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#内容言語統合型学習
eccjrtamuracho · 1 year
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ECCジュニア田村町教室、19時過ぎくらいに、うちの前を通った真冬のわらび餅屋さんが気になって仕方ない中村です。
ちょうど小学校高学年クラスのレッスンをしていたんです。 そしたら、「い~しや~きいも~♪」風な掛け声を鳴らしながら、うちの前を通り過ぎて行ったのが、わらび餅屋って😳 クラス中がざわめいたwww
掛け声と共に、「ちり~ん♪」っていう鈴の音も鳴らされていて、昔のわらび餅屋さんを模していると思われるのですが、、、 冬のこの時間だぜ???❄️⛄️
因みに往路で「わ~らび~も~ち~♪」って言うとったんが、復路では「や~きいも~♪」に変わっていて、2度驚き💥 キラキラネオンがついた車が通り過ぎていったよ。 やー、丸亀近辺でこのわらび餅屋さん知っている方がいたら、教えてほしいです。
さてさて、今日はちょっと前に小学校中学年クラスで熱狂?だったプログラミングのレッスンの話。 ものすごーくざっくり言えば、、、
「コンピューターは2進数を使って物事を理解し表現している💻」
ということの、触りを体験するようなレッスンがあったのですよ。 いや、ここは子ども英会話教室ですから本格的なプログラミングをやったわけではないです、勿論。
ECCジュニアではすっかりおなじみになったCLIL(内容言語統合型学習)。 「社会や理科などの教科、時事問題や異文化理解などの話」と「言語」の両方をあわせて教育する外国語の学習方法のことです。
今回の話題はそんなCLILの一環で出てきた話題。 数字をヒントにしながら、0と1を使って、絵を描いてみよう!というわけです。
この回のレッスンは、まー、大ウケ✨ や、終わったころには皆、ゲッソリ😵‍www 単純なルールっちゃルールなのですが、それを理解した上で、正確に処理していくことって、なかなか大変です。
ブツブツ文句を言いながらも、ガンガン解き進める子。 全集中で黙々と取り組む子。 「どういう事?」と何度も言いながら友達に教えてもらう子。 よく分からんけど、とにかくやってみる子。 半分諦めながら、友達の様子を見ている子。 端から自分には向いていないことを察知し、マス目に絵を自作する子。(笑)
千差万別www
それでも共通しているのは、出来上がった時に「うぉー!できた!」と盛り上がるところ。 いやー、子どもって見ていて飽きません。
終わった後は、意外と面白かった!という子もいれば、もう二度とせんっ!という子も。 いいんですよ。別に将来、皆が皆、こうした知識を使って仕事をするわけではないですから。
でも、大切なのは、知る事。 自分ではないけど、こういう知識を使って、こんなに大変な仕事をしている人がいるということを知っている事って大切だと思うのです。 相手の大変さが分かれば、非常識すぎる無理難題を相手に依頼することだってなくなります。 知識自体を自分が使う事はなくても、その知識を使っている人たちの事を思いやれるかもしれません。
そんな話をちょこっとだけしたら、「なるほどー」なんて言うてました。 まぁそれも、皆が覚えているかどうかは分かりませんが、きっと皆の「何か」には繋がっているのかなと。
いや本当に、このCLILってやつ、何年もやってますが、やる度に面白いです。
そして画像2枚目は、私が作ってみたやつ👍 フハハハハ、頭ヘロヘロになりながら、解いてみて🤯
ふむ、解いて教室まで持ってきてくれた子には、何かプレゼント🎁でも用意するかな。
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ogawa-xd · 2 years
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「声の文化と文字の文化」
オング「声の文化と文字の文化」を読む。多くの文献がひかれていて難儀もしたが、ここ数年でも最高度におもしろかった。ページをめくるごとに刺激があり、すべての内容を読み切れてもいないが、熱いうちにまとめておく。この刺激が揮発してしまうのは、あまりに残念すぎる。
「声の文化と文字の文化」W-J・オング
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大筋:
文字の文化の前に声の文化があった。 現在われわれは、文字文化の中にいる。文字文化は手書きからはじまったが、途中では印刷という大きな波を経験し、今はエレクトロニクスという第二の波の最中である。
(ただし執筆は1982年であり、テレビやラジオが主で、コンピュータといってもインターネット普及以前でWebもSNSもない時代だ。BBSがかろうじてあったくらい。2003年に亡くなられているようだが、この時代に関する感想を聞きたかったものだ。)
われわれもはや、声の文化における思考の仕方やものごとの捉え方を忘れてしまっているが、両方をしっかりと考えて位置づけることが、未来をとく鍵にもなる。
文字の文化の前にあった声の文化の重要性。 声文化が文字のベースになっていることはそのとおりとしても、少なくとも、それは文字文化の改良以前の「劣った」前バージョンではない。別のものだ。
第1章 声としてのことば (一次的)声の文化 文字を書くことをまったく知らない人びとの文化、その人たちの世界認識のしかたは、現代のわれわれの想像をはるかに超えたものである。 ことば(声)の獲得以後/ことば(文字)の獲得以前
P.24 現存する言語:3000、そのうち文字を持っているのは78言語 自然言語 → 無意識から生じる コンピュータ言語 → 意識から直接生じる(ので扱わない)
ogawa: 彼の述べている「コンピュータ(言語)」は、インターネット/Web/SNS/ビッグデータ/クラウド/AI以前であり、コンピュータにまつわる彼の理解は今となってはあまり現実的ではない。プログラムによって自然言語を解析したり処理することも、含まれていない。 「プログラム言語」自体の言語性については、彼のスタンスで問題はないと思われるが、コンピュータが「自然言語」に影響する在り様は、印刷術(という技術)が言語に与えたインパクトに匹敵する、というかそれ以上の影響力を持っていると自分は考えている。今はまだその途上であって、途上にして大きな影響が顕在しているので、最終的にはどこまでのことが進展していくのか予想がつかないが、これは自分の最終課題である。
p.26 声 → 一次的なモデリング・システム(表現方法) → 研究が起きない → 集団的な過去に参加することによって学ぶ、見習う 文字 → 二次的なモデリング・システム(表現方法) → 研究は文字あって起きる → 「研究」によって学ぶことができる
p.33 「(ことばで表された)概念は、絶えずその語源を引きずっていく傾向がある」
p.34 ことば → 口頭での話し(声)に基礎を持つ 書くことば → ことばを ”視覚的な場に、むりやり永久に固定してしまう
p.39 声文化の人びと → 今日では文字を学びたいと強く思っているが、同時に、声の文化の心を沸き立たせる多くの愛するものを手放さなければならないことに哀惜の念もいだいている(「ピダハン」は、どうなのか?) → 「生き続けるためには、死ななければならない」
p.40 文字文化 → 先行する声文化を食べ尽くす/声文化が存在したという記憶すら破壊する しかし → 文字文化かぎりない順応性があり/完全でないにしろ声文化の記憶も再建されうる 文字文化による声文化の再建によって、人そのものの意識を高める
ogawa: [声→文字]の変遷の形式を、[文字→コンピュータ化] にシフトさせて見ることに意義がある。
第2章 近代における一次的な声の文化の発見
p.57 ホメロスの時代のギリシア人は陳腐な常套句を評価 → 声文化の認識世界/思考世界全体が、きまり文句的な思考の組立に頼っていたから → 声文化では、獲得した知識を忘れないように絶えず反復しなくてはならなかった   → 知恵をはたらかせ、効果的にものごとを処理するために、型にはめて固定した思考パターンが欠かせない
ogawa: 好きなジュリアン・ジェインズについてまるまる1ページ割かれていてにうれしくなる。細部には難を示しつつも、大筋において好意的や賞賛が感じられる。
第3章 声の文化の心理的力学
p.73 すべての感覚は時間の中でおきる。 なにかをよく調べるためには、それを静止させる必要がある/視覚は固定するのが得意で、それによって視覚は動きを記録する。 しかし、音には静止画にあたるものがない。
p.74 声文化の人にとってことばには魔術的な力がある。 かれらにとって、ことばは話され、音として響くもの、ゆえに力によって発せられる 文字文化の人はそれを忘れがち。 かれらにとって、ことばは投げだされた「モノ」で、非活動的で「死んでいる」 → 魔術とは結びつかない
p.76 「知っているというのは、思い出せること」
複雑な問題を考えて解にたどり着いたとする。その問題も解もある程度は複雑である → それらを文字や記録無しで、記憶しておくことは困難である なんの助けも借りず、もう一度思考の流れをたどり、吟味することは不可能である。
声文化の人の長く続く思考は、つねに人とのコミュニケーションと結びついている
どうするか → 記憶できる範囲内で思考する すぐ口に出せるくらいの記憶(量)に基づいた思考に留める
口に出せることが、記憶を助ける → 強いリズムを持つ、均衡の取れた記憶しやすい「型」にはめる、反復や対句、韻を踏む、あだ名のような形容句、きまり文句、紋切り型のテーマ、などなど。
p.92 声文化の中での知識の獲得 → 何年もかけて何度も口に出して根気よく習得し憶えていなければならない → 知識は得がたく貴重で、これを保存している古老が高く評価される  (文字として知識が外化されるようになると古老の価値はさがる   /新しいことの発見者としての若者の価値があがる) → 精神は伝統主義的で保守的な構えとなり、知的な実験を禁止する
p.102 声文化は定義に無関心 辞書にあたるものがない/語の意味はつねに現実の状況に固着している(その変遷や経緯は問わない/問えない)
p.119 声文化の人に関するさまざまな実験から見いだしたこと: 声文化の人の不得手なこと → 幾何学的な図形、抽象的なカテゴリーによる分類、形式論理的な推論手続き、定義、包括的な記述、ことばによる自己分析 → だから劣っているという意味ではない → そういった能力は、テキスト(文字)によって獲得したものであるという事実
p.153 視覚は分離し、音は合体させる 聞くことの中にひたることはできるが、視覚の中にはひたれない 視覚は切り離す感覚、音は統合する感覚。 視覚の理想は明晰判明性/分けて見る、聴覚の理想はハーモニー/一つにすること 知識は究極的には、分断ではなく統合であり、ハーモニーを求めること
p.161 ことばを記号と考えること → 人間的な経験を視覚に類似したものと考えがち カレンダーや時計で時間を理解することは、時間を空間扱い(視覚物扱い)して、わかった気になっているにすぎない → 空間還元主義
空間還元主義 → 計り知れぬほど有用で、技術的な必要性が高い → 否定できない but: 空間還元主義には知的な限界もあるし、ときに人を欺く
第4章 書くことは意識の構造を変える
p.166 書くことは、どんな発明にも増して、人間の意識を作りかえた
p.174 技術は、たんに外的なたすけになるだけのものではなく、意識を内的に変化させる
p.176 道具をみずからの一部とし、技術的なわざを学習することによって、人間が非人間的になることはまずない。むしろ、技術の使用によって、人の心は豊かになり、人間の精神は広がり、内的な生は密度を濃くする。
p.201 印刷物によって、書くことが人々の心に深く内面化されるまでは、人びとは、自分たちの生活の一瞬一瞬が、抽象的に計算される時間のようなもののなかに位置づけられているとは思ってもいなかった。中世、さらにルネサンス期になってもまだ、西欧の人びとの大部分は、いまが暦のうえで何円にあたるかといったことを日常生活のなかで意識していたっとはとても思えない。
p.223 文字言語の語彙が豊かになりはじめたのは、書くことにともなってだが、その豊かさの開花は印刷のおかげである。 文字言語があるところには、その文法と慣用がならずある 秩序(文法や慣用)という概念そのものの感覚的な基盤は、かなりの部分、視覚(文字言語が書かれ印刷されること)にある。
第5章 印刷、空間、閉じられたテクスト
p.242 印刷が → ルネサンス、宗教改革、近代資本主義、大航海時代を引き起こし → 生活と政治、知識を広め、万人識字、近代科学の興隆、社会的、知的生活を変えた そして印刷が人の意識を変えた
p.249 印刷によって、聴覚優位から視覚優位が確固たるものになった。 読みやすさ、速読、黙読を可能に。 語を空間の中に位置づける〜空間の中に釘づけにする → 索引、リスト(一覧表)、内容とレッテル(タイトルページ)、図像的なレッテル
p.260 版面が意��を運ぶ 正確に反復できる視覚情報(※ページの統合的なデザイン/デザインルール) → 近代科学はその一つ:正確な観察を正確な表現に結びつけたこと
p.263 タイポグラフィックな空間/空白 活字の作りだす空間 → 科学的想像力、哲学的創造料、文学的想像力に、はたらきかける
p.266 印刷が → 西洋人の認識のエコノミー「心性」に直接的影響を与えた → レトリック(声の文化にもとづく)技術を学問的教養の中心から追い出した → 数学的分析、ダイヤグラム、チャートによって、知識の数量化をおしすすめた → 辞書(あらゆることばを網羅)、正しい言語規則を打ち立てる欲求を喚起 → 小さく持ち運びできる本 → 一人で静かに黙読 → 内容の私有感覚
p.270 印刷は → テクストが閉じられている感覚をうながす → テクストの「内容」が、ある終わりによって区切られ、「完成」しているという感覚
認識の場が閉じられている感覚 → 書くことにより、思考は、対話相手から切りはなされ、紙面に隔離される
印刷物は → どんな反論にも無関心 → 内容(発話と思考)は、独立し、自足し、完全なものとして提示される (印刷は、同じ作品についての、まったくおなじ視覚的、物理的堅牢さをもった何千部もの版本のなかに、その作品の思考を閉じ込めてしまう。)
第6章 声の文化に特有な記憶、話しのすじ、登場人物の性格
p.285 物語は、いつどこでも、言語芸術の主要なジャンル もっとも抽象的な言語芸術形態の根底にさえ、物語は存在する。 人間の知識は、時間(と、それにしたがう物語)から生まれる。 → 抽象的な科学的知識の背後にさえ、観察の物語があり、抽象的な知識は、そうした物語にもとづいて定式化される。 → 実験室の学生たちは、実験結果を「書きあげ」なければならない。つまりおこなったことと、それをしたときに何が起こったのかを物語らなければならない。ある種の一般化や抽象的結論が引き出されるのは、物語からである。
第7章 いくつかの定理〔応用〕
p.363 声の文化と文字の文化の相互作用 → 人間の究極の関心と願望(としての宗教)にもかかわる   → 宗教的伝統は、声の文化に根ざした起源をもち、話されることばを重んじている   → また聖なるテクスト(ヴェーダ、聖書、コーラン)の発展によって内面化された
p.364 声の文化と文字の文化に関する問題は、いまや無数にある。 声の文化と文字の文化の力学は、現代の意識の進化の流れである、いっそうの内面化と開放にむけて合流していく。
(220929読了)
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manganjiiji · 1 year
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ポイントを9にする
夜に働くのは却下だ。単純に、私の体質が朝型なため、深夜労働が向いていない。学生時代のマック夜勤メンバーとして荒稼ぎしていた時に「もう絶対に夜勤はしたくない」と朝日に誓ったにも関わらず社会人になってから「また深夜労働してる…!」という事態が発生し、それもやはり時給が良かったので(昼に比べれば)結構続けたが、体は見事にぼろぼろになり(※本来私の体質的に禁忌であるアルコールを大量摂取する仕事)、再起に3年以上かかった。今回、生活保護を受給するにしても、引越し時の費用がどうしても払えないなと思い(梅子に立て替えてもらうことは頼めるにしろ)、副業でまた深夜労働の体入(業界用語)に行ってきたが、業務内容は全く問題なかったものの、身体への負担がきつすぎて「却下」の結論になった。特に今回は昼の仕事に絶対に影響を及ぼしたくないため、無理をして労働することはやはり良くないなと当たり前のことを思った。しかし、医者から許されている週28時間労働では時間があまりすぎる。深夜労働以外で、かつ、労働にカウントされにくい副業となると、ココナラまたはSKIMAでの「感想屋さん」「タイトル屋さん」開店の運びになるだろうか、と考えている。感想屋さんは一昨年の春から夏、数ヶ月ココナラでやってみたところ、かなり手応えがあり、満足度を高く感じて貰えたおかげで全ての方から設定金額以上のおひねりを頂いた。ただ、その時期、学習塾、書店、同居人への週5コマの授業を並行して行っていたため、容易にキャパオーバーし、体調を崩して終わった。完全にいつものパターンだった。今回は就職先の書店に週28時間労働のみ許されている旨等すべて伝えた上での障害者雇用なので、他で正規に労働する訳にはいかないという事情もある(そこでとりあえず夜職が候補にあがったというわけ)。ちなみに昨日体入に行った店はオープン4週目のまだまだオープニングキャストと言える店で、規模は小さいがなかなか流行っているということだった。ただ、まだ時給は1500しか出せないとのことで、新居まで歩いて帰れる立地も、他メンバーとの相性も良かったのだが、その金額で深夜労働という健康リスクを背負えないなと思い、本入店は見送っている。ちなみにガールズバーの規制も近年厳しいらしく、運転免許証またはパスポートまたはマイナンバーカードがないと本入店はできず、マイナンバーカードかあ…まだ作ってないなあ…となって、それもあってやめた。なかなかにいい店だとは思ったが。それにしても最初に働いた恵比寿の店が全ての面において良すぎて(青春だったのだ)、どうしても比べてしまうというか、優良店の指標になる。あと20kg痩せていてあと5歳若かったら何度でもあの店のキャストになっていると思う(それはまさに5年前の私の姿だ)。びっくりするほど成長したなと思う。得るところ大きな体験だった。何より、有象無象はびこる裏社会を生き抜いてきた御仁たちにご指導ご鞭撻いただいたのはかなり有難かった。そういうところでは、なかなか昼職でははっきりと言葉にはされない「真意」でストレートに殴られるので、容赦がなくてよかった。彼らはみんなとても優しい人たちだったので、そういう人らが常連でついてくれている店というのはかなり貴重だと思った。グループの信頼もあるだろうが、さらに大きかったのは店長の仁徳だ。18から夜で生きてきた叩き上げの40歳という世代は、上の世代への仁義がある。昨日会った新しい店の店長は若くてチャラついたただの資本主義者という感じだったので、まあ、私の肌には合わないなという感じだった。実際に店を仕切っていたのは私より若いママで、その方のほうが常識や実務に熱意があると感じたが、いかんせん若いし、古いやくざの価値観で育ってきてはいない感じがした。昨日の店は様々な面で、時代のうつろい、私たちの世代の「耐えられない軽さ」を体現していた。それはもちろんいい面もあり、ルールが厳しくなかったり、柔軟にキャストに対応してくれる、令和的価値観を含んでいる。「重石」を己の中に残しながら、軽くなるためのモラルを体現するためには、どのような振る舞いや思考が必要だろうか。これは今後の課題である。
Twitterを見ていると、どうもみんな偏りがちだなと思うことがある。オタク女で政治トピックもツイートする方はだいたい大変にラディカルな左翼だが、私は生まれも育ちも完全な保守のため、そこらへんとの心的な距離というものはある。というか単純に、一つの情報源というか情報系統しか持たない左翼は、「あたまわりーな」と思ってしまうのである。昔は左翼も右翼もよく勉強していたと思うが、最近頭が切れるというか、より現実に則して世界を分析できているのは右翼の人間だと思う。一概には言えないが、まあそういう流れはある。どちらも極端までいけば結局使い物にならない馬鹿しか残らないが、中道左派、中道右派においては、右派のほうに分があると思う。左翼は夢、右翼は現実、その2つが引っ張りあって進んでいくのが政治だと思うし、私の性質からして、大学で学んだ時点でどう足掻いても左翼に転向しそうなものだったが、取り入れるべき思想は取り入れ、するべき主張はするべき主張としても、心はやはり、県庁職員を勤めあげた祖父のもとにある。だからかなり形骸化された「右翼」の自称なのだが(祖父は朝日新聞を「共産党新聞」と呼んでいた時代の人である)。私の心は右翼にありながら、主張を総合すると中道左派と言える場合が多いと思う。ただ、左右を分ける最も大きな問題、「国防」に関しては完全に右だ。高校生の頃から、早く自前の軍隊を持ってアメリカの支配を逃れ、真の独立国になるべきだと思っていて、それは35の今も変わっていない。ただ、日本がアメリカの支配下にあったこの80年で、軍事的知見は完全に失われ、かりに日本が軍隊を持ったとしても、それをコントロールできる人物はもはやいない。一回途切れてなくなったものなので、ゼロから作るしかない訳だが、戦後完全に「平和主義」として軍隊を持たないことが善だとして育った私たちに、持てる手段は絶望的に無い。そういう現実があるため、日本が即刻軍隊を持つべきとはもちろん思わない。今自衛隊の戦力を増強しているが、本来必要なのは、シビリアンコントロールの能力を持つ政治家(文官)の育成であって、戦力増強=軍事費を増やせば良いというものではない。私はもちろん完全に戦争反対の非戦派であるが、戦争をしないためにはこの土地に一定の戦力を置くことが必要であるという大前提を揺るがすことはない。それと、アメリカももう世界のヒーローたることから降りたがっている現今、日本も肚を決めて自前の軍隊を持ち、つまり、「自立」すべきという主張も継続する。この世の全ての国家が一斉に戦力を不保持すれば、日本も軍隊を持つ必要は無いが、日本以外の全ての国家が戦力を保持している以上、日本だけが戦力不保持のままアメリカから独立したとして、明らかにここが戦争の火種になるだけで、世界平和にはまったく貢献できない(どころの話ではない)。人を殺したい人なんていない。軍役に行きたい人なんていない。それでも持たざるを得ないのが軍隊で、自国の人間の命を、自国の防衛と引き換えにすること。それを出来ないままでは日本は一生「大人」にはなれないと思っている。自国の戦力を持ち、人間の命を賭けるということは、その覚悟を持って世界平和を実現していくという表明である。戦争がしたいから軍隊を持つのではなく、戦争を起こさないために軍隊を持つ。そのために各国は戦闘員と兵器を有している。なぜこんな簡単な理路が理解できないのか、と左翼の人を見ると不思議に思う。どこかで無理に思考停止をしているのだろうか。この局面で軍事増強をしないということは、「ここを狙ってください」と戦争を誘発するようなもので、こんな大前提をわざわざ文字にすること自体頭が悪すぎて嫌だなあと思うが、日���では軍事に関する教育が高等教育(大学)でしか為されていないので、この理路を知らない人が多い。北朝鮮をはじめ、中国、ロシアというのは、いつでも「戦争をして覇権国になりたい」という旧時代のイデオロギーそのままの思想をしている人達で、彼らから「戦争反対」などという発想は出てこない。彼らは「自分たちが世界を支配することで世界に平和が訪れる」という、日本の戦国時代のマインドのまま、21世紀を迎えている。それらの国に囲まれたこの絶望的な立地にある日本が軍隊を持たないことは、アメリカの軍事力がそれを肩代わりすることによってしか戦争を防げないレベルの危険性である。まあ、だからこのままアメリカの駐屯地として存在したほうがいいのかもしれないが、それでも私はアメリカに支配されたままは嫌だし、日本は大人になるべきだと思うし、いい加減、世界の中で独立した一員として、己の意見を言えるようになるべきだと思う。
2023.5.12
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kachoushi · 27 days
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虚子自選揮毫『虚子百句』を読む Ⅳ
花鳥誌2024年4月号より転載
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日本文学研究者
井上 泰至
6 葛城の神臠はせ青き踏む
 大正六年二月十日、松山に帰省の途中で京阪に寄った。白鳥吟社主催堺俳句会(於開口神社)で出句。西山泊雲・野村泊月・岩木躑躅・原田濱人・島村はじめ・久保田九品太・青木月斗・大橋櫻坡子らが出席。『ホトトギス』の同年三月号「堺俳句会の記」に詳しい。
 この句会は、大阪の『ホトトギス』派の旗揚げに位置する記念碑的な一件で、その詳細は櫻坡子の『大正の大阪俳壇』に詳しい。この句は『新歳時記』にも登録された、虚子の自信作である。大和と河内の国境に位置する葛城山の神一言主は醜貌の女体と言い習わされ、夜しかお出ましにならなかったと謡曲にも出てくる(「葛城」)。
 その引きこもった神に向かって、麓の春を足で確かめて野遊びしております。「山の上からせめて密かに御覧ぜられ度い」(虚子自注「俳句朗読原文」)と悪戯っぽく詠んでみせたのである。「みそなはす」とは、「ご覧になる」の最上級敬語表現で、これまた謡曲に神を主体とした用例がある(「高砂」など)。
 「臠」の字は画数も多く、呪術的なイメージを本来持つが、虚子の字は軽く「糸」の二か所が崩されていて、内容の「滑稽」と対応している。これは活字でなく、虚子の書によってこそ鑑賞が可能で、「臠」は一句の眼目であったことが了解される。
 神や霊魂に命令形を以て呼びかける表現は、江戸俳諧からある。
  塚も動け我泣声は秋の風 芭蕉
  五月雨の空吹き落せ大井川 芭蕉
  笈も太刀も五月にかざれ紙幟 芭蕉
 これらの芭蕉句は、痛切な哀しみや祈りが託されているが、虚子は次にあげる蕪村の例などに学んだか(『蕪村句集講義』)。
  裸身に神うつりませ夏神楽 蕪村
 蕪村の敬語表現「うつりませ」は、祈りとともに一種の滑稽というか余裕があって、そこが夏の禊を「裸身」で具象化する視線と対応している。虚子も、「野遊」の軽々と晴れやかな気分を、この敬語の命令形に託した。命令形は、祈りではあるが、痛切なそれと、軽い挨拶の二種があって、この句は山本健吉の言う俳句の本質「滑稽と挨拶」の典型例と言ってよい。
 ちなみに水原秋櫻子系の俳人の命令形には、自己に執着し、自己に言い聞かせる気分の命令形が多い。
  木の葉降りやまず急ぐな急ぐなよ 加藤楸邨 
  柿若葉多忙を口実となすな 藤田湘子 
  逝く吾子に万葉の露みなはしれ 能村登四郎
 このあたり、命令形の二系統は、俳人の質や俳句観をも照らしだす「鏡」と言ったら言い過ぎだろうか(井上『俳句のマナー、俳句のスタイル』)。
7 雨の中に立春大吉の光あり
 大正七年二月十日、『ホトトギス』発行所句会のものと『五百句』に注記される。
 実景は雨だが、「立春大吉」の御札とその文字に、心中春の光を予感し、見て取る主観句である。もちろん、雨や雨粒にはわずかな光はあるかもしれない。だとしても、それを読み取ろうとする構えから生まれた心象を詠んだ句であることに変わりはない。特にこの句で詠まれた「光」に対する予感は、「立春大吉」の文字から触発されたものであることは、肚にとめておく必要があろう。
 虚子の揮毫では、この「立春大吉」をことさら御札めいて、黒々と墨書したりはしていない。ただし、注意深く見ると「大吉」の「大」の撥ねと、後に来る「光」の字の撥ねとは、対応している。
 そもそも「大」の字の運筆は、先に左に筆先を払い、取って返して右に払うもので、本来撥る字ではない。ところがこの句の虚子の「大」は右の払いの最後が若干撥ねていて、後にくる「光」の右撥ねの呼び出しになっている。こうして一句の眼目は、「光」であることが視覚的にも確認できるところに、虚子の揮毫で句を鑑賞する醍醐味が出てくる。
 「立春大吉」とは、立春の時期に玄関や部屋の入口に張る厄除け札のことである。あたりは雨だが、外界との通路である門口に貼られた「字」から、眼には見えない「光」を感じた。その意味で中七を字余りにする「の」はこの句の重要なレトリックである。
 一般に「中八」の言葉通り、字余りの中でも、中七を字余りにするのは禁忌とされる。俳句のリズムの研究は、五七五が実は休拍・無音の一拍を加えて、六八六であること、さらに前と後の六は伸びる傾向にあることを計測・実証した(別宮貞徳『日本語のリズム』)。これを前提にすれば、中七は延ばして詠まないものなので、ここでの字余りは、おおむねダレるのである。
 ただし、上五で既に字余りがある場合、続く中八は字余りの反復となり、このダレが感じられない。所詮リズムとは反復と同義なのである。
  春や昔十五万石の城下哉 子規
 掲句も上五・中七の連続の字余りだが、掲句の「立春大吉」に、わざわざ「の」を加えた意図は何だったのだろう?類例を挙げよう。
  春ひとり槍投げて槍に歩み寄る 能村登四郎
 やはり「中八」を、堂々とやっているばかりか、上五に字余りはない。しかし、この句は「槍投げ槍に」ではいけない。あえて「て」を入れ、ひと呼吸を置くことで、投げた槍に歩み寄る主人公に焦点があたる。「槍」の繰り返しが独自のリズムを作っており、中八も気にならない(井上『俳句のマナー、俳句のスタイル』)。
 掲句で言えば、まず上五に「雨の中に」と「の」が用意周到に置かれている点が注目される。この字余りを際立たせる「の」の印象を引き継いで、「立春大吉の」の「の」があることが了解される。
 加えて、「の」の繰り返しは、求心性をもたらす。
  ゆく秋の大和の国の薬師寺の      塔の上なる一ひらの雲 佐佐木信綱
  この庭の遅日の石のいつまでも 虚子
 掲句も字余りの「の」の反復を行うことで、光など一切ない春の雨の中、「立春大吉」の文字にのみ「光」を感じたことを焦点化して見せたのである。
 最後に、先の「葛城」の句との関係で言えば、神仏への祈りというテーマのつながりもある。このあたりに編集の妙を認めることも可能かと思う。
『虚子百句』より虚子揮毫
7 雨の中に立春大吉の光あり 
8 さしくれし春雨傘を受取りし
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国立国会図書館デジタルコレクションより
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井上 泰至(いのうえ・やすし)   1961年京都市生まれ 日本伝統俳句協会常務理事・防衛大学校教授。 専攻、江戸文学・近代俳句
著書に 『子規の内なる江戸』(角川学芸出版) 『近代俳句の誕生』 (日本伝統俳句協会) 『改訂雨月物語』 (角川ソフィア文庫) 『恋愛小説の誕生』 (笠間書院)など 多数
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johnelic · 2 months
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Wikipedia書き抜き(更新中)
異歯性は顕著であり、頭蓋骨は後頭部でオーバーハングしている。二次口蓋は、咀嚼と同時に呼吸が出来た事を示している。大量の酸素を必要としていた彼らは恒温性を獲得しつつあった。身体を丸め、眠った姿のまま化石化した。
夜はボクシングジムで鍛練を重ねる裏の顔を持ち、部長の愛人を麻薬とセックスで籠絡する。1億円強奪殺人事件で奪った1億円を安全なヘロインに換えるため、市会議員の磯川とも接触。刺客たちも難なく始末した。
「しまったー! 99800円のパソコンなんてどう考えても安くしすぎだ! うっかり、してました」という特徴的なコーラスでインパクトを与えたが、「ウソテック」や「総鉄屑」「粗ーテック」「糞ーテック」といったあだ名(インターネットスラング)が登場するなど、同社は著しく株を落とした。
2019年に特化則非該当の「サラセーヌAZ」へとさらなる進化を遂げ、「サラセーヌ堅鎧(タフガイ)システム」が実現した。
その影響はこれ以外にもジバンの機械的な動作や、各種メカニックの描写などにも大きく現れており、このようなロボット戦士路線は宇宙刑事シリーズのような正統派ヒーロー路線への回帰が意図されたものとなった。また、当初は主人公とヒーローが同一であるような演出をしない効果的にアナクロニズムを生かした手法や、主人公と深く繋がる少女である五十嵐まゆみの登場など1950年代の特撮ヒーローを彷彿させる設定となっている。
再び首と身体が一緒になるのではないかと恐れて、頭と身体を二つの岩の頂上に置いて、その岩の裂け目の中に石像をおき、それぞれの寺院を建立した。二つの寺院の間は、以前は4ヨージャナあったが、今は1クローシャしかないと言われている。 わたしの師匠が見たとき、寺院は岩壁がくっついて入り口がなく、窓から見ると、両方とも台座の上に石像の破片のようなものがそれぞれ置いてあったと言う。
土間基礎のコンクリートを打設しました。仕上げに『ヘラコプター』を使用しています。 業界入りたての頃、先輩に出力を2倍にすると空に飛べると教えられ、しばらく信じていた事を思い出しました。
サマラの「蜘蛛歩き」と呼ばれる四つん這いで、手(肩)よりも足が前に出る股関節が外れたような人間では考えられないような不気味な動きはCGではなく、実際にサマラを演じたボニー・モーガンが行なっている。
水素の音は漫画だけではなく、多くの関連イラストも作成され話題になりました。多くの人が水素の音の通販動画の虜になり、作成されたのでしょう。ただ再現するだけのイラストだけではなくストーリー性を持つものも多くあったのです。 それもまた面白く、水素の音が長くトレンドに残った要因の一つでしょう。人の想像力は本当に素晴らしく、多くの関連イラストを見ているだけで時間をつぶすことができるでしょう。AA(アスキーアート)でも水素の音が作成されました。AAとは文字や記号を組み合わせて作られる絵のことです。ずれが生じたりするため、それを作ることは容易ではありません。 水素の音のAAは、もちろん「あぁ~!水素の音ぉ~!」という場面です。ほかにもある可能性がありますが、やはり話題になるのはこの場面でしょう。 イラストやMAD動画、ノムリッシュ版に漫画、そしてAAなど様々な場面で作り変えられるほど水素水が話題になったことがよくわかりました。
素晴らしい時間の過ごし方だと思います。将来私のために勉強することができて嬉しいです。 私は自分のPTSDと複数の外傷性脳傷害で正社員として働けなくなりました。 精神的にも身体的にも社会人として生活することは難しいけど、将来につながる勉強と大麻が今の私の希望です。
エチゼンクラゲが地球で果たしている役割が明らかになっている。エチゼンクラゲは体がベタベタしており、弱って泳げなくなると体の表面に細かいごみがまとわりつき、重くなって沈んでしまう。このような形で、地球の生物地球化学的循環(生物循環)に寄与している。 ズワイガニもエチゼンクラゲを捕食している。 細かくしてアイスクリームに入れ、エチゼンクラゲアイスとして販売されることもある。 2009年は大発生して日本各地で漁業に大きな被害を与えたが、2010年度はその千分の一に激減した。
広く好まれた見世物であり、熊や猿を連れた旅芸人が犬をけしかけたり、観衆に石を投げさせて娯楽とした。狂人の観察などと並ぶ人気の興行であり、芝居見物などと等しいごく普通の習慣だった。
シーモンキー(アルテミア)は普通の塩とエサではうまく育ちません。孵化は容易ですが、その後の育成は難しいです。シー藻はシーモンキー飼育に最適な藻。シー藻を入れると良質なバクテリアが繁殖し、それをアルテミアが食べるので餌やりが全く不要になります。死んだシーモンキーや糞はシー藻の養分となって水槽内で循環します。併せてシー藻が酸素を出すため酸欠が起きず水も腐りません。過去に失敗された方にもおすすめです。小さな容器では水温や水質が安定しないため、なかなかうまく育ちません。大きな容器で飼うほどに失敗が激減します。孵化率の低い中古の飼育セットも出回っているようです。アルテミアは生き物です、おもちゃではありません。小さな生物だからこそ最上の環境で育ててあげてください。お子様の教育にもお役に立ちます。
マディディティティはオレンジ色から茶色の体毛で、頭に特徴的な金色の王冠のような模様を持つ。尾は白く、手足は赤褐色である。自然保護の基金を作るために命名権を競売に出し、オンラインカジノ会社のゴールデンパレスが65万ドルで落札した。そのため、ゴールデンパレスドットコムモンキー(http://GoldenPalace.com monkey)とも呼ばれる。
26世紀の愛のピアノ音楽。Limb 1st。辺境の惑星でいま二人のピアニストの魂が出会う。どうしてわかりあえるのにこんなに時間がかかってしまったのか。さる東欧のX地区でソ連解体以前、アンダーグラウンドピアノレジスタンスがロケット基地を占拠した。ピアノを演奏する事により推進力を得るピアノエンジンが積まれたロケットに乗り、宇宙に脱出するレジスタンスの演奏記録。ヴァルカンピアノ砲照射、大気圏脱出後の強烈な光が。ピアノが宇宙に行くとどうなるんでしょうか。
最弱童貞の俺、非モテ女子に告ってイチャイチャライフを送ることにしました。~今更羨ましいと言ってももう遅い~
また、オリジナルデザインにしたらもっと良い物ができたのではないかという質問に対しては「デザインは全くのオリジナル。至る所に新しい機軸を取り入れている」と、このデザインはあくまでもオリジナルだという事を主張した。 今後の方向性としては、カラーバリエーションは考えず、トランスルーセントではないバージョンやPentium IIIなどを搭載した高速化を考えているという。 ゲストとして招かれていたインテル株式会社の傳田代表取締役社長は、「今までパソコンはデザインが良くなかった。このe-oneでリンゴのマークの人たちがこちらに来てくれる事を期待している」と語り、会場の笑いを誘った。
生きているロゴマークは、ずっと「変わりたい」と願っていました。ある時、清い水と出会ったことで、色々な形に姿を変えることが出来る様になりました。その時から、ロゴマークはこのキャラクターと、ひとつになりました。ロゴマークは「なりたい自分になる」そう願いながら日々、より善き姿を求めて変化しています。
リング状に成型して焼き上げたいちご味のもちもち生地を、いちごチョコでコーティングしました。リング状に成型して焼き上げたいちご味のもちもち生地を、いちごチョコでコーティングしました。ファミマのいちごモッチうますぎて、口に入れた瞬間女の子座りして泣いちゃいました。
HONUMIスーパーナチュラルシステム 海の作り方発明しました。 水換え不要の凄い生簀・活魚水槽の特長 従来の生簀と当社の凄い生簀の比較
車が炎上、爆発。全身にヤケドを負い、病院で息を引き取るが、亡くなったのは替え玉で、本人は生きていた。亡くなった替え玉も、死んでも死にきれず、真棹を絞殺しようとした。しかし真棹を殺せず、それが事件にとって最大の誤算を生み出したため、洞窟で真棹を殺そうとした。
パンダは大量に竹を食べ、快速に排出する食べ方で、自分の体の需要を満足しています。一日の食糧は大体:筍23~40㌔、笹は104��18㌔、竹の枝は17㌔です。 パンダは垂直移動する習性があります。夏には高山へ筍を取り、秋と冬には雪のない中低山の地区へ移動します。 多量な竹が開花し、枯死することはほかの植物の更新を促進する役目があるから、生物種と生物系統の多様性を保持するには必要な過程です。一種の竹が開花しても、まだほかの食べられる竹があるから、竹の開花はパンダの生存を脅かすことにはならないはずです。しかし、現在パンダの生息地がごくわずかしかないし、分断化されているから、この「小島」での唯一の竹が一旦開花したら、パンダも食物に困る状況に迫られるのです。
クロムウェル夫人は、自分が設立した町が北京の裏側にあると思っていたため、町を「ペキン」と名付けたと言われています。(1700年代後半から1800年代初頭にかけて、中国と米国は地球の正反対の側にあると考えられ、町はしばしば中国の場所にちなんで名付けられました。別の例はオハイオ州カントンです。
藤原さんの主たる活動は北見の基地にて隊員(何十人という、最大時は84人と聞いています。元自衛隊員が多かったと聞いています。)と共に、地下に潜り火山の爆発と地震を止める仕事をしていました。
最初に迷乱する因は、3つの無明である 。 自己を認知しないという局面は、所取と能取としては生じていないので、実際上は「不迷乱」であるが、それが迷乱になる。たとえば「無名」が名前になるようなものである。これが①「同一性の無明」である。 「それを認知しない境界」という対象化、それが②「倶生の無明」であって、「輪廻と涅槃の両者」という顕現として生じる。 対象としての顕現を、知によって単なる二元的顕現に分割分離し、名称の指示対象を実体として概念構想する局面に至っては③「遍計の無明」と呼ばれる。
世界で唯一のアルビノゴリラ・スノーフレークは、かつてスペインの植民地だったアフリカの赤道ギニア共和国で捕獲された。群れの仲間は皆ハンターに殺され、スノーフレークだけが1966年にバルセロナ動物園に連れてこられた。2003年に皮膚がんで死ぬまで同動物園で暮らした。
4人は進級し、堂郷和太郎の協力を得て楓は写真部を創部する。そこに声をかけたのは憧憬の路で楓の写真を撮り、賞をとった三谷かなえだった。写真部は楓とかなえ、そして楓を支援する3人が集まる「ぽって部」を合わせた5人で活動する。楓は、父の訪れた場所を訪ね、父の残した足跡を辿る。 また5人とかおるの姉の塙さよみは横須賀に行き、ちひろとその友人のともちゃんに会う。しかしかなえは受験のため、私たち展を最後に部活を引退する。その後かなえは大学に合格し、高校を卒業した。
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mreiyouscience · 3 months
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学習する組織
 人は自尊心、内発的なモチベーション、尊厳、学びたいという好奇心、学ぶことの喜びを生まれながらにして備えているのにもかかわらずそれらを従来のマネジメントの一般体系は破壊してきた。(従来のマネジメントの一般体系の詳細は添付した下記の図を参照してほしい)
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このような伝統的なマネジメントの機能不全によって多くの組織が絶えず目先の緊急事態への対応に追われイノベーションに費やす時間とエネルギーはないに等しい状況にある。この狂乱とカオスは理念中心のマネジメント文化の醸成を阻害し、機に乗じて個人的な権利や富を鷲づかみにする傾向をもたらす。このような他責思考や縦割り意識、当事者意識の欠如などの学習障害は程度の差こそあれほとんどの組織に見受けられる。だからこそ今ほどに「学習する組織」が強く求められる時代はないだろう。「学習する組織」とは目的を達成する能力を効果的に伸ばし続ける組織であり、その目的は皆が望む未来の創造である。「学習する組織」には唯一完全の姿があるわけではない。むしろ変化の激しい環境下で様々な衝撃に耐え復元するしなやかさを持つとともに環境・変化に適応し、学習し、自らをデザインして進化し続ける組織のことである。そして「学習する組織」によって仕事を「手段」とみる見方―仕事は目的を達成する手段であるという見方―から仕事をより「神聖なもの」とする見方―人々は仕事に内在する本質的な恩恵を追い求める見方―へと徐々に変化するだろう。ではどのように「学習する組織」を導入すればいいのだろうか?著者は「チームの中核的な学習能力の三本柱」を提案している。その内訳は「内省的な対話の展開」、「志の育成」、「複雑性の理解」である。そしてこの三本柱をバランスよく伸ばす必要があるということだ。なぜならばただ対話するだけでは皆が望む結果を出せる組織は創造できないからである。またどんな未来を創造したいかについての具体的なビジョンを共有し、一人一人がそのビジョンを自分事として創造的に取り組まなければ前進できないのである。そして仮に共有ビジョンを描けたとしても物理的な制約や利害関係のもつれなど複雑な現実の構造を適切に見極めることができなければ容易に「システムの罠」に陥り現実を効果的に変えることは出来ないだろう。さらに上記の三本柱は5つのディシプリン(理論と手法という意味)に区分される。システム思考。メンタルモデル。自己マスタリー。共有ビジョン。チーム学習である。
 まずはシステム思考から論じたい。歴史上初めて人類は誰もとても吸収できないほどの情報を生み出し、誰もとても対応できないほどの相互依存性を生じさせ、誰もついていけないほどの速さで加速する能力を持っている。このような現代社会の中で多くの人が感じる無力感に対する解毒剤がシステム思考である。システム思考とは複雑な状況の根底にある「構造」を見るためのそして「てこの原理」が働きやすい場所を見分けるためのディシプリンである。つまり、システム思考によって私たちは健全性を育む方法―すなわち人々を「無力な人間」になることから現実を形作る「積極的な参加者」となることへ、そして現実に対処することから未来を創り出すことへの認識の変容方法―を学ぶのである。このシステム思考には三つの文法規則が存在するが、その前に三つの文法の根底にある考えを二つ述べたい。このシステム思考を通してみる時の重要なスキルは後述するループ図が語る物語―その構造がどのようにしてある特定の挙動パターンを生み出すのか、そしてそのパターンがどのように影響を受ける可能性があるかーを理解することである。もう一つは構造(システム)が挙動(現象)を引き起こし、私の意図と行動によって構造が作用し始めるという考えである。つまり複雑な状況で私たちが無力であることの根源には個々の行為だけを見て、その行為の根底にある構造を見逃しているという考えである。さてシステム思考の三つの文法について説明していきたい。まずは自己強化型のフィードバックループである。このシステムの中にいる場合、いかに小さな変化が良くも悪くも大きな結果になり得るかが全く見えないかもしれない。しかしこのシステムの利用の仕方次第で正のスパイラルにも負のスパイラルにもなり得るのである。次にバランス型フィードバックループについて説明したい。もしあなたがバランス型のシステムの中にいるとしたら、それは安定を求めるシステムの中にいるということである。そのシステムの目指すものが自分にとって良いものならばよい状態が維持されやすくなるため幸せな結果になるだろう。そうでない場合物事を変えようとするあなたの努力はどれもうまく進まないだろう。このバランス型ループの特徴は自分では気づきにくい何らかの目標または目的を維持しようとする自己補正能力があるということだ。この特徴によって、すべての関係者が変化を望んでいる時でさえ現状を維持したり、「何も起こっていない」ように見えるため自己強化型ループより気づきにくいといった問題が生じるのである。このようなバランス型フィードバックループに対する解決策は以下の通りである。「変化に対する抵抗」があるときはいつでも一つ以上の隠れたバランス型プロセスが存在する。この変化への抵抗は気まぐれでも不可解でもないのである。それは必ずと言ってもいいほど従来の規範ややり方への脅威から生じるのである。多くの場合こういった規範は確立された関係の網目の中に組み込まれている傾向がある。権力や支配の分布は固定化されているため規範も固定化されているのである。術策にとんだリーダーならば変化に対する抵抗に打ち克とうとさらに押すのではなく抵抗の源を見つけようとする。暗黙の規範やその規範が組み込まれている関係に焦点を当てるのである。こうしてバランス型ループの「てこの原理」が働く源を見つけて解決に導くのである。最後のシステム思考に関する文法は遅れー行動と結果の間にあるずれーである。行動に対してのアウトプットとしての結果がでるのにタイムラグがあるために目標が行き過ぎて失敗することもあるし、逆に遅れを認識してうまく連動すればプラスの効果が得られるということがこのルールの特徴である。つまりこのルールから以下のような教訓が得られるだろう。闇雲で積極的な行動は往々して意図されていることのちょうど反対の結果を生み出すのである。そのような行動は目標により早くあなたを近づけるのではなく行き過ぎによる状況の不安定性を生じさせるのである。
 次にメンタルモデルについて。新しい見識を実行に移すことができないのはその見識が世の中とはこういうものだという心に染みついたイメージ、つまり慣れ親しんだ考えや行動に私たちを縛り付けるイメージと対立するからだ。だからこそメンタルモデルを管理することー世界はこういうものだという頭の中のイメージを浮かび上がらせ検証し改善することーが学習する組織にとって肝要なのである。そして出来事に支配されたメンタルモデルから長期的な変化のパターンとそのパターンを生み出している根本的な構造を認識できるメンタルモデルに移行することが求められている。
 3つ目に自己マスタリー。自己マスタリーのディシプリンはまず私たちにとって本当に大切なことを明確にし、自分の最高の志に仕える人生を生きることである。自己マスタリーが学習する組織のディシプリンの一つである理由は以下の通りである。志に仕えることで持てる力を最大限に発揮することは何よりの「てこの原理」が働く要因になり得るからである。しかし現実には人生に何を求めるかを尋ねると大抵の人は往々にしてまず何から逃れたいか?(ex;「早く有給休暇を取りたい。」)を語る。なぜこのようなことが生じるのだろうか。理由は二つある。一つは私たちは往々にして道の途中で起こる問題に対処するのに多大な時間を費やすあまりなぜその道にいるのかを忘れてしまうからだ。その結果自分にとって何が本当に重要かがぼんやりとしか見えなくなるのである。もう一つには現状をありのままに見ることができなくなってしまうことに起因する。ではどうすれば高度な自己マスタリーに達することができるだろうか。一つは自分のビジョンに忠実になることであり、もう一つは真実に忠実になることである。
4つ目に共有ビジョン。共有ビジョンとは「自分たちは何を創造したいのか」という問いに対する答えである。共有ビジョンは組織に浸透する共通性の意識を生みだし、多様な活動に一貫性を与える。共有ビジョンというディシプリンが十分に浸透した組織では相手と同じようなイメージを抱き、単にそれが個人的にそのビジョンを誓約するだけではなく、そのビジョンを持つお互いに対して誓約することである。また、共有ビジョンがあることによって人々が自分たちにとって大いに意味があることを成し遂げたいという生成的な学習の焦点が絞られ、そして学習のエネルギーが生まれるのである。したがって共有ビジョンは学習する組織のディシプリンになっているのである。この学習する組織では個人のビジョン(自己マスタリー)を築くようにメンバーを絶えず励ますのである。そして学習する組織では個人として進むべき方向をはっきり意識しているので一丸となって「本当に望むもの」を目指す強い相互作用を生み出すのである。これによってふわふわ中を漂う形式的なビジョンではなく、自分たちのビジョンに照らして「今どうなっているのか」を徹底的に吟味するようになるのである。
 最後にチーム学習。チーム学習とはメンバーが心から望む結果を出せるようにチームの能力をそろえ伸ばしていくプロセスである。このチーム学習というディシプリンは「ダイアログ」-すなわち複雑で微妙な問題に対して個人では得ることができない洞察をグループとして発見するために自由かつ創造的に相互探求する能力―をすることから始まる。そしてダイアログによる新しい見方の形成後、生産的なディスカッションによって一つの結論や行動指針にまとめていくのである。
 以上が学習する組織におけるディシプリンの概要である。しかし著者は学習する組織における手法の一覧を提示したのみであり、具体的で普遍性のある方法論を提示することができていないと感じた。
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Peter Senge: "Systems Thinking for a Better World" - Aalto Systems Forum 2014
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wangwill66 · 5 months
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廢知錄
H:奇怪有趣的笑話笑文,具有魔法的廢知錄。顧炎武以日知錄聞名,論語篇子夏曰:「日知其所亡,月無忘其所能,可謂好學也已矣。」好學典範。廢知錄就是在奇趣笑魔之間耍廢的記錄。只有腦袋笑起來,飛起來,靈活才會跟著奇思妙想,耍廢燒腦而不固化。資料庫,雲端,Meta,AI,星球都是空,萬丈高樓平地起,青雲有路趣為梯。趣之為導,廢之無為,持之以恆,日日記之是為廢知錄,又是騙笑鈔,也是所謂騙笑,博君一笑。20231207W4
網路字典
奇趣
妙趣。南朝齊.謝朓〈遊敬亭山〉詩:「要欲追奇趣,即此陵丹梯。」
笑魘,又稱微笑之物或暗夜巡獵者,是在後室的大部分樓層中都有分布的危險實體。唯一可以用來分辨笑魘的特徵是它們閃閃發光的眼睛和刻在臉上的巨大笑容——那是它們身上唯一能反射光線的東西。
奇思異想造句
例句與造句
她更象是個飄忽的精靈,在茅屋的地面上作過一陣奇思異想的游戲之后,使要面帶嘲笑地飛走了。
也正是那盞燈的昏光,觸發了丁梅斯代爾先生的上述奇思異想,使他綻出了微笑不,他簡直是對那想法放聲大笑之后就懷疑自己是否要發瘋了。
大概是由于珠兒正站在窗邊,附近就有總督的紅玫瑰,再加上她想起來時走過獄前見到的玫瑰叢,就受到啟示,生出了這樣一種奇思異想,
隨之,在被這些光怪陸離的奇思異想弄得十分陰森可怖的內室中,海絲特白蘭領著身穿猩紅袍服的珠兒飄然而過,那孩子伸出食指,先指指母親胸前的紅字,然后又指指牧師本人的胸膛。
反之,那孩子的服飾卻顯得別出心裁,給人一種充滿幻想勿寧說是奇思異想的印象,確實增加了那小妨娘早早就開始顯露出來的活潑動人之美,不過,做母親的給她這樣打扮,似乎還有更深的含義。
異想天開
「異想天開」是指發出奇想天門開啟,這種想法是怪異的,所以叫「異想」。異想的結果自然是不符實際、不合事理。清代無名氏〈都門紀變百詠〉中,提到為抵禦外敵入侵北京城,有人就建議找些漁戶潛水去破壞鐵甲船,也有人建議挖深護城河,並挑運河水來灌注,使它深滿以抵擋敵人。這些不符實際,不合事理的建議當然是「異想天開」的想法。
網路資料
「超廢語錄」魯蛇悲歌
當你悲慘時,會嫉妒別人的幸福。
那些殺不死我的,怎麼不再努力一點。
人在窮的時候,悲劇就會層出不窮 。為什麼好吃的東西,熱量都那麼高呢?
如果我死了,請將我的靈魂化為灰燼吧 。
買房子不切實際,不如死後燒一間給我 。
富者更富,窮者更多 。休息是為了不想走路 。
滷蛋還有人會買走,魯蛇就什麼都沒有 。滷蛋越滷越香,魯蛇只會越魯越淒涼 。
我的存在,就是在襯托那些優秀的人。
那些你討厭的人,正在過著你渴望的生活 。如果你的朋友都是魯蛇,那應該是物以類聚。 其實只要不要臉,很多人生難題都能迎刃而解 。忘記以前的不開心,因為以後會更不開心 。
我每次學到新東西,腦子裡就裝不下舊東西。 從年初的一無所有,到年終的身無分文 。
好運一定會降臨,只是會降臨在別人頭上。 出生時被死神摸過,一輩子帶衰 。
每個成功的男人背後,都會有一個吃飽了沒事做的老婆。 當你懷疑人生的時候,不要懷疑,這就是你的人生 。人只要活著就一定會有好事,發生在別人身上
搞笑語錄
1、我自横刀向天笑,笑完我就去睡觉。
2、时间太瘦,指缝太宽。
3、坐等丈母娘发货。
4、男人赚钱后想和老婆离婚,男人赚不到钱老婆想和他离婚。
5、我们的目标:向钱看,向厚赚。
6、我是你转身就忘的路人甲,凭什么陪你蹉跎年华到天涯?
7、间歇性郁闷症发作期间,生人勿扰,熟人勿找。
8、妈妈在也不用担心我的学习,一手拿着教科书,一手拿着打火机,那里不会点那里。
9、帅有个屁用!到头来还不是被卒吃掉!
10、如果你愿意一层一层一层的剥开我的心 你会发现我缺心眼。
小妮子的奇思妙想1:幸福是什麼?
Le bonheur selon Ninon
作者:奧斯卡.柏尼菲
原文作者:Oscar Brenifier
譯者: 梁若瑜
繪者: 楊宛靜
語言:繁體中文
出版社:愛米粒
出版日期:2021/10/12
目錄
不開心是常有的事!
接受現實
期望落空時
不再對別人抱持期待?
自怨自艾
簡單的幸福
天生就懂得幸福?
選擇讓自己快樂
快樂方式,人各有之
荒謬人生
擁有知識的不幸
對自己有自信
把心事說出來,讓心情好一點
思考
對什麼都沒興趣
幸福和快樂
幸福和受苦
懷念
超越苦難
什麼也不擁有
細膩敏感
愛自己
幸福快樂很不容易
難以捉摸的快樂
人生目標
抄手導讀
雙手交叉。表示施禮。
唐 張保嗣 《戲示諸妓》詩:“抄手向前咨大使,這回不敢惱兒郎。”《敦煌變文集·舜子變》:“ 舜子 抄手啟阿耶。”《水滸傳》第三回:“酒保抄手道:‘官人要甚東西,分付買來。’”
謂左右環抱。房屋建筑中,自二門起向兩旁延伸到正房的走廊,叫抄手游廊。
《兒女英雄傳》第二四回:“一座垂花二門,進去抄手游廊,五間正房,便是 安老爺 夫妻的內室。”
抄書的人。
湯用彤 《漢魏兩晉南北朝佛教史》第二分第六章:“后世傳抄者不悉 登 為人名,故改‘ 登 卒’為‘登位’。而‘ 登 位卒’者,則再后抄手依二本合寫也。”
方言。即餛飩。
韋君宜 《川行寄語老北京》:“一碗結結實實像小餃子的肉餛飩( 四川 叫抄手)才兩毛。”
百科解釋
餛飩(漢語拼音:hún tún 或者hún tun 輕聲;粵語:w?n3 t?n1,音同“云吞”;山東話:hún dùn;英文名:wonton)是中國漢族傳統面食之一,用薄面皮包餡兒,通常為煮熟后帶湯食用。源于中國北方。
近義成語
妙想天開、胡思亂想、匪夷所思、想入非非
「異想天開」及「想入非非」都有想法奇特、不切實際的意思。
「異想天開」側重於形容超乎常情、難以實現的想法;「想入非非」則側重於虛妄的想法,有時指不正當的邪思。
Blue-sky thinking 奇思妙想
EPISODE 220222 / 22 FEB 2022
当一个问题或状况未被解决时,可能需要一些新想法。表达 “blue-sky thinking(蓝天思维)” 就比喻这种 “放飞思绪、自由畅想、天马行空的思考过程”。
例句
The problem with the computer system won’t go away. We need some blue-sky thinking to fix this.
计算机系统的问题不会凭空消失。我们需要从不寻常的角度思考,从而解决这个问题。
奇思妙想的全部作品集
翁媳乱情
其他 / 排行榜 连载
我们俩夫妻非常相爱,爱对方胜过爱自己,妻子周梦莹今年二十七岁,是个博士生,在本市设计院担任总监,是设计院的公认大美女。长得非常漂亮,168的身高,如果穿上高跟鞋,足足有175的身高。高挑魔鬼般的S型身材,在女人中也是极少见的,她的性格外表传统,保守,又非常的温柔,在外人的眼中她就是一个端庄优雅,青涩贤惠的温柔女人。 一头乌黑的笔直长发披肩而下,再配着她非常漂亮秀丽的脸型,端庄优雅中又隐隐透露出一种娇艳的美。白皙稍带娴熟的秀丽面孔,细长的柳眉,高挺的琼瑶鼻子,两片性感的薄薄红唇令男人看了都有想一亲芳泽的冲动。
乱情家庭(家庭乱情)
其他 / 排行榜 连载
原文作者:奇思妙想| 突然感觉到敏感的屁股眼上被公公的手指抚摸着,浑身就忍不住的颤抖了一下,喉咙中又发出“唔唔”的声音……公公可能很兴奋,嘴里的口水也越来越多,还是不停的往王丽霞的嘴里灌!手指在她隐藏在深沟中的褶皱屁眼上不停的勾括着,同样,喉咙内也发出急促的“唔唔”声音! “嗯……浑身都难受……”王丽霞哼了一声说,感觉浑身像被无数只蚂蚁在撕咬着一样,这种摸不着、也抓不到的奇痒感觉快要使她崩溃了,她把整个赤裸裸的身体紧紧往公公的身体贴……公公也把抚摸在她后背上的手收紧了,紧紧把她雪白迷人的身体抱在了自己的怀里面!但是手指还不停的在王丽霞的肛门中捣鼓着
乡村乱情
其他 / 排行榜 连载
好书无须介绍!
乡村乱情(第十七部)
其他 / 排行榜 连载
沈白雪从王文的出租房里出来,娴熟漂亮的脸上显露出羞涩的红晕,刚才在 王文那又破又脏的床上,与自己儿子的好朋友发生了那种让人脸红的事,她心里 面又羞又感到不安,想起对不起老公小雷,趁他出去旅游,自己竟然与别的男人 偷情,她越想越羞涩,怀着紧张不安的心情匆匆离开了贫困区,在外面的马路上 拦了一辆出租车回到家。
真情乱事
其他 / 排行榜 连载
大家好,我是乡村乱情的作者,请大家多多关照。现在又发表一部真情乱事,希望大家喜欢,多多捧场,谢谢。
乡村乱情(第十八部)
其他 / 排行榜 连载
谷玉霞见张兵慌慌忙忙的回家去了,心里感到好笑,想不到这个平时在学校 里天不怕地不怕的他会这么怕他的老婆胡秀英,就从心底里很佩服自己的婆婆胡 秀英。看了看手机上的时间,才下午四点,想着反正现在也没什么事,先在床上 休息一个小时,到五点的时候再约阿静吃晚饭,随便与她聊聊天,谈谈心。晚上 再陪老厂长,也不知他会不会带五千块钱的工资给自己?
真情luan事
精品 / 排行榜 连载
大家好,我是乡村luan情的作者,请大家多多关照。现在又发表一部真情luan事,希望大家喜欢,多多捧场,谢谢。
我的极品老婆
其他 / 排行榜 连载
记住地址发布页 . 大城市的夜生活就是多精多彩,与城镇乡村根本无法相比。 夜幕降临时,大街小巷比白天还显得热闹繁华,喧嚣和车水马龙的另一端,绽放的霓虹灯编织了夜
「想入非非」是從佛經中「非想非非想處」變化而來。「非想非非想處」指佛教禪修者修習至最高的境界。語本《大佛頂首楞嚴經》卷九。後來「想入非非」轉而用來形容脫離現實的想像或念頭。
△「胡思亂想」、「異想天開」
目眩神迷
形容所見情景令人驚異。《孽海花》第一○回:「場上陳列著有錦繡的,有金銀的,五光十色,目眩神迷,頓時嚇得出神。」也作「目眩神搖」。
《日知錄》是明末清初學者顧炎武(1613年—1682年)的代表作品之一。顧炎武「稽古有得,隨時札記,久而類次成書」,在四庫全書中為子部雜家類。
《日知錄》始撰於崇禎十二年(1639年)顧炎武絕意仕途[1],並以書名取之於《論語·子張篇》。子夏曰:「日知其所亡,月無忘其所能,可謂好學也已矣」。《日知錄》的《目錄題辭》說「愚自少讀書,有所得輒記之, 其有不合,時有改定」,一開始有三項設計,即經義(新義詮釋古經)、治道(分析社會經濟情況)、博聞(一般知識)。《日知錄》內容宏富,貫通古今。三十二卷本《日知錄》有條目1019條(不包括黃侃《校記》增加的2條),臨終前仍未完成。顧炎武生前在好友的建議下,有八卷本行世,[2]稱為「符山堂本」,僅收錄140條,顧氏對此表示「三十卷已行其八,而尚未愜意」。[3]康熙二十一年(1682年)其弟子潘耒從其家取出書稿,再三校勘,刪改了犯忌的字眼,把內容大體劃為經義、史學、官方、吏治、財賦、典禮、輿地、藝文等八類,《四庫全書總目》則分作十五類,即經義、政事(卷八至十二)、世風(卷十三)、禮制、科舉(卷十六至十七)、藝文、名義、古事真妄、史法、注書、雜事、兵及外國事、天象術數、地理、雜考證。《日知錄》屬劄記性質,字數不定,如《蘇松二府田賦之重》最長,全條分八個段,有5000餘字,《召殺》只有「巧召殺,忮召殺,吝召殺」9字。
潘耒在《日知錄》原序曰:「當代文人才子甚多,然語學問者,必斂衽推顧先生」,並謂此書「惟宋、元名儒能為之,明三百年來殆未有也」。閻若璩《潛邱札記》有《日知錄補正》,補正此書50餘條,其他學者如李光地、惠棟、江永、顧棟高、戴震、莊存與、全祖望、錢大昕、王鳴盛、趙翼、邵晉涵、方苞、姚鼐等均曾為此書作注。李慈銘《越縵堂讀書記》中寫道:「嘗謂此三十二卷中,直括得一部《文獻通考》,而俱能自出於《通考》之外」。
顧炎武曾把寫這部書比作「採銅於山」,他說:「別著《日知錄》,上篇經術,中篇治道,下篇博聞,共三十餘卷。有王者起,將以見諸行事,以躋斯世於治古之隆。」。現在「採銅於山」一詞正說明歷史研究要重視第一手資料,可見其影響之深遠。
清代道光年間有黃汝成,以遂初堂三十二卷本為底本撰成《日知錄集釋》,其敘曰:「凡關家國之制,皆洞悉其所由盛衰利弊,而慨然著其化裁通變之道,詞尤切至明白」。梁啓超說:「論清學開山之祖,舍亭林沒有第二人。」《日知錄》的思想也超越了當時大多數學者,其中尤以區分「保國」與「保天下」為最。所謂「是故知保天下,然後知保其國。保國者,其君其臣,肉食者謀之;保天下者,匹夫之賤與有責焉耳矣。[4]」後世稱其「天下興亡,匹夫有責。」
《日知錄》也有明顯的失誤。例如《日知錄》卷二十九稱回回教為回紇之摩尼教。[5]
《日知錄》序
作者:潘耒 清
姊妹計劃: 數據項
  有通儒之學,有俗儒之學。學者,將以明體適用也,綜貫百家,上下千載,詳考其得失之故,而斷之於心,筆之於書,朝章國典、民風、土俗、元元本本,無不洞悉。其術足以匡時,其言足以救世,是謂通儒之學。若夫雕琢詞章,綴輯故實,或高談而不根,或勦說而無當,淺深不同,同為俗學而已矣。
  自宋迄元,人尚實學,若鄭漁仲、王伯厚、魏鶴山、馬貴與之流,著述具在,皆博極古今,通達治體,曷嘗有空疏無本之學哉!明代人才輩出,而學問遠不如古。自其少時鼓篋讀書,規模次第,已大失古人之意。名成年長,雖欲學而無及。間有豪雋之士,不安於固陋,而思嶄然自見者,又或採其華而棄其實,識其小而遺其大。若唐荊川、楊用修、王弇州、鄭端簡號稱博通者,可屈指數,然其人去古人有間矣。
  崑山顧寧人先生,生長世族,少負絕異之資。潛心古學,九經諸史,略能背誦,尤留心當世之故,實錄奏報,手自鈔節,經世要務,一一講求,當明末年,奮欲有所自樹,而迄不得試,窮約以老。然憂天憫人之志,未嘗少衰。事關民生國命者,必窮源溯本,討論其所以然。足跡半天下,所至交其賢豪長者,考其山川風俗,疾苦利病,如指諸掌。精力絕人,無他嗜好,自少至老,未嘗一日廢書。出必載書數簏自隨,旅店少休,披尋搜討,常無倦色。有一疑義,反復參考,必歸於至當。有一獨見,援古證今,必暢其說而後止。當代文人才士甚多,然語學問,必斂衽推顧先生。凡制度典禮有不能明者,必質諸先生;墜文軼事有不知者,必徵諸先生。先生手畫口誦,探原竟委,人人各得其意而去。天下無賢不肖,皆知先生為通儒也。
  先生著書不一種,此《日知錄》則其稽古有得,隨時劄記,久而類次成書者。凡經義、史學、官方、吏治、財賦、典禮、輿地、藝文之屬,一一疏通其源流,考正其謬誤。至於歎禮教之衰遲,傷風俗之頹敗,則古稱先,規切時弊,尤為深切著明。學博而識精,理到而辭達,是書也,意惟宋元名儒能為之,明三百年來,殆未有也。耒少從先生游,嘗手授是書。先生沒,復從其家求得手藁,較勘再三,繕寫成帙,與先王之甥邢部尚書徐公健庵,大學士徐公立齋謀刻之,而未果。二公繼歿,耒念是書不可以無傳,攜至閩中,年友汪悔齋,贈以買山之資,舉畀建陽丞葛受箕鳩工刻之以行世。
  嗚呼!先生非一世之人,此書非一世之書也。魏司馬朗復井田之議,至易代而後行;元虞集京東水利之策,至異世而見用。立言不為一時,錄中固已言之矣。異日有整頓民物之責者,讀是書而憬然覺悟,採用其說,見諸施行,於世道人心,實非小補。如第以考據之精詳,文辭之博辨,歎服而稱述焉,則非先生所以著此書之意也。
                                              康熙乙亥仲秋 門人潘耒拜述
勸學
朝代:先秦
作者:荀子
原文:
君子曰:學不可以已。
青,取之於藍,而青於藍;冰,水爲之,而寒於水。木直中繩,輮以爲輪,其曲中規。雖有槁暴(pù),不復挺者,輮使之然也。故木受繩則直,金就礪則利,君子博學而日參省乎己,則知明而行無過矣。
故不登高山,不知天之高也;不臨深溪,不知地之厚也;不聞先王之遺言,不知學問之大也。幹、越、夷、貉之子,生而同聲,長而異俗,教使之然也。詩曰:“嗟爾君子,無恆安息。靖共爾位,好是正直。神之聽之,介爾景福。”神莫大於化道,福莫長於無禍。
吾嘗終日而思矣,不如須臾之所學也;吾嘗跂而望矣,不如登高之博見也。登高而招,臂非加長也,而見者遠;順風而呼,聲非加疾也,而聞者彰。假輿馬者,非利足也,而致千里;假舟楫者,非能水也,而絕江河。君子性非異也,善假於物也。(君子性 一作:君子生)
南方有鳥焉,名曰蒙鳩,以羽爲巢,而編之以發,系之葦苕,風至苕折,卵破子死。巢非不完也,所繫者然也。西方有木焉,名曰射干,莖長四寸,生於高山之上,而臨百仞之淵,木莖非能長也,所立者然也。蓬生麻中,不扶而直;白沙在涅,與之俱黑。蘭槐之根是爲芷,其漸之滫,君子不近,庶人不服。其質非不美也,所漸者然也。故君子居必擇鄉,遊必就士,所以防邪辟而近中正也。
物類之起,必有所始。榮辱之來,必象其德。肉腐出蟲,魚枯生蠹。怠慢忘身,禍災乃作。強自取柱,柔自取束。邪穢在身,怨之所構。施薪若一,火就燥也,平地若一,水就溼也。草木疇生,禽獸羣焉,物各從其類也。是故質的張,而弓矢至焉;林木茂,而斧斤至焉;樹成蔭,而衆鳥息焉。醯酸,而蚋聚焉。故言有招禍也,行有招辱也,君子慎其所立乎!
積土成山,風雨興焉;積水成淵,蛟龍生焉;積善成德,而神明自得,聖心備焉。故不積跬步,無以至千里;不積小流,無以成江海。騏驥一躍,不能十步;駑馬十駕,功在不捨。鍥而舍之,朽木不折;鍥而不捨,金石可鏤。蚓無爪牙之利,筋骨之強,上食埃土,下飲黃泉,用心一也。蟹六跪而二螯,非蛇鱔之穴無可寄託者,用心躁也。
是故無冥冥之志者,無昭昭之明;無惛惛之事者,無赫赫之功。行衢道者不至,事兩君者不容。目不能兩視而明,耳不能兩聽而聰。螣蛇無足而飛,鼫鼠五技而窮。《詩》曰:“尸鳩在桑,其子七兮。淑人君子,其儀一兮。其儀一兮,心如結兮!”故君子結於一也。
昔者瓠巴鼓瑟,而流魚出聽;伯牙鼓琴,而六馬仰秣。故聲無小而不聞,行無隱而不形 。玉在山而草潤,淵生珠而崖不枯。爲善不積邪?安有不聞者乎?
學惡乎始?惡乎終?曰:其數則始乎誦經,終乎讀禮;其義則始乎爲士,終乎爲聖人, 真積力久則入,學至乎沒而後止也。故學數有終,若其義則不可須臾舍也。爲之,人也;舍 之,禽獸也。故書者,政事之紀也;詩者,中聲之所止也;禮者,法之大分,類之綱紀也。 故學至乎禮而止矣。夫是之謂道德之極。禮之敬文也,樂之中和也,詩書之博也,春秋之微 也,在天地之間者畢矣。 君子之學也,入乎耳,着乎心,布乎四體,形乎動靜。端而言,蝡而動,一可以爲法則。小人之學也,入乎耳,出乎口;口耳之間,則四寸耳,曷足以美七尺之軀哉!古之學者爲己,今之學者爲人。君子之學也,以美其身;小人之學也,以爲禽犢。故不問而告謂之傲,問一而告二謂之囋。傲、非也,囋、非也;君子如向矣。
學莫便乎近其人。禮樂法而不說,詩書故而不切,春秋約而不速。方其人之習君子之說,則尊以遍矣,周於世矣。故曰:學莫便乎近其人。
學之經莫速乎好其人,隆禮次之。上不能好其人,下不能隆禮,安特將學雜識志,順詩書而已耳。則末世窮年,不免爲陋儒而已。將原先王,本仁義,則禮正其經緯蹊徑也。若挈裘領,詘五指而頓之,順者不可勝數也。不道禮憲,以詩書爲之,譬之猶以指測河也,以戈舂黍也,以錐餐壺也,不可以得之矣。故隆禮,雖未明,法士也;不隆禮,雖察辯,散儒也。
問楛者,勿告也;告楛者,勿問也;說楛者,勿聽也。有爭氣者,勿與辯也。故必由其道至,然後接之;非其道則避之。故禮恭,而後可與言道之方;辭順,而後可與言道之理;色從而後可與言道之致。故未可與言而言,謂之傲;可與言而不言,謂之隱;不觀氣色而言,謂瞽。故君子不傲、不隱、不瞽,謹順其身。詩曰:“匪交匪舒,天子所予。”此之謂也。
百發失一,不足謂善射;千里蹞步不至,不足謂善御;倫類不通,仁義不一,不足謂善學。學也者,固學一之也。一出焉,一入焉,塗巷之人也;其善者少,不善者多,桀紂盜跖也;全之盡之,然後學者也。
君子知夫不全不粹之不足以爲美也,故誦數以貫之,思索以通之,爲其人以處之,除其害者以持養之。使目非是無慾見也,使耳非是無慾聞也,使口非是無慾言也,使心非是無慾慮也。及至其致好之也,目好之五色,耳好之五聲,口好之五味,心利之有天下。是故權利不能傾也,羣衆不能移也,天下不能蕩也。生乎由是,死乎由是,夫是之謂德操。德操然後能定,能定然後能應。能定能應,夫是之謂成人。天見其明,地見其光,君子貴其全也。
當沖K線掌握套現:沒有苦逼的付出 哪有牛逼的明天 萬丈高樓平地起 輝煌只能靠自己
作者:甘戴爾
原文作者:Alee Gandel
譯者: 本出版社編輯部
語言:繁體中文
出版社:經史子集
出版日期:2019/09/30
內容簡介
  我們追求的是具體的目標,不是遙遠空虛的願望。我們的字比較大,文筆比較好,內容比較充實,故事比較精彩;光看文筆,就值得收藏;本書創作的目第,在與眾不同,目標是心靈百萬富翁(Millionaire):擺脫貧窮,邁向富有!最在意的是深層的探討,就像英國詩人波普說的~:
  A little learning is a dangerous thing. Drink deep, or taste not the Pierian spring.~~~~ Alexandre Pope, 1688-1744, British poet
  只懂得皮毛是一件危險的事;要深透暢飲,否則就別嚐那聖泉。(一知半解,危險之至。)~~~~ 亞歷山大.波普(這是經史子集出版社的工作銘)
本書特色
  清河新藏說:「魔鬼藏在細節裡頭,天使跟著口碑飛舞。」
  敲開智慧大門,直擊心富技巧,就是要價值~:
  (1).文筆深入淺出,取精用宏,實事求是,從經驗中得來。
  (2).注重口訣條列,搭配圖表解說。
  (3).判斷出最大的可能,掌握大趨勢,詳察小個案。
  (4).做對的事情,順勢加碼,具有建設性。
  (5).保留左口袋的錢,耐心的等待第二擊的機遇。
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taison269889 · 6 months
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IT未経験で30代公務員の私が、IT転職し人生が大きく変わった話
みなさんはこのような悩みを抱えていませんか?
・今の仕事を続けるのが嫌になった
・IT業界に転職したいけどスキルないし、いまさら転職するのがこわい
・30代だし新たな仕事にチャレンジは厳しいよね
本当は転職したいけど、年齢や未経験が気になって、チャレンジできないことありますよね。
しかし結論として、30代で未経験でもIT業界への転職は可能です。
事実として私は、IT未経験のスキルなし公務員でしたが、IT転職を成功させました。
今回はIT未経験からIT業への転職を成功させた私が、
・IT転職を成功させてよかったこと
・IT転職を成功させるために私がしたこと
をご紹介します。
IT転職を考えたきっかけ
さてまずは、私がIT転職を考えるようになったきっかけをご紹介します。
①興味がない部署への異動が嫌で、専門スキルが欲しかった
ひとつ目の理由は、異動が嫌で専門スキルが欲しかったからです。
私の前職である公務員は、3年から5年を目途に部署異動があります。
土木系や福祉系・税金系・産業系・教育系など部署は無数にあり、異動の度に新しいことを覚える必要があります。
私は異動サイクルがくる度に勉強をやり直すことが、とてもムダなことだと思い、特化したスキルが欲しいと思うようになりました。
②仕事が面白くなかった
ふたつ目の理由は、シンプルに仕事が面白くなかったからです。
公務員の仕事は、法律や規制で定められた範囲内の仕事を行うことが多く、仕事に対する裁量が少ないです。
そのため常に組織の歯車となって働き、定型的な仕事をこなす仕事に面白みを感じませんでした。
③年収が上がりづらくキャリアアップが困難な環境だった
三つ目の理由は、年収が上がりづらく、キャリアアップが困難な環境だからです。
公務員の年収やキャリアは、年齢に比例して上がっていくシステムです。
たとえ頑張って仕事に取り組んだり、スキルアップしたとしても、給料に反映されることはありません。
このような環境では仕事に対するモチベーションが維持できませんでした。
結果として私は社内SEに転職した
さて公務員職に不満が溜まっていた私ですが、そこから奮起してIT転職を成功させました。
IT転職が成功できた要因は後述しますが、まずIT業にもプログラマーやネットワークエンジニアなど数多くの職種があります。
そのなかでも私は、社内SEという職に就きました。
社内SEってなに?
って思う方も多いと思います。
社内SEとは、企業の情報システム部署に所属するIT専門スタッフのことを指します。
具体的な仕事内容として
・システム導入・運用・保守
・ITインフラの整備
・IT資産の管理
・ヘルプデスク
・セキュリティ対策
・DX化の推進
など幅広いIT関係の仕事を行います。
恐らく皆さんの会社にもそのようなIT専門の部署があるのではないでしょうか?
未経験からIT転職を成功させて本当に良かったと思うこと
それでは私が感じたIT転職を成功させて良かったと思うことを3つご紹介します。
①年収があがった
まずひとつ目はシンプルに年収が上がりました。
マイナビエージェントの調査によると、社内SEの平均年収は512万円です。
一方で国税庁の民間給与実態統計調査では、民間企業の平均年収は433万円です。
私も前職440万円ほどの年収でしたが、社内SEに転職して年収が50万円ほどアップしました。
②仕事に専門性が持てるようになった
ふたつ目は仕事に専門性がもてるようになったことです。
前職では特段スキルを持つことができず、組織内で私の代わりはいくらでもいる状態でした。
いまはIT業界の知識やスキルをしっかり身につけることができています。
仮に今の仕事を退職することになっても、身につけたスキルを元に仕事を探せるでしょう。
③スキルアップと報酬が直結するようになった
三つ目はスキルアップと報酬が直結するようになったことです。
前職では自分の成長と報酬は全く一致していませんでした。
どんなに自分が頑張っても、報酬に反映されないところは公務員の悪いところです。
しかし現職では、スキルアップや資格取得した分、就けるポジションや給料は上がっていきます。
頑張った分だけ報われる仕組みは、私がIT転職して一番良かったと感じられるポイントです。
未経験からIT転職を成功させる為に私がしたこと
さて最後に私がIT転職を成功させるためにしたことを説明します。
①相談しやすい転職エージェントのサポートを受けた
まずは転職エージェントに相談しました。
IT職未経験で公務員をしていた私は、自分のスキルに自信がなかったため適切なアドバイスを受ける必要がありました。
また無数にあるIT職のなかで、どこを狙うべきか知る必要がありました。
エージェントに相談したところ、
・転職活動と並行して資格取得やプログラミング基礎を学んだ方が良い
・転職するなら社内SEは未経験でも勤めやすい
というアドバイスを受けました。
エージェントのアドバイスにより、IT転職を成功させるためにするべきことが一気に明確になりました。
②IT系資格を取得
次にIT系の資格を取得しました。
具体的な資格として、ITパスポートと基本情報技術者を取得しています。
少し資格について説明すると
ITパスポート:IT系知識が身につく一般社会人向け資格
基本情報技術者:エンジニアがまず最初に取るIT総合知識が求められる資格
となっています。
基本情報技術者はIT未経験から取得するには、少しハードルが高かったですが、頑張って取得しました。
いずれの資格も、IT転職への熱意を伝える証として、大いに役立ったと思います。
③プログラミングにチャレンジした
IT系資格取得を終えたあとは、プログラミングにもチャレンジしてみました。
IT職への転職に、プログラミング基礎知識の取得は不可欠だと思ったからです。
プログラミング学習にあたっては、まずはプロゲートなど費用が少額のものから始めました。
HTML・CISからはじめ、Rubyなどサーバーサイド言語も学習しました。
またプロゲートをクリアしたあとは、デイトラに入会し、本格的にプログラミングを学んでみました。
このとき、前職場でもプログラミングによって業務効率ができる仕事がないかさがし、プログラムを組む練習をしていました。
未経験からIT転職を成功させるにはエージェント選びが大切
さてここまで、IT転職を成功させるために取り組んだことを紹介しました。
上記の取り組みを行った結果、私は晴れてIT転職を成功させることが出来ました。
私が転職を成功できたのは、良いエージェントに出会えたことが一番の要因だと感じています。
エージェントのおかげで、IT未経験の私が狙うべき職種が分かりましたし、転職するために踏むべきステップも分かりました。
エージェントに相談せずに、ここまで理想的な転職は不可能だったでしょう。
IT未経験からIT転職を行いたい場合は、まず良いエージェントを探すことをオススメします。
エイジレスの紹介文
IT転職には良い転職エージェントを探すことが大事だと伝えましたが、良いエージェント探しは難しいものです。
エージェントによっては、本人の希望を無視した転職をすすめるエージェントもあります。
エージェント選びも大変ですね。
そこで私がオススメするのがエイジレスです。
エイジレスは
・IT転職に強い
・「何歳でも挑戦を」をモットーに年齢にとらわれず転職を支援
という特徴をもったエージェントです。
たとえ40代を超えた方が相談しても、エイジレスであれば親身に相談に乗ってくれるでしょう。
転職ならコチラ株式会社エイジレス‼︎
まとめ
さて今回は、未経験からIT転職を成功させた私の話を紹介しました。
IT業は成長している産業であり、成果と報酬が結びつきやすいです。
そのため成長意欲の高い人にIT業界はオススメします。
また転職を考える場合、まず最初に良いエージェントを探しましょう。
理想の転職に向け、適切なアドバイスを受けられます。
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ogawa-xd · 10 months
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〈効果思考〉
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1. 思考のかたち
デザイン行為を考えるうえで、基本となる考えの枠組み/思考方法をしめしたい。職業的なデザイナーなら、ふつうに、ごく自然に、そのような仕方で考えているのかもしれない。だが、この考え方そのものに直接に言及しているのは聞いたことがない。ということで、その思考方法には名前がついてない(か、単に自分は名前を知らない)。 このプラグマティックな思考方法に、自分は「〈効果思考〉」という名前を付けたいと思う。
名前とはいいものである。適切な名付けができると、それだけで「思考」そのものがシャンとして立ちあがる。 オリジナルのコンピュータプログラムを書いたことのある人は、こういう経験があるかもしれない。適切な変数名や関数名を付けることができると、プログラムの骨格が堅固なものに感じられ、そのとたんにコーディングがスムーズに進むようになる、そういうことだ。適切な名前が付けられないと、思考が右往左往して、とんでもない思考ミスを犯してしまったりする。
自分でも、〈効果思考〉と呼んでみて、はじめはしっくりこなかった。なにかよそよそしい、行き過ぎた効率主義のような匂いを感じた。しかしプラグマティズムを復習っていて、その名前でいいんだという確信が持てたし、お蔭様で今はもう「慣れ」た。慣れも大切だ。
プラグマティズムの創始者パースはこういう意味のことを述べている。
「あるものの概念とは、その概念が及ぼす効果のことである。よってあるものが何であるのかを考えようとするなら、そのものがどのような効果を及ぼしているのかを吟味しなければならない。」(「プラグマティックな格率」、「プラグマティズム入門」伊藤邦武) 「プラグマ」とは、ギリシャ語で行為や実践などの意味である。
思考方法に「デザインの」と限定詞をつけたが、じつはつけなくてもいいという気もしている。それだと「プラグマティズム」そのものの説明になるだけで。
〈効果思考〉ということだから、当然「効果」が主役になっている。〈効果〉については、より深く考えるべきだと思う。
2. 知るとつくる
人の為す「行為」を、分類することはできるのだろうか。たとえば、こういうのはどうか。
移動系:人自ら空間を移動すること「行く」「来る」「旅する」 運搬系:何かを空間上を移動させること「運ぶ」「持って行く」「置く」
学術や学問、あるいは単純に好奇心をもっていろいろと知っていく行為を「知る系」と分類したい。これを「情報系」「知識系」と呼びたい向きもあるかもしれないが、ここはあくまで「動詞+系」で表したい。
知る系:知らなかった新しい知識を得ること「知る」「学ぶ」「教わる」「見る」「聞く」
それではデザインという行為はどうだろう。つくる系といっていいと思う。
つくる系:何かを作りだすこと「つくる」「書く」「こわす」
作られる対象物は人工物/道具である。 さらに抽象化していえば、いまここにないものを出現させること。
ここでは、知る系と対比させながら、つくる系であるデザインを考えてみる。
理系文系
理系文系という分けかたは大学受験的だが、かつてこれらは完全に分離していて、学生は二者択一しなければならなかった。今は文理融合など、以前ほどは乖離的ではないのはいいことだ。完全に分けられなるはずも、分けていいはずもない。
でも理系文系とはそもそもどういうことなんだろう。
理系は、合理的、論理的な思考を要するに科目、数学や物理化学。文系は、歴史や地理、文学などすでに現実にある事象が何であったかを考える科目、といったあたりが一般的だろうか。 理系は、人の気持ちや心によって左右されるものは扱わない、よっておもに自然科学へ向かう。それに対して文系あるいは人文系は、揺れ動く「人の心」に焦点を合わせるているようにみえる。
もっと抽象化すると。
理系は、すべては収まるべき場所、型を持っていて、その「型」の中に収まるとする。「型」とはつまり、なかの個物の振る舞いや性質を分ける「法則」のことともいえる。理系はその「法則」とは何か、をさぐる。
文系的には、すべては個別的である。すべてが結局は何かの種・類という容れ物に収まるとしても、個物は個物であるがゆえ個性的で一回性を持っていおり、そこを注視している。
あるいは、理系は、種類にまとめるために「同一性」に注目し、文系は、種類のなかの個物を見るために一つ一つの「差異性」に注目するともいえるだろうか。
また、知る/問うことの内容には、「事実」を問うことと「解釈」を問うことの2つがあると思うが、おおまかには理系は事実を、文系は解釈を問うている、ともいえる。
アプローチはことなるが、どちらも「世界を知る」ための行為であることにちがいない。
哲学
ところで「哲学」は、一般には文系に入れられるが、とくに現代では理系的な思考部分の重要性が大きくなってきている。 古代ギリシャ哲学ではどちらかというと理系的なはじまりをし、やがて文系的な展開をし、科学革命から現代では、ふたたび理系的な要素が入ってきた。 哲学はすべての前提事項の当否をいったん保留して、ひたすらに「本当はどういうことか?」と問うような知的態度である。とするなら、「哲学は文系」であるというのはナンセンスな予断だろう。
哲学は、理系文系のどちらの分野とも捉えられないところに在って、その両者の立場を調停・統合し、最終的な世界図を描こうとしている。
知ること、つくること
理系、文系あるいは哲学にしても、大きくは「知る系」である。あるいは学問・学術のほとんどは知ることに最重要な力点が置かれている。人のモチベーションにそっていえば、「わかること」ともいえるだろうか。
「知る」ことに対して、何かを「つくる」ことは、また別の柱として屹立している。まったくちがう成立要素がそこにはある。
つくることにとって、よく知ることはとても重要ではあるが、「知る」ことで「つくる」ことのすべてをカバーすることはできない。
自分がデザインにかかわってきたせいか、とくに強くそう感じる。
たとえばここに、水を流すための溝があって、泥に埋まってしまっているとする。 なんとか泥を掻き出す必要がある。ほんの少しの泥なら何も考えずに手ですくってやればいい。今にも水があふれそうな緊急事態なら、そこらの棒でも板きれでも使って掻き出した方がいい。もし時間があるなら、最適な道具を考えるのもいいかもしれない。いずれにしても、つくるためには状況を踏まえて、適当な完成度で手を打たなければならない。
行為の本質的基準
真摯に知ろうとすると、最善解、最適解を目指すことになる。つまり知ることの本質的な基準とは、もっと「正確」に、もっと「正しく」という基準である。もしも「正しさ」を目指さなければ、知ることは空しい所業になってしまう。「適当に知る」とか「いい加減でもいいから知る」というのは、基本的には矛盾した言い方である。
それでは、つくるという行為の本質的基準とは、どういうものが考えられるだろう。もちろん正しい知識にも��づいて、正しくつくることは求められるとは思う。
つくることの基準は、つくられたものと、つくったという事実がもたらす「効果」にあるのではないか。それがどのような効果をもたらすのか、それによって「つくる」が測られる。
〈効果〉は、「正しさ」のように、一直線に並べてその程度の大小を比較できるような基準ではない。「あれ」と「これ」とを比較して自動的、客観的に優劣は決められないのだから、「あれはこういう効果」があるが、「これはこういう効果」がある、と理解したうえでどちらの効果を選ぶかという判断をするしかない。つくるはそういう効果を中心にした性質をもった行為なのだと思う。
3. 〈効果思考〉とは
〈効果思考〉とは、
ある事象が何であるのかを、その効果によって規定し評価すること。
「デザイン」が、どう定義されるものであるにせよ、デザインした結果、うまくデザインできたのかどうかを評価する必要がある。じつは、その評価はとてもむずかしく漠としている。人によっても異なる。
たとえば、道具として役に立つ、仕事がはかどった、美しい、壊れにくい、所有感を満足させてくれる、などなどいくらでも詳細化できるわけだが、それらを「効果」という一律な枠組みにいったん収めて、比べようということである。 その上で、自分は「どの効果」を採用するのか、と問う。 こういう思考方法は、当たり前といえば当たり前なんだとは思う。
もちろんこれは自分が発明した思考方法ではない。というか、自分たちは、そんなふうに考えて道を決めてきたのではないか、とあらためて気づいた、あるいは再発見した、ということである。
〈効果思考〉は、デザインの内容の評価にかぎらず、ひろく応用できる。
たとえば「デザイン」とは何か(これはデザイン結果の評価とはちがう)、「アイデア」とは何か、といったことを考えるとき、いろいろに答えうる。どの規定しかたがたった一つの「正解」である、ということはできない。 ちょっとおおげさにきこえるかもしれないが、形而上学的な問いかけ、愛、平和、しあわせ、とは何か、 真や善や美は何か、といったビッグ・イシューはどれも、とても一つの正解を示し得ない。これらは「事実」としての「正しさ」に向かう態度では納得のいく地点へ到達できない。そうではなく「解釈」としての「効果」を問うべきだと思う。それによって唯一の答えが出るわけではないが、議論としては一段深まると自分は思う。
「しあわせとは、Aである」「しあわせとは、Bである」「しあわせとは、Cである」のどれが「正解」か、と問う代わりに、「Aと考えたときの効果」「Bと考えたときの効果」「Cと考えたときの効果」の、どれを自分は採用したいか、採用するべきか、と問うてみたい。
4. 効果とは
「効果」そのものについて、まとめておこう。
基本事項
はじめにあった状況を「状況S1」とする
何かの事象「事象e」が起きるとする
その事象eによって、状況が変化し「状況S2」になること
その「状況の変化」「S1とS2の差」を「効果」と呼ぶ
事象(イベント) :元となるトリガー 事象とは物事の存在や現象のことで、ここではデザインされたものやサービスが世の中に出現し、流布することを指す場合が多い。が、もっと抽象的な哲学的な思考や「形而上学」的なイシューについても問題にしている。
状況:変化するもの 状況は、扱われる事象の内容によってその大きさや広がりが適宜決まる。たとえば何かの製品やサービスであれば、それを使う人の仕事や遊びや生活などである。そして使う人自身の能力の向上やメンタリティの変化、使用者でない人も含めた社会状況なども含まれる。
変化 何か事象が起これば、必ず何らかの変化も伴う、という見方もなくはない。たしかにそもそもなんの変化も起こさないような事象を「事象」と呼べるのか、という話しもある。 だから、ここで問題にしているのは、変化の量と質のこと、である。この「変化」を「効果」と呼び変えている。
効果 変化と効果のあいだにあるのは、「視点」「観点」「関心」など、大きくは「意味(付け)」から変化を見る、ということなのだろう。 効果は関心から発しているので、さまざまなレベルのものが混在しているし、人それぞれでも異なったものとしてある。 人(自分)にとって、その変化はいいことなのか悪いことなのか、と考えればその効果は「価値」の話しになる。 また効果はスタティックに決まっているわけでもない。効果はダイナミックにその都度、生成されるものである。つまり、はじめに気づかなかった効果、効果と認識されていなかったポイントが、のちに重要な効果になることもある。受取手によって、効果が発現する場合もしない場合もある。 それは潜在していたものが顕在化したのではなく、まさにある状況のなかで生成・発現したのである。
5. その他
チューリング・テスト
この思考方法が自分のなかで像を結んだ直接のきっかけは、チューリング・テストだった。このテストはそれ以前から知っていたが、あるとき「ああ、これはチューリング・テストのパターンだ」と気づいた。
チューリング・テストとは、機械が人のような知性を持つのかという問題について、アラン・チューリングが提案した次のような判定方法である。
「人がブラインド状態で対話をしてみて、人か機械かの区別が付かないようであれば、その機械は知性を備えていると言っていい。」
これを敷衍すると、あるものの本質がなんであるのかは、その効果(ここでは対話の内容や質)によって判断していい、ということである。結局のところ、私たちはふだん、そのように判断をくだしているのだと思う。 年代的に無理はないが、チューリングがパースのプラグマティズムを意識していたかどうかは、わからない。
それをいうことによってなにを言おうとするのか
誰かの発言に対して、自分は「それをいうことによって何を言おうとするのか」とよく問うことがある。また「自分は、これをいう(する)ことによって、何を言おうとするのか」とつねに自問している。この問いかけも、じつは「それをいうことによって、どのような効果を期待するのか」という意味であった。
ある内容を主張するとき、多くの場合、
主張内容自体によって主張すること
「(ある内容を)主張すること」によって主張すること
という二つ以上の主張が、まるでコダマのように減衰しながら鳴っている。
デザインとは
〈効果思考〉という、事象の捉え方について明確にしたので、そのうえであらためて「デザインとは何か」に応える必要があるわけだが、それはまた項を改める。
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neckoh · 8 months
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これを少しずつまとめていく。(書き途中 P12までまとめた)
一章 ナラティブとは何か
ナラティブ
経験を形作ると言う過程を通した意味付け
自分と他者の行動を理解するための方法
その関係性において、出来事、事象、感情考えを統制化する方法
過去、現在、未来といった時空間を超え、行動、自称感情考えを関連付ける方法(Chase)
語られる時点で、文脈の中で経験への意味付けが変化する
河野(2020) 因果関係のような法則を見いだすことを目的とした従来型研究の限界- 物事を捉える際の時間的概念の切り捨てや、全体的な視点の欠落及び対象となる個性の無視
多元性、越境性、特殊性、政治性
特殊性 言語教育を実施する際には、ローカルな現場で求められる内容や課題を特定し、それに対応していく
実用性 特殊性のある状況にとって意味のあること。また他者から見たニーズではなく、当事者にとって意味のある実用性がもたらされるべき
可能性 越境性?
普遍的な教授法や理論を追求する代わりに、個々の現場、学習者、教師にとって、意味のある学びや、教育方法を探る必要性が示され、実践研究の意義が再認識されるようになった
政治性や倫理性
グローバル化の負の側面 マイノリティ、当事者性への着目 言語不自由による疎外 
複数性・複合性は、新自由主義と結びつくことによって新たなグローバル規範となる
英語のような特定の言語資本が1人勝ちが容認されるまたは1つの言語しか話せない人が、逆に差別されると言う危険性
市民性教育 社会の一員として、他者や社会のために貢献できるような人の育成
ナラティブアプローチの特徴、(クリスワース)
①時間性 ある経験が起きた時点とその経験について語られる時点では時差が生じ生じるはずであり、その事象こそが経験についての意味付けを産む
②アイデンティティー、記憶、自伝、自己形成等への注目
③社会性や権力等への関心をもたらした社会批判的な研究
—————
言語構成主義
1960-1980
実証主義
現実は、個々の人々の情的な部分とは、別のもので、観察可能な因果関係を客観的に認められるものだけが現実
モダニズム
国や国家といった所属
チョムスキーの生成文法
ソシュール
「言語」と「言語によって意味されるものの関係には必然性がない」
<対立>
社会構成主義
客観的で本質的な真理と言うのは、人間が直接観察することはできなく、なんらかの枠組みを用いてのみでしか迫ることができない
「言葉が世界を作る」(ガーゲン)
対話いう相互行為の中で、意味が作られている
=言葉を介した人々の共同作用によって成り立つと言う立場で、社会現象をとらえる
学びが社会的なものである。?
ただ、実際の存在を否定したり、幻想であると主張したりしているわけでは無い。一つの観察方法である。
応用言語学
多様なアプローチ 
多言語主義 御用論 文体論 社会言語学 言語政策 言語教授法 談話分析などなど
1990年代後半
社会言語学や第二言語習得も含まれる
ダグラス・ファー・グループ
言語学習や言語教育を促進するために、学習者の多様なマルチ資源に関する認識の必要性を述べている
ミクロ(教室内)、メゾ(教室外で携わる教育機関、職場、社会的なグループのコミュニティー)、マクロ(イデオロギー、権力構造、政治政策、社会正義、倫理観)の社会的次元の観点
→多言語、多文化社会において、言語教育が担っていく社会的責務
ポスト実証主義
現実は1つとは限らず、違った見方によって多数存在しうる
インターネットの台頭
フェミニズム運動など、マイノリティーである当事者の語りの重要性
ポストモダニズム
国家や家族といった所属(モダニズム)ではなく、個々のアイデンティティー、複雑性、多様性、特定性に重点を置く。
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doctormaki · 8 months
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随分と御無沙汰であった。前回は、日本への帰路はヘルシンキ経由だったが、なんだか、ぐったり疲れていて、NoaとIsabelとの旅行の後には、何も書いていなかったのか。。。と気付く。
七月中旬に帰国し、八月下旬に帰独。一ヶ月半滞在した日本は、異様に暑く。七月中旬まで、ドイツでもそれなりにバタバタしていたのもあり、帰国して立教や東大に行ったりとバタバタした後は、疲れて倒れていたように思う。山中湖は涼しく過ごしやすかったが、思わず何事にも全力投球して夢中になる私は、甥っ子と彼の犬、礼緒と過ごした後は、AI哲学研究会で東京に出た以外は、また山中湖で倒れてしまう。そして論文を書いた後も、ほぼ機能不全になっていた。母が付き添ってくれていたものの、疲れのせいか、体調不良のせいか、山中湖で倒れていた日々の記憶が断片的だ。
夏の成果は、オニヤンマを甥っ子と作って、石割山登山して、報湖祭の花火を見た事と、甥っ子滞在中に今学期の履修学生達の成績をつけた事。OISTの研究者に誘われた言語についての論文は、なんとか書き上げた事。また、五年目に入ったカスリス先生の日本哲学小史という大著の翻訳に、一応の目処を立てた事かな。そう。ハンブルグでは、日本の聖武天皇、聖徳太子の十七条憲法から鎌倉に至るまでの長い章を、ひたすら訳していた。帰国してからは、道元と西田を終わらせたかった。。。
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言語についての拙論は、詰めが甘いようにも思うが、言語を使って考えるということはどういうことなのか。習慣的思考と言語の関係について、考えてみたかった。言語の限界が世界の限界といったヴィトゲンシュタインを研究した大森荘蔵が展開した、言霊論の重層性に関心を抱き、日本の近代言語学の祖でもありソシュール批判をした時枝誠記、Yale言語学のSapir-Worf仮説などや、現代のAIの祖を築くNorm Chomskyの生成文法を概観しつつ、彼らが言語の何を解き明かそうとしたのかをまとめた。空海の声字実相義やデリダのエクリチュールとパロールの問題にまでは展開できなかった。まぁ今後のネタの一つかな。言語を巡るアンソロジーにはなりそうだ。
先人達の試みを簡単にまとめると、言語を構造的とみたいのか、意味的とみたいのかの両極に別れる。言語の見方の差異を過去の研究者達を追うことで浮き彫りにした。両者のアプローチはスイングしつつ発展しゆく。ChatGPTで解明された事は、言語構造に偏り過ぎてもダメという言語の不思議を改めて確認した作業だったように思う。重層性が言語に内在するものであるならば、思考にも重層性が自ずとあるだろう。言語操作を通した概念操作でしか、人間が新しい発想を具体化できないのであれば、言語の貧弱は思考や発想の貧困化を表す。
どおりで、現代日本社会の言説は陳腐。知識層を自認する者たちは、目立つ奇抜な論を展開し、適当に和製英語を散りばめて煙に巻く事を好み、そして大衆も、そうした陳腐を好む。今年は高校野球は塾高大活躍だったが、彼らへの妬みや誹りもひどいものだ。桐蔭、智弁、日大や早稲田なら良いのに、何故、慶應義塾だと叩くのか。若き血の応援スタイルが無いからって、やっかみも甚だしい。伝統は一日にして作れるものではない。昨今の言論分野を見ても、高校野球を見ても、福沢諭吉の次の言葉を沁み沁み思う。曰く、愚民の上に辛き政治あり。批判ポイントの論点がズレているところで批判されても、相手をするだけ無駄だ。多様性の時代、画一的な価値観の押し付け合いは、ますます無駄になっていくだろう。
上げ足を取られないように、馬鹿な癖に言いがかりをつけてくる相手をひたすら尊重し、口先だけに理解を示す戦法しか無いのが、現代のリベラリズムだ。つまり、永遠に平行線でいきましょうという態度だ。子供に意見を求めて、心の中で子供の意見を馬鹿にしている癖に、子供の意見に理解を示すエセ教育の結果でもある。馬鹿な大人に育ち上がった元子供たちは、自分の吐く意見がどれだけ適切なものか省みる能力が無い大人になっただけ。道理で言論がどんどん陳腐になる。
9月末までに、まだまだ3本ほど論文の締め切りを抱えているが、その内の一本は熊沢蕃山という江戸前期の陽明学者。神道と儒教の融合を体現すべく実践を重んじた儒学者。幕末水戸学は熊沢蕃山から多くのヒントを得ているだろうが、彼らが重視したのは朱子学。陽明学の実践的なものといえば、私のYaleでの恩師Tucker先生がコロンビアで研究していた貝原益軒。いずれ、実践的儒教と、仏教、神道の相互浸透性について、何か考えることができればと思っている。
しかし、今の時代は、蕃山のような混ぜこぜの良いとこ取りを理論体系が無いとして取り上げない。南方熊楠があまり評価されていないのと同じだ。西田と何が違うのか。私には、世俗的権威主義しか感じられない。在野した者は評価に値せず、新井白石や西田みたいに時の権力の傍にいた者が、それだけで評価されているのか。疑問はつきない。つまり、容易な事を難解に言った者は勝という権威主義と、民衆に交じり実践を重んじた者、在野主義は無視されるという、そういう構造なのだと思う。兎に角、他人から尊敬され、立派だと言われたかった人々だけが異様に注目されているだけのようだ。
バカが東大でハダカ���りしていても、東大だから許される。むしろ東大の癖に凄いと尊敬されたりする。それなのに、日大でハダカ踊りしても、別に誰からも良い意味では注目されず、返って、世間を騒がせたと謝罪させられる。こういう民衆の意識構造とは何か。これこそ、ポランニーの群集心理を再度、再読する必要を感じさせる事態だ。ファシズムを回避するための活発な言説は、返って、新たなファシズムを助長しているというパラドクスなのだから。
。。。とつらつら、ヘルシンキ空港のラウンジで思いを馳せる。ヘルシンキ経由にして良かった。ロンドンは管制塔コンピュータの故障で混乱の極みらしく、多くの客がヘルシンキ経由を利用している。BAとのコードシェア便だから。来月のアイルランド、エディンバラ行きは、都度、ロンドン経由なんだけどなぁ。。。そして、日本も、今は先人達のお陰様でなんとか頑張っているけれど、今から十年も経たない間に、インフラが崩壊していくんだろうな。
若い人々を教えるようになって、六年目。今夏、コロナ前に教えた、顔に見覚えのある学生さんが、社会人になって働いているレストランで偶然再会した。彼女は私にとってはいつまでも二年生。真面目な頑張り屋さんだった学生。バイトなの?って聞いた私も不用意だったが、就職したんですと教えてもらい、大きくなったんだなぁと感慨深かった。彼女は地味で、しっかりと社会を支える小さき市井の人々の代表のような方。
丸山眞男が重視した、市井の小さき人々が、これからますます、踏ん張らされていく。日本の衰退は著しい。一億総中流を実現し、八割型の国民は、現状に満足しきっているのだろう。勉強しなくても、なんとか食っていける。向上心なんて、そんなもん無くったってなんとかなる時代だ。夢を語るだけで尊敬され、夢が無い事を嘆き、夢を追いかけなくても、口先だけで夢を語れば許され、夢がある事を異様に褒める時代だ。つまり、夢なんか抱かない位、満たされている時代という事だ。失われた三十年は、成長していない事ばかりが注目されるが、底上げが浸透し、高卒は当たり前、大卒も普通になった底上げバブル時代の継続でもある。必死に生きる事なんて、命を繋いで生きるなんて事、とっくに忘却されているのだ。そんな時代に、真剣になれ、とか責任をもって、なんて多くの人にとって、白々しくしか聞こえないのだろう。
残念ながら身体が弱い私は、思うように身体を使えない。そして悔し涙ばかりする。身体の弱さ売りをしてサボる怠惰な人々と私の間にあるのは、元気だったらあーしたいこ~したいという気の焦りと苛立ちだけなのだろう。自分が動きたいほどには動けない時、私は苛立つ。苛立たず怠惰にできる人はサボっているんだなぁって思う。でも、他人は他人。私にできるのは、私も私なりに微力ながらに懸命に生きている不器用でブザマな姿を、見せ続ける事だけかもしれない。そこから、私の破天荒さに勇気を貰えたって同僚から言ってもらえたり、先生の授業楽しかったって振り返ってくれる学生がいるから。他者あっての私。お陰様で、ヘルシンキまで辿り着いています。
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zuiso-notes · 9 months
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<随想・最大強化とならない行動が現れる条件>
他者の行動について内観的に考えると、「何故あんなに人生において得にならず損をするような行動をするのだろう」ということが疑問に思われる場合がままあります。そのような行動の理論的な説明を試みるのが本稿の目的です。
以下、基本的な考え方として生物学的、中でも動物行動学の知見および行動分析学の理論を援用することにします。別の言葉で言えば「行動の進化的もしくは行動分析学的な観点からの機能的な説明」を試みるとしてもいいでしょう。そのような観点からは「得になる行動」というのは適応度が高くなる、即ち残せる子孫の数が多くなるような行動で、「損になる行動」とは逆に適応度が低くなるような行動ということになります。但し精神障害等の異常行動は、進化的もしくは行動分析学的な説明が可能である場合もあるのでしょうが、ここでは考えに入れないことにします。
単に進化的ではなくて行動分析学的に考えるのは、後天的な学習による行動で損になる行動があるからということもありますが、その他に以下の理由があるからです。出現する時は遺伝的スケジュールに従って現れてくる行動で、つまりは遺伝的行動と考えられる行動でも、強化されないと維持されないものもあります。例えば乳児は生後1ヶ月ほどで叫喚発声(泣き声)ではない発声、一般には喃語と呼ばれる発声をするようになり、健常な子供ではその出現の時期がかなり狭い範囲で決まっているなどの理由から遺伝的な行動だと考えられています。しかし両親ろうのケースのように発声に対する適切なタイミングでの強化がないと、徐々に消失していくことが知られています。
つまり反射等の原始的な遺伝的行動は別ですが、多くの行動の維持には強化が必要であるものと仮定することは自然でしょう。その上で個体の行動は、受ける強化を最大化するように起こるものと考えることができますが、必ずしもそうはならない場合もあるので、そのことについて考察してみたいと思います。尚、以下の一つ一つの項目は、それぞれが一編の随想としてもいいような、かなり内容のあるはずのものばかりですが、ここでは最小限の例を挙げるに留めます。
1.社会構造の有無に関わらず現れる遺伝的行動
a. 遺伝的な利己的行動
例えば、性犯罪はこれにあたるでしょう。性行動は典型的に遺伝的な行動ですが、社会構造の有無に関わらず、相手を選ばずに性行動を仕掛ければ手痛い罰が与えられる場合がありますから、強化が最大にならない可能性があります。
b.包括適応度が最大となるような行動
自分の子供が危機に陥っている時に、それを自身の命を顧みずに助けるというのは自身の強化は最大とならないことがあるわけですが、包括適応度の観点からは十分に説明のつく行動です。
c.互恵的利他行動
すぐに「お返し」をしてもらえることが明らかに期待できる場合に利他的な行動をするのが互恵的利他行動ですが、一時的にもせよ利他的行動は自身の強化が最大にはなりません。
2.社会構造を持つ種での社会的利他的もしくは利己的行動
a.遺伝的な社会的利他的行動
社会構造を持つ種では、特有の利他的行動が現れます。例えば血縁関係にない障害者を助けるのは、上記の包括適応度や互恵的利他行動では説明できませんが、実際にはヒトだけではなく近縁の霊長類でもそのような利他的行動が観察されています。これもやはり助ける側の強化は最大にはなりません。
b.遺伝的な社会的利己的行動
この概念をどのように呼べばよいか迷うところですが、社会構造の故に利己的行動が現れる場合があることは想像がつきます。一例として、被注視欲求による行動を挙げることができるでしょう。
今までのところ被注視欲求という概念は臨床的にも確定しておらず、「承認願望」と同等に論ぜられたり、用語自体もいくつかの変異が見られます。恐らく承認願望という用語を用いる人は「社会構造」を視野に入れてのことだと思われますが、被注視欲求というのは社会構造を持たない種でも、哺乳類や鳥類のように親が出生後ある期間子を育てる種においては、子が親の注意を惹きつけるという行動がまず間違いなく遺伝的なものでしょうから、社会構造を持つ種に特有のものではない可能性もあるわけです。ましてや行動科学的には実証的根拠がほとんど見当たらず、後天的学習の影響も全く明らかになっていないところでしょう。そのような次第で、この概念の位置づけは今後の研究に俟つしかありませんが、一応社会性の行動と見ておくことにします。
被注視欲求に基づく、強化が最大にならない行動の例は枚挙に暇がないほどですが、近年のSNS上で見られる、違法もしくは著しくマナー違反の行動の動画の投稿などが好例でしょうか。
3.後天的学習に関わる行動
a.小集団限定学習による行動
小集団限定学習とは、俗に言う「誤学習」の言い換えであって、誤学習が行動分析学の術語ではなく、大変誤解を招きやすい語でもあるので、別途このように呼ぶことにするという筆者の造語です。
これについては他の随想でも繰り返し述べてきましたが(註1)、一言で言えば、ある小集団の中では強化されるが、その小集団を含むより大きな集団では強化されない行動のことです。例としては反社会的勢力などを考えて頂けるといいでしょう。その集団の中では、カタギを脅して金を巻き上げることが賞賛され強化されますが、そのような行動が一般社会という、より大きな集団では強化されないことは言を俟たないでしょう。
実際には社会で起こる、「強化が最大にならない行動」の多くが、この小集団限定学習の結果だと言ってもいいだろうと思われます。
b.迷信行動
これも他の随想で何度か取り上げてきましたが(註2)、強化を受ける随伴性がないにも関わらず、偶発的に強化されることにより獲得されてしまう行動のことです。スポーツにおける「ジンクス」のようなものから、過激な新興宗教に至るまで、最終的には強化されないはずの行動が見られることがあるのは周知のことでしょう。
このように、最大強化とならない行動には様々な種類があるわけですが、1.および2.の行動は遺伝的であるが故に統制が難しく、また1.a.のような場合を除いて、必ずしも反社会的ではないので、特に統制の必要もない場合が多いと考えられます。
 それに対して3.の各行動は、少なくとも理論的には統制が可能であり、実際に応用行動分析学の手法等で望ましい行動への変化が期待できる場合もあります。このことについては稿を改めて記述したいと思いますが、まずは最大強化とならない行動に関する理解を深めて頂ければと思います。
註1
行動科学随想集 (<随想・小集団限定学習(誤学習)再考>) (tumblr.com)
行動科学随想集 (<随想・俗語としての「誤学習」と形式的推論>) (tumblr.com)
行動科学随想集 (<随想・小集団限定学習のメカニズム>) (tumblr.com)
註2
行動科学随想集 (<随想・教育界の迷信傾向>) (tumblr.com)
行動科学随想集 (<随想・迷信傾向>) (tumblr.com)
行動科学随想集 (<随想・迷信行動と間欠強化/社会的強化>) (tumblr.com)
行動科学随想集 (<随想・迷信傾向、共感傾向と知的レベル>) (tumblr.com)
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kawagoeaosa · 1 year
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常用漢字と教育漢字
川越は教育漢字と常用漢字は増やすべきだと思っています。
この文字常用漢字じゃないの?と感じた文字が、多すぎるのです。 また、この文字は小学校で習ってもいいのでは?という文字も、多いです。 ということで、川越が教育漢字の配当を考えた場合の表と、川越が考えた常用漢字表を作成しました。
まずは教育漢字です。 【1年】20文字増えて100文字とします。 1年は身近な感じを中心に追加しました。 漢数字は基本1年で習いますが、「万」が2年です。「1万円」とかでよく使うため「万」も1年にしました。 「父・母」、「自分」、「友」、「心」、「体」などの人に関する文字、 「外」に「行く」や、「今」、「言う」、「会う」、「太い」、「多い・少ない」といった1年でもよく使う言葉、 他にも、「止まれ」の標識を1年から読めるようにするために「止」、 「市町村」のうち「市」だけなぜか2年なので全部1年に統一し、よく食べる「米」も1年にしました。 「公園」も1年で習うべきだと思いますが、画数や漢字の構造を配慮して「公」のみ1年にしました。
【2年】20文字増えて180文字とします。 まずは、その文字に対する対義語がなぜか同じ学年ではないということがあります。 「高い」に対する「安い」、「明るい」に対する「暗い」、「長い」に対する「短い」などは学年がなぜか違うため、先に習う学年に統一しました。 また、「勉強」の「勉」、「学習」の「習」などの学校に関する言葉、「仕事」、「世界」、「動物・植物」といった名詞、 「勝つ・負ける」、「使う」、「待つ」、「遊ぶ」、「開ける」、「消す」といったよく使う動詞などを中心に追加しました。 また、学校で習う科目の文字を全部2年にするため、4年の「英」を2年に、 「都道府県」に使う文字は4年だが、「都道府県」という文字は全部2年にしました。 「衣食住」も同様で、4年の「衣」が2年です。 また、元号では、「昭和」の「昭」「和」が3年なのに、 「平成」は「平」が3年だが「成」が4年、「令和」は「令」が4年です。 これでは今の年号・前の年号のほうが、2つ前の年号よりも後に習う漢字になっています。 2つ前の年号よりも今の年号・前の年号のほうが先に習うべきです。そのため「平成」「令和」ともに2年にしました。 また、6年からも1文字2年にしました。「机」です。 「机」は学校には当たり前にあるものなのに、なぜか6年。遅いです。2年でもおかしくはないでしょう。
【3年】15文字増えて215文字とします。 ここも単語や対義語を合わせることが多いです。 「悪い」に対する「良い」、「有る」に対する「無い」などです。 単語では「健康」、「特別」といった重要な言葉なのに習うのが遅いと思った単語は3年にしてます。 「産業」の「産」、「児童」の「児」、「信号」の「信」、「関係」の「関」といった文字は単語として同じ学年に合わせました。 学校に関する言葉では「給食」の「給」、「席」、「卒業」の「卒」、「割り算」の「割」を3年にしてます。 食べ物から「野菜」の「菜」「果実」の「果」「飯」などを3年にしてます。「麦」は2年では早いと思い、3年にしました。 また、「戦争」や「民」「法」など社会面からの文字も3年になっているものもあります。
5年からは、「永久」「可能」は3年に、6年からは、また「階段」の「段」も、「階」に合わせて3年にしました。(「割」も6年からです)
【4年】13文字増えて215文字とします。 ここでは、都道府県の漢字を追加した分習う学年が遅くなった文字を元に戻したものもあります。 「囲・紀・喜・救・型・告・士・史・賞・停・得・費・歴・胃・腸」を、元の4年に戻しています。 しかし、「航・殺・象・貯・堂・毒・粉・脈」は他の漢字と比較した結果もとには戻していません。 他の追加分では、学校に関する言葉で「授業」の「授」、「修学」の「修」を4年に、 建設の「設」、豊富の「豊」を単語に合わせて、 「借りる」に対する「貸す」、「夫」に対する「妻」(夫に対しては「夫婦」の「婦」も同様)を対義語として4年に、 「快適」、「現在」、「非常」、「資格」、「準備」といった単語、 「増える・減る」、「得」を4年に戻したことにより「損」といった対義語、 「情報」、「技術」、「国際」の「際」、「個人」の「個」、 「営業」の「営」、「防災」、「政治」の「政」、「税」といった社会面からの文字も4年になっています。 そして、逆に習う学年が遅くなったのが2年の「汽車」の「汽」です。 「汽車」自体が最近都心部を中心に見ないので、2年では早いと思い4年にしました。
【5年】22文字増えて215文字とします。 元の5年に戻した文字は「恩・券・承・舌・銭・退・敵・預」の8文字です。「俵」は元に戻していません。 単語では「私」、「呼吸」、「宇宙」、「秘密」、 動詞・形容詞では「洗う」、「干す」、「危ない」、「困る」、「暖かい」、 「閉める」、「若い」、「痛い」、「誤る」、「忘れる」、「捨てる」、 単語として合わせた文字は「保存」の「存」、「価値」の「値」、 「就職」の「就」、「確認」の「認」、「探検」の「探」、「創造」の「創」などです。 また、「警察署」の「警」「署」、「内閣」の「閣」、「憲法」の「憲」、 「権利」の「権」、「討論」、「政党」の「党」、「否決」の「否」、「批判」の「批」、 「納税」の「納」、「経済」の「済」、「勤労」の「勤」、「省庁」の「庁」、「発射」の「射」、 「臨時」の「臨」、「法律」の「律」、「政策」の「策」、「衆議院」の「衆」など、 公民の授業やニュース・新聞でよく使用する文字を追加しました。 また、常用漢字からは「江戸」の「江」、「与党」の「与」、「完了」の「了」を5年に追加しました。
【6年】24文字増えて215文字とします。 常用漢字から、日常生活や授業・社会で使用率の高い漢字を追加しています。平成元年に外された教育漢字も復活したものもあります。 平成元年に外された教育漢字から復活したものは「称・兼・釈・需」の4文字です。「名称」、「兼用」、「解釈」、「需要」と、 よく使う言葉に使われるため、復活させました。 なお、「歓・勧・是・俗・壱・弐」は他の常用漢字と比較した結果優先度が低いと思い復活していません。 動詞・形容詞からは「甘い」、「押す」、「遅い」、「怖い・恐い」、「辛い」、「驚く」、 「涼しい」、「眠い」、「寝る」、「怒る」、「耐える」、「払う」、「汚れる」、「悩む」、 「抜く」、「怪しい」、「抱く」、「嫌う」、「離れる」、「狭い」、「戻る」などです。 対義語では「降りる」に対する「昇る」が入りました。 日常生活や街中で見る漢字からは、喫煙所の「喫煙」、「塾」、掃除の「掃」、「猫」、「袋」、「缶」、 冷凍庫の「凍」、風呂の「呂」、年齢の「齢」、「隣」、洗剤の「剤」、携帯の「携」、玄関の「玄」、駐車場の「駐」などです。 他の単語では、削除の「削」、普通の「普」、「豪華」、募集の「募」、 健康診断の「診」、宿泊の「泊」、突然の「突」、連絡の「絡」、貧乏の「乏」などです。 新聞やニュースでよく使用する漢字からは、違反の「違」、隠蔽の「隠」、「影響」、炎上の「炎」、 疫病の「疫」、架空の「架」、介護の「介」、監視の「監」、返還の「還」、環境の「環」、 企業の「企」、不況の「況」、緊急の「緊」、刑事の「刑」、抗議の「抗」、「攻撃」、購入の「購」、 更生の「更」、湿度の「湿」、福祉の「祉」、侵略の「侵」、地震の「震」、聴衆の「聴」、摘発の「摘」、 盗難の「盗」、「倒壊」、廃止の「廃」、排除の「排」、爆発の「爆」、処罰の「罰」、避難の「避」などです。
結果1140文字、現行より114文字増えました。
【常用漢字】先に言うと、483文字増えています。漢字単体では「何この文字?」というものも多いですが、 単語にしてみると「その文字だったか」という文字が多いです。
まずは、単語にしないとわかりにくい文字からです。「」が川越案で追加した常用漢字です。 「唖」然、狭「隘」(きょうあい)、「軋轢」(あつれき)、「斡」旋(あっせん)、 所「謂」(いわゆる)、「隕」石、「迂」回、「云々」(うんぬん)、漏「洩」、「冤」罪、終「焉」、 「謳」歌(おうか)、「喧嘩」、「凌駕」、「凱」旋、「徘徊」、「傀儡」、「乖」離、「撹」乱、「恍惚」(こうこつ)、 「狡猾」(こうかつ)、急「遽」(きゅうきょ)、「癇癪」(かんしゃく)、「恰」幅、「几」帳面、「杞」憂、 「贔屓」、動「悸」、一「揆」、「綺」麗、「毅」然)、厚「誼」(こうぎ)、「姦」通、 「吃」音(きつおん)、愛「嬌」、卑「怯」、飢「饉」、大「袈裟」、「牽」制、 「譴」責、「罫」線(けいせん)、「轟」音、永「劫」、「慟哭」(どうこく)、「膠」着、 「昏」睡、「梱」包、「渾」身、「些」細、「忸怩」(じくじ)、「炸」裂、 「颯」爽、、晩「餐」、改「竄」、「懺」悔、「弛」緩、「嗜」好、「熾」烈、 「灼」熱、復「讐」、「蹂躙」(じゅうりん)、「顰蹙」(ひんしゅく)、 「駿」足、前「哨」戦、「憔悴」(しょうすい)、豊「穣」、「贖」罪(しょくざい)、 強「靭」、「彗」星、円「錐」、同「棲」、「脆」弱、「贅」沢、特「撰」、 「醍醐」味、清「楚」、「齟齬」(そご)、「蒼」白、「忖」度、「拿」捕、「楕」円、「只」今、 平「坦」、「蛋」白、忌「憚」、ご「馳」走、「厨」房、範「疇」、「躊躇」(ちゅうちょ)、天「誅」、「凋」落、「諜」報、 「寵」愛(ちょうあい)、「酩酊」、抜「擢」、「顛」末、沈「澱」、「杜」氏、安「堵」、常「套」、 怒「涛」、「淘」汰、脳震「盪」、「恫」喝、「獰」猛、混「沌」、「捺」印、「捏」造、 化「膿」、「播」種、「狼狽」、「焙」煎、「莫」大、被「曝」、「撥」水、「挽」回、麻「痺」、 「誹謗」、「逼」迫、「豹」変、「憑」依、天「秤」、「瀕」死、不「憫」、 「憮」然、接「吻」、招「聘」、「僻」地、「拇」印、「呆」然、同「朋」、 割「烹」、先「鋒」、泡「沫」、我「儘」、「蔓」延、啓「蒙」、「悶」絶、「揶揄」、 「宥」和、執「拗」、「螺」旋、「罹」患、可「憐」、「黎」明期、瓦「礫」、「牢」獄、貫「禄」、 「歪」曲、界「隈」、「猥褻」などです。 次に、動詞・形容詞です。 「逢う」、「炙る」、「溢れる」、「頷く」(うなずく)、「俄か」(にわか)、「掻く」、「叶う」、「庇う」、 「噛む」、「嬉しい」、「怯える」(音読みは卑怯で用いる)、「煌めく」(きらめく)、 「漕ぐ」、「悉く」(ことごとく)、「彷徨う」(さまよう)、「冴える」、「捧げる」、 「囁く」(ささやく)、「捌く」(さばく)、「晒す」、「喋る」、「奢る」、「濡れる」、「偲ぶ」、「尖る」、 「穿く」(はく)、「閃く」(ひらめく)、「煽る」、「剃る」、「蘇る」、「逞しい」、 「叩く」、「辿る」、「溜める」、「掴む」、「繋ぐ」、「呟く」(つぶやく)、「疼く」(うずく)、 「躓く」(つまづく)、「吊る」、「咎める」、「舐める」、「馴れる」、「賑わう」、「吞む」、 「睨む」(にらむ)、「覗く」、「這う」、「遥か」、「媚びる」、「惹かれる」、「撫でる」、 「扮する」、「焚く」、「吠える」、「殆ど」、「撒く・蒔く」、「儲かる」、「萌える」、「貰う」、 「茹でる」、「凌ぐ」(音読みは凌駕で用いる)、「淋しい」、「憐れ」、「歪む」、「詫びる」などです。 次に、1文字でも意味が分かる漢字です。 「仇」、「磯」、「嘘」、「噂」、「掟」、「舵」、「躾」、「縞」、「巴」、「砦」、 「絆」、「雛」、「頁」(ページ)、「迄」、「禊」、「轍」、「罠」です。 次に、ジャンル別で漢字を分けます。
家族に関する漢字は、「甥」、「姪」、「姑」、「爺」、体・病気に関する漢字は、 口「腔」、「腱鞘」炎、「癌」、「肛」門、「膀胱」、「垢」、「痔」、湿「疹」、「膵」臓、「脛」(すね)、 「咳」、排「泄」、「喘」息、「躁」病、「腿」(もも)、「禿」、「髭」、五臓六「腑」、「糞」、「屁」、分「娩」、 「瞼」(まぶた)、「聾」学校、「肋」骨、「痙攣」、「咀嚼」、「倦」怠感、「頸」動脈などです。 生き物に関する漢字では、哺乳類では、「鼠」、「兎」、「豹」、「狼」、「狐」、「狸」、鳥類では、 「鴨」、「烏」、「鷺」、「雀」、「燕」、「鳩」、「鷲」、魚類・海・川の生き物では「鯵」、「鮎」、「鰯」、「鰻」、 「鰹」、「蟹」、「鯉」、「鮭」、「鯖」、「鮫」、「鯛」、「鱈」、「蛸」、「鰤」、「鱗」、「珊瑚」(さんご) 両生類や昆虫では「蛙」、「蟻」、「蛾」、「蝶」、「蝉」があります。 十二支の文字の「丑」、「寅」、「卯」、「辰」、「巳」、「酉」、「戌」、「亥」も追加しました。
伝統芸・神事・寺・国事に関する文字では、「阿吽」、外「苑」、天「狗」、舞「妓」、「弘」法、「賽」銭、 神「輿」、「菩薩」、「獅」子舞、「阿」弥「陀」、「巫」女、大「晦」日、「瞑」想、「狛」犬、「旭」日旗、 合「祀」、「瑞」祥、「煤」払い、「お祓い」、「祟り」、「彦」星、紫「綬」褒章などです。 歴史に関する文字では、公「卿」、元「寇」、「庄」屋、「攘夷」(じょうい)などです。 土地・建物・工業に関する文字では、「矩」形(くけい)、「躯」体(くたい)、廃「墟」、 「竣」工、「斧」、「杭」、「釘」、「跨」線橋、防空「壕」、「錆」、「堰」、金「槌」、 「梯」子、雨「樋」、「鳶」、「鉈」、「鋸」、「梁」、「襖」、中「洲」、「淵」などです。 植物に関する文字では、「粟」、「苺」、「苔」、生「姜」、林「檎」、「桐」、「栗」、 月「桂」樹、「橙」、「筍」、「椿」、「藪」、「柚」子、「蘭」、「蓮」、「蕾」、「葱」、「茄」子などです。 食べ物に関する文字では、「飴」、「餡」、「粥」、「燻」製、「蕎」麦、酒「粕」、「麹」、「胡椒」、 「醤」油、味「噌」、「惣」菜、「佃」煮、松「茸」、「麩」、「餃」子、「糠」、などです。 道具に関する文字では、「桶」、花「笠」、「鞄」、「兜」、お「灸」、石「鹸」、「糊」、軟「膏」、「杓」子、 刺「繍」、「竿」、「匙」、「凧」、「襷」、「樽」、「箪笥」、「壺」、「砥」石、「屏」風、「箒」、 「鞭」、「楊」枝、「鎧」、お「椀」、茶「碗」、金「箔」、甲「冑」などで、「塵」「屑」「埃」などのごみに関する文字もあります。 気象に関する文字では、「蜃」気楼、「雹」をいれました。 地名に関する文字も、都道府県以外でも使用度の高い文字は常用漢字でもいいと思っています。 都道府県庁所在地のうち唯一常用漢字でない、札幌の「幌」、政令指定都市の「堺」、イタリアを漢字表記した「伊」、 日本一長いトンネルの青函トンネルの、「函」、日本一大きい湖、琵琶湖の「琵琶」、 国会や日本の省庁が集まる霞ヶ関の「霞」も地名ながら入れてもいいと思います。
最後に、今回追加したい文字よりも使わないであろう、「虞」と「朕」は除外してもいいと思っています。
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1997fbp · 1 year
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2023年3月24日 松井田北中学校  閉校式
校歌に「平和」の願い 安中松井田北中3年・湯本さん調査で判明 
作詞者兄ら戦死多数《戦後77年》
本年度末で閉校する安中松井田北中(群馬県安中市、国峯智校長)の生徒が、学び舎を「平和な姿」と表現する校歌が生まれた背景を調べている。お年寄りへの聞き取りや資料から、作詞者の家族を含め地元の多くの若者が太平洋戦争で戦死していたことが判明した。こうした悲しみを背景に平和への願いを込めたとみられ、10月に開く最後の学園祭での発表に向け、さらに調査を進める。
松井田北中校歌
  煙る浅間を背にして
  緑にはゆる妙義嶺を
  望みし丘に朝夕の
  我等(われら)の祈りそのままに
  平和な姿 映えて立つ
  おお我等が北中学校
※1番のみ
 同校は終戦2年後の1947年に前身の旧細野中として設立。54年の市町村合併を経て62年に現校名になった。校歌は細野中時代の誕生とみられるが、住民だった故上原桂さんが作詞したことなどを除き、詳しい経緯は分からなくなっていた。
 同校は現在、閉校を前に全校生徒25人と教職員が細野中時代から75年間の歴史を調査している。校歌は曽祖母が上原さんのいとこに当たる3年の湯本さくらさん(14)が担当。祖母の京子さん(72)や教諭らと協力し、上原さんの長男で同校卒業生の尚さん(74)ら地元住民に聞き取りをしたり、学校に残る記録などを調べたりしている。
 その結果、上原さんが海軍軍人だった兄2人を戦争で亡くしたことや、学区内の20~40代155人が戦争の犠牲になっていたことが判明した。多くが南方戦線で戦死したという。
 上原さんは82年に57歳で死去した。穏やかな人柄で区長や民生委員も務め、地元の婦人会や青年団のためにオリジナル曲を作曲していたという。作詞時は20~30代とみられ、京��さんは「母の兄も海外で戦死した。家族や身近な人が亡くなったことが歌詞に反映されたのでは」と話す。
 悴田匡一教諭(60)も「開校当初は戦争で家族を亡くした生徒もいただろう。校歌が希望を与えたのではないか」とみる。
 湯本さんは「地元にそんなに戦死者がいたことに驚いた。歌詞の深い意味を知り、もっと学びたくなった。校歌がなくなるのは悲しい。どんな形になるか分からないが残したい」と話している。
2022/8/15 上毛新聞 https://www.jomo-news.co.jp/articles/-/160429
来春閉校の松井田北中校歌 戦争の悲しみ背景に 
平和歌う詩の秘話に迫る 誕生経緯を3年調査
2022年度末で閉校する群馬県の安中松井田北中(国峯智校長)の生徒らが学びやを「平和な姿」と表現する校歌の背景に迫る調査を終えた。作詞者の家族や地元の多くの若者を太平洋戦争で失った悲しみが背景にあることを突き止め、作曲の経緯など校歌の誕生秘話を深く掘り下げた。生徒は「閉校後も残していきたい」と話している。
 調査を担当したのは、作詞者の故上原桂さんの親類に当たる3年の湯本さくらさん(14)と悴田匡一教諭(60)。前身の旧細野中が開校した直後の1948~55年に教員を務めた土屋登さん(94)らの証言で、これまで不明だった校歌の誕生の経緯などを詳細に明らかにした。
 調査結果によると、戦争で兄2人を亡くした上原さんは、親せきで細野中の英語教師であった故上原熙さんから詩作を学び、47年ごろに歌詞のもとになる詩を書いた。学区内は20~40代156人が戦争の犠牲になったとされ、旧満州などの引き揚げ者や空襲で焼け出された人も移住。49年発行の校友会誌に亡き両親をしのぶ詩も掲載されている。
 完成した詩はこうした悲しみを背景に、新たな時代への希望を込めたとみられる。詩を読んだ熙さんが「いつか曲をつけて、みんなで歌いたい」と職員室で詩を引き継ぎ、55年に音楽教師の故伊藤貢さんが赴任して校歌制作の機運が高まった。そして、伊藤さん作曲の校歌が58年2月、開校10周年記念式典で発表されたという。
 こうした制作の背景や記録は残らず、人々の記憶から薄れたまま歌い継がれてきたが、湯本さんらの調査で再び明らかになった。調査結果は2日に開かれた最後の学園祭「北友祭」で展示発表した。湯本さんは「歌詞に細野の人たちの思いが込められていることが分かり感動した」と話した。
 学園祭では閉校後の校舎の利活用の発表やクイズなどの催し、合唱や卒業生らメッセージビデオの発表も行われ、地域住民や卒業生でにぎわった。
2022/10/18 上毛新聞 https://www.jomo-news.co.jp/articles/-/190039
廃校後の跡地活用で意見交換
中学生が市長にアイデア 安中
今年度で廃校になる安中市の松井田北中学校で生徒と岩井均市長が跡地の活用方法などについて意見交換を行い、生徒たちはそれぞれ独自のアイデアを市長に伝えました。 安中市にある松井田北中学校は、生徒数の減少などのため、今年度で廃校となり、来年度からは隣接する松井田中学校と統合されます。 廃校になることを受け、中学校ではこれまで地域の課題などについて学習を進めてきましたが、生徒たちの意見を市に届けようと27日、岩井市長との意見交換を行いました。 意見交換には全学年、あわせて24人の生徒が参加し、生徒たちはSNSを利用して、地域の魅力を発信してほしいという意見を市長に伝えていました。 続いて、生徒一人一人が廃校になった跡地の活用方法についてそれぞれのアイデアを発表しました。 生徒からは「カフェ」や「ワイナリー」、それに「アウトドア施設」などとして活用してほしいという発表があり、市長はメモを取りながら意見を聞いていました。 参加した2年生の女子生徒は、「祖父母や母も同じ中学校の出身です。廃校はとてもさみしいですが、地域の発展のために跡地が活用されることはとてもうれしいです」と話していました。 岩井市長は、「子どもたちが真剣に地域のことを考えているとわかったので、この意見を大事にしたい。現在、跡地利用は決まっていないので、白紙の状態からしっかり議論していきたい」と話していました。
2022/10/27 NHK WEB
https://www3.nhk.or.jp/lnews/maebashi/20221027/1060013207.html
「僕にしかできないことなんて、なにも無いかも」
孤独が生み出すエネルギーもあるけど、そう思わなくていい。
「僕だから、私だから出来ること」がこのまちにはある。
3月24日。閉校記念誌への寄稿者として、閉校式に参加した。
閉校に寄せて、生徒たちのメッセージを記録した映像が上映された。
記念誌に書かれた内容を生徒たちが読み上げるという内容だった。
「松井田に宿泊施設をつくりたい」と語った生徒もいた。
きっとできるはずだ。数年後、一緒に仕事ができたらうれしい。
その生徒たちの想いに仮説を立てて、閉校記念誌に寄稿した。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
ここは松井田北中学校だった場所です。
 学舎を「平和な姿」と表現する校歌の背景に迫る調査をした際に、作詞者の家族や地元の多くの若者を太平洋戦争で失った悲しみが背景にあることを突き止め、作曲の経緯など校歌の誕生秘話を深く掘り下げた。
という2022年の新聞記事が残っています。
1947年ごろに完成した詩には、悲しい記憶を背景に、新たな時代への希望を込められていました。
作詞者の「いつか曲をつけて、みんなで歌いたい」という想いが還り、1958年2月の開校記念式典で校歌がお披露目されたようです。
 こうした制作の背景や記録は残らず、人々の記憶から薄れたまま、昭和、平成、令和まで歌い継がれました。
2022年に最後の卒業生が調査して、明らかになり、同年10月2日の「北友祭」で調査結果を展示発表したそうです。並行して、生徒たちが廃校後の跡地活用案を考えたそうです。
生徒一人一人が廃校になった跡地の活用方法として、「カフェ」や「ワイナリー」、それに「アウトドア施設」等として活用してほしいという内容だったと新聞記事に記されています。
そのアイデアを10年間の時間をかけて、実現されたのが、
複合型アウトドア施設『へいわなすがた』です。
改めまして、本日はご予約ありがとうございます。
この隣のカフェスペースは全校生徒が集まって、学校給食を食べる場所でした。廃校になった後、小規模ですが、ワイナリーとブルワリーが出来ました。
窓から見える、向こうの建物がワイナリーです。
元々は体育館だった場所になります。
本日、ご予約のグランピングプランはクラフトビールが飲み放題となっております。
醸造所兼タップルームは美術室だった場所になります。
今年、2058年は校歌完成100年目の節目を記念して、校歌の歌詞がデザインされたタオルをお配りしています。ご案内は以上になります。
どうぞ、ごゆっくりお過ごしください。
ルーツを知った生徒たちの想い、これを実現して次世代に還元したい。
              
       平成18年度卒業生 上原将太
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
文化祭でやった、めちゃくちゃなGOING STEADYのコピーバンド。
そのせいで、翌年許可が降りなかったおかげで出来たショートフィルム制作。
卒業して1年経って、廃部になってしまった野球部。
高校野球、大学野球が終わったあと。
「野球だけの人」ではなくしてくれたのは、
間違いなく、松井田北中学校での3年間のおかげだ。
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kokupro · 1 year
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中学・高校・大学受験生の国語のプロ家庭教師・新規募集状況
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中学・高校・大学受験生の国語のプロ家庭教師・新規募集状況
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こんにちは、国語専門プロ家庭教師KokuProの管理人です。 関西圏の中学受験統一日および大学入試共通テストが終わりましたね。
大学受験の共通テストは昨年度よりさらに少し難化傾向にあったようです。また、関西圏中学受験の須磨学園や夙川も昨年度と同じくらいの難易度か、さらに厳しくなったのではないかと思われます。詳しい情報や分析は今年度の結果とあわせてまたご連絡いたしますが、ひとまず新年度の国語の家庭教師の新規募集内容を掲載いたします。
24年度以降受験生の新規募集の状況を空き曜日・時間帯で一覧にしています。 主な対象地域は、神戸市、明石市、芦屋市、西宮市になりますが、西は姫路市、加古川市、三木市、東は三田市、尼崎市、大阪市まで可能です。
国語専門プロ家庭教師KokuPro・新規募集空き状況
国語家庭教師・空き情報
本記事では、2023年2月1日以降の訪問型家庭教師の空き情報についてご連絡いたします。 (ただし、今後しばらくの間は変動する可能性が高いです。また、△や✖の箇所もご相談に応じます。) 無料体験授業につきましては別途ご相談時に決定させていただきます。無料体験授業を1月中に実施できるとスムーズにスタートできます。
「夕方」
16:30~18:30 (または17:00~19:00)
「 夜 」
19:30(または20:00)以降
「午後」
13:30~15:30 (または14:00~16:00)
前後のスケジュールや訪問先によって多少前後する可能性がございます。また、訪問型家庭教師ですので、ある程度融通は利かせられます。ご検討中の方で曜日や時間帯だけが合わない方もぜひ一度ご相談ください。
空き曜日・時間帯について
月曜日 夕方 ✖ 夜 ✖
火曜日 夕方 ✖ 夜 ✖
水曜日 夕方 ✖ 夜 ✖
木曜日 夕方 △ 夜 △
金曜日 夕方 ✖ 夜 ✖
土曜日 午前 △ 午後 〇 夕方 〇 夜 ✖ 
日曜日 午前 △ 午後 〇 夕方 ✖ 夜 △
備考
 学期末、夏休み前などにも多少変動が予想されますので、日時の点につきましては、お気軽にご相談ください。春期講習、夏期講習などの長期休暇の間につきましては、通常、塾のカリキュラム、ご家庭の予定にあわせて時間割を組みなおすことが多いです。
オンライン・リモート授業について
 上記はあくまで訪問型の家庭教師(国語)の空き時間です。オンライン授業につきましては別途ご相談ください。オンライン授業につきましてはGoogleMeetを利用することが増えております。原則としてGoogleMeetでお願いしたいのでGoogleアカウントをお持ちの方がありがたいです。訪問型の家庭教師の場合でも、お子さんやご家族が新型コロナやインフルエンザになった場合などで、授業を受けられるならリモート授業を実施してきております。
家庭教師仲介業者について
 私は数年前から家庭教師仲介業者からの紹介を受けなくなりました。現在すべて個人でおこなっております。昨今、値段勝負の家庭教師仲介業者の宣伝、広告が増えているように感じますが、極端に安い時給の家庭教師は副業であったり、よくお休みになったりという話を耳にします。国語の成績アップなどの実績、プロ意識では負けていないと考えております。安さで宣伝している業者の中には、いざ、依頼するとかなり高額な教材費を抱き合わせしたり、実際には存在しない講師ランクの話(「今なら時給の高い家庭教師が紹介できる」等という嘘を言って宣伝広告の時給より相当高い時給設定をしてくるなど)をして詐欺まがいの仲介斡旋をする等、総額で高額になったり、経験の浅い家庭教師を紹介されたりするケースもあります(※業者名は記載できませんが、すべて実話です)ですので、くれぐれも家庭教師業者の選択時にはご注意ください。
感染症対策について
 コロナ禍以降、授業時には二重マスクをしてまいりました。現在も飛沫感染防止のためマスク着用は継続しています。夏場は二重をやめたりはしますが、授業前後の手洗い・消毒も継続してきております。
直前期の家庭教師の申込みについて
 2024年度(今年度)受験生の方につきましては、直前期のかけこみ的なご依頼は学習効果や過去の経験からお断りしています。  ですので、迷われたらぜひ一度体験授業を申し込んでお試しいただき、早めにお申し込みください。
時給、お月謝について
時給、お月謝等につきましては、こちらをご覧ください。
国語専門こくぷろちゃんねる
youtubeチャンネルも解説しております。
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