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#ウェーバー
jamgarage · 2 years
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'70T-2 キャブレターオーバーホールです。WEBER 40IDFチェックバルブ不良によるオーバーフローです他ガスケット交換、ライン洗浄 油面調整等を行います。 #vw #ワーゲン #ビートル #空冷 #jam #garage#修理 #京都 #jamgarage #ジャムガレージ #空冷vw #空冷ワーゲン #ファルクスワーゲン #volkswagen #t2 #weber #ウェーバー #キャブレター #40IDF #油面調整 https://www.instagram.com/p/CkHiiQRhjqx/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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metal-cn · 7 months
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日本の、士業(男性)が、資本主義の鉄則、所有権不可侵原則をないがしろ、と受け止められる発言をしていたことが分かった!
それは、国際逃税、マネロンなどにも、容易に繋がりうる話だけに、本当に困ったもんだ。なお、いわゆる法学用語で言う制限行為能力者は、まだ介在していない。もちろん、本ブログは、同人の前歴性や交友性について、調べがごく自然に進むのが当然と感じる。例えばホンコンへ出入境歴はあるか。大昔に流行してしまったという、ホンコン闇口座開設ツアー。あと、一昔前の、日本の、NHKドラマ、チェイスやね。観たことないか。あって、不思議はない年齢のようだ。なにせ士業みたいやし。単純に言えば、私権。それへの、制限をごく軽く、恐ろしく安易に考えている向きがある。もちろん、同人発言からは、制限行為能力者への、当たり前の思いやり、配慮は全く感じとれなかった。
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kobediet · 1 year
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科学の世界では、科学者が成し得たことは、10年、20年、50年で古びてしまいます。これは科学に課せられた宿命です
『職業としての学問』/私的「職業としての学問」/最後のシンポジウム[なかのとおるの御隠居通信 其の9]|Web医事新報|日本医事新報社
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extracts-sheep · 2 years
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野口和彦(Kazuhiko Noguchi)@kazzubc
M. ウェーバー「善からは善のみが、悪からは悪のみが生まれるというのは、人間の行為にとって決して真実ではなく、しばしばその逆が真実である…これが見抜けないような人間は、政治のイロハもわきまえない未熟児である」『職業としての政治』(原著1919年)、94ページ。
午前11:30 · 2022年7月17日·Twitter Web App
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chikuri · 1 month
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飯山陽博士がライブ配信の中でマックス・ウェーバーの『職業としての政治』を紹介していたが、私も以前、とある方とのYouTube対談でまさに同じ箇所を引用したことがあり、懐かしく思い出された。これは非常に良い本。われわれ有権者にとっても政治家を選ぶ際の参考になるので必読と思う。中でも次の一節は、なぜ自民党政治がダメなのかを端的に言い表していると思う。「官僚政治」とはこういうことで、なぜ財務省に政治を牛耳らせてはダメなのかもここに詰まっている: “官吏にとっては、自分の上級官庁の命令について、その命令者の責任において誠実かつ正確に執行できるのが名誉。その一方で政治家(国政指導者)の名誉は、自分の行為の責任を自分一人で負うところにあり、この責任を拒否したり転嫁したりすることはできないし、また許されない。官吏として倫理的に極めて優れた人間は、政治的な意味で無責任な人間である。こうした人間が指導的地位にいていつまでも後を絶たないという状態、これが「官僚政治」と呼ばれているもの“
リフレ女子 / X
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lastscenecom · 2 months
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カリスマの役割を初めて論じたのは、1910年代のドイツの社会学者マックス・ウェーバーだった。ウェーバーは、カリスマを「人間の個性の一要素であり、それゆえ凡人とは別格の存在と見なされ、超自然的、超人間的、あるいは少なくとも並外れたパワーまたは資質を備えた人物として扱われる」と定義している。
カリスマリーダーが組織に恩恵をもたらす時、ダメージを与える時 強烈な個性が活きる環境を見極める | リーダーシップ|DIAMOND ハーバード・ビジネス・レビュー
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kozy-ogawa · 7 months
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2023.10.16 YUNA ASIA TOUR @ LIQUIDROOM
マレーシアの国民的R&BシンガーYUNAのライブを観に恵比寿リキッドルームに行ってきました。
YUNAが来日することは全く知らず、偶然スレッズを眺めているとYUNAの投稿にTOKYO LIQUIDROOMの文字が…慌てて2週間前にチケットを購入。120番台でしたが当日は前から3列目を確保。
観客の4分の1は海外勢。ヒジャブ姿の女性たちもたくさん見受けられた。マレー語で大合唱が起こったりして、アジアンパワーを感じる素敵なライブだった。
欲を言えば、SWEET SOUL RECORDSの招待でNao Yoshiokaとのコラボを観てみたかった。
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主にR&Bに関して執筆している音楽ジャーナリスト林剛さんのコメント
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-------------------- 華やかで味わい深いブレンデッドR&Bの歌姫!
1986年マレーシア⽣まれのYUNAは、14歳から故郷クアラルンプールのジャズ・カフェや喫茶店で演奏をスタート。すぐさまSNSで話題になり、マレーシアのグラミー賞と⾔われる Anugerah Industri Muzikで2010年、最優秀新⼈賞や最優秀楽曲賞といった主要部⾨含む4部⾨で受賞。 アーティスト活動と並⾏して、法律を学び、ファッション・ブティックを設⽴し話題を呼ぶ。アーティストとしてもYouTubeなどにアップしていた⾳源が世界中で注⽬を浴び始め、DefJamレコードの創⽴者であるラッセル・シモンズなどアメリカの有名アーティスト達が絶賛。2012年に満を持してファレル・プロデュースの下全⽶デビュー。 その後オリヴァー・ストーン映画『野蛮なやつら/SAVAGES』のサウンドトラックに収録された、ビートルズの「ヒア・カムズ・ザ・サン」のカヴァーから、H&MのCMへの曲提供、そして著名な写真家のブルース・ウェーバーによって撮影されたバーニーズ広告に登場など、現在はアメリカのポップ・カルチャーの中で重要な位置を占める存在へと成⻑。 2015年発表のディズニー・リゾート開業60周年を記念してリリースされた⼤ヒット・コンピレーション『ウィ・ラヴ・ディズニー』にも参加し、2016年にアッシャーやジェネイ・アイコ、そしてDJプレミアが参加するアルバム『チャプターズ』をリリース。Spotifyで3,800万ストリーム以上、さらにYouTubeでは2,000万ヴュー以上をかせぎ、ビルボードの”10 Best R&B Albums of 2016: Criticʼs Picks”で7位やRolling Stoneの”20 Best R&B Albums of 2016”で16位に選出される。アジア出⾝ながらストリーミング時代のR&B歌姫として注⽬がますます集まるばかり! 2019年にリリースされた『ルージュ』では、Tyler The Creator、Little Simz、Masego、G-EASY、MIYAVI/他と共演、2022年に最新作(通算5作⽬)となるアルバム『Y5』をリリース! アジア発、ストリーミング時代R&B歌姫YUNAの来⽇公演が決定!
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ari0921 · 7 months
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「宮崎正弘の国際情勢解題」 
令和五年(2023)10月4日(水曜日)
  通巻第7936号 <前日発行>
  赤い、赤い、加州はアカい
   ニューサム知事、黒人女性活動家を上院議員に指名
*************************
 カリフォルニア州知事のギャビン・ニューサムは、故ダイアン・ファインスタイン上院議員の空席をうめる指名権を行使し、「エミリーズ・リスト」のラフォンザ・バトラー会長を任命した。バトラーはLGBT活動家でカマラ・ハリス副大統領の腹心でもある。
 カリフォルニア州では連邦上院議員の欠員は補欠選挙ではなく、知事がとりあえず任命できる制度。バトラーは左翼活動家として知られるが、ニューサム知事の人事は、党に相談もなく唐突な指名だったので、批判が強まった。
 ともかくカリフォルニア州は赤い。メキシコを主としてアジア系移民、それも韓国、ベトナム、中国、台湾にくわえ、ラオス、アフガニスタンなどからの移民が多いため、民主党支持が多い。
 ファインスタイン上院議員は中国のスパイを二十年間も秘書として雇っていながら雇用責任を果たさなかった。
ペロシ下院議長はサンフランシスコが地盤だが、治安の悪化に責任を持たなかった。因果応報か、自宅が暴漢に襲われ夫君が重傷を追った。
 バトラーは10月4日、カマラ・ハリス副大統領によって米国上院で宣誓就任する。バトラーはメリーランド州で有権者登録をしているため、すぐにもカリフォルニア州に登録を切り替えるそうな。
 次期上院議員をめぐって加州では有力な政治家が予備選の立候補を準備している。黒人党員集会のスティーブン・ホースフォード議長はニューサム知事に書簡を送り、バーバラ・リー議員を任命するよう要請していた。
 ケイティ・ポーター下院議員、アダム・シフ下院議員、リー下院議員はいずれもカリフォルニア州選出の民主党議員である。とくにリーは上院での任命の可能性を探ってきた。
ポーターとシフ議員は有権者に比較的よく知られている。カリフォルニアではテレビ広告費が法外に高く、主要メディア市場でテレビ広告を放映するには数百万ドルの費用がかかる。ほかに有力候補にはロブ・ボンタ加州司法長官とシャーリー・ウェーバー州国務長官が含まれる。
 いずれにせよ、左翼政治家ばかり。加州の予備選は2024年5月。共和党との本戦は大統領選挙と同日、そして2025年1月に就任する。連邦予算も「つなぎ」だったが、加州選出連邦上院議員の指名も「つなぎ」か。
 カリフォルニア州はロスアンジェルスがハリウッドに代表される左翼拠点、サンフランシスコはシリコンバレー、GAFAMの本場で例外に保守的なのはX(旧ツィッター)とオラクルくらいか。メディアはロスアンジェルスタイムズが朝日新聞とすれば、サンフランシスコクロニクルは東京新聞だろう。西海岸は加州にくわえてオレゴン州、ワシントン州、これにハワイを加えて全部が民主党の地盤。
 とはいえ、カリフォルニアからはニクソン、レーガンが大統領になったし、シュワルツネッガーは州知事を務めた。クレアモントへ行けば保守系シンクタンクがかなりある。
 トランプの再選戦略は、これら西海岸四州をいかに攻略するかにかかっている。
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taizooo · 1 year
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「ほぼ例外なく個人的な理由だ」と、ウェーバーは語る。「人がランニングをするのは、自分の満足のためだ」
バフェットが見込んだランニングシューズ、ブルックスの秘密
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sskyt · 9 months
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『「呪術」の呪縛』上巻読書ノート
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江川純一・久保田浩編『「呪術」の呪縛』(上)リトン、2015年。
 今、呪術がかつてないほど注目されている。近代西欧に成立したreligionに対して、劣位に置かれるmagic概念を所与のものとして前提とすることなく、改めて問い直し、概念史や各国の事例研究といった観点からその諸相に光を当てる書。
 以下、所収論文についての読書メモ。 江川純一・久保田浩「「呪術」概念再考に向けて:文化史・宗教史叙述のための一試論」
 全体の導入論文。日本語の「魔法」と「呪術」、学問的概念としてのmagic、西洋文化史におけるmagic、そして、本書の背景と構成が論じられる。「魔法」(1474)が室町中期に現れているのに対して、「呪術」は『続日本紀』(699)に言及がある。  とはいえ、「呪術」は近世・近代において人口に膾炙しておらず、20世紀後半にフレイザーのmagicの訳語として定着した(それ以前は「魔法」)。また、学問的概念としてのエティックな次元と日常言語としてのイーミックな次元の区別の重要性が指摘される。  学問的概念としてのmagicで要注目なのはタイラーとフレイザーであり、特に後者のmagic→religion→scienceという図式が重要。その後のmagic研究の系譜はある意味ですべてここから始まった。他方で、イーミックな次元で見れば、magicの語源は古代ペルシア語に由来するギリシア語のμάγοςに発する。  すなわち、magic概念には、そもそもペルシア由来という他者性が付与されており、つねに地理的他者(非西洋)、歴史的他者(古代)、宗教的他者(異教)という含意がある。近代的なreligionとscienceは、他者にmagicという名を与えることで、自己を正当化してきた歴史的経緯がある。 第一部 呪術概念の系譜
藤原聖子「アメリカ宗教学における「呪術」概念」
 ウェーバー以来、ピューリタンは「世界の脱魔術化」として位置づけられてきたが、1980年頃からピューリタンも呪術を実践していたとする研究が盛んになった。これらの研究を島薗進の新宗教研究(呪術と近代化は背反しない)と比較対象する論文。  アメリカにおけるピューリタンの呪術実践研究では、呪術と近代化の関係は問題とならず、呪術の感情面が重視され、信仰と理性の対立図式、すなわち、アメリカの知性主義対反知性主義というナショナル・アイデンティティの問題へと引きつけて理解されている。  たしかに考えてみれば、アメリカのホラー映画は、魔女、魔法、霊、占い、ゾンビと呪術に事欠かない。むしろ合理性の反作用としての呪術に取り憑かれているようにさえ見える。それはアメリカという国のアイデンティティに関わる問題で、非常に興味深い。  ちなみに、アメリカの呪術総決算的なホラー映画として「キャビン」おすすめです! この『呪術』論集は、「宗教」概念批判を経た後で、「宗教」周辺の重要概念をアプリオリに前提とせず、反省的にその概念の意味を問い直すという点で、『ニュクス』第5号「聖なるもの」特集と双子のような存在ですね。
竹沢尚一郎「イギリスとフランスにおける呪術研究」
 エヴァンズ=プリチャードのアザンデ研究における妖術論とグリオールのドゴン研究における占い論の検討を通じて、呪術を複雑な世界の「縮減」(ルーマン)の仕組みであるとする仮説を提唱する。
 注で触れられている、レイモン・ファースの師マリノフスキーへの問い「もしすべてがすべてに結びついているとすれば、どこで記述を終えたらよいのでしょうか」は、いかにもラトゥール的な問いのように思える。 横田理博「ウェーバーのいう「エントツァウベルンク」とは何か」
 この論文は何度読んでも面白い。ウェーバーのEntzauberung(脱呪術化、魔術からの解放)は有名な概念で、様々な論者によって援用されるにもかかわらず、ウェーバー自身はこの概念を定義しないために、その内容は実は不明確である。  著者は丁寧な読解によって、「脱呪術化」が『プロ倫』における「救いの手段としての呪術の否定」と、『職業としての学問』における「世界の意味づけの否定」という二つの意味をもつことを明らかにする。また、前者が呪術から宗教への移行であるのに対して、後者は「世俗化」を意味する。  ちなみに、私が『現代思想』のウェーバー特集に寄稿した「世界に魔法をかける」の元ネタはこの論文です。「脱呪術化」という概念でひとつ気になるのは、この語はつねにEntzauberung der Weltと「世界の/世俗の」という言葉を伴っていること。この点も「脱呪術化」を援用する論者に見落とされがちだ。
高橋原「初期の日本宗教学における呪術概念の検討」
 日本の宗教学の歴史の中でmagicの訳語としての「呪術」が定着していった過程を跡付ける。明治時代はmagicの訳語として「呪術」は用いられていなかったが、日本の宗教学の確立とともに大正時代にフレイザーの影響の下、「呪術」が定着していった。 谷内悠「呪術研究における普遍主義と相対主義、そして合理性:分析哲学と認知宗教学から」
 「呪術は合理的である」と言われるときの「合理性」について、タンバイアの普遍主義/相対主義の議論を批判的にアップデートさせることで解決しようとする。概念図式/メタ概念図式の議論はガブリエルの「意味の場」の議論を想起させる。  ただ、普遍主義と相対主義の対立をメタ概念図式によって解決するというのは、問題を一段先送りにしただけのような気もするし、最後に出てきた「生物的合理性」は素朴な自然主義のように思えて、正直なところ、肩透かしの感がある。 第二部 事例研究:アジア
鈴木正崇「スリランカの呪術とその解釈:シーニガマのデウォルを中心に」
 スリランカで最も呪力の強いとされるデウォルについての神話と実際の呪術実践から、呪術の特徴を探る。呪術は「外来」「異人」といった境界的状況に対する意味付与・統御として発生するのであり、現在のグローバル化による変動もまた呪術が力をもつ場である。  たしかにマゴスの語源的意味にしても、フェティッシュにしても、文化的・地理的・時間的な境界において、あるいは、他者との界面において、「呪術」(なるもの)は発生するように思われる。個人的には、障り、罪、穢れ、害、悪を意味するシンハラ語の「ドーサ」という概念が面白い。 木村敏明「プロテスタント宣教師の見た「呪術」と現地社会:ヨハネス・ワルネック著『福音の生命力』をめぐって」
 スマトラのバタックに宣教したヨハネス・ワルネック『福音の生命力』に基づいてキリスト教から見た呪術の意義と効用を検討する。ワルネックは、インドネシアの宗教をアニミズムとして特徴づけたが、その評価は両義的である。  著者はこれを「世界観としてのアニミズム」と「エートスとしてのアニミズム」に分類し、前者が称賛されるのに対して、後者は現世利益を追求する自己中心的な呪術実践であるがゆえに非難されるとする。しかし、ヨハネスはこうした呪術を逆手にとって宣教が可能となるとして、利用価値も認めている。 池澤優「中国における呪術に関する若干の考察:呪術という語の呪術的性格」
 面白かった。呪術を「非人格的な法則性に基づく宇宙の操作」と定義すると、人間の作為が宇宙の経営に関与するという点で、陰陽五行説のみならず、古代中国思想全般が「呪術」になってしまうが、これは概念の使い方として非生産的である、という。  古代中国宗教研究における「呪術」の用例として、『詩経』研究が取り上げられ、そこではおおむね「呪術」が素朴な宗教を指す語として用いられ、特に言霊信仰のようなものが想定されている、と指摘される。  私は特に、グラネ『中国古代の祭礼と歌謡』の解釈が面白かった。詩は個人の感情を歌ったものではなく、慣習によって定められた集団の感情を表出したものであり、慣用句は「興」という強制力をもって、自然を循環させる力をもつ、という。詩はいわば礼のような宇宙の形式なのだろう。
川瀬貴也「近代朝鮮における「宗教」ならざるもの:啓蒙と統治との関係を中心に」
 朝鮮における近代化、日本の植民地支配という観点から、「宗教」と「宗教」ならざるもの(呪術・迷信)との区別が何を意味しているかを示す論文。特に、今村鞆、村山智順による植民地下の民俗学的調査の視線が見つめる「迷信」が興味深い。  近代化・啓蒙によって退けられた「巫俗」が宣教師たちによって朝鮮宗教の本質と捉えられ、さらに、朝鮮民族のナショナリズムへと結びつき、現代韓国社会において伝統と見なされるようになった、という指摘��面白い。この辺りの話はどうしても「コクソン」を思い出さざるをえない。 第三部 事例研究:日本
井関大介「熊沢蕃山の鬼神論と礼楽論」
 近世日本儒学における鬼神の問題を、白石・徂徠・蕃山を中心に、主に「礼」の観点から検討する。蕃山にとって、祭祀儀礼の意義は、人心を無意識裡に統御し、社会を統治することにあったが、それは天人相関論によって宇宙の運行を正しく経営することでもあった。  蕃山によれば、鬼神祭祀の礼は、社会が経済的に豊かになって人心が堕落し始めたとき、富の余剰を有益無害な仕方で蕩尽させるために整備された、とのことだが、これはまんまバタイユの社会的蕩尽の理論と同じですね。 一柳廣孝「魔術は催眠術にあらず:近藤嘉三『魔術と催眠術』の言説戦略」
 明治期の催眠術ブームのベストセラー、近藤嘉三『心理応用魔術と催眠術』にしたがって、明治期の「魔術」イメージを検討する。近藤によれば、魔術とは心の中の霊気を通じて感通する手法であり、睡魔術と醒魔術に分けられ、前者は催眠術からは区別される。  魔術は、感通によって、施術者の意思が被術者へと影響を与えることであり、催眠術とは睡魔術のの導入部分にすぎず、近藤は催眠術による治療は有害であるとさえいう。ここら辺は黒沢清の「CURE」っぽい話ですね。 宮坂清「科学と呪術のあいだ:雪男学術探検隊、林寿郎がみた雪男」
 これは面白い。1959~60年の雪男学術探検隊に参加した動物学者林寿郎の記録から、雪男に関する科学的視点と呪術的視点の関係を問う。学者が探求していた「雪男」とシェルパにとっての「イエティ」が、実は同じではなかったことが判明する件がハラハラして特に面白い。  日本の雪男ブームの出発点は、今西錦司(1952年のマナスル登山隊が雪男の足跡を目撃)だったんだね。知らなかった。あと、雪男探検隊って、川口浩探検隊みたいなものかと思ってたら、ちゃんとした科学的調査隊が派遣されていたのも知らなかった。 今井信治「「魔法少女」の願い」
 1960年代の『魔法使いサリー』『ひみつのアッコちゃん』から現代の『魔法少女まどか☆マギカ』まで、魔法少女アニメを時系列順にたどりながら、そこで描かれている「魔法」表象があとづけられる。  東映魔女っ子シリーズが女子の人気を博したのは、当時、女子向けのテレビ番組がなかったからで、別に魔法でなくてもよかったとの分析だが、そうはいっても「セーラームーン」の継続的な人気や、映画「マジカル・ガール」を見ると、やはり女の子にとって魔法は特別な意味をもっているようにも思われる。 堀江宗正「サブカルチャーの魔術師たち:宗教学的知識の消費と共有」
 アニメやライトノベルで人気の「魔術」を分析することを通じて、データベース消費型のサブカルチャーがその消費者にとって「宗教」よりもリアリティをもつようになった現状を明らかにする。  「魔術」関心層は20~30代の男性であることと、魔術・宗教的語彙をもったメディア作品の受容者は自分を能動的に魔的キャラクターを使役する存在(つまり魔術師)として同定しているという分析を組み合わせると、なかなかに痛い実態が見えてくるような気がする。
 魔術を扱った代表的な作品として『とある魔術の禁書目録』が挙げられているが、現在(2023年)に改めて同様の問題を扱ったら、おそらく代表的な作品は『呪術廻戦』が挙げられることだろう。また、作中では錬金術はあくまでも「科学」であって「魔法」ではないとされるが、実態としてはどう見ても「魔術」を扱っている『鋼の錬金術師』がまったく言及されないのは不思議。
追記
藤原聖子「「呪術」と「合理性」再考:前世紀転換期における〈宗教・呪術・科学〉三分法の成立」『思想』No. 934、2002年、120-141頁。
 呪術は、科学と比べて「非合理的」とされる場合(フレイザー)と、宗教と比べて「合理的」とされる場合(ウェーバー)があるが、これは両者で「合理性」の意味が異なるためである。著者によれば、さらに第三の失われた合理性概念がある。  すなわち、呪術は、理論ー合理的な科学に対して、理論ー非合理的であるが、実践(合目的的)ー非合理的な宗教に対しては、実践ー合理的である。この2種の合理性に加えて、呪術には「ゾッとさせる」という意味での「実体的非合理性」が含意されている(デュルケーム、オットー)。  奇跡論においては、古代末期か~中世末期、奇跡は「聖」に結びついていたが、19世紀末には「超自然」と結びつくようになった、という話(マリン)が面白かった。つまり、キリスト教では奇跡が聖人の業として呪術に対置されていたが、近代以降、科学と対立するがゆえに超自然と結合した、ということ。
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leomacgivena · 1 year
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ウェーバーぐらいになると「「「ウェーバー論」論」論」ぐらいまでいってるよな。私が死ぬ頃にはもう2段階ぐらい上に上がりそう。
desean takahashiさんはTwitterを使っています
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kennak · 1 year
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名著解説ラジオ(雪かわ)さんはTwitterを使っています: 「非常に気になる新刊『貨幣の国家理論』 「ケインズ、ウェーバーが絶賛し、グレーバー『負債論』でも高く評価されている名著の完訳。 貨幣の価値は、物々交換の為の自発的な商品貨幣という意味合いよりも、国家による法制上の創造物であることに由来する。 本書は、なぜ貨幣が ↓続く https://t.co/Y86NSO6sXp」 / Twitter
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ryotarox · 22 days
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Innerviews: Eberhard Weber - Foreground Music
エヴァーハルト・ウェーバー:インタビュー
2001年のウェーバーのインタビューで、ケイトとの仕事について、またECMでのレコーディングとの違いについて語っています。 --- 「ケイト・ブッシュとの仕事を探ってみましょう。あなたは以前、彼女と仕事をしたときに、"すべての音符は、後で売るために事前に交渉しなければならなかった "と言いました。どういう意味ですか? ハンブルグにいたとき、彼女から電話がかかってきたことがある。それが彼女だとは信じられなかった。ホテルにケイト・ブッシュからのメッセージがあったので、彼女にかけ直した。 彼女はECMの音楽全般と、特に私の音楽が好きだと言ってくれた。彼女は私に彼女のアルバムに参加してほしいと言った。彼女は私に演奏してほしい2曲のテープを送ってきて、カウンターメロディーを考えてほしいと頼んだ。 それで私はそうして、彼女の住むロンドンに飛んだ。私は、一緒に仕事をするジャズの人たちと同じように、2時間以内に1曲目ができて、さらに1時間以内に2曲目ができるものだと思っていた。それは、私が初めてポップスの世界に足を踏み入れたときに学んだことだ。 彼らはすべての音をチェックした。最初の曲は6~8時間かかった。2曲目も同じだった。なぜポップスの人たちがアルバム制作にこれほど時間がかかるのか、その理由がよくわかった。彼らはすぐに何をするか決めないんだ。 私が何かアイデアを思いつくと、彼らは "はいはい、48トラックに録音しましょう "と言うんだ。それからまた別のアイデアを出すと、また "そうだ、そうだ、こうしよう "となる。何十ものアイデアを録音して、最終的に受け入れられたのは1つだけだった。こういう人たちは、ミックスするのは後で決めるという態度なんだ。 私が始めた70年代の古いECMのプロダクションと比べると、これは非常に珍しいことだ。レコード制作は、レコーディングに2日、ミキシングに1日の計3日しかかからなかった。その後、シンセなどを使ってより複雑になったときだけ、時間がかかるようになった。でも、ポップな人たちは、レコードを作るのに6ヵ月とか、もっと長くかかるんだ」。
DeepL.com(無料版)で翻訳しました。
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matsuoka-ucwdjp · 25 days
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「バンパイア(吸血鬼)」という言葉から、友人に自分の命を吸い取られるようなイメージを思い浮かべる人もいるかもしれませんが、ウェーバー氏によると、エネルギーバンパイアはその逆で、「次から次へと暴言を吐く」ことであなたを苦しめます。
via. あなたの友人が「エネルギーバンパイア」かもしれない5つのサイン | ライフハッカー・ジャパン
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tomohikoyato · 1 month
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shigerunakano · 3 months
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森川葵のポスト構造主義以降の位置付けについての試論
「劇場版 零〜ゼロ〜」、もし身体表現が人間の脳を含む身体のみによって構成されるならば、ここに映る森川葵は必ずしも演技という枠組みによって捉えられるべきものではなく、森川葵が身体を屈曲しなおかつ硬直させている光の反射と色のあんばいであると指摘される。彼女は生気論的とみなされる二次元表象とは異なる三次元表象として、屹立しているのだ。非常に明治時代的かつ神経症的な物体と液体の複合的流転と流動(三次元的物語)含め。このような技術到達点、すなわち、アルトーの栄光と呼ぶべきスクリーン文化の輝きの中で中村ゆりと浅香航大のカフカ的もしくはユダヤ的姉弟だけがやたらと色褪せて見える。これこそが「直観的愛知」とでも呼ぶべきもので、ここに映る森川葵が、科学技術的で脱魔術化的(マックス・ウェーバー)な三次元表象であると同時に彼女の暮らす愛知県という場所の記憶に他ならないと確信させる。すなわち、彼女にとっての山村のミッションスクールという舞台設定は、ロケ地でのエピソードとして文字通り科学技術的にカメラの前で話していい事物なのである。すなわちそれが愛知という健全であり、日本列島という健全なのだから(「ヨーロッパを一匹の亡霊が徘徊している」)。
いわば、ここにおいて撮影機材は監視カメラであり、社会主義的ドキュメントを目論むセクトを形成している。特にメソッド演技がソビエトの政治状況との親和性を有したことを忘れるべきではない。しかし、それは撮影スタッフの恩寵であり、観客に付与され、割り振られるものではない(作家性の問題)。映画「桐島、部活やめるってよ」における台詞「先生はロメロ観たことありますか」という神木隆之介の台詞は、切実なものであると同時に、神木隆之介が物理的に、すなわち、音波論的に発話した内容に他ならない(自白の定義)。最後のシーンで森川葵が心霊写真を激写することは理論上の蓋然性を有しており、差異の哲学そのものである。アルトーは言った。「器官なき身体」と。彼は創造者として作品を作り、上演する者だが、同時に見られ、映される存在でもある。純粋な客体としての宙吊り状況は真の作家性であると気付かなくてはならない。それはこの森川葵が到達しつつも到達出来ていない美学的水準である。彼女は自分が映し、描き、創造する側であるという誤解あるいは傲慢を吐露し物語を終わらせる。すなわち彼女は役者としてアルトー未満であり、アルトーに対し備給を果たす役割である(roll model, acting person)。彼女はexileを知ることになるであろう(これはフランス的な言いまわしであり、まさしくオイディプスの運命のことである)。
ここまでの議論は「思弁的実在論」という大陸哲学の最新の思想潮流に関わるものであり、カントに代表される超越論的観念論を批判することは人間の内面を否定、否認することに関わる。これは「良心の呵責」といった観念論とその倫理的側面との結びつきを放棄し、廃棄する苛烈な試みとなる。それは認識論的に上記のものを想起し、なおかつ想定した態度であるから(批判行為の可能)。これは他者に内面がないとみなす行為の急進化もしくはそのような努力であり、物体ないしは肉塊に対する認識を道端やショッピングモールや博物館において生じせしめる。いわばヨーロッパの大地という根源的原理の喪失を見込む態度であり、メイヤスーの「有限性の後で 偶然性の必然性についての試論」が、過去数千年にわたるインド=ヨーロッパ語族の書き物の伝統における批判なるもののフォーマットを、露骨なまでに実直に、そしていとも安らかに再現していることに通じる。これは私が確認している近年の西洋人に普遍的な特徴といえるものである(「インターネットは独立国家である」)。いわばこれほどまでにアメリカナイゼーションが進捗した白人社会の必然といったところか。「さようなら、お母さんのまなこ。彼女は時に厳しかった」。
しかしながら、最近の学問である「表象文化論」などの一部の例外を除いては、アカデミックな人物ないしは研究者が日本の大衆文化や俳優、女優、すなわち文学と芸術以外を学術的に検討する機会はほぼ皆無であり、蓮實重彦がフランス文学の研究をリードしながら同時に表象文化論を日本に紹介し、なおかつ映画時評をコンスタントに行う第一人者であるとみなされている(その点東浩紀は似たような経歴を持つが、実際の先駆者は蓮實である)。このような試みは今後の発展に期待し、待つしかない状況が続いており、この投稿は単なるファンもしくはユーザーの考察ということになろう。付け加えるならば、森川が所属するスターダストプロモーションの独立性すなわち法的独立性に関しては、表象レベルの言説すなわちディスクールにおいて充分推察可能なものであると考えられる。これは「役者が仕事を選ぶ」という近年世界的に見られるリベラルな主体性擁護とみせかけつつも、殊更に労働者組合的なスタンスの変奏でしかないような場合とは異なるレベルの現象であり、法人側の徹底した自覚と社員への教育を伺わせる。これは当然週刊誌含む世間の目と演者側の不摂生両方により、「火車」(宮部みゆき)のごとくがんじがらめになってしまった、晩年の美空ひばりの対極に位置する。戦慄しつつも語らせてもらえば、おそらく表象というプラトン主義の一類型、生気論の名残りを残す領域、すなわち、現状に対し無垢なるものを望むという完璧主義のバリエーションからでは、過去の亡霊のごとくコンプライアンスとコンセンサスなるものを侵し、なおかつ汚すことになるであろう。いわば、表象から実在論へ、という現場主義とその道筋は可能なものである、とスターダストプロモーションは伝え続けていると思われる。
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