まる憂鬱を表現しています。また、城ぶどうさんの『喋りすぎなことわざ』は上3コマを目、下1コマを口に見立てることによって、目は口の3倍しゃべる→「目は口ほどに物を言う」を表現しています。漢字主義の作品としては他にも『無題 (ヌメヌメ)』『小学生「1+1は~?」』などが挙げられます。
4コマ詩派
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 漢字主義の中でも、トウソクジンさん (@co_v_h2) は「4コマ詩派」として極めて特筆されるべきでしょう。漢字を用いた詩の文字列を柔軟にフローさせることによって、4つの四角形部分の連続=4コマを図像的にも表現するのです。それぞれの詩は単独でも情感豊かに成立しており、視覚的かつ聴覚的に味わえる作品の数々は技巧的でいて趣深いものがあります。
 代表作『空蝉が喚き囁き啼き叫ぶ』は4つの漢字の口偏を並べて見せた作品です。七五調が三・四・二・三に細分化されてリズミカルに進む詩とともに4コマが提示される様には、えも言われぬ情趣を感じます。「叫」の右側を数字の4に見立てるのも上手い。トウソクジンさんはこの他にも『「骨を埋める」~』『未だ青き~』『箪笥の中から~』『ローファー履いて~』といった4コマ詩を発表しています。
本質主義
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 この記事における最後の分類である「本質主義」は、4コマの本質とは何かを見出そうとする思想です。まっちゃさんの『結』は入れ子になった4コマを描いた作品。一番大きく見える4コマでさえも右側にタテ線があることから、さらに大きな4コマの一部であることが伺え、ここから「(起承転結の)結が永遠にやってこない」ことを表現しているように解釈できそうです。しかし見方を変えれば、これはいわゆるストーリー4コマにおける4コマ内の局所的な起承転結と4コマ間の大局的な起承転結、そしてさらなる上部構造(雑誌連載や単行本など)を部分的ながら表現しているようにも見えます。
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 また、城ぶどうさんの『視線誘導』はタテ書きの4コママンガにおける基本的な視線誘導をコマ枠なしに表現した作品であり、きらら勢には『グレーゾーン』でお馴染みのアレとも言えます。注目ポイントは4コマ目の終わりから次の1コマ目へ向かう線形を「4」に見立てているところ。あんさん、それがやりたかっただけとちゃう?
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 以上、私の理解による分類でした。このユーモラスなムーブメントに興味を持たれた方は、公式 (?) アカウント「@gendai4koma」やハッシュタグ「#現代4コマ」、またはいとととさんなど個別の作家をフォローしてみてください。
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