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#パニック障害持ち
okumaseitai · 1 year
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・ パニック障害でお悩みの方から 素敵なご感想をいただきました。 ありがとうございます。 とても嬉しいです。 励みになります。 最近 当院では パニック障害で とてもお悩みの方が多いので 皆さんの勇気になります。 私のできる範囲で 全力でサポートさせていただきます。 #パニック障害 #パニック障害ママ #パニック障害の人と繋がりたい #パニック発作 #パニック障害克服中 #パニック障害あるある #パニック障害妊婦 #パニック障害克服したい #パニック障害持ち #パニック障害なんかに負けない #パニック障害と生きる #パニック障害再発 #パニック障害なんてこわくない (若江岩田駅から徒歩3分のおおくま整骨院) https://www.instagram.com/p/CnrhXMbpmaT/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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kennak · 11 months
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ジャニーが同性愛者(真性の少年性愛者、児童性愛者)であり、事務所に所属する男性タレントに対して性的児童虐待(同性愛行為の強要)を行っているとの話は、1960年代から散発的に繰り返し報道されてきた。 まず、駐留米軍の「在日軍事援助顧問団 (MAAGJ)」に勤務していた頃(1958年~1966年)から、外交官ナンバーの車(クライスラー)で新宿・花園神社の界隈に繰り出し、「ケニー」、「L」、「牛若丸」といったゲイバーで遊んでいたこと、更に新宿駅南口で網を張り、田舎から出てきた少年たちに声をかけては、常宿の「相模屋」(1泊600円のベッドハウス)に連れ込んでいたことを、当時のゲイ仲間・原吾一が、著書『二丁目のジャニーズ』シリーズで明かしている。 ジャニー喜多川が最初に手がけたタレントは「ジャニーズ」の4名(真家ひろみ、飯野おさみ、あおい輝彦、中谷良)で、当初は池袋の芸能学校「新芸能学院」に所属させていたが、学院内にてジャニーが15名の男子生徒たちに性的児童虐待行為をしていたことが発覚。 オーナーの名和太郎学院長(本名:高橋幸吉。2000年6月7日に急性心不全で逝去。81歳没)はジャニーを1964年6月28日付で解雇した。 しかしジャニーが、ジャニーズの4名も一緒に引き連れて出て行ってしまったためにトラブルとなり、ジャニーらが所属中の授業料やスタジオ使用料、食費など270万円を求めて学院長がジャニーを提訴し、裁判へと発展した (通称:ホモセクハラ裁判)。 なお、当時のジャニーは在日軍事援助顧問団(MAAGJ)に在籍する下士官事務職員として、米国軍人および外交官の立場にあったが、新芸能学院との騒動は「MAAGJの公務の範囲外の職業活動」で起こった問題であるため、「外交関係に関するウィーン条約」(日本では1964年6月8日に発行)の第31条1項による外交特権「外交官は接受国の刑事・民事・行政裁判権からの免除を享有する」の対象から漏れ、訴えられた。 この裁判は長期化し、1964年から実に4年に渡って行われた。 ジャニーズの4名も実際に証言台に立っており、その証言記録は『女性自身』(1967年9月25日号)、『ジャニーズの逆襲』(データハウス刊)、『ジャニーズスキャンダル調書』(鹿砦社刊)にて再現されている。 『週刊サンケイ』(1965年3月29日号)でも「ジャニーズ騒動 “ジャニーズ”売り出しのかげに」として5ページの記事が組まれた他、ルポライターの竹中労も、著書『タレント帝国 芸能プロの内幕』(1968年7月、現代書房)の中で「ジャニーズ解散・始末記」と題してジャニーの性加害について言及した (当書はその後、初代ジャニーズを管理していた渡辺プロダクションの渡邊美佐の圧力で販売停止)。 なお、『ジャニーズスキャンダル調書』では「同性愛」という表現自体を否定しており、ホモセクハラである以上、「性的虐待」、善意に表現しても「少年愛」であるとしている。 『週刊現代』(1981年4月30日号、講談社)にて、「『たのきんトリオ』で大当たり アイドル育成で評判の喜多川姉弟の異能」と題し、ジャーナリストの元木昌彦がジャニーの性趣向問題について言及。 (直後、ジャニーの姉のメリー喜多川から編集部に「今後、講談社には一切うちのタレントを出さない」と猛クレームが入り、元木は処分として『週刊現代』から『婦人倶楽部』の部署へと異動させられた。 この件については、『週刊文春』(1981年5月28日号、文藝春秋)でも、「大講談社を震え上がらせたメリー喜多川の“たのきん”操縦術」と題して報じられた。 なお、ジャニーの性的児童虐待についてメリーは、「弟は病気なんだからしょうがないでしょ!」と言ってずっと放任していた) 雑誌『噂の眞相』(1983年11月号)が、「ホモの館」と題してジャニーズ事務所の合宿所の写真を公開。 元所属タレントの告発も相次いだ。 元フォーリーブスの北公次は『光GENJIへ』(1988年12月)、 元ジューク・ボックスの小谷純とやなせかおるは『さらば ! ! 光GENJIへ』(1989年9月)、 元ジャニーズの中谷良は『ジャニーズの逆襲』(1989年10月)、 元ジャニーズJr.の平本淳也は『ジャニーズのすべて ~ 少年愛の館』(1996年4月)、 豊川誕は『ひとりぼっちの旅立ち ~ 元ジャニーズ・アイドル 豊川誕半生記』(1997年3月)、 山崎正人は『SMAPへ』(2005年3月)をそれぞれ上梓。 タレントの生殺与奪の全権を握るジャニーの性的要求を受け入れなければ、仕事を与えられずに干されてしまうという実態が明るみに出た。 中でも『SMAPへ』は、ジャニーが行っていた性行為の内容について最も細かく具体的に描写しており、少年に肛門性交を強要していたことも明かしている。 同じく元Jr.の蓬田利久も、漫画『Jr.メモリーズ ~もしも記憶が確かなら~』(竹書房の漫画雑誌『本当にあった愉快な話』シリーズに掲載。著:柏屋コッコ、2014年1月~2015年4月)に取材協力する形で暴露している。 ジャニーは肛門性交時にノグゼマスキンクリーム、メンソレータム、ベビーローションなどを愛用しており、少年隊もラジオ番組で、錦織一清が「ジャニーさんと言えばメンソレータム思い出すなぁ・・・」、東山紀之は「合宿所はいつもメンソレータムの匂いがしてた」など、分かる人には分かるギリギリの発言をしている。 元Jr.の星英徳も、ジャニー喜多川の死後になってネット配信で、「ただのJr.だった自分ですら、何十回もやられた。 ジャニーさんが特に好んだのは、小中学生の段階のJr.。 時には平日の朝から学校を休んで合宿所に来いと呼び出され、マンツーマンで性行為を受けた。 その最中は、当時付き合ってた彼女のことを毎回必死に頭で思い描きながら耐えてた。 メジャーデビューしたメンバーは必ず全員やられている。 必ずです! 全員やられてる! そもそも断ったらデビュー出来ない」と幾度も打ち明け、ジャニーによる性被害や当時の事務所内での異常な状況を説明した。 ジャニーズの出身者以外からも、浜村淳が関西ローカルのラジオ番組『ありがとう浜村淳です』(MBSラジオ)の中でジャニーのことを「あのホモのおっさん」と発言したり、ミュージシャンのジーザス花園が、2009年発表の自作曲『ジャニー&メリー』で、AV監督の村西とおるもブログやTwitterで糾弾している。 ジャニーに対する感謝、愛情が誰よりも強いことで知られるKinKi Kidsの堂本剛(児童劇団の子役出身)は、小学5年生の段階で子役活動を辞め、一旦芸能界を引退していたが、姉による他薦でジャニーズのエンターテインメントの世界に触れ、自分もスターになって成功したいという感情が芽生える。 しかし成功するためには、まだ幼い小学6年生の段階からジャニーの性的な行為を耐え忍ぶしかなく、剛が中学2年生の14歳の時に奈良県から東京の合宿所に正式に転居してからは、ジャニーの性行為は更に過熱していった。 当時剛と非常に親しい関係にあった元Jr.の星英徳も、「剛は普通のJr.たちとは違うレベルの性行為をジャニーさんから受けていて、そのことにいつも悩んでた。剛が病んじゃったのはジャニーさんが原因」と、2021年6月25日の深夜にツイキャス配信で証言した。 剛にしてみれば、確かにジャニーには芸能界で大成功させて貰って感謝はしているものの、幼い頃から異常すぎる性体験を強いられ、自分の心と体を捨て去るという代償を払わされてきた訳であり、更に人一倍繊細な性格がゆえ、15歳からは芸能活動へのストレスも相まってパニック障害を抱えるようになり、長年に渡って自殺を考えるほどに苦しんだ時期が続いた。 自分で選んだ道ではあるし、ストックホルム症候群、トラウマボンド(トラウマティック・ボンディング)、グルーミングなどの効果によって、ジャニーに対して大きな感謝はしつつも、もしジャニーと出会わなければ、こんなにも苦しい思いをすることは無かった、という愛憎が入り混じった複雑な感情から、剛の自作曲『美しく在る為に』は、ジャニーへの思いや、芸能活動への葛藤が描かれた曲だと、一部のファンの間では解釈されている。 その歌詞の一部には、 「あたしが悪いなんて 云わせないの あなたが悪いなんて 云う筈がないの 人は勝手だったもの 何時も勝手だったもの 美しく在る為に 勝手だったもの」とある。 [1] 元光GENJIの諸星和己も、2016年11月6日放送のバラエティ番組『にけつッ ! !』(日本テレビ)に出演した際、千原ジュニアとの会話でジャニーについて、 千原 「数年後に大スターになると見抜くその力よ」 諸星 「違う違う、たまたま、たまたま」 千原 「先見の明がすごいんでしょ?」 諸星 「僕の考えだと、“結果論”だね。 あの人(ジャニー喜多川)の目がいいとか、見抜く力がすごいとか、“全く”無い!」 と断じ、ジャニーに対する世間の過大評価に異を唱えた。 そして番組の最後では、「ジャニーの感性はね、あれホ〇だから!」と締めくくった。 ジャニーについてはよく、「少年の10年後の成長した顔が見えていた」などと評されてしまうことがあるが、それは間違い。 確かに子供の頃は冴えない平凡な顔をした者が、美容整形なども踏まえて将来二枚目に化けたパターンもあるが、その一方、小さい頃は可愛かったのに、成長と共にどんどん劣化してしまったパターンも少なくない。 そもそも、テレビなどで頻繁に同じタレントの顔を目にしていれば、視聴者の目はその顔に慣れていく訳だから、マイナス面はどんどん軽減されていく。 ジャニーが持っていたのは権力と財力であって、人の10年後の顔はおろか、人の本質や将来を見抜けるような特殊能力、神通力は存在しない。 ジャニーは将来を予見して採用していたのではなく、ただ単に、今その瞬間の“自分の好み”の少年、個人的に性欲を感じる“ヤりたい相手”を選んでいただけであり、その少年がたまたまスターになるかならないかは、諸星が述べた通り、後からついてきた“結果論”に過ぎない。 ジャニーに個人的に嫌われれば、いくらスター性や才能がある者であっても捨てられるし、ジャニーに個人的に好かれれば、スター性の無い者であっても権力と財力でメディアにゴリ推しされ、結果、誰でも人気者になれた。 こうした、ジャニーの個人的な好み、機嫌だけで全てが操作・決定される、非常に特殊で独裁的な事務所だったため、多くのスターを製造した一方、本当に将来有望だったはずの多くの才能も死んでいった。 なお諸星はこの放送の一ヶ月後の2016年12月2日に大沢樹生と共に開催したトークライブでも、ステージ上で「俺が何で結婚しないか? ホモだから。 ジャニーみたいなものだから」と発言し、ジャニーを茶化している (諸星自身がゲイであるという部分は自虐による冗談であり、諸星はゲイではない)。 1988年~1989年にかけ、月刊誌『噂の眞相』もこの問題を数回取り上げた。 しかしジャニーズ側は、「『噂の眞相』という雑誌はこの世に存在しないもの」という姿勢を貫いていたため、全く相手にされることは無かった。 週刊誌『FOCUS』(1989年8月11日号、 新潮社)に、ジャニー喜多川が合宿所で撮影した田原俊彦の全裸のポラロイド写真が流出掲載される。 1999年10月28日号から2000年2月17日号にかけ、『週刊文春』がジャニーズ事務所に対する糾弾を14回に渡ってキャンペーンとしてシリーズ掲載。 ジャニーが所属タレントに対してセクハラ・児童虐待を行い、事務所内では未成年所属タレントの喫煙や飲酒が日常的に黙認されていると報道し、約15名もの元ジャニーズJr.が取材に協力した。 出版元である文藝春秋は、他の大手出版社と違ってジャニーズ事務所との癒着や影響力が皆無に等しかったために出来たことだった。 【キャンペーン開始の引き金的な記事】 江木俊夫 公判で元アイドルが「ジャニーズ」批判 (1999年10月7日号) 【14回のキャンペーン】 青山孝 元フォーリーブス衝撃の告発 芸能界のモンスター「ジャニーズ事務所」の非道 TVも新聞も絶対報じない (1999年10月28日号・p252~255) ジャニーズの少年たちが耐える「おぞましい」環境 元メンバーが告発 「芸能界のモンスター」追及第2弾 (1999年11月4日号・p190~193) ジャニーズの少年たちが「悪魔の館」合宿所で 「芸能界のモンスター」追及第3弾 強いられる“行為” スクーブグラビア ジャニーズ「喫煙常習」の証拠写真 (1999年11月11日号・p26~29)[1] テレビ局が封印したジャニーズの少年たち集団万引き事件 追及キャンペーン4 マスコミはなぜ恐れるのか (1999年11月18日号・p188~191) ジャニー喜多川は関西の少年たちを「ホテル」に呼び出す 追及第5弾 芸能界のモンスター (1999年11月25日号・p188~191)[1] ジャニーズOBが決起! ホモセクハラの犠牲者たち 芸能界のモンスター追及第6弾 (1999年12月2日号・p195~197) 小誌だけが知っているジャニー喜多川「絶体絶命」 追及第7弾 (1999年12月9日号・p179~181)[1] ジャニーズ人気スターの「恋人」が脅された! 追及第8弾 (1999年12月16日号・p185~187) ジャニー喜多川殿 ユー、法廷に立てますか? 「噴飯告訴に答える 追及第9弾」 (1999年12月23日号・p179~181) 外国人記者が「ジャニー喜多川ホモ・セクハラは日本の恥」 追及第10弾 (1999年12月30日号・p38~40) ジャニーズ裁判 元タレントはなぜ「偽証」した キャンペーン再開! (2000年1月27日号・p180~181) ジャニー喜多川よ、ファンもこんなに怒っている 徹底追及(第12弾) (2000年2月3日号・p165~167) NYタイムスも報じたジャ二ー喜多川「性的児童虐待」 (2000年2月10日号・p172~173) ジャニー喜多川「性的虐待」 日本のメディアは腰くだけ ピュリツァー記者が激白 (2000年2月17日号・p34~35) 【追加報道】 スクープ撮! ジャニー喜多川の素顔 (2000年3月16日号) ジャニー喜多川の性的虐待! 母親が決意の告白 「息子は私に訴えた」 (2000年3月23日号・p184~186) 新展開 ついに国会で質問されたジャニーズ性的虐待 なぜNYタイムスしか報じないのか (2000年4月27日号・p176~179) ジャニーズ疑惑 梨元勝国会で証言へ! (2000年5月4日・11日合併号・p180~181) 大手メディアがこの性的児童虐待問題をこれほどまでに取り上げたのは1960年代以来初めてのことで、その波紋は大きく、自民党衆議院議員・阪上善秀(後の宝塚市長)も、2000年4月13日にこの問題を衆議院で取り上げた [注 6]。 1999年11月、ジャニー側は名誉毀損であるとして文藝春秋を訴え、1億700万円(ジャニーズ事務所に対し5350万円、ジャニー喜多川に対し5350万円)の損害賠償と謝罪広告1回を求める民事訴訟を起こした。 2002年3月27日、東京地裁の一審判決では、「高度の信用性を認めがたい。 証人の証言はたやすく信用できない点を残している」としてジャニー側が勝訴し、東京地裁は文藝春秋に対し、ジャニーへ440万円、ジャニーズ事務所へ440万円の、計880万円の損害賠償を命じた (井上哲男裁判長)。 文春側はこれを不服として東京高裁に控訴。 これに対抗するかのようにジャニー側も控訴。 2003年7月15日の二審判決では、ジャニーの性的児童虐待に関する記述について、 「喜多川が少年らに対しセクハラ行為をしたとの各証言はこれを信用することができ、喜多川が、少年達が逆らえばステージの立ち位置が悪くなったり、デビューできなくなるという抗拒不能な状態にあるのに乗じ、セクハラ行為をしているとの記述については、いわゆる真実性の抗弁が認められ、かつ、公共の利害に関する事実に係るものである」 と結論づけられ、ジャニー側の性的児童虐待行為を認定 (矢崎秀一裁判長)。 このため、性的児童虐待部分のジャニー側の勝訴は取り消され、損害賠償額はジャニーへ60万円、ジャニーズ事務所へ60万円の、計120万円に減額された。 ジャニー側は損害賠償額を不服として最高裁に上告したが、2004年2月24日に棄却され (藤田宙靖裁判長)、120万円の損害賠償と性的児童虐待行為認定が確定した。[1]、[2] しかし各芸能マスコミは、一審の880万円から120万円に減額された事実だけをベタ記事で書いて済ませ、「性的児童虐待が認められた」という肝心の部分は書かなかった。 この問題について、懐疑主義団体「JAPAN SKEPTICS」の機関誌『NEWSLETTER 53号』にて、当時同会の副会長だった草野直樹が批判。 「マスコミの誤りというのは、『間違ったことを報じる』だけでなく、『必要なことを報じない』ことも含まれる。 そして後者の多くは、いくつかの『タブー』に縛られていることが原因になっている。 報道におけるタブーのベールを抜いた報道には、オカルト・疑似科学の類と同様に騙されないようにしよう」と訴えた。 芸能評論家の肥留間正明も、「芸能界でホモセクハラが裁判になったのは異例。 真実と認められたのも初めてで、これは社会的な事件」と語っている。 また、ニューヨーク・タイムズや、イギリスの新聞・オブザーバーなどの海外メディアも大々的に取り上げ、この問題をタブー視するなどして真実を報道しない卑怯で腰抜けな日本のマスメディアの姿勢、体質を批判した。 以後もジャニーズ事務所と文藝春秋は対立。 2006年に『武士の一分』が映画化された際、ジャニーズは文春文庫で発売されている藤沢周平の原作本の帯に、主演の木村拓哉の写真の使用を一切許可しない、という対抗措置を取っている。 また、木村が工藤静香と結婚した際にも、会見への週刊文春の参加を禁じた。 そのため、文春側は巻頭グラビアで白紙ページに木村とインタビュアーの輪郭のみを描き、ジャニーズによるメディア統制であると非難した。 2010年3月14日、サイゾーウーマンにてシリーズ連載「新約・ジャニーズ暴露本」開始。 2018年6月6日、サイゾーウーマンにてシリーズ連載「いま振り返るジャニーズの“少年愛”報道」開始。 2019年7月9日にジャニーが逝去。 その際、テレビや雑誌など、日本の主要メディアではジャニーを賛美する歯の浮くような美辞麗句のみが並べられ、まるでジャニーを聖人君子かのように崇め奉った。
ジャニー喜多川 - ジャニーズ百科事典
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to2geki · 3 months
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わたしのはなし
前は自分には何も無くて此処でしか全てを発散出来なかった。自分を出せるのは此処だけ、文字だけやと思ってたし、自分しか信じられんと思ってたけど今はそんなこと思わなくなった。毎日ご飯を食べられて、友達と遊べて、いっぱい笑えるようになって、働けるようにもなって、自分の好きなものを見つけられるようになって、陽の光も浴びれるようになって、息がしやすくなって、自分の居場所が少しずつ広がっていって、小さな夢も少しずつ持てるようになって、目の前が明るくなって。 きっとこれは周りの力も必ずあるけれども、自分の力も間違いなくあると思う。
思い出したくない、5年前。まだ制服を着ていたわたしはあることをきっかけに、制服を脱いで部屋の扉と心を完全に閉ざしてしまった。
そこから長い長い日々が始まった。喋れなくなり、全ての感覚が研ぎ澄まされているせいで少しの太陽の光も、少しの音も、からだが受け付けなくなってしまった。ご飯ももちろん受け付けなくなり、口にするものは水や氷など固形物は食べなかった。みるみるうちに痩せ、思考も乏しく、立てなくなった。目の前にあるのは大きな 死 だけだった。死ぬのが正解だと心の底から思っていた。一度家を裸足で飛び出して、車の前に飛び出たりそんなこともした。
もちろんこの状態を見ていた家族など周りは、必死にどうにかしようとしてくれていた。今なら分かるけどあの頃は、ただただ邪魔だった。食べれないのに毎日ラップして置いてあるご飯も、行かないのにいつも手紙を送ってくる学校も、なにもかもが邪魔で、こんなことも出来ない。と逆に自分で自分を殺し続け失望する日々だった。
そんな日は続き、病院に行くことになった。何も喋らない私、心配そうに見つめる母親、次から次へと質問を投げかけてくる主治医、待合室で待つ父親。目の前がぐるぐる回って、もうなにがなにか分からんくなった。恐怖 それしか頭になかった。そこから薬での治療が始まった。色んな薬を試した、副作用も決して楽ではなかった。ソワソワして夜中外を歩き回ったりもした、テンションが上がって何度も何度もピアスを開けたりした。それでもなんとか薬を変えたり、陽の光をできるだけ見るようにしたり、ご飯を少しずつ食べるようにした。歩けるようになった、話せるようになった。学校にも誰にも合わない時間に行けるようになった。少し状態がマシになった。
そこから良くなっていくと思っていたけれど、現実は神様はそんな甘くなかった。身内の不幸事が重なり、家族が少しバラバラになった。下で怒鳴り声が聴こえた日も少なくなかった。その度に私は震える身体を抱きしめては枕に顔を埋めて泣いた。呼吸困難も何度もなった。パニック障害になった。家にいることもしんどくなった自分は同じ境遇の人を探した、最初は話があってひとりじゃないと思ったけど、相手の悩みも自分の悩みとしてカウントされて、相手を救えないもどかしさと悔しさに腹が立ち、自分を傷つけるようになった。相手が思う自分を変えてはならないと思い、完璧に演じるようになった。乖離性障害になった。
もう死にたくてたまらなくて逃げたくて弱い私は、ついにドラッグに頼るようになった。幻覚と幻聴に耐えれなくて、ドラッグ。何度か吐血することもあった。意識が朧で車に轢かれかけたこともあった。薬物が自分を保てるものになっていた。正気でいられるモノになってしまっていた。自傷数え切れないくらい自分を殺した。死ぬ場所を見つけに、真夏の夜中から朝までそこらじゅうを練り歩いたこともあった。そしてついに閉鎖病棟に入院することになった。
真っ白な病室には、ベッドひとつ。テレビもなければ携帯もない。煙草も吸えない。自傷する恐れがあるとのことでペンすらも許可が出ないと使えなかった。お風呂も時間制。外に出るのもなにをするにも知らせなくちゃいけない。部屋にある防犯カメラをずっと見ていた。病棟には様々な患者さんがいた。アルコール依存、認知症、ドラッグ依存。ここで生活していたら余計自分は腐っていく。そう感じた。そこから少しずつ 当たり前 といわれる生活をできるように努力した。
退院。ここから出られるという気持ちもあったが、不安の方が圧倒大きかった。次、希死念慮に襲われたら本当に死んでしまうんじゃないかと思っていた。隔離がなくなった今、自由になってしまった私は不安だった。
退院した後も、前のリズムを崩さないように努力した。毎朝散歩はしたし、食事も取るようにした。でも夜には勝てなかった。孤独な夜は考えることが多すぎた。わたしには耐えられなかった。自分を傷付ける行為が自分の中での発散方法に変わった。それでも毎日生きようと必死になっていた。時には死にたくてたまらなかったけれど、何度も救急車で運ばれたけれど、心の中のどこかでくたばりたくないと思った自分が居たんだろう。
そこから色々また薬を変えた。そして好きなことを見つけたりするようになった、本を前より沢山読むようになった、絵を描くようになった。そしてずっと彫りたかったタトゥーを彫った。そこから確実に腕に傷をつけることは減っていった。だんだん見えてくる世界も変わってきて、自分の好きな場所に足を踏み入れることで、関わってくれるひとたちも変わっていった。自分の好きな物を素直に好きと言えて、共有できる。そんな場所が増えて自分らしくいられるようになった。
大まかだけど、わたしには闇に葬りたいくらいの過去がある。でも今はそれを愛おしいとも思えるくらいになった。全く恥ずかしいと思わない。この経験がないと気づけない事が沢山あったと思う。死んでたかもしれないしドラッグ漬けだったかもしれない。わたしは今、幸せだ。たまに泣いたりそんなときもあるけど、人間してるな〜と感じれるようになった。どんな感情もどんな自分も認められるようになった。無理に繕わなくなった。腕の傷もお酒や、天気が悪いと浮かんだり疼くが目立つことなく消えていっている。
わたしは、当たり前 の難しさを知っているから他人にそれを強要しないし、当たり前 という言葉が大嫌い。普通や当たり前というのはある意味異常だ。それと同時に 普通 という言葉も大嫌い。普通という言葉の意味は死ぬまで分からないと思う。あまり分かろうとも思わないが。
過去の方が、identityがあったなあと悲しくなっていたが、tumblrを見返したら思ってることが今と変わらなくて嬉しくなった。わたしの芯は変わってないと確認できた。あの頃の苦しみが文章に現れていて、人間臭くて、美しいとも感じられるようになった。
わたしはわたし。簡単に私のことをわかって欲しくない。
我儘で自己中な文章。それでもその裏にあるモノをみたら見方が変わってくる。きっとそれは何事もそう。本質を見極めたらきっと見えるものも変わってくる、わたしは表面上だけで見るんじゃなくて、本質を見るということを心掛けてる。
あの頃から5年経った今、わたしはまだ通院、服薬をしているが全く違う自分になれている。病気も治るわけではないけれど、受け入れることで病状が悪くならないでいるんだと思う。受け入れるのに5年強もかかった。だからみんな焦らなくていい、大丈夫 。何年かかってもいいから、
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harawata44 · 3 months
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日本でも「宇宙天気」予報がスタート。新年度にも運用開始予定 | ギズモード・ジャパン
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以下引用
太陽が嵐を起こす。
私たちが外出する時にチェックする天気予報。さらにこれからは、宇宙天気にも注意して行動する必要がありそうです。
実は近年の太陽活動によって、高いエネルギーを持つ粒子や放射線が地球に降り注ぎ、様々な被害がもたらされています。 SpaceX(スペースエックス)が打ち上げたスターリンク衛星もその被害に遭っています。 この時は、打ち上げた49基のうち40基が磁気嵐に見舞われ、空の塵と消えてしまいました。
磁気嵐や放射線を監視 → 宇宙天気予報でお知らせ
人工衛生などにダメージを与える磁気嵐は、太陽フレアと呼ばれる爆発現象によって発生します。 そこで総務省を中心に、情報通信研究機構(NICT)が開発したシステムで太陽フレアを監視し、具体的な影響を国民に知らせる宇宙天気予報のスタートを検討していました。 総務省は2024年度中の運用開始を目指しています。
“注意報”や“警報”でお知らせ
太陽フレアによって人工衛星の故障や通信障害が発生した場合、 ・電話回線が使えなくなる ・テレビやラジオが使えなくなる ・インターネットが使えなくなる ・GPSが作動しなくなる・誤差が発生する ・船や飛行機の通信ができなくなる といった影響が予測されています。 これらの事象が発生してしまうと生活は大混乱です。 そこでパニックや混乱をできる限り抑えるため、あらかじめどれだけの影響が出るかを注意報や警報として注意喚起する予定です。
太陽の動きは今も見られます
情報通信研究機構(NICT)は現在も太陽の動きを観測(NICTの宇宙天気予報へリンク)しています。 ちなみに2月27日の宇宙天気予報は、 "太陽活動はやや活発でした。今後1日間、太陽活動は非常に活発な状態が予想されます。地磁気活動は静穏でした。引き続き今後数日間、地磁気活動は静穏な状態が予想されます。電離圏は乱れた状態でした。今後1日間、電離圏は静穏な状態が予想されます。" でした。 これからは地球天気予報と宇宙天気予報を見る日常がやってきそうです。
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mana-piyo · 3 months
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3/10 川﨑銀座街商店街
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川﨑銀座街商店街ありがとうございました♡
やっぱり今私は、軽度のパニック障害?イップス?ジストニア?のようです⤵︎。この日はすごく軽い症状で恐怖感はありませんでした🥲
(このことについてブログに書こうと思っているので、少し待っていてくださいね。)
こんな状態でも、終わった後はありがたくって嬉しい気持ちで胸いっぱいです🥹❤️
抜け出せる日まで、見守っていてください🙇‍♀️
今日もたくさんの愛をありがとう💖
差し入れいっぱい嬉しかったよぉ〜!!
スイーツは癒しや🤤大感謝❤️
次回川﨑銀座街バスカーは4/21(日)
どうぞよろしくお願いします!!
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beracha7 · 1 year
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お祈りをありがとうございます😊3412gのビックボーイが産まれました!
ルークと同じ顔だなと☺️しかも色違いの帽子!
臍の緒が1回まきついていたり、羊水を飲んでしまっていたので、産声もあげられなかったみたいなのですが、色々と処置をしていただき、なんとか肺で呼吸もすることができました!
まだ呼吸が浅く、足もたまに痙攣するそうなので、ベビーだけ大きな病院に救急車で移動して、NICUでみてもらうことに急遽なりました。
感謝なことに、火曜日と木曜日にだけいる、
小児科のNICUの先生がクリニックにおられて、色々と判断していただき、そのNICUの場所も確保できて、すぐに移動ができて感謝😌🙏
サトピは急遽ベビーに付き添う形になったのですが、
ルークの方も幼稚園が終わった後から、ずっと友達のお母さんに見てもらうこともでき、友達とずっと遊んで、夜ご飯も食べさせてもらったそうです🙏私の母と姉も急遽家に来てくれて助けてくれました☺️
今は管を鼻から通し、頭のモニターをつけたり、点滴を打ったりと、管だらけの身体のようですが、24時間体制でみてもらえているので、それも感謝です。
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痙攣は、私が飲んでいたパニック障害のための薬の離脱作用かもしれないとか(もしそうならば、数日で抜けるそうですが) もしそうなら、先生に飲んで良いと言われていたのはなんだったのかとか、臍の緒が巻きついちゃったとか、出産で赤ちゃんにストレスがかかったのではないかとか、色々考えられるそうですが、
どれにしろ、私のせいでないか。と責めたくなる気持ちとがあったり、大丈夫かなとマイナスなほうに考えもゆれたのですが、聖書のことばに立つことにしました。
たとえどんな状況であれ、神様のゆるしなしには何ひとつおこらない。私の失敗であれ、どんなことでも、すべてに感謝するなかで、すべては益となる!
神様は良いことしかいまなされていない!
神様は素晴らしい神様で奇跡を起こすことのできるかた!
神様は愛の神様で、一人一人に最善しかされない!
神様の言葉は真実であり、すべては益になります!
神様の栄光をみます!
今、このままで最善です!
神様が心配してくださるので、心配しません!
神様の勝利です!
神様はわざをなされます!
神様の圧倒的な勝利をみました!
と告白することにしました!
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いま、now 現在進行形で
神様は最善をしてくださっている。
God is working for our good!
そう信じてます!☺️✨
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現状ではない、神の言葉が正しい!
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ルークもそういえば、6カ月のときにアメリカのホテルでベットから落ちて頭を打ち、救急車で運ばれてましたが、あの時も、感謝と賛美とリバイバルキャンプのときで。徹底して喜んで感謝していく中で、神様のわざを見ました!ヒビが入っているのではということでしたが、いやされていました!しかも保険に前もって入った方が良いと思いが強く与えられていて、全部カバーされたり。
何か大変な事があっても、
神様は必ず最善に、益にしてくださる!
今回のことも、主のわざをみました🌸😆
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apoandbangpo · 11 months
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BTS Sugaのワールドツアーは究極のポップス転覆 / The Atlantic 翻訳
アメリカでグループ初となるソロコンサートを開催、アーティストとしての個性を強烈に宣言した。
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Story by Lenika Cruz
フォグマシーンの柔らかな吐息に包まれたステージから、フードを被った4人の人物が舞い降りてきたかのようだった。その肩には、黒をまとった体が乗っている。雨と稲妻が背後のスクリーンに真っ白に映し出される。ようやく、その男が地面に横たえられた。その後には、まるで死からの復活を思わせるような光景が待っていた。スポットライトが彼を見つけ、歓声が上がり、ついに彼は動き出した。そして、マイクを口に当てた。
このロックスター、ラザロの正体はミン・ユンギ。グラミー賞にもノミネートされ、チャートを席巻している韓国のグループ、BTSのラッパー兼ソングライターのSugaとして広く知られている。しかし、その夜ニューヨーク州ロングアイランドにあるUBSアリーナのステージには、彼のバンドメンバーは誰もいなかった。なぜなら、この日は彼のソロワールドツアーの初日だったからだ。昨年の夏以降、メンバーは各々の兵役義務遂行に向け、個人活動に集中してきた。BTSで初めてソロツアーを行うSugaはグループ作品よりも暗く、生々しく、パーソナルな音楽制作のために2016年につけた名前、Agust Dとしても公演を行っていた。先月、Agust Dの3部作の完結編となる強烈なスタジオアルバム『D-Day』をリリースした。このアルバムで社会批判やトラウマの黙想、名声、精神疾患、孤独、そして許しについて語っている。
同じくD-Dayと題されたSugaの現在進行中のツアーは、彼の作品を初めて本格的にショーケースするものだ。完売したアメリカでのツアーは、まるで10年以上の歳月を経て作り上げた芸術的個性の宣言のようだった。コンサートはフロントマンのエネルギーと作家主義的な華麗さで爆発していた。しかし、彼の最も際立った功績はポップミュージックが持つ共感を生み出す潜在的な力を受け入れながらも、その非人間的な作用に立ち向かっていることだ。
水曜日の夜、カリフォルニア州オークランドで幕を閉じた全米ツアーの全11公演は雷雨の中、道路に横たわるSugaの姿で終わるショートフィルムからスタートした。これはBTSとしてデビューするまでの練習生時代、生活費を賄うためにソウルで配達のアルバイトをしていた時に、車にはねられたことにちなんでいる。この事故で肩に傷を負った彼はBTSが世界的な名声を得た後も、この怪我に悩まされ続けた。この映像の後に命を落としたかのような実物のSugaがステージに担ぎ込まれる展開は、スムーズでありながらも衝撃的であり、何日も会場の外で待ち続けるファンを持つポップスターの人間的な脆さを再認識させるものであった。
初日のUBSアリーナ、そしてアメリカ最終日のオークランド・アリーナで私が観たSugaの公演は、ポップ・コンサートの常識を覆すものだった。ある面では子供の頃に日本の作曲家である坂本龍一の曲をサンプリングして自分のビートを作っていた技術に長けたラッパーによるダイナミックなヒップホップショーだった。Sugaは『Haegeum』でこの夜の空気を作った。タイトルは韓国の弦楽器と解禁を意味する。「溢れ返る情報は想像の自由を禁ずると同時に思想の統一を求める」「資本の奴隷 カネの奴隷 憎悪と偏見 嫌悪の奴隷 / YouTubeの奴隷 Flexの奴隷」とSugaは韓国語でラップする。Haegeumの耳に残るストリングスと、心地よく荒れたベースが空気を振動させた。この曲はすべて韓国語で書かれたものだが、観客は歌詞を大声で彼に歌い返した。反骨精神に満ちた『Daechwita』、初期のファンに人気の『Agust D』、『Give It to Me』と激しいラップ曲で序盤を駆け抜ける彼は催眠状態にあるかのようだった。
観客がまだ落ち着かないうちに、Sugaはアコースティックギターを取り出した。ギターにはBTSの他の6人のメンバーからのメッセージや絵が描かれていた。パンデミック期間中にギターを習得した彼のアンプラグド・バージョンの『Seesaw』は、振り付けやバックダンサー、凝ったセットを伴う過去のパフォーマンスとは一線を画すものであった。序盤の盛り上がる曲で見せた力みのない威勢が、静かなシンガーソングライターモードのSugaへと移り変わっていった。その後、アップライトピアノの前に座り、2020年のBTSの楽曲『Life Goes On』の自作バージョンを披露した。特に感極まる瞬間は、歌手のWoosungと亡き坂本龍一が参加した楽曲『Snooze』のソロパフォーマンスだった。2022年後半にSugaと坂本が唯一対面した時の映像が、前もって大型スクリーンに流れた。グランドピアノで曲を演奏する年上のミュージシャンと喜びを抑えようとする若者。Snoozeは、坂本にとって最後のコラボレーション作品のひとつになった。坂本を敬愛し、苦闘する若きアーティストを慰めるためにこの曲を書いたSugaにとって曲中の坂本の存在は、とりわけ心に響くものだろう。
BTSの活動で、できなかった試みをD-Dayで再三にわたり実践するSugaの姿は、実にスリリングだった。 そう、彼は依然として熟練したエンターテイナーなのだ。何万人もの観客の心をつかむ術を熟知している。BTSのコンサート中盤の爽快なラップメドレーで見せるとおり、息をつく様子もなくラップをしながらステージを飛び回れる人なのだ。そして、ロサンゼルスの2公演ではアメリカ人歌手、MAXとHalseyをゲストに迎え、それぞれのコラボレーションを披露した。その一方で、彼の破壊的な選択も際立った。コンサートに散りばめられたショートフィルムは、デヴィッド・リンチの夢の論理とグラインドハウス映画の粗い質感を思わせる。ポップアイドルのSuga、影のAgust D、そして人間ミン・ユンギという3つのアイデンティティーのストーリーが描かれている。このコンサートにおける究極の芸術的意図は、それぞれの自己を観客に明瞭に示すと同時に、それらがすべて共存していなければならないのだと認識させることにあるようだ。BTSのソロ曲である『Interlude: Shadow』やBTSの他のラッパーたちとの曲のヴァースを披露する姿を見て、彼は自分の過去を否定しているのではなく、むしろ誇りに思っているのだと確信した。なにしろ、その過去が彼を韓国の青瓦台、アメリカのホワイトハウス、国連総会、そしてグラミー賞の舞台にまで導いたのだから。
もうひとつの魅力的な演出があった。公演全体を通じて、舞台の一部がチェーンで天井に引き上げられ、Sugaのパフォーマンスできるスペースが次第に狭くなり、より慎重に舞台を進行させる必要があったのだ。 アンコール前の最後の曲『Amygdala』では、寂しげな四角い床に立っていた。周囲には炎が燃え上がり、まるで恐ろしい牢獄のようだった。アルバム D-Dayの核となる、このエモ・ラップトラックには、Agust Dのオルター・エゴの起源が記されている。交通事故、母親の心臓手術、父親の肝臓がん宣告など、彼の人生を決定づけたトラウマに言及し、それらがいかに彼を形成したかを語っている。曲の最後のフレーズで、力尽きたように地面に倒れ込むとフードをかぶった人物たちが戻ってきて彼を運び去った。ただし、今回は全身真っ白な服を着ていた。まるで浄化されたかのようだった。彼のカタルシスが完了したのだ。
アンコールの頃には舞台装置がすべて取り払われ、下に隠れていた機材が露わになった。 消火器、電気コード、発火装置などが散乱していた。Sugaはもう観客の頭上に立つことなく、地面の高さからファンの目の前で最後の数曲をパフォーマンスした。時にはファンの携帯電話を手に取り、自身の姿を撮影してみせた。最後の瞬間は、ほろ苦かった。ほとんどの観客は、6月下旬にあるソウル公演でツアーが終了した後、Sugaが少なくとも18ヶ月間の兵役に就くことを知っていたからだ。その現実がコンサートを一時的な別れのように感じさせた。ファンが持つライトスティックの輝きが、まるでひとつの波のようにアリーナ全体を駆け巡った。 時折、野生的なエネルギーに駆られた観客が吠え始めるとSugaは驚いたり笑ったりしていた。オークランドでは観客に向かって、BTSの他のメンバーと一緒に戻ってくること伝え、ファンにもう少しだけ待って欲しいと頼んだ。
ツアー初日の夜、もうひとつのサプライズが待っていた。私は最後の曲は感傷的なも���なのか、軽快なものかだと思っていた。 ところが、Sugaは不気味なビデオカメラの輪の中に入っていき、その真ん中に立った。つぶやきはじめたのは『The Last』のヴァースだった。第一作目のミックステープに収録されているこの曲は、彼の最高傑作であり、私が最も好きな曲のひとつだ。そして、このところ私が聴くのに苦労している曲でもある。The LastでSugaは、強迫性障害、鬱、社交不安について語っている。低く控えめな表現から徐々に切迫していき、最後には叫び声と泣き声の間のような声へと変化していた。数年前、この曲を初めて聴いたとき、私は自分自身の絶え間ないパニック障害による発作と息苦しい死への渇望を思い出した。この曲は私の心に刺さり、歓迎すべき欠片になったのだ。
ここ数年、Sugaは成長、自己愛、不安や苦しみを肯定することをテーマにした音楽を多く作ってきた。 コンサートの序盤、彼は英語で「あまり怒りを抱えずにパフォーマンスしたい」と語り『SDL』、『People』、『People Pt.2』といった曲に焦点を当てた。これらの曲は人生の試練を前にして冷静に考え、許し、謙虚でいられる人物像を描いている。ひどい苦しみから解放され、自分なりの癒しを見つけられたときの安堵感を私もよく知っている。だから、The Lastの出だしの歌詞(「有名なアイドルラッパーその後ろに、弱い俺が立ってる 少し危険だ」)を聴いたとき、私は凍りついた。彼は一体何をしているのだろうか。 監視システムのように並んだカメラ、その映像が映る彼の頭上のスクリーン。彼が見せる苦しみを貪るように映し出す。つまり私もまた、彼の苦しみを貪っているのだ。
しかし、すぐに理解できた。23歳のときと同じように息もつかせぬ情熱でラップしているが、単なる激高ではなく時間とともに和らいだ怒りでパフォーマンスしているのだと。その感情の力強さや真摯さに陰りはないが、それを発信する側が受けるダメージは少ないのだ。今の彼は炎の中に立って熱を感じながらも、その炎に飲まれることはない。若き日の自分に回帰することなく、当時の自分と心を通わせられる。
そして、魔法が解けた。曲が終わった瞬間、客席の照明がつき、彼が舞台袖に無言で歩いていくのが見えた。別れの挨拶も、長々とした感謝の言葉も、歓声を上げる観客に手を振ることもない。後ろを振り返ることさえもしなかった。初日の夜、突然の退場に衝撃を受けた人々は戸惑いの表情を浮かべた。このフィナーレを観客との静かな対決、愛されてやまない芸術家による大いなる自己主張と捉えることもできるかもしれない。けれども、もしそれが対決であったなら、それは見下しているのではなく、むしろ信頼に基づくものだ。観客が不快感に耐えられるだけの知性を備えており、彼が見せたものに気分を害したり、恐怖を感じたりしないのだという信頼だ。
完璧なエンディングだった。闇と神話作りから始まったコンサートが明かりの中で、さらけ出すように終わったのだ。他の誰かに運ばれきてスタートさせた公演をSugaは自らステージを去ることで終わらせたのだ。これ以上、何を望むというのか。彼は私たちに何もかも見せてくれたのだから。
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monogradation · 10 months
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ストレスでめっちゃ苦しい
パニック障害より遥かにマシだけど
胸の中の溶岩みたいなものが口から吹き出して辺りのものを焼き尽くしそうな気持ちになる
優しい気持ちでいたいのに
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longgoodbye1992 · 2 years
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家を出るということ
地元の企業に出していた履歴書が返ってくる。
今の世の中便利なもので、不採用の通知はハローワークの自分のページにメールで送られてくる。
これを機に家を出ることにした。
旅暮らしの再開だ。
今回からは元々のパニック障害に加え、糖尿病と発達障害が付きまとってくる。
病院や薬のことも考えなくてはいけない。
面倒なことは多いが、地元では働き口が少なく、今後もいい求人が出る可能性も無い。
障害者手帳をとったはいいものの、雇用がほとんどないこの地域じゃ何の役にも立たなかった。
この頃��何もすることがなく、ベッドの上に寝転んで死ぬのを待っているかのような空虚な時間を過ごしていた。
先日、フォローしている方が書いていた芥川龍之介の遺書にある「唯ぼんやりとした不安」という言葉が当てはまるような、そんな気持ちになっている。
死ぬように生きるなら、外に出て刺激を受けたほうがいい。
俺には家に残ってほしいという家族には、実に酷いことをたくさん言って家を出る宣言をした。
もう地元には帰りたくない。それほどここでの生活には懲りた。
若者が残らない街には理由がある。
ここには希望も仕事も幸せもない。
そう考えたから、仕事が決まり次第家を出る。
旅の始まりは近い。
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manganjiiji · 10 months
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わたくしの心差しは
しばらく何の文章も書いていな���から澱が溜まってしまったと思う。言葉を編集することをしないとだめだ。単語と単語を組み合わせ、文字と文字を高速回転で当てはめては放り出し、頭の中の音に乗せて、どうにかぎりぎり意味がつながるくらいの文章を切り貼りで生成する。見た目にもよいのが佳い。文をつなげてこのように段落にする時には目に入った画面のなかで文字の羅列の詰まりが自分に丁度良い、つまり図像として好ましくなければ書いても意味がない。自分は自分の「文の見た目」の好みを知っているので、それは何を考えずとも感覚で選びとる事ができる。単純に言えば、どこを漢字にし、どこを平仮名にし、どの漢字を使い、どこに句読点を打つか。句読点は読んでいる時の音楽のほうにも関係するので、見た目よりは音に左右されているかもしれない。それでもあまりに句読点がないときは、さすがに見辛いなと思い、入れる。小説でやっている時が一番楽しいが、この日記でやっている時も結構たのしい。見た目と音を自分の好きな文でいつでも再現可能にしておく。ほとんど意味はない。あってもあまり意味がないし。
希死念慮のないただのうつ状態に久しぶりに陥った。とはいえ数時間で回復したと思うのだが。これは肉体疲労がないぶん、薬がよく効いている。この数日仕事を休みっ放しなので、肉体疲労がない。今日はびっくりする事に仕事をさぼった。とくに体調は悪くなかった。仕事に行くことを考えるだけでパニックになり、ただただ行きたくないというだけで休んだ。用意する時間も起きた時間も、仕事に行ける条件は何もかもが完璧だった。私自身だけが全く仕事に行ける状態ではなかった。なんでやねん。兎に角もう、自分にこれが最後だよ(さぼるのは)と言い聞かせて休んだ。とても悲しくなったが、欠勤の連絡を入れたのちパニックは治まって、気づいたら3時間寝ていた。すでに8時間は寝ていたのによく眠れるなあと思った。今「よく眠れる」ということにはっとしてずつーるを確認したら、その時間がちょうど気圧低下していた。なんだ。気圧か。もうそりゃしょうがねえ。今まで偏頭痛が酷くてその影に隠れていたのだが、気圧が下がるとかなり落ち込むしパニックになりやすいし、最終的に寝る。まさに今日のパターンだった。最近、というより、独居になってから、偏頭痛がぱったりと消えた。注射も打っていないが、薬を飲むほどの痛みも、月に2回あるくらいになった。今までは注射を打ってなお、月に10〜15回薬を飲んでいた。注射を継続した効果が出たのか、生家からのストレスから解放されたからなのか、どちらもなのか、分からないが、とてもとても、らく。痛みがないというだけで可処分時間が増える増える。仕事中も痛みがないので目の前のことに集中できる。朝起きて爆発的に痛くて吐きそうという思いもしなくてよくなった。注射の効果だとしたら、全偏頭痛民に勧めたい。エムガルティという1本1万3500円(保険適用済)の注射を。3ヶ月分買って自己注射するので、3ヶ月に1回は4万円近く出費するのだが、基本的に高額医療制度で2万くらい返ってくる。私はこの注射を打つことで再び働けるようになった。
ということで夕方にはふらふらしながら、1メートル歩くのに3秒かけて(体感)セブンイレブンに行った。前回コピー用紙が切れた時にもたもたもたもたして最終的に私が主導権を奪い取って勝手にセットし蓋を閉めた時の店員がまた居て若干気まずかったが、私はその時も今日も別に怒っていた訳ではなく、ごくふつうの客だったため、まあ、見逃してほしい。そしてチョコレートが食べたかった(1年に1回だけ黒いチョコレートが食べたくなる)のだが、無かった。マシュマロも食べたかったのだが、無かった。プリングルスも、無かった。手頃な冷たいコンビニスイーツも、全然なかった。おいおい。全てにおいて「負け」じゃねえか。しかし他のものでどうにか糖分をしこたま、一応シーザーサラダも買って、またふらふらと帰った。そのうちの何割かを食べ、冷蔵庫にしまい、𝕏を見ていて時間が経った。やや回復し皿を洗い、歯磨きをし、爪を塗るまでにいたった。
私はほんとうに「働きたくない」人種だ。小学生のころ、働かなくていいという理由だけで大学教授になりたかった(一生勉強だけしていればいいなんて夢のような仕事だ!)。何よりも勉強というか、紙に字を書くことが好きだったので、勉強だけしていたかった。考えることも好きだし。しかし高校一年でその時は来る。成長期・思春期・うつがセットで襲いかかり、ほとんど睡眠障害になり授業は起きていられず、起きていても何を言われているのか全く分からず、考えることも覚えることもできず、という直面したことのない事態に陥り、勉強は全くできなくなった。(25歳で治療が成功してから、高校の勉強の文系科目は独学で終えた。塾講師として高校生に教えながら。)
本当に働きたくなかった。なんならもう、動きたくなかった。うつで余計に体は動かなくなり、生きること自体がきつくなった。兄は働かない人だったので、兄が許されてなぜ自分は働かなければいけないんだという思いと、兄が働いていないぶん、私が働いてせめて社会に貢献しなければという思いをふたつ抱えていた。とにかく兄のあけた穴の補填に忙しい人生だった。そんなことはあの親たちのもとに生まれた時点で、瑣末なことだが。
それが、19で初めてしたアルバイト、通信販売の受電が、もう、びっくりするくらい自分に合っていて、びっくりするくらい評価され、働くのは異常なほどの緊張をともなうものの(毎回駅のトイレで下痢してから出勤していた)、もしかして…これは…人に褒められるチャンス!ということに気付いた。私は非常に人に褒められたいタイプの人間である。浪人中の12月まで働いて、そのお金で冬期講習に行き、受験した。
大学時代、マクドナルドのアルバイトは、「世界一自分に向いていない職業」だと思っていたが、友人の勧めで始め、本当に向いていなかったし、うつが激化していたので毎日に近く号泣していたが、これも楽しかった。笑顔だけは良いと褒められた。あと、深夜の清掃は褒められた。スピードに追われる、かつ体と頭を同時に動かす仕事が世界で一番苦手なのだが、マクドナルドはまさにそれだった。しかし、それを1年ほど経験したことで(もちろんずっと一番下っ端のクルーだった)、接客だけは自信を持てるようになった。新卒のSEはまったく頭が働かず、精神科行きとなったが、そのおかげで病気が判明し(うつ症状の重い双極性障害2型)、いよいよ書店のアルバイトとしての人生が始まった。これはもう「楽しい」しかなかった。最初の店舗がおそろしくブラックだったため、かなり厳しく躾られ、昭和的な思想でガチガチにされ、ここでも毎日号泣していたが、とにかく楽しかった。掛け持ちの学習塾は、全く仕事という感覚がなく、お金が貰えなくてもボランティアでやりたいくらい本当に楽しかった。緊張感など一秒も感じず、人に教えるのが楽しすぎて夢中になった。ちなみに働きすぎて27の時に大宮駅で倒れた。このようなことを何回か繰り返して今に至る。書店も慣れてくるとだんだんやることがわかってきて、こちらも緊張を感じなくなった。今の店舗は書店ではないが、似たような小売で、系列店舗での経験もあるためそこまでハードルは高くない。ただ肉体への負担がかなり大きい。一秒も休めない。文字通り休憩がないシフトなので、とにかく隙を見て水を飲みに行くしかない。この辺りも慣れてくれば自分のペースが掴めるだろう。初っ端からコロナで5日間欠勤して、かなり体力も落ち、今のところ最悪なスタートを切っている。ただ、諦めずに食らいついていけば、というと大袈裟だし気負いすぎかねないので注意が必要だが、できる範囲で通い続ければ、きっと大丈夫だろう。今度こそ、というか今回は久しぶりに2年程は勤務し続けたい。2年勤続することが、私にとってはかなりのハードルだが、さまざまな症状が改善しているので、今回は行けるのではないかと思っている。まあ、だめでもあまり落ち込まないように。でもなんか、できる気がしています。
2023.8.2
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okumaseitai · 1 year
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・ パニック障害で息苦しくてお辛い方から、ご感想をいただきました。 自宅でできる ワークなどもお伝えして しっかりと実戦してくださっております。 必ず足を組んでおられたのが 今では足も組まなくなられました。 呼吸も以前よりは かなり深くできるようになられました。 【ご感想】 ●どんなことでお悩みでしたか? 6年前にパニック障害になり、24時間ずっと、息苦しく感じ、夜になると不安感により、過呼吸になる事も多く、遠出も怖くてできない状態でした。 ●何がきっかけで当院の施術を知りましたか? インスタで、たまたま、おおくま先生の投稿を見て、住所を調べたら通える所でした。 ●当院を知ってすぐに予約をしてくださいましたか? SNSの投稿を見た次の日に、すぐ電話しました! 苦しくて苦しくてたまらなかったのですが、初診なのに、当日来てくださいと言ってくださり、うれしかったです。 ●何が決め手となって施術を受けていただけましたか? 先生と合い、今までの状態を説明したら、先生が優しく声かけをしてくださり信頼と実績を口コミで見てたので、お願いしました。 ●実際に施術を受けていただいて、いかがでしたか? 最初は週に2回通い、家での対処方法や自律神経にいい曲、何で私の体がこうなっているのか、すごく分かりやすく、細かく説明してくださりました。 通うにつれて状態も徐々に良くなってきて、24時間息苦しいのは、なくなりました。 今、4カ月通いましたが、全回復まで通います! 不安な時、いつでも連絡くださいと言ってくれて安心できます。 A.Tさん ■院長より A.Tさん 素敵なご感想有難うございました。 最初の頃は姿勢も猫背で呼吸が本当に浅かったですね。 自宅での対処法も真面目に取り組んでいただき、姿勢も頑張ってくださいました。 少しづつですが、血行の良くなって来られて、呼吸も、かなり深くできるようになられて、本当に嬉しいです。 波はあるものですが、全回復まで全力でサポートさせていただきますので、一緒に頑張ってまいりましょう。 不安な時には アロマもオススメです。 詳しくは最新のブログをご覧ください。 https://wakae-ookuma-seitai.com/panick-syougai-6/ #不安 #パニック障害 #息苦しい #パニック障害ママ #パニック障害克服中 #パニック障害の人と繋がりたい #パニック障害あるある #パニック障害なんかに負けない #パニック障害持ち #パニック障害克服したい #パニック障害で育児 #パニック障害なんかに負けない #パニック障害にヨガ #パニック障害と共に #パニック障害闘病中 #パニック障害の母 https://www.instagram.com/p/CmgU9PDpEVO/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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aihizzz · 11 months
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就活が原因で鬱とパニック障害になったお話
新卒で入った会社をすぐに辞めてしばらく派遣でお仕事をしていたのだけど、今月入社に向け5.6月で就活をしていました。
最初は紹介予定派遣や常駐型のお仕事を見ていたのですぐに決まるだろうと思っていたのだけど、将来のことを考えて正社員に括って受けることにしました、、、けどここからが地獄の始まり。極度の面接嫌い(苦手)と緊張強いな性格なので面接が本当にストレスでストレスで、、、毎晩吐き気と、どうしようもない気持ちの落ち込みがありました。結局第一志望の会社に内定はもらえたのだけど、そこに辿り着くまで、本当に苦労の連続でした。
内定が出ていざ入社!の1週間前くらいに、突然地下鉄に乗れなくなった。乗ろうとすると吐き気と手の痺れと動悸が止まらなくなって電車を降りるのだけど、降りてもパニックはおさまらず、エレベーターに乗ることもできず階段も怖くて登れず、、、なんとか地上に辿り着いても心臓はバクバク。これから働くのに電車に乗れないなんて、と、また落ち込む。せめてまたパニックが起きた時のために薬が欲しくて精神科に駆け込んだところ、パニック障害だけではなく鬱も併発してることがわかりました。
まさか自分が?鬱?って感じで、先生にも「私は絶対に鬱じゃありません!」とかを言ったりしてみたんだけど、私の場合はもう軽度でもなく治すのに時間がかかるかもと言われました。薬をもらって飲みはじめてからは発作もなく、発作を起こしてた頃の自分があまり思い出せないくらい人が変わったように元気になった。薬って怖いね。
また明日病院に行くから思ったことがあったから書いてみる、ちゃんと記録しておこう
ちなみにお仕事にはちゃんと行けてます
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kennak · 1 year
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うつ病でパニック障害持ちなので、テレワークできたらいいなと思っている。パニックのせいで通勤電車と運転が難しい。さらには再発と寛解繰り返してて、障害手帳を持てないので、障害者雇用してもらえない悲しみ。
[B! 労働] 「障害者は喜んで農園で働いている」はずが…国会がNGを出した障害者雇用〝代行〟ビジネス  大手有名企業を含め800社が利用 | 47NEWS
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nk316115love · 1 year
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私は付き合って5ヶ月の彼氏がいて、彼氏はすごく一途で内面も外見も愛してくれて、ツンデレです。でも、私に対して嫉妬などはしないタイプですごくいい人です。私は嫉妬もするし、気持ちを言えないタイプですが、彼氏は2年前から私に片思いで私も1年前から片思いで彼氏から告白してくれました。ですが、私には4つ精神病があることがわかり、(鬱病、不安障害、適応障害、パニック障害(全て重度))このことを彼氏には言えません。このことも受け止めてくれるタイプですが、原因は彼氏のことで悩んだり、人間関係によるものだったことや、彼氏があと1年で1年間海外に行ってしまうことが原因で何もいうことができません。別れることも何回も考えたけど、私はすごく好きなので無理でした。同じような経験をした方や、アドバイスをください💕
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saritamix · 2 years
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退院
7/26
退院診察がある日。この日、検査や診察で問題がなければ7/27に退院が出来ると聞いていた。糖尿病内科医より強く感染症に気を付けろと言われているので、風邪やコロナ、サル痘にかかることへ恐怖心が異常に強くなっていたが、心も体も限界に来ていたため早く家に帰りたい気持ちが勝っていた。絶対に明日退院する。気分は通常よりもハイになっていた。
10時に産科の診察の予定があったが、急患のオペが入ったらしく延びてしまった。お産も立て込んでいるらしい。天気が悪い時に体調を崩す妊婦さん多かったし、自分も悪くなっていたことが多かったような気がする。顔も知らない妊婦さん達の無事を祈った。
貰った書類のうちのいくつかを記入した後、バースレビューを書いた(バースプランは結局何も書けずに終わってしまった)。高校の友人が出産の話をしてくれた時、人生で1番の達成感があったと言っていたけど自分は真逆だった。毎日体の痛みや恐怖に耐えることで精一杯。赤ちゃんに対してちゃんと向き合えていなかったし、途中からは自分が救われたい、早く楽になりたいとしか考えられてなかった気がする。ありのままの気持ちを泣きながら書いた。
14時30分過ぎ、色々な予定がズレまくり昼食が来る。インスリンを打つ際に助産師より15時から赤ちゃんの面会があった旨を告げられてやっと思い出す。自分の体のことしか考え���なかった。面会の時間を忘れていたことにかなりのショックを受ける。自分の退院のことしか考えていなかった…最低だ。急いで昼食を食べ、動揺したままNICUに向かう。この日は赤ちゃんのオムツ替えをしてミルクをあげた。前よりは怖くなかったし手も震えなかった。ただ、自分と赤ちゃんの写真を撮られるのはすごく嫌だった。妊娠してから醜く変化した自分の顔や体を未だ受け入れられない。手足は細いままなのに顔と首が太くて化け物みたい。どうせなら全部細くなればいいのに。こんな姿で赤ちゃんとの写真を残したくない。いい加減受け入れなきゃとは思っているのに…未だに受け入れられなかった。明日の面会はいつにするかと看護師に聞かれ、退院や会計の時間を考慮してとりあえず11時頃に予約した。面会が終わり部屋に戻る。産科の診察も終え、退院しても問題ない旨を告げられる。やった。夫に退院が確定した連絡をする。
18時過ぎ、回診で産科医と明日退院確定で問題ないか念の為に確認する。「産科はOKだけど糖内の方では11時半にCT検査あるよね?それ終わらないと退院出来ないでしょ?」と言われてパニックになる。CT検査なんてあったっけ?その検査をパスしないと退院が出来ない?赤ちゃんとの面会11時に入れてしまっている。どうしよう。自分がどういう説明を受けてどんな返答をしたか覚えてない。激しく動揺しながら夫に電話する。パニック状態の私を心配して夫が病棟へ連絡してくれた。
19時過ぎ、糖尿病内科医(M先生)が部屋に来る。「朝にCT検査があることを説明をした時にあなたからはきちんと承諾を得ていた」「CT検査は撮るだけなのでそれが終われば退院が出来る旨を伝えていた」と言われる。足し算も上手く出来ないし説明されたことも忘れてしまうと泣きながら謝る。「その症状はいつからですか?」「それはコルチゾールのせいで気分が躁鬱状態になっているからですね。気にしないでください」といつものモナリザなような表情で返答された。気にしないでと言われても。著しい記憶力の低下や感情をコントロール出来ない自分に対して更に惨めな気持ちになった。
でも想像してみてよ。心の準備が出来ないままいきなり入院。下半身は激痛で何をするにも辛い。お腹には守らなきゃいけない存在がいる。どんどん増えるインスリンへの不安。ほぼ毎日変わる食事の仕方や間食への指示。血糖値は1日に6~9回測らされる。多くの人が出入りし夜中はトイレで目覚めるから常に寝不足。低血糖症状で意識障害を起こして何回か倒れる。妊娠中に滅多にかからない病気が見つかる。赤ちゃんはNICUにいていつ退院かは分からない etc…
そんなギリギリの精神状態で生きている経産婦に「放射線を発する注射を後日する」「その注射を打ったら8月×日~△日までは赤ちゃんの傍に15分以上いられない」「15分傍にいたら何メートル離れて」etc…を一気に口頭で言われてもさ。混乱するに決まってるじゃん。むしろ冷静に聞ける人間はいる?いるかもしれないけど…私には難しかった。先生には想像出来ないんだろうな。外来にいないから相手にしている層も違うだろうし、常に冷静さや正確性が求められる職業だし。寄り添いを求める方がおかしいって分かってるよ…
この時たまたま部屋に居合わせた助産師が私の様子を見て気を遣ってくれ、「お産が立て込んでいるので遅くなるかもしれませんが、私がご主人に説明するので21時過ぎに3人で電話しましょう」 「明日の朝に確定した予定を書いたメモを渡すので、何も考えなくて大丈夫ですよ」 と提案をしてくれた。約束通り21時過ぎに退院スケジュールについて説明をしてくれ、翌朝には予定を書いたメモを渡してくれた。また、M先生より夫を含めて再度治療スケジュールについて再度説明をしたいと言われたらしく、14時頃に面談の調整をして貰った。
7/27
10時前後、CTを撮りに車椅子で検査室に連れて行って貰う(産科の血液検査もクリアして一安心)。CTの台に乗るのはお腹の傷や腰が痛くて一苦労だったが、呆気ないほどすぐに終わった。部屋に戻るとちょうど清掃の時間と被り、私の好きな清掃スタッフのおばあさんが入室してきた。今日退院が出来ることを伝えたらとても喜んでくれた。そしてまた8月末に入院予定だと伝えたところ 「早く治療出来て良かったね。私は別の病棟の清掃も入るから会えるかもね」 と言ってくれた。このおばあさんと会話したのはほんの数回、数分だったが、心がとても救われたし本当に感謝している。私もこんな素敵なおばあさんになりたいと思った。
13時、赤ちゃんとの面会に向かう。いつも通りずっと寝てる。入院期間の面会中、目を開けてる姿をあまり見なかったな。本来だったらまだお腹にいる時期だもんね。抱っこをさせて貰う。看護師さんが気を利かせて赤ちゃんとの写真や動画を撮ってくれた。自分の今の顔や体がずっと受け入れられなくて、赤ちゃんと一緒に写るのはすごく抵抗がある。本来なら嬉しいことのはずなのにね。こんな格好悪いことを考えているなんてみっともなくて誰にも言えないな。
途中から小児科医のI先生が入室して来る。今後のことについて夫と私に説明したいとのことなので、M先生との面談の後に3人で話すことになった。
M先生→今後の治療スケジュールについて説明を受ける。これから服用する薬の副作用についても説明をされたが、重篤な副作用を大多数に起こるうるかのように言うからとても怖い。(皮膚がボロボロになって包帯を巻く必要がある、肝機能障害を起こして人工透析が必要になるetc…)夫もビビる。そして風邪でも重篤化するからくれぐれも感染症には気を付けなさいと念押しされる。妊娠期間中、1度も風邪をひいたことがないと伝えると、「それはただのラッキーでした」とキッパリ言われる。やっぱりこの先生、苦手だ。
I先生→子どもに関しては現状特に大きな問題はないが、これから血液検査等行って経過観察を行っていくとのことだった。そして、私の母乳をあげ��も問題がないかどうかについては、検査に出しコルチゾールの値を調べた上で判断すると言われた。正直、今後の入院や手術のことを考えると母乳育児は無理なので、検査の結果についてはどうでも良かった。でも、そう思うこと自体が何かすごく悪いことのように思えてしまい、心苦しくなった。色々説明を受けた後、目線を入れる等プライバシーには充分に配慮するので私の顔の写真が欲しいと言われる。珍しい症例だから論文を書いたり学会で発表したりするのだろうか。正直、この顔は残したくないのが本音だけど…複雑な気持ちで承諾した。
先生たちとの面談が終わった後、荷物を持って病院を出る。自動ドアを抜けた時、あまりの気温の高さと湿度に驚いた。7月の下旬で季節は夏。頭では分かっていたけど、もうこんなに外が暑くて蝉が鳴いてるなんて。すごく変な感じ。少し待ってタクシーに乗り込む。タクシーに乗ってからは入院する時と同じように夫がずっと手を握ってくれていた。タクシーの窓から見える空は好きな夏空で。握ってくれた夫の手がとても温かくて。胸の奥からよく分からない感情が次から次へと溢れて涙が止まらなかった。「しんどかった」 「痛かった」 「辛かった」 「怖かった」 呟いたら今まで我慢していたものが一気に決壊した。タクシーの中で泣くつもりなんてなかったのに。嗚咽と弱音が止まらなかった。それに対して夫は終始優しく返答してくれた。
タクシーから降りて、エントランスに入る。ここのエントランスってこんなに広かったっけ?見慣れた風景のはずなのに全然違う場所のように感じる。エレベーターに乗って家の中に入る。ここも知っている自分の家のはずなのに。知っているのに知らない場所みたい。初めての感覚でとても怖かった。しばらくしたら気持ちが落ち着いて、日常生活に戻れるのだろうか。今後に対しての不安は沢山あるけど、この日はゆっくりシャワーを浴びられて時間を気にせずご飯を食べられたことが何より嬉しかった。
寝る時、夫から手を握ってきた。夫も私と同じように怖かったり寂しかったり不安な夜を何度も過ごしたのだろうか。申し訳ない気持ちもあったけど、自分が必要とされている存在な気がして嬉しくて安心した。
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8/15
今日、子どもが退院した。
子どもは特に大きな問題なく、ミルクもよく飲むようになりとても元気。
退院してからずっと弱音を吐いてばかりだったけど、小さな子どもを見ていたら私はもっと強くならないとダメだなと改めて思えた。
治療のために離れることを考えると寂しいし悲しいけど…
前向きに頑張りたい。
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natsumiabe · 2 years
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実は、の話。 私は、HSPであり、季節性うつ、不眠症、対人恐怖症、不安障害、性被害や暴力被害のトラウマやフラッシュバック、などなどをもっています。 人は見た目では分かりませんよね😊 ⁡ ⁡ 私は実際のスタジオでのヨガはほとんどしたことがありません。人や物や常識、状況、全てにおいて、何か少しでもプレッシャーを感じてしまうものが苦手です。 ⁡ でもだからこそ、海外へと意識を広げることができた。だからこそ、今の最高の自分がある。 ⁡ The reason you won’t love yourself is the reason to love yourself. ⁡ 誰にも理解されない悲しい過去、自己嫌悪ややりたいことができないもどかしさ。 そんな「自分を愛せない」理由こそが、私が本気で自分を愛する理由になりました。 ⁡ ⁡ ⁡ 今回も、SUPに行った時も、めちゃくちゃ楽しかった! でもどちらの時も、突然、恐怖や不安の感覚が、まるで火山が突然爆発したように表れて、パニックになって、感情的になって、隠れてたくさん泣いています(笑)。 ⁡ でもヨガや瞑想のおかげで、Arisaさんや、愛と思いやりある皆さんとの出会いと支えのおかげで、そしてもちろん仕事をやめて数年じっくり自分と向き合ってきた自分自身のおかげで(笑)、そういう状況のときも、自分に寄り添えるようになってきました。 オートパイロットではなく、その思考や感情自身になって振り回されるのではなく、立ち止まり、それらをただ観察し、認めて、傍に寄り添い、愛情とコンパッションと共にただbeing、いれるようになりました。 ⁡ 私は自己成長、self-growth が大好きです。 ⁡ 苦手なことや嫌なことなんて、無理やりやる必要は全くない。 ⁡ 私は精神的な問題をたくさん抱えている。 これを読んでる人で私と同じ人もたくさんいるでしょう。 そしてそれは、わかりやすい肉体的な病気と違って目に見えない分、人に理解されにくいし、そのもどかしさや孤独感を感じやすい。 ⁡ ⁡ でも私は、自分を幸せにしたい。 せっかく生きるのなら、人生を楽しみたい。 ⁡ ⁡ 自分には乗り越える力と想像以上の可能性がある。 そう信じて、「楽しみたい」「行きたい」「会いたい」「やってみたい」「心が震えるような純粋な美しさを見たり感じたい」「幸せや心地よさを感じたい」 そういう、シンプルでポジティブな自分の気持ちを大切にして、優先していくことを選んでいます。 ⁡ ⁡ 70%、いや、元完璧主義な私の場合はもっと抜いて、50-60%くらいのエネルギーで。(笑) ⁡ 一番最初に大切なのは自己受容、self-acceptance ですからね😊 ⁡ “Travel light, live light, spread the light, be the light.” ⁡ ⁡ 誰かの心が少しでも軽くなって、心地よくなって、輝きますように❤️ (at 代々木競技場第二体育館) https://www.instagram.com/p/Cf-viHlP8ue/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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